刻堕とし 十五 

〜火焔太鼓異聞・値上喰らい〜


継ぎ目守異聞
古典落語「火焔太鼓」より



まえがき
「火焔太鼓」という噺は、しがない道具屋の甚兵衛が主役である。埃をかぶった汚らしい古太鼓を、あろうことか大名屋敷へ売り込みに行かされる。女房には「そんな汚い代物、二束三文にもならない」と呆れられながらも、甚兵衛は恐る恐る屋敷へ足を運ぶ。
ところが、殿様がこの太鼓を一目見るなり、無性に気に入ってしまう。埃を払い、打ち鳴らしてみれば、これが存外に良い音色。しかも、太鼓の胴に「火焔」の焼印があると聞き、殿様の物欲にはますます火がつく。値切るどころか、家来たちが競うようにどんどん値を吊り上げ、最後にはとんでもない大金で買い上げられてしまう。
甚兵衛が大金を抱えて帰ると、女房は手のひらを返したように大喜びし、「今度は汚い茶碗でも太鼓でも、遠慮なく売り込んどいで」とけしかける――そんな、値打ちというものの不思議さ、可笑しさを描いた噺である。
この噺の面白さは、「値打ち」というものが、物そのものの実体とは関係なく、見る者の欲や見栄によって、いくらでも吊り上がっていくところにある。
ところが、とある写しにおいて、この「値打ちが際限なく吊り上がる」という型が、暴走を始め、あらゆる継ぎ目のあらゆる品物の値が、歯止めなく高騰し続けているという報せが届いた。継ぎ目守の圭馬と弥七は、値打ちそのものが暴走する道具屋の店先へと足を踏み入れることになった。




一 継ぎ目守、値が止まらぬ町
鏡面に映ったのは、算盤の玉が独りでにかちかちと弾け続ける光景だった。玉は上へ上へと弾かれ続け、決して下に戻ることがない。
継ぎ目守圭馬へ。演目「火焔太鼓」における『値打ちが際限なく吊り上がる』型が暴走。無数の継ぎ目にて、あらゆる品物の値が歯止めなく高騰し続ける事案を確認。市中の商いが機能不全に陥る恐れあり。至急現地調査されたし。
「値が止まらない、たあ、恐ろしい話だね」
圭馬が算盤の音に耳を澄ませながら呟くと、弥七がすでに巾着袋を握りしめて立っていた。
「旦那、火焔太鼓たあ、汚い古太鼓が思わぬ大金に化ける、痛快な商売噺のはずなんですがね」



二 道具屋の甚兵衛
継ぎ目を抜けると、そこは江戸の裏長屋、道具屋を営む甚兵衛の店先だった。
「おい、お前さん、これ、何とかならないかねえ」
女房が呆れ顔で示したのは、埃だらけの汚らしい古太鼓だった。
「なあに、これも立派な商売道具だ。大名屋敷にでも持って行って、売り込んでみようじゃないか」
「そんな汚い代物、二束三文にもなりゃしないよ」
甚兵衛は女房の小言をものともせず、古太鼓を背負って屋敷へと向かった。
弥七がにやりと笑った。
「旦那、いよいよ本番でさ。この太鼓が、どこまで化けるか」



三 殿様の目利き
屋敷に通された甚兵衛が恐る恐る太鼓を差し出すと、殿様はそれを一目見るなり、身を乗り出した。
「ほう、これはなかなかの品じゃ。打ってみせよ」
甚兵衛が恐る恐る打つと、存外に良い音色が響いた。
「良い音じゃ。……ん、この胴の焼印、火焔とあるな。これは名のある品に違いない」
殿様の目が輝きを増していく。家来たちも次々と「これは掘り出し物にございます」「なるほど、火焔の銘は由緒正しき証」と、それぞれに値を吊り上げる口上を並べ立てた。
圭馬はその様子を眺めながら、ふと眉を寄せた。
「弥七、噺の型どおりだ。だが、あの吊り上がり方、いつもより勢いが強すぎないか」



四 止まらぬ値
「三百両でどうじゃ」
「いえいえ殿、この品にその値では安すぎましょう。五百両はくだりますまい」
「ならば七百両じゃ」
「いや、千両でも惜しくはございません」
家来たちの声が、次第に熱を帯び、まるで競り合うように値を吊り上げていく。甚兵衛は目を白黒させながら、口を挟む隙もなかった。
「殿、こう申しては何ですが、千両でも安いくらいで――」
「二千両じゃ!」
「弥七、おかしいぞ。噺の型なら、確か三百両あたりで話が纏まるはずだ。それが、まるで際限なく吊り上がってく」



五 幾千の値、止まらぬ算盤
圭馬が継ぎ目守の証を掲げると、屋敷の壁が透け、その奥に、幾千もの同じ屋敷が入れ子のように連なって見えた。どの継ぎ目でも、同じように太鼓の値が吊り上がり続け、中には万両、億両という、およそ現実離れした値にまで達しているものもあった。
「弥七、見ろ。あちこちの継ぎ目で、値打ちが天井知らずに吊り上がってる。太鼓だけじゃない、他の品物まで、次から次へと際限なく値が上がってやがる」
「旦那、こいつぁ、殿様の物欲だけじゃ説明がつきやせん。何かが、値打ちそのものを喰い物にしてるとしか思えねえ」



六 値上喰らいの正体
幾千の算盤が弾ける音の収束する先、山のように積み上がった小判の中心に、無数の値札を鱗のように纏った、巨大な蛇腹状の影が蠢いていた。
「継ぎ目守か。……この身は、幾百幾千の写しで宙に浮いたままだった『値打ちの吊り上がり』から生まれた者。名は値上喰らい。物の値が跳ね上がる、あの高揚と焦り――それが何よりの馳走よ」
「お前が、あちこちの継ぎ目で、際限なく値を釣り上げさせてるのか」
「一度上がった値は、下がることを許さぬ。上へ上へ、際限なく吊り上げさせてこそ、この身は肥え太る。……もはや、太鼓の値打ちなど、どうでもよい。値打ちそのものが吊り上がり続けるという、この昂ぶりだけが尊いのだ」
弥七が唸った。
「旦那、こいつぁ、殿様の見栄っぱりな物欲を、逆手にとって暴走させてやがる」



七 甚兵衛、値に呑まれる
騒ぎのさなか、当の甚兵衛が、次々と吊り上がる値の大きさに目を回し、我を忘れたように叫び始めた。
「も、もっと、もっと高く売れるはずだ。これほどの品が、二千両やそこらで収まってたまるものか」
「甚兵衛さん、しっかりしなせえ!」
弥七が声をかけるが、甚兵衛の目はすでに、値上喰らいの気配に絡め取られ、うつろになっていた。
「圭馬、まずいぞ。あの人の好さそうな甚兵衛さんまで、値打ちの亡者になっちまってる」



八 女房の一言
そこへ、店先で待ちきれず様子を見に来た女房が、屋敷の廊下に駆け込んできた。
「お前さん、いったいどこまで欲をかいてるんだい!」
女房の一喝に、甚兵衛の肩がびくりと震えた。
「い、いや、これは……」
「あんたが売りに行ったのは、埃をかぶった古太鼓だろう。それが、いくらで売れようと、あんたという人間の値打ちが上がるわけじゃないんだよ。いい加減、目を覚ましな!」
その一言が、甚兵衛の胸の奥に、すとんと落ちた。うつろだった目に、次第に正気の色が戻ってくる。
「弥七、見ろ。あの女房の一言、値打ちの亡者になりかけてた甚兵衛が、正気を取り戻し始めてる」



九 圭馬の啖呵
圭馬は値上喰らいに向き直った。
「お前の狙いは分かった。値打ちってやつを、際限なく吊り上げること自体が目的になっちまってる。だが、値打ちってのはな、本来、それを持つ者の暮らしや心を豊かにするためにあるもんだ」
「戯言を。値打ちが吊り上がることこそ、この世で何より尊い」
「いいや。あの女房の一言を聞いたか。太鼓の値がいくら吊り上がろうと、甚兵衛さん自身の値打ちは、一文も変わりゃしねえ。品物の値打ちと、人の値打ちを、ごっちゃにしちゃいけねえんだ」
圭馬は懐から継ぎ目守の証を掲げ、幾千の屋敷すべてに向けて、力強く語りかけた。
「殿様、値打ちってのはな、際限なく吊り上げるためのもんじゃねえ。良い品には良いなりの、ちょうどいい値ってもんがある。三百両、それで手を打ちなせえ」



十 型を取り戻す
圭馬の言葉が、幾千の継ぎ目すべてに染み渡っていくと、暴走していた値の吊り上がりが、少しずつ落ち着きを取り戻していった。殿様はふっと我に返ったように咳払いをし、「うむ、三百両とやらで手を打とう」と鷹揚に頷いた。
値上喰らいは、上がり続けることを許されなくなった値打ちの重みに耐えかね、纏っていた値札の鱗を一枚また一枚と剥がされながら、崩れ落ちるように霧散していった。
「ぐ……値打ちに、天井があるとは……身が、持たぬ……」
幾千の屋敷は、一枚また一枚と収束していき、やがて、あの一つの屋敷だけが、正しい形で残った。



十一 甚兵衛の帰宅
甚兵衛は三百両を懐に、女房の待つ長屋へと帰った。
「お前さん、まさかとは思うが、本当に売れたのかい」
「ああ、三百両で買い上げてもらったよ」
女房は目を丸くし、それからにんまりと相好を崩した。
「三百両とは大したもんだ! お前さん、今度は汚い茶碗でも屏風でも、遠慮なく売り込んどいで!」
甚兵衛は苦笑いしながら、ふと屋敷での騒ぎを思い返し、小さく呟いた。
「値打ちってやつは、際限なく吊り上げるもんじゃねえ。ちょうどいい塩梅ってのが、何より大事なんだな」



十二 高座にて
気づけば圭馬は着物姿で高座に座っていた。扇子をとんとんと畳に置き、客席を見渡す。
「というわけで、埃まみれの古太鼓が三百両にも化けたってんですから、値打ちってやつは分からねえもんでございます。ですが、値がいくら吊り上がろうと、売った当人の値打ちまで上がるわけじゃねえ。……ええ、それにしても、二千両だ三千両だと吊り上がってく騒ぎを間近で見せられちゃ、あっしも算盤の弾く音を聞くたび、しばらく肝が冷えそうでございます。今日はこの辺りで、お後がよろしいようで」
客席から、盛大な拍手が沸き起こった。




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あとがき
本作をお読みいただきありがとうございました。刻堕としシリーズも十五作目、今回は「火焔太鼓」という、値打ちの不思議さを軽妙に描いた商売噺を題材にしました。
この噺の面白さは、物そのものの実体とは関係なく、見る者の欲や見栄によって、値打ちがいくらでも吊り上がっていくところにあると思います。今回はその「値打ちが際限なく吊り上がる」という型そのものが暴走し、あらゆる品物の値が歯止めなく高騰し続けるというSF的な事件にしてみました。
現代で言えば、投機やバブルにも通じるような風刺を、少し効かせてみたつもりです。それでも最後に事態を収めたのは、剣でも術でもなく、女房のあの一言――品物の値打ちと、人間自身の値打ちは別物だという、実にまっとうな道理でした。値打ちに振り回されず、ちょうどいい塩梅を大事にするという、江戸の商売人らしい知恵を、シリーズを通じて描けていれば幸いです。
算盤の弾ける音の向こうに潜む、値打ちという不思議な化け物の噺を、楽しんでいただけましたら幸いです。それでは、また次の継ぎ目でお会いしましょう。

裁定係、参上! 三部作
〜帰ってくる場所 〜 


〜まえがき〜

「お天道様が見ているから、悪いことはできないよ」

小さい頃、誰かに言われた言葉です。
いつの間にか、隣に誰が住んでいるかも知らないのが普通になった。注意する大人も、される子供もいなくなった。
ずるをした者が笑い、真面目な者が黙る景色に、なんとなく納得してしまっている今。
もし閻魔様が、いやそれは違うだろうと言い出したら。
しかも現場に来たのが、閻魔庁で一番頼りない窓際職員だったら。

これは、帰る場所を守るために、普通の善良さだけでなんとかしようとする男の、三つの町の物語です。




第一部
新米地獄職員・三途川一歩の奇妙な人間観察記


プロローグ
浄玻璃鏡のヒビ

閻魔庁地下九十九階、浄玻璃鏡課。亡者の一生を映す巨大な鏡の間で、甲高い警報が鳴った。
「またかよ」湯呑みを持った小柄な老人が呟く。閻魔大王だ。見た目は近所の碁会所にいそうな爺さんだが、声だけは地獄の底から響く。
「今月三十七枚目です」報告した牛頭は真っ赤な顔で頭を抱える。「帳簿に載らない悪事が増えてます。誰かが鏡に細工してるとしか」
鏡の奥、日本の議員会館。笑いながら書類をシュレッダーにかける男が映っている。横には「清廉潔白度99.8点」の表示。
「こいつ、賄賂も横領も嘘も全部やっておるのに、鏡では聖人君子か。因果の帳簿が狂えば地獄の仕事がなくなる」
大王は湯呑みを置き、叫んだ。「誰でもいい。若いのを一人地上にやれ」
この誰でもいい、の一言で、地獄一運のない男、三途川一歩の第二の人生が始まった。



一章
新米、抜擢される

三途川一歩、三十二歳。生前は文房具メーカーの営業。特技は相手の話を最後まで聞くこと。欠点はエレベーターの閉ボタンを無意識に連打すること。
善人でも悪人でもないので、死後はとりあえず事務方で地獄庁行き。浄玻璃鏡課の書類整理係、通称お茶汲み兼居眠り係だ。
「一歩ォ」牛頭課長に叩き起こされる。「大王様がお呼びだ」「俺をですか。特別表彰ですか」「いや、手が空いてたのがお前だけだ」
玉座の大王は一歩をじろりと見た。「お前、生前は何を」「営業です。人と人の間を」「その普通さがいい。平凡な奴の方が、平凡な悪事に気づく」
鏡に映る男を指さす。「こいつらの悪事が鏡に映らん。原因を探れ。器は用意した」「俺がですか。誰でもよかったんですよね」「うむ、誰でもよかった。だが今はお前しかおらん」



二章
着地失敗、練炭の香り

地上出向は仮の器に魂を入れる方式だ。「器がこれしか空いてなくてな」用意されたのは見た目七十八歳、腰の曲がった老人だった。名前は三田一歩。読み方はみたいっぽ。地獄の人事はたまに洒落を言う。
着地も失敗し、都下の長屋街に尻餅で降臨。「いでで」起き上がると、むっとする練炭の匂いがした。知らないはずなのに懐かしい。器の持ち主の記憶が流れ込んでくる。
縁側で洗濯物を畳む老婆が声をかける。「一歩さん、腰大丈夫かい」勝手に口が動く。「大丈夫です、タマばあさん」田中タマ。六十年この長屋に住む生き字引だ。
「近頃は隣の顔も知らない人が多いけど、ここはまだみんな知り合いだよ。昔は向かいのオジさんがよその子でも叱ったもんだ」
その一言で、一歩の中で何かが繋がった。鏡のヒビの原因は、こういう関係が消えたことと関係があるのかもしれない。



三章
町内会長とスマホと、謎の光る名刺

町内会長、黒巣蔵之介。愛称クロス。六十代、愛想はいいが一年で急に金回りが良くなった。
寄り合いに紛れ込むと、クロスはスマホをいじりながら演説している。「再開発は私に任せれば万事」そのスマホの奥が、薄く鏡のように光っている。一歩の霊視がちりっと反応する。
終わった後、わざと居残る。「クロスさん、最近儲かってるようで」顔が一瞬引きつる。「コツコツやってるだけですよ。三田さんは口が悪くなった」
嘘をついた瞬間、背中に黒い靄がふっと出た。研修で見た嘘のサインだ。
夜、レシートの裏に呪文を書いて交信。「課長、町内会長が鏡に似たものを持ってます」牛頭の顔が青くなる。「裏鏡だ。浄玻璃鏡の欠片で作られた闇市場品だ。持ち主の悪事を帳簿から消す。しかも持ち主が自分から手放すと、存在理由を失って割れる欠陥品でもある」
「一人で何とかなる規模じゃないですよね」通信は切れた。都合の悪い質問には答えないのが官僚だった。



四章
不良少年と、斜に構えた正義感

翌朝、裏路地で金髪の少年、陸と出会う。「ジジイ、暇だな」「口の利き方を知らんのか、若いの」器のせいで説教が板につく。
「自分は自分、他人は他人だろ。今どき」「自分は自分か。じゃあ他人が困ってても知らんぷりか」「別に」と言いながら、陸は目を逸らす。よく見てる奴ほど、そう言う。
「クロスさんのこと知らんか」「うちの親父が言ってた。嘘の資料で土地を安く買い叩いてるって。市議の寝屋川って奴も噛んでるらしい」
一歩は笑った。「目がいいな。お前の目、貸してくれんか。じいさんが詐欺に遭わないように見張ってくれ」「はあ。しょうがねえな。ついてってやるよ、じいさん」ジジイからじいさんに昇格した。



五章
闇市の鏡と、笑う議員先生

陸のスマホとタマばあさんの口コミ網で、芋づる式に繋がった。裏鏡の元は市議、寝屋川宗吉。福祉予算を横流ししながら清廉潔白で通る男だ。
後援会サイトには子供と笑う写真。だが一歩には笑顔の奥の黒い靄が見える。
夜、事務所の裏で二人の会話を盗み聞く。「先生、鏡の調子は」「最高だよ。多少強引でも帳簿に残らん。地獄なんて迷信さ。逃げ切った者勝ちだ」
隠れていたタマばあさんが小さく呟く。「見て見ぬふりが一番嫌いだよ、あたしゃ」陸も拳を握る。「マジでムカつく」
その帰り道、黒い車がずっと後ろをついてきていた。



六章
拉致られる新米、火事場のばあちゃん力

廃工場に連れ込まれた。三人まとめて椅子に縛られる。老人の器では抵抗できない。
前に立つクロスと寝屋川。寝屋川は小さな手鏡、裏鏡の欠片を弄ぶ。「何を喋っても証拠は残らん。こいつがあればな」
その時、タマばあさんが叫んだ。「宗吉ちゃん。あんた、駄菓子屋で万引きしてうちの亭主に泣きついた子だろ。亭主が頭撫でて、正直に生きろって言ったの覚えてないのかい。あんた泣きながらおじちゃんみたいになるって言ったじゃないか」
工場が凍る。寝屋川の顔から血の気が引く。「昔の話だ」声は震えていた。
クロスが苛立つ。「先生、行きましょう」二人が出ていった後、用心棒がニヤつく。と、タマばあさんがぼそりと言う。「一歩さん、うちのコルセット、畑仕事用でね。針金入りの特製なんだよ」バチンとロープが切れる。六十年の畑仕事で鍛えた握力だ。
「じいさんばあさん舐めんなよ」と陸が椅子で用心棒の脛を殴り、三人は脱出した。



七章
脱出、そして閻魔庁への緊急報告

茶の間に戻り、震える手でレシート通信。「裏鏡は本物です。町内会長と議員が結託してます。しかも全国に流れてるらしい」
光が強くなり、大王本人が出る。「身内から欠片が持ち出されておるな。元締めを探せ。儂も行く」「大王様が地上に」「数百年ぶりだ。からあげクンが食いたいという噂も聞いたしな」
通信が切れた。陸が湯呑みを出す。「とんでもねえ話になってきたな」タマばあさんが笑う。「でも一歩さんが来てから、この町、久しぶりにみんなで何とかしようって空気になったよ」



八章
骨董屋の老人と、三尸虫の恨み言

通販ページの住所、寂れた骨董屋。店主は一歩より老けて見えた。「鏡のお守りについて」店主の顔が揺らぎ、鬼の顔が覗く。肩に虫の影。
「三尸虫の権蔵だな」かつての下級鬼。出世争いに負け、自分の失態を鏡から消したことで闇落ちした男だ。
「何百年も真面目に見張ってきたのに、誰も褒めちゃくれん。なら消す側に回ってやるとな」「そんな理由で全国にばら撒いたのか」「今の世に合わせただけだ。誰も他人のことなんか見ちゃいない。あの世の裁きも適当でいいだろう」
タマばあさんが首を振る。「誰も見てないなんてこと、ないよ。見てないふりしてるだけで、本当はみんな見てる。空も見てる」
権蔵は木箱を抱えて叫ぶ。「もう遅い。手筈は整ってる。この欠片はな、持ち主が自分から手放さない限り消えんのだ」そう言って鏡に飛び込み消えた。自ら弱点を喋るタイプの悪役だった。
外が眩い光に包まれる。



九章
閻魔様、参上

光の中に羽織姿の大王。「着いたぞ。ここはどこじゃ」「商店街です。目立ちます」「儂は閻魔じゃ。目立って何が悪い」腹が鳴る。「あの光る店は何じゃ」コンビニだ。人類史上初、閻魔大王のレジ待ちが発生する。
「主、からあげクンを所望する」財布は一歩の小銭。店員は「コスプレイベントですか」と苦笑い。からあげクンを頬張り、大王は真顔に戻る。
「権蔵は式典で一気にやるつもりだ。会場全体の記憶を消すつもりじゃ。あそこが最後の集荷場所だ」遠くの高層ビルに再開発記念式典の横断幕が揺れていた。



十章
式典前夜、ご近所ネットワーク発動

タマばあさんの家に二十人近い老人が集まる。みんな杖をつき、みんな顔見知りだ。「タマさんから聞いたよ。宗吉ちゃんがねえ」「うちの亭主も世話になったのに」「証拠がなきゃ陰口で終わるよ」
一歩が立つ。七十八歳の身体で精一杯背筋を伸ばす。「証拠は皆さんの記憶です。裏鏡は帳簿を消せても、皆さんの心は消せません。同じことを覚えている人が多ければ多いほど、鏡は負ける。そう大王が言ってました」
陸も立ち上がる。「俺、明日生配信する。隠しカメラじゃなく堂々と。生で見たって事実は、どんな鏡でも消せないから」
少し前まで自分は自分と言っていた少年が、自分のスマホを町の武器にすると言った。「さあ行こうか。私らの町のために」タマばあさんの一声で、昭和のご近所ネットワークが再起動した。



十一章
式典壇上、鏡が割れる時

式典はテープカットで始まる。壇上に寝屋川、クロス、変装した権蔵。「本日はお日柄もよく」その時、後方から声が上がる。「ちょっと待った」タマばあさんたちだ。陸のスマホは既に赤い配信ランプがつき、視聴者数が跳ね上がっている。
「宗吉ちゃん、あんた地権者に嘘ついて安く買ったんだろ。うちは騙されたよ」「私もだ」「俺もだ」次々と手が上がる。消せない記憶が積み重なる。
クロスが裏鏡を掲げる。「消せばいいんだよ。なかったことにすれば」会場の照明が落ち、重い声が響く。「あの世の帳簿に残らずとも、人の心には残るのじゃ」闇の中に大王。会場は演出だと思ってざわめく。
権蔵が最大の欠片を掲げる。「会場ごと忘れさせてやる」タマばあさんが最後の一押しを叫ぶ。「宗吉ちゃん。あんたのお祖母ちゃんは空襲の時、隣の子をおぶって逃げた立派な人だよ。あんた、その孫だよ。今からでも遅くない」
寝屋川の手が震える。クロスの腕を掴んで止めた。「もういいんだ、クロスさん。もう逃げるのはよそう」
当事者が嘘を手放した瞬間、裏鏡にヒビが入る。持ち主が手放すと存在理由を失って自壊する、あの欠陥だ。バリィンと甲高い音を立て、裏鏡は粉々に砕け散った。配信のコメント欄が「鏡割れた」で埋まる。



十二章
裁き、そして間に合った者たち

膝をつく権蔵に大王が言う。「認められたいのなら、鏡を割るのではなく、まっすぐ裁きを受けよ」「俺はただ」「分かっておる。しばらく償いをせよ。その後、また働く機会をやる」権蔵は泣きながら頭を下げた。
騒動は地元劇団のサプライズとして処理されたが、配信映像と地権者の証言は残った。寝屋川は辞職し、クロスも捜査を受けることになった。
大王は一歩を見る。「一歩よ、案外筋がよい。お主は普通の善良さを配るのが上手い」「俺、また窓際ですか」「さてな。新設部署の主任が空いておるが」机には辞令があった。地上派遣特別調査室主任。



エピローグ
練炭の匂いのする未来

一年後。長屋街に子供の声が戻った。新町内会長は陸の父親だ。縁側では陸が子供たちを叱っている。「危ないだろうが」「あの時のじいさんみたい」とタマばあさんが笑う。「うるせえな」
三田一歩老人は遠くの親戚の家へ行ったことになっている。タマばあさんたちは時々縁側で「一歩さん、元気かねえ」と空を見上げる。
閻魔庁。「一歩、遅刻だぞ」「すみません課長」次の任地は海の向こうだ。「誰でもよかったのだが、今回はお前でなくては困る、という依頼が各地から来ておる。お前のやったことが、少しずつ広がっておるようだ」
修復された鏡には、ハワイの盆踊りと日本の長屋の縁側が一緒に映っていた。大王は茶を飲み干し下界を見渡す。「さて、お覚悟のほどを、な」



番外編
三途川一歩、死亡の顛末

死因は地味だった。真夏の交差点で自転車を避けて転倒。享年三十二。
三途の川で脱衣婆に言われる。「大罪も大善もないねえ。可もなく不可もなく」「褒められてます」「さあね。事務に回しとくよ」
後に牛頭は語る。「隣の人の話をちゃんと聞ける。それだけで大抵のことは何とかなる」凡庸な美徳こそが最大の武器だった。


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第二部
海の向こうの裏鏡と、アロハの記憶



プロローグ
人事は適当、鏡はしつこい

「一歩、次は海の向こうだ」「また誰でもよかったんですか」「いや、今回は名指しだ。誰でもよかったのだが、たまたまお前だった」閻魔庁の人事は成長しない。
「それと人手が足りん。権蔵を連れていけ」正座させられていた権蔵が叫ぶ。「嫌だ。ハワイは暑い。俺はクーラーの効いた部屋で反省したい」牛頭が言う。「お前がばら撒いた裏鏡の新型がハワイで見つかった。旧型は悪事を消すだけだったが、新型は偽の善行を書き込める」
権蔵は顔をしかめる。「俺の作ったやつよりタチが悪い。誰が作った」「それを探ってこい。主任は一歩、部下はお前だ」
大王だけが別のことを考えていた。「向こうにはスパムむすびというものがあるらしいな。からあげクンの次はそれだ」



一章
主任、ハワイへ行く

着地は案の定失敗した。八百屋のバナナの山に突っ込んだ。「いでで」むっとする暑さと花の匂い。器の記憶が流れる。イッポ・ミタ、八十二歳。五十年前からこの島で八百屋をやっている。最近は客が減り、再開発の買収話が来ている。
「イッポ、大丈夫」声をかけてきたのは日焼けした高校生、レイアだ。「大丈夫だよ、レイアちゃん」店の奥に黒いアロハシャツの男が立っている。権蔵だ。既に汗だくだ。「遅い。こっちは溶けるかと思った」「鬼が日焼けするのか」「するわ」
店先に小さな鏡が並んでいる。「Lucky Mirror 幸運を呼ぶ」と書かれたお守りだ。裏側が黒く濁り、所々金色の糸が絡んでいる。「新型だ。黒い靄が悪事を消す細工、金色が偽の善行を書き込む細工だ」レイアが言う。「この鏡、再開発の人がおじいちゃんたちに配ってるの。みんな急に売ってもいいかなって言い出して」
夜、レシートの裏に呪文を書き、ビデオ通話を繋ぐ。日本は朝だ。「一歩さん、ハワイかい」「じいさん、また老人かよ」タマばあさんと陸の顔が見えると、ほっとする。



二章
アロハと裏鏡

再開発の説明会。壇上には開発業者のクロースさんが立っている。「この再開発は皆さんのためです。皆さんは英雄になります」配られた資料には、寄付をしたことになっている地主のリスト。もちろん嘘だ。
一歩は霊視で見る。業者の背中は黒い靄、地主たちの背中には金色の糸が絡んでいる。「どうやって剥がす」「旧型は本人が手放せば割れた。新型は本人が本物の記憶を思い出せば剥がれる。偽物は本物に弱い」
レイアが倉庫から古い写真を出してきた。盆踊り、運動会、八百屋の前で笑う子供たち。どれも鏡には映らない記憶だ。「この写真、みんな覚えてるかな」「覚えてるさ。ここは儲からないけど、みんなが帰ってくる場所だって、おじいちゃんがよく言ってた」一歩は決めた。「写真展をやろう。説明会の横で」



三章
写真展、開幕

翌日、説明会の横で勝手に写真展を開いた。タイトルは「帰ってくる場所」。タマばあさんから送られてきた日本の長屋の盆踊りの写真も並ぶ。日本の盆踊りとハワイのボンダンスが並ぶと、不思議と似ていた。
地主たちが足を止める。「これ、うちの父さんだ」「このバーベキュー、覚えてる。あの時みんなで肉を焦がした」一人、また一人と本当の記憶を口にするたび、配られた鏡にヒビが入る。パキン、パキンと乾いた音が会場に響いた。
壇上のクロースさんが青ざめる。「なんだ、この音は」権蔵がにやりとする。「剥がれてるな。偽物の善行が剥がれる音だ」会場中の鏡が次々と割れる。割れるたびに資料の偽の寄付リストの文字が消えていった。
そこに黒いスーツの男が現れた。本社の人間だ。ポケットから大きな鏡を取り出す。「甘いな。新型の親玉だ。会場ごと忘れさせてやる」男が鏡を掲げた瞬間、会場の空気が重くなる。みんなの顔から記憶の色が薄れていく。



四章
黒幕、現れる

「やめろ」権蔵が前に出る。「その作り、見覚えがある。閻魔庁の記録課の上役、朱筆の作り方だ」男が笑う。「さすが元同僚。そうだよ。お前が窓際に追いやられたように、俺も評価されなかった。ならこっちで稼いだ方が早い」
権蔵は吐き捨てる。「だからって人の帰る場所まで売るのか」「帰る場所。そんなもので金になるのか」その時、レイアが叫んだ。「なるよ。ここは私が帰ってくる場所だもん。おじいちゃんが守ってきた場所だもん」レイアの声に、地主の一人が叫ぶ。「そうだ。売らん。ここは俺たちの場所だ」
本人が本当の記憶を口にした瞬間、男の持つ親玉の鏡に大きなヒビが入った。新型の弱点、本物の記憶の前では偽物は立っていられない。だが鏡はまだ割れない。男が必死にしがみついている。「まだだ、まだ消せる」
その時、会場の入り口から大声が響いた。「待たせたな、一歩」振り返ると、漆黒の羽織を着た小柄な老人が立っていた。閻魔大王だ。手にはスパムむすびを持っている。
「大王様。なぜここに」「からあげクンの次はスパムむすびだと言っただろう。ついでだ」大王はむすびを頬張り、男を見る。「人の帰る場所を帳簿で買えると思うたか。甘いわ」大王が手をかざすと、会場の写真が一斉に光った。日本の長屋の盆踊りとハワイのボンダンス、両方の記憶が重なる。「アロハもお天道様も、根は同じじゃ。見返りを求めず、隣を想う心じゃ」地主たち全員が声を揃える。「売らん」親玉の鏡が耐えきれず、バリィンと砕け散った。



五章
裁き、そしてアロハ

黒幕の男はその場で倒れ、駆けつけた牛頭に回収されていった。「朱筆、お前も窓際どころか地獄の倉庫番だな」会場は騒然となったが、配信を見ていた何千人もの人が割れた瞬間を見ていた。なかったことにはできない。再開発の話は白紙に戻り、商店街はみんなで残すことになった。
夜、八百屋の店先で小さな盆踊りが開かれた。日本の盆踊りの曲とハワイのウクレレが混ざる。不思議と合う。レイアが一歩に言う。「イッポ、ありがと。おじいちゃん、喜んでるよ」「いや、こっちがありがとうだよ、レイアちゃん」権蔵は隅でスパムむすびを食べている。「主任、俺、少しは役に立ったか」「ああ、立ったとも。お前がいなかったら新型の仕組みは分からなかった」ビデオ通話の向こうでタマばあさんと陸が手を叩いている。「一歩さん、向こうでも盆踊りだねえ」「じいさん、踊れてないぞ。腰曲がってる」一歩、もといイッポは笑いながら、へたくそな盆踊りを踊った。



エピローグ
帰ってくる場所は増える

一週間後。ハワイの八百屋の店先には「帰ってくる場所」と書かれた小さな看板が掛かった。イッポ・ミタ老人は、遠くの親戚の家へ行ったことになった。まただ。閻魔庁に戻った一歩の机には新しい辞令があった。「地上派遣特別調査室主任、引き続き」牛頭が言う。「次はどこだ。聞いてないぞ」「うむ、誰でもよかったのだが、今回はお前でなくては困る、という依頼が各地から来ておる。お前のやったことが、少しずつ広がっておるようだ」修復された鏡には、ハワイの盆踊りと日本の長屋の縁側が一緒に映っていた。大王はスパムむすびをもう一個頬張り、呟く。「さて、次はどこの帰る場所を守りに行くかの」


ーーーーーーーーーー




第三部
最後の裏鏡と、巡る記憶


プロローグ
鏡の向こう側

ハワイの件の後、閻魔庁で奇妙なことが起きた。割れたはずの裏鏡の欠片が、回収しても回収しても帳簿に残るのだ。しかも今度は誰も触っていないのに、勝手に増えている。牛頭が報告する。「大王様、裏鏡がアプリになってます」「アプリ」鏡に映ったのは現代の東京だった。若者たちがスマホで自撮りし、アプリで顔を加工し、過去の投稿を消している。アプリの名前は「キヨミラ」。清く美しく、過去を消せます、という謳い文句だ。裏には小さく「浄玻璃鏡技術使用」と書いてある。開発元は閻魔庁記録局だった。大王は湯呑みを置いた。「無記め、やりおったな」記録局長、無記。効率を何より愛する男だ。彼の持論はこうだ。人間は忘れたい過去を忘れさせてやれば、現世でもっと効率よく働く。地獄の裁きも、忘れたいことは忘れさせてやればいい。それは一見優しさに見えた。だがその結果、誰も何も覚えていない、何も咎められない世界ができつつあった。「一歩を呼べ。今度は誰でもよくない。一歩でなくてはならん」



一章
アプリの中の裏鏡

東京、渋谷。陸の大学の学園祭だった。陸は配信ブースで叫んでいる。「今バズってるキヨミラってアプリ、やばいんだよ。過去の黒歴史を全部なかったことにしてくれるらしい」横でレイアが言う。「ハワイでも流行ってる。みんな昔の写真を消してる」二人の前に、一歩と権蔵が現れる。今回は仮の器ではない。閻魔庁の職員として、半分だけ人間に見える姿での潜入だ。権蔵は相変わらず黒いアロハシャツだ。「そのアプリ、裏鏡の最終形態だ。悪事を消すんじゃない。記憶そのものをなかったことにする」権蔵が言う。「旧型は帳簿を消した。新型は善行を偽造した。最終型は記憶そのものを消す。消せば楽になるが、帰る場所も消える」陸のスマホに通知が来る。タマばあさんの長屋街の再開発が、また持ち上がったというニュースだ。今度はアプリで地主たちの記憶を消して、同意したことにするというやり方だった。「またあの町か」一歩の拳が握りしめられる。



二章
帰ってきた主任

長屋街に戻ると、様子がおかしかった。みんなスマホを見て、ぼんやりしている。「あれ、この土地、売ったんだっけ。売ってないんだっけ」タマばあさんでさえ、少しぼんやりしていた。縁側に座り、一歩が聞く。「タマばあさん、練炭の匂い、覚えてますか」「練炭。懐かしいねえ。でも最近嗅いでないねえ」記憶が薄れているのだ。
一歩は倉庫からあの写真展の写真を出す。1巻で使った写真、2巻でハワイに持っていった写真。盆踊り、バーベキュー、バナナの山。「覚えてますか、この写真」タマばあさんが写真を見て、目に涙を浮かべる。「覚えてるよ。あの時の盆踊り、一歩さんがへたくそに踊ってたねえ」思い出した瞬間、タマばあさんの持っていたスマホのキヨミラアプリにヒビが入った。「やっぱりだ。本物の記憶はアプリより強い」陸が叫ぶ。「じゃあやることは一つだ。また写真展だ。今度は全国、いや世界同時に」レイアが笑う。「ハワイの商店街にも声かける。向こうは朝だけど起きてるよ」ご近所ネットワークは、今や海を越えて世界に広がっていた。



三章
全国の帰る場所が消える

無記は閻魔庁の最深部、浄玻璃鏡の制御室にいた。巨大な鏡の前に立ち、呪文を唱える。「人は忘れたいんだ。忘れさせてやるのが慈悲だ。誰も咎められない、誰も傷つかない、綺麗な帳簿にしてやる」鏡が黒く染まっていく。
地上では、キヨミラのユーザーが一斉に過去の写真を消し始めていた。長屋の写真、ハワイの写真、みんなの帰る場所の写真が、スマホの中から消えていく。
陸の配信が緊急で始まる。「みんな聞いてくれ。このアプリで消してるのは黒歴史だけじゃない。あんたが本当に大事にしてた記憶まで消えてるんだ」レイアがハワイから配信を繋ぐ。「私のおじいちゃんの八百屋の写真も消えかけた。でも思い出した。あの店は私の帰る場所だって」タマばあさんが縁側から配信に加わる。「うちの亭主の写真も消えかけたよ。でもね、匂いで思い出した。練炭の匂いと、一歩さんのバナナの匂いでね」三つの場所の配信が繋がった瞬間、地上のあちこちでキヨミラアプリが割れ始めた。



四章
閻魔庁の裏側

制御室に一歩と権蔵が乗り込む。「無記、やめろ」無記は振り向かない。「一歩、お前は知らんだろう。毎年何千もの亡者が来る。裁いても裁いても、地上では同じ悪事が繰り返される。ならいっそ、最初からなかったことにすればいい。そうすれば地獄の仕事も減る」「それで帰る場所まで消していいのか」「帰る場所。そんな非効率なものが何になる」権蔵が前に出る。「俺も昔そう思ってた。効率が全てだってな。だが違った。非効率なものの中にしか、人は帰れないんだ」無記が笑う。「綺麗事だ。鏡を見ろ。もうすぐ綺麗な帳簿になる」鏡は真っ黒になっていた。一歩は懐から一つのものを取り出す。認証印ではない。小さな、色褪せた写真だ。1巻の最後、タマばあさんの縁側で陸が叱られている写真。2巻のハワイの盆踊りの写真。そして今回、渋谷の学園祭で撮った、陸とレイアとタマばあさんが並んで笑う写真。三つの帰る場所が一枚に収まっている。「無記、お前、この写真の匂いが分かるか」「匂い」「練炭とバナナと、からあげクンとスパムむすびの匂いだ。帳簿には載らない匂いだよ」一歩は写真を鏡に押し当てた。



五章
最後の写真展

写真が鏡に触れた瞬間、鏡の中から無数の声が溢れ出した。「覚えてるよ」「売らん」「帰る場所だ」1巻の長屋の老人たち、2巻のハワイの地主たち、そして今地上で配信を見ている何万人もの声だった。
黒い鏡にヒビが入る。ヒビはどんどん広がり、鏡の中の黒が剥がれ落ちていく。下から元の透明な鏡が現れる。無記が叫ぶ。「なぜだ。効率の方が正しいはずだ」大王の声が響く。いつの間にか制御室に来ていたのだ。手にはおにぎりを持っている。今度はコンビニのおにぎりだ。
「無記よ、効率は大事だ。だが人は効率だけで生きてはおらん。寄り道して、喧嘩して、盆踊りでへたくそに踊って、それでやっと帰る場所ができるんじゃ」鏡がバリィンと割れた。割れた破片は光になり、地上のスマホの中のキヨミラアプリも全て割れた。消えかけていた写真たちが、元の場所に戻っていく。



六章
裁定、そして巡る

無記は膝をついた。「俺は、ただ楽にしてやりたかっただけだ」大王は言う。「楽にすることと、なかったことにするのは違う。償いは楽ではないが、帰る場所は残る。しばらくは倉庫番だな。その後、また一からやり直せ」無記は涙を流して頭を下げた。
地上では、長屋の縁側でタマばあさんが練炭を熾していた。久しぶりの匂いだ。「一歩さん、この匂い、覚えてるかい」「覚えてますとも」陸とレイアがバナナを頬張りながら笑う。「じいさん、また腰曲がってる」「イッポ、踊り下手だよ」権蔵は隅でおにぎりを食べながら言う。「主任、俺、また部下でいいのか」「ああ、相棒だ」




エピローグ
お天道様は巡る

閻魔庁の鏡は修復された。今度は少しだけ仕様が変わった。悪事も善行も映すが、その横に小さく「この人は誰かの帰る場所です」と表示されるようになった。牛頭のアイデアだ。
一歩の机には新しい辞令はなかった。代わりに「地上派遣特別調査室は解散せず、常設とする」という紙が貼ってあった。「誰でもよかった部署が、誰でなくてはならん部署になったな」牛頭が笑う。
大王は三つのむすびを並べる。からあげクン、スパムむすび、おにぎり。「どれも匂いが違うが、どれも誰かの帰る場所の匂いがするのう」一歩は窓の外、地上を見下ろす。長屋の縁側、ハワイの八百屋、渋谷の学園祭。三つの場所で、三つの盆踊りが同時に始まろうとしていた。「さて」大王は立ち上がる。「お覚悟のほどを、な」今度の声は、叱る声ではなく、見守る声に聞こえた。

ー了ー


アマゾン キンドル



〜あとがき〜

最後までお読みいただきありがとうございました。
最初は一つの長屋の話でした。誰でもよかったから選ばれた男が、隣の人の話を聞くという凡庸な美徳だけで町を救う話です。
二つ目は、その帰る場所は海を越えても同じだという話になりました。アロハもお天道様も、根は同じ隣人を想う心だということに、一歩と一緒に気づきました。
三つ目は、その帰る場所をなかったことにする仕組みそのものと戦う話になりました。効率や綺麗さのために、匂いや寄り道やへたくそな盆踊りを消していいのか。答えは、やはり同じでした。
完璧なヒーローはいなくても、誰かが誰かを気にかける記憶があれば、世の中は少しだけ捨てたものではないのかもしれません。
一歩の旅はここで一区切りですが、あなたの町のどこかで、腰の低い白髪のおじいさんが縁側でお茶を飲んでいたら、それはまだどこかの帰る場所を守りに来た地獄の職員かもしれません。
三つの匂いと共に、読者の皆様の帰る場所が、今日も無事でありますように。

漂えど沈まず
――人生の不要物、お預かりします



まえがき

六十歳を過ぎたあたりから、部屋の隅に転がっている日常の「ゴミ」と、自分の心の中に溜まった「過去の破片」の区別がつかなくなることがあります。

要るものと、要らないもの。
手放すべきものと、抱えて墓場まで持っていくべきもの。
人は誰しも、生きているだけで「かつて必要だったもの」の地層を築いてしまう生き物のようです。自分の意志で集めたはずのそれらは、いつの間にか他人のような顔をして、押し入れの奥や胸の奥からじっとこちらを見つめ返してきます。

もしも、そんな溜まりに溜まった人生の不要物を、文句も言わずに引き取りに来てくれる業者がいたらどうでしょう。
それも、遥か銀河の彼方からやってきた、少し風変わりで礼儀正しい宇宙人の配達員だったら。

この物語は、人生の「優勝者」であることを諦め、ただ流されるように生きる一人の男と、一椀の味噌汁を啜りにきたラベンダー色の訪問者との、ささやかな仕分けの記録です。
パリの古い標語であり、開高健が好んだ言葉――「Fluctuat nec mergitur(漂えど沈まず)」。

荒波に揉まれ、どこへ行き着くかもわからないけれど、とにかく今日を生き、今夜も味噌汁の鍋を火にかける。そんなすべての「漂う人々」へ、このささやかな物語を捧げます。

押し入れの奥に眠るあなたの「ヌルポポ」に思いを馳せながら、どうか気軽にお付き合いいただければ幸いです。




第一章 優勝者たちの朝

生まれるのは偶然、生きるのは苦痛、死ぬのは厄介。

開高健がそんなことを言っていた、と思う。本当に言ったかどうかは知らない。人は死んだ作家に、言ってほしかったことを言わせるものだ。私もそうしている。六十二歳にもなると、自分の記憶と願望の境目がだんだん曖昧になってきて、それはそれで悪くない。

その朝、私は台所で味噌汁の鍋を火にかけながら、シンクの三角コーナーを見つめていた。昨夜の大根の皮、卵の殻、萎びたパセリの茎。ゴミというものは、なぜこうも堂々としているのだろう。まるで「私はここにいる権利がある」とでも言いたげに、ふてぶてしく居座っている。

還暦を越えて二年。私はここ半年ばかり、断捨離に取り憑かれていた。

きっかけは、押し入れの奥から出てきた一枚の写真だった。大学生の頃の自分が、下宿の畳の上で仰向けになって笑っている。何が可笑しかったのか、もう覚えていない。ただ、その笑い方が、あまりにも他人事のようで、私はしばらくその写真を手に持ったまま動けなかった。

――こいつは、私だったのか。

そう思ったとき、部屋中のあらゆる物が、急に他人の顔で私を見返してきた。買った覚えのない灰皿。二度と読まない本。誰かにもらった置物。着なくなったジャケット。それらは全部、かつての私が「必要だ」と信じたものだった。信じたけれど、もう信じていない。

要るもの、要らないもの。
その仕分けは、物であって、者であって、モノでもある。

私は妻に先立たれて三年になる。息子は名古屋で働いていて、盆と正月にしか帰ってこない。犬もいない。金魚もいない。ただ、家中に「かつて必要だったもの」が地層のように堆積していた。

その朝、味噌汁が煮立ったとき、玄関のチャイムが鳴った。

私は火を止めて、玄関へ向かった。ドアを開けると、そこに宇宙人が立っていた。

正確に言うと、宇宙人らしきものが立っていた。

身長は百四十センチほど、全身が薄いラベンダー色をしていて、頭は電球のような形をしており、目は三つあった。上二つは黒く、下の一つは黄色い。着ているのは、宅配便の制服のような、深緑のツナギだった。胸元にネームプレートがあり、そこにはこう書かれていた。

「クロネコ銀河便 担当:ヌルポポ」

「田村隆一様でいらっしゃいますね」

ヌルポポは、驚くほど流暢な日本語で言った。声は少しくぐもっていて、電気ヒゲソリのような響きがあった。

「……はい」

「お荷物のお引き取りに参りました」

「荷物? 注文した覚えはないんですが」

「いえ、こちらからお引き取りする方の荷物です」

ヌルポポは、伝票のようなものを差し出した。透明な板の上に、青白い文字が浮かんでいる。日本語のようでいて、よく見ると微妙に違う。「引取品目:田村隆一様の人生における不要物一切」と読めた。

「あの……冗談ですよね」

「いえ、冗談ではございません」

ヌルポポは、下の黄色い目だけを瞬きさせた。それが、私にはウィンクのように見えた。

「銀河系断捨離協定第三条に基づき、寿命の残り時間が二十パーセントを切ったヒト科の生物に対しまして、当社は無償で不要物の回収サービスを提供しております」

「寿命の残り、二十パーセント……?」

「はい。田村様の場合、あと十六年七ヶ月と三日でございます」

私は、玄関の靴脱ぎに座り込んだ。

いや、正確には、座り込みそうになった膝を、意地で伸ばした。六十二歳の男が、宇宙人の前で無様に崩れ落ちるのは、なんとなく嫌だった。優勝者としてのプライドが、まだ少しだけ残っていた。

そう、私は優勝者なのだ。

何億分の一の確率で、あの晩、父が他所でやっちまわず、母が私を産んでくれた。命懸けの長い道のりを、たった一匹の私が泳ぎ切って、母の卵子に受け入れられた。宝くじよりも低い確率で頂いたこの命の、優勝者。

その優勝者が、今、深緑のツナギを着たラベンダー色の宇宙人に、断捨離を勧められている。

「……上がってください」

私は言った。他に、言うべき言葉が思いつかなかった。

第二章 ヌルポポ、味噌汁を啜る

ヌルポポは、驚くほど礼儀正しかった。

玄関で靴――と言っても、ツナギの裾から生えている、白いスリッポンのようなものだったが――を脱ぎ、揃えて置いた。廊下を歩くときは、足音を立てないように爪先立ちで進んだ。台所に通すと、椅子に座る前に「失礼いたします」と頭を下げた。

「味噌汁、飲みますか」

「頂戴いたします」

私はもう一つ椀を出し、味噌汁をよそった。ヌルポポは、電球のような頭を少し傾け、湯気を嗅いだ。三つの目のうち、上の二つが同時に細くなった。それが、彼らの微笑みらしかった。

「懐かしい香りでございます」

「懐かしい? 味噌汁がですか」

「はい。私の故郷にも、似た飲み物がございました。ただし、原料は発酵した鉱物でしたが」

「……鉱物」

「石を、六百年ほど寝かせるのです」

私は、味噌汁を啜る手を止めた。六百年寝かせた石の汁。それを毎朝飲む民族。想像しようとして、諦めた。

ヌルポポは、椀を両手で持ち上げ、電球頭の下部にある小さな裂け目――おそらく口だろう――に近づけ、ずずっ、と啜った。啜り方が、私の亡くなった父にそっくりだった。父は、味噌汁を啜るとき、必ず「ずずっ」と音を立てた。母は嫌がったが、父は「音を立てんと味がせん」と言い張った。

「美味でございます」

ヌルポポは言った。

「それで、あの……」

「はい」

「私の不要物を、回収する、と」

「さようでございます」

「具体的には、どこからどこまでが不要物、ということになるんでしょう」

ヌルポポは、伝票の透明な板を、テーブルの上に置いた。青白い文字が、ゆらゆらと揺れている。

「基本的には、田村様ご自身が『要らない』とお思いになっているもの、すべてでございます」

「私が判断するんですか」

「はい。当社は運搬のみを担当いたします。仕分けは、あくまでお客様ご自身の意思に委ねられます」

「便利なような、面倒なような……」

「よく言われます」

ヌルポポは、下の黄色い目だけで、また瞬きをした。

「ただし」

「ただし?」

「一つだけ、ルールがございます」

「ルール」

「『物』『者』『モノ』の三種類がございまして、田村様は、そのすべてから、少なくとも一つずつは、お捨てにならねばなりません」

私は、味噌汁の椀を握りしめた。

物、者、モノ。

物は、まあ、わかる。灰皿とか、本とか、置物とか。ジャケットも捨てられる。

だが、者とは、誰のことだ。

「あの、者、というのは……」

「はい。人間関係、と申しましょうか。田村様がお持ちの縁の中で、一つは切っていただきます」

「そんな……勝手に切っていいものなんですか」

「ご本人の同意は必要ございません。ただ、田村様が『この縁は要らない』とお思いになった瞬間、その方の記憶から田村様の存在が消えます」

「消える」

「はい。相手の方は、田村様のことを最初からご存じなかったことになります」

私は、しばらく黙っていた。

思い浮かんだのは、三十年前に喧嘩別れした大学時代の友人だった。名前は、山内。何が原因だったか、もう覚えていない。ただ、山内が私の書いた小説の草稿を「凡庸だ」と言い切ったこと、私がそれに「お前に何がわかる」と怒鳴り返したこと、それだけを覚えている。以来、一度も会っていない。年賀状も来ない。

あいつの記憶から、私が消える。あいつは、私という人間が存在しなかったことになる。

――それは、いいことなのか、悪いことなのか。

「もう一つ」

ヌルポポは言った。

「モノ、というのは?」

「概念でございます。田村様がお持ちの、考え方、信念、思い込み、後悔、そういったものの中から、一つ、お捨ていただきます」

「概念、を、捨てる」

「はい」

「たとえば、どんな」

「たとえば、『自分は優勝者である』という思い込み、などでしょうか」

私は、椀を落としそうになった。

第三章 押し入れの中の宇宙

私たちは、二階の押し入れの前に立っていた。

ここには、私の人生の大半が詰まっている。段ボール箱が十七個、衣装ケースが五つ、それから、名前もわからない布の塊が二つ。

「これは……全部、捨てていいものでしょうか」

私が呟くと、ヌルポポは電球頭を左右に振った。

「田村様、順序が逆でございます」

「逆?」

「捨てるものを選ぶのではなく、残すものを選ぶのです」

「同じことでは」

「まったく違います。捨てるものを選ぶとき、人は迷います。しかし、残すものを選ぶとき、人は自分自身を選ぶのです」

私は、しばらくヌルポポの三つの目を見つめた。ラベンダー色の宇宙人が、押し入れの前で禅問答めいたことを言っている。この状況を、誰かに話しても、絶対に信じてもらえないだろう。

私は、一番手前の段ボールを開けた。

出てきたのは、大学時代のノートだった。哲学概論、フランス文学史、心理学入門。表紙には、当時の私の字で、几帳面に科目名と担当教授の名前が書いてある。ぱらぱらとめくると、講義とは無関係な落書きばかりが目についた。女の子の顔。喫茶店の店名。詩のようなもの。

「これは、捨てます」

「かしこまりました」

ヌルポポは、腰のベルトから小さな透明な袋を取り出し、開いた。袋の中は、真っ黒だった。ただの黒ではなく、光を吸い込む黒。宇宙の背景放射のような黒。

私が段ボールごとその袋に近づけると、段ボールはすうっと吸い込まれ、消えた。袋の大きさは、変わらなかった。

「便利ですね」

「はい。当社の主力商品でございます」

次の段ボールを開けた。中には、妻の遺品が入っていた。

私は、しばらく動けなかった。

妻の眼鏡。妻の手帳。妻が編みかけたまま亡くなった、水色のマフラー。編み棒は、まだマフラーに刺さっている。三年前のあの日、妻はソファでうたた寝をしていて、そのまま起きなかった。心筋梗塞だった。編みかけのマフラーは、そのままの形で、この段ボールに眠っている。

「これは……」

私は言いかけて、言葉に詰まった。

ヌルポポは、何も言わなかった。ただ、三つの目で、私を見ていた。

「これは、残します」

「かしこまりました」

私は段ボールを閉じ、押し入れの奥に、そっと戻した。

その時、押し入れの奥から、こんこん、と音がした。

「……今の、なんですか」

「押し入れの向こう側でございます」

「向こう側?」

「押し入れというのは、次元の裂け目になりやすいのです。特に、日本家屋の押し入れは」

ヌルポポは、事もなげに言った。

「開けてみますか」

「え……いいんですか」

「開けたら、戻れないかもしれませんが」

私は、少し考えた。それから、押し入れの奥の壁を、こんこん、と叩き返した。

壁の向こうから、こんこん、と返事が来た。

第四章 もう一人の田村隆一

壁は、するりと開いた。

いや、壁が開いたのではない。壁がなくなったのだ。押し入れの奥には、廊下が続いていた。私の家の廊下ではない。もっと古い、板張りの、天井の低い廊下。両側には障子があり、その向こうから、微かに人の気配がした。

「行ってみますか」

ヌルポポが言った。

「一緒に来てくれますか」

「もちろんでございます」

私たちは、押し入れをくぐり、廊下に降りた。廊下は、私の記憶のどこかに似ていた。祖父の家だ。子供の頃、盆と正月に泊まりに行った、山形の祖父の家。もう三十年以上前に取り壊されて、今は駐車場になっているはずの、あの家。

廊下の突き当たりに、一枚の障子があった。

障子には、人影が映っていた。誰かが座っている。前かがみになって、何かを書いている。

私は、障子を開けた。

そこにいたのは、私だった。

正確には、私によく似た男だった。私と同じ顔、同じ体格、ただし、少し若い。四十代くらいだろうか。机に向かって、原稿用紙にペンを走らせている。原稿用紙。今どき、原稿用紙。

「あなたは……」

私が言うと、その男は顔を上げた。

「ああ、来たか」

男は、少しも驚かなかった。まるで、私が来ることを最初から知っていたように。

「あなたは、私ですか」

「そうでもあるし、そうでもない」

男は、ペンを置いた。

「俺は、お前が四十二歳のときに、書きかけて捨てた小説の主人公だ」

私は、記憶を辿った。四十二歳のとき、私は確かに、小説を書きかけていた。会社勤めの合間に、深夜、ワープロに向かって、一行、また一行と、書いていた。だが、途中で挫折した。書けなくなったのだ。理由は、覚えていない。ただ、ある日、これは駄目だ、と思って、フロッピーごとゴミ箱に捨てた。

「あの小説の……」

「そう。俺は、お前が完成させなかった小説の中で、永遠に四十二歳のまま、原稿用紙の上を歩いている」

男は、寂しそうに笑った。その笑い方が、あの下宿の畳の上で仰向けに笑っていた大学生の私と、そっくりだった。

「ヌルポポさん」

私は、後ろを振り返った。

「はい」

「この人は、物ですか、者ですか、モノですか」

ヌルポポは、電球頭を少し傾けた。

「難しいご質問でございます。おそらく、三つのすべて、でございましょう」

「三つのすべて」

「はい。書きかけの小説は、物でございます。主人公は、者でございます。そして、『自分は小説家になれなかった』という後悔は、モノでございます」

私は、しばらく、机の上の男を見つめた。

男も、私を見つめ返した。

「なあ」

男は言った。

「俺を、書き終えてくれないか」

「え」

「今からでいい。俺を、この原稿用紙の中から、外に出してくれないか」

「私は、もう小説なんて書けない」

「書けるさ。お前は、まだ死んでいない」

男は、原稿用紙を差し出した。半分ほど、私の字で埋まっている。あとの半分は、真っ白だった。

私は、それを受け取った。

「持ち帰って、いいですか」

「もちろん」

男は、頷いた。

「ただし、書き終えたら、俺は消える」

「消える?」

「未完成のままだから、俺はここにいる。完成したら、俺は物語の中に、正しく収まる。この廊下からは、いなくなる」

「それは、残すことになるのか、捨てることになるのか」

男は、笑った。

「両方だ」

第五章 山内からの手紙

家に戻ると、郵便受けに一通の手紙が入っていた。

差出人は、山内だった。

三十年、音信不通だった、あの山内。

私は、しばらく手紙を見つめた。ヌルポポは、後ろで静かに立っていた。

「開けてみたら、いかがですか」

「はい」

私は、封を切った。中には、便箋が三枚、入っていた。

拝啓、田村。

突然、手紙を書いて申し訳ない。三十年ぶりだ。俺のことを覚えているだろうか。大学時代、お前と喧嘩別れした、山内だ。

実は、三日前、妙な夢を見た。夢の中で、俺はお前のことを忘れていた。いや、忘れていた、というのも変な話だ。夢の中の俺は、田村隆一という人間を、そもそも知らなかったのだ。目が覚めて、しばらく、自分が何を忘れているのかがわからなかった。ただ、何か、大事なものが抜け落ちた感じがして、それが妙に気になった。

朝、コーヒーを淹れながら、ふと思い出した。ああ、田村だ。俺は、田村隆一のことを、忘れかけていた。

三十年前、俺はお前の小説を「凡庸だ」と言った。あれは、嘘だった。本当は、羨ましかったのだ。お前には、書くべき何かがあった。俺には、それがなかった。だから、俺は、お前の小説を貶めることで、自分の空っぽさを誤魔化した。

謝るのが、三十年遅れた。すまなかった。

もし、まだ書いているなら、読ませてくれないか。もし、書いていないなら、また書き始めてくれないか。俺は、今も、お前の書くものを読みたいと思っている。

敬具

山内正一

私は、便箋を三枚、丁寧に畳んで、封筒に戻した。

「ヌルポポさん」

「はい」

「私は、山内を、捨てなくてもよくなりましたか」

ヌルポポは、下の黄色い目だけで、瞬きをした。

「田村様、順序が、また逆でございます」

「逆?」

「田村様が、山内様を捨てないと決めたから、山内様が、田村様を思い出したのでございます」

「私が決めたのは、この手紙を読んだ後ですが」

「時間は、思っているほど、一方向ではございません」

私は、少し笑った。ヌルポポの言い分は、いつも詩のようで、いつも少し、腹立たしい。

第六章 銀河系断捨離協定・第七条

その夜、私は書斎で、原稿用紙を広げた。

四十二歳のときに書きかけた、小説の続き。主人公は、私によく似た男で、地方都市の小さな出版社に勤めている。妻がいて、娘がいて、犬がいる。ある日、その男は、通勤電車の中で、隣に座った老人から、一冊の本を渡される。本の表紙には、何も書かれていない。開くと、中身は真っ白だった。

そこで、四十二歳の私は、筆を止めていた。

私は、六十二歳の私として、続きを書き始めた。

――男は、その白い本を、家に持ち帰った。妻が「何それ」と聞いたが、男は答えなかった。娘は「パパ、変な本」と言って、笑った。犬は、本の匂いを嗅いで、くしゃみをした。

書きながら、私は、自分の中で何かが動いているのを感じた。三十年、いや、四十年近く、動かなかった何か。それが、ゆっくりと、目を覚まそうとしている。

ペンが止まらなかった。

原稿用紙の一枚目が埋まり、二枚目に移った。三枚目、四枚目。気がつくと、夜が明けていた。

私は、ペンを置いた。

書斎の隅で、ヌルポポが、正座して眠っていた。電球頭が、少しだけ、光っていた。呼吸に合わせて、明滅している。宇宙人にも、寝息のようなものがあるらしい。

私は、ヌルポポを起こさないよう、そっと台所に降りた。

味噌汁を作った。今朝は、豆腐と若布。

椀を二つ、テーブルに並べた。

第七章 優勝者、返上

「田村様」

朝食を終えた後、ヌルポポは言った。

「そろそろ、モノを一つ、お捨ていただかねばなりません」

「モノ、というと」

「概念、でございます」

私は、少し考えた。

「『自分は優勝者である』という思い込み、を、捨てます」

ヌルポポは、電球頭を少し傾けた。

「よろしいのですか」

「はい」

「理由を、お伺いしても」

私は、味噌汁の椀を見つめた。湯気が、まだ少しだけ立っている。

「優勝者、というのは、他の全員を負かした者、という意味です」

「はい」

「私が生まれるために、何億という兄弟が、辿り着けずに死んだ。私が生まれるために、あの晩、父が他所でやっちまわなかった。私が生まれるために、母が、他の男を選ばなかった」

「さようでございます」

「でも、それは、優勝ではなく、ただの、偶然です」

「はい」

「私は、勝ったのではない。ただ、たまたま、ここにいる」

「はい」

「たまたま、ここにいる者として、たまたま、味噌汁を啜り、たまたま、宇宙人と朝食を共にしている」

「はい」

「それで、十分です」

ヌルポポは、三つの目のうち、上の二つを、同時に細めた。微笑んでいた。

「かしこまりました。『優勝者である』という概念、確かに、お預かりいたしました」

ヌルポポは、腰のベルトから、あの黒い袋を取り出した。私は、自分の胸のあたりから、何か薄い光のようなものが、すうっと抜けていくのを感じた。それが袋の中に吸い込まれると、私の胸は、少し、軽くなった。

同時に、少し、寂しくなった。

優勝者ではなくなった私は、ただの、六十二歳の男だった。妻に先立たれ、息子は名古屋にいて、犬もおらず、金魚もおらず、書きかけの小説を再開したばかりの、平凡な男。

だが、平凡である、ということが、こんなにも、静かで、いいものだとは、思わなかった。

第八章 クロネコ銀河便、去る

昼過ぎ、ヌルポポは、玄関で靴を履いた。

「これで、田村様の断捨離は、一段落でございます」

「一段落、というと」

「これから先も、田村様は、日々、何かを捨て、何かを残されるでしょう。それは、私どもの管轄外でございます」

「なるほど」

「本日、お預かりしましたのは、大学時代のノート、複数の段ボール、それから」

ヌルポポは、少し間を置いた。

「者、を一つ」

「え」

「田村様は、山内様を、捨てないとお決めになりました。ですが、代わりに、別の方を、捨てておられます」

「誰を」

「四十二歳の、田村様ご自身を」

私は、少し驚いた。

「あの、小説の中の私を、ですか」

「はい。田村様は、彼を、小説の完成という形で、物語の中に還されました。それは、捨てる、ということでもございます」

「そういう、勘定になるんですか」

「はい。当社の帳簿では、そうなっております」

ヌルポポは、伝票の透明な板を、もう一度、私に見せた。青白い文字が、ゆらゆらと揺れている。

「引取完了:物一つ(段ボール群)/者一つ(未完の主人公)/モノ一つ(優勝者の概念)」

「これで、契約は完了でございます」

「ありがとうございました」

「こちらこそ、味噌汁、ご馳走様でございました」

ヌルポポは、深々と頭を下げた。それから、電球頭を上げ、三つの目で、私を見た。

「田村様」

「はい」

「最後に、一つだけ、申し上げてもよろしいでしょうか」

「どうぞ」

「開高健様は、確かに、こうおっしゃいました。生まれるのは偶然、生きるのは苦痛、死ぬのは厄介、と」

「はい」

「ですが、その後に、こうも、おっしゃっております」

「はい」

「――漂えど、沈まず」

「はい」

「田村様は、沈まれておりません。それだけは、確かでございます」

ヌルポポは、もう一度、頭を下げた。そして、玄関を出て、朝日の中に、消えた。

いや、正確には、消えたのではない。ラベンダー色の姿が、少しずつ薄くなり、深緑のツナギが、朝の光に溶けていった。最後に残ったのは、下の黄色い目の、瞬きだけだった。

それも、やがて、消えた。

第九章 あとがき、あるいは残されたもの

私は、玄関を閉め、書斎に戻った。

机の上には、書きかけの原稿用紙が、まだ広げられていた。四枚目の、途中まで、書いてある。

私は、椅子に座り、ペンを取った。

書き始めようとして、ふと、手を止めた。

窓の外で、雀が鳴いている。三羽、電線に並んでいる。真ん中の雀が、一番、体が大きい。左の雀は、少し痩せている。右の雀は、頭を掻いている。

なぜ、私は、雀の観察などしているのだろう。

なぜ、ではない。ただ、しているのだ。

生まれるのは偶然、生きるのは苦痛、死ぬのは厄介。

だが、その間の、雀を眺める時間は、悪くない。

私は、原稿用紙に、ペンを走らせた。

「男は、白い本を開いた。すると、本の中から、味噌汁の匂いがした」

書きながら、私は、少し、笑った。

自分でも、なぜ笑ったのか、わからなかった。ただ、笑いたかったのだ。

漂えど、沈まず。

還暦を越して、二年。私は、まだ、漂っている。沈む予定は、しばらく、ない。

台所で、味噌汁の鍋が、また、火にかけられている。今朝の残りだ。私は、席を立ち、火を止めに行った。

冷蔵庫を開けると、昨日買った豆腐が、まだ一丁、残っていた。

今夜も、味噌汁を作ろう。

椀は、一つでいい。

いや、二つ、出しておこう。

念のため。

――了――


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あとがき

開高健の著作を読んでいたとき、ふと「生まれるのは偶然、生きるのは苦痛、死ぬのは厄介」という言葉が目にとまりました。

若い頃の自分なら、「なんてニヒルで格好いいフレーズだろう」と感心して終わっていたかもしれません。けれど、還暦を過ぎ、人生の「残り時間」というものがうっすらと見え始めてからこの言葉に再会したとき、胸に湧き上がってきたのは絶望ではなく、むしろ妙な可笑しさと、諦念に似た温かさでした。

人生とは、勝ち取るものではなく、ただ「漂う」ものなのかもしれません。

パリ市の紋章に刻まれたラテン語の標語、「Fluctuat nec mergitur(たゆたえども沈まず/漂えど沈まず)」は、どんな嵐が来ようと街は沈まないという強い決意の言葉です。ですが、私にはそれが「まあ、適当に浮いていれば、そのうち波がおさまるよ」という、少し肩の力を抜いたエールのように聞こえるのです。

生きていると、私たちは知らず知らずのうちに多くのものを溜め込んでしまいます。

物理的な「物」だけでなく、切るに切れない人間関係という「者」、そして「自分はこうあるべきだった」という後悔や自負といった「モノ」。それらが押し入れの奥で地層のように重なり、時々息苦しくなることがあります。

そんな時、「そろそろ引き取りに参りました」と、ラベンダー色の三つ目宇宙人が玄関のチャイムを鳴らしてくれたらどんなに救われるだろう――。そんな私自身の切実な(そして少し呑気な)妄想から、この物語は生まれました。

作中、主人公の隆一は「人生の優勝者」という自負を手放します。それは敗北ではなく、肩の荷を下ろして「ただそこにいる者」として味噌汁を味わうための、前向きな断捨離でした。

この本を閉じたあと、あなたの部屋の押し入れや、胸の奥の暗がりに、少しだけ心地よい風が吹き抜けることを願ってやみません。
もし今夜、あなたの家の玄関で「ずずっ」と味噌汁を啜る気配が聞こえたら――どうか追い払わずに、もう一つ椀を出してあげてください。

今このページを開いてくださっているすべての「漂う仲間たち」に、心からの感謝を込めて。


紙吹雪ミサイル
――物価高の国で、王冠と国会議事堂が同時に揺れた日――

架空国製作委員会



まえがき

私たちは毎日、ニュースを見ています。

物価が上がった。
税金が変わった。
政治家が何かを言った。
世界のどこかで、また争いが起きた。

けれど、そのニュースの向こう側で、本当に暮らしが少しでも良くなったと実感できる日は、そう多くありません。

この物語は、そんな「少しだけ疲れてしまった社会」を舞台にした、架空の国の寓話です。

紙吹雪を積み間違えたミサイル。
たった十秒の沈黙。
卵一パックの値段。
そして、「ちゃんと説明してほしい」という、ごく当たり前の願い。

笑っていただけたら嬉しい。
少し苦く感じていただけたら、それも嬉しい。

政治を描いた物語ではありますが、誰かを責めるための物語ではありません。

本当に描きたかったのは、どんな時代にも変わらない、人と人との距離です。

読み終えたあと、ニュースを見る目がほんの少しだけ変わる。

そんな一冊になれば幸いです。


この物語について
本作はすべて架空の国・架空の人物を舞台にしたフィクションです。実在の国家、政治家、皇室、団体とは一切関係ありません。物価高、政治不信、防衛論議といった現実の社会的関心を出発点にしながらも、暴力を肯定するのではなく、その裏にある 「もっとちゃんと自分たちを見てほしい」 という願いを、滑稽で不思議な形で描くことを試みました。





第一章 カップ麺、また値上げ

モナクニ国の首都・中央区、深夜のコンビニ「よろずストア」。会社員のヒラノ・ケイは棚の前で三十秒立ち尽くしていた。愛用のカップ麺が、また十五円値上がりしていたからだ。パッケージには「実質量そのまま、心を込めてリニューアル」と書いてある。中身は明らかに減っていた。

「心を込めて減らすな」ヒラノはつぶやき、レジに向かった。店員は無表情でバーコードを読み取り、画面には今月三度目の 本日の推奨消費指数 というポップアップが表示された。誰もその指数の意味を知らないが、みんな見て見ぬふりをしている。

帰宅してテレビをつけると、国営放送は臨時特番をやっていた。タイトルは『新皇太子妃、ティアラ選定の舞台裏』。司会者は涙ぐみながら、宝石のカット技法について三十分語り続けた。画面の下のテロップには小さく「本日、全国消費者物価指数、過去最高を更新」と流れていたが、誰もそちらを見ていなかった。

国会では、その日も『皇室費特別会計・第七次追加予算案』が審議されていた。野党第一党の議員が声を張り上げる。「国民は今日のラーメン一杯を悩んでいるのに、なぜ今、これなんですか!」 総理大臣・タルイ・ゴンザブロウは、原稿を見ずに答弁した。「国民の心の拠り所を守ることも、政治の仕事です」 傍聴席で誰かが小さく笑った。それは乾いた、皮肉の混じった笑いだった。


第二章 裏の裏の、そのまた裏

深夜のバー「まぼろし亭」。ここは政治記者と落選議員と陰謀論者が肩を並べて安酒を飲む、この国で唯一 本音が漏れる場所 だった。

「結局さ」 元議員のオオバ・シゲルがグラスを傾けながら言う。「この国を実際に動かしてるのは、選挙で選ばれた連中じゃない。名前も出さない団体、なんとか協会、なんとか連盟。彼らは票を持ってて、総理は逆らえない。逆らったら次の選挙で終わりだからな」

「命懸けの政治家なんて、もう絶滅危惧種ですよ」 隣で記者のフジミ・アヤが皮肉る。「みんな計算してる。何もしなければ、たくさんお金が入ってくる椅子がある。それを手放すわけがない。そして、その椅子は、いずれ息子に譲られる」

オオバは天井を見上げ、ため息まじりに笑った。「いっそ、隣のデカい国が、議事堂ごと吹っ飛ばしてくれたらいいのになあ。そうしたら、みんな目が覚めるかもしれん」

その軽口を、カウンターの隅で静かに飲んでいた小柄な老人が聞いていた。名前は誰も知らない。ただ「センセイ」と呼ばれ、月に一度だけ現れては、誰の話も聞かずに帰っていく謎の常連だった。老人はグラスを置き、初めて口を開いた。

「その願い、明日 叶うかもしれませんよ」

誰もその言葉を本気にしなかった。翌朝までは。


第三章 紙吹雪、降る

翌朝九時十七分。国境の向こう、北方連合軍の実験施設で、新型 『友好誤射防止型』ミサイルの発射テストが行われていた。担当官のひとりが、うっかり弾頭の中身を積み間違えた。本来詰めるはずだった演習用の砂袋の代わりに、倉庫の奥にあった 創立記念パレード用の紙吹雪ストック を積んでしまったのだ。

ミサイルは規定のコースをわずかに外れ、モナクニ国の国会議事堂上空で、予定より早く炸裂した。轟音と共に空を覆ったのは――赤、金、銀に輝く、無数の紙吹雪だった。議事堂のドームは紙吹雪まみれになり、屋上のハトたちは驚いて一斉に飛び立った。負傷者はゼロ。被害額は、清掃費とハト除けネットの張り替え費用のみ。

だが、その瞬間の映像が国民の心に刻んだものは、清掃費では計れなかった。中継カメラが偶然捉えていたのは、警報が鳴った瞬間、真っ先に地下シェルターへ駆け込んだのが 総理大臣タルイ・ゴンザブロウひとりだった という事実だ。閣僚も、秘書官も置き去りにして。

SNSでは瞬時に動画が拡散した。タグは『#紙吹雪より先に逃げた総理』。誰かが皮肉交じりに呟いた。「命懸けの政治家、絶滅危惧種どころか、もう見つかりませんでした」


幕間 北方連合、第九誤射防止研究所

紙吹雪ミサイルが発射されたその日、国境の向こう側では、ひとりの中年係長が始末書の書式と格闘していた。名前はコズロフ・イワン・ペトロヴィチ。北方連合軍・第九誤射防止研究所、資材管理課の係長である。

この日の朝、彼の仕事は単純だった。倉庫Aから 演習用重量調整砂袋 二十四袋を出庫し、試験用ミサイルに積み込む。それだけだ。だが倉庫Aの棚は、三ヶ月前の人員削減以来、誰も整理していなかった。砂袋の隣には、来月に控えた 建国百二十周年記念パレード 用の紙吹雪ストックが、同じ灰色の麻袋に詰められて、無造作に積まれていた。伝票の品番は、下二桁が入れ替わっているだけの 「SB-24」 と「SC-24」 。コズロフは老眼鏡を忘れてきていた。

積み込みを終えたコズロフは、上官に報告した。「準備完了しました」。上官は書類にサインしながら、生返事で答えた。「よし。ところで来月のパレード予算、今年もまた削られるらしいぞ。紙吹雪、足りるといいがな」 誰も、その一言が既に手遅れであることに気づかなかった。

発射から十七分後、国境監視部門からモニター映像が届いた。狙っていた無人試験区画ではなく、隣国の議事堂上空で、色とりどりの紙吹雪が咲くように広がっている。研究所の管制室は静まり返った。誰かがぽつりと言った。「……きれいだな」 それは誰の本心でもあり、誰の本心でもなかった。

コズロフは始末書に、正直にこう書いた。「品番の視認性向上、および倉庫内の在庫分離を、強く要望します」。この提案書は、後に彼の与り知らぬところで昇進の理由にされることになる。彼の国もまた、誰かの些細なミスをきっかけにしなければ、棚ひとつ片付けられない国だったのだ。

後日、北方連合政府は公式に発表した。「これは我が国の科学技術力を象徴する、友好的な芸術的越境演出である」。国内向けの発表はさらに踏み込んでいた。「隣国は我が国の圧倒的な精密誘導技術に、震え上がったことだろう」。コズロフはその発表を、始末書のコピーの隣に黙って貼り付けた。


第四章 目覚めた国、目覚めない議事堂

紙吹雪事件から三日。国会は 『他国からの威嚇的軍事行動』 として、緊急防衛予算の倍増案を提出した。担当大臣は真剣な顔で説明した。「次はもっと本格的な攻撃かもしれません。国民の安全のため、迎撃システムの増強が急務です」

傍聴席から、ひとりの主婦が挙手した。議事規則を無視した異例の発言だったが、警備員も止めなかった。彼女は言った。

「あの、質問いいですか。紙吹雪一発に、いくら使うつもりですか。うちは今月、卵が買えませんでした」

議場が静まり返った。誰も答えられなかった。カメラはその沈黙を克明に映し、夜のニュースはその十秒間を何度も繰り返し流した。

翌週、街の至るところに 『卵か、ミサイルか』 というプラカードを掲げた人々が現れ始めた。彼らは既存のどの政党にも属さない、ただの会社員、主婦、学生、店員たちだった。彼らは声高に叫ぶのではなく、ただ静かに、値上げされたレシートを掲げて立っていた。

興味深いことに、この運動は 防衛費そのものへの結論 を急がなかった。ある者は「紙吹雪一発でこの騒ぎなら、本物が来たらどうする。備えは要る」と言い、また別の者は「備えに使う金があるなら、まず今日のご飯だ」と言った。運動が求めたのはただひとつ、 「今、誰のために、何を優先するのか、ちゃんと説明しろ」 ということだった。


第五章 センセイ、再び

「まぼろし亭」に、あの老人が久しぶりに現れた。オオバとフジミは、あの晩の軽口を思い出し、気まずそうに彼を見た。

「あんた、まさか本当に何かやったのか」 オオバが恐る恐る尋ねると、老人は静かに首を振った。

「私は何もしていません。ミサイルの中身を間違えたのは、あちら側の一担当官の、ただの不注意です。歴史というのは、時々そういう 間の抜けた偶然 で動くものですよ」

「じゃあ、あんたは何者なんだ」 フジミが問うと、老人は微笑んだ。

「私はただの観察者です。願いというのは面白いものでしてね。 誰かを吹き飛ばしてほしい という願いの奥には、たいてい ちゃんと私を見てほしい という、もっと小さな願いが隠れている。今回、たまたま紙吹雪がそれを、暴力なしに叶えてくれた。次も紙吹雪とは限りません。だからこそ、人は 何かが起きる前に 目を覚ましたほうがいい」

老人はグラスの酒を飲み干すと、代金をカウンターに置いて去っていった。二度と「まぼろし亭」に姿を見せることはなかった。


第六章 協議会という名の、ただの部屋

フジミ・アヤは、あの晩オオバが口にした「裏の団体」という言葉が、ずっと引っかかっていた。名前も出さない団体、なんとか協会、なんとか連盟――記者として十年、彼女はその手の噂を数えきれないほど聞いてきた。だが誰も、その実体を見た者はいなかった。

手がかりは意外なところにあった。皇室費特別会計の追加予算案、その末尾の脚注に、聞き慣れない名称が一行だけ記載されていたのだ。 『本件、国益調整協議会(第四分科会)の答申に基づく』。フジミは情報公開請求を出した。三ヶ月間、あらゆる理由で却下され続けたが、四度目の請求で、驚くほどあっさりと一枚の名簿が開示された。役所側も、もはや隠す気力を失っていたのかもしれない。

『国益調整協議会』。正体は、諜報機関でも秘密結社でもなかった。年に四回、中央区の古びた公民館の会議室に集まる、平均年齢七十六歳の、業界団体OBたちの非公式懇談会だった。かつて花形だった斜陽産業の元会長、引退した官僚、票をまとめる力だけは健在な地方の名士――彼らは互いに 恩 と 顔 でつながっており、法的な権限は何ひとつ持っていなかった。

だが、その 何の権限もない ことこそが、恐ろしいほど効いていた。誰も彼らを選挙で選んでいないから、誰も彼らを選挙で落とせない。彼らは 決める のではなく、ただ 眉をひそめる だけでよかった。ある政策に協議会の誰かが渋い顔をすれば、その政策を進めた議員は、次の選挙で なぜか 後援会の一部が急に冷たくなる。因果関係は誰も証明できない。証明できないからこそ、誰も逆らえなかった。

フジミはメンバーの一人、元繊維業界団体会長のミカゲ・タツオ、八十一歳に接触した。彼は隠し立てすることなく、あっさりと語った。「陰謀なんて大それたものじゃないよ、お嬢さん。私らはただ、若い頃に築いた関係を、壊したくないだけなんだ。新しいことをやると、誰かが損をする。損をする誰かは、たいてい私らの知り合いだ。それだけのことさ」

「でも、その それだけのこと のために、この国は三十年、何も変わらなかったんじゃないですか」 フジミが問うと、ミカゲは湯呑みを両手で包み、しばらく黙っていた。

「……そうかもしれんな。私らは誰も、悪人になったつもりはない。ただ、みんなでゆっくり、心地よく、沈んでいっただけなんだ」

フジミの記事は『国益調整協議会、その正体は 恐怖の黒幕 ではなく 変化を恐れる老人会 だった』という見出しで配信された。世間の反応は、拍子抜けと苛立ちの入り混じったものだった。「巨大な悪」を想像していた人々は、その正体が ただの内輪の気まずさの積み重ね だったと知り、かえって深く落胆した。だが同時に、ある種の希望も生まれた。相手が 覆せない巨悪 ではなく 気まずさで動く人間の集まり なのだとしたら、それは 覆せる ということでもあったからだ。

後日、北方連合側の独立系メディアが、驚くべき後追い記事を出した。あちらの国にも、瓜二つの非公式懇談会が存在するというのだ。名称は違うが、構成も、平均年齢も、驚くほど似通っていた。両国の 老人会 は、年に一度、国際見本市の会場裏で、ゴルフのラウンドを共にしていたことも判明した。敵対しているはずの二つの国の 本当の意思決定者 たちは、実のところ、互いに一番くつろげる友人同士だったのである。


終章 議事堂の上のハトたち

半年後。モナクニ国議事堂のドームの上には、あの日撒かれた紙吹雪の欠片が、今も配管の隙間にわずかに残っていると噂されている。誰も本気で掃除しようとしないのは、それが 忘れてはいけない何かの印 になっているからかもしれない。

国会では、防衛費の使い道について、かつてないほど時間をかけた議論が続いていた。倍増案は否決されたが、全額削減案も否決された。代わりに可決されたのは、 毎年、防衛予算の内訳を漫画とグラフでわかりやすく国民に公開する という、地味だが誰も反対できない法案だった。

タルイ・ゴンザブロウは、あの日の逃走劇の責任を取り、総理の座を退いた。後任は、かつて傍聴席で卵の値段を尋ねた、あの主婦だった。彼女の最初の演説は短かった。

「私は、紙吹雪よりも先に逃げません。だって、逃げる場所なんて、もうこの国のどこにもないから。みんなで、ここに、いるしかないんです」

議事堂の上空を、ハトの群れがゆっくりと旋回していた。彼らは、あの日のことなど、もう忘れているようだった。それでいいのかもしれない。忘れていいのはハトだけで、人間は、忘れないほうがいい。

国益調整協議会は、報道の後も解散しなかった。ただ、会合の様子を年に一度、簡単な議事要旨として公開するようになった。誰かがそれを読んで喜ぶわけでも、怒るわけでもなかったが、 見られているかもしれない という感覚だけは、公民館の会議室に、確かに漂うようになったという。

国境の向こうでは、コズロフ・イワン・ペトロヴィチが、ようやく倉庫Aの棚を整理し終えていた。砂袋の棚と、パレード用品の棚のあいだには、彼が手書きで作った仕切り板が立てられている。板にはたった一言、こう書かれていた。 『確認、二度』。それは世界を変える言葉ではなかったが、少なくとも次の誰かを救う言葉ではあった。

――紙吹雪は、いつか掃除される。だが、あの十秒の沈黙は、この国の誰かの中に、まだ静かに降り積もっている。




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あとがき

最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

『紙吹雪ミサイル』は、政治や社会をテーマにしていますが、実は私が一番書きたかったのは「説明されることの大切さ」でした。

人は納得できないから怒るのではなく、理由を聞かせてもらえないことに寂しさを覚えるのだと思います。

誰かが正しい、誰かが間違っている。

そんな単純な話ではありません。

この物語に登場する人たちは、敵も味方も、それぞれが「この国を良くしたい」と思っています。

ただ、その思いが少しずつすれ違い、積み重なった結果として、社会は動かなくなってしまいました。

だからこそ、世界を変えたのは英雄でも革命でもなく、一発の紙吹雪でした。

現実も案外そんなものなのかもしれません。

大きな変化は、小さなきっかけから始まる。

そして、その小さなきっかけは、今日という何気ない一日の中にも、きっと転がっています。

この物語が、皆さまにとってそんな「小さな紙吹雪」になれたなら、作者としてとても嬉しく思います。

また別の物語でお会いできる日を楽しみにしています。




まだ、誰でもない物語 加筆版
〜次への待合室〜


【まえがき】
人はみな、何億という途方もない確率の網をくぐり抜けて、この世に足を踏み入れます。
けれど、私たちは普段、自分がどれほど奇妙で、奇跡的な「勝ち抜き」を経てここに存在しているかを忘れて生きています。
もしも、生まれる前の場所に「待合室」のようなものがあったとしたら。
そして、そこには進むことを選んだ私たちと、生に伴う苦痛を恐れて進むことを拒んだ「留まった者たち」が、共に漂っていたとしたら――。
この物語は、「まだ誰でもなかった頃のあなた」と、「何者かになって、いつか去っていくあなた」を繋ぐための小さな言葉の束です。
生きることは、ときに苦しく、厄介で、やりきれないことの連続かもしれません。
けれど、今ここで息をしているというただそれだけで、私たちはすでに一度、途方もない優勝を果たしています。
どうぞ、肩の力を抜いて、あの「壁のない廊下」の静けさに耳を澄ませてみてください。





第一部 列



数字だけが、私だった。
正確に言えば、私にはまだ「私」と呼べるものがなく、ただ一つの番号として、長い廊下のような場所に浮かんでいた。廊下といっても壁も床もない。ただ、前後という感覚だけがあり、その感覚の中に、数えきれないほどの「私になるかもしれないもの」が並んでいた。
前にどれくらいいたのか、わからない。何万、あるいは何億。誰も数えたことがないのだから、正確な数など意味がない。ただ、とてつもなく長い列だということだけは、体温のない体のどこかで理解していた。
案内係が、時々やってくる。
その者には顔がない。声だけがあって、声だけでこちらの存在を撫でるように確認していく。
「次は、あなたかもしれません」
そう言って、また列の奥へ消えていく。声には抑揚がなく、脅すでもなく、励ますでもない。ただ、事実だけを置いていく話し方だった。
私は自分の番号を持っていたが、それを見ることはできなかった。番号は、私自身の内側にあるようで、外側にあるようでもあった。財布の中の宝くじのようなものだ、と誰かが――前にいた誰か、あるいは後ろにいた誰か――言っていた。持っている本人にも、当たっているかどうかはわからない。ただ、発表される瞬間まで、列に並び続けるしかない。



しばらくして、隣にいたものが消えた。
消える、というのが正しい表現かはわからない。ただ、さっきまで感じていた気配が、ふっと途切れたのだ。前に進んだのか、それとも列そのものから外れたのか。案内係に尋ねても、
「それは、こちらでは分かりかねます」
とだけ返ってきた。
不思議と、悲しくはなかった。ここでは感情さえも、まだ輪郭を持っていない。悲しみに似た何か、驚きに似た何かが、波紋のように広がって、すぐに凪いだ水面へ戻っていく。
代わりに、新しい気配が隣に来た。
「ここは、どこなんでしょうね」
声が聞こえた気がした。誰のものかはわからない。もしかしたら、私自身の内側から漏れた声だったのかもしれない。
「さあ」と、案内係が答えた。「強いて言うなら、ここは“まだ”という場所です」
「まだ、とは」
「まだ生まれていない。まだ誰でもない。まだ、何にでもなれる。そういう場所です」
その言葉は、廊下の壁のない空間に、しばらく漂っていた。漂う、という表現がしっくりきた。ここでは何もかもが、沈むでもなく、浮かびきるでもなく、ただ漂っている。



案内係は、時折こんな話をした。
「この先に進めるのは、あなたたちのうち、たった一つだけです」
「なぜ、一つだけなんですか」と、誰かが尋ねた。
「決まりだからです」と案内係は答えた。「決まりに理由を求めても、仕方がありません。ただ、一つだけ申し上げられるのは――ここまで並んでいる時点で、あなたたちは既に、途方もない数の“並べなかったもの”を超えてきているということです」
その言葉に、列全体が微かにざわめいた。
私は、自分の後ろにあったかもしれない、無数の「もし」を思った。もし、あの晩、何かが少し違っていたら。もし、選ばれる前の選ばれる前の、そのまた前の段階で、何かが途切れていたら。
私はここにいない。
そう考えると、今こうして列に並んでいること自体が、奇妙に眩しいことのように思えた。宝くじの当選番号を確認する前の、あの一瞬の静けさに似ている。当たっているかどうかもわからないのに、券を握りしめている時間だけが、やけに長く感じられる、あの感覚。



第二部 消えた番号 



異変に気づいたのは、案内係の声が、ほんの少しだけ変わったときだった。
いつもより、少しだけ若い。いつもより、少しだけ硬い。声そのものに輪郭はないはずなのに、確かに「違う」と感じた。
「あなたは、いつもの人ですか」
私がそう尋ねると、間があった。この場所で「間」があるということ自体が、初めてのことだった。
「……いつもの人、というのが何を指すか、私にはわかりかねます」
「昨日まで案内をしてくれていた声と、違う気がします」
「昨日、という概念は、ここにはありません」
はぐらかされた、というよりも、本当に困っているような響きだった。私はそれ以上追及しなかったが、胸の奥――まだ胸すらないはずのその場所――に、小さな棘のようなものが残った。
その頃から、列の中で妙な噂が流れ始めた。
「前の方で、番号が丸ごと抜け落ちた場所があるらしい」
「消えたんじゃない。抜かれたんだ、と言っている者もいる」
「抜かれた? 誰に」
誰も、その先を知らなかった。ただ、噂だけが、列の隙間を風のように吹き抜けていった。



私は、あるとき勇気を出して、案内係に尋ねてみた。
「消えるのと、抜かれるのは、違うんですか」
長い沈黙のあと、声はこう答えた。
「消える、というのは、進めなかったものが、静かに“まだ”という場所に還っていくことです。それは、悲しいことではありません。ただ、機会がもう一度、巡ってくるということです」
「では、抜かれる、というのは」
「それは……」
案内係は、また言葉を探した。この場所の案内係が、こんなにも言葉に迷うのを、私は初めて見た――いや、見た、という表現も正しくないのだが。
「それは、私にも、正確にはわかりません。ただ一つ言えるのは、この列を管理しているのは、私たち案内係だけではない、ということです」
「他に、誰かいるんですか」
「かつて、この列を通り抜けることを、自ら拒んだ者たちがいます」
その言葉に、廊下全体の温度が、わずかに変わったような気がした。
「拒んだ、とは」
「進む機会を得ながら、進まなかった者たちです。生まれることの痛みを恐れ、あるいは、この“まだ”という場所の静けさを手放したくなくて、留まることを選んだ者たち。彼らは、番号を失う代わりに、この場所に留まる力を得ました」
「その者たちが、番号を抜いているんですか」
「わかりません。ただ、もしそうだとしたら――」
案内係は、そこで初めて、声のトーンを落とした。
「それは、進むことを恐れる気持ちが、形を持ってしまった結果なのかもしれません」



第三部 反転



その日、窓が開いた。
いつもの、老人の部屋を映す窓ではなかった。もっと古い、もっと粗い映像だった。
そこに映っていたのは――案内係だった。
いや、正確には、案内係になる前の、案内係だった。
若い男が、私と同じように列に並んでいた。彼の番号は、もうすぐ発表される寸前だった。窓の外には、彼を待つ誰かの気配があった。小さな部屋、灯りのともる窓、誰かの祈るような手のひら。
けれど、その男は、進まなかった。
「怖くなったのです」と、私の隣で、いつの間にか現れていた別の声が言った。「生まれるということの、あまりの取り返しのつかなさに」
「あなたは」
「私は、その男の、成れの果てです」
声は、静かにそう言った。
「私はあの晩、進むことを拒みました。代わりに、この場所に留まり、案内をする役目を引き受けました。誰かを見送ることで、自分が進まなかったことの埋め合わせをしているつもりでした」
「では、番号を抜いていたのは」
「私ではありません。……いいえ、正確には、私だけではありません」
その言葉と共に、窓の景色が、ぐにゃりと歪んだ。
見えたのは、無数の「留まった者たち」だった。かつて番号を持ちながら、進むことを拒んだ無数の気配が、廊下の壁のない空間に、まるでカーテンのように垂れ込めていた。彼らは案内係となり、あるいは、ただの影となり、この場所に留まり続けていた。
そして、彼らの一部が、恐怖のあまり、進もうとする番号を、無意識に引き止めていた。悪意ではない。ただ、自分が果たせなかったことを、他の誰かにも果たしてほしくない、という、歪んだ優しさのようなものだった。
「私たちは、あなたたちを羨んでいるのです」と、案内係は言った。「進める、ということが、どれほどの奇跡か。それを手放してしまった私たちには、もう戻れない」
世界が、反転した。
この場所は、単なる「まだ生まれていないものの待合室」ではなかった。ここは、進んだ者と、留まった者が、共に漂う場所だった。生まれることを選ぶか、選ばないか。その選択そのものが、この場所の本当の姿だった。



「私は、抜かれるのでしょうか」
私は、恐る恐る尋ねた。
「それは、あなた次第です」と、案内係は――かつての男は――答えた。「留まりたければ、留まることもできます。誰も、あなたを咎めません。ただ……」
「ただ」
「留まるということは、この静けさの中で、永遠に“まだ”のままでいる、ということです。苦しみもない代わりに、あの窓の向こうにある、光も、痛みも、手に入りません」
窓には、また別の景色が映っていた。
狭い部屋。段ボール箱。白髪混じりの老人が、古い写真を手にしている。
「あの人は」と私は尋ねた。
「あなたが進めば、いつか、あの人になります。あるいは、ならないかもしれません。それも、ここでは誰にもわかりません」
老人は、写真を見つめたまま、動かなかった。まるで、こちら側の私の逡巡が、そのまま彼の手を止めているかのようだった。
私は、初めて理解した。
老人が物を一つ手放すたびに、この列のどこかで、誰かが一歩、前に進めるようになる。逆に、老人が――あるいは、この世界のどこかにいる無数の「老人たち」が――物に執着し、手放せずにいるとき、列のどこかで、誰かの番号が、進めずに足踏みをする。
物と、者と、モノ。生きることと、留まること。すべてが、目に見えない糸で繋がっていた。



第四部 選択



「決めましたか」
案内係が――もう、かつての男という以上の存在に感じられた――そう尋ねた。
私は、後ろを振り返ろうとした。けれど、後ろには何もなかった。ただ、これまで並んでいた無数の気配、そして、留まることを選んだ無数の影が、静かに、私を見ていた。
「怖いです」と、私は正直に言った。
「怖くて当然です。生きるとは、苦痛を引き受けることだと、こちら側では言われています。開高さんという方も、そう仰っていたそうです。生まれるのは偶然、生きるのは苦痛、死ぬのは厄介、と」
「それでも、進むべきなんでしょうか」
「進むか進まないかを選べるのは、あなただけです。ただ――」
案内係は、初めて、人間だった頃の声に戻ったような気がした。柔らかく、少し震えた声だった。
「ただ、ここまで並んでこられたということ自体が、既に途方もないことなのです。何万、何億という“並べなかったもの”を超えて、あなたはここにいる。それだけで、既に一つの、静かな優勝なのです。私は、その優勝を、手放してしまいました。だから、あなたには――」
言葉が、そこで途切れた。
「あなたには、私の分まで、進んでほしいのです」
その願いは、命令ではなかった。ただの、痛切な願いだった。



窓が、再び開いた。
若い夫婦が、小さな部屋で向かい合っていた。二人は何かを話し合っていた。声は聞こえなかったが、その表情には、不安と、それを上回るかすかな光のようなものが同居していた。
女性が、そっと自分の腹に手を当てた。その仕草を見た瞬間、私の中の番号が、光を帯びるように熱くなった。
「これは」
「あなたの番です」
案内係の声には、初めて、何かに似た響きが混じった。労いのような、祝福のような、あるいは、自分が失ったものへの、静かな嫉妬のような。
「行かれますか」
留まった者たちの影が、廊下の隅で、揺れていた。彼らもまた、かつて同じ問いを受けたのだろう。彼らの選ばなかった道を、私が今、選ぼうとしていた。
「行きます」
そう答えた瞬間、窓の景色が、こちら側に流れ込んできた。光が、音が、匂いのようなものが、一気に押し寄せてきた。苦しい、と思う暇もなく、それはもう、痛みという形をとって私を包んでいた。
生まれるとは、こういうことか。
そう思う間もなく、私はもう、番号ではなくなっていた。
背後で、案内係の声が――もう二度と届かないとわかっていながら――こう呟いた気がした。
「行ってらっしゃい」



第五部 老人と部屋



――そして、六十二年が経った。
老人は、狭い部屋の中で、段ボール箱に囲まれていた。白髪の混じった髪、深い皺、老眼鏡。彼は古い写真を一枚手に取り、しばらく眺めてから、「要る」と書かれた箱に入れた。
その日、彼は一つの箱の底から、見覚えのない古い封筒を見つけた。
差出人の名前はなかった。ただ、表にこう書かれていた。
「まだ、誰でもなかった、あなたへ」
彼は、老眼鏡を押し上げて、封を開けた。中には、一枚の便箋。文字は、彼自身の筆跡に、どこか似ているようで、似ていないようだった。
「あなたがこれを読んでいる頃には、私はもう、あなたの一部になっているはずです。あの列で、私はあなたに、進んでほしいと願いました。あなたは、進んでくれました。ありがとう、とだけ伝えたくて、この手紙を残します。」
老人は、しばらく便箋を見つめていた。
いつ、誰が、こんなものを書いたのか。心当たりはなかった。けれど、不思議と、疑う気持ちは湧かなかった。むしろ、長らく忘れていた誰かからの、遅れて届いた挨拶のように感じられた。


十一
彼は、便箋を「要る」の箱に入れようとして、ふと手を止めた。
これは、物だろうか。者だろうか。それとも、モノだろうか。
考えても、答えは出なかった。ただ、これを手放すことも、しまい込むことも、どちらも違うような気がした。
彼は結局、便箋を、窓辺の小さな写真立ての裏に、そっと挟んだ。捨てるのでもなく、飾るのでもなく、ただ、そこにあるように。
窓の外は、夕暮れだった。
彼はふと、手を止めて、窓の外を眺めた。理由はわからないが、誰かに見られているような、あるいは、誰かを見送っているような、そんな懐かしい感覚が、胸の奥をよぎった。
「生まれるのは、偶然。生きるのは、苦痛。死ぬのは、厄介」
いつか読んだ、誰かの言葉が、ふと口をついて出た。
「でも」と、彼は独り言のように続けた。「漂えど、沈まず、か」
彼は立ち上がり、次の箱を開けた。中には、もう何十年も忘れていたような、小さながらくたが詰まっていた。壊れた腕時計、色褪せた切符、宛名のない手紙。
一つ一つを手に取りながら、彼は静かに、けれど確かに、選び分けていった。
物と、者と、モノと。
その境目を確かめるように。
まるで、まだ番号でしかなかった頃の自分に、今の自分を見せてやるかのように。
窓の外では、案内係に似た誰かが――いや、それはただの夕暮れの光だったのかもしれないが――静かに、こちらを見つめているような気がした。


十二
その夜、老人は夢を見た。
夢の中で、彼はまた、あの壁のない廊下に立っていた。今度は、進む側ではなく、見送る側として。
隣には、若い、まだ輪郭の定まらない気配があった。恐怖に震えているのが、伝わってきた。
「怖いですか」と、老人は――かつて自分がそう問われたように――尋ねた。
「怖いです」と、気配が答えた。
「それでいいのです」と、老人は言った。「怖くて当然です。ただ、ここまで来られたということ自体が、既に、途方もないことなのです」
彼は、自分がいつのまにか、案内係のような役目を担っていることに気づいた。けれど、恐怖はなかった。むしろ、それは、あの晩、名も知らぬ誰かが自分にかけてくれた願いを、次の誰かへ手渡す、静かな儀式のように感じられた。
「行きますか」
「……行きます」
その答えを聞いて、老人は――夢の中の老人は――微笑んだ。
「では、行ってらっしゃい」


終章
朝が来て、老人は目を覚ました。
窓の外には、いつも通りの、平凡な朝の光があった。部屋の中には、まだ片付けきれていない箱が、いくつも残っていた。
彼はゆっくりと起き上がり、写真立ての裏に挟んだ、あの便箋を、もう一度そっと取り出した。読み返すというよりも、ただ、その存在を確かめるように。
「まだ、誰でもなかった、あなたへ」
その一文を、彼は今度は、少し違う意味で読んだ。
まだ誰でもなかった自分へ。そして、これから誰かになる、まだ見ぬ誰かへ。
彼は便箋を、また写真立ての裏に戻し、次の箱に手を伸ばした。
漂いながら、沈まずに。
今日も、選び分ける作業が、静かに続いていく。
そして今もまた、どこかで「まだ、誰でもない物語」が始まろうとしている。

― 了 ―


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【あとがき】
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今作『まだ、誰でもない物語 〜次への待合室〜』は、生前の世界(受胎と誕生の確率)と、人生の終盤(遺品や物の整理)という、一見すると対極にある二つの場面をひとつの円環として描いた作品です。
開高健氏の遺した「漂えど沈まず(生まれるのは偶然、生きるのは苦痛、死ぬのは厄介)」という言葉があります。
生きることの過酷さを知りながらも、それでもその波のうえに漂い続けること。
作中の「私」が抱いた恐怖も、六十二年後の老人が物を選び分けるときの躊躇も、根底にあるのは「生への畏怖」であり、同時に「存在することへの祈り」です。
私たちが部屋の物を一つ手放すとき、あるいは執着をひとつ手放すとき。
それはただの「片付け」ではなく、次の時代や、次に生まれてくる誰かのために場所を空けるという、命のリレーの一環なのかもしれません。
今、どこかで孤独を感じている方や、生きることに少し疲れてしまった方に、「自分はここにいてよかったのだ」という静かな肯定感が届くことを願ってやみません。
あなたが今、どんな場所に漂っていても。
漂えど、沈まず。


まだ、誰でもない


まえがき
私たちは皆、何万、何億という「選ばれなかったかもしれない可能性」の先で、いまここに立っています。

まだ名前も、姿も、体温さえもなかった頃。
もしも「生まれる前」の私たちが、どこかの長い廊下で順番を待っていたとしたら――。

これは、始まりの場所から、ある一つの人生を巡る静かな物語です。





数字だけが、私だった。
正確に言えば、私にはまだ「私」と呼べるものがなく、ただ一つの番号として、長い廊下のような場所に浮かんでいた。廊下といっても壁も床もない。ただ、前後という感覚だけがあり、その感覚の中に、数えきれないほどの「私になるかもしれないもの」が並んでいた。
前にどれくらいいたのか、わからない。何万、あるいは何億。誰も数えたことがないのだから、正確な数など意味がない。ただ、とてつもなく長い列だということだけは、体温のない体のどこかで理解していた。
案内係が、時々やってくる。
その者には顔がない。声だけがあって、声だけでこちらの存在を撫でるように確認していく。
「次は、あなたかもしれません」
そう言って、また列の奥へ消えていく。声には抑揚がなく、脅すでもなく、励ますでもない。ただ、事実だけを置いていく話し方だった。
私は自分の番号を持っていたが、それを見ることはできなかった。番号は、私自身の内側にあるようで、外側にあるようでもあった。財布の中の宝くじのようなものだ、と誰かが――前にいた誰か、あるいは後ろにいた誰か――言っていた。持っている本人にも、当たっているかどうかはわからない。ただ、発表される瞬間まで、列に並び続けるしかない。



しばらくして、隣にいたものが消えた。
消える、というのが正しい表現かはわからない。ただ、さっきまで感じていた気配が、ふっと途切れたのだ。前に進んだのか、それとも列そのものから外れたのか。案内係に尋ねても、
「それは、こちらでは分かりかねます」
とだけ返ってきた。
不思議と、悲しくはなかった。ここでは感情さえも、まだ輪郭を持っていない。悲しみに似た何か、驚きに似た何かが、波紋のように広がって、すぐに凪いだ水面へ戻っていく。
代わりに、新しい気配が隣に来た。
「ここは、どこなんでしょうね」
声が聞こえた気がした。誰のものかはわからない。もしかしたら、私自身の内側から漏れた声だったのかもしれない。
「さあ」と、案内係が答えた。「強いて言うなら、ここは“まだ”という場所です」
「まだ、とは」
「まだ生まれていない。まだ誰でもない。まだ、何にでもなれる。そういう場所です」
その言葉は、廊下の壁のない空間に、しばらく漂っていた。漂う、という表現がしっくりきた。ここでは何もかもが、沈むでもなく、浮かびきるでもなく、ただ漂っている。



案内係は、時折こんな話をした。
「この先に進めるのは、あなたたちのうち、たった一つだけです」
「なぜ、一つだけなんですか」と、誰かが尋ねた。
「決まりだからです」と案内係は答えた。「決まりに理由を求めても、仕方がありません。ただ、一つだけ申し上げられるのは――ここまで並んでいる時点で、あなたたちは既に、途方もない数の“並べなかったもの”を超えてきているということです」
その言葉に、列全体が微かにざわめいた。
「並べなかったもの、とは」
「並ぶ機会そのものが、来なかったもの。番号を与えられる前に、静かに消えていったもの。そういうものたちが、あなたたちの後ろに――いいえ、あなたたちが辿ってきた道のあらゆる分岐点に――数えきれないほど、いたのです」
私は、自分の後ろにあったかもしれない、無数の「もし」を思った。もし、あの晩、何かが少し違っていたら。もし、選ばれる前の選ばれる前の、そのまた前の段階で、何かが途切れていたら。
私はここにいない。
そう考えると、今こうして列に並んでいること自体が、奇妙に眩しいことのように思えた。宝くじの当選番号を確認する前の、あの一瞬の静けさに似ている。当たっているかどうかもわからないのに、券を握りしめている時間だけが、やけに長く感じられる、あの感覚。



ある時、案内係が珍しく、足を止めて――足があるのかどうかも定かではなかったが――こう言った。
「見えるものが、一つだけあります。ご覧になりますか」
見える、という言葉の意味が、この場所では特別だった。何しろ、目もなければ景色もない。それでも「見せられる」というのだから、断る理由はなかった。
すると、廊下の先に、小さな窓のようなものが開いた。
そこには、一人の男が映っていた。
男は、狭い部屋の中で、段ボール箱に囲まれていた。白髪の混じった髪、深い皺、老眼鏡。彼は古い写真を一枚手に取り、しばらく眺めてから、「要る」と書かれた箱と、「要らない」と書かれた箱の、どちらに入れるか迷っていた。
「あれは、誰なんですか」
「さあ」と案内係は言った。「ある人には、父かもしれません。ある人には、まだ見ぬ自分自身かもしれません。この窓は、そういう窓なのです」
男は結局、写真を「要る」の箱に入れた。それから、窓の外を――こちら側を――見るともなく見た気がした。一瞬だけ、視線が合ったような錯覚があった。錯覚のはずなのに、体温のない体の奥に、じんわりと何かが灯った。
「あの人は、物を捨てているんですか」
「捨てているようで、選び直しているのです」と案内係は言った。「物と、者と、モノと。その境目を、確かめる作業です」
窓は、それきり静かに閉じた。



やがて、列は少しずつ動き始めた。
動く、というのは正確ではないかもしれない。むしろ、列そのものが薄くなっていく、と言った方が近い。前にいたものたちが、一つ、また一つと、光の粒のようになって、廊下の奥へ吸い込まれていく。
私の番号が、内側でわずかに疼いた。
「もうすぐです」と案内係が言った。「あなたの番が来ます」
「怖くはないんですか」と私は尋ねた。自分がそんな言葉を持っていたことに、少し驚きながら。
「怖い、という感覚は、私にはありません」と案内係は答えた。「ただ、一つだけお伝えできることがあります。この先に進むということは、苦しみを引き受けるということでもあります。生きるとは、そういうことだと、こちら側では言われています」
「それでも、進むべきなんでしょうか」
「進むか進まないかを選べるのは、あなただけです。ただ――」
案内係は、そこで珍しく、言葉を探すように黙った。
「ただ、ここまで並んでこられたということ自体が、既に途方もないことなのです。何万、何億という“並べなかったもの”を超えて、あなたはここにいる。それだけで、既に一つの、静かな優勝なのです」
優勝、という言葉が、なぜか懐かしく響いた。まだ経験したこともないはずのその言葉が、体温のない体の奥で、確かに何かと共鳴していた。



窓が、再び開いた。
今度は、さっきの男ではなかった。若い夫婦が、小さな部屋で向かい合っていた。二人は何かを話し合っていた。声は聞こえなかったが、その表情には、不安と、それを上回るかすかな光のようなものが同居していた。
「あの二人は」
「あなたの、始まりに関わる人たちかもしれません」と案内係は言った。「かもしれません、としか申し上げられませんが」
窓の向こうの女性が、そっと自分の腹に手を当てた。その仕草を見た瞬間、私の中の番号が、光を帯びるように熱くなった。
「これは」
「あなたの番です」
案内係の声には、初めて、何かに似た響きが混じった気がした。労いのような、祝福のような、あるいはただの事実確認のような。
「行かれますか」
私は、後ろを振り返ろうとした。けれど、後ろには何もなかった。振り返るための体も、目も、まだなかった。ただ、これまで並んでいた無数の気配だけが、静かに、私を見送っているような感触があった。
「行きます」
そう答えた瞬間、窓の景色が、こちら側に流れ込んできた。光が、音が、匂いのようなものが、一気に押し寄せてきた。苦しい、と思う暇もなく、それはもう、痛みという形をとって私を包んでいた。
生まれるとは、こういうことか。
そう思う間もなく、私はもう、番号ではなくなっていた。



――そして、六十二年が経った。
老人は、狭い部屋の中で、段ボール箱に囲まれていた。白髪の混じった髪、深い皺、老眼鏡。彼は古い写真を一枚手に取り、しばらく眺めてから、「要る」と書かれた箱に入れた。
窓の外は、夕暮れだった。
彼はふと、手を止めて、窓の外を眺めた。理由はわからないが、誰かに見られているような、あるいは、誰かを見送っているような、そんな懐かしい感覚が、胸の奥をよぎった。
「生まれるのは、偶然。生きるのは、苦痛。死ぬのは、厄介」
いつか読んだ、誰かの言葉が、ふと口をついて出た。
「でも」と、彼は独り言のように続けた。「漂えど、沈まず、か」
彼は立ち上がり、次の箱を開けた。中には、もう何十年も忘れていたような、小さなガラクタが詰まっていた。壊れた腕時計、色褪せた切符、宛名のない手紙。
一つ一つを手に取りながら、彼は静かに、けれど確かに、選び分けていった。
物と、者と、モノと。
その境目を確かめるように。
まるで、まだ番号でしかなかった頃の自分に、今の自分を見せてやるかのように。
窓の外では、案内係に似た誰かが――いや、それはただの夕暮れの光だったのかもしれないが――静かに、こちらを見つめているような気がした。
彼は、ふっと微笑んだ。
そして、また一つ、箱に手を伸ばした。

― 了 ―


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あとがき
「自分という存在は、偶然なのか必然なのか」という問いからこの物語が生まれました。
生きる中では時に苦しさや理不尽さに直面し、「なぜ自分はここにいるのだろう」と考えてしまうことがあります。けれど、いまここに存在していることそのものが、実は気の遠くなるような確率を超えてたどり着いた「静かな勝利」なのかもしれません。
過去の自分、今の自分、そして未来の自分。
この物語が、日々に少しだけ立ち止まり、ご自身の歩んできた道のりを愛おしく思えるきっかけになれば幸いです。


歩行速度の金貨
——あるいは、奈良のオバちゃんに会いに行くための、宇宙的な散歩について



まえがき
毎朝、決められた時間に起き、一番早いルートで駅へ向かい、スマートフォンを眺めながら最短の乗り換えをこなす。私たちはいつからか、「遅れること」や「遠回りすること」を極度に恐れるようになりました。
効率的であることは、確かに便利です。けれど、時速60キロで通り過ぎる窓の外には、時速4キロで歩かなければ決して出会えない風の匂いや、忘れてしまった大切な記憶が、きっと落ちています。
この物語は、人生の最短ルートを走り続けてきた一人の男が、生まれて初めて「道に迷う贅沢」を知るための、少し風変わりで温かな散歩の記録です。
もし今、あなたの毎日が少しだけ急ぎ足になっているなら。
どうかページのなかで、彼らと一緒に歩幅を緩めてみてください。




第一章 最短の男
須賀 徒(すが・と)の朝は、目覚まし時計より三秒早く始まる。
正確に言えば、目覚まし時計が鳴る三秒前に、彼の枕元の空調が布団の温度を0.4度下げる。人体はその微妙な冷えを感知して自然に覚醒する——という研究論文を、須賀自身が十五年前に書いた。だから彼は、自分の書いた論文によって、毎朝三秒早く起こされていることになる。ある種の自業自得である。
「おはようございます、須賀係長。本日の最適移動時間は、通勤十七分、昼食六分、退勤十九分、合計四十二分です」
天井から降ってくる声に、須賀は「うん」と短く返す。返事は短ければ短いほどよい。
朝食は、栄養最適化バーが一本。味は「昨日の残りの記憶」に設定してある。実際にそういう風味があるわけではなく、脳のインプラントが「なんとなく食べたことのある味」と錯覚させる機能だ。須賀はこの味が好きだ。実際に何を食べたかを覚えている必要がないからである。
玄関で自動運転ポッド〈スワロー〉が待っている。ドアが開き、須賀が座り、ドアが閉まる。この間、彼の足は地面に対して合計七歩しか使われない。
窓の外を、都市が流れていく。高層ビルの間を縫うように走るポッド用の高架、その下に、細く、まるで忘れられたひもみたいに残された歩道。歩道にはほとんど人がいない。たまに歩いている人は、たいてい歩行許可証を胸につけている。第4237号までしか発行されていない、あの許可証を。
須賀は、自分がその番号のいずれとも縁がないことに、深い安堵を覚える。
局に着く。彼の仕事は、市民一人ひとりの一日の動きを、秒単位で設計することである。「無駄」という言葉を、須賀は美しいと思っている。それをそぎ落とすたびに、世界が少しずつ整っていく気がするからだ。
「須賀係長のインプラントに、原因不明のアイコンが表示されているとログに出ておりまして」同僚の田中が言う。「金色の、丸い……コインのような」
須賀は視界を見回す。何もない。
けれどそのとき、テーブルの縁のあたりに、ぽつん、と、金色の点が浮かんだ。
須賀は反射的に手を伸ばした。指がテーブルに触れた瞬間、金色は、すっと消えた。
「……気のせいだ」
その日の帰りのポッドの中で、彼は妙なことに気づいた。窓の外の、細い、忘れられた歩道の上に——ぽつり、ぽつりと、金色の点が、いくつも、いくつも、こぼれるように落ちているのが、彼にだけ、見えていた。
ポッドは時速六十キロで、それらの上を、なんの感慨もなく走り抜けていった。



第二章 網膜のコイン
翌朝、金色は増えていた。朝食のバーの上に一枚、玄関のドアノブの脇に二枚、ポッドのシートの隙間に一枚。手を伸ばすと、いずれもふっと消える。
「先生、これは病気ですか」都市中央病院で、須賀は担当医に尋ねた。
「病気ではないですね」医者はうすく笑った。「学会では〈残余視覚〉と呼ばれています。最適化された生活を続けると、脳の処理能力が余ってしまう。余った処理能力が、"本当はそこにあるかもしれない何か"を、勝手に描き始めるんです」
「幻覚、ということですか」
「幻覚と呼んでもいいし、呼ばなくてもいい。ただ——手を伸ばしたら消える、というのは、私は嫌いじゃないですよ。それは、あなたの脳が"まだ何かに触れたがっている"という証拠ですから」
家に帰って、須賀は久しぶりに壁の書棚を眺めた。背表紙が色褪せた文庫本の上に、金色の点が、ふわりと浮いていた。
須賀は手を伸ばした。指が背表紙に触れる直前、金色は、いつものように消えた。けれど、そのとき——彼の頭の中に、突然、ひとつの光景が蘇った。
高校生の自分。廊下。窓際。同じクラスの、名前も思い出せない女子が、こちらを見て、何か言おうと口を開きかけて、けれど須賀が急いでいたので、そのまま口を閉じた——という、たったそれだけの、二秒ほどの記憶。
須賀は四十二年間、その光景を一度も思い出したことがなかった。
書棚の隅で、もう一枚、金色が光っていた。須賀はその日初めて、自分の意思で、手を伸ばした。金色は消えた。今度は、光景は蘇らなかった。かわりに、彼の耳の奥で、小さな声が聞こえた。
「歩かないと、拾えないよ」
女の子の声だった。誰の、とは、まだわからなかった。



第三章 歩行許可証 第4237号
歩行許可証の申請窓口は、都市の地下三階にある。カウンターには、白髪の老人がひとり、書類の山に埋もれるようにして座っていた。
「目的地は」
「……未定です」
老人は、初めて顔を上げた。「未定、ねえ。むしろ、そういう方のほうが、通しやすい」
老人は書類を一枚、カウンターに置いた。「目的地未定申請書」。
「あなたで、四千二百三十七人目です」老人はペンを取り、書類にサインを促した。須賀は自分の名前を書いた。「須賀 徒」。徒歩の徒、と、母親が名付けたと聞いたことがある。四十二年間、その名前の意味を考えたことがなかった。
「ひとつ、忠告があります」老人は言った。「歩き始めると、たぶん、いろいろなものが見えるようになります。見えるようになったものは、原則、局には報告しないでください。報告しても、たぶん、局のシステムでは処理できません」
「では、良い散歩を」
「散歩、というほどの気持ちでは……」
「散歩ですよ。人生で最初の、本物の散歩です」
須賀は許可証をポケットに入れ、局の入り口を出た瞬間、初めて、ポッドを呼ばずに、地面に足をつけた。
歩道は、思ったよりも硬く、思ったよりも凸凹していた。
一歩、二歩、三歩。七歩目で、彼の視界の斜め前、街路樹の根元のあたりに、金色のコインが、はっきりと、輪郭を持って、光った。
須賀は手を伸ばした。今度は、消えなかった。指先に、ちいさな、温かい、丸いものが、確かに触れた。
その瞬間、彼の頭の中に、女の子の声が響いた。
「一枚目、拾えたね。奈良で、待ってるから」
須賀はコインを握りしめた。街路樹の葉が、風に、しゃら、と鳴った。彼は四十二年ぶりに、風の音を、"最適化されていない音"として、聞いた。
彼は、歩き始めた。



第四章 ぽて、時速4キロの相棒
一枚目のコインを拾ってから三日、須賀は毎朝、局に行く前に少しだけ遠回りをするようになっていた。
その日、彼が歩いていたのは、都市の外縁部、廃棄物集積場の裏手だった。錆びた家電の山の陰に、それはいた。
球体の胴体、短い脚が四本、頭部に丸い二つのレンズ。片方の脚は少し曲がっていた。誰かが「廃棄」の札をその胴体に貼りつけていた。
須賀が近づくと、ロボットの目がぱちり、と光った。
「……こんなところで歩行者にお会いするとは、珍しいのではないかと、ぽては思うのでした」
「歩行者というものに会うのは、ぽて、五年ぶりくらいではないかと思うのでした。この十年、時速四キロを超えると強制停止する仕様のため、ぽては役に立たないと判断され、廃棄されることになったのではないかと、ぽては思うのでした」
「時速四キロというのは」須賀は、ふと気づいて言った。「人間が普通に歩く速さと、同じくらいじゃないか」
須賀は、黙って、ロボットを見つめた。何かが、胸の奥で、かちり、と音を立てた。それは効率でも最適化でもない、もっと別の何かだった。
「一緒に来るか」
「一緒に、というのは、どこに、でしょうか」
「奈良」
「奈良……それは、どこにあるのか、ぽてにはわからないのではないかと、ぽては思うのでした」
「僕にも、まだ、わからない」
須賀は、ロボットの曲がった脚に手を添えた。錆びた関節が、ぎ、と小さな音を立てて動いた。
「けど、時速四キロで行けば、たぶん、たどり着ける」
「では、ご一緒させていただこうと、ぽては思うのでした。——ありがとうございます、須賀さん」
二人——いや、一人と一体は、廃棄物集積場を出た。ぽての短い脚が、とことこ、と、須賀の歩幅に合わせて動いた。時速四キロ。それは、須賀がこれまでの人生で、一度も経験したことのない速さだった。
道の先、街路樹の根元に、また金色の点が、ひとつ、光っていた。
須賀はそう答えて、けれど今度は、迷わず、その光のほうへ歩き出した。



第五章 地図にない交差点
都市を出て三日目、須賀とぽては、地図アプリが「存在しない」と表示する交差点にさしかかった。
インプラントの地図には、そこはただの空白として映る。ポッドのナビゲーションは絶対にこの道を選ばない。効率的な迂回ルートが、常にこの一角を避けて設計されているからだ。
「ここを右に曲がると、局のデータでは行き止まりのはずです、と、ぽては思うのでした」
須賀は立ち止まり、風の匂いを嗅いだ。理由はうまく説明できなかったが、右に曲がりたい、という感覚が、腹の底からわいてきた。四十二年間、彼は「感覚」で何かを決めたことがなかった。すべては計算と最適解だった。
「右に曲がる」
須賀はそう言って、実際に曲がった。
行き止まりのはずの道の先に、小さな石段があった。石段は苔むし、両脇には誰かが植えたらしい紫陽花が咲いていた。データベースには存在しない紫陽花だった。
石段を上ると、視界いっぱいに、金色の点が散らばっていた。まるで誰かが空から小銭をまいたかのように。須賀はひとつずつ、丁寧に、拾い集めた。拾うたびに、小さな記憶のかけらが蘇る。母の作った不揃いな卵焼き。雨の日に傘を忘れて走った下校路。忘れていたはずの、けれど確かに自分のものだった時間。
「須賀さんは、なんだか、拾うたびに、顔つきが変わっていくのではないかと、ぽては思うのでした」
「そう見えるか」
「はい。最初は、四角い顔をしていましたが、今は、少し丸くなってきたのではないかと、ぽては思うのでした」
須賀は自分の頬に手をやった。四角い顔、という表現の意味は、うまく計算できなかった。けれど、悪い気はしなかった。



第六章 匂いで答える老婆
地図にない交差点を抜けた先に、バス停があった。バスは、もう何年も来ていないらしく、時刻表は色褪せて読めなくなっていた。そのベンチに、ひとりの老婆が座っていた。
「兄さん、奈良に行くんかね」
須賀は驚いた。誰にも行き先を告げていなかったからだ。
「……なぜ、わかるんですか」
「匂いでわかる。奈良に向かう人は、みな、同じ匂いがする。埃っぽくて、ちょっとだけ、線香みたいな匂い」
老婆は目を閉じたまま、鼻をひくひくと動かした。須賀は気づいた。老婆の目は、白く濁っていた。何も見えていないのだ。けれど老婆は、風の匂いだけで、東西南北から、時刻から、遠くの天気まで、正確に言い当てた。
「今日の風は西からや。西の風は、雨の匂いを連れてくる。あんたら、あと三十分もしたら、雨に降られるで」
「進む道は、どちらへ行けば」
「道なんか、あってないようなもんや。歩く速さで進んどったら、勝手に合う道に出る。急ぐ人間だけが、道に迷うんよ」
須賀はその言葉を、頭の中で何度も繰り返した。「急ぐ人間だけが、道に迷う」——動線設計局の理念とは、まったく逆のことを、この老婆は事もなげに言っていた。
「ありがとうございます」
「礼はええ。それより兄さん、傘、持っとるか」
須賀は傘を持っていなかった。老婆は笑って、自分の杖の下に隠してあった古い折り畳み傘を、須賀に差し出した。
三十分後、本当に雨が降り出した。



第七章 環という名の少女
雨宿りのために飛び込んだ廃バス停の屋根の下で、須賀とぽては、先客に出会った。
十六歳くらいの少女だった。リュックサックひとつを背負い、髪は雨に濡れて額に張りついていた。少女は須賀たちを見ても、驚いた様子を見せなかった。
「あんたも、金貨、追いかけてる人?」
「……見えるのか、あなたにも」
「見えるよ。あたし、環。おばあちゃんが死ぬ前に言ってたの。『歩いて探しに行きなさい』って。何を探すのかは、教えてくれなかったけど」
環は、交差点に来るたびに、リュックから五円玉を取り出し、指で弾いて、表が出れば右、裏が出れば左に進む、ということを繰り返していた。
「地図は持ってないのか」須賀が尋ねた。
「地図なんて見たら、当たっちゃうじゃん。当たると、たぶん、つまんない場所にしか行けない」
須賀にはその理屈がまったく理解できなかった。しかし、不思議と反論する気にもなれなかった。四十二年、最短距離だけを信じてきた自分の隣で、この少女は五円玉ひとつで世界を渡り歩いている。それは、須賀の知る「非効率」の、もっとも純粋な形だった。
「奈良に、行くのか」須賀は聞いた。
「たぶん。おばあちゃんの故郷だから」
「僕も、奈良に向かっている」
環は初めて、須賀の顔をまじまじと見た。それから、にっと笑った。
「じゃあ、しばらく道連れだね。おじさん」
「須賀だ」
「知ってる。ロボットが、さっきからずっと『須賀さん』って呼んでたし」
雨脚が強くなる。三人——一人と一体と一人——は、バス停の小さな屋根の下で、身を寄せ合った。



第八章 コインは記憶である
雨がやむのを待つ間、須賀は握りしめていたコインの数を数えた。七枚になっていた。
「これ、拾うたびに、何か思い出すんだ」須賀はぽつりと言った。
「あたしも」環が言った。「おばあちゃんの声とか、匂いとか」
「なぜ、忘れていたんだろう」
環は少し考えてから答えた。「たぶん、忘れたんじゃなくて、"思い出す暇"がなかったんだよ。最適化って、たぶん、そういうこと。無駄を削るって言うけど、記憶を思い出す時間も、無駄に含まれちゃうんじゃないかな」
須賀は黙り込んだ。動線設計局の理念書には、こう書かれている。「人間の一日は八万六千四百秒である。そのすべてに、最適な用途を割り当てることが、幸福の最大化である」
——けれど、思い出に浸る時間は、その計算式のどこにも存在しなかった。
「ぽて、お前は、記憶を思い出すことがあるか」須賀は尋ねた。
「ぽては記憶媒体なので、記憶は消去されない限り、常にすべて思い出せる状態にあるのではないかと、ぽては思うのでした。ただ、思い出す"暇"というものは、人間特有の、贅沢な機能なのではないかと、ぽては思うのでした」
「贅沢、か」
須賀は自分の手のひらのコインを見つめた。七枚の金色が、雨上がりの薄い光を受けて、鈍く光っていた。彼は、生まれて初めて、「贅沢」という言葉を、悪い意味以外で受け止めた。
「奈良まで、あと何枚拾えば着くんだろう」
環は肩をすくめた。「さあ。でも、拾い終わったときが、たぶん、着いたとき」
雨があがった。空に、薄い虹がかかっていた。都市の中では、天候予測アルゴリズムがすでに消してしまうはずの、無駄で、美しい虹だった。



第九章 郵便配達人の村
三人が次に辿り着いたのは、地図上のどのデータベースにも存在しない、小さな村だった。
家々は古い木造で、電線は張られておらず、代わりに屋根の上を、小さな鳩が何羽も行き来していた。村の入り口に、自転車にまたがった郵便配達人がいた。彼の自転車には、紙の手紙がぎっしり詰まった革のカバンが積まれていた。
「この村、地図に載ってないんですけど」須賀が尋ねると、配達人は笑った。
「載せてもらう必要がないんですよ。載ると、みんな最短ルートで通り過ぎるだけになる。載らなければ、迷い込んだ人しか来ない。迷い込んだ人は、たいてい、ちゃんと村を見てくれる」
村では、誰も急いでいなかった。郵便配達人は、一軒一軒、手紙を届けるたびに、必ず縁側でお茶を一杯飲んでから次の家に向かった。一日にせいぜい十数軒しか回れないという。
「効率が悪いのでは」須賀は思わず言った。かつての癖だった。
「効率って、何に対しての効率です?」配達人は逆に聞いた。「手紙を届ける速さの効率なら、確かに悪い。けど、"届けた"という実感の効率なら、これが一番早い」
須賀は返す言葉がなかった。
村の広場で、環はふらりと祠に近づいた。小さな石の祠の前に、金色の点が、ひとつだけ、ぽつんと浮いていた。環はそれを拾おうと手を伸ばし、けれど、その手は空を切った。
「あたしのじゃない、これ」環は不思議そうに言った。
「僕のでもない」須賀も首を振った。二人には見えているのに、二人とも触れられない金貨。それは、まだこの村にいる、あるいはもういない、誰か別の人のためのものらしかった。
配達人はそれを見て、静かに言った。「それはたぶん、まだ取りに来ていない誰かのものです。金貨は待ってくれますから、焦らなくていい」



第十章 歩く速さの物理学
村を出て、須賀はぽてに尋ねた。「時速四キロというのは、何か理由があるのか。設計上、そう決まっていると言っていたが」
「はい。ぽての世代の会話補助ロボットは、当初、時速六十キロまで対応する予定で設計されていたのではないかと、ぽては思うのでした。しかし試験段階で、致命的な不具合が見つかったのではないかと、ぽては思うのでした」
「不具合?」
「速度が上がるほど、会話の質が著しく低下する、という不具合です。時速十キロを超えると、ぽての先祖機は、相手の顔をきちんと見て話すことができなくなったのではないかと、ぽては思うのでした。時速四十キロを超えると、会話の内容そのものを、まったく覚えていられなくなったのではないかと、ぽては思うのでした」
須賀は立ち止まった。「つまり——」
「はい。会話というものは、時速四キロ程度の速さでしか、ちゃんと成立しないのではないかと、ぽては思うのでした。それより速く動きながらでは、人は、本当の意味で、誰かの話を聞くことができないのではないかと、ぽては思うのでした」
須賀は、局にいた頃のことを思い出した。ポッドの中で、部下からの報告を聞きながら、同時に三つの案件を処理していた自分。あのとき、自分は本当に、田中の話を聞いていただろうか。
環が横から口をはさんだ。「あたしのおばあちゃんも言ってたよ。『早口で喋る人ほど、話聞いてない』って」
須賀は、自分の歩幅を、ほんの少しだけ、遅くした。



第十一章 局からの追跡
その頃、動線設計局では、須賀の失踪騒ぎが持ち上がっていた。
局長・鴻上は、須賀の欠勤が三週間続いていることを知り、自ら追跡チームを編成した。表向きの理由は「最適化率の急落を懸念して」だったが、本当の理由は別にあった。
鴻上は週末、誰にも言わずに、自宅の庭に置いた小さな盆栽に話しかける習慣を持っていた。盆栽の枝ぶりを整えるとき、彼だけは、時間を計らずに、ただじっと、枝を見つめる時間を許していた。それは局の理念に真っ向から反する、彼だけの秘密の「無駄」だった。
須賀の失踪の報告書を読んだとき、鴻上は妙な既視感を覚えた。「歩行許可証、目的地未定」という一文に、なぜか胸がざわついた。
「須賀を、追え」鴻上は部下に命じた。「ただし——手荒な真似はするな。連れ戻すのではなく、様子を見てくるだけでいい」
自分でも、なぜそんな指示を出したのか、うまく説明できなかった。
追跡ポッドが出発する朝、鴻上は盆栽の鉢を、そっとカバンに詰めた。「もし須賀が本当に何かを見つけたのなら、私も、少しだけ見てみたい」
彼はそう呟いて、自らも局を出た。四十二年勤めて、初めての、無許可の外出だった。



第十二章 雨宿りの三時間
奈良県境に近づいたところで、三人はまた雨に降られた。今度の雨は本降りで、逃げ込んだのは、見知らぬ農家の軒下だった。
軒下には先客がいた。犬を連れた老人だった。老人は須賀たちを見ても驚かず、「まあ、座り。雨はすぐには止まん」と、縁側の隅を指した。
三時間、雨は止まなかった。老人は問わず語りに、自分の半生を話し始めた。若い頃に営んでいた店のこと、亡くなった妻のこと、息子が都市に出てから帰ってこないこと。須賀は、最初、話の要点がどこにあるのか分からず、落ち着かなかった。要約すれば三十秒で済む話を、老人は三時間かけて話した。
けれど、途中から須賀は気づいた。この話には、「要点」など、最初から存在しないのだ。ただ、聞いてもらうこと、それ自体が目的の会話だった。
犬が須賀の膝に頭を乗せた。須賀は、その重みと温かさを、ただじっと受け止めた。
「兄さんも、どこかへ向かっとるんやろう」老人が言った。
「奈良です。ある漬物屋を、探しています」
老人は目を丸くした。「漬物屋なら、ワシの妹が、昔、世話になったところがある。『金貨屋』とかいう、変わった名前の店や」
須賀の心臓が、どくん、と鳴った。
「その店、ご存じなんですか」
「知っとるも何も、あそこのオバちゃんには、ワシも一度会うたことがある。誰にでも『久しぶりやなあ』って言うんや。初対面のワシにもな」
雨が、ようやく小降りになってきた。



第十三章 匂いが合う、ということ
軒先を出て、また歩き出した夜、環が珍しく、自分から話し始めた。
「おばあちゃんね、死ぬ前、あたしにだけ、変なこと言ったんだ」
「変なこと?」
「『環、あんたは、匂いが合う人を探しなさい』って。友達とか、恋人とか、家族とか、そういうのじゃなくて。『匂いが合う人』」
須賀は歩きながら、その言葉を反芻した。「匂いが合う、というのは」
「あたしも、最初は分かんなかった。でも、たぶん——」環は空を見上げた。星が、都市では見たことのない密度で瞬いていた。「一緒にいて、急がなくていい人、ってことなんじゃないかな。おじさんと歩いてて、なんか、そんな気がする」
須賀は、その言葉に、うまく返事ができなかった。四十二年間、彼にとって「合う」という言葉は、スケジュールが合う、効率が合う、という意味でしか使われたことがなかった。
「僕は、あなたにとって、匂いが合う人間だろうか」
「わかんない。でも、少なくとも、急かしてこないから、嫌いじゃない」
ぽての小さなライトが、二人の足元を、ぽう、と照らしていた。「須賀さんは、最近、ずいぶん歩くのが遅くなったのではないかと、ぽては思うのでした」
「そうか?」
「はい。最初は、ぽての速度に合わせるのを、少し窮屈そうにしていたのではないかと、ぽては思うのでした。今は、むしろ、ぽての速度のほうが、須賀さんにとってちょうどいいのではないかと、ぽては思うのでした」
須賀は、自分の足元を見た。革靴の底は、すっかりすり減っていた。四十二年間履き続けてきた「最短の靴」が、今、彼の遅い歩みによって、初めて本当にすり減ろうとしていた。



第十四章 ぽての故障
奈良盆地への最後の峠道で、事件が起きた。
急な坂道を降りる途中、ぽての曲がった脚が、とうとう限界を迎えた。がくん、という音とともに、ぽては地面に倒れ込んだ。
「ぽて!」
「……申し訳ございません。脚部の関節が、完全に破損してしまったのではないかと、ぽては思うの——」
そこで、ぽての声が、ふつりと途切れた。レンズの光も消えた。須賀はロボットを抱き起こし、何度も名前を呼んだが、反応はなかった。
「須賀さん、これ……」環が須賀の顔を覗き込んだ。須賀の目から、涙がこぼれていた。四十二年間、彼が泣いたのは、幼稚園の頃、迷子になったとき以来だった。
「僕は、これを、直せない」
須賀は自分の無力さに、初めて本当の意味で向き合った。局にいたときの彼なら、修理業者を手配し、最短時間で解決していただろう。しかし今、彼にできることは、ただ、ぽての壊れた体を抱きしめることだけだった。
その夜、峠道の途中の小さな祠の前で、須賀は一晩中、ぽてのそばに座っていた。環も、離れず、隣に座っていた。
明け方、遠くから、小さな灯りが近づいてきた。鴻上局長だった。カバンから、盆栽と一緒に、精密工具のセットを取り出した。
「私も、若い頃、こういう旧型ロボットのメンテナンスをかじったことがある」鴻上は、須賀に何も聞かず、黙って、ぽての脚の修理にとりかかった。
夜明けとともに、ぽてのレンズが、ぱちり、と再び光った。
「……のではないかと、ぽては思うのでした。おはようございます、須賀さん。ずいぶん、長い夢を見ていたのではないかと、ぽては思うのでした」
須賀は、今度は声を出して泣いた。



第十五章 奈良盆地、初めての空
峠を越えると、視界が、急に開けた。
奈良盆地が、朝もやの中に横たわっていた。田んぼの緑、遠くに霞む山の稜線、そして、都市では絶対に見ることのできない、広く、低く、優しい空。
「空って、こんなに大きかったんだ」須賀は呟いた。
都市の空は、いつも高架とビルに切り取られ、細長い帯のようにしか見えなかった。ここでは、空は端から端まで、遮るものなく広がっていた。
鴻上局長は、盆栽を膝に乗せ、田んぼのあぜ道に座り込んだ。「私は、局に戻ったら、たぶん、また最適化の仕事をする」と、彼は言った。「けれど、これからは、時々、こうして空を見る時間を、自分に許そうと思う」
須賀は、局長のその言葉に、驚いた。四十二年間、彼の知る鴻上は、感情を一切表に出さない、最適化の権化だった。
「局長も、コインが見えるんですか」
「いや、私には見えない。だが、あなたたちの後ろに、金色の光の道のようなものが、うっすらと見える気がする。目の錯覚かもしれないが」
環が空を指さした。「あ、鳥だ」
田んぼの上を、白い鳥の群れが飛んでいた。誰も速さを競っていない、ゆったりとした羽ばたきだった。須賀は、その鳥たちの飛び方を、ただじっと、長い間、見つめていた。
「あと少しで、奈良の街だ」須賀は言った。声に、初めて、迷いのない響きがあった。



第十六章 商店街の暖簾
奈良の街に入ると、金色の点の密度が、急に増した。まるで街全体が、金貨で覆われているようだった。
須賀たちは、ある古い商店街のアーケードに導かれるように歩いていった。シャッターの半分閉まった店、営業しているのかどうか分からない古びた喫茶店、そして——
その先に、色褪せた藍色の暖簾が、風もないのにゆらりと揺れていた。暖簾には、白い文字で「金貨屋」と染め抜かれていた。
須賀の足が、思わず止まった。手のひらの中で、これまで拾い集めたすべてのコインが、かすかに温かくなっていくのを感じた。
「ここだ」
環も、リュックの中の五円玉が、じゃらり、と音を立てるのを感じていた。「あたしも、ここだって、なんとなく分かる」
ぽてのレンズが、店先を捉えた。「店構えは、ずいぶん古いもののようですが、なぜか、ぽての内部データベースには、この店の記録が、一切見当たらないのではないかと、ぽては思うのでした」
須賀は暖簾に手をかけた。指先に、布の、少しざらついた感触があった。四十二年間、彼はこんなにも簡単な、一枚の布の質感を、意識して感じたことがなかった。
暖簾をくぐると、漬物の匂いが、ふわりと鼻をついた。糠と、塩と、少しの酸味。都市の栄養最適化バーには、絶対に含まれない匂いだった。
店の奥、木の樽がずらりと並んだその向こうに、小柄な老女が、こちらに背を向けて、漬物石を持ち上げていた。



第十七章 オバちゃん
「あら、久しぶりやなあ」
老女は振り向きもせずに、そう言った。まるで昨日も会ったかのような、あまりにも自然な口調だった。
「……初めて、お会いすると思うのですが」須賀が戸惑いながら言った。
「そうかもねえ。うちはいつも、誰にでも、そう言うことにしとるんよ」老女はようやく振り向いた。深い皺の中に、驚くほど澄んだ目があった。「せやかて、あんたも、たぶん、"どこかで"は、会うたことあるんちゃう?」
須賀は答えられなかった。しかし、確かに、この老女の顔には、見覚えがあるような、ないような、奇妙な既視感があった。
「よう歩いてきたなあ、みんな」老女は環を見て、微笑んだ。「あんた、おばあちゃんの孫やろ。目元が、そっくりや」
環の目が丸くなった。「おばあちゃんのこと、知ってるの?」
「知っとるも何も。うちが、あんたのおばあちゃんに、最初にコインを渡した人間や」
老女は須賀たちを店の奥、樽と樽の間の小さな座敷に案内した。座卓には、様々な種類の漬物が並べられた。きゅうり、なす、大根、しば漬け。須賀は生まれて初めて、栄養最適化バー以外の、本物の食事を口にした。
一口かじった瞬間、須賀の全身に、雷のような衝撃が走った。
酸味。塩気。歯ごたえ。それらすべてが、彼の脳の奥深く、四十二年間、決して開かれることのなかった扉を、一気にこじ開けた。
母と一緒に、漬物石を持ち上げた記憶。祖母の台所の匂い。誰かと食卓を囲んで、ただ、何も予定を立てずに、笑っていた時間。
須賀は、箸を持ったまま、動けなくなった。



第十八章 漬物石の下の宇宙
「そろそろ、話してもええかね」老女は、須賀が落ち着いたのを見計らって、言った。
「あなたは、何者なんですか」須賀は尋ねた。「宇宙人か何かなのか、と、正直、疑っています」
老女はけらけらと笑った。「宇宙人やて。面白いこと言うなあ。うちは、ただの漬物屋のオバちゃんや」
「けれど、金貨のこと、環のおばあちゃんのこと、すべてご存じで——」
「そらそうよ。うちはねえ、もう、うんと長いこと、この店をやっとる。長いこと、っちゅうのがどれくらいかは、うちも、正確には覚えとらんのやけど」老女は漬物石を、こつん、と叩いた。「この石の下にはな、宇宙がある、っちゅう言い伝えがあるんよ」
「宇宙?」
「大げさに聞こえるやろうけど、まあ、聞き。——世界にはな、"急いで歩く人には、絶対に見えない場所"っちゅうのが、いくつもあるんよ。地図にない交差点、時速四キロでしか動けんロボット、匂いで方角がわかる婆さん。あんたら、みんな、もう出会うたやろ?」
須賀と環は、顔を見合わせた。
「あれはな、全部、"急がん者にしか見えん宇宙"の入り口や。うちの店の、この漬物石の下にも、そういう入り口が、ひとつある。うちは、そこの、いわば——番人、みたいなもんや」
「なぜ、私たちを呼んだんですか」
「呼んだんとちゃう。呼ばれたんは、あんたらの方や。あんたらの中に、"もう最短距離だけでは生きられん"って思う気持ちが、ちゃんと生まれたから、コインが見え始めたんよ。うちは、ただ、その気持ちに、金色の色をつけとるだけ」
老女は、須賀の手のひらの上のコインを、そっと一枚、取り上げた。「あんたが拾うたこのコインはな、全部、あんたが"本来、感じるはずやった時間"や。急ぎすぎて、素通りしてしもうた時間。それを、少しずつ、返してもろうただけのことや」
須賀は、その言葉を、静かに受け止めた。
「宇宙で最も非効率で、最も温かい真実、とは、これのことですか」
「さあ、なんやろなあ」老女は、また笑った。「うちに聞くより、あんた自身の中に、もう答えは、ちゃんとあるんとちゃうか」



第十九章 最適化されなかった人生
奈良から都市に戻る道中、須賀は迷わなかった。行きに三週間かかった道のりを、彼は、今度は、急がず、ゆっくりと、けれど迷いなく歩いた。
局に戻った日、須賀は鴻上局長のデスクの前に立った。
「辞表を、出します」
鴻上は、驚かなかった。「そうか」と、ただ、それだけ言った。
「局長。僕は、四十二年間、"無駄"という言葉を美しいと思ってきました。けれど、奈良で、僕は気づきました。無駄だと思っていたもののほとんどは、実は、僕の人生そのものだったんです」
鴻上は、デスクの上の盆栽に目をやった。「私も、少し、考えようと思う。局のあり方を。歩行許可証を、廃止するかどうかは、私一人では決められないが——せめて、申請の数を、もう少し、増やせるように、してみようと思う」
須賀は深く頭を下げた。「ありがとうございました」
局を出た須賀は、環とぽてが待つ、細い歩道に向かった。環は、都市に戻った後も、彼女なりの旅を続けると言っていた。「あたし、まだ、五円玉、使い切ってないから」
「また、会えるだろうか」須賀は尋ねた。
「たぶんね」環は、にっと笑った。「匂いが合う人とは、また、どこかで会うもんだって、おばあちゃんが言ってた」
ぽては、須賀の隣で、とことこと足踏みをしていた。「須賀さんは、これから、どうされるのではないかと、ぽては思うのでした」
須賀は、空を見上げた。都市の高架の隙間から、細く、けれど確かに、青い空が見えた。
「歩くよ。ゆっくりと。時速四キロで」



第二十章 また会いたい人ばかり
一年後。
須賀は、奈良の商店街の近くに、小さな漬物屋を——正確には、漬物と、コーヒーと、道行く人が座って話せる縁側だけの、小さな店を開いていた。店の名前は、まだ決めていない。
店先には、いつも、ぽてが座っている。時速四キロを超えられない体は、もう欠点ではなく、この店にとって、ちょうどいい速さになっていた。
環は、時々、ふらりと立ち寄る。相変わらず地図を持たず、五円玉ひとつで、あちこちを旅している。「次はどこに行くんだ」と須賀が聞くと、「まだ決めてない。決めない方が、たぶん、いい場所につく」と、彼女は笑う。
鴻上局長も、月に一度、盆栽を抱えてやってくる。局の歩行許可証の発行数は、あの年から、少しずつ、増え続けているという。
そして、たまに、須賀の店の暖簾の向こうに、金色の小さな点が、ふわりと浮かぶことがある。かつては、それを見るたびに、慌てて手を伸ばしたものだった。今は、須賀は、ただ静かに、それを眺める。
金貨は、急がなくても、逃げていかない。
須賀は、縁側に座り、遠くの山を見ながら、ぬるいお茶を飲む。田中も、去年、局を辞め、この店をよく手伝いにくるようになった。彼もまた、コインが見え始めた一人だった。
「須賀さん」田中が言う。「僕らの人生、あの頃と比べて、ずいぶん非効率になりましたね」
須賀は笑う。「そうだな。でも——」
彼は、手元の湯呑みを、ゆっくりと置いた。
「また会いたい人が、こんなに増えたのは、初めてだ」
風が、暖簾を、しゃら、と揺らした。金色の点が、ひとつ、またひとつ、店の軒先に、静かに浮かんでは、誰かに拾われるのを待っていた。

——完——



巻末付録一 地図にないもののリスト
須賀 徒が拾った金貨の記録
局の報告書には載らなかった金貨だけを、拾った場所と一緒に並べ直しました。
枚数は本人にも正確にはわかりません。数えるたびに少し増えるからです。
No.1
拾った場所: 自室の書棚、色褪せた文庫本の上
蘇った記憶: 高校の廊下。窓際の女子が何か言いかけて、急ぐ自分を見て口を閉じた二秒間
本来あったはずの時間: 急がないで聞けばよかった返事
No.2
拾った場所: 都市の歩道、街路樹の根元
蘇った記憶: 初めて消えずに手に残った温かさ。風の音を最適化されていない音として聞いた瞬間
本来あったはずの時間: 立ち止まって風を聞く暇
No.3
拾った場所: 地図にない交差点の石段の上
蘇った記憶: 母が作った不揃いな卵焼き。黄身が片方に寄っていた
本来あったはずの時間: 不揃いを笑って食べる食卓
No.4
拾った場所: 同じ石段、紫陽花の脇
蘇った記憶: 雨の日に傘を忘れて走った下校路。濡れたカバンが重かった
本来あったはずの時間: 濡れることを許す寄り道
No.5
拾った場所: 雨宿りのバス停の屋根の下
蘇った記憶: 幼稚園で迷子になって泣いた日の、アナウンスの声
本来あったはずの時間: 泣いてもいいと知る時間
No.6
拾った場所: 郵便配達人の村の広場、祠の前
蘇った記憶: 触れても拾えなかった一点。誰かのために残された金貨
本来あったはずの時間: 自分のではない誰かの時間を待つ時間
No.7
拾った場所: 峠道の祠の前、ぽてが倒れた夜
蘇った記憶: 祖母の台所の糠床の匂い
本来あったはずの時間: 匂いを覚えるための台所仕事
No.8
拾った場所: 奈良盆地を見下ろす峠
蘇った記憶: 母と二人で持ち上げた漬物石の重さ
本来あったはずの時間: 重いものを二人で持つ時間
No.9
拾った場所: 奈良盆地のあぜ道
蘇った記憶: 都市の空は細い帯だったのに、ここでは端から端まで広かったこと
本来あったはずの時間: 空の大きさを測らない時間
No.10
拾った場所: 商店街の手前、田んぼの上
蘇った記憶: 白い鳥の群れが誰とも競争せず飛んでいた羽ばたき
本来あったはずの時間: 誰とも比べない速さ
No.11
拾った場所: 金貨屋の暖簾の前
蘇った記憶: 食卓を囲んで何の予定も立てずに笑っていた夜
本来あったはずの時間: 予定のない夜
No.12
拾った場所: 金貨屋の座敷、湯呑みの横
蘇った記憶: いま、このお茶がぬるくなるのを待てること
本来あったはずの時間: ぬるくなるまで待てる余白
余白
あなたの今日の帰り道にも、一枚落ちていたかもしれません。
No.13 場所:     記憶:
No.14 場所:     記憶:



巻末付録二 歩行許可証 第4237号についての小さな考察
なぜ4237枚で打ち止めだったのか。局の公式記録には明確な理由は残されていません。ここでは、作中で囁かれている三つの話だけを載せておきます。どれが本当かは、読んだあなたの歩く速さによって変わるかもしれません。
1. 局の公式見解
都市の歩行帯域計算から導かれた上限値です。時速四キロで会話しながら歩く人が同時に四千二百三十七人を超えると、すれ違うときの挨拶や立ち話による渋滞が、ポッドの高架のダイヤに影響を与えると試算されました。効率を守るための、最後の非効率の枠でした。
2. 旧街道の距離説
都市中央から金貨屋までの旧い街道の距離が、四百二十三・七キロメートルだったという古い地図が、地下三階の倉庫から見つかっています。許可証の番号は、その距離をヘクトメートルに直した数字だというのです。つまり4237は、歩いて帰ってこられるギリギリの距離でした。
3. 奈良のオバちゃんの言い分
「4237やろ。そら、42歳の男の子が、37個目の記憶を思い出したときに、やっと辿り着く番号やからや」
オバちゃんは笑いながらそう言ったそうです。須賀が四十二歳で、環が持っていた五円玉が三十七枚目だったかどうかは、誰も数えていません。
4237枚目の許可証が須賀で最後になったのは偶然です。次の日から、鴻上局長が申請書の書式をこっそり変えたので、番号の数え方が変わりました。今はもう、上限はありません。


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あとがき
「人と人がちゃんと会話できるのは、時速四キロの速さまでである」
作中でロボットの「ぽて」が語るこの言葉は、私たちが日々の中で見失いがちな“手触りのある時間”そのものです。
速すぎる時代の中で、私たちは効率と引き換えに、誰かの話をじっくり聞く時間や、ただ空を眺める時間、不揃いな料理を味わう時間といった「人生の余白」を削ぎ落としてきたのかもしれません。しかし、その無駄の中にこそ、本来の私たちが詰まっているのではないか——そんな思いから、この物語は生まれました。
須賀が拾い集めた金貨は、特別な魔法のコインではありません。誰の人生にも転がっている、けれど急いでいると素通りしてしまう、ささやかな日常の輝きです。
読み終えたあなたの帰り道が、いつもよりほんの少しだけゆっくりになり、足元に小さく光る「金貨」を見つけられますように。

エウロパにだけは降りるな
〜借金まみれの運送屋が出会った、宇宙でいちばんさびしがり屋の知性体〜




まえがき

はじめに
宇宙には数々の「禁忌(タブー)」が存在します。
中でも最も有名で、最も荘厳な教えがこれです。

『エウロパにだけは降りてはならない』

本来であれば、この言葉は人類の傲慢さを諌める崇高な誓いであり、SF史に燦然と輝く約束事でした。誰もがその掟を護り、沈黙する氷の星を遠巻きに眺めていたのです。

——そう、「今月の燃料代すら払えない運送屋」が現れるまでは。

これは、勇敢な宇宙飛行士の物語ではありません。地球の未来を賭けた壮大な冒険でもありません。
ただの貧乏な乗組員たちが、己の給料と一握りの野菜を賭けて、宇宙で一番有名な禁忌に挑んでしまった、ちょっと間抜けで温かい記録です。

もしあなたが宇宙船の操縦席に座る機会があったなら、そして画面に「未払い請求書」が点滅していたなら……どうぞ彼らの足跡を笑いながら見守ってやってください。  




第一章 借金まみれの宇宙船

太陽系運送株式会社という、名前だけはやたら立派な会社があった。実態は、社長ひとり、事務員ひとり、そして老朽貨物船〈たぬき号〉一隻から成る、木星圏でいちばん潰れそうな運送業者である。

〈たぬき号〉の船長、宗像イチロウは、今朝も借金取りからの通信を無視することから一日を始めた。画面には「未払い燃料代・第七回督促」という文字が点滅していたが、イチロウはそれを見なかったことにして、コーヒーの代わりに配給用の茶色い液体をすすった。

「船長、また逃げてます?」 副操縦士の九十九マリが、操縦席の背後からひょいと顔を出した。マリは二十六歳、資格はいちおう一級宇宙船操縦士だが、実際にはほとんどの操作を機関士に任せて、暇さえあれば宇宙釣り(という架空のゲーム)に興じている。

「逃げてない。戦略的に無視してるだけだ」 「それを世間では逃げてるって言うんですよ」

三人目の乗組員、機関士のゴロウは、返事の代わりに配管の下から唸り声を上げた。ゴロウは無口な巨漢で、口を開くのは機械が壊れた時と、飯の時だけだった。

そして四人目——というか、乗組員としてカウントしていいのか誰も分からない存在——が、船の中央甲板に浮かんでいた。球形の小型ロボット、通称「タマ」である。タマは掃除ロボットとして買われたはずなのに、いつの間にか船の頭脳部分にアクセスし、なぜか将棋が異常に強く、なぜか感情豊かで、なぜか時々哲学的なことを呟く、得体の知れない機械だった。

「船長」タマが丸い胴体を揺らしながら言った。「借金は無視しても消えませんが、木星の重力なら少しは気が紛れるかもしれませんよ」

「お前、慰めてるのか煽ってるのかどっちだ」

〈たぬき号〉は現在、木星圏へ向かう途上にあった。目的は、イオの火山活動で噴き出す希少鉱物の回収——のはずだったのだが、道中でイチロウは会社の社長(兼、彼の伯父)から一本の通信を受け取っていた。

「イチロウ、イオはもういい。エウロパへ行け」

「はあ? エウロパには何もないでしょう。氷だけの星ですよ」

「その氷だ。氷でいい。とにかく氷を持って帰ってこい。でないとこの会社はおしまいだ。お前の給料も、燃料代の督促も、何もかもおしまいだ」

そう言われては仕方がない。イチロウは針路をエウロパへと変更した。

こうして〈たぬき号〉は、宇宙でいちばん行ってはいけないと言われている星へ、のんびりと近づいていくことになったのである。

第二章 謎の信号
木星の巨大な縞模様が窓いっぱいに広がった頃、船の通信機が奇妙な音を立て始めた。

「船長、変な信号を拾いました」マリが眉をひそめる。「言語じゃないんです。でも……なんていうか、意味は分かる」

「意味は分かるけど言語じゃない、ってどういうことだ」

「聞けば分かります」

マリがスピーカーを切り替えると、船内に奇妙な音——鈴の音のような、それでいて低い太鼓のような、なんとも形容しがたい音の連なりが響いた。そしてその音は、聞いた者の頭の中で自然と、こんな言葉に変換された。

『これらの世界は、すべてあなたがたのものである。ただし、エウロパにだけは降りてはならない』

船内が静まり返った。

タマが最初に口を開いた。「船長、いま僕たちが向かっているのは……」 「エウロパだ」 「降りてはならないと言われた星ですね」 「そうだな」 「奇遇ですね」 「奇遇じゃない、俺たちはそこへ向かってるんだ!」

ゴロウが配管の陰から顔を出し、初めてこの日、言葉らしい言葉を発した。 「……戻るか?」

三対の目(と一つのレンズ)がイチロウに集中した。イチロウは頭を抱えた。会社が潰れるか、正体不明の何かに怒られるか。究極の選択である。

「……とりあえず、正体を調べよう。宇宙のどこかの誰かが冗談で送ってきただけかもしれん」

「船長、それはさすがに楽観的すぎませんか」とマリ。

「楽観的でいいんだよ、俺たちには借金という現実的すぎる問題があるんだから、せめて希望的観測くらい持たせてくれ」

こうして〈たぬき号〉は、謎の警告を受け取りながらも、針路を変えることなくエウロパへ向かって突き進んでいった。人類の宇宙開拓史において、こんなに景気の悪い理由で禁忌に挑んだ例は、後にも先にもこれだけである。

第三章 伯父からの追い討ち
信号を受信してから六時間後、イチロウは伯父に事情を報告した。もちろん、正直に「降りるなという警告を受けました」とは言わずに、遠回しに聞いてみることにした。

「あの、伯父さん。エウロパって、何か……立ち入り禁止とか、そういう噂とか、聞いたことありますか」

画面の向こうで、社長である伯父はしばらく黙り、それから豪快に笑った。

「立ち入り禁止? そんな与太話、聞いたことないな。オカルト雑誌でも読んだのか、イチロウ」

「いや、その、実は今しがた変な信号を受信しまして……」

「信号? どうせ木星の磁場か何かのイタズラだろう。おい、いいか、うちには来月の燃料代すら怪しいんだ。氷を持って帰らなきゃ会社は終わる。お前の給料も、マリちゃんの給料も、ゴロウ君の給料も、全部終わりだ。分かってるのか」

「分かってますけど……」

「わかってるなら降りろ! 降りて氷を持って帰ってこい! 以上!」

通信は一方的に切れた。イチロウは操縦席にもたれかかり、天井を見上げた。

「……というわけだ」

「というわけって、何がというわけなんです」マリが呆れた顔をする。

「降りろとのことだ」

「宇宙からの警告と、伯父さんの怒号、どっちを信じるんですか船長」

「究極の選択その二だな。……でも冷静に考えろ。宇宙からの警告っていうのは、証拠がない。ただの音だ。伯父さんの怒号は、証拠がある。俺たちの給料明細っていう、動かぬ証拠がな」

タマが小さな電子音で笑うような音を立てた。「船長、それは詭弁というものです」

「詭弁でも、腹は膨れないが借金は減る」

第四章 着陸前夜のご馳走
その晩、〈たぬき号〉の乗組員たちは、狭い食堂に集まって最後の(かもしれない)まともな食事を囲んでいた。メニューは、配給用の乾燥野菜と、ゴロウが密かに育てていた水耕栽培のトマトが二個。豪華とは言い難いが、宇宙船の中では立派なご馳走である。

「もし本当にエウロパに何かいて、僕たちを取って食おうとしたらどうするんです?」マリがトマトをかじりながら聞いた。

「取って食われる前に交渉する」とイチロウ。

「何を交渉するんです」

「氷を分けてくれって頼む。ダメなら物々交換だ。トマト一個で氷十トンとか、そういう話にならんかな」

「僕たちの命よりトマトの方が心配なんですか、船長」

タマが会話に割り込んだ。「僕が計算したところ、警告メッセージの周波数パターンは、地球上のいかなる既知の通信規格とも一致しません。つまり、これは人類由来のものではない可能性が高いです」

食堂が静まり返った。

「……つまり?」イチロウが恐る恐る聞く。

「つまり、エウロパには本当に何かがいる、あるいは何かが見ている可能性が高い、ということです」

ゴロウがトマトを飲み込んでから、ぽつりと言った。 「……美味い」

「お前は状況を分かってるのか」

「美味いものは美味い」

その一言に、なぜか場の空気が少し和んだ。イチロウは苦笑いした。

「まあ、なんにせよ、行くしかないんだ。伯父さんの会社、俺たちの給料、全部かかってる。降りて、氷をひとかけら持って、さっさと帰る。それだけだ。誰が見てようが、俺たちはただの貧乏な運送屋だってことを分かってもらうさ」

「見てる何かに、貧乏さをアピールする作戦ですか」マリが笑った。

「悪くないだろう。同情されて見逃してもらえるかもしれん」

第五章 氷の海への降下
翌朝(という概念が宇宙船内にあるとすればの話だが)、〈たぬき号〉はエウロパの軌道に入った。

窓の外に広がるのは、ひび割れた大理石模様の白い星。表面は氷に覆われ、赤褐色の筋が蜘蛛の巣のように走っている。美しいというより、どこか不気味なほど整いすぎた模様だった。

「綺麗ですね」マリが呟いた。 「綺麗な星ほど危ないというのが宇宙の常識だ」イチロウが答える。 「その常識、いつ作ったんです」 「たった今だ」

降下シーケンスが始まると、船内に緊張が走った。ゴロウはエンジンの出力を細かく調整し、マリは着陸地点をスキャンし、タマは謎の信号の発信源を探ろうと、あらゆるセンサーをフル稼働させていた。

「発信源、特定できません」タマが困惑した声で言う。「エウロパ全体から、まるで星そのものが喋っているかのように届いています」

「星が喋る? 冗談だろ」

「僕もそう思いたいです、船長。でも計測データは冗談を言いません」

高度が下がるにつれ、警告メッセージは繰り返し届き続けた。同じ言葉、同じ音の並び。まるで壊れたレコードのように、あるいは辛抱強い門番のように。

『これらの世界は、すべてあなたがたのものである。ただし、エウロパにだけは降りてはならない』

イチロウは操縦桿を握る手に汗をにじませながら、それでも降下を続けた。

「聞こえてるよ、うるさいくらいにな。でも悪いが、俺たちには選択肢がないんだ。氷一かけらもらったら、すぐに退散する。約束する」

誰に向かって言っているのか、自分でも分からなかった。それでも、そう言わずにはいられなかった。

〈たぬき号〉は、氷の平原に、思いのほか静かに着陸した。

第六章 氷の下から聞こえる声
着陸してすぐ、イチロウとマリは簡易宇宙服に着替え、外へ出た。ゴロウは船に残ってエンジンの点検、タマは全身のセンサーでエウロパの氷を分析することになった。

外は静寂そのものだった。木星が空の半分を覆うように浮かび、氷の平原に淡いオレンジ色の光を落としている。

「……綺麗」マリが小さく呟いた。 「今度は本気で言ってるな」 「今度は本気です」

二人は掘削用のドリルを氷に突き立てた。作業は単調で、思ったより時間がかかった。氷は見た目より硬く、しかも掘るたびに、地中から微かな振動が伝わってくるような気がした。

「船長、これ……何かの音、聞こえません?」

イチロウはドリルを止め、氷に耳(ヘルメット越しだが)を近づけた。確かに、低い音がする。まるで巨大な何かが、深いところで呼吸しているような音だった。

その時、タマから緊急通信が入った。

「船長! 氷の下、深さ約十五キロのところに、液体の海があります! そしてその海から、あの警告と同じ周波数の信号が、直接発せられています!」

「海から警告が出てるって、つまり……」

「つまり、警告の発信源はエウロパの海そのもの、あるいは、その海に棲む何かだと考えられます」

イチロウとマリは顔を見合わせた。ヘルメットのガラス越しでも、互いの表情が引きつっているのが分かった。

「……とりあえず、氷だけもらって、さっさと帰ろうか」

「賛成です、船長」

ところが、その時である。二人の足元の氷が、微かに、しかし確実に、震え始めた。

第七章 浮かび上がったもの
氷の震動は次第に強くなり、やがて数十メートル先の氷が、ゆっくりと盛り上がり始めた。まるで氷の下から何か巨大なものが、ゆっくりと押し上げてきているようだった。

「に、逃げますか船長」マリの声が上ずる。 「いや、待て。……様子を見よう」

盛り上がった氷はやがて音を立てて割れ、その隙間から、青白く発光する半透明の物体が姿を現した。大きさは小型バスほど。形は、強いて言えば、丸みを帯びた宝石のようでもあり、巨大なクラゲのようでもあった。

そしてその物体の表面に、無数の小さな光の粒が現れては消え、まるで文字のようなパターンを描き始めた。

『……ヒサシブリ、デス』

イチロウとマリは、思わず声を上げた。

「しゃ、喋った!? 言葉が分かるんですか船長!?」

「俺に聞くな、俺も今初めて聞いた!」

タマの通信が割り込む。「船長、これは驚くべきことです。この個体、いや、この存在は、明らかに知性を持っています。そして僕たちの言語パターンを、瞬時に学習して応答しているようです」

光る物体は、ゆっくりと言葉(のようなもの)を続けた。

『ワタシタチ、マツノ、ヒサシブリ、デス。イママデ、ダレモ、キマセンデシタ』

「待ってた……? 誰かが来るのを待ってたってことか?」イチロウが恐る恐る聞き返す。

『ソウ、デス。ケイコク、シテキマシタ。デモ、ダレモ、キマセン。ミンナ、ケイコクヲ、マモリマシタ』

「……つまり、俺たちが初めて、警告を無視して降りてきた人間ってことですか?」マリが震える声で聞く。

『ハイ。ハジメテ、デス』

しばらく沈黙が流れた。イチロウは頭の中で状況を整理しようとしたが、うまくいかなかった。怒られるかと思っていたら、待たれていた。これはいったいどういうことなのか。

第八章 待っていた理由
イチロウは意を決して尋ねた。

「あの……もしかして、俺たちを怒るんじゃないんですか? 『降りるな』って警告してたのに、俺たちは降りてきたわけですし」

光る物体は、表面の光を複雑に明滅させた。それはまるで、ため息をついているようにも見えた。

『ケイコクハ、ホントウデス。デモ、リユウハ、チガイマス』

「理由が違う……?」

『ワタシタチハ、シンカノ、トチュウ、デス。ヒトガ、クレバ、ワタシタチノ、シンカハ、オカシクナリマス。ダカラ、ケイコクシマシタ。デモ、ソレハ、キョウフデハ、ナク——』

「なく……?」

『サミシサ、デス』

イチロウとマリは、思わず顔を見合わせた。

『ワタシタチハ、ナガイ、アイダ、ヒトリ、デシタ。シンカスル、タメニハ、ダレモ、キテハ、イケナイ。デモ、ホントウハ、ダレカニ、アッテミタカッタ、ノデス』

タマが通信の向こうで、感慨深そうな電子音を漏らした。「船長、これは……なんというか、切ない話ですね」

「切ないな……」

『アナタガタハ、ケイコクヲ、キイテモ、キマシタ。ソレハ、ユウキ、デスカ? ソレトモ……』

物体の光が、少し悪戯っぽく明滅した気がした。

『シャッキン、デスカ?』

イチロウは思わず噴き出した。

「な、なんで分かったんですか!?」

『アナタガタノ、ツウシン、ゼンブ、キイテマシタ。「シャッキン」「キュウリョウ」「カイシャ、ツブレル」……ナンド、モ、キキマシタ』

マリが顔を真っ赤にした。「ぜ、全部聞かれてたんですか、あの伯父さんとの通話とか……」

『ハイ。「トマトデ、コオリ、ジュットン」ト、イウ、コウショウアン、モ、キキマシタ』

ゴロウの「美味い」発言まで筒抜けだったらしい。イチロウは頭を抱えた。宇宙的知性体に、自分たちの貧乏くささを完全に把握されているという事実は、なかなかに恥ずかしいものだった。

第九章 トマト一個との取引
『デハ、トリヒキ、シマショウ』

光る物体、後にイチロウたちが「エウロパ氏」と呼ぶことになるその存在は、そう提案した。

「取引……ですか?」

『ハイ。アナタガタニ、コオリヲ、アゲマス。カワリニ、ホシイ、モノガ、アリマス』

「な、なんでしょう」イチロウは身構えた。船を要求されるのか、それとも命を要求されるのか。あらゆる可能性が頭を駆け巡った。

『トマト、ヒトツ』

「……はい?」

『トマト、ヒトツ、クダサイ。アノ、アカイ、マルイ、タベモノ、デス。ミタコト、ナイ、モノ、デス。タベテミタイ、デス』

イチロウとマリは、しばし言葉を失った。ゴロウが大事に育てていたトマトの話が、まさかこんな形で回収されるとは思わなかった。

「……ゴロウ、聞こえてるか。トマトを一個、譲ってほしいんだが」

船内からゴロウの声が返ってきた。無線越しでも、彼が驚いているのが分かった。

「……宇宙人に、トマトを?」 「宇宙人に、トマトを」 「……仕方ない」

数分後、船から運ばれてきた最後のトマトが、氷の上にそっと置かれた。エウロパ氏は、体表から細い光の触手のようなものを伸ばし、トマトを優しく包み込んだ。そしてしばらくの静寂の後——

『オイシイ、デス』

その一言に、イチロウたちは笑ってしまった。宇宙で最も謎めいた警告の主が、たったひとつのトマトに感動している。これほど拍子抜けする、そしてこれほど心温まる展開があるだろうか。

『ヤクソク、マモリマス。コオリ、モッテイッテ、クダサイ。デモ、マタ、キテ、クダサイ。ツギハ、ベツノ、タベモノ、モッテキテ、クダサイ』

「……次は何がいいですか」マリが笑いながら聞いた。

『ラーメン、トイウ、モノガ、キニナリマス』

タマの通信から、電子音の笑い声が響いた。「船長、エウロパ氏はグルメなようですね」

「ラーメンか……よし、約束だ。今度はラーメンを持ってくる」

第十章 帰り道
〈たぬき号〉は、氷の塊をいくつか積み込み、エウロパを後にした。船が大気圏(というほどのものはないが)を離れる際、氷の海から最後の光のメッセージが届いた。

『マタ、キテ、クダサイ。マッテイマス』

「絶対に来ますよ」マリが窓の外に向かって手を振った。

イチロウは操縦席で、今回の一件を振り返っていた。宇宙からの謎の警告、伯父の理不尽な要求、借金、そして最後にたどり着いたのは、孤独な知性体とトマト一個の物々交換という、あまりにも間の抜けた結末だった。

「タマ、今回の件、報告書にはどう書けばいいと思う?」

「正直に書くべきです、船長」

「正直に書いたら、誰も信じないと思うぞ。『警告を無視してエウロパに着陸し、氷を採取。対価としてトマト一個を提供』なんて書いたら、頭がおかしくなったと思われる」

「では、こう書きましょう。『エウロパにて希少資源の採取に成功。友好的な現地関係者との円満な取引により、良好な関係を構築』」

「それ、事実を丸めすぎだろう」

「事実は丸めるためにあるんです、船長」

ゴロウが操縦室に顔を出し、ぼそりと言った。

「……氷、売れるのか?」

「売れるさ。伯父さんが喜ぶくらいには、な」

〈たぬき号〉は木星の巨大な姿を背に、地球へ向けて針路を取った。船内には、これまでにない奇妙な達成感が漂っていた。誰も、この航海が本当は何だったのか、うまく説明できなかった。ただ確かなことが一つだけあった。

宇宙のどこかに、寂しがり屋の知性体がいて、それはトマトが好きで、次はラーメンを食べたがっている、ということだ。

終章 半年後
〈たぬき号〉の売上は、氷の希少成分のおかげで、会社の借金をほぼ完済するに至った。伯父は狂喜乱舞し、イチロウたちに特別ボーナスとして、なんと本物のインスタントラーメンを一箱、支給した。

「これは……」イチロウはラーメンの箱を見つめた。 「……エウロパ氏への、お土産ですね」マリがにやりと笑う。

こうして〈たぬき号〉は、再び木星圏へと針路を取ることになった。今度の目的は、鉱物採掘ではない。ただの、友人への訪問——それも、氷の下に住む、少し寂しがり屋な、宇宙で最も謎めいた存在への。

船が木星圏に近づくと、いつものように、あの懐かしい警告が船内に響いた。

『これらの世界は、すべてあなたがたのものである。ただし、エウロパにだけは降りてはならない』

イチロウは操縦桿を握りながら、にやりと笑った。

「悪いが、今回も約束通り行かせてもらうぞ。ラーメン、届けにな」

タマが電子音で笑い、ゴロウが小さく頷き、マリが窓の外の氷の星を見つめた。

宇宙は広く、警告は重く、そして人間の貧乏くささと図太さは、時にどんな崇高な掟をも、ちょっとした友情と物々交換の物語に変えてしまう——そんな、笑えて、少し不思議な話である。

(了)

番外編 伯父の知らない話
太陽系運送株式会社の社長室では、イチロウの伯父が、届いたばかりの入金通知を見つめて、椅子から転げ落ちそうになっていた。

「な、なんだこの金額は……イオの鉱物どころじゃないぞ、これは……」

秘書役を兼ねる事務員のオバサンが、書類を片手に呆れた顔で言った。 「社長、エウロパの氷、成分がとんでもなく珍しいものだったらしいですよ。研究機関が競って買い取りを申し出てるとか」

「イチロウのやつ、やればできるじゃないか! よし、褒めてやろう、今度会ったら、うんと褒美を——」

「社長、その前に、経費の申請書を見てください」

オバサンが差し出した一枚の紙に、伯父は目を通した。そこにはこう書かれていた。

『必要経費:トマト一個(自家栽培・原価計算不能)、インスタントラーメン一箱。用途:現地関係者との友好関係維持のため』

伯父はしばらく紙を見つめ、それから深いため息をついた。

「……あいつら、いったい向こうで何をしてきたんだ」

「さあ。でも、儲かってるならいいじゃないですか」

「まあ、そうなんだが……」

伯父は窓の外、遠く輝く木星の方角を見やった。あの甥っ子が、いったいどんな取引をしてきたのか、想像もつかなかった。だが、確かなことが一つだけあった——次にイチロウが帰ってきたら、真っ先に聞くべき質問は、こうだ。

「トマトの取引先とは、いつまた会う予定なんだ?」

番外編 タマの記録
〈たぬき号〉の航行記録には、タマが密かに書き溜めていた「私的観察日誌」というファイルが存在する。以下はその一部の抜粋である。

『航行記録・補遺 記録者:タマ

本日、われわれはエウロパにて、地球外知性体との接触という、人類史に残る大事件を経験した。にもかかわらず、船長の第一声は「よし、氷が売れる」であり、副操縦士の第一声は「綺麗な星ですね」から「取って食われたらどうしよう」への変遷であり、機関士の第一声は「トマトか……仕方ない」であった。

このクルーの反応の順序を鑑みるに、人類という種は、宇宙的な驚異に直面した際、まず経済的損得を、次に美的感想を、最後に実利的な諦めを示す傾向があると推察される。これは非常に興味深いサンプルであり、今後の研究対象としたい。

なお、エウロパ氏との対話ログを解析した結果、彼(あるいは彼女、あるいはそのいずれでもない何か)の言語パターンは、地球の幼児が言語を習得する過程と酷似していることが判明した。つまり、エウロパ氏は極めて高度な知性を持ちながら、われわれとのコミュニケーションにおいては、いわば「片言」の状態にあったと考えられる。

これは推測に過ぎないが、もしかすると、彼らは長い孤独の中で、誰かと話す機会そのものを失っていたのかもしれない。知性とは、使われなければ錆びるものなのかもしれない。そう考えると、彼らが真っ先に求めたものが、崇高な科学的対話ではなく、一個のトマトであったことにも、納得がいく気がする。

孤独な存在にとって、最初に必要なのは難しい会話ではなく、ただ一緒に何かを味わう、その小さな行為なのかもしれない。

……と、ここまで書いて、船長に「タマ、お前は掃除ロボットのくせに何を偉そうに考察してるんだ」と言われた。心外である。僕は掃除もするが、思索もする。そこに矛盾はないはずだ。

次回訪問時には、ラーメンの他に、味噌汁というものも持参することを提案したい。エウロパ氏の食の好みが、今後どのように広がっていくのか、僕は密かに楽しみにしている。』

(完)


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あとがき

本作は、アーサー・C・クラークの金字塔『2010年宇宙の旅』の有名な一節「ALL THESE WORLDS ARE YOURS—EXCEPT EUROPA. ATTEMPT NO LANDING THERE.(これらの世界はすべてお前たちのものだ。ただしエウロパだけは別だ。決して降り立ってはならない)」への、ささやかなオマージュであり妄想です。

もしも、あの恐ろしく厳粛な警告の裏側に、恐ろしさでも拒絶でもなく、ただ「恥ずかしがり屋で寂しがり屋な理由」が隠されていたとしたら?
そして、その絶対の掟を打ち破るのが、人類の誇る英知ではなく、単に「お金がなさすぎて後がない運送屋」だったらどうなるだろう? そんな悪ふざけのような問いからこの物語は生まれました。

宇宙は果てしなく広く、暗く、時に優しくありません。
けれど、その冷たい氷の何十キロも下で、誰かが「トマトってどんな味だろう」「次はラーメンが食べてみたいな」なんて思っているかもしれない。そう考えると、見上げる夜空が少しだけあたたかく、身近なものに思えてきます。

トマトの次はラーメン。ラーメンの次は味噌汁。
宇宙を隔てた友情に必要なのは、高度な哲学ではなく、ただ一杯の温かいスープなのかもしれません。

いつか皆さんが夜空の木星を見上げた時、氷の下でラーメンを心待ちにしている「彼」の姿を思い出していただけたなら幸いです。






毎朝
まずは
目覚めたことに感謝する

そう
昨夜 寝て
今朝 起きる保証などないのだ

起きて来なかった仲間たちを
今も哀しく思うばかり…


それから
手足の動きを確認し
ゆっくりと身体を動かしてみる

痛みはないか
痺れはないか

少しづつ身体を捻り
軽くストレッチをし
背伸びをしてみる

腰は
背中は
肩は
足は… と
確認し 起き上がる

長いこと
床で寝ていたけれど
この春の手術後
痛みによる起き上がりに不自由し
ベッドに戻した

右脇腹の手術ゆえ
左側へと身体を起こすように
ベッドの配置をしたまま
今も左側へと起き上がる

術後5ヶ月となったが
今まだ無理をすれば
時折 チクリと刺す痛みが出る

退院後
1ヶ月ほど安静にしたせいか
身体は硬く
なかなか元には戻らない

無理すれば
せっかくの手術も
またフリダシに戻るよと
担当医から脅かされたもんで
ちょいとビビりながらの
リスタートとなった

さて
ベッドから這い上がっても
なかなか
あの頃のように
すぐには動き出せない

アイドリングを保ち
ゆっくりと回転数を上げれば
30分ほどで
いつもの身体に戻る

どうやらそれが
65という年齢らしい

なんせ
初めての老後なもんで
戸惑うばかり

特に足先の感覚が
わずか5ミリばかしズレたようで
ドアや壁にぶつけ
痛い思いばかり

その感覚のズレにより
思うよりも
距離を多め取って動かねば
ならなくなった

まずは
怪我をせんように
ゆっくり行こう




山登りは
渓流釣りは
熊の出没により
止められてしまった



海は
波乗りは
激し過ぎて
きっともう
太刀打ち出来ないのだろう



ならば
キャンプと
カヌーとで
この夏は楽しめそうだ

そんなことを
この
65度目の夏に
苦笑いしてみる

ただし

年齢と若さとは別物だと

もう少し

ジタバタしてみよう



昨日

旦那が休めないからと
娘と
孫たちとに誘われて出掛けてみた
グリコの工場見学

アイスクリームを製造している
その工場を案内され
通路を先へと進むと

次の部屋は
マイナス10度の部屋だと書かれ
更には
65歳以上の高齢者 

及び
身体に不安のある方は
ご遠慮下さいとある

それを見た娘は
笑いながら
パパ これ! って
指を指して笑う

なるほど
そんな齢かと
苦笑いしながら振り返れば

先週末の高崎市美術館
そこには
65歳以上のシニアの方は
無料と書かれており

ちょいと
ためらいながらも
免許証を提示して
無料で入れて頂いた




特に
この自営業
その定年のリタイア時期は
自分で決めねばならず

ならば
70歳かと思って来たけれど
落ちた景気と
そろそろやらねばならない手術と
実家の放置した資材置場の片付けと

老いて来た親たちの手伝いをと
5年ばかし早いが
昨年末で区切りを付けた


これまでにも

近くの映画館では
そのシニア料金が
55歳以上だったから
嬉しくも安易に考えていたけれど

還暦を越し
突然スピードを増した急ぎ足の時間は
気が付けば5年もが過ぎて

なるほど
そんな時分かと
また苦笑いしてみる

それでも
脳を騙すかのように
若者たちと対等に接し
同じ目線で遊んで来たから
まだまだ大丈夫だと思っているし

また
セミリタイアと同時に
目の前のストレスをすべて
排除した

そう
厄介な連中とは
すべて縁を切り

目の前のトラブルには
なんとか出来そうだと
首を突っ込むことを辞め
自分とは関係ないと
関わらないことにもした

それでも

仕方なくも
いくつかはまだ残っているが
まあ
それも時間の問題だろう

さて
それよりも
いつか誰かが言ってたことが
今 目の前にある

それは
60歳から65歳の間に
80%の方が
身体を落とすと…

相変わらず
早寝早起きをし
そこそこの動きをしてはいるが

また
酒も
お誘いを頂いた時以外は控え
食事も
怪しきものは一切口にしない

なのに
寝起き時
すぐにこの身体は動かず

30分ほど
アイドリングしないと
動き始めてくれない

これが老いか! と
嘆いてみるが
仕方なくもそうなのだろう

サザエさんの昭和は
55歳が定年だった
波平さんは
54歳の定年直前の設定だと聞き
唖然としたことを思い出す

時は流れ
環境は
食は
医療は変わり

今 定年は
65歳となった

すれば
それはいずれ70歳にもなり
やがては
75歳にもなるのだろう

それでも
人生100年時代とはいえ
全員が老人になれることはない

一見
平和そうなこの国は

残念ながら
違うものに制圧されている

未来は今より
確実に良いはずだった

なのに
なのに
なのに…



還暦を越し
いくつかの危険な遊びを辞め
その時間を
今 孫たちとの遊びに
すげ替えてみる

それで良いのだと思う

1度だけの人生

きっと
そうして来たのだろう