痛みをほどく人
〜痛みのたびに、誰かがいた〜
〜まえがき〜
痛みには、種類がある。
歯の痛み。
心の痛み。
言葉にできない、名前のない痛み。
私たちはそれらを、できるだけ見ないようにして生きている。
忙しさや、日常や、少しの強がりで、やり過ごしながら。
けれど、どうしても逃げきれない瞬間がある。
夜の静けさの中で。
ふとした沈黙のあとで。
そして——あの椅子に座ったとき。
口を開けるという行為は、
思っている以上に無防備だ。
隠してきたもの。
先送りにしてきたもの。
見て見ぬふりをしてきたもの。
それらが、ほんの少しだけ顔を出す。
この物語は、
歯を削る人の話ではない。
痛みをほどく人の話だ。
そしてきっと、
あなたの中にもいる「誰か」と出会う物語である。
——痛みのたびに、誰かがいた。
その意味を、
静かに受け取っていただけたら嬉しい。

第一章 古い町の歯医者
桐島悠介が初めてその診療所の引き戸を開けたのは、三十年前の春のことだった。
結婚して妻の澄江とともに移り住んだ木造のアパートから、歩いて五分ほどの路地を曲がったところに、その歯科医院はあった。「森田歯科医院」という墨書きの看板が門柱に掛かり、玄関先には季節の花が丁寧に活けてあった。
悠介が訪ねたのは奥歯が割れるように痛み出した夜の翌朝で、寝不足の目のまま飛び込んだのだった。
待合室には籐椅子が四脚、古い雑誌が几帳面に並べられ、窓の外の金木犀の若葉が春風に揺れていた。しばらく待つと、診察室の白いカーテンの向こうから、穏やかな声が聞こえた。
「桐島さん、どうぞ」
呼ばれて入ると、白衣の中年の男がにこやかに立っていた。痩せ型で眼鏡をかけ、白髪交じりの髪を七三に分けた、いかにも町の開業医という風情の人物だった。
「森田です。どうしましたか」
悠介は右の奥歯を指さした。森田は「拝見しましょう」と言って、悠介をリクライニングチェアに座らせ、慣れた手つきで口腔内を覗き込んだ。照明がゆっくりと顔の上に降りてくる。
「ひびが入っていますね。でも神経まではまだ達していない。今日は応急処置をしておいて、来週もう一度きちんと削りましょう」
その言葉の静かさが、悠介には妙に安心感を与えた。
治療を終えて受付に戻ると、事務の中年女性が丁寧に次の予約を書き込んでくれた。料金は保険適用でわずかなものだった。
「お大事に」
帰り道、悠介は不思議と気持ちが軽かった。あの淡々とした、しかし誠実な手が、ひとつの痛みをほどいてくれたのだ。
その年の秋、悠介と澄江は第一子・友哉をもうけた。子育てにあわただしい日々の中でも、歯が痛むたびに悠介は森田歯科医院を訪ねた。
森田はいつも同じように穏やかだった。患者を怒鳴ったり急かしたりすることなく、「少し沁みますよ」とか「もう少し口を開けてください」とか、必要最小限のことだけを静かに言う。それだけで十分だった。
悠介が歯医者というものに初めて安心感を覚えたのは、この森田という男のおかげだった。幼い頃の彼は歯科治療が怖くてたまらなかった。ドリルの音、消毒液の匂い、そして何より、口の中に他人の手が入ってくる、あの奇妙な感覚。それがいつしか、森田の診察室では気にならなくなっていた。
三年後、悠介は仕事の都合でその町から少し離れたところに家を購入した。澄江の親戚から安く譲ってもらった古い一軒家を、二人で時間をかけて少しずつ直していく予定だった。
「歯医者、遠くなるね」と澄江が言った。
「まあ、何かあれば行けばいい」
そんなふうに思っていた。通える距離ではある。ただ、自転車で行ける近さではなくなった。悠介は森田歯科医院への足を、いつのまにか遠ざけていった。
それでも困ったことがあれば、悠介は車を走らせて森田のところへ行った。年に一度か二度のことだったが、森田は毎回、別に叱るでもなく、あの穏やかな表情のまま迎えてくれた。
「しばらくですね」
「ええ、まあ……」
悠介はいつも少し罪悪感を覚えながら椅子に座った。しかし森田は責めることなく、ただ口の中を丁寧に診てくれた。
そういう関係が、十数年にわたって続いた。
第二章 雨の週末
四十代の半ばのある秋、悠介の右下の奥歯が突然、激しく痛み出した。
金曜の夜のことだった。夕食の後、テレビを見ていた悠介は、ズキリとした鈍痛に顔をしかめた。最初は「また少し当たったか」程度に思っていたが、夜が深まるにつれて痛みはじわじわと増していった。
翌朝になっても治まらない。悠介は森田歯科医院に電話した。
「本日は休診日となっております。月曜日にご連絡ください」
自動応答の声を聞いて、悠介は受話器を置いた。土曜日だった。
痛み止めを一錠飲んだが、効きが悪い。澄江に「大丈夫?」と聞かれ、「なんとかなる」と答えたが、午後になると頬が熱を帯びてきた。じんじんと脈打つような痛みが断続的に続く。
「病院、行ったら?」
「歯医者は月曜まで休みだ」
「ショッピングセンターの中に新しいの、できたでしょ。年中無休って書いてあったよ」
悠介はしばらく黙っていた。なんとなく、気が進まなかった。知らない歯医者に飛び込むのは、森田への後ろめたさに似た感情があるのかもしれない。しかし痛みは限界だった。
「……行ってみるか」
駅前のショッピングセンターの二階に「スマイル歯科クリニック」はあった。真っ白な外壁、ガラス張りの待合室、モダンなロゴ。森田歯科医院とはまるで別の世界だった。
受付には若い女性が三人並んでいて、統一された白いユニフォームを着ていた。待合室には液晶モニターが掛かり、口腔ケアに関するアニメーションが流れていた。
「本日はどのようなご症状ですか」
悠介は奥歯の痛みを説明した。すぐにデジタルレントゲンが撮られ、最新型のチェアに案内された。
担当したのは眼鏡をかけた三十代の女性医師で、「藤村と申します」と名刺を渡してきた。
「根の先に炎症があります。今日は応急処置で、次回は根管治療をお勧めします」
てきぱきとした口調で、しかし丁寧だった。治療はおよそ二十分で終わり、帰る頃には痛みが半分以下になっていた。
帰り際、受付の女性が「次回のご予約はいかがですか」と言って、スマートフォンでも予約できるシステムの案内カードを渡してくれた。
悠介は少し戸惑いながら、来週の水曜の予約を入れた。
帰宅すると澄江が「どうだった?」と聞いた。
「ずいぶん近代的なところだった。痛みはとれた」
「よかった。あそこ、私も気になってたのよ。設備がすごいって近所の人が言ってた」
悠介は風呂に入りながら、今日のことを考えた。藤村医師の腕は確かに良かった。設備も申し分ない。森田のあの古い診療所とは、何もかもが違う。しかし、何かが違う、とも思った。それが何なのか、うまく言葉にならなかった。
スマイル歯科クリニックへの通院が始まった。
根管治療は三回かかり、最終的にクラウンをかぶせるまで、二ヶ月ほどかかった。その間、悠介は藤村医師の丁寧な仕事ぶりを見るようになった。
「虫歯というのは、実は細菌による感染症なんです」と藤村は言った。「だから治療だけじゃなく、予防が大事なんですよ。三ヶ月に一度のメンテナンスで、進行を防げます」
「三ヶ月に一度?」
「はい。痛くなってから来るのでは、どうしても手遅れになることがある。痛みが出る前に手を打つのが、歯を長持ちさせる一番の方法なんです」
悠介はそれまで、歯医者とは痛くなったら行くところだと思っていた。三ヶ月に一度、何も症状がなくても通う、という発想は、まったく新しかった。
「わかりました。そうします」
気づけば悠介は、スマイル歯科クリニックの常連になっていた。
森田歯科医院のことが、頭の片隅に引っかかってはいた。
しかし月日は流れ、息子の友哉は大学生になり、悠介も仕事が多忙になり、森田のところに足を向ける機会は失われていった。
あの穏やかな眼鏡の先生は、今も変わらず診療しているだろうか。悠介は時折そんなことを思いながら、スマイル歯科クリニックのチェアに身を預けた。
第三章 閉業の知らせ
スマイル歯科クリニックから一通の封書が届いたのは、悠介が五十を過ぎたころだった。
封を開けると、白いカードに黒い文字でこう書いてあった。
「拝啓、平素よりご来院いただき誠にありがとうございます。このたび、諸般の事情により、当クリニックは来月末をもって閉業することとなりました――」
悠介は何度も読み返した。「諸般の事情」とは何だろう。院長の体調か、テナントの問題か。手紙には詳しい理由が書かれておらず、ただ「近隣の歯科医院をご利用ください」という一文で締めくくられていた。
「困ったな」
悠介は独り言を言った。五年以上通ったクリニックだ。カルテも積み上がっている。藤村医師の丁寧な診療にも慣れていた。
澄江に話すと、「またあの古いところに戻ればいいじゃない」と言った。
「森田先生のところ?」
「ほかに知ってるところ、ないでしょ」
悠介はしばらく考えた。何年ぶりになるだろう。五年? いや、もう七、八年は経っているかもしれない。あれほど通っておいて、ずいぶん長い間ご無沙汰してしまった。今さら戻りにくい気もした。
「何か言い訳、考えないといけないかな」
「何を言い訳するの? 別に悪いことしたわけじゃないでしょ」
「でも、急に別のところへ行って、また戻るというのは……」
「先生は患者が来てくれれば嬉しいでしょ。ごちゃごちゃ考えすぎ」
澄江の言葉はいつも明快だった。悠介はそれに甘えて、翌日、森田歯科医院に電話をかけた。
しかし電話に出たのは、聞き覚えのない若い女性の声だった。
「森田歯科医院でございます」
「あの、久しぶりにお世話になりたいのですが、予約をお願いできますか。桐島と申します」
「もちろんでございます。来週の火曜日、十時はいかがでしょうか」
「はい、それで」
電話を切って、悠介はほっとした。受付の雰囲気が、以前と変わっていた。声が若い。スタッフが入れ替わったのだろうか。それとも代替わりでもしたのか。
来週の火曜日を、悠介は何となく、楽しみのような、緊張のような、不思議な気持ちで待った。
約束の日の朝、悠介は少し早めに家を出た。車で十五分ほどの道を、わざと遠回りして、昔住んでいたアパートの近くを通った。建物はまだあった。外壁が塗り直されていて、表札の並びも変わっていたが、形はそのままだった。
あそこで澄江と二人、狭い台所に並んで飯を炊いた。友哉が生まれて三人になって、それでもあの狭さで笑っていた。
悠介は車を走らせながら、妙に感傷的な気分になっていた。
森田歯科医院は、外見こそそのままだった。
門柱の看板も、玄関先の植木鉢も、ほとんど変わっていない。しかし引き戸を開けると、中の様子がまるで違った。
待合室は明るくなっていた。白い壁、清潔な床、新しい椅子。古い籐の椅子はなくなり、代わりにシックな木製のベンチが並んでいた。受付カウンターはガラスが張られ、奥にスタッフが見える。
「桐島様でいらっしゃいますか。どうぞ」
声をかけてきたのは、二十代とおぼしき受付の女性だった。整った制服、柔らかい物腰。
「あの、ずいぶん変わりましたね。設備とか……先生もお若い方に?」
女性はわずかに表情を止めた。
「ご存じなかったでしょうか」
「何を?」
「森田先生が……お亡くなりになったんです」
悠介は、一瞬、自分が何を聞いたのかわからなかった。
「え?」
「カルテを拝見しますと、最後にいらっしゃったのは……」と女性はモニターに目を落とした。「先生がお亡くなりになる、ひと月ほど前でしたね」
「どうされたんですか」
「以前から心臓が悪くていらして。五十九歳でした。大雪の日でした」
悠介は黙った。
大雪の日。あの冬、たしかに大きな雪が降った。会社からの帰りに道が渋滞して、澄江に電話を入れた記憶がある。あの日に、森田は逝ったのか。
「あの……しばらくぶりなのに、ご挨拶も出来ないままで……」
「そんな。皆さんそうおっしゃいます」と女性は静かに言った。「今は息子の圭介先生が継いでいます。どうぞよろしくお願いいたします」
悠介はうなずいた。目の奥が熱くなった。
第四章 圭介
診察室に入ると、白衣の男が立っていた。
父親に似て痩せ型だが、まだ三十代の若さで、眼鏡をかけていないぶん表情が明るく見える。口元に穏やかな笑みを浮かべて、「森田圭介です」と言った。
「お父上にはずいぶんお世話になりました」と悠介は言った。
「ありがとうございます。父もよく患者の方のことを話していました」
「私のことを?」
「全員とまでは言えませんが、古い患者の方はよく覚えていたようです。桐島さんという方は……確か、結婚してすぐにいらした方でしょうか」
悠介は驚いた。「そうです。三十年ほど前に」
「父が診察記録に書き残していました。『奥歯に強い痛み、初回から信頼関係を築けた患者』と」
悠介の胸に、温かいものがこみ上げた。あの寡黙な先生が、そんなことを記録していたとは。
「……そうでしたか」
圭介はチェアを促した。「拝見しましょう」
圭介の診察は丁寧で、父親の静けさと、スマイル歯科クリニックの藤村が持っていた明快さの両方を兼ね備えているように悠介には感じられた。最新の機材を使いながらも、患者の話をよく聞く。
「今の状態を説明しますね」と圭介は言い、モニターに映し出したレントゲン画像を指しながら、銀の詰め物の下の状態、歯茎の状態、咬合の具合などを一つ一つ説明した。
「全体的には良好ですが、いくつか気になるところがあります。特にここ」と圭介は右上の奥歯を指した。「銀の詰め物は経年で隙間が出来やすい。根の方の状態が心配です」
「どういうことですか」
「保険の材料は限界があります。セラミックや金合金を使えば精度が上がりますが、保険外になります。費用はかかりますが、一生ものの歯を作れる」
悠介は少し考えた。「急いで決めなくていいですか」
「もちろんです。まずは定期的に来ていただいて、状態を見ながら考えましょう」
その言葉がまた、父親の森田に似ていた。急かさない。
定期検診に通いはじめてすぐ、悠介は気づいた。
森田圭介という歯科医師が、患者に人気があるということを。
予約を取ろうとすると、二週間先まで埋まっている。受付の女性に「早い枠はないですか」と聞くと、「申し訳ありません、キャンセル待ちでも一週間ほど」と言われた。
「それだけ混んでいるんですか」
「先生の評判が広まって、遠くから来られる患者さんも増えました」
悠介はその言葉を聞いて、妙に誇らしいような気持ちになった。
悠介はその日、帰り道、ふと思った。
先生は、息子が継ぐから私を呼び戻したのだろうか。
そんなはずはない。閉業したクリニックのことがなければ、悠介は戻ってこなかった。偶然が重なっただけだ。先生にそんな力があるわけがない。
でも——そういうことにしておきたい気もした。あの穏やかな先生が、どこかで静かに段取りをしていてくれたのだと。そう思うと、胸の奥が少し温かくなった。
先生、息子がそろそろ継ぐからと、私を呼び戻しましたね? いつか墓前で、そう訊いてみようか。
悠介はまだ、先生の眠る場所を聞けていなかった。いつかそれを、圭介に聞かなければ。還暦まで、あと少し。先代の先生と同じ年齢になる前に、手を合わせにいかなければ。
第五章 藤村彩子
森田歯科医院への通院が再び始まって半年が経った頃、悠介はある場所で意外な人物と再会した。
市の主催する企業向けのセミナーだった。悠介の会社が会員になっている商工会議所から案内があり、テーマは「医療と地域経済の連携」というやや堅いものだったが、部下に代わりに行かせるのも気が引けて、悠介は自分で足を運んだ。
会場の市民会館に着き、受付でパンフレットをもらって席に着こうとしたとき、後ろから声がかかった。
「桐島さん?」
振り返ると、白衣ではなく紺色のスーツを着た女性が立っていた。一瞬誰かわからなかったが、すぐに思い出した。
「藤村先生!」
「お久しぶりです。お元気でしたか」
藤村彩子。かつて通っていたスマイル歯科クリニックの院長だった。
「閉業されたと聞いて、驚きました。今は?」
「別の歯科医院に勤めています。ここ半年ほど。開業はまた考え中で」と彩子は少し苦笑した。「あのクリニック、テナント料の問題だったんです。正直に言うと。場所代が年々上がって、採算が取れなくなって」
「そうでしたか」
「桐島さんはいま、どちらの歯科に?」
「森田歯科医院という、昔からお世話になっているところに戻りました」
彩子はわずかに目を細めた。「あそこは有名ですよ。圭介先生が継いでから、ずいぶん評判が良くなったと聞きました」
「ご存じなんですか」
「歯科の世界は意外と狭くて。先代の森田先生も、業界では知られた方でした。誠実な仕事ぶりで」
セミナーが始まり、二人は離れた席に座った。
終了後のロビーで、悠介は彩子を見つけて声をかけた。「よかったら、少し話しませんか。近くに喫茶店がありますが」
彩子は少し迷ったが、「はい、少しだけ」と言った。
駅前の古い喫茶店に入り、コーヒーを頼んだ。
「先生は、なぜ歯科医師に?」と悠介は聞いた。
「父が歯科医だったんです」と彩子は言った。「でも、私が学生のときに亡くなって。継いだのは兄でした。私は一から自分で開業しようと思ったのですが、なかなか思うようにいかなくて」
「……お父様のことは?」
「急でした。五十代の後半で。心臓の病気でした」
悠介は一瞬、森田のことを思った。五十九歳。心臓。大雪の日。
「私の通っていた先生も、そうだったんです。五十九で」
「そうですか……」と彩子は静かに言った。二人はしばらく沈黙した。
コーヒーの湯気が、秋の午後の光の中に細く立ち上っていた。
その後も、悠介と彩子は何度か偶然顔を合わせた。
商工会議所のイベントで、あるいは駅前の書店で。その都度、少し立ち話をして別れた。
悠介には、それが不思議と自然に感じられた。彩子という人物は、どこか率直で、余計なことを言わない。そして医師として、患者に対して真剣だった。スマイル歯科クリニックの五年間で、悠介はそれをよく知っていた。
澄江には、これらの偶然の再会について何も話さなかった。話す必要も感じなかった。ただ、秋が深まるにつれて、悠介の心の中で何かがゆっくりと動き始めていた。
第六章 冬の約束
十二月の初旬、彩子から連絡が入った。
「来年、小さいクリニックを開業しようと思っています。相談に乗ってもらえますか」
悠介は勤めている会社で、長年、経営企画を担当していた。医療施設の経営に詳しいわけではないが、資金計画や事業計画書の読み方は知っている。彩子は誰かに相談相手を求めていたのだろう。
「もちろんです」と悠介は答えた。
週末の土曜日、悠介は商店街の外れにある小さな喫茶店で彩子と会った。彩子はA4のファイルを持参して、計画の概要を説明した。
「物件はここから歩いて五分のところです。築三十年の医療用ビルで、設備は古いですが改装費を抑えられる。テナント料も前のクリニックの三分の一以下で」
「患者の獲得は?」
「前のクリニックに通っていた方に手紙を出しました。今のところ五十件ほど返事があって、移ってくれる意思があると」
「それは心強い。ただ……」悠介は計画書を見ながら言った。「ランニングコストの見積もりが少し甘いかもしれません。スタッフを一人追加すると、一年目の損益がこうなる」
悠介はペンを借りて、余白に計算式を書いた。
彩子はそれを真剣な顔で見つめた。「なるほど。ではスタッフは初年度は私一人で回して、翌年から増やす、という案では?」
「その方が現実的です。ただ体への負荷も考えてください」
「わかっています」と彩子はきっぱりと言った。「父が無理をして倒れたのを見ていますから」
悠介はうなずいた。「わかりました。ならこの計画、ベースとしては悪くないと思います」
「ありがとうございます」
彩子が少し安堵したように肩の力を抜いた。その横顔が、冬の午後の低い光の中に柔らかく照らされていた。
帰り道、悠介は歩きながら考えた。
自分は今、何をしているのだろう。
澄江とはもう長い年月を共にしてきた。友哉も社会人になり、家の中はずいぶん静かになった。夫婦の会話は減り、食事の時間も短くなり、あの狭いアパートで二人で笑っていた頃が、別の時代のように感じられる。それが悪いわけでは、ない。ただ、それが現実だった。
彩子と話す時間は、悠介に何かを思い出させた。話すことの緊張、言葉を選ぶ楽しさ、相手の反応を気にすること。それはもう、日常からは失われていたものだった。
悠介は立ち止まり、空を見上げた。星が少しだけ見えた。
還暦まで、あと少し。今さら何を、という気もした。しかし人生は、まだ続く。
その夜、澄江が「今日はどこへ行ってたの?」と聞いた。
「知人の相談に乗っていた。仕事絡みで」
「そう」と澄江は言い、食器を洗い始めた。
悠介はその後ろ姿を見た。三十年間、この背中を見てきた。
何も言わずに、悠介は洗い物を手伝った。
第七章 還暦前の決断
新年が明けて間もなく、圭介から提案があった。
「そろそろ本格的な治療を始めませんか。還暦前にやれることをやっておきましょう」
定期検診のたびに悠介の口腔内を観察してきた圭介は、銀の詰め物を順次、高精度のセラミックや金合金のものに替えることを提案した。保険外の治療で、費用は相当かかる。しかし悠介はすぐに「わかりました」と答えた。
「歯は一生ものですから」と圭介は言った。「お父さんが言っていたことと同じですが」
「先生のお父様が?」
「父はよく言っていました。歯を大事にする人は、人生を大事にする、と」
悠介は苦笑した。「若い頃は、虫歯と喧嘩で二本無くしたんです。お恥ずかしい話ですが」
「喧嘩で?」
「学生の頃の話です。今はそんなことしませんよ」
圭介は笑った。「いずれにせよ、残りの歯は大切にしましょう。二年ほどかけて、ゆっくり進めます」
二月に入ると、彩子のクリニック開業の準備が本格化した。
物件の契約、設備の発注、保健所への申請。彩子はそのたびに悠介にメッセージを送り、悠介は自分の知識の範囲で答えた。
「開業日が決まりました。三月の末です」
「おめでとうございます」
「緊張しています」
「大丈夫です。あなたの腕は本物ですから」
その返信を送ってから、悠介は少し考えた。「あなた」と書いたのは初めてだったかもしれない。
開業の一週間前、彩子からメッセージが届いた。
「お礼が言いたいです。よければ食事でも」
悠介は長い間、画面を見つめた。
行くべきではないかもしれない。行っても、何も変わらないかもしれない。しかし断る理由が、うまく見つからなかった。いや、正確には、断りたくなかった。
「喜んで」と悠介は返信した。
二人は駅の近くのイタリアンに入った。
白いクロスのかかったテーブルに向かい合い、ワインを頼んだ。彩子は開業の準備の苦労をひとしきり話し、悠介は笑いながら聞いた。
「桐島さんがいてくれなかったら、途中で諦めていたと思います」と彩子は言った。
「そんな。私はただ数字を見ただけです」
「それが一番大事なことでした。夢だけじゃ経営はできないから」
悠介はグラスを傾けた。「先生は夢と現実のバランスが取れている。それが一番の強みだと思います」
「桐島さんは……どんな夢を持っていますか」
唐突な問いだった。悠介は少し考えた。
「還暦を迎えたら、少し旅をしたいと思っています。まだ行ったことのない場所へ」
「どこへ?」
「決めていません。でも、どこかへ。ここではないどこかへ」
彩子はグラスを置き、悠介を見た。
「私も、いつか。クリニックが軌道に乗ったら」
二人はそれ以上、何も言わなかった。ただグラスが触れ合う音が、静かな店内に響いた。
帰りは同じ方向だったので、駅まで並んで歩いた。
「開業、うまくいくといいですね」と悠介は言った。
「ありがとうございます。……また相談に来ていいですか」
「もちろんです」
改札の前で、二人は別れた。彩子が振り返り、軽く頭を下げた。悠介も頭を下げた。
電車に乗って窓の外を見ながら、悠介は思った。
これは何だろう。恋と呼ぶには年を取りすぎている気もするが、友情と呼ぶには何かが温かすぎる。
答えを出すのは急ぐことではない、と悠介は思った。ただ、今夜のことは、しばらく心の中に大事にしまっておこう、と。
第八章 大雪の記憶
春の定期検診の日、悠介はついに圭介に聞いた。
「お父様のお墓は、どちらにあるんですか」
圭介は少し驚いた顔をしたが、すぐに穏やかに答えた。「市内の、〇〇寺です。ご存じですか、あそこ」
「名前は知っています。行ったことはなかったですが」
「父のことを思い出してくださって、ありがとうございます」
「こちらこそ。長い間、ご無沙汰してしまって……還暦を迎える前に、一度手を合わせたいと思っていました」
圭介は治療の手を少し止め、真直ぐに悠介を見た。「父は喜ぶと思います。あなたのことを、本当に大事な患者だと思っていたようですから」
その週の日曜日、悠介は一人で〇〇寺を訪ねた。
境内は静かで、梅が咲き始めていた。受付で尋ねると、墓地の区画を教えてくれた。
古い石畳を歩いて奥へ進む。森田家の墓は、老いた松の木の傍らにあった。
悠介は手を清め、花を供えて、しばらくその前に立った。
(先生、ずいぶん長い間、ご無沙汰してしまいました)
心の中で語りかけた。
(私が別の歯医者に行っている間に、先生は逝ってしまって。申し訳なかったと思っています。でも、お弟子さんのような圭介先生が、今もしっかりと継いでいてくれています。安心してください)
風が吹いて、松の枝が揺れた。
(それから……先生が言っていたそうですね。息子が継ぐから、私を呼び戻したんだろう、と。本当にそうだったんでしょうか。だとしたら、先生はずいぶん遠慮がちな人でした。生きているうちに、もっと直接言ってくれればよかったのに)
悠介の目から、涙がひと筋流れた。自分でも驚いた。
(でも、ありがとうございました。先生の静かな手が、私の痛みをほどいてくれた。あの頃の私には、そういう人が必要でした)
しばらく手を合わせてから、悠介は頭を下げた。
帰り道、悠介は彩子に短いメッセージを送った。
「今日、お世話になった先生のお墓参りをしました。少し清々しい気持ちです」
しばらくして返信が来た。
「父の墓参りを思い出しました。大切なことですね。お疲れさまでした」
それだけのやりとりだったが、悠介には十分だった。
第九章 還暦
五月の連休明けに、悠介は六十歳になった。
誕生日の当日は会社に通常通り出勤した。部下たちが小さなケーキを用意してくれて、「おめでとうございます」と言ってくれた。悠介は照れながら礼を言い、ケーキを一緒に食べた。
夜は澄江と二人で外食した。特別な店ではなく、近所の小料理屋だった。
「六十か」と悠介はビールを飲みながら言った。
「早いものね」と澄江は言った。
二人はしばらく黙った。三十年の時間が、その沈黙の中にあった。
「先生と同じ年齢になってしまった」
「森田先生のこと?」
「ああ。五十九で逝ったから、今の私よりひとつ若かった」
澄江はグラスを置いた。「あなたは元気だから大丈夫よ」
「そうかな」
「歯医者にもちゃんと通ってるし」
悠介は笑った。「まあ、そうだな」
澄江も笑った。三十年前と同じ笑顔だった。いや、少し皺が増えていたが、その笑い方は変わっていなかった。
誕生日の翌週、圭介の定期検診があった。
「還暦おめでとうございます」と圭介は言った。「父と同じ年齢になられましたね」
「そう言われると、妙な気持ちです」
「治療の方も、順調です。あと一年ほどで全部終わりますね」
「一生ものの歯を作るんでしたね」
「はい」と圭介は言い、少し間を置いた。「それから……これは余計なお世話かもしれませんが」
「何ですか」
「桐島さん、最近、少し表情が明るくなりました。何かいいことがありましたか」
悠介は少し驚いた。歯科医師にそんなことを言われるとは思わなかった。
「そうですか?」
「口元というのは、人の表情をよく表すんですよ。職業柄、気になってしまって」
「……そうかもしれません」と悠介はやや遠い目で答えた。「いくつか、決断したことがあって」
「それはよかった」と圭介は言った。それ以上は聞かなかった。父親に似た、静かな節度だった。
その翌月、彩子のクリニックに、悠介は初めて患者として行った。
「来てくださるとは思いませんでした」と彩子は言った。
「せっかく森田先生のところで治療中なので、今回は相談だけです。第二の意見というか」
「なるほど」と彩子は笑った。
ピカピカに改装された小さなクリニック。白い壁に木の温もりが加わった、清潔で居心地の良い空間だった。
「いい場所ですね」と悠介は言った。
「桐島さんのおかげです」
「私は数字を見ただけです」
「それが一番難しかったんです」と彩子は言い、それから少し真剣な顔になった。「……桐島さんに、正直に言ってもいいですか」
「どうぞ」
「あなたのことが、気になっています。ただ相談相手として、ということだけじゃなく」
悠介は黙った。心臓が、少し早く打ったような気がした。
「それは……ありがたいことです。私も、同じように感じています。ただ」
「ただ?」
「私には妻がいます。それは変わらない。それでも……友人として、あなたのことを大切にしたいと思っています。それで、よければ」
彩子はしばらく悠介を見つめた。それから静かに言った。「わかりました。それで十分です」
窓から春の光が差し込んでいた。清潔な白いカーテンが、風に揺れていた。
終章 歯医者と人生
秋になって、悠介の治療はほぼ完了した。
圭介は最後の確認をしながら、「これで全部、一生ものです」と言った。「二十年後も、三十年後も、この歯が支えてくれます」
「私が八十、九十まで生きればの話ですが」
「生きてください」と圭介は笑って言った。「患者にそう言うのが、歯科医師の使命ですから」
悠介も笑った。
帰り道、悠介は少し遠回りをした。
三十年前に住んでいたアパートの前を通り、路地を曲がり、森田歯科医院の前に立った。外観は変わっていない。門柱の看板、玄関先の植木鉢。ただ、中は変わった。若い先生と、最新の機材と、いつも笑顔のスタッフが揃っている。
たかが歯医者、と悠介は思った。
されど歯医者。
人が痛みを感じる場所に、必ず誰かがいる。その手が、静かに、確かに、痛みをほどいてくれる。それだけのことが、三十年間の記憶を作ってきた。
悠介はスマートフォンを取り出し、彩子にメッセージを送った。
「治療が終わりました。歯が一生ものになりました」
しばらくして返信が来た。
「おめでとうございます。素晴らしいですね。これからも大切に」
「先生のクリニックも、うまくいっていますか」
「おかげさまで。先月から待ち時間が出るようになりました。嬉しい悩みです」
「それはよかった。いつか食事でも、お祝いを」
「喜んで」
その夜、悠介は澄江に言った。
「来年の春、旅に行こう」
「旅? どこへ?」
「まだ行ったことのないところへ。二人で」
澄江は少し驚いた顔をしたが、すぐに微笑んだ。「いいわね。どこにしましょうか」
「ゆっくり考えよう」
テレビの音が部屋に流れていた。窓の外では、秋の夜風が木の葉を揺らしていた。
人生は、痛みから始まることが多い。
歯が痛くなければ、あの診療所の引き戸を開けることもなかった。別のクリニックに移ることもなかった。閉業の知らせがなければ、戻ることもなかった。戻らなければ、先生の死を知ることも、圭介に出会うことも、墓参りをすることも、なかった。
彩子との再会も、あの痛みから始まった縁の、気の遠くなるような連なりの果てにある。
たかが歯の痛みが、三十年の物語を作ってきた。
悠介は鏡の前に立ち、口を開けた。
白い、きれいな歯が並んでいた。一本一本が、長い時間と、誰かの手と、自分の決断の結晶だった。
先生。私の歯は、一生ものになりました。
そして私の人生も、まだ続いています。
了
〜あとがき〜
歯医者という場所は、
どこか苦手で、できれば避けたい場所かもしれません。
私自身も、そうでした。
けれどあるとき、
ふと思ったのです。
あの椅子に座る時間は、
人生の中でも数少ない「立ち止まる時間」なのではないかと。
逃げられない数分間。
口を開け、言葉を失い、
ただ身を委ねるしかない時間。
その中で、
人はほんの少しだけ、自分に戻るのかもしれません。
この物語に登場する人々は、
特別な誰かではありません。
きっと、
どこにでもいる誰かであり、
そして、どこかのあなた自身でもあります。
痛みは、なくなるものではありません。
けれど、
ほどけることはある。
そのことを、
この物語を通して感じていただけたなら、
そして
あなたの「痛みの記憶」のそばにも、
静かに誰かがいたことを、
思い出していただけたなら幸いです。
カトウかづひさ
〜おまけ〜
これは以前
ブログで書いた実体験を
物語に膨らましたものです
それをここに載せて置きます
たかが歯医者 されど歯医者
30年前
結婚して住み込んだアパートの近くに
その歯医者さんはあって
具合が悪くなると飛び込んだ
それから数年して新居を手に入れ
遠ざかってしまったけれども
それでも優しい先生
具合が悪くなるたびに訪れた
ところが
ある日 診療を終え帰宅すると
その歯が痛み出して
ではと思っても週末
その歯医者さんは休診で
あまりの痛さに
仕方なく近くのショッピングセンターの中の
年中無休なんていう歯医者さんに飛び込んだ
するとそこは
多くの先生と
最新型の機材とが揃っていて
旧式のあそことは 大差を感じ
ちゃちゃ っと痛みを除いてくれた
そこは
清潔に保たれた場所に
そりゃ~綺麗な女性たちのスタッフとで
なんだ 今はこうなんだと思い知らされた
更には
3ヶ月に1度の定期検診で呼び出され
痛みが出る前に予防してしまうという
これまた知らなかったことばかり
そんなわけで
いつの間にか悪気すらなく
歯医者さんを移ってしまい
また
夜間診療まであるから
生涯そこでとも 思っていた
ところが
数年して
なんとその歯医者さん
突然 閉業するとのお知らせ
これは困った!
仕方なく
以前の歯医者さんに予約を入れ
当日
何と言い訳でもしようか? なんて
あれこれ考えながら出掛けると
あれ?
外観こそ そのまんまの古い家屋
しかして
中の設備だけ最新型になっていて
更には
先生も若返っていて。。。
受付の方に
あの
しばらくぶりなんですが
変わりましたね
それも先生も。。。
で 先生は? なんて問うと
えっ?
知りませんでした?
先生 亡くなったんですよ
えー?
僕のカルテを見ながら
あぁ
最後に来られてから ひと月後ですね
どうされたんですか?
以前から
心臓が悪かったですからね
若いし
全然 元気そうでしたのに。。。
59歳でしたのよ
あの年
大雪が降った日がありましたでしょ?
あの日でしたよ。。。
あぁ
またしても
遅かったと後悔などして。。。
その翌年
そこは建て替えをして
しばらく仮設で診療をしていたけれども
昨年
そこは綺麗になって再開し
ならば
是非 1番の患者にでもと
お願いなどしたけれど
それもまた 時すでに遅し
なんと
再開 2週間後なる患者となって
その
若先生の人気と腕の良さを
改めて知ることとなった
その後
そこからも
3ヶ月に1度呼び出される定期検診により
悪くなる前に予防するなんて
大嫌いだった歯医者さんが
好きにもなったようだ
そして今
昨年の夏頃の定期検診を終え
そろそろ 還暦前に
やれることやってしまいませんか? なんて提案されて
そう
やはり 保険での治療には限界があって
特に 銀の詰め物では隙間が出来てしまい
根の方の痛みが心配だと
もちろん保険外
費用は掛かるがそれなりの材料と精度とで
生涯 持つ歯にしましょう! なんて
若い頃
すでに 虫歯と喧嘩とで
2本の歯を無くているから
もうこれ以上無くしたくないし
また
入れ歯や挿し歯は嫌だよなあ ってなわけで
2年間もの予定を組んで
還暦までにはと 通ってるってなわけだ
もっとも
大人気になってしまったそこは
2週間に1度しか予約が取れないから
まあ
仕方なくも
ちょうど良いのかもしれないけれども。。。と
いつかいつかと思いながらも
いまだ 先代の先生の眠る場所を聞けておらず
でも そろそろ
先生の年齢になる前にでも
手を合わせにいかねば と思いながら。。。
そして
先生
息子がそろそろ継ぐからと
僕を呼び戻しましたね? なんて
訊いてみようかと。。。も
キンドル
いくつか
試したいことがありまして
少しの間
Kindle 予定のものを
多くを載せてみます
ご意見頂けましたら
嬉しく思います