ーーKindle 予定ーー


素顔で踊らせて
〜45年前の雨と、相変わらずの俺〜


〜まえがき〜

 記憶というものは、時にずる賢い。
 普段は心の奥底、鍵のかかった引き出しのそのまた裏側にしまい込んでいるはずなのに、ふとした雨の匂いや、聞き覚えのあるメロディに触れた瞬間、何の断りもなく扉をこじ開けてくる。
 60を過ぎて、ようやくその「記憶」という名の招かれざる客と、うまく付き合えるようになってきた気がする。かつては追い払おうと必死だった。しかし、歳を重ねるということは、思い出という重荷を、ただの景色として眺められるようになることなのかもしれない。
 これは、45年前に置き忘れてきた傘の話だ。
 歌舞伎町から渋谷へ。若さという名の無敵の鎧を着て、何も恐れず、しかし何も持たずに走っていたあの頃。そして、雨の中をただ立ち尽くしていた、あの夜のこと。
 もし、あなたの人生にも「あの時」という雨の日の記憶があるのなら、少しだけページをめくって、当時の空気を一緒に吸い込んでみてほしい。
 今夜は少し、昔話をしよう。




1章 笑顔が作れない日

 笑顔がうまいこと作れなくなった日には、あえてそこを目指さずに過ごすことにしている。

 別に落ち込んでいるわけじゃない。機嫌が悪いわけでもない。ただ、顔の筋肉が言うことを聞かない日というのが、60を過ぎたあたりから確かに増えた。若い頃はそんなこと気にもしなかった。愛想笑いでも、社交辞令の笑いでも、とりあえず笑っておけばよかった。でも今はそれが、どうにもうまくいかない。

 だから、笑えない日は笑わない。そう決めている。

 そうすると、周囲の反応がちょっとおかしくなる。「あれ、どうかしたんですか」とか「今日は元気なさそうですね」とか。そういう声を受けると、自分の中の天使がすっと現れて言う。ほら、ちゃんとしなきゃ。愛想よくしなきゃ。周りが心配してるじゃないか。

 しかしてその裏側では、もう1人の声がする。

 おいおい、そんな面倒なことせんでも。そのまんまやっちまえよ。

 この悪魔の声だけは、60を過ぎても変わらない。むしろ歳を取るにつれて、声が太くなってきた気さえする。

 今朝、夢を見た。
 45年前の夢だった。


2章 ガキどもの夜

 おバカなガキどもだった。

 10代の終わりから20代の入り口にかけて、俺たちは歌舞伎町のディスコに入り浸っていた。安い酒を飲んで、知りもしない女に声をかけて、朝まで踊って、へとへとになって帰る。それを毎週のように繰り返していた。

 歌舞伎町を卒業する頃になると、今度は六本木か渋谷かという話になってくる。少し年上の女を追いかけ始めて、自分たちがちょっと大人になったような気分でいた。まったくもって、おバカなガキどもだった。

 そのど真ん中で、「行くぞ」と仲間に指示を出していたのが俺だった。今思えば、何が「行くぞ」だ。ただ女のいる場所に転がり込みたいだけのくせに、リーダーぶっていた。

 あの頃の夜が、今は遥か遠い。

 昨今では、そんな夜の都会に近づくことすらなくなった。渋谷に用事があっても、昼間に済ませてさっさと帰る。夜の渋谷の人混みの中に立っても、もう体が動かない。音も光も、なんだか遠いところの話になってしまった。

 でも、夢の中では違う。

 夢の中の俺は、バイトを早上がりして公園通りを走っていた。


3章 公園通りのLA・SCALA

 45年前、渋谷の公園通りには「LA・SCALA」というイカしたディスコがあった。

 今その場所に何が建っているのか、俺はもう確認する気にもなれない。時代はどんどん変わる。店は入れ替わる。でも俺の中では、あの通りにはまだあのビルが建っていて、地下に降りると熱気と煙草の煙と音楽が渾然一体となった空間が広がっているのだ。

 あの夜も、バイトを早めに抜け出して仲間の待つラスカラへ急いでいた。バイト先の店長には「気分が悪い」とか何とか言って、まったく罪悪感もなく脱け出した。19歳のガキの良心なんて、その程度のものだ。

 仲間たちはもうフロアの端の席で陣取っていた。

「遅いぞ」

「早く来い、いい女が来てる」

 そういう他愛ない声に迎えられながら、俺は上着を脱いで席に着いた。その時、フロアのスピーカーから流れていた曲を今でも覚えている。

 ♪ Searching for my honey 

 唇を奪いとるよりは Oh 

 ひとことのため息が混じる 

 お喋りでいいわ ♪

 甘いメロディだった。あの頃の渋谷の夜は、ああいう甘い音楽で満ちていた。


4章 土砂降り

 でも、その夜の少し前のことを夢は映していた。

 渋谷の駅に着いた瞬間のことだ。

 外へ出た途端、土砂降りの雨が叩きつけてきた。7月の、ゲリラ豪雨というやつだ。当時そんな言葉はなかったが、あれはまさにそれだった。空が突然決壊したかのような雨だった。

 傘は持っていなかった。

 売店を探すと、「傘売り切れ」の紙が貼ってある。時間はない。仲間が待っている。ど~したものか、と軒下で立ち往生していたその時。

「あら?」

 聞き覚えのある声がした。

 振り返ると、以前の彼女がそこにいた。

 真理子といった。2つ年上の、美容の学校に通っていた人だ。半年ほど付き合って、別れた。別れた理由は俺がダメだったからに尽きる。約束を破る、連絡しない、大事な日に現れない。そういうことの積み重ねだった。別れを告げたのも彼女のほうで、俺には何も言い返すことができなかった。

 その真理子が、雨の渋谷駅の軒下で俺を見ていた。

 相変わらず困ってんだ? と彼女は言った。

 それから、持っていた傘を差し出した。

「はい、これ」

「えっ」

「それ、返さなくていいから」

 俺が何か言いかけると、彼女は続けた。

「あたし、来月結婚するの。もうすぐ彼が車で迎えに来るから」

 そう言って微笑んで、人の波の中に消えていった。


5章 相変わらずか

 唖然とした。

 傘を手に持ったまま、しばらく軒下に立っていた。雨は相変わらず降り続けている。周りを走り抜けていく人たちが、ずぶ濡れになりながら駅の中へ駆け込んでいく。

 相変わらずか。

 頭の中でその言葉が鳴り響いた。彼女が言ったのは短い言葉だった。でも、その中にすべてが詰まっていた。相変わらず傘も持たない。相変わらず間の悪い男。相変わらず、どうしようもない。

 でも、有り難いとすら思った。恨みも言わず、文句も言わず、ただ傘を差し出して微笑んで去っていく。俺みたいなダメ男に、それだけのことができる人だったのだ。

 ダメな若さというのは、そういう親切さえも素直に受け取れないものだ。受け取りながらも、どこかで居心地が悪い。ありがとう、と言えばいいのに、「えっ」しか出てこない。

 ラスカラに着くと、仲間たちが騒いでいた。フロアは熱気に満ちていた。あの甘いメロディが流れていた。俺も体を揺らして、踊った。

 でも、頭の中では相変わらずか、という言葉がずっと鳴り響いていた。

 フロアを出る時、傘を忘れた。

 真理子にもらった、その傘を。

 外はまだ雨が降っていた。仲間たちとバカを言い合いながら、綺麗な女たちの姿を目で追いかけながら、ずぶ濡れになりながら歩いた。

 相変わらずか。

 その言葉だけが、ずっとついてきた。


6章 ゲリラ豪雨の季節

 目が覚めると、窓の外で雨が降っていた。

 関東ではここ数日、例のゲリラ豪雨というやつが続いている。テレビをつければ、どこかでずぶ濡れになった人々の映像が流れる。傘を持っていなかった人、急いでいた人、空が一瞬で変わって逃げ場を失った人たち。

 そういう姿を見るたびに、あの夜のことを思い出す。

 45年前の7月。渋谷駅の軒下。真理子の微笑み。

 夢でまで見るとは思っていなかった。あの頃のことは、もちろん今でも時々思い出す。でも夢に出てきたのは久しぶりだった。目覚めてからも、頭の中でその光景が続いていた。土砂降りの雨、傘を差し出す手、来月結婚するの、という言葉。

 ちょいと、センチメンタルな気分だ。

 60過ぎにもなって、45年前の彼女のことを夢に見てセンチメンタルになっている。我ながら、相変わらずか、と思う。

 でも、まあ、それでいい。


7章 ダメな若さ、その後

 真理子とは、それ以来1度も会っていない。

 どこかで幸せにやっているだろう、と思う。あれだけの気持ちのある人だ。きっとちゃんとした家庭を作って、ちゃんとした人生を歩んでいるに違いない。

 俺はと言えば、まあ、そこそこだ。

 結婚もした。子供も生まれた。仕事もそれなりにやって、定年を迎えた。大きな失敗もしたし、情けない思いもたくさんした。あの頃のダメな自分から、劇的に変わったとは言えない。相変わらず約束を破ることもあったし、大事な時に頼りにならないこともあった。

 でも、少しは反省できるようになった、と思いたい。

 思いたい、というだけで、確信はない。そこが「相変わらずか」の証拠かもしれない。

 昨今では、夜の都会に近づくこともなくなった。歌舞伎町も六本木も渋谷も、もう俺の場所じゃない。あの頃の仲間たちとも、年に1度会うかどうか。それぞれが歳を取って、それぞれの暮らしの中に入ってしまった。

 でも、ゲリラ豪雨の季節になると思い出す。
 ずぶ濡れの人たちを見ると思い出す。
 相変わらず困ってんだ? という声と、あの微笑みを。


8章 素顔で踊る

 笑顔が作れない日には、無理に作らない。

 心のままに動いてみる。周囲が「あれ?」となる。
天使が現れて正そうとする。
悪魔が「そのまんまやっちまえよ」とささやく。

 そのせめぎ合いが、60を過ぎても続いている。

 思えば、あの夜のフロアでも同じだった。頭の中で相変わらずか、という言葉が鳴り響きながら、それでも体は音楽に合わせて揺れていた。笑顔を作ろうとは思わなかった。ただ、音の中に素顔のまま立って、揺れていた。

 素顔で踊る、ということが、あの頃の俺にはできていたのかもしれない。

 今の俺にも、まだできるだろうか。

 窓の外でまた雨が強くなってきた。関東のゲリラ豪雨は、今日も容赦がない。どこかでずぶ濡れになっている人がいる。売店の傘が売り切れていて、途方に暮れている人がいる。

 もし誰かが困っていたら、傘を差し出せる人間になれただろうか。

 真理子がしてくれたように。

 少しは、反省できる大人に、なれただろうか。

 雨の音を聞きながら、俺はまだその問いの中にいる。


〜エピローグ〜

雨の公園通り

 夕方、傘を持って外へ出た。

 特に用事はなかった。ただ、雨の中を少し歩きたかった。

 渋谷の公園通りを、久しぶりに歩いた。昼間の渋谷は、用があっても素通りしていた。でも今日は、なんとなく歩いてみたくなった。

 通りの形は、45年前と変わっていない。坂の角度も、左右に広がる空も、あの頃と同じだ。
店は全部変わった。
人の流れも変わった。
俺も変わった。

 でも、雨の匂いだけは変わらない。

 真理子が傘を差し出した場所は、たぶんこの近くだ。駅のあの辺の軒下だったはずだ。今も同じように、困った誰かが雨宿りしているかもしれない。

 俺は傘を差したまま、しばらくその場に立っていた。

 雨粒が街灯に反射して、きらきらと光っていた。若い男女が走り去っていく。傘を2人で共有しながら笑っているカップルがいる。1人で颯爽と雨の中を歩いていく女がいる。

 素顔で踊らせてくれ、と思う。

 笑顔が作れない日には、作らなくていい。心のままに動いて、天使の声を聞いて、悪魔の声にも少し頷いて、それでも前に進んでいく。

 相変わらずか。

 その言葉は、45年間 俺についてきた。
 これからも、ついてくるだろう。
 でも、それでいい。

 雨の公園通りを、俺はゆっくりと歩いた。




〜あとがき〜

 45年という月日は長い。渋谷の街並みは変わり、人の流れも変わり、私たち自身の体も心もすっかり様変わりしてしまった。
けれど、雨が降った時に感じるあの独特の切なさや、誰かの優しさに触れた瞬間の居心地の悪さは、不思議と当時と変わらない気がする。
 書き終えて思うのは、「素顔で踊る」ことの難しさと、その愛おしさについてだ。
 私たちは皆、大人になる過程で、上手に笑うための仮面をいくつも手に入れる。愛想笑い、苦笑い、社交辞令の微笑み。それらが時に鎧となり、私たちを守ってくれるのも事実だ。
 しかし、たまにはその仮面を外し、土砂降りの雨の中に身を投げ出してみてもいいのではないか。びしょ濡れになって、寒さに震えながら、それでも自分の足で歩き出す。そんな不格好な姿こそが、人生という名のダンスの正体なのかもしれない。
 関東のゲリラ豪雨は、明日もまたどこかで降るだろう。
 もしあなたが雨宿りをしている誰かを見かけたら、その時はぜひ、かつての私にできなかったことをしてあげてほしい。
 あなたの日常が、たとえ雨の日であっても、心だけは軽やかでありますように。
 45年目の雨に感謝を込めて。


Amazon Kindle



もう少し補正して Kindle 予定


パンナムの翼
― 夢と旅の間で ―




〜まえがき〜


 時折、突然、頭の中でアラウンド・ザ・ワールドが流れることがある。

 会議の途中で。夜中にふと目が覚めた時に。あるいは見知らぬ土地の路地を歩いている時に。


 あのイントロが始まると、私は一瞬で子供に戻る。

 6畳の茶の間。ブラウン管のテレビ。日曜日の朝の光。


 この連作短編集は、そんな記憶から生まれた。


 昭和という時代に育ち、毎週日曜日の朝、「兼高かおる世界の旅」を見て、まだ見ぬ世界に憧れたひとりの旅人の物語である。


 ここに記されることは、すべてが事実ではない。

 しかし、すべてが嘘でもない。


 旅人の心の中では、夢も現実も、過去も現在も、同じ空の下にある。


 パンナムの翼は消えた。

 だが、その翼が運んだ夢は、いまもどこかで生き続けている。


 この物語が、あの頃の空の色を少しでも甦らせることができれば、それ以上のことはない。

 




1話


パンナムの翼

―スペイン・カダケスにて―


 今朝、夢を見た。

 目が覚めてもまだ、その夢の温もりが指先に残っていた。

 私はいま、バルセロナのホテルの一室にいる。窓の外には地中海の光が溢れ、白い壁が朝の眩しさを跳ね返している。旅を始めて三週間が経った。羽田を発ち、ロンドンを経由して、パリへ、そしてここスペインへ。現代の航空会社のシートに座りながら、私はいつも同じことを思う。あの頃の翼は、もっと夢を積んで飛んでいた、と。

 夢の中に、兼高かおるさんが現れた。

 白い手袋をはめた手を差し伸べ、にっこりと微笑んでいた。あの画面の中でいつも見ていた、凛とした、しかし温かい笑顔だった。

「行きましょう」

 彼女はそう言った。

「えっ、どこへ?」

 私が問うと、

「パンナムでならば、どこへでも」

 と、また微笑んだ。

 パンナム。パン・アメリカン航空。あのブルーの地球儀のロゴ。子供の頃、テレビの画面を通してしか知らなかった、憧れの翼。

 夢の中の空港は、どこか昭和の羽田に似ていた。搭乗橋などなく、タラップを上って機内に入る。客室乗務員が笑顔で迎えてくれる。シートは広く、窓は丸く、エンジンの音さえ心地よかった。

 機はあっという間にスペインの空へ。眼下に広がる地中海の青は、現実のそれとまったく同じ色をしていた。

「どこへ参りましょうか」と兼高さんが訊く。

「ダリに会いたい」

 気がつけばそう答えていた。以前にドキュメンタリーで見た、カダケスの白い家。岩だらけの海岸線。そしてあの奇妙な口髭の芸術家。

 飛行機はカダケスの上空を旋回した。

 

 

 サルバドール・ダリは、思ったより小柄だった。

 夢の中の彼は、カダケスの崖の上に立っていた。海風に長いコートの裾を靡かせ、あの特徴的な口髭を指で撫でながら、こちらを見ていた。目は鋭く、しかし笑っていた。

「ようこそ」

 彼はスペイン語で言い、それがなぜか日本語に聞こえた。夢とはそういうものだ。

「あなたの絵を見せてもらったよ」

 ダリは言った。私は驚いた。私の絵など、見せた覚えがない。

「いずれ、僕のようになる」

 彼は笑った。からかっているのか、本気なのか、判別がつかなかった。

「いえ、ただの落書きです」

 うつむくと、

「そんなことはない。いつか表に出る日が来る」

 ダリは私の手を取り、固く握手をした。その手のひらは、意外なほど温かかった。

「そうだ。私のように、髭を付けたら良い」

 彼は自分の口髭を誇らしげに撫でた。

「そこがアンテナとなって、アイデアが湧いて来る」

 なるほど、と思った。夢の中の私は真剣にそれを検討し、気がつけば顎を撫でていた。伸ばしてみよう。アンテナとして。宇宙からインスピレーションを受け取るために。

 しかしその瞬間、

「それは似合わないわよ」

 兼高さんの声がした。そして、ちょきん、という音がして、伸びかけた髭の夢が断ち切られた。

「あっ!」

 と思った瞬間、目が覚めた。

 

 

 バルセロナの朝。

 白い天井を見上げながら、しばらく動けなかった。夢の温度がまだ手のひらに残っていた。ダリの握手の感触が。兼高さんの笑顔が。

 私はスマートフォンを手に取り、カダケスへのバスの時刻を調べた。

 バルセロナから北へ約二時間。コスタ・ブラバの岩だらけの海岸線の先に、その白い村はある。ダリが愛し、ピカソも訪れた場所。

 夢の続きを見に行こう、と思った。

 バスの窓から地中海を眺めながら、私は子供の頃の日曜日の朝を思い出していた。

 テレビの前に正座して、画面に釘付けになっていた。あの音楽が流れ始めると、胸が躍った。「兼高かおる世界の旅」。毎週、見たことのない世界が現れた。砂漠、ジャングル、雪山、大都市。そしてその全てを、あの凛とした女性が颯爽と旅していた。

 パンナムの機内で微笑む兼高さん。タラップを降りる兼高さん。現地の人々と話す兼高さん。

 幼い私にとって、彼女は「世界」そのものだった。

 カダケスのバスターミナルで降り、坂道を下ると、白い家々の間から海が見えた。

 夢で見た景色と、ほとんど同じだった。

 岩に腰をおろし、地中海を見ていると、どこかでアラウンド・ザ・ワールドのメロディが流れてくるような気がした。

 風だけが、答えた。

 

2話


アラウンド・ザ・ワールド

―羽田、出発の記憶―



時折、突然、頭の中でその曲が流れることがある。

 ——いや、最近は、前よりも少し頻繁に流れるようになった気がする。


 会議の途中で。夜中に目が覚めた時に。あるいは見知らぬ土地の路地を歩いている時に。


 アラウンド・ザ・ワールド。


 あのイントロが始まると、私は瞬時に子供に戻る。6畳の茶の間。ブラウン管のテレビ。日曜日の朝の光。

 旅を始めたのは、その曲のせいかもしれない。

 

 

 リスボンに着いたのは夕暮れ時だった。

 テージョ川の対岸に沈む夕陽が、街全体をオレンジ色に染めていた。石畳の坂道を路面電車が上っていく。洗濯物が風に揺れている。どこかの窓からファドが流れていた。

 この街には何か、昭和に似た匂いがある、と思った。傷んだ壁のタイル。年老いた猫。時間がゆっくりと流れている感覚。

 ホテルに荷物を置き、古い街並みを歩いた。

 路地の角に小さなカフェを見つけ、エスプレッソを頼んだ。隣のテーブルに座った老人が、こちらを見て、にこりとした。

「日本から?」

 英語で訊かれた。頷くと、

「遠いところから来た」

 と言い、何か懐かしそうな顔をした。

「昔、日本の女性がこの店に来たことがある。テレビの仕事をしていると言っていた」

 老人は言った。

 心臓が、ひとつ、跳ねた。

「いつ頃の話ですか」

「もう50年以上前だろう。しかし覚えている。非常に上品な方だった。カメラマンと一緒に来て、街のことをたくさん質問された」

 老人はコーヒーをひと口飲み、遠い目をした。

「また来ると言っていた。でも、その後は来なかった」

 私は何も言えなかった。

 兼高かおるさんが、ここに来ていたかどうか、確かめる術はない。しかし、その話を聞いた瞬間、頭の中でアラウンド・ザ・ワールドが流れ始めた。

 

 

 日本を初めて出た日のことを、私は今でもよく覚えている。

 羽田空港。まだ成田ではなかった頃の、あの懐かしい空港。父に連れられ、見送りのデッキから飛行機を眺めた。タラップを上っていく人々。エンジンの轟音。滑走路を走り始めた機体が、やがて空へと消えていく。

「あれに乗って、どこへでも行けるんだ」

 父が言った。

 どこへでも。

 その言葉が、ずっと頭に残った。

 兼高さんが毎週テレビで見せてくれた「どこへでも」。パンナムの翼に乗れば、世界中のどこへでも行ける。まだ見ぬ場所、まだ聞いたことのない言葉、まだ食べたことのない食べ物。全部が、どこかに待っている。

 大人になり、最初に海外へ行く機会が来た時、私はパンナムを選んだ。

 間に合った。

 あの会社が消えてしまう前に、一度だけ乗ることができた。機内に入った瞬間、子供の頃の夢が一気に現実になった気がした。シートに座り、安全ベルトを締め、窓の外を見ると、地上の灯りが遠ざかっていった。

 頭の中で、あの曲が流れていた。

 

 

 リスボンの夜。

 老人のカフェを出て、川沿いを歩いた。対岸の灯りが水面に揺れていた。

 スマートフォンで調べると、兼高かおるさんはポルトガルも訪れていた。1960年代のことだった。

 やはり来ていたのかもしれない、と思った。あの小さなカフェに。石畳の坂道を上り、ファドを聴き、テージョ川の夕陽を眺めた。

 川風が頬を撫でた。

 どこかで、猫が鳴いた。

 そして、また、あの曲が流れ始めた。頭の中で。胸の奥で。

 アラウンド・ザ・ワールド。

 古き良き時代、という言葉が好きではなかった。過去を美化することへの抵抗があった。しかし今は少し、考えが変わっている。

 あの頃が良かったのではなく、あの頃に見た夢が、今の私を動かしている。そういうことなのかもしれない。

 兼高さんが世界を見せてくれた。

 だから私は、今日もここにいる。

 

3話


目黒の祈り

―東京、帰国の翌朝―


 旅から帰ると、いつも同じことをする。

 荷物を解く前に、目黒へ行く。

 正確には、目黒区内のある場所の前を通る。素通りができないのだ。気がつけば足が止まり、手を合わせている。

 兼高かおるさんが眠る、その街。

 

 

 帰国したのは真冬の朝だった。

 成田から電車に乗り、荷物を転がしながら目黒へ向かった。スーツケースの車輪が、石畳の上でがたがたと音を立てた。

 住宅街の細い道を歩いていると、記憶が重なった。

 一度だけ、お会いしたことがある。

 ある小さなイベントの席で、遠くから拝見しただけだった。しかし、その瞬間の映像は、今も鮮明に残っている。

 白いスーツ。背筋の伸びた立ち姿。会場の誰とでも同じ目線で話される様子。テレビの中の人が、目の前にいる。そう思うと、声をかけることもできず、ただ遠くから見ていた。

 それだけで、十分だった。

 あの方が実在したことを、この目で確かめることができた。それだけで。

 

 

 目黒の坂道を上りながら、私は考えていた。

 憧れとは何か、と。

 幼い頃にテレビで見た兼高さんへの気持ちを、単純に「憧れ」と呼んでいた。しかし今になって思うと、それはもっと複雑なものだったかもしれない。

 見たことのない世界への渇望。女性が一人で世界を旅するという、当時としては革命的な姿への驚き。上品さと強さが同居したあの佇まいへの、言葉にならない感動。

 そしてなにより、彼女が毎週届けてくれた「外の世界」への、止みがたい好奇心。

 それらが混ざり合って、私の中で「旅」というものへの、根深い欲求が育っていった。


気がつけば、坂の途中で立ち止まっていた。

 冬の風が、枯れ葉をひとつ転がし、やがてどこかへ運んでいった。

 私は手を合わせた。

 声には出さず、心の中で言った。

 ——あの頃は、良かったですね。

 すると、風がふわりと吹いた。

 気のせいかもしれない。

 しかし確かに、何かが触れた気がした。

 それは言葉ではなかったのかもしれない。

 ただ、こんなふうに聞こえた気がした。

 ——次の世では、ご一緒しましょうね。

 私は、しばらくその場を動けなかった。

 

 

 その夜、荷物を解きながら、旅で撮った写真を見返した。

 カダケスの白い岩。リスボンのタイル。マドリードの夕暮れ。

 どの写真にも、かつてパンナムの翼が運んだ誰かの足跡があるように思えた。兼高さんが歩いた道かもしれない。カメラを抱えたスタッフが走り回った路地かもしれない。

 そう思うだけで、写真の色が少し変わって見えた。

 旅とは、先人の足跡を辿ることでもある。

 そして、次の誰かのために、新しい足跡を残すことでもある。

 明日、また次の旅の計画を立てよう。

 パンナムはもうない。しかし、空はある。

 どこへでも行ける。

 あの頃、彼女が教えてくれた通りに。

 

4話


髭のアンテナ

―パリ、芸術家たちの街で―


 パリに来るたびに、ダリの夢を思い出す。

「髭をアンテナにしろ」

 あの言葉が、モンパルナスの路地では特にリアルに蘇る。かつてここで生きていた芸術家たちの気配が、まだ石畳の隙間に残っているような気がするからだ。

 ピカソ、モディリアーニ、シャガール、藤田嗣治。

 そしてダリも、若い頃パリに来ていた。

 

 

 モンパルナス墓地の前を通りかかった時、吸い込まれるように中に入った。

 観光客の姿はまばらで、枯れ葉が散らばる小道を一人で歩いた。サルトル、ボーヴォワール、モーパッサン、ブランクーシ。それぞれの墓石に花や石が供えられていた。

 ベンチに腰をおろして考えた。

 天才と呼ばれた人々は、どこからアイデアを受け取っていたのか。

 ダリはシュルレアリスムを「宇宙との対話」と呼んだことがある。眠りと目覚めの狭間、意識がまだ完全に戻っていない瞬間に、宇宙からのメッセージを受け取る。それを絵にした。それが彼の創作の源泉だった。

 髭はアンテナだ、と彼は言った。

 笑い話のように聞こえるが、私は今は笑えない。

 なぜなら私も、夢の中で何かを受け取ることがあるから。

 

 

 あの夢の翌朝、私は実際に鏡の前で顎を撫でた。

 剃っていない無精髭が、指の腹にざらりと触れた。

 伸ばしてみようか、と本気で思った。ほんの一瞬だったが。

 しかしすぐに打ち消した。夢の中の兼高さんに切られたのは、正解だったかもしれない。似合わないことは、鏡を見ればわかる。

 けれども、あの夢は何かを教えてくれていた。

 感度を上げろ、ということかもしれない。アンテナを張れ、ということかもしれない。形は髭でなくてもいい。旅がアンテナになる。出会いがアンテナになる。見知らぬ街の空気がアンテナになる。

 モンパルナスの午後。

 どこからかアコーディオンの音が聞こえてきた。

 枯れ葉が舞い上がり、また落ちた。

 その瞬間、頭の中に一枚の絵が浮かんだ。完全なイメージではなかったが、何か核心に触れるものが、ほんの一瞬、現れた。

 これがそうなのかもしれない。

 アンテナが、何かを受け取った瞬間。

 

 

 パリの夜は、カフェで終わる。

 赤いビストロの椅子に座り、ヴァン・ショーを頼んだ。温かいスパイスの香りが、鼻先に漂った。

 隣のテーブルで、老夫婦が静かに食事をしていた。向かいのテーブルでは、若い二人が何かを熱心に話していた。パリの夜は、いつもこうだ。それぞれの物語が、それぞれのテーブルで静かに展開されている。

 兼高さんも、こういう夜を何度も過ごしたはずだ。世界中の、こういうカフェで。

 そしてカメラが回っていない時間に、何を考えていたのだろう。

 見てきた世界の広さと、番組に収められる情報の少なさのギャップを、どう折り合いをつけていたのだろう。

 旅人には、常にそのジレンマがある。

 感じたことの100分の1も、言葉にできない。

 それでも旅に出る。なぜなら、その99を感じることにこそ、意味があるから。

 ヴァン・ショーを飲み干した。

 明日は南へ向かう。

 アンテナを張って。

 

5話


昭和の空の色

―プラハ、夢の続きを探して―


 昭和という時代を、どう説明すれば良いのだろう。

 プラハの旧市街を歩きながら、私はずっとそのことを考えていた。

 石畳の広場。中世の塔時計。観光客の波の中に混じりながら、私の頭の中では昭和の記憶が上映されていた。

 白黒テレビが消えてカラーになった頃。冷蔵庫と洗濯機が家に来た日。近所の商店街の賑わい。駄菓子屋の匂い。そして毎週日曜日の朝、テレビから流れる、あの音楽。

 

 

 プラハに来たのは、半ば衝動的だった。

 ウィーンからの列車に乗り込んだはいいが、当初の目的地はブダペストだった。それがなぜか、プラハ行きの車両に乗っていた。

 車窓から流れるボヘミアの丘陵を眺めながら、これでいい、と思った。旅とはそういうものだ。計画通りにいかないことが、最良の経験を連れてくる。

 プラハ本駅に降り立った時、空気の感触に何かを感じた。

 重さのある空気。歴史の積み重なった街特有の、時間の密度。

 それは、昭和の日本の街角に似ていた。

 

 

 カフカの生家の近くにある古書店に迷い込んだ。

 外国語の本が雑然と積み上げられた店内に、一人の老主人がいた。眼鏡をかけ、分厚い本を読んでいた。客が入っても顔を上げなかった。

 棚を眺めていると、一冊の写真集が目に入った。

 古い航空会社のパンフレットを集めたものだった。パンナムのページを開くと、あの青い地球儀のロゴが現れた。

 胸が、きゅっとなった。

 1960年代のパンナムの客室。広い座席。制服姿の乗務員。機窓から見える雲海。それらの写真が、色褪せた紙の上に並んでいた。

 老主人に値段を訊くと、指で数字を示した。手頃な額だった。

 迷わず買った。

 

 

 ホテルに戻り、ベッドの上で写真集を眺めた。

 昭和のあの頃、こんな機内で兼高さんは世界を飛び回っていたのだ。広告には「世界はパンナムでできている」という文句があった。大袈裟ではなく、あの時代の旅人にとって、それは真実だったかもしれない。

 写真集の最後のページに、羽田空港の写真があった。

 1960年代の羽田。

 タラップを降りてくる人々。出迎えの群衆。日本の旗。

 その中に、白いスーツの女性の姿が見えた気がした。

 気のせいだろう。しかし、見えた気がした。

 プラハの夜が窓の外で深まっていった。

 写真集を胸に抱いて、目を閉じた。

 また夢を見るだろうか。

 翼の夢を。

 昭和の空の色をした、あの夢を。

 

6話


次の世で

―旅の終わりに、あるいは始まりに―


 旅は、終わらない。

 帰国するたびにそう思う。物理的な旅は終わっても、何かが続いている。記憶の中で、夢の中で、次の計画の中で。

 羽田の到着ロビーを歩きながら、私は次はどこへ行こうかと考えていた。

 

 

 旅を終えた人間の目には、空港が違って見える。

 出発前は入り口に見えたものが、帰国後は出口に見える。いや、どちらでもある場所に見える。旅立ちと帰還が同時に存在する、閾の場所。

 羽田はかつて、日本と世界の唯一の接点だった。

 あの頃の羽田を知らない世代には、想像しにくいかもしれない。国際線のターミナルに集まる人々の顔の、あの熱気。旅立つ者と見送る者の、あの感情の密度。

 パンナムの機体が滑走路を走り始めると、見送りのデッキから歓声が上がったという。

 日本が、世界へ繋がった瞬間の声だったのかもしれない。

 

 

 私が間に合ったのは、奇跡に近かった。

 パンナムに乗ったのは、廃業のほんの数年前だった。あの体験がなければ、今の私の旅への気持ちは、少し違っていたかもしれない。

 子供の頃の夢が、形を持った瞬間だった。

 テレビの画面の中にしかなかったものが、実体を持って目の前に現れた。広い客室。洗練されたサービス。機窓から見える地球の曲線。

 ああ、世界はあった。本当にあった。

 そう思った。

 

 

 兼高かおるさんが亡くなられたのを知ったのは、旅先だった。

 スマートフォンのニュースで目にした時、しばらく画面を見つめたまま動けなかった。

 旅先で知る訃報は、どこか夢の中のことのように感じる。現実の感触が薄れた場所にいるせいか、悲しみが直接来ない。

 しかしその夜、ホテルの部屋で一人、気がつけば泣いていた。

 なぜ泣いているのかわからなかった。会ったのは一度だけで、それも遠くから見ていただけだった。しかし確かに泣いていた。

 たぶん、子供の頃の自分が泣いていたのだと思う。日曜日の朝に毎週テレビの前に座っていた、あの子が。

 

 

 帰国して最初の日曜日の朝、目が覚めると頭の中でアラウンド・ザ・ワールドが流れていた。

 窓から差し込む光の中で、しばらくその音楽を聴いていた。

 旅の記憶が、次々と浮かんだ。カダケスの白い岩。リスボンの夕陽。モンパルナスの枯れ葉。プラハの写真集。

 そしてその全ての背後に、あの声が聞こえた。

「次の世では、ご一緒しましょうね」

 目黒の風が運んできた言葉。

 次の世。

 もし次の世というものがあるなら、私はまた旅をしているだろう。そしてどこかの空港で、白いスーツの方とすれ違うかもしれない。

「行きましょう」

 そう言われたら、今度こそ迷わず答えよう。

「はい、どこへでも」

 と。

 

 

 旅は終わらない。

 昭和の空の色は、まだ頭の中に残っている。

 パンナムの翼は消えても、それが運んだ夢は残っている。

 そして今日も、どこかで誰かが旅立つ。

 新しい翼で、古い夢を携えて。

 アラウンド・ザ・ワールド。

 世界は、まだそこにある。





〜エピローグ〜


今朝

夢の中で

あの人が微笑んだ


「行きましょう」


えっ、と問うと


「パンナムでならば

どこへでも」


と、あの笑顔で言う


ならば、と私は言った

ダリに会いたい、と


白い村

地中海

風の中で

彼は笑っていた


「君の絵は

いずれ、僕のようになる」


そんなはずはない、と

うつむく私に


「いつか表に出る」


そう言って

強く手を握ってくれた


「それなら——

私のように髭を」


アンテナになる、と言う


なるほど、と

本気で伸ばそうとしたその時


「それは似合わないわよ」


ちょきん、と切られて

夢は終わった



時折

あの曲が流れる


アラウンド・ザ・ワールド


あの頃

日曜日の朝

テレビの前で

世界を旅していた


あの人がいた


もしかすると

最初に憧れた人だったのかもしれない


一度だけ

お会いしたことがある


それでも

その瞬間は消えない


目黒を通ると

足が止まり

手を合わせる


「あの頃は良かったですね」


そう呟くと


どこかで

あの声がする


——次の世では、ご一緒しましょうね



パンナムの翼は消えた


けれど

あの空の色は

まだ心に残っている


そして今日も

どこかで誰かが旅立つ


新しい翼で

古い夢を乗せて


アラウンド・ザ・ワールド


世界は

まだそこにある


 

アマゾン キンドル



〜あとがき〜


 ある朝、夢の中に兼高かおるさんが現れ、「行きましょう」と微笑んだ。パンナムでダリに会いに行き、髭を伸ばそうとして切られ、目が覚めた。

 その夢が余りにも鮮明だったので、書かずにはいられなかった。

 兼高かおるさんは、1928年に生まれ、2019年に亡くなられた。1959年から1990年まで、31年間にわたって「兼高かおる世界の旅」を制作・放送し続けた。訪問した国は百五十か国以上。当時の日本では前例のない女性一人旅の記録だった。

 その番組が終わって30年以上が経つ。しかしあの番組を見て育った世代の中に、彼女は今も生きている。アラウンド・ザ・ワールドが流れるたびに。旅立つたびに。


パン・アメリカン航空は1991年にその歴史を閉じた。

 しかし、その翼が運んだ夢は、今も多くの人の中に残っている。

 アラウンド・ザ・ワールドが流れるたびに。

 旅に出ようと思うたびに。

 あの空は、今もどこかで続いている。

 ——次の世では、ご一緒しましょうね。

 その言葉を胸に、また旅に出ようと思う。



ーKindle 予定ー



本牧亭の嘘
〜見てきたように嘘を言う〜

~序章~

講釈師は
見てきたように嘘を言う


ガキの頃
こっそり覗いた 本牧亭で

面倒そうな
厄介そうな
座敷に寝転がるオヤジ連中に

「おい、そこの若いの」

落語家になりたいと言ってたようだが
こんなところに出入りしてると
いずれ
落語じゃあなくなっちまうぞ

――そう笑われたことを
今になって思い出す




1. 記憶の蓋

デスクの隅に置かれた、古びたギターピックが、西日に透けている。
指先で弾くと、乾いた音がひとつ、部屋に落ちた。

その瞬間、匂いが立ち上がる。

畳のささくれ。安煙草。湿った古い木の気配。

――上野、本牧亭。

まだ「ガキ」と呼ばれていた頃、僕はあの場所を覗き見た。
鈴本の華やかさとは違う、どこか世捨て人の溜まり場のような空間。

潜り込んだ座敷には、人生を舐めきったような顔の男たちが寝転んでいた。

「おい、そこの若いの」

声に肩が跳ねる。
脂ぎった顔の男が、指をさして笑っている。

「お前さん、落語家になりたいそうだな」

返事に詰まる僕に、隣の男が酒の息を吐いた。

「こんなとこで講談なんか聞いてるとよ――
いずれ、落語じゃあなくなっちまうぞ」

座敷が揺れるほどの笑い。

意味なんて分からなかった。
ただ、場違いな場所に紛れ込んだ気恥ずかしさだけが残った。

――だが今、その言葉は消えない。

呪いのように。
あるいは、祝福のように。

講釈師は、見てきたように嘘を言う。

そして僕は今、その嘘の中にしかない真実を探している。


2. 張り扇の響き

笑いが止み、高座にひとりの講釈師が上がる。
釈台と扇子、それだけで空気が変わった。

「パンッ!」

張り扇の音が、背骨を打つ。

語られるのは、もう誰も覚えていないはずの物語。
侍の意地、女の涙、名もなき者の死。

見てきたように嘘を言う――
だがそこには、確かに景色があった。

雪の冷たさ。
刀の光。
死を前にした男の息。

息をするのも忘れて、僕は聞いていた。

ふと横を見ると、さっきのオヤジが、目を細めている。
そこには、さっきまでの意地の悪さはなかった。

ただ、物語の底に潜る男の顔。

――落語じゃあ、なくなっちまう。

その言葉が、胸に沈む。

笑い飛ばせるものと、そうでないものがある。

どうしても笑えないもの。
消えずに残るもの。

それを語るには、軽さだけでは足りない。

もっと重く、
もっと厄介で、
もっと嘘に近い何かがいる。

その日、外に出た上野の景色は、少し違って見えた。

人の背中に、それぞれの「語られない物語」が透けていた。

気づけば僕は、
笑いよりも、情を。
日常よりも、深みを、追うようになっていた。


3. 4Kの遺言

モニターの中で、4Kの映像が無音で流れている。

あまりにも正確で、
何も残らない。

あの座敷の匂いは、そこにはない。

引き出しから、古いピックを取り出す。
指が、かつて覚えたコードを探る。

少し外れた音が、部屋に広がる。

これは、あいつの形見だ。

一緒に音を鳴らした親友は、もういない。
カメラがすべてを残せる時代の、ずっと前にいなくなった。

声も、
笑い方も、
全部、少しずつ変わっていく。

思い出すたびに、違うものになる。

記憶は、嘘だ。

削られ、歪み、混ざり合い、
最後に残ったものだけが残る。

それでも――
それだからこそ、それは消えない。

通知が光る。

「先生、進んでますか?」

キーボードに手を置く。

僕が書いているのは、記録じゃない。

見てきたように嘘を言う。

それでも残るものを、書いている。


4. 嘘の誠

上野の街は、もうすっかり変わった。
本牧亭の影も形もない。

それでも、聞こえる。

張り扇の音。
語りの熱。
あの笑い声。

僕は今、別の場所で続きを書いている。

どれだけ時代が進んでも、
人が求めているのは、記録じゃない。

物語だ。

たとえそれが、嘘でもいい。

その嘘が、誰かを救うなら。
誰かを明日へ押し出すなら。

それはきっと、真実よりも誠に近い。

最後の一行を書き終える。

鏡の中の自分が、少しだけあの頃のオヤジに似ている。

遠回りだった。

軽やかでもなかった。

それでも――

僕はすっかり、嘘つきになっちまったよ。

ピックを握り、弦を弾く。

「見てきたように、言わせてもらう」

送信ボタンを押す。

本牧亭のオヤジさん。

あんたたちの言った通りだ。

窓の外、曖昧な夕焼けが、上野の空を染めていた。







アマゾン キンドル



〜エピローグ〜

上野・本牧亭。かつてそこには、嘘を語る場所があった。

講釈師は、見てきたように嘘を言う。だがその嘘は、なぜか消えない。

記録には残らない匂い、声、熱。失われていく記憶と、歪みながらも残る真実。

落語になりきれなかった“あの頃”を抱えたまま、ひとりの男が辿り着いたのは、「嘘を書く」という生き方だった。

これは、記憶と物語のあわいにある、静かな告白である。






白いベスパ
― ある春の記憶 ―

一九七九年 東京・渋谷/西荻窪


プロローグ ―霧の中の笑顔―

思い出そうとするたびに、霧が降りてくる。
眼を閉じると、あの頃の渋谷の路地裏の匂いは戻ってくる――排気ガスと、どこかの店から流れ出るカレーの香りと、雨上がりのアスファルト。だが、彼女の顔だけは、いつもそこで止まってしまう。輪郭はある。髪の長さも、肩のあたりの丸みも。ただ表情が、霧に溶けて消えていく。
もう諦めていた。四十五年も前のことだ。記憶というのはそういうものだ、と田中健二は自分に言い聞かせてきた。
その朝、彼は夢から飛び起きた。
六十八歳になった健二が住む横浜の小さなマンション。窓の外には師走の鈍い空が広がっていた。心臓がまだ早鐘を打っている。枕に頭を戻しても、さっきまで夢の中にいた感覚が抜けない。
彼女が、笑っていた。
「さよなら」と言いながら、あの頃と変わらない二十歳の顔で、笑っていた。霧など一切なかった。はっきりと、鮮明に。
健二は布団の上に座り直し、荒い息を整えながら、昨日のことを思い出した。
机の引き出しの奥から出てきた古いノート。ページをめくっていたら、落書きが一枚。丸みを帯びた、二人乗りの白いベスパ。学生の頃に描いたものだ。気まぐれに、もう一枚、鉛筆で描いてみた。線を引くたびに、あの音が戻ってくる気がした――エンジンのあの独特の、のどかな振動音。
まさか、と健二は思う。落書き一枚が四十五年の霧を晴らすわけがない。
だが目頭が、じわりと熱くなった。



一章 ―先輩のベスパ―

一九七九年の春、田中健二はニ十一歳だった。
東京の西、中央線沿いの古いアパートに、地方から出てきた友人の山本浩と二人で転がり込んで、もう三年が経つ。八畳一間に二段ベッド、共同の風呂とトイレ。家賃は二人合わせて月三万二千円。安アパートとは言っても、渋谷の大学まで電車一本で出られる立地は捨てがたく、二人は笑いながら暮らしていた。
その日の午後、先輩の北野誠が突然やってきた。
四年生の北野は、長野の実家に帰ることが決まっていた。就職口は父親の農機具店。東京での学生生活に区切りをつけ、荷物をまとめているところだった。
「そろそろ帰るからさ」と北野は狭い部屋に腰を下ろし、缶ビールを一口飲んだ。「ベスパ、誰か引き取ってくれないか」
健二は思わず身を乗り出した。
北野のベスパは有名だった。白い車体に鉄製の小さなキャリア、二人乗りのシート。一九六〇年代のイタリア製で、年代物にもほどがある。北野はそれを環八沿いのバイク屋で安く買い、直しながら乗り続けていた。エンジンをかけるたびにどこか違う箇所が壊れ、修理費がかさむと嘆きながらも、北野は愛おしそうにその白い車体を磨いていた。
「俺に下さい」と健二が言うと、山本も「いや、俺が」と割り込んだ。北野は困ったように頭を掻いた。「まあ健二でいいか。山本はバイク乗れないだろ」
「でも先輩、いくらですか」と健二は訊いた。
北野は少し間を置いてから、首を振った。
「カネは要らない。持って帰れないし、ボロボロだから修理費がかかる。大事に乗ってくれ」
「でも、それじゃあ」
「いいんだよ」
北野の声は穏やかだった。自分が三年間乗り続けてきたものが、知っている人間の手に渡ることへの安堵が、その短い言葉に滲んでいた。
「直しながら乗るのが、あのベスパとの付き合い方だから。環八の〈ミツオモータース〉って店、知ってるか? そこのオヤジに頼めばわかってくれる」
その翌週、北野は卒業式を終えて長野へ帰っていった。
健二はアパートの前に停めた白いベスパを、しばらくじっと眺めた。塗装が剥げた箇所が三か所。右のミラーには蜘蛛の巣の痕。シートのビニールが端のほうでめくれかけている。それでも、その丸みのある車体は、どこか品があった。
翌日の朝、エンジンをかけようとしたら、かからなかった。



二章 ―ミツオモータース―

環八通りは、いつ走っても忙しない道だ。
トラックと乗用車が混在し、信号のたびに膨れ上がる渋滞。その沿道にぽつりぽつりと古い商店が並ぶ。健二はベスパを押しながら、地図を頼りに歩いた。エンジンがかからないのだから走れない。押すしかない。
〈ミツオモータース〉は、看板が傾いた古い平屋だった。敷地にはバイクが所狭しと並んでいる――国産の旧型、外国製の珍品、部品取りのためにバラされたもの。全部、古い。
「こんちは」
健二が声をかけると、奥から作業着姿の男が出てきた。五十代くらい、角ばった顔に油まみれの手。眉間に縦皴を寄せたまま、じろりと健二を見た。
「なに」
一言だった。歓迎の気配はまるでない。
健二はベスパを北野から譲り受けたこと、エンジンがかからないことを説明した。男はベスパをちらりと見て、鼻を鳴らした。
「今、忙しいからすぐ出来ねーよ」
「急がないので、置いてきます」
「いつ出来るかわかんねーよ。それで良けりゃそこいらへんに置いてきな」
健二は苦笑いをこらえながら、ベスパを端に停めた。名前と電話番号を書いた紙を渡すと、男はそれを作業着のポケットに押し込み、また奥へ引っ込んでいった。
一ヶ月後、電話がかかってきた。「出来たよ。邪魔だから早く取り来て」それだけ言って、切れた。
急いで環八まで出ると、店には今日も面倒そうな客が数人たむろしていた。
「ありがとうございます。おいくらですか」と健二が訊くと、男は工具を置いて振り向いた。
「カネ? 要らねーよ」
「え?」
「簡単だったからな。キャブレターが詰まってただけだ」男は少し声のトーンを変えた。「それより、これ、北野くんのだろ? おまえ、大事に乗れよ」
そのとき初めて、男が笑った。口角を少しだけ上げる、不器用な笑みだった。
「北野先輩も、こちらにお世話になってたんですね」
「ああ。あいつは金がないくせに、よく変なバイク持ち込んできたよ」男の目に、懐かしむような光が宿った。「帰ったか。良かったじゃないか」
健二はお礼を言い、帰ろうとした。
「おい、ちょっと待て。おまえ、今、時間あるか」
「少しなら」
「じゃあ、このネエちゃんを西荻まで乗っけってってくれ」
健二が振り返ると、店の隅に、一人の娘が立っていた。



三章 ―澪―

娘はこちらを見て、困ったように微笑んだ。
年は自分と同じくらいだろう、と健二は思った。肩まである黒髪。目が大きく、鼻梁がすっと通っている。紺のジーンズに白いシャツ、くたびれたデニムのジャケット。特別に垢抜けているわけではないが、どこか芯のある立ち姿をしていた。
「すみません」と娘は言った。声はすこし低め、落ち着いている。「バイクを預けに来たんですが、帰りの足がなくて。でも、無理なら――」
「良いですよ」と健二は言った。タダで直してもらった上に断ったら、バチが当たる。「俺で良ければ」
娘は少し驚いたように目を見開き、それからまた微笑んだ。
店主は何も言わずに奥へ戻っていった。
二人は黙ったまま、ベスパに乗った。娘が後部シートに跨る感触が、背中に伝わる。健二はエンジンをかけ、環八を西へ走り始めた。
春の夕方の風が、横から吹いてくる。
「どのあたりですか」と健二は声を張り上げた。
「西荻窪の駅前で大丈夫です。ご迷惑でなければ――」
「全然」
ベスパは環八を滑らかに走った。修理上がりのエンジンは機嫌がよく、坂でもぐずらない。横を大型トラックが追い越すたびに、娘の腕が健二の腰にそっと触れた。
西荻窪の駅前が近づいたころ、娘が「そこの喫茶店で降ろしてもらえますか」と言った。茶色いテントの古い喫茶店。〈珈琲 むくろじ〉という看板が出ている。
「ここで」と健二が確認すると、「はい、お礼にお茶でも」と娘は言った。「せっかくだから、寄っていきませんか」
なんとなく断れなかった。
店の中はコーヒーの匂いと煙草の煙が混じり合っていた。窓際の席に向かい合って座ると、娘は「荻野澪といいます」と名乗った。
「田中健二です」
「田中さん、学生ですか」
「そうです。もう四年ですけど」
「私も四年です」澪は少し笑った。「あのバイク屋さん、怖そうですよね。でも、腕は確かだって友達に聞いて」
コーヒーが運ばれてきた。二人はしばらく話した。出身地、大学の専攻、好きな音楽。澪は国文学を専攻していて、詩を書くのが好きだと言った。健二は建築を学んでいて、澪は「いいですね、形になるものを作る人」と言った。
気がつけば二時間が経っていた。「もうこんな時間だ」と健二が言うと、澪は窓の外の暗くなった空を見て、「ほんとに」と笑った。
店を出ながら、健二は次も会えるかを考えていた。考えていたら、自然に口から出ていた。
「また、どこかで」
澪は立ち止まり、振り返って微笑んだ。「ええ、ぜひ」
電話番号を交換した。健二はベスパにまたがり、エンジンをかけた。エンジン音が夜の西荻窪に響き、娘の姿が後ろに遠ざかっていく。
惚れた、と気がついたのは、アパートに帰ってからだった。


四章 ―澪の側から―

荻野澪には、東京に来た理由があった。
島根の山間の町で生まれ育った澪は、子どもの頃から本を読んでいた。詩が好きだった。母親が読んでいた萩原朔太郎の詩集を盗み読みし、意味もわからないままノートに書き写した。言葉が音楽のように聞こえた。その感覚が忘れられず、国文学を学ぶために東京の大学を選んだ。
東京は怖かった。人が多く、誰も彼女を知らなかった。島根では「荻野さんとこの澪ちゃん」であることが当たり前だった。ここでは自分は記号に過ぎない。それが解放であり、恐怖だった。
西荻窪に決めたのは偶然だ。アパートを探している途中で入った〈珈琲 むくろじ〉で、マスターに「この辺は静かで良いよ」と言われた。マスターの話し方が島根の父親に似ていた。それだけの理由で、澪はこの街に根を下ろした。
あの日、澪はミツオモータースでひとり帰りを考えていた。バスか、タクシーか。そこへ、白いベスパの青年が現れた。
最初、正直に言えば、少し迷った。見知らぬ男性のバイクに乗るのは気が引ける。だが、店主の「乗っけってってくれ」という無造作な言い方と、青年の「俺で良ければ」という素朴な返し方が、どこか息が合っていた。
ベスパの後部座席は、思ったより小さかった。揺れるたびに、前の青年の背中に腕が触れそうになる。それが少し照れくさく、澪は背筋を伸ばして座り直した。環八の風は冷たかったが、嫌ではなかった。春の匂いがする。
〈むくろじ〉に誘ったのは、本当にお礼のつもりだった。ところが話し始めると、止まらなかった。田中健二という青年は、ぼんやりした顔をしているくせに、ときどき鋭いことを言った。澪が「詩を書く」と言っても笑わず、「形になるものを作りたいんですか」と訊いてきた。形にならない言葉を形にしようとしている、という核心に触れられた気がした。
会いたい、と澪は思った。また話したい。
その感情が恋と呼べるものかどうかは、その時点ではまだわからなかった。ただ、電話番号を教えるときに、手が少し震えた。


五章 ―西荻までの超特急―

それから二人はよく会った。
週に一度が、やがて二度、三度になった。健二はベスパで西荻まで走り、澪の住むアパートの前で待った。澪が下りてくるまでの時間、健二はエンジンを切って、煙草を一本吸った。路地の突き当たりに古い欅の木があって、春には葉が揺れた。
行く先はいつも決まっていないことが多かった。〈むくろじ〉に寄ることもあれば、阿佐ヶ谷や高円寺まで足を伸ばすこともあった。二人で古本屋を回り、澪が買った詩集を健二がページをめくって首を傾げ、澪が笑いながら説明する。そういう午後が何度もあった。
澪は気が強かった。島根育ちで朴訥そうに見えるが、芯の部分では一切引かない。意見が違えばはっきり言い、感情が昂ればそれを隠さない。健二もまた、流される性格ではなかった。二人が言い合いになるのは、決まって些細なことからだった。映画の感想、言葉の解釈、帰る時間。
「なんでそういう言い方するの」
「俺は正直に言ってるだけだ」
「正直って、鋭利な刃物じゃないから」
澪の言葉は、ときどき詩のようだった。怒っているときでさえも。
喧嘩したあとは、どちらかが電話をかけた。だいたい健二のほうから、ぶっきらぼうに「ごめん」と言った。澪は少し間を置いてから「こっちも」と言った。それで終わった。
夏が来た。二人で乗ったベスパは、夏の夜の井の頭公園を抜けた。木立の間から月が見えた。澪が後ろから「きれい」とつぶやいた声は、エンジン音にほとんど消えていたが、健二の耳には届いた。
この時間がずっと続けばいい、と健二は思った。そう思いながら、同時に、何か後ろ暗い予感のようなものを感じていた。うまくいきすぎている。うまくいっているものは、どこかで必ず引っかかる。
その予感は、秋が深まったころに形になり始めた。


六章 ―島根からの手紙―

十月の末、澪のもとに父親から手紙が来た。
便箋三枚、丁寧な字で書かれていた。母親の体の調子が良くない。大した病気ではないが、一人で家事を切り盛りするのが難しくなってきた。卒業したら戻ってきてほしい。就職は島根でも探せる。
澪はその手紙を、机の引き出しにしまった。見ないふりをした。一週間、十日と経ち、引き出しを開けるたびに手紙の端が目に入る。わかっていた。断れない、ということは最初からわかっていた。一人っ子だった。母親のことを愛していた。島根を捨てるつもりで東京に来たわけではなかった。
だが、今は帰りたくなかった。
東京での四年間に、澪はようやく根を張り始めていた。〈むくろじ〉のマスターとの他愛ない会話、西荻の古本屋の棚の配置、中央線の窓から見える空の色。そして健二。
健二のことを、どこかで遠ざけるように考えていた、と澪は後になって気づく。傷つく前に、距離を置いておこうとしていた。島根に帰ることがほぼ決まっているのに、深く関わりすぎれば、別れの痛みが増す。だが、その打算は夏の夜の公園で崩れていた。月を見上げたあの瞬間に、何かが崩れていた。
十一月になって、健二と喧嘩した。原因は、今となっては覚えていない。言い合いの最中、健二が「お前はいつも自分の都合で動く」と言った。それは当たっていた。当たっていたから余計に腹が立った。
「あなたには関係ない」
その言葉が出た瞬間、澪は後悔した。しかし飲み込めなかった。健二の顔が、一瞬だけ傷ついたように見えて、すぐに無表情になった。
「そうかよ」
それきり、しばらく連絡が途絶えた。
澪は手紙を書いた。何度も書いては破った。電話もかけようとしたが、受話器を持ち上げて、また置いた。父親の手紙の返事を書いた。帰ります、春には。
それを書き終えた夜、澪は窓から西荻の暗い路地を眺めた。ベスパが来る気配はない。当たり前だ。怒らせたのは自分だ。
謝ろう、と決めた。今度こそ、ちゃんと話そう。でも――帰ることも、話さなければならない。


七章 ―さよなら、の前に―

仲直りの電話は、十一月の中頃にかかってきた。
「ごめん」と澪が先に言った。健二は少し驚いた。いつもは自分のほうが先だった。
「俺も」と健二は言った。「言い過ぎた」
「私もよ」
電話口で二人は少し笑い合った。それから澪が「会えないかな」と言った。「話したいことがある」
待ち合わせは〈むくろじ〉だった。澪はすでに席に着いていた。健二が向かいに座ると、澪はコーヒーカップを両手で包んで、まっすぐに健二を見た。
「春に、島根に帰ることにした」
短く、はっきりと言った。
健二は何も言わなかった。言葉を探したが、見つからなかった。窓の外では、師走前の西荻の商店街がひっそりと暮れていく。
「母が体を悪くして。一人っ子だから」
「……そうか」
「私も悩んだ。ほんとうに悩んだ。でも、帰らないわけにはいかないから」
「俺はどうすればいい」
そう訊いてから、健二は自分の問いが的外れだと気づいた。そういう話ではない。どうにかできる話ではない。
澪は首を振った。「どうもしなくていい。ただ、知ってほしかっただけ」
二人は長いこと、無言でコーヒーを飲んだ。マスターは何も言わずに、おかわりを持ってきた。
「怒ってる?」と澪が訊いた。
「怒ってない」
「ほんとに?」
「……怒ってない。ただ、もっと早く言ってくれれば良かった」
澪は少し目を伏せた。「そうね」
それから二人は、また何度か会った。クリスマスには間に合わなかった、と健二は後から思う。十二月の半ば、澪は荷物をまとめて島根へ発った。
最後に会ったのは、西荻窪の駅のホームだった。澪は大きなリュックを背負い、小さなトランクを引いていた。健二はそこまで送ってきた。
「元気でね」と澪は言った。
「お母さんによろしく」と健二は言った。
他に言えることがあった気がする。今なら言えるような気がする。だが二十ニ歳の健二には、言葉が見つからなかった。
澪は微笑んで、改札を通った。振り返らなかった。
健二はホームの外に立ったまま、電車が出るまで動けなかった。


八章 ―冬のベスパ―

一人になったベスパは、静かだった。
後部シートに誰も乗らない重みのなさが、かえって重く感じられた。健二はそれでも、週に何度かベスパに乗った。行き先はなかった。環八を南北に走り、多摩川まで出て、橋の上に停めて煙草を吸った。
冬の川は、冷たく光っていた。
山本が気を使って「飯でも行くか」と声をかけてくれた。行った。食べた。笑った。それでも帰りにベスパにまたがると、後ろが空っぽだった。
一月に、ベスパがまた壊れた。今度はブレーキの効きが甘くなった。
環八のミツオモータースへ持って行くと、店主はベスパをちらりと見てから、健二の顔を見た。
「残念だったな」笑って言った。店主なりの、慰めだった。
「ああ、まあ」と健二は答えた。
「若いうちはそういうもんだ」と店主は言い、またさっさと奥へ入ってしまった。
修理は三日で終わった。代金は取られなかった。今度は健二も無理に払おうとしなかった。
春になった。健二は卒業設計に取り組んでいた。小さな図書館の設計。棚と光の関係を何度も考え直した。締め切りまでの三週間、ほとんどアパートに籠もった。ベスパは外に停めたまま、乗らない日が続いた。
澪からの便りは一通も来なかった。健二も書かなかった。書こうとしたことはあった。便箋を取り出して、住所を書きかけて、止めた。書くべき言葉が見つからなかった。あの別れの言葉の続きが、自分の中でまだ形になっていなかった。
三月の末、健二は卒業した。就職は大阪の設計事務所だった。四月の頭には東京を離れなければならない。アパートを引き払う前に、後輩の村田に声をかけた。
「ベスパ、もらってくれないか」
村田は驚いた顔をした。「いくらですか」
「いいよ、カネは。ただ、ちゃんと直しながら乗ってくれ。環八のミツオモータースって店、行けばわかる」
「持って帰れないし、ボロボロだから修理費がかかるけどな」
言ってから、健二は北野先輩の言葉をそっくり繰り返していたことに気づいた。
村田がベスパにまたがるのを見ながら、健二は願った。お前にも、そういう出会いがあると良いな、と。




エピローグ ―白いベスパの夢―

六十八歳の田中健二は、横浜の自室で、スケッチブックを開いた。
昨夜の夢がまだ、胸の端に引っかかっている。澪が「さよなら」と笑っていた。あれほどくっきりした夢は初めてだった。四十五年越しに、霧が晴れた。
鉛筆を走らせながら、健二は思う。
あのころの自分は、下手くそだった。怒っているときに黙り込んで、大事なときに言葉を失った。もっと優しくできた場面が、指折り数えれば何度でも出てくる。だが四十五年経って気づいても、何かが変わるわけではない。
ただ――あの時間は、本物だった。
環八を走った夜風、井の頭公園の月、〈むくろじ〉のコーヒーの匂い。澪の声。後部シートの重み。全部、本物だった。
ベスパの絵が、スケッチブックの上で形を成してくる。丸みのある白い車体。二人乗りのシート。
健二はふと、村田のことを思った。あの後輩は、あのベスパで誰かと出会えただろうか。そしてミツオモータースの店主は――もうとっくに引退しているだろう。あるいは、もういないかもしれない。
北野先輩は長野で農機具店を継いだと、卒業後しばらくして風の噂に聞いた。澪のことは、何も知らない。島根で暮らしているのか、また東京に出てきたのか。
知らなくていい、と思う。知ろうとしなかった、というほうが正確かもしれない。あの別れは、あのまま終わっていたほうがいい。
だが夢の中で、澪は笑っていた。「さよなら」と言いながら、恨みごとのない顔で笑っていた。
それで十分だ、と健二は思う。
スケッチブックの上のベスパが完成する。白い車体。二人乗りのシート。後部には、誰も乗っていない。
でも、風は吹いている。
健二は鉛筆を置き、窓の外の師走の空を眺めた。
どこかで、あのエンジン音が聞こえる気がした。

(了)


アマゾン キンドル





今週のKindle 漏れを

もうひとつ…



僕らのロス疑惑
~マリブの空白~


~序章~
人は、疑惑を忘れる。
だが、自分の中の疑惑だけは、なぜか消えない。

ロス疑惑
 
時の男 三浦和義が去って
すっかり こんな話題もなくなり
あ~
こ~して他人は皆
忘れていくんだなあ~と思う今日
 
昨日
たまたま お客さまとLAの話題となり
そ~いえば
あの頃 LAにいたんですよ
でも 
僕は 一切関係ないですよ って 笑ったわけで。。。
 
確かにあの日
誰もが 思った事件
決して白ではなかった
限りなく黒に近いグレ~だった
そんな 30年も前の疑惑
しかし
疑わしきは罰せず の判決だったあの日
 
そして
なぜ サイパンで だったのか?
尚も
なぜ LAへと戻したのか?
 
おまけに
獄中にて終末を迎えた だなんて
迷宮入りか?
迷宮入りに せねばならなかったのか?
 
 
四半世紀前
TVでは連日報道されていたのを
今また 思い出す
 
ちょ~ど
僕らがアメリカに憧れ カリフォルニアの波を目指した時期で
もちろん
サーファーとして 聖地巡礼のつもりで行ったのに
あれだけのニュ~ス
おのぼりさん状態で 現場を見にも 行ったっけ。。。
 
そして
悪人だと わかっちゃいても
なぜか イカしたあの姿
 
成田での報道映像で
毎度 背負った ハンティングワ~ルドのバッグ
いつしか僕も欲しくなって
なんとか手にした コピ~物
あれは
いったい 何だったのだろ~か?。。。
 
 
この国では
無罪が確定したけれど
その後 繰り返す 細かなトラブル
 
尚も
水面下で動いていたロス市警
 
天は
神は
まだまだ
まだまだと
見続けていたのだろ~か?
 
そして
ロス市警は
と~と~疑惑を掴んだのだろ~か?
 
いずれにせよ
黒ならば
この世で裁かれる必要がある。。。 と思った矢先
この世での裁きは不可能となった
 
 
 
LAの波に慣れた頃
仲間と2人 西海岸を波を探してフラフラすることとなって
伝説のポイント マリブの海岸で出会った
そりゃあ~綺麗な 金髪の美女
 
ちょいと
サンディエゴまで乗せてって? なんて言われた相棒
 
すまん!! と 
僕に一言告げると
サーフボードを積んだままの僕らのレンタカ~を飛ばした
「おい、ボードは!」の声も届かず。。。
 
それじゃ~ って
マリブに残った僕
2日後にここで ってな~わけで
相棒とボードを失い
ただの「波を見つめる男」になった僕
 
しか~し
彼が 現れたのは 3日後だったわけで
 
なんや
気になる うすら笑顔
 
まさか
まさか
乗せてあげたお礼に
乗せて頂いたのだろ~か?
 
あああ~~~
 
それもまた
僕らの中での 四半世紀も前の ロス疑惑。。。
 
え?
お前は? 
3日間も?
マリブで?
何してたのか って?
波は最高だったのに
指をくわえて見てただけさ
あははは
 
それもまた
遠い 遠い ロス疑惑。。。
 
あの日
ドルは まだまだ 250円だった
 
そして
僕らも 若く
自由で アホで
怖いもの知らずだった。。。





マリブの三日間
―ロス疑惑の時代に、僕らは若かった ―




一章 成田発、夢行き

一九八五年の夏、成田空港は若者たちの熱気に満ちていた。
その熱気の中に、村上賢司と田島敬太もいた。二人の足元には、使い古されたサーフボードが二本、ハードケースに守られて横たわっている。
 賢司は搭乗口のベンチに腰を下ろし、くたびれたリーバイスのジーンズの膝を両手で叩きながら、ゲートの電光掲示板を眺めていた。ロサンゼルス行き、定刻出発。その文字を見るたびに、胃の奥が小さく波打つ。興奮なのか、不安なのか、自分でもよくわからなかった。
「なあ、賢司。向こうの波、本当に『ビッグ・ウェンズデー』みたいなのか?」
 隣に腰を下ろした田島敬太が、ひょろりとした首を伸ばしながら言った。田島は大学の同期で、気が合うのか合わないのかよくわからないまま、気づけばいつも一緒にいる男だった。
 「二百五十円くらいだ」
 「たけえな」
「だから言っただろ、日本でウェットスーツ新調してくるんじゃなかったって。向こうで買えば安かったのに」
「バカ、湘南の波で慣らしてから行かなきゃ、向こうのパワーに負けるだろ」
二人は、バイト代のほとんどをこの旅行とサーフギアに注ぎ込んでいた。ドルは二百五十円。無謀と言えば無謀だ。しかし賢司は二十八歳で、田島も同い年で、二人ともすでに会社を辞めていた。退路はない。ならば前に進むしかない。
 「ロス、どんなとこだと思う?」
「サンタモニカ、ハンティントン、そしてマリブ……。聖地だよ。映画みたいな波が待ってる」
 搭乗アナウンスが流れた。日本語の後に英語が続く。
 賢司はバックパックを背負い、立ち上がった。バックパックには着替えが四日分と、英和辞典と、カメラと、母が持たせてくれたインスタントみそ汁の袋が十個、そしてワックスが一塊入っていた。
 「行くか」
 「行くか」
二人は、愛おしそうにサーフボードケースを抱え上げると、搭乗口に向かう廊下を歩き始めた。日本が遠ざかっていく感覚は、不思議と怖くなかった。むしろ、やっと自分の物語が、本当の波が始まるような気がしていた。
 機内は思ったより混んでいた。田島は離陸して三十分で眠った。賢司は眠れなかった。
 機内のスクリーンには映画が映っていたが、音声は英語で、日本語字幕はない。ストーリーはわからなかったが、映像だけ眺めながら、賢司は頭の中で何かを整理しようとしていた。
 ただ、なんとなく、自分はここではないどこかへ行く必要があると、ずっと前から感じていた。東京で、決まったルートを歩いて、決まった電車に乗って、決まった仕事をして、決まった居酒屋で飲んでいると、じわじわと窒息しそうな気がしていたのだ。それが何なのかはわからない。でも、こうして飛行機の中にいて、カリフォルニアの波に思いを馳せると、その窒息感が少しずつ薄れていくような気がした。
 眠れないまま夜が明け、飛行機はロサンゼルスに降りた。
 空港の外に出た瞬間、賢司は目を細めた。光が違う。日本の光よりも、もっと白くて、もっと直接的な光だ。空の青さも違う。東京の空は薄い水色だが、ここの空はもっと深い、真っ直ぐな青だった。
 「うわ、でかい空だな」
 田島が言った。
「空もそうだが、湿気がない。これならワックスも溶けないな」
田島が賢司の顔を見て、「サーフィン馬鹿」と笑った。
 二人は大型のシャトルバスにボードを積み込み、ウェストハリウッドのユースホステルへ向かった。壁の薄い、匂いのきつい建物だった。
 部屋に荷物とボードを置いて、二人は顔を見合わせた。笑っていた。なぜ笑っているのかもよくわからないが、笑っていた。
 賢司は後になって、あの笑いが何だったかを理解した。あれは喜びではなく、解放感だった。日本語が通じない場所に来て、初めて、肩の力が抜けたのだ。そして、すぐそこに世界最高の波があるという予感が、彼らを高揚させていた。



二章 LAという名の幻想

ロサンゼルスに来て最初の一週間、賢司と田島はひたすら歩き、そして波に乗った。
バスの乗り方を覚え、地図の読み方を覚え、何よりカリフォルニアの波のパワーを覚えた。湘南の波とは比較にならないほど強く、厚い波。最初は巻かれてばかりだったが、数日もすれば、そのリズムを掴み始めていた。
 ロサンゼルスという街は、賢司が想像していたものとは少し違った。映画の中のLAは、常にきらびやかで、常に夏で、常に誰かが楽しそうにしている場所だった。しかし実際に歩いてみると、そこには別の顔があった。ダウンタウンには路上で眠るホームレスがいた。ハリウッドの裏通りには、観光客向けの店と、そうでない店が、奇妙に混在していた。
 そしてある日、街に奇妙な空気が漂い始めた。
 コンビニに入ったとき、レジの傍のテレビに日本語のニュースが流れていた。ロサンゼルスには日系人のコミュニティがあり、日本語放送のチャンネルもある。そのテレビが映していたのは、ある日本人男性の映像だった。
 ハンティングワールドのバッグを肩から下げ、サングラスをかけた男が、報道陣に囲まれながら歩いている。男は落ち着いた様子で、時折カメラに向かって微笑した。
 「あの人、誰だ?」
 田島が聞いた。
「三浦和義、だって。ロス疑惑。……おい、ここのニュースでもやってるぞ。日本人サーファーの間でも噂になってた」
「サーファーが?なんで」
「いや、この男が格好いいとか、そういう話じゃなくて、事件が起きたのが俺たちが狙ってるポイントの近くだからって」
「ここで?ロスで?」
「そう」
田島がテレビの画面を見つめた。男は相変わらずカメラの前で堂々としている。その姿には、どこか不思議な磁力があった。怪しい、と言われているのに、萎縮していない。むしろ堂々と、世間の視線を受け止めているように見える。
 「格好いいな、なんか」
 田島がぽつりと言った。
 賢司も同じことを思っていたが、口には出さなかった。
あのバッグ、どこで売っているんだろう。サーフボードを積んで、あのバッグを助手席に置いて走ったら、絵になるかもしれない。
 翌日、賢司たちは現場を見に行くことにした。
 といっても特別な理由があったわけではない。ただ、LAにいて、あれほど大きなニュースになっている場所が同じ街にある、というだけで、おのぼりさん的な好奇心が湧いてきたのだ。
 バスを乗り継いで、それらしい住宅街にたどり着いた。普通の、静かな住宅街だった。事件現場というには、あまりにも日常的な光景だった。芝生の手入れをした庭、棕櫚の木、白い壁の家。空は青く、鳥が鳴いていた。
 「こんなところで、人が死んだのか」
 田島が言った。
 賢司は写真を撮らなかった。なんとなく、撮ってはいけない気がした。
 ロサンゼルスでの日々が続いた。
 賢司と田島は、日系人の経営する小さなレストランで皿洗いの仕事を見つけた。働かなければ、サーフボードのワックスさえ買えなくなる。
 仕事は夕方からの数時間で、昼間は海へ行った。
 そしてある夜、賢司は一人でサンタモニカのショッピングモールに入った。田島は体調を崩して宿に残っていた。
 ブランドショップが並ぶ一角を歩いていると、見覚えのあるロゴが目に入った。ハンティングワールド。
 賢司は自然に足を止めた。ショーウィンドウの中に、あのバッグと同じデザインのものが並んでいる。タグを見る。値段は、日本円に換算すると八万円を超えていた。
買えない。これがあれば、新しいウエットスーツが買える。
 そう思いながら、しばらくその場に立っていた。
 しかし数週間後、リトルトーキョーの外れで、コピー品を扱う店を見つけた。値段はニ千円ほどだった。賢司はそれを買った。
海に行くとき、濡れた水着を入れるのにちょうどいい。そう自分に言い訳をして。
 ただ、あのコピーのバッグは、帰国後しばらく部屋の隅に置かれ、やがてどこかへ消えた。



三章 マリブ、金髪、そして失踪

ロサンゼルスに慣れてきた頃、賢司と田島は西海岸をぶらぶらすることにした。もちろん、目的は波だ。
 レンタカーを借りた。古いトヨタのカローラで、エアコンが壊れていたが、**ルーフキャリアが付いていた。それが何より重要だった。**地図は紙の地図だ。
 一号線を北に向かって走った。**ルーフに二本のボードを積んで。**太平洋が右手に広がる道で、世界でも屈指の景観だと誰かが言っていた。確かに美しかった。山と海が迫り合い、崖の向こうに空がある。
「おい、あそこ見ろよ。いい波立ってるぞ」
田島が何度も叫んだ。そのたびに賢司は車を止め、波をチェックした。サーファーにとって、この道は天国だった。
 最初に止まったのがマリブだった。
**マリブは、サーファーにとって特別な場所だ。完璧な右方向へのロングブレイク。映画「ギジェット」の舞台であり、サーフカルチャーのメッカだ。**実際に行ってみると、その通りだった。
 二人はビーチの駐車場に車を止め、ルーフからボードを下ろした。
「よし、行こうぜ」
二人はウェットスーツに着替えると、ボードを抱えて砂浜に出た。砂は白く、波は穏やかだったが、その奥には完璧な形をした波が、静かに崩れていた。
「いいな」
「最高だ」
二人は海に入り、何本か波に乗った。カリフォルニアの太陽の下、完璧なマリブの波。それは、人生で最も幸せな瞬間の一つだった。
 彼女が近づいてきたのは、二人が海から上がり、ボードを車に積んで休憩していた時だ。
 金髪の女だった。
 長い足と、焼けた肌と、白いワンピース。サングラスを頭の上に乗せて、片手に飲み物のボトルを持って、砂浜をゆっくりと歩いてくる。
 女は二人の前で足を止め、英語で何かを言った。
 「サンディエゴ」という単語だけははっきり聞こえた。
 田島が英語で答えた。田島の英語は賢司よりも上手い。
 二人はしばらく話していた。どうやら彼女はサンディエゴに行きたいらしい。車がない。乗せてほしい。
 「賢司」
 田島が振り返った。
 「すまん。ちょっとサンディエゴまで行ってくる」
「は?お前、ボードはどうするんだ?」
賢司は、車のルーフに残った二本のサーフボードを指差した。
「すまん、ちょっと急ぎだ!積んだまま行かせてくれ。二日後にここで待ち合わせ、どうだ?」
「おい、田島!俺のボードも積んだままだぞ!」
「すまん!」
田島は女に何か言い、二人は駐車場の方向へ歩いていった。カローラのルーフには、賢司と田島のサーフボードが二本、しっかりと固定されたままだった。キーは田島が持っていた。
 賢司は砂浜に一人残された。
 しばらく、その場に立ち尽くしていた。
目の前には、完璧なマリブの波。しかし、俺の手元にはボードがない。
 「あいつ」
 と小さく呟いたが、怒りはなかった。呆れはあった。しかしそれよりも、なんとなく、この状況が面白かった。
俺はマリブに一人取り残された。車もなく、ボードもなく、ただウェットスーツを着たままの男が一人。二日後にここで田島を待つ。それだけだ。
 賢司は立ち上がり、ビーチ沿いを歩き始めた。ウェットスーツを脱ぎ、小銭だけを持って。
 その夜、賢司は海沿いのモーテルに泊まった。窓を開けると波の音が聞こえた。本来なら心安らぐ音のはずが、今はただ、俺を嘲笑っているように聞こえた。
 翌日、賢司は一人でマリブを探索した。
ビーチに行き、完璧な波に乗るサーファーたちを眺めた。指をくわえて、ただ眺めていた。
 夕方、賢司はビーチに戻って夕陽を見た。
田島は、今頃サンディエゴで何をしているのだろう。あの女と。
俺は、マリブで波を見ている。ボードもなく。
二日目も、同じような一日を過ごした。
波はさらに良くなっていた。賢司は、海に入りたい衝動を必死に抑えていた。ボードさえあれば。
 三日目の朝、待ち合わせの時間になった。
 田島は現れなかった。



四章 三日後の笑顔の意味

田島が戻ってきたのは、夕方近くになってからだった。
 レンタカーが砂浜の駐車場に滑り込んできて、田島が一人で降りてきた。**ルーフには、二本のボードが、出発した時のまま積まれていた。**女の姿はなかった。
賢司は、田島に駆け寄ると、まずルーフのボードを確認した。無事だった。
 「遅い」
「すまん。……ボード、無事だっただろ?」
 「二日後って言ったじゃないか」
 「三日後になった」
 「なぜ」
 田島は少し間を置いた。それから笑った。
 薄く、曖昧な、うすら笑いだった。
 「いろいろあった」
 「いろいろって何だ」
「サンディエゴは遠かった。……あと、車の中が狭かった」
 賢司はそれ以上は聞かなかった。
 聞いても答えないだろうし、答えたとしても、自分には関係のない話だ。
「飯でも食うか」と賢司は言った。
「その前に、一本乗らせてくれ。マリブの波、最高だろ?」
田島は、悪びれもせず、ルーフから自分のボードを下ろし始めた。
「……俺も行く」
賢司も、自分のボードを下ろした。
二人は海に入り、日が沈むまで波に乗った。
サンディエゴで何があったのか、田島のマリブの三日間については、賢司には想像の外だった。想像はできる。しかしそれが本当のことかどうかはわからない。
まさか、乗せてあげたお礼に、乗せて頂いたのではないか。
賢司はそんなことを考えながら、一人で苦笑した。
しかし、それは賢司には関係のない話だ。
自分はマリブで三日間、ボードもなく、ただ波を見ていた。それだけだ。
 田島は結局、あの三日間について何も話さなかった。
 帰国してからも、居酒屋で酒を飲みながらLA話に花を咲かせるとき、マリブのビーチまでは話した。金髪の美女が現れたところまでは話した。しかしその先は、「いろいろあった」だけで終わった。
 「いろいろって何だよ」
 誰かが聞くたびに、田島はあのうすら笑いを浮かべた。
 それが答えだった。
 賢司はその笑いを見るたびに思った。人はみな、他人に話せない時間を持っている。
 田島のマリブの三日間は、田島だけのものだ。
 同様に、賢司のマリブの三日間も、賢司だけのものだ。
賢司が一人でボードもなくマリブにいた三日間に、何があったか。
完璧な波を前に、ただ指をくわえて見ていた、あのアホみたいな三日間。
 それは誰も聞かなかった。
 賢司はそれで構わなかった。
 あの三日間は、賢司の中に静かに沈んでいる。



五章 四半世紀後の夜

四半世紀が過ぎた。
 村上賢司は五十代になっていた。
 バーを経営している。
 ある夜、常連の客が久しぶりに顔を出した。五十がらみの男で、商社に勤めている。仕事でよくアメリカに行く。
 「先週、LAに行ってきましたよ」
 男が言った。
 「そうですか。どうでしたか」
 「相変わらず広いですね、あそこは。車社会で、電車じゃ動けない」
 「今はUberがありますから、だいぶ違うでしょうが」
 賢司は笑った。
 「そういえば、僕も昔いたんですよ。ロスに」
「えっ、賢司さんも?……そういえば、お店の奥に飾ってある古い写真、サーフボード抱えてますよね。カリフォルニアで撮ったんですか?」
客が、カウンターの奥の壁に飾られた、モノクロの写真を指差した。
若い頃の賢司と田島が、ルーフキャリアにボードを積んだカローラの前で、笑っている写真だ。二人の手には、ハンティングワールドのコピーバッグが握られている。
「ええ。八五年か、六年か。若い頃です。友達と二人で、波を求めて西海岸をフラフラしてたんですよ」
「それはまた、すごい時代ですねえ。ドルも高かったでしょう」
「二百五十円でしたね、当時は。バイト代全部注ぎ込んで、ボード持って行きましたよ」
 話はそのまま続き、LAの話になった。ビバリーヒルズの話、ベニスビーチの話、ハンティントンビーチの波の話。
 そして客が言った。
 「ロス疑惑って、あのころ話題でしたよね」
 「ありましたねえ」
 賢司はグラスを拭きながら答えた。
 「三浦和義っていう人が、たしか向こうで亡くなったんでしたよね。逮捕されてから」
 「サイパンで逮捕されて、LAに移送されて、獄中で亡くなりましたね」
 「不思議な話ですよねえ。日本では無罪になって、それなのにロス市警はずっと追っていた」
 賢司は少し間を置いた。
 「でも僕は一切関係ないですよ」
 そう言って、笑った。
「当たり前じゃないですか。賢司さんは、波に乗るのに忙しかったんでしょ?」
「まあ、そんなところです」
おのぼりさんで現場近くまで見に行ったり、ハンティングワールドのコピーバッグで海に行ったりはしたけれど。
 客が帰った後、賢司は一人でカウンターの中に立っていた。
 賢司は自分のためにバーボンを一杯注ぎ、カウンターに肘をついた。
 三浦和義は、獄中で死んだ。
 天は見ていたのだろうか。
 賢司にはわからない。知りようがない。
 ただ、黒ならばこの世で裁かれるべきだ、と思った。
 バーボンを一口飲んだ。
 アメリカの酒は、今でも少しだけ、あの頃の記憶を連れてくる。
 賢司は田島のことを思った。
 田島はどうしているか。
 LA旅行から帰国した後、二人は東京で一緒に飲んだり、**たまに千葉の海へ行ったり、**互いの結婚式に出たり、そういう付き合いが数年続いた。しかし賢司が大阪に移り、田島が仙台に転勤になり、それきり疎遠になった。
 田島は今もあのうすら笑いを浮かべているのか。
 マリブの三日間を、今も誰にも話していないのか。
あの金髪の女と、邪魔だった俺のボードのことを。
 みんな忘れていく。
 三浦和義の疑惑も、あの男のハンティングワールドのバッグも、田島のうすら笑いも、**ボードを積んだカローラも、**マリブの夕陽も。
 忘れていくんだな、と賢司は思う。他人は皆。
 しかし忘れ切れないものも、ある。
 あの時代の空気の匂いのようなもの。ドルが二百五十円で、自分たちが若くて、アホで、怖いもの知らずだった、あの頃の感触。
LAの空の青さ。マリブの波の音。田島が消えた後の、ボードもなく一人でいた静かな三日間。
 それらはもう、二度と取り戻せない。
 だが、なくなってもいない。
 賢司の中に、静かに沈んでいる。
 もう一口、バーボンを飲んだ。
 ジャズが変わった。マイルス・デイヴィスだ。穏やかで、少し寂しい音だ。
 賢司は目を閉じた。
 瞼の裏に、マリブのビーチが広がった。完璧な右方向への波が、静かに崩れていた。
ボードさえあれば。……いや、ボードがなかったからこそ、俺はあの波を、あの時間を、誰よりも深く、静かに記憶できたのかもしれない。
 あの三日間は、疑惑でも何でもなく、ただ、賢司が賢司でいられた時間だった。
 それだけでいい。
 それだけで、十分だった。
 
 賢司はグラスを置き、目を開けた。
店の中はいつもと同じだ。壁の写真の若い二人は、今日も変わらず笑っている。ルーフキャリアにボードを積んで。
 窓の外を、誰かが足早に通り過ぎた。
賢司はグラスをすすぎ、タオルで拭き、所定の場所に戻した。
所定の場所に戻されたグラスのように、あの三日間も、俺の中の所定の場所に収まっている。
 閉店まで、まだ少しある。
 
あの三日間のことを、誰にも話さないまま、
ボードもなく波を見つめていたあの三日間のことを、
それでも僕は、ずっと覚えている。


Amazon Kindle




~後記~

この物語は、一九八〇年代のロサンゼルスという時代と場所を背景に、
そこに生きたサーファーたちの記憶を描いたフィクションです。
当時、日本中を騒がせた「ロス疑惑」。
その事件は、法廷においては一つの結論を迎えました。
けれど――人の心の中にある疑惑は、必ずしも判決とともに消えるものではありません。
白か黒かでは割り切れないもの。
説明のつかない違和感。
どこかに引っかかったまま、時の底に沈んでいく問い。
それはきっと、あの時代に限ったことではなく、
誰の人生の中にも、ひとつやふたつはあるものなのだと思います。
この物語で描きたかったのは、事件の真相ではありません。
その周縁で生きていた、ごく普通の若者たちの時間です。
波を追い、異国に憧れ、
少し背伸びをしながら、無鉄砲に生きていた日々。
そしてその中で、ふと立ち止まるように出会った「説明のつかない出来事」。
マリブに残された三日間もまた、
白でも黒でもない、小さな“疑惑”だったのかもしれません。
けれど今になって思うのです。
あの三日間は、何も起きなかった時間ではなく、
「何もできなかったからこそ、すべてを見ていた時間」だったのではないかと。
完璧な波を前に、ただ立ち尽くしていたあの時間。
あれほど贅沢な“空白”は、もう二度と手に入らないでしょう。
人は忘れていきます。
事件も、人も、時代の熱も。
けれど、忘れきれないものだけが、
静かに、確かに、残っていく。
それはきっと、
乗れなかった波の記憶のように――

 


週に10冊なる記載制限で

今週のKindleから漏れたものを…



〜序〜


” わすれじのレイド・バック ”


冬は嫌いだと

大嫌いだと 大声で叫んだ頃は

とうに過ぎ


昨今では

もう こんな暑い夏ならば

いらんよな ってさえ わずかに思いながらも


それでも

でもでも

やはり

いくつになっても

夏を待ちわびる今日


気が付けば

すでに58回目もの夏を

首を長くして待ち望みながら。。。


桜を数えるように

僕らは

あと何度

夏 ってもんを迎えることが出来るのですかなあ


でも

あの頃のよ~な

ときめく夏は

も~来ないんでしょ~なあ


特に

振り返ることが多くなった今日


そんなことを思えば思うほど

頭の中で

こんなメロディが繰り返し

流れ来ますなあ


そして

今朝もまた

夢の中に流れてたこのメロディ


こんな季節には

夢の中に表れては消えるあの夏


やはり

良い季節の中にいれた

若さだったよ~でしたなあ


サザンの中での

大好きな歌はどれよ? って訊かれても


そりゃあ~ぜんぶでしょ? ってしか答えられないほどの思い


でもでも

その中でも

もしももしも

大事な思い出がかぶってるのならば? って問われたもんにゃ~


断然 これ!!


” わすれじのレイド・バック ”

 

当時

CDなんてなかったわけで


まさに

何枚目かのシングルレコ~ドで

それらを集めて

カセットテ~プへと吹き込んで


ボロい車に

仲間と取り付けた

そこだけ真新しいカ~ステレオ

ロンサムカ~ボ~イへと放り込んだ サザン


ボロ車のル~フに

サ~フボ~ドを縛り付け

流した海沿いの134号線は 僕らの道さ だなんて

勘違いしてた 若さ


そして

まだ10代だった僕らの

アホだった頭の中には


女と

車と

波乗りと って

そんなもんしかなかったわけで


しかも

アルバムの中には収められず

その後に出た

バラッドとスイカにだけ な特別な曲


曲には

必ずや

自分の胸の中に

”あの頃” ってゆ~名の 映像がついてまわるもんで


そして

大抵

その主人公となって

取り巻いてた異性たちを意識してた頃


1980年の夏

場所は 湘南

鵠沼海岸


うまいこといくはずもなく

でも

あきらめられるはずもなく な中での


正々堂々と

スタ~トラインに並んだ 恋愛レ~ス


でもそれが

出来レ~スだったとわかった あの切なさ


大人になるには

そんな場所を乗り越えねばならんのか? と

押し付けられた夏だった


なんだか

あの日の暑さが

熱さとなって蘇る

 

♪ 俺を溶ろかせる 女でいてよ

抱かれたいよ~な しぐさ切なく


なりをひそめたら 愛しいはずだよ

ひとりじゃ泣いたって 情けないまで ♪


ちょ~ど

繰り返し流れてたこの曲に

なんだか

すべてをまかせたあの頃


そして

永遠に

僕のポンコツ車の

助手席へと座ることがなかったキミへ


夏が来るたびに

こ~して

この曲と共に 戻り来るあれこれ


どこかで

ベッピンなババアにでも

なってることだろう けれども。。。

 


わすれじのレイド・バック


〜134号線に置いてきた夏 〜

1. 夢のメロディ

二〇二四年七月 土曜日の朝

夢の中で、あのメロディが流れていた。

波の音と溶け合いながら、それは静かに、しかし確実に、意識の底へ沁み込んでくる。眠りと覚醒の境目で、その旋律だけがはっきりとしていた。目が覚めた後も、耳の奥に残っていた。まるで砂浜に打ち上げられた貝殻の中に、まだ海の音が入っているように。

北川秀樹は、ゆっくりと目を開けた。

天井の白さが視界に入る。エアコンの低い唸り。カーテンの隙間から、夏の朝の光が一条、細く差し込んでいる。

時刻を確認しようとして、手を伸ばした。スマートフォンの画面には六時十四分と表示されていた。七月の土曜日。窓の外では、もう蝉が鳴き始めている。

六十歳。

その数字が、また頭をよぎった。

還暦という言葉を実感として受け止められるようになったのは、先月の誕生日よりも少し後のことだった。職場の同僚たちが用意してくれた赤いちゃんちゃんこを羽織って、宴会場の隅でニヤけている自分の写真が、スマートフォンのカメラロールにある。見るたびに苦笑いが込み上げてくるが、削除できないでいる。洋子が気に入っていて、親戚に送ったりしているらしい。

ベッドの端に腰を下ろして、秀樹はしばらく動かなかった。

六十年という時間が、体のどこかに重さとして溜まっているような気がした。膝が鈍く痛む。肩が張っている。それでも、胸の奥では、あのメロディがまだ静かに鳴り続けていた。

*   *   *

台所に行き、インスタントコーヒーを淹れた。湯を注ぐと、焦げたような香りが立ち上がる。窓の外には、七月の朝特有の白い空が広がっていた。まだ本格的な熱さになる前の、柔らかな光。雲ひとつなく、今日も猛暑になりそうだった。

子供の頃から、冬が嫌いだった。

大嫌いだと大声で叫んでいた頃もあった。指が悴んで、耳が千切れそうになって、自転車を漕ぐ足が重くなる、あの季節が。ところが最近では、夏の炎天下を歩いているとこんな暑さはもういらない、とすら思う。三十八度の路面を歩いていると、老いた体が音を上げる。

それでも──それでもやはり、夏を待ってしまう。

抗えない引力があるように、毎年この季節が近づくと、体の奥で何かが目を覚ます。桜の命が短いからこそ人はそれを愛でるように、あと何度この夏を迎えられるだろう、と数えながら、それでも待ちわびている。还暦を迎えて初めて、その感覚がよりはっきりしてきた気がした。

六十回目の夏を、北川秀樹は首を長くして待ち望んでいた。

*   *   *

コーヒーカップを両手で包みながら、秀樹はリビングの窓の外を見た。

マンションの前の通りに、街路樹が並んでいる。七月の光を受けて、葉が鮮やかな緑に輝いている。その緑を眺めながら、秀樹はまた、頭の中のメロディに耳を傾けた。



サザンオールスターズの「わすれじのレイド・バック」。

アルバムには収録されなかった曲。シングルとして、それからバラッドとスイカというベスト盤にだけ収められた、知る人ぞ知る一曲。毎年夏になるとこうして夢の中から現れて、目が覚めた後もしばらく頭の中を流れ続ける。

曲には必ず、映像がついてまわる。

一九八〇年の夏。湘南、鵠沼海岸。ボロ車のルーフに縛りつけたサーフボード。一三四号線を駆け抜ける風。仲間たちの声。砂浜の光。そして──

真由美の、横顔。

秀樹は、コーヒーを一口すすった。

妻の洋子はまだ寝ていた。週末の朝は彼女のほうが遅い。三十五年連れ添えば、それはわかっていることだった。静かなリビングで、秀樹はひとり、あの夏のことを思っていた。


2. 夫と妻の土曜日

二〇二四年七月

洋子が起き出してきたのは、七時を少し過ぎた頃だった。

スリッパの音がして、リビングのドアが開く。白髪の混じった髪を無造作にまとめて、薄いカーディガンを羽織っている。寝起きの顔のまま台所へ向かいながら、「あら、もう起きてたの」と言った。

「眠れなくて」

「また変な夢でも見たの」

「変な夢じゃない。懐かしい夢だ」

洋子はお湯を沸かしながら、「サザン?」と訊いた。

秀樹は苦笑した。「なんでわかるんだ」

「毎年、夏になるとそういう顔をするから」

「どういう顔だよ」

「遠くを見てる顔。今も、窓の外じゃなくて、もっと遠い場所を見てる」

三十五年連れ添えば、そのくらいのことは見透かされる。秀樹は苦笑いして、コーヒーカップを口に運んだ。

*   *   *

朝食を食べながら、洋子が言った。

「今日、どうするの?」

「特に何も」

「息子から電話あったけど、来月うちに来たいって。孫も連れて」

「いいじゃないか」

「娘のほうも、お盆に帰ってくるって言ってた」

秀樹はトーストをかじりながら、うなずいた。子供たちが独立して、この家が二人になってから八年が経つ。孫が生まれて、また賑やかになった。それは喜ばしいことだ、と思っている。思っているが、こういう朝の静けさも、秀樹は好きだった。

「ねえ、秀」と洋子が言った。「還暦のお祝い、何がしたい?旅行でも行く?」

「もうお祝いはいい。先月やってもらったじゃないか」

「あれは会社の同僚たちのやつ。私たちのはまだよ」

「じゃあ……海でも行くか」

洋子が少し目を丸くした。「海?どこの?」

「鵠沼」

しばらく間があった。

「湘南の?」

「うん」

「あなた、若い頃によく行ってたって言ってたね」

「ああ」

洋子はコーヒーカップを置いて、夫の顔をしばらく見た。何かを考えているようだった。それから、「いいわね」と言った。

「一緒に来るか?」と秀樹は訊いた。

「私はいい。あなたひとりで行ってきなさい」

「なんで」

「そういう場所でしょ、あなたにとって」

秀樹は黙った。

洋子はそれ以上何も言わなかった。ただ、静かに朝食の続きを食べた。

三十五年連れ添えば、触れてはいけない場所があることを、二人ともわかっていた。

*   *   *

午後、秀樹は車で一人、湘南へ向かった。

高速道路に入ったとき、スマートフォンの音楽アプリを操作して、あの曲を探した。「わすれじのレイド・バック」。再生ボタンを押すと、あのイントロが車内に流れ出した。

ハンドルを握りながら、秀樹は深く息を吸った。

四十四年ぶりに、あの場所へ向かっていた。


3. 134号線の少年たち

一九八〇年七月

あの頃の僕らは、本当にどうしようもない連中だった。

十九歳。浪人生として宙ぶらりんのまま、湘南の海をうろついていた。大学受験に失敗した春、ひとまず実家近くの商店街にある電器屋でアルバイトを始めた秀樹は、週末になるたびに仲間を誘って海へ向かった。勉強はどうした、という問いへの答えは、夏が終わってから考えればいい、というものだった。

村瀬龍一という男がいた。

秀樹と同い年で、同じ高校の出身だった。村瀬は現役で私立大学に滑り込んでいたが、二年になっても熱心に授業へ出る気配はなく、週末はたいてい海にいた。親から譲り受けたダットサンのサニー、一九七三年式。あちこちが錆び始めていたが、村瀬に言わせれば「味がある」ということになっていた。ボディは褪せたブルーで、取り付けたばかりのカーステレオだけが場違いなほど新しく、銀色に光っていた。

その助手席に、いつも秀樹が座った。

後部座席には、後輩の竹内渉が乗り込んだ。竹内は高校を卒業したばかりの十八歳で、やはり受験に失敗してアルバイト生活をしていた。ひょろりとした体と、妙に達観したような口調が特徴で、先輩たちのドタバタを少し引いた場所から眺めているような男だった。

そして、その日によって変わる女の子たちが後部座席を埋めた。

それがあの夏のルーティンだった。

*   *   *

国道一三四号線。

あの道は、俺たちのものだった。少なくとも、そう勘違いしていた。

エンジンをぶん回したサニーで、サーフボードをルーフに縛り付けて、砂埃を上げながら走る。窓を全開にして、カーステレオの音量を限界まで上げる。後ろから来た車にクラクションを鳴らされても、気にしない。

俺たちには関係ない。

十九歳というのは、そういう年頃だった。未来はどこまでも続いていて、この夏も永遠に続くような気がして、それが嘘だとわかっていても、信じていたかった。

カーステレオに入れるテープは、秀樹が作っていた。サザンオールスターズのシングル盤を何枚も買い集めて、電器屋の従業員割引で手に入れたダブルデッキのラジカセで、せっせと吹き込んだ。ラベルには几帳面な字で「SUMMER'80」と書いた。

村瀬は笑った。「お前、几帳面だな」

「テープは几帳面に作るもんだ」

「なのに勉強はしない」

「うるさい」

竹内が後部座席で、缶ジュースをすすりながら言った。「でも先輩、このテープ良いですよ。特にあの曲、好きです」

「どれ」

「わすれじのレイド・バック」

秀樹は少し驚いた。「あれ、アルバムに入ってないんだぞ」

「知ってます。だからいいんじゃないですか。知ってる人だけが知ってる感じがして」

竹内は、そういう男だった。

*   *   *

鵠沼海岸のいつもの場所に着くと、すでに何人かが集まっていた。砂浜に荷物を広げて、ビーチパラソルを立てて、誰かが持ってきたラジカセから音楽が流れている。

その輪の中に、彼女はいた。

田中真由美。

秀樹より二つ年下の十七歳で、地元の高校に通っていた。誰かの妹だったか従妹だったか、もうその辺の経緯は忘れてしまったが、一ヶ月ほど前からこのグループに混じるようになっていた。

肩まで伸ばした黒い髪。少し日焼けした肌。笑うと右の頬にだけ、小さなえくぼができる。

秀樹は、そのえくぼが好きだった。

「よう」と村瀬が声をかけると、真由美は軽く手を振った。秀樹はうまく目が合わせられなくて、サーフボードを担ぎながら海の方を見るふりをした。

竹内が後ろで笑っているのが、気配でわかった。

「先輩、顔赤いですよ」

「海の照り返しだ」

「七月の晴れた日の照り返しって、そんなに赤くなりましたっけ」

「なる」

「そうですかね」

そうだ。そうに決まっている。


4. ロンサムカーボーイ

一九八〇年七月

あの夏、秀樹の頭の中には三つのことしかなかった。

女と、車と、波乗り。

それがすべてだった。それ以外のことを考える余裕もなかったし、考えたくもなかった。大学受験の失敗も、将来への不安も、電器屋のアルバイトの退屈さも、全部夏の光の中に溶かしてしまえばよかった。

波に乗って、音楽を聴いて、仲間と笑って。そしてできれば、真由美と──それだけだった。

サーフィンは、秀樹はそれほど上手くなかった。村瀬のほうがずっと板乗りがうまくて、波の上で鮮やかに体を翻すのを、秀樹はいつも岸から羨ましく眺めていた。竹内にいたってはボードに腹ばいになったまま沖へ漕ぎ出すことすら満足にできなくて、それでも毎週懲りずに海へ来た。それがなんとなく愉快で、秀樹は竹内のことが好きだった。

*   *   *

ある土曜日の昼下がり、砂浜でスイカを食べながら、誰かが言った。

「最近のサザン、どれが一番好き?」

村瀬が即答した。「いとしのエリー。異論は認めない」

「勝手にシンドバッドでしょ」と竹内が言った。

「C調言葉に御用心」と誰かが言った。

「女呼んでブギウギ」と別の誰かが言って、笑いが起きた。

議論は噛み合わず、しかし楽しかった。

真由美は静かにスイカを食べながら、その輪を少し外れたところから聞いていた。秀樹は彼女の横に座って、同じようにスイカをかじりながら訊いた。

「真由美ちゃんは?」

彼女は少し考えてから言った。「わすれじのレイド・バック」

「え?」

「知らない?シングルで出てた曲。アルバムには入ってないんだけど」

「聴いたことある気がする。どんな曲だっけ」

「持ってくるね、今度。カセットに入れてくるから」

真由美はそう言って、笑った。右の頬にえくぼができる。

秀樹は、その笑顔に向かって何か気の利いたことを言おうとして、何も思いつかなくて、「ありがとう」とだけ言った。

それが精一杯だった。

*   *   *

翌週末、彼女は本当にテープを持ってきた。

ラベルには「これ聴いて」とだけ書いてあった。几帳面な字だった。秀樹は自分の「SUMMER'80」のラベルを思い出して、少し嬉しくなった。

村瀬の車のそこだけ真新しいカーステレオに入れると、イントロが流れ出した瞬間、秀樹は息を吐いた。

これだ、と思った。

うまく言えないが、この曲には何かがある。夏の光の中で、なぜか胸の奥が締め付けられるような。明るいのに、どこかに哀しみが滲んでいる。桑田佳祐の声が、その矛盾をまるごと包んで歌い上げる。


🎵 俺を溶ろかせる 女でいてよ
  抱かれたいような しぐさ切なく 🎵


秀樹は、隣に座っている真由美をちらりと見た。

彼女は窓の外を見ていた。一三四号線を流れていく景色の中に、その横顔があった。海からの風が、黒い髪を少し乱す。

この横顔を、ずっと見ていたい。

そう思ったが、声にはできなかった。

後部座席で、竹内がぼそりと言った。「良い曲ですね」

「だろ」と村瀬が答えた。

真由美は何も言わなかった。ただ窓の外を見ていた。

秀樹もまた、窓の外を見た。

一三四号線が、海と並んで続いていく。

*   *   *

その夜、電器屋のアルバイトから帰った後、秀樹は自分の部屋で真由美のテープを聴き直した。

安物のラジカセで、ヘッドフォンをつけて、何度も繰り返した。



🎵 なりをひそめたら 愛しいはずだよ
 ひとりじゃ泣いたって 情けないまで 🎵


歌詞の意味を、正確に理解しているかどうかわからなかった。でも、何かがわかる気がした。

好きな人の前でうまく振る舞えない、あの感じ。ひとりになると途端に言いたいことが溢れてくる、あの感じ。それがこの曲の中にある、と思った。

十九歳の秀樹には、それだけで十分だった。

翌朝、自分の「SUMMER'80」テープに、この曲を吹き込んだ。


5. 村瀬龍一という男

一九八〇年七月〜八月

村瀬は、秀樹が知っている中で最もモテる男だった。

理由はよくわからなかった。特別に顔が良いわけでも、金を持っているわけでもない。ただ、何かがあった。女の子の隣に座ったときの自然な間合いとか、笑わせ方とか、困ったときに黙って隣にいる感じとか。秀樹が必死に考えて言葉を探しているうちに、村瀬はすでにその場の空気を作ってしまっていた。

だから当然、真由美も村瀬のことが好きなんだろうと、秀樹は最初思っていた。

あるとき、そのことを竹内に話した。

「村瀬さんは、田中さんのことを好きじゃないと思いますよ」と竹内はあっさり言った。

「なんでわかるんだ」

「村瀬さんが誰かを好きなとき、もっと違う感じがします。田中さんには、そういう感じを向けてない」

「お前、よく見てるな」

「暇なので」

竹内は本当にそういう男だった。自分は動かずに、周りをよく見ていた。

「じゃあ、真由美ちゃんはどう見る」と秀樹は訊いた。

竹内は少し間を置いてから言った。「田中さんは、秀樹さんのことを嫌いじゃないと思います」

「嫌いじゃない、か」

「先輩の訊き方が悪いですよ。嫌いかどうか訊いたので、嫌いじゃないと答えました。好きかどうかは、別の話です」

「お前、絶妙に意地悪だな」

「すみません」

竹内は謝りながら、少し笑っていた。

*   *   *

村瀬には、実は秘密があった。

秀樹がそれを知ったのは、八月のある夜のことだった。砂浜で花火をした後、二人で缶ビールを飲みながら、波打ち際に座っていた。

「俺、大学やめようと思ってる」と村瀬が言った。

秀樹は驚いた。「なんで」

「行きたかった大学じゃなかったから、ずっとモヤモヤしてた。それで、来年から専門学校に行こうと思う。グラフィックデザインをやりたい」

「そんなこと、考えてたのか」

「お前が受験のことでグジグジしてる間に、俺はずっと考えてた」

「グジグジしてないよ」

「してるよ」と村瀬は笑った。「でも、それでいいじゃないか。お前はちゃんと悩んで、来年受かればいい。俺はグラフィックデザイナーになる。竹内は……竹内は何になるんだろうな」

「さあ」

波が来た。足元まで水が上がってきて、二人は少し後ろに退いた。

「秀」と村瀬が言った。「真由美ちゃんのこと、好きだろ」

秀樹は答えなかった。

「行けよ。お前が動かないと、何も始まらないぞ」

「そういうお前は、どうなんだ」

「俺には、好きな人がいる。今日ここにはいない人が」

そういうことか、と秀樹は思った。だから村瀬は、真由美に対してあの自然な間合いを向けなかったのだ。

「誰なんだ」

「それは教えない」

「なんで」

「まだ、ちゃんとしてないから」

村瀬は星を見上げて、缶ビールを一口飲んだ。

秀樹も、同じように星を見た。

夏の夜の空が、どこまでも広がっていた。


6. 出来レース

一九八〇年八月

八月の第三週、秀樹はいよいよ動こうと決めた。

村瀬に背中を押されたのもあった。でも本当のところは、夏が終わっていくのを感じていたからだった。九月になれば、また日常が戻ってくる。真由美は高校に戻り、秀樹は予備校に通い始める。来年こそ受かろうと決めていたから、受験勉強も本格化する。

今しかない、と思った。

その土曜日、いつもより少し早い時間に鵠沼へ行き、まだ人の少ない砂浜で真由美と並んで座った。村瀬と竹内は海の中で、ちょうど良い具合に気を利かせてくれていた。後から竹内に訊いたら、「村瀬さんに引っ張られました」と言っていた。

波の音だけが聞こえる時間があった。

秀樹は喉が渇いていた。緊張で口の中が乾く。何度か深呼吸して、それから真由美の横顔に向かって言った。

「好きだ」

真由美は、少しの間、海を見たままだった。

秀樹の心臓が、波のリズムとは無関係に打ち続けた。

やがて真由美は、ゆっくりと秀樹のほうを向いた。彼女の目が、何かを言おうとして、一度伏せられた。

そして──

「ごめん」


その一言が、夏の光の中に落ちた。

*   *   *

理由を訊いた。真由美は正直に話してくれた。

同じグループに、鈴木という男がいた。村瀬の友人の友人で、たまに顔を出す程度の存在だった。大学三年生で、爽やかで、サーフィンが上手くて、すでに自分の車を持っていた。秀樹は彼が苦手だった。それは嫉妬ではなく、なんとなく肌が合わない感じがした。でも女の子たちには人気があった。

「鈴木さんと、付き合うことになったんだ」

真由美は小さな声でそう言った。

秀樹はしばらく何も言えなかった。波の音が、ひどく大きく聞こえた。

最初から、そういうことだったのか。

僕がテープを作って、横に座って、気の利いたことを言おうとしていた間に、もう答えは出ていたのか。

出来レース、という言葉が、後になってから頭に浮かんだ。

もちろん真由美に悪気はなかっただろう。秀樹の気持ちに気づいていたかどうかも、あのときはわからなかった。ただ、そういうことだった。

十九歳の夏に、秀樹は初めて正々堂々とスタートラインに並んで、それが最初から出来レースだったと知った。

*   *   *

その日の帰り道、村瀬の車の助手席で、秀樹はずっと窓の外を見ていた。

カーステレオからは、例のテープが流れていた。


🎵 なりをひそめたら 愛しいはずだよ
 ひとりじゃ泣いたって 情けないまで 🎵


一三四号線の夕暮れが、海の向こうで赤く燃えていた。

村瀬は何も言わなかった。ただ黙って運転していた。それが、秀樹には有り難かった。

竹内も後部座席で静かにしていた。こういうとき、竹内は余計なことを言わない。

大人になるためには、こういう場所を越えなければいけないのだろうか。

そう思いながら、秀樹は流れ去っていく景色を眺めた。胸の奥が、あの夏の熱さで、じりじりと焼けていた。

そしてその熱さが、あの曲のメロディと混ざり合って、ひとつになった。


7. 助手席の空白

一九八〇年八月末〜秋

真由美がグループを離れたわけではなかった。

鈴木と付き合い始めてからも、週末の集まりに顔を出した。鈴木も一緒に来ることが多くなった。

秀樹はそれを、正面から受け止めようとした。

嫉妬がなかったとは言わない。鈴木がサーフボードを鮮やかに操るのを見るたびに、胸の奥で何かが疼いた。真由美がその横で笑っているのを見るたびに、そっぽを向きたくなった。

それでも、秀樹はその場を離れなかった。

理由は、うまく説明できない。意地だったのか、未練だったのか、それとも単純にあの場所と仲間が好きだったのか。おそらく、全部だっただろう。

*   *   *

八月の終わりに、グループで最後の海水浴に行った。

その日も村瀬の車に乗って、一三四号線を走った。後部座席には竹内ともう一人。助手席は秀樹だった。

カーステレオには「SUMMER'80」のテープが入っていた。

到着した砂浜では、鈴木が真由美と並んで波打ち際に立っていた。遠くから見ると、夏の絵葉書みたいな光景だった。

秀樹はサーフボードを砂浜に立てかけて、しばらくそれを眺めた。

やがて村瀬が隣に来て、缶ジュースを差し出した。

「いいじゃないか、あいつら」

秀樹は答えなかった。

「来年、絶対受かれよ、秀」

「関係ないだろ」

「関係あるよ。大学生になったら、もっといろんな世界がある」

秀樹は缶ジュースを受け取って、一口飲んだ。ぬるくて甘かった。

「そういう問題じゃない」

「そうかもな」と村瀬も認めた。「でも、いい夏だったろ」

秀樹は少し考えてから、うなずいた。

「そうだな」

本当にそう思った。出来レースだったと知っても、この夏は本物だった。あの砂浜も、あの波も、仲間たちも、そして──真由美の横顔も。

*   *   *

帰り際、真由美が声をかけてきた。

「また来年も来ようね」

明るい声だった。秀樹は微笑んで、「うん」と答えた。

でも、その言葉の裏に何があるのか、二人とも分かっていた気がした。

真由美は、秀樹の気持ちに、ちゃんと気づいていた。ただ、どうすることもできなかった。

それでよかった。それで十分だった、と後になってから秀樹は思う。あの真由美の「また来年も」という言葉の明るさの中に、ちゃんと誠実さがあった。


それが最後だった。

翌年、秀樹は別の大学に進学し、横浜のアパートに引っ越した。村瀬の車の助手席に乗ることも、一三四号線を走ることも、鵠沼海岸に立つことも、ずっと少なくなった。

真由美とは、その後一度も会わなかった。

そして、助手席の空白は、静かに時の中に埋もれていった。


8. 桜を数えるように

二〇二四年七月 鵠沼海岸

駐車場に車を止めて、砂浜に降り立ったとき、秀樹はしばらく動けなかった。

七月の日差しが、容赦なく降り注ぐ。サンダルの下で砂がさらさらと動く。潮の匂いが、鼻に入ってくる。

同じだ、と思った。

四十四年という時間が経っているのに、海の匂いだけは、あの頃と同じだった。

波打ち際では、サーフボードを抱えた若者たちが波を待っていた。その光景を見て、秀樹は目を細めた。あの頃の自分たちも、きっとこんなふうに見えていたのだろう。ボロいボードを抱えて、日焼けして、笑って。

砂浜を歩いた。

ゆっくりと、波打ち際に向かって。あの頃はサーフボードを持って走っていた場所を、今は還暦の体で歩く。膝が少し痛む。それでも足を止めなかった。

*   *   *

波打ち際に立って、海を見た。

水平線が、光を受けて輝いている。その輝きの向こうに、何があるかはわからない。でも、あの頃も同じように輝いていた。十九歳の秀樹が見た輝きと、六十歳の秀樹が見る輝きは、同じ海から来ている。

ポケットからスマートフォンを取り出した。

音楽アプリを開いて、「わすれじのレイド・バック」を選ぶ。イヤホンを耳に差して、再生ボタンを押す。

あのイントロが、耳の中に流れ込んできた瞬間、秀樹の胸が締め付けられた。

四十四年前と同じように。

🎵 俺を溶ろかせる 女でいてよ
 抱かれたいような しぐさ切なく 🎵


目を閉じた。

まぶたの裏に、あの横顔が浮かんだ。

真由美の、横顔。

一三四号線を流れていく景色の中で、窓の外を見ていた。黒い髪が、海からの風に少し乱れていた。

秀樹は、四十四年前に言えなかった言葉を、今さらながら心の中で言った。

好きだった。

あの夏、本当に好きだった。

出来レースだったと知っても、あの気持ちは本物だった。あの夏の熱さは本物だった。それが今もまだ、このメロディの中に生きている。

*   *   *

しばらく波打ち際に立って、秀樹は砂浜を歩き回った。

以前、グループがよく集まっていた場所を探した。もちろん、そこだと特定できるはずもない。砂は動く。地形も変わる。それでも、だいたいこのあたりだろう、という場所に立って、しばらく海を眺めた。

村瀬は今、デザイン会社を経営している。あの宣言通りにグラフィックデザイナーになって、四十年かけて自分の事務所を持った。今でも年に数回、飲みに行く。

竹内は大阪に移って、食品会社に勤めている。年賀状のやり取りが続いていて、五年に一度くらい、村瀬を交えて三人で飲む。

あの頃の仲間は、それぞれの場所で生きている。

真由美のことは、誰も知らない。

知ろうとしなかった。それが、正しかったと思っている。

あの夏の真由美は、あの夏の中にある。それでいい。

*   *   *

桜を数えるように、残りの夏を数える。

六十になると、そういうことを考えるようになる。あと何度、この季節に体が動くだろう。あと何年、あのメロディを聴いて、ちゃんと胸が締め付けられるだろう。

老いることへの恐怖は、それほど強くない。ただ、失っていくことへの名残惜しさがある。

あの頃のような、ときめく夏は、もう来ない。

わかっている。

わかっていても、夏を待つ。

来年も、再来年も。迎えられる限りは、首を長くして。


9. 娘と息子へ

二〇二四年七月 夕暮れ

帰りの一三四号線は、夕暮れの中にあった。

水平線が赤く染まっている。あの頃と同じ色だ。四十四年前の夕暮れと、今夜の夕暮れが、頭の中で重なって、ひとつになる。

スマートフォンから、あの曲がまだ流れていた。何度目かのリピートだった。

秀樹は、ゆっくりとアクセルを踏みながら、その景色を眺めた。

胸の奥に、じんわりとした熱があった。

悲しいわけではない。懐かしい、というのとも少し違う。あえて言えば、確認できた、という感じだろうか。あの夏は本物だった。あのメロディは本物だった。真由美の横顔は本物だった。そして今もまだ、あの夏が自分の中で生きている。

それを確認できた。

それで、十分だった。

*   *   *

翌日の夜、娘の沙織から電話があった。

三十二歳になった娘は、都内でWebデザイナーをしている。結婚はまだで、猫を一匹飼っている。

「お父さん、昨日どこか行ったの?お母さんが言ってたけど」

「鵠沼海岸へ行ってきた」

「え、湘南?なんで?」

「昔、よく行ってた場所だ」

電話口で、沙織がへえ、と言う声がした。

「若い頃の話、あんまり聞いたことないな。どんなだったの、お父さんの若い頃」

「どうしようもない感じだったよ」

「具体的に」

「浪人生なのに毎週末海へ行って、サーフィンの真似事をして、サザンを大音量で聴いて走り回ってた」

沙織が笑った。「なんかいいね、それ」

「好きな女の子がいたんだが、振られた」

「え、そんなこと言っていいの?」

「四十四年前の話だ」

「お母さんに怒られるよ」

「お母さんには関係ない時代の話だ」

また沙織が笑う声がした。

「その人、今どうしてるの?」

秀樹は少し間を置いてから答えた。「知らない。それでいいんだ」

「なんで?」

「知らないからこそ、あの頃のまま残ってる」

電話口で、沙織が静かになった。

「……なんかわかる気がする」と彼女は言った。「私も、大学のとき好きだった人がいて、その後どうなったか知らないんだけど、知らなくて良かったって思ってる。もし知ったら、なんか変わっちゃう気がして」

「そうだ」と秀樹は言った。「そういうことだ」

父と娘の間に、しばらく静かな時間があった。

「お父さん、今日楽しかった?」

「ああ。良かったよ」

「それなら良かった。還暦おめでとう、あらためて」

「ありがとう」

*   *   *

その翌週、息子の雄一から電話があった。

三十五歳の息子は、名古屋でメーカーに勤めている。二年前に結婚して、今年の春に子供が生まれた。秀樹にとっての初孫だった。

「父さん、鵠沼行ったって聞いた。母さんが言ってた」

「ああ」

「どうだった?」

「良かった」

「父さんって、ああいう場所が好きだよな。海とか、夏とか」

秀樹は少し考えてから言った。「お前は?」

「俺?俺はどっちかっていうと秋が好きかな。涼しくなってきて、金木犀の匂いがしてくる頃」

「そうか」

「父さんみたいに、夏に特別な思い出があるわけじゃないからかな」

秀樹は微笑んだ。「いつかできるよ」

「何が?」

「夏に特別な記憶が」

雄一はしばらく黙って、「そうかな」と言った。

「今年の夏、孫を連れて帰ってくるときも、何かひとつくらい特別な瞬間がある。その積み重ねが、いつか特別な夏の記憶になる」

また雄一が黙った。

「父さん、今日なんか詩人みたいなこと言うね」

「還暦だからだ」

「そういうもんか」

「そういうもんだ」

雄一は笑って、「じゃあ来月行くから」と言って電話を切った。

秀樹はスマートフォンを置いて、しばらく窓の外を見た。

息子の子供──まだ生まれたばかりの孫──が、いつかこの曲を聴くことはあるだろうか。ないかもしれない。でも、その孫にも、何かひとつ、夏に特別なメロディがあってほしい、と秀樹は思った。

人は誰でも、そういう一曲を持つべきだ。


10. それでも夏を待ちわびる

二〇二四年七月 夜

その夜、村瀬から連絡が来た。

LINEのメッセージで、「鵠沼行ったってよ。洋子さんから聞いた。俺にも声かけろ」と書いてあった。

秀樹は苦笑いして、返信した。「ひとりで行きたかった」

すぐに返事が来た。「わかった。次は俺も連れてけ」

「来年な」

「絶対だぞ。あと、竹内にも連絡しとく。三人で行こう。四十何年ぶりかで」

秀樹は少し考えてから、「いいな」と打った。

村瀬から、すぐにスタンプが返ってきた。親指を立てているキャラクターのスタンプだった。六十を超えた男が使うには少し滑稽なスタンプだったが、それがなんとなく村瀬らしかった。

*   *   *

洋子は、リビングのソファで本を読んでいた。

秀樹が帰ってきたときから、ずっとそうしていた。夕食を一緒に食べて、後片付けをして、それからずっと本を読んでいる。

「鵠沼、どうだった?」と洋子が訊いた。本から目を上げずに。

「良かった」

「そう」

しばらく沈黙があった。

「村瀬くんが怒ってた?」と洋子が言った。

「怒ってはいなかった。来年は一緒に連れてけって」

「行ってきたらいいじゃない。竹内くんも一緒に、三人で」

「そうしようと思う」

また沈黙があった。今度は少し長い沈黙だった。

「ねえ、秀」と洋子が言った。今度は本を置いて、夫の顔を見ながら。「あなたがあの頃、好きだった人のこと、私、一度だけ聞いたことあるでしょ。付き合えなかったって」

「ああ」

「その人のこと、今日思い出した?」

秀樹は少し間を置いてから、「ああ」と答えた。

洋子は、それ以上何も訊かなかった。ただ、「そう」と言って、また本に目を落とした。

三十五年連れ添えば、それで十分だということを、二人ともわかっていた。

訊かないことが、愛情の一つの形だということも。

*   *   *

夜、眠る前に、秀樹はベッドの中でスマートフォンを手に取った。

イヤホンを耳に差して、目を閉じる。再生ボタンを押す。

🎵 俺を溶ろかせる 女でいてよ
抱かれたいような しぐさ切なく
なりをひそめたら 愛しいはずだよ
ひとりじゃ泣いたって 情けないまで 🎵


まぶたの裏に、浮かんでくるものがある。

砂浜。波。夕暮れの一三四号線。村瀬の笑顔。竹内の達観した目。「SUMMER'80」と書いたカセットテープ。波打ち際で燃える夕暮れ。

そして、助手席に永遠に座ることのなかった、真由美の横顔。


どこかで今ごろ、べっぴんなババアにでもなっていることだろう。

そう思うと、なぜか少し笑えた。

右の頬にえくぼができる、あの笑顔のまま、どこかで元気にしていてほしい。それだけでいい。それだけで十分だ。会いたいとは思わない。知りたいとも思わない。あの夏の真由美は、あの夏の中にある。あの頃の記憶の中で、永遠に十七歳のままでいてくれればいい。

曲が終わった。

エアコンの低い唸りが戻ってきた。

秀樹はイヤホンを外して、スマートフォンを枕元に置いた。

来年の夏も、きっとこの曲が夢の中で流れるだろう。六十一回目の夏を、また首を長くして待つだろう。あと何度この夏を迎えられるかはわからない。でも迎えられる限りは、ちゃんとこのメロディに胸を締め付けてもらいたい。

六十歳の夏が、静かに更けていく。


窓の外では、七月の夜が広がっていた。

虫の声が聞こえる。遠くで、誰かの車が走っていく音がする。

明日も暑くなりそうだ。

北川秀樹は、それが少しだけ嬉しかった。


六十一回目の夏が、もう、そこまで来ていた。


── 了 ──


アマゾン キンドル



〜あとがき〜

この物語は、まさにあの頃の僕らでした。
あの頃 って頃が遠ざかる中で
振り返ることが増えたこの頃、

還暦という節目の夏に、サザンの「わすれじのレイド・バック」という曲と、一九八〇年の湘南の記憶をめぐる、ある男の一日です。

曲には必ず、自分の胸の中に「あの頃」という名の映像がついてまわり、そしてその映像は、年を経るごとに色あせるどころか、かえって鮮明になっていく。

桜を数えるように夏を数え、それでもやはり夏を待ちわびる。そんな感情に、共感してもらえたら、とても嬉しく思います。

そして、どこかできっと
イカしたババアになってるであろうあの頃の彼女たちへ。
あなたたちがいたから、あのメロディはこんなに深く胸に刻まれ
今もまだここで鳴り響いているのです。
ありがとう…

二〇二四年 夏

真打のパーティーが終わり
さてすれば
久々に呑んだ酒

乾杯! だけで
やめとこうかと思っていたら
隣の席から

では一杯 なんて
ビールのお誘い

ではと
少しだけ頂くつもりが
噺家たちも寄って来て
次から次へと
そこそこ呑んでしまった

まあ
こんな御祝の席ならば
それもまたアリかと

お断りするのは
返って失礼かと
呑んでしまった

パーティーもお開きとなり
ではと失礼すれば
久々にふわりとした
酔っ払いの身体

さてと
ぶらり歩いて駅への道

本日は
代々木公園での
アースデイ東京 開催中だったと


長年

ニックさんが代表を務めていたこれに

多くの方々が賛同してくれたことが

嬉しくて仕方ない


原宿で降りて
心地良い氣分で
賑わうそこへと

目的は
もちろん
アファンの森のブース

ちょいと応援にと
出掛けてみれば
そこもまた 大混雑



スタッフたちと
長話をし

さて ではまた黒姫でね と
振り返ると
今年もまた
お隣が
稲を育てて
お米を戻すボランティアのブース

カクカクシカジカで
昨年は
少なかったけれども
戻すことが出来たと告げると

それはそれはと
微笑んでくれて

おかげさまで
そこそこ戻して頂き
海外へと送れたと

なるほど
心ある方々が
ここには集まるのかと
嬉しくなって

では今年もまたと
米の種を頂いて来た



昨年は
稲が伸びるほどに
我が家の前を通るご近所さんたちが

とうとう
米作りまで始めたのかと
笑っていたと話すと

では今年は
そのご近所さんたちの分もと
沢山 預かって来た

わずか1粒の種は
なんと
1000粒にも増えるそうで

3粒育てたら
ご飯一杯分になるそうだ

今年は
ご近所の庭にも
稲が実るのだろう

芸術協会の
真打披露目パーティーは

その時の
新真打たちを
まとめて一緒にと開催されて

なんと
本日のパーティー会場は
大混雑



いつものそれとは違い
円卓が所狭しと並び
その間の通路が確保されないほど

訊けば700人を越してるそうで
もうどこに誰がいるのかすら
分からない




新真打 4人が
それぞれに持つお客様と
そこへと重なるお客様とを
どう振り分けたのか
分からないけれども
その苦労もあったはずで

受付もまた
4ヶ所にも分かれ
僕はその1ヶ所だけだったけれども

御贔屓が2人いれば
その2ヶ所へと
御祝を包むことになる

そしたらきっと
その4ヶ所にも なんて方も
いたはずだから

はてさて
おいくら万円包んだのだろう

それでも
料理は1つだからね

まあ
例の3点セットが
4つ届いたわけだよね


これが
落語協会になると
それぞれが
それぞれにパーティーを開くから

それもまた
お呼ばれされたならば
そこそこの出費となる

それでも
昨今 少なくなった
結婚式

ならば
年に1度くらい
こんな賑やかなパーティーも
楽しみとなって

なんせ
周囲にはテレビで見掛ける
著名人たちが
わんさかといるわけだから
それだけでも
嬉しくなる

さてされば
次は いつかな?
そして 誰かな?

立川流かな?
円楽党かな?

落語協会だろうな…



若手の中で
自分の周波数に合った者を
見つけたら

キミ 良いね! なんて
声を掛ける

そして
その行方を覗いていると
10年もすれば
こうして皆
真打となる

名人を探してるわけではなく
自分の好みを見つけただけのこと

それで良い
それが良い

そんな

僕の落語の楽しみ…


Kindle 予定


〜序〜

ファミリ~レストランとかに 行ってね
混んでたりすると
名前を書いて 
順番待ちをするでしょ?

そのときにね
本名じゃあ~なくてさ

たとえば。。。
 
綾小路 とか
伊集院 とか
早乙女 とか 
西園寺 とかって 書くわけ

しばらくして 不思議そ~に
受付のオネエさんに。。。
5名さまでお待ちの

”あやのこうじ さ~ん” とかって 

呼ばれるわけ

すると。。。
とたんに
周りの雰囲気が 一変して
ザワザワ し始めてさ~

冗談のつもりが
チョットばかり 
場を間違うと
なんだか 
はずかしい~って わけ

そんなわけ。。。

1度
”匿名希望” と 書いたことがあります

そのときは
店のオネエちゃん
笑いをこらえられず
大騒ぎとなってしまいました

それに 店長にも。。。

次回は
”どなたさま” で お越しになりますか? って。。。

あははは




偽名の品格
~ ファミレス偽名ゲーム~


〜まえがき〜

人は、ときどき、どうでもいいことで本気になります。

それは、世界を変えるような大きなことではなくて、
誰かに褒められるような立派なことでもなくて、
むしろ「なにをやっているんだ」と笑われるような、
そんな小さな遊びだったりします。

この物語は、
ファミリーレストランの順番待ち名簿に、
“偽名を書く”という、どうしようもなくくだらない行為から始まります。

綾小路。伊集院。早乙女。西園寺公望。
そして、匿名希望に、どなたさま。

名前ひとつで、場の空気が変わる。
人の反応が変わる。
そして、ほんの少しだけ、自分の見え方まで変わる。

たったそれだけのことなのに、
なぜかやめられない。

なぜか、次はもっと面白い名前を書きたくなる。

その連鎖の中で、彼らは気づいていきます。

――名前とは、なんなのか。
――自分とは、なんなのか。

大げさに言えば、この物語は“名前の話”です。
でも実際はきっと、もっとどうでもいい話で、
そして、少しだけ大切な話です。

笑っていただけたら、それで十分です。
もし最後に、ほんの少しだけ何かが残ったなら、
それはたぶん、あなた自身の中にあったものです。


人は、なぜ偽名を書くのか。
なぜ、やめられないのか。
そして、なぜ、もっとひどい名前を書いてしまうのか。


CHAPTER 01

はじまりは、ひとつの魔が差すことから

午後一時十七分。郊外のファミリーレストラン「ガーデンダイニングさつき」の前に、大学二年生の男四人が立っていた。

リーダー格の北村拓海(二十歳、経済学部、自称「ノリだけで生きている男」)、冷静なツッコミ担当の石原慎也(二十歳、法学部、将来は弁護士志望だが現在の行動はほぼ犯罪予備軍)、天然ボケの松田ゆうき(二十歳、文学部、名前だけ文学的で中身は空っぽ)、そして何があっても笑わないことで有名な藤本剛(二十歳、理工学部、感情の起伏が地球の地軸並みに傾いていない男)の四人組である。

四人はゼミのレポート提出日をまとめて終えた解放感のまま、なんとなくファミレスへと流れ込もうとしていた。しかし店の前のガラス扉には、手書きのポップが貼ってあった。

『本日大変混み合っております。お名前と人数をご記入のうえ、お待ちください』

受付のカウンターには、クリップボードに挟まれたA4の紙と、キャップのすり減ったボールペンが置いてあった。

北村が、ペンを手に取った。

その瞬間、北村の中で何かが、ぐにゃりと曲がった。

理性という名の背骨が、まるでゆでたスパゲッティのように、ぐにゃりと。

彼の目が、細くなった。

「なあ、石原」

「なんだよ」

「ここ、本名書かないといけないと思う?」

石原は一瞬、法学部的な良識を総動員して答えようとした。しかし彼もまた、今日はゼミのレポートを提出し終えたばかりだった。良識の貯蔵タンクは、完全に空だった。

「……書かないといけないとは思う」

「でも?」

「でも、義務があるとは言えない」

これが法学部の恐ろしいところである。どんな悪行にも、「義務があるとは言えない」という逃げ道を作ってしまう。

北村は、にやりと笑った。そして、ペンを走らせた。

順番待ち名簿

綾小路 
4名
松田が覗き込んだ。

「あやのこうじ……って、あの綾小路?」

「そう。あの綾小路」

「どの綾小路かわからん」

「どの綾小路でもいい。綾小路だ」

藤本は無言でメニューのサンプルケースを眺めていた。

四人はロビーのソファに腰を下ろし、待った。



CHAPTER 02

「綾小路様」事件と、その余波について

待つこと約十二分。

受付カウンターに立った店員は、二十二歳の田村さくらだった。アルバイト歴一年半、そこそこ場数を踏んでいると自負していた。しかしその自負は、今日、音を立てて崩れることになる。

田村は名簿を見た。

目を細めた。

もう一度、見た。

綾小路。四名。

(……読んでいいのか、これ。読むのか、私が)

田村はマイクを握った。人生で最も緊張した瞬間のひとつだったと、後に語ることになる。

「四名様でお待ちの……あやのこうじ様~」

店内が、しんと静まった。

一秒後、くすくすという笑い声が、店の奥のほうから聞こえた。やがてそれは伝播し、テーブルからテーブルへ、まるでくしゃみのように広がっていった。老夫婦のおじいさんが「綾小路って、なんか聞いたことあるな」とおばあさんに言い、おばあさんが「あら、ご立派なお家の方ね」と答えた。子連れの母親が「ほら、綾小路さんだって」と子どもに言い聞かせ、子どもが「あやのこうじってなに」と聞き返していた。

そして北村たち四人が、にやにやしながら立ち上がった瞬間。

また笑いが起きた。

田村は、笑いをこらえながら四人を席まで案内した。心の中では「なんなんだこの人たち」と思っていたが、口から出てきたのは「ご案内します」だけだった。プロである。

席に着くなり、北村は言った。

「最高だった」

「まあ、受けたな」と石原。

「次は西園寺がいい」と松田。

藤本は何も言わなかった。ドリンクバーのメロンソーダを静かに飲んでいた。


問題は、帰り際に起きた。

四人がレジに向かおうとしたとき、店長の木下義雄(五十四歳、ファミレス業界歴三十年、何も驚かない顔をしているがたいがいのことは楽しんでいる)が、にこにこしながらやってきた。

「あやのこうじ様ですね。本日はご来店ありがとうございました」

北村がぎょっとした。

「あ、はい……」

「次回お越しの際は、どのようなお名前でお越しになりますか?」

一同、沈黙。

木下店長は、にこにこしたままだった。その笑顔は純粋な好奇心から来ているようで、どこにも悪意がなかった。だからこそ、恐ろしかった。

「……また、考えてきます」

北村はそう言った。

これが、すべての始まりだった。



CHAPTER 03

エスカレート、そして歯止めが利かなくなる四人

それから三週間、四人は「ガーデンダイニングさつき」に、合計六回訪れた。

もはや、ゼミのレポートなど関係なかった。彼らには使命があった。名前の限界を試すという使命が。

二回目の来訪では、石原が「伊集院」と書いた。

田村さくらは、前回の経験があったため、心の準備をしていた。しかし「四名様でお待ちの、いじゅういん様~」とマイクで呼んだとき、隣のテーブルにいた初老の男性が、ものすごい勢いで振り向いた。

男性の名刺には、「伊集院建設 代表取締役 伊集院 隆」と書かれていた。

本物だった。

本物の伊集院氏が「はい」と返事をしようとした瞬間、石原たち四人も立ち上がった。

その後の混乱について、詳しく書くと長くなるので省略する。

重要なのは、それでも四人が懲りなかったという事実である。


三回目、松田が書いた名前は「早乙女」だった。

これは特に問題なく呼ばれた。ただし、どこかのテーブルの女の子が「早乙女って名前かっこいい」と言い、その彼氏が「俺も早乙女にすればよかった」と言い始めた。関係ない方向に影響が出た。

四回目は、藤本の番だった。

四人の中で唯一、まだ名前を書いていなかった藤本が、おもむろにペンを取った。

三人が固唾をのんで見守った。

藤本が書いたのは、

順番待ち名簿

西園寺公望 
4名
フルネームだった。

しかも西園寺公望は、明治から昭和初期にかけて活躍した元老、総理大臣経験者の名前である。

「お前……フルネームかよ」と北村。

「歴史的人物かよ」と石原。

「公望って読めない人いそう」と松田。

藤本は何も言わなかった。ただ、わずかに口の端が上がっていた。

「四名様でお待ちの……さい、さいおんじ……こうぼう?様~」

田村の声が、かすかに裏返った。

その日、木下店長がまた現れた。

「西園寺公望様。格調が上がりましたね」

「恐れ入ります」と藤本。

はじめて藤本が店長と会話した。

店長は楽しそうだった。藤本も、少しだけ楽しそうだった。


五回目。北村の提案で、名前のテーマが「もはや名前ではないもの」に切り替わった。

松田が書いたのは、

順番待ち名簿

匿名希望 
4名
「四名様でお待ちの、匿名希望様~」

田村はもはや動じなかった。

しかし店内の、ちょうど入り口近くにいた男性が、ぴたりと動きを止めた。

彼はスーツ姿で、手帳を持ち、耳にイヤホンをしていた。肩書は、週刊誌の記者だった。彼はその日、芸能人の熱愛スクープを追いかけてこのファミレスに来ており、偶然この場にいた。

「匿名希望」という言葉に、職業的な反応をしてしまったのである。

記者は松田に近づいてきた。

「あの……何か、お話があるんですか?」

「え?」と松田。

「匿名希望、ということは……内部告発、ですか?」

松田の顔が、みるみる青くなった。

「違います違います、これはただの悪ふざけで、名前書くのが面白くて、その……」

記者は名刺を置いて去った。

松田はその後、三十分ほど放心していた。


六回目。

北村は、ついに禁断の領域に踏み込んだ。

彼が書いたのは、

順番待ち名簿

どなたさま 
4名
田村は名簿を見た瞬間、くるりと背中を向け、バックヤードに消えた。

しばらくして、戻ってきた。目が赤かった。笑い泣きである。

「四名様でお待ちの……どなたさま~」

店内がどよめいた。

隣のテーブルにいた七十代の老夫婦が、顔を見合わせた。おじいさんが「どなたさまって……私たちのことかな」と言った。おばあさんが「うちは五十年連れ添った仲ですもの、今さらどなたさまはないわ」と言った。

木下店長が、今日も現れた。

「どなたさま、ですか。ついに」

「ついに、ですか」と北村。

「終着点に来ましたね」

「次は何を書けばいいか、わからなくなってきました」と北村。

店長は少し考えてから、言った。

「そうですね……次は、本名ですかね」

四人、沈黙。



CHAPTER 04

七回目の来訪、そして事態は思わぬ方向へ

七回目の来訪は、それから二週間後だった。

その日は四人に加えて、石原の彼女・原田美咲(二十一歳、短大生、常識人)が同席することになった。

石原はあらかじめ美咲に、「このファミレスでは偽名ゲームをやっている」ということを説明しておいた。

美咲の反応は、シンプルだった。

「……子どもね」

だが当日、店の前に着いて、順番待ちの名簿を見た美咲の目が、かすかに輝いた。

「……ちょっと、書いていい?」

四人は顔を見合わせた。

常識人の美咲が書いたのは、

順番待ち名簿

存じません 
5名
北村が、思わず膝を打った。

「天才だ」

「これ呼ばれたら最高だ」と松田。

石原は彼女を見つめ直した。「この人と結婚するかもしれない」と思った。後日、実際に結婚することになるが、それはまた別の話だ。

「五名様でお待ちの……ぞんじません様~」

田村の声が、微妙に揺れた。

その日、木下店長は少し困った顔をして現れた。

「あのですね、皆さん」

「なんでしょう」と北村。

「実は……本社から連絡がありまして」

全員、顔色が変わった。

「お客様の中に、SNSで投稿された方がいるようで」

調べると、三回目の「早乙女」の際に、隣に座っていた女子大生が「ファミレスで早乙女様って呼ばれてた人たちいたんだけど」とツイートしており、それが四回目の「西園寺公望(フルネーム)」で再び話題になり、五回目の「匿名希望」でバズり、六回目の「どなたさま」でまとめサイトに掲載されていた。

タイトルは「ガーデンダイニングさつきの順番待ち、謎の貴族集団が現れる」だった。

コメント欄には「絶対行きたい」「このファミレスどこ?」「次は何を書くんだ」「スタッフが大変すぎる」などの書き込みが六千件ほど寄せられていた。

「……申し訳ありません」と北村。

木下店長は、にこにこしたままだった。

「いえ」

「え?」

「おかげさまで、この三週間、売り上げが少し上がりまして」

――「謎の貴族集団を見たくて来た」という客が、実際に何人かいたらしい。

店長は続けた。

「本社からは、特に問題ないと言われました。むしろ……」

店長は、少し間を置いた。

「続けてもらえると、ありがたいかもしれません」

五人は顔を見合わせた。

美咲が言った。

「……公認になっちゃった」



CHAPTER 05

最終決戦、そして伝説の名前

八回目。

この日は、少し空気が違った。

SNSの話題を聞きつけた野次馬客が何人か来ており、なんとなく「次の名前は何だろう」という期待感が店内に漂っていた。田村さくらも、もはや笑いをこらえるという段階は過ぎており、静かにペンを手渡す儀式のような顔になっていた。

木下店長も、さりげなくカウンター近くに立っていた。

ここ数週間で、ガーデンダイニングさつきにとって、この四人組の「名前」は一種の名物になりつつあった。

北村たちは、ロビーで円陣を組んだ。

「今日が最終回だ」と北村が言った。

「なんで最終回なの」と松田。

「なんとなく、そんな気がする」

石原が言った。

「だったら、集大成じゃないといけないな」

藤本が、静かに口を開いた。

「俺に書かせてくれ」

全員が、藤本を見た。

藤本は、この三週間で最も多くを語ったのがこの一言だった。

誰も異論を唱えなかった。

藤本がペンを取った。

藤本がゆっくりと書いた。

書き終えて、ペンを置いた。

三人が覗き込んだ。

順番待ち名簿

北村・石原・松田・藤本 
4名
本名だった。

全員の、本名だった。

しかもフルネームで、四人分。

北村が口を開けた。

石原が目を細めた。

松田が「え、これ……面白いの?」と聞いた。

藤本は答えなかった。ただ、ソファに腰を下ろして、文庫本を開いた。


待つこと十五分。

田村さくらが名簿を手に取った。

「……」

田村は、これまでの七回の名前を思い出した。綾小路。伊集院。早乙女。西園寺公望(フルネーム)。匿名希望。どなたさま。存じません。そして今日——

北村・石原・松田・藤本。

ただの、本名。

田村は、マイクを握った。

そして、ほんのわずかに間を置いてから、言った。

「四名様でお待ちの……北村様、石原様、松田様、藤本様~」

店内が、しんとした。

笑いは、起きなかった。

代わりに、なんとも言えない空気が流れた。「あれ、今日は普通の名前だ」という空気が。

野次馬で来ていた客が、小声で「今日は普通だったね」とつぶやいた。

北村たちが立ち上がると、なぜか、ぱらぱらと拍手が起きた。

誰が最初に叩いたのかわからない。でも、気づいたら十人分くらいの拍手が店内に響いていた。

北村は、その拍手の意味がよくわからなかった。

石原も、よくわからなかった。

松田は「え、俺たちすごいの?」と聞いたが、誰も答えなかった。

藤本は、文庫本から顔を上げず、静かに立ち上がり、歩き始めた。


食事を終えて、帰り際。

木下店長が、四人の前に現れた。

今日も、にこにこしていた。

「今日は、本名でしたね」

「はい」と北村。

「どうでしたか」

北村は少し考えた。

「……なんか、恥ずかしかったです。本名のほうが」

店長が、はじめて、声をあげて笑った。

「そうですよね。なぜか本名のほうが、恥ずかしい」

「でも……なんか、よかったです」

北村は、自分でも驚くようなことを言った。

「綾小路とか書いてたときより、今日のほうが、なんか……ちゃんとここに来た気がして」

店長は、また少し笑った。

「またお越しください、北村様」

はじめて、本名で呼ばれた。

北村は、なぜかそれが、とてもくすぐったかった。

EPILOGUE
その後のこと

北村拓海は、就活で「ガーデンダイニングさつき」の話を面接でしたところ、

「あのSNSの人ですか」と言われ、なぜか受かった。

現在は食品メーカーのマーケティング部に勤めている。

石原慎也は弁護士になった。

原田美咲と結婚した。

結婚式の招待状の差出人名は「石原慎也・美咲」であり、

「綾小路」ではなかった。当然である。

松田ゆうきは、週刊誌の記者から名刺をもらったことを、

卒業論文のあとがきに書いた。

指導教員からは「意味がわからない」と言われた。

藤本剛は、理工学部を首席で卒業し、大学院に進んだ。

研究テーマは「匿名性と自己同一性の関係について」だった。

なお、本人は「ファミレスとは無関係」と言っている。

木下義雄店長は、今日もにこにこしながら店に立っている。

順番待ち名簿に変わった名前が書かれているとき、

彼は少しだけ、背筋を伸ばす。

田村さくらは、その後バイトを辞め、声優の専門学校に入学した。

「どんな名前でも動じずに読める自信がついた」と語っている。

― 完 ―


偽名は、自分を自由にする。
本名は、自分を確かめる。
どちらも、ファミレスの順番待ちで気づくことではない。
――たぶん。


〜あとがき〜

これもまた
アホだった
ガキの頃の僕らの実体験です。

でも
なぜ僕らは、偽名を書いたのでしょうか。

少しカッコつけたいから。
少し笑いを取りたいから。
少しだけ、今の自分から離れてみたいから。

理由はいくらでもあります。

でも、たぶん一番大きいのは、
「自分という存在を、少しだけ自由にしたいから」
なのではないでしょうか。

偽名は、軽いです。
責任も、重みも、ほとんどない。
だからこそ、人はそこに遊び心を乗せることができる。

一方で、本名は重たい。

自分の人生が乗っていて、
過去も未来も背負っていて、
ときに、少しだけ照れくさい。

この物語の最後で、彼らは本名を書きます。

それは、ふざけることをやめたからではなく、
ふざけ続けた先に、たどり着いた“ひとつの答え”だったのだと思います。

――本名のほうが、恥ずかしい。

その感覚は、きっと嘘ではありません。

けれど同時に、
――本名のほうが、自分である。
という当たり前の事実も、そこにはあります。

私たちは普段、そんなことを考えることはありません。
ファミレスの順番待ちで立ち止まることも、ほとんどありません。

それでも、人生のどこかでふと、
「自分は誰なのか」と考える瞬間がある。

この物語が、そんな瞬間に、ほんの少しでも寄り添えたなら、
書いた意味があったのだと思います。

そしてもし、どこかのファミレスで順番待ちをするとき、
ほんの一瞬だけでもペンが止まったなら――

それはきっと、彼らのせいです。

どうかそのときは、
あなたなりの名前を、自由に書いてみてください。

――たぶん、少しだけ楽しくなります。


そうそう

次は

なにさま  と

殿さま とを

用意していたけれど…    笑



アマゾン キンドル





Kindle 予定


昨日の境界線 〜軽井沢、ジョンのいた季節〜

〜序〜
ジョンが
ヨーコを頼むと言う

えっ? と問うと

未来を見てしまったと
嘆いている

そう
彼らは
未来からの使者により
時空移動が出来るらしく
その運命を
知ってしまったと

そんなことは
変えたら良い
知ったならば
違う道を歩んだら良い

そう問うが
それは無理だと
歴史は変えられないと
うつむく

だから
今から
ヨーコを頼むと…

それは
なぜゆえ僕なのか? と問うと

あの日
軽井沢でキミを見掛けたと

いや
見掛けたのは僕で
ただの群衆の中のひとり

キミには
そうだったろうが
僕らは
繋ぐキミを探していたと

しかし
それは出来ない
僕はあくまで一般人
貴方とは違う道を歩んでいる

それは分かっているが
キミの未来を見て決めた
だから 頼むと言う

えっ?
僕の未来?
それは? と問うが
いずれ分かると微笑む

ならば分かった
ビートルズに入れてくれ
そしたら
その話 受けようじゃあないか
どうです
それは出来ないでしょう?

すると
ほらね
そういうことさ と
ジョンは笑う

そして
ビートルズは5人になった

全米ツアーから
アジアツアー
武道館まで終え
解散

そして
1980.12.8

その日
ありがとな とジョンが
微笑んだ

いや
楽しかったのは僕の方さと
握手をした

ならばちよっと待って
貴方はやはり
世界の宝
僕が変わりに
貴方の姿に化けて
ヨーコとダコタハウスに立とう

もちろん
防弾ジョッキを着て
防衛するから大丈夫だ

貴方は影から
援護してくれ

すると
小太りの若者が近づいて来た

銃だ!

撃たれた!

でも
防弾ジョッキを着ている

いや
僕ではない

ジョンだ!

その瞬間
入れ替わってしまっていた

なぜだ?

歴史は変えられなかったのねと
ヨーコが泣き叫んでいる

僕は
もうそこにはいない

そう
最初からいなかったことに
なっている

ビートルズは?
4人だ

そうだ
僕の存在は
どこにもない

夢か?

夢だ!

未来からの使者は言う
ジョンはキミに
感謝していたと

歴史を曲げようと
逆らってみたが
時空はそれを許さなかったと

ヨーコは?

いや
ヨーコの記憶にも
キミはもういない

ならばなぜ?

ジョンからキミへの
感謝だよ

キミはこれから
生涯 
ジョンを背負って生きていくだろう
そして
ジョンの足跡を丁寧に辿るだろう

万平ホテル
見晴台
離山房
樹の花…

その時
ジョンは必ずキミのそばにいて
耳元で囁くはずだ

その道
そのままで良いと…

慌てて飛び起きた今朝
そんな夢をみた

枕元には
先日引っ張り出した
あの武道館の
はっぴと資料とが
散乱していた

最近
そんな
夢ばかりを
みる…




〜まえがき〜
この物語は、ある朝、ふと目覚めたときに胸の奥に残っていた“夢の残像”から始まりました。
それはただの夢にしてはあまりに鮮明で、現実にしてはあまりに儚く、
まるで別の時間を旅してきたかのような感覚を伴っていました。

ジョン・レノンという存在は、時代を越えて多くの人の心に影響を与え続けています。
彼の音楽、言葉、生き方は、今もなお世界のどこかで誰かの人生を揺らし、
静かに寄り添い、時に背中を押してくれる。

この物語は、そんなジョンの“影響”を、ひとりの男の視点から描いたものです。
歴史は変えられない。
しかし、人の心は変わり、揺れ、響き合う。
その“響き”こそが、時空を越えて人を動かすのだと、
夢の中のジョンが教えてくれた気がします。

読者の皆さまがこの物語を通して、
自分の中に眠る“もしも”や“願い”にそっと触れていただけたなら、
嬉しく思います。


第1章 軽井沢の影
軽井沢の朝は、どこか別世界の入口のようだった。
四月の空気はまだ冷たく、吐く息は白くほどけていく。
万平ホテルの木造の廊下を歩くたび、床板がかすかに鳴り、
その音が静寂をいっそう深くする。

僕はロビーの窓辺に立ち、庭に落ちる光を眺めていた。
朝日が木々の間から差し込み、細い光の筋が霧のように漂う。
その光景は、まるで時間そのものがゆっくりと流れているようで、
現実と夢の境界が曖昧になっていく。

――誰かに見られている。

ふいに、そんな感覚が背中を撫でた。
振り返る。
しかし、ロビーには誰もいない。
ただ、古い柱時計の針が静かに時を刻む音だけが響いていた。

「気のせいか…」

そう呟きながら、僕はホテルを出た。
朝の軽井沢は、観光客の姿もまばらで、
鳥の声と風の音だけが耳に届く。
万平ホテルから見晴台へ向かう道を歩きながら、
僕は胸の奥に残る“視線”の感覚を振り払おうとしていた。

だが、歩けば歩くほど、その感覚は強くなる。
まるで、誰かが僕の背後に寄り添い、
同じ景色を覗き込んでいるような――そんな気配。

見晴台に着くと、眼下に広がる浅間山の稜線が朝日に染まり、
空気は澄み切っていた。
僕は深呼吸をし、冷たい空気を肺に満たす。

その瞬間だった。

――その道、そのままで良い。

耳元で、誰かが囁いた。
風の音ではない。
確かに“声”だった。

僕は思わず振り返った。
しかし、そこには誰もいない。
ただ、木々が揺れ、葉が擦れ合う音がするだけ。

「……誰だ?」

声に出してみても、返事はない。
だが、胸の奥に奇妙な既視感が残った。
この声を、どこかで聞いたことがある。
いや、聞いたことがあるはずがない。
そんな人物と僕は関わりがない。

それでも――
その声は、確かに僕の名前を知っているような響きを持っていた。

僕はしばらくその場に立ち尽くした。
浅間山の稜線が揺らめき、
世界がわずかに歪んだように見えた。

そして、胸の奥にひとつの言葉が浮かんだ。

――始まってしまった。

何が始まったのかは分からない。
だが、この軽井沢の朝が、
僕の人生の“別の時間”を開いたのだと、
その時の僕はまだ知らなかった。


第2章 未来からの使者
軽井沢から戻った夜、僕は妙な疲労感に包まれていた。
身体は重く、頭の奥がじんわりと熱を帯びている。
万平ホテルで感じたあの“声”の余韻が、まだ耳の奥に残っていた。

「その道、そのままで良い…か」

意味は分からない。
だが、あの声は確かに僕に向けられていた。
そう思うと、胸の奥がざわつく。

その夜、僕は早めに布団に入った。
眠気はすぐに訪れたが、眠りは浅く、
夢と現実の境界が曖昧なまま意識が揺れ続けた。

そして――
突然、視界が白く弾けた。

気づくと、僕はどこかの白い部屋に立っていた。
壁も床も天井も、すべてが白。
光源がどこにあるのか分からないほど均一な光が満ちている。

「やっと来たね」

背後から声がした。
振り返ると、そこに立っていたのは――

ジョン・レノンだった。

あまりに自然にそこにいるので、
驚きよりも先に、現実感が崩れ落ちた。

「……ジョン?」

「そう、ジョンだよ。
 キミが知ってるジョンであり、
 キミの知らないジョンでもある」

彼は笑った。
あの、写真や映像で何度も見た、少し皮肉っぽい笑み。

「ヨーコを頼む」

その言葉は、まるで挨拶のように軽く発せられた。
だが、僕の心臓は一気に跳ね上がった。

「えっ……?」

「頼むよ。ヨーコを。
 キミしかいないんだ」

意味が分からない。
なぜ僕なのか。
なぜ“ヨーコ”なのか。

「ちょっと待ってくれ。
 どういうことだ?」

ジョンは肩をすくめ、
「まあ、そう言うと思った」と呟いた。

その時、部屋の空気が揺らぎ、
もうひとりの人物が現れた。

白いローブをまとい、
顔は光に包まれていてよく見えない。
だが、その存在は圧倒的だった。

「未来からの使者だよ」
ジョンが軽く紹介するように言った。

使者は静かに頷いた。

「あなたは、歴史の“分岐点”に立っています」

「分岐点……?」

「本来、歴史は変えられません。
 しかし、あなたは“見てしまった”。
 ジョンの未来を。
 そして、あなた自身の未来も」

僕は息を呑んだ。

「僕の未来……?」

ジョンは少し寂しげに笑った。

「いずれ分かるさ。
 でも、まずはヨーコを頼む」

「なぜ僕なんだ?」

「軽井沢でキミを見たからだよ」

「見た? 僕が?」

「いや、見たのは僕らだ。
 キミはただの観光客のつもりだったろうけど、
 僕らは“繋ぐ者”を探していた」

繋ぐ者――
その言葉が胸に引っかかった。

「でも僕は一般人だ。
 あなたたちとは違う」

「分かってるさ。
 でも、キミの未来を見て決めたんだ」

未来を見た?
僕の?

理解が追いつかない。
だが、ジョンの目は真剣だった。

「……分かった。
 じゃあ、ビートルズに入れてくれ。
 そしたら考えるよ」

冗談のつもりだった。
だが、ジョンは声を上げて笑った。

「ほらね。
 そういうところがキミなんだよ」

その瞬間、白い部屋が揺れ、
世界が反転するように視界が暗転した。

次に目を開けたとき、
僕はステージの上に立っていた。

眩しいライト。
割れんばかりの歓声。
隣にはポール、ジョージ、リンゴ、そしてジョン。

ビートルズは――
五人になっていた。


第3章 ビートルズの五人目
目を開けた瞬間、世界は轟音に包まれていた。

ライトが眩しい。
耳をつんざくような歓声が、波のように押し寄せてくる。
僕は反射的に目を細め、状況を理解しようとした。

ステージの床は黒く、足元には無数のケーブル。
前方には、見渡す限りの観客。
そして――

「行くぞ!」

隣でジョンが叫んだ。
その声は、夢で聞いたものよりもずっと生々しく、
汗と熱気に満ちた“現実の声”だった。

僕はギターを握っていた。
手に馴染むはずのない重さが、なぜか自然に感じられる。
身体が覚えている――そんな感覚すらあった。

「ワン、ツー、スリー、フォー!」

ポールのカウントが響き、
音が一斉に爆発した。

僕は弾いた。
指が勝手に動く。
観客の歓声がさらに大きくなる。

――これは夢じゃない。

その確信が、背筋を震わせた。


曲が終わると、ステージは熱気で満ちていた。
ジョージが僕の肩を軽く叩く。

「悪くなかったよ。初めてにしてはね」

「初めて……?」

僕が呟くと、ジョージは不思議そうに眉を上げた。

「何言ってんだい。
 キミはずっと一緒にやってきただろ?」

その言葉に、胸の奥がざわついた。
“歴史のズレ”が、静かに始まっている。

リンゴがドラムセットの後ろから手を振る。

「次の曲、準備いいかい?
 キミが入ってから、音が厚くなって助かってるよ」

ポールも笑顔で親指を立てた。

「観客もキミを気に入ってる。
 五人目のビートルズってわけさ」

五人目――
その言葉が、胸の奥に深く刺さった。

僕は、ビートルズの一員になっている。
歴史の中に、僕という“本来いないはずの存在”が入り込んでいる。


ライブが終わり、楽屋に戻ると、
ジョンがタオルで汗を拭きながら僕を見た。

「どうだい? 悪くなかったろ」

「……これは、本当に現実なのか?」

ジョンは笑った。
あの、少し皮肉っぽくて、どこか寂しげな笑み。

「現実さ。
 キミは今、ビートルズの一員だ。
 歴史は少しだけズレた。
 でも、それでいい」

「でも……僕は本来ここにいないはずだ」

「そんなことは関係ない。
 キミがここにいる“理由”は、もう決まってる」

ジョンの目は真剣だった。
その奥に、言葉にできない何かが宿っている。

「ヨーコのことか?」

僕が問うと、ジョンは少しだけ視線を落とした。

「そうだ。
 でも、それだけじゃない。
 キミの未来も関わってる」

「僕の未来……?」

ジョンは答えなかった。
ただ、肩を軽く叩き、こう言った。

「心配するな。
 キミは“選ばれた”んだよ」

その言葉は、励ましなのか、警告なのか分からなかった。


その夜、ホテルの部屋でひとりになった僕は、
窓の外の街灯を眺めながら考え続けた。

なぜ僕なのか。
なぜ未来からの使者は僕を選んだのか。
そして――
この“ズレた歴史”は、どこへ向かうのか。

胸の奥に、言いようのない不安が広がる。

だが同時に、
ステージの熱気、
メンバーの笑顔、
観客の歓声が、
僕の心を強く掴んで離さなかった。

――僕は、ビートルズの一員になってしまった。

その事実が、夢のようで、恐ろしくて、
そして何より、胸が震えるほど嬉しかった。

だが、この喜びの裏側に、
“避けられない運命”が静かに迫っていることを、
この時の僕はまだ知らなかった。


第4章 運命の日の影
ビートルズの五人目としての日々は、
夢のようで、現実で、そしてどこか“借り物の時間”のようでもあった。

全米ツアー。
アジアツアー。
武道館。

歴史の教科書でしか知らなかった出来事の中に、
僕は確かに存在していた。
ステージの上でギターを弾き、
ジョンとハモり、
ポールと笑い、
ジョージと音を合わせ、
リンゴのリズムに身を委ねる。

観客の歓声は、
僕の存在を肯定してくれるようだった。

だが、ツアーを重ねるほど、
胸の奥に“違和感”が積もっていった。


ある夜、ホテルの廊下でジョンとすれ違った。
彼はタバコを片手に、窓の外をぼんやりと眺めていた。

「眠れないのか?」

僕が声をかけると、ジョンは振り返り、
少しだけ笑った。

「眠れないというより、
 眠るのが惜しいんだよ。
 この時間が、いつまで続くか分からないからね」

「……未来を見たから?」

ジョンはタバコの火を見つめたまま、
小さく頷いた。

「そうだ。
 キミも知ってるだろ。
 1980年12月8日。
 あの日のことを」

胸が締めつけられた。

「歴史は変えられないのか?」

「変えられない。
 少なくとも、僕らが知る限りではね」

ジョンは窓の外の夜景に視線を向けた。
街の灯りが滲み、
その光が彼の横顔を淡く照らす。

「でも、キミは抗おうとしてる。
 それが嬉しいんだよ」

「僕は……あなたを救いたいだけだ」

「救われる必要なんてないさ。
 僕は僕の人生を生きた。
 その結果がどうであれね」

ジョンの声は静かだった。
諦めでも、悲しみでもなく、
ただ“受け入れた者”の声。

「でも、キミがいてくれて良かった。
 五人目のビートルズ。
 キミが入ったことで、
 僕らは少しだけ違う景色を見られた」

その言葉は、胸に深く刺さった。


ツアーが終わり、
ビートルズは解散した。

歴史と同じ。
だが、どこか違う。

僕がいたことで、
メンバーの関係性も、
音楽の方向性も、
微妙に変わっていた。

それでも、
“解散”という大きな流れだけは変わらなかった。

未来からの使者が言った言葉が、
胸の奥で響く。

――歴史は変えられない。


1980年が近づくにつれ、
胸のざわつきは強くなっていった。

ジョンはニューヨークへ移り、
ヨーコと静かな生活を送っていた。
僕は日本に戻り、
表向きは“普通の生活”を送っていたが、
心は常にニューヨークに向いていた。

12月に入ると、
夢を見るようになった。

ダコタハウス。
銃声。
ヨーコの叫び。
そして――
ジョンの倒れる姿。

毎晩、同じ夢。

未来は、
確実に近づいていた。


12月8日の朝、
僕は耐えきれず、ニューヨーク行きの便に乗った。

理由は分からない。
ただ、行かなければならない気がした。

ジョンを救うためか。
歴史に抗うためか。
それとも――
未来が僕を呼んでいたのか。

ダコタハウスに着いたとき、
夕暮れの光が建物を赤く染めていた。

ジョンは僕を見ると、
少し驚いたように目を見開き、
そして微笑んだ。

「来たんだね」

「来るなと言われても、来てたよ」

ジョンは笑った。
あの、どこか寂しげで、
でも温かい笑み。

「ありがとう。
 キミが来てくれて嬉しいよ」

その言葉が、
まるで“別れの挨拶”のように聞こえた。

胸が痛んだ。

「ジョン……今日だけは、気をつけてくれ」

「気をつけるさ。
 でも、歴史は変わらない」

ジョンはそう言いながら、
僕の肩に手を置いた。

「それでも、来てくれてありがとう」

その瞬間、
胸の奥で何かが音を立てて崩れた。

――運命の日は、もう目の前に迫っていた。


第5章 ダコタの夜
ダコタハウスの前に立つと、
ニューヨークの冬の空気が肌を刺した。
街灯の光は冷たく、
建物の影は深く沈んでいる。

ジョンは僕の隣に立ち、
コートの襟を立てながら空を見上げた。

「寒い夜だね」

「……嫌な予感がする」

「予感なんて、いつだって当たらないさ。
 当たるのは“決まっていること”だけだ」

その言葉が、胸に重く落ちた。


ヨーコが建物から出てきた。
白いマフラーを巻き、
少し疲れたような表情をしている。

「来てくれたのね」

「ええ。どうしても……」

言葉が続かなかった。
ヨーコは僕の目をじっと見つめ、
何かを察したように小さく頷いた。

「ジョンをお願いね」

その言葉は、
まるで“託す”というより、
“別れを覚悟した人の声”だった。

胸が痛んだ。


ジョンは僕の肩を軽く叩いた。

「キミが来てくれて、本当に良かった。
 最後に、ちゃんと礼を言いたかったんだ」

「最後なんて言うなよ」

「言わせてくれ。
 キミは僕の人生に、
 ほんの少しだけ違う光をくれた。
 それだけで十分だよ」

ジョンの声は穏やかで、
どこか遠くを見ているようだった。

「……僕が代わりに立つ。
 今日だけは、僕が前に出る。
 防弾ベストも着てきた。
 あなたは後ろにいてくれ」

ジョンは目を丸くし、
そして静かに笑った。

「キミらしいな。
 でも、それはできないよ」

「なぜだ?」

「歴史は変えられない。
 キミが前に出ても、
 結局は“そうなるように”なる」

「それでも……!」

僕が言いかけたその時だった。


小太りの若い男が、
ゆっくりとこちらへ歩いてきた。

その歩き方は不自然で、
視線はジョンに釘付けだった。

胸が凍りついた。

「来た……」

僕はジョンの前に立とうとした。
だが、その瞬間――

世界が揺れた。

視界が歪み、
空気がねじれ、
時間が一瞬だけ止まったように感じた。

そして、気づいた。

僕とジョンの位置が、入れ替わっている。

「な……!」

僕はジョンの前に立っていたはずなのに、
気づけばジョンが僕の前にいた。

まるで、
“歴史が修正した”
そんな感覚だった。


男が銃を構えた。

「ジョン!」

叫んだ瞬間、
銃声が夜を裂いた。

乾いた破裂音が、
ダコタハウスの壁に反響する。

ジョンの身体が揺れ、
ゆっくりと崩れ落ちた。

ヨーコの叫び声が響く。

「ジョン! ジョーン!」

僕は駆け寄ろうとした。
だが、足が動かない。

いや――
僕の身体が、そこに存在していなかった。

手を伸ばしても、
指先は空気をすり抜ける。

「な……ぜ……?」

ヨーコは泣き叫びながらジョンにすがりついている。
だが、彼女の目には僕の姿は映っていない。

僕は、
“そこにいない者”になっていた。


世界が静かに崩れていく。
音が遠ざかり、
光が薄れ、
景色が白く溶けていく。

その中で、
未来からの使者の声が聞こえた。

「歴史は変えられなかった。
 だが、ジョンはキミに感謝していた」

「僕は……何もできなかった……!」

「いいや。
 キミは“抗おうとした”。
 それが、ジョンにとっての救いだった」

「ヨーコは……僕を……?」

「彼女の記憶から、
 キミは消えた。
 歴史が修正したのだ」

胸が締めつけられた。

「ならば……僕は……何者なんだ……?」

使者は静かに言った。

「キミは、ジョンを背負って生きる者。
 これからの人生で、
 彼の足跡を丁寧に辿るだろう。
 軽井沢でも、
 万平ホテルでも、
 見晴台でも、
 離山房でも、
 樹の花でも。
 そのたびに、
 ジョンはキミのそばにいる」

白い光が視界を満たす。

「そして囁くだろう。
 ――その道、そのままで良い、と」

世界が完全に白く染まり、
僕は意識を失った。


第6章 消えた男
目を開けると、天井が見えた。
見慣れた自分の部屋の天井だった。

息を吸う。
空気は冷たく、現実の匂いがした。

――戻ってきた。

そう思った瞬間、胸の奥に重い痛みが広がった。
ダコタハウスの夜。
銃声。
ヨーコの叫び。
ジョンの倒れる姿。

すべてが鮮明に残っている。
夢ではない。
確かに“そこにいた”。

だが――

僕は、そこには存在していなかった。


布団から起き上がると、足元に何かが散らばっていた。
拾い上げると、それは数日前に押し入れから引っ張り出した
武道館公演の資料と、あの“はっぴ”だった。

白地に赤い文字。
ビートルズ来日公演の記念はっぴ。

僕はそれを手に取り、しばらく見つめた。

――僕は、あのステージに立っていた。

確かに、立っていた。
五人目のビートルズとして。
ジョンの隣で。
ポールと笑い合いながら。
観客の歓声を浴びながら。

だが、その記録はどこにも残っていない。

資料をめくる。
写真は四人。
映像も四人。
歴史も四人。

僕の姿は、どこにもない。

胸が締めつけられた。

「……消えたのか、僕は」

歴史が修正した。
未来からの使者が言った通りだ。

僕は“いなかったこと”になっている。


その日から、僕は軽井沢へ向かった。
理由は分からない。
ただ、行かなければならない気がした。

万平ホテル。
見晴台。
離山房。
樹の花。

ジョンが愛した場所。
彼が歩いた道。
彼が息を吸い、音楽を紡いだ空気。

そのひとつひとつを辿るたび、
胸の奥に微かな温もりが生まれた。

見晴台に立つと、
あの日と同じ風が吹いた。

そして――
耳元で、あの声がした。

――その道、そのままで良い。

振り返る。
誰もいない。
だが、確かに“そこにいる”気配があった。

ジョンは、僕のそばにいた。


夜、ホテルの部屋でひとりになると、
胸の奥に静かな痛みが広がった。

僕は歴史から消えた。
誰の記憶にも残っていない。
ヨーコの記憶にも。
メンバーの記憶にも。

だが――
ジョンだけは、僕を覚えていた。

「ありがとう」と言ってくれた。
最後の瞬間に。

その言葉だけが、
僕の存在を証明していた。


そして、気づいた。

僕はこれから、
ジョンの足跡を辿り続けるだろう。

軽井沢でも。
ニューヨークでも。
ロンドンでも。

そのたびに、
ジョンは僕のそばにいて、
静かに囁くだろう。

――その道、そのままで良い。

それが、
“消えた男”に残された、
唯一の救いだった。


最終章 夢か、記憶か
朝の光がカーテン越しに差し込み、
部屋の空気を淡く照らしていた。

僕はゆっくりと身体を起こし、
深く息を吸った。

胸の奥に、まだ微かな痛みが残っている。
ダコタハウスの夜の記憶。
銃声。
ヨーコの叫び。
ジョンの微笑み。

すべてが、あまりにも鮮明だった。

だが同時に、
それらは“夢”と呼ぶにはあまりに現実的で、
“現実”と呼ぶにはあまりに儚かった。

枕元には、
武道館のはっぴと資料が散乱している。

まるで、
夢の中で僕が辿った時間が、
現実に滲み出してきたようだった。

僕ははっぴを手に取り、
指先で布の感触を確かめた。

――僕は、あのステージに立っていたのか?

記憶はある。
確かにある。
だが、証拠はどこにもない。

歴史は四人のビートルズを記録している。
僕の姿は、どこにもない。

それでも、
胸の奥に残る“温もり”だけは消えなかった。


その日、僕は再び軽井沢へ向かった。
理由は分からない。
ただ、行かなければならない気がした。

万平ホテルのロビーに立つと、
あの日と同じ光が差し込んでいた。

見晴台に向かう道を歩くと、
風が頬を撫で、
木々が揺れ、
鳥の声が響いた。

すべてが、
あの日と同じだった。

見晴台に立つと、
浅間山の稜線が朝日に染まり、
空気は澄んでいた。

僕は目を閉じた。

その瞬間――
耳元で、あの声がした。

――その道、そのままで良い。

僕はゆっくりと目を開けた。
振り返る。
誰もいない。

だが、
確かに“そこにいる”気配があった。

ジョンは、僕のそばにいた。


夢だったのか。
記憶だったのか。
それとも、
歴史の隙間に入り込んだ、
ほんの一瞬の“別の時間”だったのか。

答えは出ない。
出るはずもない。

だが、ひとつだけ確かなことがある。

僕はこれからも、
ジョンの足跡を辿り続けるだろう。

軽井沢でも。
ニューヨークでも。
ロンドンでも。

そのたびに、
ジョンは僕のそばにいて、
静かに囁くだろう。

――その道、そのままで良い。

それが、
僕に残された唯一の“真実”だった。


夜、部屋に戻ると、
窓の外に星が瞬いていた。

僕は静かに目を閉じた。

夢は、
また訪れるだろう。

そして、
その夢の中で僕は、
何度でもジョンに会うのだろう。

夢か、記憶か。
その境界は、もうどうでもよかった。

ただひとつ、
胸の奥に確かに残っているものがあった。

――ありがとう。

あの夜、ジョンが最後に言った言葉。

それだけが、
僕の存在を証明していた。

そして僕は、
その言葉を抱きしめながら、
静かに目を閉じた。




〜あとがき〜
1979年の夏
やっとこさ潜り込めた底辺の大学で
サークルの仲間たちと
恋の駆け引きの中
訪れた軽井沢の旧軽銀座で
偶然 出会えたジョン家族たち

ショーンを乗せた自転車を
押して歩いて来た
ジョンとヨーコ
それを取り巻く多くのファンたち

遠くから
思わず
ジョン! と声を掛けると
振り返って
微笑んでくれた

そう
ただそれだけの出会い

本当にいたんだ! と

微笑んだことを昨日のことのように思い出す

翌年の夏
また会えないかと
出掛けてみたけれど
会えなかった

そして
その年の冬
もう会えない人となってしまった

それから
時折 軽井沢を訪れるたびに
ジョンの足跡を追い掛ける

それももう
45年にもなるが
その場所場所には
今もまだ
必ず そんなファンたちが佇んでいる
僕のように…

この物語を書きながら、

私は何度もあの頃の風景を思い出しました。
万平ホテルの静けさ、見晴台の冷たい空気、
離山房の木々の匂い、樹の花の柔らかな光。
そこには確かに“ジョンの気配”があり、
彼が歩いた道を辿るたびに、
耳元で「その道、そのままで良い」と囁かれているような気がしました。

歴史は変えられない。
しかし、歴史に触れた人の心は変わる。
その変化こそが、未来へと続く“新しい道”をつくるのだと思います。

あなたがこの物語を読み終えた今、
もし心のどこかに小さな余韻が残っているのなら、
それはきっと、ジョンがあなたのそばに立っている証です。
どうか、あなたの道を、そのまま歩いてください。
その道は、きっと間違っていません。

そしていつか、
軽井沢のどこかで、
あなたの肩越しにジョンが微笑む瞬間が訪れますように。

アマゾン キンドル