ボトルは還る
──還暦男と着替えマジシャンの一夜──



まえがき
歳を重ねるにつれ、ふとした瞬間に昔の景色が鮮明に蘇ることがあります。それは街角の匂いだったり、昔流行った洋楽のメロディだったり、あるいは酒場の片隅で交わした何気ない約束だったりします。
昭和という時代は、今思えばずいぶんと大雑把で、愚かしくて、けれどどこか熱気に満ちていました。誰もが明日を信じ、少し背伸びをして夜の街に繰り出し、守れるかも分からない約束をしてはグラスを傾けていたものです。
「あの頃の自分たちは騙されていたのだろうか。それとも、本気で楽しんでいたのだろうか」
そんな問いに対する答えは、きっと一つではありません。けれど、あの夜に流した汗や涙、そして不器用な笑顔のすべてが、今の私達を作っていることもまた確かです。本作は、そんな昭和の熱気と哀愁を胸に抱いた一人の還暦男が体験する、少し不思議で温かい一夜の物語です。どうかグラスを片手に、のんびりとお付き合いいただければ幸いです。




プロローグ 還暦のオヤジ
田村哲男、六十二歳。定年退職してからというもの、これといった予定もない穏やかな日々を送っている。息子夫婦はすでに独立し、妻の靖子とは休日も互いに干渉し合わない、静かで心地よい距離感を保っていた。
哲男の唯一の楽しみといえば、週に二、三度、駅前の立ち呑み屋「くろべえ」に顔を出すことだった。安いコップ酒を片手に、若い常連客をつかまえては昭和の武勇伝を語る。もう何十回も繰り返してきた話だが、哲男にとってそれは、色褪せることのない人生の勲章のようなものだった。
「昭和のキャバクラってのはな、そりゃあもう戦場だったんだぞ」
それが彼の決まり文句だった。今夜もまた、いつものようにあの長い夜の話が始まろうとしていた。だが哲男自身、この夜が単なる思い出話では済まない、生涯忘れ得ぬ一夜になるとは、この時はまだ夢にも思っていなかった。



第一章 自慢話は美しく
「呼び込みの兄ちゃんがよ、『可愛い子ばっかりですよ、お願い、二時間だけ!』って言うわけよ。で、その気になって暖簾をくぐるだろ。そしたらもう、フルーツが食べたいだの、一杯呑んでいいだの言われて、断れねえの。男の性ってやつだな」
隣に座った若い会社員二人組、須藤と岡本は、半分呆れ、半分面白がりながらスマホをいじっている。
「田村さん、その話、この前も聞きましたよ」須藤が苦笑した。
「そうだったか? まあいいから聞け。最後にはボトルを入れてって言われてよ。指切りまでしてな。『また来るね』って約束して……次の日にはそのボトルが勿体なくて、また行っちまう。バカだよなあ、俺たちは」
「でもそれ、結局上手く乗せられて騙されてただけじゃないですか」岡本が半笑いで言う。
「騙されてたって言えばそうなんだが……あの頃はな、そんな痛みも含めて、なんつうか『生きてる実感』があったんだよ。お前らみたいにスマホの画面ばかり眺めて満足してる方が、俺にはよっぽど寂しく見えるけどな」
哲男は自分の言葉に、いつになく熱がこもっているのを感じていた。若い世代への説教くさい物言いは自分でも好きではないが、つい口をついて出てしまう。
「まあまあ。田村さんの若い頃の話、俺は嫌いじゃないですよ」須藤がとりなすように言い、スマホの画面をこちらに向けた。「それより見てくださいよ、これ。今、ネットでバズってるんです」
画面には、舞台の上で一瞬にして衣装が入れ替わる「着替えマジシャン」の動画が流れていた。黒いマントをふわりとかぶせた瞬間、漆黒の燕尾服が鮮やかなドレスに変わる。観客の歓声とともに、BGMが流れてきた。
聞き覚えのある洋楽だった。八十年代、バブルの匂いを強烈に引きずったあの一曲――物質的な豊かさを軽やかに歌い上げた名曲だった。
その瞬間、哲男の頭の奥で、何かがカチリと音を立てた。まるで長らく閉ざされていた引き出しの鍵が、静かに外れたような感覚だった。
「……この曲、久しぶりに聞いたな」
「有名な曲ですよね。マジシャンの鮮やかな早替え演出にぴったりだって話題ですよ」
哲男は生返事をしながら、胸の奥が妙にざわつくのを感じていた。まるで、遠い昔に忘れてきた誰かに名前を呼ばれたような、不思議な感覚だった。



第二章 名刺が降ってくる
「くろべえ」を出て家路につく途中、哲男の胸騒ぎは収まるどころか増す一方だった。あの曲を聞いてからというもの、視界の隅に白いものがチラチラと舞っている気がする。
「気のせいか……歳のせいかね」
そう呟いた瞬間、頭上からひらひらと何かが降ってきた。一枚、二枚、三枚。街灯の下で拾い上げると、それは色褪せた金の縁取りに、見覚えのある店舗名が印刷された名刺だった。
――クラブ・シャンパンローズ
三十五年前前に哲男が足繁く通い、文字通り有り金をむしり取られたあの店の名刺だった。とっくに閉店し、今はコインパーキングになっているはずの店の名刺が、なぜ今、夜空から降ってくるのか。
「いや、まさかな……」
哲男は名刺をポケットに突っ込み、足を早めた。だが角を曲がった瞬間、息を呑んだ。目の前に、見覚えのあるネオン看板が鮮やかに浮かび上がっていたのだ。駐車場だった場所に、煌々と輝く「シャンパンローズ」の文字。ピンク色のネオンが、湿った夜気の中でじりじりと音を立てて明滅している。
扉の前には、一人の女性が立っていた。派手なドレスに盛った髪型、昭和の残り香をまとった、当時のホステスそのものの立ち姿。二十代にも、四十代にも見えるミステリアスな雰囲気を漂わせている。
「……ミカさん?」
「あら、哲ちゃん。久しぶり。約束、覚えてる?」
女は妖しく微笑んだ。その微笑みは、記憶の中にあるミカのそれと寸分違わなかった。
「ミカさんって、あんた……そもそもこの店、とっくに潰れて……」
「細かいことはいいのよ。それより洋子ママにも怒られちゃうわ。約束、果たしてもらわなきゃね」
哲男の足は金縛りにあったように動かなかった。逃げなければと頭では理解しているのに、体は吸い寄せられるように扉へと向かっていった。



第三章 積み残しの精算
「約束って……何の話だよ」哲男は震える声で言った。
「指切りしたでしょ。『また来るね』って。それから――」ミカは指を一本立てた。「三十五年、経ってるのよ」
哲男の背筋に冷たいものが走った。ミカはあの店で一番人気だったホステスで、確かに最後の夜、指切りをして別れを惜しんだ記憶がある。だがその後、バブルが弾けて店は傾き、いつの間にか閉店していた。ミカの消息も「田舎に帰った」と聞いたきりだった。
「あんた、ボトルを入れっぱなしで来なかったでしょ。あのボトル、まだ棚にあるのよ。中身がね、飲まれないまま時間だけが経っていって……三十五年分の未練が詰まってるの」
「い、いや、それは……その後結婚して子供も生まれて……そもそもあんな高い店、そうそう通えるわけが……」
「言い訳はいらないわ。今夜、精算してもらうから」
そう言った瞬間、周囲の景色が一変した。気づけば哲男は、当時の内装そのままのクラブの中央、ふかふかのボックス席に座らされていた。シャンデリアの淡い光、心地よい絨毯の匂い、遠くで流れるムード音楽。すべてが三十五年前のあの夜そのものだった。
「なあ、ミカさん。教えてくれよ。あんたらは俺たち客のこと、本当はどう思ってたんだ? やっぱりただの金づるだったのか?」
ミカは少し黙り、グラスに酒を注ぎながらふっと苦笑した。
「半分は仕事よ。でもね、半分は……本当に楽しかったのよ。あんたたちがバカ丸出しで盛り上がって、笑って、また来るって約束してくれるの、実はすごく嬉しかった。守られなかった約束の方が圧倒的に多かったけどね」
その言葉に、哲男は思わず小さく吹き出してしまった。
「そうか。……悪かったな、来なくて」
「今更言っても遅いわよ。ほら、まずは乾杯」
グラスを合わせた瞬間、店の扉が勢いよく開いた。



第四章 幻の同窓会
「哲男! お前もここに呼ばれたのか!」
飛び込んできたのは、高校時代からの腐れ縁である山口誠だった。作業着のまま、頭には工事現場のヘルメットを乗せている。
「山口! お前までかよ!」
「さっき急に呼び込みの兄ちゃんに腕を引っ張られてよ。気づいたらここだ。おい、これシャンパンローズだろ。俺もここで散々搾り取られたよなあ」
二人が顔を見合わせて笑っていると、店の奥からさらに数人の初老の男たちが、困惑した顔で現れた。会社の元同僚や近所の顔なじみなど、かつての常連客たちだった。
店内はあっという間に、還暦を過ぎた男たちの奇妙な同窓会のような様相を呈していった。誰もが一様に戸惑いながらも、どこか懐かしそうに店内を見回している。
「覚えてるか? あの時みんなで大枚はたいてドンペリ入れたよな」
「覚えてるも何も、あれのせいで俺は半年小遣い制になったんだぞ」
「俺なんか離婚寸前までいったんだからな」
苦い記憶のはずなのに、なぜか誰もが笑顔で語っている。哲男はふと、これは単なる悪夢や罰ゲームではなく、自分たちが置き去りにしてきた時間を引き取るための夜なのかもしれない、と思い始めていた。



第五章 路地裏の異変
哲男がふと窓の外を見ると、立ち呑み屋周辺の旧繁華街エリアが、怪しくも幻想的な光に包まれていた。
ビルやコインパーキングに変わっていた路地裏の一角から、次々と昭和のネオン看板が淡い光を放って蘇り、消えたはずの老舗店が幻のように浮かび上がっている。だが、その光景はこの路地裏だけの、静かで密やかな出来事のようだった。
「積み残されたボトルたちの想念が、一斉に目覚めさせたみたいなの」
ミカが静かに語った。あの着替えマジシャンの動画で使われていた80年代の洋楽。物質的な豊かさと切ない未練が交錯するあのメロディが引き金となり、昭和に置き去りにされた「未精算のボトル」たちの想いが呼び覚まされたのだという。
路地には、思い出のボトルを抱えた昔馴染みのホステスたちの幻影が佇み、かつての常連客たちを優しく店へと招き入れていた。路上でおいおいと泣き崩れる者、嬉々として当時の武勇伝を語り出す者、素直に頭を下げる者。誰もが自分の過去と向き合っていた。



第六章 着替えマジシャンの正体
「なあミカさん。なんであのマジシャンの動画が、こんなことのきっかけになったんだ?」
哲男が尋ねると、ミカは少し表情を曇らせた。
「実はね、あの着替えマジシャン――坂本蓮っていう青年のおばあちゃんが、この店で長く働いていたホステスの一人だったのよ」
「え……」
「名前は雪乃さん。腕のいい人だったわ。でも店が潰れた後は誰にも本音を話さず、独りで静かに生きてきた人だった。亡くなった後、遺品の中から当時のお客さんの名刺やボトルキープの伝票が大量に見つかったそうなの」
「そのお孫さんが、偶然あの動画にあの曲を使った……」
「偶然かどうかは分からないわ。でも、雪乃さんの想いが孫を通してあの曲と結びついたことだけは確かね。積み残された約束は、ちゃんと向き合わないと消えてくれないのよ」
哲男は言葉を失った。自分たちが軽い気持ちで交わした「また来るよ」という約束の裏に、それほど切ない人生があったとは思いもしなかった。



第七章 ボスママの登場
その時、クラブの奥の扉が重々しく開き、一人の恰幅の良い女性が姿を現した。かつてこの店を圧倒的な貫禄で仕切っていた伝説のママ、「クイーン洋子」だった。
「あら、随分と賑やかじゃないの。今夜はちゃんと利子まで含めて払ってもらうわよ」
「り、利子!?」哲男たちは一斉に青ざめた。
「当たり前でしょう。三十五年分の未払いよ」
洋子ママの気迫に店内は一瞬で凍りついたが、山口が意を決したように立ち上がった。
「洋子ママ、待ってくれ! 俺たちは確かにバカだった。でもよ、あの店で笑った時間は嘘じゃなかったはずだ。金は取られたが、俺たちも救われてたんだよ。そこはお互い様なんじゃねえのか」
洋子ママはしばらく山口を睨みつけていたが、やがてふっと笑みを浮かべた。
「……いいこと言うじゃないの。あんた、貢いでくれた山口誠でしょ。覚えてるわよ」
店内に緊張と苦笑いが混ざり合った温かい空気が流れた。



第八章 男たちの決断
「なあ、みんな」哲男は立ち上がり、周囲を見渡した。「ウジウジ言い訳するのはやめようぜ。俺たちが残してきた『未精算』ってやつに、気持ちでちゃんと向き合おう」
男たちは互いに顔を見合わせ、大きく頷き合った。
「よし、俺は自分のボトル、今夜で全部飲み干すぞ!」
「俺も付き合う!」
洋子ママは腕を組みながら満足そうに頷いた。
「いいわ。今夜は特別に利子はナシ。ただし、逃げずに最後まで飲み干して、みんなに『ありがとう』って言いなさいよね」



第九章 ミカの過去
男たちがそれぞれのボトルに向かう中、哲男はミカと二人、静かなカウンター席に座っていた。
「ミカさん、あんたはなんでここで働いてたんだ?」
「家が貧しくてね。でも、お客さんたちが笑ってくれるのが嬉しかったのよ。哲ちゃんたちみたいな若い男の子たちが馬鹿騒ぎしてくれると、こっちまで元気になれたの」
「そうだったのか……」
「約束を守ってもらえないのは寂しかったけど、恨んでなんかないわ。今夜こうしてまた会えたんだから、最高じゃない」
ミカは少女のような無邪気な笑顔を見せた。



第十章 ボトルキープの結末
「精算方法はシンプルよ」ミカは棚から埃をかぶったボトルを取り出した。ラベルには「田村哲男様」と記されている。「これを今夜、飲み干すこと」
哲男はグラスを受け取り、一口飲んだ。三十五年分の琥珀色の液体が喉を滑り落ちる。苦さの奥に、愛おしい懐かしさがあった。
一杯、また一杯。店中のあちこちで、大笑いしながら、時に感謝の涙を浮かべながら、男たちがそれぞれの未精算を飲み干していく。
やがて東の空が白み始める頃、ネオンは静かに消え、ボトルたちは光の粒となって空へ昇っていった。
「じゃあね、哲ちゃん。今度こそ本当のさよなら」
ミカの姿も朝日に溶けるように消えていった。その笑顔は安堵に満ちていた。



終章 還暦の朝に
気がつけば哲男は、いつもの立ち呑み屋のベンチで朝を迎えていた。手元には、あの色褪せた名刺だけが残されていた。
数日後、哲男は山口とともに坂本蓮の動画を改めて見返していた。概要欄にはこう記されていた。
――幼い頃、他界した祖母に育ててもらいました。この芸は、祖母が好きだった『変わり身の早さ』へのオマージュです。
「山口、俺たち、ちゃんと精算できたのかな」
「さあな。でも俺は今夜、妻に花でも買って帰るよ。あの日貢いだ分、今の妻を大事にしねえとな」
哲男は笑った。「還暦過ぎて学習したな」



エピローグ 昭和の残り香
それから数ヶ月後。「くろべえ」のカウンターで、哲男は須藤と岡本にコップ酒を奢っていた。
「田村さん、なんか最近スッキリした顔してますね」須藤が尋ねる。
哲男はポケットの中の色褪せた名刺をそっと指でなぞり、穏やかに微笑んだ。
「まあな。過去をちゃんと笑って話せるようになっただけさ」
言葉で野暮な説教をするのはもうやめた。手の中にある名刺の感触と、あの琥珀色の味わいがあれば十分だった。
窓の外では、今夜も街の灯りが静かに瞬いていた。


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あとがき
本作『ボトルは還る』は、昭和という時代を生きてきた人間が抱く「哀愁」と「微かな後ろメタさ」、そしてそれを乗り越えた先にある「晴れやかさ」を描きたいという思いから執筆いたしました。
若者たちのスマートで合理的な生き方も素晴らしいものですが、かつての私たちが過ごした、泥臭く不器用で、けれど情熱に満ちていた時間もまた捨てがたい魅力を持っています。残されたボトルを飲み干すように、自らの過去と向き合い、感謝とともに手放していく哲男たちの姿に、どこか共感や愛おしさを感じていただけたなら幸いです。
物語の執筆にあたり、昭和の夜の街の熱気や、時に切なく時に温かい人間模様を思い起こす時間は、著者にとっても素晴らしいタイムスリップとなりました。
今夜、皆様の思い出のグラスにも、あたたかな灯りがともりますように。


気がつけば
絶好調なんて日はなくなって

身体のどこかが
ギクシャクしている

それでももう
そんな齢かと
それを受け入れている
自分がいる




油断したらしく
なんと
風邪をひいてしまった

何年ぶりか
この喉の痛み

そして
それがなかなか治らない

いつもならば
ひと晩 早寝でもすれば
翌朝には治っていたのに

免疫が落ちたのか
身体中がだるい

そんなだから
本日予定していた落語会も
これは難しい

65となり
身体の多くのことが
大きく変わろうとしている

老いというものは
転んだ怪我や
こうした手術の隙間に
そっと侵入し
一気に進むらしい

それはまるで
自信満々だった健康が
音を立てて崩れて行くかのようで

そこへと
準備不足により対処出来ずに
ジタバタしているかのような
オヤジの姿

こんなくらい
なんとかなったはずだ
なんとかして来たはずだ

いや
それすらも考えることなく
身体が勝手に対処してくれたはずだ

走れたはずだ
泳げたはずだ
飛べたはずだ

還暦という齢を
意識してしまってからの
わずか5年のカウントダウン

酒をやめたはずだ
バイクも降りたはずだ
波乗りも
あれもこれもと
危険なリスクから離れたはずだ

これが
あの頃
先輩たちが
嘆いていた老いか

ならば
脳を騙せ! 

若い連中の中で
対等に遊べ

あとさきを想像するな
今を楽しめ

明日はいつも通り
ここにやって来る

今日 出来ることは
なんだ?…




歌え!

笑え!

叫べ!


ジタバタしろ!


術後の安静期間のせいか
身体がすっかり落ちてしまい
特に
柔軟性がなくなってしまった

昨今ではそれが
靴下を履くにもキツくなり
こりゃいかん! と

昨日
ストレッチを強めた

すると
グキッ! と音がして

やっちまった!
久々の腰

もう少し丁寧に
やれば良かったのに
力で曲げ過ぎた

あ〜あ
これでまたフリダシか

いや
後退か

もちろん
元々 柔らかい身体ではないが
それでも
ここまで落ちるとは

わずか2ヶ月
サボっただけなのに
この夏には
この身体
間に合わなかった

戻すには
休んだ時間の3倍掛かるよと
いつか誰かが言ってたけれど

すると
焦ったところで
いずれにせよ
年内いっぱい掛かるということか

齢かな
齢だよな




体力は落ち
疲れは戻らなくもなり
怪我は治り難くなって

それがいよいよ
目の前にやって来た

ただし
不思議かな
2〜3日続けて
無理が出来るのは

身体の疲れが脳に伝達されるのが
すぐではなくなり
そこに
時差が出来たということなようだ

でももちろん
それは遅れてやって来るから

この疲れ
いつの疲れ? なんて
苦笑いしながら
脳と戦ってみる


サナトリウム・パラドックス 外伝
―壬生、善次郎の見た時代―


まえがき
本書は、拙作『サナトリウム・パラドックス』の世界観を別の角度から紡いだ外伝にあたります。
本編では現代の病院という閉ざされた空間において、時間の歪みや因果の結びつきを描きましたが、本作で光を当てたのは幕末の京都――壬生浪士組(のちの新選組)の末端に身を置いた、一人の名もなき隊士・善次郎です。
歴史の表舞台に名を残すことのなかった男が、なぜ京都に残り、何を思いながら激動の時代を駆け抜けたのか。そしてその記憶が、時を超えてどのように現代へと繋がっていくのか。
歴史の細隙に沈んだ男たちの息遣いと、時空を超えて重なり合う因果のドラマをお楽しみいただければ幸いです。




序章 文久三年、壬生
文久三年二月、京は底冷えのする寒さに包まれていた。
江戸から将軍上洛の警護という名目で集められた浪士組、その末端に、善次郎という名の若者がいた。剣の腕はさほどでもない。ただ、身体だけは丈夫で、腹一つ壊したことがない——それが本人の、ささやかな自慢だった。
「善次郎、お前、また飯を三杯もお代わりしたのか」
同郷の仲間にからかわれても、善次郎はどこ吹く風だった。
「腹が丈夫なのが取り柄でしてね。これでも、家系には代々、腹の弱い者が多いと聞いてますが、私はどうも、外れくじを引いたようで」
軽口を叩く善次郎だったが、その夜、彼は妙な夢を見た。白い壁の部屋、見たこともない管のようなものが腕に刺さった若者、そしてその若者に「大丈夫かい」と声をかける、自分によく似た老人の姿。
「なんだ、あれは……」
目が覚めても、夢の余韻はしばらく消えなかった。だが、そんな夢のことを気にかけている暇は、この時代にはなかった。
「善次郎、飯はもう終わりか。なら、次はお前の当番だぞ」
声をかけてきたのは、江戸からの道中でいつも隣を歩いていた、源治郎という男だった。年は善次郎より少し上、物静かだが、妙に肝の据わった男である。
「源治郎さんは、こういう時代がどうなると思いますか」
「さあな。ただ、私とお前は、たぶんこの先、同じ道は歩まんだろうよ」
軽口のようでいて、どこか予言めいたその言葉を、この時の善次郎はまだ、深く受け止めてはいなかった。


第一章 新徳寺の夜
壬生の新徳寺に、浪士組の面々が集められたのは、上洛から間もない夜のことだった。
「我らの目的は、将軍家の警護にあらず。尊皇攘夷の魁とならん」
首謀者格の清河八郎が、そう演説するのを、善次郎は本堂の隅で聞いていた。
隣にいた仲間が、小声で囁く。
「善次郎、お前はどう思う」
「さあ。私は難しいことは分かりません。ただ——」
善次郎は、少し離れた場所に立つ、屈強な体つきの男たちを見やった。近藤勇、土方歳三、そして芹沢鴨という、腕利きとして知られる面々である。
「あの人たちは、江戸には戻らない気がしますね」
その予感は、的中することになる。
清河の演説に同意できないとした近藤たちは、袂を分かち、京都守護職・松平容保のもとで新たな組織を立ち上げることとなった。やがて彼らは、「新選組」と呼ばれるようになる。
一方、清河に従って江戸へ戻る者たちは、後に新徴組として再編されることになる。
「善次郎、お前はどちらに残る」
仲間の一人に問われ、善次郎はしばらく考えた。故郷には、老いた両親がいる。江戸に戻れば、それなりに落ち着いた暮らしが待っているだろう。
すぐ隣では、源治郎が静かに荷をまとめていた。江戸へ戻る側に、迷いなく身を置いているのが分かった。
「源治郎さんは、江戸に戻るんですか」
「ああ。私は、性に合わん。腕っぷしで名を上げるより、生きて帰って、伝えるべきことを伝える方が、私には向いている」
「伝えるべきこと、ですか」
「さあな。それも、その時にならんと分からんよ」
まるで、いつかどこかで聞いたことのあるような言い回しだった。
だが、あの夢に出てきた、白い部屋の若者の顔が、なぜか頭から離れなかった。まるで、まだ見ぬ誰かに、何かを託さねばならないような、そんな奇妙な使命感があった。
「私は、京都に残ります」
自分でも、なぜそう答えたのか、うまく説明できなかった。
「そうか」
源治郎は、それだけ言うと、小さく頷いた。
「なら、達者でな、善次郎。もう会うこともないかもしれんが」
その言葉は、思いのほか重く、善次郎の胸に残った。


第二章 壬生浪士組
京都に残った善次郎たちは、壬生浪士組と名乗り、会津藩お預かりという形で、市中警護の任に就くこととなった。
芹沢鴨は豪胆な性格で、時に周囲を困らせる乱暴者でもあった。近藤勇は生真面目な男で、規律を重んじた。土方歳三は、その規律を隊のすみずみまで徹底させる、冷徹なまでの実務家だった。
「おい、善次郎とやら」
ある日、土方に呼び止められた善次郎は、思わず背筋を伸ばした。
「お前、腹の具合はどうだ」
「え? 腹、ですか」
「隊士名簿に、お前の身元書きがあってな。家系に腹の弱い者が多いと、自分で書いていただろう。そんな妙なことを真面目に書き残す奇特な奴は、お前くらいなものだ」
土方は、珍しく口の端をわずかに緩めた。
「まあいい。丈夫な腹は、この隊では貴重だ。斬り合いより、腹を壊して音を上げる奴の方が多いのでな」
「はあ、恐縮です……」
恐縮しつつも、善次郎はふと気になって、思い切って言葉を継いだ。
「妙な話ですが、私の家系には、腹を壊して命を落とした者が代々多くおりまして。私だけが、なぜか丈夫に生まれついた。よくできた冗談のようで、少し気味が悪くもあります」
「気味が悪い、か」
土方はそれ以上追及しなかったが、その目には、ただの世間話とは思えない何かを感じ取ったような色が、一瞬だけよぎった。
この荒々しい集団の中にも、こうした人間味のあるやり取りがあるのだと、善次郎は少しだけ安堵した。


第三章 池田屋への道
文久三年から翌年にかけて、京都の情勢は緊迫の一途をたどっていった。
芹沢鴨は、隊内の粛清によってその生涯を終えた。近藤を局長とする新たな体制のもと、隊はより厳格な規律で統率されるようになっていく。
そして元治元年六月、池田屋事件が起こる。
善次郎は直接の斬り込みには加わらず、周辺の警戒にあたる役目を任されていた。だが、事件の後、隊士たちの興奮と、同時に漂う異様な空気を、はっきりと覚えている。
「勝ったには、勝ったのだろうがな」
同僚の一人が、ぽつりと呟いた。
「これで、また敵が増えるだけかもしれん」
その言葉通り、池田屋事件以降、新選組は「人斬り集団」としての悪名と、「治安維持の功労者」としての名声を、同時に背負っていくことになる。
その夜、善次郎はまた、あの夢を見た。
白い部屋。窓の外には、見たこともない形をした建物が並んでいる。天井から、細い管が垂れ下がっている。
そして、老人の声がした。
「大丈夫かい」
善次郎は、その老人の顔を見た。
なぜか、自分自身の顔に見えた。


第四章 油小路、崩れゆく理想
慶応三年、御陵衛士との対立から、油小路事件が起こる。時代は、大政奉還、そして戊辰戦争へと、急速に転がり落ちていった。
善次郎は、この頃にはすでに、隊内でも古参の一人となっていた。かつての仲間の多くが、すでにこの世を去っていた。
「善次郎、お前はまだ生きているのか」
古い知人に皮肉交じりにそう言われるたび、善次郎は苦笑いを浮かべた。
「腹が丈夫なだけが取り柄でしてね。刀は、正直、あまり得意ではないので」
戦の最前線に立つことは少なく、むしろ後方での連絡や、負傷者の手当てを手伝うことが多かった。それが、皮肉にも善次郎の命を長らえさせることになった。
ある夜、負傷した若い隊士の看病をしながら、善次郎はふと、彼に問うた。
「お前、故郷に、家族はいるのか」
「兄が一人。もう長いこと会っていませんが」
「そうか。もし生き延びたら、ちゃんと伝えるんだぞ。伝えたいことがあるなら、今のうちに、な」
「なぜ、そんなことを」
善次郎は、少し寂しそうに笑った。
「私にも、江戸に帰った友がいてな。源治郎という男だ。もう何年も会っていない。伝えそびれたことが、山ほどある」


終章 江戸へ帰らなかった男
慶応四年、鳥羽・伏見の戦いを経て、新選組は各地を転戦しながら、次第にその数を減らしていった。
善次郎は、甲州、そして会津へと転戦する部隊からは外れ、京都に残る決断をした。理由は自分でもうまく説明できなかったが、強いて言うならば——あの夢の中で見た景色に、どこか縁を感じていたからかもしれない。
戦の終わり近く、善次郎は病を得て、床に伏す身となった。看病してくれた京都の家族に、彼はある日、こう語ったという。
「私は、大した手柄も立てられなんだ。ただ、腹だけは丈夫だった。それが、私にできる、精一杯の親孝行だったのかもしれん」
そして、こうも付け加えた。
「もし、いつか、私の血を引く者が現れたら、伝えてやってくれ。自分の目の前で見聞きしたことだけを信じろ、と。誰かが掲げた大きな『正しさ』に流されて、確かめることを忘れるな、と」
その言葉を最後に、善次郎は静かに息を引き取った。享年、四十過ぎであったという。
遠く江戸で新徴組の一員として生涯を終えた源治郎のもとにも、風の噂で、善次郎の最期が伝えられた。源治郎は、その知らせを受けて、ただ一言、こう漏らしたと伝えられている。
「あいつは、最後まで、律儀な男だったな」
時は流れ、明治、大正、昭和——そして平成、令和へ。
善次郎の血を引く者たちの中には、代々、原因不明の体調不良や、説明のつかない夢を見る者が、時折現れたという。
大正十二年、その血を引く孫の一人が、結核療養所として建設されることになった、ある病院の工事に、わずかながら関わることになった。
そして、それからさらに百年ほどが過ぎたある夜——その病棟の四人部屋で、腹を壊した一人の青年が、緊急手術を受けることになる。
隣のベッドには、一人の老人が横たわっていた。
「大丈夫かい、兄さん」
老人がそう言った。
青年は、苦しそうに目を開けた。
「……はい」
その声を聞いた瞬間、老人の胸に、見たことのない風景が浮かんだ。
壬生の雪。
新徳寺の暗い本堂。
そして、遠い昔に別れたはずの男が、こちらを見て笑っている。
――達者でな、善次郎。
老人は、なぜ自分がその声を知っているのか、分からなかった。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
この病棟では、時間は、どうも一方向にしか流れない、というわけではないらしい。

了


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あとがき
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
物語の中で善次郎が語った「自分の目の前で見聞きしたものを信じる」という姿勢は、情報や「正しさ」があふれる現代において、私自身が大切にしたいと考えているテーマでもあります。大きな歴史の波に飲み込まれながらも、自らの身体感覚と実感を頼りに静かに生きた善次郎の姿が、少しでも読者の皆様の心に残れば幸いです。
歴史上の事実や背景を参考にしつつも、あくまでフィクションとして構築した物語ですが、本編『サナトリウム・パラドックス』とあわせてお楽しみいただけたなら、著者としてとても嬉しく思います。
物語の旅にお付き合いいただいたすべての読者様に、心より感謝申し上げます。


※本作はフィクションです。新選組・新徴組・浪士組にまつわる史実を参考にしていますが、登場人物「善次郎」「源治郎」およびその周辺の出来事は、すべて創作によるものであり、実在の人物・団体とは関係ありません。史実上の人物についての描写も、史料に基づく一般的な人物像を踏まえた創作的解釈です。



三部作 サナトリウム・パラドックス


まえがき

病床の闇の中で見つめる天井は、時に過去と現在、あるいは生と死の境界をあいまいにします。

本作『サナトリウム・パラドックス』は、ある一人の詩人が生死の境をさまよった際の実体験――かつてサナトリウムであった病棟での記憶と、体に刻まれた術痕――を出発点に生まれた物語です。

私たちは病に倒れたとき、あるいは齢を重ねたとき、いや応なしに自らの「身体」と向き合わされます。そして、自分という存在が、見知らぬ先人たちの生きた時間や無数の選択の「続き」のうえに成り立っていることに気づかされます。

かつて浪士組が歩んだ旧中山道。
幻影のように現れては消える飄々とした老人。
そして、自分自身の体の中で起きている「確かで、時に曖昧な」異変。
主人公・迅一が辿る京都への旅は、歴史の謎を追う旅であると同時に、自らの身体と命の輪郭を確かめ直す旅でもあります。

どこまでが現実で、どこからが幻想なのか。
その境界線をそっと外して、迅一とともに東海道・中山道の風を感じながら、この奇妙で穏やかな旅路にお付き合いいただければ幸いです。




第一部

浪士組の末裔、中山道の彼方へ


序章 激痛の夜

二十歳の迅一(じんいち)は、その夜、腹の中で何かが破裂する音を、たしかに聞いた気がした。

いや、実際には音などしなかったのだろう。

ただ、深夜二時。

下宿の万年床の上で、

「これはもう、我慢比べのレベルを超えている」

と悟った瞬間、腹の奥で世界がひっくり返るような感覚があったのは事実だった。

「トイレか? いや、違う。これは……盲腸か?」

医学の知識などほとんどない大学二年生が、脂汗を流しながら自己診断を下すころには、もう我慢できる状態ではなくなっていた。

友人に叩き起こされ、救急車に担ぎ込まれる。

蛍光灯の白い光が、やけにコミカルな速度で天井を流れていった。

「あの、先生、これって……」

「喋らなくていいから。緊急手術だから」

医者の言葉は簡潔だった。

迅一の盲腸は、すでに派手に破裂していた。

運ばれた先は、市内でも古い部類に入る総合病院だった。

「旧棟は、大正から続く療養所を前身にしていましてね」

後になって、看護師の一人がそう教えてくれることになる。

だが、この時の迅一には、そんな話に耳を傾ける余裕など、もちろんない。

こうして迅一は、望んでもいないのに、人生で最初の「大事件」の主役に躍り出ることになった。

ただし、この時点では、それがとんでもない話の序章に過ぎないとは、誰も――本人すらも――気づいていなかった。



第一章 四人部屋の住人

手術は無事に終わった。

だが、その代償は大きかった。

腹には管を通され、膿を外へ出す処置が施されていた。

迅一は二週間、ほとんど天井だけを見つめて過ごす羽目になった。

運ばれた病室は、新棟ではなく、旧棟の四人部屋だった。

壁には何度も塗り直された跡があり、窓枠は木製。

廊下の床は、誰かが歩くたびに、かすかに軋んだ。

後になって知ったことだが、この旧棟はもともと、大正から昭和にかけて使われていた「結核療養所」――サナトリウムだったという。

戦後に総合病院へ組み込まれ、建物の役割も変わった。

それでも、古い病棟は「旧サナトリウム棟」と呼ばれ続けていた。

手術後しばらくは点滴だけで、食事も重湯から始まった。

身体を起こすことさえつらい。

動くこともままならない。

青春の絶頂期にいるはずの二十歳の男が、ただただ白い天井のシミを数えて過ごしている。

これほど滑稽な二週間があるだろうか。

四人部屋の対角線上のベッドには、一人の老人がいた。

「大丈夫かい、兄さん」

初日からそう声をかけてきたその老人を、迅一は心の中で「源さん」と呼ぶことにした。

本名を名乗られたわけではない。

ただ、なんとなくそう呼びたくなる。

そんな不思議な雰囲気を纏った人物だった。

「大丈夫です」

痛みで顔を歪めながら、迅一は強がった。

大丈夫なはずがない。

だが、なぜか源さんの前では、弱音を吐いてはいけないような気がしたのだ。

「ほう。若いのに気丈だな」

源さんは笑うと、点滴の管を指でピンと弾いた。

カラン。

場違いに乾いた音がした。

「その管な。ただの管じゃないぞ」

「……はい?」

「まあ、そのうち分かる」

「この病棟、昔は療養所だったんですってね」

痛み止めでぼんやりする頭のまま、迅一は、さっき小耳に挟んだ話を口にした。

源さんは、なぜか少し嬉しそうな顔をした。

「そうだ。ここはずっと昔から、たくさんの病人が、生きるか死ぬか分からんまま、天井を見つめてきた場所だ」

源さんは天井を見上げた。

「長い時間、そういう場所というのはな――ちょっとばかり、時間の流れが素直じゃなくなるものなんだ」

意味深なことを言う老人だ。

迅一はそう思った。

だが、痛み止めの効果もあって、すぐに意識が遠のいていった。

この時はまだ、それが冗談なのか本気なのか、判別する余力すらなかった。



第二章 点滴の中の声

三日目の深夜、異変が起きた。

点滴の袋の中で、透明な液体がわずかに渦を巻いている。

迅一は、それに気づいた。

錯覚だろうと思い、目を閉じる。

その時だった。

耳元で、微かな声がした。

「……ぜん……じろう……」

「え?」

がばりと起き上がろうとして、腹の傷に激痛が走った。

「痛っ……!」

悶絶する迅一の横で、源さんがのそりと身体を起こした。

「聞こえたか」

「げ、源さん……今の……」

「善次郎の声だ」

老人は、当然のことのように言った。

「あいつめ。今回もまた早いな」

そして何事もなかったかのように、また布団へ潜り込んだ。

まるで隣家の宅配便の話でもしているような気軽さだった。

「善次郎って、誰ですか」

「まあ、そのうち分かる」

昼間と同じ返答だった。

迅一は釈然としないまま、点滴の中でわずかに揺れる液体を見つめ続けた。

気のせいだと思おうとしても、どうしても気のせいとは思えない。

そんな夜だった。



第三章 浪士組の末裔

四日目。

痛みも少し和らぎ、会話をする余裕が出てきた迅一に、源さんはぽつりぽつりと自分の身の上を語り始めた。

「ワシの先祖はな、浪士組だったんだ」

「浪士組……新選組のもとになった、あの?」

「ほう。若いのによく知ってるな」

源さんは少し驚いたように笑った。

「京へ上って、そのまま江戸へ戻った組の方だ。歴史の教科書には、名前も残らんような、ただの一兵卒よ」

源さんの語りは、妙に生々しかった。

文久三年。

京都。

壬生。

隊士たちの息遣い。

まるで自分がその場にいたかのように語る老人を、迅一は呆気にとられて見つめた。

「なんで、そんなに詳しいんですか」

「血が覚えてるのさ」

冗談なのか本気なのか分からない口調で、源さんは笑った。

そして、ふいに迅一を見た。

「兄さんもな、たぶん血がつながってるクチだ」

「え? いや、僕の先祖は農家だったって聞いてますけど……」

「表向きはな」

意味深に微笑む老人に、迅一はそれ以上、何も聞けなかった。

この老人の話は、冗談にしては真に迫りすぎていて、本気にするには荒唐無稽すぎた。

ちょうどその中間。

笑うに笑えない位置に、いつも着地するのだった。



第四章 退院、そして訃報

二週間が経ち、腹の管がようやく抜けた。

迅一は、ようやく寝返りが打てるようになった。

重湯から始まった食事は、涙が出るほど美味かった。

健康な時には、あれほど味気ないと思っていた重湯でさえ、今はご馳走だった。

そんなある日、源さんは唐突に言った。

「お先に!」

付き添いに来ていたおばあちゃんも、迅一に微笑みかけた。

「お元気でね」

二人は病室を去っていった。

その一週間後、迅一もようやく退院した。

単位不足に慌てながらも、大学生活へ復帰した。

友人たちの助けもあり、なんとか単位も揃いそうな見通しが立った頃――迅一は、ふと源さんに退院の挨拶をしていなかったことを思い出した。

聞いていた住所を頼りに、古い木造家屋を訪ねた。

「こんにちは!」

出てきたのは、あのおばあちゃんだった。

「あら!」

驚いた顔のおばあちゃんに、迅一は源さんの様子を尋ねた。

「おじいちゃんは……」

その一言で、空気が変わった。

「ごめんなさいねぇ。おじいちゃん……間に合わなかったのよ」

「え?」

言葉を失った。

退院して、まだ一週間しか経っていない。

あの時、あんなに元気に「お先に!」と笑っていた老人が、もうこの世にいない。

そんなことが、本当にあるのか。

だが、現実には起こる。

理不尽なほど、あっさりと。



第五章 四十数年後の還暦男

それから四十数年。

迅一は、いつの間にか還暦を越えていた。

あの頃の記憶は、少しずつ輪郭を失いつつある。

だが、腹に残った手術の痕だけは、今も身体に刻まれていた。

そしてつい先日、その傷跡の内側が膨らみ始めていることが分かった。

「腹壁瘢痕ヘルニアですね。全身麻酔での手術が必要になります」

医師の説明は淡々としていた。

「緊急性はありません。ただ、症状が強くなれば、手術を考えたほうがいいでしょう」

その言葉を受け、迅一は結局、手術を先延ばしにしていた。

手術を先延ばしにしている後ろめたさからか。

ある晩、迅一はふと思い立って、あの頃入院していた病院のことを調べてみた。

旧棟は、すでに取り壊されていた。

だが、地域史をまとめた郷土資料のデジタルアーカイブに、古い写真とともに説明が残っていた。

――旧サナトリウム棟。

――大正十二年開設。

――当初は結核療養所として、長期療養を要する患者を多数受け入れた。

「本当に、療養所だったのか……」

画面を見つめながら、迅一は源さんの言葉を思い出した。

――長い時間、そういう場所というのはな、時間の流れが素直じゃなくなる。

あれは、ただの気まぐれな冗談ではなかったのかもしれない。

たくさんの病人が、生と死のあわいで過ごした場所。

その記憶の重なりの中に、自分もまた、ほんの二週間だけ滞在していたのだ。

そんなことを考えていた頃だった。

迅一は、また、あの夢を見るようになった。



第六章 二度目の夢

夢の中で、源さんは、迅一より先に歳を取っていた。

いや。

むしろ、あの入院していた頃と変わらない顔つきのまま、老いた迅一の前に現れた。

「キミも、もう還暦を越したのか」

源さんは笑った。

「あと十年もすれば、私の齢だな」

「源さん……本当に、源さんですよね」

「これからが大事だぞ」

夢の中の源さんは、真剣な顔でそう告げた。

「歳を取ればな、身体も若い頃と同じようにはいかなくなる。食べるものも、その一つだ」

「食べるもの……」

「今食べた物が、キミのその身体になる。だから、正しく選ばねばならない」

「良い物を食べれば健康になり、悪い物を食べれば病になる……ということですか」

「妥協してはならない。口にする前に、必ず確認するんだ。このくらいは良いだろう――は、ダメだ」

添加物。

化学肥料。

農薬。

加工肉。

酒。

源さんは指折り数えるように、次々と「悪いもの」を挙げていった。

あまりに淀みのない口調だった。

迅一は、ふと違和感を覚えた。

「源さんは……それで失敗したんですか?」

その問いに、源さんは一瞬だけ寂しそうな顔をした。

「私は、そう思い込んでいた」

「え?」

「これが悪い。あれが悪い。そうやって、ずっと思い込んでいた」

源さんは静かに続けた。

「だが結局のところ、何が本当に私の身体を蝕んだのか、私自身、最後まで分からずじまいだったよ」

老人の声には、これまでにない揺らぎがあった。

「源さん」

迅一は思い切って言った。

「僕、正直に言うと……今のその話、どこまで信じていいのか分からないんです」

夢の中の相手に本音をぶつけるのも妙な話だった。

だが、言わずにはいられなかった。

「それでいい」

源さんは、意外なほどあっさりと頷いた。

「兄さんが正しいと思う」

そして、少し間を置いて言った。

「言われたことを鵜呑みにするな。私の言葉も含めて、な」

その一言を残して、老人の輪郭が、夢の中でゆっくりと揺らぎ始めた。



第七章 善次郎という男

「そうそう。キミには頼みがあってな」

夢が終わりかけた、その瞬間だった。

源さんは、急に話題を変えた。

「私もまた、浪士組の子孫だと分かっていた。それが、まさかキミもだとはな」

「僕も、ですか?」

「それを知ってから、キミについていた」

「ついていた?」

「そう。善次郎さんと一緒にな」

「善次郎さん……」

迅一の脳裏に、あの病室の夜が蘇った。

「あ……。あの時、点滴から聞こえた声は、源さんのことじゃなくて、善次郎さんの呼び声だったんですか?」

源さんは答えなかった。

代わりに、別の言葉を口にした。

「新徳寺は、ありがとう」

「新徳寺?」

「百六十年ぶりの公開だったこと、よくぞ間に合ってくれた」

源さんの言葉は、次第に脈絡を失っていった。

まるで夢そのものが、意味よりも情報の断片を優先して伝えようとしているかのようだった。

「それから、旧中山道を辿る旅」

源さんは、少し笑った。

「わずかずつ、京都へ近づいているね」

「え……」

迅一は息を呑んだ。

「それ、僕が今やっていることじゃないですか」

還暦を過ぎてから、迅一は趣味で旧中山道の宿場町を少しずつ巡る旅を続けていた。

誰にも詳しく話したことのない、ごく個人的な旅だった。

「岐阜へ入った頃、ちょいと頼みがある」

「それは、何なんです?」

「それは、その時また伝えるから……」

そこで、目が覚めた。



第八章 新徳寺、百六十年ぶりの扉

夢から覚めた朝、迅一はすぐにスマートフォンで「新徳寺」を検索した。

驚いたことに、実際にそういう名の寺が存在した。

しかも、つい先日、百六十年ぶりに公開されたという記事が見つかった。

浪士組が上洛した際に宿所とした由緒ある寺だという。

「まさか……」

迅一は矢も盾もたまらず、次の休みに新徳寺を訪れた。

山門をくぐると、古い木の匂いと線香の香りが混じり合った、独特の静けさが迎えてくれた。

本堂の奥。

普段は非公開だという小さな厨子の前に立った時、迅一は不思議な感覚に襲われた。

まるで、ここに来たことがあるような――。

いや。

正確には、

「連れて来られたことがある」

そんな感覚だった。

住職に話を聞くと、この厨子には浪士組ゆかりの品がいくつか納められているという。

その中の一つ。

古びた過去帳の写しに、迅一はある文字を見つけた。

「……源治郎」

そして、その少し先に。

「……善次郎」

二つの名前が、並んで記されていた。

同じ組。

同じ時代を生きた、二人の男の名前。

迅一は、しばらくその文字から目を離すことができなかった。

(源治郎……)

だから僕は、初対面のあの人を、無意識に「源さん」と呼んだのだろうか。

血が、覚えていたから?

背筋を、冷たいものが走った。

これは偶然なのか。

それとも――。

夢の中の源さんが言っていた通り、何かが「継がれてきた」結果なのか。

あるいは、これもまた、自分が無意識に選び取ってしまった「見たいもの」に過ぎないのか。

迅一には、もう判断がつかなかった。



第九章 旧中山道を征く

―ちょっと間抜けな道中記―

新徳寺での発見以来、迅一の旧中山道の旅には、明確な目的意識が加わった。

とはいえ、旅そのものは相変わらず、笑ってしまうほど呑気なものだった。

宿場町の蕎麦屋で天ぷらそばを頼んだら、思った以上に量が多くて泣きそうになったり。

道に迷って民家の庭に入り込んでしまい、飼い犬に盛大に吠えられたり。

雨に降られ、安宿の軒先で震えていたら、親切なおばあちゃんに傘を貸してもらったり。

大事件の予感を漂わせながらも、旅の実態はどこまでも人間くさく、そして滑稽だった。

「大事件って言ったって、結局こんなもんだよな」

宿場町の温泉で足を伸ばしながら、迅一は苦笑した。

だが、その独り言に応えるように、湯気の向こうから声がした。

「油断するな」

迅一は顔を上げた。

「岐阜は、もうすぐだ」

湯気に紛れて、一瞬だけ老人の影が見えた。

迅一は振り返った。

誰もいなかった。

ただ、湯気だけが静かに揺れていた。



第十章 岐阜へ向かう夢

旧中山道の旅が、岐阜まであと数えるほどの宿場に迫ったある夜、迅一はまた夢を見た。

今度は、源さんだけではなかった。

その隣には、若い浪士の姿があった。

善次郎。

二人は迅一を、地図にも載っていない古い祠のような場所へと導いていった。

「ここが、頼みの場所だ」

源さんが指差したのは、朽ちかけた石の祠だった。

その奥に、小さな古い壺のようなものが埋まっている。

「これは、何なんです?」

迅一が尋ねると、源さんはしばらく黙っていた。

「私たち浪士組の間で、代々伝わってきたものだ」

源さんは、壺を見つめた。

「だが、時代が下るにつれて、その中身も、意味も、少しずつ形を変えてしまった」

「形を変えた?」

「そうだ」

源さんは苦い顔をした。

「私自身、これが何なのか、正しく分かっていたわけじゃない」

迅一は黙って聞いていた。

「分かったつもりで、伝えてしまったこともある」

源さんは、自嘲するように笑った。

「だから、あんな急な死に方をしたのか――それすらも、私には、はっきりとは言えん」

「え……」

迅一は思わず息を呑んだ。

夢の中の源さんが、こんなにも自信なさげに語るのは初めてだった。

「頼みというのはな」

源さんは、それでも真剣な顔で続けた。

「この壺を、正しく確かめてほしい」

「僕に?」

「中に何が入っているのか。それが本当に身体を守るものなのか。あるいは、ただの言い伝えに過ぎないのか」

源さんは、迅一をまっすぐ見た。

「分からないまま、次へ渡すのではなく、キミの目で確かめてから渡してほしいのだ」

「僕に、そんな大それたこと……」

「大それてなどおらん」

源さんは首を振った。

「ただ、鵜呑みにしないでくれ」

少し間を置いて、静かに言った。

「私が、そうしてしまったようにな」

その時、今まで黙っていた善次郎が、初めて口を開いた。

「兄さん」

若い浪士は、迅一を見つめた。

「あんたはもう、我々の続きを生きている」

そして、穏やかに笑った。

「それだけで、十分に意味があるんだ」

その言葉とともに、夢の中の景色が、光の粒子となって崩れていった。



終章 目が覚めて

あの一連の不思議な夢から覚めると、いつもの日常が戻ってきた。

朝の光。

湯気の立つコーヒー。

テレビから流れるニュース。

昨夜までの出来事が、すべて夢だったように思えてくる。

そういえば、善次郎もまた、いつかの夜に「岐阜へ行け」と告げてきたことがあったような気がする。

あの時は、ただの奇妙な夢だと笑い飛ばしていた。

だが今、迅一は実際に旧中山道を少しずつ辿っている。

そして来年には、いよいよ岐阜へ入る。

夢と現実の境界が、少しずつ滲んでいくような感覚があった。

結局、源さんが何者だったのか。

迅一には、今も分からない。

あの旧サナトリウム棟に折り重なった、数えきれない病人たちの記憶の残響だったのか。

血の中に眠る、遠い先祖の記憶だったのか。

それとも、痛みと薬に揺さぶられた頭が見せた、ただの都合のいい幻だったのか。

病を治すために人が集められ、隔離された場所には、治った者の記憶だけでなく、治らなかった者の記憶までもが静かに積み重なっていく。

そして、その記憶は、ふとした拍子に、まったく別の時代の、まったく別の人間の中へ流れ込む。

分かるはずのないことを、分かった気にさせる。

それこそが、この場所の、あるいは記憶そのものが宿すパラドックスなのだろう。

――分からない。

だからこそ、確かめてみたいと思った。

「何があるのだろうか」

そう呟きながら、迅一は先延ばしにしていた病院の予約を、ついに取ることにした。

手術を受けよう。

あの傷跡の内側と、鵜呑みにせず、ちゃんと自分の目で向き合おう。

それだけは、夢の中の源さんが何者であろうと、間違っていない気がした。

不思議なことに、あのおじいちゃんの表情は、もう思い出すことができない。

輪郭も。

声の高さも。

記憶の中で、少しずつぼやけてしまっている。

それでも――。

間違いなく、あの人はおじいちゃんなのだ。

そして、来年。

迅一は旧中山道を、岐阜へ向かう。

その先に何が待っているのかは、まだ分からない。

ただ一つだけ、妙に気になることがあった。

次に泊まる宿場町の下調べをしようと地図アプリを開いた時、地名の並びの隙間に、一瞬だけ見覚えのない文字が浮かんだ気がしたのだ。

「源治郎、待つ」

まばたきをして見直す。

そこには、何の変哲もない宿場町の名前が並んでいるだけだった。

見間違いだろう。

そうに違いない。

迅一は、しばらく画面を見つめたあと、静かにスマートフォンを閉じた。

その瞬間。

台所の冷蔵庫の中で、氷が崩れる小さな音がした。

カラン。

――それは、あの病室で、源さんが点滴の管を指で弾いた時と、よく似た音だった。

了


ーーーーーーーーーー


第二部

岐阜、源治郎の待つ場所



序章 岐阜へ

「源治郎、待つ」

あの文字を見てから一年。迅一は約束のように、旧中山道を岐阜へと進めていた。

腹壁瘢痕ヘルニアの手術は、あのあとすぐに受けた。医師の見立てどおり、緊急性のあるものではなかったが、迅一は「鵜呑みにせず、自分の目で確かめる」と決めたのだ。麻酔から覚めたとき、腹には新しい、けれど今度はきちんと計画された傷痕が残っていた。

「これで、少なくとも身体のほうの謎は片付いた」

そう独りごちながら、迅一はリュックを背負い直した。

残る謎は、もう一つ。源さんという、あの不思議な老人の正体と、岐阜で「頼み」の続きが待っているという、あの夢の予告だった。


第一章 最後の宿場町

岐阜県に入る直前の宿場町で、迅一は妙な胸騒ぎに襲われた。

理由は単純だった。宿の女将が、まるで迅一が来ることを知っていたかのように、

「ああ、あなたが噂の……」

と言いかけて、慌てて口をつぐんだのだ。

「噂の、何です?」

「いえ、なんでも。お部屋にご案内しますね」

女将は明らかに動揺していた。迅一は追及したい気持ちを抑え、ひとまず荷を解いた。

夜、宿の食堂で一人夕食をとっていると、隣の席の常連らしき老人が、独り言のようにつぶやいた。

「今年もまた来おったか。血は争えんな」

「え? 今なんと……」

振り返ったときには、その老人はすでに席を立っていた。

謎かけのような一日だった。だが、これはまだ序の口に過ぎなかった。


第二章 謎の老婦人

翌朝、宿を出てすぐの峠道で、迅一は一人の老婦人に呼び止められた。

「迅一さん、ですね」

「……はい。あの、失礼ですが」

「私は、あなたのことを、ずっと待っていました」

杖をついたその老婦人は、皺だらけの顔に、どこか懐かしい笑みを浮かべていた。

「源治郎の……いえ、源さんの、知り合いの方ですか」

「知り合い、というと少し違いますね。私は、源治郎さんの研究をしている者です」

「研究?」

「浪士組の末裔について、もう四十年近く、調べているんですよ」

老婦人は名を市原(いちはら)と名乗った。郷土史家として、幕末の浪士組から続く家系の記録を、細々と個人で追い続けてきたのだという。

「あなたの家系のことも、実は少し前から知っていました。ある方から、資料を託されましてね」

「ある方、というのは」

市原は、少し困ったように微笑んだ。

「それは、資料館でお話ししましょう。立ち話には向かない話ですから」


第三章 地元資料館の奇妙な蔵書

市原に案内されたのは、町はずれにある小さな私設の資料館だった。看板もなく、一見すると普通の古民家にしか見えない。

中に入ると、壁一面に古文書の写しや家系図、地図が貼られていた。まるで刑事ドラマの捜査本部のような有様に、迅一は思わず苦笑した。

「これは、また……本格的ですね」

「笑ってやってください。四十年もやっていると、こうなるんです」

市原はそう言いながら、一冊の古びたノートを取り出した。

「これは、あなたの入院していた病院——旧サナトリウム棟に関する記録です」

「え、あの病院のことまで調べてるんですか」

「あの土地は、もともと江戸時代、浪士組ゆかりの家系が管理していた薬草園だったんですよ。明治になって療養所が建てられたのも、偶然ではないと私は見ています」

迅一は驚いた。ただの古い病院だと思っていた場所に、そんな来歴があったとは。

「つまり、あの病室で会った源さんという方は……」

「それについては、私にも断言はできません。ただ、あの土地には、昔から不思議な言い伝えがあります」

「言い伝え?」

「弱った身体で、あの土地に長く留まった人間には、時折——過去の記憶が、まるで自分の記憶のように流れ込んでくることがある、と」

市原の口調は、あくまで淡々としていた。信じるも信じないも、あなた次第だという態度だった。


第四章 古文書に記された名

市原が見せてくれた過去帳の写しには、「源治郎」「善次郎」という名の他に、もう一つの記述があった。

「体、弱シ。腹、破レヤスキ質ナリ。子孫ニ伝ウベシ。ナレド、コレノミニアラズ」

「これは……」

「その家系には、代々、腹部の疾患を患う者が多かったという記録が、いくつも残っているんです。盲腸、ヘルニア、腸捻転——似たような症状が、世代を超えて繰り返されている」

迅一は息を呑んだ。自分の盲腸破裂、そして瘢痕ヘルニア。偶然にしては、あまりにも符合しすぎている。

「これは、呪いとかそういう話ですか」

「遺伝の可能性はあります。腹壁が生まれつき弱い家系というのは、医学的にもあり得る話ですから。でも、それだけで全部を説明できるとは、私は思っていません」

市原は、古文書の最後の一文——「コレノミニアラズ」の部分を指でなぞった。

「これのみにあらず、と書いてある。体質のことだけを言っているのなら、わざわざこんな言葉は残さないでしょう」

「じゃあ、他に何か……」

「それが何なのかは、正直、私にも分かりません。ただ、先祖たちは、体質という言葉だけでは片付けられない何かを、感じ取っていたのかもしれませんね」

「大事なのは、正体不明の祟りだと怯えることではなく、自分の身体の特性として、正しく知っておくことです。源治郎さんも、それを伝えたかったのではないでしょうか」

迅一の中で、何かがすとんと腑に落ちる感覚があった。源さんが夢の中で繰り返し語っていた「気をつけろ」という言葉。あれは呪いの警告ではなく、体質の申し送りだったのかもしれない。

だが——それだけでは説明のつかないことも、まだ残っていた。点滴の中から聞こえた声。夢の中の、あまりにも具体的な会話。あれらすべてを「体質の遺伝」の一言で片付けてしまうのは、迅一にはどうしてもできなかった。


第五章 三度目の夢

その夜、資料館の隣にある古い宿坊に泊めてもらった迅一は、また夢を見た。

三度目だった。

夢の中で、源さんは以前よりも、はっきりとした輪郭をしていた。

「よく来たな、兄さん」

「源さん。市原さんに、いろいろ聞きました。体質のこと、家系のこと」

「ほう、市原くんか。あの人は、いい仕事をしてくれている」

「源さんは……本当は、何なんですか。幽霊なんですか。それとも、僕の記憶が見せる何かなんですか」

迅一は、今度こそはっきりと尋ねた。

源さんは、しばらく黙っていた。

「正直に言えばな、私にも分からんのだ」

「分からない、って……」

「私は、私が誰なのか、自分でもうまく説明できん。ただ、キミたちの血の中に、たしかに私という記憶の断片が残っている。それだけは確かだ。だが、それが『幽霊』と呼ぶべきものなのか、『記憶』と呼ぶべきものなのか——正直、その境目に、大した意味はないと私は思っている」

「答えは、一つじゃなくてもいい、ということですか」

「そうだ。市原くんの言う体質の話も、正しいのだろう。だが、それだけで説明のつくものでもない。両方とも本当で、両方とも足りない——そういうものが、この世には案外多いのさ」

意外なほど率直な答えだった。

「壺のことは、市原さんから何か聞いたか」

「いえ、まだ……」

「なら、それは自分の目で見てくるといい。私の口から言うより、そのほうがいいだろう」

そこで、夢は途切れた。


第六章 壺を狙う男

翌朝、資料館に戻ると、市原が険しい顔をしていた。

「困ったことになりました」

「どうしたんです」

「例の壺のことです。実は、私だけでなく、もう一人、あの壺のことを追いかけている人物がいましてね」

「それは、味方ですか、敵ですか」

「敵、というと大げさですが……骨董商です。浪士組ゆかりの品と知れば、いくらでも値がつくと踏んでいるんでしょう」

そこへ、まるで狙ったようなタイミングで、恰幅のいい中年男が資料館に押しかけてきた。

「市原さん、例の壺、そろそろ譲っていただけませんかねぇ」

「何度も言っていますが、あれは売り物ではありません」

「そう固いこと言わずに。いやいや、こちらのお兄さんは?」

男は迅一をじろじろと眺め回した。

「もしかして、あの家系の……いやいや、これは思わぬ掘り出し物だ」

「掘り出し物とは、失礼な言い方ですね」

迅一は思わずむっとして言い返した。この骨董商、どうやら壺だけでなく、迅一自身の「血筋」にまで商売の匂いを嗅ぎつけているらしい。

「まあまあ、そう硬くならず。今日のところは退散しますが……また来ますよ」

捨て台詞を残して去っていく男の背中を見送りながら、市原がため息をついた。

「ああいう人が、時々現れるんです。困ったものですね」

滑稽であり、同時にどこか現実離れした攻防が、静かな郷土史研究の裏側で繰り広げられていた。


第七章 祠への道

「壺は、今も例の祠にあります。私が管理を任されているんです」

市原の案内で、迅一は山あいの古い祠へと向かった。夢の中で見たものと、驚くほどよく似た場所だった。

「ここ、夢で見た場所と同じです」

「夢と現実が近いというのは、この家系ではよくあることのようですよ」

祠の奥、朽ちかけた木箱の中に、古い壺が納められていた。埃をかぶってはいたが、思ったよりも小さく、素朴な作りのものだった。

「開けても、いいんですか」

「あなたのために、私はこれを預かってきたようなものです。どうぞ」

震える手で蓋を開けると、中には——薬草らしき乾燥した植物の欠片と、油紙に包まれた古い書付が入っていた。

「これは……」

書付を広げると、そこには古い字で、こう記されていた。

「この草、腹を癒す。ただし万能にあらず。過信するべからず。子孫よ、己の身体を、己の目で確かめよ」

迅一は、思わず笑ってしまった。

「なんだ……結局、源さんが夢で言ってたのと、同じことじゃないか」

「鵜呑みにするな、確かめろ、ということですね」

市原も、穏やかに微笑んだ。

「壺の中身が特別な秘薬だったわけではなさそうです。ただの、当時の民間療法の記録でしょう。けれど、その言葉だけは、確かに大事なものだったのかもしれません」


第八章 骨董商、再び

祠から戻る途中、例の骨董商が再び行く手を阻んだ。

「おやおや、開けてしまいましたか。それは困りますねぇ、価値が下がってしまう」

「価値なんて、最初からどうでもいいです。これは、うちの家に伝わる言葉なので」

迅一は、思いのほかきっぱりと言い返した。

「言葉、ねぇ。まあいいでしょう。今日のところは、この辺で」

骨董商は、あっさりと引き下がった。案外、本気で奪うつもりなどなく、単に商売の下心を見せびらかしに来ただけだったのかもしれない。滑稽なくらい、呆気ない幕引きだった。

「拍子抜けですね」

「ええ、ああいう人種は、だいたいそんなものです」

市原がくすりと笑った。だが、ふと真顔に戻ると、こう付け加えた。

「一つだけ、気になることがあります。あの男、壺のことより、あなたのことを、やけに詳しく聞きたがっていました。どこから来たのか、家族構成はどうか、これからどこへ行くのか——骨董商にしては、妙な質問ばかりでしたね」

「僕のことを、ですか」

「ええ。あの男、本当に壺が欲しかったんでしょうか」

「さあ。私には、むしろあなたを見に来たように思えました」

市原はそう言うと、それ以上は追及しなかった。大事件を予感させておいて、実際にはこの程度で終わる——それもまた、この物語らしいと言えば、らしかった。ただ、その一言だけが、迅一の胸に小さな棘のように残った。


第九章 市原の託されたもの

資料館に戻り、落ち着いたところで、市原がもう一つの話を切り出した。

「実は、あなたに渡すよう頼まれていたものが、もう一つあります」

「誰に頼まれたんです?」

市原は少し考えるようにしてから答えた。

「あなたの家系から、代々こちらに託されてきたものです。正確には、四十年ほど前に、あなたのお祖父様から預かりました」

「祖父が……」

市原は一枚の古い写真を差し出した。四人部屋の病室らしき場所で撮られた、若い男と、あの源さんによく似た老人が写っている。

「これは……」

「あなたのお祖父様の若い頃です。同じ病院に、同じように入院していた記録が残っています。おそらく、あの病棟では、代々、この家系の誰かが、似たような経験をしてきたのでしょう」

迅一は言葉を失った。まさか自分の入院体験そのものが、家系の中で繰り返されてきたパターンの一つだったとは。

「これは……偶然、なんでしょうか」

「体質としての偶然か、それとも、あの土地に何か特別な力があるのか。私も、四十年調べて、いまだに答えは出ていません」

市原は静かに首を振った。

「でも、これだけは言えます。分からないことを、無理に分かった気にならないほうがいい。それが、私が四十年の研究で学んだ、たった一つの結論です」


第十章 旅の終わりに

その晩、迅一はもう一度だけ、源さんの夢を見た。

「ずいぶん、いろんなことを知ったようだな」

「はい。壺の中身も、体質の遺伝も、市原さんの研究も。でも、源さんが結局何者なのかは、まだ分からないままです」

「それでいいと言っただろう」

源さんは、穏やかに笑った。

「分からないことを、無理に分かった気にならなくていい。ただ、キミが自分の身体と、自分の目で向き合ったこと。それだけで、私の頼みは果たされた」

「これで、もう夢に出てこないんですか」

「さあ、な。それも、私には分からん。ただ——」

源さんは、少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。

「京都には、まだ行っていないだろう。あそこには、私も、うまく思い出せんことが一つある」

「京都に、何があるんです」

「それも、その時また、伝えるさ」

いたずらっぽく笑う源さんの姿が、少しずつ光の中に溶けていく。

「兄さん、これからも、鵜呑みにせず、確かめながら生きるといい」

その言葉を最後に、夢は静かに終わった。


終章 還暦を越えて

岐阜での数日間を終え、迅一は帰路についた。

車窓を流れる山あいの景色を見ながら、迅一は改めて、この一年の出来事を振り返った。

盲腸の破裂も、瘢痕ヘルニアも、家系に伝わる体質だったのかもしれない。源さんという存在も、幽霊なのか、記憶なのか、あるいはその両方が絡み合った何かなのか——結局、はっきりとした答えは出なかった。

けれど、それでいいのだと、今は思える。

分からないことを、無理に分かった気にならず、それでも確かめようとする。市原の言葉も、源さんの言葉も、結局は同じことを言っていたのだ。

スマートフォンを取り出し、迅一は次の旅の計画を立て始めた。旧中山道の旅は、まだ終わっていない。京都まで、あと少しだ。

ふと、地図アプリを開いたその画面に、今度は何も奇妙な文字は浮かばなかった。

ただの、いつもの地図だった。

「……今回は、何もなしか」

迅一は小さく笑って、スマートフォンをポケットにしまった。

それでいい。次に何かが起きるとしても、起きないとしても——もう、慌てず、確かめながら歩いていけばいい。

そう思えるようになっただけで、この一年の旅は、十分に意味があった。

了



ーーーーーーーーーー



第三部

―京都、最後の記憶―



序章 最後の宿場

旧中山道の旅も、いよいよ最後の区間に入った。

岐阜から京都まで、宿場町を一つずつ数えながら、迅一は還暦を過ぎた足取りで、しかし確かな足取りで歩を進めていた。

「京都には、まだ行っていないだろう。あそこには、私も、うまく思い出せんことが一つある」

源さんの言葉が、ずっと頭の片隅に残っていた。何が待っているのか、今度もまた分からないままだ。だが、迅一はもう、以前ほど不安を感じていなかった。

分からないことは、分からないまま抱えて歩けばいい。それがこの一年で学んだことだった。


第一章 三条大橋にて

三条大橋のたもとに立った時、迅一はしみじみとした感慨に包まれた。

ここが、旧中山道の終着点。江戸から続く道が、ようやく京都で結ばれる場所だ。

「着いた、か……」

感慨に浸っていると、橋のたもとのベンチに座っていた老人が、ふいに声をかけてきた。

「ようやくのお着きですな」

「あ、はい。長い旅でした」

「浪士組の末裔さんが、ここまで来られるとはねぇ」

「え?」

驚いて振り向くと、そこにいたのは——あの骨董商だった。


第二章 骨董商の正体

「あなた、まさかここまで……」

「まあまあ、そう警戒なさらず。今日は商売の話じゃありません」

骨董商は、いつになく神妙な顔をしていた。

「実を言うとね、私も、あなたと同じ血筋の者なんですよ」

「え……」

「市原さんには言っていませんでしたが、私の家系にも、浪士組の記録が残っていましてね。ただ、私の家では、その記憶とやらは、代々受け継がれてこなかった。だから、あなたのように夢を見ることもない。ただ、古文書や言い伝えだけが、家に残っていたんです」

骨董商——本名を田村と名乗ったその男は、静かに続けた。

「私はずっと、羨ましかったんですよ。あなたのように、直接その記憶とやらを受け取れる人間が。だから、壺のことを聞いた時、本気で欲しくなった。金のためというより……その繋がりに、触れてみたかったんです」

「そうだったんですか……」

「妙な聞き方をして、すみませんでしたね。あなたのことを調べたのも、商売のためというより、単純に——気になったんですよ。私のもう一つの人生が、こんな形であったかもしれない、と思うと」

田村は苦笑いを浮かべた。滑稽な骨董商だと思っていた人物の、思いがけない告白だった。

「今日は、これを渡しに来ました」

差し出されたのは、古い一枚の手紙だった。


第三章 源治郎の最後の手紙

「これは、私の家に伝わっていたものです。宛名がないので、うちでは誰への手紙か分からないまま、ずっと蔵にしまわれていました。でも、あなたの話を聞いて、確信しました。これは、源治郎さんが、まだ見ぬ子孫に宛てて書いたものだと」

震える手で手紙を開くと、古い文字がそこにあった。

「いつかこれを読む者へ。

私は、自分の死に方を、間違えたと思っている。

食べ物を疑うあまり、人を疑うことを忘れた。

正しさを求めるあまり、確かめることを忘れた。

もし、私の記憶の欠片が、お前の中に流れ込むことがあるとすれば

それは呪いでも祝福でもなく

ただ、私が伝え損ねた言葉の、続きを託しているだけだ。

正しく生きよ、とは言わない。

確かめながら生きよ、とだけ言っておく。

源治郎」

迅一は、しばらく言葉を発せなかった。

これまで夢の中で聞いてきた、あの飄々とした老人の言葉の、その奥にあったものが、ようやく形になって届いた気がした。


第四章 新徳寺、再び

手紙を読んだその足で、迅一は新徳寺へと向かった。一作目で百五十年ぶりの公開を訪れて以来の再訪だった。

住職は迅一のことを覚えていた。

「また来られましたか。今日はどうされました」

「実は……これを、見ていただきたくて」

源治郎の手紙を見せると、住職はしばらく黙って読んでいたが、やがて静かに口を開いた。

「うちの寺にも、似たような言葉が伝わっています。『記憶は罰ではなく、託し損ねた続きである』——古い過去帳の裏に、そう書き添えられているんですよ」

「それは……」

「浪士組の方々の中には、志半ばで倒れた方が多くいました。伝えたかったことを、伝えきれなかった無念——それが、こうして時代を超えて、形を変えて届くことがあるのかもしれません」

住職はそう言うと、厨子の奥から、一枚の古い写真を取り出した。

「これは、公開の時にはお見せしなかったものです。よろしければ」

写真には、明治期に撮られたと思しき、数人の老人たちの姿があった。その中の一人に、迅一は見覚えがあった。

夢の中で見た、源さんの顔だった。


第五章 最後の夢

その夜、宿に泊まった迅一は、また夢を見た。

だが今回は、様子が違った。夢の中の景色は、いつもよりずっと鮮明で、そしてどこか、終わりの気配を纏っていた。

「よく、ここまで来たな」

「源さん。手紙、読みました。新徳寺でも、写真を見せてもらいました」

「そうか」

源さんは、静かに頷いた。

「私はな、本当は、伝えたいことなど、大したものはなかったんだ。ただ、伝え損ねたという後悔だけが、やけに強く残ってしまってな。それが、こうして代々、キミたちを巻き込んでしまった」

「巻き込まれたなんて、思ってません」

迅一は、はっきりと言った。

「おかげで、僕は自分の身体とちゃんと向き合えたし、市原さんにも、田村さんにも会えた。旧中山道だって、こうして最後まで歩けた。これは、悪いことじゃなかったです」

源さんは、少し驚いたような顔をして、それから、これまで見た中で一番柔らかく笑った。

「そうか。それなら、良かった」

「源さんは、これからどうなるんですか」

「さあな。伝え損ねた言葉は、もう伝えた。あとは——キミが、キミの続きを生きればいい。それだけだ」

夢の中の景色が、これまでにないほど穏やかに、ゆっくりと光に溶けていく。

「源さん、最後に一つだけ。源さんは、結局、幽霊だったんですか。それとも……」

「まあ、そのうちわかる」

初めて会った日と同じ台詞。悪戯っぽい、あの声。

そして、今度こそ、迅一は完全に目を覚ました。


第六章 朝の鴨川

翌朝、迅一は鴨川のほとりを歩いていた。空気が澄んでいて、川の音がやけに心地よかった。

もう、あの夢は見ないだろう。そんな確信めいた予感があった。

スマートフォンを取り出し、地図アプリを開く。もちろん、そこには何の奇妙な文字も浮かんでいなかった。ただの、いつもの京都の地図だった。

「終わったのかな、これで」

独り言のつもりだったが、隣を歩いていた見知らぬ老人が、ふいに応えた。

「終わり、というのはな、兄さん。案外、続きの始まりでもあるもんだよ」

「え?」

驚いて振り向くと、そこにいたのはごく普通の、朝の散歩中らしき老人だった。にこりと会釈をして、そのまま歩き去っていく。

——気のせいだろう。そうに違いない。

だが迅一は、なぜか、その言葉が妙に温かく、腑に落ちるのを感じていた。


終章 旅の終わりに

盲腸の破裂も、瘢痕ヘルニアも、夢の中の源さんも、壺も、手紙も、骨董商だった田村との出会いも——結局、すべてが「本当にあったこと」なのか、「そう感じられただけのこと」なのか、はっきりとした境界線は、最後まで引けなかった。

けれど、迅一の中には、確かなものが一つ残っていた。

自分の身体と、鵜呑みにせず、自分の目で向き合うこと。伝え損ねた言葉があるなら、次の誰かに、正直に渡すこと。分からないことを、無理に分かった気にならず、それでも確かめながら歩き続けること。

それだけで、十分だった。

迅一は、市原に電話をかけた。

「もしもし、市原さん。京都、着きました」

「おめでとうございます。長い旅でしたね」

「はい。あの、実は……源治郎さんの手紙、田村さんから受け取りました」

電話の向こうで、市原が小さく息を呑む音がした。

「それは……いいものを受け取りましたね」

「はい。今度、資料館に持っていきます。皆さんで、共有できたらと思って」

「それは嬉しいです。ああ、そういえば」

「はい?」

「田村さん、最近は骨董の仕事より、うちの資料館の手伝いをすることのほうが増えましてね。すっかり研究者気取りですよ」

その報告に、迅一は思わず声を上げて笑った。滑稽で、不思議で、少しばかりの大事件だらけだった一年が、こんな形で穏やかに着地するとは、思ってもみなかった。

電話を切り、迅一は鴨川の流れを、しばらく眺めていた。

盲腸の夜から、四十数年。

サナトリウムだったあの病棟も、源さんも、もうこの世にはない。だが、確かに何かが、あの場所から、この自分の中へと流れ込み、そして今、静かに落ち着くべき場所に落ち着いた——そんな気がした。

不思議なことに、あのおじいちゃんの表情は、今もやはり思い出せない。

それでも——間違いなく、あの人はおじいちゃんなのだ。

そして、これからも、きっとそうであり続けるのだろう。

完


Amazon Kindle




あとがき

『サナトリウム・パラドックス』全三部作を最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

物語は三条大橋のたもと、鴨川の澄んだ朝の光の中で幕を閉じました。

第一作で描かれた「身体の悲鳴とサナトリウムの記憶」、第二作での「旧中山道の旅と壺の謎」、そして第三作で辿り着いた「託し損ねた言葉の行方」。執筆を通じて一貫して描き続けたいと願っていたのは、「正しさ」よりも「確かめること」の大切さでした。

情報が溢れ、何が真実かが分かりにくくなっている現代において、私たちが唯一確実に頼れるのは、自分自身の目で見て、手で触れ、自らの足で歩んだ感覚だけなのかもしれません。夢の中の源治郎が迅一に遺した「確かめながら生きよ」という言葉は、著者自身が病魔や加齢と向き合う中で掴み取った切実な実感でもあります。

また、本作に登場する骨董商の田村のように、人は誰しも「自分にはない繋がりや歴史」に対して愛おしさや羨望を抱くことがあります。過去から受け継いだ記憶は、時に重荷や呪いのように思えることもありますが、見方を変えれば、かつて誰かが「伝え損ねた温かな続き」なのかもしれません。

迅一の長い旅は終わりましたが、彼の「続きの日常」は今も京都のどこかで、あるいはあなたのすぐ隣で続いています。この物語が、お読みいただいた皆様にとって、ご自身の身体や大切な誰かとの繋がりをふと思い出すきっかけになれば、これ以上の喜びはありません。

最後になりますが、実体験を物語へと昇華させる過程で温かく見守ってくださったすべての方々に、心より感謝を申し上げます。

著者


本作は著者の実体験をもとに、大胆にフィクション化した物語三部作の完結編です。登場する寺院・地名の一部は実在しますが、物語上のエピソードや人物・団体はすべて創作であり、実在のものとは関係ありません。



途中経過を数えてみれば
ここも
これで
5410話となるようで…





アメブロがスタートした20年ほど前
書けば何かが貰えるらしいと
書いてみてから

ちょいと厄介にもなり
何度も書いては
バッサリ消して

でもまた書いてを
10回も繰り返し

もう書くこともないと
離れていた頃に
ガキの頃からの友達を失い

今の
何かを
残して置かねばと
また書き出して11年

今回は消すことなく
すべてを残して置こうと
ヒマあらば
話題あらばと
あくまでも自分への
覚書きとして書いて来た

以前のものは
多分 
引き出しに投げ込んだままの
メモリースティクに

残っているはずで

すればきっと
ここの落書きも
トータルでは
10000話を越した頃だろう

良くもまあ
好き勝手なことを書いたもんだと
振り返りながら

昨今のセミリタイアにより
長年 ここと並行して溜め込んだ
これまた落書きのような物語を
見直し清書してみる日々

それをAmazonのKindleへと
勝手に投げ込み
読んでくれる方なくとも
何かを残せた感ともなった

更には
それと並行して
挿絵のように描いていた
600枚の落描きもあり

ゴミになる前に
さあ
どうしようかと
試行錯誤してみる

時間は有限であり
軽くなったと実感する
残りの持ち時間

あなたなら
どうする…

百番目の波

――選ばなかった人生の、その隣で――



まえがき

波打ち際に立つと、ふと考えることがあります。

いま目の前で砕けたその一筋の波は、どこから来て、どこへ消えていったのだろう、と。

人生も、波に少し似ています。

右へ進むか、左へ曲がるか。
言葉を発するか、飲み込むか。
誰かを追いかけるか、見送るか。

その瞬間には、ただ一つの道しか見えていない。

けれど、選ばなかった方の道は、本当に消えてしまったのでしょうか。

もしかするとそれは、目には見えない別の流れとなって、私たちのすぐ隣を流れ続けているのかもしれません。

『百番目の波』は、海と波、そして人生における「選ばなかった可能性」をめぐる物語です。

波を待つということ。

そして、訪れた一瞬の波に、自分がどう向き合うのか。

夜明け前の海風を感じながら、最後までお付き合いいただければ幸いです。




第一章 波打ち際の記憶

その町に来て三年になるが、宇井類(うい・るい)は、いまだにあの音に慣れない。

夜明け前。

空がまだ墨色をしているうちに、世界のすべてが波の音になる。

ずず、ざざ、ずず——。

引いては寄せ、寄せては引く。

呼吸のようでもあり、誰かが遠くで何かを数えているようでもあった。

類は毎朝四時に目を覚まし、ウェットスーツに袖を通す。

ボードを抱え、まだ人影のない砂浜を歩く。

この浜を、地元の者たちは「渚間(なぎま)」と呼んでいた。

地図には載っていない。

載せる必要もなかった。

観光客が来るような場所ではないし、来たところで、見せるほどの波があるわけでもない。

ただ、サーファーたちは知っていた。

渚間には、妙な癖がある。

十の波のうち九つは、ごく普通の、少し重めのショルダーウェーブ。

だが、残る一つ。

それは誰にも予測できないタイミングで現れる。

海面がふっと硝子のように静まり、そこだけ音が消える。

波なのに、音がない。

地元のサーファーたちは、それを「透き波(すきなみ)」と呼んでいた。

そして、誰もそれに手を出そうとはしなかった。

理由を聞いても、皆、曖昧に笑うだけだった。

「乗らないほうがいい」

それ以上は言わない。

類がこの町に流れてきたのは、その透き波に呑まれて消えた男を追ってのことだった。

垣内海人(かきうち・かいと)。

類の、たった一人の師匠だった。

七年前。

まだ十九歳だった類に、海の見方を教えてくれた男。

波の読み方だけではない。

待つこと。

譲ること。

そして、自分が本当に乗るべき波を見極めること。

海人は、それを何度も繰り返し教えた。

その海人が、二年前、渚間の沖で消えた。

遺体は見つからなかった。

見つかったのは、傷一つないサーフボードだけだった。

類は、その板を今も部屋の壁に立てかけている。

毎朝海へ向かうたび、その横を通る。

そして思う。

あの日、海人は何を見たのだろう。

何を選び、何を選ばなかったのだろう。

⸻

第二章 待つ、という技術

波を待つという行為には、独特の作法がある。

沖へ出る。

ラインナップと呼ばれる待機列につき、ほかのサーファーと適度な距離を保ちながら、水平線を見つめる。

会話はほとんどない。

その代わり、視線でやり取りをする。

——これは自分が行く。

——いや、お先にどうぞ。

——次のセットは大きい。備えろ。

すべてが、瞬き一つ、顎のわずかな動き一つで伝わる。

海人は、それを「魚の言葉だ」と笑っていた。

類が海人と初めて渚間のラインナップに並んだのは、七年前の夏だった。

十九歳。

何も知らず、ただ大きな波に乗ることだけを考えていた頃だ。

海人は、沖でしばらく黙っていた。

やがて水平線から視線を外さずに言った。

「いいか、波は二度と同じ形じゃ来ない」

「はい」

「だから、次のを待つしかない」

類は海人の横顔を見た。

「焦って、合わない向きで飛び込むと?」

「後で悔やむ」

「じゃあ、どうやって見極めるんですか。どれがいい波なのか」

海人は少し笑った。

「百も待てば、一つくらいはいい波が混じる」

「百……ですか」

「ああ」

「そんなに待つんですか」

「波を待つのに、数なんか意味ないさ」

海人はそう言ってから、少しだけ間を置いた。

「百っていうのは、百回目って意味じゃない」

「え?」

「百回待ったから、百番目に特別な波が来る。そんな話じゃない」

海人は水平線を指した。

「いい波は、たぶん何度も来てる。だけど、こっちが気づかない。準備ができてない。怖くて行けない。誰かに譲ってしまう。そういうことだ」

類は黙った。

「だからな」

海人は、少し寂しそうに笑った。

「百番目っていうのは、波の数じゃない。百回待ったあとで、やっと自分の目が変わる。そのときに見える波のことだ」

その言葉を、類はずっと覚えていた。

それから二年後。

海人は透き波に呑まれて消えた。

板だけが、傷一つなく渚に打ち上げられた。

⸻

第三章 灯台守の理論

町の外れに、使われていない灯台がある。

そこには汐見(しおみ)という老女が住んでいた。

かつて海洋観測の仕事をしていたらしく、渚間の波について誰よりも詳しい。

というより——。

誰よりも「おかしなこと」を平然と話す人物だった。

類は月に一度、彼女を訪ねている。

海人について何か手がかりがないか探すためだった。

その日も、汐見は古い観測ノートを開いていた。

ページには、波の周期、風向き、潮位、気圧。

それらに混じって、日付とも座標ともつかない数字がびっしりと書き込まれている。

「透き波、ね」

汐見はティーカップを両手で包みながら、窓の外を見た。

「あなた、波というものが何だと思う?」

「風が水面にエネルギーを伝えたもの、ですよね」

「教科書的にはね」

汐見は笑った。

「でも、この渚間に限っては、少し違う話をしてもいい頃合いかもしれない」

「海人さんのことですか」

「ええ」

汐見はノートの一ページを指でなぞった。

「私は四十年、この海を見てきた」

「透き波が立つのは、いつです?」

「いつも決まっているわけじゃない。でも、一つだけ共通していることがある」

「何ですか」

「誰かが、何かを選ばなかったあと」

類は眉を寄せた。

「選ばなかった……?」

「声をかけようとして、かけなかった」

汐見は一つずつ指を折った。

「右へ曲がろうとして、左へ曲がった。告げようとして、飲み込んだ。行こうとして、行かなかった。戻ろうとして、そのまま進んだ」

「そんなものが、波になるんですか」

「波になるの」

あまりにも静かな言い方だった。

「選ばれなかった可能性は、消えるわけじゃない」

汐見は海を見た。

「人は一つの道を選ぶ。でも、選ばなかった道も、その瞬間までは確かに存在していた。私は、それがどこかへ流れていくのだと思っている」

「どこへ?」

「この海へ」

類は笑いそうになった。

だが、笑えなかった。

「じゃあ、透き波に乗るとどうなるんです?」

汐見はしばらく黙ってから答えた。

「隣を走ることになる」

「隣?」

「今のあなたの人生。そのすぐ隣を流れている、選ばれなかった方の流れを」

類は息を止めた。

「うまくいけば、少しだけ言葉を交わせる」

「海人さんとも?」

「そうかもしれない」

「戻れるんですか」

汐見は首を横に振った。

「戻れない、というより……戻る場所が二つになる」

「二つ?」

「どちらも自分だったと知ってしまうから」

汐見は静かにカップを置いた。

「人によっては、どちらが本当の自分なのかわからなくなる」

類は、しばらく何も言えなかった。

窓の向こうで、波が一つ砕けた。

普通の波だった。

音もある。

形もある。

そして、すぐに消えた。

⸻

第四章 隣に並ぶ男

十日後の明け方。

類は、いつものように渚間へ漕ぎ出した。

その日は妙に静かだった。

風がない。

海面は鉛色に凪いでいる。

水平線と空の境目さえ、よくわからない。

類はラインナップについた。

しばらく波を待った。

一分。

二分。

五分。

そのときだった。

隣に、人の気配を感じた。

振り向く。

見覚えのあるシルエット。

黒いウェットスーツ。

右肩に残る古い傷。

そして——。

あの目。

「……海人さん?」

声が震えた。

男は、ゆっくりと類を見た。

確かに海人だった。

だが、記憶の中より少し若い。

髪も黒い。

顔の皺も少ない。

それでも、間違えるはずがなかった。

海人は声を出さなかった。

ただ、沖を見ている。

そして、七年前と同じように、顎をわずかに引いた。

——次のセットが来る。

備えろ。

類の胸が大きく鳴った。

沖から三本のうねりが近づいてくる。

一本目。

二本目。

そして三本目。

それは、ほかの二つより滑らかだった。

海面を滑ってくるのに、音がしない。

類は息をのんだ。

透き波。

海人がボードの向きを変えた。

行く気だ。

「待って!」

類は叫んだ。

海人は振り返らない。

汐見の言葉が頭をよぎる。

——隣を走ることになる。

——戻る場所が二つになる。

それでも類は、海人を追った。

七年間。

ずっと探していた。

百のうち一つ。

いや。

百番目の波。

海人がテイクオフした。

類も、ためらいを振り切ってパドルを始めた。

⸻

第五章 透き波の中

最初に消えたのは、音だった。

次に、海の感触が消えた。

パドルしているはずなのに、水を掻く感覚がない。

腕が空を切っているようだった。

類は叫んだ。

声は出なかった。

視界が白くなる。

一瞬なのか、何時間なのか。

時間そのものがわからなくなった。

そして——。

突然、視界が開けた。

海だった。

渚間だった。

だが、何かが違う。

空の色。

灯台の光の間隔。

海岸線。

そして隣を滑る海人。

記憶より少し若い。

「海人さん」

今度は声が届いた。

海人が驚いたように目を見開いた。

「類……?」

「探してました」

海人は何も言わなかった。

「ずっと探してました」

海人は、泣きそうな顔をして、それから諦めたように笑った。

「そうか」

「ここはどこなんです?」

「俺が消えた日の、その先だ」

海人は前を見た。

「お前の知ってる世界の、すぐ隣を流れてる」

「じゃあ、戻れるんですか?」

「お前はな」

「一緒には?」

海人は首を振った。

「多分、無理だ」

「どうして」

「一つの波に、二人分の帰り道は乗らない」

類は海人を見た。

「そんな……」

「だから、お前だけ戻れ」

「嫌です」

海人は少し笑った。

「昔から頑固だったな」

「海人さんこそ、勝手すぎます」

「そうだな」

海人は静かに言った。

「俺は、あの日、選ばなかったんだ」

「何を?」

「町を出ること。お前を育てること。もっと海を見て、別の場所で生きること」

類は黙った。

「やりたいことは、いくらでもあった」

海人の声が、波の音に混じる。

「でもな、怖かったんだ」

「何が?」

「選ぶことが」

海人は水平線を見た。

「選んだあとで、やっぱり違ったと思うのが怖かった。別の道のほうがよかったんじゃないかって、ずっと考えるのが怖かった」

「だから?」

「だから、待った」

類は目を伏せた。

「これはまだ仮の波だ。次にもっといい波が来る。今じゃない。もう少し待とう。そうやって、何度も先送りした」

海人は笑った。

「気がついたら、何も選ばないまま、ここにいた」

波の先が、切り立ってきた。

海面の向こうに、二つの光の筋が見える。

一つは、来た道。

もう一つは、このまま進んだ先。

類には、それがわかった。

「海人さん」

「ん?」

「こっちの世界では、何を選んだんですか?」

海人は少しだけ笑った。

「お前を置いていかない人生を選んだ」

類の胸が詰まった。

「じゃあ……」

「でも、それも一つの可能性だ」

海人は続けた。

「どっちが正しいなんてない。お前の世界の俺も、こっちの俺も、どっちも俺だった」

類は、涙を拭った。

「だったら、帰れませんよ」

「帰れ」

「でも——」

「聞け、類」

海人の声が強くなった。

「百も波を待てば、一つくらいはいい波が混じる。俺は昔、そう言った」

「はい」

「あれは半分、嘘だ」

類は顔を上げた。

海人は笑っていた。

「本当は、いい波はいつだって来てる」

「……」

「ただ、こっちの準備が追いついてないだけだ」

波が大きくなっていく。

「九十九回逃してるのは、波のせいじゃない」

海人は類を見た。

「自分が、まだ乗る準備をしていなかっただけだ」

「じゃあ、百番目っていうのは……」

類が言うと、海人は頷いた。

「波が百回来た、その百番目じゃない」

「……」

「百回待ったあとで、自分の目が変わったときに見える波だ」

海人はボードの向きをわずかに変えた。

二人の航跡が、少しずつ離れていく。

「海人さん!」

「お先に、行かせてもらうよ」

七年前と同じ台詞だった。

けれど、今度は意味が違った。

海人は波の斜面を滑り、光の中へ入っていった。

類は、その背中を見送った。

追いかけなかった。

追いかけてはいけないと、初めてわかった。

海人が消えていった先には、何もなかった。

ただ、一筋の波だけが残った。

それはやがて、静かに砕けた。

⸻

第六章 渚に戻る

気がついたとき、類は渚間の浅瀬で膝立ちになっていた。

太陽は高く昇っている。

周りには、いつものサーファーたちがいた。

「大丈夫か?」

誰かの声がした。

類は返事をするまでに、少し時間がかかった。

時計を見る。

ほんの十数分しか経っていなかった。

そんなはずはない。

あれほど長い時間を過ごしたのに。

海人と話し。

別れ。

そして——。

類は沖を見た。

何もない。

いつもの海だった。

帰宅すると、海人の板が壁に立てかけられていた。

七年前、渚に打ち上げられた板。

類は、その前に座った。

今まで、この板を「海人が残したもの」だと思っていた。

だが、違うのかもしれない。

あれは、海人があの日に乗れなかった波。

乗れなかった人生。

選ばなかった自分自身。

そのすべてを、海人はこの板に置いていったのかもしれない。

類は、そっと板に触れた。

冷たかった。

それから、なぜか少しだけ笑った。

翌日。

類は灯台へ向かった。

汐見は、いつものようにお茶を淹れていた。

「会えたのね」

類は驚かなかった。

「はい」

「どうだった?」

「連れて帰れませんでした」

「そういうものよ」

汐見は窓の外を見た。

「透き波は、答え合わせをする場所じゃない」

「……」

「隣に、どんな流れがあったのかを確かめるだけ」

類は湯気の立つカップを見つめた。

「海人さんは、待っていたそうです」

「何を?」

「準備ができるのを」

「あなたのこと?」

類は首を振った。

「たぶん、自分自身のことを」

汐見は微笑んだ。

「そうかもしれないわね」

しばらく二人とも黙っていた。

窓の向こうで波が砕けている。

「明日も波は来るわ」

汐見が言った。

「百のうち一つかもしれない」

類は笑った。

「百のうち、九十九かもしれません」

「そうね」

「今まで、見逃していたのかもしれない」

汐見は頷いた。

「でも、あなたはもう知っている」

「何を?」

「待つことと、立ち止まることは違うってことを」

類は窓の外を見た。

水平線に、白い筋が一つ見えた。

「行ってきます」

「ええ」

「また、波を待ってきます」

汐見は笑った。

「今度は、待ちすぎないようにね」

⸻

終章 百番目の波

それからも、類は毎朝四時に渚間へ通っている。

透き波は、あれきり一度も現れていない。

もしかしたら、もう二度と現れないのかもしれない。

それとも、これまでと同じように、気づかぬうちに何度も来ては、静かに去っているだけなのかもしれない。

だが、以前とは違うことが一つある。

類は、以前ほど「特別な波」を探さなくなった。

ラインナップで誰かと目が合えば、少しだけ長く、その視線を受け止める。

誰かが先に行けば、道を譲る。

自分の番が来れば、ためらわない。

——お先に。

——どうぞ。

そんな小さなやり取りの一つ一つが、不思議なほど大切に思えた。

海人が言っていた。

いい波は、いつだって来ている。

ただ、自分が準備できていないだけだ。

人生にも、きっと同じことが言える。

あの日、言えなかった言葉。

行かなかった場所。

選ばなかった道。

そのどれもが、完全に消えてしまったわけではない。

どこか別の流れとなって、今の自分のすぐ隣を流れている。

だからといって、その流れへ戻る必要はない。

戻れない。

戻らなくていい。

選ばなかった人生があったことを知ったうえで、今いる場所から、もう一度選べばいい。

今日という波は、今日しか来ない。

明日の波は、明日の波だ。

同じ形では、二度と来ない。

空が少しずつ明るくなる。

類はボードを抱え、海へ向かって歩き出した。

水平線の向こうから、一つのうねりが近づいてくる。

それは、特別な波には見えなかった。

大きくもない。

美しくもない。

ただ、静かにこちらへ向かっている。

類は立ち止まった。

そして、笑った。

もしかしたら。

百番目の波というものは、特別な波ではないのかもしれない。

百回待った先に、突然現れる奇跡でもない。

ただ、自分がそれまでとは違う目で見つめた、最初の一波。

それだけなのかもしれない。

類はボードを海面に置いた。

パドルを始める。

水を掻く。

今度は、迷わなかった。

波が近づいてくる。

音がする。

ずず。

ざざ。

ずず——。

あの音だ。

七年前から、ずっと聞いていた音。

けれど、今日は少し違って聞こえた。

誰かが何かを数えているのではない。

海が、ただ呼吸している。

類は波の斜面に合わせて、身体を起こした。

そして、滑り出した。

同じ波は、二度と来ない。

だからこそ。

今日の波に乗る。

それでいい。

水平線の向こうに、朝日が昇っていた。

類はその光の中を、まっすぐに進んでいった。

(了)


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あとがき

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

歳を重ねると、ときどき過去を振り返ることがあります。

「あのとき、別の道を選んでいたら」

「もう少し勇気があったら」

「あの一言を、ちゃんと伝えていたら」

そんなふうに考えることは、きっと誰にでもあるのではないでしょうか。

私自身も、これまでの人生を振り返ったとき、選ばなかった道について考えることがあります。

けれど、選ばなかった道をいくら想像しても、そこへ戻ることはできません。

だからこそ、その「もしも」を消してしまうのではなく、今の自分の中に静かに置いておく。

あのとき別の道を選んでいた自分も、今ここにいる自分も、どちらも確かに自分だったのだと思えれば、過去の後悔も少し違って見えてくるのかもしれません。

本作で海人が語る「百番目の波」は、百回目に特別な波が来るという意味ではありません。

何度も波を待つうちに、自分の見方が変わる。

そして、これまで見過ごしていたものに気づく。

その瞬間こそが、自分にとっての「百番目の波」なのだと思います。

人生には、何度も波がやってきます。

大きな波もあれば、見過ごしてしまうほど小さな波もあります。

すべての波に乗る必要はないでしょう。

待つことも大切です。

けれど、待ち続けるだけでは、いつまでも海の上にいることになります。

いつか来た波に気づいたら、そのときは静かにパドルを始める。

そんな生き方ができたらと思い、この物語を書きました。

この作品の波音が、読んでくださった方の中にある「選ばなかった人生」と、ほんの少しだけ重なってくれたなら、とても嬉しく思います。



オーブ オーブ オーブ


目の前の空気が
沸き立って見えて来ると
さあ お出ましかな? と
微笑むようになった

そうだ
オーブたちだ!

還暦を越し
愛犬を失った翌年の節分の晩に
鬼は外 福は内 と投げた豆を
瞬時に避けて飛び回った光の玉

突然 姿を見せた彼ら
いや
もうとっくにそこにいたのに
それまで見えなかった
気付かなかったのだろう

それからずっと
目の前を浮遊している


怖さは一切なく

逆に守られてる感が確かにある





そして
彼らはどこにでもいて
仕事中も
旅先にも
電車の中にも

なんと
高さ10000mを
時速900kmで飛ぶ
飛行機の中にも

それはまるで
僕に付いて回っているかのように

僕はそれからの数年
毎日毎日 欠かすことなく
彼らと接して来た

それは
仕方なくも一方通行で
彼らからの返事はない

また
彼らが何者なのかすら
今まだ分からない

それでも
僕の言葉を理解しているようで
いくつかの言葉には
ゆらり反応する

そして
不思議かな
物も壁もすり抜けるけれど
僕の身体だけは
瞬時にかわし衝突することはない

更には
彼らどうしも
同じように衝突しない

姿や
速さは
無数にあり
彩りも豊か

スマホで倍率1倍で撮れば
ゆらりと動き

広角0.5倍ならば
高速で飛び回る

3次元ではなく
4次元でもない

ちょうどその間の空間を
見え隠れしながら
漂っているようだ

もしかすると
彼らからの言葉はあれど
それを捉えてられる機能が
僕にはまだ
備わっていないのかもしれない

すれば
この身体
次に何らかのきっかけでもあれば
いずれ次元上昇でもして
彼らとのコミュニケーションが
叶うのかもしれない

それを
楽しみにしてはみるが
その時は
僕もまた
あちら側にいるのかもしれない




墓所はもちろん

仏壇にもそれは姿があり


また
社寺仏閣へと出掛ければ
社殿で一礼し
手を合わせてみれば
なんとなく気配を感じることばかり

そこでまた撮れば
姿は違えど
小さな玉響たちが浮遊している

彼らもまた
何者かは分からないけれども
勝手に神様の使いではないかと
想像してみる

それもまた不思議かな
どんなに綺麗に着飾った社殿でも
一切 気配を感じないことばかり

それよりも
飾りなき古い小さな神社では
彼らは必ず姿を見せる




それから
愛犬の仏壇にも
必ずそれは現れて

これはやっぱり
あいつだとしか思えない

もちろん

今まだ何ひとつ

本当を知る術はないけれども
僕は嘘偽りなく
今 こんな空間の中にいる

さあ
今夜はどんな玉響たちが
会いに来るのだろう


もしかすると

あなたも還暦を越した頃

とても悲しいことに耐えたならば

次の節分あたりに

こんな空間が見れ出すかも…


九月の結び目
〜September, A Knot in Time〜



まえがき
誰にでも、カレンダーの数字以上に「特別なしるし」がついた月があるのではないでしょうか。
私にとって、それは九月です。
夏の鮮やかな熱気が引いていき、どこか静けさと寂しさが混じり始めるこの季節は、過ぎ去った時間や、かつて交わした言葉の残像をふと思い出させます。
この物語の主人公・深澤亮介は、日々を慌ただしく生きる四十代の男性です。彼がふとしたきっかけで足を踏み入れる「時間の結び目」を通して、私たちが日常で抱える「あと、どのくらい残されているのだろう」という小さな問いや、時が経つにつれてかたちを変えていく記憶の優しさについて描きました。




序章 ラジオが鳴る
深澤亮介がその曲に気づいたのは、いつものように環状線の渋滞にはまっていたときだった。カーラジオから、少し切なさを孕んだピアノのイントロが流れ出す。竹内まりやの「SEPTEMBER」。何百回、何千回と耳にしてきたはずのその曲が、今年もまた、律儀に九月の入り口を告げにやってきた。
——ああ、また秋か。
亮介は四十二歳になった。この曲がラジオから流れ出すたびに、決まって同じことを思う。もう夏休みは終わり、二学期が始まり、鮮やかだった色彩は辛子色のシャツに、青々とした山は紅葉がかった影に変わっていくはずの季節。少なくとも、彼が子どもだった頃はそうだった。
けれど大人になった今の九月は、ただの月曜日の続きでしかない。カレンダーをめくる指先に、季節の匂いは残っていない。空調の効いたオフィスと、同じく空調の効いた車の中を往復するだけの毎日には、暑さも涼しさも、ずいぶん薄められて届く。
信号が変わり、車が少し進む。渋滞は一向に解消する気配がなく、亮介はハンドルに肘をついて、窓の外を眺めた。歩道を歩く人々は、まだ半袖のシャツを着ている者が多い。だが、よく見ると、鞄の中にカーディガンを覗かせている女性もいる。誰もが少しずつ、季節の変わり目を身にまとう準備を始めているのだった。
ラジオのボリュームを少し上げたところで、亮介はふと妙な感覚に襲われた。耳の奥で、曲の音像がわずかに歪む。透き通った歌声が、コンマ数秒だけずれて二重に響くように感じた。
目眩だろうか。それとも、単に疲れているだけか。
編集者という仕事は、締め切りに追われ続ける仕事だ。ここのところ、亮介は睡眠時間を切り詰めて、ある作家の遅れに遅れた原稿を待ち続けていた。
信号が青に変わる。前の車に続いてアクセルを踏んだ瞬間、視界の端で、フロントガラスに映る自分の顔が、一瞬だけ若く見えた気がした。
錯覚だ、と亮介は思う。
その夜、マンションに帰り着いた亮介は、郵便受けの中に見慣れない葉書を見つけた。差出人の名前はない。消印もにじんでいて読み取れない。表には、彼の名前と住所だけが、几帳面な、どこか古風な万年筆の文字で書かれている。
裏返すと、たった一行。
「あと、どのくらい?」
亮介は葉書を持ったまま、しばらく玄関先で立ち尽くした。
あと、どのくらい。
何が、どのくらいなのか。自分でもよく分からない。
葉書をリビングのテーブルに置き、亮介はいつものように缶ビールを開けた。テレビをつけると、天気予報が、明日は晴れ、最高気温二十九度と告げている。九月なのに、まだ夏の名残が居座っている。
翌日、亮介は寝不足のまま出社した。隣の席の後輩編集者、田村が声をかけてきた。
「深澤さん、なんか顔色悪いですけど、大丈夫ですか」
「ああ、ちょっと変な夢見てさ」
「変な夢って?」
「昔の彼女の夢。もう二十年も前のことなのに、やけに鮮明でね」
「二十年前ですか。深澤さん、そんな昔のこと覚えてるんですね」
「自分でも意外だよ。普段は忘れてるのに、こういう季節になると、急に思い出すことがある」
その日、亮介は一日中、あの葉書のことが頭から離れなかった。
その晩、亮介は夢を見た。
夢の中で、彼はもっと若かった。二十二歳くらいだろうか。夏の終わりの、蒸し暑い夕方。誰かの手を握っている。その誰かの顔は、はっきりとは見えない。ただ、耳元でラジオが鳴っていた。あの曲だ。竹内まりやのSEPTEMBERだった。夜店の匂い、太鼓の遠い音、汗ばんだ手のひらの感触。
「亮介、暑いね」
声だけが、やけに鮮明に耳に残った。
目が覚めたとき、亮介はしばらく自分がどこにいるのか分からなかった。
夏帆。
その名前が、二十年ぶりに、亮介の頭の中で音を立てて像を結んだ。



一章 子どもの九月
その週、亮介はもう一つ、奇妙な夢を見た。
夢の中で、彼はまだ十歳かそこらの子どもだった。実家の台所、母親が夕飯の支度をしながら、小さなラジオをつけている。そこから流れてくるのも、やはりあの曲だった。竹内まりやのSEPTEMBERだった。当時は歌詞の意味もよく分からず、ただサビの高いところだけを、意味もなく口ずさんでいたのを覚えている。
「もう九月ねえ」
母親が、フライパンを振りながらつぶやいた声を、亮介ははっきりと覚えている。当時の亮介にとって、九月というのは、何よりもまず「夏休みが終わる」ということを意味していた。
「二学期、いやだなあ」
子どもの亮介が漏らすと、母親は笑いながら言った。
「大人になったら、九月なんて、ただの月の名前になるわよ。学校もお休みも関係なくなるんだから」
その言葉を、亮介は長いこと忘れていた。だが今、四十二歳になった自分が、まさにその言葉通りの九月を生きていることに気づいて、亮介は苦笑いを漏らした。
夢の中の台所の窓からは、隣の家の庭にある金木犀が見えた。まだ蕾も固く、香りはしていない。
「ねえ、母さん」
夢の中の亮介が尋ねる。
「大人になったら、時間って、どんな感じになるの」
母親は少し考えてから、こう答えた。
「そうねえ。子どもの頃は、一日がすごく長いでしょう。夏休みなんて、永遠に続くみたいに感じるものよ。でも大人になると、一年があっという間に過ぎるようになる。不思議なものよね」
「なんで?」
「さあ、なんでかしらね。きっと、毎日が同じことの繰り返しになるからじゃないかしら。新しいことが少なくなると、時間って、記憶の中で薄くなっていくものなの」
夢の中で、亮介はふと、台所の隅に置かれた小さなラジオに目をやった。よく見ると、そのラジオのつまみのあたりに、見覚えのある文字が刻まれている。「柊製作所」。
亮介が近づこうとしたところで、視界がふっと暗転し、目が覚めた。



二章 二十二の夏の終わり
夏帆と付き合っていたのは、大学四年の夏から翌年の春先までの、ほんの数ヶ月だった。
夏帆は、亮介と同じサークルの後輩だった。写真部に所属していて、いつも古いフィルムカメラを首から下げていた。
その日曜日の記憶を、亮介は久しく思い出していなかった。
けれど、その週末、たまたま担当していた作家の原稿が奇跡的に間に合い、亮介に二日間の休みができたその週末、彼は、二十年前と同じ商店街を歩いていた。
商店街は、当時とほとんど変わっていなかった。
古びたレコード店の軒先から、スピーカーの音が漏れていた。竹内まりやのSEPTEMBERだった。九月の雨の気配をまとった、あのイントロだった。亮介は思わず足を止めた。奇妙な符合だと思いながらも、その場を離れがたく、店先に立ち尽くしていた。レコード店の店主らしき初老の男性が、店の奥でぼんやりと本を読んでいる。その横顔にも、見覚えがある気がした。すると、視界がふっと歪んだ。まるで、古いブラウン管テレビの走査線が乱れるときのように、目の前の景色が縦に引き伸ばされ、色が滲んだ。
耳鳴りのような音が一瞬だけ大きくなり、それからすっと静まった。
次に瞬きをしたとき、亮介は同じ商店街の、同じ場所に立っていた。
けれど、何かが違う。道行く人々の服装が、微妙に古い。誰かが開いている携帯電話は、画面が小さく、分厚い折りたたみ式だった。そして何より、ガラスに映った自分の姿は、明らかに、四十二歳のものではなかった。
「亮介、待たせてごめん!」
背後から声がした。振り返ると、そこに夏帆がいた。辛子色のシャツを着て、少し息を切らしながら、彼女は笑っていた。
「ぼんやりしてどうしたの? もしかしてまだ寝ぼけてる?」
亮介は自分の口から、考えるより先に言葉が出るのを感じた。
「いや……なんでもない。行こうか」
二人は、駅前の商店街を抜けて、小さな神社の夏祭りに向かった。
記憶の中では、この夏祭りの帰り道、二人は些細なことで少し気まずくなったはずだった。
けれど今、隣を歩く夏帆は、まだその話を始めていない。
「ねえ、亮介」
夏帆が横から覗き込むようにして言った。屋台の光が、彼女の頬をオレンジ色に照らしている。
「内定先、決まったって言ったよね。どんな会社だったっけ」
来た、と亮介は思った。あの夜と同じ問いかけ。
今度は、違う言葉を選んでみようと、亮介は思った。
「小さいところだけど、本を作る仕事なんだ。夏帆の卒論、もうすぐ終わりそうなんだろ。落ち着いたら、その本、僕が編集する本の第一号にしてあげようか」
冗談めかして言ったつもりだった。夏帆は一瞬きょとんとしてから、声をあげて笑った。
「なにそれ。じゃあ、印税ちょうだいね」
そんな他愛のないやりとりが続いた。その笑い声に、亮介は妙な安堵と、それ以上に大きな戸惑いを覚えた。



三章 ずれていく色
夜店の光が滲む頃、遠くのやぐらの上から、盆踊りの音頭とは違う音楽が漏れ聞こえてきた。よく耳を澄ますと、それはラジオの音だった。
「——皆さん、今夜も『九月だけのラジオ』の時間がやって参りました」
古びたトランジスタラジオのような、少しくぐもった声。亮介はその声に、なぜか強く引き寄せられた。夏帆に「ちょっとトイレ」と断って、声のする方へと歩いていく。神社の裏手、人気のない木立の陰に、小さな屋台のようなものがあった。ラジオブースを模した粗末な作りで、木製のカウンターの上に、真空管のような部品がむき出しになった古いラジオ機材が置かれている。そこに一人の老人が座っていた。
「よう、お客さん」
老人はマイクから顔を上げ、亮介の方を見た。
「ここのラジオは、九月にしか電波が届かないんだ。それも、誰かが強く『あと、どのくらいだろう』と思った時に限ってね」
「……あなたが、あの葉書を?」
「葉書は、まあ、きっかけみたいなものだ。私はただの案内人だよ。柊、と呼んでくれればいい」
柊は、傍らに置かれた古いラジオのつまみを、意味もなく右に左に回しながら続けた。
「あんたは今、九月の結び目の中にいる。ここでは時間がまっすぐに流れていない。過去のある一点に、今のあんたの意識が重なり込んでいるんだ」
「これは……夢じゃないんですか」
「夢と呼びたければ、そう呼んでもいい。だが、今あんたが触れているものは、少なくとも一度は本当にあったことの続きだ。ただし——」
柊は人差し指を立てた。
「そっくりそのままの再現ではない。あんたの記憶というやつは、優秀な編集者でね。都合の悪いところを削って、心地よいところを少し盛って、きれいな一本の話に仕立て直してしまう。だから、ここで起きていることと、二十年前に本当に起きたことの間には、いくつもの『ずれ』がある」
亮介は、さっきの夏祭りでの、辛子色のシャツのことを思い出した。記憶の中では、あれは確か、もっと鮮やかな黄色のシャツだったはずだ。
「色まで、変わるんですか」
「色も、台詞も、天気さえもね。あんたが思い出すたびに、記憶は少しずつ塗り直される」
亮介は柊の言葉を、半分も理解できないまま、それでも妙に納得している自分に気づいた。
「さっき、僕は言葉を変えました。夏帆への返事を」
「ほう」
「これで、何かが変わるんでしょうか。未来が」
柊は少し困ったように眉を寄せ、それから静かに首を振った。
「あんたが思っているような意味では、変わらんよ。ここでどれだけ台詞を変えたところで、あんたが今生きている『本当の現在』には、何一つ上書きされない。過去は変えられない。それがこの結び目の、たった一つの、動かせない規則だ」
「じゃあ、何のために……こんな場所があるんですか」
「それを見つけるのは、あんた自身の仕事だ」
柊はカウンターの下から、埃をかぶった古いレコードを一枚取り出した。
「この曲を知っているか」
ジャケットには、聞き覚えのないバンド名が印刷されていた。
「いえ、知りません」
「これは、私が現役の頃、ある歌手のためにディレクションした曲でね。結局、当時は誰の耳にも届かず、そのまま廃盤になった。だが、私にとっては、今でも大事な一曲だ。誰も覚えていなくても、私が覚えている限り、この曲は確かに存在したことになる」
柊はそのレコードを、そっとカウンターの上に置いた。
「思い出も同じだ。誰かに証明してもらう必要はない。あんたの中に確かにあったのなら、それでいい。ただし、その形は、思い出すたびに少しずつ変わっていく。それを恐れることはない」
柊はそう言うと、ラジオのつまみを一段階、右に回した。すると、あたりの光景がまた、あの走査線の乱れのような歪みを見せ始めた。
「もう一度会おう、亮介さん。九月の、また別の場所で」



四章 大人になったはずだった
次に目を開けたとき、亮介はまったく違う場所に立っていた。
見覚えのある、大学近くのアパートの部屋。壁に貼られたポスター、床に積まれたレコード、開けっ放しの窓から入る、少し湿った夜風。
鏡に映る自分は、さっきよりも少しだけ年をとっている。おそらく、あの夏祭りから半年ほど経った頃だろう。
部屋の隅、電気をつけない薄暗がりの中に、夏帆が体育座りで座っていた。
「夏帆」
声をかけると、彼女はゆっくりと顔を上げた。
「ああ、亮介」
その声には、あの夏祭りの日の弾んだ響きはなかった。
「もう決めたことだから、いいの。私、向こうの大学院、行くことにした」
亮介は、この会話も覚えていた。
「なあ、夏帆」
亮介は、今度こそ、と口を開いた。
「行かないでくれ、とは言わない。でも、行く前に、ちゃんと話したい。僕らのこと」
夏帆は、少し驚いたように目を見開いた。
「珍しいね、亮介がそんなこと言うの」
言いながら、亮介は自分の言葉が、二十年前の自分のものなのか、今の自分のものなのか、次第に分からなくなっていくのを感じた。
夏帆はしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「別に、亮介のせいだけじゃないよ。私も、ちゃんと言葉にしてなかったし」
窓の外で、虫の声がしていた。網戸の向こうから、隣の部屋のラジオの音が漏れ聞こえてくる。あの曲だ。竹内まりやのSEPTEMBERだった。夏の終わりをまだ引きずるような、あの声だった。
「この曲、聞くたびに思い出しそうだね、私たちのこと」
「うん」
「それでいいのかな」
亮介は、少し考えてから頷いた。
「いいと思う。忘れるより、ずっといい」
二人はそれ以上、何も言わなかった。ただ、しばらくの間、同じ窓の外を見ていた。
視界がまた歪み始める。今度は、水面に石を投げ込んだときのような、優しい波紋だった。



五章 未来からの声
次に亮介が立っていたのは、見知らぬ部屋だった。
いや、正確には、見知った部屋だ。ただし、まだ亮介自身が見たことのない、未来の部屋だった。日当たりの良いリビングには、大きな出窓があり、そこから柔らかな午後の光が差し込んでいる。
壁には、亮介が長年勤めている出版社の、退職記念に贈られるような時計が掛かっている。
ソファに、一人の老人が座っていた。
背中を丸め、膝の上に文庫本を置いたまま、うたた寝をしている。
「……僕、ですか」
亮介がつぶやくと、老人がゆっくりと目を開けた。
「ああ、来たか」
老人は、驚いた様子もなく、亮介を見た。
「あんたが、僕の……」
「未来のあんただ、と言えば分かりやすいだろう。だが、あんまり深く考えなくていい。ここも、九月の結び目の中の、一つの光景に過ぎない」
老いた亮介は、ゆっくりと立ち上がり、窓辺のラジオに近づいた。古びた、けれど大切に手入れされているらしいラジオのスイッチを入れると、案の定、あの曲が流れ出した。少しノイズの混じったFMの音の向こうから、色褪せないピアノと、あの透き通った歌声が流れてきた。夏の終わりを惜しむような、あのメロディだった。
「毎年、律儀にこの曲がかかるとな、思うんだよ。今年もまた、一年が過ぎたのかって」
「僕もです。今も、ずっと」
「だろうな。歳を取れば取るほど、その一年が、どんどん短く感じられるようになる」
老いた亮介は、窓の外の、色づき始めた木々を見つめた。
「時間ってのは、相変わらず、一瞬たりとも止まらずに、先へ先へと急いでいる。あんたも、いずれ分かるようになる。年を追うごとに、そのスピードは増していくんだ。そして、ある日ふと気づく。あと、どのくらいだろう、ってな」
「その問いに、答えは見つかりましたか」
亮介が尋ねると、老いた亮介はしばらく黙り込んだ。それから、静かに、けれど確かな声で言った。
「答えは、見つからない。見つかったと思っても、次の年にはまた分からなくなる。それでいいんだと、今は思っている」
「どうしてですか」
「答えを探すことに使う時間があるなら、その分の時間を、今目の前にあるものに使った方がいい。振り返ったときに鮮やかに蘇る景色ってのは、案外、そういう積み重ねからできているもんだ」
老いた亮介は、窓辺の小さな写真立てに目をやった。そこには、若い頃の亮介と、見覚えのある女性——だが夏帆ではない、別の誰か——が並んで写っていた。
「一つだけ、覚えておくといい」
「なんですか」
「思い出は、都合よく美化される。それは、あんたを甘やかすためじゃない。この先を歩き続けるために、心が用意してくれる、小さな杖のようなものなんだ」



六章 もう戻れない場所
気づくと、亮介は再び、あの木立の陰のラジオブースの前に立っていた。柊が、変わらぬ様子でマイクの前に座っている。
「いろんな九月を見てきたようだね」
「はい。……夏帆とのこと、未来の僕のこと。全部、僕の頭の中にあったものなんでしょうか。それとも、本当にあった、あるいは、これから本当にあることなんでしょうか」
「その問いに、私は答えを持たない」
柊は静かに首を振った。
「だが、一つだけ教えてやれることがある。この九月の結び目に迷い込むのは、あんた一人じゃない。今この瞬間、あんたと同じように、夏帆もまた、どこかの九月で、あんたのことを思い出しているかもしれない」
「夏帆も、ここに?」
「同じ場所に、とは限らない。だが、誰かを強く思い出すという行為そのものが、九月という季節の持つ、ある種の緩みなんだ」
亮介は、それを確かめる術がないことを、もどかしく思った。
「もう一度、夏帆に会えますか。今の——四十二歳の姿で」
柊は、少し困ったように笑った。
「それは、この結び目の仕事じゃない。あんたが本当に会いたいなら、ラジオの中を彷徨うんじゃなくて、電話帳でも、昔の友人にでも、当たってみることだ。九月の結び目は、過去を訪ねる場所であって、今を動かす場所じゃない」
「じゃあ、僕がここで見てきたものは、一体何のためだったんですか」
柊はマイクのスイッチを、静かに切った。
「思い出させるためだ。あんたがどれだけの時間を、誰かと過ごし、どれだけの言葉を交わし損ねてきたか。それを、もう一度、体温を持って感じさせるためだ。過去は変えられない。だが、過去をどう抱えて、これからをどう生きるかは、いつだって、あんたの自由だ」
「そろそろ、あんたの九月へ帰る時間だ」



七章 思い出は美しく壊れている
目が覚めると、亮介はいつもの寝室のベッドの上にいた。カーテンの隙間から差し込む朝の光。壁の時計は、いつもと変わらない時刻を指している。
夢だったのだろうか。
亮介は起き上がり、リビングに向かった。テーブルの上には、あの差出人不明の葉書が、昨夜置いたままの場所に、そのまま残っていた。手に取ると、裏面の文字は、昨夜見たものと変わらない。
「あと、どのくらい?」
だが、よく見ると、葉書の隅に、小さな文字で追記があった。昨夜は、確かになかったはずのものだ。
「答えは、探さなくていい。——柊」
亮介は、しばらくその文字を見つめていた。それから、静かに笑った。
夏帆のことを、もう一度思い出してみる。あの夏祭りの日、辛子色のシャツを着ていた夏帆。いや、記憶の中では、あれはもっと鮮やかな黄色だったはずだ。神社の夏祭りだったか、それとも、別の年の花火大会だったか。もう、どちらが本当だったのかさえ、はっきりとは思い出せない。
けれど、それでいいのだと、亮介は思った。
亮介は、久しぶりに夏帆の名前を検索してみようかと思ったが、結局、指を止めた。今すぐ会いたい、というのとは、少し違う気がした。
その代わりに、亮介は古い名刺入れの奥から、一枚の色褪せた写真を見つけ出した。大学時代の友人たちと写った、なんでもない集合写真。隅の方に、少しだけ夏帆の横顔が写り込んでいる。
写真の中の夏帆は、辛子色でも、鮮やかな黄色でもない、ただの白いブラウスを着ていた。
亮介は声を出して笑った。



八章 秋の匂いのする原稿
九月の半ば、亮介がずっと待ち続けていた原稿が、ようやく編集部に届いた。著者は、七十を過ぎてから小説を書き始めたという、初老の女性だった。
分厚い原稿の束を受け取り、亮介は自分のデスクで、それを読み始めた。タイトルは、『九月の店』。
物語は、ある地方の商店街で小さなレコード店を営む老人を主人公にしていた。その店には、九月になると、不思議な客が訪れる。かつて店の前を通り過ぎていった、若い頃の自分自身や、遠い記憶の中の恋人。老人は、その客たちと言葉を交わしながら、自分がこれまで生きてきた時間を、少しずつ振り返っていく。
読み進めるうちに、亮介の手は、いつしか止まっていた。
——これは、僕が見てきたものと、あまりにも似ている。
亮介は原稿の最後のページに書かれた、著者からの短いあとがきを読んだ。
「この物語を書きながら、私は何度も、若い頃の自分自身に会いに行くような気持ちになりました。過去は変えられません。けれど、過去を思い出すという行為そのものが、今を生きる私たちにとって、一つの小さな旅なのだと、今は思っています」
亮介は、そのページに、静かに赤鉛筆で丸をつけた。



終章 静かな余韻
その年の九月も、いつものように過ぎていった。仕事は相変わらず忙しく、締め切りに追われる日々は続いた。だが、亮介の中で、何かが少しだけ変わっていた。
ある夕方、いつもの帰り道、車のラジオからまた、あの曲が流れてきた。竹内まりやのSEPTEMBER。何百回目かの、律儀な九月の挨拶。
以前の亮介なら、ただ「ああ、また秋か」と思うだけだっただろう。だが今は、その旋律の向こうに、辛子色のシャツと、木立の陰のラジオブースと、未来の自分が座っていたソファの記憶が、静かに重なって見える。
信号待ちで車を止め、亮介は窓を少しだけ開けた。夕暮れの風には、まだ夏の名残の湿り気があったが、その奥に、かすかに秋の匂いが混じり始めていた。
信号が青に変わる。亮介はアクセルを踏み、ゆっくりと車を進めた。
家に着くと、郵便受けに、また一枚の葉書があった。今度は、差出人の名前がきちんと書かれている。大学時代の友人からの、同窓会の案内状だった。出席者の欄に、見覚えのある名前が一つ、記されている。
夏帆。
亮介はしばらくその名前を見つめてから、返信用のハガキに、丁寧に「出席」の文字を書き込んだ。
数週間後の同窓会の夜、会場のレストランに足を踏み入れると、見覚えのある顔がいくつも並んでいた。
夏帆は、少し遅れてやってきた。記憶の中の彼女よりも、当然ながら年を重ねていたが、笑ったときに目尻に寄る皺の形が、あの夏祭りの日と、不思議なほど変わっていなかった。
「久しぶり、亮介」
「久しぶり」
それ以上の気の利いた言葉は、結局、どちらの口からも出てこなかった。
会がお開きになった帰り道、駅までの短い時間、亮介は夏帆と並んで歩いた。
「あの頃さ」
夏帆がふと口を開いた。
「私たち、なんであんな中途半端な感じで終わっちゃったんだろうね」
「さあ。若かったから、かな」
「そうかもね」
夏帆は少し笑って、それ以上その話を掘り下げようとはしなかった。
駅の改札の前で、二人は簡単に別れの挨拶を交わした。
「また、何かの機会があったら」
「うん、また」
改札を抜けていく夏帆の後ろ姿を、亮介はしばらく見送った。
帰り道、車のラジオから、また例の曲が流れてきた。もう聞き飽きるほど聞いた旋律のはずなのに、今夜はなぜか、いつもより少しだけ、優しく耳に届いた。夏の恋の終わりを歌ったあの歌が、今は自分のことのように。
亮介はソファに腰を下ろし、目を閉じた。
きっと、それが本当だったのだろう。今はただ、静かに、その余韻を楽しんでみようと思った。

(了)



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あとがき
歳を重ねるにつれ、一年の過ぎ去るスピードが加速度的に早くなっていくように感じられます。
この物語に登場する「柊老人」は、そんな私たちが過去を振り返り、優しく抱え直すためのナビゲーターのような存在として生まれました。
作中で描いたように、過去を変えることはできません。記憶の細部も、時とともに少しずつ薄れ、自分にとって都合の良いように塗り替えられていくものです。しかし、それは決して悪いことではなく、私たちが前を向いて「今」を歩み続けるために、心が用意してくれる小さなお守り(杖)なのだと信じています。






ラジオから
September が流れ出すと
秋だよなあ と思って来た

9月となれば
夏休みは終わり
2学期が始まり
秋のはずだった

鮮やかな色彩から
辛子色のシャツにと
紅葉がかった影に
街も山も彩りを変えるはずだった



それは
ステディになりかけた
彼女の心もまた同じで

熱は冷め始めて
目の前から遠ざかる

そんな夏を
何度となく繰り返し
僕たちは大人になった
はずだった




時間は相変わらず
一瞬たりとも止まることなく
先へ先へと急いでいる

齢を追うごとに
そのスピードは増して
もうこんな所へ来てしまった

あとどのくらい? って
ふと思うことが増えて
振り返る景色だけが
鮮やかに蘇る

あの頃って頃から
今日までと同等の時間など
もう持ち合わせていないと
気付いた時
更に熱くなり

どうしたものかと
ジタバタしても
何ひとつ変わらない

思い出は
都合良く美化されて
もう
どれが本当だったのかすら
分からない

でも
それで良い

きっとそれが
本当だったのだと
今は静かに
その余韻を楽しんでみる