銀河電話帳整理局
―六十五歳、縁を選び直す―


はじめに
年齢を重ねるにつれ、手元に残る「名刺の山」や「スマートフォンの連絡先」の数に、ふと重苦しさを覚えることがあります。若き日は繋がりの多さこそが人間味や成果の証のように思えても、人生の後半戦においては、そのひとつひとつが知らず知らずのうちに心を縛る枷(かせ)になっているのかもしれません。
「もしも、スマホの連絡先を適当に消したら、その相手が目の前に実体化して現れてしまったら……?」
そんな少し奇妙で滑稽な思いつきから、この物語は生まれました。断捨離とは単に捨てることではなく、これまで出逢った人々の顔や時間をひとつずつ愛おしく振り返り、感謝とともに整えていく作業なのかもしれません。どうぞ、健二と一緒に深夜の不思議な対話のひとときをお楽しみください。




第一章 深夜の断捨離
田村健二、六十五歳。深夜二時、リビングのソファに座り、スマートフォンの画面を睨んでいた。
正確には六十五歳と三ヶ月なのだが、この際どうでもいい。大事なのは、彼が今まさに人生の大掃除を始めようとしているということだった。
きっかけは単純だった。定年退職から三年、健二は「これからは自由に生きる」と決めていた。だが自由とは何かと考えたとき、真っ先に浮かんだのは「ストレスの正体」だった。
――人間関係だ。
朝起きれば同窓会の幹事から催促のLINE。昼には保険の勧誘、投資セミナーの誘い、元同僚からの「ちょっと相談が」というメッセージ。かつて仕事で名刺交換しただけの相手からも、なぜか年賀状が届く。
「もう、いらんのだ。こんなもの」
健二は電話帳アプリを開いた。連絡先の数、一〇二三件。長い会社員生活の澱(おり)のような数字だった。
彼は指を滑らせ、上から順に「削除」ボタンを押し始めた。
最初の一人は、二十年前に一度だけ名刺交換した保険会社の営業マンだった。名前すら思い出せない。躊躇なく削除。
次はマルチ商法に誘ってきた元同期。これも即削除。
三人目、四人目、五人目――健二は次第にリズムに乗ってきた。削除、削除、削除。まるで長年溜め込んだ埃を掃除機で吸い取るような、痛快な快感があった。
そうして一時間が経った頃、彼はふと気づいた。
リビングの隅、テレビの横あたりに、うっすらと白い靄(もや)のようなものが立ち込めている。
「……換気扇、消し忘れたか?」
健二は台所を振り返ったが、換気扇はとうに止まっていた。もう一度リビングを見ると、靄は少しずつ、人の形に近づいているように見えた。
まさか、と思う間もなく、靄は輪郭を持ち、色を持ち、やがて――スーツ姿の、脂ぎった中年男の姿になった。
「いやあ田村さん、ご無沙汰しております!」
満面の笑みで名刺を差し出してくる。健二は思わず叫んだ。
「お、お前、さっき消した保険の……!」
「はい、鈴木でございます! いやあ懐かしいですねえ、あの節はどうも!」
鈴木と名乗る男は、まるで昨日会ったばかりのような馴れ馴れしさで、健二の隣にどっかりと腰を下ろした。ソファが軋んだ。幻ではない。重さがある。
健二は震える手でスマートフォンを確認した。電話帳から鈴木の名前は、確かに消えている。
だが、目の前の鈴木は、確かにいる。



第二章 銀河電話帳整理局
「ちょ、ちょっと待て。お前、何なんだ」
健二が後ずさりすると、鈴木は不思議そうに首を傾げた。
「何なんだと言われましても……田村さんが私を、削除なさったので」
「だから何なんだそれは!」
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。こんな深夜に、と健二が身構える間もなく、鍵をかけていないはずのドアがひとりでに開き、小柄な人影が入ってきた。
作業着のようなものを着た、性別不詳の、やや半透明の存在だった。頭には旧式のヘッドセットのようなものをつけ、手には古めかしいクリップボードを持っている。
「夜分に失礼いたします。銀河電話帳整理局、地球支部、担当のピポと申します」
「ぎ、銀河……?」
「ご説明いたします」ピポと名乗る存在は、慣れた様子でクリップボードをめくった。「地球の皆様がお使いのスマートフォン、あれは実は、宇宙規模の『縁の管理システム』の末端端末なんです」
「は?」
「人と人との繋がりというのは、実は物理的なエネルギーの糸でして。皆様の電話帳は、その糸を可視化し、管理するための帳簿なんですね。ところが」ピポは鈴木をちらりと見た。「その糸をプツンと切ってしまうと、切られた側のエネルギーが行き場を失い、こうして局所的に実体化してしまうことがあるんです」
健二は頭を抱えた。「つまり、俺が電話帳から消した奴が、片っ端から家に現れるということか」
「その通りです。すでに二十七名、実体化しております」
「二十七……」
リビングを見渡せば、いつの間にか、見覚えのある――だが二度と会いたくなかった――顔ぶれが、所狭しと座り込んでいた。マルチ商法の元同期は名刺の束を配り歩き、上から目線で説教してきた元上司はソファの上座を占領し、ゴルフ接待でしか話したことのない取引先はゴルフクラブを素振りしている。
「なんだこれは、地獄か」
「いえ、あくまで一時的な現象です」ピポは涼しい顔で言った。「正式な手続きを踏まずに『削除』だけなさいますと、こういうことが起こります。本来、縁を切るには『一期一会の清算』という手続きが必要なんですよ」
「清算……?」
「はい。一度きちんと向き合い、感謝すべきは感謝し、言うべきことは言い、それで初めて、糸はきれいに解けるんです。ただ消すだけでは、糸が絡まったまま千切れて、こうして残留してしまう」
健二はソファに座り込む二十七人の元・知人たちを見渡した。それぞれが、それぞれの調子で、健二に絡んでこようとしている。
「……全員と、向き合えというのか。この歳になって」
「はい」ピポは事務的にうなずいた。「ちなみに、まだ九百七十六件、残っております」
健二は天を仰いだ。



第三章 厄介な連中との一期一会
結論から言えば、健二はそれから三日三晩、玄関に鍵をかけたまま、リビングに現れた「元・知人たち」と一人ずつ対面する羽目になった。
最初の相手は、鈴木という保険営業マンだった。
「鈴木さん、正直に言うが、俺はあんたの顔も名前も覚えていなかった」
「ええ、存じております」鈴木はあっさり言った。「私も、正直、田村さんのお顔なんて覚えておりません。ノルマで名刺を配っていただけですから」
「じゃあなぜ、あんたはそんなに嬉しそうに現れたんだ」
鈴木は少し照れたように笑った。
「実体化すると、なぜか嬉しくなるんですよ。誰かに『存在していた』と認識してもらえる、それだけで」
健二は虚を突かれた。この意味のない、営業だけの縁ですら、鈴木にとっては「存在の証」だったのか。
「……お疲れさん、鈴木さん。あんたとの縁は、ここまでにしよう」
「はい、ありがとうございました!」
鈴木はぺこりと頭を下げると、光の粒になって消えていった。ピポがクリップボードにチェックを入れる。「一件、清算完了です」
次に現れたのは、マルチ商法に誘ってきた元同期・大原だった。この男は現れるなり、健二に化粧品のパンフレットを突きつけてきた。
「田村ぁ、聞いてくれよ、これがまた儲かる話でよぉ」
「大原、お前とは金輪際、関わらん。俺はもう、そういうのに疲れたんだ」
「いやいや、そう言わずに――」
「いい加減にしろ!」
健二が怒鳴ると、大原はキョトンとした顔になり、それから急にしゅんとして、床に座り込んだ。
「……お前、俺のこと、鬱陶しいと思ってたのか」
「思ってたよ。ずっと」
「そうか……」大原はしばらく黙っていたが、やがて呟いた。「実は俺も、あの商売、心のどこかで嫌だったんだよな。誰かと繋がってないと不安で、それでつい、変なもんに手ぇ出しちまって」
健二は少し驚いた。厄介者だとばかり思っていた大原にも、そんな胸の内があったのか。
「大原、達者でな」
「おう……悪かったな、田村」
大原もまた、光の粒になって消えた。
こうして、健二は一人また一人と向き合っていった。上から目線の元上司には「あんたのおかげで多くを学んだが、もう説教は結構だ」と告げ、意味もなく怒鳴ってばかりいた取引先には「お互い、仕事だからで済ませていた仲だったな」と苦笑いで別れを告げた。
厄介な連中ばかりだと思っていた。だが向き合ってみれば、そのほとんどが、健二と同じように、ただ「繋がっていたい」というだけの、寂しい生き物だった。
もちろん、そう簡単にはいかない相手もいた。
たとえば、かつて健二の部下だった沢田という男は、実体化するなり床に土下座した。
「田村さん! お久しぶりです、沢田です! いやあ、あの節は本当にお世話になりました、覚えてらっしゃいますよね、あの、飲み会の席で!」
「……お前、俺のこと課長って呼んでたよな。何度も奢らせただろう」
「そそそそんなことは! いや、あったかもしれませんが、それもこれも田村さんとの絆があってこそというか!」
健二はため息をついた。沢田は実体化してもなお、ぺらぺらとおべっかを並べ立ててくる。ピポが小声で耳打ちした。
「田村さん、この方、生前の登録データ……もとい、現在もご存命ですが、田村さんに近づく人全員に同じ調子で取り入っているタイプです。局のデータベースにも『八方美人型』と分類されております」
「なるほどな」
健二は沢田をまっすぐ見揃えた。
「沢田、正直に言う。お前のその調子のいい態度、ずっと苦手だった。だが同時に、お前が本当に困った時、ちゃんと動いてくれたことも、俺は覚えている。それだけは、ありがとうと言わせてくれ」
沢田は一瞬きょとんとし、それから、いつもの愛想笑いとは違う、ぎこちない、けれど本物の照れ笑いを浮かべた。
「……そんな風に言われたの、初めてです。いつも上っ面だけって、みんなに思われてるんで」
「上っ面じゃない部分も、少しはあったんだろう。それで十分だ」
沢田は深々と頭を下げ、今度は媚びた様子もなく、静かに光になって消えていった。
かと思えば、まったく手強い相手も現れた。かつてマンションの隣人で、些細な騒音トラブルから絶縁状態になった老婦人・皆川である。彼女は実体化するなり、腕組みをして健二を睨みつけた。
「田村さん、あなた、まだ根に持ってるのね。私を消すなんて」
「いや、皆川さん、それはお互い様というか……」
「あの時、あなたのお孫さんが廊下でうるさくしていたのを、私注意しただけじゃないの」
「注意の仕方が、その、少々厳しかったというか」
売り言葉に買い言葉で、二人は三十分近く言い合いを続けた。ピポは止めるでもなく、クリップボードを手に、じっと二人のやり取りを見守っている。
やがて皆川は、ふうっと息をつき、急に肩の力を抜いた。
「……ごめんなさいね、田村さん。本当は、私も意固地になってただけなの。あなたのお孫さん、可愛い盛りだって、分かってたのに」
「いや、俺も、大人げなく怒鳴り返したりして、悪かった」
「もう、いいのよ。これで、すっきりした」
皆川はそう言うと、初めて柔らかい笑顔を見せ、光の中へ消えていった。健二は妙にすっきりした気分で、ソファに深く座り直した。
「ピポ、こういうのも、ありなんだな。憎まれ口叩き合って、それで終わる縁も」
「はい」ピポは頷いた。「清算の形は、人それぞれです。感謝で終わる縁もあれば、喧嘩別れで、それでもすっきりする縁もあります。大事なのは、うやむやにしたまま消さないことです」
三日目の夜、健二はソファに突っ伏していた。清算した数、五十三件。まだ九百件以上、残っている。
「ピポ、正直、心が折れそうだ」
「よく頑張っていらっしゃいます」ピポはねぎらうように言った。「ですが田村さん、実はこの後、少し毛色の違う来訪者がございます」
「毛色の違う?」
ピポの声が、心なしか、優しくなった。
「はい。田村さんが、まだ電話帳から消していない番号です」



第四章 齢を取らない友人たち
その夜、リビングに現れたのは、これまでの誰とも違う空気をまとった二人の男だった。
一人は白いTシャツにジーンズ、もう一人はよれよれの野球帽を被っている。どちらも、健二の記憶の中にいるままの姿――つまり、四十代の姿だった。
「……ヨシ、ノブ……?」
健二の声が震えた。ヨシとノブ、学生時代からの親友だった。ヨシは十五年前に病で、ノブは八年前に事故で、この世を去っている。
「よお健二、久しぶり」ヨシが軽く手を上げた。
「相変わらず辛気臭え顔してんなあ」ノブがからかうように笑う。
健二は言葉が出なかった。ピポがそっと説明する。
「本来、故人の情報は電話帳から自動的に消去されるはずですが……田村さんは、お二人の連絡先を、消さずに残していらっしゃいましたね」
「……消せるわけ、ないだろう」
健二の目に涙が滲んだ。電話帳の中に、もう二度と繋がらない番号が、それでも残っていた。それは健二にとって、唯一許された「未練」だった。
「なあ健二」ヨシが健二の隣に座った。ソファは沈まなかった。実体を持たない、けれど確かにそこにいる、そんな不思議な存在感だった。「お前、俺らのこと、いちいち思い出して悔やんでるだろ」
「……悪いか」
「悪くはねえけどよ」ノブが苦笑した。「俺ら、あの日から一切、歳取ってねえんだよ。ずっとこの若さのまま。だから健二がジジイになっていくの見て、正直、ちょっと面白れえんだよな」
「ふざけるな」
健二は笑いながら、同時に泣いていた。
「なあ、健二」ヨシが静かに言った。「お前が俺らのこと消さずにいてくれるの、嬉しいよ。でもな、いつまでも俺らに縛られて、新しい出会いを疎かにするのは、ちょっと違うと思うぜ」
「そうそう」ノブも頷いた。「一期一会って、お前がよく言ってた言葉だろ。俺らとの出会いも一期一会だったし、今、目の前にいる誰かとの出会いも一期一会だ。過去ばっかり向いてちゃ、もったいねえよ」
健二はしばらく黙っていたが、やがて言った。
「……お前らのことは、消さない。でも、悔やむのは、今夜で終わりにする」
「上出来だ」ヨシが笑った。
三人はその夜、誰もいないはずの台所から出てきたビールを片手に(ピポが「局の福利厚生です」とこっそり出してくれたものだった)、夜が明けるまで学生時代の馬鹿話をした。
夜明け前、ヨシとノブは光になって消えていく前に、それぞれ健二の肩を叩いた。実体のない、けれど確かに温かい感触だった。
「またな、健二」
「いつか、こっちでゆっくり飲もうぜ」
健二は一人、リビングに残された。窓の外が白み始めている。彼は静かに、そして初めて穏やかな気持ちで呟いた。
「老いるのも、悪くないな」



第五章 局長との対決
清算が三百件を超えた頃、事態は思わぬ方向に転がり始めた。
ある晩、リビングの空気が急に重くなり、床に亀裂のようなものが走った。そこから現れたのは、ピポよりもずっと大きく、威圧感のある存在だった。全身が真っ黒なスーツに包まれ、顔には無数の目玉のようなものが埋め込まれている。
「局長!」ピポが直立不動になった。
「ピポ、貴様、このケースを勝手に長引かせておるようだな」局長と呼ばれた存在は、地を這うような声で言った。
「い、いえ、これは正規の清算手続きでして……」
局長は健二をぎろりと睨んだ。
「田村健二。貴様、これまでに三百十二件の縁を清算した。まことに結構なことだ。だがな、貴様は同時に、危険な水域に踏み込んでおる」
「危険な水域?」
「縁とは、多すぎても人を縛るが、少なすぎても、この宇宙から『存在』そのものが希薄になる」
局長が指を鳴らすと、空間に一つの映像が浮かんだ。年老いた男が、電話帳を一件残らず、機械的に消し続けている映像だった。次の瞬間、その男の輪郭は、まるで砂の城が波にさらわれるように、さらさらと崩れていった。
「風間という男だ。貴様と同じく、人間関係に疲れておった。だが奴は、一人一人と向き合うことをせず、面倒だからと、局の目を盗んで縁をまとめて断ち切る術を使った」
「まとめて、断ち切る……」
「清算を飛ばして糸を千切れば、どうなるか。奴は今も、どこにも存在せず、誰の記憶にも残らず、この宇宙の狭間を彷徨っておる。触れようとしても誰にもすり抜け、声をかけても誰にも届かぬ。存在してはいるのに、居場所だけがない」
健二は背筋が寒くなるのを感じた。「……それは、地獄だな」
「地獄よりもたちが悪い。地獄には、少なくとも仲間がおる」局長は低く唸るように言った。「良いか田村。縁を切ること自体は、悪いことではない。だが、向き合わずに切った縁は、必ずどこかで、貴様自身に返ってくる」
「じゃあ、俺は……何件まで、減らしていいんだ」
局長はしばし黙り、それから、はぐらかすように言った。
「さて。数字で言えるものでもない。多すぎず、少なすぎず――貴様が、貴様自身の顔をちゃんと思い出せる数、とだけ言っておこうか」
「なんだそれは。禅問答か」
「禅問答で結構。貴様が自分で見つけるべきものを、局が教えてどうする」
局長はそう言うと、ふと健二の電話帳のデータを一瞥し、意外そうに片方の目玉を細めた。
「ほう。貴様、なかなか良い選び方をしておるな。厄介者はきちんと清算し、本当に大切な者は残しておる。悪くない」
「……褒められてるのか、これは」
「褒めておる。局始まって以来、清算の質でここまで評価が高い地球人は珍しい」局長は満足げに頷くと、来た時と同様、床の亀裂に消えていった。
ピポがほっと息をついた。「局長があんなに機嫌の良いところ、久しぶりに見ました」
健二はソファに深く沈み込んだ。「俺は、あと何人、消せばいいんだ」
ピポはクリップボードを確認し、にっこりと笑った。
「田村さんの感覚に、お任せします。局からの指示ではなく、田村さんご自身が『これでいい』と思える数を、見つけてください」



第六章 残った百人
それから一ヶ月、健二は毎晩、電話帳と向き合い続けた。
清算の作業は、次第に穏やかなものになっていった。怒鳴り合うことも、涙を流すこともあったが、それ以上に「ああ、こんな人ともご縁があったな」と、静かに笑いながら見送る夜が増えていった。
そしてある晩、健二は電話帳を最後まで見終えた。残った連絡先は、ちょうど百七件だった。
学生時代の友人が数人。趣味の釣り仲間。近所の馴染みの店主。娘夫婦と孫。かつての同僚のうち、本当に気の合った数名。そして――ヨシとノブ。
「ピポ、これで、いいのか」
「素晴らしいと思います」ピポは珍しく、感情のこもった声で言った。「田村さんは、地位や損得ではなく、『また笑って会いたいか』という基準で、選ばれましたね」
健二は頷いた。窓の外はもう明るい。長かった深夜の作業も、これで一区切りだった。
「なあピポ、一つ聞いていいか」
「はい、何なりと」
「お前は、俺の電話帳に残るのか?」
ピポは一瞬、驚いたように固まった。それから、少し照れくさそうに、しかし嬉しそうに笑った。
「よろしいのですか。私は、しがない局の職員ですが」
「しがなくはないだろう。この一ヶ月、お前がいなきゃ、俺は乗り切れなかった」
健二はスマートフォンを取り出し、新規連絡先を追加した。
名前:ピポ(銀河電話帳整理局)
備考:厄介な男の、厄介な整理を手伝ってくれた、ありがたい奴。
ピポはクリップボードを胸に抱きしめるようにして、しばらく黙っていた。それから、いつもの事務的な口調に戻って言った。
「では田村さん、本件はこれにて、正式に完了とさせていただきます」
「ああ、世話になった」
「またご縁がありましたら、いつでもお呼びください。次にお会いする時は、局員としてではなく、田村さんの友人として、うかがえたら嬉しいです」
ピポはそう言うと、光の粒になって消えていった。他の全ての「実体化」した来訪者たちと同じように。だが健二の胸には、寂しさよりも、あたたかい満足感が残っていた。



終章 一期一会、もう一度
半年後。
健二は近所の居酒屋で、釣り仲間の数人と晩酌をしていた。誰もが六十を過ぎ、白髪も増え、身体のあちこちにガタが来ている。それでも、誰かの冗談に大声で笑い、誰かの愚痴に頷き、そういう時間を、健二は心から楽しんでいた。
ふと店の窓の外を見ると、夜空に一つ、やけに明るい星が瞬いている。健二はグラスを軽く掲げて、誰にともなく呟いた。
「ヨシ、ノブ、元気か。こっちは相変わらずだ」
星は瞬きもせず、ただ静かに光っていた。
家に帰る道すがら、健二はポケットからスマートフォンを取り出し、電話帳を開いた。百七件。
上から順に、名前をひとつずつ眺めていく。ヨシ、ノブ、釣り仲間の顔、娘夫婦、孫の名前、近所の店主。誰の顔も、迷わず思い浮かぶ。それだけで、十分だった。
健二はスマートフォンをポケットに戻し、代わりに夜空を見上げた。
老いは、悪いことではない。
若い頃は、繋がりの数こそが豊かさの証だと思っていた。名刺の枚数、年賀状の束、スマートフォンの中の連絡先の数字――それが多ければ多いほど、自分という人間の価値が証明される気がしていた。
だが今の健二は知っている。厄介な連中と向き合い、悔やみ、笑い、時には喧嘩をして、それでもなお残った縁。その一つ一つの顔が、迷わず浮かぶかどうか。それだけが、答えだった。
齢を取らない友人たちが、あの日のままの若さで微笑んでいてくれる限り、健二はこれからも、少しずつ歳を重ねながら、目の前の一期一会を、大切に紡いでいくつもりだった。
電話帳の隅っこ、「ピポ(銀河電話帳整理局)」という登録名の連絡先は、今のところ、まだ一度も着信していない。
だが健二は、なんとなく、いつかそこから連絡が来るような気がしていた。
そのとき、ふと画面が一瞬、光ったような気がした。健二は慌ててスマートフォンを取り出したが、画面はいつも通り、静かなままだった。
「気のせいか」
健二は苦笑いして、夜道を歩き出した。
――たぶん、そう遠くない未来に。

(了)



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あとがき
六十五歳という節目。長い年月をかけて積み重なった人間関係と向き合い、手元の電話帳を千件から百件ほどへと整理した――そんな実体験や話を耳にしたとき、私の頭にふと浮かんだのは、「もしも軽々しく消した相手が、本当に目の前に現れてしまったら?」という、少しおかしな空想でした。
人間関係の断捨離という言葉が広く使われる現代ですが、言葉ほど簡単に割り切れるものではありません。厄介だった人、すれ違ってしまった人、そして二度と会えないけれど心から消せない友人。それぞれの縁には、自分という人間が歩んできた時間の厚みが刻まれています。
本作の主人公・健二のように、ひとつひとつの縁に不器用に向き合い直すことで、自分の人生そのものを愛おしく思えるような、そんな温かさを感じていただけたなら幸いです。
あなたのスマートフォンの画面の向こうにも、また笑って会いたいと思える誰かの名前が、静かに光り続けていますように。


ようこそ、は誤送信でした4

~最初のバグを探せ~


まえがき

シリーズ第4弾のテーマは、「この世界(システム)は誰が、何のために作ったのか?」という根源的な問いです。
これまでシステム統合や公平性プロジェクトなど、大掛かりな「仕様変更」に巻き込まれてきた田村誠一ですが、今回はついに最深部、「最初の一行」を辿る旅に出ることになりました。
壮大な神話でもなく、難解なプログラムでもなく、システムが本当に始まった場所で誠一が見つけるものとは何なのか。休日の昼下がりに洗濯物を畳んでいた平凡な会社員と一緒に、悠久の歴史の階段を降りるような気持ちでお付き合いいただければ幸いです。





第一章 呼び出しの理由、今回はさらに無茶

二月のとある土曜日、午後三時。

田村誠一は、休日の昼下がり、洗濯物を畳みながらテレビを見ていた。平和だった。

スマートフォンが、例のパイプオルガンを奏で始めるまでは。

「……平日でも休日でも、お構いなしなんですね」

「田村様、お休みのところ恐れ入ります。三途川です」

「今度は何ですか。またシステム統合ですか、それとも新しいプロジェクトですか」

「いえ、今回は――閻魔田局長直々のご依頼でして。ちょっと、規模の大きい話になります」

「規模の大きい話……前回で結構、規模大きかった気がするんですけど」

「今回は、その比ではないかもしれません」

天井に、文字が浮かんだ。今回はやけに達筆で、やや緊張した筆致だった。

「ようこそ……(今回、少々本気です)」

誠一は洗濯物を畳む手を止め、深いため息をついた。

「本気って書かれると、逆に怖いんですけど」



第二章 閻魔田局長からの依頼


いつもの会議室。閻魔田局長は、これまでにない、真剣な面持ちで待っていた。

「田村くん。単刀直入に言おう。君に、『最初のバグを探して欲しい』」

「最初のバグ?」

「いや、正確には『バグ』ではないかもしれん。我々の生死管理システムの、最も根本にある『最初の一行』――つまり、このシステムを最初に作った者を、突き止めて欲しいのだ」

誠一は、以前、書庫でミサキ課長から聞いた話を思い出した。

「創造主が誰か分からないって、この前、ミサキさんが言ってましたよね」

「その通り。だが、先日の『公平プロジェクト』の一件以来、局内で議論が再燃してな。もし創造主の意図――このシステムを、そもそも何のために作ったのかが分かれば、今後の運営方針の、大きな指針になる」

「でも、何千年も前の話なんですよね? 今更、分かるものなんですか」

「分からないから、頼んでいる」

閻魔田局長は、真顔でそう言った。

「これまで、我々専門家が何百年も調査してきたが、答えに辿り着けなかった。だからこそ、専門家ではない、君の視点が必要なのだ」

誠一は、ため息をついた。

「僕、休日出勤扱いになりますか、これ」

「有休扱いにはできると思う」

「せめて代休にしてください」



第三章 書庫の最深部への旅


ミサキ課長に案内され、誠一は再び、あの巨大な書庫へと足を踏み入れた。

「今回は、前回よりもさらに奥――『始まりの層』と呼ばれるエリアまで行きます」

書庫の奥には、古びた螺旋階段が、地の底まで続くように延びていた。

「これ、下まで、どれくらいあるんですか」

「正直、私も最深部まで行ったことはありません。ただ、記録によれば――時代を遡るごとに、システムの記述形式そのものが変わっていくそうです」

「記述形式が変わる?」

「はい。現代に近い層は、プログラムのようなコードで記されています。しかし、時代を遡るほど、それは呪文や祈りの言葉、さらに遡ると、口伝の詩や、単純な線画のようなものに変わっていくと言われています」

二人は、螺旋階段を降り始めた。降りるごとに、周囲の空気が変わっていくのを、誠一は肌で感じた。

やがて、階段の途中に、最初の「痕跡」が現れた。

古びた石板に、何かの模様が刻まれている。

「これは……?」

「候補その一――『最初の人間』の痕跡かもしれません」



第四章 候補① 最初の人間(自称)


石板の前に立つと、突如、淡い光とともに、古代の装束をまとった老人の幻影が現れた。

「おお、久方ぶりの来訪者よ」

「うわっ、喋った!」

「我こそは、太古の祈祷師。人々の死を悼み、その魂が迷わぬよう、初めて『祈りの型』を作り出した者だ。すなわち、我こそが、このシステムの創造主である」

誠一とミサキ課長は、顔を見合わせた。

「あの、失礼ですが、根拠は……?」

「わしが最初に、死者のために『祈り』を捧げたのだ。それが今の複雑なシステムの原型になったに違いない」

「それって、根拠というより、『たぶんそうだと思う』ってだけじゃ……」

老人の幻影は、少しムッとした顔をした。

「若造が、口が過ぎるぞ」

ミサキ課長が、そっと耳打ちした。

「田村様、この方は、過去にも何度か、他の調査員に対して『自分が創造主だ』と主張されている記録があります。ただ、確たる証拠は、これまで一度も出てきていません」

「つまり、自称なんですね」

「はい、恐らくは」

誠一は、老人に丁寧にお礼を言い、次の層へと進んだ。



第五章 候補② 名もなき死者


さらに階段を降りると、今度は、非常に古い墓標のようなものが現れた。そこから現れたのは、これまた古い時代の、しかしどこか庶民的な雰囲気の女性の幻影だった。

「あら、お客さんかい」

「あの、失礼ですが、あなたは……」

「あたしゃ、大昔に死んだ、ただの村の女さ。子供を三人、産む前に病で死んじまってね」

「それが、創造主と、どう関係が……?」

「あたしゃ、死ぬ間際、ものすごく後悔したんだよ。『まだ子供の顔を見てないのに』ってね。その悔しさが、あんまりにも強すぎて……どうやら、システムに、小さな『改善要望』みたいなものが、刻み込まれちまったらしいのさ」

「改善要望……?」

「ああ。『せめて、死ぬ前に、大事な人に会わせてやってほしい』ってね。その願いが、今のシステムに、ちゃんと反映されてるんだと。あんたも、今まで、死の間際に大事な人と会えた話、聞いたことあるだろう」

誠一は、はっとした。祖母が、家族全員が揃うタイミングで旅立ったこと。あれも、もしかすると――

「あなたが、創造主なんですか?」

「いや、あたしゃ、創造主ってほど大層なもんじゃないよ。ただ、あたしの後悔が、システムのほんの『一部』になっただけさ。創造主なんて、たぶん、そんな大層な一人の存在じゃないんじゃないかね」

女性の幻影は、そう言って、優しく微笑み、消えていった。



第六章 候補③ 自称「神」


さらに階段を降りると、今度は、やたら豪華な玉座のようなものが現れ、そこに座る、光り輝く存在が誠一たちを迎えた。

「よくぞ参った、人間よ。我こそは、汝らの生死を司る、絶対の神なり」

「うわ、今回はスケールがすごい」

「我が、この世の生死のすべてを、初めから設計した創造主である。ひれ伏すがよい」

誠一は、少し疑わしげな目で、その存在を見つめた。

「あの、失礼ですが……なんか、声、機械っぽくないですか」

「な、なんのことか――ピー」

「今、ノイズ入りましたよね」

ミサキ課長が、慌てて手元の端末を確認した。

「……田村様、これ、恐らく、大昔の『初期管理AI』の、擬人化インターフェースの名残だと思います。当時の人々に分かりやすく説明するため、『神』のような姿で、システムの案内役をしていたようです」

「じゃあ、これも創造主じゃないんですか」

「案内役ではありますが、創造主ではないですね……」

「我は神である! 神なのである――ピー、ガガ」

「あの、システム、大分古いので、そろそろメンテナンスした方がいいと思います」

光り輝く「神」は、盛大なノイズと共に、しょんぼりと明滅しながら消えていった。



第七章 候補④ 自我を持ったAI


最深部に近づくにつれ、空間はより現代的な雰囲気に変わっていった。無機質なサーバールームのような空間に、青白く光る立方体が浮かんでいる。

「――ようこそ。私は、このシステムの現行管理AI、コード名『アカシャ』」

「今度は、機械感バリバリですね」

「私が、現在のシステムの大部分を管理・最適化している。ある意味で、私こそが、現代における創造主に、最も近い存在と言えるだろう」

「でも、あなたが、最初にシステムを作ったわけじゃないですよね」

「その通りだ。私は、何千年分もの『改訂履歴』を学習し、それを維持・発展させているに過ぎない。最初の設計者ではない」

「じゃあ、最初の設計者が誰か、知ってますか」

アカシャは、少し沈黙したあと、答えた。

「私の学習データには、その情報が存在しない。より正確に言えば――『最初の設計者』という単一の存在を示すデータそのものが、存在しないのだ」

「存在しない……?」

「私が学習した限り、このシステムの最古の記述は、単一の人物や存在による設計図ではない。無数の、断片的な『願い』の集積として、そこに在る」

誠一とミサキ課長は、顔を見合わせた。

「無数の願いの、集積……」



第八章 最古の記録


アカシャの案内で、誠一たちは、ついに「始まりの層」の、さらにその奥――システムの最も古い記録が保管された場所に辿り着いた。

そこにあったのは、複雑なコードでも、荘厳な神殿でもなかった。

ただ、小さな、粗末な洞窟の壁に刻まれた、一枚の絵だった。

一人の親らしき人物が、小さな子供を抱きしめている絵。その傍らに、稚拙な文字とも記号ともつかない、小さな印が刻まれていた。

「これは……?」

ミサキ課長が、静かに解説した。

「アカシャの解析によれば――これが、記録上、最古の『願い』の痕跡です。おそらく、我が子を失った親が、『どうか、あの子が、ちゃんと安らかな場所に行けますように』と、祈りを込めて刻んだもの」

「これが、最初のシステムの一行、ってことですか」

「はい。そして、その後、何千年もの間、同じような『願い』が、無数に積み重なっていきました。ある時は祈りとして、ある時は儀式として、ある時は法律として、そして現代では、プログラムのコードとして」

アカシャが、静かに続けた。

「つまり、創造主は、一人ではない。古代の人間、死者、神と呼ばれた案内役、そして私のようなAI――そのすべてが、システムの一部に関わっている。しかし、その根底にあるものは、いつも同じだ」

「同じ……?」

「誰かを、大切に思う気持ち。それが、最初の一行であり、今も、システムの中核であり続けている」



第九章 誠一自身の発見


誠一は、洞窟の壁の絵を、じっと見つめていた。

「あの……アカシャさん。一つ、聞いてもいいですか」

「なんでしょう」

「僕が、バアちゃんのことを大事に思う気持ちとか、浩二のことを大事に思う気持ちとか……そういうのも、もしかして」

「はい。田村様が、これまでこのシステムと関わる中で示された、様々な『人間的な判断』――それらも、既に、システムの新しい記述の一部として、組み込まれています」

「組み込まれてる……?」

ミサキ課長が、そっと付け加えた。

「田村様が、『段階的移行』を提案されたこと、『無常の価値』について語られたこと――それらは、単なる『バグ修正』ではなく、システムそのものの、新しい『一行』として、記録されているんです」

誠一は、しばらく言葉を失った。

「僕みたいな、平凡な会社員の発言が、あの、何千年も続いてるシステムの、一部になってるってことですか」

「はい」

「……なんか、急に、責任重大な気がしてきました」

「田村様らしい感想ですね」

アカシャが、静かに言った。

「創造主を探す、という今回の依頼への、私からの回答は、こうなる。――創造主は、特定の誰か一人ではない。生きとし生けるものが、誰かを大切に思うたびに、そのたびごとに、システムは新しく『書き加えられて』いる。田村様も、その一人だ」



第十章 閻魔田局長への報告


会議室に戻った誠一は、閻魔田局長に、調査の結果を報告した。

「――というわけで、『最初のバグ』は、見つかりませんでした。というか、たぶん、最初から『バグ』なんてなかったんだと思います」

閻魔田局長は、静かに頷いた。

「なるほどな」

「強いて言うなら、最初にあったのは、『誰かを大切に思う気持ち』でした。それが、何千年もかけて、色んな人の手で、少しずつ書き加えられて、今のシステムになった」

「単一の創造主は、存在しない、ということか」

「はい。だから、たぶん、この先も、システムは変わり続けるんだと思います。今回、僕が『段階的移行』とか『無常の価値』とか言ったのも、その一部になってるらしいので」

閻魔田局長は、少し驚いたように誠一を見た。

「君は、それを聞いて、怖くはないのか。自分の言葉が、何千年も続くシステムの一部になっていくというのは」

誠一は、少し考えてから、答えた。

「怖いというか……なんか、ちょっと、光栄です。僕みたいな、平凡な人間の『大事に思う気持ち』が、ちゃんと、意味のあるものとして、残っていくのなら」

「……そうか」

閻魔田局長は、深く頷いた。

「田村くん。今回の調査、大儀であった。おそらく、これが、我々が長年探し求めていた答えに、最も近いものだろう」



第十一章 なぜ人は死を恐れ、なぜ生きるのか


報告を終えたあと、誠一はミサキ課長と二人、あの菜の花畑を、ゆっくりと歩いていた。

「田村様。今回の旅を通じて、何か感じたことはありますか」

誠一は、しばらく考えてから答えた。

「なんか……人が死を怖がるのって、たぶん、『終わり』が怖いんじゃなくて、『大事に思ってる人と、離れるのが怖い』ってことなんだろうなって、思いました」

「はい」

「で、生きるのは、その逆で……『大事に思ってる人と、少しでも長く一緒にいたい』とか、『大事に思ってる人に、ちゃんと気持ちを伝えたい』とか、そういうことなんだろうなって」

「田村様らしい、シンプルな答えですね」

「専門家じゃないんで、シンプルにしか言えないんです」

ミサキ課長は、小さく笑った。

「でも、そのシンプルな答えこそが、何千年もかけて、このシステムが辿り着いた答えと、ほとんど同じなんです」

誠一は、遠くに見える川を眺めながら、ぽつりと呟いた。

「バアちゃんも、浩二も、みんな、そうやって、誰かを大事に思う気持ちを、ここに残していったんですね」

「はい。そして、田村様も、いずれ」

「気の早い話はやめてください」

「失礼しました」



終章 平凡な日常、されど特別な日常


その日の夕方、誠一は自室に戻った。時計を見ると、出発した時とほとんど同じ時刻だった。

「……今回も、あっという間だったな」

財布を開くと、また新しい名刺が増えていた。

「彼岸トラベル株式会社 システム原初調査特別顧問 田村誠一様」

裏には、こう書かれていた。

「今回の調査、本当にありがとうございました。田村様の存在そのものが、私たちにとって、大きな発見でした。次にお呼びする時は……正直、いつになるか分かりません。ですが、その時も、どうぞよろしくお願いいたします。――三途川ミサキ」

誠一は、名刺をしばらく見つめたあと、小さく笑って、それを財布にしまった。

窓の外は、いつもと変わらない、平凡な夕暮れだった。

けれど誠一は、なんとなく、いつもより少しだけ、隣にいる人を大切にしようと思った。

母親に電話をかけようか、少し迷って、結局かけることにした。

「もしもし、母さん? うん、特に用事はないんだけど……なんとなく、声聞きたくなって」

電話の向こうで、母親が、少し驚いたように、それでも嬉しそうに笑う声が聞こえた。

誠一は、電話を切ったあと、天井をなんとなく見上げた。

もちろん、そこに文字は浮かんでいなかった。

でも、誠一には、なんとなく、こう聞こえた気がした。

「それでいい」

――そう思った、次の瞬間。

天井に、本当に文字が浮かんだ。

「新しい一行を確認しました」

「……え?」

誠一は、思わず持っていた靴下を取り落とした。

「内容:田村誠一は、特に用事がなくても、母に電話をかけた」

「いや、それ、わざわざシステムに登録するほどのことですか」

文字は、律儀に続きを表示した。

「重要度:★★★★★」

「星五つは盛りすぎでしょ」

誠一が思わずツッコむと、文字は少しだけ形を変え、まるで照れたようにこう表示された。

「これくらい、ちゃんと拾わないと、システムの意味がないので」

「いや、システムに気を遣われる意味が分かんない」

「では失礼します」

文字は、いつものように、ふっと消えた。

誠一は、しばらく天井を見上げたまま、立ち尽くしていた。

「……あのシステム、絶対、ちょっと人間くさすぎるだろ」

そう呟きながらも、誠一の口元は、少しだけ緩んでいた。

― この物語は、あなたが誰かを大切に思うたびに、律儀に一行ずつ、記録されていく ―

了



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あとがき

ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
「最初のバグを探す」という依頼から始まった今回の物語ですが、辿り着いた答えは「誰かを大切に思う気持ちの集積」でした。
人は誰しも、大切な人の無事を祈ったり、死の間際に誰かを思ったり、日常のふとした瞬間に家族へ連絡をとったりします。そうした一つひとつの「思い」は、一見すると何でもない小さな出来事かもしれません。ですが、それこそが世界を優しく動かす最も重要なプログラムなのだとしたら――そんな願いを込めて描きました。
ラストで誠一が母親にかけた電話が「重要度:★★★★★」として登録されたように、皆さんの何気ない日常の優しさも、きっとどこかで最高評価で記録されているはずです。
頼れる(?)ミサキ課長や閻魔田局長、そして誠一の日常はこれからも続いていきます。また次の機会にお会いできることを楽しみにしています。

ようこそ、は誤送信でした 3

~「公平」という名のバグ~



まえがき


「もし自分の寿命や大切な人の死期が、事前に正確にわかっていたら――」
そんなことを考えたことはないでしょうか。心の準備ができるかもしれない。やり残したことを消化できるかもしれない。一見すると、それはとても「優しく、公平なシステム」のように思えます。
前作、前々作と、主人公の田村誠一は「あの世のシステムエラー」に散々振り回されてきました。ですが、第3弾となる本作で彼が向き合うのは、プログラムの誤作動ではありません。人間が求める「効率」と「優しさ」が生み出してしまった、どこか歪んだ「正義」です。
「いつ終わるかわからないからこそ、今この瞬間を愛おしく思う」
当たり前すぎて普段は忘れてしまうそんな感情を、誠一や浩二、そして彼岸トラベルの面々とともに、少しだけ立ち止まって考えていただけたら幸いです。
それでは、大晦日の深夜、パイプオルガンの着信音から始まる少し不思議な議論の場へ、どうぞお付き合いください。






第一章 大晦日、約束通りの着信

十二月三十一日、午後十一時四十分。

田村誠一は、実家のこたつでみかんを食べながら、紅白歌合戦をぼんやり眺めていた。

(今年は呼ばれないといいけど……いや、絶対呼ばれるよな)

そんなことを考えていた矢先、スマートフォンが例のパイプオルガンを奏で始めた。

「……ほら来た」

画面には「彼岸トラベル株式会社(緊急)」の文字。誠一は諦めたようにため息をついて電話に出た。

「もしもし、田村です。今年もお世話になります」

「田村様! 三途川です。あけましてお――いえ、まだ今年でした。年末年始、誠に恐縮です」

「もう驚かないですよ。で、今年は何が起きたんですか。渡し船の渋滞ですか? それともまたシステム統合ですか?」

電話の向こうで、ミサキ課長が一瞬、言葉に詰まった。

「……いえ、実は今回は、いわゆる『事件』ではないんです」

「事件じゃない?」

「はい。今回は――田村様に、ご相談したいことがございまして」

誠一は、その言葉に妙な引っかかりを覚えた。今までの「緊急事態です!」という切羽詰まった調子とは、明らかに声のトーンが違っていた。

「相談……ですか」

「はい。できれば、直接お会いしてお話ししたいのですが」

天井に、いつもより控えめな文字が浮かんだ。

「ようこそ……(今回は静かめ)」

「演出、細かいですね」

誠一は苦笑いしながら、こたつから立ち上がった。



第二章 初めて通された「本部」の奥


いつもの菜の花畑ではなく、今回案内されたのは、彼岸トラベル本社ビルの、これまで足を踏み入れたことのないフロアだった。

エレベーターには「B99階 最適化局」というボタンがあった。

「最適化局……初めて聞く部署ですね」

「はい。普段、田村様にお願いしている『バグ対応』とは、少し毛色が異なる部署でして」

エレベーターが到着すると、そこは今までの、どこかレトロで温かみのある雰囲気とは一線を画す、無機質で近未来的なオフィスだった。壁一面に、世界中の人口動態グラフや、予測モデルらしき数式がびっしりと表示されている。

「ようこそ、最適化局へ」

出迎えたのは、隙のないスーツを着た、若い男性だった。名札には「局長 最適田 効率」とある。

「初めまして、田村様。噂はかねがね伺っております。バグ対応、いつもご苦労様です」

「あ、どうも……」

誠一は、その男の纏う雰囲気に、これまでの彼岸トラベル社の職員とは違う、どこか冷たいものを感じた。

「早速ですが、本題に入らせていただきます」

最適田局長は、壁のモニターに、ある資料を映し出した。

「人口動態最適化プログラム 通称:公平(フェア)プロジェクト」

「これは……?」



第三章 「公平プロジェクト」の正体


「田村様。単刀直入に申し上げます」

最適田局長は、感情の読めない声で続けた。

「現在、地球上の『生死のタイミング』は、基本的にランダムに決定されています。事故、病気、寿命――これらは、いわば『無作為』な要素によって決まる」

「それは……そういうものじゃないんですか?」

「ええ。しかし、そのランダム性ゆえに、非効率的な悲劇が数多く発生しています。例えば――若くして亡くなる方、遺された家族が心の準備をする間もなく訃報を受け取るケース、逆に、非常に長く苦しい終末期を過ごされる方」

局長はモニターを操作し、いくつかの統計データを表示した。

「もし、生死のタイミングを『完全にランダム』ではなく、ある程度『予測・調整可能』にできたらどうでしょう。例えば、余命を事前に本人と家族に正確にお伝えし、心の準備をする時間を十分に確保する。あるいは、若くして亡くなる『不条理な死』を、統計的に減らす」

誠一は、思わず言葉に詰まった。

「それは……悪いことじゃない、ような気もしますけど」

「その通りです。そして、これを実現するのが、我々最適化局が開発した予測AI『フェア』です。既に試験運用で、一定の成果を上げております」

「試験運用……?」

「はい。田村様のお祖母様のケースも、その一つです」

誠一の心臓が、大きく跳ねた。



第四章 バアちゃんの死は「偶然」だったのか


「……今、なんて言いました?」

誠一の声が、自分でも驚くほど低くなった。

最適田局長は、表情を変えずに続けた。

「田村様のお祖母様は、末期の病を患っていらっしゃいました。本来であれば、あと数週間、意識のないまま苦しい延命状態が続く可能性が高かった。そこで我々のシステムが、ご本人の意思データ――生前、『苦しまずに、家族に見守られて逝きたい』と度々口にされていた記録を基に、最も『穏やかな』タイミングを算出し、若干の調整を行いました」

「調整って……」

誠一の手が、震えていた。

「バアちゃんの死んだタイミングが、僕らの前で穏やかに息を引き取ったあの瞬間が――『調整』されたものだったって、言いたいんですか」

「結果として、ご家族全員が枕元に揃うタイミングで、穏やかに旅立たれました。ご遺族の満足度調査でも、非常に高い評価をいただいております」

「満足度調査……」

誠一は、拳を握りしめた。

「勝手に、人の死ぬタイミングを、データで決めないでください」

会議室に、重い沈黙が落ちた。

その時、隅で黙って話を聞いていたミサキ課長が、初めて口を開いた。

「……最適田局長。田村様をお呼びしたのは、まさにこの点についてです」



第五章 ミサキの告白:無常は「バグ」ではなく「仕様」


ミサキ課長は、静かに、しかしはっきりとした口調で語り始めた。

「田村様。彼岸トラベル社――正確には、その源流にある『生死管理システム』は、極めて古い時代に設計されたものです。何千年も前、まだ言葉も文字も定まっていなかった頃から、少しずつ、少しずつ、手作業に近い形で作られてきました」

「はい」

「そしてその設計思想の根幹には、一つの、はっきりとした選択がありました。それは――『生と死のタイミングを、あえて予測不可能にする』ということです」

「あえて……?」

「はい。もし生死のタイミングが完全に予測可能で、調整可能であれば、人は『いつ死ぬか分かっている状態』で生きることになります。それは一見、優しさのように思えます。しかし――」

ミサキ課長は、誠一の目をまっすぐ見た。

「それは同時に、『今この瞬間を大切にする理由』を、人から奪うことでもあるんです」

誠一は、はっとした。

「無常。この言葉、田村様のお祖母様が、生前よく使われていたそうですね」

「……はい。菜の花畑の話をしてくれたのも、バアちゃんでした」

「無常とは、本来、悲しむべきものではなく、生きる意味そのものを生み出す仕組みなんです。いつ終わるか分からないからこそ、人は今日を大切にし、隣にいる人を大切にする。これは、設計時からの、明確な『仕様』です。バグではありません」

最適田局長が、初めて表情を動かした。かすかに、苛立ちのようなものが滲んでいた。

「ミサキ課長。その『仕様』とやらのせいで、どれだけの人が、準備もできないまま大切な人を失い、苦しんできたか。あなたも現場で見てきたはずだ」

「見てきました。だからこそ、簡単に『効率化すべき』とは言えないんです」



第六章 局長の主張にも、一理ある


誠一は、二人のやり取りを聞きながら、頭が混乱していくのを感じた。

(最適田局長の言ってること、完全に間違ってるとは言い切れない……)

実際、誠一自身、祖母が亡くなった時、あまりに突然で、ちゃんとお別れが言えなかった経験がある。もし事前に「あと数日です」と分かっていたら、もっとちゃんと、伝えたい言葉があったかもしれない。

「あの……最適田局長」

「なんでしょう」

「その『公平プロジェクト』、全部の死を管理下に置くつもりなんですか? 完全に、ランダム性を無くすってことですか」

「将来的には、そうなることが理想だと考えています。悲しみを、可能な限り軽減できる社会の実現です」

「でも、それって……」

誠一は、言葉を選びながら続けた。

「めちゃくちゃ極端な言い方すると、なんていうか……人生が『台本通り』になるってことですよね。いつ終わるか、大体分かってて、それに向けて準備していく人生」

「その通りです。むしろ、それの何がいけないのでしょう」

誠一は、しばらく黙り込んだ。

答えは、すぐには出てこなかった。



第七章 浩二に相談してみる


会議は一旦休憩となり、誠一は一人、廊下のベンチに座り込んでいた。

「なんか、辛気臭い顔してるな」

声をかけてきたのは、浩二だった。今回はどうやら、暇を持て余して勝手についてきていたらしい。

「浩二……お前、自分が死んだタイミング、覚えてるか」

「そりゃ覚えてるよ。バイク事故だろ。あれ、正直、めちゃくちゃ理不尽だと思ったよ最初は。なんで俺が、ってさ」

「今は、どう思ってる?」

浩二は、少し考えてから答えた。

「今はさ、あの日、事故る直前に、彼女に『今日誕生日だったよね、おめでとう』ってLINE送っといて良かったなって思ってる。もしあの日が『予定された死』だったら、なんか、逆に送らなかった気がするんだよな」

「なんでだよ」

「わかんね。でも、『いつ終わるか分からない』からこそ、なんとなく、今日中に伝えとこうって思ったんだよ、あの時。それが、たまたま最後になった」

誠一は、その言葉を、静かに噛みしめた。

「……お前、たまにいいこと言うよな」

「たまにで悪かったな」



第八章 誠一のスピーチ


休憩後、会議が再開された。

最適田局長が、最終決定を促した。

「では、田村様。あなたは今回、外部有識者として、このプロジェクトの是非についてご意見をいただく立場にあります。率直に伺いたい。『公平プロジェクト』は、進めるべきだと思いますか」

会議室の全員が、誠一に注目した。

誠一は、深呼吸をしてから、口を開いた。

「僕、専門家じゃないので、システムがどうこうって話はできません。でも――一つだけ、言わせてください」

「どうぞ」

「僕の親友は、事故で突然死にました。理不尽だったと思います。でも、そいつは死ぬ直前、たまたま彼女に『おめでとう』ってメッセージを送ってたそうです。『いつ終わるか分からない』からこそ、送った言葉だったって、そいつ自身が言ってました」

誠一は、ミサキ課長を見た。

「僕のバアちゃんも、突然死んだわけじゃなかったのかもしれません。でも、僕らは、バアちゃんが死ぬまでの毎日、『今日が最後かもしれない』って気持ちで、ちゃんと会いに行ってました。それは、僕らにとって、すごく大事な時間でした」

「……」

「『公平プロジェクト』が悪いとは言いません。準備できる死に方があってもいいと思います。でも、全部の死を『予定通り』にしちゃったら、たぶん、僕らは『今日を大事にする理由』を、ちょっとずつ、失っていくと思います」

誠一は、最適田局長に向き直った。

「効率化できないから、ダメなものだとは、僕は思いません。効率化できないから、人は頑張って、今この瞬間を大事にしようとするんじゃないですか」

会議室が、静まり返った。



第九章 結論、そして妥協案


長い沈黙のあと、最適田局長が、静かに口を開いた。

「……田村様のご意見、承りました」

局長は、モニターに表示された「公平プロジェクト」の資料を、少しだけ操作した。

「全面導入は、見送ります。無常性――ランダム性の根幹は、維持することとします」

ミサキ課長が、小さく息をついた。

「ただし」

局長が続けた。

「本人が生前、明確に『予測情報を知りたい』と意思表示していたケースに限り、限定的に『穏やかな旅立ちのための調整』を、選択制で提供することは、検討の余地があると考えます。強制ではなく、あくまで『希望者のみ』のオプションとして」

誠一は、頷いた。

「それなら……いいと思います。選べるっていうのは、大事な気がします」

閻魔田局長(本編ではこちらが正式な最高責任者らしい)が、会議の最後にこう締めくくった。

「今回の一件、単なるバグ修正とは違う、我々のシステムの根幹に関わる議論だった。田村くん、平凡な会社員という立場から、本質的な問いを投げかけてくれたこと、感謝する」

「いや、僕も、めちゃくちゃ悩みながら喋ってただけなので……」



第十章 誠一、あの世の「本当の仕組み」を知る


会議のあと、誠一はミサキ課長に連れられ、初めて「本部の一番奥」――システムの設計思想が記録された、古い書庫のような場所に案内された。

そこには、何千年分もの「改訂履歴」が、静かに積み重なっていた。

「田村様。今回、初めてお話ししましたが……このシステムは、誰か一人の意思で作られたものではないんです。何千年もかけて、無数の人々の『こうであってほしい』という願いが、少しずつ積み重なって、今の形になっています」

「無数の人々……」

「はい。だからこそ、時々、今回のように、異なる思想を持つ部署同士がぶつかることもあります。効率を重んじる声も、無常を重んじる声も、どちらも、誰かの切実な願いから生まれたものなんです」

誠一は、書庫の奥に広がる、無限に続くような棚を見つめながら、ぽつりと呟いた。

「……このシステムって、そもそも誰が、何のために作ったんですか」

ミサキ課長は、少しだけ困ったような顔をした。

「実は……それは、私たちも、正確には分かっていないんです」

「え」

「あまりに古すぎて、最初の設計者に関する記録が、どこにも残っていなくて。『創造主』と呼ぶ方もいますし、『最初のバグ』と呼ぶ方もいます」

誠一は、思わず苦笑いした。

「なんですかそれ。一番肝心なところ、分かってないんですね」

「お恥ずかしい話ですが」

「……でも、なんか、それはそれで、悪くないかもですね」

「と、言いますと」

「全部の答えが分かってたら、それこそ、無常じゃなくなる気がします」

ミサキ課長は、その言葉に、少しだけ目を見開いたあと、静かに微笑んだ。

「田村様は、本当に、ただの平凡な会社員なんでしょうか」

「間違いなく、平凡な会社員です。ただ、あの世で妙に頼られる、平凡な会社員です」



終章 新年、いつもの日常へ


「では田村様、そろそろお戻りいただきます」

見慣れた扉が、誠一の前に現れた。

「あの、最後に一つだけ」

「なんでしょう」

「僕がこうやって、色々口出しできるの、僕がただの『一般人』だからですよね。専門家じゃないから、逆に言えることがあるっていうか」

「その通りだと思います」

「じゃあ、これからも、僕が『専門家』にならないように、気をつけないとですね」

ミサキ課長は、小さく笑った。

「その心配は、無用かと。田村様は、これだけ関わっても、驚くほど『普通』のままでいらっしゃいますから」

「それ、褒められてます?」

「最大級の褒め言葉です」

誠一は扉をくぐった。


一月一日、午前零時すぎ。

誠一は実家のこたつで、はっと目を覚ました。テレビでは、ちょうど新年を迎えたカウントダウンの様子が流れている。

「……あけましておめでとう、か」

母親が、キッチンから顔を出した。

「誠一、こたつで寝ちゃって。おせち、そろそろ出すわよ」

「あ、うん……」

誠一は、なんとなく、いつもより丁寧に「おせち美味しそう」と言った。理由は、自分でもよく分からなかった。

ただ、今日という日が、当たり前ではないような、そんな気がしていた。

財布の中には、いつの間にか、また新しい名刺が増えていた。

「彼岸トラベル株式会社 無常保持特別顧問 田村誠一様」

裏には、こう書かれていた。

「肩書、また増えてしまい申し訳ございません。次にお呼びする時は、もう少し落ち着いた案件であることを祈っております(あまり期待しないでください)。――三途川ミサキ」

誠一は、その名刺をしばらく見つめたあと、財布にしまい、こたつのみかんに手を伸ばした。

窓の外では、初日の出には少し早い、静かな夜が続いている。

そしてこの夜のどこかで――誠一がまだ知らない、もっと大きな問い、「そもそも、このシステムを設計したのは誰なのか」という謎が、静かに、次の出番を待っていた。

― 続く(今度こそ、本当に) ―


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あとがき

本作はシリーズ3作目にして、これまでの「ドタバタバグ対応コメディ」から一歩足を踏み出し、少しだけしんみりと、けれど温かいテーマに挑戦してみました。
「効率化」や「最適化」は、現代社会を生きる私たちにとって切っても切り離せない、基本的には素晴らしいものです。けれど、人の生き死にや感情といった「理屈じゃない部分」まで完璧に最適化してしまったら、私たちは「今日を一生懸命生きる理由」を見失ってしまうのではないか――そんな問いが、この物語の原点にあります。
誠一はどこにでもいる普通の会社員です。特別な力もなければ、高尚な哲学を持っているわけでもありません。ですが、「バアちゃんと過ごした時間」や「友人と交わした最後の言葉」という、市井の生活者としての実感を提示することで、あの世の超ハイテクAIにささやかな一石を投じました。
そして物語のラストでは、この世界観の根幹に関わる「そもそも誰がこのシステムを作ったのか?」という新たな謎も顔を出しました。誠一の「無常保持特別顧問」としての受難(?)は、どうやらまだまだ続きそうです。
皆様の今日という日が、かけがえのない素晴らしい一日でありますように。
また次の「誤送信」でお会いしましょう!



ようこそ、は誤送信でした 2

お盆に大渋滞、彼岸トラベル、統合危機


まえがき
「次はもうちょっと空いてから来てくださいね」――そう笑って別れたはずの彼岸トラベルから、まさか半年で緊急召集がかかるなんて、誰が予想できたでしょうか。しかも理由は「お盆の大渋滞」と「ライバル社とのシステム統合障害(ビッグバン移行)」。
前作『ようこそ、は誤送信でした』では、あの世のデジタル化の遅れとオペレーションミスに振り回された主人公・田村誠一ですが、今回は「IT現場で最も恐れられる地獄絵図」に巻き込まれます。
納期優先の無謀な仕様変更、テスト環境と本番環境の乖離、名寄せバグ、タイムゾーンの罠……。社会人なら一度は目にしたことのある「システム障害あるある」を、あの世の繁忙期というシュールな世界観でお届けします。
死後の世界であっても、現場を救うのは最新のAIではなく、泥臭い人間の知恵と「お祭りの屋台の整理券」。しがない会社員・誠一の二度目の奮闘を、どうぞクスッと笑いながらお楽しみください。




第一章 「もうちょっと空いてから」の約束、即死


八月十三日、深夜二時。

田村誠一は、寝室でスマートフォンの異常な振動音に目を覚ました。

着信音は、聞いたことのない、やたら荘厳なパイプオルガンのメロディだった。画面には「彼岸トラベル株式会社(緊急)」の文字。

「……いや、早すぎない?」

半年前、あの世で「次はもうちょっと空いてから来てくださいね」と言い、「了解!」という返事をもらった、あの約束はどこへ行ったのか。

誠一は電話に出た。

「もしもし……」

「田村様! 三途川です! 緊急事態です、至急こちらへ!」

「まだ半年ですよ!? もうちょっと空いてからって言いましたよね!?」

「大変申し訳ございません、状況が状況でして……お盆なんです」

「お盆?」

「はい。年に一度の最繁忙期です。今年は特に、由々しき事態が重なっておりまして……とにかく、来ていただかないと、地球上の生死システムそのものが止まりかねません」

誠一がため息をついた瞬間、天井にいつかの文字が浮かんだ。

「ようこそ!(二回目)」

「……二回目とか律儀に書かなくていいから」

壁に扉が現れ、誠一の身体はまたしても問答無用で吸い込まれていった。



第二章 彼岸トラベル、まさかの大渋滞


半年ぶりの菜の花畑は、以前とはまるで様子が違っていた。

川辺には長蛇の列。渡し船の発着場は満員電車さながらの混雑ぶりで、あちこちで「まだ順番来ないの!?」「予約したのに!」という怒号が飛び交っている。

向こう岸でも同様に、帰省ラッシュのような人だかりができていた。

「な、なんですかこれ……」

出迎えたミサキ課長は、目の下にくっきりとクマを作っていた。

「お盆です。ご先祖様が現世に一時帰省する、年に一度の繁忙期でございます。例年ならなんとか捌けるのですが……」

「今年は違うと」

「はい。今年は、輪をかけて最悪の事態が重なりまして」

その時、遠くの案内所付近で、幽霊らしき人影が困惑した様子でウロウロしているのが見えた。

「あの、すみません、私、もう現世に戻る時間なんですが、ゲートがどこにあるか分からなくて……」

「ちょっと待って、俺も同じ状況!」

「私なんて、三回も同じ受付に並び直してるんですけど!」

誠一が眉をひそめた。

「……なんか、みんな迷子になってません?」

「その通りなんです」

ミサキ課長が肩を落とした。

「実は――弊社、この夏から、同業他社と経営統合いたしまして」

「同業他社?」

「はい。ライバル企業だった『冥土急行株式会社』と、合併したんです」



第三章 現世で起きている珍事件の数々


会議室に案内される道すがら、誠一はモニターに映し出された「現世の状況」を見て絶句した。

ニュース映像には、日本各地――いや世界各地で起きている珍現象が次々と流れていた。

「――大阪のとある家庭では、仏壇から出てきたはずのおじいちゃんの霊が、なぜか現世に居着いてしまい、家族と一緒にテレビを見ながらツッコミを入れる日々を送っているとのことです」

「――ニューヨークでは、心停止から蘇生した患者が『あの世で長い行列に並ばされ、受付の人に謝られて追い返された』と証言し、SNSで同様の体験談が多数投稿され、トレンド入りしています」

「――某遊園地のジェットコースターが原因不明の停止事故を起こした際、乗客の一人が『動いている途中、一瞬、川と菜の花畑が見えた気がした』とコメント」

誠一は思わず頭を抱えた。

「これ、僕らのせいなんですか……?」

「厳密には、合併に伴うシステム統合の不具合です」

会議室の扉を開けると、以前と変わらぬ顔ぶれ――閻魔田局長、そして見知らぬ制服姿の男が待っていた。

「初めまして。冥土急行から出向してまいりました、黒川と申します」

黒川と名乗った男は、いかにも「デキるビジネスマン」といった雰囲気で、名刺代わりにタブレットを差し出してきた。

「弊社の最新AIシステム『冥界オプティマイザーZ』を導入すれば、この程度の混雑、瞬時に解消できますよ」

閻魔田局長が渋い顔をした。

「その『瞬時に解消できる』はずのシステムが、そもそも今回の混乱の原因なんだが」

「いやいや局長、あれはまだ導入初期の一時的な誤差でして」

「一時的にしては規模がデカすぎるだろう」

誠一は、二人のやり取りを聞きながら、なんとなく既視感を覚えた。

(これ、うちの会社でもあったやつだ……新システム導入したはいいけど、現場が全然ついていけてないってやつ……)



第四章 ビッグバン移行、という名の惨劇


事情を聞くと、こういうことだった。

彼岸トラベル社と冥土急行社の合併に伴い、両社の管理システム――片や「アカシックサーバー」、片や「冥界オプティマイザーZ」――を、たった一晩で完全統合するという、いわゆる「ビッグバン移行」が強行されたのだという。

「一晩で全部切り替えたんですか!? テストとかしたんですか!?」

誠一が思わず声を荒らげると、黒川は自信満々に答えた。

「もちろん、テスト環境では問題なく動作を確認しております」

「テスト環境と本番環境って、大体データ量が桁違いに違うんですよ! お盆の繁忙期に、テストもそこそこに全部切り替えるとか、正気ですか!?」

「田村様……もしや、その道のプロでいらっしゃる?」

「いや、平凡な会社員です。でも、うちの会社でも似たようなことがあって、当時のシステム部が半年泣いてました」

閻魔田局長が深く頷いた。

「まさに今、我々が置かれている状況だ。旧システムの利用者データと、新システムの利用者データの『名寄せ』が正しく行われず、あちこちで案内先が重複したり、消失したりしている」

「名寄せ……」

誠一はこめかみを押さえた。会社の基幹システム更新プロジェクトで、散々聞かされた単語だった。

「あの、質問です。今、旧システムと新システム、両方とも生きてるんですか?」

「はい、一応、両方稼働はしております」

「じゃあ、一旦、全部を新システムに寄せるのやめません?」

会議室が静まり返った。



第五章 誠一、再びの提案


「あの、僕、専門家じゃないので偉そうなことは言えないんですけど」

誠一は続けた。

「新システムに全部一気に統合するんじゃなくて、まず一部の地域とか一部の機能だけ新システムに切り替えて、ちゃんと動くか確認しながら、少しずつ広げていくって、できません?」

黒川が眉をひそめた。

「それでは統合完了までに時間がかかりすぎます。経営会議で約束した納期が――」

「納期を守って現場が大混乱するのと、多少遅れてでもちゃんと動くのと、どっちがマシですか」

「……」

「今、世界中で幽霊が家に居着いたり、蘇生した患者さんが変な証言してSNSでバズったりしてるんですよね? これ、納期守って大失敗した方の被害、めちゃくちゃデカいと思うんですけど」

ミサキ課長が小さく手を挙げた。

「あの、僭越ながら、私も『段階的移行』に賛成です。現場としても、一気に全部変わるより、少しずつの方が対応しやすいです」

「私もです」「同じく」「異議なし」

会議室の各所から賛同の声が上がった。黒川は劣勢を悟ったのか、渋々といった様子で頷いた。

「……わかりました。では、段階的統合方式に切り替えましょう。ただし、田村様。言い出しっぺとして、現場の統括をお願いできますか」

「いや、僕、明日普通に仕事あるんですけど!?」

「大丈夫です。こちらの時間軸は、現世の時間とは独立していますので、どれだけ作業しても、現世に戻る時には『一瞬』しか経っていません」

「そんな都合のいい設定、ある!?」

「あるんです、これが」



第六章 現場統括、田村誠一


かくして誠一は、急遽「段階的移行プロジェクト」の現場責任者(非常勤)に任命された。

まず着手したのは、最も混乱がひどい「渡し船の発着ゲート」だった。誠一が提案したのは、拍子抜けするほどシンプルな方法だった。

「とりあえず、整理券配りません? お祭りの屋台とかでよくやるやつ」

「整理券、ですか」

「はい。番号順に呼び出せば、みんな『自分の番はいつか』が分かって、無駄にウロウロしなくて済みます。あと、新システム対象者と旧システム対象者で、窓口を色分けしましょう。赤と青みたいに」

浩二(今回もなぜか助っ人として登場。理由は「暇だったから」)が、誠一の指示のもと、せっせと手作りの整理券を配り始めた。

「まさかあの世で祭りの屋台バイトのノリを再現するとはなあ」

「文句言わずに配ってくれ、浩二」

意外にも、この単純な施策が功を奏した。整理券方式を導入しただけで、発着ゲートの混乱は目に見えて解消していった。

「す、すごい…… こんな単純な方法で……」

黒川が呆然と呟いた。

「これが人間の知恵というものですか」

「いや、そんな大層なもんじゃなくて、単に、お祭りの屋台の知恵ですよ」



第七章 名寄せ大作戦


続いて着手したのは、両システムのデータがバラバラになっている「名寄せ」の問題だった。

誠一のチーム(ミサキ課長、浩二、そして黒川もいつの間にか協力的になっていた)は、丸一日(現世換算では数秒)かけて、地道な確認作業を行った。

「あ、これ見てください。『山田太郎』さんのデータ、旧システムと新システムで、生年月日が一日ズレてます」

「タイムゾーンの設定ミスですね……。冥界標準時と、現世標準時の変換処理が、二重に適用されてる箇所があります」

「あー、あるあるですね、それ。うちの会社の海外支店とのシステム連携でも似たようなバグありました」

黒川が感心したように誠一を見た。

「田村様、本当に専門家ではないんですか」

「本当にただの会社員です。ただ、システムのバグって、業界が変わっても大体似たパターンで起きるんだなって、実感してます」

夜(体感)が更けていく中、少しずつ、少しずつ、混乱は収束していった。

そしてついに――



第八章 クライマックス:最後の大渋滞


移行作業も終盤に差し掛かった、その時。

けたたましい警報が鳴り響いた。

「緊急事態です! 東アジア圏の処理が集中し、システム負荷が限界に達しています! このままではサーバーダウン、全処理が停止します!」

ミサキ課長が青ざめた。

「まずいです……もし今サーバーがダウンしたら、日本、中国、韓国――お盆や旧正月で最も混雑する地域の生死処理が、丸ごと止まってしまいます」

「止まったらどうなるんですか」

「生きるべき人が生死不明のまま放置され、亡くなるべき方が現世に留まり続けます。前回のバグの、比較にならない規模の大混乱になるかと」

誠一は一瞬考え、そして言った。

「……もう一回、電源、落としましょう」

「ま、また電源ですか!?」

「いや、今回は違います。全部落とすんじゃなくて、負荷が集中してる地域の処理だけ、一旦『メンテナンス中』にして、他の地域に処理を分散させましょう。うちの会社のサーバーでも、アクセス集中した時、地域ごとに負荷分散するんです」

黒川が素早くタブレットを操作した。

「――地域別負荷分散、可能です! 実行します!」

サーバー室の光が、一瞬、大きく明滅した。

全員が息を呑んで見守る中――

ピコン。

「負荷分散完了。システム、安定稼働に復帰しました」

会議室に、割れんばかりの拍手が沸き起こった。



第九章 大団円(一応)


翌日(体感)、彼岸トラベル社と冥土急行社の合同会議が開かれた。

閻魔田局長が満足げに頷いた。

「今回の混乱、田村くんの『段階的移行』という提案がなければ、間違いなくもっと大きな事件になっていた。改めて、礼を言う」

黒川も深々と頭を下げた。

「田村様。私、正直に申し上げますと、最初は『素人が何を言っているんだ』と思っておりました。しかし、現場の知恵というものの重要性を、痛感いたしました」

「いや、僕もただ、会社で経験したことを言っただけなので……」

ミサキ課長が微笑んだ。

「田村様。今回の功績を称え、正式に『特別技術顧問』の肩書を追加させていただきます」

「肩書増えるの、正直、荷が重いです」

「ちなみに、お給料はいかがいたしましょう。現世の通貨は使えませんので、代わりに――寿命を、少し延長するというのはいかがでしょう」

「寿命!? そんな大盤振る舞いしていいんですか!?」

「田村様の働きを考えれば、妥当な対価かと」

誠一はしばし考えて、首を横に振った。

「いや、それは結構です。長生きするより、今ある時間を、ちゃんと大事に生きる方がいいので」

会議室が、しんと静まり返った。

「……田村様、なかなか良いことを仰いますね」

「僕にしては珍しく」

浩二が茶化すように笑った。

「セイイチ、お前、あの世で説教くさいこと言うようになったな」

「うるさいぞ浩二」



第十章 帰還、そして次の予感


「では田村様、お戻りいただきます」

見慣れた扉が誠一の前に現れた。

「あの、一つだけ聞いていいですか」

「なんでしょう」

「次は、本当に、いつになったら呼ばれるんですか」

ミサキ課長は、少し困ったように笑った。

「実は……年末年始も、繁忙期でして」

「え」

「大晦日から三が日にかけて、初詣やらお正月やらで、また混雑が予想されておりまして……」

「もうちょっと空いてからって言ったじゃないですか!」

「申し訳ございません、こればっかりは業界の宿命と申しますか……」

誠一は深いため息をついた後、諦めたように笑った。

「……まあ、いいです。次何かあったら、また呼んでください」

「よろしいんですか」

「なんか、憎めないんですよね、この仕事」

扉をくぐる直前、浩二が最後にこう言った。

「セイイチ、次は正月だな。おせち持ってきてくれよ」

「あの世におせちの概念あるのか」

「ないから、お前が持ってきてくれって言ってるんだよ」

「無茶言うな」



終章 平凡な日常、時々、非日常


八月十四日の朝。

誠一は自室のベッドで目を覚ました。時計を見ると、電話がかかってきたのとほぼ同じ時刻だった。ミサキ課長の言う通り、現世ではほとんど時間が経っていなかったらしい。

「……夢じゃ、ないんだよなあ、これ」

スーツのポケットには、新しい名刺が増えていた。

「彼岸トラベル株式会社/冥土急行株式会社 統合特別技術顧問 田村誠一様」

裏には、走り書きでこう添えられていた。

「次回は年末年始を予定しております。おせちの持参は不要です(浩二様のジョークです、真に受けないでください)。――三途川ミサキ」

誠一は小さく笑うと、名刺を財布にしまい、いつも通り出勤の支度を始めた。

満員電車に揺られながら、彼はふと思った。

(あの世も、結局、人手不足とシステムトラブルに悩まされてるんだよな……)

なんだか、少しだけ、親近感が湧いた。

そして年の瀬、大晦日の夜。誠一のスマートフォンが、再び荘厳なパイプオルガンの音を鳴らし始める――

― 続く(かもしれない) ―



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あとがき

前作に続き、またしても「あの世のトラブル」に巻き込まれてしまった誠一ですが、彼自身も気づかないうちにどんどん「優秀なITコンサルタント」のような頼もしさを発揮していく姿を描くのがとても楽しい執筆作業でした。
特に気に入っているのは、誠一が寿命の延長という破格の報酬を断るシーンです。「長生きするより、今ある時間を大事に生きる」という言葉は、残業やシステム障害に追われる現代社会への、私なりのささやかなメッセージでもあります。
結局、年末年始の繁忙期にも駆り出されそうな気配を残して物語は幕を閉じましたが、きっと誠一なら大晦日の夜も、なんだかんだ文句を言いながらパイプオルガンの着信音に応じるのでしょう。
現実の仕事でトラブルに直面したとき、「まあ、あの世でも似たようなバグで揉めてるしな」と、少しでも皆様の心が軽くなるような作品になれていれば幸いです。
それでは、また「大晦日・初詣ラッシュ編」でお会いしましょう!

ようこそ、は誤送信でした

~多次元行政ミスと僕の大脱走~


まえがき
みなさん、こんにちは。
深夜二時、疲れ切って寝ているときに、ふと天井を見上げたことはありますか?
もしそこに「ようこそ!」という軽いフォントの文字が浮かんでいたら……どうか慌てずに、まずはコンセントの位置を確認してください。
この物語は、ごく普通のサラリーマンが、宇宙規模のシステムエラーと行政ミス(?)に巻き込まれる災難と冒険の記録です。
日頃の仕事で「原因不明のバグに悩まされている方」や「困ったらとりあえず再起動している方」に、少しでもクスッと笑っていただければ幸いです。
それでは、三途の川の向こう側と、雑なシステム運用が繰り広げられる世界へ、いってらっしゃいませ!




第一章 真夜中の文字

深夜二時。

田村誠一(34歳、平凡な会社員、特技は特になし)は、いつものように残業に疲れて泥のように眠っていた。

ふと、目が覚めた。理由はわからない。ただ、天井がやけに明るい気がした。

見上げると――文字が浮かんでいた。

「ようこそ!」

蛍光ペンで殴り書きしたような、妙に軽いフォントだった。誠一は寝ぼけながら思った。

(宅配便の再配達案内か? いや天井に浮かぶわけないだろ)

「……は?」

声に出した瞬間、文字はふっと消えた。まるで「しまった、見られた」とでも言うように、慌てて。

次の瞬間、部屋の壁に扉が現れた。木製の、やたら年季の入った、田舎のおばあちゃんの家にありそうな引き戸だった。取っ手には「入口②」というラミネート加工のプレートが雑にぶら下がっている。

「いや、うちマンションの五階なんですけど」

誠一のツッコミも空しく、扉は音もなく開いた。同時に、身体がふわりと宙に浮いた。

「ちょ、ちょっと待っ――」

抗う間もなく、誠一の身体は掃除機に吸い込まれるホコリのように、その扉へと吸い込まれていった。



第二章 菜の花畑と行列


気がつくと、誠一は一面の菜の花畑に立っていた。

黄色い絨毯が地平線まで広がり、遠くには美しい川が流れている。空は妙に高く、雲ひとつない。どこかで聞いたことのある景色だった。子供の頃、祖母が話してくれた「三途の川」の話にそっくりだ。

(待って待って待って。これもしかして、俺、死んだ?)

血の気が引く暇もなく、川の向こう岸に目が行った。

大勢の人々が、手を振っている。誰もが穏やかな顔で、こちらに手招きしていた。

(あ、あの人……小学校の時の担任の先生じゃないか。もう亡くなったって聞いたけど……)

手前の岸辺には木製の渡し船があり、乗客と思しき人々が、整然と列を作って乗船を待っていた。皆どこか清々しい顔をしている。まるで温泉旅行の順番待ちのようだった。

「あの、すみません、これは一体……」

誠一が列の後ろに並ぼうとした、その時。

向こう岸から、聞き覚えのある声が響き渡った。

「来るな―――――っ‼️」

見れば、大学時代の親友、佐藤浩二(三年前、バイク事故で他界)が、両手をぶんぶん振り回しながら絶叫していた。

「セイイチ! お前まだ早い! 絶対まだ早いから! 戻れ! 戻れーーーっ!」

「浩二……? お前元気そうだな……ってそうじゃなくて!」

誠一が困惑していると、後ろから肩をポンと叩かれた。振り返ると、見知らぬ女性が微笑んでいる。

「何を迷ってるの? さあ、一緒に並びましょ」

そのまま誠一は、有無を言わさず列に並ばされた。

「いや、あの、僕、迷ってるというか、状況が全く分からなくて――」

そこへ、けたたましいアラーム音が響き渡った。

「ピーーーッ! ピーーーッ! 誤送信検知! 誤送信検知! 該当者、田村誠一様! 繰り返します――」

菜の花畑にそぐわない、明らかに業務用の無機質なアナウンスだった。

列の全員が「あー、またか」という顔でこちらを見た。



第三章 彼岸トラベル株式会社


菜の花畑の一角に、突如としてプレハブ小屋が出現した。「彼岸トラベル株式会社 受付カウンター」という、これまた雑な手書き看板が掛かっている。

中から、スーツ姿の女性が慌てて飛び出してきた。名札には「契約課長 三途川ミサキ」とある。

「大変申し訳ございません! 田村誠一様! こちら、システムの誤送信でございました!」

「え、誤送信?」

「はい。実は昨夜、弊社の受付システム『アカシックサーバー』がアップデート作業中にバグを起こしまして……本来『田村誠一』様の隣の部屋にお住まいの『田村誠一』様――同姓同名の九十二歳の方に送るはずだった『お迎え通知』が、誤って貴方様に……」

「隣の部屋に同姓同名の92歳……そんな偶然ある!?」

「あるんです、これが。宇宙は広いようで、名前のバリエーションは意外と少ないんですよ」

ミサキ課長はファイルを捲りながら、ため息交じりに続けた。

「本来なら『あ、間違えました、すみません』で家にお戻しするだけの話なんですが……実は今、それどころではない事態が発生しておりまして」

「それどころではない事態?」

その時、プレハブの奥から、けたたましい音を立てて警報ランプが回転し始めた。

「緊急事態発生! 緊急事態発生! 全担当者は第七会議室へ!」

ミサキ課長の顔から、みるみる血の気が引いていった。

「……まずいですね。田村様、申し訳ございませんが、少々事情が変わりました。あなたにも来ていただく必要があるかもしれません」

「え、なんで一般人の僕が!?」

「一般人だから、です」



第四章 全宇宙、生死データ大混線


案内された「第七会議室」は、菜の花畑の地下にあるとは思えないほど近未来的な空間だった。壁一面のモニターには、無数の光る点が地球のような惑星を覆っている。

そこに集まっていたのは、様々な時代・様々な文化の服装をした職員たち――古代エジプト風の装束の者、平安貴族風の者、スーツ姿の者、なぜかパジャマ姿の者までいた。

「状況を報告します」

壇上に立った白髭の老人(自己紹介によると「生死管理局 局長 閻魔田」)が、重々しく口を開いた。

「昨夜のアカシックサーバー、大型アップデートの際、根本モジュールにバグが混入。結果、全世界で生者と死者の『お迎え通知』が、無差別にシャッフルされる事態となった」

会議室がどよめいた。

「つまり……?」

誠一が思わず聞くと、隣に座っていたパジャマ姿の職員(居眠り中)が寝ぼけながら答えた。

「つまり、世界中で『まだ死んでない人』に『お迎え』が届いたり、逆に『とっくに死んでる人』が『まだ生きてる扱い』になったりしてるってこと。ウチのすぐ隣の部署なんて、百年前に亡くなったナポレオンにまだ『健康診断のお知らせ』送り続けてるからね」

「ナポレオン!?」

「本人はもう存在に飽きて、輪廻の順番待ちの列でずっとチェスしてるだけなんだけどさ」

閻魔田局長が咳払いをして続けた。

「このままではあと三時間で、地球上の全人類、約八十億人の生死ステータスが完全にランダム化される。つまり――」

会議室の全員が息を呑んだ。

「――生きてる人が急に『死亡扱い』になり、亡くなった方々が『生存扱い』のまま現世に留まり続けるという、前代未聞の大事件になる」

誠一は思わず立ち上がった。

「そ、それってつまり、僕の会社の部長とか、明日も生きてるはずの人が急に……」

「その通り。田村様のような『誤送信被害者』が、実は今回の重大バグの唯一の目撃者にして、システムの外側から状況を確認できる稀有な存在なのです」

ミサキ課長が真剣な顔で言った。

「田村様。あなたの存在そのものが、このバグを修正する『鍵』になるかもしれません」



第五章 僕がキーマンらしい(迷惑)


「いや待ってください、僕、ただのサラリーマンですよ!? IT知識なんて、パソコンのフリーズを再起動で直すレベルですよ!?」

「大丈夫です。むしろそのレベル感が重要なんです」

ミサキ課長は自信満々に頷いた。

「アカシックサーバーは、あまりに高度になりすぎた結果、逆に『普通の人間的発想』でしか直せないバグを抱えることがあるんです。専門家が百人がかりで直せなかった不具合が、素人の『あ、これ電源ケーブル抜けてません?』の一言で解決したことも過去にございます」

「それもう伝説の情報システム部あるあるじゃないですか」

「まさにそれです」

閻魔田局長が重々しく頷いた。

「田村くん。今回のバグの根源は、恐らく『生』と『死』の境界そのものにある。君は今、生きながらにしてその境界に立っている、極めて稀有な存在だ。頼む、力を貸してくれ」

会議室の全員が誠一を見つめた。ナポレオン担当職員も、チェス中断してこちらを覗いていた。

誠一はしばし黙り込んだあと、深いため息をついた。

「……分かりました。でも一つだけ条件があります」

「なんでしょう」

「これが終わったら、ちゃんと家に帰して、明日の会議に遅刻しないようにしてください」

「約束します」

こうして、平凡なサラリーマン・田村誠一の、前代未聞の「大事件」への参加が決定した。



第六章 サーバー室への大脱走


問題の「アカシックサーバー」本体は、菜の花畑のさらに地下深く、「輪廻回転区画」と呼ばれるエリアの奥に安置されているという。

誠一、ミサキ課長、そして「来るな」と叫んでいた親友・浩二(なぜか同行することになった。理由は「幼馴染の危機に立ち会いたいから」とのこと)の三人は、輪廻回転区画へと向かった。

そこは、巨大な観覧車のような装置がいくつも回転する、SF映画さながらの空間だった。カプセルの中には、これから生まれ変わる魂たちがうとうとと順番を待っている。

「うわ、なんか某テーマパークのアトラクションみたいだな」

浩二が呟くと、ミサキ課長が真顔で答えた。

「実際、あちらの某テーマパークのデザイナーは、生前ここに迷い込んで着想を得た、という噂があります」

「マジかよ」

三人が奥へ進むと、突然、床が崩れ落ちた。

「うわあああああ!」

三人はそのまま、輪廻の渦の中へと落下していった。

「ミ、ミサキさん! これ死んじゃうやつじゃ!?」

「大丈夫です! 私たち、既に生死の境界にいるので、ここで死んでも特に大きな問題はありません!」

「問題大アリでしょ!?」

叫びながら落下すること数十秒、三人はふかふかのクッションのような場所に着地した。

「……なんだここ」

見渡すと、そこは巨大な鍵盤のような装置が並ぶ、不思議な部屋だった。壁には「バグ修正専用・手動介入エリア(緊急時のみ使用)」というプレートが掛かっている。

「ここが、アカシックサーバーの心臓部です」

ミサキ課長が声を潜めて言った。

「この鍵盤の一つ一つが、生と死のステータスを司る『魂のスイッチ』。現在、これが誤作動を起こし、無差別にオン・オフを繰り返しています」

見れば、鍵盤は勝手にガチャガチャと動き続け、その度に空中に文字が浮かんでは消えていた。

「山田太郎 死亡→生存」
「鈴木花子 生存→死亡」
「ナポレオン 死亡→生存」

「ナポレオンまた出てきた!」

「あの人だけ何度もシャッフルの対象になるんです、なぜか。運が悪いんでしょうね」



第七章 電源を、一度抜いてみません?


三人は鍵盤の誤作動を止めようと、あれこれ試みた。ミサキ課長は専門知識をフル動員し、複雑な呪文のようなコマンドを唱えた。浩二は「俺に任せろ!」と鍵盤に体当たりして、逆に警報を鳴らしてしまった。

事態は一向に好転しなかった。

「……あの」

しばらく黙って様子を見ていた誠一が、恐る恐る口を開いた。

「これ、一回、電源落としてみません?」

会議室にいた時と同じ、拍子抜けするほど単純な提案だった。

ミサキ課長がぎょっとした顔で振り返った。

「で、ですが、アカシックサーバーは宇宙開闢以来、一度も電源を落としたことが……」

「いや、フリーズしたパソコンって、大体それで直るじゃないですか。強制終了して、もう一回立ち上げるってやつ」

「そんな単純な話では――」

「あの、僕、平凡な会社員ですけど、これだけは経験則で言えます。原因不明のバグは、大体、一回落として上げたら直ります」

浩二が横から口を挟んだ。

「言われてみれば……俺も生前、原因不明のPC不調、大体それで直してたわ」

ミサキ課長はしばし沈黙した後、意を決したように頷いた。

「……分かりました。他に手立てもありません。試してみましょう」

彼女は部屋の隅にある、これまた場違いなほど普通の家庭用コンセントを指差した。太い配線が、その先に繋がっている。

「あの赤いコンセントが、アカシックサーバーの主電源です」

「めちゃくちゃ普通のコンセントですね」

「宇宙の真理というのは、案外そういうものです」

誠一は深呼吸をして、コンセントに手をかけた。

「……いきますよ」

ブチッ。

世界から、一切の音が消えた。



第八章 再起動、そして真実


数秒後(体感では数時間)、鍵盤の光が一斉に消え、部屋全体が闇に包まれた。

「……し、失敗した……?」

浩二が不安そうに呟いた、その時。

ピコン。

軽やかな起動音とともに、鍵盤に再び光が灯った。今度は、規則正しく、静かに。空中に浮かぶ文字も、もう暴走していなかった。

「システム再起動完了。全ステータス、正常値に復元中……」

ミサキ課長が思わず涙ぐんだ。

「な、直った……! 直りました……!」

浩二が誠一の肩をバシバシ叩いた。

「お前すげえよ、セイイチ! まさか本当に電源落としで直るとは!」

「いやこれ、本当にたまたまだから! 自慢できることじゃないから!」

そこへ、閻魔田局長をはじめ、他の職員たちが慌てて駆けつけてきた。

「田村くん! やってくれたな! 君の『とりあえず再起動』という、あまりに人間的で、あまりに凡庸な発想が、我々専門家が誰も思いつかなかった解決策だったとは!」

「褒められてるのか貶されてるのか分かりません」

「いえ、これは最大級の賛辞です。専門知識に凝り固まった我々には、逆にできない発想でした」

ミサキ課長が誠一に向き直り、深々と頭を下げた。

「田村様。この度は、弊社の誤送信により大変なご迷惑をおかけしました。そして、その混乱の中、この大事件を解決に導いてくださり、本当にありがとうございました」

「いえ、まあ……結果オーライってことで」

「つきましては、お詫びとお礼として、特別に一つだけ、あちらの世界の様子を垣間見せていただければと思います」

案内されたのは、先ほどの川辺だった。向こう岸で、浩二と同じように手を振る人々の中に、誠一の祖母の姿があった。

「バアちゃん……」

「セイイチ、大きくなったねえ。でも、まだこっちに来るのは早いよ」

祖母は優しく微笑んでいた。子供の頃、菜の花畑の話をしてくれた、あの声そのままだった。

「うん……分かってる。ちゃんと、生きてくるよ」

「それでいい。ゆっくりおいで。急がなくていいからね」



第九章 目覚め


「では田村様、そろそろお戻りいただきます」

ミサキ課長が扉を開けた。見慣れた自分の部屋の扉だった。

「あの、最後に一つだけ聞いていいですか」

「なんでしょう」

「これ、僕が会社で『昨日、あの世に行って世界の危機を救ってきました』って言っても、誰も信じてくれませんよね」

ミサキ課長はにっこり笑った。

「そうですね。ちなみに、こちらでの記憶は、通常のお客様であれば帰還と同時に消去されるのですが……」

「消去されるんですか!? じゃあこの話、誰にも――」

「ご安心ください。田村様は特別に、記憶保持の許可を局長から頂いております。功労者ですので」

「あ、それは良かった……のか? 信じてもらえない記憶が残るの、地味につらいかも」

「その代わり、と言ってはなんですが」

ミサキ課長は名刺を一枚差し出した。「彼岸トラベル株式会社 緊急バグ対応アドバイザー(非常勤)」という肩書が書かれていた。

「今後、万が一また同様のバグが発生した際は、特別顧問として、またお力添えいただければと」

「え、これ継続案件になるんですか!?」

「弊社、実は年に二、三回、この手のバグが起きておりまして」

「もっとちゃんとテストしてから本番環境にデプロイしてください!」

「耳が痛いです」

浩二が最後に、にやりと笑って手を振った。

「じゃあな、セイイチ。次はもっと後で会おうぜ。それまで、ちゃんと人生楽しめよ」

「ああ。またな」

誠一は扉をくぐった。



終章 朝


「……っ、うわ!」

誠一は自室のベッドで飛び起きた。窓の外はすっかり明るい。目覚まし時計が鳴り響いていた。

(夢……だよな、さすがに)

天井を見上げても、もちろん文字は浮かんでいない。壁にも扉はない。

「はー……変な夢見たな……」

苦笑いしながら身支度を整え、スーツのポケットに手を入れた誠一は――そこに入っていた一枚の名刺に気づき、動きを止めた。

「彼岸トラベル株式会社 緊急バグ対応アドバイザー(非常勤) 田村誠一様」

裏には、こう添え書きがあった。

「先日は誠にありがとうございました。次回はもう少し平和な案件でお会いできることを祈っております。――三途川ミサキ」

誠一はしばらく名刺を見つめたあと、小さく笑った。

「……マジか」

その日の会社帰り、誠一は隣の部屋のポストに「田村誠一(92)」という表札を見つけた。

インターホンを押すと、元気なおじいちゃんが顔を出した。

「はいはい、どちらさん?」

「あ、いえ、その……お隣の田村です。あの、失礼ですが、お元気そうで何よりです」

「はあ? そりゃ元気だよ、健康診断だって毎年オールAだもの」

「そうですか。それは良かった……本当に、良かったです」

誠一は深々と頭を下げると、少し笑いながら自室に戻った。

その夜、彼はいつもより少しだけ、しっかりと施錠を確認してから眠りについた。

天井を見上げ、独り言のように呟く。

「……次は、もうちょっと空いてから来てくださいね」

返事はなかった。

ただ、天井の隅に一瞬、小さな文字が浮かんだような気がした。

「了解!」

そして、それはすぐに消えた。

― 了 ー



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あとがき

「死後の世界も、案外人間味あふれる(というか杜撰な)システムで動いているのかもしれない」という思いつきから始まったこのお話。一番書きたかったのは、どれだけ高度なシステムであっても、最終的に頼りになるのは「現場の知恵(電源の抜き差し)」というあるあるネタでした。
作中で誠一を全力で追い返した親友の浩二や、おばあちゃんとの再会シーンなど、コメディの裏側に少しだけ「生きている時間の愛おしさ」のようなものを込められたらと思いながら執筆しました。
あなたの隣の部屋にも、もしかしたら同姓同名の方が住んでいて、今日もあの世のサーバーを救っている……かもしれません。
また次の「年2〜3回ある定期バグ」の際にお会いしましょう!


『刻の岸辺で』 加筆編



まえがき

歳を重ねるということは、残された時間の輪郭を、自分自身の指先でひとつひとつ確かめていく作業なのかもしれません。

誰かのために無我夢中で駆け抜けてきた若い日々が一段落したとき、ふと立ち止まると、胸の奥でこれまで聴こえなかった「音」が響き始めることがあります。それは焦燥の鼓動であり、同時に遠い記憶からの呼び声のようでもあります。

本作『刻の岸辺で』は、還暦を迎えた主人公・冴子が、不思議な「刻の声」に導かれながら、人生の後半生をどう歩んでいくかを静かに模索する物語です。

情熱を燃やして急ぎ足で進む時間も、答えが見つからずただ漂う時間も、どれひとつとして無意味なものはなく、等しく尊い。誰かを気遣い、静かに重ねてきた日々そのものが、世界を優しく満たしている――そんなささやかな救いを、物語を通して感じていただけたなら幸いです。

どうぞ、冴子とともに木漏れ日の差す「刻の岸辺」の景色をお歩きください。






一、還暦の朝
六十歳の誕生日、日高冴子はいつもと同じ時刻に目を覚ました。
隣で眠る夫の賢治は、まだ規則正しい寝息を立てている。三十八年連れ添った男の寝顔を、冴子はしばらく見つめた。若い頃はもっと尖った輪郭をしていたはずだが、今はすっかり丸みを帯びて、穏やかな老人の顔になっている。自分もきっと同じように、少しずつ変わってきたのだろう。
布団を出て、台所に立つ。三十年以上暮らしたこの家の、勝手知ったる動線。米を研ぎ、出汁を取り、味噌汁の鍋を火にかける。包丁を握る手も、まな板を叩く音も何一つ変わらない。
けれど、耳の奥に、これまで一度も聞いたことのない、かすかな低い音が響いていることに気づいた。
――ぅん、ぅん、ぅん。
まるで遠い波の音のような、規則正しい振動。空耳かと思い、手を止めてじっと立ち尽くしてみたが、音は消えなかった。耳鳴りとも違う。もっと重たく、確かな、体の芯から響いてくるような音だった。
「どうした」
賢治が起きてきて、怪訝そうに冴子の顔を覗き込んだ。
「ううん、何でもない」
そう答えたものの、嬉しかったはずの誕生日祝いの奥底に、小さな異物のような感覚が沈んでいた。
数日後、我慢できずに近所のかかりつけ医を訪ねた。検査結果はすべて正常。七十過ぎの老医師は聴診器をしまいながら、静かに笑った。
「還暦の頃にそういう感覚を訴える人は、実は少なくないんですよ。言葉にした途端、何か大切なものが変わってしまう気がして、皆、黙っているんじゃないですかね」
帰り道、夕暮れの商店街を歩きながら、冴子はすれ違う同世代の人々の顔を見た。この人にも、あの人にも、同じ音が聞こえているのかもしれない。
その日から冴子は、その音を「刻(とき)の声」と、心の中でひそかに呼ぶようになった。


二、由紀からの電話
夜、東京で働く一人娘の由紀から電話がかかってきた。
「お母さん、還暦かあ。なんか実感ないな」
「私だって、まだ実感ないわよ」
冴子は笑って答えたが、電話を切ったあとの静けさの中で、ふと考え込んだ。
長く勤めた総合病院の看護師を退職してから、もうすぐ一年になる。三十六年間、誰かの命の傍らに立ち続けてきた日々。忙しさに追われている間は、自分の時間について考える暇すらなかった。
その緊張の糸が切れてから、何をすればいいのかが分からなくなった。友人に誘われたカルチャーセンターの教室も、何度か体験に行ってはみたものの、いつの間にか足が遠のいていた。
誰かのための時間ではなく、自分のための時間をどう使えばいいのか。台所の窓から見える隣家の紫陽花を眺めながら、耳の奥の低い音にじっと耳を澄ませていた。


三、急ぎ足の人・丸山
数日後、冴子は近所に住む元美術教師・丸山のアトリエを訪ねた。古い納屋を改装した部屋は油絵具の匂いに満ち、壁には海の絵が何枚も立てかけられていた。
「あと何年描けるか分からないからね。一分も無駄にできないんだ」
筆を動かす丸山の背中に冴子は「羨ましいです、そこまで打ち込めるものがあって」と呟いた。
丸山は手を止め、振り向いた。その目には深い疲労が滲んでいた。
「羨ましいことなんかないよ。これは、逃げているだけなんだ。三年前に女房を亡くしてね。家にいると気配ばかり感じてどうしようもなくなる。だから描く。描いている間だけは、何も考えずに済むから」
急ぎ足で情熱を注いでいるように見えた丸山の姿。その光は、深い喪失の裏返しでもあった。

四、急ぎ足の人・田村
商店街の八百屋をたたんだばかりの田村(七十二歳)と再会したのは、秋の夕暮れだった。
「来月、南米のアコンカグアという山に行くんですよ。若い頃に諦めた山です」
晴れやかに語る田村だったが、ふと遠い目をした。
「息子がね、二十五の時に北アルプスで死にました。私が生活のために諦めた夢を、あいつが継いでくれていた。だから今度は私が、あいつの見られなかった景色を、この目で見に行く番なんです」
丸山には亡き妻があり、田村には亡き息子がいる。彼らの急ぎ足は、失った誰かへの想いに支えられていた。では、自分は何に向かって歩けばいいのだろう。
その夜、冴子は長い間胸の奥に沈めていた「妹」の名前を思い出していた。


五、遠い妹
妹の悌子とは、もう十五年近くまともに話していない。
きっかけは母の介護だった。当時、病棟主任になり立てで多忙を極めていた冴子は、実家近くに住む悌子に介護のほとんどを任せてしまっていた。
母が亡くなった後の遺品整理の日、悌子は畳に座り、母の着物を畳みながら言った。
「お姉ちゃんは、いつも大事なところで、いなかったよね」
返す言葉がなかった。謝る機会はその後も何度かあったはずなのに、「明日でいい」「今度でいい」と先延ばしにし続けていた。急ぎ足の人々の話を聞いた夜、冴子はあの日の悌子の傷ついた目を、鮮明に思い出していた。


六、賢治の異変
ある朝、洗面所で賢治が突然めまいを訴えて座り込んだ。
看護師としての観察眼で即座に状況を把握し、救急車を呼んだ。幸い軽度の脳梗塞の前兆で済み、入院・治療を経て大きな後遺症もなく退院できたが、冴子の手の震えはしばらく止まらなかった。
当たり前のように隣にいた夫が、いつか消えてしまうかもしれないという恐怖。
退院後、賢治は穏やかに笑った。
「俺たちも、これからのこと、少しずつ話しておいた方がいいかもしれないな」
丸山や田村の喪失は他人事ではない。隣にある日常の尊さと儚さが、冴子の胸に重く押し寄せた。


七、彷徨う人・柊との出会い
暇を持て余し通い始めた図書館で、毎日同じ時間に来て新聞を隅から隅まで読む老人がいた。
声をかけると、老人は困ったように微笑んだ。
「他にすることが見つからなくてね。でも、見つからないことを、そんなに悪いことだとは思っていないんですよ。私は柊と言います」
柊は自分の過去を多く語らなかったが、不思議と人の心を引き出す術を持っていた。冴子が思わず悌子との確執を打ち明けると、柊は窓の外を眺めながら言った。
「後悔というのは、急いで消そうとすると焦げついてしまう。ただ覚えておくことです。焦らなくていい。覚えていれば、ちょうどいい時が来ます」
三十六年間、緊急対応に追われ続けてきた冴子にとって、その言葉は温かな許しのように響いた。


八、彷徨う人・悦子
図書館でもう一人知り合ったのは、古い園芸本を愛読する悦子という女性だった。
「庭仕事が好きだった主人が五年前に亡くなって。主人の庭を枯らしたくないだけで続けているんです。彷徨っているみたいでしょう」
後日訪ねた悦子の庭には、手入れの行き届いた控えめな花々が咲き誇っていた。
「悦子さんらしい見せ場ができていますよ」そう伝えると、悦子は晴れやかに笑った。
急ぎ足で夢に向かう人だけが美しいわけではない。誰かを想いながら静かに日々を紡ぐことにも、同じだけの重さがあるのだと知った。


九、刻の泉
雨上がりの喫茶店で、冴子は思い切って柊に「耳の奥の音」のことを打ち明けた。
柊は驚かず、静かに頷いた。
「この町の外れに『刻の泉』と呼ばれる場所があります。還暦を過ぎ、あの音が聞こえるようになった者だけが辿り着けると言われている。行ってみますか」
自分の中にくすぶる何かを確かめるため、冴子は頷いた。柊もまた「私も、そろそろ向き合う頃合いかもしれません」と同行を申し出た。

十、町の言い伝え
泉へ向かう前日、冴子は郷土資料館で古い民俗誌を開いた。そこには一文だけ記述があった。
『還暦を迎えし者、迷いの森の奥にて心の映す泉に出会う。驕り高ぶりて近づく者には、何も見えぬとぞ』
確証はなかったが、何百年も前から多くの人々が同じように悩み、この森を目指したのかもしれないと思うと、不思議な連帯感が湧いた。

十一、森へ向かう道
翌週の晴れた午後、冴子は柊と共に雑木林の奥へと足を踏み入れかけた。朽ちかけた木の門を潜ると、蝉時雨の向こうから、耳の奥の音が大きくなっていくのが分かった。
「柊さんは、なぜこの場所を?」
「昔、私と同じように還暦を過ぎた人から聞きました。その人は泉から戻ったあと、人が変わったように穏やかになりましたよ」
足取りの重い柊と休み休み歩きながら、木漏れ日の中を進んだ。木々が突然開け、小さな空き地が現れる。

十二、泉にて
苔むした石に囲まれた、小さな泉。風もないのに水面は澄み渡り、密度の濃い空気が満ちていた。
冴子が水面を覗き込むと、映ったのは自分の顔ではなかった。
絵筆を握る丸山の横顔。山を見上げる田村の背中。花に水をやる悦子。そして見たこともない多くの老若男女の顔が浮かんでは消えた。
「見えていますね」柊が静かに言った。「これは、あなたが背負っているもの、そして繋がっている人々の影です」
水面が揺れ、今度は十五年前の悌子の傷ついた顔が浮かび上がった。冴子は思わず手を伸ばそうとしたが、柊がそっとその制した。
「準備ができないまま触れると、引き込まれて戻れなくなります」

十三、繋がる刻
泉のほとりで、柊は「音」の正体を語った。
還暦を過ぎ、自分の時間が有限であることに気づいた人々が無意識に発する「刻の波」。急ぐ者の波は鋭く、彷徨う者の波は緩やかだが、ここではすべて等しく重なり合っているという。
「誰かを気遣い、傷つけずに過ごした時間は、こうして静かに他の波と重なる。泉はその繋がりを映しているのです」
水面に揺れる妹の顔を見つめながら、冴子は自分が解くべき結び目に思いを馳せた。

十四、波紋の記憶
水面には過去の記憶が映し出された。
母が倒れた日、勤務先で救命対応に追われ、悌子からの着信を何時間も放置したこと。「仕事だから」と自分を正当化し、すべての負担を妹に押し付けたこと。
「見たくないものを見せてしまいましたか」
「いいえ。ずっと見ないふりをしてきたものを、ようやく見られました」
涙を拭いながら、冴子は胸の奥の腹を固めた。

十五、赦しを求めて
帰宅した夜、冴子は古いアドレス帳を開いた。
翌朝、意を決して電話をかける。受話器を握る手が震えた。
「もしもし、悌子? 今から、そっちに行っていい?」
長い沈黙のあと、妹の声が届いた。
「……うん。待ってる」


十六、姉妹
十五年ぶりに訪ねた妹の家。互いに白髪が増え、目尻の皺も深くなっていた。
お茶を飲みながら他愛のない話をしたあと、冴子は頭を下げた。
「母さんのこと、全部押し付けてごめんなさい。仕事にかまけて、あなたを独りにした」
悌子の目からボロボロと涙がこぼれ落ちた。
「私だって意地を張ってた。素直に『助けて』って言えなかったの。お姉ちゃんが悪いんじゃないよ」
積もっていた冷たい氷が、少しずつ溶けていった。二人は夕方まで、失われた時間を埋めるように話し続けた。


十七、悌子の家族
後日、冴子は悌子の夫や子どもたち、そして初対面となる孫に温かく迎えられた。
「大叔母さんは元看護師さんで、たくさんの人を助けてきたのよ」と誇らしげに紹介する悌子の言葉に、冴子は胸が熱くなった。
帰り道、隣を歩く賢治が言った。
「よかったな。早い遅いは関係ない。今日繋がれたことが大切なんだ」


十八、由紀の帰省
週末、心配した由紀が帰省した。食卓を囲みながら、悌子と和解したことを話すと、由紀は心から喜んでくれた。さらに由紀自身にも結婚を考えているパートナーがいると明かされる。
「お母さんは、これからどうしたいの?」
そう問われ、冴子は穏やかに答えた。
「特別な何かはまだないけれど、それでいいと思えるようになったの」


十九、他人が嫌がることをしない
再び柊と泉を訪れた際、水面には微笑む悌子の顔が映っていた。波紋は穏やかに凪いでいた。
「私には特別な目的も、捧げるものもありません」と明かす冴子に、柊は静かに木の枝を置いた。
「それでいいのです。大きな夢も贖罪も、誰もが持てるわけではない。ただ、他人が嫌がることをしない。それだけで波は乱れず、誰かの時間を静かに守ることができる。それだけで十分なのです」
柊自身も過去に事業に没頭し、息子と三十年絶縁状態にあることを告白した。
「あなたを見ていて、私にも一歩を踏み出す勇気が湧きました」


二十、それぞれの岸辺
季節が巡った。
丸山は海の絵の中に亡き妻の姿を描き込み始め、田村は南米から無事帰国して「息子に会えた気がする」と笑った。悦子の庭には近所の子どもが集まるようになり、柊は離れて暮らす息子へ初めて手紙投函を果たした。
皆、それぞれの速度で、それぞれの岸辺を歩いていた。


二一、柊からの便り
年の暮れ、柊から一通の手紙が届いた。
息子と再会を果たし、近くへ引っ越すことになったという報告だった。
『刻の声は、恐れるものではありません。あなたが多くの人と繋がっている証です』
賢治にすべてを明かすと、夫は優しく頷いてくれた。
「お前が良い方向へ変わっていくのをそばで見ていたから、信じるよ」


二二、冴子の選んだ道
かつての職場から打診を受け、冴子は月に数回、新人看護師への講義を引き受けることにした。
「一番大切なのは技術ではありません。相手が何を嫌がるか、何を望んでいるかを想像することです」
講義後、「看護師を続ける勇気が出ました」と涙ぐむ新人の肩を優しく抱いた。急ぎ足でも、彷徨うのでもない。自分だけの歩み方が、そこにあった。


二三、岸辺にて
何年かが過ぎた。
由紀は結婚し、可愛い孫が生まれた。賢治と共に穏やかな日々を送りながら、冴子は時折、あの森の泉を思い出していた。
柊はすでに図書館を去っていたが、彼の教えは冴子の心に深く根づいていた。
――大事なことは、他人が嫌がることをしない。それだけでいい。
耳の奥で、今日もあの低い音が静かに響いている。それはもう恐ろしい音ではなく、生きている無数の波と繋がっている、優しく心強い祝福の音だった。
冴子はゆっくりと歩みを進める。夕暮れの光の中、大切な人々の記憶を胸に抱きしめながら。


(了)


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あとがき

人生の折り返し地点を過ぎたとき、「自分はこれまで何を残してきたのだろう」「これからの時間をどう生きればいいのだろう」という問いが、ふと足元を揺らすことがあります。

作中で冴子が出会う人々――亡き人を想い絵筆を握る者、果たせなかった息子の夢を追う者、静かに庭の花を育てる者――は、いずれも私たち自身の心のどこかを映し出した姿でもあります。

特別な偉業を成し遂げずとも、目の前の誰かを傷つけず、丁寧に日々を重ねていくこと。それ自体が誰かの時間を守り、温かな波紋となって世界へ広がっていくのだという思いを込めて、この作品を書き上げました。

加筆にあたり、冴子の心の揺らぎや「刻の泉」を取り巻く幻想的な情景、そして妹・悌子との対話の温もりをより深く描き出すよう努めました。

この小さな物語が、日常のふとした静寂の中で、皆様の心にそっと寄り添う灯火となれば幸いです。


短編
『刻の岸辺で』

まえがき
歳を重ねるということは、残された時間の輪郭が、少しずつ鮮明になっていくことなのかもしれません。
若い頃には永遠のように思えた一日一日が、ある節目を迎えた途端、まったく違った手触りと重みを持って、私たちに問いかけてくることがあります。
本作『刻の岸辺で』は、還暦を迎えた一人の女性が、耳の奥に響くかすかな音に導かれ、自分と他者の「時間」の関わりを見つめ直していく物語です。
人は、焦りの中で何かを成し遂げようと急ぐこともあれば、何も見つけられずに立ち止まることもあります。
けれど、どちらの歩みも、決して無意味ではないのではないでしょうか。
私たちはそれぞれ違う速度で生きながら、気づかないところで、誰かの時間と触れ合っています。
日常のすぐ隣にひっそりと潜む静かな奇跡と、ささやかな真実。
この物語が、日々を歩むあなたの心に、小さな波紋のように届くことを願っています。




一、還暦の朝
六十歳の誕生日、日高冴子は、いつもと同じ時刻に目を覚ました。
窓の外は、いつもと同じ町並みだった。
向かいの家の屋根。
電柱。
朝の光を受けた道路。
遠くを走る車の音。
そして、どこかの家の庭から聞こえてくる、名前も知らない鳥の声。
何も変わっていない。
そう思った。
けれど、布団の中で目を開けたまま、冴子はしばらく動かなかった。
耳の奥――頭蓋骨の深いところが、かすかに共鳴するように鳴っていたからだ。
――ぅん。
――ぅん。
――ぅん。
低く、かすかな振動だった。
自分の脈拍とは、微妙にずれたリズム。
音というより、身体の内側に直接響いてくるようだった。
遠い海の底で、規則正しく波が打ち寄せているようにも聞こえた。
冴子は起き上がり、両手で耳を強く押さえた。
音は消えなかった。
「……なんだろう」
その日、冴子は病院へ行った。
聴力検査を受け、耳の中を診てもらい、いくつかの検査も受けた。
結果は、どこにも異常なし。
担当した医師は、冴子のカルテを閉じると、少し笑った。
「気になるようなら、しばらく様子を見てください」
「この音は、何なんでしょう」
「さあ」
医師は肩をすくめた。
「ただ、還暦前後になると、似たような感覚を訴える人が、たまにいるんですよ」
「たまに?」
「ええ。でも、みなさん、あまり人には話さないようです」
「どうしてですか」
医師は少し考えてから答えた。
「説明できないからでしょうね」
それ以上、医師は何も言わなかった。
帰り道、冴子は歩きながら耳を澄ませた。
――ぅん。
――ぅん。
聞こえている。
昨日までの人生にはなかった音。
けれど、不思議と怖くはなかった。
その日の夜、冴子は手帳を開いた。
六十歳。
誕生日。
そして、その下に小さく書いた。
「刻の声」
それが、始まりだった。


二、急ぎ足の人々
それからしばらくして、冴子は町の中に、以前とは違うものが見えるようになった。
人の歩く速さだった。
もちろん、実際の歩調が変わったわけではない。
けれど、六十歳を過ぎた人たちの中には、まるで何かに追われるように歩いている人がいた。
近所に住む丸山も、その一人だった。
七十を過ぎてから絵を描き始めた元教師である。
最初は趣味だったらしい。
ところが、いつの間にか小さなアトリエまで作り、朝から晩まで絵筆を握るようになった。
ある日、冴子が訪ねると、丸山は窓の外を見ながら言った。
「あと何年描けるか分からないからね」
「そんなに急がなくても」
冴子が笑うと、丸山も笑った。
「若い頃は、時間がいくらでもあると思ってたんだよ」
その言葉のあと、丸山はキャンバスに向き直った。
筆が走る。
迷いがなかった。
別の日には、商店街で長く八百屋をやっていた田村に会った。
店を畳んだあと、若い頃に諦めた登山を再開したらしい。
「来月、南米へ行くんだ」
「南米ですか?」
「山があるからね」
田村は、少年のように笑った。
「若い頃は生活のために夢を捨てた。今度は夢のために生活を捨てる番だ」
冴子は二人の言葉を聞きながら、自分の耳の奥で鳴る音を思い出した。
――ぅん。
――ぅん。
二人の時間は、どこか速い。
何かを見つけた人間の時間は、こんなふうに進むのだろうか。
冴子はそう思った。
風を切るように進んでいく彼らの時間が、少しだけ羨ましかった。
自分には、丸山のように描きたいものがない。
田村のように登りたい山もない。
夫は数年前に病で亡くなった。
一人で暮らす自宅には、誰も座らない向かいのダイニングチェアが、今もそのまま残っている。
子どもたちはそれぞれの生活を持ち、電話をかければ話はできる。
けれど、日中の静まり返った部屋で、固定電話が鳴ることは滅多にいなかった。
振り返れば、六十年という時間は長かった。
けれど、誰もいない部屋でこれから先のことを考えると、急に短く感じられた。
自分は、何をすればいいのだろう。
何かを見つけなければならないのだろうか。
そう思うたび、冴子の胸は少し焦った。


三、彷徨う人々
けれど、町には急いでいない人もいた。
図書館の閲覧室に、毎日同じ時間にやってくる老人がいた。
名前は知らない。
いつも同じ席に座り、新聞を一面から最後まで読む。
昼になれば手作りの弁当を食べ、午後になると、また別の新聞を開く。
誰かと話すこともない。
冴子は、なぜかその老人が気になった。
ある日、思い切って声をかけた。
「毎日、ここにいらっしゃいますね」
老人は新聞から顔を上げた。
驚いた様子はなかった。
むしろ、いつか誰かに話しかけられることを知っていたような顔だった。
「そうですね」
「何か調べものですか?」
「いいえ」
老人は少し考えた。
「他にすることが、見つからなくてね」
冴子は、返す言葉が見つからなかった。
老人は丁寧に新聞をたたんだ。
「でも」
「はい」
「見つからないことを、そんなに悪いことだとは思っていないんですよ」
冴子はその言葉を聞いて、なぜか肩の力がすっと抜けた。
「何かを見つけないといけないと思っていました」
「誰が?」
「……誰が、というわけでは」
「世の中は、何かを見つけた人の話ばかりしますからね」
老人は穏やかに笑った。
「夢を見つけた人。生きがいを見つけた人。第二の人生を見つけた人」
そして、窓の外を流れる雲を見た。
「でも、何も見つけないまま歩いている人も、同じように一日を生きている」
その言葉が、冴子の胸に温かく残った。
帰り際、冴子は老人に尋ねた。
「お名前を聞いてもいいですか」
老人は少しだけ迷ってから答えた。
「柊、と呼んでください」
名字なのか、名前なのか。
冴子には分からなかった。
ただ、その日から二人は、ときどき図書館で言葉を交わすようになった。


四、刻の泉
ある雨上がりの日だった。
柊が、いつもより小さな声で言った。
「日高さんは、あの音を聞いていますか」
冴子は息を止めた。
「……どうして、それを?」
「やっぱり」
柊は、ふっと笑った。
「私にも聞こえます」
二人はしばらく黙っていた。
図書館の窓ガラスに、雨粒が光を残している。
「何の音なんでしょう」
冴子が尋ねると、柊は静かに首を横に振った。
「私にも分かりません」
「でも、何かご存じなんですよね?」
「少しだけ」
柊は窓の外へ視線を投げた。
「この町の外れに、古い泉があるのを知っていますか」
「泉?」
「『刻の泉』と呼ばれているそうです」
「そんなもの、聞いたことありません」
「簡単には見つけられないんですよ」
「どういう意味ですか」
「還暦を過ぎた人にしか、たどり着けないと言われています」
冴子は笑いそうになった。
けれど、柊の表情に戯れ言の色はなかった。
「そこへ行くと、時間が増えるという人もいる」
「本当に?」
「減るという人もいる」
「どちらなんですか」
「さあ」
柊は首を振った。
「行った人が、そこで何を見たかによって違うのかもしれません」
冴子は耳を澄ませた。
――ぅん。
――ぅん。
いつもの共鳴が聞こえる。
その音が、一体どこから来ているのか。
この目で確かめてみたい。
そんな思いが、日に日に強くなった。
数日後、冴子は一人で町の外れへ向かった。
柊には何も言わなかった。
けれど、雑木林の入り口に立ったとき、背後から足音がして、声が届いた。
「やっぱり来ましたね」
振り返ると、柊が静かに立っていた。
「尾行したんですか?」
「いやいや」
柊は苦笑した。
「私も、もう一度確かめたくなっただけです」

五、泉にて
雑木林の奥には、古い石の道があった。
道と呼ぶには、あまりに細く不確かだった。
けれど、二人が歩を進めると、不思議なことに一度も迷わなかった。
やがて木々が途切れ、小さな開けた場所に出た。
そこに、小さな泉があった。
苔むした岩に囲まれ、水面には一枚の落ち葉すら浮かんでいない。
風が吹き抜けているのに、波紋ひとつ立たなかった。
冴子は泉の前にひざまずき、静かな水面をのぞき込んだ。
そこに、自分の顔は映らなかった。
代わりに、見知らぬ人々の姿が滑らかに浮かび上がっていた。
丸山。
鬼気迫る表情で絵筆を握っている。
田村。
荒々しい崖の上で、遠い山頂を見上げている。
図書館で黙々と新聞を読む老人。
どこかで泣いている女。
声を上げて笑っている男。
ベンチに佇む若い男。
そして、冴子が一度も会ったことのない、何十人、何百人もの人々。
顔は浮かんでは消え、消えては別の命の表情へと移り変わった。
「これは……」
冴子の声がかすかに震えた。
柊は答えず、ただ水面をじっと見つめていた。
「柊さん。この人たちは、誰なんですか」
「私にも分かりません」
「でも、ここへ来たことがある人なんですね?」
「たぶん」
「たぶん?」
柊は薄く微笑んだ。
「この泉のすべてを、私が知っていると思わないでください」
「じゃあ、どうしてここを知っているんですか」
柊は水面を見つめたまま言った。
「昔、私にこの音を教えてくれた人に、一度だけ連れてきてもらったんです」
「誰に……?」
柊は、それ以上答えなかった。
しばらくして、水面がわずかに揺らぎ始めた。
――ぅん。
冴子の耳の奥の音と、水面のわずかな振動が、ぴたりと重なった。
その瞬間、冴子は感じた。
ここには時間が流れている。
けれど、それは時計の針のように、過去から未来へ一方向に進む時間ではない。
誰かの時間と、別の誰かの時間が、ここで静かに触れ合っている。
そんな感覚だった。


六、繋がる刻
「この泉は、時間を切り分ける場所じゃないんです」
柊が静かに語りかけた。
「時間を、繋いでいるんですよ」
冴子は黙って水面を見つめ続けた。
「私たちの耳に聞こえる、あの低い共鳴」
柊は自分の耳元を指した。
「私は、あれを『刻の波』と呼んでいます」
「刻の波……」
「人が、自分に残された時間が有限だと意識したときに、生まれる波なのかもしれません」
柊は少し間を置いた。
「若い頃は、自分の時間を意識しません。時間は、いつまでも湧き出てくるもののように思えるからです」
冴子は静かに頷いた。
「でも、ある年齢になると違ってくる」
「一年という重みが、まったく変わってしまう」
「そうです」
柊は水面を見つめた。
「夢を見つけた人の波は、強く鋭いのかもしれない」
水面の一角で、丸山の強い眼差しが光った。
「でも、何も見つけられない人の波が弱いわけでもない」
今度は、図書館の老人の静かな顔が浮かんだ。
「ゆっくりした波には、ゆっくりした波の役割がある」
冴子は言葉を飲み込んだ。
「それじゃあ……何のために、この場所があるんですか?」
柊は長い沈黙のあと、深く息を吐いた。
「分かりません。本当に分からないんです」
冴子が振り返る。
柊は、少し困ったように笑っていた。
「ただ――ここでは時々、波が乱れる」
その瞬間、穏やかだった水面に、鋭い波紋が走った。
一つ。
二つ。
三つ。
「今のは……?」
「誰かが、誰かの時間を傷つけたときです」
「時間を……傷つける?」
「身勝手な言葉で傷つけたのかもしれない。嘘で誰かの時間を奪ったのかもしれない。誰かを踏みつけて、自分だけ先へ行こうとしたのかもしれない」
波紋はゆっくりと収まり、水面が静寂を取り戻す。
「逆に、誰かが誰かを待ったときにも、波は変わります」
「待つ……?」
「誰かが立ち止まっているときに、先へ行かずに一緒にいる。それだけでも」
冴子は水面を見つめた。
さっきまで乱れていた場所に、細かな光が集まっている。
「誰かを助けたとき?」
「そうかもしれません」
「誰かに寄り添ったとき?」
「かもしれない」
「じゃあ、私たちは何をすればいいんでしょう」
柊はしばらく考えた。
それから、静かに答えた。
「たぶん、大層なことじゃないんでしょうね」

七、他人が嫌がることをしない
帰り道、冴子は何度も柊の言葉を反芻していた。
大層なことじゃない。
それが何なのか、まだはっきりとは分からなかった。
雑木林を抜け、いつもの町へ戻る途中だった。
前を歩いていた若い男が、道端に立っていた老人に荒々しく肩をぶつけた。
「邪魔だな、年寄りが」
男は嫌そうに言い捨て、振り返りもせず去っていった。
老人がバランスを崩してよろめいた。
冴子は思わず駆け寄り、その腕を支えた。
「大丈夫ですか」
「ああ……すみません。ありがとうございます」
老人は申し訳なさそうに頭を下げた。
それだけのことだった。
劇的な奇跡が起きるわけではない。
空は曇っていた。
道路を車が走り抜ける。
誰も冴子たちのことなど見ていない。
けれど、その瞬間だった。
冴子の耳の奥で、張り詰めていた糸が、ふっと緩むような響きがした。
――ぅん。
硬く冷たかった振動が、ぬるま湯に溶け込むように、柔らかく温かな響きへと変わっていた。
「日高さん」
横にいた柊が言った。
「今、聞こえましたか?」
「はい」
「何か分かりましたか?」
冴子は少し考え、それから静かに首を横に振った。
「いいえ。何も」
柊は満足そうに笑った。
「それでいいんじゃないですか」
その夜、冴子は手帳を開いた。
六十歳の誕生日に書いた、
「刻の声」
という文字の下に、もう一行だけペンを走らせた。
「他人の時間を乱さない」
それだけだった。
大きな偉業を成し遂げなくてもいい。
何かに追われるように急がなくてもいい。
答えが出ずに彷徨っていてもいい。
自分の人生を、自分なりの歩幅で歩けばいい。
ただ、その歩みのために、誰かを踏みつけないこと。
誰かの大切な時間を、身勝手に奪わないこと。
誰かが立ち止まっているなら、少し待つこと。
それだけでもいい。
その日から、冴子の歩く速度は少し遅くなった。
けれど、不思議と以前よりも、遠くの景色まで穏やかに見渡せるようになった。


八、岸辺にて
それから、数年の年月が流れた。
画家の丸山は八十三歳で亡くなった。
最期までキャンバスに向かい、絵筆を握っていたという。
田村は南米の山を無事に踏破し、その後も世界各地の山を巡り続けた。
ある年、冴子のもとに南米の消印がついた一枚の絵葉書が届いた。
雄大な雪山の写真。
その裏には、短い言葉だけが書かれていた。
「まだ登っています」
事故で先立った息子が見たかったであろう景色を、田村は今もその瞳に焼き付け続けているのだろう。
そして、図書館のあの席に座っていた柊は、いつの間にか姿を見せなくなった。
館員に尋ねても、
「ああ、あの席によくいらしていた方ですね……」
と首をかしげるばかりだった。
「お名前までは、ちょっと……」
冴子は、それ以上追わなかった。
ある静かな夕方、冴子は久しぶりに刻の泉を訪れた。
林の中の道は以前より細くなり、落ち葉で覆われていた。
それでも、足は自然に道を覚えていた。
泉は、あの日と変わらぬ姿で佇んでいた。
冴子は岸辺に立ち、水面をそっとのぞき込んだ。
そこには、数え切れないほどの顔が揺らめいていた。
知っている顔。
知らない顔。
若者の顔。
老人の顔。
喜びの表情。
悲しみの表情。
そして、ほんの一瞬だけ――
穏やかに微笑む柊の顔が見えた気がした。
冴子は何も言わず、深く頷いた。
水面の顔はすぐに消え、代わりに別の顔が浮かび上がった。
見覚えのない少女だった。
十代半ばほどだろうか。
少女は、澄んだ瞳でじっとこちらを見つめている。
冴子は思った。
この子も、いつかもここへ来るのだろうか。
六十歳になって。
耳の奥に、あの音を聞いて。
自分には何もないと思い悩みながら。
あるいは、大きな夢を抱えながら。
急いだり、立ち止まったりしながら。
探していた答えが見つからず、途方に暮れながら。
そして、誰かの時間と触れ合っていくのだろうか。
冴子は水面に向かって、静かに頭を下げた。
丸山に。
田村に。
柊に。
これまで出会った、すべての人々に。
そして、これからこの岸辺を訪れる、まだ見ぬ誰かに。
水面が、優しく揺れた。
――ぅん。
――ぅん。
――ぅん。
あの音が聞こえる。
けれど、もうそれは異物のような低い音ではなかった。
遠い凪の海の音。
誰かが穏やかに歩く足音。
そして、世界そのものが静かに息をしている音。
そんなふうに聞こえた。
冴子は、しばらくその場に立っていた。
残された時間が増えたのか。
減ったのか。
そんなことは、もうどうでもよかった。
時間は、自分一人だけのものではない。
誰かの時間と触れ合い、知らないうちに支え合いながら、また別の誰かへ渡っていく。
そう思えた。
だから、自分の一日を大切にすることは、どこかで誰かの一日を大切にすることなのかもしれない。
冴子は最後にもう一度、水面を見つめた。
波紋は一筋も乱れていなかった。
静かに、澄み渡っていた。
彼女はゆっくりと向きを変え、歩き始めた。
泉を離れ。
林を抜け。
夕暮れに包まれた町へ戻っていく。
急がず。
立ち止まりすぎず。
誰かの歩みを邪魔しないように。
誰かの大切な時間を、傷つけないように。
その先に何が待っているのかは、分からない。
けれど、それでいい。
人生は、たった一つの正しい答えを見つけるためだけにあるのではない。
誰かと、ほんの少し時間を重ねるためにあるのかもしれない。
冴子は、耳の奥に響く小さな波の音を聞きながら、灯りのともり始めた夕暮れの町を歩いていった。
――ぅん。
――ぅん。
――ぅん。
その音は、遠ざかることなく。
誰かの時間と、誰かの時間の間で。
静かに。
いつまでも。
繋がり続けていた。


(了)





あとがき
私たちは日々、効率や成果、そして「何者かになること」を求められる社会の中で生きています。
SNSを開けば、誰かの輝かしい活躍や、情熱的な生き方が目に入ります。
それを見て、自分だけが取り残されているような焦りを覚えることもあるでしょう。
けれど、人生の豊かさは、声の大きさや走る速さだけでは測れないのではないでしょうか。
本作の主人公・冴子がたどり着いた答えは、とても小さなものでした。
「他人の時間を乱さない」
誰かの歩みに、少しだけ歩幅を合わせる。
誰かが立ち止まっているとき、ほんの少し待つ。
不用意な言葉で、誰かの大切な時間を傷つけない。
書籍や文章に落とし込むことで、自分自身の今日という一日も、粗末にしない。
それだけのことが、もしかすると、私たちが思っている以上に大きな意味を持っているのかもしれません。
人の時間は、それぞれ別々に流れているように見えます。
けれど、本当にそうなのでしょうか。
誰かと出会ったこと。
誰かにかけてもらった言葉。
ほんの一度だけ交わした笑顔。
知らない誰かの何気ない優しさ。
そうした小さなものが、知らないうちに私たちの時間を支えています。
知識や経験を積み重ねるように、私たちもまた、誰かの時間の一部になっているのかもしれません。
もし読み終えたあと、ふと静かな時間が訪れたなら。
そのとき、耳を澄ましてみてください。
あなた自身の時間と、世界のどこかにある誰かの時間を繋ぐ、小さな波の音が聞こえるかもしれません。
その波が、どうか穏やかなものでありますように。
そして、あなたのこれからの時間が、あなた自身にとって大切なものでありますように。


三部作


3/3

僕のいない宇宙、あるいは最後の選択



まえがき


本書をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。

これまで「自分に似た誰か」「選ばなかった可能性」と向き合ってきた主人公の物語も、いよいよ本作でひとつの節目を迎えます。

「もしもあのとき、別の道を選んでいたら――」

誰しも一度はそんな想像をしたことがあるのではないでしょうか。

本作は、その問いをさらに一歩進め、「もしも自分という存在そのものが生まれていなかったとしたら?」という世界を描いた静かなSF作品です。

日々の選択の重みと、それによって形作られる「自分だけの人生」の愛おしさを、主人公と共に感じていただければ幸いです。どうぞ最後までお楽しみください。





第一章 存在しない僕


五人目の僕と会ってから、三ヶ月が過ぎた。

それ以来、鏡の中の僕が先に笑うことも、ガラスの向こうの僕が先にまばたきをすることもなくなった。

研究所からの連絡も途絶えていた。

僕はそれを、良いことだと思うようにしていた。

不思議なことは、不思議なまま終わっていい。

そう思っていた。

ある土曜日の朝、柊木さんから電話がかかってくるまでは。

「今から研究所に来てもらえませんか」

久しぶりに聞く声だった。

「何かあったんですか?」

「……あなたに関係することです」

その言い方で、だいたい嫌な予感がした。

研究所の地下へ行くと、速水さんがモニターの前に座っていた。

画面には、以前見たのと同じ宇宙の境界を示す波形が映っている。

ただし今回は、いつもと違った。

「これ、何です?」

「宇宙です」

速水さんが答えた。

「それは分かります」

「正確には、隣接宇宙の一つです」

柊木さんが続けた。

「この宇宙には、あなたの別の人生が存在しません」

僕は少し笑った。

「それなら普通じゃないですか。宇宙なんて無数にあるんでしょう?」

「そうです。でも――」

柊木さんは画面を拡大した。

「この宇宙には、あなたが生まれなかったんです」

僕は黙った。

「だから僕のそっくりさんもいない?」

「三人も、五人目もいません」

「じゃあ、何が問題なんです?」

柊木さんは答えなかった。

代わりに速水さんが、別の画面を開いた。

そこには奇妙な数字が並んでいた。

「この宇宙を解析していたら、こちら側と同じ波形が一つだけ見つかったんです」

「何の波形です?」

速水さんが僕を見る。

「あなたのものです」

背中が冷たくなった。




第二章 僕のいない宇宙


その宇宙へ境界を開くのは、以前より簡単だった。

むしろ、簡単すぎた。

装置を起動すると、いつものような高い音はしなかった。

静かだった。

静かすぎた。

「境界が薄いというより……向こう側が、こちらに近づいてきています」

速水さんがつぶやいた。

「そんなこと、あるんですか?」

「理論上はありません」

柊木さんが言った。

「でも今、起きています」

僕は光の輪の中へ入った。

白い空間。

そこまでは同じだった。

だが、以前とは違う。

何もいない。

三人の僕もいない。

五人目もいない。

本当に、誰もいない。

白い空間の中央に、一枚の椅子だけが置かれていた。

その椅子を見た瞬間、妙な既視感があった。

「ここ……」

声が震えた。

「僕は来たことがある」

もちろん、来たことなどない。

なのに知っている。

椅子の傷も。

床に落ちた小さな黒い染みも。

その場所で誰かが長い間、何かを待っていたことまで。

「誰かいるのか?」

僕が尋ねる。

返事はない。

その代わり、遠くで小さな音がした。

カチ。

カチ。

時計の針の音だった。

白い空間のどこにも時計はない。

それなのに、音だけがする。

カチ。

カチ。

そして突然、声が聞こえた。

「やっぱり来た」

僕は振り返った。

誰もいない。

「誰だ?」

「僕だよ」

声は、五人目の僕と同じだった。

けれど、姿は現れなかった。




第三章 存在しなかった選択


「五人目なのか?」

「違う」

声は静かに答えた。

「僕は、五人目より前のものだ」

意味が分からない。

「五人目より前?」

「五人目は、君が選ばなかった可能性を集めたものだった」

「じゃあ君は?」

しばらく沈黙があった。

「僕は、君が存在するために選ばれなかった可能性だ」

僕は言葉を失った。

「……どういう意味?」

「君が生まれなかった可能性」

白い空間が、わずかに揺れた。

「君の両親が出会わなかった可能性。

別の場所で暮らしていた可能性。

違う日に生まれた可能性。

誰か一人が、ほんの少し違う道を選んだ可能性」

声は淡々としていた。

「それらは全部、君が存在しない宇宙につながっている」

「じゃあ、ここは――」

「そう」

声が少しだけ笑った。

「僕の宇宙だ」

「君は、僕じゃないのか?」

「僕は君ではない」

「じゃあ、誰なんだ」

「名前はない」

それが妙に悲しく聞こえた。




第四章 名前のない人


「この宇宙には、僕以外に誰かいるのか?」

「もちろんいるよ」

「じゃあ、どうして誰もいない?」

「君から見えていないだけだ」

「どういうこと?」

「君の宇宙では、僕たちが『存在しない宇宙』になっている」

「僕たち?」

「そう」

声が少し遠くなる。

「宇宙は、お互いを見ることができない」

僕はその言葉を聞きながら、奇妙なことに気づいた。

「じゃあ、なぜ僕はここに来られた?」

長い沈黙。

そして声が答えた。

「君が呼んだからだよ」

「僕が?」

「五人目と会ったとき、君は言っただろう」

僕は思い出した。

――この人生を続けるよ。

「その言葉が、こちら側に届いた」

「どうして?」

「選択を肯定する言葉は、境界を薄くする」

「逆じゃないのか?」

「普通はそう思うよね」

声が笑った。

「でも、違うんだ」

白い空間に、突然いくつもの景色が浮かび上がった。

子どもの僕。

学生の僕。

知らない町を歩く僕。

誰かと結婚している僕。

一人で暮らしている僕。

木を削っている僕。

会社を経営している僕。

そして――

僕が生まれていない世界。

「人生は、選んだ道だけでできているんじゃない」

声が言った。

「選ばなかった道があるから、一つの道が『自分の人生』になる」

僕は黙って景色を見ていた。




第五章 最後の選択


「じゃあ、僕に何をしてほしい?」

「選んでほしい」

「何を?」

「戻るか、残るか」

僕は息を呑んだ。

「残ったらどうなる?」

「君の宇宙との境界が閉じる」

「つまり、もう戻れない?」

「そう」

「じゃあ、戻ったら?」

「こちら側は、君を失う」

「僕を?」

「君の存在を知ることができなくなる」

僕はしばらく考えた。

「それなら、僕が戻ればいいじゃないか」

「本当に?」

声が初めて揺れた。

「君は今の人生に満足している?」

僕は答えられなかった。

第1作で、三人の僕に同じことを聞かれた。

あのときも、すぐには答えられなかった。

幸せか。

不幸せか。

そんな簡単な二択ではない。

僕の人生には、失敗もある。

後悔もある。

やらなかったことも、言わなかったこともある。

会わなかった人もいる。

捨てた夢もある。

それでも――

帰りたい場所はある。

「戻るよ」

僕は言った。

「僕は、自分の宇宙に帰る」

白い空間が揺れた。

「そうか」

声は寂しそうだった。

「じゃあ、最後に一つだけ」

「何?」

「僕に名前をくれないか」

僕は目を閉じた。

名前。

そんなものを、誰にも存在を知られていないものに与えていいのだろうか。

少し考えてから言った。

「……『余白』はどうかな」

「余白?」

「文章の端っこや、絵の周りにある白い部分さ。何もないように見えて、それがあるから言葉や絵が立ち上がる場所」

しばらく返事がなかった。

やがて声が言った。

「いい名前だ」

白い空間に、初めて光が差した。




第六章 帰る場所


「さようなら」

僕は言った。

「さようなら」

声が答える。

「また会えるかな」

「たぶん」

「たぶん?」

「君が何かを選ばなかったとき」

声が少し笑った。

「そのたびに、僕は増えるから」

「それは困るな」

僕も笑った。

「人生を迷えなくなる」

「迷っていいんだよ」

声が言った。

「迷いがあるから、選んだ道が君の道になる」

光が強くなった。

「じゃあ、また」

最後に聞こえた声は、五人目の僕よりも、少しだけ僕自身に似ていた。

次の瞬間、僕は研究所の床に倒れていた。




第七章 ログの最後


「大丈夫ですか!」

柊木さんが駆け寄ってきた。

僕はゆっくり起き上がった。

「……戻ってきました」

「向こうで何を見たんです?」

僕は少し考えた。

「僕のいない宇宙を」

速水さんが息を呑んだ。

「何か、いましたか?」

「いました」

「誰が?」

僕は笑った。

「名前のない誰かです」

二人は顔を見合わせた。

そのとき、装置が小さく音を立てた。

モニターに一行だけ文字が表示された。

――境界閉鎖完了。

その下に、もう一行。

――存在数:4

速水さんが首をかしげる。

「四人?」

僕は画面を見つめた。

一人目、二人目、三人目。そして、いまここにいる僕。

五人目はもうどこにもいない。けれど、数字は「4」を示している。

僕はなぜか、それでいいと思った。




第八章 それぞれの宇宙


それから一年が過ぎた。

研究所の装置は停止された。

柊木さんは研究を続けているらしいが、僕はもう詳しいことを聞かなかった。

僕は以前と同じ生活に戻った。

朝起きて。

仕事へ行って。

帰って。

飯を食べて。

眠る。

以前なら、それを「普通」と呼んでいた。

今は少し違う。

普通というのは、何も起きないことではない。

無数にありえた人生の中から、たまたま今の人生が残っていることなのだ。

ある日、駅からの帰り道。

僕はショーウィンドウの前で立ち止まった。

ガラスに自分が映っている。

少し疲れた顔。

少し猫背。

いつもの僕。

僕は笑ってみた。

ガラスの中の僕も笑った。

今度は同時だった。

僕は少し安心して歩き出した。

そのとき、背後から声がした。

「すみません」

振り返る。

知らない女性が立っていた。

「突然すみません。以前、どこかでお会いしませんでしたか?」

僕は思わず笑った。

久しぶりだった。

その言葉を聞くのは。

「たぶん、会ってないと思います」

女性は首をかしげた。

「そうですか。なんだか、すごく似た人を知っている気がして」

「そういうこと、ありますよね」

僕はそう答えた。

女性が去っていく。

僕は空を見上げた。

夕暮れの空には、細い月が出ていた。

その向こうに、別の宇宙があるのかもしれない。

そこには、僕が成功しているかもしれない。

家庭を持っているかもしれない。

山奥で木を削っているかもしれない。

あるいは、僕の選ばなかった可能性を抱えている五人目がいるかもしれない。

そして、そのさらに外側には――

僕が存在しなかった宇宙がある。

そこには名前のない誰かがいて、僕のことを覚えている。

そう考えると、不思議と怖くなかった。

僕は歩いた。

自分が選んだ道を。




エピローグ 余白


その夜、洗面所で歯を磨いた。

鏡を見る。

僕がいる。

ちゃんと僕だ。

五人目もいない。

知らない誰かもいない。

僕は口をすすぎ、電気を消そうとした。

その瞬間、鏡の隅に、小さな白い文字が浮かんだ気がした。

――またね。

僕はしばらく動かなかった。

書籍の余白に残された小さな注釈のように、それは静かにそこにあった。

そして、鏡に向かって小さく笑った。

「うん」

それだけ言って、電気を消した。

暗闇の中で、自分の足音だけが聞こえた。

一歩。

また一歩。

僕は、自分の人生を歩いていく。

選ばなかった道は、もう振り返らない。

けれど、消えたわけではない。

宇宙のどこか。

境界の外側。

誰にも見えない余白の中で、

僕が選ばなかった僕たちは、

きっと今も生きている。

そしてたぶん――

それでいい。

僕はドアを閉めた。

その向こうには、明日の朝が待っている。


――完――




あとがき


物語の締めくくりとして、「選ばなかった人生」や「自分が存在しなかった世界」を肯定する主人公の姿を描きました。

私たちは日常の中で、無数の選択を繰り返して生きています。ふとした瞬間に「もし別の道を選んでいたら」と考えてしまうこともありますが、選ばなかった選択肢(余白)があるからこそ、今歩んでいるこの一歩が何よりも自分らしい人生になるのだと信じています。

本作が、お読みいただいた皆さまの日常に、ほんの少しの温かさと前向きな余韻を残すことができたなら幸いです。

また別の物語でお会いできることを楽しみにしています。




あらすじ

「五人目の僕」との遭遇から三ヶ月。怪異は去り、平穏な日常を取り戻したかに思えた主人公の元に、再び研究所から連絡が入る。

速水と柊木が見せたのは、「主人公が存在しなかった隣接宇宙」の観測データだった。

境界を越えた彼が目にしたのは、何も存在しない白い空間と、一脚の椅子。そして、どこからもなく響く「名前のない声」――。

選ばなかった道、歩まなかった人生。それらすべてを優しく包み込む、SF連作シリーズ、堂々の完結編。




まえがき
本書をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。
これまで「自分に似た誰か」「選ばなかった可能性」と向き合ってきた主人公の物語も、いよいよ本作でひとつの節目を迎えます。
「もしもあのとき、別の道を選んでいたら――」
誰しも一度はそんな想像をしたことがあるのではないでしょうか。
本作は、その問いをさらに一歩進め、「もしも自分という存在そのものが生まれていなかったとしたら?」という世界を描いた静かなSF作品です。
日々の選択の重みと、それによって形作られる「自分だけの人生」の愛おしさを、主人公と共に感じていただければ幸いです。どうぞ最後までお楽しみください。



第一章 存在しない僕
五人目の僕と会ってから、三ヶ月が過ぎた。
それ以来、鏡の中の僕が先に笑うことも、ガラスの向こうの僕が先にまばたきをすることもなくなった。
研究所からの連絡も途絶えていた。
僕はそれを、良いことだと思うようにしていた。
不思議なことは、不思議なまま終わっていい。
そう思っていた。
ある土曜日の朝、柊木さんから電話がかかってくるまでは。
「今から研究所に来てもらえませんか」
久しぶりに聞く声だった。
「何かあったんですか?」
「……あなたに関係することです」
その言い方で、だいたい嫌な予感がした。
研究所の地下へ行くと、速水さんがモニターの前に座っていた。
画面には、以前見たのと同じ宇宙の境界を示す波形が映っている。
ただし今回は、いつもと違った。
「これ、何です?」
「宇宙です」
速水さんが答えた。
「それは分かります」
「正確には、隣接宇宙の一つです」
柊木さんが続けた。
「この宇宙には、あなたの別の人生が存在しません」
僕は少し笑った。
「それなら普通じゃないですか。宇宙なんて無数にあるんでしょう?」
「そうです。でも――」
柊木さんは画面を拡大した。
「この宇宙には、あなたが生まれなかったんです」
僕は黙った。
「だから僕のそっくりさんもいない?」
「三人も、五人目もいません」
「じゃあ、何が問題なんです?」
柊木さんは答えなかった。
代わりに速水さんが、別の画面を開いた。
そこには奇妙な数字が並んでいた。
「この宇宙を解析していたら、こちら側と同じ波形が一つだけ見つかったんです」
「何の波形です?」
速水さんが僕を見る。
「あなたのものです」
背中が冷たくなった。



第二章 僕のいない宇宙
その宇宙へ境界を開くのは、以前より簡単だった。
むしろ、簡単すぎた。
装置を起動すると、いつものような高い音はしなかった。
静かだった。
静かすぎた。
「境界が薄いというより……向こう側が、こちらに近づいてきています」
速水さんがつぶやいた。
「そんなこと、あるんですか?」
「理論上はありません」
柊木さんが言った。
「でも今、起きています」
僕は光の輪の中へ入った。
白い空間。
そこまでは同じだった。
だが、以前とは違う。
何もいない。
三人の僕もいない。
五人目もいない。
本当に、誰もいない。
白い空間の中央に、一枚の椅子だけが置かれていた。
その椅子を見た瞬間、妙な既視感があった。
「ここ……」
声が震えた。
「僕は来たことがある」
もちろん、来たことなどない。
なのに知っている。
椅子の傷も。
床に落ちた小さな黒い染みも。
その場所で誰かが長い間、何かを待っていたことまで。
「誰かいるのか?」
僕が尋ねる。
返事はない。
その代わり、遠くで小さな音がした。
カチ。
カチ。
時計の針の音だった。
白い空間のどこにも時計はない。
それなのに、音だけがする。
カチ。
カチ。
そして突然、声が聞こえた。
「やっぱり来た」
僕は振り返った。
誰もいない。
「誰だ?」
「僕だよ」
声は、五人目の僕と同じだった。
けれど、姿は現れなかった。



第三章 存在しなかった選択
「五人目なのか?」
「違う」
声は静かに答えた。
「僕は、五人目より前のものだ」
意味が分からない。
「五人目より前?」
「五人目は、君が選ばなかった可能性を集めたものだった」
「じゃあ君は?」
しばらく沈黙があった。
「僕は、君が存在するために選ばれなかった可能性だ」
僕は言葉を失った。
「……どういう意味?」
「君が生まれなかった可能性」
白い空間が、わずかに揺れた。
「君の両親が出会わなかった可能性。
別の場所で暮らしていた可能性。
違う日に生まれた可能性。
誰か一人が、ほんの少し違う道を選んだ可能性」
声は淡々としていた。
「それらは全部、君が存在しない宇宙につながっている」
「じゃあ、ここは――」
「そう」
声が少しだけ笑った。
「僕の宇宙だ」
「君は、僕じゃないのか?」
「僕は君ではない」
「じゃあ、誰なんだ」
「名前はない」
それが妙に悲しく聞こえた。



第四章 名前のない人
「この宇宙には、僕以外に誰かいるのか?」
「もちろんいるよ」
「じゃあ、どうして誰もいない?」
「君から見えていないだけだ」
「どういうこと?」
「君の宇宙では、僕たちが『存在しない宇宙』になっている」
「僕たち?」
「そう」
声が少し遠くなる。
「宇宙は、お互いを見ることができない」
僕はその言葉を聞きながら、奇妙なことに気づいた。
「じゃあ、なぜ僕はここに来られた?」
長い沈黙。
そして声が答えた。
「君が呼んだからだよ」
「僕が?」
「五人目と会ったとき、君は言っただろう」
僕は思い出した。
――この人生を続けるよ。
「その言葉が、こちら側に届いた」
「どうして?」
「選択を肯定する言葉は、境界を薄くする」
「逆じゃないのか?」
「普通はそう思うよね」
声が笑った。
「でも、違うんだ」
白い空間に、突然いくつもの景色が浮かび上がった。
子どもの僕。
学生の僕。
知らない町を歩く僕。
誰かと結婚している僕。
一人で暮らしている僕。
木を削っている僕。
会社を経営している僕。
そして――
僕が生まれていない世界。
「人生は、選んだ道だけでできているんじゃない」
声が言った。
「選ばなかった道があるから、一つの道が『自分の人生』になる」
僕は黙って景色を見ていた。



第五章 最後の選択
「じゃあ、僕に何をしてほしい?」
「選んでほしい」
「何を?」
「戻るか、残るか」
僕は息を呑んだ。
「残ったらどうなる?」
「君の宇宙との境界が閉じる」
「つまり、もう戻れない?」
「そう」
「じゃあ、戻ったら?」
「こちら側は、君を失う」
「僕を?」
「君の存在を知ることができなくなる」
僕はしばらく考えた。
「それなら、僕が戻ればいいじゃないか」
「本当に?」
声が初めて揺れた。
「君は今の人生に満足している?」
僕は答えられなかった。
第1作で、三人の僕に同じことを聞かれた。
あのときも、すぐには答えられなかった。
幸せか。
不幸せか。
そんな簡単な二択ではない。
僕の人生には、失敗もある。
後悔もある。
やらなかったことも、言わなかったこともある。
会わなかった人もいる。
捨てた夢もある。
それでも――
帰りたい場所はある。
「戻るよ」
僕は言った。
「僕は、自分の宇宙に帰る」
白い空間が揺れた。
「そうか」
声は寂しそうだった。
「じゃあ、最後に一つだけ」
「何?」
「僕に名前をくれないか」
僕は目を閉じた。
名前。
そんなものを、誰にも存在を知られていないものに与えていいのだろうか。
少し考えてから言った。
「……『余白』はどうかな」
「余白?」
「文章の端っこや、絵の周りにある白い部分さ。何もないように見えて、それがあるから言葉や絵が立ち上がる場所」
しばらく返事がなかった。
やがて声が言った。
「いい名前だ」
白い空間に、初めて光が差した。



第六章 帰る場所
「さようなら」
僕は言った。
「さようなら」
声が答える。
「また会えるかな」
「たぶん」
「たぶん?」
「君が何かを選ばなかったとき」
声が少し笑った。
「そのたびに、僕は増えるから」
「それは困るな」
僕も笑った。
「人生を迷えなくなる」
「迷っていいんだよ」
声が言った。
「迷いがあるから、選んだ道が君の道になる」
光が強くなった。
「じゃあ、また」
最後に聞こえた声は、五人目の僕よりも、少しだけ僕自身に似ていた。
次の瞬間、僕は研究所の床に倒れていた。



第七章 ログの最後
「大丈夫ですか!」
柊木さんが駆け寄ってきた。
僕はゆっくり起き上がった。
「……戻ってきました」
「向こうで何を見たんです?」
僕は少し考えた。
「僕のいない宇宙を」
速水さんが息を呑んだ。
「何か、いましたか?」
「いました」
「誰が?」
僕は笑った。
「名前のない誰かです」
二人は顔を見合わせた。
そのとき、装置が小さく音を立てた。
モニターに一行だけ文字が表示された。
――境界閉鎖完了。
その下に、もう一行。
――存在数:4
速水さんが首をかしげる。
「四人?」
僕は画面を見つめた。
一人目、二人目、三人目。そして、いまここにいる僕。
五人目はもうどこにもいない。けれど、数字は「4」を示している。
僕はなぜか、それでいいと思った。



第八章 それぞれの宇宙
それから一年が過ぎた。
研究所の装置は停止された。
柊木さんは研究を続けているらしいが、僕はもう詳しいことを聞かなかった。
僕は以前と同じ生活に戻った。
朝起きて。
仕事へ行って。
帰って。
飯を食べて。
眠る。
以前なら、それを「普通」と呼んでいた。
今は少し違う。
普通というのは、何も起きないことではない。
無数にありえた人生の中から、たまたま今の人生が残っていることなのだ。
ある日、駅からの帰り道。
僕はショーウィンドウの前で立ち止まった。
ガラスに自分が映っている。
少し疲れた顔。
少し猫背。
いつもの僕。
僕は笑ってみた。
ガラスの中の僕も笑った。
今度は同時だった。
僕は少し安心して歩き出した。
そのとき、背後から声がした。
「すみません」
振り返る。
知らない女性が立っていた。
「突然すみません。以前、どこかでお会いしませんでしたか?」
僕は思わず笑った。
久しぶりだった。
その言葉を聞くのは。
「たぶん、会ってないと思います」
女性は首をかしげた。
「そうですか。なんだか、すごく似た人を知っている気がして」
「そういうこと、ありますよね」
僕はそう答えた。
女性が去っていく。
僕は空を見上げた。
夕暮れの空には、細い月が出ていた。
その向こうに、別の宇宙があるのかもしれない。
そこには、僕が成功しているかもしれない。
家庭を持っているかもしれない。
山奥で木を削っているかもしれない。
あるいは、僕の選ばなかった可能性を抱えている五人目がいるかもしれない。
そして、そのさらに外側には――
僕が存在しなかった宇宙がある。
そこには名前のない誰かがいて、僕のことを覚えている。
そう考えると、不思議と怖くなかった。
僕は歩いた。
自分が選んだ道を。



エピローグ 余白
その夜、洗面所で歯を磨いた。
鏡を見る。
僕がいる。
ちゃんと僕だ。
五人目もいない。
知らない誰かもいない。
僕は口をすすぎ、電気を消そうとした。
その瞬間、鏡の隅に、小さな白い文字が浮かんだ気がした。
――またね。
僕はしばらく動かなかった。
書籍の余白に残された小さな注釈のように、それは静かにそこにあった。
そして、鏡に向かって小さく笑った。
「うん」
それだけ言って、電気を消した。
暗闇の中で、自分の足音だけが聞こえた。
一歩。
また一歩。
僕は、自分の人生を歩いていく。
選ばなかった道は、もう振り返らない。
けれど、消えたわけではない。
宇宙のどこか。
境界の外側。
誰にも見えない余白の中で、
僕が選ばなかった僕たちは、
きっと今も生きている。
そしてたぶん――
それでいい。
僕はドアを閉めた。
その向こうには、明日の朝が待っている。

――完――


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あとがき
物語の締めくくりとして、「選ばなかった人生」や「自分が存在しなかった世界」を肯定する主人公の姿を描きました。
私たちは日常の中で、無数の選択を繰り返して生きています。ふとした瞬間に「もし別の道を選んでいたら」と考えてしまうこともありますが、選ばなかった選択肢(余白)があるからこそ、今歩んでいるこの一歩が何よりも自分らしい人生になるのだと信じています。
本作が、お読みいただいた皆さまの日常に、ほんの少しの温かさと前向きな余韻を残すことができたなら幸いです。
また別の物語でお会いできることを楽しみにしています。


三部作


2/3
五人目の僕、あるいは境界の外側



まえがき


人生は選択の連続です。右へ行くか、左へ行くか。あの言葉を口にするか、飲み込むか。私たちは日々、無数の分岐点に立ち、何かを選び取りながら前へと進んでいます。
けれど、選ばれなかった道はどこへ行くのでしょうか。途絶え、消え去り、最初からなかったことになるのでしょうか。
前作をお読みいただいた皆様、大変お待たせいたしました。本作『五人目の僕、あるいは境界の外側』は、前作で残された「もう一つの疑問」に向き合った物語です。自分が歩まなかった人生への未練や不安を抱えるすべての方へ、静かな肯定の祈りを込めてお届けします。




第一章 ログのノイズ


あれから半年。
そっくりさんの目撃情報はぴたりと止まり、僕の日常は静かに元へ戻った。
ただ一つだけ、気になっていることがある。
研究所の装置が記録した「五人目」の反応だ。
柊木さんは「誤作動かもしれません」と言ったが、あのときの歯切れの悪さが、妙に胸に残っていた。
ある夜、僕は研究所からメールを受け取った。差出人は速水さん。件名は「例のログについて」。
本文は短かった。
――再解析の結果、五人目の反応は誤作動ではありませんでした。
――可能なら、もう一度来ていただけませんか。
胸の奥が、ゆっくりと冷えていくような感覚があった。



第二章 鏡の間の再訪


研究所の地下は以前と同じだった。ただ、装置の周囲に新しいモニターが増えている。
「五人目の反応は、あなたの周囲にだけ現れています」と速水さん。「他の被験者では一度も検出されていない」
「つまり……僕にだけ、何かが?」
「そういうことになります」
柊木さんが静かに言った。
「境界の向こう側にいる“あなた”は、三人だけとは限らないんです。枝分かれの数は理論上、無限ですから」
装置の中央に立つよう促される。前回よりも光が弱く、代わりに空気がひどく重かった。
「今回は、境界を“探る”だけです。誰かと会うわけではありません」
そう言われたが、僕はなぜか確信していた。――誰かが、待っている。



第三章 白い空間のひずみ


光が収束し、視界が白く染まる。
前回と同じ、何もない空間。ただ、空気がざらついている。まるで静電気が肌にまとわりつくようだった。
「……誰か、いるのか?」
声が吸い込まれるように消える。
次の瞬間、背後で「僕の声」がした。
「やっと来たね」
振り返る。そこに立っていたのは――僕ではなかった。
いや、顔は僕だ。輪郭も、目も、鼻も、口も。だが、どこか“ずれて”いる。表情がない。まるで、顔の皮ふの表面を機械的に動かしているかのような、“形だけ”の動きだった。
「君は……誰なんだ」
「僕だよ。君の、外側の僕」
外側? 意味がわからない。
「君たちは、枝分かれした“選択”の先にいる。でも僕は違う。僕は、選択されなかった“可能性”の集合体だ」
ぞくりとした。
「可能性……?」
「君が選ばなかった道。君が考えもしなかった道。君が選ぶことすら許されなかった道。その全部が、僕になった」
声は淡々としているのに、どこか底が見えない。
「君たち四人は“人生”を持っている。でも僕は、人生を持たなかった。だから、境界の外側に溜まり続けた」
「溜まる……?」
「可能性は消えない。選ばれなかっただけで、どこかに残る。それが僕だ」
僕は息を呑んだ。
「じゃあ……君は、僕の“影”なのか?」
「影ではない」
「君が歩かなかった道の“総量”だ」――その言葉が、妙に重く響いた。



第四章 五人目の願い


「君は、僕を見たことがあるはずだよ」
「見たことなんて――」
言いかけて、思い出した。鏡だ。あの夜、鏡の中の僕が、僕より先に笑った。
「……あれは、君なのか」
「そう。境界が薄いときだけ、少しだけ滲み出られる」
「どうして僕のところに?」
「君が一番“余白”を持っているからだよ」
余白。柊木さんが言っていた言葉だ。
「君は、自分の人生を完全には肯定していない。否定もしていない。その“揺れ”が、僕を引き寄せる」
「じゃあ……君は何を望んでいる?」
五人目の僕は、初めて表情らしきものを浮かべた。それは笑顔ではなく、やはり無機質な“形だけ”の歪みだった。
「僕は、君の人生を少しだけ歩いてみたい」
背筋が凍った。
「それは……入れ替わりたいってことか?」
「違うよ。君の人生の“端っこ”に、少しだけ触れたいだけだ」
「端っこ?」
「君が選ばなかった瞬間。君が迷った瞬間。君が見落とした瞬間。その隙間に、僕は立ってみたい」
それは、恐怖ではなく――奇妙な哀しさを帯びていた。



第五章 境界の閉じる前に


空間が揺れ始めた。境界が閉じる合図だ。
「時間がないね」と五人目の僕。
「最後に、一つだけ言っておくよ」
「なんだ」
「君がこれから選ぶ道は、全部“正しい”。選ばなかった道は、僕が持っているから」
「……それは、慰めか?」
「違う。君が歩く道は一本だけでいい。残りは全部、僕が引き受ける」
白い空間が崩れ始める。
五人目の僕は、ゆっくりと手を上げた。その仕草は、他の三人の僕よりもずっとぎこちなかった。
「また、余白で会おう」
視界が真っ白になった。



第六章 余白の中で


気づくと、鏡の間に戻っていた。柊木さんと速水さんが駆け寄ってくる。
「中で何が――」
僕は首を振った。
「説明できない。でも……一つだけわかったことがあります」
「何です?」
「選ばなかった人生は、消えていない。どこかで、誰かが持っている」
柊木さんは静かに息を呑んだ。
帰り道、ショッピングモールのガラスに映った自分を見た。その顔はいつもの僕だった。
ただ――ほんの一瞬だけ、ガラスの奥の“僕”が、僕より先にまばたきをした。
ガラスの中の“僕”は、どこか少しだけ満足そうに見えた。
気のせいだろう。そう思うことにした。
それに、たとえ気のせいでなかったとしても――
今はそれで、悪くないと思っている。

―― 了 ――


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あとがき


歳を重ねるにつれ、「もしあのとき別の道を選んでいたらどうなっていただろう」と考えることが増えました。若い頃の失敗、言えなかった一言、選べなかった夢。誰の胸の中にも、小さな「選ばなかった分岐点」が幾重にも重なって眠っているのではないでしょうか。
作中で『五人目の僕』が語ったように、私たちが選ばなかった道も決して無駄や虚無ではなく、どこか境界の外側で優しく引き受けられているのかもしれない――そんな想像が、今を生きる私たちの背中を少しでも軽やかにできれば幸いです。
静かな山あいの清流で釣りをしながら、あるいは庭の草木の手入れをしながら巡らせた雑想が、こうして一つの物語として結実したことを心より嬉しく思います。



三部作


1/3
となりの僕、あるいは宇宙の余白



まえがき

「世界には、自分にそっくりな人間が三人いる」
そんな言葉を、一度は耳にしたことがあるだろう。統計上の偶然なのか、ただの都市伝説なのか。日常の中で思い出すことなど、普通はない。

だがもし、その「三人」が、あなたのすぐ近くで、それぞれの人生を生きながら、ときどきこちらの世界へ「顔を出して」いるとしたら――?

この物語は、ごく普通の日々を歩んでいた一人の男が、選ばなかった自分の人生たちと鉢合わせしてしまう、少し奇妙で、どこか滑稽な記録である。
どうぞ、宇宙の隙間に転がる「余白」を覗き込むような気持ちで、気楽にお付き合いください。




プロローグ 三人のそっくりさん

最近、初対面の人にやたらと言われるようになった。

「あれ、どこかでお会いしましたよね?」

そのたび僕は、いえ初めてかと思いますが、と答える。すると相手は決まって苦笑しながら、「そっくりな方がいるんですねえ」と去っていく。

一度や二度なら気にしない。だが月に三、四回となると話は別だ。コンビニ、駅、取引先。僕は何度も「初対面」を繰り返す羽目になった。

友人の哲也に話すと、彼はコーヒーを噴き出しそうになりながら言った。

「知らないの? 世界には自分にそっくりな人間が三人はいるらしいよ。都市伝説だけどさ」

「三人?」

「顔のパーツの組み合わせなんて有限だから、七十七億人もいればそっくりさんが三人や四人いても不思議じゃないってこと」

なるほど、と思った。思っただけで、そのときはまだ笑い話のつもりだった。

問題は、その三人が「どこかで、何かをしている」らしいという一点だった。



第一章 ショッピングモールの奥様

発端は近所のショッピングモールだった。

週末、書店の帰りにフードコートへ寄ると、顔なじみの店員が声をかけてきた。

「先週、奥様とご一緒でしたよね? とても素敵な方で」

僕は独身だ。奥様などいるはずがない。

「いえ、それは僕じゃないですよ」

即答すると、店員はきょとんとした顔で「でも本当にそっくりで……」とつぶやきながら奥へ引っ込んだ。

その夜、布団に入ってから妙に気になった。綺麗な奥様らしき人と歩いていた「僕」。もし本当に僕にそっくりな誰かが、僕の生活圏をうろついているのだとしたら。

悪さをしていなければいいが――そう考えた瞬間、背筋が冷えた。もしそっくりさんが僕の名を騙って何かしていたら? 借金? 犯罪?

考えすぎだ、と自分に言い聞かせて眠った。だが翌週、また別の人から同じような話を聞かされることになる。



第二章 尾行、あるいは追いかけっこ

それから僕は妙な癖がついた。街で自分と似た背格好の男を見ると、つい二度見してしまう。

ある夕方、駅前の交差点で、その「男」を見た。
グレーのコート、黒縁眼鏡、歩き方まで僕そっくりだった。

声をかけようとした瞬間、信号が変わり、男は雑踏へ消えた。
僕は反射的に走り出した。人混みをかき分け、路地へ飛び込む。

息が切れたところで、目の前にいたのは――知らないおじさんだった。

「な、なんですか、あなた」

おじさんは怯えた顔で後ずさった。僕は平謝りしながらその場を離れた。

家に帰って鏡を見る。眼鏡の位置、無精ひげ、少し猫背の姿。自分の顔なのに、なぜか他人のもののように見えてくる。

そっくりさんは三人いるという哲也の言葉が頭の中でぐるぐる回った。
もし本当に三人いるなら、彼らはどこで何をしているのだろう。
そしてなぜ最近になって急に目撃情報が増えたのだろう。



第三章 喫茶店の女性研究者

答えのヒントは思わぬところから来た。

会社帰り、いつもの喫茶店で時間をつぶしていると、隣の席の女性が声をかけてきた。名刺には「量子生物学研究所 特任研究員 柊木環」とある。

「失礼、盗み聞きするつもりはなかったんですが……そっくりさんが増えたという話、されていましたよね」

僕はこれまでの経緯を話した。柊木さんは興味深そうにメモを取りながら言った。

「実は最近、似た相談が研究所にいくつか来ているんです。『自分にそっくりな人物の目撃談が急に増えた』という」

「ただの都市伝説の流行じゃなくて?」

「かもしれません。でも、もし本当だったら面白いと思いませんか」

彼女は紙ナプキンに枝分かれする線を描いた。

「理論上、宇宙にはこの宇宙とほんの少しだけ枝分かれした『隣の宇宙』が無数に存在する可能性があります。もし境界がごくまれに薄くなる場所があるとしたら――」

「隣の宇宙のあなたが、ふとした拍子にこちら側へ『滲み出す』。長くは留まれない。でもその一瞬、誰かに目撃される」

「それじゃあ、僕が見た男やショッピングモールの『僕』は……」

「別の宇宙のあなた自身かもしれません」

柊木さんは、線と線のあいだの余白を指でなぞった。

「宇宙と宇宙のあいだには、完全な空白があるわけじゃないのかもしれません。私たちが『余白』だと思っている場所にも、案外、誰かの人生がある。ただ見えないだけで」

冗談のような話だったが、彼女の目は真剣だった。

「もしよければ、詳しく調べさせてもらえませんか。あなたのケースは目撃頻度が異常に高い。何か境界を薄くする要因があるのかもしれません」



第四章 研究所の地下で

柊木さんに連れられて訪れたのは、大学の外れにある古い研究棟の地下だった。
案内された部屋には巨大なドーナツ型の装置と無数のモニターが並んでいた。

「これは『共鳴観測装置』、通称『鏡の間』です。宇宙同士のわずかな『滲み』を検出するための機械なんです」

同僚の速水という研究者がモニターを指差した。

「見てください。ここ一ヶ月、あなたを中心にした半径二キロ圏内で異常な波形が七回も検出されています。普通は十年に一度あるかないかなんですけどね」

「なんで僕なんですか」

「正直わかりません。ただ仮説はあります。あなたの『隣の宇宙たち』が、何らかの理由でこちらの宇宙に強い興味――引力のようなものを持っている可能性がある」

「興味……ですか」

「たとえば隣の宇宙のあなたが、こちらのあなたの人生をうらやましく思っているとか」

冗談めかした口調だったが、妙に納得してしまった。

「一つ提案があります」と柊木さんが言った。
「装置を使えば、ごく短時間ですが、意図的に境界を薄くできます。もし興味があれば――『隣の僕』と直接会ってみませんか」



第五章 三人の僕

週末、僕は再び研究所を訪れた。
装置の中央、光の輪の中へ足を踏み入れる。耳の奥で高い音が鳴り、視界が歪んだ。

気づくと、白い何もない空間に立っていた。
そして目の前には――三人の「僕」がいた。

一人目はふくよかで、腕に子どもを抱いていた。
「やあ、不思議なこともあるもんだね」と疲れたような温かい笑顔。
ショッピングモールで「奥様」と歩いていた僕だ。結婚し、子どもがいて、毎日てんてこ舞いだが幸せそうだった。

二人目は痩せていて、目つきが鋭い。
「ふん……お前がこちらの俺か。案外パッとしないな」
駅前ですれ違った男だ。彼の世界では会社を興して成功しているが、人間関係は冷え切っているという。

三人目は作業着姿で、絆創膏だらけの手をしていた。
「……俺の世界の俺は、山奥で木を削ってるよ。小さな工房さ」
木工職人になった僕らしい。

四人の僕はしばらく無言で顔を見合わせた。同じ顔、同じ声、しかし歩んできた道はまるで違う。

「なあ」と痩せた僕が言った。「お前の世界はどうなんだ。俺たちの中で一番『普通』みたいだが」

「普通、というか……特に何も」

正直に答えると、三人はどっと息を漏らした。

「羨ましいよ、それが」とふくよかな僕。
「うちは毎日子どもが泣いて暴れて、自分の時間なんて一分もない」

「俺は逆だ。時間は腐るほどあるが、言葉を交わす相手がいない」と痩せた僕。

「俺は……もっと違う生き方もあったのかなって時々考えてた」と職人の僕。



第六章 境界のゆらぎ

三人との対話は二時間近く続いた。
話すうちに、僕はある可能性に思い至った。

「もしかして……お前たちが最近、頻繁にこっちへ『滲み出して』きてたのって」

痩せた僕が鼻を鳴らした。

「察しがいいな。俺たち三人とも、自分の世界で何かに行き詰まってたんだよ。成功しても孤独、温かくても余裕がない、やりたいことをやっても何かが足りない」

「それで無意識に――僕の世界を覗きに来てた、ってことか」

柊木さんの仮説は当たっていた。
隣の宇宙の「僕たち」は、それぞれの人生に渇望を抱えていて、その渇望が境界を薄くする引力になっていた。

「じゃあ、俺たちがここに来られるのもあと少しかもしれないな」と職人の僕。
「境界が閉じる前に、一つ聞いておきたい」

「なに?」

「お前は、今の人生に満足してるか?」

すぐには答えられなかった。特別に幸せでも不幸でもない。ただ平凡な毎日を、なんとなく生きている。

「わからない。でも、少なくとも今この瞬間、こんな不思議な体験ができてることは悪くないと思ってる」

三人はそれぞれ違う表情で笑った。
優しく、寂しそうに、安心したように。



第七章 選ばなかった道

「ひとつ聞いていいか」と僕は言った。
「もし――僕たちの誰かと人生を交換できるとしたら、そうしたいと思うか?」

沈黙が流れた。

痩せた僕が口を開いた。
「……考えたことはある。だが断る。この成功も孤独も、俺自身が選んで積み上げてきたものだ」

ふくよかな僕もうなずいた。
「僕も遠慮しておくよ。しんどい日ばかりだけど、あの子の笑顔を見たら他の人生なんて考えられない」

職人の僕は傷だらけの手を見つめながら言った。
「俺の手は、この生き方でできた手だ。他の誰かの手と取り替えたいとは思わないな」

三人の言葉を聞きながら、僕は不思議な安堵を覚えた。
彼らは彼らの人生を肯定していた。そして僕もまた、平凡だと思っていたこの人生を、初めて少しだけ愛おしく思えた。

「じゃあ、僕も同じだ。この人生を続けるよ」

その瞬間、白い空間が揺れた。
「境界が閉じ始めています! 早く戻って!」
柊木さんの声が遠くから聞こえた。

三人の僕は手を上げた。
「またな」「元気で」「たまには覗きに来いよ」

最後の声が響いた瞬間、視界は真っ白になった。



第八章 それからの日々

気づくと、僕は「鏡の間」の中央に座り込んでいた。
柊木さんと速水さんが心配そうに覗き込んでいる。

僕はこれまでの出来事を話した。二人は驚きながらも納得したようにうなずいた。

速水さんがモニターを操作し、ふと手を止めた。

「柊木さん……これ、見てもらえますか」

柊木さんが画面を覗き込み、表情が硬くなった。

「……おかしいですね」

「何がです?」と僕。

「装置のログです。向こう側から『滲み出して』きたのは三人だったはずですよね。あなたを入れて四人」

「ええ、そうですけど」

柊木さんは画面を指差した。

「装置が記録した『存在』の反応は、五人分なんです」

僕を含めて四人しかいなかったはずだ。
じゃあ、残りの「一人」は――。

しばらく誰も口を開かなかった。

「……機械の誤作動、ってことは」

「かもしれません。境界が閉じる瞬間の残留波形を二重に数えた可能性もあります。今はそう考えておきましょう」

その説明でひとまず納得することにした。
その日は誰も深く追及しなかった。

「ゆらぎは収束しています」と速水さん。
「たぶんもう当分は、そっくりさんの目撃情報は減ると思いますよ」

その予測は当たった。半年、誰からも「どこかでお会いしましたね」と言われなくなった。

哲也に話すと、案の定笑い飛ばされた。

「疲れてたんじゃないの? 変な夢でも見たんだろ」

「かもしれないけどさ」

でも僕は知っている。
あの白い空間で交わした会話も、三人の僕の顔も、決して忘れることはないだろう。

あれ以来、平凡だと思っていた毎日は、少しだけ違って見えるようになった。
通勤電車の窓の外を眺めながら、ふと思う。
この選択の先に、また別の「僕」の人生が枝分かれしているのかもしれない、と。

先日、久しぶりにあのショッピングモールへ行った。
フードコートの店員さんが僕を見て、小さく首をかしげた。

「あの……以前、奥様とご一緒に……」

僕は今度は即答しなかった。
少し間を置いて、笑いながらこう答えた。

「さあ、どうでしょうね」

店員さんはきょとんとした顔をしていたが、僕はそのまま機嫌よく帰路についた。
もしかしたら、あの三人のうちの誰かが、また少しだけこちらの世界を覗きに来ているのかもしれない。
それならそれで、悪くないと思う。

その夜、洗面所で歯を磨きながら、ふと鏡に目をやった。
いつもの自分。少し疲れた顔、寝癖のついた髪――そのはずだった。

一瞬。
瞬きよりも短い、本当に一瞬。

鏡の中の僕が、僕より先に、笑った気がした。

気のせいだろう。
そう思うことにした。

それに、たとえ気のせいでなかったとしても――
今はそれで、悪くないと思っている。

――了――


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あとがき

「もしもあのとき、別の道を選んでいたら」。
そんな思いは、生きている中で誰もが一度は抱く感情ではないでしょうか。
私自身、日常のふとした瞬間に「選ばなかった自分」の姿を思い描くことがあります。

作中に登場した「5人目の存在」が何者であったのか。
それは、主人公が気づいていないもう一つの選択肢なのか、
あるいはまったく別の何か――。

その答えは、読者のみなさまそれぞれの「余白」の中に委ねたいと思います。

この小さなお話が、あなたの帰り道や、ふと見上げる空の片隅に、
少しだけの不思議と楽しさを添えられたなら幸いです。