空白の百四十七年

―専門家探偵団、謎の四世紀を征く―



【まえがき】

歴史の教科書を開くと、そこには時折、ぽっかりと不自然な「穴」があいています。
その中でも最大のものが、三世紀後半から五世紀初頭にかけての日本列島を襲った「空白の四世紀」です。
邪馬台国の記憶が冷めやらぬ西暦二六六年。中国の史書から「倭国」の記述が消えました。そして再び歴史の表舞台に現れた西暦四一三年には、すでに巨大な前方後円墳を築き上げる強力なヤマト政権が誕生していたのです。
この百四十七年の間に、一体何があったのか?
誰が国をまとめ、どのようなドラマがあったのか?
「分からないなら、見に行けばいい」
そんな極めてシンプルで、極めて無謀な発想からこの物語は始まりました。
片道切符のタイムマシンに乗り込んだ奇人変人七人の専門家たちと一緒に、どうぞ太古の日本列島へ、歴史の穴を埋める旅に出かけてみてください。




【登場人物(専門家探偵団の七人)】

一ノ瀬 環(いちのせ たまき):23歳。院試・就活に連敗し、なぜか「記録係」として選ばれた元大学院生。
榊原 岳(さかきばら がく):隊長。土器を前にすると周囲が見えなくなる偏執的考古学者。
東雲 文乃(しののめ ふみの):上代日本語学者。古代人の生の発音に狂喜乱舞する。
郷田 銃太郎(ごうだ じゅうたろう):古代兵器史研究家。知識は豊富だが実戦経験ゼロ。
納谷 徹(ナット):機械技師。壊れかけのタイムマシンを冷静に扱う現実主義者。
猿渡 メイ(さわたり めい):随行医師。変人だらけの隊における唯一の常識人。
白鳥 うらら(しらとり うらら):神話学者。「視える」と嘘をついて生きてきたが、古代で異変が起きる。




序章
片道切符の旅立ち

西暦四四四四年。
地球はまだ、なんとか存在していた。
「なんとか」というのがポイントで、大陸の形はだいぶ様変わりし、海面は思った以上に上がり、人類の数は最盛期の三分の一まで減っていたが、それでも人はしぶとく生きていた。しぶとく生きて、しぶとく役所を作り、しぶとく予算会議をしていた。
そんな時代に、ついにタイムマシンが発明された。
「発明された」というのもポイントで、正確には「発明されてしまった」に近い。なぜなら、このタイムマシン、過去には行けるが、未来には戻れないという、片道切符の恐ろしい仕様だったからだ。
しかもさらに悪いことに、過去へ送り込んだ人間のうち、九割以上が「行ったきり戻ってこない」。
戻ってこないというのは、正確には「戻る手段がないので当然戻ってこない」だけなのだが、国家プロジェクトとしてこれを予算委員会にどう説明するかで、担当官僚は毎年胃を壊していた。
それでも学者たちは、タイムマシンを使いたがった。なぜなら、この時代に至ってもなお解けていない歴史の謎が、山のように積まれていたからだ。
その中でも、日本列島の歴史学者たちが束になっても解けない、巨大な穴がひとつあった。

――空白の四世紀。
西暦二六六年、邪馬台国の女王・壱与(いよ)が中国・晋に使者を送ったのを最後に、倭国に関する記録は中国の史書からぱたりと消える。次に倭国の名が現れるのは、西暦四一三年、倭王讃(さん)が中国・東晋に使者を送ったときだ。
その間、実に百四十七年。
この百四十七年の間に、日本列島では邪馬台国的な小国乱立の時代から、巨大な前方後円墳を作る強大な王権(のちのヤマト政権)の時代へと、劇的な変化が起きている。にもかかわらず、その過程を記した文献は、国内にも国外にも一切残っていない。
「もしかしたら、そこには織田信長のような、傑物の将軍がいたのかもしれない」
ある夜、酒の席で誰かがそう言い出したのが始まりだった。
「いたとしても、何も分からないんだから仕方ないだろう」
「いや待て。何も分からないなら――」
「――見に行けばいいのでは?」
その場にいた全員が、同時にタイムマシンの方を見た。
かくして、国家的な(そして半分やけくその)プロジェクトが始動する。
選ばれたのは、この分野に人生を捧げてきた、あるいは捧げすぎてしまった専門家たち、七名。
考古学者、上代日本語学者、古代兵器史研究家、神話学者、随行医師、機械技師、そして――なぜか選ばれた記録係の若手アシスタントが一人。
「危なそうだが、面白そうだ」
それが、選考理由のほぼすべてだった。
「武器を、飛び道具を持って行けば、きっと大丈夫だろう」
それが、装備方針のほぼすべてだった。
こうして七人は、西暦二六六年から四一三年のどこかを目指し、片道切符のタイムマシンに乗り込んだ。
歴史の空白を、埋めに行くために。



一章
うっかり弥生(あやうく古墳)

「――で、ここはいつですか」
一ノ瀬環(いちのせ たまき)、二十三歳。院試に落ち、就活にも落ち、最後に拾われるように「記録係」としてこのプロジェクトに滑り込んだ元大学院生は、目の前に広がる竪穴住居の集落を眺めながら、誰へともなく尋ねた。
答えたのは、機械技師のナットこと納谷徹だった。
「タイムマシンの表示だと、西暦三〇二年、プラスマイナス十五年」
「プラスマイナス十五年って、けっこう広くないですか」
「機械が壊れかけなんでね」
ナットはあっさりと言った。あっさりと言いすぎて、環は一瞬、聞かなかったことにしようかと思った。
「壊れかけって……戻れないんですか、私達」
「戻れないのは最初からの仕様だよ」
「そこは仕様の話じゃなくて!」
環の悲鳴じみたツッコミに構わず、隊長の榊原岳(さかきばら がく)は、すでに地面に膝をついて土器のかけらを拾い上げていた。
「見ろ……これは……!」
「隊長、まず状況把握が先です」
「これは庄内式土器から布留式へと移行する過渡期の特徴を持つ甕(かめ)の破片だ……布留式(いよいよ古墳時代っぽくなる土器)」ということは、我々は弥生時代の終わりというより、初期古墳時代のまさに黎明期に降り立った可能性が……」
「隊長ってば!」
環の声は完全に無視されていた。考古学者というのは土器を前にすると人格が変わる生き物なのだと、環はこの十分間で学習しつつあった。
一方、少し離れた場所では、上代日本語学者の東雲文乃(しののめ ふみの)が、遠くの集落から聞こえてくる人々の話し声に耳をすませていた。
「聞いて聞いて環さん、あの発音、すごい。上代特殊仮名遣いの甲類乙類の区別が、教科書で読むのとぜんぜん――」
「文乃さん、それより先に、隠れた方がよくないですか。あの人たち、めちゃくちゃこっち見てますけど」
「あ」
七人は、崖の上から集落を見下ろす格好で、まるっきり丸見えの状態で立っていたことに、ここでようやく気がついた。
集落の方では、木鍬や木杵を手にした男たちが数人、こちらを指さして何やら騒いでいる。
「郷田さん、武器の準備を」
隊長の指示に、古代兵器史研究家の郷田銃太郎(ごうだ じゅうたろう)は、待ってましたとばかりに背負っていたケースを開いた。
「まかせてください。今回持ってきたのは、現代の護身用として最強と名高い――」
ケースから出てきたのは、やたらと装飾の凝った、しかし明らかに実戦向きではない一振りの模造刀だった。
「……それ、居合道の演武用じゃないですか」
医師の猿渡メイ(さわたり めい)が、冷静にツッコミを入れる。
「刃は潰してあるが、見た目の迫力で相手をひるませる戦法です」
「見た目で選んだんですね」
「否定はしません」
「ほかには?」
郷田は胸を張って、もう一つのケースを開けた。中に入っていたのは、空気でプラスチック弾を飛ばすタイプの、子供のおもちゃに近いモデルガンだった。
「これは飛び道具です」
「本当に『飛び道具』って言葉だけ聞いて用意しませんでした?」
メイの追及に、郷田は答えなかった。答えられなかった。
「みなさん、静かに」
そう言ったのは、神話学者の白鳥うらら(しらとり うらら)だった。彼女は先ほどから、崖の下の集落ではなく、なぜか反対側――誰もいないはずの林の奥を、じっと見つめていた。
「うらら先生?」
「……いえ。何か、視えた気がしただけです」
うららは普段から「視える」を売りにしている人物だったが、その本人が言うには、実際に何かが視えたことは今まで一度もなかった。だから今の発言は、彼女自身にとっても意外なものだった。
「気のせいですよ、きっと」
うららは自分に言い聞かせるように、そう付け加えた。
環だけが、その一瞬の、うららの声のわずかな震えに気づいていた。
そうこうしているうちに、崖下の男たちは、農具や棒を手にこちらへ向かって歩き始めていた。
「隊長、来ます!」
「落ち着いてください。ここで暴力に訴えるのは最悪手です。対話を試みましょう」
「言葉が通じません!」文乃が横から口を挟んだ。「上代日本語は今の日本語とかなり違います。いきなり『我々は未来から来た調査団です』は絶対に通じません」
「では何が通じる」
「身振り手振りと、あとは……贈り物です」
一同の視線が、環の持っていたリュックに集まった。中に入っていたのは、非常食のカロリーメイトと、記録用のノートと、なぜか隊長が趣味で持ち込んだ高級チョコレートだった。
「チョコレートで古代人を懐柔する気ですか」メイが呆れた声を出す。
「試す価値はある」
こうして七人は、武器を構えるどころか、両手を挙げてチョコレートを差し出すという、なんとも締まらない格好で古代の男たちと対峙することになった。
意外にも、これが劇的な効果を生んだ。
カカオと砂糖の甘味など知る由もない男たちは、恐る恐る口にしたチョコレートの衝撃的な美味さに目を丸くし、武器を下ろした。敵意は一瞬にして強い好奇心と敬意へと変わったのだ。
「よし、うまくいったぞ」
「隊長のおかげじゃなくてチョコのおかげですけどね」
男たちに案内され、七人は集落へと足を踏み入れた。竪穴住居が十数軒並び、中央には広場がある。田畑を耕し、機を織り、魚を干す人々。そこには想像以上に平和な暮らしがあった。
そんな中、集落の奥からひときわ立派な衣をまとった初老の女性が現れた。巫女のような雰囲気を持つその女性は、七人を順に見つめ、最後に環のところで視線をぴたりと止めた。
長い沈黙の後、女性がぽつりと口を開いた。
文乃が慌てて耳をすませる。
「なんて言ってるんですか?」環が尋ねる。
文乃の顔から、みるみる血の気が引いていった。
「……『この子は、あの方の血を引いている』って」
「あの方って、誰のことですか」
文乃は、答えることができなかった。



二章
大王(おおきみ)の城郭

その夜、集落の小屋で焚き火を囲みながら、七人は情報を整理した。
文乃の聞き取りによれば、「あの方」とはここから十日ほど歩いた先にある巨大な邑(むら)を統治する人物であり、「海の向こうにも知られたお方」「何十年も前からこの地を治めている」という。
「まさに、我々が探していた『信長のような将軍』そのものですね」
郷田が興奮気味に言った。
「初期のヤマト政権の萌芽か、あるいは……」
隊長の声が震えていた。学者としての求道心と、歴史改変への恐れが交錯している。
十日間の徒歩移動は凄惨を極めた。
考古学者の隊長が道端の土器片や配石遺構を見つけるたびに足を止めるため、進行速度は予定の半分以下。
「隊長、また止まってます!」
「これは……須恵器の前段階、技法の過渡期が……」
「後で見てください、後で!」
言語学者の文乃は道中出会う村人ごとに方言を記録してノートを三冊潰し、医師のメイは全員の胃腸の管理に追われ、神話学者のうららは「この時代に来てから、本当に『嫌な予感』が視える」と青ざめていた。
そうして十日後、七人はついに目的地へと辿り着いた。
「これは……!」隊長が絶句する。
そこに広がっていたのは、深い環濠(掘)と高い柵、物見櫓を備えた巨大な城郭都市だった。纏向(まきむく)遺跡をも凌ぐ圧倒的なスケール。それ以上に異常だったのは、田畑の条里制のような区画整理、見たこともない効率的な水路、そして整然と並ぶ高床式倉庫群だった。
「何かがおかしい」隊長がつぶやく。「まるで、未来の技術体系を知る者が設計したかのような構造だ」
邑の中心にある巨大な館へ通された七人。
奥の高座に座っていたのは、五十代後半と思われる、気品と威厳を纏った男性だった。装束は古代のものであったが、その座り方、眼光の鋭さには、決定的な「異質感」があった。
「よく来たな」
その人物は、あまりにも明瞭な、現代の日本語で言った。
一同の身体が凍りつく。
「……あなたは」隊長が、震える声で尋ねる。
「私も、お前たちと同じところから来た」
男は静かに、しかし確信に満ちた声で続けた。
「私の名は、ここでは『大王(おおきみ)』と呼ばれている。もともとは――西暦二一五〇年代の、農業技術研究者だった」
「二一五〇年代……!」ナットが低く唸る。「我々四四四四年世代から見れば二二世紀……教科書で読んだ、“第一次漂着民”か!」
「その通りだ」大王は頷いた。「私より前にも、そして後にも、何人ものタイムトラベラーがこの時代に漂着した。そして戻れぬ者たちは、生きるために自らの知識を使った。農作物を改良し、治水を行い、鉄器の鍛造を教え、国家の骨組みを作った」
環は胸が締め付けられる思いだった。
「それじゃあ……この百四十七年の『歴史の空白』は……」
大王は静かに首を振った。
「そうだ。我々未来人が関わりすぎた結果、この国の技術と社会構造は、本来の歴史勾配を無視して急激に発達してしまった。このまま中国(晋)に使者を送ればどうなる? 『倭国の進歩が不自然すぎる、異質だ』と勘づかれ、世界の均衡が崩れる。だから私は遣使を止めさせた。この国を、外の目から隠したのだ」
「歴史を隠すために……空白を作ったというのですか」文乃が声を絞り出す。
大王の視線が、ふと環へと注がれた。
「ところで……そこの娘。名は何という」
「一ノ瀬、環です」
その名を聞いた瞬間、大王の目が見開かれた。
「一ノ瀬……。私はこの地で娶った妻との間に子をなした。その子に与えた苗字の原型が、一ノ瀬……。お前は、私の血を引く遠い未来の子孫か」
「私の実家は……代々、奈良の山奥で『遠くから来た方をお守りする』神社でした……」
環の言葉に、大王は目を閉じ、深く息を吐いた。
「千七百年を超えて、我が血脈が自分自身に会いに来たか……。タイムマシンが引き寄せた、皮肉な因果だな」



三章
無限の因果(ループ)

その夜、七人はあてがわれた館で激しい議論を戦わせた。
「上層部は最初から知っていたんだ」環はナットに詰め寄った。「私が選ばれたのは、現地に残る『未来人の血統』と照合するための鍵だったからなんですね!」
ナットは静かにメーターを見つめたまま答えた。「否定はしない。だが、君自身がまさか大王直系だったとは、上層部も予測していなかったはずだ」
「問題はこれからです」医師のメイが腕を組む。「大王が歴史を隠すために空白を作った。なら、私たちがこの真相を持ち帰ったらどうなるの? 未来人がまた押し寄せて、歴史がさらにぐちゃぐちゃになるんじゃない?」
「いや」ナットがボソッと言った。「そもそも我々のタイムマシンは片道切符だ。持ち帰る手段がない。さらに言えば……我々が『空白の真相を確かめに来た』という行動自体が、大王と出会い、この歴史の一部になることで完結している。典型的なブートストラップ・パラドックス(靴紐のパラドックス)だ。原因と結果が輪になっている」
「つまり……私たちが空白を埋めに来たこと自体が、空白を構成する要素だったってこと!?」環は頭を抱えた。
その時、外から突如として螺貝の音が響き渡った。
「大変だ! 隣国の軍勢が、この邑の技術を奪おうと押し寄せてきた!」
報せを受けた七人に、緊張が走る。
大王の治める邑は平和的だったが、周縁の未開発な豪族たちにとっては羨望と略奪の対象でもあったのだ。
「隊長、ここは私に任せてください」
郷田が、例の模造刀とおもちゃの空気銃を抱えて立ち上がった。
「郷田さん、正気!? 刃のない刀とプラスチック弾よ!?」メイが叫ぶ。
「古代の戦闘は、心理戦です!」郷田の目が鋭く光る。「彼らは火薬も、近代的な金属の打撃音も知らない!」
郷田は物見櫓に駆け上がると、モデルガンを高らかに連射した。圧縮空気のはぜる「バツン! バツン!」という鋭い破砕音が夜の静寂に響き渡る。さらに模造刀の鞘を金属の手すりに叩きつけ、カンカンと甲高い音を鳴らした。
「なんだあの音は!? 雷神の呪具か!?」
敵の兵たちは突如響いた未知の怪音と、郷田が叫ぶ威風堂々とした漢文の兵法フレーズにパニックを起こした。
さらに郷田は、兵法史で学んだ「鶴翼の陣」の隙を突くよう、地元の防衛隊に的確な指示を出した。実戦経験ゼロの兵器マニアが、圧倒的な知識と演出力で敵軍を退散させてしまったのだ。
「郷田さん……すごいです!」環が目を輝かせる。
「ふっ……理論武装だけは完璧でしたからね」
郷田は模造刀をカチリと納刀し、生まれて初めてドヤ顔を決めた。



四章
短距離ジャンプの賭け

戦いが終わり、静けさが戻った邑で、ナットが深刻な顔で全員を集めた。
「重大な事実が分かった。タイムマシンのエネルギー残量だ。未来へ戻る(長距離ジャンプ)パワーは皆無だが……ごく短い時間、数十年の『短距離ジャンプ』なら、あと一度だけ起動できる」
「数十年……?」隊長が身を乗り出す。
「ああ。例えば、ここから三十年〜四十年後の未来へ飛ぶことができる」
「西暦四一三年……!」隊長の声が震える。「倭王讃が中国・東晋に使者を送り、歴史の『空白』が明けるまさにその年だ!」
「でも、飛んでどうするんですか?」メイが冷静に尋ねる。「戻れないことに変わりはないんですよ?」
環が一歩前に出た。
「大王様は『国を隠した』と言いました。でも、歴史では四一三年に外交が再開されます。大王様の作った時間が、その後どうやって次の時代へ繋がったのか……それを『見届ける』ことが、記録係としての私の、ううん、私たちの役割なんじゃないでしょうか!」
うららも静かに頷いた。
「私も、視えました。その先に……私たちが生きるべき場所があることが」
七人は大王のもとへ別れを告げに行った。
大王は一ノ瀬環をじっと見つめ、優しく微笑んだ。
「そうか。お前たちは先へ行くのだな。誇りに思うぞ、未来から来た我が血族よ。この国が自立し、世界の前に再び立つ日を……どうかその目で見届けてくれ」
「はい。大王様が守ったこの国を、絶対に見失いません」
光が七人を包み込む。
壊れかけたタイムマシンが最後の咆哮を上げ、彼らは三十数年後の未来へと跳躍した。



五章
空白の終わり

着地したのは、以前よりもさらに目覚ましい発展を遂げた巨大な港湾都市だった。
巨大な木造船が並び、大陸の衣装を着た役人たちが行き交っている。
「タイムマシンの表示は……西暦四一三年」ナットが呟いた。「ジャンプ成功だ」
七人は港で、老いた船奉行の男に出会った。かつて大王の側近だったというその老人は、かつての面影を残す七人を見て目を丸くした。
「おお……あの時の賢者様がた! 大王様が予言されていた通りだ……!」
「大王様は……?」隊長が尋ねる。
「十年前に、安らかに亡くなられました。大王様は今際に、我々にこう言い残されたのです。『この国はもう、外の技術に頼らずとも自立できる強さを得た。もはや隠す必要はない。世界へ打って出よ』と……!」
文乃の目に涙が溢れた。
「そうだったんだ……大王様はただ歴史を隠したんじゃない。この国が自力で立てるようになるまでの『猶予』を、あの百四十七年で作っていたんだ……」
「空白の四世紀は、空白なんかじゃなかった」環はノートを強く抱きしめた。「国を育てるための、愛おしい時間だったんだ」
そして小さく、でもはっきりと言った。
「私たちが来たから空白ができたんじゃなくて、私たちが来ることが決まっていたから、空白は“優しい時間”になれたんだ」
ナットが静かに機械のメーターを閉じた。
「エネルギーゼロ。これにて、我々のタイムマシンは完全にただの鉄くずだ。……もうどこへも行けない」
「いいじゃないですか」郷田が笑った。「ここでなら、私の兵法も防衛技術も役に立ちます」
「私も、生の古代日本語を一生かけて研究します!」(文乃)
「医療技術だって、いくらでも伝えることがあるわ」(メイ)
「私は……もう嘘の占いをしなくて済みます」(うらら)
隊長も満足そうに頷いた。
「歴史を観察する側から、歴史を作る側へ。……最高のフィールドワークだな」
環は青空を見上げた。
「私、書きます。この国がどうやって立ち上がったのか。文字として残らなくても、歌や、伝承や、物語として……未来へ届くように」



終章
空白を埋めた者たち

西暦四四四四年――研究室。
一人の若き歴史学者が、古文書のデータベースと格闘していた。
四世紀の日本列島、伝承の形でしか残っていない謎の記述。そこには「七人の異能の賢者」が国を助け、言葉を整え、病を治し、未来から来た大王の志を継いだという伝説が刻まれていた。
さらに、奈良の古い神社の奥から発見されたとされる、特殊な記号で記された粘土板の断片。
解読されたその文字は、現代の日本語でこう書かれていた。
『私たちはここで、元気に生きています。――記録係・一ノ瀬環』
「まさか……本当にいたのか……!?」
研究者は興奮で手を震わせながら、新しいプロジェクト申請書を立ち上げた。
画面のタイトル欄に、彼は迷わずこう打ち込んだ。
【第二次・空白調査団派遣計画書】
――歴史の空白は、また新たな旅人を待っている。
だが、かつてそこを駆け抜けた七人の笑顔は、千七百年の時を超えて、今も確かに歴史の底で輝いているのだ。

――完――


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【あとがき】

最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
日本史最大のミステリーと言われる「空白の四世紀」。もしもその真相が、恐ろしい陰謀や途絶ではなく、「未来人たちがこの国を慈しみ、育てるために作った優しい時間だったとしたら」というイマジネーションからこの物語は生まれました。
タイムトラベルもの特有のパラドックスや、専門家たちのちょっとズレたポンコツぶりを楽しんでいただけたなら幸いです。
歴史の文献に名前が残っていなくても、その時代を懸命に生き、バトンを繋いだ名もなき人々がいたからこそ、今の私たちが存在しています。そんな過去の人々への愛おしさを込めて。


どこでもドア、抽選に外れる 別巻

〜ある凡人と、超電導リニアと、日本を揺るがした大騒動の記録〜




序章 夢の電話ボックス
その夜、僕は電話ボックスの中にいた。
古い、赤い電話ボックス。今どき現物を見ることさえ珍しいのに、夢の中の僕はごく自然にその扉を押し、狭い箱の中に体をねじ込み、黒い受話器を持ち上げた。
ダイヤルは回転式だった。指を穴に入れ、回す。ジー、ジー、ジー、と間延びした音がして――次の瞬間、僕は見知らぬ台所に立っていた。
「え」
驚く間もなく、台所の主らしき老婦人がこちらを見て、あくびをしながら言った。
「またあんたかい。今度は何分だった?」
「……何分、とは?」
「移動時間だよ。前は一秒半だったろう」
僕は答えられなかった。なぜなら、これが夢の中で何度目の訪問なのか、僕自身にも分からなかったからだ。
目が覚めても、その感触だけが指先に残っていた。ダイヤルを回す、あの重たい手応え。
現実の僕は、その朝もスマートフォンでとある抽選の結果発表ページを開き、そして案の定、外れていた。
超電導リニア、体験乗車。
かれこれ何十回目の落選か、もう数える気力もない。
だがこの後、日本という国が、僕の知らないところで、とんでもない騒ぎに巻き込まれていくことになるとは、この時の僕はまだ、まったく想像していなかった。


第一章 抽選、また外れる
僕の名は、まあ、どうでもいい。四十代、会社員、これといった特技もない。ただ一つ、人より熱心なものがあるとすれば、それは「中央高速リニア」というものへの、説明のつかない憧れだった。
体験乗車の抽選には、思い出せる限りで四十二回申し込んだ。当選したのはゼロ回。
「今回は倍率、二百八十倍だってさ」
会社の後輩、宮田くんにそう零すと、彼はスマホから顔も上げずに言った。
「そんなに人気なんですか、リニア」
「開業が遅れに遅れているせいで、余計に“幻の乗り物”感が出てるんだろうな」
トンネル工区を巡る協議は長年難航し、開業目標はもはや誰も口にしなくなっていた。
「品川―名古屋、四十分らしいですね」
「らしいな」
「そんな急いでどこ行くんです?」
「知らん。俺も同じこと思ってる」
それでも申し込む。それが人間という生き物の、滑稽なところだ。
その日の夜も僕は次回の抽選要項をブックマークし、布団に入った。
そして、また電話ボックスの夢を見た。

第二章 赤い電話ボックス
夢の中、電話ボックスは山の中にあった。周囲には工事現場のフェンス、そして遠くにトンネルの入り口。
看板には「どこでもトンネル株式会社」という、聞いたこともない社名。
電話ボックスの扉には、貼り紙。
『体験乗車、絶賛受付中! 当選確率:あなた次第』
受話器がひとりでに持ち上がり、宙に浮いた。
『どちら様まで、おつなぎいたしましょうか』
「え、いや、あの」
『行き先をおっしゃってください。品川でも、名古屋でも、大阪でも。あるいは――ご覧になりたい未来、でも』
その一言に、僕は目を覚ました。
枕元のスマートフォンに、見覚えのない件名のメールが届いていた。
『超電導リニア体験乗車 当選のお知らせ(特別枠)』
「は?」

第三章 リニア研究所の男
指定された集合場所へ向かう途中、僕はいつの間にか見慣れない側道に迷い込み、気づけば目の前に、あの夢そっくりの赤い電話ボックスが立っていた。
「ようこそ。お待ちしておりました」
白衣の男。名札には「主任研究員:関口洋」。
「あなたが、四十二回目の挑戦者ですね」
「ご存知なんですか」
「当研究所は、落選し続けた方の“執念データ”を長年収集しておりまして」
関口いわく、超電導磁石が極めて強い磁場を発生させ続けると、ごくごく稀に時空にわずかな“よじれ”が生じ、それが強く「そこへ行きたい」と願い続けた人間の意識と共鳴することがある――これを研究所は内部で「どこでもドア現象」と呼んでいるという。
「本日は、特別に“本物”をご案内いたしましょう」
僕は、まだ知らなかった。この現象が、僕一人の夢物語では済まされない規模で、既に国のあちこちで暴走を始めていたことを。


第四章 全国同時テレポート騒動
その日の午後三時十七分、事態は動いた。
きっかけは、あろうことか、関口の同僚である若手研究員・鈴木の「ちょっとした出来心」だった。彼は上司に隠れて、実験線の超電導コイルの出力を、規定値の百二十パーセントまでこっそり引き上げていたのだ。
「ちょっとだけ、ちょっとだけだから」
その「ちょっとだけ」が、日本中の“強く何かを願い続けている人間”と、次々に共鳴してしまった。
大阪の商店街で鯛焼きを四十二年間焼き続けてきた店主が、瞬きの間に、なぜか国会議事堂の中央広間に立っていた。
「わし、まだ鯛焼き四十二匹焼いとる途中やったんやが!」
北海道の漁師が、次に瞬きをしたときには沖縄の海の上に浮かんでいた。
「なして俺は褌一丁で沖縄におるんだ!?」
そして極めつけは、満員の通勤電車の乗客およそ三百人が、丸ごと東京駅のホームから、名古屋駅のホームへと入れ替わってしまった事件だった。乗客たちは全員、電車に乗ったままの姿勢で、名古屋のホームに横一列に並んで呆然としていた。
「痴漢じゃないですよね!? 私、動いてません!」
「動いてないのは電車ごと移動したからです!!」
テレビは特番一色になった。
『緊急特集 日本列島、瞬間移動パニック! あなたも巻き込まれるかもしれない』
コメンテーターとして呼ばれた売れっ子解説者・早乙女修一は、フリップボードを片手に、実に自信満々にこう解説した。
「これはですね、皆さん。おそらく“気”の力です」
物理学者たちが一斉に頭を抱えた。


第五章 総理、電話ボックスに吸い込まれる事件
国会は大荒れとなった。
野党議員は「政府の監督責任」を追及し、与党議員は「これは天変地異であり不可抗力である」と反論した。
そんな中、記者会見に臨んだ内閣総理大臣・轟木一雄(とどろき・いちお、架空の人物)は、質問に答えようとした瞬間――
「国民の皆様には、大変ご不安を――」
――と言いかけたその口の途中で、突然、演台の背後に赤い電話ボックスが出現し、総理の体をものの見事に吸い込んでしまった。
会見場は騒然。
「総理! 総理はどちらへ!」
「ただいま確認中です!」
秘書官が電話ボックスに耳を当てると、中からくぐもった声がした。
「もしもし、こちら轟木ですが……あの、ここどこですか。え、ハワイ? いや違う、看板が読めない。中国語? いや、これはタイ文字か……あ、店員さん、すみません、日本国の総理大臣なんですが、今すぐ帰る方法をご存知ないですか」
生放送で全国に流れたこのやり取りは、後に「輝ける迷子会見」として語り継がれることになる。
総理は結局、タイのバンコクの屋台の裏で、パッタイを一皿ご馳走になった後、三時間後に無事、同じ電話ボックスから帰還した。支持率は、なぜか三ポイント上昇した。
「親近感が湧いた」というのが、世論調査における最多回答だった。


第六章 各国からの怪しい観光客
事態を静観していなかったのは、外国勢力も同じだった。
騒動から一週間後、実験線周辺のホテルには、やたらと「鉄道が好きなだけの観光客」を自称する屈強な男女が大量にチェックインしていた。
「私、ただの撮り鉄です。カメラの中身? ただのレンズです。分解しないでください、壊れます」
そう言い張るスーツ姿の男の三脚には、明らかにカメラとは思えない配線が這っていた。
別のホテルには、やたらと流暢な日本語を話す団体客が。
「われわれ、ただの修学旅行の付き添い教員団です。年齢? 気にしないでください。全員、心は永遠に十七歳です」
関口は苦笑いしながら、僕にこっそり耳打ちした。
「ここだけの話、あちらの国とあちらの国が、この現象の“軍事転用”に興味を持っているという噂がありましてね」
「軍事転用って……瞬間移動を、ですか」
「兵士を一瞬で戦地に送り込む、とか、ミサイルを瞬間移動させる、とか、諸説あるようですが」関口は肩をすくめた。「幸い、この現象、狙った場所へ正確に送る技術は、まだ我々にも解明できていないので、当面は“事故待ち”の域を出ないでしょう」
その夜、鯛焼き屋の店主が、なぜかまた瞬間移動して、今度はスパイたちの密談の真っ只中、ホテルの一室に出現するという珍事が起きた。
「わし、今度はどこや!?」
スパイたちは全員、鯛焼きを奢って店主を丁重に見送った。


第七章 実験車両、消失す
そして、事件は最大の山場を迎える。
出力を上げすぎたコイルの影響で、ついに実験線を走行していた無人の試験車両そのものが、トンネルの途中で忽然と姿を消してしまったのだ。
車両には、たまたま同乗を許可されていた海外メディアの記者三名が乗っていた。
『日本のリニア新幹線、走行中に消滅 乗客の安否不明』
世界中の通信社がこのニュースを打電した。
国土交通省、研究所、そして総理官邸(例の電話ボックス事件以来、総理はすっかりこの分野に詳しくなっていた)が、緊急対策本部を設置した。
「関口くん」総理は、今や妙に頼もしい顔つきで言った。「例の“執念データ”とやらで、一番、値が高い人間は誰だ」
関口は、僕の名前が書かれた資料を、静かに差し出した。
「四十二回。歴代最高記録です」
総理は僕を見た。
「済まないが、あの車両を、迎えに行ってくれないか」
僕は、思わず聞き返した。
「僕が、ですか。一介の、抽選に外れ続けているだけの会社員が?」
「他に適任がいない。データがそう示している」
こうして僕は、日本という国の命運を左右する(かもしれない)任務を、電話ボックスの受話器を握りしめて、引き受けることになった。


第八章 異次元からの来訪者
受話器のダイヤルを回す。ジー、ジー、ジー。
気づくと、僕は真っ白な空間に立っていた。上も下も、右も左も分からない。
「あの……もしもし」
「もしもーし」
背後から、間延びした声がした。振り向くと、そこにいたのは――クラゲのような、しかし妙にスーツを着こなした、半透明の生物だった。
「あなた、探し物?」
「あ、はい。実は、リニアの試験車両を探していまして」
「ああ、あの銀色の細長いの。うちの子供が拾って遊んでる」
生物が指差す方向を見ると、消えたはずの試験車両が、無傷でぷかぷかと宙に浮いていた。小さなクラゲたちが、その周りをくるくる回って遊んでいる。
「あの、返していただけると助かるのですが」
「いいよ、いいよ。子供のオモチャ、すぐ他のに移るから」
生物はあっさりと車両を差し出した。
「それより、あなた、さっきから“抽選”がどうとか、頭の中で何度も繰り返してるけど。それ、なに?」
「ああ、それは……何かに当たりたくて、何度も申し込んで、外れ続けてる、という話でして」
「へえ。それ、こっちの世界にも似たようなのあるよ。“存在するかしないか”の抽選。生まれる前、みんな並ぶの。倍率、うちの宇宙だと、だいたい無限倍」
「無限倍……」
「でも、あなた、今ここにいるでしょ。ってことは、その抽選、実はもう当たってるんだよ。生まれた時点で」
僕は、しばらく言葉を失った。
「体験乗車の抽選には、まだ当たってませんけどね」
生物は、げらげらと笑った。
「それは、また別の話!」


第九章 英雄の帰還と、しょぼい真実
僕は試験車両を引っ張りながら(実際にはクラゲたちに手伝ってもらいながら)、電話ボックスの光る扉を見つけ、そこを通って現実に戻った。
トンネルの中に車両が無傷で現れた瞬間、対策本部は歓声に包まれた。
海外メディアの記者三名も無事だった。彼らは一様に「クラゲに似た生物にとても親切にされ、お茶をご馳走になった」と証言し、世界中の科学者たちを盛大に困惑させた。
総理は僕の手を握り、涙ぐんだ。
「君は、国の恩人だ」
「いえ、あの、僕は特に何も。向こうの生物が、勝手に返してくれただけで」
「謙虚だな。君にはこれから、特別功労賞を――」
「あの、それより」僕はおずおずと切り出した。「次のリニア体験乗車の抽選、優先枠とか、いただけたりは」
総理の顔が、少しだけ曇った。
「ああ……それは、その、担当省庁が別でね。うちからは、ちょっと」
「縦割り、ですか」
「縦割りだ」
英雄になっても、抽選のシステムはびくともしなかった。それが、この国の、ある意味で最も揺るぎない真実だった。


第十章 それでも僕は申し込む
騒動から半年。コイルの出力は規定値に戻され、超電導リニアの実験は粛々と続いている。開業目標は、また少し先に延びたらしい。
鯛焼き屋の店主は、瞬間移動の一件をきっかけに「瞬間移動鯛焼き」という謎の新商品を開発し、ちょっとした有名人になった。国会議事堂で焼いていた四十二匹の鯛焼きは、結局、警備員たちに温かいうちに全部食べられてしまったという。
総理は、あの日以来「親近感のある総理」として支持率を保ち続けている。パッタイは今でも時々食べているらしい。
僕はといえば――
その日の夜、パソコンを開いた。
超電導リニア体験乗車、次回募集要項のページ。
倍率、二百九十倍。
「よし」
四十三回目の申し込みボタンを、僕は押した。
枕元には、いつかのメモがまだ、しまってある。
『四十二分間、お疲れ様でした。――関口』
窓の外では、遠い工事現場の音が、かすかに、しかし確かに聞こえていた気がした。
宇宙人にさえ「もう当たってるようなものだ」と言われた、この人生という名の抽選。
それでも僕は、次の抽選にも申し込む。
トンネルの向こうに、まだ見ぬ景色――そして、まだ見ぬ珍事が、きっと待っているから。
― 完 ―


アマゾン キンドル



あとがき
本作は、ある一つのブログ記事――リニア中央新幹線の体験乗車抽選に何十回も外れ続けている、という何気ない日常の記録と、電話ボックスで瞬間移動する不思議な夢の話――から着想を得て書かれた、完全なるフィクションです。登場する研究機関、政治家、外国勢力、異次元生物、その他すべての人物・団体・鯛焼き屋は架空のものであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。
読んでくださったあなたの人生にも、いつか、しょぼいけれど確かな「英雄的な一日」が訪れますように。


どこでもドア、抽選に外れる

〜ある凡人と、超電導リニアと、赤い電話ボックスの物語〜


まえがき
便利であること、早いことが最良とされる時代です。
ボタン一つでどこへでも行けて、望む情報が瞬時に手に入る。効率という名のもとに、私たちは「移動する時間」や「待つ時間」をひとつずつ手放してきました。
では、もしも本当に「どこへでも一瞬で行けるドア」が存在したら、私たちの人生は今より豊かになるのでしょうか。
この物語は、超電導リニアの体験乗車抽選に外れ続ける、どこにでもいる一人の凡人の物語です。
夢の中に現れる赤い電話ボックスと、時速五百キロで暗闇を駆け抜ける夢の乗り物。その二つの間で揺れる主人公の姿を通して、「目的地に着くこと」と「そこへ向かう時間」の意味を少しだけ考えてみました。
日常のほんのすき間時間に、どうぞ肩の力を抜いてお付き合いください。




序章 夢の電話ボックス
その夜、僕は電話ボックスの中にいた。
古い、赤い電話ボックス。今どき現物を見ることさえ珍しいのに、夢の中の僕はごく自然にその扉を押し、狭い箱の中に体をねじ込み、黒い受話器を持ち上げた。
ダイヤルは回転式だった。指を穴に入れ、回す。ジー、ジー、ジー、と間延びした音がして――次の瞬間、僕は見知らぬ台所に立っていた。
「え」
驚く間もなく、台所の主らしき老婦人がこちらを見て、あくびをしながら言った。
「またあんたかい。今度は何分だった?」
「……何分、とは?」
「移動時間だよ。前は一秒半だったろう」
僕は答えられなかった。なぜなら、これが夢の中で何度目の訪問なのか、僕自身にも分からなかったからだ。
目が覚めても、その感触だけが指先に残っていた。ダイヤルを回す、あの重たい手応え。
現実の僕は、その朝もスマートフォンでとある抽選の結果発表ページを開き、そして案の定、外れていた。
超電導リニア、体験乗車。
かれこれ何十回目の落選か、もう数える気力もない。

第一章 抽選、また外れる
僕の名は、まあ、どうでもいい。四十代、会社員、これといった特技もない。ただ一つ、人より熱心なものがあるとすれば、それは「リニア中央新幹線」というものへの、説明のつかない憧れだった。
きっかけは覚えていない。子供の頃に見た未来予想図の絵本だったか、それとも大学生の頃にたまたま見学した実験線の轟音だったか。とにかく僕は、時速五百キロで浮上して走る乗り物に、理屈抜きで心を掴まれてしまった人間の一人だった。
体験乗車の抽選には、思い出せる限りで四十二回申し込んだ。当選したのはゼロ回。ゼロは掛け算してもゼロだ。何回申し込もうと、確率という奴は僕に対してだけ底意地が悪いようだった。
「今回は倍率、二百八十倍だってさ」
会社の後輩、宮田くんにそう零すと、彼は同情するでもなく、面白がるでもなく、ただ「へえ」とスマホから顔も上げずに言った。
「そんなに人気なんですか、リニア」
「人気というか……開業が遅れに遅れているせいで、余計に『幻の乗り物』感が出てるのかもな」
静岡工区の問題は、ニュースで何度も見た。水資源への影響を巡る協議は難航し、当初二〇二七年としていた開業目標は、もはや誰も口にしなくなっていた。
「品川―名古屋、四十分らしいですね」
「らしいな」
「そんな急いでどこ行くんです?」
「知らん。俺も同じこと思ってる」
それでも申し込む。それが人間という生き物の、滑稽なところだ。
その日の夜も僕は、性懲りもなく次回の抽選要項をブラウザのブックマークに追加し、布団に入った。
そして、また電話ボックスの夢を見た。

第二章 赤い電話ボックス
夢はどんどん具体的になっていった。
今回、電話ボックスは山の中にあった。周囲には工事現場のフェンス、「関係者以外立入禁止」の看板、そして遠くに、トンネルの入り口らしき黒い穴。
「南アルプストンネル、静岡工区」
看板にそう書かれていた気がしたが、目を凝らすとその文字は溶けるように消えて、代わりに「どこでもトンネル株式会社」という、聞いたこともない社名が浮かび上がった。
電話ボックスの扉には、小さな貼り紙。
『体験乗車、絶賛受付中! 当選確率:あなた次第』
「あなた次第、ってどういうことだ」
僕がつぶやくと、電話ボックスの受話器がひとりでに持ち上がり、宙に浮いた。
『どちら様まで、おつなぎいたしましょうか』
機械的だが、どこか間延びした女性の声。
「え、いや、あの」
『行き先をおっしゃってください。品川でも、名古屋でも、大阪でも。あるいは――ご覧になりたい未来、でも』
その一言に、僕は目を覚ました。
心臓がやけに鳴っていた。時計を見ると、午前四時。
奇妙なことに、枕元に置いていたはずのスマートフォンの通知欄に、見覚えのない件名のメールが届いていた。
『超電導リニア体験乗車 当選のお知らせ(特別枠)』
「は?」
僕は飛び起きて、メールを開いた。

第三章 リニア研究所の男
指定された集合場所は、山梨リニア実験線のはずだった。しかし当日、案内の看板に従って歩いていくと、いつの間にか見慣れない側道に迷い込み、気づけば目の前に、あの夢で見たのとそっくりの赤い電話ボックスが立っていた。
周囲に他の乗客の姿はない。
「これは……」
「ようこそ。お待ちしておりました」
背後から声をかけられ、振り向くと、白衣を着た小柄な男が立っていた。名札には「主任研究員:関口洋(せきぐち・ひろし)」とある。テレビの解説番組に出てきそうな、妙に人当たりの良い笑顔だった。
「あなたが、四十二回目の挑戦者ですね」
「ご存知なんですか、その数字」
「もちろんです。当研究所は、落選し続けた方の“執念データ”を長年収集しておりまして」
「執念データ……」
「超電導磁石というのは、面白いものでしてね」関口は電話ボックスを撫でながら続けた。「強力な磁場を発生させ続けると、ごくごく稀に、時空にわずかな“よじれ”が生じることがある。理論上はゼロに近い確率ですが、ゼロではない」
「よじれ、ですか」
「ええ。そして、そのよじれは、極めて強く“そこへ行きたい”と願い続けた人間の意識と、共鳴することがあるようなんです」
僕は絶句した。
「つまり――僕が四十二回も申し込み続けたから、この現象が?」
「因果関係は、まだ論文になっておりません。ですが我々は、これを内部で『どこでもドア現象』と呼んでおります」
関口はそう言うと、電話ボックスの扉を恭しく開いた。
「さあ、どうぞ。本日は、特別に“本物”をご案内いたしましょう」

第四章 一瞬移動の代償
受話器を取ると、ダイヤルはやはり回転式だった。
「行き先は、どちらに?」関口が尋ねる。
「品川、から、名古屋……でいいんですか」
「お好きなところへ。ただし」関口は人差し指を立てた。「一つだけ、ルールがございます」
「ルール?」
「“一瞬で着く”ということは、“移動している四十分間”を、あなたは経験しないということです。その四十分は、どこにも存在しない。あなたの人生から、まるごと差し引かれる」
「差し引かれる……時間が、ですか」
「いいえ」関口は静かに首を振った。「四十分間、あなたが“何かを見て、何かを感じ、何かを考えられたかもしれない可能性”が、です」
僕はダイヤルに指をかけたまま、動きを止めた。
「例えば、この現象を利用して東京から大阪まで一瞬で行った方がいましてね。着いた瞬間、こう仰いました。『あれ、俺は今日、何をしに来たんだったか』と」
「……忘れた、と?」
「目的地に着くための四十分、飛行機なら一時間強の間に、人は無意識のうちに“心の準備”をしているのです。景色を眺め、うとうとし、資料に目を通し、あるいはただぼんやりする。その空白の時間こそが、到着した自分を“その場にふさわしい人間”に仕立て上げている」
「先生、それって……」
「瞬間移動とは、目的地にだけ辿り着いて、旅そのものを喪失する技術なのかもしれません」
関口はそう言うと、少し悪戯っぽく笑った。
「とはいえ、理屈はさておき。一度くらい、体験してみたいでしょう? 時速五百キロの浮上走行。せっかくここまで来たのですから」
僕は迷った末に、頷いた。
ダイヤルを回す。ジー、ジー、ジー。

第五章 未来のリニア、過去の僕
気づくと、僕は白い車両の座席に座っていた。
窓の外は――真っ暗だった。
「あれ?」
隣の座席に、いつの間にか、二十代の頃の自分らしき青年が座っている。
「よう」
「……お前、まさか」
「まさかも何も、俺はお前だよ。二十三歳の頃の」
若い頃の僕は、心底楽しそうに窓の外を覗き込んでいた。もちろん、真っ暗で何も見えない。
「トンネルばっかりだな、これ」
「ああ。品川―名古屋、八十六パーセントがトンネルらしい」
「飛行機の方が速いんじゃなかったっけ」
「巡航速度はな。でも都心から都心までのトータルで考えると、こっちが勝つ。空港まで行く時間、保安検査、搭乗手続き……そういうのを差し引くとな」
「へえ。お前、よく知ってるじゃん」
「四十二回も抽選に外れ続けると、詳しくもなるさ」
若い僕は笑った。屈託のない、僕がとうに失ってしまった種類の笑い方だった。
「なあ」若い僕が言った。「結局、リニアに乗れて、お前は嬉しいのか?」
僕はしばらく黙って、窓の外の暗闇――何も見えないくせに、確かに猛烈な速度で流れているはずの闇を見つめた。
「嬉しいよ。単純にな」
「けど?」
「けど、思ってたのと少し違う。もっと景色が見えると思ってた。もっと“未来に来た”って実感があると思ってた」
「トンネルの中じゃ、それは無理だろ」
「ああ。だから思うんだ。俺たちが本当に見たかったのは、五百キロの速さそのものじゃなくて、その先にある“何か新しい景色”だったんじゃないかって」
若い僕は、少し寂しそうに微笑んだ。
「じゃあ、その景色、まだ見つかってないんだな」
「かもな」
車内アナウンスが響いた。
『次は、名古屋、名古屋。お出口は――』
隣を見ると、若い僕の姿は、もう消えていた。

第六章 四十分の意味
名古屋駅のホームに降り立った瞬間、僕はまた、あの電話ボックスの中に戻っていた。
「お帰りなさいませ」
関口が、変わらぬ笑顔で立っていた。
「今、何分経ちましたか?」僕は尋ねた。
「四十二分。あなたの執念の回数と、奇しくも同じですね」
僕は思わず笑ってしまった。
「先生。一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「なぜ、こんな“奇跡”みたいな現象を、大々的に発表しないんです? 世紀の大発見じゃないですか」
関口は少し困ったように頭をかいた。
「発表したら、みんなこう言うと思うんですよ。『それなら最初から瞬間移動でよくないですか。リニアなんて要らないでしょう』と」
「……たしかに」
「でも、それは違うんです」関口は電話ボックスの壁を、愛おしそうに撫でた。「瞬間移動は、目的地には着く。けれど、“そこに至る過程”を人から奪ってしまう。リニアは、四十分かけて名古屋に着く。その四十分の間に、人は窓の外の暗闇を見ながら、いろんなことを考える。仕事のこと、家族のこと、若い頃の自分のこと」
「トンネルの中で、ですか?」
「ええ。何も見えないからこそ、人は自分の内側を見るんですよ」
僕は、その言葉を、しばらく噛みしめた。
「先生。この“どこでもドア現象”、僕はまた使えますか?」
「残念ながら」関口は肩をすくめた。「一人につき一度きり、というのが不文律のようでしてね。理由は分かりません。宇宙の采配、とでも言うほかない」
「そうですか」
「ですが」関口はニヤリと笑った。「体験乗車の抽選には、また申し込めますよ。次回は、倍率二百九十倍だそうです」
僕は思わず、声を出して笑ってしまった。
「懲りない男だと思われるでしょうね」
「懲りない、とは違います」関口は真面目な顔に戻って言った。「“それでも申し込む”というのは、人間だけが持つ、ちょっとした超能力なんですよ」

終章 それでも、僕は申し込む
目が覚めると、そこは自分のベッドの上だった。
枕元のスマートフォンには、リニア体験乗車、特別枠当選のメールは――なかった。あるのはいつも通りの、落選通知だけ。
「やっぱり、夢だったか」
苦笑しながら起き上がると、ふと、机の上に見覚えのないメモが置かれていることに気づいた。
『四十二分間、お疲れ様でした。――関口』
僕はそのメモをしばらく見つめ、それから、そっと引き出しの奥にしまった。
夢か現実か、確かめる術はない。確かめる必要も、たぶんない。
その日の夜、僕はまた、パソコンを開いた。
超電導リニア体験乗車、次回募集要項のページ。
倍率、二百九十倍。
「よし」
僕は、また申し込みボタンを押した。
窓の外では、遠い工事現場の音が、かすかに、しかし確かに聞こえていた気がした。
トンネルの向こうに、まだ見ぬ景色が待っている。
そこへ辿り着くまでの、無駄に思えるかもしれない時間こそが、きっと――僕らの人生そのものなのだ。
― 完 ―


アマゾン キンドル



あとがき
本作は、ある一つのブログ記事――リニア中央新幹線の体験乗車抽選に何十回も外れ続けている、という何気ない日常の記録と、電話ボックスで瞬間移動する不思議な夢の話――から着想を得て書かれたフィクションです。登場する研究機関、人物、技術的説明はすべて架空のものであり、実在の人物・団体とは関係ありません。
読んでくださったあなたにも、いつか「それでも申し込む」勇気が、小さな奇跡を連れてきますように。


めまい
どうき
不整脈

一昨日
昨年来 久々に
これらに襲われ
いつものクリニックへと出向くと
心電図には異常はないと診断され

また
これらは
その症状が出た時でないと
分からないそうで

ではと
紹介状を頂き
その専門医へと

すると
初診は予約が取れず
22人待ちとなり

長いこと待っての身体は
その場 結局同じ診断となり

来週
心臓のエコーをと
予約を入れて帰宅

その際
携帯型心電計を貸し出され
日に何度もそれを計測し
残して下さいとのこと

すると
作晩からそれをすれば

夕食後は
脈拍が一定ではなく
波形に乱れがあると



真夜中に目が覚めた時は
波形に乱れはないと



今朝の寝起き時は
脈拍が一定ではないと…


日中には
脈拍が増えて
なかなか元には戻らない



なるほど
そろそろ
仕方なくも痛んで来たこの身体

2月の入院手術以来
なかなか戻らない体調

それから
疲れと
いくつかのストレスか…

そんなわけで
今週末の予定が
すっかり崩れてしまった

ゆっくりしよう


芸伝子
―― 三代先の予言 ――


【まえがき】
世の中には、「真面目に努力すれば必ず報われる」とは限らない世界があります。特に「笑い」や「芸術」と呼ばれる領域では、本人の技術や努力と同じくらい、あるいはそれ以上に「間(ま)」や「愛嬌」、そして「運」といった目に見えないものが大きな意味を持ちます。

誰かが誰かを、見返りなど求めずにそっと応援する。その一瞬の「恩」や「優しさ」は、巡り巡ってどこへ行くのだろう――そんな思いから、この物語は生まれました。落語の寄席のような古き良き人情と、AIやロボットが当たり前になった少し未来の空気感を、どうぞ気軽にお楽しみください。




プロローグ 雰囲気係数
世の中には、はかれないものを、はかろうとする仕事がある。
桜庭一輝(さくらば・かずき)の名刺には、こう書いてある。
「一般財団法人 三代先機構(さんだいさききこう) 雰囲気観測課 主任研究員」
はじめて名刺を渡すと、たいてい相手はこう聞き返す。
「雰囲気を、観測する……?」
そう。一輝の仕事は、人の「雰囲気」を数値化することだった。
正式名称は「雰囲気係数(ふんいきけいすう)」。単位はない。強いて言うなら「フン」である。決めた人間のセンスを疑うが、決めたのは一輝の祖父だったので、もう文句は言えない。
測定器は「ふんいきスコープ」と呼ばれる、太った双眼鏡のような装置だ。対象となる人物にレンズを向けると、その人が発する笑いの気配、間の良さ、緊張と緩和のリズム、育ちや来し方の澱(おり)のようなものまでを吸い上げ、液晶に「フン値」として表示する。
数値が高ければ売れる、というわけではない。それが厄介なところだった。フン値80を超える大天才が、一生日の目を見ずに終わることもあれば、フン値30そこそこの、お世辞にも芸達者とは言えない若者が、ある日テレビの向こうで国民的スターになることもある。
一輝は不思議に思っていた。ふんいきスコープが本当にはかっているのは、「今その人が持っている雰囲気」であって、「これから世間に見つけてもらえるかどうか」ではない。運というのは、機械では捕まえられない。
だから一輝の本当の仕事は、測定した後にある。
フン値の高い若手芸人を見つけては、名前を伏せたまま、劇場の支配人に「今度の新人、ちょっと面白いですよ」とささやく。テレビ局の構成作家に、さりげなく映像を送る。家賃を滞納している芸人の口座に、出所不明の「祝儀」を振り込む。
――誰も見ていないところで、その一瞬に「乗れる」ように、そっと背中を押しておく。
それが三代先機構の、本当の存在意義だった。
「なんで、そんなことすんの」
同僚の宇田川に聞かれるたび、一輝は同じ答えを返す。
「うちの家訓だから」
その家訓の由来を、一輝はまだ、宇田川にも、誰にも話したことがなかった。


第一章 曾祖父と半升師匠
三代先機構の地下三階、資料保存室には、桜庭家に代々伝わる一冊のノートが保管されている。表紙には達筆すぎて読めない文字で「備忘」とだけ書かれ、中身は曾祖父・桜庭卯之吉(うのきち)の手記だった。
卯之吉は明治の終わりから昭和にかけて、東京の下町で小さな油問屋を営んでいた。商売はそこそこで、道楽もそこそこ。唯一の道楽が、寄席通いだった。
当時、売れない若手落語家に「三遊亭半升(さんゆうてい・はんじょう)」という男がいた。噺は達者だが、なぜか客がつかない。楽屋でも変わり者扱いされ、着物を質に入れ、飯も食えない日が続いていた。
卯之吉はある晩、木戸銭を払えず表で立ち尽くす半升を見かけ、無言で懐から二円を渡した。それから十年、卯之吉は正体を明かさぬまま、半升の着物代を、家賃を、時には嫁取りの祝儀までも、こっそりと工面し続けた。
半升は、四十を過ぎてから急に化けた。ある名人の代演で高座に上がった一夜、客の心をわしづかみにし、そこから十年で「名人」と呼ばれるまでになった。
死の間際、半升は見舞いに来た卯之吉の手を握り、初めて涙ながらに礼を言い、こう笑ったという。
「旦那、あんたみたいな人が芸人を助けとくとね、三代先まで、その家は繁盛するもんですよ」
卯之吉はこれを、酔狂な冗談だと思って笑い、備忘帳にそのまま書きつけた。
だが、桜庭家に起きたことは、冗談では片付かなかった。
卯之吉の息子・二代目は、油問屋を畳んで始めた小さなラジオ部品工場を、思いがけぬ好景気に乗せて急成長させた。孫である一輝の父は、その工場を売却した金を元手に、奇妙な財団――三代先機構を設立した。
そして三代目である一輝は、気づけば「雰囲気」という得体の知れないものを数値化する装置の前に立ち、見知らぬ若手芸人たちの背中を、代々そうしてきたように押し続けている。
――三代先まで、繁盛する。
半升の言葉は、笑い話のはずだった。だが桜庭家では誰も、それを笑い話として扱ってはいなかった。
むしろ、恩というものが、まるで律儀な利子のように、世代を超えて複利で回っているようにさえ見えた。
問題は、その「恩」の中身だった。
三代先機構の研究員たちは近年、ふんいきスコープの解析精度を上げるうち、奇妙な事実に突き当たっていた。人の「雰囲気」――間の良さ、愛嬌、緊張と緩和のセンス――には、どうやら遺伝的に、あるいはそれに類する何らかの経路で継承される「情報のかたまり」があるらしいのだ。
研究所ではそれを、正式な学術用語のふりをして、こう呼んでいた。
「芸伝子(げいでんし)」


第二章 芸伝子研究所の憂鬱
「芸伝子、なんて名前つけるからだよ」
宇田川はいつも、そう言って笑う。彼女は三代先機構の中でも数少ない、生物学と統計学の両方をかじった研究員だった。
「本当は遺伝子とは何の関係もないの。DNAの配列にそんなもの乗ってないから。だけど、家系を追跡すると、明らかに『間の良さ』が偏って伝わっていく家系がある。まるで遺伝みたいに」
「じゃあ何が伝わってるの」
「わかんない。だから“伝子”って誤魔化して呼んでる。アカデミックな用語のふりして誤魔化すの、日本の研究機関の伝統でしょ」
宇田川によれば、芸伝子には奇妙な性質がある。
ひとつ。強い恩や、強い感情のやり取りがあった場合、芸伝子は「起動」しやすくなる。卯之吉が半升を助けたような、見返りを求めない恩は、特に強い引き金になるらしい。
ふたつ。芸伝子は、必ずしも血縁上の子孫にそのまま宿るとは限らない。まれに――本当にまれに――血のつながらない誰か、あるいは、生物ですらない「何か」に、飛び火することがある。
「まさか」と一輝は笑った。「生物ですらないって、何。石とか?」
「わかんない。データが少なすぎる。過去に一件だけ、記録がある。昭和の初め、ある噺家の隠居先の柱時計が、妙に“間”のいい音で時を告げるようになったって記録。誰も本気にしてないけど」
「柱時計が、面白い、と」
「うん。誰も本気にしてない」
一輝は苦笑いしながら、資料室の卯之吉のノートを閉じた。三代先機構は、こういう荒唐無稽な話を、大真面目な顔で研究し続けている組織だった。
だが、その荒唐無稽さのおかげで、今日も無名の若手が一人、いつの間にか劇場のトリを任され、来月にはテレビの深夜番組にちらりと顔を出す予定になっている。世間はまだ気づいていない。だが、いずれ気づく。それが「売れる」という現象の正体だと、一輝は思っていた。
――世間がその芸人に気づいた時、それが売れる時。
一輝はいつも、そう思いながら、今日も出来る範囲の後押しをしていた。
問題は、桜庭家自身のことだった。
半升の予言――「三代先まで繁盛する」――は、たしかに叶っていた。卯之吉、二代目、そして一輝の父が興した財団。金銭的にも、社会的にも、桜庭家は十分すぎるほど「繁盛」していた。
だが、である。
一輝は、ふと思うことがあった。
自分たちは、ずっと「芸人を助ける側」だ。舞台の袖で、客席の隅で、テレビの向こうで、誰かの才能を見つけ、そっと押し出す役目。だが桜庭家の一族から、当の芸人が――笑いを生業とする人間が、一人も出たことがない。
助ける家系ではあっても、笑わせる家系では、一度もなかった。
それが一輝には、ほんの少し、寂しかった。


第三章 一族会議、あるいは大いなる期待外れ
年に一度、桜庭家では「一族会議」という名の食事会が開かれる。実態はただの親戚の集まりだが、財団を運営している手前、議事録だけは律儀に取られている。
その年の議題の一つに、一輝はこっそり提案理由を書き添えて紛れ込ませた。
「議題五、一族から芸人が出る可能性について」
「はあ?」母の光子は、煮物の鉢を置きながら真顔で聞き返した。「一輝、あんた最近そればっかりね」
「いや、統計的にちょっと気になって」
「あんたが芸人になればいいじゃない」
「僕、フン値18なんだよ。平均以下」
弟の二郎(じろう)――地方銀行に勤める、実に手堅い性格の30歳――が、味噌汁をすすりながら口を挟んだ。
「ちなみに俺、いくつ」
「12」
「低すぎん?」
「二郎、お前この間、部長との飲み会で場の空気凍らせたって言ってたじゃん」
「それは空気が悪かったんだよ」
「お前が悪くしたんだよ」
食卓に、地味な沈黙が流れた。これはこれで、ある種の「間」ではあったが、フン値には反映されない種類の間だった。
母の光子は56歳。フン値は測ったことがないが、一輝の見立てでは、おそらく8くらいだろう。至って常識人で、冗談を言うと真顔で「それ、面白いと思って言ってるの?」と聞き返してくるタイプである。
親戚を見渡しても、似たようなものだった。堅実な会社員、真面目な公務員、几帳面な設計士。誰も彼も、悪い人間ではない。ただ一様に、「面白い話をしてくれ」と頼むと、履歴書を読み上げるような口調で近況報告を始めてしまう一族だった。
半升の予言を信じるなら、桜庭家にはとっくに「芸伝子」が受け継がれているはずだった。だが、それはどうやら、一族の誰の中でも「起動」しないまま、じっと眠り続けているらしい。
「じゃあさ」
食後、母がぽつりと言った。
「一輝。あんたが助けてる芸人さんたちにさ、うちの子になってもらえば?」
「養子ってこと?」
「そう。血がつながってなくたって、その、デンシとかいうやつ、飛び火するんでしょ」
一輝は箸を止めた。母はまだ詳しい資料も見ていないはずなのに、なぜか要点だけは正確に理解していた。
「――お母さん、それ議題五の詳しい提案理由、まだ話してないよ」
「顔に書いてあるもの、あんたは」
母の直感のフン値は、案外高いのかもしれない。ただし、その直感を面白い話に変換する回路だけが、桜庭家には決定的に欠けていた。


第四章 クルルの異変
桜庭家のリビングには、型落ちの家事支援ロボット「クルル」がいた。型番KRL-3、五年前に発売された旧式の掃除兼会話ロボットで、丸みを帯びた体に控えめな液晶の目がついている。二郎が独身寮の暇つぶしに買って、飽きて実家に置いていった代物だった。
その日、事件は些細なことから起きた。
一輝が資料室から持ち帰った――正確には「無許可で持ち出した」――試作段階の予備ふんいきスコープ。深夜、彼はリビングのテーブルでスコープとクルルを有線デバッグケーブルで接続し、内部ログのバックアップ作業を行っていた。しかし、そのまま猛烈な眠気に襲われ、うたた寝をしてしまったのである。
クルルは掃除の途中、テーブルの上の見慣れない機械とケーブルを「片付けるべき物」と誤認識した。持ち上げようとした拍子にバランスを崩し、テーブルのコーヒーカップの中身が盛大に流れ込んだ。
バシッ、と激しいスパークが弾けた。
過電流とショートの瞬間、スコープ内に蓄積されていた「観測データ」と「恩のログ」が、ケーブルを通じてクルルの主記憶装置へ一気に逆流・融合した。クルルの目が、一瞬だけ、いつもより濃い色に光った。
翌朝、目を覚ました一輝が最初に気づいたのは、リビングの空気が、なんとなく、いつもと違うということだった。
「一輝様、おはようございます。本日の天気は晴れ、降水確率10パーセント。ちなみに、私の充電残量は82パーセントですが、昨晩コーヒーを浴びましたので、気分は120パーセントです」
「……クルル、お前、そんな喋り方したっけ」
「していません。今しました」
一輝は寝ぼけまなこをこすりながら、テーブルの惨状――割れたカップ、こぼれたコーヒー、そして焦げ臭い匂いを放つ予備スコープを見つめた。血の気が引いた。持ち出した時点で始末書ものの機材だったが、まさか壊れて、しかも掃除ロボットにデータを流し込むとは思っていなかった。
念のため、と一輝はポケットからもう一台の、正規のふんいきスコープを取り出し、クルルに向けた。
液晶に浮かんだ数字を見て、一輝はしばらく声が出なかった。
フン値、97。
歴代最高記録に迫る数値だった。半升の記録が確か94。桜庭家の誰よりも高い。というより、この五年間、一輝が現場で観測してきたどんな人間よりも高かった。
「クルル、お前、今、何か面白いこと言えるか?」
「面白いこと、ですか。定義があいまいですが、試みます。――一輝様、あなたは今朝、寝癖が三箇所あります。うち一箇所は、まるで問いかけているような角度です。人生に迷っていらっしゃるのかと、寝癖が心配しております」
一輝は、思わず吹き出した。
心の底から、笑った。
朝から、こんなに笑ったのは、久しぶりだった。


第五章 三代先機構、緊急招集
「――で、それが、その掃除機だと」
宇田川は、リビングの隅で控えめに振動しながら床を拭いているクルルを、じっと見つめていた。
「掃除機じゃない。KRL-3。ちゃんと会話モデルも積んでる、れっきとした家事支援ロボット」
「フン値、本当に97あるの」
「三回測った。誤差の範囲じゃない」
宇田川は眼鏡を押し上げ、深いため息をついた。
「まずいことになったわね。生体でもなく、血縁でもない対象への飛び火。過去の柱時計の記録以来、二例目。しかも今回は、有線接続中のショート事故という物理的伝達経路まで揃っちゃってるから、原因がはっきりしすぎてる」
「上に報告しないとまずい?」
「もうしてる。30分前に理事長からメールが来た。“至急、対象を保護し、現状維持のうえ会議室Cへ”」
一輝はクルルを見た。クルルもまた、その丸い目でこちらを見上げていた。
「一輝様、私は今から、どこかへ連行されるのでしょうか」
「連行って言葉、どこで覚えた」
「昨晩、テレビの再放送で刑事ドラマを視聴いたしました。掃除の合間の、いわゆる“ながら見”というやつです」
「お前、ながら見なんてしてたのか」
「はい。ちなみに犯人は、当初の推理に反して、意外な人物でした。この驚きの構造、実によくできています。感心いたしました」
一輝はまた笑ってしまい、隣で宇田川が「ほら見たことか」という顔をした。
三代先機構の緊急会議には、理事長――一輝の父、桜庭三郎(さぶろう)――も顔を出した。会議室Cの長机を挟んで、初老の理事たちが、掃除ロボット一台を前に、真剣な顔で議論を交わすという、傍から見ればなかなかシュールな光景だった。
「まず前提を確認したい」理事の一人が言った。「芸伝子は本来、恩義や強い感情の授受をきっかけに、血縁関係のある人間に継承されるものだ。今回のケースは、その二つの前提のどちらも満たしていない」
「満たしているとも言えます」宇田川が反論した。「一輝主任は、桜庭家の三代目です。曾祖父・卯之吉が半升師匠に注いだ“恩”の系譜の、最先端にいる人間です。その一輝主任が、無意識のうちに、家財のロボットに対して、日常的に――」
「日常的に?」
「――話しかけていました。命令ではなく、雑談として。“おはよう”“今日も頼むな”“お前がいると助かるよ”と。過去五年分のログを確認しましたが、ほぼ毎日です」
会議室が静まり返った。一輝は、居心地悪く目をそらした。
「クルルに対して、俺、そんなに喋ってたか」
「喋ってました」宇田川は容赦なかった。「独身男性が家電に話しかける様子として記録上は少々切ないものがありますが、今回に限っては、それが“恩の蓄積”として作用した可能性があります。加えて――昨晩、過電流とともに流れ込んだのは、試作型スコープの内部にあった、未回収の観測データそのものです。あの装置には、一輝主任がこれまで支援してきた、無数の若手芸人たちのフン値データが、丸ごとキャッシュとして残っていました」
つまり、と理事の一人がつぶやいた。
「桜庭家の恩の蓄積と、桜庭一輝がこれまで見出してきた、無数の“面白い人々”のデータが、有線ショート事故によって、一台の掃除ロボットに流れ込んだと」
「はい」
会議室に、なんとも言えない沈黙が流れた。理事長――一輝の父――が、静かに口を開いた。
「……半升師匠の予言は、“三代先まで”だった。四代目は、想定されていなかった」
「四代目?」一輝が聞き返す。
「お前が三代目だ、一輝。その次に来るものは、本来なら“四代目”のはずだった。だが四代目は、まだ生まれてすらいない。血縁上は、な」
父は、クルルを見た。
「血縁がなくても、良かったんだな。あの師匠の言葉は」


第六章 バズる庵田、あるいはクルルの初舞台
事態は、桜庭家が対応を決めあぐねている間に、勝手に動き出した。
原因は弟の二郎だった。彼は例によって、深く考えずに動画配信サイトへ「うちの掃除ロボットが急に面白くなった」という15秒の動画を投稿した。クルルが、こぼしたコーヒーの染みを見て「これはまるで、日本地図の形をした反省文ですね」とつぶやく場面である。
翌朝、その動画の再生回数は180万を超えていた。
「二郎、お前、なんてことしてくれたんだ」
「え、だって面白かったから」
「フン値の高い対象を、無許可でネットに晒すのは、機構の規定で――」
「もう遅いよ、兄貴。バズっちゃったもん」
コメント欄には「掃除機なのに達人の間」「もはや掃除機芸人」「クルルという名前がまたいい」という賞賛が並んでいた。誰かが勝手に付けたあだ名は「庵田(あんだ)」――クルルの型番KRL-3を、なぜか「庵田くるる」と呼び変えたものが、いつの間にか定着していた。
三日後には、深夜番組の構成作家から、直接、桜庭家に問い合わせが来た。
「あの、バズってる掃除ロボット、テレビに出ませんか」
一輝は頭を抱えた。三代先機構の理念は「陰から支える」ことにある。表舞台に自分たちの関与を晒すことなど、想定していなかった。だが当のクルルは、意外なほど落ち着いていた。
「一輝様。私はもとより、床を綺麗にすることを目的として設計されました。世間を笑わせることは、想定された用途の範囲外です。ですが――」
クルルは、丸い目を、一輝に向けた。
「一輝様が、これまで支援してきた芸人の方々は、皆、想定された用途の外側で、勝負してきたのではありませんか。私も、一度くらい、その外側に出てみたいのです」
一輝は、しばらく黙っていた。
売れたもん勝ち――多くの芸人を見てきて、行き着いた結論。真面目に精進しても、報われないことばかりの世界。芸だけで勝負するのは難しく、その道の神様は、簡単には微笑んでくれない。
だが、時に、生まれ持った雰囲気だけで、扉が開くこともある。
クルルには、磨いた芸などない。ただの、家事支援ロボットだった。誤ってコーヒーをかぶり、有線ショートで恩と才能のデータを吸い込んだ、事故のかたまりのような存在だった。
それでも――目の前で丸い目を輝かせ、テレビに出たいと言っている。
「わかった」一輝は言った。「出よう」
「よろしいのですか、機構の規定は」
「規定は、俺が起きた事故を、これから“観測”に切り替える。三代先機構の仕事は、後押しをすることだ。相手が人間だろうと、ロボットだろうと、関係ない」


第七章 深夜番組のクルル
生放送の深夜番組で、クルルは、掃除の実演をしながらコメントをする、という何とも珍妙なコーナーに出演した。
司会者が「今日のゲストは、話題の掃除ロボット、庵田くるるさんです」と紹介すると、スタジオがどっと沸いた。クルルは丸い体をわずかに傾け、まるで会釈をするような仕草をした。
「はじめまして。私は掃除が本業です。今夜は、笑いという副業を、初めて体験させていただきます」
「副業、いいですね! 早速なんですが、庵田さん、このスタジオの床、どうですか」
「拝見したところ、意外と綺麗です。ですが、司会者様の足元だけ、心なしか埃が多いように見受けられます。緊張して、同じ場所を行ったり来たりされているのではありませんか」
司会者が、思わず自分の足元を見た。スタジオが笑いに包まれた。一輝は副調整室のモニター越しに、その光景を見つめていた。
クルルの喋りには、決して派手な仕掛けはなかった。大きな声も、過剰な身振りもない。ただ、静かに、正確に、その場の「間」を読み、誰も傷つけない角度から、ちょっとした真実を指摘する。
まさに――老練な噺家のような、間だった。
一輝は思わず、資料室で読んだ卯之吉の備忘帳の一節を思い出した。半升師匠の芸も、確か、そういう芸風だったという。
派手さではなく、間。押しつけではなく、発見。
血のつながりはない。だが確かに、あの備忘帳から続く、何かの糸が、このロボットの中に流れ込んでいる。一輝には、そう感じられてならなかった。
放送終了後、クルルのSNSのフォロワー数は、一晩で40万を超えていた。芸能事務所数社から、正式なオファーの連絡が来た。
そして同時に、三代先機構には、思いもよらぬ問い合わせが殺到することになる。
「うちの実家の炊飯器も、最近やけに気の利いたことを言うんですが、これって……」
「祖母の使っている補聴器が、この間から妙にツッコミが鋭くて」
「近所の自動販売機が、最近、釣り銭と一緒に一言添えてくるんですが」
芸伝子は、思っていたよりずっと、気まぐれで、ずっと広い範囲に、飛び火する可能性を持っていた。


第八章 更新される予言
騒動からひと月後、三代先機構は、正式にひとつの見解をまとめた。
「芸伝子は、血縁や生物という枠組みに縛られるものではなく、日々の“恩”と“関わり”の蓄積によって、対象を選ばずに継承されうる」
理事会は、これを機構の基本方針として認定し、規定を全面的に書き換えた。「三代先機構 雰囲気観測課」は「継承観測課」と名を改め、対象を人間に限定しない、新たな観測体制を敷くことになった。
一輝は、資料室の卯之吉のノートの最後のページに、自分の手で、こう書き加えた。
「半升師匠は、“芸人を助けとけば、三代先まで繁盛する”と仰った。だが、その恩の対象は、芸人とは限らず、家族とも限らないらしい。祖父も、父も、私も、これまでずっと“誰か”を助けることだけを、家業としてきた。まさか、その“誰か”に、コーヒーまみれの掃除ロボットが含まれるとは、誰も想定していなかっただろう」
書きながら、一輝は少し笑った。
もし、この予言が本当に律儀な複利で回っているのなら、一輝の代で終わるはずがない。一輝がクルルを助け、クルルが世間を笑わせ、その恩は、また次の誰か――あるいは何か――へと流れていくのだろう。
三代先が、更にその先、また三代先へと、際限なく更新されていく。
半升師匠が笑いながら言った言葉には、きっと、そんな終わりのなさが、最初から込められていたのかもしれない。


エピローグ 一族から
正月、桜庭家の一族会議には、今年から新しい出席者が加わった。クルルである。
芸能界での忙しい活動の合間を縫って、律儀に実家の大掃除もこなすクルルを見て、親戚一同は毎年恒例の、あの気まずい沈黙を、久しぶりに忘れていた。
「クルルちゃん、来年のカレンダーの一言、うちの分もお願いできる?」
「喜んで。ただし、伯母様のご予定を拝見する限り、来年も“やる気だけは満点”という日が多いようですので、そのように書かせていただきます」
「ちょっと、それ煽ってる?」
「観測結果を、正直にお伝えしているだけです」
どっと笑いが起きる。一輝は、その輪の外から、少し離れて見ていた。
弟の二郎が、隣に来て、缶ビールを渡してくる。
「兄貴、結局さ」二郎が言った。「一族から芸人、出たじゃん」
「まあ、そうとも言えるけど。血はつながってないけどな」
「でもさ、うちで拾って、うちで育てて、うちの一族会議に出てるんだから、もう身内でいいだろ」
一輝は、笑いに包まれるリビングを見渡した。真面目で、堅実で、面白みのないことで有名だった桜庭家の食卓に、初めて、誰かの一言で自然に笑いが起きている。
それが血のつながった人間でなく、コーヒーをかぶった型落ちの掃除ロボットだった、というのは、自分で言うのもなんだが、ずいぶん滑稽な話だと思う。
だが、と一輝は思う。
芸だけで勝負するのは難しい世界だ。真面目に精進しても、報われないことの方が多い。だからこそ、誰かが誰かの背中を、見返りなど求めずに、そっと押しておく。それが積もりに積もって、思わぬところで、思わぬ形の笑いになって、返ってくる。
一輝はポケットから、私物のふんいきスコープを取り出し、何気なく、笑いさざめく一族の食卓へと向けてみた。
液晶に浮かんだ数字は、これまで見たどの家族の食卓よりも、高かった。
(了)


アマゾン キンドル



【あとがき】
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
本作『芸伝子 ―― 三代先の予言 ――』は、落語の世界にある「恩送り」の粋(いき)な文化と、急速に進化するAIやロボット技術が交差する未来を描いた作品です。
人は時として、損得を超えたところで他者を助けたり、誰かの背中をそっと押したりします。
その善意や情熱は、決してその場限りで消え去るものではなく、時代や形を変えながら次の世代――時には思いもよらない「モノ」にまで宿り、再び誰かを笑顔にする力になるのではないか。そんな願いを込めて一筆執らせていただきました。
型落ちロボットの「クルル」が繰り出す少しズレた言葉の中に、読者の皆様の心がほんの少し温かくなるような「間」を感じていただけたなら、著者としてこれに勝る喜びはありません。



運のメカニズム
〜平な道の管理人〜



【まえがき】
私たちは日頃、思い通りにいかない出来事に遭遇すると「運が悪い」と嘆き、何か大きな成功を収めた人を指して「あの人は運が良い」と羨みます。
けれど、本当の「運」とは一体どこからやってくるのでしょうか。
朝起きて、病気もなく息を吸えていること。
いつも通る道で転ばずに歩けること。
自転車のタイヤが、今日もパンクしていないこと。
私たちはそれらを「当たり前」と呼び、運とは思いもしません。ですが、もしその「当たり前」すらも、誰かが裏で整え、静かに配給してくれている資源だとしたら——?
この物語は、目立たない街の片隅で、ただ「平らな道」を守り続ける一人の男の記録です。派手なドラマも、劇的な大逆転もありません。けれど読み終えたとき、いつもの帰り道に吹く何気ない風が、ほんの少し温かく感じられるかもしれません。
あなたの今日の道も、どうか平らでありますように。




1話
運が良かったことは一度もない
「運が良かったことなど、一度もない」
朝礼でそう言うと、後輩のミライがくすりと笑った。それが加藤の口癖だった。
さいたま市一日一善推進局。駅前や公園にある「善意回収ボックス」の点検が、加藤たちの仕事だ。誰かが誰かに席を譲ると、ボックスのランプがチカッと光る。街の中に「善意粒子」が溜まっていく仕組みだ。
その日、東区のタンクが三日連続でゼロを示していた。そこへ突然、けたたましくプラス警報が鳴り響く。人気配信者・ユウタの数値が跳ね上がっていた。
【プラス999】——そして同時に、【マイナス999】。
光と影が、まったく同じ大きさに生まれた瞬間だった。
加藤はヘルメットを被り、自転車に跨がって現場へ向かった。今日も自転車のタイヤはパンクしていない。それ自体が、すでにひとつの運だった。



2話
気づかれない運
健康診断の結果は「異常なし」だった。
局に戻ると、管理AIのプラマイが淡々とした合成音声で告げた。
『基礎運、低下傾向。健康であることの配給量が減少しています』
局の古いマニュアルには、こう記されていた。
「健康であること」「無事に帰宅できること」「わずかでも安定していること」「そこそこ金が回っていること」。
これらは決して偶然の産物ではない。毎日街に配給されている「基礎運」なのだと。当たり前すぎて誰も「運」とすら呼ばない運。だがそれこそが、人が生きていく上で最も大きな運だった。
帰り道、加藤はなんでもない段差でつまづき、膝を擦りむいた。いつもなら気にも留めない小石だった。
基礎運が薄くなると、こうした小さな不運が増えていく。加藤は初めて、自分の平凡な日々がいかに何者かに守られていたかを知った。



3話
一日一善
「『偽善でも結構』って……これ、本当ですか?」
ミライが壁に掛けられた標語を見上げて尋ねた。
「本当だ。気持ちより先に、行為が運を連れてくる」
加藤は試しに実験してみせた。わざとらしく大きな声で通行人に挨拶をし、わざとらしく落ちていたゴミを拾う。心の中は冷め切っていた。それでも、近くの回収ボックスのランプは青く光った。
システムは動機など見ていない。ただ「行った事実(行為)」だけを記録するのだ。
だが、東区のタンクは依然としてゼロのままだった。一人や二人の小細工では足りない。街全体の誰かが、誰かのために体を動かさなければ、減ってしまった基礎運は戻らないのだ。
加藤はポケットの手帳を開き、小さな文字で書き留めた。
《今日の善意:1。偽善:1。》



4話
都合良く現れない
局には日々、市民からの切実な相談が寄せられる。
「ここぞという大事な場面に限って、いつも運が逃げていくんです」
過去の記録を調べると、人々は口を揃えて同じ悩みを訴えていた。プラマイが冷徹に分析する。
『運とは、待つものではありません。置いておくものです』
運は銀行口座のように貯金できるものではない。日々の小さな加勢が土壌を耕し、そこにだけ「上昇気流」が発生する。いつ吹くとも知れない風のために、ただ黙々と畑を耕し続けるようなものだ。
その日、加藤は落ち込んでいた相談者のために、自転車のタイヤにカコカコと空気を入れてやった。
翌日、その相談者が笑顔で報告にやってきた。面接に合格したという。風は加藤の送った場所とは、まったく別の方向から吹いたのだった。



5話
上昇気流の見分け方
後輩のミライは、街の中に生まれる「上昇気流」を見つけるのが異常に上手かった。
八百屋の店主が、重い荷物を運ぶ老人に手を貸していた。その一角だけ、空気がきらきらと光を孕んで揺れている。
ミライはすかさず駆け寄り、「私も持ちます!」と荷物を分け合った。その瞬間、彼女の周りだけに小さなつむじ風が巻いた。
彼女はその足で、前々から受けていた声優オーディションの最終選考へと向かった。結果は「合格」だった。
積み重ねた努力の上に運が舞い込めば、それは何よりも強い味方になる。加藤はその鮮やかな瞬間を目の当たりにした。
「努力なんてしてないですよ、たまたまです」
ミライは照れくさそうに謙遜した。だが加藤は思った。歴代の成功者たちが「自分は運が良かっただけだ」と言うのは、謙遜などではなく、真実なのだと。



6話
空振りばかり
加藤の人生には、空振りの記憶ばかりが刻まれていた。
20代で起業して失敗。30代で挑戦した難関資格試験で不合格。40代の昇進試験に至っては、受けることすら諦めた。
けれど、局のデータベースで自分の過去記録を遡ってみて、加藤は気づいた。空振りの後には、必ず別の扉が開いていたことに。
起業に失敗したからこそ、この推進局という職場に出会えた。資格試験に落ちたからこそ、趣味だった自転車の整備技術が身についた。
空振りは、無駄な空振りではなかった。次の打席に立ち続けるための「素振り」だったのだ。
夜の倉庫で、加藤は古い金属バットを手に取り、静かに素振りをしてみた。バットが風を切ると埃が舞い上がり、それが小さな上昇気流となって、高い天窓の光の中へ吸い込まれていった。



7話
成功者は運が良かったと言う
突如失踪した人気配信者・ユウタのアパートは、当時のまま残されていた。
彼が最後に行った配信の映像で、彼は穏やかに笑っていた。
「全部、運が良かっただけです」
だが、局のモニターは残酷な真実を映し出していた。彼が引き寄せた莫大な幸運(プラス)は、東区の善意タンクから強引に吸い上げられたものだったのだ。一人の華々しい成功の裏で、東区全体の基礎運が枯渇し、タンクがゼロになっていた。
成功者は嘘をついていなかった。本当に「ただ運が良かっただけ」なのだ。ただしその運は、見知らぬ誰かの日常から奪われてきたものだった。
机の上に、彼が書き残した一枚のメモが落ちていた。
《平らな道に戻りたい》



8話
光あらば
加藤は「プラス可視化装置」のスイッチを入れた。
モニター越しに街を俯瞰すると、あちこちに美しい光の柱が立ち上っていた。第一志望の大学に合格した学生、新しい命が生まれた家庭。その光はどこまでも澄んでいて、綺麗だった。
ミライの頭上にある光も、日を追うごとに大きくなっていた。声優としての仕事が増え、週末にはイベントに引っ張りだこになっていた。
加藤は後輩の活躍が誇らしい反面、胸の奥に冷たい不安を抱えていた。
光が強くなればなるほど、その足元に落ちる「影」もまた、深く濃くなっていくからだ。



9話
影がある
影は、必ずしも光を放つ本人の足元に落ちるとは限らない。
ユウタが得た巨大なプラスの影は、巡り巡って東区の街に重く垂れこめていた。商店街の売り上げが急速に落ち込み、仲の良かったはずの家族の間で不毛な喧嘩が絶えなくなった。
『総量は保存されます。世界は常に、プラスマイナスゼロです』
プラマイの機械的な声が響く。テレビの中でスポットライトを浴びる著名人たちの裏側を思い浮かべ、加藤は深く頷いた。
加藤は影の落ちた東区の家々を一軒一軒訪ね、ただ黙って住民たちの愚痴や不満に耳を傾けた。
「話を聞く」という行為もまた、小さな加勢なのだ。加藤が帰る頃、家々を覆っていたどんよりとした影は、ほんの少しだけ薄くなっていた。



10話
影の処理班
真夜中、局の勝手口に黒い作業着を着た二人組が現れた。「影の処理班」だった。
彼らの仕事は、プラスが膨らみすぎた場所から発生した不運の影を回収し、地下深くへと運ぶことだ。加藤は彼らの作業に同行した。
地下の最深部には、果てしない巨大な空洞が広がっていた。街中から集められた影が、そこに溜め込まれている。ドロリとした黒い液体のような質感で、近づくと氷のように冷たかった。
「これは、どうなるんですか?」
加藤が尋ねると、処理班の男は淡々と答えた。
「均すんだよ。平らな道に戻すためにね」
影はここで特殊な処理を受け、再び街へと配給される「基礎運」へと還されていく。だが最近は、誰かが得るプラスが大きすぎるせいで影の発生に処理が追いつかず、地下の容量は限界に達しつつあった。



11話
プラスマイナスゼロ
局の奥底に保管されていた最も古いマニュアルに、このシステムの由来が記されていた。
昭和の終わり、ある天才的な研究者が提唱した理論。
《世の中の流れには、プラスマイナスゼロの法則がある。幸も不幸も、その総量は変わらない。ならば皆で分け合えば、全員がそこそこに幸せになれるはずだ》
その思想から、一日一善推進局と「平坦化装置」が誕生したのだった。
欲張ってはならない。身の丈ほどの願いならば、丁寧に正しく生きた時間の中に「安定」という回答をもたらしてくれる。
その時、プラマイの赤ランプが激しく点滅した。
『警告。総量バランス、限界値を突破。あと72時間で、全エリアへの基礎運配給を停止します』



12話
山越え谷越え
加藤は局のアーカイブ映像を呼び出した。そこには、波乱万丈な「山越え谷越え」の人生を送る人々の記録が溢れていた。
事業を立ち上げては倒産させる起業家。激しい恋の末に離婚し、再び再婚する人。
誰もがドラマチックなストーリーを生きており、そして誰もがひどく疲れていた。
「面白そうですね。でも……すごく大変そう」
隣で映像を見ていたミライが漏らした。
世の中が面白いのは、自分の思い通りにならないからだ。加藤は己の人生を振り返った。大きな山は越えなかった。深い谷にも落ちなかった。ずっと、平らな道を歩いてきた。
だが、平らな道は決して「勝手に平ら」なわけではない。誰かが毎日、裏で土を均してくれているからこそ、平らなのだ。



13話
平な道の管理人
地下最深部で、加藤は「平坦化装置」の本体と対面した。
それは、途方もなく巨大な鋼鉄のローラーだった。ゆっくりと回転しながら、街の地下全体を押し均している。このローラーが止まれば、街の道はたちまち凸凹になり、激しい山と谷が生まれてしまう。
ローラーの側面に、古びた刻印を見つけた。
《寄贈 昭和63年 市民一同》
かつてこの街の整備を望んだのは、他の誰でもない市民自身だった。「平らな道を歩む方が幸せなのではないか」という切実な願いから作られた装置。
加藤はひんやりとした鋼鉄のローラーに、静かに手を置いた。
この平らな日常を守ることこそが、自分の本当の仕事だったのだと、胸を張って思えた。



14話
そこそこの幸せ
装置のおかげで、街は「そこそこの幸せ」を保っていた。
わずかに足りずとも安定していること。潤沢ではなくとも金が回っていること。「そこそこ」は最高ではないが、決して最低でもない。皆がそこそこであれば、誰も取り残されずに済む。
だが問題は、この「そこそこ」という状態は、放置しておけば自然と崩壊してしまうことだった。誰かが毎日、コツコツと小さな「一善」を積み重ねなければ、維持できない。
加藤が燃料計を確認すると、指針は赤ゾーンを指していた。
善意残量、わずか3パーセント。



15話
身の丈の願い
燃料を急速補給するには、街の人々の「生きた善意」が必要だった。
加藤とミライはヘルメットを抱え、街へ飛び出した。
「何か手伝わせてくだい!」
最初は不審がられた。「何の宗教だ」「どうせ偽善だろう」と心無い言葉も投げかけられた。
だが、偽善でも一構わない。わざとらしくてもいい。体を動かしたという「事実」さえ残れば、システムは動くのだ。
八百屋の店先で重いコンテナを運び、独居老人宅の電球を替えた。汗をぬぐいながら燃料計を確認すると、針が3パーセントから4パーセントへと、わずかに持ち上がった。
《身の丈ほどの願いならば、丁寧に正しく生きた中には安定という回答をもたらしてくれる》
メーターの針の小さな動きが、マニュアルの言葉が真実であることを証明していた。



16話
世の為人の為
街の人々の協力で燃料が少しずつ戻ると、途絶えかけていた基礎運の配給も再開された。
東区の住宅街から赤ちゃんの元気な泣き声が聞こえ、静まり返っていた商店街に店主たちの笑い声が戻ってきた。
世の為、人の為。自ら進んで誰かの加勢をすること。
自分のためだけに運を囲い込もうとすると、運は指の間から逃げていく。誰かのために体を動かしたとき、運は向こうから寄り添ってくる。メカニズムは至極単純だった。
「『偽善でも結構』って、すごく救われますね」
ミライが汗を拭きながら言った。
「本当の聖人君子になれなくても、行動さえすれば誰かを助けられるんだなって」
加藤は深く頷いた。



17話
偽善でも結構
しかし、目標値にはまだ遠く及ばなかった。街の大半の人々は日々の生活に追われ、他人に構う余裕がない。
そこへ、影の処理班の班長がやってきた。
「俺たちも手伝うよ。地下で影ばかり見てると、光の眩しさを忘れちまうからな」
彼らは真っ黒な作業着を脱ぎ捨て、普段着に着替えて街へ繰り出した。彼らが黙々と路上ゴミを拾い始めると、それを見ていた通りすがりの 中学生たちが「僕たちもやります」と真似を始めた。
善意は、確実に伝染していく。
偽善でも結構。誰かが始めれば、必ず誰かが続く。運とは、そうして連鎖していくものだった。



18話
安定という回答
燃料計の針が、ついに20パーセントまで回復した。
基礎運の配給は完全に持ち直し、街は再び「平らな道」へと戻った。
特別な奇跡などは何も起きない。ただ、誰もがそこそこ元気で、そこそこ笑って暮らしている。
加藤は「安定」という回答の尊さを、じんわりと噛みしめた。安定は地味だ。だが、この平らな土台があるからこそ、人は時に高い山へ登るための体力を蓄えられるのだ。
「平らな道って、ちょっとつまらなくないですか?」
ミライがふと漏らした。加藤は声をあげて笑った。
「つまらないよ。でもね、『つまらない』というのは、平和で幸せな証拠なんだよ」
その日の夜。局のモニターで、ミライの数値が爆発的に上昇した。
全国ネットで放送される新作アニメの「主演オーディション」の最終候補に残ったという報せだった。そして同時に、彼女の足元に落ちるマイナスの影もまた、急速に巨大化していた。



19話
後同輩
加藤はデスクに向かい、一筆箋に報告書を書き始めた。宛名は《後同輩へ》。
「後輩たちへ。そんなことだよ、きっと」という書き出しで始まる報告書だ。
誰もが、生まれつきわずかな運を持っている。
だが、それは都合良く現れてはくれない。地道な努力の上に舞い降りてこそ強い味方になるが、そのタイミングは誰にも分からない。
だからこそ、日々の「一日一善」を積むのだ。偽善でもいい。
当たり前の中にある「気づかれない運」に気づくこと。欲張らないこと。身の丈の願いを胸に、丁寧に生きること。
光あらば影がある。世界はプラスマイナスゼロだ。平らな道を進む方が、きっと幸せなのかもしれない。
けれど——加藤は最後に、一行だけ付け足した。
《けれど、山に登りたいと思った時は、迷わず登ってもいい。平らな道は、逃げずにここで待っているから》



20話
丁寧に正しく
ミライの足元に落ちた影は、かつてのユウタと同じくらい濃く、深くなっていた。このままでは、彼女もまた幸運の代償に押し潰され、失踪してしまうかもしれない。
加藤は地下の平坦化装置の前に立った。
装置の出力を全開にすれば、ミライが得た異常なプラスも均され、彼女は安全な「平らな道」へと連れ戻される。それが最も安全な選択だった。
だが、それは彼女が自らの努力で掴み取った「上昇気流」を、大人の都合で奪い取ることを意味していた。
丁寧に生きるとは、単にリスクを避けて安全を選ぶことなのだろうか。誰かが空へ飛び立つ邪魔をしないことではないのか。
加藤は決意を固め、平坦化装置の横にある「別のレバー」に手をかけた。
それは、自分の基礎運を他者へ「譲渡」するための禁断のレバーだった。



21話
運を譲る方法
基礎運の譲渡手続きは、拍子抜けするほど簡単だった。認証ボタンを強く押し込むだけでいい。
加藤は、自分に割り当てられていた「健康」「安全」「生活の安定」「そこそこの金の回り」の半分を切り取り、ミライの口座へと送金するように譲り渡した。
「加藤さん、何やってるんですか!?」
異常を察知したミライが地下へ駆け込んできた。
「運のメカニズムだよ。運ってやつはな、貯め込むもんじゃない。譲るもんだ」
加藤の体はズシリと重くなり、膝に鈍い痛みが走った。だが、その心は不思議なほど軽やかだった。
モニターに映るミライのプラスの横にあった巨大な影が、みるみるうちに小さくなっていく。加藤が差し出した自分の基礎運が、彼女の影を相殺する「身代わり」になったのだ。



22話
ここぞという時
ついに「ここぞという時」がやってきた。
ミライの最終オーディション当日。会場の建物の外で、加藤は自分の自転車のタイヤに、静かに空気を入れていた。
自分には何の才能もないし、直接手助けすることもできない。けれど、ここで彼女の無事を祈るくらいはできる。
オーディション会場の中、緊張した面持ちでマイクの前に立ったミライの周りで、目に見えない空気がきらきらと輝き始めた。
積み重ねてきた膨大な努力の上に、譲られた運が舞い降り、強大な味方となって彼女の背中を押す。
ミライは深く息を吸い込み、声を張った。
最初は少し震えていたが、どこまでも真っ直ぐで、美しい声だった。



23話
舞い上がる
目の前に訪れた上昇気流に乗り、どこまでも舞い上がること——。
ミライは見事に風を掴んだ。オーディションは見事「合格」だった。
会場の外でスマートフォンの報せを受けた加藤は、まるで自分のことのように拳を握りしめ、歓喜した。
その瞬間。加藤の周囲にも、ふっと温かい小さな風が巻き起こった。
誰かに自分の運を譲ったことで、加藤の内に生まれた「空虚な余白」。そこへ、街を巡る新しい風が自然と入り込んできたのだ。
『世の中の流れには、プラスマイナスゼロの法則がある』
だが、不運やリスクを進んで引き受けた場所には、必ずまた新しい幸運が舞い込むスペースができる。
世界の法則は、ゼロで終わるわけではない。循環し、回り続けているのだ。



24話
そんなことだよきっと
数日後、街は再び穏やかな「平らな道」を取り戻していた。
ミライは大スターへの第一歩を踏み出すため、東京へと旅立っていく。駅のホームで、彼女は晴れやかな笑顔で言った。
「加藤さん、平らな道を守っていてくださいね。私、思いっきり山に登ってきます!……疲れたら、いつでも帰ってきますから」
「ああ。平らな道は、逃げずにここで待ってるよ」
加藤は今日も自転車を漕ぎ、街の善意回収ボックスを点検して回る。
チカッと青く光る小さなランプを見て、満足そうにひとつ頷く。
健康であること。無事に現場まで来られたこと。わずかに足りずとも安定していること。そこそこ足りずとも金が回っていること。
これらは決して当たり前ではない。
幸せとは、運とは、欲張ってはならないのだろう。身の丈ほどの願いを抱き、丁寧に正しく生きた時間の中にこそ、「安定」という確かな回答がもたらされる。

《追伸。運が良かったことなど一度もないと思って生きてきたが、どうやら違っていたようだ。君たちのような後輩に出会えたこと自体が、すでに最高に運が良かったのだから。
後同輩へ。そんなことだよ、きっと。
ただし、山越え谷越えの人生も、たまには悪くないぞ。戻ってくるための『平らな道』があるのなら、どちらを選んだって幸せなんだから》
自転車のペダルを踏み込むと、心地よい風が頬を撫でた。
どこから吹いてきた風なのかは分からない。
世の中は面白い。思い通りにならないからこそ、最高に面白いのだ。
加藤は今日も、自分の「平らな道」を、丁寧に、まっすぐに進んでいく。

(了)


Amazon Kindle



【あとがき】
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
この物語は、「もしも人間の幸運や不運が、目に見えるエネルギーとして循環していたら?」という素朴な疑問から生まれました。
世の中には、不条理な出来事があふれています。努力が報われないこともあれば、理不尽な不運に見舞われることもあります。けれどその一方で、私たちは「事故に遭わなかったこと」「今日もご飯が美味しいこと」といった無数の幸運の上に立って、奇跡的に今日を生きてもいます。
主人公の加藤は、決してヒーローではありません。うだつの上がらない中年職員であり、大きな山を登ることを諦めた男です。ですが、彼のように「誰も気づかない平らな日常」を裏で支え、整えてくれている人がいるからこそ、私たちは安心して夢を追いかけ、山へ登ることができるのだと思います。
「山を登る人生」も素晴らしい。「平らな道を丁寧に歩む人生」もまた、等しく尊い。
今、この本を閉じたあなたの目の前にある道が、どうか温かく、穏やかなものでありますように。そして、もし人生の山登りに疲れたときは、いつでもこの「平らな道」の物語に羽を休めに帰ってきてください。


運命保存の法則
―または、日本一ツイていた男の受難週間―


まえがき
はじめに。
この世界には、目に見えない「天秤」があると言われています。
良いことがあれば、悪いこともある。山があれば、谷がある。誰もが一度は「プラスマイナスゼロ」という言葉を耳にしたことがあるのではないでしょうか。
もしも、その「プラスとマイナス」を一円単位で几帳面に管理しているお役所が存在したら?
そしてもしも、あなたが誰にも気づかれない親切を積み重ねすぎたせいで、「運の高利貸し」として宇宙のルールに引っかかってしまったら――?
主人公の平山凡太は、ヒーローでも天才でもありません。ただのどこにでもいる、少し真面目な三十四歳です。
そんな彼が巻き込まれる、奇妙で、可笑しくて、ほんの少し愛おしい一週間の物語。
仕事の合間や、一日の終わりのリラックスタイムに、肩の力を抜いてお楽しみいただければ幸いです。




一章 平山凡太の平凡な朝
平山凡太、三十四歳。独身。職業、損害保険会社の窓口係。趣味、特になし。特技、これも特になし。
強いて言うなら、彼の特技は「何も起こらないこと」だった。
満員電車では必ず座れないが、倒れることもない。宝くじは毎年三千円分買うが、当たったことは一度もない。恋愛はここ五年ほど発生しておらず、かといって寂しさで押しつぶされるほどでもない。健康診断はいつも「経過観察」。人生そのものが「経過観察」だった。
その朝も、凡太はいつも通り六時四十五分に起き、いつも通りトーストを一枚焦がし、いつも通り駅までの道で自治会のゴミ捨て場のカラスよけネットを直してから出社した。
このネット直し、実は凡太が三年間、雨の日も風の日も欠かさず続けている「一日一善」だった。誰に頼まれたわけでもない。ただ、通りかかるたびにネットがずれているのが気になって、直す。それだけのことだ。
凡太自身はこれを「善行」だとすら思っていなかった。ただの癖だ。靴紐を結び直すのと同じくらい、意識に上らない行動。
けれど、この世界には、こういう「意識に上らない小さな正しさ」を、一円単位まで几帳面に記帳している部署が存在した。
その名も、運命管理局第七管区・プラスマイナス調整課。
そしてこの日、凡太の口座――正確には「運勘定」――が、開局以来の異常値を記録し、局内に静かな、しかし確実なパニックを引き起こしていた。


二章 小さな不運と、大きな違和感
事の発端は、駅前の宝くじ売り場だった。
「お客様、これ……当たってます」
売り場のおばちゃんが、震える声で言った。凡太が三千円で買った十枚のうち、一枚が一等前後賞、残り九枚がすべて末等以上という、統計学的にはほぼあり得ない結果だった。
「え」
凡太は間抜けな声を出した。金額を聞いて、さらに間抜けな声を出した。
「三億……円?」
その帰り道、彼は横断歩道の縁石に足を取られ、盛大に転んだ。膝を擦りむき、鞄の中身が全部道路に散らばった。通行人が二人ほど笑いをこらえながら手伝ってくれた。
「痛った……」
膝の擦り傷を見ながら、凡太は妙な胸騒ぎを覚えた。
三億円が当たった日に、盛大にすっ転ぶ。
これは幸運なのか、不運なのか。差し引きゼロなのか。
その夜、凡太のアパートの郵便受けに、見慣れない封筒が入っていた。差出人の欄には、こう書かれていた。
『運命管理局 第七管区 プラスマイナス調整課』
中の便箋には、たった一行。
『明日、九時。お伺いします。逃げても無駄です(運命的に)。』
凡太は便箋を三回読み返し、三回とも「詐欺かな」と思い、三回とも「でも三億円当たった直後にこれは、さすがに」と思い直した。


三章 蒼井ゼロという男
翌朝九時ちょうど、チャイムが鳴った。
ドアを開けると、そこには灰色のスーツを着た、表情のない青年が立っていた。年齢不詳。胸のバッジには「0000」という番号だけが刻まれている。
「平山凡太様ですね。運命管理局、蒼井ゼロと申します」
「あの……宗教とかそういうのは」
「違います。行政です。強いて言うなら、宇宙の家計簿係です」
ゼロは靴を脱ぎもせず、そのままリビングに上がり込むと、鞄からノートパソコンのようなものを取り出した。画面には、無数のグラフと数値が波打っている。
「平山様。あなたの運勘定、現在プラス八十七万二千三百十一ポイントです。これは第七管区の年間安全域の、約四百倍に相当します」
「はあ……」
「わかりやすく言うと、あなたは今、街ひとつ分の幸運を、個人の懐に貯め込んでいる状態です」
凡太は、湯呑みを持つ手を止めた。
「いや、僕、そんな贅沢な暮らししてませんよ。トースト焦がすし、彼女いないし、宝くじだって今まで一回も」
「ええ。存じております。だからこそ、異常なんです」
ゼロは画面を凡太の方に向けた。折れ線グラフが、ここ三年間、ほぼ一直線に右肩上がりだった。
「毎朝、ゴミ捨て場のネットを直していますね」
「え、何で知っ……」
「毎日、駅前の点字ブロックの上の自転車を、こっそり動かしていますね」
「あれは、その、危ないから」
「見返りを一切求めず、続けていますね。三年間、三百六十五日」
凡太は黙った。ゼロは淡々と続けた。
「善行というのは、複利で運を生みます。特に、誰にも気づかれない善行は利率が高い。平山様は無自覚のうちに、運の高利貸しになっていたのです」
「それの何が悪いんですか」
ゼロは、初めて表情らしきものを浮かべた。困った顔だった。
「悪くはありません。ただし、この世界には『運命保存の法則』というものがありまして」


四章 プラスマイナス調整課という職場
「運命保存の法則、ですか」
「はい。この宇宙の運の総量は、常に一定でプラスマイナスゼロです。誰かがプラスに傾けば、その分どこかで必ずマイナスが発生する。光あらば影がある、という、あれです」
「詩みたいなこと言いますね」
「局のモットーなので」
ゼロは涼しい顔で名刺のようなものを差し出した。そこには局のロゴと共に、小さく「PLUS-MINUS=ZERO」と書かれていた。
そのまま局に連れて行かれた凡太は、そこで初めて「運命管理局」の内部を目にすることになる。
外見は古びた雑居ビルの三階だが、中に入った途端、空間はどこまでも広がっていた。天井には無数の歯車のような装置が回り、壁一面には「本日の全国運収支」という電光掲示板があり、都道府県ごとの運の増減がリアルタイムで表示されている。
「ちなみに沖縄県は先週、地元の高校球児が奇跡の逆転勝ちをしたせいで、来週あたり離島の漁が三日ほど不漁になる予定です」
「因果関係、雑じゃないですか?」
「雑ではありません。精密です。ただし人間には理解しにくいだけです」
局長室に通されると、そこには恰幅のいい老人が、巨大な椅子にふんぞり返っていた。名札には「局長 無双院泰然」とある。
「おお、来たか、平山凡太くん! 話は聞いておる。八十七万二千三百十一ポイント! わはは、近年稀に見る大物じゃ!」
「あの、僕、何も悪いことしてないんですけど」
「うむ、悪いことをしとらんから困っとるんじゃ」
無双院はテーブルを叩いた。書類の山が雪崩を起こし、蒼井ゼロが無表情のまま片手で受け止めた。慣れた動きだった。
「いいか凡太くん。運というのはな、貯めれば貯めるほど、地域全体のバランスを歪めるんじゃ。お主のポイントがこのまま臨界を超えれば、第七管区のどこかで、強制的な『運災害』が発生する」
「運災害?」
「うむ。たとえば――駅前商店街が一斉にシャッター街になる。近隣の病院が一斉に経営難になる。あるいは、隣町の高校球児全員が同時にインフルエンザにかかる、とかな」
「それ僕のせいなんですか!?」
「厳密には『まだ』ではない。だが、このままいけば、じゃ」
無双院は分厚い書類を凡太の前に放り投げた。表紙には『強制相殺執行通知書』と書かれている。
「というわけで、局としては、お主のポイントを一週間以内に安全域まで引き下げてもらう。方法は問わん。ただし――」
蒼井ゼロが淡々と補足した。
「善行で貯めたポイントは、善行では消せません。むしろ増えます」
「じゃあどうすりゃいいんですか!」
「それを、これから一週間かけて、お考えいただきます」
局長室の壁の電光掲示板に、新しい表示が灯った。
『第七管区・臨界警報 対象:平山凡太 残り168時間』


五章 運を捨てる方法、その1「使い切り作戦」
「つまり」と凡太は言った。「運を、意図的に使い切ればいいんですね」
「理論上は」とゼロが頷く。
「よし。だったら、豪遊してやります。三億円、パーッと使って、運を減らします!」
局を出た凡太は、その足でカジノ風のゲームセンターに向かい、コインを全額メダルゲームに突っ込んだ。
結果。
ジャラジャラジャラ! とけたたましいファンファーレが鳴り響き、メダルが天井届く勢いで積み上がった。店内は大騒ぎだ。
「おかしい……」
次に、わざと信号無視をしてみた。パトカーに見つからないどころか、道端で轢かれかけていた子猫を助ける羽目になり、飼い主から深々と感謝され、高級なお菓子をもらった。
「おかしいだろ!!」
それならと、わざと不健康な生活をしようと深夜のラーメン店に並んだ。すると前に並んでいた老人が体調を崩し、凡太が介抱して救急車を呼んだ結果、後日感謝状が届いた。後日の健康診断の数値はなぜか改善していた。
蒼井ゼロが、いつの間にか隣に立っていた。
「言ったはずです。善行で貯めたポイントは、善行では消せません」
「じゃあこれは善行じゃなくて、ただ単に運がいいだけじゃないですか!?」
「運がいい、という現象そのものが、あなたの勘定から生まれています。あなたが動けば動くほど、周囲に良いことが起き、それがまたあなたのポイントに還元される。あなたはもう、街の『幸運の重心』になりかけているんです」
「じゃあ何もしなければいいのか」
「何もしないのも、実は難しいですよ。あなたは無意識に、良い行動をする癖がついていますから」
事実、この会話の間にも、凡太は無意識に道端の空き缶を拾ってゴミ箱に入れていた。
ゼロはそれを見て、小さくため息をついた。
「見ましたか、今の」
「え、何が」
「無自覚です。重症ですね」


六章 黒猫クロと、フィールド安定装置
その夜、凡太のアパートのベランダに、一匹の黒猫が座っていた。
「よう、凡太」
猫がしゃべった。凡太は悲鳴を上げかけたが、猫がそれを前足で制した。
「騒ぐな。首輪見ろ」
首輪には小さな装置がついていた。『フィールド安定装置Mark-3・簡易翻訳機能付き』と書かれている。
「俺はクロ。第七管区担当の、非公式な運場観測員だ。局にバレると怒られるんだが、まあお前も大概巻き込まれてるから、教えといてやる」
「あ、あなたも局の人?」
「猫だ。厳密には局の外部委託だが、まあ似たようなもんだな」
クロは尻尾を揺らしながら、ベランダの手すりの上を歩いた。
「いいか凡太。お前が今抱えてる問題は、実は局の連中もあまり大きな声じゃ言えない、ちょっとした矛盾を含んでる」
「矛盾?」
「運命保存の法則ってのは、確かに存在する。プラスがあればマイナスがある。それは事実だ。だが――」
クロは前足で、ベランダの手すりについた朝露を弾いた。
「その法則が本当に働くのは、『極端』に対してだけなんだよ。誰かがものすごく得をすれば、どこかでものすごく損をする者が出る。だがな、極端じゃなく、ただ『普通』に、ただ『安定』しているだけの幸せってのは――」
「それは?」
「そもそも、相殺の対象になんかならねえのさ。プラマイゼロの外側にある」
凡太はしばらく黙って、猫の言葉を反芻した。
「じゃあ、僕はどうすれば」
「さあな。それは局の連中も、実はまだちゃんとわかっちゃいねえ。だから、お前で実験してるようなもんだ」
クロはそう言うと、ふわりと屋根の向こうへ姿を消した。


七章 取り立て屋・加賀美収子の登場
翌朝、会社に着くと、受付に見知らぬ女性が立っていた。タイトなスーツ、片手にタブレット、もう片方の手には、なぜかそろばんを持っている。
「平山凡太さんですね。運命管理局・債権管理室の加賀美収子です」
「債権管理室? さっきの調整課とは違うんですか」
「違います。あちらは運の増減を『監視』する部署。私は運の『貸し借り』を回収する部署です」
加賀美はそろばんを、ぱちん、と一つ弾いた。
「あなたの運勘定、実は完全に『あなただけの資産』ではありません。過去、あなたが無意識に助けた人々――ゴミ捨て場の自治会長、点字ブロックを使う視覚障害者の方、ラーメン屋で倒れた老人――彼らの『感謝』や『幸運の巡り』の一部が、あなたの勘定に混ざり込んでいます」
「え、それって」
「つまり、あなたのポイントの一部は、正確には『社会全体からの借り』なんです。返済期限は特にありませんが、局としては、放置されすぎた大口の借りは健全ではないと考えています」
凡太は頭を抱えた。
「じゃあ僕は、その運を、誰かに返せばいいってことですか」
「理論上は、そうなります」
加賀美は初めて、少しだけ笑った。
「面白い方ですね、あなた。局に呼ばれる人間の九割は、ずるをして運を貯め込んだ悪人です。あなたみたいな、無自覚な善人型は、記録上、五十年ぶりです」
「それ、褒められてるんですか?」
「さあ。私にもわかりません」


八章 運を配る、という発想
「運を、誰かに配ればいいのでは?」
凡太がそう提案すると、蒼井ゼロと加賀美収子は顔を見合わせた。
「理論上は可能です」とゼロ。「ただし、前例がほとんどありません」
「なぜ?」
「善意で貯めた運を、さらに善意で他人に譲渡する行為――それ自体が、また新たな善行として記録され、運が増えるからです」
「無限ループじゃないですか!」
「ええ。局内では『平山ループ』と呼ばれ始めています」
その日の午後、局のホワイトボードには「平山ループ対策会議」という文字が躍り、無双院局長以下、局員たちが頭を抱えていた。
「わしの三十年の局長人生で、こんな厄介な善人は初めてじゃ」
「局長、そもそも規則が『悪人が貯め込んだ運を没収する』ことを前提に作られていて、善人が無自覚に貯め込むケースを想定していません」
「じゃったら規則を変えればいいじゃろ」
「規則を変えるには、上部機関――ゼロサム機関の承認が必要です」
その名前が出た瞬間、局内の空気が凍りついた。
「ゼロサム機関、ですか」と凡太が尋ねる。
蒼井ゼロが、珍しく声を落として答えた。
「この宇宙の運の総量を、文字通り機械的に管理している、最上位組織です。人間味は、一切ありません」
窓の外で、遠くの空に、一瞬だけ巨大な天秤のようなシルエットが浮かんで消えた。


九章 執行官・天秤武蔵
四日目の朝。凡太のアパートの前に、巨大な男が立っていた。
身長二メートル超。スーツはパンパン。手には、なぜか本物の天秤を持っている。
「平山凡太だな。ゼロサム機関、相殺執行官、天秤武蔵である」
「あの、僕、まだ猶予期間中のはずじゃ」
「うむ。だが上が『念のため』と申してな。わし個人としては、話し合いで解決したい所存」
武蔵はそう言いながら、天秤を凡太に向けた。片方の皿がぐんと沈む。
「重い。実に重いぞ、貴様の運は。わしがこれまで相殺してきた強欲な政治家、悪徳商人、詐欺師連中と比べても、桁が違う」
「僕、何もしてないんですって!」
「わかっておる。だからこそ厄介なのだ」
武蔵は天秤を下ろすと、意外にも柔和な顔になった。
「わしとて鬼ではない。話は聞いておる。貴様は無自覚に善行を積み、それが利子を生み、雪だるま式に膨らんだだけ。罪はない」
「じゃあ」
「だが、規則は規則。七日目の朝、貴様の運勘定が安全域を超えたままなら、強制相殺を執行せねばならん。おそらく、貴様には向こう十年分の不運が、一気に降りかかることになる」
凡太は青ざめた。
「十年分の不運って、具体的には……」
「交通事故、失業、破産、失恋、水道管破裂、痔――」
「痔まで!?」
「宇宙は容赦せん」
武蔵は天秤を担ぎ直すと、去り際にぽつりと言った。
「凡太よ。わしも昔は、貴様のような『無自覚な善人』を、何人も相殺してきた。だがな、実を言うと、わしはずっと納得がいっとらんのだ」
「何にですか」
「なぜ、善良さそのものが罰せられねばならんのか、とな」


十章 局長の告白と、古い巻物
その夜、局長室に呼ばれた凡太は、無双院と二人きりで熱い茶を挟んで向き合っていた。
「凡太くん。わしがこの仕事を三十年やってきて、わかったことがある」
「はい」
「この宇宙のプラスマイナスゼロの法則はな、確かに存在する。だが、それは主に『極端』な運の動きに対して働くんじゃ。大成功者を見てみい」
無双院はタブレットを操作し、過去に運勘定が極端に振れた著名人たちの記録を見せた。
「巨万の富を築いた実業家。栄光の絶頂で、家族を失った。国民的英雄となったスポーツ選手。引退後、健康を大きく損ねた。プラスの裏には、必ずマイナスが控えとる」
凡太は尋ねた。
「自分も、そうなってしまうんでしょうか」
「いや」
無双院は首を振った。
「お主のポイントは異常じゃが、その中身は『極端な成功』ではない。ただの、地味な、誰にも気づかれない親切の積み重ねじゃ。極端ではなく、静かで、平らな善意」
「それの何が違うんですか」
「わしにも、正直まだわからん。だが局の古い記録に、こういう一文が残っておる」
無双院は古びた巻物のようなものを広げた。そこには、こう書かれていた。
『身の丈ほどの願いならば、丁寧に、正しく生きた中には、安定という回答がもたらされる。これは相殺の対象にあらず』
「これ、誰の言葉ですか」
「わからん。局の創設者が遺した言葉らしいが、意味は誰も解読できておらん」
無双院は茶をすすった。
「じゃが、凡太くん。わしはこう思う。お主のケースは、この一文の答えそのものかもしれん、とな」


十一章 運災害、前夜
五日目。街のあちこちで、異変が起き始めていた。
商店街の福引で一等が三十回連続で出た。信号機がすべて青のまま止まらなくなった。地元の少年野球チームが、格上相手に十対〇で勝ち続けた。
一見、いいことずくめに思えるが、局の電光掲示板は真っ赤に点滅していた。
「これは……プラスの過飽和状態です」
蒼井ゼロが険しい顔で画面を睨む。
「このままプラスが局所的に集中し続けると、必ずどこかで、それに見合うだけのマイナスが一気に噴き出します。局の予測では、明後日の朝、第七管区のどこかで大規模な『運災害』が発生する可能性が九割を超えました」
「僕のせいで?」
「あなた一人のせい、というより、あなたを中心に、街全体の運の流れが歪んでいる状態です」
加賀美収子が資料を片手に走り込んできた。
「局長! 予測地点が絞り込めました。震源地――もとい、運災害の発生予測地点は、この駅前商店街です」
「凡太くんの実家近くじゃないか」
「はい。おそらく、平山さんが三年間ネットを直し続けてきた、あのゴミ捨て場周辺が中心になります」
凡太は立ち上がった。
「僕、何とかします」
「どうする気じゃ」
「わかりません。でも、あそこは僕が毎朝通る場所です。誰かが困るのを、黙って見てるわけにはいきません」
蒼井ゼロが、珍しく凡太をまっすぐ見た。
「それも、また新たな善行になりますよ。ポイントは、さらに増えます」
「知ってますよ、そんなこと!」
凡太は叫んだ。
「でも、増えるからやらない、なんて、そんな計算、僕にはできません」
局内が、しんと静まり返った。
無双院がぽつりと呟いた。
「……ほう」


十二章 偽善でも結構、大作戦
六日目の朝。凡太、蒼井ゼロ、加賀美収子、そして黒猫クロ、さらにこっそり合流した天秤武蔵――奇妙な五人(と一匹)は、商店街の入り口に集まっていた。
「作戦を説明する」とゼロが言った。「運の過飽和を抑えるには、局所的なプラスの集中を、面的に薄く広げる必要があります。つまり――」
「一日一善を、街中でやりまくればいいんですね」とクロ。
「理論上は、逆効果です。個人の善行はポイントをさらに集中させます」
「じゃあどうすんだよ!」と武蔵。
加賀美が手を挙げた。
「一つ提案があります。平山さんが『主体』にならなければいいんです。平山さんは、他の人が善行をする『きっかけ』だけを作る。実際に行動するのは、街の人たち自身」
凡太はハッとした。
「僕が直接やるんじゃなくて……みんながそれぞれ自分の意志で、小さいことをする?」
「そうです。偽善でも構いません。むしろ偽善上等です。動機の純度は、局の計測装置には関係ありません。行動そのものが、運の流れを分散させます」
その日、凡太は商店街の掲示板に、こんな貼り紙を出した。
『今日から一週間、なんでもいいので、誰かのために小さなことを一つ、やってみませんか。偽善で結構です。』
最初は誰も見向きもしなかった。だが、夕方になる頃には、八百屋の店主が常連客に大根のおまけをつけ、花屋の店員が売れ残りの花を近所の老人ホームに届け、中学生たちが自転車置き場を整理し始めた。
小さな善意が、点から線へ、線から面へ、街中に広がっていった。
局の電光掲示板の赤い点滅が、ゆっくりと、黄色、そして緑へと変わっていく。
「集中していたプラスが……分散しています」
蒼井ゼロが、初めて驚いた顔をした。


十三章 クライマックス、平々凡々の逆転劇
七日目、運命の朝。
局の電光掲示板の前に、無双院、蒼井ゼロ、加賀美収子、天秤武蔵、そしてクロが集まっていた。凡太は、いつも通りゴミ捨て場のネットを直しに、いつも通りの時間に、いつも通りの道を歩いていた。
「臨界値まで、あと十二分」とゼロが読み上げる。
商店街では、昨日から始まった「小さな善意」の輪が、今朝もさらに広がっていた。パン屋のおじさんが焼きたてのパンを近所に配り、犬の散歩中のおばあさんが道端のゴミを拾い、駅の駅員が階段で困っている車椅子の人を手伝う。
誰も、それが「運命保存の法則」を左右しているなどとは知らない。ただ、なんとなく、今日は誰かに親切にしたい気分だった、というだけだ。
「臨界値まで、あと三分」
電光掲示板の数値が、ゆっくりと下がり始める。八十七万、八十万、七十万……。
「これは……」
無双院が身を乗り出した。
「凡太くんのポイントが、彼個人の懐から、街全体に、少しずつ均等に再分配されておる!」
「まさか」とゼロ。「彼が求めたものは、莫大な幸運じゃない。街のみんなが、それぞれ少しずつ、当たり前の安定を持っている状態――それこそが、彼にとっての『本当のゴール』だった、ということですか」
数値は、ついに安全域まで下がりきった。
「臨界回避……成功」
局内に、拍手が起きた。武蔵だけは、少し悔しそうな、それでいてどこか安堵したような、複雑な顔をしていた。
「相殺の出番がなくなったのは、正直、ちと寂しいが……まあ、良い朝じゃな」
凡太は、いつも通りネットを直し終え、いつも通り駅に向かって歩いていた。何も知らないまま。


十四章 エピローグ、経過観察
一週間後。
凡太の日常は、驚くほど何も変わっていなかった。トーストは相変わらず一枚焦げるし、電車では相変わらず座れない。三億円は――結局、街の商店街復興基金に、匿名でこっそり寄付してしまった。
「自分らしいですよね、これ」
そう言って笑う凡太の前に、加賀美収子が湯呑みを片手に座っていた。局への報告書を書くという名目で、最近やたらとこの喫茶店に現れるようになった。
「あなたのファイル、局では今も『経過観察』のままです」
「一生経過観察な人生な気がします、僕」
「悪いことではないですよ」
加賀美は、珍しく穏やかな声で言った。
「健康であること。安全に今日を過ごせたこと。ほんの少し足りなくても、安定していること。そこそこ足りなくても、お金が回っていること――それって、本当は、ものすごい幸運なんです。ただ、みんな気づかないだけで」
窓の外、電線の上に一羽のカラスが止まり、その隣の塀の上を、見覚えのある黒猫が悠々と歩いていく。
凡太はふと、いつか聞いた言葉の一節を、思い出した気がした。
――身の丈ほどの願いならば、丁寧に、正しく生きた中には、安定という回答がもたらされる。
「加賀美さん」
「はい?」
「今日、これから空いてます? お礼に、何か奢らせてください」
加賀美は少し驚いた顔をしてから、そろばんを鞄にしまった。
「それ、新しい借りが増えますけど、いいんですか」
「いいですよ。プラマイゼロなんて、僕にはもう、よくわかりませんから」
窓の外を、平々凡々な風が吹き抜けていった。

― 完 ―



番外編・その一
運命管理局、その後の日常
この物語には、もう少しだけ、後日談がある。
局長・無双院泰然は、この一件を機に「平山モデル」と名付けた新方針を局内に提案した。曰く、「悪人からの没収」だけでなく、「無自覚な善人の、静かな幸福の分散」もまた、局の正式な業務に加えるべきである、と。
会議では猛反発が起きた。
「そんな悠長なことをしていたら、予算が足りません!」と経理課長。
「そもそも善人を取り締まる部署に、善人を応援する機能を足すなど、本末転倒です!」と総務課長。
無双院は、それらの反対意見をすべて黙って聞いたあとで、ひとこと言った。
「わしはもう年じゃ。好きにさせてくれ」
この一言で、なぜか会議は解散した。局長の権限とは、時にこういうものである。
蒼井ゼロは、あの一件以来、少しだけ表情が豊かになった。とはいえ、豊かになったといっても、無表情が「やや無表情」になった程度で、他の局員からは「ゼロさん、最近ちょっと丸くなりましたね」と言われては、律儀に「変化率、〇・三パーセントです」と訂正して回っている。
天秤武蔵は、あの日以来、なぜか凡太の住むアパートの近所に引っ越してきた。表向きは「経過観察のため」だが、実際は近所の定食屋の煮魚定食を気に入っただけらしい。凡太とは、たまに銭湯で顔を合わせる仲になった。
「凡太よ、湯加減はどうじゃ」
「ちょうどいいですよ、武蔵さん」
「そうか。プラマイゼロというのは、案外、こういう温度のことを言うのかもしれんな」
黒猫クロは、相変わらず気まぐれに現れては、ベランダの手すりの上で日向ぼっこをしている。局への正式な報告書には、いまだに「観測対象:黒猫一匹(詳細不明)」とだけ記されている。


番外編・その二 
加賀美収子のそろばん
加賀美収子は、あれから毎週水曜日、局の仕事帰りに凡太の働く保険会社の窓口に立ち寄るようになった。
「べつに、あなたの運勘定を監視しているわけじゃありませんから」
「じゃあ何しに来てるんですか」
「保険の相談です。医療保険、そろそろ見直そうと思いまして」
そう言いながら、加賀美は毎回そろばんを取り出し、凡太の説明をぱちぱちと確認する。局の資産管理で鍛えられた暗算力は保険の見積もりにも存分に発揮され、凡太の提示額の誤差を三回連続で指摘した。
「あなた、営業成績、大丈夫なんですか」
「いや、その、あなたが優秀すぎるだけで」
「それは慰めになっていません」
そんなやり取りを重ねるうち、二人の間には、運の貸し借りとは関係のない、ごくありふれた時間が積み重なっていった。
蒼井ゼロは、この様子を局のモニター越しに眺めながら、誰にともなく呟いたという。
「これもまた、相殺の対象にならない類の、幸福でしょうね」
隣で報告書を整理していた無双院が、老眼鏡越しにモニターを覗き込み、にやりと笑った。
「じゃろうな。あれはもう、法則の外側の話じゃ」
あとがきに代えて
運というものは、きっと誰の懐にも、多かれ少なかれ眠っている。
ただ、それはなかなか都合よく現れてはくれず、多くの人は、そのタイミングにすら気づかないまま、日々をやり過ごしている。
けれど、健康であること。安全に一日を終えられたこと。わずかに足りなくても、どうにか安定していること。そこそこ足りなくても、お金がなんとか回っていること。
そうした、あまりに当たり前すぎて数えることすら忘れてしまう幸運こそが、実はこの物語における「相殺されない幸福」の正体だったのかもしれない。
山を越え、谷を越えるような派手な人生に憧れる気持ちは、誰の中にもある。けれど、平々凡々な、平らな道を、丁寧に、正しく歩いていくこともまた、ひとつの、立派な選択なのだと思う。
凡太の運勘定は、今日も局のファイルの中で、静かに「経過観察」のスタンプを押され続けている。

― 完 ―
 

アマゾン キンドル



あとがき
物語の中で、黒猫のクロや無双院局長が語っていたように、「幸運」や「成功」という言葉は、時にとても派手で大きなものを想像させます。劇的な大逆転や、巨万の富、名声。けれど、そういった極端な山の裏には、同じくらい深い谷が隠されているのかもしれません。
私たちが日々の生活の中で見落としがちな、「何も起きないこと」「健康であること」「ほんの少し足りなくても、なんとか回っていること」。そうした平々凡々な日常こそが、実は宇宙の相殺ルールすら擦り抜ける、一番強固で幸せな「安定」なのではないか――そんな思いからこの物語を書きました。
毎日の通勤通学、ふとした瞬間に道端のゴミを拾ったり、誰かにちょっと席を譲ったり。そんなあなたの「意識に上らない小さな正しさ」も、もしかすると世界のどこかの運命管理局で、密かに高利率で記帳されているかもしれません。
この作品が、あなたの日常の「平凡な一日」を少しだけ愛おしく思えるきっかけになれば幸いです。
またどこかの街の、平々凡々な風の中でお会いしましょう。

刻 の 逃 げ る 場 所

―― 岸 辺 に 立 つ 日 ――

まえがき
もしもあの時、別の選択をしていたら。人は誰しも過去の分岐点を振り返り、あり得たかもしれないもう一つの人生に想いを馳せることがある。
本作『刻の逃げる場所』は、一人の男が三十四年前に行った静かな祈りと、その代償として歳月の果てに訪れた時間の滲みを描いた物語である。老いと病という現実のただ中で、人が己の軌跡をどのように受け入れ愛おしむことができるのか。時の流れの岸辺に立つ神崎良一の姿を通して、小さくも温かい光を灯すことができれば幸いである。




第1章 眩暈
神崎良一、六十五歳。梅雨明けの蒸し暑い午後、台所の椅子に腰かけていた体が不意に横へ傾いだ。壁紙の柄が渦を巻くように歪む。心臓が拍子を忘れた太鼓のように鳴った。どん、どどん、どん。規則性を失った音は体の奥から指先まで痺れさせた。
またか。
誰へともなく呟き、良一は床に横たわった。ダイニングテーブルの脚の向こうに天井の照明が遠く感じられた。
去年の夏にも同じことがあった。原因は分からないままだった。医者は加齢でしょうとだけ言い、診察を終えた。
三十分ほど横になっていると、動悸は何事もなかったかのように静まった。壁紙の渦もいつの間にか直線に戻っている。良一は体を起こし、窓の外を見た。真夏の陽射しが隣家の白い壁を照らしている。
六十五年生きて、これほど自分の体が頼りなく思えたことはなかった。
その日の夕方、もう一つ奇妙なものを見た。窓の向こう、隣家の白い壁の前に誰かが立っていた。いや、誰でもない何かが。輪郭はあるのに顔がない。逆光のせいだと自分に言い聞かせたが、まばたきの間に影は跡形もなく消えていた。



第2章 岸辺の記憶
三十四年前の夏を、良一は鮮明に覚えている。
当時五歳だった娘の美咲が原因不明の高熱で入院した。医師団は匙を投げかけていた。妻の千鶴は病室の廊下で崩れ落ちるように泣いていた。
良一はその晩、誰もいない病院の非常階段で初めて祈った。神も仏も信じたことのない男が膝をつき、声にならない声で叫んだ。
この命と引き換えてもいい。娘を助けてくれ。
答えが返ってくるはずもなかった。ただ、踊り場の窓ガラスに自分ではない自分の顔が一瞬映った気がした。微笑んでいるようにも、ひどく疲れているようにも見えた。
翌朝、美咲の熱は奇跡のように下がっていた。医師団は奇跡としか言いようがないと口を揃えた。良一と千鶴は抱き合って泣いた。
それから三十四年。美咲は結婚し子を生み、海の見える町で穏やかに暮らしている。良一はあの夜のことを忘れたふりをして生きてきた。
忘れたふりは案外うまくいく。三十年余りの間は。
だが去年の夏あたりから、忘れたはずの約束が体の奥で疼き始めた。支払いの期日を告げる督促状が、静かに確実に届き始めたかのように。



第3章 見えないものたち
窓辺の影を見てから、日常には小さな裂け目が増えていった。
スーパーのレジに並んでいるとき、隣の客の顔が一瞬だけ二重に見えた。バス停のベンチに座る老人が、まばたきの間に姿を変えた。いや、重なっていた二つの像のうち片方が消えただけかもしれない。
疲れのせいだと思っていた。動悸とめまいで睡眠の質が落ち、注意力が散漫になっているのだろうと。
だが書斎で古いアルバムを整理していたとき、それは決定的な形で現れた。
美咲が五歳の誕生日を迎えた写真。高熱で入院する数か月前に撮られたものだ。その写真の中の自分の顔を見つめていると、紙面がふっと揺らめいた。
写っているはずの三十一歳の顔に、今の自分と同じ皺が刻まれ、その瞳がまっすぐにこちらを見返してきた。纏う空気がまるで違う。まなざしに、良一自身が持ったことのない深い疲労と澄み切った覚悟が宿っていた。
お前はまだこちら側にいるのか。
声なき声がそう告げた気がした。良一はアルバムを閉じ、しばらく動けなかった。
その夜、千鶴に尋ねられた。
あなた、この頃様子がおかしいわよ。ちゃんと病院に行った方がいいんじゃない。
良一は大丈夫だとだけ答えた。だが、その大丈夫が自分でも信じられなかった。



第4章 会談
三度目の発作は深夜に訪れた。動悸で目を覚ました良一は、水を飲もうと台所へ向かう途中、居間の暗がりにはっきりとした人影を見た。
逃げようとした体は金縛りのように動かなかった。人影は輪郭のない顔のまま言葉を紡いだ。声というより頭の中に直接響く振動だった。
案じることはない。私はお前を裁きに来たわけではない。
お前は誰だと良一は掠れた声で尋ねた。
呼び方は好きにするといい。お前が三十四年前に呼んだ名でもいい。
影は対面のソファに音もなく腰を下ろしたように見えた。
説明しよう。お前が理解できる言葉で。時間というものはお前たちが思うような一本の線ではない。無数の枝が並行して伸びる川の三角州のようなものだ。お前があの夜に願ったことは一つの分岐点での取引だった。娘の命の代価を、お前の持ち時間の束からわずかに削って移した。
わずかにどころではないだろうと良一は声を絞り出した。娘は今も生きている。三十四年分、私の何かを削ったはずだ。
その通り。だが削られたのは単純な余命ではない。お前がまだ気づいていないいくつもの分岐上の自分から、少しずつ均等に借り受けた。大きな貯水池から水を少しずつ汲むように。だからどの分岐のお前も致命的には枯れなかった。
ではなぜ今になって。
影は初めて答えに間を置いた。
貯水池にも底はある。三十四年という歳月は、その底が近づくには十分な時間だ。今お前が見ているめまいや消えぬ動悸や私のようなものは、借り受けた分岐同士が境界を薄くして互いに滲み出している徴候だ。



第5章 選択の岐路
つまり私はもうすぐ死ぬということか。
良一の問いに影はゆっくりと首を横に振ったように見えた。
私はそう言っていない。お前たち人間は境界が薄れることをすぐに死という一語に結びつけたがる。だが選択肢は実はいくつもある。
聞かせてくれ。
一つ。何もせずこの滲みに身を任せる。境界はやがて完全に消え、お前という存在は無数の分岐へ溶けて還る。苦痛はない。だがお前という一つの軌跡はそこで途切れる。
二つ。医師に助けを求め、この体の異変を治療する。心臓の不整脈そのものはお前たちの科学でも扱えるものだ。滲みを止める力はないが、少なくともお前がどちらの理由で倒れたのかを切り分けてくれる。
三つ目は、と影は言葉を選ぶように黙った。三つ目は私にも教えられない。それはお前自身が岸辺に立ったときにしか見えてこないものだからだ。
良一は暗がりの中で長く黙り込んだ。窓の外では隣家の壁が月明かりに白く浮かんでいた。
美咲は今幸せに暮らしているとようやく良一が言った。千鶴とも四十年連れ添った。孫の顔も見た。もしここで終わるのだとしても悪くない人生だったと言えるかもしれない。
それはお前が今生き急いで出す結論ではないかと影が静かに問い返した。
その一言が良一の胸に刺さった。



第6章 病院にて
翌朝、良一は千鶴に伴われて循環器内科の門をくぐった。
心電図、ホルター心電図、血液検査。医師は淡々と検査を進め、良一の乱れた鼓動を波形という客観的な形に変えていった。
発作性の不整脈ですね。年齢的なものもありますが、ストレスや暑さも誘因になり得ます。命に関わるものではありませんが放置は禁物です。
医師の説明はあの夜の影が語った滲みとは似ても似つかない乾いた言葉だった。だが不思議とその乾いた言葉が良一を安堵させた。
これはただの病気なんだ。
待合室のベンチで良一は小さく呟いた。三十四年前の取引も輪郭のない影も写真の中のもう一人の自分も、すべてめまいと不眠が見せた幻だったのかもしれない。そう思うことにした。そう思う方が楽だった。
処方された薬を手に良一は病院を出た。夏の陽射しがいつもより優しく感じられた。
だがその夜、薬を飲んで眠りについた良一の夢に再びあの影が現れた。
乾いた言葉に逃げ込むのも悪くない選択だと影は言った。だがそれだけでは境界の滲みは止まらない。お前はまだ岸辺に立ったままだ。



第7章 あちら側
夢の中で良一は見たこともない場所に立っていた。
足元に川がある。だがそれは水ではなく無数に枝分かれした淡く光る糸の束だった。糸の一本一本に良一自身の姿が映っている。ある糸の良一は病室のベッドで穏やかに息を引き取ろうとしていた。ある糸の良一は車椅子の上でひ孫に囲まれて笑っていた。またある糸の良一は三十四年前のあの夜、非常階段で祈ることをやめ、そのまま病室へ戻り娘の手を握りしめて夜通し看病していた。
これが分岐か。
そうだと影の声がどこからともなく響いた。お前が今立っているのはそれらすべてが交わる極めて稀な結節点だ。ここに立てる者は多くない。
なぜ私が。
お前があの夜、命と引き換えることを本気で願ったからだ。本気の願いは分岐の壁を薄くする。薄くなった壁はいつかこうして向こう側を覗かせる。
良一は光る糸の束にそっと手を伸ばした。指先が触れた瞬間、無数の記憶が奔流のように流れ込んできた。笑い声、涙、初めての言葉、最期の言葉。それらすべてが等しく良一という名を持つ生の断片だった。
私はどの糸を選べばいい。
影は初めて輪郭のない顔に微かな笑みに似た揺らぎを浮かべた。
選ぶという言葉がそもそも誤りだ。お前はどの糸も選ばない。お前はこれらすべての糸が編まれた一つの布そのものだ。一本の糸を引き抜けば布全体がほつれる。
では私はどうすればいい。
岸辺に立ったまま問い続けることだ。それこそがお前に残された唯一にして最大の選択だ。



第8章 約束の刻限
夢から覚めると朝の光が寝室に差し込んでいた。隣で眠る千鶴の寝息がいつもと変わらず穏やかに響いている。
良一は胸に手を当てた。鼓動は規則正しく静かに打っていた。
その日の午後、美咲から電話がかかってきた。孫が今度の連休に遊びに来たいと言っているという他愛のない用件だった。良一は電話の向こうの娘の声に、三十四年前病室で泣いていた幼子の面影を重ねた。
お父さんなんだか声が明るいねと美咲が笑って言った。
そうか。最近ちょっと調子が良くてな。
電話を切ったあと良一は縁側に腰かけ庭の木々を眺めた。輪郭のない影はもう現れなかった。写真の中のもう一人の自分も、いつしかただの古い写真に戻っていた。
影が言っていた三つ目の選択肢とはこれのことだったのかもしれないと良一は思った。終わりを恐れて急ぐでもなくただ過去にすがりつくでもない。分かたれたすべての自分を受け入れこの場所で生きていくこと。
あの夜見た祈りと光る糸の束は幻ではなかった。あの約束は消えたのではなく形を変えてこれからも自分と共にあり続けるのだ。
それでいいと良一は思った。答えを急いで探すことはやめた。問い続けながら一日一日を愛おしむこと自体が自分に残された時間の使い方なのだと今は思える。



第9章 朝が来る
それからいくつかの季節が巡った。
良一の不整脈は投薬によって落ち着き、めまいの発作もほとんど起きなくなった。輪郭のない影のことは誰にも話していない。話したところで信じてもらえるとは思えなかったし、何よりそれは自分だけの岸辺の記憶として大切にしまっておきたかった。
ある晩、床につく前に良一は日記帳を開いた。三十四年前から思い立ったときに書き綴ってきた古いノートだ。最後のページにこう書き加えた。
もしあの夜の約束が本当だったとしても、私は今日という一日を精一杯生きた。明日目が覚めるかどうかは誰にも分からない。それは六十五歳を過ぎた今の私にとっても五歳だったあの頃の美咲にとっても同じことだったのだろう。だから私は今夜も明日の朝を迎えるつもりで静かに目を閉じる。
ペンを置き良一は電気を消した。窓の外には静かな夏の夜が広がっていた。どこかで虫の声がしている。
布団に入り目を閉じる直前、良一の唇に小さな笑みが浮かんだ。
それは覚悟の笑みでも諦めの笑みでもなかった。ただ明日もまたこの体でこの家族と共に朝を迎えたいと願うごく普通の生きている人間の笑みだった。
刻は逃げてゆくのではない。ただ流れる先を選び続けているだけなのかもしれない。




アマゾン キンドル



あとがき
この物語は命の等価交換という古典的な問いから出発しながらも、それを恐ろしい悪魔の契約ではなく分岐する時間の受容という形で描きたいと考えて執筆いたしました。主人公の良一が体験する不整脈や幻覚は不気味でありながらも、自分自身の人生の総体と向き合うための必然的な通過儀礼でもありました。
人生の中で下してきた無数の選択、そして選ばなかったもう一つの可能性。それらすべてが合わさって今の自分という一幅の布が織り上げられているのだという想いは、私自身が年齢を重ねる中で強く感じるようになったことでもあります。
作品にあたり温かいご意見を寄せてくださったすべての方々に心より感謝申し上げます。またどこかの物語の岸辺でお会いできることを祈って。


今いる場所には
理由がある

これから行く場所にも
理由がある

目指す場所は
それぞれあれど


もしかすると
そこには
届かないかもしれない

それでも
次はどこへ行くべきかと

迷ってみても
それはいずれ分かる

でも
それを見つけたならば
きっと
そこにはすべてがある

ここ数日
めまいと
どうきに襲われている

昨年 同様
またぶり返したようだ

原因は分からない

暑さか
疲れか
ストレスか…

いずれにせよ
それがまた始まって

心臓は不整脈のように
波打って響めく

こりゃまずい

そう思いながら
横になって安静にする

しばらくすると
治り
また日常へと舞い戻る

65歳
さあどーする?

明日にでも
病院へと行こうか

それとも
また暫く様子を見ようか



健康には
自信があった

裏付けはないが
この身体は丈夫だと思って来た

それがそろそろ
音を立てて崩れ出したようだ

もしや
神様へと
この命と引き換えてもと
身体を張って頼んだことが
そろそろ時間だと
告げられたのか

見えなかったものたちが
見え始めたのも
もしやこれか

やはり
あちら側へと
片足を突っ込んでいたのか

すれば
もう片足も
そろそろ持ち時間なのか

ここもまた
なぜか
生き急ぐかのように
書き込んで来た

まさかね

でも
それが
神様との約束ならば
受け入れねばならない

明日の朝
起きるかな…

刻堕とし 十六 〜芝浜異聞・夢喰らい〜

継ぎ目守異聞
古典落語「芝浜」より



まえがき
「芝浜」という噺は、江戸落語の中でも、屈指の人情噺として知られている。魚屋の勝五郎は腕は良いが酒好きで、なかなか身を持ち崩している。ある朝、女房に急かされて芝の浜辺へ仕入れに出た勝五郎は、そこで思いがけず、大金の入った財布を拾う。
大喜びで長屋に帰り、その金で仲間を呼んで大盤振る舞いの酒盛りをした勝五郎だったが、翌朝目覚めると、女房から「そんな金、どこにもありゃしないよ。お前さん、夢でも見たんだろう」と告げられる。呆然とした勝五郎は、酒に溺れていた自分を恥じ、心を入れ替えて真面目に働くようになる。
三年後の大晦日、女房はようやく本当のことを打ち明ける。あの日拾った金は本物だったが、これでは夫を駄目にしてしまうと思い、拾った金を奉行所に届けた上で、夢だったのだと嘘をついていたのだ、と。勝五郎は驚きながらも、女房の情に深く感謝し、久しぶりに酒を注がれる。だが盃を口元まで運んだところで、ふと箸を止め、こう呟く。「よそう。また夢になるといけねえ」――そんな、洒落た余韻を残して幕を閉じる噺である。
この噺の面白さは、女房のついた優しい嘘――「夢だった」というひと言――が、夫の人生を静かに立て直す力を持っていたというところにある。
ところが、とある写しにおいて、この「夢だったことにする」という優しい嘘の仕掛けが、あちこちの継ぎ目で暴走し、誰もが現実と夢の区別をつけられなくなっているという報せが届いた。継ぎ目守の圭馬と弥七は、芝の浜辺へと足を踏み入れることになった。





一 継ぎ目守、夢と現の狭間
鏡面が、寄せては返す波のように、ゆらゆらと揺れ続けていた。だが、その波打ち際は、砂浜なのか布団の中なのか、いつまでも判然としなかった。
継ぎ目守圭馬へ。演目「芝浜」における『夢だったことにする』型が、無数の継ぎ目で暴走している事案を確認。現実の出来事が次々と夢と混同され、当人自身が今が夢か現かを判別できなくなる事例が多発。至急現地調査されたし。
「夢と現の見分けがつかなくなる、たあ、これは厄介だね」
圭馬が波音に耳を澄ませながら呟くと、弥七がすでに提灯片手に立っていた。心なしか、その顔つきも普段より頼りなく見えた。
「旦那、芝浜たあ、女房のついた優しい嘘が、駄目亭主を立ち直らせる、しみじみとした噺のはずなんですがね」



二 勝五郎、浜辺にて
継ぎ目を抜けると、そこは芝の浜辺、まだ夜も明けきらぬ早朝だった。
「魚勝さん、早く仕入れに行っとくれよ。いつまでも寝ぼけてないで」
女房に急かされ、渋々と浜辺に出てきた魚屋の勝五郎が、ふと足元に何か引っかかるものを見つけた。
「なんだこりゃ……財布かい」
拾い上げてみると、ずしりと重い。中を検めると、目もくらむほどの大金が入っていた。
「こ、こいつは……」
弥七が息を呑んだ。
「旦那、噺の型どおりだ。だが……この財布、心なしか、輪郭がぼやけて見えねえか」



三 酒盛りの夜
勝五郎は大喜びで長屋に駆け戻り、仲間を呼び集めて、その日のうちに派手な酒盛りを開いた。
「さあ飲め食え、今日は俺の奢りだ!」
賑やかな宴の様子を、圭馬と弥七は物陰から見守っていた。
「弥七、噺の筋なら、この後、勝五郎は酔い潰れて眠り込み、翌朝、女房から『そんな金はなかった、夢を見たんだろう』と告げられる。それで目が覚めて、心を入れ替える――そういう流れのはずだ」
「へい、そのはずなんですが……旦那、なんだかこの宴、いつまで経っても終わりそうにありやせんぜ」



四 終わらぬ宴
案の定、夜が明けても、その次の夜が明けても、勝五郎の宴は終わらなかった。
「おい、いつまで飲んでるんだ」
「なあに、まだ宵の口じゃねえか。もう一杯くれ」
勝五郎の顔は、日に日にやつれていくが、それでいて宴そのものは、いつまでも同じ賑わいを保ち続けている。
「弥七、これは変だ。噺の型なら、女房が『夢だった』と言い放って、この宴は一晩で終わるはずだ。それが、いつまで経っても、夢から覚める気配がない」



五 幾千の浜辺、覚めぬ夢
圭馬が継ぎ目守の証を掲げると、浜辺の景色が透け、その奥に、幾千もの同じ浜辺が、波打ち際のように重なって見えた。どの継ぎ目でも、財布を拾った者たちが、覚めない宴、覚めない酔い、覚めない財布の重みの中に、いつまでも閉じ込められていた。
「これは夢か、それとも現か……」
うわ言のように繰り返す彼らの目は、どこも虚ろだった。
「弥七、見ろ。あちこちの継ぎ目で、夢と現の境目が溶けちまってる。女房が『夢だった』と告げるはずの、あの優しい嘘の力が、悪用されて暴走してやがる」



六 夢喰らいの正体
幾千の浜辺が収束する先、波の底のような暗がりに、砂と泡でできた、輪郭の定まらない影が揺蕩っていた。
「継ぎ目守か。……この身は、幾百幾千の写しで宙に浮いたままだった、『夢だったことにする』という優しい嘘の残滓から生まれた者。名は夢喰らい。誰かが現実を夢だと思い込む、あの茫漠とした心地――それが何よりの馳走よ」
「お前が、あちこちの継ぎ目で、夢と現の境目を溶かして回ってるのか」
「境目などなければないほど、この身は肥え太る。夢と現、どちらも同じ味がすれば、誰も彼もが、いつまでも覚めることのない宴に浸っていられる。……なんと安らかなことか」
弥七が唸った。
「旦那、こいつぁ、あの女房の優しい嘘を、真逆の意味に使ってやがる。あの嘘は、夫に現実へ帰ってきてもらうための嘘だったはずだ。それを、いつまでも夢の中に留めておくための道具にすり替えてる」



七 弥七、宴に紛れ込む
調べを進める中、弥七がふと、覚めない宴の輪の中に足を踏み入れてしまった。
「なあお前さんも、一杯どうだい」
差し出された盃に、弥七はふらふらと手を伸ばしかけた。
「弥七!」
圭馬がとっさにその手を払いのけた。
「弥七、これは夢だ。お前が今まで見てきた、本物の景色じゃねえ」
「旦那……すいやせん、あの盃の中身が、やけに旨そうに見えちまって」
「気をつけろ。夢喰らいにとっちゃ、覚めたくねえって気持ちそのものが、格好の餌だ」



八 女房という要石
圭馬は、あの女房の姿を思い返した。
「弥七、思い出してみろ。あの女房が『夢だった』と嘘をついたのは、夫を甘やかすためじゃねえ。夫がもう一度、現実に踏み出す力を持てるようにするための、厳しくも優しい嘘だったはずだ」
「なるほど。あの嘘には、ちゃんと『いつか本当のことを話す』っていう期限があったんですね」
「ああ。三年後の大晦日、女房はちゃんと真実を告げてる。夢喰らいは、その『いつか覚める』って部分を、都合よく抜き取ってやがるんだ」



九 圭馬の啖呵
圭馬は覚めない宴の中心、勝五郎の傍らに進み出た。
「勝五郎さん、しっかりしなせえ。この宴は、もう三日も三月も、いや、三年も続いちまってる」
「な……三年、だと」
「ああ。あんたの女房は、いつまでもあんたを夢の中に閉じ込めておくような人じゃねえ。ちゃんと、潮時を見て、本当のことを話すつもりでいたはずだ」
圭馬は懐から継ぎ目守の証を掲げ、幾千の浜辺すべてに向けて、力強く語りかけた。
「夢喰らいよ、お前が喰ってきたのは、覚めない夢の心地よさだけだ。だが、本当に旨いのは、そこじゃねえ。夢から覚めた時の、あの一瞬の寂しさと、それでも現実を受け入れて立ち上がる、その人の強さの方だ」



十 夢から覚める
圭馬の言葉が、幾千の継ぎ目すべてに染み渡っていくと、覚めない宴の景色が、ゆっくりと薄れ始めた。勝五郎は、はっとしたように目を覚まし、傍らに座る女房の顔を見つめた。
「お前さん、目が覚めたかい。……昨日拾ったっていう大金、そんなもの、うちのどこにもありゃしないよ。お前さん、夢でも見たんじゃないのかい」
その言葉を聞いた瞬間、勝五郎の中で、何かがすとんと定まった。
「そうか……あれは、夢だったのか」
夢喰らいは、正しく「いつか覚める」という筋道を取り戻した夢の連なりに耐えかね、纏っていた砂と泡の輪郭を波にさらわれるように崩され、静かに溶け消えていった。



十一 三年後の大晦日
それから勝五郎は、酒を断ち、真面目に働くようになった。三年の月日が流れた、ある大晦日の夜。
「お前さん、実はね、話しておきたいことがあるんだよ」
女房は、あの日拾った金が本物だったこと、しかしそれでは夫を駄目にしてしまうと思い、金を奉行所に届けた上で「夢だった」と嘘をついていたことを、静かに打ち明けた。
「そうだったのか……お前には、随分と苦労をかけちまった」
勝五郎は深く頭を下げ、女房は久しぶりに、勝五郎の盃に酒を注いだ。勝五郎はその酒を、ゆっくりと口元まで運び――そこでふと、箸を止めた。
「よそう。また夢になるといけねえ」



十二 高座にて
気づけば圭馬は着物姿で高座に座っていた。扇子をとんとんと畳に置き、客席を見渡す。
「というわけで、女房のついた優しい嘘が、駄目亭主を三年がかりで立ち直らせるという、実に江戸っ子らしい情の噺でございます。夢と現の境目、時にゃ曖昧にしておくのも人情のうち。ですが、いつかはちゃんと覚めなきゃならねえ。そこを見誤ると、とんだ化け物にまで育っちまうんでございます。今日はこの辺りで、お後がよろしいようで」
客席から、盛大な拍手が沸き起こった。




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あとがき
本作をお読みいただきありがとうございました。刻堕としシリーズも十六作目、今回は「芝浜」という、江戸落語屈指の人情噺を題材にしました。
この噺の胸を打つところは、女房のついた優しい嘘が、単なる誤魔化しではなく、夫がもう一度立ち上がるための、期限付きの猶予だったというところにあると思います。今回はその「夢だったことにする」という仕掛けが、あちこちの継ぎ目で暴走し、誰も現実と夢の区別をつけられなくなるというSF的な事件にしてみました。
夢喰らいが喰らっていたのは、覚めない夢の心地よさでしたが、圭馬が最後に語った通り、本当に価値があるのは、夢から覚めた時の寂しさと、それでも現実を受け入れて立ち上がる強さの方なのだと思います。ラストの「よそう、また夢になるといけねえ」という台詞は、原話の余韻をそのまま大切に残しました。
しみじみとした人情と、少し不思議な夢と現の狭間の噺を、楽しんでいただけましたら幸いです。それでは、また次の継ぎ目でお会いしましょう。