五季
―― 季節が終わる、その前に ――


まえがき
日本には古くから「四季」が存在するとされてきました。しかし、春と夏の間に訪れるあの長くしとしととした雨の季節――「梅雨」を、かつての人々はもうひとつの独立した季節として捉えていたのかもしれません。
近年の地球温暖化や異常気象に伴い、かつてのような情緒ある梅雨や、穏やかな秋の訪れは姿を消しつつあります。猛暑が長く尾を引く一方で、秋や春が一瞬で過ぎ去ってしまう感覚を、多くの方が抱いているのではないでしょうか。
もしも、そうした季節の移り変わりが単なる自然現象ではなく、目に見えぬところで誰かが必死に繋ぎ止めている「攻防戦」だったとしたら――。そして、人々の暮らしやささやかな祈りそのものが、季節の命運を左右していたとしたら。
本書は、会社を退職したひとりの男が、季節の境目を守る「季守り(きもり)」という人々と出会い、失われゆく日本の五季目と向き合っていく物語です。ページをめくる時間が、皆様の足元にある季節の匂いに耳を澄ますきっかけとなれば幸いです。




一
 八月の終わりが、夏の終わりを意味しなくなってから、もう何年になるだろう。
 平岡明彦はベランダに出した折りたたみ椅子に腰掛け、ぬるくなった麦茶のグラスを傾けながら、そんなことをぼんやりと考えていた。五十八歳。半年前、会社の早期退職制度を利用して席を立ってから、彼の一日は驚くほど静かなものになった。予定という予定がなく、時間はただ、そこにたゆたっている。
 向かいの家からは、夏休みの終わりを惜しむ子供たちのはしゃぎ声が聞こえてくる。あさっては始業式だ。ベランダの手すり越しに見える窓の奥で、母親らしき人影が、真っ白なままの絵日記を前に何やら小言を言っているのが、開け放たれた窓から風に乗って届く。
 明彦にも、覚えがある。二学期が始まる朝の、あの妙な緊張感。長く伸びていた夏休みが唐突に断ち切られ、日常が急発進する感覚。
 近所に住む娘の家にも、今年の春から一年生になった孫の陽菜がいる。昨夜も電話口で、新品の上履きの踵を踏んでしまったと、半べそで訴えていた。
「明日から学校やだ。暑いもん」
 娘があやしている声を聞きながら、明彦は思った。変わらないものが、まだこの世にはあるらしい。白い上履き。最後まで残った宿題。始業式の朝の、少しだけ憂鬱な空気。
 けれど、変わってしまったものも、たしかにある。
 今年の夏は、あまり暑さを感じないまま終わろうとしていた。もちろん気温計を見れば、例年通り、あるいはそれ以上の数字が並んでいる。ニュースは連日「観測史上」という言葉を使い、熱中症警戒アラートが鳴りやまない。それなのに、明彦の体感としては、この夏はどこか拍子抜けするほど「軽い」のだ。
 セミリタイアして、平日の昼間から日陰を選んで歩けるようになったせいかもしれない。理由はわからないが、とにかく彼は、今年の夏をどこか他人事のように見送ろうとしていた。
 秋は、今年もまた夏と戦っている。
 そんな言葉が、ふと頭に浮かんだ。負けたままではなさそうだ、と彼は思う。朝夕の風には、たしかに何かが混じり始めている。だが油断はできない。ここ数年、九月に入ってからもう一度、夏が息を吹き返すように猛暑がぶり返す年が続いていた。まるで、負けを認めたがらない強情な相手のように。
 時折、今日のように、引き分けたりもする。まるで野球のスコアブックでもつけるみたいに、スコアを頭の中で計算している自分に気づき、明彦は苦笑した。だが、そのささやかな違和感は、麦茶の苦味に紛れてすぐに消えていった。



二
 その女と出会ったのは、九月に入って最初の日曜、近所の小さな神社でのことだった。
 陽菜の夏祭りの片付けの手伝いに顔を出した帰りだった。境内はすでに人気がなく、蝉の声もどこか力を失っていた。手水舎の脇に、白い麻の着物のようなものをまとった女が佇んでいた。年齢が読めない。三十代にも、六十代にも見える。
 「今年の夏、少し変ですよね」
 唐突にそう言われて、明彦は面食らった。誰かと勘違いされているのだろうと、曖昧に頷くだけにとどめた。だが女は、まっすぐにこちらを見たまま続けた。
 「軽い夏でした。あなたにとっては。でも、それはあなたの体感の話であって、実際の勝敗とは、また別なんです」
 「……勝敗、ですか」
 「季節の、です」
 冗談を言っている顔ではなかった。むしろ、疲れた事務員が業務連絡を淡々と告げるような、乾いた口調だった。
 「この国には昔から、季を守る者がいます。季守り、と呼ばれています。表立って語られることはありませんが、四季――いえ、本当は梅雨を含めた五季が、毎年きちんと入れ替わるように、境目で調整をしている者たちです」
 明彦は苦笑した。「面白い話ですね。神社の言い伝えか何かですか」
 「言い伝えでは説明のつかないことが、最近増えています。だからこうして、あなたのような方に声をかけているんです」
 女は懐から、古びた携帯用の計器のようなものを取り出した。真鍮のケースに、文字盤とも液晶ともつかない、奇妙な表示部がついている。目盛りには「夏」「秋」の文字と、細かい数値が並んでいた。
 「これは季圧計です。季節同士の境目にかかる『圧』を測ります。本来この時期、数値は夏から秋へと、なだらかに傾いていくはずなんですが」
 彼女は画面を明彦に見せた。数値は不安定に揺れながら、夏側に大きく傾いたまま、なかなか秋側に戻ろうとしない。
 「今、負けているんですよ。秋が」



三
 半信半疑のまま、明彦はその女――のちに里村と名乗った――について、神社の裏手にある小さな社務所のような建物に足を踏み入れることになった。陽菜を先に娘の家へ送り届けてからのことだった。
 中は思ったより広く、壁一面に古い巻物と、現代的な機材とが入り混じって並んでいた。木製の棚には和紙の帳面が、その隣にはノートパソコンのようなものが置かれている。時代がちぐはぐに同居する部屋だった。
 里村は帳面の一つを開いて見せた。そこには和暦とおぼしき日付とともに、「勝」「負」「分」の文字が、几帳面な筆致で延々と並んでいた。
 「これは、この地域を担当してきた季守りが、百年以上前から記録してきた、季節の対戦成績です」
 「対戦……」
 「夏と秋、秋と冬、冬と春、春と梅雨、梅雨と夏。五つの季節は、隣り合う季節と、境目の時期に毎年『対戦』をします。どちらがその年、どれだけ長く自分の色を保てるか。人間には天候の揺らぎにしか見えませんが、実際には勝敗があるんです」
 明彦は帳面のページをめくった。戦後しばらくは、勝ち負けがほぼ均等に近い。だがページが進むにつれ――つまり年代が新しくなるにつれ――「夏」の勝ち星が目立って増えていくのがわかった。
 「近年は、特にひどいんです」
 里村は最後のページを開いた。ここ十年ほど、「夏」の欄には勝ち星がずらりと並び、「秋」の欄はほとんど白紙に近い。梅雨の欄に至っては、記録そのものが年々薄くなっていた。文字の墨が、まるで滲んで消えかけているように見えた。
 「梅雨は、消えかけています。本来この国は、四季ではなく五季の国でした。梅雨という、雨だけの季節を挟むことで、季節同士が急激にぶつからないよう、間を取り持っていたんです。緩衝材のようなものですね」
 「それが、消える……」
 「消えると、次に何が起きるか。夏と秋、あるいは秋と冬が、緩衝なしに直接ぶつかることになります。それは穏やかな移行にはなりません」



四
 季守りという仕組みがいつから存在するのか、正式な記録は残っていない、と里村は言った。
 「ただ、今のような形に整えられたのは、そう古い話じゃありません。昭和二十年代、気象庁の前身にあたる機関にいた一人の研究者が、全国の神社に伝わる『日和見』の記録と、当時ようやく整備され始めた気象観測データとを突き合わせて、あることに気づいたんです。季節の境目が動く速度が、単純な気圧配置だけでは説明できないほど、微妙に『調整』されているように見える、と」
 その研究者は、各地の神社に伝わってきた「日和見」に連絡を取り、独自の観測網を作り上げた。科学の言葉と、古くからの言葉とを、無理に一致させようとはしなかった。ただ、両方の記録を並べて残すことにした。それが今の季守りの原型だという。
 「私たちがしていることの半分は、科学です。気圧、湿度、日照時間、そういうものをきちんと数値で追っています。でも残りの半分は、いまだに、うまく説明がつきません。境目に立って、記録を取り、時には声を合わせて唱える。それだけのことで、なぜ数値がわずかに動くのか、誰にもわからない」
 明彦は、その曖昧さが、むしろ腑に落ちる気がした。長年勤めた会社では、すべてに理由と根拠が求められた。数字で説明できないものは、存在しないのと同じだった。けれど世界には、たぶん、そういう場所がまだ残っている。
 「私の前に、この地域を担当していたのは、私の母でした」と里村は続けた。「母はある年、冬と春の境目で、大きな引き分けを取ることに成功しました。その年は珍しく、桜が例年通りの時期に咲いたそうです。母はそれを、自分の生涯でいちばんの仕事だったと言っていました。特別なことは何もしていません。ただ、毎朝欠かさず、境内に立ち続けただけです」
 里村の母は、五年前に亡くなった。それ以来、里村がこの地域の記録を一人で背負ってきたという。
 「だから、あなたに声をかけたんです。一人でこの仕事を続けるのは、思っていたより心細い。数字を追うだけなら耐えられます。でも、負け続ける記録を、一人だけで見つめ続けるのは、正直、しんどいので」



五
 明彦がこの奇妙な仕事――季守りの見習いのようなもの――を引き受けた理由は、自分でもよくわからなかった。
 暇だったから、というのが一番正直な答えかもしれない。あるいは退職してからずっと感じていた、何かが足りないという感覚を、里村の話が埋めてくれる気がしたからかもしれない。
 見習いの仕事は単純だった。毎朝、決められた時間に神社の境内に立ち、里村から渡された季圧計を空にかざす。風の匂い、光の角度、蝉の声の強弱、そういったものを数値化する機械らしい。数値を帳面に記録し、里村に報告する。それだけだ。
 だが数値は、日を追うごとに不穏さを増していった。夏の勝ち星は止まらない。時折、秋が盛り返して「分」――引き分け――を取る日もあったが、それは焼け石に水のようなものだった。
 ある夜、九州の南部で「経験したことのない」豪雨が発生し、一晩で平年の一か月分を超える雨が降った。翌朝、里村のもとを訪れると、彼女はいつもより青ざめた顔で季圧計の記録を睨んでいた。
 「あの雨は、梅雨が最後の力を振り絞った跡です。本来なら梅雨の間に、少しずつ降らせるはずだった雨を、一晩に押し込めて降らせた。梅雨という緩衝の季節が、もう平常運転できていない証拠です」
 「なぜ、夏はこんなに強いんですか」
 「季節の力は、その季節が『使われた分』だけ蓄積されます」
 里村は静かに答えた。「エアコンの室外機が吐き出す熱、アスファルトが溜め込む日差し。そのすべてが、夏という季節に『実績』として積み上がっていくんです。人間が夏を長く、強く使えば使うほど、夏はその年、勝ちやすくなる」
 「じゃあ、秋が勝つには」
 「私たちができるのは、境目でせめぎ合う季節同士の『引き分け』を、少しでも多く演出することだけです」
 里村は社務所の奥にある扉を見た。
 「近いうちに、あなたにも見てもらう場所があります。この国のすべての季守りが記録を持ち寄る、境目の会所です。今年の秋分の日、そこで『五季会議』が開かれます」



六
 秋分の日、明彦は初めて、里村に連れられて「境目の会所」なる場所に足を踏み入れた。
 そこがどこの、どういう場所だったのか、明彦はいまだにうまく説明できない。地図に載らない神社の奥、鳥居をいくつもくぐった先、というのは覚えている。だが辿り着いた場所は、木造の古い建物のようでもあり、同時に壁一面が精緻な計器と映像で埋め尽くされた管制室のようでもあった。
 そこには、日本各地から集まった季守りたちがいた。彼らは持ち寄った帳面と、現代的な端末とを見比べながら、低い声で議論を交わしていた。
 議題はひとつだった。今年、記録的な速度で衰弱している「梅雨」という季節を、どう扱うか。
 「もう間に合わないのでは」という声が、あちこちから漏れていた。梅雨の勝率は限りなくゼロに近づいている。五季という枠組み自体が、静かに、しかし確実に崩れかけている。
 「梅雨がなくなれば、次は夏と秋が、緩衝なしに直接ぶつかる」と、年配の季守りの一人が言った。「境目が、破れる。そうなれば、今日のようなことが、日常になる」
 明彦は黙って議論を聞いていた。だが、ふと里村がこちらを見て、こう言った。
 「彼にも聞いてみたいことがあります。あなたは、今年の夏を『軽い』と感じたと言いましたね」
 全員の視線が明彦に集まった。
 「はい。体感としては、そんなに暑くなかった気がします。エアコンも、あまり使わなくて。日中は図書館に行ったり、窓を開けて扇風機で済ませたり」
「小さなことです」と里村は続けた。「けれど、彼のような人が増えれば、夏の『実績』は少しずつ積み上がりにくくなる。季節同士の対戦は、私たちが記録を取るだけの手の中にあるものじゃない」
 会所の中に、しばらく沈黙が流れた。
 誰かが、ぽつりと言った。
 「手遅れになる前に、何かできることがあるとすれば」
 別の誰かが、それに応えるように続けた。
 「――いや、もう、手遅れかもしれない。けれど」
 その先を、誰も言葉にはしなかった。だが、その場にいた誰もが、同じ続きを思い浮かべていたように、明彦には感じられた。



七
 会議の三日後、明彦は真夜中に里村から電話で叩き起こされた。
 「今夜、境目で大きな対戦が起きます。日本海側の低気圧と、居座り続けている太平洋高気圧が、あなたの町の上でぶつかる。梅雨がもう緩衝材として機能していない以上、もし夏がここでも勝てば、境目が破れます」
 明彦は寝ぼけ眼のまま、言われた通りに神社へ向かった。境内では、里村ともう二人の季守りが、それぞれの季圧計を空に向けて掲げていた。空は不気味なほど蒸し暑く、遠くで雷鳴が低く唸っていた。
 「私たちができるのは、勝敗を決めることじゃありません」と里村が言った。「ただ、境目の『間』を、少しでも長く保つことだけです」
 彼女たちは声を合わせて、聞いたことのない旋律のようなものを低く唱え始めた。祝詞にも、周波数の合わない無線のノイズにも似た音だった。明彦は何をしていいかわからず、ただ季圧計を握りしめ、里村に言われた通り、深く息を吸って吐くことだけを繰り返した。
 数値は、夏側に大きく傾いたまま、しばらく動かなかった。
 そのとき、異変は音もなく起きた。
 境内の、たった数メートルの範囲だった。明彦が立っている左側では、むっとする熱風が吹き、ツクツクボウシが狂ったように鳴いていた。アスファルトの熱が、足の裏からじりじりと伝わってくる。紛れもない、真夏の空気だった。
 だが、右足を一歩、踏み出した途端、世界が変わった。
 ひやりと、空気が冷えた。金木犀の匂いがした。八月のはずなのに。セミの声は掻き消え、代わりにどこからか、秋の虫の音が聞こえる。左を見れば夏、右を見れば秋。ふたつの季節が同じ場所で無理やり軋んでいた。見上げた空もまた異様で、雲が真ん中から定規で引いたように二色に分かれていた。西側は夏の入道雲の名残で重く黒く、東側は秋の高い空で、星が透けて見えている。
 境目が、破れ始めている。
 明彦は、ぞっとした。このまま負ければどうなるのか、という問いの答えが、今、目の前にあった。暑さと寒さが同居する町。季節の順番が、めちゃくちゃになる日常。昨日まで当たり前だったことが、当たり前でなくなる世界。
 ふと、陽菜の顔が浮かんだ。明日、始業式に履いていく新しい上履き。大きすぎるランドセル。娘がぼやいていた、「明日は少しでも涼しいといいのにね」という何気ない一言。
 明彦は季圧計を握る手に、意味もなく力を込めた。夏に勝ってほしいわけでも、秋に勝ってほしいわけでもない。ただ、あの子が学校に行く朝が、去年より少しでも過ごしやすくあってほしい。あの小さな上履きで歩く道が、少しだけ、歩きやすくあってほしい。
 そんな、祈りとも呼べないほど小さな願いだった。
 風向きが、わずかに変わった。
 二色に分かれていた空の裂け目が、ほんの少しだけ、閉じた気がした。金木犀の匂いはまだ残っている。だが、左側の狂ったような蝉の声が、少しだけ遠のいた。
 数値が、ほんの少しだけ、秋側に戻った。大逆転と呼べるようなものではない。ただ、押し切られる寸前で踏みとどまった、というだけのことだった。
 夜が明ける頃には、空はすっかり晴れ渡り、いつもより涼しい朝の空気が町を包んでいた。里村は季圧計を見つめ、かすれた声で呟いた。
 「引き分けです」



八
 五季会議から、もう三年が経つ。
 明彦は今も、週に何度か、あの神社の境内に立っている。季圧計をかざし、風の匂いを確かめ、帳面に数値を記す。地味で、目立たず、誰に感謝されるわけでもない仕事だ。
 梅雨は、あの年からも痩せ細り続けている。今年の六月も、まとまった雨がほとんど降らないまま、いきなり真夏日が続く七月に突入した。九月に入っても、夏はしぶとく居座っている。
 それでも、と明彦は思う。
 引き分けの日が、少しずつだが、増えている。
 自分一人の暮らし方が変わったところで、季節の対戦成績が劇的に好転するわけではない。それはわかっている。里村も、そんな単純な話はしていなかった。ただ、彼女はこうも言っていた。
 「季守りの仕事は、勝つことじゃありません。負け続けている季節が、ゼロになってしまわないように、時間を稼ぐことです」
 先日、社務所の古い帳面の、一番後ろのページを見つけた。正式な記録の欄ではない、余白のような場所だった。そこには歴代の季守りたちの、乱雑な字で、勝敗とは関係のない言葉が書き足されていた。
 『柿が熟すまでの季節』
 『母の咳が治まるまでの季節』
 『娘の受験が終わるまでの季節』
 百年以上、季守りたちは、四季と梅雨のほかに、自分だけの五季目を、こっそりと守ってきたのだと気づいた。
 五季というのは、もともと気象の名前ではなかったのかもしれない。誰かが「終わってほしくない」と願った、名もない時間のことだったのかもしなく。
 明彦は万年筆を取り出し、その余白の一番下に、小さく書き加えた。
 『陽菜が学校に行く朝の季節』
 陽菜は、この春から四年生になった。相変わらず、始業式の朝は「学校やだ」とふてくされているらしいが、それを聞くたびに明彦は、少しほっとする。変わらない朝が、まだ続いている。あの夜、破れかけた境目が、まだ、かろうじて繋がっている証のように。
 今日は、朝から涼しい風が吹いていた。
 明彦は季圧計の数値を確かめる。夏と秋、久しぶりの「分」――引き分けだった。
 大きな勝利ではない。世界を救う劇的な出来事でもない。ただ、今日という一日、季節が踏みとどまった、というだけのことだ。
 それでも彼は、帳面にその文字を、丁寧に書き記した。
 手遅れになる前に。
 いや――もう、手遅れかもしれない。けれど。
 それでも、明日もまた、境内に立とうと思う。

 (了)


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あとがき
この物語は、年々短くなっていく秋や春、そして形骸化していく梅雨に対する、一種の寂しさから生まれました。幼い頃に感じていた「季節が移り変わる瞬間の空気の匂い」や「季節ごとの丁寧なグラデーション」が、いつの間にか極端な猛暑と極寒の二極化に飲み込まれていくような不安は、多くの方が一度は覚えたことがあるのではないでしょうか。
作中に登場する「季守り」や「季圧計」はフィクションですが、作中で里村が語った「人間が使った分だけ季節が強くなる」という考え方は、私たちが地球環境に与えている影響のメタファーでもあります。私たちがエアコンのスイッチを入れること、日陰を探して歩くこと、あるいは「誰かのために明日が少しでも涼しくあってほしい」と祈ること。それらの一つひとつが、実は見えないところで世界のバランスに影響を与えているのかもしれません。
「もう手遅れかもしれない。けれど――」という言葉には、絶望の先にある小さな希望を込めました。大きな気候変動を前に、個人の力はあまりに無力に見えます。しかし、愛する人の平穏な朝を願う静かな祈りと実践の積み重ねこそが、壊れかけた境目を踏みとどまらせる唯一の力なのではないでしょうか。
皆様の日常の中に、優しく愛おしい「五季目」の時間が少しでも永く続きますように。


八月の終わりが
夏の終わりではなくなって
久しい今日

それでも
子供たちは夏休みが終わり
2学期が急発進する

セミリタイアしたが為か
梅雨らしい日があったが為か
今年はその暑さを
さほど感じることなく終える夏

秋は
今年もまた夏と戦っており
負けたままではなさそうな昨今

時折
今日のように
引き分けたりもして

日を追うごとに
夏は退散して行くのでしょう

それでも
あまりの暑さを残した夏は
紅葉になるべき樹々の色を奪い

そこへまた
押し寄せる冬に
時間をも奪われるのでしょう



四季を織りなしたこの国は
梅雨を混ぜての五季だったはずが

経験したことのないような
土砂降りにより
その姿を変えてしまうのでしょう

手遅れになる前に
いや
もう手遅れかもしれないけれど…






玉響たちの見ている場所
―還暦のフリダシ―



まえがき
 歳を重ねるということは、引き算の連続のように思える瞬間があります。体力の衰え、あちこちの不調、健康診断の数値に一喜一憂する日々。還暦という大きな区切りを前にして、ふと「自分はどこまで歩いてこられたのだろう」と立ち止まる方も多いのではないでしょうか。
 この物語の主人公・宗一もまた、そんな人生の節目で己の『星取表』と向き合う一人です。
 誰も見ていない場所でのほんの小さな選択、自分自身に対するささやかな誠実さ。私たちは普段、そうしたものを意識せずに通り過ぎてしまいます。しかし、もしもその一つ一つを、静かに見守り、温かく記録してくれている「何か」が存在していたとしたら――。
 老いと向き合いながらも背筋を伸ばして生きるすべての大人たちへ、くすっと笑えて心がすっと軽くなるような物語をお届けできれば幸いです。




序章 三対七の朝
 目が覚める。
 それだけのことが、実はとんでもない僥倖なのだと知ったのは、いつ頃からだったろう。宗一はこの数年、朝の一分間をそんな確認作業に費やすようになっていた。天井を見て、指を動かし、深呼吸をひとつ。ああ、今日も起きられた。それだけで、もう一日分の運を使い果たしたような気さえする。
 五十九歳。還暦まであと一年を切った。
 布団から出て、寝室の隅にある姿見の前に立つ。パジャマの上から腹をさすり、肩を回し、膝の裏をとんとんと叩く。若い頃は意識したこともなかった関節という関節が、今では律儀に「本日の調子」を報告してくる。今朝の判定は――右膝がやや不服、腰は概ね平常、目の霞みは相変わらず。
 主治医からもらった数値の紙を思い出す。先週の健康診断の結果だ。良好な項目が三つ、要注意が七つ。三勝七敗。星取表にすればそういうことになる。若い頃なら笑い飛ばせた数字が、この歳になると妙に生々しく体に刺さってくる。
「三対七か」
 鏡の中の自分に向かって呟くと、鏡の中の自分も同じ渋い顔で頷き返してきた。当然である。
 それでも、と宗一は思う。それでもまだ何とかなるのではないか。背筋を伸ばし、姿勢を正し、鏡の中の自分の目を正面から見据える。老いた体と格闘するにしても、せめて姿勢だけは崩したくない。そういう意地のようなものが、還暦を前にした今、妙にはっきりと形を持ち始めていた。
 と、そのとき。
 鏡の端、寝室の隅の暗がりに、小さな光がひとつ浮かんでいるのに気づいた。
 大きさは一円玉ほど。色は説明しがたい。白でもなく金でもなく、強いて言うなら朝露が朝日を弾いた瞬間の色。ふわりと、それはまるで宗一の姿勢を確認するかのように、少し上下に揺れている。
 驚きはしなかった。もう見慣れたものだったからだ。
 宗一はそれを、心の中でひそかに「玉響(たまゆら)」と呼んでいた。万葉の昔、露や玉が触れ合ってかすかに音を立てる、そのわずかな時間を指す言葉だという。誰に教わったわけでもない。ただそう呼ぶのが、しっくりきたのだ。
 いつからいるのか、正確には思い出せない。気づけば、朝、姿勢を正すたびに、部屋の隅にふっと現れているようになっていた。害があるわけでもなく、話しかけてくるわけでもない。ただ、じっと、こちらを見ているような気がする。
 誤魔化しは通用しない。そんな気がした。
 根拠はない。ただ、この小さな光の粒を前にすると、昨夜こっそり食べた深夜のカップ麺のことや、健診の数値を見なかったことにしようとした自分の弱さのことが、なぜか一つも隠せない気分になるのだった。
「おはよう」
 誰にともなく、鏡と、その隅の光の両方に向けて、宗一は小さく声をかけた。
 玉響は、応えるように、ふわりと一度大きく揺れた。



第一章 玉響、現る
 その日の午後、宗一は近所の内科で再検査を受けた。結果は変わらず三対七。医師は画面のグラフを指しながら、「加齢によるものが大半ですが、生活習慣で改善できる部分もありますよ」と、この十年で何度も聞いた台詞を繰り返した。
 バス停のベンチに座って薬局からの帰りを待つ間、宗一はふと空を見上げた。八月の終わりの、まだ夏の名残を引きずった強い日差し。目を細めたその視界の隅に、また見えた。
 玉響が、二つ。
 一つは家の隅で見たものと同じくらいの大きさ。もう一つは心持ち小さい。二つは寄り添うように、宗一の頭上、街路樹の葉の間を漂っている。
「……お前ら、ついてきたのか」
 思わず声に出してから、宗一は周りを見回した。幸い、バス停に他の人影はなかった。もし誰かに見られていたら、還暦間近の男が街路樹に向かって話しかけている、なかなかに危うい絵面だったろう。
 玉響たちは答えない。ただ、宗一の視線に応じるように、心なしか輝きを強めた。
 このところ、玉響は数を増やしている気がする。最初は一つだけだったのに、今では多いときで五つ、六つと連なって漂っていることもある。それが何かの前触れなのか、ただの経過観察なのか、宗一には見当もつかなかった。
 ただ、はっきりしていることが一つだけある。
 玉響が現れるのは、決まって宗一が「誰も見ていない」と思っている瞬間だということだ。
 深夜、家族が寝静まった後、こっそり菓子パンに手を伸ばそうとしたとき。健診の結果を見なかったふりをして、書類を引き出しの奥に押し込もうとしたとき。スーパーのレジで、小銭が一円足りないのに気づかないふりをしようとしたとき――そんな、誰の目もない、ほんの小さな不正直の瞬間に限って、視界の隅にあの光がふっと現れるのだ。
 そして不思議なことに、宗一がその小さな誘惑を振り払い、正直な選択をすると、玉響はまるでご褒美をくれるように、ひときわ美しく瞬いてみせる。
 最初は偶然だと思っていた。目の疲れか、加齢による飛蚊症の一種だろうと笑い飛ばそうとした。しかし積み重なるにつれ、これは偶然というには、あまりにも律儀すぎるパターンだった。
 まるで採点している。まるで、誰かがどこかで、宗一という一人の人間の「今日の行い」を、この小さな光の粒を通して見守り、静かに記録しているかのように。
 バスが来た。玉響たちはバスのドアが開くと同時に、ふっと姿を消した。まるで宗一の乗車を見届けて、任務完了とばかりに解散したかのように。
 シートに腰を下ろしながら、宗一は自分の膝の上で両手を組んだ。
(監視、なのか。それとも、応援、なのか)
 どちらにしても、悪い気はしなかった。むしろ、誰にも見せない自分の背筋を、誰かがちゃんと見ていてくれる。そのことに、宗一は還暦を前にして初めて、ある種の安堵に似た感情を覚えていた。



第二章 血の系譜
 その週末、一冊の本が宗一のもとに届いた。差出人は稲葉という、幕末史を専門に研究している郷土史家だった。以前、宗一の実家の墓所について問い合わせを受けたことがあり、その返礼という形で、稲葉家の墓所を含む地域の由緒をまとめた私家版の書籍を送ってくれたのだ。
 宗一はページをめくりながら、思わず唸った。そこには、宗一の実家――曾祖父の代から続く家系の断片が、丁寧な聞き取りと古い戸籍調査によって再構成されていた。
 曾祖父には、実は三人の妻がいた。
 最初の妻との間に、二人の娘が生まれた。しかし、その妻と娘たちは、時代の病により若くして相次いで世を去った。次に迎えた妻もまた、若くして亡くなっている。三人目の妻との間に生まれたのが、宗一の伯父にあたる人物だった。
 つまり、宗一という一人の人間がこの世に生を受けるまでに、少なくとも三人の女性が、若くしてこの世を去るという不幸を経ていたことになる。
 本を閉じ、宗一はしばらく天井を見上げていた。
(もし、最初の妻が亡くならなかったら)
(もし、二番目の妻が長生きしていたら)
 その先には、今の自分は存在しない。父も、自分も、そして今こうしてリビングでテレビを見ている息子の拓真(たくま)も、この世に生まれてはいなかったということになる。
 偶然、と片付けるにはあまりに出来すぎている。まるで、誰かがあらかじめ「宗一という一人の人間をこの世に送り出す」という一点のゴールに向けて、幾つもの悲しい出来事を、駒を進めるように配置していったかのようだ。
 その夜、風呂上がりに脱衣所の鏡の前に立つと、また玉響が現れた。今度は三つ。心なしか、いつもより明るく灯っているように見える。
「お前ら」
 宗一は湯気の中で、鏡越しに玉響たちに問いかけた。
「うちの家系図のことも、知ってるのか」
 もちろん返事はない。ただ、三つの光は、まるで頷くようにゆっくりと弧を描いて漂った。
 ばかばかしい、と自分でも思う。五十九にもなって、光る玉に向かって家系の因縁を問いただしているのだ。だが、笑い飛ばそうとするそばから、背筋のあたりに冷たいものが走った。
 もし本当に、この光たちが何かの「管理者」だとしたら。人がこの世に生まれ、恋をし、別れ、また出会い、子をなし――その一つ一つの分岐点に、こっそり手を貸している存在だとしたら。
 宗一自身にも覚えがあった。若い頃、当時付き合っていた女性と別れた。理由は些細なすれ違いだった。今にして思えば、あの別れがなければ、今の妻とは出会わなかった。あの日の些細な喧嘩、あの日たまたま乗り遅れた電車、あの日ふと足を向けた店――どれか一つでも違っていたら、今この家に自分はいない。
 偶然にしては、あまりにも都合よく積み重なっている。
 まるで最初から、そうなると決まっていたかのように。
 脱衣所の湯気の向こうで、三つの玉響がゆっくりと瞬いた。宗一には、それがどこか、悪戯っぽく笑っているように見えてならなかった。



第三章 将棋の駒
 翌週、宗一は思い切って玉響に「取材」を試みることにした。
 やり方は単純だ。深夜、家族が寝静まった台所で、こっそり冷蔵庫のプリンに手を伸ばす――ふりをする。これまでの経験上、こうした「誰も見ていない小さな不正直」の瞬間に、玉響は必ずと言っていいほど現れた。
 案の定、冷蔵庫のドアを開けた瞬間、視界の隅にふわりと光が灯った。今回は一つだけ。心なしか、いつもより警戒しているような揺れ方をしている。
「よし」
 宗一は小声で呟くと、プリンには手を触れず、代わりに用意しておいたメモ用紙とペンを取り出した。
「お前らが何なのか、聞かせてくれないか」
 もちろん、返事などあるはずがない。宗一自身、半分は自分の正気を疑いながらの行動だった。しかし、次の瞬間――光がすっと動き、台所の壁に、ぼんやりとした模様を投影し始めたのだ。
 それは文字のようであり、絵のようでもあった。無数の点が枝分かれし、広がっていく図。宗一にはすぐにピンときた。家系図だ。しかも、自分の家のものだけではない。見たこともない名前、見たこともない土地の名が、無数に連なっている。
 図の中の一点が、ひときわ強く光った。そこには「宗一」と、たしかにそう読める文字があった。
 その光る点から、何本もの細い線が過去へと遡っていく。先週読んだ本にあった、三人の妻の名前が浮かび上がる。さらにその先、江戸の終わり頃と思しき時代まで、線は途切れることなく続いていた。
 そして線は、宗一のところで終わらない。未来へも、一本、細く伸びている。その先には「拓真」――息子の名があった。図の隅には、小さく『第七係』と読める印のようなものまで混じっている。
「……なるほどな」
 宗一は思わず声を漏らした。
「お前らは、これの管理をしてるってわけか。系図の、継続の」
 壁の光が、応えるようにひときわ強く瞬いた。まるで「その通り」と言っているかのようだった。
 冗談のような話だが、妙に腑に落ちる部分もあった。歴史というものは、振り返れば振り返るほど、まるで最初から決まっていたレールの上を進んできたように見える。時代は繰り返し、同じ側へと流れ、決して逆戻りしない。多くの出来事が、まるで無理やり幕を引かれるように、都合よく収束していく。
 人はよく「運命」という言葉を使うが、もしこれが本当に「管理」されているのだとしたら――自分たちは、盤の上を進む将棋の駒のようなものなのかもしれない。指し手の意図までは分からずとも、確かに誰かの手によって、一手ずつ前へ進まされている。
 そこまで考えて、宗一はふと苦笑した。
「駒にしちゃ、ずいぶん寿命が長いけどな」
 軽口のつもりだったが、壁の光の模様が、心なしかふるふると小刻みに揺れた。まるで笑っているかのように。
 そのとき初めて宗一は、玉響という存在に、単なる「監視者」以上の――どこか間の抜けた、憎めない気配を感じ取った。



第四章 円環管理組合
 翌朝、宗一が目を覚ますと、寝室の隅に、これまで見たこともない数の玉響が集まっていた。数えてみると、七つ。寄り集まり、まるで会議でも始めるかのように、円になって漂っている。
 そのうちの一つが、するりと前に出た。他よりわずかに大きく、心なしか貫禄がある。壁に映る光の模様が、今度ははっきりとした文字を結び始めた。
『円環管理組合 地区担当 第七係』
「……組合」
 宗一は思わず噴き出しそうになった。神秘的な光の粒だと思っていたら、まさかの労働組合めいた肩書きである。
 文字はさらに続いた。
『われわれの職務は、系譜の継続監査、および誠実度の記録である』
『貴殿は、対象コード「宗一」として、生誕以来、継続的な観察対象となっている』
『本日をもって、還暦一年前の中間審査を行う』
 中間審査。まるで会社の人事考課のような響きに、宗一は苦笑を禁じ得なかった。
「審査って、俺、何か落第でもするのか」
『継続の可否を判断する。落第の場合、当該系譜は打ち切られる』
『補足。「打ち切り」とは、血縁が途絶えることを意味しない。受け継がれてきたものが、そこで途絶えることを意味する』
 その一文に、宗一の背筋がすっと冷えた。冗談で済ませられる話ではないらしい。
『ただし、これまでの記録によれば、貴殿の誠実度は良好である』
『とりわけ、他者の目のない場面における選択の一貫性が評価されている』
 深夜のプリン。健診結果の隠蔽未遂。レジの一円。どれもこれも、宗一が「バレなければいい」と思いながらも、結局は自分に嘘をつけずに正直な側を選んできた、ささやかな瞬間ばかりだった。それが、まさかこんな形で「評価」されていたとは。
「待てよ。じゃあ、お前らはずっと、俺の――先祖代々、ずっとこうやって見張ってきたのか」
『見張る、ではなく、見守る、が正確な表現である』
『われわれの管掌領域は、貴殿一代に限らない。曾祖父の代より継続する案件である』
 宗一は絶句した。三人の妻の悲劇も、若い頃の恋の破局も、すべてこの「組合」の管轄下にあったということなのか。
『補足。われわれに、個々の生死を操作する権限はない』
『われわれの職務は、あくまで継続すべき系譜が途絶えぬよう、選択の岐路において、当人の誠実な判断を後押しすることのみである』
『補足する。継続とは、血縁のみを意味しない』
『言葉、記憶、仕事、優しさ――誰かから受け取ったものを、次の誰かへ渡すこと。われわれは、それもまた「系譜」と呼んでいる』
 その一文に、宗一は少し虚を突かれた。てっきり、血のつながりだけの話だと思っていたからだ。子を持たなかった友人の顔や、家族ではないのに何かを託されたと感じた恩師の顔が、ふっと頭をよぎった。
 なるほど、と宗一は少し肩の力を抜いた。運命を操る強大な存在、というよりは、地味な現場監督のようなものらしい。悲劇そのものを起こしているわけではなく、起きてしまった出来事の後、その先の道を途切れさせないよう、細々と後押しをしているだけ――ということか。
 なんだか急に、この光の粒たちが、遠い親戚のおじさん、おばさんのように思えてきた。
「お前らも、大変だな。何百年もこの家の面倒見てるわけだろ」
 壁の文字が、少しの間を置いて、こう結ばれた。
『繁忙期である。貴殿の同期には、他にも継続困難な案件が多数存在する』
 愚痴めいた一文に、宗一は今度こそ声を出して笑ってしまった。神秘の使者だと思っていた相手が、まさかの「繁忙期」を訴えてくるとは。
 どうやら、この宇宙のどこかには、地味な残業を重ねながら、無数の家系図をせっせと守っている、名もなき「係」たちがいるらしい。



第五章 フリダシ
 それから一年が経ち、宗一は還暦を迎えた。
 家族に祝ってもらった夜、赤いちゃんちゃんこを着せられて、拓真にスマホで写真を撮られながら、宗一は妙な感慨に浸っていた。還暦とは、干支が一巡し、生まれた年の干支に還ることを言う。つまり、人生における最初の「フリダシ」に戻る日だ。
 その夜、床についてすぐ、宗一は不思議な夢を見た。
 夢の中で、宗一は真っ白な部屋にいた。窓もドアもない、ただ光に満ちた空間。目の前には、七つの玉響が、これまでで一番大きく、一番明るく輝きながら浮かんでいる。
『最終審査を開始する』
 壁のない部屋に、文字が浮かぶ。
『対象コード「宗一」。継続監査、六十年分。総評――良好』
 良好、という二文字に、宗一は思わず胸が熱くなった。三対七の健診結果を見せられ続けたこの数年、良好という言葉からずいぶん遠ざかっていた気がしたからだ。
『特記事項。他者の観測なき状況下における選択の一貫性、極めて高い水準を維持』
『深夜の菓子類、健診結果の一時的な逃避行動、レジでの一円――いずれも最終的に誠実な選択に帰結』
「……お前ら、そんな細かいことまで記録してたのか」
 気恥ずかしさに頭を掻く宗一に構わず、文字は続いた。
『よって、本組合は貴殿の系譜継続を承認する』
『次期主任継承者「拓真」への引き継ぎも、良好に進行中と判断する』
『貴殿の役割は、第一章を終え、第二章へ移行する』
 その一文の後、光の粒たちの動きが、これまでとは少し違って見えた。どこか、緊張が解けたような、柔らかな揺れ方だった。
『ここでご案内がある』
『第二章においては、監査頻度を大幅に緩和する』
『これまでのような、日々の細かな観察は行わない』
『貴殿には、これより先、これまでの誠実さを土台として、ご自由に生きていただいて構わない』
 どうぞご自由に。
 その言葉を、宗一は夢の中で、しばらく噛みしめていた。
 これまで、玉響たちの視線を、どこか監視のように、あるいは重荷のように感じていた部分もあった。しかしそれは同時に、自分を見捨てず、律儀に見守り続けてくれる何かの存在でもあった。その視線が、これからは緩む。もう毎日の答え合わせをしなくてもいい。
 それは解放であると同時に、少しの寂しさでもあった。
『以上をもって、対象コード「宗一」に対する第一章の監査を終了する』
『最後に一言、申し添える』
 文字が、いつもの事務的な調子から、わずかに違う響きを帯びた気がした。
『ここまで、繋いでいただき、感謝する』
『ご苦労であった』
 夢の中で、宗一は不覚にも涙ぐんだ。誰に見られているわけでもない、夢の中の出来事だというのに、それでも構わず、頬を伝うものがあった。
 目が覚めると、朝だった。
 寝室の隅を見る。そこにはもう、玉響の姿はなかった。



終章 墓参り
 週末、宗一は拓真を連れて、実家の墓所へ向かった。稲葉から届いた本のことを話すと、拓真は意外にも興味を示し、「じいちゃんのそのまた前の話、俺も知りたい」と言って、休みの予定をずらしてまで付き合ってくれた。
 墓地は山の中腹にあり、車を降りてからも少し歩く必要があった。夏の終わりの日差しの中、汗をかきながら石段を上る自分の足取りが、以前より少しだけ軽い気がした。三対七の星取表は、相変わらず健診のたびに宗一を悩ませているが、それでも今朝は、いつもより深く息が吸えている気がした。
 三勝七敗。ずっとそう思っていた。良い項目が三つ、要注意が七つ。負け越しの人生だと、どこかで決めつけていた。
 だが、と石段を踏みしめながら宗一は思う。人生というものは、どうやらそんな単純な星取表ではないらしい。勝った負けたで数えられるものの向こうに、誰にも採点されない、それでいて確かに積み上がっていくものがある。それは今のところ、三でも七でもない、うまく数えようのない何かだった。
 曾祖父の墓の前に立ち、線香を上げる。三人の妻の名も、それぞれ小さな墓標に刻まれていた。宗一はしゃがみこみ、一つ一つの名前を指でなぞった。
「あんたらのおかげで、俺はここにいる」
 声に出すと、隣で拓真が怪訝な顔をした。
「誰と喋ってんの、父さん」
「ん――まあ、いろいろだよ。ご先祖さんと、あと」
 言いかけて、宗一は言葉を濁した。光る玉と会話していた、などと言えば、息子にどんな顔をされるか分かったものではない。
 ふと視線を上げると、墓石の連なる向こう、木漏れ日の差す空間に、小さな光がひとつ、揺れているのが見えた気がした。
 目を凝らす。木漏れ日が葉の隙間から零れているだけかもしれない。あるいは、単なる目の錯覚かもしれない。夢の中で「監査頻度を大幅に緩和する」と言われたばかりなのだ。もう頻繁には現れないはずだった。
 それでも――と宗一は思う。
 それでも、たまには、ふらりと様子を見にくることくらいは、あってもいいのではないか。ここまで繋いできた家系図の、その先の広がりを、ちょっとだけ確かめに来る。そんな、律儀な「係」らしい姿が、目に浮かぶようだった。
(監査頻度を緩和するって言ってたけど――抜き打ちは、あるのか?)
 心の中でそう問いかけた瞬間、木漏れ日の光が、一度だけ、ぴくっと揺れた気がした。
(おい、あるのかよ)
 思わず口の中で呟いて、宗一は一人で噴き出しそうになった。
「父さん、行くよ」
 拓真の声に、宗一は我に返った。
「おう」
 立ち上がり、膝の裏をとんとんと叩く。相変わらず右膝は不服そうだ。それでも、姿勢を正し、正面を向く。
 誰も見ていないところでも、正しくあろうとすること。それは案外、誰かのためではなく、自分自身のための、ささやかな儀式だったのかもしれない――そんなことを思いながら、宗一は息子の背中を追って、山道を下り始めた。
 振り返ると、木漏れ日の中の光は、もう見えなくなっていた。
 だが、確かにそこにいた。それだけで、十分だった。

(了)


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あとがき
 『玉響(たまゆら)』という言葉には、ほんのわずかな時間、かすかな響きという意味があります。慌ただしく過ぎ去る日常の中で、私たちは時として「自分は何を残せているのだろう」「これまでの歩みに意味はあったのだろうか」と、ふと孤独を感じることがあります。
 けれど、誰も見ていないところで取った選択や、誰にも気づかれない小さな優しさ、崩さずにいた姿勢――そうした目に見えない些細な『誠実さ』こそが、自分自身を形作り、次の世代や周りの人々へ静かに受け継がれていくのかもしれません。
 還暦という「フリダシ」は、決してゼロに戻るということではなく、これまでに積み上げてきたものを糧にして、新しく自由な旅を始めるためのスタートラインなのだと感じています。
 今日を生きる皆様の日常にも、ふとした瞬間に温かな木漏れ日のような光が寄り添ってくれますように。



追伸

そうそう

こんな物語を書いていたら

昨晩は

沢山の玉響たちが

ゆらり姿見を見せてくれました





波聞き又兵衛、最後のうねりを待つ



まえがき
本作は、重力の狂った近未来の海と、時代遅れな波乗りじじいたちの「ただ待つだけの時間」を描いたちょっと変で、少し愛おしい物語です。効率とリトライ(やり直し)が約束された現代において、「取り返しのつかない一瞬」を待つことの豊かさを、滑稽なSFの味わいとともに感じていただければ幸いです。




序章 コード崎にて
西暦二〇六一年。太平洋のとある入江、通称コード崎には、もう何年も前から奇妙な噂が立っていた。
三年前、静止軌道上で任務にあたっていた重力レンズ観測衛星「テラフォーマー三号」が、原因不明の制御不能に陥った。衛星はそのまま軌道上をふらふらと漂い続け、地上に向けてときおり、意味のわからない重力の揺らぎを撒き散らすようになった。おかげでこの入江の海面だけが、他所の海とは似ても似つかぬ挙動を見せるようになったのである。
波が、来る。ただの水の盛り上がりではない。うっすらと虹色に光り、間近で見ると水面の向こうに、ほんの一瞬だけ「ここではないどこか」が透けて見えることがある――と、地元の年寄りたちは口を揃えて言う。国の波動庁はこれを「時空境界性異常波浪」と呼び、危険因子に指定し、遊泳も禁止にしようとした。だが、それでもなお、毎朝暗いうちからボードを抱えて浜に降りてくる年寄りたちがいた。
世間はとうにこの浜を見限っていた。若者たちは家庭用の全天周没入装置「ナミーモ」で、危険もベタつく潮も日焼けもない「波」を好きなだけ味わえる時代である。わざわざ潮風に吹かれて、冷たい水に浸かって、本物の――しかも時空の裂け目つきの――波を待つ酔狂は、この国では絶滅危惧種に指定されてもおかしくなかった。



第一章 オヤジと又兵衛
宮田又兵衛、六十五歳。かつては大手電機メーカーでシステム管理者として三十年勤め上げ、定年と同時に妻に「もう好きにしていいよ」と背中を押されてこの海に戻ってきた。学生時代からの相棒であるボード――両面テープだらけで継ぎ接ぎされた年代物、本人いわく「白鯨号」――を担ぎ、毎朝四時半に折りたたみ椅子と魔法瓶を持って波打ち際に陣取るのが日課だった。
「波乗りっていうのはな」と又兵衛は、隣で同じく椅子に座る幼馴染の茂さんに、もう三百回は語った持論をまた語る。「華やかに見えて、じつのところ九割九分は、ただ座って待ってるだけの遊びなんだよ」
「知っとるがな、又兵衛。お前それ、毎朝言うとる」
「待って、待って、これだと思う波が来たときにだけ、勝負をかける。それだけの遊びだ。しかもその一瞬の判断は、誰も代わってくれん。全部、自分ひとりの責任でな」
茂さんはあくびをしながら、魔法瓶の蓋にコーヒーを注いだ。沖には虹色にきらめく朝もやが立ちこめ、まだ「これだ」という波は来ない。今日も、ただ待つだけの一日になりそうだった。



第二章 草食系の弟子、ユウト
その日の昼過ぎ、茂さんの孫だという少年が、渋々といった様子で浜に降ろされてきた。名前をユウト、十七歳。祖母に「たまには外の空気を吸ってきなさい」と強制的に連れてこられたらしく、両手にはナミーモ用のゴーグルをしっかり握りしめていた。
「潮風、髪に悪いんですよね……あと、日焼け止めSPFいくつ塗ればいいとか、わかんないし」
「SPFな」と又兵衛は苦笑した。「ナミーモとやらの波は、失敗してもリトライボタンがあるんだろう」
「そうですよ。ワイプアウトしても、ワンボタンで巻き戻せるし、痛くもないし。なんでわざわざ本物でやるのか、意味わかんないっす」
又兵衛はしばらく黙って沖を見つめ、それからぽつりと言った。
「巻き戻せる波にはな、乗った実感ってもんが残らんのだよ。転んで塩水を吸って、悔しくて、また沖まで漕いで戻って――その全部込みでしか、味わえんものがある」
ユウトは半信半疑のままボードを借り、恐る恐る水に入った。最初の小さな波で見事にすっ転び、塩水を派手に吸い込み、「げほっ、これ、リトライボタンどこですか!」と叫んで年寄りたちの爆笑をかった。だが不思議なことに、浜に這い上がってきたユウトの目には、それまでになかった妙な輝きが宿っていた。



第三章 ケンタの横入り
この浜にはもう一人、若い顔があった。名を村上ケンタ、二十四歳。都会からわざわざ通ってくる自称「波動フリーク」で、腕は確かに立つのだが、いかんせん行儀が悪い。誰かが「これだ」と狙いを定めた波にも、我先にとパドルをかけてかっさらっていくのが常だった。
その朝も、又兵衛が半刻かけて見極めた「これぞ」という一本を、ケンタが横合いから鮮やかにテイクオフして持っていった。茂さんが悔しがって舌打ちをするが、又兵衛はにやりと笑っただけだった。
「往生際が悪いぞ、又兵衛。あれ絶対、お前が先に目ぇつけとった波じゃろ」
「競って奪い合うほどのもんでもなかろう」又兵衛は水を掻きながら涼しい顔で言う。「あいつがどうしても欲しいなら、微笑んで譲ってやりゃあいい。こっちはまた次を待つだけの話だ」
そのやりとりを浜から眺めていたユウトが、思わず口を挟んだ。
「悔しくないんですか? ナミーモだったら絶対キレてるとこですよ」
「悔しいさ」又兵衛は笑った。「だが海はな、誰の持ち物でもない。次のやつを、ちゃんと自分の力で見極めて、自分の判断で乗る。それでいいんだ」
去り際にケンタは吐き捨てるように言った。「ハッ、譲り合いごっこすか? 平行世界(向こう)の俺だって、こんなイイ波全部かっさらって無敵に決まってますから!」
いつしか浜の年寄りたちは、又兵衛のことを親しみをこめて「譲りジジイ」と呼ぶようになっていた。



第四章 ワイプアウトと復元
翌週、又兵衛はついに「これだ」の波に恵まれた。だが技量が肉体に追いつかない齢というのは残酷なもので、テイクオフの瞬間にボードの鼻先が波に刺さり、盛大にワイプアウトした。
水中で真っ逆さまに揉まれながら、又兵衛の視界がふっと虹色に滲んだ。テラフォーマー三号がもたらす、あの噂の「裂け目」だった。ほんの二秒ほどのことだったが、彼は確かに見た。――全身ネオンタイツを着てDJ卓の前で波に乗る自分や、なぜか歌舞伎の隈取りをして見得を切り、観客からやんやの喝采を浴びている自分そっくりの男の姿を。
水面に顔を出した又兵衛は、げほげほと咳き込みながらも大笑いしていた。
「どうしたんです、大丈夫ですか」慌てて駆け寄るユウトに、又兵衛は答えた。
「いや、なに、どこかの俺が隈取りで見得を切っておったよ。あの世界の俺の方が、よっぽど男前だったな」
そして又兵衛は、ふらつく体でボードを手繰り寄せ、また黙々と沖へパドルを漕ぎ出した。何度転んでも、また沖へ戻る。それだけが、この遊びの掟だった。



第五章 根源波
その年の初め、波動庁からコード崎に一枚の告知が貼り出された。テラフォーマー三号の軌道がついに限界を迎え、来月末をもって入江全域に「波動ダンパー」――異常波浪を完全に封じ込める巨大な防波堤――が設置されるという。つまり、あの虹色に光る本物の波が、この世から消えるということだった。
年寄りたちの間では、封鎖前の最後の大潮の日に、伝説の「根源波」が現れるという噂がまことしやかに囁かれていた。テラフォーマーの揺らぎが極大に達したとき、ただ一度だけ現れるという、すべての裂け目の中でもっとも深い、もっとも根源的な波――というのである。
その噂を聞きつけたケンタも、めずらしく浜に泊まり込んで待つようになった。「伝説の波ってやつ、俺が一番に頂くんで」と、いつもの調子で不敵に笑いながら。
一方のユウトは、ゴーグルを持たずに毎朝浜に来るようになっていた。祖母に強制連行されるのではなく、自分の意志で。又兵衛は何も聞かず、ただ隣にもう一つ折りたたみ椅子を用意しておいた。



第六章 選択の朝
封鎖前夜、ついにその朝が来た。空はまだ暗く、海だけが虹色に脈打っていた。沖合の一点から、これまで見たどの波よりも巨大で美しい、ゆっくりとしたうねりが立ち上がってくる。
「あれだ」と誰かが呟いた。根源波だった。
案の定、真っ先にパドルをかけたのはケンタだった。誰よりも早くテイクオフを決め、勝ち誇った顔で振り返る。だがその瞬間、波の内側が虹色に大きく渦を巻き、ケンタの体をふわりと呑み込んだ。
一拍おいて水面に戻ってきたケンタは、なぜか目を丸くして、ぶるぶると震えていた。「み、見た……向こうの俺、めちゃくちゃ礼儀正しくて、誰にも横入りしない、いいやつだった……なんか、無性に恥ずかしい……」独り言のようにつぶやきながら、そのままふらふらと岸へ引き上げていった。根源波は、彼の望みどおりの「勝利」を、彼が一番痛いところで返してよこしたらしい。
波はそれで終わりではなかった。根源波は崩れる直前、後方にもう一段、優しく整った波を生み落とした。
又兵衛はその波を見て、パドルを止めた。そして隣で固まっているユウトの肩を叩いた。
「行け」
「え、俺、無理です、そんな……」
「いいから行け。これはお前の波だ。俺のじゃない」
ユウトは震える手でパドルを掻いた。何度も水を飲みそうになりながら、それでも波のスピードに体を合わせ、気づけば板の上に立っていた。虹色の飛沫を全身に浴びながら、ユウトは生まれて初めて、リトライボタンのない世界で、自分の力だけで波を乗り切っていた。
浜からは歓声が上がった。又兵衛は沖に浮かんだまま、自分では波を追わず、ただその背中を見つめて静かに笑っていた。



終章 波の彼方に
翌週、コード崎には約束どおり巨大な波動ダンパーが設置され、虹色に光る波はこの世から姿を消した。テラフォーマー三号は静かに軌道を離れ、どこか宇宙の彼方へ消えていったという。
それから幾月かが過ぎた。ユウトは今も毎朝、ダンパーの向こうに広がる、ごく普通のただの海に出ている。もう波に裂け目はない。それでも彼は飽きもせず、ボードを抱えて波打ち際に立ち続けている。
又兵衛はといえば、すっかり「先生」と呼ばれる立場に収まり、折りたたみ椅子に座ったまま、若い連中に講釈を垂れる日々である。
「いいか。波が小さかろうが、予想外に大きかろうが、うねりを伴っていようが、それを選ぶのはいつだって自分だ。誰にも譲れんし、誰にも代わってもらえん。――それを引き受けられるやつのことを、この浜じゃ昔から、ちゃんと一人前と呼ぶんだよ」
ユウトは半分聞き流しながら、それでも今日も波打ち際に立ち、沖を見つめている。かつて草食系と呼ばれた少年の背中は、いつのまにか、潮風にすっかり焼けていた。
――時空の裂け目が閉じようが、世界がどれほど便利になろうが関係ない。コード崎の朝もやの向こうでは、今日もただ、自分だけのうねりを待つ誰かがいる。それだけで、じゅうぶんなのかもしれない。

(了)


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あとがき
本作は、デジタルとアナログ、そして人生における「選択」と「責任」をテーマに執筆しました。劇中の「ナミーモ」のように、失敗をワンボタンで帳消しにできる世界は一見魅力的ですが、傷つきながら波を待つ時間の中にこそ、人間らしい愛おしさが宿るのではないか――そんな思いを込めています。
どんなに世界が変わっても、自分の波を選び取り、待つことができるすべての人へ。



通り過ぎる刹那
―そのとき、光の切れ端が肩をかすめた―


まえがき
 ふと振り返ったとき、「あのとき、別の道を選んでいたらどうなっていただろう」と考えたことはありませんか。
 告白できなかったあの日の夕暮れ。理由をつけて見送った転職や挑戦の話。疎遠になってしまった大切な人との連絡。
 私たちの人生は、後になってから「あれが決定的な瞬間だったのだ」と気づく出来事で満ちています。その多くは鐘も鳴らさず、稲光も走らせず、ただ静かに私たちの肩を掠めて、知らぬ間に通り過ぎていってしまいます。
 この物語は、そんな「通り過ぎていく機会」が、もしも目に見える光の膜となって現れたら……という一つの問いから始まりました。
 選択肢が見えすぎるがゆえに足がすくんでしまう主人公・周平の姿は、もしかすると、慎重に生きる現代の私たち自身の姿かもしれません。
 かつて何かを取りこぼしたことのあるすべての人へ、この静かな物語を贈ります。




プロローグ
 人は誰でも、一生のうちに何度か、決定的な瞬間を通り過ぎる。
 それは目覚まし時計のようには鳴らない。稲光のように空を裂きもしない。ただ、静かに、こちらの肩のあたりをかすめて、何食わぬ顔で歩み去っていくだけだ。
 多くの場合、人はそれと気づかない。「また機会があるさ」と、心のどこかで呟きながら見送ってしまう。だが、実際にはそれが最初で最後だったということが、この世にはいくらでもある。
 そのことに気づいたときにはもう、それは遥か遠くまで行ってしまっていて、二度と手の届くところには戻ってこない。
 多くは、それきりのことで終わる。人生に一度きりのチャンスというのは、案外そんなふうに、後になってから、そうと知れるものらしい。
 そして、それは恋愛においても、まったく同じことだ。目の前にいる誰かを、「もっと他にいい人がいるかもしれない」と思って疎かにしていると、その人はある日、さらりと、まるで最初からそうなる運命だったかのように、誰か別の人に攫われてしまう。あとに残るのは、一生分の後悔だけだ。
 ――これは、その「通り過ぎていくもの」が、ほんとうに目に視えてしまった、ある平凡な男の話である。



一章 視えない街で
 佐伯周平は、二十九歳になっても、自分の人生に決定的な瞬間などまだ一度も訪れていないと思っていた。
 朝は七時十五分の準急に揺られ、夕方はまた同じ路線を逆向きに揺られて帰る。勤め先は神田にある中堅の印刷会社で、周平は営業部の窓際に近い席で、来る日も来る日も、代わり映えのしない見積書を作っていた。上司からは「悪くはないが、可もなく不可もなく」と評され、同期からは「安定志向」と評され、周平自身も、そうした評価に特に異論はなかった。
 実家は埼玉の郊外にあり、両親は今も健在で、盆と正月には帰省する。父は定年退職した元公務員で、母はパートで近所のスーパーに勤めている。ごく普通の家庭に育った、ごく普通の男。それが、周平の自己認識だった。
 特別に不幸というわけではない。給料はそこそこあるし、身体も健康だ。ただ、何かが起こる予感というものが、まるでなかった。目を覚まし、電車に乗り、働き、帰って眠る。その繰り返しの中で、周平はいつからか、自分の人生を「まだ助走の段階にある」と思うようになっていた。本番はこれからだ、と。だが、その「これから」がいつ来るのかは、周平自身にもわからなかった。
 周平には、昔からの癖がある。何か心を動かされることがあっても、「まあ、また機会があるだろう」と自分に言い聞かせて、その場をやり過ごしてしまう癖だ。
 高校三年生のとき、隣のクラスにいた女子生徒に、卒業式の日に告白しようと決めていた。名前は確か、木下といった。図書委員が一緒で、返却期限の過ぎた本の督促状を作りながら、たわいもない話をする仲だった。卒業式の朝、周平はポケットに、前の晩に何度も書き直した便箋を忍ばせていた。式が終わり、教室で最後のホームルームが解散になったとき、木下は少し目を潤ませながら、周平に「今までありがとう、佐伯くん」と声をかけてきた。まさにそのとき、周平の中で、あの馴染みの声が囁いた。――まだ気持ちの整理がついていないかもしれない。今言うより、卒業後に、ちゃんとした手紙で伝えたほうが誠実なんじゃないか。周平はポケットの便箋に触れただけで、結局それを取り出すことはなかった。「こちらこそ、ありがとう」とだけ返して、その場は笑って別れた。手紙は、結局一度も投函されないまま、周平の机の引き出しの奥で、いつしか行方が分からなくなった。二人は別々の大学へ進み、そのまま音信不通になった。
 大学時代、サークルの先輩に誘われた海外インターンの話も、「準備が整ってから」と先延ばしにして、結局立ち消えになった。あとで聞けば、そのインターン先は、今では業界でも有名なベンチャー企業になっていたという。
 社会人になってからも、その癖は変わらなかった。転職エージェントから持ちかけられた、面白そうなベンチャーへの誘いを、二度、丁重に断ったこともある。「今の会社にもう少し慣れてから」という、自分でもよくわからない理由でだ。そのたびに周平は、来るはずのない「次の機会」を、漠然と、しかし確かに信じていた。次はもっとちゃんとした形で、もっと確実なタイミングで、それはやってくるはずだ、と。
 だが実際のところ、次の機会というのは、たいてい前回とは似ても似つかない、まったく別の顔をしてやってくる。あるいは、二度と来ない。周平はまだ、そのことに気づいていなかった。
 その夜、いつものように残業を終えて、駅までの十五分の道を歩いていたとき、周平は初めてそれを見た。
 十一月の終わりの、冷え込む夜だった。夜道に人影はまばらで、コンビニの灯りだけが、やけに眩しく感じられた。前方から、スーツ姿の中年男がひとり、うつむき加減に歩いてくる。ごく普通の、疲れた顔のサラリーマンだった。書類鞄を片手に提げ、もう片方の手をコートのポケットに突っ込んでいる。
 ところが、その男の右肩のあたりに、周平は奇妙なものを見た。
 薄い、水面に張った膜のような、淡く光る何か。人の形をしているようで、していない。輪郭は絶えず揺らめき、街灯の明かりを吸い込んでは、青白く滲むように光っていた。大きさは、成人の頭ふたつ分ほどだろうか。それは、風に流されるでもなく、意思を持ったもののように、ゆっくりと男の歩調に合わせて漂っていた。
 それは男の右肩を、ふわりと、掠めるように通り過ぎた。
 すれ違いざま、周平は思わず振り返った。だが、光の切れ端のようなものは、もうどこにもなかった。ただ、通り過ぎられた男が、ほんの一瞬、足を止め、何かを探すように後ろを振り向いたのが見えた。まるで、耳元で誰かに名前を呼ばれたような、そんな仕草だった。男は結局、辺りを見回した末に、小さく首を振って、また歩き出した。何かを諦めたときの、あの独特の肩の落とし方だった。
 周平はしばらくその場に立ち尽くしていた。酒に酔ってもいないし、寝不足でもない。眼精疲労だろうか、と思い、目を強く瞬かせてみたが、視界は普段通りクリアだった。だが、確かに視た。何かが、あの見知らぬ男の人生の傍らを、静かに通り過ぎていったのを。
 その夜、周平はなかなか寝つけなかった。天井を見つめながら、何度もあの光景を反芻した。あれは一体、何だったのだろう。



二章 視える者
 最初のうち、周平はそれを疲労か、視神経の異常だと思っていた。眼科にも一度行ってみたが、「特に異常は見当たりません」とだけ言われて終わった。心療内科の看板を見て、少し立ち止まったこともあったが、結局、扉をくぐる勇気は出なかった。
 だが、それは電車の中でも、会社の廊下でも、コンビニのレジ待ちの列でも、ふいに現れた。
 淡く光る、人影とも霧ともつかないもの。ほとんどの場合、それはすれ違う誰かの肩のあたりを、ふわりと掠めて、そのまま雑踏に紛れて消えていく。掠められた本人は、たいてい気づかない。談笑しながら歩いていたり、スマートフォンに目を落としていたり、それぞれの日常に忙しく、肩に何かが触れたことにすら気づかない様子だった。ごくまれに、何かを察知したように振り返る者もいたが、それだけだった。彼らはすぐに、また元の歩調に戻っていく。
 周平はその現象に、勝手に「あれ」という呼び名をつけていた。誰かに話せば、頭がおかしくなったと思われるに決まっている。だから周平は、それを胸の内だけに秘めていた。
 ある晩、周平は思い切って、ひとつの実験をしてみた。駅前のロータリーで、若い女性の肩を、あの光がゆっくりと掠めていくのを見たとき、周平は思わず声をかけたのだ。
「あの、すみません」
 女性は怪訝そうに振り向いた。
「何か、忘れ物とか、探し物とか、ありませんか」
 女性はますます怪訝な顔になり、「いえ、特に」と言って、足早に去っていった。周平は、自分の間の抜けた行動に、しばらく赤面していた。光が視えたところで、それが具体的に何を意味するのか、周平自身にもわかっていなかったのだ。ただ、何かを取りこぼそうとしている人に、声をかけずにはいられなかった。
 その一件があってから、周平は「あれ」について、もう少しきちんと知りたいと思うようになった。夜、パソコンに向かって、思いつく限りの言葉で検索してみた。「肩 光 通り過ぎる」「機会 実体 視える」「決定的瞬間 前兆」。ヒットするのは、スピリチュアル系のブログや、占いサイト、あるいは都市伝説をまとめた掲示板ばかりだった。その中に、ごくまれに、周平と似たような体験を語る書き込みがあった。だが、どれも匿名で、真偽の確かめようもなかった。
 面白いことに気づいたのは、二週間ほど経った頃だった。「あれ」が現れる頻度は、人によって明らかに違っていた。ある人の周りには、一度も現れない。またある人の周りには、まるで蝶のように、ひらひらと何度も現れては消えていく。
 たとえば周平の直属の上司、営業課長の田村の周りには、周平が観察する限り、一度もあの光が現れなかった。田村は毎日同じ時間に出社し、同じ喫茶店でコーヒーを飲み、同じ愚痴をこぼす、判で押したような生活を送っている男だった。もしかしたら、そういう人間には、そもそも「あれ」が近寄らないのかもしれない、と周平は考えた。あるいは、田村にはとうの昔に、大きな光が一度だけ巡ってきて、それをきちんと掴んだ結果、今の平穏な生活があるのかもしれない――そんな想像もしてみた。
 逆に、営業部のエース格である関根という同僚の周りには、ほとんど毎日のように光が現れた。それも、周平がこれまで見たどの光よりも、ひときわ大きく、鮮やかだった。
 ある夜、周平は駅裏の路地にある、小さな古書店に迷い込んだ。看板もろくに読めないほど古びた店で、急な雨に降られ、雨宿りのつもりで暖簾をくぐったのだった。店内には、古い紙とかすかな線香の匂いが漂っていた。棚には、タイトルの読めない外国語の本や、絶版になって久しい文庫本が、隙間なく詰め込まれていた。
 店の奥、埃をかぶった文庫本の山の向こうに、白髪を無造作にまとめた老女が座っていた。齢のわからない顔だった。皺は深いのに、目だけが妙に若々しく、こちらの内側を見透かすように光っていた。
「あんた、視えてるね」
 周平が何も言わないうちに、老女はそう言った。
「……何がですか」
「肩をかすめて通り過ぎていくやつだよ。ここ最近、視えるようになったんだろう。顔に書いてあるよ、戸惑いながら世界を見てますって顔だ」
 周平は言葉に詰まった。誰にも話していないことを、なぜこの老女が知っているのか。だが、否定する気にはなれなかった。
「……はい。最近、変なものが視えるようになりました。人の肩を、光みたいなものが通り過ぎていくのが」
 老女は満足げに頷いた。
「やっぱりね。座りな。茶でも淹れてやる」



三章 古書店の老女
 老女は名乗らなかった。周平が尋ねても、「そんなものはとうに忘れた」と、はぐらかされるばかりだった。以来、周平は心の中で、ただ「老女」とだけ呼ぶことにした。
 渋茶をすすりながら、老女は続けた。
「あれには、いろんな呼び方がある。土地によっては『縁(えにし)の霊(たま)』、また別のところでは『刹那』と呼ぶ。学者はそれをオカルトだと笑うし、多くの人間は一生視ないまま死んでいく。だが、まれに視える者が出る。たいてい、何かを一度、目の前で取りこぼした経験がある人間だよ」
「取りこぼした……」
「決定的な瞬間を、な。人生には、そういう瞬間が数えるほどしかない。あんたにも心当たりがあるんじゃないのかい」
 周平の脳裏に、いくつかの顔が浮かんでは消えた。高校時代の彼女になりかけた人、断ったベンチャーの誘い、行きそびれたインターン。答える代わりに、周平は俯いた。
 老女は小さく笑って、湯呑みに渋茶を注いだ。
「あれはね、あんたたちが『機会』と呼ぶものの、正体そのものなんだよ。この世界には、決定的な選択の瞬間というものが、確かに一つの実体としてふわふわと漂っている。それは人から人へ、まるで風に乗る種のようにさまよい歩いて、時々、誰かの肩に触れる。触れられた者は、その瞬間、選択を迫られる。手を伸ばすか、伸ばさないか」
「伸ばさなかったら、どうなるんです」
「そのまま、行っちまうのさ。二度と、同じ形では戻ってこない。似たようなものが、また巡ってくることはあるだろう。だが、まったく同じ『あれ』は、二度とこの世に現れない。一期一会というのは、思っているよりずっと、文字通りの話なんだよ」
 周平は、雨の音を聞きながら、しばらく黙っていた。
「なんで、僕にだけ視えるんですか」
 老女は少し困ったように笑った。
「あんただけじゃないよ。世界中に、ぽつぽつといる。たいてい、臆病な人間だ。手を伸ばすことを恐れて、何かを取りこぼしたことのある人間ほど、よく視える。皮肉なもんだね。取りこぼした痛みが、目を開かせるんだ」
「見えたところで、何がいいんです。掴めなかったものが、視えるだけじゃないですか」
 老女は湯呑みを両手で包み、ふっと目を細めた。
「視えるということはね、佐伯さん――あんた名乗ってなかったが、まあいいさ、顔を見りゃ大体わかる――視えるということは、今度こそ、手を伸ばす機会を、あんたに与えているということだよ。多くの人間は、それが自分の肩を掠めていったことにすら、気づかない。あんたには、それが視える。ただ、視えたからといって、掴めるとは限らない。それがまた、厄介なところなんだがね」
 周平は、なぜ自分の名前を言っていないのに老女が知っているのか、聞きそびれた。後になって、それを聞くべきだったと思うのだが、そのときはただ、目の前の話に気を取られていた。
「一つ、聞いてもいいですか」
「なんだい」
「あなたも、視えるんですか」
 老女は、その問いにだけは、しばらく答えなかった。湯気の向こうで、その目がわずかに遠くを見るような色を帯びた。やがて、ぽつりと言った。
「あたしはね、昔、視えすぎたんだよ。あんまり視えすぎて、どれに手を伸ばせばいいのか、わからなくなっちまった」
「視えすぎる、ということがあるんですか」
「あるとも。あたしの若い頃は、道を歩けば、そこらじゅうにあの光が漂っていた。どれもこれも、輝いて見えてね。ある人と所帯を持つ光、遠い異国で暮らす光、まったく違う生き方をする光。どれも本物に見えて、あたしはどれにも手を伸ばせなかった。全部が惜しくて、結局、一つも掴めなかったんだよ」
「それで……」
「今は、こうして視える連中に、茶を淹れてやることにしてる。それが、あたしなりの、手の伸ばし方なのさ。あんたたちの話を聞いて、時々、余計な一言を挟む。それだけが、今のあたしにできることだからね」
 その言葉の意味を、周平はまだ十分には理解できなかった。だが、なぜかその夜はよく眠れた。
 雨がやんだ帰り道、周平はふと、老女にもう一つだけ尋ねてみたいことがあったのを思い出した。次の週、周平は再び暖簾をくぐった。
「あの、前から気になっていたんですが」
「なんだい」
「これは、いつから、誰が決めたルールなんですか。誰かが、機会というものに、あんな形を与えたんでしょうか」
 老女は、その質問に、珍しく声を上げて笑った。
「あんた、真面目だねえ。誰が決めたかなんて、あたしにわかるわけがないだろう。ただ、こういう話は昔からある。西の国では、それを『扉の番人』と呼んで、扉の前を通り過ぎる旅人の運命を握っていると信じられていた。北の国じゃ、雪原に舞う淡い光がそれだと言われて、狩人たちは、その光を見た日は決して大きな決断をしないようにしていたそうだ」
「文化が違っても、似たような話があるんですね」
「似たようなものが視える人間が、世界中にぽつぽついる、ってだけの話さ。誰が決めたか、なんて詮索するより、目の前を通り過ぎるものに、どう向き合うか。あたしらに考えられるのは、そのくらいのことだよ」
 周平は、その答えに、完全には納得できなかった。だが、それ以上尋ねても、答えが出るものではないということも、なんとなく理解していた。



四章 可南子
 会社の同僚に、宮田可南子という女性がいた。周平よりふたつ年下で、経理部にいる。物静かで、笑うと目尻に小さな皺ができる人だった。派手さはないが、いつも丁寧に仕事をこなす、社内でも評判のいい女性だった。
 周平は、可南子のことを一年ほど前から、なんとなく気にかけていた。「なんとなく」というのが周平らしいところで、それ以上、踏み込んだことは一度もない。給湯室で顔を合わせれば世間話をする程度、社内の飲み会で隣に座ればビールの銘柄について語り合う程度、その繰り返しだった。
 半年ほど前、営業部と経理部の合同で、大口顧客の請求トラブルを処理することになったことがあった。周平と可南子は、たまたま同じ案件を担当することになり、二週間ほど、毎日のように顔を合わせて資料をすり合わせた。可南子は、細かい数字のミスにもすぐ気づく、几帳面なほど丁寧な仕事ぶりで、周平はその集中力に、素直に感心していた。トラブルが無事に片付いた日、二人で近くの喫茶店に入り、遅い昼食をとった。
「佐伯さんと組めてよかったです。適当に流さないで、ちゃんと付き合ってくれる人だから」
 可南子はそう言って、コーヒーカップを両手で包みながら笑った。周平は、その一言を、その後もずっと覚えていた。何気ない一言のはずなのに、なぜか、周平の中で特別な重みを持って残った。
 去年の忘年会で、周平と可南子はたまたま隣同士の席になった。そのとき可南子は、少し酔った勢いで、「佐伯さんって、話しやすいですよね。関根さんとかは、なんかキラキラしすぎてて、こっちが疲れちゃうんですけど」と言ったことがあった。周平はそれを、社交辞令だと思って聞き流していた。だが後になって、あの一言こそが、可南子なりの、小さなサインだったのではないかと、何度も思い返すことになる。
 古書店の一件があってから、周平の中で何かが変わりつつあった。「あれ」が視えるようになったことで、周平は自分の周りにも、無数の「取りこぼされた瞬間」が漂っていることに気づき始めていた。同僚たちの肩を、上司の肩を、通りすがりの学生の肩を、それは絶えず掠めては通り過ぎていく。ほとんどの人間は、気づかない。
 そのことに気づいてから、周平は少しだけ、世界の見え方が変わった気がしていた。誰もが、気づかぬうちに、何かを取りこぼしながら生きている。だとすれば、自分だけが特別に不運なわけではないのかもしれない。そう思うと、少しだけ肩の力が抜けた。
 そして同時に、周平の中には、ある種の焦りも芽生え始めていた。もし本当に、機会というものが二度と同じ形で戻らないのだとしたら、自分は今まで、一体いくつのものを、気づかぬうちに取りこぼしてきたのだろうか。
 年が明けて間もない頃、部署の懇親会で、周平は久しぶりに可南子とゆっくり話す機会を得た。居酒屋の隅の席で、二人はビールを片手に、たわいもない話をした。可南子が最近ハマっている韓国ドラマの話、周平が最近読んだミステリー小説の話。会話は途切れず、時間はあっという間に過ぎた。
「佐伯さんって、意外と話すと面白いですよね。会社だと、あんまり自分から喋らないから、もったいないです」
 可南子はそう言って、少し悪戯っぽく笑った。周平は、その言葉に、柄にもなく胸が高鳴るのを感じた。
 懇親会がお開きになったあと、周平と可南子は、たまたま最寄り駅までの帰り道が同じ方向だった。夜道を並んで歩きながら、可南子はふと、空を見上げて言った。
「今日、月がきれいですね」
「本当だ」
「佐伯さんって、こういうとき、あんまり気の利いたこと言わないタイプですよね」
「……すみません」
「謝らなくていいですよ。むしろ、そういうところが、なんか安心するっていうか」
 可南子はそう言って、少し早足になった。周平はその背中を追いかけながら、何か言葉を返したいと思ったが、結局、当たり障りのない相槌を打つだけで、駅に着いてしまった。「また月曜日に」と手を振る可南子を見送りながら、周平は、今この瞬間にも、何かが自分の肩のすぐそばを漂っているのではないかと、ふと辺りを見回した。だが、その夜は、何も視えなかった。
 ある金曜日の夕方、残業帰りにエレベーターホールで、周平は可南子とふたりきりになった。
「佐伯さん、今日も遅いんですね」
「宮田さんも」
「月末なので……経理はこの時期、地獄です」
 そう言って可南子は、小さく笑った。エレベーターを待つ間、二人の間には、心地よい沈黙があった。窓の外には、夜のオフィス街の灯りが、ぽつぽつと灯っていた。
「佐伯さんって、休みの日は何してるんですか」
「特に何も。本屋に行ったり、散歩したり」
「なんか、意外と絵になりますね、それ」
 可南子がそう言って笑ったとき、周平は視た。
 可南子の右肩の少し上に、あの淡い光の膜が、ふわりと漂っているのを。それはこれまで見たどの「あれ」よりも、はっきりとした輪郭を持っていた。まるで、こちらの視線に応えるように、ゆらゆらと形を変えている。心臓が、一瞬、大きく跳ねた。
 周平は、生まれて初めて、それに向かって手を伸ばしかけた。
 だが、伸ばしかけた指先が止まった。
 ――もし、これを掴んだとして、僕でいいんだろうか。宮田さんには、もっとふさわしい相手がいるんじゃないだろうか。関根さんみたいな、もっと堂々とした男のほうが、宮田さんには似合うんじゃないだろうか。それに、忘年会でのあの一言だって、ただの酔った勢いだったかもしれないし……。
 そんな考えが、次から次へと頭をよぎった。周平の手は、宙で止まったまま、結局、下ろされた。代わりに周平は、少し照れたように、鞄の持ち手を握り直した。
 エレベーターの扉が開き、二人は乗り込んだ。可南子の肩の光は、まだそこにあった。周平が見ている間、それは辛抱強く漂い続けていた。まるで、周平が本当に手を伸ばすかどうかを、試すように。
 一階に着き、扉が開いた瞬間、光はふっと薄れて消えた。可南子は「お先に失礼します」と会釈をして、雨の降り始めた夜の中へと歩いていった。
 その夜、周平は古書店を訪ねた。老女はまだ起きていて、当然のように周平を迎え入れた。
「今日、視た」
 周平がそう言うと、老女は驚きもせずに頷いた。
「掴めなかったんだろう。その顔でわかるよ」
「……なんでですか」
「あれが視える者には、もうひとつ、厄介な性質がある。視えるということは、選択肢がいくつも視えてしまうということでもあるんだよ。あんたには、宮田可南子という女性の肩だけじゃなく、この先、彼女の周りに漂うだろう、もっと別の可能性まで、うっすらと予感できてしまう。視えない人間なら迷わず手を伸ばすところを、視える人間はつい、立ち止まって考えてしまうのさ。『もっと良いものが、まだどこかにあるんじゃないか』とね」
 周平は黙り込んだ。老女の言葉は、あまりに正確に周平の胸の内を言い当てていた。
「それは、呪いなんですか」
「贈り物でもあり、呪いでもある。多くを視える者ほど、多くを取りこぼす。因果な話さ」
 老女はそこで、少し声を落として付け加えた。
「だがね、佐伯さん。覚えておきな。『もっと良いもの』というのはね、たいてい、ただの幻さ。実際には存在しない、視える者だけが見る蜃気楼のようなもんだ。目の前の光より良い光なんて、探している間は、いつまでたっても見つからない」



五章 関根の影
 宮田可南子の周りには、関根という男がいた。
 営業部のエースで、背が高く、話術も巧みで、誰からも好かれる質の男だった。周平とは正反対のタイプだ。関根が可南子に興味を持っていることは、部内でも半ば公然の秘密だった。飲み会の席で、関根がさりげなく可南子の隣に座るのを、周平は何度も目にしていた。
 周平は、その事実を知っていながら、なぜか動けずにいた。「あれ」が視えるようになってから、周平の逡巡は、以前にも増して深くなっていた。視えるということは、考える材料が増えるということでもあった。そして考える材料が増えれば増えるほど、周平は決断から遠ざかっていった。
 ある日、周平は関根の肩のあたりにも、あの光が漂っているのを見た。関根の場合、それは周平が見たどの「あれ」よりも、大きく、輝きが強かった。おそらく関根には、無数の選択肢が絶えず巡ってきているのだろう。だからこそ関根は、迷わない。迷う前に、次から次へと手を伸ばしていく。掴めなかったものがあっても、また別の光が、すぐにやってくることを、関根は本能的に知っているのだ。
 ――そこそこモテる男というのは、きっとこういうことなんだ。
 周平は、古書店の老女にそのことを話した。
「関根みたいな男には、いつも次の光がやってくる。だから、一つや二つ、取りこぼしても平気なんだ。でも、僕みたいな人間には、光そのものが、めったに巡ってこない」
 老女は、少し呆れたように周平を見た。
「それは思い違いだね、佐伯さん」
「違うんですか」
「光の数は、みんなにそう変わらないよ。ただ、視えない人間は、それを取りこぼしたことにすら気づかないから、平気で次に進める。関根とかいう男も、きっといくつも取りこぼしているはずだ。ただ、視えないから、悔やまずに済んでいるだけのことさ。あんたは視えるぶん、取りこぼした痛みを、いちいち覚えていなくちゃならない。それだけの違いだよ」
「それなら、視えないほうが、幸せだったんじゃないですか」
 老女はそれには答えず、ただ渋茶をすすった。しばらくして、ぽつりと言った。
「幸せかどうかは知らないよ。だがね、視えるということは、少なくとも、選ぶ機会が残されているということだ。視えない人間は、選ぶことすらできずに、ただ流されていくだけなんだよ」
 その頃、会社では、来期の展示会に向けた合同プロジェクトが立ち上がり、営業部と経理部の一部が、二泊三日で大阪への出張に出向くことになった。周平と可南子、そして関根も、そのメンバーに含まれていた。
 出張先のホテルの近くで、夕食のあと、有志で近くの居酒屋に立ち寄る流れになった。周平は、末席のほうで、あまり喋らずにグラスを傾けていた。ふと視線を上げると、少し離れたテーブルで、関根が可南子に何やら熱心に話しかけているのが見えた。可南子は、時折頷きながら、楽しそうに笑っていた。
 周平の隣に座っていた同僚が、からかうように言った。
「佐伯、宮田さんのこと気になってんだろ。見てりゃわかるよ」
「そんなんじゃないよ」
「なら、いいけどさ。関根、あの調子だと、そのうち本気出すぞ」
 周平は苦笑いで誤魔化したが、内心では、その言葉が棘のように残った。その夜、ホテルの部屋に戻ってから、周平は窓の外の見知らぬ街の灯りを、しばらく眺めていた。行動すべきだ、という思いと、まだ何も確定していない、という言い訳が、頭の中で交互に浮かんでは消えた。結局、周平はその夜も、何も行動を起こさなかった。
 出張から戻ってしばらく経った、ある残業帰りのことだった。周平は、可南子と関根が連れ立って会社を出ていくのを見た。二人は笑いながら、駅の方向へ歩いていった。可南子の右肩のあたりで、あの光が、揺れながらついていくのが見えた。
 周平は、追いかけなかった。
「まだ、決まったわけじゃない」と、心の中で呟いた。いつもの癖だった。「また機会があるさ」――そう自分に言い聞かせて、周平はその場に立ち尽くしたまま、二人の背中が雑踏に紛れて見えなくなるのを、ただ見送った。



六章 通り過ぎるもの
 それから一ヶ月ほどが過ぎた。
 周平と可南子との間に、これといった変化はなかった。相変わらず、廊下ですれ違えば挨拶を交わし、たまに給湯室で二言三言、言葉を交わす程度の関係だった。周平はそれを、まだ猶予があることの証だと思い込んでいた。
 だが、その裏で、可南子と関根の距離は、着実に縮まっていた。社内の噂では、二人は何度か二人きりで食事に行っているらしい、という話も耳に入るようになった。周平はそのたびに、胸の奥がざわつくのを感じながらも、「まだ、噂に過ぎない」と自分に言い聞かせていた。
 ある雨の夕方、周平は会社のロビーで、可南子と関根が並んで傘の下に入るのを見た。二人の距離は、以前よりも明らかに近かった。関根が何か言い、可南子が顔を赤らめて笑う。その仕草には、これまで周平が見たことのない親密さがあった。
 そのとき、周平は視た。
 可南子の肩の光が、これまでにない強さで輝きながら、ゆっくりと、関根の肩の方へ、流れるように動いていくのを。まるで二つの光が、互いに引き寄せられるように溶け合っていく。それは、周平がこれまで目にしてきたどの光景よりも、静かで、そして残酷なほど美しかった。
 周平は、その光景から目を離せなかった。足が竦んで、動けなかった。声をかけようにも、かける言葉が見つからなかった。頭の中では、無数の言い訳が渦を巻いていた。今ここで声をかけたところで、何になる。今さら「実は自分も」などと言い出せば、二人の間に気まずい空気を作るだけではないか。可南子はもう、関根のことを選びかけているのではないか。そもそも、自分にそんな資格があるのか――。
 そうしているうちに、関根は可南子の肩を軽く抱くようにして、二人で傘の下、雨の中へと歩き出した。周平は、ロビーのガラス越しに、その後ろ姿が遠ざかっていくのを、ただ見ていることしかできなかった。手を伸ばす、という選択肢は、もはや自分の中に存在しないことを、周平ははっきりと悟った。もう遅い。今さら間に入る資格など、自分にはない。
 ――ああ、これが、最初で最後だったんだ。
 古書店の老女の言葉が、頭の中でこだました。「同じ形では、二度と戻ってこない」。
 その夜、周平は無我夢中で古書店へ向かった。雨に濡れながら、暖簾をくぐる。老女はいつものように、店の奥に座っていた。
「取りこぼしたね」
 周平が何も言わないうちに、老女はそう言った。周平は崩れるように、店先の古い木の椅子に座り込んだ。傘から滴る雨水が、古い床板に小さな染みを作った。
「僕は、一体何を見誤ったんでしょう」
「あんたはね、佐伯さん。目の前にある光よりも、まだどこかにあるかもしれない、もっと大きな光ばかりを探していた。だが、あれは追いかけて探すものじゃない。向こうから、肩を掠めていくものなんだよ。目の前を通り過ぎるときに、手を伸ばすかどうか――それだけの話さ」
「じゃあ、僕はもう」
「宮田可南子という一つの光は、もう戻らない。それは事実だ。あんたはそれを、目の前で取りこぼした。悔やんでいい。悲しんでいい。それは、あんたが本当に、あの光を大切に思っていたということの証でもあるんだから」
 老女は湯呑みを置き、初めて、少し優しい声で言った。
「だがね、佐伯さん。あんたは思い違いをしている」
「何をです」
「光は、彼女一人じゃない。あんたの周りには、まだいくつも、これから巡ってくる光がある。ただ、次に巡ってきたときも、あんたが同じように『もっと良いものがあるかもしれない』と考えて立ち止まるなら――結局、同じことの繰り返しになるだろうね」
 周平は、その言葉を、その夜はまだ、うまく飲み込むことができなかった。ただ、雨の音を聞きながら、可南子の肩から関根の肩へと流れていった、あの光の残像だけを、いつまでも思い出していた。



七章 視えすぎる代償
 それから周平は、しばらく仕事にも身が入らなかった。見積書の数字を何度も打ち間違え、上司の田村に「らしくないな、佐伯」と声をかけられる始末だった。
 そんなある夜、周平は再び古書店を訪ねた。今度は、何か答えを求めてというよりも、ただ誰かと話がしたかっただけかもしれない。
 店には、先客がいた。周平と同年代らしき、冴えない身なりの男だった。カウンターの隅で、老女相手に、ぼそぼそと何かを話し込んでいる。
「――だから、あのときはっきり言ってりゃよかったんです。でも、なんとなく、まだ早いかなって」
「そういうのを、世間じゃ後悔って言うんだよ」
 老女がそう言うと、男は力なく笑った。周平は、なんとなく、彼にどこか自分と似たものを感じた。
 その夜、老女は珍しく、周平にひとつの話を聞かせてくれた。
「あんたにはまだ話してなかったが、『あれ』にはもう一つ、面白い性質がある。あれは、通り過ぎたあとも、完全に消えてなくなるわけじゃない。ただ、この世からは視えなくなるだけだ。行き場を失った機会は、どこか遠いところに溜まっていく。そういう場所があるらしい、というのが、視える者たちの間の言い伝えだよ」
「溜まって、どうなるんです」
「知らないよ、あたしにも視えないところだからね。ただ、こういう話をする者もいる。取りこぼされた機会は、いつか、また少しだけ形を変えて、別の誰かの肩を掠めることがある、と。同じものじゃない。でも、どこか似た手触りをした、別の光としてね」
 その帰り道、周平はふと、以前見つけたあの匿名掲示板のことを思い出し、家に帰ってからもう一度、検索をかけてみた。すると、以前は見つからなかった、比較的新しい書き込みが一つ、目に留まった。
「肩の光について、知っている人はいますか。自分は数年前から視えるようになりました。海外にも似たような話があるようです。フランスでは『通り過ぎる恋人(アマン・ドゥ・パサージュ)』、南米のある地域では『二度目のない鳥』と呼ぶ地方もあるとか。誰か詳しい人がいたら、情報交換したいです」
 投稿には、いくつかの返信がついていたが、どれも噂の域を出ないものばかりだった。それでも周平は、自分と同じものを視ている人間が、この国だけでなく、世界のあちこちにいるのだという事実に、不思議な安堵を覚えた。自分は決して、頭がおかしくなったわけではない。ただ、多くの人間が気づかずに生きている何かに、たまたま気づいてしまっただけなのだ。
 翌日、周平はそのことを老女に話してみた。老女は、興味深そうに耳を傾けたあと、静かに言った。
「そういう話は、あたしも昔、旅の商人から聞いたことがあるよ。世界のどこでも、似たようなものが視える人間が、一定数いるらしい。おそらく、これは、この国だけの話じゃないんだろうね」
「なぜ、そんなものが、世界中に存在するんでしょうか」
「さあね。あたしにわかるのは、それが確かに『在る』ということだけだ。理由を知ったところで、あんたが手を伸ばす勇気を持てるようになるわけじゃない。それより、目の前のことを考えな」
 周平は、その話に、かすかな希望を見出そうとした。だが老女は、それを見透かしたように、釘を刺した。
「勘違いするんじゃないよ。それは、宮田可南子という一つの光が、あんたのところに戻ってくるという意味じゃない。あの光は、もう関根とかいう男の隣で、別の形に変わろうとしている。あんたに巡ってくるとしたら、それはまったく別の、新しい光だ。過去の焼き直しを期待している限り、あんたはまた同じ失敗を繰り返すよ」
 周平は俯いた。頭ではわかっていても、心のどこかで、まだ可南子を諦めきれずにいる自分がいた。
「一つ、教えてください。あなたが昔、掴めなかった光というのは、どんなものだったんですか」
 老女は、しばらく黙っていた。店の隅の古時計が、こつり、こつりと音を立てていた。
「昔、ある男がいてね。あたしと同じ村の出で、幼馴染だった。あたしにその男の肩の光が視えたとき、あたしにはもう一つ、別の男の肩にも、負けないくらいの光が視えていた。町から来た、羽振りのいい商人の息子でね。あたしは、どっちがより幸せになれるか、何年もかけて考え続けた。考えているうちに、幼馴染のほうは、隣村の娘と所帯を持った。商人の息子のほうも、結局、別の家の娘を娶った。あたしのところには、どちらの光も、二度と戻らなかったよ」
「それから、どうしたんですか」
「一人で生きることにした。それだけの話さ。後悔していないと言えば嘘になる。だが、後悔しながらでも、生きていくことはできる。あんたにも、それはできるはずだよ」
「じゃあ、僕はどうすればいいんですか」
 老女は、湯呑みの底に残った渋茶を見つめながら、静かに言った。
「視えることを、恨むのはおよし。あんたは、多くの人間が気づかずに終わる大切なものに、気づくことができる。それは決して、悪いことじゃない。ただ、視えたものに手を伸ばす勇気だけは、あんた自身が持たなくちゃいけない。それだけは、あたしにも、誰にも、代わってやることができないのさ」
 先客の男が、ふと口を挟んだ。
「僕も、最近ようやく、その意味がわかってきた気がします。視えることを言い訳にして、動かないことを正当化してただけなんじゃないかって」
 周平は、その言葉に、思わず顔を上げた。
 先客の男――柏木は、その日、店を出たあと、珍しく周平を近くの居酒屋に誘った。カウンターだけの小さな店で、二人はビールを片手に、少しずつ、互いの身の上話をした。
 柏木は、地方の小さな町の出身だった。高校時代に付き合っていた彼女がいたが、大学進学を機に、東京と地元とで遠距離になった。「そのうち、どっちかが折れて、一緒に暮らせるようになるだろう」と、柏木は漠然と考えていたという。だが、彼女のほうが先に、地元に残る決断をし、地元の幼馴染と結婚した。柏木がそのことを知ったのは、共通の友人の結婚式の二次会でだった。
「あのとき、彼女の肩に、光みたいなものが視えたんですよね、実は。まだ『あれ』が何なのか、よくわかってなかった頃なんですけど。今にして思えば、あれが、僕にできた最後のチャンスだったんだと思います」
「柏木さんは、それから、何か変わりましたか」
 柏木は、少し考えてから答えた。
「変わった、と言えるかどうか。ただ、この間、会社の後輩の女の子に、思い切って食事に誘ってみたんです。前だったら、絶対に『まだ早いかな』って先延ばしにしてたと思うんですけど」
「どうなったんですか」
「あっさり、いいですよって言われました。拍子抜けするくらい」
 柏木はそう言って、照れくさそうに笑った。周平は、その話に、小さな驚きと共に、かすかな希望のようなものを感じた。視えるということは、必ずしも取りこぼすことだけを意味するわけではないのかもしれない。ほんの少し、勇気を出して手を伸ばしてみれば、案外あっさりと、光を掴めることもあるのかもしれない。



八章 ご同輩
 周平は、それから半年ほど、古書店に通い続けた。
 老女から聞いた話によれば、「あれ」が視える者は、世界中に、ぽつぽつと、しかし確かに存在するという。多くは周平と同じように、一度大きなものを取りこぼした経験を持つ、ごく平凡な人間たちだった。
 古書店には、時折、そうした「視える者」たちが立ち寄った。会社帰りのサラリーマン、大学を出たばかりの若者、定年を迎えたばかりの老人。年齢も立場もばらばらだったが、彼らにはどこか共通する空気があった。控えめで、優しくて、そして少しだけ、諦めが早い。
 例の、先に古書店で出会った男とは、その後も何度か顔を合わせるようになった。名前は柏木といった。周平よりひとつ年上で、地方から出てきて、小さな不動産会社で働いているという。
 柏木もまた、かつて一つの光を、同じように取りこぼしていた。理由も、周平とよく似ていた。「もっと良い人が、まだどこかにいるんじゃないか」――そう思って、目の前の光をないがしろにしてしまったのだと、柏木は笑いながら話した。自嘲するような、それでいてどこか安堵したような笑い方だった。
「僕らみたいなのは、たぶん、これからも同じ失敗をするんでしょうね」と、柏木が言った。
「かもしれませんね」
「でも、不思議なもんです。こうして誰かと、その話ができるだけでも、少し救われる気がします。周りを見渡してみれば、見た目のいい男ほど、堂々と手を伸ばしていく。そうじゃない男ほど、僕らみたいに、あとになって後悔してる。そういうもんなんですかね」
 周平は、何と答えていいかわからず、ただ頷いた。だが、その夜、家に帰る道すがら、周平はふと思った。
 ――同じ失敗をするかどうかは、まだわからない。少なくとも今は、自分が何を見誤りやすいか、知っている。柏木さんも、僕も、そしておそらく世界中にいる名も知らぬ「ご同輩」たちも。
 それは慰めにはならなかったが、かすかな灯りのようなものだった。
 宮田可南子は、それからしばらくして、関根と正式に付き合い始めたと、部内の噂で聞いた。周平は、その報せを、思っていたよりも静かな気持ちで受け止めた。悲しくないわけではなかった。胸の奥に、鈍い痛みは確かにあった。だが、それはもう、覆しようのない、確かな過去になっていた。
 周平はその晩、久しぶりに、可南子に対する気持ちに、きちんと区切りをつけようと決めた。未練を断ち切る、というよりも、あの光を、大切な思い出として、自分の中にそっとしまっておくことにした。



九章 新しい部署
 年度が変わり、周平に思いがけない辞令が下りた。営業部から、新設された企画開発部への異動だった。田村は「もったいないな」と言いながらも、どこか嬉しそうに送り出してくれた。
 新しい部署は、社内でもまだ数人しかいない、小さなチームだった。周平はそこで、これまでとはまったく違う仕事――若い世代向けの新しい印刷サービスの企画――に携わることになった。慣れない業務に戸惑いながらも、周平は不思議と、以前よりも前向きな気持ちで日々を過ごしていた。
 企画開発部のオフィスは、本社ビルの五階の隅にあり、他の部署に比べて、どこか自由な空気が漂っていた。デスクの配置も固定されておらず、壁には過去の企画のポスターや、若手社員が持ち寄ったという観葉植物が並んでいた。周平は最初、その雰囲気に馴染めず、居心地の悪さを感じていた。だが、日が経つにつれて、少しずつ、その空気に慣れていった。
 新しい部署には、中途採用で入ってきたばかりの女性がいた。名前は野々村といい、以前はデザイン事務所で働いていたという。物おじせず、はきはきとものを言うタイプで、周平とはまるで違う気質の持ち主だった。
 初めて顔を合わせた日、野々村は周平にこう言った。
「佐伯さんって、なんか、じっくり考えてから喋るタイプですね。嫌いじゃないです、そういうの」
 周平は、少し面食らいながらも、「そうですかね」とだけ返した。柏木や老女と過ごした日々のおかげか、周平は以前より、自分の胸の内を少しだけ、素直に言葉にできるようになっていた。
「野々村さんは、逆に、思ったことすぐ口に出すタイプですよね」
「バレました? よく言われます。考えすぎるより、まず動いちゃうタイプなんで」
 その会話は、ただの雑談として終わった。だが、その夜、周平は久しぶりに、あの淡い光を、遠くに感じるような気がしていた。まだ、はっきりと視えたわけではない。ただ、何かが、少しずつ近づいてきているような、そんな予感だった。
 周平は、その予感に、すぐに「恋愛の光だ」と決めつけることはしなかった。老女の言葉を思い出したからだ。――光は、必ずしも恋の光とは限らないよ、佐伯さん。それは新しい仕事の縁かもしれないし、一生続く友情の始まりかもしれない。あるいは、まったく別の、名前のつかない何かかもしれない。光の色や形だけでは、それが何になるのか、視える者にすら判別できないのだと、老女は言っていた。だから周平は、それを焦って恋愛だと決めつけず、ただ、丁寧にその気配を見守ることにした。
 それから数週間、周平と野々村は、企画の打ち合わせを通じて、少しずつ言葉を交わす機会が増えていった。野々村は、周平が考えを言葉にするまでじっと待ってくれるところがあり、周平は、そんな野々村の隣だと、不思議と自分の意見を素直に口にできることに気づいた。
 ある日の昼休み、屋上の休憩スペースで、野々村がふと、少し声のトーンを落として言った。
「実は、前の職場のつながりで、来年、海外のデザインスタジオで働かないかって誘われてるんです。まだ迷ってるんですけど」
 周平は、思いがけない話に、言葉に詰まった。
「行くつもり、なんですか」
「わかりません。正直、心が半分くらい向いてます。でも、もう半分は、ここでの仕事も、なんか、悪くないなって思い始めてて」
 野々村はそう言って、少し困ったように笑った。周平は、その日一日、その話が頭から離れなかった。せっかく近づいてきたと思った光が、実はまったく別の場所へ流れていく途中の、通過点に過ぎないのかもしれない。そう思うと、以前の、可南子のときと同じ怯えが、胸の奥にちらついた。だが今度の周平は、その怯えに、すぐには屈しなかった。掴めるかどうかわからないからといって、手を伸ばさない理由にはならない――老女の言葉を、そう自分なりに読み替えていた。
 それから数日後の昼休み、同じ屋上で缶コーヒーを飲んでいたとき、野々村がふと尋ねた。
「佐伯さんって、彼女とか、いるんですか」
 唐突な質問に、周平は思わず言葉に詰まった。
「いや、今は……いません」
「そうなんですね。なんか、大事にしてる人がいそうな雰囲気あったから、聞いてみました」
 野々村はそう言って、あっさりと話題を変えた。周平は、その一言の意味を、その日一日、何度も考えることになった。だが今度ばかりは、「考えすぎて機会を逃す」といういつもの癖に、自分から気づくことができた。
 数日後、周平は思い切って、野々村を、企画の参考になりそうな展示会に誘ってみた。仕事の口実だったが、誘う瞬間、確かに手のひらに汗をかいていた。
「いいですね、行きましょう」
 野々村は、拍子抜けするほどあっさりと頷いた。周平はそのとき、視た。野々村の肩のあたりに、まだ小さいけれど確かな、淡い光が灯るのを。それは急いで掴むには早すぎる、これから育っていく光のようだった。周平は、今度はそれを、慌てて手繰り寄せようとはしなかった。ただ、丁寧に、少しずつ、その光との距離を縮めていこうと決めた。
 展示会の当日、二人は仕事の話もそこそこに、会場を巡りながら、いろいろな話をした。野々村は、以前のデザイン事務所での失敗談を、笑いながら話してくれた。周平も、珍しく自分から、学生時代の話を少しだけ打ち明けた。木下という同級生に手紙を渡せなかった話も、少しぼかしながら話した。
「なんか、佐伯さんらしいですね、それ」
 野々村は、笑いながらも、どこか優しい声でそう言った。
「今度は、ちゃんと渡せるといいですね。手紙かどうかは知りませんけど」
 その言葉が、自分に対する遠回しな合図なのか、それとも単なる一般論なのか、周平にはまだ判断がつかなかった。だが、会場を出て、夕暮れの空の下を並んで歩きながら、周平は今度こそ、この時間を、ただ「また今度」で終わらせたくないと、強く思った。
 帰り道の途中、二人は小さな公園のベンチで、少し休憩することにした。空はちょうど、茜色から藍色へと変わりかけている時間だった。
「また、こういう機会あったら誘ってくださいね」野々村がそう言ったとき、周平はまた、あの光を視た。前よりも、はっきりと。
「あの、野々村さん」
「はい?」
「今度、仕事とは関係なく、食事にでも行きませんか」
 言い終えた瞬間、周平の心臓は、痛いくらいに脈打っていた。野々村は、一瞬きょとんとした顔をしたあと、ゆっくりと笑った。
「はい、喜んで」
 その返事を聞いた瞬間、周平の視界の中で、あの光が、ふわりと、まるで安悼するように揺れたのが見えた。それは、消えていくのではなく、むしろ、そこに根を張るように、静かに輝きを増していった。
 それでも、海外スタジオの話が消えたわけではなかった。野々村は、その後も時々、「まだ迷ってるんですよね」と、冗談まじりに口にした。光が視えたからといって、この先どうなるかまで、周平にはわからなかった。だが周平は、もうそのことに、以前のように怯えなかった。掴めるかどうかわからないまま、それでも手を伸ばし続けること。そのこと自体に、意味があるのだと、今の周平にはわかっていた。
 周平は、それを急いで追いかけようとは思わなかった。ただ、次にそれが本当に肩を掠めるときには、今度こそ、迷わずにいたいと思った。



エピローグ 陽はまた昇る
 冬が終わり、春が近づいたある朝、周平はいつもより少し早く目を覚ました。
 カーテンの隙間から、白い光が差し込んでいた。周平は珍しく、ベランダに出てみた。まだ空の低いところに雲が残っていたが、その向こうから、太陽が静かに顔を出そうとしていた。
 その瞬間、周平は視た。
 朝の光に紛れるようにして、あの淡い膜のようなものが、ベランダの手すりのあたりを、ゆっくりと漂っているのを。それは、これまで周平が視てきたどの光ともまた違う、静かで穏やかな輝きを放っていた。攻撃的でも、儚げでもない。ただ、そこに、静かに在るというような光だった。
 まだ、それが誰の――何の機会なのかは、周平にはわからなかった。もしかしたら、それは野々村という、新しく現れた人との、まったく新しい出会いの予兆かもしれない。あるいは、これまで見過ごしてきた、身近な何かに対する、もう一度のチャンスなのかもしれなかった。今日は、新しい部署での、初めての企画会議がある日だった。そこには、まだ知らない可能性が、いくつも待っているはずだった。
 周平は、もう「また機会があるさ」とは思わなかった。
 代わりに、ゆっくりと、手を伸ばしてみた。光はまだ、そこにあった。逃げもせず、急かしもせず、ただ周平の指先が届くのを待っているようだった。掴めるかどうかは、わからない。今度もまた、取りこぼしてしまうかもしれない。だが、少なくとも今度は、迷う前に、手を伸ばすことができた。
 昇りゆく朝日が、周平の伸ばした指先を、静かに照らしていた。
 まだ何も、始まってはいない。だが、何かが終わったわけでもなかった。
 周平は、ふと、古書店の老女のことを思い出した。この数ヶ月、足が遠のいていたが、今度、野々村との顛末を、報告がてら話しに行こうと思った。
 その週末、周平は久しぶりに、駅裏の路地を歩いた。だが、いつもの角を曲がっても、見慣れた暖簾が見当たらなかった。古書店があったはずの場所には、ただの空き店舗があるだけだった。埃をかぶった文庫本の山も、渋茶の匂いも、あの古びた看板も、まるで最初から存在しなかったかのように、跡形もなく消えていた。
 周平は、しばらくその場に立ち尽くした。近所の人に尋ねてみたが、「そんな店、この辺りにあったかねえ」と、要領を得ない返事が返ってくるだけだった。
 諦めて帰ろうとしたとき、周平は、店があったはずの場所の隅に、一冊だけ、古びた本が置かれているのに気づいた。表紙には何も書かれていない。周平は、吸い寄せられるようにそれを手に取り、開いてみた。
 中のページは、ほとんどが白紙だった。ただ、真ん中あたりのページに、一行だけ、細い字でこう書かれていた。
――今度は、見送らなかったね。
 周平は、その一文を、何度も読み返した。誰が書いたのか、いつ書かれたのか、確かめる術はなかった。だが、なぜかそれを疑う気にはなれなかった。周平は、その本をそっと鞄にしまい、来た道を引き返した。あの店が、これから先も現れることがあるのかどうか、周平にはわからなかった。ただ、あの老女が、どこかで、今の周平を見ていてくれたような気がして、それだけで、胸の奥が少しだけ、温かくなった。
 太陽は、ゆっくりと、雲の切れ間から顔を出しつつあった。街全体が、少しずつ、朝の色を取り戻していく。遠くの駅のほうから、始発電車の音がかすかに響いてきた。今日も、いつも通りの一日が始まる。だが、周平の中では、何かが確かに、昨日までとは違っていた。
――陽は、また昇る。
 その光は、また新しく、誰かの、あるいは周平自身の、肩のあたりを、そっと掠めていこうとしていた。そして今度こそ、周平はそれを、見送るだけでは終わらせないつもりだった。
 世界中の、どこかの街角でも、きっと今この瞬間、同じような光が、誰かの肩を掠めている。多くの人は気づかず、いつものように通り過ぎていくだろう。だが、ほんの少しだけ、手を伸ばす者がいる。それだけで、世界は、ほんの少しだけ、優しいものに変わるのかもしれない。
 周平は、そんなことを思いながら、朝日に向かって、大きく伸びをした。

(了)


アマゾン キンドル



あとがき
 私たちは日々、仕事や人間関係、あるいは日常のふとした選択の中で、「今踏み出すべきか」「もう少し準備が整ってからのほうがいいのではないか」と迷いながら生きています。
 主人公の周平と同じように、「また次の機会があるはずだ」と自分に言い聞かせて通り過ぎた体験は、誰の胸の中にも一つや二つはあるのではないでしょうか。私自身、過去を振り返ったときに「あの時手を伸ばしていれば」と思う瞬間が何度もあります。
 作中で古書店の老女が言うように、過ぎ去ったまったく同じ機会は二度と戻りません。しかし、だからといって人生が終わるわけでもありません。学んだ後悔を抱えながら、次に肩を掠める新しい光に対して、不器用でも手を伸ばすこと――それこそが生きるということなのだと感じます。
 この物語が、いま何かを迷っている方の背中を、ほんの少しだけ優しく押すきっかけになれば幸いです。

時間、量り売りにつき
――何者でもない男の、実に不思議で、そこそこ滑稽な物語――



まえがき
人生の折り返し地点を過ぎたあたりから、ふと「自分はこれまで何をしてきたのだろう」「結局、何者にもなれなかったのではないか」という思いが頭をよぎることがあります。
若かりし頃の熱量や志、先立っていった友人たちへの焦燥感、そして少しずつ変化していく自分の身体。そうした目に見えない人生の重みを、もしも「グラム」で量れる機械があったとしたら――。
この物語は、そんなくだらない思いつきから生まれた、少し不思議で、そこそこ滑稽な物語です。肩の力を抜いて、温かいお茶でも飲みながらお付き合いいただければ幸いです。




序章 残り時間、軽量につき
その日、何野某夫(なにの・なにがしお)は、いつものように駅前の神社で手を合わせていた。
祈る内容はいつも同じ、三点セットだ。健康、安全、安定。欲張りではない。むしろ謙虚な部類だと自分では思っている。世界征服とか、宝くじ十億円とか、そういうことは一切祈らない。ただ、無事に生きていたいだけなのだ。
ところがその朝、賽銭箱の横に見慣れない機械が設置されていた。
「タイム量り機 ―ご自身の残り時間を計測します― 1回200円」
某夫は財布から小銭を出しながら、心の中で呟いた。
(また変な自販機商法か。神社もついに副業を始めたか)
しかし、賽銭箱に金を入れるのも自販機に金を入れるのも大差ないような気がして、彼は硬貨を投入した。
機械はピカッと光り、レシートのような紙切れを一枚吐き出した。そこにはこう書かれていた。
「あなたの残り時間:23.6グラム(規定より軽量です)」
某夫は首をかしげた。時間はグラムで量るものだったのか。首をかしげる「規定より軽量」とは、一体どういう意味なのか。
彼が紙切れをじっと見つめていると、背後で声がした。
「ああ、それは軽いですねえ。普通、還暦過ぎだと40グラムはあるはずなんですが」
振り返ると、白い作業着姿の老人が、まるで電気メーターの検針員のような佇まいで立っていた。
「あなたは……?」
「時間検針員です。略して“検針さん”と呼ばれています。国から――というか、あちら側の役所から派遣されております」
某夫は、自分の人生がとうとう本格的におかしくなってきたことを悟った。



一章 あちら側公社、時間管理課
検針さんに連れられて、某夫は神社の裏手にある古びた社務所の扉に向かった。破れた障子に「本日休館」と書かれた札が揺れる寂れた扉だ。しかし、ギギギと重い金属音を立てて開いた扉の向こうには、蛍光灯がジジ……と点滅する、昭和感あふれる役所の窓口が広がっていた。
「あちら側公社 時間管理課」
看板にはそう書かれている。
「ここは……天国の役所、ということですか」
「天国というと語弊があります。正確には“あちら側”。こちら側の対になる場所で、行政区分としては第七霊界特別区に属しております」
検針さんはカウンターの向こうに座り、書類をめくりながら淡々と説明を始めた。
「某夫さん。あなたの人生における“残り時間”が異常に軽い件について、ご説明差し上げます」
「はあ」
「人はですね、生まれたときに“時間”という名の、目に見えない重りを渡されるのです。この重りは本来、生きるほどに“経験”という名の鉛が詰まって、どっしり重くなっていくものなんですが」
「なるほど」
「某夫さんの場合、40年以上生きてきたにもかかわらず、時間袋の中身がスカスカです。原因を調べたところ――」
検針さんは一枚の書類を突き出した。そこには大きくこう書かれていた。
「原因:“何者かになろう”ともがき続けたことによる、経験の空回り」
某夫は絶句した。
「もがけばもがくほど、時間は軽くなる仕組みなんですよ。“何者かになりたい”という願いは、実は非常に燃費の悪いエンジンでしてね。空転すればするほど、中の重りが摩耗して、粉になって、風に飛んでいってしまうんです」
「じゃあ、どうすればよかったんですか」
検針さんは眼鏡を光らせて、事務的にこう答えた。
「“何者にもならなくていい”と、もっと早く諦めていれば、重りは減らずに済んだんですけどねえ」
某夫は、二十代の自分をぶん殴りたくなった。
「ところで」某夫はふと気になっていたことを尋ねた。「あの機械、“タイム量り機”でしたけど……時間って、量り売りなんですか?」
「ええ、その通りです」検針さんは頷いた。「人生は皆さん、同じ一日、二十四時間を買っているように見えて、実際には全く違う量なんです」
「どう違うんです?同じ二十四時間でしょう」
「一時間を、きっちり一時間分として使える方もいれば、三時間分の後悔にしてしまう方もいますからね。重さで量ると、その差がはっきり出るんですよ」
「それ、量り売りっていうか……計量詐欺じゃないですか。同じお金払ってるのに」
「あちら側公社では、その苦情が一番多いです」検針さんは悪びれもせずに言った。「窓口混雑の原因、上位三位以内に入ってます」
「解決してないんですか」
「調査中、ということで五十年ほど据え置いております」
某夫は、役所というものは、こちら側もあちら側も大差ないらしい、と妙なところで納得した。



二章 志し半ばの同窓会
「ところで某夫さん、せっかくですから、お仲間にも会っていきますか?」
検針さんはそう言うと、廊下の奥にある扉を開けた。そこには――なんと、賑やかな宴会場が広がっていた。
「久しぶりーっ!某夫、老けたなあ!」
声を上げたのは、若くして事故で先立った幼馴染の健二だった。二十五歳のときのままの顔で、生ビールを片手に笑っている。
「けん……お前、元気そうだな」
「そりゃそうよ、こっちは時間止まってるからな!お前の方こそ、還暦超えてどうよ、憧れてた先輩たちの歳に並んだんだって?」
「お前、なんでそれ知ってんだよ」
「あちら側は情報が筒抜けなんだよ。ネットより速い。“草葉の陰SNS”ってのがあってさ」
「草葉の陰SNS? なんだそれ、妙にハイテクだな」
「フォロワー数は生前の人望と連動してて、線香を上げてもらうと“いいね”が一個つく仕組み。某夫、お前もたまにポチッとやってくれてただろ。あれ、ちゃんと通知来てたぞ」
「知らずにいいねしてたのか、俺」
「盆と正月はタイムラインが大渋滞でな。バズるのは決まって、孫の写真を見せびらかす爺さん連中だよ」
宴会場には、志半ばで逝った仲間たちが十数人、楽しそうに酒を酌み交わしていた。誰も彼も、あの頃のまま、若く、無邪気に笑っている。奥のテーブルでは、部活の後輩だった裕太が、なぜか達筆すぎる習字で「即身成仏まであと三年」という札を掲げて記念撮影をしていた。
某夫はふと、疑問を口にした。
「なあ……神様はどうして、お前らをこんなに早く連れて行っちゃったんだ?」
すると健二は、意外にもあっさりと答えた。
「いや、それがさ。こっち来てみて分かったんだけど、“早い遅い”の感覚、そっちにしかないんだよ。こっちは時間、伸び縮みするから」
「伸び縮み?」
「うん。お前らの1年は、こっちだと1分だったり、逆に100年だったりする。だから“早く死んだ”っていうのも、実はこっちから見ると全然早くない。むしろお前らの方が、短い1日を大事に使わなきゃいけない分、大変そうに見えるよ」
某夫は、手にしていたコップの酒をぐっと飲み干した。
「もしかして……こっちの方が楽園なんじゃないか?」
「せいかーい。まあでも、こっちにも“成仏待ちの行列”とか、“煩悩リサイクルセンター”とか、地味に面倒な制度もあるけどな」
「煩悩リサイクルセンターって何だよ」
「未練とか執着とかをドロドロに溶かして、また別の魂の“やる気”に再利用する施設。お前の同期の田中、あそこで“出世欲”を大量に回収されて、今は隣町の氏神様のところで蝉になって鳴いてる。楽しそうだったぞ、あいつ」
「田中……蝉になったのか」
「本人曰く『鳴くだけでいい仕事、コスパ最高』らしい」
某夫は笑った。何年ぶりかに、腹の底から笑った気がした。



三章 不老不死の迷惑じいさん
宴もたけなわの頃、会場の隅で一人、静かに般若湯(酒)をあおる老人がいた。年齢不詳、というより、年齢という概念そのものを超越しているような雰囲気を纏っている。
「あの人は?」某夫が尋ねると、検針さんが小声で答えた。
「ああ、あの方は特別枠の“生ける伝説”でしてね。酒もタバコも女もやらず、ひたすら健康に気を遣って、なんと100歳を超えてもピンピンしております」
「え、生きてる人なんですか?なんでこっちにいるんです?」
「いえ、生きてはいるんですが、あまりに健康すぎて、時々こっちに“出張”してくるんです。健康の申し子として、あちら側公社の広報キャラクターも兼務しておりまして」
「広報キャラクター、というと?」
「ポスターに載ってるんですよ。“健康は財産!”って。あの謎の白装束のおじいちゃん、見たことありませんか」
言われてみれば見たことがある。町内会の掲示板に、いつも貼ってある、あの胡散臭いくらい元気な老人のポスターだ。
老人はこちらに気づくと、シワだらけの顔でニヤリと笑い、懐から乾き切った梅干しを取り出して、種まで丁寧にしゃぶりだした。
「若いの。わしのようになりたいか?」
某夫は正直に答えた。
「いや……正直、そこまでストイックに100まで生きたいとは、思わないですね」
「ふぉっふぉっふぉ、正直でよろしい。わしも好きで節制しとるわけじゃないぞ。ただの貧乏性でな。酒もタバコも、金がもったいなくて手を出さなかっただけじゃ」
「じゃあ、なんで長生きの象徴みたいになってるんですか」
「世間が勝手に祭り上げただけじゃ。ポイ活の延長で健康予防をしとったら、こうなった。わしはただのケチじゃ」
「梅干しも、それでですか」
「一個で三杯飯が食える。コスパ最強じゃ。タバコなんぞ、火をつけた瞬間から金が煙になって消えていくんじゃぞ。あんな馬鹿らしい話があるか」
「女遊びは?」
「割り勘にできんじゃろうが」
某夫はこの老人が急に愛おしくなった。世の中の“教訓めいた話”というのは、案外こういう適当な理由からできているのかもしれない。
「某夫よ」老人は続けた。「還暦を過ぎたあたりで、程よく楽しんで逝くのも、悪くないぞ。無理にわしの真似をして、味気ない100年を過ごす必要はない」
「それもまた良し、ですか」
「それもまた良し、じゃ」



四章 時間量り機のカラクリ
宴会が一段落したところで、検針さんが某夫を再びカウンターに呼び戻した。
「某夫さん。実はあなたの時間袋、軽いことは軽いんですが、致命的にヤバいというわけではありません」
「そうなんですか?」
「はい。むしろ“軽量化に成功している”とも言えます」
「どういうことです?」
検針さんは書類の裏側を見せた。そこには小さな注意書きがあった。
「※重い時間袋=良い人生、では必ずしもありません。中には“こだわり”や“執着”という名の不要な重りを溜め込みすぎて、身動きが取れなくなる魂も多数見られます」
「つまり……」
「あなたの時間袋が軽いのは、“何者かになろう”ともがいた分の重りが、風化して消えていっただけ。逆に言えば、これから残った時間には、余計な重りがほとんど付いていない、ということです」
某夫はハッとした。
「これから何を積んでいくかは、私次第ってことですか」
「その通り。空っぽの袋というのは、絶望的な話ではなく、実はこれから何を入れても軽やかに運べる、という意味でもあるんですよ」
某夫はしばらく黙って、自分の手のひらを見つめた。何十年も、何者かになろうとしてもがき続けた手のひらだ。特別なタコもできていないし、勲章もない。しかし、こうして今、あちら側の役所で妙な老人や生きた友人達と酒を酌み交わせるくらいには、案外悪くない手だ。
「ちなみに」某夫はふと思いついて尋ねた。「残り時間を、今から増量する方法とかは、ないんですか」
「ありますよ」
「本当ですか」
「ありますが、有料です」
「……いくらです?」
「一グラムにつき、三万円です」
「高っ!」
「あちら側でもインフレしておりましてね。十年前は一グラム五千円だったんですが」
「時間にまでインフレの波が来てるのか……」
「しかも消費税は、こちら側とあちら側の二重課税になりますので、実質もう少し高いです」
「二重課税て」
「ご希望でしたら、分割払いのプランもございます。月々のお布施という形で」
某夫は丁重にお断りした。この役所は、天国というより、どう考えても市役所の税務課だった。



五章 こちら側への帰還
「そろそろお時間です」検針さんが懐中時計――もちろん普通の時計ではなく、中に小さな砂時計が入っている不思議な代物――を取り出した。
「戻ったら、私は何をすればいいんでしょうか」
「特別なことは何も。ただ、“何者かにならなくては”というエンジンを、少し緩めてあげてください。空転すると、また袋が擦り減りますので」
健二が最後に肩を叩いてきた。
「なあ某夫。次に会うのがいつになるかは、こっちにも分からん。伸び縮みするからな。でも、慌てて来る必要はないぞ。お前はお前のペースで、ゆっくり時間を積んでこい」
「ああ。ありがとな」
「あと、神社で祈るときはさ、健康・安全・安定の他に、たまには“くだらない幸せ”も一個混ぜとけよ。晩酌がうまいとか、そのくらいのやつを」
某夫は頷いた。
「それと某夫」検針さんが最後に付け加えた。「先ほどの増量プラン、あの後よく考えたら、実は初回相談無料キャンペーン中でして。三十分だけ延長サービスできますが、いかがですか」
「もういいです。今来た道、帰らせてください」
「賢明なご判断です。ちなみに帰り道は下り坂ですので、時間袋が軽い分、足取りも軽いはずですよ」
某夫は、最後の最後まで営業をかけてくる役所仕事に、あちら側もこちら側も変わらないなと呆れながら頷いた。
眩い光に包まれ、気がつくと彼は、朝の神社の前に立っていた。手には、あの「23.6グラム」と書かれたレシートが一枚。
しかし今、その数字は、なぜだか少しも不安に思えなかった。



終章 それもまた良し
某夫は賽銭箱に小銭を投げ入れ、いつものように手を合わせた。
健康と、安全と、安定と――そして、少しの、くだらない幸せを。
自販機はいつの間にか消えていた。神社の宮司さんに聞いても、「そんな機械、うちには置いてませんが」と不思議そうな顔をされるだけだった。
「強いて言うなら、去年おみくじの機械が壊れて、業者を呼んだことはありますが」
「その業者、白い作業着でしたか」
「さあ、覚えてませんねえ。というか、それより二百円お賽銭少なくないですか?さっき数えたら、賽銭箱の中身が微妙に軽かったんですが」
某夫は、あちら側公社の営業魂が思いのほかしぶといことを悟りながら、苦笑いで境内を後にした。
夢だったのかもしれない。あるいは、あちら側の役所の、期間限定キャンペーンだったのかもしれない。
真相は分からないが、某夫は最近、少しだけ生き方を変えた。何者かになろうと肩肘を張るのをやめ、代わりに、晩酌の一杯を心から美味いと感じることに、時間を使うようになった。
還暦を過ぎ、次の世を見られるかどうかは、正直まだ分からない。
けれど、それもまた良し、なのだと思う。

― 完 ―


Kindle



あとがき
「何者かになりたかった」という若き日の焦燥や未練は、歳を重ねるにつれて、いつの間にか静かな溜め息へと変わっていくことがあります。
けれど、何者にもなれなかったということは、何にも縛られていないということでもあります。手元に残された時間は軽やかで、これからどんな景色を詰め込むことも自由なのです。
人生の後半戦、無理に大層な経験を積み上げる必要はありません。今夜飲む一杯のお酒、季節の風の匂い、気心の知れた友人との他愛もない思い出――そうした「くだらない幸せ」をひとつひとつ愛おしむことこそが、最も豊かな時間の使い方なのかもしれません。
この物語が、日々を真面目に歩んで来られたあなたの心を、ほんの少し軽やかにするきっかけとなれば幸いです。


フリダシ
―決められた道の彼方へ―



まえがき
人生には時として、自分の意志とは無関係に敷かれたレールの上を歩かされているような感覚を覚える瞬間がある。
若い頃には気にも留めなかった過去の出来事が、歳を重ねるにつれて一本の線につながって見えることがある。あのとき、なぜあの人と出会ったのか。なぜ、あの道を選んだのか。もし別の選択をしていたら、自分は今、どこにいるのだろう。
還暦という人生の節目を前にして、人はこれまでの歩みを振り返り、残された時間の長さを測り直すものなのかもしれない。
本作『フリダシ ―決められた道の彼方へ―』は、過去の因縁や血脈という「定められた道」に直面した一人の男が、その果てに自らの足で立つ意味を見出す物語である。
幕末の影を追うミステリーであり、未来的な思考実験であり、同時に、静かな家族の再生の記録でもある。
もしも、自分の半生が誰かの描いた筋書き通りだったとしたら――。
それでもなお、自分の人生を「自分のものだ」と言えるだろうか。
その問いの先にある答えを、主人公・慎治と共に探していただければ幸いである。




序章 書物
宅配便が届いたのは、還暦まであと三か月となった、その日の夕方だった。
差出人は桐生誠一郎。
幕末史を専門にする研究者で、慎治とは何度か顔を合わせたことがある。ただ、それだけの関係だった。
箱を開けると、一冊の書籍が出てきた。
地味な装丁。
表紙には、
『多摩郡剣士録――墓所と系譜』
とだけ印字されている。
慎治はソファに腰を下ろし、ページをめくった。
付箋の貼られたページがあった。
開く。
そこに、実家の裏山にある墓所の写真が載っていた。
見慣れた苔むした石の列。
子どもの頃から何度も見てきた場所だ。
だが、その一角に記された名前を見た瞬間、慎治の指が止まった。
――秋山善次郎、新選組隊士。
祖父の、そのまた祖父にあたる人物だという。
そんな名前を、慎治は今まで家族の誰からも聞いたことがなかった。
ページの隅には、桐生の手書きのメモがあった。
「秋山家の墓所には、明治初期に作られたとされる不可解な副葬品の記録が残っています。詳しくは現地にてお話しできればと思います」
副葬品。
慎治は本を閉じた。
しばらく天井を見上げる。
最近、ふと考えることが増えていた。
残りの時間は、あとどれくらいなのだろう。
ゴールの見えない人生というゲームの中で、還暦を過ぎれば、それはもう「あと少し」の領域に入るのだろうか。
人生の残り時間を、数字で表せたらいいのに。
そんなことを考える自分がおかしくて、慎治は小さく笑った。
その時だった。
拓海の顔が浮かんだ。
息子も近頃、何かに迷っているようだった。
先週の電話でも、歯切れの悪い声で、
「ちょっと今、色々考えてて」
と言ったきりだった。
転職か。
それとも、別の何かか。
訊ねても、はぐらかされた。
慎治は立ち上がり、台所にいる妻の由美子に声をかけた。
「今週末、墓参りに行こう」
「急に?」
「うん。拓海も誘って」
由美子は少し不思議そうな顔をした。
「何かあったの?」
慎治は、手にした本を見つめた。
「……ちょっと、先祖の話を聞いてみたくなった」



一章 裏山の墓所
土曜日は朝から晴れた。
実家のある町までは車で二時間。
助手席には由美子。
後部座席には、社会人二年目になる息子の拓海が座っていた。
珍しく、素直について来た。
高速道路をしばらく走ったところで、拓海が口を開いた。
「親父の家系って、そんなに複雑だったんだな」
「そうか?」
「だって、新選組の隊士だったんだろ? なんか歴史の教科書みたいだよ」
「昔はそういう時代だったんだ。名を変えてひっそり暮らす人も多かったらしい」
慎治は運転しながら答えた。
自分でも、半分は他人事のように聞こえた。
だが胸の奥では、別の考えが渦を巻いていた。
新選組。そして裏山の古い墓。
偶然にしては、出来すぎていないか。
由美子が後部座席を振り返った。
「そういえば拓海、この前言ってた話、あれからどうなったの?」
拓海は窓の外を見たまま、少し間を置いた。
「まだ迷ってる」
「何を?」
「……今の会社、辞めようかなって」
慎治はミラー越しに息子を見た。
「辞めてどうする?」
「しばらく海外に出てみようかと思ってる」
由美子が驚いた顔をする。
「海外?」
「うん。向こうで仕事を探すかもしれない。まだ決めてないけど」
拓海は少し黙ってから言った。
「もし決めたら、親父たち、どう思う?」
慎治は前を向いたまま答えた。
「お前の人生だろ。好きにすればいい」
口にしてから、慎治自身が少し驚いた。
好きにすればいい。
たったそれだけの言葉なのに、今の自分には思いのほか重かった。
自分はこれまで、本当に好きに生きてきたのだろうか。
そんな疑問が、一瞬だけ胸をよぎった。
バックミラーに映った拓海は、意外そうな顔で父の後頭部を見つめていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……そっか」
それだけ言って、窓の外へ目を戻した。
墓所は裏山の中腹、竹林に囲まれた古い区画にあった。
桐生はすでに待っていた。
白手袋をはめた手で、丁寧に一基の墓石を指し示す。
「これが秋山善次郎の墓です」
墓石は他のものより一回り小さく、風化が進んでいた。
「記録によれば、善次郎は慶応四年、鳥羽伏見の戦いの後に江戸へ戻っています。その後、明治になってからは名を変え、多摩でひっそりと暮らしたようです」
慎治は墓石を見つめた。
自分が何十年も前から知っていたはずの場所なのに、今日はまったく違って見えた。
台座の側面に、かすかな文様が彫られている。
近づいてよく見ると、それは将棋の駒の形をした意匠だった。
「この文様は?」
「記録には、『家紋ではない、個人的な意匠』とだけあります」
桐生は少し間を置いた。
「実は今日、皆さんに立ち会っていただきたい理由が、もう一つあります」
懐から小さな包みを取り出す。
「先月、区画整理のために墓石を一時的に動かした際、台座の下から箱が見つかりました」
桐生が取り出したのは、黒く煤けた真鍮の箱だった。
掌に載るほどの大きさ。
蓋には、墓石に刻まれていたものと同じ将棋の駒の文様がある。
百年以上、湿った土の中に埋もれていたはずなのに、錆ひとつない。
表面には、金属固有の滑らかな手触りが残っていた。
「まだ開けていません」
桐生は箱を慎治に差し出した。
「子孫の方の立ち会いのもとで、と思いまして」
慎治は箱を受け取った。
ひやりとした金属の重みが、掌に染み込んでくる。
なぜだろう。
ただの古い箱なのに。
まるで、長い間、自分を待っていたような気がした。



二章 刻盤
箱には鍵穴のようなものはなかった。
代わりに、蓋の中央に小さな回転式の盤面がある。
九つの升目。
まるで将棋盤を極端に縮小したような意匠だった。
「動かしていいんですか?」
拓海が身を乗り出す。
「もう百五十年以上前のものです。壊れているかもしれません」
桐生が苦笑した。
慎治は指先で盤面の一つの升目に触れた。
カチリ。
驚くほど軽やかで繊細な音が響いた。
升目が、わずかに沈む。
湿気で固着している様子など微塵もない。
慎治はもう一つに触れた。
カチリ。
そして三つ目。
カチッ。
その瞬間だった。
箱の蓋が、ひとりでに持ち上がった。
三人とも言葉を失った。
中には折りたたまれた紙片と、鈍い金色に光る、歯車のような小さな機構が収まっていた。
紙片を広げる。
達筆な墨文字がびっしりと並んでいた。
日記。
その冒頭に記された名前を見て、慎治は息を呑んだ。
――善次郎。
日記の書き出しはこうだった。
『時代は繰り返し、同じ側へと流れる。決して逆戻りを許さぬものらしい。ゆえに、多くの事柄が、幕を引かれることもある』
慎治の指が止まった。
それは、桐生から届いた本を読んだ時、自分が漠然と考えていたことと、あまりにも似た言葉だった。
まるで、自分の心の内をなぞられたようだった。
日記は続いていた。
『われ、京にて奇妙な男に出会う。異国の言葉を操るでもなく、しかし異国よりも遠い場所より来たと自らを称した』
『曰く、この機構は「刻盤(こくばん)」。血脈を辿り、必要なる者を必要なる時に結び合わせるための道具なりと』
慎治は顔を上げた。
桐生が無言で見つめている。
日記には、さらにこう記されていた。
『男は言った。おぬしの血筋は、いずれ生まれる者のために、幾つかの犠牲を払うことになるだろう。それは無慈悲なことのように見えて、実は必然である、と』
『われ、初めは信ぜず』
『されど、後に妻を亡くし、また娶り、また亡くすに至り、これはただの偶然にあらずと悟った』
『この機構、それを見届ける者に託さねばならぬ』
そして最後に、
『さりとて、われ、いまだ判ぜず』
『妻を亡くしたるは定めか、はたまたわが弱さゆえの選びの誤りか』
『この機構、答えを与えず、ただ道を示すのみにて、その先に何が待つかまでは語らぬ』
『ゆえに恐ろしく、ゆえに手放せぬ』
沈黙が落ちた。
桐生が、震える声で言った。
「これは……本物なら、日本の心霊史、オカルト史における一級の資料になります」
だが慎治の目には、それ以上のものが映っていた。
箱の底。
精密に組み合わされた歯車の機構が、かすかに、脈打つように淡い光を放っている。



三章 三人の妻
その夜。
実家の座敷で、慎治は一人、機構を眺めていた。
由美子と拓海は先に休み、桐生も宿へ戻っている。
慎治は日記の最後のページを何度も読み返していた。
妻を亡くしたるは定めか。
はたまた、わが弱さゆえの選びの誤りか。
善次郎は、その答えを最後まで得られなかったのだろう。
三人もの妻が、それぞれ若くして命を落としている。
そして、その犠牲の果てに、今の自分がいる。
慎治は歯車に指を触れた。
その瞬間、盤面に淡い光が走った。
九つの升目のうち、いくつかに小さな駒の影が浮かび上がる。
光の粒が空中に立ち上り、線を描き始めた。
それは、系図だった。
善次郎を起点に、線が枝分かれする。
増える。
また減る。
そして、やがて一本の太い線に収斂していく。
そこに表示された名前。
――秋山慎治。
慎治は目を疑った。
自分の家系図だった。
だが、途中に三箇所、赤い印が浮かび上がった。
善次郎の最初の妻。
その娘二人。
そして、二人目の妻。
それぞれの印の脇に、小さな文字が浮かんでいる。
『調整・完了』
慎治の背筋を、冷たいものが走った。
「調整……?」
その言葉が、ひどく不気味に響いた。
「これは……本当に、誰かが調整していたということか」
機構から静かな声が響いた。
性別も年齢も判然としない。
凪いだ声だった。
「秋山慎治」
慎治は息を止めた。
「あなたは、この系譜における現在の担い手です」



四章 将棋の駒
「お前は……何なんだ」
慎治の声は震えていた。
「わたしに固有の名はありません。強いて言うなら、この機構そのものです」
光が、静かに明滅する。
「あなた方の言葉で言えば――継承管理システム、といったところでしょうか」
「継承管理……?」
「この星の歴史のある転換点において、特定の資質を持つ人間の血脈が必要とされることが、遠い未来において判明しました」
「未来?」
「はい」
「お前は未来から来たのか」
「わたし自身に、来たという認識はありません。わたしはただ、必要な情報を保持し、伝えるために存在しています」
慎治は歯車を見つめた。
「何のために?」
「特定の資質を持つ血脈を、必要とされる時代まで残すためです」
声は淡々と続いた。
「その資質は一代では育ちません。複数の世代を通じて、特定の組み合わせの結婚と誕生を経なければ発現しない可能性があります」
慎治は、赤い印を思い出した。
「だから……何人もの人間が、若くして死ぬように仕組まれたというのか」
声が止まった。
ほんのわずかな沈黙。
「いいえ」
初めて、その声に強さが混じった。
「わたしは未来を決めていません。可能性を示しただけです」
「可能性を示した?」
慎治は声を荒らげた。
「可能性を示しただけで、人が死ぬことを説明できるのか?」
長い沈黙。
「……できません」
その答えに、慎治は逆に戸惑った。
「できない?」
「人の死を、目的という言葉だけで正当化することはできません」
慎治は息を呑んだ。
「善次郎たちが選んだ道は、お前が示した通りだったということか?」
「それが本当に、わたしの示した道だったのか。それとも、彼ら自身が選び取った道だったのか」
機構の光が揺らぐ。
「……わたしにも判定できません」
「お前にも、分からないことがあるのか」
「未来を知ることと、未来を決めることは、同じではありません」
慎治は黙った。
可能性を示される。
選択肢を与えられる。
それだけでも、人間の自由は少しずつ形を変えてしまうのではないか。
「善次郎は、自らの意志で二人目、三人目の妻を娶りました」
声が続く。
「少なくとも、残された記録にはそうあります」
「でも、その裏にお前の情報があった」
「はい」
「だったら、それは本当に本人の選択なのか?」
答えはすぐには返ってこなかった。
「選択とは、情報を持たないことではありません」
「……」
「知った上で、それでも選ぶこともまた、選択です」
慎治は唇を噛んだ。
それでも納得できない。
善次郎の妻たちは、知らないまま生き、知らないまま死んだのかもしれた。
その人生まで、遠い未来の目的のために「必要だった」と呼んでいいのか。
「俺の人生も……俺が選んだことじゃなく、示されてきた結果だったっていうのか」
若い頃に別れた女性の顔が、突然、脳裏に浮かんだ。
あの時は、自分の意志で別れたと思っていた。
もし、あれさえも「示された道」だったとしたら。
「あなたが由美子さんと出会ったことに、わたしは関与していません」
声は静かだった。
「少なくとも、わたしの記録にそのような介入はありません」
「本当に?」
「わたしが働きかけたのは、善次郎の代で終わっています。それ以降のあなたの人生については――」
一拍。
「正直に言えば、わたしにも完全な答えはありません」
慎治は顔を上げた。
「終わっている……?」



五章 継ぐ者
「秋山善次郎は、この機構の『担い手』として選ばれました」
声が続いた。
「担い手の役目は、必要な血脈が生まれ落ちるまで、機構を次代に伝えること。そして、時に示された情報をもとに、選択の助けとすることです」
「その必要な血脈は……?」
「すでに数世代前に生まれています」
「いつ?」
「あなたの伯父にあたる代で」
慎治は眉を寄せた。
「伯父の……代で?」
「はい。善次郎から数えて三人目の妻から生まれた子の、そのまた子孫です。本来の目的において、あなたの家系はすでに役目を終えています」
慎治はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「待て」
機構の光が止まった。
「だったら……俺は何のために生まれた?」
答えは返ってこなかった。
「俺は必要な血脈じゃないんだろ?」
沈黙。
「だったら俺は、何なんだ?」
「それは――」
声が途切れる。
「わたしには、答えられません」
慎治は目を閉じた。
アシスト、そして、ふと笑った。
「答えられないんじゃない」
目を開く。
「最初から、そんなものはなかったんじゃないか」
機構は何も答えなかった。
その沈黙が、妙に心地よかった。
自分が生まれた理由。
自分が生きる目的。
そんなものが、最初から誰かによって用意されている必要などなかったのだ。
「それでも、この機構が今日まで動き続けていた理由はあります」
光が、日記の最後のページを映し出した。
慎治がまだ読んでいなかった一節だった。
『われ、役目を終えたと知る』
『されど、この機構、なお血を辿り続けるであろう』
『ゆえに願わくば、いつか役目なきまま、これを手にする子孫あらば、伝えよ』
『おぬしはもう、将棋の駒にあらず、と』
慎治の胸が詰まった。
続きが浮かぶ。
『好きに生きよ』
『好きに泳げ』
『それこそが、この長き苦難の果てに、われらが子孫に残せる唯一の贈り物なり』
慎治は目頭が熱くなった。
「善次郎……」
しばらく声が出なかった。
「では、これは……ただの記録装置として、俺のところまで来たのか」
「はい」
その声には、初めてわずかな温度があった。
「あなたは、選ばれた駒ではありません」
「……」
「あなたは、選ばれることの終わりを見届けるために、ここに立っている人です」
慎治は機構を見つめた。
「それも、お前が決めたのか?」
「いいえ」
「じゃあ、誰が?」
長い沈黙。
「……それは、あなた自身なのかもしれません」
慎治は苦笑した。
「ずいぶん都合のいい答えだな」
「わたしにも、分かりません」
その答えを聞いて、慎治は初めて笑った。



六章 フリダシ
機構の光が、ゆっくりと収まっていった。
やがて歯車は動きを止め、ただの古びた金属の塊になった。
慎治は真鍮の箱を両手で包むように持った。
不思議と、もう重くはなかった。
翌朝。
慎治は、このことを由美子にだけ話した。
由美子は黙って聞いていた。
「信じられる?」
慎治が聞くと、由美子はしばらく考えてから言った。
「信じるかどうかは、今はどうでもいいんじゃない?」
「どうでもいい?」
「あなたが、それで何か変わったんでしょう?」
慎治は答えなかった。
由美子は微笑んだ。
「だったら、それでいいんじゃない?」
拓海には、どこまで伝えるべきか迷った。
結局、刻盤のことは話さなかった。
ただ、こう言った。
「うちの家系、色々あったらしいけど――」
拓海が顔を上げる。
「お前はもう、何にも縛られてないから」
「……」
「自由にやっていい」
拓海は一瞬、呆気にとられたような顔をした。
やがて、ふっと笑った。
「親父、なんか昨日から変だな」
「そうか?」
「うん。でも……ありがとう」
拓海は少し照れくさそうに笑った。
「なんか、肩の荷が下りたよ」
その日の午後。
慎治は一人で墓前に戻った。
線香を上げる。
善次郎の墓石に手を触れながら、心の中で語りかけた。
――あなたが背負ったものを、俺はようやく理解しました。
――長い間、ご苦労さまでした。
風が竹林を揺らした。
葉と葉が擦れ合う音が、静かな波のように聞こえた。
その時、光の粒のようなものが、一瞬、視界の端をよぎった。
気のせいかもしれない。
だが慎治には、それがまるで先祖たちに背中を押されたような、温かな感覚として残った。
還暦という第一段階の終わりに、慎治は思った。
これまで、自分は振り返ってばかりいた。
あの時、別の道を選んでいたら。
あの人と別れていなかったら。
あの仕事を続けていたら。
そんな「もしも」を何度も思い返してきた。
けれど。
過去は、もう変えられない。
変えられないからこそ、これから先は、自分で選べる。
それは、決められた道の終わりだった。
そして――
誰にも決められていない道の、フリダシだった。



終章 泳ぐ者たち
数年後。
慎治は還暦を過ぎ、あの真鍮の箱を桐生の研究資料として寄贈することにした。
「歴史資料としては貴重ですが、うちにはもう必要ないので」
そう言うと、桐生は少し寂しそうな顔をした。
「本当にいいんですか?」
「いいんです」
慎治は笑った。
「もう、十分役目を果したでしょう」
真鍮の機構は今、ある地方の郷土資料館の片隅に、地味な解説文と共に展示されている。
『秋山家伝来の遺物。用途不明。江戸期の測量器具の一種と推測される』
その解説を読んで、足を止める者はほとんどいない。
たまに子どもがガラスケースを覗き込み、
「これ、何?」
と母親に尋ねる。
「昔の道具じゃない?」
そんな会話を残して、親子は去っていく。
それでいい。
拓海の海外行きの話は、結局、あの夏とは違う答えに落ち着いた。
「海外で挑戦するのも手だけど」
拓海は少し照れくさそうに言った。
「やっぱり、地元でやりたい事業が見つかったんだ」
あの日、車の中で交わした言葉。
墓参りで交わした言葉。
父親の吹っ切れたような背中。
それらが、多少なりとも影響したのかどうか。
慎治には分からない。
だが、分からないままでいいと思っている。
拓海は結婚し、自分で選んだ仕事に就いた。
由美子と慎治は時々その町を訪ね、孫の顔を見ては笑い合う。
慎治は今でも、ふと考えることがある。
残りの時間は、あとどれくらいなのだろう。
だが、その問いはもう恐れではなかった。
静かな好奇心に変わっていた。
あと何年あるのか。
あと何日あるのか。
そんなことは分からない。
だからこそ、いい。
決められた道の果てに立って、初めて分かることがある。
道がなくなったのではない。
ここから先には、最初から道などなかったのだ。
だから、歩ける。
だから、迷える。
だから、自分で選べる。
還暦を過ぎた慎治にとって、それは終わりではなかった。
人生を最初からやり直すことでもなかった。
過去へ戻ることでもない。
誰かが用意した盤の上から、自分の足で降りること。
自由に向かって、一歩を踏み出すこと。
それが――
フリダシだった。

(了)


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あとがき
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
物語のタイトルである「フリダシ」には、双六のスタート地点という意味と、振り払って踏み出すという二つの思いを込めました。
人は生きていると、時に自分の境遇や過去の選択に囚われ、「こうなる運命だったのかもしれない」と自分を諦めそうになることがあります。
あの時、なぜあの道を選んだのか。
もし別の道を選んでいた、今とは違う人生になっていたのではないか。
歳を重ねるほど、そんな「もしも」を考える機会は増えていくのかもしれません。
けれど、過去がどのように紡がれてきたとしても、今日この瞬間から歩む未来だけは、自分自身のものです。
たとえ人生の途中まで、誰かに道を示されていたとしても。
その道を歩くのか、立ち止まるのか、別の方向へ進むのか。
最後に決めるのは、自分なのだと思います。
幕末から時を超えて届いた善次郎のメッセージは、慎治だけでなく、現代を生きる私たちへのエールでもあります。
「好きに生きよ。好きに泳げ」
その言葉が、長い時間を越えて慎治に届いたように、この物語もまた、読んでくださった方の心に何かを残すことができれば幸いです。
人生の節目に立っている方。
これからの道に迷っている方。
過去を振り返り、「もっと違う生き方があったのではないか」と考えている方。
そんな方々の背中を、ほんの少しでも押すことができたなら、著者としてとても嬉しく思います。
人生に、本当の意味での「終点」がいつ訪れるのかは誰にも分かりません。
だからこそ、迷っていい。
立ち止まってもいい。
泳ぎ方を変えてもいい。
そして、いつからでも始めていい。
フリダシは、人生の最初にしか存在しないものではないのだと思います。


言葉の帰る星

――言霊を追う者たちの記録――



まえがき

この小説は、一首の詩から生まれました。

「言霊ってのは、やはりありますね」

そんな一文ではじまる詩に出会ったとき、わたしは考えました。

もし、言葉に本当に力があるのなら。

もし、口から放たれた言葉が、形を変えながらも、いつか必ず自分のもとへ帰ってくるのなら。

それを観測しようとした人間が、どこかにいたのではないか。

そしてもし、その言葉たちが、人間だけのものではなかったとしたら――。

これは、言葉を信じる人々と、言葉の帰る場所を追いかけた者たちの記録です。





第一章 声の残響

西暦二〇八七年。

東京湾岸区にある言語振動研究所で、研究者の森下燈は、奇妙なグラフを見つめていた。

画面に表示されているのは、三か月前に実験室で録音された、たった一つの言葉だった。

「ばか」

防音室の中央に置かれたプランターの朝顔に向けて発せられた、無機質な合成音声による二文字。

その朝顔は、十日後に枯れた。

同じ水、同じ光、同じ土を与えられた対照群の株は、今も青々と葉を茂らせている。

違ったのは、ただ一つ。

毎朝、かけられた言葉だけだった。

「燈さん、また徹夜ですか」

振り返ると、助手の柏木真人がコーヒーを二つ手に立っていた。

「真人くん、これを見て」

燈は画面を指した。

「枯れた株のデータだけじゃないの。こっちを見て。この波形」

画面には、もう一つのグラフが重ねられていた。

音声を発した合成スピーカー自体の、電磁振動の記録だった。

真人が眉を寄せる。

「これ……スピーカー側の反応ですか?」

「そう。言葉を放ったスピーカーが、同じ周波数帯の振動を受け取っている」

「どこから?」

「それが分からないの」

波形は、言葉を発した直後には何も示していなかった。

しかし数時間後から、ごく微弱な反応が現れ始める。

一日。

三日。

七日。

十日。

時間が経つほど、その振動は強くなっていた。

「まるで……」

真人が画面を見つめた。

「まるで、言葉が帰ってきたみたいですね」

燈は黙って頷いた。

これが、この研究所の極秘テーマ。

言霊帰還仮説。

古来、人々が「言霊」と呼んできたものを、科学は初めて波形として捉え始めていた。

放たれた言葉は、空間のどこかへ消えるのではない。

何かに記録され、何かに運ばれ、何らかの形で発話者のもとへ戻ってくる。

善意も。

悪意も。

励ましも。

侮辱も。

すべてが。

「所長に報告を」

真人が言った。

しかし燈は首を横に振った。

「まだよ」

「どうして?」

「一番大事なことが分かっていないもの」

「一番大事なこと?」

燈は画面を見つめた。

「言葉は、どこを通って帰ってくるのか」

真人が黙った。

「この研究所で測定できるのは、帰ってきた振動だけ。途中がないの。放った瞬間と、戻ってきた瞬間。その間に何があるのか分からない」

燈は画面の波形を指でなぞった。

「その見えない空間が、どこにあるのか。それを見つけたい」

その夜、燈は実験室にひとり残った。

防音室の中央には、枯れた朝顔があった。

燈は鉢の前にしゃがみ込み、土にそっと触れた。

「……ごめんね」

誰にともなく呟く。

その瞬間だった。

実験室の空気が、ほんのわずかに震えた。

音ではない。

耳には聞こえない。

けれど、皮膚の全部が何かに触れられたような感覚。

燈は顔を上げた。

何もない。

ただ、枯れた朝顔の茎が、ほんの少しだけ揺れていた。

燈は知らなかった。

その夜を境に、彼女の周りで「言葉」が少しずつ動き始めることを。



第二章 言葉を奪われた者

燈が老人に出会ったのは、研究所からの帰り道、湾岸公園だった。

夕日に照らされたベンチに、老人がひとり座っている。

足元には老犬が伏せていた。

老人は携帯端末の画面を指で叩き、合成音声と身振りを交えながら犬に語りかけているようだった。

言葉を発しているのは端末。

老人自身の口からは、かすかな息の音しか聞こえない。

燈は足を止めた。

「あの、失礼ですが」

老人が振り返った。

皺の深い顔。

しかし、その瞳だけは不思議なほど澄んでいた。

老人は端末を操作した。

無機質な電子音が流れる。

『この子に話しかけておるのですよ。六十年間、毎日ね』

「六十年間……」

『そう。こいつが生まれた日からずっと』

燈は老犬を見た。

犬は黙って老人の足元に伏せている。

「でも、お声が……」

老人は少し笑った。

『出ないのです。三十年前からね』

「病気ですか?」

『声帯も脳も健康だそうです。それでも声だけが出ない』

老人は犬の頭を撫でた。

『最初は医者も首をひねりました。けれど、わしは違うと思っておる』

「何がですか?」

老人はしばらく夕日を見つめた。

そして端末に文字を打った。

『声が出ないのではない』

燈は画面を読む。

『声が、どこかへ行ってしまったのだ』

燈の心臓が高く鳴った。

「どこかに?」

老人は空を見上げた。

『太古の昔、植物たちにも言葉があった』

燈の表情が変わった。

『花は咲くことで語り、木は年輪で記録し、森は根と菌糸を通じて巨大な対話をしていた』

「……どうして、それを?」

『人間が奪ったからだよ』

老人の指が画面の上を動く。

『人間は植物の言葉を研究し、利用し、最後には奪った』

『だが、奪われた言葉は消えなかった』

『見えない空間を、今も飛び交っている』

それは、燈が追いかけている仮説とあまりにも重なっていた。

「おじいさん、その話……どこで知ったんですか?」

燈が身を乗り出した。

そのときだった。

老犬がゆっくりと燈を見上げた。

そして――。

燈は、はっきりと聴いた。

耳ではない。

胸の奥に直接届く、声なき声。

『この人はね、声を失ったのじゃない』

燈は息を呑んだ。

『声を貸しておるのだよ』

『この世界に、言葉が帰ってくる、その日まで』

燈は老犬を見つめた。

犬は何事もなかったように、老人の足元へ顔を戻した。



第三章 言葉の銀行

老人の名は、言崎聴一といった。

翌週の日曜日。

燈は言崎に連れられ、下町の古い長屋の奥へ足を踏み入れていた。

「ここはね、言葉の銀行と呼ばれている場所だよ」

言崎は声を出せないため、端末を使って説明する。

一番奥の扉が開いた。

燈は息を呑んだ。

狭い部屋の中に、十人ほどの人々が集まっていた。

老若男女。

年齢も職業も違う。

けれど、全員に共通していることが一つあった。

誰も声を出していない。

それなのに、部屋の中はざわめいていた。

話し声ではない。

手話でもない。

目線。

指先。

呼吸。

そして、部屋全体に満ちている何か。

説明のつかない、しかし確かな意志の往来がそこにはあった。

『この人たちは皆、声を失った者たちだ』

言崎が端末に文字を打つ。

『ただし、奪われたのではない』

燈が顔を上げる。

『預けたのだ』

「預けた?」

『良い言葉はな、燈さん。放てば必ず帰ってくる』

『だが、帰ってくるまでの間、その言葉はどこにいると思う?』

言崎の指が天井を指した。

『見えない空間を飛び交っている』

『太古に人間が植物から奪った言葉と一緒にね』

部屋の人々が静かに燈を見る。

『この人たちは、自らの声と言葉の根源にある力を、その空間に預けている』

『いつか世界が言葉を取り戻す日のための元手として』

燈は部屋の中を見回した。

声を失った人々。

なのに、その瞳は不思議なほど明るかった。

そのとき、部屋の隅にいた少女が燈の前へ歩み寄った。

少女は小さなメモ帳を差し出した。

『あなたは、朝顔に謝った人?』

燈は驚いた。

「どうして……」

少女は答えを書く。

『空間は、全部聞いているよ』

『あなたの「ごめんね」は、ちゃんと届いていた』

燈はメモ帳を受け取った。

『届いた先は、どこ?』

少女は少し考え、それから微笑んだ。

『帰る途中』

『あなたに帰る途中だよ』



第四章 奪取

研究所の地下三階。

そこには、所長の国立楢原ですら滅多に立ち入らない、封印されたデータ保管庫があった。

燈がその扉の前に立ったのは、言崎との出会いから一週間後の深夜だった。

真人が黙って貸してくれたマスターキーが、手の中で汗ばんでいる。

「燈さん、見つけたらすぐに戻りましょう」

真人は周囲を見回した。

「これ以上は、本当に危険です」

扉が開いた。

二人は保管庫の端末に表示された古いファイル名を見つけた。

『PROJECT HARVEST』

その下に、

『言語振動の強制収奪に関する最終報告』

『一九六二年』

とある。

「一九六二年……」

燈が呟いた。

「今から百二十五年以上も前だ」

震える指でファイルを開く。

画面に流れ出したのは、白黒写真と古い活字の記録だった。

そこに記されていたのは伝承ではなかった。

実験記録だった。

一九六二年。

ある極秘研究機関は、植物が発する微弱な振動パターンが、人間の言語と構造的に同一の文法を持つことを発見した。

植物には言葉があった。

花は咲くことで語り。

木は年輪で記録し。

森は根と菌糸を通して巨大な対話を続けていた。

研究者たちは、その言葉を「利用」しようとした。

植物の言語振動を、人間の音声技術へ転用するためだった。

やがて研究は一線を越えた。

植物から、言葉そのものを奪う。

その実験が始まった。

燈は報告書を読み進める。

そして、最終ページにたどり着いた。

『収奪は成功した』

その一文の下に、何度も書き直した跡がある。

『しかし、言葉は消失しなかった』

『奪われた言語振動の全量は、収奪の瞬間に可聴域、可視域の双方から消失した』

『その後、未知の層へ移行したものと推測される』

『我々はこれを「漂流言語層」と呼称する』

真人が息を呑む。

燈は次のページを開いた。

『漂流言語層内の振動には、発話者への帰還性が確認された』

『すなわち、放たれた言葉は、何らかの形を取りながら発話者へ帰還する』

『これは物理現象として確認された』

「一世紀も前から……」

真人の声が震える。

「分かっていたんですね」

燈は黙って画面を見つめていた。

『漂流言語層の総量は増加傾向にある』

『人類が言葉を発するたび、同層は膨張する』

『善意の言葉も、悪意の言葉も等しく蓄積される』

そして、その下に一行。

『もし同層が臨界点に達した場合――』

文章が途切れている。

次のページは黒く塗りつぶされていた。

ただ、塗りつぶしの下端から半行だけが読めた。

『世界の全言語が、一夜にして発話者へ帰還する』

二人は顔を見合わせた。

背筋を冷たいものが走った。

「真人くん」

燈が呟く。

「言崎さんたちが声を預けているのは……」

「その夜に備えてるんだ」

その瞬間だった。

保管庫の照明が、すべて同時に瞬いた。

燈のスマートフォンが震える。

見知らぬ番号から、一通のメッセージ。

『そのファイルに触れた以上、あなた方はもう計画の一部です』

その下に、一文字。

『K』



第五章 メダカの水槽

Kからのメッセージ以来、燈の周囲に不審な影がちらつき始めた。

研究所のサーバーへのアクセス記録が何者かに閲覧され、真人は一時的に職務から外された。

追い詰められた燈は、週末、久しぶりに実家へ帰った。

実家の庭には、昔からの睡蓮鉢があった。

メダカが十数匹。

水面に小さな影を映している。

鉢の縁には今年もカエルが一匹。

そして石の上では、父が飼っている亀が、動かない彫像のように日向ぼっこをしていた。

「お帰り」

縁側で母が笑った。

燈は睡蓮鉢の前に座り込んだ。

子供の頃と同じように、指先を水面へ近づける。

「ねえ、聞こえてる?」

メダカたちが一斉に指先の下へ集まってきた。

「私、大変なことに巻き込まれちゃって」

燈は笑った。

「怖いの。言葉が、世界がどうなっちゃうのか分からなくて」

言いながら、燈は気づいた。

私は今、メダカに向かって弱い言葉を吐いている。

それでもメダカたちは逃げない。

むしろ、そっと集まってくる。

言葉は伝わる。

犬にも。

猫にも。

メダカにも。

カエルにも。

亀にも。

それは、この鉢の前で育った燈が、子供の頃から知っていたことだった。

「燈」

いつの間にか母が隣に座っていた。

「あんた、昔からあの子たちに『ありがとう』って言ってたね」

「そうだっけ」

「メダカが増えた日も、カエルが春に帰ってきた日も」

母は笑った。

「あんたは、生き物の良い場所を見つけるのが上手な子だった」

「良い場所?」

「そう」

母は睡蓮鉢を見る。

「相手の良いところを探して、そこを言葉で褒める」

そして燈を見る。

「それがあんたの、生まれつきのおまじないだったじゃないか」

燈の胸に、何かが温かく灯った。

研究所で追いかけてきた言霊の帰還。

それは数式や装置だけの話ではなかった。

子供の頃、睡蓮鉢の前で無邪気にやっていたこと。

言葉を選ぶ。

良い言葉を探す。

相手の良い場所を見つける。

そして、そこへ言葉を置く。

その積み重ねの上にしか、言葉は育たない。

燈は立ち上がった。

「お母さん」

「なに?」

「私、戻る」

「そう」

「やるべきことが分かった」

母は何も言わず、頷いた。

そのとき、石の上の亀がゆっくりと首を伸ばした。

燈には、一瞬だけ聞こえた気がした。

――気をつけてね。

燈は笑った。

「うん」

そして、家を出た。



第六章 人を殺す言葉

研究所に戻った燈を待っていたのは、所長の楢原と、見知らぬ黒いスーツの男たちだった。

「森下研究員」

楢原の声は、いつもより低かった。

「君は計画の存在を知った。ならば話は早い」

「Kは、何をするつもりなんですか」

「漂流言語層の臨界点は、あと四十日ほどで訪れる」

燈は黙って聞いた。

「世界中で発せられ続ける中傷、煽動、憎悪、ヘイト。それらが層を膨らませている」

楢原は続けた。

「だが、Kは臨界点を恐れているわけではない」

「では、何を?」

「利用するつもりなのだ」

燈は眉をひそめた。

「帰還の夜に向けて、Kは指向性増幅器を完成させた」

楢原の目が冷たく光った。

「言葉は必ず帰ってくる。ならば、特定の人間へ大量の悪意を向けさせ、その言葉を増幅する」

「……」

「帰還の渦の中で、その人間にすべての悪意を返す」

燈は息を呑んだ。

「人を殺せる、と?」

「そうだ」

黒いスーツの男が答えた。

「弾丸も爆薬も必要ない。言葉だけでいい」

燈は拳を握った。

「そんなこと……」

「そして君のデータが必要だ」

楢原が言う。

「君が発見した帰還波形を使えば、増幅器は完成する」

「嫌です」

「考え違いをするな」

男が一歩近づいた。

「我々は悪人を殺すのだ」

「誰が悪人だと決めるんですか」

「悪意を吐いた者だ」

「だったら、あなたたちはどうなんです?」

男が止まった。

燈は続けた。

「怒ったことはないんですか。誰かを憎んだことは? 嫉妬したことは?」

沈黙。

「言葉を吐いた人間だけを切り離して、悪い人間だと決めるなんてできない」

燈は首を横に振った。

「言葉は武器じゃない」

「綺麗事だ」

「違う」

燈はまっすぐ男を見る。

「言葉は、選ぶものです」

「選ぶ?」

「良い言葉を探して、相手の良い場所を探して、そこを言葉で褒める」

「そんなもので世界が救えると?」

燈は答えた。

「そんなものだから、世界を救えるんです」

その瞬間。

研究所の全館放送が、ひとりでに起動した。

ノイズ。

そして、その向こうから届いたのは、機械音ではなかった。

深く、温かい、人間の声。

『燈さん』

燈の目が見開かれる。

『聞こえるかい』

それは、三十年間声を出せなかったはずの言崎聴一の声だった。

『Kは、言葉を返すことだけを考えている』

『だが、言葉にはもう一つの力がある』

『受け取った人間が、もう一度、別の言葉を選び直す力だ』

館内のモニターが一斉に点灯する。

『言葉の銀行は、全員の元手を解凍する』

『三十年間蓄えてきた、光の言葉を世界へ放つ』

『怒りも憎しみも、否定しない』

『ただ、その上から別の言葉を重ねる』

『空間は全部聞いている』

『だからこそ、最後に何を聞かせるかが大事なのだよ』

モニターが銀色に染まっていく。

楢原が後ずさった。

「まさか……」

言崎の声が続いた。

『燈さん。言葉は返るだけではない』

『帰ってきた言葉を、もう一度、選び直すこともできるのだ』

そして放送が切れた。

静寂。

燈は銀色のモニターを見つめていた。



第七章 帰還の夜

言葉の銀行の決断によって、臨界点は早まった。

その日の夕方から、空の色がおかしかった。

夕日でもない。

夜でもない。

東京の空全体が、銀色がかった薄明かりに覆われている。

世界中の観測所が、大気中に未知の振動層が出現したと報じた。

人々は不安げに空を見上げていた。

そして――。

午後八時。

世界が、聴こえ始めた。

街の上空に、無数の光の粒が現れた。

一つ一つが、言葉だった。

百年以上前の言葉。

昨日の言葉。

数分前に放たれた言葉。

そして、太古から漂っていた植物たちの言葉。

すべてが一つの空間から流れ出し、発話者へ向かって帰り始めた。

街のあちこちで、人々が立ち止まった。

悪意を吐き続けてきた者のもとへは、黒い影のような言葉が戻っていく。

誰かを傷つけるために使った言葉。

嘲笑。

中傷。

憎しみ。

嫉妬。

その一つ一つが、重さを持って帰ってきた。

画面の向こうで誰かを傷つけ続けていた人間が、初めて自分の言葉の重さを知り、その場に膝をついた。

けれど――。

同じだけ。

いや、それ以上に。

銀色の光が世界中を包み始めた。

「ありがとう」

「大丈夫だよ」

「あなたのこと、ちゃんと見てるよ」

「よく頑張ったね」

「生きていてくれて、ありがとう」

昔、誰かへ贈った一言。

何気なくかけた一言。

自分では忘れていた一言。

それらが今夜、温もりとなって自分へ帰ってきた。

言葉の銀行の人々が三十年間預けてきた元手も、世界へ解放されていく。

声なき人々の言葉。

言えなかった「ありがとう」。

伝えられなかった「大丈夫」。

誰かを励ますために飲み込んだ言葉。

それらが銀色の光となって空を満たした。

Kが企てた兵器の波形は、その光の中で次第に弱くなっていった。

悪意を消したのではない。

悪意を上回る量の、別の言葉が重ねられていったのだ。

研究所の屋上。

燈は空を見上げていた。

隣には真人。

そして、いつの間にか言崎と老犬も立っていた。

言崎が言った。

「聞こえるかい、燈さん」

三十年ぶりの声だった。

かすれている。

けれど、確かな声。

「太古に人間が奪った植物の言葉も、今夜、一緒に帰ってきている」

燈は空を見上げる。

銀色の光の向こうに、無数の緑が見えた気がした。

森。

草原。

花畑。

そして、名前も知らない太古の植物たち。

「言葉はね」

言崎が続けた。

「本当は誰のものでもなかったんだ」

「誰のものでも……?」

「世界全体に貸し借りされている、一つの大きな呼吸だったのだよ」

そのとき。

燈の胸の奥に、声が届いた。

一つではない。

無数の声。

鳥のような声。

風のような声。

水のような声。

そして、植物の声。

『ずっと、ここにいたよ』

燈の頬を涙が伝った。

「……植物たち?」

答えはなかった。

ただ、銀色の空の下で、街路樹の葉が一斉に揺れた。

言崎が微笑む。

「燈さん」

「はい」

「あなたの言葉を、世界に返してあげなさい」

燈は目を閉じた。



終章 愛は言葉で

燈が思い浮かべたのは、睡蓮鉢のメダカだった。

春に帰ってくるカエル。

石の上で日向ぼっこをする亀。

枯れてしまった朝顔。

言葉の銀行で出会った人々の明るい瞳。

言崎の声。

真人の笑顔。

そして――。

「大丈夫」

そう言えなかった、遠い日の自分。

傷ついていたのに、誰にも言えなかった自分。

助けてほしかったのに、笑っていた自分。

燈は、ゆっくり息を吸った。

そして、言葉を選んだ。

一番伝えたい言葉を。

「ありがとう」

銀色の空へ向かって、燈は続けた。

「みんな、生きていてくれて、ありがとう」

言葉は光の粒になった。

空へ昇っていく。

見えない空間へ溶けていく。

その言葉は、すぐには戻ってこなかった。

燈は、それでいいと思った。

言葉には、帰るための時間が必要なのだ。

夜明けとともに、銀色の空は少しずつ澄み渡っていった。

一年後。

世界は、ほんの少しだけ変わっていた。

人々は、言葉を選ぶようになった。

口から出す前に、一度だけ相手を思い浮かべる。

怒りのまま言うのではなく、別の言葉を探す。

それが少しずつ、当たり前になっていった。

街の花壇では、花々が例年より早く、色濃く咲いたという。

燈は研究所を辞め、小さな「言葉の学校」を開いた。

そこでは子供たちが、生き物たちと言葉を交わす練習をしている。

「言葉を選びましょう」

燈は子供たちに教える。

「良い言葉を探しましょう」

子供たちは真剣に聞いている。

「そして、相手の良い場所を探しましょう」

「見つけたら?」

ひとりの子供が手を挙げた。

燈は笑った。

「そこを、言葉で褒めてあげるんです」

校庭には睡蓮鉢がある。

その中をメダカが泳いでいる。

鉢の縁にはカエル。

石の上では亀が目を細めている。

校門の脇には、小さな看板が立っていた。

言崎と老犬が作ったものだった。

そこには、こう書かれている。

『愛は、言葉で伝えてこそ叶う』

今日も、ひとりの子供が花の前にしゃがみ込んだ。

「綺麗だね」

花が揺れる。

「明日も咲いてね」

風が吹いた。

花がもう一度、揺れた。

子供は笑った。

その少し離れた場所で、燈も笑っていた。

花は何も言わない。

けれど燈には、聞こえた気がした。

――ありがとう。

燈は空を見上げた。

あの夜に放った言葉は、まだ帰ってきていない。

けれど、いつか帰ってくる。

きっと、思いもしない場所から。

誰かの笑顔になって。

誰かの「大丈夫」になって。

誰かの明日になって。

そしていつか、自分のもとへ。

言葉は消えない。

どこかへ行ってしまうこともない。

ただ、世界を巡っている。

人から人へ。

人から生き物へ。

生き物から世界へ。

そして、また自分へ。

――言霊は目に見えない。

けれど確かに、そこにある。

了


Kindle



あとがき

この物語は、

「言霊ってのは、やはりありますね」

という言葉ではじまる一首の詩から生まれました。

もし言葉に本当に力があるのなら。

良い言葉も、悪い言葉も、口から放ったものはどこかへ消えるのではなく、いつか何らかの形で自分へ帰ってくるのではないか。

そんなことを考えながら、この物語を書きました。

太古に奪われた植物の言葉。

声を預けた人々。

メダカやカエルや亀に語りかける少女。

人を傷つける言葉。

人を救う言葉。

そして、最後に残った「ありがとう」。

書きながら思ったのは、言霊とは特別な力ではないのかもしれない、ということでした。

今日この瞬間、誰もが持っているもの。

落ち込んでいる人への、

「大丈夫」

頑張っている人への、

「見てるよ」

久しぶりに会った人への、

「会えてうれしい」

そんな何気ない一言が、誰かの一日を救うことがあります。

逆に、ほんの一言が誰かを深く傷つけ、その人の中に長く残ってしまうこともあります。

だからこそ、言葉は選びたい。

怒りや悲しみを無理に消す必要はない。

傷ついたときには、傷ついたと言っていい。

ただ、そのあとにどんな言葉を選ぶのか。

そこに、人間が持っている小さな自由があるのだと思います。

読み終えたあなたが、今日、誰かにかける言葉をほんの少しだけ選んでみてくれたら。

そして、その言葉がいつか巡り巡って、あなたの苦しい日に、ふっと帰ってきてくれたら。

作者として、とても嬉しく思います。

言葉は、世界を巡る。

そしていつか、帰ってくる。

あなたのところへ。

あなた自身が放った言葉として。

言霊は、信じる人の心に宿る。



三・五次元の隠居録
――還暦から始まる、ちょっと不思議な物語――


まえがき
人生百歳時代と言われる現代、定年退職という節目は「終わりの始まり」ではなく、「まったく新しい人生の開幕」であると言えます。それまでの三十年間、あるいは四十年間を会社や家族のために誠心誠意捧げてきた方々にとって、肩の荷を下ろした後に訪れる自由な時間は、どこか手持ち無沙汰で、少しだけ寂しさを伴うものかもしれません。
本作の主人公・平田継男もまた、真面目一筋で経理マンとしての務めを上げ、定年を迎えたどこにでもいる六十一歳の男性です。特別な大金も、並外れた容姿も与えられなかった彼が、人生の後半戦で出会ったのは「目に見えない不思議な光」でした。
私たちが歳を重ね、見栄や我慢、義理や体裁といった重荷を一つずつ手放したとき、世界の景色は少しだけ姿を変えるのかもしれません。本作は、そんな隠居生活の日常を、ユーモアと温かな眼差し、そしてほんの少しの「三・五次元」の不思議を交えて描いた物語です。肩の力を抜いて、継男さんの歩むちょっとおかしな日常をお楽しみいただければ幸いです。




一 還暦の贈り物
平田継男(ひらたつぐお)、六十一歳。
元は、真面目を絵に描いたような経理マンだった。
三十八年間、数字と領収書と上司の機嫌に人生を捧げた。朝は決まった時間に起き、決まった電車に乗り、決まった席で弁当を食べ、決まった時間に会社を出る。
会社では「平田さんなら間違いない」と言われていた。褒められているようでいて、実は「面白みがない」という意味だったのかもしれない。それでも継男は気にしなかった。経理に面白みなど必要ない。数字が合っていれば、それでいい。むしろ数字が合っているのに面白い人間の方が怖いのだ。
そんな人生を三十八年続け、六十一歳の春、定年退職の日を迎えた。
最後の日、部長から花束を渡された。
「これからは、ゆっくりしてください」
「はい、ありがとうございます」
ゆっくりしてください――その言葉を聞いたとき、継男は少しだけ困ってしまった。何をして、どうやって「ゆっくり」すればいいのか、さっぱり分からなかったからだ。
退職金の振込額を確認して、継男は静かに笑った。決して大金ではない。「老後は豪華客船で世界一周だ」などという夢は、口座の数字を見た瞬間に消えてなくなった。
妻に見せると、「まあ、こんなもんでしょ」と一言。妻は強かった。
鏡を見た。髪は減った。腹は出た。妻には以前「地味だけど飽きない顔ね」と言われたことがある。継男は、それを最高の褒め言葉だと思うことにしていた。
健康診断はどこも問題なし。息子は真っ当な会社員になり、娘は保育士として働きながら孫を二人育てている。妻は相変わらず口うるさいが、四十年連れ添って一度も大きな病気をしていない。
退職して三日目の朝、縁側で緑茶をすすりながらふと思った。
――神様は、僕にカネと美しさをくれなかった。その代わり、健康と家族はくれたらしい。
還暦を過ぎて、ようやくそのことに気づいた。そしてもう一つ、どうやら妙なものまでくれたらしい。それが何なのか、この時の継男にはまだ分かっていなかった。



二 鏡の中の敗者たち
学生時代からの友人に、鏡味(かがみ)という男がいた。名前まで出来すぎている。本人も名前に負けない美貌の持ち主で、廊下を歩くだけで女子生徒が振り返った。継男が隣を歩くと、女子は鏡味を見て、継男を見て、もう一度鏡味を見た。継男は完全に背景の一部だった。
若い頃の鏡味は、何もかもを持っているように見えた。容姿も背丈も、恋愛も仕事も。継男にないものを、ことごとく持っていた。
ところが人生とは不思議なものだった。
鏡味は三十代で大病をし、四十代で経営者に騙されて多額の金を失い、五十を前に糖尿病で片足を失った。同窓会のたびに近況が更新された。「今度は腎臓らしい」「いや、透析に通っているらしい」
継男は複雑な気持ちになった。鏡味のことが嫌いだったわけではない。むしろ友人だったからこそ、考えてしまうのだ。
――美しさとは、呪いなのだろうか。
継男の観察範囲では、美形であればあるほど、なぜか人生の幸福の総量が薄い者が多い気がした。もちろん完全に思い込みで、統計学的な意味はゼロの「知人を思い出しただけ」の身勝手なデータである。だが元経理マンは、一度数字らしきものを頭に並べると信じたくなる性分だった。
ある夜、風呂上がりに鏡を見ながら呟いた。
「美しさなんて、もう要らんな」
鏡の中の自分が、少しだけ寂しそうに見えた。
「お金は欲しいけどな。ギリギリやなくて、ちょっとだけ余裕があるくらい。安定いうんは、結局その『ちょっと』から生まれるんやから」
誰も聞いていなかった。だから少しだけ得意気になった。
「さすが元経理やな」
不思議なことが起き始めたのは、まさにその夜のことだった。



三 節分の夜、扉が開く
還暦を過ぎて最初の節分。妻に急かされ、玄関先で豆をまいた。
「鬼は外!」
「声が小さい!」
「鬼は外ォ!」
近所の犬が吠え、隣の家の窓がピシャリと閉まった。
「歳の数だけ食べなさいよ」
六十一粒の炒り豆と格闘した。だが途中で五粒ほど、どこかへ転がっていってしまった。
「足りん」
「探して食べなさい」
「もうええやろ」
「ダメ」
経理の監査より厳しい。腹がいっぱいになって布団に入った。
午前二時ごろ、ふと目が覚めた。天井近くに、ほのかな光が浮かんでいた。一つ、二つ、三つ。ピンポン玉ほどの大きさで、淡い橙色に発光し、水中を泳ぐ金魚のようにゆらゆらと動いている。
目をこすっても消えない。一つがゆっくり壁へ近づき、すっと壁を通り抜けて隣の部屋へ消えていった。
脳の病気か、泥棒か、あるいは豆の食べすぎか。どれも違う気がした。
妻を起こそうとして、ふと手を止めた。
――起こしたら「あんた、ついにボケたん?」と言われるのがオチだ。
布団を頭までかぶったが、どうしても眠れない。怖いはずなのに、胸の奥がなぜか少しだけ高鳴っていた。六十一年生きてきて、初めて目にするものだった。会社の予定表にも、自分の老後計画にも、どこにも書いていなかったもの。
「……人生、まだ何か隠しとったんか」



四 見えない客人たち
翌晩も三つ。その翌晩も三つ。実に律儀な客人たちだった。
いつしか話しかけるようになった。
「おはよう」
「今日は寒かったな」
「年金、もうちょっと増えんかなあ」
返事はない。ただ光がゆらりと揺れる。継男はそれを彼らの相槌だと思うことにした。
図書館に通って調べ、彼らを「玉響(たまゆら)」と呼ぶことに決めた。かすかな光や、一瞬のきらめきを表す古い言葉らしい。
「ええ名前やろ?」
三つの光が嬉しそうに揺れた。
妻は怪しんだ。
「最近、誰と話してるの?」
「玉響や」
「人?」
「光や」
翌日、ダイニングテーブルの上に心療内科のパンフレットが静かに置かれていた。「念のため」と付箋が貼ってあった。継男は丁寧に二つ折りにして、資源ごみに出した。
夜、家じゅうが寝静まってから天井を見上げた。
「お前ら、わしが変になったと思うか?」
一つが少しだけ近づいてきた。
「そうか。なら、ええんや」
壁もドアもすり抜けるくせに、継男の身体だけは器用に避けていく。まるで継男を自分たちと同じ「生き物」として認識しているかのようだった。



五 スーパーの惣菜売り場事件
毎日話しかけていると、それが癖になってしまう。半年もすると独り言が完全に板についてしまった。問題は、玉響が見えるのが自宅の中だけだということだった。
ある夕方、近所のスーパーの惣菜売り場で、コロッケと唐揚げパックを見比べながらつい口に出てしまった。
「お前ら、どう思う?」
当然、ここに玉響はいない。だが長年の習慣で視線を右上に向けると、「うんうん、唐揚げやな、わかった」と深く頷いた。
隣にいた主婦が、サッと一歩後ずさった。継男は素知らぬ顔で唐揚げを買った。
翌週には、町内に噂が駆け巡っていた。
「平田さん、誰もいないところに向かって話しかけてるらしいよ」
「惣菜売り場で揚げ物と会話してたって」
「唐揚げから返事をもらっていたらしいわ」
話は尾ひれがついてどんどん大きくなった。
それに追い打ちをかけたのが、孫の小学校の作文『わたしのおじいちゃん』だった。
『おじいちゃんは、いつも目に見えない誰かとお話ししています。でも、そのときのおじいちゃんはとても楽しそうです。だからわたしは、かっこいいと思います。』
この作文がなんと地域で金賞を取り、地元ケーブルテレビの取材が入ってしまった。
「見えないものが見えるんですか?」
「まあ、見えるな」
「幽霊ですか?」
「知らん」
「じゃあ、何なんですか?」
継男は少し考えてから答えた。
「友達や」
翌日から継男は「霊感じいちゃん」として夕方のローカルニュースに五分間バッチリ放送され、近所でそう呼ばれるようになってしまった。
「恥ずかしくないの!?」と妻に怒鳴られたが、「孫がかっこいい言うてくれたんや。それだけで十分や」と胸を張った。



六 骨董屋の佐伯
町の外れにある骨董屋の店主・佐伯は、七十を越えているはずだが年齢不詳の胡散臭さを漂わせている男だった。思い切って玉響の話を打ち明けると、佐伯は笑うこともせず、店の奥から埃をかぶった古い写真乾板を持ってきた。百年近く前の日本家屋の庭の隅に、小さな光が三つ写り込んでいる。
「こういうものを見る人間には共通点があるんじゃ。何かを大きな手放した直後なんじゃよ」
継男には思い当たることがあった。還暦を機に四十年来の晩酌を断ち、惰性で付き合っていた元同僚、愚痴ばかりの友人、金の無心を繰り返す遠縁の甥、断り切れずに続けていたゴルフ――この半年で、それらを一つずつ切り捨てていたのだ。
「身軽になったんじゃな。人間は歳を取るほど荷物が増える。物だけじゃない。付き合い、体裁、我慢、義理、見栄……そして荷物を捨てた人間だけが、今まで見えなかったものを見るようになる」
「それ、科学的な話なんか?」
「知らん。ワシは骨董屋じゃからな」
「関係あるか?」
「ないな」
二人は顔を見合わせて笑った。



七 三・五次元理論
正月に、姪の沙耶がやってきた。大学院で物理学を学んでいる理系女子だ。
「おじさん、それ、もしかして次元がずれてるのかもよ。理論上、私たちは三次元に時間を足した四次元時空にいるけど、超弦理論では十一次元の可能性だって議論されてるの。次元の隙間をふっと覗き込んじゃったんじゃない?」
「でもな、わしの身体だけ避けていくんやぞ?」
「面白いのはそこだよ! 向こうから見たら、おじさんの方があやしい異物なんじゃない? 三次元にどっぷり浸かったおじさんの身体が、向こうの座標軸からすると邪魔な障害物になってるんだよ」
継男は妙に納得した。自分が幽霊を見ているのではなく、自分の方こそ誰かにとっての幽霊なのかもしれない。そう考えると、なんだか愉快になってきた。
後日、沙耶から聞いた話を骨董屋の佐伯に打ち明けると、佐伯はしたり顔で言った。
「三・五次元やな。まだこの世におるけど、少しだけこの世から離れ始めた人間が住む場所じゃ」
継男はその言葉が妙に気に入った。科学的根拠はゼロだが、大マジメだった。ノートを買ってきて下手な図まで描き、誰彼構わず語って聞かせた。息子には「父さん、それただの老化現象やろ」と一蹴され、かかりつけ医には「血圧の薬、出しておきますね」とだけ言われた。
「わかる者にしかわからん高度な理論なんや」と、継男はむしろ誇らしげだった。



八 厄介者の追放、そして自由
それからというもの、継男は「我慢」を一切やめた。飲みたくもない酒の誘いは断り、愚痴しか言わない元同僚からの電話には出ず、金の無心を言ってきた甥には「もう一銭も出さん」とはっきり言った。
「叔父さん、昔はもっと優しかったじゃないか!」
「昔は暇がなかったんや。今は断る時間があるんや」
そう言ってガチャリと電話を切った。
「あんた、なんだか感じ悪くなったわね」と妻に呆れられたが、本人は少しも気にしなかった。不思議なことに血圧は下がり、食事は妻の手料理中心になり、毎朝爽やかに散歩をするようになった。
――我慢をやめたら身体が軽くなった。魂まで軽くなったんや。軽くなった魂は、別の次元の周波数と同調し始めるんと違うか。
それが継男の持論だった。
玉響の数も少しずつ増えていった。ある夜は四つになり、翌日には三つに戻る。
「気まぐれなやつらやな」
三・五次元とは年齢のことではない。手放した荷物の量なのだ。荷物を一つ捨てるたびに、こちらの世界の重力が少しずつ弱くなっていく。



九 社寺仏閣めぐりと写真判定
継男の新しい趣味は神社仏閣巡りになった。神様にお願いすることは三つだけ。健康、安全、安定。
若い頃なら「金持ちになりますように」とか「美人に好かれますように」と願っただろう。だが六十一を過ぎると、願い事はきわめて現実的になるのだった。
参拝を終え、境内の空気がゆらぐ瞬間を狙ってスマホのシャッターを切る。すると、たいてい何かが画面に写り込む。小さな光の玉だ。
「居るな。今日もおる」
境内で一人、スマホに向かって頭を下げる老人を、近所の人々は遠巻きに心配そうに見ていたが、継男は一向に気にしなかった。ある日、寺の住職に写真を見せると、住職は優しく微笑んで言った。
「あなたがそういうお名前で呼んでおられるなら……ええ、きっと玉響なのでしょう」
決して否定しなかった。それだけで継男は嬉しかった。
家に帰ると妻が言った。
「今日はどこ行ってたの?」
「お寺や」
「何お願いしてきたの?」
「健康、安全、安定や」
「私の分も入ってる?」
「当たり前やろ」
神様は遠い雲の上にいるとは限らない。毎日の台所の湯気の向こうや、朝飯の味噌汁の中や、天井近くを泳ぐ小さな光の中にも、ちゃんといる気がした。



十 鏡味、ふたたび
春、駅前を歩いていると声をかけられた。
「平田か?」
振り返ると鏡味だった。白髪が増え、片足は義足になっていたが、品のいい佇まいは昔のまま健在だった。
近くの喫茶店に入った。
「体調はどうや」
「まあまあだな。昔はもっといい人生になると思ってたよ。顔が良ければモテる、金があれば好きなことができる、成功すれば勝ちだと思ってた。でも全部違ったな。今は朝起きて飯が食えて、身体の痛みが少なければそれで嬉しいよ」
継男は笑った。
「わしも全く同じや」
「お前は幸せそうだな」
「何でやろな」
「知らんよ」
継男は例のノートを取り出し、得意げに三・五次元理論を説明した。鏡味はぽかんと口を開けて聞いていたが、やがて腹を抱えて笑い出した。
「なんやそれ! お前、とうとう頭沸いたんか!?」
「沸いとらん! これは高度な理論や!」
「一緒やろ、そんなもん!」
学生時代のように、いつまでも二人で笑い転げた。美しさも、カネも、若さも、どうでもよかった。こうしてバカな話をして笑い合える相手がいる。それだけで、人生は十分すぎるほど豊かだった。



十一 古希への予感
骨董屋の佐伯に会いに行くと、お茶をすすりながら言われた。
「継男さん、次は古希(七十歳)やな。還暦で片足を三・五次元に突っ込んだのなら、古希で両足が入ってしまうかもしれんな」
「そしたら、わしどうなるんです?」
「知らんよ、ワシもまだ古希は超えとらんからな」
もし七十歳の誕生日に両足を踏み入れて、この世から姿を消すことになったとしても、それはそれで悪くない終わり方かもしれない、と継男は思った。ただし、孫の小学校の入学式も運動会もまだ見ていない。来月には妻との温泉旅行も予約したばかりだ。あと九年、やるべきことは山ほどあった。
その夜、天井を泳ぐ三つの光に話しかけた。
「なあ、古希になったらわし、どっか行くんか? まだ行きたないんやけどな。孫の入学式も見たいし、運動会も、温泉も行きたいんや」
「急がんでもええよな?」
三つの光が、ゆっくりと優しく揺れた。継男はそれを、「当たり前だ」という返事だと受け取った。



十二 それでも、ここにいる
翌朝早くに起き、庭でラジオ体操を始めた。
一、二、三、四。「痛っ」腰が小さく鳴った。
「三・五次元に入る前に、腰が四次元になってしもたわ」
妻が縁側から顔を出した。
「朝から何ブツブツ言ってるの?」
「ラジオ体操や」
そのとき、頭上に小さな光が三つ浮かんでいた。朝の光に紛れるほど淡い光だった。
「お前らも来たんか」
「何?」
「友達や」
「朝から友達まで来てるの。じゃあ、その友達にも朝ご飯食べるか聞いといて」
「朝飯食うか?」
光がゆらりと揺れた。
「いらんらしいわ」
カネも美しさも若さも、結局のところ大したものではなかった。もちろん、少しは欲しい。ついでに腰痛もなくしてほしい。だが振り返ってみれば、健康な身体があり、妻がいて、息子も娘も孫もいて、朝飯が美味しく食えて、散歩ができて、よく分からない光の友達までいる。十分どころか、溢れるほどの贅沢だった。
「神様、もしお前らが神様からの相槌やったらな、わしまだここにおるで。まだどこにも行かんで。孫の運動会もあるし、温泉も行く。あと、唐揚げも食う」
三つの光がふわりと明るくなった。
「お前ら、唐揚げ好きなんか?」
見えないものを無理に見ようとはしなくなった。目に見えるものを、ただ大切にするようになった。妻の呆れた笑い声、孫からの電話、朝の澄んだ空気、味噌汁の温かい湯気、庭に咲く小さな花、探さずとも歩んでいける己の足根骨。
三・五次元とは、決して特別な世界のことではないのかもしれない。何かを手放したあとに初めて気づく、この世界のもう一つの素顔。失ったものではなく、手元に残っている宝物が見えてくる場所なのだ。
庭に立ち、空を見上げた。
「また明日な」
三つの光が、同時にふっと消えた。
台所から声がした。
「誰と話してるのー?」
継男は少し考えてから答えた。
「未来のわしや!」
「何それ!」
「三・五次元の住人や!」
「朝から変なこと言ってないで、ご飯よ!」
「はいはい」
継男は笑いながら家の中へ入った。その足取りは、驚くほど軽やかだった。まだどこへも行かない。まだこの世界にしっかりと生きている。
三・五次元の隠居生活は、今日もちゃんと続いていく。
少しだけ不思議に。少しだけ滑稽に。そして、思っていたよりもずっと豊かに。

(了)


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あとがき
主人公の平田継男は、決して世間一般で言う「成功者」ではありません。退職金で豪遊できるわけでもなく、人目を惹くような華やかな経歴があるわけでもありません。しかし、彼が不要な意地や我慢を手放したことで手に入れた「三・五次元の視点」は、何物にも代えがたい豊かな人生の境地であったと感じます。
慌ただしい日常を送る現代において、私たちはつい「何を得るか」「何を足し算するか」ばかりに気を取られてしまいがちです。しかし、歳を重ねる中で不要な荷物を削ぎ落としていく「引き算の美学」の中にこそ、日常の小さな幸せを照らし出す光が隠されているのかもしれません。
あなたのすぐ側にも、もしかすると優しく揺れる「玉響」が漂っているかもしれません。この物語が、読者の皆様の日常にほんの少しの温もりとクスッと笑える癒やしを届けることができたなら、とても嬉しく思います。
平田継男と「玉響」たちのささやかな未来に幸多からんことを願って。



この夏
使い倒して来た靴下が
あまりの汚れとなり
久しぶりに
ウタマロ石鹸を引っ張り出した

泥汚れに
バッチリ効くこれは
子供たちの卒業と共に
お蔵入りした我が家

そう
3人共
皆 体育会系の部活をやり切って
その試合の度出掛け

応援席で
行けー!
打てー!
そこだー! と
楽しい時間だった



娘たちは
バレーに
バスケにと
体育館内での競技だったから
ユニホームも
さほど汚れはなかったけれど

息子は
サッカーに
アメフトにと
毎日毎日 泥汚れ

その汚れを落とすには
これ
ウタマロ石鹸しかなく

帰宅すれば
ゴシゴシと
カミさんが力を入れる姿

そんな頃も
もう10年もが過ぎて
懐かしいやら
また
応援に行きたいやら…

ならば
次は孫たちかと
楽しみにしてみる

きっと
孫娘は体操に進み
孫息子たちはサッカーなのだろう

ならばやはり
娘もまた
ウタマロ石鹸でゴシゴシか! と
思えば
楽しみは更に膨らんでくれる