続き…
十一章 女将の過去、もう一つ
五月の連休が明けた週、「あさぎ」に珍しい客が来た。
七十に近い、背の高い男性だった。白髪で、姿勢がよく、高級とは言えないがきちんとした背広を着ていた。
男は店に入るなり、澄子を見て、すこし目を細めた。
「桐島さん……じゃないですね、今は」
澄子は一瞬、記憶をたどった。
「……村松さん?」
「覚えてましたか」
村松、という男を、澄子は四十年以上ぶりに見た。
信用金庫時代の先輩だった。誠一より三つ上で、当時は誠一とは別の係にいた。背が高く、顔立ちが整っており、職場の女性たちの間では「村松さんに好かれたい」という空気があった。
村松は、かつて澄子に告白したことがある。
それは、澄子が誠一と付き合いはじめた少し後のことだった。
村松に呼び出されて、近くの公園のベンチに座った。村松はまっすぐに言った。
「桐島さんが好きです。付き合ってもらえませんか」
澄子は困った。
誠一と付き合っていることを、職場にはまだ伝えていなかった。どう答えるべきか、一瞬迷った。
でも澄子は、正直に答えた。
「すみません、今、好きな人がいます」
「誰ですか」と村松は訊いた。
澄子は少し考えてから、「誠一くんです」と言った。
村松は驚いた顔をした。誠一の名前が出るとは、思っていなかったのだろう。
「桐島さんが誠一を?」
「おかしいですか」
村松はしばらく黙っていた。それから「おかしくはないけど、意外だった」と言った。
「なんで意外なんですか」と澄子は訊いた。怒った口調ではなく、本当に知りたくて。
村松は答えられなかった。
「村松さん、誠一くんの何を知ってますか」と澄子は続けた。「顔じゃないところを、どれだけ見てましたか」
村松はまた黙った。
澄子は「すみません」と頭を下げて、立ち上がった。
カウンターで向き合った村松は、澄子の入れた燗酒を両手で包んだ。
「あのとき、恥ずかしかったです」と村松は言った。「桐島さんに言われたこと、ずっと覚えてた」
「何を言いましたか、私」
「誠一の何を知ってるか、顔じゃないところをどれだけ見てたか、って」
澄子は静かに聞いた。
「あの言葉で、自分が誠一を全然見ていなかったことがわかって。誠一の顔が地味だから、最初から視界に入ってなかった。でも桐島さんには、ちゃんと見えてた」
「そうですね」
「その後、誠一のことをちゃんと見るようにしたら、すごい男だったんだな、ってわかりました。あいつが死んだとき、ずっと後悔していました」
「何を後悔したんですか」
「もっと早く友達になっておけばよかった、って」
澄子はそれを聞いて、少し目頭が熱くなった。
誠一が死んだとき、葬儀には多くの人が来た。皆、誠一をよく知っていた人たちで、誠一の隠れた誠実さを、それぞれの言葉で澄子に伝えてくれた。
でも「もっと早く友達になっておけばよかった」という後悔は、初めて聞いた。
「ありがとうございます」と澄子は言った。「誠一さんが聞いたら、喜んだと思います」
村松は燗酒を一口飲んで、「いい店ですね」と言った。
「ありがとうございます」
「誠一が羨ましい」
澄子は笑った。声に出して、久しぶりに、笑った。
十ニ章 いつも、そこで微笑んでいる
令和七年、初夏。
神楽坂の路地に、梅雨前の柔らかい風が通る。
「あさぎ」の暖簾は、今日も浅葱色だった。
壮介と凛が正式に付き合いはじめて、半年が経った。
二人はまだ、劇的な何かがあったわけではなかった。ただ、週に何度か会い、映画を見て、飯を食い、他愛もない話をした。壮介は相変わらず、凛が話したことを覚えていた。凛は相変わらず、壮介の見えないところを見ていた。
ある日、壮介が言った。
「椎名さんのおばさんの店、連れて行ってもらえますか」
凛は少し驚いた。
「いいけど……緊張する?」
「します」と壮介は正直に言った。「でも、行きたい」
「なんで?」
「椎名さんが、一番大事にしてる人に会いたいから」
凛はその言葉を聞いて、返す言葉が出なかった。
二人が「あさぎ」に来たのは、六月の雨の夜だった。
澄子は二人を見て、何も言わずにカウンターへ案内した。
壮介は静かに座り、「よろしくお願いします」と頭を下げた。飾らない挨拶だった。
澄子は「どうぞ」と言って、燗酒と小鉢を出した。
しばらく、三人で話した。壮介は澄子に、店の歴史のことや、料理のことを訊いた。澄子は答えた。壮介は聞いた。大げさに感心するのでも、愛想で笑うのでもなく、ただ、静かに聞いた。
澄子は途中で思った。
この人は、聞ける人だ。
誠一と同じではない。でも、聞くことを大事にしている人だ。
「凛から、よく話を聞いてます」と壮介は言った。
「そうですか」
「誠一さんのこと、お皿の裏を洗う人、という話が印象に残っていて」
澄子は少し目を細めた。
「凛が話しましたか」
「はい。それを聞いてから、自分はどうだろうって、考えるようになりました」
「どうでした?」
「まだまだだと思いました」と壮介は言った。笑いながら、でも真剣に。
澄子はその顔を見た。
整った顔だった。しかし今、澄子の目には、顔より先に「この人の誠実さ」が見えた。
よかった、と澄子は思った。
哲也とさつきは、夏に入ってから、一緒に旅行に行った。
行き先は、哲也の提案で、さつきの地元だった。「あなたのことを、もっと知りたいから」というのが理由だった。
さつきは少し泣いた。
哲也は「なんで泣くんだ」と言った。
「嬉しくて」とさつきは言った。
哲也は困ったように頭を掻いた。それが、さつきにはかわいく見えた。
十三章 凛の仕事
六月、凛の職場では夏の文芸フェアの準備が始まっていた。
凛が勤める出版社は、中規模の総合出版社で、文芸部門はそのなかでも小さな部署だった。大きな賞を取る作家を擁しているわけでも、ベストセラーを連発しているわけでもない。ただ、地道に、丁寧な本を作り続けている、そういう部署だった。
凛はそこに入って五年になる。最初の二年は雑用と校正ばかりだったが、三年目からは担当作家を持たせてもらった。今は三人の作家の担当編集として動いている。
「椎名さん、これ見てもらえますか」
後輩の山田が、ゲラ刷りを持ってきた。入社二年目の、真面目な男性だった。
「どこが気になる?」
「この段落、なんか文章の流れが止まる感じがして」
凛はゲラを受け取り、その段落を読んだ。確かに、一文だけ浮いている。前後の文脈に対して、主語が唐突に変わっていた。
「ここの主語ね」と凛は言った。「前の文が作者の視点で、この一文だけ登場人物の視点になってる。それで止まる感じがするんだと思う」
「ああ」と山田はうなずいた。「どう直したらいいですか」
「作家さんに確認してから、でもその前に自分だったらどう直すか、案を出してみて。二、三案。それを持って相談すると、作家さんも考えやすいから」
山田はメモを取りながら「ありがとうございます」と言った。
凛はゲラを返しながら、ふと、壮介のことを思った。
壮介も、仕事でこういう場面があるのだろうか。後輩に教えたり、誰かのフォローをしたり。職場の外では見えない顔が、きっとある。
人は、仕事の場に別の顔を持っている。その顔が、家の顔や恋人の前の顔と、どれだけ近いか。それが人柄の一つの目安だと、澄子から聞いたことがあった。
その日の夕方、凛は担当作家の一人、神田という六十代の女性作家と打ち合わせをした。
神田は、長年、地味な恋愛小説を書き続けている作家だった。派手な展開も、驚きのどんでん返しもない。ただ、ごく普通の男女が、日常の中で出会い、迷い、少しずつ距離を縮めていく話を、淡々と書く。
それが不思議なほど売れないかというと、そうでもない。毎回同じような読者が買ってくれる。固定ファンがいる。
「凛さん、最近どう?」と神田は訊いた。打ち合わせが終わったあと、いつもこうして雑談をする。
「どう、と言われると」と凛は笑った。「まあ、いろいろ」
「恋人できたでしょ」
「なんでわかるんですか」
「顔が変わった」と神田は言った。「顔の作りじゃなくて、顔の向きが変わった。少し、外を向くようになった」
凛は少し驚いた。
「外を向く?」
「以前の凛さんは、仕事のことだけ見てた。でも最近、ときどき、仕事と関係ないところを見てる顔をする。それが恋人がいる人の顔」
凛は照れながら「そうですか」と言った。
「どんな人?」神田は興味深そうに訊いた。
「外見がいい人なんです」
「ほう」
「最初、怖かったんです。外見がよすぎて。でも、ちゃんと見たら、全然違った」
神田はしばらく黙っていた。それから言った。
「それ、私の小説のテーマそのものね」
「そうですね」と凛は笑った。「読んでたから、少し気づくのが早かったのかもしれない」
神田は嬉しそうに、しかし照れたように「そう言ってもらえると書いた甲斐があるわ」と言った。
その夜、凛はアパートで壮介と電話した。
「今日、担当作家さんに顔が変わったって言われた」
「変わった?」
「外を向くようになったって。谷口さんのせいだよ」
壮介は少し笑った。
「それは嬉しいな」
「なんで嬉しいの」
「椎名さんが、僕のせいで変わったって思ったら」壮介は少し間を置いた。「椎名さんの顔を、外に向けたのが俺なら、その外で見るものが全部、俺が渡したみたいで」
凛は受話器を持ったまま、しばらく黙っていた。
「谷口さんって、たまにすごいこと言う」
「言いましたか」
「言った。しかも気取らずに」
壮介は「それは凛さんのせいです」と言った。
「どういう意味?」
「椎名さんと話してると、なんか、ちゃんとしたことを言いたくなる」
凛はまた黙った。
「なんか、今日はいい日だな」と凛は言った。
「毎日そう思えたらいいですね」と壮介は言った。
十四章 誠一の手帳
七月の半ば、澄子は押し入れの整理をしていて、一冊の手帳を見つけた。
誠一の手帳だった。
亡くなった年のもので、革張りの、古い手帳だった。誠一は手帳にこだわりがあり、毎年同じブランドの、同じサイズの革手帳を使っていた。
澄子は開くのをためらった。
一年以上、この手帳の存在を知っていたが、開いたことがなかった。開けば、誠一がそこにいるような気がして、それが嬉しくもあり、怖くもあった。
でもその日は、なぜか、開こうと思った。
手帳の最初のページに、誠一の字で、こう書いてあった。
「今年やること」
箇条書きが三つ。
一、澄子の店の水回りを直す。 一、澄子の誕生日に、好きな花を贈る。
一、体の検査を、ちゃんと受ける。
澄子は、しばらく動けなかった。
水回りは、直してくれた。誕生日の花も、贈ってくれた。体の検査は、その年の秋に受けて、癌が見つかった。
三つとも、書いた通りにした人だった。
手帳をめくると、日々の短い記録があった。
誠一は几帳面だったが、日記を書くタイプではなかった。手帳には、予定と、短いメモが残っているだけだった。
三月のページ。「澄子、忙しそう。夕飯、作っておく」
五月のページ。「父の命日。電話する」
七月のページ。「あさぎ、お客が増えてきた。澄子、がんばってる」
八月のページ。「検査の予約、入れた」
そして十月のページ。「告知。澄子、泣かせてしまった」
澄子はそのページで、手帳を閉じた。
泣かせてしまった、という言葉。
あの夜、病院からの帰り道、澄子は泣きながら歩いた。誠一の手が、ずっと澄子の手を握っていた。誰かが癌になったというのに、泣いているのは澄子のほうで、誠一は「ごめんな」と繰り返していた。
誠一は、自分が死ぬかもしれないということより、澄子を泣かせてしまったことを、先に気にした。
そういう人だった。
澄子は手帳を胸に抱えて、しばらくそのまま座っていた。
その週末、凛が「あさぎ」に来た。
澄子は手帳のことを話さなかった。しかし、何かを感じたのか、凛は「おばさん、今日なんか違う顔してる」と言った。
「そう?」
「うん。いつもより、柔らかい感じ」
澄子は少し笑った。
「誠一さんの手帳が出てきてね」
「手帳?」
「その年にやることを書いてた。三つ。全部ちゃんとやってた」
凛は黙って聞いた。
「三つ目が、体の検査をちゃんと受ける、だったの。それで癌がわかった」
「おじさん、自分でわかってたの?」
「わかってたかどうか、聞かなかった。でも」と澄子は言った。「書いてあった。ちゃんとやることの一つに、体の検査が入ってた。なんとなく、気になってたんじゃないかと思う」
凛はしばらく考えてから言った。
「それって、自分のためだけじゃなくて、おばさんのために受けたのかもしれない」
澄子は答えなかった。
答えなかったけれど、凛の言葉が正しいかもしれないと思った。
誠一は、自分より先に澄子のことを心配する人だった。体の検査を受けたのも、早く見つかれば、澄子を長く心配させずに済む、という気持ちがあったのかもしれない。
それでも見つかるのが遅くて、五年かかった。
「ごめんな」と繰り返した声を、澄子はまた思い出した。
十五章 壮介の家
八月に入り、凛は初めて壮介のマンションを訪れた。
東京の西のほう、静かな住宅地の中の、こぢんまりしたワンルームだった。家賃が安そうな部屋だったが、中は整っていた。本棚があり、映画のパンフレットが並んでいた。キッチンは小さいが、きれいだった。
「料理するんですか」と凛は訊いた。
「簡単なものは」
「たとえば?」
「炒め物とか、味噌汁とか。あと、煮物を少し」
「煮物?」
「好きなんです、煮物」壮介は少し照れた顔をした。「男が煮物って、変ですかね」
「全然」と凛は言った。「むしろいい」
「おばあちゃんが教えてくれて。小学生の頃から、一緒に作ってました」
凛は壮介の本棚を眺めながら、「おばあちゃん、好きだったんですか」と訊いた。
「好きでした。もう亡くなりましたが」
「どんな人でしたか」
壮介はすこし考えた。
「僕の顔を、一度もほめなかった人」
凛は振り返った。
「ほめなかった?」
「周りの人がみんな、かわいいとかきれいとか言う中で、おばあちゃんだけ言わなかった。かわりに、字がきれいだとか、話を聞いてるとか、そういうことをほめてくれた」
凛は、澄子の言葉を思い出した。
誠一は、私の顔を一度もほめなかった。料理はほめてくれたし、字がきれいだってほめてくれた。
「おばあちゃんが、谷口さんを作ったんですね」と凛は言った。
壮介は少し驚いた顔をして、それから笑った。
「そうかもしれない」
昼に、壮介が煮物を作った。
里芋と鶏肉の煮物で、出汁がしっかり効いていた。凛は一口食べて、「おいしい」と思った。思っただけでなく、言った。
「おいしいです」
「ありがとうございます」
「出汁、何使ってるんですか」
「昆布と鰹。おばあちゃんに教わった通りに」
凛はもう一口食べた。
家庭的な味だった。飾りがない。でも、丁寧に作られているのがわかる味だった。素材の味が、ちゃんと残っている。
「谷口さんって、料理にも出るんですね」と凛は言った。
「何が?」
「丁寧さ。急がない感じ」
壮介はすこし考えてから「そうかな」と言った。「煮物は急げないんで」
「でも炒め物は急ぐじゃないですか」
「炒め物も丁寧にはできますよ」
凛は笑った。
「負けず嫌いだ」
「違います。ただの事実です」
二人でまた笑った。
その笑い声が、小さなワンルームに広がった。飾りのない、ただの笑い声だった。それが凛には、とても心地よかった。
夕方、凛が帰り際に、壮介が言った。
「椎名さんのこと、おばあちゃんに会わせたかったな」
「なんで?」
「気に入ったと思うから」
「どうして?」
「椎名さんは、見えないところを見る人だから。おばあちゃんも、そういう人が好きだった」
凛は少し黙った。
「私、見えないところを見てますか」
「見てます」と壮介は言った。「俺が初めて手伝ったとき、椎名さん、俺のことを顔で見てなかった。困ってる人を助けてくれた、としか見てなかった。そういう目で見てくれる人は、少ないんです」
凛はその言葉を、帰りの電車の中で何度も繰り返した。
自分が壮介を「外見が怖い」と思っていた頃、壮介は凛のことをそんなふうに見ていたのか。
外見で判断されることに疲れていた壮介が、外見より先に行動を見てくれた凛を、大事だと思ってくれていたのか。
凛は窓の外の夜景を見ながら、これが「お互い様」ということかもしれないと思った。
十六章 さつきの話
九月、哲也とさつきは交際半年になった。
さつきは、哲也が思っていたよりずっと、よく笑う人だった。
笑いのツボが独特で、誰も笑わないところで笑い、みんなが笑うところで真顔でいることがあった。その笑い方が哲也には不思議で、しかし見ていると自然とつられた。
「さっちゃんって、どういうとき笑うんだ」とある日哲也は訊いた。
「え?」
「みんなが笑わないところで笑うから」
さつきはしばらく考えた。
「なんか、ズレてるところが好きで」と言った。
「ズレてる?」
「一生懸命やってるのに、ちょっとだけうまくいかない、みたいな。誰かがそういう場面になると、なんか、愛おしくて笑っちゃう」
哲也はそれを聞いて、なるほどと思った。
さつきは、完璧なものより、少し不完全なものに反応する。それが笑いとして出てくる。悪意のある笑いじゃない。愛おしさからくる笑いだ。
「じゃあ、俺のことよく笑うのは」
「哲也さんが、いつもちょっとだけうまくいかないから」
哲也は「そうか」と言った。
「嫌ですか?」
「いや。なんか、ほっとした」
さつきは首を傾けた。
「ほっとした?」
「完璧に見られたくなかったから」
さつきはそれを聞いて、また笑った。
さつきは、工務店の事務として、毎日伝票と見積書と請求書を扱っていた。
地味な仕事だった。誰かに褒められることも少ない。しかし、さつきは丁寧にやっていた。数字に間違いがないのはもちろん、書類のファイリングの仕方も、取引先への電話の仕方も、誰も見ていないところで丁寧にやっていた。
哲也はそれを、付き合うまで知らなかった。
付き合ってから気づいたのは、さつきが帰り際に必ずデスクの周りを片付けること、コピー機のトナーが少なくなっていたら自分で交換していること、来客用のお茶のセットを毎朝補充していることだった。
誰も頼んでいない。さつきが自分でやっている。
「なんでそういうことするの」と哲也はある日訊いた。
「気になるから」とさつきは言った。「放っておけないの。誰かが困るから」
「その誰かは、あなたがやってるって知らないよ」
「知らなくていい」
哲也は黙った。
お皿の裏を洗う、という言葉を思い出した。凛に聞いた、澄子おばさんの言葉。
さつきはお皿の裏を洗う人だ。
そして、俺も、そうでありたいと思っている。
似たような人間が、引き合うのかもしれない。
十月のある日曜日、さつきが哲也の部屋に来た。
哲也の部屋は、綺麗とは言えなかった。仕事道具が出しっぱなしだったり、本が積まれていたりした。それでもさつきは何も言わなかった。ただ、帰り際に、玄関のたたきを揃えて帰った。
哲也は気づいた。
「あ、揃えてくれたの」
「散らかってたから」
「ありがとう」
さつきは「どういたしまして」と言って出て行った。
哲也はその後、一人で部屋に立ちながら、揃えられた靴を見た。
大したことではない。靴を揃えただけだ。でも、その「だけ」が積み重なって、人の印象を作っていく。
俺もそういう人間になろうと、哲也は思った。誰も見ていないところで、少しずつ。
十七章 澄子と川上
十一月のある夜、常連の編集者・川上が、いつもより遅い時間に「あさぎ」に来た。
顔色が悪かった。
「どうしたんですか」と澄子は訊いた。
「いや、ちょっと」川上は曖昧に笑った。「会社でごたごたがあって」
「そうですか」
澄子は何も訊かなかった。燗酒を出して、季節の小鉢を並べた。
川上はしばらく黙って飲んだ。澄子は他のお客の対応をしながら、川上の様子を見ていた。
三杯目を頼んだあと、川上が言った。
「女将さん、俺、会社辞めようかと思ってます」
「そうですか」と澄子は言った。
「驚かないんですか」
「驚いてますよ。でも、訊いていいのかわからないから」
川上は少し笑った。「訊いてください」
「何があったんですか」
川上は短く話した。長年担当してきた作家が、他社に移ることになった。自分の力不足もあったが、会社の方針のせいでもあった。その方針を変えようとしたが、上に通らなかった。もうここでは、やりたいことができないかもしれない。
「辞めて、どうするんですか」と澄子は訊いた。
「フリーで編集をやろうかと」
「それ、やりたいことができますか」
「たぶん。でも、怖い」
澄子は燗酒を注ぎながら言った。
「怖くて当然だと思いますよ」
「慰めにならないですね」
「慰めるつもりがないので」澄子は少し笑った。「怖いのは、大事なことをしようとしてるからでしょ。大事じゃないことは、怖くないから」
川上はそれを聞いて、しばらく黙っていた。
「女将さんは、この店を開くとき、怖くなかったんですか」と川上は訊いた。
澄子は少し考えた。
「怖かったですよ。誠一さんが亡くなってから、一人でやっていけるかどうか」
「それでも開いた」
「開くしかなかったんです。誠一さんが、私に料理を作る場所を残しておきたかった人だったから」
川上は首を傾けた。「どういう意味ですか」
「誠一さん、亡くなる少し前に言ったんです。澄子の料理を、もっと多くの人に食べさせたかったって」澄子はすこし遠くを見た。「自分が食べられなくなるから、その代わりに、誰かに食べてもらいたかったんじゃないかって、私は思って」
「それで店を開いたんですか」
「一つの理由ですね。誠一さんが食べていた場所を、ずっと続けようと思って」
川上は黙って、お猪口を握った。
「それは、強い理由ですね」
「強いかどうかわからないけど、迷ったときに戻れる場所になってます」
川上はしばらく黙っていた。それから「ありがとうございます」と言った。
「何もしてないですよ」
「聞いてもらいました」
澄子は「それだけですよ」と笑った。
川上は翌月、会社を辞めた。フリーの編集者として、今も「あさぎ」に通い続けている。
川上が帰ったあと、澄子は片付けをしながら、誠一の言葉を思い返した。
澄子の料理を、もっと多くの人に食べさせたかった。
あの言葉を言ったとき、誠一の声は弱々しかった。体がもう、ほとんど動かない頃だった。澄子はその言葉を聞いて、泣かないようにするのが精いっぱいだった。
なぜ誠一は、そんなことを言ったのか。
今でも、本当のことはわからない。ただ澄子が一人になっても、前を向いて生きていけるように、理由を作ってくれたのかもしれない。
誠一はいつも、先のことを考えていた。
自分がいなくなった後も、澄子が微笑んでいられるように。いつもそこに立っていられるように。
「あなたって、ずるいわね」
誰もいない店の中で、澄子は誠一の写真に言った。
「全部、私が前を向くように仕向けて」
写真の誠一は、笑ったままだった。
十八章 手紙
十二月の初め、澄子のもとに一通の手紙が届いた。
差出人の名前を見て、澄子は驚いた。
西村恵子。
中学時代のクラスメートで、男子全員が振り返った、あの美しい子だった。
何十年も連絡を取っていなかった。どこで「あさぎ」のことを知ったのか、手紙の中にはこう書いてあった。
「先月、神楽坂を通りかかって、あさぎ、という暖簾を見ました。まさかと思って確認したら、澄子さんの店と知りました。手紙を書きました」
澄子は手紙を読み続けた。
恵子は今、五十九歳で、名古屋に住んでいるという。一度結婚したが、離婚した。子どもはいない。今は小さな花屋を経営している。
「あの頃の私を、覚えていますか。みんながちやほやしてくれて、自分が特別な人間だと思っていた頃の私を。あの頃の自分が、今は恥ずかしい。外見だけで得をしようとしていた自分が」
澄子は手紙を膝に置いた。
手紙には、続きがあった。
「離婚したのは、夫が外見以外の私を見てくれなかったからです。きれいなものが好きで、きれいな妻を飾りのように扱いました。最初はそれが嬉しかった。でも、年をとるにつれて怖くなった。顔が衰えたら、捨てられると思って。実際、そうなりました」
澄子はしばらく読めなかった。
「今は花屋で、花を売っています。花は正直です。手をかけた分だけ美しく、手を抜いた分だけ枯れる。外見だけ見ていても、育てられない。花を育てるようになって、初めてそれがわかった気がします」
「澄子さんは、よいご主人と出会ったと聞きました。共通の知人から。格好よくないけれど、誠実な人だったと。あなたがそういう人を選べたのは、あなたが、外見より先に人の中身を見ていたからだと思います。私にはできなかったことです」
手紙の最後にこう書いてあった。
「いつか、お店に伺いたいと思っています。もしよければ、また連絡させてください」
澄子は手紙を折り畳み、封筒に戻した。
窓の外では、十二月の風が神楽坂の路地を吹いていた。
その夜、澄子は恵子への返信を書いた。
長い手紙を書こうかと思ったが、やめた。短くていいと思った。
「お手紙、ありがとうございました。お待ちしています。神楽坂はこの季節、寒いですが、温かい燗酒をご用意します。いつでもどうぞ。桐島澄子」
それだけ書いて、封筒に入れた。
恵子が外見だけで生きようとしていた頃、澄子もまた、外見と中身の間で迷っていた。二人は全然違う道を歩んだが、六十歳になって、同じ場所に辿り着こうとしているのかもしれない。
外見は、通り過ぎるものだ。
でも通り過ぎた後に残るもの、日々の積み重ね、誰も見ていないときの自分、そういうものが人を作っていく。
恵子は花屋で、それを学んだ。
澄子は料理屋で、誠一と一緒に、それを生きてきた。
道は違っても、たどり着く場所は近かった。
十九章 凛と壮介、正直な夜
十二月の中旬、凛と壮介はいつもの焼き鳥屋にいた。
付き合い始めて一年近くになる。二人の間に、最初の頃の緊張はなかった。ただ、穏やかな時間があった。
「谷口さん、一個訊いていい?」と凛は言った。
「何ですか」
「私のこと、どう思って好きになったの。最初」
壮介はビールを飲みながら、少し考えた。
「残業のとき、椎名さんが一人でやってたじゃないですか」
「うん」
「あのとき、声をかけようか迷ったんです。断られるかもと思って」
「断ったじゃないですか、最初」
「断られました」と壮介は笑った。「でも、椎名さんの断り方が、他の人と違った」
「どう違ったの?」
「他の人はみんな、最初から手伝いを受け入れてくれる。俺が行けば、大抵の人は歓迎してくれる。でも椎名さんは断った。俺の外見に関係なく、本当に『大丈夫です』と思ったから断った。そういう目をしてた」
凛は少し驚いた。
「それが……よかったの?」
「はい」と壮介は言った。「外見じゃなくて、状況だけ見て判断してくれた。それが嬉しかった」
「私も訊いていい?」と壮介は言った。
「なに?」
「椎名さんが、俺のこと好きになったのは、いつ頃ですか」
凛は少し考えた。
「手伝ってもらって、終わったあと」と凛は言った。「『お互い様です』って言われたとき」
「それで?」
「お礼を言ったら普通は『いえいえ』か『どういたしまして』か、そういう言葉が返ってくる。でも谷口さんは『お互い様』って言った。私が返してもらうことより、私が手伝ってもらったことと同じくらいのことを、自分もしてもらってる、みたいな言い方で」
「あのときはそういうつもりで言いました」
「だから好きになった。あの言葉が、対等だと思ってる人の言葉で」
壮介はしばらく黙っていた。
「お互い様、ですね」と壮介は言った。
「うん」
二人は同時に少し笑った。
帰り道、二人で夜の神楽坂を歩いた。
十二月の夜は冷たく、息が白かった。凛はコートのポケットに手を入れた。隣を歩く壮介が、何も言わずに凛の手をポケットごと握った。
凛は立ち止まらなかった。そのまま歩き続けた。
「谷口さんって」と凛は言った。
「何ですか」
「外見よりずっと、格好いいと思う」
壮介はしばらく黙っていた。
「それ、どういう意味ですか」
「顔じゃないところが、格好いいってこと」
壮介はまた黙った。しばらくして「それ、人生で一番嬉しい言葉かもしれない」と言った。
「大げさ」
「大げさじゃないです。顔をほめられても、自分のものじゃないから嬉しくないんです。でもそれは、俺のことをほめてもらえた感じがして」
凛は歩きながら、手を少し強く握られた気がした。
神楽坂の路地に、二人の影が伸びていた。
終章 「あさぎ」の一年
師走の「あさぎ」は、年の瀬の慌ただしさを帯びていた。
常連たちが今年最後の一杯を飲みに来る。忘年会の帰りに寄る人もいれば、一人でしみじみ飲みに来る人もいた。澄子はそのすべての人に、同じように接した。特別扱いはしない。でも誰も蔑ろにしない。
十二席のカウンターが、毎晩埋まっていた。
十二月のある夜、見慣れない顔が来た。
五十代くらいの女性で、上品な着物を着ていた。一人だった。
「おひとりですか」
「はい」
「どうぞ」と澄子は案内した。
女性は静かに座り、「燗酒を一本と、お任せで」と言った。
澄子は小鉢を出した。女性は食べながら、少しずつ表情が和らいでいくのが見えた。
帰り際、女性は言った。
「この店、前から来たかったんです。ずっと勇気が出なくて」
「そうですか」
「なぜか、緊張してしまって。でも来てよかった」
「また来てください」と澄子は言った。
女性は「はい」と言って、暖簾をくぐった。
澄子は背中を見送りながら、誠一のことを思った。
誠一も、最初に澄子に声をかけるのに、勇気が要ったと言っていた。告白するとき、缶コーヒーを二本持って、自動販売機の前で三分間立っていたと。
勇気は、外見に比例しない。
むしろ、外見に自信がない人ほど、勇気を出すのに時間がかかる。でもその時間の分だけ、言葉が重くなる。
「好きです、付き合ってください」という誠一の言葉が、飾りのないものだったのは、三分間の重みがあったからかもしれない。
クリスマスの夜、「あさぎ」に凛と壮介がやってきた。
二人でカウンターに並んで座り、燗酒を飲んだ。壮介は澄子の料理を食べながら、「本当においしいですね」と言った。大げさではなく、静かに、確かに。
「おじさんみたいなことを言う」と凛が言った。
「え?」と壮介は首を傾けた。
「誠一おじさんが、何を出しても本当においしいって言う人だったって」
壮介は少し考えてから、澄子を見た。
「それ、本当においしいんだと思います。俺も今、本当においしいと思ってますから」
澄子はすこし目を細めた。
「ありがとうございます」
この人は、お世辞が言えない人だ、と澄子は思った。
誠一と同じではない。でも、正直さを持っている人だ。
凛が選んだ人が、そういう人でよかった、と澄子は思った。
大晦日の二日前、哲也がさつきと一緒に「あさぎ」に来た。
凛から「おばさんの店に行ったほうがいいよ」と言われたのがきっかけだったが、哲也自身も一度来たいと思っていた。
澄子は哲也を見た。最後に会ったのは、誠一の葬儀のときだったか。
「ひさしぶりですね」と澄子は言った。
「ご無沙汰してます」と哲也は頭を下げた。「田中哲也です。凛の幼馴染の」
「覚えてますよ。大きくなりましたね」
「そうですか」と哲也は照れた顔をした。
さつきを紹介すると、澄子はさつきを見た。小柄で、丸顔で、目が細くなるほどよく笑う。
「よく笑う人ですね」と澄子は言った。
「そうですか」とさつきは笑った。
「いいことです。笑う人のそばにいると、気持ちがほぐれる」
哲也はその言葉を聞いて、そうだな、と思った。さつきのそばにいると、肩の力が抜ける。それが心地よくて、一緒にいたいと思う。
燗酒を飲みながら、澄子の料理を食べながら、四人でしばらく話した。
年の瀬の「あさぎ」は、温かかった。
澄子は一人でカウンターに座り、誠一の写真の前に小さなグラスを置いた。
「あなたがいたら、なんて言うかしらね」
写真の誠一は、あの歯並びの悪い笑顔のままだった。
「そうか」って言うだけかしら。それとも「よかったな」かしら。
澄子はグラスを傾けた。
外見と中身。器量と人柄。魔法と本物。
長いこと生きてきて、結局どちらが大事かという答えは出ない。両方が本物で、両方が幻だ。人は外見で最初の扉を開け、中身でそこに居続けるかどうかを決める。どちらを欠いても、話にならない。
ただ一つだけ、澄子が確かに知っていることがある。
誠一が、ガン告知の夜に泣きながら言った言葉。
「澄子と結婚できて、よかった」
あの言葉は、魔法でもなんでもなかった。外見でもなかった。ただの、本物だった。
澄子はグラスを置き、静かに立ち上がった。
明日も店は開く。お客さんが来る。出汁をとって、燗酒を温めて、いつもの場所に立つ。
そしていつものように、微笑んでいる。
その微笑みの理由を、知っている人はもういない。でもそれでいい、と澄子は思っていた。
知られなくても、本物は本物だ。
完
ーあとがきー
この物語は、一篇の詩から生まれました。
語り口は軽く、どこかおかしみがあって、でも確かなことを言っている詩でした。
「男は外見ではなく中身だって、いつぞやかどなたかが言ってたけれども」
そうなのです。みんなどこかでそれを聞いて、信じたいと思っている。でも現実には、外見が先に来る。それは嘘ではない。だから詩の語り手も、意地悪く否定するのでも、綺麗ごとで肯定するのでもなく、ただ「よ~だ」と言って笑う。その苦笑いの奥に、長い人生の実感がありました。
澄子というひとりの女性を書きながら、私はずっと、その笑いの意味を考えていました。
外見が先に来る。それはほんとうのことだ。でも外見だけで終わる関係は、外見が衰えたとき終わる。外見の奥にあるものを、時間をかけて見た人だけが、「この人でよかった」という言葉に辿り着く。
誠一という男は、格好よくありません。でも彼は、誰も見ていないところで丁寧にする人でした。お皿の裏を洗い、バレンタインのチョコを一ヶ月取っておき、妻が泣きそうなとき、何も訊かずに傍にいた。
それが、魔法より長く続くものだと、澄子は知っていました。
化粧は魔法です。外見もある意味では魔法です。でも、魔法は解ける。解けた後に残るものが、その人の本当の姿だとしたら、私たちは何を残せるだろうか。
この物語を書きながら、何度も自分に問いました。
見えないところを、丁寧にしているか。誰も見ていないときに、ちゃんとしているか。
答えは、まだ途中です。
それでも問い続けることが、大事なのだと思っています。
どうか、あなたにも、魔法が解けた後に「よかった」と思える人との出会いがありますように。
そして、あなた自身が、誰かにとっての「よかった」になれますように。
令和八年春
カトウかづひさ
ーおまけー
これは以前
ブログで書いたものを
物語に膨らましたものです
それをここに載せて置きます
It's Magic
男は
外見ではなく
中身だって
いつぞやか
どなたかが言ってたけれども
残念ながら
中身の前には
やはり
外見が ってことなよ~だ と悟った若い頃
特に
女性は
器量良く生まれただけで
幸せの9割を持ってる って言われた時代は確かにあって
こんな後半の人生の中ですら
日常
確かに実感として
それを感じとるわけで
しかして
若い男どもよ
結婚するなら
お皿の裏側も洗うよう でいて
でも
男のつまらん遊びくらい
見て見ぬふりが出来て
いつもそこで
微笑んでいる女を って。。。
ただし
女 って生き物は
化粧 ってもんを持ってして
そりゃあ~別人に化けるから
ならば
なおさら
中身を って思うわけだ
失礼~~~
ー紹介文ー
外見は魔法。でも魔法は解ける。 解けた後に残るものが、本物だった。
神楽坂の小料理屋「あさぎ」の女将・桐島澄子、六十歳。亡き夫は、格好よくなかった。でも彼は、お皿の裏を洗う人だった。誰も見ていないところで丁寧にする人だった。
昭和から令和へ。外見と中身の狭間で揺れた人たちの、静かで確かな愛の物語。
「男は外見より中身」という言葉を、信じたくて、でも現実を知っている。その矛盾のなかで、それでも誰かを愛した人たちへ贈る。
本作品はフィクションです。登場する人物・団体・事件等はすべて架空のものです。