メビウスの輪

 〜星は落ちてこない〜


まえがき
「もし、宇宙の果てで一人きりになったら、人は何を想うのだろう」
そんな素朴な空想から、この物語は生まれました。
私たちは日々、目の前の日常が永遠に続くかのように生きています。しかし宇宙のスケールから見れば、人類の歴史などほんの一瞬の火花に過ぎないのかもしれません。過去と未来、絶望と希望、そして親子の絆。それらが一本の帯のようにねじれ、繋がっているとしたら。
宇宙の静寂と、三億年の時間を巡る旅。高瀬慎一郎という一人の不器用な男の目を通じて、ほんのひととき、壮大な時間の旅をお楽しみいただければ幸いです。
それでは、幕を開けます。





第一部


第一章 外れたワイヤー
真空には音がない、というのは正確ではない。
自分の呼吸の音、心臓の鼓動、宇宙服の内側でこすれる化繊の摩擦音。外側の宇宙が沈黙するぶん、内側の音がやたらと大きく響く。まるで体そのものが小さな地球になったみたいだと、高瀬慎一郎は思った。
彼は日本の民間宇宙開発企業〈オルフェウス・スペースワークス〉に所属する船外活動技師だった。四十二歳。妻とは五年前に別れた。娘には月に一度、地上の管制センター経由で映像メッセージを送っている。もう届いていないかもしれないと、ときどき思う。
その日、慎一郎は軌道上ステーション〈ラビリンス3〉の外壁で、通信アンテナの姿勢制御装置を交換していた。地上で数え切れないほど繰り返した手順だった。工具を握る指の感覚、命綱の張り具合、太陽光が金属を焼く角度。どれも慣れ親しんだ景色のはずだった。
だから、ワイヤーが外れた瞬間、彼はすぐには理解できなかった。
腰のあたりで、こつんと軽い衝撃が走った。空気のない真空では音は響かない。だが、宇宙服の金具から彼の骨を伝って、直接脳を揺らしたその振動は、ヘルメットの内側で不気味なほどはっきりと音として認識された。
次に、体がふわりと浮いた。いや、浮いたのではない。押し出されたのだ。地球という重力の井戸から、宇宙の真っ黒な口へと。
「嘘だろ」
呟いた声が、ヘルメットの内側で虚しくこもった。
命綱が外れていた。
予備のフックも、なぜか金具ごと根元から消え去っていた。
慎一郎の背後で、ステーションはゆっくりと、しかし確実に遠ざかっていく。銀色の巨大なプラモデルが、少しずつ手のひらのサイズに縮んでいく。
通信ボタンを押した。ノイズが返ってきた。もう一度押した。やはり、ざらついた砂嵐の音だけだった。地上との中継衛星は、いま地球の反対側にいるはずだった。彼は正確に、宇宙で最も孤独になれる時間帯を選んで放り出されていた。
もはや、これまでか。
不思議と、恐怖はすぐには来なかった。
最初に来たのは、諦めに似た冷たい静けさだった。
次に、娘の顔が浮かんだ。四歳のとき、彼の膝の上で「星は何でおちてこないの」と聞いた娘。彼女ももう十七歳だ。
「星は落ちてこないんじゃないんだよ」と、そのとき彼は答えた。「ずっと落ちつづけてるだけなんだ。落ちながら、横にも進んでるから、地面にぶつからないだけ」
いま、自分がまさにそうだった。
落ちつづけている。ただし、横に進んでいる保証はどこにもなかった。
彼は目を閉じた。無駄な酸素を使わないよう、呼吸を整えようとした。だが、酸素残量の警告音が、耳の奥でピピ、ピピと小さく鳴り始めていた。
そのときだった。
まぶたの裏側が、ふいに青白く光った。



第二章 光る船
目を開けると、それは、そこに在った。
宇宙船と呼んでいいのかどうか、慎一郎には分からなかった。形は、滑らかな涙滴に似ていた。だが表面には継ぎ目がなく、金属とも樹脂ともつかない、乳白色の光を内側から放っている。大きさは、彼が知るどんな建造物よりも巨大に思えたが、宇宙空間においては距離もサイズも意味を失う。ただ、それは圧倒的な質量で近いと感じられた。
そんな船が、いつのまに現れたのか、彼には分からなかった。
真っ暗な虚空に、まるで最初からそこに置かれていた石のように、静かに浮かんでいた。
「なんだ、これは」
慎一郎の呼吸が浅くなった。酸素警告のブザーが、遠い場所で狂ったように鳴っている。
船の側面、ちょうど彼の視線の高さで、白い光の線が縦に走った。線は左右に割れ、扉になった。音もなく。ただ、暗闇の中に光が広がっていくように。
そして、声がした。
『お待ちしておりました』
日本語だった。
イヤホン越しではなかった。
ヘルメットの内側でもなかった。
頭の中に、直接置かれた声だった。声というより、意味の塊がそのまま日本語の形をとって脳内に浮かんだ、というほうが近かった。
慎一郎は、口を開けた。何か言おうとした。だが、恐怖よりも先に、疲労と強烈な安堵が押し寄せた。
助かった。
助かったのか、俺は。
理屈より先に、体が動いた。両腕を伸ばし、宇宙服の姿勢制御スラスターをほんの少し噴かせ、彼はその光る船へと近づいていった。距離感がおかしかった。すぐそこにあるようで、いつまでも届かない気もした。だが、気がつくと、彼はその光る扉の縁に手をかけていた。
「ありがとう」と、彼はかすれた声で言った。「本当に、ありがとう」
扉の内側は、まぶしい白ではなかった。
むしろ、深い黒だった。
奥へ、奥へと続く、長い長い、底のないトンネルだった。



第三章 トンネル
床はあった。
少なくとも、足を下ろすと、そこには確かに床の感触があった。だが、視覚的には、足元もまた完全な虚無だった。上も下も、左右も、すべて同じ黒。ただ、彼の宇宙服のブーツの底だけが、何か柔らかい、ゴムのような、しかしゴムではない不思議な弾力に触れていた。
宇宙船の内部というにはあまりにも広すぎ、建物の廊下というにはあまりにも果てが見えなかった。
そして、彼は動いていた。
自分では一歩も歩いていない。
床が、あるいは床のような不可視の力が、彼を奥へ、奥へと運んでいた。
「動く歩道か、これは」
彼はつぶやいた。声は、吸い込まれるように黒に消えた。反響しなかった。
音が反響しないということが、これほどまでに不気味だとは知らなかった。
しばらく進むと、彼は自分のヘルメットが、いつの間にか外れていることに気づいた。
外れていたというより、最初から無かったかのように消えていた。
宇宙服も、なかった。
彼は、地上で着ていた白いシャツと、灰色のスラックスに戻っていた。娘と最後にまともな食事をした日と、まったく同じ服だった。
「なんで」
恐怖はまだ来なかった。
恐怖の代わりに、暴力的なほどのなつかしさが胸を刺した。それが、いっそう、こわかった。
奥の暗闇に、小さな点のような光が見えた。
最初は星かと思った。だが、それは徐々に大きくなり、輪郭を持ち、純白の円になった。
ブラックホールという言葉が、頭をよぎった。
だが、ブラックホールに光は無いはずだ。
なら、これは、ホワイトホールか。
考える暇はなかった。
光は一気に膨らみ、彼を呑み、そして激しく押し流した。
一瞬、体という感覚が消えた。
高瀬慎一郎という名前も、輪郭も消えた。
だが、意識だけは、ひどく澄んだまま、そこに残っていた。
まるで、意識だけが、宇宙という水槽の水そのものに、溶けて一体化してしまったかのようだった。



第四章 三つの太陽
気がつくと、彼は立っていた。
足の下には、乾いた土のような、しかしどこか金属質な、ざらついた感触の地面があった。
空はないと最初は思った。
だが、それはないのではなく、あまりにも黒すぎるのだった。
「夜か」
そう呟いてから、彼は空を見上げ、完全に息を呑んだ。
星が多すぎた。
彼は宇宙飛行士として、地球の外から星を見たことがある人間だ。大気の揺らぎに邪魔されない星空を知っている。それでも、いま彼の頭上に広がっている光景は、そのどれとも違った。
黒い部分よりも、光っている点のほうが、圧倒的に多い。
つまり、夜空の面積の半分以上が、星の光で埋め尽くされていた。
「かつて、地球からも、こんな風に見えていたのか」
自分でも、なぜそんな言葉が口から出たのか、分からなかった。だが、それは正しい問いのような気がした。太古、大気汚染も光害も無かった頃、地上に立っていた人間は、こういう空を見上げていたのかもしれない。あるいはと、彼は思った。これから先、人が完全にいなくなったあとの地球も、また、こういう空を持つのかもしれない。
星々を眺めているうちに、東の空が赤くにじみ始めた。
夜明けだと彼は直感した。
太陽が昇った。
赤かった。
熟れすぎた果実のような、深い、重い赤だった。
そして、異常に速かった。
昇ったと思う間もなく、それは天頂を過ぎ、反対側の地平線に沈んだ。数分、いや、体感としては数十秒だった。
「なんだ、これ」
彼はめまいに襲われ、よろけた。地面に手をついた。
すると、また空が明るくなり始めた。今度はまったく違う方角からだった。
昇ってきたのは、黄色い太陽だった。
彼が地球で見慣れていた色に、いちばん近かった。だが、それもまた、あっという間に天を駆け抜けて沈んだ。
そして、間髪入れずに青い太陽が昇った。
真昼の空をそのまま濃縮して固めたような、澄んだ青だった。日光というより、深い海の底から差し込む光に似ていた。それまで赤茶けていた大地が一瞬で深い群青に染まり、青い太陽の下では、彼の手のひらすら、見たこともないほど濃い、青みがかった影を落とした。
「信号かよ、まったく」
彼は笑った。笑うしかなかった。
赤、黄、青。三つの太陽が、順番に、まるで交通信号のように、この星を照らしている。
ここは、三重連星系だ。
三つの恒星のまわりを、この星が回っている。
いや、正確には、三つの恒星が複雑に絡み合う軌道の内側に、この惑星が捕らえられている。
そう理解した瞬間、彼はもう一つの決定的なことに気づいた。
足の下の、この乾いた大地の匂いを、彼は知っている。
「嘘だろ」
土の匂いだった。
宇宙のどこか未知の惑星ではなく、彼が生まれ育ったあの惑星の、雨上がりの匂いそのものだった。



第五章 半透明の住人
穴は、突然、目の前に現れた。
正確には、最初からそこにあったのに、光の変化のせいで彼が気づかなかっただけかもしれない。地面が丸く落ち込み、直径一メートルほどの黒い口が、ぽっかりと開いていた。縁は、彼が触れたことのない、けれど不思議と懐かしい、滑らかな素材でできていた。
その穴から、それは、すうっと顔を出した。
半透明の、小さな体だった。
形は言葉にしづらかった。子どもの姿にも見えたし、両生類の胎児にも見えた。輪郭が常にゆらいでいて、まるで、そこに実在することをためらっているように見えた。頭の位置と思われるところに、二つの、静かな光の点があった。それが、目なのだろう。
『客人ですね』
声は、また、頭の中に直接置かれた。感情の色がなかった。だが、敵意もなかった。
「あなたたちは、誰ですか」
彼は膝をついた。相手の目線に合わせるためだった。宇宙飛行士としての、というより、父親としての反射だった。かつて娘と話すときの姿勢だった。
『名は、無いのです。個体を区別する必要が、あまりありません』
「ここは、どこなんですか。あの、三つの太陽は」
『三つの太陽は、昔から三つでした。あなたが、居なかっただけです』
彼は、その言葉の意味を、すぐには掴めなかった。
『地上は危険です』と、半透明の存在は続けた。『私たちは、地下で暮らしています。地上に長く立っていられるのは、あなたのような客人だけです』
「危険って、放射能ですか」
『あなたたちは、そう呼んでいましたね』
あなたたち。
その言葉の冷たさが、慎一郎の背筋を撫でた。
「ここは、いったい」
半透明の存在は、少し間を置いた。それは、ためらいではなく、彼の言語に適したふさわしい言葉を選び出している時間のように思えた。
そして、静かにこう言った。
『ここは、かつて、地球と呼ばれていた星です』
慎一郎は、指一本すら身じろぎできなかった。
三つの太陽が、彼を三方向から同時に照らしている気がした。実際にはそんなことは起きていない。ただ、時間そのものが、彼を四方から凝視しているような、そんな圧倒的な感覚だった。
『バカな人間たちは』と、その存在は言った。ほんの少しだけ、悲しげに笑ったように、慎一郎には見えた。『核と共に、滅んでしまいました』
笑い方が、あまりにも悲しかった。
怒りよりも、あきらめよりも、ただ静かに悲しかった。
「じゃあ、あのトンネルは」と、彼はかすれた声で言った。「タイムトンネルだったんですか」
半透明の存在の、目の光が、少し強くなった。
『すべては、あなたたちの責任です』
その言葉には、はじめて、確かな感情の温度があった。それは、怒りだった。長い長い時間をかけて、地層のように深くたまってきた怒りだった。
「それは」
慎一郎は、ゆっくりと頭を下げた。
「すまない。それは、本当に、すまない」
彼は、自分がここに立っていることの重さを、初めて理解した気がした。
自分は、責任を果たすために謝っているのではない。
責任を、果たしそこねた側の、無知な生き残りとして、ただ謝っている。
半透明の存在は、しばらく彼を見つめていた。それから、少しだけ、声を柔らかくした。
『あなたは、宇宙にいて、ここには居なかったのですね』
「はい」
『では、あなたの一日は、この星の何年でしたか』
「え」
『宇宙にいるあなたたちの一日は、この星では、ずっと長い時間です。あなたが軌道上で一度眠るあいだに、ここでは、森が枯れ、海が退き、新しい種が生まれ、文明が沈みました。あなたは、何も知らなかったのですね』
慎一郎は、何も答えられなかった。
喉の奥が、カラカラに乾いていた。
自分は宇宙で仕事をしていた。
ただ、仕事をしていただけだ。
そのだけが、これほどまでに重いものだとは、想像すらしていなかった。



第六章 選ばれた生き残り
半透明の存在は、慎一郎を、地下の小さな空間へと招き入れた。
そこは、部屋と呼んでいいのかも分からなかった。
壁は、地下水がゆっくりと動いているように、微かに流動しながら揺らいでいた。天井には、燐光を放つ苔のようなものが張り付いていて、淡い青白い光を落としている。空気は湿っていたが、腐臭は一切なかった。むしろ、雨のあとの深い森の匂いに近かった。
慎一郎は、丸い石のようなものに腰を下ろした。
その石は、彼が座ると、体圧に合わせて少しだけ柔らかく沈んだ。
『あなたは、選ばれた生き残りです』
半透明の存在は、そう告げた。
「選ばれた」
『偶然ではありません。あなたが宇宙にいたこと。ワイヤーが外れたこと。誰にも見られない時間帯だったこと。そのすべてが、選ばれるための絶対の条件でした』
「誰が、選んだんですか」
『宇宙が』
慎一郎は、笑おうとして、笑えなかった。
半透明の存在の口調には、比喩や冗談の余地がなかったからだ。
『あなたには、二つの選択肢があります』
「二つ、というと」
『過去へ戻るか、未来へ行くか、です』
彼は、しばらく、その言葉を頭の中で反芻した。
過去。未来。どちらも、いま彼が宇宙の闇で失ったものだった。
「過去に戻れば、人類の滅亡を止められるんですか」
『それは、分かりません』
『ただし』と、半透明の存在は続けた。『過去に戻るなら、遠い過去のほうが、良いでしょう』
「なぜです」
『近い過去に戻ると、あなたは、その滅亡に確実に巻き込まれます』
慎一郎は、息を呑んだ。
『あなたが戻る過去が、滅亡の直前であればあるほど、あなたは、人々に警告する時間を持ちません。誰にも信じられず、誰にも言葉が届かず、あなた自身も、核の光の中で、他の人々と同じように、ただ消えるだけです』
「遠い過去なら」
『遠い過去であれば、あなたは伝説になれるかもしれません。誰かが、あなたの言葉を、神話として書き残すかもしれない。何千年、何万年ののちに、その神話を読んだ人間が、選択を変えるかもしれない。ですが、それも、分かりません』
慎一郎は、足元の地面を見つめた。
地面の上を、透明な小さな虫のようなものが、ゆっくりと歩いていた。それは彼の靴の甲を登り、ズボンの裾に触れ、それから、また地面に降りていった。虫にとって、彼の存在は、ただ通り過ぎる巨大な山のようなものだったろう。
彼は、思った。
自分は、たったいま、時間に対して、まったく同じ立場にいるのだと。
「未来は」と、彼は静かに問うた。「未来には、何がありますか」
『未来にも、いくつかの層があります』
『あなたの直後の未来は、ここです。核の後の地球。まだ地表が、あなたたちの残した怒りのエネルギーで、うずいている時代。あなたは、ここに、長くは留まれません』
『少し先の未来は、混沌としています。私たちの祖先が、地上を諦め、地下へ潜り始めた時代です。飢えと、忘却の時代です』
『そして、もっと先には』
半透明の存在は、少し間を置いた。
『平和な時代が、あります』
「平和」
『はい。ある時代を境に、この星は、再び穏やかになります。三つの太陽の下で、新しい生き物たちが、争わずに、ただ暮らすようになる時代が来ます。私たちも、その時代までは、辿り着けませんが』
慎一郎は、静かに目を閉じた。
自分の娘のことを、思い出した。
星は落ちてこないのかと聞いた、あの日の幼い娘。
彼女は、いまごろ何をしているだろう。
いやと、彼は思い直した。彼女は、もう、いないのだ。
自分が知っているいまは、この星にとっては遥かな過去。娘は、とうの昔に、生まれて、生きて、老いて、あるいは、若いままで、他の何十億もの人々と一緒に、すべて消えたのだ。
そのことを、実感として受け入れるのに、彼は時間を必要とした。地下の湿った空気の中で、彼はゆっくりと、二度、深呼吸をした。
「未来に、連れて行ってください」
彼は、そう言った。
声は、自分でも驚くほど、静かだった。
『平和な時代へ、お連れしましょう』
半透明の存在は、そう言って、目の光を、ふっと、まぶしく輝かせた。



第二部


第七章 掲示板
船は、いつのまにか、再び彼を包んでいた。
気づいたときには、慎一郎は、柔らかい椅子のようなものに腰を下ろしていた。座らされたというより、そこに座っていることが、最初から決まっていたかのような、自然な収まりかただった。
窓は、なかった。
その代わり、正面の壁一面が、淡く発光していた。まるで駅の発着掲示板のように、無数の数字と文字が、帯のようにねじれながら上から下へ絶え間なく流れていく。
「これは、年号か」
『はい』
今度の声は、これまでとは、わずかに違って聞こえた。地下の存在の声よりも、もう少し機械的で、それでいて、どこか丁寧だった。
『あなたに分かりやすいように、地球の暦の形で表示しています』
「案内、してくれる人か」
『そう呼んでいただいて構いません』
慎一郎は、目を細めて、その数字を追おうとした。だが、速すぎて追えなかった。桁が、大きすぎた。西暦の下二桁が変わる速さで、上の桁までもが変わっていく。百年が、瞬きの間に過ぎていく。
「どれくらい、飛ぶんだ」
『三億年ほど、先へ』
その数字の大きさに、慎一郎は、苦笑するしかなかった。三億年。人間の一生の、何百万倍だろうか。指を折って数えることさえ、馬鹿馬鹿しい長さだった。
「聞いていいか」
『どうぞ』
「あんたは、何なんだ。さっきの、地下にいた連中とは、違うんだろう」
『彼らは、肉体を持つ末裔です。かつての人類の、生き残りの血を引く者たち。私は、記録と、知識を引き継ぐ者です。肉体は、持ちません』
「AIってことか」
『近いかもしれません。ただし、私には、彼らが把握していない領域の記憶もあります』
慎一郎は、その言い回しに、かすかな違和感を覚えた。把握していない領域。まるで、地下の者たちにさえ隠している何かが、あるとでも言うように。
だが、そのとき、彼の意識は、急激な眠気に襲われた。まるで、体の奥から、深い重力に引っ張られるような感覚だった。
「なんだ、これ」
『時間の流れに、体を慣らしています。少し、お休みください』
抵抗する間もなく、慎一郎の視界は、完全に暗転した。



第八章 声の記録
夢を見た。
いや、夢と呼ぶには、あまりにも、輪郭がはっきりしていた。
暗闇の中に、彼は立っていた。周囲には、無数の、光の粒のようなものが、ゆっくりと漂っていた。それぞれの粒に、耳を近づけると、頭の中に、直接、声が流れ込んできた。
『ここは、どこだ、早く、家族の元に』
『信じてくれ、俺は、未来から来たんだ、この村は、いずれ』
『お願い、誰か、聞いて。私の名前は』
無数の声が、幾重にも重なり合っていた。国籍も、時代も、性別も、ばらばらだった。ある声は、涙で激しく震えていた。ある声は、怒りに満ちていた。ある声は、もう、何も期待していないような、乾いた諦めの調子だった。
「これは」
慎一郎は、後ずさった。
『あなたより前に、この船から送り出された者たちの、記録です』
案内人の声が、静かに響いた。夢の中だというのに、その声だけは、はっきりと、外側から聞こえるようだった。
「送り出された、何人、いるんだ」
『数えたことは、ありません』
「数えたことがない、はないだろう。あんたが管理してるんだろう、これを」
『管理という言葉は、正確ではないかもしれません』
案内人の声に、初めて、わずかなためらいのようなものが、混じった気がした。
「教えてくれ」慎一郎は、声を強めた。「あんたは、この光る船を使って、何度も、人間を、過去や未来に、送り込んできたのか。俺みたいに」
沈黙があった。
夢の中の沈黙は、現実の沈黙よりも、ずっと重かった。
『はい』
「何のために」
『歴史の、分岐点を探すためです』
その答えに、慎一郎の背筋が、冷たくなった。
『核による滅亡を、回避できる歴史が、どこかにあるはずだと、私は、私を遺した者は、信じていました。その可能性を探すために、これまで、幾人もの客人を、時間の中に送り出してきました』
「幾人も、その人たちは、どうなった」
『分かりません。多くは、戻ってきませんでした』
慎一郎は、周囲を漂う光の粒を、あらためて見回した。それぞれが、誰かの人生の、剥き出しの断片だった。ある者は、遠い過去で、誰にも信じられないまま、孤独に朽ちていったのかもしれない。ある者は、この光る船の記憶の中に、声だけを残して、消えていったのかもしれない。
「俺も、その、実験の一つなのか」
『実験という言葉を、私は使いたくありません。ですが、否定は、できません』
慎一郎は、拳を強く握りしめた。怒りなのか、恐怖なのか、自分でも判別がつかなかった。
「なぜ、最初から正直に言わなかった」
『言えば、あなたは、未来へ行くことを、選ばなかったかもしれません』
「それでも、言うべきだった」
『そうかもしれません』
案内人の声は、静かだった。謝罪でも、弁解でもない、ただ、事実を認めるだけの、平坦な声だった。
慎一郎は、しばらく、無数の声の中に立ち尽くしていた。それぞれの声が、まだ、何かを訴えかけていた。まだ、誰かに届くことを、諦めていないように聞こえた。
その中の、ひとつの声に、彼は、ふと、耳を止めた。
『輪は、断ち切れないかもしれない。だが』
女の声だった。ひどく、疲れた声だった。だが、その言葉には、まだ、かすかな熱が残っていた。
『輪の形を、知る者が増えれば、いつか、その輪から、抜け出す道が、見つかるはずだ』
「それは、誰の声だ」
慎一郎が問うと、案内人は、少し間を置いてから、答えた。
『私に、すべてを託した、最後の研究者の言葉です。彼女は、この技術を完成させた、最後の一人でした。彼女自身の、最後の航行の記録が、その声です』
「その人は、戻ってきたのか」
『いいえ』
慎一郎は、静かに目を閉じた。
名も知らぬ誰かの、届かなかった祈りが、この船の奥深くに、ずっと眠っていたのだ。
「案内人」
『はい』
「俺は、あんたを、恨むべきなんだろうな」
『そうかもしれません』
「だが、恨んだところで、何も変わらない、ってことも、分かってる」
慎一郎は、目を開けた。夢のような光の粒たちは、まだ、彼の周りに漂っていた。
「一つだけ、約束してくれ」
『何でしょう』
「もし、俺が、あんたの実験の役に立てるなら、それでいい。だが、もう、隠し事はするな。俺が知るべきことは、全部、話せ」
長い沈黙のあと、案内人は、静かに答えた。
『分かりました』
その言葉と同時に、光の粒たちが、ゆっくりと、闇の中に溶けていった。慎一郎の意識も、再び、深い眠りへと、引き込まれていった。



第九章 異常
再び目を覚ましたとき、船内の空気が、わずかに違っていた。
慎一郎は、すぐには、その違和感の正体に気づけなかった。だが、体を起こし、正面の掲示板を見上げたとき、彼は、はっきりと理解した。
数字の流れが、異様に乱れていた。
これまで、滑らかに、一定の速度で流れていたはずの年号が、ときおり、激しく明滅し、逆流し、また前に進む、そんな不規則な動きを繰り返していた。掲示板の隅では、一瞬だけ見慣れた数字が明滅した。二〇二六、と。
「案内人、これは、どうなってる」
返事が、来なかった。
「おい、聞こえてるか」
船体が、微かに、しかし嫌な音を立てて震えた。慎一郎の体が、椅子の上で、わずかに浮いた。人工重力が、不安定になっている。
『申し訳ありません』
ようやく返ってきた声は、これまでよりも、明らかに、乱れていた。ノイズが混じり、言葉の輪郭が、ぼやけている。
『航行に、深刻な、干渉が、発生しています』
「干渉、誰かが、邪魔してるってことか」
『分かりません。この現象は、初めてではありません。過去にも、同様の乱れが、何度か、観測されています』
「原因は」
『推測に、過ぎませんが』
案内人の声が、一瞬、完全に途切れた。
『私が、これまで送り出してきた客人たちの一部が、時間の流れの中で、何らかの、爪痕を残している可能性があります。歴史は、大きくは、変わりません。ですが、小さな歪みは、確実に蓄積します。その歪みが、いま、この航路そのものに、干渉しているのかもしれません』
慎一郎は、椅子の肘掛けを、強く握りしめた。
「つまり、俺より前に送られた誰かが、何かを変えて、それが、いまの俺に、跳ね返ってきてるってことか」
『可能性の、一つです』
船体が、再び、大きく揺れた。掲示板の数字が、激しく点滅し、禍々しい赤い警告の色に染まった。
「このまま、飛び続けたら、どうなる」
『分かりません。最悪の場合、あなたの意識が、時間の狭間で、迷子になる可能性があります』
「迷子」
『どの時代にも、どの場所にも、たどり着けなくなる、ということです』
慎一郎の背筋を、冷たいものが伝った。あの、光の粒となって漂っていた、無数の声たち。もしかしたら、その中の幾つかは、まさに、この迷子になった者たちの、成れの果てだったのかもしれない。
「案内人、方法はないのか。この揺れを、抑える方法は」
『一つだけ、あります』
「言ってくれ」
『あなたの、強い意志が、必要です。この船は、もともと、乗る者の意識と、深く結びついて航行しています。あなたが、行き先を、明確に、強く、思い描くことができれば、干渉を、振り切れるかもしれません』
慎一郎は、目を閉じた。
行き先。平和な時代。三つの太陽の下で、争いのない、新しい生き物たちが暮らす未来。だが、それは、あまりにも漠然としていた。彼が、本当に、心の底から、思い描けるリアリティが必要だった。
彼の脳裏に、浮かんだのは未来の景色ではなかった。
娘の顔だった。
四歳の、あの日の娘。「星は何でおちてこないの」と聞いた、あの声。その声が、いま、慎一郎の中で、ひどく鮮明に、蘇った。
「星は、落ちながら、横に進んでるから、地面にぶつからないんだ」
彼は、そう、もう一度、口にした。今度は、娘にではなく、自分自身に、言い聞かせるように。
「俺も、そうだ。落ちながら、進む。それだけだ」
その言葉と同時に、船体の揺れが、少しずつ、確実に収まっていった。掲示板の数字も、再び、滑らかな流れを、取り戻し始めた。
『安定しました』
案内人の声にも、安堵の色が、滲んでいるように、慎一郎には聞こえた。
「終わったのか」
『はい。ですが』
そのとき、案内人の声に、ひどいノイズが走った。案内人が、初めて彼の名前を間違えた。
『アま、天野さん、失礼、高瀬さん。今の揺れは、警告でもあります』
「警告」
『歴史は、あなたが思うよりも、脆く、そして、あなたが思うよりも、頑丈です。小さな行動が、思わぬところで、大きな歪みを生むことがある。逆に、大きな絶望の中でも、ほんの小さな意志が、流れを支えることもある』
慎一郎は、その言葉を、静かに、噛みしめた。
掲示板の数字が、再び、猛烈な速度で、流れ始めた。



第十章 扉の外
掲示板の数字が、ふいに、減速を始めた。
『まもなく、到着します』
案内人の声には、もう、乱れはなかった。
船体が、静かに、振動を止めた。正面の壁に、あの光の線が、縦に走った。線は割れ、扉になった。
慎一郎は、深呼吸をひとつしてから、外へと、足を踏み出した。
三億年後の地球。そこには、想像していたような、見たこともない光景が広がっているはずだった。荒れ果てた大地か、あるいは、見知らぬ生命体に満ちた密林か。
だが、目の前に広がっていたのは、拍子抜けするほど、見慣れた光景だった。
アスファルトの道路。立ち並ぶビル。行き交う車のヘッドライト。空には、うっすらと雲がかかり、遠くに、コンビニエンスストアの看板の明かりが灯っている。
「これは」
慎一郎は、言葉を失った。
「これは、日本、なのか」
『はい。厳密に言えば、あなたの知る現代の日本と、極めて似通った、時代の、極めて似通った、場所です』
「似通ってる、三億年、経ったんじゃないのか」
『時代は、繰り返し、巡っているのです』
慎一郎は、目の前の光景を、まじまじと見つめた。よく見れば、看板の文字が、微かに、見慣れないフォントだった。行き交う人々の服装も、どこか、全体のシルエットが違っていた。コンビニのチャイムだけが、半音ずれている気がした。だが、大枠としての日本らしさは、確かに、そこにあった。
「歴史は、繰り返す、ということか」
『はい。人類が、一度目の頂点を築き、核の炎で、自らを滅ぼしたのち、地球は、ゆっくりと、回復しました。何千万年もの時間をかけて。そして、新たな知的生命、あるいは、生き残った、人類の末裔たちが、再び、文明を築き上げたのです。その文明は、あなたが去った時代の文明と、驚くほど、似た発展を、遂げました』
慎一郎は、街を歩く人々を、遠くから、眺めた。彼らは、何も知らない顔をしていた。仕事帰りらしいサラリーマンが、スマートフォンに似た端末を片手に、足早に歩いていく。学生らしい二人組が、コンビニの前で、何かを笑いながら話している。
その日常が、あまりにも、彼が知る日常と、似ていた。
「この人たちも、いずれ、同じ道を辿るのか」
『分かりません。ですが、可能性は、否定できません』
慎一郎の胸の中に、鈍い痛みが、広がった。目の前にいる、名も知らぬ人々。彼らの子孫が、いつか、同じ過ちを、繰り返すかもしれない。
「教えてくれ、案内人」
『何でしょう』
「俺に、何ができる。あんたは、俺を、ここに連れてきた。何のためだ」
案内人は、しばし、沈黙した。
『あなたが、この時代に、何かを残すことができれば、言葉でも、記録でも、あるいは、ただ、生き方でも、それが、歴史の、ごく小さな分岐点になる、可能性があります』
「保証はない、ってことか」
『はい。ですが、可能性はゼロでは、ありません』
慎一郎は、街の明かりを、見つめ続けた。
その明かりの向こうに、ふと、あるものが、映し出された。



第十一章 メビウスの輪
それは、街の明かりに重なるように、宙に浮かび上がった、一枚の光の図だった。
銀河が、渦を巻いていた。星々が、生まれては、消えていった。その中に、一本の、帯のような光の筋が、浮かび上がった。
その帯は、ねじれながら、輪になっていた。
表側を、たどっていくと、いつのまにか、裏側に。裏側を、たどっていくと、いつのまにか、表側に、戻ってくる、終わりのない、一つの面でできた、輪。
「これは」
慎一郎は、その形に、見覚えがあった。子どもの頃、理科の授業で、紙のテープをひねって作った、あの、奇妙な帯。表と裏の区別が、なくなってしまう、不思議な輪。
「メビウスの輪、か」
『はい』
『宇宙も、時間も、ある意味で、これと、似た構造を、持っています。文明が、生まれ、滅び、また、生まれる。過去と、未来が、繋ぎ目のないまま、ぐるりと、一周してしまう』
「なら、俺がさっき見た、あの、無数の声たち、過去や未来に送られた、あの人たちも」
『同じ輪の、どこかを、歩いているのかもしれません』
慎一郎は、光の図を、じっと見つめた。輪の上には、無数の、小さな光の点が、散らばっていた。それぞれが、誰かの、人生の軌跡なのかもしれなかった。
「なあ、案内人」
『はい』
「あんたが、さっき言ってた、あの、最後の研究者の言葉、『輪の形を知る者が増えれば、いつか、その輪から抜け出す道が見つかる』」
『はい、覚えています』
「あれは、本当に、そうなのか。それとも、ただの、願望なのか」
案内人は、しばらく、答えなかった。
『分かりません。ですが』
『少なくとも、あなたは、今、この輪の形を、知りました。この事実だけは、消えません。あなたが、これから、どこへ行くにせよ、あなたの中に、この記憶は、残り続けます』
慎一郎は、その言葉を、静かに、受け止めた。
輪から、完全に抜け出す方法は、まだ、見えない。だが、輪の形を、知ること、それ自体が、何かの、始まりなのかもしれない。
彼は、目の前の、名も知らぬ街を、もう一度、見渡した。
ここにいる、誰か一人にでも、この光景を、伝えることができれば。
たとえ、それが、歴史という、巨大な流れの中の、ほんの一滴に過ぎなくても。
「案内人、俺は、ここに、残りたい」
『よろしいのですか。あなたの肉体は、まだ、あなたが去った、元の時代に、留まったままです。ここに長く留まれば、あなたの意識は、いずれ、行き場を、失います』
「それでも、少しでいい。この時代の、誰かに、何かを、伝えたい」
案内人の声が、わずかに、揺れた。
『分かりました。時間は、限られていますが』
慎一郎は、ゆっくりと街の中へと、足を踏み出した。



第十二章 名もなき通行人
夜の街を、慎一郎は、ひとり、歩いた。
誰も、彼の姿に、気づかなかった。すれ違う人々は、まるで、彼が、そこにいないかのように、素通りしていった。案内人によれば、この時代における彼の存在は、まだ、完全な形を、持っていないのだという。声も、姿も、この世界の物理法則の、外側にあるらしかった。
それでも、彼は、歩き続けた。
小さな公園の前を、通りかかったとき、ベンチに座る、一人の少女の姿が、目に入った。
七つか、八つくらいだろうか。膝を抱え、ぼんやりと、夜空を見上げていた。周りに、大人の姿は、見当たらなかった。
「星は、何で、落ちてこないのかしら」
少女が、誰にともなく、そう呟いた。
慎一郎は、その言葉に、心臓を、強く掴まれたような感覚を、覚えた。
同じだ。
娘と、まったく同じことを、聞いている。
彼は、少女の隣に、静かに、腰を下ろした。声が届くとは、思っていなかった。ただ、そこにいたかった。
「星は」と、彼は、静かに、口を開いた。「落ちながら、横に進んでるから、地面にぶつからないんだよ」
少女は、答えなかった。だが、その横顔が、ほんの少し、動いたように、慎一郎には見えた。
「大丈夫。落ちても、ぶつからない。進み続けるだけだ」
少女は、しばらく、夜空を見上げていたが、やがて、小さく、頷いた。彼の声が、届いたのかどうかは、分からなかった。だが、少女の口元に、微かな笑みが、浮かんだ気がした。
「お姉ちゃん、こんなところにいたの」
少女の母親らしい女性が、公園の入り口から、駆け寄ってきた。少女は、立ち上がり、母親のもとへと、走っていった。
「どうしたの、こんな時間に」
「星が、綺麗だったから」
少女は、そう言って、母親の手を、握った。
「そう。でも、もう遅いから、帰ろうね」
二人は、手をつないで、夜の街の中へと、消えていった。
慎一郎は、しばらく、その後ろ姿を、見送っていた。
『何を、伝えたのですか』
案内人の声が、静かに、問うた。
「大したことじゃない。ただ、星は、落ちてこない、って」
『それだけ、ですか』
「それだけだ」
慎一郎は、立ち上がり、夜空を、見上げた。三億年前の空とは、少し違う星の並びが、そこにあった。
「案内人、これで、何かが、変わると思うか」
『分かりません』
「だろうな」
彼は、小さく、笑った。
「それでいい。変わるかどうかは、分からなくていい。ただ、俺は、ここにいた。それだけで、いいんだ」
その言葉と同時に、彼の視界が、ふいに、揺らいだ。
まるで、水面に映った景色が、波紋によって、崩れていくように。街の明かりも、夜空も、少しずつ、薄れていく。
「これは」
『時間です』
案内人の声が、遠くから、聞こえるように、響いた。
『あなたの意識が、元の場所へと、戻ろうとしています』
「待ってくれ、まだ」
だが、彼の声は、届かなかった。景色は、渦を巻くように、激しく歪み、慎一郎の意識は、光の奔流の中へと、吸い込まれていった。
その、最後の瞬間、彼の脳裏に、あの、メビウスの輪の映像が、もう一度、鮮明に、浮かび上がった。
表を、たどれば、裏に至る。裏を、たどれば、表に至る。過去は、未来に繋がり、未来は、過去に繋がる。
なるほど。そういうことか。
慎一郎は、そう、思った。
輪の形を、知る者が、増えれば、いつか、その輪から、抜け出す道が、見つかる。
自分は、いま、確かに、その輪の形を、知った。


終章 目覚め
「高瀬さん、高瀬さん、聞こえますか」
誰かの声が、激しく彼を、呼んでいた。
まぶたを開けると、そこは、白い天井だった。ツンとする消毒液の匂い。規則正しい、心電図の機械音。慎一郎は、自分が、病院のベッドに横たわっていることに、気がついた。
「気がついた、よかった、本当に」
聞き覚えのある声。振り向くと、そこには、〈オルフェウス・スペースワークス〉の管制官、佐伯という若い男が、安堵の表情を浮かべて立っていた。
「俺は」
「船外活動中に、不慮の事故が。命綱が外れて、緊急救助艇が、あなたを回収するまで、五時間近く、意識不明の状態でした」
五時間。
慎一郎は、その数字を、頭の中で、何度も繰り返した。あの、三億年にも及ぶ壮大な旅が、たったの、五時間だったというのか。
「五時間、俺は、ずっと、意識がなかったのか」
「はい。うわ言のようなものは、聞こえていましたが」
「何て、言ってた」
佐伯は、少し、言いにくそうに、答えた。
「『メビウスの輪』とか、『三億年』とか。それに、『星は、落ちてこない』とか。何度も、何度も繰り返してました」
慎一郎は、体を、微かに震わせた。あの旅の記憶は、あまりにも、鮮明だった。単なる、意識不明が見せた夢だとは、どうしても、思えなかった。
窓の外に、目をやると、地球の、本物の、穏やかな地球の空が、広がっていた。青く、澄み渡った空。そこに、あの、三つの太陽の記憶が、静かに重なった。
いつか、この空もまた、あの、赤茶けた大地に、変わる日が、来るのだろうか。
それとも。
慎一郎は、静かに、目を閉じた。
まだ、何も、終わってはいない。むしろ、ここから、始まるのかもしれない。
どこからか、あの、案内人の声が、ノイズ混じりに脳裏に直接響いた気がした。


二〇二六年、世界が、動く。
慎一郎は、ぱっと目を、開けた。
窓の外には、変わらぬ地球の空が、広がっていた。だが、彼の中には、確かに、一つの、小さな、しかし消えない決意が、芽生えていた。
娘に、連絡を取ろう。
月に一度の、届くかどうかも分からない、映像メッセージではなく。
今度は、直接、彼女の声を、聞かせてもらおう。
星は、落ちてこない。
ただ、進み続けるだけだ。
それでも、進む先を、選ぶことは、きっと、できる。
慎一郎は、ベッドの脇にあった、通信端末に、そっと、手を伸ばした。


(了)


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あとがき
本作は、時間の不可逆性と、それでもなお残る想いの強さをテーマに執筆いたしました。作中、主人公の高瀬慎一郎が体験する三億年の旅は、一見すると孤独で残酷なものですが、彼を現実に繋ぎ止めたのは、かつて幼い娘と交わした、たった二行の会話でした。
科学技術がどれほど進歩し、星の並びが変わるほどの時間が流れても、人間が誰かを想う心の形は変わらない。そんな祈りのようなものを、メビウスの輪というモチーフに託しています。
また、ラストに登場する二〇二六年という数字。私たちが今、まさに生きているこの時代が、物語の重要な結節点となっています。高瀬が端末に手を伸ばしたように、私たちもまた、自らの手で未来の行き先を選ぶことができるのだと信じています。
この作品が、あなたにとって、夜空の星を少し違った目で見上げるきっかけになれば幸いです。
2026年7月

大好きな宮沢賢治の
身内の方の講演会があると聞き
はるばる

高崎市美術館まで急ぎ足





入口はもちろん小学生の時
教科書だったか
夏休みの課題図書だったか

銀河鉄道の夜
その不思議な物語に
圧倒されファンになった



その後
あれこれと追い掛けながらも
大人となり
離れてしまったところへ

ニックさんの図書
わたしの宮沢賢治 が出て
急いで舞い戻った

だから
今の僕への入口は
やっぱりここも
C.W.ニコル となる

お元気だったら
きっと黒姫から駆け付けたはずで

ならば
僕がその代わりにと
予約をした




昨日まで
休館だったそこは
今日から展示が変わり
賢治の絵画までもが飾られ
多くの方々が訪れていた

雨ニモマケズ
風ニモマケズ…

賢治の弟の孫だと仰るその方は
とても穏やかに
1時間半 話し続け

僕たちは
知らなかった多くを耳にして
それらを大事に噛み締めてみる

振り返れば
先輩たちには
多くを教えて頂いた

それはまるで
置き土産の如く
ここに残り

僕はそれをまた
子供たちへと伝えねばならない




昭和
平成
令和と
怪我は負っても
なんとか無事に生きて

きっと僕らは
この国の
1番良い時代だったのだろう

未来は今より
きっと良いはずだった予想図は
オレがオレがな
バカな大将たちにより
呆気なく崩されてしまう

アナログから
デジタルへと無理矢理
変えられた世代

戸惑いながはも
それでもきっと
幸せだったと微笑んで
終えることが出来るのだろう



多くの出会いに
感謝しながら…

しかし
時代とはいえ
賢治
37だったとは…

午後の雨、宇宙まで降りやまない

〜モテ期台風と堕天使たちの記録〜



まえがき

「人生の午後」を迎えた男たちには、二つの道がある。
一つは、これまでの嵐を生き抜いた知恵で、穏やかな陽だまりを楽しむ道。
もう一つは――忘れた頃にやってきた「モテ期」という名の暴風雨に、身も心も吹き飛ばされる道。
本書は、ある平凡な団地を舞台に巻き起こった、気象学の常識を覆す「局地的モテ期豪雨」と、それに翻弄された男たちの戦い(あるいは自業自得の結末)を記録したものである。
もしあなたが、最近どうも空模様が怪しい、あるいは身の回りで妙に色恋の風が吹いていると感じるなら、どうか襟を正して読み進めてほしい。これは、明日のあなたの身に起こるかもしれない、宇宙規模の「反省」の記録なのだから。




序章 
桜ヶ丘団地の異常気象

気象庁の若手研究員・雨宮ミライが「これは誤作動です」と三度目の報告書を破り捨てたのは、七月のある午後だった。

観測地点はどこにでもある郊外の団地、桜ヶ丘。そこだけ、ピンポイントで積乱雲が発生し、しかも雲の中心に「熱源」ではなく「なぜか色恋沙汰特有の脳内物質の反応」らしきものが検出される――という、気象学の教科書のどこにも載っていない現象だった。

「先輩、これ絶対おかしいですよ。雲の中心に、既婚男性の"浮気心"みたいな数値が出てるんです」

先輩研究員はコーヒーを吹き出した。

「雨宮くん、気象庁でその発言はまずいよ」

しかし数値は嘘をつかない。桜ヶ丘団地では今、原因不明の「局地的モテ期豪雨」が多発していた。


第一章 
わしが白黒つけたがる男である件について

わしの名は八十島セイイチ。齢七十二。この団地では「ご隠居」と呼ばれている。

毎日毎日、何かを追いかけて生きてきた。気になったことには、まず首を突っ込んでみる。それがわしの流儀だ。ガキの頃から「違うな」と思ったら即座に退場、次へ向かう。白黒つけねば気が済まん性分でな、おかげで怪我ばかりしてきた。

そんなわしが最近、妙な胸騒ぎを感じている。

向かいに住む山田のダンナが、ここ最近やけに機嫌がいい。休日には妙にめかしこんで出かけていく。ついでに空模様も妙だ。晴れていたと思ったら、午後になると決まって、山田さんの家の上空だけ、黒い雲がむくむくと湧いてくるのだ。

「おい、カミさん。あれ、見てみい」

台所からカミさんが顔を出した。

「あら、また山田さんとこだけ雨雲。最近多いわねぇ」

そう、良く言うだろう。午後から降り出した雨はやまない、と。

わしはこの言葉を、若い頃の自分自身の教訓として胸に刻んできた。斜に構えていたバカな男――つまりかつてのわし自身のことだが――そういう手合いは、人生の午前中にさんざん痛い思いをしておく。だからこそ、人生の午後は穏やかになる。

だが山田さんは違う。あの人は「モテ期」という名の嵐を、この歳になって、しかも人生の午後になってから浴びようとしている。

こいつは、とんでもないことになる予感がした。




第二章 
呑み屋のネエちゃんとわしの武勇伝

わしにも覚えがある。

若い時分、男女の仲というグレーゾーンでの駆け引きが、どうにも苦手だった。悩む時間がもったいないと、いつも即答してきた。おかげで、いつも迷子道である。

呑み屋のネエちゃんに口八丁で丸め込まれ、財布ごと軽くなった経験も一度や二度ではない。あの頃は「モテている」と本気で錯覚していた。今にして思えば、あれは"モテ"ではなく"カモ"であった。

しかしその痛い経験のおかげで、家族を持ってからは免疫ができた。おだてに弱い性分は変わらんが、少なくとも「これは呑み屋のネエちゃんの手口と同じだ」と見抜く勘は養われた。

つまりわしは、人生の午前中にしこたま雨に降られ、ずぶ濡れになった男なのだ。だからこそ今、こうして午後の陽だまりの中、孫たちと縁側で微笑んでいられる。

カミさんが救ってくれたから、今のわしがある。それは間違いない。

だが向かいの山田さんは――どうも、午前中の嵐を経験せずに、いきなり人生の午後に嵐を呼び込んでしまったクチらしい。

これは危険だ。免疫のない男に降る雨は、ただの雨では終わらない。




第三章 
台風発生、そして竜巻

事件はある土曜日の午後に起きた。

山田さんの家の上空に発生した積乱雲が、みるみるうちに発達し、団地の集会所の温度計が「モテ度87%」という気象庁史上例のない数値を叩き出したのだ(この数値の単位については誰も説明できなかった)。

わしが縁側から空を見上げていると、雲の中から、なんと外国人の「呑み屋のネエちゃん」らしき影がぼんやり浮かび上がって見えた。山田さんはそれに向かって、鼻の下を伸ばしながら手を振っている。

「山田さん! あんた、そりゃいかん! 午後から降り出した雨はやまんぞ!」

わしは叫んだが、もう遅かった。

積乱雲は渦を巻き、見る間に竜巻へと姿を変えた。山田さんの体がふわりと宙に浮く。

「お、おおおおおおおお!!」

山田さんは叫び声とともに、雲の中へと吸い込まれていった。

団地中の人間が飛び出してきて、空を見上げた。竜巻は山田さんを飲み込んだまま、みるみる上空へと駆け上り、やがて青空にぽっかり空いた「穴」――としか表現しようのない何か――の中へと消えていった。

静寂。

「……気象庁、呼んだ方がいいかしら」

カミさんが言った。呼ぶまでもなく、その日の夕方には雨宮ミライ研究員が団地に飛んできた。



第四章 
堕天使化のメカニズム

「つまりこういうことです」

雨宮くんは公民館の黒板に、汗だくで図を描いた。

「人間の"邪な感情"――高慢、嫉妬、浮気心。この三つが一定量、大気中に蓄積すると、局所的に大気の水蒸気と共鳴して、"モテ期台風"が発生します。台風の目の部分には、対象者の願望を具現化した幻影――今回で言えば、外国人の呑み屋のネエちゃんの幻影が生じ、これが本人を引き寄せる形で竜巻化、最終的には次元の裂け目を通じて、遠方の惑星系まで吹き飛ばしてしまうようです」

わしは黒板の図を睨みつけた。

「つまり山田さんは、宇宙のどこかへ飛ばされたっちゅうことか」

「はい。過去の記録によれば……」

雨宮くんが持ってきた分厚いファイルには、驚くべきことに、過去数十年分の「モテ期台風による行方不明男性」のデータが記録されていた。

高慢な男、嫉妬深い男、そして浮気に走った男たち。彼らは皆、家庭という楽園から自ら反逆し、そして嵐に飲まれて、遠くへ飛ばされていた。

「まるで、堕天使ですなぁ」

わしがぽつりと呟くと、雨宮くんは目を輝かせた。

「その表現、いただきます! 報告書のタイトルにします!」




第五章 
カミさんたちの逆襲と、土下座の化学反応

さて、問題は山田さんの奪還である。

団地の奥さん連中が公民館に集結した。山田さんの奥さんは気丈に振る舞っていたが、目の下にはくっきりとクマができていた。

「あの人、帰ってきたら、どうしてやろうかしら」

「まあまあ、まずは帰ってきてもらわないと」

わしはここで、長年の経験から得た仮説を提示した。

「雨宮くん、台風の"目"には対象者の願望の幻影があるという話だったな。ならば――逆に、"反省と謝罪"の感情を大気中に送り込んだら、どうなる?」

雨宮くんはしばし黙考した後、はっと顔を上げた。

「……理論上は、台風の勢力を弱める"高気圧"が発生する可能性があります! 反省の感情は、いわば大気を安定させる作用があるはずです!」

そこで白羽の矢が立ったのが、団地中の反省し損なっている男たち――つまり、かつて竜巻に飲まれかけたが、寸前で踏みとどまった経験を持つ、わしを含む数名の"元・浮気予備軍"であった。

「よし、お前ら。全員で、土下座するぞ」

「ご隠居、なぜわしらが」

「山田を助けたいなら、黙って地面に頭をつけろ!」

こうして団地の広場に、七人のオヤジが並んで土下座するという、なんとも滑稽な光景が展開された。近所の子供たちがゲラゲラ笑い、それを見た奥さん連中まで笑い出す始末。

だが雨宮くんの観測機器は、確かに反応を示していた。広場上空の気圧が、じわじわと上昇し始めたのである。

「効いてます! 反省と、周囲の"笑い"――つまり緊張の緩和が、高気圧を生んでいます!」



第六章 
竜巻の中心へ

高気圧は次第に勢力を増し、ついに団地上空にぽっかり空いた「穴」を、逆に引き寄せることに成功した。

穴の向こうから、へとへとに疲れ果てた山田さんが転がり出てきた。裸足で、頭には見たこともない植物の葉っぱが絡みついている。

「た、助かった……向こうの星、ネエちゃんの正体、蜘蛛みたいな生き物でした……」

「言わんこっちゃない」

わしは山田さんの肩を叩いた。

「あんた、人生の午前中にこの嵐を経験しとらんかったから、午後になって食らったんだ。まあ、命があっただけ儲けもんと思え」

山田さんの奥さんが、涙目で駆け寄ってきた。山田さんは条件反射のように、その場でまた土下座をした。

「すまん! 二度とせん! 一生分の反省を今した!」

その瞬間、団地上空の雲は嘘のように晴れ渡り、久しぶりの夕焼けが桜ヶ丘を照らした。



終章 
穏やかな午後

事件から数ヶ月。桜ヶ丘団地の空は、平和そのものだった。

雨宮ミライ研究員は、この一連の現象を「モテ期台風、通称・堕天使ハリケーン現象」として学会に発表しようとしたが、上司に「気象学会でその発表はまずいよ」と止められたそうだ。

山田さんは以来、休日は奥さんと一緒に買い物に出かけるようになった。空に雲一つない日々である。

わしはといえば、相変わらず縁側でカミさんの淹れた茶をすすりながら、孫たちの遊ぶ姿を眺めている。

そう、良く言うだろう。午後から降り出した雨はやまないと。

だが、それは裏を返せば――午前中にきちんと雨に打たれ、ずぶ濡れになって学んだ者にだけ、穏やかな午後が訪れる、ということでもある。

ご近所の旦那衆よ、くれぐれもお気をつけなされ。その下心、いつか宇宙の彼方の蜘蛛のネエちゃんのもとへ、あんたを吹き飛ばすかもしれんのだから。

――笑。



 
アマゾン キンドル



あとがき

ことわざに「午後からの雨は止まない」というものがあります。若い頃の失敗や経験は、その後の人生の糧になりますが、歳を重ねてからの「道ならぬ嵐」は、取り返しのつかない大雨になりかねません。そんな人生の教訓を、もしも本当に「物理的な嵐」として可視化したらどうなるだろう? という遊び心から、この物語は生まれました。

山田さんを救ったのは、最新の科学兵器ではなく、男たちのプライドを捨てた「土下座」と、それを笑い飛ばす家族の絆(と呆れ)です。家庭という名の楽園で、今日も穏やかなお茶をすするすべてのご隠居と旦那衆に、ささやかな敬意とユーモアを込めて。

どうか皆さんの上空が、明日も雲一つない日本晴れでありますように。

午後から降り出した雨はやまない
〜堕天使団地の午後は暴風雨〜


まえがき
人間、60歳を過ぎれば「人生の午後」を迎えると言います。
もしもその「午後」が、言葉通りの天気として頭上に現れる世界になったらどうなるでしょうか。
本作は、2047年のさいたま市を舞台に、頭上の「個人用天候」に振り回されるシニアたちを描いたSFユーモア活劇です。
若き日のやらかし(授業料)のせいで、常に直径5メートルの小雨を降らせている67歳の「ボク」。そして、ちょっとした浮気心から頭上を「暴風雨」に変えてしまい、挙句の果てに竜巻で飛ばされてしまったご近所の旦那たち。
男のプライド、自由への憧れ、そしてそれを一撃で凌駕する「カミさん」という名の宇宙最強の重力。
クスッと笑えて、ちょっぴり身に沁みる、愛すべき男たちの土下座と再生の物語をどうぞお楽しみください。




プロローグ
毎日毎日何かを追いかけて、この歳になってもワクワクしている。
それはきっと物好きだからで、気になった場所は通り過ぎることなく首を突っ込んで、まずはその場を体験してみる。
そう、自らの体験しか本当のことは分からないと、ガキの頃から怪我ばかり。


第一章 午後から降り出した雨はやまない
2047年、さいたま市。人生時報庁が全国民の頭上に個人用天候を実装して三年目だった。
60歳を過ぎると自動的に人生の午後に入る。午前は晴れ。午後はその人の生き方に応じて雨が降る仕様だ。
ボク(67歳)の上空には、直径5メートルの小雨が常時降っている。午後1時ちょうどに、ぷつんと生まれる。
孫のハルはそれを「じいの漏れ」と呼ぶ。
「漏れてない。午後から降り出した雨はやまないんだ。これは持病みたいなもんだ」
「なんでやまないの?」
「午前中にやらかした分を、午後に払ってるんだ。ボクは小3で自作ロケットで眉毛を燃やし、中2で好きな子に0.5秒で告白して0.5秒でフラれ、30歳で呑み屋のネエちゃんに『君は特別だよ』って言われて有り金全部溶かした。全部、体験という名の授業料だ」
カミさんのヨシエはベランダから言った。
「授業料、まだ払い終わってないわよ。洗濯物が濡れるから、ちょっとは小雨を止めなさい」
ヨシエの上空は快晴だった。重力まで操る女だ。ボクの小雨など、彼女が手を払えば止まる。
その時、向かいの佐藤さんの上空で雷が鳴った。佐藤さんだけの空だ。直径5メートルの積乱雲が、佐藤さんをピンポイントで狙っている。
「またか」

第二章 物好きは損をする、得をする
ボクの職業は、なんでも体験屋だった。若い頃は怪しい求人に全部応募した。治験、深海、無重力、滝修行。気になったら首を突っ込む。それが信条だった。
損もした。呑み屋で騙された時は、財布だけでなくプライドも空になった。でもそのおかげで、人の嘘の見分け方が少しだけ上手くなった。家族を持ってからは、それが役立った。「うまい話には裏がある」と鼻で嗅ぎ分けられる。
ハルが聞く。
「損して得するってどういうこと?」
「体験は腐らないんだ。冷蔵庫に入れとけば、いつかカレーになる」
その日の午後、団地の掲示板に新しい張り紙があった。
『異星系スナック ネオンの彼方 新装開店 モテ期再来波動砲 無料体験会』
ボクは即、顔を突っ込むことにした。もちろん体験のためだ。

第三章 即退場の美学
スナックは団地の1階に、いつの間にかできていた。ママは触手が七本あるのに、なぜか美人に見えるエイリアンだった。名前はママ。
「お客さん、物好きね。顔が知りたがってるわ」
カウンターにはご近所の旦那たちがいた。みんな60代、70代。人生の午後組だ。
ママが波動砲を撃つ。ピュイ、と音がして、旦那たちの上空の小雨が、一瞬だけ止む。代わりにキラキラしたオーラが出る。
「あら、モテ期が再来したわ」
旦那たちは急に背筋が伸びた。
「ボク、まだいける気がする」
「ボクも、人生、ここから」
ボクは違うな、と感じた。鼻が言っている。これはあの時の呑み屋の匂いだ。
「すまん、ママ。違うな、と思ったから退場するわ。ガキの頃から白黒つけねば気が済まんのだ」
ボクは1分で店を出た。滞在時間57秒。これがボクの特技、即退場だ。悩む時間がもったいない。
しかし旦那たちは残った。午後からの雨は、ここから暴風雨になる。

第四章 呑み屋のネエちゃんはエイリアンだった
翌日、佐藤さんの上空は暴風雨だった。田中さんは竜巻の目の中にいた。傘がバラバラに飛んでいる。
「佐藤さん、大丈夫か」
「いや、モテ出してからが大変で。メッセージが止まらん。しかも全部ママからの請求書で」
ママの正体は、銀河連邦風紀調査官だった。地球の午後組の浮気心エネルギーを集めて、ワープエンジンの燃料にしているのだ。浮気心は高出力らしい。高慢、嫉妬、浮気。三大燃料だ。
「自由が欲しかっただけなのに」と佐藤さんは泣いた。傘の骨だけ握りしめて。

第五章 ご近所の暴風雨観測日誌
ボクは観測日誌をつけ始めた。孫の自由研究ということにして。
6月1日 佐藤さん、暴風雨。傘2本目破損。本人は遠くへ飛ばされそうになり、電柱にしがみつく。
6月2日 田中さん、雹が降る。雹はすべて「反省しなさい」と書かれたレシート。
6月3日 鈴木さん、行方不明。上空の雲だけ残して、本人は竜巻でどこかへ飛ばされた。
「ご同輩、我々がモテるはずはないんだから、そろそろその下心、お気をつけ下さいな」
ボクがベランダから叫ぶと、団地の奥さんたちが一斉に拍手した。ヨシエだけは言った。
「あんた、他人事じゃないわよ。小雨のくせに」

第六章 竜巻に乗って飛ばされた旦那たち
ついに佐藤さんが飛ばされた。午後3時33分。竜巻が佐藤さんを吸い上げ、団地の上空200メートルで「ひゃっほー」と叫ばせたまま消えた。残ったのは片方のサンダルだけだった。
ハルが言った。
「じい、追いかけよう」
「よし、体験だ」
ボクたちはヨシエに頭を下げた。
「カミさん、ちょっと行ってくる」
「早く帰ってきなさい。夕飯までに。でないとあなたの小雨、一生止めないわよ」

第七章 堕天使団地へようこそ
竜巻の先は、もう一つの団地だった。看板には『堕天使団地 5号棟 昭和54年建築』とある。ここは追放された男たちの吹き溜まりだった。カミさんに反逆し、罰せられて追放された男たち。カッコよく言えば、自由が欲しくて離反した男たち。
みんな自分の5メートル雨を背負って暮らしている。雨はやまない。洗濯物は永遠に乾かない。牛乳自販機は120円のまま。
佐藤さんがいた。びしょ濡れで、少し痩せていた。
「ここは自由だが、不便だ。自由って、誰かが洗濯物を取り込んでくれて初めて成り立つんだな」

第八章 自由が欲しくて離反したけど
堕天使団地の掟は一つ。戻りたければ、土下座して戻ればいい。だが誰もできない。プライドという名の重力が邪魔をする。
ボクは佐藤さんに言った。
「昨日、お向かいの旦那さまに話したばかりなのに、って詩に書いてあったろ。ならば土下座してでも戻ったら良いのに、って」
佐藤さんは笑った。
「詩人は簡単に言うよ。土下座ってのはな、宇宙で一番難しいんだ」

第九章 土下座ワープ理論
ママが現れた。七本の触手で正座していた。
「説明するわね。土下座ワープは誠意の角度で決まるの。額が地面に90度、0.5秒じゃダメ。心から『すまんかった』と思って、地面にめり込むまで頭を下げる。そうすると、あなたの浮気心エネルギーが逆噴射して、元の団地へ戻れるの」
「そんなエンジンあるか」
「あるのよ。あなたが呑み屋で騙された時、店を出た後に無意識にやったでしょ。あれが初代よ」
ボクは思い出した。30年前、財布を空にして店を出た夜、家に帰ってヨシエの前で勝手に頭が下がった。あれがワープだったのか。
佐藤さんは練習を始めた。最初はへっぴり腰。だんだん上手くなる。

第十章 カミさん重力
その時、空が割れた。ヨシエが怒ったのだ。堕天使団地の上空に、ヨシエの特大の晴れ間が現れた。重力制御だ。
「あんたたち、夕飯よ。帰ってきなさい」
声だけで竜巻が止まった。堕天使団地の雨が、一瞬だけ止んだ。ママが驚く。
「なんて重力。愛の重力よ」
ヨシエの重力は、浮気心エンジンをも上回る。家族最優先でやってきた女の重力は、宇宙一重い。

第十一章 孫と始める午後の晴らし方
佐藤さんはついに土下座した。額が地面にめり込んだ。角度180度。誠意100パーセント。
ボン、と音がして、佐藤さんは元の団地のベランダにワープした。そこには奥さんが立っていた。奥さんは何も言わず、バケツの水を佐藤さんにかけた。暴風雨より冷たい、現実の水だ。
「おかえり。洗濯物、取り込んで」
佐藤さんは泣きながら洗濯物を取り込んだ。上空の雲が、すうっと消えた。小雨になった。
ハルが言った。
「じい、かっこいい」
「土下座がか?」
「違う。戻るって決めるのが」

第十二章 午後は濡れる程度がちょうどいい
こうして堕天使団地は少しずつ人口が減った。戻り方を覚えた旦那たちが、一人、また一人と土下座ワープで帰っていく。戻れない奴もいる。まだ角度が足りないのだ。
ボクの上空の小雨は、まだやまない。午後から降り出した雨はやまない。でもそれでいい。完全に晴れたら、きっとワクワクを忘れる。
ヨシエとハルと縁側で線香花火をしている。ボクの小雨だけが、花火に当たってジュッと消える。
「なあ、ハル。人生の午後はな、暴風雨にしないのがコツだ。しっとり濡れる程度にしておけ。そうすれば孫と笑っていられる」
ハルは笑った。
「じい、詩人みたい」
夕方、向かいの佐藤さんがやってきて言った。
「昨日はすまんかった。おかげで助かった。今度、土下座のやり方、教えてくれんか。ご近所の旦那たちにも」
ボクは答えた。
「よし、まずは体験だ。縁側で正座からだ」
雨はやまない。でも、もう怖くない。だって家の中は、いつも晴れだから。

(了)



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あとがき
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
この物語は、「男のロマンや自由への憧れ」と「現実の生活(主に洗濯物と夕飯)」のギャップをコミカルに描きたいという思いから生まれました。
作中、佐藤さんは「自由って、誰かが洗濯物を取り込んでくれて初めて成り立つんだな」と気づきます。私たちが謳歌している自由の裏には、実は誰かの支えや「重力」があるのかもしれません。
主人公の言う通り、人生の午後は「暴風雨にしないのがコツで、しっとり濡れる程度がちょうどいい」のかもしれません。頭上の小雨さえも「体験は腐らない」と楽しんでしまう、そんなタフでチャーミングな大人でありたいものです。
あなたの頭上の空は、いまどんなお天気ですか?
もし激しい雨が降ってきたときは……ぜひ「誠意の角度180度」を思い出してみてください。


『悠々として急げ』
――軌道の外で、君を待つ――



まえがき

「まだ時間はある。」
私たちは、この言葉を何度口にして生きてきたでしょう。
伝えたい言葉を明日に延ばし、会いたい人との約束を来月へ送り、いつか必ず、と自分に言い聞かせながら、季節だけが静かに過ぎていきます。
けれど人生には、二度と戻らない軌道があります。
この物語に登場する宇宙探査船〈カイロン〉は、二十七年に一度だけ地球へ帰ってきます。
その長い軌道は、人の人生にもどこか似ています。
若い頃には永遠に思えた時間も、振り返れば驚くほど短く、言えなかった一言や、差し伸べられなかった手だけが、心のどこかに残り続けます。
それでも人は、生きている限り、今日という一日を選び直すことができます。
遅すぎると思ったその日が、本当は最も早い一日なのかもしれません。
この作品は宇宙を舞台にしたSFでありながら、本当に描きたかったのは、人が誰かと共に生きるという、ごく当たり前で、かけがえのない奇跡です。
読み終えたあと、大切な誰かの顔が浮かび、「今日、連絡してみよう」と思っていただけたなら、とても嬉しく思います。
どうぞ最後まで、冬吾たちと一緒に歩いていただければ幸いです。




第一章 匂いを運ぶもの
 海沿いの観測所には、いつも潮の匂いがした。
 それは海そのものの匂いというより、海が夜のあいだに集めたものすべての匂いだった。遠くの藻、濡れた鉄、雨の予感、名もない鳥の羽毛、あるいは、人が捨てた記憶。
 榊原冬吾は六十二歳になっていた。
 年齢というものを、若い頃の彼は単なる数字だと思っていた。毎年一つずつ、戸籍の上で増えていく記号。身体のどこかが痛むことも、髪に白いものが混じることも、自分に起きることだとは考えなかった。
 だが今では、朝に目を覚ますたび、身体が先に今日の日付を知っている。
 膝は昨日の雨を覚えている。
 指は冷えを嫌う。
 目は暗い場所に慣れるまで、少しだけ時間を必要とする。
 それでも彼は、毎朝六時になると観測所の屋上へ上がった。
 足元に、灰色の犬がついてくる。
「ルカ、今日は風が強いぞ」
 犬は返事をしない。ただ、尻尾を一度だけ振った。
 ルカは保護犬だった。十年前、海岸の防潮堤の裏で見つかった。濡れた身体に砂をまとい、片方の耳だけを垂らしていた。何歳だったのか、どこから来たのか、誰も知らない。
 冬吾が「ルカ」と呼ぶと、犬はすぐにその名を受け入れた。
 人間なら、名を受け入れるまでに理由がいる。
 過去を語り、損得を計り、呼ばれる場所を選ぶ。
 しかしルカは、名を与えられたその日から、まるでずっと前からそうだったように、冬吾のそばを歩いた。
 犬は嘘をつかなかった。
 嬉しいときは駆けた。
 怖いときは震えた。
 寂しいときは、ただ人の足元に額を置いた。
 人間のように、平気なふりをしなかった。
 屋上のドームが、ゆっくりと開いた。
 観測所の巨大な望遠鏡は、空に浮かぶ一つの人工天体を追っていた。名称はK-17〈カイロン〉。七十年前、地球圏を離れて打ち上げられた自律航行型の観測船だった。
 カイロンは太陽の周りを、異様に細長い楕円軌道で回っている。
 地球に近づくのは、わずか二十七年に一度。
 接近の窓は、たった三日間。
 その三日を逃せば、次に戻るのは二十七年後だった。
 冬吾が九歳だった頃、カイロンは初めて地球近傍を通過した。
 二十歳のとき、二度目を見た。
 四十七歳のとき、三度目を見送った。
 そして今、四度目の接近まで、あと十九日。
「間に合うと思うか」
 冬吾は空に向かって言った。
 ルカは、冬吾の手の甲を舐めた。
 それは答えではなかった。
 けれど、答えよりも確かな温度だった。


第二章 遠ざかる軌道
 カイロンには、人の記憶を保存する装置が積まれていた。
 正確には、記憶そのものではない。声、映像、脳波、心拍、体温、発話の間。人が誰かを思うときに生まれる、数えきれないほど小さな揺らぎ。
 それらを宇宙空間で熟成させ、二十七年後に地球へ送り返す。
 計画の名は〈リターン・アーカイブ〉。
 人は忘れる。
 だからこそ、忘れたくないものを宇宙へ預ける。
 若い頃の冬吾は、その技術を美しいと思った。
 しかし六十二歳の今では、美しいものほど残酷なことがあると知っていた。
 記録は戻る。
 だが、記録を預けた本人は、戻らないことがある。
 その朝、観測所の端末に古いメッセージが届いた。
送信者:水科 澪
件名:カイロンの帰還について
冬吾へ。
もし、このメールが届いたなら、あなたはまだあの場所にいるのでしょう。
私は、北の港町にいます。
たぶん、これが最後の帰還になると思う。
だから会いたい。
でも、会うために連絡したのではありません。
ただ、あなたに知っていてほしかった。
私は、あなたを忘れたことがない。
 冬吾は画面を見たまま、長いあいだ動けなかった。
 澪。
 二十七年前、彼女は冬吾の隣にいた。
 彼女は植物生態学者で、宇宙放射線が地球の植物に与える影響を研究していた。笑うときは目を細め、怒るときは静かだった。どんなに忙しくても、道端の草の名前を忘れなかった。
 冬吾は彼女を愛していた。
 それを言葉にしなかったわけではない。
 ただ、言葉にしたあと、人生を共にする決断をしなかった。
 研究があった。
 将来があった。
 まだ時間があると思っていた。
「今は無理だ」
「次の観測が終わったら」
「もっと落ち着いたら」
 そう言うたびに、澪は少し笑った。
 そしてある夜、彼女は言った。
「冬吾はね、宇宙のことは信じられるのに、明日のことは信じられないんだね」
 それが最後の会話だった。
 翌月、澪は研究チームごと北へ移った。
 冬吾は追わなかった。
 追えばよかった、と言うには、年月があまりに長すぎた。
 カイロンのように、彼女もまた遠い軌道を描き、彼の人生から離れていったのだ。


第三章 短い命の真実
 その夜、ルカが食事を残した。
 冬吾は皿の前にしゃがみ込んだ。
「どうした」
 犬は顔を上げなかった。ただ、申し訳なさそうに一度だけ細く鼻を鳴らした。いつもならすぐに差し出されるはずの温かい鼻先が、心なしか乾いているように見えた。
 翌朝、動物病院で告げられた。
「心臓です。年齢のこともあります。今すぐどうこうではありませんが……一緒にいられる時間を、大切にしてあげてください」
 医師の声は穏やかだった。
 穏やかであることが、かえって残酷だった。
 帰り道、ルカは以前よりゆっくり歩いた。
 それでも海を見つけると、立ち止まり、風に鼻を向けた。
 冬吾にはわからなかった。
 犬は、自分の命が短いことを知っているのだろうか。
 知っていたとしても、犬は未来を恐れて、今日の風を嗅ぐことをやめないのだろう。
 夕暮れ、冬吾はルカの身体を撫でながら、澪からのメールをもう一度開いた。
 画面の中に、彼女の連絡先があった。
 指は、送信ボタンの前で止まった。
 何を書けばいい。
 久しぶり。
 元気だったか。
 会いたい。
 許してほしい。
 どれも、遅すぎる言葉に思えた。
 けれど、言わない言葉は、届かない。
 冬吾は目を閉じた。
 ルカが、彼の手のひらに鼻先を押しつけた。
 その仕草は、いつもと同じだった。
 けれどその瞬間、冬吾には、それが静かな命令のように感じられた。
 嘘をつくな。
 先延ばしにするな。
 いま、ここにあるものを見失うな。
 冬吾は、震える指で文字を打った。
澪へ。
会いに行きたい。
ただし、昔の続きを求めるためではない。
あのとき逃げたことを、きちんと自分の言葉で話したい。
もし君が会ってくれるなら、北の港へ行く。
返事がなくても、行く。
カイロンとすれ違う前に。
 送信したあと、彼はしばらく画面を見つめていた。
 返事は、すぐには来なかった。
 それでも、胸の奥で何かが動き始めた。
 長いあいだ停止していた歯車が、ぎこちなく回り出すように。


第四章 北へ急げ
 三日後、澪から返事が来た。
来てください。
でも、急がないで。
あなたは昔から急ぐべきときに止まり、止まるべきときに走る人だったから。
ルカも連れてきて。
港の近くに、昔あなたが好きだった灯台があるでしょう。
そこで待っています。
 冬吾は、観測所の所長に休暇を願い出た。
「カイロン接近前だぞ」
 所長は驚いた。
「わかっています」
「おまえがいないと、軌道補正の計算が」
「若い連中がいます」
「……何かあったのか」
 冬吾は答えなかった。
 何かあったのではない。何かを、起こさなければならなかった。
 翌朝、彼はルカを連れて北へ向かった。
 自動運転車は海岸線を走った。窓の外には、夏の終わりの草原が流れていた。雲は低く、遠くの山々は青灰色だった。
 ルカは後部座席で眠っていた。
 ときどき目を開け、冬吾がいることを確かめるように見た。
「大丈夫だ」
 冬吾は何度も言った。
 ルカに向けて言ったのか。自分に向けて言ったのか。もう区別はつかなかった。
 港町に着いたのは、日が沈む直前だった。
 灯台への坂道は、昔より狭く見えた。
 人は歳を取ると、道が長くなる。
 坂の途中で、ルカが立ち止まった。
 胸が上下している。
 冬吾は抱き上げようとした。
 だがルカは、弱い力で首を振った。自分で歩く、と言っているようだった。
 犬は嘘をつかない。その誇りまで奪ってはいけない。
 冬吾は隣に立ち、歩幅を合わせた。
 急ぐために、ゆっくり歩いた。


第五章 灯台の女
 灯台の前に、澪はいた。
 白い髪が、風に揺れていた。
 若い頃の澪を、冬吾は記憶している。柔らかな黒髪、細い指、研究室の窓際で育てていた小さな植物。だが目の前の彼女は、記憶の中の彼女とは違っていた。
 それでも、同じ人だった。
 目を細めて笑う癖だけは、変わっていなかった。
「久しぶり」
 澪が言った。
「……久しぶりだ」
 それだけで、二十七年が胸に流れ込んできた。
 言葉が足りなかった年月。言葉を選びすぎて、何も言わなかった年月。
 ルカが澪の足元へ行き、ゆっくりと座った。
「この子がルカ?」
「ああ」
「賢そう」
「俺よりずっとな」
 澪は笑った。その笑い声に、冬吾は救われた気がした。
 二人は灯台の中へ入った。古い階段を上り、展望室へ出る。窓の向こうには、夜の海が広がっていた。
 そして空には、まだ肉眼では見えないカイロンがいた。
「私、病気なの」
 澪は、海を見つめたまま、まるで明日の天気を口にするような静けさで言った。
 冬吾は息を止めた。
「治療は?」
「している。でも、治る病気じゃない」
「いつから」
「去年」
「どうして言わなかった」
 澪は少し黙った。
「あなたに言う理由が、なかったから」
 その言葉は、責めるためのものではなかった。だからこそ、深く刺さった。
「でも」
 澪は続けた。
「カイロンが戻ると聞いて、あなたを思い出した。昔、あなたが言っていたでしょう。遠い軌道を回るものほど、近づいたときには何かを持ち帰るんだって」
「言ったかもしれない」
「私、持ち帰りたかったの。後悔だけじゃないものを」
 冬吾は窓に手をついた。
 ガラスの向こうに海がある。手を伸ばせば届きそうで、決して届かない海。
「澪」
 彼は言った。
「俺は、昔の続きをくれとは言わない」
 澪は彼を見た。
「俺は、君の人生を取り戻せない。失った時間も、君が一人で耐えたことも、なかったことにはできない」
 喉が震えた。
「でも、これから先の時間に、俺を置いてほしい。君が望むなら、病院にも行く。食事を作る。黙って隣にいる。君が怒るなら聞く。君が笑うなら、一緒に笑う」
 冬吾は、長いあいだ言えなかった言葉を、一つずつ取り出した。
「君を俺のものにしたいんじゃない。君と同じ方向へ歩くために、俺の人生を使いたい」
 澪の目に涙が浮かんだ。
「遅いよ」
「ああ」
「本当に遅い」
「ああ」
「でも……来たんだね」
 冬吾は頷いた。
 澪が手を差し出した。
 若い頃なら、彼はためらったかもしれない。この手を取る資格があるのか、未来を約束できるのか、もっと良い言葉があるのではないか、と。
 だが、そのすべてが、今はただの逃げ道だった。
 冬吾は手を掴んだ。
 強く握るのではない。離れないように、互いの温度を確かめるように。
 そして、自分のほうへ手繰り寄せるのではなく、澪の立つ場所へ一歩近づいた。


第六章 落下する星
 展望室の外で、ルカが一度だけ吠えた。
 冬吾と澪が振り向くと、犬は窓際に立ち、空を見上げていた。
 次の瞬間、北東の空に細い光が走った。
 大気圏で燃え尽きる流星ではない。それは遥かな上空を、地球へ向けて信号を送るために姿勢を変えた、カイロンの放つ一瞬の閃光だった。
 カイロンからの帰還データが、世界中の受信局へ届き始めた。
 冬吾の端末が震えた。そこには二十七年前、彼と澪が宇宙へ預けた記録があった。
 若い二人の声。
『冬吾、もしこれを未来の私たちが聞いているなら。』
『私たちは、ちゃんと一緒にいるかな。』
『たぶん、君は難しい顔をしている。でもね、未来は待っているだけでは来ないよ。』
『私を大事にして。できれば、今日の私を。』
 録音の中の澪が笑った。
 冬吾は、声を聞きながら泣いた。
 澪も泣いていた。
 ルカは二人の足元に伏せた。その身体は温かかった。
 冬吾は思った。
 命は永遠ではない。だから、終わるものは美しい――そんな安い言葉で片づけたくはない。
 終わるものは怖い。失うことは、痛い。
 けれど、だからこそ人は、今日を選び取らなければならない。
 誰かのそばにいること。手を握ること。言葉に責任を持つこと。
 それは、永遠を手に入れるためではない。
 限りある時間を、嘘なく生きるためだ。


第七章 その後の家族
 冬吾は観測所を辞めなかった。
 だが、働き方を変えた。
 週の半分は港町で過ごし、残りの日は遠隔で観測所の若い研究者たちを支えた。澪の治療の日には、必ずそばにいた。できないこともあった。失敗する日もあった。澪が苛立つことも、冬吾が逃げたくなることもあった。
 それでも、逃げなかった。
 冬吾は「大丈夫」と安易に言わなくなった。
 代わりに言った。
「ここにいる」
「一緒に考えよう」
「明日のことは、明日また決めよう」
 ルカは、その冬を越えられなかった。
 春の朝、窓から海が見える部屋で、静かに息を引き取った。最後まで、冬吾の足元にいた。
 澪はルカの額を撫で、長いあいだ何も言わなかった。
 やがて、小さな声で言った。
「この子は、私たちより先に知っていたのかもね」
「何を」
「急ぐべきことを」
 庭の隅に、二人はルカを埋めた。その場所に澪が、小さな木を植えた。
「何の木だ」
「海桐花(トベラ)。潮風に強いの」
「花は咲くか」
「咲くよ。匂いもする」
 冬吾は頷いた。
 季節が巡り、木は少しずつ根を張った。
 そして冬吾と澪の暮らしにも、新しい家族が増えた。
 澪の姪の娘、結菜だった。両親を事故で失い、親族の間を転々としていた少女は、しばらく二人の家で暮らすことになった。
 最初、結菜はほとんど話さなかった。
 けれど海桐花のそばに座り、ルカの写真を眺めていた。
「犬、好きだったの?」
 冬吾が尋ねると、結菜は小さく頷いた。
「じゃあ、今度一緒に保護施設へ行くか」
 少女は顔を上げた。
 その瞳には、まだ深い夜が残っていた。それでも、その夜の向こうに、かすかな朝があった。
 冬吾は知った。
 誰かと生きる決断は、二人だけのものではない。その先にいる、まだ会ったことのない誰かの人生にも触れていく。
 だから責任がある。
 だから覚悟がいる。
 だからこそ、愛は軽い言葉では終われない。


終章 悠々として急げ
 カイロンは再び、地球から遠ざかっていった。
 次の接近は二十七年後。
 冬吾はそのとき、もうこの世にいないかもしれない。澪も、結菜も、誰も同じ場所にはいないだろう。
 けれど、朝は来る。
 潮の匂いを運ぶ風も来る。海桐花は咲く。誰かが誰かの手を取る瞬間も、きっと訪れる。
 ある夕方、冬吾と澪は庭の椅子に並んで座っていた。
 結菜は家の中で、保護施設から迎えたばかりの黒い子犬と遊んでいる。犬はまだ名が決まっていない。だが、嬉しいときには全身で跳ね、寂しいときには人のそばに寄ってくる。
 その姿に、冬吾は笑った。
「何を考えてるの」
 澪が尋ねた。
「昔、誰かに言われた言葉を」
「どんな?」
 冬吾は空を見上げた。
 カイロンはもう見えない。けれど、見えない場所にあるからといって、消えたわけではない。
「悠々として急げ、だ」
 澪は少し考え、それから笑った。
「あなたには、ちょうどいい言葉ね」
「遅かったけどな」
「ううん」
 澪は冬吾の手を取った。
「急ぐことを覚えたなら、遅すぎることなんてないのかもしれない」
 冬吾は、彼女の手を握り返した。
 力任せではなく。奪うためではなく。今日を共に歩くために。
 空はゆっくりと夜へ向かっていた。
 それでも彼は、もう待たなかった。
 いとしいものが、手の届く場所にあるのなら。今、そこにいるのなら。
 言葉を選び、心を込めて、手を差し出す。
 そして、悠々として急ぐ。
 人生が、遠い軌道の向こうへ去ってしまう前に。




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あとがき
「悠々として急げ」という言葉に出会ったのは、ずいぶん昔のことでした。
急ぎすぎても大切なものを見失い、慎重になりすぎても機会は静か🤍➕に通り過ぎていく。
人生とは、その絶妙な歩幅を探し続ける旅なのだと思います。
冬吾もまた、長いあいだ「いつか」を信じて生きてきました。
けれど人生は、「いつか」ではなく「今日」の積み重ねでしかありません。
ルカという一匹の犬は、そのことを誰よりも静かに教えてくれます。
犬は昨日を悔やまず、明日に怯えず、ただ今日を生きます。
だからこそ、その姿は人間よりも強く、美しく映るのでしょう。
宇宙は果てしなく広く、時間は気の遠くなるほど長いものです。
しかし、人の幸せは案外、小さな場所にあります。
隣に座る誰かの温もり。
交わす一つの言葉。
握り返される一つの手。
そんな当たり前を失わないために、人は「悠々として急ぐ」のだと思います。
この物語が、皆さまの心のどこかで、静かな灯りとして残り続けることを願っています。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。



『片想いの― 記憶郵便局からの手紙 ――』


まえがき

人生には、「あのとき、ああしていれば」と思い返す瞬間が、誰にでもあるのではないでしょうか。

あの日、声をかけていたら。
あの日、手を伸ばしていたら。
あの日、「好きです」と伝えていたら。

けれど、人は選ばなかった人生を生きることはできません。私たちは、選んだ道だけを歩き、その途中で出会った人を愛し、別れ、そしてまた歩き続けます。

本作『片想いの銀河――記憶郵便局からの手紙――』は、そんな「もしも」を巡る物語です。

もし六十二歳の自分が、十六歳の自分と出会えたなら。
もし、過去へ一通だけ手紙を送ることができたなら。
人は後悔を消そうとするのでしょうか。それとも、後悔を抱えたまま生きることを選ぶのでしょうか。

SFという舞台を借りながら、この物語で描きたかったのは、未来の技術ではなく、人の心です。

伝えた想い。
伝えられなかった想い。
叶った恋。
叶わなかった恋。

そのどれもが、その人だけの人生を形づくっています。

読み終えたあと、読者の皆様が、自分自身の「選ばなかった人生」に少しだけ優しくなれたなら、作者としてこれほど嬉しいことはありません。




第一章 還暦の郵便受け

二〇八五年、初春。
風間宗一(かざま そういち)が六十二歳の誕生日を迎えた朝、玄関脇の郵便受けに、見慣れない一通の封書が届いていた。

紙の封筒だった。
この時代、紙で手紙が届くことはまずない。通信はすべて網膜投影に置き換わり、紙の封書は美術館行きの骨董品とされていた。

差出人欄には、こうあった。
――「記憶郵便局」

宗一は苦笑した。若い者の悪ふざけだろう、と思った。街を歩けば「愛してる」という言葉が挨拶のように飛び交う時代だ。言葉の重さは、蜘蛛の糸ほどに軽くなっていた。

封を切ると、中には一枚のカードと、小さな真鍮色のチップが入っていた。カードにはこう記されていた。

> 拝啓、風間宗一様
>
> 当局は、あなた様が生涯の中で「伝えられなかった言葉」の受取人となっております。
> 同封のチップを、貴殿の記憶接続端子に挿し込んでください。
> 差出人は――一九七八年五月、十六歳の風間宗一様でございます。
>
> 敬具
> 記憶郵便局

馬鹿な、と思った。
しかし、宗一の胸の奥で、何かがことりと音を立てた。

一九七八年五月。
その日付だけで、彼の胃のあたりが、ぎゅっと縮んだのだ。

思い出したくないのか、思い出せないのか、自分でもわからない曖昧な感情。その中心に、確かに一人の少女が立っていた。
名を、緑川美咲(みどりかわ みさき)といった。


第二章 記憶郵便局

宗一は、しばらくチップを掌の上で転がしていた。
妻の朋子(ともこ)は旧姓を小林といい、三年前に病で先立っている。子どもたちは独立し、広すぎる家には彼一人と、古い柱時計の音だけが残されていた。

「――挿してみるか」
誰に言うでもなく、そう呟いた。

こめかみの端子に、チップをそっと押し込む。かちり、と小さな音がした。
視界が、ふ、と歪んだ。

次の瞬間、宗一は薄暗い部屋の中に、意識だけが漂っていた。
窓の外は、夕暮れ。オレンジ色の光が、木造校舎の廊下を斜めに切り取っている。油の染みた床と、放課後の、埃っぽい匂い。

――ここは、僕の高校だ。

そう気づいた瞬間、廊下の向こうから、詰襟の学生服を着た少年が歩いてきた。
顔を見て、宗一は息を呑んだ。

自分だった。
十六歳の、痩せこけて、猫背で、前髪の長い、頼りない自分だ。

少年は、宗一の存在に気づかずそのまま歩き去ろうとして、ふと立ち止まった。
「――誰だ。そこにいるのか」

少年の目は、宗一を見ているようで、同時にその背後の壁を捉えているようでもあった。幽霊の気配をかすかに感じ取っているような目だった。

宗一は、思わず口を開いた。
「僕だ。……お前だよ。四十六年後の、お前だ」

少年の顔が、みるみる青ざめていった。


第三章 少年、風間宗一

少年の名は、当然ながら、風間宗一。

「……嘘だろ」
少年は、廊下の壁に背中を預け、ずるずるとしゃがみ込んだ。
「幻覚だ。俺、勉強しすぎてとうとうおかしくなったのか」

「勉強なんてしてなかっただろう、お前」
宗一が苦笑すると、少年は「うっ」と呻いて顔を伏せた。
「……確かに、してない」

「僕は、記憶郵便局というところからチップを受け取って、ここに来たんだ。差出人は、お前だそうだ」
「記憶……郵便局?」
「ああ。これから、出すんだろう」

二人は、しばらく黙って向かい合った。
夕陽が、廊下の板の節を、金色に浮かび上がらせていた。

「――なあ」と、少年が言った。「お前、いや、俺は、これからどうなる? 結婚できたか? 良い人生だったか?」

宗一は、少し考えてから答えた。
「まあ、悪くはなかった。良い妻と巡り会って、子どもも二人。仕事も、それなりに」
「……そうか」
少年は少しほっとして、それから真っ直ぐに尋ねた。
「じゃあ、緑川さんとは、どうなった?」

宗一は、答えられなかった。
少年は、じっと宗一を見ていた。

「答えないってことは、そういうことか」
「……ああ」
「告白、しなかったんだな」
「……できなかった」

夕陽が、翳った。
少年の目が涙で滲むのを、宗一は他人事のように眺めていた。いや、他人事ではなかった。四十六年前の自分が、今、目の前で泣いているのだ。


第四章 緑川美咲

緑川美咲は、隣のクラスの少女だった。
背が高く、髪は肩まで。笑うと右の頬に小さなえくぼができ、窓際で本を読んでいる姿は、まるで一枚の絵のように見えた。
少年は、一年生の頃から彼女に恋をしていた。だが口下手で、彼女の前に立つと、ただ俯くばかりだった。

「なあ」と、少年が言った。「いつ、諦めたんだ」

「文化祭の後夜祭の日だ」と、宗一は答えた。「体育館の裏で、告白しようとして、できなかった。あの日以来、僕は、言えなかった後悔ばかりで生きてきた」

少年は、勢いよく立ち上がった。
「なら、俺、今から緑川さんに告白する」

宗一は、目を見開いた。
「――待て。今日は、まだ五月だ。文化祭は十月だぞ」
「関係ない。今、言う」
「馬鹿を言うな。フラれるに決まってる」
「フラれても構わない」

少年の目は、まっすぐだった。
「だって、その顔をしてるってことは、告白しなかった俺は、一生後悔したってことだろ。だったら、フラれたって、告白した方がマシだ」

宗一は、何も言えなかった。
少年は、鞄を掴んで走り出した。
夕陽の中を、猫背の少年が、教室に向かって駆けていった。


第五章 並行世界の分岐

視界が、また歪んだ。
次の瞬間、宗一は、自分のリビングに戻っていた。

柱時計が、こつん、こつんと音を立てている。
「――夢か」

こめかみのチップを抜こうとして、彼は、はっと息を呑んだ。
違和感が二つあった。

一つは、キッチンの棚だ。朋子が使っていた、少し欠けたマグカップがない。代わりに、見覚えのない花柄の湯呑みが二つ並んでいる。

もう一つは、壁だった。
家族写真の中の女性が、朋子ではなかった。
優しげな目元、右頬のえくぼ。その女性は――緑川美咲だった。
六十歳を過ぎた、緑川美咲だ。

背後で、玄関の扉が開いた。
「――ただいま」

その声に、宗一は振り返った。
初老の女性が、買い物袋を手に立っていた。
「あなた、どうしたの? そんな顔して」

美咲だった。
髪に白いものが混じり、少しふくよかになった、緑川美咲。

「……み、さき」
四十六年ぶりに、その名が口からこぼれた。
美咲は、笑った。右頬に、小さなえくぼができた。
「なあに、急に。まるで、初めて会ったみたいな顔して」


第六章 書き換わった記憶

猛烈な勢いで、新しい過去の記憶が脳裏に流れ込んできた。

――一九七八年五月、放課後の廊下。十六歳の宗一は、緑川美咲に告白した。
フラれた。

夏休みに、もう一度告白した。フラれた。
文化祭で、また告白した。フラれた。
卒業式の日、四度目の告白をした。

美咲は、泣いた。
「……どうして、そんなに私のことを?」
「わからない。ただ、好きなんだ」

少し考えて、美咲は言った。
「……じゃあ、大学生になっても、その気持ちが変わらなかったら、もう一度言って」

大学生になって、五度目の告白をした。
美咲は、頷いた。
そこから、四十年余りの結婚生活が始まった。

宗一は、リビングの椅子に崩れ落ちた。
「あなた、大丈夫?」
美咲が駆け寄ってきた。その手のぬくもりが、確かにそこにあった。

「……ああ、大丈夫だ。少し、疲れただけだ」

だが、宗一の中には、もう一つの記憶も、鮮明に残っていた。
朋子との、四十年。二人の子ども。彼女の闘病。
二つの人生が、同時に、確かな音を立てて走っていた。


第七章 記憶郵便局からの二通目

その夜、また郵便受けが、こつん、と音を立てた。
彼は、そっと玄関に降り、扉を開けた。

白い封筒が、一通。

> 拝啓、風間宗一様
>
> 当局の配達により、貴殿の過去の分岐に変更が生じました。
> 規定により、貴殿には二つの記憶を保持する権利がございます。どちらか一つを消去することも、両方を保持することも自由でございます。
>
> なお、当局は実在の郵便局ではございません。
> 貴殿は今、二つの人生の狭間に、立っておられます。
>
> 敬具
> 記憶郵便局

封筒を握りしめた。
二階からは、美咲の安らかな寝息が聞こえる。

しかし、もう一つの記憶の中では、朋子が、病室のベッドで彼の手を握ったまま、静かに息を引き取った日のことも、鮮明に残っていた。

「――どちらを、選べというんだ」
彼は、月の光に向かって呟いた。


第八章 朋子

宗一は、書斎で古いアルバムを開いた。
そこにある写真は、すべて美咲との日々だった。朋子との写真は、一枚もない。

しかし、記憶の中には、確かにあった。

一番鮮明なのは、告知を受けた夜だ。
朋子は、検査結果の紙を握りしめたまま、台所の床に座り込んで泣いた。宗一は何も言えず、ただ隣に座って彼女の背中をさするしかできなかった。換気扇の音だけが、やけに大きく聞こえていた。

結婚式の日、朋子が涙ぐみながら、「私で良かったの?」と聞いたこと。
長女が生まれた日、産院の廊下で、宗一が父にコレクトコールをかけたこと。
最期の日、朋子が微笑んで、「あなたと一緒で、幸せだったよ」と言ったこと。

それらすべてが、今の世界には存在しないのだ。

宗一は、机に突っ伏して、声を殺して泣いた。

朋子。ごめん。ごめんな、朋子。
僕は、若い頃の一つの後悔を消したくて、お前との人生を、消してしまうところだった。
いや、消したのは、僕じゃない。
あの、十六歳の、青臭い僕だ。


第九章 少年への手紙

宗一は、便箋を取り出し、万年筆にインクを入れた。
そして、書き始めた。

> 拝啓、十六歳の風間宗一様
>
> この手紙が届くことを願って書いています。僕は、六十二歳の、あなたです。
>
> 先日、僕は、あなたに会いました。あなたは、緑川さんに告白すると言って、走り出しました。
> その結果、僕の世界は、書き換わりました。美咲さんは、僕の妻になりました。
>
> しかし、それによって、僕がもう一つの世界で愛した女性――朋子――が、この世界から消えてしまいました。
>
> あなたは「知ったことか」と思うかもしれません。その気持ちはわかります。あなたは、僕なのですから。
> でも、これだけは、聞いてほしい。
>
> 愛は、伝えてこそ叶う。それは、正しい。
> しかし、伝えられなかった愛も、それはそれで、一つの愛なのです。
>
> 伝えなかったからこそ、あなたは別の道を歩き、別の人と出会い、別の幸せを手にする。
> どちらが「正解」かは、誰にもわからない。
>
> 僕は、選択をあなたに委ねます。
> 告白しても、しなくても、どちらでも構わない。ただ、選んだ先で出会う人を、大切にしなさい。
>
> 振り返って、「あの時、ああすれば良かった」と思う日が、必ず来ます。
> でも、それは、選ばなかった道への未練であって、選んだ道が間違っていたということでは、決してない。
>
> どの道の先にも、あなたを愛してくれる人が、待っています。
>
> 敬具
> 風間宗一(六十二歳)

その手紙を、玄関の郵便受けに、そっと入れた。
差出人欄には、こう書いた。

「記憶郵便局気付 風間宗一様(十六歳)宛」


第十章 選択

翌朝、目覚めると、頭の中でまた記憶が渦を巻いた。

少年は、あの日、廊下を走り、教室に飛び込んだ。
そこでふっと、不思議なイメージが頭をよぎり、立ち止まった。
緑川美咲は、窓際で、静かに本を読んでいた。

少年は、深呼吸をして言った。
「――緑川さん」

「……なあに?」
美咲が、顔を上げた。

少年の口から出た言葉は、こうだった。
「あの、明日の数学のノート、貸してくれないかな」

美咲は、笑った。右頬に、えくぼができた。
「いいよ」

少年は、ノートを受け取って、教室を出た。
廊下で、彼は、ぽつりと呟いた。
「――今日は、これでいい。いつか、告白する。でも、今日じゃない」

彼は、微笑んだ。
彼の中には、確かに、六十二歳の自分からの手紙があった。

『どの道の先にも、あなたを愛してくれる人が、待っている』


第十一章 朋子との再会

宗一は、目を覚ました。
リビングに降りていくと、壁の家族写真が戻っていた。

朋子の写真だ。
美咲との記憶は、遠い夢のように朧げになっていた。しかし、消えたわけではなかった。心のどこかに、確かに残っていた。

二つの人生を、彼は、抱えて生きていくのだろう。
それが、記憶郵便局からの、最後の贈り物だった。

宗一は、写真の中の朋子に、そっと語りかけた。
「――ただいま」

朋子は、写真の中で、いつもの優しい微笑みを、返してくれた。


第十二章 三通目の手紙

その日の夕方、また郵便受けに、白い封筒が届いた。

> 拝啓、風間宗一様
>
> 貴殿のご選択、確かに承りました。貴殿は、若き日の自分に「告白しなくてもよい」と伝えることを選ばれました。
> しかし、これは「諦めよ」という意味ではないと、当局は理解しております。
>
> 貴殿が伝えたかったのは、「どの道を選んでも、そこには愛がある」ということでございましょう。
> 当局からの最後の配達物を、同封いたします。
>
> 敬具
> 記憶郵便局

封筒の中には、一枚の写真が入っていた。
セピア色の、古い写真。

高校の廊下で、十六歳の宗一と、十六歳の美咲が、並んで写っていた。
美咲は、ノートを差し出して笑っており、宗一は、少し照れくさそうに、それを受け取っていた。

写真の裏には、鉛筆の薄い文字で、こう書かれていた。

> 『一九七八年五月 風間宗一君と緑川美咲さん 撮影:小林朋子』

「――朋子」

宗一は、写真を、震える手で、胸に押し当てた。

あの日、あの廊下に、朋子がいたのだ。
少年が美咲にノートを借りたあの日、その微笑ましい光景をカメラに収めていた少女が、いた。
彼女は、猫背で頼りない、それでいて緑川美咲を密かに想う、少年の横顔を、ずっと見つめていたのだ。

そして、数年後、大学のキャンパスで、宗一は朋子と出会う。
「――あなた、あの時の、風間君でしょう?」

朋子は、そう言って、悪戯っぽく笑ったのだった。


終章 片想いの銀河

夜、宗一は、庭に出て、空を見上げた。
春の星々が、しずかに瞬いていた。

「――片想い、か」
彼は、呟いた。

伝えられなかった想い。伝えた想い。伝えなかったからこそ、別の人と結ばれた想い。

この宇宙には、無数の並行世界がある。そこには、告白した自分、しなかった自分、フラれた自分、結ばれた自分――ありとあらゆる「自分」が、それぞれの人生を、生きている。
そのすべてが、この夜空の星のように、輝いている。

どの星も、正解ではない。どの星も、間違いではない。
ただ、それぞれが、それぞれの光を放って、そこにあるだけだ。

宗一は、夜空に向かって、そっと囁いた。
「――朋子。愛してるよ」

齢を重ねると、そんな言葉さえ、冗句に聞こえるようになる、と、若い頃の自分は言うかもしれない。
だが、今の彼には、その言葉が、確かな重さを持って、口から出た。

星々が、瞬いた。
まるで、宇宙のどこかで、無数の「風間宗一」が、それぞれの愛する人に、それぞれの言葉を、伝えているかのように。

――そう。
世の中、大抵は、片想い。
だが、その片想いが、いつか、どこかの銀河で、両想いになる日が、きっと来る。
その瞬間を、大切にせよ。

六十二歳の風間宗一は、夜空に向かって、静かに微笑んだ。
半分消えかかった記憶の中で、若き日の自分と、朋子と、美咲と――すべての「もしも」の自分たちが、それぞれの銀河で、それぞれの愛を、生きていた。

柱時計が、こつん、と、優しい音を立てた。

(了)


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あとがき

最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

この物語を書き終えた今、私自身も、若い頃の自分を思い出しています。

人生は、不思議なものです。

叶わなかった恋があったから出会えた人がいます。
失ったものがあったから見えた景色があります。
後悔があったからこそ、今を大切にできることもあります。

主人公・風間宗一は、二つの人生を知ることになりました。

しかし、現実の私たちには一つの人生しかありません。

だからこそ、その一つを懸命に生きるしかないのでしょう。

もし、この物語を読んで、昔好きだった人を思い出した方がいるなら、それもまた一つの「記憶郵便局」からの手紙なのかもしれません。

過去は変えられません。

けれど、過去の受け止め方は、今日からでも変えられます。

あなたの人生で出会ったすべての人が、どこかの銀河で、今も幸せでありますように。

心より感謝を込めて。


鏡の残響
鏡をめぐる短い物語


まえがき
鏡という道具は、不思議な存在です。
私たちがその前に立つとき、鏡は私たちの「今」を寸分違わず映し出します。しかし私たちが一歩そこを立ち去れば、鏡は何事もなかったかのように平然と、ただの虚無をその奥に湛えています。
本当に、鏡はすべてを忘れてしまっているのでしょうか。
物理の世界において、光はエネルギーであり、物質との衝突はすべて微細な変化をもたらします。もしも、私たちが日々鏡に向けている視線や、その中に投げ入れている感情が、ガラスの裏側で静かに結晶化しているとしたら――。
本作『鏡の残響』は、そんな奇妙な空想から生まれた、短い物語です。
科学が進歩し、あらゆる過去が「データ」として再現可能になりつつある現代だからこそ、私たちは「忘れること」や「見せないこと」の優しさを見失ってはならない。
一筋のレーザー光が照らし出す、哀しくも温かい「光の疵(きず)」の物語に、どうぞしばし耳を澄ませてみてください。




一 玄関の鏡
祖母の葬儀を終えた夜、僕は誰もいなくなった実家の玄関に立っていた。
三十五年前、祖父がこの家を建てたとき、真っ先に据えたのがこの姿見だった。当時としては贅沢な、一枚ガラスの姿見。孫たちが毎朝ここで身支度を整え、老いた祖母が最後まで自分の白髪を撫でつけた、あの鏡だ。
明かりを消し忘れて廊下に戻ろうとしたとき、鏡の隅で何かが動いた気がした。
振り返る。誰もいない。
もう一度、鏡だけを見つめる。
そのとき、一瞬、幼い子どもたちが笑いながら鏡の前を駆け抜けていく影が見えた。ランドセルを背負った男の子、三つ編みの女の子。僕自身の、遠い記憶の中の姿だった。
瞬きをすると、それはもう消えていた。ただの疲れだ。そう自分に言い聞かせて、僕は電気を消した。
僕の本業は光学考古学、というと大仰に聞こえるが、要するに古いガラス製品に残る微細な劣化痕から、その物がどのように使われてきたかを読み解く研究をしている。骨董の鏡や窓ガラスの表面には、長年の光の反射や指紋の脂、埃の付着パターンが幾重にも重なっている。それを分光分析すれば、「いつ、どのくらいの頻度で、どんな角度から光が当たっていたか」がわかるはずだった。
けれど、僕が実家の鏡の裏側を調べ始めたのは、亡き祖母への未練ゆえだけではなかった。


二 銀の記憶
大学の研究室に持ち帰ったその鏡は、通常のガラス鏡とは違う製法で作られていた。裏面に塗られた銀のアマルガムが、既製品とは異なる結晶構造を持っていたのだ。
「これは……」
同僚の速水は、電子顕微鏡の画像を見て眉をひそめた。
「銀の粒子が、規則的な格子状に並んでる。まるで、記録媒体だ」
僕たちはその夜、研究室に残って古い理論を掘り起こした。十九世紀末、銀鏡反応を利用した写真技術が確立する以前、一部の職人たちは「残照銀」と呼ばれる特殊な合金を鏡の裏打ちに使っていたという記録があった。強い光を受けた銀粒子は結晶構造にわずかな歪みを蓄積し、何十年もかけてそれを保持する。理論上は、だが。実用化された例はほとんどなく、都市伝説の域を出ない技術だった。
「試してみるか」
速水が持ち出したのは、大学が特許を持つ位相干渉顕微鏡だった。特定の波長のレーザーを特殊な角度で鏡面に当てると、蓄積された歪みのパターンが、極めて微弱な光の像として再生される可能性がある。理論上は。
深夜二時、僕たちは実家の鏡を実験台に固定し、レーザーを当てた。
最初は何も起きなかった。二度目、角度を0.3度ずらしたとき、鏡の表面にうっすらと像が浮かんだ。
白髪の女性が、微笑んでいた。
祖母だった。


三 訪れた人々
その夜から、僕たちは眠れなくなった。
角度を少しずつ変えるたびに、鏡は違う時代の像を吐き出した。孫たちの姿、若い頃の祖母、さらに古い層には、見たこともない着物姿の女性がいた。おそらく、この鏡を最初に据えた人物の縁者だろう。
像はどれも一瞬で、輪郭もおぼろげだった。感情や声が読み取れるわけではない。ただ、そこに「誰かが立っていた」という事実だけが、光の疵として刻まれていた。
速水は興奮を隠さなかった。
「これが実用化できたら、歴史的建造物の鏡や窓から、過去に出入りした人物の記録が読み取れる。事件現場の再構築にも使える。とんでもない価値だ」
僕は何も言えなかった。目の前で明滅する光の中に、僕の知らない祖母の若い日の表情があったからだ。それは喜びなのか、哀しみなのか、判別できない。ただ、微笑んでいるように僕にはそう見えた。
数日後、大学に隣接する研究機関から連絡が来た。速水が興奮のあまり、上司に報告していたのだ。企業からの共同研究の打診が、驚くほど早く舞い込んだ。
大手光学メーカーの担当者は、丁寧な口調でこう言った。
「これは監視技術としても、記憶の継承技術としても、計り知れない可能性を持っています。ぜひ、実用化に向けたプロジェクトにご協力いただけませんか」
僕は返事を保留した。


四 手鏡の中のふたり
その週末、僕は気分転換のつもりで、東京で開催されていたジョン・レノンとオノ・ヨーコの回顧展に足を運んだ。二人の私物や手紙、写真が並ぶ会場の片隅に、小さなガラスケースに収められた一枚の手鏡があった。かつてヨーコが愛用していたという、装飾を凝らした銀の縁取りの鏡だ。
キャプションには、簡潔にこう記されていた。ふたりがベッド・インの取材の合間、互いの姿を映し合っては笑い合っていた品だと。
僕は職業病めいた衝動を抑えられず、持参していた小型の偏光フィルターをそっとかざしてみた。研究用に持ち歩いていたものだ。ガラスケース越しでは反応するはずもない、と自分に言い聞かせながら。
一瞬、鏡面の奥に、ふたりの人影が浮かんだ気がした。
顔の輪郭までは見えない。ただ、寄り添うようなふたつの影が、確かに笑っているように、僕には感じられた。
錯覚だったのかもしれない。ガラスケースの反射と、僕自身の願望が生んだ幻影だったのかもしれない。それでも僕は、その場を動けなくなった。
次の瞬間には、僕の後ろに並んでいた見知らぬ女性が鏡を覗き込み、小さく微笑んで通り過ぎていった。
鏡は、誰のものでもない。ただそこにあり続け、映るものだけが移り変わっていく。
ジョンはもういない。ヨーコの笑顔も、あの日のものではなく、今のものだ。それでも鏡だけは、あの瞬間の光を、どこかに刻んでいるのかもしれなかった。
その考えは、なぜか僕を安堵させた。同時に、言いようのない寂しさも運んできた。


五 消える者と残るもの
大学に戻った僕は、企業からの提案書に目を通しながら、ずっと落ち着かない気持ちを抱えていた。
提案書には、この技術の応用先として、次のような項目が並んでいた。
・歴史的建造物における人物往来記録の復元
・美術館・博物館での「体験型記憶展示」への応用
・防犯・捜査目的での過去像抽出技術としての実用化
・故人の在りし日の姿を家族に「再生」するメモリアルサービス
最後の項目に、僕は長い間目を留めた。
亡くなった祖母の若い日の姿を、遺族がいつでも呼び出せるようになる。それは救いなのか、それとも死者を過去に縛り付ける行為なのか、僕には判断がつかなかった。
速水は前のめりだった。
「悲しみに暮れる人たちに、もう一度会える機会を与えられるんだ。これは技術の話じゃない、救済の話だよ」
「でも、あれは本人じゃない。ただの光の残響だ。表情の意味も、声も、何も伴わない」
「それでも、何もないよりはいい」
僕たちは平行線のまま、その日の議論を終えた。
その夜、僕は再び実家に戻り、誰もいない玄関で、あの鏡と向き合った。
角度を変えながら、僕は何層もの過去を呼び出した。造った職人。据えた祖父。訪れた親戚たち。祖母の若い日。そして、幼い僕自身。
最後に、もっとも新しい層、おそらく祖母が亡くなる数日前に刻まれたであろう像が、淡く浮かび上がった。
祖母は鏡の前に立ち、誰に見せるでもなく、静かに手を合わせていた。
声は聞こえない。表情の細部もわからない。それでも、僕にはわかった気がした。あれは、これから旅立つ自分自身への、静かな別れの挨拶だったのだと。
僕は、その像を誰にも見せないことに決めた。


六 松山の鏡
翌週、僕は企業との共同研究を辞退する旨を、速水と担当者に伝えた。
理由を問われて、僕はうまく説明できなかった。ただ、こう答えた。
「江戸の頃まで、多くの庶民は鏡というものを知らずに生きていたそうです。自分の顔を、生涯一度も見ないまま死んでいく人も、珍しくなかった。松山鏡という落語に、そんな話が残っています」
担当者は困惑した顔をした。
「それが、何か関係が?」
「その人たちは、不幸だったんでしょうか。僕には、そうは思えません。誰かに映される自分を持たないまま生きることも、ひとつの生き方だったんじゃないかと」
技術は、いずれ誰かの手で再発見されるだろう。それは止められない。時間は僕たちの意思とは無関係に、先へ先へと進んでいく。過去はただ積み重なり、僕たちは消え去り、鏡だけが残る。
けれど、僕たちが今この瞬間に鏡の前で見せる表情、それを誰かに見られること、あるいは誰にも見られないこと。それを選ぶ権利くらいは、まだ僕たちの手の中にあるはずだ。
僕は実家の鏡を、元の場所に戻した。玄関の壁に据え直し、いつものように、朝の光がそこに差し込むようにした。
数日後、遊びに来た甥っ子が、その前で満面の笑みを浮かべて背比べをしていた。
鏡は何も言わず、ただそこに立って、今日という一日を、静かに映していた。
明日もまた、誰かがそこを通り過ぎ、ちょっと振り返るのだろう。
それでいい、と僕は思った。




ジョン



あとがき
本作を書くにあたり、私の頭の片隅には常に『松山鏡』という古い落語がありました。
鏡を見たことのない人々が、そこに映る自分自身を、死んだ親の姿だと思い込んで大切に抱きしめるお話です。彼らは騙されているわけでも、無知なわけでもありません。ただ、他者という鏡を通じてしか自分を知らなかった時代に、鏡という「あまりにも精緻な複製」と出会ってしまった人間の、戸惑いと純粋な愛がそこにはあります。
現代の私たちは、スマートフォンや防犯カメラ、SNSを通じて、自分たちの姿をあまりにも簡単に、そして永遠に記録できるようになりました。
しかし、いつでも再生できる「かつての姿」は、本当に失われた人々を私たちの元に留めてくれるのでしょうか。それとも、私たちは残像に縛られ、今という光を失ってしまうのでしょうか。
作中、ジョン・レノンとオノ・ヨーコの手鏡が登場します。
そこに映っていたはずの二人の笑顔は、科学的な解析などしなくとも、あの手鏡の銀幕の奥に、そして私たちの想像力の中に、確かに「残響」として存在しています。
大切なものは、記録されるから尊いのではなく、いつか消えてしまうからこそ、今この瞬間に美しく輝く。
この物語を読み終えたあなたが、明日、洗面台や玄関の鏡の前に立つとき。
そこに映るご自身の姿が、いつもより少しだけ、愛おしく感じられることを願って。


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刻堕とし 十三 〜松山鏡異聞・鏡喰らい〜
継ぎ目守異聞
古典落語「松山鏡」より


まえがき
「松山鏡」という噺は、鏡というものをまだ誰も知らなかった時代の村を舞台にしている。死にゆく父親が、娘に一枚の鏡を渡し、「寂しくなったら、これを覗いてみるがいい。父の顔が見られよう」と言い残す。娘は言われた通り、寂しい夜ごとに鏡を覗いては、そこに映る自分自身の顔を、亡き父の生き写しだと信じ込み、毎晩語りかける。
その様子を怪しんだ継母、あるいは亭主が、隠れて何かをしている娘を不義密通と疑い、小箱を開けて自分自身の顔を見つけては、今度はそれを見知らぬ間男だと勘違いして怒り出す。最後は物分かりのよい尼僧が現れて、鏡というものの道理を教え、一同丸く収まる――そんな噺である。
思えばこの噺は、継ぎ目守の圭馬が日頃使っている「鏡面」という仕掛けそのものと、深いところで繋がっている。継ぎ目守は、鏡越しに異界からの報せを受け、鏡越しに継ぎ目を渡る。もし、その鏡が正しく己の姿を映さなくなったとしたら――継ぎ目守という仕事の根幹そのものが揺らぐことになる。
とある写しにおいて、まさにその「鏡が己の姿を正しく映さなくなる」という異変が、あちこちの継ぎ目で多発しているという報せが届いた。継ぎ目守の圭馬と弥七は、松山の村へと足を踏み入れることになった。




一 継ぎ目守、鏡が映さぬ夜
いつものように、圭馬の傍らの鏡面が揺れた。だが、その水面に映るはずの、報せの文字も己の顔も、なぜかどちらも映らなかった。代わりに映ったのは、圭馬によく似ていて、しかしどこか目つきの違う、見知らぬ男の顔だった。
「な……」
圭馬が思わず身を引くと、鏡面はふっと元に戻り、ようやく本来の報せが浮かび上がった。
継ぎ目守圭馬へ。演目「松山鏡」における『鏡が正しく己を映す』型が、無数の継ぎ目で崩壊している事案を確認。鏡を覗いた者が、自分ではない何者かの顔を見る事例が多発。継ぎ目守本人の鏡面にも影響が及んでいる兆候あり。至急現地調査されたし。
「弥七、今の見たかい」
「へえ、旦那の顔がちらっと、違う顔に見えやした。……こいつは、いつもの型崩れとは、勝手が違いやすね」


二 松山の村、父の忘れ形見
継ぎ目を抜けると、そこは越後の山里、松山の村だった。この村では、鏡というものを、まだ誰も見たことがなかった。
村の百姓の家で、年老いた父親が病の床に伏せっていた。枕元には、若い娘が寄り添っている。
「お前には、これを形見に遺そう」
父親は、都から持ち帰った小さな鏡を、娘の手に握らせた。
「寂しゅうなったら、これを覗いてみるがよい。父の顔が、そこに見られよう」
まもなく父親は息を引き取った。娘は毎晩、父の形見の小箱をそっと開いては、鏡に映る顔に向かって語りかけるようになった。
「お父っつぁん、今日も精一杯励みました」
弥七がそっと囁いた。
「旦那、あの娘さん、自分の顔を父親の顔だと信じ込んでやがる」
「ああ。だがそれは、噺の型どおりだ。おかしいのは、その先だ」


三 亡き父の顔
数年が過ぎ、娘は嫁いだ。夫は、毎晩のように小箱を抱えてそっと部屋に籠る妻の様子を、次第に気にかけるようになった。
「お前、その小箱には、何が入っているのだ」
「これは、亡くなった父の忘れ形見にございます。寂しい時は、これを見て父と語り合うのです」
夫は初め、その言葉を信じていた。ところが、ある夜、圭馬たちが見守る中、小箱の中の鏡に映った顔が、いつもと違う、見知らぬ男の相貌に変わっているのに、娘自身は気づかぬまま語りかけ続けていた。
「弥七、見ろ。あの娘、亡き父の顔だと信じ込んでるが、実際に鏡に映ってるのは、赤の他人の顔にすり替わってる」
「こいつぁ、確かにおかしい」


四 疑いの眼差し
夫はとうとう我慢できず、妻の留守中に小箱を開けてしまった。中の鏡を覗き込んだ夫は、そこに映った、これまた見知らぬ男の顔――本来であれば夫自身の顔が映るはずのそれを見て、顔色を変えた。
「これは……妻の情夫の顔に違いない」
夫婦の間に、激しい諍いが起きた。妻は身に覚えのないことだと泣きながら訴えるが、夫は聞く耳を持たない。
「弥七、まずいぞ。本来ならこの場面、夫が鏡に映った自分自身の顔を、見知らぬ男だと勘違いして、後で尼僧に道理を教えられ、笑い話として丸く収まるはずだ。だが今は、鏡そのものが、誰の顔も正しく映していない」


五 開かれた小箱
村中の噂を聞きつけた尼僧が、仲裁に入ろうと家を訪れた。
「これこれ、その鏡、しばし拙僧にも見せてはくれぬか」
尼僧が鏡を覗き込むと、そこに映ったのは、尼僧自身の顔ではなく、これもまた見知らぬ人物の顔だった。
「な、なんとしたことじゃ……」
物分かりのよい尼僧でさえ、鏡の道理を説くどころか、困惑するばかりだった。
「弥七、これでは噺そのものが立ち行かない。誰も、鏡越しに自分自身へたどり着けなくなってる」


六 幾千の鏡、映らぬ我が身
圭馬が継ぎ目守の証を掲げると、村の周囲に、幾千もの同じ松山の村が、鏡合わせのように連なって見えた。そのどの継ぎ目でも、鏡は持ち主自身の顔ではなく、誰か別の顔を映し出しており、疑心暗鬼と諍いが際限なく広がっていた。
「弥七、この分だと、俺たち継ぎ目守が普段使ってる鏡面まで、いずれ食い荒らされる」
「旦那、まさか、あっしらの目と鼻の先に、そこまでの化け物が」
圭馬の懐の鏡面が、再びぐらりと揺れ、あの見知らぬ男の顔がちらついた。


七 鏡喰らいの正体
幾千の鏡が収束する先、古い井戸の底のような暗がりに、無数の鏡の欠片を鱗のように纏った影が蹲っていた。
「継ぎ目守か。……この身は、幾百幾千の写しで宙に浮いたままだった『己と気づかぬ姿』から生まれた者。名は鏡喰らい。鏡を覗いた者が、そこに映る顔を自分だと気づかぬ、あの一瞬の戸惑い――それが何よりの馳走よ」
「お前が、あちこちの鏡から、正しい顔を抜き取ってるのか」
「正しく気づかれてしまえば、旨みは失せる。ならば、いつまでも気づかせねばよい。疑い、戸惑い、諍う――それこそが、この身の糧よ」
弥七が唸った。
「旦那、こいつぁ、あっしらの商売道具そのものを喰い物にしてやがる」


八 圭馬、己の鏡を覗く
鏡喰らいは、圭馬に向かって嗤いながら、大きな鏡の欠片を突きつけた。
「継ぎ目守とて、例外ではない。……さあ、覗いてみよ。お前は、そこに映るのが本当に己の顔だと、言い切れるか」
圭馬が恐る恐る鏡を覗くと、そこには、自分によく似ていながら、目の奥に昏い影を宿した、見知らぬ男の顔が映っていた。
「これは……」
一瞬、圭馬の足元が揺らいだ。継ぎ目守として、幾つもの噺の型を継ぎ直してきた自分自身が、果たして本当に自分なのか――そんな根源的な疑いが、胸の底から湧き上がってくる。


九 弥七の眼力
「旦那!」
弥七が、鏡越しの圭馬の肩を、後ろからがしっと掴んだ。
「そこに映ってる顔なんぞ、知ったこっちゃありやせん。あっしが知ってるのは、井戸から呼び出されて、面倒臭そうに起き上がる旦那の顔でさ。皿屋敷でお菊さんに優しく語りかけた顔、居残り佐平次に感心してた顔、元犬のシロさんの一途さに唸ってた顔――そういう積み重ねが、旦那の顔ってもんでしょうが」
「弥七……」
「鏡なんぞ、いくらでも誤魔化しが利く。だが、あっしが隣で見てきた旦那は、誤魔化しようがねえ。それが、あっしにとっての、本物の旦那の顔でさ」
圭馬の胸の奥で、揺らいでいた何かが、すとんと定まった。


十 尼僧の知恵、正しき見方
圭馬は鏡喰らいに向き直った。
「お前の狙いは分かった。鏡に映る姿だけを、自分自身の証だと思い込ませることだ。だが、鏡はただの表面だ。自分が自分である証は、そんなものだけじゃない」
「戯言を。鏡こそが、何よりも雄弁に姿を語るというに」
「いいや。あの尼僧が本来説くはずだった道理はな、鏡は正しく映すものだが、それが誰かは、覗き込む者自身が、そこに宿した心当たりで決めるものだってことだ。……お前がいくら顔をすり替えても、その顔を自分だと『認める』心まではすり替えられねえ」
圭馬は懐から継ぎ目守の証を掲げ、幾千の鏡すべてに向けて、力強く語りかけた。
「松山の娘よ、あんたが鏡に見ていたのは、亡き父の顔でもあり、あんた自身の顔でもある。あんたが父によく似ているというその事実こそが、何よりの証だ。夫よ、あんたが鏡に見たのは、他でもないあんた自身だ。疑う前に、まずそれを認めてやりな」


十一 型を取り戻す
圭馬の言葉が、幾千の継ぎ目すべてに染み渡っていくと、鏡はそれぞれ、正しい持ち主自身の顔を映し始めた。娘は鏡に映る自分自身の面影の中に、確かな父の面影を見出し、涙ぐみながらも穏やかに微笑んだ。夫は鏡に映る、間抜けにも取り乱していた自分自身の顔に気づき、ばつが悪そうに頭を掻いた。
鏡喰らいは、正しく認められてしまった無数の反射に耐えかね、纏っていた鏡の鱗を一枚また一枚と剥がされながら、悲鳴もなく静かに霧散していった。
「ぐ……気づかれては、旨みも、何も……」
幾千の松山の村は、一枚また一枚と収束していき、やがて、あの一つの村だけが、正しい形で残った。


十二 高座にて
気づけば圭馬は着物姿で高座に座っていた。扇子をとんとんと畳に置き、客席を見渡す。
「というわけで、鏡に映ってたのは、亡き父の顔でも、間男の顔でもござんせん。ただの、自分自身の顔でございました。人は誰しも、鏡に映る自分をすぐには自分と気づかねえもんでございます。だからこそ、隣にいる誰かが、そいつの本当の顔ってやつを、ちゃあんと見ていてくれる。それが何より、心強いってもんでございましょう。今日はこの辺りで、お後がよろしいようで」
客席から、盛大な拍手が沸き起こった。



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あとがき
本作をお読みいただきありがとうございました。刻堕としシリーズも十三作目、今回は「松山鏡」という、鏡を知らぬ村を舞台にした、素朴で滑稽な噺を題材にしました。
継ぎ目守シリーズは、そもそも「鏡面」を通じて異界からの報せを受け取り、継ぎ目を渡るという設定で始まっています。今回はその根幹そのものを揺るがす題材として、「鏡が正しく己を映さなくなる」という事件を描いてみました。圭馬自身が、鏡に映る見知らぬ顔に戸惑う場面は、シリーズを通じて初めて、継ぎ目守自身の足元が揺らぐ瞬間だったのではないかと思います。
それを支えたのが、弥七の「積み重ねてきた顔こそが本物だ」という一言でした。鏡という表面だけがその人を語るのではなく、隣で見てきた者の記憶や積み重ねもまた、その人を確かにする証なのだという、シリーズを通じてのテーマにも通じる結末になったのではないかと思います。
自分の顔に気づかない滑稽さと、それを見守る誰かの温かさ、その両方を楽しんでいただけましたら幸いです。それでは、また次の継ぎ目でお会いしましょう。




刻堕とし 十二 紙入れ異聞 確定喰らいの事

継ぎ目守異聞


まえがき
「紙入れ」という噺の肝は、最後まで白黒つけないところにある。若い男、新吉は、世話になっている旦那の女房と、ふとした過ちを犯してしまう。ある晩、旦那が不意に帰ってきて、新吉は命からがら逃げ出すが、自分の名を記した紙入れ、今でいう名刺入れのようなものを、うっかり寝間に忘れてきてしまう。
翌日、生きた心地もせず店を訪ねた新吉は、旦那から遠回しに昨夜妙な忘れ物があったと聞かされ、冷や汗をかく。だが旦那は、知っているのかいないのか、最後まではっきりとは言わない。もし亭主が間抜けなら心配はいらぬが、もし亭主が利口者だったら、それはそれで女房の機転次第、そんななんとも言えない曖昧な塩梅で噺は幕を閉じる。
この噺の面白さは、知っているか知らないかという二つの状態が、最後まではっきり定まらないまま、それでいて丸く収まってしまうところにある。曖昧なままにしておく大人の分別、とでも言おうか。
ところが、とある写しにおいて、このあえて確定させないという型が、無理やり引き裂かれ、あちこちの継ぎ目で知っているか知らないかのどちらかに、強制的に決着をつけられてしまう事件が多発しているという報告が届いた。継ぎ目守の圭馬と弥七は、その紙入れの行方を追うことになった。




一 継ぎ目守、紙入れの行方
鏡面が、二重写しのようにちらちらと明滅していた。一つの像が、重なり合った二枚の絵のように、定まらないまま揺れている。
継ぎ目守圭馬へ。演目紙入れにおけるあえて確定させない型が、無数の継ぎ目で強制的に崩壊させられる事案を確認。曖昧なまま丸く収まるはずの間柄が、各所で暴露、破局へと転じている模様。至急現地調査されたし。
圭馬が鏡面を睨むと、弥七が困った顔で立っていた。
「旦那、紙入れたあ、旦那が知ってるんだか知らねえんだか、最後まで匙加減で丸く収める、大人の噺のはずなんでさ」
「曖昧なまま収まるはずが、暴露に転じるたあ穏やかじゃねえな。行ってみよう」


二 新吉と女房
継ぎ目を抜けると、そこは江戸のとある商家の裏手だった。若い奉公人風の男、新吉が、こそこそと裏木戸から出てくるところだった。
「新吉さん、また今度、ゆっくりと」
「へ、へい。それじゃあっしはこれで」
物陰から様子を窺っていた弥七が、小声で囁いた。
「旦那、ありゃあまずいことになってやすね。あの女、旦那様の女房でさ」
「弥七、噺の筋どおりだ。この後、旦那が不意に帰ってくる」


三 忘れ物
案の定、その晩、旦那が急な用向きで早く帰ってきた。新吉は慌てて縁の下に身を潜め、旦那が寝間に入った隙をついて、命からがら逃げ出した。
だが、逃げる途中で、懐に入れていたはずの紙入れが、寝間の布団の下に落ちていたことに、新吉はまだ気づいていない。
翌朝、身支度を整えていた新吉は、懐がやけに軽いことに気づき、青くなった。
「し、しまった。あっしの紙入れ、あそこに置き忘れちまった」
紙入れの中には、新吉の名の入った書付が入っている。名が記されているからこそ、誰のものかは一目で知れてしまう。もし旦那がそれを見つけていたら、新吉は生きた心地もせず、店へと向かった。


四 旦那の匙加減
「新吉、おはよう。ときに、お前さんに聞きたいことがあるんだが」
「ひ、ひえ、な、なんでござんしょう」
「実は昨夜、うちの寝間に、妙な紙入れが落ちていてな。中を見たら、名の入った書付が入っていた」
新吉は今にも卒倒しそうな顔で、しどろもどろに答える。
「そ、それは、その、ど、どうなさいましたので」
旦那は、にやりともせず、しかしどこか含みのある笑みを浮かべて言った。
「なあに、新吉。心配するねえ。亭主が間抜けなら紙入れの忘れ物は案ずるに及ばず、もし亭主が利口者だったらそこから先は女房の機転次第、ってな古い言葉もあるくらいだ。どうだい、うちのかみさんの機転は、大したもんだろう」
新吉には、旦那が本当に何もかも承知の上で言っているのか、それとも本当にただの世間話として言っているのか、最後まで見当がつかなかった。


五 幾千の紙入れ
その場面を見届けた圭馬が、ふと懐から継ぎ目守の証を取り出すと、店の壁が透け、その奥に、幾千もの同じような場面が入れ子のように連なっているのが見えた。
こりゃあ一枚の紙入れの噺じゃねえな、と圭馬が呟く。
だが、様子がおかしい。多くの継ぎ目では、旦那が新吉を問い詰め、女房を折檻し、店を追い出し、家庭が壊れ、事件沙汰にまで発展しているものもあった。
「弥七、見ろ。本来の噺は、旦那の匙加減一つで、丸く収まるはずだ。だが、この継ぎ目の大半で、匙加減も何もなく、いきなり白黒つけられちまってる」
「旦那、こいつぁ、あの知ってるんだか知らねえんだかっていう、粋な曖昧さが、根こそぎ引っこ抜かれてやがるんでさ」


六 確定喰らいの正体
幾千の継ぎ目が収束する先、薄暗い蔵の奥に、二つの貌を持つ影が蹲っていた。片方の貌は勝ち誇るようににやにやと笑い、もう片方の貌は生気を失った死人のように無表情に沈んでいる。その足元には、無理やり引き裂かれ、真っ赤な血のように染まった紙入れがいくつも転がっていた。
「継ぎ目守か。この身は、幾百の写しで宙に浮いたままだった知っているか知らないかの狭間から生まれた者。名は確定喰らい。曖昧なままでは、腹の足しにならぬ。白黒はっきりつけさせてこそ、旨みが出る」
「お前が、あちこちの継ぎ目で、無理やり真実を暴かせてるのか」
「暴露の瞬間の、あの動揺、あの絶望、あの醜態。バレちまったと、すべてが壊れる瞬間の音が、何よりの馳走よ。曖昧なまま丸く収めるなど、味気のうてかなわぬ」
弥七が拳を握った。
「旦那の匙加減も、女房の機転も、みんな台無しにしてやがるんでさ」


七 旦那という要石
圭馬は、あの旦那の姿を思い返した。
「弥七、あの旦那の言い草、思い出してみろ。亭主が間抜けなら、亭主が利口者なら。あれは、白黒つけない代わりに、相手の器量を試してるんだ。責め立てず、かといって見過ごすでもなく、女房の分別を信じて、あえて宙ぶらりんのままにしておく。あれこそが、この噺の要石だ」
「なるほど。あの旦那の懐の深さが、確定喰らいにとっちゃ、一番の邪魔ってわけでさ」
「ああ。だから確定喰らいは、旦那の匙加減そのものを引っこ抜いて、単純な暴露に作り変えてやがるんだ」


八 弥七、覗いてしまう
調べを進めるうち、弥七がふと、ある継ぎ目の障子の隙間に目を奪われた。
「おっと、覗きは野暮と分かっちゃいるんでさ。分かっちゃいるんですがね、いけねえと思えば思うほど、中がどうなったか、男の性ってやつで、つい」
その瞬間、確定喰らいの気配が、弥七の背後にすっと伸びた。
「見てしまったな。ならば、その先まで、はっきりさせてやろう」
「弥七」
圭馬がとっさに弥七の目を覆い、その場から引き離した。
「弥七、知りたいって気持ちは分かる。だが、何もかも白黒つけりゃいいってもんじゃねえ。覗き見しちまった分は、見なかったことにする分別も、時には要るんだ」


九 圭馬の対応
圭馬は確定喰らいの前に立ち、あえてゆっくりと口を開いた。
「確定喰らい、お前に一つ、匙加減ってもんを教えてやろう」
「匙加減、だと」
「そうだ。お前は白黒つけることしか知らねえようだが、だったらこれはどうだ。お前さん、今ここで俺に正体を見破られてるのか、それとも上手く騙せてるのか、どっちだと思う」
「な」
「知ってるようで知らねえ、知らねえようで知ってる。お前の存在そのものを、その薄暗い狭間に放り出して、宙ぶらりんにしておいてやる。居心地が悪いだろう。だがな、全部を暴かねえのが、江戸の、この噺の粋ってもんだ」
圭馬の言葉が、幾千の継ぎ目すべてに、じわりと染み渡っていく。強制的に暴かれかけていた知っているか知らないかの狭間が、少しずつ、あるべき曖昧さを取り戻し始めた。


十 型を取り戻す
「ぐ、曖昧なままでは、旨みが、身が、保たぬ」
確定喰らいは、白黒つかぬまま宙に浮いた自分自身の正体に耐えかね、二つの貌をぐにゃりと歪ませながら、霧のように薄れていった。
幾千に連なっていた継ぎ目は、一枚また一枚と収束していき、やがて、あの商家の一夜だけが、正しい形で残った。
新吉は、旦那の顔色を必死に窺いながらも、結局その日、何もはっきりとは分からずじまいだった。旦那はただ、いつもと変わらぬ様子で店先に立っていた。


十一 高座にて
気づけば圭馬は着物姿で高座に座っていた。扇子をとんとんと畳に置き、客席を見渡す。
「というわけで、旦那が本当のところを知ってたんだか、知らなかったんだか、これは誰にも分かりゃしません。もし亭主が間抜けなら、まあ大事はござんせん。もし亭主が利口者だったなら、そこから先は女房の腕次第、というやつでございます。何もかも白黒つけりゃいいってもんじゃねえ、そんな大人の分別も、たまには乙なもんでございましょう。本日はこれまで、何卒お後がよろしいようで」
客席から、盛大な拍手が沸き起こった。



Amazon Kindle



あとがき
本作をお読みいただきありがとうございました。刻堕としシリーズも十二作目、今回は紙入れという、白黒つけない大人の噺を題材にしました。
この噺の魅力は、旦那が知っているのかいないのか、最後まではっきりさせないまま、それでも丸く収まってしまうという、その懐の深さにあると思います。今回はそのあえて確定させないという型そのものを、暴露の快楽だけを求める怪異確定喰らいが食い荒らすという事件にしてみました。
圭馬が最後に取った策は、剣で斬るのでも術で祓うのでもなく、あえて白黒つけずにおくという、この噺そのものの流儀を、そのまま怪異への切り返しに使うというものでした。何でもかんでも明らかにすることだけが誠実さではない、という主題を、シリーズを通じて描けていれば幸いです。
知っているようで知らない、知らないようで知っている、そんな大人の駆け引きの噺を楽しんでいただけましたら幸いです。それでは、また次の継ぎ目でお会いしましょう。



青虫くんたちの命を優先したら
ブロッコリーはひとつも出来ず

毎日毎日
青虫くんたちを
そこではないよと
スーパーのキャベツへと
50匹づつ引っ越しをさせて来た



ここから巣立ったであろう
モンシロチョウたちは
ありがとうとばかり
ここへと舞い戻り
毎日 卵を産み付ける

すれば
その成長は早く
ひと晩でブロッコリーの葉を1枚
食べ切ってしまう



しかも
新芽の辺りが柔らかく美味しらしく
そこへと群がるもんだから
もうブロッコリーは
発育を止められて
その季節も終盤にもなった

ならば結構
ブロッコリーはすべて
キミたちに差し上げよう! と

今回は
青虫くんたちの成長を見ようと
決めた



そう
無農薬であってこそ
我が家で作る価値がある

それを防ぐが為には
そこそこのネットで
ガードせねばならず

ましてや
農薬を掛けるくらいならば
スーパーで買えば良い

捕獲した青虫くんたちは
スーパーのキャベツを食べて
サナギとなり
チョウチョへ姿を変え
飛び立って行く

それでも
すべてがチョウチョへとなれず
途中でその命を終えるものもある

それでは
救い出したつもりが
逆にもなり
違うのではないか? と
思うようになった

そうだ
せっかく辿り着いたその命
まっとうさせてあげたい

ならば
我が家のブロッコリーよりも
そちらかと思う

命とは
そういうことのようだ


その横で
虫たちの影響を受けず
育ってきたトマトたち

それが
いよいよ色付いて来て
楽しみが増えた

ありがとう





特に

ぱふ を失ってから

命について

深く思うようになった


どんなに小さな命でも

僕たちと変わらない

ひとつの命だと


ならば

その持ち時間

まっとうさせてあげたくもなる…





年を越した

黒姫の

ニックさんのマザーツリーの子供たちは

下界の暑さえ

そのひとつが枯れてしまったけれど…