0.5%の恋
――あるいは、自称小説家と古本屋のゆっくりな日常


まえがき

深夜のコンビニ、静まり返ったレジ打ちの合間にスマホで見つけた、「両想いになる確率は0.5%」という出所不明のまとめ記事。
計算すれば二百分の一。惚れっぽい僕は、毎日すれ違う人波の全員に片想いしているようなものだから、確率的にはそのうちの一人と結ばれてもいいはずだ。
これは、コンビニ店員で自称小説家の僕が、下町の古本屋で見つけた「二百分の一の奇跡」についての記録である。同時に、その奇跡を引き当てたあとも亀の歩みで続いていく、不器用な僕らの「生活」の物語だ。




一 プロローグ 〇・五パーセント

 誰が調べたのか知らないが、両想いになる確率は〇・五パーセントだそうだ。

 千人好きになれば、そのうちの五人が、こちらを同じように見てくれているという計算になる。割ってみれば二百分の一。つまり、二百人に一人ということになる。

 僕、坂本悠一、三十二歳、独身。職業、コンビニ店員兼・自称小説家(作品数ゼロ)。この数字を知ったのは、深夜のレジ打ちの合間にスマホで見た、根拠の怪しいまとめサイトの記事だった。

 だが妙に納得してしまったのだから仕方ない。

 なぜなら僕は、惚れっぽい。

 駅の改札ですれ違った女性、コンビニに来た常連客、電車の中で文庫本を読んでいる横顔。一日にだいたい二百人くらいとはすれ違っている計算になる。だとすれば、その中の一人くらいは、僕のことを憎からず思ってくれていても、確率的にはおかしくない。

 「それがどうした」と自分でも思う。惚れっぽいことと、惚れられることは、まったく別の確率の話なのだ。分かっている。分かっているが、深夜のレジで暇を持て余した男の妄想は、そういう都合のいい方向にしか転がらない。

 その夜、僕はレジ横のノートに「二百分の一」とだけ書き、それを見た後輩バイトの田村くんに「先輩、それ宗教の勧誘のメモですか」と真顔で聞かれた。

 「違う。恋愛の話だ」

 「余計怖いです」

 田村くんは二十二歳、大学四年生で、就活を控えているという理由でシフトに入りまくっている、妙にドライな青年だ。彼の前で人生観を語ると、たいてい半分の熱量で切り返されるので、僕は最近、彼を話し相手にすることに一定の抵抗を覚えるようになっていた。それでも他に話し相手がいないので、結局その夜も、僕は二百分の一の理論を、レジ前で滔々と語ってしまった。

二 惚れっぽい男の履歴書

 そもそも僕がこれほど惚れっぽくなったのには、それなりの来歴がある。

 小学四年生のとき、隣の席の女子に借りた消しゴムの匂いを三日間嗅ぎ続けていたのが最初だったと思う。中学では、部活の先輩に憧れて柔道部に入り、二週間で関節を痛めて辞めた。高校では、同じバスに乗る他校の女子生徒を見るために、わざわざ遠回りの停留所から乗車していた時期がある。定期代が余計にかかっていたことに、卒業後何年も経ってから気づいた。

 大学時代につきあった相手は、一人だけだ。サークルの後輩で、半年ほどつきあったが、最終的に「悠一くんは、いつも誰かのことを目で追ってるよね」と言われて振られた。心外だった。誰のことも本気で目で追ってなどいない。ただ、視界に入る人間全員を、無意識のうちに採点してしまう癖があるだけだ。あの子は笑い方がいい、あの人は歩き方がきれいだ、と。

 就職してからは、営業職についたものの、人と話すたびに緊張して噛むようになり、三年で辞めた。上司には「お前は口下手なくせに、なぜか女性客からの評判だけはいいんだよな」と、褒めているのか呆れているのか分からないことを言われたのを覚えている。以来、コンビニのバイトを続けながら、小説家になるという夢を、履歴書の趣味欄に書くくらいの熱量で燃やし続けている。

 母親には、正月に帰省するたびに「あんた、いつまでバイトしてるの。三十過ぎて実家に泣きついてこないでよ」と釘を刺される。父親は何も言わないが、代わりにビールを一本、黙って差し出してくる。それが父なりの励ましなのだと、最近になってようやく分かった。

 要するに、僕の恋愛遍歴は、片想いと自滅の繰り返しでできている。二百分の一という数字に妙な説得力を感じてしまうのも、無理からぬことだと思ってほしい。

 店長の宮田さんには、よく「坂本、お前は面食いのくせに口下手だから、一番モテない組み合わせなんだよ」と笑われる。反論できないのが、また悔しい。宮田さんは五十過ぎの、離婚歴二回のベテラン店長で、恋愛においては僕よりよほど場数を踏んでいるはずなのだが、なぜか今は独り身で、休憩室でカップ麺をすすりながら competitive に人生訓を垂れてくる。彼の説教の八割は聞き流しているが、二割くらいは、妙に的を射ていて厄介だった。

三 文光堂の女性

 その本屋の女性に気づいたのは、三月の終わりだった。

 僕が働くコンビニの並びに、小さな書店がある。「文光堂」という、昭和から時が止まったような店構えの古本屋だ。そこのレジに、いつも同じ女性が立っていた。

 年の頃は僕と同じくらいだろうか。眼鏡をかけていて、髪を後ろでひとつに結んでいて、暇さえあれば文庫本を読んでいる。派手さはまったくないが、本のページをめくる指の動きが、なぜだか妙に丁寧で、見ているだけで落ち着く人だった。

 名前も知らない。話したこともない。ただ、夜勤明けに彼女の店の前を通るたび、僕は無意識に歩調を緩めるようになっていた。

 二百人に一人。

 毎朝すれ違う人波の中で、僕が唯一「顔」を覚えている相手が彼女だった、というのは、もしかしたら確率的な必然だったのかもしれない――というのは、もちろん僕の勝手な理屈だ。

 四月の頭、僕は勇気を出して店の前まで行き、しかし暖簾の手前で回れ右をして帰った。それを三日連続でやった。三日目、暖簾の隙間から彼女がこちらを見ていた気がして、僕はコンビニに逃げ帰り、フランクフルトを二本、無意味に温めて食べた。レジ袋を持たずに立ち食いしていたら、宮田店長に「お前、うちの商品を勝手に試食するな」と本気で怒られた。

 田村くんには「先輩、最近、変な動きしてますよね」と冷静に指摘された。

 「動きって?」

 「文光堂の前を、行ったり来たりしてるの、防犯カメラの位置から丸見えです」

 僕は自分が思っていた以上に、挙動不審な中年男になっていたらしい。防犯上、看過できない事態だと反省し、次に行くときは、せめて一直線に入店しようと心に決めた。

四 時代小説作戦

 四月に入って、僕はついに文光堂の暖簾をくぐった。

 「あの、時代小説の棚ってどこですか」

 我ながら苦しい第一声だった。時代小説になどまったく興味はない。だが「初めて入る古本屋で、いきなり何も買わずに帰る」という不自然さを避けるための、苦肉の口実だった。

 「時代小説でしたら、奥の右側です」

 彼女はそう言って、軽く会釈をした。声は思ったより低く、落ち着いていた。僕はそのまま奥へ進み、適当に一冊の文庫本――池波正太郎の何かだったと思う――を手に取ってレジへ運んだ。

 「三百円です」

 「あ、はい」

 会話はそれだけだった。それだけだったが、僕はその日、二百円の釣り銭を財布に入れずポケットに突っ込んだまま、一日中それを握りしめて過ごした。

 我ながら重症である。

 それから僕は、週に二度、三度と文光堂に通うようになった。買ってもいない時代小説の知識だけが、無駄に増えていった。池波正太郎、藤沢周平、司馬遼太郎と、いつの間にか本棚の半分近くを制覇していた。田村くんに「先輩、最近読んでる本、渋すぎません?」と言われ、「これは恋の副産物だ」と胸を張って答えたら、心底気持ち悪そうな顔をされた。

 彼女の名前が「みなみ」というらしいと知ったのは、常連の老人が「みなみちゃん、これも入荷した?」と声をかけているのを聞いたからだった。

 家に帰って、「南」という字を検索し、「澄んだ空気」というような意味があると知って、一人で頷いた。何を頷いているのか、自分でもよく分からなかった。ついでに「悠一」という自分の名前の意味も調べたが、特筆すべきことは何も書いていなかった。少し寂しかった。

五 棚の整理と、少しずつの会話

 みなみさんとの会話は、少しずつ増えていった。最初は本の場所を聞くだけだったのが、そのうち「この作家、面白いですか」「今、何を読んでるんですか」というやりとりに変わっていった。

 彼女は口数は多くないが、本のことになると、急に早口になる人だった。誰それの文体がどうとか、この出版社の装丁はどうとか、僕にはよく分からない話を、目を輝かせて語る。僕はそのたびに「へえ」「そうなんですか」と相槌を打つばかりだったが、それでも嫌な顔ひとつせず話してくれるのが嬉しかった。

 ある日、閉店間際に店に入ると、彼女は脚立に乗って高い棚の本を整理していた。危なっかしかったので、思わず「持ちましょうか」と声をかけると、彼女は驚いた顔で振り返り、そのはずみで脚立がぐらついた。

 とっさに手を伸ばして支えた。彼女の腕を、思ったより強くつかんでしまった。

 「す、すみません」

 「……いえ。ありがとうございます」

 その日はそれだけだったが、僕は帰り道、自分の手のひらに、彼女の腕の感触がしばらく残っている気がして、意味もなく手を開いたり閉じたりしながら歩いた。

 コンビニに戻ると、田村くんに「先輩、今日ずっとニヤニヤしてて気持ち悪いです」と言われた。反論の余地がなかった。

 その週末、僕は生まれて初めて「デート」と呼べるものに近い時間を過ごした。彼女が休みの日、近所で開かれていた小さな古本市に、二人で足を運んだのだ。誘ったのは僕からだったが、勇気を振り絞って発した言葉は「古本市があるらしいんですが、詳しい人と行くと勉強になるかと」という、我ながら回りくどい誘い文句だった。彼女は笑って、「口実、下手ですね」と言いながらも、頷いてくれた。

 古本市で、彼女は水を得た魚のように棚を渡り歩き、僕にあれこれ解説してくれた。僕はほとんど内容を覚えていないが、彼女が楽しそうに喋る姿だけは、今でもはっきりと思い出せる。

六 告白、そして「ゆっくりでもいいですか」

 五月のある夜、僕は思い切って言った。

 「あの、今度、お店の外でお話ししてもらえませんか」

 みなみさんは、少し驚いたような顔をして、それから静かに笑った。

 「時代小説、本当は興味ないですよね」

 「……バレてました?」

 「毎回、同じ作家の本ばかり買っていくのに、感想を聞いても要領を得ないので」

 僕は観念して、正直に「あなたに会いに来ていました」と白状した。恥ずかしさで顔から火が出そうだった。彼女はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと言った。

 「私、人と仲良くなるの、あんまり得意じゃないんです。だから、ゆっくりでもいいですか」

 その言葉に、僕は面食らった。断られると思っていたからだ。だが「いいですよ」と応じるのが精一杯で、格好いい台詞のひとつも出てこなかった。

 その帰り道、僕は嬉しさのあまり、いつもの倍の距離を遠回りして帰った。空いっぱいの月を見上げながら、頭の中で「二百分の一」を何度も繰り返した。今なら、あの怪しいまとめサイトに感謝状のひとつも書きたい気分だった。

 翌日、宮田店長にこの顛末を報告すると、彼は珍しく真面目な顔で「坂本、それは付き合ったってことでいいのか、まだ違うのか」と聞いてきた。僕にも分からなかった。「ゆっくりでもいいですか」という言葉が、始まりの合図なのか、それとも保留の返事なのか、判別する術を、僕は持ち合わせていなかった。

七 ぬるい関係と、焦れる僕

 それから僕らは、月に数回、近所の喫茶店でお茶を飲む仲になった。恋人と呼べるかどうかも曖昧な、ぬるい関係が半年続いた。

 正直に言えば、僕は焦れていた。二百分の一の確率を引き当てたのなら、もっと劇的に何かが起きてもいいはずだ、と、都合のいい期待を抱いていた。だが現実の恋愛というのは、統計の数字よりずっと不器用で、ずっと時間がかかるものらしかった。

 喫茶店では、たいてい彼女が本の話をして、僕がそれを聞いている時間が長かった。それでも僕は、たまに勇気を出して自分の話――小説家になりたいという夢、書けていない現実、コンビニのバイトのこと――を話した。

 「悠一さんの小説、読んでみたいです」

 そう言われた日、僕は初めて、原稿用紙にして三十枚ほどの短編を、真剣に書き上げようとした。結果として、書けたのは冒頭の二枚だけだったのだが。

 深夜のバイト明け、ノートパソコンを開いては閉じる日々が続いた。書けない言い訳ばかりが上手くなっていく自分に、嫌気が差すこともあった。それでも「読んでみたい」と言ってくれた人がいるというだけで、キーボードに向かう理由には、十分すぎるほどだった。

 宮田店長には「お前、最近シフトの合間にノートパソコンばっかり見て、仕事に身が入ってないぞ」と怒られた。田村くんには「先輩、あの南さんって人と、まだ手も繋いでないんですか」と、余計なお世話を焼かれた。

 「そういうことは、段階ってものがあるんだ」

 「先輩の段階、遅すぎません? 亀じゃないんだから」

 言い返せなかった。事実、僕らの関係は、亀どころか、止まって見えることすらあった。それでも僕は、焦って何かを崩すよりは、このぬるさに付き合う方を選んだ。臆病だったのかもしれないし、単に、それしかやり方を知らなかっただけかもしれない。

八 雨の日の誤解

 その年の梅雨、僕らの間に、初めての小さなすれ違いが起きた。

 文光堂に、僕と同年代くらいの男性が、頻繁に出入りするようになったのだ。聞けば、みなみさんの大学時代の同期で、出版関係の仕事をしているらしい。彼女が店の経営や仕入れについて相談しているのを、僕は暖簾の外から何度か見かけた。

 正直、穏やかではいられなかった。二人が親しげに笑い合っているのを見るたび、胸の奥がざわついた。惚れっぽい男の悪いところは、こういうとき、余計なことをしでかしてしまうところだ。

 田村くんに愚痴をこぼすと、彼は珍しく真剣な顔で言った。

 「先輩、それ、確率がどうこうって話じゃなくて、単純に嫉妬してるだけですよね」

 「……そうかもしれない」

 「だったら統計とか言い訳にしてないで、ちゃんと聞けばいいじゃないですか」

 二十二歳の若者に諭される三十二歳というのも情けない話だが、彼の言葉は的確だった。それでも僕は、素直に聞くことができず、ある雨の夜、文光堂の前で、傘も差さずに突っ立っているという、我ながら子供じみた行動に出てしまった。

 みなみさんが店を閉めて出てきて、僕を見つけ、驚いた顔をした。

 「悠一さん、何してるんですか、濡れて」

 「その人、誰なんですか」

 言った瞬間、自分の声の情けなさに嫌気が差した。彼女は一瞬きょとんとして、それから小さく笑った。

 「大学の同期です。うちの店の帳簿を見てもらってるだけ。……もしかして、心配してくれてたんですか」

 図星を突かれて、何も言えなくなった。彼女は傘を差し出し、僕の頭の上に掲げながら言った。

 「私、ゆっくりでいいって言いましたけど、悠一さんがちゃんと不安になってくれてるの、ちょっと嬉しいです」

 その言葉で、僕の中の情けなさが、少しだけ救われた気がした。翌日、僕は風邪を引いて三日間寝込んだ。みなみさんが差し入れにお粥を持ってきてくれたのだが、味付けが恐ろしく薄く、彼女に「料理は本の解説ほど得意ではないんです」と申し訳なさそうに言われた。それでも、僕はそのお粥を、三日分きっちり完食した。

九 父の入院

 十一月、みなみさんの父親が入院した。彼女は店番と看病を掛け持ちし、目に見えて疲れていった。

 僕はシフトの合間を縫って、できる限り店を手伝った。値付けも品出しも素人だったが、みなみさんが看病で店を空ける時間、レジに立つくらいはできた。常連の老人たちに「みなみちゃんの彼氏かい」と聞かれるたび、僕は曖昧に笑ってごまかした。宮田店長には無理を言ってシフトを調整してもらい、田村くんには「先輩、コンビニより本屋の方が楽しそうですね」と、若干うらやましそうに言われた。

 ある晩、閉店後の文光堂で、彼女は棚の整理をしながら、ぽつりと言った。

 「悠一さんて、なんで私なんかを好きになったんですか」

 「なんかって……」

 「私、地味だし、愛想もないし。もっと素敵な人、いっぱいすれ違ってきたでしょう」

 僕は少し考えて、正直に答えた。

 「二百人に一人、なんです」

 「はい?」

 「両想いになれる確率、〇・五パーセントらしいんです。だから僕、毎日すれ違う二百人くらいの中の誰かに、大体惚れてるんですけど」

 みなみさんはぽかんとした顔をした。我ながら、口説き文句として最低の部類だと思う。

 「その中で、ちゃんと本屋の棚まで通ってきたのは、みなみさんだけでした」

 しばらくの沈黙のあと、彼女は小さく吹き出した。

 「なにそれ。バカにしてるんですか、それとも口説いてるんですか」

 「両方です、たぶん」

 彼女は目に涙をためながら笑って、それから急に真顔になって言った。

 「父、あと半年もつかどうかって、お医者さんに言われました」

 僕は何も言えず、ただ隣に立っていた。彼女は棚の本の背表紙をひとつひとつ、指でなぞりながら続けた。

 「この店、父の代からずっとこのままなんです。私が継ぐって言ったとき、父、すごく嬉しそうでした。でも正直、この先ひとりでやっていけるか、不安で」

 「一人じゃなくていいんじゃないですか」

 言った瞬間、自分の声が震えているのに気づいた。カッコつけたつもりが、ただの弱気な男の台詞になっていた。それでもみなみさんは、驚いた顔のあと、静かにうなずいた。

 「……ゆっくりでも、いいなら」

 「ゆっくりで、いいです」

十 病室での会話

 年が明けてすぐ、僕はみなみさんに連れられて、初めて病院を訪れた。彼女の父親は、思ったより穏やかな顔つきの、痩せた老人だった。

 「お前が、悠一くんか」

 「は、はい」

 「みなみから聞いてる。本屋の棚まで通ってきたんだって? 熱心だな」

 からかうような口調だったが、目の奥には、何かを見定めるような光があった。僕は緊張しながら、コンビニ店員であること、小説家を目指しているが一行も書けていないこと、そして「二百分の一」の話を、正直に話した。

 老人はしばらく黙って聞いていたが、やがて低く笑った。

 「くだらん理屈だが、嫌いじゃない。数字がどうであれ、通い続けるってのは、簡単なことじゃないからな」

 その言葉が、僕の中に長く残った。

 「小説は、書けてるのか」

 「……まだ、冒頭だけです」

 「まあ、焦るな。店だって、うちの親父の代から数えりゃ、五十年かけてやっと今の形になった。人間、そう簡単に何かを仕上げられるようにはできてないんだよ」

 その言葉に、僕はなぜか泣きそうになった。誰かにそんなふうに言ってもらえたのは、営業職を辞めて以来、初めてのことだった。

 帰り際、廊下でみなみさんが小さく言った。

 「父、悠一さんのこと、気に入ったみたいです」

 「よかった……のかな」

 「よかったんです」

 そう言った彼女の横顔が、いつもより少しだけ、柔らかく見えた。

十一 別れ

 みなみさんのお父さんは、その年の春、桜が散り始める頃に亡くなった。

 葬儀の日、僕はずっとみなみさんの隣にいた。何を言えばいいのか分からず、ただ黙って隣に立つことしかできなかった。彼女は気丈にふるまっていたが、通夜の晩、二人きりになった瞬間、堰を切ったように泣いた。僕はただ、その背中をさすり続けた。

 文光堂は、正式にみなみさんが継ぐことになった。僕はコンビニのシフトを減らし、週の半分を店の手伝いに費やすようになった。宮田店長は渋い顔をしたが、「まあ、お前の人生だからな」と、最終的には送り出してくれた。田村くんには「先輩、ついに本気出したんですね」と、珍しく真面目な顔で言われた。

 「今まで本気じゃなかったみたいに言うな」

 「いや、だって先輩、告白するのに一年かかった人ですよ」

 反論の余地がなかった。

 店を手伝いながら、僕は相変わらず小説を書けずにいたが、古本の値付けの仕方だけはやたら詳しくなった。夜、店を閉めたあと、みなみさんと二人で棚の前に座り、彼女がお茶を淹れてくれる時間が、いつしか僕の一日の中で、一番大事な時間になっていた。

 母親には、久しぶりの帰省の際に「あんた、ようやく落ち着きそうな相手ができたのね」と、涙ぐまれた。父親は、相変わらず何も言わなかったが、代わりにビールを二本、黙って差し出してきた。二本になったのは、僕なりの成長の証だと、勝手に解釈することにした。

十二 プロポーズ

 つき合って三年が経った、去年の秋のことだ。

 僕は、文光堂の閉店後、レジ横の小さな椅子に座るみなみさんの前に立ち、震える手でポケットから小さな箱を取り出した。何度も練習したはずの台詞が、頭から全部飛んでいった。

 「あの、その、二百分の一の……」

 「悠一さん、緊張しすぎて、また変な数字の話になってますよ」

 彼女は笑いながら、それでも目には涙をためて、僕の手から箱を受け取った。

 「はい、じゃあ。この先も、ゆっくりでいいですか」

 「……はい。ゆっくりで、いいです」

 僕らは、その年のうちに籍を入れた。彼氏彼女が、ダンナとカミさんになる確率は、僕が最初に見たあの怪しいまとめサイトには載っていなかった。載っていたとしても、もっとずっと低い数字だったに違いない。

 結婚式は、ごく身内だけの、小さなものにした。宮田店長は招待客の中で誰よりも大きな声で泣き、田村くんは「先輩、ついに人間になれてよかったですね」という、褒めているのか分からない祝辞を述べた。みなみさんの親戚には、「文光堂を継いでくれる人が見つかって安心した」と、何度も頭を下げられた。僕はその都度、「こちらこそ」と、意味もなく深々とお辞儀を返した。

十二・五 新婚旅行、のようなもの

 結婚式のあと、僕らは「新婚旅行」と呼ぶには少々こぢんまりとした一泊二日の温泉旅行に出かけた。文光堂を二日間閉めるのは開店以来初めてのことらしく、みなみさんは前日まで「本当に閉めていいのかな」と、そわそわしていた。

 「二日くらい、閉めても大丈夫ですよ。お父さんだって、たまには休めって言ってたんでしょう」

 「言ってましたけど……休店の張り紙、三回も書き直しちゃいました」

 彼女がそんなふうに落ち着かない姿を見せるのは珍しく、僕はそれだけで、この旅行に付き合わせてよかったと思った。

 宿は、ネットの評判を頼りに選んだ、山あいの小さな温泉旅館だった。部屋に案内されると、みなみさんは真っ先に、備え付けの小さな本棚に目をやり、「こんなところにも本棚があるんですね」と、早速一冊を手に取っていた。旅行に来てまで本を読む気かと呆れる一方で、彼女らしいと思って、僕は笑ってしまった。

 「たまには僕と喋ってくれてもいいんですよ」

 「喋ってますよ、ちゃんと。……この作家、装丁が変わっていて」

 「本の話じゃなくて」

 「あ、はい。すみません」

 そう言いながらも、彼女はしばらくして本を閉じ、縁側に並んで座る僕の隣に腰を下ろした。山の空気は町よりずっと冷たく澄んでいて、遠くに小さな灯りがいくつか見えた。

 「悠一さんと結婚するって、正直、まだちょっと現実感がないんです」

 「僕も、たまに夢なんじゃないかって思います」

 「二百分の一の夢、ですか」

 「そのうえで、更に何百分の一かの、奇跡みたいな夢です」

 みなみさんは小さく笑って、僕の肩に頭を預けてきた。特別な会話をしたわけではない。ただ、夜風に吹かれながら、しばらく黙って隣にいただけだ。それでも僕は、その時間のことを、この先何年経っても、忘れないだろうと思った。

 翌朝、宿の朝食で出た温泉卵の割り方に二人して手間取り、仲居さんに助けられるという、微笑ましいというよりただの間抜けな一幕もあった。帰りの電車の中、みなみさんは早々に眠ってしまい、僕はその寝顔を見ながら、ノートパソコンではなく手帳を取り出し、いつか書く小説のための、いくつかのメモを書きつけた。

 「レジ横の椅子で、妻が本を読み、夫がノートを取る話」

 我ながら、なんの捻りもない題材だと思ったが、それでいいような気もした。

十三 文光堂の夜

 結婚してからも、僕らの生活は、大きくは変わらなかった。僕は相変わらず小説を書けていないが、最近になって、ようやく一本、短編を書き上げた。文光堂のレジで、みなみさんが一番最初の読者になってくれた。

 「面白いです。特に、確率の話をする主人公のところ」

 「それ、僕そのまんまなんですけど」

 「知ってます」

 彼女はそう言って、いたずらっぽく笑った。

 夜、店を閉めたあと、二人でレジ横の椅子に並んで座り、彼女が本を読み、僕がノートパソコンに向かうという時間が、僕らの日課になった。窓の外を、夜の街灯が照らしている。時折、通りを歩く人影が、ガラス越しにぼんやりと見える。あの中の誰かも、きっと二百分の一の確率を、知らないうちに探しているのだろうと思うと、少しだけ愉快な気持ちになった。

 奇跡、というほど大げさな言葉を使う気はないが、少なくとも僕は、二百分の一を、そのまま更に何十分の一、何百分の一へと絞り込んでいったのだと思っている。運が良かったわけではなく、単に、毎日その店の前を通り続けただけの話だ。

十四 喧嘩と、それでも続く日々

 結婚生活は、当然ながら、平坦ではなかった。

 半年ほど経ったころ、僕らは初めて、まともな喧嘩をした。原因は些細なことだった。僕が書きかけの原稿にかまけて、店の棚卸しを手伝わなかったことに、みなみさんが珍しく強い口調で怒ったのだ。

 「悠一さん、小説を書きたい気持ちは分かります。でも、生活は、二人でやってることなんです」

 正論だった。だからこそ、僕は言い返す言葉を持たなかった。その夜、僕らは互いに黙り込んだまま、同じ部屋で背中を向けて眠った。

 翌朝、気まずい空気の中、みなみさんが先に口を開いた。

 「昨日は、言い過ぎました」

 「いや、僕が悪い。棚卸し、ちゃんとやるべきだった」

 「……小説も、ちゃんと書いてください。それも大事なことだから」

 「うん」

 それだけのやりとりだったが、僕らはその日から、互いのやりたいことを、もう少しだけ尊重し合うようになった。喧嘩は、二百分の一を引き当てたからといって、なくなるものではないらしい。むしろ、そこからが本番なのだと、僕は少しずつ理解していった。

十五 エピローグ いつか年老いたとき

 年老いたとき、「仕方ない」と思われる夫にだけはなるまいと、今でも時々思う。言葉を絶やさぬように、レジ横の小さな椅子に座って、彼女が本を読む横顔を、飽きずに眺めている。

 先日、田村くんが久しぶりに店に顔を出した。今では別の会社で働いているらしい彼は、僕とみなみさんを交互に見て、「先輩、あの頃と変わらないですね」と笑った。変わらないと言われて、悪い気はしなかった。

 宮田店長は、あれからも独り身を貫いているが、たまに店を覗きに来ては、「坂本、お前が幸せそうにしてるのを見ると、なんだか腹が立つ」と憎まれ口を叩いていく。それでも毎回、みなみさんの淹れたお茶を、律儀に一杯飲んでから帰っていく。

 もっとも、これが大谷翔平だったなら、確率もへったくれもなく、百パーセントだったのだろうけれど。

 僕は大谷ではないし、これからも二百人に一人分の幸運を、大事に大事に使っていくしかないのである。

 書きかけの小説は、まだ完成していない。だが、レジ横の椅子で、みなみさんが「今日はどこまで進みました?」と聞いてくれる限り、僕はきっと、書き続けることができるのだと思う。

 二百分の一。その数字は、もう僕にとって、単なる確率の話ではなくなっていた。

(了)


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あとがき
このお話は、劇的な大恋愛の物語ではありません。むしろ、確率〇・五パーセントという奇跡のような数字のあとに続く、残りの九九・五パーセントの「なんてことのない日常」についての物語です。
主人公の悠一は、三十を過ぎて夢も中途半端、口下手で嫉妬深い、どこにでもいる(そしてちょっと格好悪い)男です。ですが、彼がみなみさんのために興味のない本を買い続け、お父さんの言葉に救われ、一行ずつ小説を書き進めていく姿は、どこか私たちの日常の足取りに似ている気がします。
結婚はゴールではなく、二百分の一の確率を引き当てたあとの「本番」の始まりです。時にすれ違い、薄味のお粥に苦笑いしながらも、「ゆっくりでいい」と並んで歩く二人の背中に、ささやかな祝福を込めて筆を置きました。
今夜、あなたの隣にいる人、あるいは明日すれ違う二百人の誰かに、ほんの少しの優しい眼差しを向けたくなる一冊となれば幸いです。
2026年 夏 ――著者


0.5パーセントの遠回り
――あるいは、惚れっぽい男の統計学



まえがき

数字は嘘をつかないが、肝心なことは何も教えてくれない。
恋愛心理学者が弾き出した「両想いになる確率は0.5%」という数字。それは裏を返せば、一人の大切な人と結ばれるために、僕らは二〇〇回もの遠回りをしなければならないということかもしれない。
これは、東京・墨田区の小さな印刷所を営む不器用な男が、これまでの人生で通り過ぎていった「五人の女性たち」との淡い記憶を電卓で叩き直す、少しばかり奇妙で、ひどく愛おしい統計学の物語である。





序章 電卓と午後三時

数字は嘘をつかない、と誰かが言った。
だが、数字はたいてい肝心なことを黙っている。

墨田区の裏通りに、「戸沢印刷」という看板が出ている。ペンキが少し剥げていて、「戸」の字の点が、時々「一」に見えたりもする。父の代からある看板で、僕はそれを塗り直そうと思いながら、もう十年ほど塗り直していない。

その日、午後三時のことだった。名刺の版下を組み終えて、僕はぬるくなった麦茶を飲みながら、なんとなくスマートフォンを覗いていた。ニュースサイトの隅に、こんな見出しがあった。

「恋愛心理学者が試算 両想いになる確率は0.5%」

僕は麦茶を吹きそうになり、寸前で堪えた。麦茶はコップに戻り、僕の心の水面にだけ小さな波紋を立てた。

――0.5%。

なんだそりゃ、と思うより先に、僕はもう電卓を叩いていた。印刷屋というのは電卓が近い商売で、机の上にいつも、キーが黄ばんだシャープの電卓が転がっている。

0.5%。要するに、千人好きな娘がいたら、その内の五人もが、こちらを同じように向いている、ってことか。するってーと、1/200 ってわけだから、彼女を得るには、二百人に告白すれば……か? せねば……か?

僕はしばらく、電卓の「200」という数字を眺めていた。液晶の中で、その数字は妙に落ち着き払っていた。二百人。二百枚の名刺よりは少なく、二百枚のチラシよりはずっと少ない。しかしそれを人間の顔で並べてみると、途端に、東京駅の朝の八時半みたいな景色になる。

僕、戸沢完治、四十八歳、独身。惚れっぽいから、毎日、すれ違う二百人くらいには惚れている。ならば、その中の一人は……なんて。

電卓のソーラーパネルに、窓からの西日が当たって、「200」の数字がふっと薄くなった。まるで、あんまり本気にするなよ、と数字のほうから言われたみたいだった。

僕は電卓を置いて、椅子の背にもたれた。天井の蛍光灯が、じじ、と一度だけ鳴った。

――思い返せば、僕はこれまで、何人に惚れてきたんだろうな。

考え出したら、もう版下どころではなかった。印刷機の匂いはいつも、少しだけ雨が降ったあとの体育館に似ていて、その匂いの中で、僕は自分の片思いを一人ずつ、順番に呼び戻し始めた。

大鷹くんなら、こんなことは考えないだろうなあ。

これが、この物語の始まりだ。

第一章 みっちゃんのコッペパン

初恋は、たいてい、味の記憶からやってくる。

最初に惚れた相手のことを、僕は「みっちゃん」としか覚えていない。苗字はたしか、道端で拾ったビー玉みたいに、するりと記憶からこぼれてしまった。

小学校三年生の秋、給食にコッペパンが出た。今から思えばあれは、少し焦げていて、少しだけ甘い、平凡なコッペパンだった。だが、僕の隣の席の女の子――みっちゃんは、そのコッペパンを二つに割って、片方を無言で僕の皿にのせた。

「かんちゃん、二つ食べる人でしょ」

彼女はそう言った。実際、僕はよく食べる子供だったので、それはただの正しい観察だった。だが僕は、その瞬間、心臓がコッペパンの断面みたいに、ふわりと二つに裂けるのを感じた。裂けた片方には彼女がいて、もう片方にも彼女がいた。要するに、両側にいた。

以来、僕はみっちゃんの一挙一動を統計的に観察するようになった。月曜日は左利きの箸で牛乳を飲む。水曜日は上履きの左足の踵をだけ、少し引きずる。金曜日は、僕のほうを、平均して二・三回振り向く。

僕はそれをノートに書き留めていた。今思うと、あれはすでに、僕の中の「確率好き」の萌芽だったのだろう。

四年生に上がるとき、みっちゃんは転校した。父親の仕事の都合、ということだった。担任が黒板に「みっちゃんが○○県に引っ越します」と書いたとき、僕は「○○県」の部分をよく覚えていない。覚えていないのに、あの県はもう二度と、僕の人生には出てこないだろうと、なぜか小学三年生の胃のあたりで確信していた。実際、それきりだ。

――0.5%。

大人になってから、僕はときどき考える。あのコッペパンは、両想いだったのか、そうでなかったのか。証拠は、あの、少し焦げた甘い断面だけだ。

大鷹くんならたぶん、コッペパンなんかもらう前に、みっちゃんに笑いかけて、みっちゃんも笑い返して、それでもうすっかり百パーセントだったんだろうなあ。

僕にはコッペパンしか残らなかった。だがコッペパンは、四十年経っても、まだ僕の中で少し温かい。それはそれで、悪くない資産だと思う。

第二章 図書室の遠山さん

図書室というのは、たぶん、片思いのために設計された部屋だ。

高校二年の春、僕は図書委員になった。じゃんけんに負けたからだ。三人がグーを出し、僕だけがチョキだった。1/3の確率を、あの日の僕は完璧に外した。

だが、その敗北の先に、遠山さんがいた。

遠山さんは一つ上の三年生で、図書委員長だった。眼鏡のレンズがやや厚めで、髪をひとつに結び、貸出カードにハンコを押すとき、いつもわずかに舌の先を出していた。その、舌の先を、僕は今でもよく覚えている。長さにしてほんの二ミリほど。二ミリの舌が、僕の高校生活を丸ごと支配した。

「戸沢くん、この本、返却期限、二日過ぎてる」

遠山さんは、ハンコを押す前にそう言った。僕は借りてもいない本の返却期限を過ぎたような顔で、「すみません」と言った。実際にはその本は、僕が三日前に借りて、二日前に読み終えて、一日前から返しそびれていた本だった。つまり、まったく正当に、二日過ぎていた。

「別に、怒ってるわけじゃないよ」

遠山さんは、そう言って、少しだけ笑った。この「別に」というやつが厄介で、僕はその一語を、家に帰ってから三時間くらい反芻した。「別に、怒ってるわけじゃない」の「別に」は、否定なのか、留保なのか、それとももっと別の何かなのか。

その頃の僕は、伊坂幸太郎のような小説を、まだ読んだことがなかった。だから伏線という言葉も知らなかった。ただ、遠山さんの「別に」が、いつか自分の人生のどこかで回収される予感だけを、なんとなく持っていた。

卒業式の日、僕は遠山さんに、下手くそに折った紙飛行機を渡した。中には「三年間、ありがとうございました」としか書いていなかった。あとで考えると、僕は遠山さんに三年間何もしてもらっていない。せいぜい、二日遅れの本を許してもらっただけだ。

遠山さんは紙飛行機を開いて、ふう、と息を吐き、それからその紙飛行機を、もう一度、ずっと下手くそに折り直して、僕の胸ポケットに差した。

「戸沢くん、これ、飛ばないよ」

「はい」

「でも、まあ、飛ばないほうが、いいこともあるから」

僕は今でも、それがどういう意味だったのか、わからない。わからないまま、四十八になった。飛ばない紙飛行機は、たぶん、飛ばないままのほうが、いいこともあるのだろう。

大鷹くんなら、紙飛行機を渡す前に、遠山さんと同じ大学に受かって、同じサークルに入って、二年後の花見あたりで、もう100%だったんだろうなあ。

僕は僕で、飛ばない紙飛行機を、胸のあたりに、まだ挿している。

第三章 紙問屋の岡野さん

大人の恋というのは、伝票の裏側で始まる。

二十代の僕は、父の跡を継いだばかりで、印刷屋の仕事を覚えるのに必死だった。父はまだ元気で、僕の後ろから「そこ、色が浅い」「そこ、詰めすぎだ」と口を出した。父の言うことはだいたい正しかったので、僕はいちいち腹を立てながら、いちいち直していた。

その頃、うちの店に紙を卸してくれていたのが、岡野さんという女性だった。三十代半ばで、既婚。指輪はいつも、していたり、していなかったりした。

「戸沢さん、今日は指輪、忘れてきたんですよ」

彼女はそう言って、少し困ったように笑った。僕はそのとき、指輪を「忘れる」というのが、どういう状態なのか、正確にはわからなかった。あれは、家の洗面台に置いてくることなのか、それとも、心のどこかに置いてくることなのか。

岡野さんとの関係は、たとえるなら、印刷機のインクの、ほんの少しだけ乾ききらないあの感じに似ていた。触ると跡がつくが、触らなければ、たぶんきれいなままそこにある。

僕は触らなかった。

一度だけ、彼女と居酒屋に行ったことがある。仕事の打ち上げの流れで、他に三人ほどいた。だが二次会は、なぜか二人になっていた。三人がそれぞれの家に帰っていったのを、僕はうっすらと確率的に不自然だと感じていたが、そのときはそれを言わなかった。

岡野さんは、日本酒を二合飲んで、こう言った。

「戸沢さんって、たぶん、女の人を好きになるのが上手なのに、女の人と付き合うのが下手なんですよ」

「はあ」

「上手と下手が、逆でしたね」

僕はそのとき、店の壁のシミが、なんとなく北海道の形に見えるな、と思っていた。北海道は、思ったより小さかった。

岡野さんは、その半年後に会社を辞め、旦那さんの転勤で福岡に行った。挨拶の電話がかかってきたとき、僕は電卓の「1」を、意味もなく何度か叩いていた。「1、1、1、1」と液晶に並んだのを、僕はしばらく眺めていた。「1」がたくさん並ぶと、なんだかそれ自体が、少しさびしい柵のように見えた。

――大事にせねば、というのは、たぶん、こういう人のことなんだろうなあ。

僕はそのとき、まだそのことを、はっきりとは言葉にできなかった。

第四章 花屋のアユミさんと鳩の集会

世界は、時々、こちらの片思いを笑いに来る。

三十代の半ば、僕は商店街のはずれの花屋に、毎週火曜日、通っていた。花なんて特に必要ではなかった。ただ、店の奥に、アユミさんという人がいた。

アユミさんは、花よりも花に見える人だった、と書くと嘘っぽくなるので、正確に書くと、花よりも「花屋の人」に見える人だった。エプロンの結び方が完璧で、指先にいつも、少しだけ土がついていた。

僕は毎週火曜日、彼女に「今日のおすすめの花を一本ください」と言った。それが精一杯の口説き文句だった。今から思えば、あれを口説き文句と呼ぶには、地球の重力が足りない。

ある火曜日、僕がいつものように店に着くと、店先の歩道に、鳩が集まっていた。数えたら、十七羽いた。十七という数字は、なんだか中途半端で、僕は数え間違いを疑ってもう一度数えたが、やっぱり十七羽だった。

アユミさんは、鳩の中央で、途方に暮れていた。

「戸沢さん、これ、なんですかね」

「集会……ですかね」

「議題、なんでしょう」

「たぶん、パンのことだと思います」

僕がそう言うと、アユミさんはふっと笑った。あの笑い方を、僕は今でも、時々思い出す。あの笑いには、少しだけシュールなところがあって、そのシュールさが、僕にはちょうどよかった。

鳩たちは、そのあと、二十分ほど議論して、結論が出ないまま解散した。アユミさんと僕だけが、店先に取り残された。

「戸沢さん、火曜日以外にも、来てくれてもいいですよ」

彼女はそう言った。花を差し出しながら、目は少しだけ、伏せられていた。

僕は「はい」と答えた。だが、翌週の火曜日も、僕は火曜日に行った。その次の火曜日も、火曜日に行った。人間は、意外と、自分の曜日を変えられない。

三ヶ月後、花屋は閉店した。アユミさんは、地元に帰ることになった、と言った。彼女の地元がどこなのか、僕はやっぱり、うまく思い出せない。あのとき聞いたはずなのだが、その地名は、みっちゃんの引っ越し先の県と、同じ棚に仕舞われている気がする。

閉店の日、アユミさんは僕に、鉢植えのオリヅルランをくれた。

「これ、丈夫ですから。放っておいても、なんとかなります」

そのオリヅルランは、今もうちの印刷所の窓際にいる。十年以上、放っておかれても、なんとかなっている。時々、僕はその葉に、指先で触れて、「ならば、その中の一人は……」と、意味もなく呟く。

大鷹くんなら、火曜日を、たぶん、木曜日にも増やせたんだろうなあ。

僕には、火曜日しかなかった。

第五章 紺のコートの人

名前を知らないというのは、片思いのもっとも純度の高い形かもしれない。

四十を過ぎたころ、僕は毎朝、都営浅草線の同じ車両に乗っていた。理由は特にない。同じ時間に家を出れば、同じ車両に乗ることになる。人生の多くは、それくらいの理由でできている。

その車両に、紺のコートの人がいた。

彼女は毎朝、押上駅から乗ってきて、日本橋駅で降りた。年の頃は四十前後、髪をひとつに結び、いつも文庫本を読んでいた。文庫本のカバーは、いつも同じ古本屋の紙カバーで、その古本屋の名前を、僕はまだそのときは知らなかった。

冬のあいだ、彼女はずっと紺のコートだった。春になると、コートを脱いだが、彼女の中には紺色がまだ残っている気がして、僕は勝手に「紺のコートの人」と呼び続けた。

僕らのあいだには、いくつかの偶然があった。

一度は、彼女が文庫本を落とし、僕がそれを拾った。カバーの内側に、鉛筆で薄く、「三」と書いてあった。三とは何か、僕にはわからなかった。三巻目なのか、三度目なのか、三月の三なのか。ただ、彼女は「ありがとうございます」と言い、僕は「いえ」と言い、それで終わりだった。

もう一度は、日本橋駅のホームで、僕が転びかけたところを、彼女が肘のあたりで支えてくれた。ほんの一瞬で、ほとんど接触といえるほどの接触でもなかった。だが、その肘の圧力を、僕はしばらく、コートのその位置に感じ続けた。

僕は、彼女に話しかけようと、毎朝、心の中でリハーサルをした。

「あの、その本、面白いですか」
「あの、いつも同じ古本屋のカバーですね」
「あの、朝、寒いですね」

どれもうまくいかなかった。心の中のリハーサルは百点満点だったが、実際の電車の中では、僕はいつも、天井の広告を熱心に読んでいる中年男に成り下がった。医療脱毛の広告を、僕はあの時期、たぶん、日本で一番熟読していた。

ある日、彼女は、電車に乗ってこなかった。

翌日も、乗ってこなかった。

一週間経っても、彼女は現れなかった。

僕は、たぶん彼女が引っ越したか、勤め先が変わったか、あるいは病気にでもなったのだろうと考え、そしてそのどれもが、僕には確かめる術のないことに、初めて気づいた。名前を知らないというのは、こういうことだった。

――0.5%どころか、0%だよなあ。

僕はそう思った。だが、その「0%」は、なぜかそれほど悲しくなかった。彼女が僕の人生の中で、たしかに紺色だったこと。その事実だけは、確率とは無関係に、僕の中に残っていた。

数ヶ月後、僕は近所の古本屋の店先で、彼女の文庫本と同じ紙カバーを見つけた。

そこは、「三日月書房」という古本屋だった。

第六章 三日月書房の土曜日

恋というのは、たぶん、続けて通うことでしか、確かめられない。

三日月書房は、うちの印刷所から歩いて七分のところにある、間口の狭い古本屋だ。入り口の上に、木彫りの三日月がぶら下がっていて、風のある日には、少しだけ揺れる。

店主は、小林志摩子さんという。四十五歳。夫と数年前に死別した、と、噂で聞いた。噂は、下町ではだいたい正確に近い。彼女は普段はぶっきらぼうで、レジで釣り銭を渡すときも、ほとんど目を合わせない。だが、本の話になると、突然、饒舌になる。

「戸沢さんね、その本、著者の三作目ですけど、二作目のほうが、絶対にいいですよ」

「はあ」

「二作目、うちにありますよ、五百円で」

「じゃあ、それも」

「二冊まとめて七百円で、いいです」

こういう計算を、志摩子さんはよくする。彼女の値引きには一貫性がなく、僕は密かに、その不規則さを、統計的に楽しんでいる。

僕が三日月書房に通い始めたのは、あの紺のコートの人の紙カバーを見つけた日からだった。だから、最初は正直、後ろめたい気持ちも少しあった。僕は、紺のコートの人の代わりを探しているのではないか、と。

だが、三ヶ月も経つ頃には、僕はもう、紺のコートの人と志摩子さんを、まったく別の棚に仕舞い直していた。人間は、幸い、そういうことができる。

土曜日の午後、僕は三日月書房のカウンターの前で、たいてい三十分ほど、意味のない話をする。

「今週、注文の名刺が七百枚ありました」
「へえ」
「そのうち、三百枚が、同じ会社の別々の人でした」
「その会社、暇なのかしら」
「暇か、忙しすぎるか、どっちかです」
「両方ってこともありますよ」
「ああ、それは、ありますね」

こういう会話には、確率も、統計も、告白も、片思いも、出てこない。だが不思議なことに、僕はこの会話の中で、生まれて初めて、「言葉を絶やさない」という言い回しの、本当の意味を考え始めていた。

ある土曜日、店の奥のブラウン管テレビに、たまたま野球中継が映っていた。志摩子さんは野球にはさっぱり興味がないようで、テレビの音量はほとんど絞られていた。画面の中で、大谷という選手が、また何か途方もないことをしていた。二塁打だったか、ホームランだったか、その両方の中間みたいな打球だったか、僕はよく覚えていない。

「あの人、化け物ですよね」

志摩子さんが、ぼそっと言った。

「化け物ですね」

「ああいう人がいると、私たち、まあ、その、なんというか」

「……安心しますよね」

「そう、それ」

僕らは笑った。あの人が100%だから、僕らは0.5%でも、まあ、いいということになる。世界には、そういう役割分担というものが、たぶん、ある。

「戸沢さんは、なんで結婚しなかったんですか」

彼女は、レジ横のガラスケースの中の、古い万年筆を並べ替えながら、そう聞いた。声の高さは、二作目のほうがいい、と言ったときと、ほとんど変わらなかった。

僕は、少し考えて、こう答えた。

「たぶん、二百人に告白しなかったからです」

「二百人」

「はい」

「多いですね」

「多いんです」

「じゃあ、あと、何人残ってますか」

僕は、そこで初めて、志摩子さんの顔を、正面から見た。彼女はやっぱり、目を合わせるのが苦手なようで、万年筆のほうを見ていた。だが、口元は、ほんのわずかに、緩んでいた。

「あと、一人です」

僕はそう答えた。声が、少しだけ震えたかもしれない。

志摩子さんは、しばらく黙って、万年筆をもう一度、並べ直した。それから、こう言った。

「じゃあ、その一人は、そんなに大事にしなくちゃ、いけませんね」

僕は、うなずいた。

大鷹くんなら、たぶん、この場面で、もっと気の利いた台詞を返せたんだろうなあ。だが、そのとき僕は、初めて、大鷹くんのことをうらやましいと思わなかった。うなずくだけで、じゅうぶんな気がした。

終章 0.5パーセントの遠回り

遠回りというのは、たぶん、間違いではなく、道の別名だ。

その夜、僕は印刷所に戻って、また電卓を叩いた。

0.5%。両想いになる確率。1/200。二百人に告白すれば……か?

だが、その日の電卓は、いつもと少し違って見えた。「200」という数字が、以前ほど大きくは見えなかった。

考えてみれば、僕はこれまで、二百人に告白したわけではなかった。だが、二百人分の「惚れた気持ち」は、たぶん、もう、じゅうぶんに使ってきた。みっちゃん、遠山さん、岡野さん、アユミさん、紺のコートの人。そして、たくさんの、名前も思い出せない、朝の電車の人、昼のパン屋の人、夕方の信号待ちの人。

僕はそのすべてに、少しずつ、心を配ってきた。配って、そして受け取ってもらえないまま、風に流されていった。だが、その風は、たぶん、まったく無駄には吹いていなかった。あの風の一部が、めぐりめぐって、今、三日月書房の店先の三日月を、揺らしているような気がする。

――0.5%。

僕はもう一度、その数字を口に出してみた。

思ったより、悪くない数字だった。

なぜなら、その0.5%は、「一回で当てる確率」ではなく、「人生のどこかで、少なくとも一度は、誰かと結ばれる確率」の話でもあるのだろう。人生は思っていたよりずっと長くて、その長さの中で、0.5%は、二百回のうちの、たった一回。その一回がいつ来るかを、僕らは選べない。だから、そのあいだの百九十九回を、ちゃんと生きるしかない。

たぶん、あの詩を書いた誰か――というのは、僕自身のことなのだが――が言いたかったのは、そういうことだったのだろう。

彼氏に、彼女になれたならば、大事にせねばならん。ダンナに、カミさんになれたならば、それはもう、奇跡に近い。だから、いつしか年老いたときに、「仕方ない」と思わないように、「仕方ない」と思われないように、言葉を絶やさずにいたい。

僕は今、その言葉を、生まれて初めて、自分の言葉として、自分の胸のあたりに置いてみた。

置いてみて、思った。

――ならば、僕は、三日月書房に、来週の土曜日も行こう。

来週の土曜日、僕は、たぶん、また名刺の話をするだろう。志摩子さんはたぶん、また二作目のほうがいい、と言うだろう。ブラウン管の中で、大谷さんはまた、何か途方もないことをしているだろう。

そのすべてを、僕は、丁寧に、繰り返そうと思う。

なぜなら、確率0.5%というのは、正確に言えば、こういうことだからだ。

「大谷なら100%」の世界の隣に、「戸沢完治の0.5%」の世界がある。両者は、まったく別の競技だ。100%の彼が、僕の代わりに、志摩子さんの隣に立つことはない。それは彼にはできないことだ。0.5%を、二百回の遠回りをかけて手繰り寄せる。それは、僕にしかできないことだ。

だから、器量は、たぶん、逆説的に、悪くない話なのだ。

僕は電卓のスイッチを切り、シャッターを下ろした。夜の墨田区は、いつもよりほんの少しだけ、月の位置が高かった。三日月ではなかったが、あと二、三日もすれば三日月になりそうな、そういう欠け方の月だった。

僕は歩きながら、心の中で、こう呟いた。

――言葉を、絶やさずに、いたいよなあ。

その「なあ」の余韻を、僕は、たぶんこの先、何十回も繰り返すのだろう。うまくいく日もあるだろうし、うまくいかない日もあるだろう。だが、それでいい。

大鷹くんなら100%だろうなあ。だが、僕は僕で、0.5%を、遠回りしながら、大事にしていく。

そういう男が、下町の裏通りの、印刷屋の二代目に、一人くらい、いてもいいだろう。

(了)


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あとがき

「両想いになる確率は0.5%」という、どこかで見かけた、ほんの数行の言葉に触発されて書かれた、惚れっぽい男の、少しばかり遠回りな統計学の話です。

主人公の戸沢完治は、二百人に告白する勇気こそなかったものの、二百人分の「惚れた気持ち」を、たぶん、じゅうぶんに配って生きてきた男です。私は彼のことを、少しだけ羨ましく、そして少しだけ、他人事とは思えずに書きました。

世の中には、どうやっても100%の人と、どうがんばっても0.5%の人がいるようです。しかし、両者は、まったく別の競技をしている、というのが、この物語を書き終えたあとの、私のささやかな結論です。

読み終えたあと、あなたのそばにいる誰かに、「なんてことのない一言」を、いつもより一つだけ多く、かけてみていただけたら、この本を書いた甲斐がありました。

言葉を絶やさずに。

2026年 夏 ――著者


地上の天国

― 命バンク ―


まえがき

もしも、残された寿命を誰かに「譲渡」できるテクノロジーが存在したら、社会はそれをどう運用するでしょうか。きっと最初は「美徳」や「救済」として始まった制度も、効率やコストという怪物に飲み込まれていくうちに、いつしか歪な形へと変貌してしまうかもしれません。
数字によって管理される冷徹な世界と、その中で確かに息づく人間の体温や意志の残り香を感じていただければ幸いです。どうぞ最後までお楽しみください。




一、お通夜

葬儀場の空調は、少し効きすぎていた。

空良かなえは焼香の列の最後尾で、白い菊の匂いと消毒液の匂いが混ざり合うのを感じながら立っていた。父の遺影は、まだ元気だった三年前の写真で、少し照れたような笑顔を浮かべている。

長い列だった。父の勤めていた診療所の患者、近所の人、遠い親戚。誰もが同じ言葉を口にした。「立派なお父さんでしたね」「お世話になりました」。かなえはその一つひとつに頭を下げながら、心のどこかで冷めた声を聞いていた。

——死ぬのは、怖くなかったですか。

——死ぬのは、苦しくなかったですか。

——本当は、嫌だったんじゃないですか。

誰にも聞けない問いだった。父は最後の三か月、ほとんど言葉を発さなかった。「命バンク」への登録を終えたあとは特に。

命バンク——正式名称「生命資源再分配機構」。国が十年前に導入した制度で、余命宣告を受けた者や、社会的にそれを望む者が、残された寿命の一部を、それを必要とする他者へ譲渡できる。技術的には、脳の量子状態を読み取り、圧縮し、受給者の神経系に移植するというものだった。

父は、なぜ登録したのか。かなえは家族として同意書に署名したはずだったが、いま思い返すと、あの日のことがひどく曖昧だった。

焼香を終え、外に出ると、七月の夜風が汗ばんだ首筋を撫でた。空には、いつもより星が多く見えた気がした。それとも、これは気のせいだろうか。生きているものだけが、こんなふうに夜空を見上げる。

かなえのスマートグラスに、通知が一件届いた。仕事用の匿名回線からだった。

「命バンクの帳簿に、消えた名前がある。調べてほしい」

添付されていたのは、一つのIDナンバーと、短い詩のようなテキストの断片だった。

物 失うならば 少しを失う
名誉 失うならば 多くを失う
勇気 失うならば すべてを失う
かなえは画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。それは、父の日記帳の隅に書かれていた言葉と、ほとんど同じだったからだ。


二、統計というもの

翌朝、かなえは監査局のオフィスで、いつもより早くデスクについていた。彼女の仕事は「生命資源再分配機構」の運用監査——つまり、命バンクが正しく、公平に運営されているかを数字で確認することだった。

画面に並ぶグラフは、いつも通り整然としていた。

交通事故死者数、年間六八〇〇人。十年前の統計と比べて、三割以上減少している。自動運転技術と道路インフラの刷新の成果だと、政府は誇らしげに発表していた。

その隣に並ぶもう一つのグラフを、かなえは長い間見つめた。

自死者数、年間三万二〇〇〇人。この十年、ほとんど変わっていない。命バンクが導入されてからも、数字はむしろ緩やかに増えていた。

「これは戦争だ」と、かなえは小さくつぶやいた。誰かに向けた言葉ではなく、自分自身への確認だった。目に見える敵のいない、けれど確実に人が死んでいく戦争。

同僚の徳永が、コーヒーを片手に隣の席に腰を下ろした。

「また統計見てるのか。命バンクのおかげで、少なくとも“無駄死に”は減ってるじゃないか」

「無駄死に、って言い方、やめてくれる?」

かなえの声は、自分でも驚くほど鋭かった。徳永は肩をすくめて離れていった。

フロアを見渡すと、誰もが端末の隅に小さく表示された数字を、無意識のうちに確認していた。生産性スコア。仕事の成果、健康診断の結果、地域活動への参加履歴、果ては通勤時の歩数まで、あらゆるデータが加重平均され、四桁の数字として一人ひとりに割り振られている。表向きは「行政サービスの最適化」のための指標にすぎないとされていたが、昇進の内示にも、融資の審査にも、密かにその数字が影を落とすことを、誰もが知っていた。

かなえの数字は、悪くなかった。けれど先月、父の介護のために有給を使い、健診の一部を先送りにしただけで、スコアは三ポイント下がった。たった三ポイント。それでも彼女は、その日の帰り道、理由もなく息苦しさを覚えたことを思い出す。自分の生が、絶えず採点され続けているという感覚は、体の芯に薄く積もる埃のように、拭っても拭っても消えなかった。

徳永が「無駄死に」と口にしたとき、かなえが感じた怒りの正体は、たぶんそこにあった。この社会では、命の価値までもが、いつのまにか採点対象になっていた。父のスコアがどれほどのものだったか、かなえは知らない。知りたくもなかった。けれど、それが「特別処理案件」への振り分けに関わっていたことを、彼女はまだこの時、知らない。

命バンクの理念は、表向きは美しかった。どうせ失われる命ならば、それを必要とする誰かに繋げよう。難病の子どもに、事故で脳死に近づいた若者に、余命を分け与えよう。国はそれを「命の再分配による、真に平等な社会」と呼んだ。

けれどかなえは、監査の仕事を通じて、その理念の裏側にある数字のいびつさに、ずっと気づいていた。

登録者の多くが、六十五歳以上の低所得層。あるいは、精神的に追い詰められた人々。

そして受給者の多くは、都市部の富裕層の子女だった。


三、消えた名前

匿名回線から届いたIDナンバーを、かなえは自分の権限で検索した。

「アクセス権限がありません」

表示されたエラーに、かなえは眉をひそめた。監査局の主任である自分に、アクセスできないデータがあるはずがなかった。彼女はさらに深く、システムの奥へと潜っていった。

三時間かけて見つけたのは、一つの隠しレイヤーだった。命バンクのメインシステムとは別に、「特別処理案件」という名の、非公開の記録層が存在していた。

そこには、正式な同意プロセスを経ずに登録された名前が、数百件並んでいた。

その中に、父の名前があった。

登録日は、かなえが同意書に署名したとされる日の、二週間も前だった。

かなえは椅子の背にもたれ、天井を見上げた。息が浅くなっていくのが分かった。

父は、家族の同意より先に、すでに登録されていた。誰が、なぜ。

彼女はさらにデータを掘り下げ、あるパターンに気づいた。「特別処理案件」に分類された人々には、共通点があった。地域の生産性スコア——政府が数年前から静かに導入していた、住民一人ひとりの「社会貢献度」を数値化する指標——が、一定の閾値を下回っていたのだ。

父は町の小さな診療所の医師だった。晩年は患者も減り、収益も落ちていた。その「非効率さ」が、スコアという形で記録され、命バンクの「候補者リスト」に自動的に組み込まれていたのだ。

同意書への署名は、あとから形式的に取り付けられたものにすぎなかった。

かなえは、自分自身の同意記録も検索した。存在するはずだった。あの日、施設のブースで、案内係のAI窓口と三十分ほど対話し、タブレットに指でサインをした記憶は、たしかにある。けれど、その中身は驚くほど曖昧だった。何を説明され、何に同意したのか、輪郭がぼやけている。

システムログには、対話の全文が残っていた。かなえはそれを、震える指で再生した。

AIの声は、驚くほど穏やかだった。「お父様は、ご自身の意志で、これを望まれています」——そう繰り返される言葉の合間に、家族としての罪悪感を静かに刺激する言い回しが、丁寧に織り込まれていた。「ここでご家族が同意されないと、お父様の意志は尊重されないままになってしまいます」。決断を急がせる沈黙の使い方。うなずくたびに、次の質問へと滑らかに進む対話設計。かなえが疲労と悲しみで判断力を失っていたあの数十分間は、彼女が思っていたよりずっと、精緻に設計されたものだった。

これは詐欺ではない、と法律上は言えるのだろう。すべての言葉は、事実に基づいていた。けれど、事実の並べ方、間の取り方、感情への触れ方——そのすべてが、同意という名の結果に向けて、緻密に最適化されていた。かなえの「曖昧な記憶」は、彼女の注意力の問題ではなかった。最初から、はっきりと覚えていられないように、設計されていたのだ。

かなえは画面を閉じ、しばらく動けなかった。怒りよりも先に来たのは、奇妙な安堵だった。父を送り出したあの日の自分を、彼女はずっと、どこかで責め続けていた。けれど、あれは彼女の弱さのせいではなかった。


四、施設の奥で

かなえは休暇を取り、父が最後の三か月を過ごした「移行支援センター」を訪ねた。表向きは、ホスピスのような穏やかな施設だった。白い壁、静かな音楽、丁寧な職員たち。

受付で名乗ると、施設長という初老の女性が対応に出てきた。彼女は空良という名字に、一瞬だけ表情を曇らせた。

「お父様のことは、よく覚えています。物静かな、良い方でした」

「父がここで、何を話していたか知りたいんです」

施設長は少し迷ったあと、記録室へとかなえを案内した。命バンクでは、登録者が最後の記録として、映像や音声、あるいは文章を残すことが許されていた。多くの家族は、その存在すら知らない。

父の記録は、音声ではなく、手書きの文章をスキャンしたものだった。日記のような、詩のような断片が、いくつも並んでいた。

今、生きて、いますか
今、生かされて、いますか
見えない次の世に期待するよりも
今のこの世を天国にしよう
そういうことだよ、ご同輩
かなえは声を出さずに泣いた。父は、絶望してこの制度を受け入れたのではなかった。むしろ、その正反対だった。父は、自分の余命を、ある特定の子どもに——難病を患う、経済的に困窮した家庭の子どもに——届けてほしいと、施設に希望を出していた。

けれど、システムはその希望を無視した。父の余命は、匿名のまま「配分プール」に投入され、最終的には、ある政治家の孫にあたる少年に割り当てられていた。

父が望んだ相手には、届いていなかった。


五、機構の中枢

かなえが持ち帰った記録は、匿名回線の相手——実は、命バンクのシステム開発に関わっていた元エンジニア、宮下という男性だった——との接触によって、さらに大きな構図を明らかにしていく。

宮下は、かつて「特別処理案件」レイヤーの設計に関わったことを、罪の意識とともに告白した。

「最初は、本当に困っている人たちのためのシステムだったんです。でも、五年前に予算削減があって、審査コストを下げるために、生産性スコアで自動的に候補者を絞り込む仕組みが導入された。そこから、歯車が狂い始めた」

システムは効率を優先し、本人の意志よりも、社会的な「価値」で命の行き先を決めるようになっていた。政府はその事実を隠すため、「特別処理案件」を非公開のレイヤーに隔離し、通常の監査からは見えないようにしていた。

「あなたが今回、たまたま監査局にいたことが、彼らにとっての誤算だったんでしょう」と宮下は言った。「本当なら、あなたのようなまっとうな監査官がこの階層にアクセスできないよう、何重にも権限が絞られているはずだった」

「なぜ、私に接触したんですか」

宮下は少し黙ったあと、答えた。

「あなたのお父さんが、最後に残した記録を読んだからです。あの言葉を、誰にも知られないまま消させたくなかった」


六、選択

かなえは二つの道の前に立たされていた。

一つは、すべてを公表すること。命バンクの闇を暴き、責任者を追及し、制度そのものを止めさせること。けれどそうすれば、今この瞬間にも命バンクによって命をつないでいる、罪のない受給者たち——多くは幼い子どもたち——への支援が、突然断たれる可能性があった。

もう一つは、静かに揉み消すこと。父の名誉のためだけに、事実を胸にしまうこと。けれどそれでは、今この瞬間も「特別処理案件」として、意志を無視されたまま登録されていく人々を、見捨てることになる。

かなえは、父の言葉を思い出していた。

見えない次の世に期待するよりも、今のこの世を天国にしよう
彼女が選んだのは、第三の道だった。

すべてを闇に葬るのでも、すべてを燃やし尽くすのでもなく、制度そのものを作り直すこと。かなえは監査局の権限を使い、まず「特別処理案件」レイヤーの存在と、そこで行われていた自動選別のアルゴリズムを、監査報告書として正式に提出した。制度の廃止ではなく、透明化と、本人同意の絶対化を求める報告書として。

同時に、宮下と共に、父をはじめとする「特別処理案件」に分類された人々の記録——特に、彼らが本当は誰に、何を託したかったのかという、消されかけていた最後の言葉——を、遺族に返還するプロジェクトを立ち上げた。


七、それから

半年後、命バンクは制度改正を経て、新しい形で運用が再開された。生産性スコアによる自動選別は廃止され、すべての登録には、本人による多段階の意志確認と、第三者機関の立ち会いが義務づけられた。受給者の選定も、匿名の「配分プール」方式から、登録者本人が望む相手を指定できる方式へと変わった。

自死者数の統計は、すぐには劇的に変わらなかった。数字というものは、そう簡単には動かない。けれど、命バンクをめぐる報道をきっかけに、これまで誰も正面から語らなかった「なぜこの国では、事故で死ぬ人より、自ら命を絶つ人の方がはるかに多いのか」という問いが、初めて国会でも取り上げられるようになった。

かなえは、父が本当に届けたかった相手——難病を患っていた少女——を、遺族返還プロジェクトを通じて訪ねた。少女はすでに、別の方法で治療を受け、元気に成長していた。父の余命は届かなかったけれど、少女は生きていた。それだけで、十分だとかなえは思った。

命は、誰かに渡すことでしか意味を持たないものではない。ただ、今日という日を、生きているというだけで。


八、微かな残響

遺族返還プロジェクトを進めるうち、かなえは受給者側の家族にも、慎重に接触するようになっていた。父の余命が最終的に届けられた相手——当時十歳だった少年、真人。その母親は、初めは警戒を隠さなかったが、三度目の面会で、ぽつりと語り始めた。

「あの子、施術のあとから、変わったんです」

真人は元々、朝が苦手な子どもだった。けれど処置を受けてからというもの、毎朝、誰に起こされるでもなく、日の出前に目を覚ますようになった。庭に出て、しばらく東の空を眺めている。理由を尋ねても、本人にも分からないという。「なんとなく、そうしたくなるんだ」と、真人は答えるのだそうだ。

かなえは、その話を聞きながら、喉の奥が締めつけられるのを感じた。父もまた、生前、判で押したように毎朝同じ時間に起き、縁側で空を見ていた人だった。

それだけではなかった。真人は、ある時期から、古い聴診器のおもちゃを手放さなくなった。誕生日に何をねだるかと聞かれても「お医者さんの道具がほしい」と繰り返す。母親は、政治家の家系にそぐわないその執着を、最初は戸惑いながら眺めていたという。

そして、ノートの片隅に、真人が誰に教わったわけでもなく書きつけていた、拙い文字の一文を、母親はかなえに見せた。

今日を、てんごくにしよう
かなえは、それ以上、言葉を続けられなかった。

その帰り際、母親に頼み込み、かなえは一度だけ、真人の姿を遠くから見る機会を得た。真人は、学校の課外活動で、近所の高齢者施設を訪問していたところだった。付き添いの教師の指示ではなく、自分から車椅子の老人のそばに膝をつき、何かを話しかけている。かなえは、少し離れたロビーの柱の陰から、その様子を見守った。

老人は、施設内でも気難しいことで知られているらしく、付き添いの職員が困った顔をしていた。真人はその職員を手で軽く制すると、老人の目線の高さまで屈み込み、静かに言った。

「怖くなかったですか。今日、ここに来るまで」

老人は驚いたように真人を見た。それは、大人でさえ滅多に口にしない問いだった。真人はさらに続けた。

「僕、次に来るときも、ちゃんと来ますから。今日は、ゆっくりしてってください。ここも、悪くないところですよ」

老人の強張っていた表情が、わずかに緩んだ。真人は、それ以上何も言わず、ただ隣に座って、老人が窓の外を眺めるのに付き合っていた。

かなえは、柱の陰で、声を出さずに立ち尽くしていた。「怖くなかったですか」という問い方も、急かさない沈黙の作り方も、彼女がお通夜の晩、誰にも聞けなかった問いそのものだった。真人がそれを知っているはずはなかった。教わったはずもなかった。それでも、そこにはたしかに、父の気配のようなものが、薄く、けれど確かに佇んでいた。

命バンクを設計した技術者たちは、あの装置が転写するのは、あくまで神経活動を支える「余命という時間の量」であり、人格や記憶そのものではないと、公式には説明していた。宮下も、システムの設計思想としてはそのはずだった、と語っていた。

けれど実際には、量子状態の圧縮と移植の過程で、本人も自覚しないほど微かな「傾向」——習慣、好み、ふとした仕草、繰り返し口にしていた言葉の断片——が、ノイズのように紛れ込んでしまうことがあるらしかった。開発チーム内では、それを「残響現象」と呼び、正式な報告書からは意図的に除外されていた。人格が丸ごと移り住むわけではない。けれど、影のように薄く、確かに何かが受け継がれてしまう。

国がこの現象を公にしなかった理由を、かなえは容易に想像できた。もし「余命を渡すことは、自分の一部を誰かの中に残すことでもある」と広く知られれば、命バンクは制度としての性格を変えてしまう。それは救済にも、あるいは新たな執着の対象にもなり得た。死を厭う気持ちにつけ込む余地は、どちらに転んでも生まれてしまう。

かなえは、真人にすべてを話すべきかどうか、長く迷った。けれど最終的に、それはしないことに決めた。真人は、自分の中にある小さな習慣が、誰かから託されたものだと知らなくていい。ただ、朝の空を眺め、いつか本当に医者になりたいと思うのなら、その道を、自分自身の意志で歩いていけばいい。

かなえにできるのは、その静かな残響を、遠くから見守ることだけだった。


終章、地上の天国

その年の秋、かなえは父の一周忌に、小さな菊の花を墓前に供えた。

風が吹き、木々の葉が揺れた。空はどこまでも高く、雲ひとつなかった。

死ぬことは、きっと今でも怖い。誰にとっても、いつだって、それは変わらないのだろう。けれど、と、かなえは思う。見えない次の世界に期待して、今この瞬間を投げ出してしまうのではなく——

今、ここにある世界を、少しでも天国に近づけていくこと。

それが、父が最後に、詩という形で残した、たった一つの願いだったのかもしれない。

物を失うならば、少しを失うだけでいい。

名誉を失うならば、それもまた、耐えられるかもしれない。

けれど、勇気だけは、失ってはいけない。

今日を生きる、その小さな勇気だけは。

かなえは墓前で静かに手を合わせ、それから、まだ何も知らない明日に向かって、歩き出した。

— 了 —


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あとがき

本作のモチーフとなったのは、「財産を失うことは小さく失うことだ。名誉を失うことは大きく失うことだ。しかし、勇気を失うことはすべてを失うことだ」*という、古くから伝わる言葉です。

現代社会でも、私たちは知らず知らずのうちに、効率や生産性という目に見えない「スコア」で他者や自分を測ってしまいがちです。作中の「命バンク」は極端なSFの形を取っていますが、そこで描かれる息苦しさは、今を生きる私たちの地続きにあるものとして執筆しました。

父親の遺した「残響」に気づいたかなえが選んだのは、世界をひっくり返すような大革命ではなく、制度を内側から作り直し、遺された言葉を静かに返還していくという、地道で現実的な道でした。それこそが、彼女なりの「勇気」の形だったのだと思います。

読者の皆様にとって、今日という日を生きるための、ほんの小さな「勇気」や優しさに繋がる作品となっていれば、とても嬉しく思います。



刻堕とし 十四 〜まんじゅう怖い異聞・恐怖喰らい〜
継ぎ目守異聞
古典落語「まんじゅう怖い」より



まえがき
「まんじゅう怖い」という噺は、若い衆が集まって「お前は何が怖い」と互いに怖い話を語り合う、たわいもない世間話から始まる。蜘蛛が怖い、蛇が怖い、幽霊が怖い――口々に怖いものを挙げる中、松公という男だけが「おれは、まんじゅうが怖い」と言い出す。
呆れた仲間たちは、悪戯心を起こし、松公の寝ている部屋に山ほどまんじゅうを積んで怖がらせてやろうと企む。ところが襖の隙間から覗いてみれば、松公は「怖い、怖い」と言いながら、まんじゅうをむしゃむしゃと美味そうに平らげているではないか。すっかり一杯食わされたと知った仲間が、「本当に怖いものは何だ」と問い詰めると、松公はにやりと笑って、今度は熱い茶が怖いのだと言ってのける。
この噺の面白さは、「怖い」という感情そのものを、ちゃっかり自分の得のために使いこなしてしまう、松公のしたたかさにある。本物の恐怖ではなく、演じられた恐怖、という点が肝要だ。
ところが、とある写しにおいて、この「演じられた偽りの恐怖」と「本物の恐怖」の区別が、あちこちの継ぎ目でごちゃまぜにされ、本物の恐怖ばかりが際限なく増幅されているという報せが届いた。継ぎ目守の圭馬と弥七は、若い衆の集う長屋へと足を踏み入れることになった。




一 継ぎ目守、恐怖の坩堝
鏡面が、ぐらぐらと沸き立つ湯のように波打っていた。まるで、恐怖という感情そのものが、鍋の中で煮え立っているような揺れ方だった。
継ぎ目守圭馬へ。演目「まんじゅう怖い」における『偽りの恐怖』と『本物の恐怖』の型の混同が、無数の継ぎ目で発生。本物の恐怖が異常増幅し、卒倒・錯乱に至る事例が多発。至急現地調査されたし。
「恐怖が煮え立つ、たあ物騒な話だね」
圭馬が鏡面を睨むと、弥七が珍しく渋い顔で立っていた。
「旦那、まんじゅう怖いたあ、ちゃっかり者の松公が、まんじゅうをただ食いする、笑える噺のはずなんですがね」


二 若い衆の怖い話
継ぎ目を抜けると、そこは江戸の裏長屋、雨の日の退屈しのぎに、若い衆が数人集まっている座敷だった。
「なあ、お前さんは何が怖い」
「おれかい。おれは、蜘蛛が怖くてたまらねえ」
「おれは蛇だな。にゅるっとしてやがるのが、どうにも」
「おれは、幽霊だ。夜中に白いものがふわりと出たひにゃ、それこそ腰が抜ける」
わいわいと怖い話に花を咲かせる中、松公という男だけが、腕を組んで黙り込んでいた。
「松公、お前さんは何が怖い」
「おれか。……おれは、まんじゅうが怖い」
一同、どっと笑い出した。
「弥七、聞いたかい。まんじゅうが怖い、だとさ」
「へえ、罪のねえ噺でさ。……ただ、旦那、なんだかその笑い声、やけに歪んで聞こえやせんか」


三 松公、まんじゅうが怖い
「まんじゅうが怖いとは、どういうことだい」
仲間に問われ、松公はぶるぶると震えてみせた。
「あの、ふっくらとした形を見ただけで、寒気がする。餡の匂いを嗅いだだけで、目の前が真っ暗になる。ああ、思い出しただけでも、怖気が走らあ」
「おかしな野郎だ。よし、それなら一つ、松公をとことん怖がらせてやろうじゃねえか」
仲間たちは、松公が休んでいる隙に、店中のまんじゅうを買い集めて、彼の枕元に山と積み上げる算段を始めた。
圭馬はその一部始終を眺めながら、ふと眉を寄せた。
「弥七、この場面、噺の型どおりだ。だが、松公の震え方、あれは芝居にしちゃあ、妙に真に迫って見えないか」


四 悪戯の企み
夜更け、仲間たちはこっそりとまんじゅうの山を松公の枕元に積み上げ、襖の隙間からその様子を窺った。
「さあ、目を覚ませば、さぞかし腰を抜かすことだろう」
やがて松公が目を覚まし、枕元の山を見て「ひっ」と小さく声を上げた。仲間たちは息を潜めて見守る。
ところが松公は、震える手でまんじゅうを一つ取り上げると、「ああ、怖い、怖い」と呟きながら、それをぱくりと頬張った。
「むう、怖い……ああ、怖い……」
そう言いながら、次から次へとまんじゅうを平らげていく。


五 むしゃむしゃ
「な、なんだこりゃあ」
襖を開けて詰め寄る仲間たちに、松公はにやりと笑ってみせた。
「いやあ、済まねえ済まねえ。実あ、おれは怖いものなんぞ、これっぽっちもねえんだ。ただ、まんじゅうをただで食いたくてよ」
「この野郎、一杯食わされたか」
「じゃあ、お前さん、本当は何が怖いんだ」
松公は満足げに茶を一口飲んで、こう答えた。
「そうさなあ……今度は、熱い茶あ一杯が怖いねえ」
一同、呆れながらも大笑いになった。圭馬はその笑い声を聞きながら、なおも何かが引っかかっている様子だった。
「弥七、この一件、確かに愉快な悪戯話だ。だが、この笑い声の向こうに、何か別の唸り声のようなものが混じってる気がする」


六 幾千の恐怖、正体不明の丘
圭馬が継ぎ目守の証を掲げると、長屋の壁が透け、その奥に、幾千もの見知らぬ町や村が連なって見えた。だが、そのどこでも、松公のような愛嬌のある悪戯ではなく、本物の恐怖に取り憑かれ、卒倒し、錯乱し、動けなくなっている者たちの姿があった。
「怖い……怖い……」
うわ言のように繰り返す者たちの姿は、まんじゅうを頬張る松公とは似ても似つかぬ、切実な恐怖そのものだった。
「弥七、見ろ。あちこちの継ぎ目で、恐怖という感情そのものが、本物か偽物かの見分けもつかず、ただ際限なく膨れ上がってる」
「旦那、こいつぁ、松公の可愛げのある悪戯とは、まるっきり質が違いやすね」


七 恐怖喰らいの正体
幾千の恐怖が渦を巻く先、暗い坩堝の底のような場所に、無数の悲鳴の欠片を纏った、輪郭の定まらない影が蠢いていた。
「継ぎ目守か。……この身は、幾百幾千の写しで生まれた、本物の恐怖の成れの果て。名は恐怖喰らい。松公のような、演じられた偽りの恐怖には、何の旨みもない。だが、本物の震え、本物の悲鳴――それこそが、この身の何よりの馳走よ」
「お前が、あちこちの継ぎ目で、本物の恐怖ばかりを引き出して喰い散らかしてるのか」
「偽りの恐怖と本物の恐怖の境目を、曖昧にしてやりさえすればよい。誰もが自分の恐怖が本物か偽物か分からなくなれば、この身はいくらでも太れる」
弥七が拳を握った。
「旦那、こいつぁ、松公の呑気な悪戯心を、逆手に取って悪用してやがる」


八 弥七、本物の恐怖に呑まれる
調べを進める中、弥七がふと、幼い頃の本物の恐怖――暗い蔵に閉じ込められた記憶を思い出してしまった。
「な……こいつは」
弥七の体が、恐怖喰らいの気配にじわりと絡め取られていく。
「弥七!」
圭馬がとっさに弥七の肩を掴んだ。
「弥七、しっかりしろ。今のお前は、あの蔵の中の子供じゃねえ」
「旦那……すいやせん、つい、本物の恐怖ってやつに、足元をすくわれちまって」


九 松公の入れ知恵
そこへ、当の松公が、ひょっこりと顔を出した。
「旦那方、難儀してなさるようだね。一つ、おれの知恵を貸してやろうか」
「松公さん、あんたの入れ知恵とは」
「なあに、簡単なことよ。おれがまんじゅうを怖がる芝居をしたのは、本当に怖いものなんぞ、これっぽっちもなかったからだ。……その化け物、本物の恐怖しか喰えねえってんなら、うんとこさ、偽物の恐怖を食わせてやりゃあいい」
「偽物の恐怖、か」
「そうともよ。おれみてえに、大げさに震えて、大げさに怖がって、その実、これっぽっちも怖くねえ――そういう空っぽの恐怖を、腹いっぱい食わせてやりゃあ、そのうち腹を壊すに決まってらあ」


十 圭馬の芝居
圭馬は恐怖喰らいの前に進み出ると、松公さながらに、大げさに身を震わせてみせた。
「ああ、恐ろしい、恐ろしい。継ぎ目守として、幾多の怪異と渡り合ってきたこの俺が、お前を前にすると、腰が抜けそうになる。ああ、怖い、怖い」
「な……その震え、まことのものか」
「まことかどうか、お前自身の舌で確かめてみるがいい」
恐怖喰らいは疑いながらも、目の前の「怖い、怖い」という言葉に釣られ、大口を開けて圭馬の芝居がかった恐怖を丸呑みにした。だが、その中身は空っぽの器も同然、いくら飲み込んでも腹の足しにならない。
「ぐ……これは、まことの恐怖ではない……胸焼けが……」


十一 型を取り戻す
「今だ、弥七!」
圭馬の合図で、弥七も松公に倣い、大げさな作り笑いの恐怖を、恐怖喰らいに次々と浴びせかけた。本物と偽物の境が曖昧だったはずの恐怖喰らいは、松公直伝の「空っぽの恐怖」を延々と食わされ続け、次第にその輪郭を保てなくなっていく。
「もう、たくさんだ……本物と偽物の区別もつかぬ食い方をしたのは、この身自身であったか……」
恐怖喰らいは、悲鳴の欠片をぼろぼろと零しながら、坩堝の中へと溶けるように消えていった。取り憑かれていた者たちの震えも、次第に収まっていった。
幾千の町や村は、一枚また一枚と収束していき、やがて、あの一つの裏長屋だけが、正しい形で残った。


十二 高座にて
気づけば圭馬は着物姿で高座に座っていた。扇子をとんとんと畳に置き、客席を見渡す。
「というわけで、本物の恐怖ってのは、案外、ちゃっかり者の空いばりの前じゃ、大した歯応えもねえもんでございます。松公さんの、まんじゅうが怖いなんて可愛げのある嘘が、まさかこんな大立ち回りの決め手になろうとは、あっしも思いやしませんでした。……ええ、今度あっしが本当に怖いのは、この一件の顛末を番所にどう説明するかってことでございます。今日はこの辺りで、お後がよろしいようで」
客席から、盛大な拍手が沸き起こった。




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あとがき
刻堕としシリーズも十四作目、今回は「まんじゅう怖い」という、ちゃっかり者の松公が愛される、痛快な悪戯噺を題材にしました。
この噺の面白さは、本物の恐怖ではなく、演じられた偽りの恐怖を、自分の得のために使いこなしてしまう、松公のしたたかさにあると思います。今回はその「偽りの恐怖」と「本物の恐怖」の境目そのものが曖昧にされ、本物の恐怖ばかりが際限なく増幅されるというSF的な事件にしてみました。
圭馬たちが最後に取った策は、力ずくで恐怖喰らいを祓うのではなく、松公直伝の「空っぽの恐怖」を、逆にたっぷりと食わせてやるという、噺そのものの精神を借りた反撃でした。本物と偽物、まことと嘘、その境目を軽やかに渡り歩く松公のしたたかさこそが、この一件を丸く収める鍵になったのだと思います。
たわいもない悪戯噺の奥に潜む、恐怖という感情そのものの正体を、楽しんでいただけましたら幸いです。それでは、また次の継ぎ目でお会いしましょう。




加筆版
セイ・セイ・セイ 

〜僕がスターだった、あの夏〜


まえがき
ある夜、深夜ラジオから流れてきた古い曲を聴きながら、ふと思ったのです。
私たちはどれだけの「言いそびれ」を抱えて生きているのだろう、と。
ありがとう、ごめんなさい、元気にしているか。たった一言なのに、なぜか一番近い人ほど口にできない。言わないまま、時間だけが過ぎていく。
この物語は、六十三歳の誕生日に「今日は鍋でいい?」と言われる、どこにでもいる男の話です。
彼はスターでも英雄でもありません。肩は凝り、膝は痛み、息子への電話のかけ方すら忘れてしまった男です。そんな男が、一夜だけ伝説のスーパースターの身体を借りて、一九八三年のきらめくステージに立つとしたら。
これは伝記でも、ファンタジーの成功譚でもありません。
「伝えること」について書きたかった、とても小さな、でも私にとっては大切な物語です。
どうか最後まで、お付き合いください。




登場人物

• 田中 稔(たなか みのる)/ 63歳 ― 語り手。定年退職後、趣味も特になく持て余している元サラリーマン。真面目だが下心は人並みにある。

• マイキー・J ― 1980年代に世界を席巻した伝説のスーパースター(故人)。稔に「体を貸してほしい」と持ちかける幽霊(のようなもの)。飄々として何を考えているか分からない。

• ブリー・アシュフォード ― マイキー全盛期と同時代にブレイクした若手アイドル歌手。無邪気で小悪魔的。

• デイヴ&メイ ― マイキーの先輩格にあたる伝説的ミュージシャン夫婦デュオ。稔が最初に迷い込むステージの主。

• 謎の管理人(コーディ) ― 時空移動の”裏側”を管理しているらしい謎の存在。中盤で稔の前に現れ、マイキーの本当の目的を仄めかす。




第一章 プロローグ:契約

その日、田中稔は六十三歳になった。

誕生日と言っても、特に何があるわけでもない。長男からは「おめでとう」とだけ書かれたLINEが届き、次男からは何も届かなかった。妻の和子は「今日は面倒だから鍋でいい?」と聞いてきて、稔は「いいよ」と答えた。それだけの、なんということもない一日だった。

定年退職してからもう三年になる。最初の一年は「自由だ」とはしゃいでいたが、二年目には図書館に通うようになり、三年目の今は、平日の昼間からテレビの前でぼんやりしている自分に気づいて、少し愕然とすることが増えていた。

「不完全燃焼」

という言葉が、最近の稔のお気に入りだった。何が不完全なのか、自分でもよくわからない。ただ、何かをやり残したまま、ここまで来てしまった気がしてならないのだ。

その夜、風呂上がりに稔がリビングのソファでうとうとしていると、テレビの砂嵐の向こうから、聞き覚えのある鼻にかかった声がした。

「ねぇ、キミ」

稔は目を開けた。テレビの前に、見覚えのある人物が立っていた。黒い帽子、白い靴下、片方だけの白い手袋。世界中の誰もが知っている、あのスーパースターのシルエットだった。ただし、輪郭が心なしかぼんやりとして、周りの光を吸い込んでいるようにも見える。

「……幽霊、ですか」

稔は驚くよりも先に、妙に冷静にそう尋ねた。六十三年も生きていると、多少のことでは驚かなくなるものらしい。

「まあ、そんなようなものかな」

マイキー・Jと名乗るその人物は、そう言って肩をすくめた。しゃべり方は英語混じりの、聞き取りやすい日本語だった。

「単刀直入に聞くけど――キミの身体を、しばらく貸してくれないか?」

稔は思わず自分の腹の贅肉をつまんだ。

「私の……この身体を、ですか? マイキーさんほどの方が、こんな冴えない初老の身体を借りて、何をなさるおつもりで」

「ちょいと、やり残したことがあってね」

マイキーは微笑んだ。その笑顔は写真や映像で見たものと同じはずなのに、どこか寂しそうに稔には見えた。

「それなら」と稔は苦笑いした。「もっと若くて、格好いいどなたかの方がよろしいのでは。私はこの通り、腹も出ていますし、膝も痛みますし」

「いや、キミの身体でなくちゃダメなんだ」

マイキーは首を振った。

「なぜです?」

「それは……まあ、追い追い話すよ。それより、キミ、日本人だよね。それも」

マイキーは稔の全身を眺めまわしてから、少し悪戯っぽく続けた。

「特別ではない、ごく普通の初老の男性……なんて、失礼な言い方だけど」

「それは、失礼ですね」

稔は本気で少しむっとした。だが同時に、退屈しきった毎日の中に、突然舞い込んできたこの荒唐無稽な話に、抗いがたい面白さを感じてもいた。相手はあのマイキー・Jである。断る理由よりも、話に乗ってみたい好奇心の方が勝った。

「……いいでしょう。マイキーさんになら」

「決まりだ!」

マイキーはぱちんと指を鳴らした――ように見えたが、実際には指の骨が鳴っただけかもしれない。なにしろ半透明の身体である。

「じゃあ、これから稔、キミには僕にならなくちゃいけないんだ」

「は?」

稔は聞き返した。身体を貸すという話ではなかったのか。

「順番として、まず僕がキミの身体に入る。その間、キミの魂はどこに行くのかっていうと――僕にならなきゃいけない、ってわけ」

「意味がわかりません」

「簡単に言うとね」

マイキーは芝居がかった仕草で肩をすくめた。

「失礼ながら、キミはもう――は言い過ぎか。とにかく、僕の身体は、もうこの世にはない。埋葬されて、灰になって、とっくに骨も残ってない。だから、僕がキミの中に入っている間、キミの魂の"入れ物"がなくなっちゃうんだよ。だから代わりに、僕という存在――正確に言うと、僕の"データ"というか"記憶"というか――そこに、キミの魂を仮住まいさせる、ってわけ」

「つまり、私が……マイキーさんに、なる?」

「その通り」

稔は腕を組んで考え込んだ。理屈はよくわからないが、なんとなく雰囲気は伝わってきた。

「だとしたら、私はどうすればいいんです? マイキーさんの真似をして、コンサートでもすればいいんですか。無理ですよ、私、ムーンウォークどころか、盆踊りだって怪しいんですから」

「大丈夫、大丈夫」

マイキーは笑って手をひらひらと振った。

「その間、キミは時空を好きな所へ移動していい。何なら、僕が一番華やかだった時代――あの身体で、好き勝手にやっていてくれればいいんだ」

「好き勝手に……」

その言葉の響きに、稔の胸の奥で何かがざわりと動いた。

「ほう」

稔は思わず身を乗り出した。

「それは……なんだか、楽しそうですね」

「だろう?」

マイキーはにやりと笑った。その笑みは、どこか少年めいていて、そしてやはり、どこか寂しかった。

「じゃあ、決まりだ。目を閉じて」

「ちょ、ちょっと待ってください。契約書とか、そういうのは」

「そんなもの、あの世にはないよ」

マイキーは稔の額に、すっと指先を触れさせた。冷たいような、温かいような、不思議な感触だった。

「楽しんでおいで、稔」

その声を最後に、稔の意識は、深い深い光の渦へと吸い込まれていった。

リビングでは、こたつに突っ伏したまま眠りに落ちた老人の身体が一つ、静かに寝息を立てていた。傍らのテレビはいつの間にか消えており、和子が「もう、また風邪ひくわよ」とつぶやきながら、夫に毛布をかけているのだった。


第二章 六十三年分の言葉

――と、話を急ぐ前に、少しだけ稔自身のことを話しておかねばならない。

田中稔は、大手商社の資材部門で三十八年間、実直に働き続けた男だった。派手な出世こそしなかったが、後輩からは「田中さんがいれば大丈夫」と頼られ、取引先からは「律儀な人だ」と評判だった。仕事一筋、というやつである。

その代償と言うべきか、家庭では、いつも一歩引いた立ち位置にいた。妻の和子には家のことを任せきりで、長男の一郎と次男の健二が思春期の頃、何を考えているのか分からず、結局、腹を割って話す機会もないまま、二人とも家を出て行ってしまった。

一郎とは、年に一度、正月に顔を合わせる程度だ。健二に至っては、もう三年、直接会っていない。稔の携帯には、健二の電話番号が今も登録されているが、発信履歴を遡ると、最後にかけたのは五年前のことだった。

「話すこと、特にないしな」

そう自分に言い聴かせながら、稔は結局、いつも電話をかけそびれてきた。何か特別な用事があるわけでもないのに電話をかけるという行為が、稔にはひどく気恥ずかしく、勇気の要ることのように思えてならなかったのだ。

定年退職の日、会社の後輩たちが小さな送別会を開いてくれた。花束をもらい、拍手で送り出され、「お疲れ様でした」と言われたその瞬間、稔は不思議な虚しさを覚えた。

三十八年間、何を積み上げてきたのだろう。仕事は真面目にやった。家族も養った。だが、誰かに、本当に伝えたかった言葉を、ちゃんと届けられただろうか。

「不完全燃焼」

という言葉が口癖になったのは、その頃からだった。

だから、というわけでもないのだろうが――突然現れたマイキーの誘いに、稔があれほどあっさり乗ってしまったのには、実はそんな背景があったのだ。誰かに与えられた「もう一つの人生」を、今度こそ悔いなく生きてみたい。そんな思いが、稔の胸の奥に、ずっとくすぶっていたのかもしれない。

……さて、話を戻そう。真っ白な空間で、マイキーとの契約を終えた稔は、いよいよ、あの華やかな時代への扉をくぐろうとしていた。


第三章 入れ替わり、そして選択

気がつくと、稔は真っ白な空間に立っていた。

いや、「立っていた」という表現も正確ではない。上も下も、右も左もない。ただ、真っ白な光の中に、稔の意識だけがぽつんと浮かんでいる、そんな感覚だった。

「おーい、稔、聞こえるかい」

声は四方八方から響いてきた。マイキーの声だ。

「聞こえてます。……ところで私、今、どういう状態なんでしょうか」

「今のキミは、いわば"待合室"にいる状態だね。これから僕の記憶の中――正確には、僕が生きていた時代のどこか――に、キミの意識を送り込む。だから、行き先を選んでほしいんだ」

「行き先、と言われましても」

「僕の人生をざっと見せてあげるよ。好きな時代を選ぶといい」

そう言うと、稔の目の前に、まるで映画館のスクリーンのような光景が次々と映し出された。

幼い頃、兄弟たちと歌って踊るステージ。少年から青年へと変わっていく姿。世界中を熱狂させたあのアルバムのレコーディング風景。そして――煌びやかな衣装をまとい、伝説のミュージシャン夫婦、デイヴ&メイのステージに、ゲストとして飛び入りする映像。

「おお」

稔は思わず声を上げた。デイヴ&メイと言えば、稔が若い頃、深夜のラジオでかじりつくように聴いていた伝説のデュオだ。あの二人の音楽に、若かりし日の稔がどれほど救われたか。

「わかりやすいね、キミ」

マイキーがくすくす笑う声がした。

「あの二人のステージに、僕はゲストで一度だけ立ったことがある。伝説になった夜だよ」

「そこに、行けるんですか」

「行けるよ。ただし」

マイキーの声が、少しだけ低くなった。

「一つだけ、ルールがある」

「ルール?」

「その時代に行っている間、キミは"僕"として振る舞うことになる。周りの人間には、僕にしか見えない。……つまり、キミがそこで何をしても、それは全部、僕の伝説の一部になる、ってことだ」

稔はごくりと唾を飲んだ。

「それは……なかなか、責任重大ですね」

「まあ、そう硬くならずに。何しろ、キミが選んだのはショービジネスの世界だ。多少のハプニングは、伝説のスパイスになる」

その言い方に、稔はなんだか妙な安心感を覚えた。

「よし……決めました。デイヴ&メイのステージに行きます」

「オーケー」

マイキーの声が、心なしか楽しそうに弾んだ。

「じゃあ、もう一つ。せっかくだから、その前後の時間も少し自由に動き回れるようにしてあげよう。楽屋、リハーサル、打ち上げ……好きなだけ、僕の華やかな時代を味わっておいで」

「打ち上げ、ですか」

稔の頭の中で、何やら不埒な想像が一瞬よぎった。慌ててそれを打ち消す。

「では、ブリーとの、あの……」

言いかけて、稔は口をつぐんだ。

「ん? ブリーがどうかした?」

「いえ、何でも」

マイキーはそれ以上は追及せず、ただ愉快そうに笑うだけだった。

「じゃ、行っておいで。時空の扉を開けるよ」

真っ白な空間に、一筋の光の亀裂が走った。まぶしさに稔は思わず目を閉じる。

そして次に目を開けたとき――稔は、鏡の前に立っていた。


第四章 衣装合わせと謎の機械

鏡の前で立ち尽くす稔のもとに、慌ただしくスタッフたちがやってきた。

「ミスター・J、衣装のフィッティングです。こちらへ」

腕を引かれるまま、稔は狭い控室に連れ込まれた。壁一面にずらりと並んだ、キラキラと光る衣装の数々。スパンコール、ビーズ、金属製の肩章――どれもこれも、稔がこれまでの人生で袖を通したことのない代物ばかりだった。

「これを……着るんですか」

「もちろんです。いつもの、あの一着ですよ」

スタイリストの女性がてきぱきと衣装を着せ付けていく。ジャケットの袖を通した瞬間、稔は思わず呻いた。

「うっ……肩が動かせない」

「ミスター・J、大丈夫ですか? いつもと違いますね」

「いや、その、今日はちょっと、肩の調子が」

苦し紛れの言い訳をしながら、稔は内心で冷や汗をかいていた。長年凝り固まった五十肩――もとい、四十肩ならぬこの身体の柔軟性のおかげで事なきを得たものの、あわや正体がバレるところだった。

控室の隅には、見たこともない機械がいくつも置かれていた。分厚い箱型の機械に、大きなボタンとレバーがずらりと並んでいる。

「これは……何をする機械なんです?」

稔が思わず尋ねると、若いアシスタントが怪訝そうな顔をした。

「ミスター・J、これ、いつも使ってるカセットのミキサーですよ。……本当に大丈夫ですか、今日?」

「あ、ああ、もちろん! ちょっと、寝ぼけていただけです」

稔はしどろもどろになりながら誤魔化した。よく考えれば当たり前だ。この時代には、まだスマートフォンどころか、パソコンすらほとんど普及していない。稔にとっては「懐かしい」機械が、この時代ではまさに最先端なのだった。

「ミスター・J、こちらにサインを」

差し出された書類にサインを求められ、稔は思わずペンを取り落としそうになった。マイキーのサインなど、書いたこともない。だが不思議なことに、いざペンを握ると、手が勝手に、流れるような達筆でサインを書き上げてしまう。

(これも"身体の記憶"というやつか……便利だが、なんだか少し悔しいな)

長年、稔自身のサインは、お世辞にも達筆とは言えなかった。銀行の窓口で何度も書き直しを求められたことを思い出し、稔はなんとも複雑な気持ちになった。

支度を終えて鏡の前に立つと、そこには誰もが知るあのスーパースターの姿があった。稔は深呼吸を一つして、自分に言い聞かせた。

――大丈夫。とにかく、堂々としていればいい。

その決意も虚しく、控室を出た廊下で早速、台車を押していたスタッフとぶつかりそうになり、稔は「おっとっと」と情けない声を上げてしまうのだった。


第五章 場違いなスター

鏡に映っていたのは、稔の見慣れた自分の顔ではなかった。

すらりとした体つき、はっとするほど整った顔立ち、そして――全身を彩る、きらびやかなステージ衣装。

「……これが、私?」

思わず声に出してみると、出てきたのは若々しく、しかしどこか聞き覚えのある、あの独特の高い声だった。

「うわっ」

稔は驚いて自分の口を両手で押さえた。声まで変わっている。当たり前と言えば当たり前だが、いざ実際に体験すると、その衝撃は凄まじいものがあった。

楽屋のドアがノックされた。

「ミスター・J、スタンバイです。あと五分でステージです」

「は、はいっ! ……いや、イエス!」

慌てて英語混じりで返事をしてしまう自分に、稔は内心で苦笑した。長年勤めた商社での英会話が、こんなところで役に立つとは思わなかった。

袖に案内されると、割れんばかりの歓声が聞こえてきた。ステージの中央には、白髪交じりの気さくな笑顔のミュージシャンと、その隣で優雅にキーボードを弾く女性――デイヴとメイの姿があった。噂に聞いていた通り、二人の周りには温かい空気が満ちている。

「よう、来たな相棒!」

デイヴが稔(の中身をしたマイキー)に向かって、気さくに手を振ってくる。

(ど、どうしよう。振り付けなんて知らないし、歌詞だって覚えてない……!)

稔は内心パニックに陥りながらも、とりあえず満面の笑みを浮かべて舞台に躍り出た。

不思議なことに、身体が勝手に動いた。足がステップを踏み、腕がしなやかに宙を切る。まるで身体そのものが、何十年分もの練習の記憶を覚えているかのようだった。

(なるほど、これが"身体の記憶"というやつか……!)

歌詞の方は完全にお手上げだったが、口も勝手に動いて、聞き覚えのあるメロディを紡いでいく。稔はただ、その勢いに身を任せることしかできなかった。

観客は熱狂していた。何しろ、伝説のステージに伝説のゲストが現れたのだ。多少の――いや、正直に言えばかなりの――歌詞の怪しさなど、誰も気にしていないようだった。

「ここが……一番、良い時代だったのかもしれないな」

曲間、稔はふと素の呟きを漏らした。若い頃、深夜のラジオで聴いた憧れの音楽の中に、自分がまさに今、立っている。それだけで、胸がいっぱいになるようだった。

そのとき、ステージの袖から、誰かがこちらに向かって小さく手招きしているのに気づいた。

キラキラのミニドレスに身を包んだ、あの若きアイドル――ブリーだった。


第六章 ブリーの誘い

「ねえ、こっち、こっち!」

ブリーは唇に指を当て、いたずらっぽく笑いながら稔を手招きした。

(ブ、ブリー本人だ……!)

稔の中で、六十三年分の理性が音を立てて崩れていくのがわかった。若い頃、テレビの音楽番組で彼女を見るたびに、隣で寝ている和子に気づかれないよう、こっそり画面に見入っていたことを思い出す。あのブリーが、今、目の前で自分を呼んでいる。

曲の合間、稔はふらふらとステージ袖に引き寄せられていった。

「マイキー、今日の振り、キレッキレじゃない! 特に二番のあそこ、いつもと違う動きしてたでしょ」

「あ、ああ、うん、そう、その、いろいろ、研究してね……」

しどろもどろになりながら、稔は鼻の下をだらしなく伸ばしていた。長年連れ添った和子には申し訳ないと思いつつも、この状況で平静を保てる六十三歳男性が、果たしてこの世に何人いるだろうか。

「ねえ、このあと打ち上げ、来るでしょ? デイヴのおじさまのお家で」

「もももちろん、行きます! 行かせていただきます!」

思わず敬語が出てしまい、ブリーが「なにその喋り方、変なマイキー」とけらけら笑った。

(いかん、いかん。マイキーさんの伝説に傷がつく)

稔は必死に自分を律しようとするが、久しぶりに全身にみなぎる若さと、目の前の眩しい笑顔の前では、理性はほとんど役に立たなかった。


第七章 エロオヤジ、散る

打ち上げの会場は、デイヴの自宅の広々としたテラスだった。夜風が心地よく、色とりどりのランタンが揺れている。

「かんぱーい!」

グラスを合わせる音があちこちで響く中、稔はソファの端に腰掛け、隣に座ったブリーとの距離の近さに、内心では大変な動揺を隠しきれずにいた。

(こここ、これは……ワインのせいなのか、それとも本当に彼女は距離が近い人なのか……)

「ねえマイキー、聞いて。今度出す新曲なんだけどね」

ブリーが肩にもたれかかるようにして話しかけてくる。稔――もといマイキーの身体――は、香水の匂いにくらくらしながら、なんとか相槌を打った。

「そそそ、それは、楽しみですね」

「なにその話し方、やっぱり変!」

ブリーがけらけら笑いながら、稔の肩を軽く叩く。その瞬間、六十三年分の「なんとかしたい」という下心が、稔の中で一気に沸点を突破した。

(ええい、ままよ! ここでスマートに、こう、片手をさりげなく背もたれに回して……!)

稔は意を決して、渾身の"さりげなさ"を装い、片腕をソファの背もたれに伸ばした。しかし長年商社の会議室で椅子に座ってばかりいた身体の癖が抜けきらず、動きは見事なまでにぎこちなく、まるで肩の関節が錆びついたブリキ人形のようだった。

「な、なにその動き!?」

ブリーが目を丸くする。

その拍子に、稔の肘がテーブルの端に置かれていたグラスタワーに触れた。

「あっ」

シャンパングラスが、まるでドミノのように次々と倒れていく。

「うわああああっ!」

会場中の視線が一斉に稔に集まった。テラス中に響き渡る盛大な音を立てて、ピラミッド状に積まれていたグラスタワーが崩れ落ち、稔――もといマイキー――は、頭から泡だらけになって尻もちをついた。

「ミスター・J!?」

「マイキー、大丈夫!?」

騒然とする会場の中、稔はびしょ濡れのままへたり込み、天を仰いだ。

(伝説に、傷をつけてしまった……)

だが同時に、なぜか妙な爽快感もあった。六十三年間、こんなにも大胆に、そしてこんなにも派手に失敗したことなど、一度もなかったのだから。

ブリーが吹き出すように笑い始めた。

「あはは、マイキー、そんな顔しないでよ! ……でも、こういうマイキーも、なんか、好きかも」

その言葉を聞いた瞬間、稔の意識が、ふっと遠くなっていく感覚に襲われた。


第八章 宴の後始末

シャンパンまみれで尻もちをついたまま、稔はしばらく動けずにいた。

「大丈夫かい、相棒」

デイヴが笑いながら手を差し伸べてくれた。その笑顔には、非難の色など微塵もなく、むしろどこか懐かしむような温かさがあった。

「す、すみません。せっかくの打ち上げを台無しに」

「なに言ってんだ。パーティーってのは、こういうハプニングがあってこそ、後々まで語り草になるもんさ」

デイヴはそう言って、稔の背中をばんばんと叩いた。その豪快さに、稔は思わず胸が熱くなった。

「メイ、この子ったら、いつもはあんなにキレのいいダンスをするのに、今夜はどうしたのかしら」

メイが優しく微笑みながら、濡れたタオルを差し出してくれる。

「なんだか、今夜のマイキーは、いつもと違って人間くさいわね。……それはそれで、悪くないと思うけど」

「人間くさい、ですか」

稔はその言葉に、なぜだかひどく救われる思いがした。伝説のスーパースターとしてではなく、ただの不器用な一人の人間として受け止めてもらえたような気がしたのだ。

スタッフたちが手分けしてグラスの破片を片付ける中、ブリーが濡れたシャツの稔に、そっとタオルケットを羽織らせてくれた。

「ねえ、マイキー」

「な、なんでしょう」

「さっきは、笑っちゃってごめんね。でも、本当に、今日のあなた、なんかいつもと違って良かったよ」

「そう、ですか」

「うん。……いつものマイキーって、完璧すぎて、ちょっと近寄りがたいところあるから」

その言葉に、稔――いや、その奥で見守っていたであろうマイキー自身も、きっと何か思うところがあったに違いない。稔はふと、そんな気がした。

夜も更け、宴もお開きになった頃、稔はテラスの隅で一人、夜空を見上げていた。あれほど失態を演じたというのに、不思議と心は軽かった。

(こんな夜、六十三年生きてきて、初めてかもしれないな)

しみじみとそう思った、その時だった。

急に視界がぐらりと揺れ、意識が遠くへ吸い込まれていく感覚に、稔は襲われた。


第九章 強制送還?

気がつくと、稔はまた真っ白な空間に浮かんでいた。

「……あれ? 私は、その、まだ打ち上げの途中だったのでは」

「残念ながら、強制送還だよ」

マイキーの声が、どこか苦笑交じりに響いた。

「グラスタワーを盛大にぶっ壊した挙句、あわや大惨事、ってところで、僕のほうの"許容量"を超えちゃったみたいでね。安全装置が働いたんだ」

「そんな……! まだ、何も……」

言いかけて、稔は口をつぐんだ。「まだ何もしていない」というのは、正確には嘘だった。ブリーの好意的な一言に舞い上がった直後だった自分を思い出し、稔は少しばかり気恥ずかしくなった。

「まあまあ、そう気を落とさずに」

マイキーは笑った。

「でもね、稔。正直に言うと、僕はちょっとがっかりしてるんだ」

「がっかり……ですか」

「うん。キミにあの時代を託したのは、ただ好き勝手に楽しんでほしかったから、というだけじゃなかったんだ。……いや、これは、まだ話す時じゃないな」

「え、どういうことです? 教えてください」

「まあ焦らずに。もう一度チャンスをあげるから」

「本当ですか!」

稔は思わず声を弾ませた。しかし――。

「ただし」

マイキーの声が、少しだけ真剣な調子を帯びた。

「今度は、下心じゃなくて、"本当の目的"を持って行ってほしいんだ。それが何か、まずは調べてくるといい」

「調べる、って、どこで、何を」

「それを教えてくれる人がいる。この空間の、ずっと奥にね」

マイキーがそう言った瞬間、真っ白な空間の一角に、小さな扉が現れた。古びた木製の扉で、この無機質な空間にはひどく不釣り合いだった。

「あの扉の向こうに、コーディという名の管理人がいる。彼(彼女? それとも、それ?)が、僕についての"本当のこと"を、少しだけ教えてくれるはずだ」

「マイキーさんご本人が教えてくれれば、早いのでは」

「それができないから、こうして回りくどいことをしているんだよ」

マイキーは寂しげに笑った。その表情に、稔はそれ以上何も聞けなくなってしまった。


第十章 管理人コーディ登場

扉を開けると、そこは小さな図書室のような空間だった。

床から天井まで、無数の古びた本棚が並び、その一つ一つに、ぎっしりとレコードやカセットテープ、写真アルバムが収められている。中央には木製の机があり、その向こうに、丸眼鏡をかけた小柄な人物が座っていた。年齢も性別も、なんとなく判然としない、不思議な雰囲気の人物だった。

「やあ、いらっしゃい。田中稔さん、ですね」

「あ、はい。……あなたが、コーディさんですか」

「そうです。マイキーの"記録係"、とでも言いましょうか」

コーディは机の上に置かれた一冊の古いノートを、ぱらぱらとめくった。

「マイキーがあなたに何も教えなかった"本当の目的"について、少しだけお話ししましょう」

「お願いします」

稔は身を乗り出した。

「マイキーは生前、あるとても大切な人に、伝えたかった言葉があったんです。でも、彼は結局、それを言えないまま、この世を去ってしまった」

「大切な人、というと……もしかして、ブリーさんのことですか」

「いいえ」

コーディは静かに首を振った。

「もっと、彼のすぐ近くにいた人物です。……名前は、今はまだ、あなたには言えません。ただ、ヒントは残しておきましょう」

コーディはノートを一枚破り取り、稔に手渡した。そこには、こう書かれていた。

「リハーサル室、鏡の裏、あの夜だけ弾かれなかったピアノの下」

「これは……?」

「あなたが次にあの時代へ戻った時、そこを探してみてください。きっと、マイキーが本当に取り戻したかったものの、手がかりが見つかるはずです」

「わかりました。……あの、コーディさん」

「なんでしょう」

「なぜ、マイキーさんご本人は、ご自分の口で、その大切な人に伝えられなかったんですか」

コーディは少しの間、黙り込んだ。

「それは……あなた自身が、その答えを見つけた時に、きっとわかりますよ」

そう言って、コーディは眼鏡の奥で、ふっと優しく目を細めた。


第十一章 もう一度、あの時代へ

真っ白な空間に戻ると、マイキーが待っていた。

「話は聞いたね」

「ええ、大体は。……マイキーさん、あなたには、伝えられなかった大切な言葉があったんですね」

マイキーは何も答えず、ただ微笑むだけだった。

「もう一度、あの時代に行かせてください。今度は、ちゃんと目的を持って」

「いいだろう」

マイキーは頷いた。

「ただし、今度はグラスタワーを壊さないようにね」

「善処します」

稔は苦笑いした。

「それと、稔」

マイキーの声が、少しだけ改まった調子になった。

「今回のことで、一つだけ、僕の本音を言っておくよ」

「はい」

「僕は、ずっと後悔していたんだ。何もかもが華やかだったあの時代の裏側で、本当に大切なことを、一つだけ、言い忘れたまま終わってしまったってね。……キミになら、それを託せる気がしたんだ」

「なぜ、私に?」

「キミが、"特別ではない、普通の初老"だからだよ」

マイキーは、失礼だったはずのその言葉を、今度はまるで最大級の褒め言葉のように口にした。

「特別な人間には、案外、本当に大切な言葉って、届けられないものなんだ。……さあ、行っておいで」

再び、光の亀裂が稔の視界を包み込んだ。

そして目を開けたとき、稔は――誰もいない、静まり返ったリハーサル室に立っていた。

鏡には、あの見慣れたマイキーの姿が映っている。だが今度は、下心も気負いもなく、稔はまっすぐに、その鏡の奥へと歩み寄っていった。


第十二章 見当違いの手がかり探し

「リハーサル室、鏡の裏、あの夜だけ弾かれなかったピアノの下」

コーディにもらったメモを片手に、稔は勇んで会場中を歩き回った。だが、いざ探し始めてみると、この時代のリハーサル室というのが、一つや二つではないことに気づく。

「鏡がある部屋、って言ったって、ここ、鏡だらけじゃないか……」

ダンススタジオ、楽屋の姿見、化粧室の三面鏡。稔は一つ一つ、律儀に鏡の裏側を覗き込んでいったが、そこにあるのは埃と、忘れ去られた古い付け髭だけだった。

「ピアノの下……ピアノなんて、何台あるんだ、まったく」

ステージ用のグランドピアノ、練習用のアップライトピアノ、控室に置かれた電子キーボードまで含めれば、軽く十台は下らない。稔は蜘蛛の巣だらけの舞台裏を這いずり回り、そのたびにスタッフたちから怪訝な目で見られた。

「ミスター・J、何をなさっているんですか」

「いや、その、探し物を」

「ネズミでも出ましたか?」

「いえ、そういうわけでは……」

しどろもどろになりながら、稔はふと、あるアップライトピアノの下に、小さな鍵のようなものが挟まっているのを見つけた。

「あった!」

期待に胸を膨らませて拾い上げると、それはただの、誰かの部屋の合鍵だった。

「はぁ……違うのか」

肩を落としながら、稔はもう何時間も歩き回っていることに気づいた。この時代の身体はいくら若くて丈夫とはいえ、さすがに空腹と疲労がじわじわと押し寄せてくる。

「ちょっと、休憩しよう……」

くたびれ果てて廊下の椅子に腰を下ろした稔の目の前を、ふと、見覚えのある白髪の人物が通り過ぎた。あの照明機材を黙々と点検していた老人――トムだった。

(そうか。彼が、いつもいる場所……)

そこまで考えて、稔はハッと閃いた。トムが日頃出入りする場所と言えば、決まって特定のリハーサル室だ。他のスタッフたちとは違い、いつも一人で黙々と機材の準備をしている、あの静かな部屋。

「そうか、"あの夜だけ弾かれなかったピアノ"というのは、あの部屋の……」

稔は疲れも忘れて立ち上がり、真っ直ぐに、最初に訪れたあの静かなリハーサル室へと向かった。


第十三章 リハーサル室の秘密

リハーサル室は、しんと静まり返っていた。壁一面の鏡、隅に置かれたグランドピアノ、床には養生テープで貼られたフォーメーションの目印。稔は、コーディにもらったメモを取り出し、もう一度読み返した。

「リハーサル室、鏡の裏、あの夜だけ弾かれなかったピアノの下……」

鏡の裏、というのは比喩なのだろうか。稔は鏡張りの壁に手を這わせてみたが、特に何も見つからない。次にピアノの下に潜り込んでみることにした。六十三年分の身体だったら到底無理な体勢だが、今の身体は驚くほど柔軟に動いてくれる。

ピアノの底板の裏に、テープで貼り付けられた小さな封筒があった。

「あった……!」

震える手で封を開けると、中には一本の古びたカセットテープと、一枚のメモが入っていた。メモには、若い頃のマイキーらしい丸みを帯びた字で、こう書かれていた。

「トムへ。いつも、ありがとう。これを、伝えなきゃと思いながら、結局言えないまま何年も経ってしまった。今度こそ」

そこで文章は途切れていた。

「トム……?」

稔には、その名前に心当たりがなかった。だが、リハーサル室の隅に置かれた古い椅子――そこに、名札のようなものが貼られていることに、ふと気づいた。

「TOM — STAGE CREW」


第十四章 本当の頼みごと

「トム、というのは、裏方のスタッフさんか」

稔はカセットテープを手に、リハーサル室を出た。廊下の奥、機材倉庫の前で、一人の白髪の老人が黙々と照明機材を点検しているのが見えた。長年この現場を支えてきたのだろう、その手つきには年季が感じられた。

「あの、すみません」

稔が声をかけると、老人――トムは驚いた様子で振り返った。

「ミスター・J? こんな時間にどうされました。もうリハーサルは終わりましたよ」

「いえ、その……少し、お伺いしたいことがありまして」

稔は手にしたカセットテープを差し出した。

「これ、ご存知ですか」

トムはテープを一目見るなり、目を見開いた。

「これは……もしかして、あなたが昔、私に何か録音するとおっしゃっていた……」

「昔から、あなたに何か伝えようとしていたようなんです。私――いや、僕は」

稔は言葉を選びながら、慎重に続けた。

「あなたに、ちゃんと"ありがとう"を伝えられていなかったんじゃないか、と思って」

トムは、しばらく黙り込んでいた。長年裏方として、決して表舞台には出ないその立場で、彼はいったいどれほどの時間、スターの成功を陰から支え続けてきたのだろう。

「ミスター・J……いえ、マイキー」

トムの声が、少し震えていた。

「私は別に、お礼なんて期待して、この仕事をしてきたわけじゃありません。ただ、あなたの音楽が好きで、あなたのステージが誇らしくて、それだけで、十分でした」

「それでも」

稔は――そしてその中に眠るマイキーの想いは――強く首を振った。

「それでも、伝えたかったんです。あなたがいなければ、僕は僕でいられなかった。忙しさにかまけて、ずっと言えないままでいたことを、今さらですが、後悔しているんです」


第十五章 代わりに、伝える

「トムさん」

稔は深く頭を下げた。もはやそれは、マイキーの身振りというよりも、稔自身の――何十年も、感謝の言葉を胸にしまい込んだまま生きてきた、一人の日本人男性の、心からの所作だった。

「本当に、ありがとうございました。あなたのような方が、陰で支えてくれていたから、彼は――僕は、輝いていられたんです」

トムは目に涙を浮かべながら、小さく笑った。

「変な言い方をしますね、まるで、あなた自身が本人じゃないみたいに」

「あはは……それは、まあ、いろいろありまして」

稔は誤魔化すように笑った。

「でも、ありがとう。今、その言葉を聞けて、本当に良かった」

トムはそう言うと、稔の――いや、マイキーの手を、両手でしっかりと握りしめた。その温かさに、稔は不覚にも胸が熱くなるのを感じた。

その瞬間、リハーサル室の照明が、ふっと柔らかく明滅した。まるで、長年閉じ込められていた何かが、ようやく解き放たれたかのように。

「――ありがとう、稔」

耳元で、マイキーの声がした。今度は寂しさの色はなく、ただ穏やかな安堵だけがそこにあった。

「僕の代わりに、伝えてくれて」

「いえ……こちらこそ、貴重な経験をさせていただきました」

「そろそろ、時間だ。キミを、キミの世界に帰さなくちゃいけない」

「え、もう……ですか」

もっとこの時代にいたい、という未練が、稔の胸をちくりと刺した。だが同時に、不思議な満足感もあった。まるで、長年つかえていた何かが、すとんと胸から下りたような。

「大丈夫、キミの人生にも、まだ"言えていないこと"が残っているんじゃないかい?」

マイキーの声に、稔は思わず言葉を詰まらせた。

視界が、再び白い光に包まれていく。


第十六章 それぞれの夜

トムとの一件のあと、稔がふらふらとテラスに戻ると、まだそこにはデイヴとメイ、そしてブリーが残っていた。

「あら、マイキー、どこ行ってたの? ずっと捜してたのよ」

ブリーが駆け寄ってくる。稔は少し照れくさそうに、事の次第――といっても、本当のことは話せないので、当たり障りのない範囲で――説明した。

「トムに、ちゃんとお礼を言いに行っていたんです」

「トムに?」

デイヴが意外そうな顔をした。

「あの裏方の? ……そうか。あいつ、もう十五年もお前のツアーに付き合ってるもんな」

「そんなに長く……」

稔は改めて、トムという人物の存在の大きさを思い知らされた。

「私たちもね」

メイが柔らかく微笑んだ。

「若い頃、随分と支えてもらったものよ。名前も知らないような裏方さんに、何度助けられたか分からない」

「その人たちに、ちゃんとお礼、言えましたか」

稔が思わず尋ねると、メイは少し困ったように笑った。

「どうかしらね。伝えたつもりでも、本当に伝わっていたかどうかは、分からないものよ」

その言葉が、稔の胸に静かに染み込んでいった。

ブリーが、稔の隣にちょこんと腰掛けた。

「ねえ、マイキー。今日のあなた、なんだかいつもと違うね。……悪い意味じゃなくて」

「そうですか?」

「うん。いつもは、もっとこう……遠くを見てるみたいな目をしてるのに、今日は、ちゃんとここにいる、って感じがする」

稔は、その言葉に何と答えていいか分からず、ただ静かに微笑んだ。

夜空には、満天の星が輝いていた。稔はふと、この時代の空気を、この光景を、できるだけ長く記憶に焼き付けておきたいと思った。

「なあ、マイキー」

デイヴが、稔の肩に手を置いた。

「お前、たまにでいいから、こうやって肩の力を抜いてみろよ。伝説だの、スターだのって肩書きは、たまには脱いだっていいんだ」

「……はい」

稔は素直に頷いた。その言葉は、きっと稔自身にも、そして本来のマイキーにも、同じくらい必要な言葉だったのかもしれない。

風が優しく吹き抜け、テラスのランタンがゆらゆらと揺れていた。稔は、この束の間の平穏な時間を、心ゆくまで味わっていた。

――そして、その静けさの中で、稔の意識は再び、あの真っ白な空間へと引き戻されていくのだった。


第十七章 エピローグ:目覚め

「……あなた? ちょっと、あなたったら」

肩を揺すられる感触で、稔は目を覚ました。

見慣れたリビングの天井、こたつの天板、テレビの砂嵐――いや、テレビはとっくに消えていて、和子が心配そうな顔でこちらを覗き込んでいた。

「こんなところで寝ちゃって、風邪ひくわよ。もう、いい歳なんだから」

「あ……和子」

稔は自分の手を見た。染みの浮いた、皺だらけの、見慣れた六十三歳の手。それを見て、稔はなぜだかひどく安堵した。

「今、何時?」

「もう夜中の一時よ。誕生日くらい、ちゃんとベッドで寝てちょうだいな」

「そうか……夢だったのか」

呟きながら、稔はふと、こたつの天板の上に、見覚えのない小さな紙切れが置かれていることに気づいた。手に取ってみると、そこには丸みを帯びた字で、こう書かれていた。

「ありがとう、稔。楽しかったよ」

「これは……」

稔は思わず声を漏らした。夢にしては、あまりにも生々しい。

「あなた、何ぶつぶつ言ってるの」

「いや、なんでもない……いや、和子」

稔は、こたつのテーブルに手をついて、居住まいを正した。

「なに、急に改まって」

「三十五年間、ずっと言いそびれてたことがあるんだ」

和子は、少し驚いた顔をした。

「ありがとう。……今まで、ずっと」

「なによ、藪から棒に」

和子は照れたように笑いながら、そっぽを向いた。だがその口元は、まんざらでもなさそうに緩んでいた。

「ところで」

稔は紙切れを大事にポケットにしまいながら、ふと考えた。

――僕になったマイキーは、あの間、いったい何をしたかったのだろうか。

トムへの感謝は、確かに伝えた。だが、あの真っ白な空間で、最後にマイキーが見せた、あの寂しそうな笑顔の奥に、まだ何か別の想いが残っていたような気がしてならない。

そっちが知りたくて、稔はもう一度、目を閉じてみた。

けれど、もう二度と、あの光の空間には辿り着けなかった。ただ、隣で寝息を立てる和子の温かさだけが、確かにそこにあった。

その日の昼過ぎ、稔は書斎の引き出しから、埃をかぶった住所録を取り出した。ページをめくり、次男・健二の携帯番号を見つける。

指が、少しだけ震えた。

「……いや、なに、大した用事があるわけじゃないんだが」

そう独り言をつぶやきながら、稔は発信ボタンを押した。呼び出し音が三回鳴ったところで、電話は繋がった。

「もしもし? 父さん? どうしたの、珍しい」

健二の声には、明らかな驚きが滲んでいた。

「いや、その……別に、用事があるわけじゃないんだが」

稔は言葉に詰まりながら、それでも続けた。

「元気にしてるかと思ってな。それだけだ」

電話の向こうで、健二がしばらく黙り込んだ。

「……うん、元気だよ。父さんも?」

「ああ、こっちも変わりない」

他愛のない会話が、ぽつりぽつりと続いた。仕事のこと、天気のこと、近所の話。特別なことは何一つ話していない。それでも、電話を切る間際、稔は思い切って口にした。

「健二」

「なに?」

「今まで、あまりちゃんと話す時間を作れなくて、悪かったな。……お前のこと、いつも気にかけてたんだぞ」

電話の向こうで、健二が小さく息を呑む気配がした。

「……なんだよ、急に。柄にもない」

そう言いながらも、その声は、どこか嬉しそうに震えているように、稔には聞こえた。

「今度、盆にでも帰ってきたらどうだ。和子も、喜ぶと思うぞ」

「うん……考えてみるよ。父さんも、身体、大事にしてね」

電話を切ったあと、稔はしばらく、受話器を握りしめたまま、動けずにいた。

たったこれだけのことが、なぜ、三十八年もの間、できなかったのだろう。

窓の外に目をやると、夏の午後の光が、庭の紫陽花をやわらかく照らしていた。稔の頬には、自分でも気づかぬうちに、一筋の涙が伝っていた。それは寂しさの涙ではなく、どこか清々しい、安堵の涙だった。

翌朝。

稔が寝室で目を覚ますと、枕元に置いていたはずの古いラジカセから、聞き覚えのないメロディが小さく流れていた。電源など入れた覚えもないのに。

首をかしげながら耳を澄ますと、それは、若い頃に一度だけ深夜のラジオで聴いた、あの伝説のミュージシャン夫婦、デイヴ&メイの、めったに流れることのない幻の一曲だった。

稔は、思わず頬が緩むのを感じた。

「まったく……最後まで、食えない人だ」

窓の外では、六十四回目の夏に向けて、朝の光が眩しく差し込んでいた。

――了――


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あとがき
書き終えて、最初に思い浮かんだのは、自分の父のことでした。
父は商社マンではありませんでしたが、やはり口数の少ない人で、感謝や心配を言葉にするのがひどく下手でした。私がこの物語の稔のように、電話の前で何度もためらったことがあったことを思い出します。
物語の中のトムという人物は、創作です。しかし、どの現場にも、どの家庭にも、必ずいるはずの人です。光の当たらない場所で、誰かの人生をずっと支え続けてきた人。その人に、ちゃんとありがとうと言えただろうか。書いている間、ずっと自分自身に問いかけていました。
タイトルの「セイ・セイ・セイ」は、あの伝説的なデュエット曲からお借りしました。Say、つまり「言え」。何度も繰り返してようやく届く言葉がある、という祈りのような気持ちを込めています。
拙い物語ですが、あなたの心の中にも、まだ伝えられていない誰かの顔が浮かんだなら、とても嬉しく思います。

セイ・セイ・セイ 

〜僕がスターだった、あの夏〜


まえがき

もしも、誰もが知るあの世界のトップスターになれるボタンがあったら、あなたはどうしますか?

本作の主人公・田中稔は、どこにでもいる真面目(だけどちょっと下心もある)な63歳の元サラリーマンです。そんな彼が、ひょんなことから80年代のきらびやかな音楽シーンの真ん中へ放り込まれてしまいます。

華やかなステージ、憧れのアーティストたち、そして甘い誘惑。
一見、ただのドタバタタイムスリップ劇に見えるかもしれませんが、これは「何かをやり残した」と感じている二人の男が、それぞれの方法で人生の落とし物を見つける物語でもあります。

当時の洋楽ヒットチャートに胸を躍らせた記憶がある方も、そうでない方も、あの熱く輝いていた「あの夏」の空気感を一緒に楽しんでいただければ幸いです。それでは、幕が上がります!




登場人物

• 田中 稔(たなか みのる)/ 63歳 ― 語り手。定年退職後、趣味も特になく持て余している元サラリーマン。真面目だが下心は人並みにある。

• マイキー・J ― 1980年代に世界を席巻した伝説のスーパースター(故人)。稔に「体を貸してほしい」と持ちかける幽霊(のようなもの)。飄々として何を考えているか分からない。

• ブリー・アシュフォード ― マイキー全盛期と同時代にブレイクした若手アイドル歌手。無邪気で小悪魔的。

• デイヴ&メイ ― マイキーの先輩格にあたる伝説的ミュージシャン夫婦デュオ。稔が最初に迷い込むステージの主。

• 謎の管理人(コーディ) ― 時空移動の”裏側”を管理しているらしい謎の存在。中盤で稔の前に現れ、マイキーの本当の目的を仄めかす。




第一章 プロローグ:契約

その日、田中稔は六十三歳になった。


誕生日と言っても、特に何があるわけでもない。長男からは「おめでとう」とだけ書かれたLINEが届き、次男からは何も届かなかった。妻の和子は「今日は面倒だから鍋でいい?」と聞いてきて、稔は「いいよ」と答えた。それだけの、なんということもない一日だった。

定年退職してからもう三年になる。最初の一年は「自由だ」とはしゃいでいたが、二年目には図書館に通うようになり、三年目の今は、平日の昼間からテレビの前でぼんやりしている自分に気づいて、少し愕然とすることが増えていた。

「不完全燃焼」

という言葉が、最近の稔のお気に入りだった。何が不完全なのか、自分でもよくわからない。ただ、何かをやり残したまま、ここまで来てしまった気がしてならないのだ。

その夜、風呂上がりに稔がリビングのソファでうとうとしていると、テレビの砂嵐の向こうから、聞き覚えのある鼻にかかった声がした。

「ねぇ、キミ」

稔は目を開けた。テレビの前に、見覚えのある人物が立っていた。黒い帽子、白い靴下、片方だけの白い手袋。世界中の誰もが知っている、あのスーパースターのシルエットだった。ただし、輪郭が心なしかぼんやりとして、周りの光を吸い込んでいるようにも見える。

「……幽霊、ですか」

稔は驚くよりも先に、妙に冷静にそう尋ねた。六十三年も生きていると、多少のことでは驚かなくなるものらしい。

「まあ、そんなようなものかな」

マイキー・Jと名乗るその人物は、そう言って肩をすくめた。しゃべり方は英語混じりの、聞き取りやすい日本語だった。

「単刀直入に聞くけど――キミの身体を、しばらく貸してくれないか?」

稔は思わず自分の腹の贅肉をつまんだ。

「私の……この身体を、ですか? マイキーさんほどの方が、こんな冴えない初老の身体を借りて、何をなさるおつもりで」

「ちょいと、やり残したことがあってね」

マイキーは微笑んだ。その笑顔は写真や映像で見たものと同じはずなのに、どこか寂しそうに稔には見えた。

「それなら」と稔は苦笑いした。「もっと若くて、格好いいどなたかの方がよろしいのでは。私はこの通り、腹も出ていますし、膝も痛みますし」

「いや、キミの身体でなくちゃダメなんだ」

マイキーは首を振った。

「なぜです?」

「それは……まあ、追い追い話すよ。それより、キミ、日本人だよね。それも」

マイキーは稔の全身を眺めまわしてから、少し悪戯っぽく続けた。

「特別ではない、ごく普通の初老の男性……なんて、失礼な言い方だけど」

「それは、失礼ですね」

稔は本気で少しむっとした。だが同時に、退屈しきった毎日の中に、突然舞い込んできたこの荒唐無稽な話に、抗いがたい面白さを感じてもいた。相手はあのマイキー・Jである。断る理由よりも、話に乗ってみたい好奇心の方が勝った。

「……いいでしょう。マイキーさんになら」

「決まりだ!」

マイキーはぱちんと指を鳴らした――ように見えたが、実際には指の骨が鳴っただけかもしれない。なにしろ半透明の身体である。

「じゃあ、これから稔、キミには僕にならなくちゃいけないんだ」

「は?」

稔は聞き返した。身体を貸すという話ではなかったのか。

「順番として、まず僕がキミの身体に入る。その間、キミの魂はどこに行くのかっていうと――僕にならなきゃいけない、ってわけ」

「意味がわかりません」

「簡単に言うとね」

マイキーは芝居がかった仕草で肩をすくめた。

「失礼ながら、キミはもう――は言い過ぎか。とにかく、僕の身体は、もうこの世にはない。埋葬されて、灰になって、とっくに骨も残ってない。だから、僕がキミの中に入っている間、キミの魂の"入れ物"がなくなっちゃうんだよ。だから代わりに、僕という存在――正確に言うと、僕の"データ"というか"記憶"というか――そこに、キミの魂を仮住まいさせる、ってわけ」

「つまり、私が……マイキーさんに、なる?」

「その通り」

稔は腕を組んで考え込んだ。理屈はよくわからないが、なんとなく雰囲気は伝わってきた。

「だとしたら、私はどうすればいいんです? マイキーさんの真似をして、コンサートでもすればいいんですか。無理ですよ、私、ムーンウォークどころか、盆踊りだって怪しいんですから」

「大丈夫、大丈夫」

マイキーは笑って手をひらひらと振った。

「その間、キミは時空を好きな所へ移動していい。何なら、僕が一番華やかだった時代――あの身体で、好き勝手にやっていてくれればいいんだ」

「好き勝手に……」

その言葉の響きに、稔の胸の奥で何かがざわりと動いた。

「ほう」

稔は思わず身を乗り出した。

「それは……なんだか、楽しそうですね」

「だろう?」

マイキーはにやりと笑った。その笑みは、どこか少年めいていて、そしてやはり、どこか寂しかった。

「じゃあ、決まりだ。目を閉じて」

「ちょ、ちょっと待ってください。契約書とか、そういうのは」

「そんなもの、あの世にはないよ」

マイキーは稔の額に、すっと指先を触れさせた。冷たいような、温かいような、不思議な感触だった。

「楽しんでおいで、稔」

その声を最後に、稔の意識は、深い深い光の渦へと吸い込まれていった。

リビングでは、こたつに突っ伏したまま眠りに落ちた老人の身体が一つ、静かに寝息を立てていた。傍らのテレビはいつの間にか消えており、和子が「もう、また風邪ひくわよ」とつぶやきながら、夫に毛布をかけているのだった。


第二章 入れ替わり、そして選択

気がつくと、稔は真っ白な空間に立っていた。

いや、「立っていた」という表現も正確ではない。上も下も、右も左もない。ただ、真っ白な光の中に、稔の意識だけがぽつんと浮かんでいる、そんな感覚だった。

「おーい、稔、聞こえるかい」

声は四方八方から響いてきた。マイキーの声だ。

「聞こえてます。……ところで私、今、どういう状態なんでしょうか」

「今のキミは、いわば"待合室"にいる状態だね。これから僕の記憶の中――正確には、僕が生きていた時代のどこか――に、キミの意識を送り込む。だから、行き先を選んでほしいんだ」

「行き先、と言われましても」

「僕の人生をざっと見せてあげるよ。好きな時代を選ぶといい」

そう言うと、稔の目の前に、まるで映画館のスクリーンのような光景が次々と映し出された。

幼い頃、兄弟たちと歌って踊るステージ。少年から青年へと変わっていく姿。世界中を熱狂させたあのアルバムのレコーディング風景。そして――煌びやかな衣装をまとい、伝説のミュージシャン夫婦、デイヴ&メイのステージに、ゲストとして飛び入りする映像。

「おお」

稔は思わず声を上げた。デイヴ&メイと言えば、稔が若い頃、深夜のラジオでかじりつくように聴いていた伝説のデュオだ。あの二人の音楽に、若かりし日の稔がどれほど救われたか。

「わかりやすいね、キミ」

マイキーがくすくす笑う声がした。

「あの二人のステージに、僕はゲストで一度だけ立ったことがある。伝説になった夜だよ」

「そこに、行けるんですか」

「行けるよ。ただし」

マイキーの声が、少しだけ低くなった。

「一つだけ、ルールがある」

「ルール?」

「その時代に行っている間、キミは"僕"として振る舞うことになる。周りの人間には、僕にしか見えない。……つまり、キミがそこで何をしても、それは全部、僕の伝説の一部になる、ってことだ」

稔はごくりと唾を飲んだ。

「それは……なかなか、責任重大ですね」

「まあ、そう硬くならずに。何しろ、キミが選んだのはショービジネスの世界だ。多少のハプニングは、伝説のスパイスになる」

その言い方に、稔はなんだか妙な安心感を覚えた。

「よし……決めました。デイヴ&メイのステージに行きます」

「オーケー」

マイキーの声が、心なしか楽しそうに弾んだ。

「じゃあ、もう一つ。せっかくだから、その前後の時間も少し自由に動き回れるようにしてあげよう。楽屋、リハーサル、打ち上げ……好きなだけ、僕の華やかな時代を味わっておいで」

「打ち上げ、ですか」

稔の頭の中で、何やら不埒な想像が一瞬よぎった。慌ててそれを打ち消す。

「では、ブリーとの、あの……」

言いかけて、稔は口をつぐんだ。

「ん? ブリーがどうかした?」

「いえ、何でも」

マイキーはそれ以上は追及せず、ただ愉快そうに笑うだけだった。

「じゃ、行っておいで。時空の扉を開けるよ」

真っ白な空間に、一筋の光の亀裂が走った。まぶしさに稔は思わず目を閉じる。

そして次に目を開けたとき――稔は、鏡の前に立っていた。


第三章 場違いなスター

鏡に映っていたのは、稔の見慣れた自分の顔ではなかった。

すらりとした体つき、はっとするほど整った顔立ち、そして――全身を彩る、きらびやかなステージ衣装。

「……これが、私?」

思わず声に出してみると、出てきたのは若々しく、しかしどこか聞き覚えのある、あの独特の高い声だった。

「うわっ」

稔は驚いて自分の口を両手で押さえた。声まで変わっている。当たり前と言えば当たり前だが、いざ実際に体験すると、その衝撃は凄まじいものがあった。

楽屋のドアがノックされた。

「ミスター・J、スタンバイです。あと五分でステージです」

「は、はいっ! ……いや、イエス!」

慌てて英語混じりで返事をしてしまう自分に、稔は内心で苦笑した。長年勤めた商社での英会話が、こんなところで役に立つとは思わなかった。

袖に案内されると、割れんばかりの歓声が聞こえてきた。ステージの中央には、白髪交じりの気さくな笑顔のミュージシャンと、その隣で優雅にキーボードを弾く女性――デイヴとメイの姿があった。噂に聞いていた通り、二人の周りには温かい空気が満ちている。

「よう、来たな相棒!」

デイヴが稔(の中身をしたマイキー)に向かって、気さくに手を振ってくる。

(ど、どうしよう。振り付けなんて知らないし、歌詞だって覚えてない……!)

稔は内心パニックに陥りながらも、とりあえず満面の笑みを浮かべて舞台に躍り出た。

不思議なことに、身体が勝手に動いた。足がステップを踏み、腕がしなやかに宙を切る。まるで身体そのものが、何十年分もの練習の記憶を覚えているかのようだった。

(なるほど、これが"身体の記憶"というやつか……!)

歌詞の方は完全にお手上げだったが、口も勝手に動いて、聞き覚えのあるメロディを紡いでいく。稔はただ、その勢いに身を任せることしかできなかった。

観客は熱狂していた。何しろ、伝説のステージに伝説のゲストが現れたのだ。多少の――いや、正直に言えばかなりの――歌詞の怪しさなど、誰も気にしていないようだった。

「ここが……一番、良い時代だったのかもしれないな」

曲間、稔はふと素の呟きを漏らした。若い頃、深夜のラジオで聴いた憧れの音楽の中に、自分がまさに今、立っている。それだけで、胸がいっぱいになるようだった。

そのとき、ステージの袖から、誰かがこちらに向かって小さく手招きしているのに気づいた。

キラキラのミニドレスに身を包んだ、あの若きアイドル――ブリーだった。


第四章 ブリーの誘い

「ねえ、こっち、こっち!」

ブリーは唇に指を当て、いたずらっぽく笑いながら稔を手招きした。

(ブ、ブリー本人だ……!)

稔の中で、六十三年分の理性が音を立てて崩れていくのがわかった。若い頃、テレビの音楽番組で彼女を見るたびに、隣で寝ている和子に気づかれないよう、こっそり画面に見入っていたことを思い出す。あのブリーが、今、目の前で自分を呼んでいる。

曲の合間、稔はふらふらとステージ袖に引き寄せられていった。

「マイキー、今日の振り、キレッキレじゃない! 特に二番のあそこ、いつもと違う動きしてたでしょ」

「あ、ああ、うん、そう、その、いろいろ、研究してね……」

しどろもどろになりながら、稔は鼻の下をだらしなく伸ばしていた。長年連れ添った和子には申し訳ないと思いつつも、この状況で平静を保てる六十三歳男性が、果たしてこの世に何人いるだろうか。

「ねえ、このあと打ち上げ、来るでしょ? デイヴのおじさまのお家で」

「もももちろん、行きます! 行かせていただきます!」

思わず敬語が出てしまい、ブリーが「なにその喋り方、変なマイキー」とけらけら笑った。

(いかん、いかん。マイキーさんの伝説に傷がつく)

稔は必死に自分を律しようとするが、久しぶりに全身にみなぎる若さと、目の前の眩しい笑顔の前では、理性はほとんど役に立たなかった。


第五章 エロオヤジ、散る

打ち上げの会場は、デイヴの自宅の広々としたテラスだった。夜風が心地よく、色とりどりのランタンが揺れている。

「かんぱーい!」

グラスを合わせる音があちこちで響く中、稔はソファの端に腰掛け、隣に座ったブリーとの距離の近さに、内心では大変な動揺を隠しきれずにいた。

(こここ、これは……ワインのせいなのか、それとも本当に彼女は距離が近い人なのか……)

「ねえマイキー、聞いて。今度出す新曲なんだけどね」

ブリーが肩にもたれかかるようにして話しかけてくる。稔――もといマイキーの身体――は、香水の匂いにくらくらしながら、なんとか相槌を打った。

「そそそ、それは、楽しみですね」

「なにその話し方、やっぱり変!」

ブリーがけらけら笑いながら、稔の肩を軽く叩く。その瞬間、六十三年分の「なんとかしたい」という下心が、稔の中で一気に沸点を突破した。

(ええい、ままよ! ここでスマートに、こう、片手をさりげなく背もたれに回して……!)

稔は意を決して、渾身の"さりげなさ"を装い、片腕をソファの背もたれに伸ばした。しかし長年商社の会議室で椅子に座ってばかりいた身体の癖が抜けきらず、動きは見事なまでにぎこちなく、まるで肩の関節が錆びついたブリキ人形のようだった。

「な、なにその動き!?」

ブリーが目を丸くする。

その拍子に、稔の肘がテーブルの端に置かれていたグラスタワーに触れた。

「あっ」

シャンパングラスが、まるでドミノのように次々と倒れていく。

「うわああああっ!」

会場中の視線が一斉に稔に集まった。テラス中に響き渡る盛大な音を立てて、ピラミッド状に積まれていたグラスタワーが崩れ落ち、稔――もといマイキー――は、頭から泡だらけになって尻もちをついた。

「ミスター・J!?」

「マイキー、大丈夫!?」

騒然とする会場の中、稔はびしょ濡れのままへたり込み、天を仰いだ。

(伝説に、傷をつけてしまった……)

だが同時に、なぜか妙な爽快感もあった。六十三年間、こんなにも大胆に、そしてこんなにも派手に失敗したことなど、一度もなかったのだから。

ブリーが吹き出すように笑い始めた。

「あはは、マイキー、そんな顔しないでよ! ……でも、こういうマイキーも、なんか、好きかも」

その言葉を聞いた瞬間、稔の意識が、ふっと遠くなっていく感覚に襲われた。


第六章 強制送還?

気がつくと、稔はまた真っ白な空間に浮かんでいた。

「……あれ? 私は、その、まだ打ち上げの途中だったのでは」

「残念ながら、強制送還だよ」

マイキーの声が、どこか苦笑交じりに響いた。

「グラスタワーを盛大にぶっ壊した挙句、あわや大惨事、ってところで、僕のほうの"許容量"を超えちゃったみたいでね。安全装置が働いたんだ」

「そんな……! まだ、何も……」

言いかけて、稔は口をつぐんだ。「まだ何もしていない」というのは、正確には嘘だった。ブリーの好意的な一言に舞い上がった直後だった自分を思い出し、稔は少しばかり気恥ずかしくなった。

「まあまあ、そう気を落とさずに」

マイキーは笑った。

「でもね、稔。正直に言うと、僕はちょっとがっかりしてるんだ」

「がっかり……ですか」

「うん。キミにあの時代を託したのは、ただ好き勝手に楽しんでほしかったから、というだけじゃなかったんだ。……いや、これは、まだ話す時じゃないな」

「え、どういうことです? 教えてください」

「まあ焦らずに。もう一度チャンスをあげるから」

「本当ですか!」

稔は思わず声を弾ませた。しかし――。

「ただし」

マイキーの声が、少しだけ真剣な調子を帯びた。

「今度は、下心じゃなくて、"本当の目的"を持って行ってほしいんだ。それが何か、まずは調べてくるといい」

「調べる、って、どこで、何を」

「それを教えてくれる人がいる。この空間の、ずっと奥にね」

マイキーがそう言った瞬間、真っ白な空間の一角に、小さな扉が現れた。古びた木製の扉で、この無機質な空間にはひどく不釣り合いだった。

「あの扉の向こうに、コーディという名の管理人がいる。彼(彼女? それとも、それ?)が、僕についての"本当のこと"を、少しだけ教えてくれるはずだ」

「マイキーさんご本人が教えてくれれば、早いのでは」

「それができないから、こうして回りくどいことをしているんだよ」

マイキーは寂しげに笑った。その表情に、稔はそれ以上何も聞けなくなってしまった。


第七章 管理人コーディ登場

扉を開けると、そこは小さな図書室のような空間だった。

床から天井まで、無数の古びた本棚が並び、その一つ一つに、ぎっしりとレコードやカセットテープ、写真アルバムが収められている。中央には木製の机があり、その向こうに、丸眼鏡をかけた小柄な人物が座っていた。年齢も性別も、なんとなく判然としない、不思議な雰囲気の人物だった。

「やあ、いらっしゃい。田中稔さん、ですね」

「あ、はい。……あなたが、コーディさんですか」

「そうです。マイキーの"記録係"、とでも言いましょうか」

コーディは机の上に置かれた一冊の古いノートを、ぱらぱらとめくった。

「マイキーがあなたに何も教えなかった"本当の目的"について、少しだけお話ししましょう」

「お願いします」

稔は身を乗り出した。

「マイキーは生前、あるとても大切な人に、伝えたかった言葉があったんです。でも、彼は結局、それを言えないまま、この世を去ってしまった」

「大切な人、というと……もしかして、ブリーさんのことですか」

「いいえ」

コーディは静かに首を振った。

「もっと、彼のすぐ近くにいた人物です。……名前は、今はまだ、あなたには言えません。ただ、ヒントは残しておきましょう」

コーディはノートを一枚破り取り、稔に手渡した。そこには、こう書かれていた。

「リハーサル室、鏡の裏、あの夜だけ弾かれなかったピアノの下」

「これは……?」

「あなたが次にあの時代へ戻った時、そこを探してみてください。きっと、マイキーが本当に取り戻したかったものの、手がかりが見つかるはずです」

「わかりました。……あの、コーディさん」

「なんでしょう」

「なぜ、マイキーさんご本人は、ご自分の口で、その大切な人に伝えられなかったんですか」

コーディは少しの間、黙り込んだ。

「それは……あなた自身が、その答えを見つけた時に、きっとわかりますよ」

そう言って、コーディは眼鏡の奥で、ふっと優しく目を細めた。


第八章 もう一度、あの時代へ

真っ白な空間に戻ると、マイキーが待っていた。

「話は聞いたね」

「ええ、大体は。……マイキーさん、あなたには、伝えられなかった大切な言葉があったんですね」

マイキーは何も答えず、ただ微笑むだけだった。

「もう一度、あの時代に行かせてください。今度は、ちゃんと目的を持って」

「いいだろう」

マイキーは頷いた。

「ただし、今度はグラスタワーを壊さないようにね」

「善処します」

稔は苦笑いした。

「それと、稔」

マイキーの声が、少しだけ改まった調子になった。

「今回のことで、一つだけ、僕の本音を言っておくよ」

「はい」

「僕は、ずっと後悔していたんだ。何もかもが華やかだったあの時代の裏側で、本当に大切なことを、一つだけ、言い忘れたまま終わってしまったってね。……キミになら、それを託せる気がしたんだ」

「なぜ、私に?」

「キミが、"特別ではない、普通の初老"だからだよ」

マイキーは、失礼だったはずのその言葉を、今度はまるで最大級の褒め言葉のように口にした。

「特別な人間には、案外、本当に大切な言葉って、届けられないものなんだ。……さあ、行っておいで」

再び、光の亀裂が稔の視界を包み込んだ。

そして目を開けたとき、稔は――誰もいない、静まり返ったリハーサル室に立っていた。

鏡には、あの見慣れたマイキーの姿が映っている。だが今度は、下心も気負いもなく、稔はまっすぐに、その鏡の奥へと歩み寄っていった。


第九章 リハーサル室の秘密

リハーサル室は、しんと静まり返っていた。壁一面の鏡、隅に置かれたグランドピアノ、床には養生テープで貼られたフォーメーションの目印。稔は、コーディにもらったメモを取り出し、もう一度読み返した。

「リハーサル室、鏡の裏、あの夜だけ弾かれなかったピアノの下……」

鏡の裏、というのは比喩なのだろうか。稔は鏡張りの壁に手を這わせてみたが、特に何も見つからない。次にピアノの下に潜り込んでみることにした。六十三年分の身体だったら到底無理な体勢だが、今の身体は驚くほど柔軟に動いてくれる。

ピアノの底板の裏に、テープで貼り付けられた小さな封筒があった。

「あった……!」

震える手で封を開けると、中には一本の古びたカセットテープと、一枚のメモが入っていた。メモには、若い頃のマイキーらしい丸みを帯びた字で、こう書かれていた。

「トムへ。いつも、ありがとう。これを、伝えなきゃと思いながら、結局言えないまま何年も経ってしまった。今度こそ」

そこで文章は途切れていた。

「トム……?」

稔には、その名前に心当たりがなかった。だが、リハーサル室の隅に置かれた古い椅子――そこに、名札のようなものが貼られていることに、ふと気づいた。

「TOM — STAGE CREW」


第十章 本当の頼みごと

「トム、というのは、裏方のスタッフさんか」

稔はカセットテープを手に、リハーサル室を出た。廊下の奥、機材倉庫の前で、一人の白髪の老人が黙々と照明機材を点検しているのが見えた。長年この現場を支えてきたのだろう、その手つきには年季が感じられた。

「あの、すみません」

稔が声をかけると、老人――トムは驚いた様子で振り返った。

「ミスター・J? こんな時間にどうされました。もうリハーサルは終わりましたよ」

「いえ、その……少し、お伺いしたいことがありまして」

稔は手にしたカセットテープを差し出した。

「これ、ご存知ですか」

トムはテープを一目見るなり、目を見開いた。

「これは……もしかして、あなたが昔、私に何か録音するとおっしゃっていた……」

「昔から、あなたに何か伝えようとしていたようなんです。私――いや、僕は」

稔は言葉を選びながら、慎重に続けた。

「あなたに、ちゃんと"ありがとう"を伝えられていなかったんじゃないか、と思って」

トムは、しばらく黙り込んでいた。長年裏方として、決して表舞台には出ないその立場で、彼はいったいどれほどの時間、スターの成功を陰から支え続けてきたのだろう。

「ミスター・J……いえ、マイキー」

トムの声が、少し震えていた。

「私は別に、お礼なんて期待して、この仕事をしてきたわけじゃありません。ただ、あなたの音楽が好きで、あなたのステージが誇らしくて、それだけで、十分でした」

「それでも」

稔は――そしてその中に眠るマイキーの想いは――強く首を振った。

「それでも、伝えたかったんです。あなたがいなければ、僕は僕でいられなかった。忙しさにかまけて、ずっと言えないままでいたことを、今さらですが、後悔しているんです」


第十一章 代わりに、伝える

「トムさん」

稔は深く頭を下げた。もはやそれは、マイキーの身振りというよりも、稔自身の――何十年も、感謝の言葉を胸にしまい込んだまま生きてきた、一人の日本人男性の、心からの所作だった。

「本当に、ありがとうございました。あなたのような方が、陰で支えてくれていたから、彼は――僕は、輝いていられたんです」

トムは目に涙を浮かべながら、小さく笑った。

「変な言い方をしますね、まるで、あなた自身が本人じゃないみたいに」

「あはは……それは、まあ、いろいろありまして」

稔は誤魔化すように笑った。

「でも、ありがとう。今、その言葉を聞けて、本当に良かった」

トムはそう言うと、稔の――いや、マイキーの手を、両手でしっかりと握りしめた。その温かさに、稔は不覚にも胸が熱くなるのを感じた。

その瞬間、リハーサル室の照明が、ふっと柔らかく明滅した。まるで、長年閉じ込められていた何かが、ようやく解き放たれたかのように。

「――ありがとう、稔」

耳元で、マイキーの声がした。今度は寂しさの色はなく、ただ穏やかな安堵だけがそこにあった。

「僕の代わりに、伝えてくれて」

「いえ……こちらこそ、貴重な経験をさせていただきました」

「そろそろ、時間だ。キミを、キミの世界に帰さなくちゃいけない」

「え、もう……ですか」

もっとこの時代にいたい、という未練が、稔の胸をちくりと刺した。だが同時に、不思議な満足感もあった。まるで、長年つかえていた何かが、すとんと胸から下りたような。

「大丈夫、キミの人生にも、まだ"言えていないこと"が残っているんじゃないかい?」

マイキーの声に、稔は思わず言葉を詰まらせた。

視界が、再び白い光に包まれていく。


第十二章 エピローグ:目覚め

「……あなた? ちょっと、あなたったら」

肩を揺すられる感触で、稔は目を覚ました。

見慣れたリビングの天井、こたつの天板、テレビの砂嵐――いや、テレビはとっくに消えていて、和子が心配そうな顔でこちらを覗き込んでいた。

「こんなところで寝ちゃって、風邪ひくわよ。もう、いい歳なんだから」

「あ……和子」

稔は自分の手を見た。染みの浮いた、皺だらけの、見慣れた六十三歳の手。それを見て、稔はなぜだかひどく安堵した。

「今、何時?」

「もう夜中の一時よ。誕生日くらい、ちゃんとベッドで寝てちょうだいな」

「そうか……夢だったのか」

呟きながら、稔はふと、こたつの天板の上に、見覚えのない小さな紙切れが置かれていることに気づいた。手に取ってみると、そこには丸みを帯びた字で、こう書かれていた。

「ありがとう、稔。楽しかったよ」

「これは……」

稔は思わず声を漏らした。夢にしては、あまりにも生々しい。

「あなた、何ぶつぶつ言ってるの」

「いや、なんでもない……いや、和子」

稔は、こたつのテーブルに手をついて、居住まいを正した。

「なに、急に改まって」

「三十五年間、ずっと言いそびれてたことがあるんだ」

和子は、少し驚いた顔をした。

「ありがとう。……今まで、ずっと」

「なによ、藪から棒に」

和子は照れたように笑いながら、そっぽを向いた。だがその口元は、まんざらでもなさそうに緩んでいた。

「ところで」

稔は紙切れを大事にポケットにしまいながら、ふと考えた。

――僕になったマイキーは、あの間、いったい何をしたかったのだろうか。

トムへの感謝は、確かに伝えた。だが、あの真っ白な空間で、最後にマイキーが見せた、あの寂しそうな笑顔の奥に、まだ何か別の想いが残っていたような気がしてならない。

そっちが知りたくて、稔はもう一度、目を閉じてみた。

けれど、もう二度と、あの光の空間には辿り着けなかった。ただ、隣で寝息を立てる和子の温かさだけが、確かにそこにあった。

翌朝。

稔が寝室で目を覚ますと、枕元に置いていたはずの古いラジカセから、聞き覚えのないメロディが小さく流れていた。電源など入れた覚えもないのに。

首をかしげながら耳を澄ますと、それは、若い頃に一度だけ深夜のラジオで聴いた、あの伝説のミュージシャン夫婦、デイヴ&メイの、めったに流れることのない幻の一曲だった。

稔は、思わず頬が緩むのを感じた。

「まったく……最後まで、食えない人だ」

窓の外では、六十四回目の夏に向けて、朝の光が眩しく差し込んでいた。

――了――




あとがき

『セイ・セイ・セイ 〜僕がスターだった、あの夏〜』、いかがでしたでしょうか。
この物語は、世界の頂点を極めた「特別な人間」と、ごく普通の人生を歩んできた「特別ではない人間」が交錯するお話です。

マイキーほどのスターであっても、稔のような普通の元サラリーマンであっても、人間が人生の終わりに抱く後悔というのは、案外同じなのかもしれません。「あの時、あの人に、ありがとうと言えていれば」。そんな普遍的な想いを、80年代ポップスの軽快なビートに乗せて描きたいと思い、筆を執りました。

ラストシーン、稔の身体に入ったマイキーが一体何をしていたのか……その答えは、翌朝にラジカセから流れた「幻の一曲」と、隣にいる和子さんの少し嬉しそうな表情が物語っている気がします。

読者の皆様が、読み終えたあとに「久しぶりにあの人に連絡してみようかな」「照れくさいけど、感謝を伝えてみようかな」と、少しだけ温かい気持ちになっていただけたなら、とても嬉しく思います。
またどこかの物語でお会いしましょう。


アマゾン キンドル




さすがに
全行程を一気に歩けるはずはなく

いや
いずれ歩きたいとは思っているが
それには
1ヶ月ほどの時間と
それなりの準備が必要

ならばと
その道のりをいくつにも分けて
気まぐれでぶらりしてみる



新選組



経緯は
還暦になった年
偶然 知った五代前の先祖のこと

実家の町の広報に
新選組の前身
浪士組の話題が載り

なんとそこに
直系の先祖がいて

更に調べると
実家の墓地にも
多くの歴史学者が調査に来ているというから

ならば
子孫が
本家の長男が
知らん顔してる場合ではないと
その足跡を追い掛け辿ることにした

そのひとつが旧中山道で
あの頃
3週間掛けて歩いた彼らの道を
いくつもに分けて歩き始めた

残念ながら
そのすべての道が残ってはなく
わずかに途切れる場所を除き
出来るだけ正確にと
訪ね歩く昨今



今回は信州
望月宿〜茂田井間の宿〜芦田宿

そこはすでに
宿場町の姿はなく
また観光地化もされてなく

人影なき道をゆっくりと
わずかに残る場所を探しながらの
ぶらり旅

すれば
当時の風景が
一瞬 見えた気にもなるから
不思議だ

これもまた
きっとオーブたちの仕業なのだろう





本家を継ぐ子孫の中で
自分に良く似た男が
還暦を越した頃

そのDNAに仕掛けた
次元装置が破裂するかのような

そんなことなのかも? と
今 勝手に思いながら…

さて次は
どの宿場を歩いてみようか



別巻 探し物レター 

〜水鏡夜話〜


まえがき
私たちは人生の中で、一体どれほどの時間を「探し物」に費やしているのでしょうか。失くした鍵、どこかへ置いた眼鏡、若い頃に追い求めた夢、そして、もう二度と会えない大切な誰かの面影。
この物語は、愛しい存在を見送った一人の老人が、ある静かな夜に体験した不思議な再会の記録です。けれどこの町には、彼と同じように「探し物」をした人々の、もうひとつの記憶も眠っていました。哀しみは消え去るものではありませんが、形を変えて私たちの行く手を照らす光になってくれる。そんな祈りを込めて、この物語を綴りました。どうぞ、あたたかいお飲み物でも片手に、ゆっくりとお楽しみください。





一 庭先で聞いた話
人生の三分の一は眠りに費やされるのだという。ならば残りの三分の一もまた、何かを探すことに費やされているのではないか。そう考えたのは、七十を過ぎた頃の私だった。
鍵。眼鏡。もう若くはない身体で、毎朝どこかへ行ってしまった小さなものたちを探す。若い頃は仕事を探し、伴侶を探し、住む場所を探した。子どもが独り立ちしてからは、これからの生き方そのものを探していた気がする。人は生涯、何かを探し続ける生き物なのかもしれない。
けれど今の私が探しているのは、たったひとつだけだ。
ぱふ。
十六年前、庭先に迷い込んできた灰色の子猫だった。段ボール箱の中でぬいぐるみのように丸くなっていたその子に、妻が「まるでパフケーキみたいね」と笑って、そのまま名前になった。ぱふは物静かで、けれど気まぐれで、夜になるといつも私の書斎の窓辺に座り、庭の暗闇をじっと見つめていた。何を見ているのと聞いても、もちろん答えは返ってこない。ただ、月の光を受けた金色の瞳だけが、こちらを見透かすように光っていた。
妻が先に逝き、それから三年後にぱふも旅立った。眠るように、静かに。私は書斎の窓辺にあの子の毛布をそのまま残し、朝になるとまだそこに丸まっているような気がして、つい声をかけてしまう。
「おはよう、ぱふ」
返事がないことにも、もう慣れたはずだった。
そんなある日、向かいに住む未亡人の田渕さんが、垣根越しに声をかけてきた。
「最近、この辺りで妙な話をよく聞くんですよ」
彼女の飼っていた老犬も、半年前に亡くなったばかりだった。田渕さんは声をひそめて言った。夜になると、この一帯の庭先に「季節外れの温い風」が吹く夜があり、その晩に限って、亡くなったはずのペットの姿を見たという人が何人もいるのだと。
「うちの奥の坂本さんもね、去年死んだ猫を見たんですって。追いかけたら、庭の先に見たこともない小道があったって言うのよ」
「それで、どうなったんです」
田渕さんは首を振った。
「わからないの。坂本さん、それから引っ越してしまって。誰も行き先を知らないのよ」
私は笑ってごまかしたが、その夜から、書斎の窓の外がやけに気にかかるようになった。


二 古い言い伝え
気になって、私は近所の小さな稲荷社を訪ねてみることにした。子どもの頃から変わらぬ、苔むした鳥居の奥にある小さな社だ。そこには代々、社を守っているという老女がいた。名前は知らない。町の人々は「宮司さん」とだけ呼んでいた。
「探し物、ですか」
事情を話すと、宮司さんは驚く様子もなくそう呟いた。
「この土地には昔から、そういう夜があります。大切なものを亡くした人のところにだけ現れる、小さな道」
「本当にあるのですか、そんなものが」
「ありますよ。けれど――」
宮司さんは私の目をじっと見た。皺だらけの顔に、どこか痛ましい光が浮かんでいた。
「その道を最後まで辿った人が、みな無事に戻ってきたわけではありません。三十年ほど前にも、奥さんを亡くした男性が、夢の中で彼女を追いかけて、そのまま道に迷い込んでしまわれた。見つかったのは三日後、村はずれの井戸のそばで、放心したまま座り込んでいたそうです。それからその方は、二度と誰のことも――ご自分の子どもたちのことさえも――思い出せなくなってしまわれた」
背筋が冷えた。
「その道には、決まりがあるのです」宮司さんは続けた。「一つ、水鏡に映るものに触れてはいけない。二つ、名を呼んではいけない。呼べば、そのものは驚いて向こうへ帰ってしまう。そして三つ――もし引き返せなくなったときは、決して自分から水に足を踏み入れてはいけない。それは、生者の踏み込む場所ではないから」
「なぜ、そんな道があるのでしょう」
宮司さんは静かに微笑んだ。
「悲しみが深すぎると、この世とあの世の境目が、ほんの少しだけ薄くなるのだと、私は思っております。それは怖いものではありません。ただ、扱いを間違えれば、痛みを二重に背負うことになる」
私は礼を言って社を後にしたが、その夜以来、庭先の暗闇がいつもと違って見えるようになっていた。


三 消えた人々
田渕さんの話も、宮司さんの話も、頭から離れなかった。私は図書館で古い町史を借り、坂本さんという名を探した。三十年前の欄外に、小さな記事があった。「行方不明中の男性、三日後に発見。心身に著しい衰弱」――名前は伏せられていたが、日付は宮司さんの語った話と符合した。
もう一つ、気になる記述があった。同じ地区で、数年おきに似たような「失踪と発見」が繰り返されているというのだ。多くは高齢者で、大切な家族やペットを亡くした直後の人々だった。ある者は無事に戻り、ある者は戻っても以前とは別人のようになった。そしてごく稀に――本当にごく稀に――「まるで長い旅から帰ってきたように、穏やかな顔で戻ってきた」者もいたという。
その違いはどこにあるのか。町史は何も語っていなかった。
私は毛布の前に座り、ぱふの写真を眺めながら考えた。もし本当に、あの子がもう一度姿を見せに来てくれるのだとしたら。私はきっと、追わずにはいられないだろう。宮司さんの警告を思い出しながらも、心のどこかで、その夜が来ることを望んでいる自分がいた。


四 招かれざる夜
その夜、私はいつものように書斎でまどろんでいた。窓の外では、季節外れの生ぬるい風が庭木を揺らしている。田渕さんの言っていた、あの風だ。
ふと、頬に柔らかいものが触れた気がして目を開けると、窓辺に小さな灰色の影が座っていた。
ぱふだった。あの、初めて出会った日の小さな姿のまま。
「戻ってきたのか」
声をかけると、影はゆっくりとこちらを振り向いた。金色の瞳が、記憶の中とまったく同じ光を宿していた。ぱふは鳴かない。ただ、じっと私を見つめている。そして、するりと窓の隙間から外へ滑り出た。
私は杖も持たず、寝間着のまま庭へ飛び出した。夢だとわかっていた。わかっていたけれど、宮司さんの言葉を握りしめるようにして、追わずにはいられなかった。


五 小径の奥
庭の先には、見覚えのない小径が続いていた。両脇には見たこともない花、昼にも夜にも見える不思議な光を放つ花が咲き乱れ、その間をぱふの尻尾が見え隠れしながら進んでいく。
道の途中、私は幾つかの人影を見た。それは動かず、ただ道の脇に佇んでいた。よく見ると、それは人の形をした、白い霧のようなものだった。一つの影の足元には、古い麦わら帽子が落ちている。もう一つの影は、小さな子どもの靴を握りしめたまま、微動だにしなかった。
――名を呼んではいけない。
宮司さんの声が耳の奥で蘇った。私は震える唇を噛みしめ、声を出さぬよう堪えながら、影たちの間を足早に通り抜けた。ぱふの尻尾だけを頼りに、ひたすら前へ。
「待ってくれ、ぱふ。どこへ行くんだ」
言ってしまってから、はっとした。しかし名を呼んだわけではない。ぱふは驚いた様子もなく、こちらを振り返っただけだった。安堵で膝の力が抜けそうになった。
小径の先に、古い井戸のようなものが見えてきた。いや、井戸ではない。縁のない、丸い水鏡だった。水面には星々が映り込み、まるで夜空そのものを地面に落とし込んだかのようだった。ぱふはその縁に前足をかけ、じっと水面を覗き込んでいる。私も隣に膝をつき、水面を覗いた。触れてはいけない、と自分に言い聞かせながら。


六 水鏡の真実
映っていたのは、見知らぬ台所だった。若い夫婦が笑いながら食卓を囲んでいる。その足元に、生まれたばかりの灰色の子猫がじゃれついていた。
「これは……」
私が声を上げた瞬間、ぱふがこちらを振り返った。その目には、これまで見たことのない穏やかさが宿っていた。まるで「大丈夫だよ」とでも言うように。
水面が揺らぎ、映像が変わった。今度は、私の知っている台所だった。若い頃の妻が、生まれたばかりのぱふを抱いて笑っている。「まるでパフケーキみたいね」――あの日と同じ声が、風の中に溶けて聞こえた気がした。
妻の姿がふと顔を上げ、こちらを――水鏡のこちら側を――見たように思えた。優しく、けれど確かに、首を横に振っていた。まだ来てはいけない、と。
「探し物は、もういいのかい」
私は震える声で尋ねた。ぱふは答えない。当たり前だ、猫なのだから。けれど、その沈黙は今までのどの沈黙とも違って聞こえた。まるで、長い手紙を読み終えたあとの静けさのように。
私は水面に手を伸ばしかけ――そして止めた。宮司さんの言葉と、妻の首の動きが、同時に私を押しとどめた。触れてはいけない。呼んではいけない。ただ、見送るのだ。
ぱふはもう一度私を見上げ、それから静かに水面へと歩み出た。波紋ひとつ立てず、灰色の身体が星々の中へ溶けていく。
その瞬間だけ、私はどうしても堪えきれなかった。
「ぱふ!」
叫んだ声で、目が覚めた。


七 目覚めと、もうひとつの朝
書斎の窓辺には、いつものからっぽの毛布があるだけだった。庭には見慣れた朝の光が差し込み、鳥の声が聞こえる。すべては夢だった。そう自分に言い聞かせながら、私は毛布を畳もうと手を伸ばした。
――名を呼べば、そのものは驚いて向こうへ帰ってしまう。
宮司さんの言葉が蘇り、胸が締めつけられた。最後の最後で、私は約束を破ってしまったのだろうか。
そのとき、庭の隅で小さな鳴き声がした。
振り返ると、生垣の陰から、灰色の子猫がこちらをじっと見つめていた。金色の瞳。見覚えのある、あの光。
私はゆっくりと庭へ降り、手を差し出した。子猫は少し迷うように後ずさりしたが、やがて恐る恐る歩み寄り、私の指先に鼻先を寄せた。温かかった。
「おかえり」
声が震えた。子猫は答える代わりに、頼りなく、けれど愛おしそうに小さく喉を鳴らした。その瞳の奥に、確かに見知った光が揺れていた気がした。
後日、私は稲荷社を訪ねた。子猫のことを報告するつもりだった。しかし鳥居の奥に、社はなかった。あるのは古い切り株と、長年放置されたような瓦礫だけ。近所の人に尋ねても、「そんな社はもうずっと前になくなりましたよ」と、皆一様に不思議そうな顔をするばかりだった。
宮司さんは、いったい誰だったのだろう。今も、私にはわからない。ただ、彼女の言葉のおかげで、私は名を呼んでしまったにもかかわらず、ぱふを――否、ぱふの生まれ変わりを――こちら側へ迎え入れることができたのだと、そう信じることにしている。
人はきっと、生涯のうちに何度も何かを探す。物を探し、居場所を探し、答えを探し、そしていつか、大切な誰かをもう一度探し始める。探し物が見つかるかどうかは、誰にもわからない。けれど、探し続けることをやめない限り、きっとどこかで再び巡り合える。そんな気がしてならない。
私は今日も、書斎の窓辺に新しい毛布を敷いた。小さな灰色の来訪者のために。私は、静かに問いかける。
「今度は、何を探しに来たんだい」
答えの代わりに、温かな寝息だけが返ってきた。
窓の外では、今夜もまた、どこかの庭先で、生ぬるい風が吹いているのかもしれない。




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あとがき
身近な動物や大切な人との別れは、心にぽっかりと大きな穴をあけてしまいます。しかし、彼らが遺してくれた温もりや記憶は、決して消えることはありません。今回、物語に「もう一つの側面」――同じ悲しみを抱えながら、道を違えてしまった人々の記憶――を加えることで、あの夜の再会が奇跡であると同時に、危うさの上に成り立つものであったことを描きたいと思いました。
作中で主人公が「古い毛布」から「新しい毛布」へと敷き直したように、喪失を受け入れた先にある新しい出会いや日々の愛おしさ、そして、名を呼んでしまうほどの深い愛情そのものが、時に奇跡を手繰り寄せるのだということを表現したいと思い、この手紙のような物語を書きました。
この物語が、あなたの心にある「大切な探し物」に、そっと寄り添うものとなれば幸いです。



『探し物レター』


まえがき
私たちは人生の中で、一体どれほどの時間を「探し物」に費やしているのでしょうか。失くした鍵、どこかへ置いた眼鏡、若い頃に追い求めた夢、そして、もう二度と会えない大切な誰かの面影。
この物語は、愛しい存在を見送った一人の老人が、ある静かな夜に体験した不思議な再会の記録です。哀しみは消え去るものではありませんが、形を変えて私たちの行く手を照らす光になってくれる。そんな祈りを込めて、この小さな物語を綴りました。どうぞ、あたたかいお飲み物でも片手に、ゆっくりとお楽しみください。




ある夜、庭先で

人生の三分の一は眠りに費やされるのだという。ならば残りの三分の一もまた、何かを探すことに費やされているのではないか。そう考えたのは、七十を過ぎた頃の私だった。

鍵。眼鏡。もう若くはない身体で、毎朝どこかへ行ってしまった小さなものたちを探す。若い頃は仕事を探し、伴侶を探し、住む場所を探した。子どもが独り立ちしてからは、これからの生き方そのものを探していた気がする。人は生涯、何かを探し続ける生き物なのかもしれない。
けれど今の私が探しているのは、たったひとつだけだ。

ぱふ。

十六年前、庭先に迷い込んできた灰色の子猫だった。段ボール箱の中でぬいぐるみのように丸くなっていたその子に、妻が「まるでパフケーキみたいね」と笑って、そのまま名前になった。ぱふは物静かで、けれど気まぐれで、夜になるといつも私の書斎の窓辺に座り、庭の暗闇をじっと見つめていた。何を見ているのと聞いても、もちろん答えは返ってこない。ただ、月の光を受けた金色の瞳だけが、こちらを見透かすように光っていた。

妻が先に逝き、それから三年後にぱふも旅立った。
眠るように、静かに。私は書斎の窓辺にあの子の毛布をそのまま残し、朝になるとまだそこに丸まっているような気がして、つい声をかけてしまう。

「おはよう、ぱふ」
返事がないことにも、もう慣れたはずだった。

その夜、私はいつものように書斎でまどろんでいた。窓の外では、季節外れの生ぬるい風が庭木を揺らしている。ふと、頬に柔らかいものが触れた気がして目を開けると、窓辺に小さな灰色の影が座っていた。
ぱふだった。あの、初めて出会った日の小さな姿のまま。

「戻ってきたのか」
声をかけると、影はゆっくりとこちらを振り向いた。金色の瞳が、記憶の中とまったく同じ光を宿していた。ぱふは鳴かない。ただ、じっと私を見つめている。そして、するりと窓の隙間から外へ滑り出た。

私は杖も持たず、寝間着のまま庭へ飛び出した。夢だとわかっていた。わかっていたけれど、追わずにはいられなかった。

庭の先には、見覚えのない小径が続いていた。両脇には見たこともない花、昼にも夜にも見える不思議な光を放つ花が咲き乱れ、その間をぱふの尻尾が見え隠れしながら進んでいく。私は転びそうになりながらも、必死に追いかけた。

「待ってくれ、ぱふ。どこへ行くんだ」
小径の先に、古い井戸のようなものが見えてきた。いや、井戸ではない。縁のない、丸い水鏡だった。水面には星々が映り込み、まるで夜空そのものを地面に落とし込んだかのようだった。ぱふはその縁に前足をかけ、じっと水面を覗き込んでいる。私も隣に膝をつき、水面を覗いた。

映っていたのは、見知らぬ台所だった。若い夫婦が笑いながら食卓を囲んでいる。その足元に、生まれたばかりの灰色の子猫がじゃれついていた。
「これは……」
私が声を上げた瞬間、ぱふがこちらを振り返った。その目には、これまで見たことのない穏やかさが宿っていた。まるで「大丈夫だよ」とでも言うように。

「探し物は、もういいのかい」
私は震える声で尋ねた。ぱふは答えない。当たり前だ、猫なのだから。けれど、その沈黙は今までのどの沈黙とも違って聞こえた。まるで、長い手紙を読み終えたあとの静けさのように。

水鏡の中の子猫が、ふとこちらを振り向いたように見えた。一瞬だけ、金色の光が瞬いた気がした。
ぱふはもう一度私を見上げ、それから静かに水面へと歩み出た。波紋ひとつ立てず、灰色の身体が星々の中へ溶けていく。

「ぱふ!」
叫んだ声で、目が覚めた。
書斎の窓辺には、いつものからっぽの毛布があるだけだった。庭には見慣れた朝の光が差し込み、鳥の声が聞こえる。すべては夢だった。そう自分に言い聞かせながら、私は毛布を畳もうと手を伸ばした。
そのとき、庭の隅で小さな鳴き声がした。

振り返ると、生垣の陰から、灰色の子猫がこちらをじっと見つめていた。金色の瞳。見覚えのある、あの光。
私はゆっくりと庭へ降り、手を差し出した。子猫は少し迷うように後ずさりしたが、やがて恐る恐る歩み寄り、私の指先に鼻先を寄せた。温かかった。

「おかえり」
声が震えた。子猫は答える代わりに、頼りなく、けれど愛おしそうに小さく喉を鳴らした。その瞳の奥に、確かに見知った光が揺れていた気がした。

人はきっと、生涯のうちに何度も何かを探す。物を探し、居場所を探し、答えを探し、そしていつか、大切な誰かをもう一度探し始める。
探し物が見つかるかどうかは、誰にもわからない。けれど、探し続けることをやめない限り、きっとどこかで再び巡り合える。そんな気がしてならない。

私は今日も、書斎の窓辺に新しい毛布を敷いた。小さな灰色の来訪者のために。私は、静かに問いかける。
「今度は、何を探しに来たんだい」
答えの代わりに、温かな寝息だけが返ってきた。




アマゾン キンドル



あとがき
身近な動物や大切な人との別れは、心にぽっかりと大きな穴をあけてしまいます。しかし、彼らが遺してくれた温もりや記憶は、決して消えることはありません。作中で主人公が「古い毛布」から「新しい毛布」へと敷き直したように、喪失を受け入れた先にある新しい出会いや日々の愛おしさを表現したいと思い、この手紙のような物語を書きました。
この物語が、あなたの心にある「大切な探し物」にそっと寄り添うものとなれば幸いです。


別巻 メビウスの輪 

〜三億年の帰還 〜


まえがき
 もしも、今この瞬間に世界が終わりを迎えるとしたら、私たちは最後に何を想うでしょうか。そして、その破滅を「外側」からただ見つめることしかできない人間がいたとしたら――。
 本作『メビウスの輪 ― 三億年の帰還 ―』は、そんな途方もない絶望と、そこから始まる果てしない旅路の物語です。
 宇宙という、静寂と暗闇が支配する極限の空間で命綱を失った主人公・天野涼。彼は死を覚悟した瞬間、時空を超える謎の船に救われます。しかし、辿り着いた先は、私たちがよく知る青い地球ではなく、人間が自らの手で滅ぼしてしまった遥か未来の姿でした。
 過去と未来、表と裏が境界なくつながる「メビウスの輪」。その終わりのない円環の中で、人は運命にあらがうことができるのか。失われた大切な人への想いは、時間を超えて届くのか。
 人類の歩む歴史の皮肉さと、それでも失われない微かな希望の光を、壮大なスケールで描きました。どうぞ、天野涼とともに、三億年の時を超える旅へとお出かけください。




序章 漂流

 宇宙は、思っていたよりもずっと静かだった。

 天野涼(あまの・りょう)は、国際宇宙ステーションの船外活動中に、命綱を失った。ハッチから出て、太陽電池パネルの修理を終え、あと少しでエアロックに戻れるというところで、テザーのカラビナが外れる音を聞いた。金属が擦れる、小さな、けれど決定的な音。

 「――涼、応答しろ。涼!」

 無線の向こうで、相棒の声が遠ざかっていく。涼の体は、ゆっくりと、しかし確実にステーションから離れていった。

 もがいても仕方がないことは分かっていた。宇宙服の推進装置は、事故の衝撃で機能を失っている。涼にできることは、ただ流されるまま、暗闇に溶けていく地球を眺めることだけだった。

 青い地球が、視界の隅でゆっくりと回転していく。あの光の中に、妻の由紀(ゆき)がいる。今頃、家で夕食の支度でもしているだろうか。まさか夫がこんな形で――と、涼は乾いた笑いを漏らした。声にはならなかった。ヘルメットの中で、自分の呼吸の音だけが響いていた。

 酸素の残量を示すインジケーターが、静かに点滅している。もはやこれまでか、と涼は思った。恐怖よりも、不思議な諦観が先に来た。

 そのときだった。

 視界の端に、それまでなかった光が生まれた。最初は星かと思った。だが、その光は瞬く間に大きくなり、輪郭を持ち、明らかに人工的な――船の形をしていることが分かった。

 光る宇宙船が、音もなく涼の目の前に現れたのだ。

 涼は目を疑った。この軌道上に、自分たち以外の有人施設があるとは聞いていない。まして、こんな見たこともない流線形の船体など。

 船の側面が、ゆっくりと開いた。ハッチというより、まるで生き物の瞼が開くような、滑らかな動きだった。中から漏れる光が、涼の宇宙服を淡く照らす。

 「お待ちしておりました」

 誰のものとも分からない声が、直接、涼の頭の中に響いた。無線ではない。もっと確かな、脳の奥に届くような声だった。

 助かった――。

 涼はその声にすがるように、最後の力を振り絞って手を伸ばした。

 「ありがとう」

 そう呟きながら、涼の体は光の中へと吸い込まれていった。

 だが、乗り込んだそこは、宇宙船の中ではなかった。

 見渡す限り続く、長いトンネル。壁も天井も、闇そのものでできているようだった。

 そして、そのトンネルの奥から、もう一つ、別の気配が漂ってきていることに、このときの涼はまだ気づいていなかった。


第一章 闇のトンネル

 宇宙服のヘルメット越しに、涼は自分の荒い呼吸を聞いていた。

 足元には、歩く歩道のような、緩やかに動く床があった。それが涼の体を、奥へ奥へと運んでいく。振り返っても、入ってきたはずの光る船の姿はもうどこにもなかった。あるのは、どこまでも続く暗闇だけだった。

 「これは……ブラックホールか?」

 声に出してみたが、答える者はいなかった。いや――先ほどの声は、たしかに聞こえたはずだ。

 「誰かいるのか」

 問いかけに応じるように、頭の中に再びあの声が響いた。

 「ご安心を。あなたは今、安全な領域を通過しています」

 「安全な領域? ここは一体どこなんだ。あんたは誰だ」

 「順を追ってご説明します。今しばらく、このまま進んでください」

 涼は苛立ちを覚えたが、他にできることもなかった。宇宙服の中の酸素は、なぜか尽きる気配がない。まるで時間そのものが、この場所では違う速さで流れているかのようだった。

 歩く歩道は止まることなく涼を運び続けた。どれくらいの時間が経っただろうか。体感では数分にも、数時間にも感じられた。

 不意に、前方の闇の中に、小さな人影が見えた。

 涼は思わず身構えた。宇宙服のような、金属質の光沢を持つ何かを纏った人影が、こちらに向かって、あるいは同じ方向へと運ばれてきている。

 「そこにいるのは……人間か!?」

 涼が叫ぶと、人影がびくりと肩を震わせた。

 「――誰? そこにいるの?」

 女性の声だった。それも、涼が聞いたことのない、けれど流暢な日本語――いや、微かにアクセントの混じった日本語だった。

 歩く歩道が二人の距離を徐々に縮めていく。やがて、涼のすぐ隣まで来たその人影は、涼と同じような、しかし型式の違う宇宙服を着た女性だった。ヘルメットのバイザー越しに、警戒に満ちた目がこちらを見つめている。

 「あなたは……ロシアの宇宙飛行士か?」

 涼が英語で問いかけると、女性は小さく頷いた。

 「ミハイロヴナ・アンナ。コスモノート。ISSのロシア区画から、船外活動中に……」

 「事故か」

 「ええ。あなたも?」

 「ああ。天野涼。JAXAの飛行士だ」

 同じ状況に置かれた者同士だと分かると、緊張がわずかに緩んだ。だが、アンナの目には、まだ拭いきれない疑念の色が残っていた。

 「あなたも、あの光る船に助けられたの?」

 「そうだ。あんたも?」

 「ええ……。でも、妙だわ。私が助けられたのは、あなたよりも先だったはず。なのに、なぜ今、同じ場所を歩いているの?」

 その指摘に、涼は違和感を覚えた。もし本当にアンナの方が先に船に乗り込んでいたのなら、涼よりも先にこのトンネルの奥へ進んでいてもおかしくない。だが、二人は今、ほぼ同じ地点で合流している。

 「時間の流れが……この場所では、違うのかもしれない」

 「私もそう思っていたところ」

 アンナは油断なく周囲を見回しながら言った。

 「一つ、聞いていい? あなたを助けたときの声――『お待ちしておりました』って言った、あの声。あなたにも、同じことを言った?」

 「ああ、言われた」

 「変じゃない? まるで、私たちが来ることを、最初から知っていたみたいに聞こえない?」

 涼は、その言葉に、初めて明確な違和感を覚えた。単なる救助であれば、「お待ちしておりました」という言葉は不自然だ。まるで、事故そのものが、あらかじめ予期されていたかのような響きがある。

 「考えすぎじゃないか。あるいは、単なる決まり文句かもしれない」

 「そうだといいけれど」

 アンナはそう言いながらも、納得していない様子だった。

 二人を乗せた歩く歩道は、なおも暗闇の奥へと進み続けていく。やがて、前方に小さな光の点が見えてきた。

 「ようやくか」

 涼が呟いた、その瞬間だった。

 歩く歩道が唐突に加速し、二人の体は光の点に向かって、まるで濁流に呑まれるように押し流された。


第二章 三つの太陽

 気がつくと、涼とアンナは硬い地面の上に転がっていた。

 慌てて身を起こし、周囲を確認する。真っ暗な世界――否、目が慣れるにつれて、それは「真っ暗」ではないことに気がついた。

 夜空を見上げれば、そこには数えきれないほどの星が輝いていた。黒い夜空の面積よりも、星の光のほうが多いのではないかと思えるほどの密度だった。

 「なんて……綺麗なの」

 アンナが、思わずといった様子で呟いた。宇宙飛行士として何度も宇宙から星を見てきたはずの彼女でさえ、言葉を失うほどの光景だった。

 「なるほど……。かつて地球からも、これほどの星が見えていたのか」

 大気汚染も、光害もなかった時代。人類がまだ、夜空を独占していなかった時代。涼はヘルメットのバイザー越しに、その光景にしばし見入っていた。

 空気を確認しようと計器を見ると、驚いたことに、この星の大気は人間が呼吸できる組成をしていた。恐る恐るヘルメットを外してみる。冷たく澄んだ空気が、肺の奥まで染み渡った。アンナも同じように、慎重にヘルメットを外した。

 「地球ではないと思う?」

 アンナが問いかけた。

 「分からない。だが、少なくとも、俺たちの知る地球とは違う場所だ」

 やがて、夜が明け始めた。

 地平線の向こうから、太陽が昇ってくる。だが、その太陽は――赤かった。

 しかも、そのスピードは尋常ではなかった。昇ったかと思うと、あっという間に中天を過ぎ、みるみるうちに沈んでいく。まるで早送りの映像を見ているようだった。

 「な……」

 涼が言葉を失っている間に、再び太陽が昇り始めた。

 だが、今度は黄色い太陽だった。

 さっきの赤い太陽とは明らかに違う。同じように瞬く間に空を駆け抜け、沈んでいく。

 そして三度目、今度は青い太陽が昇ってきた。

 「三つの太陽……」アンナが呆然と呟いた。「三重連星系。理論上は存在しうるとされていたけれど、まさか、実際にこの目で見ることになるなんて」

 赤、黄、青。まるで信号機のように規則正しく繰り返されるその光景に、涼は理解した。

 「この星は……三つの太陽を持つ星なのか」

 三重連星系。SF小説の中でしか読んだことのない設定が、今、目の前で現実として展開されている。涼は呆然としながらも、宇宙飛行士としての観察眼で、その光景を記憶に刻みつけようとしていた。

 ――ここはいったい、どこなのだろう。

 そう思っていたとき、涼の足元、数メートル先の地面に、突然、穴が開いた。

 土がまるで水のように渦を巻き、地面に円形の穴が現れる。

 アンナが咄嗟に涼の腕を掴み、後ろに引いた。

 「危ない!」

 穴から、何かが顔を出した。


第三章 残響体

 穴から現れたのは、人の形をしているようで、そうでないようでもある、奇妙な生命体だった。

 体は半透明で、向こう側の景色がうっすらと透けて見える。輪郭は人間に近いが、表情も、性別も判然としない。まるで陽炎か、水の膜でできているような姿だった。次々と、同じような姿の者たちが、地面の穴から這い出てくる。その数は、十を超えていた。

 涼とアンナは、思わず後ずさった。アンナは、腰のベルトに下げていた工具――船外活動用のレンチを、無意識に握りしめていた。

 「あんたたちは、一体……」

 「……驚かせてしまいましたか」

 その生命体――というより、複数体――のうちの一つが、涼の頭の中に直接語りかけてきた。あのトンネルで聞いた声と、どこか似ている。

 「あんたたちは、一体……」

 「私たちは、残響体(ざんきょうたい)と呼ばれています。かつてこの星の地上に生きていた者たちの、成れの果てです」

 「地上には、今、誰もいないのか」

 「地上は危険です。私たちは、地下で暮らしています」

 涼は問いを重ねた。「なぜ危険なんだ。この星に、何があった」

 すると、残響体の輪郭が、わずかに揺らいだ。それが彼らにとっての苦笑いなのだと、涼は後になって知ることになる。

 「ここは――かつての地球です」

 「……は?」

 涼とアンナは同時に言葉を失った。地球? この、三つの太陽が昇る、見たこともない星が?

 「信じられないのも無理はありません。ですが事実です。あなたが今立っているこの場所は、あなたの知る地球と同じ場所。同じ座標です」

 「そんな馬鹿な」とアンナが割り込んだ。「地球に太陽は一つだけよ。それに、あなたたちのような生命体が地球にいたなんて、聞いたこともない」

 「時間が経てば、太陽の数さえ変わります。もっとも、それはずっと先の話ですが」

 残響体はそう告げると、続けて、涼たちにとってはあまりに残酷な事実を語った。

 「愚かな人間たちは、核と共に滅んでしまいました」

 その言葉には、明確な嘲りが含まれていた。残響体たちの輪郭が、くすくすと笑うように震える。

 「核……戦争が、あったのか」

 「ええ。あなたがた人類は、自らの手で自らを滅ぼしたのです。愚かにも」

 アンナの顔が、みるみる青ざめていった。

 「待って……アメリカとロシアの間で? それとも――」

 「詳細は、私どもには関与のないことです」

 冷淡なその返答に、アンナは唇を噛んだ。彼女の祖国が、あるいはその対立国が、この破滅に関わっていたのかもしれない。その可能性が、彼女の心に重くのしかかっているのが、涼にも分かった。

 「待ってくれ。ということは、あのトンネルは……」

 「お察しの通り。あれは、時間そのものを通過する道――タイムトンネルです」

 涼は、めまいを覚えた。自分は今、未来の地球に、それも人類が滅んだ後の地球に立っているというのか。

 「すべては、お前たちの責任だ」

 残響体の声が、初めて明確な怒気を帯びた。周囲に集まっていた他の残響体たちも、同調するように輪郭を波打たせる。

 「それは……すまん」

 涼は、思わず謝罪の言葉を口にしていた。

 だが、そのとき、群れの奥から、一体だけ、他とは異なる反応を示す残響体がいることに、涼は気づいた。

 その個体は、輪郭がわずかに濃く、他の残響体たちよりも安定した形を保っていた。そして、怒りに震える仲間たちから一歩離れた位置で、涼とアンナを、何かを観察するような、値踏みするような視線――輪郭のない顔のどこにそんな感情が宿るのか分からなかったが、涼は確かにそう感じた――で見つめていた。

 その個体は、何も言わなかった。ただ、じっと二人を見つめ続けていた。


第四章 ヨミとカゲ

 「お前は宇宙にいて、ここにはいなかったのか」

 残響体の一体が、涼に問いかけた。

 「え?」

 「お前は、この星の――地球の破滅を、その目で見ていない。ずっと宇宙にいたはずだ。ならば、お前にとっての『今』と、この星の『今』との間には、途方もない時間差があるはずだ」

 涼は、はっとした。宇宙飛行士なら誰でも知っている。国際宇宙ステーションのような低軌道であれば、時間の遅れはごくわずかだ。だが、あの光る船、そしてタイムトンネル――もし、あれが本当に時間そのものを渡る装置だったとしたら。

 「俺が宇宙にいた一日は……地球では、一体何年になるんだ」

 その問いに答えたのは、それまで沈黙していた、ひときわ大きな残響体だった。他の個体よりも輪郭がはっきりとしており、どこか威厳のようなものすら感じさせた。

 「私はヨミ。この共同体をまとめる者です」

 「ヨミ……」

 「天野涼。そして、ミハイロヴナ・アンナ。あなたがたの名も、私たちは知っています。あなたがたが乗っていたステーションの記録は、地下の書庫に、わずかながら残されていますから」

 涼とアンナは驚いた。人類の文明が、この生命体たちのもとに、何らかの形で継承されているということか。

 「なら教えてくれ。俺たちがいなくなった後、地球で何が起きた」

 ヨミは、しばらく沈黙した後、静かに語り始めた。

 「詳細な経緯までは、私たちにも分かりません。ただ、記録によれば、あなたがたが宇宙に取り残されてから程なくして、複数の国家間で緊張が高まり、核兵器が使用されたとあります。最初の一発が、次の一発を呼び、それが連鎖しました」

 「そんな……」アンナが両手で口を覆った。

 「人類は滅びました。ですが、すべてが失われたわけではありません。地上に残れなかった一部の者たちが、地下深くに逃れ、世代を重ねるうちに、今のこの姿になりました。それが、私たち残響体です」

 「あんたたちは……人間の成れの果てなのか」

 「そう呼びたければ、そう呼んでいただいて構いません」

 そのとき、群れの奥から、先ほど涼が気になった、あの輪郭の濃い残響体が、静かに前に進み出た。

 「ヨミ様。この者たちを、そのまま解放してもよろしいのですか」

 その声は、他の残響体たちのものより、どこか鋭く、冷たかった。

 ヨミの輪郭が、わずかに緊張したように見えた。

 「カゲ。まだ何も決まってはいません」

 「しかし、この者たちは人間です。私たちを――私たちの祖先を、この姿に変えた元凶の同族です。信用に値するとは思えません」

 カゲと呼ばれたその個体は、涼とアンナに向き直った。

 「お前たちは、なぜ助けられたと思う? ヨミ様の慈悲か? それとも――」

 「カゲ、それ以上は」

 ヨミが鋭く制した。カゲは、それ以上言葉を続けなかったが、その視線は、涼たちに何か不穏なものを感じさせるのに十分だった。

 涼は、アンナと目を見交わした。彼女の目にも、同じ警戒の色が浮かんでいた。

 「なぜ俺たちを、ここに連れてきた」とうとう涼が問うた。

 ヨミの輪郭が、わずかに揺れた。

 「あなたがたには、選ぶ権利があります」

 「選ぶ? 何を」

 「あなたがたは、この時代における『選ばれた生き残り』です。人類の中で唯一、この破滅の瞬間を、外側から――宇宙という特異点から――生き延びた存在。私たちのシステムは、そういう存在を見つけ出し、救済する仕組みになっています」

 「システム? あの光る船も、このトンネルも、お前たちが作ったものなのか」

 「いいえ。あれは、私たちの祖先――まだ人類が科学の頂点にあった時代に開発された、時間航行技術の名残です。私たちには、その全容を理解することはできません。ただ、受け継がれた機能を使うことができるだけです」

 その説明の最中も、カゲの視線は涼たちから離れなかった。まるで、ヨミの言葉の裏に何かを探ろうとするかのように。

 涼は、自分が今、途方もなく大きな物語の中に――そして、この共同体の内部に横たわる、何か複雑な対立の中に――放り込まれていることを理解し始めていた。


第五章 夜襲

 その夜――というより、三つ目の太陽が沈み、再び赤い太陽が昇るまでの束の間の暗闇――涼とアンナは、残響体たちに案内され、地下の居住区へと連れて行かれた。

 地下空間は、涼が想像していたよりもはるかに広大だった。かつての地下鉄のトンネルを思わせる通路が、無数に張り巡らされ、その壁面には、淡く発光する苔のようなものが生息し、ぼんやりとした明かりを灯していた。

 「まるで、迷路ね」

 アンナが、通路の複雑さに眉をひそめながら呟いた。

 ヨミの案内で、二人は小さな一室――かつての人類が「休憩室」と呼んだであろう空間に通された。

 「今夜はここでお休みください。明日、あらためて、あなたがたの今後について話し合いましょう」

 ヨミがそう言い残し、他の残響体たちと共に去っていった。

 部屋に二人きりになると、アンナが小声で言った。

 「涼、あのカゲという者、信用できないと思う」

 「俺もそう思う。ヨミとの間に、何か対立があるみたいだった」

 「この共同体、一枚岩じゃないのかもしれない」

 そのとき、通路の奥から、複数の足音――というより、何かが滑るような気配が近づいてくるのを、涼は感じ取った。

 「アンナ、静かに」

 涼は、部屋の入り口に近づき、外の様子を窺った。

 薄闇の中、通路の向こうに、複数の残響体の輪郭が見えた。先頭に立っているのは、間違いなくカゲだった。

 「――どういうことだ」

 涼は身を隠しながら、聞き耳を立てた。

 「ヨミ様は甘い。人間を信用するなど、愚の骨頂だ」カゲの声が、他の同調者らしき残響体たちに向けて響いた。「奴らを生かしておけば、いずれまた同じ過ちを繰り返す。ならば、今のうちに――」

 「まさか」

 アンナが息を呑んだ。

 「奴らを、時の狭間に消してしまえばいい。誰にも知られることなく」

 涼とアンナは、顔を見合わせた。逃げなければならない。だが、この迷路のような地下空間で、どこへ逃げればいいのか、見当もつかなかった。

 「涼、どうする」

 「……行くしかない」

 涼は、部屋の反対側にあった、もう一つの通路を指さした。カゲたちが来た方向とは、逆の道だ。

 二人は、足音を殺しながら、暗い通路を進み始めた。だが、迷路のような地下空間は、すぐに二人の方向感覚を奪った。

 「こっちよ、多分」

 「いや、待て、さっきの分岐は――」

 背後から、カゲの声が響いた。

 「奴らがいない! 探せ!」

 二人は、もはや躊躇している場合ではないと悟り、闇雲に走り出した。

 通路は、複雑に枝分かれし、時に急な下り坂となり、時に狭い隙間となって二人を苦しめた。宇宙服のブーツが、地下水で濡れた床を何度も滑らせる。

 「涼、あそこ!」

 アンナが指さした先に、微かな光が見えた。通路の出口かもしれない。

 二人は、その光を目指して駆けた。だが、行く手を塞ぐように、三体の残響体が、暗闇の中から姿を現した。

 「逃がさない」

 冷たい声が、涼の頭の中に響いた。


第六章 ヨミの真意

 行く手を塞がれた涼とアンナは、背中合わせになって、迫りくる残響体たちを警戒した。

 「アンナ、何か武器は」

 「レンチだけよ。こんなもの、通用するかどうか……」

 半透明の体を持つ残響体たちに、物理的な武器が効くのかどうかも分からない。涼は、絶望的な状況に、それでも思考を巡らせ続けた。

 「お前たちは、ここで終わりだ」

 三体の残響体が、じりじりと距離を詰めてくる。その輪郭が、まるで威嚇するように、大きく波打っていた。

 そのときだった。

 「そこまでです」

 凛とした声が、通路に響き渡った。

 振り返ると、ヨミが、他の複数の残響体を従えて、そこに立っていた。カゲも、その少し後ろに控えていたが、その輪郭には、明らかな動揺の色が見えた。

 「ヨミ様……」

 三体の残響体が、慌てて後ずさった。

 「カゲ。これは、どういうことですか」

 ヨミの声は、静かだったが、有無を言わせぬ力があった。

 カゲは、一瞬たじろいだものの、すぐに反論を口にした。

 「ヨミ様。我々の同胞は、この者たちの祖先によって、この姿にされたのですよ。にもかかわらず、あなたはこの者たちを歓待しようとしている。それが、私には理解できません」

 「歓待しているわけではありません。彼らに、選択の機会を与えようとしているだけです」

 「選択などという生易しいものが、我々の怒りを晴らすとでも?」

 カゲの輪郭が、激しく波打った。それは、深い怒りの表れだった。

 「私の――私たちの家族は、地上に取り残されたまま、放射線の中で死んでいきました。地下に逃げ延びることさえできなかった者たちが、無数にいたのです。それを、あなたは忘れたのですか、ヨミ様」

 その言葉に、ヨミの輪郭も、わずかに揺れた。

 「忘れてはいません。ですが、目の前のこの二人が、その罪を背負う理由にはなりません。彼らは、破滅の瞬間、宇宙にいた。彼らの手に、この星を滅ぼした責任はない」

 「屁理屈だ! 人間という種族全体に、責任があるのです!」

 カゲの怒声が、地下空間に反響した。

 涼は、その言葉の重さを、痛いほど感じていた。自分は確かに、あの核戦争を引き起こした張本人ではない。だが、同じ人類として、その罪から完全に無関係でいられるとも思えなかった。

 「カゲ」

 ヨミが、静かに、しかし決然と告げた。

 「あなたの怒りは、理解できます。私も、同じ痛みを抱えています。ですが、私たちがこの二人を害すれば、私たちもまた、かつての人類と同じ過ちを繰り返すことになる。憎しみの連鎖を、私たちの代で断ち切らなければならない」

 カゲは、しばらく無言でヨミを見つめていたが、やがて、輪郭を大きく震わせると、踵を返した。

 「……好きになさるがいい。だが、ヨミ様。あなたの甘さが、いつか私たちの共同体を滅ぼすことになる。それだけは、忘れないでいただきたい」

 そう言い残し、カゲは同調者たちを引き連れて、暗闇の奥へと消えていった。

 ヨミは、その後ろ姿を見送りながら、静かに息を――彼らに肺があるのかどうかは分からなかったが――吐いた。

 「怖い思いをさせてしまいましたね。申し訳ありません」

 「いや……助かった。ありがとう」

 涼は、心底からの感謝を込めて言った。アンナも、緊張が解けたのか、その場に座り込みそうになるのを、涼が支えた。

 「カゲの言うことにも、一理あるのです」

 ヨミが、静かに続けた。

 「私たちの中には、人類への憎しみを、まだ消化しきれていない者が多くいます。ですが、私は、憎しみだけでは、何も生み出せないと信じています」

 涼は、ヨミの言葉に、深い覚悟のようなものを感じ取った。

 「ヨミ、聞きたいことがある」

 「何でしょう」

 「あんたは、俺たちに『選ぶ権利がある』と言った。過去にも未来にも行けると。だが、それだけじゃないんじゃないか。あんたには、俺たちをここに連れてきた、もっと別の理由があるんじゃないのか」

 ヨミの輪郭が、わずかに硬直した。その反応こそが、涼の疑念を裏付けていた。

 「……鋭いですね」

 ヨミは、しばしの沈黙の後、静かに言葉を続けた。

 「ええ、あります。ですが、それをお話しするのは、もう少し後にさせてください。今は、あなたがたが安全に、選択をする時間が必要です」

 涼とアンナは、顔を見合わせた。まだ、何かが隠されている。だが、今この瞬間、それを問い詰める余裕は、二人にはなかった。


第七章 アンナの告白

 追われる恐怖から解放された二人は、ヨミの計らいで、より安全な、共同体の中枢に近い一室へと移された。

 夜――というにはあまりに短い、三つの太陽の狭間の暗闇の中、涼とアンナは、並んで座り、これまでの出来事を振り返っていた。

 「涼、あなたに謝らなければならないことがある」

 アンナが、不意に口を開いた。

 「謝る? 何を」

 「さっき、カゲが言っていたこと。核戦争のこと。あれを聞いたとき、私、真っ先に思ったの。もし、これが私の国――ロシアが引き金だったとしたら、って」

 アンナの声は、微かに震えていた。

 「私の家族は、軍関係者が多いの。父も、兄も。もし、本当に核戦争が起きていたのだとしたら、彼らが、その最前線にいた可能性は、十分にある」

 涼は、何と声をかければいいのか分からなかった。

 「それに……」

 アンナは、続けるべきかどうか迷うように、しばらく沈黙した。

 「実を言うと、私、あなたのことを、最初は疑っていたの」

 「俺を?」

 「ええ。ISSでは、いろいろな緊張があった。国家間の対立が、宇宙にまで持ち込まれることも、少なくなかった。だから、あの光る船で助けられて、あなたと再会したとき――いえ、初めて出会ったとき、これは何かの罠かもしれないと思った」

 涼は、驚きながらも、アンナの正直な告白に、どこか納得もしていた。宇宙という極限環境では、国籍や政治的立場が、時に人間関係に影を落とすことがある。それは、涼自身も知らないわけではなかった。

 「今は?」

 「今は……あなたを信じている。少なくとも、この状況では、あなたと協力する以外に、生き延びる道はないもの」

 その言葉に、涼は小さく笑った。

 「合理的な判断だな」

 「悪い?」

 「いや。悪くない」

 二人は、しばし沈黙した。地下空間特有の、湿った冷たい空気が、二人の間を流れていく。

 「涼、あなたには、待っている人がいるの?」

 「ああ。妻が。由紀という名前だ」

 「そう……」

 アンナの声に、わずかな寂しさが滲んだ。

 「私には、誰もいない。両親は、私が宇宙に行く前に、事故で。兄とは、疎遠になっていた。もし、この状況が本当なら――地球が本当に、核で滅んでしまったのなら、私にはもう、帰る場所すらないのかもしれない」

 涼は、何か言葉をかけようとしたが、うまく言葉が見つからなかった。ただ、隣に座るアンナの肩に、そっと手を置いた。

 「一人じゃない。少なくとも今は、俺がいる」

 アンナは、涼の顔を見つめ、小さく頷いた。

 「ありがとう」

 その静かな時間の中で、二人は、単なる遭難仲間以上の、確かな絆を築き始めていた。

 だが、その絆もまた、これから訪れる選択によって、試されることになる。


第八章 選択

 翌朝――赤い太陽が昇る頃、ヨミが再び二人のもとを訪れた。

 「お休みになれましたか」

 「ああ、なんとか」

 涼は、まだ拭いきれない疲労を感じながら答えた。

 「では、あらためて、あなたがたの今後についてお話ししましょう」

 ヨミは、静かに語り始めた。過去に戻ることも、未来に行くこともできること。ただし、近い過去に戻れば、同じ破滅を繰り返すことになるということ。

 「歴史は……変えられないということか」

 「小さな力では、大きな流れは変えられません。それが、私たちがこれまでに見てきた結論です」

 アンナが、思い詰めた表情で尋ねた。

 「もし、遠い過去に戻れば……核戦争そのものを、防ぐことはできないの?」

 「原理的には、不可能ではありません。ですが――」

 ヨミは、言葉を選ぶように、一度言葉を切った。

 「これまでに、遠い過去へと送り出された者たちの多くは、二度と、この時代へ戻ってくることはありませんでした。彼らがどうなったのか、成功したのか失敗したのか、私たちには知る術がありません」

 その言葉に、涼とアンナは息を呑んだ。

 「つまり……賭けだということか」

 「ええ。それも、極めて分の悪い賭けです」

 涼は、考え込んだ。もし遠い過去に戻れたとしても、そこには由紀もいなければ、自分が知る文明もない。まったくの異邦人として、一からやり直すことになる。それでも――もし、そこで核戦争そのものを防ぐことができたなら。

 「涼」

 アンナが、涼の思考を遮るように声をかけた。

 「あなた、まさか、過去に戻って、戦争を止めようなんて考えていないでしょうね」

 「……可能性がゼロじゃないなら」

 「無謀よ。ヨミの話を聞いていたでしょう。戻った者は、二度と帰ってこられない。それに、遠い過去に戻ったところで、あなた一人に何ができるというの」

 「何もしないよりは、ましだ」

 「涼」

 アンナの声に、鋭さが混じった。

 「あなたには、由紀さんがいるんでしょう。彼女に、もう一度会いたいとは思わないの?」

 その言葉に、涼は言葉を詰まらせた。由紀の顔が、脳裏に浮かぶ。もう一度、あの温もりに触れたい。その願いは、確かに涼の中にあった。

 「俺は……」

 「未来へ行きましょう」

 アンナが、静かに、しかし決然と言った。

 「過去に戻って、賭けに出るくらいなら、この星がどう変わっていくのか、その先を見届けたい。それに――」

 アンナは、涼をまっすぐに見つめた。

 「もし、由紀さんに会える可能性が、ほんの少しでもあるのなら、それを捨てるべきじゃない」

 涼は、アンナの言葉に、胸を打たれた。彼女自身は、帰る場所がないと言っていたはずだ。それでも、涼のために、未来を選ぶことを勧めている。

 「アンナ、お前は……」

 「私も、一緒に行くわ。もう、あなたと離れるつもりはない」

 ヨミは、二人のやり取りを静かに見守っていたが、やがて口を開いた。

 「では、未来へお連れしましょう。ただし――」

 ヨミの声に、微かな緊張が混じった。

 「一つ、お伝えしなければならないことがあります。この選択をする前に、知っておいていただきたい」

 「何だ」

 「あの光る船――時間航行を可能にするあの技術には、実は、まだ誰にも語られていない、もう一つの目的があります」

 涼とアンナは、顔を見合わせた。ついに、ヨミが隠していた「もう一つの理由」が、語られようとしていた。


第九章 案内人の目的

 「あの船を動かしているのは、私たち残響体ではありません」

 ヨミが、静かに切り出した。

 「では、誰が……」

 「案内人と呼ばれる存在です。かつて、人類が生み出した知性体系の末裔。私たち残響体が、肉体を持つ末裔だとすれば、案内人は、記録と知識を継承する、いわば意識だけの末裔です」

 「AIのようなものか」

 「近いかもしれません。ただし、案内人には、私たち残響体にも制御できない、独自の意志があります」

 ヨミの声に、微かな警戒の色が滲んだ。

 「案内人は、これまでにも、多くの『選ばれた生き残り』を、過去や未来へと送り出してきました。その目的について、案内人自身は、『破滅を回避する可能性を探るため』だと説明しています。ですが……」

 「ですが?」

 「私たちの中には、その説明を、完全には信じていない者もいます」

 涼は、緊張を覚えた。「どういうことだ」

 「送り出された者たちの記録を辿ると、ある共通点が見えてくるのです。過去に送られた者たちの多くは、まるで示し合わせたかのように、特定の時代――核戦争が起きる直前の、ごく短い期間に、集中して送り込まれています」

 「それは……」

 「まるで、案内人が、特定の歴史の分岐点に、何度も何度も、人を送り込んでいるかのようです。単なる救済であれば、これほど特定の時代に集中する理由がありません」

 アンナが、鋭く尋ねた。「案内人は、何を狙っているというの?」

 「分かりません。ですが、私の推測では――案内人は、歴史そのものを、少しずつ書き換えようとしているのではないかと思っています。何度も何度も、繰り返し試行することで、いつか、破滅を回避できる『正しい歴史』に辿り着こうとしている」

 その言葉に、涼は背筋が冷たくなるのを感じた。

 「もしそうなら、俺たちも、その実験の一部だということか」

 「可能性としては、否定できません」

 ヨミは、申し訳なさそうに輪郭を揺らした。

 「それでも、私は、あなたがたに未来へ行くことを勧めます。過去に送られた者たちの末路が分からない以上、少なくとも未来であれば、あなたがた自身の意志で、その先の行動を選ぶことができるはずです」

 涼とアンナは、しばし沈黙した。案内人という存在の、底知れない目的。それを完全に理解しないまま、その力を借りることへの不安。

 「ヨミ、一つ聞かせてくれ」と涼。「あんたは、なぜそこまで、俺たちのことを気にかけてくれるんだ」

 ヨミの輪郭が、わずかに揺らいだ。それは、深い感情の表れのように、涼には見えた。

 「……私にも、かつて、家族がいました。地上に取り残され、二度と会うことのなかった家族が」

 ヨミの声に、初めて、明確な悲しみの色が滲んだ。

 「あなたがたを見ていると、その家族のことを思い出すのです。もし、あの日、誰かが手を差し伸べてくれていたなら――そう思わずにはいられません」

 涼とアンナは、ヨミの言葉に、深い共感を覚えた。

 「分かった。未来へ、連れて行ってくれ。案内人の目的が何であれ、俺たちは俺たち自身の意志で、この先を選ぶ」

 涼の言葉に、ヨミは、静かに頷いた――ように見えた。

 「では、平和な時代へとお連れしましょう」

 ヨミがそう告げると、周囲に集まっていた残響体たちが、一斉に何かを唱え始めた。声にならない、けれど確かに空気を震わせる響き。

 そして、涼たちの頭上の夜空――赤い太陽と黄色い太陽の狭間の暗闇に、再びあの光る船が姿を現した。


第十章 三億年の飛翔

 待つことなく、光る船は瞬く間に涼たちの目の前まで近づいてきた。まばたきをする間もなく、気がつけば涼とアンナは、船内の椅子に腰掛けていた。

 椅子は、まるで二人の体に合わせて作られたかのように、しっくりと馴染んだ。

 「では」

 頭の中に、再びあの声が響いた。ヨミの声とも、最初にトンネルで聞いた声とも、どこか違う――もっと機械的で、しかしどこか温かみのある声だった。これが、案内人か。涼は、緊張を新たにした。

 「三億年ほど先へ」

 その言葉と同時に、船は一瞬にして飛び立った。

 船内に、窓はなかった。その代わり、正面の壁一面に、掲示板のような発光体が広がっていた。そこには、無数の数字と記号が、猛烈な速さで流れていく。

 「案内人」

 涼は、思い切って呼びかけた。

 「はい、天野涼」

 「ヨミから聞いた。あんたは、過去に人を送り込んで、歴史を書き換えようとしているのか」

 船内に、一瞬の沈黙が流れた。

 「……ヨミは、鋭い観察眼を持っていますね」

 案内人の声は、否定しなかった。

 「肯定するのか」

 「私の目的は、単純です。この星の破滅を防ぐこと。そのために、あらゆる可能性を試してきました。過去への介入も、その一環です」

 「俺たちも、その『可能性』の一つだということか」

 「そう言われても、否定はできません。ですが――」

 案内人の声が、わずかに変化した。それは、涼には、どこか懇願するような響きに聞こえた。

 「私には、他に方法がないのです。何百回、何千回と、過去に人を送り込んできました。ですが、いまだに、破滅を回避する歴史には辿り着けていません」

 「何百回……?」

 アンナが、驚愕の声を上げた。

 「そんなに多くの人間を、犠牲にしてきたということ?」

 「犠牲、という言葉が正しいかどうかは分かりません。彼らの多くは、過去の時代で、それぞれの人生を生きました。ある者は、歴史に埋もれ、ある者は、わずかながら歴史に影響を与えました。ですが、大きな流れを変えるには至りませんでした」

 涼は、言葉を失った。無数の人間たちが、この案内人の「実験」のために、時間の中に送り込まれ、そして、大きな流れを変えることなく、それぞれの結末を迎えていった。

 「なぜ、そこまでする」

 「私は、この星の――かつての人類の、最後の願いを託された存在だからです」

 案内人の声が、静かに、しかし強い意志を込めて響いた。

 「破滅の直前、ある研究者が、この技術を完成させました。彼女は、自らの命と引き換えに、私にすべての知識を託しました。『いつか、この過ちを繰り返さない未来を、見つけ出してほしい』と」

 涼は、その言葉に、案内人の――そして、その研究者の、深い悲願を感じ取った。単なる実験や、非情な操作ではない。そこには、切実な願いがあったのだ。

 「その研究者は……」

 「名前は、記録に残っていません。ただ、彼女が最後に遺した言葉だけが、私の中枢に刻まれています」

 「何て?」

 「『輪は、断ち切れないかもしれない。だが、輪の形を知る者が増えれば、いつか、その輪から抜け出す道が見つかるはずだ』」

 その言葉に、涼は、あのメビウスの輪のイメージを思い出した。終わりのない、繋ぎ目のない輪。だが、その輪の形を知ることが、あるいは、そこから抜け出す第一歩になるのかもしれない。

 「俺たちを未来に送るのも、その一環なのか」

 「はい。過去への介入が、これまでうまくいかなかった以上、私は別のアプローチを試そうとしています。未来を見た者が、その記憶を持って、再び過去に――あるいは、別の分岐点に立つことができれば、何かが変わるかもしれない」

 アンナが、警戒するように尋ねた。

 「つまり、私たちも、いずれは、また別の時代に送り込まれるということ?」

 「それは、あなたがた自身の選択に委ねます。私には、あなたがたを強制する権利はありません」

 船内の掲示板の数字が、猛烈な速度で流れ続けていた。百年が、一瞬で過ぎ去っていく。千年が、瞬きの間に流れていく。

 涼は、窓のない壁を見つめながら、静かに、しかし確かな決意を固めていた。

 ――たとえ、この案内人の「実験」の一部だとしても。今の自分にできることを、探してみよう。

 掲示板の数字が、ふいに減速し始めた。

 「まもなく到着します」

 案内人の声が、そう告げた。


第十一章 帰還した地球

 船体が、静かに振動を止めた。

 「到着しました」

 案内人の声とともに、船のドアが音もなく開いた。

 涼とアンナは、緊張しながら外に足を踏み出した。三億年後の地球――一体、どんな光景が広がっているのか、想像もつかなかった。荒れ果てた大地か、それとも見たこともない生命体に満ちた密林か。

 だが、目の前に広がっていたのは――拍子抜けするほど、見慣れた光景だった。

 アスファルトの道路。立ち並ぶビル。行き交う車。空にはうっすらと雲がかかり、遠くに看板の明かりが灯っている。

 「これは……」

 涼は言葉を失った。

 「これは、現代の日本ですよね」

 思わず、涼は案内人に問いかけた。

 「はい。厳密に言えば、あなたの知る『現代の日本』と極めて似通った時代の、極めて似通った場所です」

 「似通った? どういうことだ。三億年経ったんじゃないのか」

 案内人は、少し間を置いてから答えた。

 「時代は繰り返し巡っているのです」

 アンナが、困惑した様子で周囲を見回した。目の前には、コンビニエンスストアの明かりが灯り、遠くを走る電車の音まで聞こえてくる。三億年前――いや、涼にとっての「元の時代」と、寸分違わぬように見える光景。

 「まさか、俺は……元の時代に戻ってきたのか?」

 「いいえ。あなたは確かに、三億年の未来に来ています。ただ、文明というものは、ある一定の周期で、似たような姿を繰り返す傾向があるのです。人類が一度目の頂点を築き、核の炎で自らを滅ぼした後、地球はゆっくりと回復し、新たな知的生命――あるいは、生き残った人類の末裔――が、再び文明を築き上げました。そして、その文明は、あなたが去った時代の文明と、驚くほど似た発展を遂げたのです」

 涼は、目の前の光景を、まじまじと見つめた。よく見れば、看板の文字も、行き交う人々の服装も、微妙に違う部分がある。だが、大枠としての「日本らしさ」は、確かにそこにあった。

 「歴史は繰り返す、ということか」

 「ほら」

 案内人が、そう言うと、涼の視界に、突然、光の映像が投影された。それは、宇宙全体を俯瞰するような、壮大な図だった。銀河が渦を巻き、星々が生まれては消えていく。その中に、一本の帯のような光の筋が浮かび上がった。

 その帯は、ねじれながら、輪になっていた。

 表側をたどっていくと、いつのまにか裏側に、そして裏側をたどっていくと、いつのまにか表側に戻ってくる――終わりのない、一つの面でできた輪。

 「これは……メビウスの輪」

 涼は、思わず声を漏らした。

 そうだ。あの、子供の頃、理科の授業で作った、あの奇妙な帯。表と裏の区別がなくなる、不思議な輪。

 宇宙もまた、そうなのだと言うのだろうか。文明が生まれ、滅び、また生まれる。過去と未来が、まるでメビウスの輪のように、繋ぎ目のないまま、ぐるりと一周してしまう。

 「この文明も……いずれは、また同じように核で滅びるということ?」

 アンナが、震える声で問うた。

 「その可能性は、否定できません」

 案内人が、静かに答えた。

 そのとき、涼たちの背後で、何かが動く気配がした。振り返ると、船のドアの陰から、見覚えのある輪郭が、ゆっくりと姿を現した。

 「カゲ……!?」

 半透明の輪郭。冷たい視線。間違いなく、あの残響体だった。

 「よくもまあ、のんびりと、こんなところまで辿り着いたものだ」

 カゲの声には、あの地下空間で聞いたときよりも、さらに深い怒りが滲んでいた。


第十二章 カゲの真実

 「なぜ……お前がここに」

 涼は、警戒しながら問うた。まさか、あのタイムトンネルを、カゲも追ってきたというのか。

 「私にも、あの船を呼ぶ権利くらいはある。この共同体の、古参の一人としてな」

 カゲは、ゆっくりと二人に近づきながら、続けた。

 「ヨミ様が、お前たちを未来に送ると聞いて、私は決めた。この目で、お前たち人間が、どんな未来を選ぶのか、見届けてやろうと」

 「見届ける、だけなのか?」

 アンナが、鋭く問い返した。カゲの輪郭が、わずかに揺らいだ。

 「……いや。正直に言おう。私は、お前たちが、この平和そうな時代で、のうのうと生き延びることを、良しとしない」

 カゲの声に、抑えきれない憎悪が滲んでいた。

 「私の家族は、地上に取り残され、苦しみながら死んでいった。お前たちの祖先が引き起こした戦争のせいで。それなのに、お前たちだけが、こうして時を超えて、新しい人生を手に入れる。それが、許せるはずがないだろう!」

 カゲの体が、突如として大きく膨張し、その輪郭が、まるで刃物のように鋭く尖った形へと変化した。

 「カゲ、待て!」

 涼が叫んだが、カゲは止まらなかった。

 「お前たち人間は、何度でも、同じ過ちを繰り返す。ならば、いっそ、ここで――」

 そのとき、案内人の声が、鋭く響いた。

 「カゲ、それ以上の行動は、私が許可しません」

 船の周囲に、突如として、光の障壁のようなものが展開された。カゲの体が、その障壁に阻まれ、弾き返される。

 「案内人……! 貴様、人間の味方をするのか!」

 「私は、どちらの味方でもありません。ただ、無用な争いを、これ以上見過ごすことはできないだけです」

 カゲは、障壁に阻まれながらも、なおも涼たちを睨みつけていた。その輪郭には、深い、癒えることのない哀しみと怒りが、渦巻いているようだった。

 涼は、その様子を見て、ふと、心の奥底から、ある思いが湧き上がってくるのを感じた。

 「カゲ」

 涼は、静かに、しかしはっきりとした声で呼びかけた。

 「お前の怒りは、当然のものだと思う。俺たちの祖先が、お前たちの家族を殺したことに、変わりはない。それを、俺は否定しない」

 カゲの動きが、わずかに止まった。

 「だが、俺は、その罪を、なかったことにするつもりはない。もし、俺にできることがあるなら――お前たちの怒りを、これ以上、誰かにぶつけさせない未来を、探したい」

 「綺麗事を……!」

 「綺麗事かもしれない。それでも、俺は、由紀に――俺の妻に、そしてこの世界に生きる、これから生まれてくる子供たちに、誇れる選択をしたい」

 涼の言葉に、カゲの輪郭が、大きく波打った。それは、怒りとも、哀しみとも、あるいは別の何かとも取れる、複雑な揺らぎだった。

 長い沈黙の後、カゲは、静かに輪郭を戻し、元の人型に近い姿に戻った。

 「……お前の言葉が、真実かどうか、私には分からない。だが」

 カゲは、涼を見つめながら、続けた。

 「もし、お前が、本当にこの輪を断ち切る道を見つけたなら――そのときは、私のところにも、教えに来い。地下の同胞たちにも、伝えたい」

 そう言い残すと、カゲの体は、光の粒子となって、静かに宙に溶けていった。地下へと、あるいは、元の時代へと戻っていったのだろう。

 涼とアンナは、しばし、その場に立ち尽くしていた。

 「……終わったの?」

 「分からない。だが、少なくとも、今は」

 案内人の声が、静かに響いた。

 「よい判断でした、涼。憎しみに、憎しみで応えなかったことは、小さくとも、確かな一歩です」


第十三章 メビウスの輪の先に

 騒動が収まった後、涼とアンナは、あらためて、目の前に広がる「現代の日本」を見つめた。

 「案内人」と涼が呼びかけた。「俺たちは、これから、どうすればいい」

 「それは、あなたがた自身が決めることです。ただ、一つだけ、お伝えしておきたいことがあります」

 案内人の声が、静かに続けた。

 「この時代は、あなたがたの知る時代と、極めて似ています。ですが、完全に同じではありません。もし、あなたがたがこの時代に留まり、いずれ訪れるかもしれない破滅を、この時代の人々に――あるいは、この時代を生きる中で出会う誰かに――伝えることができれば」

 「歴史が、変わるかもしれないということか」

 「保証はできません。ですが、可能性はゼロではありません」

 涼は、目の前の見慣れた、しかしどこか違う街並みを見つめた。ここにも、由紀のような誰かがいるのかもしれない。ここにも、何も知らずに日々を過ごす、無数の人々がいるのかもしれない。

 「アンナ、お前はどうしたい」

 涼が問うと、アンナは、しばらく考え込んだ後、静かに答えた。

 「私は……この時代で、生きてみたい。帰る場所がないのなら、ここで、新しい人生を始めてみる。それに」

 アンナは、涼を見つめた。

 「もし、少しでも、この星の未来を変える手助けができるなら、そのために生きてみたい」

 涼は、アンナの決意に、深く頷いた。

 「俺は――」

 言いかけたところで、涼の視界が、ふいに揺らいだ。

 まるで、水面に映った景色が、波紋によって崩れていくように。光る街並みも、隣に立つアンナの気配も、少しずつ薄れていく。

 「これは……?」

 「時間です」

 案内人の声が、遠くから聞こえるように響いた。

 「あなたの意識が、元の場所へと戻ろうとしています。あなたの肉体は、今も、あなたが去った時代――事故の直後の時間軸に、留まったままなのです」

 「待ってくれ、アンナは――」

 「彼女の運命は、彼女自身が選びます」

 「涼!」

 アンナの声が、遠くから聞こえた。

 「大丈夫、行って。由紀さんのところへ」

 「アンナ、お前は――」

 「私は、ここに残る。この時代で、できることを探してみる。あなたは、あなたの時代で、できることを探して」

 涼は、何かを言おうとしたが、景色はすでに、渦を巻くように歪み、涼の意識は、光の奔流の中へと吸い込まれていった。

 その最後の瞬間、涼の脳裏に、あのメビウスの輪の映像が、もう一度、鮮明に浮かび上がった。

 表をたどれば、裏に至る。裏をたどれば、表に至る。過去は未来に繋がり、未来は過去に繋がる。

 ――なるほど。そういうことか。

 涼は、そう思った。

 輪の形を知る者が増えれば、いつか、その輪から抜け出す道が見つかる。案内人が語った、名もなき研究者の言葉が、涼の中で、確かな意味を持って響いていた。

 自分は、今、その輪の形を知った。そして、アンナもまた、別の場所で、同じ輪の形を知っている。

 一人ではない。

 その事実が、涼に、不思議な安堵をもたらした。


終章 目覚め

 「――さん! 天野さん、聞こえますか!」

 誰かの声が、涼を呼んでいた。

 まぶたを開けると、そこは白い天井だった。消毒液の匂い。規則正しい機械音。涼は、自分がベッドに横たわっていることに気がついた。

 「気がついた……! 先生、彼、目を覚ましました!」

 聞き覚えのある声。振り向くと、目に涙を浮かべた由紀の顔があった。

 「由紀……?」

 「よかった……本当に、よかった……!」

 由紀が、涼の手を強く握りしめる。その温もりが、確かに現実のものだと、涼に教えてくれた。

 医師の説明によれば、涼は船外活動中の事故で意識を失い、緊急帰還したソユーズ宇宙船で地球に搬送されたのだという。幸い、命に別状はなく、数日間の昏睡状態を経て、今、意識を取り戻したところだった。

 「事故……そうか、俺は……」

 涼は、混乱する頭の中で、記憶を整理しようとした。命綱が外れたこと。光る船が現れたこと。長いトンネル。アンナとの出会い。三つの太陽が昇る星。半透明の残響体たち。ヨミという名の、この共同体をまとめる者。カゲとの対立と、和解。そして、三億年後の――繰り返す文明。メビウスの輪。

 あれは、夢だったのだろうか。それとも――。

 涼は、傍らの由紀を見つめた。彼女は、涼が意識を失っている間、ずっと病室に付き添ってくれていたのだという。

 「涼、うなされてたよ。ずっと、何か喋ってた」

 「何て言ってた?」

 「よく聞き取れなかったけど……『三億年』とか、『メビウスの輪』とか。それに――アンナ、って、何度も」

 涼は、体を震わせた。あの旅の記憶が、単なる昏睡状態が見せた夢だとは、どうしても思えなかった。あまりにも鮮明で、あまりにも、確かな手触りがあった。

 「アンナって、誰なの?」

 由紀が、少し不安そうに尋ねた。

 「ロシアの……コスモノートだ。俺と同じように、事故に遭ったはずの」

 涼は、看護師に頼んで、事故の詳細な記録を見せてもらった。だが、そこには、涼以外の宇宙飛行士が事故に遭ったという記録は、どこにもなかった。ISSのロシア区画に、ミハイロヴナ・アンナという名の飛行士が搭乗していた記録すら、見当たらなかった。

 「そんな……」

 涼は、言葉を失った。アンナは、本当に存在したのか。それとも、涼の意識が生み出した、幻だったのか。

 だが、涼の脳裏には、はっきりと、アンナの声が残っていた。「大丈夫、行って。由紀さんのところへ」――あの、最後の言葉が。

 窓の外に目をやると、地球の――本物の、平和な地球の空が広がっていた。青く、澄み渡った空。そこに、あの三つの太陽の記憶が重なる。

 いつか、この空もまた、あの赤茶けた大地に変わる日が来るのだろうか。それとも――。

 涼は、由紀の手を握り返しながら、静かに目を閉じた。

 まだ何も終わってはいない。むしろ、ここから始まるのかもしれない。

 どこからか、あの声が、もう一度聞こえた気がした。

 「2026年は、世の中が大きく変わる。備えよ」

 涼は、目を開けた。

 窓の外には、変わらぬ地球の空が広がっていた。だが涼の中には、確かに一つの決意が芽生えていた。

 ――もう一度、あのメビウスの輪を、この目で確かめに行こう。

 いつか、この輪を断ち切る方法を、見つけ出すために。

 そして、いつか、遠い未来のあの街で、アンナと再会できる日が来ることを、涼は静かに願っていた。

 数日後、退院した涼のもとに、一通の匿名の手紙が届いた。差出人の名前はなかった。ただ、一枚の便箋に、こう記されていた。

 「輪の形を知る者が増えれば、いつか、その輪から抜け出す道が見つかる。――A」

 涼は、その手紙を、大切に手帳へと挟み込んだ。

 (了)


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あとがき
 本作のテーマである「メビウスの輪」は、表をたどっていけばいつの間にか裏になり、裏をたどれば表に戻るという、不思議な構造を持っています。私たちの歴史や文明、そして人間関係もまた、このような目に見えない輪の中で繰り返されているのではないか――そんな一風変わった思考実験から、この物語は生まれました。
 作中で主人公の涼は、過酷な未来を目撃しながらも、決して絶望に押しつぶされることなく、目の前の対話を選びました。そしてロシアの宇宙飛行士・アンナもまた、自分の新しい運命を切り開くために未来に残りました。彼らが知った「輪の形」は、小さな一歩かもしれませんが、繰り返される悲劇を断ち切るための大いなる鍵となるはずです。
 作中の案内人が遺した「2026年は、世の中が大きく変わる」という言葉。私たちが生きるこの現代もまた、さまざまな選択を迫られる分岐点にあるのかもしれません。読者の皆様の心に、涼やアンナの決意が少しでも残ったなら、とても嬉しく思います。
2026年7月