六章 太鼓の音
ー繰り返す人間ー
温泉地を出て、バスで隣町へ移動した。
バスの中は空いていた。老いた女性が二人、前の座席に並んで座り、小声で話していた。誠司はその後ろに座り、窓の外を見ていた。田んぼが広がっていた。稲はもう刈り取られ、切り株だけが残っていた。その切り株が、整然と並んで、遠くまで続いていた。
バスが町に入ったとき、誠司は異変に気づいた。
いつもより人が多い。道を歩く人が、いつもの倍はいる気がした。浴衣姿の人も見えた。子供が走っている。提灯が道の両側に下がっていた。
祭りだ、と誠司は思った。
バスを降りると、遠くから太鼓の音が聞こえてきた。
どん、どん、という低い音が、空気を伝わって来た。誠司はその音に導かれるように、人の流れに混じって歩き始めた。
*
祭りの会場は、神社の境内だった。
屋台が並んでいた。焼きそばの匂い、綿菓子の匂い、醤油の焦げる匂い。子供たちが走り回っていた。浴衣を着た若い男女が、手を繋いで歩いていた。老人が縁台に腰を下ろし、杯を傾けていた。
誠司は人の波の中に入り、ゆっくりと歩いた。
境内の奥に、舞台があった。そこで太鼓の演奏が行われていた。大きな太鼓を、若い男たちが力強く叩いていた。バチが振り下ろされるたびに、体の奥まで響く音が出た。その音は、鼓動に似ていた。誠司は立ち止まり、演奏を聴いた。
太鼓の音は、人の体に直接届く。
頭で考えるより前に、体が反応する。足が少し動く。胸が高鳴る。それは原始的な何かだと思った。人間がまだ言葉を持つ前から、太鼓を叩き、音に体を委ねてきた。その記憶が、体の奥に刻まれているのかもしれない。
叩く男たちの顔は、真剣だった。汗が光っていた。彼らは今この瞬間に、完全に集中していた。過去も未来も関係なく、ただこの音の中にいた。
誠司は、それを羨ましいと思った。
*
屋台の間を歩きながら、誠司は周りを見渡した。
祭りというのは、不思議な場所だ。老若男女が混じり合い、日常の区別が薄れる。仕事の肩書きも、年齢の差も、ここでは意味を失う。みんなが同じ太鼓の音の下に集まり、同じ匂いの中にいる。
焼き鳥を一串買って、食べながら歩いた。
子供が走ってきて、誠司の脚にぶつかりそうになった。「ごめんなさい」と子供は言った。誠司は「気をつけてね」と言った。子供はもう走り去っていた。その後ろ姿を見ながら、慶介の幼いころを思った。祭りのたびに、慶介は浮かれていた。金魚すくいが好きで、毎年挑戦しては失敗し、それでも諦めなかった。
あのころの慶介の顔が、懐かしかった。
今の慶介は、大阪で家庭を持っている。子供のころの面影は残っているが、もうすっかり大人だ。先月、短いメッセージが来た。「元気ですか」。誠司は「元気だ」と返した。それだけだった。それだけだが、それでいい、と思っている。親と子というのは、そういうものだ。離れながらも、つながっている。
*
神輿が出た。
大きな神輿を、若い男たちが担いだ。掛け声が上がった。「わっしょい、わっしょい」。群衆が道の両側に割れ、神輿が通る道を作った。誠司もその中に混じり、神輿が通るのを見た。
神輿は重そうだった。担ぐ男たちの顔が赤く、首に青筋が立っていた。しかし、顔は笑っていた。苦しそうに、しかし確かに笑っていた。その笑いが、誠司には美しく見えた。
この神輿は、何年前から担がれてきたのだろう。
誠司は思った。この祭りが始まったのは、いつのことか。百年前か、二百年前か。その最初の年に神輿を担いだ男たちは、今はもういない。しかし神輿は今日も担がれ、掛け声は今日も上がり、人々は道の両側に並んで見ている。
形が、時間を超える。
人は死ぬ。しかし、人が作った形は残る。祭りという形が、世代を超えて受け継がれる。その受け継ぎの中に、死んだ人たちも参加している。今日神輿を担ぐ男たちの体の中に、かつて担いだ男たちの記憶が、血として流れているのかもしれない。
わっしょい、わっしょい。
掛け声が続いた。
誠司は群衆の中で、静かにその声を聞いた。
*
祭りが一段落したころ、誠司は神社の本殿の前に立った。
賽銭を入れ、鈴を鳴らし、手を合わせた。目を閉じた。
何を祈るか、今回は少し考えた。
病が治りますように、でも、仕事がうまくいきますように、でもなかった。誠司が今思ったのは、もっと単純なことだった。
みんなが、来年もここに来られますように。
この祭りを見た人が、来年の祭りまで生きていられますように。子供が走り回っていた。老人が縁台に座っていた。浴衣の男女が笑っていた。その全員が、来年もここにいますように。
そして自分も。
誠司は、自分のために祈ることが、これまであまりなかった。家族のために、仕事のために、誰かのために祈ることはあった。しかし自分自身のために、来年もここにいますように、と思ったのは、久しぶりのことだった。
いや、もしかしたら初めてかもしれない。
目を開けた。本殿の前に、注連縄が張られていた。太い縄が、左右に伸びていた。その縄に、白い紙垂が下がっていた。風が吹くたびに、紙垂が揺れた。
誠司はしばらく、その揺れを見ていた。
*
夜になった。
祭りはまだ続いていた。盆踊りが始まった。
やぐらの上で太鼓が鳴り、スピーカーから音楽が流れた。輪になって踊る人々の中に、老人も若者も子供も混じっていた。踊りが上手い人も下手な人もいた。しかしそれは関係なかった。みんなが同じ輪の中で、同じ方向に回っていた。
誠司は輪の外から、それを見ていた。
踊りの輪は、延々と回り続けた。太鼓の音も、音楽も、終わっては始まり、また終わっては始まった。それが繰り返された。その繰り返しの中に、参加している人たちは揺れていた。
繰り返すことが、人間の本質なのかもしれない。
誠司は思った。祭りも繰り返す。季節も繰り返す。悲しみも喜びも、似たようなことが繰り返す。詩の一節が、また頭に浮かんだ。「大して違わない時代を、何度も何度もこの人間たちは繰り返すだけで」。そうかもしれない。しかし、繰り返すことが愚かなのだろうか。
桜は毎年咲く。それを誰も愚かだとは思わない。
人間が繰り返すことも、桜が繰り返すことと、本質は変わらないのではないか。過去から学ばないという批判はできる。しかし、繰り返すことそのものの中に、命の形があるのかもしれない。
踊りの輪が、回り続けた。
誠司は、輪の外から、その回転を見続けた。
やがて、一人の老婆が輪から離れ、誠司の近くにやってきた。八十近いだろうか。小さな体で、少し息を切らしていた。誠司の横に立ち、輪を見た。
「お一人ですか」と老婆は言った。
「ええ」
「旅の方ですか」
「そうです」
老婆はしばらく黙って、踊りの輪を見た。「この祭り、私が子供のころからあるんですよ」とつぶやいた。「七十年以上ね。同じ踊りを、ずっと踊ってきた」
「変わらないんですね」と誠司は言った。
「変わらないようで、変わってるんですよ」老婆は静かに言った。「人が変わる。でも形は変わらない。不思議でしょ」
誠司は頷いた。
「踊ってる人の顔がね」老婆は続けた。「変わるんです。最初は若い顔ばっかりだったのに、いつの間にか、みんな皺が増えて。でも踊り方は同じ。太鼓の音も同じ。なんか、時間が止まってるみたいで、でも流れてるみたいで」
老婆は少し笑った。「上手く言えないけどね」
「いいえ」誠司は言った。「よくわかります」
老婆は誠司を見て、また輪の方を見た。「あなたも踊ったらいいのに」
「見てる方が好きです」
「そう」老婆は頷いた。「見てる人がいないと、踊る人も張り合いがないからね」
そう言って、老婆はまた輪の中に入っていった。小さな体で、しかししっかりとした足取りで、踊りの列に加わった。
誠司は、その老婆の背中を見た。
七十年間、この祭りに来ている。七十年間、同じ踊りを踊っている。その七十年の重さを、あの小さな体が持っている。
見ている人がいないと、踊る人も張り合いがない。
その言葉が、誠司の中に残った。
*
祭りが終わったのは、夜の十時を過ぎたころだった。
人々が散っていった。屋台が片付けられた。提灯の灯りが消えていった。
誠司は最後まで残っていた。
神社の境内が、少しずつ静かになっていった。さっきまで人でいっぱいだった場所が、今は風の音だけがある。地面には、祭りの残骸が散らばっていた。割り箸、紙コップ、踏まれた花びら。それらが、今夜あったことの証だった。
誠司は本殿の前にもう一度立った。
暗い中で、注連縄の白い紙垂だけが、かすかに見えた。
来年も、この祭りはある。同じ太鼓が鳴り、同じ神輿が出て、人々が集まる。今夜来た人の何人かは、来年は来られないかもしれない。しかし祭りは続く。それでいいのだと、誠司は思った。
続くことの中に、意味がある。
形が続くことで、過去の人たちも続いている。形を受け継ぐことで、未来の人たちへ何かが渡される。その連鎖の中に、人間というものがある。
誠司は、自分が今夜ここに来たことを、誰かに感謝したかった。
誰に感謝すべきかは、よくわからない。この祭りを始めた誰かか。今日まで続けてきた人々か。あるいは、この旅に出る気にさせた何かか。
誠司は、暗い本殿に向かって、もう一度頭を下げた。
風が吹いた。
紙垂が揺れた。
誠司は踵を返し、宿への道を歩いた。
夜空に、星が出ていた。
都会では見えない星が、ここでは見えた。誠司は立ち止まり、空を見上げた。星は無数にあった。その一つ一つが、遠い光だった。何万光年も遠くから来た光が、今夜の誠司の目に届いていた。
あの星の光が出発したとき、人間はまだいなかったかもしれない。
その光が今夜届いた。誠司という一人の男の目に。それもまた、途方もない偶然であり、必然だった。
誠司は空を見上げたまま、しばらく動かなかった。
祭りの太鼓の余韻が、まだ体の奥に残っていた。
七章 先を歩く人
――見知らぬ老人との対話――
祭りの翌朝、誠司は早い列車で移動した。
どこへ向かうとも決めずに、ただ南へ。山が深くなる方向へ。人が少なくなる方向へ。
車窓から見える景色は、少しずつ変わっていった。田畑が減り、山が増えた。川が細くなり、谷が深くなった。紅葉は、標高が上がるにつれてより鮮やかになった。赤が濃くなり、橙が深くなった。
誠司は、その色を見ながら、旅もそろそろ終わりに近づいていることを感じた。
東京を出て、六日が経っていた。京都の寺、廃線の町、海辺の宿、温泉地の祭り。それぞれの場所で、それぞれの何かを受け取った。しかしまだ、何かが足りない気がした。何かが足りないというより、何かに辿り着いていない、という感覚だ。
目的地などない旅だった。しかし今、誠司には、この旅がどこかへ向かっているような気がしていた。
小さな山あいの駅で、誠司は降りた。
プラットホームに降り立ったとき、風が冷たかった。標高が高いのだろう。空気が薄く、澄んでいた。
*
駅から出て、誠司は山の方へ続く道を歩いた。
舗装された道が、やがて砂利道になった。砂利道が、さらに細い山道になった。誠司は特に目的もなく、ただ上へ上へと歩いた。
山道の途中に、小さな休憩所があった。
屋根だけの、粗末な造りのものだった。しかし、木のベンチが置いてあり、そこに一人の老人が座っていた。
年齢は、八十を超えているだろう。白髪で、背筋はしっかりと伸びていた。手に、古い木の杖を持っていた。目は細く、しかし鋭く、遠くの山を見ていた。誠司が近づいても、老人は動じなかった。
「失礼します」と誠司は言い、老人の隣に腰を下ろした。
老人は少し誠司を見て、また山の方を向いた。
「この山、よく来られるんですか」と誠司は聞いた。
「毎日来る」と老人は言った。声は低く、しかし明瞭だった。
「毎日」
「もう四十年になる」
誠司は少し驚いた。「四十年、毎日ここへ」
「そうだ。雨の日も、雪の日も。足腰が続く限りは来る」
老人は杖を両手で持ち、その先を地面につけたまま、遠くを見ていた。
*
「何のために来るんですか」と誠司は聞いた。
老人は少し間を置いた。「何のため、か」とつぶやいた。「最初は、健康のためだった。医者に歩けと言われてな。それで来始めた」
「今は違うんですか」
「今は、来るのが当たり前になった。当たり前になると、理由がなくなる。ただ来る」
誠司はその言葉を、心の中で転がした。理由がなくなると、ただ在る。それはある意味で、石の境地に近いかもしれない。動かないことが仕事、と京都の老僧は言った。毎日来ることが当たり前、と今この老人は言う。どちらも、理由を超えた場所にいる。
「おいくつですか」と誠司は聞いた。
「八十四だ」
「お元気ですね」
「元気というより、惰性だ」老人は静かに笑った。「惰性で生きている。悪くない」
誠司も少し笑った。
「あなたは旅人か」と老人は言った。
「そうです。東京から来ました」
「東京か。遠い」
「ええ」
「何を探して来た」
直球の問いだった。誠司は少し考えた。「わかりません。ただ、旅に出たくなって」
「わかならん方がいい」老人は言った。「わかって出てくる旅は、たいてい期待外れになる。わからんまま出ると、思わぬものに会う」
*
老人は山を見たまま、しばらく黙っていた。誠司も黙っていた。
風が吹いた。紅葉した葉が、いくつか舞い落ちた。
「あんたは、いくつか」と老人は言った。
「五十八です」
「若い」
誠司は苦笑した。五十八を若いと言う人に、初めて会った気がした。
「私が五十八のころ」老人はゆっくりと言った。「まだ何もわかっていなかった。会社のことしか頭になかった。家族のことも、自分のことも、後回しにしていた」
「今は、わかりますか」
「わかるというより、どうでもよくなった」老人は言った。「どうでもよくなると、楽になる。しかし楽になるまでに、ずいぶん時間がかかった」
「どうでもよくなるとは」
「執着がなくなる、ということだ」老人は少し間を置いた。「私は若いころ、いろんなものに執着していた。仕事の成果に。人からの評価に。家族が自分の思い通りになることに。そういうものを手放すのに、七十年かかった」
「七十年」
「長いだろう」老人は静かに笑った。「しかし人によっては、一生かかっても手放せない。私はまだましな方かもしれない」
誠司は、その言葉を聞きながら、自分の中を探った。自分はまだ、何かに執着しているか。
ある。まだある。
泉に対する後悔への執着。自分がどう見られるかへの執着。残りの人生が充分であるかどうかへの不安という名の執着。それらは、まだ手放せていない。
*
「家族はいますか」と誠司は聞いた。
「妻は十年前に死んだ。子供は三人いる。みんな遠くにいる」
「寂しくないですか」
「寂しい」老人はあっさりと言った。「毎日寂しい。しかし寂しさも、慣れると風景になる」
風景になる。
誠司はその言葉に、何かが引っかかった。寂しさが風景になる。それは諦めではないか。しかし老人の顔を見ると、諦めとは違う何かがあった。受け入れた者の、静かな顔だった。
「奥さんのことは、今も思いますか」
「毎日思う」老人は即座に言った。「今日の紅葉を見て、あいつが好きだったな、と思う。昨日は、夕飯を食べながら、あいつならこの味付けに文句を言うな、と思った。毎日、何かのたびに思う」
「それは辛くないですか」
「辛いこともある。しかし」老人は少し考えた。「辛い、ということは、それだけ一緒にいた時間が長かった、ということだ。辛さは、長さの証だ。そう思うようにした」
誠司は黙った。
辛さは、長さの証。
泉への後悔が、誠司の胸に浮かんだ。あの後悔の重さは、三十年間一緒にいたことの重さだ。後悔が深ければ深いほど、共にいた時間が深かったということだ。それはひとつの、愛の形なのかもしれない。
誠司の目が、少し潤んだ。
老人は気づかないふりをして、山を見ていた。
*
「この先、どう生きればいいと思いますか」と誠司は聞いた。
老人は少し間を置いた。「私に聞くか」
「あなたに聞きたいです」
老人はゆっくりと息を吸い、吐いた。「私には、答えはない。ただ」老人は山を見たまま言った。「一つだけ、思うことがある」
「何ですか」
「今日一日を、丁寧に生きることだ」老人は静かに言った。「今日の飯を、ちゃんと味わうこと。今日の風を、ちゃんと感じること。今日会った人と、ちゃんと話すこと。それだけだ」
「それだけですか」
「それだけで充分だ」老人は頷いた。「大きなことをしなくていい。遠くを見なくていい。今日一日を丁寧に積み重ねていけば、それがそのまま人生になる。振り返ったとき、ちゃんとした重さがある」
誠司は、その言葉をゆっくりと受け取った。
今日一日を丁寧に。
それは単純に聞こえる。しかし、八十四年生きてきた老人が言うと、単純ではなくなる。その言葉の裏に、どれだけの年月があるか。どれだけの後悔と、受け入れと、手放しがあるか。
誠司は「ありがとうございます」と言った。
老人は「礼を言うことでもない」と言った。しかし、少し口元が緩んだ。
*
老人はやがて立ち上がった。
杖をついて、山道をゆっくりと下り始めた。誠司は「お気をつけて」と言った。老人は振り返らずに、小さく手を上げた。
その背中が、山道の曲がり角で見えなくなった。
誠司は一人で、休憩所に残った。
風が吹いた。紅葉の葉が舞った。山は静かだった。
誠司はしばらく、老人が座っていた場所を見ていた。木のベンチに、老人の温もりがまだあるような気がした。四十年間、毎日ここに来ている老人の。妻を失い、子供たちは遠くにいて、それでも毎日この山に来る老人の。
先を生きる人がいる。
誠司はそう思った。自分より二十六年先を生きている人が、今日ここにいた。その人は答えを持っていなかった。しかし、自分なりの在り方を持っていた。毎日山に来るという在り方を。寂しさを風景にするという在り方を。辛さを長さの証と見るという在り方を。
誠司は五十八だ。八十四にはまだ遠い。しかし、いつかその年齢に近づく。近づけるかどうかはわからないが、もし近づいたとき、あの老人のような顔ができるかどうか。
できるかどうかは、今日から始まることだ。
今日一日を、丁寧に。
誠司は立ち上がり、山道を下り始めた。
足元に、落ち葉が積もっていた。踏むたびに、かさかさと音がした。その音が、妙に心地よかった。
下りながら、誠司は今日会った老人のことを考えた。名前も知らない。どこに住んでいるかも知らない。どんな人生を歩んできたかの詳細も知らない。しかし、今日の短い時間に、確かに何かを受け取った。
旅というのは、そういうものかもしれない。
名前も知らない誰かから、名前もつかない何かを受け取る。それが積み重なって、旅になる。そして旅が終わったとき、受け取ったものは自分の中に沈んでいく。形にはならないが、確かにそこにある何かとして。
駅が見えてきた。
誠司は歩みを緩めずに、駅へと向かった。
次の列車まで、まだ少し時間があった。
ホームのベンチに座り、誠司は手帳を取り出した。広告会社の手帳だ。スケジュールが書いてあるページを飛ばして、白いページを開いた。
ペンを取り出し、書いた。
今日一日を、丁寧に。
それだけを書いた。
インクが乾くのを待ちながら、誠司は空を見た。
雲が、ゆっくりと動いていた。
列車の音が、遠くから聞こえ始めた。
八章 選ばなかった道
ー仕事と家族、もう一つの人生ー
山を下りた誠司は、その夜は麓の宿に泊まった。
小さな民宿だった。夕食は囲炉裏の周りで出された。鮎の塩焼き、山菜の煮物、猪の肉を使った鍋。宿の主人は寡黙な男で、料理を出すとすぐに引っ込んだ。誠司は一人で、囲炉裏の火を見ながら食べた。
炭火が、じわじわと燃えていた。
時折、木が爆ぜる音がした。その音が、静かな宿の中に小さく響いた。煙が細く上がり、天井に向かって消えた。
誠司は食事を終え、しばらく火を見ていた。
火は動いている。常に動いている。しかし火が燃えるためには、動かない炭が必要だ。動くものと動かないものが、共に在ることで、火は存在する。
そんなことを考えながら、誠司は今夜初めて、自分のこれまでの仕事と家族のことを、正面から向き合う気になった。
旅の間、いくつかの断片は思い出した。しかしそれは、どこか斜めから見るような思い出し方だった。今夜は、正面から見ようと思った。
囲炉裏の火が、ゆっくりと燃えていた。
*
誠司が広告代理店に入ったのは、昭和の終わり、バブルの匂いが漂い始めたころだった。
最初の配属は、コピーライターの部署だった。先輩のコピーライターに付いて、仕事を覚えた。最初の一年は、とにかく書いた。書いては直され、また書いた。何百枚と書いたコピーのほとんどは、使われなかった。しかしあるとき、一本のコピーが採用された。
テレビのコマーシャルだった。洗剤のコマーシャルで、誠司が書いたキャッチコピーが画面に出た。たった十二文字のコピーだった。しかし、それが流れているのをテレビで見たとき、誠司は体が震えた。自分の言葉が、日本中に届いている。そう思うと、胸が熱くなった。
あのときの感覚を、誠司は今も覚えている。
その後、いくつかの仕事で賞を取った。三十代の誠司は、それなりに仕事が面白かった。クライアントと議論し、チームで夜遅くまで作業し、苦労してできた作品が世に出る喜びがあった。
しかし、四十代に入ったころから、少しずつ変わっていった。
面白い仕事より、無難な仕事が増えた。リスクを取るより、前例に倣うことが多くなった。それは誠司自身の変化でもあったし、業界全体の変化でもあった。デジタル化が進み、広告の形が変わった。誠司は新しいものについていけない自分を、どこかで感じ始めていた。
そのころから、仕事は「やりがい」から「義務」へと変わっていった。
囲炉裏の火が、小さくなっていた。誠司は炭を一つ足した。
*
選ばなかった道、と誠司は思った。
三十五歳のとき、誠司にはひとつの選択肢があった。
当時の上司から、新しいプロジェクトへの参加を打診された。独立に近い形で、小さなチームを作り、新しいタイプの広告を試みるというものだった。リスクがあった。しかし、面白そうだった。あのころの誠司には、それに乗る気持ちがあった。
しかし、結局断った。
理由は、家族だった。慶介が小学校に入ったばかりで、泉が二人目の子供を望んでいた。安定した収入が必要だと思った。冒険するには、守るものが増えすぎていた。
結果として、二人目の子供は生まれなかった。泉は「もういい」と言い、それ以上は言わなかった。誠司は、その「もういい」の意味を、当時は深く考えなかった。しかし今になって、あの言葉の重さが、じわじわと伝わってくる。
あのプロジェクトを選んでいたら、どうなっていただろう。
仕事はもっと面白くなっていたかもしれない。あるいは失敗して、もっと苦しい状況になっていたかもしれない。泉との関係も、違うものになっていたかもしれない。慶介の育ち方も、変わっていたかもしれない。
選ばなかった道の先は、誰にも見えない。
しかし誠司は今夜、その見えない道を少しだけ想像した。見えないからこそ、美しく見える部分がある。それが選ばなかった道の性質だ。選んだ道には、泥や石ころが見える。しかし選ばなかった道には、光だけが見える。
それは幻想だ。しかし人間は、その幻想なしには生きられないのかもしれない。
*
泉のことを、今夜は改めて考えた。
泉は、賢い女だった。感情的になることが少なく、物事を冷静に見ていた。しかし冷静であるということは、感じていないということではない。むしろ、深く感じているからこそ、冷静に振る舞うことで自分を守っていたのかもしれない。
結婚して最初の十年は、それなりに幸せだったと思う。
誠司が仕事から帰ると、泉が夕食を作っていた。慶介はリビングで宿題をしていた。三人で夕飯を食べ、テレビを見て、風呂に入って寝た。それだけのことが、当時は当たり前だった。しかし今思えば、その当たり前がどれほど貴重だったか。
どこから、ずれ始めたのか。
誠司にはひとつの原因は見つけられない。大きな出来事があったわけではない。ただ、日々の小さなすれ違いが積み重なった。誠司が泉の言葉を聞き流した夜が、一夜あり、また一夜あった。泉が誠司に何かを期待して、黙って諦めた朝が、一朝あり、また一朝あった。その積み重ねが、三十年かけて、ふたりの間に静かな距離を作った。
距離は、ある朝突然そこにあった。
そしてある夜、泉は「自分のための時間が欲しい」と言った。
誠司は今夜、その言葉の意味をもう一度考えた。自分のための時間。それはつまり、誠司のいない時間だ。誠司のいない場所で、泉は自分を取り戻そうとしている。それは責められることではない。むしろ、遅すぎたくらいかもしれない。
泉が今、何をしているのかは知らない。
幸せであってほしい、と思う。
あの海辺の浜で、誠司は泉にごめんと言った。しかし謝るだけでは足りない。謝ることと、変わることは別だ。誠司は変わらなければならない。何が変わるべきかはまだはっきりしないが、何かが変わらなければならない。
*
慶介のことも、今夜は考えた。
父親として、自分はどうだったか。
仕事が忙しく、慶介の学校行事にはあまり行けなかった。運動会を見に行ったのは、六年間で三回だけだったと思う。参観日はほとんど欠席した。慶介が受験をした年も、誠司は大きなプロジェクトの真っ最中で、一緒に勉強することができなかった。
慶介はそれを、表立って責めたことはなかった。
しかし、中学のころだったか、慶介がぽつりと言ったことがある。「お父さん、いつも仕事だね」。責めているわけではなかった。ただ、そういう事実を述べたような言い方だった。誠司は「そうだな」と言った。それだけだった。
あのとき、もっと違う答えがあったはずだ。
しかし誠司は、あのころ、仕事以外のことを考える余裕を持っていなかった。余裕がなかったのではなく、余裕を作らなかった、というのが正確かもしれないが、どちらにせよ、結果は同じだ。
慶介は大人になり、大阪で家庭を持った。
誠司との関係は、悪くはない。しかし深くもない。正月に会い、短い会話をして、また別れる。それを繰り返している。それが今の父と息子の関係だ。
これからでも、変えられるだろうか。
誠司は思った。五十八と三十二。もう一度、父と息子の時間を作ることができるだろうか。大阪へ行って、慶介と飯を食うことができるだろうか。
できる、と誠司は思った。
難しくはない。ただ、踏み出すことが必要なだけだ。
*
火が、また小さくなっていた。
誠司は炭をもう一つ足した。火が少し大きくなった。
自分の人生を、囲炉裏の火に例えるとしたら、今の誠司はどの段階だろう。燃え盛る時期はとうに過ぎた。しかし、まだ消えてはいない。静かに、しかし確かに燃えている。
残り火、という言葉がある。
残り火には、残り火の美しさがある。激しく燃えるのではなく、静かに温もりを保つ。それが残り火の仕事だ。誠司の残りの時間も、そういうものかもしれない。大きなことをするのではなく、静かに、丁寧に、温もりを保つ。
今日一日を、丁寧に。
山の老人の言葉が、また浮かんだ。
誠司は手帳を取り出した。さっき書いた言葉の下に、もう少し書いた。
泉に、手紙を書こう。
謝罪ではなく、ただ、今の自分の気持ちを伝える手紙を。旅から帰ったら、書こう。出すかどうかは、書いてから決めればいい。まず書くことが大事だ。言葉の仕事をしてきた男が、最も大切な人に、まだ言葉を届けていない。
慶介にも、電話しよう。
用事がなくても、ただ電話する。「元気か」とだけ聞く。それだけでいい。それだけで、何かが少し変わるかもしれない。
誠司はペンを置き、火を見た。
炭が赤く光っていた。表面は黒いが、その奥に赤い光がある。外から見るとわからないが、近づくと温もりが伝わってくる。
人も、そういうものかもしれない。
外から見ると、誠司はただの中年の男だ。くたびれたサラリーマンだ。しかしその奥に、三十五年間のコピーライターの情熱があり、泉への後悔があり、慶介への父心があり、明美への遠い記憶があり、父の手の感触がある。そういうものが全部、この五十八歳の体の中で、静かに燃えている。
誰も見えないかもしれない。しかしそこにある。
それでいい、と誠司は思った。
見えなくても、そこにある。それが、今の自分の在り方だ。
*
宿の時計が、十時を告げた。
誠司は立ち上がり、囲炉裏の火に向かって手を合わせた。誰かに向けた礼ではない。ただ、今夜の火に向けた感謝だ。この火の傍で、いくつかのことが整理された。
部屋に戻り、布団に入った。
天井を見た。古い木の天井だった。節があった。その節が、今夜は顔には見えなかった。ただの節だった。木の節だった。
それでいい、と思った。
何もかもが顔に見えなくても、何もかもが意味を持たなくても、それでいい。ただ在ることが、今夜は充分だった。
誠司は目を閉じた。
囲炉裏の煙の匂いが、まだ体に残っていた。
その匂いの中で、誠司は選ばなかった道のことを、最後にもう一度考えた。
選ばなかった道は、美しいまま、そこにある。しかし誠司が歩いてきた道も、振り返れば、それなりの景色がある。泥も石ころもあった。しかし、花もあった。川もあった。大きな木もあった。
自分の道を、もう少し丁寧に見ればよかった。歩きながら、もっと周りを見ればよかった。それだけのことだ。
しかし、気づいた今から、見ればいい。
残りの道を、丁寧に歩けばいい。
それだけのことだ。
誠司は、穏やかに眠りに落ちた。
囲炉裏の火は、誠司が眠った後も、しばらく静かに燃え続けた。
九章 星の時間
ー地球の時間、宇宙の孤独ー
翌朝、誠司は民宿を出て、さらに山の奥へと歩いた。
目的は、特になかった。ただ、もう少しだけ、この山の中にいたかった。都市の時間から遠ざかった場所に、もう一泊だけいたかった。
山道を二時間ほど歩いたころ、小さな山小屋が見えた。
営業しているのかどうか、遠目にはわからなかった。近づいてみると、扉に「素泊まりできます」という手書きの看板が出ていた。誠司は扉を叩いた。しばらくして、中から老いた男が出てきた。七十代だろうか。山で日焼けした顔に、白い無精髭が生えていた。
「泊まれますか」と誠司は聞いた。
「一人か」
「はい」
「泊まれる。飯は自分で作ってもらうが」
「それで構いません」
男は無言で中に招き入れた。
小屋の中は質素だった。板張りの床に、木のテーブルが一つ。薪ストーブが一台。壁に、山の地図と、古いカレンダーが貼ってあった。宿泊部屋は奥にあり、毛布が積んであった。
誠司は荷物を置き、窓の外を見た。
山が見えた。空が見えた。雲一つなかった。
*
昼間は山の中を歩いた。
道のない斜面を、落ち葉を踏みながら登った。木の根をつかみ、岩を越え、どこへ向かうともなく進んだ。鳥の声がした。風が木々の間を抜けていった。遠くで、何かの獣が動く気配がした。
誠司は、この山が何億年という時間をかけて作られたことを、ふと考えた。
地球の歴史は、四十六億年だという。人類の歴史は、せいぜい数百万年。文明の歴史は、わずか数千年。誠司の五十八年間など、その中の点にもならない。いや、点以下だ。小数点以下の、さらにその先の数字だ。
しかし誠司は今、この山の上にいる。
四十六億年の山の上に、五十八年の人間が立っている。その取り合わせの不思議さを、誠司は今日、初めて正面から感じた。自分がいかに小さいかということを、責めるのでも嘆くのでもなく、ただ、そういうものだと、静かに受け取った。
斜面の途中に、大きな岩があった。
誠司はその岩の上に腰を下ろした。岩は冷たく、硬かった。しかし、それが心地よかった。岩の確かさが、自分の体の曖昧さと対照をなして、却って自分の存在を実感させた。
空は青かった。
遠くに、別の山の稜線が見えた。その稜線は、誠司が生まれるはるか前から、あの形でそこにあったはずだ。誠司が死んだ後も、おそらく変わらずあそこにある。その永続の中で、誠司は今日だけ、ここから稜線を見ている。
それはとても、静かな事実だった。
*
夕方、小屋に戻った。
小屋の主人が薪ストーブに火を入れてくれていた。誠司は持参した食料で簡単な夕食を作った。インスタントのみそ汁と、握り飯だった。質素だったが、山の中で食べると、それが充分だった。
食事を終えると、主人と少し話した。
主人は、二十年前からここで山小屋を営んでいるという。以前は都市で会社員をしていたが、五十代で全てを手放してここに来た。
「後悔はないですか」と誠司は聞いた。
「ない」主人は即座に言った。「後悔する暇がない。山は忙しい。毎日やることがある。薪を割る、水を汲む、道を整える。それだけで一日が終わる」
「寂しくないですか」
「寂しい」主人はあっさりと言った。「冬は特に寂しい。誰も来ない。雪だけがある。しかしその寂しさは、都市の寂しさとは違う」
「どう違いますか」
主人は少し考えた。「都市の寂しさは、人がいるのにいない寂しさだ。ここの寂しさは、何もない中にいる寂しさだ。何もない寂しさの方が、ずっと清潔だ」
清潔な寂しさ。
誠司はその言葉を、心の中で繰り返した。
夜になった。主人は早く床についた。誠司は一人、薪ストーブの前に座った。
*
夜の十時ごろ、誠司は小屋の外に出た。
空気が刺すように冷たかった。息が白く見えた。十月の山の夜は、もう冬の入り口だった。
誠司は上を見た。
星が、あった。
都市では決して見えない数の星が、頭上に広がっていた。天の川が、淡く帯のように流れていた。誠司は口を開けたまま、しばらく空を見上げていた。
星の数が、多すぎて、数えることができなかった。ひとつひとつが光っていた。近い星も、遠い星も、ただそこで輝いていた。
あの星の光は、何年前に出発したのだろう。
百光年先の星の光は、百年前に出発した。千光年先の星の光は、千年前に出発した。遠い星の中には、もうとっくに消えてしまったものもあるかもしれない。しかしその光は、今もここへ向かって旅を続けている。届くまで、何千年もかかって。
消えた星の光が、今夜誠司の目に届いている。
それはどういうことか。
誠司には、うまく言葉にできなかった。しかし何か、胸の奥を揺さぶるものがあった。消えても、届く。終わっても、続く。存在が消えた後も、その存在が放った光は旅を続ける。
人間も、そういうものかもしれない。
死んだ後も、その人が放った何かは、誰かの中を旅し続ける。父が誠司に残した手の感触が、今も誠司の中にある。明美が残した言葉が、三十五年後の今夜も、誠司の中で光っている。七代前の先祖が、誠司の血の中に何かを残している。
形はなくなる。しかし、光は続く。
*
誠司は地面に寝転んだ。
冷たい土の上に仰向けになり、両腕を広げた。空が、全部見えた。星が、四方八方にあった。自分が空の中に浮かんでいるような感覚があった。地球という星の表面にへばりついた、小さな一点が、宇宙の中にいる感覚。
地球は今も動いている。
一秒に三十キロメートルの速さで、太陽の周りを回っている。誠司は今、猛烈な速さで宇宙を移動しながら、しかしそれをまったく感じずに、ただ星を見ている。その奇妙さが、誠司には妙におかしくて、そして妙に愛おしかった。
人間というのは、いつもそういう存在かもしれない。
途方もない何かの中にいながら、それをまったく感じずに、日々の小さなことに一喜一憂している。仕事の評価を気にして、人間関係に傷ついて、老いることを怖れて。その全てが、宇宙の時間からすれば、一瞬の出来事だ。
しかし、だからといって、小さいことが無意味というわけではない。
むしろ逆だ、と誠司は思った。宇宙の時間の中で、これほど短い一瞬に、これほど多くのことを感じ、考え、傷つき、喜ぶことができる。それは、人間という存在の、途方もない密度だ。
短いから、濃い。
一瞬だから、輝く。
誠司は空を見たまま、そう思った。
詩の言葉が、また頭に浮かんだ。「ほんのわずかなひと時なんて、単なるひとつの、たった一点の、歴史にも残らない通過点にしか過ぎない」。そうだ、と誠司は思った。しかし、通過点は通過点なりに、確かにそこを通った。その通過が、何かを変えた。その変化は、見えないかもしれないが、確かにある。
*
どのくらい、そうしていただろう。
体が冷えきったころ、誠司は起き上がった。
小屋の中に入り、薪ストーブの前に座った。火がまだ残っていた。誠司は薪を一本足した。火が少し大きくなった。
誠司は手帳を取り出した。
今夜感じたことを、書き留めたかった。しかし言葉が出てこなかった。星の美しさも、宇宙の広さも、人間の密度も、全部言葉にすると小さくなる気がした。
誠司はしばらくペンを持ったまま、何も書かなかった。
そして、ただ一行だけ書いた。
消えた星の光が、今夜届いた。
それだけを書いた。
それで充分だった。
薪ストーブの火が、静かに燃えていた。窓の外に、星がまだあった。
誠司は目を閉じた。
星の光が、瞼の裏に残っていた。
その光の中で、誠司はゆっくりと、深く眠った。
夢は見なかった。
あるいは、夢そのものの中にいたのかもしれない。
星の時間の中で、誠司の五十八年間は、静かに呼吸していた。
*
夜明け前に目が覚めた。
誠司は再び外に出た。空はまだ暗かった。星は少し減っていた。東の空が、かすかに白み始めていた。
誠司は深呼吸をした。
冷たい空気が、肺の奥まで入ってきた。山の空気は澄んでいた。木の匂い、土の匂い、夜露の匂いが混じっていた。
ここまで旅をしてきた。
東京の朝から始まり、京都の寺、廃線の町、日本海の浜辺、温泉地の祭り、山の老人、囲炉裏の夜、そして今夜の星空。それぞれの場所で、それぞれの何かを受け取った。
全部を言葉にすることはできない。しかし、全部が自分の中にある。
旅は、明日終わる。
東京に帰る。帰って、また日常が始まる。会社に行き、会議をして、書類を作る。それは変わらない。しかし、誠司自身が少し変わった。何がどう変わったかは、まだはっきりとは言えない。しかし何かが変わった。それだけは確かだ。
東の空が、橙色に染まり始めた。
山の稜線が、黒いシルエットになって浮かんだ。そのシルエットの向こうから、光が来た。
誠司はその光を、静かに受け取った。
今日も、夜明けが来た。
地球は今日も、変わらずここにある。星は今日も、遠くで輝いている。消えた星の光は、今日も旅を続けている。
そしてその全ての中に、誠司という一点が、今日も確かにある。
それで充分だ、と思った。
それで、本当に充分だった。
十章 帰路、または出発
――開かれたまま――
山小屋を出たのは、朝の八時だった。
主人は玄関まで出てきて、無言で手を挙げた。誠司も手を挙げた。それだけだった。名前も知らない。連絡先も知らない。しかしその別れは、長い付き合いの人と別れるときのような、確かな重さがあった。
山道を下りながら、誠司は今日の空を見た。
よく晴れていた。風はなかった。木々の葉が、昨日より少し減っていた。一晩で、また少し散ったのだろう。地面に積もった落ち葉が、朝の光を受けて橙色に輝いていた。
誠司は歩きながら、この八日間のことを思った。
京都の大きなケヤキの木。老僧の「石の仕事」という言葉。廃線の錆びた線路と、夕日に金色に輝いたレール。日本海の鉛色の波と、暗い海に向かってごめんと呟いた夜。温泉地の山あいで浮かんだ明美の名前。祭りの太鼓の音と、七十年踊り続けてきた老婆の背中。山の休憩所で出会った八十四歳の老人と「今日一日を丁寧に」という言葉。囲炉裏の火の前で書いた二つの決意。そして昨夜の、満天の星空。
それら全てが、誠司の中にあった。
形にはならない。言葉にもしきれない。しかし確かにある。旅の前の誠司と、今の誠司は、見た目は変わらないが、内側に何かが増えた。増えたというより、眠っていたものが少し目を覚ました、という感覚に近いかもしれない。
山道が終わり、舗装された道に出た。
*
駅まで歩く途中、小さな郵便局があった。
誠司は足を止めた。
少し考えてから、中に入った。便箋と封筒を一枚ずつ買い、郵便局の窓口脇にある小さな台に向かった。
誠司はペンを取り、便箋に向かった。
宛名は、泉にした。
書き始めると、思ったより言葉が出てきた。謝罪の手紙ではなかった。ただ、旅の途中で感じたことを、いくつか書いた。廃線の錆びた線路が夕日に光っていたこと。日本海で初めて夜明けを一人で見たこと。山の老人に「今日一日を丁寧に」と教わったこと。昨夜の星空のこと。
そして最後に、一行だけ書いた。
お互い、残りの時間を丁寧に生きましょう。
それだけだった。
封をして、切手を貼り、ポストに入れた。
ポストの口が閉まった。
誠司はしばらくそのポストを見ていた。赤いポストだった。どこの町にもある、ごく普通のポストだった。しかし今の誠司には、そのポストが少し特別なものに見えた。自分の言葉が、今そこに入っている。これからどこかへ運ばれ、泉の手に届く。あるいは届かないかもしれない。住所が変わっていれば、戻ってくるかもしれない。しかし、書いて、出したことは変わらない。
それで充分だと思った。
*
駅に着くと、次の列車まで三十分あった。
誠司はホームのベンチに座り、スマートフォンを取り出した。
慶介に電話をかけた。
呼び出し音が三回鳴った。四回目で繋がった。
「もしもし」慶介の声だった。少し驚いたような声だった。「お父さん?」
「ああ」誠司は言った。「今、旅に出てる」
「知ってる。お母さんから聞いた。どこ行ってるの」
「あちこちだ。山の中にもいた」
「一人で?」
「一人で」
少し間があった。「珍しいね」と慶介は言った。
「珍しいな」誠司も言った。
また少し間があった。誠司は続けた。「用はないんだ。ただ、声が聞きたくなった」
慶介は少し黙った。それから「そうか」と言った。その二文字に、何かがあった。拒絶でも、歓迎でもなく、ただ受け取ったという何かが。
「元気か」と誠司は聞いた。
「元気だよ。仕事も、まあ、なんとか」
「そうか」
「お父さんは」
「元気だ。旅をしたら、少し元気になった」
「そっか」慶介は少し笑ったようだった。「よかった」
誠司は言った。「今度、大阪に行ってもいいか」
また間があった。「いいよ」慶介は言った。「来なよ。飯食おう」
「ああ」誠司は言った。「そうしよう」
短い会話だった。しかし誠司には、それで充分だった。用がなくても電話できた。来てもいいと言われた。それだけで、何かが少し変わった気がした。
列車のアナウンスが流れた。
「じゃあ、また」と誠司は言った。
「うん。気をつけてね」慶介は言った。
電話が切れた。
誠司はスマートフォンをポケットにしまい、空を見た。
雲が出始めていた。白い雲だった。
*
列車に乗り、乗り継いで、新幹線に乗った。
東京へ向かう新幹線の窓際に座り、誠司は外を見た。来るときと逆の方向に、景色が流れていく。田畑が、川が、山が、街が、後ろへ流れていく。
誠司は、来るときにも同じ景色を見たことを思った。しかし今は、同じ景色が違って見える。来るときは、これらの景色を通り過ぎていく自分を感じた。しかし今は、これらの景色が自分の中に入ってくるような感じがする。
八日間で、何かが変わった。
外の世界が変わったわけではない。誠司が変わった。どう変わったかは、まだうまく言えない。しかし確かに何かが違う。風景の受け取り方が、少し変わった。それだけで、世界の見え方が変わる。
新幹線は静かに走った。
誠司は手帳を開いた。旅の間に書いたいくつかの言葉を、読み返した。
今日一日を、丁寧に。
消えた星の光が、今夜届いた。
泉に、手紙を書こう。
慶介にも、電話しよう。
手紙はもう出した。電話はもうした。残るのは最初の言葉だけだ。今日一日を、丁寧に。これは、今日だけではなく、明日も、明後日も、続けていく言葉だ。
誠司はそこに、もう一行書き加えた。
残りの桜を、ちゃんと見よう。
詩の言葉を思い出していた。「あと何度の桜を見れるのだろ~か?」。誠司にはわからない。あと十回か、二十回か、それ以下か。しかし何回であれ、その一回一回を、ちゃんと見よう。見過ごさないようにしよう。
それだけのことだ。しかし、それがこれまでできていなかった。
*
東京が近づいてきた。
ビルが増えた。住宅が増えた。川が光った。誠司には馴染みのある景色だ。三十年以上、この景色の中で生きてきた。
東京は変わっていない。
しかし誠司には、この景色が少し違って見えた。ビルの一つ一つに、人が住んでいる。窓の一つ一つに、誰かの生活がある。その全員が、それぞれの五十八年間を、あるいは二十年間を、あるいは八十年間を生きている。それぞれの後悔と、それぞれの喜びと、それぞれの眠れない夜を持って。
誠司は一人だが、一人ではない。
この街に、同じような重さを持った人間が、無数にいる。それを感じることが、今の誠司にはできた。旅の前は、自分の重さだけが見えていた。しかし今は、他の誰かの重さも、少しだけ感じることができる。
それが、旅が変えたものの一つかもしれない。
*
東京駅に着いた。
ホームに降りると、人が多かった。スーツ姿の男女、旅行者、学生、老人。みんながそれぞれの方向に歩いていた。誰も誰かを見ていなかった。ただ、前を向いて歩いていた。
誠司はその流れの中に入り、出口へと歩いた。
改札を出たところで、ふと足を止めた。
何があったわけではない。ただ、立ち止まりたかった。ここが旅の終わりであり、また何かの始まりである場所だと感じたから。
誠司は周りを見た。
人が流れていた。ここを通る人は、みな何かへ向かっている。到着した人も、出発する人も、ここを通り過ぎる。東京駅という場所は、何万人もの通過点だ。誠司も、今日またここを通過している。
しかし通過点は、ただの通過点ではない。
ここで立ち止まり、ここで息をつき、ここで何かを思った。その瞬間は、たった一度しかない。明日また同じ場所に来ても、それは今日の瞬間ではない。今日のこの瞬間は、今日だけのものだ。
誠司は深く息を吸った。
東京の空気だった。山の空気とは違う。人の匂いと、排気の匂いと、食べ物の匂いが混じった、複雑な空気だ。しかしそれも、誠司の空気だ。三十年以上、この空気を吸って生きてきた。
悪くない、と思った。
*
家に戻ったのは、夕方だった。
玄関のドアを開けると、八日間誰もいなかった部屋の、静かな空気があった。誠司は鞄を下ろし、コートを脱いだ。
台所でお湯を沸かした。コーヒーを一杯だけ作った。
テーブルに座り、コーヒーを飲んだ。
窓の外に、銀杏並木が見えた。出発した日よりも、葉が黄色くなっていた。八日間で、確実に秋が深まっていた。
誠司は銀杏の葉を見ながら、この部屋のことを考えた。
ここは、変わっていない。同じテーブル、同じ椅子、同じ窓。泉がいなくなってから、誠司が一人で使ってきた部屋。しかし今日は、この部屋が少し違って見えた。空虚ではない。静かなだけだ。静かさは、空虚とは違う。
誠司は旅の間に受け取ったものを、この部屋に持ち帰った。
ケヤキの木の気配。波の音。錆びた線路の夕日。祭りの太鼓の余韻。老人たちの言葉。星の光。それらが全部、今この部屋にある。見えないが、ある。
コーヒーが、温かかった。
誠司はゆっくりと飲んだ。
*
夜になった。
誠司は机に向かい、便箋を取り出した。泉への手紙はもう出した。今度は、自分のために書こうと思った。
旅で感じたことを、誰かに伝えるためではなく、ただ自分の中に刻むために。
ペンを持ち、書き始めた。
書いているうちに、言葉が思ったより出てきた。詩のような言葉ではなく、ただの散文だったが、それでよかった。自分の言葉で、自分のことを書く。それが今の誠司にできる、最も正直なことだった。
書きながら、誠司は思った。
自分は今、長編小説の中にいる。
生まれてから今日までが、前半だ。後半はまだわからない。どれだけのページが残っているかも、どんな展開が待っているかも、わからない。しかし残りのページがどれほど少なくても、一ページ一ページを丁寧に生きることはできる。
書き終えた紙を、誠司は机の引き出しにしまった。
誰かに見せるためのものではない。ただ、自分のためのものだ。
電気を消す前に、誠司は窓の外を見た。
銀杏並木の葉が、街灯に照らされて光っていた。黄色い葉が、夜の中で輝いていた。風が吹くたびに、葉がいくつか舞い落ちた。落ちた葉が、アスファルトの上で静かに横たわった。
明日もまた、葉が落ちるだろう。
明日もまた、朝が来るだろう。
誠司はそれを、静かに待てる気がした。
電気を消した。
暗い部屋の中で、街灯の光だけが薄く差し込んでいた。
誠司は布団に入り、目を開けたまま、天井を見た。
見慣れた天井だった。三十年近く見続けてきた天井だ。しかし今夜は、その天井が少し違って見えた。木の目は同じだ。シミも同じだ。しかし、見る目が違う。八日間の旅を経た目で見ると、この天井にも、長い時間がある。この部屋が建てられた日からの時間が。この部屋で眠ってきた人たちの時間が。
誠司は静かに、目を閉じた。
*
翌朝、誠司は早く目が覚めた。
まだ暗いうちだった。しかし起き上がり、台所でお湯を沸かした。コーヒーを作り、窓のそばに立った。
東の空が、かすかに白み始めていた。
銀杏の葉が、暗がりの中でかすかに揺れていた。まだ街は静かだった。車の音もなく、人の声もなかった。ただ、風の音だけがあった。
誠司は、コーヒーカップを両手で包んだ。温もりが手のひらに伝わってきた。
空が、少しずつ明るくなっていった。
灰色が水色になり、水色に橙が滲んだ。雲が一筋、横に流れていた。その雲の下から、光が来た。
東京でも、夜明けは来る。
当たり前のことだ。しかし誠司は今日初めて、この窓からの夜明けを、ちゃんと見た気がした。三十年近く、この窓から空を見てきたはずだが、本当に見ていたかどうかは、怪しい。見ていても、見ていなかった。今日は、見ている。
銀杏の葉が、朝の光を受け始めた。
黄色い葉が、金色に輝いた。
誠司はその光を見ながら、旅のことを思った。旅はもう終わった。しかし旅が始めたことは、まだ続いている。今日一日を丁寧に生きることは、今日も続く。明日も続く。それが終わるのは、誠司自身が終わるときだ。
誠司は、それでいいと思った。
答えは出なかった。大きな悟りもなかった。人生の謎が解けたわけでもない。しかし何かが変わった。変わったというより、始まった。小さな、静かな何かが。
銀杏の葉が一枚、風に舞った。
くるくると回りながら、ゆっくりと落ちた。
アスファルトの上に、静かに着いた。
誠司はそれを見ていた。
コーヒーが、少し冷めていた。
しかし誠司は、最後の一口まで、丁寧に飲んだ。
空が、どこまでも青くなっていった。
今日も、地球は変わらずここにある。
消えた星の光は、今日も旅を続けている。
そして誠司は、今日もここにいる。
それだけのことが、今日の誠司には、とても大きなことだった。
了
―あとがきー
旅先で、あるいは日常の中で、歴史的なものや大きな自然に触れたとき、人は自分の小ささと向き合う。その瞬間が、この小説の出発点だった。
田中誠司という人物は、特別な男ではない。どこにでもいる、普通の五十八歳だ。しかしその普通の男が、一人で旅に出て、古い木と、廃線と、海と、星と、いくつかの老人と出会うことで、少しずつ変わっていく。大きく変わるのではない。ただ、今日一日を丁寧に生きようと思えるくらいに、変わる。
人間は通過点だ。地上の長い時間の中で、ほんの一瞬を生きて、過ぎ去っていく。しかしその通過は、確かに何かを変える。消えた星の光が、今夜誰かの目に届くように、人の一生もまた、見えない形で誰かへと届いていく。
この小説を読んでくださったあなたも、今日という一日を、丁寧に生きてほしい。
残りの桜を、ちゃんと見てほしい。
Kindle
ー紹介文ー
「消えた星の光が、今夜僕の目に届いた」
広告代理店に勤め、仕事と家族のために「選ばなかった道」を積み重ねてきた五十八歳の男、田中誠司。定年を前に、彼は一人きりの旅に出る。
京都の巨木、日本海の鉛色の波、山あいの祭りの太鼓、そして満天の星空――。
旅先で出会う風景と人々との対話の中で、誠司は「歩んできた道」に転がっていた石ころや泥を、ひとつひとつ見つめ直していく。
人生の黄昏時にさしかかった男が、宇宙という壮大な時間軸の中で見つけた「今日一日を丁寧に生きる」という光。後悔を抱えたまま、それでも前を向いて日常へ帰るための、静かな再生の物語。