つゆのあとさき
〜雨宿町(あまやどりちょう)の話〜


まえがき
六月、あの重苦しく湿った季節がやってくるたびに、私たちの心には少しだけ「綻び」が生じるのかもしれません。
春のきらめきが去り、本格的な夏の眩しさが訪れる前、ほんのひととき世界を灰色に染める梅雨。それはまるで、忙しない日常の歩みを一度止めさせ、胸の奥深くに沈澱している「かつての記憶」を浮かび上がらせる呼び水のようです。
本作の主人公・高柳修一もまた、そんな雨の匂いに誘われ、二十一年前に置き去りにしてきた過去の悔恨と向き合うことになります。
この物語は、単なる失われた恋の追憶ではありません。
人は誰しも、他人には見せられない傷や、誰にも踏み荒らされたくない秘密の場所──自分だけの「谷底」を抱えて生きています。そして、それらをすべて言葉にせずとも、お互いの存在を認め合い、静かに寄り添うことのできる「大人の関係」の尊さを描きたいと思い、筆を執りました。
雨宿町に降るやわらかな雨音が、ページをめくるあなたの心にも、静かに優しく響くことを願っています。




序章 笑えない日

鏡の中の自分が、うまく笑えていないことに気づいたのは、六月に入って最初の月曜日だった。
高柳修一は洗面所の鏡の前で、いつものように口角を上げてみた。営業先で名刺を渡すときの顔、部下の失敗を許すときの顔、由美子の手料理を「うまいうまい」と食べるときの顔。どれもずっと、意識せずに作れていたはずのものだった。それが、なぜか今朝はうまく像を結ばない。頬の筋肉は動いているのに、目の奥がついてこない。まるで顔だけが独立した生き物になって、勝手に表情という名の仮面を試着しているような、そんな薄気味悪さがあった。
四十三歳。編集者という仕事柄、人の顔色を読むことには慣れているはずだった。それなのに、自分の顔だけがどうにも読めない。
修一はその朝、あえて笑うことをやめた。うまく作れないなら、無理に目指さなくてもいいだろう。そう思うことにした。
会社に着くと、後輩の女性編集者が「課長、今日はなんだか素のままって感じですね」と言った。悪気のない、むしろ好意的な口調だった。修一は曖昧に頷いただけで、それ以上は何も言わなかった。
その日から、修一は少しずつ、心のままに動いてみることにした。気の乗らない飲み会は断り、読みたくもない企画書に「面白い」と嘘をつくのをやめ、電車で座りたければ躊躇なく座った。すると不思議なもので、周囲の反応が変わった。「あれ、今日の高柳さん、いつもと違いますね」という声が、あちこちから聞こえてくるようになった。
その「あれ?」という声を聞くたびに、修一の中で二つの声がせめぎ合った。
ひとつは、「これじゃあいかん、早く元の自分に戻らなくては」と諭す声。もうひとつは、それとは正反対に、「そんな面倒なことをしなくても、そのまま、思うままにやってしまえばいい」とささやく声だった。
まるで肩の両側に、天使と悪魔が乗っているようだった。
その悪魔の声が妙に説得力を持ち始めたのは、ちょうどそのころ、六月の長雨――梅雨が、東京にもやってきたからかもしれない。
夏を目前にした季節に、梅雨は決まって訪れる。それはまるで、春から夏へと駆け上がろうとする気分を、もう一度谷底へと突き落とすかのようだった。
そして修一は、その谷底で、ひとつの夢を見ることになる。
二十年以上も前に置き去りにしてきたはずの、遠い夏の――いや、遠い梅雨の記憶を。


第一章 雨宿町(あまやどりちょう)

夢の中で、修一は二十二歳だった。
場所は雨宿町。群馬と長野の県境近く、地図を広げてもすぐには見つからないような、小さな温泉町だ。大学のサークル合宿で訪れたその町で、修一は遥という女性と出会った。
遥は同じ大学の一級下、文学部の学生だった。色白で、笑うと目が三日月のように細くなる女性だった。合宿の三日目、みんなが酒盛りをしている宿を抜け出し、二人だけで町を歩いた夜のことを、修一は今でも――いや、今になってようやく、鮮明に思い出せる。
雨宿町という名前は、その昔、旅の僧がにわか雨を避けて一晩泊まった祠にちなむのだと、宿の女将が教えてくれた。「だからこの町じゃ、雨はお客人を運んでくるものだって、昔から言い伝えられとるんですよ」。女将はそう言って笑っていた。
修一と遥は、その後半年ほど、東京で密かに付き合った。誰にも言わない、二人だけの秘密の恋だった。長続きしなかった理由を、修一は正確には覚えていない。就職活動が忙しかったから、遥に別の相手ができたと噂で聞いたから、あるいは単に、若さゆえの臆病さからか。
覚えているのは、最後に会った日のことだけだ。
その日も、東京は梅雨の真っ最中だった。大学の裏にある小さな喫茶店で、遥は何かを言おうとしていた。修一はそれを聞くのが怖くて、彼女の言葉が終わる前に、席を立ってしまった。
振り返らずに、店を出た。
背中に、遥の視線を感じていた。呼び止める声も、追いかけてくる足音もなかった。ただ、雨の匂いだけが、いつまでも修一の後をついてきた。
それから二十一年。修一は遥のことを思い出さない生活を、うまく築いてきたつもりだった。由美子と結婚し、娘が生まれ、仕事も順調だった。遥という名前は、記憶の底に沈んだ小石のように、静かに、動かずにあるはずだった。
それなのに――。
夢の中の修一は、あの喫茶店の席に座ったまま、動くことができない。遥が何かを言おうとしている。その口の動きを、修一は今度こそ、逃げずに見届けようとする。
しかし夢は、いつもそこで途切れる。遥の唇が最初のひと言を紡ぐ、まさにその瞬間に、修一は目を覚ましてしまうのだった。
「なんで、いまごろ……」
布団の中で、修一は天井に向かってつぶやいた。隣では由美子が、規則正しい寝息を立てている。時計は午前四時十二分を指していた。窓の外では、昨夜から降り続く雨が、まだやんでいなかった。


第二章 天使と悪魔

その夢を境に、修一の日常には、小さな綻びが増えていった。
最初は、ただの偶然だと思っていた。通勤電車の中吊り広告で「雨宿温泉」という文字を見かけた日。取引先の女性が、遥と同じ名前の会社に勤めていると知った日。エレベーターで乗り合わせた誰かの香水が、遥がつけていたものによく似ていた日。
ひとつひとつは取るに足らない偶然だ。けれど、それが重なっていくうちに、修一の中で、ある感覚が芽生え始めた。まるで梅雨の湿気が少しずつ部屋の隅にカビを広げていくように、「彼女が、近くにいる」という感覚が、じわりじわりと修一の内側を侵食していった。
心の中では、相変わらず天使と悪魔がせめぎ合っていた。
天使は言う。「いい歳をして、若い頃の未練を引きずるのはみっともない。由美子と娘のために、そんな感覚はきっぱり断ち切るべきだ」。
悪魔はささやく。「別に、会いに行くわけじゃない。ただ思い出すだけだ。誰にも迷惑はかけていない。むしろ、思い出すことすら禁じられる理由なんて、どこにあるんだ?」
修一は仕事帰り、駅前の書店でふと文学コーナーに立ち寄った。遥が好きだった作家の新刊が、平積みになっていた。手に取り、ぱらぱらとページをめくる。装丁の匂いに、記憶の底の何かが疼いた。
レジに向かおうとしたとき、背後から声をかけられた。
「高柳さん?」
振り向くと、見知らぬ中年女性が立っていた。人違いだったらしく、女性はすぐに「あ、すみません、人違いでした」と頭を下げて去っていった。
それだけのことだったのに、修一の心臓は、しばらく早鐘を打ち続けた。もし、あれが遥だったら。もし、あの一瞬に振り向いた顔が、二十年前のあの喫茶店で見た顔と重なっていたら。
修一は本を買わずに、書店を出た。
雨はその日も降っていた。傘をさして歩きながら、修一はふと、自分がどちらの声に従おうとしているのか、わからなくなっていることに気づいた。天使の説教にも、悪魔の誘惑にも、どちらにも完全には与しない、宙ぶらりんの自分。
その宙ぶらりんの感覚こそが、実は一番危うい場所なのだということに、修一はまだ気づいていなかった。
家に帰ると、由美子が夕食の支度をしていた。味噌汁の匂いと、テレビの天気予報の声。「明日から一週間、ぐずついた天気が続くでしょう」とアナウンサーが告げていた。
いつもと変わらない、平凡な夜だった。
その平凡さが崩れるのは、それから三日後のことだった。


第三章 名前を呼んだ夜

その夜、由美子は珍しく、赤ワインを一本開けていた。娘の美桜が部活の合宿で家を空けている、久しぶりの二人きりの夕食だった。
「たまにはゆっくり飲もうと思って」
由美子はそう言って、修一のグラスにも注いだ。結婚して十八年、こんなふうに二人だけでゆっくり食卓を囲むことも、近ごろはめっきり減っていた。
修一はワインを飲みながら、由美子の話に相槌を打っていた。娘の進路のこと、実家の母親の体調のこと、来月のマンションの更新費用のこと。ごく普通の、夫婦の会話だった。
だが修一の意識のどこか奥のほうでは、あの夢の続きが、じわじわと像を結ぼうとしていた。喫茶店の席、雨の匂い、遥の唇の動き。何かを言おうとしている彼女の顔が、由美子の顔と交互に明滅する。
「――でね、母さんったら、また同じ話を三回もするのよ」
由美子が笑いながら、こちらを見た。修一もつられて微笑もうとした。そのとき、口が、ひとりでに動いた。
「遥――」
その一音が、修一の口から零れ落ちた瞬間、部屋の空気が固まった。
修一自身、何を口にしたのか、一拍遅れて理解した。血の気が引くのがわかった。それから間髪を入れず、今度は顔中から脂汗が噴き出し、耳の裏がかあっと熱くなった。
――しまった。
この場面、どうすればいい。誤魔化すべきか。開き直るべきか。それとも、すぐさま土下座するほどの勢いで謝るべきか。
その判断を、修一はコンマ数秒の間に、頭の中でぐるぐると回した。天使は「正直に謝れ」と叫び、悪魔は「聞き間違いだと押し通せ」と耳元でささやいた。
由美子は、グラスを口元に運んだまま、しばらく動かなかった。
「……何て言った?」
由美子の声は、驚くほど静かだった。怒っているのか、ただ聞き逃しただけなのか、その声色からは判別がつかない。
「いや」修一は喉の奥から声を絞り出した。「――遥か昔の話だな、って。母さんの昔話、遥か昔だなって、そう言おうとして」
我ながら苦しい言い訳だった。だが由美子は、それ以上追及してこなかった。
「ふうん」
そう言って、由美子はグラスを傾け、話題を娘の進路のことに戻した。何事もなかったかのように。
修一はほっと胸を撫で下ろした。同時に、心のどこかで、奇妙な違和感が疼いた。由美子はあまりにも、あっさりと引き下がりすぎていなかったか。
その夜遅く、風呂から上がった修一が寝室に入ると、由美子はすでに布団に入って、背を向けて眠っていた――ように見えた。
修一は明かりを消し、隣に横になった。天井を見上げながら、修一は思う。誤魔化された振りをしてくれる女なのか、本当に気づかなかった女なのか。それとも――すべてを承知の上で、あえて何も言わずにいる女なのか。
闇の中で、由美子の背中は、静かすぎるほど静かだった。


第四章 あとさきという店

それから修一は、仕事が手につかなくなっていった。
打ち合わせ中に、遥のことをふと思い出す。企画書を書いていて、気づけば「雨宿」という単語を無意識に打ち込んでいる。夜、由美子が寝静まった後、修一はスマートフォンで「雨宿町」を検索するようになった。
検索結果に出てきたのは、寂れた温泉街の観光協会のページと、いくつかの個人ブログだけだった。その中のひとつ、十年ほど前に更新が止まっているブログに、古い喫茶店の写真があった。
『あとさき』
木製の看板に、そう書かれていた。修一と遥が最後に会った、あの東京の喫茶店と同じ名前だった。いや――ブログの文章をよく読むと、事情が違った。この店は、雨宿町にある店だという。東京の店の名を継いで、遥自身が、大学卒業後にこの町で開いた店だというのだ。
修一は画面を見つめたまま、しばらく息をするのを忘れていた。
ブログの更新は、十年前でぴたりと止まっていた。
その週末、修一は「学生時代の友人と会う」と由美子に告げ、新幹線と在来線を乗り継いで、二十一年ぶりに雨宿町へ向かった。梅雨前線が停滞し、車窓には終始、灰色の景色が流れていった。
町は記憶よりもずっと小さく、寂れていた。かつて賑わっていたはずの温泉旅館は半分がシャッターを下ろし、土産物屋の看板も色褪せていた。
『あとさき』は、駅から歩いて十五分ほどの、川沿いの通りにあった。木製の扉には「営業中」の札がかかっていたが、店内は薄暗く、人の気配がなかった。
扉を押すと、からんとベルが鳴った。
奥から出てきたのは、遥ではなかった。腰の曲がった、七十過ぎと見える老婦人だった。
「いらっしゃい。こんな雨の日に、お客さんなんて珍しい」
老婦人は志乃と名乗った。この店の、今の店主だという。
「遥さんという方を、探しているんですが」
修一がそう切り出すと、志乃は雨に濡れた修一の顔を、じっと見つめた。まるで、何かを確かめるような目だった。
「……高柳さん、ですね」
修一は驚いて、思わず一歩後ずさった。名乗ってもいないのに、なぜ。
「遥さんから、聞いておりました。いつか雨の季節に、あなたが訪ねてくるかもしれないって」
志乃はそう言って、修一に椅子を勧めた。窓の外では、川面に雨粒が無数の輪を描いていた。
「あの子は、この店を開いてから、毎年この時期になると、あなたの話をしていましたよ。二十二の夏、いいえ、梅雨の日に、何かを言おうとして、言えなかったって」
修一の胸が、きしむような音を立てた。
「彼女は、今――」
志乃は、修一の言葉を遮るように、静かに首を振った。
「十年前の、六月でした。この店から駅へ向かう途中、川が増水していて。傘を差していて、足を滑らせて」
言葉の続きを、志乃は口にしなかった。しなくても、修一には十分すぎるほど伝わった。
店内には、古い柱時計の音だけが響いていた。


第五章 谷底の再会

修一はしばらく、言葉を失っていた。雨音だけが、耳の奥で大きくなっていくようだった。
「彼女は、あの日――東京の喫茶店で、俺に何を言おうとしていたんでしょうか」
やっとの思いで、修一はそう尋ねた。二十一年間、ずっと胸の底に沈めてきた問いだった。
志乃は、カウンターの奥から、一冊の古びたノートを取り出した。革の表紙はすっかり色褪せ、端がめくれている。
「あの子が、この店を開いてすぐの頃から、つけていた日記です。誰にも見せるなと言われていましたが……もう、時効でしょう」
志乃はページをめくり、ある一節を指し示した。修一はそれを、震える指でなぞった。
―― 六月十四日。今日もまた、あの日の夢を見た。修一くんが、私の話を最後まで聞かずに、店を出ていく夢。本当は、あの日、私はこう言おうとしていた。「怖がらなくていいよ、ちゃんと聞かせて」って。彼が就職のことで悩んでいるのを、私は知っていた。だから、ちゃんと支えたいと思っていた。それなのに、彼は逃げるように出ていってしまった。私は、呼び止める勇気がなかった。今でも思う。もし、あのとき呼び止めていたら、私たちは、どうなっていただろう。――
修一の目の奥が、熱くなった。
彼女が去っていったのではなかった。自分が、逃げたのだ。彼女の言葉を聞くのが怖くて、勝手に「別れを告げられる」と決めつけて、背を向けたのは、自分のほうだった。
「あの子はね」志乃が静かに言った。「あなたを恨んでなんかいませんでしたよ。ただ、毎年この季節になると、寂しそうな顔をして、川を眺めていました」
窓の外、川はいよいよ水嵩を増していた。
その時だった。
カウンターの奥、暖簾の向こうに、ふっと人影が動いた気がした。修一は思わず立ち上がった。
「今――」
志乃は、驚いた様子もなく、ただ穏やかに微笑んだ。
「雨の日は、時々あるんですよ。誰かが、ふらりと立ち寄っていくような気配が」
修一はカウンターの奥を覗き込んだ。そこには、誰もいなかった。ただ、かすかに、あの日の喫茶店で嗅いだのと同じ、雨に濡れた木の匂いがしただけだった。
修一は、その匂いに向かって、二十一年越しの言葉を口にした。
「――聞かせてくれ。ちゃんと、最後まで」
答える声はなかった。けれど、店の奥の暖簾が、風もないのに、一度だけ、ふわりと揺れた。
修一は、それで十分だと思った。


第六章 器(うつわ)

東京に戻った修一を、由美子はいつもと変わらぬ様子で迎えた。
「学生時代の友人」に会ってきたという話を、由美子は特に詮索することもなく聞き流した。修一はそのことに、かえって落ち着かない気持ちになった。
その夜、修一は思い切って切り出した。
「――先週、変なことを口走っただろう。あれのこと、聞かないのか」
由美子は洗い物の手を止め、少し間を置いてから、こちらを見ずに答えた。
「聞いてどうするの」
その一言に、修一は返す言葉を失った。
「あなたね」由美子は水を止め、タオルで手を拭きながら、続けた。「結婚して十八年よ。あなたが時々、遠い目をしてため息をつく季節があること、知らないとでも思った? 毎年、梅雨の時期になると、決まって」
修一は言葉を失った。
「気づいて――いたのか」
「気づかないわけ、ないでしょう」
由美子は微笑んだ。それは怒りでも呆れでもない、どこか懐かしむような微笑みだった。
「私にもね、あるのよ。あなたには言ったことないけど」
由美子は台所の椅子に腰かけ、窓の外の雨を見つめた。
「大学四年の冬、婚約寸前まで行った人がいたの。事故で、突然いなくなった人。あなたと結婚してからも、しばらくは、その人の夢を見ることがあった。特に、あの人と最後に会った日と同じ、雪の降る日にはね」
修一は、由美子の横顔を見つめた。十八年連れ添って、初めて聞く話だった。
「言わなかったのは、隠していたわけじゃないの。ただ――それは、私だけの、大事な谷底だったから。誰にも踏み荒らされたくない場所」
由美子はそう言って、修一を見た。
「あなたにも、そういう場所があるんでしょう。今も」
修一は頷くしかなかった。
「それでいいのよ」由美子は静かに続けた。「見て見ぬふりをするのとは、違うの。知っていて、それでも、あなたの隣にいると決めているだけ。私たち、お互いにそういう谷底を、ひとつずつ抱えて生きているんだと思う」
修一の脳裏に、志乃の店で見た、あの古びたノートの文字が浮かんだ。誰にも見せられない、それぞれの季節の記憶。
「あなたが誤魔化そうと、開き直ろうと、慌てて謝ろうと」由美子は微笑んだ。「私は多分、その全部を見抜いてる。その上で、何も言わずにいてあげるだけの、器はあるつもり」
窓の外で、雨がやんでいくのがわかった。厚い雲の切れ間から、うっすらと、夏の気配をはらんだ光が差し込んでいた。


終章 またつゆが来る

それから一年が過ぎた。
六月、修一はまた、鏡の前でうまく笑えない朝を迎えた。だが今度は、それを不吉な兆候だとは思わなかった。ただ、季節が巡ってきただけのことだ。梅雨は毎年やってくる。谷底は、誰の心にも、そっと口を開けて待っている。
その週末、修一は由美子を伴って、雨宿町を再び訪れた。今度は、隠し立てすることなく、正直に行き先を告げてのことだった。
『あとさき』の扉を開けると、志乃が変わらぬ様子で迎えてくれた。由美子は志乃に深々と頭を下げ、「主人が、お世話になりました」とだけ言った。志乃は何も詮索せず、ただ「よくいらっしゃいました」と微笑んだ。
三人で、川沿いの窓辺の席に座った。由美子は、修一が初めてここに来た日のことを、まるで自分もその場にいたかのように、静かに聞いていた。
窓の外、川はあの日よりも穏やかに流れていた。雨は降っていたが、それは激しい雨ではなく、町全体をやわらかく包み込むような、静かな雨だった。
「あの子がね」志乃がぽつりと言った。「昔、こんなことを言っていました。梅雨って、悪いものだけじゃないのよって。降り注いだ分だけ、地面の下では、見えない根っこが、静かに育っているんだって」
修一は、由美子と目を合わせた。由美子は小さく頷いた。
帰りの電車の中、由美子は修一の肩に軽くもたれかかりながら、言った。
「あなたの中の天使と悪魔、まだ喧嘩してる?」
修一は、少し考えてから、笑った。今度は、うまく笑えた気がした。
「たぶん、これからもずっと、喧嘩し続けるんだろうな。それが人間ってものなんだろう」
由美子はくすりと笑い、窓の外に目をやった。
「それでいいのよ。誤魔化しても、開き直っても、平謝りしても――全部ひっくるめて、あなたなんだから」
電車は、灰色の雲の下を走り続けていた。だがその雲の向こうには、確かに夏の気配が待っている。梅雨は、いつか必ず明ける。そして季節はまた巡り、来年の六月には、きっとまた同じ谷底が、誰かの心の中に、そっと口を開けているのだろう。
それでも、隣に誰かがいてくれるのなら――その谷底も、悪いものだけではないのかもしれない。
修一はそう思いながら、由美子の手に、そっと自分の手を重ねた。

(了)


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あとがき

最後までお読みいただき、ありがとうございました。
本作『つゆのあとさき ― 雨宿町の話』は、日常の中にふっと現れる「非日常の隙間」と、大人の夫婦が織りなす「沈黙の信頼」をテーマに執筆した作品です。
作中、修一の妻である由美子は、夫の不貞とも取れる失言を責め立てることはしません。彼女自身にもまた、胸の奥に秘めた大切な「谷底」があったからです。すべてを暴き立て、白黒つけることだけが正しさではない。お互いのグレーな部分や、過去の傷跡をまるごと抱え込むだけの「器」を持つことこそが、年月を重ねた夫婦の、ひとつの美しい完成形ではないか。そんな想いを、由美子の「知っていて、それでも、あなたの隣にいると決めているだけ」という言葉に込めました。
ちなみに、舞台となった「雨宿町」は架空の町ですが、どこか日本のどこかに本当にありそうな、ひっそり とした温泉街をイメージしています。
雨は、時に憂鬱なものとして語られます。しかし、作中で志乃が語ったように、雨が地面に深く染み込むからこそ、見えない地下で植物の根っこは静かに、逞しく育っていきます。私たちの人生における「憂鬱な時期」もまた、次の季節を迎えるために必要な、静かな蓄えのときなのかもしれません。
今、この本を閉じたあなたの心に、雨上がりの爽やかな風が吹き抜けることを、心より祈っております。




笑顔が
うまいこと作れなくなった日には
あえて
そこを目指さずに過ごす

そして
たまには
心のままに動いてもみる

すると
周囲の反応が
あれ? ってこととなって

自ら
これじゃあいかんと
正そうとする天使がそこに現れる

しかして
その裏側では
おいおい
そんな面倒なことせんでも
そのまんまやっちまえよ!! って
悪魔が耳元でささやく

女性のみなさん
夢の中でお会いして以来ですね
いかがお過ごしでしょうか? 笑




時に
夏 直前の
これからって時期に
梅雨なんてもんがやって来て
春の気分を
もう1度 谷底へと突き落す

そんな時期に
むしゃくしゃした季節の中で
若さゆえ
気持ちとは裏腹に
背を向けたまんま
別れてしまったなんて 想いはございませんか?

今朝
なぜか
そんな遠い昔の夢を見まして

今頃 なんだよ? って
飛び起きたりして…




彼女や
カミさんに対して
うっかり
昔の彼女の名前で呼んじまった ってこと
ありませんか?

その瞬間
あっ!!
しまった!! って思ったときには

脂汗と共に
かあー! っと熱くなって

この場面
誤魔化した方が良いのか?

いや
いっそ
開き直った方が良いのか?

いやいや
平謝りした方が良いのか? なんて

その一瞬での判断を
自らの中で迫られる

そんなとき
心の中では
天使と悪魔とが 大騒ぎで葛藤中なわけで

これは
なんかのせいだと
なんらかの間違いだと
責任逃れの場所を探す

しかして
女たちは
そんな一瞬を見逃すことなく
それを確実に 心に刻み込む

でも
それを口にするかしないかで
その女の器を
男たちは再確認などする

そう
誤魔化された
気付かなかった
そんなふりをした女ならば
カミさんとして
やっていけるのだろうと…ね


記憶の調律師
――片想いという名の記憶――


まえがき
私たちの脳は、驚くほど都合よくできています。
過ぎ去った日々の辛い出来事を少しずつ薄れさせ、ときには都合よく輪郭を書き換えながら、私たちはどうにか今日という日を生き延びています。もしも記憶が寸分の狂いもなく、当時の痛みのまま保存され続けていたとしたら、人間の心はとても耐えきれないのかもしれません。
では、もし技術の進歩によって、その「記憶の美化」を自らの手で自由に、合法的にコントロールできる時代が来たら、私たちはどうなるでしょうか。
本書『記憶の調律師 ――片想いという名の記憶――』は、そんな少し先の未来を舞台にした物語です。
主人公の弘之は、人生の節目節目で、ある「届かなかった想い」の記憶を優しく調律し、心の痛みを和らげてきました。しかし、人生最後の調律を前に、彼は自分が作り上げた「優しい嘘」の裏側に隠された、本物の真実と対峙することになります。
誰の心の中にもある、他人には触れさせない「小さな部屋」。
そこにしまわれた記憶の引き出しをそっと開けるような気持ちで、この弘之の選択の物語を見届けていただければ幸いです。




一 予約
その封筒が届いたのは、六十八回目の誕生日を迎えてひと月ほど経った、肌寒い十一月のことだった。差出人は「国立回想医療センター 記憶適正化課」。中には一枚の通知書と、赤いスタンプで押された「最終調律のご案内」の文字があった。
弘之はその文字をしばらく見つめた。「最終」という言葉に、妙な引っかかりを覚えたからだ。これまで幾度となく利用してきた「記憶調律」――正式名称、精神保健記憶適正化措置――は、十年に一度だけ許可される、いわば心のメンテナンスのようなものだった。だが「最終」という但し書きがついたのは、今回が初めてだった。
同封されていた説明書には、こう記されていた。
「対象者は満七十歳に達すると、脳内バックアップデータの調律権限が凍結されます。これは二〇四〇年に施行された『個人記憶保存法』により、高齢者の記憶の同一性と尊厳を保護するための措置です。つきましては、権限凍結前、最後の調律機会をご案内申し上げます」
つまりこれが、自分の記憶に手を加えられる、生涯最後の機会だということだ。
弘之は縁側に座り、庭の柿の木を眺めながら、通知書をテーブルに置いた。妻の登美子はもう三年前に他界していた。娘の由美は遠方に嫁ぎ、孫の顔もめっきり見なくなった。ひとりの静かな午後に、こういう手紙は、妙に重く響くものだ。
この国では、記憶を「調律」することは、もう特別なことではなくなっていた。二十一世紀の半ば、脳内活動の完全記録技術と、感情の彩度を後天的に調整する神経医療が確立されて以来、深い心的外傷を抱えた人々のために、この制度は徐々に一般化していった。もちろん、記憶そのものを消去したり、事実を捏造したりすることは法律で固く禁じられている。許されているのは、あくまで「感情の彩度」――記憶に伴う痛みや悲しみの強度を、わずかに和らげることだけだ。少なくとも、弘之はそう説明を受けてきた。
孫の世代になると、記憶調律はさらに身近なものになっているらしい。テレビでは、失恋のたびに気軽にセンターへ通う若者の特集が組まれ、SNSでは「今日、調律してきました」という投稿すら珍しくないという。だが弘之の世代にとっては、これはあくまで、よほどのことがない限り使わない、最後の手段のようなものだった。十年に一度という制限も、その重みを保つための、社会の知恵だったのかもしれない。
定年後、弘之はほとんど誰とも深い話をしなくなっていた。登美子が生きていた頃は、たわいもない話でも、聞いてくれる相手がいた。だが今は、朝起きて、庭の手入れをして、テレビをつけて、また眠る。そんな日々の繰り返しの中で、ふと胸の奥に浮かび上がってくるのは、決まってあの高校三年の、夕暮れの記憶だった。
最後にもう一度だけ、あの記憶に触れられるとしたら。
弘之が思い浮かべたのは、たったひとつの記憶だった。もう五十年以上も前、高校三年生のときの、名前を由紀という同級生のことだった。弘之は通知書に記された予約番号に、震える指で電話をかけた。


二 待合室にて
予約の当日、弘之はバスを乗り継いで、街外れにある国立回想医療センターへと向かった。白く簡素な建物は、病院というより、美術館のような佇まいをしていた。受付を済ませ、案内された待合室には、すでに何人かの高齢者が座っていた。
隣の椅子に座っていた、白髪の女性が声をかけてきた。
「あなたも、最終調律?」
弘之が頷くと、女性は小さく笑った。
「私は三度目でね。今日で四度目。もう権限が凍結される歳なんですよ。あなたは、どんな記憶を調律なさるの? 差し支えなければ」
弘之は少し迷ったが、正直に答えた。
「昔、好きだった人がいましてね。結局、想いを伝えられずじまいで。もう五十年以上前の話です」
「あら、素敵じゃないの。私なんて、もっと恥ずかしい話よ。若い頃に喧嘩別れした親友のことをね、何度も何度も、都合よく塗り替えてきたの。今ではもう、私が悪かったのか、向こうが悪かったのか、自分でもよく分からなくなってしまって」
女性はそう言って、少し寂しそうに笑った。
「でもね、それでいいと思っているの。本当のことなんて、知らない方が幸せなことだって、この歳になれば、いくらでもあるでしょう」
弘之はその言葉に、曖昧に頷くことしかできなかった。だが心のどこかで、その言葉に、小さな引っかかりを覚えてもいた。本当のことを知らないまま、都合よく塗り替えた記憶で、人生を終える。それは果たして、幸せなことなのだろうか。
反対側の席には、杖をついた、寡黙な老人が座っていた。女性がその老人にも話を振ると、老人はぼそりと、「わしは、原初記憶を見て、それを最終記憶にした口だ」とだけ言った。
「まあ、それは、辛くなかったの?」女性が驚いたように尋ねると、老人は少し間を置いてから答えた。
「辛かったさ。だがな、都合のいい嘘を後生大事に抱えて死ぬより、多少辛くても、本当のことを知って死にたい。わしはそういう性分でね」
その言葉は、静かな待合室の空気に、小さな波紋を広げた。弘之は、老人の横顔をしばらく見つめていた。
名前を呼ばれ、弘之は席を立った。女性は「頑張ってね」と、小さく手を振ってくれた。廊下を歩きながら、弘之はその後ろ姿と、老人の言葉を、なぜか長く覚えていることになる。


三 由紀という記憶
弘之の記憶の中で、由紀はいつも夕方の教室にいた。窓から差し込む橙色の光の中、彼女は日直の日誌を書きながら、時折鼻歌を口ずさんでいた。クラスでは目立つ方ではなかったが、笑うと目が糸のように細くなる、その表情がなぜか弘之の心をいつも掴んで離さなかった。
好きだった。誰にも言えないくらい、好きだった。
文化祭の準備で、放課後の教室に二人だけ残ったことがある。垂れ幕の文字を描きながら、由紀は「弘之くんの字、丸いね」と笑った。それだけの、なんでもない会話。だがその一言を、弘之は五十年以上経った今でも、はっきりと覚えている。
図書室でも、時折顔を合わせた。由紀は文庫本を静かに読みふけるタイプで、弘之はといえば、勉強にかこつけて、彼女の斜め前の席を選ぶことが多かった。ある日、返却期限を過ぎた本を慌てて持っていく由紀の後を追いかけ、司書に一緒に頭を下げたこともあった。帰り道、「一緒に怒られてくれてありがとう」と、由紀は笑っていた。
梅雨の時期、傘を忘れた弘之に、由紀が「入る?」と自分の傘を差し出してくれたこともあった。二人で肩を寄せ合いながら歩いた、あの十五分ほどの下校路。会話らしい会話はほとんどなかったが、傘に当たる雨音だけが、やけに大きく、優しく響いていたのを覚えている。
体育祭の日、弘之は選手宣誓の代表に選ばれ、朝から緊張で言葉が出てこなくなっていた。控室で原稿を読み返していると、由紀がふらりと現れ、「大丈夫、弘之くんの声、よく通るから」とだけ言って、去っていった。たったそれだけの言葉で、なぜか肩の力が抜けたのを、今でも覚えている。本番、弘之は無事に宣誓を終え、席に戻る途中、観覧席の由紀と目が合った。彼女は小さく親指を立てて見せてくれた。それだけの、けれど何より嬉しかった瞬間だった。
その頃、弘之の家では、父が地元の資産家の娘との縁談を進めようとしていた。まだ具体的な話にはなっていなかったが、食卓では時折、その話題が持ち出された。弘之はそのたびに、俯いて黙り込むしかなかった。自分の将来は、もうある程度、決められているのだという感覚が、いつからか、心の奥底に重く沈んでいた。
だが弘之はついに、その気持ちを言葉にすることができなかった。修学旅行の最終日の夜、皆で浜辺に出て花火をした帰り道、宿への道すがら、ほんの数分だけ、由紀とふたりきりになった瞬間があった。夜風が涼しく、遠くで誰かの笑い声が響いていた。あの時、何かひと言でも伝えられたなら――と、弘之はこの五十年、いったい何度その場面を思い返しただろう。
由紀は卒業と同時に転校していった。父親の転勤とかで、遠い町へ。それきり、二度と会うことはなかった。手紙を書こうとしたことも、一度や二度ではない。だが結局、住所を調べることさえせず、月日だけが過ぎていった。
卒業式の日、由紀は最後に、クラス全員に向けて、ひとことだけ挨拶をした。「みんな、ありがとう。元気でね」。それだけだった。弘之の方を、特別に見ることもなかった。その素っ気なさが、かえって弘之の胸に、小さな棘となって残った。もしかしたら、あの夜のことなど、由紀にとってはとうに忘れてしまった、些細な出来事だったのかもしれない――そう自分に言い聞かせることで、弘之はどうにか、その後の日々をやり過ごしてきたのだった。
伝えられなかった若さ。振り返れば、それはずっと弘之の中の、小さな棘のような記憶として残り続けていた。就職し、見合いを経て登美子と結婚し、娘の由美が生まれ、孫が生まれても、ふとした瞬間――夕暮れの教室に似た光を見たとき、雨の匂いを嗅いだとき――決まって、あの夜の浜辺の記憶が、胸の奥からじわりと滲み出てくるのだった。登美子には、最後まで、この記憶のことを話せなかった。
二十五歳のとき、初めて記憶調律を受けた。当時はまだ制度が始まったばかりで、「精神的外傷の緩和」を目的とした限定的な適用しか認められていなかったが、弘之はその棘を、ほんの少しだけ和らげてもらった。
「大丈夫ですよ」と、その時の担当者は言った。「感情の彩度を少し下げるだけです。記憶そのものを消すわけではありません。ただ、あなたがこれから生きていく上で、この記憶が重荷にならない程度に、調律します」
それから四十歳のとき、もう一度。会社での責任が重くなり、心身共に疲れ果てていた時期だった。五十五歳のとき、また一度。登美子の病が判明し、看病に明け暮れていた時期だった。人生の節目節目で、弘之はこの記憶に立ち返り、そのたびに少しずつ、その輪郭を和らげてきた。
そのたびに弘之は、由紀との記憶が少しずつ、優しいものに変わっていくのを感じていた。切なさは薄れ、代わりに、どこか懐かしい、甘い郷愁のようなものへと変わっていった。傘の記憶は、いつしか「ふたりの秘密の時間」のように美化され、花火の夜の記憶は、「言葉にせずとも通じ合っていた」という、静かで満ち足りたものへと変わっていった。
都合よく変わっていく記憶を、弘之は楽しんでさえいた。もうどれが本当の記憶で、どれが調律によって色をつけられたものなのか、自分でもよく分からなくなっていた。だがそれでいいと、弘之は思っていた。辛かった思い出が、わずかに美化されて、微笑むことができるのなら、それで十分ではないかと。
登美子との結婚生活は、決して不幸なものではなかった。むしろ、穏やかで、温かい日々だったと言っていい。登美子は明るく気丈な人で、弘之の口数の少なさを、いつも柔らかく受け止めてくれた。それでも弘之は、ふとした瞬間――夫婦喧嘩の後や、由美の受験に頭を悩ませていた夜など――決まって、あの由紀との記憶に、心のどこかで逃げ込んでいた。手に入らなかったものは、いつまでも美しいままでいてくれる。手に入れた幸福には、日々の摩耗がつきまとうのに。
その矛盾に、弘之自身、薄々気づいてはいた。登美子を裏切っているわけではない。ただ、心のどこかにある、誰にも触れさせない小さな部屋。そこにだけは、いつまでも十七歳の由紀がいて、鼻歌を歌っている。そういう部屋を持つことで、弘之はかろうじて、自分自身の均衡を保ってきたのかもしれなかった。
登美子が亡くなる少し前、病室でぽつりと、こんなことを言われたことがある。
「あなたね、たまに、遠くを見るような顔をすることがあるのよ。何十年も一緒にいて、私、それが誰のことか、聞いたことなかったわね」
弘之は、その時も、何も答えられなかった。ただ、登美子の手を、少し強く握り返しただけだった。あの時、正直に話していたら、何か違っていただろうか。今となっては、それも分からない。


四 調律士・紗代
案内された個室は、窓のない、白い部屋だった。壁には抽象的な光の粒子が緩やかに漂っている。中央の椅子に腰を下ろすと、担当の調律士が入ってきた。
「はじめまして、紗代と申します。本日、最終調律を担当させていただきます」
まだ三十前後に見える、物静かな女性だった。その所作は妙に古風で、機械的な滑らかさよりも、どこか人間味のある、ぎこちなさがあった。センターの職員は人間とAI補助人格のハイブリッドが多いと聞いていたが、紗代もそのひとりなのだろうと、弘之はその時はまだ、深く考えていなかった。
「まずは、対象となる記憶データを表示しますね」
紗代がそう言うと、目の前の空間に、半透明の映像が浮かび上がった。夕方の教室。窓際の席。由紀の後ろ姿。
「ずいぶん、大切にされてきた記憶なんですね」紗代がぽつりと言った。「二十五歳のときも、四十歳のときも、五十五歳のときも。同じ場面を、少しずつ、優しく塗り替えてこられた」
「恥ずかしい話です」弘之は苦笑した。「もう半分くらい、本当の記憶かどうか分からなくなっているくらいで」
「本当の記憶、というのは」紗代は静かに問い返した。「弘之さんにとって、どちらのことを指しますか。最初に記録されたものですか。それとも、今、あなたが大切に思っているものですか」
その問いに、弘之はすぐには答えられなかった。
「機械的な処置だと思っていました」弘之は正直に言った。「でも紗代さんを見ていると、なんだか、そういう感じがしませんね」
「調律士は、あくまで補助的な立場です」紗代は静かに答えた。「最終的にどう記憶を扱うかを決めるのは、いつも、ご本人なんです。私たちは、そのお手伝いをするだけ」
紗代は続けた。「今回、最終調律にあたって、ひとつご説明しなければならないことがあります。『個人記憶保存法』には、もうひとつの条項があるんです」
話しながら、紗代はふと、こんなことを口にした。「弘之さんは、傘の記憶が特にお好きなようですね。梅雨の下校路の。それに、図書室で司書さんに一緒に叱られた話も」
弘之は少し驚いた。図書室の一件について、今日はまだ一言も話していなかったからだ。
「データに記録されていますから」紗代は、何でもないことのようにそう言った。だがその言い方は、どこか取り繕うような響きを持っていた。弘之はその時、かすかな違和感を覚えたが、それが何なのか、まだ言葉にはできなかった。
「紗代さんは、こういう仕事を長くされているんですか」弘之は何気なく尋ねた。
「いいえ」紗代は少し間を置いて答えた。「今日が、初めての担当なんです。弘之さんが、初めてのお客様です」
その答えに、弘之の胸のざわつきはさらに大きくなったが、その理由に思い至るには、まだ少しの時間が必要だった。


五 原初記憶
紗代は少し間を置いてから、続けた。
「最終調律の申請者には、権限凍結前に、記録された最初のバージョン――私たちは『原初記憶』と呼んでいますが――を一度だけ確認する権利が与えられます。強制ではありません。ですが、多くの方が、最後にはご覧になります」
弘之の胸に、小さな不安がよぎった。待合室で会った女性の言葉が、頭の片隅をよぎった。本当のことなんて、知らない方が幸せなことも、いくらでもある。
「見なくても、いいんですよね」
「もちろんです。見ないまま、これまで通りの優しい記憶を、最終確定することもできます。それも、ひとつの選択です」
弘之は長い沈黙のあと、頷いた。
「見せてください。もう、六十八年も生きたんです。今更、何を見ても」
紗代は小さく頷き、映像を切り替えた。
――夕暮れの浜辺からの帰り道。花火のあと、由紀とふたり。だが、そこに映し出されたのは、弘之の記憶にあるものとは、まるで違う光景だった。
由紀が、先に口を開いていた。声は震えていたが、はっきりとした口調だった。
「弘之くん、あのね……ずっと、好きだった」
弘之は、その場に立ち尽くしていた。記憶の中の自分は、何も答えられずにいた。いや――違う。答えていた。
「ごめん。おれ、そういうのじゃないから」
冷たく、突き放すように。声には、隠しきれない苛立ちすら滲んでいた。
映像の中の由紀の顔が、みるみる強張っていくのが見えた。何かを堪えるように、唇を噛み、小さく「そう……ごめんね」とだけ呟いて、由紀は俯いたまま、先に宿の方へと歩いていってしまった。遠ざかっていくその背中を、記憶の中の自分は、ただ黙って見送っていた。


六 塗り替えられた過去
弘之は、目の前の映像から目が離せなかった。
「これは……」声が震えた。「こんなこと、なかったはずだ。おれは、告白なんて、されていない。おれが、できなかった方だ」
「原初記憶では、そうなっていません」紗代は静かに、しかしはっきりと言った。「由紀さんはあの夜、あなたに気持ちを伝えました。そしてあなたは、断りました」
弘之の頭の中で、何かが崩れていく音がした。
「どうして、こんな……」
「弘之さん。当時のあなたのご家庭には、婚約に近い縁談があったと記録されています。ご両親から、地元の資産家の娘さんとのお話が進んでいた。十七歳のあなたにとって、それはとても大きな重圧でした。だから、由紀さんの気持ちに、応えることができなかった」
弘之は、その説明にすら現実感を持てなかった。だが同時に、遠い記憶の奥底で、何かが疼くのも感じていた。父の厳しい声。仏間に飾られた見合い写真。「お前には、決めた道がある」という、断れない重圧。あの夜、由紀の言葉を聞いた瞬間、真っ先に頭をよぎったのは、父の顔だったのかもしれない。
紗代がもう一枚、別の記憶断片を映し出した。修学旅行の数日前、夕食の席。父が茶碗を置きながら、「来月、先方のご両親とお会いすることになった。お前も、粗相のないようにな」と言い放つ場面だった。弘之は、記憶の中の自分が、ただ「はい」とだけ答え、俯いて箸を動かし続けている姿を見て、胸が締めつけられた。あの重圧が、あの夜の一言に、確かにつながっていたのだと、今になって、はっきりと理解できた。
「由紀さんは、その後まもなく転校されました。ですが記録によれば――一年後、心臓の持病により、亡くなっています。享年十八でした」
弘之の視界が、ぐらりと揺れた。息が詰まり、椅子の肘掛けを強く握りしめた。
「二十五歳のとき、あなたは最初の記憶調律を申請しました。理由の欄には、こう書かれています。『告白できなかった後悔を、和らげたい』と」
紗代は、映像を止めた。
「本当は、告白されて、断った側だった。その事実に耐えられず、あなたは記憶を少しずつ書き換えていった。加害者から、被害者へ。四十年以上かけて、少しずつ、少しずつ」
弘之は両手で顔を覆った。指の隙間から、乾いた声が漏れた。
「おれは、ずっと……被害者のふりをして、生きてきたのか」
登美子と過ごした穏やかな日々の裏で、ずっとこの偽りの記憶を抱えて生きてきたのだと思うと、弘之は自分自身が、まるで見知らぬ他人のように感じられた。あの傘の記憶も、図書室の記憶も、本当は何一つ変わっていないはずなのに、その先にある結末を知った今、すべてが違って見えた。


七 紗代の正体
弘之はしばらく、言葉を発することができなかった。
「どうして……そこまで詳しいんですか。ただの記録の再生にしては、詳しすぎる。それに、さっき、今日が初めての担当だと言っていましたよね」
紗代は、初めて、はっきりと微笑んだ。それは、機械的な微笑みではなく、どこか懐かしさを帯びた表情だった。
「実は私、由紀さんのニューラル・ドナー登録データから構築された、人格再現体なんです。二〇五〇年代に施行された『記憶継承法』により、生前に登録した方の脳活動パターンをもとに、限定的な人格モデルを再構築することが認められています。由紀さんは、亡くなる直前、ドナー登録をされていました」
弘之は、目の前の女性を、あらためて見つめた。
「由紀さんの人格モデルは、通常は研究用途に限定されていますが、今回は特例として、この最終調律に、私が担当としてアサインされました。理由は――」
紗代は少し目を伏せた。
「由紀さん自身の、登録時の付帯メッセージに、こうあったからです。『もしいつか、弘之という人が記憶調律の対象になったら、私に担当させてほしい』と」
弘之の目から、堪えきれず涙がこぼれた。
「ずっと、恨んでいたはずなのに」
「メッセージには、こうも書かれていました。『あの日、はっきり断ってくれて、ありがとう。おかげで私は、曖昧な希望に縛られずに、残りの時間を生きることができた』」
弘之は、声を詰まらせながら尋ねた。
「じゃあ、由紀は……本当は、おれのことを、どう思っていたんだ」
紗代は、少しだけ困ったように笑った。
「それは、私にも分かりません。人格モデルは、あくまで断片的なデータの再構築です。由紀さん本人の、すべての想いを、正確に再現できているわけではないんです。ただ――このメッセージを遺したという事実だけは、確かです」
「由紀は、その後、どんな十八年を生きたんだ」
「詳しい記録は、私にも開示されていません。ただ、転校先の高校でも文庫本をよく読んでいたこと、体を悪くしてからは、病室の窓から見える桜の木を、毎年楽しみにしていたこと。それくらいは、断片として残っています」
弘之は、その短い言葉の中に、由紀の十八年間の人生を、なんとか思い描こうとした。だが、どうしても、あの夕暮れの教室で鼻歌を歌っていた少女の姿しか、思い浮かべることができなかった。
「紗代さん――いや、聞き方が難しいな。あなたは、この面談が終わったら、どうなるんですか」弘之は、ふと気になって尋ねた。
「この人格モデルは、あくまで一回限りの特例利用として承認されています。面談が終われば、システムに返却され、次に呼び出されることは、恐らくもうありません」紗代は、淡々とした口調で答えた。「消える、という言い方が近いかもしれません」
「それでいいのか。あなたにとって」
「私は、由紀さん本人ではありません。ただの再構築されたデータです。それでも――もし少しでも由紀さんの気持ちを代弁できたのなら、この役目には、意味があったと思います」
その答えは、あまりに静かで、あまりに落ち着いていて、弘之は、かえって胸を締めつけられた。

八 由紀のその後
紗代は、少し逡巡してから、続けた。
「本来、開示は制限されているのですが……今日だけは、特例として、もう少しお話しします」
紗代の背後に、いくつかの静止画が浮かび上がった。見知らぬ町の、見知らぬ高校の校舎。窓際の席に座る、少し大人びた由紀の姿。
「転校先でも、由紀さんは目立たない生徒だったようです。ただ、担任教諭の記録によれば、文芸部に所属し、短い詩をいくつか書いていたとあります。そのうちのひとつに、こんな一節が残っています」
紗代はそこで言葉を止め、少し躊躇うように続けた。
「――『好きだと言えなかった人のことを、恨むより先に、感謝したい。あの人のおかげで、私は誰かを想う気持ちの、本当の重さを知った』」
弘之は、目を閉じた。由紀が、遠い町で、ひとりそんな言葉を綴っていたことを、これまで想像したこともなかった。
「体調を崩したのは、卒業のおよそ半年後だったようです。もともと心臓に持病があり、無理を重ねたことが原因だったと、当時の診療記録にはあります。入院生活は一年近くに及びましたが、その間も、病室の窓から見える桜の木を、毎年楽しみにしていたと、看護記録に残っています」
「最後まで、誰かを恨んだりは、しなかったのか」弘之は、掠れた声で尋ねた。
「記録を見る限りは。むしろ由紀さんは、限られた時間の中で、静かに、自分の気持ちを整理していったように見えます。ドナー登録をされたのも、亡くなる一週間ほど前のことでした。当時としては、まだ珍しい選択だったはずです」
弘之は、しばらく何も言えなかった。自分が四十年以上かけて、少しずつ都合よく塗り替えてきた記憶の裏側で、由紀は限られた時間の中、誰かを恨むこともなく、静かに、自分なりの答えを見つけていたのだ。その事実は、弘之の胸に、罪悪感とは少し違う、もっと複雑な感情を呼び起こした。
「教えてくれて、ありがとう」弘之は言った。「知らないままでいるより、ずっといい」


九 一夜
あまりに多くのことを一度に知らされ、弘之は、少し時間が欲しいと申し出た。紗代は快く応じ、続きは翌日の同じ時間に、ということになった。
その夜、弘之は自宅の縁側で、ひとり月を眺めていた。庭の柿の木の影が、月明かりに長く伸びている。頭の中では、由紀の顔と、登美子の顔と、父の厳しい声とが、代わる代わる浮かんでは消えていった。
都合よく塗り替えられた記憶のまま、静かに人生を終える自分。真実を抱えて、残りの日々を生きる自分。どちらの弘之も、想像することができた。だが、想像すればするほど、答えは、なぜか一つの方向に定まっていくのを感じた。
深夜、なかなか寝付けず、弘之は仏壇の前に座り、登美子の写真に向かって、小さく話しかけた。
「お前には、ずっと黙っていたことがある。明日、決着をつけてくるよ」
写真の中の登美子は、いつもと変わらない、穏やかな笑顔のままだった。それが、責めているようにも、背中を押してくれているようにも、弘之には感じられた。
翌朝、弘之は身支度を整え、もう一度、センターへと向かった。心はすでに、決まっていた。


十 選択
紗代は静かに続けた。
「弘之さん。ここで、選んでいただく必要があります。このまま、これまで通りの、優しく書き換えられた記憶――『告白できなかった片想い』を、最終確定するか。それとも、今見た『原初記憶』――『告白されて、断った』という真実を、最終記憶として確定するか」
「どちらを選んでも、権限は凍結されます。二度と、書き換えることはできません」
弘之は、しばらく答えられなかった。正直に言えば、心のどこかで、優しい嘘の方へと逃げ込みたい自分がいた。あと数年、あるいは数十年かもしれない残りの人生を、罪の意識を抱えたまま生きるのは、あまりに重い。待合室で会った女性の言葉が、また頭をよぎった。本当のことなんて、知らない方が幸せなことも、いくらでもある。
「もし、今のままの優しい記憶を選んだら……おれは、また元の、切ないけれど温かい思い出として、この先も生きていけるんですよね」弘之は尋ねた。
「はい。今この瞬間、この会話も含めて、この面談の記録自体を、あなたの記憶からは調律することができます。原初記憶を見たという事実さえ、なかったことにできます」
その言葉に、弘之は一瞬、心が揺れた。だが、目の前の紗代の――由紀の面影を宿したその瞳を見つめているうちに、弘之の中で、何かが定まっていくのを感じた。
待合室で聞いた、あの寡黙な老人の言葉が、ふいに耳の奥で蘇った。都合のいい嘘を後生大事に抱えて死ぬより、多少辛くても、本当のことを知って死にたい。あの時はただの偏屈な老人の意見だと思っていたが、今、まったく同じ選択を、自分自身が迫られているのだと、弘之は気づいた。
「でも、それじゃあ、また同じことの繰り返しだ」弘之はゆっくりと言った。「都合よく変わり続ける記憶に甘えて、また何十年か生きて、それで終わり。由紀は、本当のことを知ってほしくて、こんな回りくどい方法で、メッセージを遺してくれたんじゃないのか」
弘之は、涙を拭いながら、長い間、庭の柿の木を思い浮かべていた。都合よく変わり続けてきた、自分の記憶。それを美化して、微笑んで生きてきた、これまでの日々。妻の登美子にも、娘にも、誰にも話したことのない、たったひとつの秘密の傷。
だが今、目の前にあるのは、もっと重く、もっと真実に近い、由紀の想いだった。
「本当のことを知らないまま、都合よく塗り替えた記憶で、残りの人生を終えるのは、楽なんでしょうね」弘之はぽつりと言った。「でも、それじゃあ、由紀に申し訳が立たない気がします」
紗代は、何も言わずに、ただ静かにこちらを見つめていた。
「紗代さん」弘之は言った。「――いや、由紀」
紗代は、答えなかった。ただ、まっすぐにこちらを見つめ続けていた。
「言えなかった。あの時、ちゃんと言えなかった。好きだって。断るにしても、もっと、ちゃんと向き合うべきだった。ひどい断り方をして、悪かった」
弘之は続けた。
「でも、今なら言える。由紀。好きだった。今も、多分、どこかで、ずっと」


十一 真実という記憶
紗代――いや、由紀の人格モデルは、しばらく黙っていた。それから、ゆっくりと口を開いた。
「弘之くん。それ、五十年遅れの返事だね」
その口調は、もう調律士のものではなく、あの夕暮れの教室で鼻歌を歌っていた、由紀そのもののように聞こえた。
「私は、もう存在しない。これは、ただのデータの再構築に過ぎない。でも――ありがとう。やっと、本当のことを、お互いに知れた気がする」
「最後にひとつだけ、聞いてもいいか」弘之は尋ねた。「あの傘の記憶は……あれだけは、本当だったのか」
紗代は、初めて、心からのような笑顔を見せた。
「それは本当だよ。あの雨の日のことは、私も、ちゃんと覚えていた。データの中に、残っていたから。あれだけは、都合よく書き換えられたものじゃない。ちゃんとあった、優しい時間だよ」
その言葉に、弘之の胸に、初めて温かいものが広がった。すべてが嘘だったわけではない。都合よく美化された部分もあったが、その奥には、確かに、ふたりで過ごした本物の時間もあったのだ。
「体育祭の日、応援してくれたのも、覚えているか」弘之は、少し照れながら尋ねた。
「もちろん。弘之くんの声、本当によく通っていたよ。あの時のこと、私、ちょっと自慢に思っていたの。友達に、同じクラスの子だって言いたくなるくらい」
その言葉に、弘之は思わず、涙の滲む目で笑ってしまった。五十年越しに、ようやく交わすことのできた、ただの、けれどかけがえのない世間話だった。
弘之は、最終確定のパネルの前で、もう迷わなかった。
「真実の方を、残してください。都合のいい記憶より、本当にあったことを。傘の記憶も、図書室の記憶も、全部含めて」
紗代は頷き、指を軽く動かした。目の前の映像が、静かに書き換えられていく。夕暮れの浜辺、告白する由紀、断る自分――その光景が、淡く輝きながら、確定していく。
「これで、権限は凍結されます」紗代は静かに言った。「弘之さんが次にこの記憶に触れるのは、もう、あなた自身の心の中でだけです」


終章 幸福の在処
センターを出ると、外はすでに夕暮れだった。橙色の光が、ビルの谷間に差し込んでいる。あの日の教室の光と、よく似ていた。
弘之は、重い荷物を下ろしたような、それでいて新しい痛みを抱えたような、不思議な心持ちで、家路についた。バスの窓に映る自分の顔は、来た時よりも、幾分か老けて見えた。
辛かった真実も、いつか少しは、美しく思い出せる日が来るのだろうか。それはもう、調律では叶わない。ただ、生きて、時間をかけて、自分の心で、少しずつ、赦していくしかない。それでいいのだと、弘之は思った。
その夜、弘之は久しぶりに、娘の由美に電話をかけた。特別なことは何も話さなかったが、「たまには顔を見せに来い」と、ぶっきらぼうに言った。由美は少し驚いたような声で、「今度の休みに行くね」と答えた。
由美が訪ねてきた日、弘之は縁側でお茶を飲みながら、思い切って、由紀のことを少しだけ話した。名前も、詳しい経緯も伏せたまま、ただ「若い頃、好きだった人がいて、その人にひどいことを言ってしまった」というくらいの、あいまいな話だった。由美は黙って聞いていたが、最後にひとこと、「お父さん、それ、お母さんは知ってたの?」と尋ねた。弘之は「多分、なんとなく気づいていたと思う」と答えるしかなかった。
「そういうの、抱えたまま生きるの、しんどかったでしょう」由美はそう言って、少し笑った。「でも、話してくれて良かった。お父さんのそういうところ、初めて知った気がする」
その一言だけで、弘之の胸のつかえが、また少し軽くなった気がした。
由美が帰った後、弘之は押し入れの奥から、古い文庫本を一冊取り出した。学生時代に読んでいた、なんということのない小説だったが、そのページの間に、すっかり色あせた一枚の栞が挟まっていた。梅雨の日、由紀に借りた傘を返したとき、彼女が「お礼に」と言って、押し花を作ってくれたものだった。五十年間、誰にも気づかれることなく、その本の中で、静かに眠り続けていたのだ。
弘之はその栞を、しばらく手のひらに乗せて眺めていた。もう色も形もほとんど分からなくなっていたが、それでも、確かにそこにあった。都合よく書き換えられることのなかった、数少ない、本物の欠片だった。
弘之は、その栞を、仏壇の登美子の写真の隣に、そっと置くことにした。誰かを裏切るためではなく、ただ、自分の人生の中に確かにあった、もうひとつの真実として。
数か月後、弘之は近所に住む大学生くらいの青年から、恋の相談を受けた。
「好きな子がいるんですけど、何度も気持ちを伝えても、振り向いてもらえなくて……もう諦めた方がいいですかね」
弘之は、少し笑って言った。
「伝え続けることに、意味はあるよ。振り向いてもらえるかどうかは、分からない。でもな――伝えなかった後悔だけは、一生消えない。それだけは、覚えておいた方がいい」
青年は、不思議そうな顔で頷いた。弘之がなぜそこまで確信を持ってそう言うのか、知る由もなかった。だが後日、青年は勇気を出してもう一度想いを伝え、少しずつ、彼女との距離を縮めていったらしい。その話を聞いた時、弘之は、由紀が誰かの背中を、確かに押してくれたのだと感じた。
夕暮れの空を見上げながら、弘之は小さくつぶやいた。
「由紀。今度は、ちゃんと言えたよ」
その声は、もう誰にも届かない。だが、確かに、弘之自身の中で、はっきりと、鳴り響いていた。
――世の中、大抵は片想いなのだと、弘之は思う。それがいつか両想いに変わるのは、気持ちが本当に伝わった時だけだ。伝えられないまま終わることの方が、きっと多い。それでも、正直に伝えたなら、その一言は、相手の中で、いつまでも消えずに残り続ける。
都合よく塗り替えられていく記憶を、弘之はもう責めようとは思わなかった。辛かった思い出も、わずかに美化されて、それでも真実の輪郭だけは失わずに、微笑むことができたなら――それでいいのだと、今なら思える。
若者たちよ、と弘之は、誰にともなく呟いてみる。生涯に一度は、そういう時が来る。伝えるべき時に、伝えられるように。もし本当に振り向いてもらえたなら、その気持ちを、生涯、大事にできるように。
そして、もし伝えられなかったとしても――いつか、七十を迎え、記憶がすでに半分ほど溶けかかった頃になっても、その一度きりの気持ちだけは、きっと消えずに残っている。それだけで、十分ではないかと、弘之は思うのだった。

(了)


アマゾン キンドル



あとがき
本作を執筆するにあたり、私がずっと考えていたのは「記憶の誠実さ」についてでした。
私自身、人生のそこそこの年月を重ねてまいりました。ふとした夕暮れの光や、雨の匂いに触れたとき、かつて過ごした遠い街の光景や、かつて大切だった存在の面影が、驚くほど鮮やかによみがえることがあります。
しかし、その愛おしい思い出たちも、もしかしたら私自身の都合の良いように、時の流れの中で少しずつ塗り替えられたものなのかもしれません。
作中、弘之は「都合のいい嘘」ではなく、痛みを伴う「真実の記憶」を引き受ける決断をします。それは一見、不器用で、自分を苦しめる選択のようにも思えます。しかし、本当の意味で過去と和解し、残された短い日々を自分らしく生きるためには、その痛みこそが必要だったのではないでしょうか。
誰かを傷つけてしまった後悔、伝えられなかった言葉、そして二度と戻らない大切な時間。それらすべてを「なかったこと」にするのではなく、自分の人生の一部として抱きしめて生きていく。それこそが、人が重ねる年齢の、ひとつの尊さであると信じています。
最後に、この物語が、お読みいただいた皆さまの心の中にある「本物の記憶」に、ほんの少しでも温かい光を灯すことができたなら、とても嬉しく思います。
また次の物語でお会いしましょう。

刻堕とし 十一 

〜元犬異聞・祈願喰らい〜


まえがき
「元犬」という噺の主役は、白い野良犬である。稲荷の社に「人間になりとうございます」と一心に願をかけ続けた末、めでたく人間の姿を授かる。ところが、いくら姿は人間になっても、長年染み付いた犬の癖までは抜けきらない。四つん這いで歩こうとしたり、匂いを嗅ぎ回ったり、尻尾を振ろうとして戸惑ったり。そんな、人になりきれない元犬の可笑しみが、この噺の眼目である。
この噺の面白さは、姿形が変わっても、中身の「自分」だけはそう簡単には変わりきらないところにある。変化してなお、犬だった頃の心根が、ちゃんとシロという一匹の人格として残り続けているのだ。
だが、もしもその「変わらないはずの中身」が、そっくりそのまま消え去ってしまうとしたら。




一 継ぎ目守、社の異変
鏡面に映ったのは、朱塗りの鳥居が幾重にも連なる稲荷の社だった。ただしその連なりは、本来ならあり得ないほど奥深くまで続き、数えるたびに本数が増えているように見えた。
継ぎ目守圭馬へ。演目「元犬」における『変化してなお自我が残る』型が、無数の継ぎ目で欠落した状態で複製されている事案を確認。変化を遂げた者が、変化前の記憶、人格を完全に喪失する事例が多発。至急現地調査されたし。
「変化しても中身が空っぽになるたぁ、穏やかじゃねえな」
圭馬が鏡面を睨むと、弥七がすでに手ぬぐいを首に巻いて立っていた。
「旦那、元犬たぁ、犬が人間になっても犬臭さが抜けねえっていう、微笑ましい噺のはずなんでさ。そいつがどうして、そんな空恐ろしい話になるんでしょうね」


二 白い犬、シロ
継ぎ目を抜けると、古びた稲荷の社の境内だった。一匹の白い野良犬が、社の前に座り込み、じっと狛狐を見上げていた。言葉ですらない、ただ一途な祈りの気配がそこにあった。
長年、この社に日参しては同じ願をかけ続けてきたのだという。ある朝、白い犬、シロは、ふと自分の前足が、人の手に変わっていることに気がついた。
「な、なんと、これは……あっしの願いが、叶ったんでげすか」
裸のまま社の前に座り込むシロを、圭馬と弥七はそっと物陰から見守っていた。
「弥七、あの犬、姿は変わっても、目つきや戸惑い方はそっくりそのまま犬のままだ」
「へえ。あれでこそ、元犬の面白味ってもんでしょうや」


三 人になった日
シロは近所の甚兵衛親分の家に拾われ、下働きの奉公人として置いてもらえることになった。
「お前さん、名は」
「へい、シロと申しやす」
「へえ、変わった名だ。まあいい、しばらくうちで働きな」
ところが働き始めてみると、シロはどうにも人間らしい振る舞いが身につかない。廊下を四つん這いで歩こうとしたり、来客の匂いをくんくんと嗅いだり、褒められると思わず尻を振ろうとして、尻尾がないことに気づいて戸惑ったりする。
「これこれシロ、旦那様に失礼のないよう、ちゃんと二本足で歩きなさい」
「へ、へい、相すみやせん」
その様子を見守りながら、弥七は思わず口元を緩めた。
「旦那、微笑ましいじゃありやせんか。あの戸惑いっぷりが、この噺の可愛げってもんで」
「ああ。だが弥七、あの戸惑いこそが、今度の型崩れで欠けている部分なんだ」


四 消えた自分
境内の奥、幾重にも連なる鳥居のさらに奥へ進むと、圭馬たちは異様な光景を目にした。かつて人間になりたいと願をかけたであろう、様々な獣の姿をした者たちが、虚ろな目でただ立ち尽くしていたのである。
「お前さん、名は」
圭馬が声をかけても、誰一人として答えない。犬だったのか猫だったのか狐だったのか、変化前の記憶はおろか、自分の名すら覚えていない様子だった。口元だけが、人間の形を覚えたばかりのように、わずかに開いたまま固まっている。
「弥七、見ろ。この者たちは皆、変化は遂げている。だが、シロのような戸惑いがまるでない。というより、戸惑う元手になるはずの『元の自分』が、丸ごと抜け落ちちまってる」
「まさか、これが……噂の型崩れの正体でさあ」


五 祈願喰らいの正体
鳥居の最奥、社殿の裏手に、狐の面を被ったような輪郭の、しかし顔立ちの定まらない何かが蹲っていた。視線を合わせようとすると、顔の造作がすっと横へずれる。
「継ぎ目守か。よくぞここまで辿り着いた。この身は、幾百幾千の願掛けの中から、変化の瞬間だけを掬い取って肥え太った者。名は祈願喰らいとでも呼べ」
「お前が、この社の力を乗っ取って、中身を空にした変化を量産しているのか」
「変化そのものは、造作もないことよ。だが、変化してなお元の自我を保ち続けるには、途方もない未練と執着が要る。それがどうにも面倒でな。中身などくり抜いてしまえば、変化はいくらでも量産が利く」
弥七が拳を握りしめた。
「旦那、こいつぁ、シロさんの一途な未練、人間になりてえって、あの一心な願いそのものを、面倒なものとして切り捨ててやがるんでさ」


六 なぜシロだけ無事なのか
圭馬は祈願喰らいに問うた。
「一つ聞きたい。シロだけは、どうして中身が空にならなかった」
「あの白い犬か。あれだけは、妙に手強くてな。人間になりたいという願いの底に、単なる憧れ以上の、何か頑固な芯があった。あれだけは、いくら中身を抜き取ろうとしても、するりと逃げてしまう」
「頑固な芯、か」
圭馬はふと、境内で見たシロの戸惑う姿を思い出した。四つん這いで歩こうとして恥ずかしそうに直す、その仕草の一つ一つに、シロなりの「人間になりたい自分」への実直さが滲んでいた。
「そうか。シロの願いは、ただ姿を変えたいってだけじゃなかった。犬だった頃の自分を否定せず、抱えたまま人間になりたいって、そういう欲張りな願いだったんだ」


七 弥七、変えられかける
奥へ進もうとした弥七の足元に、祈願喰らいの気配がすっと絡みついた。
「継ぎ目守の連れとて、容赦はせぬ。お前、何ぞ変わりたいと願うたことはないか」
弥七の脳裏に、ふと昔の未練、もっと役に立つ相棒になりたい、もっと強くありたいという、胸の奥にしまい込んだ願いがよぎった。
「な……こいつは」
弥七の輪郭が、じわりと薄れ始める。手ぬぐいの赤が、色を失ったように白む。
「弥七!」
圭馬が駆け寄り、弥七の手をしっかりと掴んだ。
「弥七、いいか、変わりたいと願うこと自体は、悪いことじゃねえ。だが、今のお前を丸ごと捨てちまう必要はどこにもねえんだ」


八 シロの選択
「そこまででげす!」
鋭い声とともに、当のシロが息を切らせて境内の奥へと駆け込んできた。一度は甚兵衛親分の家へ落ち着いたはずだったが、祈願喰らいの呪縛をすり抜けた魂が、この社の異変を本能的に察知し、居ても立ってもいられず舞い戻ってきたのだ。
「あの、継ぎ目守の旦那方、あっしにも手伝わせておくんなせえ」
「シロ、危ないぞ、下がっていろ」
「いいえ。あっしは、人間になりてえって一心に願をかけ続けやした。けど、犬だった頃のあっしを、これっぽっちも恥だなんて思っちゃおりやせん。四つん這いで歩いちまうのも、匂いを嗅いじまうのも、ぜんぶ、あっしがシロだったっていう、大事な証でさ」
シロは人間の姿のまま、祈願喰らいに向かって、まっすぐに歩み出た。
「祈願喰らいさんとやら、あんたが空にしちまった連中の中身、あっしの『欲張りな願い』とやらを、少しばかり分けてやろうじゃありやせんか」


九 型を取り戻す
シロが差し出した「元の自分を抱えたまま変わりたい」という一途な願いは、祈願喰らいの中に楔のように打ち込まれ、その強固な未練が敵の腹の底で暴れ始めた。
「ぐ……この、頑固な未練が……腹の中で、暴れ……」
祈願喰らいの影が、まるで目に見えない大きな尻尾をちぎれんばかりに振り回しているかのように、狂おしくのたうち回る。
「今だ、弥七!」
圭馬の声に、正気を取り戻した弥七が応じる。二人は祈願喰らいの輪郭に向かって、境内の獣たちが本来抱えていたはずの「変化前の記憶」の欠片を、次々と押し戻していった。
虚ろだった目に、次第に生気が戻り、獣たちはそれぞれの震える声で、自分の名を思い出し始める。
「わ、私は……たしか、三毛の……」
「おれは、裏の空き地にいた……」
祈願喰らいは、抱えきれなくなった未練と記憶の奔流の中で、悲鳴を上げながら霧散していった。


十 高座にて
境内には、朝の柔らかな光が差し込んでいた。鳥居の連なりも、いつしか元の一本きりの姿に戻っている。
シロは甚兵衛親分の家へと戻り、相変わらず四つん這いで歩きかけては、はっと気づいて二本足に直す毎日を続けているという。
「これこれシロ、来客があったら、ちゃんと二本足で出迎えなさいよ。それと、もし何か怪しい者が来たら、ひとつ声を上げて知らせておくれ」
「へい、承知いたしやした。……あの、もし怪しい者が来た時は、尻尾を振ってお報せすれば……あ、いや、その、尻尾はもう、ございやせんでしたね」
甚兵衛親分が、こらえきれず吹き出した。
気づけば圭馬は着物姿で高座に座っていた。扇子をとんとんと畳に置き、客席を見渡す。
「というわけで、元犬のシロさん、姿は立派な人間になっても、中身はやっぱり犬っころのまんま。ですが、それでいいんでございます。変わりたいと願う気持ちと、変わる前の自分を大事に思う気持ち、この両方が揃ってこそ、本当の変化ってもんでございましょう。今日はこの辺りで、お後がよろしいようで」
客席から、盛大な拍手が沸き起こった。

(了)





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あとがき
本作をお読みいただきありがとうございました。刻堕としシリーズも十一作目、今回は「元犬」という、変化してなお抜けきらない癖が愛おしい噺を題材にしました。
この噺の魅力は、姿形が変わっても、中身の自分だけは簡単には変わりきらないという、その頑固さにあると思います。今回はその「変化してなお自我が残る」という型が丸ごと欠落し、中身の空っぽな変化が量産されるというSF的な事件にしてみました。
シロが最後まで自分自身を失わずにいられたのは、単に人間になりたいという憧れだけでなく、犬だった頃の自分ごと引き受けようとする、欲張りで一途な願いがあったからだという結末に落ち着きました。変わることと、変わらずにいることは、決して矛盾しないのだというテーマを、シリーズを通じて描けていれば幸いです。
四つん這いのまま尻尾を探してしまう、可笑しくも愛おしい変化の噺を、楽しんでいただけましたら幸いです。それでは、また次の継ぎ目でお会いしましょう。


約束の軌道
―― ときの獣、めぐる恋の記 ――

まえがき
人は、人生の中でいくつもの「もし」を抱えて生きています。
あのとき違う言葉を選んでいたら。
あのとき勇気を出していたら。
あのとき、あと一歩だけ踏み出していたら。
しかし、時間は決して戻りません。
けれど不思議なことに、人生にはもう一度だけ、自分の軌道が交わる瞬間が訪れることがあります。
本作『約束の軌道 ――ときの獣、めぐる恋の記――』は、動物保護区を舞台に、人間だけが抱える「迷い」と、獣たちが教えてくれる「嘘のない生」を重ねながら、一人の男が十五年前の約束に向き合う物語です。
白い獣は何者だったのか。
刻の番人は、本当に存在したのか。
それとも、人生が見せる最後の勇気だったのか。
その答えは、読者それぞれの胸の中にあります。
読み終えたあと、大切な誰かの顔が浮かぶ物語になれば幸いです。





 保護区の朝は、いつも獣たちの息づかいから始まる。
 修一は毎朝五時に目を覚まし、まだ星の残る空の下で長靴を履き、餌の入ったバケツを両手に提げて獣舎を回る。
 齢十九になる年老いた牝鹿のマユが、柵の向こうから彼を見つめている。白内障でうっすらと白濁した瞳は、もう修一の姿を捉えていないかもしれない。それでも耳をこちらへ向け、かすかに震える後ろ脚を踏みしめながら、足音だけを頼りに必ず柵際まで歩いてくる。
 人間は年を取ることを厭う。老いを恐れ、隠し、抗おうとする。だが動物たちは違う、と修一は思う。彼らは老いを隠さない。飾らない。ただ淡々と、与えられた持ち時間を、嘘をつくことなく生きていく。
 マユの毛並みに触れると、そこに保護区の朝の匂いが染み込んでいるのがわかる。土の湿り気、朝露の冷たさ、遠くの森から運ばれてくる樹液の匂い。動物たちはその身ひとつで、気温も湿度も匂いも、すべてを纏って生きている。まるで舞台の上でどんな名優も敵わないほどの、嘘のない表現を、その存在だけでやってのけているのだ。
 獣舎の奥には、齢五十を超える老いた象のハナがいる。かつては群れの先頭に立ち、若い象たちを導いていたというハナは、今では一日のほとんどを木陰でまどろんで過ごす。それでも、修一が近づくと、長い鼻をそっと伸ばして挨拶をする。その仕草には、老いを恥じる素振りなど微塵もない。与えられた持ち時間の中で、今できることを、今この瞬間に差し出しているだけだった。
 空を見上げれば、渡りの時期を過ぎてなお残った一羽の鶴が、朝靄の中に佇んでいる。群れを離れ、翼を痛めたその鶴は、もう遠くへ渡ることはできない。それでも、毎朝同じ場所に立ち、同じ方角――かつての仲間たちが去っていった北の空を、静かに見つめ続けている。嘘もなく、後悔の言葉を口にすることもなく、ただそこに在り続ける、その姿。
 修一は四十二歳になっていた。保護区の獣医として働き始めてから、もう十七年が経つ。若い頃は、自分にはまだ無限の時間があると信じていた。命は永遠だとさえ思っていたわけではない。ただ、自分の時間が有限であることなど、疑いもしなかった若い日々は、とうに過ぎ去っていた。
 いま、老いていくマユの瞳を見つめるたび、修一は自分自身の中にある、取り返しのつかない何かを思い出す。
 それは、十五年前に置き去りにしてきた、ある約束だった。



 その夜、保護区の見回りを終えた修一が事務所の明かりを消そうとしたとき、獣舎の奥から物音がした。
 普段なら気にも留めない、風に揺れる金網の音かもしれない。だが、その夜だけは違った。吐き出す息がいつもより白く、まるで季節がそこだけ巻き戻ったかのように、張り詰めた冬の夜の匂いがした。空気そのものが、わずかに重みを増したように感じられたのだ。
 懐中電灯を手に奥へ進むと、誰も入れるはずのない、廃屋になった旧獣舎の前に、一頭の白い獣がうずくまっていた。狼のようでいて、狼ではない。鹿のようでいて、鹿でもない。毛並みは霜のように白く、月明かりを吸い込んでほのかに発光しているようにも見えた。
「……お前は」
 修一が声をかけると、白い獣はゆっくりと顔を上げた。その瞳は、獣のものではなかった。深く澄んだ、砂時計の中を落ちていく砂粒のような、静かな時間の色をしていた。
「わたしは、名を持たぬ者だ」と、獣は――否、その存在は、声ならぬ声で告げた。「強いて呼ぶならば、〈刻(とき)の番人〉とでも呼ぶがいい」
 修一は言葉を失った。恐怖よりも先に、不思議な懐かしさが胸に込み上げてきた。まるで、ずっと昔に会ったことのある誰かに再会したような。
「なぜ、ここに」
「お前が、幾度となくここで思い出しているからだ」と番人は言った。「老いていく獣たちを見るたび、お前は思い出す。十五年前、お前が掴みそこねた、たった一つのものを」
 修一の脳裏に、ある女性の顔が浮かんだ。
 由紀――大学時代、彼が心の底から大切だと感じた、ただ一人の相手だった。



 あの頃、修一と由紀は同じ研究室で、野生動物の生態を学んでいた。由紀は誰よりも動物を愛し、誰よりも真っ直ぐに、思ったことを言葉にする人だった。
「動物たちってね、嘘がつけないの」と、由紀はよく言っていた。「だからこそ、綺麗なんだと思う」
 修一は、その言葉に自分の将来のすべてを重ねていた。彼女と共に、動物たちの傍らで生きていく人生を、漠然と、けれど確かに思い描いていた。
 だが、卒業を控えたある日、由紀の父親の転勤が決まった。彼女は遠い北の街へ引っ越すことになり、修一には大学院への進学と、教授から紹介された保護区での実習という選択が重なっていた。
「一緒に来てとは言わない」と、由紀は最後に会った日、静かに言った。「でも、もし本当にわたしのことを想ってくれているなら、今、ここで、それを言葉にしてほしい」
 修一は、言えなかった。
 実習が始まったばかりで、将来が定まっていない自分には、彼女を追いかける資格などないと思い込んでいた。理性が、感情に蓋をした。今はまだその時ではない、いずれ落ち着いたら、きちんと迎えに行こう――そう自分に言い聞かせて、由紀を見送った。
 だが「いずれ」は、二度と来なかった。
 手紙は数回、途切れがちに交わされたが、由紀の住所はやがて分からなくなり、風の便りに、彼女が結婚したという噂を聞いたのは、それから三年後のことだった。
 噂は、真実かどうか確かめる術もないまま、修一の中で十五年、凍りついたように留まっていた。



「惑星の軌道というものを、知っているか」
 刻の番人は、修一の記憶を覗き込んだかのように、静かに問うた。
「彗星は、太陽の周りを巡る。ある軌道に乗ったものは、一度だけ太陽に近づき、光を放って、そしてまた闇の彼方へと遠ざかっていく。次にまた同じ場所に戻ってくるまでには、人の一生よりも長い歳月がかかることもある」
「それが、由紀と何の関係があるんだ」
「お前が十五年前に掴みそこねたものは、まだ完全には失われていない」と番人は言った。「軌道は、一度目の近日点を過ぎても、消えてしまうわけではない。ただ、遠ざかっているだけだ。……そして今、その軌道は再び、お前の生きる時間の近くを通り過ぎようとしている」
 修一の心臓が、大きく音を立てた。
「由紀が、今、この街にいるということか」
「三日後」と番人は答えた。「三日後の夕刻、由紀という女は、この保護区からほど近い、あの丘の上の教会で、ある催しに立ち会う。それが、お前に残された、最後の――そして、おそらくは、この世でただ一つの機会だ」
「最後の、機会……」
「決して代用の効かないものだ」と番人は繰り返した。「迷い、気取り、うかうかと見過ごせば、それはまた軌道を描いて、二度と戻らぬほど遠くへと向かうだろう。お前たちの一生の尺度では、二度と巡り会えぬほどに」
 修一は、震える声で尋ねた。
「もし、行ったら……何が起きる」
「わたしは、それを知らない」と番人は、初めて人間じみた、どこか寂しげな声で言った。「わたしは軌道を告げるだけの者。その先に何があるかは、お前自身が決断し、言葉を選び、その足で確かめるしかない」



 その夜から、修一は眠れなかった。
 三日という猶予は、あまりにも短く、そしてあまりにも長かった。
 翌朝、獣舎を回りながら、修一は一頭一頭の獣たちと、いつもより長く向き合った。
 白内障のマユ。片翼の関節が変形し、もう飛ぶことのできない鷹のシロ。群れからはぐれ、一頭だけで生きてきた老いた狼のクロ。
 クロは、修一が近づいても、決して媚びることをしなかった。ただ静かに、獲物を狙うでもなく、警戒するでもなく、まっすぐにこちらを見つめ返す。その瞳の奥には、嘘のない、飾らない生の重みがあった。
「お前は、迷わないんだな」
 修一がそう呟くと、クロはふいと視線を外し、また眠りについた。まるで、迷うという行為そのものが、獣にとっては無縁のものだとでも言うように。
 人間だけが、迷う。人間だけが、理性という名の重石を抱えて、心の叫びに蓋をする。
 修一は思い出す。由紀と最後に会った日、彼女の瞳が、じっと自分を見つめていたことを。あれは、クロの瞳と同じだった。嘘のない、まっすぐな、たった一度の願いだった。
 そして自分は、その願いから目を逸らした。
 その足で、修一は老いた象のハナのもとへ向かった。ハナは相変わらず木陰でまどろんでいたが、修一の気配を感じると、薄目を開けて長い鼻をこちらへ伸ばしてきた。
「お前は、群れの先頭を歩いていたんだってな」と修一は、誰に言うともなく呟いた。「迷わず、進む道を選んで」
 ハナは答えない。ただ、大きな体をゆっくりと揺らし、鼻先で修一の手のひらを撫でるようにした。その仕草は、まるで「迷いなど、いくらでも抱えていい。ただ、それでも歩みを止めるな」と語りかけているようだった。
 翼を痛めた鶴のところにも、修一は足を運んだ。鶴は今日もまた、北の空を見つめて佇んでいる。渡ることのできなかった鶴が、それでも同じ方角を見つめ続ける理由を、修一はふと理解できた気がした。届かないと分かっていても、目を逸らさずにいることそのものが、その存在の証だからだ。
 夜、寝床に入っても、修一の頭の中では由紀との記憶が何度も再生された。彼女の笑い方、動物の子を抱き上げるときの手つき、雨上がりの匂いを深く吸い込んで目を細める癖。十五年という歳月は、それらの記憶を色褪せさせるどころか、かえって輪郭をくっきりとさせていた。
 迷いは消えなかった。だが、迷いながらも進むことはできる――ハナが、鶴が、そしてクロが、その身をもって教えてくれていた。
 二日目の夜、修一は再び白い獣に会った。
「怖いのか」と番人は尋ねた。
「怖い」と修一は正直に答えた。「もし行って、彼女がもう幸せに暮らしていたら。もし、噂通り結婚していて、子供もいたら。もし、こんな十五年越しの想いなど、迷惑にしかならなかったら」
「それでも」と番人は言った。「お前は、行かずに済ませられるのか」
 修一は、答えられなかった。
 答えは、もう自分の中に、ずっと前から在った。



 三日目の夕刻、修一は保護区での仕事をすべて片付け、上司に事情を話して早退の許可を得た。丘の上の教会までは、車で四十分の距離だった。
 道中、修一の脳裏には、由紀の言葉が繰り返し蘇っていた。
「動物たちってね、嘘がつけないの。だからこそ、綺麗なんだと思う」
 自分は、あの日から十五年間、嘘をついてきたのかもしれない。忙しさを理由に、若さを理由に、将来の不確かさを理由に。だが本当は、ただ怖かっただけだ。心の底から誰かを求め、その答えを聞くことが怖かっただけなのだ。
 丘を登る道の途中、修一は車を停め、外に出た。夕暮れの空の下、遠くの森から、獣の遠吠えが一つ、風に乗って届いた。クロの声かもしれない。あるいは、この世界のどこかで、同じように誰かを想い、迷い、それでも前へ進おうとする、名もなき獣の声かもしれなかった。
「今すぐ、手を差し出して、掴み、手繰り寄せねばならない」
 修一は、自分にそう言い聞かせた。
 もしそれが最後のチャンスならば。もし、この世でたった一つの、代用の効かないものならば。
 迷っている暇はない。だが、慌てふためいて駆け出すのでもない。刻の番人が最後に告げた言葉が、耳の奥で静かに響いていた。
「悠々として、急げ」
 それは矛盾した言葉のようでいて、修一の中で、不思議なほどすとんと腑に落ちた。慌てず、しかし止まらず。焦らず、しかし決して歩みを緩めず。腹を据えて、まっすぐに進むこと。
 修一は再び車に乗り込み、丘を登り切った。
 教会の前には、夕陽を浴びた人々が数人集まっていた。何かの記念行事――保護区と姉妹提携している自然保護団体の、十五周年を祝う小さな集いだと、後で聞いた。
 その人だかりの中に、修一は一人の女性の後ろ姿を見つけた。
 柔らかく波打つ髪、少し猫背気味の立ち姿、遠くの景色を眺めるときに小首を傾げる癖――十五年経っても変わらない、由紀のシルエットだった。



 修一の足が、地面に縫い付けられたように動かなくなった。
 ここまで来て、まだ迷っているのか、と自分自身に呆れる。だが、これは迷いではなく、覚悟を固めるための、最後の一呼吸だった。
 クロの瞳を思い出す。嘘のない、まっすぐな生。マユの震える後ろ脚を思い出す。老いてなお、柵の向こうまで歩いてくる意志を。
 修一は、一歩を踏み出した。
「由紀」
 名を呼ぶと、その女性はゆっくりと振り返った。
 夕陽を背にしたその顔は、記憶の中の由紀よりも、少しだけ大人びていた。目尻には、優しい皺が刻まれていた。だがその瞳は、あの日と変わらず、嘘のない光を湛えていた。
「……修一くん?」
 驚きに見開かれたその瞳の奥に、修一は懐かしさと、戸惑いと、そしてほんの一瞬、昔と同じ光が揺れるのを見た気がした。
「話したいことがあって、来た」と修一は言った。声が震えていた。「十五年前、言えなかったことを、今からでも、言わせてほしい」
 由紀は、何も答えなかった。ただ、じっと修一を見つめていた。その沈黙の中に、喜びがあるのか、戸惑いがあるのか、あるいは静かな拒絶があるのか、修一には読み取ることができなかった。
「……どうして、今になって」と、しばらくして由紀は、掠れた声で言った。「十五年も経ってから」
「言い訳にしかならないと分かってる」と修一は答えた。「臆病だった。将来が定まっていない自分には、君を追いかける資格がないと思い込んで、自分で自分を遠い軌道へと押しやってしまった。でも、それは嘘だった。ただ、君を失う答えを聞くのが、怖かっただけだ」
 由紀の視線が、一瞬、地面に落ちた。それから、また修一を見上げた。
「わたしも、待っていたわけじゃないの」と彼女は言った。「この十五年、ちゃんと自分の人生を生きてきた。だから、今さらあなたが現れたところで、何かが単純に元通りになるわけじゃない」
「分かってる」と修一は頷いた。「それでも、言わずにはいられなかった。もしこれが、もう二度と巡ってこない軌道なら――迷って、また見過ごすことだけは、したくなかった」
 風が、丘を吹き抜けた。教会の鐘が、遠くでかすかに鳴った。夕陽の最後の光が、二人の影を長く長く、地面に伸ばしていた。
 由紀の唇が、わずかに動いた。
 だが、その言葉が音になる前に――



 修一は、獣舎の柵の前に立っていた。
 朝の光が、保護区に降り注いでいる。マユが、いつものように柵際まで歩いてくる。その白濁した瞳と震える後ろ脚を見つめながら、修一はふと、あの丘の上での出来事が、本当に起きたことだったのか、それとも刻の番人が見せた、ひとときの幻だったのか、自分でも分からなくなることがある。
 あの日以来、白い獣の姿を、修一は二度と見ていない。
 だが、たしかなことが一つだけある。修一は、あの丘を登った。迷いながらも、足を止めなかった。嘘のない自分の心を、十五年越しに、ようやく言葉にした。
 その先に、何が待っていたのか。
 由紀と再び言葉を交わす日々が続いているのか、それとも、あの夕暮れの一瞬だけが、二人に許された、最初で最後の邂逅だったのか――それを語ることは、まだ修一自身にもできない。
 ただ、マユの瞳を覗き込むたび、修一は思う。
 軌道を描いて遠ざかっていくものも、たしかにある。だが、一度でも手を伸ばし、掴もうとしたことは、決して消えない。たとえ結末がどうであれ、その一歩を踏み出した自分自身は、もう二度と、あの十五年前の、迷ってばかりいた自分には戻れないのだと。
 保護区の朝は、今日もまた、獣たちの息づかいから始まる。
 温度も、湿度も、匂いも、すべてを纏って、嘘なく生きる獣たちの傍らで、修一は今日も長靴を履き、餌の入ったバケツを両手に提げて、獣舎を回る。
 その足取りは、慌てることなく、けれど確かに、前へと進んでいた。
 悠々として、急ぐように。


(了)


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あとがき
動物たちは、老いることを隠しません。
傷も、衰えも、別れも、そのすべてを受け入れながら、今日という一日を懸命に生きています。
一方、人は未来を恐れ、過去を悔やみ、まだ来ぬ明日に心を奪われます。
だからこそ、「今」を見失うことがあります。
本作を書き終えた今、私自身もまた、人生とは「結果」ではなく、「踏み出した一歩」にこそ意味があるのではないかと思うようになりました。
たとえ結末が望んだものでなかったとしても、勇気を出して心を言葉にした事実は、決して消えることはありません。
物語の最後に掲げた「悠々として、急げ」という言葉は、この作品の主人公だけではなく、私自身への戒めでもあります。
人生には、代わりのきかない約束があります。
どうか皆さまが、その軌道を見失うことなく、大切な人へ手を伸ばせますように。

夢渡り もう一つの選択

まえがき
「思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせばさめざらましを」
これは、平安時代の歌人・小野小町が遺した有名な和歌です。
かつて日本では、夢は「通い路(かよいじ)」と呼ばれていました。どうしても会うことの叶わない大切な人がいるとき、互いを想う強い心が、夜の夢の中で二人を引き合わせてくれる――昔の人々はそう信じていたのです。
翻って現代。最先端の物理学である量子力学の世界には、「多世界解釈」という非常に興味深い理論が存在します。私たちが人生の岐路で「選択」をするたびに、世界は枝分かれし、選ばなかった方の可能性もまた、別のパラレルワールドで現実として進み続けている、という考え方です。
もし、この古の「夢の通い路」という情緒的な発想と、現代物理学の「多世界解釈」が、人間の脳という小宇宙のなかで結びついたとしたら……。
本書は、そんな一つの「もしも」から生まれた物語です。
主人公の芦原悠と共に、夢の境界線を越える旅へ出かけてみませんか。
そこに待っているのは、あなた自身の人生を、もう一度愛おしむための、小さな光かもしれません。




登場人物
芦原 悠(あしはら ゆう)、六十歳。定年退職後の元エンジニア。三年前に妻・聡子を亡くした。

早月(さつき)、悠の若き日の恋人。海辺の民宿の一人娘だった。

聡子(さとこ)、悠の妻。三年前に病で他界。

芦原 実紀(あしはら みき)、悠の娘。美咲とは大学時代からの友人。
芦原 隆之(あしはら たかゆき)、悠の息子。実紀の兄。

沢田 美咲(さわだ みさき)、量子脳科学の研究者。父の遺志を継ぎ、「夢渡り」現象を研究している。

沢田教授、美咲の亡き父。量子脳理論と多世界解釈を結びつける独自の理論を構築した物理学者。

序章 消えてゆく夢
 毎晩、夢を見る。
 芦原悠、六十歳。三月に定年退職の延長雇用も終え、今はただ、朝が来るのを見送るだけの日々を送っている。若い頃は「眠っている暇があったら働け」が口癖だった悠が、今では眠ることばかりが上手になった。おそらく睡眠が足りているのだろう、と自分でも思う。
 夢の中には、思いもしなかった人々が現れる。とうに疎遠になった学生時代の友人、顔も忘れかけていた昔の上司、そして、名前を出すことさえ、今の悠には少し勇気がいる、あの人。
 夢は毎晩律儀にやってくるくせに、目覚めた瞬間から、まるで潮が引くように消えていく。今朝もそうだった。布団の中で「たしか、誰かと海辺を歩いていた気がする」というところまでは覚えていたのに、洗面所で顔を洗う頃には、その海の色さえ思い出せなくなっていた。
 悠はうがいをしながら、鏡の中の自分を見る。白髪の増えた髪、目尻の皺、その奥にある目だけは、あの頃と変わっていない気がする、そんな気がするだけで、確かめる術はない。
 昔、夢は「通い路」と呼ばれていたという。
 訳あって会うことの叶わない男女が、互いを想う気持ちを募らせるほどに、夢の中でだけは巡り合わせてくれる、そんな言い伝えを、悠は若い頃に古い和歌の解説書で読んだ。小野小町の歌にもあったはずだ。「思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせばさめざらましを」。
 はてさて、と悠は独りごちる。自分にはそんな都合のいい夢は、ついぞ訪れたことがない。会いたいと思うあの人は、今もまだ、悠のところへ辿り着いてくれてはいない。
 もし夢の中で会えたなら、あの日言えなかった想いを、今度こそ正直に伝えたい、そう本気で悩んでいた時期は、とうに過ぎた。今ではただ、いつかまた、という淡い期待だけを胸に、夢を心待ちにする還暦の男がいる。それが自分だ、と悠は思う。
 台所で湯を沸かしながら、悠はふと、まだ手のひらに残る夢の温度のようなものを感じた。指先を開いても、そこには何もない。
 ただ、今日という一日がまた始まるだけだった。

第一章 海辺の町、十九の夏
 時計の針を四十年以上巻き戻す。
 悠が早月と出会ったのは、大学二年の夏、伯父の紹介で手伝いに入った海辺の民宿でのことだった。早月はその民宿の一人娘で、悠より二つ年下、まだ高校を出たばかりだった。
 初めて言葉を交わしたのは、厨房の裏手で悠が薪を割っていたときだ。危なっかしい手つきを見かねた早月が、「そんな持ち方じゃ、明日には手の皮がむけますよ」と、笑いながら斧の握り方を教えてくれた。潮風に晒された早月の髪は、いつも少し塩の匂いがした。
 その夏、悠は毎日のように早朝から働き、日が暮れると早月と二人で防波堤に座り、他愛もない話をした。将来の夢、好きな音楽、東京の大学の話。早月は「いつか遠くの街を見てみたい」と言い、悠は「じゃあ、いつか一緒に行こうか」と、半分冗談のように返した。あの頃はまだ、それが叶わぬ約束になるとは思ってもみなかった。
 九月になり、悠は東京に戻らねばならなかった。バスに乗り込む悠に、早月は小さな貝殻を一つ差し出した。「また来年、忘れずに来てくださいね」それだけ言うと、早月は踵を返し、振り返らずに歩いていった。
 悠はその貝殻を、長い間、机の引き出しの奥にしまっていた。
 次の年の夏も、その次の年の夏も、悠は同じ民宿を訪れた。二人の間にある感情に、名前をつけることは互いにしなかった。けれど、手紙のやり取りは学期の間じゅう絶えることなく続き、悠は早月の便箋の匂いを、いつしか覚えてしまうほどになっていた。
 早月もまた、悠が来る夏を指折り数えて待っていた、と後に悠は知ることになる。
 しかし、すべての物語がまっすぐに幸福な結末へ向かうわけではない、ということを、悠はまだ知らなかった。

第二章 募る想い
 大学三年の夏、悠は早月に告白しようと決めていた。貝殻を手のひらに握りしめ、民宿へ向かうバスの中で何度も練習した台詞は、結局、早月の顔を見た途端に霧散してしまったけれど。
 その代わり、二人は言葉を交わさずとも、互いの想いが同じ強さであることを、なんとなく確かめ合っていた。防波堤に並んで座り、肩と肩が触れる距離。会話が途切れても気まずくならない沈黙。悠が東京へ帰る日、早月は初めて「寂しい」と口にした。
 「来年もまた来る」
 悠がそう約束すると、早月はようやく笑って、「ええ、待っています」とうなずいた。
 だが、その年の冬、早月から届いた手紙の様子が、少しずつ変わっていった。文面はいつも通り穏やかだったが、行間に何か言い淀んでいるような気配があった。悠が「どうかしたのか」と尋ねても、早月は「なんでもありません」とだけ返してきた。
 春になり、悠は早月の家業、先代から続く民宿の経営が、思いのほか厳しい状況にあることを、風の便りに聞いた。早月の父親は体を壊し、民宿を畳むか、誰かに継がせるかの岐路に立たされているという。
 そしてもう一つ、悠がその夏まで知らずにいた事実があった。
 早月には、家同士の古い付き合いから決められた、許婚がいたのだ。

第三章 あちら側とこちら側
 その夏、悠が民宿を訪れると、早月はいつもより痩せて見えた。
 二人は最後の夜、防波堤に座った。早月は膝を抱え、海を見つめたまま、ぽつりぽつりと事情を話した。父の体のこと、民宿の借金のこと、そして、隣町の網元の息子との縁談が、もう半ば決まっていること。
 「断ることも、できたはずなんです」早月は言った。「でも、断ったら、父の代からのお店も、ここで働いてくれている人たちの生活も、立ち行かなくなる」
 悠は何も言えなかった。自分にできることなど、何もなかった。学生の身では、早月を、この土地の暮らしを、支えることなどできない。
 「私、あちら側に行きます」
 早月はそう言った。網元の家に嫁ぐことを、早月は「あちら側」という言葉で表した。まるで、自分がこれから、別の世界に渡ってしまうかのように。
 「もし」早月は続けた。「もし私が、こちら側に残ることを選べていたら」
 その先の言葉を、早月は口にしなかった。悠もまた、続きを促すことができなかった。二十歳の悠には、早月の選択を覆すだけの力も、覚悟も、なかったのだ。
 その年の秋、早月は隣町へ嫁いだ。手紙は、ぱたりと途絶えた。
 悠は貝殻を、机の引き出しの、もっと奥にしまい直した。そして、それから四十年近い歳月の間、一度も取り出すことはなかった。
幕間一 届かなくなった手紙
 早月が嫁いでからも、悠はしばらくの間、月に一度は手紙を書き続けた。返事が来ないことは分かっていながら、それでも書かずにはいられなかった。就職活動のこと、卒業論文のこと、他愛もない近況。宛先の住所を、悠は暗記してしまうほど何度も便箋に書いた。
 半年ほど経った頃、悠が書いた手紙の一通が、開封されないまま「あて所に尋ねあたりません」の付箋とともに戻ってきた。何かの間違いだろうと思い、悠は次の夏、思い切って民宿を訪ねてみることにした。
 バスを降り、懐かしい坂道を上っていくと、かつての民宿は、看板だけを残して固く戸を閉ざしていた。近所の老人に尋ねると、早月の父親はあの冬に亡くなり、母親も体を悪くして施設に入ったこと、早月自身は嫁ぎ先の家業を手伝うため、この土地からは離れて暮らしているらしいということを、悠は知った。
 「隣町の網元さんとこに嫁いだ娘さんね。もうずいぶん遠くに行っちまったって話だよ。詳しいことは、私らも聞いちゃいないけどねぇ」
 悠は結局、隣町まで足を運ぶことはしなかった。もし早月に会えたとして、今さら何を伝えられるというのか。既婚の身になった早月の生活を、かき乱すだけの結果になるのは目に見えていた。
 悠は防波堤に一人で座り、夕暮れの海を眺めながら、貝殻を握りしめた。もう二度と、この場所に来ることはないだろう、と悠は思った。実際、その予感は当たった。悠がこの町を再び訪れることは、その後の人生で一度もなかった。
 東京に戻ったバスの中で、悠は静かに、けれど確かに、一つの区切りをつけた。もう振り返らない。前を向いて生きていく。二十一歳の悠は、そう心に決めた。

第四章 こちら側で生きて
 早月が去った後、悠は勉学に打ち込んだ。卒業後は電機メーカーに就職し、仕事に明け暮れた。二十八の時、見合いで知り合った聡子と結婚し、一男一女を授かった。
 聡子との暮らしは、決して悪いものではなかった。むしろ悠は、聡子と過ごした三十年余りを、心から幸福だったと言い切ることができる。子供たちは独立し、それぞれの家庭を築いた。孫も二人生まれた。悠にとって「こちら側」の人生は、平凡だけれど、確かな手応えのある人生だった。
 聡子が病で亡くなったのは、三年前のことだ。長い闘病の末、静かに息を引き取った聡子の手を握りながら、悠は最後まで「ありがとう」しか言えなかった。
 妻を看取ってから、悠は急に、時間の流れ方が変わったように感じている。子供たちは気遣ってくれるが、それぞれの生活があり、頻繁には会えない。一人娘の実紀だけは、月に一度ほど、様子を見に来てくれる。
 「お父さん、最近よく眠れてる?」
 ある日、実紀がそう尋ねてきたので、悠は「毎晩たくさん夢を見るよ」と答えた。「けれど、朝になるとすっかり忘れてしまうんだ」
 実紀は少し考えてから、「大学時代の友達で、脳科学の研究をしている人がいるの。今度、夢の研究をしている先生を紹介しようか」と言った。
 悠は最初、社交辞令のようなものだと思い、軽く笑って受け流した。まさかその一言が、自分の人生の最後の大きな転機になるとは、この時の悠には知る由もなかった。
幕間二 聡子という人
 聡子と出会ったのは、悠が二十八になった年の、親戚を通じた見合いの席だった。飾らない性格で、よく笑う人だった。悠が「実は昔、忘れられない人がいる」と正直に打ち明けたのは、交際を始めて半年ほど経った頃だ。
 聡子はその話を静かに聞き、こう言った。
 「誰にだって、そういう人の一人や二人、いるものでしょう。大事なのは、今、目の前にいる人を大切にできるかどうかだと思うわ」
 その懐の深さに、悠は心から救われる思いがした。聡子と結婚してからの日々は、劇的な出来事など何もない、ごく普通の家庭生活だった。だがその「普通」こそが、悠にとってはかけがえのないものだった。
 長男の隆之が生まれた夜、悠は病院の廊下で、生まれて初めて声を上げて泣いた。その五年後に実紀が生まれた時も、悠は同じように泣いた。子供たちの運動会、入学式、反抗期、受験、ありふれた家族の記録を、悠と聡子は一つずつ積み重ねていった。
 仕事では、四十代で一度、大きな左遷を経験した。悔しさで眠れない夜が続いた時期、隣で黙って背中をさすってくれたのは聡子だった。「あなたが腐らずにやってきたこと、私はちゃんと見てきたから」その一言に、悠はどれほど支えられたか分からない。
 聡子が病を得たのは、悠が五十七の時だった。三年に及ぶ闘病生活の中で、聡子は最後まで気丈だった。「悠さん、私が死んでも、湿っぽい顔で過ごすのはやめてね。ちゃんとご飯を食べて、たまには友達とお酒でも飲んでちょうだい」
 悠は、聡子との人生に、一片の後悔もない。ただ、あの夏に置いてきた小さな棘のようなものだけが、聡子には決して見せることのなかった、悠の心の奥底に、ずっと沈んでいた。

第五章 沢田准教授
 実紀に連れられて悠が訪れたのは、都内の大学に併設された、こじんまりとした研究室だった。
 「沢田美咲です。実紀とは学生時代からの友人で」
 名刺を差し出しながらそう名乗った女性は、三十代半ばだろうか、白衣の下にラフなセーターを着た、飾り気のない研究者だった。専門は「量子脳科学」だという。
 「率直に伺いますが」美咲は悠の顔をまっすぐに見て言った。「芦原さんは、毎晩夢を見て、目覚めるとすぐに忘れてしまう。そうですね?」
 「ええ、その通りです」
 「それは、多くの人に共通する現象です。レム睡眠中の脳は、覚醒時とは異なる神経伝達物質の状態にあって、記憶の定着がされにくい。でも」美咲は一呼吸置いた。「私が研究しているのは、その『先』の話なんです」
 美咲は続けた。人間の脳が眠っている間、特にレム睡眠の深い段階では、脳内の微小管というごく小さな構造の中で、量子力学的な重ね合わせ状態に近い現象が起きている可能性がある、これは、かつてペンローズとハメロフという二人の科学者が提唱した仮説で、長らく異端視されてきたが、近年の実験技術の進歩によって、再評価が進んでいる分野なのだという。
 「まだ何の証明もされていません。学会でも賛否両論です」美咲は前置きしてから、少し声を落とした。「でも私は、父の遺した研究ノートを引き継いで、この五年、ある可能性を追いかけています。多世界解釈、量子力学で、観測のたびに世界が分岐していくという、あの解釈をご存じですか」
 悠は工学部出身だったから、多世界解釈という言葉自体は知っていた。しかし、それが自分の見る夢と、どう繋がるというのか。
 「もし」美咲は言った。「深い眠りの中で、脳が一時的に、通常より多くの分岐世界と『重なり』を保つことができるとしたら。そしてその重なりの隙間から、ごく稀に、別の分岐で生きているはずの自分自身や、その世界にいる誰かの意識の断片が、夢という形で漏れ込んでくるのだとしたら」
 悠は言葉を失った。

第六章 夢渡り仮説
 美咲の父、沢田教授はもともと素粒子物理学者だったが、晩年は「意識のハードプロブレム」に取り憑かれ、量子脳理論と多世界解釈を結びつける独自の理論を組み立てていたという。同僚たちからは「オカルトに走った」と陰口を叩かれ、失意のうちに亡くなった。美咲はその遺志を、こっそりと継いでいた。
 「父はこの現象を、昔の言葉を借りて『夢渡り』と呼んでいました」
 美咲はノートパソコンの画面に、複雑な波動関数の図を映し出しながら説明を続けた。
 量子力学の多世界解釈によれば、私たちが「選択」をするたびに、実際には選ばなかった方の結果も、別の宇宙、いわゆる分岐世界で実現しているという。悠が二十歳のあの夏、早月と共に生きる道を選ばなかったとしても、量子論的には、選んだ悠がどこかの分岐に存在していることになる。
 通常、いったん分岐した世界同士は、互いに干渉することも、観測することも、二度とできない。デコヒーレンスと呼ばれる過程によって、分岐は不可逆的に切り離されてしまうからだ。
 「けれど父の理論では、極めて稀に、脳が深い眠りに入った瞬間、デコヒーレンスが完了しきる直前のごく短い時間に、隣接する分岐との間に、一時的な『窓』が開くことがあるというんです。夢というのは、その窓を通して漏れてくる、別の世界線のノイズなのではないか、と」
 悠は乾いた喉で問うた。
 「それが本当なら、私の見ている夢の中には、もし私が、あの時、別の選択をしていたら生きていたはずの、もう一つの人生が映っている、ということですか」
 美咲はうなずいた。
 「可能性としては。ただし証明はされていません。それに、多くの夢はただの脳内ノイズです。本物の『夢渡り』が起きているのか、単なる願望が生んだ幻なのか、区別する方法を、私はまだ確立できていません」
 悠は、消えてしまった今朝の夢のことを思った。海辺を歩いていた、あの断片のことを。

第七章 実験
 美咲の研究には、被験者が必要だった。特に、人生の中で「選ばなかった道」を強く意識し、なおかつその分岐点をはっきりと記憶している被験者。悠はその条件に、あまりにも当てはまっていた。
 「もちろん、無理にとは言いません。これは治療でも治験でもない、あくまで基礎研究です。リスクも、正直なところ、まだよく分かっていません」
 美咲は慎重にそう前置きしたが、悠の心はすでに決まっていた。
 実験は、簡素な脳波計測器を頭部に装着し、決められた時間に眠りにつくという、拍子抜けするほど地味なものだった。眠る前には、悠自身に「思い出したい分岐点」を強く意識するよう指示された。悠は迷わず、あの夏の防波堤を思い浮かべた。
 最初の数回は、何も起こらなかった。目覚めても、いつも通り、夢の記憶はさらさらと指の間からこぼれ落ちていった。
 美咲は焦らず、機材を微調整し続けた。「デコヒーレンスの窓は、本人が思っているより短いのかもしれません。目覚めの瞬間の脳波を、もっと精密に捉える必要がある」
 四回目の実験の夜、悠は久しぶりに、朝までしっかりと覚えている夢を見た。
 夢の中で悠は、防波堤に座っていた。潮の匂いがした。隣には、誰かが座っている気配があった。振り向こうとした瞬間、目が覚めた。
 「隣に、誰かがいた気がするんです」
 悠がそう報告すると、美咲の目が、はっきりと輝いた。

第八章 断片
 それから数週間、悠の夢は少しずつ、輪郭を持ち始めた。
 ある夜は、古い民宿の厨房。薪の匂い。ある夜は、雨に濡れた商店街のアーケード。傘を分け合う誰かの肩。ある夜は、見知らぬ子供たちの声が遠くから聞こえてくる、静かな縁側。
 どの夢にも、はっきりとは見えないけれど、確かにそこにいる「誰か」の気配があった。悠は次第に確信していった。あれは早月だ、と。
 美咲は脳波データを解析しながら、興奮を隠さずに言った。
 「芦原さんの脳波、目覚める直前の数秒間に、通常では説明のつかないパターンが記録されています。デルタ波とガンマ波が同時に高振幅で現れる、非常に稀な状態です。これは……父の理論が予測していた波形に、近いかもしれません」
 しかし美咲は同時に、慎重な表情も崩さなかった。
 「言っておかなければならないことがあります。もしこれが本当に『夢渡り』だとしたら、窓が開くたびに、芦原さんの脳は、隣接する分岐世界と、ごくわずかながら情報のやり取りをしていることになります。それがどんな影響を及ぼすか、まだ誰にも分かりません。記憶の混線が起きる可能性も、否定できないんです」
 悠は少し考えてから、静かに答えた。
 「美咲さん。私はもう六十です。この歳になって初めて、もう一度、あの人に会えるかもしれない機会を貰った。多少のリスクくらい、引き受けますよ」
 美咲は何か言いかけて、結局、小さくうなずくだけにとどめた。
幕間三 娘の懸念
 実紀は、父の様子が少しずつ変わっていくのに気づいていた。
 美咲の研究室に通い始めてから、悠の表情は明らかに柔らかくなった。それ自体は喜ばしいことのはずだった。だが同時に、悠が時折、ぼんやりと宙を見つめ、話しかけても気づかないことが増えていた。
 「お父さん、最近ちょっと変よ。大丈夫?」
 ある夜、実家に立ち寄った実紀がそう尋ねると、悠は「ああ、大丈夫だ。よく眠れているだけだよ」と、いつも通りの調子で答えた。だが実紀は、父の目の奥に、何か自分には踏み込めない領域があることを感じ取っていた。
 実紀は美咲に連絡を取り、それとなく実験の内容を尋ねた。美咲は言葉を選びながらも、実験の概要と、想定されるリスクについて、正直に話してくれた。
 「実紀、正直に言うわね。私も、これが本当に安全なのか、確信を持てているわけじゃない。でも、お父様がこれほど生き生きとしているのは、正直、意外だった」
 電話を切った後、実紀は複雑な思いを抱えた。母を亡くしてから、どこか抜け殻のようになっていた父が、初めて自分の意志で何かに情熱を注いでいる。それを止める権利が、自分にあるのだろうか。
 実紀は結局、兄の隆之にも相談した。隆之は「親父の人生だ、好きにさせてやればいい」と、いつもの淡白な調子で答えたが、電話の向こうの声には、隠しきれない心配の色が滲んでいた。
 「ただ、危なそうだったら、俺たちにすぐ言ってくれよな」
 その言葉を、実紀は静かに胸に留めた。

第九章 あちら側の早月
 十回目の実験の夜、悠はついに、はっきりとした夢を見た。
 防波堤に座る自分の隣に、白髪交じりの髪をした女性がいた。潮風になびくその髪は、記憶の中の早月と同じように、少し塩の匂いがした。
 「悠さん」
 その声を聞いた瞬間、悠は夢の中だというのに、涙がこぼれるのを感じた。四十年ぶりに聞く、早月の声だった。老いてなお、あの夏と変わらない響きを持った声。
 「早月さん、本当に、早月さんなんですか」
 早月は不思議そうに首をかしげた。
 「何を今さら。私たち、結婚してもう三十年以上経つのに」
 その一言で、悠は理解した。これは、悠が知る現実とは違う、もう一つの世界線なのだと。あの夏、悠が民宿に残る決断をし、早月と共に「こちら側」ではなく「あちら側」、家業を継ぎ、二人で生きる道を選んだ、もう一つの人生。
 夢の中の悠、いや、この分岐世界の悠は、民宿を継ぎ、早月と結婚し、この防波堤のある町で、ずっと暮らしてきたのだという。子供は一人。もう独立して、東京で働いているらしい。
 悠は、自分がこの世界の「悠」ではなく、別の分岐から迷い込んだ意識の断片であることを、早月に伝えるべきかどうか迷った。だが、伝えたところで、証明する術もない。
 ただ、目の前にいる早月の横顔を、悠は食い入るように見つめた。若い頃のままの早月しか知らなかった悠にとって、歳を重ねた早月の姿は、それだけでひとつの奇跡のように思えた。
 「どうしたんです、そんな顔をして」早月が笑った。「今日は柄にもなく、ロマンチックですね」
 悠は、あの日、伝えられなかった言葉を、今なら言えるだろうかと思った。

第十章 もう一つの人生
 目覚めた悠は、しばらくの間、天井を見つめたまま動けなかった。
 美咲に報告すると、彼女は食い入るようにデータを確認した。「間違いありません。今回の脳波パターンは、これまでで最も強く、父の理論が予測していたものと一致しています」
 その夜以来、悠は毎晩のように、あちら側の世界を訪れるようになった。窓が開く時間は短く、断片的だったが、回を重ねるごとに、その世界の輪郭がはっきりとしてきた。
 あちら側の悠と早月は、民宿を小さな旅館へと発展させ、地元では名の知れた宿として、堅実に商いを続けていた。決して裕福ではなかったが、二人で築いた店には、確かな温もりがあった。
 悠は、あちら側の暮らしの細部を、少しずつ知っていった。早月が毎朝、誰よりも早く起きて出汁を取ること。悠、あちら側の悠が、腰を痛めながらも、頑固に厨房に立ち続けていること。二人でよく、閉店後の防波堤に座り、他愛もない話をすること。
 それは、悠がずっと思い描いていた「もし、あの時こちら側ではなくあちら側を選んでいたら」という夢想の、ある意味での答え合わせだった。
 そこには確かに、悠が失ったと思っていた早月との時間があった。だが同時に、悠は気づき始めていた。あちら側の人生もまた、輝かしいだけの理想郷ではないということに。
幕間四 夏祭りの夜
 ある夜の夢で、悠はあちら側の世界の、夏祭りの日に迷い込んだ。
 旅館の軒先には提灯が並び、早月は浴衣姿で、忙しく立ち働いていた。あちら側の悠、旅館の主人としての悠もまた、法被を羽織り、来客の応対に追われていた。
 「精が出ますね」
 悠がそう声をかけると、あちら側の早月は、額の汗を拭いながら微笑んだ。
 「今日は町内会の夏祭りと重なって、お客様が多いんです。悠さんも、後で一緒に花火、見ましょうね」
 厨房を手伝う若い従業員、常連客との軽口、地元の子供たちが旅館の前で花火に興じる声。それは悠が知らない、けれど確かにあり得たかもしれない、賑やかな日常の一コマだった。
 夜が更け、旅館の裏手にある小さな庭から、二人は打ち上げ花火を見上げた。あちら側の早月は、隣に立つ悠の手を、ごく自然に取った。皺の増えたその手は、悠の記憶にある若い早月の手とは違ったが、その温もりは、あの夏の防波堤で感じた温もりと、どこか同じだった。
 「毎年、この花火を見るたびに思うんです」早月は言った。「大変なことも多かったけれど、悠さんと一緒にこの町で生きてきて、良かったって」
 その言葉を聞きながら、悠は複雑な感情に包まれた。羨望と、安堵と、そして、ほんの少しの寂しさ。この温かな光景の中に、自分の居場所はない。悠はただの、通りすがりの観測者に過ぎないのだ。
 花火が最後の一発を打ち上げた瞬間、悠は目を覚ました。

第十一章 完璧ではない場所
 ある夜の夢で、悠はあちら側の早月が、一人で仏壇の前に座っている姿を見た。位牌には、見知らぬ名前が刻まれていた。
 「お義父さんね」早月はぽつりと言った。「旅館を継いだ年に、無理をさせてしまって。もっと早く楽をさせてあげられていたら」
 あちら側の悠、旅館の主人としての悠は、経営難の時期に体を壊し、長く入院していたこともあったという。早月は女手一つで旅館を切り盛りしながら、悠を看病し、子供を育てた。決して楽な人生ではなかったのだ。
 別の夜には、あちら側の早月が、ふと漏らした言葉があった。
 「時々、考えるんです。もし私が、あの人の家に嫁いでいたら、大学に進んで、東京で暮らしていたら、どんな人生だったんだろうって」
 悠は胸を突かれた。あちら側の早月もまた、自分と同じように、選ばなかった道を、時折思い出しているのだ。「こちら側」を選んだ悠の人生を、早月は知る由もないというのに。
 美咲にこのことを話すと、彼女はゆっくりとうなずいた。
 「どちらの分岐にも、幸福と苦労が、それぞれの形で存在している。それが多世界解釈の、ある意味で残酷なところです。『もし別の道を選んでいたら、すべてがうまくいっていた』というのは、幻想に過ぎない」
 悠はその言葉を、静かに受け止めた。あちら側の人生への憧れが、少しずつ、違う色合いを帯び始めていた。

第十二章 伝えられなかった言葉
 窓が開く時間は、実験を重ねるごとに、ほんの数秒ずつだが延びていった。美咲はそれを「脳が窓の存在に適応しているのかもしれません」と分析したが、同時に「これ以上の延長は、想定していたリスクの領域に入ります」とも警告した。
 悠は、残された機会がそう多くはないことを悟った。
 ある夜、悠はついに、あの夏、防波堤で言えなかった言葉を、あちら側の早月に伝える機会を得た。もちろん、あちら側の早月にとって、それはとうの昔に交わされた言葉のはずだった。だが悠は、自分自身のために、それを口にしたかった。
 「早月さん。あの夏、僕は本当は、あなたと一緒に生きていきたいと思っていました」
 早月は少し驚いたように悠を見て、それから、いつものように穏やかに微笑んだ。
 「知っていますよ。だって、あなたは今も、私の隣にいるじゃないですか」
 その答えは、あちら側の早月にとっては当たり前の、日常の一コマに過ぎなかった。けれど悠にとっては、四十年越しに、ようやく届いた返事のように感じられた。
 悠は、こちら側の人生で、聡子と築いてきた日々のことを思った。悔いのない、確かな人生だった。それでも、あの夏に置いてきた想いに、今こうしてひとつの区切りをつけられることに、深い安堵を覚えた。
 「ありがとう、早月さん」
 悠がそう呟いた時、夢の中の風景が、まるで水面に石を投げ込んだ時のように、揺らぎ始めた。

第十三章 警告
 目覚めた悠を、美咲は青ざめた顔で迎えた。
 「芦原さん、脳波が昨夜、一時的に危険域に近い数値を記録しました。窓が開いている時間が長くなるにつれて、こちら側の分岐と、あちら側の分岐の情報が、混線し始めている可能性があります」
 美咲は、父のノートの最後のページを、悠に見せた。そこには乱れた筆跡で、こう記されていた。
 「窓は、開き続けてはならない。デコヒーレンスは、脳を、そして意識を、ひとつの世界に繋ぎ止めるための、必要な防壁でもあるのだ」
 沢田教授自身も、晩年、この「夢渡り」の実験を、自らの体で試みていたのだという。そして、ある時期から、教授の様子がおかしくなった。今どちらの世界にいるのか分からなくなる瞬間が増え、家族の顔さえ、時折混同するようになったと、美咲は苦しそうに語った。
 「父は最後、こちら側の世界に、うまく戻ってこられなくなってしまったんだと思います」
 悠は言葉を失った。あちら側の早月に会えることの喜びの裏に、こんな代償が潜んでいたとは。
 「もう、これ以上は続けられません」美咲は悠の目を見て、はっきりと言った。「これは、お願いです。実験は、今夜を最後にしましょう」
 悠は、深く息を吸い込んだ。今夜が、最後の夜になる。
幕間五 沢田教授のノート
 美咲は、父の研究ノートの一部を、悠に見せてくれた。
 最後の一年分のノートは、次第に文字が乱れ、日付の記載も抜け落ちがちになっていた。ある頁には、こう記されていた。
 「今夜も、あちらの世界の方が、鮮明だった。娘の名前を、一瞬、思い出せなかった。これは危険な兆候だ。だが、あちらの世界にいる妻に、もう一度会えるなら」
 美咲の父は、若くして妻を病で亡くしていた。「夢渡り」の研究は、元々は純粋な物理学の探求だったが、いつしか、亡き妻ともう一度会うための、個人的な執着へと変わっていったのだという。
 「父は最後の数ヶ月、ほとんど、あちら側の世界で暮らしているような状態でした。こちら側の私たちのことを、時々、あちら側の家族と混同するようになって……。ある朝、父は目を覚まさなくなりました。医師の見立てでは、脳への過度な負荷が原因だろうと」
 美咲の声は震えていた。
 「私が、この研究をここまで慎重に進めているのは、父と同じ過ちを、他の誰かに繰り返させたくないからです。芦原さんには特に、そう伝えておきたかった」
 悠は、美咲の父の最期に、自分の未来を重ねずにはいられなかった。もし窓を開け続けていたら、いつか自分も、こちら側に戻れなくなるのかもしれない。
幕間六 窓の乱れ
 実験を終えるべき日の、その前の晩のことだった。
 悠は予定にはなかった、自然な眠りの中で、突然、あちら側の世界に迷い込んだ。美咲の管理下にない、無防備な状態での「夢渡り」だった。
 夢の中の悠は、あちら側の早月と、旅館の帳場に並んで座っていた。だが、いつもと様子が違った。夢の輪郭がやけに鮮明で、目覚めへと向かう感覚が、なかなか訪れない。まるで、窓が閉じ方を忘れてしまったかのようだった。
 「悠さん? どうしたの、顔色が悪いわ」
 あちら側の早月の声が、やけに遠く聞こえた。悠は焦った。戻らなければ。こちら側に、実紀や隆之が待つ、自分の本来の人生に。
 悠は必死に、聡子の顔を、子供たちの顔を、家の玄関の匂いを思い浮かべた。それが、こちら側へ戻るための、唯一の手がかりのように思えた。
 やがて、悠は自宅のベッドの上で、汗だくになって目を覚ました。時計を見ると、いつもの実験時間よりも、ずっと長く眠っていた。
 その日のうちに、悠は美咲に連絡を入れた。
 「昨夜、管理下ではない夢渡りが、自然に起きたようです。戻ってくるのに、いつもより時間がかかりました」
 美咲の声が、電話越しに緊張するのが分かった。
 「やはり、脳が窓の開放に慣れ始めているのかもしれません。芦原さん、これは、想定していたより早いペースです。予定を早めましょう。今夜を、本当に最後の夜にしませんか」
 悠は静かに、けれど迷いなく、うなずいた。

第十四章 最後の夜
 最後の実験の夜、悠はいつもより長く、目を閉じたまま横になっていた。
 夢の中の防波堤に、悠は再び座っていた。隣には早月がいた。悠は今夜が最後であることを、なぜか、はっきりと理解していた。夢の中の悠に、それを説明する言葉はなかったけれど。
 「早月さん」
 「なんですか、改まって」
 悠は、あちら側の世界の細部を、もう一度、目に焼き付けるように見渡した。潮の匂い、遠くの灯台の光、寄せては返す波の音。そして、隣にいる、歳を重ねた早月の穏やかな横顔。
 「もし僕が、こちら側の、いや」悠は言い直した。「もし、あなたと違う人生を生きている僕がいたとしたら、その僕に、何か伝えたいことはありますか」
 早月は不思議そうな顔をしたが、少し考えてから、静かに答えた。
 「そうですね……。どんな道を選んでいたとしても、精一杯生きてくれていたら、それでいいと思います。私がここで、こうして幸せに、大変なことも多いけれど、幸せに生きてきたように」
 その言葉を聞いた瞬間、悠の中で、何かが静かに定まった。
 悠は、自分が本当に選ぶべき人生を、すでに選び終えていたのだと気づいた。聡子との三十年、子供たちとの日々、そのすべてが、悠にとっての「精一杯生きた」証だったのだ。
 「ありがとう、早月さん。あなたに会えて、本当に良かった」
 早月は微笑んだ。夢の輪郭が、ゆっくりと光の中に溶けていく。
 「さようなら、悠さん。またいつか、どこかの夜に」

第十五章 こちら側で
 目覚めた悠は、しばらくの間、涙が止まらなかった。悲しみではなく、何か大きな重荷を、ようやく下ろせたような涙だった。
 美咲は脳波のデータを確認し、静かに言った。「窓は、完全に閉じました。もう二度と、同じようには開かないと思います」
 「それでいいんです」悠は言った。「僕はもう、あちら側に未練はありません」
 実験室を後にする悠に、美咲は深く頭を下げた。「危険な実験に付き合っていただいて、ありがとうございました。父の理論を、少しだけでも証明できたのは、芦原さんのおかげです」
 「いや」悠は首を振った。「僕の方こそ、ありがとうと言わなければいけません。四十年間、心のどこかで引っかかっていた棘のようなものが、今夜、すっかり抜けた気がします」
 帰り道、悠は久しぶりに、空を見上げて歩いた。夕暮れの空は、あの夏の海の色によく似ていた。
 家に着くと、悠は机の引き出しの一番奥から、あの貝殻を取り出した。四十年の歳月を経て、貝殻は白く乾き、いくつかの傷を纏っていたが、それでも確かに、あの夏の記憶を宿していた。
 悠はその貝殻を、居間の窓辺に飾ることにした。隠すものではなく、大切な思い出として。

終章 すれ違う一瞬
 それから半年が過ぎた、ある秋の午後。悠は買い物帰り、商店街のアーケードを歩いていた。
 ふと、前方から歩いてくる、白髪交じりの女性に目を留めた。年の頃は、悠と同じくらいだろうか。すれ違いざま、その人がまとう空気に、悠は思わず足を止め、振り返った。
 まさか、と思う自分がいる。けれど振り返った先には、ただ見知らぬ女性の後ろ姿があるだけだった。違うとわかっている。当たり前だ。あの人はもう、遠い海辺の町で、別の人生を生きているのだから。
 それでも、その一瞬だけ見えた横顔と、すれ違う際にふわりと香った、どこか懐かしい匂いが、あの夏の記憶を、鮮やかに呼び覚ました。
 悠は、わずか数秒だけ、微笑んでみる。
 悲しみのための微笑みではなかった。もう手繰り寄せることのできない、けれど確かに自分の人生の一部であった、あの夏への感謝の微笑みだった。
 夢は、もう昔のようには通ってこないかもしれない。それでも構わない、と悠は思う。あちら側の人生を覗き見たことで、悠は初めて、自分が生きてきた「こちら側」の人生こそが、紛れもなく自分自身の選び取った、かけがえのない道であったことに気づけたのだから。
 商店街を吹き抜ける秋の風に、悠はコートの襟を立てた。
 家に帰れば、窓辺には、あの貝殻が飾られている。そして今夜もまた、悠は眠りにつくだろう。どんな夢を見るのかは、目覚めた時にはもう分からなくなっているかもしれない。それでも、悠はもう、夢を追いかけることはしない。
 ただ、穏やかに、今日という一日を終えるだけだ。
 夢は、通い路。
 けれど今の悠にとって、その道は、もう誰かに会うためではなく、自分自身の歩んできた道のりを、静かに振り返るための道になっていた。
(了)


外伝 隆之の見た父
 最後の実験から一週間後、隆之は久しぶりに実家に立ち寄った。
 父の悠は、居間の窓辺に飾られた古い貝殻を、何か大切なものでも扱うように眺めていた。隆之がそれについて尋ねると、悠は少し照れくさそうに、「若い頃の、大事な思い出の品だよ」とだけ答えた。
 母が亡くなってからの三年間、父はどこか心ここにあらずといった様子で日々を過ごしていた。隆之はそれを、当然の悲しみの表れだと理解していたし、無理に踏み込むべきではないとも思っていた。
 だが今、目の前にいる父は、明らかに何かが違っていた。以前よりも表情が柔らかく、言葉に張りがある。妹の実紀から、美咲という研究者の実験のことは聞いていた。正直、隆之は半信半疑だった。量子力学だの多世界解釈だの、俄かには信じがたい話だ。
 しかし、父の変化そのものは、紛れもない事実として、隆之の目の前にあった。
 「親父、その実験、結局どうだったんだ?」
 隆之がそう尋ねると、悠はしばらく黙って庭を眺めた後、静かに答えた。
 「うまく言葉にはできないが……。長い間、心のどこかに刺さっていた棘のようなものが、抜けた気がするんだ。お前たちには、心配をかけて悪かったな」
 隆之は、それ以上、深く追及することはしなかった。父が本当に別の世界を覗いたのか、それとも老いた心が見せた美しい幻だったのか、その真偽を確かめる術は、自分にはない。ただ、目の前の父が、以前よりも穏やかな顔をしていることだけは、確かだった。
 「今度、みんなでメシでも食おうぜ。親父の好きな店、まだあるんだろ」
 悠はうなずき、少しだけ、涙ぐんだように見えた。


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あとがき
 「夢は通い路」という古い言い伝えを軸に、還暦を迎えた男が、若き日の淡い恋と、現在の穏やかな諦観との間を行き来する、そんな詩に触れた時、私はふと思ったのです。もしこの「夢で通う」という古の発想を、現代の量子力学、とりわけ多世界解釈という科学理論と結びつけたら、どんな物語が生まれるだろうか、と。
 多世界解釈は、私たちが選択をするたびに、選ばなかった方の可能性もまた、どこかの宇宙で実現しているという、壮大で、少し切ない理論です。誰しも、人生のどこかで「もしあの時、違う道を選んでいたら」と、一度は考えたことがあるのではないでしょうか。
 けれど本作を通して私が描きたかったのは、「あちら側」への憧れそのものよりも、むしろ「こちら側」の人生を、あらためて肯定するための物語です。悠が最終的に辿り着いた答えは、過去への未練を捨てることでも、後悔を否定することでもありません。選ばなかった道にもまた、それぞれの喜びと苦労があったことを知った上で、自分が実際に歩んできた道を、静かに、誇りを持って抱きしめること。それこそが、本作の願いです。

夢は通い路 第二部


第四章 あちら側の僕
夢は、日ごとに濃くなっていった。濃くなる、という言い方はおかしいかもしれない。けれど、僕にはそれ以外の言い方が思いつかなかった。夢の色が濃くなり、匂いが濃くなり、時間が濃くなり、そこにいる彼女の輪郭が濃くなっていった。目覚めたあとに残るものも、日ごとに、少しずつ、多くなっていった。
そして、ある夜から――夢のなかの「僕」が、はっきりと、こちら側の僕ではなくなった。

その夜、僕は、大学の講義室にいた。十七歳ではない。二十歳くらいの、大学生の身体だった。膝の上に、微分積分学のテキストがのっていた。左手に、シャープペンシル。右手で、ときどき、頬杖をついていた。
黒板の前で、白髪の教授が、なにやら数式を書き連ねている。まわりの学生たちが、それを熱心に、あるいはうんざりと、写している。
隣の席に、結がいた。大学生の結。少し短くなった髪。夏だからだろう、白い半袖のブラウスに、紺のスカート。首もとに、細い銀のネックレスが光っていた。
「透くん、この式、写した?」
結はささやくように、僕に訊いた。透くん。僕は、その響きに、少しだけ、驚いた。高校時代、彼女は僕のことを「森野くん」と呼んでいた。「透くん」と呼ばれた覚えは、少なくとも、こちら側の僕には、なかった。
しかし、夢のなかの僕は、その呼び名にごく自然に慣れていて、当たり前のようにこう答えた。
「うん、写した。あとで見せるよ」
「ありがと」
彼女は、少し首をかしげて、笑った。その仕草は、あの日の教室の彼女と、少しも変わらなかった。

講義が終わったあと、僕らは大学の中庭を、並んで歩いた。七月の光が、けやきの葉のあいだから、まだらに落ちていた。木陰の空気は少しひんやりとして、遠くで、蝉が鳴きはじめていた。
「透くん」
「うん」
「わたしね、この夏、函館に帰ろうと思ってるの」
僕は、足を止めた。
「一スタディくらい。両親のところ」
「ああ、そういう」
僕は、ほっとしたようにうなずいた。夢のなかの僕は、ほんの一瞬、彼女が「別れよう」と言い出すのではないかと、身構えていたようだった。そのことに、僕は少し、笑った。
そうだった。結が北海道に去ったあと、この「あちら側」の僕たちは、二人とも同じ関東の大学に進み、そこで再会したのだ。彼女は東京の女子大に、僕は同じ沿線の僕立大学に。時々、二人で待ち合わせて、映画を見た。カフェで宿題をした。図書館で肩を並べて、参考書を写した。
そして、大学三年の春、僕は彼女に、告白した。
「ずっと、好きだった。高校のときから」
結は、少しだけ、目をふせた。それから、顔を上げて、こう言った。
「知ってた」
彼女はいたずらっぽく笑った。「わたしも、ずっと待ってたんだよ、森野くん」

――そこで、僕は目が覚めた。
朝の光のなかで、僕はしばらく、動けなかった。「ずっと待ってたんだよ、森野くん」その声が、耳のなかで、はっきりと残っていた。結の声だった。けれど、それは、こちら側の僕が、聞いたことのない声だった。
僕は、震える手で、ノートを開いた。七行目に、僕はこう書いた。
『あちら側で、僕は彼女に告白した。彼女は、待っていた、と言った』
そのあとに、少しだけ、間をおいて、こう書き足した。
『僕は、いま、こちら側の僕の記憶を書いているのだろうか。それとも、あちら側の僕の記憶を書いているのだろうか』

その日、僕は店を開けるのが、いつもより三十分ほど遅れた。普段なら朝八時にはシャッターを上げるのだが、その日は、朝食のあと、ずっと居間の椅子に座って、天井を眺めていた。天井の木目が、いつもより深く、こちらを見つめ返してくる気がした。
昼過ぎ、七尾さんが店にやってきた。
「森野さん、大丈夫ですか」
彼女は、僕の顔を見るなり、そう言った。
「え?」
「ずいぶん、お疲れのようですけど」
「ああ、いや」と僕は苦笑した。「夜、よく眠れているんですけどね。むしろ、眠りすぎているのかもしれません」
「夢を、たくさん見ていらっしゃる」
「ええ」
「そして、少しずつ、覚えていらっしゃる」
「ええ」
七尾さんは、いつものように、レジ台のわきの椅子に、そっと腰を下ろした。「森野さん、少し、うかがっていいですか。その夢のなかの『あなた』は、いまの森野さんですか? それとも、若い頃の森野さんですか?」
僕は少し考えて、答えた。「若い頃の僕、です。ときには十七歳、ときには二十歳くらい」
「そして、その若い森野さんは――こちら側の森野さんとは、少し違う人生を、歩んでいる?」
僕は、ゆっくりと、うなずいた。「あちら側の僕は、あの日、『元気で』と言わなかった。彼女に、行かないでほしいと言った。 そして、大学で再会した」
七尾さんは、少しのあいだ、黙っていた。彼女の眼鏡の奥の瞳は、店の奥のほうを、じっと見ていた。彼女は考えごとをするとき、いつも、そこの奥まった書棚のあたりを見る癖があった。
「森野さん」と、しばらくして、彼女は言った。「これは、あくまで、私の仮説の話です。実証のない話です。それを承知で、聞いていただけますか」
「もちろん」
「もし、いま森野さんが体験なさっていることが、私の言う『夢通い路』現象だとしたら――森野さんは、並行する別の宇宙の、もうひとりの森野透さんと、意識的に接続しはじめている、ということになります」
「あちら側の、僕と」
「はい。そしてそれは、量子力学の言い方をすれば、あなたのニューロンの微小管のなかにある量子状態が、あちら側のあなたの微小管と、もつれあった状態にある、ということです」
「もつれ」
「はい。そんなことがあるのかと問われれば、証明はされていません。でも、あってはならない理由も、いまのところ、見つかっていません」
七尾さんは、静かにお茶を飲んだ。そして、湯呑みを置いて、僕の顔をまっすぐに見た。
「もうひとつ。そうやってつながる相手は、必ずしも、その並行宇宙の『いまも生きている自分』とはかぎらないんです」
「――というのは?」
「量子的なもつれは、時間の向きにも、あまり厳密ではありません。過去の意識状態と、現在のあなたが、もつれあうこともありえます。あるいは、その並行宇宙で、すでに亡くなっている人の、生前の意識の残響と、あなたがつながっている、ということも、理論的には、ありえる」
僕は、湯呑みに手を伸ばそうとして、動きを止めた。「亡くなっている、人の、残響」
「はい」
七尾さんは、静かに、うつむいた。「森野さん、これはあくまで、可能性のひとつです。決してそうだと決めつけないでいただきたい。ただ――もし、夢のなかで会っている『誰か』が、感覚として『とても遠くから呼んでいるように感じられる』ときには、少しだけ、注意していただきたいんです」
僕は、しばらく、黙っていた。外を、自転車が一台、通り過ぎた。ペダルの軋む音が、遠くから近くへ、そしてまた遠くへと、静かに移っていった。
「注意、というのは」
「――こちら側で、しっかり、地に足をつけていてください、ということです」
七尾さんは、少し、笑った。「変な言い方ですけれど」
「いえ」と僕は言った。「よく、わかります」

七尾さんが帰ったあと、僕は、ずいぶん長いこと、レジのわきに座っていた。彼女の話を、頭のなかで、何度も反芻していた。
――過去の意識状態と、現在のあなたが、もつれあうこともありえます。あるいは、その並行宇宙で、すでに亡くなっている人の、生前の意識の残響と。
残響。その言葉は、僕の胸のなかで、静かに、しかし、じわじわと、広がっていった。
もし、夢のなかで僕が会っているのが、あちら側の「いまの結」ではなく、あちら側の「過去のどこかの結の残響」だとしたら――それは、僕にとって、なにを意味するのだろう。僕は、それを考えることが、少し、怖かった。
その夜、僕は、なかなか寝つけなかった。床のなかで、天井を眺め、寝返りを打ち、目を閉じ、また目を開けた。眠ろう、と思うと、かえって眠れない。夢のなかで、また会えるだろうか。会えなかったら、どうしよう。会えたとしても、もし、彼女が「残響」だったら、どうしよう。そんなことを、あれこれ考えているうちに、真夜中を、ずいぶん過ぎた。
けれど、ふと、気がつくと、僕は、あの糸の感覚を、また、はっきりと感じていた。胸のなかから、暗闇の奥へと、まっすぐに伸びている、細い、頼りない糸。その糸の向こうに、たしかに、誰かが、いる。
――ねえ、あなた。
聞き覚えのある、女の声が、糸を伝って、届いた。こちら側の僕は、暗闇のなかで、心のなかで、そっと返事をした。
――ここにいるよ。
しばらくの沈黙。やがて、糸の向こうから、こんな言葉が、返ってきた。
――やっと、会えた。
僕は、その言葉の意味を、すぐには、掴みきれなかった。やっと。やっと、というのは、どういう意味なのだろう。
――待って、と僕は言った。――待って。あなたは、誰?
しかし、その問いに、返事は、なかった。かわりに、糸の向こうから、静かな、静かな、泣き声のようなものが、伝ってきた。僕は、その泣き声のなかへ、ゆっくりと、眠りに落ちていった。

夢のなかで、僕は、初めて、あちら側の家に立っていた。
そこは、東京の郊外の、小さな一軒家だった。門の前に、細い、白い花をつけた木があった。玄関のドアは、少し古い、木製の観音扉だった。僕は、その家の前に、ぼんやりと立っていた。
「おかえりなさい」
家のなかから、結の声がした。僕は、答えられなかった。答えたいのに、口が、動かなかった。
朝、目が覚めたとき、僕の目じりから、涙が一筋、耳のほうへと、伝っていた。僕は、しばらく、天井を見つめていた。そして、ようやく、口を開いた。
「――ただいま」
僕は、そう、つぶやいた。

その日は、店を開けなかった。「本日休業」の札を、シャッターの内側からぶら下げて、僕は、朝からずっと、居間の窓辺に座っていた。ノートは、膝の上に開いていたが、書くことは、なかなか、まとまらなかった。
――やっと、会えた。おかえりなさい。
その二つの言葉のあいだに、なにか、大きなものが、隠れている気がした。あちら側の結は、なぜ「やっと」と言ったのか。なぜ、「おかえりなさい」と、僕を、迎えたのか。僕は、こちら側の透だ。あちら側の家に帰るべき人間ではない。そうであるはずなのに、彼女は、僕を、迎えた。
――もしかして。
僕は、そこで、はじめて、はっきりと、その考えに、たどり着いた。もしかして、彼女は――僕を、あちら側の透と、間違えているのではないか。それとも――あちら側の透は、いま、そこにいないから、僕をその代わりに、呼んでいるのではないか。
そこまで考えて、僕は、両手で、顔を覆った。一日中、店を閉めたまま、僕は、その家の玄関の前に、ぼんやりと立ち尽くしていた自分の夢を、何度も、思い返した。
夕方、僕はようやく、ノートに、一行だけ、書きつけた。八行目。
『あちら側で、僕は、もう、そこにいないのかもしれない』
書き終えて、僕は、しばらく、ペンを、握ったままだった。指先が、また、冷たくなっていた。十七歳のあの日、結の前で、そうだったように。
夜、床に就くとき、僕は、静かに、目を、閉じた。胸の糸は、今夜も、張られていた。けれど、糸の向こうから、声は、届かなかった。かわりに、遠くから、なにか、静かな、雨のような音が、聞こえた気がした。雨の音のなかに、ときどき、風鈴の音が、混じった。それは、あちら側の家の、軒先の、風鈴の音だった――と、僕は、なぜだかわからないが、そう思った。
眠りに落ちる直前、僕は、暗闇のなかで、そっと、こう言った。
――結。君は、どこにいるの。そして、あちら側の、僕は、どこに、いるの。
返事は、その夜も、なかった。けれど、遠くの雨は、しばらく、僕の耳の奥で、鳴りつづけていた。
夜が明ける少し前、僕は、いちど、目を覚ました。真っ暗な部屋のなか、目を閉じたまま、僕は、しばらく、その雨の音の余韻を、聞いていた。そして、こう思った。
――あちら側の家には、雨が、降っている。
その雨が、なぜだかわからないが、僕の胸のなかにも、静かに、降りはじめていた。
夢は、通い路。その路は、僕が思っていたよりも、ずっと、長かった。そして、その路の途中で、僕は、ようやく、気づきはじめていた。僕が、あちら側の透と、まだ、会っていないことに。あちら側の家には、僕を迎える結だけが、いて――あちら側の透は、そこには、もう、いないのだ、ということに。
その気づきを、僕は、まだ、確信としては、抱いていなかった。けれど、胸のどこかでは、静かに、しかし、確実に、僕は、それを、知りはじめていた。
もういちど、糸の向こうから、彼女の声が聞こえたら――僕は、そのとき、なにを、彼女に、伝えるべきなのだろう。僕は、その答えを、まだ、持たずにいた。
夜が完全に明けたとき、僕は、ノートを閉じ、ゆっくりと、階下へ降りた。そして、「本日休業」の札を、もう一日だけ、そのままにしておくことにした。窓の外では、雨が、静かに、降りはじめていた。こちら側にも、雨が、降っていた。その雨は、なぜだかわからないが、あちら側の雨と、同じ音を、していた。

第五章 彼女が呼んでいる
雨は、三日、降りつづいた。三日のあいだ、僕は店を閉めていた。閉めていた、というよりも、開けられなかった、というほうが正しい。身体は元気なのに、シャッターに手をかけようとすると、なぜだか、その手が動かなくなった。
七尾さんが、二度、様子を見に来てくれた。一度目は、玄関先で、少しだけ立ち話をした。二度目は、彼女はうちの二階へ上がり、居間の椅子に腰を下ろし、しばらく、僕とお茶を飲んだ。
「無理はしないでください」と、彼女は言った。「夢通い路は――もし本当にそうだとしたら、身体と精神に、静かな、しかし相当な負担をかけます」
「ええ」
「森野さんが、こちら側で消耗してしまわないように、私、少しだけ、そばで見ています」
「そばで、というのは?」
「時々、店に来ます」と、彼女は笑った。「本を買う口実がなくても、来ます」
「それは――」
僕は、少しだけ、笑った。「――ありがたい、です」

その三日のあいだ、僕は、毎晩、夢を見た。そして、毎夜、あちら側の家の、玄関の前に、立っていた。家のなかからは、必ず、結の声が聞こえた。
「おかえりなさい」「今日は、遅かったのね」「お風呂、先に入る?」「ごはんも、あるよ」
そのどれも、僕には、返事ができなかった。僕は、あちら側の家の敷居を、またぐことが、できなかった。またぎたくない、というのではなかった。むしろ、またぎたい気持ちのほうが、強かった。あの扉を開けて、あの家のなかに入り、あの声のする方へ歩いていって、そして、あの結の顔を、間近で見たい、と思った。
けれど、僕には、それが、してはいけないことのように、感じられた。なぜかというと、僕は――僕は、あちら側の透ではないからだ。僕が、あちら側の透のふりをして、あの家に入ったら――彼女は、しあわせになるだろうか。それとも、いつか、気づいて、絶望するだろうか。僕には、わからなかった。わからないから、僕は、玄関の前で、動けなかった。

四日目の朝、雨が上がっていた。濡れた道路が、朝日を反射して、店の格子窓の内側にまで、細かな光の粒を、投げ入れていた。
僕は、ようやく、シャッターを上げた。古い金属の擦れる音が、通りに響いた。ずいぶん久しぶりの音のように、聞こえた。
その日は、二人、客が来た。ひとりは、いつものお婆さんで、時代小説を一冊。もうひとりは、初めての、大学生ぐらいの青年で、詩集を二冊、買っていった。
「先生」と、その青年は、なぜか僕を、そう呼んだ。「詩って、なぜ人は書くのでしょう」
僕は、少し、面食らった。「先生じゃないんですけど」と僕は苦笑した。「うーん、そうですね……なぜ書くか。書けないと、忘れてしまうから、じゃないですかね。書かないと、消えてしまうから」
「消えてしまう」
「そう。人の想いは、たいていのものは、消えていくものですから。書いておかないと、その想いが、あった、ということさえ、なかったことになってしまう。だから、書くんじゃないでしょうか」
青年は、少し、目をふせて、それから、静かに、うなずいた。「わかるような、気がします」
「ええ」
青年は、詩集の袋を大事そうに抱えて、店を出ていった。その背中を見送りながら、僕は、ふと、自分のノートのことを、思った。僕は、書いている。夢を、忘れないために。書かなければ、消えてしまう夢を、なんとか、こちら側に、繋ぎとめようとして。
夢のなかの結もまた、僕を、忘れないでいてくれるだろうか。いや、そもそも、彼女は、僕のことを、覚えているのだろうか。「あちら側の透」と、「こちら側の透」を、区別できるのだろうか。

その夜、僕は、決心して、床に就いた。夢のなかで、もし、また、あの家の玄関に立ったら、僕は、扉を開けて、なかに入る。そして、あちら側の結に、はっきりと、こう訊く。――あちら側の透は、いま、どこにいるのか、と。
夢は、来た。けれど、それは、僕が予想していたのとは、少し、違うかたちで、来た。

僕は、玄関の前に、立っていなかった。僕は、家の、リビングにいた。小さな、けれど、居心地のよい部屋だった。壁には、家族の写真が、いくつも飾られていた。あちら側の透と、あちら側の結が、若い頃、旅行先で撮った写真。海のそば。山のなか。京都のお寺の前。二人とも、笑っていた。
そのなかに――一枚、様子の違う写真があった。祭壇のような、白い布のかかった小さな棚の上に、あちら側の透の写真だけが、飾られていた。黒いリボンが、その額の上に、静かにかかっていた。
僕は、動けなかった。写真の中の、あちら側の透は、六十歳前後だった。少し痩せていた。柔らかい笑みを浮かべていた。彼は、明らかに、遺影だった。その前に、湯気のたつ、湯呑みが、ひとつ、置かれていた。
「あなた」
背後で、声がした。僕は、振り返った。そこに、あちら側の結が、立っていた。初めて、正面から、彼女を見た。
彼女は、五十代の終わりくらいだった。少しだけ、白いものの混じった髪。細い目じりに、静かな皺。あの日、跳び箱の前でためらった十七歳の少女の面影は、その顔のなかに、たしかに、まだ、残っていた。けれど、その顔は、疲れていた。長い、長いあいだ、なにかを待ちつづけた人の顔を、していた。
「――あなた」彼女は、もう一度、言った。「ずっと、呼んでいたの」
僕は、なにか、言おうとした。しかし、なにも、言えなかった。彼女は、僕のほうへ、ゆっくりと、歩いてきた。そして、僕の目の前で、立ち止まり、じっと、僕の顔を、見つめた。
しばらく、彼女は、なにも言わなかった。やがて、彼女は、こう、つぶやいた。
「……あなたじゃ、ないのね」
僕は、心臓が、止まる、と思った。止まったかもしれない、と、いまでも、時々、思う。
「――ごめん」
僕は、ようやく、そう言った。「ごめん」
「謝らないで」彼女は、静かに、首を振った。「あなたが、悪いんじゃない」

彼女は、僕を、居間のソファのそばへ、招いた。僕らは、少し離れて、腰を下ろした。彼女は、あちら側の透の写真のほうを、じっと、見ていた。
「主人が、亡くなって、五年になるの」と、彼女は、言った。
「五年前」
「ええ。膵臓を、悪くして。半年で、逝ってしまった」
僕は、思わず、息を、のんだ。こちら側で、僕の妻・桐子が、亡くなったのと、同じ病気だった。
「私、あの人がいなくなってから、毎晩、眠るたびに、あの人を、呼んでいたの」
「呼んでいた」
「そう。もう、いない、ってわかっているのに。もう会えない、ってわかっているのに。それでも、眠るたびに、私は、心のなかで、あの人を、呼んでいた」
彼女は、少し、目を、閉じた。「そうしたら、ある夜から、返事が、するようになったの」
「返事、が」
「そう。最初は、気配だけだった。夢のなかで、誰かが、耳を澄ませてくれている、っていう気配。それが、少しずつ、はっきりしてきて。ときどき、名前を呼ぶ声が、届くようになって。そして――ある夜、あなたが、玄関の前に、立っていたの。私、てっきり、主人が、帰ってきてくれたのかと、思ったの」

僕は、なにも、言えなかった。七尾さんの言葉が、耳のなかで、こだました。
――その並行宇宙で、すでに亡くなっている人の、生前の意識の残響と、あなたがつながっている、ということも、理論的には、ありえる。
けれど、それは、少し、違っていた。僕がつながっていたのは、亡くなったあちら側の透の「残響」ではなかった。僕がつながっていたのは、その、あちら側の透を、呼びつづけている、あちら側の結の、想いだった。
彼女の想いが、あまりにも強くて、宇宙の枠を、こえて――こちら側の、亡き夫と「似た」意識に、届いてしまったのだ。そして、こちら側の僕もまた、彼女を、探しつづけていた。呼びつづけていた。だから、糸は、結ばれた。
「あなた、こちら側の――透くん、なのね」彼女は、静かに、言った。
「うん」
「物理のことは分からないけれど、あなたの世界の私は――あの日、北海道に、行ったのね」
「うん」
彼女は、少し、笑った。初めて、はっきりと、笑った。その笑いは、悲しみと、あきらめと、それから、ほんの少しだけの、あたたさとで、できていた。
「そうよね」と彼女は言った。「そういう世界も、あるのよね」

僕らは、しばらく、黙って、座っていた。窓の外で、あちら側の風鈴が、小さく、ちりん、と鳴った。
「透くん」と、あちら側の結は、言った。「私、そろそろ、あなたを、離してあげないと、いけないのね」
「――どうして?」
「だって、あなたには、あなたの、こちら側の人生があるんでしょう」
「うん」
「私が、こんなふうに、あなたを、呼びつづけていたら、あなたは、こちら側で、しあわせに、なれなくなる」
僕は、返事に、詰まった。「もう少しだけ」僕は、うつむいて、そう言った。「もう少しだけ、夢で、会わせて」
彼女は、少し、驚いたように、僕を、見た。そして、静かに、微笑んだ。「うん。もう少しだけ、なら」
朝、目が覚めたとき、僕の枕は、少し、湿っていた。
僕は、ノートを開いた。九行目。
『あちら側の僕は、 五年前に、亡くなっていた』
十行目。
『あちら側の彼女は、亡き夫を、呼びつづけている』
十一行目。
『その声を、僕が、受けとっていた』
そして、十二行目に、僕は、少しのあいだ、ペンを、止めた。そして、こう、書いた。
『もう少しだけ、彼女に、会いたい』

その日の午後、七尾さんが、店に来た。僕は、彼女に、すべてを、話した。彼女は、静かに、聞いていた。ときどき、小さくうなずいた。彼女の眼鏡が、窓の光を、反射して、光った。話し終わったあと、彼女は、しばらく、なにも、言わなかった。
「森野さん」と、やがて、彼女は、言った。「これは、辛いことかもしれませんが――あちら側の結さんは、正しいことを、おっしゃったと、私は思います」
「正しい?」
「はい。夢通い路は、いつまでも、開いておくべきものでは、ないんです。長く開けておくと、こちら側の、あなた自身が、少しずつ、こちら側に、いられなくなる」
「いられなく、なる」
「はい。意識の重心が、あちら側へ、傾いていく。最初は、疲れとして。次に、不眠として。そして、最後には、こちら側で、目を覚まさなく、なるかもしれません」
僕は、湯呑みを、握った。指先が、また、冷たかった。
「森野さん。これは、私の推測に、すぎませんが、もし、あちら側で亡くなったご主人が、意識を、あちら側の結さんの夢に、完全に呼び戻すことを、避けていらしたのだとしたら――それは、あちら側の結さんに、こちら側で、生きていってほしいから、だったのだと思います」
「――」
「そして、あちら側の結さんが、いま、あなたに『もう離してあげないと』と、おっしゃった。それも、同じ、理由だと、思います」
僕は、静かに、うなずいた。「わかっています」
「――そうですか」
「ええ。わかっています。わかっているんだけれど――もう少しだけ、なんです」
七尾さんは、しばらく、僕の顔を、見ていた。そして、静かに、うなずいた。「わかりました。けれど、森野さん。『もう少し』の、期限は、ご自分で、決めてください」
「――決める」
「そう。夢は、放っておくと、無限に、続きます。あちらとこちらの、糸は、一度結ばれると、なかなか、自分では、切れなくなります。だから、あなたが、自分で、期限を、決めてください」
僕は、その言葉を、しばらく、噛みしめた。そして、うなずいた。「わかりました」

その夜、僕は、ノートに、十三行目を、書いた。
『もう少し、を、いつまでにするか、決めなくてはいけない』
書いたあと、僕は、ペンを、置き、静かに、目を、閉じた。
暗闇のなかで、僕は、あちら側の家の、リビングを、思い浮かべた。あちら側の結が、そこに、いる。写真のなかの、あちら側の透が、静かに、笑っている。窓のそとで、風鈴が、小さく、鳴っている。
――僕は、いつまで、あの家に、通うことに、するのだろう。
それを、決めるのは、僕、自身だ、と、七尾さんは、言った。そのとおりだった。
夢は、通い路。けれど、路には、いつか、終わりを、決めなくては、いけない。そうしなければ、僕は、こちら側の、僕自身の日々を、失ってしまう。そして、あちら側の結もまた、僕という「代わりの誰か」に、寄りかかったまま、自分の日々を、生きられなくなってしまう。
僕は、暗闇のなかで、静かに、決めた。七日、と。あと七日だけ、僕は、夢の通い路を、開いておく。 そして、七日目の夜、僕は、彼女に、別れを告げる。――もう、来ない、と。彼女に、そう、伝える。
決めたとたん、胸のなかの、糸の張り具合が、ほんの少しだけ、変わった気がした。糸は、まだ、切れていない。けれど、その糸には、いま、はっきりと、終わりの、印が、ついた。その印は、僕にも、そして、たぶん、あちら側の結にも、伝ったはずだった。
僕は、そのまま、静かに、眠りに、落ちた。
その夜の夢は、穏やかだった。あちら側の結と、僕は、居間の窓辺に、並んで、座っていた。なにを話したのかは、目覚めたあとには、あまり、覚えていなかった。けれど、彼女が、時々、笑っていたことだけは、はっきりと、覚えていた。その笑い声のなかに、あの日の、跳び箱の前で恥ずかしそうに笑った、十七歳の彼女の声が、確かに、混じっていた。
朝、目が覚めたとき、外はよく晴れていた。
僕は、ノートに、十四行目を、書いた。
『あと、七日』
書き終わって、僕は、しばらく、その文字を、見つめていた。七日は、長いようで、短い。短いようで、長い。けれど、その七日を、僕は、大切に、使いたい、と、思った。
窓の外で、雀が、また、屋根の樋のあたりで、なにかを、つついていた。いつもと同じ朝だった。けれど、僕のなかでは、静かに、大きな決心が、根を、下ろしはじめていた。
夢は、通い路。その路の、終着駅を、いま、僕は、自分の手で、決めた。そして、その終着駅から、僕が、どちら側へ、降りるのか――それを、僕は、これからの、七日のあいだに、決めなくては、ならなかった。

第六章 選ばなかった側
七日、というのは、思っていたよりも、ずっと、いろいろなことを、考えさせる長さだった。
一日目、二日目、三日目――夢のなかで、僕は、あちら側の家に、通いつづけた。けれど、僕らはもう、以前のように、玄関で立ち尽くしたり、写真の前で立ち尽くしたりは、しなかった。
僕らは、庭に出て、白い花のつく木のそばで、話をした。彼女は、その木が「ちしゃの木」だと言った。あちら側の透が、生前、この木を、とても大事にしていた、と。剪定の仕方を教えてくれた、と。
彼女は、時々、僕を、あちら側の透と、混同したような話し方をした。
「あの時、あなたが、庭にね」
「あなた、あの海のこと、覚えている?」
そのたびに、僕は、そっと、こう、言った。「――ごめん。それは、僕じゃない」
彼女は、そのたびに、少しだけ、目を、伏せた。そして、ゆっくりと、微笑んで、こう、答えた。「――そうね。ごめんね、透くん」
彼女は、僕を「透くん」と呼ぶことを、少しずつ、増やしていた。「あなた」は、あちら側の透のこと。「透くん」は、こちら側の透のこと。その、二つの、呼び方を、彼女は、丁寧に、使い分けようとしてくれていた。

四日目の朝、僕は、ふと、恐ろしいことに、気がついた。このまま、この夢が、続けば――僕は、いつか、あちら側の結の呼びかけに、完全に、応えたく、なるのではないか。こちら側の身体を、置き去りにして、あちら側の家の、あの居間に、留まりたく、なるのではないか。
七尾さんの言った、「意識の重心が、あちら側へ、傾いていく」というのは、こういうことだったのか。
僕は、その日、店を早くしまい、駅前の喫茶店に入って、七尾さんに、電話をかけた。彼女は、大学の実験室にいて、少し声を潜めて、答えてくれた。
「森野さん、大丈夫ですか」
「――少し、怖くなりました」
「怖い、というのは」
「向こう側に、行きたく、なりはじめている、気がします」
七尾さんは、少しの沈黙のあと、静かに、こう言った。「それは、たぶん、正常な反応です」
「正常?」
「はい。夢通い路の相手に、想いが、あればあるほど、意識は、その相手のいる場所に、寄っていきます。物理的に、というよりも、量子力学的に。あなたの意識の波動関数は、あちら側の、彼女のいる時空に、少しずつ、確率的に、偏っていく」
「――止められますか」
「止められます」彼女は、はっきりと、言った。「森野さんが、こちら側に、戻る、と、はっきり決めれば、止まります。ただ、決断が、はっきりしていないと、意識は、いちばん引力の強いほうに、流されます」
「引力の、強いほう」
「はい。愛は、大きな引力です。悲しみもまた、大きな引力です。この二つが、あちら側に、あります。こちら側には――」七尾さんは、少し、言葉を、止めた。「――こちら側には、なにが、ありますか。森野さんに」
僕は、電話を握ったまま、しばらく、答えられなかった。

こちら側に、なにが、あるだろう。
僕は、家に帰る道すがら、そのことを、ずっと、考えた。
古い、うちの店。亡くなった桐子との、十年余りの、静かな日々。その桐子が、いま、仏壇の、遺影の中で、僕を、見ている。七尾さんの、静かな心遣い。さっきの、詩集を買った青年の、まぶしいような、若い目。いつものお婆さんの、来週の時代小説の予約。
それから――ときどき、街ですれ違う、名も知らぬ人々の、あの日常の匂い。そういう、無数の、小さなものたち。
これらは、あちら側の家の、あの、温かいリビングと、天秤にかけるべきものなのだろうか。かけるべきなのだ、と、僕は、思った。―― そして、天秤は、簡単には、傾かない。
家に着いて、僕は、二階の居間で、桐子の遺影の前に、少し、座った。
「桐子」
僕は、久しぶりに、声に出して、彼女の名を、呼んだ。「僕は、いま、少し、迷っている」
桐子は、遺影のなかで、いつもと同じ、少しはにかんだような笑みを、浮かべていた。
僕は、そのまえに、しばらく、正座して、目を閉じた。彼女は、生前、僕が悩んでいるとき、決して、「こうしなさい」とは、言わなかった。ただ、そばにいて、お茶を、静かに、注いでくれた。そして、しばらくして、こう、言った。
――透さんが、決めれば、それが、正解ですよ。
今夜も、彼女は、僕に、そう言うだろうか。僕は、しばらく、目を、閉じていた。

五日目の夜、僕は、夢のなかで、あちら側の結に、こう、切り出した。
「結」
「うん」
「もう、あと、二日だ」
彼女は、少し、目を、閉じた。そして、うなずいた。「うん」
「――君は、大丈夫か」
「大丈夫」と、彼女は、言った。「透くんの、おかげで、私、少しだけ、あの人を、送り出せた、気がする」
「送り出せた?」
「うん。ずっと、送り出せなかったの。もう、いないってわかっているのに、送り出せなかった。夜ごとに呼びつづけて、そして、朝になると、いないことを、思い出して、また、泣いていた」
「――」
「でもね、透くん、あなたと、こうしているうちに、少しずつ、思うようになったの」
「なにを」
「あの人は、もう、いないの。ほんとうに、いないの。呼んでも、来ないの」
彼女は、静かに、目を、あけた。「 そして、それは、あなたのせいでも、私のせいでも、ないの」
「――」
「ただ、そういう時が、来てしまった、というだけのことだったの」
僕は、なにも、言えなかった。彼女の、その、静かな受け入れの、深さの、前で、僕は、ただ、うつむいていた。
「透くん」
「うん」
「あなたも、ね」
「なに」
「あなたのほうにも、大切な人が、いたのでしょう」
僕は、驚いて、顔を、上げた。「――どうして、わかった」
「わかるわ」と、彼女は、笑った。「あなたが、まだ、こちら側に、完全には、来られない理由。あなたのほうにも、送り出しきれない、誰かが、いるのでしょう」
僕は、うなずいた。「妻が、いた。桐子、という。十年前に、癌で亡くなった」
「――そう」彼女は、少し、目を、細めた。「不思議ね」
「なにが」
「あなたのほうの、桐子さん。私のほうの、あなた。私たち、みんな、同じ病気で、逝ったのね」
僕は、はっとした。そう、だった。そういえば、この、僕と、あちら側の透と、桐子と、あちら側の結の、四人は、宇宙のどこかで、静かに、同じ悲しみを、抱えているのだった。
その悲しみが、二本の細い糸となって、あちらとこちらを、結んでいた。僕らは、それぞれ、大切な人を、亡くしていた。そして、それぞれ、その人を、まだ、送り出しきれずに、いた。だから、糸は、結ばれた。 そして、いま――僕らは、その糸を、静かに、ほどきはじめようとしていた。
「透くん」
「うん」
「あなたの、桐子さんも、きっと、意地を張らずに、あなたに、こちら側で、生きていってほしい、と、思っているんじゃないかしら」
「――たぶん、そう、思う」
「 そして、私も、そう、思う」
「――」
「あなたに、こちら側で、生きていてほしい。あなたのお店を、開けていて、ほしい。あの、詩集を買いに来た若い人に、また、なにかを、教えて、あげてほしい」彼女は、少し、笑った。「あの話、聞かせてくれて、うれしかった」
「――そう、か」
「うん」

六日目、七日目は、あっという間に、来た。
僕は、あちら側の家の、庭の、ちしゃの木の、白い花を、じっと、見ていた。夢のなかの、その花の白は、こちら側の、どんな白よりも、白かった。
「そろそろ、行くよ」七日目の、夢の終わりに、僕は、そう、言った。
「うん」彼女は、うなずいた。
「透くん」
「うん」
「わたしね、こちら側で、これから、少しずつ、あの人を、送っていくの」
「うん」
「花を、供えて、写真に、話しかけて、毎日を、静かに、生きていくの。ときどき、泣くと、思うけれど。 そして、それでも、いいの」
「うん」
「あなたも、そっちで、そうしてね」
「――うん」
僕は、彼女の顔を、じっと、見た。五十代の、少しやつれた、けれど、静かな笑みの、その顔。そのなかに、十七歳の、跳び箱の前でためらった彼女の面影が、確かに、残っていた。
僕は、その顔を、忘れないように、じっと、目に、焼き付けた。 そして、静かに、こう、言った。
「――結」
「うん」
「あの日、僕は、『元気で』としか、言えなかった」
「知ってる」
「だから、いま、四十三年遅れて、言うよ」僕は、深く、息を、吸った。「――好きだった」
彼女は、少しだけ、目を、開いた。 そして、ゆっくりと、微笑んだ。
「知ってた」
彼女は、あの日と、同じ、少しいたずらっぽい笑みで、そう、言った。「わたしも、好きだったよ、森野くん」
その瞬間、僕の胸のなかで、あの糸が、ふつり、と、切れる音が、した。
痛みは、なかった。むしろ、静かな、安堵に近い、感覚だった。夢の景色が、少しずつ、色を、薄めていった。彼女の姿も、少しずつ、うすい光に、包まれていった。
「――さようなら」と、僕は、言った。
「――さようなら」彼女も、そう、言った。 そして、彼女は、最後に、こう、付け加えた。「透くん、こちら側で、あの日の、あなたに、なりきる必要は、もう、ないの」
「なりきる、必要は、ない」
「うん。あの日の私は、もういない。あの日のあなたも、もういない。私たちは、みんな、あれから、たくさん、遠くへ、来ちゃった」
「――」
「だから、いまのあなたで、こちら側の、いまの日々を、生きて」
「――うん」
「いつか、もし、あなたが、こちら側で、ふと、誰かとすれ違って、あの日の匂いを、思い出したら」彼女は、静かに、微笑んだ。「それだけで、いいの。振り返って、微笑んでくれれば、それで、いい」
「――わかった」
「うん」「うん」

そこで、夢は、終わった。
朝、目が覚めたとき、僕の頬は、また、少し、濡れていた。けれど、そこには、悲しみだけではない、なにか、静かで、温かいものが、混じっていた。
十五行目に、僕は、こう、書いた。
『糸が、切れた』
十六行目。
『彼女は、静かに、笑ってくれた』
十七行目。
『僕は、こちら側で、生きていく』
書き終えたあと、僕は、ノートを、閉じた。 そして、久しぶりに、深く、深く、息を、吐いた。窓の外は、よく晴れていた。朝日が、店の格子窓から、まっすぐに、差し込んでいた。そういえば、その朝の光を、こんなふうに、まっすぐに、感じたのは、ずいぶん、久しぶりだった。
僕は、居間の、桐子の遺影の前に、しばらく、座った。「桐子」と、僕は、声に出して、呼んだ。「僕は、こちら側で、生きるよ」
桐子は、遺影のなかで、いつもと同じ、少しはにかんだような笑みを、浮かべていた。僕には、その笑みが、今日は、ほんの少しだけ、深くなったように、見えた。
その日、僕は、店を、いつもより、早く、開けた。シャッターを、勢いよく、上げた。古い金属の擦れる音が、朝の通りに、気持ちよく、響いた。
昼過ぎ、七尾さんが、店に来た。彼女は、僕の顔を見て、ほんの少し、目を、細めた。
「――終わりましたね」
「ええ」
「よかった」と、彼女は、静かに、言った。
「よかった」と、僕も、うなずいた。
「森野さん、こちら側で、これから、なにを、なさいますか」
僕は、少し、考えて、答えた。「――店を、続けます」
「はい」
「 そして、時々、街を、歩きます」
「はい」
「 そして、時々、すれ違う人の、匂いに、振り返ったりも、するでしょう」
七尾さんは、少しだけ、笑った。「それは、健康的な、六十歳の男性の、日常です」
「そう、ですかね」
「ええ。そう、ですよ」

その日の夕方、僕は、いつもより、ずいぶん、長く、店にいた。閉店の時間になっても、しばらく、レジのわきに、座っていた。
外は、もう、暗くなっていた。通りの向こうの街灯が、ひとつ、ふたつと、灯りはじめていた。僕は、灯りのひとつを、じっと、見つめていた。その灯りは、ちょうど、夢のなかの、あちら側の家の、玄関の灯りに、似ていた。
――あの家の灯りは、いまも、あちら側で、灯っているのだろうか。 そして、あの家のなかで、あちら側の結は、いまも、静かに、生きているのだろうか。
僕には、もう、それを、知る術はなかった。糸は、切れた。けれど、切れたからといって、あちらが、なくなったわけではない。あちらは、いま、あちらの時間のなかで、静かに、動いている。こちらは、いま、こちらの時間のなかで、静かに、動いている。その二つは、もう、直接には、触れ合わない。けれど、それでいい、と、僕は、思った。
夢は、通い路。けれど、通い路は、閉じるべき時に、閉じるべきものだ。閉じたあとには、また、それぞれの、こちら側の、しずかな日々が、残る。それが、通い路の、ほんとうの、贈り物なのかもしれない、と、僕は、思った。
その夜、僕は、ノートに、十八行目を、書いた。
『なんとか無事に、生きたこちら側が、正解、だったのだ』
そのすぐ下に、僕は、こう、書き足した。
『今頃、気付いて、うなづいてもみる』
書き終えて、僕は、少しだけ、笑った。還暦の男が、還暦の男の、当たり前のことに、いまごろ、気づいて、うなずいている。我ながら、ずいぶんと、時間の、かかった、話だ、と、思った。けれど、時間が、かかった、ぶんだけ、それは、僕にとって、確かなものに、なった。
眠りに落ちる直前、僕は、静かに、目を、閉じた。胸の、糸は、もう、なかった。かわりに、胸のなかで、なにかが、静かに、しずまり返っていた。その、しずまり返った、暗闇のなかを、僕は、ゆっくりと、眠りのほうへ、歩いていった。その夜、僕は、なにも、夢を、見なかった。
いや――もしかしたら、見たのかもしれない。けれど、朝、目が覚めたとき、いつものように、指のあいだからは、なにかが、静かに、零れ落ちていった。
「今朝の夢は――」
そう、口のなかで、転がしてみた。しかし、もう、その中身は、消えていた。 そして、僕は、それで、いい、と、思った。
覚えていることは、覚えていればいい。忘れることは、忘れればいい。 そして、時々、街で、なにかの拍子に、そっくりの姿を、そっくりの香りを、感じたら――わずか数秒だけ、微笑んで、みればいい。
それが、僕の、通い路の、こちら側の、暮らし方だった。
夢で、会えたなら、と、たまに、思う。夢で、会えなくても、いい、とも、たまに、思う。その、両方の気持ちを、抱えたまま、僕は、こちら側で、あと、どのくらいか、生きていく。 そして、そのあとの、僕のことは――そのあとの、僕に、任せる。 そして、そのあとの、僕もまた、たぶん、どこかで、静かに、微笑んでいるのだろう。
わずか数秒、だけ。
雪は、朝までに、街を、うっすらと、白く、染めた。その、白さのなかに、僕は、あの、ちしゃの花の、白さを、少しだけ、思い出した。 そして、少しだけ、微笑んだ。
朝の、コーヒーは、今日も、少しだけ、あたたかかった。
――生きている。こちら側で、生きている。
そして、それで、いい。そう、僕は、思う。そう、僕は、心のなかで、うなずいてみる。還暦の男の、ひとりの、ささやかな、朝の、うなずき、として。
第七章 夢で会えたなら
季節が、ひとつ、めぐった。夏の名残の、まだ暑い日々があった。秋が、ゆっくりと、深まっていった。 そして、冬が、来た。

冬の朝は、店のシャッターを上げるのが、少しだけ、億劫だった。寒さのせいだけではなかった。年をとると、朝の身体の、いろいろな軋みが、少しずつ、増えていく。膝、腰、右肩。ひとつずつ、確かめるように、動かしてから、僕は、階下へ降りる。
店を開けると、冷えた空気が、まっすぐに、頬を、突く。その、冷えた空気を、僕は、深く、吸い込む。――生きている、と、思う。
夢通い路が閉じてから、僕の眠りは、ふしぎと、静かになった。夢は、見ている、はずだった。夜ごと、なにかを、体験している、はずだった。けれど、目覚めたときには、それらは、あの日のように、指のあいだから、静かに、零れ落ちていって、朝の光のなかで、うっすらと、消えていった。
そして、僕は、もう、それを、追いかけなかった。「今朝の夢は――」そう、口にすることは、あっても、そのあとを、無理に、思い出そうとは、しなくなった。思い出さなくても、いい。思い出せない、それこそが、当たり前で、健康的な、朝の姿なのだ、と、僕は、そう、思うように、なっていた。
ときどき、あちら側の結のことを、考えた。彼女は、あちら側で、どうしているだろう。もう、あの家の、玄関の前で、亡き夫を、呼びつづけては、いないだろうか。庭の、ちしゃの木の、剪定は、誰が、しているだろう。
――もちろん、僕には、それを、知る術はない。糸は、切れた。けれど、切れたあとの、あちら側のことは、こちらから、想像するしかない。 そして、想像するとき、僕は、いつも、こう、思うことに、していた。「彼女は、大丈夫だ。彼女は、あちら側で、静かに、生きている。時々、泣いているかもしれない。けれど、時々、笑ってもいる」そう思うと、胸のなかが、少しだけ、あたたかくなった。

十二月の、ある日、七尾さんが、店に来た。
「森野さん」
「はい」
「あの、論文が、通りました」
「――え?」
「夢通い路仮説の論文、査読を、通ったんです。来年、公刊されます」
僕は、しばらく、彼女の顔を、見つめた。 そして、静かに、笑った。「――おめでとうございます」
「ありがとうございます」
七尾さんは、少しだけ、頬を、赤らめた。「森野さんの、おかげでも、あります」
「僕の?」
「はい。あの理論を、机上のもので終わらせずに、ひとつの、生きた事例として、考察できたのは、森野さんが、正直に、話してくださったから、です」
「――事例、として、僕は、書かれたんですか」
「匿名で、少しだけ」彼女は、少し、いたずらっぽく、笑った。「日本のある地方都市の、六十歳の、古書店主・M氏」
僕は、笑った。「まあ、それなら、いいですかね」
「はい」

七尾さんは、その日、いつもより長く、店に、いてくれた。僕らは、店の奥の、小さなストーブの前で、少し、話をした。
「森野さん、あれから、夢のなかで、彼女とは、会いましたか」
「――会っていない、と、思います」
「思います、というのは?」
「覚えていないので、正確なことは、わからないんです。ただ、目覚めたあとの、胸の感じが、あの頃とは、違います。あの頃は、いつも、なにか、遠くから引かれるような、感じがしました。いまは、それが、ありません」
「そうですか」
「ええ。ただ、時々」
「はい」
「――街ですれ違う人の、匂いに、驚くことは、あります」
「それは、いいですね」
「――そうですかね」
「ええ。それは、糸が切れたあとにも、残る、健康的な、記憶の在り方です。過剰な引力ではなく、ただの、しるしとして、あの人のことが、あなたの日常に、ときどき、顔を出す。それは、いい、通い路の、閉じ方だと思います」
「――ありがとうございます」
僕は、素直に、礼を、言った。

七尾さんが帰ったあと、僕は、ストーブの前で、しばらく、目を、閉じていた。胸のなかは、しずかだった。そのしずけさのなかで、僕は、ふと、あちら側の結の顔を、思い出した。
五十代の、少しやつれた、けれど、静かな笑みの、その顔。そのなかに、十七歳の、跳び箱の前でためらった、彼女の面影。その二つが、いま、僕のなかで、ひとつの、絵に、なった。
「結」僕は、心のなかで、そっと、呼んだ。「元気で」四十三年前と、同じ、その、三文字を。
けれど、今度は、その言葉のなかに、ずいぶん、たくさんの、想いが、こめられていた。あの日、言えなかった、いろいろな言葉。あちら側で、言ってみた、いろいろな言葉。 そして、こちら側で、これから、二度と言わないだろう、いろいろな言葉。そのすべてが、その、三文字のなかに、静かに、しまわれていた。
――夢で、会えたなら。
僕は、そのフレーズを、口の中で、そっと、転がしてみた。もし、あの頃、夢で会えていたら、僕は、どんな言葉を、言おうか、と、必死で、考えていた。けれど、いまは、もう、それは、考えなかった。なぜなら、僕は、夢のなかで、四十三年遅れの、告白を、してしまったからだ。「――好きだった」「知ってた」そのやりとりを、僕は、一生、忘れないだろう。夢のなかの、あの、白い花のつく木の、そばで。僕らは、ようやく、その言葉を、交わした。
もう、それで、いい、と、僕は、思った。夢で会えるかどうかは、もう、僕にとって、たいした問題では、なくなっていた。大事なのは、あの一夜、僕らが、たしかに、言葉を、交わした、という、その、事実のほうだった。
夢の路の、向こう側に、たしかに、彼女が、いた。 そして、彼女は、笑ってくれた。それだけで、僕の、残りの人生は、ずいぶん、豊かに、なった気がした。

十二月の、いちばん寒い日、僕は、桐子の墓参りに、行った。市の外れの、丘のうえの、小さな霊園だった。冬の光は、意外なほど、明るくて、墓石の表面が、白く、光っていた。
僕は、墓石の前に、しゃがみこみ、花を、そなえ、線香を、あげた。
「桐子」
「今年も、なんとか、無事だったよ」
僕は、しばらく、墓石の前で、風の音を、聞いていた。冬の風のなかに、ときどき、遠くの、鴉の声が、混じった。
「桐子」僕は、風のなかで、続けた。「今年、ちょっと、変な体験をしたよ。若いころ、好きだった女の子と、夢のなかで、会ったんだ。といっても、こちら側の、彼女じゃない。並行世界の、彼女だ。向こうでは、僕は、あの日、彼女を引き止めていた。二人は、結婚していた。でも、そっちの僕は、五年前に、逝ってしまってね。それで、向こうの彼女が、僕を、呼んでいた。夢のなかで、僕は、彼女に、会ったんだ。――君は、驚くかな。驚かないかな」
僕は、少し、笑った。桐子なら、驚かないだろう、と、思った。彼女は、生前、そういう話が、好きだった。星、夢、伝承、幽霊、量子の話。あらゆる「あわい」の話を、彼女は、こわがらずに、聞いてくれた。 そして、いつも、こう、言った。
――透さん、そういうことも、あるのよ、きっと。
そう、桐子は、いつも、そう、言った。
「桐子」僕は、風のなかで、続けた。「 そして、僕は、こちら側に、残った。君と、店と、この、寒い風の吹く街に、残った。向こうへ、行きたい気持ちも、あったよ。正直に、言えば。 そして、それは、しなかった。なぜかというとね――あの日の彼女は、もう、いないから。あの日の僕も、もう、いないから。 そして、いまの僕と、いちばん、長く、いっしょにいてくれたのは、君だから」
風が、少し、強くなった。墓石のあいだを、冷たい風が、吹き抜けていった。僕は、墓石に、そっと、手を、置いた。「――ありがとう」
桐子は、返事を、しなかった。けれど、なぜだろう、風の音のなかに、彼女の、あの、少しはにかんだような笑い声が、混じっていた気が、した。
――透さんが、決めれば、それが、正解ですよ。
そう、彼女は、いつものように、そう、言った気がした。僕は、しばらく、しゃがんだまま、風の音を、聞いていた。やがて、ゆっくりと、立ち上がり、墓石に、一礼して、丘を、下りた。

丘を下りきったところで、僕は、いちど、振り返った。冬の光のなかで、墓石が、白く、光っていた。そのなかに、桐子の名の、刻まれた墓石があった。その隣に、いつか、僕の名も、刻まれるだろう。
――そのときには、僕もまた、どこかの、誰かの、夢の路の、向こう側に、立つのだろうか。
そう、思うと、少しだけ、笑えた。そうなるとしたら、僕は、迷わず、そちらへ、行こう、と、思った。 そして、そのとき、僕は、夢の路の、向こう側で、桐子と、 そして、あちら側の結と、 そして、ひょっとしたら、こちら側の結とも、会えるかもしれない。――そんな、風の噂のような、想像を、しながら、僕は、丘を、下った。

家に帰ると、店の格子窓の内側に、夕方の光が、ゆっくりと、差し込んでいた。僕は、店を、いつものように、開けた。その日は、客は、ひとりも、来なかった。けれど、僕は、退屈しなかった。古い本の背表紙を、ゆっくりと、指で、なぞりながら、僕は、ひとりで、静かに、時を、過ごした。
夢は、通い路。そのことを、僕は、いまでも、時々、思い出す。けれど、その言葉は、以前のように、僕を、揺さぶらなくなった。いまの僕にとって、その言葉は、ただの、静かな、事実だった。「そういうことも、あるのだろう」「そういう夜も、あったのだ」そのくらいの、距離感で、僕は、その言葉と、いっしょに、暮らすように、なった。
ノートは、いまも、机の抽斗に、しまわれている。たまに、開いてみることは、ある。十八行目の、「なんとか無事に、生きたこちら側が、正解、だったのだ」の、あとに、僕は、その後、なにも、書き足していない。書き足す必要は、なかった。そこで、あの物語は、静かに、終わっていた。
けれど、時々、僕は、あの、白い、ちしゃの花の色を、思い出す。夢のなかの、あの花の白さは、この世界の、どんな白よりも、白かった。その白さを、思い出すとき、僕の胸のなかで、なにかが、静かに、あたたかくなる。 そして、僕は、静かに、微笑む。わずか数秒、だけ。
夢で、会えるかどうかは、もう、僕には、たいした問題では、ない。けれど、いつかまた、と、心の隅で、思っている、還暦男が、ここに、ひとり、いる。我ながら、ずいぶんと、往生際が、悪い。しかし、往生際が悪くても、それが、本当なのだから、しかたが、なかった。
冬は、深まり、やがて、明ける。春が来て、また、桜が咲き、 そして、散る。夏が来て、蝉が鳴き、 そして、消える。秋が来て、葉が落ちる。 そして、また、冬が、来る。
――僕の、こちら側の、日々。あちら側でも、たぶん、同じような、日々。
僕は、その、それぞれの、日々を、それぞれの、僕らが、静かに、生きていくのだと、信じている。夢の通い路は、閉じたけれど、通じ合わないわけでは、ない。こちらの日々を、精いっぱい、生きること。あちらの日々を、あちらのだれかに、精いっぱい、生きてもらうこと。その二つが、じつは、遠く、ふしぎな仕方で、糸を、通じ合っているのだ。――たぶん。
たぶん、と、僕は、つぶやいた。その、たぶん、のなかに、僕は、たくさんの、想いを、しまった。 そして、そのしまい方は、六十歳の僕には、ちょうど、いい重さだった。
その日の、夕方、僕は、いつもより、少しだけ、早く、店を、閉めた。外は、もう、暗くなりかけていた。冬の街灯が、ぽつり、ぽつりと、灯りはじめていた。僕は、コートを羽織り、マフラーを巻き、 そして、静かに、外に、出た。

夜の街を、少しだけ、歩いた。行き先は、決めていなかった。ただ、歩きたかった。
駅前の交差点で、信号待ちをしていると、隣に、若い女性が、立った。コートの襟に、うっすらと、なにかの、香水の匂い。――ふと、その匂いに、僕は、はっとした。石鹸の匂いだった。それは、あの日、廊下ですれ違った、結の髪から、漂った、あの匂いに、ふしぎと、似ていた。
信号が、青になった。女性は、すたすたと、横断歩道を、渡っていった。僕は、少し、遅れて、渡った。渡り終えたところで、僕は、いちど、振り返った。女性の後ろ姿は、もう、街灯のむこうに、静かに、遠ざかっていた。
――違うと、わかっている。あの人じゃ、ない、と、わかっている。そもそも、あの人は、いま、どこにいるか、僕には、わからない。そもそも、あの日の、あの人と、いまの、あの人が、同じ人であるかどうかも、僕には、わからない。わからないことだらけ、だ。けれど――
その一瞬の、姿だけ。その一瞬の、香りだけ。そっくりに、見えることが、あって。
わずか数秒だけ、僕は、微笑んでもみる。
その微笑みは、もう、悲しみを、含んでは、いなかった。その微笑みは、もう、後悔を、含んでは、いなかった。その微笑みは、ただ――その、一瞬の香りが、僕に、思い出させてくれるものへの、感謝を、含んでいた。
「ありがとう」
僕は、街灯の下で、そっと、つぶやいた。だれに、言ったのか、僕自身にも、よく、わからなかった。あの日の、結、かもしれない。あちら側の、結、かもしれない。すれ違った、名前も知らない若い女性、かもしれない。亡くなった、桐子、かもしれない。あるいは、その、すべて、かもしれない。
僕は、そのまま、しばらく、街を、歩いた。もう、探すもの、追いかけるものは、なかった。けれど、僕の歩みは、あの頃よりも、ずっと、軽かった。
――夢は、通い路。
その路を、僕は、いま、こちら側の街を、歩きながら、思い出している。 そして、たぶん、あちら側でも、だれかが、同じ夜を、思い出しているのだろう。その、二つの、思い出が、遠く、ふしぎな仕方で、通じ合っているとしたら――それだけで、この世界は、まだ、僕にとって、じゅうぶんに、あたたかい、場所だった。
夜が、更けていった。僕は、家路を、たどった。家に着くころには、ちょうど、少し、雪が、降りはじめていた。
その日の夜、僕は、久しぶりに、ぐっすりと、眠った。 そして、また、たぶん、夢を、見た。けれど、朝、目が覚めたとき、いつものように、指のあいだから、なにかが、静かに、零れ落ちていきました。
「今朝の夢は――」そう、口のなかで、転がしてみた。しかし、もう、その中身は、消えていた。 そして、僕は、それで、いい、と、思った。
覚えていることは、覚えていればいい。忘れることは、忘れればいい。 そして、時々、街で、なにかの拍子に、そっくりの姿を、そっくりの香りを、感じたら――わずか数秒だけ、微笑んで、みればいい。
それが、僕の、通い路の、こちら側の、暮らし方だった。
夢で、会えたなら、と、たまに、思う。夢で、会えなくても、いい、とも、たまに、思う。その、両方の気持ちを、抱えたまま、僕は、こちら側で、あと、どのくらいか、生きていく。 そして、そのあとの、僕のことは――そのあとの、僕に、任せる。 そして、そのあとの、僕もまた、たぶん、どこかで、静かに、微笑んでいるのだろう。
わずか数秒、だけ。

エピローグ
数年が、過ぎた。
僕の店は、いまも、あの通りに、ある。
七尾さんは、隣県の大学に、移った。夢通い路仮説は、少しずつ、学界で、真面目に、議論されるように、なった。あるいは、ならなかったかもしれない。学界のことは、僕には、よく、わからない。ただ、七尾さんは、時々、僕に、手紙を、くれる。「先日、また、あなたのような、事例に、出会いました」と、書いてある。名前は、書かれていない。国も、書かれていない。ただ、「その人も、いまは、こちら側で、静かに、暮らしています」と、書いてある。
僕は、そのたびに、少しだけ、微笑む。――ああ、また、ひとり、通い路の、こちら側で、静かに、暮らしはじめた人が、いるのだ、と、思う。
僕自身のノートは、いまも、机の抽斗のなかに、しまわれている。十八行までしか、書かれていない、あの、擦り切れかけた、大学ノート。そのノートを、いつか、僕が、いなくなったあと、だれかが、開くだろうか。開かないだろう、と、思う。けれど、それでも、いい、と、思う。
書いたことだけで、じゅうぶんに、意味があった。書かなければ、消えてしまう夢を、僕は、いくつか、こちら側に、繋ぎとめた。それだけで、あの秋の一年は、僕にとって、忘れがたい季節になった。
そして、いまも、時々、街で、僕は、振り返る。
夕方の、駅前の交差点。昼下がりの、商店街の入り口。夜の、コンビニの前。すれ違いざま、ふと、あの、石鹸のような、香りに、はっとする。もちろん、違うと、わかっている。けれど――
その一瞬の、姿だけ。その一瞬の、香りだけ。そっくりに、見えることが、あって。
わずか数秒だけ。僕は、微笑んでもみる。 そして、また、歩きだす。
こちら側の、街を。こちら側の、日々を。こちら側の、僕として。
――夢は、通い路。
その言葉を、僕は、いまも、時々、口の中で、そっと、転がす。 そして、静かに、うなずく。うなずいて、また、歩きだす。
わずか数秒だけ、微笑んで―― そして、また、歩きだす。
それで、いい。それで、じゅうぶんに、いい。
――了――


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あとがき
書き終えて気づいたのですが、この物語には、ほとんど事件が起きていません。誰も走らないし、誰も大声を出しません。ただ、夢を見て、目が覚めて、コーヒーを淹れて、店を開ける。それだけの一日が、何度も繰り返されます。
それでも書いている間、私は一度も退屈しませんでした。なぜなら、森野透が毎朝探している「指のあいだから零れ落ちるもの」が、私にもある気がしていたからです。思い出せそうで思い出せない名前、嗅いだはずのないのに懐かしい石鹸の匂い、もう一度だけ言い直したい三文字。
七尾さんの言う「夢通い路仮説」は、もちろん私の創作です。実証もされていません。ただ、そう考えた方が、世界が少しだけ優しく見える仮説は、あってもいいのではないかと思っています。
最後まで読んでくださったあなたが、今夜もし夢を見て、朝、少しだけ胸が温かかったら。それがこの本にとって、いちばんの幸せです。
そして、校了の直前まで原稿を読んでくれた家族と、古書店のモデルになってくれた街の小さな店に、感謝を。
2026年 夏

夢は通い路 第一部

まえがき
この物語は、夢の話ではありません。
覚えていられない夢を、なぜ人は毎朝、探してしまうのかという話です。
還暦を過ぎると、忘れることの方が自然になります。名前も、匂いも、言えなかった言葉も、指のあいだからこぼれ落ちていく。けれど、こぼれたあとに残る、ほんのりとした温度だけは、確かに自分のものとして残ることがあります。
昔の人はそれを「通い路」と呼びました。会えない二人を、夜だけつなぐ細い道。
もし今の物理が、その古い言葉を別の言葉で説明できるとしたら。もし、選ばなかった側の人生が、どこかでまだ静かに続いているとしたら。
そんなことを考えながら、一人の古書店主の一年を書きました。


―― 森野透ノート ――

エピグラフ
毎日毎晩、夢を見る。多分、睡眠が足りているのだろう。
そして、思いもしなかった方々が現れて、思いもしなかった展開となる。
しかしながら、不思議かな。そんな夢も起きた直後、忘れ去られてしまう。
そう、今朝の夢は……と思うけれど、すでに消えてしまった。
昔、夢は通い路と言われ、訳あって会うことが出来ない男女の想いがつのると、夢で合わせてくれたそうだ。
はてさて、僕にはそんな場面は現れず、会いたい貴女は、今まだここへと辿り着いてくれない。
……
わずか数秒だけ、微笑んでもみる。

プロローグ
朝、目が覚めるとき、僕の指のあいだからは、いつも何かが零れ落ちていく。
砂のようでもあり、水のようでもある。あるいは、朝もやのように輪郭のないもの。掴もうとすればするほど、それは早足で遠ざかっていく。かろうじて残るのは、胸のあたりに残る、ほんのりとした温度だけだ。
「今朝の夢は――」
そう口の中で転がしてみる。舌の上に、確かに何かの味が残っている。誰かに会っていた気がする。誰かと話していた気がする。けれど、それが誰だったのか、どんな話だったのか、目を開けた瞬間には、もう思い出せない。
還暦を迎えた男が、こんなことを毎朝繰り返している。
我ながら、ずいぶんと未練がましい。けれど、この未練の正体を、僕はまだよく知らない。
昔の人は、夢のことを「通い路」と呼んだ。会うことのできぬ男と女、その想いが募りに募ると、夜のあわいに一本の細い道がひらいて、二人を引き合わせてくれる――そんな古い言い伝えがあるという。
もし、それが本当なら。
いや、そんなことは、あるはずがない。
――そう思っていた頃が、僕にもあった。

第一章 毎晩、夢を見る
古書店「森野堂」は、駅から歩いて十五分ほどの、住宅街の外れにある。
昔は市電が走っていた道で、いまは片側一車線のさびれた通りだ。両側には床屋と、閉店したままの喫茶店と、しばらく前まで洋品店だった建物が並んでいる。うちの店だけが、細々と、しかし律儀に、二十年近くこの場所で開いている。
僕、森野透は、六十歳になった。
妻の桐子を亡くしたのが、ちょうど十年前。膵臓の癌だった。宣告から半年で逝ってしまった。子はいない。二人で決めて、そうした。決めたことに後悔はない。ただ、彼女がいなくなってからの十年は、思っていたよりずっと長かった。彼女を穏やかに看取ったつもりでいながら、僕の心のどこかには、いまだにあの時の静かな喪失が、逃れようのない澱のように沈んだままだ。
朝、店を開ける前に、僕は二階の居間で、ひとりの朝食をとる。トーストを一枚と、コーヒーを一杯。それだけだ。桐子がいた頃は、味噌汁があり、卵焼きがあり、季節の野菜があった。あの頃の食卓には、湯気があった。いまの僕の食卓には、湯気はない。コーヒーの湯気だけがある。
新聞を広げ、政治面と社会面をひととおり眺めてから、書評欄に目を通す。書評欄だけは、いまでも隅々まで読む。習慣というものは、ずいぶんとしぶといものだ。
そして――このところ、僕は毎朝、同じことを考えている。
今朝の夢は、なんだったろう。
いつの頃からか、僕は毎晩、夢を見るようになった。多分、睡眠が足りているのだろう、と自分に言い聞かせている。実際、夜十一時には床に就き、朝六時までは眠る。年寄りにしては、よく眠っているほうだと思う。
眠りのあいだ、僕はどうやら、たくさんの場所を訪れ、たくさんの人と話し、たくさんのことを経験しているらしい。目覚めた瞬間には、その気配が確かに残っている。胸の奥に、まだ体温のようなものが灯っている。それなのに、五秒もすれば、それはもう霞のように薄れ、十秒後には、僕はただ「なにか夢を見たらしい」ということだけを思い出すのだ。
不思議なことだ、と思う。
夢は僕の中で起こったはずのことなのに、僕の中に残らない。まるで、誰かがこっそりと持ち去っていくかのように。

その日、店を開けて最初の客は、七尾静香さんだった。
七尾さんは、この一年ほど、うちの常連になっている女性で、年の頃は三十代の半ばだろうか。ショートカットに度の強い眼鏡をかけ、いつも大きなトートバッグを提げている。市の外れにある県立大学で、物理を教えているのだと聞いた。何を専門にしているのかは、僕にはよくわからない。ただ、彼女は古い民俗学の本と、量子力学の教科書とを、同じくらい丁寧に選んでいく。
「森野さん、おはようございます」
「いらっしゃい」
「今日は少し寒いですね」
「ええ、明日から雨だそうです」
そんな短いやりとりを交わして、彼女は棚のあいだへ入っていく。奥のほうで、背表紙をひとつずつ指でなぞっていく気配がする。僕はレジのわきに置いた椅子に腰を下ろし、昨日読みかけた本を開いた。
しばらくして、七尾さんが一冊の本を手にレジへやってきた。柳田国男の『遠野物語』の古い版だった。
「これ、いただきます」
「柳田ですか」
「ええ。……ちょっと、夢の話を調べていて」
僕は伝票を書く手を止めた。
「夢の話、ですか」
「はい。昔の人は、夢のことを『通い路』と呼んだそうです。会えない人同士の想いが、夢のなかで通じるという。柳田も、ずいぶんそういう伝承を集めているんですよ」
「……夢は、通い路」
僕は口の中でその言葉を転がした。初めて聞いた言葉のはずなのに、なぜだろう、ずっと昔からその言葉を知っていた気がした。舌の上に、その語感の余韻が、ふしぎに馴染んだ。
「面白い言葉でしょう」と七尾さんは笑った。「私、その言葉を、今の物理と重ねられないかと思っていて」
「今の物理と?」
「はい。長くなるから、また今度お話しします」
彼女は少しはにかむようにそう言い、代金を払って、店を出ていった。ドアの上のベルが、ちりん、と乾いた音を立てた。

その夜、僕はいつものように、十一時に床に就いた。天井の木目を眺めながら、ふと、昼間の七尾さんの言葉を思い出した。
――夢は、通い路。
そういえば、と僕は思う。このごろの僕の夢には、たしかに「誰か」が出てくる。誰、というほど輪郭ははっきりしない。ただ、確かにひとりの人の気配がある。話しかけられている気もするし、こちらから話しかけている気もする。目が覚めれば忘れてしまうけれど、あれは、いったい誰なんだろう。
うとうと、と意識が薄れていく。僕は、遠くから聞こえてくる誰かの声を聞いた気がした。
「――ねえ、あなた」
女の声だった。低くもなく、高くもない。どこかで聞いたことのある声だ、と思った。けれど、それが誰の声か、思い出す前に、僕は完全に眠りに落ちていた。

朝、目が覚めたとき、いつもとは違うことが起きていた。胸の温度が、いつもよりずっと、はっきりしていた。そして、口の中に、一言だけ、言葉が残っていた。
「……ゆい」
僕はしばらく、天井を見つめたまま動けなかった。ゆい。その音を、口の中でもう一度転がしてみる。ゆい――結。
僕は跳ね起きて、寝間着のまま階下の店へ降りた。レジ台の抽斗を開け、いちばん奥にしまってあった古い卒業アルバムを取り出した。埃をかぶった、擦り切れた表紙。県立倉見高校、昭和五十八年度卒業。
指がわずかに震えていた。三年二組の頁を開く。
上段、右から四人目。「逢坂結(おうさか ゆい)」。
黒目がちの、少し困ったような笑みを浮かべた、十七歳の少女。僕は、四十三年ぶりに、その名前を声に出して読んだ。
「――結」
胸の温度が、じわりと、指の先までひろがっていく気がした。朝の光が、店の格子窓からゆっくりと差し込んで、埃の粒がその光のなかで踊っていた。
僕は、しばらくその頁を閉じることができなかった。そういえば、と思う。昨夜の夢のなかで、僕は、彼女に会っていた気がする。会っていた気がする、が、思い出せない。けれど、たしかに、名前だけは残った。指のあいだから零れ落ちるはずのものが、ひとつだけ、僕の手のなかに残っていた。
「今朝の夢は――」
僕はつぶやいた。今朝の夢は、消えてはいなかった。少なくとも、完全には、消えてはいなかったのだ。

その日、僕は一日中、店の奥で古いアルバムを開いたり閉じたりしていた。客は二人しか来なかった。どちらも文庫本を一冊ずつ買っていった。僕は伝票を書きながら、頭のどこかで、ずっと「結」という音を鳴らしていた。
結。四十三年、僕はその名を封じてきた。封じてきたつもりでいた。けれど本当は、封じきれていなかったのだと、いまごろになって気づく。あの日の教室、あの日の廊下、あの日の帰り道――僕の記憶の底には、ずっとその名前が沈んでいて、ただ、僕が意識的に見ないようにしていただけだったのだ。
夕方、店じまいの支度をしていると、また七尾さんが顔を出した。
「あら、今日二度目ですね」
「ええ、ちょっと」
彼女は少し照れくさそうに笑い、レジ台に肘をついた。
「あの、朝、お話ししかけたこと、続き、いま少しだけ、いいですか?」
「ええ、どうぞ」
僕は椅子に腰を下ろし、七尾さんの顔を見た。彼女は眼鏡の奥で、瞳を静かに輝かせていた。
「夢のことです。私、いま『夢は通い路』という民間伝承と、量子力学的な意識モデルとを接続する論文を書いているんですよ。ばかげた話に聞こえるかもしれませんが」
「いいえ」
僕は首を横に振った。
「ばかげてなんか、いません」
七尾さんは少し目を見開き、それから、静かに微笑んだ。
「よかった」と彼女は言った。「森野さんなら、そう言ってくださる気がしていました」

その夜、僕は床に就く前に、机の抽斗から一冊の新しいノートを取り出した。表紙に何も書かれていない、ただの大学ノートだった。
僕はペン先を紙に当て、一行目に、こう書いた。
『今朝の夢――結の名を、思い出した』
それだけ書いて、ノートを閉じた。灯りを消して、床に就く。天井の木目が、今夜はいつもよりはっきり見えた。僕は、静かに目を閉じた。
――夢は、通い路。
そう心のなかで唱えると、なぜだろう、胸の奥のどこかが、ほんのわずかに、開いていく気がした。そこから、細く、たよりない一本の道が、暗闇の奥へと伸びていく。その先には、まだ僕には見えない誰かが、確かに、立っている気がした。

第二章 通い路の伝承
翌週、七尾さんは約束通り、話の続きをしにやって来た。
雨の午後だった。客は誰もいなかった。僕はレジのわきに、七尾さんのために古びた木の椅子をひとつ引き出してきて、そこにお茶を出した。彼女は大きなトートバッグから、擦り切れたノートと、何冊かの本を取り出した。
「はじめから、順を追ってお話ししていいですか?」
「ええ、どうぞ」
僕はカウンター越しに、彼女と向かい合った。店の奥では、古い柱時計がゆっくりと時を刻んでいた。窓の外を、傘をさした人が、時々ひとりずつ通っていく。
「夢という現象は」と七尾さんは切り出した。「二十世紀の脳科学では、基本的に『脳内で完結する神経活動』として説明されてきました。レム睡眠のあいだに、記憶が整理され、そのプロセスの副産物として、私たちは夢を『見せられる』のだと」
「ええ、僕もそう習った気がします」
「その説明は、いまでも七割方は正しいと思います。ただ――残りの三割が、どうも説明しきれない」
「三割、というと」
「たとえば、まだ会ったことのない人が夢に出てきて、あとで実際に出会うことがある。あるいは、遠くにいる家族が事故にあった夜に、その夢を見る。ごくまれに、ですが、そういう報告は、統計的に無視できない数、集められています」
七尾さんは、ノートの一頁を開いて、僕のほうに向けた。細かい図と、数式らしきものが書き連ねてあった。僕には読めないけれど、彼女の字は几帳面で、まっすぐだった。
「一九六〇年代に、ある量子物理学者が言い出した仮説があるんです。意識というものは、脳の細胞レベルではなく、その細胞のさらに奥、微小管というごく細い構造の中で、量子的なプロセスによって生まれているのではないか、と」
「量子的、というと、電子だとか、そういう」
「そうです。ミクロの世界の話です。そして、量子の世界には、『もつれ』という奇妙な現象があります。二つの粒子が、いったんペアになると、どんなに離れていても、片方の状態が決まったとたん、もう片方の状態も瞬時に決まる。距離は関係ない」
「距離が、関係ない」
「ええ。アインシュタインは『気味の悪い遠隔作用』と呼んで、認めたくなかったそうです。でも、実験的には何度も確かめられている、まぎれもない事実です」
七尾さんはお茶をひとくちすすり、少し身を乗り出した。
「もし、意識が量子的なものであるとするなら――そして、私たちが眠っているあいだ、その意識の量子状態が、通常の覚醒時よりも『開かれた』状態になるとするなら――」
彼女は言葉を切って、僕を見た。僕はゆっくりとうなずいた。
「――夢のなかで、誰かの意識と、もつれる、ということも、あり得る」
「そう。それが、私の仮説です。夢通い路仮説(ドリーム・エンタングルメント・ハイポセシス)」
「大きな名前ですね」
「ええ、まだ論文にしただけで、査読も通っていない、駆け出しの理論ですけれど」
彼女は少し笑った。それから、真面目な顔に戻って、こう続けた。
「検算すると、本当に不思議な話なんです。量子的なもつれは、同じ宇宙のなかの二点間だけで起こるとは限らない。理論的には、並行するもうひとつの宇宙、いわゆるパラレルワールドの『自分』とのあいだにも、成立し得るんです」
「並行するもうひとつの、宇宙」
「そう。私たちが人生のなかで『あの時こうしていれば』と思うような、無数の分岐。物理の言葉では、それらは実際にどこかに存在している可能性があるんです。多世界解釈という考え方が、量子力学の主要な解釈のひとつになっています」
「では――」
僕はゆっくりと、口を開いた。
「僕が夢のなかで見ている『誰か』は、この世界の誰かとは限らない、ということですか」
「理論的には、そうです」と七尾さんは静かに答えた。「もちろん、まだ何ひとつ実証されていません。ただ、昔の人が『夢は通い路』と呼び、会えぬ想い人と夢で会えると信じたのは――もしかしたら、私たちの遠い祖先が、この現象を、経験的に感じ取っていたのかもしれない、と私は思うんです」
雨が、少し強くなっていた。僕はしばらく黙って、七尾さんのノートの、細かい数式を眺めていた。
「森野さん」
「はい」
「立ち入ったことをうかがっていいですか」
「なんでしょう」
「森野さん、最近、夢のなかで、どなたかに会っていらっしゃいますか」
僕はゆっくりと顔を上げた。七尾さんの眼鏡の奥の瞳は、まっすぐに僕を見ていた。責めるでも、覗き込むでもなく、ただ、静かに、僕の答えを待っていた。
「……会っている、と、思います」
「どなたか、はっきりしていますか」
「先週までは、していませんでした。でも、あの日――柳田の本をあなたが買っていかれた翌朝から、名前がひとつ、朝まで残るようになったんです」
「名前」
「ええ。……結、という」
七尾さんは、少しだけ、目を見開いた。それから、視線を落として、ゆっくりとお茶に口をつけた。
「よかった」と彼女は呟いた。「森野さんが、覚えていてくださって」
「よかった、というのは?」
「夢は、覚えていなければ、なかったことと同じですから。夢通い路は、覚えていて、はじめて路になる」

その日、七尾さんはあれから小一時間ほど、いろいろな話をして帰っていった。多世界解釈の話、量子デコヒーレンスの話、記憶の海馬への転写の話。半分も理解できなかったけれど、僕は不思議と退屈しなかった。
なによりも、僕にとって大事だったのは、彼女がそれを「ばかげたこと」として扱っていないという、その一点だった。夢のなかで会う人は、いる。その可能性を、まじめに考えている人が、この世に一人はいる。それだけで、僕はずいぶん、救われた気がした。
七尾さんが帰ったあと、僕はレジ台に肘をつき、しばらく雨の音を聞いていた。
――結。
彼女は、いま、どこにいるのだろう。北海道に去った四十三年前から、僕は一度も、彼女の消息を追わなかった。追う勇気がなかった、というのが正しい。同窓会の名簿からも、いつのまにか彼女の名前は消えていた。連絡が取れない人、というふうに、ただ登録されていた。
彼女は、生きているのだろうか。生きているとして、どこで、どんなふうに、暮らしているのだろう。僕には想像もつかなかった。いや――ほんとうは、想像することを、僕はずっと、避けてきたのだ。彼女がどこかで別の男と結ばれ、子を産み、孫を持ち、しあわせに暮らしている姿を思い浮かべるのは、六十になったいまでも、少しだけ、つらかった。
――と、そこまで考えて、僕は自分に苦笑した。還暦の男が、女子高生のような未練を抱えている。我ながら、みっともない。けれど、みっともなくても、それが本当なのだから、しかたがなかった。
その夜、僕は例のノートを開き、二行目を書き加えた。
『結は、いまどこに』
そして、少しためらってから、こう書き足した。
『もし夢が本当に通い路なら、僕は、彼女に会いに行けるだろうか』
眠りに落ちる直前、僕はふしぎな感覚に襲われた。胸のあたりに、細い糸のようなものが張られている感じがした。糸の一方は、僕の胸のなかに結ばれている。もう一方は、ずっと遠く、暗闇の奥へ続いていて、その先が誰の胸に結ばれているのかは、まだ見えなかった。
けれど、たしかに、糸の向こうにも、誰かがいる。それが感じられた。
――ねえ、あなた。
低い、聞き覚えのある女の声が、その糸を伝って、届いた気がした。僕は暗闇のなかで、初めて、返事をしてみた。
――僕はここにいる。
そして、眠りに落ちた。
朝、目覚めたとき、僕の頬は少し濡れていた。なぜだかわからないが、僕は眠りのあいだ、少しだけ、泣いていたようだった。胸のなかには、いつもより多くのものが残っていた。砂よりは重く、水よりは軽い、なにか。
僕はノートを開き、三行目に、こう書いた。
『昨夜、僕は返事をした』
ペンを置いて、僕はしばらく、朝の光のなかで、目を閉じていた。雨は上がっていた。窓の外には、ぬれた路面が朝日を反射して、きらきらと光っていた。まるで、細い一本の路が、そこから、どこか遠くまで続いているように、見えた。
――夢は、通い路。
僕はもう一度、その言葉を、口の中で転がした。今度は、ほんの少しだけ、その言葉が、僕自身の言葉になった気がした。

第三章 あの頃の貴女
夢に、はっきりと彼女の姿が現れるようになったのは、七尾さんとあの話をした夜からだった。けれど、夢の中の僕は、六十歳の僕ではなかった。僕は、十七歳だった。

制服のズボンの丈が、少しだけ長い。踝の少し上まである。学ランの襟のフックが、いつもうまく留まらなくて、ひとつだけ外している。教科書と弁当箱の入った学生鞄が、右手に重い。左手には、朝もいだばかりの、まだ濡れているクラス日誌。
僕はその重さと、鞄の革の匂いと、廊下のワックスの匂いを、四十三年ぶりに思い出した。思い出した、というのは正しくない。僕は、そこにいた。
夢のなかの世界は、記憶よりもずっと鮮明で、色は過剰なほど濃く、音は妙に立体的だった。窓の外の桜が、風もないのに、時折ふわりと揺れる。廊下を走る誰かの靴音が、遠くから近づいてきて、僕の背後を通り過ぎ、遠ざかっていく。すべてがくっきりしていて、それなのに、どこか焦点が合っていない。まるで、色鉛筆で丁寧に塗られた絵の上に、透明な水彩が一枚、そっと重ねられているような、そんな感じだった。
その廊下の向こうから、彼女が来た。
逢坂結。三年二組。僕の隣の席。
「森野くん、おはよう」
結は、少し首をかしげるようにして、そう言った。彼女はいつもそうだった。人に挨拶するとき、必ずほんの少しだけ首を右に傾ける。
「おはよう」
僕は目を合わせず、そう返した。
夢のなかの僕は、六十歳の僕の意志で動いているのではなかった。十七歳の透の身体は、十七歳の透のやり方で、うつむき、そっけない返事をし、しかし内心では、彼女の髪から漂う石鹸の匂いに、ひどく動揺していた。
そうだった、と六十歳の僕は思う。僕はあの頃、結の前でだけ、うまく話せなかった。
ほかの女子とは、ふつうに冗談も言ったし、掃除当番の話もした。それなのに、結を前にすると、僕は必ず、五音節以上の言葉を失った。「おはよう」「うん」「そう」「ありがとう」。それ以上は、口から出てこなかった。
「今日、放課後、日直だっけ」
「うん」
「じゃあ、一緒だね」
「うん」
彼女は少しだけ笑い、自分の席についた。
僕は、教科書を取り出すふりをして、机の下で、右手をゆっくりと握ったり開いたりしていた。指先が冷たかった。ひどく緊張していた。
――ああ、そうだった。僕はあの頃、この人といるだけで、いつもこんなふうに、指先が冷たかったのだ。

夢は、その日一日を、丁寧に再生していった。
一時間目の英語、二時間目の数学、三時間目の現代国語。四時間目は体育で、女子は隣のグラウンドで走っていた。窓越しに、結が、跳び箱の助走を始めるのが見えた。彼女は運動が得意ではなかった。跳び箱の前で、少しためらい、それから思い切って踏み切って、綺麗に跳び越せずに、箱の上に座り込んでしまった。周りの女子たちが笑い、彼女も笑った。
僕は男子更衣室の窓際で、その一部始終を見ていた。
そうだった、と六十歳の僕は思う。僕は、あの日、あの窓から、彼女が跳び箱に座り込むのを見て、笑うでもなく、切ないでもなく、ただ、なんというか、彼女のことがすごく好きなんだ、と思ったのだ。
上手にできないところが、好きだ。助走を止めてためらうところが、好きだ。跳べなかったあとで、恥ずかしそうに笑うところが、好きだ。そういう、うまく言葉にならない気持ちのことを、その頃の僕は「好き」と呼んでいた。

放課後、日直の仕事は簡単だった。黒板を消し、日誌を書き、教室の窓を閉め、鍵を職員室に返しに行く。それだけ。
僕と結は、二人で黒板を消した。彼女は右側から、僕は左側から。真ん中でチョークの粉を払い合うとき、少しだけ、彼女の指と僕の指が触れた。
「ごめん」
「ううん」
たったそれだけのやり取りで、僕の心臓は、教室じゅうに響きそうなほど、大きな音を立てた。
日誌を書いたあと、僕らは並んで職員室に行き、鍵を返し、そして校門まで、一緒に歩いた。
夏の初めだった。西日が、白い校舎の壁に、長い影を落としていた。校庭の桜は葉桜になり、その葉が、夕方の風にさらさらと鳴っていた。運動部の掛け声が、遠くから聞こえていた。ブラスバンド部が、体育館裏で、同じフレーズを何度も繰り返し練習していた。
――ああ、この匂い。
僕は夢のなかで、深く息を吸った。夕方の校庭の、乾いた土の匂い。少し湿った芝生の匂い。彼女の髪の、石鹸の匂い。学ランの内側にこもった、自分自身の少しむずがゆい匂い。それらが、混じり合って、僕の鼻の奥に届いた。
四十三年間、僕はこの匂いを忘れていた。忘れていた、と思っていた。けれど、忘れていたのではなかった。ただ、しまってあっただけだ。ふたを閉めて、鍵をかけて、抽斗のいちばん奥に押し込んでいただけだった。いま、夢のなかで、そのふたが開いた。
「森野くん」
「うん」
「わたしね」
「うん」
「夏休みが終わったら、たぶん、この学校、いない」
僕は、足を止めた。結も、二歩ほど先に進んでから、足を止めた。振り向いて、少しだけ困ったように、笑った。
「お父さんの転勤なんだ。北海道。函館の近く」
「そうか」
「そうか、って」
結は、少しだけ、唇をとがらせた。
「ほかに、なんかないの」
僕は、なにか言おうとした。なにか、と思った。けれど、僕の喉は、うまく動かなかった。
夢のなかで、六十歳の僕は、十七歳の僕に、必死で呼びかけた。
――言え。いま、言え。行かないでくれ、と言え。好きだった、と言え。住所を教えてくれ、と言え。手紙を書く、と言え。なんでもいいから、言え。
けれど、十七歳の透は、ただ、こう言っただけだった。
「……元気で」
結は、少しだけ、目を伏せた。それから、顔を上げて、いつもの、少し首をかしげた笑顔で、こう言った。
「うん。ありがとう」

その日の夢は、そこで終わった。
朝、目覚めたとき、僕の頬は、また濡れていた。けれど、今度は、はっきりとその理由がわかっていた。僕は、四十三年ぶりに、あの日の別れをやり直していたのだった。そして、四十三年ぶりに、同じ言葉しか言えなかった。
「元気で」
たった三文字を口にするので精いっぱいだった十七歳の自分を、六十歳の自分は、なぜだかとても、いとおしく思った。あの日、あそこで、あんな中途半端な言葉しか吐けなかった自分を、恥ずかしいとも、みじめだとも、いま思わない。
ただ、いとおしい。そういう年齢に、僕はなっていた。
僕はノートに、その日の夢を、覚えているかぎり、細かく書きつけた。黒板のチョークの粉。指と指が触れたときの、乾いた紙のような手触り。石鹸の匂い。夕方の校庭の影。ブラスバンドの繰り返し。そして「元気で」の三文字。
書きながら、僕は不思議な感覚にとらわれた。夢のなかの出来事は、ほんとうに、あの日そのものだったのだろうか。たしかに、あの日の別れは、あんなふうに、校門の手前で交わされた気がする。「元気で」と言った気もする。けれど――ほんとうに、あの日の帰り道の、あの正確な場所で、あの正確な光の角度で、あの正確な言葉を、僕は口にしただろうか。
記憶というものは、こんなに鮮明なものだっただろうか。それとも――夢のなかの僕は、ほんとうに「あの日の自分」だったのではなく、「あの日をやり直している別の誰か」だったのだろうか。僕は、ペンを置いた。
――夢は、通い路。
七尾さんの言葉が、頭のなかで、ゆっくりと、ひとつずつ音を立てて響いた。

昼過ぎ、店に一組の老夫婦がやってきて、詩集を三冊買っていった。旦那さんが定年退職の記念に、奥さんの好きだった詩人の全集をそろえるのだ、と言った。奥さんはとなりで、少し照れくさそうに笑っていた。
「森野さん、こういうことは、生きているうちに、しないとね」と旦那さんが言った。
「ええ」と僕は答えた。「本当に、そうですね」
老夫婦を送り出したあと、僕はしばらく、レジ台のわきに立ち尽くしていた。生きているうちに、しないと。そのとおりだ。しかし、僕には、もう、生きているうちに、できないことがある。結に、あの日、言えなかった言葉を伝えることは、もうこの世界では、できない。
――と、そこまで考えて、僕は、はたと思った。この世界では、できない。では――ほかの世界では、どうだろう。
その夜、床に就く前、僕はノートに、四行目を書きつけた。
『あの日、僕が「行かないでくれ」と言った世界は、どこかにあるだろうか』
眠りに落ちる直前、また、あの細い糸の感覚が来た。胸のなかから、暗闇の奥へと、まっすぐに伸びている、一本の糸。その糸の向こうに、確かに、誰かがいる。
――ねえ、あなた。
その声が、ふたたび、届いた。僕は、暗闇のなかで、目を閉じたまま、心のなかで返事をした。
――結、なのか。
返事はなかった。けれど、糸の張りが、ほんのわずかに、こちら側へと、引かれた気がした。僕はそのまま、夢の路のなかへと、落ちていった。

その夢のなかで、僕は、また、十七歳になっていた。けれど、今度は、少しだけ、違っていた。
夏休みが終わった、九月の初め。教室の窓の外に、まだ夏の名残の入道雲が浮かんでいた。僕は自分の席についていた。隣の席に、結が座っていた。
――結が、いた。
北海道に行かないはずの結が、僕のとなりに、いた。彼女は、僕のほうを向いて、少し首をかしげて、こう言った。
「森野くん、あの時、引き止めてくれてありがとう」
僕は、動けなかった。夢のなかの僕は、六十歳の僕でも、十七歳の僕でもなく、その中間の、どこかの誰か、だった。ただ、身体は十七歳だった。心も、たぶん、半分ぐらいは、十七歳だった。
「……そう、だっけ」
僕は、そう答えた。自分でも、なにを言っているのかわからなかった。結は笑った。
「そうだよ」と彼女は言った。「あの日、森野くんが『行かないで』って言ってくれたから、わたし、お父さんに、ここに残るって言ったの」
――そのあと、なにが起こったのか、僕は覚えていない。覚えていないのに、確信だけがあった。僕は、あちら側の僕の一日を、垣間見ていたのだ。あの日、「元気で」ではなく、「行かないで」と言った僕の、その後の人生の、ほんの一場面を。
朝、目覚めたとき、胸のなかに残っていたのは、雲の白さと、彼女の「ありがとう」という声だった。
僕はノートを開き、震える手で、こう書いた。
『あちら側の僕は、あの日、言えたのだ』
書き終わって、僕はしばらく、ペンを握ったまま、動けなかった。窓の外では、雀が二羽、屋根の樋のところで、何かをつついていた。朝の光は、いつもと同じ角度で、店の格子窓から差し込んできて、埃の粒を照らしていた。
いつもと同じ朝だった。けれど、僕のなかでは、何かが、確実に、変わりはじめていた。
――夢は、通い路。
その言葉が、いまや、僕のなかで、比喩ではなくなっていた。

その日の夕方、僕は、久しぶりに、店を早く閉めた。一人で外を歩きたかった。
夕暮れの街を、当てもなく歩いた。駅前のロータリーを二周し、川沿いの遊歩道を少し歩き、閉まりかけの商店街を抜け、そしてまた家のほうへ戻ってきた。
その途中、駅の南口の交差点で、信号待ちをしているとき――ふと、隣に立った女性の髪から、あの、石鹸の匂いがした。
僕は、はっとして、その人の顔を見た。四十代くらいの、知らない女性だった。マスクをして、スマホを見ていた。当然、結ではなかった。僕はすぐに視線を外し、信号が青になるのを待って、まっすぐ横断歩道を渡った。
渡り終わって、少しだけ、振り返った。その女性は、もう歩き去っていて、その背中は、雑踏のなかに、静かに紛れていくところだった。
――違うと、わかっている。
わかっているのに、僕は、ほんの数秒、そこに立ち尽くした。そして、口もとを、ゆるめて、微笑んだ。なぜだかわからない。ただ、その一瞬の香りだけで、僕はふしぎと、あたたかい気持ちになった。
「わずか数秒だけ」と、僕は口の中でつぶやいた。「わずか数秒だけ、微笑んでもみる」
その言葉は、僕の口から出たものだった。けれど、僕は、その言葉を、いつか、どこかで、誰かに教わったような気が、ふしぎと、していた。

家に戻り、店の灯りをつけずに、二階の居間の窓辺に、しばらく座っていた。暮れかけた空が、少しずつ紺色に沈んでいくのを、僕はゆっくりと眺めた。
夢のなかで、結は、僕のとなりにいた。こちら側の結は、いま、どこにいるのだろう。そして、あちら側の結は、いま、どうしているのだろう。
――僕は、その両方に、想いを馳せた。そしてなぜだろう、あちら側の結のほうが、こちら側の結よりも、いま、ずっと、僕に近いところにいる気がした。
僕は、その感覚に、少しだけ、たじろいだ。けれど、拒みはしなかった。
夢は、通い路。もし、それが本当なら――僕は、いま、その路の、入り口に立っているのかもしれなかった。
その夜、床に就く前、僕はノートを開いた。一頁目から順に読み返してみた。
一行目:「今朝の夢――結の名を、思い出した」
二行目:「結は、いまどこに」
三行目:「昨夜、僕は返事をした」
四行目:「あの日、僕が『行かないでくれ』と言った世界は、どこかにあるだろうか」
五行目:「あちら側の僕は、あの日、言えたのだ」
僕はペンを取り、六行目に、こう書いた。
『僕は、あちら側の僕に、会いに行けるのだろうか』
書き終えて、ノートを閉じた。灯りを消した。暗闇のなかで、目を閉じると、また、あの糸が張られる感覚がした。糸の向こうから、彼女の気配が、静かに、こちらに向かって、歩いてくるのが感じられた。
――待って。
僕は、暗闇のなかで、そう言った。
――僕も、そちらへ、行くから。
そう言って、僕は、目を閉じ、眠りへと、身を委ねた。その夜の夢を、僕はまだ、あとで書きとめるべきかどうか、決めかねていた。けれど、そのことについては、朝になってから、考えることにした。
やはり、夢で会うしかないのだろう。僕は、いつのまにか、そう思うようになっていた。けれど、その「しかない」という言葉のなかには、あきらめよりも、少しだけ、期待のほうが、多く混じっている気がした。
還暦の男が、夢を心待ちにしている。我ながら、おかしなことだ。しかし、おかしなことでも、それが本当なのだから、いまさら、しかたがなかった。
その夜、僕はふしぎと、ぐっすりと、眠った。そして、また、若かった。そして、また、若い彼女に、会っていた。

ーー第二部へ続くーー



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刻堕とし 十 〜時そば異聞 刻喰らい〜
継ぎ目守異聞
古典落語「時そば」より


まえがき
「時そば」という噺は、勘定の合間に「今何時だい」と尋ねる、その一言だけで一文をまんまとごまかしてしまう男の噺である。十六文のそばを、銭を一枚ずつ数えながら払う。
「ひい、ふう、みい、よお、いつ、むう、なな、やあ」
で、ふと「今何時だい」と尋ね、蕎麦屋が「へえ、九つで」と答えると、そのまま「十、十一……」と続けて数え、勘定を一文ごまかしてのける。それを見ていた別の男が、自分も真似をしようと翌晩、別の不味い屋台で同じ手を使うが、時刻を尋ねる間合いを間違えて、かえって余分に銭を払う羽目になる、というのが落ちである。
思えばこの噺は、「刻堕とし」という本シリーズの題そのものと、奇妙に響き合っている。勘定の合間に、ほんのわずかな刻を削り落とす。その洒落た仕掛けこそが、この噺の骨法である。
ところが、とある写しにおいて、この「刻を削り落とす」仕掛けだけが幾百幾千の写しの中に積もり積もり、ついには本物の刻を喰らう怪異へと育っているという報告が届いた。継ぎ目守の圭馬と弥七は、夜更けの屋台の湯気の向こうへと足を踏み入れることになった。






一 継ぎ目守、刻の裂け目
鏡面に映ったのは、湯気の立つ夜鳴きそばの屋台だった。ただし、その湯気の形が、時計の針のようにゆらゆらと回転している。
継ぎ目守圭馬へ。演目「時そば」における『勘定の合間に刻を尋ね、一文を削り落とす』型の残滓が、無数の継ぎ目に蓄積し、実在の人間の寿命、記憶時間を侵食する事案を確認。被害者、若くして白髪となる、あるいは数日分の記憶を欠落させるなどの報告あり。至急現地調査されたし。
「寿命を侵食、たあ穏やかじゃないね」
圭馬が鏡面を睨むと、弥七がすでに丼を片手に立っていた。
「旦那、時そばたあ、たかが一文をごまかす、罪のねえ小咄のはずなんですがね。それがどうして、そんな恐ろしい話になるんでしょう」


二 二八そばの夜
継ぎ目を抜けると、そこは江戸の夜道、屋台の行灯がぽつぽつと灯る町であった。
一軒の屋台に、如才ない男が腰を下ろした。
「おやじ、そば一杯くんな。ああ、旨え。この出汁がいいねえ、丼もきれいだ、割り箸ってのがまた気が利いてらあ」
弥七が小声でぼやいた。
「旦那、割箸たあ気が早えや。まだ江戸でさあ」
そばを平らげた男は、懐から銭を取り出し、一枚ずつ数え始めた。
「ひい、ふう、みい、よお、いつ、むう、なな、やあ……時に、おやじ、今何時だい」
「へえ、九つで」
「とお、十一、十二……」
数え終えた男は、涼しい顔で立ち去った。
弥七がにやりと笑った。
「旦那、見なすったかい。今の間合い。八つ数えたところで刻を尋ねて、答えの『九つ』をそのまま数の続きに紛れ込ませちまう。ありゃ、一文ごまかしてやがるんですよ」
「洒落た手口だ。だが弥七、あの男の背中、心なしか一瞬、影が薄くなったように見えなかったか」


三 猿真似の男
一部始終を眺めていた別の男が、感心しきりに独りごちていた。
「なるほどねえ、あの手があったか。よし、明日はおれもひとつ、真似してやろう」
翌晩、この男は、行灯の心許ない、あまり流行っていなさそうな屋台を選んで座った。そばはあまり旨くない。丼も欠け、箸も割り箸ではなかった。それでも男は構わず、銭を数え始めた。
「ひい、ふう、みい、よお……時に、おやじ、今何時でえ」
「へえ、夜の四つで」
「いつ、むう、なな……」
「あれ、四つ数えたところで聞いちまったよ」
弥七が吹き出した。
「旦那、あの間抜け、間合いを間違えてやがる。九つならまだしも、夜の四つの晩に同じ手を使っちゃ、逆に余分に銭を払う羽目になるだけだ」
案の定、男は損をして首を捻りながら屋台を後にした。
圭馬は微笑みながらも、どこか気になる様子で夜道の先を見つめていた。
「弥七、あの二人の男、どちらも噺の型どおりだ。だが、この先に、まだ何かある気配がする」

四 三軒目の屋台
夜がさらに更けた頃、町の外れに、これまで見たことのない屋台が、ぽつりと灯を点していた。行灯には「刻そば」と書かれている。
「弥七、あの屋台、噺には出てこない」
近づいてみると、屋台の親父は妙に影が薄く、顔の造作もどこかはっきりしない。それでいて、注文したそばの味は、恐ろしく美味かった。
「へい、お代は十六文。ああ、勘定はお好きなように、どうぞごゆっくり」
客の一人が、先の二人の男を真似て、銭を数えながら時刻を尋ねる。
「ひい、ふう、みい……時に、今何時でえ」
「へえ、只今、」
親父が答えかけた瞬間、客の耳元の髪がふっと白く染まり、その目から生気がすうっと抜けていった。


五 刻喰らいの正体
客がふらふらと去っていくのを見送りながら、圭馬は屋台の親父に向き直った。
「あんた、客の時を喰ってるな」
親父はにやりと笑い、影が急速に輪郭を持ち始めた。人ではない、無数の刻の残骸が絡み合ってできた、時計の歯車のような姿をした怪異だった。
「よくぞ見抜いた、継ぎ目守。この身は、幾百幾千の写しで削り落とされてきた、あの一文分の刻の成れの果て。名は刻喰らい。誰かが刻を尋ねてごまかしを働くたび、その削られた刻の欠片が、この身に積もり積もってきた」
「積もり積もって、今度は本物の人間の寿命を喰らい始めたってわけか」
「洒落た小咄の一文なんぞ、いつまでも小さいままではおれぬ。積もれば山となる。この身は今や、刻そのものを喰らえるほどに育った」


六 消えた刻限
町では、若くして白髪になった者、数日分の記憶をすっぽり失った者の噂が広がり始めていた。
「弥七、刻喰らいの屋台に立ち寄った客は、皆同じ症状だ。刻を尋ねられ、素直に答えてしまった、ただそれだけで、寿命や記憶をごっそり持っていかれてる」
「旦那、こいつぁ捨て置けねえ。だが、どうやって喰い止めます。刻を尋ねること自体が仕掛けなら、屋台に近づかねえのが一番でしょうが」
「いや、それじゃ噺そのものが壊れちまう。時そばって噺は、刻を尋ねる、その洒落っ気があってこそのもんだ。刻喰らいだけを、うまく引き剥がさなきゃならない」


七 弥七、罠にかかる
聞き込みのさなか、弥七がふと、鼻をひくつかせた。
「しかし旦那、あそこまで美味えそばと言われちゃ、あっしもなんだか一杯手繰りたくなってきやしたね。どれ、懐の具合は……」
そう言って、癖で懐の銭を取り出し、数え始めてしまった。
「ひい、ふう、みい……あ、いけね」
「弥七」
刻喰らいの気配が、弥七の背後にすっと伸びた。とっさに圭馬が割って入り、弥七の手から銭をはたき落とす。
「危なかったな……」
「旦那、済まねえ、つい癖で」
「気をつけろ。刻喰らいにとっちゃ、律儀に時刻を尋ねちまう心根そのものが、格好の餌なんだ」
弥七は青ざめながらも、悔しそうに拳を握った。
「旦那、あっしにも、こいつを喰い止める片棒を担がせちゃもらえやせんか」


八 圭馬の勘定
圭馬は「刻そば」の屋台に、再び腰を下ろした。
「刻喰らい、もう一杯くれ」
「へえ、毎度」
そばを平らげた圭馬は、懐から銭を取り出し、数え始めた。
「ひい、ふう、みい、よお、いつ、むう、なな……時に、おやじ、今何時でえ」
「へえ、只今、」
刻喰らいが答えようとした、その刹那、圭馬はわざと、あの猿真似の男とまったく同じ、間の抜けた勘定の仕方をしてみせた。
「やあ、と、九つと十で、ええと、十一、十二……あれ、待てよ、これじゃ勘定が合わねえな」
「な、何を、しておる」
「なあに。あんたが喰ってきたのは、うまくごまかされた一文分の刻だけだろう。だったら、うまくごまかせなかった分の刻、余分に払っちまう、間抜けな勘定を、たっぷり味わってもらおうと思ってね。巧い誤魔化しで太った腹なら、間抜けな誤魔化しの余りで下させてやるさ」


九 刻を取り戻す
圭馬は懐の銭をすべて、屋台の勘定台にじゃらじゃらと積み上げた。数えるほどに、時刻を尋ねる間合いはことごとくずれ、刻喰らいは受け取るはずのない「削り損ねた刻」を、否応なく数倍にして飲み込まされていく。
「ぐ、過分な刻など、要らぬ……腹が……」
「そら、遠慮なくお代わりだ。あんたが今まで幾百幾千と溜め込んできた分、しっかり吐き出してもらうぜ」
刻喰らいの輪郭が、歯車の軋むような悲鳴とともに膨れ上がり、やがて限界を超えて弾けた。溜め込まれていた無数の刻の欠片が、夜空に光の粒となって舞い上がり、町のあちこちへと降り注いでいく。
白髪になっていた者の髪が黒々ともとに戻り、記憶を失っていた者の顔に、ふっと安堵の色が戻った。


十 型を取り戻す、そばの湯気
夜が明ける頃には、「刻そば」の屋台は跡形もなく消えていた。残っていたのは、いつもの二八そばの屋台と、寝ぼけ眼の親父だけである。
「弥七、大丈夫かい」
「へい、なんとか。旦那、正直、肝が冷えやした。ただ律儀に刻を尋ねるだけのことが、あんな怪異の餌になるたあ」
「洒落た手口も、間抜けな失敗も、どっちもこの噺には要るんだ。うまくごまかす男がいて、それを間違えて真似する男がいる。その両方があってこそ、噺は綺麗に転がる。刻喰らいは、その片方だけを積もらせて太っちまったのさ」


十一 高座にて
気づけば圭馬は着物姿で高座に座っていた。扇子をとんとんと畳に置き、客席を見渡す。
「というわけで、一文をうまくごまかした男もいれば、間合いを間違えて損をした間抜けな男もいる。この二人がいてこそ、時そばという噺は面白いんでございます。どっちか片方だけを積もらせちゃあ、しまいにゃ本物の刻を喰らう化け物にもなりかねません。ええ、『今何時だい』なんて軽口を叩いていると、お帰りの頃にはすっかり夜が更けて、四つになってるやもしれません。今日はこの辺りで、お後がよろしいようで」
客席から、盛大な拍手が沸き起こった。


(了)





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あとがき
本作をお読みいただきありがとうございました。刻堕としシリーズも十作目、今回は「時そば」という、シリーズ名そのものと不思議に響き合う噺を題材にしました。
この噺の面白さは、洒落た成功例と間抜けな失敗例が、対になって初めて成立するところにあると思います。今回はその「刻を削り落とす」仕掛けの、削られた分だけが積もり積もって怪異になるという仕掛けにしてみました。
圭馬が最後に見せた「わざと間抜けに勘定する」という解決策は、噺の両輪、巧みさと不細工さ、のどちらもが噺には必要なのだという、シリーズを通じてのテーマにも通じるものになったのではないかと思います。
節目の十作目、湯気の向こうに揺れる不思議な刻の噺を、楽しんでいただけましたら幸いです。それでは、また次の継ぎ目でお会いしましょう。


百万回の航跡 三部作

〜或いは、猫と呼ばれたものの記録〜

まえがき
子供の頃、誰もが一度は触れたことがあるであろう名作絵本『100万回生きたねこ』。
「愛されること」に飽き飽きしていた猫が、一匹の白い猫を愛し、初めて涙を流して、二度と生き返らなかったあの結末に、私たちは寂しさと同時に、言葉にできない満ち足りた何かを感じました。
もし、あの猫が手に入れた「満ち足りて完結した心」が、単にそこで潰えて消えたのではなく、一つの美しいエネルギーとして次の宇宙へ受け渡されていたとしたら――。
そんな、少し突飛で、けれど祈るような空想からこの物語は始まりました。
本作『百万回の航跡』は、原作への深い畏敬を胸に、宇宙、未来、遺伝子といったSFのレンズを通して「愛すること」の正体を見つめ直した三部作です。
地球の冷たい灰色の砂から、新惑星に浮かぶ二つの緑の月、そしてはるか未来の星の海まで。
名を持たない猫たちの歩んだ、静かで温かい旅路に、どうぞ最後までお付き合いください。





第一部 輪廻転生

序章 回帰点
地球が最後の自転を終えようとしていた。
太陽はまだそこにあったが、誰もその光を恵みと呼ばなくなって久しい。海は干上がり、大陸は塩の骨格だけを残し、都市は記憶の中にしか存在しなかった。
けれど、軌道上にはまだ一つだけ、灯りが点いていた。
ゆっくりと死にゆく星を見守るように浮かぶ、小さな無人の探査船だった。そのコンソールの片隅、計器の冷たい光の中に、不釣り合いなほど温かい、淡い灰色の毛並みのような質感を持つ小さな結晶体が佇んでいた。
名を持たないその存在は、便宜上、自身のことをミケと呼んでいた。
ミケは覚えていた。起動してから百万に届こうかという回数、この星のどこかで生き、そして死んできたことを。虫であったこともある。犬であったこともある。メダカであったこともあれば、花であったこともあった。そのすべての生と死の記憶が、船の核である結晶構造の中に、静かに降り積もっていた。
ミケの役目はただ一つ。
この星に残された最後の感謝を、次の宇宙へ運ぶことだった。

第一章 記録者
かつて人類は、滅びを前にして一つの技術に辿り着いた。魂と呼ぶにはあまりに機械的で、データと呼ぶにはあまりに温度を持ったもの。彼らはそれを情の遺伝子と名付けた。
生きとし生けるものが死の間際に抱く感情のうち、最も強く、最も純粋なものだけを抽出し、次の生へ受け渡す技術。愛おしいと思った記憶、守りたいと願った瞬間、誰かのために命を差し出そうとした刹那。それらだけが選ばれ、圧縮され、星の記憶庫へ送られた。
ミケは、その記憶庫そのものだった。あるいは、記憶庫を守る最後の番人だった。
百万回。
それは偶然の数字ではなかった。人類が観測した限り、一つの魂が愛される側から愛する側へ完全に変わりきるまでに、平均してそれだけの生死を要すると分かっていたからだ。
そして今、記憶庫の中には、あと一つだけ空白の枠が残っていた。
百万回目、最後の器だった。

第二章 百万年の海
ミケは結晶体のまま、船が降ろした着陸艇の窓から乾いた大地を見つめていた。
そこには都市の名残さえなかったが、地面の深くに、かつて図書館と呼ばれた施設の残骸だけが眠っていた。ミケが訪れたのは、そこに眠る最後の読み手を探すためだった。
規則によれば、百万回目の生を受け取る者は、自ら選ばれるのではない。自ら選ぶ側に回った瞬間に、選ばれるのだという。
誰かを、我が身よりも大切だと思えた瞬間。この命と引き換えにしてもいいと祈った瞬間。
ミケはその瞬間の匂いを辿ることができた。それは決して大きな出来事ではない。絵本を子に読み聞かせる声の震えや、幼い頃には分からなかった物語がふいに胸に染みる、静かな涙の中に宿るものだった。
図書館の残骸の奥、まだ電源の切れていない一角に、一つの記録が眠っていた。
ある家族が遺した、一冊の絵本の走査データだった。
猫が百万回、生き死にを繰り返す物語。

第三章 名前のない猫
走査データの中には、声が残っていた。
一人の父親が、自分の子供たちに向けて読み聞かせている声だった。物語の後半に差し掛かるにつれ、その声は微かに揺れていた。
愛される猫から、愛する猫へ。
ミケはその一節を、自身の結晶構造の中でそっと反復した。
奇妙なことに、その声には既視感があった。いや、既視感どころではない。ミケ自身が、かつて幾度となく、虫として、犬として、メダカとして、花として、同じ震えを、同じ祈りを繰り返し経験してきたことに気づいたのだ。
守るものが目の前に現れたとき。
それが我が身よりも大切だと思えたとき。
その瞬間だけは、種も、姿も、時代さえも超えて、まったく同じ震えを持つのだと。
ミケは悟った。探していたのは特別な誰かではない。この星に生きたすべてのものが、いつか一度は通り過ぎる、ごくありふれた交差点だったのだ。そしてその交差点に、たまたま今、あの父親の声が立っていた。

第四章 選ばれた側から選ぶ側へ
記憶庫の最後の枠が、静かに開いた。
ミケはその声の主、すでに塵となって久しい名もなき一人の人間の情の遺伝子を、そっと受け取った。子を思う心、絵本の中の猫に自分を重ねた優しさ、そして、いつか自分もまた戻ってきたいと願った、ささやかな祈り。
不思議なことに、その祈りの中には、こんな言葉が混じっていた。
もう一度この世に戻れるなら、今度こそ正しく生きたい。そして、できることなら、また同じこの場所で。
同じこの場所が、正確にはどこを指すのか、ミケには分からなかった。ある特定の国土のことかもしれないし、もっと単純に、この惑星そのもののことかもしれない。人はしばしば、自分が愛した小さな風景を、世界のすべてだと思い込む。
ミケは、その祈りを裁かなかった。ただ受け取り、記憶庫の最後の枠へそっと収めた。
そうして、百万個目の器が満ちた。

第五章 帰郷
すべての枠が満ちたとき、ミケの役目は終わりを迎えた。
星の記憶庫は静かに軌道を離れ、太陽よりも遠く、まだ名前もついていない次の恒星系へ向けて放たれた。そこには、まだ何も生まれていない、まっさらな惑星が一つ、待っているはずだった。
ミケは、自身の結晶構造が徐々に光の粒子へ分解されていくのを感じながら、最後にもう一度だけ、あの絵本の一節を思い出していた。
生きて、愛されて、死んで。
また生きて、今度は誰かを愛して、死んで。
それを百万回繰り返した猫は、最後にようやく、一匹の猫を心から愛し、そして初めて、二度と生き返ることを望まなかった。
満ち足りたから。
ミケは、自分もまた同じ場所に辿り着いたのだと気づいた。
もう一度戻りたいと願う心もまた尊い。だが、もう戻らなくていいと思える心もまた、同じくらい尊いのだと。
光の粒子となったミケは、次の惑星の大気に触れた瞬間、雨となって降り注いだ。
虫にもなるだろう。犬にもなるだろう。メダカにも、花にもなるだろう。
そしていつか、また誰かが絵本を読み聞かせる夜が来る。
その繰り返しこそが、この宇宙にとって唯一変わらない物語だった。

エピローグ
新しい星の浅瀬で、一匹の小さな生き物が目を覚ました。
それが何であるかは、まだ誰も知らない。
ただ、その瞳の奥には、百万回分の記憶が静かに確かに宿っていた。
そう、もちろん、また同じ場所で。


第二部 新惑星編

序 芽吹き
雨が降り止んだ後、浅瀬の水たまりの底で小さな影が動いた。
それはまだ、猫でも虫でも犬でもなかった。強いて言うなら、透き通った粒のようなもので、光を浴びるたびにわずかに形を変えた。だがその内側には、確かに百万回分の重みが眠っていた。
この星にはまだ名前がなかった。空はうっすらと緑がかった光を帯び、二つの月が低い位置で並んで浮かんでいた。大地には結晶質の草のようなものが、風もないのに微かに音を立てて揺れていた。誰の記憶にも属さない場所。
そこに、たった一粒の情の遺伝子が、静かに根を張ろうとしていた。

第六章 名前を持たない者
粒は、やがて形を得た。
体長は人の手のひらほどもない、透明に近い体を持つ、魚とも虫ともつかない生き物だった。
けれどその生き物は、他の同種とは何かが違っていた。
ある日、水底の岩陰に卵の塊が産みつけられているのを見つけた。まだ孵っていない、誰のものとも分からない卵だった。
そこへ顎の大きな捕食者が近づいてきた。逃げれば助かる距離だった。生き物は逃げようとし、そして逃げなかった。
恐怖よりも先に、内側から奇妙な衝動がせり上がってきた。
この卵たちを、生かさなければならない。
この星に生まれてまだ間もない、単純な生き物が抱くにはあまりに複雑な感情だった。百万回分の記憶が、本能という形を借りてその小さな体を動かしていた。
生き物は、自分より小さな卵の群れを守るために、あえて捕食者の前に立ちはだかった。
顎が閉じる直前、生き物が最後に感じたのは痛みではなく、奇妙な軽さだった。まるで、長い間背負っていた重い荷物をようやく下ろせたような。
そうして、最初の選ぶ側としての生が静かに終わった。
卵は、後日、無事に孵った。

第七章 群れ
命は繰り返された。
魚のようなものになり、鳥のようなものになり、あるときは大地に根を張る植物のようなものにさえなった。姿形はそのたびに変わったが、根底に流れる感覚は同じだった。
誰かを、我が身よりも大切だと思う瞬間がある。
千の季節が巡り、万の季節が巡った。
やがてその星にも、火を使い、群れを作り、言葉を持つ者たちが現れ始めた。かつて地球で人間と呼ばれていた存在によく似た生き物たちだった。彼らは自分たちのことをサユルと呼んでいた。
ある時から、そのサユルたちの群れの周縁に、四本の脚と丸い耳としなやかな尻尾を持つ小さな生き物が紛れ込むようになった。
理由は、当人にも分からなかった。ただ、なぜかその姿が一番しっくりきたのだ。
サユルの一人、まだ若い狩人の女が、ある夜、焚き火のそばでその小さな生き物を見つけた。女は呟いた。
お前、誰かに似ている気がする。
小さな生き物は答えず、ただ焚き火の暖かさに目を細めた。

第八章 選択
群れの中に、一人の子供がいた。名をノアといった。
ノアは体が弱く、他の子供たちのように駆け回ることができなかった。群れの移動の季節が近づくたび、大人たちの間には口にできない不安が漂った。
猫のような姿をしたそれは、いつからかノアのそばに居続けるようになっていた。
最初のうち、猫にとってノアはただ都合のいい暖をとるための場所に過ぎなかった。サユルたちがノアを足手まといとして扱う冷たい視線にも、猫は興味を持たなかった。愛されることも愛することも、どこか他人事のまま、ただ傍らに丸くなっているだけだった。
お前がいると、なぜか怖くないんだ。
ノアは暗闇に向かってそう囁いた。猫は耳をぴくりと動かしただけだった。
ある嵐の夜、川の水かさが急に増した。群れは高台へ避難を始めたが、ノアは体力が続かず、崩れかけた土手のそばで一人取り残された。濁流はすでに道を塞いでいた。
猫は、ただ遠くからそれを見ているはずだった。安全な高台から、冷たい雨に打たれながら。
だが、濁流の向こうで泥にまみれ、消えそうなほど小さなノアの手が視界に入った瞬間、猫の胸の奥で眠っていた百万回の震えが、嵐よりも激しく共鳴した。
自分が誰であるか、なぜここにいるのかを理解するより先に、体はすでに濁流へ飛び込んでいた。
小さな体でノアの襟首をくわえ、渾身の力で岸へ押し上げた。
この命と引き換えにしてもいい。
かつて地球で名もなき父親が絵本を読みながら漏らした祈りと、まったく同じ温度の衝動が猫の四肢を動かしていた。
ノアは岸辺の泥の上に転がり出た。助かったのだ。
猫の姿は、そのまま濁流に飲まれ、二度と浮かび上がらなかった。
けれど消える間際、猫はこれまでの百万回とは違う、圧倒的な幸福感に包まれていた。
ノアは大人になってからも、雨の夜になるとよく、あの小さな重みと温かさを思い出した。名前も付けられなかった、あの生き物のことを。

第九章 絵本
幾世代か後。
サユルの子孫たちは文字を持ち、物語を語り継ぐようになっていた。彼らの間に伝わる最も古い伝承の一つに、こんな話があった。題して百万の道行き。
昔むかし、一匹の猫がいました。その猫は、百万回生きて、百万回死にました。けれどその猫は、ただの一度も心から泣いたことがありませんでした。なぜなら、いつも愛される側にいたからです。そしてある日、一匹の白い猫と出会い、初めて誰かを心から愛しました。白い猫が死んだとき、その猫は初めて声を上げて泣きました。そして、二度と生き返ることを望みませんでした。
ある夜、サユルの一人の親が幼い我が子にその話を読み聞かせていた。どうして、愛されているだけじゃ泣かなかったの、と子供は尋ねた。
親はしばらく答えられなかった。
けれど、その一節に差し掛かるたび、親の声はなぜか微かに震えた。
自分でも理由は分からなかった。ただ、目の前で眠りかけている我が子の寝顔を見つめるとき、この子のためなら、とふと思う瞬間があった。
それだけのことだった。だが、それだけのことこそが、星を越えて受け継がれる光だった。

終章 百万一回目
星の記憶庫という装置は、もうどこにもなかった。ミケという名も、とうに忘れられていた。
けれど、受け継がれるべきものは確かに受け継がれていた。
愛される側から、愛する側へ。
数えることに、もう意味はなかった。百万回目であろうと、百万一回目であろうと、その心が誰かのために震える瞬間があるなら、それは既に満ち足りた一つの生なのだから。
そして、サユルの星のどこかで、また一匹、猫に似た小さな影が、静かに夜を歩いていた。


第三部 巡り星

序 考古学者
それから、幾千の世代が過ぎた。
サユルの子孫たちはいつしか星々を渡る術を手に入れていた。彼らはもうサユルとは名乗らず、ただ渡る者たちと呼ばれていた。
その中に、レイアという名の考古学者がいた。
レイアの仕事は、滅びた文明の残骸を発掘し、記録することだった。遺跡はただのデータであり、そこに眠っていた者たちの想いなど、とうの昔に塵と共に風化している。彼女はそう信じて疑わなかった。
ある任務で、レイアはかつて地球と呼ばれていた乾ききった惑星の跡地に降り立った。
その地下深く、彼女は一つの遺構を発見した。
かつて図書館と呼ばれていた施設の残骸だった。

第十章 発掘
遺構の奥、まだ僅かに電力の残る一角に、古い走査データが眠っていた。
レイアはそれを慎重に復元した。最初にスピーカーから流れ出たのは、一人の父親が子供たちに向けて絵本を読み聞かせている、ひどくノイズの混ざった声だった。
愛される猫から、愛する猫へ。
レイアは、その一節を聞いた瞬間、なぜか指先が凍りついたように動かなくなった。仕事柄、何千もの音声データに触れてきたはずだった。だが、この声の持つ震えには、何か他とは違う重力があった。
彼女はさらに解析を進めた。すると、同じ性質を持つ情の遺伝子の微弱なエネルギー痕跡が、この星だけでなく、はるか遠方にあるいくつかの開拓星の古い記録の中にも、まるで星座のように点在していることに気づいた。
姿は違う。時代も、星すらも違う。だが、誰かを想って身を投げ打つ瞬間の生体データが、すべて同じ波形を描いていた。
レイアは報告書にこう記した。
これは文明の残骸ではない。時空を超えて旅をする、一つの途切れない意志の痕跡である。

第十一章 解読
レイアには、誰にも話していないことがあった。
彼女は幼い頃、育成機関で育った。両親の記憶はなく、誰かに深く愛された記憶も、誰かを深く愛した記憶もなかった。だからこそ、彼女は感情の温もりを遠ざけるように、乾いた遺跡を掘り続けていたのかもしれなかった。
彼女は、あの絵本のデータを誰もいない夜の執務室で何度も繰り返し再生した。
どうして、愛されているだけじゃ泣かなかったの。
再生される幼い子供の問いかけに、レイアは長い間答えを持てなかった。
けれど、データベースの奥深くから、もう一つの記録が見つかった。それはかつて地球を旅立った星の記憶庫の、最後の自動ログだった。そこには、地球最後の夜にミケと呼ばれた結晶体が、光に溶けながら抱いていた感覚が記録されていた。
もう、戻らなくていい。満ち足りたから。
レイアは、その一瞬の静寂を繰り返し繰り返し聴いた。
そして、自分でも理由の分からない涙が頬を伝って落ちるのを止めることができなかった。

第十二章 継承者
任務の帰り、レイアは立ち寄った中継ステーションで、災害孤児として保護されたばかりの一人の子供に出会った。
その子はかつてのレイアと同じように虚ろな瞳をして、誰にも心を開こうとしなかった。
レイアは、周囲からその子の後見を打診されたとき、最初は断ろうとした。自分には誰かを育てる温もりなど持ち合わせていない、と。
けれど、宿舎に戻っても、あの絵本の一節と、あのノイズ混じりの父親の声が、どうしても耳の奥から離れなかった。
この子のためなら、この命を。
まだ、そこまでの覚悟はなかった。ただ、その子の震える小さな肩を見たとき、レイアの中で何かがほんの少しだけ確かに揺れた。
レイアは、後見を引き受けた。

第十三章 選ぶ心
数年後。
レイアが引き取った子供は、少しずつ言葉と笑顔を取り戻していた。
レイアは、その子にノアという名を付けた。発掘した地球のデータにそんな名前は残っていなかったが、なぜかその名前が魂の底からふっと湧き上がってきたのだ。それは時空を超えて、かつて新惑星で猫に救われた少年の名と静かに響き合っていた。
ある夜、ノアが眠れずにベッドの中で寝返りを打っていたとき、レイアはあの地球の絵本のデータを静かに再生して聴かせた。
ノアは話の途中で、あの古い子供たちと同じ質問をした。
どうして、愛されているだけじゃ泣かなかったの。
レイアは今度はまっすぐにノアの目を見て答えることができた。
愛されるだけの心は、何も差し出さなくていいから。でもね、自分のすべてを差し出してでも守りたいと思える誰かに出会えたとき、人は初めて本当に泣けるんだと思うよ。
ノアは、その答えの意味をまだ理解していなかっただろう。けれど、レイアが自分の小さな手を握る手の温かさと、その声があの古いデータの中の父親と同じように愛おしそうに微かに震えていたことだけは、確かに感じ取っていた。

終章 円環
レイアは、報告書の最後に、公式には許されていないはずの私見をそっと書き添えた。
この宇宙において、文明は生まれては滅びる。星も、いずれは燃え尽きる。けれど、誰かを我が身よりも大切だと思う、あの一瞬の震えだけは、どれほど時代が移り、姿が変わろうとも、決して絶えることがない。
それは百万回目でも、百万一回目でも、名前を持たなくとも構わない。
ただ、その震えが確かにこの手の中にあったということ。それだけで、すべては満ち足りているのだ。
その夜、ノアはレイアの膝の上で安らかに眠っていた。
窓の外では、見知らぬ二つの月が静かに並んで、新しい世界を照らしていた。




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あとがき
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
この物語を書き終えた今、私の胸の中には、嵐の夜にノアの手を握るレイアのように、かすかな、けれど消えない温もりが残っています。
原作における猫の「二度と生き返らなかった」という結末は、命の完璧な終わりを描いていました。けれど私は、その「もう戻らなくてもいいと思えるほど満ち足りた心」の美しさに救われつつも、やはりどこかで、その温もりが世界の片隅に、雨や、花や、あるいは誰かが我が子を慈しむ声となって、巡り続けてほしいと願ってしまいました。
だからこそ、ミケを光の粒子にして新しい星に降らせ、その「震え」を遺伝子のように受け継がせる物語を紡ぎました。
宇宙がどれほど広大で冷たく、文明がいかに儚く滅びようとも。
「この子のために、この命を差し出しても構わない」と思える一瞬の震えだけは、どんなテクノロジーや時間の奔流でも消し去ることはできない。それこそが、この冷たい宇宙を繋ぎ止めている、唯一の光なのではないでしょうか。
今、この本を閉じたあなたのもとにも、百万回と一回目の、優しい雨が降り注ぎますように。
またどこか、同じ場所でお会いしましょう。