近日 キンドル 予定


大学教授になりたかったのよ
〜キリシマ電器、野望の記録〜


〜序〜

ガキの頃は さ
毎週末 
親父と 笑点を見て大笑いしてたもんで
噺家になりたかったり

永井豪さんのよ~な
ハレンチな漫画でも書いて~~~とか

いや
ロックバンドが

いやいや
ハワイで
ハレイワで
プロサ~ファ~で
カキ氷屋も。。。 な~んて 思ったもんだったけれど

ホンマは さ
も少し勉強して
うまいことコネ付けて
助教授にでもなって
そろそろこの年齢で
大学教授~~~ ってな~ 人生になりたかったのよ

何か好き勝手なものを専攻なんかしてさ
さぞも凄いんだぞ!! って見せて
それだけに
その分野だけに没頭し
この国での第一人者って~な具合な わけ

そして
これまた
好き勝手な講義でもしてさ
高額な給与頂いてさ

そ~ね~
たとえば
どこぞやかの教授のよ~に
エジプトのピラミッドがど~したこ~した とか

TVのクイズ番組にでも出て
OO教授に50点 とかさ
そんなんが良かったって わけさ

家は
世田谷と
軽井沢とに持って

長期の夏休みなんかはさ
これまた
好き勝手に海外を旅なぞして

新学期には
これまた
あ~でもないこ~でもない って
そのことに尽いて 偉そ~に話すわけ。。。

齢取ったら
そこそこの授業にだけ出て

後は
通りからは遥か見えないよ~な
林に囲まれた軽井沢の別荘かなんかで

テラスで
紅茶でも口にしながら
隣には
着物姿の
カミさんじゃ~ない女性がいて さ

小鳥の声にあわせて
ゴホッ ゴホッ と
ちょいと咳き込んだりなんかしながら
小説でも書いて

時折 訪ねてくる仲間たちと
昔を語りながら 一杯やる。。。

そんな憧れ
あったよなあ~~~

だからさ
あの頃
もっと もっと
勉強しとくべきだった よな

ああ~~あ~

そ~よ
大学教授になりたかったのよ

女子大の。。。

そんな お話…




なりたかったものに、なれなかった人へ。
それでも今日も、なんとかやっている人へ。


── 桐島浩三、六十二歳の野望と受難 ──


一 笑点と、親父と、俺の野望

俺の名前は桐島浩三、六十二歳。
現在の職業は、大阪・天満にある町の電器屋「キリシマ電器」の店主である。妻あり、子あり、借金なし、夢なし……いや、夢だけはあった。いや、正確に言えば「あった」ではなく「ある」だ。現在進行形で、ある。

それは、大学教授になることだ。

女子大の。

まあ聞いてくれ。話せば長くなる。いや、短くもなる。要するに、俺という男の人生とはそういうものだったというだけの話だ。

発端は子どもの頃に遡る。

毎週日曜日の昼下がり、俺は親父の隣に座って笑点を見ていた。あの頃の笑点はよかった。座布団が飛んで、師匠が怒鳴って、客席のおばちゃんたちがひっくり返るように笑っていた。

「浩三、ああいうのはどや」と親父が言った。

「どや、て、何が」

「噺家や。面白いやろ」

俺は首を傾けた。面白いとは思った。しかし、噺家というのは師匠に弟子入りして、楽屋で雑用をして、十年かけて前座になって、というやつだ。それは違う、と六歳の俺でもわかった。

「俺はもっとラクして面白い仕事がしたい」

親父は爆笑した。「お前はアホか」と言いながら、なぜか嬉しそうだった。

それから俺の夢は目まぐるしく変わった。

永井豪さんの漫画にハマった時期は、俺もハレンチな漫画を描きたいと思った。中学のノートの端っこに女の子の絵を描きまくって、担任の田村先生に没収された。「桐島、お前には才能がない」と言われた。それは今でも根に持っている。

高校でロックバンドをやった。ギターを買って、コードを三つ覚えて、文化祭で演奏した。観客は十七人。そのうち十二人は俺の親族だった。

大学は、まあ、なんとか入った。どこかは言わない。恥ずかしいから。

ハワイにサーフィンをしに行ったのは二十三歳の時だ。ハレイワの波は高かった。俺は見事に三秒でボードから落ちた。地元のサーファーが笑っていた。ハワイ人にも笑われる男、それが俺だ。

かき氷屋をやろうとしたのは三十歳の時だ。妻の節子に「アホか」と言われてやめた。節子はいつも正しい。

そして俺は気づいた。

本当になりたかったのは、大学教授だ。

考えてみれば、これほど素晴らしい職業があるだろうか。
何か好き勝手なものを専攻して、その分野の第一人者になって、好き勝手な講義をして、高額な給与を頂いて、夏休みは長くて、海外を旅して、テレビのクイズ番組に出て「○○教授に五十点」とかやって、軽井沢に別荘を持って……。

「なあ節子、俺、大学教授になりたかったわ」

ある夜、晩酌しながら俺は言った。

節子はテレビを見ながら「今さら何を言うてんの」と言った。

「今さらやない。ずっと思うてたんや」

「六十二歳やで、あなた」

「わかっとる」

「電器屋の店主やで」

「わかっとる」

「昨日、お客さんの扇風機の修理で油だらけになってたやろ」

「……わかっとる」

節子はチャンネルを変えた。話は終わった。

しかし俺の中では、終わっていなかった。



二 運命の電話

翌日の昼過ぎ、店の電話が鳴った。

「キリシマ電器でございます」

「あ、もしもし。桐島浩三さんでいらっしゃいますか」

聞いたことのない声だった。若い男の声だ。

「そうですが」

「私、難波文化カルチャーセンターの高田と申します。突然のご連絡、失礼いたします。実は先日、桐島さんが地域の防災委員会でお話しされた内容が大変好評でして」

俺は首を傾けた。防災委員会。ああ、先月のやつか。町内会に頼まれて、電気系統の防災について三十分ほど話したやつだ。正直、かなり適当な話をした。

「はあ」

「それで折り入ってお願いがあるのですが、当センターで月に一度、一般向けの講座を開いていただけないでしょうか。テーマは家電の正しい使い方と防災、という感じで」

俺は受話器を持ったまま固まった。

講座。講師。つまり、教える人。先生。


教授ではないが……しかし、これはもしや、運命の第一歩ではないか。

「謝礼はお一人様、一回五千円を予定しております」

「やります」と俺は即答した。


三 先生、デビュー

初回の講座は、十五人の受講者が集まった。

平均年齢、おそらく七十歳。ほぼ全員、おばちゃんとおじいちゃんだった。

俺はスーツを着た。節子に「なんでスーツなん」と言われたが、「講師やから」と答えた。節子は「カルチャーセンターの講師でスーツはおかしい」と言ったが、俺は着た。

教壇に立った瞬間、俺は悟った。

これだ。これが俺の場所だ。

「皆さん、本日は家電と防災というテーマでお話しします。私、桐島と申します。電気一筋四十年でございます」

四十年というのは少し盛った。実際は三十五年だ。しかしこういう場では盛るものだ。

「まず最初に質問です。皆さん、タコ足配線をしていませんか」

前列のおばちゃんが手を挙げた。「してます」

「どのくらい繋いでますか」

「七個くらい」

「七個!」俺は大げさに驚いてみせた。「それは危ない!」

おばちゃんたちがざわめいた。俺は手応えを感じた。

講座は盛況だった。終わった後、三人のおばちゃんが「先生、うちにも来てください」と言った。俺は名刺を渡した。「キリシマ電器、桐島浩三」と書いてある名刺だ。先生らしくないが、まあいい。

帰り道、俺は思った。

これを足がかりにするのだ。カルチャーセンターの講師から、地域の大学の非常勤講師へ。非常勤講師から、専任講師へ。専任講師から、准教授へ。准教授から……教授へ。

女子大の。

道は長いが、俺にはまだ時間がある。六十二歳はまだ若い。いや、若くはないが、遅くはない。たぶん。



四 専門分野

問題は、専門分野だ。

大学教授になるからには、何か一つのことを極めなければならない。ピラミッドがどうしたこうした、みたいな、テレビで話せるやつだ。

「俺の専門はなんやろ」

店のカウンターで考えていると、常連の田岡さんが入ってきた。七十四歳、元大工。毎週来ては電球を一個買って帰る。

「店主、また難しい顔して」

「田岡さん、俺の専門分野ってなんやと思います」

田岡さんは首を傾けた。「電球?」

「もっとアカデミックなやつで」

「アカデミック」田岡さんは繰り返した。「蛍光灯?」

「もっと広い意味で」

「LED?」

話にならなかった。

結局、俺は一人で考えることにした。

俺の得意なことはなにか。電気のこと。家電のこと。それだけか。いや、待て。俺は笑点が好きだ。落語も好きだ。サーフィンも……いや、三秒しかできないから好きとは言えない。ハワイには詳しい。ハレイワのかき氷は旨かった。

……かき氷。

閃いた。

「日本かき氷文化史」だ。

考えてみれば、かき氷の歴史は古い。清少納言の枕草子にも氷を削るくだりが出てくる。江戸時代には庶民の間に広まり、明治には電動の製氷機が登場し、現代のふわふわかき氷ブームへとつながる。これは立派な文化史だ。

俺はその日から、かき氷の研究を始めた。図書館に行って本を借りた。インターネットで論文を探した。大阪中のかき氷屋を食べ歩いた。これは純粋に楽しかった。

三ヶ月後、俺は「日本かき氷文化概論」という四十ページのレポートを書き上げた。

節子に見せた。

節子は最初の一ページを読んで「あなた、大丈夫?」と言った。

「どこがおかしい」

「全体的に」

「もっと具体的に」

「かき氷屋巡りの経費、全部店の経費で落としてるやろ」

「研究費や」

「アホか」

節子はいつも正しい。



五 テレビ出演

転機は突然やってきた。

カルチャーセンターの講座が口コミで広がり、俺はいつのまにか「家電と暮らしの専門家」として地域で知られるようになっていた。それでも、まさかテレビから連絡が来るとは思わなかった。

「桐島さんですか。ABC放送の者ですが」

「はい」

「情報番組で、家電の節電術について専門家にコメントをいただきたいのですが」

俺は三秒で「やります」と言った。

収録当日、俺はまたスーツを着た。今度は節子も何も言わなかった。

スタジオに入ると、俺の肩書きが書かれたパネルが置いてあった。

「家電・生活文化研究家 桐島浩三」

研究家!

俺は研究家になっていた。

コメントは三分ほどだった。緊張したが、なんとかこなした。放送を見た田岡さんが「店主、テレビ出てたな」と言った。「見ましたか」「たまたまな。チャンネル変えようとして手が滑った」田岡さんらしかった。

しかし問題が起きたのは、その翌週だった。

例のテレビを見ていた関西の某女子大の学長、藤堂という人物が、なぜか俺に連絡をしてきたのだ。

「桐島さん、一度お話を聞かせていただけませんか」


六 女子大へ

藤堂学長は六十八歳の、小柄で眼鏡をかけた女性だった。

「実は、うちの大学で来年度から新しい学部を立ち上げる予定でして」

「はあ」

「生活文化学部、というものです。家電、食、住まいなど、暮らしに根ざした文化を学術的に研究する学部です」

「はあ」

「桐島さんのような、現場に根ざした知識と発信力を持つ方に、非常勤講師としてお願いできないかと」

俺は自分の耳を疑った。

女子大。非常勤講師。

これは……夢ではないか。

「喜んで」と俺は言った。声が少し裏返った。

帰りの電車の中で、俺は窓の外を見ながらぼんやりと思った。

笑点から始まって、噺家になりたくて、漫画家になりたくて、ロックバンドをやって、ハワイでひっくり返って、かき氷屋をやろうとして、電器屋になって、カルチャーセンターで講義して、テレビに出て……。

そして女子大の非常勤講師。

縄が、撚れてきた気がした。


七 初講義、大惨事

初講義の日がやってきた。

教室には三十人の女子大生がいた。平均年齢、十九歳。俺は六十二歳。

これはつまり、俺の孫くらいの年齢の女の子たちに教えるということだ。

「えー、皆さん、こんにちは。桐島と申します」

三十人が一斉にスマホを見ていた。

「あの、皆さん」

誰も顔を上げない。

俺は咳払いをした。「本日のテーマは、日本における家電文化の変遷です」

一人がようやく顔を上げた。「先生って、電器屋さんなんですか」

「そうです」

「うちのテレビ、映りが悪いんですけど見てもらえますか」

「授業中はちょっと……」

別の一人が「先生、かき氷の本書いたんですか」と言った。どこで調べたのか。

「書きました。自費出版ですが」

「読んでみたいです」

「ありがとう」

別の一人が「先生て彼女いるんですか」と聞いた。

「妻がいます」

「奥さんて何歳ですか」

「六十歳です」

「若い」

何が若いのかわからなかったが、先に進んだ。

「では始めます。まず、日本の家電の歴史は……」

その時、俺のズボンのポケットで携帯が鳴った。電源を切り忘れていた。着信音は節子が設定した笑点のテーマ曲だった。

教室中に笑点のテーマが鳴り響いた。

三十人が一斉に顔を上げた。

そして笑った。

俺は真っ赤になりながら電話を切った。電話は節子からだった。後で確認すると「今日の夕飯何がいい」というメッセージが入っていた。

しかし不思議なことに、笑点のテーマ以降、教室の空気が変わった。女の子たちが急に親しみを持って話を聞き始めた。質問も増えた。終わった後、数人が「先生、面白かったです」と言った。

俺は廊下で一人、胸を撫で下ろした。

なんとかなった。


八 軽井沢の夢

それから半年が経った。

俺は相変わらず天満で電器屋をやりながら、週に一度、女子大で講義をしている。非常勤講師の給与は、正直それほど多くない。軽井沢に別荘を買える額では、まったくない。

しかし、悪くない。

講義の後、学生たちと話す時間が俺は好きだ。彼女たちの質問は、時々するどくて、時々とんでもなくて、いつも予想外だ。

先週は「先生、かき氷って芸術だと思いますか」と聞かれた。

俺は三秒考えて「思います」と答えた。「人が手間をかけて、人を喜ばせるために作るものは、全部芸術です」

女の子は「ええ言葉ですね」と言った。

俺は少し照れた。

帰り道の電車の中で、俺は考えた。

軽井沢の別荘は、まだない。テラスもない。着物姿のカミさんじゃない女性も、もちろんいない。いたら節子に殺される。

しかし、好き勝手な話をして、若い子たちが笑って、少し賢くなって帰っていく。それは、俺が子どもの頃に夢見た何かと、意外と近いのかもしれない。

笑点を見ながら、親父の隣で笑っていたあの頃の俺が、もしも今の俺を見たら。

「まあまあやないか」と言うだろうか。

「噺家の方がよかったやろ」と言うだろうか。

「女子大て、お前なあ」と言うだろうか。

たぶん、全部言う。

そして最後に笑うだろう。

俺も笑うだろう。

それでいい。


九 そして今日も

今日も店に田岡さんが来た。電球を一個買って帰った。

「先生、大学はどうや」

「まあまあですわ」

「テレビはまた出るんか」

「声がかかれば」

「かき氷の本、読んだで」

「ほんまですか」

「半分寝た」

「……正直なお人や」

田岡さんは帰り際に振り返って「でもな、店主」と言った。

「なんですか」

「楽しそうになったな、最近」

俺は少し考えた。

「そうですかね」

「そうや。なんか、生き生きしとる」

田岡さんは手を振って帰っていった。

俺はカウンターに肘をついて、店の外を見た。天満の商店街が、今日も賑やかだった。

大学教授には、まだなっていない。非常勤講師だ。

軽井沢の別荘は、まだない。

テラスで紅茶を飲みながら小説を書く日々は、まだ来ていない。

しかし。

俺はまだ、六十二歳だ。

いや、もう六十二歳か。

……まあ、どっちでもいい。

縄は、まだ撚れる。

「なあ親父」と俺は心の中で言った。「俺、女子大で教えてるで。教授ではないけどな。まあまあやろ」

親父はきっと笑う。

「お前はアホか」と言いながら、嬉しそうに笑う。

それだけで、十分だ。

俺は立ち上がり、店のシャッターを少し開けた。

今日も天満に、午後の光が差している。

どこかで笑点のテーマが聞こえた気がした。

気のせいだ。

たぶん。

〜了〜


アマゾン キンドル



〜あとがき〜

書き終えて思うのは、桐島浩三という男は、案外しあわせな人間だったのではないか、ということだ。

夢はかなわなかった。教授にはなれなかった。軽井沢の別荘もない。テラスで紅茶を飲みながら小説を書く優雅な老後も、まだ来ていない。

しかし彼は、六十二歳にして新しいことを始めた。笑点のテーマで笑われながら、女子大の教壇に立った。田岡さんに「楽しそうになった」と言われた。

それで十分ではないか、と俺は思う。

人生というのは、なりたかったものになれなかった人間の、長い言い訳の歴史だ。しかしその言い訳の中に、その人らしさが全部詰まっている。噺家になれなかったから電器屋になった。かき氷屋になれなかったからかき氷を研究した。ぜんぶ繋がっている。

親父の隣で笑点を見ていた子どもが、六十二年かけて、女子大の教壇で笑点のテーマを鳴らす。

これを縄と呼ばずして、なんと呼ぼう。

最後に、節子さんに一言。
あなたはいつも正しい。

桐島もそれだけはわかっている。
たぶん。





さて
明日は仲良しくんの
若手噺家さんの
真打ち披露目パーティー

御祝儀袋をカミさんに頼んだら
シンプルな
何も書いてないものを買って来た

ではと
そこへ
只今 筆ペンで 格闘中

なんせ
小学生の時 習った習字は
準八級

そうだ
八級ではなく
準 ってやつだ  笑

ようするに
習字は ヘタで
ペン時も ヘタで

それでも
読めるから大丈夫 笑



そしたら
この御祝儀袋
和紙で出来てて
墨が滲むこと滲むこと

それでも
分かれば良いこと
大事なことは
中身ですかね… なんて
今朝ほど
その若手噺家さんは
ネットで熱弁してたっけ



さあ
明日は
慣れない正装などして
多くの噺家さんたちと
騒いで来よう




さてこれで

いよいよ 師匠と呼ばねばならない


〇〇くん とか

〇〇さん なんて

呼べなくなりそうだ…


昨年末

突然 師匠を失い

辛いでしょうが


ならば

すぐに弟子を取って

また賑わいを見せて欲しい



術後の安静期間により
落ちてしまった体力を
早く戻さねばと

毎日 
ぱふのロケットと首輪を持ち
あの頃の散歩道を歩き回っているが
1ヶ月 サボった身体は
なかなか元には戻らない



そんな中
そろそろ山へと
仲間たちからの連絡が入り

ではと
そのリハビリにと
カミさんに連れられて
低山を目指してみた今日




いくつかの
低い山を越すと
あらま知らなかった建物が現れて

そこは
ピースミュージアム 

ならば
入らねばと 背筋を正した





この平和な国で
日常 目にすることのない
戦争の足跡

僕らが生まれる前の
昭和は狂った時代だったと
悲しくも
辛くもなった





争いに良いことなど
ひとっつも ない!

人間たちは
いつまで争うのだろうか…
滅ぶまで争うのだろうか…



今朝

あいつが夢に現れて

会場の後ろの方で眺めていた僕に

おい かづ

こっち出て来いよ! と…



昨日の境界線
〜ジョニーのいた季節〜


〜まえがき〜
人生の中で、たった一年だけ本気になれた時間がある。
誰にでも、そういう時間が、あるのではないだろうか。
プロになれたわけでも、何かを成し遂げたわけでもない。でもあの頃の自分は、間違いなく本物だった。全力だった。あの熱は、嘘ではなかった。
この物語は、そういう時間の話だ。
バンドの話であり、友人の話であり、偶然の話であり、喪失の話だ。しかし根っこにあるのは、誰かの声が自分の中に生き続けるということ、それだけだ。
朝のラジオで流れた一曲が、三十年以上前の記憶を呼び覚ます。そういうことが、人生にはある。音楽とはそういうものだし、友情とはそういうものだ。
ジョニーはもういない。
しかしあの声は、どこかに残っている。
そう信じながら、書いた。


♪ 束の間の淋しさを うずめるために
君の歌声を聞いていた
狭いホールの壁にもたれて
キミの動きを追いかけていた
飛び散る汗と 煙の中に
あの頃の俺がいた ♪


一章 ラジオの声
十月の朝だった。
末永克己は、いつもより少し早く家を出た。得意先への訪問が九時に入っていて、道が混む前に出たかった。カーラジオをつけると、朝のワイド番組が流れていた。パーソナリティが何かを喋っていたが、内容は耳に入らなかった。ぼんやりと前の車のナンバーを見ながら、今日の段取りを頭の中で整理していた。
信号が赤になった。
その瞬間、ラジオの音楽が変わった。
イントロが流れ始めた瞬間、克己の手が止まった。
聞き覚えのある、というより、身体が覚えているイントロだった。頭で思い出すより先に、胸の奥で何かが動いた。三十年以上前の、どこか薄暗いホールの空気が、鼻の奥に蘇るような気がした。
歌が始まった。
克己は気づかないまま、口が動いていた。
歌詞を暗記しようとしたことなど、一度もない。それでも言葉が出てくる。身体のどこかに刻み込まれた言葉というのがあって、それは忘れようとしても忘れられない。
束の間の淋しさを うずめるために
君の歌声を聞いていた
隣の車線に、白いセダンが並んでいた。
克己は何気なくそちらを見て、目が止まった。
四十代くらいの男が、同じように口を動かしていた。窓越しだから声は聞こえない。しかし、その口の形は、間違いなく同じ歌を歌っていた。
男と目が合った。
男は少し照れたような顔をして、でも笑った。
克己も笑った。
信号が青になって、それぞれの車は別の方向へ走り去った。
名前も知らない男と、三十秒だけ共有した記憶。それだけのことだが、克己の胸の中に、温かいものが残った。
ジョニーのことを考えた。
久しぶりに、真正面から。

ジョニー、と呼んでいた。
本名は城島譲二という。高校の同級生だった。ジョニーというあだ名は、どこから来たのか、もう誰も覚えていない。気づいた時にはそう呼んでいた。本人も気に入っていたようで、嫌がったことは一度もなかった。
細くて、背が高くて、声がよかった。
歌が上手い、という次元ではなかった。声に色があった。聴いている人間を、どこか別の場所へ連れていくような声。そういう声の持ち主が、世の中にたまにいる。ジョニーはそういう人間だった。
克己と出会ったのは、高校一年の春だった。
音楽室の前の廊下で、ジョニーが鼻歌を歌っていた。それが聞こえて、克己は足を止めた。
「おまえ、バンドやらへんか」
それが最初の言葉だった。
ジョニーは「ギター弾けるんか」と聞いた。
「少しは」と克己は答えた。
少しは、というのは嘘だった。ほとんど弾けなかった。しかし、この声を逃したくなかった。
それが始まりだった。


二章 バンドの季節
バンドを組んだのは、高校二年の秋だった。
克己、ジョニー、それからベースの藤本、ドラムの水口、キーボードの松岡。五人だった。
藤本と水口は中学からの友人で、松岡はジョニーが連れてきた女の子だった。松岡麻子、というのが正式な名前で、クラシックピアノを習っていたが、バンドに憧れていた。
最初の練習は、克己の家の車庫でやった。
防音など何もない車庫で、夜の八時まで音を出した。近所から苦情が来て、克己の父親に怒鳴られ、それからは公民館の会議室を借りるようになった。
月に二回、二時間。
その二時間が、一週間の中で一番濃い時間だった。
学校のことを考えない。将来のことを考えない。ただ音を出すことだけを考える。下手くそな演奏が少しずつ形になっていく感覚が、何よりも楽しかった。
ジョニーの声は、どこで歌っても際立った。
体育館で歌った時、音が響いて全員が驚いた。文化祭のステージで歌った時、客席がしんと静まった。騒がしかった生徒たちが、ジョニーが歌い始めた瞬間に黙った。
「あいつの声、なんかあるな」
藤本が練習の帰り道に言った。
「あるな」と克己は答えた。
言葉は少なかったが、全員がわかっていた。ジョニーの声には、何かがあった。
しかし、一方で克己のギターは、なかなか上達しなかった。
練習はした。家でも毎日練習した。しかし、指が思うように動かない。コードの切り替えがもたつく。ジョニーの歌に、演奏が追いついていかない。
「おまえのギター、また間違えたやろ」とジョニーが言った。
「うるさい、おまえの声でごまかせ」と克己は言った。
「ごまかせるかい」
「ごまかせてる」
「ごまかせてへん」
そういうやり取りが、毎回あった。
真剣に言い合っているようで、どこかふざけていた。そういうテンポが、ふたりの間にはあった。

高校を卒業してから、バンドは続いた。
全員がバラバラの進路を取ったが、月に一度は集まった。藤本は地元の会社に就職し、水口は専門学校へ行き、松岡は短大に入った。克己は父親の仕事を手伝いながら、ギターの腕を磨こうとしていた。
ジョニーだけが、音楽で食っていくつもりだと言った。
「本気か」と克己が聞いた。
「本気や」とジョニーは答えた。
その目に迷いはなかった。
克己は何も言わなかった。
羨ましいとも思った。無謀だとも思った。しかし、ジョニーの声を知っている自分には、無謀とは言い切れなかった。あの声があれば、どこかへ届くかもしれない。本当に、そう思っていた。
二十歳の夏、バンドとして最後のオーディションを受けることになった。
全員で話し合って決めた。
「これがダメだったら、終わりにしよう」
藤本が言い出して、全員が同意した。薄々わかっていた。いつまでも続けられるものではない。それぞれの生活が、少しずつバンドを押しつぶし始めていた。
オーディションの会場は、大阪の小さなライブハウスだった。
楽屋で待つ間、全員が無口だった。
ジョニーだけが、壁にもたれて目を閉じていた。緊張しているのか、それとも集中しているのか、克己にはわからなかった。声をかけることができなかった。
出番が来た。
ステージに上がると、照明が眩しかった。
客席はほぼ空だった。審査員らしき人間が、前の方に三人座っていた。それだけだ。しかし克己の心臓は、満員の客席を前にした時よりも激しく鳴っていた。
ジョニーがマイクの前に立った。
克己は深呼吸して、ギターを持ち直した。


三章 オーディションの夜
三曲、演奏した。
一曲目、克己は弦を押さえる指が震えていた。音が出るたびに、わずかにずれる気がした。ジョニーの声がそれを包んだ。包んでくれた、というより、ジョニーの声が始まった瞬間に、克己の耳から演奏の粗さが消えた。ジョニーの声だけが、空間を満たした。
二曲目、少し落ち着いた。
克己の指が動き始めた。藤本のベースが乗ってきた。水口のドラムが締めた。
三曲目、全員が噛み合った。
あの感覚を、克己は今でも覚えている。ばらばらだった音が一点で交わる瞬間。誰かが合わせようとしているわけでもないのに、自然と同じ場所に集まってくる瞬間。音楽をやっている人間が、時々だけ経験できる、あの感覚。
ジョニーの声が伸びた。
スポットライトの中で、ジョニーの顔は静かだった。
演奏が終わった。
審査員の三人は、何かをメモして、小声で話し合っていた。
結果は、二週間後に書面で届くと言われた。
楽屋に戻ってから、全員が黙っていた。
しばらくして、松岡が「うちら、よかったと思う」と言った。
誰も否定しなかった。
確かに、よかった。自分たちとして、これ以上のものは出せなかった。
問題は、それで十分かどうかだ。
二週間後、封書が届いた。
克己は一人で開けた。
結果は、不合格だった。
理由の欄に、小さな字でこう書かれていた。「ボーカルの資質は認めるも、バンドとしての完成度において」。
克己はその紙を、しばらく眺めた。
ボーカルの資質は認める。
ジョニーのことだ。
克己は全員に電話した。最後にジョニーに電話した。
「ダメだった」
「そうか」
「ボーカルの資質は認めるって書いてあった」
電話の向こうで、ジョニーが笑った気がした。
「それだけでええわ」
「ええんか」
「ええよ。ありがとな、克己」
その声が、少し滲んでいた気がした。気がした、というだけで、確かではない。
それぞれの道が、そこから始まった。

バンドが終わって、克己は父親の仕事を本格的に手伝うようになった。
建材の販売をしている小さな会社だった。克己はそこで二十年以上働き、今は営業の責任者をしている。
平凡な、しかし確かな仕事だ。
不満はない。やりがいもある。ただ、時々、あの二時間のことを思い出す。
公民館の会議室。防音のない空間。下手くそな演奏。そしてジョニーの声。
あの時間は、克己の人生の中で最も密度が高かった時間のひとつだった。


四章 エンコ
十五年ほど前、克己は車を探していた。
古いアメ車が欲しかった。二十代の頃から、いつか乗ってみたいと思っていた車があった。実用的でないことはわかっていた。妻の道代には「またそんな」と言われることも予想できた。しかし、五十を前にして、一度くらいはと思った。
インターネットで探すと、地方の専門店にあった。
電話して、写真を送ってもらい、何度かやり取りをして、買うことを決めた。
大枚を財布に入れて、新幹線に乗った。
乗り換えの駅で、地図を確認しながら、ふとその町の名前を見た。
「あ、ジョニーの町やな」
声に出してから、ひとり苦笑した。
ジョニーがその町に移ったことは、年賀状で知っていた。縁があって落ち着いた、と書いてあった。詳しいことは書いていなかった。ジョニーは手紙の類が不得意で、年賀状はいつも一言だけだった。
もしや、今もここにいるだろうか。
思いながら、在来線に乗り換えた。
初めての町だった。
駅を降りると、小さな商店街があった。シャッターが半分降りていたが、人の気配はあった。地方の、ありふれた駅前風景だった。
車屋は、駅から少し離れた国道沿いにあった。
店主は五十代の男で、気さくな人だった。「よく来てくれました」と言い、車を見せてくれた。
念願の車だった。
紺色のボディに、少し錆が浮いていたが、それが味だった。内装も古びていたが、その古びかたが正しかった。
「整備はしてあります」と店主は言った。
「信じますよ」と克己は言った。
書類を済ませ、鍵を受け取り、さて帰ろうと車を走らせた。
高速の入り口を目指して、国道を走り始めて五分ほどで、車が止まった。
エンジンが、突然止まった。
「おいおい」
克己は思わず声に出した。
アクセルを踏んでも反応がない。ハザードを出して、路肩に寄せた。
エンジンをかけ直そうとしたが、かからない。
克己は車から降り、後ろの車に迷惑をかけながら、とりあえず車屋に電話した。
「エンコしました」
電話の向こうで、しばらく沈黙があった。
「……え?」
「エンコです。止まりました。動きません」
また沈黙。
「すぐ行きます」

牽引車が来るまで、三十分かかった。
店主は平謝りだった。
「本当に申し訳ない、整備したんですが、古い車なので」
「わかってますよ」と克己は言った。
二十年以上前のアメ車だ。まともに動く方が奇跡かもしれない。怒る気にはなれなかった。なれなかったが、高速に乗ろうとしていた興奮が抜けた分、妙な脱力感があった。
「今日中に直りますか」
「それが……今日は部品の手配が難しくて」
「明日?」
「はい、明日には必ず」
「そうですか」
克己はしばらく空を見た。秋の空だった。
しょうがない。
「ホテルを用意します」と店主が言った。
「お願いします」
牽引された車と一緒に店に戻り、荷物を受け取り、近くのビジネスホテルへと向かった。
夕方になっていた。
腹が減った。
ホテルのフロントで近くの飲食店を聞くと、歩いて五分ほどのところに商店街があると教えてくれた。克己はそちらへ向かった。
居酒屋が数軒並んでいた。
どこでもよかった。克己は一番手前の店の暖簾をくぐった。
カウンターに座り、ビールを頼み、ひとりで飲み始めた。
刺し身の盛り合わせを頼み、食いながら飲んだ。
旅先でひとりで飲む酒は、悪くなかった。予定外の一泊だったが、たまにはこういうのもいい、と思い始めていた。
食べ終わり、そろそろ上がろうかとレジへ向かった。
財布を出しながら、何気なく壁を見た。
ポスターが貼ってあった。
小さいポスターだった。地元のライブハウスの告知らしく、何人かの出演者の名前が並んでいた。
克己は目を細めて、文字を読んだ。
手が止まった。


五章 居酒屋の壁
見覚えのある名前だった。
「城島譲二」
印刷が小さかったので、もう一度確認した。
間違いなかった。
「あいつやん」
克己は声に出した。
レジの女性が「え?」という顔をした。
「すみません、このポスター、今夜のライブですか」
「そうです、このビルの上のライブハウスで」
「このビルの上?」
「はい、四階にあります」
克己は財布をしまいかけて、また出した。
「チケット、今から取れますか」
「取れますよ、当日券で」
「お願いします」
チケットを手に取りながら、克己は三十年前のことを考えた。
ジョニーはまだ歌っていた。
この町で、こんな小さなライブハウスで、でも歌い続けていた。
克己の胸に、言葉にならない何かが込み上げた。
懐かしさとも、嬉しさとも、少し違う。何十年か分の時間が、一枚のポスターを通して一気に押し寄せてくるような、そういう感覚だった。
「まだやってたんやな、ジョニー」
克己はもう一度、ポスターの名前を見た。
それからビールをもう二杯飲んで、時間を潰した。

ライブハウスは、狭かった。
階段を上がると、すぐにドアがあった。中に入ると、煙草の匂いと人の熱気が混ざった空気があった。
百人も入れないだろう空間に、五十人ほどが集まっていた。
スタンディングで、みな前の方に集まっていた。克己は後ろの壁にもたれた。
かつてのあの夜と同じように。
狭いホールの壁にもたれて、キミの動きを追いかけていた。
何人かが順番に出てきて、歌った。それぞれが数曲ずつ。克己は聴きながら、ビールを飲んだ。ジョニーが出てくるのを待った。
まだか、まだかと思いながら待った。
終盤になって、ようやくジョニーが出てきた。
克己は目を細めた。
太っていた。
あの細くて背の高いジョニーが、すっかり横に広がっていた。髪も薄くなっていた。スーツのような服を着ていたが、どこかくたびれた風合いがあった。
しかし、マイクの前に立った瞬間に、すべてが変わった。
声が出た。
その瞬間、克己の目頭が熱くなった。
変わっていなかった。
三十年の時間が、その声の前では何でもなかった。少し低くなったかもしれない。しかし、色は変わっていなかった。人をどこかへ連れていく、あの声の色が。
克己は拳を握った。
手に汗をかいていた。
飛び散る汗と 煙の中に
あの頃の俺がいた


六章 二十年ぶりの握手
演奏が終わって、克己はしばらくその場から動けなかった。
拍手が響いていた。
ジョニーはステージで深々と頭を下げ、袖へと消えた。
克己はスタッフに声をかけた。
「出演者に会えますか、知り合いなんです」
「楽屋は下の居酒屋の奥になります」
案内されて、階段を降り、居酒屋の奥へと回った。
ドアをノックして、開けた。
三人の出演者がいた。ジョニーは、奥のパイプ椅子に腰かけて、タオルで顔を拭いていた。
克己が入ってきたのに気づいて、ジョニーが顔を上げた。
一秒、沈黙があった。
「お」
ジョニーが立ち上がった。
「お」
克己も言った。
ふたりで笑った。
二十年ぶりだった。正確に数えたことはないが、藤本の結婚式で会ったのが最後だったから、確かに二十年近くになる。
握手をした。
ジョニーの手は大きかった。昔からそうだったが、さらに大きくなった気がした。歳を取ると、手が大きく見えるものなのかもしれない。
「なんでここにおるん」とジョニーが聞いた。
「車買いに来て、エンコして」
「アホか」
「アホやな」
またふたりで笑った。

楽屋の片付けが終わって、下の居酒屋に移った。
ふたりで向かい合って座り、ビールを頼んだ。
「まだまだやるつもりか」と克己が聞いた。
「まだまだや」とジョニーは言った。
「そうか」
「そうや」
それだけだった。
しかし、それだけで十分だった。
ビールが来て、乾杯した。
それから、昔話が始まった。
公民館の練習のこと、文化祭のこと、オーディションの夜のこと。話が次々と出てきた。三十年前の話が、まるで昨日のことのように鮮明だった。
「あのオーディション、おまえのギターが下手やったから落ちたんやで」とジョニーが言った。
克己は吹き出した。
「なんやそれ。おまえの歌が下手やったからやろ」
「どこが下手やねん」
「全部」
「うそつけ」
「うそや」
笑った。
ビールが進んだ。
「あのオーディション」とジョニーが言った。「結果、不合格やったけど、あの夜のうちらの演奏は、よかったと思っとる」
「そうやな」と克己は言った。
「あれ以上のもの、うちらには出せんかった」
「出せんかったな」
「おまえも、そう思うか」
「思う」
ジョニーはビールをひと口飲んだ。
「ならよかった」
それだけ言って、次の話題に移った。
直接的な感謝も、後悔も、何も言わなかった。しかしその「ならよかった」という一言に、三十年分の何かが込められている気がした。
克己はそれ以上何も聞かなかった。
深夜まで飲んだ。
帰り際、ジョニーが「また来い」と言った。
「また来る」と克己は言った。
どちらも、本気だった。

翌日、車は直っていた。
店主に礼を言い、克己は帰路についた。
高速に乗りながら、昨夜のことを考えた。
あのエンコがなければ、この町に泊まることはなかった。あの居酒屋に入ることもなかった。あのポスターを見ることもなかった。
エンコしてよかった、と思った。
車の中で、昨夜聴いたジョニーの声を思い出した。
鼻歌が出た。
風の噂で聞いたけど
君はまだ燃えていると
オ~オ~ ジョニー それだけが
オ~ ジョニー ただ嬉しくて
克己は高速を走りながら、ひとりで歌った。
誰も聴いていなかった。
それでよかった。


七章 良い季節は
あの夜から、数年が経った。
ジョニーとは、年に一度か二度、電話で話すようになっていた。
会いに行けたのは一度だけだった。仕事で近くを通った時、連絡して飯を食った。
ジョニーはまだ歌っていた。
小さなライブハウスを回りながら、地道に続けていた。食えているのかどうかは聞かなかった。聞かなかったが、ジョニーの目は、変わらず前を向いていた。
「辞めようと思ったことはあるか」と克己が聞いたことがある。
「ある」とジョニーは言った。
「何度も」
「それでも続けてるんやな」
「続けてしまうんや」
克己にはその気持ちが、わかるような気がした。
好きなものを、好きだということ。それは選択ではなく、性分だ。やめたくてもやめられない性分というものが、人間にはある。
ジョニーの性分は、歌うことだった。
生まれた時からそうで、死ぬまでそうだろうと、克己は思っていた。

電話が来たのは、秋の初めだった。
番号を見ると、知らない番号だった。
「もしもし、末永克己さんですか」
女性の声だった。
「はい」
「城島の家内です」
克己は、一瞬だけ言葉を失った。
ジョニーの妻とは、一度だけ会ったことがあった。おとなしい、細い人だった。
「城島が、先週亡くなりました」
声が、遠くなった気がした。
「心不全でした。急でして」
克己は椅子に座ったまま、窓の外を見た。
秋の空だった。高くて、青い空だった。
「そうですか」
それしか言えなかった。
「主人から聞いていました。末永さんのこと。昔からの友達だと」
「ええ、ずっと前から」
「バンドをやっていたと」
「ええ」
「主人は、ずっとその話を」
奥さんの声が、少し揺れた。
克己は、右手で受話器を持ったまま、左手でテーブルの端を握った。
「そうですか」
また、それしか言えなかった。
ジョニーがペースメーカーを入れていることは、知っていた。
高校の頃から、心臓に持病があった。本人から聞いた。誰にも言うなと言われた。言わなかった。家族と、克己だけが知っていた、かもしれない。
そのことが、こういう形で現れるとは。
いや、わかっていた。わかっていながら、考えないようにしていた。
良い季節は、長くは続かない。
頭ではわかっていた。
しかし、季節は巡るものだと思っていた。巡るはずだと、信じていた。

葬儀には行けなかった。
仕事がどうしても外せなかった。後日、一人で墓参りに行った。
ジョニーの町へ、もう一度、電車に乗った。
墓地は、静かな場所にあった。
線香を手向けて、しばらく黙って立っていた。
「まだまだか」
克己は小声で言った。
返事はなかった。
当然だ。
しかし、ジョニーならばこう返すだろうと思った。
「まだまだや」
克己は苦笑した。
目頭が熱くなった。
「下手くそなギターで、すまんかったな」
誰も聴いていなかった。
ただ、秋風が吹いた。

今朝、ラジオであの歌が流れた。
信号待ちで、克己は口ずさんだ。
隣の車の男も、同じ歌を歌っていた。
その男がどんな記憶と一緒にあの歌を歌っていたのか、克己にはわからない。しかし、同じ歌を、同じ時間に歌っていた。
それだけで、何かがつながる気がした。
ジョニーの声が残した歌が、知らない誰かのどこかに刻まれている。
それが嬉しかった。
子供が出来た 今でさえ
あの頃は 忘れない
オ~オ~ ジョニー 君だけが
オ~ ジョニー 俺の思い出
信号が青になった。
克己は車を走らせた。
今日も、仕事がある。
得意先が待っている。
それでいい。
日常は続く。
ジョニーがいなくなっても、あの頃の歌が心の中にあれば、どこかでジョニーは生きている。
そう思いながら、克己は走った。
秋の空の下を、走り続けた。

♪ 子供が出来た 今でさえ
あの頃は 忘れない
オ~オ~ ジョニー 君だけが
オ~ ジョニー 俺の思い出 ♪






〜あとがき〜
書き終えて、ジョニーのことをまた考えた。
エンコした車がなければ、あの居酒屋に入ることもなかった。あの居酒屋に入らなければ、あのポスターを見ることもなかった。あのポスターを見なければ、二十年ぶりの再会もなかった。
人生の大切な夜は、たいてい、予定していなかった夜に来る。
ジョニーの声は特別だった。何が特別だったのかを言葉にしようとすると、いつもうまくいかない。ただ、あの声を一度聴いた人間は、忘れられない。そういう声だった。
プロになれなかった。それは事実だ。しかし、あの一年間に費やした情熱は本物だった。下手くそなギターも、噛み合わなかった練習も、最後のオーディションの夜も、全部本物だった。
そしてジョニーは、その後もずっと歌い続けた。
小さなライブハウスで、地道に、誰かに届けるために。
それが格好いいと思う。
プロになれたかどうかより、やめなかったことが格好いい。続けたことが格好いい。
良い季節は長くは続かない、と誰かが言った。
その通りだ。
しかし、あの季節に生きた記憶は、消えない。
朝のラジオで流れる歌が、今日も誰かの口を動かしている。
それで十分だ、とジョニーも思っていてくれると、信じている。
ジョニーへ。あの夜の握手を、ありがとう。



〜著者より〜
これは随分と前に
ブログにそっと載せたものを
物語に膨らませたものです。
そしてこれは
30年前の
僕の実体験に基づいています。
勝手にジョニーとしましたが
本当はジョーと言いました。
それをここにも
そっと載せて置きます。
マブダチとは
遠くにいるもののようです。


〜ジョニーの子守唄〜

15~6年前
地方の車屋から
長年探していた 車を買った

納車の準備が出来たからと連絡を受け
大枚を懐に収め
新幹線に飛び乗り

あ~
そ~いえば
あいつの町だったな~と思いながら…

今朝
お客さま宅へと向かう車のラジオで
懐かしい歌が流れて来て
ひとり
口ずさんだ

隣りの車の彼もまた
その歌に合わせて
同じよ~に歌っていた

いや
お互いガラス越し
聞こえるはずはなく
口の動きから
あ~
歌っちょる 歌っちょると
微笑んだ

♪ 束の間の淋しさを うずめるために
君の歌声を聞いていた

狭いホ~ルの壁にもたれて
キミの動きを追いかけていた

飛び散る汗と 煙の中に
あの頃の俺がいた

オ~オ~ ジョニ~ 君は今
オ~ ジョニ~ どこにいるのか ♪

新幹線から在来線に乗り換え
辿り着いた駅は
初めての町で

もしや
あいつは
今もここにいるだろ~か なんて
ちょっと気にしながら

学生の頃
本気でバンドに入れ込んだ時期があった

わずか1年
そこへとすべてを傾けた

もしや
これで食っていけるかも? って
若さゆえ
勘違いした

このオ~ディションがダメだったら
これで終わりや と
皆で決めた

いかしてたあいつの歌は
へたくそな僕らの演奏をカバ~した

しかして
そんな時期は
流行り風邪の如く 冷め

それぞれの歩くべき道へと
誘なった

車を受け取り
さて
目指すは我が家

丸1日掛かるであろうその距離も
なんだか
やっとこさ手に入れた気分で打ち消され
鼻歌まじりに高速の入り口を目指した

すると
おいおい
なんでよ ってなあ~わけで

突然
エンコ

あっちゃあ~!

これで整備したのかよ? って苦情の電話を入れ
お迎えの牽引車と共に
平謝りの車屋

確かにそれは
20年も前のアメ車で

まともに動いてくれる方が
不思議かも?

まさかここで
じゃあ~いらねえ~ って
帰っちまうわけにもいかず

大至急
整備するからとのことで
近くの喫茶店で時間つぶし

しかして
すんません
も~1日掛かります って言葉と

1泊しておくんなさいと
用意されたホテル

しゃあ~ね~なあ~と言いながらも
まあ~
たまにはこ~ゆ~のもありか と
その町で遊ぶことに

夕方
近くの居酒屋で飯を食い
軽く飲んで
では と思ったそこで

あれ? って
顔がほころんだ

レジの隣りの壁に
小さいが
見覚えのある名前のポスタ~

あいつはまだ
歌っていた

偶然とは
本当に恐ろしいもので
そのライヴは今夜
それも
このビルの上のライヴハウスで

レジで
そんなことを話し
チケットを取ってもらい

ならば
行かない手はないと
も少し ここで時間を潰し
も少し ここで多めに飲んでからと

あいつとの再会を
楽しみにした

何人もの
そんな連中が数曲づつ歌い
まだかまだかと思いながらも
終わりの方で
と~と~あいつが出て来た

すっかり太った体型と
でも
あの日よりは落ち着いた風貌とが
懐かしさの中で
同じ声を発した




♪ 風の噂で聞いたけど
君はまだ燃えていると
オ~オ~ ジョニ~ それだけが
オ~ ジョニ~ ただ嬉しくて ♪

手に汗をかき
ドキドキしてたのは 僕の方で
嬉しかった

舞台後
楽屋へと出向き

お~ って
20年ぶりの握手を交わし

まだまだか と口にすると
まだまだや と返した

昔話は
尽きることなく
下の居酒屋へと流れ

オレたちがダメだったのは
おまえのギタ~が下手だったからだと
あいつは言い

とんでもない
おまえの歌が下手だったせいだと
僕は笑った

いつもの生活に戻り
数年
年賀状くらいの付き合いが続いたある日
あいつのカミさんから連絡が入った
心不全だったと…


若い頃から
ペ~スメ~カ~が入った身体だった

そんなことを知ってたのは
あいつの家族と
僕だけだったかもしれない

良い季節は
長くは続かない
季節は巡るとゆ~のに…

♪ 子供が出来た 今でさえ
あの頃は 忘れない

オ~オ~ ジョニ~ 君だけが
オ~ ジョニ~ 俺の思い出 ♪

アマゾン キンドル


これは来週

真っ先に

Kindleに載せねばと思う



しかし
物語というのは
なかなか手強いもので

自分が体験したものならば
そこへと
肉付けをすれば
なんとかなるが

これが
フィクションともなれば
結果 何でもありとなり

そこから
迷宮入りし
今の言葉ひとつで
次の行き先がすべて変わる

ゆえに
そこで面白さが決まり
その先
ジタバタしても
戻れなくなる

すると
その原因の場所を探し
そこへと舞い戻って
そこから なんて思いながらも
面倒になって
バッサリ削除してしまう

そう
マッサラにして
フリダシから書き直すことばかり

するとまた
違う風景が浮かんでも来るが
それもまた
迷い込んでフリダシへと
舞い戻る

要するに
フィクションとやらは
ウソのかたまりだから
これがなんだか
そこまでも? なんて思う



SFならばまだ知らず
日常のドラマは
僕には難しいようだから

しばし
SFで行こうか…



キンドル



天に吐くツバ
〜チョンボの近道、ツケの回る街 〜


〜序章〜
上を向いてツバを吐けば
それはすぐに自分へと戻る

チョンボで近道して来た
楽したキミら
いずれ
必ず
そのツケは回って来る

腰は低く
奥行きは深く

顔は笑顔で
口数は少なく

他人を救う嘘もあれば
他人を殺す嘘もある

風は
太陽が起こす

放射熱によって
地球上のすべてを巻き起こす

そんなこと ダヨ。。。




〜まえがき〜
 上を向いてツバを吐けば、それは重力に従い、やがて自分の顔へと戻ってくる。
 そんな当たり前の物理法則を、私たちはいつから忘れてしまったのでしょうか。
 要領よく「チョンボ」をして、楽な近道を選び、誰かを踏み台にして頂点へ登りつめる。そんな生き方が「賢い」とされる時代かもしれません。しかし、天に吐き捨てられた不誠実さは、消えてなくなるわけではありません。それは空に蓄積され、熱を帯び、いつか巨大な「風」となって、吐いた本人の元へと帰還します。
 この物語は、笑顔の仮面を被り、腰を低くして、その「風」が吹くのを静かに待ち続けた一人の男の記録です。
 因果応報。
 そんな古い言葉が、実はこの世界の最も残酷で、かつ公平な仕組みであること。
 その一片を、この物語の中に感じていただければ幸いです。



一章:天の鏡
 その男、信二の腰は、まるで重力に逆らうことを忘れた柳のように低かった。
「失礼いたします。本日より、特別清掃管理を担当させていただきます信二です。以後、お見知りおきを」
 都心の空を傲慢に切り裂く、地上五十階の九条グループ本社。その最上階にある社長室の床は、磨き抜かれた黒御影石で、歩くたびに自分の顔が足元に映り込む。信二はその「自分の顔」を見つめながら、深々と頭を下げた。
 デスクの奥には、この街の太陽を独占した男、九条が座っている。彼は高級な葉巻の煙を燻らせながら、手元のタブレットに目を落としたままだった。信二のような存在は、彼にとって風景に溶け込んだ塵(ちり)と同じだ。
「……特別清掃? ああ、例の『熱交換効率』のための窓拭きか。勝手にしろ。ただし、私の視界を遮るな。音も立てるな。口数は少なく、だ。わかったか」
「承知いたしました」
 信二は、春の日だまりのような穏やかな笑顔で応えた。
 彼は手慣れた手つきで、特製の洗浄液とスクイジーを準備する。九条の背後に広がる、床から天井まで続く巨大な強化ガラスに向き合った。
 窓の外には、九条が「近道」をして手に入れた帝国が広がっている。
 かつて、この街にはもっと緩やかな風が吹いていた。しかし今、眼下に見える建物の屋上という屋上には、九条が強引な法改正と買収で設置させた「新型集熱パネル」が、無数の銀色の鱗(うろこ)のように並んでいる。
(……見事なものだ)
 信二は、鏡のように磨き上げられたガラスに、自分の指先を滑らせた。
 このパネル群は、太陽エネルギーを効率よく回収する一方で、本来なら宇宙へ逃げるはずの放射熱を街の路地裏へと押し込めている。九条は、その熱がどこへ行くのかを知っているはずだった。だが、彼は「コスト」と「時間」を天秤にかけ、熱を逃がすための排熱塔の建設をチョンボしたのだ。
「九条社長。このガラスは、本当によく外の景色を反射しますね」
 信二が、汚れを拭き取りながら独り言のように呟いた。九条の眉がピクリと動く。
「……なんだと?」
「いえ。あまりに綺麗に反射するので、時々、外を見ているのか、自分の中を見ているのか、分からなくなることがございまして」
 九条は鼻で笑った。
「掃除屋が哲学か。笑わせるな。私が求めているのは、一点の曇りもない透明なガラスだ。外の世界が私の思い通りに見える、な」
「左様でございますか」
 信二は、さらに深く、丁寧に腰を折った。腰は低く、奥行きは深く。
 九条は知らない。信二のこの低い姿勢は、卑屈さから来るものではない。それは、獲物を仕留める直前の獣が、身体を限界まで沈め、力を溜めている姿勢なのだということを。
 信二が拭き上げたガラスの向こう側、はるか上空。
 九条が独占した太陽の熱が、行き場を失って大気をじりじりと焼き焦がしている。
 
(上を向いてツバを吐けば、それはすぐに自分へと戻る……)
 信二の視界の中で、陽炎がゆらりと揺れた。
 物理の法則に、慈悲はない。九条が積み上げた不誠実という名の熱量は、すでに飽和状態に達している。
「九条社長。今日は、いい風が吹きそうですね」
 信二の笑顔は、変わらず穏やかだった。
 だが、窓を拭くその手首には、かつて山を登り、荒波を越え、過酷な自然と対峙してきた者だけが持つ、硬い節(ふし)が浮かび上がっていた。
「……そんなこと、当たり前のことですよ」
 信二は、絞り終えた雑巾をバケツに収めた。
 その瞬間、ビルの外壁を、かすかな不協和音のような風の鳴き声が通り過ぎた。



二章:鏡の裏側
 九条ビルの地下三階、関係者専用駐車場。地上150メートルの社長室とは対照的に、ここは排気ガスの匂いとコンクリートの湿った冷気が支配する、街の「内臓」のような場所だった。
 信二は、清掃用具のカートを壁際に寄せ、濡れた雑巾を丁寧に整えていた。彼の動きには無駄がなく、流れるような静謐さがある。
 背後で、硬いハイヒールの音が響いた。コンクリートを叩くその音は、迷いがなく、鋭い。
 九条の一人娘、リカだった。彼女は父親の「顔」として広報の陣頭指揮を執り、九条グループがいかにクリーンで未来志向であるかを、その美貌と聡明さで世間に信じ込ませる役割を担っていた。
「お疲れ様です、信二さん」
 リカが立ち止まった。信二は即座に作業の手を止め、腰を低くして、顔にいつもの穏やかな仮面を貼り付けた。
「これはリカお嬢様。お疲れ様でございます。お車をお出しですか」
「ええ。会食が一件。……ねえ、信二さん」
 リカは車のキーを指先で弄びながら、信二の顔をじっと覗き込んだ。彼女の瞳は、父親のそれとは違い、濁りがない。それゆえに、真実を射抜く力があった。
「あなた、いつも笑っているけれど。その笑顔の、もっとずっと奥には、何があるの?」
 信二の心臓が、わずかに拍動を速めた。
 顔は笑顔で、口数は少なく。
 三十年間、復讐のために磨き上げてきたその「奥行き」に、この娘は土足で踏み込もうとしている。
「何、とは。ただの、しがない清掃員の愛想笑いでございますよ。笑顔でいれば、世の中の角が立ちませんから」
 信二はさらりと答えた。それは、彼女をこの陰惨な因縁に巻き込まないための、救う嘘だった。彼女は九条の血を引いているが、父の犯した「チョンボ」については何も知らない。
「嘘ね。あなたは、父の前にいる時だけ、一瞬、呼吸を止めている。……まるで、獲物を狙う猟師が、自分の気配を消しているみたいに」
 リカの言葉に、地下駐車場の空気が凍りついた。
 信二は黙ったまま、微笑を絶やさなかった。だが、その瞳はわずかに陰を帯びる。
「リカ様。他人を救う嘘もあれば、他人を殺す嘘もある。……世の中は、そういうものでできているようです。私のような人間には、嘘をつくことしかできない。それをお許しください」
「……誰を、救おうとしているの? 私? それとも、自分自身?」
 リカはそれ以上追及せず、真っ赤なスポーツカーのドアを開けた。
 重厚なエンジン音が地下空間に反響し、彼女は一度も振り返らずにスロープを駆け上がっていった。
 一人残された信二は、ゆっくりと笑顔を消した。
 自分の手を見る。
 この手は、いずれ九条を物理的な「風」で葬るための引き金となる。その時、この娘もまた、父の罪という放射熱の煽りを受けることになる。
(……そんなこと、分かっていたはずだ)
 信二は、カートの横に掛けていた自分の古い水筒を手に取った。
 太陽はまだ高い。
 九条が街に蓄積させた「不誠実な熱」は、刻一刻と臨界点に近づいている。
 
 信二は再び笑顔を作り、暗い地下廊下の奥へと歩き出した。
 奥行きは深く。
 次にリカと会うとき、その風向きはどちらを向いているのか、信二にもまだ分からなかった。



三章:熱の断罪
 その日の正午、都心の気温は観測史上最高を塗り替えようとしていた。
 だが、それは単なる気象の悪戯ではない。九条が街の至る所に配置した集熱パネルが、逃げ場のない太陽光を一点――九条グループが再開発を進める「イージス広場」の上空へと凝縮させていた。
 信二は、広場から二キロ離れた雑居ビルの屋上にいた。
 使い古された観測計を手に、空を睨む。熱に焼かれた空気は激しく歪み、まるで巨大な透明な獣がのたうち回っているかのように見えた。
「……そろそろだな」
 信二は低く呟いた。
 放射熱によって熱せられた空気は、限界まで膨張し、冷たい上空の大気との間に見えない「壁」を作っている。その壁が壊れる瞬間、巨大な真空が生まれ、そこへ周囲の空気が一気に流れ込む。
 
 「風は、太陽が起こす」。
 かつて父が説いた物理の真理。それは今、復讐という名の力を持って、九条の帝国を直撃しようとしていた。
 その時、信二の観測計が異常な数値を叩き出した。
 広場の中心。九条の「殺す嘘」を宣伝するための華やかな視察団。その中心に、リカの姿があったのだ。
「……ッ!」
 信二の瞳が、初めて激しく揺れた。
 広場の大型スクリーンには、九条の功績を称える映像が流れ、リカは笑顔でマイクを握っている。だが、その直上、空の一部が不自然に暗く沈み込んでいた。
 異変は、唐突に訪れた。
 それまで無風だった広場に、耳を刺すような「鳴き声」が響いた。アスファルトから陽炎が火柱のように立ち上り、直後、天から巨大な透明の杭が打ち込まれたかのような衝撃が、広場を叩きつけた。
 局地的なダウンバースト。
 九条が「近道」をして構築した不自然な熱のバランスが、ついに崩壊したのだ。
 突風が、視察用の特設テントを紙細工のように引き裂いた。設置されたばかりの重厚な看板が宙を舞い、広場を囲む強化ガラスの壁が、圧力に耐えきれず一斉に爆発した。
「逃げろ! 建物の中へ!」
 悲鳴が上がる。リカは逃げ遅れた。
 強風に煽られた巨大な鉄製のフェンスが、彼女の頭上から倒れ込んでくる。リカは動けなかった。死を予感し、目を閉じた。
 その瞬間、彼女の身体を強い力が引き寄せた。
「……伏せろ!」
 コンクリートの床に叩きつけられる衝撃。鼻を突く埃と、頭上で弾けるガラスの雨。
 リカが目を開けると、そこには、いつもの「笑顔の仮面」をかなぐり捨てた信二の横顔があった。
 彼の背中には、飛散したガラスの破片が幾つも突き刺さり、作業服を赤く染めている。だが、信二は痛みなど感じていないかのように、鋭い眼差しで空を見上げていた。
「信二、さん……」
「……黙って。呼吸を止めるんだ」
 信二の声は、氷のように冷たく、重い。
 口数は少なく。だが、その一言には、荒れ狂う嵐をねじ伏せるような圧倒的な意志が宿っていた。
 
 広場を蹂躙した風は、一度の断罪を終えると、嘘のように静まった。
 信二はリカを支えて立ち上がらせると、再び、いつものように腰を低くして頭を下げた。肩から血を流しながら、彼はいつもの、穏やかな笑顔を無理やり貼り付けた。
「怪我は……ございませんか、お嬢様」
「あなた……。さっきの目は、何? それに、この風は何なの?」
「ただの突風ですよ。上を向いてツバを吐けば、自分に戻る……。誰かが昔、そんなことを言っていました」
 信二は血に濡れた手で、割れた自分の観測計をポケットにねじ込んだ。
 彼はリカに背を向け、去り際に一言だけ、掠れた声で付け加えた。
「リカ様。今日のことは、忘れてください。私はただの掃除屋です。……そんなこと、当たり前のことですから」
 信二はよろめきながら、瓦礫の山へと消えていった。
 
 助けてしまった。
 九条への復讐という名の「風」の中で、あろうことか、その仇敵の最も大切なものを。
 他人を救う嘘もあれば、他人を殺す嘘もある。
 信二がリカに吐いたのは、どちらの嘘だったのか。
 西日に照らされた彼の背中は、これまで以上に深く、暗い「奥行き」を湛えていた。



四章:嘘の収穫祭
 突風が街を切り裂いた翌朝、九条本社の大型モニターは、真実とは真逆の熱狂に包まれていた。
「……あれは、我々の繁栄を妬む者たちによる卑劣な気象テロです!」
 会見場。九条は、包帯を巻いた娘・リカを傍らに立たせ、カメラのフラッシュを浴びていた。彼はこの惨劇を、さらなる権力を手にするための「燃料」へと変えてみせた。
 被害を「テロ」と定義し、国家予算を投じて新型の熱操作システム『イージス・シールド』を強行導入する。それは、街の熱をさらに一点に集中させ、反抗する者の居住区へ意図的に暴風を送り込む「気象兵器」の完成を意味していた。
 これこそが、九条の真骨頂。**「チョンボで近道してきた」**男の、最も厚顔無恥な嘘だった。
「九条社長、お茶でございます」
 信二は、会見を終えて戻ってきた九条の執務室にいた。
 肩の傷を隠すように、厚手の清掃服を着込み、いつものように腰は低く、微笑みを絶やさない。
「ああ。……信二と言ったか。リカを助けたそうだな。清掃員の分際で、余計な功を立ておって」
 九条は礼の一言もなく、デスクに広げられた『イージス・シールド』の最終設計図にサインを走らせた。
 信二は、トレイを置くふりをして、九条の背後に立った。九条にとって信二は、床を這う虫も同然だ。自分の背後で、その「虫」が何を考えているかなど、想像も及ばない。
(……奥行きは深く。顔は笑顔で。)
 信二は心の中で呪文のように唱えた。
 九条がサインを終えた瞬間、信二の指先が、わずかにメインサーバーの端末に触れた。袖口に隠し持っていた、父の遺した計算式を組み込んだウイルス・チップ。
「……おや、お疲れですか。手が震えておいでですよ、九条社長」
「黙れ。貴様に何がわかる。このシールドが起動すれば、私は神になるのだ」
 九条の言葉は、傲慢という名の放射熱に焼かれていた。
 信二は、その様子を口数は少なく見つめていた。チップはすでにシステムの中枢へと滑り込み、九条が「近道」をして簡略化したプログラムの隙間に、致命的な欠陥を植え付け終えていた。
 九条がサインしたその計画書は、実は、彼自身を処刑するための「死刑執行書」に他ならない。
 信二が退出すると、廊下の暗がりにリカが立っていた。
 父の側で「テロの被害者」を演じさせられた彼女の瞳には、かつての輝きはなく、深い虚無が宿っていた。
「……また、嘘をつくのね」
 リカが信二の腕を掴んだ。その指は、かすかに震えている。
「父の嘘も、あなたの嘘も、私にはもう見分けがつかない。ねえ、信二さん。あなたは何を壊そうとしているの?」
 信二は立ち止まった。
 彼女の目を見れば、すべてを打ち明けたくなる。だが、それは彼女を共犯者にすることだ。
「リカ様。他人を救う嘘もあれば、他人を殺す嘘もある。……私が今ついている嘘がどちらなのか。それは、風に聞いてみてください」
「風……?」
「はい。**風は、太陽が起こす。**もうすぐ、この街に本当の夜明けが来ます」
 信二は彼女の手を優しく、しかし断固として振り払った。
 彼が向かうのは、タワーの地下にある排熱制御室。
 九条が世界に向けて放った巨大な「嘘(ツバ)」が、重力に従って、彼自身の頭上へと戻ってくる時間は、もうすぐそこまで来ていた。
 
 そんなこと ダヨ。。。
 
 信二は暗い廊下で、一度だけそう呟いた。
 その顔に、笑顔はなかった。



五章:放射熱の報い
 九条タワーの最上階。全面ガラス張りのスカイラウンジには、タキシードやドレスに身を包んだ政財界の亡者たちが集まっていた。
 今日は新型熱操作システム『イージス・シールド』の起動式典。九条が、天の光すらも自らの支配下に置く「神」となる日だ。
「諸君、見ていたまえ。これこそが、私が作り上げた新しい世界の姿だ!」
 九条が仰々しくスイッチを押した。
 タワーの外装に張り巡らされた鏡面パネルが一斉に角度を変え、太陽光を一点に捉える。街を覆う不可視の膜が形成され、九条の足元で「力」が唸りを上げた。
 だが、その瞬間、タワーの地下深くで信二は最後のアクションを実行した。
「……父さん。ようやく、風が吹くよ」
 信二がコンソールを叩くと、シールドの反射角が「九条の計算」から「真実の計算」へと書き換えられた。
 街を守るはずのシールドは、逆流した数百万ワットの放射熱を一点――この九条タワーの基部へと集中させる「巨大な凸レンズ」へと変貌した。
 地表の温度が急速に限界点を超えた。
 膨張した空気が逃げ場を失い、断末魔のような叫びを上げてタワーを駆け上がる。
 「風は、太陽が起こす」。
 一瞬の静寂の後、爆風がタワーを直撃した。
 最新鋭のビルが、まるで細い指で弾かれたマッチ棒のように激しく震える。シャンデリアが落下し、最高級のワインが床にぶちまけられた。
「な、なんだ!? 何が起きている!」
 九条が狼狽し、粉砕されたガラスの破片から顔を覆う。
 そこへ、一人の男が歩み寄った。
 混乱と絶叫の渦中で、その男だけが、凪のような静けさを纏っていた。
「九条社長。お茶のお代わりは、いかがですか」
 信二だった。彼は荒れ狂う嵐を背に、いつものように腰を低くして立った。だが、その瞳に宿る**「奥行き」**は、もはや九条が直視できるものではなかった。
「貴様……! 信二か! これを止めるんだ! 命令だ!」
「命令、ですか。……残念ながら、物理の法則には逆らえません。上を向いてツバを吐けば、それはすぐに自分へと戻る。あなたが三十年前に吐いたツバが、ようやく戻ってきただけですよ」
 信二の声は、風の音に負けることなく、九条の耳に突き刺さった。
「私が……何をしたというのだ! 私はただ、近道をしただけだ!」
「その近道で踏み潰した人々の熱が、この風を起こしたんです。九条社長、これがあなたの選んだ結末だ」
 タワーが大きく傾き、床が裂ける。
 信二は、傍らで震えるリカの腕を力強く掴んだ。
「リカ様、こちらへ!」
 信二は彼女を非常用脱出カプセルへと押し込んだ。
 彼女は泣きながら、信二の服の裾を掴んだ。
「信二さん、あなたはどうなるの!? 一緒に来て!」
 信二は、最後に一度だけ、心からの**「優しい嘘」**をついた。
「私は、後から別の経路で降ります。……笑顔で会いましょう」
 カプセルの扉が閉まり、彼女は安全な地表へと射出された。
 一人残された信二は、崩れゆく床に座り込み、自ら命を絶とうとするかのように叫ぶ九条を見つめた。
 信二は、そっと空を見上げた。
 崩壊する天井の隙間から、本当の太陽の光が差し込んでいる。
 
 放射熱に焼かれた街。
 チョンボを繰り返し、楽をしてきた者たちは、今、自らが作り出した風に飲み込まれていく。
 信二は、小さく、独り言を漏らした。
「……そんなこと ダヨ。。。」
 次の瞬間、九条タワーは巨大な白い風の中に消失した。



終幕:風の行方
 瓦礫の山となった九条タワーの跡地で、脱出カプセルから這い出したリカは、狂ったように辺りを見回した。
 視界を遮るのは、巻き上がった灰と、熱に焼かれた空気の残骸だけだ。
「信二さん! どこなの!? 答えて!」
 彼女の叫びは、まだ止まない突風に虚しくかき消される。
 ふと、足元に何かが落ちているのに気づいた。それは、あの男がいつも手にしていた、古びた真鍮の計量器だった。裏側には、小さく「誠実な熱を」という言葉と、見慣れぬ男性のイニシャルが刻まれている。
 リカは悟った。
 彼は、自分たちの命を救うためにここへ来たのではない。この街に溜まりすぎた「不誠実な嘘」という熱を、正しい物理の摂理で掃除しに来たのだということを。
「……あなたは、誰だったの?」
 その問いに答える者は、もういない。
 リカから少し離れた路地裏。肩の傷を古い布で固く縛り、埃まみれの清掃服を羽織り直した一人の男がいた。
 信二は、一度も振り返らなかった。
 九条の娘に正体を明かし、父の罪を糾弾することなど、彼にとっては「近道」に過ぎない。そんなものは、彼が守り通した三十年の静寂に比べれば、あまりに安っぽい。
 信二は、ポケットに残っていた最後の一葉のタバコに火をつけた。
 紫煙が、新しく吹き始めた秋の風に溶けていく。
 これからどこへ行くのか。
 また別の街で、腰を低くし、笑顔を作り、誰にも気づかれぬよう「汚れ」を落として歩くのだろう。
「……そんなこと ダヨ。。。」
 男は小さく独り言を漏らすと、いつものように腰を低く、誰に対してでもない会釈を一つ残して、人混みの中へと紛れていった。
 あとに残ったのは、淀みのない、透明な風だけだった。



エピローグ
 一年後。
 かつての九条タワーの跡地は、広大な公園になっていた。
 そこにはもう、不自然な熱を溜め込むパネルはない。ただ、季節ごとの正しい風が吹き抜けている。
 その風の中に、かつてここを掃除した男の姿はない。
 けれど、ベンチに座る人々がふと感じる心地よさの中に、彼の仕事は確かに生きている。
 空はどこまでも高く、青かった。

(完)


〜あとがき〜
 「風は、太陽が起こす」
 この一節を書いているとき、私は自然の摂理というものの冷徹さと、それゆえの美しさを考えていました。人間がどれほど嘘を重ねても、太陽の熱や大気の流れを欺くことはできません。
 私たちの人生も同じかもしれません。
 どれほど奥行きを隠し、笑顔で口を閉ざしていても、積み上げたものは必ず自分に返ってくる。それが報いであれ、恵みであれ、私たちはそれを受け入れて生きていくしかないのです。
 「そんなこと ダヨ。。。」
 主人公が最後に漏らしたこの独り言が、あなたの日常の中に、ふとした「風」として届くことを願っています。


〜あらすじ〜
 異常熱波に焼かれる近未来の都市。そこでは実業家・九条が、太陽光を独占する集熱システムによって、巨大な帝国を築き上げていた。
 九条のビルに、一人の清掃員がやってくる。名は信二。
 腰を低くし、微笑みを絶やさず、口数の少ないその男は、かつて九条が「近道」のために葬り去った科学者の息子だった。
 九条が蓄積させた不自然な「熱」が、街のバランスを壊し、目に見えない凶暴な「風」を呼び起こそうとしている。
 復讐を誓う信二の前に現れたのは、父の罪を知らぬ九条の娘・リカだった。
 救うための嘘。殺すための嘘。
 物理の摂理がすべてを飲み込むとき、最後に顔を濡らすのは、天から戻ってきたツバか、それとも――。


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痛みをほどく人
〜痛みのたびに、誰かがいた〜


〜まえがき〜
痛みには、種類がある。
歯の痛み。
心の痛み。
言葉にできない、名前のない痛み。
私たちはそれらを、できるだけ見ないようにして生きている。
忙しさや、日常や、少しの強がりで、やり過ごしながら。
けれど、どうしても逃げきれない瞬間がある。
夜の静けさの中で。
ふとした沈黙のあとで。
そして——あの椅子に座ったとき。
口を開けるという行為は、
思っている以上に無防備だ。
隠してきたもの。
先送りにしてきたもの。
見て見ぬふりをしてきたもの。
それらが、ほんの少しだけ顔を出す。
この物語は、
歯を削る人の話ではない。
痛みをほどく人の話だ。
そしてきっと、
あなたの中にもいる「誰か」と出会う物語である。
——痛みのたびに、誰かがいた。
その意味を、
静かに受け取っていただけたら嬉しい。





第一章 古い町の歯医者

 桐島悠介が初めてその診療所の引き戸を開けたのは、三十年前の春のことだった。
 結婚して妻の澄江とともに移り住んだ木造のアパートから、歩いて五分ほどの路地を曲がったところに、その歯科医院はあった。「森田歯科医院」という墨書きの看板が門柱に掛かり、玄関先には季節の花が丁寧に活けてあった。
 悠介が訪ねたのは奥歯が割れるように痛み出した夜の翌朝で、寝不足の目のまま飛び込んだのだった。
 待合室には籐椅子が四脚、古い雑誌が几帳面に並べられ、窓の外の金木犀の若葉が春風に揺れていた。しばらく待つと、診察室の白いカーテンの向こうから、穏やかな声が聞こえた。
「桐島さん、どうぞ」
 呼ばれて入ると、白衣の中年の男がにこやかに立っていた。痩せ型で眼鏡をかけ、白髪交じりの髪を七三に分けた、いかにも町の開業医という風情の人物だった。
「森田です。どうしましたか」
 悠介は右の奥歯を指さした。森田は「拝見しましょう」と言って、悠介をリクライニングチェアに座らせ、慣れた手つきで口腔内を覗き込んだ。照明がゆっくりと顔の上に降りてくる。
「ひびが入っていますね。でも神経まではまだ達していない。今日は応急処置をしておいて、来週もう一度きちんと削りましょう」
 その言葉の静かさが、悠介には妙に安心感を与えた。
 治療を終えて受付に戻ると、事務の中年女性が丁寧に次の予約を書き込んでくれた。料金は保険適用でわずかなものだった。
「お大事に」
 帰り道、悠介は不思議と気持ちが軽かった。あの淡々とした、しかし誠実な手が、ひとつの痛みをほどいてくれたのだ。

 その年の秋、悠介と澄江は第一子・友哉をもうけた。子育てにあわただしい日々の中でも、歯が痛むたびに悠介は森田歯科医院を訪ねた。
 森田はいつも同じように穏やかだった。患者を怒鳴ったり急かしたりすることなく、「少し沁みますよ」とか「もう少し口を開けてください」とか、必要最小限のことだけを静かに言う。それだけで十分だった。
 悠介が歯医者というものに初めて安心感を覚えたのは、この森田という男のおかげだった。幼い頃の彼は歯科治療が怖くてたまらなかった。ドリルの音、消毒液の匂い、そして何より、口の中に他人の手が入ってくる、あの奇妙な感覚。それがいつしか、森田の診察室では気にならなくなっていた。

 三年後、悠介は仕事の都合でその町から少し離れたところに家を購入した。澄江の親戚から安く譲ってもらった古い一軒家を、二人で時間をかけて少しずつ直していく予定だった。
「歯医者、遠くなるね」と澄江が言った。
「まあ、何かあれば行けばいい」
 そんなふうに思っていた。通える距離ではある。ただ、自転車で行ける近さではなくなった。悠介は森田歯科医院への足を、いつのまにか遠ざけていった。

 それでも困ったことがあれば、悠介は車を走らせて森田のところへ行った。年に一度か二度のことだったが、森田は毎回、別に叱るでもなく、あの穏やかな表情のまま迎えてくれた。
「しばらくですね」
「ええ、まあ……」
 悠介はいつも少し罪悪感を覚えながら椅子に座った。しかし森田は責めることなく、ただ口の中を丁寧に診てくれた。
 そういう関係が、十数年にわたって続いた。



第二章 雨の週末

 四十代の半ばのある秋、悠介の右下の奥歯が突然、激しく痛み出した。
 金曜の夜のことだった。夕食の後、テレビを見ていた悠介は、ズキリとした鈍痛に顔をしかめた。最初は「また少し当たったか」程度に思っていたが、夜が深まるにつれて痛みはじわじわと増していった。
 翌朝になっても治まらない。悠介は森田歯科医院に電話した。
「本日は休診日となっております。月曜日にご連絡ください」
 自動応答の声を聞いて、悠介は受話器を置いた。土曜日だった。
 痛み止めを一錠飲んだが、効きが悪い。澄江に「大丈夫?」と聞かれ、「なんとかなる」と答えたが、午後になると頬が熱を帯びてきた。じんじんと脈打つような痛みが断続的に続く。
「病院、行ったら?」
「歯医者は月曜まで休みだ」
「ショッピングセンターの中に新しいの、できたでしょ。年中無休って書いてあったよ」
 悠介はしばらく黙っていた。なんとなく、気が進まなかった。知らない歯医者に飛び込むのは、森田への後ろめたさに似た感情があるのかもしれない。しかし痛みは限界だった。
「……行ってみるか」

 駅前のショッピングセンターの二階に「スマイル歯科クリニック」はあった。真っ白な外壁、ガラス張りの待合室、モダンなロゴ。森田歯科医院とはまるで別の世界だった。
 受付には若い女性が三人並んでいて、統一された白いユニフォームを着ていた。待合室には液晶モニターが掛かり、口腔ケアに関するアニメーションが流れていた。
「本日はどのようなご症状ですか」
 悠介は奥歯の痛みを説明した。すぐにデジタルレントゲンが撮られ、最新型のチェアに案内された。
 担当したのは眼鏡をかけた三十代の女性医師で、「藤村と申します」と名刺を渡してきた。
「根の先に炎症があります。今日は応急処置で、次回は根管治療をお勧めします」
 てきぱきとした口調で、しかし丁寧だった。治療はおよそ二十分で終わり、帰る頃には痛みが半分以下になっていた。
 帰り際、受付の女性が「次回のご予約はいかがですか」と言って、スマートフォンでも予約できるシステムの案内カードを渡してくれた。
 悠介は少し戸惑いながら、来週の水曜の予約を入れた。

 帰宅すると澄江が「どうだった?」と聞いた。
「ずいぶん近代的なところだった。痛みはとれた」
「よかった。あそこ、私も気になってたのよ。設備がすごいって近所の人が言ってた」
 悠介は風呂に入りながら、今日のことを考えた。藤村医師の腕は確かに良かった。設備も申し分ない。森田のあの古い診療所とは、何もかもが違う。しかし、何かが違う、とも思った。それが何なのか、うまく言葉にならなかった。

 スマイル歯科クリニックへの通院が始まった。
 根管治療は三回かかり、最終的にクラウンをかぶせるまで、二ヶ月ほどかかった。その間、悠介は藤村医師の丁寧な仕事ぶりを見るようになった。
「虫歯というのは、実は細菌による感染症なんです」と藤村は言った。「だから治療だけじゃなく、予防が大事なんですよ。三ヶ月に一度のメンテナンスで、進行を防げます」
「三ヶ月に一度?」
「はい。痛くなってから来るのでは、どうしても手遅れになることがある。痛みが出る前に手を打つのが、歯を長持ちさせる一番の方法なんです」
 悠介はそれまで、歯医者とは痛くなったら行くところだと思っていた。三ヶ月に一度、何も症状がなくても通う、という発想は、まったく新しかった。
「わかりました。そうします」
 気づけば悠介は、スマイル歯科クリニックの常連になっていた。

 森田歯科医院のことが、頭の片隅に引っかかってはいた。
 しかし月日は流れ、息子の友哉は大学生になり、悠介も仕事が多忙になり、森田のところに足を向ける機会は失われていった。
 あの穏やかな眼鏡の先生は、今も変わらず診療しているだろうか。悠介は時折そんなことを思いながら、スマイル歯科クリニックのチェアに身を預けた。



第三章 閉業の知らせ

 スマイル歯科クリニックから一通の封書が届いたのは、悠介が五十を過ぎたころだった。
 封を開けると、白いカードに黒い文字でこう書いてあった。

「拝啓、平素よりご来院いただき誠にありがとうございます。このたび、諸般の事情により、当クリニックは来月末をもって閉業することとなりました――」

 悠介は何度も読み返した。「諸般の事情」とは何だろう。院長の体調か、テナントの問題か。手紙には詳しい理由が書かれておらず、ただ「近隣の歯科医院をご利用ください」という一文で締めくくられていた。
「困ったな」
 悠介は独り言を言った。五年以上通ったクリニックだ。カルテも積み上がっている。藤村医師の丁寧な診療にも慣れていた。
 澄江に話すと、「またあの古いところに戻ればいいじゃない」と言った。
「森田先生のところ?」
「ほかに知ってるところ、ないでしょ」
 悠介はしばらく考えた。何年ぶりになるだろう。五年? いや、もう七、八年は経っているかもしれない。あれほど通っておいて、ずいぶん長い間ご無沙汰してしまった。今さら戻りにくい気もした。
「何か言い訳、考えないといけないかな」
「何を言い訳するの? 別に悪いことしたわけじゃないでしょ」
「でも、急に別のところへ行って、また戻るというのは……」
「先生は患者が来てくれれば嬉しいでしょ。ごちゃごちゃ考えすぎ」
 澄江の言葉はいつも明快だった。悠介はそれに甘えて、翌日、森田歯科医院に電話をかけた。

 しかし電話に出たのは、聞き覚えのない若い女性の声だった。
「森田歯科医院でございます」
「あの、久しぶりにお世話になりたいのですが、予約をお願いできますか。桐島と申します」
「もちろんでございます。来週の火曜日、十時はいかがでしょうか」
「はい、それで」
 電話を切って、悠介はほっとした。受付の雰囲気が、以前と変わっていた。声が若い。スタッフが入れ替わったのだろうか。それとも代替わりでもしたのか。
 来週の火曜日を、悠介は何となく、楽しみのような、緊張のような、不思議な気持ちで待った。

 約束の日の朝、悠介は少し早めに家を出た。車で十五分ほどの道を、わざと遠回りして、昔住んでいたアパートの近くを通った。建物はまだあった。外壁が塗り直されていて、表札の並びも変わっていたが、形はそのままだった。
 あそこで澄江と二人、狭い台所に並んで飯を炊いた。友哉が生まれて三人になって、それでもあの狭さで笑っていた。
 悠介は車を走らせながら、妙に感傷的な気分になっていた。

 森田歯科医院は、外見こそそのままだった。
 門柱の看板も、玄関先の植木鉢も、ほとんど変わっていない。しかし引き戸を開けると、中の様子がまるで違った。
 待合室は明るくなっていた。白い壁、清潔な床、新しい椅子。古い籐の椅子はなくなり、代わりにシックな木製のベンチが並んでいた。受付カウンターはガラスが張られ、奥にスタッフが見える。
「桐島様でいらっしゃいますか。どうぞ」
 声をかけてきたのは、二十代とおぼしき受付の女性だった。整った制服、柔らかい物腰。
「あの、ずいぶん変わりましたね。設備とか……先生もお若い方に?」
 女性はわずかに表情を止めた。
「ご存じなかったでしょうか」
「何を?」
「森田先生が……お亡くなりになったんです」

 悠介は、一瞬、自分が何を聞いたのかわからなかった。
「え?」
「カルテを拝見しますと、最後にいらっしゃったのは……」と女性はモニターに目を落とした。「先生がお亡くなりになる、ひと月ほど前でしたね」
「どうされたんですか」
「以前から心臓が悪くていらして。五十九歳でした。大雪の日でした」
 悠介は黙った。
 大雪の日。あの冬、たしかに大きな雪が降った。会社からの帰りに道が渋滞して、澄江に電話を入れた記憶がある。あの日に、森田は逝ったのか。
「あの……しばらくぶりなのに、ご挨拶も出来ないままで……」
「そんな。皆さんそうおっしゃいます」と女性は静かに言った。「今は息子の圭介先生が継いでいます。どうぞよろしくお願いいたします」
 悠介はうなずいた。目の奥が熱くなった。


第四章 圭介

 診察室に入ると、白衣の男が立っていた。
 父親に似て痩せ型だが、まだ三十代の若さで、眼鏡をかけていないぶん表情が明るく見える。口元に穏やかな笑みを浮かべて、「森田圭介です」と言った。
「お父上にはずいぶんお世話になりました」と悠介は言った。
「ありがとうございます。父もよく患者の方のことを話していました」
「私のことを?」
「全員とまでは言えませんが、古い患者の方はよく覚えていたようです。桐島さんという方は……確か、結婚してすぐにいらした方でしょうか」
 悠介は驚いた。「そうです。三十年ほど前に」
「父が診察記録に書き残していました。『奥歯に強い痛み、初回から信頼関係を築けた患者』と」
 悠介の胸に、温かいものがこみ上げた。あの寡黙な先生が、そんなことを記録していたとは。
「……そうでしたか」
 圭介はチェアを促した。「拝見しましょう」

 圭介の診察は丁寧で、父親の静けさと、スマイル歯科クリニックの藤村が持っていた明快さの両方を兼ね備えているように悠介には感じられた。最新の機材を使いながらも、患者の話をよく聞く。
「今の状態を説明しますね」と圭介は言い、モニターに映し出したレントゲン画像を指しながら、銀の詰め物の下の状態、歯茎の状態、咬合の具合などを一つ一つ説明した。
「全体的には良好ですが、いくつか気になるところがあります。特にここ」と圭介は右上の奥歯を指した。「銀の詰め物は経年で隙間が出来やすい。根の方の状態が心配です」
「どういうことですか」
「保険の材料は限界があります。セラミックや金合金を使えば精度が上がりますが、保険外になります。費用はかかりますが、一生ものの歯を作れる」
 悠介は少し考えた。「急いで決めなくていいですか」
「もちろんです。まずは定期的に来ていただいて、状態を見ながら考えましょう」
 その言葉がまた、父親の森田に似ていた。急かさない。

 定期検診に通いはじめてすぐ、悠介は気づいた。
 森田圭介という歯科医師が、患者に人気があるということを。
 予約を取ろうとすると、二週間先まで埋まっている。受付の女性に「早い枠はないですか」と聞くと、「申し訳ありません、キャンセル待ちでも一週間ほど」と言われた。
「それだけ混んでいるんですか」
「先生の評判が広まって、遠くから来られる患者さんも増えました」
 悠介はその言葉を聞いて、妙に誇らしいような気持ちになった。

 悠介はその日、帰り道、ふと思った。
 先生は、息子が継ぐから私を呼び戻したのだろうか。
 そんなはずはない。閉業したクリニックのことがなければ、悠介は戻ってこなかった。偶然が重なっただけだ。先生にそんな力があるわけがない。
 でも——そういうことにしておきたい気もした。あの穏やかな先生が、どこかで静かに段取りをしていてくれたのだと。そう思うと、胸の奥が少し温かくなった。
 先生、息子がそろそろ継ぐからと、私を呼び戻しましたね? いつか墓前で、そう訊いてみようか。
 悠介はまだ、先生の眠る場所を聞けていなかった。いつかそれを、圭介に聞かなければ。還暦まで、あと少し。先代の先生と同じ年齢になる前に、手を合わせにいかなければ。



第五章 藤村彩子

 森田歯科医院への通院が再び始まって半年が経った頃、悠介はある場所で意外な人物と再会した。
 市の主催する企業向けのセミナーだった。悠介の会社が会員になっている商工会議所から案内があり、テーマは「医療と地域経済の連携」というやや堅いものだったが、部下に代わりに行かせるのも気が引けて、悠介は自分で足を運んだ。
 会場の市民会館に着き、受付でパンフレットをもらって席に着こうとしたとき、後ろから声がかかった。
「桐島さん?」
 振り返ると、白衣ではなく紺色のスーツを着た女性が立っていた。一瞬誰かわからなかったが、すぐに思い出した。
「藤村先生!」
「お久しぶりです。お元気でしたか」
 藤村彩子。かつて通っていたスマイル歯科クリニックの院長だった。
「閉業されたと聞いて、驚きました。今は?」
「別の歯科医院に勤めています。ここ半年ほど。開業はまた考え中で」と彩子は少し苦笑した。「あのクリニック、テナント料の問題だったんです。正直に言うと。場所代が年々上がって、採算が取れなくなって」
「そうでしたか」
「桐島さんはいま、どちらの歯科に?」
「森田歯科医院という、昔からお世話になっているところに戻りました」
 彩子はわずかに目を細めた。「あそこは有名ですよ。圭介先生が継いでから、ずいぶん評判が良くなったと聞きました」
「ご存じなんですか」
「歯科の世界は意外と狭くて。先代の森田先生も、業界では知られた方でした。誠実な仕事ぶりで」

 セミナーが始まり、二人は離れた席に座った。
 終了後のロビーで、悠介は彩子を見つけて声をかけた。「よかったら、少し話しませんか。近くに喫茶店がありますが」
 彩子は少し迷ったが、「はい、少しだけ」と言った。

 駅前の古い喫茶店に入り、コーヒーを頼んだ。
「先生は、なぜ歯科医師に?」と悠介は聞いた。
「父が歯科医だったんです」と彩子は言った。「でも、私が学生のときに亡くなって。継いだのは兄でした。私は一から自分で開業しようと思ったのですが、なかなか思うようにいかなくて」
「……お父様のことは?」
「急でした。五十代の後半で。心臓の病気でした」
 悠介は一瞬、森田のことを思った。五十九歳。心臓。大雪の日。
「私の通っていた先生も、そうだったんです。五十九で」
「そうですか……」と彩子は静かに言った。二人はしばらく沈黙した。
 コーヒーの湯気が、秋の午後の光の中に細く立ち上っていた。

 その後も、悠介と彩子は何度か偶然顔を合わせた。
 商工会議所のイベントで、あるいは駅前の書店で。その都度、少し立ち話をして別れた。
 悠介には、それが不思議と自然に感じられた。彩子という人物は、どこか率直で、余計なことを言わない。そして医師として、患者に対して真剣だった。スマイル歯科クリニックの五年間で、悠介はそれをよく知っていた。
 澄江には、これらの偶然の再会について何も話さなかった。話す必要も感じなかった。ただ、秋が深まるにつれて、悠介の心の中で何かがゆっくりと動き始めていた。



第六章 冬の約束

 十二月の初旬、彩子から連絡が入った。
「来年、小さいクリニックを開業しようと思っています。相談に乗ってもらえますか」
 悠介は勤めている会社で、長年、経営企画を担当していた。医療施設の経営に詳しいわけではないが、資金計画や事業計画書の読み方は知っている。彩子は誰かに相談相手を求めていたのだろう。
「もちろんです」と悠介は答えた。
 週末の土曜日、悠介は商店街の外れにある小さな喫茶店で彩子と会った。彩子はA4のファイルを持参して、計画の概要を説明した。
「物件はここから歩いて五分のところです。築三十年の医療用ビルで、設備は古いですが改装費を抑えられる。テナント料も前のクリニックの三分の一以下で」
「患者の獲得は?」
「前のクリニックに通っていた方に手紙を出しました。今のところ五十件ほど返事があって、移ってくれる意思があると」
「それは心強い。ただ……」悠介は計画書を見ながら言った。「ランニングコストの見積もりが少し甘いかもしれません。スタッフを一人追加すると、一年目の損益がこうなる」
 悠介はペンを借りて、余白に計算式を書いた。
 彩子はそれを真剣な顔で見つめた。「なるほど。ではスタッフは初年度は私一人で回して、翌年から増やす、という案では?」
「その方が現実的です。ただ体への負荷も考えてください」
「わかっています」と彩子はきっぱりと言った。「父が無理をして倒れたのを見ていますから」
 悠介はうなずいた。「わかりました。ならこの計画、ベースとしては悪くないと思います」
「ありがとうございます」
 彩子が少し安堵したように肩の力を抜いた。その横顔が、冬の午後の低い光の中に柔らかく照らされていた。

 帰り道、悠介は歩きながら考えた。
 自分は今、何をしているのだろう。
 澄江とはもう長い年月を共にしてきた。友哉も社会人になり、家の中はずいぶん静かになった。夫婦の会話は減り、食事の時間も短くなり、あの狭いアパートで二人で笑っていた頃が、別の時代のように感じられる。それが悪いわけでは、ない。ただ、それが現実だった。
 彩子と話す時間は、悠介に何かを思い出させた。話すことの緊張、言葉を選ぶ楽しさ、相手の反応を気にすること。それはもう、日常からは失われていたものだった。
 悠介は立ち止まり、空を見上げた。星が少しだけ見えた。
 還暦まで、あと少し。今さら何を、という気もした。しかし人生は、まだ続く。

 その夜、澄江が「今日はどこへ行ってたの?」と聞いた。
「知人の相談に乗っていた。仕事絡みで」
「そう」と澄江は言い、食器を洗い始めた。
 悠介はその後ろ姿を見た。三十年間、この背中を見てきた。
 何も言わずに、悠介は洗い物を手伝った。



第七章 還暦前の決断

 新年が明けて間もなく、圭介から提案があった。
「そろそろ本格的な治療を始めませんか。還暦前にやれることをやっておきましょう」
 定期検診のたびに悠介の口腔内を観察してきた圭介は、銀の詰め物を順次、高精度のセラミックや金合金のものに替えることを提案した。保険外の治療で、費用は相当かかる。しかし悠介はすぐに「わかりました」と答えた。
「歯は一生ものですから」と圭介は言った。「お父さんが言っていたことと同じですが」
「先生のお父様が?」
「父はよく言っていました。歯を大事にする人は、人生を大事にする、と」
 悠介は苦笑した。「若い頃は、虫歯と喧嘩で二本無くしたんです。お恥ずかしい話ですが」
「喧嘩で?」
「学生の頃の話です。今はそんなことしませんよ」
 圭介は笑った。「いずれにせよ、残りの歯は大切にしましょう。二年ほどかけて、ゆっくり進めます」

 二月に入ると、彩子のクリニック開業の準備が本格化した。
 物件の契約、設備の発注、保健所への申請。彩子はそのたびに悠介にメッセージを送り、悠介は自分の知識の範囲で答えた。
「開業日が決まりました。三月の末です」
「おめでとうございます」
「緊張しています」
「大丈夫です。あなたの腕は本物ですから」
 その返信を送ってから、悠介は少し考えた。「あなた」と書いたのは初めてだったかもしれない。

 開業の一週間前、彩子からメッセージが届いた。
「お礼が言いたいです。よければ食事でも」
 悠介は長い間、画面を見つめた。
 行くべきではないかもしれない。行っても、何も変わらないかもしれない。しかし断る理由が、うまく見つからなかった。いや、正確には、断りたくなかった。
「喜んで」と悠介は返信した。

 二人は駅の近くのイタリアンに入った。
 白いクロスのかかったテーブルに向かい合い、ワインを頼んだ。彩子は開業の準備の苦労をひとしきり話し、悠介は笑いながら聞いた。
「桐島さんがいてくれなかったら、途中で諦めていたと思います」と彩子は言った。
「そんな。私はただ数字を見ただけです」
「それが一番大事なことでした。夢だけじゃ経営はできないから」
 悠介はグラスを傾けた。「先生は夢と現実のバランスが取れている。それが一番の強みだと思います」
「桐島さんは……どんな夢を持っていますか」
 唐突な問いだった。悠介は少し考えた。
「還暦を迎えたら、少し旅をしたいと思っています。まだ行ったことのない場所へ」
「どこへ?」
「決めていません。でも、どこかへ。ここではないどこかへ」
 彩子はグラスを置き、悠介を見た。
「私も、いつか。クリニックが軌道に乗ったら」
 二人はそれ以上、何も言わなかった。ただグラスが触れ合う音が、静かな店内に響いた。

 帰りは同じ方向だったので、駅まで並んで歩いた。
「開業、うまくいくといいですね」と悠介は言った。
「ありがとうございます。……また相談に来ていいですか」
「もちろんです」
 改札の前で、二人は別れた。彩子が振り返り、軽く頭を下げた。悠介も頭を下げた。
 電車に乗って窓の外を見ながら、悠介は思った。
 これは何だろう。恋と呼ぶには年を取りすぎている気もするが、友情と呼ぶには何かが温かすぎる。
 答えを出すのは急ぐことではない、と悠介は思った。ただ、今夜のことは、しばらく心の中に大事にしまっておこう、と。



第八章 大雪の記憶

 春の定期検診の日、悠介はついに圭介に聞いた。
「お父様のお墓は、どちらにあるんですか」
 圭介は少し驚いた顔をしたが、すぐに穏やかに答えた。「市内の、〇〇寺です。ご存じですか、あそこ」
「名前は知っています。行ったことはなかったですが」
「父のことを思い出してくださって、ありがとうございます」
「こちらこそ。長い間、ご無沙汰してしまって……還暦を迎える前に、一度手を合わせたいと思っていました」
 圭介は治療の手を少し止め、真直ぐに悠介を見た。「父は喜ぶと思います。あなたのことを、本当に大事な患者だと思っていたようですから」

 その週の日曜日、悠介は一人で〇〇寺を訪ねた。
 境内は静かで、梅が咲き始めていた。受付で尋ねると、墓地の区画を教えてくれた。
 古い石畳を歩いて奥へ進む。森田家の墓は、老いた松の木の傍らにあった。
 悠介は手を清め、花を供えて、しばらくその前に立った。
(先生、ずいぶん長い間、ご無沙汰してしまいました)
 心の中で語りかけた。
(私が別の歯医者に行っている間に、先生は逝ってしまって。申し訳なかったと思っています。でも、お弟子さんのような圭介先生が、今もしっかりと継いでいてくれています。安心してください)
 風が吹いて、松の枝が揺れた。
(それから……先生が言っていたそうですね。息子が継ぐから、私を呼び戻したんだろう、と。本当にそうだったんでしょうか。だとしたら、先生はずいぶん遠慮がちな人でした。生きているうちに、もっと直接言ってくれればよかったのに)
 悠介の目から、涙がひと筋流れた。自分でも驚いた。
(でも、ありがとうございました。先生の静かな手が、私の痛みをほどいてくれた。あの頃の私には、そういう人が必要でした)
 しばらく手を合わせてから、悠介は頭を下げた。

 帰り道、悠介は彩子に短いメッセージを送った。
「今日、お世話になった先生のお墓参りをしました。少し清々しい気持ちです」
 しばらくして返信が来た。
「父の墓参りを思い出しました。大切なことですね。お疲れさまでした」
 それだけのやりとりだったが、悠介には十分だった。



第九章 還暦

 五月の連休明けに、悠介は六十歳になった。
 誕生日の当日は会社に通常通り出勤した。部下たちが小さなケーキを用意してくれて、「おめでとうございます」と言ってくれた。悠介は照れながら礼を言い、ケーキを一緒に食べた。
 夜は澄江と二人で外食した。特別な店ではなく、近所の小料理屋だった。
「六十か」と悠介はビールを飲みながら言った。
「早いものね」と澄江は言った。
 二人はしばらく黙った。三十年の時間が、その沈黙の中にあった。
「先生と同じ年齢になってしまった」
「森田先生のこと?」
「ああ。五十九で逝ったから、今の私よりひとつ若かった」
 澄江はグラスを置いた。「あなたは元気だから大丈夫よ」
「そうかな」
「歯医者にもちゃんと通ってるし」
 悠介は笑った。「まあ、そうだな」
 澄江も笑った。三十年前と同じ笑顔だった。いや、少し皺が増えていたが、その笑い方は変わっていなかった。

 誕生日の翌週、圭介の定期検診があった。
「還暦おめでとうございます」と圭介は言った。「父と同じ年齢になられましたね」
「そう言われると、妙な気持ちです」
「治療の方も、順調です。あと一年ほどで全部終わりますね」
「一生ものの歯を作るんでしたね」
「はい」と圭介は言い、少し間を置いた。「それから……これは余計なお世話かもしれませんが」
「何ですか」
「桐島さん、最近、少し表情が明るくなりました。何かいいことがありましたか」
 悠介は少し驚いた。歯科医師にそんなことを言われるとは思わなかった。
「そうですか?」
「口元というのは、人の表情をよく表すんですよ。職業柄、気になってしまって」
「……そうかもしれません」と悠介はやや遠い目で答えた。「いくつか、決断したことがあって」
「それはよかった」と圭介は言った。それ以上は聞かなかった。父親に似た、静かな節度だった。

 その翌月、彩子のクリニックに、悠介は初めて患者として行った。
「来てくださるとは思いませんでした」と彩子は言った。
「せっかく森田先生のところで治療中なので、今回は相談だけです。第二の意見というか」
「なるほど」と彩子は笑った。
 ピカピカに改装された小さなクリニック。白い壁に木の温もりが加わった、清潔で居心地の良い空間だった。
「いい場所ですね」と悠介は言った。
「桐島さんのおかげです」
「私は数字を見ただけです」
「それが一番難しかったんです」と彩子は言い、それから少し真剣な顔になった。「……桐島さんに、正直に言ってもいいですか」
「どうぞ」
「あなたのことが、気になっています。ただ相談相手として、ということだけじゃなく」
 悠介は黙った。心臓が、少し早く打ったような気がした。
「それは……ありがたいことです。私も、同じように感じています。ただ」
「ただ?」
「私には妻がいます。それは変わらない。それでも……友人として、あなたのことを大切にしたいと思っています。それで、よければ」
 彩子はしばらく悠介を見つめた。それから静かに言った。「わかりました。それで十分です」
 窓から春の光が差し込んでいた。清潔な白いカーテンが、風に揺れていた。



終章 歯医者と人生

 秋になって、悠介の治療はほぼ完了した。
 圭介は最後の確認をしながら、「これで全部、一生ものです」と言った。「二十年後も、三十年後も、この歯が支えてくれます」
「私が八十、九十まで生きればの話ですが」
「生きてください」と圭介は笑って言った。「患者にそう言うのが、歯科医師の使命ですから」
 悠介も笑った。

 帰り道、悠介は少し遠回りをした。
 三十年前に住んでいたアパートの前を通り、路地を曲がり、森田歯科医院の前に立った。外観は変わっていない。門柱の看板、玄関先の植木鉢。ただ、中は変わった。若い先生と、最新の機材と、いつも笑顔のスタッフが揃っている。
 たかが歯医者、と悠介は思った。
 されど歯医者。
 人が痛みを感じる場所に、必ず誰かがいる。その手が、静かに、確かに、痛みをほどいてくれる。それだけのことが、三十年間の記憶を作ってきた。

 悠介はスマートフォンを取り出し、彩子にメッセージを送った。
「治療が終わりました。歯が一生ものになりました」
 しばらくして返信が来た。
「おめでとうございます。素晴らしいですね。これからも大切に」
「先生のクリニックも、うまくいっていますか」
「おかげさまで。先月から待ち時間が出るようになりました。嬉しい悩みです」
「それはよかった。いつか食事でも、お祝いを」
「喜んで」

 その夜、悠介は澄江に言った。
「来年の春、旅に行こう」
「旅? どこへ?」
「まだ行ったことのないところへ。二人で」
 澄江は少し驚いた顔をしたが、すぐに微笑んだ。「いいわね。どこにしましょうか」
「ゆっくり考えよう」
 テレビの音が部屋に流れていた。窓の外では、秋の夜風が木の葉を揺らしていた。

 人生は、痛みから始まることが多い。
 歯が痛くなければ、あの診療所の引き戸を開けることもなかった。別のクリニックに移ることもなかった。閉業の知らせがなければ、戻ることもなかった。戻らなければ、先生の死を知ることも、圭介に出会うことも、墓参りをすることも、なかった。
 彩子との再会も、あの痛みから始まった縁の、気の遠くなるような連なりの果てにある。
 たかが歯の痛みが、三十年の物語を作ってきた。

 悠介は鏡の前に立ち、口を開けた。
 白い、きれいな歯が並んでいた。一本一本が、長い時間と、誰かの手と、自分の決断の結晶だった。
 先生。私の歯は、一生ものになりました。
 そして私の人生も、まだ続いています。




〜あとがき〜
歯医者という場所は、
どこか苦手で、できれば避けたい場所かもしれません。
私自身も、そうでした。
けれどあるとき、
ふと思ったのです。
あの椅子に座る時間は、
人生の中でも数少ない「立ち止まる時間」なのではないかと。
逃げられない数分間。
口を開け、言葉を失い、
ただ身を委ねるしかない時間。
その中で、
人はほんの少しだけ、自分に戻るのかもしれません。
この物語に登場する人々は、
特別な誰かではありません。
きっと、
どこにでもいる誰かであり、
そして、どこかのあなた自身でもあります。
痛みは、なくなるものではありません。
けれど、
ほどけることはある。
そのことを、
この物語を通して感じていただけたなら、
そして
あなたの「痛みの記憶」のそばにも、
静かに誰かがいたことを、
思い出していただけたなら幸いです。
カトウかづひさ



〜おまけ〜
これは以前
ブログで書いた実体験を
物語に膨らましたものです
それをここに載せて置きます

たかが歯医者 されど歯医者

30年前
結婚して住み込んだアパートの近くに
その歯医者さんはあって
具合が悪くなると飛び込んだ

それから数年して新居を手に入れ
遠ざかってしまったけれども
それでも優しい先生
具合が悪くなるたびに訪れた

ところが
ある日 診療を終え帰宅すると
その歯が痛み出して
ではと思っても週末
その歯医者さんは休診で

あまりの痛さに
仕方なく近くのショッピングセンターの中の
年中無休なんていう歯医者さんに飛び込んだ

するとそこは
多くの先生と
最新型の機材とが揃っていて
旧式のあそことは 大差を感じ
ちゃちゃ っと痛みを除いてくれた

そこは
清潔に保たれた場所に
そりゃ~綺麗な女性たちのスタッフとで
なんだ 今はこうなんだと思い知らされた

更には
3ヶ月に1度の定期検診で呼び出され
痛みが出る前に予防してしまうという
これまた知らなかったことばかり

そんなわけで
いつの間にか悪気すらなく
歯医者さんを移ってしまい
また
夜間診療まであるから
生涯そこでとも 思っていた

ところが
数年して
なんとその歯医者さん
突然 閉業するとのお知らせ

これは困った!
仕方なく
以前の歯医者さんに予約を入れ
当日
何と言い訳でもしようか? なんて
あれこれ考えながら出掛けると

あれ?
外観こそ そのまんまの古い家屋
しかして
中の設備だけ最新型になっていて
更には
先生も若返っていて。。。

受付の方に
あの
しばらくぶりなんですが
変わりましたね
それも先生も。。。

で 先生は? なんて問うと
えっ?
知りませんでした?
先生 亡くなったんですよ

えー?

僕のカルテを見ながら
あぁ
最後に来られてから ひと月後ですね

どうされたんですか?

以前から
心臓が悪かったですからね

若いし
全然 元気そうでしたのに。。。

59歳でしたのよ
あの年
大雪が降った日がありましたでしょ?
あの日でしたよ。。。

あぁ
またしても
遅かったと後悔などして。。。

その翌年
そこは建て替えをして
しばらく仮設で診療をしていたけれども

昨年
そこは綺麗になって再開し
ならば 
是非 1番の患者にでもと
お願いなどしたけれど
それもまた 時すでに遅し

なんと 
再開 2週間後なる患者となって
その 
若先生の人気と腕の良さを
改めて知ることとなった

その後
そこからも
3ヶ月に1度呼び出される定期検診により
悪くなる前に予防するなんて

大嫌いだった歯医者さんが
好きにもなったようだ

そして今
昨年の夏頃の定期検診を終え
そろそろ 還暦前に
やれることやってしまいませんか? なんて提案されて

そう
やはり 保険での治療には限界があって
特に 銀の詰め物では隙間が出来てしまい
根の方の痛みが心配だと

もちろん保険外
費用は掛かるがそれなりの材料と精度とで
生涯 持つ歯にしましょう! なんて

若い頃
すでに 虫歯と喧嘩とで
2本の歯を無くているから
もうこれ以上無くしたくないし

また
入れ歯や挿し歯は嫌だよなあ ってなわけで
2年間もの予定を組んで
還暦までにはと 通ってるってなわけだ

もっとも
大人気になってしまったそこは
2週間に1度しか予約が取れないから
まあ 
仕方なくも 
ちょうど良いのかもしれないけれども。。。と

いつかいつかと思いながらも
いまだ 先代の先生の眠る場所を聞けておらず
でも そろそろ
先生の年齢になる前にでも
手を合わせにいかねば と思いながら。。。

そして
先生
息子がそろそろ継ぐからと
僕を呼び戻しましたね? なんて
訊いてみようかと。。。も


キンドル


いくつか

試したいことがありまして

少しの間

Kindle 予定のものを

多くを載せてみます


ご意見頂けましたら

嬉しく思います




声守り

〜失われた声を拾う者〜


〜まえがき〜

人は、言えなかった言葉をどこへ置いていくのでしょうか。

あのとき、どうしても言えなかった「ごめんね」。

喉まで出かかったのに、飲み込んでしまった「助けて」。

もう一度だけ伝えたかった

「ありがとう」。

それらは、本当に消えてしまうのでしょうか。

私は、消えないのだと思います。

言葉にならなかった声は、

届かなかった想いは、

形を変えて、どこかに残り続ける。

そして——

誰かに拾われるのを、静かに待っている。

この物語は、

そんな“声”に耳を澄ませる青年の話です。

もし、あなたにも

胸の奥に沈んだままの声があるのなら。

その声は、まだ消えていないのかもしれません。



〜序章〜

残響の家
 冬の終わり、郵便局の跡地に住む青年・遥斗(はると)は、
 夜になると決まって「声」を聞いた。
 それは人の声ではなかった。
 言葉になる前の、震えのようなもの。
 空気の奥で、かすかに揺れる“残響”だった。
 古い建物は、音をよく覚える。
 郵便局だった頃の足音、窓口で交わされた会話、切手を貼る指先の音、封筒が積まれる音。
 それらが夜になると、建物の奥から立ち上がるように聞こえた。
 ある夜、机の上の古いラジオが勝手に点いた。
 砂嵐の奥から、かすかな声が届いた。
―― だれか、いますか。
 遥斗は息を呑んだ。
 その声は、三年前に亡くなった妹・紗良の声だった。
 だが、声は続けた。
―― 私じゃない。
 あなたに、伝えたい人がいるの。
 ラジオの針が震え、
 部屋の空気がゆっくりと変わっていった。
 声の向こうに、誰かがいた。

1.  声を拾う家
 翌朝、遥斗はラジオを分解してみた。
 古い真空管式のラジオで、電源は入るが受信機能は壊れている。
 昨夜のように声が聞こえるはずがなかった。
「気のせい……じゃないよな」
 ラジオの内部には埃が溜まり、
 配線はところどころ切れていた。
 それでも昨夜は確かに声がした。
 郵便局跡地に住み始めて半年。
 この建物には、妙なことがよく起きた。
 夜中に誰もいない廊下で足音がしたり、
 棚の上の封筒が勝手に落ちたり、
 古いポストが勝手に開いたり閉じたりした。
 だが、遥斗は怖くなかった。
 むしろ、どこか懐かしかった。
 妹の紗良が亡くなってから、
 “声のない世界”に慣れようとしていた自分にとって、
 この建物のざわめきは救いだった。
 その日の夕方、
 郵便局時代のまま残されたポストの前に立つと、
 中から「コトン」と音がした。
 誰も投函していないはずだった。
 恐る恐る扉を開けると、
 一枚の白い封筒が入っていた。
 宛名はなかった。
 差出人もなかった。
 封を開けると、
 中には一行だけ書かれていた。
―― 聞こえる人へ。
 遥斗は息を呑んだ。
 その瞬間、
 背後でラジオが勝手に点いた。
 砂嵐の奥から、
 昨夜とは違う声が届いた。
―― あなたは、拾える人ですね。
 遥斗は振り返った。
 ラジオの針が震えていた。
「拾える……?」
―― 声は消えません。
 ただ、聞こえなくなるだけです。
 あなたは、それを拾える人です。
「誰なんだ、お前は」
―― まだ名乗れません。
 でも、あなたに伝えたい人がいます。
 ラジオの音がふっと消えた。
 部屋の空気が、
 静かに沈んでいく。
 遥斗は封筒を握りしめた。
 “聞こえる人へ”
 その言葉が、
 胸の奥でゆっくりと広がっていった。

2.  声の正体
 翌日、遥斗は郵便局跡地の裏手にある倉庫を整理していた。
 古い棚には、郵便局時代のまま残された封筒やスタンプ、
 使われなくなった仕分け箱が積まれている。
 その奥に、ひとつだけ異質な箱があった。
 木箱。
 郵便局の備品ではない。
 古い旅館の帳場に置かれていそうな、黒光りする箱。
 蓋には、墨でこう書かれていた。
「声守り」
 遥斗は息を呑んだ。
 昨夜ラジオから聞こえた声が言っていた言葉と同じだった。
 箱を開けると、中には古い紙束が入っていた。
 封筒の形をしているが、宛名も差出人もない。
 ただ、封筒の裏に小さくこう書かれていた。
「拾われなかった声」
 遥斗は一枚を取り出し、封を切った。
 中には、白紙。
 何も書かれていない。
 だが、その瞬間、
 部屋の空気が震えた。
 耳ではなく、胸の奥で何かが響いた。
―― だれか、いますか。
 昨夜の声とは違う。
 もっと弱く、かすれていた。
―― ここに、います。
 遥斗は心の中で返した。
 声は続けた。
―― 届かなかったんです。
 言いたかったのに、言えなかった。
 言葉になる前に、消えてしまった。
「誰の声なんだ」
―― まだ、形がありません。
 でも、あなたが拾ってくれれば、
 少しずつ思い出せます。
 白紙の封筒が、かすかに震えた。
 遥斗は気づいた。
 これは“手紙”ではない。
 声の残骸だ。
 言葉になる前に消えた声が、
 封筒の形を借りて残っている。
 そのとき、
 部屋の隅に置かれたラジオが勝手に点いた。
 砂嵐の奥から、昨夜の声が届いた。
―― それは、あなたが拾うべき声です。
「お前は誰なんだ」
―― 私は、声を渡す者。
 あなたは、声を拾う者。
「どうして俺なんだ」
―― あなたは、聞こえるからです。
 “言葉になる前の声”が。
 ラジオの針が震えた。
―― そして、あなたに伝えたい人がいます。
「誰だ」
―― まだ言えません。
 でも、その人は……
 あなたがずっと、聞こうとしていた人です。
 遥斗の胸が、静かに締めつけられた。
 妹・紗良のことが頭をよぎった。
 だが、声は続けた。
―― その人は、生きている人です。
 遥斗は息を呑んだ。
 死者ではない。
 生きている誰かの声が、
 届かないまま残響になっている。
―― あなたが拾わなければ、
 その声は消えてしまいます。
 ラジオがふっと沈黙した。
 白紙の封筒だけが、
 静かに震えていた。

3.  拾われなかった声の持ち主
 白紙の封筒は、手の中でかすかに震えていた。
 まるで、そこに“誰か”が閉じ込められているようだった。
 遥斗は机に封筒を置き、深呼吸した。
「……お前は、誰なんだ」
 声はすぐには返ってこなかった。
 ただ、部屋の空気がゆっくりと沈んでいく。
 やがて、胸の奥に小さな震えが届いた。
―― わからないんです。
 私は、まだ“声”の形しかありません。
「声の形……?」
―― 言葉になる前に、消えてしまった声です。
 思いが強すぎて、言葉にならなかった。
 だから、残響だけが残った。
 遥斗は、妹・紗良のことを思い出した。
 亡くなる前、紗良は何かを言いかけていた。
 だが、言葉にならなかった。
 あのときの沈黙が、今も胸に残っている。
「……紗良なのか?」
―― 違います。
 私は、あなたの妹ではありません。
 その言葉に、遥斗は胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。
 同時に、別の重さが生まれた。
「じゃあ、誰なんだよ」
―― あなたが、ずっと聞こうとしていた人です。
 その瞬間、
 郵便局の古い窓が、風もないのにカタリと揺れた。
 遥斗は、ある人物の顔を思い浮かべた。
 母だ。
 遥斗が十七歳のとき、
 母は家を出て行った。
 理由は言わなかった。
 置き手紙もなかった。
 ただ、いなくなった。
 その日から、
 遥斗は“声のない家”で生きてきた。
「……母さん、なのか」
 白紙の封筒が、震えた。
―― まだ、わかりません。
 でも、あなたが拾わなければ、
 その声は消えてしまいます。
「どうすればいい」
―― 探してください。
 “声の残っている場所”へ。
「どこだよ、それは」
―― あなたが、最後に聞いた場所です。
 遥斗は息を呑んだ。
 母が家を出た日のことを思い出した。
 最後に声を聞いたのは——
 駅のホームだった。
 母は振り返らず、
 電車に乗り込んだ。
 遥斗は呼び止めようとしたが、
 声が出なかった。
 その沈黙が、
 今も胸に残っている。
―― 行ってください。
 あなたの声が、あの日止まった場所へ。
 ラジオがふっと沈黙した。
 白紙の封筒だけが、
 静かに震えていた。
 遥斗は立ち上がった。
 行かなければならない。
 あの日、声が止まった場所へ。
 駅へ。

4.  駅に残った声
 駅のホームは、冬の夕方の光に包まれていた。
 人影はまばらで、電車の到着を知らせるアナウンスだけが響いている。
 遥斗は、三年前と同じ場所に立った。
 母が最後に振り返らずに乗り込んだ、あのホーム。
 胸の奥が、じわりと熱くなった。
 白紙の封筒をポケットに入れたまま、
 遥斗はゆっくりと目を閉じた。
 すると、すぐに届いた。
―― ここです。
 あなたの声が止まった場所。
 封筒の震えが、指先に伝わった。
「……母さんの声が残ってるのか」
―― いいえ。
 ここに残っているのは、
 “あなたの声”です。
 遥斗は息を呑んだ。
「俺の……?」
―― あの日、あなたは呼ぼうとした。
 でも、声にならなかった。
 その“言えなかった声”が、ここに残っています。
 駅のホームに、風が吹いた。
 電車が通り過ぎたときの風のように、
 過去がふっと揺れた。
 遥斗は、十七歳の自分を思い出した。
 母が電車に乗り込む直前、
 確かに呼ぼうとした。
 「行かないで」と。
 「理由を教えて」と。
 「俺を置いていかないで」と。
 でも、声は出なかった。
 その沈黙が、
 今も胸の奥に残っていた。
―― あなたの声は、まだここにいます。
 白紙の封筒が、
 まるで心臓のように脈打った。
「……どうすればいい」
―― 呼んでください。
 あの日、言えなかった言葉を。
 遥斗は、ゆっくりと息を吸った。
 十七歳の自分が、
 ずっと言えなかった言葉。
 胸の奥で、
 何かがゆっくりと形を持ち始めた。
「……母さん」
 声が震えた。
「行かないで、って……言いたかった」
 その瞬間、
 白紙の封筒がふっと温かくなった。
―― 届きました。
 封筒の震えが止まり、
 代わりに、別の声が届いた。
 弱く、かすれていて、
 でも確かに“誰か”の声だった。
―― ごめんね。
 遥斗は目を開けた。
 ホームには誰もいなかった。
 ただ、夕陽だけが線路を照らしていた。
「……母さん?」
―― ごめんね。
 言えなかったの。
 あなたに、言えなかった。
 声は、風のように揺れていた。
―― あなたを置いていったんじゃない。
 あなたを守るために、離れたの。
 遥斗の胸が、静かに締めつけられた。
「守るため……?」
―― あなたが、私に似てしまうのが怖かった。
 弱くて、逃げてばかりの私に。
 声は、泣いているようだった。
―― あなたは、強くなれる人だから。
 私のそばにいたら、
 あなたまで壊れてしまうと思ったの。
 遥斗は、ゆっくりと目を閉じた。
 十七歳の自分が、
 ずっと知りたかった言葉だった。
―― ごめんね。
 でも、ありがとう。
 ずっと、呼んでくれて。
 声は、そこで途切れた。
 白紙の封筒は、
 もう震えていなかった。
 遥斗は、封筒を胸に抱いた。
 あの日、言えなかった声が、
 ようやく届いた。
 そして、
 母の声もまた、
 ようやく届いた。
 駅のホームに、
 静かな風が吹いた。

5.  声を渡す者
 駅から戻った夜、
 郵便局跡地の部屋は、いつもより静かだった。
 白紙の封筒は、もう震えていない。
 まるで役目を終えたように、机の上で眠っていた。
 遥斗は湯を沸かし、
 古いラジオの前に座った。
「……いるんだろ」
 呼びかけると、
 ラジオの針がかすかに揺れた。
 だが、砂嵐は流れない。
 声も聞こえない。
「出てこいよ。話がある」
 沈黙。
 その沈黙の奥に、
 誰かが息を潜めている気配があった。
 やがて、
 胸の奥に小さな震えが届いた。
―― ここにいます。
 昨夜までの声よりも、
 少しだけ近かった。
「お前は……誰なんだ」
―― 私は、声を渡す者。
 あなたのような“拾う者”に、
 声を届ける役目です。
「役目……?」
―― ええ。
 言葉にならなかった声、
 届かなかった声、
 消えてしまいそうな声。
 それらを、あなたのような人に渡す。
「なんで俺なんだよ」
―― あなたは、聞こえるからです。
 “言葉の前の震え”が。
 遥斗は、妹・紗良のことを思い出した。
 亡くなる前、紗良は何かを言いかけていた。
 でも、言葉にならなかった。
 あの沈黙を、
 遥斗はずっと抱えていた。
「……俺は、そんな特別じゃない」
―― 特別ではありません。
 ただ、失った人の声を、
 まだ手放していないだけです。
 胸の奥が、静かに痛んだ。
「……母さんの声は、もう消えたのか」
―― いいえ。
 あなたが呼んだことで、
 ようやく形になりました。
「形……?」
―― 声は、呼ばれたときに形になります。
 あなたが“言えなかった声”を言ったから、
 あの人の声も、あなたに届いた。
 ラジオの針が、ゆっくりと揺れた。
―― あなたは、声を拾う者です。
 そして、これからは——
 声を渡す者にもなります。
「……俺が?」
―― ええ。
 あなたの声を必要としている人がいます。
 遥斗は息を呑んだ。
「誰だ」
―― まだ言えません。
 でも、その人は……
 あなたが“生きているうちに”
 必ず会う人です。
 ラジオがふっと沈黙した。
 その沈黙は、
 これまでの沈黙とは違った。
 “始まりの沈黙”だった。
 遥斗は、机の上の白紙の封筒を見つめた。
 拾われなかった声は、
 もう震えていない。
 代わりに、
 自分の胸の奥が静かに震えていた。
 これから、
 誰の声を拾うのか。
 そして、
 誰に声を渡すのか。
 その答えは、
 まだ遠くにあった。

6.  新しい声
 翌朝、郵便局跡地の部屋は、
 いつもより少しだけ明るく感じられた。
 白紙の封筒は、もう震えていない。
 役目を終えたように、静かに机の上で眠っていた。
 遥斗は湯を沸かし、
 窓際の椅子に腰を下ろした。
 昨夜の言葉が胸に残っている。
―― あなたの声を必要としている人がいます。
 その“誰か”が誰なのか、
 遥斗にはまだ見当がつかなかった。
 妹でもない。
 母でもない。
 死者でもない。
 “生きている誰か”。
 その言葉が、胸の奥で静かに響いていた。
 そのときだった。
 部屋の隅に置かれた古いポストが、
 カタン、と音を立てた。
 遥斗は立ち上がり、ポストを開けた。
 中には、一枚の封筒が入っていた。
 昨夜と同じ、白い封筒。
 だが、今回は違った。
 宛名が書かれていた。
「遥斗へ」
 遥斗は息を呑んだ。
 差出人の欄には、
 ただ一言だけ書かれていた。
「声より」
 封を切ると、
 中には一枚の紙が入っていた。
 そこには、震えるような字でこう書かれていた。
「助けて」
 その瞬間、
 胸の奥に強い震えが走った。
―― 聞こえますか。
 声が届いた。
 昨夜の“声を渡す者”とは違う。
 もっと弱く、もっと切実な声。
―― だれか……
 だれか、いますか。
「……いる。ここにいる」
 遥斗は心の中で返した。
―― たすけて……
 こわい……
 こわいの……
 声は震えていた。
 泣いているようだった。
「どこにいるんだ。場所を教えてくれ」
―― わからない……
 でも……
 暗い……
 ひとり……
 さむい……
 その言葉に、遥斗の胸が締めつけられた。
 これは、
 死者の声ではない。
 生きている誰かの声だ。
「名前は……言えるか」
―― ……
 ……
 ……ひ……
 ……ひな……
「ひな……?」
―― ひな……
 ひな、です……
 たすけて……
 その瞬間、
 遥斗の脳裏に、ある人物の顔が浮かんだ。
 郵便局跡地の近くに住む、
 小学三年生の少女。
 よくこの建物の前を通り、
 遥斗に「こんにちは」と笑ってくれた子。
 その子の名前は——
日菜(ひな)。
「……日菜なのか」
―― こわい……
 だれも……こない……
 たすけて……
 声は、泣いていた。
 遥斗は立ち上がった。
 これは“残響”ではない。
 これは“今”の声だ。
 生きている子どもの声だ。
「日菜、待ってろ。今行く」
―― きて……
 はると……さん……
 その瞬間、
 声が途切れた。
 白い封筒が、
 机の上で静かに震えていた。
 遥斗はコートを掴み、
 外へ飛び出した。
 日菜の家へ向かって。

7.  日菜の声
 日菜の家は、郵便局跡地から歩いて五分ほどの場所にあった。
 冬の夕暮れは早く、空はすでに群青色に沈みかけている。
 遥斗は走った。
 息が白く、胸が痛むほどに走った。
 日菜の家の前に着くと、
 玄関の灯りはついていなかった。
 普段なら、
 夕方には必ず灯りがついている家だ。
 嫌な予感がした。
「日菜……」
 呼びかけても返事はない。
 遥斗は玄関の前に立ち、
 耳を澄ませた。
 すると——
 胸の奥に、かすかな震えが届いた。
―― はると……さん……
 日菜の声だ。
「日菜、どこだ。家の中か」
―― う……ん……
 くらい……
 こわい……
 声は弱く、震えていた。
 遥斗は玄関のドアを押した。
 鍵はかかっていなかった。
 中に入ると、
 家の中は真っ暗だった。
「日菜!」
 返事はない。
 だが、胸の奥の震えは強くなった。
―― ここ……
 ここに……いる……
 その声に導かれるように、
 遥斗は廊下を進んだ。
 足元に、冷たい空気が流れた。
 リビングの扉を開けると、
 部屋の隅に小さな影が見えた。
 日菜だった。
 膝を抱え、
 震えながら座り込んでいた。
「日菜!」
 遥斗が駆け寄ると、
 日菜は顔を上げた。
 涙で濡れた目が、
 遥斗を見つめた。
「……はるとさん……」
 その声は、
 胸の奥で聞こえた声と同じだった。
「大丈夫だ。もう大丈夫だ」
 遥斗は日菜の肩に手を置いた。
「どうしたんだ。何があった」
 日菜は震える声で言った。
「……お母さんが……帰ってこないの……」
 遥斗は息を呑んだ。
「いつからだ」
「きのうの夜……
 コンビニに行ってくるって言って……
 それっきり……」
 日菜の声は、
 胸の奥に直接届くように震えていた。
「こわくて……
 電気つけたら……
 だれかいる気がして……
 でも……
 電話もつながらなくて……」
 日菜は泣き出した。
「だから……
 はるとさんに……
 声を……
 とどけたの……」
 遥斗は、
 胸の奥が強く締めつけられるのを感じた。
 日菜の“声”は、
 助けを求める叫びだった。
 そしてそれは、
 確かに遥斗に届いた。
「日菜、安心しろ。
 お母さんは必ず見つける。
 俺が探す」
 日菜は涙の中で、
 小さく頷いた。
―― ありがとう……
 はるとさん……
 その声は、
 もう震えていなかった。

8.  消えた母親
 日菜を落ち着かせたあと、
 遥斗は家の中をひととおり確認した。
 電気はすべて消えている。
 靴箱には、日菜の母・美緒(みお)の靴がなかった。
 財布も、スマートフォンも持ち出された形跡があった。
 だが、家の中には不自然な静けさがあった。
 生活の気配が、途中で途切れている。
 まるで、時間がどこかで切り取られたような静けさ。
「日菜、お母さんがいなくなったのは昨日の夜なんだよな」
 日菜はこくりと頷いた。
「コンビニに行くって言って……
 でも、帰ってこなくて……
 電話も……つながらなくて……」
 日菜の声は震えていたが、
 胸の奥で聞こえた“助けて”の声よりは、
 ずっと落ち着いていた。
「日菜、昨日の夜……
 何か変な音とか、気配とか、なかったか」
 日菜は少し考えてから言った。
「……あった」
「どんな音だ」
「……声がしたの」
 遥斗は息を呑んだ。
「声?」
「うん……
 お母さんの声じゃない……
 知らない声……
 でも、すぐ消えちゃった……
 こわかった……」
 その瞬間、
 遥斗の胸の奥に、微かな震えが走った。
 “声”だ。
 日菜の声ではない。
 美緒の声でもない。
 もっと弱く、
 もっと遠く、
 もっと曖昧な震え。
―― たすけて……
 遥斗は目を閉じた。
「……美緒さんか」
―― ちがう……
 ちがうの……
 わたしは……
 まだ……
 かたちが……ない……
 遥斗は息を呑んだ。
 これは、美緒の声ではない。
 日菜の声でもない。
 “第三の声”だ。
「お前は……誰なんだ」
―― まだ……
 わからない……
 でも……
 あの人は……
 ひとりじゃない……
「美緒さんが、ひとりじゃない……?」
―― そばに……
 だれか……いる……
 その瞬間、
 部屋の空気がひやりと冷えた。
 日菜が遥斗の袖を掴んだ。
「はるとさん……
 いま……寒くなった……」
 遥斗は、ゆっくりと立ち上がった。
「日菜、ここにいて。絶対に動くな」
 日菜は怯えた目で頷いた。
 遥斗は、声の震えを頼りに、
 家の奥へと進んだ。
 廊下の先、
 美緒の寝室の前で、
 胸の奥の震えが強くなった。
―― ここ……
 ここに……
 のこってる……
 遥斗は、ゆっくりとドアを開けた。
 部屋の中は暗かった。
 カーテンが閉められ、
 空気が重く沈んでいる。
 その中央に——
 ひとつの“影”があった。
 人の形をしているようで、
 していないような、
 曖昧な影。
 影は、ゆっくりと揺れた。
―― みつけた……
 遥斗は息を呑んだ。
 影が、こちらを向いた。
―― あなたが……
 ひろう……ひと……
 影は、声を持っていた。
 そしてその声は、
 美緒の声でも、日菜の声でもなかった。
 “誰かの声”だった。
 遥斗は、影を見つめた。
「……お前は、誰なんだ」
 影は、ゆっくりと形を変えた。
―― わたしは……
 声の……のこり……
 あなたが……
 ひろわなかった……
 声……
 遥斗の胸が、
 静かに締めつけられた。
 影は、さらに言った。
―― あの人は……
 まだ……
 ここに……いない……
「美緒さんは……どこにいる」
―― まだ……
 “声”になっていない……
 影は、ゆっくりと消えた。
 残されたのは、
 冷たい空気と、
 遥斗の胸の奥に残る震えだけだった。

9.  影の正体
 美緒の寝室に残された“影”が消えたあと、
 部屋には重い沈黙だけが残った。
 遥斗はしばらく動けなかった。
 影が消えた場所には、
 冷たい空気が薄く残っている。
 その冷たさは、
 ただの温度ではなかった。
 “声の残り”のような冷たさだった。
―― あの人は……
 まだ……
 ここに……いない……
 影が言った言葉が、
 遥斗の胸の奥でゆっくりと反芻された。
「……どういう意味だ」
 誰に向けた言葉でもなかった。
 ただ、声に出さずにはいられなかった。
 そのとき、
 胸の奥に微かな震えが届いた。
―― こわがらないで……
 影の声だった。
 だが、先ほどよりも弱く、遠かった。
「お前は……何なんだ」
―― わたしは……
 声の……のこり……
 ひとが……
 言えなかった……
 声の……かたち……
 遥斗は息を呑んだ。
「言えなかった声……」
―― そう……
 ひとが……
 言おうとして……
 言えなかった……
 その声が……
 かたちを……もつと……
 影になる……
 影は、
 “声の残骸”だった。
 言葉にならなかった思いが、
 形を持ったもの。
「じゃあ……お前は誰の声なんだ」
―― それは……
 あなたが……
 きめる……
「俺が……?」
―― ひろう……ひとが……
 きめる……
 だれの……声か……
 どこへ……
 むけるか……
 影の輪郭が、
 ゆっくりと揺れた。
―― あの人は……
 まだ……
 “声”になっていない……
「美緒さんは……生きてるんだな」
―― うん……
 でも……
 とおい……
 とても……とおい……
「どこにいる」
―― それは……
 あなたが……
 ひろう……声……
 影は、
 遥斗の足元に落ちる影と重なり、
 ゆっくりと消えた。
 残されたのは、
 静かな部屋と、
 遥斗の胸の奥に残る震えだけだった。
 その震えは、
 影の言葉を繰り返していた。
―― あの人は……
 まだ……
 “声”になっていない……
 つまり——
 美緒はまだ“声を発せられない場所”にいる。
 生きている。
 だが、声が届かない場所にいる。
 遥斗は、
 胸の奥の震えに耳を澄ませた。
 すると、
 微かな声が届いた。
―― はると……
 さん……
 日菜の声だった。
 遥斗は振り返った。
 廊下の向こうで、
 日菜が不安そうに立っていた。
「はるとさん……
 お母さん……
 どこにいるの……?」
 遥斗は、
 ゆっくりと日菜の頭に手を置いた。
「……必ず見つける。
 日菜の声が届いたように、
 美緒さんの声も、必ず届く」
 日菜は涙をこらえながら頷いた。
 その瞬間、
 遥斗の胸の奥に、
 新しい震えが生まれた。
 それは、
 影の声でも、
 日菜の声でもなかった。
 もっと遠く、
 もっと弱く、
 でも確かに“誰か”の声。
―― たすけて……
 遥斗は息を呑んだ。
 美緒の声だった。

10.  声の居場所
 美緒の声が胸の奥に届いた瞬間、
 遥斗は思わず壁に手をついた。
 その声は弱く、
 遠く、
 かすれていた。
 だが確かに“生きている声”だった。
―― はると……さん……
 その震えは、
 風のように揺れ、
 すぐに消えそうだった。
「美緒さん、聞こえるか。どこにいる」
―― ……
 ……
 こえが……
 とどかない……
「届かないって……どういうことだ」
―― ここは……
 とおい……
 とても……とおい……
 声は、
 まるで深い水の底から届いているようだった。
 遥斗は、
 胸の奥の震えに集中した。
「美緒さん、日菜は無事だ。家にいる。安心してくれ」
―― ひな……
 ひな……
 よかった……
 その言葉には、
 確かな安堵があった。
 だが次の瞬間、
 声は急に弱くなった。
―― でも……
 わたしは……
 かえれない……
「なぜだ。何があった」
―― こえが……
 きこえない……
 だれにも……
 とどかない……
 遥斗は息を呑んだ。
 影が言っていた。
―― あの人は……
 まだ……
 “声”になっていない……
 つまり——
 美緒は“声を発せられない場所”にいる。
 生きている。
 だが、声が世界に届かない場所。
「美緒さん、そこはどこなんだ」
―― わからない……
 くらい……
 さむい……
 ひとり……
 その震えは、
 日菜の“助けて”と同じ質を持っていた。
 だが、もっと深い。
 もっと孤独な震えだった。
「美緒さん、何か見えるものはあるか。音は」
―― ……
 ……
 なにも……
 ない……
 ただ……
 おとが……
「音?」
―― だれかの……
 なきごえ……
 ずっと……
 ずっと……
 きこえる……
 遥斗は、
 胸の奥が冷たくなるのを感じた。
「誰の泣き声だ」
―― わからない……
 でも……
 こども……
 みたい……
 その瞬間、
 遥斗の胸の奥に、別の震えが走った。
 日菜の声ではない。
 美緒の声でもない。
 もっと幼い、
 もっと弱い、
 もっと深い声。
―― さむい……
 こわい……
 だれか……
 だれか……
 遥斗は息を呑んだ。
「……美緒さん、その泣き声は……日菜じゃないのか」
―― ちがう……
 ひなじゃ……ない……
 もっと……
 ちいさい……
 もっと……
 とおい……
 遥斗は、
 胸の奥の震えに耳を澄ませた。
 すると、
 その幼い声が、
 はっきりと届いた。
―― まま……
 まま……
 どこ……
 いったの……
 遥斗は、
 思わず壁に手をついた。
 その声は——
 日菜の声に似ていた。
 だが、日菜ではない。
 もっと幼い。
 もっと小さな声。
 まるで——
 日菜の“幼い頃の声” のようだった。
「……美緒さん、その声は……」
―― こえが……
 まざってる……
 だれの……
 こえか……
 わからない……
 美緒の声が、
 かすかに震えた。
―― はるとさん……
 わたし……
 こわい……
 遥斗は、
 胸の奥が強く締めつけられるのを感じた。
「大丈夫だ。必ず見つける。必ず」
―― はると……さん……
 声は、
 そこで途切れた。
 部屋の空気が、
 静かに沈んでいく。
 遥斗は、
 胸の奥の震えを感じながら、
 ゆっくりと目を閉じた。
 美緒の声は、
 確かに生きている。
 だが、
 “声が届かない場所”にいる。
 そして——
 その場所には、
 日菜の幼い声に似た“別の声” があった。
 その声は、
 遥斗に向かって、
 かすかに震えていた。
―― たすけて……

11.  声の迷い子
 美緒の声が途切れたあと、
 部屋には深い静けさが落ちた。
 その静けさの中で、
 遥斗の胸の奥だけが、
 かすかに震えていた。
―― たすけて……
 幼い声。
 日菜の声に似ているが、日菜ではない。
 その声は、
 美緒のいる“どこか”から届いていた。
 遥斗は、
 胸の奥の震えに耳を澄ませた。
「……君は誰なんだ」
―― まま……
 まま……
 どこ……いったの……
 その声は、
 泣いていた。
 幼い子どもの泣き声。
 だが、日菜の幼い頃の声とも違う。
 もっと曖昧で、
もっと“形がない”。
「君は……美緒さんの子どもなのか」
―― ちがう……
 でも……
 まま……
 ほしかった……
 遥斗は息を呑んだ。
「……どういう意味だ」
―― こえが……
 のこった……
 だれにも……
 ひろわれなかった……
 こえ……
 その瞬間、
 遥斗は理解した。
 これは——
 “生まれなかった声” だ。
 言葉になる前に消えた声。
 存在になる前に消えた声。
 誰にも拾われなかった声。
 影が言っていた。
―― ひとが……
 言えなかった……
 声の……かたち……
 この幼い声は、
 “誰かの願い”の残響だった。
「……君は、美緒さんの……?」
―― ちがう……
 でも……
 あのひとは……
 わたしを……
 しってる……
「知っている……?」
―― ここに……
 おちてきた……
 あのひとが……
 ないてた……
 遥斗の胸が、
 静かに締めつけられた。
「美緒さんが……泣いていたのか」
―― うん……
 ずっと……
 ずっと……
 ないてた……
 幼い声は、
 まるで美緒の涙を覚えているかのようだった。
―― だから……
 わたし……
 あのひとを……
 まもりたかった……
「守りたかった……?」
―― でも……
 できなかった……
 わたし……
 こえじゃ……
 たりない……
 その声は、
 自分の無力さを嘆くように震えていた。
「君は……美緒さんを探していたのか」
―― うん……
 でも……
 みつからない……
 あのひとは……
 とおい……
 とても……とおい……
 遥斗は、
 胸の奥の震えを感じながら言った。
「……美緒さんを見つける。必ず」
―― ほんとう……?
「ああ。君の声も、美緒さんの声も、全部拾う」
 幼い声は、
 かすかに震えた。
―― ありがとう……
 はると……さん……
 その瞬間、
 胸の奥の震えが、
 少しだけ温かくなった。
 だが同時に、
 別の震えが生まれた。
 それは、
 幼い声でも、
 美緒の声でも、
 影の声でもない。
 もっと深く、
 もっと重く、
 もっと古い声。
―― まだ……
 ちかづくな……
 遥斗は息を呑んだ。
 その声は、
 警告だった。

12.  声の底にいるもの
 幼い声が消えたあと、
 遥斗はしばらく動けなかった。
 胸の奥には、
 まだ微かな震えが残っている。
 その震えは、
 美緒の声でも、
 日菜の声でも、
 幼い声でもなかった。
 もっと深く、
 もっと重く、
もっと古い震え。
―― まだ……
 ちかづくな……
 その声は、
 警告のようだった。
 遥斗は、
 胸の奥の震えに耳を澄ませた。
「……お前は誰なんだ」
 返事はなかった。
 ただ、空気がひやりと冷えた。
 その冷たさは、
 影が現れたときの冷たさとは違う。
 もっと深い。
 もっと底の方から来る冷たさ。
 そのとき、
 幼い声が再び震えた。
―― こわい……
 あのこえ……
 こわい……
「“あの声”……?」
―― うん……
 ふるい……
 ふるいこえ……
 ずっと……
 ここにいる……
 遥斗は息を呑んだ。
「美緒さんのいる場所に……“古い声”がいるのか」
―― うん……
 あのひと……
 ないてた……
 こわくて……
 ずっと……
 幼い声は、
 美緒の恐怖を覚えているようだった。
「その“古い声”は……美緒さんに何をした」
―― なにも……
 でも……
 ちかづくと……
 こえが……
 きこえなくなる……
 遥斗は、
 胸の奥が冷たくなるのを感じた。
「……声が、聞こえなくなる?」
―― うん……
 あのこえ……
 ちかづくと……
 みんな……
 しずかになる……
 その言葉は、
 まるで“声を奪う存在”のようだった。
「美緒さんは……その声に近づいたのか」
―― うん……
 だから……
 こえが……
 とどかない……
 遥斗は、
 胸の奥の震えを強く感じた。
 美緒の声は、
 確かに生きている。
 だが、
 “声を奪う何か”の近くにいる。
 そのときだった。
 胸の奥に、
 重く、深い震えが届いた。
―― くるな……
 その声は、
 幼い声とは違う。
 影の声とも違う。
 もっと深く、
 もっと古く、
 もっと重い。
 まるで、
 長い間誰にも拾われなかった声が、
 濁って沈んだような響き。
―― くるな……
 ここは……
 おまえの……
 くるところじゃ……ない……
 遥斗は、
 背筋が冷たくなるのを感じた。
「……お前は誰だ」
―― わすれられた……
 こえ……
「忘れられた声……?」
―― だれにも……
 ひろわれなかった……
 こえ……
 その声は、
 深い井戸の底から響くようだった。
―― ここは……
 おちたこえの……
 そこ……
 遥斗は息を呑んだ。
「……“声の底”……」
―― そう……
 おちたこえ……
 きえたこえ……
 いえなかったこえ……
 みんな……
 ここに……おちる……
 その声は、
 世界の裏側を語るようだった。
「美緒さんは……そこに落ちたのか」
―― ちがう……
 おちてない……
 でも……
 ちかい……
「近い……?」
―― こえが……
 きこえなくなるほど……
 ちかい……
 遥斗は、
 胸の奥が強く締めつけられるのを感じた。
 美緒は、
 “声の底”の近くにいる。
 声が届かない場所。
 声が奪われる場所。
 そして——
 そこには“忘れられた声”がいる。
―― くるな……
 おまえまで……
 おちる……
 その声は、
 警告だった。
 だが、
 遥斗は静かに言った。
「……行くよ。美緒さんを助けに」
―― くるな……
「行く」
―― おまえは……
 まだ……
 ひろえる……
 こえが……
 ある……
「だから行くんだ」
 沈黙。
 深い、
 深い沈黙。
 その沈黙の奥で、
 幼い声が震えた。
―― はるとさん……
 いかないで……
 こわい……
 遥斗は、
 胸の奥の震えをそっと撫でるように言った。
「大丈夫だ。君も、美緒さんも、必ず拾う」
 その瞬間、
 “古い声”が低く響いた。
―― ならば……
 おちてこい……
 空気が、
 ひやりと沈んだ。
 まるで、
 “声の底”が口を開けたようだった。

13.  声の底へ
 “古い声”が響いたあと、
 部屋の空気はまるで水の底のように重く沈んだ。
―― ならば……
 おちてこい……
 その声は、
 誘いでもあり、
 警告でもあった。
 遥斗は、胸の奥の震えに耳を澄ませた。
 幼い声が、かすかに震えた。
―― はるとさん……
 いかないで……
 こわい……
 その震えは、
 まるで小さな手が袖を掴むような弱さだった。
 遥斗は、
 その震えをそっと抱きしめるように言った。
「大丈夫だ。君も、美緒さんも、必ず拾う」
 幼い声は、
 かすかに温かくなった。
―― ありがとう……
 でも……
 きをつけて……
 その瞬間、
 “古い声”が低く響いた。
―― くるな……
 おまえは……
 まだ……
 ひろえる……
 こえが……
 ある……
「だから行くんだ」
 遥斗がそう言った瞬間、
 部屋の空気がふっと軽くなった。
 まるで、
 “声の底”が口を開けたようだった。
 胸の奥の震えが、
 ゆっくりと深く沈んでいく。
 その沈み方は、
 落ちるというより、
 引き込まれる感覚に近かった。
 視界が揺れた。
 床が遠ざかり、
 天井が歪み、
 部屋の輪郭がほどけていく。
 音が消えた。
 光が消えた。
 ただ、
 “声”だけが残った。
―― はるとさん……
 幼い声。
―― こわい……
 美緒の声。
―― くるな……
 古い声。
 それらが、
 遠くで、
 近くで、
 重なり合って響いていた。
 遥斗は、
 その声の渦の中に沈んでいった。
 やがて——
 足元に“地面”のようなものを感じた。
 暗闇の中に、
 薄い光が揺れていた。
 その光は、
 声の形をしていた。
 泣き声。
 叫び声。
 言いかけた声。
 言えなかった声。
 忘れられた声。
 無数の声が、
 光の粒となって漂っていた。
 ここは——
 声の底。
 遥斗は、
 胸の奥の震えを頼りに歩き出した。
 すると、
 幼い声が震えた。
―― はるとさん……
 あのひと……
 いる……
「美緒さんが……?」
―― うん……
 でも……
 まだ……
 とおい……
 遥斗は、
 光の粒の中を進んだ。
 すると、
 遠くに“影”が見えた。
 人の形をしているようで、
 していないような、
 曖昧な影。
 その影は、
 泣いていた。
 声にならない声で、
 泣いていた。
 遥斗は息を呑んだ。
「……美緒さん……?」
 影は、
 ゆっくりとこちらを向いた。
 その瞬間、
 胸の奥に強い震えが走った。
―― はると……さん……
 美緒の声だった。
 だが、
 その声は弱く、
 かすれていた。
 まるで、
 声を奪われた人の声だった。
「美緒さん!」
 遥斗が駆け寄ろうとした瞬間、
 “古い声”が響いた。
―― くるな……
 暗闇の奥から、
 巨大な影が揺れた。
 その影は、
 声の粒を吸い込みながら、
 ゆっくりと姿を現した。
 それは——
 声を奪うもの。
―― おまえまで……
 おちる……
 その声は、
 世界の底から響いていた。

14.  声を奪うもの
 “声の底”の暗闇の中で、
 巨大な影がゆっくりと揺れた。
 その影は、
 人の形をしているようで、
 していないようで、
 輪郭が常に崩れ続けていた。
 まるで、
 無数の声が集まってできた塊のようだった。
―― おまえまで……
 おちる……
 その声は、
 深い井戸の底から響くようだった。
 遥斗は、
 胸の奥の震えを感じながら言った。
「……お前は何なんだ」
 影は、
 ゆっくりと形を変えた。
―― わすれられた……
 こえ……
「忘れられた声……?」
―― だれにも……
 ひろわれなかった……
 こえ……
 影の輪郭が、
 無数の“口”のように揺れた。
―― いえなかった……
 とどかなかった……
 きえた……
 こえ……
 その声は、
 悲しみでもあり、
 怒りでもあり、
 嘆きでもあった。
「……お前は、声の残骸なのか」
―― のこり……
 あまり……
 おとしもの……
 影は、
 光の粒を吸い込むように揺れた。
―― ひとは……
 こえを……
 すてる……
 その言葉は、
 静かに、しかし鋭く響いた。
―― いえなかったこと……
 とどかなかったこと……
 ききたくなかったこと……
 みんな……
 ここに……
 おちる……
 遥斗は息を呑んだ。
「……美緒さんは、どうしてここに近づいた」
 影は、
 ゆっくりと美緒の影を指すように揺れた。
―― あのひとは……
 こえを……
 おとしてきた……
「声を……落とした?」
―― いえなかった……
 ことば……
 とどかなかった……
 おもい……
 影の声が、
 低く響いた。
―― あのひとは……
 じぶんのこえを……
 おとして……
 ここに……
 ちかづいた……
 遥斗は、
 胸の奥が強く締めつけられるのを感じた。
「……美緒さんは、誰かに言えなかったことがあるのか」
―― ある……
 おおきな……
 こえ……
「それは……日菜に関係しているのか」
 影は、
 ゆっくりと揺れた。
―― ひな……
 そして……
 もうひとり……
「もうひとり……?」
―― あのひとは……
 ふたつのこえを……
 おとしてきた……
 遥斗は息を呑んだ。
「……日菜の“幼い声”に似ていたあの声は……」
―― そう……
 あれは……
 あのひとの……
 いえなかった……
 こえ……
 影の声は、
 深い悲しみを帯びていた。
―― うまれなかった……
 こえ……
 遥斗は、
 胸の奥が冷たくなるのを感じた。
「……美緒さんは……子どもを……?」
―― そう……
 ひなより……
 まえに……
 ひとつ……
 こえが……
 きえた……
 幼い声が、
 かすかに震えた。
―― わたし……
 わたし……
 あのひとの……
 こえ……
 その声は、
 泣いていた。
―― まま……
 まま……
 どこ……
 いったの……
 遥斗は、
 その声を抱きしめるように言った。
「……君は、美緒さんの“言えなかった声”なんだな」
―― うん……
 でも……
 まもれなかった……
 その瞬間、
 “声を奪うもの”が低く響いた。
―― ここは……
 おちたこえの……
 そこ……
 影が、
 遥斗の方へゆっくりと近づいた。
―― おまえも……
 おちる……
 遥斗は、
 胸の奥の震えを強く感じた。
「……落ちない。俺は拾う側だ」
 影は、
 揺れた。
―― ひろう……?
 おちたこえを……?
 きえたこえを……?
「拾う。美緒さんも、君も、全部」
 その瞬間、
 “声を奪うもの”が大きく揺れた。
―― ならば……
 ためされよ……
 暗闇が、
 遥斗の足元から崩れた。
 声の底が、
 さらに深い底を開いた。
 遥斗は、
 その深淵へと落ちていった。

15.  声の試練
 暗闇が裂け、
 遥斗はさらに深い底へと落ちていった。
 落ちているのに、
 風は吹かない。
 重力も感じない。
 ただ、
 “声”だけが周囲を満たしていた。
 泣き声。
 叫び声。
 言いかけた声。
 届かなかった声。
 忘れられた声。
 無数の声が、
 光の粒となって漂い、
 遥斗の身体をすり抜けていく。
―― たすけて……
―― どうして……
―― いわなきゃ……
―― きこえない……
―― もういい……
 それらは、
 人が生きてきた証のようでもあり、
 人が捨ててきた影のようでもあった。
 やがて、
 遥斗の足が“地面”に触れた。
 そこは、
 光も影もない場所だった。
 ただ、
 声だけがあった。
 その中心に、
 巨大な影が立っていた。
 “声を奪うもの”。
 影は、
 ゆっくりと遥斗の方へ向き直った。
―― ここは……
 おちたこえの……
 そこ……
 その声は、
 深い井戸の底から響くようだった。
―― おまえは……
 ひろう……という……
「拾う。美緒さんも、幼い声も、全部」
 影は、
 ゆっくりと揺れた。
―― ならば……
 ためされよ……
 その瞬間、
 暗闇が裂けた。
 光の粒が渦を巻き、
 遥斗の周囲に集まった。
 それらは、
 “声”だった。
 ひとつひとつが、
 誰かの言えなかった言葉だった。
―― いわなきゃ……
―― どうして……
―― きこえて……
―― たすけて……
 声が、
 遥斗の胸に突き刺さるように響いた。
 その中に、
 ひときわ強い震えがあった。
―― はると……さん……
 美緒の声だ。
 遥斗は、
 その声の方へ手を伸ばした。
 だが、
 “声を奪うもの”が低く響いた。
―― まだ……
 ちかづくな……
 影が腕を伸ばし、
 遥斗の前に立ちはだかった。
―― ひろうなら……
 しめせ……
「……何を示せばいい」
―― じぶんの……
 おちたこえを……
 ひろえるか……
 遥斗は息を呑んだ。
「……俺の、落ちた声……?」
―― そう……
 おまえの……
 いえなかった……
 ことば……
 影の声が、
 深く響いた。
―― それを……
 ひろえなければ……
 だれのこえも……
 ひろえぬ……
 その瞬間、
 暗闇の奥から、
 ひとつの声が響いた。
―― 兄ちゃん……
 遥斗の身体が、
 びくりと震えた。
 その声は——
 紗良(さら) の声だった。
 亡くなった妹の声。
 遥斗は、
 胸の奥が強く締めつけられるのを感じた。
「……紗良……?」
―― 兄ちゃん……
 ごめんね……
 その声は、
 あの日のままだった。
 病室で、
 言いかけて、
 言えなかった声。
―― いえなかった……
 ことば……
 “声を奪うもの”が低く響いた。
―― それを……
 ひろえるか……
 光の粒が集まり、
 紗良の“声の形”が現れた。
 泣きそうな顔で、
 遥斗を見つめていた。
―― 兄ちゃん……
 わたし……
 ほんとうは……
 その声は、
 震えていた。
 遥斗は、
 その声を拾わなければならなかった。
 自分がずっと避けてきた声。
 聞くのが怖かった声。
 だが、
 それを拾わなければ——
 美緒も、
 幼い声も、
 誰も救えない。
 遥斗は、
 ゆっくりと紗良の声に手を伸ばした。
「……紗良。聞くよ」
 その瞬間、
 紗良の声が震えた。
―― 兄ちゃん……
 わたし……
 いきたかった……
 遥斗の胸が、
 深く、深く、
 裂けるように痛んだ。
 それは、
 紗良が最後に言えなかった言葉だった。
 そして——
 遥斗がずっと聞けなかった言葉だった。
 涙が、
 静かに頬を伝った。
「……紗良。ごめん」
―― ううん……
 ありがとう……
 きいてくれて……
 紗良の声は、
 光の粒となって遥斗の手に触れた。
 その瞬間、
 “声を奪うもの”が大きく揺れた。
―― みとめよう……
 影の声が、
 深く響いた。
―― おまえは……
 ひろうもの……
 暗闇が、
 ゆっくりと開いた。
 その奥に——
 美緒の影が見えた。

16.  美緒の声

 暗闇の奥で、
 美緒の影が震えていた。
 その姿は、
 人の形をしているようで、
 していないようで、
 輪郭が常にほどけていた。
 まるで、
 声を失った人の影だった。
―― はると……さん……
 その声は弱く、
 かすれていて、
 今にも消えそうだった。
 遥斗は一歩踏み出した。
「美緒さん……!」
 だがその瞬間、
 “声を奪うもの”が低く響いた。
―― まだ……
 ちかづくな……
 巨大な影が、
 美緒の前に立ちはだかった。
―― あのひとは……
 まだ……
 じぶんのこえを……
 ひろえていない……
 遥斗は息を呑んだ。
「……美緒さんの“落ちた声”が、まだ拾われていない……?」
―― そう……
 ふたつ……
 おちている……
「ふたつ……?」
―― ひとつは……
 うまれなかった……
 こえ……
 幼い声が、
 かすかに震えた。
―― わたし……
 わたしのこと……
 遥斗は頷いた。
「もうひとつは……?」
 “声を奪うもの”が、
 ゆっくりと美緒の影を指した。
―― あのひとが……
 いえなかった……
 おおきなこえ……
 美緒の影が、
 震えた。
―― はると……さん……
 ごめんなさい……
 その声は、
 深い罪悪感に満ちていた。
「美緒さん、何を謝るんですか」
―― わたし……
 ひなに……
 いえなかった……
「日菜に……?」
 美緒の影が、
 ゆっくりと揺れた。
―― ひなは……
 わたしの……
 すべてじゃ……ない……
 遥斗は息を呑んだ。
「……どういう意味ですか」
―― わたし……
 ひとり……
 まえに……
 こどもを……
 なくした……
 幼い声が、
 かすかに震えた。
―― わたし……
 わたしのこと……
 美緒の影は、
 泣いていた。
―― ひなに……
 いえなかった……
 こわくて……
 にどと……
 おなじことが……
 おきるのが……
 その声は、
 深い恐怖と悲しみに満ちていた。
―― だから……
 ひなを……
 まもろうとして……
 でも……
 こわくて……
 にげた……
 遥斗は、
 胸の奥が強く締めつけられるのを感じた。
「……美緒さんは、日菜を捨てたんじゃない」
―― ううん……
 まもりたかった……
 でも……
 こわかった……
 美緒の声は、
 震えていた。
―― わたし……
 ひなに……
 いえなかった……
 “あなたは……
 わたしの……
 ふたりめの……
 こえだよ”って……
 幼い声が、
 静かに泣いた。
―― まま……
 まま……
 わたし……
 ここに……いるよ……
 美緒の影が、
 その声に気づいたように震えた。
―― あなた……
 なの……?
―― うん……
 ままの……
 いえなかった……
 こえ……
 美緒の影は、
 崩れ落ちるように膝をついた。
―― ごめん……
 ごめんね……
 まもれなくて……
 いえなくて……
 わすれたふりして……
 ごめん……
 幼い声は、
 優しく震えた。
―― まま……
 わたし……
 おこってないよ……
 その瞬間、
 美緒の影が光を帯びた。
 声が、
 形を取り戻し始めた。
 遥斗は、
 その光の中へ一歩踏み出した。
「美緒さん……その声を拾ってください。
 あなたの“言えなかった声”を」
 美緒の影が、
 ゆっくりと顔を上げた。
―― はると……さん……
 その声は、
 もう震えていなかった。
―― わたし……
 ひろいたい……
 じぶんのこえを……
 光が、
 美緒の影を包んだ。
 その光の中で、
 美緒の“本当の声”が響いた。
―― ひな……
 あなたを……
 うんで……
 よかった……
 幼い声が、
 静かに消えていった。
 それは、
 “拾われた声”が
 役目を終えた瞬間だった。
 美緒の影は、
 ゆっくりと人の形を取り戻した。
 そして——
―― はるとさん……
 たすけて……
 美緒の声が、
 はっきりと届いた。

17.  声を取り戻す
 美緒の声が、
 はっきりと遥斗に届いた。
―― はるとさん……
 たすけて……
 その声は、
 弱く、震えていたが、
 確かに“生きている声”だった。
 遥斗は一歩踏み出した。
 だがその瞬間、
 “声を奪うもの”が巨大な影を揺らした。
―― まだ……
 ゆるさぬ……
 影が、
 美緒の前に立ちはだかった。
―― あのひとは……
 まだ……
 じぶんのこえを……
 すべて……
 ひろえていない……
「まだ……?」
 遥斗は息を呑んだ。
「美緒さんは、もう“言えなかった声”を拾ったはずだ。
 幼い声も、自分の恐怖も、全部……」
 影は、
 ゆっくりと揺れた。
―― まだ……
 ひとつ……
 のこっている……
「ひとつ……?」
 美緒の影が、
 かすかに震えた。
―― はると……さん……
 わたし……
 あなたに……
 いえなかった……
 その声は、
 深い後悔に満ちていた。
「……俺に?」
 美緒の影は、
 ゆっくりと顔を上げた。
―― わたし……
 あなたに……
 “たすけて”って……
 いえなかった……
 遥斗は、
 胸の奥が強く締めつけられるのを感じた。
「……美緒さん……」
―― ひなを……
 ひとりで……
 そだてるのが……
 こわかった……
 でも……
 だれにも……
 いえなかった……
 影が、
 その言葉に反応するように揺れた。
―― いえなかった……
 こえ……
 美緒の声は続いた。
―― はるとさん……
 あなたに……
 たすけてって……
 いえなかった……
 その瞬間、
 遥斗の胸の奥に、
 強い震えが走った。
 それは、
 美緒の“落ちた声”だった。
 言えなかった声。
 届かなかった声。
 ずっと胸の奥に沈んでいた声。
 遥斗は、
 その声に手を伸ばした。
「……美緒さん。
 言ってください。
 俺に、ちゃんと」
 美緒の影が、
 震えながら言った。
―― はるとさん……
 たすけて……
 その瞬間、
 光が弾けた。
 美緒の影が、
 光に包まれ、
 輪郭を取り戻していく。
 “声を奪うもの”が、
 低く唸った。
―― そのこえ……
 ひろわれた……
 影が、
 ゆっくりと後退した。
―― あのひとは……
 もう……
 おちない……
 光が、
 美緒の身体を包み込んだ。
 その光の中で、
 美緒の“本当の声”が響いた。
―― はるとさん……
 ありがとう……
 その声は、
 もう震えていなかった。
 遥斗は、
 その声をしっかりと受け止めた。
「……帰りましょう、美緒さん。
 日菜が待ってます」
 光が、
 “声の底”を満たした。
 そして——
 遥斗と美緒は、
 ゆっくりと現実へと引き上げられていった。

18.  帰る声
 光が満ちていく。
 “声の底”の暗闇が、ゆっくりとほどけていく。
 遥斗は、美緒の手をしっかりと握っていた。
 その手は冷たかったが、確かに“生きている温度”があった。
―― はるとさん……
 美緒の声は、もう震えていなかった。
「大丈夫です。帰りましょう」
 光が二人を包み、
 声の粒が舞い上がる。
 泣き声も、
 叫び声も、
 言えなかった声も、
 すべてが光となって天へ昇っていく。
 その中に、
 幼い声がひとつ、静かに揺れていた。
―― まま……
 ありがとう……
 美緒は、
 その声に向かってそっと微笑んだ。
―― さよなら……
 幼い声は、
 光の粒となって消えていった。
 それは、
 “拾われた声”が役目を終えた瞬間だった。
 そして——
 光が完全に満ちた。
 世界が反転し、
 遥斗と美緒は現実へと引き戻された。

現実へ
 遥斗が目を開けると、
 そこは日菜の家のリビングだった。
 暖かい空気。
 夕方の光。
 生活の匂い。
 すべてが、
 “生きている世界”のものだった。
 隣には、美緒が倒れるように座り込んでいた。
「美緒さん!」
 遥斗が支えると、
 美緒はゆっくりと目を開けた。
「……はるとさん……?」
「戻ってきました。もう大丈夫です」
 美緒は、
 涙をこぼしながら頷いた。
「……ひな……ひなは……?」
 その瞬間——
「お母さん!」
 日菜が駆け込んできた。
 美緒は、
 その小さな身体を強く抱きしめた。
「ひな……ごめん……
 ごめんね……
 ひとりにして……
 ほんとうに……ごめん……」
 日菜は泣きながら言った。
「お母さん……
 帰ってきてくれて……
 ありがとう……」
 その声は、
 まっすぐで、
 温かくて、
美緒の胸に深く届いた。
 美緒は、
 震える声で言った。
「ひな……
 あなたを……
 産んでよかった……」
 日菜は、
 その言葉を聞いた瞬間、
 声を上げて泣いた。
 遥斗は、
 その光景を静かに見守った。
 胸の奥で、
 微かな震えが消えていく。
 “声の底”で聞いた無数の声が、
 少しずつ静かになっていく。
 そして——
―― はるとさん……
 美緒が、
 涙の中で遥斗を見つめた。
「……ありがとう。
 あなたが拾ってくれなかったら……
 私は、戻れなかった」
 遥斗は、
 静かに頷いた。
「声は……拾われるためにあるんです。
 言えなかった声も、届かなかった声も」
 美緒は、
 深く息を吸い、
 ゆっくりと吐いた。
「……生きて、言います。
 これからは、ちゃんと」
 その言葉は、
 美緒自身の“新しい声”だった。

19.  声の行き先
 日菜の家に、
 ようやく静けさが戻った。
 美緒はソファに座り、
 日菜を抱きしめたまま離れようとしなかった。
 日菜もまた、
 その腕の中で安心したように目を閉じている。
 遥斗は、
 その光景を少し離れた場所から見守っていた。
 胸の奥の震えは、
 もうほとんど消えていた。
 “声の底”で聞いた無数の声が、
 静かに遠ざかっていく。
 そのとき——
―― はるとさん……
 美緒が、
 涙の跡を残したまま遥斗を見つめた。
「本当に……ありがとうございました。
 あなたが拾ってくれなかったら……
 私は、声を失ったままでした」
 遥斗は、
 静かに首を振った。
「拾ったのは、美緒さん自身ですよ。
 俺はただ……その声を聞いただけです」
 美緒は、
 その言葉に小さく微笑んだ。
「……これからは、ちゃんと声にします。
 言えなかったことも、怖かったことも」
 日菜が顔を上げた。
「お母さん、もうどこにも行かないよね」
「行かない。
 あなたの声が、ちゃんと届いたから」
 日菜は、
 安心したように笑った。
 その笑顔は、
 “拾われた声”の証のようだった。
外の空気
 家を出ると、
 冬の空気が頬に触れた。
 空は澄んでいて、
 夕暮れの光が街を静かに染めていた。
 遥斗は深く息を吸った。
 胸の奥は、
 不思議なほど静かだった。
 その静けさの中で——
―― はると……
 微かな声が届いた。
 紗良の声だった。
 遥斗は、
 空を見上げた。
「……聞こえてるよ」
―― ありがとう……
 その声は、
 風に溶けるように消えていった。
 もう、
 悲しみの震えはなかった。
 ただ、
 優しい余韻だけが残った。

郵便局跡地へ
 遥斗は、
 いつものように郵便局跡地へ戻った。
 古いラジオ。
 机の上の白紙の封筒。
 静かな部屋。
 そのすべてが、
 少しだけ違って見えた。
 封筒は、
 もう震えていない。
 だが、
 遥斗はそれをそっと撫でた。
「……ありがとう」
 その瞬間、
 ラジオの針がかすかに揺れた。
―― まだ……
 ひろうこえが……
 あります……
 “声を渡す者”の声だった。
「……そうだろうな」
―― あなたは……
 ひろうもの……
 そして……
 わたすもの……
「渡す……?」
―― ええ……
 あなたの声を……
 必要としている人が……
 まだ……
 います……
 遥斗は、
 静かに目を閉じた。
 胸の奥に、
 新しい震えが生まれた。
 それは、
 悲しみでも、
 恐怖でもない。
 “誰かの声が届く前の震え”。
 遥斗は、
 その震えを受け止めた。
「……わかった。
 聞くよ。
 これからも」
―― ありがとう……
 ラジオの針が、
 静かに止まった。
 部屋には、
 穏やかな沈黙だけが残った。
 その沈黙は、
 “声が生まれる前の静けさ”だった。

20.  声守り
 日菜の家を出たあと、
 遥斗はしばらく街を歩いた。
 夕暮れの光が、
 アスファルトの上に長い影を落としている。
 人々の話し声。
 車の音。
 風の音。
 そのすべてが、
 “生きている声”だった。
 胸の奥は静かだった。
 だが、空っぽではなかった。
 そこには、
 紗良の声も、
 美緒の声も、
 幼い声も、
 すべてが静かに沈んでいた。
 消えたのではない。
 “拾われた”のだ。

郵便局跡地の部屋
 部屋に戻ると、
 古いラジオが静かに佇んでいた。
 机の上の白紙の封筒は、
 もう震えていない。
 遥斗は椅子に座り、
 深く息を吸った。
「……終わったな」
 そう呟いたとき、
 ラジオの針がかすかに揺れた。
―― いいえ……
 “声を渡す者”の声だった。
―― まだ……
 はじまったばかりです……
「……そうかもしれないな」
―― あなたは……
 ひろうもの……
 そして……
 わたすもの……
「渡す……?」
―― ええ……
 あなたが……
 ひろったこえは……
 だれかに……
 わたされる……
 遥斗は、
 その言葉を静かに受け止めた。
「……俺の声も、誰かに届くのか」
―― とどきます……
 あなたが……
 きいたぶんだけ……
 ラジオの針が、
 ゆっくりと止まった。
 部屋には、
 穏やかな沈黙が満ちた。
 その沈黙は、
 “声が生まれる前の静けさ”だった。

翌朝
 翌朝、
 遥斗は郵便局跡地の前に立っていた。
 冬の空気は冷たいが、
 胸の奥には温かいものがあった。
 そのとき——
「はるとさん!」
 日菜が駆けてきた。
 その後ろには、
 美緒がゆっくりと歩いていた。
「おはようございます、遥斗さん」
「おはようございます」
 美緒は、
 深く頭を下げた。
「……本当にありがとうございました。
 あなたが拾ってくれた声は、
 私たちの未来を変えてくれました」
 遥斗は、
 少し照れたように笑った。
「声は……拾われるためにあるんです。
 言えなかった声も、届かなかった声も」
 日菜が言った。
「はるとさん、また遊びに来てね」
「もちろん」
 その瞬間、
 胸の奥に微かな震えが生まれた。
 それは、
 悲しみでも、
 恐怖でもない。
 “新しい声が生まれる前の震え”。
 遥斗は、
 その震えをそっと受け止めた。

終章
 人は、
 言えなかった声を抱えて生きている。
 届かなかった声を、
 胸の奥に沈めて生きている。
 だが——
 声は消えない。
 拾われるまで、
 誰かに届くまで、
 ずっと震え続けている。
 遥斗は歩き出した。
 胸の奥の震えを感じながら。
 それは、
 誰かの声が届く前の合図。
 そして——
 遥斗は今日も、
 静かに耳を澄ませる。
 声を拾う者として。
 声を渡す者として。
 声守りとして。



アマゾン キンドル



〜あとがき〜

この物語を書きながら、

私はずっと「声とは何か」を考えていました。

言葉にできたものだけが、声ではない。

むしろ、

言えなかったものの方が、

人の中に深く残るのではないか。

そう思うようになりました。

この作品に登場する“声”たちは、

特別なものではありません。

きっと誰の中にもあるものです。

あのとき言えなかった言葉。

届かなかった想い。

忘れたふりをしてきた記憶。

それらは、消えていない。

ただ、

まだ拾われていないだけなのかもしれません。

もしこの物語が、

あなたの中にある“声”に

少しでも触れることができたのならば、

そして願わくば——

あなた自身の声も、

いつか誰かに届きますように。


糸守り
〜人と使者の、静かな妄想譚〜


〜序章〜
昨晩
風呂に入っていると
天井から蜘蛛が降りて来た
そう
小さな蜘蛛が
糸を辿って降りて来た
まるで
カンダタを救うかのように
でも
まさに
縁起が悪いとされる
夜の蜘蛛だ
でも
このままでは
熱めの風呂からの湯気で
蜘蛛が危ない
立ち上がり
そのわずか上の
見えない細い糸を摘み
窓の外へと出して
ありがとな
またどこかでな
長生きせーよ って逃した
そうだよ
いつか読んだ本
「動物はすべてを知っている」
言葉は不要
心で会話が出来たのだ
何かご用ですか?
ええ
ちょいと お伝えに
でも
ここは危険ですから
外へお連れしましょう
ありがとうございます…
不思議かな
そんな会話が出来たのだ
そう
確かに聞こえたのだ
そして
その直後には
もしも
あなたが降りて来たことが
縁起が悪いことならば
それは仕方なくも
受け入れましょうと
心の中で呟いた自分
すると
いえ
そんなことではないですよと
返って来た言葉
ならば? と問うと
さてそれは
お楽しみ なんて…
そんな
不思議な会話が
確かにあった
頭 
おかしくなったかな?
まさか… ね 笑



【まえがき】
かつて、私たちは言葉を介さずとも、風の音や生き物の気配から、目に見えない何かを受け取っていたのかもしれません。
本作『糸守り』は、私自身の小さなしっぽのような空想から始まりました。
もしも「夜の蜘蛛は縁起が悪い」という迷信が、実は「扉が開いた合図」だとしたら。もしも、言葉を持たない動物たちが、大切な人の想いを運んでくる「使者」だとしたら……。
舞台は、湯気に包まれた古い銭湯です。
裸の付き合いという言葉があるように、鎧を脱ぎ捨てた心にだけ届く、静かな声があります。
どうぞ、熱めの湯に浸かるような気持ちで、この物語に身を委ねてみてください。




糸守り
〜人と使者の、静かな妄想譚〜

一章 夜の来客
 十一月の終わり、銭湯「糸の湯」の暖簾を下ろすのは、いつも夜の十時過ぎだった。
 奥村糸子は最後の客が帰ったあと、ひとりで浴場の掃除をする。タイル張りの床をブラシで磨き、湯船の縁を雑巾で拭い、脱衣場の籠を整える。この一連の作業が、糸子にとっての一日の締めくくりだった。夫の正和が生きていた頃は、掃除を終えると必ず熱燗を一本つけて、二人で飲んだものだった。今は、ひとりで飲む。それだけのことだ。
 その夜、糸子は自分の番に入っていた。
 銭湯の女将が自分の湯に入るのは、すべての掃除が終わったあとだ。誰もいない広い浴場に、ひとりで入る。それが糸子は嫌いではなかった。静かで、広くて、湯気だけが生き物のようにゆっくりと動いている。
 四十二度のやや熱めの湯に肩まで沈み、天井を見上げていた。
 古い銭湯の天井は高い。正和の父が建てたこの建物は、もう六十年以上になる。梁が太く、木が黒ずんでいて、湯気を吸い続けた板張りの天井には、年月の染みがいくつもある。糸子はその染みのひとつひとつに、気づかぬうちに名前をつけていた。一番大きい染みは「正和」と呼んでいた。形が少し、あの人の横顔に似ていたから。
 そのとき、動いているものがあった。
 天井の隅、「正和」の染みのすぐそばから、一本の細い糸が垂れてきていた。糸の先に、小さなものがいた。
 蜘蛛だった。
 親指の爪ほどの大きさの、薄茶色の小さな蜘蛛。自分の吐いた糸を伝って、ゆっくりと、まるで何かを確かめるように降りてきていた。
 糸子は動かなかった。
 夜の蜘蛛は縁起が悪い。母からそう聞かされて育った。殺してはいけないが、見かけたら遠ざけなさい、とも言われた。理由は教えてもらえなかった。子供の頃は怖かった。大人になってからは、ただの言い伝えだと思っていた。
 でも今、この小さな蜘蛛を見ていると、怖くもなく、不吉な気持ちにもならなかった。
 むしろ、何かが胸の奥で、静かに動いた。
 蜘蛛は降りてくる。湯気の中を、細い糸を頼りに。湯船まであと一メートルほどのところで、止まった。
 糸子はゆっくりと立ち上がった。
 裸のまま湯船から出て、その蜘蛛の糸の少し上の辺り——目には見えない、でも確かにそこにあるはずの糸の部分——を、そっと指で摘んだ。
 蜘蛛は逃げなかった。
 指の感触に、ほんの少しの抵抗があった。確かに糸があった。糸子はその糸ごと蜘蛛を持ち、浴場の端にある小窓まで歩いた。夜風が少し入るように開いてある窓。そこから外へと、手を差し伸べた。
 蜘蛛は、少しのあいだそこに留まっていた。
 そのとき、糸子は思った。ありがとね!またどこかでね!長生きしてね! と。
 声には出さなかった。心の中で、ただそう思った。
 すると。
 返ってきた。
 言葉ではない。言葉というより、気配、あるいは意味のかたまりのようなもの。でもそれは確かに、糸子の胸の中に届いた。
―― 何かご用ですか?
 糸子は目を瞬いた。
 蜘蛛は動かない。でも何かが、確かに届いた。
―― ええ、ちょいとお伝えに。
 糸子は自分の内側を探った。伝えに、とはどういうことか。何を伝えに来たのか。問おうとして、ふと気づいた。この蜘蛛はまだここにいる。外へ出るでもなく、戻るでもなく、ただ糸子の指先にいる。
 そして糸子は気づいた。湯気だ。このまま浴場にいれば、熱い湯気の中に長くいることになる。この小さな生き物には、ここは危険かもしれない。
―― でも、ここは危険ですから、外へお連れしましょう。
 そう心の中で伝えると、蜘蛛は静かに、するりと指を離れ、窓枠の外へと消えた。
 夜の冷気が、糸子の裸の腕を撫でた。
 しばらく、そこに立っていた。
 それからふと、思った。もしもあなたが夜に降りてきたことが縁起の悪いことなら、それは仕方なくても受け入れましょう、と。覚悟のような、諦めのような、でも穏やかな気持ちで。
 返ってきた。
―― いえ、そんなことではないですよ。
 では何のために来たのか。糸子は問うた。
―― さてそれは、お楽しみ。
 そう届いて、気配は消えた。
 糸子は窓を閉め、タオルを取り、体を拭いた。
 頭がおかしくなったかな、と思った。五十三歳の、銭湯の女将が、蜘蛛と会話をした。
 でも、おかしくなった人間は、自分がおかしくなったとは思わないものだ。そう考えると、むしろ正気かもしれない。糸子はひとりで小さく笑った。
 脱衣場に戻り、着替えを済ませ、帳場に座った。今夜の売上を確認する。常連の小野田さんが来た。松本の親子が来た。いつも遅い時間に来る田中の爺さんも来た。
 ありふれた、静かな一日だった。
 糸子は帳面を閉じ、正和の写真に目をやった。帳場の隅に飾ってある、二人でどこかの温泉に行ったときの写真。正和は笑っていて、糸子は少し困ったような顔をしている。
「ただいま」と糸子は言った。
 毎晩そう言う。返事はない。
 でも今夜は、なぜか、返事が来そうな気がした。
 来なかった。
 糸子は電気を消し、奥の居間へ引っ込んだ。布団に入り、天井を見た。
 お楽しみ、か。
 小さな声で繰り返してみた。その言葉は、なぜか温かかった。
 糸子はそのまま、静かに眠りについた。


二章 使者たちの事情
 翌朝、糸子が目を覚ましたのは六時だった。
 冬の朝の光は薄く、居間の障子越しに差し込む明かりは白というより灰色に近い。布団の中でしばらく天井を見ていた。昨夜のことを思い出した。蜘蛛。糸。届いてきた気配。
 夢ではなかった、と糸子は思った。
 夢と現実の境目は、糸子にとっていつも曖昧ではなかった。夢はいつも夢らしかった。正和が生きていて一緒に食事をしている夢も、見ているあいだは幸せで、目が覚めた瞬間に「ああ夢だった」とはっきりわかる。それが糸子の夢だった。
 昨夜のあれは、そうではなかった。
 糸子は起き上がり、顔を洗い、湯を沸かした。急須に茶葉を入れ、静かに待つ。この時間が好きだった。何もしなくていい、ただ湯が注がれるのを待つ時間。
 縁側に出ると、庭の柿の木に鳥がいた。
 メジロだった。二羽、枯れ枝の上で向かい合っている。糸子が縁側に座ると、一羽が少しこちらを向いた。
 そのとき、また届いた。
 昨夜と同じ、言葉ではない何か。気配の意味。
―― 寒いですね。
 糸子は湯飲みを持ったまま、少し固まった。
 メジロはちょんちょんと枝の上で体を揺らしている。普通のメジロだ。どこにでもいる、小さな緑色の鳥。
―― ええ、寒いですね、と糸子は心の中で返した。
 メジロは首を傾げた。
―― 昨夜の方ですか?蜘蛛の。
―― 違います。でも聞いています。あなたが昨夜、ちゃんと聞いてくれたと。
 糸子はお茶を一口飲んだ。熱かった。
―― 聞いてくれた、とは?
―― 声を、です。私たちの声を、ちゃんと受け取ってくれた人がいると。それで来てみました。
 糸子はしばらく考えた。私たちというのは、誰のことか。鳥のことか。動物のことか。あるいはもっと広い、何かのことか。
―― あなたたちというのは。
―― 使者です、とメジロは言った。言葉ではなく、意味として届いた。私たちは使者です。でも、最近は聞いてもらえる人がほとんどいなくて。
 もう一羽のメジロが、ぴいと小さく鳴いた。
―― 使者、とは誰の。
 メジロたちは答えなかった。ただ、もう少しここにいて、また飛び去った。柿の木の枝が、二羽の重さを失って、少し揺れた。
 糸子はお茶の残りを飲み干した。
 使者。
 その言葉が、胸の中に残った。

 その日の午後、糸子は買い物に出た。
 商店街までの道は十分ほど歩く。昔はこの道に魚屋も八百屋も豆腐屋もあったが、今はコンビニと美容院と、少し前にできたドラッグストアくらいしかない。それでも糸子は歩いて行く。正和が「歩ける距離は歩け」と言っていたから。
 途中の公園のベンチに、猫がいた。
 三毛猫で、太っていて、ベンチの上で丸まっていた。糸子は猫が好きでも嫌いでもなかった。ただ通り過ぎようとした。
 猫が目を開けた。
 金色の目が、まっすぐに糸子を見た。
 届いた。
―― あなたが糸子さんですか。
 糸子は立ち止まった。
―― そうですが。
―― 噂を聞いて。
―― どんな噂を。
―― 聞いてくれる人だと。昨夜の蜘蛛の話はもう広まっています。
 糸子は思わず辺りを見回した。昼間の公園に、人はほとんどいない。遠くでサラリーマンらしい男性がスマートフォンを見ながら歩いているだけだった。
―― 広まるのが早いですね。
―― 私たちの間では早いんです。
 猫はそう届けて、また目を閉じた。もう話は終わりだという様子だった。
 糸子は少しのあいだ猫を見ていた。それから「そうですか」と心の中で言って、また歩き出した。
 ドラッグストアで洗剤と歯磨き粉を買い、八百屋の跡地にできたコンビニで大根と豆腐を買い、帰り道を歩いた。
 途中、電線に鴉が一羽とまっていた。
 鴉は何も言わなかった。ただ、じっと糸子を見ていた。
 糸子も見上げた。
―― あなたも使者ですか。
 鴉は一度、かあと鳴いた。それだけだった。
 使者ではないのかもしれない。あるいは、何も伝えることがなかったのかもしれない。あるいは、ただの鴉だったのかもしれない。
 糸子にはわからなかった。でも、わからなくても別に構わなかった。

 夜、暖簾を出す前の時間に、常連客の小野田房江が来た。
 房江は六十八歳で、夫に先立たれて十年になる糸子の先輩格の未亡人だった。毎週火曜と金曜に来て、必ず桶を二つ使い、洗い場で独り言を言いながら丁寧に体を洗う。
「女将さん、顔色が良いわねえ」と房江は言った。
「そうですか」
「なんかいいことあった?」
「さあ」と糸子は言った。「よくわかりません」
 房江はふふと笑って、番台の前を通り過ぎた。
 糸子は今日のことを誰かに話したいような気もした。でも話せる言葉が見つからなかった。蜘蛛と話した、メジロと話した、猫と話した——そう言えば、それで終わりだ。言葉にすると、大事な何かがこぼれ落ちる気がした。
 だから黙っていた。
 夜の営業が始まり、客が来て、湯が沸き、銭湯はいつものように動いた。
 閉店間際、最後の客が上がって、糸子がタオルを畳んでいると、帳場の隅で何かが動いた。
 小さな、薄茶色の蜘蛛。
 昨夜の蜘蛛かどうかはわからない。でも似ていた。
 蜘蛛は壁を静かに歩いていた。糸子を見ているのか、どうかもわからない。
 糸子は畳んだタオルを棚に置いた。
―― また来たんですか。
 返事はなかった。
 蜘蛛はただ、壁を歩いていた。どこかへ向かっているようでもあり、ただ動いているだけのようでもあった。
 糸子はしばらくそれを見ていた。
―― お楽しみ、って言ったでしょう。
 蜘蛛は止まった。
―― いつ教えてもらえますか。
 蜘蛛はまた動き始めた。でも、何かが届いた。薄く、でも確かに。
―― もう少しだけ、待ってください。
 それだけだった。
 糸子は電気を消した。帳場を出て、浴場の鍵を確認した。裏口を施錠した。居間に戻り、正和の写真に目をやった。
「あなた、私はどうかしているのかもしれません」と、声に出して言った。
 写真の正和は笑っていた。
「でも、嫌いじゃないです。どうかしている感じが」
 正和はやはり笑っていた。
 糸子は布団を敷き、横になった。
 使者。聞いてくれる人。お楽しみ。
 言葉たちが、静かに胸の中で揺れていた。糸子はそれを確かめるように、ゆっくりと目を閉じた。
 眠りは、すぐに来た。
 その夜、糸子は夢を見た。
 広い野原に、たくさんの動物がいた。鳥も、獣も、虫も。みんな糸子の方を向いて、静かに待っていた。何を待っているのかはわからなかった。
 夢の中の糸子は、怖くなかった。
 ただ、何かが始まろうとしている、とわかった。
 そしてそこで、夢は終わった。


三章 縁起という名の扉
 十二月に入った。
 「糸の湯」の玄関先に、糸子は毎年この時期になると小さな松飾りを出す。正和の母から受け継いだ習慣で、近所の花屋で買う簡素なものだが、それがあるとないとでは、銭湯の入口の顔がずいぶん違う。
 飾りつけを終えて、糸子は一歩引いて眺めた。
 悪くない、と思った。
 正和がいた頃は、この作業をふたりでやった。正和は要領が悪く、松飾りひとつつけるのに何度も位置を直して、糸子がしびれを切らして「もうそこでいい」と言うまで続けた。今思えば、あの時間が愛おしい。しびれを切らしていた自分が、少し恥ずかしい。
 そのとき、足元に気配があった。
 見ると、一匹の狐がいた。
 糸子は目を疑った。
 都市部の住宅街に狐がいるのは、珍しくないことはない。でもそれは山に近い郊外の話で、ここは駅から徒歩七分の、商店街と住宅が混在する普通の町だ。狐が玄関先に立っているのは、どう考えても普通ではなかった。
 狐は小さかった。子狐ではなく、成体だが体が細く、毛並みは整っていて、赤みがかった茶色の体に白い腹。尻尾がふさふさと揺れている。
 糸子と狐は、しばらく見つめ合った。
 届いた。
―― 糸子さん。
―― はい。
―― 少し、お時間をいただけますか。
 糸子は周囲を確認した。通りに人はいない。朝の商店街はまだ静かだった。
―― どうぞ、と糸子は言った。中へ入りますか。
―― ここで構いません。
 狐は尻尾を一度揺らした。
―― 縁起の話をしに来ました。
 糸子は松飾りの前に立ったまま、耳を、いや、胸を澄ませた。
―― 夜の蜘蛛は縁起が悪い、という言い伝えがあります。
―― 知っています。母から聞きました。
―― その言い伝えは、正しくもあり、間違いでもあります。
 糸子は黙って続きを待った。
―― 縁起が悪い、というのは、人間が後から付けた解釈です。本来の意味は違う。
―― 本来の意味は。
 狐は一歩、糸子の方へ近づいた。
―― 夜に蜘蛛が降りてくるとき、それは扉が開くときです。
―― 扉。
―― こちらとあちらの間の、扉です。
 糸子は「あちら」という言葉の意味を、聞かなくてもわかった。あちらとは、死者のいる場所のことだ。あるいは、言葉のない世界のことだ。
―― その扉が開くとき、使者が来ます。伝えるべきことを持って。でも扉が開いても、受け取れる人間がいなければ、使者は帰るしかない。
―― それで縁起が悪い、と言われるようになった。
―― そうです。扉が開いたのに受け取れなかった人間は、なんとなく不穏な気持ちになる。理由はわからないけれど、もやもやとした感じが残る。それが「縁起が悪い」という感覚の正体です。
 糸子は深呼吸した。冬の朝の空気が、肺の奥まで入ってくる。
―― では、私が蜘蛛を助けたのは。
―― 正しい対応でした。使者を傷つけたり、無視したりすると、扉は閉じます。あなたは受け取り、外へ連れ出した。扉は今も開いています。
―― 今も。
―― ええ、あなたの中で。
 糸子はしばらく沈黙した。玄関先の松飾りが、朝風に少し揺れた。
―― それは怖いことですか。
 狐はまた尻尾を揺らした。それが笑いに相当する動作なのかもしれない、と糸子は思った。
―― 怖くはないですよ。ただ、少し忙しくなるかもしれません。
―― 忙しく。
―― いろんな者が来ます。伝えたいことを持った者が。あなたは聞ける人だとわかりましたから。
 糸子は苦笑した。声には出さず、胸の中で。
―― 私は銭湯の女将ですよ。
―― 知っています。
―― 相談所でも、巫女でもない。
―― 知っています。でも、関係ないんです。
 狐はそう届けて、くるりと背を向けた。
―― ひとつだけ、大事なことをお伝えします。
 立ち止まって、振り返らずに続けた。
―― 扉が開いているとき、あなたに伝えに来る者の中には、あなたが知っている者もいます。
 糸子の胸が、静かに、でも確かに動いた。
―― それは。
―― 今はまだ言えません。でも、もうすぐわかります。
 狐は歩き出し、角を曲がり、見えなくなった。
 糸子はしばらく、そこに立っていた。
 あなたが知っている者。
 その言葉だけが、冬の空気の中に残っていた。

 その日の夕方、糸子は倉庫の整理をした。
 銭湯の裏手にある小さな倉庫には、廃業した釜屋から譲り受けた道具や、正和の遺品の一部が入っている。年に一度か二度、必要なものを探すときに開けるだけで、普段はほとんど入らない。
 何かに呼ばれた気がした、とあとで糸子は思う。
 特に用事があったわけではない。ただ、なぜかそこへ行きたくなった。
 引き戸を開けると、埃と古い木の匂いがした。棚に工具が並んでいる。正和が使っていたものだ。糸子には用途のわからないものも多いが、捨てられないでいる。
 奥の段ボール箱の上に、一冊の本があった。
 糸子は首を傾げた。この本の存在を、忘れていた。正和が生前に読んでいた本で、タイトルは「動物はすべてを知っている」。
 手に取った。
 文庫本で、背表紙が日に焼けている。正和の字で、裏表紙の内側に日付が書いてあった。購入した日付だろう、十八年前の春の日付。正和が五十歳になった年だ。
 糸子は本を開いた。
 ページのあちこちに、正和の鉛筆書きの傍線があった。こんなに線を引いていたとは知らなかった。正和は本を読んでいても、あまり感想を言う人ではなかった。
 一カ所、折り目のついたページがあった。
 そこに書かれていたのは、こんな一節だった。
 ――動物が人間のそばに来るとき、彼らはただそこにいるわけではない。彼らは何かを届けに来ている。その「何か」は言葉ではなく、言葉の前にある何かだ。人間はかつて、それを受け取ることができた。しかし言葉を手に入れるにつれて、別の回路を失った。
 そして傍線の横に、正和の字で小さくこう書いてあった。
 「糸子に読ませたかった」
 糸子は本を持ったまま、その場に座り込んだ。
 倉庫の床は冷たかった。埃っぽかった。でも糸子はしばらくそこから動けなかった。
 正和が、この本をどんな気持ちで読んだのか。なぜ糸子に読ませたいと思ったのか。でもなぜ、何も言わなかったのか。
 わからなかった。
 正和は五十歳の春にこの本を買い、それから六年後の秋に死んだ。心筋梗塞で、突然だった。朝、起きてこないと思ったら、そのまま逝っていた。苦しんだ様子はなかった、と医師は言った。
 糸子は本を胸に抱えた。
 あなたが知っている者、という狐の言葉が戻ってきた。
 もしかして。
 その先を、考えることができなかった。考えてしまうと、何かが崩れそうな気がした。五年間、糸子は正和への思いを、帳場の隅の写真一枚に収めて、毎日「ただいま」と言い続けてきた。それ以上を望まないように、それ以上を期待しないように。
 でも今夜、初めて思った。
 会いたい。
 声に出さなかった。でもその言葉は、糸子の胸の奥深くから来た、本物の言葉だった。
 倉庫を出た。夕暮れが始まっていた。空が橙色と紺色の間で揺れていた。
 「糸の湯」の煙突から、白い湯気が細く上がっていた。
 糸子はその湯気を見上げながら、本を抱えたまま、玄関へ戻った。
 今夜も、湯を沸かす時間だった。


四章 夫の伝言
 本を読んだのは、その夜の閉店後だった。
 帳場の椅子に座り、湯飲みに茶を注ぎ、正和が読んでいた「動物はすべてを知っている」を開いた。
 著者は動物行動学者で、二十年以上をかけて世界中の動物と人間の関わりを研究した人物だった。内容は学術書というより、研究者自身の体験と考察を綴ったエッセイに近かった。
 正和の傍線は、本の前半に集中していた。
 動物は言語を持たないが、言語以前のコミュニケーション能力を持つ。それは人間も本来持っていたもので、言語の発達とともに意識の表層から押し込められた。しかし完全に失われたわけではない。
 そういう内容だった。
 傍線の引き方を見ていると、正和がどこで立ち止まり、どこで頷いたかが伝わってくるようだった。ここで驚いたんだな、とか、ここが一番刺さったんだな、とか。
 糸子は本を読みながら、正和と一緒に読んでいる気がした。
 四章に差し掛かったとき、蜘蛛が来た。
 帳場の天井から、細い糸を伝って。
 糸子は本を伏せた。
―― また来ましたね。
―― はい。
 昨夜と同じ気配だった。薄茶色の、小さな蜘蛛。昨夜の蜘蛛と同じ個体かどうかは、やはりわからない。でも糸子には、同じ者だという感覚があった。
―― お楽しみ、というのを、そろそろ教えてもらえますか。
 蜘蛛は糸の上で、少し揺れた。
―― 今夜お伝えします。
―― 今夜。
―― ええ。準備が整いました。
 糸子は湯飲みを置いた。
―― 準備、とは誰の準備ですか。
 蜘蛛は答えなかった。ただ、糸子の方へ少し降りてきた。
―― 湯に入ってください。
―― 今から。
―― はい。今夜の湯は、少し熱めにしてください。
 糸子は時計を見た。夜の十一時を過ぎていた。
 おかしな話だ、と思いながら、でも糸子は立ち上がった。
 浴場へ行き、湯船の湯を確認した。閉店後の湯はまだ温かかった。追い焚きをして、四十三度まで上げた。普段より一度高い。
 服を脱ぎ、湯に入った。
 熱かった。でも、じわりと体の芯まで届くような熱さで、悪くなかった。
 天井を見た。
 今夜は蜘蛛はいない。でも、気配があった。浴場全体に、何か満ちているような感じ。湯気だけでなく、もっと別の何かが。
 糸子は湯船の縁に両腕を乗せ、天井を見上げたまま待った。
 しばらくして、届いた。
 これまでとは違った。言葉に近かった。いや、言葉そのものだった。でも耳には聞こえない。胸の奥で、直接、響いた。
―― 糸子。
 糸子は息を止めた。
 その呼び方を知っていた。名前の呼び方に、その人の癖が出る。「糸子」と呼ぶとき、少し語尾が上がる。その癖を持っていた人間を、糸子はひとりしか知らない。
―― 正和さん。
 返ってきた。
―― ああ。
 それだけで、糸子の目に涙が来た。声に出さないように、唇を噛んだ。
―― びっくりしたか。
―― びっくりしました。
―― そうか。俺もびっくりしてる。まさか蜘蛛を借りることになるとは思わんかった。
 糸子は笑いそうになった。泣きながら笑いそうになるのを、どうにかこらえた。
―― 蜘蛛を借りる、とはどういうことですか。
―― 向こうでは、直接は届かんのだ。こっちの存在をそのまま送ろうとすると、受け取る側に負担がかかる。だから使者を通す。俺の場合は、蜘蛛を借りた。
―― それで夜に降りてきたんですか。
―― そうだ。でもお前が受け取れる人間だとは、正直思わんかった。
 糸子は少し傷ついた。
―― それはどういう意味ですか。
―― いや、そういう意味じゃなくて。お前は現実的な人間だろう。霊だとかそういうものを信じないタイプだと思っていた。
―― 確かに信じていませんでした。
―― でも受け取った。
―― 受け取りました。
 湯気が厚く立ち上っていた。糸子は目を細めた。正和の声ではない、正和の言葉ではない、でも正和だった。そう確信できるものが届いてくる。
―― 倉庫の本、見つけたか。
―― 見つけました。「糸子に読ませたかった」と書いてありました。
―― ああ。言えばよかったんだが、言い出せなくて。
―― なぜ。
 少し間があった。
―― 変なやつだと思われそうで。
 今度こそ糸子は笑った。声に出して笑った。広い浴場に、その笑い声が響いた。
―― あなたが気にするんですか、そんなことを。
―― 気にするよ。糸子に変なやつだと思われたくない。
―― 今更。
―― 今更でも。
 糸子は目を拭いた。手の甲で、ざっと。
―― 五年間、どうしていましたか。
―― どうしているといっても、向こうでは時間の感覚が違う。五年経ったという感じはあまりない。
―― 寂しくないですか。
―― 寂しいという感情が、薄くなる。悪いことではないんだ、ただそういうものらしい。
―― そうですか。
 糸子は湯船の縁に頭を乗せた。天井が遠い。
―― 私は寂しかったです。
―― 知ってる。
―― 毎晩ただいまって言いました。
―― 聞こえてた。
 その一言で、また涙が来た。糸子は天井を見上げたまま、こらえなかった。
―― 聞こえていたなら、返事をしてくれればよかった。
―― 返事をしようとした。でも届かなかった。扉が開いていなかったから。
―― 扉が。
―― お前の中の扉が。蜘蛛が来て、初めて開いた。
 糸子は思い出した。狐の言葉。夜に蜘蛛が降りてくるとき、扉が開く。縁起が悪いのではなく、扉が開く合図。
―― では、これまでも来ようとしていたんですか。
―― 来ようとしていた。何度も。でも届かなかった。お前が頑丈すぎた。
―― 頑丈。
―― 悪い意味ではない。お前はひとりで立っていた。悲しんでも、ちゃんとひとりで立っていた。それは立派なことだ。ただ、扉が開くには、少し柔らかくなる必要があった。
 糸子はしばらく考えた。
―― 最近、柔らかくなったということですか、私が。
―― どうだろう。俺にはわからん。ただ、扉が開いた。
 また間があった。
 糸子は湯船の中で、正和と向かい合っているような気がした。正和の姿は見えない。でも、確かに向かい合っていた。
―― 伝えたいことがあって来た、と蜘蛛が言っていました。
―― ああ。
―― 何ですか。
 今度の間は、少し長かった。
 湯気が揺れた。浴場の古い時計が、かちりと音を立てた。
―― 本を読んでほしかった。
―― 読みます。もう読み始めました。
―― それだけではない。本の最後に書いてあることを、読んでほしかった。
―― 最後に。
―― ああ。俺が一番伝えたかったことが、そこに書いてある。俺の言葉ではないが、俺が言いたかったことだ。
 糸子は頷いた。
―― 読みます。
―― それから、もうひとつ。
―― はい。
―― 銭湯を続けてくれ。
 糸子は少し驚いた。
―― 続けるつもりでいます。
―― そうか。よかった。実は心配していた。
―― なぜ。
―― 一人でやっていくのは大変だろうから。
 糸子は苦笑した。
―― 大変ですよ。でもやめません。
―― そうか。それを聞きたかった。
 また間があった。今度の間は、終わりの予感がした。糸子にはわかった。長い付き合いだから。正和が話し終わる前の、独特の間を、糸子は知っている。
―― 正和さん。
―― 何だ。
―― また来られますか。
 間があった。
―― 扉が開いていれば。
―― 開けておきます。
―― お前次第だ。俺が開けるんじゃない。
―― では、私が開けておきます。
 気配が、薄くなり始めた。
―― 正和さん。
―― 何だ。
―― ありがとうございました。五十三年間、一緒にいてくれて。
 返ってきた言葉は、短かった。
―― こちらこそ。
 それで、気配は消えた。
 湯気だけが残った。浴場はいつもの浴場に戻った。古いタイルと、木の天井と、湯の音だけがある、静かな場所に。
 糸子はしばらく湯の中にいた。
 泣いていた。声を出さずに、ただ涙だけが出た。悲しいのか嬉しいのか、自分でもよくわからなかった。どちらでもあって、どちらでもない、そういう涙だった。
 やがて湯から上がり、体を拭き、服を着た。
 帳場に戻り、本を手に取った。最後のページを開いた。
 そこには、短い一節があった。
 著者の言葉ではなく、著者がフィールドワーク中に出会ったある老人から聞いた言葉として、引用されていた。
 ――愛は、死んだあとも動いている。形が変わるだけで、なくなりはしない。動物たちはそれを知っている。だから彼らは、境界を越えて届けに来る。
 正和の鉛筆で、その一節の下に、一本の線が引いてあった。
 他の傍線とは違う。定規を使って、丁寧に、真っ直ぐに引かれた線だった。
 糸子は本を閉じた。
 胸に抱えた。
 正和の写真を見た。
 「おかえり」と言った。
 いつもの「ただいま」ではなく、今夜は「おかえり」だった。
 写真の正和は、笑っていた。


五章 糸を辿って
 翌朝、糸子が目を覚ましたとき、世界が少し違って見えた。
 障子の向こうの光が、いつもより明るかった。冬の朝の光が、こんなに白かっただろうか。糸子は布団の中で天井を見ながら、自分の体の感覚を確かめた。重くない。むしろ、軽かった。五年間、気づかないうちに背負っていた何かが、少し降りた感じがした。
 起き上がり、顔を洗い、湯を沸かした。
 庭の柿の木を見ると、メジロが四羽いた。昨日は二羽だった。糸子が縁側に出ると、四羽が一斉にこちらを向いた。
―― おはようございます。
―― おはようございます、と糸子は返した。
―― 聞きましたよ。昨夜のこと。
―― 早いですね。
―― 私たちの間では早いんです、と一羽が言った。昨日と同じ言葉だった。
 糸子は湯飲みを両手で包んだ。
―― 正和さんは、よく知られているんですか、あなたたちの間で。
―― ええ。長い間、届けようとしていた方ですから。私たちも何度か試みました。
―― あなたたちも。
―― はい。でも扉が開かなくて。
 糸子は少し申し訳ない気持ちになった。
―― 私が頑丈すぎたようで。
 メジロたちは、ちちち、と鳴いた。笑っているのかもしれない。
―― 頑丈なのは悪いことではありません。ただ、今は柔らかくなりましたね。
―― そうでしょうか。
―― ええ。顔が違います。
 糸子は自分の顔を触った。頬を、額を。何が違うのか自分ではわからないが、メジロがそう言うなら、そうなのかもしれない。
 四羽は少しのあいだそこにいて、それぞれの方向へ飛び去った。
 糸子はお茶を飲み終え、今日の準備を始めた。

 午前中、糸子は商店街へ買い物に出た。
 道の途中で、公園の三毛猫に会った。昨日と同じベンチで、同じように丸まっていた。
―― また会いましたね。
―― また会いましたね、と猫は返した。
―― 昨夜のこと、あなたも知っていますか。
―― 知っています。おめでとうございます。
 糸子は少し驚いた。おめでとう、という言葉が来るとは思わなかった。
―― おめでとう、とは。
―― 扉が開いたことです。それから、ちゃんと受け取れたこと。
 糸子は猫の金色の目を見た。
―― 私はこれから、どうすればいいんでしょう。
 猫は目を細めた。
―― どう、とは?
―― 扉が開いたまま、これからも使者たちが来るのでしょう。私に何ができますか、受け取る以外に。
 猫はしばらく沈黙した。ベンチの上で体勢を変え、前足を揃えて、少し背筋を伸ばした。
―― 糸子さんは、銭湯を営んでいますね。
―― はい。
―― 銭湯というのは、面白い場所です。
―― どういう意味で。
―― 人が裸になる場所です。服だけでなく、鎧も脱ぐ。毎日の疲れも、演じている自分も、少し脱いで湯に入る。そういう場所です。
 糸子は頷いた。それは糸子自身が長年感じてきたことだった。銭湯に来る人たちは、どこか柔らかくなる。脱衣場でスーツを脱いだサラリーマンも、化粧を落とした女性も、みんな少し子供に戻る。
―― その場所に、あなたがいる。
―― はい。
―― 扉が開いた人間が、そこにいる。何が起こると思いますか。
 糸子はゆっくりと考えた。
 鎧を脱いだ人間が湯に浸かり、柔らかくなる。その傍に、扉の開いた人間がいる。もしかして、使者たちが届けやすくなる。あるいは、客たちの中の何かが、届きやすくなる。
―― 私が仲介するということですか。
―― 大げさに言えば、そうかもしれません。でも糸子さんがすることは、何も変わらない。
―― 変わらない。
―― ただそこにいて、湯を沸かして、暖簾を出す。それだけでいい。扉が開いていれば、あとは自然に流れます。
 猫はそう届けて、また目を閉じた。話は終わり、という様子だった。
 糸子は「ありがとうございます」と心の中で言い、また歩き出した。

 その夜のことだった。
 閉店間際、最後の客が上がったあと、糸子が脱衣場の掃除をしていると、見知らぬ若い女性が入ってきた。
 二十代半ばくらいだろうか。黒いコートを着て、目が赤かった。泣いていたのか、これから泣くのか、そのどちらかだと糸子には見えた。
「まだ入れますか」と女性は聞いた。
「どうぞ」と糸子は言った。「ゆっくりしていってください」
 女性は礼を言い、脱衣場へ入った。糸子は掃除を続けた。
 しばらくして、浴場から、かすかに声が聞こえた。泣いている声だった。声を殺しているが、聞こえた。
 糸子は浴場の引き戸の前で少し立ち止まった。
 そのとき、届いた。
 使者ではなかった。あの蜘蛛でも、メジロでも、猫でもない。でも何かが届いた。
 女性の中から、あるいは女性のそばから、何かが届いた。言葉にならない、でも意味のある何かが。
 糸子にはわかった。
 この人は、誰かを亡くしている。最近のことだ。そしてその誰かが、この人のそばにいる。届けようとしている。でも届かない。
 糸子はどうすることもできなかった。扉を開けて「あなたの大切な人がそばにいますよ」とは言えない。それは糸子の仕事ではない。
 でも、できることがあった。
 湯を、もう少し足した。浴場の温度が少し上がった。湯気が増えた。
 それだけだった。
 でも、それで十分な気がした。
 湯気が増えると、扉が開きやすくなる。糸子にはそれがわかった。理由はわからないが、確かにそう感じた。
 しばらくして、浴場の泣き声が止んだ。
 代わりに、静かになった。
 水の音だけがした。
 その静かさは、さっきとは違う静かさだった。何かが届いた後の、満ちたような静けさだった。
 女性はそれから二十分ほど入って、上がってきた。目はまだ少し赤かったが、顔が違った。さっきより、柔らかかった。
「ありがとうございました」と女性は言った。
「またいつでも」と糸子は言った。
 女性は会釈して、出て行った。
 糸子は暖簾を下ろした。

 その夜、浴場の掃除を終えて、糸子はひとりで湯に入った。
 四十二度。いつもの温度。
 天井を見た。
 蜘蛛はいなかった。でも、気配はあった。薄く、遠く、でも確かにある。
―― 正和さん。
 届くかどうかわからなかった。昨夜のように鮮明には来ないかもしれない。それでも、呼んでみた。
 返ってきた。昨夜より薄かったが、確かに届いた。
―― 何だ。
―― 今日、若い人が来ました。泣いていました。
―― そうか。
―― 私には何もできませんでしたが、湯を足しました。
―― それでよかった。
―― よかったでしょうか。
―― ああ。お前は仲介者だから。扉を開けておくのが仕事だ。届けるのは使者たちがやる。
 糸子は頷いた。
―― 私には向いていますか、その仕事が。
 間があった。
―― 向いてるよ。もともとそういう人間だ、お前は。
―― そうでしょうか。
―― だから俺も、お前に届けようと思ったんだ。他の人間には頼めなかった。
 糸子はその言葉を、ゆっくりと受け取った。
 正和が、糸子を選んでいた。使者を送ることのできる場所として、糸子の中に扉があることを、向こうから見ていた。
―― 正和さんは、向こうで何をしているんですか。
―― 何もしていない。
―― 何も。
―― 向こうではそれが普通らしい。何もしないで、ただいる。
―― 退屈じゃないですか。
―― 退屈という感覚も、薄くなる。
 糸子は少し笑った。
―― 向こうでもあなたらしいですね。現役の頃も、休日は何もしないで縁側にいましたね。
―― そうだったな。
―― 私がうるさく言っていましたね、何かしなさいって。
―― うるさかった。
―― すみませんでした。
―― 謝らなくていい。あの縁側の時間が、一番好きだった。お前がうるさく言って、俺が聞こえないふりをして、日が暮れる。
 糸子の目に、また涙が来た。でも昨夜とは違う涙だった。温かかった。
―― 正和さん。
―― 何だ。
―― 扉、開けておきます。ずっと。
―― ああ。
―― だからまた来てください。蜘蛛でも、メジロでも、猫でも、何でも借りて。
―― そうするよ。
 気配が、少しずつ薄くなり始めた。
―― 正和さん、最後にひとつ聞いていいですか。
―― 何だ。
―― 最初に蜘蛛を送ってきたとき、お楽しみって言いましたね。あれは、自分が来ることを言っていたんですか。
 間があった。
 それから届いた。
―― まあ、そういうことだ。
 糸子はまた笑った。
―― もったいぶりましたね。
―― 驚かせたかった。
―― 驚きましたよ。
―― そうか。よかった。
 気配が消えた。
 湯気だけが残った。
 糸子は湯船の中で、少しのあいだ目を閉じた。
 何も考えなかった。考えなくても、胸の中に何かが満ちていた。
 やがて立ち上がり、湯から出た。体を拭き、着替えた。
 帳場に戻り、正和の写真を見た。
 「おかえり」と言った。
 それから、少し考えて、付け加えた。
「行ってらっしゃい」と。
 おかえりと行ってらっしゃいを、同じ夜に言う。おかしなことだ。でも糸子には、それが正しい気がした。正和は帰ってきて、また向こうへ戻っていく。そしてまた来る。その繰り返しが、これからの糸子の日常になる。
 それは、悪くない日常だと思った。
 電気を消した。
 居間へ戻り、布団を敷いた。
 横になり、天井を見た。
 天井の隅に、細い糸がかかっていた。
 蜘蛛の糸だった。蜘蛛はいない。糸だけが、天井の隅に、銀色に光っていた。
 糸子はその糸を見ながら、思った。
 糸というものは、辿れる。こちらからあちらへ、あちらからこちらへ。細くても、切れそうでも、辿れる。
 正和もそうして来た。細い糸を伝って、夜の浴場へ降りてきた。
 糸子も、いつかそうして向こうへ行くのだろう。でもそれはまだ先のことだ。今は、こちら側で、扉を開けておく。湯を沸かし、暖簾を出し、来る人を迎え、使者たちの言葉を受け取る。
 それが、糸子の仕事だ。
 目を閉じた。
 眠りが来る前に、もう一度だけ天井の糸を確認した。
 まだそこにあった。
 銀色に、静かに、光っていた。


エピローグ
 翌年の春、「糸の湯」に小さな変化があった。
 変化といっても、見た目にはわからない。設備が新しくなったわけでも、値段が変わったわけでも、営業時間が延びたわけでもない。
 ただ、来る人が少し増えた。
 口コミでも、広告でも、SNSでもない。なぜか、ふと思い立って来てしまう人が増えた。近くを通ったら暖簾が目に入って、何年かぶりに銭湯に来てしまった、という人が増えた。
 糸子には、その理由がわかるような気がした。
 扉が開いているから、と糸子は思っている。使者たちが届けやすい場所になったから、と。
 でも、そんなことは誰にも言わない。
 ただ、湯を沸かす。暖簾を出す。来た人に「いらっしゃい」と言う。
 それだけだ。
 冬が終わり、梅が咲き、桜が来た。
 ある春の夕方、糸子が暖簾を出していると、縁側の方からメジロの声がした。
 ちちち、と二声。
 糸子は振り返った。
 柿の木に、二羽のメジロがいた。
 向かい合って、枝の上に並んでいた。
 糸子は微笑んだ。心の中で、言った。
―― いらっしゃい。
 メジロたちは、もう一声鳴いて、また飛び去った。
 春の夕暮れの光が、「糸の湯」の古い暖簾を照らしていた。
 煙突から白い湯気が上がり、空へと向かっていった。
 どこまでも、細く、真っ直ぐに。



【あとがき】
「動物はすべてを知っている」
劇中に登場するこの言葉は、私たちが忙しない日常の中で忘れかけている、世界との繋がりを象徴しています。大切な人を亡くしたとき、残された者は「もっと話したかった」という後悔を抱きます。しかし、彼らは形を変え、声を変え、私たちのすぐ側まで戻ってきているのかもしれません。
物語の主人公・糸子は、特別な力を持った人間ではありません。ただ、迷い込んだ小さな命を慈しみ、扉を閉じずに待ち続けた、ごく普通の女性です。
あなたの周りにも、ふと視線を感じる猫や、庭先で鳴く鳥がいるはずです。
彼らが何を伝えに来たのか。その「お楽しみ」を受け取る扉は、きっとあなたの心の中にも、すでに開いているのだと思います。
二〇二六年四月 
カトウかづひさ



【あらすじ】
東京の片隅で、亡き夫から受け継いだ銭湯「糸の湯」を守る五十三歳の奥村糸子。
ある夜、風呂掃除を終えた彼女の前に、天井から一匹の小さな蜘蛛が降りてくる。
「夜の蜘蛛は縁起が悪い」
母の教えを思い出しながらも、糸子は湯気にさらされる蜘蛛を救い、窓の外へと逃がした。その瞬間、彼女の胸に届いたのは、言葉ではないはずの「使者」の声だった。
「さてそれは、お楽しみ」
その夜を境に、メジロ、三毛猫、そして狐……。言葉を持たぬはずの「使者」たちが、次々と彼女の元を訪れるようになる。彼らが告げたのは、夜の蜘蛛が開いた「あちらとこちらの扉」の存在。
やがて糸子は、蜘蛛がもたらした最大の「お楽しみ」——五年前、何の前触れもなく逝ってしまった夫・正和からの、時を越えた伝言を受け取ることになる。



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【紹介文】
「夜の蜘蛛が降りてきたとき、それは扉が開く合図でした。」
言葉を持たない動物たちは、実はすべてを知っている——。
本作は、古い銭湯を舞台に、孤独を静かに受け入れて生きる一人の女性と、動物の姿を借りて現れる「あの世からの使者」との交流を描いた幻想短編です。
最愛のひとを失ったあとの止まっていた時間が、一匹の蜘蛛との出会いから、温かな湯気とともに再び動き始めます。
死は決して断絶ではなく、愛は形を変えて動き続けているということ。
読み終えたあと、ふと空を見上げ、身近な小さな生き物に話しかけたくなるような、優しく切ない妄想譚をお届けします。



これもまた

長編にせねばと

格闘中なわけですが


なかなか

長編にならず

半分 諦め顔


忘れる前に

とりあえずここに…



まえがき

「もし、あの時に戻れるなら」
そんなありふれた願いが、もしも物理的な質量を持って動き出したとしたら、世界はどう変わってしまうのでしょうか。
因果の鎖を断ち切り、観測されない歴史を修正する。
それが救済なのか、あるいは冒涜なのか。その答えは、まだ誰も知りません。
私たちは、時間の海に投げ出された漂流者です。
これから始まる物語が、あなたの心にある「止まった時計」を動かす小さなきっかけになることを願って。



序章

昨晩
夢に
着物姿の学者風な男が現れて
幕府転覆に力を貸してくれないか
と言う

えっ?
貴方は? と問うと

私の名は
由井正雪 と微笑んだ

正雪?
もしや
ここは江戸か
そして
家綱の時代か と問うと

そうだ
これ以上の機会はない
お前さんの力を借りたい

何が狙いだ?
そして
何をしろと?

まあ
待ってろ!
今に分かる

400年も遡ってしまったらしい
そうだ
慶安太平記だ!
そこへと
巻き込まれてしまった

しかし
正雪さんよ
あんた
これは失策となる
やめときなはれ!

馬鹿を言うな!
今 やらねばならん

僕は
未来から来たらしい
あんたらの
結末を知っている

ならば良い
気が変わったら来い
駿府で待つ!

ダメだ
無駄死にとなる
ダメだ
ダメだ
ダメだ…

そこで
目が覚めた

昨今
講談や落語の聴き過ぎか
それとも
玉響たちが
運んで来たのか…

もしや
今の時代もまた
それかと
ふと思ってもみるが
正雪ほど
命を張る者は現れないのだろう

武士道とは
立派なもんだったらしい



慶安転生記
〜由井正雪と時をこえた男 〜


 夢の中で由井正雪に出会い、歴史の悲劇を止めようとした男の話。

 慶安太平記の幕が、今、新たに開く。


プロローグ 夢の中の招待状

 夜明け前の闇の中で、男は夢を見ていた。
 東京の片隅にある古いアパートの一室。積み上げられた講談本、落語のCDが並ぶ棚、壁に貼られた江戸時代の地図。歴史に取り憑かれた四十二歳の男――榊原 凪(さかきばら なぎ)の日常の残骸が、夢の入り口を飾っていた。
 だが夢の中の景色は、そこではなかった。
 見渡す限りの松林。空気が違う。煙のにおい、土のにおい、人の汗と動物の混じり合った匂い。凪はそれを感じながら、自分が夢を見ていると気づいていた。夢の中でも意識がある、と彼はいつも思う。それが彼の少し奇妙な特質だった。
 松林の向こうに、人影があった。
 黒羽二重の着物をきちんと身に纏い、書物を小脇に抱えた男。顔は整っていた。眼光が鋭く、しかしその唇には微かな微笑みが浮かんでいた。学者風、とでも言えばいいか。あるいは、武士とも儒者ともつかぬ風格を持った人物。
 男が口を開いた。
「幕府転覆に、力を貸してくれないか」
 凪は思わず立ち止まった。夢の中であっても、その言葉の重みは本物に感じられた。
「えっ……貴方は、誰ですか」
 男は静かに微笑んだ。
「私の名は、由井正雪」
 凪の胸が、跳ねた。
 由井正雪。慶安の変。寛永二十一年――いや、慶安四年(一六五一年)、三代将軍・徳川家光の死の直後に計画された倒幕クーデター。主謀者の名を、凪は知っていた。講談で、落語で、歴史の本で、何度も聞いた名前だった。
「もしや……ここは江戸ですか。そして今は、家綱の時代ですか」
 正雪は目を細めた。
「そうだ。これ以上の機会はない。徳川の世の理不尽を正す、千載一遇の好機だ。お前さんの力を、借りたい」
「何が狙いだ? そして、俺に何をしろと?」
「まあ、待ってろ。今に分かる」
 正雪は踵を返して松林の奥へと歩き始めた。
 凪は追いかけながら、頭の中に数字が浮かんでいた。
 慶安四年。西暦一六五一年。今が二〇二五年なら、四百年近く遡ったことになる。
 だがそれよりも、凪が気になったのは別のことだった。
 由井正雪の乱は、失敗する。
 主謀者は自決し、仲間は処刑される。歴史はそう記録している。
 凪は夢の中で叫んでいた。
「正雪さんよ、あんた、これは失策となる。やめときなはれ!」
 正雪は振り返らずに答えた。
「馬鹿を言うな。今やらねばならん」
「俺は、未来から来たらしい。あんたらの結末を、知っている」
 ようやく正雪が立ち止まった。彼はゆっくりと凪を振り向いた。その目に、驚きとも好奇とも取れる光が宿った。
「ならば良い。気が変わったら来い。駿府で待つ」
「ダメだ。無駄死にとなる。ダメだ、ダメだ、ダメだ……」
 松林が揺れた。世界が歪んだ。凪は暗闇の中に落ちていった。
 そして、目が覚めた。
 天井を見つめながら、凪は長い間、動けなかった。
 夢だ、と思った。だが、夢にしては鮮明すぎた。松の匂いが、まだ鼻の奥に残っている気がした。
 窓の外で、東京の夜明けが始まっていた。


一章 玉響(たまゆら)の運び手

 榊原凪がタイムトラベラーになったのは、自分でも気づかぬうちのことだった。
 彼はもともと、ITエンジニアである。中規模のシステム開発会社に勤め、仕事は並、給料は並、生活も並。ただひとつ、江戸時代の歴史への偏愛だけが他人より飛び抜けていた。
 講談は月に一度の神田連雀亭通い。落語は寄席のマクラ一つで演目を当てられる。慶安太平記なら台詞を諳んじられる。そんな男だった。
 夢の翌朝、凪は普段通りにコーヒーを淹れ、普段通りに出勤し、普段通りに仕事をこなした。だが帰り道、彼は何かに引っ張られるような感覚を覚えた。
 行きつけの古書店の前を通ったとき、それは起きた。
 店の薄暗い奥から、光が見えた。まるで月光のような、青白い光。普段ならそんなものがあるはずがない。凪は吸い込まれるように店内へ入り、光の方向へ歩いた。
 棚の隅に、一冊の本があった。
 古い、非常に古い本だった。表紙は擦り切れ、文字は掠れていた。しかしそれが何であるか、凪には分かった。
 慶安太平記。
 手に取った瞬間、世界が揺れた。
 揺れ、歪み、暗転した。


 気づいたとき、凪は土の上に倒れていた。
 周囲の匂いが違う。空気が違う。遠くから、馬のいななきが聞こえる。
 ゆっくりと体を起こし、周囲を見渡した。
 江戸だ、と凪は思った。否、江戸に違いない。
 目の前に広がるのは、整然と区切られた町並み。木造の家々が立ち並び、着物姿の人々が往来している。上空には、現代的な構造物は何もない。空は広く、澄んでいた。
 凪は自分の服装を見下ろした。現代のジャケットとスラックス。完全に場違いだった。
 「おい、お主は何者だ」
 背後から声がかかった。振り向くと、二人の侍が立っていた。腰に刀を差し、厳しい目で凪を見ている。
 凪は咄嗟に頭を下げた。
 「申し訳ありません。私は……旅の者で」
 「その装束は何だ。見慣れぬ。どこの国の者だ」
 凪は必死に頭を働かせた。ここで捕まれば、おそらく牢に入れられる。異装の不審者として処刑されるかもしれない。
 「蝦夷の……奥地から参りました。文明から遠い地でして」
 侍たちは顔を見合わせた。そのわずかな隙に、凪は路地へと走り込んだ。
 追いかけてくる足音。凪は必死に走った。曲がり角を抜け、商家の軒先をかわし、路地の奥へ。
 そして、行き止まりになった壁の前で、彼は蹲った。
 背後の足音が消えていく。運が良かった。
 凪は息を整えながら、状況を整理しようとした。
 タイムトラベル。実際に起きてしまった。夢ではない。本の力か、それとも別の何かか。
 そして今がいつかを知る必要があった。
 慶安四年なのか、あるいは別の時代なのか。
 凪は慎重に路地を出た。


二章 駿府への旅

 凪は三日かけて、江戸の暮らし方を学んだ。
 幸いにして、彼の服装の問題は意外な形で解決した。路地で行き倒れになっていた武家奉公人の男が着ていた着物を、男が死んだあとに借りることができた――いや、正確には男の主人が気の毒に思って凪に与えたのだ。食事も、ある寺で施しを受けた。
 凪は頭を使った。現代の常識は捨てる。江戸の論理で動く。
 江戸の人々は、不審者に見えない者には案外優しかった。礼儀正しく頭を下げ、言葉を選び、決して多くを語らなければ、溶け込むことができた。
 そして三日目の夜、凪はある決断をした。
 駿府へ行く。
 夢の中で、正雪は言っていた。「駿府で待つ」と。
 由井正雪は、史実では駿府に拠点を置いていた。兵法を教える道場を構え、弟子を集めていた。慶安の変の計画は、その駿府から始まったのだ。
 凪は講談の記憶を総動員して、当時の状況を思い起こした。
 慶安四年(一六五一年)四月二十日。三代将軍・徳川家光が死去する。将軍の死は、幕府の弱体化の瞬間でもあった。正雪はそこに乗じて決起しようとした。
 その動機は何だったか。凪は知っていた。
 牢人(浪人)問題だ。
 徳川の世が安定するにつれ、武家の数は減り、仕官の口も減った。行き場を失った牢人が全国に溢れ、社会不安の種となっていた。正雪自身、師の弟子として兵法を教える立場にあったが、その思想の根底には、この牢人たちへの共感があった。
 歴史の通り、この乱は失敗する。
 だが凪がここにいる。それは偶然か、必然か。
 凪は東海道を歩いた。現代の新幹線なら数十分の距離を、彼は十日以上かけて歩いた。足がただれ、日に焼け、しかし不思議と気力は衰えなかった。沿道の景色が、圧倒的なほどに美しかったのだ。
 富士山が、見える。
 現代でも見えるが、この時代の富士山は違った。大気が澄み切り、人工物が何もない地平に、山がそのままの姿で立っていた。凪は思わず立ち止まり、長い間その姿を見つめた。
 これを守りたい、と思った。
 いや、正確には違う。これを生きた人々の時代の流れを、少しでもより良い方向へ変えられるなら、と思った。
 駿府に着いたのは、旅立ちから十二日目だった。


三章 正雪との問答

 由井正雪の道場は、駿府城下の静かな一角にあった。
 凪がそこを訪ねると、弟子たちが怪訝な顔で彼を見た。しかし凪は落ち着いて言った。
「由井先生に、お目にかかりたい。先生はご存知のはずです。夢の中でお会いした者だ、とお伝えください」
 弟子たちは顔を見合わせたが、やがて一人が奥へ消えた。
 少しして、正雪が現れた。
 夢の中で見た顔と同じだった。整った顔立ち、鋭い目、しかし口元には穏やかな微笑み。彼は凪を見て、静かに頷いた。
「来たか」
「来ました」と凪は答えた。「やめなさい、と言うために」
 正雪は苦笑した。
「まあ、上がれ」
 道場の奥座敷で、二人は向かい合った。弟子たちは遠ざけられた。茶が運ばれた。
「お前さんは、未来から来たと言った」と正雪は静かに言った。「では聞こう。我らの挙兵は、どうなる」
 凪は一息ついてから答えた。
「失敗します。正雪殿は駿府で追い詰められ、自刃される。丸橋忠弥殿は江戸で捕縛され、磔刑に処される。仲間の多くが処刑される」
 正雪の表情は変わらなかった。しかし目の奥に、何かが揺れた。
「それを知って、お前は我らを止めに来た」
「止めるだけではなく」と凪は続けた。「別の道を考えたいんです」
「別の道?」
「正雪殿の真の目的は何ですか。幕府を倒すことが目的ですか。それとも、牢人たちの苦境を救うことが目的ですか」
 その問いに、正雪はしばし黙った。
 沈黙は長かった。遠くで弟子たちが稽古をする音が聞こえた。木刀が打ち合う乾いた音。
「……後者だ」と正雪はやがて言った。「牢人たちが報われる世を作りたい。それだけだ」
「ならば」と凪は言った。「武力ではなく、言葉で戦う方法があります」
 正雪が顔を上げた。
「聞かせろ」
 凪は話し始めた。未来の知識を、使える形で言葉に変えながら。
 社会改革とはいかに行われるか。変革は血ではなく、制度の改変によって成される場合がある。幕府は頑固な組織だが、内側から変えることのできる人物がいれば。たとえば、老中・松平信綱のような人物に、牢人問題の深刻さを認識させることができれば。
「幕府を倒すのではなく、幕府を動かす」
 正雪は長い間、凪を見つめていた。
「お前は、奇妙な男だな」
「私も、こんな立場になるとは思っていませんでした」
 正雪は初めて、声を出して笑った。


四章 動き始めた歯車

 凪は駿府に留まることになった。
 正雪は彼を弟子の一人として扱い、道場での生活を許した。凪は剣術の稽古こそできなかったが、読み書きと計算は得意だったため、正雪の事務仕事を手伝う形で居場所を得た。
 しかし問題があった。
 歴史の流れは、凪が介入しても動こうとしないのだ。
 丸橋忠弥は江戸で、依然として決起の準備を進めていた。正雪の制止の書状を送っても、忠弥からの返信は「今さら止められない」というものだった。仲間たちはすでに動き出していた。
「正雪殿」と凪は言った。「江戸へ行かなければならない」
「お前が行ってどうする」
「忠弥殿を直接説得します。そして、幕府の重臣に密書を届ける。牢人問題を、武力ではなく政策で解決するよう求める嘆願書です」
 正雪は眉を寄せた。
「幕府に近づくのは、危険だ」
「分かっています。しかし、動かなければ歴史は変わらない」
 凪は、自分でもなぜこれほど必死になっているのか、よく分からなかった。元の時代に帰れるかどうかも分からない。この時代での自分の立場も不安定だ。
 しかしここに来てしまったのは、偶然ではない気がした。
 何かが自分をここへ送り込んだ。玉響――魂の微かな揺らぎのような何か――が、自分を運んできた。
 そうであるならば、やり遂げなければならない。
「分かった」と正雪は言った。「行け。しかし一つ、約束してくれ」
「何でしょう」
「必ず生きて戻れ。お前の話には、まだ続きがある」
 凪は頷いた。
 翌朝、彼は江戸へ向けて出発した。
 今度は、商人の荷物運びの一員に混じって、東海道を北上した。道中、凪は頭の中で計画を練り続けた。
 松平信綱に嘆願書を届けるためには、彼の屋敷の近くにいる人間のコネクションが必要だ。
 丸橋忠弥を説得するためには、彼の信頼できる人物を通じなければならない。
 凪はこれを、まるでプロジェクト管理のように整理した。タスク、リソース、リスク。ITエンジニアとしての頭の使い方が、ここでも役に立った。
 江戸が近づくにつれ、空気が変わっていくのを感じた。
 大きな都市の匂い。人の多さ。活気と、その裏にある緊張感。
 慶安四年の江戸は、将軍家光の死後、微妙な均衡の上に立っていた。凪はその空気を、肌で感じた。


五章 江戸の夜

 江戸に着いた凪が最初に接触したのは、丸橋忠弥ではなかった。
 偶然の出会いが、別の道を開いた。
 凪が神田の裏路地で雨宿りをしていたとき、隣に蹲った老人があった。着物は粗末だが、目が鋭い。浪人者だと凪は思った。
「お侍様、どちらへ」と凪は声をかけた。
「侍ではない。ただの老いぼれだ」と老人は言った。「お前こそ、見慣れぬ顔だな。どこから来た」
「駿府から」
「ほう。それならば、由井先生のところか」
 凪は驚いた。
「ご存知で?」
「知っている。昔、世話になった。しかし、あの御仁の計画は無謀だと思っている。なぜ止めない」
 凪は正直に言った。
「止めようとしています。しかし一人では難しい。力を貸してもらえませんか」
 老人は長い間、凪を見つめた。
 名は、柳沢六右衛門と言った。かつて大名家に仕えたが、改易で牢人になった。今は神田の長屋で細々と暮らしていた。老人は牢人問題の当事者であり、正雪の計画に共感しながらも、その無謀さを知っていた。
「儂に何をしろと言う」
「松平信綱様の屋敷に近い人物を、ご存知でありませんか。嘆願書を、直接届けたい」
 柳沢は首を傾けた。
「……一人、思い当たる者がいる。だが、約束はできぬ。動いてみよう」
 その夜から、物事が動き始めた。
 柳沢の伝手を通じて、松平信綱の家老の一人と接触できることになった。秘密の会合。場所は神田の小料理屋の座敷。
 凪は嘆願書を書いた。
 現代的な論理構成で、しかし江戸時代の言葉で。牢人問題の規模、社会への影響、放置すれば何が起きるか、そして政策的解決の可能性。凪は夜を徹して書き、柳沢が添削した。
「お主の文は、妙だな」と柳沢は言った。「まるで別の世の者が書いたようだ」
「実は」と凪は言いかけて、止めた。「旅をして、色々な考えを学びました」
 柳沢はそれ以上は聞かなかった。
 会合は、五日後に設定された。
 その間に、凪はもう一つの仕事をしなければならなかった。丸橋忠弥への接触だ。


六章 忠弥との対決

 丸橋忠弥は、凪の想像より遥かに大きな男だった。
 六尺(約百八十センチ)を超える体躯。豪快な笑い声。そして、剣に生きる者の研ぎ澄まされた気配。
 柳沢の伝手で面会の機会を得たとき、忠弥は警戒しながらも凪を迎え入れた。
「由井先生の使いと聞いたが」
「使いであり、それ以上のものです」と凪は言った。「私は先生の命で来ましたが、先生も私を完全には信用していない。ただ、伝えなければならないことがある」
「何だ」
「この計画は、失敗する」
 座敷に、静寂が落ちた。忠弥の目が、細く鋭くなった。
「何を根拠にそう言う」
 凪は深呼吸した。ここが正念場だと分かっていた。
「私は、未来から来た者です」
 忠弥は表情を変えなかった。ただ、続けろという目をした。
「慶安四年に由井正雪の乱は起きます。しかし幕府側に密告者が現れる。計画が漏れ、挙兵は失敗する。正雪殿は駿府で自刃し、忠弥殿は捕縛されて処刑される」
「……お前は、本当に変な男だな」と忠弥はゆっくり言った。「しかし」
 彼は立ち上がり、窓の外を見た。
「仮にそれが真だとして、俺はどうすれば良い」
「武力を捨て、訴えに変える」
「侍が、武力を捨てるか」
「捨てるのではない」と凪は言った。「使い方を変えるんです。剣は人を斬るためだけにあるのではない。守るためにもある。あなたの剣は、牢人たちを守るために使える」
 忠弥は長い間、窓の外を見ていた。
 やがて彼は振り向いた。その目に、何かが変わっていた。
「……一つ、聞いていいか」
「何でしょう」
「俺たちは、歴史に残るか」
 凪は少し考えてから答えた。
「残ります。慶安太平記として、講談に、落語に、物語として語り継がれます。ただ、それが悲劇の英雄としてか、それとも別の形かは、今ここで決まる」
 忠弥は、また長い間黙っていた。
「……分かった。先生に従う。だが」と彼は付け加えた。「もし道が違ったとしても、俺は侍として死ぬ覚悟はできている。それだけは変わらない」
「それで十分です」と凪は言った。


七章 嘆願書の行方

 松平信綱の家老・片岡右近との会合は、雨の夜に行われた。
 神田の小料理屋。座敷には三人。凪、柳沢、そして片岡。
 片岡は五十がらみの、目の細い慎重そうな男だった。凪が嘆願書を差し出すと、彼は音も立てずにそれを開き、ゆっくりと読み始めた。
 長い沈黙。
「……牢人の数が、これほどとは」と片岡はやがて言った。
「私の調べでは、全国で数十万に上ります」と凪は言った。「多くが食い詰めており、社会の不安定要因となっています。これを放置すれば、いずれ大きな騒乱が生じます」
「それは、脅しか」
「警告です。そして、解決策の提案です」
 凪は続けた。牢人を再雇用するための政策、大名家の召し抱えを促す制度、開拓地への移住奨励。現代の政策立案の知識を、江戸時代の文脈に合わせて言葉にした。
 片岡は再び、書状に目を落とした。
「この提案を書いたのは、お前か」
「はい」
「お前は、どこの何者だ」
 凪は答えた。「旅の者です。しかし、この問題を解決したいと思っている者です」
 片岡は書状を畳み、懐に入れた。
「持ち帰る。信綱様にお見せできるかどうかは約束できない。だが、この内容は……考えさせられる」
 それが会合の結論だった。
 帰り道、柳沢が言った。
「うまくいくかの」
「分かりません」と凪は言った。「でも、動かなければ何も変わらない」
 その夜、凪は宿に戻って、ようやく疲れが出た。畳の上に倒れ込み、天井を見つめた。
 どれほど時間が経ったか、分からなかった。江戸に来てからどれだけ経ったのかも、正確には把握できていなかった。
 元の時代に帰れるのか。帰る方法は何か。
 凪にはまだ、何も分からなかった。
 しかし今はそれより、目の前のことを終わらせなければならない。


八章 分岐点

 歴史は、凪の介入によって揺れ始めていた。
 しかしそれは、簡単には変わらなかった。
 正雪への密告は、史実通り起きた。稲葉正利という武士が、正雪の計画を幕府に告発した。江戸城は緊張し、勘定奉行が動いた。
 凪は駿府に急使を送った。
「正雪殿、今すぐ逃げてください。密告が入りました」
 しかし歴史の重力は強かった。正雪は逃げなかった。あるいは、逃げられなかった。
 幕府の使者が駿府に到着したのは、その二日後だった。
 凪は道場の外で、遠くから見ていた。使者たちが道場を包囲していく様子を。
 史実では、正雪はここで自刃する。
 凪は動いた。
 考える間もなく、体が動いていた。
 彼は使者たちの前に出た。着物姿で、腰に刀はない。非武装の、ただの文人として。
「待ってください」と凪は叫んだ。「私は、松平信綱様の家老・片岡右近様とお会いした者です。お取次ぎをお願いしたい」
 使者たちは戸惑った。
 凪は懐から書状を出した。片岡との会合の証となる、柳沢が用意した証文だった。
「由井殿は、すでに計画を中止しています。証拠を持っています。どうか、話を聞いてください」
 緊迫した時間が流れた。
 使者の一人が、書状を確認した。別の一人が、馬で何処かへ走った。
 やがて、正雪が道場から出てきた。
 彼は凪を見た。凪は彼を見た。
「馬鹿なことをするな」と正雪は静かに言った。
「生きていてください」と凪は言った。「あなたが生きて訴え続ける方が、牢人たちのためになります」
 正雪は長い間、凪の目を見た。
 そして、頷いた。
 彼は刀を地面に置いた。
 使者たちが前に出た。しかし大きな混乱は起きなかった。
 後日、判明したことだが、片岡が信綱に嘆願書を届けていた。信綱は内容を興味深く読み、使者たちに「穏便に」という指示を加えていたのだ。
 歴史が、変わり始めた。


九章 新しい慶安

 由井正雪は、処刑されなかった。
 取調べは長期に及んだが、計画の中止が証明され、また嘆願書の内容が幕府内の一部の者の心を動かしたこともあって、正雪は流罪に処された。遠島だった。しかし生きた。
 丸橋忠弥も、同様だった。計画への関与は認められたが、実行前に止まっていたため、重罪は免れた。
 そして不思議なことが起きた。
 松平信綱が、牢人問題への対策を検討し始めたのだ。
 嘆願書の内容が、直接の原因だったかどうかは分からない。しかし凪の書いた提案の幾つかは、信綱の政策立案の中に影を落とした。史実では「慶安の変」をきっかけとした末期養子の禁の緩和も、この時代では異なる形で実現していった。
 凪はそれを、駿府で聞いた。
 流罪になる前の数日、正雪は道場で凪と話した。
「お前のおかげだ」と正雪は言った。
「いいえ」と凪は言った。「あなたが刀を置いたからです。それができたのは、あなたの中に本当の目的があったからです。武力ではなく、牢人を救うという」
「しかし、結果として俺は流罪になる」
「生きています」
 正雪は苦笑した。
「武士として、それが誇りと言えるかどうか」
「生きて訴え続けることが、最大の武士道だと私は思います」
 正雪は長い間、黙っていた。
「お前は、いつか元の場所へ戻るのか」
「……そうだと思います。いつかは」
「お前の時代に、牢人問題は解決しているか」
 凪は少し考えた。
「形を変えた牢人問題は、あります。仕事のない者、社会からはじき出された者。それはいつの時代にも存在する。しかし、少しずつ、社会は変わっています」
「少しずつ、か」と正雪は繰り返した。「それで良いのかもしれない」
 それが、二人の最後の会話だった。
 翌日、正雪は護送されて駿府を去った。凪は道の端に立って、その行列を見送った。


十章 帰還

 正雪が去った後、凪は目的を失ったように、しばらく駿府に留まった。
 柳沢も江戸へ戻った。忠弥は、信綱の取り計らいで、ある大名家に仕官できることになったと風の便りに聞いた。
 凪は一人、道場の片隅に残された。
 どうやって帰るのか、分からなかった。
 来たときは、古書の本を手に取った瞬間に飛ばされた。逆のことをすれば戻れるのか。しかし同じ本は手元にない。
 ある夜、凪は富士山の見える丘に登った。
 月が出ていた。空が広かった。虫の声がした。
 玉響、と凪は思った。魂の微かな揺らぎ。自分をここへ送り込んだ何か。
「仕事は終わったぞ」と彼は空に向かって言った。「あとは頼む」
 風が吹いた。
 凪は目を閉じた。
 世界が揺れた。


 気づいたとき、凪は古書店の前に立っていた。
 東京の、夜の街。ネオンの光。車の音。スマートフォンを持った人々が行き交う。
 凪は自分の服装を確認した。現代の服だった。江戸の着物は、消えていた。
 夢だったのか、と彼はしばらく思った。
 しかし足の裏には、東海道を歩いた記憶がある。手のひらには、嘆願書を書き続けた記憶がある。
 古書店の中を覗いた。先ほどまで光を放っていた棚の辺りに、何もなかった。本は消えていた。
 凪は空を見上げた。東京の夜空に、星はほとんど見えない。しかし月はあった。同じ月が、四百年の時間を超えて、ここにある。
 携帯電話を取り出すと、電源が入った。日付は、古書店に入る前の日と同じだった。
 時間は、戻っていた。
 凪は歩き始めた。帰り道を、ゆっくりと。
 彼の頭の中には、由井正雪の言葉が残っていた。
「少しずつ、か。それで良いのかもしれない」
 そうだ、と凪は思った。大きな変革は、小さな意思の積み重ねから生まれる。一枚の嘆願書が、一つの会話が、歴史を少しだけ変えることがある。
 彼は歩きながら、ふと思った。
 今の時代にも、正雪のような問題は存在する。行き場のない人々。不公平な制度。力を持たない者たちの声。
 正雪ほど命を張る者は、この時代には現れないかもしれない。
 しかし、言葉を持つ者はいる。
 凪は家に帰ると、パソコンを開いた。そして、書き始めた。
 自分が見てきた江戸のこと。牢人問題のこと。正雪のこと。そしてそれが今の時代に何を示唆するか。
 それが彼の、新しい戦い方だった。


エピローグ 慶安太平記、新章

 数ヶ月後。
 榊原凪は神田連雀亭の座席にいた。いつもの定席、いつもの場所。しかし今日は少し、違う気持ちでいた。
 高座に、講釈師が上がった。演目は「慶安太平記」。
 凪は目を閉じた。
 语り口が始まった。
「……由井正雪、その名を歴史に刻んだ男。しかし諸説あり、一説には――正雪は武力を捨て、言葉によって牢人の救済を訴えたとも伝えられております……」
 凪は目を開けた。
 「一説には」。
 歴史は変わった。完全にではない。しかし、語り継がれる物語の中に、新しい声が混じっていた。
 彼は小さく、笑った。
 講釈師の語りが続く中で、凪の脳裏には、あの丘の上で見た月が浮かんでいた。富士山のシルエット。松林の匂い。
 そして、正雪の言葉。
「お前さんの力を、借りたい」
 力は貸した。できる限りのことをした。それで十分だ。
 武士道とは立派なものだった、と凪は思う。
 しかし、武士道だけが誇りある生き方ではない。言葉を持ち、考え、諦めずに訴え続けること。それもまた、一つの道だ。
 いつの時代も、人は同じ問題に直面する。格差、不公平、声の届かない人々。そしていつの時代も、それを変えようとする者が現れる。
 小さく、静かに。しかし確かに。
 玉響たちが、運ぶように。

           ――了――




【作者注】
本作は慶安の変を題材としたフィクションです。由井正雪、丸橋忠弥、松平信綱などは実在の歴史人物ですが、物語の展開は著者の創作によるものです。実際の慶安の変(慶安四年、一六五一年)では、正雪は駿府で自刃し、忠弥は江戸で磔刑に処されました。この小説は、「もし介入できたなら」という思考実験として書かれています。

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