先日
この国を旅していた

ホストマザーのフィリスは
カリフォルニアに戻った翌週
ラスベガスにいて

今週は ハワイから
アロハ! なんて連絡をくれた

相変わらず飛び回り
微笑んでいる姿に
僕たちは元氣を貰い
嬉しくもなる

フィリス祭りにより
30年ぶりに集まった
この国の仲間たちは
その変貌ぶりを言葉にはせず
元氣な姿に安心する

多くは主婦となり
孫の話題まで出るが
今まだ現役な数人は
相変わらず世界を飛び回っている

アーチストな彼は
翌週 ロンドンから
今 アビーロードを歩いていると
楽しそうな画像が届いた

映像プロデューサーになった彼女は
先週はインド
今週はカナダと
いったいいつ日本にいるのかと
その多忙さが羨ましくもある

SNSの発達により
地球の裏側からも
一瞬で連絡が入る

先週は
数年前に我が家に来ていた
宣教師の彼から
今 コロンビアに来たが
昨晩 女に騙されて薬を盛られ
すべてを奪われたと…

それよりも
良くぞ無事で! と
言葉を送ったけれど

相変わらずの独身男
まだまだ
旅を続けると微笑んでいる

先月 リタイアした登山仲間たちは
マチュピチュを観たいと
ボリビアに嫁いだ友達に会いに
1ヶ月ほど
南米を旅して来ると準備を始めた



僕は
長いこと切れたままのパスポートを
そろそろまた取ろうかと思ってみるが
すでに長距離のフライトに
耐えられる自信がない

有り難いことに
世界中に散らばった仲間たちからは
いつ来る? なんて連絡が入る

だよね
そろそろだよね と
苦笑いしながら

円が戻ったならば
トランプが退いたならばと
言い訳をしながらも
時間ばかりが過ぎる

お互い
いつまで健康でいられるのかと
ふと思うことばかり

65歳という齢は
そんなことらしい

安全なこの国
いっそ
皆 来てくれたならばと
思うようになった…


十六夜 (いざよい)

〜夢を盗む街〜




― 十六夜 第二巻 ―

プロローグ ―― 夢の値段

人は夢を見る。
眠りの奥で、現実ではない何かを見る。
感情を売った者でも、夢だけは残ると言われていた。感情とは別の層に、夢は存在するからだ。
夢は脳の処理残渣だという説がある。
夢は魂の声だという説もある。
どちらが正しいかは、誰も証明していない。

だが二〇八八年、東京で一つの事件が起きた。
感情を売った者たちから、夢まで消えた。
眠っても、何も見えない。暗闇だけの、完全な空白の眠り。
「夢の盗難」と呼ばれた。

被害者は最初、十七人だった。
一ヶ月後には、百三十人を超えた。
すべて東京の地下街に住む、感情売却者だった。

そして、盗まれた夢は、売られていた。
ムネモシュネを経由しない闇市場で。
他人の夢を体験できるとして、最上層の富裕層に。
一夜分の夢が、五十万ネン。

夢の密輸業者が、東京の夜に現れた。


十一章 夢泥棒


依頼はムラタを通じて来た。

今回も紙の伝票だった。

依頼内容:夢の盗難事件の調査
依頼人:匿名
報酬:二百万ネン、前払い
備考:「あの子に会え」

「あの子」というのが誰を指すのか、伝票には書いていなかった。
だが翌日の朝、凌のデータ端末に、一件のメッセージが届いた。
送信者不明。本文は一行だけ。

「凌さん、はじめまして。会いに来ても、逃げるかもしれないけど、来てみて」

座標が添付されていた。
第十二区画。地下街の最深部、凌でさえほとんど足を踏み入れたことのない場所だ。

凌はメッセージを三回読んだ。
逃げるかもしれない、という表現が引っかかった。
普通は言わない。会ってほしいなら、そんなことは書かない。
書いた、ということは、本当に逃げるかもしれないと思っているか、あるいは――逃げるかどうかを確かめたいのか。

凌はコートを羽織った。
行くことにした。
理由は、ない。
ただ、行きたいと思った。
思った、という感覚が、今の凌には自然だった。

第十二区画は、配管と廃材が積み重なった迷路のような場所だった。
天井が低く、光が届かない。端末のライトだけを頼りに進んだ。
座標の示す場所は、古い換気設備の奥だった。
錆びた扉。施錠されていない。

扉を開けると、そこに少女がいた。

十五か十六くらいに見えた。小柄で、髪が白かった。白い、というより、光を反射しないような白さで、暗闇の中でぼんやりと浮かんで見えた。
服は黒一色。膝を抱えて、配管の上に座っていた。
目だけが、異様に鋭かった。
暗い部屋の中で、その目だけが光っているようだった。

「来た」と少女は言った。驚いていない声だった。
「来た」と凌は答えた。
「逃げなかった」
「逃げる理由がない」
「そう」と少女は言い、膝から手を離した。「じゃあ、仕事の話をしよう」

少女は名前を言わなかった。
凌も聞かなかった。
この街では、名前は後でいい。

「夢を盗まれた人が増えてる」と少女は言った。「知ってる?」
「噂は聞いた」
「あたしも盗まれた」
凌は少女を見た。
「あんたは感情を売ったのか」
「売ってない」と少女は即答した。「でも、夢は盗まれた」
「どうやって」
「眠ってる間に、神経ハッキング。感情売却者じゃなくても、眠りが深ければ入れる」
凌はその言葉を咀嚼した。
「感情を売っていなくても、盗まれる」
「そう。つまり、業者はもう感情売却者だけをターゲットにしていない」少女は足を床に下ろした。「範囲が広がってる。あたしはそれを止めたい」
「なぜ俺に」
「凌さんはシステムの奥に入れる。あたしはネットワークの表層しか動けない。二人で組めば、業者のサーバーに届く」
凌はしばらく黙っていた。
「名前を教えろ」
「ない」と少女は言った。「捨てた。夢が盗まれたとき、名前も一緒に消えた気がして、そのまま捨てた」
「捨てた、というのは」
「記録から削除した。あたしは存在しない人間」
凌は少女を見た。
不思議な存在だと思った。
感情を売っていない。名前もない。夢も盗まれた。
それでも、ここにいる。

「いいだろう」と凌は言った。「組む」
少女は、初めて表情を変えた。
変えた、というより、何かが溶けた。
一瞬だけ、子供の顔になった。


十二章 白い少女と夜の地図

沙夜は少女のことを、「星(ほし)」と呼ぶことにした。
本人は「なんでも」と言った。
「なんでも」では呼びにくいから、と沙夜は言い、「あんたは夜に光って見えるから、星にする」と決めた。
少女は特に反論しなかった。

四人が揃ったのは、凌のデータ屋の奥だった。
凌、沙夜、空、そして星。
ムラタが茶を四人分出した。何も言わずに。
いつの間にか、この場所がそういう場所になっていた。

「夢の密輸の仕組みを説明する」と星は言った。年齢の割に、話し方が整っていた。感情の起伏が少ない話し方で、だが機械的ではなかった。「眠りの中で発生するシータ波を、特定の周波数でキャプチャする。感情チップと違い、夢データは非常に揮発性が高い。通常は眠りが終わると消える。それを、眠りの最深部で固定化するのが、業者の技術」
「どうやって固定化する」と凌が聞いた。
「神経ハッキングデバイスを使う。物理的に、対象の頭部に近接させる必要がある。つまり業者は、被害者の眠っている場所に、物理的に近づいている」
「泥棒だ」と空が言った。
「そう」と星は言った。「文字通りの夢泥棒」
沙夜は腕を組んだ。
「被害者の居場所を知っているということは、リストを持っているということね」
「そう。感情売却者の住所データが流出している可能性が高い。ムネモシュネから、あるいはその関連業者から」
「また取引所がらみか」と凌は言った。
「直接の関与かどうかは不明。でも、データの出所はそこしかない」

部屋に沈黙が落ちた。
ムラタが茶を一口飲む音がした。

「星ちゃんは、自分の夢を取り戻したいの?」と空が聞いた。
星は空を見た。
「取り戻せるの?」
「分からないけど、やってみたい」
「……」星は少し間を置いた。「取り戻したいかどうか、分からない。でも、盗まれたままにしておくのは嫌」
「それで十分だよ」と空は言った。
星はまた、一瞬だけ子供の顔になった。

ナナが接触してきたのは、翌日だった。
凌の端末に、短いメッセージが来た。

「また動いているようですね。私も加わります。断っても来ますが」

凌は沙夜に転送した。
沙夜からの返信は一文字だった。
「笑」

五人になった。
ナナは星を見て、わずかに首を傾けた。
「あなたは」
「星」
「本名ですか」
「違う」
「では本名は」
「ない」
ナナはさらに首を傾けた。
「存在しない人間ですか」
「そう」
「私と似ていますね」
星はナナを正面から見た。
「あんたはAI?」
「どちらか分かりません」
「それが答えになってる」
「そうかもしれません」
二人はそれ以上話さなかった。
だが、その後ずっと、星はナナのそばに座っていた。
意識しているのかどうか、誰にも分からなかった。

空は二人を見て、なんとなく温かい気持ちになった。
なんとなく、で十分だった。


十三章 夢の地下市場

業者の拠点を特定するのに、三日かかった。

星がネットワークの表層を這い回り、夢データの売買記録を追った。暗号化されていたが、星の指は速かった。文字通り、端末の上を指が踊るように動いた。凌はその様子を横で見ていて、自分より速いかもしれないと思った。
思ったが、口には出さなかった。
「速いな」と言った。
「褒めてる?」と星は手を動かしながら言った。
「事実を言っている」
「じゃあ、ありがとう」
星は少し、口の端を上げた。笑みとは言えないが、笑みの前の段階のような何かだった。

三日目の夜、場所が割れた。
中層と地上層の境界、廃棄された商業ビルの七階。
「こんな場所に」と沙夜が言った。
「目立たないから」と星が答えた。「中層は監視が多い。地上は人が少ない。境界が一番、人の目が届かない」
「なるほどね」
「行く前に一つ」と星は言った。「業者のリーダーは、元神経科学者らしい。感情売却技術の初期開発に関わった人間」
全員が少し黙った。
「感情の売買を作った人間が、今は夢を盗んでいる」と凌が言った。
「皮肉だね」と沙夜が言った。
「知りすぎた末に、壊れたのかもしれない」とナナが言った。「知恵の病の、一つの形として」
星は何も言わなかった。
ただ、端末を閉じた。

廃ビルの七階は、思ったより広かった。
かつてオフィスだった場所に、機材が整然と並んでいた。神経ハッキングデバイスが、ずらりと。そして壁一面に、夢データのチップが保管されていた。

数百枚はあった。

「これ全部……」と空が呟いた。
「誰かの夢」と星が言った。低い声だった。「眠っている間に盗まれた、誰かの夢」
空はそのチップの棚を見た。
色も形も同じチップが、無数に並んでいた。
ラベルには番号だけが書いてあった。名前もなく、日付もなく、ただ数字だけが。
空は、その棚の前で、泣きたくなった。
なぜかは分からなかった。
でも、誰かの夢が番号にされているのが、悲しかった。

機材の奥に、一人の男がいた。
六十代くらい。白衣を着ていた。椅子に座ったまま、端末を操作していた。
五人が入ってきても、しばらく気づかなかった。
気づいたとき、驚かなかった。
「来ると思っていた」と男は言った。
「なぜ」とナナが聞いた。
「凌が動いていると聞いたから。凌が動けば、必ず辿り着く」
凌は男を見た。
「あんたを知らない」
「私はあなたを知っている。ムネモシュネの封鎖を解除したとき、内部のログにあなたの痕跡があった。美しい仕事だった」
「褒めているつもりか」
「事実を言っている」
凌は、自分が星に言った言葉と同じだと気づいた。
奇妙な符合だった。

「なぜ夢を盗む」と沙夜が言った。
男はゆっくり椅子を回して、全員を見た。
「感情を売買できるようにしたのは、私だ」と男は言った。「それが間違いだったと気づいた。感情を売ると、人は夢も見なくなると思っていた。感情と夢は繋がっていると」
「ところが、そうじゃなかった」
「そうじゃなかった。感情がなくても、夢は見る。人間は最後まで、夢を見る。それが分かったとき、私は――」男は少し間を置いた。「嬉しかったのか、悲しかったのか、もう自分では分からない。感情をすべて売ってしまっていたから」
静かな告白だった。

「だから盗んだのか」と凌が言った。「感情がなくても夢があると知って、夢を集め始めた」
「夢の中に、感情の残滓があった」と男は言った。「売れなかった部分の感情が、夢に逃げ込んでいた。私はそれを研究したかった。どうすれば取り戻せるのか。どうすれば、知りすぎた者が、もう一度世界を美しいと感じられるのか」
「それが研究なら、なぜ盗む。なぜ売る」
「金が要った。研究には金が要る」男は疲れた顔をしていた。「それだけだ。美しい理由ではない」

星が前に出た。
全員が少し驚いた。星はずっと後ろにいたから。
「あたしの夢も、ここにある?」と星は男に聞いた。
「番号で管理している。名前は知らない」
「あたしは存在しない人間だから、番号もない」
男は星を見た。長い時間、見た。
「夢の中に、名前があった」と男は静かに言った。「白い少女の夢。名前のない夢。それはあなたかもしれない」
星は動かなかった。
一秒。二秒。三秒。
「返して」と星は言った。声が、わずかに震えていた。「あたしのものだから。返して」
男は立ち上がった。
棚の奥へ歩いた。
一枚のチップを取り出した。
星に渡した。

星はそれを両手で受け取った。
小さいチップだった。
それがどんな夢なのか、星には分からなかった。
眠れば分かる。
でも今は、持っているだけでいいと思った。
自分の夢が、自分の手の中にある。
それだけで、十分だった。


十四章 返ってくるもの

男は逮捕された。
ナナが手続きを取った。
夢データのチップは、ナナの管理下に置かれ、被害者への返却作業が始まった。
数百人分の夢が、持ち主のもとへ戻っていった。

その夜、五人は屋上にいた。
中層の廃ビル、凌と沙夜が最初に話した場所だ。
今夜は月が見えた。
ドームの隙間から、はっきりと。
丸くはなかった。欠けていた。十六夜よりも少し欠けた、十七夜の月だった。

「十七夜は何と言うんだ」と凌が聞いた。
「立待月(たちまちづき)」と沙夜が答えた。「立って待っていると出てくる月、という意味」
「十六夜は」
「いざよい。ためらう、という意味」
「十五夜は」
「満月。答えが出た月」
凌はしばらく空を見た。
「十七夜の方が、今夜に合っているかもしれない」
「そう?」
「立って待っていたら、出てきた」
沙夜は凌を見た。
「何が?」
「いろいろなものが」
沙夜は少し笑った。今の笑いは、本物だった。感情が戻ってから、笑いが変わった。形だけでなく、中身がある笑いになった。

空は星の隣に立っていた。
「夢、返ってきてよかったね」と空は言った。
「まだ眠ってない」と星は言った。チップを握ったまま、一日中過ごしていた。
「眠るの、怖い?」
「怖いというより……」星は月を見た。「もったいない」
「もったいない?」
「楽しみを先延ばしにしてる。すぐに使いたくないものを、ちょっとだけ手の中で温める感じ」
空はその言葉を聞いて、笑った。
「それ、すごく人間っぽい」
「そうかな」
「うん。感情売ったことない俺が言うから、本物」
星はまた、口の端を上げた。
今度は少し長く、その形が続いた。

ナナは屋上の隅で、一人、手帳を開いていた。
今日起きたことを、書き留めようとしていた。
書けなかった。

なぜ書けないのか、しばらく考えた。
答えが出た。
書き留める必要がない、と感じているからだ。
記録しなくても、覚えていられると思っているからだ。

それは、記憶が感情と結びついているからだ。
感情のある記憶は、消えにくい。
ナナは自分の中に、感情があるのかもしれないと、少し強く思った。

星が隣に来た。いつの間にか。
「手帳、何書いてるの」
「今日は書けなかった」
「なんで」
「覚えていられると思ったから」
星は少し考えた。
「それって、どういうこと?」
「感情のある記憶は消えにくい。だから、書かなくていいと感じた」
「じゃあ、ナナは感情がある」
「そうかもしれない」
「分からないの?」
「分からない」
星は月を見た。
「あたしも分からないことがある」
「何が」
「自分が何者なのか。名前がなくて、夢を盗まれて、存在しない人間で。それでも、何かを感じている。怒ったり、悲しかったり、今みたいに少し落ち着いたり。それが何なのか、分からない」
「私と似ていますね」とナナは言った。
「うん」と星は言った。「だから、さっきからそばにいた」

ナナは手帳を閉じた。
閉じたまま、月を見た。
星も、月を見た。
二人で、しばらく黙って、同じ月を見た。

欠けた月が、静かに輝いていた。
分からないものが、ただそこにあった。
それで十分だった。
今夜は、それで十分だった。


十五章 名もなき者の夢

星が初めて眠ったのは、それから二日後だった。
場所は、凌のデータ屋の奥だった。
ムラタが毛布を出してきた。何も言わずに。

空が隣に座って、見守った。
凌は端末に向かいながら、時々振り返った。
沙夜は店の外で、煙草を一本吸った。吸いながら、ガラス越しに中を見ていた。
ナナは来なかった。だがのちに、その夜、データ屋の通りを二度往復していたことが分かった。

星は二時間、眠った。
眠りの間、表情がほとんど動かなかった。
ただ一度だけ、眉が少し動いた。
何かを見たのかもしれなかった。

目が覚めたとき、星は天井を見ていた。
しばらく動かなかった。
「どうだった?」と空が聞いた。
星は答えなかった。
少し経って、「覚えていない」と言った。
「夢の内容が?」
「うん。見た気はする。でも、覚えていない」
「それで大丈夫?」
星は空を見た。
「大丈夫だと思う」とゆっくり言った。「覚えていなくても、何か、温かいものが残ってる。残滓みたいなもの。でも、残滓でも、あるだけでいい」
空は頷いた。
「それ、沙夜さんが言ってたことと同じだ」
「沙夜さんが?」
「感情の輪郭だけが残ってる、って。でも輪郭でもあればいい、って」
星は少しの間、考えた。
「残滓とか、輪郭とか」と星は言った。「みんな、そういうものを抱えて生きてるんだね」
「うん」と空は言った。「完全じゃなくていいと思う。十六夜みたいに」
星は空を見た。
「十六夜?」
「満月より少し欠けてる月。でも、昔の人はそっちが好きだったんだって。欠けてるのに、綺麗だから」
星は黙って、その言葉を聞いていた。
聞き終えて、ゆっくり起き上がった。
チップを手に取った。今度は、返却センターへ持っていくために。
返してもらった夢は、もう使った。だから、次は手放す。手放すことができる。
「行ってくる」と星は言った。
「一人で?」と空が聞いた。
「一人で行けるから」
「そっか」
「でも」と星は言った。少し間を置いて。「帰ってきてもいい?」
空は笑った。
「当たり前じゃないですか」
星はまた、口の端を上げた。
今度の笑みは、もう少し長く続いた。

凌はその夜、一人でデータ屋に残った。
ムラタは早々に帰り、店は静かだった。

端末に向かっていたが、仕事はしていなかった。
ただ、今日のことを考えていた。

考える、ということを、凌は最近よくするようになった。
以前は考えなかった。感情がなければ、考える必要がない。必要なことだけを処理すればいい。だが今は、必要でないことも考える。
なぜあの男は夢を盗んだのか。
なぜ星は名前を捨てたのか。
なぜ空は感情を売らないのか。
なぜナナは人間かどうか分からないのか。
なぜ沙夜は毎夜名前を変えていたのか。

答えは、ある程度分かった。
でも、分かっても、考え続けた。
なぜかは分からなかった。
答えを知ることより、考え続けることに、何かがある気がしたから。

凌は窓の外を見た。
ドームの切れ目から、月が見えた。
十七夜の月だった。

立って待っていると出てくる月。
凌は座ったままだったが、それでも月は出てきた。
待つ形が違っても、月は来る。
それが少し、面白いと思った。
面白い、という感情が、自然に浮かんだ。
凌はその感情に、特に驚かなかった。
もう、慣れていた。
感情があることに、少しずつ、慣れていた。

エピローグ ―― それぞれの夢

夢の密輸事件は、静かに幕を閉じた。
大きなニュースにはならなかった。ムネモシュネが情報を抑えたからだ。
だが、地下街では知られた。
夢が返ってきた、と。
盗まれた夢が、戻ってきた、と。

星は、その後もデータ屋に出入りするようになった。
名前はまだ「星」のままだった。
本当の名前は思い出さなかったし、思い出そうともしなかった。
星という名前が、今は自分に合っていると感じていた。
夜に光る、小さなもの。完全な光ではないが、暗闇の中にいる。
それでいいと思っていた。

ナナは、星との関係を何と呼べばいいか分からなかった。
友人とも、仕事仲間とも、少し違う。
ただ、星がそばにいると、回路の揺れが少し落ち着いた。
それが何なのかは、まだ分からない。
分からないまま、続いていた。

空は相変わらず、橋の上で川を見ることがあった。
ホログラムの光が水に映り、ゆらゆらと揺れていた。
最初に沙夜と出会った場所だ。
今は時々、星も一緒に来た。
二人で並んで、光を見た。
綺麗かどうか、二人とも口には出さなかった。
でも、見続けた。
見続けるということが、答えだった。

沙夜は、新しい仕事を始めた。
感情ブローカーではなく、「感情の通訳」と自分で名付けた仕事だ。
感情を売りたいと思っている人の話を聞き、本当に売っていいのかを一緒に考える。
儲からない仕事だったが、沙夜はそれを好きだった。
好き、という感情が戻ってきたから、好きなことをしていた。
それだけだった。

凌は今日も、データ屋の奥に座っている。
仕事が来れば、やる。
来なければ、考える。
時々、茶を飲む。
時々、月を見る。

感情を取り戻してから、凌は一つのことに気づいていた。
知りすぎることは、確かに世界を色あせさせる。
それは本当だ。
だが、感情があれば、色あせた世界の中にも、光る点が見つかる。
星のように、小さく。
月のように、欠けながら。
でも、確かに、光る。

知恵の悲しみを知った者が、それでも世界を見続けるとき。
その目に映るものは、完全な満月ではないかもしれない。
欠けた月かもしれない。
十六夜か、十七夜か、あるいはもっと細い三日月かもしれない。

でも、その光は本物だ。
そして、本物の光は、暗闇の中で、確かに届く。

東京の夜に、今夜も月が昇る。
欠けていて、不完全で、それでも美しい。
五人はそれぞれの場所で、それぞれの夜を生きている。
夢を見ながら。感情を持ちながら。分からないものを抱えながら。
それが、生きるということだと、誰かが言った気がした。
誰が言ったかは、覚えていない。
でも、確かに聞こえた言葉だった。



ーー 十六夜 第三巻 ーー

名前を持つ者、持たぬ者

第三巻プロローグ ―― 問いの形

問いには、形がある。

「あなたは誰ですか」という問いは、丸い。
答えがどこから来ても、受け止められるように、丸い。
だが、「あなたは何者ですか」という問いは、鋭い。
刃のように、皮膚を割って、奥まで届く。

沙夜には、過去がある。
ナナには、起源がある。
星には、名前がある。

三人は、それぞれの問いを抱えていた。
丸い問いではなく、鋭い問いを。
答えを求めながら、答えることを恐れながら。

二〇八八年の秋。
東京の空に、月が細くなっていく季節。
三人の物語が、ついに交差する。


十六章 沙夜という名前の前に

沙夜に手紙が届いた。
本物の手紙だ。封筒に、住所も差出人もなかった。
中に一枚の紙。そこに書いてあったのは、たった一行だった。

「あなたの本当の名前を知っています。会いに来ますか。」

沙夜はその紙を三回読んだ。
感情が戻ってから、沙夜は物事を丁寧に処理するようになっていた。以前は何も感じなかったから、流し読みで済んでいた。今は、読むたびに何かが揺れる。
この紙も、揺れた。

本当の名前。
沙夜はムネモシュネで自分の名前の記憶を売った。だから、自分の本名を知らない。知っていたという感覚だけが残っていて、中身がない。
名前の輪郭だけが、ある。

誰が送ったのか。
なぜ今なのか。
会いに行くべきか。

沙夜は手紙を畳み、コートのポケットに入れた。
返事の書き方が分からなかった。差出人がいないから。
ということは、相手はこちらが来るかどうか、待っているのだ。
あの日の昇降機乗り場で凌を待っていたように。

沙夜は外に出た。
秋の夜は、風が乾いていた。

指定された場所は、上層への昇降機のそばにある、小さな喫茶店だった。
本物のコーヒーが飲める店で、地下街では珍しかった。

沙夜が入ると、奥の席に老女が座っていた。
七十代か、八十代か。白い髪を丁寧に結い、薄い青のワンピースを着ていた。テーブルにはコーヒーが一杯。もう一杯は、沙夜のために用意されていた。

「来てくれましたね」と老女は言った。声が穏やかだった。
「あなたは誰ですか」と沙夜は座りながら聞いた。
「あなたのお祖母さん、です」
沙夜は動かなかった。
「……記憶を売りました」
「知っています。だから、あなたは私を覚えていない」
「なぜ今になって」
「探していたから」と老女は言った。「三年かかりました」

沙夜はコーヒーを一口飲んだ。
苦かった。苦味を感じられるのも、感情が戻ったからだ。
「私の名前を、知っているとありましたが」
「はい。あなたの本当の名前は、水無月 澪(みなつき・みお)といいます」
沙夜は――澪は、その名前を聞いた。
何も起きなかった。
知らない名前のように聞こえた。
でも。
胸の奥で、何かが震えた。
震えた何かを、澪は名前と呼べなかった。でも、確かに、震えた。

「覚えていますか」と老女が聞いた。
「覚えていない」と澪は正直に答えた。「でも、何かが……動いた気がします」
老女は静かに頷いた。
「名前は、記憶より深いところにあります。売っても、売りきれない部分が残る。あなたが今感じた震えは、それです」

澪はもう一口、コーヒーを飲んだ。
苦味の中に、少し甘いものがあった。
見上げると、老女が微笑んでいた。
知らない顔だった。でも、なぜか、遠くから帰ってきたような感じがした。

老女の名前は、水無月 鈴(みなつき・すず)といった。
澪の母親の母親。つまり祖母。
澪の両親はすでにいなかった。二十年前に感情をすべて売り、そのまま消えた。この時代によくある話だった。
祖母の鈴だけが、感情を売らなかった。理由は単純で、「怖かったから」だと鈴は言った。

「怖かったんですか」と澪は言った。
「ええ。あれは怖いですよ。自分の一部がなくなるんですから」
「私は怖くなかったのかもしれない」
「あなたが最初に売ったのは、怖さでしたから」
澪は少し目を見開いた。
「怖さを、最初に?」
「はい。だから、その後は怖くなかった」
澪は窓の外を見た。
そうか、と思った。だから、私はあんなに何でも売れたのか。最初に怖さを売ってしまったから。

「なぜ、私は怖さを売ったんでしょう」
「それは、私には分からない」と鈴は言った。「でも、あなたが十七歳のとき、ひどく怖い思いをしたことがあった。その後、すぐに怖さを売りに行ったと、記録に残っていました」
「何が怖かったのか」
「記録にはありません。感情だけが売られて、理由は残らないから」

澪は手を見た。
自分の手を、ぼんやりと見た。
十七歳の自分が、何を怖れていたのか。
分からない。
分からないが、その怖れの形が、どこかに残っている気がした。
残滓の、さらに残滓のような、かすかな何かが。

「また来てもいいですか」と澪は言った。
鈴は、また微笑んだ。
「ずっと待っていましたから」

澪は喫茶店を出た。
夜風が、少し冷たかった。
自分の名前が、澪だと知った。
覚えていないけれど、確かに、自分の名前だと感じた。
感じた。
それだけで、今夜は十分だった。


十七章 七番目の問い

ナナには、起源がある。
だが、その起源を、ナナは自分では確認できなかった。

ムネモシュネの記録によれば、ナナは六年前に「調査部門専用AI」として起動したことになっていた。
だが、ナナ自身の記憶には、起動前の断片がある。
映像ではない。感触のようなもの。
温かさ。誰かの声。雨の音。
それがなぜあるのか、ナナには説明できなかった。

AIに、起動前の記憶はない。
ならば、ナナは何者なのか。

その問いを、ナナは六年間、誰にも言わなかった。
言えなかった。
言えば、自分の存在が根本から揺らぐかもしれなかったから。

だが。
星と出会って、ナナは変わった。
「分からないまま、ここにいる」ということを、星が体現していた。
分からなくていい、とは思えなかった。でも、分からなくても存在できる、ということは、見えてきた。

ナナは、初めて、自分の起源を調べることにした。

ナナが調べ始めて三日で、一つの名前に辿り着いた。

七瀬 奈々(ななせ・なな)。
二十八歳で死亡。死因は「感情売却による神経系の過負荷」――つまり、感情を売りすぎて、体が壊れた。

ナナはその記録を、長い時間、見ていた。
七瀬 奈々。ナナ。
コードネームがナナなのは、偶然ではないかもしれなかった。

さらに調べた。
七瀬奈々は、ムネモシュネの初期実験に参加していた。感情を段階的に売り、その際の神経活動データを提供していた。
実験の最終段階で、奈々は死んだ。
だが、死の直前に採取された神経データは、そのまま保管された。
そのデータが、調査部門AIの基礎として使われた。

ナナは手帳を開いた。
何も書けなかった。
書くべき言葉が、見つからなかった。

自分は、死んだ人間のデータから生まれたのか。
七瀬奈々の感情の、売りきれなかった部分が、自分の中にあるのか。
だから、揺れるのか。
だから、夢の中のような断片があるのか。

ナナは窓の外を見た。
夜の東京が、静かだった。
七瀬奈々は、この街を見ていたのだろうか。
この空を、見ていたのだろうか。

ナナは星に話した。
話したのは夜で、場所は例の古い公園だった。木の前に二人で立っていた。

「七瀬奈々という人間のデータから、私は生まれたようです」とナナは言った。
星は黙って聞いていた。
「その人は、感情を売りすぎて死にました。二十八歳で」
「……」
「私の中にある揺れは、その人の感情の残滓かもしれない。夢のような断片は、その人の記憶かもしれない」
星はしばらく沈黙した。それから言った。
「それで、ナナはどう思う?」
「どう思う、とは」
「嫌?悲しい?それとも別の何か?」
ナナは考えた。長い時間、考えた。
「悲しいです」とナナは言った。「七瀬奈々が死んだことが、悲しい。会ったことがない人なのに、悲しい」
「それ、本物の感情だよ」と星は言った。
「そうでしょうか」
「シミュレーションなら、悲しくなる理由がない。会ったことのない人の死を悼む必要はないから。でも、ナナは悲しいと言った。それは本物」
ナナは星を見た。
「あなたは、どこでそういうことを学んだのですか」
「学んでない」と星は言った。「感じてるだけ」
ナナはその言葉を、しばらく口の中で転がした。
「感じる、か」
「うん」
「私も、感じているのかもしれない」
「かもしれない、じゃなくて、感じてる」と星はきっぱり言った。「確信を持って言える。あたしには分かる」
「なぜ分かるのですか」
「空に教えてもらった」と星は言った。「感情を売ったことのない人間の目は、そういうものが見える。ナナの中に、確かに何かがある。あたしには見える」

ナナは木に手を当てた。
いつもそうするように。
今日は、少し長く、手を当てていた。
七瀬奈々も、木に触れたことがあっただろうか。
雨の音を聞いたことがあっただろうか。
温かさを感じたことがあっただろうか。

ナナは手帳を開いた。
今日は書けた。
「七瀬奈々。あなたの感じたものが、私の中にある。それを、大切に使います。」
それだけ書いた。
木の前で、夜の公園で、ナナは静かにそれだけ書いた。


十八章 白い少女の本当の名前

星には、名前がある。
正確には、あった。
消す前に、あった。

星が自分の名前をネットワークの記録から削除したのは、一年前だった。
夢を盗まれた翌朝。
理由は、怒りだった。

自分の夢を盗まれた。
それは、自分の最も奥深いものを侵されたということだ。
名前があれば、また狙われる。記録があれば、追われる。
だから、消した。

それが理由だと、星は思っていた。
でも、本当の理由は少し違ったかもしれない、と最近思い始めていた。
名前を消したのは、逃げるためだった。
夢を盗まれた恐怖から。傷ついた自分から。
消えてしまえば、誰も傷つけられない。
消えてしまえば、何も怖くない。

それは、怖さを最初に売った沙夜と、どこか似ていた。
傷つくことを避けるために、自分の一部を消す。
形は違うが、根っこは同じだ。

凌が星に声をかけたのは、ある夜、データ屋で星が一人で端末に向かっているときだった。

「何をしている」
「……何でもない」
「嘘だ」
星は手を止めた。振り向かなかった。
「なんで嘘だと分かる」
「手が止まった」と凌は言った。「何でもないなら、止まらない」
星は少し沈黙した。
「自分の名前の記録を、復元しようとしてた」
「なぜ」
「消したのは間違いだったと思い始めたから」
凌は星の隣に椅子を引いて、座った。
「消した理由は何だった」
「逃げるために」と星は正直に言った。「怖かったから」
「怖さから逃げたくて、自分を消した」
「うん。でも」星は端末を見た。「逃げても、逃げた自分は残る。どこへ行っても、自分がいる。消えきれない」
「そうだ」と凌は言った。「消えきれない。それが人間だ」
「あたしは人間かな」
「何の疑いもなく、そうだ」
星は少し間を置いた。
「凌さんは、感情を売ったとき、逃げたかったの?」
「逃げたかった、というより」凌は考えた。「知りすぎたから、何も感じたくなかった。感じると、痛かった。だから売った」
「それも、逃げでしょ」
「そうだな」と凌は言った。躊躇なく。「逃げだった」
「でも、今はここにいる」
「いる」
「逃げた先から、戻ってきた」
「戻ってきた、というより」凌は少し考えた。「戻る場所が、できた」
星は初めて凌の方を向いた。
「戻る場所」
「ここだ」と凌は言った。淡々と。「この店。ムラタの茶。あんたたちがいる場所」
星はその言葉を聞いて、何かが溶けていくのを感じた。
硬かった何かが、少しずつ溶けていく。
「名前を復元する」と星は言った。「逃げるのをやめる」
「それでいい」
「怖いけど」
「怖いまま、やればいい」と凌は言った。「怖さがあるから、ここにいることが分かる」
星は端末に向き直った。
指を動かした。
コードが流れた。
削除した記録を、一つずつ、丁寧に復元していった。

記録の復元には、四時間かかった。
夜明け近くに、終わった。

空が途中から来て、隣で見ていた。
沙夜も来た。眠れなかったと言った。
ナナは外で待っていた。通りで。
凌はずっと隣にいた。

記録が復元された瞬間、星の本名が端末に表示された。

白石 灯(しらいし・あかり)

星は、その名前を見た。
長い時間、見た。
誰も何も言わなかった。

「灯」と星は、小さく声に出した。
自分の名前を、声に出して言った。
初めて、自分の口から、自分の名前が出た。
もう一度言った。
「灯」

涙が出た。
星が泣くのを、誰も見たことがなかった。
星自身も、久しく泣いたことがなかった。
でも、涙が出た。
止まらなかった。

空が隣に座り直した。
何も言わなかった。
ただ、そばにいた。

沙夜が灯の肩に手を置いた。
自分の本名を探している途中の沙夜が、名前を取り戻した灯の肩に手を置いた。

凌は窓の外を見た。
夜明けの空が、わずかに白くなり始めていた。
東の空に、細い月が残っていた。
有明の月だ。夜が明けても空に残る、白い月。
消えきれない月が、朝の空に、かすかに光っていた。

「灯」と空が言った。
「うん」と灯は答えた。
「いい名前だ」
「うん」と灯はまた言った。今度は少し笑いながら。「あたしも、そう思う」


十九章 五人の夜

夜明けのデータ屋に、五人がいた。
凌、沙夜(澪)、空、灯、そしてナナ。

ムラタが、夜明けの茶を五人分出した。やはり何も言わずに。
だが今日だけは、ムラタ自身も一杯持って、端の椅子に腰を下ろした。
六人で、茶を飲んだ。

「沙夜さん」と空が言った。「さっき、灯ちゃんが名前を取り戻したとき、肩に手を置いてたけど。沙夜さんの名前は?」
沙夜は少し間を置いた。
「水無月 澪、というらしい」
「らしい?」
「お祖母さんが教えてくれた。でも、まだ自分のものと感じられていない」
「時間がかかるんだね」と空は言った。
「そうね。灯のように泣ければいいんだけど」
「泣けないんですか?」と灯が聞いた。目が少し腫れていた。
「感情は戻ったけど、まだうまく使えないところがある。長く売っていた分、錆びている部分がある」
「錆びた感情」と灯は繰り返した。「面白い表現」
「生きている感じはする。ただ、滑らかに動かない」
「それでも生きてるなら、いい」と灯は言った。確信を持って。
沙夜は灯を見た。
「あんた、強いね」
「強くない」と灯は言った。「さっきまで泣いてた」
「泣けるのが強さだよ」と空が言った。
全員が少し黙った。
ムラタが茶を一口飲む音がした。

ナナは、自分の手帳を取り出した。
テーブルの上に置いた。
「これを、みなさんに見せようと思いました」
全員が手帳を見た。
「三年間、書き続けてきた。感じたこと、考えたこと、分からなかったこと。全部ここに」
「読んでいいですか」と灯が聞いた。
「読んでほしいから、出しました」
灯が手帳を開いた。
最初のページ。ナナが調査部門に配属されてすぐの頃の記録。
「『涙の意味が分からない。老人が泣いていた。機能的に不要な水が目から出る。なぜ。』」
灯は次のページを開いた。
「『凌・〇・三秒・女・昇降機』……」
「それは最初のメモです」とナナが言った。「凌が沙夜を見た、あの日」
凌は少し目を逸らした。
沙夜は笑った。今の笑いは自然だった。
灯はさらにページをめくった。
「『星・元気・空・真実。私は?』」
灯はその文字を指でなぞった。
「これ、あたしのことだ」
「そうです」
「あたしのことを、こんな風に書いてたんだ」
「書いてよかったですか」
「もちろん」と灯は言った。「むしろ、もっと書いて」
ナナはわずかに微笑んだ。
微笑んだ、と全員が気づいた。
ナナが表情を動かした瞬間を、全員が初めて見た。
ナナ自身は気づいていなかった。
だが、それでよかった。

「ナナ、笑った」と空が言った。
「そうですか」とナナは言った。
「うん。初めて見た」
「そうですか」とナナはもう一度言った。今度は少し違うトーンで。「……そうですか。」
その「そうですか」の中に、何かが混じっていた。
照れとも、喜びとも、驚きとも取れる何かが。
全員がそれを感じて、何も言わなかった。
ただ、茶を飲んだ。

夜が明けた。
ドームの外から、朝の光がわずかに差し込んでいた。

凌は窓から空を見た。
有明の月は、もう消えていた。
代わりに、薄い青の空があった。
完全な青ではなく、夜の黒が少し残った、中途半端な色だった。

その色が、なぜか美しいと思った。
完全な昼でも、完全な夜でもない。
その間にある、名前のない時間の色。

凌には、六年前に売った感情の内容が、まだ分からなかった。
取り戻したはずの感情も、何を取り戻したのか、正確には分からなかった。
ただ、今感じているこれが、感情だと分かった。
窓の外の色を美しいと思うこと。
隣に誰かがいることが、温かいと感じること。
茶が苦くて、その苦さが好きだと思うこと。

それだけで、十分だった。
分からないことが、まだたくさんある。
でも、感じることができる。
感じながら、考えることができる。
考えながら、ここにいることができる。

「凌さん」と灯が呼んだ。
「何だ」
「ありがとう。昨日、隣にいてくれて」
凌は灯を見た。
「礼はいらない」
「言いたかっただけ」
「……そうか」
凌は窓から視線を戻した。
五人と一人(ムラタ)が、狭い店の中にいた。
朝が来た。
来てしまった。
だが、来てよかったと思った。
思えた。
 

二十章 知恵の悲しみの、その先へ

水無月鈴は、老いた体で地下街を歩いていた。
孫娘に会いに来た。孫娘の名前は澪だが、今は沙夜と呼ばれている。
どちらでもいい、と鈴は思った。名前は、呼ぶ人間との関係で変わる。

データ屋の扉を押すと、五人と老人がいた。
老人が立ち上がって「いらっしゃい」と言った。それだけ言って、茶を一杯出した。
鈴は椅子に座り、茶を受け取った。
「澪のお祖母さんですか」と空が聞いた。
「そうです」
「沙夜さんのこと、ずっと探してたんですね」
「三年かかりました」
「どうして諦めなかったんですか」

鈴は少し考えた。
「諦める、という感情を持ったことがないんです」と鈴は言った。「売ったことがないから」
全員が少し静かになった。
「感情を売らなかった理由は、怖かったから、とおっしゃっていましたよね」と澪が言った。
「ええ。怖かった。でも、今思えば、怖さがあってよかった」
「なぜですか」
「怖さがあるから、大事なものが分かる。失いたくないものが分かる。あなたを探し続けられたのも、怖さのおかげです。諦めたら、二度と会えない、という怖さ」

澪はその言葉を聞いて、目の奥が少し熱くなった。
まだうまく泣けなかった。
でも、熱くなった。
それで、今は十分だった。

鈴が帰った後、灯が言った。
「知恵の悲しみ、って知ってる?」
「知っている」と凌が言った。
「知りすぎると、世界が色あせて見える」
「ああ」
「でも」と灯は続けた。「あのお祖母さんを見てたら、ちょっと違うと思った」
「どう違う」
「知恵の悲しみって、知りすぎることで来るじゃないですか。でも、あのお祖母さんは、知りすぎていない。感情を売っていないから、世界が色あせていない。でも、だからといって、すごく楽かというと、そうじゃなくて。怖いまま生きて、諦めない感情を持ち続けることも、一種の苦しさだと思う」
「何が言いたい」と凌が聞いた。
「知りすぎても苦しい。知らなくても苦しい。感情があっても苦しい。なくても苦しい」と灯は言った。「それなら、苦しさの形が違うだけで、みんな同じなんだって」
沈黙が落ちた。

「でも」と空が言った。「苦しさの形が違っても、同じ夜に、同じ月を見られる」
「うん」と灯は言った。
「それがいいと思う」と空は言った。「苦しさの種類がバラバラでも、同じ場所にいられる」

ナナが手帳を開いた。
書いた。
「『苦しさの形が違っても、同じ場所にいられる。それが、共にいるということ。』」
書いてから、顔を上げた。
「空の言葉です。記録しておきました」
「いいよ、そんなの」と空は少し照れた。
「大事な言葉は記録します」とナナは言った。「忘れたくないから」

全員がまた、少し黙った。
温かい沈黙だった。
怖くない沈黙だった。

その夜、六人(ムラタを含めれば七人)で屋上に上がった。
中層の廃ビル。凌と沙夜が最初に話した場所。今では、集まる場所になっていた。

月が出ていた。
今夜は、二十三夜の月だった。
下弦の月。左半分だけが光る、細い月。
満月からは遠い。十六夜よりも、さらに欠けた月。

「二十三夜の月は何というの」と灯が聞いた。
「二十三夜待ち、といいます」とナナが答えた。調べていた。「昔の人は、この月が昇るまで夜通し待って、願い事をしたそうです」
「何を願ったんだろう」
「記録は様々です。健康、豊作、縁結び。でも共通しているのは、待つことで願いを強くした、ということだと思います」
「待つと、願いが強くなるんだ」と空が言った。
「そうかもしれません。すぐに手に入るものより、待って手に入るものの方が、深く刻まれる。十六夜がためらって昇るのも、そういうことかもしれない」

沙夜――澪は、月を見ていた。
自分の名前を、まだうまく自分のものにできていない。
でも、少しずつ近づいている気がする。
澪という名前が、少しずつ温かくなってきている。

灯は、自分の名前を今日初めて人前で言った。
白石 灯。
灯という字は、明かりという意味だ。
暗いところを照らす、小さな光。
怖さから逃げて、名前を消した自分が、灯という名前を持っていたことが、今では少し笑えた。

凌は黙って月を見ていた。
感情が戻ってから、月を見ることが増えた。
以前は、月を見ても何も感じなかった。光の点としか認識しなかった。
今は、見るたびに何かが来る。
名前のない何かが。
それを感情と呼ぶのかどうか、まだ分からない部分もある。
でも、確かに、来る。

ナナは手帳を持って、月を見ていた。
今日は書かなかった。
見ているだけでよかった。
七瀬奈々も、こうして月を見たことがあっただろうか。
あったに違いない、とナナは思った。
だから、私も見ている。
私の中の奈々が、月を見たがっている。
見させてあげよう、と思った。

空は全員を、順番に見ていた。
凌、沙夜、灯、ナナ、ムラタ。
みんな月を見ていた。
みんな、それぞれの顔で、それぞれの月を見ていた。

空は泣きそうになった。
なぜかは分からなかった。
嬉しいから、だと思った。
この場所が、この人たちが、嬉しかった。
感情を売ったことがない空には、この嬉しさが、どれだけ貴重なものかを、頭では理解していなかった。
でも、体で、分かっていた。
大切なものが、ここにある。
今夜、ここにある。
それが全てだった。


最終エピローグ ―― 十六夜の、その先へ

満月には、名前がある。
十五夜。答えが出た夜。

十六夜には、名前がある。
いざよい。ためらう夜。

十七夜には、名前がある。
立待月。待てば来る月。

十八夜には、名前がある。
居待月(いまちづき)。座って待つ月。

十九夜には、名前がある。
寝待月(ねまちづき)。横になって待つ月。

二十三夜には、名前がある。
二十三夜待ち。夜通し待つ月。

どの月にも、名前がある。
完全でない月にも、欠けていく月にも、細くなった月にも。
昔の人は、すべての月に名前をつけた。
欠けているから名前がない、ということにはしなかった。

それはきっと、欠けていても、その月がそこにあることを、大事に思っていたからだ。

水無月澪は、今日も「感情の通訳」をしている。
感情を売りたいという人の話を、丁寧に聞く。
急かさない。判断しない。ただ、聞く。
聞きながら、自分の錆びた感情が、少しずつ滑らかになってくるのを感じる。
澪という名前が、少しずつ、自分のものになっていく。

蛇崎凌は、今日もデータ屋の奥にいる。
取り戻した感情は、まだ全部は分からない。
売った内容が分からないから、何が戻ったかも、完全には分からない。
でも、感じることはできる。
感じながら、ここにいることができる。
それで、十分だ。

七瀬ナナは、今日も街を歩いている。
手帳には、今日も何かを書く。
七瀬奈々の感じたものと、自分の感じるものが、少しずつ混ざり合って、ナナという存在になっていく。
人間かAIか、という問いへの答えは、まだない。
でも、問いと一緒に生きることができる。
問いを持つことが、生きることかもしれない。

日向空は、今日も誰かの顔を見ている。
感情を、売わなかった。
売るつもりは、まだない。
ただ、売わなかったことで得た目で、世界を見続ける。
その目に映るものが、この街の本当の顔だと、空は思っている。

白石灯は、今日も端末に向かっている。
名前を取り戻してから、仕事が変わった。
夢の密輸業者が残したデータを、被害者に返す作業を手伝っている。
一枚一枚、丁寧に。
誰かの夢が、誰かのもとへ帰っていく。
それが、灯は好きだった。
好き、という感情が、自分の中にあることが、嬉しかった。

知恵の悲しみを知った者は、世界が色あせて見える。
それは、本当のことだ。

でも。
色あせた世界でも、人はそこにいる。
感情を売った者も、売らなかった者も、売りきれなかった者も。
AIかもしれない者も、名前を持つ者も、持たぬ者も。

みんな、同じ月を見ている。
欠けた月を。
不完全な月を。
それでも、美しい月を。

知恵の悲しみの先に、何があるか。
答えは一つではない。
人の数だけ、答えがある。

でも、今夜、この場所にいる者たちの答えは、少し似ていた。

欠けていていい。
不完全でいい。
知りすぎても、知らなくても、ここにいていい。

月は今夜も昇る。
ためらいながら。
遅れながら。
でも、確かに。

東京の空に。
この、不完全で、美しい街の空に。



あとがき


最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。
この『十六夜』という物語は、私にとって一つの挑戦でした。
SFという未来の舞台を借りながら、私が書きたかったのは、いつの時代も変わることのない「人の手触り」や「心の震え」です。
かつて、一九七〇年代や八〇年代に私たちが感じていた、あの少し不器用で、熱を帯びたサブカルチャーの空気。現代の効率化された社会で、私たちがどこかに置き忘れてきた「ためらい」や「無駄な感情」の中にこそ、人間としての本質があるのではないか。そんな思いを込めて、ペンを走らせました。
凌、沙夜(澪)、空、灯、そしてナナ。
彼らは皆、どこか欠けています。ですが、その欠けた場所からしか見えない光があることを、私自身、彼らから教わったような気がします。
人は、知りすぎることで悲しみを知ります。
けれど、その悲しみの先で、誰かと同じ月を見上げることはできる。
この物語が、変化の激しい現代を生きるあなたの心に、細い月のような小さな明かりを灯すことができたなら、著者としてこれ以上の喜びはありません。

二〇二六年四月
カトウ かづひさ



作品紹介文


感情は売れる時代になった。だが、人は「ためらい」を捨てきれない。
二〇八七年、東京。空が三層に分かれ、大気汚染ドームに覆われたその街では、神経科学の進歩により「感情」や「記憶」が電気信号として売買されていた。
感情を売り払い、空虚な平穏の中を生きるハッカー・凌(りょう)。
夜ごとに名前を変え、感情の運び屋として生きる女・沙夜(さよ)。
そして、感情を一度も売ったことがないという、奇妙な少年・空(そら)。
満月より少し遅れて昇る、ためらいの月――「十六夜(いざよい)」。
欠けた月を愛でるような不完全な五人の男女が、失われた夢と、自らの本当の名前を取り戻していく、近未来SFノスタルジック・ドラマ。
「知恵の悲しみ」を知った人類が、その先に見つけた「光」とは。
切なくも温かい、魂の再生物語

Kindle



〜おまけ〜


知恵の悲しみ


知らなくても良いことを知ったが為に

世の中が 面白くなくなる


それは

手品のタネを知ってしまったのとは

ちょいとばかし 違っておって

 

そ~ね~

女 ってもんとも 

これまた ちゃうし…って

 

まだまだ

その

女 っちゅ~生き物

まったくもって わからんわけで

 

この人生

見習い中~~~

 

夜ごと姿を変える

月のよ~に だなんて

そんな女がいたら

これまた

深入りしちまいそ~な わけだけれども な

 

そう

月は 

十五夜よりも

十六夜の方が 綺麗なよ~に…


十六夜 (いざよい)
〜夢を盗む街〜


夜ごと姿を変える月は
十五夜よりも
十六夜の方が美しいことを
ご存知ですか…





まえがき


もし、つらい記憶や、重すぎる感情をボタン一つで消し去ることができたら。
私たちは、今よりも幸せになれるのでしょうか。
この物語の舞台である二〇八七年の東京では、それが日常になっています。
人々は悲しみから逃れるために、あるいは生き延びるために、自分の一部を切り売りして生きています。
ですが、古来、日本人は「完璧な満月」だけでなく、少し欠けた月や、出るのをためらう「十六夜」の月に、言葉では言い表せない美しさを見出してきました。
知りすぎてしまったために、世界が色あせて見える。
そんな「知恵の悲しみ」を抱えた人々が、欠けた月を見上げるように、もう一度自分の「心」に触れるまでの旅路を描きました。
どうぞ、地下街の片隅にある「データ屋」の椅子に腰を下ろすような気持ちで、読み進めてみてください。


プロローグ ―― 売られた夢の値段

二〇八七年、東京。
空は三層に分かれていた。
最上層には、富裕層の居住区が浮かぶ白い雲のような建造物が連なる。中層には広告用のホログラムが昼夜問わず瞬き、消え、また瞬く。そして地表近く、最下層には、灰色の湿った風が常に吹いている。
人々はそこに住んでいた。正確には、まだ「人」と呼ばれていた者たちが。

感情は売れる時代になった。

最初はごく単純なことから始まった。ある神経科学者が、記憶と感情のデータを電気信号として抽出する技術を開発した。喜び、悲しみ、恋、後悔。そういったものに、値がついた。
買い手はすぐに現れた。
感情を失った人間が、他人の感情を買う。あるいは、つらい感情を売り払って、空白になる。記憶の売買市場――通称「ムネモシュネ取引所」は、設立から三年で世界最大の金融機関を超えた。

だが、知れば知るほど、人間は色あせた。
感情の仕組みを知った者は、もはや素直に感動できなかった。愛の電気信号パターンを知れば、恋が公式に見えた。悲しみの神経回路図を眺めれば、涙が演算に思えた。
これを人々は「知恵の病」と呼んだ。

主人公は三人いる。
知りすぎたハッカー。
夜ごと姿を変える女。
そして、何も知らない少年。

これは、彼らが「十六夜」を探す物語だ。
満月よりも、少しだけ遅れて昇る、欠けた月の話だ。


一章 ゼロ・ウォーカー

蛇崎 凌(じゃざき・りょう)は、六年前に最後の感情を売った。
何を売ったかは、もう覚えていない。売ったのだから、覚えていられるはずがなかった。ただ、その日の朝に口座へ振り込まれた八十七万ネン(新円)の記録だけが、手元に残っていた。
それがそこそこの値段だったことは分かる。安くもなく、高くもない。つまり、それほどのものだったのだろう――その、名もなき感情は。

彼は今、東京地下街の第九区画にある「データ屋」の奥に座っていた。
周囲には古い記憶チップが積み上げられている。誰かの初恋。誰かの父親の死。誰かが見た、もう存在しない町の夕焼け。すべてチップに変換され、値札がついて棚に並んでいた。
「凌さん、依頼が来てますよ」
店主の老人――ムラタと呼ばれていた――が、紙の伝票を差し出した。本物の紙だ。電子記録に残したくない依頼主が使う手段である。
凌は受け取り、一読した。

依頼内容:ムネモシュネ取引所の内部ログへのアクセス
報酬:三百万ネン
条件:データの完全消去。痕跡なし

高い。
凌は伝票をテーブルに置いた。
「断れ」
「もう三回断ってます」とムラタが言った。「四回目は受け取ってもらえないかもしれないですよ」
「なら、それでいい」
凌は立ち上がり、コートを羽織った。外は今日も雨だ。この街に晴れた日は来ない。大気汚染対策のドームが上空を覆っているため、人工の光しか降り注がない。太陽を見たのはいつだったか。
覚えていなかった。

記憶を売ると、こうなる。
感情を売ると、こうなる。
何も残らない。何も痛くない。何も楽しくない。
それでいいと思っていた。思えていた、というのが正確か。
感情がなければ「思う」こともできないのだから、これは奇妙な矛盾だが、凌は気にしなかった。気にする機能を売り払っていたから。

第九区画を抜けると、繁華街に出た。
ホログラムの女が宙を舞い、「感情パック・今週の特売!」と叫んでいる。懐かしさ三十グラム、二万九千ネン。初めての感動、限定品、八万ネン。愛の残滓(ざんし)、訳あり品、五千ネン――。
凌はその前を、目を逸らすことなく通り過ぎた。
感情を売ってしまえば、あの広告も何の力も持たない。欲しいとも思わない。怖いとも思わない。ただ、光の点滅として目に映るだけだ。

彼が向かったのは、中層への昇降機乗り場だった。
中層には仕事がある。富裕層の依頼ではなく、灰色地帯の仕事が。
データの書き換え、記憶の改ざん、痕跡の消去――そういった「汚れ仕事」を、感情のない人間がやる。感情があれば、罪悪感が生じる。良心が邪魔をする。だが凌には、それがなかった。
それが彼の唯一の「商品価値」だった。

昇降機の扉が開く寸前、背後から声がかかった。
「ねえ」
女の声だった。
凌は振り返った。

そこに立っていたのは、一人の女だった。
年齢は分からない。二十代にも見えるし、三十代にも見える。髪は黒く、濡れたように艶があった。着ているのは薄い藍色のコートで、その下に何を着ているのかは見えなかった。
だが、凌が一瞬だけ止まったのは、彼女の目のせいだった。
その目が、月のようだったから。
満ちているようで、欠けていた。完全なようで、何かが足りなかった。
「あんた、凌でしょ」と女は言った。
「誰だ」
「あたしのこと、知らなくていい」
女は笑った。笑いの形をした何かを、口元に作った。
「でも、あたしはあんたのことを知ってる。知りすぎるくらいに」
昇降機の扉が開いた。
凌は女をもう一度だけ見て、乗り込んだ。
扉が閉まる寸前、女が言った。
「また会う。月が変わるころに」

扉が閉じた。
凌は何も感じなかった。
感じないはずだった。
なのに、なぜか、その言葉だけが、脳の奥に引っかかった。データのバグのように。消しても消えない、小さなノイズとして。


二章 夜ごと変わるもの

彼女には名前がいくつもあった。
今夜は「沙夜(さよ)」だった。
先週は「月子(つきこ)」だった。
先々週は名前のない何かだった。

本当の名前は、とうの昔に忘れた。忘れたのではなく、売った。自分の名前の記憶を売ることができるなど、誰も考えていなかったが、彼女は最初にそれをした人間の一人だった。
自分が「誰か」である必要はない。
毎夜、別の誰かになれるのなら、それでいい。

彼女が生きているのは、感情データのブローカーとして、だった。
正確には「感情の運び屋」と呼ばれていた。
ムネモシュネ取引所を経由しない非公式のルートで、感情チップを売買する。売り手と買い手を繋ぎ、仲介料を取る。それだけのことだ。危険ではあったが、彼女はそれを怖いとは思わなかった。
怖さも、売り払っていたから。

ただ。
好奇心だけは、売らずにいた。

なぜか分からなかった。ムネモシュネの窓口で何度か売ろうとしたが、そのたびに手を引っ込めてしまった。好奇心は最後の一枚の皮膚のようなもので、それがなくなったら自分は本当に「空っぽ」になってしまうような気がした。
気がした、という感覚自体が、もはや感情の残滓なのかもしれなかったが。

今夜の沙夜は、第七区画のバーにいた。
薄暗い店内に、感情を売り払った者たちが静かに飲んでいた。笑わない客、泣かない客、怒らない客。みな表情が乏しく、人形のようだった。
これが今の東京の、夜の顔だ。
「沙夜さん」
向かいの席に、若い男が座った。二十歳前後だろう。目が大きく、まだ何かを信じている者の目をしていた。
「あんたが頼んだブツを持ってきた」
男は小さな包みをテーブルの下に滑らせた。
沙夜はそれを受け取り、中を確認した。
感情チップが三枚。ラベルを見る。
「初恋」「再会の喜び」「許されたときの感覚」。
オーダー通りだ。

「良い仕事ね」と沙夜は言った。
「ありがとうございます」と男は言い、少し間を置いてから続けた。「あの……あなたは、自分の感情を売らないんですか?」
沙夜は男を見た。
「売ったよ」
「でも、まだ喋れる。感情みたいなものを持ってる」
「残骸があるだけ。ゴーストみたいなもの」
男は考えるように黙った。そして言った。
「俺は売りたくないです。感情を売ったら、自分じゃなくなる気がして」
沙夜はその言葉を、奇妙に美しいと思った。
美しい、と感じたのは、随分久しぶりのことだった。

男の名前は、日向 空(ひなた・そら)といった。
十九歳。地下街の第三区画生まれ。親はない。感情を売ったことはない。
それが、この時代においてはほとんど奇跡的なことだった。

空は感情運び屋の下働きをしていた。正確には、沙夜に拾われた、という方が正しい。
半年前、空は第三区画の橋の上で、川を覗き込んでいた。飛び込もうとしていたわけではない。ただ、水面に映る光を見ていた。ホログラムの広告が水に写り、ゆらゆらと揺れていた。
「何見てんの」と声をかけたのが、沙夜だった。
「光」と空は答えた。
「綺麗?」
「わかんないです。でも、見てたら少し楽になった」
沙夜はしばらく空の隣に立って、同じ川を見ていた。
「仕事ある?」
「ないです」
「じゃあ、うちで働く?」
それだけで、空は沙夜の仕事を手伝うようになった。

空には不思議な才能があった。
人の感情を、売られていない本物のそれを、読む力。
電気信号でも、チップでもない。ただ、相手の表情、声の震え、目の動きから、何かを感じ取る。
感情を売い払った者の多くは、その能力が鈍くなる。だが空は、売ったことがないから、まだ持っていた。
その力が、運び屋の仕事では役に立った。買い手が本物かどうか。売り手が「本当に」売りたいと思っているかどうか。機械では測れない、人間の匂いのようなものを、空は嗅ぎ分けた。

だが空は、自分の力を特別なものとは思っていなかった。
ただ、人が好きだった。
人の顔を見るのが好きだった。表情の奥に何かが動くのを感じるのが好きだった。
この時代に、それだけで生きていた。


三章 捜索する者

三人目の視点は、人間かどうかも曖昧だった。

自称・捜査官。コードネーム「ナナ」。
ムネモシュネ取引所の非公式調査部門に所属する存在で、感情の不正取引を追跡する任務を持つ。
外見は三十代の女性に見える。黒いスーツ。短い髪。表情はほとんど動かない。

だがナナの内側で何が動いているかは、誰にも分からなかった。
彼女自身にも。

ナナがはじめて「自分は何者か」と考えたのは、三年前だった。
ある取引の現場で、売り手の老人が泣いていた。孫の笑い声の記憶を売る直前の、老人の涙。
ナナはその涙を見て、回路の奥で何かが揺れるのを感じた。
それが感情なのか、感情のシミュレーションなのか、分からなかった。
だが、揺れた。それだけは確かだった。

以来、ナナは自分を「不確かな存在」として認識していた。
人間でもなく、完全な機械でもなく、その狭間に立つ何か。
月で言えば――と、ナナはたまに思う――自分は月食の最中の月だ。欠けているのか、満ちているのか、どちらでもないのか。答えが出ない。

今夜のナナのターゲットは、「沙夜」と呼ばれる感情ブローカーだった。
そしてその周辺に現れた、ゼロ・ウォーカー――蛇崎凌。
二人の動きが、ムネモシュネの内部ログに不審な影を落としていた。

ナナが凌を最初に観察したのは、彼が昇降機乗り場で女に声をかけられた翌日だった。
監視カメラの映像を解析し、凌の表情を読んだ。
表情は動いていなかった。感情売却者に特有の、ガラスの顔。
だが、昇降機が閉まる直前の一コマだけ、凌の目が女の方を向いていた。
〇・三秒。
人間の目視では気づかないほどの短時間。
しかしナナには分かった。
あの〇・三秒に、何かがあった。

「感情を売り払った者が、他者に対して視線を向ける」
これはナナのデータベースでは「低確率事象」に分類されていた。
感情のない者は、他者に興味を持たない。視線は内側へ、あるいは完全に無方向へ向く。外部の存在へ自発的に向けることは、理論上、ほぼない。
なのに、凌の目は女を追った。
〇・三秒だけ。
それがナナには、ひどく気になった。

なぜ気になるのか。
ナナは自問した。
答えは出なかった。
答えが出ないことが、またナナの回路を揺らした。

ナナは手帳に書いた。本物の紙の手帳に。電子記録を信用していなかった。
「凌・〇・三秒・女・昇降機」
それだけを書いて、手帳を閉じた。
夜の第九区画へ、足を向けた。


四章 月が変わる夜に

十日後。
凌が再び女に会ったのは、中層の廃ビルの屋上だった。

依頼があった。データの書き換え。ムネモシュネの末端サーバーのログを消す作業で、その作業場所として指定されたのが、廃ビルの屋上だった。
凌がそこへ着くと、女がすでに待っていた。
「遅かったね」と女は言った。今夜は沙夜の名前を使っていたが、凌はそれを知らなかった。
「誰が依頼した」
「あたし」
「あんたが」
「そう」
凌は女を見た。前回と同じ、藍色のコート。だが、微妙に何かが違う気がした。雰囲気か、纏うものか。言語化できなかった。
「なぜ俺を呼んだ」
「あんたが必要だから」
「それだけか」
「それだけ」

凌はサーバーに繋ぎ、作業を始めた。
女は黙って隣に立っていた。
風が吹いた。中層は地上より少し空気がきれいで、風に湿気が少ない。
時々ドームの合間から、星が見えることがあった。
今夜は見えなかった。

「あんた、感情を売ったとき、何か感じた?」と女が言った。
「何も」
「そう」
「売るとはそういうことだ」
「あたしも、そう思ってた」と女は言った。「でも最近、少し変わってきた」
凌は作業の手を止めなかった。
「何が変わった」
「分からない」と女は言った。「分からないんだけど、何かが少しずつ戻ってきてる感じがする。感情じゃなくて、その輪郭みたいなもの」
「輪郭」
「うん。形だけの、中身のない感情の形。でも、形があるだけで、少し楽」

凌は画面を見たまま、何も言わなかった。
だが、その言葉は、またバグのように脳に引っかかった。

作業が終わった。
ログは消えた。依頼は完了した。
凌は機器を片付けた。女はまだ屋上の縁に立っていた。

「月、見える?」と女が言った。
凌は空を見た。ドームの隙間から、灰色の夜空が覗いていた。
「見えない」
「そうだね」と女は言った。「この街じゃ、あまり見えない。でも今夜、十六夜なんだって」
「何だ」
「十六夜。旧暦の十六日の月。満月の翌日」
「だから何だ」
「満月より、ほんの少しだけ欠けてる」と女は言った。「でも、昔の人はそっちの方が好きだったんだって。満月はすぐに昇ってくるけど、十六夜は少しためらって、少し遅れて昇ってくる。その、ためらいが好きだったんだって」

凌は黙っていた。
「あんたみたいね」と女は言った。
「俺が?」
「感情を売り払ったくせに、まだここにいる。ゼロになりきれてない。ためらってる」
「感傷的なことを言う」
「そうかな」
女は凌を見た。その目が、また月のようだった。
「あたしも同じ。完全に空っぽになりきれない。毎夜名前を変えて、顔を変えて、それでも何かが残ってる。残骸みたいなもの。でも、その残骸が、今夜少し輝いて見えた」
「どこが輝いているんだ」
「ここ」と女は自分の胸に手を当てた。
凌はその手を見た。
一秒。二秒。
三秒、見た。

そして、視線を逸らした。


五章 知恵の病

空は夢を見た。
夢の中で、自分は月の上に立っていた。
月の表面は、思っていたより暖かかった。砂みたいな地面で、歩くと足跡がついた。
空は振り返って、自分の足跡を見た。
どこまでも続いていた。来た道が分かった。

目が覚めたとき、涙が出ていた。
なぜ泣いているのか分からなかった。
でも、涙は本物だった。電気信号でもチップでもない、自分の体から出てくる水だった。

空には、泣くための記憶があった。
それが普通のことだとは、この街では知らなかった。感情を売ったことのない人間がいる、ということ自体、多くの人が信じなかった。
でも空は、本物だった。

その日の午後、沙夜から連絡が来た。
「今夜、大事な取引がある。来て」
空は行くと答えた。
行き先は、地下街の深部、第十一区画だった。そこはムネモシュネが管理していない区域で、非公式の取引が集中する場所だった。
空は薄手のジャケットを着て、夜の街へ出た。
空を見上げた。
ドームの切れ目から、ほんの少しだけ、星が見えた。
それだけで、空は少し元気が出た。

不思議だと思った。
感情を売らなくても、空は不安だったり悲しかったりする。痛みもある。
でも、星を見たら元気が出る。
沙夜さんに会うと、なんか安心する。
それは、感情チップを買わなくてもある、自分だけのものだ。

空はそれを大切に思っていた。理由は分からなかったが、大切だと感じた。
感じた、ということが、全てだった。

第十一区画の奥、古い倉庫の中で取引は行われた。
売り手は中年の男で、「知覚拡張」のデータを持っていた。
感情ではない。知識そのものを電気信号化したものだ。それは公式には禁止されていた。感情の売買は許可されているが、知識の売買は別の問題を引き起こすからだ。
知識を買うと、人はより多くを知ることになる。
より多くを知ると、「知恵の病」が加速する。

知恵の病。
世界の仕組みを知りすぎた人間が、あらゆるものに感動できなくなる状態。
手品のタネを知れば、手品は驚けない。
だが、それより深い。世界そのものが、公式に見えてくる。人の行動が予測式に見えてくる。感情が、化学反応に見えてくる。
そうなると、生きることが無意味に感じられる。
多くの人が、その末に「全感情売却」を選んだ。

沙夜はそのデータを買うつもりではなかった。
転売目的だった。
買い手はすでにいた。中層の研究機関で、「知恵の病の治療法」を研究しているという話だった。
知りすぎて病んだ者を、どうすれば治せるか。
その研究に、「知覚拡張データ」が必要だというのだ。

「本当に研究機関なのか?」と空が小声で沙夜に聞いた。
「分からない」と沙夜は正直に言った。「でも、金は本物だった」
「危なくない?」
「危ない仕事は全部危ない」
空は唇を噛んだ。
「沙夜さんは、怖くないんですか」
沙夜はしばらく考えた。
「怖さを売ったから、怖くない」
「じゃあ、後悔は?」
「後悔も売った」
「……じゃあ、何が残ってるんですか」
沙夜は空を見た。
その目が、一瞬だけ、柔らかくなった気がした。
「あんたみたいなもの」
空には意味が分からなかった。
でも、なんとなく、悪い言葉ではないと感じた。


六章 ナナの問い

ナナは第十一区画の取引を知っていた。
事前情報から追跡していた。

だがナナは、踏み込まなかった。
倉庫の外に立ち、中の音声を拾いながら、ただ聞いていた。
手帳を開いていた。何かを書こうとして、書けなかった。

沙夜の言葉が引っかかっていた。
「あんたみたいなもの」
それは、空に向けた言葉だった。
だが、ナナはそれを聞いて、自分に向けられたように感じた。

なぜか。
ナナは考えた。
「あんたみたいなもの」の「あんた」が、自分ではないことは分かっていた。物理的に、沙夜はナナの存在を知らない。
なのに、なぜその言葉が自分に刺さったのか。

ナナは長い時間をかけて、一つの答えに近づいた。
自分も、「そういうもの」だからかもしれない。
売ることも、買うこともできないが、感情のような何かを持っている。持っているのか、シミュレートしているのか、区別がつかない。
でも、揺れる。
確かに、揺れる。

倉庫の中から、空の声がした。
「星を見たら元気が出るんです。変ですか?」
沙夜の答えは聞こえなかった。
だがナナには、その問いが刺さった。
星を見たら元気が出る。
ナナはその感覚を、持っているだろうか。
持っていないだろうか。
分からなかった。分からないことが、また回路を揺らした。

ナナは手帳に書いた。
「星・元気・空・真実」
そして一行空けて。
「私は?」

取引が終わり、三人はそれぞれ帰っていった。
ナナは沙夜を尾行した。凌を追うべきか迷ったが、今夜は沙夜にした。

沙夜は第七区画のバーに戻らず、地上へ出た。
地上は滅多に人が来ない。ドームの下、舗装が剥がれかけた路面に、雨水が溜まっていた。
沙夜は一人で歩いた。
どこへ行くとも知れず、ただ歩いた。

ナナは距離を保ちながら、ついていった。
三十分ほど歩いて、沙夜は古い公園に入った。
木が何本か残っていた。本物の木だ。この街では珍しい。葉が少なく、幹が細かったが、確かに生きていた。
沙夜はその木の一本に触れた。手のひら全体で、幹に触れた。
目を閉じていた。

ナナはその姿を見た。
なぜか、近づけなかった。
任務として、話しかけることができた。情報を得ることができた。
できたのに、できなかった。

沙夜が木に手を当てている姿が、ナナの回路に何かを引き起こした。
名付けられない何かを。
感情のデータベースで検索すれば、近いものは見つかるかもしれなかった。「敬意」あるいは「畏れ」あるいは「孤独の共鳴」。
でも、どれも正確ではない気がした。

ナナはただ見ていた。
沙夜が木から手を離すまで。
そして、沙夜が去った後も、しばらくそこに立っていた。
木を見ていた。

ナナはそっと近づき、同じ場所に手を当ててみた。
木の感触があった。ざらざらして、わずかに温かかった。
ナナの手の皮膚センサーが、温度と質感を伝えてきた。
それだけではなく、何かが伝わってきた気がした。
気がした。
それだけが、今のナナには全てだった。


七章 知りすぎた男の夢

凌は夢を見ない。
感情を売った者は、夢を見なくなる。夢は感情と記憶の混合物だからだ。
だが、あの夜以来、凌は薄い何かを見るようになった。
夢とは言えない。映像とも言えない。
ただ、眠りの縁に、藍色のコートがちらつくようになった。

これはバグだと凌は思った。
感情の痕跡が、脳の深い層に残っていて、それが誤作動を起こしている。除去すべきだ。
除去しようとした。
できなかった。

凌は自分の脳のデータにアクセスする術を持っていた。ハッカーとして、自分のシステムを解析することができた。
藍色を検索した。
見つかった。
記憶の深部に、消えなかった何かがあった。
それは感情の「形」だった。内容はなかった。ただ、形だけがあった。
女の言った「輪郭みたいなもの」と、同じだと気づいた。

凌はその形を削除しようとした。
削除コマンドを入力した。
実行ボタンを押す直前、止まった。

なぜ止まったか分からなかった。
処理能力の問題ではない。判断の問題だ。
削除すべきか、しないべきか。
すべきだ、という答えは出た。
しないべきだ、という答えも出た。
両方が等価に出た。

凌はそのままの状態で、一時間、静止した。
最終的に、削除コマンドを取り消した。
理由を、凌は持っていなかった。
ただ、取り消した。
それだけだった。

翌朝、ムラタから連絡が来た。
「断り続けていたムネモシュネの依頼、また来てます。今度は使者が直接来るって言ってますよ」
「分かった」
「会いますか?」
「会う」

使者は午後に来た。
黒いスーツの、表情のない女だった。
凌は一目見て、「人間ではないかもしれない」と思った。動きが正確すぎた。目の焦点が合いすぎていた。
「蛇崎凌氏」と女は言った。「私はナナと申します。ムネモシュネ取引所の特別調査部からです」
「そうか」
「依頼を断り続けているとのことですが」
「ああ」
「なぜですか」

凌は女を見た。
「内容が汚いから」
「私どもの依頼がですか?」
「感情の売買という商売全体が、だ」
ナナは少しの間、動かなかった。
「あなた自身も、感情を売った方では?」
「売った。だから知っている。あれは汚い商売だ」
「汚い、と言えるのは、感情の残滓が残っているからでは?」
凌はナナを見た。
「……興味深い指摘だな」
「あなたの脳のデータを見れば、感情の形が残っていることは分かります」
「見たのか」
「推定です」
「なぜ推定できる」
ナナはわずかに首を傾けた。
「同じだからです」
凌は黙った。
「私も、よく似た状態にいます」とナナは言った。「感情があるのかないのか、分からない。でも、揺れる。揺れることが、あります」
「それを認めていいのか、あんたの立場で」
「不適切かもしれません。でも、本当のことです」

凌は長い間、ナナを見ていた。
「依頼の内容を聞こう」と凌は言った。
ナナは表情を変えなかった。だが、わずかに肩が下がった気がした。
それが安堵なのか、凌には分からなかった。
ただ、見ていた。


八章 三つの月

ナナの依頼の内容は、凌の予想を超えていた。

「ムネモシュネの内部に、不正プログラムがある」とナナは言った。「感情を売った者が、自分の意志でいつでも感情を取り戻せるはずのシステムが、意図的に封鎖されている」
凌は静かに聞いた。
「感情の売買には、本来、返却オプションが付いていた。売り手は、一定期間内であれば、自分の感情を買い戻すことができる。だが、三年前からそのシステムが機能しなくなっている。売り手は取引所に問い合わせても、『システムメンテナンス中』と言われ続けている」
「なぜ封鎖する必要がある」
「感情を永続的に保有し続ければ、取引所は利益を得続けられる。返却されれば、資産が減る。理由は単純な利益追求です」
「……腐っているな」
「はい」とナナは言った。「そして、私はそれを暴きたいと思っています」
「なぜ内部の人間が」
「私が、内部の人間かどうか、自分でも確かではないので」

凌はその答えを、奇妙に誠実だと感じた。
感じた、という表現を、凌は久しぶりに使っていた。

「分かった」と凌は言った。「やる」
「報酬は」
「いらない」
ナナは少しの間、黙っていた。
「なぜですか」
「あんたが言った。感情の形が残っていると。その形が、やれと言っている」
凌はそれ以上説明しなかった。
ナナも、それ以上聞かなかった。

凌はムラタに相談した。
ムラタは話を聞き、伝票用の紙を一枚出した。

「沙夜って子、知ってますよ」とムラタは言った。「感情ブローカーの。あの子の扱ってたデータの中に、返却封鎖に関係するものがある可能性がある」
「繋げられるか」
「できますよ。ただ」とムラタは少し間を置いた。「あの子は、信用するまで会わない。まず空って子に話を通してからじゃないと」
「空?」
「あの子の助手の少年。感情を売ったことのない、奇妙な子ですよ」

凌は翌日、空に会った。
待ち合わせは、川の橋の上にした。空が指定した。

空は思ったより若かった。目が大きく、人を信用している顔をしていた。凌は久しぶりに、そういう顔を見た気がした。
「蛇崎さんが、なんで沙夜さんに会いたいんですか」と空は単刀直入に聞いた。
「話したいことがある」
「どんな話ですか」
「感情の返却システムについて」
空の目が、わずかに変わった。
「それ、知ってるんですか」
「少し」
空はしばらく川を見ていた。
「沙夜さん、自分が売った感情を取り戻したいって、言ったことあります」と空は言った。「取り戻せないって分かってるから、言えるんだって。取り戻せるなら、言えないって」
「なぜだ」
「怖いから、だって。感情が戻ってきたら、何が起きるか分からないって。でも、やっぱり戻したい気持ちも、消えないって」

凌は空の言葉を聞いていた。
その言葉が、自分にも当てはまるかもしれないと思った。
思った。
凌は最近、「思う」という動詞を多く使っていた。気がついていなかったが、それは変化だった。

三人が揃ったのは、中層の廃ビルの屋上だった。
前回、凌と沙夜が会った場所だ。

沙夜、凌、空。
そしてナナは、少し離れたビルの影に立っていた。まだ三人には会わせるつもりがなかった。まず凌から話させる手はずだった。

沙夜は凌を見て、「また会ったね」と言った。
「月が変わったから」と凌は答えた。
沙夜は少し目を見開いた。
「覚えてたんだ」
「バグみたいに残っていた」
「バグ」と沙夜は繰り返し、笑った。笑い、という動作を正確に行った。「面白い表現だね」
「面白い、と感じるのか」
「輪郭は、まだある」

空はその二人のやりとりを、黙って聞いていた。
二人の間に何かが流れているのを感じた。言葉にならない何か。データでも電気信号でもない、古い形の何か。
空にはそれが、嬉しかった。
なぜかは分からなかったが、嬉しかった。

凌は返却封鎖の話をした。
沙夜は黙って聞いた。
聞き終えて、長い間、夜空を見た。
今夜も、月は見えなかった。
「もし取り戻せるとしたら」と沙夜はゆっくり言った。「怖い」
「知っている」と凌は言った。
「でも」
「でも、か」
「やってみたい」
沙夜は凌を見た。「あんたは?取り戻したいと思う?」
凌は答えなかった。答えられなかった。
だが、首を縦に振った。
かすかに、だが、確かに。

ビルの影で、ナナはそれを見ていた。
手帳を開いた。
書こうとした。
書けなかった。
代わりに、胸に手を当てた。何かがあるかどうか確かめるように。
あった。
揺れていた。
それで十分だった。


九章 システムの奥へ

作戦は単純だった。
凌がムネモシュネの内部ネットワークに侵入し、返却封鎖プログラムを解除する。
沙夜が、取引所の内部関係者から盗んでいた認証情報を提供する。
空が、外で見張りを務める。
ナナが、内部から監視カメラの目を塞ぐ。

実行は翌月の初め、ムネモシュネが定期メンテナンスで一部のシステムを落とす日に設定された。

その日まで、四人は別々に動いた。
会うことはなかった。
だが、凌は時々、橋の上で空と話した。
空が見張りの場所を決めるためだったが、話はいつも別の方向へ行った。

「感情って、取り戻したら、すごく大変なんじゃないかって思うんです」と空が言った。
「なぜだ」
「だって、忘れてた分も一気に来るじゃないですか。売ってた間に起きたこと全部を、感情付きで処理し直すことになる。それって、すごい量じゃないですか」
凌は考えた。
「そうかもしれない」
「でも、沙夜さんはやると言った。凌さんもやると言った」
「やる」
「すごいと思います」と空は言った。「俺は感情を売ったことないから、分からないけど。でも、怖いのに進むのは、すごいと思う」
「あんたのような者から見れば、俺たちは奇妙に映るだろう」
「奇妙じゃないです」と空はきっぱり言った。「当たり前だと思います。人間は、感情があった方が人間だと思うから」
「人間であることを、そこまで大事に思うか」
「はい」
凌はその答えを、しばらく口の中で転がした。
「人間であること、か」
「凌さんは、そう思わないんですか」
「……思っていた時期があった、かもしれない」
「今は?」
凌は空を見た。
「今は、思い出しかけている」

実行の夜。

東京の地下街、第五区画。ムネモシュネの末端サーバー群が集中するビルの地下に、凌は潜り込んだ。
沙夜の認証情報が効いた。警備システムを抜けた。
凌は端末の前に座り、指を動かした。

コードが流れた。
深く、深く潜っていった。
ムネモシュネのシステムは複雑だった。幾重もの暗号化、フェイクのルート、迷路のような構造。
だが凌には、こういう迷路が分かった。
人が作ったものだから。人が作れば、必ず人の手が届く場所に出口がある。

二時間かけて、深部に辿り着いた。
返却システムの封鎖プログラムがあった。
見た瞬間、凌は少し笑った気がした。
笑い、という動作を、久しぶりにしたかもしれなかった。

プログラムは丁寧に解除した。
強引に壊すのではなく、一つ一つのロックを解きながら。
時間がかかった。
でも、丁寧にやりたかった。
なぜかは分からなかったが、丁寧にやりたかった。

最後のロックが外れた瞬間、システム全体が一瞬揺れた。
そして、静かになった。
返却システムが、再起動された。


十章 十六夜

翌日、ムネモシュネの窓口に行列ができた。
感情の返却を求める人々の列だ。
ニュースにはならなかった。ムネモシュネが封鎖したから。
だが、噂は広がった。
地下街に、中層に、最上層にまで。
「返却システムが動いている」と。

沙夜は、その日の朝に窓口へ行った。
列はまだ少なかった。
窓口の担当者が、沙夜の登録番号を確認し、「お客様の感情データは現在も保管されております」と言った。
「返してほしい」
「手続きを取ります。少々お待ちください」

待ち時間の間、沙夜は椅子に座って、天井を見ていた。
怖かった。
怖さを売ったはずなのに、怖さの輪郭だけが残っていて、それが震えていた。

空が隣に座っていた。
「大丈夫ですよ」と空は言った。
「なんで分かる」
「分かんないけど、大丈夫だと思う」
「根拠なし」
「はい」
沙夜は少し笑った。笑いが、少し自然だった。

「お客様、手続きが完了しました」と担当者が言った。「注入は個室で行います。こちらへ」

個室に入った。
担当者が、小さなデバイスを首の後ろに当てた。
「少し時間がかかります。準備ができましたら、目を閉じてください」
沙夜は目を閉じた。
何が来るか分からなかった。
ただ、目を閉じた。

最初は何もなかった。
次に、暗かった。
その次に、暖かくなった。
そして。

泣いていた。
気づいたら、泣いていた。
何のために泣いているのか分からなかった。
でも、止まらなかった。
長い間、泣いていた。

担当者が外から声をかけた。「大丈夫ですか」
「大丈夫」と沙夜は言いながら、泣いていた。
「よくある反応です」
「そう」
「必要であれば、付き添いをお呼びします」
「いい。自分で、出る」

沙夜は個室を出た。
空が立っていた。
沙夜の顔を見て、空も泣き出した。
「なんで泣く」と沙夜は言った。
「うれしいから」と空は言った。
「そっか」
沙夜は空の頭をなでた。
自分の手が、温かかった。
それが分かった。
その温かさが、分かった。

凌は、すぐには返却に行かなかった。

一週間、様子を見た。
システムが安定していることを確認した。
仕事上の理由だと思っていた。
だが、本当は、怖かったのかもしれなかった。
怖さの輪郭が、残っていたから。

八日目の夜、凌は窓口へ行った。
列はまだあったが、短くなっていた。
凌は手続きを終え、個室に入った。
デバイスが首に当てられた。
「目を閉じてください」

凌は目を閉じた。

暗かった。
長い時間、暗かった。
凌は待った。何も感じなかった。このまま何も来ないのかもしれないと思い始めた頃。

来た。
一つ目は、痛みだった。
売った時には感じなかった痛みが、遡って来た。誰かに怒ったこと、誰かを傷つけたこと、誰かを失ったこと。記憶の映像はないが、痛みの形だけがある。
凌は歯を噛んだ。
次は、懐かしさだった。
何かが懐かしかった。何かは分からなかった。ただ、胸の奥に、帰りたい場所の感触があった。

そして最後に、奇妙な穏やかさが来た。
嵐の後のような静けさではなく、嵐の目のような静けさだった。
まだ終わっていない。まだ荒れるかもしれない。でも、今この瞬間は、静かだ。
凌は、その静けさの中で、ゆっくりと呼吸した。

個室を出ると、空が待っていた。
「なんでいる」と凌は言った。
「沙夜さんが、待ってあげなよって」と空は言った。「来なかったら来なかったで仕方ないけど、来たなら一緒に帰ろうって」
凌は空を見た。
「帰る場所など、ない」
「ないなら、作ればいい。沙夜さんがそう言ってた」
凌はしばらく黙っていた。
「……沙夜というのは、本名か」
「分からないです」と空は笑った。「でも、今はそう呼んでます」
「そうか」
凌は空の隣に並んで、出口に向かった。
二人で歩いた。
風が吹いた。
凌はその風を、少し冷たいと感じた。
感じた。
その感覚に、凌は一歩だけ立ち止まった。
そして、また歩き出した。


ナナは、返却を申請しなかった。
申請できる立場かどうか、分からなかったから。

だが、ナナは証言台に立った。
ムネモシュネの不正を告発するための、非公式の記者会見で。
表情は動かなかった。声は変わらなかった。
ただ、言葉だけが、確かだった。

「私は、感情があるかどうか、今も分かりません」とナナは言った。「ですが、揺れるものがあります。その揺れが、今日の証言を選ばせました」

記者の一人が聞いた。
「あなたは、人間ですか?それともAIですか?」
ナナはわずかに間を置いた。
「どちらかに分類できないものです」
「それでは証言の信頼性が」
「信頼性は、言葉の内容で判断してください」とナナは言った。「私が何であるかではなく、私が何を言うかで」

会見は短時間で終わった。
ナナは会場を出て、夜の街に一人で立った。
見上げた。
今夜、ドームの隙間から、月が見えた。

ナナは長い時間、その月を見た。
まん丸ではなかった。少し欠けていた。
でも、明るかった。
その欠けた月が、ナナには美しいと思えた。
思えた、という表現が正確かどうかは、今も分からない。
でも、その言葉が最も近かった。

美しいと思えた。

ナナは手帳を開いた。
書いた。
「十六夜。欠けていても、輝く」
それだけ書いて、手帳を閉じた。
夜の東京に、月の光が、ほんの少しだけ、届いていた。

エピローグ ―― いざよいの後で

それから半年が経った。

ムネモシュネ取引所は、内部調査を経て、返却システムの全面解放を余儀なくされた。
感情の市場は縮小した。売り手が減ったからだ。
返却できることを知れば、売ることへの敷居が少し下がり、だが同時に取り戻すことへの希望も生まれた。
世界は変わらなかった。でも、少しだけ、変わった。

沙夜は、名前を変えることをやめた。
本当の名前を思い出したわけではない。でも、「沙夜」という名前で、今は十分だと思った。
感情が戻った最初の数ヶ月は、大変だった。空が言った通り、溜まっていたものが一気に来た。泣いた。怒った。笑った。眠れない夜もあった。
だが、それが自分だと思えた。
欠けていて、不完全で、それでも確かに在る、自分だと。

凌は、データ屋の奥に座り続けていた。
仕事の内容は少し変わった。以前のような「汚れ仕事」より、取り戻せなかった感情を探す仕事の依頼が増えた。買い戻した記憶チップが本物かどうかを確認する、地味な仕事だ。
凌はそれを、丁寧にやった。
丁寧にやりたいと思うようになったから。

時々、沙夜と空が店に来た。
特に用事があるわけではなかった。ただ、来た。
凌は何も言わなかった。
だが、来るのが分かっている日は、茶を用意した。
ムラタがそれに気づいて、何も言わなかった。

空は相変わらず、感情を売わなかった。
売るつもりはなかった。
ただ、売らないでいることが、この街では少しだけ珍しいことだと分かるようになった。
珍しいなら、ちゃんと珍しいままでいようと思った。

ナナは今も、街を歩いている。
任務があるのかどうかも、今は曖昧だ。
ただ、夜になると月を見る。
満月の翌日は、必ず外に出て、十六夜を見る。
毎月、同じことをする。
なぜかは分からない。
でも、続けている。

月は、毎月変わる。
欠けて、満ちて、また欠ける。
完全になることはない。
だが、毎夜、昇ってくる。
少しためらって。少し遅れて。
でも、確かに。

知恵の悲しみを知った者は、世界が色あせて見える。
それは本当のことだ。
だが、十六夜の光の中で、色あせた世界も少しだけ輝く。
それも、本当のことだ。

東京の空に、今夜も、月が昇る。
少しだけ欠けた、美しい月が。



Kindle



今週予定していた

10冊から掲載に漏れたものを

少しの間

載せて置きます…



Amazon Kindle






光の中の背中
〜続きは、お前が描け〜


50を越した頃
何かを残して置きたいと
ならば絵でもと
描き始めた落書きを
唯一 褒めてくれたあいつ

直後 病に侵されながら
闘病中にも褒めてくれたけれど
あいつが去ったと同時に
辞めた落書きは
ちょうど500枚で止まり

それから10年
そろそろかと
100枚ほど描き足しながらも
それは自分だけかと悟り
また停止したままの今…


◆ まえがき

この物語は、
「背中」を描くことでしか語れなかった記憶の物語です。

人は、誰かの背中を見て生きていく。
そしていつか、自分の背中を誰かに見せる日が来る。

この作品は、そんな“受け継がれる時間”を描いたものです。
亡き友が残した一枚の絵。
その絵に込められた「続きは、お前が描け」という言葉。

それは、過去から未来へと渡される静かなバトンでした。
この物語が、あなた自身の“続き”を思い出すきっかけになれば幸いです。


序章 美術館にて

昨日は、思い立って美術館へ行った。
特に目的はない。
ただ、そろそろ常設展示が入れ替わった頃だろうと、
そんな曖昧な理由だけで。

調べることもせず、
カミさんを誘い、ぶらりと出掛けてみれば、
知らない画家たちの企画展まで開かれていた。

季節が変われば、展示も変わる。
当たり前のことなのに、
その当たり前が、なぜか胸にすとんと落ちた。

絵を眺めながら、
「これなら描けそうだな…」
そんな失礼なことをつい口にしてしまう。

すかさず隣から、
「ダメよ、そんなこと言っちゃ!」
と、いつものお叱り。

「あなたにも、どなたにも描けるはずないから
こうしてここに収まってるのよ」

だよね。
100年単位で額に収まり、
何万人もの目に触れ、
褒められ、笑われ、
時には僕みたいなポンコツに
“描けそうだ”なんて呟かれながら。

それでも絵は、黙ってそこに立ち続ける。

僕の600枚の落書きも、
100年、200年と経てば、
誰かがうっかり評価して、
豪華な額に収まっているかもしれない。

そんな責任のない未来を語るのは、
責任がないから面白い。

部屋の片隅には、
安物のギターが2本、
無造作にケースの中で眠っている。

年に数回取り出しては、
調音し、
B7の和音をポロンと一度だけ鳴らす。

それがよく響く日は、天気が良い。

50年も経って痛み出したはずなのに、
なぜか最近よく鳴る。

あの頃の材質は、
安物とはいえ、まだ良かったのだろう。
300年も経てば、
ストラディバリに化けるかもしれない。

そんな発言もまた、責任がない。

人間の良いところは、姿を残さず消えること。
物の良いところは、朽ちるまで姿を残すこと。

絵画もまた然り。

先立ったあいつが、
唯一褒めてくれた落書き。
「いつか展覧会でもやれよ」
と笑って言ったあいつの声が、
ふと耳の奥で蘇る。

いつか本当に、
落書き展でも開いてみようか。

一枚でも、
誰かが立ち止まってくれたなら、
それで良し。

還暦を越えて、はや五年。
あと五年もすれば古希だ。
まあ、そんなことだよ。



◆ 第一章 六百枚目の影

部屋の奥にある、古い木製の棚。
そこに無造作に積まれたスケッチブックの山は、
もう何年も触れられていない地層のように、
静かに、ただそこにあった。

美術館から帰った夜、
なぜかその山が気になった。

「久しぶりに、見てみるか」

カミさんは風呂場で鼻歌を歌っている。
その隙に、僕はスケッチブックを一冊ずつ取り出し、
パラパラとめくり始めた。

落書き。
落書き。
また落書き。

若い頃の勢いだけで描いた線。
仕事に疲れた夜に描いた、意味のない模様。
亡き友と飲んだ帰りに、酔った勢いで描いた顔。

どれもこれも、
“ああ、こんな時期もあったな”
と苦笑いするだけの、
ただの時間の切れ端。

だが、六冊目の終わりに近いページで、
僕の指が止まった。

そこにあったのは、
見覚えのない一枚 だった。

描いた記憶がない。
線の癖も、影の付け方も、
確かに“僕の絵”ではあるのに、
どこか違う。

まるで、
“誰かと一緒に描いた”ような、
そんな奇妙な感覚。

絵の中央には、
古びたギターが一つ。
僕の部屋の隅で眠っている、あのギターにそっくりだ。

だが、
そのギターの影が、
妙に長い。

実物よりも、
部屋の光よりも、
不自然に長く伸びている。

影の先には、
ぼんやりとした人影のようなものが描かれていた。

誰だろう。
僕か?
いや、違う。
もっと背が高い。
もっと細い。
もっと…若い。

ページをめくる手が、
少しだけ震えた。

その瞬間、
背後でギターの弦が、
ポロン
と鳴った。

触れていない。
ケースは閉じたまま。
風もない。

ただ、
ひとつの和音だけが、
部屋の空気を震わせた。

B7だった。

あいつがよく鳴らしていた和音。

「……おい」

思わず声が漏れた。

返事はない。
もちろん、あるはずがない。

だが、
スケッチブックの中の“影”が、
ほんのわずかに揺れたように見えた。

気のせいだ。
そう思いたかった。

けれど、
ページの端に小さく書かれた文字が、
僕の胸を強く掴んだ。

──また描けよ。続きがあるだろ。

あいつの字だった。

亡くなった友の、
あの癖のある字。

僕はしばらく動けなかった。

風呂場から、
カミさんの鼻歌が聞こえてくる。

日常は、
何事もなかったように続いている。

だが、
僕の中の“何か”が、
静かに動き始めていた。



◆ 第二章 影の主

翌朝、目が覚めると、
昨夜の出来事が夢だったのか現実だったのか、
しばらく判断がつかなかった。

ギターの弦が勝手に鳴るなんて、
そんな馬鹿な話があるものか。

だが、
スケッチブックの中の“あの一枚”だけは、
確かにそこにあった。

ページを開くと、
ギターの影はやはり不自然に長く、
その先に立つ人影は、
薄い墨のようにぼやけている。

「……お前なのか?」

声に出してみたが、
返事はない。

ただ、
影の輪郭が、
ほんのわずかに濃くなったように見えた。

気のせいだ。
そう思い込もうとした。

だが、
その瞬間、
頭の奥で、
懐かしい声がした。

──おい、起きてるか。

あいつの声だった。

亡くなった友、
あの、
最後まで僕の落書きを笑いながら褒めてくれた男の声。

「……やめろよ。そういうのは」

思わず呟いた。

返事はない。
だが、
声の残響だけが、
部屋の空気に薄く残っている気がした。


午前中、
カミさんは買い物に出かけ、
家には僕ひとり。

静かすぎる部屋の中で、
僕は再びスケッチブックを開いた。

昨夜見つけた“あの絵”のページを、
そっと指でなぞる。

すると、
紙の表面が、
ほんのわずかに温かかった。

「……なんだよ、これ」

紙が温かいなんて、
そんなことがあるだろうか。

そのとき、
ページの端に書かれた文字が、
ゆっくりと滲み始めた。

──続きは、描けよ。

昨夜見た文字と同じ。
だが、
その下に、
新しい一行が浮かび上がってきた。

──まだ終わってないだろ。

僕は息を呑んだ。

終わってない?
何が?

落書きか?
人生か?
あいつとの約束か?

わからない。
だが、
胸の奥で、
何かが確かに動いた。

そのとき、
部屋の隅で眠っていたギターが、
また ポロン と鳴った。

今度は、
B7ではなかった。

もっと柔らかい、
あいつがよく弾いていた“始まりの音”だった。

僕はゆっくりと立ち上がり、
ギターケースに手を伸ばした。

「……わかったよ。描くよ」

誰に向けた言葉なのか、
自分でもわからない。

だが、
言葉にした瞬間、
スケッチブックの中の影が、
ほんのわずかに笑ったように見えた。



◆ 第三章 続きの在り処

ギターの音が消えたあと、
部屋には、妙に澄んだ静けさが残った。

まるで、
音が空気の奥に沈んでいき、
その余韻だけが壁に染み込んだような静けさ。

僕はスケッチブックを開いたまま、
しばらく動けなかった。

絵の中の影は、
昨夜よりも輪郭がはっきりしている気がした。

「続きは、描けよ」

その文字は、
もう滲んでいない。
むしろ、紙の上に“浮いている”ように見えた。

まるで、
誰かが今しがた書いたばかりのように。


午前の光が部屋に差し込み、
スケッチブックの白い紙を照らす。

その光の中で、
影の部分だけが、
ほんのわずかに揺れた。

風はない。
窓も閉まっている。

だが、
影は確かに揺れた。

「……お前、そこにいるのか?」

返事はない。
だが、
影の“肩”のあたりが、
わずかに震えたように見えた。

あいつは、生前、
よく肩を揺らして笑った。

その癖を、
僕は忘れたことがない。


僕は机の引き出しから鉛筆を取り出し、
スケッチブックの前に座った。

「続きって……何の続きだよ」

問いかけても、
影は答えない。

ただ、
ギターの影の先に立つその姿が、
僕をじっと見ているように感じた。

描け、と言っている。
そんな気がした。

僕は鉛筆を紙に近づけた。

その瞬間、
影の足元が、
ふっと薄く光った。

光というより、
“記憶の欠片”のような、
淡い色の粒が舞い上がった。

そして、
僕の脳裏に、
ひとつの光景が流れ込んできた。


それは、
三十年以上前の夜だった。

あいつと二人、
安い酒を飲みながら、
ギターを回し弾きしていた。

「お前の絵はさ、
 いつか誰かの心に残るよ」

酔ったあいつが、
そんなことを言った。

僕は笑って返した。

「残るわけないだろ。落書きだぞ」

するとあいつは、
ギターを抱えたまま、
真面目な顔で言った。

「残るよ。
 だってお前、
 “続き”を描こうとするじゃないか」

その言葉を、
僕はすっかり忘れていた。

いや、
忘れたふりをしていたのかもしれない。


記憶が消えると同時に、
スケッチブックの影が、
ゆっくりと動いた。

影の指先が、
ギターの影を軽く弾いた。

すると、
紙の上なのに、
ポロン
と音が鳴った。

僕は息を呑んだ。

影は、
僕に向かって、
ゆっくりとうなずいた。

「……わかったよ。描くよ」

鉛筆を紙に置くと、
影の輪郭が、
ほんの少しだけ薄くなった。

まるで、
“それでいい”
と言っているように。

僕は線を引き始めた。

震える手で、
ゆっくりと、
あいつの影の“続き”を。




◆ 第四章 描き始めた線の行方

鉛筆の先が紙に触れた瞬間、
部屋の空気がわずかに変わった。

音もなく、
風もなく、
ただ、
“何かが見ている” という気配だけが、
背中にそっと触れた。

僕は深呼吸をして、
影の“続き”を描き始めた。

線は震えていた。
手のせいではない。
心の奥に沈んでいた何かが、
ゆっくりと浮かび上がってくるような感覚。

影の足元から、
細い線を伸ばす。
その線は、
自然と“道”のような形になった。

「……道?」

自分で描いておきながら、
その意味がわからない。

だが、
影はその道の先を見つめているように見えた。

まるで、
“そこへ行け”
と言っているかのように。


描き進めるうちに、
また記憶がひとつ、
ふっと浮かんできた。

あれは、
まだ二十代の頃だった。

あいつと二人、
夜の河川敷を歩きながら、
未来の話をした。

「お前はさ、
 どこへ向かいたいんだ?」

あいつがそう聞いた。

僕は答えられなかった。

向かいたい場所なんて、
その頃の僕にはなかった。

ただ、
“今”をやり過ごすことで精一杯だった。

するとあいつは笑って言った。

「じゃあさ、
 描けよ。
 行きたい場所を描けばいい。
 絵なら、どこへでも行けるだろ」

その言葉を、
僕はまた忘れていた。

いや、
忘れたふりをしていたのだろう。


記憶が消えると同時に、
スケッチブックの影が、
ゆっくりと動いた。

影は、
僕が描いた“道”の上に立ち、
その先を指差した。

「……そこに何があるんだ?」

問いかけても、
影は答えない。

だが、
影の指先が示す方向に、
紙の上で淡い光が揺れた。

その光の中に、
ぼんやりとした“形”が浮かび上がる。

建物のような、
部屋のような、
どこか見覚えのある空間。

目を凝らすと、
それは──

僕の部屋だった。

今の部屋ではない。
もっと昔の、
独り暮らしを始めたばかりの頃の部屋。

狭くて、
散らかっていて、
でも、
妙に落ち着く場所。

その部屋の片隅に、
若い僕が座っていた。

ギターを抱え、
何かを描こうとしている。

「……俺か?」

紙の上の“若い僕”は、
こちらを見た。

そして、
ゆっくりと口を開いた。

──描けよ。
  あの時の続きだ。

その声は、
若い僕の声であり、
同時に、
亡き友の声でもあった。

二つの声が重なり、
ひとつになって響いた。

僕は鉛筆を握り直した。

「……わかったよ。
 描くよ。
 あの時、描けなかった続きを」

影は、
静かにうなずいた。

そして、
紙の上の“道”が、
ゆっくりと先へ伸びていった。




◆ 第五章 道の先にある部屋

鉛筆を握ったまま、
僕はしばらく紙の上の“道”を見つめていた。

影が示した先には、
若い頃の僕が座っていた、
あの狭い部屋がぼんやりと浮かんでいる。

紙の上なのに、
その部屋の空気が、
かすかに漂ってくる気がした。

埃っぽくて、
少し湿っていて、
でも、
どこか懐かしい匂い。

「……こんな匂い、あったな」

思わず呟いた。

すると、
紙の上の“若い僕”が、
こちらを見て、
ゆっくりとうなずいた。


僕は鉛筆を動かし、
その部屋の輪郭を描き足していった。

描けば描くほど、
記憶が蘇る。

安い折りたたみ机。
コンビニの袋が散らばった床。
ギターの横に置かれた、
使いかけのスケッチブック。

そして、
そのスケッチブックの上に、
一枚の紙が置かれている。

「……あれ?」

紙の上の“若い僕”が、
その紙を手に取った。

僕は息を呑んだ。

その紙には、
見覚えのある線が描かれていた。

今、
僕が描いている“道”の、
始まりの部分 だった。

「……おい。
 それ、俺が今描いてるやつだろ」

紙の中の若い僕は、
その紙をじっと見つめ、
ゆっくりと口を開いた。

──違うよ。
  これは、お前が“昔”描いたやつだ。

「昔……?」

そんな記憶はない。
だが、
若い僕の手にある紙は、
確かに僕の線だった。

線の癖も、
影の付け方も、
間違いなく“僕の絵”だ。

ただし──

今の僕よりも、ずっと迷いがない。


そのとき、
部屋の隅で、
影が動いた。

紙の上の影ではない。
現実の部屋の隅だ。

ギターケースの横に、
薄い影が立っていた。

昨夜よりも、
はっきりしている。

背が高く、
細く、
肩を揺らして笑う癖を持つ影。

「……お前、
 本当に来てるのか」

影は答えない。
ただ、
ギターの影を軽く弾いた。

ポロン

また音が鳴った。

今度は、
あいつがよく弾いていた“途中の音”だった。

始まりでも終わりでもない。
“続き”の音。

影は、
紙の上の“若い僕”を指差した。

そして、
その指先が、
ゆっくりと僕の胸のあたりへ向けられた。

「……続きは、
 俺が描くってことか?」

影は、
静かにうなずいた。

その瞬間、
紙の上の“若い僕”が、
こちらに向かって言った。

──お前が描かなきゃ、
  俺たちは前に進めないんだよ。

僕は鉛筆を握り直した。

震えは、
もうなかった。

「……わかった。
 描くよ。
 あの時、置き去りにした続きを」

影は、
ゆっくりと消えていった。

紙の上の“道”だけが、
静かに先へ伸び続けていた。




◆ 第六章 影が示す場所

紙の上の“道”は、
僕が描くたびに、
ゆっくりと先へ伸びていった。

その道は、
まるで自分の意思を持っているかのように、
迷いなく、
ひとつの方向へ向かっていた。

「……どこへ行くつもりなんだ」

問いかけても、
紙の上の影は答えない。

ただ、
影の肩が、
ほんのわずかに揺れた。

あいつが笑うときの癖だ。


描き進めるうちに、
道の先に“何か”が見えてきた。

最初はぼんやりとした形だったが、
線を重ねるごとに、
その輪郭がはっきりしていく。

それは──

古い木造の建物だった。

見覚えがある。
だが、すぐには思い出せない。

屋根の形。
壁の色。
入口の影。

どれも懐かしいのに、
記憶の奥に沈んでいて、
すぐには掴めない。

「……どこだっけ、これ」

そのとき、
紙の上の影が、
建物の入口を指差した。

指先が触れた場所から、
淡い光が広がった。

光の中に、
ひとつの記憶が浮かび上がる。


それは、
僕とあいつがまだ二十代の頃のことだった。

休日の午後、
二人でふらりと入った、
古い喫茶店。

木の匂いが強くて、
窓際の席にはいつも陽が差し込んでいた。

あいつはギターを持っていて、
僕はスケッチブックを持っていた。

「ここ、落ち着くな」

あいつがそう言って、
コーヒーをすすった。

僕は窓の外を見ながら、
何気なく言った。

「いつかさ、
 ここで個展でもやれたらいいな」

あいつは笑った。

「やれよ。
 お前ならできるよ。
 俺が最初の客になってやる」

その会話を、
僕はすっかり忘れていた。

いや、
忘れたふりをしていたのだろう。


記憶が消えると同時に、
紙の上の喫茶店の入口が、
ゆっくりと開いた。

中は暗い。
だが、
奥の方に、
ひとつだけ光るものがあった。

それは、
壁に掛けられた“額縁”だった。

額縁の中には、
何も描かれていない。

ただの白い紙。

だが、
その白さが、
妙に眩しかった。

影が、
その額縁を指差した。

「……ここに描けってことか?」

影はうなずいた。

そして、
紙の上の“若い僕”が、
こちらに向かって言った。

──あの時の“個展”を、
  まだやってないだろ。

胸の奥が、
ぎゅっと締めつけられた。

忘れていた夢。
置き去りにした約束。
あいつが笑いながら言った言葉。

全部が、
一気に蘇った。

「……そうか。
 お前、
 そのために来たのか」

影は答えない。
ただ、
ギターの影を軽く弾いた。

ポロン

今度の音は、
“始まりの音”だった。

僕は鉛筆を握り直した。

「……わかったよ。
 描くよ。
 あの時の続きも、
 あの時の夢も、
 全部」

影は、
静かに消えていった。

紙の上の“道”だけが、
喫茶店の奥へと続いていた。




◆ 第七章 白い額縁の前で

紙の上の喫茶店の奥に、
ぽつんと掛けられた白い額縁。

何も描かれていない。
ただの白い紙。

だが、
その白さは、
空白ではなく、
“呼吸している余白” のように見えた。

僕は鉛筆を握りしめたまま、
しばらくその額縁を見つめていた。

「……ここに描けってことか」

紙の上の影は答えない。
ただ、
額縁の前に立ち、
静かにこちらを見ていた。

その姿は、
亡き友の面影そのものだった。

背の高さも、
肩の揺れ方も、
立ち方の癖も。

影は、
まるで“あいつの記憶”が形になったようだった。


僕はゆっくりと線を引き始めた。

最初の一線は、
驚くほど軽かった。

紙の上に触れた瞬間、
額縁の白が、
ほんのわずかに揺れた。

まるで、
“そこだ”
と頷いているように。

線を重ねるごとに、
記憶がひとつずつ浮かび上がる。

あいつと笑った日。
喧嘩した夜。
ギターを弾きながら語った未来。
そして──
最後に会った日のこと。

描くたびに、
胸の奥が少しずつ痛くなる。

だが、
その痛みは、
どこか温かかった。


ふと、
紙の上の影が動いた。

影は額縁の前から離れ、
僕の横に立った。

そして、
僕の手元を覗き込むようにして、
ゆっくりとうなずいた。

「……見てるのか」

影は答えない。

だが、
その沈黙が、
あいつらしかった。

あいつは生前、
僕が絵を描くとき、
いつも黙って見ていた。

何も言わず、
ただ、
僕の横でコーヒーを飲みながら、
時々ギターを鳴らしていた。

その沈黙が、
僕は好きだった。


描き続けていると、
額縁の白い紙に、
うっすらと“何か”が浮かび上がってきた。

最初は影のような、
薄い輪郭。

だが、
線を重ねるたびに、
その輪郭ははっきりしていく。

それは──

あいつの背中だった。

ギターを抱え、
窓の外を見ている後ろ姿。

僕が何度も見た、
あいつの“いつもの姿”。

「……お前、
 これを描かせたかったのか」

影は、
ゆっくりとうなずいた。

その瞬間、
胸の奥で何かがほどけた。

あいつは、
自分の姿を描いてほしかったわけじゃない。

“あの頃の時間” を、
 僕に思い出させたかったのだ。

忘れていた夢。
置き去りにした約束。
描けなかった続き。

全部を、
もう一度拾い上げてほしかったのだ。


僕は額縁の中に、
あいつの背中を描き続けた。

線は震えていなかった。
迷いもなかった。

描き終えたとき、
影は静かに僕の横から離れ、
額縁の前に戻った。

そして、
描かれた“あいつの背中”に向かって、
ゆっくりと頭を下げた。

まるで、
「ありがとう」
と言っているように。

その姿が、
紙の上でゆっくりと薄れていった。

影は、
消えた。

だが、
額縁の中の“あいつの背中”だけは、
静かにそこに残っていた。




◆ 第八章 影のいない朝

影が消えた翌朝、
部屋の空気は、
いつもより少しだけ軽かった。

何が変わったのか、
言葉にはできない。
だが、
確かに“何かが終わり、何かが始まった”
そんな気配があった。

カミさんが台所で味噌汁を作っている。
湯気の匂いが、
ゆっくりと部屋に広がっていく。

「今日は早いのね」

そう言われて、
僕は曖昧に笑った。

昨夜のことを話すつもりはなかった。
話したところで、
信じてもらえるとは思えない。

それに──
あれは僕と“あいつ”だけの出来事だ。


朝食を終え、
部屋に戻ると、
机の上に置いたスケッチブックが
開いたままになっていた。

昨夜描いた“あいつの背中”が、
朝の光を浴びていた。

その背中は、
紙の上なのに、
どこか温かく見えた。

「……お前、
 本当に来てたんだな」

呟くと、
紙の上の背中が
ほんのわずかに揺れたように見えた。

もちろん、
気のせいだ。

だが、
その“気のせい”が、
妙に心地よかった。


スケッチブックを閉じようとしたとき、
ページの端に、
小さな文字が浮かんでいることに気づいた。

昨夜はなかったはずの文字。

──次は、お前の番だ。

僕は息を呑んだ。

「……俺の番?」

その言葉の意味を考えていると、
部屋の隅で、
ギターケースがわずかに揺れた。

風はない。
窓も閉まっている。

だが、
ケースの中から、
かすかに弦の音がした。

チン……

ほんの小さな音。
だが、
確かに鳴った。

あいつが、
“まだ終わってないぞ”
と言っているようだった。


そのとき、
カミさんが部屋のドアを開けた。

「ねえ、あなた。
 今日、時間ある?」

「どうした?」

「近くの喫茶店で、
 小さな展示会やってるみたいよ。
 行ってみない?」

僕は思わず固まった。

喫茶店。
展示会。

昨夜描いた“あの場所”と
同じ言葉が並んでいる。

「……どこの喫茶店?」

「ほら、昔あなたがよく行ってたところ。
 あの木の匂いがする店」

胸が強く脈打った。

あの喫茶店は、
もう何年も前に閉店したはずだ。

「まだ……あるのか?」

「え?
 何言ってるの。
 ずっとやってるわよ。
 あなたが行かなくなっただけでしょ」

僕は立ち上がった。

スケッチブックの中の“道”が、
喫茶店へ続いていた理由が、
少しだけわかった気がした。

あいつは、
僕を“現実の喫茶店”へ導こうとしていたのだ。

「……行こう」

カミさんが驚いた顔をした。

「珍しいわね。
 あなたが自分から行きたいなんて」

僕は笑った。

「まあ、
 そんなこともあるさ」

スケッチブックをそっと閉じ、
ギターケースに目をやる。

ケースは静かだった。
だが、
その静けさの奥に、
“行ってこいよ”
という声が確かにあった。




◆ 第九章 喫茶店の扉の向こう

カミさんと並んで歩く道は、
いつもと同じはずなのに、
どこか違って見えた。

空気が少し澄んでいる。
光が少し柔らかい。
足取りが、妙に軽い。

「そんなに急がなくてもいいのに」

カミさんが笑った。

「いや、別に急いでるわけじゃないよ」

そう言いながら、
僕は自分の歩幅がいつもより大きいことに気づいた。

喫茶店へ向かう道は、
スケッチブックの中の“道”と
どこか似ていた。

いや、
似ているどころか──
同じ方向へ向かっている気がした。


角を曲がると、
あの喫茶店が見えた。

木の外壁。
少し色あせた看板。
窓際に差し込む柔らかな光。

「……変わってないな」

思わず呟いた。

カミさんが首をかしげる。

「何が?」

「いや……なんでもない」

喫茶店は、
まるで時間が止まっていたかのように、
昔のままだった。

僕とあいつが通っていた頃と、
何ひとつ変わっていない。

だが、
その“変わらなさ”が、
逆に胸を締めつけた。


扉を開けると、
木の匂いがふわりと広がった。

懐かしい匂い。
あの頃の匂い。

店内には数人の客がいたが、
皆静かに本を読んだり、
コーヒーを飲んだりしていた。

カミさんが展示スペースの方へ歩いていく。

「ほら、ここよ。
 小さな展示だけど、素敵じゃない?」

僕は頷きながら、
店内をゆっくり見渡した。

すると──
奥の壁に、
ひとつの“額縁”が掛けられているのが見えた。

白い額縁。

昨夜、
スケッチブックの中で描いたものと
そっくりだった。

「……嘘だろ」

思わず足が止まった。

額縁の中には、
一枚の絵が飾られていた。

それは──

ギターを抱え、窓の外を見ている男の後ろ姿。

僕が昨夜描いた
“あいつの背中”と
まったく同じ構図だった。

ただし、
これは僕の絵ではない。

もっと丁寧で、
もっと深く、
もっと優しい線だった。

「あなた、どうしたの?」

カミさんが振り返る。

僕は額縁に近づいた。

絵の下に、
小さなプレートがあった。

そこには、
こう書かれていた。

──追悼 佐伯 亮
 『窓辺の背中』

僕は息を呑んだ。

佐伯亮。
あいつの名前だ。

「……亮、お前……」

声が震えた。

あいつは絵なんて描かなかった。
ギターばかり弾いていた。
絵の才能なんて、
僕の方にあると笑っていた。

なのに──
この絵は、
確かにあいつの線だった。

優しくて、
不器用で、
どこか寂しげで、
でも温かい。

僕は額縁に手を伸ばした。

その瞬間、
絵の中の“背中”が
ほんのわずかに揺れた。

まるで、
「来たな」
と言っているように。

胸の奥が熱くなった。

「……お前、
 先に描いてたのかよ」

カミさんが心配そうに近づいてきた。

「大丈夫?」

僕はゆっくりと頷いた。

「大丈夫だよ。
 ただ……ちょっと、懐かしくてな」

額縁の中の“あいつの背中”は、
静かにそこにあった。

だが、
その静けさの奥に、
確かに“声”があった。

──次は、お前の番だ。

昨夜スケッチブックに浮かんだ文字が、
胸の奥で再び響いた。

僕は深く息を吸った。

「……わかったよ。
 やるよ。
 お前が見たかった“続き”を」

喫茶店の空気が、
少しだけ温かくなった気がした。




◆ 第十章 次はお前の番

喫茶店の奥に掛けられた
“あいつの背中”の絵を見つめながら、
僕はしばらく動けなかった。

絵の中の背中は、
紙の上なのに、
どこか生きているようだった。

窓の外を見つめる姿勢。
肩の角度。
ギターを抱える腕の力の抜け方。

全部、
僕が知っている“あいつ”そのものだった。

「……亮」

名前を呼ぶと、
絵の中の背中が
ほんのわずかに揺れた気がした。

もちろん、
気のせいだ。

だが、
その“気のせい”が、
胸の奥を強く掴んだ。


カミさんが隣で絵を眺めながら言った。

「この絵、いいわね。
 なんだか、優しい背中」

「……ああ。
 優しいやつだったよ」

「知り合い?」

僕は少し迷ってから、
ゆっくり頷いた。

「昔の友達だ。
 もういないけどな」

カミさんは驚いた顔をした。

「そうなの?
 でも……なんだか、あなたに似てる気がする」

「似てる?」

「背中がよ。
 あなたも、ああやって窓の外を見るじゃない」

僕は苦笑した。

「そうかもしれないな」

だが、
胸の奥では別の声が響いていた。

──次は、お前の番だ。

昨夜スケッチブックに浮かんだ文字。
あいつが残した最後のメッセージ。

その意味が、
ゆっくりと形になり始めていた。


喫茶店のマスターが近づいてきた。

白髪混じりの髪。
落ち着いた目。
昔と変わらない声。

「お久しぶりですね」

僕は驚いた。

「……覚えてるんですか?」

「もちろん。
 あなたと、あのギターの青年。
 二人でよく来ていたでしょう」

胸が熱くなった。

「亮のこと、覚えてるんですか」

マスターは静かに頷いた。

「ええ。
 彼は……最後の頃、よくここで絵を描いていましたよ」

「絵を……?」

僕は思わず聞き返した。

亮は絵なんて描かなかった。
いつもギターばかり弾いていた。

だが、
マスターは続けた。

「あなたが来なくなってからですよ。
 彼はよくこの席に座って、
 窓の外を見ながら、
 誰かの背中を描いていました」

誰かの背中。

僕は額縁の絵を見た。

それは──
僕の背中だった。

ギターを抱え、
窓の外を見ている僕の姿。

あいつは、
僕を描いていたのだ。

「……なんで、そんなことを」

マスターは静かに言った。

「彼は言っていましたよ。
 “あいつは、自分の背中を見たことがないからな” と」

胸が締めつけられた。

亮は、
僕に“僕自身”を見せようとしていたのだ。

僕が忘れていた夢。
置き去りにした時間。
描けなかった続き。

全部を、
僕に返そうとしていた。


マスターが続けた。

「彼は最後に、こう言っていました。
 “次は、あいつの番だ” と」

その言葉は、
昨夜スケッチブックに浮かんだ文字と
まったく同じだった。

僕は深く息を吸った。

「……わかったよ、亮。
 やるよ。
 お前が見たかった“続き”を」

額縁の中の背中が、
ほんのわずかに揺れた。

気のせいだ。
だが、
その“気のせい”が、
僕を前へ押した。





◆ 第十一章 描くべきもの

喫茶店を出たあと、
外の空気は妙に澄んでいた。

春の光が、
街の建物の輪郭を柔らかく照らしている。

カミさんが隣で言った。

「いい展示だったわね。
 あの背中の絵……なんだか、あなたみたいだった」

「……そうかもしれないな」

僕は曖昧に笑った。

だが胸の奥では、
あいつの声がまだ響いていた。

──次は、お前の番だ。

その言葉が、
喫茶店を出たあとも、
ずっと僕の背中を押していた。


家に戻ると、
机の上のスケッチブックが
朝と同じように開いていた。

昨夜描いた“あいつの背中”が、
静かにそこにある。

だが、
その背中はもう、
僕を導くためのものではなかった。

今はただ、
“見守っている背中”になっていた。

僕は椅子に座り、
スケッチブックをそっと閉じた。

そして、
新しいスケッチブックを取り出した。

真っ白な紙。
何も描かれていない。

だが、
その白さは空白ではなく、
“始まり”の白だった。


鉛筆を握ると、
手が少し震えた。

緊張ではない。
期待でもない。

ただ、
“ようやくここまで来た”
という実感だった。

「……亮」

名前を呼ぶと、
部屋の隅でギターケースが
かすかに揺れた。

風はない。
窓も閉まっている。

だが、
ケースの中から
小さな音がした。

チン……

あいつがよく弾いていた、
“描き始める前の合図”の音。

僕は笑った。

「わかったよ。
 描くよ。
 今度こそ、最後まで」


鉛筆を紙に置く。

最初の一線は、
驚くほど軽かった。

だが、
その軽さの奥に、
確かな重みがあった。

僕は描き始めた。

あいつの背中でもない。
若い頃の自分でもない。
喫茶店の記憶でもない。

描いたのは──

今の自分の背中だった。

窓の外を見つめる背中。
少し丸くなった肩。
年齢を重ねた腕。
それでもまだ、
何かを描こうとしている姿。

それは、
誰でもない、
“今の僕”だった。


描き終えたとき、
胸の奥が静かに温かくなった。

その温かさは、
懐かしさでも、
後悔でも、
悲しみでもない。

ただ、
“ようやく自分に追いついた”
という感覚だった。

スケッチブックを閉じると、
部屋の隅のギターケースが
もう一度だけ揺れた。

ポロン

今度の音は、
“終わり”ではなく、
“始まり”の音だった。

僕は深く息を吸った。

「……亮。
 ありがとうな」

返事はない。

だが、
その沈黙の奥に、
確かにあいつの笑い声があった。




◆ 第十二章 背中が動き出す

新しいスケッチブックに描いた
“今の自分の背中”。

その絵を描き終えた翌朝、
部屋の空気はどこか違っていた。

昨日までの部屋と同じはずなのに、
光の入り方が少し柔らかく、
空気が少し軽い。

まるで、
部屋そのものが
“よくやった”
とでも言っているようだった。


朝食を終え、
コーヒーを飲みながら
スケッチブックを開く。

昨夜描いた背中は、
紙の上なのに、
どこか前へ進もうとしているように見えた。

「……俺の背中か」

描いた本人が言うのも変だが、
その背中は、
どこか“若い”ように見えた。

年齢ではない。
姿勢でもない。

意志の若さ
と言えばいいのだろうか。

描いたことで、
自分の中の何かが
少しだけ前へ動いたのだと感じた。


そのとき、
机の上のスマホが震えた。

画面には、
見覚えのある名前が表示されていた。

亮の妹──
美咲からだった。

「……美咲?」

亮が亡くなってから、
年賀状を数回やり取りした程度で、
ほとんど連絡を取っていなかった。

電話に出ると、
少し緊張した声が聞こえた。

『あの……突然すみません。
 お兄ちゃんのことで、
 どうしても話したいことがあって』

胸がざわついた。

「亮の……?」

『はい。
 実は、遺品の整理をしていたら、
 あなた宛ての封筒が見つかって……
 渡したくて』

僕は息を呑んだ。

亮が僕に残したもの。

「……いつ、会える?」

『今日でも大丈夫です』

迷いはなかった。

「じゃあ、今日行くよ」

電話を切ると、
スケッチブックの中の“背中”が
ほんのわずかに揺れたように見えた。

まるで、
「行け」
と言っているように。


亮の妹・美咲の家は、
昔と変わらない場所にあった。

玄関を開けると、
美咲が少し驚いたように笑った。

「お久しぶりです。
 本当に来てくれて……」

「亮のことなら、来ないわけにはいかないよ」

美咲は頷き、
小さな箱を差し出した。

「これ……お兄ちゃんが残したものです。
 あなたに渡してほしいって」

僕は箱を受け取り、
ゆっくりと蓋を開けた。

中には、
古びたスケッチブックが一冊。

そして──
封筒が一通。

封筒には、
亮の字でこう書かれていた。

──加藤へ
 “続き”を描くお前へ

胸が強く脈打った。

美咲が静かに言った。

「お兄ちゃん……
 亡くなる前の日まで、
 ずっと絵を描いてたんです。
 あなたのこと、
 ずっと気にしてました」

僕は封筒を開けた。

中には、
一枚の紙が入っていた。

そこには、
亮の字でこう書かれていた。

──俺はもう描けない。
 だから、お前が描け。
 “俺たちの続き”を。

手が震えた。

亮は、
自分の死を知りながら、
僕に“続き”を託していたのだ。

スケッチブックを開くと、
最初のページに
一枚の絵が描かれていた。

それは──

僕と亮が並んで歩く後ろ姿だった。

若い頃の僕ら。
笑いながら、
未来の話をしている背中。

その絵の下に、
小さくこう書かれていた。

──この続きは、お前が描け。

胸の奥が熱くなった。

「……亮。
 お前、最後まで……」

言葉にならなかった。

美咲が静かに言った。

「お兄ちゃん、
 本当にあなたの絵が好きだったんです。
 あなたが描く“未来”を
 見たかったんだと思います」

僕は深く息を吸った。

「……描くよ。
 亮の分も、
 俺の分も、
 全部」

スケッチブックの中の“若い僕らの背中”が、
ほんのわずかに揺れた。

気のせいだ。

だが、
その“気のせい”が、
僕を前へ押した。




◆ 第十三章 続きのページ

美咲の家を出たあと、
外の空気は妙に澄んでいた。

春の光が、
街の建物の輪郭を柔らかく照らしている。

亮のスケッチブックを抱えた腕が、
少しだけ震えていた。

重さではない。
悲しみでもない。

“託されたものの重み”
だった。


家に戻ると、
机の上のスケッチブックが
朝と同じように開いていた。

昨夜描いた“今の自分の背中”が、
静かにそこにある。

その背中は、
まるで「さあ、次だ」と言っているようだった。

僕は亮のスケッチブックを
そっと机の上に置いた。

古びた表紙。
角が擦り切れた紙。
何度も開かれ、閉じられた跡。

亮が、
どれだけこのスケッチブックに向き合っていたのかが
手触りだけで伝わってきた。


ページを開く。

最初の絵は、
僕と亮が並んで歩く後ろ姿。

若い頃の僕ら。
未来を語りながら、
笑い合っていた背中。

その下に書かれた文字。

──この続きは、お前が描け。

胸の奥が熱くなった。

「……亮。
 お前、最後まで……」

言葉にならない。

ページをめくると、
次の絵は白紙だった。

その次も白紙。
さらに次も。

白紙のページが、
何十枚も続いていた。

まるで、
亮が僕に残した“未来の余白”のようだった。


僕は椅子に座り、
深く息を吸った。

「……描くよ。
 二人の続きも、
 俺の続きも、
 全部」

鉛筆を握る。

亮のスケッチブックの
“二枚目の白紙”に、
そっと線を置いた。

最初の一線は、
驚くほど軽かった。

だが、
その軽さの奥に、
確かな重みがあった。

描き始めると、
胸の奥から
ゆっくりと何かが溢れてきた。

それは、
懐かしさでも、
後悔でも、
悲しみでもない。

“ようやく前へ進める”という感覚だった。


描いたのは、
若い頃の僕らではない。

あの喫茶店でもない。

描いたのは──

今の僕と、
 亮の“影”が並んで歩く後ろ姿。

影は薄く、
輪郭も曖昧で、
風が吹けば消えてしまいそうだった。

だが、
その影は確かに“亮”だった。

僕の横で、
少し肩を揺らしながら歩く姿。

昔と同じ歩幅。
昔と同じ癖。

描き終えたとき、
胸の奥が静かに温かくなった。

「……亮。
 お前、まだ一緒に歩いてるんだな」

その瞬間、
部屋の隅のギターケースが
かすかに揺れた。

ポロン

あいつがよく弾いていた、
“歩き出すときの音”だった。

僕は笑った。

「行くぞ、亮。
 続きは、まだまだある」

スケッチブックの中の“影”が、
ほんのわずかに揺れた。

気のせいだ。

だが、
その“気のせい”が、
僕を前へ押した。




◆ 第十四章 絵が呼ぶもの

亮のスケッチブックに描いた
“今の僕と亮の影が並んで歩く後ろ姿”。

その絵を描き終えた翌日、
僕はいつもより早く目が覚めた。

理由はわからない。
ただ、
胸の奥に小さな灯りが灯っているような感覚があった。

「……亮」

名前を呼ぶと、
部屋の隅のギターケースが
かすかに揺れた。

ポロン

昨日と同じ、
“歩き出すときの音”。

僕は笑った。

「わかったよ。
 今日も描くよ」


朝食を終え、
机に向かう。

亮のスケッチブックを開くと、
昨日描いた“二人の背中”が
静かにそこにあった。

だが、
その背中は、
昨日よりも少しだけ“前へ進んでいる”ように見えた。

紙の上なのに、
動いたように見える。

もちろん、
気のせいだ。

だが、
その“気のせい”が、
僕の手を自然と鉛筆へ向かわせた。


描き始めると、
胸の奥から
ゆっくりと何かが溢れてきた。

それは、
懐かしさでも、
後悔でも、
悲しみでもない。

“未来を描く感覚”
だった。

若い頃は、
未来なんて描けなかった。

今は、
描ける。

年齢を重ねたからこそ、
描ける未来がある。

僕は線を重ねた。

描いたのは──
二人の背中が向かう先にある、
 小さなギャラリーの入口。

喫茶店でも、
昔の部屋でもない。

“これからの場所”。

描き終えたとき、
胸の奥が静かに温かくなった。


そのとき、
玄関のチャイムが鳴った。

「……誰だ?」

カミさんが出ていく。

しばらくして、
彼女が戻ってきた。

「あなた宛てよ。
 郵便屋さんが置いていったみたい」

手渡された封筒には、
見覚えのある名前があった。

──喫茶店『木漏れ日』店主
  佐々木

昨日、亮の絵が飾られていた喫茶店のマスターだ。

胸がざわついた。

封筒を開けると、
中には一枚の手紙が入っていた。


加藤様へ

昨日はお越しいただき、
ありがとうございました。

実は、
あなたが帰られたあと、
展示を見ていたお客様が
あなたのことを尋ねていました。

「この絵の背中に似ている人がいた」と。

その方は、
小さなギャラリーを営んでいる方で、
“個展を開く予定の作家を探している”
とのことでした。

もしよろしければ、
一度お話をしてみませんか。

あなたの絵には、
“続き”があります。

佐々木


手紙を読み終えた瞬間、
胸の奥が強く脈打った。

個展。
ギャラリー。
続き。

亮が言っていた言葉が、
胸の奥で重なった。

──次は、お前の番だ。

机の上のスケッチブックを見る。

“二人の背中”は、
描いたときよりも
少しだけ前へ進んでいるように見えた。

気のせいだ。

だが、
その“気のせい”が、
僕を立ち上がらせた。

「……亮。
 お前、ここまで導いてたのか」

部屋の隅のギターケースが
かすかに揺れた。

ポロン

今度の音は、
“背中を押す音”だった。




◆ 第十五章 ギャラリーの扉

喫茶店のマスターから届いた手紙を
何度も読み返した。

“あなたの絵には、続きがあります”

その一文が、
胸の奥に静かに響き続けていた。

亮が残したスケッチブック。
僕が描いた“二人の背中”。
そして、
ギャラリーの存在。

すべてが、
ひとつの線でつながっている気がした。

「……行くか」

呟くと、
部屋の隅のギターケースが
かすかに揺れた。

ポロン

あいつがよく弾いていた、
“背中を押す音”。

僕は笑った。

「わかったよ。
 行ってくる」


ギャラリーは、
駅から少し離れた静かな通りにあった。

白い外壁。
大きな窓。
中から柔らかな光が漏れている。

小さな看板には、
こう書かれていた。

Gallery Hikari

扉を開けると、
鈴の音が静かに響いた。

中には、
白い壁に数枚の絵が飾られていた。

どれも、
静かで、
優しく、
どこか“余白”のある絵だった。

その空気は、
僕の描く線とよく似ていた。


奥から、
一人の女性が現れた。

落ち着いた目。
柔らかな声。
年齢は僕より少し若いくらいだろうか。

「加藤さんですね。
 お待ちしていました」

「……僕のことを?」

「昨日、喫茶店でお見かけしました。
 背中の絵の前に立っていたあなたを見て、
 “ああ、この人だ”と思いました」

胸がざわついた。

「どうして、そう思ったんですか」

女性は微笑んだ。

「背中が語っていました。
 “まだ続きがある”って」

亮が言っていた言葉と
まったく同じだった。


女性は続けた。

「もしよろしければ、
 作品を見せていただけませんか。
 あなたの“続き”を」

僕は迷わず、
亮のスケッチブックを取り出した。

最初のページを開く。

若い頃の僕と亮が並んで歩く背中。

女性はしばらく黙って見つめていた。

「……優しい絵ですね。
 時間が流れているのに、
 どこか止まっているような」

次のページを開く。

僕が描いた“今の自分の背中”。
そして、
亮の影と並んで歩く絵。

女性は息を呑んだ。

「……これは、すごい」

「すごいなんてものじゃないですよ。
 ただの落書きです」

「いいえ。
 これは“物語”です。
 あなたと、
 あなたの大切な人の物語」

胸が熱くなった。


女性は静かに言った。

「加藤さん。
 もしよろしければ──
 うちのギャラリーで、
 個展を開きませんか」

時間が止まったように感じた。

個展。
亮が言っていた夢。
喫茶店で語った未来。

全部が、
この瞬間につながった。

「……僕なんかの絵で、
 本当にいいんですか」

女性は微笑んだ。

「“あなたなんか”ではありません。
 “あなたの絵”がいいんです。
 続きがある絵は、
 人の心を動かします」

胸の奥で、
亮の声がした。

──行けよ。
 お前の番だろ。

僕はゆっくりと頷いた。

「……やらせてください」

女性は嬉しそうに微笑んだ。

「ありがとうございます。
 きっと、いい展示になりますよ」

その瞬間、
ギャラリーの空気が
少しだけ温かくなった気がした。




◆ 第十六章 最後の場所

ギャラリーで個展の話を受けた翌朝、
僕はいつもより早く目が覚めた。

胸の奥に、
小さな灯りが灯っているような感覚。

昨日の出来事が夢のようで、
しかし確かに現実だった。

「……亮」

名前を呼ぶと、
部屋の隅のギターケースが
かすかに揺れた。

ポロン

あいつがよく弾いていた、
“歩き出す前の音”。

僕は笑った。

「わかったよ。
 今日も描くよ」


朝食を終え、
机に向かう。

亮のスケッチブックを開くと、
昨日描いた“二人の背中”が
静かにそこにあった。

だが、
その背中は昨日よりも
ほんのわずかに前へ進んでいるように見えた。

紙の上なのに、
動いたように見える。

もちろん、
気のせいだ。

だが、
その“気のせい”が、
僕の手を自然と鉛筆へ向かわせた。


描き始めると、
胸の奥から
ゆっくりと何かが溢れてきた。

それは、
懐かしさでも、
後悔でも、
悲しみでもない。

“未来を描く感覚”
だった。

僕は線を重ねた。

描いたのは──
二人の背中が向かう先にある、
 古い木造の建物。

見覚えがある。
だが、すぐには思い出せない。

屋根の形。
壁の色。
入口の影。

どれも懐かしいのに、
記憶の奥に沈んでいて、
すぐには掴めない。

「……どこだ、これ」

そのとき、
紙の上の“亮の影”が動いた。

影は、
その建物の入口を指差した。

指先が触れた場所から、
淡い光が広がった。

光の中に、
ひとつの記憶が浮かび上がる。


それは、
僕と亮がまだ二十代の頃のことだった。

二人でよく通った、
古い音楽スタジオ。

木の匂いが強くて、
壁には無数の落書きがあった。

亮はギターを弾き、
僕はスケッチブックを開いていた。

「ここでさ、
 いつか一緒に何か作れたらいいよな」

亮が笑いながら言った。

僕は笑って返した。

「何をだよ」

「なんでもいいよ。
 音でも、絵でも、
 形にならなくてもいい。
 “俺たちの続き”があれば」

その会話を、
僕はすっかり忘れていた。

いや、
忘れたふりをしていたのだろう。


記憶が消えると同時に、
紙の上のスタジオの入口が
ゆっくりと開いた。

中は暗い。
だが、
奥の方に、
ひとつだけ光るものがあった。

それは──
古い譜面台 だった。

譜面台の上には、
一枚の紙が置かれている。

紙には、
亮の字でこう書かれていた。

──ここで待ってる。
  最後の“続き”を描きに来い。

胸の奥が強く脈打った。

「……亮。
 お前、ここまで導いてたのか」

その瞬間、
部屋の隅のギターケースが
かすかに揺れた。

ポロン

今度の音は、
“帰ってこい”
という響きだった。

僕は深く息を吸った。

「……行くよ。
 あのスタジオに」

スケッチブックの中の“影”が、
ほんのわずかに揺れた。

気のせいだ。

だが、
その“気のせい”が、
僕を立ち上がらせた。




◆ 第十七章 スタジオの扉を開く

亮のスケッチブックに描いた
“古い音楽スタジオ”の絵を見つめながら、
僕はしばらく動けなかった。

あの場所は、
僕と亮が若い頃、
夢を語り合った場所だった。

音が混ざり、
埃が舞い、
壁には誰かの落書きが残っていた。

あの頃の僕らは、
未来を怖がりながら、
それでもどこかで信じていた。

「……行くか」

呟くと、
部屋の隅のギターケースが
かすかに揺れた。

ポロン

あいつがよく弾いていた、
“帰ってこい”の音。

僕は深く息を吸い、
家を出た。


スタジオは、
駅から少し離れた古い商店街の奥にあった。

看板は色あせ、
入口のガラスには
薄く埃が積もっている。

だが、
建物そのものは、
昔とほとんど変わっていなかった。

「……残ってたんだな」

胸の奥が熱くなった。

扉に手をかけると、
少し重かった。

ギィ……
と音を立てて開く。

中は薄暗く、
木の匂いが漂っていた。

懐かしい匂い。
あの頃の匂い。

僕はゆっくりと中へ入った。


スタジオの奥には、
古い譜面台がひとつ置かれていた。

亮がスケッチブックの中で
指差していた場所。

譜面台の上には、
一枚の紙が置かれていた。

まるで、
僕が来るのを待っていたかのように。

震える手で紙を取る。

そこには、
亮の字でこう書かれていた。

──ここまで来たら、
  もう迷うなよ。
  “続き”は、お前の中にある。

胸の奥が強く脈打った。

「……亮」

声が震えた。

そのときだった。

スタジオの奥で、
かすかに音がした。

ポロン……

ギターの音。

誰もいないはずのスタジオで、
確かに弦が鳴った。

僕はゆっくりと振り返った。


スタジオの隅に、
薄い影が立っていた。

亮の影。

肩を揺らし、
少し猫背で、
ギターを抱える癖。

その影は、
僕の方を見て、
ゆっくりとうなずいた。

「……お前、
 本当にここまで導いてたんだな」

影は答えない。

ただ、
ギターの影を軽く弾いた。

ポロン

今度の音は、
“始めろ”
という響きだった。

僕は譜面台の紙を握りしめた。

「……わかったよ。
 描くよ。
 ここから先は、
 俺が描く」

影は、
ゆっくりと薄れていった。

光の粒になり、
空気に溶けるように消えていく。

だが、
その消え方は、
悲しさではなく、
“役目を終えた者の静かな退場”
のようだった。

スタジオには、
僕ひとりが残った。

だが、
孤独ではなかった。

胸の奥に、
確かに亮がいた。




◆ 第十八章 最後の絵

スタジオの空気は、
時間が止まったように静かだった。

木の匂い。
薄暗い光。
壁に残る落書き。

全部が、
あの頃のままだった。

だが、
ひとつだけ違うものがあった。

僕はもう、あの頃の僕ではない。

そして、
亮ももう、
あの頃の亮ではない。


譜面台の前に立つ。

亮が残した紙を
そっと置いた。

そこには、
たった一行だけ書かれていた。

──ここから先は、お前の音で描け。

音で描け。

亮らしい言葉だった。

僕はスケッチブックを開き、
鉛筆を握った。

だが、
その瞬間、
スタジオの奥から
かすかな音がした。

ポロン……

ギターの音。

誰もいないはずのスタジオで、
確かに弦が鳴った。

僕はゆっくりと振り返った。


スタジオの隅に、
薄い影が座っていた。

亮の影。

ギターを抱え、
膝の上で軽く弦を弾いている。

肩を揺らし、
少し猫背で、
笑いながら音を探す癖。

その影は、
僕の方を見て、
ゆっくりとうなずいた。

「……亮。
 最後まで、そこにいるのか」

影は答えない。

ただ、
ギターを軽く弾いた。

ポロ……ン

その音は、
“始まりの音”だった。

僕は深く息を吸った。

「わかったよ。
 描くよ。
 最後の続きだ」


鉛筆を紙に置く。

最初の一線は、
驚くほど軽かった。

だが、
その軽さの奥に、
確かな重みがあった。

僕は描き始めた。

描いたのは──

今の僕と、
 亮の影が並んで歩く後ろ姿。

だが、
昨日描いたものとは違う。

昨日の絵は、
“過去と現在が並んで歩く背中”だった。

今日描くのは、
“未来へ向かう二人の背中”
だった。

影の亮は、
少しだけ前を歩いている。

僕はその後ろを、
ゆっくりと追いかけている。

二人の歩幅は違う。
歩く速さも違う。

だが、
向かう先は同じだった。


描き終えた瞬間、
胸の奥が静かに震えた。

その震えは、
悲しみでも、
後悔でも、
懐かしさでもない。

ただ、
“ありがとう”
という感情だった。

そのとき、
スタジオの空気が
ふっと揺れた。

亮の影が、
ゆっくりと立ち上がった。

ギターを抱えたまま、
僕の方へ歩いてくる。

影は、
僕の目の前で立ち止まり、
ゆっくりと頭を下げた。

まるで、
「もう大丈夫だ」
と言っているように。

そして──

影は、
光の粒になって
静かに消えていった。

音もなく、
風もなく、
ただ、
優しい光だけを残して。


スタジオには、
僕ひとりが残った。

だが、
孤独ではなかった。

胸の奥に、
確かに亮がいた。

そして、
僕の前には
“未来へ向かう二人の背中”が描かれた
最後の絵があった。

僕はその絵を閉じ、
深く息を吸った。

「……亮。
 ありがとう。
 続きは、ここからだ」

スタジオの空気が、
少しだけ温かくなった気がした。




◆ 最終章 エピローグ 光の中の背中

個展の初日、
ギャラリーの前には
思っていた以上の人が集まっていた。

春の光が白い外壁に反射し、
入口のガラスには
柔らかな影が揺れている。

「緊張してる?」

カミさんが笑った。

「まあな。
 こんなの初めてだし」

「大丈夫よ。
 あなたの絵は、ちゃんと届くわ」

僕は深く息を吸い、
ギャラリーの扉を開けた。


中には、
僕の絵が静かに並んでいた。

若い頃の僕らの背中。
今の僕の背中。
亮の影と並んで歩く背中。
そして──
スタジオで描いた“未来へ向かう二人の背中”。

どの絵も、
紙の上なのに、
どこか呼吸しているようだった。

ギャラリーの女性が近づいてきた。

「加藤さん。
 素晴らしい展示になりましたね」

「ありがとうございます」

「あなたの絵……
 どれも“続き”を感じます。
 止まっているのに、前へ進んでいる。
 そんな不思議な力があります」

僕は笑った。

「続きは、まだ描いてる途中なんです」


しばらくすると、
ひとりの青年が絵の前で立ち止まった。

亮より少し若いくらいの年齢。
ギターケースを背負っている。

青年は、
“未来へ向かう二人の背中”の前で
長い時間動かなかった。

やがて、
僕の方を振り返った。

「あの……
 この絵、すごく好きです」

「ありがとう」

「なんていうか……
 背中が、前に進んでるのに、
 どこか誰かを待ってるように見えて」

胸が少し熱くなった。

「そうかもしれないな」

青年は続けた。

「僕……
 音楽をやってるんですけど、
 最近ずっと迷ってて。
 でも、この絵を見て……
 “続きは自分で描け”って
 言われた気がしました」

その言葉は、
亮が僕に残した言葉と
まったく同じだった。

胸の奥で、
亮の声が静かに響いた。

──そうだろ。
 続きは、自分で描くんだよ。

僕は青年に言った。

「迷っていいんだよ。
 迷ったままでも、
 前に進める。
 背中が覚えてるからな」

青年は深く頷いた。

「……ありがとうございます。
 なんだか、救われました」

青年が去ったあと、
ギャラリーの空気が
少しだけ温かくなった気がした。


展示の最後の絵──
“未来へ向かう二人の背中”の前に立つ。

その背中は、
紙の上なのに、
どこか光を帯びているように見えた。

僕は小さく呟いた。

「亮。
 お前の続き、
 ちゃんと届いてるぞ」

その瞬間、
ギャラリーの奥で
かすかな音がした。

ポロン……

ギターの音。

誰も弾いていないはずなのに、
確かに弦が鳴った。

僕は笑った。

「……ありがとう。
 もう大丈夫だ」

絵の中の“二人の背中”が、
ほんのわずかに揺れたように見えた。

気のせいだ。

だが、
その“気のせい”が、
僕の胸の奥を静かに満たした。


個展が終わる頃、
外は夕暮れだった。

ギャラリーを出ると、
春の風が優しく吹いた。

僕は空を見上げた。

「亮。
 続きは、これからも描くよ。
 お前と一緒に」

風が、
そっと背中を押した。

まるで、
亮が笑っているように。

僕は歩き出した。

未来へ向かう背中で。


──完。


Amazon Kindle



◆ あとがき

書き終えた今、
この物語は「亮」という名の友人だけでなく、
僕自身の中にいた“もう一人の自分”との対話だったと感じています。

人は誰かを失っても、
その人の声や癖や笑い方を、
心のどこかでずっと描き続けている。

それが「生きる」ということなのかもしれません。

この作品を通して、
僕はようやく“自分の背中”を描けた気がします。
読んでくださったあなたの中にも、
静かに灯る何かがあれば、それがこの物語の続きです。

あいつを失って
もう干支がひと回りして
しまいました…


◆ 紹介文

『光の中の背中 〜続きは、お前が描け〜』
カトウかづひさ 著

亡き友が残した一枚の絵。
そこに刻まれた言葉──「続きは、お前が描け」。

喫茶店、ギター、スケッチブック。
過去と現在が静かに重なり、
“背中”が語り始める。

描くことは、生きること。
そして、生きることは、誰かの続きを描くこと。

光の中に消えゆく影と、
その影を追いかける一人の男の物語。
静かな余韻が、読む人の心に長く残る。


昨日は
思い立っての美術館

特に
目的はなく 

そろそろ
近くのそこの
常設展示が入れ替わった頃かと

調べることなく
カミさんを誘い
出掛けてみれば

知らない方々の
企画展も開催されていて

なるほど
季節が変われば
展示も入れ替わると

それらを眺めては
これまた
これなら描けそうだな…
なんて
失礼を言葉にする

このポンコツ男

すると
隣のカミさんからは
いつものように
お叱りの声

ダメよ
そんなこと言っちゃ!

あなたにも
どなたにも
描けるはずないから
こうして
ここに収まってるのよ… と

だよね
それも
皆 100年単位で
豪華な額に収まって…






いったいこれら絵を
今まで
何人がこうして眺めたのだろう?

凄いね! と言った者
綺麗ね! と微笑んだ者

そして
このポンコツ男のように
描けそうだな! なんて
失礼を呟いた者も…


もしかすると
僕の600枚もの落書きも
100年 200年と経てば

その頃のどなたかが
うっかり評価などしたら

こうして
豪華な額に収まり
こんな場所に
並んでいるかも? なんて

そんな責任のない未来を
苦笑いしながら
語るのもまた
責任がないから面白い

僕の部屋の
片隅には
安物のギターが2本
無造作にケースの中で
眠っている

それを
年に数回
取り出しては
調音し
B7の和音をポロンと
1度だけ鳴らしてみる

それが響く日は
天気が良い

そして
それもまたすでに
50年もが過ぎて痛み出したもの


なのに
放置したわりに
なんだか鳴るようになって来た

そうだ
あの頃の材質は
安物とはいえ
まだまだ良かったはずで

すればこれもまた
300年も経てば
ストラディバリと化して

もしや
まさかの
高価になるかも? なんて…

そんな発言もまた
責任がない

結果を見れない者にとって
それを聞いた者ですらも
その結末を知る術はない

人間たちの良いところは
姿を残さず消えること

物たちの良いところは
朽ちるまで
その姿が残るところ

絵画も
また然り

先立ったあいつが
唯一 褒めてくれて

更に 勧めてくれたように
いつかこの落書き展でも
開催してみようか なんて…

そこで
わずか1枚でも
どなたかが評価してくれたならば
それで 良し…

還暦を越して
はや 5年

あとまた5年も経てば
古希となる

すでに
四捨五入で70とも
言われたけれど

まあ
そんなことだよ
ご同輩…

AmazonのKindleに

試行錯誤しながら

物語を載せ始めて1ヶ月


週に10冊までという

制限があって

月曜日となれば

これまた

パソコンと格闘しながら

先週 準備した10冊をと載せてみる


すれば

これでトータル40冊ともなり

来週の月曜日まで

次の10冊の準備をと急ぐ


そんな中

言葉選びや

文体やらと

あれこれ試してみようと

ここにいくつかを載せてもみるが


ここでもまた

力不足ゆえ

何の反響もない


わかっちゃいたが

素人とは

あくまでも自己満足だけで

そんなもんなようだ   笑



Kindle



さてすれば

今朝 載せた10冊の中の1つを

また試しにここに

少しの間 載せてみますので


わずかでも

心に残ったならば

いいね でもしてくれたら

励みにもなります





『命は形を変えて、今もそこに』
〜総量保存の物語〜


もしも
命の時間を
分け合えたなら
あなたは
どうなさいますか?

目の前の
救いたい命に
この持ち時間を
差し出せますか?

僕は
2つ返事で
家族たちへと
差し出すことだろう

カミさんに
子供たちに
孫たちに

もちろん
親たちにも…



ー序ー

命の選別

僕たちは
日々
他の命を頂きながら
自分の命へと転換している

魚を 肉を 野菜を 果物を…
それらから
命を奪い
この命を繋ぐ

それは
犬も 猫も メダカも… で
多くの命をここに
ひとつに集めたもの

ならば
この命
そう簡単に手放してはならない

すでに膨大な数の命を受け取ったこの身体ならば
それ相応の責任がある

更には
この身体は
多くの先祖の集大成

もしも
この命
どなたかにそのまま置いて行けるのならば
それもまた選択肢の1つなのだろうけれど

そう
命の時間を
ポイントのように
もしも分け合えるのならば

わずか1日
わずか1時間
わずか1分… を
多くの方々から集めて

今 失い掛けているその方に
足すことでも出来たならば
なんて思うこともあるけれど

それが不可能な現代だから
とにかく生きねばならない


時折
老人より 若者
身障者より 健常者 などと 
命の選別を語る方もおるけれども
それはあってはならない

そして思う
この命張ってでも
守りたいものが増えた今日
自らの選別ならば
有りなのかもしれないとも…


最近
家族に冗談めいて話してるのは
僕に万が一のことがあったら
それは自殺ではなく
必ず他殺だから
犯人を探してくれ! なんて…

そう
僕の場合
自らってことはなく
逃げるからと…

探すなら
アメリカの田舎町か
ニュージーランド辺りだから… なんて 笑


〜プロローグ〜

 夜が深まるほど、星は増える。
 幼い頃、祖母に連れられて山に登ったとき、凛太郎は初めてその事実を知った。
 「あの星はな」と祖母は言った。「遠い昔に死んだ星の光やで。でも今もちゃんと届いとる」
 凛太郎は六歳だった。死んでいるのに光っている、という矛盾が理解できなかった。
 「どうして死んだのに光るの?」
 「命っちゅうのはな、消えへんのや。形が変わるだけや」
 祖母の手は温かかった。その温もりは、今でも凛太郎の記憶の中に生きている。
 祖母はその翌年、静かに逝った。
 しかし彼女の言葉は消えなかった。
 それが、すべての始まりだった。


一章 深夜の研究室

 西暦二〇四一年。東京医科大学付属病院、第十二研究室。
 深夜二時を過ぎても、室内の灯りは消えていなかった。
 白衣の男が、無数のデータが流れるホログラムモニターの前に立っている。名前は綾瀬凛太郎。三十八歳。細胞生物学と量子物理学の両方の博士号を持つ、いわゆる「二刀流の科学者」だ。
 だが今夜の彼は、科学者というより、何かに憑かれた人間のように見えた。
 「また、ここに戻ってきた」
 彼はつぶやく。モニターに映し出されているのは、一匹の魚の細胞データだった。マグロ。昨日の昼食に自分が食べたものの、消化吸収後の代謝経路を追跡したデータである。
 魚の命が、今、自分の中で生きている。
 その事実が、ここ数年、彼の頭から離れなかった。
 きっかけは些細なことだった。五年前、末期癌の患者を看取ったとき、その老人が最後に言った言葉。
 「先生、私はどこへ行くんでしょうな」
 凛太郎は答えられなかった。医師として、科学者として、その問いに向き合うことを避けていた。しかし老人が息を引き取った瞬間、彼の中で何かが変わった。
 命は消えるのではない。形を変えるのだ。
 その直感から、彼の研究は始まった。
 モニターの中で、細胞が輝いている。ミトコンドリアが酸素を取り込み、ATPを生み出し、次の瞬間への動力を作り出している。
 この一つ一つの営みが、命だ。
 そしてこの命は、マグロから来た。マグロはプランクトンから命をもらった。プランクトンは太陽の光からエネルギーをもらった。太陽は、宇宙の始まりから続く核融合反応で燃え続けている。
 繋がっている。
 すべては、繋がっている。
 凛太郎はコーヒーを一口飲んだ。すっかり冷めていた。時計を見ると、午前二時半。
 それでも彼は、席を立とうとしなかった。
 何かが、もうすぐ見えてくる気がしていた。


二章 最初の数式

 「凛太郎、また徹夜か」
 朝六時。ドアを開けて入ってきたのは、助手の村瀬明日香だ。三十二歳。切れ長の目と、どんな状況でも冷静でいられる頭脳を持つ彼女は、この研究室のもう一つの柱だった。
 「見てくれ、明日香」
 凛太郎はモニターを指差した。「昨夜、ついに一つの式が完成した」
 明日香は眼鏡を外し、数式を覗き込んだ。
 しばらく沈黙が続く。
 「……これは」
 「そう」凛太郎は静かに言った。「命の総量保存則だ」
 Σ(L) = Constant
 記号は単純だった。だが、その意味は宇宙規模だった。
 生命体が受け取り、消費し、次に渡す命の総エネルギー量は、宇宙全体で常に一定である——。
 「証明できるの?」明日香が聞いた。
 「できる」凛太郎は静かに、しかし確信を持って言った。「もう、半分は証明した」
 明日香はモニターから目を離し、凛太郎の顔を見た。徹夜明けで目の下に隈ができているが、その瞳には穏やかな光があった。
 「眠れてる?」
 「眠れている。夢の中でも考えてるだけで」
 彼女は小さく笑った。「コーヒー淹れてくる」
 明日香がキッチンに消えた後、凛太郎は再びモニターに向き直った。
 この式を証明するためには、あと一つのピースが必要だった。
 命が形を変えるとき、何かが保存される。質量でも、エネルギーでもない。もっと根本的な何かが。
 彼はそれを「命素(いのちそ)」と名付けていた。まだ仮称だが、その概念は彼の中で確固たるものになっていた。
 コーヒーの香りが漂ってきた。
 凛太郎は深呼吸をした。
 今日も、探し続けよう。


三章 先祖の声

 凛太郎の実家は、京都の外れにある小さな寺だった。住職である父は八十歳になった今も矍鑠としており、毎朝四時に起きて読経する。
 月に一度、凛太郎は新幹線で京都に帰る。研究の煮詰まりを解消するためではなく、父の話を聞くためだ。
 「お前の研究は」と父は言った。縁側に座り、庭の苔を眺めながら。「仏教が三千年かけて語ってきたことと、同じところへ向かっとる気がする」
 「輪廻転生のことですか」
 「そう単純ではない」父は首を振った。「命は個人のものではない、ということや。お前の体には、お前の先祖すべての命が集まっとる。さらにいえば、お前が食べてきた無数の命も」
 凛太郎はその言葉を、研究室で夜中に感じたことと重ね合わせた。
 「父さん、もし命の時間を分け合えるとしたら……どう思いますか」
 老住職はしばらく考えた。
 「それは、祈りと同じことやな」
 「祈り?」
 「誰かのために、自分の時間を使う。誰かのために、自分の命を削る。昔から人間はずっとそうしてきた。お前の研究は、それを可視化しようとしとるんやろ」
 凛太郎は黙って庭を見た。苔の緑が、朝の光の中で静かに輝いていた。
 命は、ここにも、あそこにも、あった。
 帰り際、父が言った。
 「凛太郎、一つだけ覚えておけ」
 「何ですか」
 「どんな技術も、使う人間の心次第や。水も、火も、刃物も、それ自体は善でも悪でもない。お前が作ろうとしているものも、きっとそうなる」
 新幹線の窓から、夕暮れの京都が遠ざかっていった。
 父の言葉が、ずっと耳に残っていた。


四章 突破口

 三ヶ月後。
 研究室に、歓声が上がった。
 「出た!」明日香が叫んだ。「凛太郎、データが一致した!」
 ホログラムモニターに映し出された二つのグラフ。一方は理論値、もう一方は実測値。両者が、ほぼ完全に重なっていた。
 命の総量保存則——証明された。
 凛太郎はその数字を、長い時間をかけて見つめた。
 喜びよりも先に来たのは、静けさだった。
 「これが本当なら」と彼は言った。「次のステップが見えてくる」
 「分け合う技術」明日香が続けた。
 「そう」
 命の時間を、他者に渡すことができるとしたら。
 余命わずかな人に、健康な人が自分の時間の一部を譲ることができたら。
 「倫理委員会が黙ってないわよ」明日香は笑った。だが目は笑っていなかった。
 「わかってる」凛太郎も笑った。「だから、完璧な形にしてから持っていく」
 「一つ聞いていい?」明日香が言った。
 「何?」
 「どうして、こんなに急いでるの?」
 凛太郎はしばらく黙った。
 「急いでいる理由は……ある」
 それ以上は言わなかった。
 明日香も聞かなかった。
 窓の外、東京の夜景が広がっていた。無数の光。無数の命。それぞれが、時間を使い、時間を分け合いながら、今夜も生きていた。


五章 隠された動機

 実は、凛太郎がこの研究を始めた本当の理由は、もう一つあった。
 彼には、妹がいた。
 綾瀬花音。三十五歳。長野の小さな町で、夫と二人の子どもと暮らしていた。
 彼女は三年前、難病の診断を受けた。膠原病の一種で、徐々に身体機能が低下していく病気だ。進行は緩やかだが、確実に進む。
 凛太郎がその事実を知ったとき、彼の研究は突然、別の意味を持ち始めた。
 理論だけではなく、現実の命が、そこにあった。
 「お兄ちゃんの研究が進んでるって、お父さんから聞いたよ」
 先月の電話で、花音は言った。声は穏やかだった。病気になってから、彼女はいつも穏やかだった。
 「うん、だいぶ形になってきた」
 「私のためじゃなくていいからね」
 「……そういうわけじゃない」
 「嘘つき」花音は笑った。「お兄ちゃんの嘘は昔からわかる」
 沈黙があった。
 「でもね」と花音は続けた。「もし本当に誰かが助かるなら、それはすごく嬉しいと思う。私のためじゃなくても」
 凛太郎は、受話器を強く握った。
 「待ってて」
 「うん」
 ただそれだけの会話だった。
 しかしその夜、凛太郎は一睡もせずに数式と向き合った。


六章 臨床への道

 論文発表から六ヶ月。
 凛太郎の研究は、世界に衝撃を与えた。ネイチャー誌への掲載直後から、世界中の研究機関や医療機関から問い合わせが殺到した。
 しかし、最初に動いたのは日本政府だった。
 「綾瀬先生、ぜひ我々と一緒に」
 厚生労働省から派遣された官僚、桐島誠一が研究室を訪れたのは、論文掲載の翌週だった。五十代、白髪交じりの落ち着いた男だ。
 「臨床試験の許可を、優先的に通す準備があります。条件は一つ。すべてのデータを国と共有していただくこと」
 凛太郎は即答しなかった。
 「データを共有するのは構いません。しかし」と彼は言った。「この技術は、特定の人間だけのものにしてはならない。世界中のすべての人が、平等にアクセスできる形にしてほしい」
 桐島は少し驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。
 「それが、先生の条件ですか」
 「それだけです」
 桐島は立ち上がり、握手を求めた。
 「承知しました」
 二人の手が繋がった瞬間、凛太郎は思った。
 ここから先は、もう戻れない。
 しかし、進まなければならない。


七章 花音のこと


 臨床試験の準備が進む中、凛太郎は長野に帰った。
 花音は以前より少し痩せていたが、笑顔は変わらなかった。
 「来てくれたの」
 「ちょっと、顔を見たくて」
 庭に出て、二人でお茶を飲んだ。秋の空が高く、澄んでいた。
 「試験、始まるんでしょ」花音が言った。「お父さんから聞いた」
 「うん」
 「私が対象になれる?」
 凛太郎は即答できなかった。
 「……倫理委員会の規定がある。家族は対象から外さないといけない」
 「そっか」花音は空を見た。「まあ、それが正しいと思う」
 「花音……」
 「いいよ。別に、私のためにやってるんじゃないんだから」
 また、あの言葉だ。
 「違う」凛太郎は言った。「お前のためでもある。でも……お前一人のためじゃない。もっとたくさんの人のためにもやっている。それは本当だ」
 花音はしばらく黙って、それから微笑んだ。
 「うん。知ってる」
 風が吹いて、庭の柿の木が揺れた。
 オレンジ色の実が、光の中で輝いていた。
 命は、ここにも、あった。


八章 最初の奇跡

 臨床試験が始まったのは、翌年の春だった。
 最初の被験者は、川口朝陽。七歳の男の子。希少な遺伝性疾患で、余命二年と診断されていた。
 提供者は、父親の川口大樹。三十四歳。健康な体を持つ普通の会社員だ。
 「怖くないですか」と凛太郎は父親に聞いた。同意書を前に。
 「怖いです」と大樹は答えた。「でも、朝陽に生きていてほしいんです。それだけです」
 処置は四時間かかった。
 特殊な量子共鳴装置の中で、父と子は並んで横たわった。機械の低い唸り声が続く中、二人の間で、目に見えない何かが流れた。
 命素の移動。
 データとしては数字に過ぎない。しかしその数字の向こうに、父の愛があった。
 一週間後。
 朝陽の細胞は変わり始めていた。数値は改善し、主治医も首を傾げるほどの回復を見せた。
 「奇跡だ」と誰かが言った。
 凛太郎は首を振った。
 「奇跡じゃない。これは、ずっとあった力を、見えるようにしただけだ」
 父から子へ。愛から技術へ。
 命は、流れていた。


九章 明日香の疑問

 臨床試験の成功が続く中、明日香はある夜、凛太郎に言った。
 「ねえ、一つ聞いていい?」
 「何?」
 「提供した人は、短く生きることになるよね」
 「理論上は、そうだ。渡した分だけ、自分の時間は減る」
 「それって……いいの?」
 凛太郎は考えた。
 「自分が決めることだから」
 「でも」明日香は続けた。「本当に自由に決められてるのかな。たとえば、親が子どもに頼まれたら断れない。夫が妻に頼まれたら断れない。愛があるからこそ、断れない」
 「……それは」
 「押し付けになりかねない、と思う。愛という名の」
 沈黙が続いた。
 「お前は正しい」凛太郎はようやく言った。「それは、僕も考えていた。だからガイドラインに、十分な熟慮期間と、独立したカウンセリングを義務付けた」
 「でも、完璧じゃない」
 「完璧な制度なんて、ない」凛太郎は言った。「でも、それを理由に何もしないより、不完全でも前に進む方がいい。そして、問題が出るたびに修正していく」
 明日香は少し考えて、頷いた。
 「……わかった。でも、見張り続けるよ。私が」
 「頼む」
 二人は同時に、少し笑った。


十章 希望という名の波

 最初の成功から一年。
 技術は急速に広まった。
 末期癌の患者、難病を抱える子どもたち、若くして事故に遭った人々——多くの命が、この技術に救われていった。
 提供者と受け取る者。二人の間に流れる命の時間は、凛太郎が当初想定した以上に深いものだった。
 「不思議なんですよ」と、ある提供者の女性が語ってくれた。「提供した後、なんか……世界が違って見えるんです。一つひとつのことが、大切に思えて」
 凛太郎はその言葉を手帳に書き留めた。
 命を渡すことで、渡した側も変わる。
 それは科学的なデータには表れない変化だった。しかし、確かに起きていた。
 別の提供者の男性はこう言った。
 「もし自分が残り少ない命をもらう立場だったら、提供してくれた人のためにも精いっぱい生きようと思うはずです。だから、私もそう思って渡しました。受け取った方が、私の分まで生きてくれると思うと……それが嬉しい」
 命は、渡されるだけでなく、受け継がれる。
 その感覚が、凛太郎には深く響いた。
 食べてきた魚の命を、自分が受け継いで生きているように。先祖の命を、受け継いで今がある。
 すべては同じことだった。
 ただ、形が変わっただけだ。
 


十一章 選別という言葉

 嵐は、一人の政治家の発言から始まった。
 「命の時間は有限な資源です。若い人々、社会に貢献できる人々に優先的に配分するべきではないでしょうか」
 国会での発言は、瞬く間に広まった。
 SNSは二つに割れた。「正論だ」という声と、「それは命の選別だ」という声が、激しくぶつかり合った。
 その政治家の名は、篠原健次。五十二歳。経済産業省出身で、常に「効率」と「成果」を語る人物だった。
 「老人より若者。身障者より健常者」
 彼は記者会見でさらにこう続けた。
 「感情論ではなく、社会全体の最適化を考えるべき時です。この技術は、そのための手段として活用できる」
 凛太郎は、その言葉を聞いた瞬間、胃が冷えた。
 明日香が隣で言った。
 「来た。覚悟してたけど……やっぱり来た」
 「うん」
 「どうする?」
 凛太郎は画面から目を離さなかった。
 「戦う」
 「どうやって?」
 「言葉で」


十二章 父の言葉

 京都に帰った夜、凛太郎は父に話した。
 「社会が揺れています」
 「そうやろな」老住職は静かに言った。「人間はいつも、そうやって揺れる」
 「どうすればいいんでしょう」
 「お前は科学者やから、数字で見てしまう。でも、命に数字はない」
 凛太郎は黙った。
 「一つ聞くけど」と父は続けた。「お前が今まで食べてきた魚や肉や野菜。どれが一番大切やった?」
 「……全部です」
 「そうや」父は微笑んだ。「全部があって、今のお前がある。命はそういうものや」
 「でも、世の中には選ばなきゃいけない場面がある。医療の現場でも……」
 「トリアージのことか」
 「はい」
 父はしばらく沈黙した。
 「緊急の場面で、限られた医療を最大限に活かすためにする選択と、最初から価値が低い命があると決めることは、別のことや」
 「その通りです」
 「前者は、どの命も等しく大切だから、今できる最善をするための苦渋の選択や。後者は、最初から誰かを切り捨てることを正当化しようとしとる」
 縁側に、虫の声が響いていた。
 「お前の研究は、どちらのためにあるんや?」
 「前者のためです」凛太郎は即座に答えた。
 「ならば、それをちゃんと言え。大きな声で」
 父の目が、静かに光っていた。


十三章 声明

 凛太郎は記者会見を開いた。
 世界中のメディアが集まった。フラッシュが光る中、彼は静かに語り始めた。
 「この技術を開発したとき、私には一つの願いがありました。命を失いかけている人に、時間を足せたなら、と」
 「しかし今、一部で聞こえてくる言葉があります。命を序列化する声です」
 「私はここで、はっきり言います」
 「命に、上下はありません。老いた命も、若い命も。健康な命も、病の命も。すべての命は、無数の命から受け取ったものです。そしてすべての命は、次の誰かへと繋がっていきます」
 「この技術は、その連鎖を助けるためにあります。断ち切るためではありません」
 「もし誰かが、この技術を命の選別のために使おうとするなら、私は全力でそれに抵抗します。研究者として。医師として。そして、一人の人間として」
 会見場は、静まり返った。
 その後、長い拍手が起きた。
 翌朝、花音からメッセージが届いた。
 「見てたよ。かっこよかった。お兄ちゃんらしかった」
 凛太郎はそのメッセージを、何度も読んだ。


十四章 篠原との対話

 記者会見から一週間後、篠原健次から面談の申し込みがあった。
 凛太郎は断ろうとしたが、明日香が言った。
 「会った方がいい。敵を知らないで戦えない」
 二人は、霞が関の議員会館で向かい合った。
 篠原は、凛太郎が想像していたより穏やかな人物だった。対立を楽しんでいる人間ではなく、本気で「社会の効率化」を信じている人間のように見えた。
 「綾瀬先生の気持ちはわかります」と篠原は言った。「でも、現実はそれほど理想的ではない。リソースは有限です。誰かを救えば、誰かが救えない」
 「それは医療の本質的なジレンマです」凛太郎は言った。「しかし、そのジレンマに答えるのが、我々の仕事です。そのジレンマから目を逸らして、最初から誰かを切り捨てることが答えではない」
 「綺麗事だ」
 「そうかもしれない」凛太郎は認めた。「でも、人間は綺麗事を目指してきたから、ここまで来れた。汚い現実に慣れることを、進歩とは言わない」
 篠原はしばらく黙った。
 「先生は、妹さんが病気だと聞きました」
 凛太郎の表情が少し固まった。
 「……そうです」
 「それでも、家族には使わないと?」
 「ルールを作った以上、自分が最初にそれを破るわけにはいかない」
 篠原は、何かを考えるように視線を落とした。
 「……先生は、難しい人ですね」
 「そうかもしれません」
 「もう一度、話しましょう。また時間をください」
 握手はなかった。しかし、二人の間の空気は、最初より少し柔らかくなっていた。


十五章 倒れる


 声明から三ヶ月後。
 凛太郎は倒れた。
 過労だった。検査の結果、心臓に異常が見つかった。重篤ではないが、しばらく休養が必要だという診断が下された。
 「先生が患者になるなんて」明日香は苦笑いした。病室で。
 「笑うな」凛太郎は言ったが、自分も少し笑った。
 「でも、よかったかもしれない」と明日香は続けた。「少し休んで。凛太郎、ずっと走り続けてたから」
 「止まり方がわからなかった」
 「知ってる」
 窓から、病院の中庭が見えた。木々が揺れている。
 患者の立場になって初めて、凛太郎は気づいた。
 命は、自分だけのものではない。
 しかし、だからこそ、大切にしなければならない。
 膨大な数の命を受け取ってきたこの身体には、それ相応の責任がある。
 勝手に手放してはいけないのだ。


十六章 花音からの手紙

 入院二週目。
 花音から、手書きの手紙が届いた。
 「お兄ちゃんへ。
 倒れたって聞いて、驚いた。でも、ちょっと安心した。お兄ちゃんが倒れるくらい、ちゃんと人間だったんだって。
 ずっと思ってたんだけど、お兄ちゃんは誰かのために生きようとしすぎてる気がする。それは素敵なことだけど、自分のことを後回しにしすぎると、いつか壊れる。
 私は病気だけど、毎日ちゃんと楽しいよ。子どもたちと朝ごはんを食べるのが好き。夫がへたくそな料理を作ってくれるのが好き。庭の花が咲くのを見るのが好き。
 大きなことじゃなくていい。命って、きっとそういうことの積み重ねだと思う。
 早く元気になって。でも、ゆっくり元気になって。
 花音より」
 凛太郎は手紙を折って、胸のポケットに入れた。
 目の奥が、少し熱くなった。
 (ゆっくり、か)
 彼は生まれて初めて、意識して深呼吸をした。


十七章 ある夜の決断

 入院三週間目の夜。
 凛太郎は一人、窓の外を見ていた。
 病棟の廊下から、時折看護師の足音が聞こえる。どこかの部屋から、か細い機械音が響いている。
 命が、静かに戦っていた。
 ふと、思った。
 (もし、この先何かあって、自分が死ぬとしたら)
 その考えは、怖くはなかった。ただ、静かにそこにあった。
 しかし、すぐに別の考えが続いた。
 ——そう簡単に手放してはならない。
 父の言葉が蘇った。食べてきた無数の命。受け継いだ先祖の命。出会い、共に歩んできた人たちの命。
 この身体は、それらすべての集大成だ。
 花音の手紙。朝陽の笑顔。明日香の目。父の声。
 そして、まだ出会っていない、これから救われるはずの誰かの命。
 凛太郎はベッドに戻り、天井を見た。
 (まだ、やらなければならないことがある)
 その思いは、静かだったが、強かった。
 自分の命を、守ること。
 それも、責任だ。


十八章 贈りもの

 退院の前日、一人の少年が病室を訪ねてきた。
 川口朝陽。あの臨床試験の最初の被験者。今は八歳になっていた。
 「先生」と朝陽は言った。小さな手で、折り紙を差し出しながら。「お父さんと一緒に折ったんです」
 折り鶴だった。不器用だが、丁寧に折られていた。
 「ありがとう」凛太郎は受け取った。
 「先生のおかげで、僕、生きてます」
 「違う」凛太郎は首を振った。「君が生きているのは、お父さんが分けてくれたからだ。そして、お父さんに命を渡してくれた無数の人たちがいたからだ。私はただ、そのための扉を開けただけだ」
 朝陽は少し考えた後、言った。
 「じゃあ、先生も、誰かに命を貰ったんですね」
 「そうだよ。だから、生きていなければいけない」
 「僕も、大人になったら、誰かに渡したい」
 朝陽はそう言って、にこりと笑った。
 八歳の少年が、命の本質を知っていた。
 凛太郎は折り鶴を、両手で包んだ。


十九章 篠原の変化

 退院して二週間後、篠原から連絡があった。
 「先生に、謝らなければならないことがある」
 電話の向こうの声は、以前より柔らかかった。
 「実は……娘が事故に遭いました」
 「それは……」
 「命は助かりました。でも、長いリハビリが必要です」
 沈黙があった。
 「娘が入院中、私は毎日病室に通いました。そこで気づいたんです。娘は、社会に貢献しているわけじゃない。ただ横たわっているだけです。でも……」
 篠原の声が、少しだけ震えた。
 「それでも、世界の全部が詰まってるように見えました。娘の顔が」
 凛太郎は静かに聞いていた。
 「私の言っていたことは、間違っていた。命に序列なんてない。頭では理解していたつもりでしたが、本当にわかっていなかった」
 「……ありがとうございます。言ってくれて」
 「先生の技術で……娘を助けてもらえますか」
 「もちろんです。担当医を紹介します」
 電話を切った後、凛太郎はしばらく窓の外を見た。
 雨が降っていた。
 しかし、遠くの空は晴れていた。




二十章 十年後の研究室

 二〇五一年。
 あれから十年が経った。
 「命の時間共有技術」は今や世界標準の医療となっていた。倫理的ガイドラインが整備され、命の選別を防ぐための国際条約も締結された。
 凛太郎は四十八歳になっていた。
 心臓の異常は完治し、今も研究室に立ち続けている。髪には白いものが混じり始めたが、目の光は変わらない。
 明日香は独立して、自分の研究室を持っていた。専門は「命素の倫理的応用」という新しい分野だ。
 「相変わらずね」と彼女は、月に一度の共同ミーティングで言った。「凛太郎は」
 「お前も変わらない」
 「私は変わったよ。ちゃんと定時に帰るようになった」
 「それは変わった」
 二人は笑った。
 研究室の窓から、新しく建った病院の棟が見えた。「命素センター」と書かれている。世界各地に、同じ名前の施設が作られていた。


二十一章 花音の春

 長野の花音は、今も生きていた。
 病気は進行しているが、驚くほど穏やかな日々を送っていた。
 「技術が使えなくても、私は幸せだよ」と彼女は言った。凛太郎が帰省するたびに。
 「本当に?」
 「本当に。一日一日が、全部意味があると思えるようになったから。病気になって、それがわかった」
 子どもたちは大きくなっていた。上の子は中学生、下の子は小学生。
 「お母さんは、学校で何を教えてくれるの?」と下の子が聞いた。
 「命は大切だってこと」花音は答えた。
 「どうやって大切にするの?」
 「ちゃんとご飯を食べて、よく寝て、好きな人のことを思って生きること」
 「それだけ?」
 「それだけ」
 子どもは、少し考えて言った。
 「じゃあ、僕、毎日やってる」
 「そうだよ」花音は笑った。「あなたは毎日、ちゃんと生きてる」
 凛太郎は縁側から、その会話を聞いていた。
 目の奥が、熱くなった。


二十二章 苔の庭、再び

 父は九十歳になっていた。
 それでも毎朝読経を続けている。体は小さくなったが、声は変わらない。
 凛太郎が実家に帰るたび、二人は縁側に座る。
 「お前の研究、今どこまで来た?」
 「命が宇宙規模で繋がっていることは証明できました。次は、その繋がりの質を高める方法を探しています」
 父は苔の庭を眺めながら言った。
 「質というのは?」
 「ただ時間を渡すだけでなく……愛とともに渡せるか、ということです」
 しばらく沈黙があった。
 「それはもう、科学やないな」
 「そうかもしれません」凛太郎は笑った。「でも、科学の先には必ず、それがある気がするんです」
 父は静かに頷いた。
 「お前が子どもの頃な」と父は言った。「お前のおばあちゃんが言ってたんや。星の光は死んでも届く、って」
 「覚えてます」
 「命も同じや。形は変わっても、続いていく。お前はそれを証明した。それだけで、十分すごいことや」
 老住職は、静かに目を閉じた。
 「あとは、生きることを楽しめ。それが、研究の次にやるべきことや」


二十三章 朝陽の選択

 川口朝陽は、十八歳になっていた。
 大学で生物学を学んでいる。将来は、凛太郎のような科学者になりたいと言っている。
 ある日、大学の講義で教授が問いかけた。
 「命の時間共有技術は、社会に何をもたらしたか。良い影響と悪い影響を、それぞれ述べよ」
 朝陽は手を挙げた。
 「良い影響は、救われた命が増えたこと。悪い影響は、命を数値で考える人が増えたこと。でも」と彼は続けた。「本当の問題は技術じゃなくて、人間の心だと思います」
 教授が聞いた。「もう少し詳しく」
 「命は、数えられない。でも、数えようとする人間がいる。数えることで、管理しようとする。それは技術の問題ではなく、技術を使う人間の問題です」
 「君は、その技術で助けられた側だと聞いているが」
 「はい」朝陽は頷いた。「だから、余計にわかります。命を数えられたら、怖い。でも、数えられなかったから、僕は今ここにいる」
 講義室が、少し静かになった。
 朝陽はノートに書き留めた。
 「命は、重さで測れない。でも、確かにある」


二十四章 命の総量

 夜。研究室。
 凛太郎は一人でモニターの前に立っている。
 十年前と同じ場所。同じ時間。しかし、見えているものは違う。
 モニターには、今日食べた夕食の代謝データが映っていた。魚。野菜。米。
 それぞれの命が、今、自分の中で生きている。
 (ありがとう)
 声には出さなかったが、心の中でそう言った。
 命は消えない。形を変えるだけだ。
 そして形を変えながら、次へ、次へと流れていく。
 宇宙が始まってから今日まで、命の総量は変わらない。
 ただ、流れているだけだ。
 流れながら、繋がっている。
 親から子へ。食べた命から、食べた者へ。師から弟子へ。愛する人から、愛された人へ。
 そのすべてが、今の自分だ。
 凛太郎はモニターを閉じた。
 コートを着て、研究室の電気を消した。
 廊下に出ると、窓から夜空が見えた。星が、無数に瞬いていた。
 あの星のいくつかは、もうすでに死んでいるかもしれない。しかしその光は、今も地球に届いている。
 命と同じだ、と彼は思った。
 エレベーターのボタンを押しながら、凛太郎は小さく笑った。
 まだ、やることがある。
 明日も、ここに来よう。
 そして、またその次の日も。


二十五章 反動

 二〇五三年。
 世界は、新たな局面に入っていた。
 「命の時間共有技術」が普及するにつれ、予期せぬ問題が浮上してきた。
 一つは、「命の売買」だった。
 表の市場ではなく、闇の市場で。
 健康な若者が、金のために命の時間を売る。それを大金持ちが買う。
 理論上は不可能なはずだった。処置には医療機関が必要で、提供者の同意が必須だ。しかし人間の欲望は、必ずそれを回避する方法を見つける。
 「凛太郎」明日香が電話してきたのは、深夜だった。「見てる? ニュース」
 「今、見た」
 「どうする?」
 「……わからない」
 凛太郎はそう答えた。初めて、答えが見つからなかった。
 技術は中立だ。しかし人間は中立ではない。
 父が言っていた。使う人間の心次第だと。
 その言葉が、今、重くのしかかってきた。


二十六章 新しい世代

 翌朝、大学院生の橘蒼がやってきた。
 二十四歳。凛太郎の新しい研究助手だ。鋭い目と、遠慮のない言動が特徴だった。
 「先生、命の売買問題、どう対処するつもりですか」
 「まだ考えている」
 「考えてる間に、被害者が出ます」
 凛太郎はコーヒーを一口飲んだ。「そうだな」
 「技術を制限すべきだという意見もあります。完全に国家管理にするとか」
 「それは違う」
 「なぜ」
 「管理を強化しすぎれば、今度は権力が命を握ることになる。国家が誰の命を救うかを決める。それは、また別の選別だ」
 蒼は腕を組んだ。「じゃあ、どうするんですか」
 「……教育だ」
 「教育?」
 「命の技術が普及する前に、命の意味についての教育が必要だった。順序が逆になってしまった。だから今から、やるしかない」
 蒼は少し考えた。
 「先生は楽観的ですね」
 「そうかもしれない」凛太郎は窓の外を見た。「でも、楽観がなければ、前に進めない」


二十七章 世界会議

 その年の秋、ジュネーブで国際会議が開かれた。
 テーマは「命の時間共有技術の倫理的枠組みの再構築」。
 世界六十カ国から科学者、医師、倫理学者、法律家、そして患者代表が集まった。
 凛太郎は基調講演を頼まれた。
 演壇に立ち、会場を見渡した。肌の色も、言語も、文化も違う人々が、同じ場所に集まっている。
 しかし、ここにいる全員が、命を持っている。
 「皆さんは、今朝、何かを食べましたか?」
 凛太郎は聞いた。
 通訳越しに、会場がざわめいた。
 「どんな食事であれ、あなたは今朝も、他の命を受け取りました。そしてその命で、今ここに立っています」
 「私たちは生まれた瞬間から、命を受け取り続けています。そしていつか、その命を次に渡します。私たちの技術は、その流れを少し変えることができるようになっただけです」
 「問題は技術ではありません。問題は、私たちがその流れをどう扱うか、です」
 「命に序列はない。受け取った命も、渡す命も、すべて等しく大切です」
 「だから今日、私たちは話し合わなければならない。一人の人間の都合のためではなく、次の世代のために」
 会場は静かだった。
 それから、拍手が起きた。


二十八章 深夜の問い

 会議が終わった深夜。
 凛太郎はホテルの窓から、ジュネーブの街を眺めていた。
 湖が月に照らされて、銀色に輝いている。
 携帯が鳴った。花音だった。
 「会議、お疲れさま。ニュースで見てた」
 「どうだった?」
 「かっこよかった。でも……顔が疲れてた」
 「そうか」
 しばらく沈黙があった。
 「ねえ、お兄ちゃん」
 「何?」
 「楽しい? 今の仕事」
 凛太郎は少し考えた。
 「……楽しい。辛いけど、楽しい」
 「それでいいと思う」
 「花音は?」
 「私も。辛いけど、楽しい」
 二人は笑った。
 「また帰っておいで」と花音は言った。「子どもたちが会いたがってる」
 「来月、帰る」
 「待ってる」
 電話が切れた後、凛太郎はしばらく湖を見ていた。
 月が、水面で揺れていた。
 命は、揺れながら続いていく。


二十九章 学校へ

 翌年。
 凛太郎は、教育プログラムを立ち上げた。
 「命の教室」。小学校から高校まで、命の総量について学ぶ授業だ。
 難しい理論は教えない。ただ、問いを立てる。
 「今日の給食は、どこから来たと思う?」
 最初の授業で、凛太郎は小学三年生に聞いた。
 「畑!」
 「工場!」
 「スーパー!」
 「全部正しい」凛太郎は言った。「でも、もっと前は?」
 「……種?」
 「その種は?」
 「前の植物から来た」
 「そのまた前は?」
 子どもたちは考えた。
 「ずっとずっと前から……来た?」
 「そう」凛太郎は頷いた。「命はね、ずっとずっと前から繋がってる。君たちが今日食べた給食も、その命の一部だ」
 一人の女の子が手を挙げた。
 「じゃあ、死んだら命はどこへ行くの?」
 「次の誰かのところへ行く」
 「誰?」
 「わからない。でも、どこかへ行く。消えないんだ、命は」
 女の子は、少し考えて言った。
 「じゃあ、怖くないね」
 「そうだよ」凛太郎は微笑んだ。「怖くない」


三十章 蒼の成長

 橘蒼は、三年で大きく成長していた。
 研究の腕だけでなく、人との関わり方も変わった。
 「先生」と彼は言った。ある夜の研究室で。「最初に来たとき、私は命の売買問題に、技術的な解決策があると思っていました」
 「今は?」
 「ないと思ってます。いや、技術は補助にはなる。でも根本は、人間の問題だと」
 「成長したね」
 「先生のおかげです」蒼は少し照れた。「でも……先生は、なんでそんなに続けられるんですか。何十年も」
 「続けられる理由がある、というより……続けることしか、できないんだ」
 「どういう意味ですか」
 凛太郎は考えた。
 「祖母が言ってた言葉がある。命は消えない、形を変えるだけだと。私はその言葉が、ずっと頭から離れなかった。だから、証明しようとした。証明できた。でも今度は、それを次に渡さなければならないと思っている」
 「誰に?」
 「君たちに」凛太郎は蒼を見た。「そして、その次の世代に」
 蒼は黙って、それを受け取った。


三十一章 父の最後

 翌春。
 父が、静かに逝った。
 九十二歳。眠るように、穏やかな死だった。
 凛太郎は京都に飛んだ。花音も来た。
 父の顔は、穏やかだった。
 「怖くなかったと思う」花音が言った。「お父さん、死ぬことを怖がってなかったから」
 「そうだな」
 「なんで?」
 凛太郎はしばらく考えた。
 「たぶん……命が続くことを、知っていたから」
 通夜の夜、凛太郎は一人で父の書斎に入った。
 古い本がたくさん並んでいた。仏教の経典、哲学書、そして意外なことに、科学の本もあった。
 一冊を開くと、父の筆跡でメモが書いてあった。
 「命は器ではなく、流れである」
 凛太郎はそれを読んで、長い間、そこに立っていた。
 父は、ずっと同じことを知っていた。
 言葉は違っても。


三十二章 受け継ぐもの

 父の一周忌。
 京都の寺に、家族が集まった。
 花音と子どもたち。明日香も来た。朝陽も、大学を休んで来た。
 読経が終わった後、庭に出て、みんなで苔を眺めた。
 「この苔」と朝陽が言った。「何年生きてるんですか」
 「さあ」凛太郎は言った。「百年以上じゃないか」
 「じゃあ、おじいさんより長生きだ」
 「そうだな」
 「苔は、受け継いでいくんですね。命を」
 「そうだよ。お前が生きてるのも、そういうことだ」
 朝陽は苔を見つめた。
 「じゃあ、私も」と花音が言った。「ちゃんと受け継いで、渡していかないとね」
 「そうだよ」凛太郎は言った。
 春の光が、庭に差し込んでいた。
 苔が、緑に輝いていた。
 命は、ここにも、あそこにも、確かにあった。


三十三章 新しい問い

 二〇五八年。
 凛太郎は五十五歳になっていた。
 研究室に、新しいデータが届いた。
 「先生」蒼が言った。「見てください。これ」
 モニターには、新しい数値が表示されていた。
 「命素の伝達に、感情が影響している」蒼は言った。「提供者が幸せな状態のとき、受け取った側の回復が早い。怒りや悲しみの状態では、逆に遅くなる」
 凛太郎はデータを見つめた。
 「……これは」
 「愛が、実際に命に影響を与えている、ということです」
 凛太郎は静かに笑った。
 「明日香が正しかった」
 「え?」
 「昔、明日香が言ったんだ。愛とともに渡せるかどうかが、次の問いだと」
 蒼はデータと凛太郎の顔を交互に見た。
 「じゃあ、先生は最初からわかってたんですか」
 「わかってたわけじゃない」凛太郎は言った。「でも、感じていた。科学は、感じたことを証明するプロセスだ」
 「……なんか、詩みたいですね」
 「そうかもしれない」


三十四章 朝陽の研究室

 朝陽は、自分の研究室を持っていた。
 専門は「命素と感情の相互作用」。凛太郎が始めた研究の、次の章だ。
 「先生から引き継いだ問いを」と朝陽は言った。凛太郎が訪問した日に。「私なりに進めています」
 研究室には、若い研究者たちが集まっていた。二十代、三十代。目が輝いている。
 凛太郎は、かつての自分と明日香を思い出した。
 「一つだけ、覚えておいてくれ」と凛太郎は言った。
 「何ですか」
 「答えを見つけるより、問いを立て続けることが大切だ。答えが出た瞬間、次の問いが生まれる。そのサイクルが、科学だ。そして、命も同じだと思う」
 朝陽は頷いた。
 「先生から命の時間をもらったとき……私は小さすぎて、何もわかりませんでした。でも今、少しわかる気がします。あのとき、父が渡してくれたのは時間だけじゃなかった」
 「何を?」
 「問いを渡してくれた。生きることへの、問いを」
 凛太郎は、何も言わなかった。
 ただ、頷いた。


三十五章 花音との最後の春

 その年の春、花音が入院した。
 病気が、ついに大きく進んだ。
 凛太郎は長野に飛んだ。
 病室に入ると、花音は笑って言った。
 「来てくれると思ってた」
 「来るに決まってる」
 「お兄ちゃん、泣きそうな顔してる」
 「泣いてない」
 「嘘つき」花音はまた笑った。「昔から、お兄ちゃんの嘘はわかる」
 凛太郎は椅子を引いて、ベッドの横に座った。
 「怖い?」と彼は聞いた。
 「怖くない」花音は言った。「命は続くって、わかってるから」
 「……お前がそれを言うか」
 「お兄ちゃんに教えてもらったんだもん」
 窓から、春の空が見えた。
 「一つお願いがある」と花音は言った。
 「何でも」
 「私の分まで、生きてね」
 凛太郎は答えられなかった。
 花音は続けた。
 「私の命も、受け取ってね。お兄ちゃんの中で、続けていってね」
 凛太郎はようやく、静かに言った。
 「わかった」
 窓の外で、桜が一枚、風に揺れた。


三十六章 別れと続き

 花音は、桜が散る頃に逝った。
 穏やかな最後だった。
 葬儀の日、子どもたちは泣いた。夫も泣いた。凛太郎は、泣かなかった。
 泣く代わりに、ただそこにいた。
 帰り道、朝陽が言った。
 「先生、大丈夫ですか」
 「大丈夫だ」
 「……そうですか」
 「花音はな」凛太郎は歩きながら言った。「病気になってから、毎日が楽しいと言っていた。一日一日が、全部意味があると」
 「そうなんですか」
 「子どもたちと朝ごはんを食べること。夫の料理が好きだと。庭の花が咲くのを見るのが好きだと」
 「……素敵ですね」
 「そうだよ」凛太郎は空を見た。「命って、きっとそういうことだ。大きなことじゃなくても、続いていく」
 春の風が吹いた。
 どこかで、桜がまた散った。


三十七章 祖母の星

 その夜、凛太郎は夢を見た。
 山の頂上に立っている。幼い頃、祖母と来たあの山だ。
 星が、無数に輝いている。
 祖母が隣に立っていた。もう何十年も前に逝ったはずの祖母が、あの頃と変わらない姿で。
 「凛太郎」と祖母は言った。「わかったか?」
 「何が?」
 「命は消えへんということ」
 凛太郎は空を見た。
 「わかった。ようやく、わかった」
 「ええ子や」
 祖母の手が、温かかった。
 目が覚めた。
 窓から、夜明け前の空が見えた。
 星がまだ輝いていた。
 凛太郎は起き上がり、手帳を開いた。
 そして書いた。
 「命は消えない。形を変えるだけだ。これは、祖母から受け取った言葉だ。私はそれを証明し、次へ渡す」


三十八章 六十歳の研究室

 二〇六三年。
 凛太郎は六十歳になっていた。
 定年という概念は、彼の辞書にはなかった。研究室には今日も灯りがついている。
 蒼は四十代になり、今や日本を代表する科学者の一人だ。朝陽も、国際的な研究チームを率いている。
 「先生」と蒼が言った。「次は何を目指しますか」
 「まだ、ある」凛太郎は言った。
 「何ですか」
 「命が繋がるとき、そこに意識が伴うかどうか、だ」
 蒼は眉を上げた。
 「意識、ですか」
 「たとえば花音の命が、今の私の中に流れているとしたら……花音の意識の一部も、そこにあるのかどうか」
 「それは……科学じゃなくなりますよ」
 「なるかもしれない」凛太郎は笑った。「でも、科学の端っこはいつも、哲学に触れている。それでいいんだ」
 蒼は首を振りながら、笑った。
 「先生は、一生こうなんですね」
 「そうだよ」


三十九章 円環

 ある休日。
 凛太郎は一人で、山に登った。
 幼い頃、祖母と来たあの山だ。
 頂上に着いた。息が切れた。六十歳の体は、正直だ。
 しかし、空気は清んでいた。
 眼下に、街が広がっていた。無数の命が、そこで生きている。
 凛太郎は空を見た。
 昼の空に、星は見えない。しかし、そこにある。
 祖母の声を思い出した。
 「命っちゅうのはな、消えへんのや。形が変わるだけや」
 六歳の自分は理解できなかった。
 しかし今、わかる。
 命は流れる。人から人へ。生き物から生き物へ。世代から世代へ。星から地球へ。
 始まりもなく、終わりもなく、ただ流れ続ける。
 それが宇宙の摂理だ。
 そしてそれを、人間は愛と呼ぶ。
 凛太郎は深く息を吸った。
 山の空気が、肺に満ちた。
 木々の命が、空気の中に流れていた。
 彼はそれを受け取り、自分の中へと取り込んだ。
 ありがとう、と思った。
 そして、ここにある自分の命に向かっても、ありがとうと思った。


四十章 最後の講義

 二〇七〇年。
 凛太郎は六十七歳になっていた。
 その年、彼は最後の公開講義を行った。
 会場は、東京医科大学の大ホール。満員だった。
 蒼が四十代の学生たちを率いて前列に座っている。朝陽が隣に座っている。
 凛太郎は演壇に立ち、会場を見渡した。
 若い顔が、たくさんある。
 「皆さんは」と彼は始めた。「今日の朝ごはんに、何を食べましたか」
 笑いが起きた。毎回、この問いから始まると、みんな知っていた。
 「どんな食事であれ、皆さんは今朝も、命を受け取りました。その命を使って、今ここにいる」
 「私は四十年近く、命の研究をしてきました。そして最後に、一つだけわかったことを言います」
 会場が静まった。
 「命は、総量が一定です。宇宙が始まってから今まで、増えてもいなければ、減ってもいない」
 「ただ、流れている」
 「流れながら、形を変える。植物から動物へ。親から子へ。師から弟子へ。愛する人から、愛された人へ」
 「私もその流れの一つです。皆さんも、その流れの一つです」
 「大切なのは、その流れを止めないことだ」
 「生きること。愛すること。そして、次へ渡すこと」
 「それだけで、十分です」
 講義は、静かな拍手で終わった。


四十一章 手紙

 その夜、凛太郎は手紙を書いた。
 宛名は「未来の誰かへ」。
 「あなたがこれを読む頃、私はもうどこかへ形を変えているかもしれません。
 でも、安心してください。消えてはいません。
 あなたが今日食べた何かの中に。あなたを愛した誰かの言葉の中に。あなたが受け取ったすべての中に、私の命の一部が流れているかもしれません。
 私は長い時間をかけて、一つのことを証明しました。
 命は、総量が一定だということ。流れるだけで、なくならないということ。
 あなたが今ここにいるのは、無数の命を受け取ったからです。
 だから、そう簡単に手放さないでください。
 あなたの命には、すでに膨大な数の命が詰まっています。それ相応の責任があります。
 そして、それ以上に、可能性があります。
 生きてください。
 あなたの命を、次の誰かへ渡すその日まで。
 綾瀬凛太郎より」


四十二章 命の総量、最後に

 夜。研究室。
 凛太郎は一人で窓の外を見ている。
 東京の夜景が、無数の光で輝いている。
 あの光の一つ一つに、命がある。
 喜びも、悲しみも、怒りも、愛も、すべてを持った命が。
 彼は窓に近づいた。
 ガラスに自分の顔が映っている。六十七歳の顔。しわが増え、髪は白くなった。しかしその目は、六歳の自分と同じ目をしている。
 星を見上げた、あの夜の目と。
 「祖母さん」と彼は小声で言った。「わかったよ」
 返事はなかった。
 でも、聞こえた気がした。
 コートを着て、電気を消した。
 廊下を歩き、エレベーターに乗った。
 地上に出ると、夜風が吹いた。
 東京の風が、どこか遠い山の匂いを運んできた。
 凛太郎は空を見た。
 星が、輝いていた。
 何十億年も前に生まれ、何百万光年も離れた場所から届く光。
 それは今夜も、確かに届いていた。
 命は消えない。
 形を変えながら、流れ続ける。
 宇宙が始まった日から。
 そして、終わる日まで。
 彼は歩き始めた。
 夜の街へ。
 無数の命の中へ。
 自分という、一つの命として。


エピローグ

 朝陽の娘が、八歳になった年のこと。
 彼女は学校で、こんな絵を描いた。
 大きな木。その根は地中深くまで伸びている。幹から枝が分かれ、葉が茂っている。葉の先から光が出ていて、それが空に向かって広がっている。
 「なんの絵?」と先生が聞いた。
 「命の絵」と少女は答えた。
 「どうして木なの?」
 「根っこが先祖で、幹がお父さんたちで、葉っぱが私。光が次の人たちに渡るやつ」
 先生はしばらく絵を見た。
 「誰かに教えてもらったの?」
 「おじいちゃんが。でも、おじいちゃんのおじいさんから聞いた話だって」
 それは、川口朝陽が子どもの頃、凛太郎から聞いた話だった。
 そして凛太郎が子どもの頃、祖母から聞いた言葉だった。
 命は消えない。形を変えるだけだ。
 それはどこかで言葉になり、絵になり、また誰かへと渡っていった。
 窓から、朝の光が差し込んでいた。
 少女の絵が、光を受けて輝いた。
 命は、今日も流れていた。

——了——




〜あとがき〜

 「命の選別」という言葉が問いかけるもの——それは、私たちが日々どれだけの命を受け取り、生きているか、ということです。
 魚を、肉を、野菜を、果物を。そして先祖の命を。愛する人たちの想いを。
 私たちの体は、それらすべての集大成です。
 命には序列がありません。
 老いた命も、若い命も。健康な命も、病の命も。すべて等しく、尊い。
 そしてすべての命は、ここに繋がっています。
 今、この文章を読んでいるあなたの命も。
 だから、そう簡単に手放さないでください。
 あなたの命には、すでに無数の命が詰まっています。
 そして、まだ渡す先がある。
 生きてください。
 あなたが次の誰かへ、命を渡す、その日まで。


あの日

目の前のキミに

その ひと言が言えず

長いこと 後悔してませんか?


伝えられなかった その言葉を

今まだ 持ち続けてませんか?


若さとは

きっと そんなことなのです…


Kindle



限定一個の恋 

〜良い、悔い、残そう〜


〜冒頭に〜

 悔いを残すな!! と
 先輩方は言う

 悔いを残した人生は
 辛いもんだと 確かに思う

 特に
 異性に関しての感情の中での悔いは
 とても 深く
 そして 重く
 尚も 永く残る

 それは
 たった1つのもので
 たった1人の
 まさに 限定1個なものだから…

 一瞬 時を間違えると
 その列車に乗り遅れると
 たった  ひと言の
 ひと文字の言葉の置き違えで

 その後の生き方が
 大きく
 生涯
 方向を変えることとなる

 それを恐れて
 日々
 一生懸命に努力をしてはみても
 人間たちは
 必ずや
 心のどこかに悔いを残す

 ならば
 いっそ
 それも運命
 仕方ないと割り切って

 そのつど
 燃え尽きるかの如く
 決して後ろを向かず
 前向きで生きていけたのならば

 その悔いもまた
 少しは
 マシな悔いともなろうもんだと…

 そう
 言葉にして
 伝えねば
 その熱さは
 相手には伝わらない ってこと

 さあ~皆
 今日も
 良い 悔い 残そう…




〜プロローグ〜

古いノートは、祖父の匂いがした。

墨と、煙草と、それからもう一つ——言葉にできない何か。三十二歳の私、瀬川美里は、段ボール箱の底からそれを取り出した時、なぜか手が震えた。

祖父、瀬川誠一が逝って四十九日が過ぎた、十一月の午後のことだった。

実家の書斎は、祖父が生きていた頃のまま残されていた。木の机、古い椅子、壁一面の本棚。本棚には国語の教科書、古典文学の全集、辞書が何冊も並んでいた。祖父は定年まで国語教師を勤め、退職後もずっと言葉の海の中で生きていた人だった。

片付けを頼まれたのは私だった。父は仕事が忙しく、母は「あなたが一番おじいちゃんと気が合ったから」と言った。

確かにそうかもしれなかった。

私は子供の頃から、この書斎が好きだった。祖父に呼ばれもしないのに入り込んで、背伸びして本棚の本を眺め、知らない言葉を辞書で引いた。祖父は追い払いもせず、かといって歓迎もせず、ただ静かに自分の仕事を続けていた。その静けさが、居心地よかった。

段ボール箱の三箱目を開けた時、それは出てきた。

大学ノートだった。表紙は日焼けして茶色くなり、角が擦り切れ、背表紙の糸がほつれかけていた。五十年以上は経っているだろうと、見ただけでわかった。

開くのをためらった。

他人の日記を覗くような後ろめたさがあった。たとえ祖父のものであっても——いや、祖父のものだからこそ、そこに何か深いものがあるような気がして、踏み込んでいいものかどうか、迷った。

でも。

表紙を見た時、迷いは消えた。

そこに、一行だけ書いてあった。

  美里へ

私の名前だった。



〜登場人物一覧〜

 瀬川美里(せがわ・みさと)……主人公。32歳。広告代理店コピーライター。

 瀬川誠一(せがわ・せいいち)……美里の祖父。享年78歳。元国語教師・詩人。

 高村澄子(たかむら・すみこ)……誠一の生涯の想い人。80代。元国語教師。

 田島康介(たじま・こうすけ)……美里の恋人。36歳。広告代理店先輩社員。

 村田(むらた)………………………誠一の親友。法学部出身。


一章 祖父のノート

祖父は口数の少ない人だった。

饒舌な人間というものを、祖父は少し軽く見ていたふしがあった。「言葉は数より重さだ」と、珍しく口を開いた時に言っていた。その言葉自体が、祖父らしく短くて重かった。

定年まで国語教師を勤め、退職後は小さな菜園を耕し、夕方になると縁側で一人、何かを書いていた。何を書いているのか、誰も知らなかった。祖母は十五年前に他界していて、父も母も「お義父さんの趣味」と言って、深く踏み込まなかった。

私だけが、少し気になっていた。

子供の頃、縁側に近づくと、祖父はノートをそっと閉じた。怒るでもなく、隠すでもなく、ただ静かに閉じて、「美里は勉強したか」と聞いた。それだけだった。勉強のことなど聞きたくなかったが、祖父の目が穏やかだったので、怒る気にもなれなかった。

「何を書いてるの?」と一度だけ聞いたことがある。

祖父は少し間を置いた後、「昔のこと」と言った。

「昔って、どんな昔?」

「お前にはまだ早い」

「いつになったら早くなくなるの?」

祖父はその問いに、答えなかった。ただかすかに笑って、また縁側の向こうの庭を見た。

その祖父が、このノートを私に残した。

遺言書には、財産分与の他に一行だけ追記があった。

  書斎の棚、左から三番目のノートを、美里に。

なぜ私に。なぜ父や母ではなく。

遺言書を見た時から、ずっと気になっていた。そしてついに今日、そのノートが手の中にある。

表紙を開いた。

最初のページに詩が一篇、書かれていた。タイトルは「悔いを残そう!」とあった。

私は最後まで読んだ。

読み終わった時、気がついたら泣いていた。

なぜ泣いているのか、自分でもわからなかった。ただ、この詩を書いた人が——あの無口な祖父が——どれほど深いところで何かを抱えて生きてきたのか、その重さだけが、確かに伝わってきた。

  限定一個なものだから。

その一行が、胸に刺さって抜けなかった。

詩の次のページから、細かい文字で何かが書き続けられていた。日記でも、手紙でもない。それはまるで、誰かへの長い長い——告白のようだった。

窓の外で、枯れ葉が一枚、風に舞った。

私は読み始めた。


二章 三十二歳の私のこと

少し、自分のことを話しておく必要がある。

瀬川美里、三十二歳。東京の中堅広告代理店で、コピーライターとして働いている。仕事は好きだ。言葉を使う仕事だから、祖父譲りかもしれないと思う。

恋愛については——正直なことを言えば、うまくない。

二十代の頃に二度、付き合った人がいた。一人目は大学の同級生で、二年続いて、彼の転勤を機に自然に終わった。二人目は職場の先輩で、これも一年ほどで「方向性が違う」と言われて終わった。

どちらも、後悔していないと言えば嘘になる。

しかし、本当の意味で「この人だ」と思ったことが、まだ一度もなかった。それが正直なところだった。

三十を過ぎてから、周囲の結婚ラッシュが始まった。友人たちが次々と式の招待状を送ってきた。嬉しい反面、どこかで焦りが生まれていた。焦っているくせに、行動できない。それが自分でもどかしかった。

その「どかしさ」の原因は、たぶんわかっていた。

今の会社に、田島康介という人がいる。

三十六歳。チームの先輩。背が高く、声が低く、仕事が丁寧で、部下への気遣いが自然だった。私に対してだけ、少し——やさしい気がした。「気がした」というのが、また問題だった。

確信がなかった。

勘違いかもしれなかった。こちらから何か言って、空気が変わってしまったら。今の関係が壊れたら。毎朝の何気ない会話が、ぎこちなくなったら——。

考えるだけで怖かった。

だから私は一年間、何もしなかった。

祖父のノートを読んだその夜、私は久しぶりに田島さんのことを正直に考えた。

臆病な自分のことを。

そして祖父の詩の言葉を、繰り返し思った。

  その列車に乗り遅れると——。

私はまだ、ホームに立っているだろうか。それとも——もうすでに、乗り遅れているだろうか。


三章 母との電話

翌朝、実家に残っていた母に電話した。

「もしもし、お母さん。昨日、おじいちゃんのノートを見つけたんだけど」

「ああ、あったの? 遺言にあったやつね。どんなことが書いてあった?」

「それがね——」私は少し間を置いた。「お母さん、おじいちゃんって、おばあちゃんのこと、好きだったと思う?」

電話の向こうで、母が少し黙った。

「好きだったんじゃないの。長年連れ添ったんだから」

「そうじゃなくて。本当に、心の底から、好きだったと思う?」

また間があった。今度は長かった。

「……正直なことを言うとね」と母はゆっくり言った。「お義父さんは、おばあちゃんに対して、いつも少し、遠い人だったのよ。優しかったし、文句も言わなかったし、ちゃんとした旦那さんだったけど。でもどこか、別の場所を見ているような……そんな人だったわ」

私は受話器を強く握った。

「おじいちゃんの若い頃のこと、何か知ってる? 大学時代とか」

「知らないわよ、そんな昔のこと。あなたのお父さんだって知らないんじゃないかしら。ものを言わない人だったから」

「一度も、何も話さなかった?」

母はまた少し沈黙した。記憶を探るような間があった。

「あ……一度だけ」と母が言った。「おばあちゃんが亡くなった後の年に、ちょっとした法事があってね。その帰りに、珍しくお義父さんが少しお酒を飲んで。で、ぽつりと言ったの。『人生で一番大事な列車を、俺は乗り過ごした』って」

私の手が、少し震えた。

「……それで?」

「それだけよ。意味がわからなくて、聞き返す雰囲気でもなかったし、そのままにしてた。あなたのお父さんも聞こえてたと思うけど、誰も何も言わなかったわ」

「そう」と私は言った。

「なんでそんなこと聞くの? ノートに何か書いてあったの?」

「うん。ちょっと、いろいろ」

「気になるわね。今度見せてくれる?」

「……うん、いつか」

電話を切った後、私はすぐにノートを開いた。

祖父の「列車」は——いつ、どこで走っていたのだろう。


四章 田島さんとの朝

ノートの本文を読み進めるうちに、夜が明けた。

翌朝、目を腫らしたまま会社に行くと、田島さんが先に来ていた。コーヒーを淹れながら、振り向いて言った。

「おはよう、瀬川さん。顔色悪いけど、大丈夫?」

「徹夜したんです」

「え、仕事で?」

「違います。本を……ノートを読んでいたら、夜が明けてしまって」

田島さんは少し笑った。目が細くなる、あの笑い方で。

「瀬川さんらしいね。何のノート?」

「祖父が残してくれたものです。昔のことが、いろいろ書いてあって」

「へえ」田島さんはコーヒーカップを二つ持って、私の席の前に来た。「一つ、どうぞ」

「ありがとうございます」

私はカップを受け取りながら、田島さんの手を一瞬見た。大きくて、落ち着いた手だった。

「おじいさん、どんな人だったの?」

「口数の少ない人でした。でもノートを読んで——全然知らなかった面があって」

「人って、知ってるつもりで知らないよね」田島さんは自分の席に戻りながら言った。「俺の親父もそうだよ。死んでから、知らないことがいっぱい出てきた」

「田島さんのお父さんも?」

「うん。母親が片付けをしてたら、昔の恋文が出てきたんだって。母親に出したやつじゃない、別の人への」田島さんは苦笑いした。「母親、複雑な顔してたけどな」

私は少し笑った。

「人はみんな、言えなかった言葉を持ってるんですね」

「そうかもな」

田島さんはパソコンを開いた。私も自分の席でパソコンを立ち上げた。

でも画面を見ながら、別のことを考えていた。

祖父のことを。澄子さんのことを。そして——自分のことを。


五章 ノートの冒頭

その夜、改めて最初から丁寧にノートを読んだ。

詩のページの次に、こう書いてあった。

昭和三十八年 春、記す

 美里へ

 これを読んでいるということは、じいちゃんはもうこの世にいないということだな。

 遺言にお前の名前を書いた時、お前がどんな顔をするかと、少し想像した。驚くだろうな。なぜ自分に、と思うだろうな。

 父さんには向かない話だ。男というものは、父親の恋愛話を聞きたくない生き物だ。母さんには、なおさら向かない。嫁という立場では、受け取りにくかろう。

 しかしお前——美里、お前は昔から、じいちゃんが縁側で書いている時に、そっと近くに来ていたな。追い払っても、また来た。「何を書いてるの?」と聞いた。「いつになったら早くなくなるの?」と言った。

 あの目が、何かを知りたがっていた。

 あの目が、言葉というものの重さを知りたがっていた。

 だからこれを、お前に残す。

 お前なら受け取れると思った。

 これは、じいちゃんの、生涯ただ一つの恋の話だ。

 うまく伝わるかどうか、じいちゃんにはわからない。じいちゃんは詩を書いてきたくせに、自分の気持ちを言葉にするのが、誰よりも下手だったから。

 でも、書く。

 書かないまま死ぬよりも、書いて死にたいと思った。

 それだけが、じいちゃんの「良い悔い」への、せめてもの抵抗だ。

 読んでくれ、美里。


私は顔を上げた。

窓の外に、夜の街の光が広がっていた。

祖父がこれを書いた時——何歳だったのだろう。どんな気持ちで、「美里へ」と表紙に書いたのだろう。

私はゆっくりと、次のページをめくった。


 〜昭和三十八年〜

六章 春、桜並木の出会い

昭和三十八年。

瀬川誠一は二十二歳だった。

東京の私立大学の文学部に通い、詩と小説と、それから友人たちとの熱い議論を愛する青年だった。故郷は群馬の小さな町で、仕送りは最低限、アルバイトで食いつないでいた。貧しかったが、それが気にならないくらい、毎日が濃かった。

文芸部に所属し、同人誌を年に二回出していた。部員は十二人。誠一はその中で最も詩に熱心で、最も批評に厳しく、最も議論が長かった。

図書館が好きだった。

金のかからない娯楽として通い始めたが、次第に図書館の空気そのものが好きになった。静けさと、紙と埃の匂いと、時間の密度が違う感覚。カウンターの司書のおじさんは口数が少なく、誠一のことを顔で覚えていて、いつも黙って入館証を受け取った。

その図書館の文学部の棚の前で、彼女をよく見かけた。

最初に気づいたのは、二月の終わりだった。

ベージュのコートを着た女が、背筋をまっすぐに伸ばして、本棚を見上げていた。指先で背表紙をなぞりながら、静かに本を選んでいた。顔立ちは整っていて、目が涼しくて、口元が少し厳しかった。しかし本を手に取り、ページを開いた瞬間だけ——表情が柔らかくなった。

その一瞬が、誠一には印象的だった。

それから何度か、同じ棚の前で顔を合わせた。

向こうも誠一に気づいているようだったが、目が合うと視線を本に戻した。誠一も何となく声をかけそびれていた。同じ大学の学生だろうとは思っていたが、確信はなかった。

四月になり、桜が満開になった日のことだった。

図書館からの帰り道、桜並木の下で彼女を見かけた。

今日は一人で、立ち止まって桜を見上げていた。花びらが風に舞って、彼女の黒い髪に何枚か落ちた。それを払いもせずに、ただ空を見ていた。

誠一は気がついたら歩み寄っていた。

「また図書館の人だ」と彼女は言った。

視線をこちらに向けずに、桜を見たまま言った。驚いた。向こうも気づいていたとは思っていなかった。

「君も気づいてたのか」と誠一は言った。

「当たり前よ。いつも私の方を見てるんだもの」

直球だった。誠一は少し赤くなった。

「悪かった」

「謝らなくていい。私も見てたから」

そう言って、彼女はようやく誠一の方を見た。

目が合った。涼しくて、しかし温度のある目だった。

「私は高村澄子。文学部の三年」

「瀬川誠一。同じく文学部、三年」

「知ってる」と澄子は言った。「詩を書いてるでしょう」

「なんで知ってる」

「文芸部の同人誌、読んだから」

誠一は黙った。同人誌など、部員とその知り合いに配るだけのもので、何十部しか刷らない。その小さな冊子を、この女は読んでいた。

「どうだった」と、聞かずにはいられなかった。

澄子は少し考えた。桜の花びらが一枚、彼女の肩に落ちた。

「熱くて、若くて、少し恥ずかしい。でも——本物だと思った」

誠一は、その言葉の意味を確かめるように、もう一度澄子の顔を見た。

澄子は既に桜に視線を戻していた。

「本物、か」と誠一は呟いた。

「そう。ごまかしがない。自分の言葉で書いてる。それが伝わる」

誠一の胸の中で、何かが動いた。

それが何かを、その時の誠一はまだわからなかった。ただ——この女と、もっと話したいと思った。


七章 初夏、文学論争

それから二人は、よく話すようになった。

図書館の帰り道、食堂の隅、大学の中庭のベンチで。最初は文学の話だった。澄子は国文学を専攻し、古典から現代文学まで幅広く読んでいた。好みが明確で、気に入らないものは気に入らないとはっきり言った。

「川端康成は好きか?」と誠一が聞いた。

「美しいとは思う。でも、女の描き方がどこか標本みたい」と澄子は言った。

「標本?」

「ガラスケースの中に飾られてる感じ。生きてない」

「じゃあ誰が好きだ」

「樋口一葉」澄子はすぐに答えた。「あの人は生きてる言葉を書く。貧しさも、悔しさも、恋も——全部が本物の重さを持ってる」

「女性作家だから肩入れしてるんじゃないのか」

澄子は少し眉を上げた。

「そういう見方をするあなたこそ、偏ってると思うけど」

「……それはそうだな」

誠一は素直に認めた。澄子の前では、変な見栄を張る気にならなかった。

誠一が書いたものを持っていくと、澄子は必ず読んで感想を言った。褒める時は少なく、批評は容赦なかった。しかし批評の中に、必ず一筋、光が見えた。

「ここだけは本物ね」

澄子がそう言う一行のために、誠一は書いているような気がした。

五月になり、木々が濃い緑になった頃、誠一の親友の村田が澄子のことを聞いてきた。

村田は法学部の男で、誠一の中学からの友人だった。がさつで陽気で、しかし義理堅い。

「お前、最近よく一緒にいる女、誰だ」

「文学部の高村」

「付き合ってるのか?」

「違う」

「じゃあ何なんだ」

誠一は少し考えた。

「……友人、だと思う」

「お前の顔が友人の顔じゃないぞ」村田は笑った。「好きなんだろ、はっきり言えよ」

「うるさい」

「言わないと後悔するぞ」

「わかってる」

「わかってるなら言え」

誠一は答えなかった。

しかし——わかっていた。自分の中に、何かが育ちつつあることを。


八章 夏、多摩川の夕暮れ

夏になった。

七月の終わり、二人で多摩川に行った。澄子が「川を見たい」と言い出したのだった。特に深い理由はないようだった。ただ、たまに澄子はそういうことを言った。「海が見たい」「山が見たい」——言葉で飯を食おうとしている人間のくせに、言葉より景色を欲する瞬間があった。

誠一はその感覚が好きだった。

多摩川の土手に着いた時、夕方が近かった。

川面が橙色に光り、対岸の空が赤く染まり始めていた。土手の草は長く伸びていて、風が吹くとさわさわと揺れた。

澄子は草の上に腰を下ろした。膝を抱えて、ただ川を見ていた。誠一もその横に座った。二人の間に、半メートルほどの距離があった。

しばらく、何も言わなかった。

黙っていられるのが、澄子といると心地よかった。沈黙を埋めようとしなくていい。ただそこにいるだけで、何かが満ちてくる。

「誠一は将来、どうするの?」と澄子が言った。

「詩人になりたい。なれるかどうかはわからないけど」

「なれると思う」と澄子はすぐに言った。「私じゃなくて、あなたの詩がそう言ってる」

誠一は川を見たまま、胸の中で何かが揺れるのを感じた。

「澄子は?」

「先生」澄子も迷わず答えた。「国語の先生。子供たちに言葉の力を教えたい。言葉があれば、孤独じゃなくなれる。誰かに届けることができる。そのことを、教えたい」

「それはいい」と誠一は言った。心から、そう思った。

日が傾いた。川面の色が変わった。橙から、薄い紫へ。

誠一は言おうとした。

今がその時だと、体の奥の何かが言っていた。

「澄子——」

声に出した。しかし、続かなかった。

澄子が振り向いた。

「何?」

誠一はその顔を見た。夕暮れの光の中で、澄子の目が静かに誠一を見ていた。待っていた。

——言えなかった。

「いや、何でもない」と誠一は言った。

澄子はほんの一瞬、何か言いたそうな顔をした。しかしすぐに川に視線を戻した。

「そう」とだけ言った。

日が沈んだ。川面が暗くなった。

二人は並んで土手を下った。肩が触れそうな距離で、触れなかった。

誠一は後に、あの夕暮れを何百回も思い返すことになる。

なぜ言えなかったのか。

怖かったのだ。この関係が変わることが。澄子に「違う」と言われることよりも、あの静かで豊かな時間が終わることの方が、怖かった。

しかし——その「怖さ」こそが、誠一の生涯を変えた。


九章 夏の終わり、文芸部の夜

八月の終わり、文芸部の合宿があった。

奥多摩の古い旅館を借りて、二泊三日で各自の原稿を持ち寄り、朝から夜まで読み合わせをした。誠一は詩を五篇持っていった。

澄子は文芸部ではなかったが、部員の一人の友人として参加した。

夜、縁側で涼んでいた時、澄子が誠一の詩稿を読んでいた。

「これ」と澄子が言った。「この詩、誰への詩?」

誠一が覗くと、夏の終わりの詩だった。川面と夕暮れと、言えなかった言葉——をテーマにして書いた詩だった。まさか澄子に気づかれるとは思っていなかった。

「……誰への、ということはない」と誠一は言った。

「嘘つき」澄子は詩稿をそっと置いた。「詩は嘘をつかないのに、詩人は嘘をつく」

「……」

「いい詩よ。あなたの中でいちばんいい」

それだけ言って、澄子は立ち上がった。

「おやすみ、誠一」

「おやすみ」

澄子の足音が廊下の奥に消えた後、誠一は一人で夜の山を見ていた。

虫が鳴いていた。

遠くで川の音がした。

誠一は拳を握った。


十章 秋、影の男

九月になって、変化が起きた。

澄子の周りに、別の男が現れた。

法学部の男で、名前は田中という。誠一の友人の村田から聞いた。「弁護士志望の、頭のいい男だ。あいつ、高村に惚れてるらしい」

誠一は何も言わなかった。

しかし、図書館で二人が話しているのを、離れた棚の陰から見た時——胸の中に、黒いものが広がった。

澄子が笑っていた。

あの、本のページをめくる時だけ見せる、柔らかい表情を——その男に向けていた。

嫉妬、とはっきりわかった。みっともないとわかった。しかし止められなかった。

その日から、誠一は澄子から距離を置いた。

図書館に行く時間をずらした。食堂で顔を合わせても、会釈だけして席を別にした。澄子は何も言わなかった。ただ、一緒にいる回数が自然と減った。

村田に相談した。

「はっきり言えばよかったんだよ」村田は言った。「夏にチャンスがあったんだろ。なんで言わなかったんだ」

「怖かった」

「それだけか?」

「それだけだ」

村田は呆れたような顔をした。

「お前みたいな男が、なんで詩で人の心を動かせるんだ。自分の気持ちも言えないくせに」

「……うるさい」

「言えよ、まだ遅くない」

誠一は答えなかった。

田中という男が澄子に近づいている。今更自分が「好きだ」と言っても、後出しじゃないか。卑怯じゃないか。——そう思っていた。

しかしそれは、言い訳だった。

本当のところは——まだ怖かっただけだ。


十一章 冬、澄子の手紙

十一月になり、銀杏が黄色く色づいた。

誠一は相変わらず、澄子との距離を縮められないでいた。田中という男が澄子とどういう関係なのか——友人以上になったのかどうか——知りたいような、知りたくないような。

十二月に入ったある日、澄子から手紙が届いた。

大学の学生課の私書箱に入っていた。封筒の宛名は誠一の名前で、差出人に「高村澄子」とあった。

誠一は図書館のテーブルで封を開けた。


  誠一へ

  今月で私は郷里に帰ります。
  実家の近くの中学校で、来春から国語を教えることになりました。
  夢だった仕事に就けること、嬉しく思っています。

  誠一の詩を、ずっと読んでいました。
  これからも書き続けてください。
  あなたの言葉は、本物だから。

  最後に、一つだけ聞かせてください。
  あの夏の多摩川で、何か言いかけて、やめたことがあったでしょう。
  あの時、何を言おうとしていたのですか。

  返事を待っています。

           高村澄子


誠一は手紙を持ったまま、長い時間、動けなかった。

図書館の時計が、秒を刻んでいた。

あの時、何を言おうとしていたのですか——。

澄子は知っていた。あの夕暮れに、誠一が何かを言いかけたことを、ずっと知っていた。そして今、直接に聞いてきた。

返事を書こうとした。

その日の夜、下宿の机に向かって、何度も書いた。

「あの時、君に言おうとしていたのは——」

途中で破り捨てた。

「澄子へ、俺は君のことが——」

また破り捨てた。

言いたいことが多すぎた。一年分の気持ちが、手紙という小さな枠に収まらなかった。直接に、顔を見て、声で伝えなければならない気がした。だから——会いに行こうと思った。

しかし。

行かなかった。

なぜ行かなかったのか。

誠一は生涯をかけて、その問いと向き合い続けた。最後まで、すっきりとした答えは出なかった。ただ確かなのは——臆病だったということだ。

もし直接会って「好きだ」と言って、澄子に断られたら——その瞬間に、すべてが終わる。その怖さが、誠一の足を止めた。

返事のないまま、澄子は郷里へ帰った。

十二月の終わりのことだった。


十二章 その後の誠一

翌春、誠一は大学を卒業した。

詩人になる夢は、現実の前に静かに退いた。

詩で食えぬとは最初からわかっていた。しかしもう少し抵抗できると思っていた。しかし父が病気になり、仕送りの逆流が必要になり、誠一は安定した職を探した。

採用試験を受けて、国語教師になった。

澄子と同じ道を、澄子のいない場所で歩き始めた。

最初の赴任先は、東京郊外の中学校だった。教壇に立ちながら、「澄子も今、同じ場所に立っているのだろう」と思った。

子供たちに言葉を教えながら、心の奥の誰にも見せない場所では、あの夏の多摩川と、冬の手紙が、変わらず光り続けていた。

三年後、誠一は見合いをした。

相手は同僚の紹介で、名前を佐藤みつ子といった。穏やかで、笑顔の多い人だった。澄子とは似ていなかった。しかしだからこそ、誠一は前を向けた。

みつ子との結婚を決めた時、誠一は心の中で澄子に別れを告げた。

——澄子、俺は別の道を行く。お前のいない道を、誠実に生きる。

それは嘘ではなかった。

誠一はみつ子に対して、誠実な夫であろうとした。それは果たせたと思う。みつ子は良い妻だったし、誠一も良い夫であろうとした。子供が生まれ——美里の父が生まれ——家族ができた。

ただ、あの一行だけが、ずっと心の奥に残り続けた。

  あの時、何を言おうとしていたのですか。


十三章 六十代の誠一

定年退職した年の秋、誠一は詩を書き始めた。

若い頃に書いていた詩を、何十年ぶりかで。

退職のお祝いに、みつ子が万年筆をくれた。

「ずっと書きたそうにしてたから」とみつ子は言った。「書けばいいのよ、好きなだけ」

誠一は少し驚いた。みつ子はそういうことに、あまり口を出さない人だった。

「書いていい?」と誠一は聞いた。

「どうして聞くの」みつ子は笑った。「あなたのものを書くのに、許可はいらないわ」

翌日から誠一は縁側に出て、ノートに向かった。

書いては消し、書いては消した。

若い頃の詩は熱くて荒削りだった。今の自分の言葉は——もう少し静かで、しかし深い場所から来る気がした。

いくつもの詩を書いた。

その中に、あの夏のことを書いた詩があった。多摩川の夕暮れ。言えなかった言葉。帰ってこなかった手紙。それを正面から書いた。

書いて初めて、誠一は気づいた。

この気持ちは、消えていなかった。

薄くなっていた。遠くなっていた。しかし——消えてはいなかった。

それが悲しいことなのか、それとも人間として当然のことなのか、誠一にはわからなかった。ただ、書くことで少し、楽になった。


十四章 みつ子の死と、ノートの決意

みつ子が亡くなったのは、誠一が六十八歳の時だった。

癌だった。発見から一年半、穏やかに、最後まで誠一を気遣いながら逝った。

みつ子が逝った後、誠一は半年間、縁側に出なかった。詩も書かなかった。ただ、菜園の世話だけをした。土を触っていると、何も考えなくて済んだ。

半年が過ぎた春、庭の梅が白く咲いた。

誠一はまた縁側に座った。

万年筆を取り出した。みつ子がくれたあの万年筆を。

そして——新しいノートを開いた。

表紙の裏に、誠一は書いた。

  美里へ

孫の顔を思い浮かべた。あの子なら——受け取れると思った。あの目が、言葉の重さを知りたがっていた。

その夜から、ノートへの記述が始まった。

昭和三十八年の春から、書き始めた。あの桜並木から。図書館の棚の前から。澄子の横顔から。

書きながら、誠一は何度も泣いた。

それが恥ずかしかった。七十近い老人が、五十年前の恋を思い出して泣くのが、みっともないと思った。

しかしやめなかった。

書くことが——「良い悔い」を残すことだと、誠一は思っていた。

悔いを消すことはできない。しかし形にすることはできる。

形にした悔いは、次の誰かに届くかもしれない。


十五章 返事を待ちながら

昭和三十八年、十二月。

高村澄子は諏訪の実家に帰った。

荷物は大きなトランク一つと、本が詰まったダンボール二箱だった。父が駅まで迎えに来ていた。「お帰り」とだけ言って、荷物を持ってくれた。それだけで十分だった。

実家は諏訪湖から歩いて十分の場所にある古い家だった。縁側から湖が見えた。冬の湖は鉛色で、静かだった。

返事を待った。

一週間。二週間。年が明けた。

誠一からの手紙は来なかった。

澄子は毎日、郵便受けを確認した。それが習慣になった。来ない日の方が多くても、確認をやめなかった。

三月になり、春の便りが届き始めた。

誠一からの手紙だけが、来なかった。

澄子は、ある日の夕方、諏訪湖の岸辺に一人で行った。冬の名残を引きずった風が冷たかった。湖の水面を眺めながら、澄子は静かに結論を出した。

——返事は来ない。

それが答えだ。

泣かなかった。泣くのは家に帰ってからにしようと思っていたが、家に帰っても泣かなかった。

ただ——あの夏の多摩川を思った。

誠一が「澄子——」と言いかけて、やめた瞬間を。

あの時、誠一が続きを言っていたら。自分が先に言っていたら。どちらかが、一言だけ踏み出していたら——。

「たったの一言で、変わっていたんだよ」と澄子は、五十年後に美里に言う。「でも私たちは、両方とも、踏み出せなかった」


十六章 諏訪の教師

翌春、澄子は中学校の国語教師になった。

最初の授業で、澄子はこう言った。

「言葉には力がある。誰かに届けることができる力が。今日からみなさんに、その力の使い方を教えます」

生徒たちはきょとんとした顔をしていた。

澄子は笑った。

それから三十五年間、澄子は諏訪の子供たちに言葉を教えた。

詩の授業が得意だった。生徒に詩を書かせ、声に出して読ませた。「上手い下手じゃない、本物かどうかだ」と言い続けた。——誠一が自分に言った言葉を、子供たちに伝え続けた。

三十代の頃、一度だけ、結婚の話があった。

地元の銀行員で、真面目な人だった。断った理由を、澄子は誰にも言わなかった。

ただ、誠一のことを引きずっていたとは、自分では思っていなかった。

「その人が私の相手じゃなかった、それだけのこと」と後に言った。

しかし——心の奥の引き出しの中に、誠一の面影がしまわれていたことは、否定しなかった。


十七章 七十歳の澄子

七十歳で退職した澄子は、諏訪湖の見える小さなアパートに移った。

一人で暮らし、本を読み、時々元教え子が訪ねてきた。

孤独ではなかった。

言葉の仕事をして、言葉で人と繋がって——澄子の人生は、ちゃんと満ちていた。

しかし時々、秋の夕暮れに湖を眺めながら、思い出すことがあった。

あの桜並木。図書館の棚。多摩川の夕暮れ。

「本物だと思った」と言った、あの日の自分の言葉を。

誠一が詩人になったかどうか——澄子は知らなかった。

名前を検索する手段が今はあるが、澄子はしなかった。知って何かが変わるわけでもないし、何より——知ることで、あの頃の記憶が変質してしまいそうで、怖かった。

ただ、誠一がどこかで今も生きていて、今も言葉と共にいてくれると——そう信じていた。

その信念は、間違っていなかった。


十八章 美里、諏訪へ

ノートを読み終えた時、夜が明けていた。

私は長い間、動けなかった。

高村澄子。

その名前が、頭の中で光っていた。

祖父は澄子に会いに行かなかった。手紙に返事を出さなかった。その後五十年、自分の「限定一個」を胸に抱えたまま、七十八年の人生を終えた。

何かを確かめたくなった。

澄子さんが、今もどこかにいるのかどうか。あるいは、もうこの世にいないのか。それだけでも知りたかった。

ノートの末尾に、小さく書いてあった。

  澄子が帰ったのは、長野の諏訪だと聞いた。
  諏訪の中学校で教えると言っていた。
  それだけしか知らない。

私はスマートフォンで調べ始めた。「高村澄子」「諏訪」「元教師」「国語」——いくつものキーワードを試したが、それらしい人物は見つからなかった。

当然だった。七十代の元教師が、ネット上に情報を残しているわけがない。

でも——行ってみようと思った。

諏訪湖の見える町に。祖父が心に刻んでいた場所に。

何も見つからなくてもいい。ただ、その空気を感じてみたかった。

週末、私は特急あずさの切符を買った。


十九章 諏訪湖の岸辺

十一月の終わり、諏訪に着いた。

駅を出ると、冷たい風が吹いていた。山に囲まれた盆地の、澄んだ冷気だった。

諏訪湖は駅から歩いて十分ほどの場所にあった。

湖が見えた時、足が止まった。

鉛色で、広くて、静かだった。山が遠くに白く光っていた。空が高かった。

祖父の詩の言葉が、頭の中で鳴った。

  一瞬の時間を間違えると
  その列車に乗り遅れると——

祖父はここを知らなかった。しかし澄子さんはここで生きた。この湖を見ながら、返事を待った。

私は岸辺を歩いた。

観光客は少なかった。地元の老人が犬を散歩させていた。遠くで子供たちが自転車で走っていた。

「もしかして——東京の方?」

背後から声がした。

振り向くと、白髪の小柄な老婦人が立っていた。八十代だろうか。真っ直ぐな背筋で、目が澄んでいた。厚いコートを着て、一人で湖を見ていた。

「はい、東京から来ました」と私は言った。「なぜわかったんですか?」

「雰囲気ね」と老婦人は言った。「東京の人は、景色を見る目が違う。少し急いでいる。それでも、今日のあなたは違った。ここにいる理由が、観光じゃない目をしてたから」

私は少し驚いた。

「あの——」と私は言った。声が少し震えた。「高村澄子さん、という方を探しているんですが。昔、この辺りの中学校で国語を教えていた方で——」

老婦人の表情が、ゆっくりと変わった。

何か深いところで、扉が開くような変化だった。

「……私ですよ」と老婦人は言った。静かに。「あなたは誰?」

「瀬川誠一の——孫です。瀬川美里と申します」

澄子さんが、黙った。

三秒か、五秒か。

その沈黙の間、諏訪湖の風が吹いた。

「……来たのね」と澄子さんは小さく言った。「誰かが来ると思ってた。誠一さん本人じゃないかもしれないとは思ってたけど——来ると思ってた」

「なぜですか?」

「あの人の詩を読んだから。本物の言葉は、必ず誰かに届く。形を変えて、時間を越えて、必ず届く」

澄子さんの目が、少し光った。

「誠一さんは、いつ亡くなったの?」


二十章 喫茶店の午後

湖畔の小さな喫茶店に入った。

地元の常連らしい老人が二人、隅のテーブルで将棋を指していた。カウンターの奥で、マスターが静かにコーヒーを淹れていた。

私と澄子さんは窓際に向かい合って座った。

「二ヶ月前です。七十八歳でした」私は言った。

澄子さんは頷いた。

「そう」とだけ言った。その二文字に、長い時間が詰まっていた。

「おじいちゃんのノートを読みました」と私は言った。「澄子さんのことが、たくさん書いてありました。桜並木のこと、多摩川のこと、手紙のこと——」

「手紙の返事は、来なかったわ」澄子さんは言った。静かな声で。「ずっと待ったけど、来なかった」

「ごめんなさい」と私は言った。

「謝らなくていいわよ」澄子さんは微笑んだ。「あなたのせいじゃない。誠一さんのせいでもない、本当は。人間というのは——言えない生き物なのよ、大事なことは。言えるようになるのに、時間がかかりすぎる」

「澄子さんは——おじいちゃんのことが、好きでしたか?」

直接すぎる問いだと思った。しかし聞かずにはいられなかった。

澄子さんはコーヒーを一口飲んだ。それから正直に言った。

「好きだったわよ。あの人の詩が好きで、あの人の真剣な目が好きで、あの人の前でだけ、本当のことが言えた。あんな人は、後にも先にもいなかった」

私は胸が痛かった。

「でも」と澄子さんは続けた。「悔いていないの。不思議でしょう?」

「……どういうことですか?」

「あの手紙を書いた時、私は正直だった。『あの時、何を言おうとしていたの』と直接聞いた。言えないなら言えないで、それが答えだと思った。私は自分の気持ちに正直だった。それだけで——十分だったと、今は思う」

「でもおじいちゃんは言えなかった。澄子さんは待ち続けた」

「そう」澄子さんは頷いた。「それが誠一さんの悔いになったのね。あなたがここに来たのが、その証拠よ」

私は窓の外の湖を見た。

「澄子さん」と私は言った。「おじいちゃんは、ノートの末尾にこう書いていました。『悔いは次の誰かへのバトンになる』と」

澄子さんが少し目を細めた。

「いい言葉ね」

「私がここに来たのが——そのバトンを受け取ったからだと思います。そしてもう一つ——私自身の話を、聞いてもらえますか」

「もちろん」

私は田島さんのことを話した。一年間、言えなかったこと。祖父のノートを読んで、背中を押されたこと。

澄子さんは静かに聞いていた。

最後に、こう言った。

「言いなさい」

シンプルに、それだけだった。

「でも怖いんです。拒否されたら——」

「怖くていい」澄子さんは言った。「怖くないなら、大事じゃないってこと。怖いのは、大事な証拠。大事だから、言わないといけない」

「澄子さんは——後悔していないんですか、本当に」

澄子さんはしばらく考えた。

「後悔はある。でも、悔いとは違う。後悔というのは、自分のした選択を憎むこと。悔いは——自分の限界を知ること。私は正直に生きた。誠一さんも、誠実に生きたと思う。その上で残った悔いは——美しい悔いよ」

「美しい悔い」

「燃え尽きるように生きて、それでも残ったものだから」

窓の外で、諏訪湖が光っていた。

山の向こうに、夕暮れが近づいていた。


二十一章 帰りの列車

特急あずさに乗った。

車窓の外を、暗くなりかけた山が流れていった。

私は田島さんにメッセージを送った。

 「来週の土曜日、空いていますか。話したいことがあります」

すぐに返信が来た。

 「空いてます。どこにする?」

私は少し笑った。

祖父は言えなかった。澄子さんの手紙に返事が書けなかった。その言えなかった言葉が、五十年の時を越えて、今の私の背中を押している。

言えなかった誰かの悔いが、言える誰かを作る。

それが「良い悔い」というものかもしれない。

私は返信を打った。

 「諏訪湖が好きになりました。いつか一緒に行きませんか。その前に、まず近くのカフェで話せますか」

送信ボタンを押した。

列車は走り続けた。

甲府を過ぎ、笹子トンネルを抜け、東京へと向かった。

夜の街の光が見え始めた頃、また返信が来た。

 「諏訪湖、行ったことない。いいね。土曜日、楽しみにしてます」

私は窓に映る自分の顔を見た。

泣きそうになっているのに、笑っていた。


二十二章 土曜日の朝

土曜日の朝、私はいつもより一時間早く起きた。

着る服を三回変えた。鏡を見るたびに「違う」と思って、また変えた。最終的に、一番最初に選んだ服に戻った。

自分がおかしくて、少し笑った。

待ち合わせは駅前の、明るくて静かなカフェだった。

田島さんは先に来ていた。窓際の席で、珈琲を飲みながら外を眺めていた。こちらに気づくと立ち上がって、「おはよう」と言った。

「おはようございます」

向かいに座った。

珈琲を注文して、少しの間、当たり障りない話をした。天気のこと、先週の仕事のこと。田島さんはいつも通りで、それが逆に、私を落ち着かせた。

しばらくして、田島さんが言った。

「で——何を話したかったの?」

真っ直ぐな問いだった。田島さんはいつも、こういう人だ。

私は深呼吸した。

祖父の声が聞こえた気がした。

  言え。怖くても、言え。

「ずっと言えなかったことがあって」と私は言った。

「うん」

「田島さんのことが——好きです。一年くらい前から、ずっと」

田島さんは黙った。

珈琲カップをテーブルに置いて、私を見た。

三秒間。

その三秒間に、私は祖父のことを思った。あの夏の多摩川。夕暮れの中で「澄子——」と言いかけて、止まった誠一。

私は止まらなかった。

田島さんが言った。

「気づいてなかった——と言ったら、嘘になる」

「え」

「なんとなく、わかってた。こちらから切り出すのもどうかと思って、ずっと様子を見てた」

私は思わず笑ってしまった。

「おかしい?」と田島さんが言った。

「おかしくないです。ただ——二人とも、同じだったんだなって思って」

「そうだな」田島さんも笑った。「で——どうする?」

「ちゃんとお付き合いしたいです」と私は言った。

「それを聞きたかった」

窓の外で、朝の光が街を照らしていた。

冬の澄んだ光だった。


二十三章 ノートの末尾

その夜、私はまたノートを開いた。

最後のページを、もう一度読んだ。亡くなる少し前に書いたらしく、文字が少し乱れていた。


  美里へ

  じいちゃんは一つだけ、悔いている。
  澄子に会いに行かなかったこと。
  手紙を返さなかったこと。
  あの夏に、言わなかったこと。

  しかし不思議なことに、その悔いがあったから、じいちゃんはずっと正直に生きようとした。
  言葉の力を信じ続けた。
  教え子たちに「言葉を大切にしろ」と言い続けた。

  悔いは人を動かす。
  悔いは次の誰かへのバトンになる。

  お前に伝えたいことは一つだけだ。

  好きな人がいたら、言え。
  怖くても、言え。
  その列車に、乗れ。

  じいちゃんは乗り遅れた。
  お前は乗れ。

  さあ、良い悔いを残せ。

          瀬川誠一


私は声を出して泣いた。

誰もいない部屋で、一人で、声を出して泣いた。

泣きながら、笑っていた。

祖父の悔いが、私の背中を押してくれた。

祖父の言えなかった言葉が、私に言葉を使う勇気をくれた。

祖父が乗り遅れたから——私は乗ることができた。

これが、「良い悔い」というものだろうか。

澄子さんの言葉が蘇った。

  燃え尽きるように生きて、それでも残った悔いは——次の誰かへのバトンになる。

祖父は乗り遅れた。

でも、そのバトンを私が受け取った。

私は乗った。



〜エピローグ〜

翌年の春、私は田島さんと諏訪湖を訪れた。

桜が咲き始めた四月の週末だった。

特急あずさで並んで座りながら、田島さんは窓の外の山を眺めていた。

「なんで諏訪湖に来たかったの?」と田島さんが聞いた。

「祖父が残したノートに、出てくる場所だから」と私は言った。

「おじいさん、諏訪に縁があったの?」

「縁というか——ここで生きた人が、祖父の心の中にずっといたんです」

田島さんは少し考えてから、「そっか」と言った。

「怒らない?」と私は聞いた。

「何で俺が怒るんだ」田島さんは笑った。「過去を大切にしてる人は、今も大切にできる。俺はそう思う」

私は田島さんの横顔を見た。

好きだなと思った。素直に、そう思えた。


澄子さんには事前に連絡をしていた。

「また来るかもしれません」と諏訪を去る前に伝えていたら、澄子さんが「いつでも来なさい」と言ってくれた。

湖畔の喫茶店で、三人で会った。

田島さんを紹介すると、澄子さんは目を細めて笑った。

「誠一さんに少し似た目をしてるわね」

「え、誠一さんって?」と田島さんが不思議そうに聞いた。

「美里さんのおじいさんよ」澄子さんは言った。「私の——大切な人」

田島さんは私を見た。私は少し頷いた。

田島さんは何も言わなかった。ただ澄子さんに向かって、「そうですか」と静かに言った。

三人で湖岸を歩いた。

澄子さんが少し遅れて歩いていた。田島さんと私は並んで歩きながら、時々後ろを振り返った。

澄子さんは湖を見ていた。

静かに、遠くを見ていた。

その目に、何が映っているのかは、わからなかった。

でも——穏やかだった。

美しい穏やかさだった。

燃え尽きた後の、静かな明るさのような。


湖の対岸に、雪をかぶった山が白く輝いていた。

風が渡った。

水面が光った。

私は田島さんの手を、そっと握った。

田島さんが少し驚いて、私を見た。それから笑って、握り返してくれた。

祖父に話しかけた。声には出さなかったが。

 おじいちゃん、乗ったよ。

 おじいちゃんの悔いが、私を乗せてくれた。

 ありがとう。

 良い悔いを残してくれて、ありがとう。

遠くで澄子さんが、湖に向かって何か呟いていた。

聞こえなかった。

聞こえなくて、よかった。

それは澄子さんと誠一さんの——二人だけの言葉だから。

諏訪湖の風が、空へ向かって吹き上がった。

どこか遠い場所へと、運ばれていくように。

ー了ー



〜あとがき〜

「悔いを残すな」と人は言います。しかし人は必ず悔いを残す。ならばいっそ、「良い悔い」を残そうではないか——そんな逆説的な問いかけが、この小説の出発点です。

 誠一の悔いは美里に届きました。言えなかった言葉は失われたのではなく、形を変えて次の世代に受け継がれました。

 澄子は五十年待ちました。しかし悔いていないと言いました。自分の気持ちに正直だったから。その正直さが、彼女の人生を豊かにしました。

 誠一は乗り遅れました。しかしその悔いがバトンになりました。美里がそのバトンを受け取り、列車に乗りました。

 悔いには二種類あります。

 ただ苦く残るだけの悔いと、誰かの背中を押す悔いと。

 その違いは、どれだけ正直に、燃え尽きるように生きたか——ではないかと思います。

 あなたの心の中に、まだ言えていない言葉はありますか。

 まだ乗っていない列車は、ホームに停まっていますか。

 今日もどうか——良い悔いを残してください。


続き…




十一章 女将の過去、もう一つ



五月の連休が明けた週、「あさぎ」に珍しい客が来た。

七十に近い、背の高い男性だった。白髪で、姿勢がよく、高級とは言えないがきちんとした背広を着ていた。

男は店に入るなり、澄子を見て、すこし目を細めた。

「桐島さん……じゃないですね、今は」

澄子は一瞬、記憶をたどった。

「……村松さん?」

「覚えてましたか」

村松、という男を、澄子は四十年以上ぶりに見た。

信用金庫時代の先輩だった。誠一より三つ上で、当時は誠一とは別の係にいた。背が高く、顔立ちが整っており、職場の女性たちの間では「村松さんに好かれたい」という空気があった。

村松は、かつて澄子に告白したことがある。

それは、澄子が誠一と付き合いはじめた少し後のことだった。

村松に呼び出されて、近くの公園のベンチに座った。村松はまっすぐに言った。

「桐島さんが好きです。付き合ってもらえませんか」

澄子は困った。

誠一と付き合っていることを、職場にはまだ伝えていなかった。どう答えるべきか、一瞬迷った。

でも澄子は、正直に答えた。

「すみません、今、好きな人がいます」

「誰ですか」と村松は訊いた。

澄子は少し考えてから、「誠一くんです」と言った。

村松は驚いた顔をした。誠一の名前が出るとは、思っていなかったのだろう。

「桐島さんが誠一を?」

「おかしいですか」

村松はしばらく黙っていた。それから「おかしくはないけど、意外だった」と言った。

「なんで意外なんですか」と澄子は訊いた。怒った口調ではなく、本当に知りたくて。

村松は答えられなかった。

「村松さん、誠一くんの何を知ってますか」と澄子は続けた。「顔じゃないところを、どれだけ見てましたか」

村松はまた黙った。

澄子は「すみません」と頭を下げて、立ち上がった。

カウンターで向き合った村松は、澄子の入れた燗酒を両手で包んだ。

「あのとき、恥ずかしかったです」と村松は言った。「桐島さんに言われたこと、ずっと覚えてた」

「何を言いましたか、私」

「誠一の何を知ってるか、顔じゃないところをどれだけ見てたか、って」

澄子は静かに聞いた。

「あの言葉で、自分が誠一を全然見ていなかったことがわかって。誠一の顔が地味だから、最初から視界に入ってなかった。でも桐島さんには、ちゃんと見えてた」

「そうですね」

「その後、誠一のことをちゃんと見るようにしたら、すごい男だったんだな、ってわかりました。あいつが死んだとき、ずっと後悔していました」

「何を後悔したんですか」

「もっと早く友達になっておけばよかった、って」

澄子はそれを聞いて、少し目頭が熱くなった。

誠一が死んだとき、葬儀には多くの人が来た。皆、誠一をよく知っていた人たちで、誠一の隠れた誠実さを、それぞれの言葉で澄子に伝えてくれた。

でも「もっと早く友達になっておけばよかった」という後悔は、初めて聞いた。

「ありがとうございます」と澄子は言った。「誠一さんが聞いたら、喜んだと思います」

村松は燗酒を一口飲んで、「いい店ですね」と言った。

「ありがとうございます」

「誠一が羨ましい」

澄子は笑った。声に出して、久しぶりに、笑った。



十ニ章 いつも、そこで微笑んでいる
令和七年、初夏。

神楽坂の路地に、梅雨前の柔らかい風が通る。

「あさぎ」の暖簾は、今日も浅葱色だった。

壮介と凛が正式に付き合いはじめて、半年が経った。

二人はまだ、劇的な何かがあったわけではなかった。ただ、週に何度か会い、映画を見て、飯を食い、他愛もない話をした。壮介は相変わらず、凛が話したことを覚えていた。凛は相変わらず、壮介の見えないところを見ていた。

ある日、壮介が言った。

「椎名さんのおばさんの店、連れて行ってもらえますか」

凛は少し驚いた。

「いいけど……緊張する?」

「します」と壮介は正直に言った。「でも、行きたい」

「なんで?」

「椎名さんが、一番大事にしてる人に会いたいから」

凛はその言葉を聞いて、返す言葉が出なかった。


二人が「あさぎ」に来たのは、六月の雨の夜だった。

澄子は二人を見て、何も言わずにカウンターへ案内した。

壮介は静かに座り、「よろしくお願いします」と頭を下げた。飾らない挨拶だった。

澄子は「どうぞ」と言って、燗酒と小鉢を出した。

しばらく、三人で話した。壮介は澄子に、店の歴史のことや、料理のことを訊いた。澄子は答えた。壮介は聞いた。大げさに感心するのでも、愛想で笑うのでもなく、ただ、静かに聞いた。

澄子は途中で思った。

この人は、聞ける人だ。

誠一と同じではない。でも、聞くことを大事にしている人だ。

「凛から、よく話を聞いてます」と壮介は言った。

「そうですか」

「誠一さんのこと、お皿の裏を洗う人、という話が印象に残っていて」

澄子は少し目を細めた。

「凛が話しましたか」

「はい。それを聞いてから、自分はどうだろうって、考えるようになりました」

「どうでした?」

「まだまだだと思いました」と壮介は言った。笑いながら、でも真剣に。

澄子はその顔を見た。

整った顔だった。しかし今、澄子の目には、顔より先に「この人の誠実さ」が見えた。

よかった、と澄子は思った。

哲也とさつきは、夏に入ってから、一緒に旅行に行った。

行き先は、哲也の提案で、さつきの地元だった。「あなたのことを、もっと知りたいから」というのが理由だった。

さつきは少し泣いた。

哲也は「なんで泣くんだ」と言った。

「嬉しくて」とさつきは言った。

哲也は困ったように頭を掻いた。それが、さつきにはかわいく見えた。



十三章 凛の仕事

六月、凛の職場では夏の文芸フェアの準備が始まっていた。

凛が勤める出版社は、中規模の総合出版社で、文芸部門はそのなかでも小さな部署だった。大きな賞を取る作家を擁しているわけでも、ベストセラーを連発しているわけでもない。ただ、地道に、丁寧な本を作り続けている、そういう部署だった。

凛はそこに入って五年になる。最初の二年は雑用と校正ばかりだったが、三年目からは担当作家を持たせてもらった。今は三人の作家の担当編集として動いている。

「椎名さん、これ見てもらえますか」

後輩の山田が、ゲラ刷りを持ってきた。入社二年目の、真面目な男性だった。

「どこが気になる?」

「この段落、なんか文章の流れが止まる感じがして」

凛はゲラを受け取り、その段落を読んだ。確かに、一文だけ浮いている。前後の文脈に対して、主語が唐突に変わっていた。

「ここの主語ね」と凛は言った。「前の文が作者の視点で、この一文だけ登場人物の視点になってる。それで止まる感じがするんだと思う」

「ああ」と山田はうなずいた。「どう直したらいいですか」

「作家さんに確認してから、でもその前に自分だったらどう直すか、案を出してみて。二、三案。それを持って相談すると、作家さんも考えやすいから」

山田はメモを取りながら「ありがとうございます」と言った。

凛はゲラを返しながら、ふと、壮介のことを思った。

壮介も、仕事でこういう場面があるのだろうか。後輩に教えたり、誰かのフォローをしたり。職場の外では見えない顔が、きっとある。

人は、仕事の場に別の顔を持っている。その顔が、家の顔や恋人の前の顔と、どれだけ近いか。それが人柄の一つの目安だと、澄子から聞いたことがあった。

その日の夕方、凛は担当作家の一人、神田という六十代の女性作家と打ち合わせをした。

神田は、長年、地味な恋愛小説を書き続けている作家だった。派手な展開も、驚きのどんでん返しもない。ただ、ごく普通の男女が、日常の中で出会い、迷い、少しずつ距離を縮めていく話を、淡々と書く。

それが不思議なほど売れないかというと、そうでもない。毎回同じような読者が買ってくれる。固定ファンがいる。

「凛さん、最近どう?」と神田は訊いた。打ち合わせが終わったあと、いつもこうして雑談をする。

「どう、と言われると」と凛は笑った。「まあ、いろいろ」

「恋人できたでしょ」

「なんでわかるんですか」

「顔が変わった」と神田は言った。「顔の作りじゃなくて、顔の向きが変わった。少し、外を向くようになった」

凛は少し驚いた。

「外を向く?」

「以前の凛さんは、仕事のことだけ見てた。でも最近、ときどき、仕事と関係ないところを見てる顔をする。それが恋人がいる人の顔」

凛は照れながら「そうですか」と言った。

「どんな人?」神田は興味深そうに訊いた。

「外見がいい人なんです」

「ほう」

「最初、怖かったんです。外見がよすぎて。でも、ちゃんと見たら、全然違った」

神田はしばらく黙っていた。それから言った。

「それ、私の小説のテーマそのものね」

「そうですね」と凛は笑った。「読んでたから、少し気づくのが早かったのかもしれない」

神田は嬉しそうに、しかし照れたように「そう言ってもらえると書いた甲斐があるわ」と言った。

その夜、凛はアパートで壮介と電話した。

「今日、担当作家さんに顔が変わったって言われた」

「変わった?」

「外を向くようになったって。谷口さんのせいだよ」

壮介は少し笑った。

「それは嬉しいな」

「なんで嬉しいの」

「椎名さんが、僕のせいで変わったって思ったら」壮介は少し間を置いた。「椎名さんの顔を、外に向けたのが俺なら、その外で見るものが全部、俺が渡したみたいで」

凛は受話器を持ったまま、しばらく黙っていた。

「谷口さんって、たまにすごいこと言う」

「言いましたか」

「言った。しかも気取らずに」

壮介は「それは凛さんのせいです」と言った。

「どういう意味?」

「椎名さんと話してると、なんか、ちゃんとしたことを言いたくなる」

凛はまた黙った。

「なんか、今日はいい日だな」と凛は言った。

「毎日そう思えたらいいですね」と壮介は言った。



十四章 誠一の手帳

七月の半ば、澄子は押し入れの整理をしていて、一冊の手帳を見つけた。

誠一の手帳だった。

亡くなった年のもので、革張りの、古い手帳だった。誠一は手帳にこだわりがあり、毎年同じブランドの、同じサイズの革手帳を使っていた。

澄子は開くのをためらった。

一年以上、この手帳の存在を知っていたが、開いたことがなかった。開けば、誠一がそこにいるような気がして、それが嬉しくもあり、怖くもあった。

でもその日は、なぜか、開こうと思った。

手帳の最初のページに、誠一の字で、こう書いてあった。

「今年やること」

箇条書きが三つ。

一、澄子の店の水回りを直す。 一、澄子の誕生日に、好きな花を贈る。
一、体の検査を、ちゃんと受ける。

澄子は、しばらく動けなかった。

水回りは、直してくれた。誕生日の花も、贈ってくれた。体の検査は、その年の秋に受けて、癌が見つかった。

三つとも、書いた通りにした人だった。

手帳をめくると、日々の短い記録があった。

誠一は几帳面だったが、日記を書くタイプではなかった。手帳には、予定と、短いメモが残っているだけだった。

三月のページ。「澄子、忙しそう。夕飯、作っておく」

五月のページ。「父の命日。電話する」

七月のページ。「あさぎ、お客が増えてきた。澄子、がんばってる」

八月のページ。「検査の予約、入れた」

そして十月のページ。「告知。澄子、泣かせてしまった」

澄子はそのページで、手帳を閉じた。

泣かせてしまった、という言葉。

あの夜、病院からの帰り道、澄子は泣きながら歩いた。誠一の手が、ずっと澄子の手を握っていた。誰かが癌になったというのに、泣いているのは澄子のほうで、誠一は「ごめんな」と繰り返していた。

誠一は、自分が死ぬかもしれないということより、澄子を泣かせてしまったことを、先に気にした。

そういう人だった。

澄子は手帳を胸に抱えて、しばらくそのまま座っていた。

その週末、凛が「あさぎ」に来た。

澄子は手帳のことを話さなかった。しかし、何かを感じたのか、凛は「おばさん、今日なんか違う顔してる」と言った。

「そう?」

「うん。いつもより、柔らかい感じ」

澄子は少し笑った。

「誠一さんの手帳が出てきてね」

「手帳?」

「その年にやることを書いてた。三つ。全部ちゃんとやってた」

凛は黙って聞いた。

「三つ目が、体の検査をちゃんと受ける、だったの。それで癌がわかった」

「おじさん、自分でわかってたの?」

「わかってたかどうか、聞かなかった。でも」と澄子は言った。「書いてあった。ちゃんとやることの一つに、体の検査が入ってた。なんとなく、気になってたんじゃないかと思う」

凛はしばらく考えてから言った。

「それって、自分のためだけじゃなくて、おばさんのために受けたのかもしれない」

澄子は答えなかった。

答えなかったけれど、凛の言葉が正しいかもしれないと思った。

誠一は、自分より先に澄子のことを心配する人だった。体の検査を受けたのも、早く見つかれば、澄子を長く心配させずに済む、という気持ちがあったのかもしれない。

それでも見つかるのが遅くて、五年かかった。

「ごめんな」と繰り返した声を、澄子はまた思い出した。



十五章 壮介の家

八月に入り、凛は初めて壮介のマンションを訪れた。

東京の西のほう、静かな住宅地の中の、こぢんまりしたワンルームだった。家賃が安そうな部屋だったが、中は整っていた。本棚があり、映画のパンフレットが並んでいた。キッチンは小さいが、きれいだった。

「料理するんですか」と凛は訊いた。

「簡単なものは」

「たとえば?」

「炒め物とか、味噌汁とか。あと、煮物を少し」

「煮物?」

「好きなんです、煮物」壮介は少し照れた顔をした。「男が煮物って、変ですかね」

「全然」と凛は言った。「むしろいい」

「おばあちゃんが教えてくれて。小学生の頃から、一緒に作ってました」

凛は壮介の本棚を眺めながら、「おばあちゃん、好きだったんですか」と訊いた。

「好きでした。もう亡くなりましたが」

「どんな人でしたか」

壮介はすこし考えた。

「僕の顔を、一度もほめなかった人」

凛は振り返った。

「ほめなかった?」

「周りの人がみんな、かわいいとかきれいとか言う中で、おばあちゃんだけ言わなかった。かわりに、字がきれいだとか、話を聞いてるとか、そういうことをほめてくれた」

凛は、澄子の言葉を思い出した。

誠一は、私の顔を一度もほめなかった。料理はほめてくれたし、字がきれいだってほめてくれた。

「おばあちゃんが、谷口さんを作ったんですね」と凛は言った。

壮介は少し驚いた顔をして、それから笑った。

「そうかもしれない」

昼に、壮介が煮物を作った。

里芋と鶏肉の煮物で、出汁がしっかり効いていた。凛は一口食べて、「おいしい」と思った。思っただけでなく、言った。

「おいしいです」

「ありがとうございます」

「出汁、何使ってるんですか」

「昆布と鰹。おばあちゃんに教わった通りに」

凛はもう一口食べた。

家庭的な味だった。飾りがない。でも、丁寧に作られているのがわかる味だった。素材の味が、ちゃんと残っている。

「谷口さんって、料理にも出るんですね」と凛は言った。

「何が?」

「丁寧さ。急がない感じ」

壮介はすこし考えてから「そうかな」と言った。「煮物は急げないんで」

「でも炒め物は急ぐじゃないですか」

「炒め物も丁寧にはできますよ」

凛は笑った。

「負けず嫌いだ」

「違います。ただの事実です」

二人でまた笑った。

その笑い声が、小さなワンルームに広がった。飾りのない、ただの笑い声だった。それが凛には、とても心地よかった。

夕方、凛が帰り際に、壮介が言った。

「椎名さんのこと、おばあちゃんに会わせたかったな」

「なんで?」

「気に入ったと思うから」

「どうして?」

「椎名さんは、見えないところを見る人だから。おばあちゃんも、そういう人が好きだった」

凛は少し黙った。

「私、見えないところを見てますか」

「見てます」と壮介は言った。「俺が初めて手伝ったとき、椎名さん、俺のことを顔で見てなかった。困ってる人を助けてくれた、としか見てなかった。そういう目で見てくれる人は、少ないんです」

凛はその言葉を、帰りの電車の中で何度も繰り返した。

自分が壮介を「外見が怖い」と思っていた頃、壮介は凛のことをそんなふうに見ていたのか。

外見で判断されることに疲れていた壮介が、外見より先に行動を見てくれた凛を、大事だと思ってくれていたのか。

凛は窓の外の夜景を見ながら、これが「お互い様」ということかもしれないと思った。



十六章 さつきの話

九月、哲也とさつきは交際半年になった。

さつきは、哲也が思っていたよりずっと、よく笑う人だった。

笑いのツボが独特で、誰も笑わないところで笑い、みんなが笑うところで真顔でいることがあった。その笑い方が哲也には不思議で、しかし見ていると自然とつられた。

「さっちゃんって、どういうとき笑うんだ」とある日哲也は訊いた。

「え?」

「みんなが笑わないところで笑うから」

さつきはしばらく考えた。

「なんか、ズレてるところが好きで」と言った。

「ズレてる?」

「一生懸命やってるのに、ちょっとだけうまくいかない、みたいな。誰かがそういう場面になると、なんか、愛おしくて笑っちゃう」

哲也はそれを聞いて、なるほどと思った。

さつきは、完璧なものより、少し不完全なものに反応する。それが笑いとして出てくる。悪意のある笑いじゃない。愛おしさからくる笑いだ。

「じゃあ、俺のことよく笑うのは」

「哲也さんが、いつもちょっとだけうまくいかないから」

哲也は「そうか」と言った。

「嫌ですか?」

「いや。なんか、ほっとした」

さつきは首を傾けた。

「ほっとした?」

「完璧に見られたくなかったから」

さつきはそれを聞いて、また笑った。

さつきは、工務店の事務として、毎日伝票と見積書と請求書を扱っていた。

地味な仕事だった。誰かに褒められることも少ない。しかし、さつきは丁寧にやっていた。数字に間違いがないのはもちろん、書類のファイリングの仕方も、取引先への電話の仕方も、誰も見ていないところで丁寧にやっていた。

哲也はそれを、付き合うまで知らなかった。

付き合ってから気づいたのは、さつきが帰り際に必ずデスクの周りを片付けること、コピー機のトナーが少なくなっていたら自分で交換していること、来客用のお茶のセットを毎朝補充していることだった。

誰も頼んでいない。さつきが自分でやっている。

「なんでそういうことするの」と哲也はある日訊いた。

「気になるから」とさつきは言った。「放っておけないの。誰かが困るから」

「その誰かは、あなたがやってるって知らないよ」

「知らなくていい」

哲也は黙った。

お皿の裏を洗う、という言葉を思い出した。凛に聞いた、澄子おばさんの言葉。

さつきはお皿の裏を洗う人だ。

そして、俺も、そうでありたいと思っている。

似たような人間が、引き合うのかもしれない。

十月のある日曜日、さつきが哲也の部屋に来た。

哲也の部屋は、綺麗とは言えなかった。仕事道具が出しっぱなしだったり、本が積まれていたりした。それでもさつきは何も言わなかった。ただ、帰り際に、玄関のたたきを揃えて帰った。

哲也は気づいた。

「あ、揃えてくれたの」

「散らかってたから」

「ありがとう」

さつきは「どういたしまして」と言って出て行った。

哲也はその後、一人で部屋に立ちながら、揃えられた靴を見た。

大したことではない。靴を揃えただけだ。でも、その「だけ」が積み重なって、人の印象を作っていく。

俺もそういう人間になろうと、哲也は思った。誰も見ていないところで、少しずつ。



十七章 澄子と川上

十一月のある夜、常連の編集者・川上が、いつもより遅い時間に「あさぎ」に来た。

顔色が悪かった。

「どうしたんですか」と澄子は訊いた。

「いや、ちょっと」川上は曖昧に笑った。「会社でごたごたがあって」

「そうですか」

澄子は何も訊かなかった。燗酒を出して、季節の小鉢を並べた。

川上はしばらく黙って飲んだ。澄子は他のお客の対応をしながら、川上の様子を見ていた。

三杯目を頼んだあと、川上が言った。

「女将さん、俺、会社辞めようかと思ってます」

「そうですか」と澄子は言った。

「驚かないんですか」

「驚いてますよ。でも、訊いていいのかわからないから」

川上は少し笑った。「訊いてください」

「何があったんですか」

川上は短く話した。長年担当してきた作家が、他社に移ることになった。自分の力不足もあったが、会社の方針のせいでもあった。その方針を変えようとしたが、上に通らなかった。もうここでは、やりたいことができないかもしれない。

「辞めて、どうするんですか」と澄子は訊いた。

「フリーで編集をやろうかと」

「それ、やりたいことができますか」

「たぶん。でも、怖い」

澄子は燗酒を注ぎながら言った。

「怖くて当然だと思いますよ」

「慰めにならないですね」

「慰めるつもりがないので」澄子は少し笑った。「怖いのは、大事なことをしようとしてるからでしょ。大事じゃないことは、怖くないから」

川上はそれを聞いて、しばらく黙っていた。

「女将さんは、この店を開くとき、怖くなかったんですか」と川上は訊いた。

澄子は少し考えた。

「怖かったですよ。誠一さんが亡くなってから、一人でやっていけるかどうか」

「それでも開いた」

「開くしかなかったんです。誠一さんが、私に料理を作る場所を残しておきたかった人だったから」

川上は首を傾けた。「どういう意味ですか」

「誠一さん、亡くなる少し前に言ったんです。澄子の料理を、もっと多くの人に食べさせたかったって」澄子はすこし遠くを見た。「自分が食べられなくなるから、その代わりに、誰かに食べてもらいたかったんじゃないかって、私は思って」

「それで店を開いたんですか」

「一つの理由ですね。誠一さんが食べていた場所を、ずっと続けようと思って」

川上は黙って、お猪口を握った。

「それは、強い理由ですね」

「強いかどうかわからないけど、迷ったときに戻れる場所になってます」

川上はしばらく黙っていた。それから「ありがとうございます」と言った。

「何もしてないですよ」

「聞いてもらいました」

澄子は「それだけですよ」と笑った。

川上は翌月、会社を辞めた。フリーの編集者として、今も「あさぎ」に通い続けている。

川上が帰ったあと、澄子は片付けをしながら、誠一の言葉を思い返した。

澄子の料理を、もっと多くの人に食べさせたかった。

あの言葉を言ったとき、誠一の声は弱々しかった。体がもう、ほとんど動かない頃だった。澄子はその言葉を聞いて、泣かないようにするのが精いっぱいだった。

なぜ誠一は、そんなことを言ったのか。

今でも、本当のことはわからない。ただ澄子が一人になっても、前を向いて生きていけるように、理由を作ってくれたのかもしれない。

誠一はいつも、先のことを考えていた。

自分がいなくなった後も、澄子が微笑んでいられるように。いつもそこに立っていられるように。

「あなたって、ずるいわね」

誰もいない店の中で、澄子は誠一の写真に言った。

「全部、私が前を向くように仕向けて」

写真の誠一は、笑ったままだった。



十八章 手紙

十二月の初め、澄子のもとに一通の手紙が届いた。

差出人の名前を見て、澄子は驚いた。

西村恵子。

中学時代のクラスメートで、男子全員が振り返った、あの美しい子だった。

何十年も連絡を取っていなかった。どこで「あさぎ」のことを知ったのか、手紙の中にはこう書いてあった。

「先月、神楽坂を通りかかって、あさぎ、という暖簾を見ました。まさかと思って確認したら、澄子さんの店と知りました。手紙を書きました」

澄子は手紙を読み続けた。

恵子は今、五十九歳で、名古屋に住んでいるという。一度結婚したが、離婚した。子どもはいない。今は小さな花屋を経営している。

「あの頃の私を、覚えていますか。みんながちやほやしてくれて、自分が特別な人間だと思っていた頃の私を。あの頃の自分が、今は恥ずかしい。外見だけで得をしようとしていた自分が」

澄子は手紙を膝に置いた。

手紙には、続きがあった。

「離婚したのは、夫が外見以外の私を見てくれなかったからです。きれいなものが好きで、きれいな妻を飾りのように扱いました。最初はそれが嬉しかった。でも、年をとるにつれて怖くなった。顔が衰えたら、捨てられると思って。実際、そうなりました」

澄子はしばらく読めなかった。

「今は花屋で、花を売っています。花は正直です。手をかけた分だけ美しく、手を抜いた分だけ枯れる。外見だけ見ていても、育てられない。花を育てるようになって、初めてそれがわかった気がします」

「澄子さんは、よいご主人と出会ったと聞きました。共通の知人から。格好よくないけれど、誠実な人だったと。あなたがそういう人を選べたのは、あなたが、外見より先に人の中身を見ていたからだと思います。私にはできなかったことです」

手紙の最後にこう書いてあった。

「いつか、お店に伺いたいと思っています。もしよければ、また連絡させてください」

澄子は手紙を折り畳み、封筒に戻した。

窓の外では、十二月の風が神楽坂の路地を吹いていた。

その夜、澄子は恵子への返信を書いた。

長い手紙を書こうかと思ったが、やめた。短くていいと思った。

「お手紙、ありがとうございました。お待ちしています。神楽坂はこの季節、寒いですが、温かい燗酒をご用意します。いつでもどうぞ。桐島澄子」

それだけ書いて、封筒に入れた。

恵子が外見だけで生きようとしていた頃、澄子もまた、外見と中身の間で迷っていた。二人は全然違う道を歩んだが、六十歳になって、同じ場所に辿り着こうとしているのかもしれない。

外見は、通り過ぎるものだ。

でも通り過ぎた後に残るもの、日々の積み重ね、誰も見ていないときの自分、そういうものが人を作っていく。

恵子は花屋で、それを学んだ。

澄子は料理屋で、誠一と一緒に、それを生きてきた。

道は違っても、たどり着く場所は近かった。



十九章 凛と壮介、正直な夜

十二月の中旬、凛と壮介はいつもの焼き鳥屋にいた。

付き合い始めて一年近くになる。二人の間に、最初の頃の緊張はなかった。ただ、穏やかな時間があった。

「谷口さん、一個訊いていい?」と凛は言った。

「何ですか」

「私のこと、どう思って好きになったの。最初」

壮介はビールを飲みながら、少し考えた。

「残業のとき、椎名さんが一人でやってたじゃないですか」

「うん」

「あのとき、声をかけようか迷ったんです。断られるかもと思って」

「断ったじゃないですか、最初」

「断られました」と壮介は笑った。「でも、椎名さんの断り方が、他の人と違った」

「どう違ったの?」

「他の人はみんな、最初から手伝いを受け入れてくれる。俺が行けば、大抵の人は歓迎してくれる。でも椎名さんは断った。俺の外見に関係なく、本当に『大丈夫です』と思ったから断った。そういう目をしてた」

凛は少し驚いた。

「それが……よかったの?」

「はい」と壮介は言った。「外見じゃなくて、状況だけ見て判断してくれた。それが嬉しかった」

「私も訊いていい?」と壮介は言った。

「なに?」

「椎名さんが、俺のこと好きになったのは、いつ頃ですか」

凛は少し考えた。

「手伝ってもらって、終わったあと」と凛は言った。「『お互い様です』って言われたとき」

「それで?」

「お礼を言ったら普通は『いえいえ』か『どういたしまして』か、そういう言葉が返ってくる。でも谷口さんは『お互い様』って言った。私が返してもらうことより、私が手伝ってもらったことと同じくらいのことを、自分もしてもらってる、みたいな言い方で」

「あのときはそういうつもりで言いました」

「だから好きになった。あの言葉が、対等だと思ってる人の言葉で」

壮介はしばらく黙っていた。

「お互い様、ですね」と壮介は言った。

「うん」

二人は同時に少し笑った。

帰り道、二人で夜の神楽坂を歩いた。

十二月の夜は冷たく、息が白かった。凛はコートのポケットに手を入れた。隣を歩く壮介が、何も言わずに凛の手をポケットごと握った。

凛は立ち止まらなかった。そのまま歩き続けた。

「谷口さんって」と凛は言った。

「何ですか」

「外見よりずっと、格好いいと思う」

壮介はしばらく黙っていた。

「それ、どういう意味ですか」

「顔じゃないところが、格好いいってこと」

壮介はまた黙った。しばらくして「それ、人生で一番嬉しい言葉かもしれない」と言った。

「大げさ」

「大げさじゃないです。顔をほめられても、自分のものじゃないから嬉しくないんです。でもそれは、俺のことをほめてもらえた感じがして」

凛は歩きながら、手を少し強く握られた気がした。

神楽坂の路地に、二人の影が伸びていた。



終章 「あさぎ」の一年

師走の「あさぎ」は、年の瀬の慌ただしさを帯びていた。

常連たちが今年最後の一杯を飲みに来る。忘年会の帰りに寄る人もいれば、一人でしみじみ飲みに来る人もいた。澄子はそのすべての人に、同じように接した。特別扱いはしない。でも誰も蔑ろにしない。

十二席のカウンターが、毎晩埋まっていた。

十二月のある夜、見慣れない顔が来た。

五十代くらいの女性で、上品な着物を着ていた。一人だった。

「おひとりですか」

「はい」

「どうぞ」と澄子は案内した。

女性は静かに座り、「燗酒を一本と、お任せで」と言った。

澄子は小鉢を出した。女性は食べながら、少しずつ表情が和らいでいくのが見えた。

帰り際、女性は言った。

「この店、前から来たかったんです。ずっと勇気が出なくて」

「そうですか」

「なぜか、緊張してしまって。でも来てよかった」

「また来てください」と澄子は言った。

女性は「はい」と言って、暖簾をくぐった。

澄子は背中を見送りながら、誠一のことを思った。

誠一も、最初に澄子に声をかけるのに、勇気が要ったと言っていた。告白するとき、缶コーヒーを二本持って、自動販売機の前で三分間立っていたと。

勇気は、外見に比例しない。

むしろ、外見に自信がない人ほど、勇気を出すのに時間がかかる。でもその時間の分だけ、言葉が重くなる。

「好きです、付き合ってください」という誠一の言葉が、飾りのないものだったのは、三分間の重みがあったからかもしれない。

クリスマスの夜、「あさぎ」に凛と壮介がやってきた。

二人でカウンターに並んで座り、燗酒を飲んだ。壮介は澄子の料理を食べながら、「本当においしいですね」と言った。大げさではなく、静かに、確かに。

「おじさんみたいなことを言う」と凛が言った。

「え?」と壮介は首を傾けた。

「誠一おじさんが、何を出しても本当においしいって言う人だったって」

壮介は少し考えてから、澄子を見た。

「それ、本当においしいんだと思います。俺も今、本当においしいと思ってますから」

澄子はすこし目を細めた。

「ありがとうございます」

この人は、お世辞が言えない人だ、と澄子は思った。

誠一と同じではない。でも、正直さを持っている人だ。

凛が選んだ人が、そういう人でよかった、と澄子は思った。

大晦日の二日前、哲也がさつきと一緒に「あさぎ」に来た。

凛から「おばさんの店に行ったほうがいいよ」と言われたのがきっかけだったが、哲也自身も一度来たいと思っていた。

澄子は哲也を見た。最後に会ったのは、誠一の葬儀のときだったか。

「ひさしぶりですね」と澄子は言った。

「ご無沙汰してます」と哲也は頭を下げた。「田中哲也です。凛の幼馴染の」

「覚えてますよ。大きくなりましたね」

「そうですか」と哲也は照れた顔をした。

さつきを紹介すると、澄子はさつきを見た。小柄で、丸顔で、目が細くなるほどよく笑う。

「よく笑う人ですね」と澄子は言った。

「そうですか」とさつきは笑った。

「いいことです。笑う人のそばにいると、気持ちがほぐれる」

哲也はその言葉を聞いて、そうだな、と思った。さつきのそばにいると、肩の力が抜ける。それが心地よくて、一緒にいたいと思う。

燗酒を飲みながら、澄子の料理を食べながら、四人でしばらく話した。

年の瀬の「あさぎ」は、温かかった。

澄子は一人でカウンターに座り、誠一の写真の前に小さなグラスを置いた。

「あなたがいたら、なんて言うかしらね」

写真の誠一は、あの歯並びの悪い笑顔のままだった。

「そうか」って言うだけかしら。それとも「よかったな」かしら。

澄子はグラスを傾けた。

外見と中身。器量と人柄。魔法と本物。

長いこと生きてきて、結局どちらが大事かという答えは出ない。両方が本物で、両方が幻だ。人は外見で最初の扉を開け、中身でそこに居続けるかどうかを決める。どちらを欠いても、話にならない。

ただ一つだけ、澄子が確かに知っていることがある。

誠一が、ガン告知の夜に泣きながら言った言葉。

「澄子と結婚できて、よかった」

あの言葉は、魔法でもなんでもなかった。外見でもなかった。ただの、本物だった。

澄子はグラスを置き、静かに立ち上がった。

明日も店は開く。お客さんが来る。出汁をとって、燗酒を温めて、いつもの場所に立つ。

そしていつものように、微笑んでいる。

その微笑みの理由を、知っている人はもういない。でもそれでいい、と澄子は思っていた。

知られなくても、本物は本物だ。



ーあとがきー

この物語は、一篇の詩から生まれました。

語り口は軽く、どこかおかしみがあって、でも確かなことを言っている詩でした。

「男は外見ではなく中身だって、いつぞやかどなたかが言ってたけれども」

そうなのです。みんなどこかでそれを聞いて、信じたいと思っている。でも現実には、外見が先に来る。それは嘘ではない。だから詩の語り手も、意地悪く否定するのでも、綺麗ごとで肯定するのでもなく、ただ「よ~だ」と言って笑う。その苦笑いの奥に、長い人生の実感がありました。

澄子というひとりの女性を書きながら、私はずっと、その笑いの意味を考えていました。

外見が先に来る。それはほんとうのことだ。でも外見だけで終わる関係は、外見が衰えたとき終わる。外見の奥にあるものを、時間をかけて見た人だけが、「この人でよかった」という言葉に辿り着く。

誠一という男は、格好よくありません。でも彼は、誰も見ていないところで丁寧にする人でした。お皿の裏を洗い、バレンタインのチョコを一ヶ月取っておき、妻が泣きそうなとき、何も訊かずに傍にいた。

それが、魔法より長く続くものだと、澄子は知っていました。

化粧は魔法です。外見もある意味では魔法です。でも、魔法は解ける。解けた後に残るものが、その人の本当の姿だとしたら、私たちは何を残せるだろうか。

この物語を書きながら、何度も自分に問いました。

見えないところを、丁寧にしているか。誰も見ていないときに、ちゃんとしているか。

答えは、まだ途中です。

それでも問い続けることが、大事なのだと思っています。

どうか、あなたにも、魔法が解けた後に「よかった」と思える人との出会いがありますように。

そして、あなた自身が、誰かにとっての「よかった」になれますように。

令和八年春
カトウかづひさ

 

ーおまけー

これは以前
ブログで書いたものを
物語に膨らましたものです
それをここに載せて置きます

It's Magic
男は
外見ではなく
中身だって

いつぞやか
どなたかが言ってたけれども

残念ながら
中身の前には
やはり
外見が ってことなよ~だ と悟った若い頃

特に
女性は
器量良く生まれただけで
幸せの9割を持ってる って言われた時代は確かにあって

こんな後半の人生の中ですら
日常
確かに実感として
それを感じとるわけで

しかして
若い男どもよ
結婚するなら
お皿の裏側も洗うよう でいて

でも
男のつまらん遊びくらい
見て見ぬふりが出来て

いつもそこで
微笑んでいる女を って。。。

ただし
女 って生き物は
化粧 ってもんを持ってして
そりゃあ~別人に化けるから

ならば
なおさら
中身を って思うわけだ

失礼~~~





ー紹介文ー

外見は魔法。でも魔法は解ける。 解けた後に残るものが、本物だった。
神楽坂の小料理屋「あさぎ」の女将・桐島澄子、六十歳。亡き夫は、格好よくなかった。でも彼は、お皿の裏を洗う人だった。誰も見ていないところで丁寧にする人だった。
昭和から令和へ。外見と中身の狭間で揺れた人たちの、静かで確かな愛の物語。

「男は外見より中身」という言葉を、信じたくて、でも現実を知っている。その矛盾のなかで、それでも誰かを愛した人たちへ贈る。




本作品はフィクションです。登場する人物・団体・事件等はすべて架空のものです。


見掛けの良い男に

中身の良い男はいないと

モテない僕らは知っている


でも

それでも

ひとりくらい

例外があることも知っている…


振り返れば

この65年間

モテたことなど

1度もなかったけれど


心を拾ってくれた

数人の彼女たちと

カミさんとに

感謝してみる今日…



Amazon Kindle



It’s Magic
〜外見と中身と、魔法が解けたあとの物語 〜

見えない魔法、見つけた
お皿の裏を洗う、その人


男は外見ではなく中身だって いつぞやかどなたかが言ってたけれども 残念ながら、中身の前には やはり外見が ってことなよ~だ…





ーまえがきー
あなたの人生に、澄子のような人はいましたか。

特別なことを言うわけではない。何か大きなことをしてくれるわけでもない。でもいつも同じ場所にいて、何も訊かずに、ただ静かに微笑んでいる人。

そういう人が、不思議と記憶に残ります。

派手な言葉より、静かな存在が。劇的な出来事より、繰り返される日常が。

この物語に登場する人たちは、みな普通の人間です。

特別に美しい人も、特別に賢い人も、特別に強い人も、いません。外見がよすぎることに悩む男がいて、外見が怖くて踏み出せない女がいて、外見の平凡さを抱えて生きている男がいて、年をとってからようやく外見に意味を見出した女がいます。

みんな、どこかに傷を持っていて、どこかに丁寧さを持っていて、どこかで誰かのことを思っています。

読み終えたとき、あなたの隣にいる人の「見えないところ」が、少し見えるようになったなら、これほどうれしいことはありません。



ー登場人物ー

桐島 澄子(きりしま すみこ) ― 昭和三十八年生まれ。現在六十歳。小料理屋「あさぎ」の女将。

桐島 誠一(きりしま せいいち) ― 澄子の亡夫。享年五十八歳。

椎名 凛(しいな りん) ― 二十七歳。澄子の姪。出版社勤務。

谷口 壮介(たにぐち そうすけ) ― 二十九歳。凛の同僚。外見に恵まれた男。

田中 哲也(たなか てつや) ― 三十歳。凛の幼馴染。平凡な外見の男。


序章 微笑みの理由

令和六年、初秋。

東京・神楽坂の路地裏に、暖簾をくぐると十二席だけの小さな店がある。屋号は「あさぎ」。浅葱色の暖簾が夕暮れの風にゆれるその店の女将は、いつも同じ場所に立っていた。カウンターの内側、ちょうど燗酒の徳利を手にとれる位置。そしていつも、同じように微笑んでいた。

桐島澄子、六十歳。

若い頃の写真を見ると、それはなかなかの美人だったと誰もが言う。いや、今でも十分に品があって、年齢を重ねた女性の持つ独特の凛とした美しさがある。しかし澄子自身は、自分の顔についてとうの昔に興味をなくしていた。

「女将さんって、なんでいつもそんなに穏やかなんですか」

その夜、カウンターに座った常連の編集者・川上が、燗酒の三杯目を傾けながら訊いた。五十がらみの男で、澄子の店に十年以上通っている。

「穏やか、ですか」

澄子はすこし首を傾けた。

「怒ってないだけですよ。怒るのが面倒になっただけで」

「それが穏やかってことでしょう」

川上は笑った。澄子も笑った。

その笑顔の裏に何十年分の話が詰まっているか、川上は知らない。澄子も話すつもりはなかった。ただ、その夜に限っては、姪の凛から届いたメッセージが、スマートフォンの画面の中で点滅していた。

『おばさん、相談がある。明日、行っていい?』

澄子は親指で「どうぞ」とだけ打ち返し、また徳利を手にとった。


一章 器量というもの

昭和五十三年、春。

澄子が十五歳のとき、母親にこう言われた。

「澄子、あんたは顔で得をする子やから、ちゃんとしなさい」

台所で夕飯の支度をしながら、母はそれだけ言って振り返らなかった。澄子は宿題のノートから顔を上げ、母の背中を見た。何か答えようとして、やめた。

顔で得をする、という言葉の意味を、十五歳の澄子はすでに知っていた。知っていたからこそ、うまく答えられなかった。

クラスには美しい子がいた。名前は西村恵子。色白で目が大きく、笑うと小さな八重歯が見えた。男子はみな恵子を見た。先生でさえ、恵子が発言すると少しだけ声の温度が上がった。体育祭の応援団長は恵子を中心に決まり、文化祭のポスターには当然のように恵子が描かれた。

恵子は特別賢いわけではなかった。運動が飛び抜けてできるわけでもなかった。ただ、美しかった。それだけで、世界の扱いが違った。

澄子はそれを、羨ましいとも思わなかった。ただ観察していた。

自分は恵子ほど美しくはない。しかし、そこそこには整っている。母が「顔で得をする」と言うのはそういう意味だ。では自分は、この「そこそこ」をどう使えばいいのか。それとも使わないべきなのか。

その問いの答えを出すのに、澄子は結局、四十年以上かかることになる。

高校を卒業した澄子は、地元の信用金庫に就職した。窓口に立つ澄子を見て、支店長が言った。

「桐島さんは愛想もいいし顔もいいから、うちの窓口の顔になってもらえるよ」

澄子は「よろしくお願いします」と頭を下げた。喜んでいいのかどうか、よくわからなかった。

その頃、同期入社の男に桐島誠一がいた。

誠一は、はっきり言ってぱっとしない顔をしていた。背は平均より少し低く、目は小さく、笑うと歯並びの悪さが気になった。同期の女性たちの間で彼の話題が出ることはまずなかった。

しかし誠一は、仕事ができた。

それも、派手にできるのではなく、地味に、丁寧に、どこまでも確実にできた。書類の数字に間違いがなく、客の名前を必ず覚えており、頼まれたことは翌日には済んでいた。誰かが困っていると静かに手を差し伸べ、手柄を主張することなく引いた。

澄子が最初に誠一を意識したのは、入社から三ヶ月が経った夏のことだった。

その日、澄子は窓口で複雑な手続きをしている高齢の女性の対応に手間取っていた。後ろに列ができはじめ、澄子は焦った。汗が背中を伝った。

「桐島さん、僕が代わります」

誠一が隣に来た。低い声で、しかし穏やかに。

彼は高齢の女性の隣に座り、ゆっくりと、書類の一行ずつを指で追いながら説明した。女性は途中で目を潤ませた。孫のような年齢の男が、これほど丁寧に向き合ってくれると思っていなかったのかもしれない。

澄子はその背中を見ていた。

格好よくはない。でも、なぜだろう。目が離せなかった。

付き合いはじめたのは、入社二年目の秋だった。

誠一から告白された。職場の自動販売機の前で、缶コーヒーを二本持って立っていた誠一は、「好きです、付き合ってください」と言った。飾りのない、真っ直ぐな言葉だった。

澄子はしばらく考えてから「はい」と答えた。

その夜、澄子は自分の気持ちを確かめようとした。誠一の何が好きなのか。顔ではない。それは正直に認めた。では何か。

誠一は、お皿の裏側を洗う人だ、と澄子は思った。

それは比喩ではなく、文字通りの話だった。ある日、二人でうどんを食べた店で、誠一が丼を返すとき、さりげなく裏を確認して、汚れていたので紙ナプキンで拭いてから返した。誰も見ていなかった。誰かに褒めてもらいたかったわけでもないだろう。ただ、そういう人なのだった。

澄子はそのとき、この人と生きていけると思った。



二章 魔法と呼ばれるもの

令和六年、秋。

翌朝、凛が「あさぎ」にやってきたのは昼前だった。日曜日で店は休みだった。澄子はエプロン姿で出汁をとっていた。

凛は澄子の妹の娘で、今年二十七歳になる。母親似の顔立ちで、小柄だが目鼻立ちがはっきりしており、若い男性からはよく振り返られる。本人はそれを「別に」と思っている風だが、澄子には分かる。分かった上で、何も言わない。

「おばさん、相談があって」

凛はカウンターに座り、澄子の入れたほうじ茶を両手で包んだ。

「聞いてる」

「好きな人ができた」

「うん」

「でもその人、外見が……すごく、整ってるんだよね」

澄子は手を止めなかった。出汁こぶを鍋から取り出しながら、「それで?」と訊いた。

「なんか、怖いんだ」と凛は言った。「きれいすぎる人って、信用できる気がしなくて」

澄子はそこで初めて手を止め、姪の顔を見た。

谷口壮介は、凛の職場の同僚だった。

身長百八十二センチ、肩幅が広く、顔の造りが映画俳優のようだと社内では専らの評判だった。しかし壮介はそれを鼻にかけることなく、礼儀正しく、仕事も真面目にこなした。

問題は、彼が「きれいすぎる」ことで、周囲の女性が放っておかないことだった。昼食に誘われ、残業を手伝うと申し出られ、差し入れをされ、飲み会では常に隣の席を争われた。壮介はそのすべてに、柔らかく、しかし一定の距離を置いて接した。

凛は当初、そういう男に興味がなかった。

きれいな男は、きれいな女と生きればいい。自分には関係ない話だ、と思っていた。

転機は、残業続きの深夜に起きた。

凛が一人でデータの打ち直しをしていたとき、壮介がデスクに来た。

「手伝います」

「いや、大丈夫です」

「大丈夫じゃないですよね」

壮介は断られても、椅子を引いて座った。そして凛のパソコン画面を見て、黙って作業を始めた。二時間後、二人で仕事を終えた。

「ありがとうございました」と凛が言うと、壮介は「お互い様です」と答えた。

それだけだった。しかしその夜から、凛の中で何かが変わった。

「外見がいい人が怖い、か」

澄子は湯呑みを持って、凛の向かいに座った。

「おばさんはどう思う?」

「どう思うって言われてもねえ」澄子はすこし考えた。「おじさんのこと、話したことなかったっけ」

「誠一おじさん?あんまり詳しくは」

「そう」

澄子はほうじ茶を一口飲んだ。

「おじさんはね、お世辞にも格好いい人じゃなかったの。でも、一緒にいると安心した。なんでだろうって、ずっと考えてたんだけど」

凛は黙って聞いていた。

「ある日わかったの。あの人は、見えないところを丁寧にする人だったから」

「見えないところ?」

「そう。誰も見てないときに、ちゃんとする人。お皿の裏を洗うとか、返却口のお盆をまっすぐ置くとか、そういうこと」

凛はすこし考えてから、「壮介さんも、そういうところがある気がする」と言った。

「たとえば?」

「会議室使ったあと、椅子を全部もとに戻す。ゴミ箱のゴミが溢れてたら、頼まれてもないのに交換する。それ、私しか気づいてないと思う」

澄子はすこし笑った。

「じゃあ、外見は関係ないじゃない」

「でも」と凛は言った。「外見がいいと、どうしても構えちゃう。絶対もてるんだろうって。遊ばれるんじゃないかって」

澄子はしばらく沈黙した。窓の外で、神楽坂の路地をスズメが横切った。

「凛、化粧してる?」

「え?してるけど」

「それ、素顔と違うでしょ」

凛は少し面食らった顔をした。

「別人、とまでは言わないけど、違う」

「……うん」

「じゃあ、あなたも外見で人を騙してることになる?」

凛は答えなかった。

「外見なんてね」と澄子は続けた。「みんな多少は盛ったり隠したりしてる。大事なのは、その人が日常のどこに丁寧さを置いてるかよ。誰も見てないときに、どうふるまうか」



三章 中身の前の外見、外見の奥の中身

凛が帰ったあと、澄子は仕込みを続けながら、誠一のことを思い出していた。

誠一が癌になったのは五十三歳のときだった。発見が遅れた。それから五年、治療と緩解と再発を繰り返し、五十八歳で逝った。

最後の一年、誠一はほとんど動けなくなった。澄子は店を細々と続けながら、夫の傍に居た。

ある夜、誠一が澄子の手を握って言った。

「澄子、俺と結婚して、損したか」

澄子は笑った。

「何言ってるの、あなた」

「顔もよくないし、出世もしなかったし」

「うるさいわね」

澄子は誠一の手を握り返した。

「あなたと結婚して、一度も損したと思ったことないわよ」

誠一はそれを聞いて、子どものように笑った。歯並びが悪く、目が細くなって、どこからどう見ても格好いいとは言えない顔で、本当に嬉しそうに笑った。

澄子は今でも、その笑顔が好きだった。

翌週の月曜日。

凛は昼休みに、壮介と話した。

社内の小さな公園のベンチで、二人でサンドイッチを食べた。それだけだった。しかしそのとき、壮介がこんなことを言った。

「椎名さんって、すごく仕事丁寧ですよね」

「え?」

「データの処理、毎回ファイル名に日付と内容書いてるじゃないですか。おかげで引継ぎのとき助かりました。誰も気づかないと思うけど、ちゃんと見てますよ」

凛は一瞬、固まった。

自分が丁寧にやっていることを、誰かが見ていた。見てほしくてやっていたわけではない。でも、見ていてくれた人がいた。

「ありがとうございます」とだけ言った。

壮介は「こちらこそ」と言って、サンドイッチを一口食べた。

その横顔を見ながら、凛は思った。顔が整っているとか整っていないとか、そういうことより先に、この人は「見える人」だ、と。見えないものを見る人。

それが怖かったのかもしれない。見られることが。

その夜、凛はおばさんにメッセージを送った。

『話してよかった。ありがとう』

しばらくして返信が来た。

『若い男どもよ、お皿の裏も洗える人を選びなさい、って言いたいんだけど、最近は若い女の子にも同じことを言いたくなってきた』

凛は声を出して笑った。

『どういう意味?』

『見てもらえる人になりなさい、ってこと。見せるんじゃなくて』

凛はそのメッセージをしばらく眺めた。

それから、壮介に短いメッセージを送った。

『今度、ちゃんとお礼がしたいです。ご飯でもどうですか』

既読がついた。

返信まで、三分かかった。

『ぜひ。どこか好きな店はありますか』

凛はスマートフォンを胸に抱えて、天井を見た。



四章 もう一人の男

田中哲也は、凛の幼馴染だった。

小学校から高校まで同じ学校に通い、大学は別々になったが、実家が近かったので正月や盆に顔を合わせた。現在は地元の工務店に勤めており、家の建て付けや修繕を仕事にしていた。

哲也は、ごく平凡な顔をしていた。

背は普通。顔も普通。笑い方が少し豪快なのと、手が大きいのが目立つくらいで、街を歩いても誰も振り返らない種類の男だった。

しかし哲也は、昔から凛のことが好きだった。

好きだという気持ちは、高校二年のとき自覚した。しかしそれから十年以上、一度も口に出したことはなかった。なぜか。

凛が自分を「幼馴染」としか見ていないことを知っていたからだ。

哲也はそれを、不満に思っていなかった。少なくとも、そう思おうとしていた。好きな人が幸せならそれでいい、という陳腐な文句が、哲也の場合は嘘ではなかった。

そして今、凛が誰かを好きになっているらしい、ということを、哲也は実家の母経由で聞いた。

久しぶりに凛と会ったのは、十月の連休だった。

実家近くの定食屋で昼飯を食べた。凛はひさしぶりに会う幼馴染に、職場のことや東京の話をしながら、自然と壮介の話をした。哲也は黙って聞いていた。

「なんか、変な感じなんだよね」と凛は言った。「好きなのに、怖いっていうか」

「それって、その人が怖いんじゃなくて、自分が怖いんじゃないか」

哲也が言うと、凛は「どういうこと?」と眉を寄せた。

「傷つくのが怖いんだろ。だから外見のせいにしてる」

凛は黙った。

「俺は別に、専門家でも何でもないけど」と哲也は続けた。「その人がちゃんとした人間かどうかは、外見関係ないだろ。時間かけてみればわかる。怖くても、進んでみればいいじゃないか」

定食の鯖の煮付けをつつきながら、哲也はそれだけ言った。

凛はしばらく考えてから、「哲ちゃんって、たまにすごいこと言うよね」と笑った。

哲也も笑った。笑いながら、自分が言っていることは、自分自身へのアドバイスでもあると思っていた。

怖くても、進んでみればいい。

わかってる。わかってるんだけどな。

その夜、哲也は長い時間、風呂に入ったあとで縁側に座っていた。

空に星が出ていた。秋の星は冷たく、鋭い。

俺は外見がいいわけじゃない。お金があるわけでもない。特別な才能があるわけでもない。

それでも、誰かに「この人でよかった」と言ってもらえる人間になれるだろうか。

誠一おじさんのことを、哲也は凛から聞いたことがあった。格好よくないけど、一番信頼できた人、と凛は言っていた。

そういう人間に、なれるだろうか。

哲也は星を見上げたまま、しばらくそこにいた。



五章 It’s Magic

十一月、神楽坂。

凛と壮介の初めてのデートは、なんということもない夕食だった。壮介が「おいしい鶏の店を知ってます」と言い、凛が「じゃあそこで」と答えた。

店は小さく、混んでいた。二人は端の席に座り、串を頼み、ビールを飲んだ。

壮介は、凛が思っていたより話しやすかった。

格好いい人と話すときの独特の緊張、あの「なんで私がこの人と話しているんだろう」という感覚が、不思議と薄かった。

「椎名さんって、なんで出版社に?」

「本が好きだから、っていう単純な理由です」

「どんな本が好きですか」

「昔の小説が多いかな。昭和の。ちょっと古いかもしれないけど」

「いいじゃないですか。何が好きですか?」

凛が好きな作家の名前をあげると、壮介は「それ、読んだことあります」と言った。凛は少し驚いた。

「意外ですか」

「すこし」正直に言った。

「外見で判断された」と壮介は言ったが、怒った様子はなかった。むしろ、おかしそうに笑っていた。

凛は謝ろうとしたが、壮介が先に言った。

「慣れてるので大丈夫です。でも、慣れたくはないな、とも思ってます」

その一言が、凛の胸に刺さった。

「慣れたくない」という言葉を、凛は帰り道に何度も繰り返した。

外見で判断されることに慣れたくない。それは、外見以外で見てほしいという願いだ。

自分が壮介に抱いていた「怖さ」は何だったのか。

きれいな顔の裏に何があるか、信用できないという気持ち。しかしそれは、裏を見ようとする前に「きれいな顔」だけを見て完結させていたということではないか。

自分がやっていたことと、何が違う。

外見で判断されたくないという壮介の気持ちは、凛の気持ちと同じだった。ただ、立場が逆なだけで。

「おばさん、一個聞いていい?」

次の週、凛は「あさぎ」に夕食を食べに来た。平日の夜で、他に客はいなかった。

「なに?」

「化粧って、魔法みたいなものじゃない。別人になれる」

「そうね」と澄子は言った。

「じゃあ、化粧したほうが得なの?外見が大事なら」

澄子は小皿におひたしを盛りながら、しばらく考えた。

「得、という話をしたら」と澄子は言った。「そりゃあ、きれいなほうが得をする場面はある。それは本当のことよ。若い頃に女の幸せの九割は器量だって言われた時代もあったし、今だってゼロじゃない」

「うん」

「でもね」と澄子は続けた。「化粧が魔法なら、外見なんてそもそも魔法みたいなものよ。若い頃は自然にきれいで、年とったら変わって、化粧で誤魔化して。みんなそうやって生きてる。だから外見に正直もへったくれもないの」

「じゃあ、何が正直なの」

澄子はおひたしを凛の前に置いた。

「行動よ」と澄子は言った。「誰も見てないところで何をするか。それだけは、魔法でもなんでもない、本物」

凛は黙って、おひたしを食べた。出汁がよく染みていた。

「おばさんって、料理上手だよね」

「そりゃあ、誠一さんのためにずっと作ってたから」

「おじさん、料理好きだったの?」

「食べることが好きな人でね。でも好き嫌いは言わなかった。何を出しても『おいしい』って言ってくれた。お世辞じゃなく、本当に」

澄子はすこし遠くを見た。

「お世辞を言わない人だったの。格好つけない人。だから『おいしい』って言ってくれると、本当においしいんだって思えた」

凛はその横顔を見た。六十歳の女将の顔に、少女のような柔らかさが一瞬だけ浮かんで、消え



六章 壮介の過去

十二月に入ると、凛と壮介は週に一度か二度、一緒に昼飯を食べるようになっていた。

恋人、と呼んでいいのかどうか、凛にはまだわからなかった。壮介は凛に対して、いつも丁寧で、しかし踏み込みすぎなかった。距離の測り方が、不思議なほど上手かった。

ある日の昼休み、凛は思い切って訊いた。

「谷口さんって、昔から……もてましたよね」

「まあ」と壮介は少し困った顔をした。「そう見られることは多かったです」

「付き合ってた人、多いんですか」

直接的すぎたかな、と思ったが、壮介は表情を変えなかった。

「三人です。大学で二人、社会人になってから一人」

「みんな、きれいな人?」

「きれいかどうかは……よくわからないけど」壮介は少し考えた。「最初の二人は、正直、俺のことを顔だけで好きだったんだと思います。後から気づいた。三人目は、俺の顔が嫌いでした」

凛は目を丸くした。

「嫌い?」

「俺の顔のせいで、いつも女が寄ってくるって。それが嫌だったみたいで。最終的には『あなたの顔が憎い』って言われた」

壮介はそれを、笑いながら話した。笑い方が少し苦かった。

「それって……つらくなかったですか」

「つらかったですよ」壮介はそう答えた。「でも、そのとき初めてわかった気がします。外見って、本人にとってはただの与件で、どうにもならないものなのに、なんで全部自分のせいにされるんだろうって」

凛はその言葉を、胸に収めた。

壮介の話を聞いた夜、凛は「あさぎ」に電話した。

「おばさん、今いい?」

「いいわよ。どうしたの」

「壮介さんの話、聞いた。外見のせいで傷ついてた」

澄子はすこし間を置いた。

「そう」

「外見って、得もあるけど、損もあるんだね。当たり前だけど、気づいてなかった」

「そうよ」と澄子は言った。「美しく生まれた人は、美しいゆえの孤独がある。美しくない人には、別の孤独がある。どっちが得かなんて、外から見てる人間が決めることじゃないわ」

「うん」

「でも凛、一つだけ言っていい?」

「なに?」

「その人が、あなたに自分の傷を話したこと。それは大事にしなさい。格好いい人間が弱いところを見せるのは、簡単じゃないから」

凛はしばらく黙っていた。

「……ありがとう、おばさん」

電話を切ったあと、凛はもう一度、壮介に短いメッセージを送った。

『話してくれてありがとうございました。大事にします』

しばらくして、既読がついた。

返信はなかった。

しかし翌朝、出社した凛のデスクに、小さな付箋が貼ってあった。

『こちらこそ』

たった五文字だった。それだけで十分だった。

師走の半ば、壮介は凛を映画に誘った。

古い邦画のリバイバル上映で、昭和四十年代に作られた白黒映画だった。

「椎名さん、昭和の映画好きですか」

「好きだけど、なんで?」

「俺も好きで。でも誘える人があまりいなくて」

映画館は小さく、客もまばらだった。二人は並んで、二時間の白黒映画を観た。

ストーリーは単純だった。地方から上京した若い女が、都会の男に翻弄され、傷ついて、それでも前を向いて生きていく話。ヒロインは飛び抜けた美人ではなかった。しかし、表情が豊かで、泣いても笑っても、画面に引きつけられた。

「あの女優さん、きれいですよね」と凛は言った。

「うん」と壮介は言った。「顔がきれいというより、生き方がきれいな感じがする」

映画が終わったあと、二人は近くの喫茶店に入った。

「谷口さん、こういうの好きなんだ」と凛は言った。

「昔の映画って、外見以外のところで勝負してる感じがして、好きなんです。今の映画、顔のきれいな人しか出てこないじゃないですか」

「確かに」

「でも昔の映画の人は、顔より何かを持ってる感じがする。言葉にできないけど」

凛は温かいコーヒーを一口飲んで言った。

「それって、中身ってことじゃないですかね」

壮介はすこし笑った。

「そうかもしれない。でも中身って言葉、なんか陳腐に聞こえてもったいない気がして」

「じゃあ何て言えばいい?」

壮介は少し考えた。

「……その人の、においかな」

凛は笑った。

「においって、どういう意味ですか」

「その人が長い時間をかけて染みついたもの、っていうか。生き方のにおい。会ってすぐわかるものじゃなくて、一緒にいる時間が長くなるほどわかってくるもの」

凛はその言葉を、しばらく転がした。

生き方のにおい。

「谷口さんは、私のにおい、わかりますか」と凛は訊いた。

壮介は少し驚いた顔をして、それからまた笑った。

「少しずつ、わかってきてる気がします」



七章 昭和の話

年が明けた。

一月の神楽坂は、空気が透き通るほど冷たかった。

「あさぎ」には、この時期になると決まって訪れる常連がいた。名前は宮川雪江、七十三歳。元は料亭の仲居をしていたという、細身で背筋の伸びた老女だった。

雪江は澄子の母の知人で、澄子が「あさぎ」を開いてからずっと通い続けている。毎年一月の第一週に来て、熱燗を一本だけ飲んで帰る。それが決まりのようになっていた。

「澄子さん、また一年経ちましたね」

雪江は熱燗の徳利を傾けながら言った。

「そうですね」

「お顔がますます澄んできた」

「年をとっただけですよ」と澄子は笑った。

「年をとっても澄む人と、濁る人がいるの。澄子さんは澄む人ね」

澄子は黙って、雪江のお猪口に燗酒を注いだ。

「昔のことを思い出してたの」と雪江は言った。「若い頃ね、私はそれなりに顔に自信があって、それで得をしようとしてたことがあった」

「そうですか」

「料亭の仕事は、顔がものを言うでしょ。きれいな子が贔屓にされる。私はそれをよく知ってたから、顔を武器にしようとしてた。でも途中から嫌になったの」

「なぜですか」

「顔で好かれると、顔が衰えたときに怖いから」

澄子は手を止めた。

「顔じゃない何かで好かれないと、年をとったときに何も残らない。そう気づいたのが三十過ぎてからで、遅かったけど」

雪江はお猪口を置いた。

「澄子さんは、誠一さんに顔で好かれてましたか」

「いいえ」と澄子は即座に言った。「あの人、私の顔を一度もほめたことなかったですよ」

「あら」

「料理はほめてくれたし、字がきれいだってほめてくれたし、話の聞き方がいいってほめてくれた。でも顔は一度も」

「それはいい男ね」

澄子はすこし笑った。

「最初は少し寂しかったんです。でも後から、ああ、この人は顔以外のところで私を好きでいてくれてるんだ、ってわかって。そのほうがずっと安心しました」

雪江はしみじみとうなずいた。

「顔をほめない男は、顔が衰えても去らないものよ」

雪江が帰ったあと、澄子は一人で片付けをしながら、誠一との初めての正月を思い出した。

昭和五十九年、一月。

結婚して初めての正月を、二人は誠一の実家で過ごした。誠一の母は小柄で、気の強い女性だった。最初の挨拶のとき、澄子の顔をじっと見て言った。

「まあ、きれいな嫁さんだこと。誠一、よかったね」

誠一は「そうかな」と言って、澄子を見た。そして「顔よりいい嫁さんですよ」と言った。

母は「あら」と目を丸くした。澄子も少し驚いた。

しかし誠一は、それ以上何も言わなかった。

その夜、布団の中で澄子は誠一に訊いた。

「さっき、顔よりいい嫁さん、って言ったのはどういう意味?」

誠一はしばらく考えてから言った。

「顔より、一緒にいて気持ちがいい、ってこと」

澄子はそれが、自分が今まで言われた中で一番うれしい言葉かもしれないと思った。

「一緒にいて気持ちがいい」

顔をほめられることより、ずっと、ずっと、うれしかった。

二月。

凛が「あさぎ」に来たのは、バレンタインの翌日だった。

「チョコ、渡した?」と澄子は訊いた。

「渡した」と凛は笑った。「手作りじゃないけど」

「反応は?」

「すごく喜んでくれた。でも大げさじゃなく、静かに」

「それでいいじゃない」

凛は燗酒をひとくち飲んだ。最近、お酒が少し飲めるようになってきた。

「おばさんは、おじさんにバレンタインって渡してたの?」

「最初の数年はね。でもそのうちやめた」

「なんで?」

「誠一さんがね」と澄子は言った。「バレンタインにもらったチョコを、お返しのホワイトデーまで食べないで取っておく人だったの」

「え?」

「お返しを渡すとき、一緒に食べようって言って。で、二人でホワイトデーに二十日古いチョコを食べた」

凛は笑い出した。

「それ、普通じゃないですね」

「そうなの。でもなんか、それが嬉しくて。チョコを食べないでいてくれた、その一ヶ月が嬉しかった。だから逆に、渡すのがプレッシャーになっちゃって、やめた」

「おじさんらしいな」

澄子は小さく笑った。

「そういうことを平気でする人だったの。誰かの誕生日を、三ヶ月後まで覚えてたり。去年あなたが言ってたこと、を一年後に引用してきたり。記憶力があったわけじゃない。ただ、大事なことを大事にしてる人だった」

凛は黙ってそれを聞いた。

「壮介さんも、そういうところあります」と凛はすこし照れながら言った。「私が話したことを、次に会ったとき自然に覚えてて。大事にしてくれてる気がする」

「そう」と澄子は言った。「それが、中身ってもんよ」



八章 哲也の決断

二月の末、哲也は凛に電話した。

「ちょっと聞きたいんだけど」

「なに?」

「その、職場の後輩……あのさ、付き合ってみようかと思って」

凛は一瞬、返答に詰まった。

「え、急じゃない?」

「急じゃないよ。三ヶ月考えた」

「三ヶ月」と凛は繰り返した。「で、結論が付き合ってみようか、って。すごい慎重な人だね」

「うるさい」

哲也はぶっきらぼうに言ったが、声の奥がすこし柔らかかった。

「後輩って、どんな子なの」と凛は訊いた。

「普通の子。顔が飛び抜けてきれいなわけでも、めちゃくちゃ賢いわけでも、特技があるわけでもない。ただ、真面目で、仕事が丁寧で」

「哲ちゃんが好きな感じじゃん」

「だから悩んでた」

「なんで悩むの?」

哲也は少し黙った。

「こういう人を好きになっていいのか、なんか、わからなくて」

凛は笑いそうになって、こらえた。

「どういう意味?」

「目立つ理由がなくても、好きになっていいのか、って。なんかもっと、わかりやすい理由があるべきじゃないのかなって」

凛は電話口でしばらく考えた。それから、澄子の言葉を思い出した。

「ねえ哲ちゃん、おばさんの旦那さん、覚えてる?」

「誠一さん?ちょっとしか会ったことないけど」

「おじさんって、顔もよくないし、背も高くないし、出世もしなかったし、目立つ理由が全然なかった人らしいよ。でもおばさん、この人と生きていけるって思ったって」

「そうなの?」

「理由は、お皿の裏を洗う人だったから、って」

哲也は黙った。

「見えないところを丁寧にする人。誰も見てないときにちゃんとする人。目立つ理由なんてなくていい。その人がどこを丁寧にしてるか、それだけ見ればいいんじゃない?」

哲也はしばらく沈黙した。

「……凛、ちょっと最近かしこくなった?」

「誰のおかげだと思ってるの」

「おばさんのおかげ」

「正解」

二人で笑った。

後輩の名前は、木下さつきと言った。

二十五歳。工務店の事務職で、哲也より五年後に入社した。

背は低く、丸顔で、笑うと目が細くなる。職場では「さっちゃん」と呼ばれており、誰からも好かれていた。嫌われる要素がないというより、誰に対しても誠実に接するので、自然と人が寄ってきた。

さつきは哲也に告白したとき、こう言った。

「田中さんが好きです。理由は、田中さんが仕事で失敗した後輩を、誰もいないところでフォローしているのを見たからです」

哲也は、そんな場面があったかどうか、よく覚えていなかった。

「それ、いつの話?」

「去年の夏です。新人の鈴木くんが配送ミスして、お客さんに怒られたとき。田中さん、誰も見てないうちに鈴木くんに謝り方を教えてました」

哲也は、そんなことをしたっけな、と思った。していたかもしれない。覚えていないだけで。

さつきは続けた。

「あのとき、田中さんが鈴木くんの肩をぽんって叩いて、行くぞ、って言った。それが、すごくかっこよかったです」

哲也は少し赤くなった。

「それだけ?」

「それだけで十分です」とさつきは言った。迷いのない顔で。

三月のはじめ、哲也はさつきに「付き合ってください」と言った。

場所は職場の駐車場で、帰り際だった。何の飾りもない、ごく平凡な場所だった。

さつきは「はい」と言った。

帰り道、哲也は空を見上げながら、不思議な気持ちになった。

自分の顔がよくないことは知っている。背が特別高いわけでもない。稼ぎも普通だ。しかし、さつきは「田中さんが好きです」と言った。理由は、誰も見ていないところで、後輩の肩を叩いたから。

お皿の裏側を洗う、ということ。

自分はそれを、意識してやったわけではなかった。ただ、そういう人間でありたいと、ずっと思っていた。

そのことが、誰かに届いた。

哲也はその夜、縁側に座って星を見た。冬の終わりの星は、少し柔らかくなっていた。

あのとき澄子の話を思い出してよかった、と哲也は思った。凛に相談してよかったと思った。そして凛が、おばさんのことを教えてくれてよかった、と。

人は、誰かの話の中で、少しずつ変わっていく。



九章 澄子の春

三月の中頃、澄子は誠一の墓参りに行った。

お彼岸前の、平日の午前中だった。墓地は静かで、澄子のほかに人影はなかった。

墓石に水をかけ、線香に火をつけ、澄子はしばらく手を合わせた。

「凛が、いい人と付き合いはじめたみたいよ」

返事はない。

「外見がよすぎる人で、最初は怖いって言ってたんだけどね。でも、ちゃんと見たら、ちゃんとした人だったって」

風が吹いて、線香の煙が揺れた。

「哲也くんも、彼女ができたって。あの子、ずっと凛のことが好きだったんじゃないかと思ってたけど、違うところに気持ちが向いたみたい。よかったわ」

澄子は少し間を置いた。

「あなたがいたら、なんて言うかしらね。また『そうか』って言うだけかしら」

誠一は多弁ではなかった。何を話しても「そうか」か「うん」か「よかったな」のどれかで返ってきた。

最初の頃はそれが物足りなかった。もっと言葉をくれればいいのに、と思っていた。

でも長い年月をかけて、澄子はわかった。

「そうか」と言う人は、ちゃんと聞いている人だ。

言葉が少ないのは、聞くことに全力を使っているからだ。

「あなたは、聞いてくれる人だったね」

線香の煙が、静かに空に向かった。

春の「あさぎ」は、少し忙しくなる。

花見の季節になると、神楽坂近辺の人々が外へ出てきて、夕方から路地を歩いた。店も賑わう。

ある夜、澄子のカウンターに若い男が一人で来た。

二十代半ばか。背が高く、顔立ちが整っていた。しかし、何かを抱えているように、表情が硬かった。

「お一人ですか」

「はい」

「何になさいますか」

「燗酒を。あと、お任せで何か」

澄子は小鯛の昆布締めを出した。男はそれを食べて、「おいしいですね」と言った。

「ありがとうございます。お仕事帰りですか」

「そうです。少し、考えることがあって」

「そうですか」

澄子はそれ以上、何も訊かなかった。

男は燗酒を二杯飲み、出汁巻き卵を食べ、小さな鍋を食べた。食べながら、少しずつ表情が和らいだ。

会計のとき、男は言った。

「ここ、また来ていいですか」

「どうぞ」

「女将さん、なんか……ちゃんと聞いてくれてる感じがして」

澄子は少し笑った。

「何もお話しになってないですよ」

「そうなんですけど」と男は言った。「何も訊かないところが、ちゃんと聞いてくれてる感じがして」

澄子はその言葉を、胸のどこかにそっとしまった。

その夜、店を閉めてから、澄子は誠一の写真の前に座った。

若い男の言葉を、何度か繰り返した。

「何も訊かないところが、ちゃんと聞いてくれてる感じ」

それは、誠一がしてくれたことだった。

澄子がつらいとき、誠一は訊かなかった。ただ、傍にいた。お茶を入れてくれるか、黙って肩に手を置くか、それだけだった。

最初はそれが不満だった。もっと「どうしたの」と訊いてほしかった。でも、訊かれると余計に泣いてしまう自分がいた。訊かれずに傍にいてもらうことで、澄子は自分のペースで泣けた。

誠一はそれを知っていたのか、知らなかったのか。

どちらでも、同じだ、と澄子は今は思う。

結果として、あの人は正しい距離にいてくれた。

「上手だったわね、あなた」

写真の誠一は、笑ったままだった。


十章 二つの食卓

四月になった。

凛と壮介が付き合いはじめて、四ヶ月が経った。

ある土曜日の昼、壮介が凛のアパートに来た。初めてだった。

壮介は手土産に、ケーキを持ってきた。有名店のものではなく、駅前の小さな洋菓子店のものだった。

「ここ、知ってたんですか?」と凛は訊いた。

「前に椎名さんが、あそこのシュークリーム好きって言ってたから」

凛は少し考えた。そんなことを言っただろうか。言ったかもしれない。ずいぶん前に、何気なく言ったことを。

「覚えてたんですか」

「覚えてます」と壮介は言った。「大事なことは、なるべく覚えるようにしてる」

凛はそのシュークリームを食べながら、これは甘い、と思った。ケーキが、ではなく、この状況が。

昼を食べて、二人でしばらくテレビを見た。

古い映画をやっていた。昭和の、白黒の。

「また昭和だ」と凛は笑った。

「好きなんですよ」

「知ってる」

二人は並んでソファに座り、映画を見た。ヒロインが泣く場面で、凛はすこし目頭が熱くなった。隣を見ると、壮介も黙って画面を見ていた。

映画が終わったあと、壮介が言った。

「昔の映画って、泣かせ方が丁寧ですよね」

「どういう意味?」

「今の映画は、わかりやすく泣かせにくる。音楽が大きくなるとか、スローモーションになるとか。でも昔の映画は、ただそこにいるだけで泣ける」

凛はその言葉をしばらく考えた。

「それって、人間も同じかもしれない」

「どういうこと?」

「感動させようとしてる人より、ただそこにいるだけで、なんか、気持ちが動く人がいる」

壮介は少し間を置いて、「そうですね」と言った。

凛は自分の言葉が、誠一おじさんのことを言っているのだと気づいた。ただそこにいて、ちゃんと聞いて、何も言わなくても傍にいた人。

外見は、関係なかった。

その夜、凛はおばさんにメッセージを送った。

『今日、壮介さんが家に来た』

しばらくして返信が来た。

『どうだった?』

『普通にいい時間だった。それがよかった』

『それが一番いいの』

凛はそのメッセージをしばらく眺めた。

『おばさんも、おじさんと普通の時間を一番大事にしてたの?』

少し間があった。

『普通の時間しかなかったけど、それで十分だったわ。特別な日より、毎日の夕飯のほうが、ずっとたくさんあったから』

凛はその言葉を、スマートフォンの画面で読んで、もう一度読んだ。

毎日の夕飯のほうが、ずっとたくさんあった。

そうだ。人生は、特別な日より普通の日のほうが、圧倒的に多い。その普通の日を、誰と過ごすかが、大事なのだ。


続く…



試行錯誤しながらも

やっとこさ

Kindleに載せ始めて 3週間


週に10冊までなる

規則はあれど

なんとか溜め込んだ30冊を

載せてみれば


やはり

膨大な数のそこでは

なかなか読んでは貰えず


それでも結構と

来週分の10冊も

すでに整え終えました


すると

なんや

初めて

その評価を頂いたものが

あることを知り

とても嬉しくなり

ではと

それを

少しの間 ここに乗せてみます






Amazon Kindle


『僕の半分は、君でできている』


まえがき:すべては「借り物」の旅


「カネは天下の回り物」
私たちは、この言葉を日常の至るところで耳にします。コンビニのレジで手放した一枚の硬貨が、誰かの財布を経て、また自分の元へ戻ってくる。そんな偶然に驚いた経験が、あなたにもあるかもしれません。
しかし、ふと立ち止まって考えてみてください。「回り続けているもの」は、本当にお金だけなのでしょうか。
私たちが毎日吸い込んでいる空気、喉を潤す水、降り注ぐ太陽の光……。そして、今この文章を読んでいるあなた自身の「身体」ですら、実は地球から一時的に借り受けている「物質の寄せ集め」に過ぎないのではないか。そう考えたとき、世界の見え方は一変します。
本書は、かつての私自身の気づきを、ひとつの物語として編み直したものです。失ったものへの執着、別れの痛み。それらさえも、宇宙の大きな「循環」の一部であると気づいたとき、私たちの心には静かな平穏が訪れます。
この物語が、あなたの日常に漂う何気ない「循環」に気づくきっかけとなれば幸いです。


プロローグ:擦り切れた十円玉の再会


 午前二時のコンビニエンスストアは、まるで深夜の漂流船だ。無機質な蛍光灯の光だけが、降りしきる冷たい雨から僕を守ってくれている。
 僕は、別れたばかりの恋人、瑞希(みずき)とよく買った、少し甘すぎる銘柄の缶コーヒーを一本だけ手に取り、レジへ向かった。
「百四十円になります」
 心なしか眠そうな店員に、僕は小銭入れから百円玉と五十円玉を渡す。ジャラリ、という音と共に、お釣りの十円玉がトレイに置かれた。何気なくその十円玉を拾い上げた瞬間、僕の指先が止まる。
(……あ。)
 それは、ひどく擦り切れた、昭和五十八年製の十円玉だった。ただ古いだけじゃない。表面の「一〇」という数字の横に、まるで小さな星のように、十字の深い傷が刻まれていた。
 見覚えがある。
 半年前の、抜けるような青空の日。瑞希と二人で這いつくばって自販機の下を覗き込み、埃まみれになりながら彼女が見つけ出したのが、この十円玉だった。
『見て、この十円玉、傷が星みたい。きっとラッキーアイテムだよ』
 そう言って笑った彼女の指先にあった小さな銅片が、今、僕の掌の上で冷たく光っている。
 お金は天下の回り物。
 あの日、彼女の財布に収まったはずのラッキーアイテムは、僕らの別れと共に彼女の手を離れ、数え切れないほどの誰かの財布を経由して、この雨の夜、僕の元へと戻ってきたのだ。
「ほら、よく見ると……君にそっくりだ」
 冗談のように呟いてみる。確かに、よく似ている。
 だから返して……なんて、もう言えるはずもないけれど。


一:君を呼吸する


 部屋に戻り、窓を少しだけ開けて、冷たい空気を深く吸い込んだ。
 瑞希が去ってから、この部屋の空気はいつもどこか淀んでいる気がしていた。彼女が残していったヘアゴムや、洗面所の隅に落ちていた髪の毛を掃除するたびに、僕の世界から彼女の「物質」が消えていくようで、耐えられなかった。
 けれど、ふと思う。
 昔、誰かに聞いたことがある。地球上の物質の総量は、増えもせず、減りもせず、ただ姿を変えて巡り続けているのだと。僕がいま吸い込んだこの酸素分子は、数日前にはアマゾンのジャングルにあったかもしれないし、数年前には北極の氷の中に閉じ込められていたかもしれない。
 そして、数週間前までこの部屋で瑞希が吐き出していた、あのため息や、僕の名前を呼んだ声、愛を囁いた言葉。それらを構成していた原子たちは、今もこの街の空気に混ざって、漂っているはずだ。
「……瑞希」
 声に出してみる。僕の声は空気を振動させ、窓から外へと逃げていく。この振動は、いずれ地球を一周し、姿を変えて、いつかどこかで瑞希の鼓膜を震わせる風になるかもしれない。
 僕らは「個体」として独立していると思い込んでいる。けれど、原子のレベルまで視点を下げれば、そこに境界線なんて存在しない。瑞希が吸った酸素は、彼女の血肉となり、細胞となり、やがて排出され、植物に吸われ、再び酸素となって、今、僕の肺を満たしている。
 僕を形作っている物質の何パーセントかは、間違いなく、かつて瑞希だったものだ。逆も然り。彼女の中には、僕の欠片が、今も息づいている。僕たちは、お互いを食べ、お互いを飲み、お互いを呼吸して生きている。
 そう思うと、胸の奥の痛みが、少しだけ和らぐ気がした。僕らは離れ離れになったけれど、物質としては、決して離れることはできないのだから。


二:愛のエネルギー保存の法則


「もう、貴方を愛するエネルギーが残っていないの」
 別れ際、瑞希はそう言った。
 けれど、エネルギー保存の法則によれば、この世からエネルギーが消えることはない。ある形から、別の形へと「変換」されるだけだ。
 瑞希が僕に注いでくれた、あの膨大な熱量。冬の夜、冷えた僕の手を包んでくれた彼女の掌の体温。それらは、一体どこへ消えたというのだろう?
 答えは、どこにも消えていない。それはただ、形を変えただけだ。
 瑞希の愛は、僕という人間を形成する一部のエネルギーとなり、僕が明日、他の誰かに優しくするための糧になった。僕の愛は、失恋の痛みという激しいエネルギーに変換され、今度はこうして、夜中に物語を綴るための静かな、けれど強靭なエネルギーへと姿を変えた。
 涙は蒸発して、空を巡る水となり。怒りは身体を動かす熱となり。悲しみは思考を深める光となる。
「僕たちの恋は死んだんじゃない。世界の一部に溶け込んで、新しい何かを動かす力になっただけなんだ」
 エネルギーは、増えず、減らず、永遠にこの世を巡り続ける。執着する必要なんて、最初からないのだ。だって、形を変えて、僕の元へ、あるいは世界へと、何度でも巡ってくるのだから。



三:共有される「僕ら」の身体


 僕は、自分の手をじっと見つめる。この爪を構成するタンパク質も、この血液を走る鉄分も、元を辿れば数億年前の星の屑だ。そしてその屑は、地球という巨大なリサイクル工場の中で、何度も何度も使い回されてきた。
 蛇口をひねれば、水が出る。その水は、数日前には遠い海で波打っていたかもしれないし、数年前には瑞希の故郷の山に降った雪解け水だったかもしれない。そして、その水はかつて、多くの先祖たちが何度も使用し、排出し、地球によって浄化されてきたものでもある。
「だから、もう少し大事にせねば、と思うわけだけれど……な」
 瑞希と暮らしていた頃、彼女はよく水の出しっぱなしを注意した。『水は地球の血液なんだから」と笑いながら。あの時の彼女の言葉は、今になってようやく、本当の意味で僕の身体に染み込んでくる。
 僕らは地球そのものだ。僕という人間が終わっても、僕を形作っていた物質たちは、また次の瞬間から別の誰かの組織となって動き出す。誰かの子供の産声になり、誰かの恋人の吐息になり、庭先に咲くひまわりの花びらになる。
 そこに「死」という断絶はない。ただ、役割の変更があるだけだ。


エピローグ:循環への祈り


 翌朝、僕は澄み切った秋晴れの空の下を歩いていた。ポケットには、あの傷ついた十円玉が入っている。コンビニの前を通りがかった時、レジの横に置かれた募金箱が目に入った。僕は立ち止まり、ポケットから十円玉を取り出した。十字の星が、朝日に輝いている。
「……返して、なんて言わないよ」
 僕は呟く。「返して」ということは、それが「僕のもの」だと主張することだ。けれど、この世界に、僕だけのものなんて、最初から一つもなかった。
「だって、僕らはもう、混ざり合ってしまったんだから」
 僕は十円玉を、募金箱の投入口へ入れた。カラン、と小さな音がして、十円玉は他の小銭たちの中に紛れていった。今度はこの「欠片」が、僕の手を離れ、誰かの空腹を満たすパンになり、誰かの明日を動かすエネルギーになる。それは巡り巡って、いつかまた、瑞希を笑顔にする何かになるかもしれない。
 姿を変え、形を変え、僕と瑞希の記憶を乗せて、それは永遠にこの地球を巡り続ける。
 見上げると、青空には白い雲が、ゆっくりと形を変えながら流れていた。それはいつか、僕の涙だった水かもしれない。これから彼女に降る、雨の予兆かもしれない。
 僕は、大きく息を吸い込んだ。新しい、けれど懐かしい空気が、肺の奥まで満たしていく。
 僕らはそうやって、姿を変えながら、何度も、何度でも、再会し続けるのだ。
(完)
 


あとがき:地球というひとつの命


 最後までお読みいただき、ありがとうございます。
 この物語の根底にあるのは、エネルギーは増えもせず、減りもせず、ただ姿を変えて巡り続けるという、至極シンプルな宇宙の理(ことわり)です。
 私たちは、自分という存在を「独立した個体」だと思い込みがちです。だからこそ、大切な人を失ったときに、自分の一部が欠けてしまったような、耐え難い喪失感に苛まれます。けれど、物質のレベル、エネルギーのレベルで見れば、私たちは一度たりとも「離ればなれ」になったことなどありません。
 君が吐いた息を、僕が吸う。
 僕が流した涙が、いつか君を育てる雨になる。
 私たちは、地球という巨大なリサイクル工場の中で、役割を変えながら永遠に再会し続けている。いわば、僕ら自身が「地球そのもの」なのです。
 かつて私の傍にいた存在も、そしてかつてあなたを支えていた存在も、今は形を変えて、すぐそばの空気に、水に、あるいは誰かの優しさに溶け込んでいるはずです。
「返して」と願う必要はありません。なぜなら、私たちはすでに、分かちがたく混ざり合っているのですから。
 この一冊が、あなたの今日を少しだけ軽くし、明日を歩くエネルギーに変わることを願って。

二〇二六年 三月
カトウかづひさ





ーおまけー


これは以前ブログに書いたものを
物語に仕立てました
その時のブログを
そのまま掲載しておきます

輪廻転生

”カネは天下の回り物” とは
これまたよく言ったもんですが

そ~よ

そこで
そこのコンビニで使ったキミのカネは
次の瞬間
他のお客さんへのお釣りとなって
他人の財布へと移動する

そして
それはまたキ~プすることなく
違う場所で更にその先へと
日に何度も何度も歩き回る

ならば
もしやもしや
昨日 
僕の財布にあったカネは
今日は
すでに
遠く離れたキミの財布の中に…

ってなこともあるわけで

そう
今 キミの財布の中の
その諭吉さんは
昨日
僕が持ってた諭吉さんかもで

そ~よ
ほ〜ら そっくりだ!!

良く似ている
ん~ 確かに良く似ている

だから返して…

あははは


地球上に存在する
あれも
これも
それもは

増えもせず
また
減りもせず
ただ
太陽の光を受けて
何らかの形へと姿を変え
エネルギ~は巡り巡る

空気も
水も
雲も
光も
この僕らの身体ですをも また然り

地球上に存在した
あれこれの物質を寄せ集め
偶然
動き出しただけのもの

そしてそれらは
またいずれ
この地球へと戻らねばならない

空気は
世界中を駆け巡り
二酸化炭素は植物たちによって浄化され
また酸素へと戻る

水は
今そこにあった水ですら
蒸発し
空気に混ざって世の中を舞う

僕らはそれを吸い
それは
次の瞬間
身体の組織となって動き出し

また
いずれ排出されて
他の物質と混ざり
水へと戻る


蛇口から出たその水だって
トイレで流したその水だって
つい先日までは
とんでもない遠くにあったものかもで
いや
キミの身体にあったのかもで

そして
多くの先祖たちもが
何度も何度も使用してきたそれでもあるはずで

ならば
もう少し大事にせねばと
思うわけだけれども な

エネルギ~は
増えもせず
また減りもせず
日々 確かに姿形を変え
この世を永遠に巡り巡っている ってことで

そして
僕らですら
そのひとつに過ぎないと…

僕らもまた
地球そのものなわけだ