忘れ潮
わすれしお


まえがき

人生には、どうしても手放さざるを得なかったものや、記憶の底に置き忘れてきた風景があります。
あの日、谷底の川の流れに呑み込まれていった幼い頃の帽子。かつて夢中になって鳴らしたギターの拙いコード。そして、いつの間にか疎遠になり、二度と会えなくなってしまった懐かしい人々。
けれど、歳月を重ねるにつれて思うのです。それらは本当に「消えてしまった」のだろうかと。
この物語は、時の流れに取り残されたひとつの街と、そこに生きた人々、そして記憶の寄せる波を描いた小さな小説です。忙しない日常のほんのひととき、足を止めて、ご自身の「あの日」に思いを馳せるきっかけとなれば幸いです。




序章 麦わらの行方

母がまだ元気で、僕がまだ何も失っていなかった頃の話をする。
夏の終わりに、家族で山へ行った。雨籠峠から霧筋川へ下る道は、地図で見るよりずっと細く、ずっと心もとなかった。川沿いの道は霧に巻かれていて、母は僕の手をしっかりと握っていた。
そのときだ。風が強く吹いて、僕がかぶっていた麦わら帽子が持ち上がり、くるりと宙を舞って、谷底の川へ落ちていった。
「あ」
と声を上げただけで、僕にはどうすることもできなかった。帽子は白い腹を見せて水面に浮かび、あっという間に流れに乗って、霧の向こうへ消えていった。
母は少しの間、黙って谷底を見下ろしていた。それから僕の頭を軽く撫でて、「いいのよ、また買えばいい」と笑った。けれど、その声には、笑い方とは少し違う何かが混じっていたのを、子供の僕でも感じ取っていた。
あの帽子のことを、母は時々思い出したように口にした。「あの帽子、好きだったのにねえ」と。
不思議なもので、あの日交わした言葉の大半は、もうほとんど覚えていない。夏休みの計画も、車内で歌った歌も、宿で食べた夕飯の味も、記憶の底に沈んで、輪郭さえおぼろげだ。
なのに、谷底へ吸い込まれていく麦わら帽子の白い裏地と、母の少しだけ湿った声だけは、今でも鮮明に残っている。
なぜ、これだけを覚えているのだろう。
長い時間をかけて、僕はその答えらしきものに、ひとつだけ行き当たることになる。それは、この話の一番最後に、ようやく書けることだ。
今はまだ、谷底へ落ちていく帽子と、それを見送る子供の僕の姿だけを、ここに置いておく。
すべては、そこから始まった。



第一章 谷戸町、あの夏

谷戸町という土地の名は、地図の上ではただの繁華街の一角に過ぎない。けれど、そこで育った者にとっては、もっと違う意味を持っていた。
谷戸(やと)というのは、本来、丘と丘のあいだに刻まれた小さな谷のことを指す言葉だ。谷戸町も、かつては本当にそういう地形をしていたのだと、誰かから聞いたことがある。今ではビルとビルの隙間になった坂道や、地下へ降りていく階段のあちこちに、その谷の記憶が、まだうっすらと残っているように思えた。
僕らはその谷底で、ぷらぷらしていた。
十代の終わりから二十代の初めにかけて、目的もなく、それでいて妙に真剣に、毎晩のように谷戸町の路地を歩き回っていた。仲間は五、六人。誰かのバイト先のスタジオに入り浸ってはギターを鳴らし、朝まで開いている店でくだらない話をして、始発が動く時間になるとそれぞれの家へ散っていく。そんな毎日だった。
将来のことなど、真面目に考えたことはなかった。いや、考えないようにしていた、というほうが近いかもしれない。谷底にいる間は、坂の上の世界のことを見なくて済んだ。谷戸町は、そういう意味で、ちょうどいい避難所だった。
その夏、仲間のひとりが「モンスーンでライブをやることになった」と言い出した。
モンスーンというのは、谷戸町の外れにある小さなライブハウスの名前だ。入り口は、一見しただけでは店だとわからないほど目立たない。錆びついた鉄の扉の脇に、蒸気を思わせる渦巻き模様のネオン管が、消えかけの息のようにぼんやりと灯っているだけだった。
「行ってみようぜ」
誰かがそう言い、僕らはその夜、連れ立ってモンスーンへ向かった。
地下へ続く階段を降りていくと、音が身体に響いてくる。煙草の煙と、安いアルコールの匂いと、若い連中の熱気が入り混じった空気を吸い込みながら、僕らは一番奥の壁際に陣取った。
その夜、何が起こるかなど、僕はまだ何も知らなかった。
谷戸町には、僕らのような若者が、他にも大勢いた。
昼間は適当なアルバイトでしのぎ、夜になると申し合わせたように、あの錆びた鉄の扉の周りに集まってくる。ミュージシャンを名乗る者、絵を描いている者、何をしているのかよくわからない者。肩書きなど、誰も気にしていなかった。
僕のバンド仲間は五人だった。ドラムの克(かつ)、ベースの淳(じゅん)、ボーカルの光一(こういち)、キーボードの美咲(みさき)、そして僕がギターを担当していた。名前ばかりのバンドで、まだライブすらまともにやったことがなかった。
練習といっても、大したことはしていなかった。誰かの家の防音のあやしい一室に押し込まれ、既存のバンドの曲を、耳コピでなぞるだけの日々だった。それでも、その時間だけは、他の何にも代えがたく思えた。
モンスーンには、店主の他に、いつも同じ顔ぶれの常連がいた。カウンターの隅で静かに酒を飲む初老の男、いつも一番前で頷きながら演奏を聴いている女性、そして、誰よりも異彩を放っていたのが、九十九さんだった。
初めてモンスーンに足を踏み入れたとき、実のところ僕は、九十九さんの存在に気づいてすらいなかった。ステージ脇の暗がりに、いつからそこにいたのか、誰も気にとめていないようだった。
後から思えば、それこそが、九十九さんらしさだったのかもしれない。いるのが当たり前すぎて、誰もその存在の輪郭を、はっきりと捉えられていなかった。
その夜、僕らはただの観客として、モンスーンの熱気に酔いしれるつもりだった。まさか自分がステージに立たされることになるとは、夢にも思っていなかった。



第二章 モンスーンの夜

「悪いんだけど、お前、確かエレキ弾けたよな」
肩を叩かれて振り向くと、そこにいたのは、その日の主催者らしい、見覚えのある顔だった。ステージ袖から出てきたばかりで、まだ息が上がっている。
「少しは、まあ」
適当に返した僕の言葉に、相手はほっとしたような、それでいて申し訳なさそうな顔をした。
「実は、サイドギターの奴が急に来れなくなってさ。悪いんだけど、少しだけ、コードだけでいいから弾いてくれないか」
「えっ、今から?」
「今からしかない」
「無理だって、そんな」
「頼む。マジで頼む。下手でもいいから。間違えても、誰も怒らないから」
そう畳みかけられて、断りきれる気の弱さを、僕は持っていなかった。気づけば、渡された簡単な譜面を小脇に抱えて、ステージの端に立たされていた。
二曲、いや三曲だったか。飛び入りで演奏することになった曲のうち一曲に、面倒なコードが混じっていた。ちゃんと押さえようとすると、指が四本とも忙しく動く、あの厄介な形のコードだ。
――どうせ、そこまで聴いてる奴なんていないだろう。
軽い気持ちで、僕はそのコードを、もっと押さえやすい簡単な形に崩して弾いた。誰にもばれないだろうと、高を括っていた。
演奏を終えて、ほっとした気持ちで裏に引っ込もうとしたとき、
「おい、そこの兄ちゃん」
低く、けれどよく通る声に呼び止められた。振り返ると、ステージ脇の暗がりに、ひとりの男が立っていた。
歳の頃は、四十を過ぎているのか、それとももっと上なのか、はっきりしない。使い込まれたギターケースを肩に提げ、煙草を一本、火もつけずに指に挟んでいる。目つきは鋭いのに、口元には笑いが浮かんでいた。
「さっきのあのコード。ちゃんと押さえなきゃ、駄目じゃないか」
図星をさされて、僕は言葉に詰まった。
「え、バレてたんですか」
「バレるも何も、聴きゃわかるよ」
そう言って、男は喉の奥で笑った。それが、九十九さんとの最初のやりとりだった。
ステージの上から見る景色は、客席から見るのとはまるで違っていた。
照明が眩しく、客の顔はほとんど見えない。ただ、熱気だけが、波のように押し寄せてくる。手渡された譜面には、走り書きのコード進行が並んでいるだけで、リハーサルらしいリハーサルもないまま、いきなり本番が始まった。
一曲目は、なんとかごまかしながら弾き切った。指が思うように動かず、何度か音を外したが、爆音にかき消されて、誰も気づいていないようだった。
二曲目に入ったところで、あの厄介なコードが出てきた。押さえるのに指が四本とも忙しく動く、いわゆるフォームの難しいコードだ。
一瞬、頭が真っ白になりかけたが、とっさに、もっと簡単な形に崩して弾いた。誰にも聴かれていないだろう、という甘い計算があった。
演奏を終えたときには、全身汗だくだった。それでも、ステージから降りると、仲間たちが「よくやった」というように、肩を叩いてくれた。その瞬間だけは、素直に嬉しかった。
自分の適当な演奏が、暗がりの奥から、ひとりの男にしっかりと聴かれていたことなど、そのときの僕は、まだ知る由もなかった。



第三章 コードひとつ

それから、九十九さんは、僕らのことを時折気にかけてくれるようになった。
モンスーンの前でたむろしていると、「おう」と片手を上げて通りかかり、そのまま近くの定食屋に連れていかれて、飯を奢られたことも一度や二度ではなかった。
「お前らみたいなのが、一番めんどくさいんだよな」
丼をつつきながら、九十九さんはそんなことを言った。
「なんでですか」
「斜に構えてるくせに、目だけは本気なんだもの。本気で音楽やる気があるのかないのか、自分でもわかってないだろう」
図星だった。僕らは誰も、そのことに正面から答えられなかった。九十九さんは、それ以上追及することもなく、黙って肉を口に運んだ。
九十九さんの弾くギターは、うまいとかへただとか、そういう物差しでは測れないところがあった。速く弾こうと思えばいくらでも速く弾けるはずなのに、あえてそうしない。音と音のあいだに、妙に長い間を置く。その間が、聴いている側の胸のどこかを、じわりと締めつけてくるのだ。
「なんであんな弾き方するんですか」
一度、思い切って尋ねたことがある。九十九さんは、少し考えるような顔をして、それから言った。
「音を出す前に、もう聴こえてるんだよ。次に鳴る音が」
「はあ」
「だから、待ってやらなきゃいけない。自分の指が、追いつくまで」
意味がわかるようで、わからない答えだった。けれど、その言葉の響きだけは、なぜか記憶にこびりついて離れなかった。
後になって思えば、あれは九十九さんという人を理解するための、最初の、そして最後まで解けなかった手がかりだったのかもしれない。
その頃の僕には、そんなことを深く考える余裕はなかった。ただ、谷戸町の片隅で、少し怖くて、少し優しい大人に構ってもらえることが、単純に嬉しかっただけだ。
九十九さんは、僕らのバンド練習にも、気まぐれに顔を出すようになった。狭いスタジオの隅に座り、何も言わずに煙草をふかしながら、僕らの下手な演奏を最後まで聴いている。演奏が終わると、たいてい一言だけ、感想らしきものを口にした。
「淳、お前、走りすぎ」
「克、そこもうちょい溜めろ」
「美咲、それでいい。変えるな」
短く、けれど的確な言葉だった。誰も反論できなかった。実際、その一言を意識して弾き直すと、驚くほど音がまとまることが多かったからだ。
「九十九さんって、昔バンドやってたんですか」
ボーカルの光一が、あるとき尋ねたことがある。九十九さんは、少し遠い目をして、「まあな」とだけ答えた。それ以上、詳しいことは何も語らなかった。
「有名だったりします?」
「さあな。有名っていうのが、何を指すのかにもよるだろ」
はぐらかされているのはわかっていたが、それ以上踏み込む勇気は、誰にもなかった。九十九さんの周りには、いつも、それ以上は近づいてはいけないような、薄い膜のようなものが張られている気がした。
それでも、九十九さんが練習に顔を出してくれる日は、僕らにとって、ちょっとした特別な日だった。上手くなりたい、認められたい――そんな単純な気持ちを、九十九さんは、確かに引き出してくれていたのだと思う。



第四章 九十九さんという人

九十九さんについて、僕らが知っていることは、驚くほど少なかった。
苗字は九十九。下の名前は一(はじめ)。西灘の出身らしい、ということ。若い頃からギター一本で各地を渡り歩き、モンスーンには、店ができたときからずっと出入りしているらしい、ということ。それくらいだった。
歳を尋ねても、はぐらかされた。
「さあな。忘れた」
「そんなわけないでしょう」
「本当に忘れたんだよ。歳を数えるのをやめると、案外どうにでもなる」
冗談だと思って、皆で笑った。だが、今にして思うと、あの言い方には、冗談では片付けられない何かが混じっていたような気もする。
不思議なことは、他にもあった。
ある晩、九十九さんが、まだ結成もしていない僕らのバンドの音を、まるで聴いたことがあるかのように評したことがあった。
「お前ら、そのうちベースの奴と喧嘩して、一回バンド解散するだろ」
半年後、本当にそうなった。ベースの担当だった友人と、些細なことから仲違いし、僕らのバンドはあっけなく空中分解した。あのとき九十九さんに言われたことを思い出して、背筋が冷えたのを覚えている。
「なんで、わかったんですか」
後日、そう尋ねると、九十九さんは肩をすくめた。
「わかったっていうか、思い出しただけだよ」
「思い出す? まだ起きてないことをですか」
「時々、順番がわからなくなるんだよ、俺は」
その言い方が、あまりに軽く、あまりに当たり前のことのように口にされたので、僕はそれ以上、追及する気になれなかった。冗談めかした変わり者の口癖として、聞き流してしまった。
今ならわかる。あれは冗談などではなかったのだと。
九十九さんは、僕らとは違う速さで――あるいは、違う向きで――時間というものを生きていたのかもしれない。少なくとも、まっすぐ前だけを向いて流れていく僕らの時間の感覚とは、どこか噛み合わないところのある人だった。
けれど、その頃の僕らにとって、九十九さんはただ、少し変わった、頼りになる兄貴分でしかなかった。
モンスーンの店主は、時折、店の歴史を語りたがる人だった。
ある晩、酔った勢いで、店の奥から古びたアルバムを引っ張り出してきたことがあった。開店当初の写真だという。色褪せた紙焼きの写真には、今よりずっと若い店主と、当時の常連たちが、楽しそうに肩を組んで写っていた。
その中の一枚に、僕は目を留めた。
隅のほうに、ギターケースを提げた男が写っている。顔立ちも、着ているものの雰囲気も、九十九さんによく似ていた。
「これ、九十九さんですか」
そう尋ねると、店主は少し驚いた顔をして、写真をのぞき込んだ。
「ああ、そういえば似てるな。でもこれ、俺がこの店を始めた頃の写真だぞ。もう二十年以上前だ」
「じゃあ、九十九さんのお父さんとか、そういう……」
「さあな。俺も詳しくは知らねえよ。九十九さん自身に聞いたことがあるけど、はぐらかされるだけだったし」
写真の中の男と、目の前で酒を飲んでいる九十九さんとを、僕は何度も見比べた。二十年以上の隔たりがあるはずなのに、老けた様子はまるで感じられない。もちろん、他人の空似という可能性のほうが、よほど筋が通っている。
けれど、あの日感じた小さな違和感は、ずっと僕の記憶の隅に、消えずに残り続けることになった。
九十九さんに直接尋ねる勇気は、結局、出せなかった。もし本当のことを教えてもらえたとしても、僕にその答えを受け止められる自信がなかったからだ。
今にして思えば、あれもまた、九十九さんという人が、僕らの知っている「時間の流れ」とは、どこか違う場所に立っていたことを示す、小さな痕跡だったのかもしれない。
もうひとつ、忘れられない出来事がある。
まだ僕に恋人らしい恋人もいなかった頃、九十九さんが、唐突にこんなことを言ったことがあった。
「お前、そのうち、髪の長い、よく笑う子と一緒になるぞ」
「はあ? 何ですかそれ」
「知らん。ただ、そんな気がするだけだ」
その場にいた皆で、それを冷やかしのネタにして、しばらく笑い合った。九十九さんも、いつものように、はぐらかすような笑みを浮かべているだけだった。
それから数年後、今の妻と出会った。
初めて紹介されたとき、髪が長く、よく笑う人だった。挨拶を交わしながら、僕はふと、あの夜の九十九さんの言葉を思い出し、背筋がぞくりとするのを感じた。
偶然だと言われれば、それまでのことだ。世の中には、髪の長い、よく笑う女性など、いくらでもいる。そう自分に言い聞かせて、その記憶には、あえて深く触れないようにしてきた。
けれど、九十九さんが口にした「予感めいた一言」は、それだけではなかった。バンドの解散のこと、僕が音楽から離れていくだろうということ、そしてこの、妻とのことも――どれも、後から振り返れば、驚くほど正確に、僕の歩む道筋をなぞっていた。
まるで、僕がこれから歩む道のりを、九十九さんはすでにどこかで見てきたことがあるかのようだった。
「時々、順番がわからなくなるんだよ、俺は」
あの言葉が、今になって、また違う重みを持って、胸の奥に響いてくる。
九十九さんにとって、時間というものは、僕らが思っているような、一方通行の川の流れではなかったのかもしれない。むしろ、潮の満ち引きのように、寄せては返す、そういうものだったのかもしれない。
そこまで考えて、僕はいつも、自分の想像力の飛躍に苦笑いをして、思考を打ち切ってしまうのが常だった。九十九さんが亡くなるまでは。



第五章 譲さんの手

その男を初めて見たとき、正直、僕は身構えた。
九十九さんと連れ立って、モンスーンの外の路地に立っていたその人は、とにかく体が大きかった。肩幅も、背丈も、僕らの誰よりもひとまわり以上大きい。革のジャケットを着崩し、腕にはよくわからない図柄の刺青がのぞいている。目つきも鋭く、正直、関わらないほうがいい種類の人だと、勝手に決めつけていた。
九十九さんに促されて、僕はおそるおそる近づき、頭を下げた。
「あの、いつもお世話になってます」
声が、少し震えていたと思う。
その人は、僕の顔をじっと見つめた。数秒だったのか、もっと長かったのか、よく覚えていない。やがて、その厳つい顔が、驚くほど柔らかくほどけた。
「よろしく」
差し出された手は、見た目に違わず大きく、そして意外なほど温かかった。握手を交わしながら、僕は自分の緊張が、みるみる解けていくのを感じた。
その人が、譲(ゆずる)さんだった。周りからは、なぜか「ジョーさん」と呼ばれていた。理由を尋ねたことはあるが、「さあな」と九十九さんに笑って流されただけで、結局わからずじまいだった。
譲さんは、口数の多い人ではなかった。けれど、その場にいるだけで、空気がどこか落ち着くような、そんな種類の人だった。九十九さんの隣にいることが多く、二人でいるときの譲さんは、まるで長年連れ添った兄弟のような、気安い雰囲気を漂わせていた。
それからというもの、モンスーンの周りで顔を合わせるたびに、譲さんは軽く手を上げて挨拶をしてくれるようになった。それだけのことが、当時の僕には、ひどく誇らしいことに思えた。
見た目で判断してはいけない、という当たり前のことを、僕は譲さんとの出会いで、身をもって学んだ。もっとも、それを本当の意味で思い知るのは、もっと後になってからのことなのだが。
それから半年ほど経った頃、僕らのバンドは、ようやくモンスーンで自分たちの名義のライブをやらせてもらえることになった。
対バン形式の、小さな枠だった。それでも、僕らにとっては一大事で、練習にも自然と熱が入った。九十九さんは、当日、いつもの暗がりの定位置で、腕を組んで見守っていた。
本番、僕は緊張のあまり、序盤のフレーズをひとつ弾き飛ばした。一瞬、頭の中が真っ白になったが、隣で光一が声を張り上げ、克のドラムが強引にリズムを引っ張ってくれたおかげで、なんとか持ち直すことができた。
演奏を終え、袖に引っ込むと、そこに譲さんが立っていた。
「よかったぞ」
短く、それだけ言うと、大きな手で僕の頭をわしわしと撫でた。子供扱いされているようで、少し悔しかったが、それ以上に嬉しかったのを覚えている。
九十九さんは、その夜、珍しく多くを語った。
「音を外したところ、あったろ」
「……はい、すみません」
「謝ることじゃない。外した後、どう戻すかが大事なんだ。お前ら、あそこでちゃんと戻した。あれでいい」
その言葉に、バンドの皆で顔を見合わせて笑った。うまくいかなかったことさえ、九十九さんにかかると、意味のあることのように思えてくるから不思議だった。
その夜遅く、モンスーンが閉店した後の路地で、九十九さんと譲さんと僕らとで、缶ビールを片手に、他愛のない話を交わした。将来の夢とも呼べないような、ぼんやりとした願望を、皆それぞれに口にした。
「お前らがどうなっても」九十九さんは、夜空を見上げながら言った。「今日みたいな夜があったってことだけは、消えない。それだけは、覚えておけ」
そのときは、ただの酒の席の言葉として、軽く聞き流していた。
まさかそれが、五人揃って九十九さんと過ごす、最後の夜になるとは、誰も思っていなかった。



第六章 卒業、そして遠ざかる日々

谷底での日々にも、いつか終わりが来る。
僕らはそれぞれ、なんとか学校を出て、社会というものの中に押し出されていった。就職し、引っ越し、谷戸町からは自然と足が遠のいた。
遊び方が変わった。夜通し音楽の話をすることもなくなり、着るものも、髪型も、少しずつ「らしく」なっていった。結婚をして、家族を持った者もいた。僕もその一人だった。
守るべきものができると、人は自然と、危うい場所から遠ざかるようになる。谷戸町の湿った空気や、モンスーンの煙たい地下室は、いつしか僕の日常から、静かに姿を消していった。
九十九さんや譲さんのことを思い出すことも、めっきり減った。忘れたわけではない。ただ、日々の暮らしの重みに押されて、記憶の奥のほうへ、少しずつ沈んでいっただけだ。
たまに、ふとした瞬間――電車の中で聴いた誰かのギターの音や、路地裏に漂う煙草の匂いなどに――あの頃の空気を思い出すことはあった。そんなとき、九十九さんの、あの独特な間の取り方をするギターの音が、耳の奥で微かに蘇ることもあった。
けれど、それも一瞬のことだ。すぐに現実の用事が押し寄せてきて、僕は思い出を、また記憶の底へ押しやってしまう。
そうやって、何年もの月日が流れた。
かつて夢中になっていたはずの音楽への熱も、いつしかとうに冷めきっていた。ギターを弾かなくなって、もう何年も経っていた。谷戸町という土地の名前さえ、意識に上ることは滅多になくなっていた。
会社員として働き、住宅ローンを組み、子供の学費や、日々の細々とした用事に追われる。そうした暮らしの中では、かつて谷底で過ごした夜のことなど、遠い異国の記憶のように感じられた。
克はいつのまにか地元に戻って家業を継いだと聞いたし、淳は結婚を機に音信不通になった。光一とだけは、年に一度、年賀状をやり取りする程度の縁が、細く続いていた。美咲がどうしているかは、誰も知らなかった。
バンドという形は、とうの昔に消えてなくなっていた。それでも、あの頃、確かに何かに本気で夢中になっていたという事実だけは、心のどこかに、埋み火のように、かすかに残り続けていたのかもしれない。
もう、あの頃には戻れない。戻る必要もない。そう自分に言い聞かせながら、僕は坂の上の、ごく普通の暮らしを送っていた。
あの日、突然の知らせが届くまでは。
一度だけ、谷戸町の近くまで行く用事があった。
子供が生まれて数年経った頃だ。取引先との打ち合わせが、たまたま谷戸町の隣駅であった。仕事を終え、駅の案内板を見ていると、ふと、モンスーンのことを思い出した。
まだ、あの店はあるだろうか。九十九さんは、今も出入りしているだろうか。
スマートフォンで地図を開き、道順を確かめるところまではした。歩けば、十五分もかからない距離だった。
けれど、僕は結局、そちらへ足を向けなかった。
もし店がもうなくなっていたら。もし九十九さんに会えても、すっかり変わってしまった自分を見て、がっかりされたら。もし、そもそも自分のことなど、覚えていなかったら。
いくつもの「もし」が頭をよぎり、そのたびに、面倒だから、疲れているから、今度でいいから、と、自分に言い訳を重ねた。結局、僕は駅の反対側の出口から、まっすぐ家路についた。
あの時、あと十五分だけ、歩く勇気があれば。
そうすれば、九十九さんとも、譲さんとも、もう一度顔を合わせることができたかもしれない。飯を奢ってもらいながら、たわいもない話をすることができたかもしれない。
そんな「もしも」を、僕は訃報を受け取った日から、何度も何度も、頭の中で繰り返すことになった。
後悔というものは、いつだって、ほんの小さな選択の積み重ねから生まれるのだと、そのとき初めて、身にしみて理解した。



第七章 訃報

その知らせは、古い友人からの、たった数行のメッセージで届いた。
〈九十九さんが亡くなったらしい。詳しいことはまだわからない〉
画面を見つめたまま、僕はしばらく動けなかった。
「らしい」という伝聞の頼りなさが、かえって現実感を奪っていた。信じられない、というより、うまく信じ方がわからない、という感覚に近かった。
ため息とも呻きともつかない声が、勝手に喉から漏れた。
それから、堰を切ったように、いろいろな記憶が蘇ってきた。飛び入りで弾いたあの下手なコード。「バレるも何も、聴きゃわかるよ」という笑い声。定食屋の煮魚の匂い。「時々、順番がわからなくなるんだよ」という、あの不思議な一言。譲さんの、大きくて温かい手。
忘れていたつもりの記憶は、少しも色褪せずに、僕の中にそのまま残っていた。それどころか、忘れていた分だけ、余計に鮮やかに感じられるほどだった。
情けないことに、涙よりも先に、後悔が来た。
なぜ、あれから一度も、連絡を取らなかったのだろう。なぜ、谷戸町に足を運ばなかったのだろう。忙しさを言い訳に、確かにそこにあった縁を、僕は自分から手放していたのだ。
数日後、詳しい事情がわかってきた。九十九さんは、ここしばらく体調を崩していたらしい。それでも、最後まで人前でギターを弾いていたという話を聞いて、いかにも九十九さんらしいと思うと同時に、胸が締めつけられた。
葬儀はすでに、近しい身内だけでひっそりと済ませたということだった。墓は、汐見浦の高台の霊園にあるらしい、とだけ聞かされた。
その夜、僕は久しぶりに、光一に電話をかけた。
「聞いたよ」
開口一番、光一はそう言った。声には、隠しきれない疲れがにじんでいた。あれから光一は、克や淳とは今も時々連絡を取り合っているらしい。僕だけが、いつの間にか、その輪から外れていたことを、そのとき初めて知った。
「お前、まだギター弾いてるのか」
「いや、全然」
「俺もだよ。皆、そんなもんだ」
短いやりとりの中に、それぞれが背負ってきた年月の重さが、透けて見える気がした。汐見浦の墓のことを話すと、光一は「行くなら教えてくれ」と言ったが、結局、都合がつかず、僕ひとりで向かうことになった。
電話を切った後、居間に戻ると、妻が怪訝そうな顔で僕を見た。
「大丈夫? なんか、顔色悪いよ」
「昔、お世話になった人が、亡くなったみたいで」
それだけ言うと、妻はそれ以上、根掘り葉掘り尋ねてはこなかった。ただ、隣に座り、黙って僕の背中に手を置いてくれた。その温もりに、少しだけ救われる思いがした。
「行ってきたら?」
妻がそう言ってくれたとき、僕の中で、ずっと迷っていた何かが、すっと決まった気がした。
行かなければならない。
そう思った。理由はうまく説明できなかった。ただ、行かなければ、僕は自分自身の、大事な何かに、二度と会えなくなる気がしたのだ。
汐見浦へ向かう前に、僕は一度、実家に立ち寄った。
母は、もうすっかり歳を取っていた。それでも、僕の顔を見ると、昔と変わらない笑顔を見せてくれた。
お茶を飲みながら、九十九さんのことを、かいつまんで話した。母は九十九さんのことを知らないはずなのに、なぜか懐かしそうな顔をして、僕の話に耳を傾けていた。
「その人、あんたにとって、大事な人だったのね」
「うん。今頃気づいたんだけどね」
しばらく黙っていた母が、ふと、思い出したように言った。
「そういえば、あんた、小さい頃、山で帽子をなくしたの、覚えてる?」
不意打ちのように、その話題が出てきて、僕は驚いた。
「覚えてるよ。谷底に、落としちゃったやつでしょ」
「あのとき、あんた、全然泣かなかったのよ。ちょっと『あ』って言っただけで、あとはじっと、川を見てただけ」
「そうだったっけ」
「私、内心すごく焦ってね。この子、ショックで固まっちゃったんじゃないかって。でも、後で聞いたら、『あの帽子、どこまで流れていくんだろうって考えてた』なんて言うから。子供らしくないなあって、少し可笑しかったのよ」
そんなやりとりがあったことを、僕自身はまったく覚えていなかった。覚えているのは、帽子が谷底へ消えていく光景と、母の少し湿った声だけだ。
けれど、母の話を聞いて、なぜだか、腑に落ちるものがあった。あの日の僕は、失うことそのものよりも、失ったものの行方のほうに、ずっと心を惹かれていたのかもしれない。
その性分は、大人になった今も、変わっていないのかもしれなかった。
「九十九さんっていう人のお墓、行くの?」
「うん。明日、行こうと思ってる」
「そう」母は、少し遠い目をして、湯呑みを両手で包んだ。「じゃあ、ちゃんと、いってらっしゃいって言ってあげなさい。会いに来た、じゃなくて」
その言い回しの意味を、僕はそのときはよくわからなかった。けれど、汐見浦の坂の上で九十九さんに再会した後、ようやく、その意味がわかるような気がした。



第八章 汐見浦へ

汐見浦の霊園がどこにあるのか、正確な場所がわかるまでには、しばらく時間がかかった。
古い友人づてに聞き回り、ようやく大まかな地名を知って、僕は電車に乗った。海沿いの小さな駅で降りると、潮の匂いが真っ先に鼻をついた。
地図アプリを頼りに歩き出したものの、目当ての霊園にはなかなかたどり着けなかった。案内板は古びてかすれ、道は何度も分かれ、そのたびに僕は同じような坂道を行ったり来たりする羽目になった。
「大きい霊園だとは聞いていたけど……」
独り言をつぶやきながら、僕は汐見ヶ浜へと続く道を、海のほうへ向かって歩いた。波の音が、少しずつ大きくなってくる。
浜の手前で左に折れると、急に視界が開けて、遥か先の高台に、それらしき緑地が見えた。ようやく見つけた、という安堵よりも、これから登るであろう長く急な坂道への億劫さのほうが、先に立った。
道に迷いかけていたとき、坂の下の小さな花屋の軒先で、腰の曲がった老婆が店番をしているのが目に入った。藁にもすがる思いで、霊園への道を尋ねてみた。
「九十九さんの……ああ、ギター弾きの」
老婆は、僕が名前を出す前から、なぜかそう呟いた。驚いて聞き返すと、老婆は皺だらけの顔をほころばせた。
「この時期になると、あの人を訪ねてくる人が、ぽつぽついるんだよ。皆、同じような顔をしてるからね。すぐわかる」
「同じような顔、ですか」
「忘れ物を、取りに来たような顔だよ」
そう言うと、老婆は坂の上を指差し、道順を教えてくれた。礼を言って歩き出そうとした僕の背中に、老婆の声が追いかけてきた。
「急がなくてもいいんだよ。あすこは、待っててくれるところだから」
その言葉の意味を、僕はそのときはうまく飲み込めないまま、教えられた道をたどって、坂を登り始めた。
坂は、想像していたよりずっと長く、ずっと急だった。息が上がり、額に汗がにじむ。それでも、足を止める気にはならなかった。
てくてくと、一歩ずつ、坂を登っていく。
不思議なことに、登れば登るほど、街の喧騒が遠のいていくように感じられた。潮騒と、風の音と、自分の足音だけが、やけにはっきりと耳に届く。まるで、現実の世界から少しずつ、剥がれていくような感覚だった。
歩きながら、脈絡もなく、いろいろな記憶が浮かんでは消えていった。
初めてモンスーンの暗がりで九十九さんに声をかけられたときの緊張。定食屋で奢ってもらった煮魚の味。「淳、お前、走りすぎ」という、あの短い指摘。譲さんの、大きくて温かい手。缶ビール片手に交わした、あの路地裏での夜。
どうして今頃になって、こんなにも鮮明に、あの日々のことを思い出せるのだろう。日常に追われていたあいだ、ずっと記憶の底に沈んでいたはずなのに、坂を登るこの足取りに合わせて、次々と浮かび上がってくる。
まるで、坂を登るという行為そのものが、記憶を引き上げるための、何かの手続きであるかのように。
坂の途中で、一度だけ振り返った。海が、驚くほど遠くまで見渡せた。光を反射して、白く霞んだように輝く水面が、どこまでも続いている。
その光景を見ながら、僕はふと、あの日、谷底へ落ちていった麦わら帽子のことを思い出した。
あの帽子は、あの後、どこへ流れ着いたのだろう。
なぜ今、そんなことを思い出すのか、自分でもよくわからなかった。ただ、なぜかそのとき、あの帽子と、これから会いに行く九十九さんとが、頭の中でぼんやりと重なって見えた気がした。
僕は坂を登りきり、霊園の入り口に立った。



第九章 忘れ潮

九十九家の墓は、霊園の一番奥、海を見下ろす一角にあった。
真新しい墓石は、まだ苔むす暇もなく、日差しの中で妙に白々としていた。僕はその前に立ち、遅れてきたことを詫びるように、深く頭を下げた。
「遅くなりました」
そう口にしてはみたものの、当然、返事などあるはずもなかった。墓石は、ただ静かに、そこにあるだけだった。
風が吹き、線香の灰がわずかに舞った。それだけのことだった。
周りを見渡すと、規則正しく並んだ墓石の群れの向こうに、海が広がっていた。高台からの眺めは、思っていた以上に開けていて、遠く水平線までが、はっきりと見渡せた。潮騒は、ここまで届くはずのない距離にあるのに、なぜか、すぐ近くで聞こえるような気がしていた。
僕は、ひとり勝手に感傷に浸っていることに、少し気恥ずかしさを覚えながら、「では、また」と、誰にともなく呟いて、踵を返した。
そのときだった。
視界の端で、光の加減がふっと変わった気がした。太陽はまだ高いはずなのに、あたり一帯が、夕暮れどきのような、橙とも灰色ともつかない色に染まっている。潮騒が、やけに近くに聞こえた。まるで、すぐそこまで海が迫ってきているかのように。
「――待ってやらなきゃいけない。自分の指が、追いつくまで」
聞き覚えのある声が、耳の奥ではなく、もっと近くから聞こえた気がして、僕は反射的に振り返った。
墓石の脇、ちょうど日陰になる場所に、ひとりの男が立っていた。
九十九さんだった。記憶の中の九十九さんと、寸分違わぬ姿で。ギターケースを肩に提げ、火のついていない煙草を指に挟んで、あの独特な笑みを浮かべている。
「……九十九さん?」
声が、うまく出なかった。
「よう」
短く返す声も、記憶にある通りだった。夢か、幻か、それとも本当にそこにいるのか、確かめる術はどこにもなかった。ただ、僕はその場に立ち尽くしたまま、九十九さんを見つめることしかできなかった。
「早すぎるんじゃないですか」
やっとの思いで、そんな言葉が口をついて出た。九十九さんは、喉の奥で小さく笑った。
「時々、順番がわからなくなるんだよ、俺は。前にも言っただろう」
「……」
「潮ってのはな」九十九さんは、海のほうへ視線をやりながら、ゆっくりと続けた。「一度沖に持っていったものを、忘れた頃にまた、こっちの岸へ戻してくることがあるんだ。誰も見てないところで、そっと」
「戻してくる……」
「お前が谷底に落とした帽子な。あれも、そのうち、どこかの岸に流れ着いてる。今頃、誰かが拾って、被ってるかもしれない。あるいは、誰にも拾われないまま、ずっと波間を漂ってるだけかもしれない」
なぜ、その話を九十九さんが知っているのか。尋ねる気力すら、僕にはなかった。ただ、その言葉を、まるで昔から知っていた真実のように、すんなりと受け止めている自分がいた。
「なくしたものは、なくなったわけじゃない。順番が、狂ってるだけだ」
九十九さんは、そう言って、ギターケースの持ち手を、少しだけ握り直した。
「九十九さん」
込み上げてくるものを堪えながら、僕は声を絞り出した。
「すみませんでした。あれから、一度も、会いに行かなくて」
九十九さんは、少しの間、黙って僕を見ていた。それから、静かに首を振った。
「謝ることじゃない。お前は、お前の潮の流れの中を、ちゃんと生きてただけだ」
「でも」
「それに」九十九さんは、口の端を少し上げて笑った。「今、ちゃんとここまで来ただろ。それで十分だよ」
写真で見た若い頃の姿と、目の前の姿とが、僕の中でようやく重なった。あの写真の男は、やはり九十九さん自身だったのだ。理屈で説明する気は、もう起きなかった。
「譲さんは」
「元気にやってるよ。お前も、いつかちゃんと会いに行け。あいつ、ああ見えて、寂しがり屋だからな」
その言葉に、僕は思わず笑ってしまった。九十九さんも、つられたように笑った。その笑い方は、記憶の中のそれと、寸分違わなかった。
「じゃあな」
その一言を最後に、輪郭が、潮が満ちるように、あるいは引くように、ゆっくりと薄れていった。声も、姿も、あたりの妙な橙色の光も、気づけば元の、ただの午後の霊園の景色に戻っていた。
僕はしばらく、その場から動けなかった。
夢だったのかもしれない。長旅の疲れと、悲しみが見せた、都合のいい幻だったのかもしれない。そう考えるほうが、よほど筋が通っている。
けれど、耳の奥に残った九十九さんの声の余韻だけは、どうしても、ただの幻だとは思えなかった。



第十章 波間浦の帰り道

同じ道を戻る気にはなれず、僕は霊園を通り抜けて、反対側から海沿いへ降りる細い路地を選んだ。
坂を下るごとに、潮の匂いが強くなっていく。やがて視界が開け、波間浦の浜に出た。
夕暮れには、まだ少し早い時間だった。海は穏やかに凪いでいて、沖のほうに、何人かのサーファーの姿が見えた。板の上に座り、次の波をじっと待っている、その静かな横顔を、僕はしばらく眺めていた。
――やっぱり、ここは変わらないな。
そんなことを思った。汐見浦の街並みは、記憶にある姿と違っている部分も多かったのに、波間浦のこの浜と、波を待つ人たちの佇まいだけは、いつまでも同じ表情をしているように見えた。
大きな波が来て、ひとりのサーファーが立ち上がった。バランスを崩し、すぐに波に呑まれて姿を消したが、しばらくすると何ごともなかったように顔を出し、また板の上に座り直していた。
その姿を見て、なぜだか、譲さんのことを思い出した。
見た目は厳ついのに、笑うと驚くほど柔らかくなる、あの大きな手。九十九さんの隣で、静かに、けれど確かにそこにいた人。譲さんは、今どうしているのだろう。九十九さんの訃報は、届いているのだろうか。
いつか、また会えるだろうか。
そう思いながら、僕は浜辺に立ち、遠回りをしながら、駅へと続く道をゆっくりと歩いた。
先ほどの、あの霊園での出来事は、結局、誰かに話すことはできそうになかった。話したところで、うまく伝わる自信もなかったし、何より、あれは自分ひとりだけの、大切な記憶にしておきたかった。
なくしたものは、なくなったわけじゃない。順番が、狂ってるだけだ。
その言葉だけを、僕は胸の中で、何度も繰り返しながら歩いた。



第十一章 モンスーン、ふたたび

汐見浦から戻って、二週間ほど経った頃、僕はようやく、谷戸町へ向かう決心をした。
今度こそ、あの十五分を惜しまなかった。駅を降り、記憶をたよりに路地を歩く。ビルの配置は変わり、知らない店が増えていたが、あの錆びた鉄の扉と、蒸気のようなネオン管だけは、驚くほど昔のまま、そこにあった。
階段を降りていくと、懐かしい匂いが鼻をついた。煙草と、安酒と、熱気の匂い。あの頃と、何ひとつ変わっていなかった。
カウンターの奥に、大きな背中が見えた。振り返ったその顔を見て、僕は思わず声を上げそうになった。
譲さんだった。歳を重ねて、髪には白いものが増えていたが、あの厳ついのに柔らかい面差しは、記憶のままだった。
「あの、ご無沙汰してます。昔、ここでよく……」
しどろもどろに名乗ると、譲さんは目を細めて、しばらく僕の顔を見つめていた。それから、ふっと相好を崩した。
「ああ……お前か。九十九のとこの、コード崩しの」
覚えていてくれた。それだけのことに、不覚にも目頭が熱くなった。
「九十九さんの、その、お葬式のこと、後から知って……行けなくて、すみませんでした」
「いいんだよ、そんなの」
譲さんは、大きな手で、僕の肩をぽんと叩いた。
「あいつは、そういうの、気にする奴じゃなかったろ」
「そうですね」
ふと思い出して、僕は昔から気になっていたことを尋ねてみた。
「そういえば、譲さんって、なんで『ジョーさん』って呼ばれてるんですか。ずっと気になってたんです」
譲さんは、少し照れくさそうに笑った。
「大したことじゃねえよ。若い頃、九十九によく『お前は態度だけは一人前だ』って、当時流行ってた漫画の主人公の名前で、からかい半分に呼ばれてたんだ。それがそのまま、周りにも広まっちまってな」
「そうだったんですね」
「あいつ、そういう、くだらないあだ名つけるの、妙にうまかったからな」
そう言って笑う譲さんの顔は、九十九さんの話をするときだけ、少しだけ、寂しさの色を帯びて見えた。
「それより、座れよ。一杯くらい、奢ってやる」
差し出された丸椅子に腰掛けながら、僕は、汐見浦での出来事を、話すべきかどうか、しばらく迷った。結局、その日は話さなかった。ただ、譲さんと九十九さんの思い出話を、夜が更けるまで、いくつも交わした。
閉店間際、客もまばらになった頃、譲さんが、店の隅に置いてあった一本のアコースティックギターを取り出して、僕に差し出した。
「弾いてみろよ」
「いや、もう長いこと触ってなくて……」
「いいから」
断りきれず、僕は久しぶりにギターを構えた。指先が、驚くほど何も覚えていない。それでも、簡単なコード進行を、たどたどしく鳴らしてみた。
あの厄介なコードのところで、案の定、指が思うように動かなかった。崩して弾こうとした瞬間、九十九さんの声が、耳の奥で蘇った。
――ちゃんと押さえなきゃ、駄目じゃないか。
僕は、もう一度指を組み直し、時間をかけて、正しい形でそのコードを押さえた。硬い、拙い音だったが、確かに鳴った。
譲さんは、何も言わず、ただ静かに聴いていた。演奏を終えると、大きな手で、ぱん、と一度だけ拍手をしてくれた。
「上出来だ」
その一言だけで、十分だった。
帰り際、譲さんが、ぽつりと言った。
「また来いよ。お前がここに来る間は、九十九のことも、忘れずにいられる気がするから」
その言葉を胸に抱えながら、僕は久しぶりに、谷戸町の夜の坂道を、ゆっくりと歩いて帰った。



第十二章 西灘にて

結局、西灘を訪ねたのは、その年の冬になってからだった。
これといった当てがあったわけではない。九十九さんの生家がどこにあるのかも、正確にはわからないままだった。それでも、いつか行くと決めていた以上、行かない理由を探すのはやめようと思った。
西灘は、静かな港町だった。潮風が、汐見浦とはまた違う、少し冷たい匂いを運んでくる。駅前の食堂で昼食をとりながら、店の主人に何気なく「九十九」という名字に心当たりがないか尋ねてみた。
「九十九さんなら、昔、この先の坂の上に住んでたはずだよ」
思いがけない返事に、僕は箸を止めた。
「もう随分昔に、家族総出でどこかへ越してったけどね。ギター背負った、変わり者の息子がいたって話は聞いたことがあるな」
教えられた坂道を登っていくと、古い家が一軒、取り壊されずに残っていた。表札はすでになく、庭には枯れ草が伸び放題になっている。それでも、その場所に立つと、なぜか懐かしいような、妙に馴染む感覚があった。
家の脇の小さな祠に、色褪せた麦わら帽子がひとつ、ぽつんと置かれているのに気づいたのは、帰り際のことだった。
誰が、いつ、そこに置いたのかはわからない。近所の子供の忘れ物かもしれないし、ただの偶然かもしれない。
けれど、僕はしばらくの間、その場を動けなかった。
理屈で説明のつくことばかりが、この世に起きているわけではない。それを、僕はもう、素直に受け入れられるようになっていた。
「なくしたものは、なくなったわけじゃない。順番が、狂ってるだけだ」
九十九さんの声が、また耳の奥で蘇る。僕は祠に向かって小さく一礼すると、来た道を、ゆっくりと引き返した。
坂の下から見上げると、冬の弱い日差しを受けて、その古い家の屋根が、静かに光っていた。
いつか、また誰かが、何かを忘れ、何かを思い出す。そうやって、忘れ潮は、これからも、どこかの岸辺へ、静かに打ち寄せ続けるのだろう。
僕は、それを信じることにした。



終章 帽子の行方

西灘から帰ってきてしばらく経った頃、僕は久しぶりに、ギターを引っ張り出してみた。弦は錆び、チューニングもろくに合わなかったが、それでも一音、鳴らしてみた。
あの厄介なコードを、今度こそ、きちんと押さえてみようと思った。
指が思うように動かず、何度も失敗した。それでも、ゆっくりと、音と音のあいだに、少しだけ間を置くようにして、もう一度弾いてみる。
――音を出す前に、もう聴こえてるんだよ。次に鳴る音が。だから、待ってやらなきゃいけない。自分の指が、追いつくまで。
あの言葉の意味が、今になって、ほんの少しだけわかるような気がした。



序章に書いた、あの麦わら帽子のことを、もう一度だけ書いておきたい。

あの日交わした言葉の大半を、僕はもう覚えていない。なのに、谷底へ落ちていく帽子の白い裏地と、母の少し湿った声だけは、なぜか今でも鮮明に残っている。
長らく、その理由がわからないままだった。けれど、汐見浦の高台で九十九さんと交わした、あの短いやりとりを経た今なら、少しだけ、答えらしきものが見えてくる気がする。
なくしたものは、なくなったわけじゃない。順番が、狂っているだけだ。
もしそれが本当なら、あの日、谷底の霧の中へ消えていった帽子も、母の声も、九十九さんとの日々も、譲さんの温かい手も、そのすべてが、今もどこかで、静かに潮に揺られながら、こちらへ流れ着く順番を待っているのかもしれない。
だから僕は、忘れずにいる。
いつか、忘れ潮がそれを運んでくる、その日のために。
先日、幼い息子に、なぜ古いギターを大事にしているのかと尋ねられた。うまく説明できる自信はなかったが、それでも僕は、谷底に落ちた帽子の話から、ぽつりぽつりと語り始めた。
母のこと、谷戸町のこと、九十九さんのこと、譲さんのこと。息子がどこまで理解しているのかはわからなかったが、目を輝かせて、黙って聞いてくれていた。
話し終えると、息子は真剣な顔で言った。
「その帽子、いつか見つかるといいね」
「うん。そうだね」
そう答えながら、僕はふと、この子もまた、いつか何かを失い、いつか何かを取り戻す日が来るのだろうと思った。そのときに、この話が、ほんの少しでも支えになればいい。
忘れ潮は、きっと、そうやって、人から人へと、静かに受け渡されていくものなのだろう。
了


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あとがき

人は生きている中で、さまざまな別れを経験します。ですが、たとえ目の前からは姿を消したとしても、共に過ごした時間や交わした言葉の温もりまでが消えてなくなるわけではありません。
海の潮が沖へとさらったものを、忘れた頃にそっと岸辺へと戻してくれるように。私たちが失ったものたちもまた、形を変えていつか私たちの元へ還ってくる——そんな「忘れ潮」のような物語を書きたいと思い、筆を執りました。
この物語に登場する「九十九さん」や「譲さん」の佇まい、そして谷底へ消えていった帽子のゆくえが、読者の皆様の心に少しでも優しい余韻を残せたなら、著者としてとても嬉しく思います。

本作品はフィクションであり、登場する人物・団体・地名等は実在のものと関係ありません。


『クロコダイル』
――あちら側の灯――


まえがき
原宿から渋谷へと続く明治通り。そこは私にとって、青春の青臭さと憧れ、そして今はなき懐かしい顔ぶれが刻み込まれた特別な場所だ。
歳月を重ねるほどに、ふとした夜の風や匂いに乗って、かつての記憶が鮮やかによみがえってくることがある。誰にでもひとつはあるだろう「戻れないけれど、確かにそこにあった時間」に思いを馳せながら、この静かな再会の物語を開いていただければ幸いである。




一、明治通り
 原宿から渋谷へ、明治通りをぶらりと歩くのが、近頃の癖になっている。
 用があるわけではない。ただ、無性に歩きたくなる夜があるのだ。
 街は驚くほど変わった。あの頃あった店の半分以上は跡形もなく消え去り、真新しいガラス張りのビルが立ち並び、すれ違う若い連中の声も、店先から聞こえてくる音楽も、何もかもが当時とは違う。それでも時折、記憶の底にすっと触れるような角がある。ここに何があったか、体が明確に覚えている角が。
 毎日のように通っていたセレクトショップは、もう無い。
 酔って殴り合いのケンカをしたスナックも、もう無い。
 けれど――ここだけは、今もまだ、そこにある。
 小さな看板。色褪せた緑の庇。〈クロコダイル〉という文字は、四十年以上前と同じ書体で、同じ場所に掲げられている。塗り直した形跡もないのに、その文字だけが妙に鮮やかに浮かび上がって見える夜がある。今夜も、そうだった。


二、扉
 店の前に立つと、いつも一瞬の迷いが生じる。
 記憶の中では、もう少し奥まった路地にあったような気がするのだ。いや、やはりここだったと思い直す。何十年という歳月の中で、道そのものが動いたはずもないのに。
 自分の記憶を辿るのは、いつも心もとない作業だ。輪郭ははっきりしているのに、置かれている場所が少しずつずれている。まるで、記憶という地図の上で、この店だけが意思を持って位置を変えているようだった。
 意を決して扉を押す。
 いつもと同じ、重い木の扉の感触。蝶番の軋む音まで、耳に染みついた音そのものだ。
 だが、今夜は何かが違っていた。
 中に一歩足を踏み入れた瞬間、懐かしい煙草の匂いが鼻腔を突いた。今どき、店内で煙草を吸わせる店など、そうそうない。それなのに、濃厚な紫煙が天井の低い照明の下でゆっくりと渦を巻いている。
 カウンターの向こうで、誰かが低く笑った。
 聞き覚えのある声だった。もう何十年も、耳にしていないはずの声だった。


三、あちら側の店
 「おう、ゲンさん、久しぶりじゃねえか」
 カウンターの奥から声をかけてきたのは、タカさんだった。革ジャンを着て、煙草を指に挟んだまま、こちらに気安く笑いかけている。二十歳の頃、いつもこの店でたむろしていた、あの若々しいタカさんの姿そのままだった。
 ――タカさんは、十五年前に死んだはずだ。
 その事実が、頭の芯でひやりと鳴った。だが不思議と、恐怖は一切湧いてこなかった。ただ溢れるような懐かしさだけが、じわりと胸の奥に染み渡っていく。
 店の中を見渡す。カウンターの端にはヒロさんがいて、いつものように安いウイスキーの水割りを傾けている。奥のボックス席では、マコさんが誰かとギターの弦を張り替えながら軽口を叩いている。全員、あの頃のままの若さで、あの頃のままの服を着て、あの頃のままの声で笑っていた。
 全員、もうこの世にはいない人たちだった。
 「まあ座れよ」とタカさんが言う。「今夜はやけに、あんたの匂いが強くてよ。すぐに分かったぜ」
 匂い、という言葉に一瞬引っかかりを覚えながらも、私は促されるままカウンターの丸椅子に腰を下ろす。カチャンと音を立ててグラスが置かれ、見覚えのある安酒が注がれる。口に含むと、その味わいまで昔のままだった。
 「ここは……どこなんです」
 思わず尋ねると、タカさんは可笑しそうに笑って煙を吐き出した。
 「どこも何も、クロコダイルだよ。変わらねえだろ」
 「でも、あんたらは――」
 「死んでる、って言いたいのか」タカさんは事もなげに言った。「まあ、そういうことになるんだろうな、あっちの理屈じゃ。だがここじゃ、そんなことは大した問題じゃねえんだよ」


四、先輩たち
 あとで分かったことを、整理して書いておこうと思う。もっとも、こんな話を誰かに信じてもらえるとは最初から思っていないが。
 都市というのは、人々の思い出が積もりすぎた場所に、ごく稀に「澱み」のようなものを作るのだという。人が繰り返し同じ感情や情熱を注ぎ込んだ場所――誰かにとって特別でありすぎた店、通りの角、小さな部屋。そこには時間が均等に流れず、古い層がそのまま残ってしまうことがあるのだと、ヒロさんは煙草をふかしながら教えてくれた。
 「明治通りは、特にひでえ通りでな」とヒロさんは静かに言った。「戦後からこっち、何もかもが変わり続けてきた通りだ。変わりすぎた場所ってのは、変わらなかった場所の記憶を、逆に濃く残しちまうのさ」
 クロコダイルは、そういう時間の澱みのひとつだった。表側では、ただの古いライヴハウスとして、今も現役の看板を掲げている。だが夜のある瞬間、ある角度から扉を押した者だけが、澱みの奥――時間が止まった「あちら側」の店に迷い込むことができるのだという。
 「みんな、ここにいるのか。ずっと」
 私が尋ねると、マコさんがギターを爪弾きながら答えた。
 「ずっとってわけでもねえよ。俺たちも、それぞれの場所がある。ただ、誰かがこっちを強く思い出す夜は、ここに集まってくるんだ。灯りみたいなもんだな。呼ばれて、点く」
 呼ばれて、点く。
 その言葉が、妙に胸に刺さった。私が明治通りを歩きたくなる夜、この店の前で足を止める夜――それは私自身が、無意識のうちに彼らを呼んでいたということなのか。
 十代の終わり、右も左も分からなかった青二才の私に、この人たちは容赦なく絡み、可愛がり、殴り、奢り、そして最後にはこの街から一人また一人と消えていった。病気で。事故で。あるいは誰も理由を知らないまま。
 気づけば、あの世代の先輩たちは、誰一人としてこの世に残っていなかった。


五、歌う約束
 夜が更けるにつれ、店の中の時間の流れ方が、少しずつ奇妙になっていくのを感じた。時計の針は確かに刻んでいるのに、外の喧騒だけがすっかり途絶えていく。まるで、この空間だけが世界から静かに切り離されていくようだった。
 「なあ、ゲンさん」
 タカさんが、ふいに真顔になって言った。
 「あんた、まだ歌ってるんだろ。あの頃みたいに」
 「もう長いこと、人前じゃ歌ってませんよ」
 「もったいねえな。あんたの声、俺は好きだったんだぜ」
 タカさんはグラスを指で優しく回しながら、深く煙草を吸い込み、紫煙の向こうへ視線を投げた。その沈黙には、言葉以上の重みがあった。
 「もし次の世ってやつがあるんならよ、今度はこっち側で――俺たちのいるこっち側で、歌ってみりゃいいじゃねえか。ここにゃ、うるさい客もいねえし、店賃も要らねえ」
 冗談めかした言い方だったが、その目の奥には、決して冗談では片付けられない静かな凄みがあった。誘われている、と直感した。ここに、彼らのいる側に、来ないか、と。
 一瞬、心が大きく揺れたことを、正直に告白しておかなければならない。あの頃の仲間たちと、また声を合わせられるなら。もう一度、あの安い酒場の空気の中で、下手な歌を笑い飛ばしてもらえるなら――そう思わなかったと言えば、嘘になる。
 だが、その代償が何であるかも、なんとなく理解していた。
 「そのためには……何かを、差し出さなきゃならないんですかね」
 タカさんは答えず、ただ静かに煙草の灰を落とした。代わりに、ヒロさんが静かに言った。
 「灯りは、いつか消えるもんだ。それを早めるかどうかは、あんた次第だよ、ゲンさん」
 重い沈黙が落ちた。奥でマコさんが、ギターを爪弾く儚い音だけが、ゆっくりと店の中に広がっていった。


六、朝
 どれくらい、そこにいただろうか。
 気がつくと、私はクロコダイルの前の歩道に、ひとり立っていた。手にはグラスの感触も酒の味も残っていない。ただ、煙草の仄かな匂いだけが、コートの襟元にうっすらと染みついていた。
 空は薄らと白み始めていて、明治通りには始発を待つ人影がちらほらと見え始めている。看板の緑の庇は、色褪せた、いつものくたびれた色に戻っていた。
 あの誘いを、断ったのか。それとも、まだ答えを出していないだけなのか。自分でもよく分からない。ただ一つだけ、はっきりと分かったことがある。
 あの人たちは、消えてなくなったのではない。ただ、この街のどこか――明治通りの澱みの中に、あの日のままの姿で、今も灯り続けているのだ。そして私が強くこの街を思い出す夜には、また呼ばれて点る。
 命短しとなるのを恐れて、私は今夜、あちら側に残らなかった。だが、いつかまた、この扉を押す夜が来るだろう。そのときに、自分がどちらの答えを選ぶのか――正直、あまり自信がない。
 けれど、ひとつだけ確かなことがある。
 兄貴より上で、親父より下な、あの世代の人たちは、本当にカッコ良かった。
 その事実だけは、どれほどの時が流れても、少しも色褪せることはない。

(了)


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あとがき
時代とともに街の風景は変わり、人の営みもまた姿を変えていく。特に渋谷や原宿といった変化の激しい街では、数年前の記憶すら簡単に押し流されてしまう。それでも、若かりし頃に過ごした熱い空気感や、自分を引き上げてくれた不器用で破天荒な先輩たちの面影は、決して消えることがない。
本作で描いた「あちら側」は、幻想であり、同時に誰の胸の中にも存在する懐かしい時代そのものである。ふと夜風に誘われて古い街角に立ったとき、あの頃の灯りがどこかで点っているような心地がしたなら、本作のささやかな役割は果ませたと言えるだろう。最後までお付き合いいただいた読者の皆様に、心より感謝を申し上げる。


玉響



■ まえがき

人は誰しも、人生の中で耐えがたい喪失と向き合う瞬間があります。長年連れ添った大切な存在を失ったとき、世界は一瞬にして色を失い、日常の風景すらどこか遠い他人のもののように感じられてしまうものです。

私にとってその存在は、十六年という歳月をともに過ごした愛犬「仏陀」でした。彼のぬくもりが消え去った我が家で、私は静かな諦めとともに日々を過ごしていました。

しかし、そんな喪失の底にあったある節分の夜、私の世界に不可思議で小さな「気配」が訪れました。ほんの束の間、揺らめいて消える淡い光――大和言葉でいう「玉響(たまゆら)」のようなその光の粒たちは、私の暮らしにそっと寄り添い始めたのです。

科学で割り切れるものか、それとも心が作り出した幻影なのか。その答えを私は知りません。けれど、彼らとの無言の対話は、私の凍りついた心を確実に温めてくれました。

この小さな物語は、愛しい存在を失ったひとりの人間が、目に見えぬ温かな存在に包まれながら、ふたたび前を向いて歩み出すまでの記録です。どうぞ、静かな夜に、温かいお茶でも飲みながらお読みいただければ幸いです。




■ 序章 節分の夜

豆を投げた瞬間、光が動いた。

「鬼は外、福は内」

いつもと変わらぬ節分の口上のはずだった。だが、私が放った豆は、何かにふわりと弾かれるようにして、宙でわずかに軌道を変えた。見えない誰かがそこにいて、軽やかに豆を避けた――そうとしか思えない不自然な揺れだった。

その年の初め、私は還暦を越えていた。そしてその前の年の暮れ、十六年連れ添った愛犬――仏陀と名づけた雑種の老犬――を看取ったばかりだった。豆まきの声も、心のどこかでは上滑りしていた。「福は内」と唱えながらも、私の心にはもう福など来ないのではないかという、冷めた諦めが胸の底に澱んでいたのだ。

けれど、その夜、居間の空気がふつりと沸き立つように揺らぎ、小さな光の玉が、いくつも、いくつも、私の周りを飛び回った。ほんの一瞬だけ眩く揺らめくその姿は、大和言葉でいう「玉響(たまゆら)」そのものだった。

写真に撮ろうとスマートフォンを構えると、レンズの向こうに、確かにそれは映っていた。

まん丸の、透きとおった光の粒。

これが、私と「彼ら」――オーブたちとの、長く不思議な対話の始まりだった。


■ 第一章 目覚め

もしかしたら、彼らは最初からそこにいたのかもしれない。

そう思うようになったのは、しばらく経ってからのことだ。見えなかったのではなく、私が悲しみに囚われて見ようとしていなかっただけなのかもしれない、と。

仏陀を失ってからの数か月、私は妙に世界の輪郭が薄くなったように感じていた。毎朝の散歩の習慣も、足元から聞こえる小さな足音も、夜の静かな寝息も……当たり前にあった生命の気配がごっそりと生活から抜け落ちていた。そのぽっかりと空いた心の穴を埋めるように、オーブたちは現れたのかもしれなかった。

最初は半信半疑だった。レンズの埃だろうか、光の屈折や反射だろうか。そう自分に言い聞かせ、理屈を探そうともした。だが、来る日も来る日も、彼らはあまりにも律儀に姿を見せた。書斎で机に向かっているときも、台所に立って湯を沸かしているときも、ふと顔を上げれば、視界の端でゆらり、ゆらりと楽しげに揺れている。

不思議なことに、慣れというのは早いもので、いつしか私は驚くよりも先に、微笑むようになっていた。

「ああ、また来てくれたのか」

そんな言葉を、心の中でごく自然に交わすようになっていた。


■ 第二章 どこにでも

彼らはどこにでもいた。

通勤の電車の中、すし詰めの混雑した車両の隅で、ふわりと浮かんでいるのを見つけたときは、さすがに小さく声を上げそうになった。乗客の誰も気づいていない。スマートフォンの画面をぼんやり眺める人々を余所に、光の粒だけが静かに漂っている。気づいているのは、どうやら私だけらしかった。

旅先のホテルの一室でも、彼らは待っていたかのように現れた。知らない土地の、見知らぬ部屋であるにもかかわらず、まるで最初からそこに住んでいたかのように、寛いだ様子で空間を漂っていた。

もっとも驚いたのは、飛行機の中だった。高度一万メートル、時速九百キロ。分厚い機体に守られ、外界とは完全には遮断されたはずのその静謐な客室にも、彼らはいた。狭い座席の周りを、ゆったりと、時には目にも留まらぬ速さで飛び回っていた。

そのとき、ふと思った。彼らは特定の「場所」に宿っているのではなく、私という人間に属している――あるいは、私についてきてくれているのではないか、と。

そうだとすれば、彼らは一体、私の何を見届けようとしているのだろう。


■ 第三章 言葉なき対話

私はそれから数年間、毎日欠かすことなく彼らと接してきた。

もちろん声の返事はない。私が語りかけても、静寂が返るだけの、一方通行の対話だ。それでも、いくつかの言葉には、確かに「応答」のような変化が見られた。

たとえば「ありがとう」と口にしたとき、彼らは嬉しそうにふわりと大きく揺れる。「行ってきます」と告げると、まるで見送るように、出入り口の近くまで寄り添うように漂うのだ。偶然だと言われればそれまでのことかもしれない。だが、毎日繰り返される日常の中で、その動きのパターンだけは不思議なほど一貫していた。

彼らの真の正体は、いまだに分からない。

けれど、ひとつだけ確かなことがあった。彼らは家具や壁などの障害物を平然とすり抜けていくのに、私の身体だけは決してすり抜けない。私が手を伸ばすと、瞬時に軌道を変え、ふわりとかわしていくのだ。そして彼ら同士もまた、混み合った空中であっても決して互いに衝突することがない。

そこには明らかに、意思のようなものが存在していた。

スマートフォンで撮影すると、その挙動はさらに奇妙な様相を見せた。標準の倍率(一倍)でレンズを向けると、彼らはまどろむようにゆったりと泳ぐ。だが、広角モード(〇・五倍)に切り替えた瞬間、画面のフレーム外から新たな光の粒がいくつも高速で飛び込んできて、空間全体を目にも留まらぬ速さで飛び交い始めるのだ。広角レンズ特有の画角の変化と相まって、まるで別の次元の扉が開いたかのような錯覚を覚えた。

三次元でもなく、四次元でもない。

ちょうどその狭間にある揺らぎの空間を、見え隠れしながら漂っている――そんなふうにしか、私には説明のしようがなかった。

もしかすると、彼らは何か切実なメッセージを語りかけているのかもしれない。ただ、それを受け取るための受信機が、今の私にはまだ備わっていないだけなのかもしれない。

いつか何かのきっかけで、この身体が次元を一つ上昇させ、彼らとの本当の対話が叶う日が来るのだろうか。それを心待ちにしている自分もいる。だがそのとき、私はもうこちら側の世界にはいないのかもしれない――そんな静かな予感も、胸の奥底にそっと居座っていた。


■ 第四章 社寺にて

社寺仏閣を訪れるとき、彼らはまた違った表情を見せた。

社殿の前で静かに一礼し、手を合わせる。その数秒の静寂の中で、決まって周囲の空気がピンと澄み渡る気配を感じる。そっと目を開け、スマートフォンを向けると、そこには普段にも増して細やかで清らかな光を纏った玉響たちが浮遊していた。

不思議なのは、その現れ方に明らかな偏りがあったことだ。

朱塗りも鮮やかに綺麗に整備された大きな社殿を訪ねても、彼らは一向に姿を見せないことが多かった。かわりに、飾り気のない、苔むした小さな古社――訪れる人もまばらな、時が止まったかのような忘れられた場所――では、ほとんど確実と言っていいほど、彼らは数多く姿を現した。

華美な装飾や賑やかさよりも、静寂と古びた歴史の中にこそ、彼らは深く安らぐのだろうか。

私はいつしか、彼らのことを「神様の使い」なのではないかと想像するようになった。科学的根拠など何もない、私の勝手な憧憬に過ぎない。それでも、古びた石の鳥居をくぐるたびに、そこに何か懐かしく温かいものが待っているような気がしてならなかった。


■ 第五章 仏陀

そして、私にとって最も大切なことがあった。

仏陀の小さな仏壇の前に座るとき、ほぼ例外なく、彼らは現れた。線香の静かな煙にまじって、遺影のそばにふわりと浮かぶ光の粒。

「これは、あいつだ」

私には、そうとしか思えなかった。

十六年間、いつも私の足元にいたあの確かな体温。最期の夜、私の腕の中で静かに引き取っていった息の重み。理屈で説明できることなど何ひとつない。それでも、仏壇の前でだけ見せるあの独特の揺らぎ方――まるで甘えるように、私の膝のあたりを何度も行ったり来たりする愛おしい動きを見るたびに、胸の奥から確信が満ちあふれてくるのだ。

ある夜のことだった。

古いアルバムを整理していると、まだ若かりし頃の仏陀の写真が一枚、膝の上へ滑り落ちた。足腰がまだ丈夫だった仏陀が、庭先で散歩に行きたそうにこちらを振り返っている、何でもない日常の一コマだ。

それを拾い上げようとした、そのときだった。

ふわり、とひとつの光の粒が音もなく舞い降りてきて、写真の上にそっと止まった。まるで、そこが自分の居場所であると知っているかのように。

私は息を呑んだ。

「……おまえなのか?」

声に出してから、少し照れくさくなった。返事など返ってくるはずがない。それはこれまでの数年間で嫌というほど分かっていたことだった。

けれど、その光はゆっくりと――呼吸をするかのような確かさで――写真の中の仏陀の、瞳のあたりへと滑るように移動した。

心臓が強く跳ねた。

私はもう一度、震える声で尋ねた。

「仏陀……本当におまえなのか?」

光は動かなかった。

ただ、そこに静かに在り続けた。応えるでもなく、否定するでもなく。ただ温かく、そこに漂っていた。

その沈黙の中で、私は長いこと座り込んでいた。私は別に、明確な言葉や「答え」が欲しかったわけではないのだと気づいたのは、随分と時間が経ってからのことだ。私はただ、その光がそこにいてくれること、私を忘れずに寄り添ってくれていること――それだけで、涙が出るほど十分だったのだ。

もちろん、私には何ひとつ科学的な証明などできない。誰かに説明を求められれば、言葉に詰まるだろう。

けれど、これだけは言える。

私の中で、これが紛れもない、今の「本当」なのだと。


■ 終章 今夜も

還暦を越え、愛犬を失い、その深い喪失の底で出会った、名もなき光の粒たち。

彼らが何者なのか、これから先も答えが出ることはないのかもしれない。けれど、それでいいと最近は思っている。分からないものを、分からないまま大切に抱えて生きていく。それもまた、人生の豊かさのひとつなのかもしれない。

今日も一日が終わり、部屋の明かりを落とす。

窓の外では夜の街明かりが静かに滲んでいる。目を閉じかけたそのとき、視界の端でふつりと空気が揺らいだ。

もう、それが仏陀なのかどうかを確かめようとは思わない。

さあ、今夜はどんな玉響たちが、私に会いに来てくれるのだろう。

私は小さく微笑んで、その温かな気配の中にそっと目をやった。

(了)


Kindle




■ あとがき

この物語は、愛犬の死という個人的な深い悲しみと、その後に訪れた不思議な現象をもとに紡ぎ出した小品です。スマートフォンという現代的な文明の利器を通して、古来より語り継がれてきた「玉響(たまゆら)」のような目に見えぬ気配と出会う。そのアンバランスでいてどこか温かい体験を、素直な言葉で描き出したいと考えました。

作中に登場するオーブたちの挙動や、カメラ越しに見せる奇妙な動きには、私自身が感じた驚きや愛おしさをそのまま込めています。科学の進歩によって世界の多くの謎が解き明かされる現代ですが、私たちの日常のすぐ隣には、今なお解明されない優しい神秘が隠されているのかもしれたせん。

身近な存在との別れを経験された方、あるいは日々の中でふと孤独を感じている方に、この物語がほんの少しの温もりと安らぎを届けることができたなら、著者としてとても嬉しく思います。

あなたのすぐ傍らにも、今夜、優しく揺れる「玉響」が訪れますように。


侵略する気、ゼロです
――UFOからの最後通牒――


まえがき

いつの時代も、世の中には「強い声」があふれている。

「今すぐ叩くべきだ」

「弱腰になるな」

「迷っている場合じゃない」

そんな威勢のいい言葉は、ときに人を勇気づける。

けれど、ときには――人から「ちょっと待て」と言う権利まで奪ってしまう。

もし、そんな息苦しい世界に、はるか未来の役所から、

「すみません。ちょっと、やりすぎです」

とストップをかけに来る人たちがいたら。

しかも、その人たちが宇宙人で、乗ってきたのが巨大な銀色の球体で、戦争を止める方法が「特別有給休暇」だったら。

これは、地球を救うヒーローの物語ではない。

世界を変える力もなければ、強大な武器も持たない、しがない天文台職員。

そして、未来からやって来た、妙に礼儀正しい侵略者(?)。

二人が出会ってしまったことで、世界はほんの少しだけ、変な方向へ動き始める。

人類は争う。

未来人も困る。

大将は畑を耕す。

そして、宇宙人は有給休暇を勧める。

そんな話です。

肩の力を抜いて、お茶でも飲みながらお読みください。




第一章 まんまるが降りてきた日

その日、世界中の空に、直径三十メートルほどの銀色の球体が、まるで示し合わせたように一斉に現れた。

ニューヨークに一つ。

北京に一つ。

モスクワに一つ。

ロンドンに一つ。

そして東京――霞が関の真上に、これ見よがしに一つ。

球体は光らなかった。

音もしなかった。

ビームも撃たなかった。

ただ、静かにぷかぷかと浮かんでいた。

まるで、

「こんにちは」

と挨拶でもしているようだった。

テレビ局は大騒ぎした。

専門家は首をひねった。

軍は戦闘機を飛ばした。

戦闘機が近づくと、球体は三十センチほど横へ移動した。

戦闘機がまた近づく。

球体もまた、三十センチ動く。

その繰り返しだった。

「……逃げてる?」

「いや、あれは逃げているというより……」

「?」

「避けてる」

「同じじゃないのか?」

「人類側から見ると、まあ、ほぼ同じです」

各国の緊急対策本部では、似たような会話が同時多発していた。

「攻撃してこないぞ」

「攻撃……してこないな」

「……攻撃、しないんですかね」

人類は「侵略される」という筋書きに慣れすぎていた。

宇宙船が来た。

↓

光線が出る。

↓

建物が吹き飛ぶ。

↓

軍隊が出動する。

↓

誰かが叫ぶ。

↓

世界が終わる。

それが、これまでの映画のお約束だった。

ところが今回は違う。

何も起きない。

ただ浮いている。

これが、かえって怖かった。

「未知の兵器では?」

「可能性はあります」

「では攻撃を?」

「攻撃されていません」

「しかし、攻撃能力を持っている可能性は?」

「あります」

「では攻撃を?」

「だから攻撃されていません」

会議は、この三つの台詞を何度も繰り返した。

そんな世界的騒動のニュースを、宮下ソラは天文台の休憩室で、コンビニのおにぎりを食べながら眺めていた。

三十六歳。

天文台の非常勤職員。

望遠鏡の清掃。

来館者への説明。

子どもたちの質問への対応。

たまに機材の運搬。

それが仕事だった。

宇宙が好きだった。

UFOも好きだった。

だから天文台に就職した。

しかし上司からは、初日にこう言われた。

「ロマンは業務時間外で」

以来、宮下は勤務中に「宇宙人」という言葉を口にするとき、妙に小声になった。

その日の午後、彼は来館した小学生に聞かれた。

「お兄さん、あれ宇宙人?」

宮下は窓の外を見た。

銀色の球体が浮いている。

「……可能性はあるね」

「宇宙人、何しに来たの?」

「それはまだ分からない」

「地球を征服するの?」

宮下は少し考えた。

「だったら、もうちょっと派手に登場すると思うよ」

「じゃあ何?」

「……観光?」

「宇宙人が?」

「いや、俺も今思いつきで言っただけ」

小学生は納得した顔で帰っていった。

宮下は窓の外を見た。

「観光か……」

その夜。

午前二時十三分。

宮下の携帯電話が鳴った。

知らない番号だった。

「もしもし……」

『はじめまして。突然のご連絡、失礼いたします』

男の声だった。

妙に落ち着いている。

そして、妙に事務的だった。

『わたくし、あの球体の広報を担当しております、ハラダと申します』

宮下の指が止まった。

「……ハラダ?」

『はい』

「宇宙人?」

『厳密には、未来人です』

「……」

『ただ、地球の方に発音しやすいよう、こちらで勝手に名乗らせていただいております』

宮下はしばらく黙った。

そして言った。

「……区役所の人みたいですね」

電話の向こうで、ほんの一瞬だけ沈黙があった。

『よく言われます』

宮下は電話を切らなかった。

⸻

第二章 バカな大将たちの会議

一方その頃。

国連では、かつてない規模の緊急会議が開かれていた。

各国の首脳。

軍のトップ。

外交官。

専門家。

そして、

「なんとなく偉そうな人」

たちがずらりと並んでいた。

議題は一つ。

「未確認飛行物体への対応方針」

議長が口を開く。

「まず、冷静な対応を――」

「断固たる態度を示すべきだ!」

即座に誰かが叫んだ。

「舐められてはならん!」

「しかし刺激すれば全面戦争だ」

「静観など悠長すぎる!」

「では、どうする!」

「先にミサイルを向けた国が主導権を握れる」

「それは脅しではなく脅迫だろう!」

「似たようなものだ!」

会議は紛糾した。

宇宙人そっちのけだった。

その頃、東京の球体内部では、その会議がリアルタイムで映し出されていた。

銀色の壁。

丸い窓。

大量のモニター。

そして、人間より少し目が大きく、耳が長く、何より疲れた表情が妙に板についている者たち。

その一人が言った。

「……相変わらずですね」

隣の男が答える。

「ああ」

「未来から来ても、人類は変わりませんね」

「変わっていたら、我々はここに来ていない」

「それもそうですね」

別の職員が資料をめくった。

「対象候補、現在四百三十二名」

「多いな」

「昨日から百二十七名増えました」

「SNS?」

「はい」

「SNSは未来でも残ってるのか?」

「残っています」

「進歩してないな」

「むしろ発達しています」

「悪化してるじゃないか」

職員たちは深いため息をついた。

そこへハラダが入ってきた。

「皆さん、宮下さんとの接触に成功しました」

「どうでした?」

「普通の方でした」

「それは重要ですか?」

「非常に重要です」

ハラダはモニターを見た。

地球では、まだ議論が続いている。

「攻撃すべきだ」

「いや、待つべきだ」

「いや、攻撃だ」

「いや、待て」

ハラダは静かに言った。

「問題は、どちらが正しいかではありません」

「では?」

「誰か一人の声が大きすぎて、他の選択肢が聞こえなくなっていることです」

⸻

第三章 ハラダさんの正体

宮下は深夜の天文台に一人残っていた。

望遠鏡の横に座り、携帯電話を耳に当てている。

「もう一度確認します」

『はい』

「あなたたちは、侵略に来たわけではない?」

『はい』

「地球征服でもない?」

『はい』

「人類を滅ぼす気も?」

『ございません』

「資源目的でも?」

『違います』

「じゃあ何なんですか」

電話の向こうで、ハラダが小さく息を吐いた。

『未来から参りました』

宮下は天井を見た。

「そこからもう一回お願いします」

『未来から参りました』

「聞き間違いじゃなかった」

『残念ながら』

「何年後?」

『約二百四十年後です』

宮下は立ち上がった。

望遠鏡にぶつかった。

「痛っ!」

『大丈夫ですか?』

「未来人に心配されたくないです」

『申し訳ありません』

「で、何しに来たんです?」

ハラダの声が少しだけ低くなった。

『警告です』

「何の?」

『地球についてです』

宮下は窓の外を見た。

夜空。

星。

そして、遠くに浮かぶ銀色の球体。

『二百四十年後の地球では、人口は大きく減っています』

「少子化?」

『それもあります』

「環境?」

『それもあります』

「隕石?」

『違います』

「太陽?」

『違います』

「宇宙人?」

『私どもですか?』

「はい」

『違います』

宮下はため息をついた。

「じゃあ何なんです?」

ハラダは答えた。

『争いです』

「戦争?」

『戦争だけではありません』

『国家間の対立』

『経済制裁』

『情報操作』

『報復』

『復讐』

『憎悪』

『そして、憎悪を煽る声』

宮下は黙った。

『積み重なった小さな争いが、取り返しのつかない規模になりました』

「それを止めに来た?」

『いいえ』

「え?」

『それができれば、わたくしどもも苦労しません』

ハラダの声に、疲れが滲んだ。

『我々には時間軸干渉に関する非干渉原則があります』

「つまり?」

『過去の歴史を、こちらの都合で書き換えてはいけない』

「じゃあ何もできないじゃないですか」

『原則としては』

「原則としては?」

『例外があります』

宮下は眉をひそめた。

『歴史そのものには干渉できません』

『しかし、歴史を極端な方向へ押し流している個人については、一時的に「保護預かり」とすることが認められています』

「保護預かり?」

『はい』

「悪人を連れていく?」

『違います』

ハラダは珍しく、少し強い声を出した。

『善悪の判定ではありません』

『声が大きすぎて、他の選択肢を潰してしまっている人を、一時的に議論の場から外すだけです』

「それ……拉致じゃ?」

『違います』

「でも連れていくんでしょう?」

『はい』

「本人の同意は?」

『いただきます』

「どうやって?」

『交渉します』

「拒否されたら?」

『交渉を続けます』

「何時間?」

『平均十一分です』

「短っ!」

『未来の行政は効率化されておりますので』

宮下は頭を抱えた。

「で、連れていった人はどうなるんです?」

『有給休暇です』

「……は?」

『特別有給休暇』

「何ですか、それ」

『本人の心身のリフレッシュを目的とした一時休暇です』

「戦争を煽ってる大将を?」

『はい』

「未来の高原で?」

『はい』

「畑仕事させて?」

『本人が希望すれば』

「本人が希望するわけないでしょう」

『最初は皆さんそうおっしゃいます』

ハラダは少しだけ笑った。

『三週間後には、だいたいじゃがいもの話をしています』

宮下は吹き出した。

「……なんですか、それ」

『未来でも人気のプログラムです』

⸻

第四章 非干渉の原則、そして一つだけの抜け道

翌朝。

宮下は出勤すると、上司に呼ばれた。

「宮下」

「はい」

「昨日、夜中に誰と電話してた?」

「……未来人です」

上司は黙った。

「……そうか」

「信じるんですか?」

「いや」

「ですよね」

「ただ、昨日から問い合わせが多すぎて、もう何でもいい」

上司は机の上の書類を指した。

「球体について説明できるか?」

「無理です」

「そうか」

「でも、広報担当なら知っています」

「誰だ?」

「ハラダさんです」

「何者?」

「未来人です」

上司は頭を抱えた。

「……今日は早退していいぞ」

「ありがとうございます」

「有給でな」

「はい?」

「今のは冗談だ」

その日の夜。

再びハラダから電話が来た。

『宮下さん』

「はい」

『お願いがあります』

「何です?」

『こちらの映像を見ていただけますか』

スマートフォンに一枚の画像が送られてきた。

そこには、未来の高原が映っていた。

青い空。

緑の畑。

風車。

そして、畑の真ん中で鍬を持つ男。

「……この人」

『はい』

「国防長官?」

『元、です』

「隣は?」

『隣国の元将軍です』

「仲悪かったんですよね?」

『非常に』

「何してるんです?」

『じゃがいもの植え付けについて議論しています』

宮下は笑った。

『殺し合いではありません』

「……」

『意見が合わなくても、人は隣にいられる』

「それを見せたい?」

『はい』

宮下は画像を見つめた。

妙に平和だった。

だからこそ、少しおかしかった。

⸻

第五章 大将、消える

一週間後。

世界は前代未聞のニュースに震撼した。

某大国の強硬派国防長官が、会議中に忽然と姿を消した。

最後に目撃されたとき、彼はこう叫んでいた。

「絶対に引かんぞ!」

その直後。

会議室の隅に、いつの間にか一人の男が立っていた。

スーツ姿。

笑顔。

名札。

「未来厚生局、特別休暇担当のハラダと申します」

「何者だ!」

「お疲れのようですね」

「誰が疲れている!」

「皆さま、そうおっしゃいます」

「警備兵!」

警備兵が入ってきた。

だが、なぜかハラダの隣に立った。

「こちら、特別有給休暇申請書です」

「ふざけるな!」

「申請者はご本人」

「私は申請していない!」

「署名はこちらです」

「……」

長官が紙を見た。

確かに自分の字だった。

「いつ書いた!」

「三秒前です」

「私は書いていない!」

「未来の筆記技術です」

「インチキだ!」

「その点については同意します」

「同意するな!」

ハラダはにこやかに言った。

「高原で三週間ほど、ゆっくりしていただきます」

「断る!」

「では、二週間」

「そういう問題じゃない!」

「一週間?」

「だから!」

「三日?」

「……」

長官は黙った。

ハラダは微笑んだ。

「いかがでしょう」

「……三日だけだぞ」

「ありがとうございます」

その瞬間、二人の姿が消えた。

残されたのは、

イヤホン。

飲みかけのコーヒー。

そして、

『特別有給休暇申請書』

一枚だった。

その後も同じことが続いた。

好戦的な将軍。

経済制裁合戦を煽っていた閣僚。

「今こそ叩くべきだ」と毎日叫んでいた議員。

さらには、テレビで一時間にわたって「強硬論」を語り続けていた評論家。

次々に消えた。

共通していたのは一つ。

暴力の痕跡がないこと。

そして目撃者の証言。

「なんだか、感じのいい人に案内されていました」

「嫌がっていたんですが、途中から普通に歩いていました」

「最後に『有給は消化できますか?』と聞いていました」

世界は混乱した。

しかし、奇妙な変化が起きた。

会議の空気が変わったのだ。

以前なら、

「攻撃だ!」

と叫んでいた人が、

「攻撃……という選択肢もありますが」

と言うようになった。

「報復すべきだ!」

だった人が、

「報復については……まあ、慎重に」

と言うようになった。

そして誰かが、小声で言った。

「……気をつけろよ」

「何が?」

「また有給取らされるぞ」

誰も笑わなかった。

いや。

二人ほど、笑った。

その二人を見て、周囲も少し笑った。

宮下はニュースを見ながら、思わず吹き出した。

「未来人、すげえな」

⸻

第六章 連れて行かれた先

読者にだけ、少しネタばらしをしておこう。

連れて行かれた大将たちは、殺されてもいなければ、拷問もされていなかった。

洗脳もされていない。

未来の、とある惑星。

「係争調停用居住区」

と呼ばれる、のどかな高原にいた。

広い畑。

澄んだ空。

無数の将棋盤。

そして、妙に親切な隣人たち。

元国防長官は、三日目の朝に言った。

「わし、いつまでここにおればいいんじゃ」

職員が答えた。

「三週間の予定です」

「会議に戻らねばならん」

「会議は閣下がいなくても進んでいます」

「わしがいなければ何も決まらん」

「昨日、三時間で決まりました」

「……」

隣の元将軍が笑った。

「俺の国でも同じだった」

「お前は黙れ」

「なぜ?」

「敵だからだ」

「ここでは隣人だ」

「……」

その日、二人は畑を耕した。

「この植え方は間違っている」

「貴様に農業が分かるのか」

「分からん」

「なら黙れ」

「お前も分からんだろ」

「……」

二人は顔を見合わせた。

そして、初めて笑った。

それから数日。

二人の争いは、

「じゃがいもは深く植えるべきだ」

「いや、浅くだ」

に変わった。

さらに一週間後。

「将棋をやらんか」

「負けるぞ」

「誰が?」

「お前が」

「……表に出ろ」

二人は将棋盤を挟んだ。

もちろん、殴り合いにはならなかった。

勝負が終わると、元将軍が言った。

「もう一局」

元長官は答えた。

「望むところだ」

高原の風が吹いた。

誰も傷つかなかった。

それでも、二人は激しく言い争っていた。

「そこに銀を打つのは素人だ!」

「素人で悪いか!」

「悪い!」

「じゃあ教えろ!」

「……仕方ない」

彼らにとってそれは、生まれて初めて経験する、

「殺し合いを伴わない対立」

だった。

⸻

第七章 最後通牒

球体が現れて百日目の夜。

宮下の携帯電話が鳴った。

「ハラダさん?」

『はい』

「そろそろ帰るんですか?」

『はい』

「もう?」

『予定通りです』

宮下は少し寂しくなった。

「また来るんですか?」

『必要があれば』

「できれば必要にならないでほしいですけど」

『わたくしも同感です』

二人は少し黙った。

「大将たちは?」

『元気です』

「まだ畑?」

『はい』

「帰りたがってません?」

『最初は』

「今は?」

『昨日、国防長官から申請がありました』

「何の?」

『休暇延長です』

宮下は笑った。

「……でしょうね」

『本人曰く、「じゃがいもの収穫が終わるまでは帰れない」と』

「もう立派な農家じゃないですか」

『本人は認めておりません』

宮下は空を見上げた。

銀色の球体が浮かんでいる。

最初に見たときと同じ姿だった。

ただ、もう怖くなかった。

「一つ聞いてもいいですか?」

『どうぞ』

「未来は、本当に変えられるんですか?」

少し長い沈黙があった。

『はい』

「確実に?」

『いいえ』

「……」

『だから、未来なのです』

宮下は笑った。

「なるほど」

『二百四十年後の地球が、緑豊かな星になる可能性もあります』

「はい」

『誰も住めない星になる可能性もあります』

「はい」

『どちらも、まだ決まっていません』

宮下は夜空を見た。

「それって、かなりプレッシャーですね」

『はい』

「未来人なのに、ずいぶん無責任ですね」

『未来人だからこそ、責任を押しつけることができないのです』

「……どういう意味です?」

『未来を決めるのは、未来の人間ではありません』

ハラダの声が少しだけ柔らかくなった。

『今を生きている人間です』

宮下は黙った。

『ですから、最後に一つだけお願いがあります』

「僕を連れていく?」

『いいえ』

「じゃあ何です?」

『残ってください』

「なぜ?」

『あなたは候補者ではありません』

「候補者?」

『戦争を止める力を持つ人間ではない、ということです』

「ですよね」

宮下は笑った。

「僕、望遠鏡を磨いてるだけですから」

『ですが』

ハラダは少し間を置いた。

『あなたには、戦争を止めようとしている人を笑わせる力があります』

「……それ、褒めてます?」

『未来では、かなり重要な能力です』

「笑わせるだけですよ?」

『笑いは、意見を変えることではありません』

「……」

『ただ、人を一秒だけ立ち止まらせることができます』

宮下は夜空を見上げた。

『その一秒に、人は別の選択肢を見ることがあります』

「……」

『わたくしたちが守りたいのは、その一秒です』

宮下はしばらく何も言わなかった。

やがて、

「じゃあ、僕にできることは」

『はい』

「誰かが本気で怒り出す前に、ちょっと笑わせる」

『それで十分です』

「ずいぶん地味な使命ですね」

『地味なものほど、長持ちします』

宮下は笑った。

「分かりました」

球体が、ゆっくり上昇した。

「ハラダさん」

『はい』

「次に来るときは、できれば仕事じゃなくて観光で来てください」

『承知しました』

「東京案内しますよ」

『ありがとうございます』

「ただし」

『はい?』

「有給休暇を取らせるのはなしで」

電話の向こうで、ハラダが初めて声を上げて笑った。

『努力します』

球体は夜空へ消えていった。

⸻

終章 それから

球体が去って一年。

世界は劇的に平和になったわけではない。

人間は、やはり人間だった。

小競り合いもあった。

罵り合いもあった。

政治家は相変わらず大声を出した。

テレビでは相変わらず誰かが怒鳴っていた。

SNSでは今日も誰かが誰かを叩いていた。

つまり、

それほど変わっていない。

ただ、一つだけ変わったことがある。

会議で誰かが、

「今すぐ叩くべきだ!」

と叫ぶと、

別の誰かが、

「まあ、ちょっと待とう」

と言うようになった。

以前なら、それだけだった。

けれど最近は、そのあとにもう一言つく。

「……有給、取りたくないし」

会議室に笑いが起きる。

笑ったあと。

ほんの数秒。

誰もしゃべらなくなる。

その数秒のあいだに、誰かが別の案を出す。

それが採用されることもある。

されないこともある。

でも、選択肢は残る。

宮下は今日も天文台で望遠鏡を磨いている。

ある日、小学生が尋ねた。

「ねえ、お兄さん」

「ん?」

「あのUFO、また来るかな」

宮下は窓の外を見た。

青空だった。

「さあ」

「宇宙人、怖くない?」

宮下は少し考えた。

「怖くないよ」

「なんで?」

宮下は笑った。

「宇宙人のほうが、人間より有給休暇を大切にしてるから」

「どういうこと?」

「大人になれば分かる」

小学生は首を傾げた。

そして走っていった。

宮下は一人になった。

窓の外。

どこまでも広い空。

球体は見えない。

けれど、あの声だけは覚えている。

――またいつか、必要があれば。

宮下は星空に向かって、小さく呟いた。

「できれば、もう必要にならないでほしいけどな」

少し考えてから、

「……まあ、観光なら歓迎するよ」

風が吹いた。

望遠鏡のレンズが、ほんの少しだけ揺れた。

宮下は布を持ち直した。

そして、また磨き始めた。

未来は、まだ決まっていない。

だから今日も、人類は選ぶ。

怒るか。

争うか。

黙るか。

話すか。

それとも――

一度だけ笑うか。

その選択が、二百四十年後のどこかにつながっている。

空の彼方で、

誰かがそれを見ているかもしれない。

けれど宮下は、もう気にしなかった。

望遠鏡を磨きながら、いつものように言った。

「さて。今日も仕事だ」

そして、その日の天文台には、

なぜかいつもより少しだけ、

笑い声が多かった。

(了)



Kindle



あとがき

この物語は、

「なぜUFOは現れるのに、何もしないのだろう?」

という、かなり素朴な疑問から始まりました。

SFに登場する宇宙人は、たいてい強い。

巨大な兵器を持っていたり、地球を征服しようとしたり、人類よりはるかに進んだ科学技術で私たちを圧倒したりする。

でも、もし未来の宇宙人が、

「もう勘弁してください」

という顔をしながら地球にやって来たら?

しかも、

「戦争をやめなさい」

ではなく、

「少し休んでください」

と言ったら?

そんなところから、この物語は生まれました。

この話に登場する「特別有給休暇」は、もちろん現実には存在しません。

けれど、私たちの身の回りには、ときどき「少し離れたほうがいい」と思う瞬間があります。

怒っているとき。

誰かを責めたくなったとき。

自分の正しさを証明したくなったとき。

そんなときに、一度だけ立ち止まる。

お茶を飲む。

深呼吸する。

誰かと話す。

あるいは、くだらない冗談を言ってみる。

それだけで、見えてくる選択肢が一つ増えることがあります。

この物語で未来人たちが守ろうとしていたのは、人類そのものではありません。

「人類が、自分で選ぶ余地」です。

正しい答えを未来から押しつけるのではなく、

「まだ決まっていませんよ」

と伝える。

それが、彼らにできる最大限の介入だったのだと思います。

そして宮下にできることは、もっと小さい。

誰かを説得することでもない。

世界を変えることでもない。

ただ、怒りでいっぱいになった人を、

ほんの一秒だけ笑わせること。

その一秒に、別の選択肢が生まれるかもしれない。

そんな小さな可能性を、この物語では「未来を変える力」として描いてみました。

世界は、たぶん明日も大騒ぎです。

誰かが怒り、

誰かが叫び、

誰かが「今すぐやれ」と言うでしょう。

そんなとき、

「まあまあ」

と笑える人が一人くらいいてもいい。

もしかすると、その人のおかげで、

誰かが一秒だけ立ち止まるかもしれません。

そして、その一秒が、

未来を少しだけ変えるかもしれません。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

どうか皆さまも、

必要以上に頑張りすぎず、

必要なときにはちゃんと休み、

そして、ときどき笑ってください。

未来の誰かが、

「その有給休暇、ちゃんと取ってくれて助かりました」

と言っているかもしれません。


順不動
―カミさんより長生きしない方法―



まえがき
「五十を越したら順不動」――昔から、人の生き死にや人生の順番を表すそんな言葉があります。若い者も老いた者も、命の順番ばかりは神様の胸三寸、あるいは運命のいたずらと言わんばかりの慣用表現です。
もしも、その「命の順番」や「人の願い」が、神様ではなく宇宙の役所の事務システムによって一元管理されていたとしたら。そして、ふと漏らした軽口が正式な申請として「受理」されてしまったとしたら――。
本作は、還暦を目前にしたどこにでもいる男・宗吉と、その妻・千代、そして地方の神社に左遷された宇宙役所の中間管理職が繰り広げる、少し不思議で温かいSF物語です。夫婦の愛おしい距離感と、人生の「順番」をめぐる騒動を、どうぞ最後までお楽しみください。




序章 賽銭箱の前で
還暦を目前にして、宗吉は初めて誰かの健康を本気で願うようになった。理由は単純だった。三か月前、娘の由美に子供が生まれたのだ。名前は陽向。よく笑う子だ。
しかし今日、宗吉が三段しかない石段をわざわざ登っているのは、孫のためだけではない。
「健康、安全、安定。それだけでいいんだ」
賽銭箱の前で、もう二十年近く唱え続けている三つの言葉。今日はそこに、もうひとつだけ付け足すことにした。
「あと……カミさんより、長生きしませんように」
笑い話のつもりだった。先に逝かれて、あたふたと一人で洗濯機の使い方を覚える自分の姿が、あまりに容易く想像できてしまったからだ。
賽銭を投げ入れた瞬間、賽銭箱の底が、ごとんと聞いたことのない音を立てた。まるで何かの機械が「受理」のボタンを押したような、やけに事務的な音だった。



1章 空に浮かんだ数字
翌朝、村中が同じものを見て、同じように叫んだ。
空というより、視界のすぐ端、ちょうど人の頭の上あたりに、うっすら光る数字が浮かんでいたのだ。米屋のフミさんの頭上には「3」。電気屋のカズさんには「47」。宗吉が恐る恐る鏡を覗き込むと、自分の頭上にも確かにそれはあった。
「2」
背筋を冷たいものと生暖かいものが同時に走った。これは死ぬ順番か、という恐怖と、ならば先に逝ける、という口には出せない安堵だった。
「あんた、額に2って浮いてるけど、それ何?」
台所から出てきた妻の千代が、寝ぼけ眼のままそう聞いた。千代の頭上には「312」という数字が浮かんでいる。千代はまだずっと遠いところにいる。それだけで、宗吉は少しだけ胸が軽くなるのを感じた。
「いや……何でもない。気にするな」
村役場の防災無線が、朝から要領を得ないアナウンスを繰り返していた。「皆様の頭上の数字につきまして、現在、村では原因を調査中であります。むやみに他人の数字を覗き込まないようお願いします」
覗くなと言われて覗かない村人など、この村には一人もいなかった。



2章 古い願いが叶いはじめる
数字がただの飾りでないと村中が知ったのは、その日の昼過ぎのことだった。
米屋のフミさんの家の前に、覚えのない赤いスポーツカーが一台、忽然と停まっていた。フミさんは腰を抜かしながらも、二十三年前、まだ独身だった頃に神社で「いつか赤いオープンカーに乗りたい」と願ったことを、震える声で思い出した。
「番号が3の人から順番に、願いが叶っていくらしいぞ」
噂は瞬く間に広がった。何十年も前に、この神社の賽銭箱に投げ込まれた小さな願いごとの数々が、いま律儀に順番通りに処理されているのだ。
郵便局長の息子は、中学生の頃に書いた「テストで居眠りしても怒られませんように」が叶い、その日だけ担任がまるごと記憶喪失になった。担任は定年退職して十五年経つのに、律儀に村役場まで「私は誰でしょう」と聞きに来た。
電気屋のカズさんは、若い頃「モテたい」と願った代償として、飼い猫にだけ異様にモテるようになった。猫は迷惑そうに逃げ回り、カズさんは猫に振られ続けた。
宗吉だけは笑えなかった。自分の番は、2番目だった。
農協の常務は、高校生の頃「授業をサボってもバレませんように」と願っていたらしく、その日一日だけ、なぜか役場の会議室から忽然と姿を消し、後で「学校の裏の土手にいた」と証言して、誰よりも本人が青ざめていた。
郵便局長本人に至っては、若い頃「毎日うまい飯が食いたい」と願ったせいで、その日から彼の茶碗の白飯だけが異様に美味くなり、家族全員から本気で恨まれるという、地味に一番厄介な珍事が起きた。
「宇宙って、そんなに融通利かないのかね」
「融通利かないっていうか……人間の『ニュアンス』ってやつを、まるっと無視してくるんだよ」
千代がそう言いながら、宗吉の頭上の「2」をじろりと見た。
「あんたも、変な願い方したから、こんなことになってんじゃないの」
「いや、あれは、その、言葉の綾で……」
「綾も何も、宇宙は言葉の綾を知らないんでしょうが」
滑稽で、少しずつ不穏で、そして誰も彼もが、次は自分の番かと頭上の数字をちらちら見上げるようになった。



3章 宮司の正体
村人たちが総出で社務所に押しかけたのは、その日の夕方だった。宮司は、先代から数えても村の誰も素性を深く知らない、やけに姿勢のいい老人だった。障子の向こうで一言だけ答えた。
「今は、まだお話しできる段階ではありません」
その言い草が、かえって村人たちの好奇心に火をつけた。
「隠すってことは、絶対なんかあるぞ」
「宮司さん、実は宇宙人なんじゃないか」
「馬鹿言え、あの人はうちの息子の七五三のとき、豚汁おかわりしてたぞ」
結局その夜のうちに、フミさんを筆頭とする村の女性陣が、懐中電灯片手に本殿の床下へ潜り込むという暴挙に出た。宗吉と千代も、成り行きで、というよりフミさんに腕を引かれて加わることになった。
賽銭箱の真下、苔むした床板を剥がすと、そこには古びた木箱に紛れて、明らかにこの村の技術水準を超えた、金属質の小さな端末が埋め込まれていた。表面には、うっすら文字が浮かんでいる。
「……なんて書いてある?」
「えっと……『願望処理 残り 百二十八件』だって」
その数字を見た瞬間、境内にいた村人全員が、無言で自分の頭上を見上げた。
翌朝、床下の端末を握りしめたフミさんたちに問い詰められ、宮司はとうとう観念したように深いため息をついた。それは、村の顔役というより、月曜の朝を迎えたどこかの会社員のようなため息だった。
「宇宙人、というのとは、少し違うのですがね」
宮司は懐から、村人が見たこともない形の身分証を取り出した。そこには「トワ・ダマ第七出張所 所長代理」と印字されている。
「私は、銀河公共願望処理センターという役所の、出張所職員です。この神社は、六十年前の事務手続きの誤りで、支店として二重登録されておりましてな」
「宇宙人かどうかより、まず聞きたいんですけど」
フミさんが端末を突き出しながら詰め寄った。
「残り128件って何なんですか。まだそんなに願いが溜まってるんですか」
「はい。何しろ六十年分、休眠していたものですから」
宮司、もはや所長代理と呼ぶべきかは、心底うんざりした顔で肩を落とした。
「正直に申し上げますと、私もこの出張所の担当になって四十年、一度もまともな異動願いが通ったことがありません。故郷の恒星系に帰りたいと、これまで何度、上に掛け合ったことか」
村人たちは、思わず顔を見合わせた。目の前にいるのは、脅威の異星人でも、神秘の神様でもなく、ただの報われない中間管理職だったのである。
「配達ミスです。本来は別の恒星系に届くはずだった願望処理装置の在庫が、荷札の誤植で、この賽銭箱に誤配されました。長らく休眠状態でしたが、先日、規定数を超える『強い願い』が投函されたことで、システムが再起動してしまったのです」
その「強い願い」が、宗吉の願いであることは、誰に言われずとも本人が一番よくわかっていた。
「つまり……あの、2番目に叶う願いというのは」
「はい。あなたのものです。『妻より長生きしない』。これは処理上、あなたの寿命を、奥様の寿命より一日短く再設定する処理として実行されます。実行予定は、明日の正午」
社務所が、しんと静まりかえった。



4章 撤回できない願い
宗吉は膝から崩れ落ちそうになった。冗談のつもりだった。ただの、夫婦漫才のようなぼやきだった。それがまさか、宇宙のどこかの窓口で正式受理されているとは。
「取り消してくれ。あれは本気じゃなかった」
「規定により、受理済みの願望は本人の同意なしには撤回できません。ただし――」
トワ・ダマ所長代理は、老眼鏡の奥の目を、心なしか少し柔らかくした。
「より強い、新しい願いによる上書きは可能です。ただし、上書きできるのは『実行カウントダウンが始まる最後の一分間、そして賽銭箱の前で、心から発せられた本心の言葉』に限られます」
その日から、宗吉は人が変わったようになった。頭上の「2」を気にして、階段を下りるときは手すりを両手で握り、味噌汁をすするときすら「これで喉を詰まらせたら、規定より早く執行されてしまうのでは」と本気で怯えた。
「あんた、さっきから何、味噌汁と睨めっこしてんの」
「いや……この一口が、最後の一口だったらどうしようかと」
「大げさね。まだ処理まで一日あるでしょう」
「一日って言ったって、24時間だぞ。人間、24時間あれば大抵のことが起きる」
「じゃあ黙って味噌汁飲んだら。冷めるでしょうが」
千代はまるで動じていなかった。むしろ、そわそわする宗吉を見て、どこか楽しんでいるようにさえ見えた。
村人たちが、宗吉を取り囲んだ。米屋のフミさんも、電気屋のカズさんも、赤いスポーツカーやモテすぎる猫の余波でまだ興奮冷めやらぬ様子だったが、それでも真剣な顔で宗吉を見た。
「宗吉さん、本当に願いたいことを、もう一回、ちゃんと言いなさいよ」
フミさんの一言に、宗吉は言葉に詰まった。「長生きしたい」だろうか。「妻を守りたい」だろうか。どれも、なんだか違う気がした。
その夜、宗吉は一睡もできないまま、娘から送られてきた孫・陽向の動画を、何度も何度も見返した。生まれたばかりの、しわくちゃで、まだ何もわかっていないはずのその子が、なぜか画面の中で笑っていた。
「陽向にはさ、じいちゃんとばあちゃんが、順番なんか気にせず、ずっと笑ってた、って思ってほしいんだよな」
「今、思いっきり気にしてるじゃない」
「……うるさいな」



5章 正午の願い
翌日の正午、神社の境内には、村中の人間が集まっていた。まるで見世物のようで、実際そうだったのかもしれない。宗吉の頭上の「2」が、じりじりと点滅を始めている。
「実行まで、あと一分」
トワ・ダマ所長代理が、腕時計のような、しかし文字盤が渦を巻いている謎の機械を確認しながら告げた。
宗吉は賽銭箱の前に立った。妻の千代が、隣で不安げに彼の袖を握っている。何か気の利いたことを言わなければ、と思った。長生きの誓いとか、感謝の言葉とか、村中が納得するような立派な台詞を。
だが口から出たのは、そのどれでもなかった。
「――先に、行くなよ」
千代が顔を上げた。
「……私より?」
宗吉は笑った。少し情けなく、それでもはっきりと。
「一緒に、行こう」
賽銭箱が、ごとんと音を立てた。
「今の一言を、新規の願いとして受理してよろしいですか」
「頼む」
トワ・ダマ所長代理が、渦巻く文字盤を指先でくるりと撫でると、頭上の数字たちが、村中いっせいに、ふっと消えた。
「処理完了しました。……なお、これはあくまで個人の見解ですが」
所長代理は、めずらしく人間くさい、疲れたような笑みを浮かべた。
「そもそも、生き物の順番などというものは、我々のような役所仕事の都合で決めるべきものではなかったのかもしれません。地球の古い言葉に、命の順番というものは『順不同』、いや、『五十を越したら順不動』とでも言うべきでしょうか。なかなか、よくできた考え方だと思いますよ」



6章 陽向の産声、それから
装置は、その日のうちに神社から静かに姿を消した。赤いスポーツカーも、モテすぎる猫も、なぜか誰も気に留めなくなった。村の防災無線は、いつも通りの、ゴミの分別についてのアナウンスに戻った。
宗吉と千代は、それから毎週末、娘夫婦の家に通っては、陽向の顔を見に行くようになった。特に何をするでもない。ただ、笑っている赤ん坊を、二人で並んで眺めているだけだ。
「なあ、千代」
「何よ」
「順番のことなんだけどな。もう、どっちが先でもいいわ」
「あら、薄情ね」
「違う。……どっちが先でも、ちゃんと今日を、笑って生きるって決めたんだ」
千代は少し呆れたように笑って、それから宗吉の手を、いつもよりほんの少しだけ強く握った。
神社の賽銭箱は、今日もいつも通り、静かにそこにある。宗吉は相変わらず、月に一度は石段を登り、三つの願いを唱える。
健康。安全。安定。
ただそれだけを、ささやかに願いながら。

了


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あとがき
長年連れ添った夫婦の「どちらが先に逝くか」という問題は、現実では少し切なく、そして誰もが避けては通れないテーマです。「一人残されたくない」「相手に寂しい思いをさせたくない」という思いは、どちらも優しさゆえのエゴなのかもしれません。
本作では、そんな重くなりがちなテーマを、宇宙役所のミスという少しお間抜けなSF要素と、どこか愛くるしい村人たちの日常を通じて、軽やかに、そして温かく描くことを目指しました。
「五十を越したら順不動」――未来の心配や寿命の順番ばかりに囚われず、目の前にある「今日」という一日を大切な人と笑って過ごすこと。宗吉と千代の姿を通して、そんな小さな温もりが読者の皆様に届いていれば幸いです。

言霊引っ越し便


まえがき
世の中には、一度口から飛び出したら二度と取り戻せないものがたくさんあります。
溢したお茶、送信してしまったメッセージ、そして――「言葉」です。
では、私たちが日々つぶやき、叫び、あるいは心の中で呟いて飲み込んだ無数の言葉たちは、空気に溶けて消えたあと、一体どこへ行くのでしょうか。
優しい言葉はふわふわと漂い、冷たい言葉はチクチクと角を立て、そして誰にも回収されなかった悪態や溜め息は、人知れずどこかの倉庫に積もっているのかもしれません。
このお話は、そんな「言葉の行き場」を片付ける、少し変わった引っ越し屋さんと、口の悪さでちょっと人生をこじらせた一人の男の物語です。
どうぞ、肩の力を抜いて、温かいお茶でも飲みながらお付き合いください。
あ、読み終わったあとに「あと五分だけ寝たい」と思っても、それは決してあなたのせいではありません。






第一話 求人票は宙に浮いていた

三軒茶屋の商店街に、鈴木ハジメが目を疑うような貼り紙があった。

「言霊引っ越し便、パート募集。経験不問。ただし口は災いの元、という言葉の意味が分かる方。時給、応相談(前世の徳による)」

貼り紙は電柱の、ちょうど目の高さより十センチほど高いところに、画鋲もなしに浮いていた。風もないのに端がぱたぱたと揺れている。

ハジメは三十四歳、独身、便利屋。仕事といえば蛍光灯の交換と犬の散歩代行くらいで、この半年、口座残高は減る一方だった。

減ったのは口座残高だけではない。ハジメの周りから、人も少しずつ減っていた。依頼主に軽口のつもりで嫌味を言い、二度と呼ばれなくなったことは一度や二度ではない。「別に、間違ったことは言ってない」が口癖だったが、間違っていなくても、人は離れていくものらしい。三年前に別れた妻にも、似たようなことを繰り返した挙句、愛想を尽かされた。口が悪い――それが、履歴書には書けない、ハジメの一番の特技だった。

だから、浮いている貼り紙にも「まあ、ときどきこういうこともあるか」という程度の感想しか持たなかった。人は追い詰められると、奇妙なものへの警戒心を失う。

電話番号の代わりに書かれていたのは、住所ではなく「今、目を閉じて『はい』と言ってください」という指示だった。

ハジメは言った。「はい」

次の瞬間、彼は三軒茶屋ではない場所に立っていた。


第二話 ネギオという上司

そこは薄暗い、古い八百屋のような店だった。木箱が積まれ、土の匂いがする。だが天井を見上げると、そこには空はなく、代わりに無数の小さな光る粒が、まるで金魚のようにゆらゆらと泳いでいた。

「いらっしゃい。面接ですね」

声のした方を見ると、白いひげのような根を生やした、ネギに似た背丈一メートルほどの生き物が、木箱の上に行儀よく座っていた。

「ネギオと申します。この店の店長です。正確には、私はネギではなく、太古の昔に言葉を失った植物の末裔でしてね。ネギに擬態しているだけです。似てるでしょう」

「似てますね……というか、しゃべる野菜に驚くべきなんでしょうけど、今週すでに喋る犬とすれ違ったので、あんまり驚けないんです」

「それは幻覚か疲労だと思いますよ。ともあれ」ネギオは細い葉先で天井を指した。「あの光る粒、あれが言霊です。人間が口にした言葉は、消えるわけじゃない。行き場を失って、あそこに浮かんでいるんです」

ハジメは天井を見上げた。よく見ると、粒にはそれぞれ色と形があった。桃色でふわふわしたもの、灰色で角ばったもの、時折、黒く尖ったものが不機嫌そうに他の粒を突いて回っている。

「優しい言葉は丸くなる。冷たい言葉は尖る。単純な仕組みです」ネギオは言った。「そして、この店の仕事は——迷子になった言霊を、本来あるべき場所へ届けること。つまり、引っ越し屋です」

「植物が、言葉を失ったって、どういうことですか」

「大昔、植物にも言葉があったんですよ。風にそよぐ葉、根を伝う震え、みんな会話でした。それを人間たちが、うっかり全部奪ってしまった。だから今、植物は喋れない代わりに、あなた方の言葉をとてもよく聞いています。優しく話しかけられた鉢植えが元気になるのは、気のせいじゃない。むしろ、あれが本来の会話の名残なんです」

ハジメは黙って頷いた。実家の母が、庭のトマトに毎朝「おはよう、今日も暑いね」と話しかけていたのを思い出した。あのトマトは、近所でも評判なほど甘かった。

「で、時給は前世の徳による、と貼り紙にありましたが」

「冗談です。日給八千円プラス、迷子の言霊一匹につき歩合。まずは倉庫を見てもらいましょうか」

ネギオが店の奥の扉を、細い葉で押し開けた。


第三話 呪い玉

扉の向こうは、倉庫というより廃棄物処理場だった。

うずたかく積もった黒い塊。近づくと、それは無数の小さな尖った粒——黒い言霊——が、団子のように寄り集まったものだと分かった。表面はぬらぬらと脈打ち、時折「チッ」「はあ?」「マジ無理」というくぐもった声が漏れる。

「これは、俗に言う『呪い玉』です」ネギオの声が心なしか小さくなった。「毎日ちょっとずつ吐き捨てられる、悪態、愚痴、陰口。一つ一つは小さくて害もない。でも、誰も回収に来ないから、何十年もここに積もり続けてる」

塊の頂上を見ると、それは倉庫の天井を突き破りそうなほど巨大だった。ビルほどの高さがある。

近づくと、微かに、コンビニの前にたむろする人々のような匂いがした。「これ、なんの匂いですか」とハジメが聞くと、ネギオは真顔で「舌打ちと、深いため息の匂いです」と答えた。匂いにまで説得力があるのが、逆に恐ろしかった。

「まさか、あれを引っ越しさせるんですか、僕たちで」

「いいえ。あれは放っておくと、月に一度、人類がもっとも悪態をつく日——満月の夜、選挙結果の翌朝、月曜の朝の満員電車あたりが有力候補ですが——に、自力で現世に戻ろうとします。戻ってきたらどうなるか、分かりますか」

「分かりません」

「言霊はね、鈴木さん。行き場を失うと、最終的に発した本人のところに帰ってくるんです。あの塊が丸ごと現世に戻れば、この四十年間、日本中の人間が吐いた悪態が、一斉に、当人たちのところへ十倍返しで襲いかかります」

ハジメは想像した。駅のホームで舌打ちしていたサラリーマンが、突然自分の舌打ちの津波に飲まれてうずくまる。SNSで誰かを叩いていた高校生が、自分の暴言に埋もれて動けなくなる。近所の犬に「うるさい」と怒鳴っていた隠居老人が、玄関先で膝から崩れ落ちる。

「地獄絵図じゃないですか」

「はい。しかも見た目がまぬけなんです、これがまた」ネギオはため息をついた。「先月、試しに一部を漏らしてしまいましてね。町内会長さんが、ご自身の『あの嫁は気に入らん』発言の呪い玉に追いかけられて、パジャマ姿で公園を三周する羽目になりました。幸い、誰も本気にしませんでしたが」

想像すると笑えてしまい、ハジメは慌てて口元を押さえた。

「今夜が、その『月に一度』の夜です」ネギオは静かに言った。「手伝ってもらえますか」


第四話 喋る亀、モグ

倉庫の隅、木箱の陰から、のそりと亀が這い出てきた。甲羅に「モグ」と油性ペンで書いてある。

「おい、新入り。遅いぞ」

亀が喋った。ハジメは今度こそ驚いた。

「モグは、小学生の飼い主から一度も悪い言葉をかけられたことがない亀です」ネギオが説明した。「十年間、毎日『おはよう、モグ』『今日も可愛いね』しか言われていない。優しい言霊を浴び続けた生き物は、まれに、自分の言葉を持つようになります」

「うるせえぞネギオ、恥ずかしいから紹介すんな」

「口は悪いですが、根は優しいですよ」

「うるせえっつってんだろ」

モグはそう言いながらも、のそのそとハジメの足元まで来て、丸い目でじっと見上げた。

「なあ新入り。あの黒い団子、どうやって片付けるか知ってるか」

「知りません」

「言葉でしか、崩せねえんだよ」モグは甲羅を軽く揺すった。「あれは悪意でできてる。悪意には悪意をぶつけても、育つだけだ。武器も炎も効かねえ。効くのは——本気の、良い言葉だけだ」

「本気で、あれを褒めろって言うんですか。あの、悪臭を放つ黒い塊を」

「褒めるでも、詫びるでも、いい。要は本気かどうかだ」モグは前足で床をとんとんと叩いた。「本気の言葉は、噓の言葉より重い。重い言葉は、軽い悪意の粒をひとつずつ、ぽろぽろ剥がしていく」

ネギオが付け加えた。「植物が花を咲かせるのと同じ理屈です。褒め言葉、感謝の言葉——本気であれば、相手が黒い塊であっても、必ず何かが変わります」

ハジメは自分の手のひらを見た。便利屋を六年やって、感謝されたことより、舌打ちされたことの方が多かった気がする。人に本気で優しい言葉をかけたのは、いつが最後だっただろう。

「時給八千円で、そこまでやるんですか、僕」

「歩合、忘れないでくださいね」ネギオがにっこりした(ネギに表情筋があるのかは謎だった)。

モグがじろりとハジメを見上げた。「新入り、他人事みたいな顔してるけど、お前も無関係じゃねえぞ」

「なんでですか」

「さっきから軽口ばっかり叩いてるだろ、お前。皮肉とか、嫌味とか。ああいうのも、ちりも積もればあの団子の材料だ。お前の言葉も、あの中のどこかに紛れ込んでるかもしれねえってことだよ」

ハジメは何も言い返せなかった。図星というのは、こんなにも静かに刺さるものかと思った。


第五話 満月の夜、団子と対話する

夜十一時。倉庫の天井が音もなく開き、満月の光が差し込んだ。呪い玉が、ぶるりと震えた。

「来るぞ」モグが低く唸った。

黒い塊がゆっくりと形を変え始めた。丸かった団子が、人の顔のような凹凸を作り、無数の口——数えきれないほどの、悪態を吐いた口の記憶——が、いっせいに開いた。

「うるせえ」「使えねえな」「消えろ」「お前のせいだ」

無数の声が重なり合って、地響きのように倉庫を揺らした。ハジメは思わず後ずさった。

「逃げるな、新入り!」モグが叫んだ。「言え! なんでもいいから、本気の言葉を言え!」

ハジメは足がすくんだ。何を言えばいいのか分からない。褒めろと言われても、目の前にあるのは巨大な悪意の塊だ。かわいいところなど、どこにも見当たらない。

「なんでもいいから叫んでみろ! 褒めろ! ありがたがれ!」モグにせかされ、ハジメはとにかく口を動かした。

「あ、ありがとう! 助かった! ……愛してる!」

「おい新入り、それじゃ結婚式のスピーチだ!」モグが即座に突っ込んだ。「もっと言葉を変えてみろ!」

ハジメは慌てて言い直した。「夢は、叶う! 明日はきっと、良い日になる!」

「今度は自己啓発セミナーだ! お前、言葉の中身がスカスカなんだよ!」

「じゃあ何を言えばいいんですか!」

「具体的に言え、具体的に! 誰に、何を、なんでだよ!」

「具体的にって言われても——」

「誰に何を感謝してんのか、自分で分かってねえだろ、それ! テンプレの感謝を投げてるだけじゃ、あいつには効かねえ!」

言われてみればその通りだった。塊は一瞬ひるんだものの、すぐにまた勢いを取り戻し、口という口から「薄っぺらい」「嘘つけ」という野次が飛んできた。ハジメは自分の言葉のいい加減さを、よりによって呪いの塊本人に見抜かれるという、なんとも情けない状況に立たされた。

そのとき、ふと思い出した。

三年前に別れた妻に、最後に投げつけた言葉。「お前と暮らして、時間を無駄にした」。あの言葉は今、この塊のどこかに紛れ込んでいるかもしれない。自分が吐いた黒い粒が、この巨大な塊の、ほんの一部を作っているかもしれない。

ハジメは大きく息を吸った。

「悪かった!」

塊の動きが、一瞬止まった。

「あの時、本気でそう思ってなかった。ただ、悔しかっただけだ。本当は——一緒にいてくれて、助かってた。ありがとうって、本当は言いたかった」

黒い塊の表面から、ぱらぱらと粒がこぼれ落ちた。落ちた粒は地面に触れる前に、淡い桃色に変わり、小さな光になって消えていった。

「よし、それだ! さっきのスピーチよりよっぽどいい!」モグが叫んだ。

ネギオも葉を大きく広げ、塊に向かって語りかけた。「あなたたちは、誰かが本気で悔しかった時の言葉です。悔しさの裏には、たいてい、大事にしたかった何かがある。私たちは知っています」

塊の口という口が、次第に閉じていった。悪態の代わりに、くぐもった、泣き声のようなものが漏れ始めた。

ハジメは続けた。今度は、思いつく限りの、誰かへの具体的な感謝を口にした。母のトマトへ、モグの飼い主の女の子へ、名前も知らないすれ違った人たちへ、そして自分自身へ。「今まで、よく頑張ったな、俺」。

塊はどんどん小さくなり、最後には、掌に乗るくらいの、小さな種のような塊になった。それは黒くも桃色でもない、透明な、澄んだ色をしていた。

三人(一人と一匹と一本)は、しばらく無言でその種を見つめた。倉庫にはようやく静けさが戻り、満月の光だけが柔らかく差し込んでいた。

――と、そのとき。

種の脇に、粒がひとつだけ、ぽつんと残っているのにハジメが気づいた。灰色の、なんとも締まりのない、丸まった粒だった。

「ネギオさん、これ、消え忘れてません?」

ネギオがその粒に顔(がどこかは不明だが、たぶん顔)を近づけた。粒は少し恥ずかしそうに震えると、小さな声を漏らした。

「……あと五分だけ寝たい」

三人は同時に黙った。

「……誰だよ、これ言ったの」モグが低く唸った。

「日本中の誰か、としか言えません」ネギオが真顔で答えた。「ただ、これに関しては、悪意も何もない、ただの本音ですね。回収の必要はなさそうです」

「片付けなくていいんですか、こんな緊張感のない言霊」

「むしろ、これがあるから人間は次の日も頑張れるんだと思いますよ」

灰色の粒は、誰にも回収されないまま、天井の光る粒の群れの中に、のんびりと泳いで戻っていった。張り詰めていた空気が、その瞬間、盛大に緩んだ。


第六話 種と、次の求人

「見事です」ネギオが小さな種をそっと拾い上げた。「これは、もう呪いではありません。ただの、たくさんの本音です」

「これ、どうするんですか」

「土に還します。植物にも言葉があった頃の話をしたでしょう。この種を蒔けば、来年の春、どこかで綺麗な花が咲きます。誰にも気づかれずに」

翌朝、三軒茶屋の商店街の隅、ひび割れたアスファルトの隙間に、誰も植えた覚えのない小さな双葉が芽吹いていた。通りかかった老婦人が「あら、こんなところに」と、思わず微笑んで水をやった。

ハジメは倉庫の前で、モグと並んで座っていた。

「なあ新入り。来月もまた満月は来るぞ」

「知ってます」ハジメはため息をつきながらも、少し笑った。「でも、今回みたいに大変なのは、たぶんもう起きないですよね」

「起きるさ、絶対」モグは即答した。「人間、毎日どこかで誰かに嫌なこと言ってるからな」

「そうだ、正式に契約を結びましょうか」ネギオが、艶々した一枚の葉を差し出した。「判子は、ヘタのところで押してください」

「葉っぱが契約書なんですか」

「土に還ればいいので、紙より合理的です。あと、印紙税もかかりません」

「それ、たぶん脱税では」

ネギオが電柱に、新しい貼り紙をふわりと浮かべた。

「言霊引っ越し便、正社員登用あり。経験者優遇。ただし、口から出す前に、笑顔で。できれば」

貼り紙の端が、風もないのに、少しだけ嬉しそうに揺れていた。


―― 了 ――


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あとがき
「言霊(ことだま)」という概念は昔からありますが、もしそれが目に見える物理的な物体だったら……と考えたのが、この物語の始まりでした。
私たちは毎日、たくさんの言葉を使って生きています。感謝や愛の言葉と同じくらい、不満や毒づき、情けない本音も吐き出します。それらをすべて「綺麗ごと」で上書きするのは難しいけれど、ほんの少しの「本気」を込めるだけで、言葉は誰かを傷つける刃から、誰かを救う光に変わるのではないか——そんな思いを、喋るネギと頑固な亀に託して描いてみました。
作中にも登場した「あと五分だけ寝たい」という言霊のように、完璧じゃない人間たちの不器用な本音を、少しだけ愛おしく感じていただけたなら幸いです。
今日、あなたが口にする言葉が、どこかで小さな綺麗な花を咲かせますように。



半隠居SOS

――パフ、二度目の散歩――



まえがき
世の中は、ずいぶんと速いスピードで便利になっていきます。
新しいビルが建ち、古い看板が消え、昨日までの風景がいつの間にか思い出に変わっていく。
ついていくだけで少し息が切れてしまうような現代ですが、だからといって、無理に最新の波に乗る必要もないのかもしれません。
本作の主人公・徳蔵は、六十八歳の「半隠居」です。
完全に世間から降りたわけではなく、半分だけ足を突っ込んだまま、今日も縁側で茶をすすり、愛犬(の形をした何か)と散歩に出かけます。
歳を取るのも、街が変わるのも止めることはできません。
けれど、変わっていく時代を前に「やれやれ」と苦笑いしながら歩く時間は、案外悪くないものです。
このお話は、少しおかしな宇宙人と、型落ちのロボット犬、そして人生の半分を隠居したおじいさんたちの、ちいさな抵抗の記録です。
お茶でも飲みながら、肩の力を抜いてお付き合いいただければ幸いです。




序章 広場が老人ホームになった日

徳蔵、六十八歳。

自称「半隠居」。

完全な隠居ではない。

朝は七時に起きる。
新聞を読む。
茶を飲む。
近所を散歩する。
昼寝をする。
たまに頼まれれば、昔の仕事仲間の手伝いをする。

つまり、ほぼ隠居である。

「半」というところだけが、徳蔵の最後のプライドだった。

その朝も徳蔵は、縁側で茶をすすっていた。

目の前には、つい先週まで広場があった。

子どもがサッカーをしていた場所だ。

その前は駐車場だった。

その前は空き地。

さらにその前は、徳蔵が子どものころ、紙飛行機を飛ばしていた。

ところが――。

「……なんじゃ、これ」

広場がなくなっていた。

代わりに巨大な建物が建っている。

看板には、

特別養護老人ホーム ひかりの杜

と書いてある。

「カミさん」

「なんね」

「昨日まで、ここ広場だったよな」

「そうだったね」

「今日、老人ホームになっとる」

「そうね」

「工事、何日だった?」

よし江は洗濯物を畳みながら答えた。

「四日」

「四日?」

「四日」

「鉄骨は?」

「知らん」

「基礎工事は?」

「知らん」

「地鎮祭は?」

「知らん」

「入居者は?」

「もう歩いとる」

徳蔵は湯呑みを置いた。

「おかしいだろ!」

すると老人ホームの前を、妙に姿勢のいい男が歩いていった。

日焼けしていない。

歯が白い。

そして、歩く速度が異様に速い。

「カミさん」

「今度は何」

「あいつ、歩いてるんじゃない」

「じゃあ何してるの」

「地面を測っとる」

「測量士でしょ」

「違う」

「何が」

「歯が三十六本ある」

よし江が振り返った。

「……あんた、何本あるの」

「三十二」

「じゃあ負けてるね」

「そういう問題じゃない」

男の名刺には、

株式会社ミライ・エステート
地球第七支店

と書かれていた。

徳蔵は眉をひそめた。

「地球第七支店……」

「何か問題?」

「第六支店までは、どこにあるんだ」

「知らん」

「宇宙だろ」

「なんで?」

「普通、不動産会社が地球第七支店なんて名乗るか」

よし江は少し考えて、

「最近の不動産屋は何でもありだからねえ」

と言った。

徳蔵は、この時点でかなり嫌な予感がしていた。

そして、その予感は当たった。

しかも、ものすごく当たった。



第一章 謎の測量士

「ご主人、少々よろしいでしょうか」

例の男が縁側まで来た。

名刺を差し出す。

「ゾロリ・T・スガシマと申します」

「ゾロリ?」

「はい」

「本名?」

「本名です」

「親、何考えてたんだ」

「私も幼少期から疑問でした」

ゾロリはにっこり笑った。

歯が三十六本。

徳蔵は数え直した。

やっぱり三十六本。

「このあたり一帯を、近々『昭和ノスタルジー・リゾート』として再開発する予定でございます」

「昭和ノスタルジー?」

「はい」

「何に使う」

「宇宙観光です」

「……は?」

ゾロリはパンフレットを開いた。

そこには、シャッター商店街、古い公園、錆びた自転車、取り壊し寸前の木造家屋などの写真が並んでいる。

「地球外のお客様に大人気なのです」

「こんなもんが?」

「特にこの『営業していない店』」

ゾロリがシャッター商店街を指差した。

「宇宙では非常に高評価です」

「なんで」

「開いているのに入れない店より、最初から開いていない店のほうが、郷愁を刺激するからです」

「意味が分からん」

「こちらの公園も人気です」

「ただの公園だぞ」

「遊具が撤去されている」

「それが?」

「『何かがなくなった』という感情を宇宙人は好みます」

徳蔵は絶句した。

「お前ら、何でも商売にするな」

「ありがとうございます」

「褒めてない」

ゾロリは笑った。

「なお、お客様の記憶そのものを買い取るわけではありません」

「じゃあ何を買う」

「風景です」

「風景?」

「お客様が見ていた風景を、そっくり保存して宇宙の高級リゾートで再現するのです」

徳蔵の顔が険しくなる。

「俺たちの町を、金持ち宇宙人の観光地にするのか」

「はい」

「いくらだ」

「ゼロ円です」

「……」

「もう皆様、不便なものを手放したがっていらっしゃいますから」

徳蔵は黙った。

そこだけは、否定できなかった。




第二章 パフ、帰還する

その夜。

物置から、

ガチャ。

という音がした。

徳蔵は懐中電灯を持って立ち上がった。

「猫か?」

ガチャ。

「狸か?」

ガチャガチャ。

「泥棒か?」

すると物置の扉が、

ウィーン。

と開いた。

そこにいたのは――。

犬だった。

柴犬の雑種。

茶色い毛。

垂れた耳。

そして――赤く光る目。

徳蔵は固まった。

「……パフ?」

四年前に死んだ愛犬。

間違いなく、パフだった。

いや。

パフに似た何かだった。

犬が口を開いた。

「飼い主様、お久しぶりです」

徳蔵は三秒黙った。

「……喋った」

「はい」

「犬が?」

「はい」

「なんで?」

「私も知りません」

「お前、パフか?」

「正確にはパフ二号です」

「二号?」

「旧型機です」

「一号は?」

「初代パフは四年前に亡くなっています」

「知っとるわ!」

「申し訳ありません」

「いや、そこじゃない!」

パフ二号は頭を下げた。

「ミライ・エステート社の試作品です。近隣の犬の鳴き声、歩行パターン、飼い主との交流履歴などを統合した結果、最も『懐かしい犬』として選ばれた個体が私です」

徳蔵は目を潤ませた。

「パフ……」

機械犬が尻尾を振る。

「ただし」

「なんだ」

「バッテリー残量は、あと三日です」

「そこは型落ちすんな!」

「申し訳ありません」

「充電器は?」

「ありません」

「会社は?」

「返品期限が切れています」

「なんで犬に返品期限があるんだ!」

「家電製品扱いだからです」

「俺の犬を家電にするな!」

パフは少し考えた。

「では、ペット家電ということで」

「余計腹立つわ!」




第三章 昭和ポケット

翌朝。

徳蔵はパフを連れて散歩に出た。

「パフ」

「はい」

「本当に俺の犬なのか」

「データ上は、そうとも言えます」

「データ上じゃなくてな」

徳蔵は歩きながら、古い商店街を見た。

シャッター。

空き店舗。

剥がれた看板。

錆びた自転車。

昔は人でいっぱいだった。

そのときパフが立ち止まった。

「飼い主様」

「なんだ」

「ここ、変です」

「何が」

「時空の解像度が甘いです」

「犬に時空の解像度が分かるのか」

「旧型ですから」

「関係あるか?」

「ありません」

商店街の奥。

そこには、もう何十年も前になくなったはずの金物店があった。

まるふく金物店。

看板だけが、ぼんやり光っている。

「ここ……」

徳蔵は息を呑んだ。

「昔、あった」

パフが言った。

「昭和ポケットです」

「なんだそれ」

「ミライ・エステート社が風景を回収するとき、どうしても回収できない場所です」

「なぜ」

「思い出が強すぎるからです」

徳蔵がシャッターに触れた。

すると――。

中から声がした。

「徳ちゃん、釘いるか?」

徳蔵の顔が変わった。

昔の店主だった。

もう亡くなっている。

徳蔵は笑った。

「……まだ、いるんだな」

パフが横で言った。

「飼い主様、涙腺センサーが急上昇しています」

「黙れ」

「泣きますか?」

「黙れ」

「泣いても大丈夫です」

「黙れ!」

「はい」

パフは静かになった。

三秒後。

「ちなみに私には涙腺がありません」

「お前は本当に空気が読めんな!」




第四章 宇宙一しょぼい悪徳不動産屋

その日の午後。

徳蔵の家に、派手な男が現れた。

金色のスーツ。

金色の靴。

金色の眼鏡。

名刺には、

株式会社ミライ・エステート
地球担当エグゼクティブ
金剛дракон・八郎兵衛

とある。

「読めん」

「私も読めません」

「じゃあ、なんで名刺にした」

「宇宙的威厳です」

「威厳より読みやすさを考えろ」

八郎兵衛は咳払いした。

「私は、この地域の再開発責任者です」

「町を消すのか」

「消すのではありません」

「じゃあ?」

「高級化します」

「どうやって」

「シャッター商店街を保存します」

「ほう」

「ただし」

八郎兵衛は指を一本立てた。

「現物は宇宙に持っていきます」

「保存じゃねえ!」

「精巧なレプリカを置きます」

「もっと駄目だ!」

「本物そっくりです」

「偽物だろ!」

「本物より本物らしく作ります」

「意味が分からん!」

八郎兵衛は胸を張った。

「これが未来です」

パフが徳蔵の耳元で言った。

「飼い主様」

「なんだ」

「この人、悪役としてはかなり小物です」

「聞こえてるぞ!」

「失礼しました」

「口に出すな!」

八郎兵衛は怒った。

「とにかく、明日の午前零時に最終回収を行います!」

「嫌だと言ったら?」

「困ります」

「お前が?」

「はい。今月の営業成績が足りません」

「知らんがな」

「あと二件なんです!」

「もっと知らん!」

八郎兵衛は泣きそうな顔をした。

「これ失敗すると、火星支店に飛ばされるんです!」

「左遷か」

「はい」

「どこが地球より遠いんだ」

「精神的にです」

徳蔵は呆れた。

「宇宙企業も大変じゃな」




第五章 縁切りアプリ「バッサリ」

その夜。

徳蔵のスマホに見知らぬアプリが入っていた。

アイコンは包丁。

名前は、

バッサリ

「パフ」

「はい」

「これ、お前の会社か?」

「副産物です」

「何の?」

「人間関係削減システム」

徳蔵が開く。

画面に人の名前が並んだ。

町内会長。

元上司。

保険屋。

遠い親戚。

昔の同級生。

そして、

元嫁の妹の旦那の従兄弟

徳蔵は眉をひそめた。

「なんでこんな人まで知ってるんだ」

「宇宙企業は個人情報に強いのです」

「怖いわ!」

名前の横には数字があった。

町内会長 +12%
保険屋 +31%
元上司 +84%
遠い親戚 +17%

「何の数字だ」

「削除すると人生が軽くなる割合です」

「元上司、八十四って……」

「かなり負担だったようですね」

徳蔵は迷わずスワイプした。

バッサリ。

「おお」

元上司が消えた。

「軽くなった気がする」

「気のせいです」

「夢を壊すな」

次に町内会長。

バッサリ。

保険屋。

バッサリ。

遠い親戚。

バッサリ。

徳蔵は調子に乗った。

「じゃあ、こいつも」

そして画面に、

よし江

と出た。

徳蔵は固まった。

「……」

スワイプ。

動かない。

もう一度。

動かない。

三度。

動かない。

「パフ」

「はい」

「壊れた」

「いいえ」

「なんで消えん」

「削除不能です」

「なんで」

「宇宙標準仕様です」

「説明しろ」

「本当に大切な人間は削除できません」

徳蔵は黙った。

そこへ、よし江が入ってきた。

「何してんの」

「何でもない」

「スマホ見せて」

「嫌だ」

「なんで」

「……俺にもプライバシーがある」

よし江がスマホを見る。

「私を削除しようとしたの?」

「いや、その、試しに」

よし江は笑った。

「やってみ」

「え?」

「削除できるなら、やってみ」

徳蔵は画面を見た。

何度スワイプしても、

削除できません

と表示される。

よし江は笑った。

「残念だったね」

「……うむ」

パフが言った。

「飼い主様」

「なんだ」

「愛情とは、システム障害の一種かもしれません」

「お前、たまにいいこと言うな」

「人工知能ですから」

「さっきまで犬だったろ」




第六章 ご同輩、集結

翌朝。

徳蔵は仲間を集めた。

隣の甚兵衛。

元教師の松田。

乾物屋の婆さん、梅子。

釣り仲間の源さん。

そして徳蔵。

五人。

平均年齢、七十二歳。

そこにパフ。

「以上、老人五名と犬一匹です」

パフが報告した。

「言い方!」

「事実です」

「もっと勇ましく言え」

「高齢者五名と旧型ロボット犬一体」

「悪化した!」

梅子が言った。

「で、どうするんだい」

徳蔵は立ち上がった。

「町を守る」

甚兵衛が頷いた。

「いいねえ」

松田も腕を組んだ。

「わしらが育った町だ」

源さんが言った。

「簡単に売られてたまるか」

梅子が言った。

「で、具体的な作戦は?」

徳蔵は黙った。

パフが答えた。

「ありません」

「お前が言うな!」

「作戦会議開始から二十七分経過しましたが、誰も具体策を提示していません」

「お前は何かないのか」

「あります」

「言え」

「逃げる」

「却下!」

「では、戦う」

「どうやって」

「それもありません」

梅子が笑った。

「なんだい、これ」

甚兵衛が言った。

「老人戦隊じゃ」

徳蔵が食いついた。

「それだ!」

「名前は?」

「ご同輩レンジャー!」

パフが首を傾げた。

「五人とも同じ色に見えます」

「老人に色分けはいらん!」

「視力低下を考慮すると、そのほうが合理的です」

「お前、戦隊向いてない!」

そのときパフが突然立ち上がった。

「昭和ポケット、残り十七か所」

全員が静かになった。

「それを全部、回収される前に確認できれば?」

徳蔵が言った。

「町の記憶を、町の中に残せる」

梅子が頷く。

「やろう」

甚兵衛も立ち上がった。

「久しぶりに、走るか」

パフが言った。

「平均年齢七十二歳です」

「だからなんだ」

「転倒確率が高いです」

「うるさい!」

五人と一匹は歩き出した。

半分隠居している老人たちの、人生で一番無謀な散歩が始まった。




第七章 老人五人、宇宙企業に突撃する

午前零時。

シャッター商店街に巨大な装置が現れた。

見た目は――。

ショッピングモールだった。

徳蔵は呆れた。

「宇宙企業の最終兵器が、ショッピングモールか」

パフが答えた。

「買い物好きだからでは?」

「知らん」

八郎兵衛が壇上に立った。

「さあ、これより最終回収を開始します!」

「待て!」

徳蔵たちが現れた。

八郎兵衛が驚く。

「な、なんですか、あなたたちは!」

「ご同輩レンジャーじゃ!」

「五人とも老人じゃないですか!」

「そうだ!」

「戦えるんですか?」

「……」

徳蔵が小声で言った。

「パフ」

「はい」

「戦えると思うか」

「いいえ」

「即答するな!」

八郎兵衛が笑った。

「そんな人数で私たちに勝てると思っているのですか!」

徳蔵はスマホを取り出した。

「勝てるかどうかは知らん」

「何をする!」

「縁を切る」

バッサリ。

甚兵衛もスマホを出す。

バッサリ。

松田。

バッサリ。

源さん。

バッサリ。

梅子。

バッサリ。

すると――。

八郎兵衛の身体が、

ブルブルブルブル……

と震え始めた。

「な、なんだこれは!」

パフが説明した。

「ミライ・エステート社は、顧客との『郷愁契約』で成立しています」

「それが?」

「買う側が、買われることを拒否すると契約が成立しません」

八郎兵衛が青ざめる。

「そんな馬鹿な!」

梅子が言った。

「馬鹿なのは、あんたらだよ」

甚兵衛が笑う。

「俺たちの町を勝手に商品にしといて」

松田が続ける。

「思い出は売り物じゃない」

源さんが言った。

「釣り場もな」

徳蔵が最後に言った。

「それに――」

八郎兵衛を見る。

「俺たちは、まだ生きとる」

その瞬間。

八郎兵衛の身体が、

ポン!

と縮んだ。

「うわああああ!」

金色のスーツがどんどん小さくなる。

「待ってください!」

「嫌だ!」

「私には住宅ローンが!」

「宇宙人でも住宅ローンあるのか!」

「ありますよ!」

「知らん!」

八郎兵衛はさらに縮む。

「私は地球担当なんですよ!」

「だったら地球を大事にしろ!」

「営業成績が!」

「知るか!」

「火星に飛ばされる!」

「行ってこい!」

最後に八郎兵衛は、

ポン!

という音とともに、豆粒ほどになった。

パフが見下ろす。

「飼い主様」

「なんだ」

「今のは勝利ですか?」

「たぶんな」

「理由は?」

徳蔵は笑った。

「五人の老人が、最後まで面倒くさかったからじゃ」

「それは確かに強いです」

その直後。

巨大ショッピングモール型回収装置が、

ピピピピピ……

と鳴った。

「まずいです」

パフが言った。

「爆発するのか?」

「違います」

「じゃあ何だ」

「閉店時間です」

「宇宙企業の装置に閉店時間があるのか!」

「商業施設ですから」

「最後までそれか!」




終章 パフ、二度目の散歩

翌朝。

広場だった場所には、公民館が建っていた。

老人ホームは消えている。

ショッピングモールもない。

ゾロリもいない。

八郎兵衛もいない。

ただ、商店街のところどころに「昭和ポケット」が残っていた。

まるふく金物店。

昔の駄菓子屋。

消えた銭湯。

古い喫茶店。

誰かの記憶が、まだ小さく光っている。

徳蔵は縁側に座っていた。

隣にはパフ。

「バッテリーは?」

「満タンです」

「なんで」

「昭和ポケット認定を受けたためです」

「お前、もう型落ちじゃないのか?」

「型落ちです」

「じゃあ、なんで動く」

「型落ちだからです」

「意味が分からん」

パフが尻尾を振った。

「最新型には、散歩機能がありません」

「そんな馬鹿な」

「本当です」

「何のための犬だ」

「効率化です」

徳蔵は笑った。

よし江が茶を持ってきた。

「パフ、散歩行く?」

「はい」

徳蔵も立ち上がる。

「俺も行く」

よし江が笑った。

「半隠居なのに?」

「今日は休みだ」

「毎日休みじゃないの」

「半分だから」

「何が半分なの」

「気持ちが」

よし江は呆れた顔をした。

パフが玄関で待っている。

徳蔵は靴を履いた。

「行くか、パフ」

「はい、飼い主様」

二人と一匹が歩き出す。

商店街の角で、甚兵衛が手を振った。

梅子もいた。

松田もいる。

源さんもいる。

誰も急いでいない。

誰も何かを売ろうとしていない。

ただ、そこにいる。

徳蔵は歩きながら言った。

「なあ、パフ」

「はい」

「俺たち、結局、何を守ったんじゃろうな」

パフは少し考えた。

「町ではありません」

「じゃあ?」

「散歩する理由です」

徳蔵は立ち止まった。

そして笑った。

「……なるほどな」

パフの金属製の尻尾が、カタカタと揺れた。

「飼い主様」

「なんだ」

「二度目の散歩です」

「一度目は?」

「初代パフと歩いた散歩です」

徳蔵は空を見上げた。

少しだけ寂しかった。

でも、今日は寂しくない。

隣には型落ちの犬がいる。

前には、ご同輩がいる。

そして、この町にはまだ、消えずに残っているものがある。

便利になった町。

古くなった町。

笑われる町。

忘れられかけた町。

それでも――。

誰かが歩けば、町はまだ町だった。

徳蔵はパフの頭を撫でた。

「じゃあ、もう一周するか」

「はい」

「今度はゆっくりな」

「了解しました」

二人と一匹は、また歩き始めた。

その後ろから、梅子の声が飛んできた。

「徳蔵! 昼飯までには戻ってきなよ!」

徳蔵が振り返る。

「分かっとる!」

パフが言った。

「飼い主様」

「なんだ」

「現在時刻、午前九時三十二分です」

「なんだ?」

「昼飯まで、まだ二時間二十八分あります」

「だから?」

「寄り道できます」

徳蔵は笑った。

「……お前、だんだん悪い犬になってきたな」

「飼い主様の影響です」

「そうか」

「はい」

「じゃあ、もう一軒寄るか」

「はい」

こうして、

半分隠居した老人と、

完全に型落ちしたロボット犬と、

平均年齢七十二歳のご同輩たちによる、

どうでもいいようで、本人たちには大事な毎日が始まった。

宇宙企業は帰った。

昭和は戻らない。

町も、昔のままではない。

それでも――。

散歩は、二度目からが面白い。

了

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あとがき
年を取ると、「もう自分の出番はないのかもしれない」とふと思ってしまう瞬間があります。
街は見たこともないような姿に変わり、思い出の場所は次々と消え、世の中のルールはどんどん新しくなっていく。
けれど、人生の現役を引退することはできても、好奇心や「おもしろがる心」まで引退する必要はありません。
徳蔵は「半分だけ」隠居しています。
諦めたフリをしながら、残り半分ではまだしっかりと自分の足で立ち、可笑しな日常を楽しんでいます。人間はきっと、何歳になってもそれでいいのだと思います。
もしも散歩の途中で、ちょっと型落ちしたロボット犬や、時代の波に取り残された「昭和のポケット」を見かけたら――。
ぜひ足を止めて、一緒にゆっくり歩いてみてください。
最新のスピードについていく散歩もいいですが、少し立ち止まったり寄り道したりする二度目の散歩のほうが、案外、味わい深いものかもしれません。
ご同輩。
明日も一緒に、のんびりと年寄りになりましょう。



あと3日

――世界線のシャッター――




まえがき

写真とは、光の記憶であると同時に、「選ばれなかった時間」の記録でもあるのかもしれません。

人生には、どれほど切望しても、手からこぼれ落ちてしまう「三日間」があります。

もう少しだけ時間があれば。
もう少しだけ素直になれていれば。

そんな思いを抱えたまま、私たちは大人になり、いつしか諦めることを覚えていきます。

この物語は、過去の影を追いかけ続けた一人の男が、閉ざされたシャッターの向こう側にあった「温かな光」に気づくまでの、ささやかな旅路です。

あなたの押し入れの奥にも、まだ現像されていない「あの日のフィルム」が眠っていませんか。

この物語が、あなたの止まっていた時間を、ほんの少しだけ動かすきっかけになれば幸いです。




序章 現像されない写真

写真には、写ってしまうものと、写らないものがある。

涼介は、いつもそう思っていた。

カメラは光を写す機械のはずなのに、ときどき、光ではない何かまで一緒に写り込む。

たとえば、もう二度と会えない誰かの、まだ何も知らない笑顔とか。

彼のアパートの押し入れには、現像していないフィルムが三本、封も切らずに眠っていた。

それぞれに、小さなラベルが貼ってある。

「新島」
「奥志賀」
「北アルプス」

もう十年以上前のものだ。

今さら現像しても、きっと色褪せているだろう。

それでも涼介は、そのフィルムを捨てられずにいた。

捨ててしまえば、あの三日間が――いや、正確には、あの三度の「三日間」が――本当になかったことになる気がした。

その夜、涼介は珍しく、押し入れの奥から三本のフィルムを取り出した。

窓は少し開いていた。

夜の街から、遠く工事現場の音が聞こえてくる。

金属と金属が触れ合うような、高く乾いた音だった。

カシャ。

カシャ。

カシャ。

三回。

まるで、何かの扉が重く閉まる合図のようだった。

涼介は、フィルムを握ったまま動けなかった。

⸻

第一話 新島、あの夏

二十二歳の夏。

涼介は、写真部の合宿で新島にいた。

出会ったのは、民宿の食堂だった。

彼女は美咲といった。

隣の女子大のサークルで来ていたらしい。

日焼けした健康的な肩。
笑うと少しだけ覗く八重歯。

初めて会った夜、二人は食堂の隅で、なぜか長い時間話をした。

好きな写真のこと。

大学のこと。

東京に戻ったら何をするか。

そして、波の音が聞こえる浜辺まで歩いた。

美咲は、寄せては返す白い泡を見つめながら言った。

「あと三日しかいないんだよね、私たち」

涼介は、

「そうだね」

としか言えなかった。

まだ何も始まっていないのに、終わりの数字だけが先に決まっている。

それが妙に息苦しくて、でも同時に、その限られた時間が二人を近づけているようでもあった。

二日目。

二人は誰にも言わずに岬まで歩いた。

太平洋の水平線に夕日が沈んでいく。

何かを言おうとして、涼介は何度も口を開きかけた。

けれど、そのたびに言葉を飲み込んだ。

――あと二日ある。

まだ焦る必要はない。

そう自分に言い聞かせていた。

三日目の朝。

涼介はファインダーを覗いた。

美咲が振り返った。

その瞬間、指に力を込めた。

カシャ。

シャッター音が、潮風の中でやけに大きく、硬く響いた。

涼介は、その音を聞いて一瞬だけ顔を上げた。

どこかで、何かが閉じたような気がした。

けれど、それが何なのか、そのときの彼には分からなかった。

その日の午後、台風の接近によって、美咲のサークルが乗る船の出航が早まった。

慌ただしい桟橋。

荷物を抱えた人々。

風に煽られる髪。

美咲は船に乗る直前、涼介に大きく手を振った。

「東京に戻ったら、連絡先交換すればよかったね!」

笑って言った。

涼介も手を振った。

けれど、その場で追いかけることはできなかった。

船が離れていく。

白い航跡が、夕方の海に伸びていく。

名字も。

大学も。

連絡先も。

何も知らないままだった。

あと三日あれば。

いや――正確には。

あと、半日あれば。

涼介は、その夏以来、ずっとそう思い続けている。

⸻

第二話 奥志賀、あの冬

二十六歳の冬。

涼介は、日常の忙しない仕事の疲れを癒すため、一人で奥志賀のスキー場へ来ていた。

宿で同じ部屋になったのが、由紀だった。

彼女はスキーのインストラクターで、三日間だけこの宿に詰める契約だという。

「代打なんです。本当は別の人が来るはずだったんですけど」

由紀は、そう言って屈託なく笑った。

新島の夏から、四年が経っていた。

涼介はもう、あの頃の不器用な焦りを忘れたつもりでいた。

一日目。

由紀は涼介に、初心者向けのきれいなフォームを教えてくれた。

何度も雪に突っ込む涼介を見て、彼女は声を上げて笑った。

二日目。

二人はナイター営業のゲレンデを並んで滑った。

人の少ない斜面。

静かな雪。

頭上には、驚くほど近く感じられる星空。

吐く息は、どこまでも白かった。

その夜。

部屋の窓から外を眺めていた涼介は、ゲレンデの点検用照明が一定の間隔で明滅していることに気づいた。

その直後だった。

カシャ。

カシャ。

カシャ。

雪を踏みしめるような、金属が噛み合うような音が三度響いた。

「何の音?」

涼介が尋ねると、由紀は湯飲みを両手で包みながら笑った。

「昔からあるんです、あの音」

「知ってるの?」

「この辺の人は、みんな一度くらい聞いたことがあるって言います。でも、誰も気にしてないみたい」

由紀は窓の外を見た。

「不思議ですよね」

その横顔を見て、涼介は胸の奥に小さな違和感を覚えた。

三日目。

涼介は、ようやく決心した。

新島のときとは違う。

今度こそ言おう。

「東京に戻ったら、また会えないかな」

その言葉を、口に出そうとした。

しかし、その瞬間だった。

由紀の携帯電話が鳴った。

他県のスキー場からだった。

インストラクターの本採用が、急遽繰り上がったという。

今日中に移動してほしい。

由紀は電話を切ると、しばらく黙っていた。

「……行かなきゃ」

「今日?」

「うん」

ロビーで荷物をまとめる由紀の瞳は、少し潤んでいた。

涼介は何度も言葉を探した。

けれど、結局、

「気をつけて」

としか言えなかった。

タクシーに乗り込む直前、由紀が振り返った。

「涼介さん」

「ん?」

「また、どこかで会えたらいいですね」

涼介は頷いた。

車が雪道を走り去る。

その瞬間、四年前の新島の桟橋が、脳裏に重なった。

そして、遠くで――

カシャ。

音がした。

あと三日あれば。

いや。

あと数時間あれば。

二度目だった。

⸻

第三話 北アルプスの山小屋

三十歳を過ぎた頃、涼介は、誰かと深く関わることに臆病になっていた。

仕事は落ち着き、写真は単なる静かな趣味になっていた。

その年の夏、北アルプスを縦走しようと決めたのは、ただ純粋に、雄大な山々をフレームに収めたかったからだ。

人との出会いなど、かけらも期待していなかった。

山小屋で相部屋になったのが、彼女だった。

名前は、最後まで聞かなかった。

彼女は単独行だった。

涼介と同じ稜線を三日かけて歩く予定だったらしい。

ところが、突然の悪天候で山は閉ざされた。

二人は、山小屋の中で三日間を過ごすことになった。

一日目の夜。

ランプの仄かな光の下で、彼女は涼介のカメラを見た。

「写真、好きなんですね」

「昔から」

「何を撮るんですか?」

「人より、風景が多いかな」

「どうして?」

涼介は少し考えた。

「風景は、逃げないから」

彼女は笑った。

「でも、人が写っている写真もありますよね」

そう言われて、涼介は押し入れに眠る三本のフィルムのことを話した。

新島。

奥志賀。

そして、この山。

「どうして現像しないんですか?」

「怖いんだと思います」

「何が?」

「現像してしまったら、何かが完全に終わってしまう気がして」

彼女は、しばらく黙っていた。

やがて、雨音に混じるような声で言った。

「私にもありますよ」

「何が?」

「開けられないままの手紙とか。そのまま消せない録音とか」

彼女は笑わなかった。

二日目。

雨は降り続いた。

二人は軒先に並んで座り、山のこと、カメラのこと、そして過去のことを少しずつ話した。

涼介は、新島の美咲のことを話した。

奥志賀の由紀のことも話した。

今まで誰にも話したことのなかった記憶だった。

彼女は一度も口を挟まずに聞いていた。

そして、しばらくして言った。

「そのシャッターの音……」

涼介は顔を上げた。

「私にも、聞こえたことがあります」

「どこで?」

彼女は答えなかった。

ただ、雨の向こうを見ていた。

「たぶん、あれは音じゃないんですよ」

「じゃあ、何?」

「……分かりません」

その言い方が、妙に寂しかった。

三日目の朝。

嘘のように雲が切れ、眩しい朝日が山を照らした。

彼女は先に出発するという。

稜線の分岐点で、二人の道は分かれる。

涼介はザックのベルトを締め直した。

今度こそ。

今度こそ名前を聞こう。

今度こそ連絡先を交換しよう。

次の約束をしよう。

分岐点に立つ。

彼女が振り返った。

朝日を背にしたシルエットが、強い逆光の中に浮かんでいた。

その瞬間だった。

涼介の胸元に下げていた一眼レフが、誰にも触れられていないのに、小さくレンズを駆動させた。

カシャ。

シャッターが切れた。

涼介は凍りついた。

彼女も、足を止めた。

二人の間に、短い沈黙が落ちた。

彼女は涼介を見つめた。

そして、なぜか少しだけ寂しそうに笑った。

「……じゃあ、お元気で」

「待って!」

涼介が声を上げた。

彼女は立ち止まった。

けれど、振り返らなかった。

「名前――」

そこまで言ったとき、山から強い風が吹き抜けた。

声は風にさらわれた。

彼女は、そのまま別の稜線へ歩き出した。

涼介は追わなかった。

追えなかった。

やがて、その姿は岩陰に消えた。

残された涼介は、一人で立ち尽くしていた。

そして思った。

まただ。

また、間に合わなかった。

⸻

第四話 世界線のシャッター

その日の夕刻。

山小屋に戻った涼介は、囲炉裏の前に座っていた。

三度目だった。

新島。

奥志賀。

そして、今朝。

どれも三日間。

どれも最後に、シャッターの音がした。

「……あんた」

声に顔を上げると、山小屋の古参らしい老人がこちらを見ていた。

「今朝、あの音を聞いたな」

涼介の背中に、冷たいものが走った。

「知ってるんですか?」

老人は火箸で炭をつついた。

「知っているというほどのものじゃない。昔から、そういう話があるだけだ」

「どんな話です?」

老人はしばらく黙っていた。

やがて、静かに言った。

「世界線のシャッター」

聞き慣れない言葉だった。

「人と人が出会うと、いくつもの可能性が生まれる」

老人は炭を見つめたまま続けた。

「一緒に帰るかもしれない。別れるかもしれない。友達になるかもしれない。恋人になるかもしれない。二度と会わないかもしれない」

「……はい」

「その可能性が、ある瞬間に一つへ絞られることがある」

老人は指を軽く鳴らした。

ぱちん。

「それを昔の人は、シャッターが閉じる、と呼んだ」

涼介は息を呑んだ。

「じゃあ、あの音は……」

「境目だ」

「三日で閉じるんですか?」

老人は首を振った。

「三日である理由なんてない。一日の人間もいる。十年続く人間だっている」

「じゃあ、なぜ僕は……」

「お前が、三日目まで何もしなかったからだろう」

その言葉が、胸に刺さった。

老人は続けた。

「シャッターは運命じゃない」

「え?」

「警告みたいなものだ。閉じる前には、たいてい音がする。だが、聞いたからといって必ず閉じるわけじゃない」

涼介は黙っていた。

「自分で動けば、開いたままになることもある」

「……僕は、動かなかった」

「そういうことだ」

老人は笑った。

「人間は不思議なもんだ。失うのが怖くて、何もしない。何もしなかった結果、失ってしまう」

涼介は俯いた。

新島。

美咲。

奥志賀。

由紀。

そして今朝の彼女。

全部、自分だった。

何かが起こるのを待っていた。

相手が一歩踏み出してくれるのを待っていた。

傷つかずに済む方法を探しているうちに、時間だけが過ぎていた。

「後悔してるのか」

老人が聞いた。

涼介は胸に手を当てた。

「……後悔とは、少し違う気がします」

「ほう」

「何というか……まだ何かが終わっていないんです」

涼介は顔を上げた。

「閉ざされたシャッターの向こう側を、ずっと覗き込んでいるような」

老人は目を細めた。

「それでいい」

「え?」

「本当の後悔ってのは、過去に戻ろうとすることだ」

老人は静かに言った。

「だが、お前が今感じているものは違う。過去をやり直したいんじゃない。次はどうするかを考え始めている」

囲炉裏の炭が、小さく爆ぜた。

ぱちっ。

涼介は、その音を聞いていた。

今度は、シャッターの音には聞こえなかった。

「人間にはな」

老人が言った。

「何度でも、次の写真を撮ることができる」

⸻

終章 現像

東京に戻った涼介は、その夜、十年以上抱え続けてきた三本のフィルムを手に、街の古い写真店を訪れた。

「珍しいですね」

老店主がフィルムを受け取りながら言った。

「こんな古いフィルムを、一度に三本も」

涼介は笑った。

「ずっと現像できなかったんです」

「どうして?」

少しだけ考えてから、涼介は答えた。

「怖かったんだと思います」

店主は何も聞かなかった。

ただ、

「分かりました」

と言った。

一週間後。

涼介は、仕上がった写真の束を受け取った。

新島の青い海。

その海辺で笑う美咲。

奥志賀の濃密な雪景色。

その中で笑う由紀。

そして――

北アルプスの稜線。

涼介は、一枚ずつ写真をめくっていった。

最後の一枚。

そこには、あの朝の彼女が写っていた。

逆光の中に立つ、彼女のシルエット。

背景は強い光で霞んでいる。

それなのに、彼女の表情だけが、不思議なほど鮮明だった。

穏やかな笑顔。

涼介は息を呑んだ。

あの三日間の中で、彼女が見せたことのない表情だった。

そして、写真の端に目を留めた。

印画紙の縁。

そこに、光の滲みのようなものがあった。

最初は、現像の失敗だと思った。

しかし、よく見ると、それは文字のようにも見えた。

涼介は写真を傾けた。

光の角度が変わる。

文字が、かすかに浮かび上がった。

――また、どこかで。

そこで途切れていた。

その先には、何もなかった。

涼介は長い間、その写真を見つめていた。

彼女が書いたのか。

誰かの悪戯なのか。

現像の途中で偶然できた模様なのか。

それとも、本当に世界線の向こう側から届いたものなのか。

分からなかった。

分からなくてもいいと思った。

涼介は、初めてフィルムを現像したことを後悔しなかった。

むしろ、ようやく写真を見終えた気がした。

過去を確認するためではない。

過去を、過去にするために。

窓の外から、遠く工事現場の音が聞こえてきた。

カシャ。

涼介は顔を上げた。

以前なら、その音に胸が締めつけられていた。

けれど今は違った。

終わりを告げる断絶の音ではない。

新しいレンズのキャップを外すような音に聞こえた。

涼介は愛用のカメラを手に取った。

ストラップを首にかける。

三日間なんて。

次は、きっと足りなくていい。

足りないなら、四日目へ行けばいい。

五日目へ行けばいい。

その先の季節へ行けばいい。

写真は、過去だけを残すものではない。

これから撮る一枚も、いつか誰かの記憶になる。

涼介はカメラを持って、玄関へ向かった。

ドアを開ける。

外の空は、どこまでも澄み渡る秋晴れだった。

涼介は一歩、外へ出た。

その瞬間。

朝の光が、レンズの奥で小さく揺れた。

涼介はファインダーを覗いた。

そして、シャッターを切った。

カシャ。

今度は、自分の意志で。

(了)



Kindle



あとがき

人生における「選択」と「分岐」は、過ぎ去ってみなければ、その価値に気づけないことがあります。

「あの時、こうしていれば」

そんな思いは、ときに重い足枷になります。

けれど、過去を変えることができなくても、そこから先を変えることはできる。

そう考えることもできるのではないでしょうか。

本作で描いた「三日」という時間は、人が誰かと向き合い、踏み出すか、立ち止まるかを試される象徴として描きました。

涼介にとって、三日間は何度も「終わり」の時間でした。

しかし最後には、その三日間を「未来へ進むための時間」として受け入れます。

過去の写真を現像することは、失った時間を取り戻すことではありません。

そこに写っているものを、もう一度きちんと見つめることです。

そして、見終えたら、新しい一枚を撮りに行く。

それだけなのかもしれません。

もしあなたにも、まだ現像していない「あの日のフィルム」があるのなら。

いつか、それを取り出してみてください。

そこに何が写っているのかは、現像してみなければ分かりません。

そして、写真に写っていない未来は、自分で撮るしかありません。

季節の変わり目。

ふと聞こえる日常の音の中に、あなただけの新しい「始まりの合図」が見つかりますように。




仮退院の惑星
―― 宇宙保健機構・地球支部からの報告書 ――


まえがき あるいは診断書のかわりに
人はみな、どこかの病院で生まれる。
そして、ほとんどの人は、どこかの病院で死ぬ。
これは別に驚くことではない。驚くべきは、その「あいだ」である。生まれてから死ぬまでの、平均すれば八十年ほどの、あの長い「あいだ」のことを、われわれはふつう「人生」と呼んでいる。
だが、この報告書が明らかにするのは、まったく別の見方である。
すなわち――
その「あいだ」は、退院ではない。仮退院である。
生まれた瞬間、人はこの世という名の療養施設から、条件付きで外出を許可された患者になる。無期限の外泊、いや、正確には「経過観察付きの社会復帰」。定期的な検診があり、時に体調を崩せば、オレンジ色の車がサイレンを鳴らし、あなたを迎えに来る。ピーポー、ピーポーと。
そして六十年に一度、人は「還暦」と呼ばれる大規模な再審査を受ける。干支がひと回りし、振り出しに戻る。もう一度、生まれ直すつもりで診断を受け直すのだ。
これは、そんな仮退院患者のひとり、半田治(はんだ・おさむ)、六十歳。還暦にして男の大厄という、まことに間の悪いタイミングで「本院」からの呼び出し状を受け取った男の、まことに間の抜けた記録である。
滑稽で、少し不思議で、たぶん最後は笑って終わる話だ。
なにしろ、笑うことこそが、この惑星でいちばん効く薬なのだから。




一 検診通知
半田治のポストに、その封筒が届いたのは、九月にしては妙に肌寒い火曜日の朝だった。
封筒は水色で、隅に小さく「宇宙保健機構 地球支部 第七病棟管理課」という判が押してある。差出人の欄には、判読しにくい丸っこい字で「地球担当・受持医」とだけ書かれていた。
「またこれか」
治はため息をついた。この手の封筒が来るのは、これで三度目だった。一度目は三十九年前、二十一歳のとき。二度目は――思い出したくもない、バイクで転倒して救急車に運ばれた、あの二回のうちのどちらか。
だが今回は、様子がちがった。封筒の右上に、赤いスタンプで大きくこう押されていたのだ。
「還暦前・全身再査定 対象者」
そしてその下に、もう一つ、さらに小さく、しかし治の心臓には十分すぎるほど大きく響く一文が添えられていた。
「本人、大厄該当につき、優先審査扱いとなります」
治は封筒を持ったまま、しばらく玄関先に立ち尽くした。近所の柴犬が吠えた。空はやけに青かった。こういうときに限って空が青いのは、この惑星の意地の悪いところだと治は思った。
封を切ると、中には一枚の呼び出し状と、地図と、それから――どういうわけか――飴玉が一つ入っていた。ハッカ味だった。
呼び出し状にはこう書かれていた。
「拝啓 貴殿におかれましては、これまで三十九年にわたり、良好な仮退院状態を継続してこられたこと、当機構としても大変喜ばしく存じます。つきましては、還暦を機に、貴殿の心身の状態、社会的機能、および幸福指数について、総合的な再査定を行いたく存じます。つきましては、来る十月一日、第七病棟管理課窓口までご出頭くださいますよう、お願い申し上げます。なお、審査結果によっては、仮退院の継続、条件変更、あるいは――」
そこから先は、なぜか印字がかすれていて読めなかった。
治は封筒をテーブルに置き、コーヒーを淹れた。手が少し震えていた。震えているくせに、口元はどういうわけか、笑いたがっていた。
三十九年前、彼はまさにこの手の呼び出しを受けて、オレンジ色の車に乗せられたのだった。あのときも、こんなふうに、妙に晴れた日だった。



二 支部事務所
第七病棟管理課は、駅前の、ごくふつうの雑居ビルの三階にあった。一階は美容室、二階は行政書士事務所、三階だけが、なぜか「宇宙保健機構」だった。表札は小さく、見落としそうなほど地味だった。
エレベーターを降りると、待合室には、治と同じような年格好の男女が十人ほど、所在なげに座っていた。壁には「健康長寿県ランキング」というポスターが貼られており、堂々の一位には「長野県」と書かれていた。
「あそこは別格ですからねえ」
隣に座っていた老婦人が、治の視線に気づいて話しかけてきた。
「別格、というと?」
「支部長がとにかく厳しいんですよ。塩分、運動、笑い、生きがい――全部揃わないと合格点をくれない。でもそのぶん、みんな長生きするから、文句も言えなくてねえ」
老婦人はそう言うと、静かに笑った。笑うと、頬にたくさんの皺が寄った。健康そうな皺だった。
「治さん、半田治さん、どうぞ」
呼ばれて、治は立ち上がった。案内された部屋の扉には「受持医:宇野井(うのい)」という名札があった。
中に入ると、白衣を着た、丸眼鏡の小柄な男が、机の向こうでにこにこと待っていた。年齢は五十代半ばくらいだろうか。机の上には、湯気の立つ緑茶と、なぜか将棋盤が置かれていた。
「やあ、半田さん。いや、三十九年ぶりですなあ」
「……お会いしたこと、ありましたっけ」
「二十一のとき、あなたはタバコをやめる代わりに、カミさんをくださいと願ったでしょう。あれ、私が処理したんですよ」
治は目を丸くした。
「あの願いを、処理、って……」
「この惑星は、交換でできています。何かをやめれば、何かが届く。何かを差し出せば、何かが返ってくる。あなたはタバコという習慣を返上し、代わりに伴侶という処方を受けた。悪くない取引でしたな。奥さんの登美子さん、お元気ですか」
「元気です。口うるさいですが」
「結構、結構。口うるさいのは、健康な証拠です」
宇野井医師はそう言って、カルテらしきものを開いた。それは紙のカルテではなく、薄いガラス板のようなもので、触れると光の文字がふわふわと浮かび上がった。
「さて。あなたは今年、還暦を迎える。干支がひと回りして、振り出しに戻る年です。同時に、男の大厄。この二つが重なるのは、六十年に一度の非常に重要なケースでしてね。当機構としても、慎重に審査させていただくことになります」
「審査……というのは、つまり」
宇野井医師は、湯気の立つ茶をひとくち飲んでから、静かに言った。
「簡単に言えば、こういうことです。半田さん、あなたはこの先も、仮退院を続けたいですか? それとも――」
言葉を濁したまま、宇野井医師はにっこりと笑った。笑うと、丸眼鏡の奥の目がほとんど見えなくなった。
治は、思わず息を呑んだ。ポケットの中にあるハッカ飴の包み紙を、指先でぎゅっと握りしめた。



三 オレンジ色の相棒
「まあ、そう硬くならんでください」
宇野井医師は将棋盤を治のほうへ押し出した。
「審査の前に、まず面談です。今日のところは雑談だと思ってください。ところで半田さん、あなたはこれまでに二度、緊急搬送を受けていますね」
「はい……あれは、正直、思い出したくない」
「一度目は二十一歳、バイクで転倒。二度目は五十歳、同じくバイクで転倒。二度とも、オレンジ色の車が、ピーポーピーポーと迎えに来た」
「その節は、お世話になりました」
「あの車の運転手、覚えていますか」
治は記憶をたどった。薄れゆく意識と消毒液の匂いの中で、妙に落ち着いた声で「大丈夫ですよ、ゆっくり行きましょう」と話しかけてくれた男の顔が、かすかに浮かんだ。
「なんとなく、ですが……妙に落ち着いた人だった気がします」
「それ、私の同期です。名前は檜山(ひやま)といいましてね。今はもう、こちら側の人間ですが」
「こちら側、というと」
「本院送還済み、ということです。つまり、亡くなった。もう十年前になりますか」
治は言葉を失った。宇野井医師は、しかし、ちっとも湿っぽい顔をせずに続けた。
「檜山は、生前、いい迎え屋でした。彼のモットーは『急いで来て、ゆっくり運ぶ』。サイレンは急いでいるように聞こえるが、実際に患者を運ぶときは、驚くほど丁寧だった。あなたを二度とも無事にこちらへ届けたのは、彼の腕です」
「今は、その檜山さんは……」
「本院の、案内係です。今度あなたが本院に――いや、これは失言でした。まだ決まったわけではない」
宇野井医師は慌てて茶を飲んだ。治は、なんだかおかしくなって、思わず小さく笑ってしまった。
「先生、それ、フォローになってませんよ」
「これは失礼」
宇野井医師も笑った。二人でしばらく笑っていると、ふと、窓の外を救急車が通り過ぎていった。ピーポーピーポーという音が、部屋の中まで響いてきた。
「ああ、いい音だ」と宇野井医師がつぶやいた。
「いい音、ですか」
「あれは、この惑星でいちばん正直な音です。誰かの人生に、ちゃんと『まだ続きがある』と告げている音ですから」
治は、その音が遠ざかっていくのを、しばらく黙って聞いていた。



四 長野出張所
一週間後、治は「長野出張所への任意訪問」という、奇妙な指示書を受け取った。
「任意」と書いてあるくせに、封筒の隅には小さく「訪問を推奨します(強く)」と添えられていた。この機構の日本語は、いつもこういう具合に、遠慮がちに強制してくる。
長野出張所は、駅から少し歩いた、りんご畑のそばの一軒家だった。表には「健康長寿の里・出張診療所」という木の看板が下がっている。
出迎えたのは、日に焼けた、がっしりとした体格の女性医師だった。名札には「支部長・戸隠(とがくし)」とあった。
「よく来た。半田さんだね」
「はい。あの、私、審査対象者でして」
「知ってる。あんたの資料はもう全部見た」戸隠支部長は、治の頭からつま先までをじろりと眺めた。「歩き方が悪い。膝を庇っとる。座り方も悪い。猫背だ。それから――」
「あの、それから?」
「顔が疲れとる。笑いが浅い」
治は思わず自分の頬を触った。
「笑いに、深い浅いなんて、あるんですか」
「あるとも。浅い笑いは、口先だけで作った愛想笑い。深い笑いは、腹の底から、思わず漏れてしまう笑い。うちの県が長寿なのは、塩分がどうとか、標高がどうとか、いろいろ言われとるが、本当の理由はな、深い笑いの回数が多いからだ」
戸隠支部長は、そう言って、治を診療所の奥の畑へ連れていった。畑では、老人たちが何人も、楽しそうに土をいじっていた。九十歳は超えているだろう、腰の曲がった男性が、大声で冗談を言い、周りがどっと笑っている。
「見てみろ。あの笑いだ。あれが、深い笑いだ」
治は、その光景をしばらく眺めていた。なんだか、羨ましいような、恥ずかしいような気持ちになった。
「支部長、正直に言うと、私、最近あんなふうに笑ったこと、あったかどうか……」
「だろうな。都会の患者は、みんなそう言う」戸隠支部長は腕を組んだ。「都会の連中は、いつもストレスとやらを抱えて、病との境目をふらふら彷徨っとる。それじゃあ、仮退院とは名ばかりの、半分入院しとるようなもんだ」
「半分、入院……」
「そうとも。この惑星の都会人は、生涯、仮退院中というより、生涯、外泊中の重症患者に近い。笑いなさい、半田さん。深く、腹の底から。それが、いちばんの治療だ」
治は、その言葉を、なぜか胸の奥にしまい込んだ。ポケットの中の飴玉のように、少しずつ溶けていくように。



五 厄年特別審査部
長野から戻った翌週、治は再び支部事務所に呼び出された。今度は三階ではなく、地下一階。案内板には「厄年特別審査部(男性厄年課)」とある。
エレベーターの扉が開くと、そこは薄暗い、迷路のような廊下だった。壁には古めかしい貼り紙が並んでいる。
「前厄・本厄・後厄――三年連続、油断は禁物」
「男の大厄、四十二歳にあらず。人生には、もう一つの大厄がある」
「還暦大厄、これぞ真の関門」
治は初めて知った。四十二の厄年は有名だが、還暦にもう一つの、いわば「隠れ大厄」があるということを。
窓口には、疲れた顔の中年男性職員が座っていた。名札には「担当・碓氷(うすい)」とある。
「半田さん、ですね。還暦大厄、初めてですか」
「はい、というか、そんな厄年があること自体、初耳です」
碓氷はため息をついた。
「無理もない。うちの部署、宣伝が下手くそでしてね。四十二の厄年ばかり有名になって、還暦大厄はいつも影が薄い。でも、実はこっちのほうが重要なんですよ。なにしろ、干支がひと回りして、振り出しに戻る年ですから」
「振り出しに戻る、というと」
「つまり、赤ちゃんに戻る、ということです。比喩ですけどね。還暦のお祝いに赤いちゃんちゃんこを着せるのは、その名残です。もう一度、生まれ直すつもりで、人生をリセットする。だからこそ、この年は、身体の検査だけじゃなく、『生き方』そのものの再査定が必要になる」
碓氷は、机の上に分厚いファイルを広げた。
「半田さんの資料を見ましたが、いくつか気になる点があります」
「どんな点でしょう」
「まず、趣味の欄が空欄です」
治は口ごもった。
「それから、『最近笑ったこと』の欄も空欄」
「……」
「それから、これは重要なんですが、『今後の願い』の欄も、空欄です」
碓氷は、ファイルを閉じて、治をまっすぐ見た。
「半田さん。あなたは三十九年前、タバコをやめる代わりに『カミさんをください』と願った。そのおかげで、いい奥さんを得た。十年前、五十歳でバイクを降りた。あのときも、何か願ったんじゃないですか」
治は記憶をたどった。そういえば――十年前、長年乗ったバイクを手放したとき、寂しさの反面で漠然と、何か新しいものが届くのかもしれないと思っただけで、はっきりと願ったわけではなかった。
「いえ、あのときは、特に何も」
「それがまずい」碓氷はぴしゃりと言った。「この惑星の交換システムは、明確な願いがないと発動しません。あなたは十年前、バイクという大きな存在を差し出したのに、何も受け取っていない。つまり、あなたの口座には、未使用の『交換ポイント』が、たまったままになっている」
治は目を丸くした。
「交換ポイントって、そんなものが」
「あります。健康長寿県のポイントカードみたいなものです、ええ」碓氷はにやりと笑った。「還暦大厄の審査に通るには、その未使用ポイントを、きちんと使い切ることが条件です。さもないと――」
「さもないと?」
「未練が残ったまま、審査に臨むことになる。それは、あまり、よろしくない」
碓氷はそう言うと、一枚の申請用紙を差し出した。「今後の願い」という欄が、大きく空いていた。



六 交換の理論
家に帰った治は、その申請用紙をテーブルに置いたまま、しばらく動けずにいた。
妻の登美子(とみこ)が、夕飯の支度をしながら聞いてきた。
「何、その難しい顔」
「いや、実はさ」
治は、これまでの経緯を、かいつまんで話した。仮退院という概念、宇野井医師、長野の戸隠支部長、そして今日の碓氷の話。登美子は、菜箸を持ったまま、しばらく黙って聞いていた。
「――で、あなた、未使用のポイントがあるって言われたわけね」
「そうなんだ。十年前、バイクを降りたとき、何も願わなかったから」
登美子はくすりと笑った。
「あなたらしいわ。タバコをやめたときは、若かったから、素直に『妻をください』なんて言えたのに。バイクを降りたときは、もう五十だったから、恥ずかしくて何も言えなかったんでしょう」
図星だった。治は黙ってビールを飲んだ。
「でもさ」登美子が続けた。「今なら、何か、願いたいことがあるんじゃない?」
治は考えた。健康、長生き、それとも、もっと具体的な何か。
そのとき、隣の部屋から、息子の陽一(よういち)の声が聞こえてきた。三十二歳、いまだ独身。仕事は真面目にやっているが、浮いた話の一つも聞かない。
「陽一のこと、心配なんだよな、実は」
治がぽつりと言うと、登美子はうなずいた。
「私も。あの子、仕事仕事で、出会いなんてどこにもないでしょう」
治の頭の中で、三十九年前の記憶と、いまの願いが、するりと重なった。
――二十一でタバコを辞めたとき、代わりにカミさんを下さいと願った。
――今度は、バイクを降りたから、何かが届くのかもしれない。
そうだ。今度は、自分のためじゃない。
「息子に、嫁を、って願おう」
治がそうつぶやくと、登美子は目を丸くしてから、ふっと笑った。
「あなたって人は。自分の還暦の審査だっていうのに、息子の嫁の心配ですか」
「だって、俺はもう十分もらったからな。登美子も、三十九年分の人生も。今度は、俺のぶんの未使用ポイントを、あいつに回してやりたい」
登美子は何も言わず、ただ、治の背中を軽く叩いた。その手が、少し湿っていた。



七 申請書と、息子
翌日、治は申請用紙の「今後の願い」の欄に、こう書いた。
「息子・陽一に、良き伴侶が与えられますように。私の未使用の交換ポイントを、すべて彼のために使ってください」
書き終えて、しばらく眺めていると、なんだかおかしくなってきた。役所の申請書に、こんなことを書く日が来るとは思わなかった。三十九年前の自分に見せてやりたい。
その晩、治は思い切って、陽一の部屋のドアをノックした。
「入っていいか」
「珍しいな、父さんが」
陽一は、パソコンの画面を閉じて振り返った。仕事の資料が、机の上に山積みになっている。
「実はな」治は、椅子に座りながら切り出した。「父さん、今年還暦でな。ついでに大厄でな。それで、いろいろと審査を受けることになってな」
「審査? 健康診断的な?」
「まあ、そんなようなもんだ。それでな、その審査の書類に、お前のことを書いた」
「俺の?」
「良き伴侶が与えられますように、って」
陽一は、しばらく呆気にとられた顔をしていたが、やがて、ぷっと吹き出した。
「父さん、それ、神社のお札とかに書くやつだろ。役所の書類に書くもんじゃないよ」
「いいんだよ、これも一種のお祈りみたいなもんだ。この惑星のシステムでは、これが結構、効くらしいんだ」
「意味わかんないけど」陽一は笑いながら首を振った。「でも、まあ、ありがたく受け取っとくよ」
「本当に、心配なんだよ、お前のこと」
陽一は少し表情を和らげた。
「父さんこそ、審査って、大丈夫なのか。何か、悪い結果が出たりしないだろうな」
治は、正直、その答えを持っていなかった。だが、こう言った。
「大丈夫だ。深く笑えば、大丈夫らしい」
「なんだよ、それ」
「長野の先生が言ってたんだ。深い笑いは、いちばんの薬だって」
陽一はまた笑った。今度は、さっきよりも深く、腹の底から出るような笑いだった。治は、その笑い声を聞きながら、ふと、戸隠支部長の言葉を思い出した。
(あれが、深い笑いだ)
治は、自分の胸の中に、何か温かいものが灯るのを感じた。



八 大審査
十月一日、その日はやはり、妙に晴れていた。
治はスーツを着て、支部事務所の最上階、これまで一度も足を踏み入れたことのない、七階の「大審査室」へと案内された。
部屋は、思っていたよりもずっと簡素だった。円卓が一つ、椅子が数脚、それだけだった。円卓の向こうには、三人が並んで座っていた。中央に宇野井医師、右に戸隠支部長、左に碓氷。
「揃いましたな」宇野井医師がにこやかに言った。「では、始めましょうか。半田治さん、還暦大厄・全身再査定、開始します」
治は椅子に腰かけた。手のひらに汗がにじんでいた。思わずポケットを探ると、あの日渡されたハッカ飴がコロンと指に触れた。
「まず、身体面の査定は問題なし。血圧やや高めですが、許容範囲内。次に、社会的機能。これも問題なし、家族関係、勤労状況、いずれも良好」
宇野井医師はガラス板を操作しながら、淡々と読み上げていく。治は少しずつ、緊張が緩んでいくのを感じた。
「問題は、次の項目です」戸隠支部長が身を乗り出した。「幸福指数、および、深い笑いの頻度」
「これが、うちの管轄なんだが」戸隠支部長は腕を組んだ。「半田さん、長野に来たとき、あんたは正直に言ったな。最近、深く笑ったことがあったかどうか、わからないと」
「はい……」
「その後、どうだ。何か、変化はあったか」
治は、昨晩の、陽一との会話を思い出した。
「息子と、話をしました。息子が、深く笑ったんです。それを見ていたら、なんだか、こっちまで温かい気持ちになりました」
「それは、あんたが笑ったことになるのか?」戸隠支部長が鋭く聞いた。
「いえ、正確には、私自身が大きな声を出して笑ったわけでは……」
碓氷が、ここで口を挟んだ。
「支部長、それについては、私の担当分野からも申し上げたいことがあります」
「なんだ」
「半田さんは、未使用の交換ポイントを、すべて息子さんのために使うと申請されました。これは、還暦大厄の審査において、非常に稀なケースです」
「稀、というと」
「通常、患者は自分のために願います。健康、長寿、あるいは金銭。しかし半田さんは、自分の分を、子どもに譲った。これは、いわば――」碓氷は少し言葉を選んだ。「笑いの、贈与、とでも言うべき現象です」
宇野井医師が、ここで初めて、ガラス板から顔を上げた。
「笑いの贈与、ですか。それは興味深い」
「深い笑いというのは、必ずしも自分の口から出るものだけを指すのではない、というのが、最近の機構内の研究でも指摘されておりましてね」碓氷は続けた。「誰かを笑わせること、誰かの笑いを見て自分も温かくなること、これもまた、深い笑いの一形態である、と」
戸隠支部長は、しばらく黙って考え込んでいたが、やがて、ふっと表情を緩めた。
「なるほどな。半田さん、あんた、案外、いいことをしたのかもしれんぞ」



九 判定
三人は、しばらく小声で話し合っていた。治は、円卓の前で、ただじっと待っていた。窓の外では、また救急車のサイレンが聞こえた。ピーポーピーポー。誰か、別の患者を迎えに行くのだろう。あの音は、いい音だ、と治は思った。宇野井医師の言葉を、今なら少しわかる気がした。
「まだ続きがある、と告げている音」
やがて、宇野井医師が顔を上げた。
「半田治さん。判定をお伝えします」
治は、思わず背筋を伸ばした。
「まず、身体面、社会面、いずれも良好。次に、幸福指数について。当初、単独での深い笑いの頻度は低いという評価でしたが、審査の過程で、贈与的な笑い――つまり、他者の笑いを介した幸福の共有が、良好に機能していることが確認されました。加えて」
宇野井医師は、ガラス板をくるりと治のほうへ向けた。そこには、光る文字でこう浮かんでいた。
「仮退院、継続を許可する」
治は、思わず大きな息を吐いた。全身の力が抜けるようだった。
「ただし」戸隠支部長が付け加えた。「条件がある」
「条件……ですか」
「一つ、月に一度は長野に来て、深い笑いのリハビリを受けること。二つ、息子の陽一くんの様子を、定期的に報告すること。三つ――」
戸隠支部長は、ここで少し表情を和らげた。
「三つ、あんた自身も、そろそろ何か、自分のための願いを、一つくらい持て」
治は、その言葉に、なぜか胸が熱くなった。
「自分のための願い、ですか」
「三十九年前は妻を願った。十年前は何も願わなかった。今度は息子のために願った。それはそれで、立派なことだ。だがな半田さん、還暦っていうのは、振り出しに戻る年だ。振り出しってのは、ゼロってことだ。ゼロってことは、また一から、好きに願っていいってことだ」
碓氷も、うなずきながら付け加えた。
「未使用ポイントは使い切っていただきましたが、還暦を機に、新しい口座が開設されます。これは、いわば、人生の第二クールの、初回ボーナスのようなものです」
治は、しばらく考えた。何を願おうか。健康か、長寿か、それとも――
「先生方、少し、考える時間をいただけますか」
「もちろん」宇野井医師は、にこやかにうなずいた。「なにしろ、これから、あと六十年ぶんの時間があるわけですから」
「六十年……」
「干支がひと回りするまで、ですよ。気長に、考えてください」
治は、深く頭を下げた。頭を上げたとき、なぜか、目の奥が少し熱かった。それが涙なのか、それとも別の何かなのか、治自身にもよくわからなかった。



十 シャバの空気
審査室を出て、エレベーターで一階まで降りると、外はすっかり秋の陽気になっていた。風が、どこかりんごの匂いを運んでくるような気がしたが、たぶん気のせいだった。
治は、スマートフォンを取り出して、登美子にメッセージを送った。
「審査、通った。仮退院、継続だそうだ」
すぐに返信が来た。
「よかった。今夜は赤飯にしましょうか」
「還暦のお祝いはもう少し先だろう」
「いいじゃない、前祝いよ。それに、あなた、今日から新しい口座が開設されたんでしょう。それもお祝いしなきゃ」
治は、思わず笑った。腹の底から、久しぶりに、深く。
駅までの道を歩きながら、治は、ふと立ち止まって、空を見上げた。
三十九年前、二十一歳の治は、タバコをやめて、代わりに妻をもらった。
十年前、五十歳の治は、バイクを降りて、何も願わなかった。未使用のまま、それはずっと胸のポケットに入っていた。
そして今、六十歳の治は、その未使用のぶんを、息子のために使った。息子に、良き伴侶が与えられますようにと。
還暦とは、干支がひと回りして、また振り出しに戻ることだという。だとしたら、まだ何も始まっていないのと同じだ。おまけに、男の大厄にも当たっている。
だが、それでいい、と治は思った。振り出しに戻るということは、また一から、好きに願っていいということだから。
治は、ポケットに手を入れた。指先に、あの日もらったハッカ味の飴玉が、まだ一つ、包み紙のまま残っていた。治はそれを口に放り込んだ。冷たく、少し甘く、そして、どこか懐かしい味がした。
シャバの空気は、今日も、悪くない。



終章 振り出しにて
半年後、陽一が、職場の後輩だという女性を、家に連れてきた。
名前は、実桜(みお)といった。よく笑う人だった。腹の底から、深く。
治は、その笑い声を聞きながら、ふと、戸隠支部長の言葉を思い出していた。
(あれが、深い笑いだ)
夕食の席で、登美子が、実桜に治との馴れ初めを話していた。二十一歳のときにタバコをやめて、代わりに妻をもらったのだという、あの古い話を。実桜は、目を丸くして、それから、これまでで一番深く笑った。
治は、その様子を眺めながら、静かにビールを飲んだ。
翌月、治は長野に出向いた。戸隠支部長は、畑仕事をする老人たちの中に混じって、治を見つけると、片手を上げた。
「どうだ半田さん、その後」
「息子に、いい人ができました」
「そりゃよかった。願いが、ちゃんと届いたな」
「はい。それで、支部長」治は少し照れながら続けた。「自分の願いも、決まりました」
「ほう、何を願うんだ」
治は、しばらく口ごもったあと、こう言った。
「あの二人の子どもが、深く笑える子に育ちますように」
戸隠支部長は、しばらく治の顔をじっと見つめてから、大きな声で、腹の底から笑った。畑にいた老人たちも、つられて笑った。その笑い声が、りんご畑いっぱいに広がっていった。
治も、笑った。
三十九年前と同じように、心の底から。

了



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あとがき
ふと街中で救急車のサイレンを耳にしたとき、胸がざわついたり、どこか寂しい気持ちになったりすることはありませんか。
けれど、もしもあの音が「見放すための合図」ではなく、「あなたの人生には、まだ続きがありますよ」と告げる温かい知らせなのだとしたら――。そんな優しい仮定から、この『仮退院の惑星』は生まれました。
私たちは誰もが、どこかの病院で生まれ、日々の忙しさや不安の中で「外泊中の患者」のように肩をすぼめて生きているのかもしれません。ですが、還暦という「振り出し」は、歳をとることの終わりではなく、まっさらな自分に戻ってもう一度好きな未来を願い直せる、人生最大のボーナスステージでもあります。
もし今、少しだけ肩の荷が重いと感じているなら、どうかポケットの中のハッカ飴をなめるように、深呼吸をして、腹の底から笑ってみてください。
笑うこと。誰かの幸せをそっと願うこと。
それが、この「仮退院の惑星」で、私たちに与えられたいちばん効く薬なのですから。

夏風邪
―― 六十五からの日々 ――



まえがき
歳を重ねるということは、何かを獲得していくことよりも、一つ、また一つと手放していくことの連続なのかもしれません。
若さゆえの無茶や、身体への絶対的な信頼。かつて夢中になった趣味や、賑やかだった交友関係。そして、大切だった人との時間。気づけば手の中は軽くなり、ふと胸の奥に小さな隙間風が吹くような覚悟を、誰もがどこかで抱えて生きているのではないでしょうか。
本作の主人公・高橋薫もまた、六十五歳という人生の節目において、自身の身体の変化と手放してきた歳月に戸惑う一人です。たかが「夏風邪」という一過性の体調不良が、彼の穏やかな日常に小さな石片を投げ込みます。
しかし、手放すことは単なる喪失だけではありません。削ぎ落とされたからこそ見えてくる、自分自身の本当の想いや、今日という一日を選択して生きる重みがあります。
この物語が、同じように時を重ねてきた方々、そしてこれから歳を重ねていくすべての方の心に、静かな温もりとして届くことを願っております。




第一章 予兆
朝、目が覚めても、すぐには起き上がれない日が増えた。
高橋薫は、寝室の天井を見つめながら、右肩の奥に鈍い痛みがあることに気づいた。昨日までは何ともなかったはずだ。それとも、気づかなかっただけなのか。
三年前、妻の由美子を見送ってから、この家には薫ひとりだ。息子の隆は結婚して隣県に住み、盆と正月くらいしか顔を見せない。それでいいと薫は思っている。子には子の人生がある。
朝食を済ませ、薫は決まった散歩コースに出た。家から十五分ほど歩いたところにある商店街を抜けて、川沿いの遊歩道を一周する。これが、この一年ほどの日課だった。
歩きながら、薫は自分の身体の変化を、まるで他人の身体を観察するように数え上げる癖がついていた。
膝の裏の張り。階段を降りるときの、ほんの一瞬のためらい。若い頃なら気にも留めなかったはずの段差に、今はつい足元を確かめてしまう。
「歳を取るというのは、こういうことなのか」
声に出さず、心の中でつぶやく。かつて先輩たちが酒の席で漏らしていた愚痴を、薫は聞き流していた。まだ自分には関係のない話だと思っていた。
――お前もそのうちわかるよ。
そう言って笑っていた先輩の顔を、薫はふと思い出す。あの人は、もう何年も前に亡くなった。
商店街に差し掛かると、シャッターの下りた店が、また一軒増えていることに気づく。薫が子どもの頃、この通りには活気があった。今はどの店も、老いた店主が細々と続けているか、跡を継ぐ者がなく畳んでしまうかのどちらかだ。
町も、自分と同じように歳を重ねているのかもしれない。
七月の半ばを過ぎ、遊歩道に出ると川面に夏の日差しが反射して眩しい。まだ朝の九時だというのに、蝉の声はすでに勢いを増していた。薫は帽子のつばを少し下げて、日陰を選んで歩く。
若い頃は、バイクに跨り、真夏の国道を何時間でも走り続けられた。潮風に肌を焼きながら、波の上で何時間も過ごせた。あの頃の身体は、今よりずっと無防備で、そしてずっと丈夫だった。
いや――薫は自分の思考を訂正する。丈夫だったのではない。無理が利いただけだ。今にして思えば、身体はきっと悲鳴を上げていたのだろう。ただ、それを聞き取るだけの謙虚さが、あの頃の自分にはなかった。
還暦を迎えたとき、薫は医者から言われた。
「これからは、無理の利かない身体になっていきますよ」
その時は、笑って聞き流した。まだ五年ある、と思っていた。だが気づけば、その五年のうち、すでに五年が過ぎようとしている。
酒はやめた。正確には、量を極端に減らした。バイクも手放した。若い頃あれほど夢中になった波乗りも、この数年、板に触れていない。
危険なことから、少しずつ、しかし着実に遠ざかってきた。それは賢明な選択だったはずだ。誰に強制されたわけでもない、自分自身の判断だった。
それなのに、なぜだろう。遊歩道を歩きながら、薫の胸の奥に、小さな穴が空いているような感覚がある。手放してきたものの分だけ、何かが自分の中から抜け落ちていっているような気がしてならない。
川沿いのベンチに腰を下ろし、薫はしばらく水面を眺めた。対岸では、若い母親が幼い子どもと戯れている。子どもの笑い声が、風に乗って届く。
かつて自分にも、ああいう時間があった。隆が小さかった頃、この同じ川沿いを、肩車をして歩いたことを思い出す。あの頃の自分の足腰は、何の疑いもなく、子どもの重さを受け止めていた。今、同じことができるだろうか。
考えても仕方のないことだと、薫は首を振って立ち上がった。ベンチから腰を上げる瞬間、膝がわずかに軋んだ気がした。
家に戻る道すがら、薫は商店街の外れにある小さな喫茶店の前を通り過ぎた。「あすなろ」という古い看板が、色褪せてかろうじて読める。この店の前を通るのは、もう何十回目だろう。だが、暖簾をくぐったことは一度もない。
いつか入ってみようか。そんなことを思いながらも、薫はいつも通り過ぎてしまう。今日もそうだった。
家に着く頃には、額に汗がにじんでいた。この程度の距離で、これほど疲れるようになったのかと、薫は自分自身に驚く。
玄関を開け、靴を脱ぎながら、喉の奥にかすかな違和感を覚えた。
まさか、と思う。だが、その「まさか」が、この数年で何度も現実になってきたことを、薫はよく知っていた。



第二章 夏風邪
翌朝、薫は喉の痛みで目を覚ました。
唾を飲み込むたびに、小さな棘が引っかかるような痛みが走る。熱を測ると、三十七度五分。大した数字ではないはずなのに、身体全体が鉛のように重かった。
「油断したな」
誰に言うでもなく、薫はつぶやいた。数日前、扇風機を点けたまま眠り込んでしまった夜があった。あの時、いつもの自分なら、途中で目を覚まして消していたはずだ。だが、あの夜はぐっすりと眠り込んでしまい、朝まで風を浴び続けた。
いつもなら、こういう時は早めに布団に入り、ひと晩眠れば翌朝にはけろりと治っていた。薫の身体は、これまでずっとそうやって、風邪の初期症状を一晩で退けてきた。それが、いつの間にか自分の身体の「基準」になっていた。
だが、今回は違った。早めに布団に入っても、翌朝、喉の痛みは治まるどころか、むしろ強くなっていた。身体の節々がだるく、起き上がるのにも一苦労だ。
三日が過ぎても、喉の痛みは引かなかった。むしろ、全身のだるさが増していくようだった。近所の内科を訪れると、若い医者は「夏風邪ですね、こじらせないよう安静にしてください」とあっさり言った。
「免疫が落ちているのかもしれませんね。歳を重ねると、そういうこともありますから」
その一言が、薫の胸に小さく突き刺さった。歳を重ねると。まるで当然のことのように、医者は言う。若い医者にとって、それはただの医学的な説明にすぎないのだろう。だが薫にとっては、自分の身体がこれまでとは違う何かに変わりつつあることを、また一つ突きつけられた瞬間だった。
処方された薬を飲み、薫は数日間、床に伏せって過ごした。
熱に浮かされながら、薫の頭には、これまで考えたこともなかったような思考がふいに浮かんでは消えた。
このまま、いつか自分は、誰にも気づかれずに、この布団の中で動けなくなるのではないか。由美子が逝った時のことが、脈絡もなく蘇ってくる。病室のベッドで、あれほど気丈だった由美子が、日に日に小さくなっていった。あの時、薫は何もしてやれなかった。ただ手を握っていることしかできなかった。
自分もまた、いつか同じように、誰かに手を握られる側になるのだろうか。それとも、その手すら、そばにないのだろうか。
そんな考えが浮かんだ自分に、薫は狼狽した。たかが夏風邪だ。大袈裟すぎる。そう思おうとしても、一度頭に浮かんだ不安は、簡単には消えてくれなかった。
走れたはずだ。泳げたはずだ。飛べたはずだ――そんな言葉が、熱でぼやけた頭の中を巡る。かつて当たり前だったことが、今はもう「はずだ」という過去形でしか語れなくなっている。それが、薫には妙に恐ろしく感じられた。
四日目の夕方、少し熱が下がったところで、薫はようやく布団から起き上がった。台所に立ち、粥を作ろうとして、鏡に映った自分に気づく。無精髭が伸び、目の下には隈ができ、頬はいくぶんこけている。思っていたよりもずっと老けて見えた。
「これが、俺なのか」
答えは返ってこない。ただ、鏡の向こうの男が、同じように疲れた目で、こちらを見つめ返しているだけだった。
粥を食べ終えると、少しだけ体力が戻った気がした。薫はベランダに出て、夕暮れの空を眺めた。八月に入ったばかりだというのに、風にはどこか秋の気配が混じっているような気がする。それとも、それは薫自身の内側の変化が、そう感じさせているだけなのかもしれない。
若い頃、あれほど自信を持っていた自分の身体は、まるで足元から音を立てて崩れていくかのようだった。そして、その崩壊に対して、自分はあまりに準備不足で、ただジタバタと、無様にもがいているだけの初老の男に成り下がっているのではないか。
「情けないことを考えるな」
声に出して、自分自身を叱咤する。だが、その声にも、いつもほどの力はこもっていなかった。
熱はまだ完全には下がっていない。薫はもう一度布団に潜り込み、目を閉じた。明日は、久しぶりに外の空気を吸いに行こう。そう決めて、薫は眠りに落ちていった。



第三章 再会
風邪が完全に治るまで、結局一週間近くかかった。
久しぶりに外に出た朝、薫は自分の足取りの頼りなさに驚いた。たった一週間寝込んでいただけなのに、身体はまるで別人のもののように重い。筋肉が、少し落ちてしまったのかもしれない。
いつもの散歩コースを歩く気力はまだなく、薫は近所を短く一周するだけにとどめた。それでも、外の空気を吸うだけで、少し気分が晴れる気がした。
照りつける八月の日差しの中を歩いていると、ふいに強い目眩がした。薫は思わず、目についた喫茶店の軒先に逃げ込んだ。
見上げると、色褪せた「あすなろ」の看板があった。何十回、いや何百回と前を通り過ぎてきたはずのこの店に、薫は初めて足を踏み入れることになった。木製の扉を押すと、涼しい空気と、コーヒーの香ばしい匂いが薫を包んだ。
店内は薄暗く、古いジャズが低く流れている。カウンター席が三つ、テーブル席が四つほどの、こぢんまりとした店だった。客は、奥のテーブルに座る一人の女性だけだった。
薫はカウンターの端に腰を下ろし、アイスコーヒーを注文した。マスターらしき初老の男が、無言でグラスを差し出す。一口飲んで、薫は小さく息をついた。冷たさが熱を持った喉を通り抜けていく感覚が、心地よかった。
ふと、奥のテーブル席の女性と目が合った。一瞬、時間が止まったような気がした。
「薫くん……?」
その声を聞いた瞬間、薫の記憶が一気に四十年以上前へと巻き戻された。
「和田さん……和田美和子さん、か?」
高校三年のクラスで、薫の斜め前の席に座っていた美和子だった。彼女は当時から成績優秀で、生徒会の役員も務めていた。薫にとって、彼女は密かに憧れていた存在だった。だが、その想いを言葉にすることはついになかった。卒業と同時に、二人の道は分かれ、以来一度も会うことはなかった。
「まさか、こんなところで……」美和子は、驚きと懐かしさが入り混じったような表情で言った。「もう何十年ぶりかしら」
「四十七年、いや、四十八年になるか」薫は自分でも意外なほど正確に、その年数を口にしていた。
「よく数えているのね」美和子はおかしそうに笑った。
「昔から、そういうところがあってね。覚えなくていいことばかり、よく覚えている」
「よかったら、こちらへ。積もる話もあるでしょう」
薫は少しためらってから、グラスを持って彼女のテーブルに移った。
近くで見る美和子は、記憶の中の彼女とはもちろん違っていた。髪には白いものが交じり、目元には穏やかな皺が刻まれている。だが、話すときの仕草や、少し首を傾げる癖は、あの頃のままだった。
「この店、よく来るの?」薫は訊ねた。
「ええ。夫を亡くしてから、ここで過ごす時間が増えたわ。家にいると、どうしても考え込んでしまうから」
「考え込むって、どんなことを」
美和子は少し間を置いてから答えた。「一人分の食事を作ること。テレビを見ていて、面白いと思っても、隣に話す相手がいないこと。そういう、小さなことばかりよ」
夫を亡くした、という言葉に、薫は小さく胸を突かれた。
「私も、三年前に妻を見送った」薫はぽつりと言った。
「そう……。奥さま、どんな方だったの」
「明るい人だった。俺と違って、誰とでもすぐに仲良くなれるような。晩年は身体を悪くしていたが、最後まで、俺の心配ばかりしていたよ」
「素敵な奥さまだったのね」
「ああ」薫は静かに頷いた。「でも、今、こうして誰かと話していると、少し楽になる。ここしばらく、そういう時間がなかったから」
二人の間に、しばらく沈黙が流れた。だが、それは気まずい沈黙ではなかった。むしろ、同じ喪失を知る者同士の、静かな共感のようなものが、そこにはあった。
「薫くん、変わらないわね」美和子がふと言った。「あの頃と同じ目をしている」
「そんなはずはない」薫は苦笑した。「ついこの間まで、夏風邪でひどい目に遭っていたところだ。六十五にもなって、身体の衰えをつくづく思い知らされたよ」
「私だって同じよ」美和子は笑った。「膝は痛むし、去年は白内障の手術もしたし。それに、最近は人の名前がすぐに出てこなくて、娘に呆れられてばかり」
そう言って笑う美和子の顔には、若い頃には見られなかった、深みのある柔らかさがあった。薫は、その笑顔に見入ってしまう自分に気づき、慌てて目を逸らした。
「高校のとき、生徒会の仕事でよく残っていただろう。俺は、部活が終わった後、わざと遠回りして、君の教室の前を通っていたんだ」
薫は、自分でも驚くほど自然に、その告白めいた言葉を口にしていた。長年、誰にも語ったことのない記憶だった。
美和子は目を丸くして、それから小さく笑った。「知らなかったわ。……でも、なんとなく、そんな気がしていた気もする」
「気づいていたのか」
「女はね、そういうことには、案外敏感なものなのよ」
その言葉に、薫の胸の奥が、久しく感じたことのない温かさで満たされた。
一時間近く、二人は高校時代の思い出話に花を咲かせた。担任教師の口癖、体育祭での失敗談、卒業式の日の空模様――忘れていたはずの記憶が、次々と蘇ってくる。
「また、ここで会えたら嬉しいわ」美和子が言った。
「ああ、また会おう」
店を出て、美和子と反対方向に別れた後も、薫はしばらく八月の夕焼け空を見上げながら立ち尽くしていた。
四十八年の時を経て、あの頃の想いが、まだ自分の中に眠っていたことに、薫は驚きを隠せずにいた。そして同時に、その想いがこんなにも簡単に、再び目を覚ましてしまったことに、かすかな戸惑いも覚えていた。



第四章 回想
残暑の残る八月の終わりから、薫は週に一、二度のペースで「あすなろ」に通うようになった。美和子も、ほぼ同じ頻度でその店に姿を見せた。示し合わせたわけではないのに、二人はいつも同じ時間帯に居合わせるようになっていった。マスターも、いつしか何も言わずに、二人を同じテーブルに案内するようになった。
九月に入っても暑さは一向に和らぐ気配を見せなかったが、店の中で冷たいお茶を飲みながら交わす会話は、二人にとってかけがえのない時間となっていた。
ある日、美和子が言った。
「薫くん、高校の時、バイクに憧れていたわよね。文化祭の後、いつか自分のバイクで日本中を走り回るんだって、目を輝かせて言っていたの覚えてる」
「よく覚えているな、そんなこと」
「印象的だったから」美和子は微笑んだ。「実際、乗っていたの?」
「ああ」薫は懐かしそうに目を細めた。「二十代の頃に免許を取って、それから四十年近く、ずっと乗り続けていた」
薫は、若い頃の記憶を辿るように語り始めた。初めて手に入れた中古のバイク。真夏の国道を、風を切って走った感覚。峠道で仲間たちと競い合った日々。
「でも、五年前にやめたんだ。還暦になった年に、医者から色々と言われてね。反射神経も、視力も、若い頃とは違う。事故を起こしてからでは遅い、と」
薫は、バイクを手放した日のことを思い出す。買い取り業者が引き取っていく姿を、玄関先で見送りながら、薫は何とも言えない喪失感に襲われた。まるで、自分の身体の一部が、そのままどこかへ運ばれていくかのようだった。
「波乗りも、やめたのよね?」美和子が続けて訊ねた。
「よく知っているな」
「さっき、少し寂しそうな顔で、海の話をしていたから」
薫は笑った。「波乗りは、バイクよりも前に手放した。もう七、八年になるか。波にさらわれて、溺れかけたことがあってね。若い頃なら何でもなかったはずの波だったのに、身体がついてこなかった。あの時初めて、自分の身体が、もう若い頃の身体ではないことを、痛烈に思い知らされた」
「酒も、随分減らしたと言っていたわね」
「ああ。医者に、肝臓の数値を見せられてね。潔く量を減らした。営業マンだったから、若い頃は毎晩のように飲んでいたんだが」
「そうやって話していると、薫くんは、たくさんのものを手放してきたのね」美和子がぽつりと言った。
その一言に、薫は胸を突かれた。
「そうだな……。危険だから、身体に良くないから――そう言い聞かせて、一つずつ手放してきた。それが賢明な選択だったはずなんだが、時々、思うんだ。手放してきたものの分だけ、自分の中から何かが、抜け落ちていってしまったんじゃないかって」
美和子は、しばらく黙って薫の言葉を聞いていた。それから、静かに言った。
「私も、同じようなことを感じることがあるわ。夫が生きていた頃は、二人でよく旅行に出かけていたの。夫が亡くなってからは、一人で遠くへ行く気力もなくなってしまって」
「歳を取るというのは、多分、そういうことの積み重ねなんでしょうね」美和子は小さく笑った。「できなくなったこと、やめたこと、諦めたこと。それが少しずつ増えていって、気づけば、若い頃とはずいぶん違う自分になっている」
「昔、先輩たちが酒の席でよくこぼしていたんだ。歳を取るのは嫌なもんだ、体力が落ちる、気力も萎える、って。あの頃は、聞き流していた。まさか自分がその立場になるとは、想像もしていなかった」
「今なら、わかる?」
「今なら、痛いほどわかる。情けない話だと思わないか。若い連中の中で、対等に立ち回れるつもりでいた自分が、いつの間にか、階段の手すりを頼りにするようになっている」
美和子は首を振った。「情けないとは思わないわ。それが、自然なことだもの。むしろ、それを認めずに、無理をし続ける方が、危ういんじゃないかしら」
薫は美和子の言葉を、静かに噛みしめた。
窓の外では、秋の気配を帯びた日差しが少しずつ傾き始めていた。ジャズの旋律が、店内に静かに流れ続けている。薫は、この時間が、いつまでも続いてほしいと、心の底から思っていた。



第五章 別れの予感
十月に入り、街を抜ける風がすっかり冷たくなっても、「あすなろ」に通う薫の足取りは軽かった。
美和子と過ごす時間は、薫にとって、いつしか一週間の中で最も待ち遠しいものになっていた。彼女と話していると、六十五という年齢のことも、身体の衰えのことも、不思議と気にならなくなる。
その日も、薫はいつものように「あすなろ」の扉を押した。だが、テーブル席に座る美和子の表情は、いつもと違っていた。どこか、思い詰めたような硬さがあった。
「どうかしたのか?」
薫が席に着くなり、美和子は小さく息を吐いた。
「実は、話さなければならないことがあるの」
薫は、嫌な予感を覚えながら、黙って続きを待った。
「娘のところに、引っ越すことになりそうなの」
「娘さんのところ……というと」
「北海道よ。娘の夫が転勤で、向こうに家を建てることになって。娘から、一緒に住まないかって、前から誘われていたの」
薫は、言葉を失った。
「これまでは、断り続けていたわ。この街を離れる気には、なれなかったから。男手を失ってから、ずっとこの場所で生きてきたし……。でも、去年の膝の手術をきっかけに、一人で暮らし続けることに、正直、不安を感じるようになって」
「それで、決めたのか」
「まだ、完全に決めたわけじゃないの。でも……多分、そうすることになると思う」
美和子の声は、静かだが、決意のようなものを滲ませていた。薫は、自分の胸の奥で、何かが急速に冷えていくのを感じた。
再会してから、まだ三ヶ月も経っていない。それなのに、この短い時間が、薫にとってどれほど大きな意味を持ってしまっていたか、薫は今、はっきりと思い知らされていた。
「いつ頃、決まりそうなんだ?」
「早ければ、年明けには」
年明け。あと二ヶ月足らずだ。薫は、グラスの中の氷が溶けていく音を、やけにはっきりと聞いていた。
その日、二人はいつものように、たわいのない話を続けた。だが、薫の頭の中では、先ほどの言葉が繰り返し反響していた。
店を出て、薫は一人で夜道を歩いた。四十八年前、告げられなかった想いがある。あの時、自分は臆病だった。彼女に振られることを恐れて、ただ黙って、教室の前を通り過ぎるだけだった。そして今、また同じことを繰り返そうとしているのではないか。
数日後、薫は再び「あすなろ」を訪れた。今日こそ言おう、と家を出る前から決めていた。だが、店に入り、美和子の顔を見た瞬間、その決意はあっけなく萎んでしまった。
「北海道の話、進んでいるのか」薫は、努めて平静を装って訊ねた。
「ええ。来月、一度、様子を見に行くことになったわ」
「そうか」
言おうとした言葉は、喉の奥で行き場を失ったまま、その日も外に出ることはなかった。家に帰る道すがら、薫は自分の不甲斐なさに舌打ちした。
「五十年近く経っても、同じことをしているのか」
声に出して、自分を責めた。若い頃なら、まだ時間はいくらでもあると、自分を慰めることもできただろう。だが今の薫には、その言い訳が使えないことを、誰よりも自分自身がわかっていた。
その夜、薫は寝つけないまま、何度も寝返りを打った。
――脳を騙せ。
夏風邪の熱に浮かされた夜、自分自身に言い聞かせた言葉が蘇ってきた。老いを言い訳にするな。今を楽しめ。あとさきを想像するな。
だが、想いを告げることに、あとさきなど関係あるだろうか。むしろ、あとさきを考えすぎたからこそ、四十八年前も、そして今も、薫は言葉を飲み込もうとしているのではないか。
翌週、再び「あすなろ」を訪れた薫は、また同じように言葉を飲み込みそうになった。だが、扉を開ける前、薫は一度、深く息を吸い込んで、自分に言い聞かせた。
――今日も逃げたら、次はもうない。
会話は、いつものように穏やかに始まった。だが、二人の間には、これまでにはなかった、ある種の緊張感が漂っていた。まるで、砂時計の砂が、静かに、しかし確実に落ち続けているかのように。
その日も、結局、言葉は出なかった。だが、家に帰った薫は、寝室の窓を開け、冷たい夜風を浴びながら、これまでとは違う手応えを感じていた。
準備が足りないまま、ただジタバタと逃げ続けてきた自分に、もう飽きていた。次こそは、と薫は思う。このまま、何も言わずに彼女を見送るわけにはいかない。



第六章 今日できること
十一月に入り、美和子の北海道行きは、正式に決まった。娘夫婦の家の隣に、小さな離れを建てて、そこで暮らすのだという。年明け、一月の半ばには、この街を発つことになった。
「あすなろ」で、その報告を聞いた日、薫は静かにうなずいた。
「そうか。決まったんだな」
「ええ」美和子は、どこか安堵したような、それでいて寂しそうな表情を浮かべていた。「娘の傍にいれば、何かあったときも安心だし……。それに、雪深い土地で暮らすというのも、悪くないかもしれないと思って」
「向こうの冬は、厳しいだろうな」
「そうね。でも、もう若い頃みたいに、無理はしないから」
美和子は、そう言って小さく笑った。その笑顔に、薫は胸が締め付けられる思いがした。
その日から、薫は毎晩のように、自分の中の言葉を整理し続けた。四十八年前、言えなかった言葉がある。あの時の後悔を、薫はずっと胸の奥にしまい込んしてきた。だが今、また同じ後悔を重ねようとしているのではないか。
老いは、確かに薫から多くのものを奪っていった。体力も、反射神経も、これまで当たり前だと思っていた身体の自由も。バイクも、波乗りも、酒も、若い頃の自分を形作っていたものの多くを、薫は手放してきた。だが、想いを言葉にする力までは、まだ奪われていないはずだ。
十二月の半ば、街に初雪が舞った日、薫は「あすなろ」で、美和子と向き合っていた。
「美和子さん」
薫は、これまでにない真剣な声で、彼女の名を呼んだ。美和子は、少し驚いたように、薫を見つめた。
「高校の時、俺は君に、想いを伝えられなかった。臆病だったんだ。振られることが怖くて、ずっと黙っていた」
美和子は、何も言わず、薫の言葉に耳を傾けていた。
「あれから四十八年経って、こんな歳になって、また君に会えた。そして今度は、もう二度と、同じ後悔はしたくないと思っている」
薫は、一度、深く息を吸った。
「好きだった。あの頃も、そして――今も」
店内には、いつものジャズが静かに流れていた。マスターは、気を利かせたのか、カウンターの奥で静かにグラスを磨いている。
美和子の目に、うっすらと涙が浮かんでいた。
「……ありがとう、薫くん」
美和子は、ゆっくりと言葉を選びながら、続けた。
「その言葉、どんなに嬉しいか。四十八年経って、やっと聞けたんだもの」
「でも」薫は、彼女の表情の変化を見て、次に来る言葉を予感していた。
「でも、私は、もう心を決めてしまったの。娘のところへ行く。これは、薫くんの想いとは、関係のないことだけれど……。私も、もう若くない。この歳で、新しい何かを始める勇気は、正直、私にはないの」
薫は、静かにうなずいた。失望がなかったと言えば、嘘になる。だが同時に、どこか納得している自分もいた。
「わかった」薫は言った。「無理を言うつもりはない。ただ、言わずにいることが、俺にはもう、できなかったんだ」
「伝えてくれて、本当に嬉しかったわ」美和子は、涙を拭いながら微笑んだ。「もし、あの頃、薫くんが同じことを言ってくれていたら、私たちの人生は、どんなふうに違っていたかしらね」
「今さら、考えても仕方のないことだ」
「そうね」
一月半ば、美和子は予定通り、北海道へと旅立っていった。薫は駅まで見送りに行き、ホームで最後の言葉を交わした。
「元気で」
「薫くんも。身体、大事にしてね」
美和子を乗せた電車が、ホームから静かに離れていく。薫は、姿が見えなくなるまで、その場に立ち尽くしていた。
家に帰る道すがら、薫の胸には、寂しさと、それでいて不思議な軽さとが、同時に存在していた。失恋、と呼ぶには、あまりに歳を重ねすぎている。六十五の夏風邪から始まったこの数ヶ月の揺らぎに、他にどんな名前をつければいいのか、薫にはわからなかった。
その夜、薫は久しぶりに、大学ノートを開いた。若い頃、時々、思いついたことを書き留めていたノートだった。ペンを走らせながら、薫は夏の日々のことを思い返していた。
あの夏風邪は、薫に多くのことを教えた。身体が、もう若い頃の身体ではないこと。手放してきたものは、二度と戻ってこないこと。そして――このまま何も言わずにいたら、きっとまた一つ、後悔を重ねるだけだということ。
たった数日の熱と喉の痛みが、四十八年分の臆病さを、最後にほんの少しだけ、押し出してくれた。そう思うと、あの夏の不調も、悪いことばかりではなかった気がしてくる。
ペンを置き、薫は窓の外を見た。冬の夜空に、星が瞬いている。
翌朝、薫は久しぶりに、朝の散歩に出た。まだ足元は覚束ないが、それでも一歩ずつ、雪の残る道を踏みしめて歩く。
商店街に差し掛かり、薫はいつもの角を曲がった。「あすなろ」の看板が、朝の光の中で、いつもと変わらずそこにあった。
一年前までの薫なら、きっとこのまま通り過ぎていただろう。今日は誰もいない。美和子はもう、この店に来ない。それでも扉を開ける意味があるのか――そんな迷いが、一瞬、頭をかすめた。
だが薫は、足を止めなかった。
木製の扉を押すと、いつもと同じ、コーヒーの香ばしい匂いが薫を包んだ。カウンターの奥から、マスターが小さく頷いて迎える。
「いつもの、アイスコーヒーで」
言葉が出てから、薫は苦笑した。外は雪だ。
「今日は寒いですよ。ホットにしましょうか」
マスターの言葉に、薫は頷いた。
「ああ、そうだな。温かいのを頼む」
カウンターの端に腰を下ろし、出されたカップから立ち上る湯気を両手で包み込む。あの日、夏風邪の喉を潤したアイスコーヒーの鋭い冷たさを思い出しながら、薫はその温もりをじんわりと掌に受け止めていた。
窓の外では、昨夜からの雪が、まだ静かに降り続いていた。
一人分のテーブルにも、季節は変わらずやって来る。それでいい、と薫は思った。手放してきたものは、もう戻らない。伝えられなかった四十八年は、取り戻せない。だが、今日この店の扉を開けたことだけは、確かに、薫自身の意志で選んだことだった。
明日もまた、この道を歩こう。そして、通り過ぎずに、この扉を開けよう。
それが、今日の薫にできる、ただ一つのことだった。

了


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あとがき
物語の終盤、薫が喫茶店「あすなろ」のカウンターで温かいコーヒーカップを両手で包み込むシーンがあります。夏の盛りに喉を潤したあのアイスコーヒーの冷たさと、冬の朝に手を温めるホットコーヒーの熱。その二つの感覚の間には、薫が美和子と過ごしたかけがえのない時間と、自分自身の選択と向き合った季節が横たわっています。
年齢を重ねるにつれ、私たちは「あの時こうしていれば」という過去の分岐点を振り返ることが増えるかもしれません。四十八年という長い歳月は、埋めるにはあまりに大きく、巻き戻すこともできません。
けれど、どれほど身体が衰え、手放すものが増えたとしても、「今日、自分自身の足で一歩を踏み出し、扉を開けること」だけは、私たちに常に残されている最後の自由なのだと思います。
高橋薫の選んだ静かな一歩が、読者の皆様の日常に少しでも寄り添い、優しく背中を押すような存在になれば幸いです。