8章「手を差し出して」
三月の第三週に入ると、金沢はようやく春の気配を見せ始めた。
雪はほとんど消えた。兼六園の梅が咲き始めた、という話を田中から聞いた。誠はまだ見ていなかったが、朝の空気に確かに何かが混じっていた。土の匂いのようなもの。冬の間ずっと眠っていた何かが、少しずつ目を覚ます匂い。
誠の引き継ぎは、ほぼ終わっていた。
田中は優秀だった。誠が渡したものを、丁寧に受け取り、自分なりに咀嚼して、すでに自分のものにしつつあった。「所長がいなくなっても、大丈夫です」と田中は笑いながら言った。冗談のようで、本気だった。誠はそれが少し誇らしかった。
取引先への挨拶は、まだ続いていた。
長く付き合いのあった取引先ほど、別れを惜しんでくれた。石川の代理店の社長が、「柏木さんは変わった」と言った。「最初の頃は、仕事はできるが近寄りがたい人という印象だったが、この一年で何か変わった気がする」と。誠は苦笑しながら、「そうかもしれません」と答えた。
変わった、とまた言われた。
田中にも言われた。取引先にも言われた。
変えたつもりはなかった。ただ、蛇口が少しずつ緩んできた。それだけのことが、外から見ると「変わった」に見えるらしかった。
あの夜以来、誠は喫茶ソラへ、ほぼ毎日行くようになった。
残り時間を意識していたからかもしれない。あるいは、言葉にしてしまったことで、格好をつける必要がなくなったからかもしれない。とにかく、誠は仕事を終えると、まっすぐ喫茶ソラへ向かった。
芽依との関係は、あの夜を境に変わった。
変わった、というのも正確ではないかもしれない。本質は変わらなかった。芽依は相変わらず丁寧にコーヒーを淹れ、誠は相変わらずカウンターの端に座った。沈黙は相変わらず心地よかった。
ただ、二人の間にあった宙ぶらりんな感じが、消えていた。
言葉にしたことで、何かが定まった。お互いの気持ちを知っている。現実も知っている。その上で、この時間を過ごしている。そういう透明さが、以前とは違った。
芽依は時々、誠の隣に来て、並んでカウンターに肘をついた。客が少ない夜は、そうすることが増えた。肩が触れるほどの距離ではなかったが、以前より近かった。その距離が、誠には温かかった。
「今日、兼六園の梅が満開だそうです」と芽依が言ったのは、ある夜のことだった。
「見に行きましたか」
「昼間、少しだけ」と芽依は言った。「白い梅と、ピンクの梅と。白い方が好きです」
「なぜ」
「派手じゃないから」と芽依は言った。「ひっそり咲いている感じが」
「あなたに似ていますね」と誠は言った。
芽依が少し、笑った。
「褒めているんですか」
「もちろんです」
「なら、ありがとうございます」
こういう会話が、今の二人にはあった。以前はなかった種類の会話。軽くて、温かくて、お互いの距離がわかっている人間同士の会話。
ある夜、芽依が誠に言った。
「一つ、お願いがあります」
「何ですか」
「金沢を去る前に」と芽依は言った。少し考えながら。「一度だけ、昼間に一緒に歩きませんか。この街を」
誠は少し驚いた。
「店は」
「定休日があるので」と芽依は言った。「月曜日は休みです。来週の月曜日に、時間がありますか」
来週の月曜日。誠が金沢を去る一週間前だった。
「あります」と誠はすぐに言った。
「よかった」と芽依は言った。「どこへ行きたいですか」
「あなたが決めてください」と誠は言った。「あなたの金沢を、見せてほしいので」
芽依は少し嬉しそうな顔をした。
「わかりました」と芽依は言った。「じゃあ、案内します」
月曜日の朝、誠が待ち合わせ場所へ行くと、芽依はもう来ていた。
犀川の橋のたもとで、コートを着て、川を見ていた。店のエプロン姿ではなく、普通の格好をした芽依を見るのは初めてだった。紺色のコートで、マフラーをしている。髪を下ろしていた。
誠が近づくと、芽依が振り返った。
「おはようございます」
「おはようございます」と誠は言った。「待たせましたか」
「いいえ、私が早く来すぎた」と芽依は言った。「川を見ていました。冬の川と、春の川は、色が違うので」
「どう違うんですか」
「春の方が、少し緑がかっている気がします。雪が溶けて、山から流れてくる水が増えるから」
誠は川を見た。
確かに、水量が増えていた。水の色が、深かった。
「行きましょうか」と芽依が言った。
その日、芽依は誠を、観光地ではない金沢へ連れて行った。
最初に行ったのは、芽依が子どもの頃に通っていた小学校の近くだった。今は廃校になって、建物だけが残っている。古い木造の校舎で、窓に板が打ち付けてあった。
「ここで育ったんですか」
「すぐそこに実家があって、毎日歩いて通っていました」と芽依は言った。「冬は雪で、ランドセルが重くて。でも、友達と雪合戦をしながら帰るのが好きだった」
誠はその景色を見ながら、芽依の子どもの頃を想像した。
「妹とも、一緒に通っていましたか」
「三年間だけ」と芽依は言った。「妹の方が三つ下なので。妹が入学してきたとき、すごく恥ずかしかったのを覚えています。小学生は、家族に対して恥ずかしがるじゃないですか」
「しましたね」と誠は笑った。「私も、母親が学校に来ると恥ずかしかった」
「どんなお母さんですか」
「明るい人です。大阪の人間なので、よくしゃべる」
「今も、連絡を取っていますか」
「月に一度くらい。もう少し増やしてもいいかもしれない、と最近思っています」
「なぜ最近」
「あなたが、お父さんともっと話せばよかったと言っていたので」と誠は言った。「思い出して」
芽依は少し驚いた顔をして、それから柔らかく笑った。
「それは、よかった」
次に芽依が連れて行ったのは、小さな神社だった。
観光地として知られているわけではなく、地元の人間が参る、古くて小さな社だった。石段が苔むしていて、境内に大きな木が一本立っていた。
「子どもの頃、ここで遊んでいたんですか」
「遊ぶというより」と芽依は言った。「父と来ていました。父が、ここが好きで。用事があるわけでもないのに、時々来ていた」
「お父さんは、信心深い人だったんですか」
「どうでしょう。信心というより、静かな場所が好きだったんだと思います。人が少なくて、木があって、時間がゆっくり流れているところ」
誠は境内を見渡した。
確かに、静かだった。街の中にあるのに、ここだけ時間が違う。木の葉が風に揺れる音と、遠くで鳥が鳴く声だけがある。
「父が亡くなってから、時々来ます」と芽依は言った。「話せなかったことを、ここで話すような気分で」
「何を話すんですか」
「色々と」と芽依は言った。少し笑いながら。「今日は、柏木さんのことを話していました。来る前に」
「私のことを」
「ええ」
「なんと」
「来月、金沢を去る人がいます、と」と芽依は言った。「その人のことが、好きです、と」
誠は、しばらく何も言えなかった。
神社の木が、風に揺れた。
「お父さんは、何と答えましたか」
「答えは返ってこないですよ」と芽依は笑った。「でも、風が少し吹いた気がしたので、聞こえたんじゃないかと思っています」
誠は境内の木を見た。
「よかった」と誠は言った。「ちゃんと話してくれて」
「柏木さんのことは、ちゃんと報告しておきたかったので」と芽依は言った。当然のことのように。
誠はその言い方が、好きだった。
昼は、芽依が予約していた店に行った。
近江町市場の近くの、小さな料理屋だった。カウンターだけの、十席もない店。店主が一人で切り盛りしていた。
「ここは、父に連れてきてもらった店です」と芽依は言った。「特別な日に、来ていた」
「今日は特別な日ですか」
「そうです」と芽依は言った。迷わず。
料理は、地のものを丁寧に使った献立だった。加賀野菜の炊き合わせ、香箱蟹の和え物、白海老の天ぷら。どれも派手さはないが、素材の良さが正直に出ていた。
誠は食べながら、これが金沢の味だと思った。三年間いて、こういう場所を知らなかった。観光地のレストランや、会社の接待で使う料理屋は知っていたが、こういう小さくて正直な店を、誠は一人では見つけられなかった。
「うまいですね」と誠は言った。「本当に」
「父も、ここのご飯が一番好きだと言っていました」と芽依は言った。「派手じゃないけど、正直な味だと」
「お父さんと言葉が似ていますね」
「似ているんですか、私と父」
「派手じゃないから好き、と言うあたりが」と誠は言った。「今朝の梅の話でも」
芽依が声を出して笑った。
「言われてみれば、そうかもしれない」
店主が二人の様子を見て、「ご夫婦ですか」と言った。
誠と芽依は、一瞬、顔を見合わせた。
「いいえ」と芽依が言った。
「友人です」と誠が言った。
二人の答えが重なった。
店主は「そうですか」と言って、次の料理を運んできた。
誠は芽依を見た。芽依も誠を見た。
二人とも、何も言わなかった。
だがその沈黙の中に、言葉にしなかった何かがあった。友人、と言った。それは嘘ではなかった。だが全部でもなかった。
芽依が少し、目を逸らした。
誠は、その横顔を見た。
午後、芽依は誠を海へ連れて行った。
金沢から車で三十分ほどの場所に、日本海に面した浜があった。芽依が運転した。誠は助手席に乗り、窓の外の景色を見た。
田んぼが広がって、山が遠くに見えて、やがて海が見えてきた。
「よく来るんですか」
「年に何度か」と芽依は言った。「行きたくなったとき」
「どんなときに行きたくなるんですか」
「気持ちが詰まったとき」と芽依は言った。「広いものを見ると、少し楽になるので」
浜に着くと、風が強かった。
三月の日本海は、まだ荒い。波が白く砕けて、浜に打ち寄せてくる。誠はコートの前を押さえながら、芽依と並んで浜に立った。
誰もいなかった。
ただ、海と、空と、二人だけだった。
「父の絵は、ここの海ですか」と誠は言った。
「近くの海です」と芽依は言った。「父が生まれた場所の近く。輪島の方の、もう少し小さな浜」
「いつか、見に行けますか」
芽依は少し驚いた顔をした。
「柏木さんが、ですか」
「いつか、という話です」と誠は言った。「来月のことではなく。いつか、また金沢へ来ることがあれば、連れて行ってほしい」
芽依はしばらく、海を見ていた。
波が打ち寄せては、返していった。
「連れて行きます」と芽依はやがて言った。「来てくれれば」
「来ます」
「約束ですか」
「約束です」と誠は言った。
芽依は海を見たまま、少し微笑んだ。
誠も海を見た。
灰色の空の下、日本海が広がっていた。波の音だけが、絶えずある。風が二人の間を吹き抜けた。
誠は、芽依の手が自分の手に近いことに気づいた。
コートのポケットから出した手が、芽依の手のそばにあった。数センチの距離だった。
誠はその距離を、しばらく感じていた。
それから、ゆっくりと、手を動かした。
芽依の手に、触れた。
芽依は動かなかった。
引かなかった。
誠はそっと、芽依の手を包んだ。
芽依の手は、冷たかった。風に当たっていたから。だが、誠の手の中で、少しずつ温かくなっていった。
二人は何も言わなかった。
海を見ていた。
波が来て、返して、また来た。
その繰り返しの中で、二人は並んで立っていた。
どのくらいそうしていたか、誠にはわからなかった。
時間が、違う速度で流れていた。
帰り道、芽依が運転しながら言った。
「今日、来てくれてよかった」
「私も」と誠は言った。「ありがとうございます。あなたの金沢を、見せてくれて」
「私の金沢、というほどのものじゃないですが」
「十分です」と誠は言った。「むしろ、こちらの方が本物だと思いました」
「本物」
「観光の金沢ではなくて」と誠は言った。「あなたが育って、生きてきた場所としての金沢。それを見せてもらえた気がします」
芽依はしばらく黙って運転した。
「柏木さんは」と芽依はやがて言った。「東京で、どんなふうに暮らしますか」
「どんなふうに、というのは」
「今まで通りに戻るんですか。仕事だけで、一人で」
誠は少し考えた。
「戻りたくないです」と誠は言った。「今まで通りには。でも、どうすればいいかは、まだわからない」
「少しずつでいいと思います」と芽依は言った。「今日みたいに、ちゃんと見ることができる人は、大丈夫です」
「ちゃんと見る、というのは」
「海とか、梅とか、川の色とか」と芽依は言った。「そういうものをちゃんと見られる人は、一人でいても、孤独じゃないと思うので」
誠はその言葉を、静かに受け取った。
孤独じゃない。
一人でも、孤独じゃない。
それは、芽依自身にも当てはまる言葉だと思った。父親を亡くして、恋人と別れて、一人で店を続けてきた女が、それを知っている。
「あなたは」と誠は言った。「孤独ですか」
「時々は」と芽依は言った。正直に。「でも、今日は違います」
「今日は」
「柏木さんがいるので」
誠は窓の外を見た。
夕暮れの田んぼが、オレンジ色に染まっていた。
金沢の街へ戻ってきたとき、空はもう夕暮れだった。
芽依が車を停めた。喫茶ソラの近くの、小さな駐車場だった。
二人は車を降りて、路地に立った。
「店を開ける時間です」と芽依は言った。「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ」と誠は言った。「本当に」
芽依がコートのボタンを直した。それから、誠を見た。
「来週も、来てくれますか」
「来ます。毎日」
「毎日は、大げさですよ」と芽依は笑った。
「大げさじゃないです」と誠は言った。「残り一週間しかないので」
芽依の笑顔が、少し変わった。
笑ったままだったが、目の奥に何かが浮かんだ。
「そうですね」と芽依は言った。「残り一週間」
二人の間に、短い沈黙があった。
誠は芽依を見た。夕暮れの光の中の芽依を。
今この瞬間を、覚えていようと思った。
この光の色を。この路地の空気を。この人の顔を。
「行きます」と芽依は言った。「店を開けないといけないので」
「はい」
「おやすみなさい。今夜は来ないでください。ゆっくり休んでください」
「わかりました」と誠は言った。
芽依が路地を歩き始めた。
数歩行って、振り返った。
「今日、楽しかったです」
「私もです」
芽依が笑った。それからまた歩き始めた。
喫茶ソラの引き戸を開けて、中に入った。
カランコロン、という鈴の音が、路地に小さく響いた。
誠は路地に一人、立っていた。
夕暮れの光の中で。
しばらく、そのまま立っていた。
何かが、胸の中に満ちていた。
何と名付ければいいかわからなかった。幸福、と呼ぶには少し重かった。感謝、と呼ぶには少し違った。ただ、満ちている、という感覚だった。
長い間、空っぽだったものが、少しずつ満たされていく感覚。
誠はコートのポケットに手を入れた。
さっき芽依の手を包んだ手が、まだ少し、温かかった気がした。
東京へ行く。
それは変わらない。
だが何かが変わった。何かが、変わった。
誠は歩き始めた。
マンションへ向かって。
三月の夕暮れの金沢を、一人で、しかし満ちた気持ちで歩いた。
9章「責任という名の愛」
金沢を去る一週間前から、誠の時間の流れ方が変わった。
同じ二十四時間のはずなのに、密度が違った。朝起きて、空の色を確かめる。通勤の道で、石畳の感触を意識する。営業所の窓から見える山の稜線を、これまでより長く眺める。三年間いて、見ていたようで見ていなかったものが、去ることが決まった途端に、急に鮮明になってくる。
人間とはそういうものだ、と誠は思った。
手放すとわかったとき、初めてその重さがわかる。
田中への引き継ぎは完了していた。取引先への挨拶も、ほぼ終わった。残っているのは、荷物の整理と、いくつかの事務手続きだけだった。仕事の上では、誠はすでに金沢を半分出ていた。
だが気持ちの上では、まだここにいた。
この街に、この路地に、あの小さな喫茶店に。
約束通り、誠は最後の一週間、毎日喫茶ソラへ行った。
芽依は「毎日は大げさですよ」と言っていたが、実際に毎日来る誠を、文句も言わずに迎えてくれた。
それぞれの夜は、それぞれの色を持っていた。
月曜日の夜は、客が少なくて、二人でずっと話した。誠の大阪の話。子どもの頃の話。父親とうまく話せなかった話。芽依は静かに聞いて、「電話してみてください、お父さんに」と言った。
火曜日の夜は、芽依が新しいお菓子を試作していて、誠が最初の客として食べた。レモンのケーキだった。少し酸っぱくて、しかし後味が爽やかだった。「どうですか」と芽依が聞いた。「春の味がします」と誠は答えた。芽依がメニューに加えることを決めた。
水曜日の夜は、珍しく誠が酒を持ち込んだ。能登の地酒を一本。芽依に許可を取ってから、二人でカウンターで少しずつ飲んだ。芽依は「お酒はあまり強くないです」と言いながら、二杯飲んだ。頬が少し赤くなった。誠はその顔を、ずっと見ていた。
木曜日の夜は、雨だった。雨の音を聞きながら、二人はほとんど何も話さなかった。ただ、同じ空間にいた。その沈黙が、誠にはこれまでで一番心地よかった。
金曜日の夜、誠は言った。
「明後日、出発します」
「日曜日ですね」と芽依は言った。
「はい」
「荷物は」
「業者に頼んで、先に送りました。残りは鞄一つです」
芽依はしばらく黙った。
「土曜日は、来ますか」
「来ます。最後に」
「わかりました」と芽依は言った。「土曜日は、早めに閉めます。あなたと、ちゃんと話したいので」
ちゃんと話したい、という言葉が、誠には重かった。
何を話すのか。
何を話すべきなのか。
誠にはまだ、答えがなかった。
土曜日の夜、誠は少し早めに喫茶ソラへ向かった。
最後の夜だった。
引き戸を開けると、店には客が二人いた。芽依が「少し待ってください」と目で言った。誠はカウンターに座り、コーヒーを飲みながら待った。
客が帰った。
芽依が「少し早いですが、閉めます」と言い、看板の明かりを消した。
店に二人だけになった。
芽依がカウンターの前に来て、誠の向かいに立った。
「最後の夜ですね」と芽依は言った。
「そうです」
「何か、飲みますか」
「コーヒーを」と誠は言った。「最後も、コーヒーで」
芽依が丁寧にコーヒーを淹れた。
誠はその様子を、目に焼き付けるように見ていた。豆を挽く動作。お湯を注ぐ動作。カップを置く動作。全部、見ていた。
コーヒーを受け取った。
一口飲んだ。
「うまい」と誠は言った。
「ありがとうございます」と芽依は言った。「三年間で、何百回言ってもらったかわからないですが、毎回嬉しいです」
「本当のことを言っているので」
「知っています」と芽依は言った。「だから嬉しい」
しばらく、二人は静かにいた。
誠がコーヒーを飲み、芽依がカウンターを拭き、雨の音が外で続いていた。金沢の最後の夜も、雨だった。最初の夜も雨だった。始まりと終わりが同じ天気であることを、誠は少し不思議に思った。
「聞いてもいいですか」と誠は言った。
「どうぞ」
「私が東京へ行った後のことを、どう考えていますか」
芽依は少し間を置いた。
「どう考えているか、というのは」
「私たちのことを」と誠は言った。「正直に、聞かせてください」
芽依はカウンタークロスを置いた。
誠を見た。
「正直に言います」と芽依は言った。「続けたいと思っています」
誠は息を止めた。
「続ける、というのは」
「連絡を取り合って」と芽依は言った。「会える時に会って。それが、どこへ向かうかは、まだわからないですが。ただ、終わりにしたくないと思っています」
「終わりにしたくない」
「はい」
誠はしばらく、芽依の顔を見ていた。
芽依は目を逸らさなかった。いつもより少し緊張した顔だったが、まっすぐに誠を見ていた。
「私も」と誠は言った。「同じです」
「よかった」と芽依は小さく言った。
「ただ」と誠は続けた。「一つ、正直に言わせてください」
「はい」
「私は」と誠は言った。「あなたに対して、誠実でいたいと思っています。連絡を取り合うとか、時々会うとか、そういう曖昧な関係ではなく。それがどういう形になるかは、これから考えていきたいですが、あなたのことを、ちゃんと大切にしたいと思っている」
芽依は黙って聞いていた。
「以前、妻を透明にした。それは私の失敗で、その失敗を、あなたに繰り返したくない。だから、中途半端にはしたくないんです」
「中途半端にしたくない」と芽依は繰り返した。
「はい」
芽依はしばらく考えた。
「それは」と芽依はやがて言った。「重い言葉ですね」
「重いですか」
「重い」と芽依は言った。「でも、嬉しいです。重くて、嬉しい」
「矛盾していますね」
「矛盾していません」と芽依は言った。静かに、しかしはっきりと。「大切にされるということは、重いことだと思うので。重くない大切にされ方は、たぶん本物じゃないから」
誠はその言葉を、静かに受け取った。
重くない大切にされ方は、本物じゃない。
芽依は、そういうことを知っている女だった。四年間の恋の終わりを、父親の死と同じ時期に経験した女が、それでもここに立って、重いけれど嬉しいと言っている。
誠はその強さを、あらためて感じた。
「一つ、私からも言っていいですか」と芽依は言った。
「もちろんです」
「柏木さんは」と芽依は言った。「自分のことを、人を透明にした男だと言いますが」
「はい」
「私は、そうは思っていません」
誠は少し驚いた。
「過去のことは、私にはわかりません」と芽依は続けた。「でも、今のあなたを見ていると、ちゃんと人を見ている人だと思います。私のことも、ちゃんと見てくれている。最初の夜から」
「最初の夜」
「最初に来てくれた夜、父の絵を見て、同じ手の絵だと言ってくれた」と芽依は言った。「あれを言ってくれた人は、初めてでした。ちゃんと見ていないと、そういうことは言えない」
誠は、あの夜のことを思い出した。
壁の水彩画を見て、「同じ手の絵に見えた」と言った。それだけのことが、芽依には残っていた。
「あなたも、ちゃんと見ていてくれたんですね」と誠は言った。
「ずっと」と芽依は言った。「来てくれる度に」
誠はその言葉を、静かに受け取った。
見ていた。お互いに、見ていた。
長い間、誰かにちゃんと見てもらえていないと思っていた。誰かをちゃんと見ることができていないと思っていた。だがここでは、見ていた。見てもらっていた。
それが、この場所の本当の意味だったのかもしれない。
十一時近くなった頃、誠は立ち上がった。
コートを着た。
「明日、何時に出発ですか」と芽依が聞いた。
「午前中に、金沢駅から新幹線で」
「見送りは」
「田中が来てくれると言っていますが、来なくていいと伝えました」
「私もですか」
誠は少し考えた。
「来てくれますか」
「来たいです」と芽依は言った。「来ていいですか」
「もちろんです」と誠は言った。「来てほしいです」
「では、来ます」
「ありがとうございます」
芽依がカウンターを出てきた。
誠の前に立った。
誠は芽依を見た。
「長い間、ありがとうございました」と誠は言った。「この店のことも、あなたのことも、金沢を好きにしてくれて」
芽依は少し、目が潤んだ。
泣くかと思った。だが芽依は泣かなかった。
「こちらこそ」と芽依は言った。「来てくれて、ありがとうございました」
誠は少し迷った。
それから、両腕を広げた。
芽依は一瞬、驚いた顔をした。
それから、誠の胸に、そっと寄り添った。
誠は芽依を、静かに抱いた。
強くではなく、壊れないように、しかし確かに。
芽依の肩が、誠の腕の中で少し震えた。
泣いているのかもしれなかった。誠にはわからなかった。ただ、震えていた。
誠も、何かがこみ上げてくる感じがした。目が熱くなった。四十七の男が泣くのかと思った。だが、こみ上げるものをこらえることが、今夜は格好つけることに思えた。
だから、こらえなかった。
二人は、しばらくそうしていた。
店の中は静かだった。
雨の音だけが、外で続いていた。
別れ際、芽依が言った。
「明日、ちゃんと会いましょう」
「はい」
「今夜は、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
誠は引き戸を開けた。
鈴がカランコロンと鳴った。
その音を、誠は最後まで聞いた。
マンションへ帰ると、部屋はがらんとしていた。
荷物はほとんど送ってしまった。ソファだけが残っていた。業者が引き取りに来るのは、翌日の出発前だった。
誠はそのソファに座った。
空っぽの部屋を見渡した。
三年間、一人で住んだ部屋だった。最初は何も感じなかった部屋が、今は少し惜しい気がした。この部屋の窓から、何度も雨を見た。雪を見た。この部屋で、何度も芽依のことを考えた。
誠はコートのポケットから、スマートフォンを取り出した。
父親の番号を探した。
芽依に言われたことを、思い出した。「電話してみてください、お父さんに」。
誠は少し迷った。
夜の十一時過ぎだった。父親はもう寝ているかもしれない。だが、かけてみようと思った。
呼び出し音が二回鳴って、父親が出た。
「誠か」
「ああ。起きていたか」
「ニュースを見ていた。どうした、こんな時間に」
「明日、金沢から東京へ戻る。それを言おうと思って」
「そうか」と父親は言った。「元気か」
「元気だ」
「金沢は、どうだった」
誠は少し考えた。
「よかった」と誠は言った。「来てよかったと思う」
「そうか」
「親父は、元気か」
「まあまあだ。膝が痛いが、それ以外は」
「一度、帰る。東京へ落ち着いたら」
父親が少し黙った。
「そうか」と父親はやがて言った。その声が、少し柔らかくなった気がした。「待っている」
「ああ」
「気をつけて帰ってこい」
「わかった」
電話を切った。
誠はスマートフォンを膝の上に置いて、しばらくそのままでいた。
父親の声が、思ったより温かかった。何年もまともに話していなかったのに、「待っている」と言った。
待っている。
その言葉が、誠には重かった。
芽依の父親は、もういない。芽依はもう「待っています」と言ってもらえない。その代わりに、神社の木が風に揺れる。
誠の父親は、まだいる。
そのことを、誠は今夜初めて、正面から感じた。
翌朝、誠は早く目が覚めた。
ソファで眠っていた。ベッドはもうなかった。
窓から空を見た。晴れていた。三月末の金沢に、珍しく晴れた朝が来ていた。
誠は最後の荷物をまとめた。鞄一つ。三年間の金沢が、鞄一つに収まっていた。
業者が来てソファを引き取った。部屋が完全に空になった。
誠は空っぽの部屋に一人で立って、窓の外を見た。
金沢の空が、青かった。
三年間、この窓から何度空を見たか。雨の日が多かった。雪の日もあった。だが今日は晴れていた。去る日に、晴れている。
誠はそれを、良い兆しだと思った。
金沢駅の改札前で、芽依は待っていた。
コートを着て、マフラーをして、手に小さな紙袋を持っていた。誠が近づくと、芽依が顔を上げた。
「おはようございます」
「おはようございます」と誠は言った。「来てくれた」
「来ると言いましたから」
「寒くなかったですか」
「少し」と芽依は言った。「でも、今日は晴れているので」
二人で改札の前に立った。
乗車時間まで、十五分ほどあった。
「これ」と芽依が紙袋を差し出した。「持っていってください」
誠は受け取った。中を見ると、レモンのケーキが入っていた。あの火曜日に試作した、春の味がするケーキ。
「作ってきてくれたんですか」
「今朝、早起きして」と芽依は言った。「電車の中で食べてください」
誠はしばらく、その袋を見ていた。
「ありがとうございます」
「お口に合えばいいですが」
「合います」と誠は言った。「必ず」
芽依が少し笑った。
駅のアナウンスが流れた。誠の乗る新幹線の案内だった。
「そろそろですね」と芽依は言った。
「そうですね」
二人は向かい合った。
誠は芽依を見た。晴れた朝の光の中の芽依を。
「連絡します」と誠は言った。「東京に着いたら」
「待っています」
「ゴールデンウィークに、来てもいいですか。金沢に」
芽依の顔が、少し明るくなった。
「来てください」と芽依は言った。「待っています」
「二度も待っていると言ってくれた」と誠は言った。
「二度分、待っています」と芽依は言った。
誠は小さく笑った。
「では」と誠は言った。
「では」と芽依も言った。
誠は鞄を持ち直した。紙袋を、大切に持った。
改札へ向かおうとして、止まった。
振り返った。
芽依がそこに立っていた。
誠は戻らなかった。戻れば、行けなくなる気がした。
ただ、芽依を見た。
芽依も、誠を見た。
その目が、何かを言っていた。言葉にしない何かを。
誠はそれを受け取った。
それから、改札を通った。
新幹線の座席に座ると、誠はしばらく動かなかった。
窓の外に、金沢駅のホームが見えた。
芽依はもういなかった。改札の外だった。見えない場所にいた。
だが誠には、確かにそこにいる気がした。
列車が動き出した。
ゆっくりと、金沢の街が流れ始めた。
誠は窓の外を見た。駅のビル、街の屋根、犀川の橋、遠くの山。三年間の景色が、後ろへ流れていった。
誠は紙袋を膝の上に置いた。
レモンのケーキ。今朝、芽依が早起きして作ったケーキ。
誠はそれを、すぐには開けなかった。
しばらく、ただ窓の外を見ていた。
金沢が遠ざかっていく。
惑星の軌道のように、遠ざかっていく。
だが今回は違う、と誠は思った。
戻ってくる。
必ず戻ってくる。
それは軌道ではなく、自分の意志だった。宇宙の法則ではなく、誠という人間が、そう決めた。
ゴールデンウィークに来ると言った。芽依は「待っています」と言った。
それだけで十分だった。今は。
金沢を出て一時間ほどして、誠はケーキを開けた。
レモンのケーキは、朝の光の中でも、変わらず爽やかな香りがした。
一口食べた。
酸っぱくて、甘くて、後味が清々しかった。
春の味がした。
誠は窓の外を見た。
景色はもう、北陸の田んぼから、少しずつ変わっていた。山が変わり、空が変わり、光の角度が変わっていた。
東京へ向かっていた。
新しい場所へ。
誠はケーキをもう一口食べながら、考えた。
東京での生活を、どう変えるか。
仕事だけにならないように。感情の蛇口を締めないように。誰かを透明にしないように。芽依との時間を、ちゃんと作るように。父親に、もっと連絡するように。
やるべきことが、以前より具体的に見えていた。
それは全部、自分への約束だった。
誰かに求められた約束ではなく、自分が自分に、静かに誓う約束。
誠はそれを、責任と呼んでいいと思った。
芽依への責任。自分自身への責任。そして、これから先に待つかもしれない何かへの責任。
重い。
だが、重いから本物だ。
芽依が言っていた。重くない大切にされ方は、本物じゃないと。
それは大切にすることも、同じだと誠は思った。
重くない愛し方は、本物じゃない。
東京駅に着いたのは、昼過ぎだった。
ホームに降り立つと、人の多さに少し圧倒された。三年ぶりの東京の空気。騒がしくて、速くて、誰もが自分の目的地へと向かっている。
誠はしばらく、ホームに立ったまま、その流れを見ていた。
以前の自分なら、この流れにすぐ合流していた。だが今日は、少し立ち止まった。
スマートフォンを取り出した。
芽依にメッセージを送った。
「着きました。ケーキ、食べました。春の味がしました」
しばらくして、返信が来た。
「よかったです。東京、寒くないですか」
誠は少し笑った。
「大丈夫です。金沢より、少し暖かいかもしれない」
「そうですか」と返ってきた。それから少し間を置いて、「ゴールデンウィーク、待っています」と。
誠はその文字を、しばらく見ていた。
待っています。
その三文字が、東京駅のホームで、誠の足元をしっかりと地に着かせた。
根、と誠は思った。
金沢に根がある。
芽依がいる場所に、誠の根の一部がある。
根が二つある人間は、どちらかが揺れても倒れない。
誠はスマートフォンをポケットに入れた。
鞄を持ち直した。
東京の雑踏の中へ、歩き出した。
以前と同じ足取りではなかった。
確かに、以前とは違う足取りで、誠は歩き始めた。
10章「悠々として急げ」
東京は、速かった。
金沢にいた三年間で、誠はそのことを忘れていた。人の歩く速度、電車の本数、街の音の密度。すべてが金沢より速く、多く、大きかった。最初の一週間は、その速度に少し酔った。金沢の時間の流れ方に慣れた身体が、東京のリズムを異物のように感じた。
だが二週間が過ぎると、少しずつ慣れてきた。
本社の営業企画部は、誠にとって新しい環境だった。フィールドではなく、戦略を立てる部署。数字を作る側ではなく、数字の作り方を考える側。仕事の質が変わった。誠は最初の週、会議で自分が最も経験を持っていることに気づいた。北陸で積み上げた三年間が、この場所では武器になった。
部下が新しくなった。
三十代の若い社員が多かった。田中ほど気が利く者はいなかったが、それぞれ能力があった。誠は以前のように距離を置かなかった。意識してそうしたわけではなく、自然にそうなった。金沢で蛇口が緩んだまま、東京へ来た。
「柏木部長は、話しやすいですね」と若い部下の一人が言った。
「そうか」と誠は言った。
「なんか、怖い人かと思っていたので」と部下は言い、「すみません」と慌てて付け加えた。
「正直に言ってくれてありがとう」と誠は言った。「怖くないように努力する」
部下が笑った。
誠も少し、笑った。
芽依とは、毎日連絡を取った。
メッセージのやり取りが、朝と夜に必ずあった。たわいもない話が多かった。今日の天気、今日の店のお菓子、今日の仕事で面白かったこと。誠は金沢の天気を聞くたびに、あの空を思い出した。鉛色の冬の空を、春に近づきつつあった三月の空を。
週に一度、電話で話した。
芽依の声を聞くと、喫茶ソラの空気が蘇った。コーヒーの匂い。古い木のカウンター。キャンドルの光。雨の音。
「今日のお菓子は何ですか」と誠はある夜、電話で聞いた。
「苺のタルト」と芽依は言った。「今日、市場で良い苺が入ったので」
「いいですね」
「こっちで食べてほしかったです」
「ゴールデンウィークに食べます」
「苺の季節が終わるかもしれません」
「ではまた別のものを作ってください」
「作ります」と芽依は言った。「待っていてください」
こういう会話が、誠には大切だった。
内容は何でもなかった。苺のタルトの話、それだけだ。だが誠はその会話の中に、二人の距離が確かに縮まっていることを感じた。物理的な距離は変わらない。金沢と東京、三百キロ以上ある。だが言葉の距離は、毎日少しずつ縮まっていた。
四月のある夜、誠は父親に電話した。
金沢から戻ってきてすぐ、一度かけていた。その時は短い会話だった。今夜は少し、長く話した。
父親の声が、電話越しでも温かかった。
「金沢は、良かったか」と父親は聞いた。
「良かった」と誠は言った。「人に恵まれた」
「そうか」
「連絡が少なかった。申し訳なかった」
「仕事が忙しかったんだろう」
「それだけではなかったが」と誠は言った。「これから、もう少し連絡する」
父親がしばらく黙った。
「待っている」と父親は言った。
その言葉が、また誠の胸に落ちた。
待っている。
父親も、芽依も、待っていると言う。
誠はこれまで、誰かを待たせることを考えなかった。誰かが待っているという事実を、受け取ることができなかった。だが今は、その重さが、ちゃんとわかった。
待っている、という言葉の中にある、その人の時間を感じた。
「ゴールデンウィークに、帰る」と誠は言った。「大阪へ」
「そうか」と父親は言った。声が少し、明るくなった。「母さんが喜ぶ」
「親父も、喜べ」
父親が笑った。電話越しでも、わかった。
誠も笑った。
四月の終わり、誠は新しい手帳を買った。
これまでは手帳をスケジュール管理にしか使っていなかった。会議の予定、出張の日程、締め切り。機能としての手帳だった。
だが新しい手帳には、スケジュール以外のことも書いた。
今日見えたもの。今日感じたこと。今日誰かと話して、大切だと思ったこと。
小説家になりたかった頃の、書く習慣を、少しだけ取り戻した。
うまくはなかった。文章として整っていなかった。だが書くと、何かが整理された。
芽依が言っていた言葉を思い出した。書くことで自分のことが整理される、と。
あの時、誠は「今さらですよ」と言った。
今さらではなかった。
四月のある夜、誠は手帳にこう書いた。
「金沢で、本物のコーヒーを飲んだ。本物の沈黙を知った。本物の話をした。本物の感情を、人に渡した。これがどこへ向かうかは、まだわからない。ただ、向かっている場所がある。それで十分だ」
書いてから、少し恥ずかしかった。
だが消さなかった。
ゴールデンウィーク、誠はまず大阪へ帰った。
実家のドアを開けると、母親が玄関まで出てきた。
「誠、痩せた?」と母親は言った。
「痩せていない」
「なんか、顔が変わった気がする」
「また変わったと言われた」
「良い方に変わった」と母親は言った。「なんか、柔らかくなった」
父親はリビングにいた。テレビを見ていた。誠が入ると、テレビを消した。
「帰ったか」
「帰った」
「飯を食え」
それだけだった。
だがその「飯を食え」の中に、長い時間が詰まっていた。電話で「待っている」と言った父親の、その待ち方が、この三文字に凝縮されていた。
誠は実家の食卓で、母親の作った料理を食べた。
久しぶりの家の味だった。
うまかった。
飾りのない、正直な味だった。
喫茶ソラのコーヒーに似ていると、誠は思った。正直なものは、どこかで通じている。
大阪に二日いて、誠は金沢へ向かった。
新幹線が金沢駅に着くと、誠は少し早足になっていることに気づいた。
改札を抜けた。
芽依はいなかった。
今日は待ち合わせはしていなかった。誠が夕方に着いて、店へ直接行く、という話になっていた。
誠はそのまま、タクシーで喫茶ソラへ向かった。
路地の角を曲がると、喫茶ソラの明かりが見えた。
引き戸の向こうで、温かい光が揺れている。
誠は立ち止まった。
最初の夜のことを思い出した。雨の中、この明かりを見つけて、入ろうかどうか迷った夜のことを。あの夜の自分に、今の自分が何を言えるか。
迷うな、と言うだろう。
急げ、と言うだろう。
誠は引き戸に手をかけた。
カランコロン、と鈴が鳴った。
芽依がカウンターの奥にいた。
誠が入ってきた音で顔を上げた。
一瞬、動きが止まった。
それから、「いらっしゃいませ」と言った。
いつもと同じ言葉だった。だがその声が、少し違った。あるいは、誠の耳が変わったのかもしれない。
「来ました」と誠は言った。
「来てくれた」と芽依は言った。「本当に」
「約束しましたから」
「約束する人は多いですが、来る人は少ないので」と芽依は言った。少し笑いながら。
「私は来ます」
「知っています」と芽依は言った。「だから、待っていられた」
その夜、店には何人かの客が来た。
誠はカウンターの端で、コーヒーを飲みながら、芽依が客を迎える様子を見ていた。
変わっていなかった。
動きの無駄のなさ、接客の丁寧さ、客が帰るときの「またどうぞ」の言葉。全部、変わっていなかった。
変わっていないことが、誠には嬉しかった。
変わらずここにいる。変わらずこの場所を守っている。
誠が変わろうとしている間、芽依はここで変わらずいてくれた。それが、誠にとってどれほどの支えだったか。
客が帰り、店が静かになった。
芽依がカウンターに来た。
「瘦せましたか」と芽依は言った。
「大阪の実家でもそう言われた」と誠は笑った。
「東京、大変でしたか」
「大変でした。でも、大丈夫でした」
「大丈夫だった理由は」
「連絡をくれていたので」と誠は言った。「毎日、金沢の天気を教えてくれていたので」
芽依が少し、照れたような顔をした。
「そんな理由ですか」
「十分な理由です」と誠は言った。
「お菓子の話しかしていなかったですが」
「お菓子の話が、十分でした」
芽依はしばらく、誠を見ていた。
「コーヒー、もう一杯淹れます」
「ありがとうございます」
閉店後、二人はカウンターで並んで座った。
芽依が自分のコーヒーも淹れて、誠の隣に来た。
誠はしばらく、その隣にいることの温かさを感じていた。
「少し、真剣な話をしてもいいですか」と誠は言った。
「どうぞ」
「私は」と誠は言った。「あなたとの関係を、ちゃんとしたものにしていきたいと思っています」
芽依はコーヒーカップを持ったまま、誠を見た。
「ちゃんとした、というのは」
「曖昧なままでいたくないということです」と誠は言った。「遠距離だということは知っています。すぐに同じ場所にいられるわけではないことも。でも、向かっている場所を、二人でちゃんと持っていたい」
芽依は少し考えた。
「向かっている場所、というのは」
「一緒にいること」と誠は言った。「いつかは。それを目指して、今できることをしていきたい」
芽依はしばらく黙っていた。
カウンターの木目を、見ているような、見ていないような目で。
誠は待った。
急かさなかった。
これまでの自分なら、沈黙を埋めようとして、言い訳のような言葉を重ねていた。だが今夜は、待てた。芽依の時間を、芽依のペースを、信頼して待てた。
「私も」と芽依はやがて言った。「同じことを、考えていました」
「同じことを」
「曖昧なままでいたくないと」と芽依は言った。「ただ、言い出すのが怖くて」
「なぜ怖かったんですか」
「重すぎると思われるかもしれなくて」と芽依は言った。少し苦笑しながら。「まだそんなに会っていないのに、一緒にいることを目指すなんて、重すぎると」
「重い方がいいと言ったのは、あなたですよ」と誠は言った。
芽依が笑った。
「言いましたね、そんなことを」
「重くない愛し方は、本物じゃないとも言いましたよ」
「言いすぎましたね、私」
「正しいことを言ったと思います」と誠は言った。「私は、あなたの言葉に、何度も助けられた。あなたが言ったことが、ずっと頭の中にあって、それが支えになっていた」
芽依は少し、目が潤んだ。
今夜も、泣かなかった。だが、目の奥が揺れた。
「柏木さん」と芽依は言った。
「はい」
「一つ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「名前で、呼んでもらえますか」と芽依は言った。「柏木さんではなくて」
誠は少し、面食らった。
「誠、と」
「はい」と芽依は言った。少し恥ずかしそうに。「私も、芽依で」
誠はしばらく、その言葉を受け取っていた。
名前で呼ぶ。それだけのことが、二人の間の何かを変える。距離を縮める。壁を一枚、取り除く。
「芽依」と誠は言った。
芽依が、少し顔を赤くした。
「はい」
「これからも、よろしくお願いします」
芽依はしばらく、誠を見ていた。
それから、「よろしくお願いします」と言った。「誠さん」
その言葉が、静かな店の中に、柔らかく響いた。
ゴールデンウィークの間、誠は金沢に三泊した。
二日目、芽依は約束通り、誠を輪島の近くの浜へ連れて行った。
父親の水彩画に描かれていた海だった。
能登の海は、日本海の荒さと、どこか穏やかな入り江の静けさが混じっていた。岩場があり、砂浜があり、水が透き通っていた。
芽依は浜に立って、海を見た。
誠もその隣に立った。
「父は、ここで何を考えていたんでしょうね」と芽依は言った。
「この景色を描きながら」
「きっと、色々と考えていたと思います。店のこと、家族のこと、自分の人生のこと」
「あなたのことも」
「そう思いたいです」と芽依は言った。「思っていてくれたと」
誠は海を見た。
波が、ゆっくりと打ち寄せていた。金沢の浜とは少し違う波の音がした。より深い、より遠くから来る波の音だった。
「ここへ来られてよかった」と誠は言った。
「連れてきてよかったです」と芽依は言った。
二人は並んで、しばらく海を見ていた。
今日は風が穏やかだった。
誠は芽依の手を取った。
今日は、浜辺の風に当たって冷たくなっていたわけでもなかった。誠の手も冷たくなかった。それでも、手を取りたかった。
芽依は引かなかった。
今日は、指を絡めてきた。
誠はその感触を、静かに感じた。
海が光っていた。
春の能登の海が、二人の前で光っていた。
三日目の夜、閉店後の喫茶ソラで、誠は芽依に言った。
「東京へ帰ったら、また来ます」
「いつですか」
「夏に。それから秋に。冬にも来ます」
芽依が笑った。
「毎シーズン来るんですか」
「来ます」と誠は言った。「金沢の四季を、全部見たことがないので。あなたと一緒に」
「桜は、もう少し遅ければ見られたんですが」
「来年、見ます」
「来年」と芽依は繰り返した。来年という言葉を確かめるように。
「来年も、再来年も」と誠は言った。「来ます。来られる限り」
芽依はしばらく、カウンターの木目を見ていた。
「ねえ」と芽依は言った。珍しく、ねえ、という呼びかけで始めた。
「はい」
「こういう関係が、続いていく先に、何があるんでしょう」
誠は少し考えた。
「わからないです」と誠は正直に言った。「今はまだ。でも」
「でも」
「向かっている気はします」と誠は言った。「二人が同じ場所にいる未来へ、向かっている気が」
「その未来というのは」
「結婚、と言ってしまえば重すぎますか」
芽依はしばらく黙った。
カウンターの向こうで、静かに息をしていた。
「重くないです」と芽依はやがて言った。「さっき、重い方が本物だと言ったばかりなので」
「あなたが言ったことですよ、それは」
「知っています」と芽依は言った。少し笑いながら。「だから、重くないです」
誠はその答えを、静かに受け取った。
まだ何も決まっていない。明日が決まったわけでも、来年が決まったわけでもない。だが向かっている場所が、二人の間で共有された。それは小さなことではなかった。
人生の方角が、一致した。
それがどれほどのことか。
翌朝、誠は金沢を発った。
芽依は駅まで来てくれた。
改札の前で、向かい合った。
「また来ます」と誠は言った。
「待っています」と芽依は言った。
「夏に」
「夏に」と芽依は繰り返した。「海へ行きましょう。夏の能登は、また違う顔をしているので」
「楽しみです」
「私も」
誠は芽依を見た。
春の朝の光の中の芽依を。
桜が少し遅かったが、駅の近くの木に、薄いピンクの花が残っていた。その花びらが、風に一枚、芽依の肩に落ちた。
芽依は気づかなかった。
誠は手を伸ばして、その花びらを、そっと取った。
芽依が少し驚いた顔をした。
「桜が」と誠は言った。「落ちていたので」
芽依が誠の手の中の花びらを見た。
「来年は、ちゃんと桜の時期に来てください」と芽依は言った。
「来ます」
「約束ですか」
「約束です」と誠は言った。「悠々として急げ、で来ます」
芽依がその言葉を聞いて、少し首を傾けた。
「悠々として、急げ」
「焦らず、しかし一瞬も無駄にせず」と誠は言った。「そういうことだと、私は思っています」
「素敵な言葉ですね」と芽依は言った。「どこで知ったんですか」
「長い時間をかけて、自分で辿り着いた言葉です」と誠は言った。
芽依が微笑んだ。
誠も笑った。
「では」と誠は言った。
「では」
誠は改札へ向かった。
振り返らなかった。
今日は振り返らなかった。
振り返らなくても、芽依がそこにいることがわかっていたから。
新幹線の中で、誠は手帳を開いた。
窓の外に、金沢が遠ざかっていく。山が流れる。川が流れる。田んぼが流れる。
誠はペンを取り、書いた。
「悠々として急げ。本物が見えたなら、迷わず手を差し出せ。掴め。手繰り寄せよ。それは二度と同じ場所へは戻らないかもしれないから。でも今日、私は振り返らずに改札を通った。振り返らなくても、あそこに芽依がいることを知っているから。それが変わったということだ。根が、二つになったということだ」
書いてから、少し読み返した。
うまくはなかった。
だが、本当のことだった。
誠はペンを置いて、窓の外を見た。
北陸の春の景色が、流れていた。
遠ざかっていく金沢を見ながら、誠は思った。
遠ざかることは、終わりではない。
軌道は回る。惑星は戻ってくる。だが今の誠が持っているのは、惑星の軌道ではなく、自分の意志だった。
夏に来る。
秋に来る。
冬に来る。
来年の桜の時期に来る。
その度ごとに、芽依がいる。喫茶ソラがある。あのコーヒーがある。カランコロンという鈴の音がある。
それで十分だった。
今は。
そして、今が積み重なって、やがてはもっと近くなる。
誠はそれを、確信していた。根拠のある確信として。
窓の外で、山が遠くなった。
空が広くなった。
東京へ向かう空が、晴れていた。
エピローグ「春の金沢」
翌年の四月、金沢は桜の季節を迎えていた。
兼六園の桜が満開だという話を、芽依からメッセージで受け取ったのは、三日前だった。写真が一枚、添付されていた。白い空を背景に、薄いピンクの花が重なっている。芽依が撮った写真だった。構図が良かった。派手さはなかったが、正直な美しさがあった。
誠はその写真を、しばらく眺めた。
それから、「行きます」と返信した。
「待っています」と芽依は返してきた。
金沢駅に着いたのは、金曜日の夕方だった。
改札を抜けると、芽依がいた。
コートではなく、春物のジャケットを着ていた。マフラーもなかった。髪を下ろしていた。春の芽依は、冬の芽依とは少し違って見えた。同じ人間なのに、季節が変わると、また新しい顔がある。
「来てくれた」と芽依は言った。
「約束しましたから」と誠は言った。「桜の時期に、と」
「覚えていてくれた」
「忘れるわけがないです」
芽依が笑った。
春の明るさの中で、その笑顔が、誠にはいつもより鮮やかに見えた。
その夜、喫茶ソラで誠はコーヒーを飲んだ。
いつもの席に座った。カウンターの端。最初の夜から変わらない席。
店は変わっていなかった。古い木のカウンター、壁の水彩画、小さな観葉植物。全部、変わらずそこにあった。
ただ一つだけ、変わっていた。
カウンターの隅に、小さな写真立てが増えていた。
誠と芽依が、能登の浜で並んで撮った写真だった。夏に来たとき、芽依が撮ってくれた。二人とも海を見ていて、カメラを見ていない。風で芽依の髪が少し乱れている。誠は少し目を細めている。
「飾ってくれているんですか」と誠は言った。
「いいですか」と芽依は少し照れながら言った。
「もちろんです」
「お客さんに、誰ですかって聞かれたら、友人ですって言っています」
「友人」
「まだそう言っています」と芽依は言った。「でも、近いうちに、別の言い方ができるといいなと思っています」
誠はコーヒーカップを置いた。
「別の言い方、というのは」
「それは」と芽依は言った。「誠さんが決めてください」
誠はしばらく、芽依を見た。
「決めてもいいですか」
「決めてください」
「今夜、ここで」
「はい」と芽依は言った。静かに、しかし真剣に。「ここで」
その夜、閉店後に、誠は芽依に言った。
カウンターで並んで、二人のコーヒーが湯気を立てている中で。
「結婚してください」
言ってから、少し笑ってしまった。
四十七の、いや今は四十八になっていた。四十八の男が、喫茶店のカウンターで、プロポーズをしている。場所も、状況も、少しも洒落ていなかった。
だが、正直だった。
ここで言うのが、正しいと思った。
最初に会った場所で。最初にコーヒーを飲んだカウンターで。最初の夜と同じ鈴の音が聞こえる場所で。
芽依はしばらく、動かなかった。
コーヒーカップを両手で包んだまま、下を向いていた。
誠は待った。
急かさなかった。
悠々として、待った。
「はい」と芽依はやがて言った。
顔を上げた。
目が少し赤かった。今夜は、少し泣いていた。
「はい」ともう一度言った。「喜んで」
誠はその言葉を聞いて、何も言えなかった。
言葉が、出てこなかった。
ただ、芽依の手を取った。
カウンターの上で、両手で包んだ。
温かかった。
いつも、温かかった。
翌朝、二人は兼六園へ行った。
桜の下を、並んで歩いた。
観光客が多かったが、二人にはあまり関係なかった。ただ、桜の下を歩いていた。
白い花びらが、時折風に舞った。
芽依が空を見上げた。
「きれい」と言った。
「きれいですね」と誠も言った。
「父も、毎年ここへ来ていたそうです」と芽依は言った。「母から聞きました。一人で、よく来ていたと」
「今日、見ていますよ」と誠は言った。
「そうですね」と芽依は言った。「見ていると思います」
花びらが一枚、芽依の肩に落ちた。
誠は今日は取らなかった。
そのままにしておいた。
芽依の肩にある桜が、風に揺れた。
誠はそれを見ながら、歩き続けた。
昼過ぎ、喫茶ソラへ戻ると、芽依が開店の準備を始めた。
誠はカウンターの端に座って、その様子を見ていた。
いつもと同じ動きだった。
変わらずここにいる女の、変わらない動き。それが誠には、何より美しかった。
「手伝いましょうか」と誠は言った。
「じゃあ」と芽依は言った。「あの黒板、今日のメニューを書いてください」
「書いたことがないですが」
「見ていればわかります」と芽依は言った。チョークを渡しながら。「今日のお菓子は、桜のロールケーキです」
誠は黒板の前に立った。
チョークを持って、書いた。
「本日のお菓子:桜のロールケーキ」
書いてから、芽依に見せた。
芽依が笑った。
「字が大きすぎます」
「すみません」
「でも、いいです。今日はそれで」
誠も笑った。
店の引き戸が、外から開いた。
カランコロン、と鈴が鳴った。
最初の客が来た。
芽依が「いらっしゃいませ」と言った。
誠はカウンターの端の席へ戻った。
いつもの席。最初の夜から変わらない席。
コーヒーを一口飲んだ。
壁の水彩画が、春の光の中で、いつもより鮮やかに見えた。能登の海を描いた六枚の絵が、それぞれの季節の光を持っていた。嵐の前の海、夕暮れの海、朝の海。その隣に、カウンターの隅の小さな写真立てがあった。夏の浜辺で、二人が海を見ている写真。
誠はそれをしばらく見ていた。
去年の夏の写真だった。
来年の夏には、また別の写真が撮れるだろう。
その次の夏にも。
誠はコーヒーを飲みながら、そんなことを考えた。
取り立てて大きなことではなかった。
ただ、来年も夏が来る。その夏に、二人でまた海へ行く。それだけのことが、誠にはずっしりと、しかし温かく感じられた。
そういうことが、人生だ、と誠は思った。
大きな決断だけが人生ではない。
春の桜の下を歩くことも、黒板に字を書くことも、カウンターでコーヒーを飲むことも、全部が人生だ。
そのどれもを、ちゃんと受け取ること。
ちゃんと見ること。
それが、変わったということだ。
夕方、誠は東京へ帰る前に、神社へ寄った。
一人で、芽依には言わずに。
石段を上って、古い木の前に立った。
芽依の父親が、よく来ていた場所だった。
誠はしばらく、木を見ていた。
何を言おうか、考えた。
それから、考えるのをやめた。
「お嬢さんを、ください」
そう言った。声に出して。
誰も聞いていなかった。
風が、少し吹いた。
木の葉が、揺れた。
誠はそれを、返事だと思うことにした。
頭を下げて、石段を降りた。
金沢駅で、芽依と向かい合った。
「また来ます」と誠は言った。
「待っています」と芽依は言った。
「夏に」
「夏に」
「それまでに」と誠は言った。「色々と、考えておきます。場所のこととか、時期のこととか」
「私も考えます」と芽依は言った。「この店のこととか」
「急がなくていいです」と誠は言った。「ただ」
「ただ」
「急ぎすぎなくても、いけないので」
芽依が笑った。
「悠々として急げ、ですか」
「そうです」
「わかりました」と芽依は言った。「悠々として、急ぎます」
誠はその答えが、好きだった。
「では」
「では」
誠は改札へ向かった。
今日も、振り返らなかった。
振り返らなくても、芽依がそこにいることを知っていたから。
芽依の「またね」という声が、後ろから聞こえた。
誠は手を少し上げて、応えた。
振り返らずに、歩いた。
新幹線が動き出すと、誠は窓の外を見た。
金沢が遠ざかっていく。
桜の季節の金沢が、春の光の中で遠ざかっていく。
誠は手帳を開いた。
白いページに、ペンを走らせた。
「悠々として急げ。本物が見えたなら、迷わず手を差し出せ。掴め。手繰り寄せよ。それは二度と同じ場所には戻らないかもしれないから。でも今日、私には戻る場所がある。戻る場所があるということは、帰れるということだ。帰れるということは、根があるということだ。根が、ある。ここに」
書いて、ペンを置いた。
窓の外を見た。
山が流れる。川が流れる。春の北陸の景色が、後ろへ流れていく。
遠ざかっていく。
だが今は、遠ざかることが怖くなかった。
遠ざかることは、戻ることの始まりだ。
惑星は軌道を回る。だが誠の軌道は、もう宇宙の法則ではなく、自分の意志が決める軌道だった。
夏に来る。
秋に来る。
冬に来る。
そして来年の春も、桜の下を、芽依と歩く。
今度は、妻と。
誠はその言葉を、頭の中で静かに繰り返した。
妻。
芽依が、妻になる。
その事実が、温かく、重く、確かに、誠の胸の中にあった。
重い方が、本物だ。
そう言ったのは、芽依だった。
そう信じているのは、今は誠も、同じだった。
新幹線は速度を上げた。
東京へ向かって。
新しい季節へ向かって。
誠は目を閉じた。
瞼の裏に、桜の花びらが見えた。
芽依の肩に落ちた、一枚の花びら。
そのままにしておいた、あの花びら。
風に揺れていた、あの花びら。
それが今も、誠の中で、静かに揺れていた。
完
ーあとがきー
この物語を書きながら、私は何度も「人はどこで立ち止まるのか」を考えました。
人生の軌道は、いつも自分で選んでいるようで、実際には環境や役割や過去の傷に左右されてしまう。気づけば、望んだ場所とは少し違うところに立っていることもある。
しかし、軌道がずれてしまったとしても、そこからまた歩き直すことはできる。
そのきっかけは、大きな出来事ではなく、ほんの小さな出会いや、静かな時間の中に潜んでいるのではないか。
そんな思いが、この作品の根底に流れています。
金沢という街の湿度、雨の匂い、古い木のカウンター、静かに笑う人の目元。
そうした細部が、主人公の心を少しずつ溶かしていく。
読者の皆さまにも、その空気を感じていただけたなら、これ以上の喜びはありません。
最後まで読んでくださり、心から感謝いたします。
ー紹介文ー
四十七歳、独身。仕事一筋で感情を閉ざして生きてきた男・柏木誠。
赴任先の金沢で偶然見つけた小さな喫茶店「ソラ」。
そこで出会った店主・芽依との静かな会話が、止まっていた彼の心の針をわずかに動かし始める。
雨の匂い、丁寧に淹れられたコーヒー、満ちた静けさ。
大きな事件は何も起きない。
それでも人生は、静かに変わっていく。
“軌道の外側”で再び息を吹き返す、大人のための再生の物語。