昨今
真夜中に飛び起きて
ちょこちょこっと書いては

これ
やっぱり面白くない! と
苦笑いして

ボツ!

なんてことが増えた
落書きのような物語

もちろん
力不足ゆえ
長編にはならず
短編ばかりだから
無駄な時間は
せいぜい5時間ほど…

それでも
なんとかならないかと
SF調にすれば

なんでもあり! なんて
物語に変わり

なんとかなるかも? と
またそこから
格闘してみる

そしたら
そこからは時間を決めて
あと2時間
頑張ってダメならば
ボツ! と決めたから
楽にもなった

ただし
その中の文字の配列は
その後のどこかに生きるから

無駄なようで
無駄でもない

ネタは
まだまだ
尽きることなく
ここにある

それは
この20年ほど
ここに
好き勝手に書き込んで来たもので

それを
どう膨らせるかが
今頃 楽しい遊びともなった



そこへ
Kindleならば
無料で載せられると知り

苦手なパソコンと格闘すれば
週に10本まで載せられるから
嬉しくもなる

ここへは
そこから漏れたものや
もう少し手直ししたいが
まあ良いかと
試しに載せるものばかり

そんなこんなは
大袈裟に言えば
生きた証を
何かで残したいという
あくまでも自己満足だから
Kindleからの報酬は
今まだ頂いてはいない

もちろん
膨大な数のそこへ
埋もれているから
なかなか
そこから
見つけ出しては頂けないけれど

いくつかは
なんとか読んで頂き
わずかながらの報酬は
発生しているようだ

ただし
それも
そこそこ纏まらないことには
Kindle側も
振り込んではくれないから

まだまだ
小遣いにも程遠い 笑


さて
ふと思うことが増えて
ふと出る言葉も増えて

でも
それをその場で
何かに書き残さないと

次の瞬間には
忘れてしまっている

そしてそれは
その後
2度と現れないから
不思議だ

まるで
周波数の違う波に
一瞬 
チューナーが合ったかのような

それとも
見えない何者かが
耳元で囁いたかのような

すればそれを
書き出すと
次から次へと
途切れることなく
言葉が現れてくるから

それに遅れないようにと
これまた
下手なキーボードを
人差し指で叩いてみる

すると
そこそこ間違いながらも
モニターに
言葉が残っていく

素人が
素人なりに
楽しみを見つけ

欲を掻くことなく
競うことなく
争うこともなく…

ここもまた

わずかながら
ストレスを減らしてくれる
ひとつの場所なようだ

そんな わけ…


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玉響
―黙示録の彼方に―



われ汝の行為を知る。
汝は冷やかにもあらず、熱きにもあらず。
われはむしろ汝が冷ならんか熱ならんかを願う。
ヨハネの黙示録三章十五節より




まえがき
人は大きな喪失を抱えたとき、「もしあの時、違う道を選んでいたら」という思いにとらわれます。
本作で描く玉響は、選ばれなかった可能性の残り香であり、時に甘美な逃避の誘惑として現れます。
苦痛のない世界へ引き込まれそうになりながら、人はなぜ痛む現実を選び直すのか。静かな暗闇に灯る、小さな光のような物語として受け取っていただければ幸いです。


プロローグ 冷たくも熱くもなく
榊慧がそれを初めて見たのは、妹の一周忌まであと三日の、雨上がりの月曜日だった。
地下鉄のホーム。電車を待つ人々の頭上を、拳ほどの淡い光の玉がひとつ、ゆっくり横切っていく。誰も気づかない。誰も見上げない。慧だけが、その不自然な軌跡を目で追った。
光は熱を持たず、冷たくもなかった。ただそこに在り、次の瞬間、コンクリートの壁の向こうへ溶けるように消えた。
慧は文芸出版社で校閲をしている。人の書いた言葉の誤りを正すのが仕事で、想像力を働かせることには職業病的に警戒してきた。だから最初は、疲労による幻視だと思った。
だが、その玉は次の日も、その次の日も現れた。
ある夜、高熱に浮かされていたとき、耳元で掠れた声がした。
「楽になっていいんだよ」
部屋には誰もいなかった。


第一章 視える者
妹の美和は二十四歳で病没した。長い闘病の果てだった。亡くなる数日前、ベッドの脇で彼女は言った。
「お兄ちゃん、痛くない世界があったら、そっちに行きたい」
慧は答えられなかった。妹の苦痛を否定したくなかったのか、自分が逃げたかったのか、今もわからない。
美和の死後、慧の時間は少しずつ密度を失った。仕事はできる。会話もできる。ただ、すべてが一枚ガラスを隔てた向こう側で起きているように感じられた。その視界の隅に、あの光の玉が住み着くようになる。いつからか彼はそれを玉響と呼んでいた。
ネットで似た体験を探しても、まともな情報は出てこない。オカルト掲示板か、疲労性の視覚異常を診る眼科の広告ばかりだ。
そんな中に、一件だけ異質な記事があった。
『都市伝説研究会 第十二回勉強会 視えない光、視える人々』
会場は、住宅街の奥にひっそり佇む小さな私設図書館だった。


第二章 燈子
集まっていたのは十人にも満たない人々だった。慧は期待していなかった。ほとんどが好奇心の野次馬だろうと思っていた。
だが、登壇した女性、灯里燈子が話し始めた瞬間、慧は身を乗り出していた。
「その光は拳ほどの大きさで、熱を持たず、意思を持っているかのようにあなたの視界の隅を横切っていく。違いますか」
燈子は会場を見渡しながら、まっすぐに慧を見た。最初から彼一人に向けて語りかけているかのように。
勉強会の後、慧は思い切って声をかけた。
「あれは、なんなんですか」
燈子は一瞬驚いた顔をした後、静かに眉を下げて笑った。
「その聞き方ができる人は、実はあまり多くありません。たいていの人は、これは何かの前兆ですかって聞くんです。あなたは正体を知りたいんですね」
「知りたいというより」慧は言葉を選んだ。「どこかから自分を誘っている気がするんです」
燈子の表情から、柔らかな笑みが消えた。
「少し長い話になります。お茶でもいかがですか」


第三章 国立時空医学研究所
燈子はかつて国の研究機関で研究員をしていたという。専門は量子脳科学。もっとも、彼女自身はその肩書きを嫌っていた。
「七年前、うちの研究所で大きな事故がありました。正式には実験機材の暴走による全焼と処理されましたが、正確に何が起きたのか知っている人間は数人しかいません」
事故の中心にいたのは、火野崇という主任研究員だった。彼が率いていたアカシャ計画は、量子力学の多世界解釈、つまりあらゆる可能性の分岐が観測されない限り並行して存在し続けるという仮説を、脳と機械の直接接続によって観測し、選択しようとする危険な試みだった。
「火野先生は天才でした。でも、消えない後悔があったんです」
燈子はカップを両手で包み、視線を落とした。
「先生の幼い娘さんが、事故で亡くなっていました。実験の五年前です。先生はずっと、あの日、あの交差点で、あと三十秒早く家を出ていればって言い続けていた。娘さんが助かる分岐が、どこかに必ずあるはずだと」
「それで」
「先生は実験の最終段階で、制止を振り切って自分自身を装置に接続しました。そしてそのまま意識を失い、二度と戻ってきませんでした」


第四章 枝分かれ
「事故の後、研究所の近隣で奇妙な目撃が相次ぎました」燈子は続けた。「光る玉。謎の声。そして原因不明の失踪。政府は施設を封鎖して隠蔽しましたが、現象自体は止まっていません。視える人が限られているだけです」
「なぜ、視える人と視えない人がいるんですか」
「はっきりとは解明されていません。ただ」燈子は慧を直視した。「大切な人を理不尽に失い、強い悲嘆を抱えている人ほど、その周波数に同調しやすいようです」
慧は何も言えなかった。
「玉響は、火野先生の理論でいう枝の残響だと私は考えています。選ばれなかった可能性の境界が破れ、こちら側に漏れ出している。薄い壁越しに隣の部屋のラジオが聞こえてくるみたいに」
「じゃあ、あの声は」
「先生の意識の破片です。七年間、あの亀裂の狭間に囚われたまま、波のように周期的に膨らみ、こちら側の悲嘆者に同調して引き寄せていたんです」
燈子は辛そうに目を伏せた。
「私の弟も、その波に飲み込まれた一人でした」


第五章 燈子の弟
灯里遙は、燈子の三つ下の弟だった。事故から二年ほど経った頃、原因不明の倦怠感を訴えるようになり、やがて慧と同じように玉響を視るようになったという。
「弟は優しすぎる人でした。人の痛みを自分のことのように引き受けてしまうくらいに」
遙は燈子にだけ、あの声のことを打ち明けていた。楽になっていいんだよ。こっちの世界には痛みなんてないんだから。そう囁かれるのだと。
当時、研究所を辞めたばかりの燈子には、弟を止める術がなかった。
ある夜、遙は言った。「お姉ちゃん、もし僕が消えたら、この世界は正しい枝に戻るのかな」
三日後、遙は姿を消した。遺書はなかった。ただ机の上に芥川龍之介の歯車が開かれたまま残されていた。ぼんやりとした不安のページに、爪の痕が残るほど強く押しつけられて。
「遺体は見つかっていません」燈子は静かに言った。「でも私は知っています。あの子は越えてしまったんです。生から死へではなく、枝から枝へ」
「それは、救いだったんでしょうか」
燈子は初めて慧の目を強く見返した。
「いいえ。私はそうは思いません」


第六章 囁き
その夜、慧は強い高熱を出した。風邪なのか、精神的な負荷なのかわからない。体が鉛のように重く、意識だけが妙に冴えていた。
天井の隅に、玉響が浮かんでいた。いつもより鮮明に、輪郭を揺らしている。
「慧」
声は初めて彼の名を呼んだ。
「お前はもう十分に頑張った。妹のことも、仕事のことも、全部だ。もう休んでいいんだよ」
慧の視界が、涙とも熱ともつかないもので滲んだ。
「こっちには痛みがない。後悔もない。妹にだって会えるかもしれない。違う枝で、彼女がまだ生きている場所に」
その言葉は、慧の心の一番柔らかい傷口に正確に触れた。
「妹は、生きたがっていました」慧は掠れる声で抗った。「痛くても、苦しくても、生きたいと言っていました」
「それは、この酷い枝でのことだろう。もっと優しい枝が、他にあるはずだ」
「それを選ぶのは、妹自身のはずだ。僕が勝手に書き換えていい話じゃない」
玉響は答えなかった。ただ暗闇の中でじっと揺れていた。
翌朝、熱の下がった慧は、震える手で燈子に電話をかけた。


第七章 火野の記録
燈子は極秘に保管していた火野のノートのコピーを慧に見せた。几帳面な文字でこう記されていた。
『隣接分岐との共鳴を確認。情動的脆弱性が共鳴強度と正の相関を示す。すなわち、悲嘆は扉である』
「悲嘆は、扉」慧は繰り返した。「僕らは深く傷ついているから、扉を開けてしまった」
「そして火野先生は、自分自身の悲嘆で扉を全開にしてしまった」燈子は頷いた。「先生は娘さんのいる枝を探していました。でも多世界解釈が正しいなら、たとえその枝が実在しても、肉体を持つこちら側の先生が行くことはできない。行けるのは、器を失ったただの残響だけです」
「つまり」
「玉響として漂う存在は、幸せな並行世界に辿り着いた魂なんかじゃない。時空の亀裂に閉じ込められた、痛みの記憶そのものです」
慧は昨夜の声を思い出した。あの声に混じっていた、すがりつくような懇願の響きを。
「火野先生は、自分が救われるために、他の視える者を引きずり込もうとしている」


第八章 消えた人々
燈子は手書きのリストを差し出した。名前、年齢、失踪日。八人分。
「先生の事故の後、視えるようになって消えた人たちです。弟も含まれています」
「警察の動きは」
「事件性なしの蒸発として処理されています。でも」燈子は唇を噛みしめた。「残された家族は壊れました。五年経った今も毎晩玄関の鍵を開けたままにしている母親がいます。息子が帰ってくると信じて。失踪の翌年に後を追うように命を絶った恋人もいます」
慧は息をのんだ。
「あの声は楽になると言います。でもそれは嘘です」燈子は言った。「消えた本人の痛みは消えるのかもしれない。でもその痛みは消滅したんじゃなく、残された人へそのまま押し付けられているだけなんです」
慧は、美和が息を引き取った日のことを思い出していた。胸をえぐられるような痛みを。もし自分が消えれば、あの痛みを誰かに押し付けることになる。
「僕たちは、あの亀裂を閉じなきゃいけない」


第九章 交差点
火野が実験を行った旧国立研究所は、立ち入り禁止のまま取り壊しを待つ巨大な廃墟と化していた。燈子はかつて裏口として使われていた解体用の通用口から慧を中へ導いた。
錆びた鉄の扉を開け、湿った地下通路を降りる。最奥の実験室は、七年前の事故の瞬間のまま時が止まっていた。中央の装置、無数のケーブルが垂れ下がる半球状の機材の周りに、十数個の玉響が渦を巻くように蠢いていた。
「先生」燈子が暗闇に向かって静かに呼びかけた。「私です、灯里です」
光の渦が波打った。空気が震え、声が響く。今度は慧の頭の中ではなく、部屋全体に響き渡っていた。
「燈子くん、大きくなったね」
「先生、あなたは間違っています」燈子は声を震わせながらも一歩も引かなかった。「愛梨ちゃんを失った悲しみは本物です。でも、その悲しみを理由に、他の人たちをこちら側から引き剥がす権利なんてなかった」
「私はただ、正しい枝を探したかっただけだ」火野の声は絶望に濡れていた。「あの子が笑っている枝を」
「先生」慧が前に出た。「僕の妹も死にました。痛くて苦しくて、それでも最後まで生きたいと言っていました。もし痛みのない枝があったとしても、妹はそれを選ばなかった。妹は、痛みも含めた自分の人生を愛していたから」


第十章 亀裂の底で
「お前に何がわかる」火野の声が跳ね、装置の残骸から火花が散った。「お前だって視える者だ。あの囁きに救いを求めたはずだ」
「求めました」慧は隠さず叫んだ。「消えてしまいたいと何度も思いました。今だってそうです」
渦巻く玉響が一斉に収束し、慧の身体を包み込んだ。熱も冷気もない無機質な光が、視界を白く染め上げていく。
「なら来い」火野の声が耳元で切なく囁く。「一緒に探そう。妹さんに会える枝を」
意識が遠のきかけた。
その時、腕に強い圧迫感が走った。燈子が両手で慧の手を握りしめていた。
「行かないで」燈子の叫びが闇を切り裂いた。「私は弟を止められなかった。今度は、絶対に止めたいんです」
慧は目を開けた。光の渦の中心に、輪郭の曖昧な、しかし確かな人の影が見えた。
「火野先生」慧は踏みとどまり、人影を見据えた。「先生は十分苦しみました。でも、これ以上誰かを巻き込むことを、愛梨さんが望むわけがない」


第十一章 選ぶこと
「私は」火野の声が激しく揺らぎ始めた。「私はただ、間違えたあの一瞬をやり直したかっただけなんだ」
「やり直せません」燈子が断言した。「先生ならわかっているはずです。分岐した枝の愛梨ちゃんは、こちらの先生の娘じゃない。追いつくことなんてできないんです」
「わかっている」声はもう研究者のものではなく、ただ傷ついた父親の泣き声だった。「わかっているんだそんなことは。でも怖いんだ。この痛みを抱えたまま消えるのが。せめて誰かと一緒なら、一人じゃないと思いたかった」
慧はその叫びに胸が締め付けられるのを感じた。深夜の囁きに揺らいだ理由が、完全に理解できた。
「先生」慧は静かに一歩進み出た。「一人じゃありません。今も先生の悲しみを知って、ここに来た人間がいます。燈子さんがそうです。だからもう、誰も引きずり込まなくていい」
「僕たちがここにいます。だから、もう行ってください」


第十二章 解放
装置の残骸が甲高い金属音と共に強く明滅した。空間を覆っていた無数の玉響が、吸い込まれるように中心の人影へ収束していく。
「愛梨」
火野の声から毒気が抜け、深い安堵の響きだけが残った。
「待たせたね」
次の瞬間、光が弾けるように広がり、そして潮が引くように完全に消え去った。
地下実験室に濃密な静寂が戻った。玉響はどこにもなかった。
慧はその場に膝をついた。隣で燈子が声を出して泣いていた。それが弟への弔いなのか、火野への悼みなのか、あるいは自分たちの救済のためなのかはわからなかったが、問う必要はなかった。
「終わったんでしょうか」
「わかりません」燈子は涙を拭い、小さく微笑んだ。「でも、先生はもう誰のことも呼んでいません」


第十三章 持ち時間
それから半年が経った。
慧の視界から玉響が消えたわけではない。今でも街を歩いていると、ごく稀に淡い光が遠くを通り過ぎることがある。けれど、あの囁きは二度と聞こえなくなった。
燈子とは月に一度、カフェで会うようになった。恋人というにはまだ浅く、けれど互いの欠落を正確に共有し合える、静かで確かな絆だった。
ある週末、慧は美和の遺品を整理し、闘病中の日記を開いた。最後のページに、鉛筆の弱い筆圧でこう書かれていた。
『痛い。苦しい。でも、明日の朝ごはんは何にしようか、まだ考えている自分がいる。これが、生きているということなんだと思う』
慧はそのページを指先で撫でた。
あの日、玉響が提示した痛みのない世界は確かに甘やかだった。けれど、痛みと引き換えに生きようとした妹のこの数行のほうが、今の慧にはずっと温かく、尊いものに思えた。


エピローグ 冷たくも熱くもなく、それでも
黙示録の言葉を、慧は今も時々思い返す。
冷やかにもあらず、熱きにもあらず。かつて彼は、自分を生にも死にも向き合えない中途半端な存在だと思っていた。
けれど今は少し違う。
冷たさと熱さの間で揺れ続けることこそが、生きるということなのだ。痛みも、後悔も、割り切れない思いも抱えたまま、今日という一日を選び続けること。
慧は、自分に残された持ち時間の長さを恐れなくなった。大切なのは時間の長さではなく、それをどう使うかだと知っているからだ。
夕暮れの窓の外を、淡い光がひとつ、ゆっくり横切っていった。
慧はそれを恐れず、ただ静かに見送った。長旅を終えた誰かが、ようやく安らかな眠りについたのを見届けるように。


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あとがき

誰しも、人生の途上で引き返せない枝分かれに立ち尽くす瞬間があります。「あのとき別の道を選んでいれば」という後悔は、時に生きている現実そのものを薄味の幻のように思わせるほど強力です。

本作のモチーフとなった「玉響(たまゆら)」は、本来はほんのわずかな時間、かすかな気配を意味する言葉です。選ばれなかった可能性たちの残り香は、心に大きな傷を負った人間にとって時に甘美な救いのように囁きかけてきます。しかし、痛みのない優しい世界へと逃げ出すことは、いま隣にいる誰かに新たな痛みを背負わせることに他なりません。

冒頭に掲げた黙示録の教えにあるように、熱くも冷たくもない中途半端な自分に嫌気がさす夜もあります。けれど、冷たさと熱さの狭間でゆらゆらと揺れながら、泥臭く「明日の朝ごはん」を考えること。それこそが、私たちがこの酷くも愛おしい現実を選び取って生きている証なのだと感じています。

静かな暗闇のなかで、傷を抱えたあなたの足元をかすかに照らす小さな光となれば幸いです。


われなんじの行為を知る
なんじは冷やかにもあらず
熱きにもあらず
われはむしろなんじが
冷かならんか熱からんかを願う


世の中が
どこかで道を間違えて
違う歴史に
迷い込んでしまったようだ

そんなことを感じるのは
昨今 
見掛ける玉響たちの影響で

彼らは
ここに重なった
違う次元にいるらしいということ

そこは
どこかで枝分かれした
別の歴史かもで

すでに肉体を必要とせず
悩みも痛みをも感じることなく
思うがまま
遥か遠くの世界まで
光の速さを軽く越して
動き回れるかのような

そしたらいっそ
この肉体を捨てたならば
僕もまた
そんな世界で
悩むことなく過ごせるのではと
思い始めた

玉響たちは
一瞬も離れることなく
目の前を飛び回る

それが
見えるようになってしまったから
そろそろかとも思う

ならばいっそ
こちら側の世界は
1度滅んでしまえ! とすら
心をよぎる

そしたら
道を間違えた場面に
すべてが戻り
そこから
枝分かれした別の今に
なるのでは? なんて…

嫌なことや
体調不良でもあらば
心はすぐに落ちる

そんな時
ふと心をよぎれば…
何者かが隙間にそっと忍び込む

やっちまえよ! って
耳元で囁く

そう
もしかすると
自害した
芥川たちは
そんな場所を

知ってしまったのかも
しれないけれど…



さて
僕の
この世でも持ち時間は
いかに…


THE ENIGMA OF THE FOURTH CENTURY: SIDE STORY

Mihato's Wooden Tablets, or, A Record of Thirty-Seven Generations

Book Three—Final

Foreword
At the end of Chapter One of the main volume, Ran Hiiragi's record says:
"I named my daughter MIHATO—child as clear as the water of this land."
And the main narrative closes its eyes on her lineage.
Thirty-seven generations. Roughly a thousand years.
This thousand years, written nowhere in the main volume or the prequel, is written here.
This is the record of a girl who lost her mother from the future at five, living with her mother's wooden boards without knowing her mother's face—and the record of how those boards continued to be protected for nearly a thousand years, even after losing their original meaning.
History gets buried. Letters fade, names are forgotten, meanings change, but objects stubbornly remain.
Mihato's story is about things that remain even after losing their meaning.



Chapter 1: Winter at Five
Mihato lost her mother in the winter when she was five.
No one remembered the exact year. Only that the winter had little snow, but a dry wind blew continuously, as the old later told.
Her mother had a fever and died on the seventh day.
Mihato didn't remember her dead face well. She only remembered: the day before her death, her mother took Mihato's small hands trembling, and washed them with hot water.
"If you get a wound, always wash it with hot water."
Mihato didn't understand the meaning yet.
After her mother died, she was taken in by the older woman who had first picked up her mother in the marsh—called ANE in the village. Ane already had grandchildren, but raised Mihato like a real grandchild.
Children sometimes called Mihato the strange girl from the north—an extension of her mother being accepted as the strange woman from the north who knew medicinal herbs. Mihato herself didn't truly know where her mother came from. Her mother had never told her details.
Only, in a corner of the house, were many wooden boards her mother had treasured, densely carved with unknown letters.

Chapter 2: Unreadable Letters
At ten, Ane said: "Your mother left something on those boards. When you grow up, try to read them for her."
Mihato took the boards. Hard wood carved with a metal needle. Katakana—different from any language of the archipelago.
At first she thought they were pictures—wave lines, deer horns, face lines. But the same shapes repeated many times. Gradually she realized they represented sounds.
Her mother's small black board—a portable terminal from four thousand years in the future—had lost its light long before her mother died, becoming just a cold, heavy black stone. Mihato kept it as a keepsake with the wooden boards, but the black stone was lost over the years. Only the wooden boards carved by her mother's own hand remained.
At fifteen, she asked an old shaman to write down fragments she remembered her mother sometimes saying—te o arau, netsu o dasu, mirai kara—matching those sounds with her mother's board letters, trying to assemble a reading.
She could not fully read them.
Still, she noticed some letter strings appeared repeatedly.
te wo arau
The same shape as the words her mother had repeated.
Mihato became convinced the boards wrote about washing hands.

Chapter 3: Child as Clear
At eighteen, Mihato married a young fisherman.
Her husband didn't care about her origin. As her name implied—a child as clear as water—Mihato was known as a quiet, strong woman.
She passed her mother's habits to her family:
Wash hands before meals. Wash wounds with hot water. For a baby, always drink water once boiled.
Village women called it the custom of the House of Ane of Ihato. Many had already forgotten who her mother was. Only a vague reputation remained: the house of the woman from the north, where people wash their hands since ancient times.
Mihato bore three children.
Eldest Mina, second Sayo, eldest son Takeru—names of this age, unrelated to the far future.
She decided to entrust the boards to the eldest, Mina.
"This is what your grandmother left. You don't need to read it. Just keep it safe."
Mina nodded. She too could barely read them.
Mihato died at forty-two. Not a short life for this age.
At her dying moment, she told her daughters, as later family tradition recorded:
"Even if the meaning of the letters becomes unknown, this is the warmth mother left us. Don't burn it, don't throw it away, don't lose it. Pass it to the next child. That's enough."

Chapter 4: Record of Thirty-Seven Generations (Overview)
From here, reconstructed via family tradition and archaeological estimation, is a fast chronicle.
After Mihato's death, the boards, as the Treasure of the House of Ihato, were passed to the eldest Mina's line. By the third and fourth generations, no one could read them. The letters were treated as a purification spell bestowed from a god or ancestors.
In the seventh generation, the house left the village and moved to a larger chief's domain. For fear of burning during the move, the boards were placed in an earthen jar and buried under the floor. From then on, the boards became a secret—an unopened guardian spirit—known only to the head of the house.
By the fourteenth generation, the house was known nearby as the House of Hand-Washing. Researchers later estimated that infant mortality in this household was slightly lower than in others. No one knew the reason. Only the habit survived as a daily ritual.
In the twenty-second generation, the existence of the boards was secret even to some heads. One head misunderstood the boards as a foreign curse talisman and asked a village shaman to decipher them. The shaman couldn't, but warned: "These are terrifying god's letters; you must not touch them." The fear increased, but the boards were kept safe.
By the thirtieth generation, the house was part of a powerful clan. The boards were stored in an unopened box deep within the hall of heirlooms. A woman of this generation reportedly opened it and saw the boards. A written fragment remains: "Left by ancestors. Cannot be read, but revered. Pass down without reading."

Chapter 5: End and After
In the thirty-seventh generation, the house was caught in a large war.
An enemy clan burned the hall, and many of the family were killed. The house effectively ended.
After the hall burned, the jar buried under the floor remained in the soil for centuries. Later, it was excavated by a man of a completely different clan.
He found the bundle of old wooden boards inside the jar.
He could not read them. The letters were too old, too alien. He could not tell if they were ominous or precious, but hesitating to treat them roughly, he donated them to a nearby mountain temple.
The temple stored them deep in its storehouse alongside other old offerings.
As the storehouse aged and rotted, the boards mingled with other old documents, and eventually, no one cared for them.
Epilogue: Like Clear Water
What Mihato inherited from her mother was not letters.
The letters became unreadable within three generations.
What Mihato inherited, and what her descendants continued for nearly a thousand years—even while losing its meaning—was simply the act of keeping something precious safe.
The meaning was lost. But the act remained.
The habit of washing hands became a ritual, then a spell, and finally the enduring reputation of a household. The letters on the boards became a spell, a source of awe, and then quietly slept deep in a temple storehouse.
The single unglazed jar excavated on the small Seto island that reached Division 7 in AD 4493 contained Shiori's letter and the records of the seven travellers. Ran Hiiragi's wooden boards, without ever reaching the conference room in the far future, still sleep deep in a nameless temple storehouse today—or perhaps have long since rotted back into the soil of the archipelago.
Still, this book records:
For thirty-seven generations, nearly a thousand years, a family continued to cherish an important thing without understanding why.
It will never be in history textbooks.
But that is how nameless people carry history.
Mihato lived as her name meant.
Clear water does not ask where it came from.
It just keeps flowing, changing its shape from person to person, vessel to vessel.
History is probably like that too.
— End of Side Story —

Afterword
With the main volume and the prequel, this side story concludes the trilogy.
Biochemist Ran Hiiragi—a woman who stepped from the future into the ancient world—what did she leave behind? The main volume focused on her scientific knowledge and her message to the future: History with a capital H. What I wanted to depict here is smaller, but surer: history with a small h.
The story of Mihato, the girl who lost her mother at five, is a story where advanced information like written letters and future science gets cut off. However, no matter how unreadable letters become and how completely meaning is lost, the memory of love handed down from parent to child, and a small habit like washing hands, survived a thousand years.
History is not made only by heroes and grand events in textbooks. Countless baton relays of nameless people who continued to cherish important things without knowing their full meaning support the flow of time.
With clear Mihato's life and the thousand-year quiet walk of her descendants in mind, I want to thank all the readers who accompanied this long journey.


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THE ENIGMA OF THE FOURTH CENTURY: PREQUEL

The Story of Those Who Sent Them

Book Two of the Trilogy

Foreword
This is the other side of the blue ring.
Book One was about seven people who crossed four thousand years to live in fourth-century Japan. This book is about seven people who stayed in 4444, who watched them leave, and who waited.
Why could the time machine only go one-way? Why did we keep sending people, knowing they would never return? And why did we stop at seven?



Prologue: The Institute
June 17, 4444. Monday.
Tokyo Bay was twenty-seven meters higher than four hundred years before. Old Shinagawa was underwater, with an artificial floating island drifting quietly above it. On the north end of the island stood a plain white five-story building. No sign.
Officially: Temporal Engineering Institute, Division 7. Called "Nanabunjo"—Division Seven.
Forty-six staff. On the first floor, a transfer room that smelled of hinoki cypress. In its center, a vertical metal ring two meters across. Not gray, not silver, but a kind of blue. Clear fluid ran slowly through thin tubes around it.
When you passed through this ring, you went to the past.
No one came back.
What follows is the record of seven technicians and the people around them. They sent seven people—biochemist, kendoka, former SDF, linguist, chef, journalist, film director—one by one through the aqua-blue ring.
And then they kept living.
This is the record of why they could only make it one-way, and why they kept sending.

Chapter 1: Haruka Sakaki, Director
Haruka Sakaki, 63, fourth director of Division 7.
She joined as an assistant at 28. Husband none. Children none. Lovers—staff thought none. In fact, she had a lover when young. He volunteered for early time machine test. He was the first sent. To the Late Cretaceous. No news since. She never told anyone.
One April morning, vice-director Yuji Maki entered with papers: selection plan for Subject No. 8.
Sakaki read first line, quietly closed it.
"Maki. We're stopping this."
"Stopping?"
"No No. 8. We end at seven."
Reason: Last night, she dreamed.
In the dream, her lover stood in a Cretaceous swamp, still thirty. He smiled. "Haruka. It's enough. Stop sending. It's not so bad here. I'm happy. You be happy over there."
She woke. Decided: freeze the project. At noon June 17, she would tell all staff.

Chapter 2: Satoru Tsuruoka, Chief Theorist
Satoru Tsuruoka, 51, highest authority on time physics.
His official answer to why you can go to past but not future, and why you can't return: "We don't know yet." He said it sixty-seven times.
On June 16, Sunday, he reread a paper he'd written for seven years, unpublished:
"The Origin of Non-Reversibility in Temporal Leap: The Double-Wall Hypothesis"
It said:
Temporal leap is reversible in principle. You could bring them back. But our ring-liquid acceleration method—the blue ring—intentionally destroys reversibility.
Why? Reversible method creates quantum entanglement between sender and sent. The moment the sent person performs a decisive conscious action in the past, it backflows to sender. Simulation showed sender-side apparatus and technicians spatiotemporally vanish.
Therefore we abandoned reversible.
We intentionally chose one-way.
Not failure. A choice to protect senders.
Cost: sent person becomes permanently embedded in past spacetime. Their consciousness embedded where they lived and died. Not metaphor.
And—when they leave writing, it affects us via two routes:
Normal archaeological route—physically survives four thousand years.
Quantum direct route—via weak residual entanglement, writing can appear directly at specific coordinates in our time, if:
(1) content contains explicit call to senders
(2) medium survives four millennia unbroken
(3) burial spot lies on short-circuit path to sending coordinates
He had hidden paper seven years. Fear of expectation. Fear of answer: what to say if call comes? "Welcome to 4444" or "Forgive us for sending you one-way"?
On June 16 evening, he took the thick paper bundle to Sakaki.
"I'm going to publish this."
Sakaki read title, didn't move.
"Why now?"
"Last night, I dreamed."
She smiled a little. "Coincidence. Me too."
Their dreams—told at end.
That night, Tsuruoka told Sakaki: redesign quantum antenna to receive writings, discuss what to answer if call arrives.
At 11pm he left institute, crossed bridge, looked at dark water.
"We sent them. If something arrives, we must receive it."

Chapter 3: Chinatsu Misawa, Transfer Operator
Chinatsu Misawa, 29, chief operator. Her job: move blue ring.
She sent all seven. She pressed button seven times. Watched seven disappear.
At interview at 24, examiner asked: Can you send people? Those sent never return. Your button is last button of their life. Still press?
She answered: "I can. Condition: after I send seven, send me as eighth."
Recorded, but never clearly accepted. She told no one. She had lover, loved him, but planned to vanish.
Why? "The person who saw their last faces must be in same time and place as them, or they'll be too lonely."
Night she sent seventh, Akira Suwa, she stayed alone.
"Akira, please draw over there. Probably no one in four thousand years will see, but I will remember that you drew."
She remembered each day:
1st Ran Hiiragi, March 12, 4440, cloudy, small nod.
2nd Takeshi Mohri, Sept 3, 4440, sunny, came in keikogi, seven deep breaths.
3rd Osamu Kubota, Feb 8, 4441, snow, checking gear till last second, never looked at her—kindness.
4th Chiaki Yakumo, July 19, 4441, sunny, only one who said Thank you.
5th Gen Mizushima, Jan 26, 4442, sunny, gave her two onigiri he made last night.
6th Shiori Nonomura, Nov 10, 4442, cloudy, stared, asked: Are you planning to come too? Misawa didn't answer. Nonomura smiled: If you come, find small island in Seto. I think I'll be there.
7th Akira Suwa, May 4, 4443, sunny, stared, said: Your face now—I think I'll draw it over there. What's your name? Misawa Chinatsu.
Now June 16, one year one month twelve days since seventh. She planned to volunteer as ninth after eighth.
She didn't know next day at noon, Sakaki would freeze project.
She stood before blue ring. "Everyone, someday I'll go. Find you all. Even one or two. Then say: I sent you. I'm sorry."
Ring was slightly warm to touch.

Chapter 4: Yuko Sakaki, Training Supervisor
Yuko Sakaki, 59, training supervisor. Four years younger sister of Director Haruka.
She trained all seven for one to two years, tested physical, mental, acceptance of no-return. Each spent last week alone with her—officially final adaptation, actually farewell.
Same final question to all seven: Why are you going?
Ran: In 4444 I felt no meaning. Memorizing gut bacteria never saved anyone directly. Over there, maybe one or two.
Takeshi: Wanted to test kendo in real combat when young. Still want to.
Osamu: I'm good at living alone. Lived alone in 4444. A little more meaning over there alone than here alone.
Chiaki: Want to see language disappear. In 4444 languages disappear and I can't record. Over there maybe I can.
Gen: Ingredients in 4444 are poor. Over there rich. And—my customers in 4444 consumed cuisine, didn't need it. People over there probably need it.
Shiori: Because I'm journalist. If there's blank, journalist goes to fill it. Even if can't fill, fact of going makes journalist.
Akira: Somehow. Sorry, only that. Directors move somehow.
Yuko wrote all in old leather notebook, mother's keepsake.
Night after seventh, sisters had monthly dinner at Haruka's small apartment. Yuko cooked.
"Number eight progressing?" Yuko.
"Progressing."
Yuko: "I think we should stop."
Haruka: "Reason?"
"Seven went intending to become people of there, not giving up living in 4444 but feeling they lived in wrong place, wrong time. They thought they'd finally live as themselves over there."
Haruka nodded. "I'm thinking same. Tomorrow, I'll freeze."
Yakumo's words to Yuko before ring: "You trained us to be sent. Did you train yourself not to be sent? We go. You remain. Remaining is probably harder. Going is decided by 'never return.' Remaining requires infinite renewal of 'must keep living.'"
Yuko cried. Yakumo stroked her head. "We remember you. Even over there."

Chapter 5: Nao Dojima, Budget & PR
Nao Dojima, 37, alone handled budget and PR. Not technician but 事務官. Without him institute didn't function. Nine years, lost quarter hair, antacid three times daily. Daughter seven. Wife gave up two years ago—not divorced but ten days a month at parents'.
June 16 Sunday, making Q&A for budget hearing Monday.
Q1: Seven sent, none returned. Failure? A: Return was known premise. Not failure. (Truth: by definition of failure, it is failure)
Q2: Meaning of researching past with this budget? A: Filling blank essential for self-understanding. (Truth: no one here can answer)
Q3: Compensation for families? A: Lifetime salary lump sum per regulation. (Truth: money can't compensate)
He stared at ceiling. "It's over."
He wanted to quit. Thought: blank will never be filled. Can't confirm filled because no return. Claiming filled is fraud. Nine years PR for fraud.
Next morning planned to submit resignation.
In drawer, photo: family of four—him, wife, seven-year-old daughter, and son who died at five. Congenital heart. Even 4444 medicine couldn't fix. Died week after fifth birthday. Two years before Dojima joined institute.
Why did he join? Sometimes thought: Where did five years with son go? Time doesn't disappear. If time remains somewhere, son still exists somewhere in that remaining time.
He wanted to believe that.
He looked at photo, put resignation back. Wrote new paper: Proposal to freeze sending, redirect all budget to receiving writings from seven.
Reason—night he dreamed. Dream told at end.
He put paper in bag, turned off light.

Chapter 6: Sota Fushimi, Maintenance Tech
Sota Fushimi, 42, responsible for blue ring. Knew it more than anyone. Composition of ring liquid (classified), micro-distortion, EM interference, and—sound ring sometimes makes alone.
He treated ring as living. Called it KYOKA. Never decided kanji—just Kyoka.
At night, alone, talked to it. "Kyoka, today we sent Kubota. You felt his tension?"
Flow rate changed slightly before and after each sending. Different per person. Ran: slow regular. Takeshi: steep strong. Kubota: restrained quiet. Chiaki: elegant complex. Gen: warm gentle. Akira: wavering deep. Shiori: sharp precise.
Interpretation: ring remembers subjects.
Tsuruoka listened, said officially can't support, no physical basis. Unofficially, I don't deny. I've observed seven years.
June 16 night, Fushimi sat before ring.
"Kyoka. I decided today. Tomorrow I'll tell director: stop you."
Ring silent, but flow changed slightly.
"You're holding memory of seven. Don't want to erase. But each additional sending increases memory density. I'm scared you'll change. My gut. No physics."
Before Akira vanished, he asked: Maintenance guy, this ring, nice ring. I'll probably draw this ring over there. What color should I draw?
Fushimi answered: Blue. Not just blue, but blue of existence.
Akira smiled: Blue of existence, got it. Will draw so.
Now looking at blue.

Chapter 7: Tadashi Nanao, Archivist
Tadashi Nanao, 24, youngest staff. Job: record everything. Minutes, sending details, final interviews, daily status, casual conversations. Small recorder always in chest pocket. Everyone trusted he wouldn't leak.
Why archivist? His father was second-gen maintenance tech of institute. When Tadashi six, father vanished in accident—caught in predecessor ring while maintaining, sent to 17th century somewhere. Body never found. Mother raised him, died when he nineteen. Alone.
Applied: Not to find father's whereabouts—understand can't. To not increase people like father. Recording deters, makes people careful.
Five years, astonishing amount:
Paper notebooks 427 volumes.
Digital text 60 million characters.
Audio 14k hours.
Photos 120k.
Goal: make record lasting 4000 years.
Asked Tsuruoka: How make 4000-year record? Answer: Carve in stone, but must summarize extremely short.
60 million to how many? Probably 7000 characters.
He started "7000 Character Project"—summary of seven years 4438-4444, 46 staff, seven sent, names, roles, interview summaries 570 characters each.
June 16 night, printed latest draft, envelope wrote: To someone 4000 years later.
Next morning planned to give to Sakaki, ask: Please carve in stone, bury under institute. In 4000 years excavated.
June 17 morning gave. Sakaki read, smiled slightly.
"Instead of stone, better way: wait for quantum reception of seven's writings."
Nanao: Probably won't arrive. Extremely low probability.
Sakaki: Yes. But not zero. If arrives, 7000 not needed. If not, carve your 7000. Either way your five years not wasted.
Nanao nodded: Understood. Then I'll wait.
He waited 49 years. Oldest. White-haired, single, still archivist at 73.

Epilogue: Three Dreams, and Noon June 17
June 16 night, three dreamed.
Haruka Sakaki dreamed of young lover in Late Cretaceous, still 30, in wet forest. He smiled: Haruka. Enough. Stop sending. It's not so bad here. I'm happy. You be happy there.
She woke, decided: No No. 8.
Satoru Tsuruoka dreamed continuation of paper he hadn't written:
"Condition for quantum reception: when sender explicitly abandons sending, only then writing from sent side may reach sender via quantum route."
He woke, decided: publish paper.
Nao Dojima dreamed of dead son, five years old, in his 4444 living room. Son smiled: Papa, time doesn't disappear. My five years didn't disappear. It's still there. So stop making other people go search. I'm here.
He woke, looked at wife's back (she had returned from parents' that day), decided: not quit, propose freeze.
June 17 Monday noon. 46 gathered in conference room.
Haruka at podium, no manuscript.
"Everyone. Today, we officially freeze sending plan."
Silence.
"Many reasons. Biggest: seven already live enough. We need not inject additional future people into their world."
Continued: "Our job from now is to wait. Wait for writings of seven to arrive. May take decades. Some of us will die before it arrives. I probably will die before. But this institute will survive until it arrives. We will wait."
Deep bow. "Thank you till now. And please stay with waiting. Thank you."
Silence, then applause, long.
That night, Fushimi sat before blue ring. "Kyoka. From now you sleep. Sleep and wait for seven's writings to arrive. I'll wait with you."
Ring silent, flow changed slightly.
After, Division 7 became Waiting Institute.
No more subjects sent. Ring maintained carefully by Fushimi. Blue, quietly humming.
Haruka lived 21 more years, died 84, told successor: Please wait. It will arrive.
Tsuruoka published, caused shock, but didn't join debate much, retired quietly 67.
Chinatsu stopped sending, worked under Fushimi maintaining ring, married lover at 40, bore daughter at 42, named Nanatsu—to not forget seven.
Yuko stopped training subjects, started training of remaining—how to remain—taught technicians and families of missing subjects. Lived till 76.
Dojima didn't quit, kept securing budget for waiting. Lost half hair, died 59 heart attack, wife beside.
Fushimi kept maintaining, talking to ring, retired 63, said at retirement: Kyoka, I can't come anymore. Leave to young. But I won't forget you.
And Tadashi Nanao. Youngest, waited longest.
49 years.
August 17, 4493. Division 7 still there. Twelve full-time staff. Budget kept thin by successors of Dojima's successors. Ring maintained by successors of Fushimi's successors.
Nanao 73, still archivist, white-haired, single.
Morning, 10:32 AM, found unglazed jar on his desk. Old, clearly 4000+ years. Mouth sealed with wax.
Trembling, peeled wax. Inside: tablets, bark paper, and a letter on washi containing the records of all seven.
Letter began: To everyone in 4444,
He couldn't read at first, vision blurred with tears. Sat, took seven deep breaths, then read. Finished at noon. Placed letter politely on desk, stood, walked corridor bright with August sun of 4493.
Knocked director's office. Young new director, 34, Nanatsu Sakaki—daughter of Chinatsu Misawa.
"Director."
"Yes."
"It arrived."
That evening emergency conference convened, lasted three days three nights. Fourth morning conclusion: Artifact authentic. Letter authentic. But not public. Reason written in third point of letter: Blank may be left blank.
That evening, Nanao went to transfer room. Ring still quietly humming.
Sat before ring. Spoke name Fushimi used, first time aloud.
"Kyoka. It arrived. 4133 years later, arrived. Waiting was worth it."
Ring silent, flow changed slightly. He felt it.
That night, returned home, took blank paper, started writing:
"Waited 4133 years. Arrived. Writings of all seven people, centered on one letter as representative. All already dead from our perspective. Only one who remembers them alive is probably me, Tadashi Nanao, in this institute. I too will die in few years. So I write. I leave written—"
What he started then is this Prequel. He retraced 46 people's records, compiled as group drama of seven technicians.
Five years to complete. Entrusted manuscript with his will to Nanatsu Sakaki. She stored in dedicated vault under Division 7.
On vault door carved: We sent them. What arrived, we received.
Tadashi Nanao died five years later, 78, single. On his desk: pencil, blank paper, and small bottle of blue paint called blue of existence. He sometimes opened it, took small blue on fingertip, placed dot on washi.
His washi had countless blue dots.
Each dot, probably trace of 46 memories. And seven of them connected to marsh and king's hall and mountain cave and small island in Seto and some riversides and detached room in Yamashiro.
— End of Prequel —
We sent them.
What arrived, we received.


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THE ENIGMA OF THE FOURTH CENTURY

AD 4444: Chronicles of the One-Way Time Machine


Book One of the Trilogy

Foreword
History sometimes has holes so vast you could fall through them.
Dig the earth and you find pottery, iron, bone. But soil does not speak names. Who loved whom, who wept for whom—eras without writing keep their mouths shut.
In AD 4444, humanity finally built a time machine that could only go one way.
Seven men and women left, knowing they could never return.
This is a record of the small journals and a single letter that reached the world four thousand years later. Not a grand adventure that solves the riddle of history, but a quiet record of love and life.



Prologue
AD 4444. Earth was, somehow, still there.
The sea had risen three times and fallen twice. Cities had mostly migrated north. Countries near the equator had long since abandoned the word season. Humanity had six footholds on the Moon, two on Mars, one in the Jovian system—none of them true colonies, just shabby insurance policies.
In such an age, the time machine was invented.
Only it wasn't finished.
You could go to the past. You could not go to the future.
And once you went, you never came back.
In sixteen years, thirty-seven people were sent out. Thirty-seven disappeared.
And yet the scholars did not give up. Especially historians of Japan.
Because this country still had a hole that had never been filled.
From AD 266 to AD 413—147 years.
For 147 years, almost no record remains of the Japanese archipelago. At a certain point the name of this island simply vanishes from Chinese chronicles. The next time it appears, there are the Five Kings of Wa, and somehow there is iron and horses and enormous tombs.
"We need names. And faces. And voices."
So seven were chosen.
A biochemist, a seventh-dan kendoka, a former SDF officer, a linguist, a chef, a journalist, and one film director who had wandered in.
On a June morning in 4444, in a transfer room that smelled of hinoki cypress, they were pushed one by one into somewhere in the archipelago around the year 300.
No one came back.
What follows are seven records that finally reached 4444, a thousand, two thousand, three thousand, four thousand years later. The point is the last letter.

Chapter 1: Ran Hiiragi
[Audio transcription / Spring, AD 301]
By the third day, I understood my field was almost entirely useless.
In 4444 I could recite three thousand species of gut bacteria. Here, I am just a pale, thin woman who runs a fever.
I landed in a marsh. Four women found me. They laughed kindly and took me in as the strange woman who drifted from the north, who is a little crazy but knows medicinal herbs.
About seventy lived there. I decided to share only knowledge that could not harm this age. So first, I washed my hands. With water and ash. Before meals, when wounded, before touching a baby. At first they laughed. Then one copied me. Then three. After six months, fewer children died. Just a little. I decided to bet my life on that little.
In my third year, I married a hunter. I will not write his name. In my fourth year, I bore a daughter. I named her MIHATO—child as clear as the water of this land.

Chapter 2: Takeshi Mohri
[Ink on washi / Summer, AD 309]
I am a seventh-dan kendoka. Kendo is not very useful in real combat. Mindset is. Maai, breath, zanshin. Those saved my life.
The first man I killed was twenty. I shot him with the pistol. Three meters. Then I vomited for two hours by the river. The pistol had thirty rounds. I used them in two years.
Now I serve a king. He calls himself OHO-HIKO—Great Prince. He saw my pistol once and understood: the difference between those who have it and those who don't.
I fought for him. I have come to love him. He will bind the eastern half of this archipelago while I live.

Chapter 3: Osamu Kubota
[Charcoal on bark / Autumn, AD 308]
Take a projectile weapon and you'll be fine, they said.
I landed halfway up a mountain. I decided not to contact humans. One cough from me could erase a settlement. So I lived alone. First year was hell.
Third year, I snuck into a settlement and stole nuts. I left needles as payment. I became the first yokai of Japan. This quiet trade lasted ten years.
Tenth winter, I caught pneumonia. My antibiotics had expired. On the fourth morning, a woman stood at the mouth of my cave with hot soup. She brings soup every morning. I don't know her name. She puts a cold cloth on my forehead. I hold her hand. That's enough to be happy.

Chapter 4: Chiaki Yakumo
[Ink on wooden tablets / Winter, AD 325]
As a linguist, I thought I had the most luxurious position. I could confirm the origin of Japanese with my own eyes.
I landed on a small island in the Seto Inland Sea. Population forty. Three languages mingling. I was dropped into the front line of language contact.
The language here is not the direct ancestor of Japanese in 4444. It is one of many. My island's language will be swallowed and disappear. I am recording a language that will disappear.
I made sixty-one symbols, like waves and deer and faces. I teach them to children. My symbols will be used for two or three generations, then disappear quietly with the island. Even so, it's good if they could write before they disappeared.

Chapter 5: Gen Mizushima
[Dictated / Spring, AD 331]
I'm a chef. Three Michelin stars in Roppongi, 4444. Six-month waiting list.
I landed on flat land. Everything is here. I wept. In 4444, 80% of fish farmed, vegetables greenhouse-grown, meat cultured.
Three days after landing, a woman picked me up. That evening I cooked for her family: marsh herbs, three small river fish, my salt from 4444. Clear broth. Her mother took two sips and burst into tears. The concept of dashi did not yet exist.
I taught them to dry fish, shave it, boil it. After three years, most houses had soup. After five years, I was summoned to the big man's hall. He said, Make this for me every day.
I am a nameless soup man. I am happy.

Chapter 6: Akira Suwa
[Ink on washi / Summer, AD 352]
Why was I chosen? The chairman liked my films.
I am a film director. Fifty features in 4444. Golden Lion at Venice, while Venice was half-sunk.
Theme was always blankness.
I brought no camera. Only ink and washi. I landed in northern Kyoto Basin. Late spring. First I lay down and looked at the sky. The sky was blue. In Tokyo in 4444 it was not blue. For the first time at fifty, I saw real blue.
I saw twelve women dance in a circle by bonfire—ancestor of kagura, but not yet kagura. Something with no name.
I saw a battle from a hill. Two hundred vs three hundred. They looked like ants. The wounded were killed. I wrote: I will not draw battle. Because battle becomes beautiful when drawn.
I met a man called KAMUNAGI—one who invites gods. Thirty, already binding four settlements. My final realization: The number of viewers means nothing. The face of the viewer means something.
My last film ends here. Cut.

Chapter 7: Shiori Nonomura
[Ink on washi / Autumn, AD 360]
I was a journalist at the last paper newspaper in 4444. Eight colleagues. Forty thousand readers worldwide. Eccentrics who believed data rots in ten years but paper lasts a hundred.
I walked almost the entire archipelago. Over ten million steps. Seventy settlements.
I tried to make the first national newspaper of this age alone. I failed. There was no concept of national yet. Writing terrified them. And I got tired.
On a small island in the Seto, I found another woman from 4444—Chiaki Yakumo. We spoke in Japanese for the first time in fifty-nine years.
She read my tablets and said, What you wrote is historical source material.
I will bury this in a cave, in an unglazed jar, so rain cannot get in for four thousand years.

Epilogue: A Single Letter
Only Shiori's jar reached 4444. August 17, 4444, 10:32 AM, on the island where Yakumo lived.
Inside: tablets, bark paper, and a letter in modern Japanese.
--- LETTER ---
To everyone in 4444, If anyone is reading this.
All seven arrived safely.
Ran lived in a marsh in Tohoku, bore a daughter, taught hand-washing.
Takeshi served a king in Kinki, loved him.
Osamu lived alone in mountains, left tools. A woman brought soup.
Chiaki recorded vanishing language on Seto island, taught letters. She is next to me now.
Gen taught cooking in Chubu. His dashi spreads.
Akira draws in Kyoto Basin. His pictures are treasure.
And I walked thirty years. What I wrote is inside.
Three things:
There was no Nobunaga in this age. Not because there wasn't, but because it's wrong to measure this age with that yardstick. This age is countless small nameless choices piled upon each other.
We changed this age. A little, but certainly. Whether it connects to Japan in 4444, we don't know. Whether we changed it or not, we lived it. Living was most important.
Most important: Please don't send anyone else.
One-way. We knew. We were adults. But no next time.
Reasons: One, we are already people of this age. Our children are people of this age. No need for further intrusion.
Two, we now think the blank of history may be left blank. True richness lies inside nameless hearts. It cannot be excavated. It cannot be written. Truth is only that it was there. So please remain not understanding. Sometimes not filling the blank is the most accurate way to fill it.
We are not heroes. We were seven ordinary people born in 4444, who happened to be in the fourth century.
Goodbye. From fourth-century Japan, Autumn, 360.
Shiori Nonomura
--- End Letter ---
Conference lasted three days. Conclusion: Artifact authentic. Letter authentic. But we will not make contents public. Blank may be left blank.
That evening, on a dusty desk in the closed transfer room, there was a single white flower. Who placed it is not recorded.


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老いるショック
〜経年管理課、深夜のクレーム対応〜


まえがき

六十五歳を過ぎると、身体は時に、昨日までの自分をあっさりと裏切ります。

「去年まで普通にできていたことが、なぜか急にできなくなる」

「手術が終われば元の自分に戻れると思っていたのに、一向に以前の体感が戻ってこない」

そんな焦りや不満を抱えたとき、ふと思うことがあります。——私たちの身体はどこか遠くの「管理課」で勝手にシステム更新され、旧型のパーツから順にサポート終了を告げられているのではないか、と。

本書は、そんな人間のささやかな「抵抗」と「あきらめ」、そしてその先にある可笑しくも愛おしい日常を描いた物語です。

膝が笑い、息が上がっても、私たちは今日という日を自分の足で歩くしかありません。夜更けの静けさの中で、少しだけ肩の力を抜いてお楽しみいただければ幸いです。




第一部 深夜の来訪者

一、去年までできたこと

手術から三ヶ月が過ぎても、田村道夫(65)の身体は戻らなかった。

かつて軽く登れた裏山の道で、今日もまた膝が笑い、息が上がり、情けなく立ち止まる。汗をぬぐいながら、道夫は思う。——これが噂に聞く「65の壁」というやつか。

去年の今頃は、同じ道を鼻歌交じりで登り切り、頂上でコーヒーを淹れる余裕さえあった。それが今年は、七合目にも満たない場所で息が切れ、腰に手を当てて立ち尽くしている。

「あなた、また無理して山なんか行ったんでしょう」

夕食の支度をしながら、妻の頼子が呆れたように言った。道夫は湿布の匂いを漂わせながら、椅子に沈み込む。

「無理はしてない。去年と同じルートを、去年と同じペースで歩こうとしただけだ」

「それが無理だって言ってるの。手術したばかりでしょう」

「もう三ヶ月だ。普通なら戻ってる頃合いだろう」

頼子はため息をついて、味噌汁をよそった。「お医者様も言ってたじゃない。個人差があるって。それに——」

「それに、なんだ」

「あなた、去年の自分と比べすぎよ。今年は今年でしょう」

その一言が、なぜか道夫の胸に小さな棘のように刺さった。分かってはいる。分かってはいるが、納得できない。

翌日、道夫は同じ町内会の友人、坂本と喫茶店で顔を合わせた。坂本は道夫より二つ年上で、五年前に膝の手術をしている。

「坂本さん、手術の後、身体はどれくらいで戻りました?」

「戻った、というのとは、ちょっと違うな」坂本はコーヒーをすすりながら答えた。「わしの場合、半年経っても八割くらいしか戻らなかった。だが、その八割で歩けることに、そのうち慣れた」

「慣れた、というのは」

「戻るのを待つのをやめた、ということじゃよ。田村さんも、いずれ分かるよ」

道夫は、その「いずれ」という言葉が、妙に重く響いた。まるで、まだ辿り着いていない場所を指されているようだった。

「でも坂本さん、それじゃ悔しくないですか。去年までできてたことが、できなくなるのは」

坂本はしばらく黙り、それから静かに言った。

「悔しいさ。だが悔しがってる間も、身体は今日という日を刻んでいく。悔しがるのをやめろとは言わん。ただ、悔しがりながらでも、前に進むしかないんじゃよ」

道夫はその言葉を、うまく飲み込めないまま、喫茶店を後にした。

二、灰色のスーツの小男

その夜、湿布を貼り替えながら焼酎をあおっていると、玄関のチャイムが鳴った。時計は午後十一時を回っている。こんな時間に誰だと訝りながら戸を開けると、そこには身長百四十センチほどの、灰色のスーツを着た小男が立っていた。

「夜分に失礼いたします。経年管理課、地上第七支局の者です。田村道夫様の個体につきまして、いくつかご確認したいことがございまして」

名刺には「株式会社ヒューマン・ライフサイクル・サポート」とあり、その下に小さく「※人類にはまだ非公開」と印刷されていた。

「……は?」

「単刀直入に申し上げますと」小男はタブレットのようなものを取り出し、青白い光を道夫の顔に当てた。「お客様の個体、今年の春、アップデートの適用中に軽微な不具合が発生しておりまして」

道夫は焼酎のグラスを持ったまま、しばらく玄関先で立ち尽くした。頼子はすでに寝室に上がっており、テレビの音だけがリビングから漏れている。夢か、それとも新手の詐欺か。判断がつかないまま、道夫は小男を招き入れてしまった。

「係員ヌと申します」小男は名乗り、リビングのソファに勝手に腰掛けた。「お茶などいただけますと助かります」

「泥棒か詐欺かと思ったが、随分と落ち着いてるな」

「私どもは、こういう反応には慣れております。皆様、最初は驚かれますので」

「皆様?」

「田村様のような個体は、他にも大勢いらっしゃいます」

道夫は仕方なく麦茶を出した。ヌはそれを両手で受け取り、行儀よく一口すすると、小さく「美味しゅうございます」と呟いた。地球の麦茶を初めて飲んだような口ぶりだった。

「あんた、人間じゃないのか」

「人間かと聞かれますと、答えに窮するのですが……少なくとも、田村様と同じ意味での『人間』ではございません」

「宇宙人ってことか」

「そのように分類されることが多いですが、私どもとしては『管理業務従事者』という呼び方の方がしっくりきます」

「見た目、随分と小さいな」

「これは制服のようなものでして。地上の皆様に威圧感を与えぬよう、標準体型より三割ほど縮小した姿でお伺いする決まりになっております」

道夫はソファに腰を下ろし、改めて小男を——いや、ヌを見つめた。灰色のスーツはよく見ると継ぎ目がなく、一枚の布からそのまま生まれたように見える。ネクタイの柄は、よく見ると小さな数字がびっしりと並んでいた。

「それで、俺に何の用だ。こんな夜中に」

「田村様のクレームを、事前に検知いたしまして」

「クレーム? 俺はまだ何も言ってないぞ」

「正確には、クレームになる前の『不満の蓄積』を検知しております。田村様、この三ヶ月、毎晩のように『なぜ戻らないんだ』とお考えになっていたかと思います」

道夫は言葉に詰まった。図星だった。

第二部 経年管理課

三、身体データという名の通信簿

ヌはタブレットを操作し、宙に半透明の画面を投影した。そこには道夫の名前と、見慣れない項目がずらりと並んでいる。

「筋力:72%(前年比マイナス18)」

「回復力:61%(前年比マイナス24)」

「睡眠効率:58%(前年比マイナス9)」

「視力:右0.7・左0.6(前年比マイナス0.2)」

「柔軟性:44%(前年比マイナス31)」

道夫は言葉を失った。まるで通信簿だ。それも、あまり良くない通信簿。

「筋力72%、か」道夫は数字を指でなぞった。「去年の秋、庭の柿の木を、俺一人で切り倒したんだ。頼子には危ないからやめろと言われたが、脚立にも上ったし、丸太も一人で担いだ」

「今年は、難しいかもしれません」

「回復力61%。これは……手術の後、傷が塞がるのに、思ったより時間がかかった。医者にも『年齢の割に治りが遅いですね』と言われたよ。あれも、この数字のせいか」

「その可能性はございます」

「睡眠効率58%。ああ、これは自覚がある。夜中に二度も三度も目が覚める。若い頃は、頭を枕につけた瞬間に朝だったのに」

「視力は、右0.7・左0.6か。新聞の字が、最近やけに小さく見えると思ってたんだ」

「老眼鏡は、お作りになりましたか」

「まだ意地を張ってる」

「あまり意地を張られますと、転倒などのリスクが高まりますので、お勧めはいたしません」

「柔軟性44%……ああ、これは分かる。靴下を履くのに、去年より時間がかかるようになった」

「それは、多くのお客様が最初に気づかれる変化です。派手さはありませんが、日常の端々に、確実に影響を及ぼしますので」

ヌは黙って頷いた。道夫は自分のデータを眺めながら、まるで他人の成績表を見ているような、奇妙な気分になった。だが、これは紛れもなく自分自身の、この十年、二十年の積み重ねの結果なのだ。

「これは……俺の身体を、ずっと採点していたということか」

「採点というより、管理と申し上げた方が正確です」ヌは静かに続けた。「人間の身体は、生まれた瞬間から『経年管理クラウド』というシステムに接続されており、これらのパラメータは日々、遠隔のサーバーで微調整されております」

「馬鹿な。俺はただ手術して、リハビリをしているだけだ」

「その手術です」ヌは涼しい顔で続けた。「外科的処置というのは、我々のシステムから見ますと『大規模な物理的介入』にあたりまして、通常は自動で回復用パッチが配信されるのですが……田村様の場合、そのパッチのダウンロードが、なぜか『高齢者標準テンプレート』とバッティングしてしまいまして」

「テンプレート?」

「六十五歳到達と同時に自動適用される、いわゆる『老化基本仕様』でございます。本来は緩やかに、ご本人が気づかぬ程度に反映されるはずが……田村様の場合、手術による再起動のタイミングと重なり、一気に、しかもかなり乱暴な形で適用されてしまったようで」

道夫はしばらく絶句し、それから焼酎を一気にあおった。

「つまり——俺の身体がなかなか戻らないのは、バグだと?」

「仕様とバグの中間、というのが正確な表現になります」

四、若返りはなぜ禁止なのか

道夫は画面に映る自分のデータを眺めながら、ふと思いついたことを口にした。

「じゃあ、逆に聞くが。若返らせることはできないのか。このシステムをいじれるなら」

ヌの表情がわずかに硬くなった。

「技術的には、可能です」

「だったら」

「ですが、若返り申請は、原則として受理されません」

「なぜだ」

ヌはタブレットを閉じ、少し声を落とした。「これは私の一存でお話しすべきことではないのですが——若返りというのは、単に身体のパラメータを巻き戻すことではないのです。記憶や経験はそのままに、身体だけを若くする。これがどういうことか、田村様は想像がつきますか」

道夫は黙った。

「たとえば、田村様が三十歳の身体に戻ったとします。膝も腰も痛まない。山も軽々登れる。ですが、頭の中には六十五年分の記憶と経験がそのまま残っています。三十歳の身体で、六十五歳の疲労感を抱えたまま生きることになる。それは、本当に『若返り』と呼べるものでしょうか」

「……」

「それに」ヌは付け加えた。「もし身体を若くできるなら、皆さんこう思うはずです。だったら、時間そのものも巻き戻せるのではないか、と。しかし、経年管理クラウドが管理しているのは身体だけで、時間そのものではありません。この二つを混同されるお客様が、実は一番多いのです」

道夫は自分の手のひらを見つめた。皺の増えた、節くれ立った手。この手で、若い頃と同じように山を登りたいと願っていた。だが、若い頃と同じように登りたいのか、それとも、若い頃の自分に戻りたいのか——その二つは、本当に同じことなのだろうか。

「実際に若返り申請をされた方も、いらっしゃるんです」ヌがぽつりと言った。「三年前、田村様と似たような年恰好の男性が、強く申請されまして。特例的に、身体だけを四十代前半に戻す処置が承認されました」

「その人は、どうなった」

「最初の一ヶ月は、大変喜ばれました。山にも登れる、夜も眠れる、と。ですが半年ほど経った頃、再びクレームが入りました」

「今度は何のクレームだ」

「『身体は若いのに、なぜ孫が自分を老人扱いするのか』というクレームでした」ヌは静かに続けた。「身体年齢は四十代でも、戸籍上の年齢は変わりません。周囲の人間関係も、積み重ねてきた立場も、何一つ変わらない。その方は結局、『身体だけが浮いてしまった』とおっしゃって、最終的には元の年齢相応のパラメータに戻すことを、ご自身で希望されました」

道夫はその話を聞いて、しばらく黙り込んだ。

五、誤配送事件

道夫が席を立とうとしたとき、ヌのタブレットから、けたたましい警告音が鳴った。

「な、なんだ」

「……失礼いたしました。田村様、大変申し訳ございません。配送センターより、誤配送の連絡が入りました」

「誤配送?」

「田村様の個体に、本来届くはずのないパッチが、誤って適用されてしまったようです」

ヌは慌てた様子でタブレットを操作し、道夫の身体データを再度呼び出した。画面には、見覚えのない項目が新たに追加されている。

「『七十歳用・人生整理パッチ』……これは田村様用ではありません!」

「じゃあ誰用なんだ」

「現在、別のお客様——七十二歳の男性に配信される予定だったものです。配送センターの仕分けミスにより、田村様の個体に誤って適用されてしまいました」

「俺、まだ六十五だぞ! 七十じゃない!」

「申し訳ございません。至急、取り消し申請を行います」

道夫は自分の身体を見下ろした。特に何か変わった感じはしない。「で、その『人生整理パッチ』ってのは、一体何をするパッチなんだ」

ヌは気まずそうに、項目を読み上げた。

「『不要な物を捨てたくなる』『昔の写真を見返したくなる』『疎遠になった友人に連絡を取りたくなる』『家族に、これまで話していなかった昔の話をしたくなる』——このあたりが、主な効果として設定されております」

道夫はしばらく黙り込んだ。それから、ぽつりと言った。

「言われてみれば……この一週間、妙に納屋の掃除がしたくてな。若い頃の写真も、随分と引っ張り出した」

「それは……申し訳ございません。誤配送の影響である可能性が高いです」

「いや」道夫は首を振った。「悪い気はしなかったぞ。忘れていたことを、いくつも思い出した」

ヌは戸惑った様子で、タブレットと道夫の顔を交互に見た。

「田村様、このパッチは取り消すことも可能ですが……このまま適用を続けることも、選択肢としてはございます」

「本当は七十歳になった人間にしか届かないもの、なんだろう」

「はい。人生を振り返り、身の回りを整理し始める時期が、統計的に七十歳前後に集中しているため、そのタイミングで自動配信される仕様になっております」

「早めに届いた、ってだけか」

「そのようにも、言えます」

道夫はしばらく考えて、それから小さく笑った。「別に、取り消さなくていい。少し早いくらいで、ちょうどいいのかもしれん」

ヌは何か言いかけて、結局何も言わず、静かにタブレットをしまった。

「ただし」ヌは付け加えた。「正式な記録上は、このパッチは『誤配送・お客様都合により継続希望』として処理させていただきます。……本当にパッチだったのかどうか、私にも、正直よく分からないのですが」

「どういう意味だ」

「人が自然に人生を振り返りたくなるという現象と、我々が配信するパッチの効果とを、区別する方法が、実は存在しないのです」

道夫はその答えに、なぜか妙に納得してしまった。

第三部 宇宙コールセンターへ

六、エレベーターとも宇宙船ともつかない乗り物

「納得のいく説明ではないな」道夫はようやく口を開いた。「じゃあ直せ。バグなら直せるだろう」

「申し訳ございません、地上支局には修正権限がございません。修正をご希望の場合は、本社——第九銀河系管理センターへの申請となります」

「そんな遠くまで文句を言いに行けるか!」

「大丈夫です、お連れいたします。ただし——」ヌは申し訳なさそうに眉尻を下げた。「移動中、身体はさらに三年分ほど経年が進みます。あちらの標準時間の関係で」

「三年も老けるのか!?」

「往復ではなく、片道でございます」

道夫は一瞬迷ったが、曲がらない腰と、軽く登れたはずの裏山を思い出し、拳を握った。

「行く」

ヌに連れられて向かった先は、近所の商店街の奥にある、潰れたクリーニング店だった。シャッターの隙間から中に入ると、そこには古びた業務用エレベーターがぽつんと置かれている。ボタンは一つしかなく、「9G」とだけ書かれていた。

「これで、第九銀河系管理センターへ?」

「エレベーターと呼ぶとご理解いただきやすいので、そう申し上げております。実際には、もう少し複雑な仕組みなのですが」

「複雑って、どう複雑なんだ」

「ご説明すると、田村様の理解の範囲を超えてしまい、逆に混乱を招くかと」

「馬鹿にしてるのか」

「いいえ。私にもよく分かっていないだけです」

扉が閉まると、エレベーターは上にも下にも、前にも後ろにも動いているような、奇妙な感覚を道夫にもたらした。窓はないのに、なぜか外の景色が見える気がする。星々が流れ、次の瞬間には見慣れた地球の海が見え、その次には見たこともない紫色の空が広がった。

「気持ち悪くなりましたら、こちらの酔い止めを」

ヌが差し出した錠剤には、日本語で堂々と「正露丸」と書かれていた。

「これでいいのか」

「効果があるかどうかは分かりませんが、皆様お持ちになると安心されますので」

七、人類はいつから管理されているのか

移動の間、道夫はヌにいくつか質問をぶつけた。

「人間は、いつからこの『経年管理クラウド』とやらに接続されてるんだ」

「正確な記録は、私の権限では閲覧できません」

「あんたが知らないだけで、上には記録があるんだろう」

「あるかもしれませんし、ないかもしれません。私の階級では、そこまでは分かりかねます」

「随分と歯切れが悪いな」

「歯切れの良い答えを差し上げられるほど、私も上のことは存じ上げないのです」ヌは涼しい顔で言った。「ただ一つ申し上げられるのは、人類が生まれるずっと前から、この仕組み自体は存在していた、ということだけです」

道夫はふと、真面目な顔になった。「なあ、係員ヌ。あんたは、何のためにこの仕事をしてるんだ」

ヌは少し驚いたような顔をした。この質問をされたのは初めてだったのかもしれない。

「私は……クレームに来られたお客様の中で、諦めていない方を見るのが、好きなのだと思います」

「諦めていない?」

「多くの方は、経年管理課の存在を知ると、すぐに納得されます。『老いとはそういうものか』と。ですが、中には田村様のように、最後まで食い下がる方がいらっしゃいます。正直に申し上げますと、そういう方の対応をしている時だけ、私はこの仕事に少しだけ意味を感じます」

途中、エレベーターが不意にガタンと揺れ、赤いランプが点滅した。

「な、なんだ!?」

「失礼いたしました。第三経由地で、渋滞が発生しているようです」

「渋滞? 宇宙で渋滞するのか」

「はい。ちょうど今の時間帯は、他の惑星からのクレーム対応が集中しておりまして」

「他の惑星にも、老いる生き物がいるのか」

「その質問には、お答えする権限がございません」

「さっきから、答えられないことばかりだな」

「経年管理課とは、そういうところです」

エレベーターは五分ほど停止したまま動かなかった。気まずい沈黙の中、ヌは小さな端末で何かのゲームをしているようだった。道夫が覗き込むと、それは道夫の知っているブロック崩しに酷似していた。

「あんたらも、暇つぶしにゲームなんかするのか」

「業務外の待機時間は、有効活用するようにと指導されておりますので」

しばらくして、ランプが青に変わり、エレベーターは再びゆっくりと動き出した。

「お待たせいたしました。渋滞、解消いたしました」

「随分と、地上の役所とやってることが変わらんな」

「褒め言葉として受け取らせていただきます」

エレベーターが小さく揺れ、到着を告げる無機質な音が鳴った。

第四部 元・元気な人たち

八、待合室

エレベーターを降りると、まず受付があった。カウンターの向こうには、これもまた小柄な係員が座っており、道夫に一枚の用紙を差し出した。

「こちらにご記入をお願いいたします」

用紙には、名前、生年月日、個体番号といった項目に混じって、「本日のご不満(該当するものすべてに◯)」という欄があり、選択肢には「筋力低下」「柔軟性低下」「回復力低下」「その他(自由記述)」と並んでいた。道夫は迷った末、すべてに丸をつけ、「その他」の欄には「納得がいかない」とだけ書いた。

「田村様、こちらの欄は、もう少し具体的にご記入いただけますと、審査がスムーズになるのですが」

「納得がいかないは、具体的じゃないのか」

「多くのお客様が同じようにご記入されますので、正直、あまり参考にならないのです」

道夫は仕方なく、「去年登れた山に、今年登れなかった」と書き直した。係員はそれを見て、満足そうに頷いた。

「結構でございます。それでは、番号札をお取りになって、あちらでお待ちください」

光る扉をくぐると、そこは奇妙な待合室だった。壁には「経年関連・お問い合わせ多数につき、お待ちの時間が通常より長くなっております」という貼り紙。蛍光灯は妙に古めかしく、隅には自動販売機が置かれているが、売っているのは「回復用炭酸水(効果には個人差があります)」という、聞いたこともない商品だった。

長椅子には、道夫と似たような顔ぶれが並んでいる。番号札を受け取り、道夫はその中の一人、隣に座っていた白髪の男に声をかけた。

「みんな、同じクレームで?」

「わしはね」男は力なく笑った。「去年できたラジオ体操の三番が、今年はできんのじゃ。あれはもう仕様なのか事故なのか、誰にも分からん」

「三番なんて、そんな大したことじゃないでしょう」

「大したことじゃないと思うじゃろう。だがな、わしは三十年間、毎朝欠かさずラジオ体操をやってきた。三番の、あの横に伸びる動きができなくなった朝、なぜか涙が出たんじゃ」

道夫は言葉に詰まった。反対隣に座っていた女性が、静かに口を開いた。

「私は、元は三段跳びの選手だったんです。国体にも出ました」

「今は?」

「今は、駅の階段で立ち止まってしまいます。三段跳びどころか、三段の階段でも」

その向こうには、かつてプロ野球選手だったという老人が座っていた。「わしは二軍だったが、球速だけは百四十キロ出とった。今じゃ、孫とのキャッチボールで、山なりの球しか投げられん」と苦笑いする。

隣には、かつて一晩で三軒飲み歩けたという老人がいた。「今は、一杯目のビールで眠くなる。情けない話じゃが、店に入って十分でうとうとしてしまってな、この前は店主に起こされたよ」

その向こうには、かつて美容師として立ちっぱなしで十時間働けたという老女がいた。「腰と脚が資本の仕事だったからね。今は、台所に十分立ってるだけで、腰が悲鳴を上げる。現役の頃は、それが当たり前だと思ってたのに」

さらに奥には、かつて教師として毎日黒板の端から端まで大声で授業をしていたという老人がいた。「声が、出なくなった。四十年、教壇に立ってきたのに、今は孫の名前を呼ぶのにも、息継ぎがいる」

道夫はふと気づいた。ここにいるのは全員、「元・元気な人」なのだ。「元」という一文字が、それぞれの誇りと、それぞれの喪失を、静かに背負っている。

面白いのは、誰も涙を見せていないことだった。むしろ皆、どこか可笑しそうに、自分の「元」を語っていた。まるで、そう語ることでしか、その喪失と折り合いをつけられないかのように。

さらに端の席には、痩せた体格の老人が黙って座っていた。他の人々が賑やかに話す中、その老人だけは静かに目を閉じている。道夫が思わず声をかけると、老人はゆっくりと目を開けた。

「わしは、市民マラソンで、四十二キロを三時間半で走っておった」

「それはすごい」

「今は、五百メートル歩くと、座り込んでしまう。医者には、心臓の問題だと言われた。走ることが、わしの人生のほとんどすべてだったのに、それが今、心臓の方から『もう無理だ』と言ってくる」

老人はそこで初めて、微かに笑った。

「それでも、な。わしはここに、走らせてくれと頼みに来たわけじゃない。ただ、確認したかっただけなんじゃ。わしの心臓が、わしを裏切ったわけじゃないってことをな。仕様だと言われれば、まあ、納得もできる」

道夫はその言葉に、胸を突かれた。裏切られたわけではない。ただ、仕様が変わっただけ。それは慰めなのか、それとも、もっと残酷な事実なのか、道夫にはまだ判断がつかなかった。

九、若返りを要求する老人

そのとき、待合室の奥から怒鳴り声が聞こえた。

「私は若返りを要求します! これは詐欺だ! 何十年も保険料のようなものを払い続けてきたのに、いざという時に何もしてくれないのか!」

見ると、恰幅の良い老人が、受付の係員に食ってかかっている。周りの人々は、慣れた様子でそれを眺めていた。

「よくあることですか」道夫が尋ねると、隣の白髪の男は頷いた。

「ああ、月に一人はああいうのが来る。だが、いつも同じ結末じゃ」

受付の係員は落ち着いた声で対応していた。

「お客様、若返りのご希望、承りました。何歳までお戻しすればよろしいでしょうか」

「三十だ! 三十歳に戻してくれ!」

「かしこまりました。ただし、確認させていただきたいのですが」係員は淡々と続けた。「若返り後は、三十歳から現在までの三十五年間を、もう一度最初から経験していただくことになります。同じ結婚をされるかどうか、同じ会社に入られるかどうか、同じお子様を授かるかどうか、それは保証いたしかねます。それでもよろしいでしょうか」

老人の勢いが、目に見えて弱まった。

「それは……もう一度、同じ人生をやり直すということか」

「いいえ。同じ人生になる保証はございません、と申し上げております。身体だけを三十歳に戻すことは可能ですが、記憶と経験はそのまま残ります。三十歳の身体で、六十五年分の記憶を持ったまま、もう一度三十五年を生きていただくことになります」

老人はしばらく黙り込み、それから絞り出すように言った。

「……俺が戻りたいのは、身体じゃない。あの頃、まだ女房が元気で、子供たちが小さくて、この先に何が起こるか全く知らなかった、あの頃なんだ」

係員は静かに頷いた。

「多くのお客様が、最終的にそこに気づかれます。私どもがお戻しできるのは、身体のパラメータだけです。時間そのものではございません」

老人は肩を落とし、番号札をポケットにしまうと、そのまま帰っていった。道夫はその背中を、しばらく見送っていた。

十、それぞれの喪失

「なあ」道夫は隣の白髪の男に尋ねた。「あんた、それでもここに来続けてるのか」

「わしはもう、何を要求しに来てるのかも分からなくなってきたよ」男は笑った。「ただ、ここに来ると、自分と同じような人間がいるのが分かって、少し楽になる。それだけかもしれん」

「解決はしないのに?」

「解決なんぞ、初めから期待しとらん。だがな、田村さん」男は道夫の名前を、いつの間にか覚えていた。「わしらは皆、『元』何かだった。だが、『元』の前には、まだ何かが続くじゃろう」

「続く?」

「元・登山家の、次があるかもしれん。元・三段跳び選手の、次があるかもしれん。わしらは、それを探しにここへ来とるんじゃないかと、最近は思うとる」

呼び出し音が鳴り、道夫の番号——「個体番号:65-道夫-春季手術済み」——が呼ばれた。

第五部 担当:経年

十一、面談室にて

案内された部屋の奥に座っていたのは、白髪でもなく、若くもなく、ただ果てしなく「時間」そのもののような佇まいをした存在だった。名札には「担当:経年」とだけ書かれている。

「田村さん。ご不満は理解できます」経年は淡々と言った。「ですが、正直にお伝えしますと、あなたの身体に起きていることの九割は、本社の不具合ではありません」

「じゃあ何なんだ」

「仕様です。あなたが去年できたことは、去年のあなたの身体ができたことです。今年のあなたの身体は、今年のあなたの身体にしかできないことをします」

あまりに身も蓋もない答えに、道夫は絶句した。だが、待合室での会話を思い出し、ぐっとこらえて次の言葉を待った。

十二、昨日に戻れない理由

「一つ、お聞きしたい」道夫は言った。「なぜ人間は、老いるように作られているんだ。若返りが技術的に可能なら、最初からそんな仕様にしなければいい話じゃないか」

経年はしばらく道夫を見つめ、それから静かに答えた。

「田村さん。人間は、昨日に戻れないように作られているんです」

「……どういう意味だ」

「なぜだと思いますか」

「知らないから聞いてるんだ」

経年は少し間を置いてから、こう言った。

「昨日に戻れるようにしてしまうと、経年管理課の仕事がなくなるからです」

道夫はぽかんとした。「……冗談か、それは」

「冗談です」経年は表情を変えずに続けた。「……昨日に戻れないからこそ、人は今日を今日として生きられる。私どもは、そう理解しております。それ以上のことは、私の口からは申し上げられません」

道夫は黙って、自分の手のひらをもう一度見つめた。皺の増えた、節くれ立った手。それ以上の説明を、なぜか道夫も求めなかった。

「欠陥じゃない、ということか」

「欠陥ではありません。ただし」経年はここで、少し口調を和らげた。「あなたの回復速度に関しては、一割ほど、確かに手違いがありました。標準より厳しめのパッチが適用されています。これは訂正いたしましょう」

指先が宙で何かをタップするような仕草をする。道夫の背中に、ふっと軽い違和感が走った。

「これで、多少は戻りやすくなります。ですが」経年は静かに道夫を見た。「戻る速度が変わっても、戻る先が『去年』ではないことは、変わりません」

十三、最後の質問

道夫は席を立ちかけて、ふと足を止めた。

「なあ、経年さん。老いた先には、何があるんだ」

経年は、その質問には少しだけ間を置いてから答えた。

「田村さん、それは私の業務範囲の外にあることです。経年管理課が扱うのは、あくまで『経過』であって、『終着点』についてはお答えする権限がございません」

「はぐらかしてるのか」

「はぐらかしているわけではありません。ただ、私が申し上げられるのは一つだけです——終着点がどこであれ、そこまでの道のりを、あなたご自身のものとして刻んでいただきたい、ということです。それが、経年管理課の、唯一の願いです」

道夫は、その答えに満足したわけではなかった。だが、なぜか、それ以上聞く気にはなれなかった。

「最後に一つだけ。あんたも、老いるのか」

経年は、初めて少し表情を動かした。それは笑みのようにも、困惑のようにも見えた。

答えるまでに、長い——道夫には、それがどれくらい長かったのか、うまく測れないほどの間があった。

「私にあるのは、常に『今』だけです」

それだけ言うと、経年は静かに一礼した。道夫はそれ以上、何も聞けなかった。

第六部 山、ふたたび

十四、帰り道

エレベーターに乗り込むと、ヌが待っていた。

「お疲れ様でした、田村様」

「あんた、最後まで見てたのか」

「モニタリングは業務の一環ですので」

「経年ってやつ、変な奴だったな」

「あの方は、変わっているというより……この仕事において、最も長くこの職に就いている方です。とても、とても長く」

道夫はそれ以上、深く聞かなかった。エレベーターは再び、上とも下とも、前とも後ろともつかない動きで、地球へと戻っていく。窓の外には、行きと同じように星々が流れていたが、なぜか帰りの方が、少しだけ速く感じられた。

「三年分、老けるんだったな」道夫はふと思い出して言った。

「はい。ですが、一割の修正が適用されておりますので、体感としては、それほど大きな変化はないかと思います」

「随分いい加減な計算だな」

「経年管理課とは、そういうところです」

十五、朝、目が覚めると

地上に戻った道夫の記憶は曖昧だった。ヌも、待合室も、経年の姿も、朝になると夢だったような気さえした。ただ背中の違和感だけが、妙にリアルだった。

「あなた、こんなところで寝てたら風邪ひくわよ」

頼子の声で目が覚めると、道夫はリビングのソファに座ったまま、焼酎のグラスを手にしていた。テレビはとうに砂嵐になっている。時計を見ると、朝の六時だった。

「……なんだ、夢か」

道夫は苦笑しながら立ち上がり、身体を伸ばした。腰は相変わらず重い。膝も、完全に戻ったわけではない。だが、なぜか少しだけ、身体が軽い気がした。気のせいかもしれない。それとも、一割の修正とやらのおかげかもしれない。

「あなた、何をぶつぶつ言ってるの」

「いや、なんでもない」

道夫はキッチンで水を飲みながら、窓の外に見える裏山を眺めた。

「頼子」道夫は不意に呼びかけた。

「何よ」

「お前は、去年の自分に戻りたいと思うことはあるか」

頼子は少し驚いた顔をして、それから洗い物の手を止めずに答えた。

「あるわよ、そりゃ。もっと若くて、もっと自由に動けた頃には戻りたいと思う。でもね」

「でも?」

「戻ったところで、今のあなたと出会う前に戻っちゃうかもしれないでしょう。それは嫌だわ」

道夫はその答えに、しばらく何も返せなかった。頼子は振り返らずに、蛇口の水を止めた。

「変なこと聞くのね、朝から」

「いや……なんでもない」

道夫はもう一度、窓の外の裏山を見た。今日はやけに、山の緑が鮮やかに見えた。

十六、山、ふたたび

それから数週間後、道夫はふたたび裏山の道に立っていた。よく晴れた朝で、木々の間から差し込む光が、登山道にまだらな模様を描いている。

登り始めてすぐ、膝は相変わらず笑ったし、息もすぐに上がった。三合目の東屋で、道夫は情けなく立ち止まり、ペットボトルの水を口に含んだ。去年なら、ここで立ち止まることさえなかった。

だが——以前よりほんの少し、身体が「ついてくる」感覚があった。気のせいかもしれない。一割の修正とやらの効果かもしれないし、この数週間、毎朝欠かさず続けたストレッチのおかげかもしれない。道夫には、もう確かめる気はなかった。

五合目を過ぎたあたりで、道夫は同じように立ち止まっている老人とすれ違った。息を切らしながらも、その老人は道夫に軽く会釈をした。道夫も会釈を返した。何も言葉は交わさなかったが、なんとなく、待合室にいたあの人々のことを思い出した。

途中、待合室で会った白髪の男の言葉を思い出した。「元」の前には、まだ何かが続くじゃろう。道夫は、自分がこれから何の「元」になっていくのか、まだ分からない。だが、少なくとも今は、まだ何かの途中にいる。

「昨年は、出来たはずだ」

道夫は独り言のように呟きながら、一歩、また一歩と登る。

「やれたはずだ。だから——」

汗が額から落ちる。痛みもある。それでも足は止まらない。

「今年は、今年の速度で、やれるはずだ」

山頂まではまだ遠い。

完


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あとがき

老いとは、遠い宇宙のコールセンターにどれだけ熱弁を振るって文句を言ったところで、結局のところ「仕様です」の一言であっさりと片付けられてしまうようなものなのかもしれません。

若返りを願う気持ちも、過去の自分と比べて悔しがる気持ちも、決して間違いではありません。しかし、「元・元気な人」たちが集う待合室で交わされる会話のように、私たちは誰もが過去の栄光やかつての身体を抱えながら、それでも次の季節へと足を踏み出しています。

昨日に戻ることはできませんが、今年の速度で、今日を生きることはできる。

本作が、日々移ろいゆくご自身の身体と向き合うすべての方々へ、くすりと笑えるささやかなエールとなれば嬉しく思います。


泡沫温泉

―裸の惑星、たった一つの掟―



まえがき

私たちは毎日、たくさんの「鎧」を着て生きています。
会社の肩書き、家庭での役割、年齢、そして自分を証明するための名刺やID。それらは私たちを守る防具であり、同時に、知らず知らずのうちに自分自身を縛りつける重荷にもなっています。

「もしも、すべての鎧を脱ぎ捨てて、ただの『自分』として息をつける場所があったなら――」
主人公の平助と一緒に、どうぞ服を脱ぎ、肩書きを置き、タオル一本だけを持って、湯気の向こう側へお入りください。




一

宮田平助、四十六歳、係長。名刺の裏に書かれた肩書きは「営業推進部第三課主任代理」という、誰も正確には発音できない役職だった。部下は三人いるが、そのうち二人は平助より年上で、残る一人は平助より優秀だった。

金曜の夜、部長に詰められた。理由は覚えていない。いつも似たようなことで詰められるので、覚えておく意味がなくなっていた。ただ、「お前の代わりはいくらでもいる」という言葉だけは、なぜか鮮明に耳の奥に残った。

帰り道、平助は会社の駐車場で、しばらく車のハンドルに額を押し付けたまま動けなかった。

行き先は決めていなかった。ただ、家に帰れば妻がいて、妻の顔を見れば「また詰められたの」という無言の視線があって、それに耐える気力が、今夜はどうしても湧かなかった。

だから平助は、いつもと違う道を選んだ。県道を外れ、山の方へ向かう細い道。カーナビは最初、「経路を再計算しています」と苛立たしげに繰り返していたが、やがて、突然「目的地周辺です」と告げ、それから沈黙した。目的地など、入力していないのに。

霧が濃くなった。ヘッドライトの光が、白い壁に跳ね返るようだった。
霧の中に、湯気だけが見えた。看板はない。ただ、木製の暖簾に一文字、「湯」とだけ書いてある。
「今日はもう、休みたいだけなんです」
平助はそう独り言ちて、車を降りた。
暖簾をくぐる。番台には誰もいなかった。かわりに、貼り紙が一枚。

当温泉、ただ一つの掟
タオル一本、それ以外は何も持ち込むべからず
名も、職も、家も、ここでは湯気の中に溶けるものとする

平助は財布も時計も名刺入れも、備え付けのロッカーに押し込んだ。ロッカーの鍵は、なぜか鍵穴のない、ただの丸い石だった。石を握ると、ほんのりと温かかった。まるで、誰かの手のひらのように。



二

湯船は、驚くほど広かった。広いという表現が正しいのかどうか、平助にはわからなかった。湯気の向こうに、山の稜線のようなものが見え、さらにその向こうに、もうひとつ山が見え、さらにその向こうに――星が見えた気がした。北斗七星が、八つ星になっていた。

「初めてかい」
低い声がした。白髪の老人が肩まで湯に浸かっていた。
「ええ、まあ。道に迷って」
「迷って辿り着くのが、ここの流儀だ」老人は笑った。「名乗らんでいい。わしも名乗らん。それと――他人の泡の匂いを嗅ぎすぎるのも、野暮ってもんだ」

「泡の、匂い?」
老人は答えず、湯を掬って顔にかけた。その隣で、若い女がぼんやりと湯面を見つめていた。彼女の肌には、うっすらと星座のような模様が浮かんでは消えていた。内側から光っているようだった。

「あれは」平助が聞きかけると、老人は首を振った。
「聞いてはならん。それが掟だ」



三

湯は、妙に体に馴染んだ。平助という人間の輪郭そのものが、湯の中で少しずつ溶けていくようだった。
「気持ち良いですな」
「そのひと言でいい」老人は言った。「わしからも、ひと言返そう。――良い湯だ」
しばらくの沈黙のあと、老人は目を閉じ、湯気に溶けるように、姿がぼんやりと薄くなった。

「あの」
声をかけようとしたとき、老人はもう、そこにいなかった。かわりに、湯の表面に小さな泡がひとつ、ぽこりと浮かんで、消えた。
星模様の女が、初めて口を開いた。

「彼は、もう還ったのよ」
「還った?」
「ここに長く浸かりすぎると、還る。もといた場所へ」女は湯を掬い、指の間からこぼした。「ここは、待合室のようなものだから」



四

夜が更けるにつれ、湯船に集まる者たちは増えていった。誰も名乗らず、誰も仕事の話をしなかった。

「今日は月が、いつもより近い」
「そうですな」
「明日は、遠くなるだろう」
「それも、良いですな」
会話はそれで終わることもあれば、次のひと言を呼び、いつの間にか夜通し続くこともあった。そうして言葉が途切れなくなった相手のことを、この温泉では「湯友(ゆとも)」と呼ぶのだと、女が教えてくれた。
「でも、その先は聞いちゃだめ。どこに住んでいるとか、何をしているとか。それを聞いた瞬間――」

女は湯面を指さした。そこには、平助自身の顔が映っていた。名刺を持ち、腕時計をつけ、スーツを着て、誰かに頭を下げている平助だった。
「服を着た瞬間、価値が生まれる。価値が生まれた瞬間、比べられる。比べられた瞬間、もうここにはいられない」

「服を着なければ、僕らはただの生き物じゃないですか」
「そう」女は微笑んだ。「それが、一番強いのよ」



五

湯船の奥に、カピバラのような、しかし目が三つある生き物が悠々と湯に浸かっていた。誰も驚かなかった。平助も、驚かないことにした。ここでは、それが礼儀のような気がした。

そのとき、湯船の底が、ゆっくりと発光を始めた。無数の小さな星が沈んでいるようだった。見上げると、湯気の向こうに、見たこともない色の輪を持つ惑星が、ゆっくりと回転していた。輪の中を、小さな魚のような影が群れになって泳いでいた。

「惑星の裏側」女が静かに言った。「ここはね、いろんな場所の、いろんな時間の、境界線が薄くなる場所なの。だから、みんな辿り着く。迷ったときに」



六

明け方近く、湯船に一人の男が新たに現れた。スーツを着たままだった。
「すみません、ここ、貸切ですかね。私、○○商事の――」
その瞬間、湯船全体が、ぶわりと大きく波打った。温泉そのものが、身震いしたようだった。

男の体から、しゅわしわと小さな泡が立ち上り始め、その泡の中に、名刺や、契約書や、通勤定期券や、家族写真の欠片が、次々と浮かんでは消えていった。

腕時計だけが、湯船の縁に、ぽつんと残された。
「弾かれたのよ。名乗った者は、ここにはいられない」女は静かに言った。「元の世界に、戻るだけ。何も変わらず、何も得ないまま。ただ、ここに来たことすら、忘れてしまう。思い出は、鎧を着た人間には、重すぎるから」



七

「ここは、一体、何なんですか」
女はしばらく黙していた。
「昔むかし――と言っても、ここに『昔』があるのかどうかわからないけど――この宇宙のどこかに、ひとつの種族がいたの。彼らは、あらゆる文明の果てに、同じ結論に辿り着いたらしいの」
「結論?」
「『鎧を着るほど、争いが増える』ということ」女は湯を撫でた。「だから彼らは、宇宙のあちこちに、こういう場所を作ったらしい。正確には、"鎧を脱ぐ場所"を。それがたまたま、この星では温泉という形をとっただけ。別の星では風だったり、森だったりするって」
「その種族は、今は……」
「消えたわ。争わなくなった種族は、増えることも、減ることもしない。ただ、緩やかに、宇宙に溶けていく。……そう、聞いたことがある」
女は「聞いたことがある」と言った。自分の言葉ではないように。

平助は、湯船の底に沈む光の粒を見つめた。ひとつが、かつてここで裸になった、誰かの一瞬なのかもしれなかった。



八

「あなたは」平助は尋ねた。「もう長いんですか、ここに」

女は微笑んだ。それは、答えているようで、答えていない微笑みだった。

「長い、短いも、ここではあまり意味がないの。でも――」女は空を見上げた。湯気の向こうに、見たこともない色の星が瞬いていた。「そろそろ、あなたも還る時間かもしれない」

「還る? どこへ」

「あなたが、鎧を着ていた場所へ」

平助は、ふと、ロッカーに預けた名刺入れのことを思い出した。奇妙なことに、それを思い出した瞬間、体が少しだけ重くなった気がした。まるで、思考そのものが、鎧の一部であるかのように。

「でも」平助は言った。「もう一度、ここに来られますか」

女は、答えなかった。かわりに、湯船に小さな泡をひとつ立てた。ぽこり、と。それが、彼女なりの返事なのだと、平助にはわかった。

「あなたの名前を、聞きたい気持ちがあります」平助は正直に言った。「でも、聞かないでおきます」

女は、初めて驚いたような顔をした。それから、心底嬉しそうに笑った。

「それが、湯友というものよ」女は言った。「聞かないことを選べる強さが、鎧を脱いだ証」

「気持ち良かったです」平助は言った。

「そのひと言でいい」女は微笑んだ。「わしからも、ひと言返そう。――また、迷ってらっしゃい」

その声は、老人の声にも、女の声にも聞こえた。いや、もしかしたら、この温泉そのものの声だったのかもしれない。

平助は湯から上がり、脱衣所へ向かった。振り返ると、湯船はもう、ただの霧に包まれた水面にしか見えなかった。だが、その霧の向こうに、確かに、無数の気配が揺れていた。

九

それから三週間、平助はあの霧の道を探した。同じ道を走っても、辿り着けなかった。カーナビは、ただの県道を淡々と示すだけだった。

「気のせいだったのかな」

平助は、そう思い始めていた。妻には、あの夜のことを話さなかった。話しても、信じてもらえない気がしたし、何より、あの湯気の向こうの時間は、言葉にした瞬間に、色褪せてしまう気がした。

四週目の金曜、またしても部長に詰められた夜、平助は特に理由もなく、あの山道へ車を走らせた。期待していたわけではなかった。ただ、体が勝手にハンドルを切っていた。

霧が出ていた。木製の暖簾が、そこにあった。

「ああ」

平助は、思わず声を漏らした。安堵とも、喜びとも言えない、深いため息だった。

暖簾をくぐると、脱衣所には、前回と同じ丸い石の鍵が並んでいた。平助は財布と時計と名刺入れを預け、丸い石を手に取った。今度は、迷わなかった。

湯船には、前回とは違う顔ぶれがいた。老人も、星模様の女も、姿が見えなかった。かわりに、小さな子供のような姿の者が、湯船の縁にちょこんと腰かけて、足だけを湯に浸けていた。

「はじめまして、じゃなくて――」平助は言い直した。「今晩は」

「うん」子供のような姿の者は頷いた。「あなた、前も来た人だ」

「わかるんですか」

「泡の匂いでわかる」子供は笑った。「みんな、それぞれ違う匂いの泡を纏ってる。あなたの泡は、疲れてるけど、優しい匂いがする」

平助は、思わず自分の腕の匂いを嗅いでみたが、もちろん、何もわからなかった。

湯船の中央では、透明な体の人物と、鱗に覆われた大きな生き物が、静かに並んで湯に浸かっていた。二人――と呼んでいいのかわからないが――の間には、会話らしい会話はなかった。ただ、時折、どちらからともなく、小さく水面を揺らして、相手に何かを伝えているようだった。

「あれは、湯友なんですか」

「もっと先」子供は言った。「湯友の、その先」

「その先を聞いちゃいけないんじゃ」

「聞かなくても、わかることもあるよ」子供は湯を蹴って、小さな波紋を作った。「言葉にしなくても、伝わるものが増えていくと、それは"その先"になる。誰も名前を知らないまま、誰よりも近くにいられる」

平助は、その言葉を、心のどこか柔らかい場所に、そっとしまい込んだ。

十

その夜、湯船に妙な緊張が走った。きっかけは、湯気の向こうから聞こえてきた、遠い機械音だった。

ゴゴゴゴ、という低い振動。

「あれは」平助が聞くと、子供の顔から、笑みが消えた。

「困ったな」子供は呟いた。「また、来たのかもしれない」

「来た? 何が」

「"整地する者たち"」子供は言った。「鎧を着すぎて、鎧そのものになってしまった人たちのこと」

霧の向こうに、いくつもの光が見えた。ヘッドライトだった。ブルドーザーらしき重機の輪郭が、霧を切り裂くように近づいてきた。

「ここは、地図にない場所じゃ……」

「彼らには、地図があるの」透明な体の人物が、初めて口を開いた。その声は、鈴が鳴るように澄んでいた。「開発、というものの地図が」

平助は湯船から出て、脱衣所の窓から外を覗いた。霧の向こう、ぼんやりとした人影が、測量器のようなものを構え、何かを叫んでいた。「ここに、リゾート開発を」「温泉権を、買い取る」というような言葉が、切れ切れに聞こえてきた。

「どうすれば」

「何もしなくていい」子供は静かに言った。「ここは、鎧を着た者には、そもそも見えない場所だから」

「でも、あの重機は――」

「見えているのは、この場所じゃない。彼らの頭の中にある、"開発できそうな土地"という幻よ」透明な人物が言った。「けれど、幻でも、踏みつぶそうとする力はある。それが、厄介なところ」

平助は、湯船に戻った。心臓が、妙に速く打っていた。ここは、自分の日常とは関係のない場所のはずだった。それなのに、なぜか、他人事とは思えなかった。

十一

「僕に、何かできることは」

平助が尋ねると、子供は少し驚いたように、平助を見上げた。

「あなた、鎧の世界の人でしょう。向こうに行けば、あなたの言葉は、届くかもしれない」

「僕の言葉なんて、部長にすら届かないのに」平助は自嘲気味に笑った。

「それは、あなたが鎧を着たまま話すからよ」子供は言った。「ここで裸のまま話した言葉には、鎧を着た世界でも、不思議と、少しだけ力が宿るの」

平助は、湯船から上がり、脱衣所でタオルを体に巻いた。それだけで、なぜか外の世界と少しだけ繋がった気がした。

霧の外に出ると、測量服を着た男が二人、平助に気づいて振り返った。

「あんた、こんな場所で何を」

「ここは、地図にない温泉なんです」平助は言った。自分でも驚くほど、静かな声が出た。「開発、しない方がいいと思います」

「は? 何を根拠に」

「根拠は、ありません」平助は正直に言った。「ただ、ここでは、みんなが平等になれるんです。タオル一本だけで。それだけの場所を、僕はほかに知りません」

測量服の男たちは、顔を見合わせ、鼻で笑った。

「寝ぼけたこと言ってないで、どいてくれ。ここは我が社が、正式に取得した土地だ」

「土地って、この霧の中の、どこなんですか」平助は聞いた。「番地は? 地番は? ここに来る道を、正確に説明できますか」

男たちは、一瞬、言葉に詰まった。地図を広げようとして、その地図が、霧に湿って、文字がにじんでいくのに気づいた。

「お、おい、地図が――」

「消えていく」もう一人が呆然と呟いた。

平助は、それを黙って見ていた。地図の文字が滲み、輪郭を失い、やがて、ただの白い紙になった。男たちは、自分たちが、いったい何を測量していたのか、何のためにここに来たのか、思い出せなくなっていくようだった。

「あれ……俺たち、なんでこんな山の中に」

「さあ……休憩でも、するか」

男たちは、装備を放り出し、その場に座り込んだ。まるで、長い夢から覚めたばかりのような、ぼんやりとした顔をしていた。

十二

翌朝――と言っても、ここでの朝が本当に「翌」なのかは、平助にもわからなかった――湯船に戻ると、あの測量服の男たちが、いつの間にか裸になって、湯に浸かっていた。

「あんた、さっきの」男の一人が、気まずそうに平助を見た。「悪かったな、偉そうなこと言って」

「いえ」

「ここ、なんか、いいところだな」もう一人が、湯を撫でながら言った。「会社に戻ったら、なんて説明すりゃいいのか、わからんが」

「説明しなくていいんじゃないですか」平助は言った。「ここで見たことは、たぶん、うまく言葉にならないから」

男たちは、顔を見合わせて笑った。鎧を脱いだ二人の顔は、さっきまでとはまるで別人のように、穏やかだった。

湯船の隅で、子供が、満足そうに頷いていた。

「見た?」子供は平助に言った。「鎧を着た者も、脱げば、ただの人。あなたの言葉が、届いたのよ」

「僕の言葉じゃなくて」平助は首を振った。「たぶん、この湯気が、届けてくれたんだと思います」

「両方かもね」子供は笑った。

湯船の底の光が、いつもより強く瞬いているように見えた。まるで、何かを祝っているようだった。透明な人物と、鱗の生き物も、珍しく、声を立てずに笑っているようだった。

平助はふと、あの星模様の女のことを思い出した。彼女は、今夜はいないようだった。だが、湯気の向こうに、確かに、彼女の気配が漂っている気がした。

「また、会えますか」

平助は、誰にともなく問いかけた。返事はなかった。かわりに、湯船に小さな泡がひとつ、ぽこりと浮かんで、消えた。

それで、十分だった。

終章

平助が目を覚ましたのは、車のシートの上だった。エンジンはかかったまま、カーナビには「目的地周辺です」の文字。フロントガラスの外は、いつもの見慣れた道路だった。

腕時計は、いつの間にか、腕にはまっていた。名刺入れも、鞄の中にあった。だが、その名刺入れを開いたとき、平助は少しだけ、笑ってしまった。

名刺の裏の肩書きが、なんだか、ひどく軽いものに見えたからだ。

月曜日、平助はいつも通り出社した。部長にまた詰められた。だが、その日の平助は、以前より少しだけ、部長の言葉を真剣に受け取らなかった。まるで、湯気の向こうに聞くように。

不思議なことに、その週、平助の会社に一本の連絡が入った。以前から進めていた山間部のリゾート開発案件が、「地権の確認が取れず、白紙撤回」になったという。担当者だった取引先の男は、電話口で妙に穏やかな声で、「まあ、ああいう土地は、無理に触らないほうがいいのかもしれませんね」と言った。平助は、その声に、聞き覚えがある気がした。

その夜、平助はまた、あの霧の道を探した。見つからなかった。次の夜も。その次の夜も。

けれど平助は、もう焦らなかった。あの女が言った通りだ。迷ったときに、辿り着く場所。探して辿り着くものではない。

それから平助は、月に一度か二度、無性に疲れた夜、あてもなく車を走らせるようになった。見つかる夜もあれば、見つからない夜もあった。

見つかった夜だけ、平助は誰にも言わず、静かに家を出た。

タオル一本だけを持って。

ある夜、平助は湯船で、また新しい顔ぶれに会った。今度は、平助と同じくらいの年齢に見える、疲れた顔の男だった。

「初めてかい」

平助は、かつて自分が言われた言葉を、そのまま口にしていた。

「ええ、まあ。道に迷って」

「迷って辿り着くのが、ここの流儀だ」平助は笑った。「名乗らんでいい。わしも名乗らん」

男は、少し戸惑いながらも、湯に肩まで浸かった。ほう、と長い息を吐いた。

「気持ち良いですな」

「そのひと言でいい」平助は言った。「わしからも、ひと言返そう。――良い湯だ」

湯気が、二人を静かに包んでいった。星が、いつもより近くに見える夜だった。

――了――


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あとがき

この物語は、ある温泉での、ひとつの実感から生まれました。裸になれば、みな同じ。肩書きも、財産も、湯気の中では意味を失う。もし、それを「宇宙の掟」にしてしまったら――という空想から、この不思議な物語は生まれました。

書いているうちに、この物語は、単に「平等」についての話ではなく、「名乗らない強さ」についての話になっていきました。私たちは、名乗ることで安心し、名乗ることで比べ、名乗ることで、時に苦しみます。名乗らずにいられる場所が、この世界のどこかにあるとしたら――それは、きっと、かけがえのない場所です。

もしどこかで、あなたも道に迷ったなら。霧の向こうに、一文字だけの暖簾を見つけたなら。

タオル一本だけ、持って行ってください。

そして、もし誰かと、名乗らないまま、言葉が途切れなくなったなら。

その先は、尋ねないでください。
それだけで、もう、奇跡なのですから。


岸惠子さんが亡くなったと
訃報が入った

いつか
横浜のお客様宅へと出掛けると
帰り際に
あそこが岸惠子さん宅よ なんて
教えて頂き

目の前に佇んで
ここかあ と
ひとり頷いたことを思い出す

お会いしたのは
1度だけ

どこだったか
本の出版記念でのサイン会

親ほどの年齢ではあったけれど
とても美しく
輝いていたっけ



出会いは古く
ショーケンとの映画
雨のアムステルダム

中学の頃
有楽町でのドラゴンの帰り
こっそり入った
ロードショーだったと思う

それから遡り
名画座で 約束 を観た

どちらも
男と女のドラマで
マセたガキは
ドキドキしたのを覚えている


ガキの頃
憧れた方々が
持ち時間を終えて去って行く

時間は一瞬も止まることなく
刻々と進んで行く

僕たちが
ジタバタしても
何も変わらない

ご冥福を…


ミスター
――時空を越えた少年と、もう一度の野球――



まえがき
人には、一度だけ戻ってみたい瞬間がある。
人生をやり直したい、というほど大げさなものではない。
ただ、
「あの時、もう少し頑張っていたら」
と思うことがある。
僕の場合は、小学生の頃だった。
野球が好きだった。
けれど、上手ではなかった。
特に、ゴロが怖かった。
ボールが自分に向かって転がってくるだけで、身体が勝手に逃げた。監督からは、何度も叱られた。
それでも野球が好きだった。
町の商工会が開いてくれた少年野球教室。
来なかった、憧れの人。
そして、子どもが一生懸命に書いた一通の手紙。
僕はその手紙を、六十年以上、大切に持っていた。
長嶋茂雄。
僕にとっては、「ミスター」だった。
これは、そのミスターに一度も会えなかった少年が、六十年以上の時を越えて、もう一度だけ少年に戻った話である。
そして今度こそ、野球選手になるための話である。




第一章 ゴロが怖かった
小学生の僕は、野球少年だった。
ただし、上手な野球少年ではない。かなり下手な野球少年だった。
打てない。
投げられない。
走れば遅い。
そして何より、ゴロが怖かった。
白い硬球が、土煙を上げながら近づいてくる。ただ、それだけなのに。
身体が勝手に、後ろへ逃げた。
「取れ!」
監督が叫ぶ。グローブを出す。けれど、ボールが近づくほど足がすくむ。横をボールが通り過ぎていく。
「何やってんだ!」
うつむいた。悔しかった。本当は取りたかった。
家に帰ると、父親が言った。
「野球、好きなんだろ?」
「うん」
「だったら、練習しろ」
分かっている。分かっているけれど、怖いものは怖い。
それでも僕は、翌日もグローブを持ってグラウンドへ行った。
なぜなら、憧れの人がいたからだ。
長嶋茂雄。
テレビに映るその人は、僕にとって野球選手というより、野球そのものだった。
打席に立つ。走る。守る。
そして、失敗しても笑う。
僕はテレビの前で、何度も思った。
いつか僕も、あんなふうになりたい、と。



第二章 来なかった人
ある年の夏。
町の商工会が、子どもたちのために少年野球教室を開いてくれた。
ジャイアンツの選手が来る。それだけで町中が大騒ぎだった。
僕も朝からグローブを抱えて走った。
受付に貼られた紙を見た。
「読売巨人軍選手による少年野球教室」
胸が高鳴った。もしかしたら、長嶋さんが来る。
僕は本気でそう信じていた。
ところが、グラウンドに現れたのは別の選手だった。
もちろん素晴らしいプロ野球選手だった。守備を教えてくれた。バッティングも教えてくれた。
「ボールをよく見ろ」
一生懸命に耳を傾けた。
それでも、心のどこかでは待っていた。グラウンドの入り口を、何度も振り返った。
長嶋さんは、まだ来るかもしれない。
最後まで、来なかった。
帰り道、一人で土手に座った。夕方の空を見上げた。
悔しかった。
どうして来なかったんだろう。どうして会えないんだろう。
そして、子どもだった僕は、本気で考えた。
来ないなら、呼べばいい。



第三章 一通の手紙
ノートを破って、手紙を書いた。
一度書いて、破った。また書いて、破った。
字は下手だった。漢字も間違っていた。
それでも、一生懸命書いた。
長嶋さんへ。
僕は野球が好きです。
でも、ゴロが取れません。
長嶋さんみたいな野球選手になりたいです。
いつか会いたいです。
最後に、「お願いします」と書いた。
封筒の表には、「長嶋茂雄様」とだけ書いた。
ポストに入れた。
それから毎日、学校から帰ると真っ先にポストを覗いた。
もちろん、返事など来るはずがない。子ども心にも、それくらいは分かっていた。
それでも、諦められなかった。
ある日のことだった。母親が不思議そうな顔をして僕を呼んだ。
「あなた宛てに手紙が届いてるわよ」
飛んでいった。封筒を受け取る。差出人を見る。息が止まった。
そこには、何度もテレビで見た名前があった。
――長嶋茂雄。
本当に、返事が来たのだ。
震える手で封筒を開けた。そこには、野球を好きでいてほしいということ。頑張ってほしいということ。応援しているということ。
子どもだった僕には、それだけで十分だった。
僕はその手紙を、宝物にした。
会ったことはない。
それでも、その日からずっと、僕の心の中には「ミスター」という名の先生がいた。



第四章 六十年後
それから、六十年以上の月日が流れた。
僕はプロ野球選手にはならなかった。普通に働き、普通に恋をして、普通に歳を取り、普通に定年を迎えた。
野球は好きなままだった。けれど、いつの間にか「野球選手になりたい」とは思わなくなっていた。あの少年の夢は、いつか僕の中で静かにしまわれた。
ある日、机の整理をしていたら、引き出しの奥から一通の古い封筒を見つけた。あの手紙だった。
紙は黄ばみ、角は擦り切れていた。それでも、名前だけははっきりと残っていた。
僕は手紙を握った。
「長嶋さん……」
翌日、ミスターゆかりの地にある寺院を訪ねた。近くまで来たのだから、素通りすることはできなかった。
静かに手を合わせた。
「長嶋さん。ありがとうございました」
帰り際、本堂で御朱印をお願いした。若い住職と、昔の野球の話になった。
住職が言った。
「本当によくご存じですね」
少し照れながら笑った。
「ええ。ちょいと、昔にお世話になりましてね」
その瞬間だった。
本堂の柱時計が、カチッ、と音を立てた。
針が、一秒だけ逆回転した。
顔を上げた。時計は何事もなかったように動いている。気のせいかと思った。
その時、胸ポケットの中で何かが熱くなった。
取り出してみる。あの手紙だった。持ってきた覚えはなかった。



第五章 昭和のグラウンド
目を開けると、土と草の匂いがした。
蝉が鳴いている。
ミーン、ミーン、ミーン。
空は青かった。白い入道雲が浮かんでいる。
立ち上がる。身体が軽い。自分の手を見る。皺がない。腕を見る。細い。足を見る。短い。
「え……?」
口から出た声が、甲高かった。慌ててグラウンドの端にある水道へ走った。蛇口をひねり、顔を洗う。水溜まりに映った顔を見た。
そこにいたのは、六十年以上前の僕だった。小学生の僕だ。
「戻った……?」
尻もちをついた。何が起きたのか分からない。ただ、一つだけ分かった。ここは、僕が野球少年だった頃だ。しかも、あの少年野球教室が開かれる、数日前だった。



第六章 未来の少年
夢だ。きっと夢だ。そう思おうとした。
その時、足元にボールが転がってきた。
「おい! 取ってくれ!」
仲間の声。反射的にグローブを構える。ボールが近づいてくる。身体が固まる。
怖い。昔と同じだ。逃げたい。後ろへ下がりたい。
けれど、その瞬間、六十年後の自分の声が頭の中に響いた。
――何のために戻ってきた?
答えた。
――人生をやり直すため。
もう一つの声が、自分の中から返ってきた。
――違う。あの時、逃げた自分に、もう一度だけチャンスをやるためだ。
グローブを低く構えた。
ボールが来る。
怖い。
それでも、逃げなかった。
パシッ。
ボールが、グローブに収まった。
動けなかった。たった一球。それだけだった。なのに、涙が出た。
「取れた……」
もう一度、ボールが来た。
パシッ。
取れた。
三球目。
パシッ。
取れた。
笑った。
その日から、練習を始めた。朝。学校。放課後。日が暮れるまで。雨の日は、家の中で素振りをした。
未来の僕には、何十年分もの失敗の記憶がある。だから身体の使い方も知っていた。ボールを怖がる自分との付き合い方も、少しだけ分かっていた。
それでも、簡単には上手くならなかった。何度もエラーをした。監督にも怒鳴られた。そのたびに、グローブを握り直した。
ある日、監督が言った。
「お前、最近変わったな」
答えた。
「僕、野球選手になりたいんです」
監督は笑った。
「だったら、まずレギュラーになれ」
「はい!」
その日、僕は初めて自分から練習を終わらせなかった。



第七章 書き換わる未来
一つだけ、大きな問題があった。未来を知っていることだ。
誰が怪我をするか。どの試合で負けるか。誰が転校するか。そして、自分がプロ野球選手になれないことも。全部知っていた。
ところが、僕が練習を続けるほど、未来が少しずつ変わっていった。
ある日、昔の友達の怪我を防いだ。声をかけたことで、彼は危険な場所に行かなかった。
別の日には、本来負けるはずだった試合に勝った。そして、僕自身の成績も、未来の記憶とは違っていった。
怖くなった。未来を変えていいのだろうか。
その夜、胸ポケットから手紙を取り出した。文字が薄くなっている。一行、また一行。消えていく。
手紙を握った。
「長嶋さん」
声が震えた。
「僕、今度は逃げません」
文字が、また一つ消えた。
「もっと頑張ります」
その瞬間、最後に残った一行がぼんやりと光った。そして、その文字は消えた。



第八章 ミスター
運命の野球教室の日が来た。
グラウンドには、たくさんの子どもたちが並んでいた。僕も列の中にいた。あの日と同じ風景。ただ一つ違うのは、僕がもうグラウンドの入り口を見ていないことだった。目の前のボールだけを見ていた。
ノックが飛んでくる。
パシッ。捕る。投げる。
また飛んでくる。
パシッ。捕る。投げる。
その時だった。グラウンドの入り口が騒がしくなった。子どもたちが一斉に振り返る。黒い車が、ゆっくりと入ってくる。
誰かが叫んだ。
「長嶋さんだ!」
心臓が、大きく跳ねた。来るはずがない。僕の知っている過去では、来なかった。
車から降りた人物を見た。息を止めた。
長嶋茂雄さんだった。
ずっと会いたかった人。六十年以上、心の中で憧れ続けてきた人。
長嶋さんは、子どもたちを見回した。そして、僕を見た。ほんの一瞬だった。けれど、永遠のように感じられた。
「君、野球、好きかい?」
大声で答えた。
「はい!」
声が裏返った。
長嶋さんが笑った。
「そうか」
それだけだった。それだけなのに、泣きそうになった。



第九章 毎日やるんだ
野球教室が終わった。子どもたちが帰り始める。どうしても聞きたいことがあった。長嶋さんのところへ走った。
「長嶋さん!」
振り向いたミスターに聞いた。
「どうしたら、プロ野球選手になれますか?」
長嶋さんは少し考えた。そして笑った。
「なれるかどうかは、誰にも分からないよ」
黙った。長嶋さんは続けた。
「でも、なりたいなら、毎日やるんだ」
「毎日……」
「今日できなかったことを、明日できるようにするんだ」
頷いた。
「明日できなかったことを、その次の日にできるようにする」
また頷いた。
「それを、ずっと続けるんだ」
長嶋さんは、僕のグローブを見た。
「そうしたら、いつか野球が、君をどこかへ連れていってくれる」
胸に刻んだ。そして頭を下げた。
「ありがとうございました」
長嶋さんは笑った。
「頑張れよ」
それだけだった。でも、十分だった。



第十章 何度でも
中学生になった。レギュラーになった。けれど、何もかも順調だったわけではない。
試合でエラーをした。大事な場面で打てなかった。監督に怒鳴られた。チームが負けた。帰り道、一人で泣いた。
その夜、グローブを見つめた。昔なら、ここで辞めていたかもしれない。けれど、僕は知っていた。逃げた後に残る後悔を。
だから、翌朝もグラウンドへ行った。
高校では、最初の一年、ベンチにも入れなかった。僕より上手い選手はいくらでもいた。何度も才能がないと思った。それでも、練習した。
大学へ進んでも、状況は変わらなかった。レギュラーになったり、外れたり。怪我もした。もう一度、野球を辞めようと思った夜もあった。
その時、ふと思い出した。
「毎日やるんだ」
ミスターの声だった。
翌朝、グラウンドへ行った。
二十二歳の秋。プロ野球の入団テストを受けた。結果は、不合格だった。
帰りの電車で、窓の外を見ながら笑った。悔しかった。もちろん、悔しかった。でも、不思議と諦められなかった。
翌年、もう一度受けた。合格した。ドラフト外だった。華やかな入団ではなかった。二軍生活が続いた。一軍に呼ばれても、すぐに結果が出たわけではない。
それでも、毎日練習した。朝から何百球もノックを受けた。昔、怖くて逃げたゴロを、何千球、何万球と捕った。
そして、ある日。一軍昇格を告げられた。
しばらく何も言えなかった。そして、グローブを握った。
「やっとだ」



第十一章 もう一度の野球
満員のスタジアム。照明が昼間のようにグラウンドを照らしていた。歓声が地鳴りのように響く。
打席に立った。手が震えている。あの頃と同じだ。怖い。違う。今度は、怖くても逃げない。
投手が構える。バットを握り直した。
一球目。見送った。
二球目。ファウル。
三球目。ストレート。振った。
カキーン!
快音が響いた。打球は、外野へ飛んだ。走った。一塁を蹴る。二塁へ向かう。歓声が聞こえる。ベースの上で、空を見上げた。
青かった。あの日の空と同じだった。
心の中で、小さな自分に言った。
「やったぞ」
その夜、ホテルの部屋で鏡を見た。そして気づいた。顔が、少し変わっている。頬に皺がある。髪に白いものが混じっている。
鏡に手を当てた。
「始まったか」
時間が、僕を引き戻している。過去へ戻ってきた人間が、永遠に過去に住むことはできない。分かった。帰る時が来たのだ。



第十二章 白紙の手紙
机の上に、あの手紙が置いてあった。手に取った。文字を探した。しかし、何もない。真っ白だった。
しばらく黙っていた。そして、ようやく理解した。
僕が過去を変えた。だから、「長嶋さんから励ましの手紙をもらった少年」という過去そのものが、もう存在しない。手紙が消えたのではない。手紙を必要としていた少年の人生が、変わったのだ。
笑った。少し寂しかった。けれど、嬉しかった。
「長嶋さん」
白紙の手紙に向かって言った。
「もう、大丈夫です」
その瞬間、白紙の中央に一つだけ小さな文字が浮かんだ。
ありがとう。
目を疑った。次の瞬間、その文字も消えた。



第十三章 帰還
ゴーン……。
遠くで、寺の鐘が鳴った。目を閉じた。身体が、どこかへ引っ張られる。時間が、逆向きに流れていく。
グラウンド。少年たち。白いボール。照明。歓声。そして、ミスターの笑顔。
すべてが、一瞬で遠ざかっていった。
目を開けた。若い住職が、心配そうに僕を見ていた。
「大丈夫ですか?」
自分の手を見た。皺だらけの老人の手。元に戻っている。本堂も、何も変わっていない。
住職が言った。
「急に黙り込まれたので、少し心配しました」
笑った。
「すみません」
胸ポケットに手を入れた。紙が入っている。取り出した。真っ白な紙だった。
その紙を見つめた。本当に、何も書いていない。
夢だったのだろうか。そう思った時、本堂の柱時計がカチッ、と音を立てた。一秒だけ、針が逆へ動いた。そして、すぐに元へ戻った。
笑った。
夢ではない。確かに、あの夏へ戻った。そして一度だけ、野球選手になった。



第十四章 墓前
寺を出た僕は、もう一度、ミスターの墓前へ向かった。線香をあげ、手を合わせた。
「長嶋さん。ありがとうございました」
風が吹いた。木の葉が揺れた。続けた。
「おかげで僕、一度だけですが、本当にプロ野球選手になれました」
返事はない。もちろん、それでよかった。しばらく黙っていた。そして、小さく笑った。
「でもね。本当は分かってるんです」
胸に手を当てた。
「僕をもう一度グラウンドに立たせたのは、長嶋さんだけじゃない」
あの日、ゴロから逃げた少年。その少年が、もう一度ボールを捕った。一球だけ。たった一球。そこから始まった。
「だから、あいつにも、ありがとうって言いたいんです」
頭を下げた。
「よく逃げなかったな」



最終章 ミスター
山門を出ようとした時、若い住職が追いかけてきた。
「先ほどもお聞きしましたけど」
住職は笑った。
「本当に、長嶋さんと何か特別なご縁があったんですか?」
立ち止まった。そして、振り返った。少し考えてから、笑った。
「ええ」
住職が待っている。言った。
「ちょいと、昔にお世話になりましてね」
住職も笑った。寺を出た。青空だった。
遠くの河川敷から、子どもたちの声が聞こえる。
「行け!」「走れ!」「取れ!」
足を止めた。一人の小さな少年が、グローブを構えている。その前を、ボールが転がっていく。少年の身体が、ほんの少しだけ後ろへ動いた。
息を止めた。逃げるのか。
少年は、一度だけ迷った。そして、腰を落とした。グローブを地面につける。
パシッ。
ボールが収まった。少年は、嬉しそうに笑った。僕も笑った。
拍手をしようと思った。けれど、やめた。あれは、あの少年自身の一球だからだ。
人生は一度きり。誰もがそう言う。けれど、本当にそうなのだろうか。
時間は、一本の線ではないのかもしれない。下手くそだった少年も、夢を叶えた青年も、年老いた今の僕も、どこかで同じ空を見ている。
そして、あの日の僕が今日の僕を作ったように、今日の僕も、どこかの誰かの未来を作っているのかもしれない。
だから、もし誰かに「一番好きな野球人は?」と聞かれたら、僕はこれからも真っ先に答える。
長嶋茂雄。
そして、心の中で、もう一人の名前も呼ぶ。
あの頃の、ゴロが怖かった僕。
よく逃げなかったな。
よく、野球を好きなままでいてくれたな。
ありがとう。
遠い空の向こうから、乾いたバットの音が響いた。
カキーン――。
その音は、昔より少しだけ遠く、そして、なぜか、ずっと近くに聞こえた。

了



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あとがき
誰の心の中にも、「もしも、あの時に戻れたら」という時間が、一つくらいあるのではないでしょうか。
もっと勉強しておけばよかった。もっと頑張ればよかった。あの時、もう一度だけ挑戦していればよかった。
僕たちは大人になるにつれて、そうした「もしも」を、少しずつ人生の奥へしまっていきます。けれど、消えたわけではありません。
ふとした瞬間に、昔の匂いがしたり、昔の歌を聴いたり、古い写真を見つけたりすると、あの頃の自分が、突然こちらを振り返ることがあります。
本作の主人公にとって、それは野球でした。そして、長嶋茂雄という、少年にとってあまりにも大きな存在でした。
本作では、長嶋茂雄氏を実在の人物として登場させていますが、物語中の会話、手紙、出来事、時間旅行などは、すべて作品上の創作です。実際の出来事を描いたものではありません。
主人公が過去へ戻って手に入れたものは、野球選手になるという夢だけではありません。本当は、「もう一度、逃げない自分になる」ということでした。
ゴロが怖かった少年は、プロ野球選手になったから偉いのではありません。何度失敗しても、何度ベンチに入れなくても、一度プロテストに落ちても、それでも翌朝グラウンドへ行った。そのことが、彼の人生を変えました。
そして、この物語で一番大切にしたかったのが、最後に手紙が白紙になる場面です。長嶋さんから届いた一通の手紙は、少年にとって人生を支えてくれた宝物でした。けれど、過去を変えたことで、その手紙を必要としていた人生そのものが消えてしまう。少し寂しい結末です。しかし、同時に、とても幸せな結末でもあります。誰かに励ましてもらわなければ前へ進めない少年ではなくなったからです。
最後に残るのは、白紙だけ。でも、その白紙には、少年が自分自身で書き始めた、新しい人生がある。
もし読者の皆様にも、「あの頃、もう少し頑張っていたら」と思うことがあるなら、その時の自分を、少しだけ思い出してみてください。もしかすると、その少年や少女は、まだどこかであなたのことを待っているのかもしれません。
そして、もしもう一度だけ、あの頃へ戻れるとしたら。今度は、一球だけでもいい。逃げずに、グローブを出してみてください。
パシッ。
きっと、そこから何かが始まります。
本作を最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
昨日 立ち寄った墓前で
こんな夢を描きました。
野球を愛するすべての人へ。
そして、かつて少年だった、
すべての人へ。