今

これを長編にと

試行錯誤してはいるけれど

こいつがなかなか手強くて


そんなこんなしてる内に

忘れてしまってはいかんと

ちょいと載せて置きます



ー序章ー

 

どうやら
人生とやらは
±0 と出来てるらしい
 
大きな成功を納めておる方々を見ると
見えない見せない裏側では
それと同じくらいの
負を背負っておることが多く
 
何故ゆえ
神は試練を与えるのか? と痛感する
 
逆に
今 その痛みの中におるのならば
やがてそれと同等の
幸も訪れるはずで
 
今を悲観せず
前向きに正しく生きたならば。。。と




 ーまえがきー


「人生とやらは、どうやら±0でできているらしい」
そう確信するようになったのは、私が人生の還暦(かんれき)を意識し始めた頃のことです。
世の中で大きな成功を収めている人々を眺めると、その輝かしい光の裏側で、彼らは人知れず巨大な「負」を背負っていることが多い。その事実に気づいたとき、私は神が与える「試練」の真意を痛感せずにはいられませんでした。
逆に言えば、いま、もしあなたが深い悲しみや痛みの中にいるのなら、それはやがて訪れる同等の「幸運」を受け取るための準備期間なのかもしれません。
今を悲観せず、前向きに、正しく生きたならば、必ず振り子は反対側へと大きく振れる。
そんな私の切なる「願い」を、一つの物語に託しました。
この物語が、今を懸命に生きるあなたの心に、静かな凪をもたらすことを願って。
 



波音の等価交換
 
一章:空っぽの倉庫
「人生は、帳尻が合うようにできている」
その言葉を初めて聞いたのは、まだ二十代の頃だった。当時の私には、それが神の慈悲のように聞こえた。今、目の前にある苦しみは、未来の幸福のための「貯金」なのだと。
だが、還暦を目前にした今、この海沿いの古いレンガ倉庫で波音を聞きながら思う。
その「±0(プラスマイナスゼロ)」という法則は、もっと残酷で、もっと美しいものだったのではないか、と。
私の仕事は、この「岬の調整所」と呼ばれる倉庫の管理人だ。
ここには、人々が「持ちきれなくなったもの」が届く。それは物理的な荷物だけではない。使い切れなかった幸運、あるいは、背負いきれなくなった絶望。
私はそれらを棚に並べ、埃を払い、時が来るのを待つ。
「管理人さん、頼みがあるんだ」
ある日の夕暮れ。潮風に乗ってやってきたのは、一人の青年だった。身なりはいいが、その瞳には異様なまでの飢えが宿っている。
僕に、特大の『マイナス』を貸してほしい。それも、今すぐにだ」
青年は、若き彫刻家として名を馳せている男だった。彼は信じていた。自らに耐え難い試練を課し、あえて奈落の底へ突き落とされることで、その反動を利用して、歴史に名を残すほどの「プラス」を、不朽の名作を掴み取れるはずだと。
私は、カウンター越しに彼をじっと見つめた。
かつての自分も、同じような傲慢な賭けを人生に挑んだことがあったからだ。
「あいにく、不幸の貸し出しはやっていない。だが……」
私は奥の棚から、一つの古びた箱を取り出した。
それは、ある男が「人生の頂点」で手放してしまった、一見すると無価値な「負の遺産」だった。
「これを見て、君はどう思うか。それが終わったら、君の望む『試練』について話をしよう」
波の音が、一段と高く響いた。
これから始まるのは、プラスを求めてマイナスを彷徨った男たちが、最後に辿り着く「凪」の物語だ。
 
 
 
二章:振り子の重り
「この箱の中身は……ただの古ぼけた犬の首輪ですか?」
青年は、拍子抜けしたように言った。革はひび割れ、真鍮のプレートには「P」という文字が辛うじて読み取れる。
「そうだ。だが、それはただの首輪じゃない。ある男が、自分の『成功』と引き換えに、ここに置いていったものだ」
私は倉庫の窓を開けた。夕闇が迫る海から、冷たい風が入り込む。
「彼はね、君と同じように考えていた。大きな仕事を成し遂げるためには、私生活の幸せは邪魔だと。だから、あえて自分を孤独に追い込み、愛していたものとの時間を削り、この首輪をしていた相棒との別れさえも『創作の糧』にしようとした」
青年は黙って首輪を見つめている。
「彼は望み通り、大きなプラスを手に入れた。業界の頂点に立ち、誰もが羨む富を得たよ。だが、振り子が右に最大まで振れたとき、彼は気づいた。手に入れた黄金の重みよりも、失った首輪の軽さの方が、はるかに人生を支配していたことにね」
私は自分自身の、震える手を見つめた。
かつて、アメリカの西海岸で波を追いかけていた頃の自分。仕事に狂い、家族を顧みず、それが「高みへ登るための試練だ」と自分に言い聞かせていた日々。
「君は、大きなプラスのためにマイナスを先払いしたいと言った。だが、神様が用意するマイナスは、君が想像するような『耐えられる苦労』じゃない。君が一番失いたくないものを、音もなく奪っていくものだ」
青年は唇を噛んだ。
「それでも……それでも、僕は平凡な±0(ゼロ)で終わりたくないんだ」
「……いいだろう」
私は倉庫の奥から、一枚の古いサーフボードを引っ張り出してきた。
傷だらけで、何度も修理された跡があるロングボードだ。
「ならば、明日から毎朝、夜明け前にこの海に来なさい。この板で波を待つんだ。それが君の受ける最初の『試練』だ」
「サーフィン? それが修行だと言うんですか?」
「いや、これは『調整』だよ。君の傾きすぎた振り子を、真ん中に戻すためのね」
 
 

三章:潮騒のバランスシート
翌朝、夜明け前の海は、鉛色をしていた。
青年は、私が貸した古いロングボードを抱え、寒さに震えながら波打ち際に立っていた。都会のジムで鍛えた筋肉も、荒ぶる自然の前ではひどく頼りなく見える。
「管理人さん、波なんてどこにもないじゃないか。ただ荒れているだけだ」
「いいから入りなさい。ボードの上にまたがって、ただ海の一部になるんだ。それができない者に、人生のプラスもマイナスも操れはしない」
青年が沖へ向かってパドリングを始める。私は岸壁に腰を下ろし、かつて自分が歩いた道を思い出していた。
私もかつて、あのように肩をいからせ、世界を敵に回すようにして生きていた。
「苦労は買ってでもしろ」という言葉を呪文のように唱え、あえて自分を崖っぷちに追い込んだ。寝る間を惜しんで働き、トラブルが起きれば「これでまた運が貯まった」と不敵に笑ったものだ。
だが、あの頃の私は分かっていなかった。
「あえて背負うマイナス」と、「不意に訪れるマイナス」は、全くの別物だということを。
一時間後、青年は全身をずぶ濡れにし、息を切らして戻ってきた。一度も波に乗れず、ただ海に揉まれただけの無様な姿だった。
「……クソッ。何なんだ、この無駄な時間は。こんなことが何の役に立つ!」
「無駄だと思うかね。君は今、自分の思い通りにならない『負』に直面したんだ。自分でお膳立てした苦労ではなく、拒絶できない自然の厳しさにね」
私は彼に温かいコーヒーを差し出した。
「いいかい。プラスを欲しがって、わざと自分を痛めつけるのは、ただの自傷行為だ。神様はそれを見て『ああ、この男は苦しむのが好きなんだな』としか思わない。本当に必要なのは、マイナスの中でも『正しく在ること』なんだ」
青年はマグカップを握りしめ、黙って海を見つめた。
太陽が水平線から顔を出し、荒れた海面を一瞬にして黄金色に染め上げた。
「見てごらん。さっきまでの地獄のような暗闇(マイナス)がなければ、この光(プラス)にこれほどの価値は感じなかったはずだ。±0というのは、合計がゼロになることじゃない。マイナスという影があるからこそ、プラスという光が輪郭を持つということなんだよ」
青年の目から、一筋の涙がこぼれた。それは、彼が都会で積み上げてきた「偽物の覚悟」が、潮風に溶けて剥がれ落ちた瞬間だった。
「……管理人さん。僕は、何を怖がっていたんでしょうね」
「それは、君がこれからこの海で、ゆっくり見つければいいさ」
 
 

四章:凪の日の訪問者
青年が海に通い始めて一ヶ月が過ぎた頃。
その日は、奇跡のように穏やかな「凪」だった。鏡のような海面に、倉庫の赤レンガが逆さに映り込んでいる。
そんな静寂を破るように、一台の車が倉庫の前に止まった。
車から降りてきたのは、一人の女性だった。年齢は、伍朗と同じか、少し下か。潮風にさらされても気品を失わないその佇まいに、私は一瞬、息を止めた。
「まだ、こんな場所で『落とし物』を数えているのね。和久(かずひさ)」
その声を聞いた瞬間、私の心の中に積み上げてきた「±0」の均衡が、音を立てて崩れ去った。
「……カミさん。いや、紀子(のりこ)」
彼女は、私がかつて「大きな成功」を追い求めていた時代に、背を向けて去っていった妻だった。
あの頃の私は、仕事でのトラブルや借金、深夜に及ぶ会議といった「負」をすべて自分が背負っているつもりでいた。しかし、実際にはその負の重みは、一番近くにいた彼女に転嫁されていたのだ。
「あの頃、あなたは言っていたわね。『今は苦しいけれど、いつか必ずこれと同等の幸せを分かち合えるはずだ』って」
彼女は、倉庫の入り口に置かれた傷だらけのサーフボードを見つめた。
「でもね。人生の帳尻っていうのは、誰かと分け合えるものじゃないのよ。あなたが一人で勝手に背負ったマイナスは、ただのあなたの独りよがり。私が欲しかったのは、プラスでもマイナスでもない、ただの『何でもない今日』だったの」
奥で話を聞いていた青年が、居たたまれなくなったように顔を出した。
私は、震える手で棚から一つの小さな包みを取り出した。それは、紀子が去った後、ずっと渡せずにいた、あの愛犬「ぱふ」の、もう一つの形見 -彼がよく遊んでいた、川の石のように丸くなったおもちゃだった。
「……これを、ずっと預かっていたんだ。いつか、僕の人生のマイナスが、この重みと同じくらいの光に変わった時に返そうと思って」
紀子は、その古びたおもちゃを手に取ると、ふっと寂しげに笑った。
「あなたはまだ、交換条件で人生を考えているのね。±0なんて、本当はどこにもない。あるのは、ただ過ぎ去っていく時間と、その時々に誰が隣にいたか、それだけよ」
彼女が去った後、倉庫には潮騒だけが残された。
青年は、私が教えた「法則」の残酷な裏側を目の当たりにし、立ち尽くしていた。
「管理人さん……。大きなプラスを手に入れても、帳尻が合わないこともあるんですか?」
「……ああ。計算間違いをするんだよ、人間は。自分の背負っている負が、誰かを傷つけていることに気づかないまま、それが『尊い試練』だと勘違いしてしまうんだ」
私は、空っぽになった棚を見つめながら、初めて声を上げて泣きそうになった。
海は、どこまでも静かだった。
【第五章の展開イメージ】
紀子との再会を経て、伍朗は「あえて苦行を選ぶ」ことの空虚さを悟ります。
青年は、伍朗の失敗を糧に、成功を追い求めるのではなく、「今、隣にあるもの」を大切にしながら創作に向き合うようになります。
物語は、倉庫に預けられた「負の遺産」たちが、次々と持ち主のもとへ、あるいは海へと還っていくクライマックスへと向かいます。
 
 

五章:引き潮のあとに
紀子が去った後の倉庫は、以前よりもずっと広く、そして静かになったように感じられた。
棚に並ぶ「誰かの負の記憶」たちは、夕陽を浴びて、もはや重苦しい遺産ではなく、ただの使い古された道具のように見えていた。
青年は、それから一週間、一度も海に来なかった。
自ら不幸を買いに走るほど傲慢だった彼が、本当の意味での「喪失」の重みを知り、自分のアトリエに引き籠もったのだ。
そして嵐のような大雨が明けた翌朝、彼は再び現れた。
その手には、一本の彫刻刀と、小さな木彫りの像が握られていた。
「管理人さん。僕は、あえて苦しむのをやめました。代わりに、ただ、今の自分にできる精一杯を刻んでみたんです」
彼が差し出したのは、荒波に揉まれるサーファーでも、苦悩する巨人でもなかった。
それは、どこか懐かしい姿をした一匹の犬が、風に耳をなびかせて笑っている、小さな木像だった。
「……ぱふ、じゃないか」
私は思わず、その像を両手で包み込んだ。
木肌のぬくもり、滑らかな曲線。そこには、作為的な不幸も、計算されたプラスも存在しなかった。ただ、かつてそこに存在した「愛おしい時間」への純粋な祈りだけが宿っていた。
「±0なんて、本当はどうでもよかったんです。ただ、この像を作っている間、僕は自分が幸せなのか、不幸なのかさえ忘れていました。それが、僕にとっての答えです」
私は頷き、彼を伴って防波堤へと歩いた。
引き潮の海は、砂浜に数えきれないほどの貝殻や流木を残している。
「いいかい、青年。人生のプラスマイナスの法則というのは、帳尻を合わせるための計算式じゃない。『どんなに深い谷にいても、必ず同じ高さの山が向こう側にある』という、神様がくれた唯一の約束なんだ」
私は、長年管理してきた倉庫の鍵を、そっと彼の手に握らせた。
私はもう、この場所を去る。君がいつか、本当の大きな成功を収めたとき、もしその重みに耐えきれなくなったら、またここに来なさい。ここは、自分を空っぽにするための場所だからね」
私は、愛用のロングボードを脇に抱え、ゆっくりと水際へ向かった。
還暦を過ぎた体には、潮風が少し冷たい。だが、心は驚くほど軽かった。
大きなマイナスを背負った過去も、それをプラスに変えようともがいた日々も、すべてはこの瞬間の「凪」に辿り着くための航路だったのだ。
パドリングを開始し、沖へと向かう。
振り返ると、岸壁で青年が、あの子(ぱふ)の木像を大切そうに抱え、いつまでも私を見送っていた。
水平線の向こうには、新しい太陽が昇り始めている。
それは、昨日までの負をすべて飲み込み、真っ白なキャンバスのような正を運んでくる、輝かしい光だった。
終章:真っ直ぐに生きるということ
Kindleの最終ページをめくる読者に、私はこう伝えたい。
今、もしあなたが暗闇の中にいるのなら、それはあなたが「大きな光」を受け取るための器を作っている最中なのだ、と。
今を悲観せず、前向きに、正しく生きる。
その先に待っている「±0」は、虚無ではなく、すべての経験が調和した、静かで美しい完成図なのだから。
(完)
 
 
 
ーあとがきー
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
本作を書き進める中で、私自身もまた、過去の自分と対話するような不思議な時間を過ごしました。海での日々、山での孤独、そしてかつて私を支えてくれた愛犬「ぱふ」との思い出。それらすべてが、今の私を形作る「プラス」であり「マイナス」であったのだと、改めて感じています。
人生には、自分の力ではどうにもならない荒波が押し寄せることがあります。
しかし、その波に揉まれた経験こそが、人を優しく、そして強くします。
もし、この物語を読み終えたあなたの心が少しでも軽くなり、「もう少しだけ、前を向いて歩いてみよう」と思っていただけたなら、作者としてこれ以上の喜びはありません。
人生の振り子は、止まることはありません。
次に訪れる「プラス」を、あなたが最高の笑顔で迎え入れられますように。
著者:カトウかづひさ



ー紹介文ー
「人生は、±0(プラスマイナスゼロ)でできている。」
大きな成功の裏側には、人に見せない壮絶な「負」があり、
今、底知れぬ痛みの中にいるのなら、やがてそれと同等の「幸」が訪れる。
本作は、還暦を前にすべてを失った男・伍朗と、あえて「不幸」を先に背負うことで成功を掴もうとする若き芸術家が、岬の古い倉庫で織りなす再生の物語です。
「なぜ神は試練を与えるのか?」
「前向きに正しく生きることに、意味はあるのか?」
海、山、そしてかつての愛犬との記憶。
実体験に基づいた深い洞察で描かれる、迷える大人たちのためのヒューマンドラマ。
読み終えたとき、あなたの目の前にある景色は、昨日とは違った輝きを放ち始めるはずです。

 


 Kindle



さて
65歳ともなり

いよいよ
年金が貰えるそうで

ならばと
予約をして貰い
出掛けてみた今日

どうやら
この国の未来予測は
大きく間違っていたようで
年寄りには優しくない

まさか
こんな日が
こんなにも早く
ここに訪れるとは
思わなかったけれど

わずかでも
貰えるのならば
貰っておこう

そんなことよりも
昨今 
勝手にあれこれと
引かれるものばかり

こんなはずではなかったと
きっと
バブルで終えた方々は
次の世から覗き見て
苦笑いしてることだろう

責任者 出て来い! と
叫んでみても
その方々は
すでにいない

それでも
他国に比べたら
まだまだ
マシなそうだけれども
最後半の人生くらい
微笑ませてあげたい



長生きは
得なはずだったけれども
定年は55歳だったはずだけれども

健康ならば
なんとかなるようだ

今を無駄にせず
楽しくいよう

普段 本など読まない

長い話に飽きた貴兄へ…



言葉の消える川  〜さまよいながら〜


〜序〜
言葉にすれば 角が立つ
SNSに書き込めば
一瞬で世界へと広がる

そんな恐い世の中に於いても
わずかに差す光はあるはずだと探し 彷徨う

先は相変わらず見えないけれど
石橋を叩きながら渡るほど
器用ではなく

その場の直感で えい! って
飛び越えるような
そんな生き方をしてきたもんだから

時折 振り返ると その橋は崩れ落ちていて
誰ひとり後ろにはなく
また 前にもいない

ただし それを批判する者もないが
それに加勢する者もない

孤独が好きなはずはなく
それでも 群れることは避け

同じ姿で歩くことを嫌い
それでも目立たぬようにと
後の方を歩く

いつの頃か
口は災いだと 知らされて
一度 頭に戻してから言葉を吐く

昭和は遠くなってしまい
平成で大怪我を負いながらも 生き延びて

令和なる世の中に期待などせず
自分の感性だけを信じてみる

友達はもう 増やすことなく
言葉なくてもわかる
大事な数人とだけ バカを言い

なんとなくだけ
身体を気遣い

タバコは止めたが
舐めるくらいの酒は頂く

目頭はすぐに熱くなり
次の言葉を探しながらも
うまい言葉は見つからず

あの頃 って時ばかりを
振り返る

綺麗な女性に振り返り
同世代には安心し
男とは なんぞ! などと思いもせず

年寄りたちには
心を許す

もう少し 身体を大事に生きたならば
もしや 次の世も見れるのかも? と
令和に消える運命をわずかに遮る心を持ち

激しく生きたあの頃を懐かしみながら
そこへと連れ添った連中の
今はなき笑顔に涙して

わずかでも穏やかに生きたいと 怒ることをやめ
聞きたくない話題には 耳を背ける

男として生きたことを
嬉しくも思い
もしも もしも
次の世があるのならば
またこの自分になりたいとも願う

そしてまた
同じ家族と過ごし
同じ生き方でと
思うだけの日々…


〜まえがき〜
かつて、私たちはもっと無鉄砲に、もっと激しく、明日という日を疑わずに生きていました。
石橋を叩く暇があるなら、直感のままに飛び越える。振り返れば、その橋が崩れ落ちていたとしても、それが「男の生き方」だと信じて疑わなかった時代がありました。
昭和は遠くなり、平成という荒波で私たちは大きな怪我を負いました。そして令和。
ふと立ち止まれば、隣にいたはずの仲間はもうおらず、一人で橋の上に立っていることに気づきます。
この物語は、そんな「時代の残像」を抱えながら、今を静かにさまよう一人の男の独白です。
言葉にすれば角が立ち、書き込めば一瞬で世界へ広がる現代。そんな中で、自分だけの「感性」という光を頼りに歩き続けるすべての人へ、この物語を捧げます。



1.  橋の上で
川は、いつもそこにあった。
桐島譲が子供の頃から、この大川は変わらず流れていた。大阪の空の色が変わっても、街の形が変わっても、川だけは同じ顔をして、同じ方向へと水を運んでいた。人間のやることなど、川にとっては何でもないことなのだろうと、六十八歳になった譲はぼんやりと思った。
夕暮れ時、天満橋のたもとに立って、譲は欄干に両肘をのせた。
冷たい鉄の感触が、コートの袖越しに伝わってくる。川面には、対岸のビルの灯りが溶けるように揺れていた。オレンジ色と白と、いくつかの青。それが水の上で滲んでは、また集まって、また滲んでいく。
「きれいなもんやな」
声に出したつもりはなかった。ただ、気づけば口が動いていた。
隣に誰かいるわけでもない。譲はひとりで橋に立っていた。平日の夕方、サラリーマンたちが足早に通り過ぎていく。スーツ姿の若い男が、スマートフォンを見ながら歩いている。イヤホンをした女が、小走りに駅の方へと向かっていく。誰も川を見ていなかった。
譲は、それが不思議でもなく、さみしくもなかった。
自分も若い頃は、川を見る余裕など持っていなかった。いつも何かに追いかけられるように生きていた。金のことを考え、仕事のことを考え、仲間のことを考え、夜になれば酒を飲んで、また朝が来れば走り出す。立ち止まって水面を見つめるような時間は、どこにもなかった。
それがいつからこうなったのか。
譲には、はっきりとした記憶がない。ある朝、目が覚めたら、急ぐ理由がなくなっていた。それだけのことだった。
川風が吹いて、白髪交じりの髪が乱れた。譲は片手で髪を押さえ、もう一方の手でコートの前を合わせた。
四月だというのに、夕方になると冷える。身体が正直になった、と医者に言われたのは去年のことだ。無理がきかなくなった、という意味だとわかっていたが、譲は笑って「そうですか」と言った。無理がきかないのは、ずいぶん前からだ。ただ気づくのが遅かっただけで。
スマートフォンが震えた。
画面を見ると、娘の名前が表示されていた。譲はしばらく画面を見つめ、それからゆっくりと電話に出た。
「もしもし」
「お父さん、どこにおるん。もう晩ご飯できてるで」
「ああ、ちょっと散歩しとった。今から帰る」
「また川か」
「まあな」
娘は小さくため息をついた。心配しているのか、呆れているのか、譲には判断がつかない。最近は娘の気持ちがよくわからない。いや、最近に限った話ではなく、昔からそうだったかもしれない。
「はよ帰ってきてや。冷めるから」
「わかった」
電話を切って、譲はもう一度川を見た。
水は変わらず流れていた。どこから来て、どこへ行くのか。それを気にする者などおらず、川はただ流れることをやめない。
譲は欄干から離れ、駅の方へと歩き始めた。
背中に川風を受けながら、譲は今日一日、何をしていたかを思い返してみた。朝、六時に目が覚めた。新聞を読んだ。朝食を食べた。少し昼寝をした。夕方になって、どうしても外に出たくなって、気づけばここに立っていた。
それだけだった。
かつて、一日がこれほど静かだったことがあっただろうか。
昭和の頃、平成の始め頃、譲の一日はいつも何かで埋まっていた。予定と約束と、予定外の出来事と。電話が鳴り続け、人が来て、また電話が鳴る。怒鳴り声が飛び交い、笑い声が響き、夜中の二時に酒を飲みながら翌日の段取りを考える。そういう日々が、当たり前だった。
今はすべてが遠い。
別の時代の話のようだ、と譲は思う。自分がそこにいたとは、どうしても信じられないような、遠い話。
地下鉄の駅へと続く階段を降りながら、譲は右膝の痛みを感じた。また冷えたせいだ。手すりを掴みながらゆっくり降りる。後ろから若い人が来る気配がしたが、気にしないことにした。急げない身体になったのだから、急がなければいい。それだけのことだ。
改札を抜けて、ホームで電車を待ちながら、譲はまた川のことを思った。
あの橋の上で、自分は何を探していたのだろう。
毎日のように川を見に行く。何かを探しているわけではない、と言えば嘘になる。かといって、何を探しているのかと問われても、うまく答えられない。光、とでも言えばいいのか。どこかに、わずかでも光があるはずだという、根拠のない確信のようなもの。
若い頃は、そんなことを考えもしなかった。
光など必要としない、自分が光になればいい、という気持ちで生きていた。
今は違う。
自分が光になることなど、もうできない。ただ、どこかに光があることを知っていれば、それで十分だと思っている。
電車が来た。
譲は人波に押されることなく、端のドアから静かに乗り込んだ。座席は埋まっていたが、立っていてもかまわなかった。三つ目の駅で降りれば家だ。
揺れる車内で、譲は吊り革を握り、目を閉じた。
どこかで子どもが笑っている声がした。
その声だけが、やけに鮮明に聞こえた。


2.  昭和という名の炎
譲が生まれたのは、昭和三十二年の秋だった。
大阪の下町、長屋の一角に、桐島家はあった。父の辰雄は町工場で鉄を削る仕事をしていた。母のトメは、近所の料理屋で仲居をして家計を支えた。兄がひとり、姉がひとり。譲は末っ子だった。
貧しかったが、それが当たり前だったから、貧しいとは思わなかった。
近所の子どもたちはみな同じようなもので、空き地でめんこをして、川でザリガニを捕って、夜になれば腹を減らしたまま眠った。それでも不満はなく、翌朝になれば誰かが「今日も遊ぼうや」と呼びに来る。それだけで世界は十分だった。
譲が初めて喧嘩をしたのは、小学校の二年生の時だ。
同じクラスの谷口という男が、妹を突き飛ばした。譲に妹はいないが、近所の幼い子が転んで泣いているのを見て、気づけば谷口の胸ぐらを掴んでいた。
何も考えていなかった。
ただ、許せないと思った。それだけだった。
散々殴られ、蹴られ、鼻血を出して家に帰ったが、母には何も言わなかった。父にも言わなかった。なぜ黙っていたのかは自分でもよくわからないが、言葉にすることが何か大切なものを壊すような気がした。
翌日、顔中に青あざを作って学校に行くと、谷口が「昨日はすまんかった」と言いに来た。
譲は「ええわ」とだけ言った。
それからふたりは妙に仲良くなった。人間とはそういうものだ、と後に譲は思うようになる。ぶつかってみないとわからない、本当のところが。
中学に上がると、譲の周りには自然と人が集まってきた。
特に何かをしたわけではない。ただ、曲がったことが嫌いで、弱い者いじめを見れば黙っていられず、いつも先頭に立って動いた。それだけのことだったが、気づけば「桐島についていく」という仲間が十人、二十人と増えていた。
リーダーになりたかったわけでも、目立ちたかったわけでもない。
ただ、誰かが動かなければならない場面で、自分が動いただけだ。
その頃、大阪の街は変わり始めていた。
昭和四十年代の大阪は、万博を控えて活気に満ちていた。どこもかしこも工事をしていて、新しいビルが次々と建ち、道路が広がり、電車の路線が延びていく。街全体が、何か大きなものに向かって走っているような熱気があった。
その熱の中に、若者たちも巻き込まれていた。
夢を持つことが当たり前で、上を向くことが普通で、もっとよくなると誰もが信じていた時代。貧しくても笑えて、明日への確信があった時代。
譲はその空気の中で育った。
高校を卒業した後、大学には行かなかった。行けなかった、という方が正確かもしれないが、行こうとも思わなかった。本を読むのは好きだったが、教室に縛られることには耐えられそうになかった。世界は外にある、と譲は思っていた。
最初に就いた仕事は、建材の運搬だった。
重いものを運び、汗をかき、日が暮れれば仲間と飯を食い、酒を飲んだ。金は少なかったが、身体を使って働いた後の達成感は本物だった。若い身体は疲れを知らず、翌朝になれば回復していた。
それから何度か仕事を変えた。
食品の卸、解体業の手伝い、小さな運送会社のドライバー。どれも長くは続かなかった。続かなかった理由はいつも同じで、理不尽なことが嫌いだった。上の人間が横暴なことをすれば黙っていられず、口を開けば煙たがられ、居場所がなくなっていく。
「おまえは正しい。でも、正しいだけでは生きていけない」
二十二の時、ある人にそう言われた。
西成で小さな飲み屋をやっていた、荒木という五十男だった。一度だけ仕事の縁があって、その後も何かと気にかけてくれた。
譲は「そんなことはわかってる」と答えた。
「わかってるけど、できひんのやろ」と荒木は笑った。
否定できなかった。
その通りだった。
頭でわかっていても、目の前で理不尽が起きれば身体が動く。言葉が出る。止められない。それが譲という人間だった。変えようとしたこともあったが、変えられなかった。ならばそのまま生きるしかない、と、どこかで腹をくくった。
二十五の時、譲は独立した。
大それたことではない。軽トラック一台買って、何でも屋を始めた。引っ越しの手伝い、廃品回収、庭の草むしり、頼まれれば何でもやった。
仕事はゆっくりと増えていった。
譲の仕事ぶりを見て、また頼む、という客が増えた。口コミで紹介が来るようになった。二年もすると、軽トラが三台になった。人を雇うようになった。
仲間が集まってきた。
学校の同級生、仕事で知り合った者、荒木の紹介でやってきた若者。みな一癖も二癖もある連中だったが、性根は真っ直ぐで、金のためだけに動く人間ではなかった。
夜はよく飲んだ。
四畳半の事務所に七、八人が集まって、床に座って焼酎を飲みながら、くだらない話をした。誰かが笑わせ、誰かが怒り、誰かが泣いた。そういう夜が、週に何度もあった。
お互いの名前を呼び捨てで呼ぶ。
言わなくても伝わる。
目配せひとつで動ける。
そういう仲間ができたのが、昭和五十年代の頃だった。
譲は三十を前にして、自分の居場所というものを、初めて手に入れた気がした。
仕事がうまくいっていたかどうかは、正直なところ、いつも綱渡りだった。景気がいい時は金が回り、悪い時は火の車になる。それでも食えなくなったことはなかった。必死でやっていれば、誰かが助けてくれた。助けてもらった分は、別の誰かに返せばいい。そういうことが、自然と回っていた時代だった。
バブルと呼ばれる時代が来た頃、譲は三十代の半ばになっていた。
街が狂い始めた、と感じたのはその頃だ。
金が異様な速さで動くようになった。会ったことのない人間から仕事の話が来るようになった。数字が現実から離れ始めた。みなが浮かれていた。譲も仕事の規模が急に大きくなり、儲けが増えた。
しかし、どこかが引っかかっていた。
ゆっくりとした違和感が、胸の奥にあった。
これは本物ではない、という感覚。根のない木が、ただ高く伸びているような、そういう不安。
仲間の中でも、意見が割れるようになった。
「行けるうちに行かんでどうする。こんなチャンスはない」という者と、「急ぎすぎたら足元をすくわれる」という者。譲は後者だったが、声の大きいのは前者だった。
バブルは崩れた。
あっけなかった。
あれほど激しく燃えていたものが、気づけば煙だけになっていた。
それが、平成の始まりだった。


3.  平成の大怪我
崩れた後のことを、譲は今でもあまり話したくない。
話したくない、というより、言葉にできない。あの数年間に起きたことは、感情の処理が追いつかないまま時間だけが過ぎて、今も胸のどこかに消化されずに残っている。触れると痛む場所が、人間の身体にあるように、記憶にも触れてはいけない部分がある。
ただ、書かなければならない。
あの時代を避けて通れば、桐島譲という人間の半分が欠ける。
平成三年、譲の会社は倒産した。
正確には、取引先の倒産に巻き込まれた。長年の付き合いがあった会社が、ある日突然、連絡が取れなくなった。何百万という売掛金が、煙のように消えた。そこから始まった資金繰りの悪化が、三ヶ月で会社を終わらせた。
急すぎた。
何かできることがあったはずだ、という後悔は今でもある。しかし当時の譲には、嵐の中で傘を探すような余裕しかなかった。
仲間に頭を下げた。
給料を払えない月があった。「気にするな」と言ってくれた者がいた。黙って去っていった者もいた。それはしかたなかった。責める気持ちにはなれなかった。みな、自分の生活があった。
借金が残った。
数字で言えばどれほどのものかは、ここでは書かない。ただ、途方もない、という感覚だけが残っている。毎月の返済のために、また別の仕事を始めた。今度は雇われる側になって、建設現場に出た。重い物を運び、汗をかく。二十代に戻ったような毎日だったが、身体はもう三十代後半になっていた。
その頃、結婚した。
順番がおかしい、と自分でも思う。こんな状況で家庭を持つことが正しいのかどうか、迷った。しかし、悦子は「一緒にいたい」と言った。それだけだった。言葉の少ない女で、言葉の少ない分だけ、重みがあった。
譲は「苦労させるかもしれん」と言った。
「してもいいから」と悦子は言った。
それきり、その話題は出なかった。
ふたりで貧しい部屋に住んで、少ない金をやりくりして、時々喧嘩をして、時々笑って、そうやって生きた。娘の明日香が生まれたのは、それから二年後だった。
借金を返し終わるのに、十年かかった。
その十年の間に、仲間の何人かが姿を消した。
連絡が取れなくなった者が三人いた。そのうちひとりは、後になって消息がわかった。北の方で別の名前を使って暮らしているということだった。理由は聞かなかった。聞いても何もできなかっただろう。
ひとりは死んだ。
浜田という男で、バブルの頃から妙に荒れていた。酒が増えて、目が据わるようになっていた。三十九歳の冬に、アパートの一室で見つかった。詳しいことは聞かなかった。聞けなかった。
浜田の葬儀は、簡素だった。
身内も少なく、仲間が集まって、黙って線香をあげた。誰も何も言わなかった。ただ、泣いた者が何人かいた。譲も泣いた。声を出さずに泣いた。
帰り道、ひとりで歩きながら、譲は空を見上げた。
冬の大阪の空は、白くて低かった。
「なんで先に行くんや」
言葉が出た。
答える者はいなかった。
平成という時代は、譲にとって痛みの時代だった。高度成長の夢が終わり、バブルの幻が消え、残ったのは借金と喪失と、老いていく身体だった。それでも、生き延びた。
倒れなかった理由は、自分でもよくわからない。
意地、と言えば格好がいい。でも意地というより、他に選択肢が思いつかなかっただけかもしれない。立ち止まって考える余裕がなかっただけかもしれない。
ただ、生きた。
それだけは確かだ。


4.  残された者たち
令和になってから、訃報が増えた。
同世代の者が死ぬ。知らせが来るたびに、何かが欠けていくような気がする。欠けた部分は埋まらない。ただ、空洞として残る。
半年ほど前、谷口が死んだ。
小学校の時、最初に喧嘩した、あの谷口だ。それからの数十年、年に数回会う仲が続いていた。直接会わない年もあったが、つながりは切れなかった。
膵臓の癌だった。
見つかってから、五ヶ月しかなかった。
知らせを受けた時、譲はすぐに病院へ行こうとした。しかし谷口の家族から「本人が会いたくないと言っている」という連絡があった。
理由は聞かなかった。
谷口らしいと思った。弱った姿を見せたくなかったのだろう。最後まで強がりだった男だ。
葬儀には行った。
白い顔の谷口を見て、譲は不思議と泣けなかった。涙が出なかったのではなく、涙を超えた何かがあった。長い時間をかけて積み重ねた記憶の重さが、悲しみより先に来て、ただ静かに立っていることしかできなかった。
帰り道、また川を歩いた。
水面を見ながら、小学校の頃の谷口の顔を思い出した。鼻の下に泥をつけたまま「すまんかった」と言いに来たあの顔。それから、少しずつ老いていく谷口の顔。最後に会った二年前、居酒屋で飲んだ夜の顔。
笑っていた。
くだらない話で笑って、「また飲もうや」と言った。
その「また」が来なかった。
人生で一番恐ろしいのは、「また」が来ないことだ、と譲は思う。別れ際の「また」が、すべての「また」のうちの最後になることが、事前にはわからない。だから人は気軽に「また」と言う。
もし最後だとわかっていたら、何を言っただろう。
譲は考えた。しかし、答えは出なかった。きっと、わかっていても同じことしか言えなかっただろう、と思う。言葉などというものは、大事な時ほど出てこないものだ。
浜田、谷口、それから名前を挙げれば何人もいる。
先に逝った者たちの顔が、夜になるとよく浮かんでくる。
目頭が熱くなる。
次の言葉を探そうとするが、うまい言葉は見つからない。言葉で表せるようなものではない、この感覚は。ただ、熱くなった目をそのまま閉じて、しばらく暗闇の中にいる。
それで十分だ、と譲は思うようにしている。
言葉にしなくてもいい。泣いても笑っても、伝わらない相手に向けて、心の中で話しかけるだけでいい。
「元気でやってるか」
声に出さずに言う。
答えは返ってこない。
でも、どこかで聞いていると思う。そういうことを信じるような年齢になった。


5.  言葉と沈黙
譲がSNSを始めたのは、娘に勧められたからだった。
「お父さん、文章書くの好きやろ。日記代わりに書いたらええやん」
娘の言葉は正しかった。譲は昔から文章を書くことが嫌いではなかった。日記はつけていた時期もある。考えていることを言葉にすると、頭の中が整理される感じがあった。
しかし、SNSは違った。
最初の一週間は、試しにいくつか書いた。日常の小さなこと、川の景色のこと、昔の記憶のこと。するとすぐに「いいね」がついた。知らない人からのコメントが来た。
それが怖かった。
怖い、というのは正確ではないかもしれない。不思議な、という感覚が近い。書いた瞬間に、見知らぬ人の目に触れる。世界のどこかに届く。自分の言葉が、自分の手を離れた瞬間に、自分のものではなくなる。
言葉は、相手を選ぶべきだと思っている。
誰に向けて話すかによって、言葉の形は変わる。仲間に言う言葉と、見知らぬ人に言う言葉は、同じであってはならない。そういう感覚が、譲には強くある。
酒の席で仲間に言う言葉は、荒くて、直接的で、感情的だ。しかしそれは、相手が自分を知っているからこそ通じる言葉だ。文脈がある。歴史がある。
SNSには、文脈がない。
歴史のない場所に、生の言葉を置けば、どう読まれるかわからない。善意が悪意に変換されることもある。冗談が本気に取られることもある。
「口は災い」という言葉を、譲が意識するようになったのは、三十代の頃だ。
ある時、何気なく言った言葉が人を傷つけた。
相手は笑って聞き流してくれたが、目が笑っていなかった。後でそれを知って、譲は長い時間、後悔した。言葉は刃物だ。一度出たものは、引っ込められない。
それからは、何かを言う前に、一度頭に戻すようにした。
口に出る前に、もう一度考える。これは今、言うべきことか。言うべき場所か。言うべき相手か。三つの問いを経て、それでも言うべきだと思った時だけ、言葉にする。
不便だと思ったことはない。
むしろ、余計なことを言わなくて済むようになった。
しかし、SNSという場所では、そういう一拍が機能しない。書いたら出てしまう。一瞬で広がる。削除しても、どこかに残る。そういう恐ろしさがある。
譲はアカウントを消した。
娘には「やっぱり向いてへんわ」とだけ言った。
それ以上の説明はしなかった。するべき言葉が見当たらなかった、というより、説明することで何かが失われる気がした。
沈黙は、言葉の敗北ではない。
言葉が不要な時に黙ることは、言葉を大切にすることだ、と譲は思っている。


6.  数人だけの宴
月に一度、集まる。
場所はいつも同じ、十三の路地裏にある小さな居酒屋だ。カウンターが六席あるだけの店で、暖簾をくぐると大将がいつも「よう来たな」と言う。それだけで十分だ。
集まるのは四人。
長谷川、森田、岡本、それと譲。
全員が六十代で、全員が昭和の時代に何らかの形で苦労してきた。仕事の種類もそれぞれ違う。今やっていることもばらばらだ。長谷川はまだ現役で小さな工務店を回しており、森田は数年前に引退して盆栽に熱中している。岡本は病気をしてから身体が弱く、月に一度の宴が外出のほぼすべてだという。
共通しているのは、くだらない話ができることだ。
深い話をしようとは、誰も思っていない。人生について語り合おうとか、老いをどう受け入れるかを議論しようとか、そういうことは一切ない。ただ、飯を食い、酒を飲み、くだらないことで笑う。
それだけだ。
先月、長谷川が「最近、孫が来てな」という話を始めた。
「なんや、孫がおったんか」と森田が言った。
「おるわ、知らんかったんか」
「知らんかった」
「おまえ、わしのことなんも知らんな」
「六十年の付き合いで今更」
そういう会話が延々と続く。意味はない。どこにも行き着かない。しかし、その無意味さが心地いい。
目的のない会話を、かつては無駄だと思っていた。
若い頃は、会うたびに何かを決めなければならなかった。段取りを決め、金の話をし、次の一手を考える。飲んでいても頭のどこかは仕事をしていた。
今は違う。
ただ、ここにいる。それだけでいい。
岡本が少し咳をした。
誰も聞こえないふりをした。聞こえていないのではなく、聞こえないふりをした。岡本の身体のことは全員が知っている。しかし、その話題には触れない。触れることで何かが変わるわけでもなく、触れない方が岡本が楽だということを、みなわかっている。
言葉にしなくてもわかる、ということが、長い時間をかけて育つ。
若い頃のような激しい感情のやり取りはない。怒鳴り合うこともない。主張をぶつけ合うこともない。
ただ、静かに隣にいる。
それが、今のこの四人の関係だった。
大将が「今日はええ鰆が入ったで」と言った。
「食べる」と全員が言った。
それだけで十分だった。
夜が更けるにつれ、話題は昔のことになっていく。
あの頃はひどかったな、とか、あいつ今どうしてるんやろ、とか。名前が出るたびに、しばらく沈黙があって、また別の話が始まる。
笑うことも多い。
今となっては笑えるが、当時は本当につらかったこと。命がけだったこと。馬鹿みたいだったこと。それが時間の力で変換されて、笑い話になっている。
時間というのは残酷だが、親切でもある。
帰り際、四人で路地に出た。
夜風が冷たかった。
「来月もここでええか」と長谷川が言った。
「ええよ」と全員が言った。
それだけ言って、それぞれの方向へ歩き始めた。
譲は地下鉄の駅に向かいながら、振り返らなかった。
振り返らなくても、三人がそれぞれの方向へ歩いていることがわかった。
来月も、ここに集まれると思っている。
ただ、それが確かだとは言えない。岡本の咳が気になった。森田が最近やや痩せたことが気になった。しかしそれを口に出すことはない。
ただ、来月も集まれると思いながら、歩く。
その「また」を信じながら。


7.  またこの自分に
五月のある朝、譲は庭に出た。
小さな庭に、花が咲いていた。悦子が世話をしている花で、名前は知らない。白くて小さい花だった。
悦子は数年前から膝を悪くしていて、庭仕事がつらくなってきた。それでも毎朝、少しずつ手を入れている。譲がかわりにやろうかと言うと「あなたに任せたら枯れる」と言われた。それは正しいと思う。
朝の光の中で、白い花は静かに揺れていた。
美しい、と思った。
もう少し身体を大事にして生きれば、来年もこの花が見られるかもしれない。再来年も。その次も。令和がまだしばらく続くならば、もう少し生きてみてもいいかもしれない。
医者から「もう少し歩いてください」と言われて、川沿いを歩くようになった。タバコは五年前に辞めた。酒は少しだけ飲む。舐める程度に。それで十分だ。
若い頃のように何かを欲しいとは思わない。
今あるもので、十分だと思っている。
綺麗な女性を見れば振り返る。それは昔から変わらない。同世代の顔を見ると、なぜか安心する。年寄りには自然と心を開く。若い頃はわからなかったが、今はわかる。同じ時代を生きてきた人間には、説明しなくてもわかることがある。
男として生きることを、後悔していない。
激しく生きたことも、たくさん失ったことも、遠回りしたことも。それが自分という人間を作った。
もしも次の世があるとしたら。
また、この自分でいたい。
同じ失敗をして、同じ傷を負って、同じ仲間と飲んで、同じように笑って、同じように泣く。そういう人生をもう一度生きたい。
そして、同じ家族と。
悦子の顔が浮かんだ。明日香の顔が浮かんだ。
何も言わないが、そばにいてくれる。苦労をかけた。かけ続けた。それでも、ここにいる。
言葉にすれば角が立つことがある。SNSに書けば世界に広がる。そんな時代の中で、わずかな光を探しながら、さまよいながら、それでも歩いてきた。
前には誰もいない。
後ろにも誰もいない。
それでもいい。
誰かの後ろを歩くより、自分の足で歩く方が性に合っている。どんなに遠回りになっても、それが自分という人間だから。
庭の花が、また揺れた。
光が差している。
わずかだけれど、確かな光が。
譲はそれを見ながら、思うだけの日々を生きる。
激しく生きたあの頃を懐かしみながら
そこへと連れ添った連中の
今はなき笑顔に涙して
わずかでも穏やかに生きたいと 怒ることをやめ
聞きたくない話題には 耳を背ける
男として生きたことを
嬉しくも思い
もしも もしも
次の世があるのならば
またこの自分になりたいとも願う
そしてまた
同じ家族と過ごし
同じ生き方でと
思うだけの日々…

ー了ー


〜あとがき〜
本書の執筆は、私自身の内側にある「あの頃」との対話でもありました。
物語の主人公、桐島譲がそうであったように、私たちにはそれぞれ、誰にも語らぬ「大怪我」があり、今はなき友の「笑顔」があります。
「怒ることをやめ、穏やかに生きたい」と願いつつも、かつて激しく生きた自分を捨て去ることはできません。その矛盾こそが、人間が一生懸命に生きてきた証なのだと思います。
今、私の周りには言葉がなくとも通じ合える大事な数人がいます。同じ家族と過ごす日々があります。それ以上に贅沢な光が、どこにあるでしょうか。
もしもこの物語が、日々を彷徨うあなたの心に、わずかでも温かな光を灯すことができたなら、著者としてこれ以上の喜びはありません。

時代を生き抜いた男たちへ、そしてまだ生き続けているすべての人へ。
あの頃の笑顔を、忘れないために。

令和八年 四月
カトウかづひさ


Kindle




還暦をも越すと
お互い
もうお祝いムードではなく

良くぞ
無事で

これからも
宜しくと

ましてや
子供たちが巣立ち
2人に戻り
ガランと空いたこの家

小さなショートケーキでも
買い求め
いつもの夕食後に
ロウソクを立てることもなく
頬張るだけの誕生日



63歳

そんな今年は
カミさんも
お袋さんの齢に並び

なんだか
感慨深く過ごしている

改めて振り返ると
やはり
若過ぎた

孫たちの姿は
見せられたけれども
これからって時だったはずで

その無念さが
今 心の痛みとなり
僕らを襲う

今更ながら
何かもっと
出来なかったのかと
悔やむばかり

やはり
健康がすべてのトップにあり
それを越えるものはない

自分の足で歩き
自分の歯で食べる

いつもの生活が
いつものように過ぎて
何もハプニングは起こらない

それは退屈ではなく
平和なのだ

そんな日常が
幸せなのだ



そうだ
残念ながら
全員が年寄りになれるのではない

ご同輩
一緒に年寄りになろう!


短編なら良いけれど
なんや
昨今 中編を書き始めて


こんな
素人のツマラナイ話など
読んでられるか! なんて
お嘆きの貴兄に…


アイホン機能



なんと
アイホンには
画面を読んでくれる機能があるので
是非 それで
ちょいとばかし
お付き合い下さいな…


KindleKindle




Androidにも

あるかも…







六章 太鼓の音



ー繰り返す人間ー

 温泉地を出て、バスで隣町へ移動した。

 バスの中は空いていた。老いた女性が二人、前の座席に並んで座り、小声で話していた。誠司はその後ろに座り、窓の外を見ていた。田んぼが広がっていた。稲はもう刈り取られ、切り株だけが残っていた。その切り株が、整然と並んで、遠くまで続いていた。

 バスが町に入ったとき、誠司は異変に気づいた。

 いつもより人が多い。道を歩く人が、いつもの倍はいる気がした。浴衣姿の人も見えた。子供が走っている。提灯が道の両側に下がっていた。

 祭りだ、と誠司は思った。

 バスを降りると、遠くから太鼓の音が聞こえてきた。

 どん、どん、という低い音が、空気を伝わって来た。誠司はその音に導かれるように、人の流れに混じって歩き始めた。

 *

 祭りの会場は、神社の境内だった。

 屋台が並んでいた。焼きそばの匂い、綿菓子の匂い、醤油の焦げる匂い。子供たちが走り回っていた。浴衣を着た若い男女が、手を繋いで歩いていた。老人が縁台に腰を下ろし、杯を傾けていた。

 誠司は人の波の中に入り、ゆっくりと歩いた。

 境内の奥に、舞台があった。そこで太鼓の演奏が行われていた。大きな太鼓を、若い男たちが力強く叩いていた。バチが振り下ろされるたびに、体の奥まで響く音が出た。その音は、鼓動に似ていた。誠司は立ち止まり、演奏を聴いた。

 太鼓の音は、人の体に直接届く。

 頭で考えるより前に、体が反応する。足が少し動く。胸が高鳴る。それは原始的な何かだと思った。人間がまだ言葉を持つ前から、太鼓を叩き、音に体を委ねてきた。その記憶が、体の奥に刻まれているのかもしれない。

 叩く男たちの顔は、真剣だった。汗が光っていた。彼らは今この瞬間に、完全に集中していた。過去も未来も関係なく、ただこの音の中にいた。

 誠司は、それを羨ましいと思った。

 *

 屋台の間を歩きながら、誠司は周りを見渡した。

 祭りというのは、不思議な場所だ。老若男女が混じり合い、日常の区別が薄れる。仕事の肩書きも、年齢の差も、ここでは意味を失う。みんなが同じ太鼓の音の下に集まり、同じ匂いの中にいる。

 焼き鳥を一串買って、食べながら歩いた。

 子供が走ってきて、誠司の脚にぶつかりそうになった。「ごめんなさい」と子供は言った。誠司は「気をつけてね」と言った。子供はもう走り去っていた。その後ろ姿を見ながら、慶介の幼いころを思った。祭りのたびに、慶介は浮かれていた。金魚すくいが好きで、毎年挑戦しては失敗し、それでも諦めなかった。

 あのころの慶介の顔が、懐かしかった。

 今の慶介は、大阪で家庭を持っている。子供のころの面影は残っているが、もうすっかり大人だ。先月、短いメッセージが来た。「元気ですか」。誠司は「元気だ」と返した。それだけだった。それだけだが、それでいい、と思っている。親と子というのは、そういうものだ。離れながらも、つながっている。

 *

 神輿が出た。

 大きな神輿を、若い男たちが担いだ。掛け声が上がった。「わっしょい、わっしょい」。群衆が道の両側に割れ、神輿が通る道を作った。誠司もその中に混じり、神輿が通るのを見た。

 神輿は重そうだった。担ぐ男たちの顔が赤く、首に青筋が立っていた。しかし、顔は笑っていた。苦しそうに、しかし確かに笑っていた。その笑いが、誠司には美しく見えた。

 この神輿は、何年前から担がれてきたのだろう。

 誠司は思った。この祭りが始まったのは、いつのことか。百年前か、二百年前か。その最初の年に神輿を担いだ男たちは、今はもういない。しかし神輿は今日も担がれ、掛け声は今日も上がり、人々は道の両側に並んで見ている。

 形が、時間を超える。

 人は死ぬ。しかし、人が作った形は残る。祭りという形が、世代を超えて受け継がれる。その受け継ぎの中に、死んだ人たちも参加している。今日神輿を担ぐ男たちの体の中に、かつて担いだ男たちの記憶が、血として流れているのかもしれない。

 わっしょい、わっしょい。

 掛け声が続いた。

 誠司は群衆の中で、静かにその声を聞いた。

 *

 祭りが一段落したころ、誠司は神社の本殿の前に立った。

 賽銭を入れ、鈴を鳴らし、手を合わせた。目を閉じた。

 何を祈るか、今回は少し考えた。

 病が治りますように、でも、仕事がうまくいきますように、でもなかった。誠司が今思ったのは、もっと単純なことだった。

 みんなが、来年もここに来られますように。

 この祭りを見た人が、来年の祭りまで生きていられますように。子供が走り回っていた。老人が縁台に座っていた。浴衣の男女が笑っていた。その全員が、来年もここにいますように。

 そして自分も。

 誠司は、自分のために祈ることが、これまであまりなかった。家族のために、仕事のために、誰かのために祈ることはあった。しかし自分自身のために、来年もここにいますように、と思ったのは、久しぶりのことだった。

 いや、もしかしたら初めてかもしれない。

 目を開けた。本殿の前に、注連縄が張られていた。太い縄が、左右に伸びていた。その縄に、白い紙垂が下がっていた。風が吹くたびに、紙垂が揺れた。

 誠司はしばらく、その揺れを見ていた。

 *

 夜になった。

 祭りはまだ続いていた。盆踊りが始まった。

 やぐらの上で太鼓が鳴り、スピーカーから音楽が流れた。輪になって踊る人々の中に、老人も若者も子供も混じっていた。踊りが上手い人も下手な人もいた。しかしそれは関係なかった。みんなが同じ輪の中で、同じ方向に回っていた。

 誠司は輪の外から、それを見ていた。

 踊りの輪は、延々と回り続けた。太鼓の音も、音楽も、終わっては始まり、また終わっては始まった。それが繰り返された。その繰り返しの中に、参加している人たちは揺れていた。

 繰り返すことが、人間の本質なのかもしれない。

 誠司は思った。祭りも繰り返す。季節も繰り返す。悲しみも喜びも、似たようなことが繰り返す。詩の一節が、また頭に浮かんだ。「大して違わない時代を、何度も何度もこの人間たちは繰り返すだけで」。そうかもしれない。しかし、繰り返すことが愚かなのだろうか。

 桜は毎年咲く。それを誰も愚かだとは思わない。

 人間が繰り返すことも、桜が繰り返すことと、本質は変わらないのではないか。過去から学ばないという批判はできる。しかし、繰り返すことそのものの中に、命の形があるのかもしれない。

 踊りの輪が、回り続けた。

 誠司は、輪の外から、その回転を見続けた。

 やがて、一人の老婆が輪から離れ、誠司の近くにやってきた。八十近いだろうか。小さな体で、少し息を切らしていた。誠司の横に立ち、輪を見た。

「お一人ですか」と老婆は言った。

「ええ」

「旅の方ですか」

「そうです」

 老婆はしばらく黙って、踊りの輪を見た。「この祭り、私が子供のころからあるんですよ」とつぶやいた。「七十年以上ね。同じ踊りを、ずっと踊ってきた」

「変わらないんですね」と誠司は言った。

「変わらないようで、変わってるんですよ」老婆は静かに言った。「人が変わる。でも形は変わらない。不思議でしょ」

 誠司は頷いた。

「踊ってる人の顔がね」老婆は続けた。「変わるんです。最初は若い顔ばっかりだったのに、いつの間にか、みんな皺が増えて。でも踊り方は同じ。太鼓の音も同じ。なんか、時間が止まってるみたいで、でも流れてるみたいで」

 老婆は少し笑った。「上手く言えないけどね」

「いいえ」誠司は言った。「よくわかります」

 老婆は誠司を見て、また輪の方を見た。「あなたも踊ったらいいのに」

「見てる方が好きです」

「そう」老婆は頷いた。「見てる人がいないと、踊る人も張り合いがないからね」

 そう言って、老婆はまた輪の中に入っていった。小さな体で、しかししっかりとした足取りで、踊りの列に加わった。

 誠司は、その老婆の背中を見た。

 七十年間、この祭りに来ている。七十年間、同じ踊りを踊っている。その七十年の重さを、あの小さな体が持っている。

 見ている人がいないと、踊る人も張り合いがない。

 その言葉が、誠司の中に残った。

 *

 祭りが終わったのは、夜の十時を過ぎたころだった。

 人々が散っていった。屋台が片付けられた。提灯の灯りが消えていった。

 誠司は最後まで残っていた。

 神社の境内が、少しずつ静かになっていった。さっきまで人でいっぱいだった場所が、今は風の音だけがある。地面には、祭りの残骸が散らばっていた。割り箸、紙コップ、踏まれた花びら。それらが、今夜あったことの証だった。

 誠司は本殿の前にもう一度立った。

 暗い中で、注連縄の白い紙垂だけが、かすかに見えた。

 来年も、この祭りはある。同じ太鼓が鳴り、同じ神輿が出て、人々が集まる。今夜来た人の何人かは、来年は来られないかもしれない。しかし祭りは続く。それでいいのだと、誠司は思った。

 続くことの中に、意味がある。

 形が続くことで、過去の人たちも続いている。形を受け継ぐことで、未来の人たちへ何かが渡される。その連鎖の中に、人間というものがある。

 誠司は、自分が今夜ここに来たことを、誰かに感謝したかった。

 誰に感謝すべきかは、よくわからない。この祭りを始めた誰かか。今日まで続けてきた人々か。あるいは、この旅に出る気にさせた何かか。

 誠司は、暗い本殿に向かって、もう一度頭を下げた。

 風が吹いた。

 紙垂が揺れた。

 誠司は踵を返し、宿への道を歩いた。

 夜空に、星が出ていた。

 都会では見えない星が、ここでは見えた。誠司は立ち止まり、空を見上げた。星は無数にあった。その一つ一つが、遠い光だった。何万光年も遠くから来た光が、今夜の誠司の目に届いていた。

 あの星の光が出発したとき、人間はまだいなかったかもしれない。

 その光が今夜届いた。誠司という一人の男の目に。それもまた、途方もない偶然であり、必然だった。

 誠司は空を見上げたまま、しばらく動かなかった。

 祭りの太鼓の余韻が、まだ体の奥に残っていた。



七章 先を歩く人

――見知らぬ老人との対話――

 祭りの翌朝、誠司は早い列車で移動した。

 どこへ向かうとも決めずに、ただ南へ。山が深くなる方向へ。人が少なくなる方向へ。

 車窓から見える景色は、少しずつ変わっていった。田畑が減り、山が増えた。川が細くなり、谷が深くなった。紅葉は、標高が上がるにつれてより鮮やかになった。赤が濃くなり、橙が深くなった。

 誠司は、その色を見ながら、旅もそろそろ終わりに近づいていることを感じた。

 東京を出て、六日が経っていた。京都の寺、廃線の町、海辺の宿、温泉地の祭り。それぞれの場所で、それぞれの何かを受け取った。しかしまだ、何かが足りない気がした。何かが足りないというより、何かに辿り着いていない、という感覚だ。

 目的地などない旅だった。しかし今、誠司には、この旅がどこかへ向かっているような気がしていた。

 小さな山あいの駅で、誠司は降りた。

 プラットホームに降り立ったとき、風が冷たかった。標高が高いのだろう。空気が薄く、澄んでいた。

 *

 駅から出て、誠司は山の方へ続く道を歩いた。

 舗装された道が、やがて砂利道になった。砂利道が、さらに細い山道になった。誠司は特に目的もなく、ただ上へ上へと歩いた。

 山道の途中に、小さな休憩所があった。

 屋根だけの、粗末な造りのものだった。しかし、木のベンチが置いてあり、そこに一人の老人が座っていた。

 年齢は、八十を超えているだろう。白髪で、背筋はしっかりと伸びていた。手に、古い木の杖を持っていた。目は細く、しかし鋭く、遠くの山を見ていた。誠司が近づいても、老人は動じなかった。

「失礼します」と誠司は言い、老人の隣に腰を下ろした。

 老人は少し誠司を見て、また山の方を向いた。

「この山、よく来られるんですか」と誠司は聞いた。

「毎日来る」と老人は言った。声は低く、しかし明瞭だった。

「毎日」

「もう四十年になる」

 誠司は少し驚いた。「四十年、毎日ここへ」

「そうだ。雨の日も、雪の日も。足腰が続く限りは来る」

 老人は杖を両手で持ち、その先を地面につけたまま、遠くを見ていた。

 *

「何のために来るんですか」と誠司は聞いた。

 老人は少し間を置いた。「何のため、か」とつぶやいた。「最初は、健康のためだった。医者に歩けと言われてな。それで来始めた」

「今は違うんですか」

「今は、来るのが当たり前になった。当たり前になると、理由がなくなる。ただ来る」

 誠司はその言葉を、心の中で転がした。理由がなくなると、ただ在る。それはある意味で、石の境地に近いかもしれない。動かないことが仕事、と京都の老僧は言った。毎日来ることが当たり前、と今この老人は言う。どちらも、理由を超えた場所にいる。

「おいくつですか」と誠司は聞いた。

「八十四だ」

「お元気ですね」

「元気というより、惰性だ」老人は静かに笑った。「惰性で生きている。悪くない」

 誠司も少し笑った。

「あなたは旅人か」と老人は言った。

「そうです。東京から来ました」

「東京か。遠い」

「ええ」

「何を探して来た」

 直球の問いだった。誠司は少し考えた。「わかりません。ただ、旅に出たくなって」

「わかならん方がいい」老人は言った。「わかって出てくる旅は、たいてい期待外れになる。わからんまま出ると、思わぬものに会う」

 *

 老人は山を見たまま、しばらく黙っていた。誠司も黙っていた。

 風が吹いた。紅葉した葉が、いくつか舞い落ちた。

「あんたは、いくつか」と老人は言った。

「五十八です」

「若い」

 誠司は苦笑した。五十八を若いと言う人に、初めて会った気がした。

「私が五十八のころ」老人はゆっくりと言った。「まだ何もわかっていなかった。会社のことしか頭になかった。家族のことも、自分のことも、後回しにしていた」

「今は、わかりますか」

「わかるというより、どうでもよくなった」老人は言った。「どうでもよくなると、楽になる。しかし楽になるまでに、ずいぶん時間がかかった」

「どうでもよくなるとは」

「執着がなくなる、ということだ」老人は少し間を置いた。「私は若いころ、いろんなものに執着していた。仕事の成果に。人からの評価に。家族が自分の思い通りになることに。そういうものを手放すのに、七十年かかった」

「七十年」

「長いだろう」老人は静かに笑った。「しかし人によっては、一生かかっても手放せない。私はまだましな方かもしれない」

 誠司は、その言葉を聞きながら、自分の中を探った。自分はまだ、何かに執着しているか。

 ある。まだある。

 泉に対する後悔への執着。自分がどう見られるかへの執着。残りの人生が充分であるかどうかへの不安という名の執着。それらは、まだ手放せていない。

 *

「家族はいますか」と誠司は聞いた。

「妻は十年前に死んだ。子供は三人いる。みんな遠くにいる」

「寂しくないですか」

「寂しい」老人はあっさりと言った。「毎日寂しい。しかし寂しさも、慣れると風景になる」

 風景になる。

 誠司はその言葉に、何かが引っかかった。寂しさが風景になる。それは諦めではないか。しかし老人の顔を見ると、諦めとは違う何かがあった。受け入れた者の、静かな顔だった。

「奥さんのことは、今も思いますか」

「毎日思う」老人は即座に言った。「今日の紅葉を見て、あいつが好きだったな、と思う。昨日は、夕飯を食べながら、あいつならこの味付けに文句を言うな、と思った。毎日、何かのたびに思う」

「それは辛くないですか」

「辛いこともある。しかし」老人は少し考えた。「辛い、ということは、それだけ一緒にいた時間が長かった、ということだ。辛さは、長さの証だ。そう思うようにした」

 誠司は黙った。

 辛さは、長さの証。

 泉への後悔が、誠司の胸に浮かんだ。あの後悔の重さは、三十年間一緒にいたことの重さだ。後悔が深ければ深いほど、共にいた時間が深かったということだ。それはひとつの、愛の形なのかもしれない。

 誠司の目が、少し潤んだ。

 老人は気づかないふりをして、山を見ていた。

 *

「この先、どう生きればいいと思いますか」と誠司は聞いた。

 老人は少し間を置いた。「私に聞くか」

「あなたに聞きたいです」

 老人はゆっくりと息を吸い、吐いた。「私には、答えはない。ただ」老人は山を見たまま言った。「一つだけ、思うことがある」

「何ですか」

「今日一日を、丁寧に生きることだ」老人は静かに言った。「今日の飯を、ちゃんと味わうこと。今日の風を、ちゃんと感じること。今日会った人と、ちゃんと話すこと。それだけだ」

「それだけですか」

「それだけで充分だ」老人は頷いた。「大きなことをしなくていい。遠くを見なくていい。今日一日を丁寧に積み重ねていけば、それがそのまま人生になる。振り返ったとき、ちゃんとした重さがある」

 誠司は、その言葉をゆっくりと受け取った。

 今日一日を丁寧に。

 それは単純に聞こえる。しかし、八十四年生きてきた老人が言うと、単純ではなくなる。その言葉の裏に、どれだけの年月があるか。どれだけの後悔と、受け入れと、手放しがあるか。

 誠司は「ありがとうございます」と言った。

 老人は「礼を言うことでもない」と言った。しかし、少し口元が緩んだ。

 *

 老人はやがて立ち上がった。

 杖をついて、山道をゆっくりと下り始めた。誠司は「お気をつけて」と言った。老人は振り返らずに、小さく手を上げた。

 その背中が、山道の曲がり角で見えなくなった。

 誠司は一人で、休憩所に残った。

 風が吹いた。紅葉の葉が舞った。山は静かだった。

 誠司はしばらく、老人が座っていた場所を見ていた。木のベンチに、老人の温もりがまだあるような気がした。四十年間、毎日ここに来ている老人の。妻を失い、子供たちは遠くにいて、それでも毎日この山に来る老人の。

 先を生きる人がいる。

 誠司はそう思った。自分より二十六年先を生きている人が、今日ここにいた。その人は答えを持っていなかった。しかし、自分なりの在り方を持っていた。毎日山に来るという在り方を。寂しさを風景にするという在り方を。辛さを長さの証と見るという在り方を。

 誠司は五十八だ。八十四にはまだ遠い。しかし、いつかその年齢に近づく。近づけるかどうかはわからないが、もし近づいたとき、あの老人のような顔ができるかどうか。

 できるかどうかは、今日から始まることだ。

 今日一日を、丁寧に。

 誠司は立ち上がり、山道を下り始めた。

 足元に、落ち葉が積もっていた。踏むたびに、かさかさと音がした。その音が、妙に心地よかった。

 下りながら、誠司は今日会った老人のことを考えた。名前も知らない。どこに住んでいるかも知らない。どんな人生を歩んできたかの詳細も知らない。しかし、今日の短い時間に、確かに何かを受け取った。

 旅というのは、そういうものかもしれない。

 名前も知らない誰かから、名前もつかない何かを受け取る。それが積み重なって、旅になる。そして旅が終わったとき、受け取ったものは自分の中に沈んでいく。形にはならないが、確かにそこにある何かとして。

 駅が見えてきた。

 誠司は歩みを緩めずに、駅へと向かった。

 次の列車まで、まだ少し時間があった。

 ホームのベンチに座り、誠司は手帳を取り出した。広告会社の手帳だ。スケジュールが書いてあるページを飛ばして、白いページを開いた。

 ペンを取り出し、書いた。

 今日一日を、丁寧に。

 それだけを書いた。

 インクが乾くのを待ちながら、誠司は空を見た。

 雲が、ゆっくりと動いていた。

 列車の音が、遠くから聞こえ始めた。



八章 選ばなかった道

ー仕事と家族、もう一つの人生ー

 山を下りた誠司は、その夜は麓の宿に泊まった。

 小さな民宿だった。夕食は囲炉裏の周りで出された。鮎の塩焼き、山菜の煮物、猪の肉を使った鍋。宿の主人は寡黙な男で、料理を出すとすぐに引っ込んだ。誠司は一人で、囲炉裏の火を見ながら食べた。

 炭火が、じわじわと燃えていた。

 時折、木が爆ぜる音がした。その音が、静かな宿の中に小さく響いた。煙が細く上がり、天井に向かって消えた。

 誠司は食事を終え、しばらく火を見ていた。

 火は動いている。常に動いている。しかし火が燃えるためには、動かない炭が必要だ。動くものと動かないものが、共に在ることで、火は存在する。

 そんなことを考えながら、誠司は今夜初めて、自分のこれまでの仕事と家族のことを、正面から向き合う気になった。

 旅の間、いくつかの断片は思い出した。しかしそれは、どこか斜めから見るような思い出し方だった。今夜は、正面から見ようと思った。

 囲炉裏の火が、ゆっくりと燃えていた。

 *

 誠司が広告代理店に入ったのは、昭和の終わり、バブルの匂いが漂い始めたころだった。

 最初の配属は、コピーライターの部署だった。先輩のコピーライターに付いて、仕事を覚えた。最初の一年は、とにかく書いた。書いては直され、また書いた。何百枚と書いたコピーのほとんどは、使われなかった。しかしあるとき、一本のコピーが採用された。

 テレビのコマーシャルだった。洗剤のコマーシャルで、誠司が書いたキャッチコピーが画面に出た。たった十二文字のコピーだった。しかし、それが流れているのをテレビで見たとき、誠司は体が震えた。自分の言葉が、日本中に届いている。そう思うと、胸が熱くなった。

 あのときの感覚を、誠司は今も覚えている。

 その後、いくつかの仕事で賞を取った。三十代の誠司は、それなりに仕事が面白かった。クライアントと議論し、チームで夜遅くまで作業し、苦労してできた作品が世に出る喜びがあった。

 しかし、四十代に入ったころから、少しずつ変わっていった。

 面白い仕事より、無難な仕事が増えた。リスクを取るより、前例に倣うことが多くなった。それは誠司自身の変化でもあったし、業界全体の変化でもあった。デジタル化が進み、広告の形が変わった。誠司は新しいものについていけない自分を、どこかで感じ始めていた。

 そのころから、仕事は「やりがい」から「義務」へと変わっていった。

 囲炉裏の火が、小さくなっていた。誠司は炭を一つ足した。

 *

 選ばなかった道、と誠司は思った。

 三十五歳のとき、誠司にはひとつの選択肢があった。

 当時の上司から、新しいプロジェクトへの参加を打診された。独立に近い形で、小さなチームを作り、新しいタイプの広告を試みるというものだった。リスクがあった。しかし、面白そうだった。あのころの誠司には、それに乗る気持ちがあった。

 しかし、結局断った。

 理由は、家族だった。慶介が小学校に入ったばかりで、泉が二人目の子供を望んでいた。安定した収入が必要だと思った。冒険するには、守るものが増えすぎていた。

 結果として、二人目の子供は生まれなかった。泉は「もういい」と言い、それ以上は言わなかった。誠司は、その「もういい」の意味を、当時は深く考えなかった。しかし今になって、あの言葉の重さが、じわじわと伝わってくる。

 あのプロジェクトを選んでいたら、どうなっていただろう。

 仕事はもっと面白くなっていたかもしれない。あるいは失敗して、もっと苦しい状況になっていたかもしれない。泉との関係も、違うものになっていたかもしれない。慶介の育ち方も、変わっていたかもしれない。

 選ばなかった道の先は、誰にも見えない。

 しかし誠司は今夜、その見えない道を少しだけ想像した。見えないからこそ、美しく見える部分がある。それが選ばなかった道の性質だ。選んだ道には、泥や石ころが見える。しかし選ばなかった道には、光だけが見える。

 それは幻想だ。しかし人間は、その幻想なしには生きられないのかもしれない。

 *

 泉のことを、今夜は改めて考えた。

 泉は、賢い女だった。感情的になることが少なく、物事を冷静に見ていた。しかし冷静であるということは、感じていないということではない。むしろ、深く感じているからこそ、冷静に振る舞うことで自分を守っていたのかもしれない。

 結婚して最初の十年は、それなりに幸せだったと思う。

 誠司が仕事から帰ると、泉が夕食を作っていた。慶介はリビングで宿題をしていた。三人で夕飯を食べ、テレビを見て、風呂に入って寝た。それだけのことが、当時は当たり前だった。しかし今思えば、その当たり前がどれほど貴重だったか。

 どこから、ずれ始めたのか。

 誠司にはひとつの原因は見つけられない。大きな出来事があったわけではない。ただ、日々の小さなすれ違いが積み重なった。誠司が泉の言葉を聞き流した夜が、一夜あり、また一夜あった。泉が誠司に何かを期待して、黙って諦めた朝が、一朝あり、また一朝あった。その積み重ねが、三十年かけて、ふたりの間に静かな距離を作った。

 距離は、ある朝突然そこにあった。

 そしてある夜、泉は「自分のための時間が欲しい」と言った。

 誠司は今夜、その言葉の意味をもう一度考えた。自分のための時間。それはつまり、誠司のいない時間だ。誠司のいない場所で、泉は自分を取り戻そうとしている。それは責められることではない。むしろ、遅すぎたくらいかもしれない。

 泉が今、何をしているのかは知らない。

 幸せであってほしい、と思う。

 あの海辺の浜で、誠司は泉にごめんと言った。しかし謝るだけでは足りない。謝ることと、変わることは別だ。誠司は変わらなければならない。何が変わるべきかはまだはっきりしないが、何かが変わらなければならない。

 *

 慶介のことも、今夜は考えた。

 父親として、自分はどうだったか。

 仕事が忙しく、慶介の学校行事にはあまり行けなかった。運動会を見に行ったのは、六年間で三回だけだったと思う。参観日はほとんど欠席した。慶介が受験をした年も、誠司は大きなプロジェクトの真っ最中で、一緒に勉強することができなかった。

 慶介はそれを、表立って責めたことはなかった。

 しかし、中学のころだったか、慶介がぽつりと言ったことがある。「お父さん、いつも仕事だね」。責めているわけではなかった。ただ、そういう事実を述べたような言い方だった。誠司は「そうだな」と言った。それだけだった。

 あのとき、もっと違う答えがあったはずだ。

 しかし誠司は、あのころ、仕事以外のことを考える余裕を持っていなかった。余裕がなかったのではなく、余裕を作らなかった、というのが正確かもしれないが、どちらにせよ、結果は同じだ。

 慶介は大人になり、大阪で家庭を持った。

 誠司との関係は、悪くはない。しかし深くもない。正月に会い、短い会話をして、また別れる。それを繰り返している。それが今の父と息子の関係だ。

 これからでも、変えられるだろうか。

 誠司は思った。五十八と三十二。もう一度、父と息子の時間を作ることができるだろうか。大阪へ行って、慶介と飯を食うことができるだろうか。

 できる、と誠司は思った。

 難しくはない。ただ、踏み出すことが必要なだけだ。

 *

 火が、また小さくなっていた。

 誠司は炭をもう一つ足した。火が少し大きくなった。

 自分の人生を、囲炉裏の火に例えるとしたら、今の誠司はどの段階だろう。燃え盛る時期はとうに過ぎた。しかし、まだ消えてはいない。静かに、しかし確かに燃えている。

 残り火、という言葉がある。

 残り火には、残り火の美しさがある。激しく燃えるのではなく、静かに温もりを保つ。それが残り火の仕事だ。誠司の残りの時間も、そういうものかもしれない。大きなことをするのではなく、静かに、丁寧に、温もりを保つ。

 今日一日を、丁寧に。

 山の老人の言葉が、また浮かんだ。

 誠司は手帳を取り出した。さっき書いた言葉の下に、もう少し書いた。

 泉に、手紙を書こう。

 謝罪ではなく、ただ、今の自分の気持ちを伝える手紙を。旅から帰ったら、書こう。出すかどうかは、書いてから決めればいい。まず書くことが大事だ。言葉の仕事をしてきた男が、最も大切な人に、まだ言葉を届けていない。

 慶介にも、電話しよう。

 用事がなくても、ただ電話する。「元気か」とだけ聞く。それだけでいい。それだけで、何かが少し変わるかもしれない。

 誠司はペンを置き、火を見た。

 炭が赤く光っていた。表面は黒いが、その奥に赤い光がある。外から見るとわからないが、近づくと温もりが伝わってくる。

 人も、そういうものかもしれない。

 外から見ると、誠司はただの中年の男だ。くたびれたサラリーマンだ。しかしその奥に、三十五年間のコピーライターの情熱があり、泉への後悔があり、慶介への父心があり、明美への遠い記憶があり、父の手の感触がある。そういうものが全部、この五十八歳の体の中で、静かに燃えている。

 誰も見えないかもしれない。しかしそこにある。

 それでいい、と誠司は思った。

 見えなくても、そこにある。それが、今の自分の在り方だ。

 *

 宿の時計が、十時を告げた。

 誠司は立ち上がり、囲炉裏の火に向かって手を合わせた。誰かに向けた礼ではない。ただ、今夜の火に向けた感謝だ。この火の傍で、いくつかのことが整理された。

 部屋に戻り、布団に入った。

 天井を見た。古い木の天井だった。節があった。その節が、今夜は顔には見えなかった。ただの節だった。木の節だった。

 それでいい、と思った。

 何もかもが顔に見えなくても、何もかもが意味を持たなくても、それでいい。ただ在ることが、今夜は充分だった。

 誠司は目を閉じた。

 囲炉裏の煙の匂いが、まだ体に残っていた。

 その匂いの中で、誠司は選ばなかった道のことを、最後にもう一度考えた。

 選ばなかった道は、美しいまま、そこにある。しかし誠司が歩いてきた道も、振り返れば、それなりの景色がある。泥も石ころもあった。しかし、花もあった。川もあった。大きな木もあった。

 自分の道を、もう少し丁寧に見ればよかった。歩きながら、もっと周りを見ればよかった。それだけのことだ。

 しかし、気づいた今から、見ればいい。

 残りの道を、丁寧に歩けばいい。

 それだけのことだ。

 誠司は、穏やかに眠りに落ちた。

 囲炉裏の火は、誠司が眠った後も、しばらく静かに燃え続けた。



九章 星の時間

ー地球の時間、宇宙の孤独ー

 翌朝、誠司は民宿を出て、さらに山の奥へと歩いた。

 目的は、特になかった。ただ、もう少しだけ、この山の中にいたかった。都市の時間から遠ざかった場所に、もう一泊だけいたかった。

 山道を二時間ほど歩いたころ、小さな山小屋が見えた。

 営業しているのかどうか、遠目にはわからなかった。近づいてみると、扉に「素泊まりできます」という手書きの看板が出ていた。誠司は扉を叩いた。しばらくして、中から老いた男が出てきた。七十代だろうか。山で日焼けした顔に、白い無精髭が生えていた。

「泊まれますか」と誠司は聞いた。

「一人か」

「はい」

「泊まれる。飯は自分で作ってもらうが」

「それで構いません」

 男は無言で中に招き入れた。

 小屋の中は質素だった。板張りの床に、木のテーブルが一つ。薪ストーブが一台。壁に、山の地図と、古いカレンダーが貼ってあった。宿泊部屋は奥にあり、毛布が積んであった。

 誠司は荷物を置き、窓の外を見た。

 山が見えた。空が見えた。雲一つなかった。

 *

 昼間は山の中を歩いた。

 道のない斜面を、落ち葉を踏みながら登った。木の根をつかみ、岩を越え、どこへ向かうともなく進んだ。鳥の声がした。風が木々の間を抜けていった。遠くで、何かの獣が動く気配がした。

 誠司は、この山が何億年という時間をかけて作られたことを、ふと考えた。

 地球の歴史は、四十六億年だという。人類の歴史は、せいぜい数百万年。文明の歴史は、わずか数千年。誠司の五十八年間など、その中の点にもならない。いや、点以下だ。小数点以下の、さらにその先の数字だ。

 しかし誠司は今、この山の上にいる。

 四十六億年の山の上に、五十八年の人間が立っている。その取り合わせの不思議さを、誠司は今日、初めて正面から感じた。自分がいかに小さいかということを、責めるのでも嘆くのでもなく、ただ、そういうものだと、静かに受け取った。

 斜面の途中に、大きな岩があった。

 誠司はその岩の上に腰を下ろした。岩は冷たく、硬かった。しかし、それが心地よかった。岩の確かさが、自分の体の曖昧さと対照をなして、却って自分の存在を実感させた。

 空は青かった。

 遠くに、別の山の稜線が見えた。その稜線は、誠司が生まれるはるか前から、あの形でそこにあったはずだ。誠司が死んだ後も、おそらく変わらずあそこにある。その永続の中で、誠司は今日だけ、ここから稜線を見ている。

 それはとても、静かな事実だった。

 *

 夕方、小屋に戻った。

 小屋の主人が薪ストーブに火を入れてくれていた。誠司は持参した食料で簡単な夕食を作った。インスタントのみそ汁と、握り飯だった。質素だったが、山の中で食べると、それが充分だった。

 食事を終えると、主人と少し話した。

 主人は、二十年前からここで山小屋を営んでいるという。以前は都市で会社員をしていたが、五十代で全てを手放してここに来た。

「後悔はないですか」と誠司は聞いた。

「ない」主人は即座に言った。「後悔する暇がない。山は忙しい。毎日やることがある。薪を割る、水を汲む、道を整える。それだけで一日が終わる」

「寂しくないですか」

「寂しい」主人はあっさりと言った。「冬は特に寂しい。誰も来ない。雪だけがある。しかしその寂しさは、都市の寂しさとは違う」

「どう違いますか」

 主人は少し考えた。「都市の寂しさは、人がいるのにいない寂しさだ。ここの寂しさは、何もない中にいる寂しさだ。何もない寂しさの方が、ずっと清潔だ」

 清潔な寂しさ。

 誠司はその言葉を、心の中で繰り返した。

 夜になった。主人は早く床についた。誠司は一人、薪ストーブの前に座った。

 *

 夜の十時ごろ、誠司は小屋の外に出た。

 空気が刺すように冷たかった。息が白く見えた。十月の山の夜は、もう冬の入り口だった。

 誠司は上を見た。

 星が、あった。

 都市では決して見えない数の星が、頭上に広がっていた。天の川が、淡く帯のように流れていた。誠司は口を開けたまま、しばらく空を見上げていた。

 星の数が、多すぎて、数えることができなかった。ひとつひとつが光っていた。近い星も、遠い星も、ただそこで輝いていた。

 あの星の光は、何年前に出発したのだろう。

 百光年先の星の光は、百年前に出発した。千光年先の星の光は、千年前に出発した。遠い星の中には、もうとっくに消えてしまったものもあるかもしれない。しかしその光は、今もここへ向かって旅を続けている。届くまで、何千年もかかって。

 消えた星の光が、今夜誠司の目に届いている。

 それはどういうことか。

 誠司には、うまく言葉にできなかった。しかし何か、胸の奥を揺さぶるものがあった。消えても、届く。終わっても、続く。存在が消えた後も、その存在が放った光は旅を続ける。

 人間も、そういうものかもしれない。

 死んだ後も、その人が放った何かは、誰かの中を旅し続ける。父が誠司に残した手の感触が、今も誠司の中にある。明美が残した言葉が、三十五年後の今夜も、誠司の中で光っている。七代前の先祖が、誠司の血の中に何かを残している。

 形はなくなる。しかし、光は続く。

 *

 誠司は地面に寝転んだ。

 冷たい土の上に仰向けになり、両腕を広げた。空が、全部見えた。星が、四方八方にあった。自分が空の中に浮かんでいるような感覚があった。地球という星の表面にへばりついた、小さな一点が、宇宙の中にいる感覚。

 地球は今も動いている。

 一秒に三十キロメートルの速さで、太陽の周りを回っている。誠司は今、猛烈な速さで宇宙を移動しながら、しかしそれをまったく感じずに、ただ星を見ている。その奇妙さが、誠司には妙におかしくて、そして妙に愛おしかった。

 人間というのは、いつもそういう存在かもしれない。

 途方もない何かの中にいながら、それをまったく感じずに、日々の小さなことに一喜一憂している。仕事の評価を気にして、人間関係に傷ついて、老いることを怖れて。その全てが、宇宙の時間からすれば、一瞬の出来事だ。

 しかし、だからといって、小さいことが無意味というわけではない。

 むしろ逆だ、と誠司は思った。宇宙の時間の中で、これほど短い一瞬に、これほど多くのことを感じ、考え、傷つき、喜ぶことができる。それは、人間という存在の、途方もない密度だ。

 短いから、濃い。

 一瞬だから、輝く。

 誠司は空を見たまま、そう思った。

 詩の言葉が、また頭に浮かんだ。「ほんのわずかなひと時なんて、単なるひとつの、たった一点の、歴史にも残らない通過点にしか過ぎない」。そうだ、と誠司は思った。しかし、通過点は通過点なりに、確かにそこを通った。その通過が、何かを変えた。その変化は、見えないかもしれないが、確かにある。

 *

 どのくらい、そうしていただろう。

 体が冷えきったころ、誠司は起き上がった。

 小屋の中に入り、薪ストーブの前に座った。火がまだ残っていた。誠司は薪を一本足した。火が少し大きくなった。

 誠司は手帳を取り出した。

 今夜感じたことを、書き留めたかった。しかし言葉が出てこなかった。星の美しさも、宇宙の広さも、人間の密度も、全部言葉にすると小さくなる気がした。

 誠司はしばらくペンを持ったまま、何も書かなかった。

 そして、ただ一行だけ書いた。

 消えた星の光が、今夜届いた。

 それだけを書いた。

 それで充分だった。

 薪ストーブの火が、静かに燃えていた。窓の外に、星がまだあった。

 誠司は目を閉じた。

 星の光が、瞼の裏に残っていた。

 その光の中で、誠司はゆっくりと、深く眠った。

 夢は見なかった。

 あるいは、夢そのものの中にいたのかもしれない。

 星の時間の中で、誠司の五十八年間は、静かに呼吸していた。

 *

 夜明け前に目が覚めた。

 誠司は再び外に出た。空はまだ暗かった。星は少し減っていた。東の空が、かすかに白み始めていた。

 誠司は深呼吸をした。

 冷たい空気が、肺の奥まで入ってきた。山の空気は澄んでいた。木の匂い、土の匂い、夜露の匂いが混じっていた。

 ここまで旅をしてきた。

 東京の朝から始まり、京都の寺、廃線の町、日本海の浜辺、温泉地の祭り、山の老人、囲炉裏の夜、そして今夜の星空。それぞれの場所で、それぞれの何かを受け取った。

 全部を言葉にすることはできない。しかし、全部が自分の中にある。

 旅は、明日終わる。

 東京に帰る。帰って、また日常が始まる。会社に行き、会議をして、書類を作る。それは変わらない。しかし、誠司自身が少し変わった。何がどう変わったかは、まだはっきりとは言えない。しかし何かが変わった。それだけは確かだ。

 東の空が、橙色に染まり始めた。

 山の稜線が、黒いシルエットになって浮かんだ。そのシルエットの向こうから、光が来た。

 誠司はその光を、静かに受け取った。

 今日も、夜明けが来た。

 地球は今日も、変わらずここにある。星は今日も、遠くで輝いている。消えた星の光は、今日も旅を続けている。

 そしてその全ての中に、誠司という一点が、今日も確かにある。

 それで充分だ、と思った。

 それで、本当に充分だった。




十章 帰路、または出発

――開かれたまま――

 山小屋を出たのは、朝の八時だった。

 主人は玄関まで出てきて、無言で手を挙げた。誠司も手を挙げた。それだけだった。名前も知らない。連絡先も知らない。しかしその別れは、長い付き合いの人と別れるときのような、確かな重さがあった。

 山道を下りながら、誠司は今日の空を見た。

 よく晴れていた。風はなかった。木々の葉が、昨日より少し減っていた。一晩で、また少し散ったのだろう。地面に積もった落ち葉が、朝の光を受けて橙色に輝いていた。

 誠司は歩きながら、この八日間のことを思った。

 京都の大きなケヤキの木。老僧の「石の仕事」という言葉。廃線の錆びた線路と、夕日に金色に輝いたレール。日本海の鉛色の波と、暗い海に向かってごめんと呟いた夜。温泉地の山あいで浮かんだ明美の名前。祭りの太鼓の音と、七十年踊り続けてきた老婆の背中。山の休憩所で出会った八十四歳の老人と「今日一日を丁寧に」という言葉。囲炉裏の火の前で書いた二つの決意。そして昨夜の、満天の星空。

 それら全てが、誠司の中にあった。

 形にはならない。言葉にもしきれない。しかし確かにある。旅の前の誠司と、今の誠司は、見た目は変わらないが、内側に何かが増えた。増えたというより、眠っていたものが少し目を覚ました、という感覚に近いかもしれない。

 山道が終わり、舗装された道に出た。

 *

 駅まで歩く途中、小さな郵便局があった。

 誠司は足を止めた。

 少し考えてから、中に入った。便箋と封筒を一枚ずつ買い、郵便局の窓口脇にある小さな台に向かった。

 誠司はペンを取り、便箋に向かった。

 宛名は、泉にした。

 書き始めると、思ったより言葉が出てきた。謝罪の手紙ではなかった。ただ、旅の途中で感じたことを、いくつか書いた。廃線の錆びた線路が夕日に光っていたこと。日本海で初めて夜明けを一人で見たこと。山の老人に「今日一日を丁寧に」と教わったこと。昨夜の星空のこと。

 そして最後に、一行だけ書いた。

 お互い、残りの時間を丁寧に生きましょう。

 それだけだった。

 封をして、切手を貼り、ポストに入れた。

 ポストの口が閉まった。

 誠司はしばらくそのポストを見ていた。赤いポストだった。どこの町にもある、ごく普通のポストだった。しかし今の誠司には、そのポストが少し特別なものに見えた。自分の言葉が、今そこに入っている。これからどこかへ運ばれ、泉の手に届く。あるいは届かないかもしれない。住所が変わっていれば、戻ってくるかもしれない。しかし、書いて、出したことは変わらない。

 それで充分だと思った。

 *

 駅に着くと、次の列車まで三十分あった。

 誠司はホームのベンチに座り、スマートフォンを取り出した。

 慶介に電話をかけた。

 呼び出し音が三回鳴った。四回目で繋がった。

「もしもし」慶介の声だった。少し驚いたような声だった。「お父さん?」

「ああ」誠司は言った。「今、旅に出てる」

「知ってる。お母さんから聞いた。どこ行ってるの」

「あちこちだ。山の中にもいた」

「一人で?」

「一人で」

 少し間があった。「珍しいね」と慶介は言った。

「珍しいな」誠司も言った。

 また少し間があった。誠司は続けた。「用はないんだ。ただ、声が聞きたくなった」

 慶介は少し黙った。それから「そうか」と言った。その二文字に、何かがあった。拒絶でも、歓迎でもなく、ただ受け取ったという何かが。

「元気か」と誠司は聞いた。

「元気だよ。仕事も、まあ、なんとか」

「そうか」

「お父さんは」

「元気だ。旅をしたら、少し元気になった」

「そっか」慶介は少し笑ったようだった。「よかった」

 誠司は言った。「今度、大阪に行ってもいいか」

 また間があった。「いいよ」慶介は言った。「来なよ。飯食おう」

「ああ」誠司は言った。「そうしよう」

 短い会話だった。しかし誠司には、それで充分だった。用がなくても電話できた。来てもいいと言われた。それだけで、何かが少し変わった気がした。

 列車のアナウンスが流れた。

「じゃあ、また」と誠司は言った。

「うん。気をつけてね」慶介は言った。

 電話が切れた。

 誠司はスマートフォンをポケットにしまい、空を見た。

 雲が出始めていた。白い雲だった。

 *

 列車に乗り、乗り継いで、新幹線に乗った。

 東京へ向かう新幹線の窓際に座り、誠司は外を見た。来るときと逆の方向に、景色が流れていく。田畑が、川が、山が、街が、後ろへ流れていく。

 誠司は、来るときにも同じ景色を見たことを思った。しかし今は、同じ景色が違って見える。来るときは、これらの景色を通り過ぎていく自分を感じた。しかし今は、これらの景色が自分の中に入ってくるような感じがする。

 八日間で、何かが変わった。

 外の世界が変わったわけではない。誠司が変わった。どう変わったかは、まだうまく言えない。しかし確かに何かが違う。風景の受け取り方が、少し変わった。それだけで、世界の見え方が変わる。

 新幹線は静かに走った。

 誠司は手帳を開いた。旅の間に書いたいくつかの言葉を、読み返した。

 今日一日を、丁寧に。

 消えた星の光が、今夜届いた。

 泉に、手紙を書こう。

 慶介にも、電話しよう。

 手紙はもう出した。電話はもうした。残るのは最初の言葉だけだ。今日一日を、丁寧に。これは、今日だけではなく、明日も、明後日も、続けていく言葉だ。

 誠司はそこに、もう一行書き加えた。

 残りの桜を、ちゃんと見よう。

 詩の言葉を思い出していた。「あと何度の桜を見れるのだろ~か?」。誠司にはわからない。あと十回か、二十回か、それ以下か。しかし何回であれ、その一回一回を、ちゃんと見よう。見過ごさないようにしよう。

 それだけのことだ。しかし、それがこれまでできていなかった。

 *

 東京が近づいてきた。

 ビルが増えた。住宅が増えた。川が光った。誠司には馴染みのある景色だ。三十年以上、この景色の中で生きてきた。

 東京は変わっていない。

 しかし誠司には、この景色が少し違って見えた。ビルの一つ一つに、人が住んでいる。窓の一つ一つに、誰かの生活がある。その全員が、それぞれの五十八年間を、あるいは二十年間を、あるいは八十年間を生きている。それぞれの後悔と、それぞれの喜びと、それぞれの眠れない夜を持って。

 誠司は一人だが、一人ではない。

 この街に、同じような重さを持った人間が、無数にいる。それを感じることが、今の誠司にはできた。旅の前は、自分の重さだけが見えていた。しかし今は、他の誰かの重さも、少しだけ感じることができる。

 それが、旅が変えたものの一つかもしれない。

 *

 東京駅に着いた。

 ホームに降りると、人が多かった。スーツ姿の男女、旅行者、学生、老人。みんながそれぞれの方向に歩いていた。誰も誰かを見ていなかった。ただ、前を向いて歩いていた。

 誠司はその流れの中に入り、出口へと歩いた。

 改札を出たところで、ふと足を止めた。

 何があったわけではない。ただ、立ち止まりたかった。ここが旅の終わりであり、また何かの始まりである場所だと感じたから。

 誠司は周りを見た。

 人が流れていた。ここを通る人は、みな何かへ向かっている。到着した人も、出発する人も、ここを通り過ぎる。東京駅という場所は、何万人もの通過点だ。誠司も、今日またここを通過している。

 しかし通過点は、ただの通過点ではない。

 ここで立ち止まり、ここで息をつき、ここで何かを思った。その瞬間は、たった一度しかない。明日また同じ場所に来ても、それは今日の瞬間ではない。今日のこの瞬間は、今日だけのものだ。

 誠司は深く息を吸った。

 東京の空気だった。山の空気とは違う。人の匂いと、排気の匂いと、食べ物の匂いが混じった、複雑な空気だ。しかしそれも、誠司の空気だ。三十年以上、この空気を吸って生きてきた。

 悪くない、と思った。

 *

 家に戻ったのは、夕方だった。

 玄関のドアを開けると、八日間誰もいなかった部屋の、静かな空気があった。誠司は鞄を下ろし、コートを脱いだ。

 台所でお湯を沸かした。コーヒーを一杯だけ作った。

 テーブルに座り、コーヒーを飲んだ。

 窓の外に、銀杏並木が見えた。出発した日よりも、葉が黄色くなっていた。八日間で、確実に秋が深まっていた。

 誠司は銀杏の葉を見ながら、この部屋のことを考えた。

 ここは、変わっていない。同じテーブル、同じ椅子、同じ窓。泉がいなくなってから、誠司が一人で使ってきた部屋。しかし今日は、この部屋が少し違って見えた。空虚ではない。静かなだけだ。静かさは、空虚とは違う。

 誠司は旅の間に受け取ったものを、この部屋に持ち帰った。

 ケヤキの木の気配。波の音。錆びた線路の夕日。祭りの太鼓の余韻。老人たちの言葉。星の光。それらが全部、今この部屋にある。見えないが、ある。

 コーヒーが、温かかった。

 誠司はゆっくりと飲んだ。

 *

 夜になった。

 誠司は机に向かい、便箋を取り出した。泉への手紙はもう出した。今度は、自分のために書こうと思った。

 旅で感じたことを、誰かに伝えるためではなく、ただ自分の中に刻むために。

 ペンを持ち、書き始めた。

 書いているうちに、言葉が思ったより出てきた。詩のような言葉ではなく、ただの散文だったが、それでよかった。自分の言葉で、自分のことを書く。それが今の誠司にできる、最も正直なことだった。

 書きながら、誠司は思った。

 自分は今、長編小説の中にいる。

 生まれてから今日までが、前半だ。後半はまだわからない。どれだけのページが残っているかも、どんな展開が待っているかも、わからない。しかし残りのページがどれほど少なくても、一ページ一ページを丁寧に生きることはできる。

 書き終えた紙を、誠司は机の引き出しにしまった。

 誰かに見せるためのものではない。ただ、自分のためのものだ。

 電気を消す前に、誠司は窓の外を見た。

 銀杏並木の葉が、街灯に照らされて光っていた。黄色い葉が、夜の中で輝いていた。風が吹くたびに、葉がいくつか舞い落ちた。落ちた葉が、アスファルトの上で静かに横たわった。

 明日もまた、葉が落ちるだろう。

 明日もまた、朝が来るだろう。

 誠司はそれを、静かに待てる気がした。

 電気を消した。

 暗い部屋の中で、街灯の光だけが薄く差し込んでいた。

 誠司は布団に入り、目を開けたまま、天井を見た。

 見慣れた天井だった。三十年近く見続けてきた天井だ。しかし今夜は、その天井が少し違って見えた。木の目は同じだ。シミも同じだ。しかし、見る目が違う。八日間の旅を経た目で見ると、この天井にも、長い時間がある。この部屋が建てられた日からの時間が。この部屋で眠ってきた人たちの時間が。

 誠司は静かに、目を閉じた。

 *

 翌朝、誠司は早く目が覚めた。

 まだ暗いうちだった。しかし起き上がり、台所でお湯を沸かした。コーヒーを作り、窓のそばに立った。

 東の空が、かすかに白み始めていた。

 銀杏の葉が、暗がりの中でかすかに揺れていた。まだ街は静かだった。車の音もなく、人の声もなかった。ただ、風の音だけがあった。

 誠司は、コーヒーカップを両手で包んだ。温もりが手のひらに伝わってきた。

 空が、少しずつ明るくなっていった。

 灰色が水色になり、水色に橙が滲んだ。雲が一筋、横に流れていた。その雲の下から、光が来た。

 東京でも、夜明けは来る。

 当たり前のことだ。しかし誠司は今日初めて、この窓からの夜明けを、ちゃんと見た気がした。三十年近く、この窓から空を見てきたはずだが、本当に見ていたかどうかは、怪しい。見ていても、見ていなかった。今日は、見ている。

 銀杏の葉が、朝の光を受け始めた。

 黄色い葉が、金色に輝いた。

 誠司はその光を見ながら、旅のことを思った。旅はもう終わった。しかし旅が始めたことは、まだ続いている。今日一日を丁寧に生きることは、今日も続く。明日も続く。それが終わるのは、誠司自身が終わるときだ。

 誠司は、それでいいと思った。

 答えは出なかった。大きな悟りもなかった。人生の謎が解けたわけでもない。しかし何かが変わった。変わったというより、始まった。小さな、静かな何かが。

 銀杏の葉が一枚、風に舞った。

 くるくると回りながら、ゆっくりと落ちた。

 アスファルトの上に、静かに着いた。

 誠司はそれを見ていた。

 コーヒーが、少し冷めていた。

 しかし誠司は、最後の一口まで、丁寧に飲んだ。

 空が、どこまでも青くなっていった。

 今日も、地球は変わらずここにある。

 消えた星の光は、今日も旅を続けている。

 そして誠司は、今日もここにいる。

 それだけのことが、今日の誠司には、とても大きなことだった。






―あとがきー
 旅先で、あるいは日常の中で、歴史的なものや大きな自然に触れたとき、人は自分の小ささと向き合う。その瞬間が、この小説の出発点だった。

 田中誠司という人物は、特別な男ではない。どこにでもいる、普通の五十八歳だ。しかしその普通の男が、一人で旅に出て、古い木と、廃線と、海と、星と、いくつかの老人と出会うことで、少しずつ変わっていく。大きく変わるのではない。ただ、今日一日を丁寧に生きようと思えるくらいに、変わる。

 人間は通過点だ。地上の長い時間の中で、ほんの一瞬を生きて、過ぎ去っていく。しかしその通過は、確かに何かを変える。消えた星の光が、今夜誰かの目に届くように、人の一生もまた、見えない形で誰かへと届いていく。

 この小説を読んでくださったあなたも、今日という一日を、丁寧に生きてほしい。

 残りの桜を、ちゃんと見てほしい。


Kindle



ー紹介文ー
「消えた星の光が、今夜僕の目に届いた」

広告代理店に勤め、仕事と家族のために「選ばなかった道」を積み重ねてきた五十八歳の男、田中誠司。定年を前に、彼は一人きりの旅に出る。

京都の巨木、日本海の鉛色の波、山あいの祭りの太鼓、そして満天の星空――。
旅先で出会う風景と人々との対話の中で、誠司は「歩んできた道」に転がっていた石ころや泥を、ひとつひとつ見つめ直していく。

人生の黄昏時にさしかかった男が、宇宙という壮大な時間軸の中で見つけた「今日一日を丁寧に生きる」という光。後悔を抱えたまま、それでも前を向いて日常へ帰るための、静かな再生の物語。


素人が

素人なりに

あれこれと試してみる今日


少しづつ

短編から中編へと

移行出来ないかと

文字と格闘しながら 試行錯誤中


それでも

力不足ゆえ

なかなか長編へは届かず


来週 

Kindleへと掲載予定のこれを

少しの間

ここへと載せてみます


わずかでも

ご意見頂けたら

有り難いと思っています





星の光が届く場所

〜選ばなかった道の先で〜


ーまえがきー
人生には、二つの道がある。
 自分が選んだ道と、選ばなかった道だ。

五十八歳になった今、振り返れば、選ばなかった道の先はいつも眩しく、美しく見える。あの時、別の仕事を選んでいたら。あの時、もっと家族と向き合っていたら。そんな「もしも」の数々が、今の自分を追い越していくような気がすることがある。

この物語は、そんな一人の男が、八日間の旅を通じて、自分の「現在地」を確かめる記録である。
 特別な事件は起きない。ただ、歩き、見つめ、考える。

あなたが今、どの道を歩んでいても、あるいはどの道を諦めたとしても、この物語が、夜空を見上げるひとときのような静かな安らぎになれば幸いである。


ー序ー

特に
旅先などで
歴史的なものに出会うと
何かを
深く
考えさせられるもんで...

おい
お前
何かを考えてみろ?... と

おい
お前
も1度
残りの人生を...と

自分の中の
も~ひとりの自分が
突然
直球で 問い掛けてくる

そして
僕らは
一時的に そんな想いに浸り
わずかな後悔と
この先の不安とを
改めて 思い知らされる


大きな木も 
建造物も
美術館の絵画もまた それで

僕らが
ここに来る前から
生まれ来る
ず~~~っと前から

そこで
いくつもの
様々な場面を
多くの先祖たちを
ず~~~っと見届けて来たはずで


僕らが今
ここに佇む
この
ほんのわずかなひと時なんて

単なる
ひとつの
たった1点の
歴史にも残らない
通過点にしか過ぎないわけで

僕らが過ぎ去った後も
また
明日には
誰かがここへと訪れ

また
同じことを 思い 悩み
また
過ぎ去って行く


時代もまた 同じことで
この平成という
厄介な時代さえも
もうすぐに消え去って
また
新たな時代がやってくる


昭和は 狂った時代だったと
一方的に 唱える方がおるけれども

僕らが生きた
この平成 って世も
ただ単に
この国から戦争を失くしただけのもの

しかしながら
人々の心を襲う戦いは
昭和以上に深刻で

いつの世も

賛否両論な中を
敵や障害を避けながら

でも
時折
一瞬の油断から かすり傷を負う

おそらく
大して違わない時代を
何度も何度も
この人間たちは 繰り返すだけで

世代変われば

過去の失態を忘れ
また
そこへと陥る愚かさ

僕らは
あと
何度の夏を迎えるのだろ~か?

あと
何度の桜を見れるのだろ~か?

あと
何度の戦いを見てしまうのだろ~か?... と


ぶ厚く 長い
そんな長編小説に のめり込んで

残りが
ほんのわずかなペ~ジ数だと
突然 気付いたとき

寂しくもなって
なんともいえない気持ちに浸る

地球時間も
なんだか
そんな時期に
迫っているかのよ~で...




一章 出発

ー始まりの空虚ー

 十月の朝は、いつもより早く明けた気がした。

 田中誠司は、カーテンの隙間から差し込む薄い光の中で目を覚ました。五十八歳。その数字が、今朝はやけに重く感じられた。

 天井を見つめる。見慣れた白い天井。三十年近く見続けてきた天井だ。この家に越してきたのは、まだ息子が小学生のころだった。あのころ、天井はもっと白かった気がする。あるいは、見上げる目がもっと若かったのかもしれない。

 六時十五分。目覚まし時計は鳴る前に止めてある。もうずいぶん前から、誠司は目覚ましよりも先に目が覚めるようになっていた。眠れていないのではない。ただ、夜明けとともに目が開く。それだけのことだ。体が年を知っているのだろう、と誠司は思う。

 隣の布団は、もうずっと空のままだ。

 妻の泉が出ていったのは、去年の春のことだった。大きな喧嘩があったわけではない。長い、静かな、疲弊だった。三十年間、ふたりはそれなりに一緒に生きてきた。しかしある夜、泉は静かにこう言った。「私、もう少し自分のための時間が欲しい」。それだけだった。誠司は何も言い返せなかった。言い返す言葉を持っていなかったのではなく、言い返すべき何かを、とうに失っていたことに、そのとき初めて気づいたのだ。

 息子の慶介は、今は大阪にいる。IT系の会社に勤め、三年前に結婚した。孫はまだいない。慶介から電話がかかってくるのは、正月と父の日くらいのものだ。それでいいと思っている。いや、それでいい、と自分に言い聞かせている。

 誠司は布団を払いのけ、起き上がった。

 台所でお湯を沸かしながら、窓の外を見る。東京の住宅地の朝。銀杏並木の葉が、少しずつ黄色く染まり始めていた。隣の家の犬が、短く吠えた。どこかで自転車が走り去る音。それだけだ。

 誠司はコーヒーを一杯だけ飲んだ。

 テーブルの上には、昨夜から出しっぱなしになっている旅行鞄がある。中身はもう詰めてある。着替えが三日分。常備薬。文庫本を二冊。財布とスマートフォン。それだけだ。どこへ行くかは、まだ決めていない。新幹線に乗り、気の向いた駅で降りる。そういう旅だ。

 五十八歳になって、誠司は初めて、行き先のない旅をしようと思った。

 定年まで、あと二年。勤め先の広告代理店では、今は部長という肩書きがついているが、実際のところは閑職に近い。三十代のころ、誠司はそれなりに仕事に燃えていた。コピーライターとして、いくつかの賞も取った。しかし、あるときから、何かが少しずつ擦り切れていくような感覚があった。それがいつからだったか、もう正確には思い出せない。気づいたときには、もう遠くまで来ていた。

 コーヒーカップを洗い、鞄を手に取った。

 玄関を出る前に、一度だけ部屋を振り返った。誰もいない。何もない。ただ、十月の朝の光が、フローリングの床に静かに落ちていた。

 *

 東京駅は、朝の通勤ラッシュが少し落ち着いたころに着いた。

 誠司は、みどりの窓口の前に立ち、しばらく電光掲示板を眺めた。新幹線の行き先が、次々と表示されては消えていく。仙台、名古屋、新大阪、博多、金沢。どれも行ったことのある場所だ。出張で、家族旅行で、同窓会で。それぞれの駅に、それぞれの記憶がある。しかし今日は、その記憶の重さが少し邪魔だった。

 誠司は少し考えてから、京都行きの乗車券を買った。

 特に理由はなかった。ただ、古いものが見たかった。自分よりずっと長く、この地上に立ち続けているものを。

 新幹線の窓際の席に座り、誠司は外を見た。東京の街が、ゆっくりと後ろに流れていく。ビルが、住宅が、川が、工場が。どれも見慣れた風景だ。しかしこうして動く窓の外に見ると、何かが違って見える。まるで、自分が静止していて、世界の方が流れていくような感覚だ。

 スマートフォンに、泉からメッセージが来ていた。「元気ですか」。それだけだった。誠司は少し迷ってから、「旅に出ます」とだけ返した。既読がついた。返信はなかった。

 車内は空いていた。隣の席には誰もいない。誠司はコートを畳んで膝の上に置き、目を閉じた。

 走馬灯、という言葉を思い出した。死ぬ間際に、人生の記憶が走馬灯のように流れると言う。誠司はまだ死にかけているわけではないが、五十八歳という年齢の中に、ときどき、そういう感覚が混じる。何かの拍子に、古い記憶が不意に甦る。それは必ずしも美しい記憶ではない。後悔や、恥ずかしさや、消えてしまいたかった瞬間もある。

 人間は、なぜ過去を持つのだろう、と誠司は思う。

 記憶があるから、後悔ができる。記憶があるから、失ったものを知っている。記憶がなければ、もっと楽に生きられるのではないか。しかしそれは、生きていることにならないのかもしれない。

 新幹線は、静かに加速した。

 *

 京都駅に着いたのは、昼前だった。

 駅を出ると、空が広かった。東京よりも空が広い、という気がいつもする。実際には同じ空なのだろうが、建物の高さや密度のせいか、ここでは空が体に近く感じられる。

 誠司は地図を見ずに歩き始めた。北の方角へ。古い寺の多い方向へ。

 観光客が多かった。外国からの旅行者の声が、あちこちから聞こえてくる。英語、中国語、韓国語。聞き慣れない言語も混じっている。彼らはそれぞれに、カメラを構え、地図を見て、何かを探している。誠司は少し羨ましくなった。初めて見るものの多さが、彼らの目に輝きを与えているのだ。

 自分は何を探しているのだろう。

 答えは出ない。ただ歩く。石畳の道を、古い家の間を、抜けていく。

 小さな神社の前に来たとき、誠司は足を止めた。観光地図には載っていないような、地元の人たちのための小さな社だった。境内に、大きなケヤキの木が立っていた。幹の太さは、大人が三人で抱えてもまだ足りないくらいだ。

 誠司は木の前に立ち、上を見上げた。

 葉が、風に揺れていた。十月の光が、その葉の間を透けて落ちてきた。木の根元には、長い年月で磨り減った石の台座がある。苔が生えている。雨水で刻まれた細い溝がある。

 この木は、いつからここに立っているのだろう。

 百年か。二百年か。あるいはもっと長いか。

 誠司が生まれる前から、ここにいる。誠司の父が生まれる前から。その父の父が生まれる前から。この木は、ずっとここに立ち、風を受け、雨を受け、雪を受け、季節が変わるたびに葉を茂らせ、落とし、また茂らせてきた。

 その長い時間の中に、誠司がここに立っている今という瞬間は、どれほどの重さを持つのだろう。

 木は答えない。ただ、葉が揺れる。

 誠司は、しばらくそこに立っていた。何かを考えようとしていたが、言葉にならなかった。ただ、胸の中に何か静かなものが満ちてくるような感覚があった。それが何なのか、うまく説明できない。悲しみとも違う。寂しさとも違う。ただ、自分が小さいということ。この地上の時間の中で、自分という存在がどれほど一瞬のものかということ。そのことが、言葉ではなく、体の奥に直接届いてくるような感じがした。

 木の向こうに、空が見えた。

 青い空だった。雲が一片、ゆっくりと流れていた。

 *

 昼食は、路地裏の小さな定食屋で食べた。

 カウンターだけの店で、誠司の他には老いた男が一人いた。ふたりとも無言で、それぞれの飯を食べた。テレビがついていたが、音量は低かった。誰かがニュースを読んでいた。政治の話。経済の話。誠司はほとんど聞いていなかった。

 焼き魚定食を食べながら、誠司は窓の外を見た。狭い路地に、猫が一匹、日向ぼっこをしていた。その猫は、誠司が見ても動じなかった。ただ、薄目を開けたまま、日の当たる石の上に体を伸ばしていた。

 あの猫には、過去の重さがないのだろうか。

 馬鹿げた問いだと思いながら、誠司はそんなことを考えた。

 定食屋を出て、また歩いた。今度は川沿いの道を選んだ。鴨川の支流だろうか、細い流れが石の間を縫うように走っていた。水はきれいだった。底の小石が見えた。誠司は立ち止まり、流れを見た。

 水は常に動いている。しかし川は、そこにある。

 ヘラクレイトスが言ったとか言わなかったとか、そんな話を誠司は学生時代に習った気がした。同じ川に二度は入れない。川を流れる水は常に新しい。しかし川はある。それは何なのか。

 誠司はあまり哲学には詳しくない。広告の仕事を三十年やってきた男だ。言葉を扱う仕事だったが、それは哲学の言葉ではなかった。商品の言葉だった。人の心を動かすための言葉だった。それはそれで意味のある仕事だと思っていたし、今も否定はしない。しかし、ときどき思う。あの三十年間に、自分は何か本質的なものを見ていただろうか、と。

 川の水が光を受けて、細かく揺れていた。

 誠司は、コートのポケットに手を入れた。手帳があった。広告会社の手帳だ。来週の会議のスケジュールが書いてある。取引先の名前が書いてある。数字が書いてある。誠司はそれを見て、また閉じた。

 今日は、この旅の間だけは、あの手帳の世界から離れていたかった。

 *

 夕方になった。

 誠司は宿を探した。観光ホテルではなく、小さな旅館がよかった。路地の奥にある、看板も小さな、地味な宿を見つけた。部屋は六畳の和室だった。窓から小さな庭が見えた。

 風呂に入り、浴衣に着替えた。

 縁側に出て、庭を見た。植木が二本。石燈籠が一つ。苔が生えている。もみじが一本、まだ完全には赤くなっていないが、端から色が入り始めていた。

 風が吹いた。もみじの葉が、小さく揺れた。

 誠司はそこに座り、しばらく何も考えなかった。

 正確には、考えようとしなかった。ただ、目の前の庭を見ていた。植木が揺れる。石燈籠が静かに立っている。空が少しずつ暗くなっていく。どこかで鳥が鳴いた。遠くで子供の声がした。そして、また静かになった。

 誠司は、自分の中で何かが、ゆっくりと緩んでいくような感覚を持った。

 何が緩んでいるのかは、よくわからない。ずっと張り続けていた何かが、少しだけ息をついているような感じだ。それは解放ではない。もっと小さな、静かな変化だ。

 夕食が運ばれてきた。小さな膳に、いくつかの小鉢が並んでいた。湯豆腐と、焼き茄子と、煮物と、小さな魚の干物。それだけで充分だと思った。誠司はゆっくりと食べた。

 食べながら、誠司はあの大きなケヤキの木のことを考えた。

 あの木は、今夜もあそこに立っている。誠司がここにいることなど、知らない。誠司がどんな人間であるかも、関係ない。誠司がかつて何をして、何を失ったかも。ただ、立っている。それだけだ。

 それが、誠司には少しだけ、羨ましかった。

 食後、誠司は文庫本を取り出した。持ってきたのは、川端康成の「山の音」だった。以前に一度読んだことがあるが、あのころとは違う読み方ができる気がして、また持ってきた。

 しかし、数ページ読んだところで、本を伏せた。

 眠くなったわけではない。ただ、今夜は文字よりも、この部屋の静けさの中にいたかった。

 電気を消した。

 闇の中で、もみじの気配がした。

 誠司は布団の中で目を開けたまま、天井を見た。見慣れない天井だ。東京の自分の部屋の天井とは違う。木の目が見える。古い木の、温かな色の天井。誰かがここで同じように天井を見た夜が、何百回あっただろう。どんな人が、どんな気持ちで、ここに寝ていたのだろう。

 自分は今、その長い連なりの、一点に過ぎない。

 その思いは、今朝よりも、少し穏やかな重さで、誠司の胸に落ちた。

 目を閉じると、ケヤキの木が見えた。風に揺れる葉が見えた。その葉の間から、青い空が見えた。

 誠司はゆっくりと、眠りに落ちた。

 旅はまだ、始まったばかりだった。




二章 石の記憶

ー時間の重さー

 翌朝、誠司は早く目が覚めた。

 まだ暗いうちだった。旅館の窓から空を見ると、東の端が、わずかに白み始めていた。誠司は浴衣のまま縁側に出て、昨夜と同じ庭を眺めた。もみじは暗がりの中で輪郭だけが見え、石燈籠は夜露を受けて濡れていた。

 静かだった。

 東京では、この時間にも街の音がある。遠くを走る車の音、換気扇の音、どこかの犬の声。しかしここでは、本当に何も聞こえなかった。ただ、風が植木の葉をかすかに揺らす音だけがあった。

 誠司はそこに座り、夜明けを待った。

 空がゆっくりと明るくなっていく。最初は灰色だったものが、やがて薄い水色になり、そこに橙色が混じり始める。雲が一筋、横に長く伸びていた。その雲が、下から光を受けて、じわじわと金色に染まっていく。誠司はそれを見ながら、何も考えなかった。考えないというより、考える必要がなかった。ただ、空が変わっていくのを見ていればよかった。

 夜明けは、毎日起きている。誠司が見ていようといまいと、空は同じように明けていく。しかし人は、なかなかそれを見ない。急ぎすぎているか、眠り続けているかだ。誠司もそうだった。この三十年間、夜明けをこんなふうに眺めたことが、果たして何度あっただろうか。

 朝食を済ませ、誠司は寺へ向かった。

 *

 その寺は、嵐山の奥の方にあった。

 観光客が多く集まる有名な竹林からは少し離れた場所に、ひっそりと山門を構えていた。石畳の参道が、緩やかな上り坂になっていて、両側に古い杉の木が並んでいた。杉の根元には、苔が厚く積もっていた。踏みしめるたびに、足の裏から、その重さが伝わってくるような気がした。

 平日の朝だったせいか、参拝者はほとんどいなかった。

 山門をくぐり、境内に入ると、正面に本堂があった。古い建物だった。柱は黒く、屋根の反りは緩やかで、どこか疲れたような静けさがあった。しかしその疲れは、衰えではなく、長い年月を生き抜いた者の落ち着きのように見えた。

 誠司は本堂の前に立ち、しばらくそこを見上げた。

 この建物は、いつ建てられたのだろう。

 案内板を読むと、創建は平安時代まで遡るとあった。もちろん、その後に何度も修復されてはいるが、この場所に寺が立ち続けてきた歴史は、千年以上に及ぶという。

 千年。

 誠司はその数字を、頭の中で転がしてみた。千年前、この場所に人がいた。灯明をともし、手を合わせ、何かを祈った。その人は、何を祈ったのだろう。病の回復か。戦の平安か。愛する者の幸せか。誠司には想像するしかないが、それが自分の祈りと、根本では違わないような気がした。人間が祈ることの内容は、千年でそれほど変わらないのではないか。

 本堂の脇に、古い石畳の回廊があった。誠司はそこを歩きながら、庭を見た。

 枯山水の庭だった。白い砂が、緩やかな波紋を描くように均されている。その中に、いくつかの石が置かれていた。大きさも形もバラバラな石が、しかし不思議な調和の中に並んでいた。

 石は動かない。

 当たり前のことだ。しかし誠司は、その当たり前のことに、妙に心を打たれた。あの石は、千年前もあそこにあったのだろうか。少なくとも、誠司が生まれる前から、ずっとあそこにいる。雨の日も、雪の日も、真夏の炎天下も。人が来ても来なくても。戦があっても。疫病が流行っても。時代が変わっても。石はそこにいる。

 それが、誠司には少し眩しかった。

 *

 回廊の端に、縁台が一つ置いてあった。

 誠司はそこに腰を下ろした。誰もいない庭を前に、ただ座っていた。

 しばらくして、足音が聞こえた。振り返ると、老いた僧侶が一人、回廊を歩いてくるところだった。白い作務衣を着た、腰の少し曲がった老人だった。年齢は、七十を超えているだろう。しかし歩き方には迷いがなく、足音は静かで確かだった。

 老僧は誠司の前を通り過ぎようとして、ふと立ち止まった。

「遠くからおいでですか」

 穏やかな声だった。

「東京から」と誠司は答えた。

「そうですか」老僧は庭を見た。「いい朝でしたね、今日は」

「ええ」

 老僧はそれ以上何も言わず、また歩き始めた。しかし二、三歩行ったところで、振り返った。

「あの石は」老僧は庭の石を指した。「江戸の初めから、あそこにあります」

「そうですか」

「人が来て、去って。また来て、去って。石は動かない」老僧は静かに言った。「それが石の仕事なんでしょうな」

 そして今度こそ、老僧は去った。

 誠司はしばらく、その言葉を反芻した。

 石の仕事。

 石には仕事がある。動かないことが、石の仕事だ。では人の仕事は何か。動くことか。変わることか。あるいは、変わらないものを守ることか。

 誠司には答えが出なかった。ただ、あの老僧の言葉が、静かな波紋のように胸の中に広がっていった。

 *

 本堂の中に入ることができた。

 薄暗い堂内に、本尊の仏像が安置されていた。金色の光が、蝋燭の炎に揺れていた。線香の煙が、細く上に伸びていた。誠司は賽銭を入れ、手を合わせた。

 何を祈ったか、あとから思い出せなかった。

 祈ったというより、ただ目を閉じていた。闇の中で、自分の呼吸だけが聞こえた。息を吸う。息を吐く。それが繰り返される。その単純なことが、今は妙にありがたく感じられた。

 誠司は、自分がまだここにいるということを、改めて思った。

 五十八年間、ここにいた。ここというのは、この寺ではなく、この地上に、という意味だ。五十八年間、息を吸い、息を吐いてきた。それがどれほどのことか、普段は考えない。しかし今、薄暗い堂内で目を閉じていると、その重さがじわじわと伝わってきた。

 父が死んだのは、誠司が四十二のときだった。七十四歳だった。末期癌で、最後の三ヶ月は病院で過ごした。誠司は仕事の合間を縫って見舞いに行ったが、それで充分だったとは今も思えない。父は最後まで、息子に弱みを見せることを嫌がった。痛みをこらえ、「お前は仕事をしろ」と言い続けた。その父の顔が、今、暗い堂内に浮かんだ。

 父も、若い頃は旅をしたのだろうか。

 誠司は知らない。父の若い頃を、ほとんど知らない。父は多くを語らない人だった。戦後の混乱期を生き、働き、家族を養い、そして死んだ。その内側に何があったかを、誠司は一度もきちんと聞かなかった。

 もう聞けない。

 目を開けると、仏像の金色の光が揺れていた。

 *

 境内を出て、誠司は山の方へ続く道を歩いた。

 人気のない道だった。舗装されていない、土の道だ。両側に竹が生えていた。竹の間から、山の斜面が見えた。秋の光の中で、葉が黄色や橙に染まり始めていた。

 歩きながら、誠司は平成という時代のことを考えた。

 自分が社会に出たのは昭和の終わりごろだった。バブルの匂いがまだかすかに残っていたあの時代。それがはじけて、長い停滞が来た。阪神の震災があり、地下鉄の事件があり、リーマンがあり、東北の震災があった。そのたびに日本は揺れ、しかしまた元に戻ろうとした。戻れたのか、戻れなかったのかは、今もよくわからない。

 詩の一節が、頭に浮かんだ。自分が書いたものではない。旅に出る前の夜、誰かのブログで読んだ言葉だ。「人々の心を襲う戦いは、昭和以上に深刻で」。そうかもしれない、と誠司は思う。銃も爆弾もない戦いが、あの時代にはあった。今もある。見えない傷を負って、しかし傷ついたとも言えず、ただ続けていく人々の姿を、誠司はいくつも見てきた。

 自分自身も、その一人だったかもしれない。

 竹の葉が、さわさわと鳴った。

 道が緩やかに上り、やがて小さな峠のような場所に出た。そこから、京都の街が見渡せた。屋根が連なり、遠くに山が見えた。川が光っていた。空は青く、雲は白く、風は冷たかった。

 誠司はそこに立ち、しばらく街を見た。

 この街も、長い時間を生きてきた。戦で焼かれ、疫病に苦しめられ、それでも人が来て、暮らし、また去っていった。誰かが生まれ、誰かが死に、子供が育ち、老人になった。それが繰り返されて、今この街がある。

 そして今日、誠司がここに立っている。

 明日には、また別の誰かがここに立つだろう。同じ景色を見て、同じような何かを感じるかもしれない。あるいは全く違うことを思うかもしれない。それでもこの場所は、変わらずここにある。

 誠司は深く息を吸った。

 冷たい空気が、肺に入ってきた。山の匂いがした。土の匂い、木の匂い、枯れ葉の匂いが混じっていた。誠司はそれを、ゆっくりと吐いた。

 もう一度、吸った。

 これだけでいい、と思った。今この瞬間、ここで息をしているということ。それだけで、何かが充分だという気がした。それが何に対して充分なのかは、うまく言えない。しかし、そういう感覚があった。

 *

 昼を過ぎたころ、誠司は寺を後にした。

 山門を出るとき、石畳の参道を振り返った。杉の木が、静かに立っていた。その根元の苔が、朝よりも深い色に見えた。日が傾いて、光の角度が変わったせいだろう。

 誠司は一礼して、参道を下った。

 街の方に戻る途中、小さな川に橋がかかっていた。欄干に手をついて、流れを見た。水は澄んでいた。川底の石が、水を通して歪んで見えた。

 石、とまた思った。

 動かないことが仕事、と老僧は言った。

 では、動き続けることしかできない人間は、何を仕事とするのだろう。

 答えは出ない。しかし、問いがあることは悪くない。答えのない問いを持ち歩くことが、旅の意味かもしれないと、誠司は思った。

 橋を渡り、街の方へ歩き続けた。

 空がまた、少し傾いていた。

 西の空に、橙色が混じり始めていた。今日も、夕暮れが来ようとしていた。

 誠司は歩きながら、父のことを、また考えた。泉のことを考えた。慶介のことを考えた。そして、自分のことを考えた。五十八年間、この地上にいた自分という人間が、何を残し、何を失い、今どこへ向かっているのかを。

 答えは、まだなかった。

 しかし、今日一日、古い石と、古い木と、古い建物と、静かな老僧と共に過ごした後で、誠司の中に何かが少し変わっていた。何が変わったのかは、言葉にできない。ただ、昨日よりも少し、自分が地上にいることの意味を、落ち着いて考えられるような気がした。

 旅はまだ続く。

 誠司は宿への道を、ゆっくりと歩いた。



三章 錆びた線路

ー忘れられたものー

 京都を発ったのは、三日目の朝だった。

 次の目的地は、決めていなかった。ただ、海の方ではなく、山の方へ行きたいという気持ちがあった。人が少なく、古く、静かな場所へ。

 誠司は在来線の窓口で、一日乗車券を買った。どこへでも行けて、どこでも降りられる。そういう自由さが、今の自分には合っていた。

 山陰の方向へ向かう列車に乗り、窓の外を眺めながら揺られた。京都の街が後ろに遠ざかり、やがて田畑が広がり、山が近くなった。川が見えた。集落が見えた。柿の木が、橙色の実をつけたまま葉を落としかけていた。

 誠司は何となく、目についた小さな駅で降りた。

 駅名は「梅田口」といった。ホームに降り立ったとき、他に降りる客はいなかった。列車はすぐに扉を閉め、また走り去った。ホームに、誠司一人が残された。

 静かだった。

 虫の声が聞こえた。十月というのに、まだ虫が鳴いていた。山が近いせいだろう。風が吹くたびに、枯れ葉の匂いがした。

 駅舎は小さく、古かった。木造の平屋で、白いペンキがところどころ剥がれていた。待合室に、木のベンチが二つ。時刻表が壁に貼ってあった。次の列車まで、一時間以上ある。

 誠司は改札を出て、駅前の道を歩き始めた。

 *

 町は、静かすぎるほど静かだった。

 商店街らしき通りがあったが、開いている店は少なかった。シャッターが下りたままの店が続いた。理髪店だったらしい場所、小さな食堂だったらしい場所、荒物屋だったらしい場所。看板だけが残り、中はもぬけの殻だった。

 それでも、通りを歩いていると、ときおり生活の気配があった。花屋が一軒、細々と開いていた。老いた女性が一人で店番をしていた。誠司が目礼すると、女性は黙って頷いた。豆腐屋が開いていて、湯気が出ていた。自転車に乗った中学生が、誠司の横を通り過ぎた。

 町は死んでいるわけではない。ただ、縮んでいる。

 誠司はそう思いながら歩いた。かつてここには、もっと多くの人がいただろう。子供の声が聞こえ、荷物を積んだ車が行き交い、店に人が出入りし、夜は灯りが連なっていたはずだ。それがゆっくりと失われ、今のこの静けさになった。その過程に、どれだけの人の一生があったか。

 商店街を抜けると、川があった。

 橋を渡り、川沿いの道を歩いていると、線路が見えた。

 草に埋もれた線路だった。

 *

 廃線になって、もう随分経つのだろう。

 線路は錆び、枕木は朽ちかけていた。草が線路の間から伸び、一部は線路を完全に覆っていた。かつての踏切だったらしい場所には、遮断機の柱だけが残り、腕木はとうに失われていた。柱は傾き、蔓草に絡まれていた。

 誠司は草をかき分けて、線路に近づいた。

 しゃがみこんで、錆びた鉄のレールに触れた。冷たかった。ざらざらしていた。指先に、赤錆が付いた。

 この線路の上を、かつて列車が走っていた。

 当たり前のことだが、その当たり前が、今は不思議なことのように感じられた。ここに列車が来て、人が乗り降りした。学校帰りの子供が乗った。買い物に行く主婦が乗った。出稼ぎに行く若者が乗った。年老いた親に会いに帰る誰かが乗った。その人たちは今、どこにいるのだろう。もうほとんどは、死んでいるかもしれない。

 列車の音も、改札のスタンプの音も、ホームで交わされた言葉も、全部消えた。

 残ったのは、錆びた線路と、傾いた柱と、草だけだ。

 誠司は立ち上がり、線路の跡に沿って歩いた。どこへ続いているのかは知らない。ただ歩いた。草をかき分け、枕木をまたいで、どこへとも知れない方向へ。

 *

 しばらく歩くと、小さな駅の跡が現れた。

 ホームだけが残っていた。コンクリートのホームは、草に侵食されながらも形を保っていた。屋根はなく、柱の根元だけが残っていた。かつて駅名標があったであろう場所には、錆びた鉄骨だけがあった。

 誠司はホームに上がった。

 そこから、周囲の風景が見渡せた。田畑と、山と、集落の屋根と。秋の空が広かった。雲が高く、薄く伸びていた。

 誠司はホームのコンクリートに腰を下ろした。

 ここで、誰かが列車を待っていた。雨の日には、軒下で傘を畳んで。暑い夏には、日陰を探して。冬には、吐く息が白く見えて。その人たちの顔は、もちろん知らない。しかし、誠司には何となくその気配が感じられるような気がした。人が長く使った場所には、何かが残る。形ではなく、匂いでもなく、もっと目に見えない何かが。

 誠司は子供のころを思い出した。

 父に連れられて、汽車に乗った記憶がある。まだ蒸気機関車が走っていたころのことだ。誠司が五歳か六歳のころだったと思う。父の大きな手に引かれて、煙の匂いのするホームに立った。蒸気機関車が来たとき、誠司は怖くて父の脚にしがみついた。父は笑って、誠司を抱き上げた。「怖くない、怖くない」と言いながら、誠司の頭を撫でた。

 その父の手の感触を、今も覚えている。

 大きくて、少し荒れた手だった。工場で働いていた父の手は、いつもどこかに傷があった。誠司はその手が好きだった。子供のころは、父の手を握っていれば、何も怖くなかった。

 父が死んで、十六年が経った。

 誠司は空を見上げた。

 雲が、ゆっくりと流れていた。

 *

 ホームを降りて、また歩いた。

 線路跡を離れ、山の方へ続く細い道を登った。舗装されていない、砂利の道だ。両側に木が生えていた。クヌギとコナラが多かった。どんぐりが地面に落ちていた。誠司は一つ拾い、手のひらで転がした。丸く、小さく、重かった。

 道の途中に、古い石碑があった。

 苔に覆われて、文字がほとんど読めなかった。辛うじて、何かの名前と、数字が見えた。明治、という文字だけがかろうじて読み取れた。誰かが、明治のころにここに碑を建てた。何のための碑かは、もうわからない。建てた人も、建てられた理由も、受け取るべき誰かも、全部消えた。碑だけが残っている。

 忘れられたものは、静かだ。

 誠司はそう思った。怒りもなく、悲しみもなく、ただそこにある。忘れられたことも、知らないかのように。あるいは、忘れられることを最初から知っていたかのように。

 人間は、忘れられることを怖れる。誠司もそうだ。自分が死んだあと、自分のことを覚えている人間がいなくなることを、どこかで怖れている。しかし、この石碑を見ていると、忘れられることがそれほど悲しいことなのかどうか、わからなくなる。忘れられた石碑は、それでもここに立っている。雨を受け、風を受け、苔を纏って。それはそれで、一つの在り方ではないか。

 *

 山を下りて、また町に戻った。

 昼を過ぎていた。開いている食堂を一軒見つけ、入った。

 カウンターだけの店だった。老いた夫婦が切り盛りしていた。定食は一種類だけ。その日の定食は、鯖の塩焼きだった。誠司はそれを頼んだ。

 待つ間、店内を見回した。壁にカレンダーが貼ってあった。地元の農協のカレンダーだ。その横に、古い写真が額に入って飾られていた。白黒の写真で、にぎやかな商店街が写っていた。人が大勢いた。子供も、老人も、着飾った女性も。写真の端に、「昭和三十八年、秋の祭り」と書いてあった。

 誠司はその写真を、しばらく見ていた。

 昭和三十八年。誠司が生まれる前の年だ。写真の中の人たちは、みな生き生きとしていた。笑っている人がいた。荷物を持って歩いている人がいた。誰かと話している人がいた。その全員が、今はいない。少なくとも、ほとんどは死んでいるだろう。しかし写真の中では、みな今この瞬間のように生きている。

 写真というのは、不思議なものだと思った。

 過去を現在に引き留める装置だ。あるいは、現在を未来に届ける瓶に入れた手紙だ。あの写真を撮った人は、六十年後に誠司がこれを見るとは思っていなかっただろう。しかし写真は届いた。時間を超えて。

 定食が出てきた。

 鯖は旨かった。塩加減がよく、身がふっくらしていた。味噌汁は、豆腐と若布だった。漬物は、糠漬けだった。誠司は丁寧に食べた。一口一口、ゆっくりと。

 食べながら、老いた女将と少し話した。

「お一人で旅ですか」と女将は聞いた。

「ええ」

「どちらから」

「東京から」

「遠いとこから」女将は少し目を細めた。「この辺、何もないでしょう」

「いいえ」誠司は言った。「いろいろあります」

 女将は少し考えてから、「そうですかねえ」と言った。自分の町に何があるか、長く住みすぎて見えなくなっているのかもしれない。あるいは、あったものが少しずつ失われていく寂しさを、そう言うことで覆い隠しているのかもしれない。

 誠司には、どちらとも言えなかった。

「廃線の跡を歩いてきました」と誠司は言った。

 女将の顔が、少し変わった。「ああ、あの線路ね」しみじみとした声だった。「昔はね、みんなあれに乗って学校へ行ったんですよ。私も、主人も。懐かしいわ」

「いつ廃線になったんですか」

「もう三十年近くになりますかね。過疎化が進んで、乗る人がいなくなってね」女将は少し遠くを見た。「最後の日、みんなで見送りに行ったんですよ。泣いてる人もいてね」

 誠司は黙って聞いた。

「でも」女将は続けた。「なくなっても、みんな覚えてるんですよね。線路の音とか、汽笛の音とか。体が覚えてるんですかね」

 体が覚えている。

 誠司は、その言葉を心の中で繰り返した。

 *

 駅に戻る道、誠司は再び廃線跡の傍を通った。

 夕方になり、光の角度が変わっていた。西日が錆びた線路を照らし、金色に光らせていた。草の影が長く伸びていた。

 誠司はしばらく、その光景を眺めた。

 錆びた線路が、金色に輝いていた。忘れられた線路が、夕日の中で美しかった。それは矛盾のように思えたが、そうではないかもしれない。忘れられたものが美しいのではなく、すべてのものは、光の当たり方次第で輝く。それだけのことかもしれない。

 あるいは、忘れられることと、美しいことは、両立するのかもしれない。

 人は誰も、いつかは忘れられる。どれほど偉大な人物も、百年後には名前だけになり、二百年後には歴史の一行になり、やがては消える。それでも、その人が生きた事実は消えない。生きたということ自体が、何かを変え、次の何かへと繋がる。その繋がりは、名前が消えたあとも続いていく。

 誠司自身も、そういう繋がりの中にいる。

 父から受け取ったものを持ち、息子へ何かを渡した。それが何であるかは、自分ではよくわからない。しかし、何かは渡った。必ず渡った。それでいいのかもしれない。

 列車が来る時間になった。

 誠司は駅に戻り、ホームで待った。誰もいないホームで、一人で立っていた。風が吹き、誠司のコートの裾を揺らした。

 やがて、遠くから列車の音が聞こえてきた。

 誠司は、その音を静かに聞いた。

 廃線の向こうから聞こえてくるような気がした。錆びた線路の上を、かつての列車が走ってくるような気がした。もちろん、そんなことはない。音は現役の線路から来ている。しかし今日一日、あの廃線跡を歩いた誠司には、生きている線路と死んだ線路が、どこかで繋がっているような気がしてならなかった。

 列車が入ってきた。

 誠司は乗り込んだ。席に座り、窓の外を見た。

 夕日の中で、小さな町が遠ざかっていった。

 シャッターの降りた商店街が見えた。川が光った。山が暗くなり始めた。そして、草に埋もれた廃線の跡が、一瞬だけ見えた。

 誠司は、その一瞬を、目に焼き付けた。

 忘れまい、と思った。

 忘れられた線路のことを、自分だけは忘れまいと思った。

 列車は走り続けた。

 夜が、山の向こうから静かに下りてきた。



四章 波の数だけ

ー孤独と静けさー

 海が見たくなったのは、特に理由のないことだった。

 山陰の在来線を乗り継ぎ、日本海側へ出た。車窓から海が見えた瞬間、誠司は思わず身を乗り出した。十月の日本海は、鉛色だった。波が高く、白い泡が砂浜に打ち寄せていた。空と海の境界が曖昧で、どこまでが空でどこからが海なのか、遠くでは判然としなかった。

 誠司はその景色を見ながら、これだ、と思った。

 何がこれだ、なのかは説明できない。ただ、自分が今必要としているものがここにある、という感覚があった。

 海沿いの小さな町で降りた。観光地ではない。漁港のある、素朴な町だった。旅館を一軒見つけ、飛び込みで部屋を頼んだ。年配の女将が出てきて、少し驚いた顔をしたが、「どうぞ」と通してくれた。

 部屋は二階だった。窓を開けると、海が見えた。

 誠司は窓枠に手をついて、しばらく海を見た。波が来て、砕けて、引いていく。また波が来て、砕けて、引いていく。その繰り返しが、果てしなく続いていた。

 誠司はそれを見ながら、何かが少しずつほぐれていくような感覚を持った。

 *

 夕方、浜辺を歩いた。

 人は誰もいなかった。十月の日本海の浜辺に、観光客は来ない。地元の人も、この時間にここへは来ないらしかった。誠司一人が、波打ち際を歩いた。

 砂は濡れていた。足が少し沈んだ。波が来るたびに、足元まで水が届いた。靴が濡れるのも構わず、誠司は歩き続けた。

 波の音が大きかった。

 打ち寄せる波の音は、他の全ての音を消した。風の音も、自分の呼吸の音も、頭の中で鳴り続けていた様々な声も。波の音だけが、体の周りを満たした。

 誠司はふと立ち止まり、目を閉じた。

 波の音だけがあった。

 規則的なようで、不規則だった。同じ波は二つとない。それでも、打ち寄せるという事実だけは変わらない。波は繰り返す。しかし、繰り返される波のひとつひとつは、世界に一度しかない。

 人の一生も、そういうものかもしれない、と誠司は思った。

 似たような人生が繰り返される。生まれ、育ち、働き、老い、死ぬ。その繰り返しの中で、しかしひとつひとつの命は、世界に一度しかない。誠司という人間が生きたこの五十八年間は、宇宙の歴史の中では砂粒ほどの時間だ。しかし、誠司にとっては全てだ。誰かの五十八年間と取り替えることのできない、誠司だけの時間だ。

 目を開けると、波が来ていた。

 誠司は一歩後ろに引いた。波は靴の先まで来て、引いていった。

 *

 浜辺の端に、防波堤があった。

 誠司はそこまで歩き、コンクリートの上に腰を下ろした。海を正面に見る形で座った。風が強く、コートの前をはためかせた。誠司はボタンを閉め、首をすくめた。

 空が、夕暮れの色に染まり始めていた。

 雲の切れ間から、細い光の筋が海に落ちていた。その光が当たった部分だけ、海面が金色に輝いた。周りは依然として鉛色だったが、その一点だけが光っていた。

 誠司はその光を見ながら、泉のことを考えた。

 泉と最後に海に来たのは、いつのことだったろうか。記憶を辿ると、息子の慶介がまだ小学生のころだった。夏休みに、千葉の海水浴場へ行った。慶介は水を怖がって、なかなか入ろうとしなかった。泉が手を引いて、少しずつ連れて行った。慶介が初めて波に乗れたとき、泉は大きな声で笑った。その笑い声を、誠司は今でも覚えている。

 あのころの泉は、よく笑っていた。

 いつから笑わなくなったのか、誠司には正確にはわからない。少しずつ、だったと思う。仕事が忙しくなり、誠司が家を空けることが増えた。泉は子育てと家事を一人でこなした。文句は言わなかった。ただ、笑う回数が少しずつ減っていった。誠司はそれに気づいていたが、どうすればいいかわからなかった。いや、わかろうとしなかったのかもしれない。

 去年、泉が出ていく前の夜、ふたりで食卓についていた。誠司はテレビを見ていた。泉は黙って食器を洗っていた。その背中を見ながら、誠司は何か言わなければならないと思っていた。しかし言葉が出てこなかった。三十年間、言葉を扱う仕事をしてきた男が、最も大切な瞬間に、言葉を持っていなかった。

 波が打ち寄せた。

 砕けて、引いていった。

 誠司は海を見続けた。

 *

 暗くなる前に宿に戻った。

 風呂に入り、体を温めた。湯船に浸かりながら、天井を見た。木の天井だった。節があった。その節の模様が、何かの顔に見えた。誠司は少し笑った。子供のころ、天井の節を怖がったことを思い出した。夜中に目が覚めると、天井の節が顔に見えて、布団を頭まで被った。

 あのころは、夜が怖かった。

 今は、夜が怖くない。代わりに、別の何かが怖い。先のことが怖い。残りの時間が怖い。自分が何者であるかが、わからなくなることが怖い。

 子供のころの恐怖は単純だった。暗いことが怖い。知らないものが怖い。しかし大人になると、恐怖は複雑になる。見えないものではなく、見えすぎるものが怖くなる。

 夕食は部屋に運ばれてきた。

 刺身が出た。地の魚だった。鯛と、烏賊と、鰤だった。どれも新鮮で、歯ごたえがあった。蟹の味噌汁が出た。香りが強く、体が温まった。誠司は丁寧に食べた。

 食べながら、窓の外を見た。もう暗くなっていた。海は見えないが、波の音は聞こえた。部屋の中まで、低い波の音が届いてきた。

 その音を聞きながら、誠司は一人でいることの意味を考えた。

 孤独、という言葉がある。誠司は今、客観的には孤独だ。妻はおらず、子供は遠くにおり、友人もここにはいない。しかし、孤独を感じているかというと、そうでもない。むしろ、この一人でいることの静けさの中に、何か満ちてくるものがある。

 一人でいることと、孤独であることは、違う。

 誠司はそう思った。一人でいることは、状態だ。孤独は、感覚だ。状態が感覚を決めるわけではない。人の中にいても孤独なことがある。一人でいても、孤独でないことがある。

 今の誠司は、一人でいる。しかし波の音が聞こえ、夕食の温かさが体にあり、この宿の、この部屋の、この夜の静けさが周りを包んでいる。それだけで、何かが充分だという気がする。

 *

 夜が更けた。

 誠司は床に就いたが、眠れなかった。眠れないというほどではないが、目が覚めていた。波の音が続いていた。

 誠司は布団の中で、自分のこれまでの人生を、静かに振り返った。

 大学を出て、広告会社に入った。最初の数年は辛かった。仕事がわからず、先輩に叱られ、泣きそうになった夜もあった。しかしあるとき、コピーを書くことの面白さに気づいた。言葉で人の心を動かすことができる。その発見が、誠司を仕事に向かわせた。

 泉と出会ったのは、二十八のときだった。同じ会社の、違う部署にいた。最初に話したのは、社員食堂でのことだった。誠司が持ったトレーが不安定で、味噌汁をこぼしそうになったとき、泉が「危ない」と言って手を添えてくれた。それが最初だった。

 その泉が、今はいない。

 いない、という言い方は正確ではない。泉は生きている。どこかで、誠司とは別の時間を生きている。しかしここにはいない。誠司の日常の中にいない。三十年間、そこにあった何かが、もうない。

 それが寂しいかというと、寂しい。

 正直に言えば、寂しい。しかしその寂しさは、以前に感じていた寂しさとは少し質が違う。以前の寂しさは、焦りや怒りや後悔が混じっていた。しかし今感じている寂しさは、もっと静かだ。波の音のように、繰り返し来ては引いていく。

 波の音が、また聞こえた。

 誠司はその音に、耳を澄ました。

 波は何も解決しない。何も変えない。ただ、打ち寄せて、引いていく。それだけだ。しかしその繰り返しの中に、何か途方もない忍耐がある。海は何千万年も、この繰り返しを続けてきた。人間の歴史など、その中のほんの一瞬に過ぎない。

 誠司はその忍耐を、少し分けてもらえるような気がした。

 *

 翌朝、夜明け前に目が覚めた。

 誠司は着替えて、浜辺に出た。まだ暗かった。波の音だけがあった。空の端が、かすかに白み始めていた。

 誠司は砂の上に立ち、海を向いた。

 何も見えなかった。暗い海と、暗い空があるだけだった。しかし波の音は聞こえた。足元まで波が来て、砂を濡らして、引いていった。

 誠司は、声に出さずに、泉に話しかけた。

 ごめん、と思った。何に対してのごめんかは、うまく言えない。全部に対して、だと思う。気づくのが遅すぎたことに対して。言葉を持っていなかったことに対して。三十年間、大切なものを大切にできなかったことに対して。

 謝って、どうなるわけでもない。泉には聞こえない。しかし誠司は、この暗い海の前で、言わなければならなかった。誰かに向けてではなく、ただ自分自身に向けて。

 空が少しずつ明るくなっていった。

 暗かった海が、少しずつ形を現した。波の白さが見えてきた。水平線が、ぼんやりと見え始めた。そして、水平線の向こうから、薄い橙色が滲み出してきた。

 夜明けだった。

 誠司は、その夜明けを見た。

 昨日の京都でも夜明けを見た。しかし今日の夜明けは、また違った。海から来る夜明けは、大きかった。遮るものが何もない水平線から、光がゆっくりと、しかし確実に広がってきた。

 誠司の目に、薄く涙が滲んだ。

 泣いているわけではなかった。ただ、目が潤んだ。風が強かったせいかもしれない。あるいは、光があまりに静かで、あまりに大きかったせいかもしれない。

 波が来た。

 今度は少し大きな波で、誠司の足先を完全に覆った。冷たかった。十月の日本海の水は、もう冬の冷たさだった。しかし誠司は動かなかった。その冷たさの中に、確かに自分がいるという感覚があった。

 生きている、と思った。

 ただそれだけのことが、今この瞬間、途方もなく大きなことのように感じられた。

 波が引いた。

 空が、どんどん明るくなっていった。

 誠司はしばらくそこに立ち続けた。足が冷たかった。風が強かった。しかし動く気になれなかった。この場所に、もう少しいたかった。この夜明けの、この波の音の中に。

 やがて、宿の方から朝食の匂いが漂ってきた。

 誠司は海に向かって、小さく頭を下げた。

 それから踵を返し、宿へと戻った。

 砂に残った足跡が、波にゆっくりと消されていった。



五章 春の名前

ー若い頃の恋、失ったものー

 海辺の宿を出て、誠司は少し内陸の方へ向かった。

 特に目的地はなかった。ただ、昨夜の海があまりに大きかったせいか、今日はもう少し小さなものの中にいたかった。山の間の、静かな集落のような場所に。

 バスに乗り、終点まで行った。終点は、山あいの小さな温泉地だった。観光客が少し来ているらしく、旅館が数軒並んでいた。誠司は日帰り入浴ができる宿を一軒見つけ、昼前に湯に浸かった。

 誰もいない湯船だった。

 窓から、小さな川が見えた。川の向こうに、紅葉した山が見えた。赤と橙と黄色が混じり、空の青に映えていた。湯の温度はちょうどよく、誠司はゆっくりと体を沈めた。

 目を閉じると、名前が浮かんだ。

 朝倉明美。

 三十五年ぶりに、その名前を声に出さずに思った。

 *

 誠司が二十三歳のとき、明美は二十一歳だった。

 大学の先輩後輩という関係ではなく、同じアルバイト先で知り合った。当時の誠司は、広告代理店への就職が内定していた年で、卒業までの時間を惜しむように遊んでいた。明美は文学部の学生で、詩を書いていた。

 最初に話したのは、バイトの休憩室だった。明美が文庫本を読んでいた。誠司が表紙を見ると、中原中也の詩集だった。「好きなんですか」と誠司は聞いた。明美は本から顔を上げて、「好きというより、必要なんです」と言った。

 その答えが、誠司には強く刺さった。

 好きなのではなく、必要。その言葉の重さが、誠司には新鮮だった。自分はこれまで、何かを必要だと思ったことがあったか。好きなものはあった。しかし必要なものは、あまり考えたことがなかった。

 明美との付き合いは、半年ほど続いた。

 毎週末、どこかへ出かけた。映画を見た。古本屋を巡った。川沿いを歩いた。明美はよく詩の話をした。誠司はそれをうまく理解できなかったが、聞くことは好きだった。明美が話すとき、その目に何かが灯った。それを見ることが、誠司には嬉しかった。

 ある秋の日、ふたりで多摩川の土手に座っていた。

 夕日が川を橙色に染めていた。明美は川を見ながら、こんなことを言った。「私ね、詩で食べていきたいんです。馬鹿だって思うでしょ」。誠司は少し考えてから、「馬鹿じゃない」と言った。「でも、難しいとは思う」。明美は苦笑いして、「そうですよね」と言った。

 あのとき、誠司は何と言うべきだったのか。

 今でも時々、考える。「馬鹿じゃない、やればいい」と言えばよかったのか。あるいは何も言わずに、ただ頷けばよかったのか。言葉を扱う仕事を三十年やった今も、あの瞬間の正解がわからない。

 *

 別れたのは、誠司が就職して半年が経ったころだった。

 仕事が忙しくなり、会う回数が減った。誠司は新しい環境に追われ、明美のことを考える余裕を失っていた。そのことに、当時は気づかなかった。ただ流れに乗って、気づけば遠くまで来ていた。

 最後に会ったのは、居酒屋だった。

 明美は「もういいです」と言った。怒っているわけではなかった。ただ、静かにそう言った。誠司は何も言い返せなかった。謝ることはできたが、それが正しいとも思えなかった。ただ、コップのビールを見つめていた。

 明美が席を立ったとき、誠司は「ごめん」とだけ言った。

 明美は振り返らなかった。

 それが最後だった。

 誠司はその後、仕事に没頭し、数年後に泉と出会い、結婚した。明美のことを考える時間は、少しずつ少なくなっていった。しかし、完全に消えたわけではない。何かの拍子に、ふと浮かぶことがある。多摩川の夕日の色を見たとき。詩集の表紙を見かけたとき。あるいは今夜のように、一人で湯に浸かっているとき。

 *

 湯から上がり、誠司は宿の縁側に座った。

 川の音が聞こえた。紅葉した山が、午後の光を受けていた。色が、朝よりも深くなっていた。

 明美は今、どこにいるのだろう。

 結婚したのか、していないのか。詩を書き続けているのか。幸せなのか。誠司には何もわからない。三十五年という時間は、完全に別の人生を作るのに十分な長さだ。

 しかし誠司は、明美に幸せでいてほしいと思った。

 それは未練ではない。少なくとも、今の誠司が感じているのは未練ではないと思う。ただ、かつて自分と時間を共にした人が、今もどこかでちゃんと生きていてほしい、という願いだ。それは泉に対しても、慶介に対しても、父に対しても——父はもうこの世にいないが——同じように感じることだ。

 人は、誰かと時間を共にすることで、その人の中に何かを残す。

 明美は誠司の中に、「必要なものを持て」という言葉を残した。あの居酒屋での別れのあと、誠司はしばらくその言葉を忘れていた。しかし三十年の仕事の末に、今、その言葉の意味がわかるような気がする。

 好きなものではなく、必要なものを。

 誠司にとって、必要なものは何か。

 仕事か。家族か。言葉か。それとも、もっと別の何かか。

 答えは、まだ出ない。しかし、問いを持っていることが大事だと、今は思う。

 *

 夕方、温泉地の小さな食堂で夕食を食べた。

 隣のテーブルに、若いカップルが座っていた。二十代半ばくらいだろうか。ふたりは小声で話しながら、時折笑い合っていた。楽しそうだった。

 誠司はその様子を、盗み見るように見た。

 あのふたりは、今が一番輝いている時期かもしれない。これから何が待っているかを知らずに、ただ今この瞬間の幸せの中にいる。それはとても美しいことだ。しかし同時に、誠司には複雑な気持ちもあった。

 あのころに戻りたいか、と問われれば、正直なところ、よくわからない。

 若さは美しい。しかし若いころの誠司は、多くのことに気づいていなかった。目の前にあるものの重さを、受け取りそこねていた。年を重ねた今の方が、少なくとも、見えているものは多い。それが老いることの、ひとつの意味なのかもしれない。

 若いカップルが笑った。

 誠司も、つられるように、少し口元が緩んだ。

 *

 その夜、誠司は宿の部屋で文庫本を開いた。

 川端康成の「山の音」だ。京都の旅館で数ページ読んで、そのままになっていた本だ。

 主人公の信吾は、六十代の男だ。老いを感じ、記憶の中に生き、若い頃の恋を時折思い出す。誠司はその信吾に、今の自分を重ねた。

 小説の中で、信吾はこんなことを思う。人間は何かを失いながら生きていく。しかし失ったものが、消えるわけではない。失ったものは、自分の中のどこかに沈んでいて、ときおり浮かび上がってくる。

 誠司は本を閉じ、天井を見た。

 失ったもの。

 明美との時間。父の手の感触。泉の笑い声。慶介の幼いころの顔。仕事に燃えていたあの頃の自分。そういうものが、全部自分の中のどこかにある。失ったのではなく、沈んでいる。

 沈んでいるものは、旅の中で少しずつ浮かんでくる。

 それが、旅の意味なのかもしれない。日常の慌ただしさの中では、沈んだままのものが、こうして一人で静かにいると、ゆっくりと上がってくる。それは時に痛みを伴う。しかし、痛みの中にも、確かに何かがある。自分がここまで生きてきたという、証のようなものが。

 川の音が聞こえた。

 誠司は目を閉じた。

 明美の声が、遠くで聞こえるような気がした。「好きというより、必要なんです」。その声は若く、はっきりしていた。三十五年の時間を経て、それでも色褪せなかった。

 人の声というものは、不思議だ。

 顔は忘れる。しかし声は残る。あるいは、声に乗った言葉が残る。明美が残した言葉は、三十五年間、誠司の中に沈んでいて、今夜ここで浮かび上がった。

 誠司はその言葉を、もう一度、心の中で繰り返した。

 必要なもの。

 旅はまだ、答えを出していない。しかし、問いは深くなっている。深くなることが、今は大切な気がした。

 川の音が続いていた。

 山の闇が、窓の外で静かに呼吸していた。

 誠司は、いつの間にか眠っていた。

 夢の中に、多摩川の夕日があった。橙色の川を、二十三歳の誠司と二十一歳の明美が、黙って並んで見ていた。ふたりの間には、何も言葉がなかった。しかし夢の中で誠司は、あのときよりもずっとはっきりと、隣にいる人の温もりを感じていた。

 夢は、朝まで続いた。


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プロローグ 三部

都市伝説

東京の片隅で、ひっそりと語られている噂がある。

——“本当の自分の身体で死んだ男がいるらしい”

スワップが当たり前になった時代に、
そんな選択をした人間は珍しい。

若者たちは、その男のことを
「オリジナルマン」と呼んでいた。

誰も本名を知らない。
ただ、ひとつだけ言葉が残っているという。

——このまんまで、結構。

その言葉は、SNSで拡散され、
動画のコメント欄に書かれ、
街の落書きに刻まれ、
やがて都市伝説のように広がっていった。

「このまんまで、結構」
その言葉の意味を、
誰も正確には知らない。

けれど、どこか胸に引っかかる。
借り物の身体で生きることに慣れた若者たちの心に、
小さな棘のように刺さる。

——“このまんま”って、なんだ?

——“結構”って、どういうことだ?

その問いは、
ある若者の人生を静かに変えていく。

名前は、凛。

十九歳。
スワップワーカー。
自分の身体で生きることを、
ほとんど諦めている少女。

彼女がこの言葉に出会ったとき、
世界は少しだけ揺れ始めた。

風の中で、
誰かの声が微かに震えた。

——このまんまで、結構。

それは、未来へ向けた
小さな祈りのようだった。



一章:入れ替わりの街

東京は、もう昔の東京ではなかった。

高層ビルの間を縫うように走るスワップ専用レーン。
街角のカフェには「本日の身体:若年男性・高代謝タイプ」と書かれた看板。
駅前の大型スクリーンでは、スワップ事故の速報が流れている。

——“本人不在のまま働く社会”。
——“借り物の身体で生きる若者たち”。

そんな時代になっていた。



凛(りん)は十九歳。
スワップワーカーとして、日々違う身体で働いている。

今日の身体は、二十六歳の女性。
身長は自分より十センチ高く、
腕は細いのに力がある。
視界の高さが違うだけで、世界が少しだけ遠く見えた。

「……今日も、借り物か」

凛は駅前のガラスに映る自分を見つめた。
そこにいるのは“自分”ではない。
でも、もう慣れてしまった。

自分の身体は、
生まれつき心臓が弱く、長時間働けない。
だから凛は、スワップを選んだ。

——“自分の身体で生きる”なんて、贅沢だ。

そう思うようになっていた。



今日の仕事は、配送センターの仕分け作業。
スワップワーカーの中でも、比較的軽い仕事だ。

「凛ちゃん、今日の身体、当たりじゃん。動きやすそう」

同じワーカーの美咲が声をかけてきた。
彼女は今日、筋肉質な男性の身体を借りている。

「まぁね。軽いし、視界も広いし」

「いいなぁ。私の今日の身体、肩こりひどいんだよね」

二人は笑い合った。
笑い声は、どちらも“本来の声”ではない。

それでも、誰も気にしなかった。

——声なんて、身体なんて、
 もう“選べる時代”なのだから。



昼休み、凛はセンターの屋上に出た。
風が強く、借り物の髪が揺れた。

そのとき、隣で誰かが小さく咳をした。

振り向くと、一人の青年が座っていた。
細い身体。
伏せた目。
そして——

声が、出ない。

青年は首元の端末を操作し、
機械音声が流れた。

《こんにちは》

凛は少し驚いた。

「……こんにちは。スワップワーカー?」

青年は頷いた。

《声が出ないから、スワップしてる。
 “声のある身体”を借りれば、話せるから》

凛は胸が少し痛んだ。

「……そっか」

青年は続けた。

《でも、最近は……自分の声じゃない気がして》

「借り物だからね」

《うん。でも……借り物の声で話してると、
 本当の自分がどこにいるのか、わからなくなる》

凛は言葉を失った。

青年は、静かに笑った。
声のない笑いだった。

《名前は、悠斗(ゆうと)》

「凛。……よろしく」

二人の間に、風が吹いた。
その風の中で、
凛はふと、ある噂を思い出した。

——“このまんまで、結構”。

都市伝説の言葉。
誰かが残した、意味のわからない言葉。

でも、なぜか胸に引っかかる。

悠斗が端末を操作し、文字を表示した。

《ねぇ、凛。
 “このまんまで、結構”って……知ってる?》

凛は息を呑んだ。

「……なんで、それを?」

悠斗は空を見上げた。
風が、彼の髪を揺らした。

《最近、街でよく聞く。
 “本当の身体で死んだ男がいた”って》

凛の胸の奥で、
何かが静かに揺れた。

——このまんまで、結構。

その言葉が、
凛の人生を変えるとは、
まだ誰も知らなかった。


二章:声のない青年

悠斗(ゆうと)には、生まれつき声帯がなかった。
正確には、声帯はあるが機能していない。
医師は「奇跡的に命は助かった」と言ったが、
その“奇跡”は、悠斗にとって祝福ではなかった。

彼は幼い頃から、
「声が出ない」という事実に、
ずっと追い詰められてきた。

言いたいことが言えない。
叫びたいときに叫べない。
笑っても、声が出ない。

——世界に、自分が存在していないような感覚。

それが、悠斗の“日常”だった。



スワップ技術が一般化したとき、
悠斗は迷わず登録した。

「声の出る身体」を借りれば、
自分も“普通”になれる。
そう思った。

初めてスワップした日のことを、
彼は今でも覚えている。

借りた身体は、二十歳の大学生。
声は少し高く、よく通る。
その声で「こんにちは」と言った瞬間、
涙が止まらなかった。

——あぁ、これが“声”なんだ。

それ以来、悠斗はスワップに依存した。
自分の身体でいる時間は、
一日のうち数時間だけ。

声のない自分に戻る時間は、
いつも息苦しかった。



屋上で凛と出会った日、
悠斗は珍しく“自分の身体”で来ていた。

理由は、自分でもよくわからなかった。
ただ、朝起きたとき、
「今日はこの身体でいたい」と思った。

凛は、そんな悠斗を不思議そうに見つめた。

「声……出ないんだよね?」

悠斗は頷き、端末に文字を打った。

《うん。でも、今日は……このままでいいかなって》

「このままで?」

《うん。なんとなく》

凛は少し笑った。

「変わってるね」

《よく言われる》

風が吹き、二人の髪が揺れた。
その揺れは、どこか似ていた。

凛はふと、悠斗の端末に映る文字を見つめた。

《このまんまで、結構》

「……それ、知ってるの?」

《うん。最近、街でよく聞く。
 “本当の身体で死んだ男がいた”って》

凛は胸がざわついた。

「都市伝説でしょ?」

《でも……なんか、気になる》

「何が?」

悠斗は空を見上げた。
声は出ないのに、
その表情は“声を探している人”の顔だった。

《“このまんま”って、どういう意味なんだろう》

凛は答えられなかった。

自分の身体で生きることを諦めた凛と、
自分の身体を嫌い続けてきた悠斗。

二人は、同じ問いの前に立っていた。

——“このまんま”って、なんだ?

風が吹き、
街のどこかで誰かが笑い、
誰かが別の身体で働き、
誰かが自分を見失っていく。

その中で、
凛と悠斗の心にだけ、
小さな震えが生まれていた。

それは、
誠が残した“声の震え”と同じものだった。


三章:誠の残響

凛は、その日もスワップセンターの帰り道、
駅前の雑踏を抜けながら、
悠斗の言葉を思い返していた。

——“このまんまで、結構”。
——“本当の身体で死んだ男がいた”。

都市伝説。
ただの噂。
そう思おうとしても、胸の奥がざわついた。

「……なんで、こんなに気になるんだろ」

自分でも理由がわからなかった。

スワップが当たり前の時代に、
“自分の身体で死ぬ”なんて、
ほとんど誰も選ばない。

それなのに——
その男は、そうしたらしい。

凛は、駅前の古い喫茶店の前で足を止めた。
ガラス越しに、店内の壁に貼られた紙が目に入った。

《このまんまで、結構》

黒いマジックで書かれたその言葉は、
落書きのようで、
祈りのようでもあった。

「……ここにもあるんだ」

凛は思わず店に入った。



店内は静かで、
古いジャズが流れていた。
カウンターの奥にいた店主が、
凛を見るなり微笑んだ。

「いらっしゃい。初めてだね」

「はい……あの、壁の言葉……」

店主は「あぁ」と頷いた。

「最近、若い子がよく聞きに来るよ。
 “このまんまで、結構”ってやつだろ?」

「……はい。誰が書いたんですか?」

店主は少しだけ目を細めた。

「亡くなった常連さんだよ。
 名前は……桐島誠さん」

凛の心臓が跳ねた。

「……本当にいたんですか?
 都市伝説じゃなくて?」

「いたよ。
 スワップを断って、
 自分の身体のまま亡くなった人だ」

凛は息を呑んだ。

「どうして……そんなことを?」

店主はカウンターを拭きながら言った。

「“このまんまで、結構”って言ってたよ。
 自分の身体で生きて、自分の身体で死ぬ。
 それが一番自然だって」

凛は言葉を失った。

自分の身体で生きることを諦めた凛。
自分の身体を嫌い続けてきた悠斗。

そんな二人にとって、
その言葉はあまりにも眩しかった。

「……その人、どんな人だったんですか?」

店主は少し考えてから答えた。

「声がね、震えてた。
 でも、その震えが……あったかかった」

凛の胸の奥で、
何かが静かに震えた。

——声の震え。
——誠。

名前を聞いた瞬間、
凛はなぜか涙が出そうになった。

「……その人のこと、もっと知りたいです」

店主は微笑んだ。

「そう思う子が、最近増えてるよ。
 “借り物じゃない自分”を探してるんだろうね」

凛はゆっくりと頷いた。

“借り物じゃない自分”。

その言葉が、
胸の奥に深く刺さった。

店を出ると、
夕暮れの風が頬を撫でた。

その風の中で、
誰かの声が微かに震えた気がした。

——このまんまで、結構。

凛は立ち止まり、
胸に手を当てた。

「……誠さんって、誰?」

その問いは、
これから凛の人生を大きく動かしていく。

まだ、本人は知らない。


四章:借り物の人生

スワップセンターの朝は、いつもざわついている。
今日の身体を選ぶ若者たちの声、
端末の電子音、
そして、どこか落ち着かない空気。

凛は受付の列に並びながら、
昨日の喫茶店で聞いた言葉を思い返していた。

——“このまんまで、結構”。
——“自分の身体で生きて、自分の身体で死ぬ”。

そんな生き方が、この街にまだ残っていたなんて。

「凛ちゃん、今日の身体どうするの?」

後ろから声がして振り向くと、
美咲が腕を組んで立っていた。
今日の美咲は、モデルのように背の高い女性の身体だ。

「うーん……軽いやつがいいかな」

「軽いのは人気だよ。
 ほら、あそこ見て」

美咲が指差した先には、
“若年・高代謝タイプ”の身体を求めて並ぶ長い列があった。

「みんな、借り物の身体じゃないと働けないんだよね」

美咲は軽く笑ったが、
その笑いはどこか乾いていた。

「自分の身体で働くなんて、もう無理だよ。
 だって、効率悪いし、疲れるし、
 給料もスワップのほうが高いし」

凛は黙って頷いた。

——“自分の身体で生きる”なんて、
 もう贅沢な時代なんだ。

そう思っていた。
昨日までは。



スワップ後、凛は配送センターで働いた。
今日の身体は、二十代前半の男性。
筋肉がよく動き、視界が広い。
重い荷物も軽々と持てる。

「凛ちゃん、今日の身体、当たりじゃん!」

美咲が笑いながら言った。
彼女は今日は小柄な女性の身体で、
重い荷物に苦戦している。

「交代しよっか?」

「やだよー。凛ちゃんの身体、絶対疲れるもん」

二人は笑い合った。
その笑い声は、どちらも“本来の声”ではない。

でも、誰も気にしなかった。

——声も、身体も、選べる時代。

それが当たり前だった。



休憩室では、
スワップ依存の若者たちが思い思いに話していた。

「昨日の身体、マジで最高だったわ。
 筋肉のつき方が違うんだよね」

「私なんて、三日連続で同じ身体借りてるよ。
 もう自分の身体より落ち着く」

「わかるー。
 自分の身体って、なんか“違和感”あるよね」

凛はその会話を聞きながら、
胸の奥がざわついた。

——“自分の身体って、違和感”。

それは、凛自身も感じていたことだった。

でも昨日、喫茶店で聞いた言葉が、
その感覚を揺らしていた。

——“このまんまで、結構”。

自分の身体で生きることを選んだ男。
借り物ではなく、
“本物”の自分で生きた人。

そんな生き方が、
この街にまだ残っていたなんて。

凛は胸に手を当てた。

「……私の“このまんま”って、なんだろ」

答えはまだ見つからなかった。

ただ、
借り物の身体で働く自分が、
昨日より少しだけ“遠く”に感じられた。



仕事が終わり、スワップセンターに戻ると、
悠斗が待っていた。

今日の悠斗は、
“声の出る身体”を借りていた。

「凛」

その声は、昨日の無音とは違い、
はっきりと響いた。

「……話したいことがある」

凛は息を呑んだ。

悠斗の瞳は、
“借り物の声”ではなく、
“本当の自分”を探している人の目だった。

「“このまんまで、結構”って言葉……
 俺、どうしても気になるんだ」

凛の胸の奥で、
また何かが静かに震えた。

——借り物の人生の中で、
 二人は“本当の自分”を探し始めていた。


五章:かぐわしきものたち

スワップセンターの裏手には、
若者たちが“勝手に”集まる場所があった。

正式な名前はない。
ただ、みんなはそこを 「かぐわしき庭」 と呼んでいた。

理由は誰も知らない。
けれど、そこに集まる若者たちは、
どこか“香り”のようなものをまとっていた。

借り物の身体の匂いではなく、
本来の自分の奥底から漂う、
かすかな、しかし確かな“気配”。

凛はその日、悠斗に誘われて初めてそこを訪れた。



「ここ……何?」

「スワップに疲れた奴らが集まる場所」

悠斗は、声の出る身体を借りていた。
その声はよく通り、
しかしどこか不安定で、
“本物ではない”ことがすぐにわかる。

凛は周囲を見渡した。

廃ビルの屋上。
落書きだらけの壁。
古いソファ。
そして、十人ほどの若者たち。

彼らは皆、
“自分の身体ではない身体”で座っていた。

けれど——
その表情は、どこか素顔に近かった。

「お、悠斗。今日は“自分の身体”じゃないんだな」

筋肉質の男性の身体を借りた少女が笑った。
声は低いが、仕草は完全に少女のものだった。

「……今日は話したいことがあって」

悠斗が言うと、
別の若者が凛を見て言った。

「そっちの子、新入り?」

「凛。スワップワーカー」

「へぇ。ようこそ、“かぐわしき庭”へ」

その言い方は、
歓迎というより“仲間認定”に近かった。

凛は少し戸惑いながら座った。

「みんな……なんでここに?」

少女が答えた。

「自分の身体でいるのが、怖いからだよ」

別の青年が続けた。

「でも、借り物の身体でいるのも……疲れるんだ」

「だから、ここに来ると落ち着くの。
 “本当の自分”がどこかにいる気がして」

凛は息を呑んだ。

——本当の自分。

その言葉は、
昨日からずっと胸の奥で揺れていた。

悠斗が凛の隣に座り、
静かに言った。

「みんな、“自分の身体”が嫌いなんだよ。
 でも、“借り物の身体”も好きじゃない」

「……じゃあ、どうしたいの?」

悠斗は空を見上げた。

「わからない。
 でも……“このまんまで、結構”って言葉を聞いてから、
 なんか……揺れてる」

その瞬間、
周囲の若者たちが一斉に反応した。

「その言葉、知ってるの?」

「最近、街でよく見るよな」

「“オリジナルマン”のやつだろ?」

凛は驚いた。

「みんな……知ってるの?」

少女が頷いた。

「うん。あれ、なんか……刺さるんだよね。
 “借り物じゃない自分”で生きろって言われてる気がして」

青年が続けた。

「でもさ……“このまんま”って、どのまんま?」

「“結構”って、どういう意味?」

「そもそも、自分の身体で生きるって……どうやるの?」

誰も答えられなかった。

ただ、
その問いが“痛いほどリアル”だった。

凛は胸に手を当てた。

——私の“このまんま”って、なんだろ。

そのとき、
風が吹き、屋上の空気が揺れた。

まるで誰かが、
そっと囁いたように。

——このまんまで、結構。

凛は思わず振り返った。
しかし、そこには誰もいなかった。

ただ、
胸の奥で微かに震えるものがあった。

それは、
誠が残した“声の震え”と同じものだった。



帰り道、凛は悠斗に言った。

「ねぇ……誠さんって、誰?」

悠斗は少しだけ笑った。

「それを知りたくて、俺はここに来てる」

凛は立ち止まった。

「……私も知りたい」

二人の間に、
静かな風が吹いた。

その風の中で、
未来がほんの少しだけ動いた。


六章:悠斗の叫び

悠斗は、その日“自分の身体”でセンターに来ていた。
声の出ない身体。
細くて、弱くて、借り物の身体よりずっと不便な身体。

けれど、彼の表情はどこか決意に満ちていた。

「……悠斗、今日はスワップしないの?」

凛が尋ねると、
悠斗は端末に文字を打たず、
ただ首を横に振った。

その仕草は、
“言葉を使わずに伝えようとしている”ように見えた。

凛は胸がざわついた。

「……話したいことがあるんでしょ?」

悠斗はゆっくりと頷いた。



二人は、スワップセンターの裏手にある
“かぐわしき庭”へ向かった。

屋上には、いつもの若者たちがいた。
借り物の身体で、借り物の声で、
それでも“本当の自分”を探している人たち。

悠斗が姿を見せると、
少女が驚いたように言った。

「え、今日は“自分の身体”なの?」

悠斗は頷いた。
そして、深く息を吸った。

その瞬間、
凛は気づいた。

——悠斗は、今日“声のない身体”で何かを伝えようとしている。



悠斗は、胸に手を当てた。
そして、ゆっくりと口を開いた。

声は出ない。
空気だけが震え、
喉の奥でかすかな音が漏れた。

「……っ……」

それは、声にならない声だった。
けれど、
その震えは“叫び”だった。

凛は息を呑んだ。

悠斗は、もう一度口を開いた。
喉が震え、
胸が震え、
身体全体が震えた。

「……っ……あ……」

声は出ない。
けれど、
その震えは、確かに“言葉”だった。

少女が小さくつぶやいた。

「……伝えようとしてるんだ」

青年が息を呑んだ。

「声が出なくても……伝えようとしてる」

凛は涙がこぼれそうになった。

悠斗は、端末に頼らず、
借り物の身体にも頼らず、
“自分の身体”で叫んでいた。

——ここにいる。
——俺は、ここにいる。

その震えは、
誠の“声の震え”と同じだった。



やがて、悠斗は膝に手をつき、
大きく息を吐いた。

凛はそっと近づき、
彼の肩に手を置いた。

「……聞こえたよ」

悠斗は顔を上げた。
声は出ないのに、
その目は“言葉を伝えた人”の目だった。

凛は続けた。

「声じゃなくても……ちゃんと届いた」

悠斗の目に涙が浮かんだ。

少女が言った。

「ねぇ……“このまんまで、結構”って、
 こういうことなんじゃない?」

青年が頷いた。

「借り物じゃなくて……
 本当の自分の身体で、
 本当の自分を伝えるってこと」

凛は胸に手を当てた。

——“このまんま”って、
 もしかして“自分の身体”のことなの?

風が吹き、
屋上の空気が揺れた。

その揺れは、
誠の声の震えと同じリズムだった。

悠斗は、声の出ない喉を押さえながら、
小さく微笑んだ。

その笑顔は、
借り物ではない“本物の悠斗”だった。



七章:誠の娘

凛は、あの日からずっと胸の奥がざわついていた。

——誠。
——“このまんまで、結構”。
——自分の身体で生きて、自分の身体で死んだ男。

都市伝説だと思っていた存在が、
喫茶店の店主の言葉で“現実”に変わった。

そして凛は、
その男のことをもっと知りたいと思い始めていた。



その日、凛はスワップセンターの近くにある
小さな図書館に立ち寄った。

古い建物で、
スワップ世代の若者はほとんど来ない場所だ。

「……ここなら、何か残ってるかも」

凛は受付で尋ねた。

「あの……“桐島誠”という人の記録、ありますか?」

司書は少し驚いた顔をした。

「珍しい名前を聞くわね。
 若い子がその人を探すなんて」

「知ってるんですか?」

司書は頷いた。

「ええ。あの人は……“最後のオリジナル”って呼ばれてたわ」

凛の心臓が跳ねた。

「……本当に?」

「本当よ。
 スワップを断って、自分の身体で亡くなった人なんて、
 もうほとんどいないもの」

司書は棚から一冊の古い冊子を取り出した。

「これ、地域の記録誌。
 亡くなったときの記事が少しだけ載ってるわ」

凛は震える手で受け取った。

ページをめくると、
小さな記事が目に入った。

《桐島誠さん(享年55)、自宅で死去。
 スワップ治療を拒否し、
 “このまんまで、結構”と語ったという。》

凛は息を呑んだ。

——本当に言ったんだ。

そのとき、
背後から声がした。

「……その人のこと、知りたいの?」

凛が振り返ると、
そこに立っていたのは——

沙也香だった。

誠の娘。
都市伝説の“オリジナルマン”の、
たった一人の家族。

凛は言葉を失った。

沙也香は静かに微笑んだ。

「その冊子……父のことよ」

「……あなたが、誠さんの……?」

「娘です。
 最近、若い子が父の言葉を探してるって聞いて……
 気になって来てみたの」

凛は胸が熱くなった。

「……どうして、誠さんはスワップを拒否したんですか?」

沙也香は少しだけ目を伏せた。

「父はね……“自分の声の震え”が好きだったの」

「声の……震え?」

「そう。
 借り物の身体じゃ、あの震えは出ない。
 父はそれを“自分の証拠”だって言ってた」

凛の胸の奥で、
何かが強く揺れた。

——声の震え。
——自分の証拠。

沙也香は続けた。

「父はね……
 “このまんまで、結構”って言ったけど、
 あれは“諦め”じゃないの」

「じゃあ……何?」

沙也香は凛の胸にそっと指を向けた。

「“あなたのままで、生きていい”って意味よ」

凛は息を呑んだ。

その言葉は、
借り物の身体で生きてきた凛の心に、
深く深く刺さった。

「……誠さんは、そんなことを……」

「父は、自分の身体を誇ってたわけじゃない。
 ただ、“借り物じゃない自分”を大切にしたかっただけ」

凛の目に涙が浮かんだ。

——借り物じゃない自分。
——このまんまで、結構。

沙也香は優しく言った。

「あなた……父の言葉に触れたんでしょ?」

凛は小さく頷いた。

「……はい。
 でも、まだ意味がわからなくて」

沙也香は微笑んだ。

「わからなくていいの。
 父の言葉は、“揺らすため”にあるんだから」

凛は胸に手を当てた。

確かに、揺れている。
昨日からずっと、
自分の中の何かが揺れ続けている。

沙也香は続けた。

「もしよかったら……父の家に来る?
 “声の震え”が残ってるかもしれない」

凛は息を呑んだ。

——誠の家。
——“声の震え”が残っている場所。

「……行きたいです」

その瞬間、
凛の人生は静かに方向を変えた。

風が吹き、
図書館の窓が微かに揺れた。

その揺れは、
誠の声の震えと同じリズムだった。


八章:揺れる街

スワップセンターの巨大スクリーンが、
突然、赤い警告画面に切り替わった。

《スワップ同期エラー発生》
《一部の利用者が帰還できません》

その瞬間、
街の空気が変わった。

ざわめきが走り、
人々がスマホを取り出し、
SNSには瞬く間に動画が溢れた。

——“身体に戻れない人がいるらしい”
——“借り物の身体のまま意識が固定された”
——“スワップの闇がついに露呈した”

凛はセンターの前で立ち尽くした。

「……嘘でしょ」

美咲が青ざめた顔で駆け寄ってきた。

「凛ちゃん!今日のスワップ、全部停止だって!
 帰還できない人が出てるって……!」

「そんな……」

凛の胸がざわついた。
昨日まで当たり前だった“借り物の身体”が、
突然、恐ろしいものに変わった。



その頃、
“かぐわしき庭”にも緊張が走っていた。

筋肉質の身体を借りた少女が叫んだ。

「どうしよう……!
 私、今日の身体、返せないかもしれないって……!」

別の青年が震える声で言った。

「俺……自分の身体、もう何年も使ってないんだよ……
 戻れなかったら……どうなるんだよ……」

借り物の身体に依存してきた若者たちが、
初めて“本当の身体”の存在を思い出していた。

凛は胸が痛んだ。

——私も、同じだ。

自分の身体は弱い。
働けない。
息が続かない。
だからスワップに頼ってきた。

でも今、
その“頼り”が崩れ始めている。



そこへ、
息を切らした悠斗が駆け込んできた。

今日の悠斗は——
自分の身体だった。

声は出ない。
細くて弱い身体。
それでも、彼は走ってきた。

凛が駆け寄る。

「悠斗……!大丈夫?」

悠斗は端末を取り出し、震える指で文字を打った。

《スワップ……危ない。
 俺……今日、借りなくてよかった》

凛は息を呑んだ。

「……どうして、借りなかったの?」

悠斗は胸に手を当てた。

《“このまんまで、結構”って……
 昨日からずっと頭に残ってて》

凛の胸が強く揺れた。

悠斗は続けた。

《俺……自分の身体で生きるの、怖かった。
 でも……借り物の身体で生きるのも……怖い》

その言葉は、
“かぐわしき庭”にいた全員の胸に刺さった。

少女が泣きながら言った。

「……私たち、どうすればいいの?」

青年が震える声で言った。

「“このまんま”って……
 どのまんまなんだよ……」

凛は胸に手を当てた。

誠の娘・沙也香が言っていた。

——“あなたのままで、生きていい”。

その言葉が、
今、街全体に必要とされている気がした。

凛は深く息を吸い、
初めて“自分の身体”のことを考えた。

弱い身体。
不便な身体。
でも——

「……私、戻るよ。
 自分の身体に」

その瞬間、
“かぐわしき庭”の空気が揺れた。

悠斗が凛を見つめ、
ゆっくりと頷いた。

《俺も……戻る》

街が揺れている。
スワップが揺れている。
若者たちの価値観が揺れている。

その揺れの中心で、
凛と悠斗は初めて“自分の身体”を選ぼうとしていた。

風が吹き、
屋上の空気が震えた。

その震えは、
誠の声の震えと同じリズムだった。


九章:凛の決断

スワップセンターの前には、
帰還できない利用者の家族が集まり、
ニュースクルーが押し寄せ、
街全体がざわついていた。

——借り物の身体に閉じ込められる。
——自分の身体に戻れない。

その恐怖は、
スワップに依存してきた若者たちの心を
一気に締めつけていた。

凛も、その中にいた。

今日の身体は借りていない。
スワップ停止のため、
“自分の身体”で来るしかなかった。

弱い心臓。
すぐに息が切れる肺。
重い足。
視界の低さ。

すべてが不便で、
すべてが“自分そのもの”だった。

「……こんな身体で、生きていけるのかな」

凛は胸に手を当てた。
鼓動は弱く、
けれど確かに“自分のリズム”で鳴っていた。

そのとき、
背後から静かな足音がした。

「凛」

振り向くと、悠斗がいた。
もちろん、彼も“自分の身体”だ。
声は出ない。
細くて弱い身体。
それでも、彼はまっすぐ凛を見ていた。

悠斗は端末を取り出し、
ゆっくりと文字を打った。

《怖い?》

凛は小さく頷いた。

「……怖いよ。
 だって、私の身体……弱いし、
 働けないし、
 みんなみたいに動けないし……」

悠斗は凛の手をそっと握った。
その手は冷たく、
しかし確かに“本物の手”だった。

《俺も怖い。
 声が出ない身体で生きるの、ずっと怖かった》

凛は息を呑んだ。

悠斗は続けた。

《でも……借り物の身体で生きるほうが、
 もっと怖いって気づいた》

凛の胸が強く揺れた。

《“このまんまで、結構”って……
 そういうことなんじゃないかな》

凛は涙がこぼれそうになった。

「……このまんまの私で、生きていいってこと?」

悠斗は頷いた。

《うん。
 弱くても、
 不便でも、
 声が出なくても、
 息が切れても……
 それが“自分”なら、それでいい》

凛は胸に手を当てた。

弱い鼓動。
不安定な呼吸。
でも、それは“借り物ではない自分”の証拠だった。

「……私、決めた」

悠斗が凛を見つめる。

「もう、借り物の身体に逃げない。
 弱いままでいい。
 このまんまで、生きる」

その言葉は、
凛の人生で初めて“自分の身体”を肯定した瞬間だった。

悠斗は微笑んだ。
声は出ないのに、
その笑顔は“言葉よりも強い声”だった。

《俺も……このまんまで、生きる》

二人の間に、
静かな風が吹いた。

その風は、
誠の声の震えと同じリズムで揺れていた。

——このまんまで、結構。

凛は空を見上げた。

「誠さん……ありがとう」

街は揺れている。
スワップは揺れている。
若者たちの価値観も揺れている。

でも凛は、
初めて“揺れない自分”を見つけた気がした。

それは、
弱くて、
不完全で、
でも確かに“自分”だった。


十章:悠斗の声

スワップ障害のニュースが街を覆い、
人々の不安が渦を巻くように広がっていた。

——借り物の身体に閉じ込められるかもしれない。
——自分の身体に戻れないかもしれない。

そんな恐怖が、
スワップ依存の社会を一気に揺らしていた。

その混乱の中で、
悠斗は“自分の身体”のまま、
凛の前に立っていた。

声は出ない。
細くて弱い身体。
それでも、彼の目は強かった。



「悠斗……大丈夫?」

凛が駆け寄ると、
悠斗は端末を取り出さず、
ただ首を横に振った。

そして、胸に手を当てた。

——伝えたい。

その意思だけが、
全身から溢れていた。

凛は息を呑んだ。

「……話したいんだね。
 声が出なくても、伝えたいことがあるんだよね」

悠斗はゆっくりと頷いた。



二人は“かぐわしき庭”へ向かった。
屋上には、いつもの若者たちが集まっていたが、
その表情は不安に満ちていた。

「スワップ、今日も全部停止だって……」
「戻れない人、増えてるらしいよ……」
「どうしよう……私、自分の身体に戻るの怖い……」

その声の中に、
悠斗は静かに立った。

少女が驚いたように言った。

「悠斗……今日は自分の身体なんだ」

悠斗は頷き、
深く息を吸った。

そして——
声の出ない喉を震わせた。

「……っ……」

空気が震え、
胸が震え、
全身が震えた。

声にはならない。
音にもならない。
けれど、その震えは“叫び”だった。

凛は胸が締めつけられた。

悠斗は、もう一度口を開いた。

「……あ……っ……」

声は出ない。
しかし、
その震えは確かに“言葉”だった。

少女が涙をこぼした。

「……伝えようとしてるんだ……」

青年が呟いた。

「声がなくても……伝わるんだな……」

凛は涙を拭い、
悠斗の前に立った。

「……聞こえたよ」

悠斗は息を呑んだように目を見開いた。

凛は続けた。

「声じゃなくても……ちゃんと届いた。
 あなたの“このまんま”が、ここにあるって」

悠斗の目に涙が溜まった。

彼は端末を取り出し、
震える指で文字を打った。

《俺……ずっと、自分の身体が嫌いだった。
 声が出ないから。
 みんなみたいに話せないから。
 でも……》

凛は静かに頷いた。

《でも……“このまんまで、結構”って言葉を聞いて……
 初めて、自分の身体で伝えたいと思った》

凛の胸が熱くなった。

「……悠斗。
 あなたの声は、ちゃんとあるよ。
 喉じゃなくて……ここに」

凛は自分の胸を指差した。

悠斗は涙をこぼしながら、
小さく笑った。

その笑顔は、
借り物ではない“本物の悠斗”だった。



そのとき、
屋上に風が吹いた。

若者たちの髪が揺れ、
空気が震えた。

その震えは、
誠の声の震えと同じリズムだった。

——このまんまで、結構。

凛は空を見上げた。

「誠さん……あなたの言葉、
 ちゃんと届いてるよ」

街は揺れている。
スワップは揺れている。
若者たちの価値観も揺れている。

でも悠斗は、
初めて“自分の声”を手に入れた。

声のない声。
震えだけの声。
それでも、確かに世界に届く声。

そして凛もまた、
自分の身体で生きる決意を固めていた。

——揺れながら、前へ進む。

それが、
誠が残した“声の震え”の意味だった。


十一章:かぐわしきものたちへ

スワップ障害の混乱は、
一夜にして街の空気を変えてしまった。

昨日まで当たり前だった“借り物の身体”が、
今日は誰もが恐れる“リスク”になった。

センター前には長い列ができ、
「戻れないかもしれない」という噂が
人々の顔色を曇らせていた。

そんな中、
“かぐわしき庭”には、
いつもの若者たちが静かに集まっていた。

借り物の身体のまま震える者。
自分の身体に戻る勇気が出ない者。
そして——
戻ることを決めた者。

凛と悠斗は、その中心に立っていた。



少女が不安げに言った。

「……ねぇ、どうすればいいの?
 自分の身体に戻るの、怖いよ……」

青年が続けた。

「俺なんて、もう三年も戻ってないんだぞ。
 戻ったら……動けないかもしれない」

凛は胸に手を当てた。

弱い鼓動。
不安定な呼吸。
でも、それは“自分の証拠”だった。

「……怖いよ。
 私も、自分の身体は弱いし、
 働けないし、
 みんなみたいに動けない」

若者たちが凛を見つめた。

「でもね……」

凛はゆっくりと言葉を続けた。

「借り物の身体で生きるほうが、
 もっと怖いって気づいたの」

少女が息を呑んだ。

「……どうして?」

凛は空を見上げた。

「だって、借り物の身体って……
 “誰かの人生”なんだよ。
 そこに自分はいない」

風が吹き、
屋上の空気が揺れた。

悠斗が前に出た。
声の出ない喉を押さえ、
胸に手を当てる。

そして、
声にならない声を震わせた。

「……っ……あ……」

その震えは、
昨日よりも強く、
昨日よりも確かだった。

少女が涙をこぼした。

「……伝わる……
 声がなくても……伝わるんだ……」

青年が呟いた。

「“このまんまで、結構”って……
 こういうことなのか……?」

凛は頷いた。

「うん。
 弱くても、
 不便でも、
 声が出なくても、
 息が切れても……
 それが“自分”なら、それでいい」

若者たちの表情が、
少しずつ変わっていった。

恐怖の色が薄れ、
代わりに“揺れながらも立とうとする意志”が
ゆっくりと浮かび上がっていく。

少女が言った。

「……私、戻ってみる。
 自分の身体に」

青年も続けた。

「俺も……戻るよ。
 怖いけど……戻らなきゃ」

別の若者が笑った。

「なんか……変だな。
 自分の身体に戻るだけなのに、
 こんなに勇気がいるなんて」

凛は微笑んだ。

「それでいいんだよ。
 揺れながらでいい。
 怖がりながらでいい。
 それが“このまんま”なんだから」

悠斗が凛の隣に立ち、
胸に手を当てた。

その仕草は、
“自分の声を持つ人”の仕草だった。

風が吹き、
屋上の空気が震えた。

その震えは、
誠の声の震えと同じリズムだった。

——このまんまで、結構。

若者たちは、
それぞれの身体へ戻るために歩き出した。

揺れながら。
迷いながら。
それでも前へ。

“かぐわしきものたち”とは、
借り物ではない“自分の身体”で生きようとする者たちのことだった。

そして凛も悠斗も、
その一人になっていた。


最終章:風の中の言葉

スワップ障害は数日で収束した。
原因はシステムの同期ズレ。
大きな事故には至らず、
閉じ込められた利用者も全員帰還できた。

街は安堵の空気に包まれたが、
その裏で——
若者たちの心には、
確かな“揺れ”が残っていた。

借り物の身体に依存していた者たちが、
初めて“自分の身体”を意識した。
弱さも、欠点も、
そのまま抱えた“自分”という存在を。

そして、
その揺れの中心にいたのは、
凛と悠斗だった。



凛は、誠の家を訪れていた。
沙也香が案内してくれた部屋は、
静かで、温かく、
どこか懐かしい匂いがした。

「ここが……父が最後に過ごした部屋」

凛は息を呑んだ。

机の上には、
古い湯飲みと、
読みかけの本と、
そして——
一枚の紙が置かれていた。

《このまんまで、結構》

凛は震える指で紙を触れた。

「……誠さん、本当に……」

沙也香は静かに頷いた。

「ええ。
 父はね、最後まで“自分の身体”で生きたの。
 弱くても、震えても、
 それが父の“声”だったから」

凛の胸が熱くなった。

「……私、誠さんの言葉に救われました。
 弱い身体でも……生きていいんだって」

沙也香は優しく微笑んだ。

「父も、そう言うと思うわ。
 “このまんまで、結構”って」

凛は涙を拭った。

そのとき、
窓から風が吹き込み、
部屋の空気がふわりと揺れた。

その揺れは、
誠の声の震えと同じリズムだった。



外に出ると、
悠斗が待っていた。

もちろん、
“自分の身体”のまま。

声は出ない。
細くて弱い身体。
でも、その目は強かった。

凛は微笑んだ。

「……誠さんの部屋、見てきたよ」

悠斗は胸に手を当て、
ゆっくりと頷いた。

凛は続けた。

「“このまんまで、結構”って……
 やっと意味がわかった気がする」

悠斗は喉を震わせた。

「……っ……」

声にはならない。
でも、その震えは“言葉”だった。

凛は悠斗の手を握った。

「私たちも……このまんまで、生きよう」

悠斗は涙を浮かべ、
静かに頷いた。



そのとき、
街の上空を春の風が吹き抜けた。

ビルの隙間をすり抜け、
若葉を揺らし、
人々の髪を撫で、
そして——
凛と悠斗の胸の奥に触れた。

その震えは、
誠の声の震えと同じだった。

——このまんまで、結構。

その言葉は、
都市伝説でも、
噂でもなく、
誰かの祈りでもなく。

未来へ向けた、
静かで確かな“道しるべ”だった。

凛は空を見上げた。

「誠さん……ありがとう。
 あなたの言葉、ちゃんと届いてるよ」

風が優しく返事をした。

そして、
凛と悠斗は歩き出した。

借り物ではない、
“自分の身体”で。

揺れながら。
迷いながら。
それでも前へ。

——かぐわしきものたちへ。
 このまんまで、結構。



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プロローグ 二部

声の震えを守る

桐島誠がこの世を去った朝、庭の柿の木の枝先に、一羽の小さな鳥が止まっていた。
冬の名残を引きずる風の中で、その鳥はしばらく動かなかった。まるで、何かを見届けるように。

恵子は仏間の前に座り、静かに手を合わせていた。
涙は出なかった。
泣くには、まだ現実が身体に馴染んでいなかった。

テーブルの上には、誠が最後まで使っていた湯飲みが置かれている。
縁に小さな欠けがある。
その欠けを、誠はいつも親指で触りながらお茶を飲んでいた。

「……嫌だ、って言ったのにね」

恵子は小さくつぶやいた。
あの日、スワップを拒んだ誠の横顔が浮かぶ。
あの時の誠の声の震えが、まだ耳の奥に残っている。

そのとき、玄関のチャイムが鳴った。
娘の沙也香だと思ったが、違った。

「国立医療センターの者です。桐島誠様の“意識データ”について、お話がありまして」

恵子は一瞬、息を呑んだ。

誠はスワップをしなかった。
しかし、検査の過程で“意識の断片”が記録されている可能性があるという。

「削除することもできますし……保存することもできます」

保存。
その言葉が、恵子の胸の奥に重く沈んだ。

誠の声を、残すのか。
誠の記憶を、残すのか。
誠の“震え”を、データとして持ち続けるのか。

恵子は湯飲みを見つめた。
欠けた縁を、そっと指でなぞった。

「……あなたなら、どうするの?」

答えはまだ出なかった。

ただ、風の中で柿の木が揺れ、枝先の鳥が静かに飛び立った。



一章:湯飲みの欠け

誠が亡くなってから七日が過ぎた。
家の中の空気は、まだ誠の体温を探しているようだった。

朝の光が台所のテーブルに差し込む。
その光の中に、誠が最後まで使っていた湯飲みが置かれている。
縁に小さな欠けがある。
恵子はその欠けを指でなぞった。

「ここ、気に入ってたのよね……」

誠はいつも、この欠けに親指を添えてお茶を飲んだ。
その癖を、恵子は何度も見てきた。
その仕草が、なぜか好きだった。

遺品整理をしようと思ったが、手が動かなかった。
服を畳むたびに、誠の肩幅が蘇る。
靴を揃えるたびに、誠の歩幅が蘇る。

「……まだ、早いわね」

恵子は小さくつぶやいた。

そのとき、電話が鳴った。
画面には「国立医療センター」の文字。

胸の奥がざわついた。

「桐島誠様の“意識データ”について、お話がありまして」

あの日の言葉が、再びよみがえる。

——保存することもできますし、削除することもできます。

恵子は湯飲みを見つめた。
欠けた縁に、そっと指を添えた。

「……あなたの声、どうすればいいのかしらね」

答えはまだ、どこにもなかった。



ニ章:データ室の扉

国立医療センターの新棟は、誠が通っていた旧棟とはまるで別の建物のようだった。
白い壁は光を吸い込み、廊下には足音が響かない。
まるで、ここだけ時間が別の速度で流れているようだった。

案内係に導かれ、恵子は「意識データ管理室」と書かれた扉の前に立った。
扉は重厚で、病院というより研究施設のような雰囲気があった。

「こちらで、桐島様のデータをご確認いただけます」

係員が軽く頭を下げ、恵子を中へ通した。

部屋の中は薄暗く、中央に一台の端末が置かれていた。
椅子に座ると、端末の画面がゆっくりと光を帯びる。

「桐島誠様——意識断片データ:検出済み」

その文字を見た瞬間、恵子の胸がきゅっと縮んだ。

「……意識、断片?」

担当技師が静かに説明した。

「スワップの適性検査の際、脳波の一部が自動的に記録されます。
 完全な意識ではありません。
 “声の癖”や“思考の揺れ”のような、微細なパターンです」

「声……の癖」

恵子は思わずつぶやいた。

誠の声は、低くて、少しだけ震えていた。
怒っているわけでも、怯えているわけでもない。
ただ、誠という人間が持つ、固有の震えだった。

「再生しますか?」

技師の問いに、恵子は答えられなかった。

再生したら、どうなるのだろう。
誠の声に似た何かが流れたら——
それは慰めになるのか、それとも傷になるのか。

「……少しだけ、お願いします」

技師が操作すると、部屋の照明がさらに落ちた。
端末のスピーカーから、微かなノイズが流れ始める。

ザ……ザ……ザ……

それは声ではなかった。
しかし、声のようなものだった。

低く、揺れていて、どこか懐かしい。

——けい、こ……

聞こえた気がした。
いや、違う。
そう聞こえてほしいだけかもしれない。

恵子は思わず胸に手を当てた。

「これは……誠の……?」

「断片です。言葉ではありません。
 脳の“揺れ”が音として変換されているだけです」

技師の説明は正しいのだろう。
だが、恵子には関係なかった。

そこにあったのは、誠の“気配”だった。

再生が終わると、部屋は再び静寂に包まれた。

「保存することもできますし、削除することもできます。
 ご家族の判断に委ねられています」

恵子は答えられなかった。

保存すれば、誠の“揺れ”は残る。
削除すれば、誠は完全にいなくなる。

どちらが正しいのか、わからなかった。

ただ一つだけ確かなのは——
誠の声の震えは、まだ恵子の胸の奥で揺れていた。

「……今日は、これで帰ります」

恵子は立ち上がり、深く頭を下げた。

廊下に出ると、窓の外に夕陽が沈みかけていた。
誠がよく眺めていた色だった。

「あなた……どうして、こんなものを残していったの」

答えは風のように、どこにもなかった。

ただ、胸の奥で微かに震えるものだけが、確かにそこにあった。


三章:娘の葛藤

翌日の午後、沙也香が家に来た。
玄関を開けると、三歳の陽太郎が勢いよく走り込んできて、恵子の足に抱きついた。

「ばぁばー!きたよー!」

その声に、恵子は自然と笑った。
笑ったが、その奥に沈んでいるものは隠しきれなかった。

「お母さん、大丈夫?」
靴を脱ぎながら、沙也香が顔を覗き込んだ。

「大丈夫よ。……ちょっと疲れただけ」

二人は台所のテーブルに向かい合って座った。
誠の湯飲みは、まだそこにあった。
沙也香はそれに気づき、そっと視線を落とした。

「……お父さんの?」

「ええ。片付けようと思ったけど、まだできなくてね」

しばらく沈黙が流れた。
陽太郎は居間で積み木を積んでいる。
その音が、静かな部屋に小さく響いた。

「お母さん、医療センターから連絡があったって……」

恵子は頷いた。

「お父さんの“意識データ”が残っているそうよ。
 声の……揺れみたいなものが」

沙也香の表情が変わった。
驚きと、興味と、戸惑いが混ざったような顔。

「……聞いたの?」

「少しだけ。声じゃないの。声のような……気配みたいなもの」

沙也香は息を呑んだ。

「それ、保存できるんだよね?」

「ええ。削除もできる」

「……お母さんは、どうしたいの?」

恵子は答えられなかった。
その沈黙が、沙也香には“迷い”ではなく“恐れ”に見えた。

「お母さん……私は、保存したほうがいいと思う」

恵子はゆっくり顔を上げた。

「どうして?」

「だって……陽太郎に、おじいちゃんの声を残してあげたい。
 私だって、忘れたくない。
 お父さんの声、もう一度聞けるなら……」

その言葉はまっすぐだった。
若い人間の、未来を見ている言葉だった。

しかし恵子には、別の重さがあった。

「でもね、沙也香。
 あれは“声”じゃないのよ。
 お父さんの……残り香みたいなものなの」

「残り香でもいいよ。
 お父さんの一部なんでしょ?
 だったら……残したい」

恵子は湯飲みを見つめた。
欠けた縁に、誠の指が触れていた記憶が蘇る。

「……残したら、前に進めなくなる気がするの」

沙也香は言葉を失った。

「お母さん……前に進むって、忘れることじゃないよ」

「わかってる。でも……」
恵子は胸に手を当てた。
「ここに、まだお父さんがいるのよ。
 データなんかじゃなくて。
 声の震えも、手の温もりも……まだ消えてないの」

沙也香は何も言えなかった。

陽太郎が積み木を倒し、笑い声をあげた。
その声が、二人の間の張りつめた空気を少しだけ和らげた。

「……もう少しだけ考えさせて」
恵子は静かに言った。

沙也香は頷いた。
しかしその瞳には、母とは違う“未来への焦り”が宿っていた。

「わかった。でも……私は保存したい。
 お父さんの声を、陽太郎に残したい」

二人の想いは、まだ交わらなかった。

ただ、どちらも誠を想っていた。
その一点だけは、揺るぎなく同じだった。


四章:声の試聴

医療センターから帰った夜、恵子はなかなか眠れなかった。
布団に入っても、耳の奥であの“揺れ”が微かに震えていた。

——けい、こ……

言葉ではない。
意味もない。
ただ、誠の声の“癖”だけが、そこにあった。

翌朝、恵子は決意したように立ち上がった。
「……もう一度、聞いてみよう」

自分の中の迷いを、確かめるために。



再び訪れた意識データ管理室は、昨日と同じ静けさに包まれていた。
技師は驚かなかった。
こうして戻ってくる家族は多いのだろう。

「再生しますか?」

恵子は小さく頷いた。

部屋の照明が落ち、端末が淡い光を放つ。
ノイズがゆっくりと立ち上がる。

ザ……ザ……ザ……

昨日よりも、はっきり聞こえる気がした。
いや、聞こうとしているだけかもしれない。

——あ……あぁ……

低く、揺れていて、どこか苦しげで、どこか優しい。

誠が病室で眠れない夜に、恵子の名前を呼んだときの声に似ていた。

「……誠?」

思わず声が漏れた。

技師が静かに言った。

「これは“声”ではありません。
 脳の活動パターンを音に変換しただけです。
 意味はありません」

「意味が……なくてもいいの」

恵子は画面を見つめたまま言った。

「この揺れ……この震え……
 あの人の声の奥に、いつもあったものだから」

技師は何も言わなかった。
こういう反応も、きっと珍しくないのだろう。

再生が終わると、部屋は再び静寂に戻った。

「……保存しますか?」

恵子は答えられなかった。

保存すれば、誠の“揺れ”は残る。
削除すれば、誠は完全にいなくなる。

昨日と同じ問い。
しかし、昨日よりも重く感じた。

「……娘と話してからにします」

恵子は立ち上がった。

扉に向かう途中、ふと足が止まった。

「ねぇ……」
振り返らずに言った。
「このデータを残す人って、多いの?」

技師は少しだけ間を置いて答えた。

「増えています。
 “声”を残したいという方が……とても」

恵子はゆっくりと頷いた。

「……そう」

廊下に出ると、窓の外に春の光が差し込んでいた。
誠が庭で柿の木を剪定していた日の光に似ていた。

「誠……あなたの声を、どうすればいいの?」

答えはまだ、どこにもなかった。

ただ、胸の奥で微かに震えるものだけが、確かにそこにあった。


五章:孫の記憶

陽太郎は、まだ三歳だった。
しかし、三歳という年齢は、大人が思っているよりずっと多くのものを覚えている。
覚えていないふりをしているだけで、胸の奥には小さな引き出しがいくつもあって、
そこに大切なものをしまい込んでいる。

その日の午後、恵子は陽太郎と庭に出ていた。
誠が剪定した柿の木は、春の芽をつけ始めていた。
陽太郎は落ち葉を拾っては空に投げ、笑っていた。

「ばぁば、これ、ひこうきみたい!」

「ほんとねぇ。よく飛ぶわ」

陽太郎の笑い声は、誠が好きだった音に似ていた。
そのことに気づくたび、胸が少しだけ痛んだ。

しばらく遊んだあと、縁側に腰を下ろすと、陽太郎が唐突に言った。

「おじいちゃん、ここにいるよ」

恵子は思わず陽太郎を見た。

「……どこに?」

陽太郎は自分の胸をぽんぽんと叩いた。

「ここ。おじいちゃんの声、あるよ」

恵子の心臓が一瞬止まったように感じた。

「声……聞こえるの?」

「うん。おじいちゃん、いつも“よーたろー”って言ってたよ」

その言い方が、あまりにも自然で、あまりにも誠に似ていて、
恵子は思わず目を伏せた。

「……覚えてるのね」

「うん。おじいちゃん、やさしい声だったよ」

陽太郎はそう言って、また落ち葉を拾いに走っていった。

恵子は縁側に座ったまま、しばらく動けなかった。

——おじいちゃん、やさしい声だったよ。

誠の声は、決して強くはなかった。
少し震えていて、時々かすれていて、
でも、誰よりも温かかった。

あの“意識データ”の揺れは、
誠の声の震えの“影”のようなものだった。

けれど——
陽太郎の胸の中には、
誠の“本当の声”が残っている。

データではなく、記憶として。

「……誠。あなた、ちゃんと残ってるじゃない」

恵子は空を見上げた。
春の風が、柿の木の枝を揺らしていた。

その揺れが、誠の声の震えに重なった。

「データなんて、なくても……
 あなたの声、ちゃんと聞こえてるわよ」

そうつぶやいた瞬間、
胸の奥にあった重い石が、少しだけ軽くなった気がした。

しかし同時に、別の疑問が生まれた。

——それでも、データを残すべきなのか。

陽太郎の記憶は、いつか薄れていく。
そのとき、誠の声を残しておくことは、
未来のためになるのかもしれない。

恵子は立ち上がり、庭を見渡した。

「……もう少しだけ、考えさせてね」

誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。

ただ、風の中で柿の木が揺れ、
その揺れが、誠の声のように聞こえた。


六章:スワップの影

誠が亡くなってから十日ほど経った頃、
恵子は医療センターから一通の封筒を受け取った。

「スワップ体験記録の開示について」

その文字を見た瞬間、胸の奥がざわついた。

——誠が、スワップを体験していた。

恵子は知っていた。
誠が三度、別の身体を生きたことを。
しかし、それがどんな体験だったのか、
誠は多くを語らなかった。

「大したことじゃないよ」
「ちょっとした興味本位さ」
「若い人の身体は軽いなぁ」

そんな軽い言葉で誤魔化していた。
本当は、もっと深い何かを抱えていたはずなのに。

封筒を開けると、中にはUSBと説明書が入っていた。

「ご家族の判断で閲覧できます」

恵子はしばらく動けなかった。

——見ていいのだろうか。
——誠が見せなかったものを、覗いてしまっていいのだろうか。

その迷いを抱えたまま、夕方になった。

沙也香が陽太郎を連れてやってきた。

「お母さん、どうしたの?顔色悪いよ」

恵子は封筒を差し出した。

「……お父さんの、スワップの記録が届いたの」

沙也香は目を見開いた。

「見たの?」

「まだ。……怖くて」

沙也香はUSBを手に取り、しばらく眺めた。

「……見ようよ、お母さん。
 お父さんが何を感じて、何を思ったのか……
 知っておきたい」

恵子は迷った。
しかし、沙也香の目は真剣だった。

「陽太郎は……?」

「寝かせてくる。大丈夫」



居間のテレビにUSBを接続すると、
画面に三つのファイルが表示された。

【体験記録1:元プロ野球選手】
【体験記録2:社会的影響力の大きな立場】
【体験記録3:二十三歳のデザイナー】

沙也香が息を呑んだ。

「……お父さん、こんなに……」

恵子は画面を見つめたまま、動けなかった。

「どれから見る?」

「……若い人の、最後のやつから」

恵子はそう言った。
誠が一番笑って帰ってきた日の記録だから。

再生ボタンを押すと、画面が暗転し、
やがて映像が映し出された。

狭いアパートの部屋。
机の上のスケッチブック。
窓から差し込む朝の光。

そして——
誠の声が、映像の外から静かに語り始めた。

《……身体が軽い。
 痛みがないというだけで、こんなにも世界が違って見えるのか》

恵子は思わず口元を押さえた。
誠の声だった。
生きていた頃のままの、少し震えた声。

《この若者は、下手だけど……楽しそうだ。
 自分の中の何かを形にしようとしている。
 あぁ……二十三歳の頃の自分を思い出すな》

沙也香が涙をこぼした。

「……お父さん、こんなふうに思ってたんだ」

映像の中の誠は、若者の身体を通して、
自分自身の過去と対話していた。

《若さって、外見じゃないんだな。
 もがきながらも、何かを信じて生きている……
 そのこと自体が、眩しい》

恵子の胸が締めつけられた。

誠は、若者の中に自分を見ていた。
そして、自分の人生を肯定しようとしていた。

映像が終わると、部屋は静まり返った。

沙也香が涙を拭いながら言った。

「……お父さん、ちゃんと生きてたんだね」

恵子は頷いた。

「ええ……ちゃんと、生きてたわ」

しかし同時に、胸の奥に別の影が落ちた。

——誠は、なぜこの体験を話さなかったのか。
——なぜ、最後まで自分の中にしまい込んだのか。

USBの中には、まだ二つの記録が残っている。

英雄の中身。
権力者の孤独。

恵子は画面を見つめた。

「……誠。あなたは何を見て、何を感じたの?」

その答えは、まだUSBの中に眠っていた。


七章:恵子の選択

USBを再生した夜、恵子はほとんど眠れなかった。
布団に入っても、誠の声が耳の奥で揺れていた。

——若者の身体は軽いなぁ。
——二十三歳の頃の自分を思い出すな。
——眩しいなぁ。

誠の声は、どこか照れくさそうで、どこか寂しそうだった。
あの声を聞いた瞬間、恵子は胸の奥が温かくなり、
同時に、深い痛みが走った。

「……誠、どうして全部話してくれなかったの」

問いは夜の闇に溶けていった。



翌朝、恵子は医療センターに電話をかけた。

「……意識データの件で、相談したいことがあります」

自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。

担当技師は丁寧に応じた。

「もちろんです。保存・削除の判断は、ご家族の自由です。
 ただ……迷われる方は多いですね」

「皆さん、どうされるんですか?」

「……半々です。
 残すことで前に進める方もいれば、
 残さないことで前に進める方もいます」

恵子は静かに息を吸った。

「……私は、まだ決められません」

「焦らなくて大丈夫ですよ。
 データは一年間、保管されます」

一年。
一年あれば、心は変わるのだろうか。
それとも、変わらないのだろうか。

電話を切ると、家の中が急に広く感じられた。
誠がいなくなってから、家はいつも少し寒い。

恵子は湯飲みを手に取った。
欠けた縁に指を添えると、誠の癖が蘇る。

「……あなたの声を、どうすればいいの?」

答えは出なかった。

ただ、胸の奥で微かに震えるものが、
昨日よりも少しだけ大きく揺れていた。



その日の夕方、沙也香が再び訪れた。
陽太郎は眠ってしまったらしく、沙也香は一人だった。

「お母さん……昨日の続き、話したい」

恵子は頷いた。

「……保存したいのね?」

「うん。
 お父さんの声を、陽太郎に残したい。
 私も……忘れたくない」

恵子はゆっくりと湯飲みを置いた。

「でもね、沙也香。
 “声”って、データじゃないのよ」

「……どういうこと?」

恵子は胸に手を当てた。

「ここにあるの。
 お父さんの声の震えも、笑い方も、
 怒ったときの息の吸い方も……
 全部、ここに残ってるの」

沙也香は黙った。

「データを残したら……
 私は、そこにすがってしまう気がするの。
 前に進めなくなる気がするの」

沙也香は唇を噛んだ。

「……でも、お母さん。
 前に進むって、忘れることじゃないよ」

「わかってるわ。
 でも……“残す”ってことは、
 “残さないもの”も決めるってことなのよ」

沙也香は目を伏せた。

「……難しいね」

「ええ。とても」

二人はしばらく黙っていた。
沈黙は重かったが、どこか優しさもあった。

「……もう少しだけ考えさせて」
恵子は静かに言った。

沙也香は頷いた。

「うん。急がなくていいよ。
 お父さんの声は……逃げないから」

その言葉に、恵子の胸が少しだけ温かくなった。

——声は逃げない。

そうかもしれない。
誠の声は、まだ胸の奥で震えている。

データの中ではなく、
記憶の中で。

恵子はそっと目を閉じた。

「誠……あなたの声を、どうすればいい?」

その問いは、まだ答えを待っていた。


八章:誠の手紙

USBの記録を見た翌日、恵子は誠の書斎に入った。
書斎といっても、六畳の部屋に古い机と本棚があるだけの、質素な空間だった。
誠が最後まで片付けられなかった本やメモが、まだそのまま残っている。

机の引き出しを開けると、誠の字で書かれたメモがいくつも出てきた。
買い物リスト、庭の手入れの予定、病院の予約日……
どれも日常の断片で、どれも誠らしかった。

その中に、ひとつだけ封筒があった。

宛名は書かれていない。
ただ、封筒の端に小さく、誠の字でこう書かれていた。

——「もしもの時」

恵子は息を呑んだ。

震える手で封を開けると、中には一枚の紙と、
小さなUSBが入っていた。

紙には、誠の字でこう書かれていた。

---

恵子へ

これを読む頃、僕はもうそっちにはいないのだろう。

スワップの体験を、全部話せなくてごめん。
話そうとすると、どうしても言葉が詰まってしまった。

あれは、僕にとって「自分の人生を見直す旅」だった。
英雄の身体も、権力者の身体も、若者の身体も、
どれも眩しくて、どれも苦しくて、どれも僕じゃなかった。

最後に若者の身体を体験したとき、
僕はようやく気づいたんだ。

——僕は、僕の人生を生きてきたんだな、と。

良い人生だったとは言えない。
楽だったとも言えない。
でも、あなたと出会って、
沙也香が生まれて、
陽太郎の笑い声を聞けて、
それだけで十分だった。

スワップをしないと決めたのは、
「あなたの前に、僕の顔でいたかったから」だ。

声も、手も、歩き方も、
全部、あなたが知っている僕のままでいたかった。

もし、僕の“意識の断片”が残っていたら、
それはあなたに任せる。
残してもいいし、消してもいい。
どちらを選んでも、僕は恨まない。

ただひとつだけ、お願いがある。

——僕の声を、あなたの中で生かしてほしい。

データじゃなくていい。
記憶の中で、時々思い出してくれたら、それでいい。

恵子。
あなたと生きた五十五年は、
僕にとって、世界でいちばんの宝物だった。

ありがとう。

桐島 誠

---

読み終えた瞬間、恵子は紙を胸に抱きしめた。
涙が止まらなかった。

「……誠、ずるいわよ……こんなの……」

声にならない声が漏れた。

机の上に置かれた小さなUSB。
そこには、誠が最後に残した“本当の声”が入っているのかもしれない。

恵子は涙を拭き、深く息を吸った。

「……誠。あなたの声、ちゃんと聞くわ」

その言葉は、静かに部屋に溶けていった。

そして恵子は、USBをそっと手に取った。

——誠の最後の言葉を聞くために。


九章:声の行方

誠の手紙を読んだ翌朝、恵子は庭に出た。
春の光が、柿の木の若い葉を透かしていた。
誠が最後に剪定した枝先は、まるで彼の手がまだそこにあるかのように、
風に合わせて静かに揺れていた。

胸の奥に、誠の声が残っている。
それはデータの揺れではなく、
記憶の中で確かに響く“声”だった。

——僕の声を、あなたの中で生かしてほしい。

その言葉が、何度も何度も蘇る。

恵子は深く息を吸い、家の中へ戻った。

机の上には、誠が残したUSBが置かれている。
小さくて、軽くて、
それなのに、触れるのが怖いほど重かった。

「……誠。あなたの声を、聞くわね」

恵子はUSBをパソコンに差し込んだ。

画面に一つのファイルが表示された。

【message_final.m】

クリックすると、画面が暗転し、
やがて音声が流れ始めた。

——ザ……ザ……ザ……

ノイズの奥から、誠の声がゆっくりと浮かび上がる。

《……恵子。これを聞いているということは、
 僕はもうそっちにはいないんだろうね》

恵子は思わず口元を押さえた。
誠の声だった。
生きていた頃より少し弱く、
けれど確かに誠の声。

《スワップをしなかった理由は……
 あなたの前に、僕の顔でいたかったからだよ》

涙が頬を伝った。

《別の身体で生きることは、魅力的だった。
 痛みもなく、若く、強く、自由だった。
 でもね……どれも僕じゃなかった》

《あなたが“嫌だ”と言ったとき、
 僕は救われたんだ。
 あぁ、僕はこの身体で、この声で、
 この人生でよかったんだって》

恵子は嗚咽をこらえた。

《だから、声を残すかどうかは……
 あなたが決めていい。
 残してもいいし、消してもいい。
 どちらでも、僕はあなたを責めない》

《ただ……》
誠の声が少しだけ震えた。
その震えは、恵子が何度も聞いてきた“誠の声”そのものだった。

《あなたが前に進むとき、
 僕の声が邪魔にならないといいな》

音声はそこで途切れた。

恵子はしばらく動けなかった。
涙が止まらなかった。

「……誠。あなたはいつも……
 私の背中を押してくれるのね」

USBをそっと抜き、胸に抱きしめた。

そのとき、玄関のドアが開いた。

「お母さん……」

沙也香だった。
目が赤い。
泣いていたのだろう。

「……聞いたの?」

恵子は頷いた。

「ええ。聞いたわ」

沙也香は震える声で言った。

「お父さん……最後まで、お母さんのこと……」

「わかってるわ」

二人はしばらく抱き合った。
涙が混ざり合い、
誠の声が二人の胸の奥で静かに揺れていた。

やがて、沙也香が言った。

「……お母さん。
 データ、どうする?」

恵子は涙を拭き、
ゆっくりと息を吸った。

「……まだ決められないわ」

「うん。いいよ。
 急がなくていい」

恵子はUSBを見つめた。

誠の声は、データの中にも、
記憶の中にも、
そして胸の奥にも残っている。

——声の行方は、まだ決まっていない。

ただひとつだけ確かなのは、
誠の声は、消えていないということだった。


十章:削除の日

四月の終わり、風が少しだけ暖かくなった頃。
恵子は、医療センターから届いた一通のメールを開いた。

——「意識データ保管期限について」

期限まで、あと三週間。

保存するか、削除するか。
決断の時が、静かに近づいていた。

恵子は深く息を吸い、
「……行かなきゃね」
と小さくつぶやいた。



医療センターのロビーは、いつもと同じように静かだった。
しかし今日は、空気が少し重く感じられた。

意識データ管理室の扉の前に立つと、
胸の奥がぎゅっと締めつけられた。

——誠の声を、残すのか。
——それとも、手放すのか。

扉を開けると、担当技師が穏やかに頭を下げた。

「桐島様。ご判断は……」

恵子はゆっくりと頷いた。

「……削除をお願いします」

技師は驚かなかった。
ただ、静かに確認した。

「本当に、よろしいのですね」

「ええ。……大丈夫です」

技師は端末を操作し、
画面に誠のデータが表示された。

【意識断片データ:桐島誠】
【状態:保管中】
【選択:削除/保存】

恵子は画面を見つめた。
誠の名前が、そこにあった。

「……誠」

胸の奥で、誠の声が微かに揺れた。

——僕の声を、あなたの中で生かしてほしい。

恵子は目を閉じ、
その声を胸いっぱいに吸い込んだ。

そして、ゆっくりと目を開けた。

「削除してください」

技師がボタンを押す。
画面に確認メッセージが表示される。

【本当に削除しますか?】
【この操作は取り消せません】

恵子は、迷わず言った。

「はい」

技師が最終ボタンを押す。

画面が一瞬だけ白く光り、
次の瞬間、誠のデータは消えた。

【状態:削除済み】

部屋の空気が、少しだけ軽くなった気がした。

技師が静かに言った。

「……お疲れさまでした」

恵子は深く頭を下げた。

「ありがとうございました」



帰り道、センターの外に出ると、
春の風が頬を撫でた。

誠の声は、もうデータとしては存在しない。
しかし——
胸の奥では、確かに揺れていた。

——恵子。
——ありがとう。

そんな気がした。

恵子は空を見上げた。
雲ひとつない、澄んだ青空だった。

「誠……あなたの声は、消えないわよ」

風が吹き、髪が揺れた。
その揺れが、誠の声の震えに重なった。

恵子は静かに微笑んだ。

「さぁ……帰りましょう」

その足取りは、
誠と共に歩いた五十五年よりも、
少しだけ軽かった。


十一章:風の中の震え

誠の意識データを削除した翌日、
恵子はいつもより早く目を覚ました。

胸の奥に、ぽっかりと穴が空いたような感覚があった。
しかしその穴は、昨日まで感じていた“重さ”とは違っていた。
軽く、静かで、どこか温かかった。

「……誠」

名前を呼ぶと、
声は空気の中に溶けていった。



朝食を終えると、恵子は庭に出た。
柿の木の若葉が、風に揺れている。
その揺れは、誠の声の震えに似ていた。

「あなた……ここにいるのね」

そうつぶやくと、
胸の奥がふっと温かくなった。

データは消えた。
しかし、誠は消えていない。

それを、恵子はようやく理解し始めていた。



昼過ぎ、沙也香が陽太郎を連れてやってきた。

「お母さん……昨日、大丈夫だった?」

「ええ。大丈夫よ」

恵子は穏やかに微笑んだ。
その笑顔を見て、沙也香は少し驚いた。

「……なんか、軽くなったね」

「そうかしら?」

「うん。なんか……お父さんと話したみたいな顔してる」

恵子は少しだけ目を伏せた。

「話したのよ。
 データじゃなくて……胸の中でね」

沙也香は何も言わなかった。
ただ、母の横に座り、庭を眺めた。

陽太郎は柿の木の下で遊んでいた。
落ち葉を拾っては空に投げ、
「おじいちゃん、みてー!」
と笑っていた。

恵子はその声を聞きながら、
胸の奥で誠の声が微かに揺れるのを感じた。

——よーたろー。

誠が生前、陽太郎を呼ぶときの声。
その震えが、風の中に確かにあった。

「……誠、あなたの声は、ちゃんと残ってるわよ」

恵子がそうつぶやくと、
風がそっと頬を撫でた。

まるで誠が、
「ありがとう」
と言っているようだった。



夕方、沙也香と陽太郎が帰ったあと、
恵子は縁側に座り、ゆっくりとお茶を淹れた。

誠の湯飲みは、もう使わない。
でも、片付けるつもりもなかった。

欠けた縁に指を添えると、
誠の癖が蘇る。

「……あなたの声、消えなかったわね」

胸の奥で、誠の声が静かに揺れた。

データではなく、
記憶でもなく、
もっと深いところで。

恵子は目を閉じ、
その震えをしばらく感じていた。

風が吹き、柿の木が揺れた。
その揺れは、誠の声の震えと同じリズムだった。

「誠……ありがとう」

その言葉は、
風に乗って、どこか遠くへ運ばれていった。

しかし、誠の声は——
恵子の胸の中に、確かに残っていた。


終章:守られたもの

五月の風は、冬の名残をすっかり洗い流していた。
庭の柿の木は若葉を広げ、陽の光を受けてきらきらと揺れている。
その揺れは、誠の声の震えと同じリズムだった。

恵子は縁側に座り、ゆっくりとお茶を淹れた。
誠の湯飲みは、今日も同じ場所に置かれている。
使わない。
でも、しまわない。
そこにあるだけで、誠がそっと寄り添ってくれているようだった。

「……誠。あなたの声、消えなかったわね」

胸の奥で、誠の声が静かに揺れた。
データではなく、記憶でもなく、
もっと深いところで。



その日の午後、沙也香と陽太郎がやってきた。
陽太郎は庭に出るなり、柿の木の下で笑いながら走り回った。

「ばぁばー!みてー!」

落ち葉を拾って空に投げる。
その仕草は、誠が陽太郎に教えた遊びだった。

恵子は微笑んだ。

「よく飛ぶわねぇ」

沙也香が隣に座り、静かに言った。

「……お母さん。
 データ、削除したって聞いたよ」

「ええ。昨日ね」

「……後悔してない?」

恵子は首を横に振った。

「してないわ。
 誠の声は、データじゃなくて……
 ここに残ってるものだから」

胸に手を当てると、
誠の声が微かに震えた。

——恵子。
——ありがとう。

そんな気がした。

沙也香は目を伏せ、
そしてゆっくりと頷いた。

「……うん。
 お父さん、きっと喜んでるね」

「ええ。そう思うわ」

二人はしばらく庭を眺めていた。
陽太郎の笑い声が風に乗って広がっていく。

その声の中に、
誠の笑い声が重なって聞こえた。



夕方、陽太郎が帰ったあと、
恵子は庭に出て、柿の木の幹にそっと触れた。

「誠……あなたの声、守れたわよ」

風が吹き、葉が揺れた。
その揺れは、まるで誠が返事をしているようだった。

恵子は目を閉じ、
その震えを胸いっぱいに吸い込んだ。

誠の声は、もうどこにも保存されていない。
データとしては、完全に消えた。

しかし——
恵子の中には、確かに残っている。

声の震え。
笑い方。
息の吸い方。
名前を呼ぶときの、あの優しい揺れ。

それらは、データよりも確かで、
記憶よりも深く、
恵子の中で静かに息づいていた。

「誠……ありがとう。
 あなたの声、これからもずっと聞こえるわ」

風が頬を撫でた。
その優しさは、誠の手の温もりと同じだった。

恵子は静かに微笑んだ。

——守られたものは、声ではなく、
 声の震えだった。

そしてその震えは、
これからも恵子の中で生き続ける。



春の空は、どこまでも澄んでいた。
柿の木の葉が揺れ、
その影が恵子の足元に柔らかく落ちていた。

誠の声は、もうどこにもない。
しかし、どこにでもあった。

恵子はそっと目を閉じた。

「……このまんまで、結構よ」

風が、優しく返事をした。

Amazon Kindle



子供の頃

沢山の叶わない夢をみてました


未来はきっと

もっと良いはずだと


そして

幸せに囲まれて

平和なはずだと


人々から

身体の痛みも

心の痛みもなくなり

楽園になっているはずだと…


ところが

どうでしょう

この始末


身体を襲う病

心を襲う病

争いは絶えず

無常な世の中


ならば

いっそ

滅んでしまえ! と

思うこともあります


たった1度きりの人生

微笑んでいたいものです





このまんまで、結構 一部

〜かぐわしき入れ替わりの物語〜




〜まえがき〜


私たちは、常に自分以外の何者かになりたいと願って生きています。

SNSを開けば誰かの輝かしい日常が目に飛び込み、鏡を見れば、理想とは程遠い衰えゆく自分の姿に溜息をつく。もし、この意識をそっくりそのまま、誰か別の、より優れた肉体へと移し替えられたなら——。

本作『このまんまで、結構』は、そんな「もしも」が実現した近未来の物語です。


主人公・桐島誠の目を通して、私たちは他者の人生の「中身」を覗き見ることになります。それは羨望の対象であると同時に、誰もが背負っている名前のない孤独や重圧に触れる旅でもあります。


便利さと引き換えに、私たちは何を失おうとしているのか。

「自分であること」の不自由さと、それゆえの美しさについて、少しだけ立ち止まって考えるきっかけになれば幸いです。



〜プロローグ〜


その朝、桐島誠は五十五年間で初めて、自分の手をじっと見つめた。

シミが増えた。節が太くなった。爪の根元にうっすらと紫が滲んでいる。


この手で何を掴んできたのだろう。何を取りこぼしてきたのだろう。

窓の外、二〇四七年の東京はもう動き始めていた。

無音の電動バスが水面を滑るように走り、空には配送ドローンの群れが整然と列をなしている。誰もが忙しそうで、誰もが目的を持っていて、誰もが自分以外の何者かになろうとしているように見えた。


スワップ。


その単語が頭の中で静かに点滅した。

病院の白い天井を見上げながら、誠は思う。まさか自分がこんな選択を迫られる日が来るとは思っていなかった、と。



1.   宣告

国立医療センター第三診察棟、十四番診察室。

主治医の田村はモニターに向かいながら、少し間を置いてから言った。


「桐島さん、率直に話します」

誠はすでにわかっていた。三週間前の検査結果を見たとき、数値の並びが何かを訴えていた。医療知識があるわけではないが、長く生きていると、数字の持つ重さというものが肌で感じられるようになる。


「膵臓です。ステージ四。転移が確認されています」


田村は若い医者だった。三十代前半だろうか。よく整った顔立ちで、白衣が似合っている。こういう顔で悪い知らせを告げられると、不思議と腹は立たない。誠はただ静かに頷いた。


「余命は、標準的な治療を続けた場合で十二ヶ月から十八ヶ

月。ただ——」


田村が少し姿勢を変えた。

「ただ、今はもう一つの選択肢があります。ご存知ですか?

スワップ・プログラムのことを」

誠はもちろん知っていた。

知らない人間などいない。



意識転送技術——通称「スワップ」——が実用化されたのは五年前のことだ。意識の本質をデジタルデータとして一時的に抽出し、他者の神経系に接続する。本人の身体は「空き家」状態になり、相手の意識が入り込む。双方合意のもとで行われる、この時代最大の発明。


最初は医療目的だった。重篤な患者が健康な身体で療養期間を過ごすため。次に娯楽産業が飛びついた。

有名人の一日を体験するサービス。スポーツ選手、俳優、ミュージシャン——彼らの感覚を「借りる」ことで、空前のエンターテインメント産業が生まれた。


そして今、それは終末期医療の新たな選択肢として提供されている。

「残り時間を、別の身体で過ごす、ということですか」


「そういうことです。あなたの意識は健康な協力者の身体へ。

その間、あなたの身体は特殊な維持装置で管理される。意識だけが別の人生を生きる。期間は三ヶ月から最長一年」


誠はしばらく黙っていた。窓の外に視線を移すと、空を配送ドローンが横切っていった。

「考えてみます」

それだけ言って、誠は診察室を出た。



2.   スワップ・カタログ

スワップ・センターは渋谷の再開発エリア、かつてパルコがあった場所に建っていた。ガラス張りの清潔な建物で、まるで高級ホテルのロビーのように明るかった。


受付の女性が微笑んだ。

「お越しをお待ちしておりました、桐島様。本日はカタログ閲覧のご予約ですね」


カタログ、という言葉が耳に引っかかった。人間をカタログに載せる。あるいは自分がカタログに載る。どちらも奇妙な話だ。


案内されたブースは個室で、半透明のパネルに囲まれていた。

VRゴーグルではなく、薄いホログラムシートが机の上に広がっている。係員が操作すると、そこに「人々」が現れた。


「現在、登録協力者は全国で約四万二千名いらっしゃいます。健康診断済み、身元確認済みです。職業、年齢、生活スタイル、居住地域でフィルタリングできます」

誠はゆっくりとシートをスクロールした。


二十代の男性。サーファー。沖縄在住。毎朝波に乗り、夜は仲間と焚き火を囲む。健康診断:優。


三十代の女性。バレリーナ。公演を控えている。舞台の上で踊る感覚を「提供」する予定。健康診断:優。


四十代の男性。漁師。北海道。夜明け前の海に出る生活。


誠はページをめくり続けた。若者たちの輝かしい生が、スペ

ック一覧として並んでいる。


係員が言った。

「もちろん、著名人プランもございます。料金は別途になりますが——」


「著名人?」

「はい。スポーツ選手、俳優、実業家の方々が一部、契約ベースで協力者として登録されています。詳細はお伝えできませんが、それに近い環境を体験できるオプションも……」


誠は手を振った。

「それはいいです」

カタログを閉じて、誠は天井を見上げた。

もしも今、自分以外の何者かに変われるとしたならば——

詩の一節が頭に浮かんだ。

自分で書いたわけではないが、まるで自分の言葉のように染み付いている言葉。

いったい誰と立場を変わりたいのか。

答えは、まだ出なかった。



3.   英雄の中身

一週間後、誠は再びセンターを訪れた。

迷っていた。迷いながらも、一つだけ試してみようと思っていた。


「プロスポーツ選手の体験プランを、一日だけお願いしたい」

係員は驚かない。よくある要望なのだろう。


「はい。本日でしたら、元プロ野球選手の協力者がいらっしゃいます。現役を引退されて五年ですが、身体能力は維持されています。トレーニング中の感覚をご体験いただけます」


英雄に、なってみたかった。

誠の世代にとって野球とは特別なものだった。幼い頃、父と一緒にテレビで見た試合。グラウンドに立つ選手たちの、あの遠さと輝かしさ。自分とはまったく別の生き物のように思えた存在。


処置室は病院の診察室に似ていが、もっと静かだった。ベッドに横になり、頭部に薄いデバイスを装着する。「では、始めます」という声を聞いたところで、誠の意識は暗転した。

——次の瞬間、誠は別の場所に立っていた。


身体が違う。それが最初の実感だった。重さが違う。骨格が違う。筋肉の付き方が根本的に違う。誠の身体は中年のそれで、あちこちに蓄積された疲れと痛みがある。しかしこの身体には、弦のように張り詰めた強さがある。


トレーニング施設の中だった。広いフロア、鉄の匂い。

「さあ、始めましょう」とトレーナーが言った。

走った。信じられない速度で足が動いた。肺が大きく開いて空気を取り込んだ。誠の身体では決してできない動きが、当然のようにできた。ボールを投げると、腕が鞭のようにしなり、すさまじい球速が生まれた。


最初の三十分は純粋に驚いていた。

しかし一時間が経つと、何かが違うと感じ始めた。

この身体には喜びがなかった。

技術はある。能力はある。しかしこの選手の日常に染み付いているのは、義務と習慣だった。毎日同じメニューをこなす強迫的な正確さ。成績への不安。ファンの目線への意識。引退後も衰えを許せない自分への厳しさ。


英雄の中身は、もっと静かで、もっと孤独で、もっと複雑だった。

誠は処置室に戻ってきたとき、しばらく天井を見ていた。


自分の身体が戻ってきた。節くれだった手。節々の痛み。なじみ深い重さ。

悪くない、と思った。




4.   権力者の孤独

二度目の体験は、誠自身が望んだわけではなかった。


センターの担当者から「特別なオプションが空きました」と連絡が来た。詳細は言えないが、「社会的影響力の大きな立場」を一日体験できる、と。


誠は断ろうとした。しかし何かに引き寄せられるように、承諾した。

目を覚ますと、そこは東京のどこかの高層ビルの一室だった。


巨大なデスク、何面もあるモニター、外が見えない窓。会議室

のような部屋に十数人のスーツ姿の人間が立っていた。

全員が誠を——いや、この身体の持ち主を——見ている。待っている。

誠は状況を飲み込もうとした。

この男は何者なのか。政治家か、経営者か。わからない。しかし周囲の人間の態度から、相当の権力者であることは明白だった。

「では、報告を続けてください」と誠は言った。


報告が始まった。数字、戦略、競合他社の動き、規制の話、

海外展開の話——膨大な情報が押し寄せてきた。誠には半分も理解できなかったが、この身体の持ち主はそれに慣れているのか、表情一つ変えずに聞いている。


会議が終わると、別の部屋に通された。個室だった。

一人になった瞬間、誠は気づいた。

この身体は震えていた。

ごく微細な、他者には気づかれないような震え。しかし確かにあった。この男は怖かったのだ。何かを、誰かを、あるいはすべてを。


窓の外、東京の街が広がっていた。自分が一つの判断をするだけで、何万人もの生活が変わる。それはどれほどの重さなのか。誰も教えてくれない重さを、毎日背負って生きている。


昼食は一人で食べた。用意されたのは質素な定食だった。

権力者は、意外にもひっそりと食べていた。


誠は自分の体験を思い出した。妻と二人でスーパーで買ったお惣菜を、台所のテーブルで食べる夕食。娘がまだ小さかった頃の、賑やかな食卓。あの時の味は、今この豪奢なビルの中では再現できない。


体験が終わり、誠は自分の身体に戻った。

いや、と思った。

彼方に住む、羨ましくも恨めしくもある人種たち——と詩は言っていた。しかしそこと比べたところで、なれるはずはなく、それどころか肝心の笑顔を忘れ去って——。


その通りだ、と誠は思った。



5.   若者の眩しさ

三度目は、誠が自分でリクエストした。

「若い人がいい。ただの、普通の若者」

係員は少し戸惑った顔をした。

「著名でない方ですと、ご要望に沿う形で……二十三歳の男性はいかがでしょう。フリーランスのデザイナーです」

「それでいい」


目を覚ますと、小さなアパートの一室だった。六畳ほどのスペースに机とパソコンと本の山。窓から差し込む朝の光が、ほこりを金色に輝かせていた。

この身体は軽かった。痛みがなかった。

それだけで、少し泣きそうになった。


この若者——鈴木拓海という名前をあとで知った——の一日は、誠が想像するより地味だった。午前中はクライアントへのメール返信と修正作業。昼はコンビニで買ったおにぎりを食べながら仕事。午後も同じ作業の繰り返し。夕方になってようやく外に出て、近所のカフェでコーヒーを飲みながらスケッチブックに何

かを描いた。

誠はそのスケッチブックをのぞき込んだ。


下手だった。しかし楽しそうだった。

丁寧に、真剣に、自分の中にある何かを形にしようとしている。完成するかどうかわからなくても、続けている。


夜、鈴木は友人二人と近所の居酒屋で飲んだ。仕事の話、将来への不安、好きな映画の話、たわいのない冗談。誠はその会話に混じりながら、胸の奥に温かいものを感じていた。

若さとは、こういうことだ。


眩しいのは外見ではなかった。これからという時間の豊かさでもなかった。

もがきながらも、何かを信じながら生きている、そのこと自体が眩しかった。


では自分の二十三歳はどうだったのか。

誠は思い出した。あの頃も悩んでいた。お金がなくて、自信がなくて、何者にもなれない気がして、毎日がもがきだった。しかしあの時も、確かに笑っていた。

若者の中にいながら、誠は自分の過去と会話していた。


体験が終わって自分に戻ったとき、誠は久しぶりに声を出して笑った。受付の女性が不思議そうな顔をした。

「どうかされましたか?」

「いや。なんでもない。ありがとう」



6.   家族の顔

その夜、誠は妻の恵子に話した。

スワップの体験をしていること。三度、別の誰かの人生を生きてみたこと。

恵子はしばらく黙っていた。それから、静かに言った。


「どうだった?」

「英雄の中身は孤独だった。権力者は震えていた。若者は眩しかった」

「そう」

「お前はどう思う?

俺が……別の誰かの身体で、残りの時間を過ごすことを」


恵子はテーブルの上の湯飲みを両手で包んだ。考えているのか、感じているのか、誠にはわからなかった。長い結婚生活で、この沈黙の意味はある程度読めるようになったが、今夜はわからなかった。


「あなたでなくなるの?」

「意識は俺のままだ」

「でも顔が違う。声が違う。手が違う」

「そうなる」

「……嫌だ」

それだけだった。


恵子は泣かなかった。ただ「嫌だ」と言って、湯飲みのお茶を飲んだ。

誠は何も言えなかった。


翌週末、娘の沙也香が帰ってきた。結婚して二子玉川に住んでいる。孫の陽太郎は三歳で、もう走り回っていた。

縁側で陽太郎と将棋の駒を並べながら——陽太郎は駒を将棋として使う気はなく、ただ倒すのが好きだった——誠は思った。


もし自分が別の身体で現れたとき、この子は誰だと思うだろう。

おじいちゃん、と呼んでくれるだろうか。

いや、呼ばない。この顔でなければ、おじいちゃんではない。


駒が倒れた。陽太郎が笑った。誠も笑った。

この笑い声を、もう少しだけ聞いていたかった。

別の身体でではなく。この顔で、この声で、この手で。



7.    このまんまで

翌月、誠は田村医師を訪ねた。

「スワップは、しないことにしました」

田村は驚かなかった。


「理由を聞いてもいいですか」

「三度、体験してみました。英雄と、権力者と、若者と」

「それで?」

「全員、羨ましかった。でも、全員のことが少し気の毒にもなった」


誠は窓の外を見た。今日も配送ドローンが飛んでいる。


「体験している間、ずっと自分のことを考えていたんです。

自分の身体の痛みのこと。妻の顔のこと。孫の笑い声のこと。別

の人生の中にいるのに、頭の中には自分の人生しかなかった」

「それは——」

「それが答えだと思いました」


田村は静かに聞いていた。

「僕は五十五年、この顔で、この身体で、この環境の中で生きてきた。多くのリスクを持って、そこから逃れられず、それと向き合って生きてきた。決して良かったとも、楽だったとも言えない。でも——」


誠は手を見た。節くれだった、シミのある、紫の滲んだ手。

「この手が、僕の手だ」

田村が言った。


「治療は続けます。可能な限り」

「はい。お願いします」

「スワップをしないということは、この身体と向き合い続けるということです。痛みも、限界も」

「わかっています。それでいい」

診察室を出た廊下で、誠は立ち止まった。


まだまだ、まだまだ——最後の最期の時までは、もう少し多くの笑顔をと望んでいたい。

その言葉が頭の中で響いた。自分が書いたわけではない言葉。

しかしいつの間にか、自分の言葉になっていた。

名を残す必要もない。時代の中へ消えていけばいい。

ただ、消える前に。

もう少し。

誠は歩き始めた。いつものように、少し腰をかばいながら。

この足で、この歩幅で。



〜エピローグ〜

半年後、桐島誠は庭で柿の木の剪定をしていた。

治療は続いている。楽ではない。しかしまだ、庭に出られる。


隣家の塀越しに、猫が一匹こちらを見ていた。

誠は手を止めて、猫を見た。猫も誠を見た。

もしも今、自分以外の何者かに変われるとしたならば——

猫も悪くないかもしれない。


そう思いながら、誠は笑った。

空が高かった。二〇四七年の秋の空は、子どもの頃と変わらず青かった。


このまんまで、結構。


——了——




〜あとがき〜

この物語の着想は、ふと自分の手を見つめた時の違和感から始まりました。

若い頃にはなかったシミ、太くなった関節、隠せなくなった疲れ。かつてはもっと万能で、もっと遠くまで行ける身体だと思っていたはずなのに、いつの間にか、この肉体は私の人生の「限界」を象徴するものになっていました。

しかし、その限界こそが、私が私として生きてきた「証」そのものではないか。

他人の靴を履いて歩くことはできても、その靴で流した汗や、その足で辿り着いた喜びまでを自分のものにすることはできません。

物語の中で、誠の妻が放った「嫌だ」という言葉は、私自身の祈りでもあります。

どれほどテクノロジーが進化し、魂がデータ化されたとしても、私たちは愛する人の「声の震え」や「手の温もり」を、代わりのきかない唯一のものとして守り続けたいと願うのではないでしょうか。

最後に、この物語を最後まで読んでくださったあなたへ。

今、あなたの目の前にある景色や、その手に残る感触が、明日も少しだけ誇らしいものでありますように。


二〇二六年四月

カトウかづひさ


Amazon Kindle



おまけ


これは以前

ブログで書いたものを

物語に膨らましたものです

それをここに載せて置きます


かぐわしきものたちへ


もしも今

自分以外の

何者かに

変われるとしたならば

 

いったいどなたと

その立場

変わりたいですべてか?

 

男ならば

ヒ~ロ~に

 

女ならば

女優に となんて…

 

そんな

一瞬にして他人と入れ替わる

SF映画のような夢は

現実には

有り得るはずはないけれども


未来には

もしや

まさか

いかが ですか? 


僕は

生意気にも

このまんまで 結構

 

この顔で

この姿で

この環境の中で

こんな生き方で 生きて来た

 

多くのリスクを持ち

そこから逃れられず

ならばと

それと向き合って

長いことそうして生きて来た

 

これまでの人生

決して

良かったなんて

楽だったなんて

とてもとても 言えないけれど

 

運が良かったのか

仲間たちに 恵まれたのか

 

改めて

今を生きてると

実感出来る今日

 

相変わらず

悩み

苦しみ

痛みを背負いながらも

なんとか

こうして

ここまで来れた

 

家族を持ち

家を持ち

仕事を持ち

少々の自由をも

 

そして

名を残す必要もなく

この時代の中へと消えて行きたい

 

ただし

まだまだ

まだまだと

最後の最期の時までは

も少し

多くの笑顔をと 望んでいたい


もちろん

彼方に住む

羨ましくも

恨めしくも ある人種たち

 

しかし

そこと比べたところで

届くはずはなく

 

それどころか

肝心の笑顔を忘れ去って

 

そんな自分を

嫌だと感じてしまうかのよ~な


今は 今

自分は 自分

それで良いのでは?…  と


いや

今なら世界の為に

トランプか

プーチンかに かな?

 

いやいや

大谷 だな…




〜紹介文〜


二〇四七年、意識転送技術「スワップ」が実用化された東京。

膵臓癌で余命一年を宣告された五十五歳の桐島誠は、苦痛から逃れ、残された時間を謳歌するために別の身体を「借りる」選択肢を提示される。

英雄と呼ばれたプロ選手、強大な権力を持つ成功者、そして眩い可能性を秘めた若者——。

三度の体験を経て、誠が辿り着いたのは、理想の人生ではなく「シミの増えた自分の手」だった。

「このまんまで、結構。」

SFの設定を借りて描かれるのは、誰の人生にも訪れる「自分を愛すること」の難しさと、その先にある救いの物語。読み終えた後、あなたの日常が少しだけ愛おしくなる、近未来ヒューマンドラマ。