さあ
いよいよNFLのドラフトが始まる
これで
今シーズンの行方が決まる
選手生命の短いアメフトで
大学生たちは
即戦力なのだ!
これを
ドラマのように仕立て
駆け引きを生中継するから
ここが本当に面白い
もしかすると
スーパーボウルの次に
ここかも? なんて
こんなアジアの島国で
ドキドキしながら
その生中継を観れる今
映画にもなった
凄いドラマがここにある
この国の
インチキなドラフトに
喝! を願いたい
わかるかなあ
わからなくとも
結構 結構…
さあ
いよいよNFLのドラフトが始まる
これで
今シーズンの行方が決まる
選手生命の短いアメフトで
大学生たちは
即戦力なのだ!
これを
ドラマのように仕立て
駆け引きを生中継するから
ここが本当に面白い
もしかすると
スーパーボウルの次に
ここかも? なんて
こんなアジアの島国で
ドキドキしながら
その生中継を観れる今
映画にもなった
凄いドラマがここにある
この国の
インチキなドラフトに
喝! を願いたい
わかるかなあ
わからなくとも
結構 結構…
檸檬
ーー聖橋の放物線ーー
〜まえがき〜
ふと気づけば、私は還暦という季節の中に立っていました。
鏡の中の自分を見つめると、そこには若き日に夢見た「大人」とは少し違う、しかし確かに私が歩んできた道が刻まれています。
昭和という、泥臭くも熱を帯びた時代。
令和という、整然としながらもどこか希薄な空気の流れる時代。
その2つの大きな河の間に架かる橋の上で、私は時折、立ち止まりたくなることがあります。
かつてポケットに忍ばせた「檸檬」は、今もどこかで鮮やかな軌跡を描き続けているでしょうか。それとも、濁った川底で静かに時を待っているのでしょうか。
この掌編は、私の個人的な記憶の断片であり、同時に、かつて同じ時代を走り抜けたすべての「かつての若者」たちへ捧げる小さな花束です。
どうか、肩の力を抜いて、この放物線を追いかけてみてください。
ほんのひととき、昭和の空気を深呼吸するような気持ちで、読み進めていただければ幸いです。
1. 逆走する坂道
上野不忍池のほとりから、無縁坂の緩やかな勾配を見上げる。
還暦を数年越えた私の膝には、その傾斜は少しばかり堪えるようになった。しかし、ここを歩くときは、背筋を伸ばさなければならないという無言の規律が、今も体に染み付いている。
かつて、この坂を駆け上がっていた頃の私は、ポケットの中に常に「焦燥感」という名の礫を忍ばせていた。
東大の赤門を横目に、本郷通りの喧騒を抜ける。景色はすっかり変わってしまった。古びた喫茶店はスタイリッシュなカフェに姿を変え、学生たちはスマートフォンの画面に目を落として歩いている。
言葉を選び、誰かを傷つけぬよう、あるいは自分が傷つかぬよう、慎重に張り巡らされた令和の空気。
「居心地が良いとは、言えないな」
独り言が、マスクの中で湿って消えた。
昭和という、もっと無頼で、もっと不器用で、それでいて嘘偽りのなかったあの時代。仲間たちと肩を組み、「バカだね」と笑い飛ばせたあの熱量が、今のこの清潔な街からは綺麗に拭い去られている。
お茶の水へと向かう足取りが、自然と早まる。
湯島聖堂の黒ずんだ築地塀が見えてくると、心臓の鼓動が少しだけ、あの頃のリズムを取り戻し始めた。
2. 聖橋の放物線
聖橋に辿り着いたとき、ちょうど下を総武線が走り抜けていった。黄色い車体が神田川の深い緑に一瞬の閃光を走らせる。
私は橋の欄干に手をかけた。鉄の冷たさが、50年という時間を一気に飛び越えさせる。
あの朝も、こうして誰もいない時間にここに立った。
梶井基次郎の『檸檬』を、擦り切れるほど読んだ文庫本をポケットに突っ込んで。
丸善の棚にレモンを置く勇気はなかったが、この橋から神田川へ、自分の憂鬱を形にして放り投げることならできると思ったのだ。
「捨て去る時には、こうして出来るだけ、遠くへ投げ上げるものよ」
誰に言うでもなく、歌詞を呟いてみた。
あの日、私の手から放たれたレモンは、鮮やかな黄色い弧を描いて川面へと吸い込まれていった。それは、大人になることへの拒絶であり、同時に、どうしようもない自分自身への決別でもあった。
多くの擦り傷を負ってきた。
仕事、家族、友との別れ。平成という厄介な時代を泳ぎ切り、令和という凪のような時代に辿り着いた今、私の手の中に残っているのは、かつての鮮烈なレモンではなく、音もなく落ち続ける砂時計の砂だけだ。
だが、どうだろう。
今、こうして聖橋から濁った水面を見下ろしていると、指先が微かに震えるのを感じる。
懐かしさ、ではない。
切なさ、だけでもない。
3. 神田川の底に沈んだもの
あの頃、私の隣にはいつも1人の男がいた。
中学からの腐れ縁で、教師の道を選びながらも、常にギターを離さなかった親友だ。
彼はよく、この聖橋の上で「俺たちの人生は、投げられたレモンみたいなもんだ」と笑っていた。どこへ落ちるか分からないが、飛んでいる間だけは、誰よりも鮮やかな放物線を描いていたいのだ、と。
彼がジョギング中に突然この世を去ったという報せを聞いたとき、私の砂時計は一瞬、時を止めた。
彼が遺した音楽や、教え子たちに語った言葉。それらは今、どこに漂っているのだろうか。
平成という時代は、効率と結果を求める冷徹な波となって、私たちの「青さ」を洗い流していった。かつての仲間たちは散り散りになり、ある者は夢を諦め、ある者は現実という名の強固な城を築いた。
気がつけば、私は還暦という大きな節目を越えていた。
多くの擦り傷を負い、時には自分自身を偽りながら、なんとかここまで歩いてきた。口にする言葉を選び、世間の顔色を窺いながら生きる令和の日常の中で、私はいつしか、あの日のレモンの酸っぱさを忘れかけていた。
だが、今、この橋の上で耳を澄ませば聞こえてくる。
神田川の底、何層にも積み重なった月日の下で、あの日投げ込んだレモンが、今も微かに光を放っている音が。
「バカだね……」
私は小さく呟いた。
その言葉は、自分自身への労いであり、先に逝ってしまった友への、嘘偽りのない挨拶でもあった。
4. 砂時計の煌めき
神田川の流れを見下ろしながら、私は自分の掌を見つめる。
そこにはもう、本物のレモンはない。代わりにあるのは、目に見えない砂時計だ。
残された砂の量は、確かに少なくなっている。1粒、また1粒と、時間は容赦なく落ち続け、2度と上に戻ることはない。
しかし、私は今、不思議な充足感の中にいる。
かつては「取り残された若さ」を憂い、懐かしさと切なさを天秤にかけては胸を痛めていた。だが、還暦を過ぎた今ならわかる。あの時、身震いしながらレモンを投げたからこそ、その軌跡が今の私を支える「骨組み」になったのだ。
私は、懐に忍ばせていたスマートフォンを取り出した。
かつては文庫本だったものが、今は4Kの映像を記録できるデバイスに変わっている。私はこの橋の上から見える景色を、ゆっくりとレンズに収めた。
湯島聖堂の屋根、学生街の喧騒、そして交差する電車の光。
これは、未来への遺言だ。
いつか私の孫や、まだ見ぬ子孫たちがこの映像を目にしたとき。そこに映る一人の老人が、かつては震える手でレモンを投げた「ガキ」であったこと。
そして、砂時計が最後の一粒を落とすその瞬間まで、昭和という激流を愛し、令和の静寂の中でさえ、胸を熱くして生きていたことを伝えたかった。
🎵 捨て去る時には
こうして出来るだけ
遠くへ投げ上げるものよ 🎵
歌声が風に乗って、秋葉原のビル群へと消えていく。
私は最後にもう1度だけ、深く、深く、聖橋の空気を吸い込んだ。
砂時計の砂は、今も落ち続けている。
けれど、その1粒1粒は、あの日のレモンのように、黄金色の光を帯びて輝いていた。
私は橋を渡りきり、お茶の水の駅へと歩き出す。
背中に、あの頃の自分が描いた放物線の残像を感じながら。
(了)
〜あとがき〜
聖橋の欄干に手をかけ、神田川を眺めながら書いたこの物語は、私にとってひとつの「区切り」となりました。
還暦を過ぎてから、私は自分の人生を、まるで砂時計を眺めるように考えるようになりました。
残された砂の量が少なくなっていくことを嘆くのではなく、その1粒1粒が放つ光に気づくこと。かつての親友と交わした「バカだね」という笑い声が、今も私の背中を押してくれること。
執筆中、何度も何度も、あの日の記憶が蘇りました。
ギターの弦が震える音、冬の朝の冷たい空気、そして遠くに消えていく黄色い檸檬。それらはすべて、今この瞬間も私の中で生きています。
物語を書き終えた今、私はまた新しい日常へと歩き出します。
次にあなたがこの橋を渡るとき、もし足元に鮮やかな黄色い影が見えたら……それはきっと、私たちが見ていたあの放物線の続きなのかもしれません。
この物語が、あなたの心の中に静かな灯りをともすことができたなら、とても嬉しく思います。
2026年 春
森羅万象 第3部
――消えゆく星に、名前をつける――
二つの地球が存在するとき、どちらが正しいのか。
消す権利は、誰にもない。
しかし、渡す権利は、誰にでもある。
プロローグ ―― 2つの星
宇宙から見れば、2つの地球は区別がつかない。
同じ軌道を描き、同じ太陽を巡り、同じ月を持つ。しかし、その表面は、まるで違う。
一方は青い。かつてそう呼ばれた色が、今もそこにある。雲が白く、海が輝き、緑が大陸を覆っている。
もう一方は灰色だ。大気は濁り、海は褐色に染まり、人々は地下に潜って息をひそめている。
2つの世界は、2035年という1点で枝分かれした。
枝分かれさせたのは、ユイ・カラスマだった。
しかし、ユイはまだ知らない。ユイは、自分の目が世界を変えたとは、まだ知らなかった
1章 新しい装置
西暦2314年。
ユイは53歳になっていた。
蜂の巣は変わった。かつての廃線跡の隠れ家は、今や地下都市の一区画として認められ、3000人が暮らす自治コミュニティになっていた。UGAは依然として存在するが、その権力は第1部の告発から30年で、かなり削がれていた。
オバアは、1年前に逝った。110歳だった。最後まで蜂の巣の奥の部屋で、古い写真に囲まれていた。
ケンは今も傍にいる。58歳になり、髪に白いものが増えたが、目の光は変わらない。
そして、リョウが新しい装置を完成させた。
「第3世代」とリョウは呼んだ。54歳になった彼は、人生の大半をこの研究に費やしてきた。「第1世代は単純な時間移動。第2世代は並行世界の観測ができた。第3世代は——」
「並行世界への干渉」ユイは静かに言った。
「そう」リョウは頷いた。「2035年に枝分かれした、もう1つの世界。青い地球。あちらに、直接行くことができる」
「そして」
「そして——」リョウは一瞬躊躇した。「こちらの世界の存在に影響を与えずに、この世界だけを……終わらせることも、理論上は可能だ」
その言葉が、会議室に重く落ちた。
ユイ、ケン、リョウ、アキ、宮本隼。第1部からの仲間たちが、全員そこにいた。
「誰が、そんな権限を持てる」ダンが言った。70歳になった元軍人は、足が悪くなったが、声の力は変わらない。「この世界の30億人に、消えていいかと聞けるか?」
「聞けない」リョウは答えた。「だから、俺はこの機能を使うべきではないと思っている。ただ、存在することをユイに伝えなければならなかった」
全員の視線がユイに向いた。
ユイは長い間、何も言わなかった。
2章 青い地球
まず、見に行くことにした。
青い地球を。もう1つの世界を。
装置が起動し、ユイとケンは並行世界へと踏み込んだ。
扉が開いた瞬間、2人は言葉を失った。
空が、青かった。
第2部でユイが2035年に見た青ではない。あれはまだ、崩壊の始まる前の過去の青だった。これは——2314年の、取り戻された青だ。
大気が清潔だ。風が冷たい。遠くに山が見える。緑に覆われた山が。
ケンが隣で、静かに泣いていた。声を出さずに、ただ涙を流していた。58年間、1度も見たことのなかった色の中に立って。
ユイも泣いた。
2人はしばらく、ただそこに立っていた。
やがて周囲に目を向けると、街があった。地上の街だ。建物があり、道路があり、木々が並んでいる。人々が歩いている。子供たちが走っている。
防護スーツなしに、外を歩いている。
当たり前のように。
「行こう」ユイはようやく言った。
街に入ると、人々がいた。こちらの世界と同じ言語を話し、同じような顔をした人々が。
ただ、目が違った。
絶望が、住んでいない。
ユイはある公園に入った。木陰のベンチに老人が座っていた。90代と見える。穏やかな顔で、空を見上げている。
「こんにちは」ユイは声をかけた。
老人はユイを見た。それから、少し首を傾けた。「あなたは……こちらの人間じゃないね」
ユイは驚いた。「なぜわかるんですか」
「目だよ」老人は言った。「あなたの目には、ずっと灰色の空を見てきた人間の色がある」
ユイは黙った。
「もう1つの世界から来たのか?」老人は静かに聞いた。「私たちの研究者の間では、枝分かれした並行世界の存在は、理論的に認められている。いつか誰かが来るだろうと思っていた」
「怖くないですか」
「怖い? なぜ?」老人は穏やかに言った。「あなたたちも、命だ。同じ地球から生まれた命だ」
ユイは老人の隣に座った。
空を見上げた。青い空を。白い雲を。
「あなたたちの世界は、どんな世界ですか」老人が聞いた。
ユイは答えた。灰色の空のこと。地下の街のこと。蜂の巣のこと。オバアのこと。宮本静香のこと。
老人は黙って聞いた。
「それでも、あなたたちは生きているんだね」やがて老人は言った。「それでも、諦めないでいるんだね」
「……はい」
「それは、美しいことだ」老人は静かに言った。「苦しい世界の中で、それでも生きようとすることは」
ユイは胸を突かれた。
美しい、という言葉を、自分たちの世界に使われるとは思っていなかった。
3章 2つの世界の住人たち
3日間、ユイとケンは青い地球を歩いた。
わかったことがある。
この世界は、完璧ではない。
環境問題は解決されたが、別の問題が生まれていた。経済格差、政治的対立、技術の倫理問題。人間が生きている限り、問題は尽きない。街の片隅には貧しい人々がいる。どこかで誰かが泣いている。
しかし——空が青い。
川が清く、魚が泳いでいる。森に鳥がいる。子供たちが外で走り回っている。
その差は、圧倒的だった。
2日目の夜、ユイは宮本隼に似た顔の男性を見かけた。60代と見える。隼と同じ年齢だ。当然だ、この世界にも宮本隼はいる。
ただ、この世界の隼は、UGAの職員ではない。地球環境研究所の研究者だ。祖母・静香の仕事を継いで、今も環境保護の研究を続けている。
ユイは声をかけることができなかった。
もし「あなたの祖母は私たちの世界でも英雄でした」と言ったら、この男はどう感じるだろう。
3日目の朝、ユイは公園の老人のもとへ再び行った。
「決断しなければならないことがある」ユイは言った。「私たちの世界を……終わらせることができる装置が、存在する」
老人は表情を変えなかった。
「それをするつもりか?」
「わからない。だから、あなたに聞きに来た」
「なぜ私に?」
「あなたは……こちらの世界の人間で、あちらの世界を恐れていない。中立に考えられると思ったから」
老人は長い間空を見上げた。
「私には、答えを出す権利がない」やがて老人は言った。「あなたたちの世界の命のことを、私が決められるわけがない。ただ——1つだけ言えることがある」
「何ですか」
「その世界にしか存在しないものが、必ずある」老人は静かに言った。「灰色の空の下でしか生まれなかった言葉、灰色の空の下でしか咲かなかった心、灰色の空の下でしか育まれなかった絆。それは、私たちの世界には存在しない」
ユイは黙った。
「消すということは」老人は続けた。「その全てを、なかったことにするということだ」
4章 蜂の巣の会議
2314年に戻ったユイは、蜂の巣で全員を集めた。
300人ではなく、3000人のコミュニティになった蜂の巣の大広間に、主要なメンバーが集まった。
「皆に話すべきことがある」ユイは言った。「そして、皆で決めなければならないことがある」
ユイは全てを話した。青い地球のこと。装置の能力のこと。そして、選択肢のこと。
広間が静まり返った。
それからゆっくりと、声が上がり始めた。
「消えたくない」と若い女性が言った。20代だ。蜂の巣で生まれ、蜂の巣で育った。「私はここで生まれた。ここが私の世界だ」
「でも」と老人が言った。「あちらの世界に、私たちの子孫が生きているとしたら? あちらの世界が続くなら、こちらが終わっても——」
「同じじゃない!」若い女性が叫んだ。「あちらの世界の私は、私じゃない!」
騒然とした。
ユイは手を上げ、静粛を求めた。
「全員の意見を聞きたい。でも、その前に——私が青い地球で感じたことを、もう少し話させてほしい」
広間が静かになった。
「あちらの世界は、美しかった。空が青く、川が清く、子供たちが笑っていた。でも——完璧ではなかった。人間が生きている限り、問題は尽きない。ただ、根本的な違いがあった。あちらの世界の人々の目に、絶望が住んでいなかった」
静寂。
「そして、あちらの老人がこう言った。灰色の空の下でしか生まれなかった言葉がある、と。灰色の空の下でしか咲かなかった心がある、と」
ユイは広間を見渡した。
「私たちの世界には、宮本静香がいた。100年後の誰かのためにデータを残した人が。蜂の巣がある。廃墟の中で歌う人がいる。怒りを燃料にして、それでも諦めない人たちがいる。それは——あちらの世界には存在しない形の、美しさかもしれない」
長い沈黙があった。
それからケンが立ち上がった。
「俺は消えたくない」ケンははっきり言った。「でも、それは自分のことだけを考えた答えだ。この世界の30億人全員が、俺と同じ気持ちかどうかは、わからない」
「決められない」リョウが言った。「誰も、決める権利を持てない」
「ならば」宮本隼が静かに言った。「装置を、使わないことが答えではないか」
全員が隼を見た。
「使わない。この世界を終わらせることも、青い地球に干渉することも、しない。2つの世界は、二つのまま存在し続ける。それが、唯一誰も傷つけない選択だ」
静寂が広がった。
長い、深い静寂が。
5章 消えゆく星に、名前をつける
会議から3日後、ユイは1人で廃棄区画の外縁に出た。
灰色の空。いつもの空。
隼の言葉は、正しいと思った。使わないことが答えだ。誰も決める権利を持てない。
しかし、それで本当にいいのか、という問いが、胸の中でくすぶっていた。
この世界は、いずれ終わる。環境崩壊は止まらない。あと何世代、ここで生きられるか。
青い地球では、人々が青い空の下で生きている。魚が泳ぎ、鳥が飛び、子供たちが笑っている。
こちらの世界を終わらせれば、この世界の苦しみは終わる。そして、青い地球だけが残る。
それは、慈悲ではないか。
それとも、傲慢か。
ユイは座り込んだ。錆びたコンクリートの上に。
目を閉じると、オバアの声が聞こえる気がした。
「大きなことを変えようとすることも大事だ。でも、目の前の小さなことを続けることも、同じくらい大事だよ」
静香の声も聞こえる。
「諦めないでくれ」
田中という老人の声も。
「未来で、諦めないでくれ」
青い地球の老人の声も。
「灰色の空の下でしか生まれなかった言葉がある」
全ての声が、ユイの中に積み重なっていた。
ユイはゆっくりと目を開けた。
空を見上げた。灰色の、オレンジの、毒の色の空を。
そして初めて、その空に、名前をつけようと思った。
美しくない名前ではなく。醜くもない名前ではなく。
ただ、ここに存在した空の名前を。
この世界でしか見られなかった空の名前を。
宮本静香が諦めずにデータを残した空。ケンが泣きながら見上げた空。オバアが最期まで生き続けた空。ユイが怒りながら、それでも諦めなかった空。
名前は、すぐには出てこなかった。
でも、ユイはそれでいいと思った。
名前をつけようとすること自体が、大事なのかもしれない。消えゆくものに、存在した証を与えようとすること。
6章 2つの世界の選択
翌朝、ユイは皆を再び集めた。
「昨夜、考えた」ユイは言った。「隼の言う通り、装置は使わない。でも——もう1つ、やることがある」
「何を?」ケンが聞いた。
「青い地球に、メッセージを送る」
全員が顔を見合わせた。
「この世界の記録を、全て。宮本静香のデータも、蜂の巣の歴史も、第1部の告発も、第2部の時間旅行も、全ての記録を。青い地球に渡す」
「なぜ?」リョウが聞いた。
「あちらの世界の人々は、こちらの世界が存在することを知らない。知るべきだと思う。なぜなら——私たちが経験したことは、あちらの世界の人々への警告になるからだ」
静寂。
「あちらの世界も、完璧じゃない。別の問題を抱えている。いつかまた、同じ過ちを犯すかもしれない。そのとき、私たちの記録が——灰色の空を知らない人々への、戒めになるかもしれない」
「つまり」隼が静かに言った。「私たちは、バトンを渡すということか。青い地球へ」
「そう」
ケンが笑った。疲れた、しかし温かい笑いだった。「宮本静香がユイに渡したように、ユイが次に渡すように——今度は並行世界へ渡すのか」
「バトンの形は、どんな形でもいい」ユイは言った。「オバアの言葉だ」
誰も反対しなかった。
その日から、蜂の巣の全員が記録の整理を始めた。この世界で起きた全てのことを、言葉にし、映像にし、データにした。怒りも、悲しみも、笑いも、諦めない日々も、全部。
3ヶ月かけて、それは完成した。
そして装置を使って、青い地球へと送信した。
受け取った青い地球の老人から、返信が来た。
「受け取りました。全員で読みます。あなたたちのことを、忘れません」
たった1行のメッセージだった。
ユイは、そのメッセージを何度も読んだ。
忘れません、という言葉が、胸の奥に刺さっていた。
7章 森羅万象、再び
それからまた、時が過ぎた。
ユイは60歳になった。
蜂の巣の外縁に、小さな庭ができていた。試験的に始めた地上の緑化プロジェクトだ。大気汚染に強い植物を改良し、少しずつ地上に植えていく。まだ小さな庭に過ぎないが、そこに緑がある。
ユイは毎朝、その庭に水をやった。
ある朝、庭に1羽の鳥が来た。
小さな、灰色の鳥だった。どこから来たのかわからない。この空の色に溶け込むような、地味な鳥だった。
しかし、鳥だった。
生きた鳥が、地上にいた。
ユイは動かずに見ていた。鳥は庭の隅に降り立ち、土をついばんでから、また飛び去った。
飛べるものがいる。
この灰色の空にも。
ユイの目から、涙が出た。
怒りの涙ではなかった。悲しみの涙でもなかった。
ただ、命があることへの涙だった。
飛べるものがいる。かつては無数にいて、今はほとんどいなくなったが、それでも、1羽がここにいる。
泳げるものがいる。改良された水域の実験区画で、魚の稚魚が育ち始めていると聞いた。
走れるものがいる。地下の実験施設で、小型の哺乳類が生きていると聞いた。
それぞれに、今もここに、命がある。
ユイは空を見上げた。
灰色の空。変わらない、灰色の空。
でも、その向こうに青があることを、ユイは知っている。
そして、この灰色の空の下で生まれた全てのものを、青い地球の人々が知っている。
忘れません、と言ってくれた。
ユイは胸の中で、静香に語りかけた。
あなたが渡してくれたバトンは、まだ走っています。形を変えながら、世界を越えながら、それでも走っています。
次の世代へ。
また次の世代へ。
たとえこの星がいつか終わっても、渡したものは消えない。
それが、時間という川の、本当の意味かもしれない。
終章 2つの空の下で
青い地球では、その日、1人の少女が図書館にいた。
12歳。好奇心旺盛な目をした少女が、古いデータアーカイブを読んでいた。
タイトルは「灰色の空の記録——並行世界からのバトン」。
少女はページをめくった。宮本静香の日記を読んだ。ユイの告発を読んだ。蜂の巣の人々の声を読んだ。怒りと悲しみと、それでも諦めない日々の記録を。
読み終えて、少女は窓の外を見た。
青い空があった。白い雲が流れていた。
少女は初めて、その青を、当たり前だと思わなくなった。
これは、誰かが死に物狂いで守ろうとした色だ。守り切れなかった世界の人々が、それでも諦めずに記録し、渡してくれた色だ。
少女は静かに立ち上がり、窓を開けた。
風が入ってきた。清潔な、草の匂いのする風が。
「忘れない」少女は呟いた。誰に向けるでもなく。「あなたたちのことを、忘れない」
*
灰色の地球では、その同じ瞬間、ユイが庭に水をやっていた。
小さな緑の芽が、土から顔を出していた。
昨日まではなかった芽だ。
ユイはしゃがみ込んで、その芽を見た。
小さかった。か細かった。この大気の中で、どこまで育つかわからなかった。
でも、あった。
生きようとしていた。
ユイは微笑んだ。
怒りは、まだある。恨みも、まだある。あの時代への問いは、まだ終わっていない。
しかし、それと並んで、今この瞬間に、緑の芽がある。
飛んでいった1羽の鳥がいる。
青い地球の少女がいる。
渡したバトンがある。
森羅万象。
ありとあらゆるものが、それぞれの形で、それぞれの速さで、それぞれの場所で、生きようとしている。
灰色の空の下でも。
青い空の下でも。
2つの地球は、今日も回っている。
同じ太陽を、同じ月を、それぞれの空の下で、受け取りながら。
――了――
〜3部作を終えて〜
3部作を通じて、ユイ・カラスマは3つの問いと向き合いました。
第1部では「怒りをどこに向けるか」。第2部では「過去は変えられるか」。第3部では「消す権利は誰にあるか」。
そして3つとも、明快な答えは出ませんでした。意図的に。
ただ、1つだけ確かなことがあります。
渡すことは、できる。
宮本静香がユイに渡したように。ユイが青い地球の少女に渡したように。形は変わっても、バトンは走り続ける。
この3部作の出発点は、一篇の詩でした。森羅万象。飛べるもの、泳げるもの、走れるもの。それぞれの命が、それぞれの場所で生きようとしている。
灰色の空の下でも、青い空の下でも、命は生きようとする。
それが、森羅万象の意味だと、今は思います。
二〇二六年 春
――3部作・完――
森羅万象 第2部
――時の川――
過去は変えられないが、未来は渡せる
過去は変えられない。
しかし、過去が今に渡したものは、変えられない。
プロローグ ―― 時間という名の墓場
時間とは、墓場だ。
過去は死んでいる。変えられない。取り戻せない。だから墓場だ。
そう信じていた。ユイ・カラスマは、27歳になった今も、そう信じていた。
だが、宮本隼が一枚のディスクを差し出したとき、その確信が、音を立てて崩れ始めた。
「祖母が残したものの中に、もう一つあった」と隼は言った。「データではない。設計図だ」
「何の?」
隼は答えた。
「時間の、扉の」
1章 静香の遺産
宮本静香が残した設計図は、暗号化された光学ディスクの中に眠っていた。
隼がそれを発見したのは、祖母の死から30年後のことだ。膨大な日記データを整理している最中に、1つだけ異質なファイルを見つけた。暗号キーは、日記の特定の日付と、静香の娘(隼の母)の名前を組み合わせたものだった。
「解読に3年かかった」と隼はユイに語った。蜂の巣の会議室、廃列車の中で。「設計図を見たとき、最初は信じられなかった。これが本当に機能するものなら……祖母はとんでもないものを作っていたことになる」
「静香さんは、物理学者でもあったんですか?」
「環境研究者だ。だが、彼女の研究室には当時の最先端の物理学者たちが出入りしていた。気候シミュレーションのために、量子コンピューティングの研究者と共同プロジェクトを組んでいた。その中の一人が……時間の理論を持っていたらしい」
「らしい、というのは?」
「その物理学者の記録は、すでに消されている。UGAが消した。あるいはUGAの前身組織が。名前も、論文も、存在の痕跡も何もかも」隼の目が暗くなった。「だが、静香の設計図だけは残った。彼女が誰にも言わずに、1人で保存し続けたから」
ユイは設計図のコピーを見た。
量子力学の数式と、回路図と、注釈が入り混じった複雑な文書だ。ユイには半分も理解できない。だが、端の方に静香の手書きが残っていた。
「もし誰かがこれを完成させることができたなら、どうか慎重に使ってほしい。時間を変えることは、正義ではないかもしれない。それでも私は、可能性を残したかった」
ユイはその文字を、長い間見つめた。
「完成させられますか?」
「リョウが言うには、あと半年あれば」と隼は答えた。「基本的な機構は設計図通りに作れる。問題は、エネルギー源だ。この装置を起動するには、莫大なエネルギーが必要になる」
「どこから調達する?」
「UGAの旧世代核融合炉が、廃棄区画F-3に眠っている。まだ起動できるはずだ」
ユイはケンを見た。ケンは肩をすくめた。「また無茶な話になってきたな」
「最初から無茶しかしてないでしょ」ユイは言って、立ち上がった。「やろう」
2章 装置
半年間、蜂の巣は変わった。
リョウを中心に、装置の製作が始まった。設計図を解読し、部品を廃墟から調達し、何度も失敗しながら組み上げていく作業は、まるで別の時代の錬金術師たちのようだとユイは思った。
廃棄区画F-3の核融合炉は、驚くほど原型を保っていた。ダンが3人のチームを率いて2週間かけて修復し、最小出力での起動に成功した。
装置が完成した日の夜、リョウは興奮と疲労の入り混じった顔でユイに言った。
「動くと思う。理論上は」
「理論上は、というのが気になる」
「時間移動なんて、誰もやったことがないんだから、『理論上は』以上のことは言えない」リョウは苦笑した。「でも、静香さんの数式は完璧だ。あの人は天才だったよ」
装置は、人が1人入れる程度の球形の筐体だった。内側は量子干渉素子に覆われ、外側には冷却システムと電力供給ラインが繋がっている。見た目は、錆びた卵のようだ。
「目的地の時間と場所を指定して、起動する」リョウが説明した。「帰還は自動だ。6時間後に強制帰還するように設定してある。それ以上向こうにいることはできない」
「変えたことの影響は、いつ出る?」
「わからない」リョウは正直に言った。「時間の変更が、この時代に反映されるまでにラグがあるのか、それとも即時なのか、理論的には諸説ある。ただ……」
「ただ?」
「もし過去が変わったなら、今のこの時代も変わる。つまり……俺たちの記憶が変わるか、あるいは俺たち自身が存在しなくなるか」
沈黙が落ちた。
全員がその意味を理解していた。
過去を変えることに成功したなら、地球崩壊が起きなかった世界が生まれる。そこには蜂の巣もなく、メモリー・ダイバーもなく、ユイもケンもオバアも、この形では存在しないかもしれない。
「それでも、行くか?」ケンが静かに聞いた。
ユイは答えた。
「行く。でも、1つだけ確かめてから」
3章 オバアの言葉
その夜、ユイはオバアを訪ねた。
83歳になったキクコ・ナカムラは、相変わらず蜂の巣の奥に座っていた。古い写真に囲まれて。
「聞いたよ」オバアは言った。「時間の扉を作ったって」
「噂が早いですね」
「狭いところだからね」老女は微笑んだ。「それで、私に何を確かめに来た?」
ユイは膝を折り、オバアと目線を合わせた。
「もし過去が変わったら、オバアはいなくなるかもしれない。この形では」
「そうだね」
「怖くないですか」
オバアは少し考えた。皺の深い顔が、静かに動いた。
「怖い、というより……」老女はゆっくり言葉を選んだ。「私はね、ユイ、7歳のときに見た海を、まだ覚えてる。砂浜の白さ。水の透明さ。魚の影。あの美しさは、本物だった」
「はい」
「もしその世界が取り戻せるなら、私がこの形でいなくなっても……それはそれで、いいんじゃないかと思う」オバアの目が、遠くを見た。「でも」
「でも?」
「過去を変えることが、本当に正解かどうか、私にはわからない。人間ってのはね、同じ失敗を繰り返す生き物だよ。2035年を変えても、また別の2035年が来るかもしれない」
ユイは黙って聞いた。
「それでも行くなら」オバアは続けた。「怒りだけで行かないでおくれ。見てきなさい。あの時代の人間たちを、ちゃんと見てきなさい。バカな連中だと思うかもしれない。でも、あの人たちも人間だ。なぜ変えられなかったか、その目で確かめてきなさい」
ユイはうなずいた。
「帰ってきます」
「帰ってこなくても、いい」オバアは静かに言った。「あなたがすべきことをしなさい。それだけでいい」
ユイは老女の手を握った。骨ばった、しかし温かい手だった。
これが最後になるかもしれない、と思いながら。
4章 2035年・春
装置が起動した瞬間、世界が溶けた。
音が消え、光が歪み、重力の感覚がなくなった。ユイは球形の筐体の中で息を止めた。1秒か、1時間か、わからない時間が経過した後、衝撃とともに感覚が戻ってきた。
扉を開けると、そこは廃墟ではなかった。
コンクリートの路地。遠くにビルが見える。空が……青い。
ユイは思わず立ちつくした。
青い空。27年間、1度も見たことのなかった色が、そこにあった。雲が白い。太陽の光が、痛いほど眩しい。空気が……冷たい。清潔だ。防護スーツなしに、そのまま呼吸できる。
目から涙が出た。
怒りではなく、何か別のもので。これが、失われた世界だ。これが、あの時代の人間たちが当たり前に持っていた空だ。
ユイは涙を拭い、周囲を確認した。2035年、3月。設定通りだ。場所は旧東京、霞が関周辺。当時の環境省が近くにある。
人々が行き交っていた。
スマートフォンを見ながら歩く人、コーヒーカップを手にした人、スーツ姿のビジネスマン。全員が、何の疑いもなく生きている。この空が、この空気が、永遠に続くものだと信じながら。
ユイは胸が痛んだ。
怒りではなかった。もっと複雑なものだった。
この人たちは、知らないのだ。自分たちが何を失いつつあるか。あるいは、知っていても、実感できないのだ。200年後の灰色の空を、脳が想像できないのだ。
環境省の建物に近づいた。入口に、スーツ姿の人々が出入りしている。
ユイは迷った後、1人の女性に声をかけた。60代と見える、白髪交じりの、疲れた目をした女性。
「すみません。今日、環境省で何か会議がありますか?」
女性は少し驚いた顔をしてから、答えた。「ええ、気候対策の省内会議が……なぜそれを?」
「関係者です」ユイは咄嗟に嘘をついた。「少し遅れてしまって」
女性は何かを考えるように目を細めた。それから、思い切ったように言った。「会議の結果を変えることはできないと思います。でも……中に入れてあげましょう。私も、今日の決定には反対なので」
その女性が、宮本静香だと気づくまで、ユイには数秒かかった。
日記の写真で見た顔より、ずっと若い。しかし、あの目だ。揺るぎない、燃えるような目。
ユイは息をのんだ。
5章 変えられない壁
会議室の外廊下で、ユイは静香の隣に座った。
扉の向こうから、くぐもった声が聞こえてくる。大臣の声、次官の声、誰かが数字を読み上げる声。
「今日、何が決まるんですか」ユイは静かに聞いた。
「排出量削減の実施を、先送りにすることが決まります」静香は淡々と言った。「私は反対意見書を提出しましたが、却下されました。シミュレーション結果も見せました。それでも」
「それでも、変わらない」
「変わらない」
静香はユイを横目で見た。「あなた、本当に関係者? 顔を見たことがない」
「……遠いところから来ました」
「どこから?」
ユイは一瞬だけ迷った。それから言った。「未来から」
静香は笑わなかった。ただ、静かにユイを見つめた。それから、小さく頷いた。
「そう」
「信じるんですか?」
「信じるかどうかより、あなたの目が本物だと思う」静香は言った。「未来は、どうなりましたか」
ユイは答えた。全部を。空の色が変わったこと。海が死んだこと。森が消えたこと。人類が地下に追いやられたこと。
静香は黙って聞いた。涙は出なかった。ただ、顔が少しずつ固くなっていった。
「……やはり、そうなったか」やがて静香は言った。「私のシミュレーションでは、最悪のケースがそれだった」
「止められますか? 今日の会議を。決定を変えることは」
静香は長い間沈黙した。
「あなたが未来から来たことを、今すぐ大臣に告げましょうか。証拠を見せましょうか。それで変わると思いますか?」
ユイは何も言えなかった。
「変わらない」静香は静かに答えた。「私は10年間、データを示し続けた。論文を書いた。警告を出し続けた。それでも変わらなかった。なぜか、わかりますか?」
「なぜですか」
「あの人たちには、見えないから」静香の声に、怒りではなく、深い疲労があった。「今日の生活が脅かされることへの恐怖は、100年後の地球が死ぬことへの恐怖より、ずっとリアルなんです。人間の脳は、遠い未来を、近い現在と同じ重さで感じることができない。それは……悪意じゃない。構造なんです」
ユイは胸を突かれた。
「じゃあ、どうすればよかった?」
「わからない」静香は首を振った。「私にも、わからない。もっと違うやり方があったかもしれない。でも、私が生きている間には、答えが見つからなかった」
扉が開いた。会議が終わったのだ。スーツ姿の人々が出てきた。その顔に、特別な罪悪感はない。疲れた顔、満足した顔、次の予定を考えている顔。
彼らは普通の人間だった。
怪物ではなかった。
ただ、普通の人間が普通の判断をした結果が、200年後の灰色の空になったのだ。
ユイはその事実を、全身で受け止めた。
6章 2100年・夏
装置が再起動した。
今度の目的地は2100年。崩壊が始まった時代だ。
扉を開けると、熱気が押し寄せてきた。
空はすでに変わっていた。青ではない。薄い、黄みがかった白だ。太陽が白く燃えている。気温は体感で五十度を超えているかもしれない。
街はまだあった。しかし、人の気配が薄い。建物の多くに「避難勧告」の張り紙がある。道路はひび割れ、植物は枯れている。
川があった。かつては清流だったはずの川が、褐色に濁っている。
ユイは防護スーツなしにここへ来たことを後悔した。空気はまだかろうじて呼吸できる。しかし、目が痛い。喉が焼けるような感覚がある。
広場に、人々が集まっていた。
100人ほど。テントを張り、給水車を囲んでいる。気候難民だ。沿岸部が水没し、農地が砂漠化し、逃げてきた人々だ。
その中に、子供がいた。
5歳くらいの女の子が、母親の手を握りながら、空を見上げていた。あの白い空を、不思議そうに見上げていた。
ユイは立ちつくした。
この子は、ユイが生きた世界をさらに悪化させた先にいる。この子が50歳になる頃、地球はどうなっているか。
怒りが来た。しかし、誰に向ければいいかわからない怒りだった。
2035年の会議室の人々に向ければいいのか。しかし、彼らは怪物ではなかった。普通の人間だった。
人間という種全体に向ければいいのか。しかし、目の前のこの母親も、この女の子も、人間だ。
老人が近づいてきた。70代と見える、痩せた男だ。
「よそ者だね」男は言った。「この時代の人間じゃない顔をしてる」
ユイは驚いた。「なぜわかるんですか」
「目だよ。あなたの目は、絶望してない。今の時代の人間はみんな、目に絶望が住んでる。あなたにはない」
男は続けた。「未来から来たのか、過去から来たのか、どっちだ?」
「未来から」
「そうか。どうだった? もっとひどくなったか?」
「……はい」
男はうなずいた。悲しそうでも、驚いた様子でもなかった。ただ、静かに受け入れた。
「変えようとして来たのか?」
「そうです」
「できなかったか?」
「……どうすればいいか、わからなくなりました」
男は広場を見渡した。難民たちを、子供たちを、白い空を。
「変えようとした人間は、いたよ」男は言った。「たくさんいた。デモをした人間、論文を書いた人間、政治家に掛け合った人間、自分の生活を変えた人間。でも、足りなかった」
「なぜ足りなかったんですか」
「1人1人は変わった。でも、システムが変わらなかった」男は空を見上げた。「電力会社が、石油会社が、自動車会社が、金融が、政治が……そのシステム全体が、惰性で動き続けた。1人の人間がどれだけ変わっても、システムが変わらなければ、焼け石に水だった」
ユイは黙って聞いた。
「あなたが変えに来るなら」男は続けた。「1つの決定を変えるんじゃなく、そのシステムを変えなければならない。でも、システムを変えるには……それこそ、100年かかる」
6時間が経過しようとしていた。
装置が自動帰還のシグナルを発した。
ユイはその老人の顔を、目に焼き付けた。
「名前を教えてください」
「田中だ。ありふれた名前だろう」男は苦笑した。「覚えなくていい。ただ……未来で、諦めないでくれ。それだけだ」
世界が溶けた。
7章 帰還
2287年に戻ったユイは、装置の中で長い間動けなかった。
扉を開けると、いつもの灰色の空があった。錆びた廃墟があった。オレンジ色の大気があった。
ケンが待っていた。リョウも、アキも、ダンも。
「大丈夫か?」ケンが駆け寄った。
ユイは頷いた。それから、地面に膝をついた。
泣いていた。
声を上げて泣いた。怒りで、悲しみで、それから何か別のもので。
仲間たちは黙ってそこにいた。誰も何も言わなかった。ただ、ユイの傍にいた。
やがてユイは立ち上がった。目を拭い、空を見た。
「変えられなかった」ユイは言った。「1つの決定を変えることは、できなかった。システムが問題だった。人間の脳の構造が問題だった。1点を変えても……」
「でも」ケンが促した。
「でも」ユイは続けた。「静香さんに会った。本物の静香さんに」
全員が静かになった。
「彼女は……知っていた。全部知っていて、それでも戦い続けていた。そして、諦めずにデータを残した。私たちが見つけるために」
「それは……」リョウが言いかけた。
「つまり」ユイは続けた。「静香さんは知っていたんだと思う。1人では変えられないことを。自分の時代では変えられないことを。だから、未来の誰かに渡すことを選んだ」
沈黙が広がった。
「過去は変えられない」ユイは言った。「でも、過去が私たちに渡したものがある。宮本静香のデータ。あの老研究員の言葉。田中さんという名前の老人の、諦めるなという声。それは、変えられない。どこにでも届いた」
「じゃあ、俺たちは何をする?」ダンが聞いた。
「続ける」ユイは答えた。「静香さんがデータを渡したように、私たちは次に渡す。情報を、怒りを、希望を。1世代では変わらなくても、5世代、10世代かければ、システムは変わるかもしれない」
「何100年かかる話だ」ダンが言った。
「そう」ユイは頷いた。「でも、始めなければ、何100年経っても始まらない」
ケンが口を開いた。「田中さん、って誰だ?」
「2100年で会った老人。名前だけ聞いた。田中、というありふれた名前の」
「その人は、何て言ってた?」
「諦めないでくれ、って」
ユイは空を見上げた。灰色の、オレンジの、毒の色の空。
でも、その向こうに、かつて青があったことをユイは知っている。今は知っている。
「諦めない」とユイは言った。
それは宣言ではなく、確認だった。自分自身への、静香への、田中という老人への、そしてまだ生まれていない未来の誰かへの。
終章 バトンの形
それから6ヶ月が経った。
タイムマシンの存在は、蜂の巣の外には漏らさなかった。
ユイはオバアにだけ、旅のことを話した。静香に会ったこと、2100年の白い空のこと、田中という老人のことを。
オバアは黙って聞いた。
「過去は変えられなかった」とユイは言った。「ごめんなさい」
「謝らなくていい」オバアは言った。「あなたは見てきた。それで十分だ」
「でも——」
「ユイ」オバアは静かに遮った。「私はね、今日の夕飯が食べられることが嬉しい。あなたたちが元気でいることが嬉しい。蜂の巣の子供たちが笑っているのが嬉しい」
老女の目が、穏やかに光った。
「大きなことを変えようとすることも大事だ。でも、目の前の小さなことを続けることも、同じくらい大事だよ。静香さんだって、大きなことを変えようとして、できなかった。でも、データを残すという小さなことをした。それがあなたたちに届いた」
ユイはうなずいた。
「バトンは、どんな形でもいい」オバアは続けた。「大きなバトンでも、小さなバトンでも。次の誰かが受け取れる形であれば」
ユイは立ち上がり、オバアの部屋を出た。
蜂の巣の通路を歩く。子供たちの声がする。水耕栽培の緑の匂いがする。誰かが歌っている。
地上へ出ると、灰色の空があった。
ユイはその空を見上げた。
飛べるものたちが、かつてここを飛んでいた。泳げるものたちが、海を満たしていた。走れるものたちが、大地を駆けていた。
それぞれに進化して、それぞれの命を生きていた。
人間は、その全てを変えてしまった。
しかし、人間もまた、命だ。
変えようとする命、諦めない命、次に渡そうとする命。
宮本静香がユイに渡したように。ユイが次の誰かに渡すように。
時間は、墓場ではないかもしれない、とユイは思った。
むしろ、川だ。
流れ続ける川。過去から未来へ。1人から次の1人へ。
止めることはできない。しかし、何を流すかは、今生きている自分が決める。
ユイは空に向かって、小さく頷いた。
灰色の空の向こうに、静香がいる気がした。田中老人がいる気がした。オバアが7歳の時に見た白い砂浜がある気がした。
そして、まだ見ぬ未来の誰かが、どこかで空を見上げている気がした。
その空が、少しでも青くなっていることを願いながら。
――その空を、まだ知らない誰かのために。
――了――
〜あとがき〜
第2部を書きながら、1つの問いが頭を離れませんでした。
もし過去に戻れたとして、何を変えられるだろうか、と。
ユイは2035年に行き、宮本静香に会いました。そして気づきました。あの時代の人間たちは、怪物ではなかった。悪意があったわけでもなかった。ただ、人間の脳が持つ構造的な限界の中で、普通の判断をした。それが積み重なって、地球を変えてしまった。
怒りは正当です。しかし、怒りだけでは見えないものがある。
バトンという言葉を、この物語の中心に置きました。宮本静香からユイへ。ユイから次の誰かへ。1世代では変えられなくても、渡し続けることで、何かが変わるかもしれない。
時間は墓場ではなく、川だ――それが、この第2部の結論です。
流れは止まらない。でも、何を流すかは、今生きている私たちが決める。
2026年 春
Amazon Kindleへの
単発予定のものが
2部3部まで続いてしまいまして
ちょいと試しに
ここに載せてみます
長いので
面倒でしたら
スマホに読んで貰って下さい 笑
森羅万象 第1部
飛べるもの
泳げるもの
走れるもの
それぞれに
進化して
今 違う生物として
この世に生きる
いつの頃からか
人間なる生物が
この星を支配して
この星は
その命を短くもする
それにやっと気づいたけれど
正そうとする勢力よりも
まだまだ
便利さが優先だと
自分の時間だけを考えるバカな連中
いずれ
いよいよヤバイ! と
気付いたた頃には
時すでに遅く
人間たちは
この時代を恨むのだろう
そして彼らは、こう言うだろう
「なぜ止めなかった」と
その“彼らに責められる側”が
今の、私たちだ…
森羅万象
〜未来は、私たちを許さない〜
― 記憶探索者ユイの告発 ―
西暦2287年、地球は静かに腐っていた。
記憶を掘り起こす者が、真実と怒りと、小さな希望を見つける物語。
プロローグ 灰色の夜明け
西暦2287年。地球は静かに腐っていた。
かつて「青い星」と呼ばれたこの惑星に、もはや深い青はない。大気は鉛色の膜に覆われ、海は酸性の褐色に染まり、森林はほぼ消滅した。人類は地下都市と密閉ドームの中に追いやられ、そこで息をひそめて生きている。
だが、生きている。
それだけが、この時代の奇跡だ。
ユイ・カラスマは、廃棄区画の外縁に立っていた。防護スーツのヘルメット越しに見える空は、オレンジがかった灰色だ。昔の記録映像で見た「夕焼け」に少し似ているかもしれない、と彼女は思う。だが、あれは太陽の光が大気中の塵に散乱して生まれる美しさだったはずだ。今この空の色は、硫黄と微粒子汚染物質が作り出す毒の色に過ぎない。
26歳のユイは、記憶探索者(メモリー・ダイバー)だ。彼女は一度も、「青い空」を見たことがない。
廃墟に潜り込み、旧世界の記録を掘り起こす。データストレージ、紙の書物、映像フィルム――何であれ、かつて人類が残したものを回収する。それが彼女の仕事だった。そしてその仕事は、今この時代において、危険であると同時に、ひそかに政治的な意味を帯びていた。
なぜなら、政府は「歴史」を管理しようとしているからだ。
国際統合管理局(ユナイテッド・ガバナンス・オーソリティ、通称UGA)は、地球崩壊の「原因」を都合よく書き換えていた。公式の歴史書には、こう記されている。「未曾有の自然変動が地球環境を変容させた。人類はそれに適応し、新たな文明を構築した」と。
しかし、ユイは知っている。
それは嘘だ。
1章 記憶の墓場
廃棄区画D-17は、かつて「東京」と呼ばれた都市の北東部にあたる。
200年以上前、ここには数1000万人が暮らしていたという。超高層ビル群、縦横無尽に張り巡らされた鉄道網、夜も輝き続けるネオンの海。ユイは幼い頃、祖母から聞いた話を思い出す。「昔は、夜でも空が光っていたんだよ」と。
今は、がれきと錆と静寂だけがある。
ユイはセンサーを手に、崩れたコンクリートの壁に沿って進んだ。背後には相棒のケン(本名ケンジ・フジオカ、31歳)がいる。彼は元UGA技術局の職員で、3年前に脱走してメモリー・ダイバーになった男だ。
「反応あり」とケンが囁いた。「この下、地下3階。旧型のサーバーラックが残ってる可能性がある」
「生きてる?」
「電力はゼロ。でもデータは光学式だ。100年は持つ」
ユイはうなずいた。光学式ストレージ。旧世界の人々が最後期に使っていたシステムで、電力がなくてもデータが保持される。掘り当てれば大きい。
問題は、このエリアがUGAの監視ドローンの巡回ルートに引っかかっていることだ。
「時間は?」
「次の巡回まで18分」とケンが答えた。「急がないと」
彼らは廃ビルの地下へと降りていった。
崩れた階段を、ヘッドライトだけを頼りに下る。空気が変わった。地下特有の、閉じた空気だ。かつて空調が機能していた頃の名残か、意外なほどに乾燥している。
地下3階にたどり着いたとき、ユイは思わず息をのんだ。
広大なサーバールームが、そのままの姿で残っていた。
ラックが整然と並び、無数のケーブルが床を這い、かつてはランプが点滅していたであろう無数のポートが、今は静かに沈黙している。まるで、誰かが昨日まで使っていて、そのまま立ち去ったかのような光景だ。
「すごい……」ケンが呟いた。「こんな規模のが残ってるとは思わなかった」
「何のサーバーだろう」
「入口のプレートを見て」ケンがライトで照らした。
錆びた金属プレートに、辛うじて読める文字があった。
「環境省……データセンター……」
ユイとケンは顔を見合わせた。環境省。かつて存在した日本国の行政機関。地球環境の保護と管理を担当していたはずの、その省庁のデータが、ここに眠っている。
「これ……本物だとしたら」ユイは慎重に言葉を選んだ。「当時の気候データ、排出量データ、あらゆる記録が入ってるかもしれない」
「UGAが必死に隠してるやつだ」
「そう」
ユイはリーダー端末を取り出した。光学式ストレージから直接読み取るための機器だ。これさえあれば、電力なしでデータを吸い出せる。
彼女は最初のラックに端末を接続した。
データが流れ込んでくる。
膨大な、恐ろしいほどに膨大な、数字と記録の洪水が。
2章 数字が語る罪
その夜、地下シェルター「蜂の巣」に戻ったユイは、回収したデータの解析を始めた。
蜂の巣は、旧東京の地下鉄廃線跡に作られた非公認の居住区だ。約三百人が暮らし、その多くはUGAの支配に抵抗する人々、あるいはシステムからこぼれ落ちた人々だ。電力は廃材から作るソーラーパネルで賄い、食料は水耕栽培と昆虫農場で確保している。
貧しいが、自由だ。
ユイはデータを整理しながら、震えが止まらなかった。
それは恐怖ではなく、怒りだった。——自分が見たこともない世界を、奪われた怒りだ。
2030年のデータがある。温室効果ガスの排出量グラフ。削減目標との乖離を示す折れ線グラフ。各国政府と国際機関が交わした議事録。
そして、あるフォルダに「CLASSIFIED(機密)」と銘打たれた文書群があった。
ユイはそれを開いた。
文書は日本語と英語の両方で書かれており、当時の環境大臣と財務大臣、経済産業大臣が連名で署名した内部文書だった。作成日は2035年。
「……脱炭素化政策の本格的実施は、国内産業への打撃が大きすぎる。現時点では、経済的損失と国際競争力の低下を招くリスクが、気候変動対策の便益を上回ると判断する。よって、排出量削減目標については、国際社会に対しては公約を維持しつつ、実質的な実施を後回しとする方針を採る……」
ユイは画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
「後回し」
その2文字が、脳の中で反響した。
気候変動の科学的警告は、20世紀の後半からすでに存在していた。21世紀に入ってからは、もはや疑いの余地のない事実として積み重なっていた。それでも、「便利さ」が優先された。経済が優先された。「自分たちの時代だけ」が優先された。
次の世代のことなど、誰も本気で考えなかった。
「……見たか?」
背後から声がした。振り返ると、蜂の巣の長老、オバアこと八十二歳のキクコ・ナカムラが立っていた。彼女は21世紀生まれの最後の世代の1人で、崩壊前の地球を子供の頃に知っている。
「見ました」ユイは答えた。「これは……」
「そう」オバアはゆっくりとうなずいた。「私たちが恨んでいたのは、これだよ。証拠が出てきたね」
オバアの目が遠くを見た。
「私が7歳のとき、海に行ったんだ。まだ海が美しかった頃。砂浜が白くて、水が透き通っていて……大人になってまた行ったら、海岸線が消えていた。砂が黒くなっていた。魚がいなかった」
彼女の声は静かだが、その奥に燃えるものがあった。
「私たちは子供の頃から言われ続けた。『地球を守らなければ』って。学校でも、テレビでも、本でも。なのに大人たちは何もしなかった。理由はいつも同じ。お金。便利さ。今の生活水準を下げたくないって。馬鹿な話だろう? 地球が死んだら、お金も何もないのに」
「その証拠が、ここにある」ユイはデータを示した。「これを世界に公開すれば……」
「UGAが黙ってないよ」
「わかってます」
「命懸けになる」
「わかってます」
ユイは立ち上がった。データリーダーをポケットに入れ、オバアと向き合った。
「でも、これを隠したままにしておくことはできない。誰かが怒らなければ。誰かが、あの時代の人間たちに向かって言わなければ。あなたたちがやったことを、私たちは知っている、と」
オバアは長い間ユイを見つめた。それから、皺だらけの手でユイの頬に触れた。
「行きなさい」と老女は言った。「でも、生きて帰っておいで」
3章 抵抗の芽
翌朝、ユイはケンと作戦を練った。
蜂の巣の会議室――といっても廃列車の1両を改造したものだが――に、主要メンバーが集まっていた。元プログラマーのリョウ(本名:梁 涼、29歳、中国系日本人)、元ジャーナリストのアキ(秋山 彩夏、34歳)、そして元軍人のダン(本名ダニエル・ ホフマン、40歳、ドイツ系)。
「UGAの中央ネットワークにハッキングできるか?」ユイが問うと、リョウは即座に首を振った。
「ムリ。あそこのファイアウォールは何重にもなってる。中央には絶対入れない」
「外からでなく内からなら?」
全員がユイを見た。
「内通者がいるかもしれない」ユイは続けた。「あの規模のサーバーが200年以上残っていたということは、誰かが意図的に保存していた可能性がある。旧環境省の人間、あるいはその子孫が……UGAの中にいて、いつかこのデータが使われることを待っていたとしたら?」
「それは楽観的すぎる」ダンが言った。低く落ち着いた声だ。「希望的観測でリスクを冒すべきではない」
「そうかもしれない」ユイは認めた。「でも、データを世界に公開する方法は考えなければならない。UGAが管理するネットワーク以外の経路で」
「フリーネット」アキが言った。「今も残ってる非公式ネットワークだ。UGAの監視が及ばない暗号通信網。使ってる人間は少ないが、世界中のメモリー・ダイバーや研究者がつながってる」
「それで届く人数は?」
「精々、数万人。でも、その中にはUGAの内部にいる人間も含まれるかもしれない」
ユイは考えた。
数万人。22世紀の世界において、全人口は約20億に減少している(かつての80億から、飢饉、疫病、気候難民の流亡で)。その中で数万人は、決して小さい数ではない。しかも、フリーネットにアクセスできる人間は、いずれも意識の高い人々だ。
「やろう」ユイは言った。「でも、その前にやることがある」
「何を?」
「このデータを読む。全部。あの時代に何が起きたか、誰が何を決め、なぜ止められなかったか。全部理解してから、発信する。感情だけじゃなく、事実と証拠で」
沈黙が部屋に広がった。
それからダンが言った。「賛成だ。感情だけの告発は、プロパガンダと区別がつかなくなる」
「俺も」リョウが手を挙げた。
「私も」アキが続けた。
ケンは最後に言った。「ユイ、俺はずっとお前についていくよ。最初から、そのつもりで脱走したんだから」
ユイは仲間たちを見渡した。
錆びた列車の中で、鉛色の空の下で、それでも人間たちは集まり、考え、怒り、立ち上がろうとしている。
これが、人間というものかもしれない、とユイは思った。最悪の状況でも、何かをしようとする。諦めないでいようとする。
だからこそ、腹が立つのだ。あの時代の人間たちへの怒りが。
諦めなければ、できたはずなのに。
4章 アーカイブの声
3日間、ユイたちはデータを読み続けた。
量は膨大だった。環境省の記録だけでも、数10テラバイトに上った。気候モデルのシミュレーション結果、各国の排出量データ、国際交渉の議事録、内部告発文書、そして末期――2070年代から2100年代にかけての崩壊期の記録。
読めば読むほど、怒りが深くなった。
そしてある夜、ユイは一つのフォルダを見つけた。
「個人ファイル……」
タグには「環境省 研究員 宮本 静香」とあった。
開いてみると、それは日記だった。
2050年から2089年にかけて、断続的に記された個人の日記。宮本静香という研究員が、環境省の内部から見た世界の崩壊を、生の言葉で綴っていた。
ユイは読み始めた。
*
「2050年6月12日。
今日の会議で、大臣は『現実的な対応』という言葉を使った。排出量削減の数値目標を実質的に引き下げることを、そう呼んだ。私は異議を唱えた。シミュレーション結果を見せながら、このままでは2100年に地球の平均気温は6度上昇すると説明した。大臣は頷きながら言った。『わかった。でも、今の私たちには、今の問題を解決することしかできない』と。
私は黙るしかなかった。今の問題。今の問題を解決することしかできない。
それが全てだ。あの人たちは、『今』しか見えない。見ようとしない。いや、見たくないのだ。なぜなら、見てしまったら、自分たちが変わらなければならなくなるから」
*
「2063年9月3日。
孫が生まれた。娘の子供だ。名前は希(のぞみ)という。
この子が生きる世界は、どんな世界になるだろう。
私の計算では、この子が30歳になる頃、日本の太平洋側の沿岸部の多くは水没している。40歳になる頃、農業生産が現在の半分以下になる。50歳になる頃、人類は……
考えたくない。でも考えなければならない。
希よ、ごめんね。おばあちゃんは、できる限りのことをしたよ。でも、足りなかった。あなたの時代の人たちが恨むなら、おばあちゃんも一緒に恨んでくれていい。私たちの世代も、変えられなかった」
「2089年1月1日。
87歳になった。おそらく最後の元旦だろう。
外の世界は、もう私が生まれた世界ではない。空の色が変わった。海が死んだ。街は水没するか、砂漠になるか、どちらかだ。
でも私は、このデータを残す。全部残す。何百年後かに、誰かが掘り起こしてくれることを願って。
未来の人間たちへ。あなたたちが恨むのは当然だ。私たちは知っていた。わかっていた。それでも変えられなかった。変えようとした人間も大勢いたが、足りなかった。
ただ一つだけ、伝えたいことがある。
諦めないでくれ。
恨んでもいい。怒ってもいい。でも、そこで止まらないでくれ。あなたたちの時代に残った可能性を、あなたたちの命を、無駄にしないでくれ。
私たちが台無しにしてしまったものを、あなたたちが、少しでも取り戻してくれることを、この老いた研究員は願っている。
宮本 静香」
*
ユイは読み終えて、長い間動けなかった。
怒りがあった。確かに怒りはあった。しかし、それと同時に、何か別のものもあった。
宮本静香という人間の存在が、胸の中に刺さっていた。
あの時代にも、知っていて、怒っていて、戦おうとした人間がいた。変えようとして、変えられなくて、それでもデータを残した人間が。
怒りの矛先が、少し変わった気がした。
個々の人間ではなく、構造への怒り。システムへの怒り。便利さを優先させ、未来を売り渡すことを「現実的な判断」と呼ばせた、あの時代の支配的な価値観への怒りへ。
5章 UGAの影
4日目の夜、事態が動いた。
蜂の巣に緊急アラートが走った。UGAの特殊捜索隊(サーチャーズ)が、廃棄区画D-17に展開しているという情報が入った。
「バレた」ケンが言った。「サーバールームに我々が入ったのを、ドローンが記録していたか……あるいは別の経路で漏れたか」
「どちらにせよ、D-17のデータを知られたとは思わない方がいい」ダンが言った。「ここが安全である間に、データを送信しなければ」
「準備が足りない」リョウが言った。「フリーネットへの接続は確立できてるけど、あのデータ量を短時間で送るのは……」
「何時間かかる?」
「圧縮して……6時間は欲しい」
「サーチャーズがここに来るまでの時間は?」
「最速で4時間」とダンが答えた。
全員の目がユイに向いた。
「送れるものから送る」ユイは決断した。「全部は無理でも、核心部分、1番重要なファイルから優先して。宮本静香の日記と、機密指定の内部文書、排出量データの改ざん証拠。最低その3つ」
「わかった」リョウがキーボードを叩き始めた。「始める」
それからの時間は、生まれて以来で最も長い時間だったとユイは後に語ることになる。
リョウが送信を続ける中、ダンとケンは蜂の巣の防衛ラインを固め、アキは受信側のフリーネットノードに連絡を取り続けた。ユイは優先順位をつけながら、送信すべきファイルを選別し続けた。
2時間が経過した頃、外でドローンの音がした。
「近い」ダンが言った。「百メートル以内だ」
「送信進捗は?」
「32パーセント」リョウの声に焦りがある。「思ったより遅い。フリーネットの帯域が……」
「構わない。続けろ」
ドローンの音が近づいてくる。ユイは地下通路の入口に立ち、武装した姿勢でそちらを向いた。手には旧式の電磁パルス銃がある。
サーチャーズが来たとしても、時間を稼がなければならない。
3時間が経過した。
「57パーセント」
外から音がした。人の足音。複数。
「来た」ケンが言った。「ユイ——」
「わかってる」
そのとき、意外な声が聞こえた。
「待て。UGA識別コード0-0-7-Alpha-Sierra。この区域はUGA内部調査中だ。サーチャーズは待機しろ」
男の声だった。権威のある、落ち着いた声。
しばらく外で何かやり取りがあった後、足音が遠ざかった。
ユイたちは息をのんで待った。
そして、地下通路の入口に一人の男が現れた。
40代半ばと見える、UGAの上級職員の制服を着た男。眼鏡をかけ、温厚そうな顔をしている。しかし、その目の中に、揺るぎない何かがあった。
「……宮本 隼(はやと)」男は名乗った。「UGA情報管理部、副局長。そして……静香の孫だ」
全員が固まった。
「あのデータを、あなたが残した?」ユイが聞いた。
「祖母が残した。私はそれが発見されるまで、30年かけて守り続けた」男は静かに言った。「あなたたちが来るのを待っていた。正確には、あなたたちのような人間が現れるのを」
「なぜ今? なぜ今、来た?」
「サーチャーズが動いたからだ。あのデータを没収させるわけにはいかない。それと……」男は少し間を置いた。「UGA内部でも、変化が始まっている。私だけではない。同じ思いを持つ者たちが、内側から動こうとしている」
「どれくらい?」
「7人だ。今は。でも、あのデータが公開されれば、もっと増えるはずだ」
「七人でUGAが変えられると思うか?」ダンが問いただした。
「変えるのは我々じゃない」宮本隼は答えた。「変えるのは、情報を受け取った民衆だ。我々にできるのは、情報を届けること、そして内側から門を開けることだけだ」
リョウの声が飛んだ。「83パーセント!」
ユイは宮本隼を見た。彼は嘘をついていないと、直感が言っていた。
「わかった」ユイは言った。「一緒にやろう」
6章 伝達
「100パーセント! 送信完了!」
リョウの声が響いた瞬間、蜂の巣に歓声が上がった。
だが、ユイは喜びより先に疲労を感じた。全身に、一気に力が抜けていく感覚。
「届いた?」
「確認中……」アキがモニターを見つめた。「フリーネットの主要ノード32箇所で受信を確認。世界中で展開が始まってる。ヨーロッパ、北米、東南アジア……」
「どのくらいの速度で広がる?」
「今は数万人。でも、再送信が始まったら……」アキは口を閉じた。数字が出てこない。それほど急速に増えているのだろう。
宮本隼が言った。「UGA本部に動きがある。私のコードで確認できる。情報管理部が緊急会議を招集した。データ漏洩を把握したようだ」
「封鎖に来るか?」
「来るだろう。しかし……」男は少し微笑んだ。「遅すぎる。1度フリーネットに出たデータは、もう止められない。それは私の上司たちも知っているはずだ」
翌日から、世界が変わり始めた。
フリーネットを通じて広まった宮本静香の日記と内部文書は、瞬く間に数100万人の目に触れた。多くの人がコメントを付け、翻訳し、分析し、議論した。中には、自分たちのコミュニティに眠るデータを掘り起こそうとする人々が現れた。
1週間後、UGA管理下のドームの1つで、大規模な抗議デモが発生した。
2週間後、それが3箇所に広がった。
1ヶ月後、UGAの広報官が初めて「歴史の再評価の必要性」という言葉を口にした。
それは、革命ではなかった。劇的な政変でもなかった。
だが、何かが、確かに動き始めていた。
7章 恨みと希望の間
その夜、ユイはオバアと話した。
蜂の巣の1番奥、オバアの部屋。狭い空間に、古い写真が飾られていた。失われた海の写真、緑の森の写真、笑顔の人々の写真。
「やったね」とオバアは言った。
「まだ始まりです」
「わかってるよ。でも、始まりは大事だ」
ユイは宮本静香の日記のことを話した。あの言葉、諦めないでくれ、という言葉を。
「そうか」オバアは呟いた。「静香さん……あなた、ちゃんとバトンを渡したね」
「オバア、聞いていいですか」ユイは言った。「あなたは、あの時代の人間たちを……今も恨んでいますか?」
老女は長い間考えた。
「恨む、ってことは、考え続けるってことだよ」やがてオバアは言った。「あの人たちのことを、ずっと考え続ける。それは……疲れる。でも、忘れることもできない。忘れたら、同じことが繰り返されるかもしれないから」
「じゃあ、どうするんですか」
「恨みながら、生きる」オバアは答えた。「恨みを燃料にして。でも、恨みだけで生きてたら、じきに燃え尽きる。だから、もう一個必要なんだ」
「希望?」
「そう。小さくていい。かすかでいい。あの老研究員が、100年後の誰かに向けてデータを残したように。あの人は絶望の中で、希望の行動をした。それが今、ここにある」
ユイは写真を見た。緑の森。青い海。
「取り戻せるでしょうか。あんな世界を」
「全部は無理だろうね。私が生きてるうちは無理だ。あなたが生きてるうちも、たぶん無理だ」オバアは静かに言った。「でも、少しずつ。少しずつ、取り戻していく。それが私たちにできること」
ユイは頷いた。
怒りは消えていない。恨みも消えていない。
だが、それと並んで、何か温かいものが胸の中に灯っていた。
宮本静香の声が聞こえる気がした。諦めないでくれ、と。
ユイは胸の中でその言葉に答えた。
諦めない、と。
終章 森羅万象
それから1年が経った。
ユイは相変わらず、記憶探索者として廃墟を歩いている。
だが、世界は少しだけ変わっていた。
UGAは「歴史検証委員会」を設置した。まだ形だけに過ぎないが、少なくとも、かつての嘘を完全には否定できなくなっていた。各地のドームで市民議会が生まれ始め、人々が声を上げることを、以前ほどには恐れなくなっていた。
宮本隼はUGAの内部調査を受けたが、不起訴となった。彼と七人の仲間たちは今も内側から変化を起こそうとしている。
蜂の巣には新しい人々が加わった。増えた口を養うために、水耕栽培の規模を拡大した。リョウが開発した新しい浄水システムが、近隣の三つのコミュニティと共有されるようになった。
オバアは、今も生きている。
その日、ユイは廃棄区画の外縁に立っていた。
いつもと同じ、オレンジがかった灰色の空。それでも、ユイはじっとそれを見上げた。
飛べるものがいた。この空に。かつては。
渡り鳥たちが、大陸を越えて飛んだ。魚たちが、海を泳いだ。獣たちが、大地を走った。
それぞれに進化して、それぞれの命を生きた。
そしてある日、人間という生物が現れて、この星のほぼ全てを変えてしまった。
今、その鳥たちはほとんどいない。魚も、獣も。代わりに、地球は静かに再編成されている。人間の力が及ばなくなった場所では、新しい命が少しずつ芽吹き始めているとも聞く。
どんな命も、滅びるだけではない。変化する。適応する。続こうとする。
それが、森羅万象の意味かもしれない、とユイは思った。
この宇宙において、生命とは何か。地球という1つの星における、数10億年の生命の歴史。その中で、人間は何者だったのか。何者でありうるのか。
ユイはまだ答えを知らない。
ただ、問い続ける。
そして、歩き続ける。
廃墟の中に、記憶を探しながら。過去の声に怒りながら。それでも、小さな希望を手放さないで。
空の色が、少しだけ変わった気がした。——これが、青に近づく色なのだろうか。
錯覚かもしれない。
でも、ユイは空を見上げ続けた。
――了――
〜あとがき〜
飛べるもの、泳げるもの、走れるもの。それぞれに進化して今この世に生きる命たちと、その命の舞台である地球を、ある日「人間なる生物」が支配し始めた。
知っていて、変えられなかった。あるいは、変えようとしなかった。便利さを優先した。自分の時代だけを考えた。
未来の人間たちは、その時代を恨むだろう――。
この詩が投げかける問いは、SFの問いであると同時に、現代の問いです。2287年の話は、今から始まっているからです。
ユイが感じた怒りは、正当な怒りです。しかし、宮本静香が残したメッセージもまた、真実です。あの時代にも、知っていて、戦おうとした人間がいた。
怒りを燃料にして、でも、諦めないでいること。
それが、この物語の、小さな、しかし確かな結論です。
2026年 春
Kindle 予定
仮題
『お見合い87回目で、ようやく出会えた』
〜諦めなかった男の、パートナー探し 〜
〜まえがき〜
人は、ときどき考える。
この世界のどこかに
自分のパートナーになる誰かが
すでに存在しているのではないか、と。
その考えは、どこかロマンチックで、
同時に少しだけ残酷でもあります。
なぜなら——
その人に出会う保証は、どこにもないからです。
出会いは偶然なのか。
それとも、行動の結果なのか。
何度も出会い、何度もすれ違い、
「違った」を繰り返す中で、
人は少しずつ何かを学び、
同時に何かを失っていきます。
それでもなお、歩みを止めない人がいます。
本書は、そんな「探し続ける人間」の物語です。
特別な成功談ではありません。
劇的な恋愛の話でもありません。
ただ——
続けた人間が、どこに辿り着くのか。
その過程を、静かに描いたものです。
もし今、誰かを探しているなら。
あるいは、もう探すことに疲れているなら。
この物語のどこかに、
あなた自身の断片が見つかるかもしれません。
『87回目の春』
パートナー探しという名の人生
1. すれ違いの数だけ
人は、ときどき思う。
この世界のどこかに
自分のための誰かが
もうすでに生きているのではないか、と。
証拠はない。
ただ、そうであってほしいという願いが
静かに胸の奥に居座っている。
もし、それが本当だとしたら——
こちらは一体、どれだけの場所を
歩かなければならないのだろう。
どれだけの人と出会い、
どれだけの「違った」を
引き受ければいいのだろう。
40代も半ばを過ぎた頃から
その問いは、急に現実味を帯びてきた。
若い頃のような
“そのうち何とかなる”という
根拠のない楽観は消え、
代わりに
静かな焦りだけが残った。
「また違ったか」
その言葉を
何度口にしたかは
もう覚えていない。
出会いはあった。
むしろ、なかったわけではない。
誰かと食事をし
笑い合い
次の約束を交わし
ほんの少しだけ
未来の気配を感じる瞬間もあった。
だが——
どこかで、ずれる。
言葉の温度が違う。
時間の流れ方が違う。
大切にしているものの
優先順位が、わずかに、しかし決定的に違う。
その“わずか”が
積み重なると
やがて
取り返しのつかない距離になる。
若い頃は
その違いを埋めようとした。
相手に合わせ
自分を削り
無理に歩幅を揃えた。
それを
“優しさ”だと
信じていた。
だが今は分かる。
それは
長くは続かない。
どこかで必ず
自分が消えてしまう。
だから今は
違和感に気づいた時点で
引き返すようになった。
無理をしない。
背伸びをしない。
期待を膨らませすぎない。
それは
大人になったということなのか
それとも
ただ臆病になっただけなのか
自分でも
よく分からない。
ただひとつ言えるのは
出会いの数だけ
すれ違いも増えていく、ということだ。
そしてそのひとつひとつが
小さな傷として
心のどこかに残る。
夜、部屋に戻り
誰もいない空間に
電気をつけたとき
その静けさが
やけに現実的に感じられることがある。
昔は
この時間が好きだった。
誰にも邪魔されず
自分のペースで過ごせる
自由な時間。
だが今は——
その自由が
ときどき
孤独に変わる。
それでも
人はまた
外へ出ていく。
懲りもせず
誰かと出会おうとする。
どこかに
まだ見ぬ誰かがいると
信じているからだ。
あるいは
信じていないと
やっていけないからかもしれない。
だから今日もまた
街へ出る。
何かが起きる保証など
どこにもないまま。
2. 見つかった気がする瞬間
「この人かもしれない」
そう思う瞬間は
不思議なほど唐突にやってくる。
予兆はない。
伏線もない。
ただある日
何気ない会話の中で
ふと感じるのだ。
その人とは
紹介だった。
共通の知人が
「たぶん合うと思う」と
軽い調子で繋いできた。
期待はしていなかった。
これまで何度も
似たような言葉を聞いてきたからだ。
最初の食事は
駅近くの小さな店だった。
気取らず
騒がしくもなく
ちょうどいい距離感の場所。
彼女は
時間ぴったりに現れた。
それだけで
少しだけ印象が良かった。
会話は
驚くほど自然に続いた。
無理に話題を探す必要もなく
沈黙が気まずくなることもない。
笑うタイミングも
どこか似ていた。
「あれ?」
と、心の中で思う。
こういう感覚は
久しぶりだった。
何かを演じる必要がない。
言葉を選びすぎなくていい。
ただ
そのままでいられる。
帰り道
「また会いましょう」
という言葉が
自然に出た。
そしてそれは
社交辞令ではなかった。
2度目、3度目と
会う回数が増えるにつれ
確信のようなものが
少しずつ形を持ち始める。
この人なら
いけるかもしれない。
未来の断片が
頭の中に浮かぶ。
一緒に食事をする日常。
休日に出かける風景。
何気ない会話を交わす時間。
それらは
どれも特別ではない。
だが
だからこそ
現実的だった。
「見つかったかもしれない」
その感覚は
甘く、そして危うい。
ある日
ほんの些細なことで
違和感が生まれた。
きっかけは
本当に小さなことだった。
価値観の違い
というほど大げさでもない。
ただ
「ん?」
と思う程度の
引っかかり。
それを
見過ごすこともできた。
だが一度気づいてしまうと
それは消えない。
会うたびに
その違和感は
少しずつ輪郭を持ち始める。
言葉の端に
態度の中に
選択の基準に
微妙なズレが見える。
やがてそれは
無視できないものになる。
「たぶん違う」
その結論に至るまでに
それほど時間はかからなかった。
別れは
穏やかだった。
揉めることもなく
責め合うこともなく
ただ静かに
終わった。
帰り道
自分の中に残ったのは
後悔でも怒りでもなく
ただ
「またか」
という感覚だった。
期待してしまった分だけ
少しだけ
疲れていた。
それでも
数日もすれば
また日常に戻る。
仕事をし
食事をし
眠る。
そしてまた
同じことを繰り返す。
出会い
期待し
違いに気づき
離れる。
その繰り返しの中で
人は少しずつ
何かを学び
同時に
何かを失っていく。
それでも
完全に諦めることができないのは
どこかでまだ
信じているからだ。
「次こそは」
と。
3. 87回目の男
彼のことを思い出すとき
いつも少しだけ
背筋が伸びる。
同い年だった。
いや
正確には一つ上だったかもしれないが
そのあたりは
どうでもよかった。
彼は
どこにでもいる男だった。
特別に格好いいわけでもなく
目立つ仕事をしているわけでもない。
だが
不思議と
人に嫌われないタイプだった。
酒の席で
何度か一緒になったことがある。
話は面白いが
決して饒舌ではない。
どこか一歩引いて
周りを見ているような男だった。
そんな彼がある日
ぽつりと言った。
「今度で、87回目なんだよね」
最初は
何の話か分からなかった。
「何が?」
と聞くと
彼は少し笑って言った。
「お見合い」
冗談かと思った。
だが
彼の目は
まったく冗談ではなかった。
87回。
数字だけ聞けば
途方もない。
普通なら
どこかでやめている。
いや
10回もいかないうちに
心が折れるのが普通だろう。
「よく続けてるな」
思わずそう言うと
彼は肩をすくめた。
「やめる理由もないからね」
その言葉は
軽いようでいて
妙に重かった。
彼は特別なことを
しているわけではなかった。
ただ
続けているだけだった。
一人と会い
違うと分かり
また次へ行く。
それを
ただ繰り返している。
「疲れないのか?」
と聞いたことがある。
少し考えてから
彼は言った。
「疲れるよ。でもさ——」
そこで一度
言葉を切った。
「ゼロになるのが、一番もったいない気がして」
ゼロ。
その言葉の意味を
考えた。
やめてしまえば
それまでのすべてが
なかったことになる。
積み重ねた時間も
出会った人も
感じたことも
すべてが
途切れてしまう。
だから彼は
続けているのだろう。
ある意味で
それは執念だった。
だが同時に
とても静かな意志でもあった。
そして
その87回目で
彼は出会った。
「どうだった?」
と聞いたとき
彼は少し照れくさそうに笑った。
「なんかね、違ったんだよね」
それは
これまでの“違った”とは
逆の意味だった。
無理がなかった。
頑張らなくても
自然に話が続いた。
何かを足す必要も
引く必要もなく
そのままで
成立していた。
「気づいたらさ」
彼は言った。
「次の約束、普通にしてた」
それは
奇跡でもなんでもない。
ただ
続けた先に
あっただけだ
彼は特別ではない。
だが
続けた。
それだけで
そこに辿り着いた。
その事実は
静かに
しかし確実に
胸に残った。
諦めなければ
必ず見つかる
とは言えない。
だが
諦めたら
そこまでだ。
その当たり前のことを
彼は
証明していた。
87回目の春に。
4. 場に身を置くということ
考えてみれば
出会いというものは
確率の問題でもある。
どれだけ良い人がいても
出会わなければ
意味がない。
そして
出会う確率は
場所によって大きく変わる。
日常の中で
新しい誰かと出会う確率は
年齢を重ねるごとに
確実に下がっていく。
仕事と家の往復。
決まった顔ぶれ。
変わらない環境。
そこに
新しい関係が入り込む余地は
思っている以上に少ない。
だからこそ
「場に身を置く」という行為は
意味を持つ。
婚活パーティーでも
紹介でも
アプリでもいい。
そこには
同じ目的を持った人間が集まっている。
それだけで
確率は跳ね上がる。
日常では
何も起きない一日が
そこでは
何かが起きる一日になる。
もちろん
すべてがうまくいくわけではない。
むしろ
ほとんどは
うまくいかない。
だが
それでいい。
ゼロではないからだ。
一度でも
誰かと向き合い
言葉を交わし
時間を共有する。
その積み重ねが
次へと繋がる。
彼が言っていた「ゼロにしない」という言葉は
ここにも通じている。
何も起きない一日を
何100日重ねても
状況は変わらない。
だが
1歩踏み出した1日は
確実に何かが違う。
結果が出なくても
経験は残る。
そしてその経験は
次の選択を少しだけ
正確にする。
だから
場に身を置く。
それは
運命を探す行為ではなく
確率を上げる行為だ。
ロマンはない。
だが
現実的だ。
そして
現実は
ときにロマンを超える。
気づかないうちに
何かが動き出していることもあるからだ。
静かに
しかし確実に。
自分の知らないところで。
5. 出会い
それは
ある意味で
あっけなかった。
特別な演出はなかった。
ドラマのような
劇的な出会いでもない。
ただ
いつものように
そこに行き
いつものように
誰かと話した。
その中の一人が
彼女だった。
最初の印象は
強くなかった。
むしろ
静かな人だと思った。
よく笑うわけでもなく
積極的に話すわけでもない。
だが
話していて
妙に疲れなかった。
言葉を選ばなくてもいい。
沈黙が
重くならない。
それだけで
十分だった。
「また会いましょう」
その言葉は
今回も自然に出た。
ただ
これまでと違ったのは
その言葉に
無理がなかったことだ。
期待しすぎない。
決めつけない。
ただ
もう一度会ってみたいと思った。
それだけだった。
二度目に会ったときも
同じだった。
何かが劇的に変わるわけではない。
だが
変わらないことが
心地よかった。
3度目
4度目
少しずつ
時間が積み重なる。
その中で
気づく。
「ああ、この人とは続くかもしれない」
根拠はない。
だが
これまでの経験が
それを教えていた。
無理がない関係は
長く続く。
それは
派手ではない。
だが
確かだ。
彼女もまた
同じように感じていたのかもしれない。
ある日
ふとしたタイミングで
言われた。
「一緒にいると、楽ですね」
それは
何よりも
信用できる言葉だった。
楽であること。
それは
手を抜くことではない。
無理をしなくていい
ということだ。
その関係は
ゆっくりと
しかし確実に
形を持ち始めていた。
焦る必要はなかった。
ただ
続けていけばいい。
それだけで
十分だった。
6. 本当を伝える
関係が続くほどに
避けて通れないものがある。
それは
“本当の自分”だ。
過去。
失敗。
弱さ。
それらは
誰にでもある。
だが
それを見せるかどうかは
別の話だ。
若い頃は
隠していた。
よく見せようとし
強く見せようとし
欠点を
覆い隠した。
だが
それでうまくいかなかったことを
もう知っている。
だから今回は
隠さなかった。
うまくいかなかった過去も
迷ってきた時間も
そのまま話した。
彼女は
静かに聞いていた。
否定もせず
評価もせず
ただ
受け取っていた。
その時間は
少しだけ
怖かった。
だが同時に
どこか
安心していた。
取り繕っていないからだ。
それで離れていくなら
それまでだと思えた。
しばらくの沈黙のあと
彼女は言った。
「私も、似たようなものです」
それは
特別な言葉ではない。
だが
十分だった。
人は
完璧な相手を求めているわけではない。
不完全同士が
どう折り合うか
それだけだ。
本当を伝えることは
怖い。
だが
それを避けては
先には進めない。
そして
それを受け取る側もまた
試されている。
その瞬間
関係は
一段深くなる。
表面ではなく
中身で繋がる。
それは
時間がかかる。
だが
その分だけ
壊れにくい。
静かで
強い関係になる。
そういうものなのだと思う。
7. 結婚してみなはれ
結局のところ
パートナー探しに
正解はない。
運命の一人がいるのか
相性の良い人が何人もいるのか
そんなことは
誰にも分からない。
ただひとつ言えるのは
出会いは
待っていても増えないということだ。
そして
関係は
自然に完成するものでもない。
作っていくものだ。
昔の人たちは
親が決めた相手と
ほとんど何も知らずに
一緒になったという。
それでも
どうにかなった。
いや
どうにかしてきたのだろう。
逃げ場がなかったからかもしれない。
だが同時に
覚悟があったのだと思う。
与えられた関係を
育てる覚悟。
今は違う。
選べる。
だからこそ
迷う。
選び続けてしまう。
もっといい人がいるのではないかと
思ってしまう。
だが
どこかで決めなければ
何も始まらない。
完璧な相手など
いない。
完璧な自分も
いない。
それでも
この人となら
やっていけるかもしれない
そう思えたなら
一度
結婚してみるのもいい。
うまくいく保証はない。
だが
やってみなければ
分からないこともある。
関係は
始まってから
育っていくものだからだ。
探し続けた時間も
迷った日々も
すべて無駄ではない。
それらがあったからこそ
今の選択がある。
そしてその選択は
これからの時間を
作っていく。
だから
歩き続ければいい。
丁寧に。
雑に見過ごさず。
出会いを拾い上げるように。
その先に
誰かがいるかもしれないし
いないかもしれない。
だが
歩かなければ
何も始まらない。
それだけは
確かだ。
そしてもし
その人に出会えたなら
背筋を伸ばし
本当を伝えればいい。
それでだめなら
それまでだ。
だが
それでいいと思えるところまで来たとき
人はようやく
誰かと共に歩く準備が
できるのかもしれない。
87回目の春のように。
〜あとがき〜
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
パートナー探しというものは、
誰に教わるでもなく、正解もなく、
それでいて人生に大きく影響する、不思議な営みです。
若い頃は勢いで進めたものが、
年齢とともに慎重になり、
気づけば動けなくなっていることもあります。
それでも、ひとつだけ確かなことがあります。
——ゼロのままでは、何も起きない。
どんなに小さくても、
どんなにうまくいかなくても、
一歩を踏み出した経験は、確実に積み重なります。
そしてその先に、
思いがけない出会いが待っていることもあります。
本書に登場する「87回目の男」は、
特別な人間ではありません。
ただ、やめなかった人間です。
その事実こそが、
この物語のすべてだと思っています。
もしこの一冊が、
あなたの一歩のきっかけになれば幸いです。
そしてもし、誰かと出会えたなら——
どうか取り繕わず、
本当の自分で向き合ってください。
関係は、そこから始まるものだからです。
Kindle 予定
仮題 余白
全部、手に入れた。
それでも——満たされなかった。
なぜか?
答えは、「余白」にある。
〜登場人物〜
【桐嶋 凛(きりしま りん)】45歳。国内有数の広告代理店「CROWN GROUP」代表取締役CEO。かつては無名の零細企業に勤める平凡な女性だったが、10年で頂点を極めた「女帝」。元夫・誠一とは5年前に離婚。
【水上 誠一(みずかみ せいいち)】48歳。凛の元夫。かつては大手銀行のエリート行員だったが、離婚後に会社を辞め、現在は長野県松本市の古書店「余白」を営む。一見、人生の敗者に見える男。
【橘 朔也(たちばな さくや)】三十二歳。CROWN GROUPの凛付き秘書兼右腕。有能で忠実。だが、その目には何かを隠している。
【矢野 雄一郎(やの ゆういちろう)】62歳。CROWN GROUP営業担当取締役。創業メンバーの一人。誠実な仕事人。
【藤堂 礼子(とうどう れいこ)】50歳。経済誌「APEX」の敏腕編集長。凛の数少ない旧友。物事の核心を見抜く観察眼を持つ。
人生という書物は、余白があるからこそ、続きを書き込める。
〜プロローグ〜
凛 ─ 東京・六本木ヒルズ最上階 午前6時
東の空が白み始める前から、桐嶋凛はすでにオフィスにいた。
49階の窓から見下ろす東京は、まだ眠っている。無数の光の粒が、暗い大地の上にちりばめられた宝石のように瞬いていた。
凛はブラックコーヒーを口に運びながら、今日のスケジュールを頭の中で整理した。午前8時に取締役会。午後1時に上場審査委員会のヒアリング。午後四時に業界団体の講演。夜は政治家とのディナー。
隙間がない。だが、それが凛の望んだ人生だった。
スマートフォンが振動した。秘書の橘からだ。
「社長。例の件ですが、確認が取れました」
「どちらの確認?」
「両方です。株式の件と……水上誠一の件、どちらも」
凛の指先が、わずかに止まった。
水上誠一。その名前は、今でも胸の奥に引っかかる棘のように残っている。5年前に離婚した男。自分が全てを奪った、あるいは——全てを与えてしまった——男。
「水上の近況を教えて」
「はい。現在、長野県松本市の書店に勤務中。月商は……おそらく100万円前後かと。社長の昨日の1時間分の報酬にも及びません」
凛は窓の外に視線を戻した。東京の夜景は何も語らない。ただ光るだけだ。
あの男は今、何を考えているのだろう。
負けたと思っているのか。
それとも——。
余白
ーすべては手に入らないー
誠一 ─ 長野県松本市 古書店「余白」 午前6時
水上誠一は、開店前の書店の床を箒で掃いていた。
「余白」という名の古書店は、松本城から徒歩10分ほどの路地裏にある。間口二間、奥行き四間ほどの小さな店だ。壁一面の棚に、誠一が選び抜いた本が並んでいる。
月商は100万円に届かない。かつて銀行の本店営業部で数100億円の融資案件を動かしていた男が、今は1冊1000円の文庫本を売っている。
傍から見れば、没落の図だろう。
誠一は箒の手を止めて、窓の外を見た。松本の朝は澄んでいる。アルプスの稜線が、薄紫の空に黒く浮かんでいた。
5年前。離婚届に判を押した日のことを、誠一はよく思い出す。
凛は泣かなかった。誠一も泣かなかった。ただ、2人の間に長い沈黙があって、それから凛が言った。
「あなたは私の邪魔をしない人だと思っていた」
邪魔。その言葉が、誠一の耳に今も残っている。
自分は凛の邪魔をしていたのか。それとも、凛の邪魔をしなかったことが——本当の失敗だったのか。
誠一は棚から1冊の本を取り出した。ボルヘスの短編集。何10回読んだかわからない。
ページをめくると、付箋が挟んであった。自分の字ではない。凛の字だ。
《迷宮を作る者は、自分自身も迷宮の中にいる》
いつ凛がこれを書いたのか、誠一には見当もつかなかった。
1章 女帝の朝
凛 ─ 取締役会 午前8時
CROWN GROUPの取締役会室は、会社の権力構造を体現したような部屋だった。
長い黒いテーブルの上座に、凛は座る。左右に12名の取締役。全員が男性だ。最年長は67歳。凛より22歳上。
最初の頃は、この部屋に入るたびに胃が痛かった。彼らの目に宿る、ほんの微かな侮りを、凛は感じ取っていた。女が、若いくせに、という目だ。
今はもう、その目をする者はいない。
「第34半期の業績について、CFOより報告します」
凛は静かに耳を傾けながら、手元の資料に視線を走らせた。売上高は前年比18パーセント増。営業利益率は業界トップクラス。上場審査も佳境に入っていた。
順調だ。全てが計画通りだ。
だが、凛の胸に満足感はなかった。
それが問題だった。頂上に立っても、景色が美しく見えない。美しいはずなのに、何かが欠けている気がする。その「何か」が何なのか、凛には分からなかった。
取締役の1人が手を挙げた。営業担当の矢野だ。62歳。入社以来ずっと会社にいる古株。
「社長。1点、確認させていただきたいのですが」
「どうぞ」
「今回のIPO後の株式配分の件ですが、創業メンバーの持ち分比率が、当初の約束と異なるように見受けられます。私の認識が間違っていれば申し訳ないのですが」
室内の空気が、わずかに変わった。
凛はペンを置いた。静かに、矢野を見た。
「矢野さん。その件については、上場後に個別にご説明します。本日の議題からは外れますので」
「しかし——」
「本日の議題からは、外れます」
凛の声は穏やかだった。しかし、部屋の全員が理解した。これ以上この話題を続けることは許されない、と。
矢野は黙った。
凛は次の議題へ移った。その目の奥では、何かが素早く計算されていた。
誠一 ─ 「余白」 午前11時
開店して2時間が経ったが、客は1人しか来ていなかった。
70代の老婦人で、毎週木曜に来て、詩集を1冊買っていく。今日も萩原朔太郎を手に取って、丁寧にページをめくっていた。
誠一はカウンターの内側で、仕入れ台帳をつけながら、ちらちらと老婦人を見ていた。
この仕事を始めて3年になる。銀行を辞めた後、東京で半年間ほど無為に過ごして、それから松本に来た。理由は特になかった。電車に乗って、途中下車して、気づいたらここにいた。
前の店主から店を引き継いだのは偶然だった。閉店を告知する張り紙を見て、衝動的に声をかけたのだ。
「お兄さん、本が好きなの?」と老婦人が言った。
「まあ、好きです」
「そう。じゃあ、いい仕事ね」
そうかもしれない、と誠一は思った。
月収は18万円ほどだ。かつての年収の6分の1にも届かない。社会的地位など欠片もない。誰も振り返らない場所で、誰も知らない本を売っている。
それでも——不思議と、心は静かだった。
老婦人が詩集を持ってカウンターに来た。誠一は値段を確認して、包み紙で丁寧に包んだ。
「ありがとう。またね」
「ありがとうございます。お気をつけて」
ドアのベルが鳴って、老婦人は帰っていった。
誠一は台帳に「朔太郎・詩集」と書き入れた。
そのとき、ポケットの中のスマートフォンが振動した。
画面を見た誠一の手が、止まった。
発信者:桐嶋 凛
2章 5年前の傷
凛 ─ 回想 7年前
凛が誠一と出会ったのは、20代の終わりだった。
当時の凛は、中堅広告会社の営業職だった。成績はよかったが、職場での扱いは悪かった。女だから、若いから、学歴が高くないから。そういう理由で、重要な案件から外され、飲み会の幹事ばかりさせられていた。
誠一は取引先の銀行員として現れた。融資の相談があって、凛の会社に来た。背が高くて、物静かで、人の話をちゃんと聞く人だった。
付き合い始めて3ヶ月で、凛は誠一に言った。
「私、独立したい。自分の会社を作りたい」
誠一は少し考えてから、言った。
「いくら必要?」
凛は驚いた。反対されると思っていたからだ。
「資金計画を見せて。融資の話をつけてあげる」と誠一は続けた。「銀行員として、じゃなくて、1人の人間として協力する」
それが始まりだった。
誠一は銀行の職権を使うことなく、自分の人脈と信用で、凛のために投資家を集めた。休日も凛のビジネスプランに意見を出し、書類作りを手伝った。
凛の会社は、誠一の力を借りて産声を上げた。
そして結婚した。
幸せだった。少なくとも最初は。
誠一 ─ 回想 5年前
離婚の原因を一言で言えば、凛が大きくなりすぎた——ということになるのかもしれない。
会社が成長するにつれ、凛は変わっていった。いや、変わったのではなく、本来の凛が現れてきたのかもしれない。
凛はあらゆることを自分でコントロールしたがった。部下の仕事も、取引先との交渉も、会社の隅々まで。そして——誠一のことも。
「あなたの銀行、今度うちと取引しない? 融資も受けるし、決済口座もまとめる。あなたの実績になるでしょう」
「それは……ちょっと待ってくれ」
「なんで? 損な話じゃないでしょう」
「公私混同になる。僕の立場が難しい」
「意味がわからない。夫婦なのに公私もないでしょう」
そういう会話が増えていった。
凛の論理は常に正しかった。数字として、ビジネスとして、正しかった。しかし誠一には、その正しさが息苦しかった。
全てが最適化されていく感覚。無駄が排除されていく感覚。そして——自分自身も、凛の経営資源の一つになっていく感覚。
離婚を切り出したのは、誠一の方だった。
凛は驚いた顔をした。しかし泣かなかった。少し考えてから、言った。
「そう。わかった」
その5文字が、誠一には刃のように刺さった。
もっと引き止めてほしかった。もっと怒ってほしかった。もっと——何かを感じていてほしかった。
しかし凛は、すでに次のことを考えているようだった。
誠一が荷物をまとめているとき、凛が書斎に来た。
「一つだけ聞かせて。あなたは私のことが嫌いになったの?」
「違う」
「じゃあ、なぜ?」
誠一は少し間を置いた。
「凛が欲しいものと、僕が欲しいものが、違うから」
凛は何も言わなかった。
誠一はドアを閉めて、出ていった。
3章 再会
凛 ─ 長野・松本 午後三時
上場審査のヒアリングを終えた翌日、凛は新幹線に乗っていた。
橘には「プライベートの用事」とだけ告げた。秘書として有能な橘は、それ以上聞かなかった。
松本で在来線に乗り換え、30分ほどで目的地に着いた。
古書店「余白」は、想像より小さかった。ショーウィンドウに、丁寧に選ばれた数冊の本が並んでいる。手書きのPOPが添えられていた。筆跡は誠一のものだ。
凛は深呼吸して、ドアを押した。
ベルが鳴った。
カウンターの奥で、誠一が顔を上げた。
5年ぶりだった。誠一は少し痩せて、少し白髪が増えていた。しかし目の奥の、あの静けさは変わっていなかった。
「……来たんだね」と誠一は言った。
「電話、出なかったから」
「直接来るとは思わなかった」
凛は棚の間を歩きながら、本の背表紙を眺めた。ポール・オースター、カフカ、ル・クレジオ、谷崎潤一郎。誠一の趣味だ。
「なぜ電話してきたの」と誠一が言った。
「あなたに会いたかった」
「ビジネスの話?」
「違う」
誠一はカウンターから出て、棚の整理を続けながら言った。
「じゃあ、何?」
「……わからない」
凛は自分でも驚いていた。わからない、などという言葉が、自分の口から出るとは思っていなかった。
CEOとして、凛は常に答えを持っていた。どんな質問にも、どんな局面にも。答えのない状態は、凛にとって耐えがたかった。
それなのに、誠一の前では——なぜか、答えがなかった。
誠一 ─ 同日 午後5時
閉店後、2人は近くの小料理屋に入った。
誠一が馴染みの店を選んだのは、有名なレストランより気が楽だと思ったからだ。凛はスーツ姿で場違いに見えたが、本人は気にしていないようだった。
熱燗を頼んだ。凛は日本酒を飲まなかったはずだが、「それでいい」と言った。
「会社、上場するんだって」と誠一は言った。
「よく知ってるね」
「ニュースで見た。おめでとう」
「ありがとう」
盃を口に運びながら、凛は窓の外を見た。松本の夜は、東京より星が見えた。
「ねえ、誠一。あなた、今、幸せ?」
誠一は少し考えた。
「わからない。でも——悪くない」
「悪くない、か」
「凛は? 幸せ?」
凛は答えなかった。代わりに熱燗を一口飲んで、「辛い」と呟いた。
日本酒が、という意味なのか。それとも別のことなのか。誠一には分からなかった。
「1つ聞いていい?」と凛が言った。
「どうぞ」
「あなたは——本当に、何も持っていかなかった。財産分与もほとんど断って。なぜ?」
誠一は徳利を持ち上げて、凛の盃に酒を注いだ。
「必要なかったから」
「嘘。もっと別の理由があるはずでしょう」
誠一は微笑んだ。その微笑みの意味を、凛は読み取れなかった。
「今夜はそれだけ聞けば十分じゃないか」
4章 女帝の亀裂
凛 ─ CROWN GROUP 二週間後
上場審査の最終段階に入った頃から、CROWN GROUPの内部で奇妙なことが起き始めた。
まず、過去の経費精算に不審な点が見つかった。金額は小さい。しかし、審査の時期に表面化したのが気になった。
次に、主要取引先の一社が、突然態度を硬化させた。長年のパートナーだったはずが、「契約内容を見直したい」と言い出した。
そして——匿名の内部告発文書が、審査委員会に届いた。
文書には、凛が創業メンバーの持ち分を不当に希薄化させたこと、一部の取引に不透明な金の流れがあることが書かれていた。内容は半分は真実で、半分は誇張だった。しかし、審査の場で問われれば、説明に時間がかかる。
橘が険しい顔でやってきた。
「社長。告発文書の件、リークの経路を調べています。社内の誰かが外部と接触した可能性が高い」
「犯人は絞れそう?」
「現時点では……候補が3名います。矢野取締役、経理部長の木村、それから——」
橘が少し間を置いた。
「それから、社長の元ご主人と、定期的に連絡を取っている人物がいます」
凛は顔色を変えなかった。
「誰?」
「特定には、もう少し時間が——」
「急いで」
凛はデスクに戻り、窓の外を見た。東京の空は今日も灰色だった。
誠一。
まさか、と思った。しかし——まさかを否定できる根拠もなかった。
誠一 ─ 「余白」 同日
夕方、店を閉める前に、誠一はカウンターで手紙を書いていた。
宛名は、矢野雄一郎——CROWN GROUPの取締役だ。
誠一が矢野と知り合ったのは、銀行員時代のことだ。矢野が中堅広告マンだった頃、融資案件で何度か会った。真面目な仕事人で、誠実な人間だと思っていた。
そして3ヶ月前、矢野から連絡が来た。
「水上さん。突然失礼します。実は、ご相談があって」
矢野の話はこうだった。
凛が会社を大きくするにつれ、創業メンバーの権利が、少しずつ、しかし確実に削られていった。契約書の文言が変わり、株式の計算方式が変わり、気づけば当初の約束とは別の場所に連れてこられていた。
「私は凛社長のことを尊敬しています。会社の成長も誇りに思っています。しかし——これは違う、と思っているんです」
誠一は矢野の話を聞きながら、何かが胸の中で動くのを感じた。
凛への怒りではない。懐かしさでもない。
もっと複雑な何かだった。
5章 仕掛け
凛 ─ 緊急役員会 深夜
告発文書の件で、緊急の役員会が招集された。
凛は冷静に全員の顔を見回した。12人の取締役。その中の誰かが、あるいは複数が、この嵐を仕掛けた。
「皆さん、現状を共有します」と凛は静かに言った。「告発文書はすでに審査委員会に届いています。内容に虚偽が含まれていることは確認済みです。ただし、説明責任が生じることも事実です」
「責任者を出すべきでしょう」と矢野が言った。「文書を書いた人間を特定して、処分を——」
「文書を書いた人間を特定しても、問題は解決しません」
凛の言葉で、部屋が静まり返った。
「問題の本質は、文書の内容に一部の事実が含まれていることです。創業メンバーの持ち分の件について、私の対応に不透明な部分があったことは認めます」
誰もが驚いた。凛が非を認めるのを、この部屋では誰も見たことがなかった。
「今から、持ち分の再計算を提案します。創業時の約束に基づいて、公正な配分を行います。費用は私の個人資産から補填します」
矢野が目を細めた。
「社長……それは」
「遅かった、ということは分かっています。でも、遅すぎるということはないはずです」
誠一 ─ 東京 翌朝
凛から電話が来たのは、夜明け前だった。
「誠一。あなたが矢野さんに何か吹き込んだの?」
「吹き込んだわけじゃない」
「でも関わっていたのは確かね」
誠一は少し沈黙してから、答えた。
「矢野さんから相談を受けた。それは本当だ。でも、何かを指示したわけじゃない。ただ——話を聞いただけだ」
「告発文書は?」
「僕は書いていない。矢野さんが書いたかどうかも、僕には分からない」
凛は電話口で黙った。長い沈黙だった。
「ねえ、誠一。あなた、最初から計画していたの? 松本の書店。あの生活。全部、演技?」
誠一は窓の外を見た。東京の夜明けは、松本とは違う色をしていた。
「演技じゃない。本当に、あの生活が好きだ」
「じゃあ、なぜ?」
「……凛が、自分で気づくのを待っていた」
「何に?」
「全部を取りに行けば、全部を失うかもしれないってことに」
6章 どんでん返し
橘 朔也 ─ CROWN GROUP 翌日
橘朔也は、凛の執務室の扉を叩いた。
「社長。お話があります」
凛はデスクから顔を上げた。橘の表情が、いつもと違った。
「座って」
「ありがとうございます。単刀直入に申し上げます。告発文書を審査委員会に届けたのは、私です」
沈黙。
「……なぜ」
「社長が変わるには、外からの圧力が必要だと判断したからです」
「あなたが判断すること?」
「そうです」
橘は続けた。声は揺れていなかった。
「私が水上誠一さんと連絡を取ってきたのも、事実です。最初にご連絡したのは私の方からです。矢野取締役とつなぎ、状況を共有していただきました」
「誠一と……あなたが?」
「水上さんは何も指示していません。ただ話を聞いてくれた。そして、一つだけ言いました」
橘は、その言葉をゆっくりと口にした。
「『凛は、まだ気づいていない。何かを手に入れるためには、何かを手放さなければならないということを』——そう言いました」
凛は椅子の背もたれに体を預けた。
天井を見た。
長い、長い沈黙が続いた。
凛 ─ 同日 夕方
橘の辞表を受け取った後、凛は1人で執務室に残った。
橘を解雇することもできた。法的措置を取ることもできた。
しかし、凛はそうしなかった。
辞表を引き出しにしまい、「預かる」とだけ言った。
窓の外に東京の夜景が広がっていた。いつも見ている景色だ。しかし今夜は、何かが違って見えた。
光の1つ1つに、人の生活があることを、凛は久しぶりに思い出した。
スマートフォンを取り出して、誠一に電話した。
3コール目で出た。
「凛?」
「ねえ、誠一。1つだけ聞かせて」
「うん」
「あなたは、私に失敗してほしかったの?」
誠一は少し間を置いた。
「違う。失敗してほしかったんじゃない」
「じゃあ、何を?」
「凛が、自分を取り戻してほしかった」
凛は何も言えなかった。
電話口で、長野の夜の音がかすかに聞こえた。虫の声か、風の音か。
「……私は、自分を失っていたの?」
「失っていたんじゃないと思う。ただ——置いてきていた。どこかに」
凛の目に、初めて涙が浮かんだ。
五年間、1度も泣かなかった凛が。
CEOになってから、1度も人前で弱みを見せなかった凛が。
「私、何を置いてきたのかしら」と凛は呟いた。
誠一はしばらく黙ってから、答えた。
「それは自分で探すしかない。でも——ヒントなら、1つあげられる」
「何?」
「余白、だよ」
〜エピローグ〜
3ヶ月後
CROWN GROUPは予定通り上場した。
IPO当日、株価は公開価格の1.8倍で初値をつけた。凛の保有株の価値は、一夜にして数100億円になった。
矢野はじめ創業メンバーへの持ち分補填も、凛の個人資産から実施された。橘の辞表は、正式に却下された。
経済誌「APEX」の表紙は、スーツ姿の凛が飾った。見出しは「女帝、頂点へ」。
インタビューで、編集長の藤堂礼子は言った。
「社長。今回の件で、何か変わりましたか?」
凛は少し考えてから、答えた。
「少し足りないくらいが、幸せなのかもしれないと思うようになりました」
「それは……意外な言葉ですね。頂点を極めたCEOから」
「でも本当のことです。余白がないと、人間は呼吸ができない。私は長い間、自分の人生の余白を全部埋めようとしていた」
藤堂は手元のメモに何かを書き留めた。そして顔を上げて言った。
「その言葉、誰かに教わったんですか?」
凛は微笑んだ。その笑顔は、雑誌の表紙の凛とは、少し違って見えた。
「ある書店の名前から、気づきました」
同日 長野・松本
その日、「余白」に一人の客が来た。
スーツ姿の女性だった。店には明らかに不釣り合いな格好だったが、本人は気にしていないようだった。
誠一がカウンターから顔を上げると、凛がいた。
「上場、おめでとう」と誠一は言った。
「ありがとう。お祝いに、本を1冊買いに来た」
「何がご希望?」
凛は棚の前を歩きながら、背表紙を眺めた。それから1冊を取り出して、誠一に渡した。
ボルヘスの短編集だった。
「これを下さい」
「……それ、うちの店で1番古い本だよ」
「知ってる。前に来たとき、気になっていた」
誠一は値段を確認して、包み紙で丁寧に包んだ。
凛はお金を払いながら、言った。
「ねえ、誠一。1つだけ聞いていい?」
「どうぞ」
「あなたは今でも、私のことが好き?」
誠一は少し間を置いた。
それから、静かに言った。
「それを聞く前に、1つ聞いてもいい?」
「何?」
「凛は今、何かを手放せそう?」
凛は少し考えた。
東京の夜景でも、社長の肩書きでも、完璧なスケジュールでもなく——もっと長い間、ずっと握りしめていた何かを。
「……プライドを、1つだけ」
誠一は微笑んだ。
「じゃあ、答えは——まだ、好きだよ」
すべては手に入らない
でも、本当に大切なものは、手放さなければ手に入らない。
─ 了 ─
〜あとがき〜
すべてを手に入れたはずだった。
国内有数の広告代理店「CROWN GROUP」CEO・桐嶋凛。売上、地位、名声——誰もが羨む頂点に立ちながら、彼女の胸には拭えない“空白”があった。
一方、元夫・水上誠一。かつてはエリート銀行員だった男は、すべてを手放し、長野・松本の古書店「余白」で静かに生きている。
再び交差する、二人の人生。
「あなたは今、幸せ?」
その問いに、凛は答えられなかった。
すべては手に入らない。だが、本当に大切なものは——手放さなければ、決して手に入らない。
成功の果てに見えるもの。失うことでしか見えないもの。
人生という書物には、余白がある。だからこそ、人は続きを書くことができる。
これは、頂点のその先で「自分」を取り戻す物語。
来週 Kindle予定
たかが呼び名、されど呼び名
〜彼女から、あーちゃん・いーちゃんへ〜
〜序〜
たかが呼び名 されど呼び名
友達が 彼女に変わった瞬間を
今も覚えている
もちろん
その 彼女が
妻に カミさんに変わった時も
更には
妻が ママとなった日も
その後
ママ って日は長くここにあって
また
昨今
突然 息子は 増え
今
さほど待たなくとも
ばあちゃん って変わる日も来るようだ
時間が過ぎるのは
早かったなあ
そして
出来れば その後
ひーばあちゃん っても呼ばれても欲しい
それを
僕は 多分 きっと
見届けられないだろう
けれども。。。
1. 彼女
1986年の春、桜がまだ散りきらない頃、田中誠二は人生で初めて、女の子を「彼女」と呼んだ。
相手は同じ大学の3年生、村上明子。経済学部の講義でたまたま隣に座り、教授の板書があまりにも読みにくいという愚痴で意気投合した、それだけのことだった。
最初の二週間は、誠二の中でも彼女の分類が曖昧だった。「友達の村上さん」と母親に紹介しようとして、なぜか言葉に詰まった。「知り合いの女子学生」と言えば嘘ではないが、何かが違う気がした。
転機は3週目の火曜日だった。
共通の友人、荒木という男が電話で「村上のことどう思ってんの?」と直球で聞いてきた。
「どうって……」
「彼女じゃないの?」
「……彼女、かな」
そう口にした瞬間、誠二の体の中で何かが確定した。ぽん、と音がしたような気がした。
翌日、明子に会った時、誠二はわかるだろうかと少し心配しながら彼女を見た。彼女は何も変わっていなかった。だが誠二の中では、「村上さん」が「彼女」に変わっていた。
後に誠二はこのことを「呼び名が変わると、関係が変わるんじゃなくて、呼び名が変わった瞬間に、もう関係はすでに変わってる」と息子に語るのだが、その息子が生まれるのはまだ8年先の話だ。
2. 奥さん、カミさん
結婚式は1990年の5月、青々とした新緑の季節だった。
誠二は式の準備期間中、明子のことを「婚約者の明子さん」と呼んでいたが、式が終わった翌朝、何と呼ぶべきか一瞬だけ考えた。
「奥さん」か、「妻」か、「嫁」か。
当初は「妻」と呼んでいた。対外的には少し改まった響きがあり、社会人として適切に思えた。しかし職場の先輩、川口さんという豪快な人物が「田中よ、お前ちょっと固いな。カミさんって言えよ、カミさんって」と繰り返し言うものだから、気づけば誠二も「うちのカミさん」と言うようになっていた。
明子はこれを快く思っていなかった。
「カミさんって何よ。神様? それとも紙?」
「どっちでもない。慣用表現だよ」
「じゃあ私はあなたのことを何て呼べばいいの。ダンナ? 亭主? 旦那様?」
「お好きにどうぞ」
「じゃあ『あんた』でいい」
「それは呼び名じゃなくて人称代名詞だ」
こういう会話が週に一度くらいあった。結婚して3年経っても飽きずに同じ会話をしていたあたり、2人はよほど相性が良かったのだと思う。
職場では「うちのカミさんが」と言いながら、家では「明子」と下の名前で呼ぶ。それが誠二のスタイルに落ち着いた。明子は家では「あなた」と呼んでいたが、誠二がへそを曲げている時には「田中さん」に格上げされた。これは明子なりの警告だった。
「田中さん、ご飯できてますよ」
「……なんか怒ってる?」
「怒ってませんよ。田中さん」
このやりとりで誠二は5分以内に謝ることを覚えた。
3. ママ
1994年の冬、長男の健太が生まれた。
病院から帰ってきた翌朝、誠二は明子に向かって「朝ごはん、どうする?」と言いかけて、止まった。健太が腕の中にいた。
「……ママ、朝ごはん、どうする?」
明子はぽかんとした顔をした。
「今、ママって言った?」
「言った」
「……何で」
「何でって、だってお前もう、ママだろ」
明子は3秒ほど黙って、それから窓の方を向いた。誠二はてっきり怒らせたかと思ったが、明子の肩が微かに震えているのを見て、泣いているのだとわかった。
「どうした」
「ママかあ」とつぶやいた。「私、ママになったんだ」
「なったよ」
「昨日なったんだよね、私」
「昨日なった」
「なんか実感なかったんだけど、ママって言われたら、急に来た」
それからしばらく、誠二は何も言わずに隣に座っていた。健太は眠っていた。
ところで誠二は翌日から、職場でも「うちのカミさん」ではなく「うちのママ」と言い始めた。これは周囲から「お前、早いな」と言われたが、誠二には自然なことに思えた。
ただし家の中では時々、うっかり「明子」と呼んでしまうことがあり、その度に健太が大きくなるにつれ、「パパ、ママのことなんで名前で呼ぶの?」と不思議そうな顔をされるようになった。
「昔の呼び方の癖が出た」
「ふーん」
健太は特に気にしていなかった。子供というのは親の事情にわりと無頓着だ。
4. ママである年月
健太が保育園に入り、小学校に上がり、やがて中学生になる長い年月の間、明子は誰かの「ママ」であり続けた。
クラスのお母さんたちからは「田中くんのママ」と呼ばれ、近所のスーパーのパートでは「明子さん」と呼ばれ、夫には「ママ」と呼ばれ、実家の母親からは「明子」と呼ばれた。
場所によって呼び名が違う。
明子はこれをある時期まで「忙しい」とだけ感じていたが、あるとき気づいた。呼び名が複数あるというのは、自分が複数の場所で必要とされているということだと。
健太が高校3年生になった春の夜、明子は台所で1人洗い物をしながらそんなことを考えていた。誠二はリビングで何かのスポーツ中継を見ていた。健太は受験勉強で部屋にこもっていた。
「ねえ」と明子は洗い物をしながら声をかけた。
「ん?」とリビングから声がした。
「私、今いくつの名前で呼ばれてると思う?」
少し間があった。テレビの音が一瞬小さくなった。
「数えたことなかった」
「私も今日初めて数えたんだけど」
「いくつだった」
「6つ」
「多いな」
「多いよね」と明子は笑った。「で、あなたは?」
誠二がリビングから少し大きな声で答えた。「俺は4つかな。田中さん、お父さん、パパ、誠二」
「少ないね」
「……男はそんなもんだよ」
なんとなくその言葉がおかしくて、明子はまた笑った。
5. 息子が増えた日
健太が28歳の秋、「結婚します」と言いに帰ってきた。
相手は同じ会社の後輩で、名前は佐々木理恵という。おとなしそうで、しかし目に芯のある女性だった。
その夜、誠二と明子は2人で台所のテーブルに向かい合って座った。健太と理恵はもう帰っていた。
「どう思う?」と誠二が聞いた。
「いい子だと思う」と明子は答えた。
「俺もそう思う」
「健太に似合ってる」
「俺もそう思う」
「ねえ」と明子が少し真剣な顔をした。「私、お義母さんになるんだね」
「なるね」
「理恵ちゃん、私のことなんて呼ぶんだろ」
「お義母さんじゃないの、普通」
「でも家の中では?」
「ママって呼ぶんじゃない」
明子はそれを聞いて、なんとも言えない顔をした。嬉しいような、照れくさいような、少しこそばゆいような顔だった。
「理恵ちゃん、私のことをママって呼ぶの?」
「呼ぶんじゃない、たぶん」
明子はしばらく黙って、それから「息子が増えるね」と言った。
「増えるね」
「正確には息子は1人で、息子のお嫁さんが来るんだけど」
「でも感覚的には増えるよな」
「そうなんだよね」
ただし翌日、明子は友人に電話して「うちに嫁が来るんだけど!」と興奮気味に話し、「お嫁さんが来るのと息子が増えるのと、どっちの感覚が正しいんだろうね」と1時間近く話し込んだ。
結局、理恵は「お義母さん」と呼ぶことに落ち着いた。ただし5年ほど経つと「お義母さん」が「ママさん」になり、さらに3年でただの「ママ」になった。明子にはふたつめの「ママ」が生まれた。
6. ばあちゃん前夜
健太と理恵の間に子供ができると知ったのは、ある日曜日の昼下がりだった。
健太から「今日、顔出していいか」と連絡が来て、誠二は「ああ」と答え、明子は「何かあるな」と直感した。
「何かある?」と誠二に聞いた。
「わからん」
「顔出していいか、って聞く時は何かある」
「そうか?」
「そうだよ」
果たして、やってきた健太と理恵は少し上気した顔をしていて、お茶が出て菓子が出てひとしきり世間話をした後、理恵が「実は」と切り出した。
その瞬間、明子はわかった。
報告を聞きながら、明子は頭の片隅で、「あ、私もうすぐばあちゃんになるんだ」と思っていた。
帰り際、健太と理恵を見送って、誠二と2人で玄関に残った時、明子はぼそっと言った。
「私、ばあちゃんになるんだね」
「なるね」
「あなたはじいちゃんだ」
「……そうだな」
誠二は少し間を置いてから、「俺、じいちゃんって呼ばれる日が来るとは思ってなかった」と言った。
「嘘つけ」と明子は笑った。「思ってたくせに」
「いや、思ってはいたけど、実感がなかった」
「私も今日初めて実感した」
「ばあちゃん、か」
「ばあちゃん。うん」
2人はしばらく廊下に立ったまま、なんとなく笑っていた。なぜ笑っているのか、うまく説明できなかったが、笑わずにはいられなかった。
7. 時間が早かった
孫が生まれたのは翌年の3月だった。名前は「咲」、さきと読む。
産院の廊下で、ガラス越しに赤ん坊を見た時、誠二は口を開けたまましばらく何も言わなかった。
明子が「かわいい」と言った。
誠二は「うん」と言った。
健太が「パパに似てるって理恵が言うんだよ」と言った。
誠二は「うーん」と言った。
1時間後、産院の近くのファミリーレストランで誠二と明子は2人でコーヒーを飲んでいた。健太と理恵はまだ病室にいた。
「早かったな」と誠二は言った。
「何が」
「全部」
「全部?」
「彼女が妻になって、ママになって、孫が生まれて」
明子は少し考えてから「早かったね」と言った。「でも、長かったとも思う」
「長くて、早い?」
「そういうことってない?」
「わかるような、わからないような」
「あなたが私を彼女って呼んだ日から、今日まで」明子はコーヒーカップを両手で包んだ。「長かったけど、振り返ったら早い」
誠二はしばらく窓の外を見ていた。駐車場に白い車が入ってくるのを見ていた。
「俺、今日から何て呼ばれるんだろう」
「じいじ、じゃない?」
「じいじ。……じいじか
その響きは、自分の中でまだどこか、遠い国の言葉のように聞こえた。」
「いや」明子は笑った。「あなたはじいちゃんよ。じいじは何か似合わない」
「どう違うんだよ」
「雰囲気の問題」
誠二は少し傷ついた顔をした。しかしそれから自分でも「じいじ……」と小声でつぶやいてみて、「確かに似合わない」と認めた。
8. ばあちゃん
咲は順調に育った。
8ヶ月でハイハイをして、1歳3ヶ月で歩き始め、1歳8ヶ月で初めて言葉らしい言葉を言った。
「まま」
それは理恵のことを指していた。健太は「おー!」と叫び、理恵は泣いた。動画を撮った。すぐに誠二と明子のスマホにも送られてきた。
「まま」
「かわいいな」と誠二は言った。
「次は何て言うかな」と明子は言った。
「パパじゃないの、普通」
「うちの孫は普通じゃないかも」3週間後、咲はまた新しい言葉を言った。
「ばーば」
健太がまた動画を撮った。今度は理恵も撮っていた。
「ばーば! ばーば!」
明子は動画を3回見た。
4回見た。5回見た。
「ばーば、だって」と誠二に言った。
「見た」
「私のこと言ってる」
「そうだろうな」
「ばーば」
「見た、って言ってる」
「見たのわかってるけど、また言いたい」
誠二は仕方なさそうに「そうか」と言った。
翌週、咲は「じーじ」という言葉も覚えた。誠二は「じいちゃん、じゃなかったのか」と若干複雑な顔をしたが、咲に「じーじ!」と呼ばれた瞬間に顔がほころんだ。
明子はその瞬間を見ていて、「じいじじゃなくてじーじだったんだね」とだけ言った。誠二は「黙れ」と言ったが、笑っていた。
9. ひーばあちゃん
咲が3歳になった誕生日の夜、誠二は1人でベランダに出た。
明子は台所の片付けをしていた。健太と理恵はもう帰っていた。
夜の空気は少し冷たくて、遠くに街の明かりが見えた。
誠二は63歳だった。体のどこかが常にうっすら痛い年齢になっていた。膝とか、肩とか、天気の悪い日は腰とか。それを特別なこととは思っていなかったが、時間というものを以前より強く意識するようになっていたのは確かだった。
咲が大きくなる。いずれ結婚するかもしれない。子供ができるかもしれない。
その子が「ひーばあちゃん」と明子を呼ぶ日が来るかもしれない。
来てほしい。
誠二はそう思った。明子には「ひーばあちゃん」と呼ばれる日まで生きていてほしかった。できれば自分も、その日をどこかで見ていたかった。
ただ。
自分がそれを見届けられるかどうかは、わからなかった。年齢の計算をすれば、可能性は低くない。しかし確かなことは何もなかった。咲が結婚して子供ができるまで、あと20年か、30年か。
見届けられないかもしれない。
その思いは、悲しいというより、しんみりとした透明な感触だった。
それは悲しさではなく、順番というものへの静かな納得だった。
「何してるの」と後ろから明子の声がした。
振り返ると、明子が台所用の手ぬぐいで手を拭きながら立っていた。
「ちょっと、考えてた」
「何を」
「咲が大きくなって、子供ができて、お前がひーばあちゃんになる日のことを」
明子は少し驚いた顔をした。それからベランダに出てきて、誠二の隣に並んだ。
「急にそんなこと考えて」
「急じゃない。ずっと考えてた」
「ずっと?」
「ずっとっていうか、なんとなく、ずっと」
明子は夜の街を眺めた。
「私もたまに思う」と言った。「ひーばあちゃんって呼ばれてみたい」
「だろ」
「でも、それって咲に子供ができてからだから、まだ20年くらいかかるかもよ」
「かかるな」
「元気でいないとね」
「そうだな」
2人はしばらく並んで立っていた。特に何も言わなかった。街の明かりがゆっくりと瞬いていた。
明子が「寒い」と言ったので、2人で部屋に入った。誠二がお茶を入れた。明子がテレビをつけた。
いつも通りの夜だった。
10. 呼び名の話
それから3年後、健太が帰ってきたある夜、家族全員がリビングに集まっていた。咲は6歳になっていた。
夕食を食べながら、誠二は何気なく「そういえば」と口を開いた。
「俺と明子が出会った頃の話、健太にしたことあったっけ」
「ない」と健太は即答した。
「昔話?」と咲が反応した。「じーじとばーばの昔話?」
「そう」
「聞きたい!」
誠二は明子を見た。明子は「どうぞ」という顔をしていた。
「最初、ばーばのことを友達って呼んでたんだよ」と誠二は始めた。「でも、ある日突然、彼女って呼ぶようになって」
「彼女ってなに」と咲が聞いた。
「好きな人のこと」と健太が答えた。
「じーじはばーばのことが好きだったの?」
「そう」
「ばーばはじーじのことが好きだったの?」
「……まあ」と明子が言った。「嫌いではなかった」
「そんな言い方あるか」と誠二が言った。
咲はケラケラ笑った。
「それでね」と誠二は続けた。「彼女が妻になって、ママになって、今はばーばになってる」
「で、次はひーばあちゃんになるの?」と咲が聞いた。
「なりたいね」と明子が言った。
「じゃあ私が結婚して子供を産めばいいんだね」
「まあ、そういうことだね」
咲は真剣な顔で「わかった」と言った。「じゃあ私、大きくなったら結婚する」
「それはまだ考えなくていい」と健太が言った。
「でもひーばあちゃんって呼んであげたいもん」
テーブルの周りが笑いに包まれた。誠二も笑った。明子も笑った。健太と理恵も笑った。咲はなぜみんなが笑っているのかよくわからないまま、一緒に笑った。
笑いが収まった後、誠二は何気なくお茶を飲んだ。明子がおかわりを入れた。
ごく普通の夜だった。
そしてそれは、呼び名が1つ1つ増えていった長い時間の、ある一夜に過ぎなかった。
ただ誠二には、それがとてもいい一夜に思えた。
呼び名は増えていく。
そしてそのたびに、人生は少しずつ形を変えていく。
ー了ー
〜あとがき〜
年追うごとに
立場は変わり
その置かれた立場により
呼び名も変わる
娘に子供が出来たとき
旦那の親たちは
きっと
じーじ ばーばと
呼ばせると思ったカミさんは
ならばと考えたのが
あーちゃん だった
そう
ばあーちゃんの ばを取って
あーちゃんと教えた
すれば
僕は必然的に
いーちゃんとなった
その後
孫子たちは増え
今
あーちゃん いーちゃん と
呼ばれている
そしたら
いつか
ひーあーちゃんと
呼ばれるのだろう
僕はそれを
見届けられないかも
しれないけれど…
大問題
100円は どこへ行った?
A君 と B君 と C君 とが
それぞれ 1000円 持っていました。
仲の良い3人で 映画を見に行きました。
すると 優しい映画館のおじさんが
3人だから 2500円で 良いよ と言いました。
すると おつりが 500円 戻ってきました。
なので
とりあえず 100円づつ
3人に 戻しました。
500-300=200円
すると 200円が 残りました。
では
100円が 戻った3人は
900円づつ 出したことになりますよね?
1000-100=900円
すると~
900X3=2700円 で。。。
残りが 200円
って~ことは
2700+200=2900円
あれ?
100円 足りない?
100円は
どこへ 行ってしまったのでしょう?
---ヒント---
1 A君が 怪しい かも?
2 映画館のおじさんが パクッたの かも?
3 いやいや 途中でB君が 落としたの かも?
4 2700+200は 3000 の場合もあるの かも?
5 900×3は 2800 の場合もあるの かも?
さて さて 。。。?
ーーKindle 予定ーー
素顔で踊らせて
〜45年前の雨と、相変わらずの俺〜
〜まえがき〜
記憶というものは、時にずる賢い。
普段は心の奥底、鍵のかかった引き出しのそのまた裏側にしまい込んでいるはずなのに、ふとした雨の匂いや、聞き覚えのあるメロディに触れた瞬間、何の断りもなく扉をこじ開けてくる。
60を過ぎて、ようやくその「記憶」という名の招かれざる客と、うまく付き合えるようになってきた気がする。かつては追い払おうと必死だった。しかし、歳を重ねるということは、思い出という重荷を、ただの景色として眺められるようになることなのかもしれない。
これは、45年前に置き忘れてきた傘の話だ。
歌舞伎町から渋谷へ。若さという名の無敵の鎧を着て、何も恐れず、しかし何も持たずに走っていたあの頃。そして、雨の中をただ立ち尽くしていた、あの夜のこと。
もし、あなたの人生にも「あの時」という雨の日の記憶があるのなら、少しだけページをめくって、当時の空気を一緒に吸い込んでみてほしい。
今夜は少し、昔話をしよう。
1章 笑顔が作れない日
笑顔がうまいこと作れなくなった日には、あえてそこを目指さずに過ごすことにしている。
別に落ち込んでいるわけじゃない。機嫌が悪いわけでもない。ただ、顔の筋肉が言うことを聞かない日というのが、60を過ぎたあたりから確かに増えた。若い頃はそんなこと気にもしなかった。愛想笑いでも、社交辞令の笑いでも、とりあえず笑っておけばよかった。でも今はそれが、どうにもうまくいかない。
だから、笑えない日は笑わない。そう決めている。
そうすると、周囲の反応がちょっとおかしくなる。「あれ、どうかしたんですか」とか「今日は元気なさそうですね」とか。そういう声を受けると、自分の中の天使がすっと現れて言う。ほら、ちゃんとしなきゃ。愛想よくしなきゃ。周りが心配してるじゃないか。
しかしてその裏側では、もう1人の声がする。
おいおい、そんな面倒なことせんでも。そのまんまやっちまえよ。
この悪魔の声だけは、60を過ぎても変わらない。むしろ歳を取るにつれて、声が太くなってきた気さえする。
今朝、夢を見た。
45年前の夢だった。
2章 ガキどもの夜
おバカなガキどもだった。
10代の終わりから20代の入り口にかけて、俺たちは歌舞伎町のディスコに入り浸っていた。安い酒を飲んで、知りもしない女に声をかけて、朝まで踊って、へとへとになって帰る。それを毎週のように繰り返していた。
歌舞伎町を卒業する頃になると、今度は六本木か渋谷かという話になってくる。少し年上の女を追いかけ始めて、自分たちがちょっと大人になったような気分でいた。まったくもって、おバカなガキどもだった。
そのど真ん中で、「行くぞ」と仲間に指示を出していたのが俺だった。今思えば、何が「行くぞ」だ。ただ女のいる場所に転がり込みたいだけのくせに、リーダーぶっていた。
あの頃の夜が、今は遥か遠い。
昨今では、そんな夜の都会に近づくことすらなくなった。渋谷に用事があっても、昼間に済ませてさっさと帰る。夜の渋谷の人混みの中に立っても、もう体が動かない。音も光も、なんだか遠いところの話になってしまった。
でも、夢の中では違う。
夢の中の俺は、バイトを早上がりして公園通りを走っていた。
3章 公園通りのLA・SCALA
45年前、渋谷の公園通りには「LA・SCALA」というイカしたディスコがあった。
今その場所に何が建っているのか、俺はもう確認する気にもなれない。時代はどんどん変わる。店は入れ替わる。でも俺の中では、あの通りにはまだあのビルが建っていて、地下に降りると熱気と煙草の煙と音楽が渾然一体となった空間が広がっているのだ。
あの夜も、バイトを早めに抜け出して仲間の待つラスカラへ急いでいた。バイト先の店長には「気分が悪い」とか何とか言って、まったく罪悪感もなく脱け出した。19歳のガキの良心なんて、その程度のものだ。
仲間たちはもうフロアの端の席で陣取っていた。
「遅いぞ」
「早く来い、いい女が来てる」
そういう他愛ない声に迎えられながら、俺は上着を脱いで席に着いた。その時、フロアのスピーカーから流れていた曲を今でも覚えている。
♪ Searching for my honey
唇を奪いとるよりは Oh
ひとことのため息が混じる
お喋りでいいわ ♪
甘いメロディだった。あの頃の渋谷の夜は、ああいう甘い音楽で満ちていた。
4章 土砂降り
でも、その夜の少し前のことを夢は映していた。
渋谷の駅に着いた瞬間のことだ。
外へ出た途端、土砂降りの雨が叩きつけてきた。7月の、ゲリラ豪雨というやつだ。当時そんな言葉はなかったが、あれはまさにそれだった。空が突然決壊したかのような雨だった。
傘は持っていなかった。
売店を探すと、「傘売り切れ」の紙が貼ってある。時間はない。仲間が待っている。ど~したものか、と軒下で立ち往生していたその時。
「あら?」
聞き覚えのある声がした。
振り返ると、以前の彼女がそこにいた。
真理子といった。2つ年上の、美容の学校に通っていた人だ。半年ほど付き合って、別れた。別れた理由は俺がダメだったからに尽きる。約束を破る、連絡しない、大事な日に現れない。そういうことの積み重ねだった。別れを告げたのも彼女のほうで、俺には何も言い返すことができなかった。
その真理子が、雨の渋谷駅の軒下で俺を見ていた。
相変わらず困ってんだ? と彼女は言った。
それから、持っていた傘を差し出した。
「はい、これ」
「えっ」
「それ、返さなくていいから」
俺が何か言いかけると、彼女は続けた。
「あたし、来月結婚するの。もうすぐ彼が車で迎えに来るから」
そう言って微笑んで、人の波の中に消えていった。
5章 相変わらずか
唖然とした。
傘を手に持ったまま、しばらく軒下に立っていた。雨は相変わらず降り続けている。周りを走り抜けていく人たちが、ずぶ濡れになりながら駅の中へ駆け込んでいく。
相変わらずか。
頭の中でその言葉が鳴り響いた。彼女が言ったのは短い言葉だった。でも、その中にすべてが詰まっていた。相変わらず傘も持たない。相変わらず間の悪い男。相変わらず、どうしようもない。
でも、有り難いとすら思った。恨みも言わず、文句も言わず、ただ傘を差し出して微笑んで去っていく。俺みたいなダメ男に、それだけのことができる人だったのだ。
ダメな若さというのは、そういう親切さえも素直に受け取れないものだ。受け取りながらも、どこかで居心地が悪い。ありがとう、と言えばいいのに、「えっ」しか出てこない。
ラスカラに着くと、仲間たちが騒いでいた。フロアは熱気に満ちていた。あの甘いメロディが流れていた。俺も体を揺らして、踊った。
でも、頭の中では相変わらずか、という言葉がずっと鳴り響いていた。
フロアを出る時、傘を忘れた。
真理子にもらった、その傘を。
外はまだ雨が降っていた。仲間たちとバカを言い合いながら、綺麗な女たちの姿を目で追いかけながら、ずぶ濡れになりながら歩いた。
相変わらずか。
その言葉だけが、ずっとついてきた。
6章 ゲリラ豪雨の季節
目が覚めると、窓の外で雨が降っていた。
関東ではここ数日、例のゲリラ豪雨というやつが続いている。テレビをつければ、どこかでずぶ濡れになった人々の映像が流れる。傘を持っていなかった人、急いでいた人、空が一瞬で変わって逃げ場を失った人たち。
そういう姿を見るたびに、あの夜のことを思い出す。
45年前の7月。渋谷駅の軒下。真理子の微笑み。
夢でまで見るとは思っていなかった。あの頃のことは、もちろん今でも時々思い出す。でも夢に出てきたのは久しぶりだった。目覚めてからも、頭の中でその光景が続いていた。土砂降りの雨、傘を差し出す手、来月結婚するの、という言葉。
ちょいと、センチメンタルな気分だ。
60過ぎにもなって、45年前の彼女のことを夢に見てセンチメンタルになっている。我ながら、相変わらずか、と思う。
でも、まあ、それでいい。
7章 ダメな若さ、その後
真理子とは、それ以来1度も会っていない。
どこかで幸せにやっているだろう、と思う。あれだけの気持ちのある人だ。きっとちゃんとした家庭を作って、ちゃんとした人生を歩んでいるに違いない。
俺はと言えば、まあ、そこそこだ。
結婚もした。子供も生まれた。仕事もそれなりにやって、定年を迎えた。大きな失敗もしたし、情けない思いもたくさんした。あの頃のダメな自分から、劇的に変わったとは言えない。相変わらず約束を破ることもあったし、大事な時に頼りにならないこともあった。
でも、少しは反省できるようになった、と思いたい。
思いたい、というだけで、確信はない。そこが「相変わらずか」の証拠かもしれない。
昨今では、夜の都会に近づくこともなくなった。歌舞伎町も六本木も渋谷も、もう俺の場所じゃない。あの頃の仲間たちとも、年に1度会うかどうか。それぞれが歳を取って、それぞれの暮らしの中に入ってしまった。
でも、ゲリラ豪雨の季節になると思い出す。
ずぶ濡れの人たちを見ると思い出す。
相変わらず困ってんだ? という声と、あの微笑みを。
8章 素顔で踊る
笑顔が作れない日には、無理に作らない。
心のままに動いてみる。周囲が「あれ?」となる。
天使が現れて正そうとする。
悪魔が「そのまんまやっちまえよ」とささやく。
そのせめぎ合いが、60を過ぎても続いている。
思えば、あの夜のフロアでも同じだった。頭の中で相変わらずか、という言葉が鳴り響きながら、それでも体は音楽に合わせて揺れていた。笑顔を作ろうとは思わなかった。ただ、音の中に素顔のまま立って、揺れていた。
素顔で踊る、ということが、あの頃の俺にはできていたのかもしれない。
今の俺にも、まだできるだろうか。
窓の外でまた雨が強くなってきた。関東のゲリラ豪雨は、今日も容赦がない。どこかでずぶ濡れになっている人がいる。売店の傘が売り切れていて、途方に暮れている人がいる。
もし誰かが困っていたら、傘を差し出せる人間になれただろうか。
真理子がしてくれたように。
少しは、反省できる大人に、なれただろうか。
雨の音を聞きながら、俺はまだその問いの中にいる。
〜エピローグ〜
雨の公園通り
夕方、傘を持って外へ出た。
特に用事はなかった。ただ、雨の中を少し歩きたかった。
渋谷の公園通りを、久しぶりに歩いた。昼間の渋谷は、用があっても素通りしていた。でも今日は、なんとなく歩いてみたくなった。
通りの形は、45年前と変わっていない。坂の角度も、左右に広がる空も、あの頃と同じだ。
店は全部変わった。
人の流れも変わった。
俺も変わった。
でも、雨の匂いだけは変わらない。
真理子が傘を差し出した場所は、たぶんこの近くだ。駅のあの辺の軒下だったはずだ。今も同じように、困った誰かが雨宿りしているかもしれない。
俺は傘を差したまま、しばらくその場に立っていた。
雨粒が街灯に反射して、きらきらと光っていた。若い男女が走り去っていく。傘を2人で共有しながら笑っているカップルがいる。1人で颯爽と雨の中を歩いていく女がいる。
素顔で踊らせてくれ、と思う。
笑顔が作れない日には、作らなくていい。心のままに動いて、天使の声を聞いて、悪魔の声にも少し頷いて、それでも前に進んでいく。
相変わらずか。
その言葉は、45年間 俺についてきた。
これからも、ついてくるだろう。
でも、それでいい。
雨の公園通りを、俺はゆっくりと歩いた。
〜あとがき〜
45年という月日は長い。渋谷の街並みは変わり、人の流れも変わり、私たち自身の体も心もすっかり様変わりしてしまった。
けれど、雨が降った時に感じるあの独特の切なさや、誰かの優しさに触れた瞬間の居心地の悪さは、不思議と当時と変わらない気がする。
書き終えて思うのは、「素顔で踊る」ことの難しさと、その愛おしさについてだ。
私たちは皆、大人になる過程で、上手に笑うための仮面をいくつも手に入れる。愛想笑い、苦笑い、社交辞令の微笑み。それらが時に鎧となり、私たちを守ってくれるのも事実だ。
しかし、たまにはその仮面を外し、土砂降りの雨の中に身を投げ出してみてもいいのではないか。びしょ濡れになって、寒さに震えながら、それでも自分の足で歩き出す。そんな不格好な姿こそが、人生という名のダンスの正体なのかもしれない。
関東のゲリラ豪雨は、明日もまたどこかで降るだろう。
もしあなたが雨宿りをしている誰かを見かけたら、その時はぜひ、かつての私にできなかったことをしてあげてほしい。
あなたの日常が、たとえ雨の日であっても、心だけは軽やかでありますように。
45年目の雨に感謝を込めて。