隣の次元、右に曲がる
――幸運は交差点に落ちている――
まえがき
私たちは毎日、「最短」を求めながら生きています。
最短ルート、最短時間、最短で結果を出す方法。
便利になればなるほど、寄り道をする理由は少なくなりました。
けれど、不思議なことがあります。
人生を振り返ったとき、本当に心に残っている出来事は、予定どおりに進んだ日よりも、道に迷った日だったり、思いがけず誰かと長話をした日だったりします。
この物語は、そんな「寄り道」の価値を描きたくて生まれました。
交差点を右に曲がるだけで、少しだけ違う世界へ行ける主人公。
世間話で動く乗り物、猫が税金を集める町、便利さを信仰する世界……。
少し不思議で、少し笑えて、ほんの少し胸が温かくなる世界を旅しながら、主人公は「幸運とは何か」を探していきます。
もしかすると幸運は、遠くにある特別なものではありません。
誰かと交わした何気ない会話。
ふと足を止めた交差点。
思いがけず笑い合えた数分間。
そんな何でもない時間の中に、そっと落ちているものなのかもしれません。
読み終えたあと、もし次の交差点で少しだけ歩く速度をゆるめたくなったなら、この物語を書いた意味があったと思います。
それでは、隣の次元への小さな旅をお楽しみください。
プロローグ 辞令とかき氷
田村伸夫、三十二歳、契約社員――だった。
「だった」というのは、その日の午後三時に「来月からは、その、ごゆっくりで」という、辞令とも励ましともつかない言葉とともに、七年勤めた総務課のデスクを追い出されたからである。段ボール箱ひとつ分の私物と、使いかけのハンドクリームと、なぜか引き出しの奥から出てきた三年前の使用期限切れの入浴剤を抱えて、伸夫は真夏のアスファルトの上に立ち尽くしていた。
スマホの地図アプリは、律儀に「現在地」を示していた。丸い水色の点。それだけだ。行き先を示す矢印はどこにもない。
伸夫はふと、五年前の奈良を思い出した。ひとり旅で道に迷い、腹を空かせてふらついていたところを、柿の葉寿司屋の店先に出ていたおばちゃんに「兄ちゃん、幸せそうな顔してへんなあ」と笑われ、そのまま店の奥に引っ張り込まれて、かき氷をご馳走になったのだ。宇治金時。氷の山のてっぺんに乗った白玉が、やけに大きかったのを覚えている。
「またおいでや」
そう言われたきり、伸夫は一度も奈良に戻っていなかった。仕事が、忙しかったから。地図アプリが、いつも「最短ルート」を教えてくれたから。寄り道をする理由が、なかったから。
段ボール箱を抱えたまま、伸夫はスマホをポケットにしまった。そうして、何のあてもなく、ただ「あの店にもう一度行きたい」という気持ちだけを頼りに、歩き出した。
三つ目の交差点で、信号が青になった。
渡ろうとした瞬間、視界の端で何かが――たとえて言うなら、テレビの走査線がずれるみたいに――パキッと音を立てて、ずれた。
伸夫が次に気づいたとき、彼はまだ横断歩道の真ん中にいた。
ただし、周りを走る車には、どれにもタイヤがついていなかった。
第一章 世間話特急
タイヤのない車は、道路の上を十センチほど浮いて、しずしずと走っていた。伸夫が呆然と突っ立っていても誰も轢かない。というより、誰も伸夫を気にしていない。
「あの、すみません」
近くにいた、犬の散歩中らしいおじさんに声をかけると、おじさんは怪訝そうな顔で振り返った。
「兄ちゃん、乗車券は?」
「乗車券? 僕はただ歩いてただけで……」
「ああ、そりゃいかん。この国じゃ、道を歩くのも立派な『乗車』や。運賃は――」おじさんは腕時計のようなものを見せてきた。文字盤に数字ではなく、小さな吹き出しのアイコンがぐるぐる回っている。「世間話、一往復分」
「せけんばなし?」
「そう。誰かとちゃんと話をせな、この国の乗り物は一歩も進まん。エンジンやのうて、世間話で動いとるからな」
伸夫がぽかんとしていると、おじさんは犬に「な、そういうことやんな」と話しかけ、犬が「そういうことだ」と言わんばかりに一声吠えた。喋る犬なのかと身構えたが、単に吠えただけらしい。
説明によれば、ここは伸夫の知る東京と九割九分そっくりだが、たった一つ、決定的に違う法則を持つ世界だった。すなわち――
「人と人が言葉を交わした分だけ、世界が前に進む」
電車も、車も、エスカレーターでさえも、誰かと誰かが会話を交わした「熱量」を燃料にして動いている。だから駅のホームでは、乗客同士が見知らぬ相手とにこやかに近況を報告しあい、運転士は発車前に「本日も一往復、よろしゅう」と乗客全員に世間話を振ってから、ようやくレバーを引く。
「ほんで兄ちゃん、乗車券な。とりあえず、わしと少し喋ったらどうや。退屈しとってな、この犬」
伸夫は仕方なく、リストラされたばかりだという話をした。おじさんは「そらエラい災難やったな」と大げさに眉をひそめ、犬は退屈そうにあくびをした。話し終える頃、伸夫の足元に、小さな光の粒がひとつ、こぼれるように落ちた。
拾おうとして手を伸ばすと、粒はすっと指の隙間から溶けて消え、代わりに手のひらに、五百円玉ほどの重みのある「感触」だけが残った。目には見えないのに、確かにそこにある――そんな不思議な手応え。
「それが『コイン』や。ここいらじゃ『御縁玉』言うとる」おじさんはにやりと笑った。「誰かとちゃんと言葉を交わすと、こぼれ落ちるんや。ネットの向こうの誰かとやのうて、目の前の生きた人間とな」
伸夫はふと、ポケットの中のスマホのことを思い出した。取り出して地図アプリを開こうとすると、おじさんが慌てて手を押さえた。
「よしなさい。そのピカピカした板、この国じゃ『通せんぼ箱』言うてな。あれを見ながら歩くと、御縁玉はぜんぶ、こぼれる前に消えてまうんや」
「消える?」
「便利な道を教えてくれるかわりに、な。世の中、うまいことできとるわ」
伸夫は少し考えて、スマホを箱――もとい、段ボール箱の底に沈めることにした。
第二章 猫の関所
御縁玉を三枚ほど貯めた頃、伸夫は「次の角を曲がると、また世界が変わる」という感覚を、なんとなく足の裏で覚えるようになっていた。
理屈はわからない。ただ、交差点に立つと、右と左と直進とで、それぞれ違う「匂い」がする気がした。旅先の直感、というやつかもしれない。伸夫は右を選んだ。
パキッ、と例の音がして、気づけば町はさっきと少し違っていた。空気がやけに乾いていて、道端の自動販売機には「にゃおん税、別途」と貼り紙がしてある。
「止まれ」
低い声に振り返ると、三毛猫が一匹、道の真ん中に堂々と座っていた。喋る猫。今度は本当に喋った。
「ここから先は、我が輩の管轄である。通行税を払え」
「猫の関所……?」
「左様。この一帯、猫が徴税官と決まっておる。人間はどうも税というものを難しく考えすぎる。我が輩に言わせれば、単純明快――撫でて五分」
「撫でて、五分?」
「毛並みを褒めながら撫でること、五分間。それが通行税である。異論は認めぬ」
伸夫は路肩にしゃがみこみ、言われるがまま猫を撫でた。「立派な尻尾ですね」「肉球、柔らかいですね」などと、我ながら間の抜けた世辞を並べながら、五分間、ひたすら撫で続けた。猫は途中から満足げに喉を鳴らし、最後には「よかろう、通ってよし」と前足で道を示した。
足元に、ぽとりと御縁玉がひとつ増えた気がした。
「お前、悪くないな」猫はふと真顔になって言った。「たいていの人間は、途中でスマホを見て、撫で方が雑になる。集中して撫でられると、我が輩も悪い気はせん」
「猫さんも、御縁玉ってわかるんですか」
「当たり前だ。我が輩たちの世界では、こいつを『日向ぼっこ玉』と呼ぶ。誰かと誰かが、ちゃんとその場に居合わせた証よ。お前たち人間は、すぐどこか遠くを見ながら喋る。目の前におるのに、目の前におらん」
猫はそう言うと、伸夫の靴紐にじゃれつき、満足したのか塀の上に飛び乗って去っていった。
伸夫は少し笑ってしまった。リストラされた日に、猫に税金として愛想を要求される人生というのは、想像もしていなかった。けれど、悪くない。むしろ、久しぶりに声を出して笑った気がした。
第三章 長話横丁のオバちゃん
猫の関所を抜けた先は、小さな商店街だった。シャッターの半分閉まった店が並ぶ中、ひとつだけ、湯気を上げている店があった。「お好み焼き 春よ来い」という、季節感の迷子になった看板が出ている。
暖簾をくぐると、鉄板の向こうから恰幅のいいおばちゃんが顔を上げた。
「あら、見ない顔やねえ。旅の人?」
「はあ、まあ、そんなところです」
「ええから、座り座り。腹減っとるやろ」
伸夫が答える前に、おばちゃんはもうヘラを握って生地を伸ばしていた。名前を尋ねると「メリーゴーおばちゃんでええよ」と、由来のよくわからない名前を名乗った。聞けば、この世界のこの町では、誰かと「匂いが合う」と話がどうしても長くなる決まりがあるのだという。
「決まり、というか、性分やね。うちはとにかく話好きでな。前に来た旅のお兄さんなんか、うちの話が長すぎて、次のバスに乗り遅れてしもてなあ。でもそのお兄さん、結局この町が気に入って、三日も長居していきよったわ」
お好み焼きが焼き上がる間、伸夫はメリーゴーおばちゃんに、リストラのこと、奈良のかき氷のこと、道に迷ってばかりの人生のことを、問われるまま話した。おばちゃんは相槌の名手だった。「ほんでほんで?」「そら難儀やなあ」「せやけど、それ、案外ええ話とちゃう?」――相槌ひとつで、伸夫の中の言葉が、次から次へと引き出されていった。
気づけば二時間が経っていた。お好み焼きは三枚目に突入し、おばちゃんの身の上話(元は演歌歌手志望だったこと、この店を三十年やっていること、猫の関所の猫とは犬猿の仲であること)も、伸夫の記憶にしっかりと刻み込まれた。
「なあ、兄ちゃん」おばちゃんはふいに、鉄板の火を落としながら言った。「そのオバちゃん、まだ探しとるんやろ、奈良の」
「え……なんでわかるんですか」
「そら、わかるわ。旅する男の目の奥には、たいてい『会いたい誰か』が住んどる。うちにもな、昔、会いたい人がおったんよ」
おばちゃんは少し遠い目をして、それ以上は語らなかった。
店を出るとき、御縁玉が両手いっぱいにこぼれた感触がした。数えきれないほどだった。
「またおいでや」
おばちゃんの声に、伸夫はふと五年前の柿の葉寿司屋のおばちゃんの声を重ねた。姿は全然違うのに、なぜだろう、同じ声に聞こえた。
「また来ます。今度は――ちゃんと『また』って言いに来ます」
伸夫がそう言うと、おばちゃんは鉄板みたいに温かい顔で笑った。
第四章 ミチナビ様のご神託
商店街を抜けたところで、伸夫は妙な行列を見つけた。人々が、寺の賽銭箱のようなものに向かって、次々とスマホを掲げている。
「ミチナビ様、ミチナビ様。本日の最短ルートをお示しください」
拝んでいる先には、賽銭箱ではなく、巨大な信号機のようなオブジェが鎮座していた。てっぺんに、目玉のようなカメラが光っている。
「あれは……?」
隣にいた学生風の若者が教えてくれた。「ミチナビ様っすよ。この世界のAIナビ様。あれに祈ると、目的地までの完璧なルート、渋滞情報、飲食店のレビュー、ぜんぶ即座に教えてくれるんです。マジ神」
若者は熱心にスマホを掲げ、光った画面に「感謝します、ミチナビ様」と唱えた。ご丁寧に、行列の後ろには「お布施はキャッシュレス決済のみ」という看板まで出ている。
伸夫は少し心が揺れた。段ボール箱の底のスマホを思い出す。これさえ使えば、迷わず奈良に――いや、この世界にとっての「奈良」に――たどり着けるかもしれない。
「兄さんも試すか?」若者が親切に言った。「一発でわかるぞ、最短で。寄り道もゼロだ」
伸夫はスマホを取り出しかけて、しかし手を止めた。猫の関所での五分間。メリーゴーおばちゃんとの二時間。あれらはすべて「寄り道」だった。けれど、あの寄り道がなければ、御縁玉はひとつも貯まらなかった。
「いえ、いいです。僕、歩いて探します」
若者は「変わってんな」と肩をすくめ、また行列に戻っていった。
その瞬間、伸夫の足元がふわりと軽くなった。見ると、これまで貯めた御縁玉が、心なしか少しだけ輝きを増した気がした。まるで「便利さを断った」ことそのものが、何かの合図になったかのように。
ミチナビ様の巨大な目玉が、ぎょろりとこちらを向いた。
「異物を検知……最短経路信仰、拒否……エラー、エラー」
機械音声がそう唸った次の瞬間、伸夫の視界がまたパキッと歪んだ。
第五章 鹿ならぬ「のっぺさん」の町
次に着いた世界は、緑の多い、どこか懐かしい町並みだった。大きな寺があり、参道には土産物屋が並んでいる。看板には「のっぺ饅頭」「のっぺせんべい」の文字。
「ここは……奈良?」
伸夫は思わず声を上げた。街並みは瓜二つだ。ただし、鹿の代わりに、参道をのっそりのっそりと闊歩しているのは、身の丈二メートルはあろうかという、のっぺりとした顔の妖怪めいた生き物たちだった。目も鼻も申し訳程度にしかついていない、丸っこい生き物。「のっぺさん」と呼ばれているらしい。
観光客たちは奈良と同じように、のっぺさんにせんべいを差し出しては、写真を撮っている。のっぺさんは鹿と同じく、お辞儀をしてからせんべいを受け取る。ただし鹿より若干、動きが鈍い。
伸夫は柿の葉寿司屋を探して、記憶を頼りに路地を折れた。すると、見覚えのある店構えが目に入った。「柿の葉寿司 なかい」――違う、屋号が違う。でも、店先に立っているおばちゃんの背格好は、記憶の中の人物とよく似ていた。
胸が高鳴った。伸夫は駆け寄った。
「あの、五年前に、かき氷をご馳走になった者なんですが……」
おばちゃんは振り向き、にこやかに首をかしげた。
「ああ、いらっしゃい。かき氷やったら、隣の隣の店やで」
別人だった。
伸夫は少し肩を落としたが、おばちゃんは気にする様子もなく、「兄ちゃん、探しとる人おるんか」と聞いてきた。伸夫がわけを話すと、おばちゃんは笑って言った。
「せやったら、焦らんでもええ。探しとる時間も、案外幸せなもんやで。うちらみたいなおばちゃんは、この世界にも、隣の世界にも、そのまた隣にも、わんさかおるんやから」
その言葉に、伸夫は妙に納得してしまった。目当ての「あの人」ではなかったけれど、御縁玉はちゃんと、ひとつ、こぼれた。
のっぺさんの一匹が、伸夫の背後からのっそりと近づき、丸い顔で伸夫を見上げた。せんべいをねだっているらしい。伸夫が手持ちのせんべいを一枚差し出すと、のっぺさんはぺこりと会釈し、心なしか嬉しそうに(顔の凹凸がほとんどないのでわかりにくいが)去っていった。
第六章 再会は交差点で
町を出た伸夫は、ふたたび気まぐれな交差点に立った。今度は「直進」の匂いがした。
パキッ、と世界が切り替わる。今度の町はやけに騒々しく、道行く人々がみな、大きな絵文字の描かれたプラカードを首から下げて歩いていた。喜怒哀楽を、表情ではなくプラカードで示す世界らしい。「😄」を掲げた人、「😡」を掲げた人。伸夫は自分の顔を触ってみたが、プラカードは特に配られなかった。
戸惑っていると、犬を連れたおじさんに声をかけられた。
「おや、兄ちゃんやないか!」
見覚えのある顔だった。第一章で出会った、世間話特急のおじさんだ。
「あなたは……! こんなところで!?」
「わしもたまたま、隣の次元に迷い込んでな。いや懐かしいなあ、久しぶりやんか」
おじさんは「😊」のプラカードを掲げながら、うれしそうに手を振った。犬も「🐾」のプラカードを首から下げている。伸夫はこの偶然に驚きながらも、なんだか胸が温かくなった。世界を渡り歩いていても、また会える人がいる――それは思っていたより、うんと嬉しいことだった。
「なあ兄ちゃん、あんとき言うとったやろ。奈良のオバちゃんに会いたいって。まだ探しとるんか」
「はい。でも、この旅、思ったより悪くないです。会えなくても、いろんな人に会えて」
「そら何よりや。ほな、ひとつだけ、教えたろ」
おじさんは声を潜めた。
「御縁玉ちゅうのはな、貯めれば貯めるほど、次に曲がる交差点で『会いたい相手に近い世界』が選びやすうなる、言われとるんや。理屈は知らん。せやけど、ぎょうさん貯めた奴ほど、探し人に近づく――そういうもんらしいで」
伸夫は自分の手のひらの重みを確かめた。これまでの旅で貯めた御縁玉は、もう数えきれないほどになっていた。世間話、五分の毛づくろい、二時間のお喋り、せんべい一枚――どれも小さな出来事だったが、積み重なると、確かな重みになっていた。
「ありがとうございます。次の交差点、行ってみます」
「おう。またどっかで会うたら、笑顔で『ご無沙汰しました』って言うてや」
おじさんはそう言うと、犬と一緒に人混みに紛れていった。プラカードの「😊」が、雑踏の向こうで揺れているのが見えた。
第七章 御縁玉泥棒とスーツの男
次の交差点で「左」を選んだ伸夫は、ビル群の谷間、妙にひんやりとした世界に降り立った。ここでは誰もが足早で、誰とも目を合わせず、イヤホンをつけて黙々と歩いている。
「ようこそ。効率化都市へ」
背後から、パリッとしたスーツを着た男が声をかけてきた。名刺には「合理化コンサルタント/時短株式会社」とある。
「あなた、御縁玉をずいぶんお持ちのようですね。無駄です、無駄」
「無駄、ですか」
「ええ。世間話、五分の毛づくろい、二時間のお喋り――時給に換算すれば、大赤字だ。私どもの『時短アプリ』を使えば、あなたの探し人の座標は0.3秒で特定できます。もちろん、対価として――その御縁玉、いただきますが」
男はにこやかに手を差し出した。伸夫の胸ポケットのあたりが、ひやりと冷たくなった気がした。まるで御縁玉が、勝手に吸い出されていくような感覚。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
「安心を。私、あなたの『無駄な時間』を一切合切、最短距離に変換して差し上げるだけですので」
男の後ろでは、すでに何人もの旅人らしき人々が、ぐったりとうなだれていた。御縁玉を吸い取られ、腑抜けのようになった人々。
伸夫は咄嗟に、男の名刺をよく見た。「時短株式会社 代表 早見スピード」――名前からして、あまりに露骨だった。伸夫は思わず吹き出しそうになった。
「あの、早見さん」
「なんでしょう」
「あなた、今日、誰かとちゃんとお喋りしました? ご飯とか、食べながら」
早見は虚をつかれたように黙り込んだ。
「……いいえ。効率化のため、食事も三分で済ませます。会話は――そういえば、しばらく」
「よかったら、少し話しませんか。僕、暇なんです。仕事、クビになったばかりで」
早見は戸惑いながらも、伸夫の隣にしゃがみこんだ。ぽつり、ぽつりと、伸夫が話を振ると、早見も少しずつ、合理化の裏にある本音――本当は誰かとゆっくり話したいこと、効率を追い求めるあまり、いつのまにか誰の顔も見なくなっていたこと――を語り出した。
話し終える頃、早見の握っていた御縁玉(吸い取ったばかりの分)が、するりと伸夫の手のひらに戻ってきた。
「……不思議だ。あなたと話していたら、なぜか、こう、満ちてくる感じがします」
「効率化じゃ手に入らないやつですよ、たぶん」
早見はしばらく黙っていたが、やがて名刺を破り捨て、「今日は定時で帰ります」とつぶやいて去っていった。腑抜けていた旅人たちも、少しずつ顔を上げ、隣同士で話し始めた。
第八章 最後の交差点
効率化都市を抜けると、伸夫の手のひらの重みは、これまでにないほど確かなものになっていた。数えきれない御縁玉――世間話一往復分、毛づくろい五分、お好み焼き二時間、せんべい一枚、そして早見との束の間の対話。どれも小さかったが、集まると、ひとつの温かい塊になっていた。
目の前に、最後だとなぜかわかる交差点が現れた。信号機はなく、ただ四方に道が伸びているだけの、静かな十字路だった。
右、左、直進、後退――どちらに進むべきか、伸夫は目を閉じて、足の裏の感覚に集中した。地図アプリも、ミチナビ様も、ここにはない。あるのは、五年前のかき氷の甘さの記憶と、この旅で出会った人々の声だけだった。
伸夫は、右でも左でも直進でもなく――くるりと、後ろを向いた。
「まさか、戻る、か」
来た道を戻るように一歩踏み出すと、パキッという音が、これまでで一番大きく響いた。
気がつくと、伸夫は見覚えのある商店街の路地に立っていた。「柿の葉寿司 なかい」――いや、看板をよく見ると「柿の葉寿司 なかむら」となっている。微妙に、でも確かに違う。
店先に、恰幅のいいおばちゃんが立っていた。伸夫と目が合うと、おばちゃんはしばらくじっと見つめ、それから、ぱっと笑った。
「あら、兄ちゃん。ずいぶん久しぶりやないの」
伸夫の胸が、どくんと跳ねた。
「覚えて……くれてるんですか」
「そらそうよ。五年前、腹ぺこで死にそうな顔で歩いとった兄ちゃん、忘れるわけないやん」
このおばちゃんが、本当に「あの」おばちゃんなのか、それとも、旅の途中で会ったたくさんの「似た誰か」の、また別のひとりなのか――伸夫にはもう、判断がつかなかった。声も、少し違う気がする。皺の寄り方も、記憶とは微妙に違う。
けれど。
「まあ、ええから座り座り。かき氷、食べていき」
差し出された宇治金時の氷の山、てっぺんの白玉は、記憶よりほんの少し小さかった。それでも、匙ですくって口に入れると、五年前と同じ、頭の芯までキンとする冷たさと、じんわり広がる甘さが、確かにそこにあった。
「兄ちゃん、なんや、ええ顔になったなあ。前は幸せそうな顔してへんかったのに」
伸夫は、氷を頬張りながら、笑った。
「ご無沙汰しました」
「うん。またおいでや」
その瞬間、伸夫の手のひらから、これまで貯めたすべての御縁玉が、ふわりと空気に溶けるように消えていった。惜しくはなかった。むしろ、ちょうど使い切ったような、清々しい感覚だった。
――本物かどうかなんて、もう、どうでもよかった。今、目の前でかき氷を食べさせてくれるこのおばちゃんが、伸夫にとっての「あのオバちゃん」だった。
エピローグ また、どこかの交差点で
かき氷を食べ終えた伸夫が店を出ると、そこはもう、見慣れた地元の商店街だった。スマホを取り出すと、地図アプリはいつも通り、丸い水色の点――現在地――を律儀に示していた。行き先を示す矢印は、やはりどこにもない。
段ボール箱は、まだ両手の中にあった。使いかけのハンドクリームと、期限切れの入浴剤とともに。
伸夫は履歴書を書く前に、久しぶりに、あてのない散歩に出ることにした。三つ目の交差点に立つ。信号が青になる。渡ろうとした瞬間、視界の端で、何かがまた、パキッとずれる気配がした。
伸夫は、今度は慌てなかった。ただ、少し口角を上げて、こう呟いただけだった。
「さて、次はどっちに行こうかな」
多く、広く、高く――そして何より、ゆっくりと。
歩く速さでしか出会えないものが、この世界にも、隣の世界にも、そのまた隣にも、きっとまだ、たくさん落ちている。
(了)
アマゾン キンドル
あとがき
主人公の伸夫は、「幸運」を探して旅に出たように見えます。
でも本当は、探していたのは「幸運」ではなく、「人と人とのつながり」だったのだと思います。
便利さは私たちの生活を豊かにしてくれました。
けれど同時に、知らない人と言葉を交わす機会や、目的もなく歩く時間は少しずつ減ってきました。
だからこそ私は、交差点を曲がるたびに世界が変わる物語を書きました。
世界が変わるたびに出会うのは、不思議な生き物でも魔法でもありません。
少しおしゃべりなおじさんだったり、猫だったり、おばちゃんだったり。
どこにでもいそうな人たちです。
そして、その何気ない出会いこそが人生を少しだけ豊かにしてくれる——そんな思いを込めています。
もし明日、知らない町を歩く機会があったら。
もし誰かと少しだけ世間話をする時間があったら。
もし最短ルートではなく、一本違う道を選ぶ気持ちになれたら。
その先には、あなただけの「御縁玉」が落ちているかもしれません。
また別の物語、そして別の交差点でお会いできる日を楽しみにしています。












