老いた素人が

生意気にも

ちょいと文字を書き始めまして


それでも

その文字と格闘しながら

一語一句を選び

並べてみるわけです


特に目的はなく

ただただ

残りの持ち時間の中で

何かを残して置きたいと…


それは

下手な落書きとなり

また

アメブロでの

独り言でもあり…


ただし

人生1冊くらいは

書物を残したいとも思う中


まさか

出版社が出してくれるはずはなく

また

自費出版なんて持ち出してまではと

思っていたら

AmazonのKindleなるものが

無料で勝手に残せること知り


慣れないパソコンを

人差し指で

ひとつづつ文字を追い掛け

紡いでいるわけです


話のネタは

ここへと22年間

書き込んだものがあり

そこから選んで膨らましてみれば


きっと同世代ならば

分かってくれるだろうと

思う話となったわけです


まだまだ

力不足ですが

あれこれ試してみようかと

文字をいじり

文体をもいじり

自己満足な中で良い趣味が増えたようです


宜しかったら

覗いてみて下さい


ただし

苦情は一切 受け付けません

あしからず…    笑


Kindle




ダイヤルを回す夜に
〜電話と恋愛との風景〜



ー原詩ー

電話と恋愛との風景


僕らの頃はさ

彼女へと電話するにも

そこへと辿り着くまでに

沢山の障害があったよね

 

自宅へと

毎度

ドキドキしながら回した電話

そう

ダイヤルだったよね

 

だからさ

今よりも

確かに情緒があったとゆうか

ピッポッパッ の今と違って

そこまでの時間が長く

また

その時間内での葛藤もあったよね

 

ベルが鳴り出すと

これまたドキドキしてさ

大抵

まずは

お袋さんが出てね

 

でも

もしも

親父さんだったもんにゃ

電話のこっち側では

直立不動になっちまったもんだよね

 

それを避けたいが為に

何時何分に電話するから

電話の前で待ってて!! なんてこともしたよね


カミさんが寮にいたときなんて

まず

こっちから繋がることはなかったよな

 

夜ともなれば

1本の寮の電話を

としごろの娘たちが

10分ごとのルールの中で

奪い合ってたもんな

 

そう

カミさんにも

この僕にも

そんな 

としごろ って言えた時期があったんだよな

 

それでも

何度かチャレンジしてさ

偶然 繋がったもんにゃ

大抵

寮のオバサンが出るんだよな

 

そこから

お願いして

カミさんを呼んで貰うまでには

最短でも2分は待ったよな

 

それが今はなによ?

それぞれが持つスマホで

いつ何時でも

ダイレクトコール

 

おまけに

メールも

動画も

TV電話すらも

無料だなんて…

 

時代は変わったよな

おまけに

それによって

多くの運命も変わっちまった

 

そんな今の時代の方が

良いに決まってるわけだけれども


あの

ちょっとしたことで

苦労してた頃の方が

時間も

言葉も

相手をも

もっともっと大事に気遣ってたよな

 

そう

もっともっと

重く

厚い

そんな恋愛だったよな

 

いつの間にか

昭和は遠くなっちまったけれど


もしかすると

僕らの時代は

今よりも良かったのかもね

 

なあ

ご同輩…

 





ーダイヤルを回す前にー

 村上ケンジが娘のスマートフォンを初めてじっくり見たのは、ある秋の夜のことだった。
 居間のソファで娘の亜美が画面に向かってにやにやしているのを横目に見ながら、ケンジは缶ビールを一口飲んだ。
「誰と話してるんだ」
「彼氏」
 それだけ言って、亜美はケンジの存在を完全に無視した。画面の中では、大学生らしい男の子が何か話していた。声も顔も、茶の間で丸見えだ。
 ケンジは何か言おうとして、やめた。
 ビールをもう一口飲んで、テレビのリモコンをいじった。でも画面には何も入ってこなかった。頭の中が、別のところへ行っていた。
 三十年前の、あの夜のことを考えていた。
 あれは大学二年の秋だった。
 橘サオリという女性と知り合ったのは、友人の紹介だった。合コンとも言えないような、ただ友人が「飲みに行こう」と言って連れてきた女性の一人がサオリだった。
 最初に話したのは、映画の話だったと思う。何の映画だったかは覚えていない。ただ、サオリが笑ったとき、その笑い方が妙に記憶に残った。声を出さずに肩が揺れる、あの笑い方が。
 連絡先を交換した。
 当時の「連絡先」というのは、電話番号だった。サオリが小さな手帳を取り出して、ページの端に自分の実家の電話番号を書いてくれた。
 七桁の数字。
 ケンジはその数字を、別の手帳に書き写した。そして家に帰ってから、もう一度確認した。もし間違えていたら、永遠に繋がれないからだ。
 正しかった。
 ケンジはしばらく、その七桁を眺めていた。
 電話しよう、と思った。思ったが、できなかった。
 一日目は「もう遅い」という理由で。二日目は「まだ早い」という理由で。三日目は「何を話すか決まっていない」という理由で。
 四日目の夜、ケンジはついに受話器を手に取った。
 ダイヤル式の電話だった。
 一を回す。九を回す。ゆっくりと戻るダイヤルを待ちながら、心臓が口から出そうになっていた。
 残りの五桁を回し終えたとき、発信音が聞こえた。
 ケンジは受話器を握りしめて、目をつぶった。


ー親父さんが出たー

 コール音が三回鳴ったところで、電話が繋がった。
「はい、橘でございます」
 男の声だった。
 ケンジは一瞬、思考が止まった。
 男の声。橘。つまり——親父さんだ。
 全身に冷や汗が流れた。電話口のこちら側で、ケンジは知らず知らずのうちに姿勢を正していた。背筋が伸び、踵が揃い、受話器を持つ手が微妙に震えた。
「あ、あの……突然のお電話で大変失礼いたします。わたくし、サオリさんとお知り合いの村上と申しますが……」
 自分でも驚くほど丁寧な言葉が出てきた。普段は「っす」とか「じゃないすか」しか言わない口から、どこに仕舞ってあったかもわからない敬語が溢れ出した。
「村上くん?」
「はい」
「サオリの友人かね」
「はい、先日ご縁がありまして、お知り合いになりまして……」
「そうか」
 短い沈黙があった。ケンジには三時間に感じられた。
「少し待ちなさい」
「はい、失礼いたします」
 受話器の向こうで、「サオリー、電話だー」という声が聞こえた。遠い。家の奥から呼んでいる声だ。ケンジはその間、受話器を両手で持ったまま直立不動で立っていた。
 待った。
 三十秒か、一分か、もしかしたら二分か。体感では十分だった。
「もしもし?」
 サオリの声だった。
 ケンジは緊張が一気にほどけて、「あ、村上です」と言った。声が少し裏返った。
「ごめんね、お父さんが出ちゃって」
「いや、大丈夫です。ちゃんとご挨拶できました」
「緊張したでしょ」
「……しました」
 サオリがくすっと笑った。声を出さずに肩が揺れる、あの笑い方が、電話越しでも伝わってきた。
 それからしばらく、ケンジはサオリの実家に電話をかけ続けた。
 確率的に言えば、お袋さんが出ることのほうが多かった。お袋さんは愛想がよく、「あら村上くん、いつもサオリと仲良くしてくれてありがとうね」などと言ってくれた。ケンジにとってはそれも十分緊張したが、親父さんに比べれば天国だった。
 問題は親父さんだった。
 親父さんは悪い人ではなかった。ただ、声が低く、話し方が簡潔で、余計なことを一切言わなかった。「少し待ちなさい」と「そうか」と「わかった」だけで会話が成立する人だった。
 ケンジは親父さんが出るたびに直立不動になった。電話のこちら側で、誰にも見られていないのに、ケンジは背筋を伸ばして受話器を持った。
「親父さん、また出た?」サオリが後で笑いながら聞いた。
「出た。三回連続で出た」
「ごめんね。あの人、夜は大抵居間にいるから」
「お父さん、怖い人じゃないんだけど……でも緊張するんだよ」
「わかる。私も最初は自分のお父さんなのに緊張してたから」
「それはちょっと違う気がするけど」
 二人で笑った。
 その笑い声の温かさを、ケンジは今でも覚えている。
 親父さん対策として、ケンジはある作戦を思いついた。
 電話する時間帯を変えることだ。
 観察の結果、親父さんが電話の近くにいるのは夜の七時から九時の間が多いとわかった。その時間を避けて、夜の九時半以降にかけるようにした。
 成功率が上がった。
 しかしある夜、九時四十五分にかけたにも関わらず、親父さんが出た。
「はい、橘でございます」
 直立不動。
 後でサオリに聞いたら、その日は親父さんが珍しく夜更かしをしていたらしい。
「運が悪かったね」とサオリは笑った。
「運の問題じゃないよ、これは」
 でも笑えた。笑えることが、ケンジには嬉しかった。


ー寮の電話ー

 サオリが実家を出て学生寮に移ったと聞いたとき、ケンジは一瞬喜んだ。
 親父さん問題が解消される、と思ったからだ。
 しかしすぐに、新たな現実を知ることになった。
「寮の電話ってね」とサオリが言った。「一本しかないの」
「一本?」
「建物全体で、廊下に一台だけ。みんなそれを使うの」
 ケンジは絶句した。
「何人いるんだ、寮に」
「四十人くらい」
「四十人で一台?」
「そう。だから夜はすごい争奪戦なの。一人十分ルールがあって、十分経ったら次の人に交替しなきゃいけない」
 ケンジは電話機を眺めた。普通の家庭の、普通の電話機。
 四十人の女の子が、これ一台を取り合っている。
「……かけてもいいのか?」
「いいけど、繋がらないと思う」
「なんで」
「夜は大抵誰かが使ってるから」
 サオリの言う通りだった。
 ケンジが寮の番号にかけると、ほとんどの場合、話し中の音が続いた。
 ツーツーツー。
 この音を、ケンジは何百回聞いただろう。
 諦めて十分後にかけ直す。また話し中。二十分後にかける。また話し中。三十分後。やっと呼び出し音が鳴った、と思ったら、知らないおばさんの声が出た。
「はい、山桜寮です」
 寮母さんだった。
「あの、橘サオリさんをお願いしたいんですが」
「少しお待ちください」
 受話器を置く音がした。それからしばらく、何も聞こえない。遠くで足音がして、「橘さーん、お電話ですよー」という声が聞こえた。また足音。また沈黙。
 ケンジは時計を見た。
 一分経った。
 また時計を見た。
 一分半経った。
 二分経ったころ、走ってくる足音が聞こえた。
「もしもし!?ごめん、待った?」
「待った。でも嬉しい」
「何それ」サオリが笑った。
 その二分間の沈黙が、ケンジには宝物のように思えた。繋がるまでの時間が長ければ長いほど、声が聞こえたときの喜びが大きかった。
 寮の十分ルールは厳格だった。
 話し始めて十分が経つと、廊下の向こうから「次の人いますよ」という声が聞こえてくることがあった。そうなるとサオリは「ごめん、そろそろ」と言って電話を切らなければならない。
「また明日かけるよ」
「うん。明日の夜九時ごろ、空いてるかな」
「空いてるように頑張る」
 頑張る、というのが面白かった。電話に出るために頑張る。受話器の前に待機するために、夕食を急いで食べて、お風呂を早めに済ませる。
 その努力の積み重ねが、二人の関係を作っていた。
 便利じゃなかった。効率的でもなかった。でも一本の電話が繋がるたびに、ケンジは「サオリと話せた」という確かな手応えを感じた。
 画面の向こうに常にいる誰かではなく、ようやく繋がれた誰か。
 その違いが、当時はわからなかった。今はわかる。


ー何時何分に待っててー

 ある日、サオリが提案した。
「ねえ、時間を決めよう」
「時間?」
「そう。毎週水曜日の夜、九時ちょうどに電話して。そしたら私、その時間に電話の前にいるから」
 ケンジは少し考えた。
「でも寮の電話、一台しかないだろ。他の人が使ってたら?」
「早めに場所取りしておく」
「そんなことできるのか?」
「女の寮はね、暗黙のルールがあるの。誰かが電話の前に立ってたら、その人が予約してるってわかるから、みんな少し待ってくれる」
「なるほど」
「だから九時ちょうどにかけて。九時一分でも遅い」
「わかった」
 水曜日の夜、九時ちょうど。
 ケンジはその時刻を、カレンダーに丸で囲んだ。
 毎週水曜日。九時ちょうど。
 水曜日が近づくと、ケンジはそわそわし始めた。仕事のアルバイトも、水曜日だけは必ず九時前に切り上げた。友人に「飲みに行こう」と誘われても「水曜は無理」と断った。
 理由を聞かれると「約束がある」とだけ答えた。
 その約束の相手は、週に一度、電話口でしか話せない女性だった。
 水曜日の夜九時、ケンジはダイヤルを回した。
 寮の番号は、もう暗記していた。
 コール音が一回鳴った。
 二回目が鳴り終わる前に、繋がった。
「もしもし!」
 サオリの声だった。
「出るの早いな」ケンジは思わず笑った。
「待ってたんだもん。ちゃんと九時ちょうどだった?」
「ちょうどだった。十五秒前からダイヤル回してたから」
「几帳面」
「几帳面じゃなくて、緊張してたんだよ」
 サオリがまた笑った。肩の揺れる笑い方が、電話越しでも目に浮かんだ。
 十分という制限の中で、二人は話した。
 大したことは話さなかった。今週あったこと、食べたもの、読んだ本、見たテレビ。それだけのことだった。でも十分が経つころ、ケンジはいつも「もっと話したい」と思った。
「そろそろ」
「うん。来週の水曜も?」
「もちろん」
「九時ちょうどに」
「九時ちょうどに」
 電話が切れた。
 ケンジは受話器を置いてから、しばらくそのまま立っていた。
 次の水曜日まで、七日ある。
 七日間、待つ。
 その七日間が、ケンジには愛おしかった。
 ある水曜日、サオリから電話がかかってきた。
 九時三分だった。
「ごめん、私からかけた」
「どうした?」
「今日ね、ちょっと嫌なことがあって。早く声が聞きたかった」
 ケンジは受話器を持ったまま、何も言えなかった。
 嫌なことがあって、早く声が聞きたかった。
 その一言が、ケンジの胸に真っすぐ刺さった。
「何があったんだ」
「大したことじゃないんだけど……」
「大したことなくていいから、話して」
 サオリが話した。ケンジは聞いた。十分のルールを気にしながら、でも気にしすぎないように、ただ聞いた。
 電話を切る前に、サオリが言った。
「ありがとう。声聞けてよかった」
 ケンジは「俺もだよ」と答えた。
 それ以上の言葉は必要なかった。


ーピッポッパッの時代ー

 居間に戻ると、娘の亜美はまだスマートフォンで話していた。
 さっきと同じ体勢で、画面の中の彼氏と笑い合っている。
 ケンジは冷蔵庫から新しい缶ビールを取り出して、またソファに座った。
 娘の電話を盗み見るつもりはないが、自然に目に入る。画面の中に彼氏の顔があって、声があって、表情があって、それが茶の間にそのまま流れ込んでいる。
 便利なものだ、とケンジは思った。
 いつでも繋がれる。どこにいても繋がれる。顔を見ながら話せる。文字を送れる。写真を送れる。動画を送れる。料金はほとんどかからない。
 自分たちの頃と比べたら、夢のような話だ。
 あの頃のケンジが今の時代を見たら、どう思うだろう。ダイヤルを回すたびにドキドキして、親父さんが出るたびに直立不動になって、寮の一台の電話のために七日間待って——そのすべての苦労が、今は一切必要ない。
 良いことだ。
 間違いなく良いことだ。
 でも。
 ケンジは妻のサオリが台所にいることに気づいた。
 夕食の片付けをしているらしく、食器の音がしていた。
 ケンジは立ち上がって、台所に向かった。
「亜美、まだ電話してるな」
「そう」サオリは食器を拭きながら答えた。「最近、長いのよ」
「彼氏、顔見たか? 茶の間で丸見えだぞ」
「見た。悪い子じゃなさそうだった」
「お前はいつも冷静だな」
 サオリが少し笑った。肩の揺れる、あの笑い方だった。三十年経っても変わっていない。
「何か思い出してたでしょ」サオリが言った。
「え?」
「さっきからぼーっとしてたじゃない。亜美の電話見ながら」
「……まあ、ちょっと」
「昔のこと?」
「うん」
 サオリが食器を置いて、振り返った。
「ダイヤルの時代?」
「ダイヤルの時代」
 二人は顔を見合わせた。
 スマートフォンが普及したのは、亜美が小学生の頃だったろうか。
 あっという間に世界が変わった。ポケベルがあって、PHSがあって、携帯電話がきて、そしてスマートフォンになった。ピッポッパッと番号を押す時代を経て、今は画面を一回タップするだけで繋がる。
 ケンジは今でも時々思う。
 あの「繋がるまでの時間」が、二人の間に何かを作ったのではないか、と。
 ダイヤルを回す時間。コール音を聞く時間。親父さんと話す時間。話し中の音を聞きながら待つ時間。寮母さんに取り次いでもらう二分間。水曜日の夜、九時ちょうどを待つ七日間。
 その時間のすべてが、サオリのことを考える時間だった。
 今なら一秒で繋がれる。繋がれるから、考えなくても繋がれる。
 それは便利だ。でも、考える時間がなくなった分、何かが変わった気もする。
「ねえ」とケンジは言った。「俺、昔お前の親父さんが出るたびに直立不動になってたの、覚えてるか?」
 サオリが吹き出した。
「覚えてる! お父さん、後で私に言ってたんだから。『あの村上くん、ちゃんとした子だな』って」
「本当か?」
「本当。直立不動で話すから、声のトーンが真面目すぎるって笑ってた」
「笑ってたのか、あの人」
「笑ってたよ。あなたのこと、気に入ってたの。ちゃんと礼儀があるって」
 ケンジは少し呆気にとられた。あれほど緊張させられた親父さんが、気に入っていた。
 人生とは、わからないものだ。


ーそれでも重く、厚いー

「ねえ、覚えてる?」サオリが言った。「私が寮に入って、電話が一台しかないって言ったとき、あなたどんな顔したか」
「絶句した」
「そう、絶句してた。電話口で黙り込んで」
「だって四十人で一台って、どう考えても無理じゃないか」
「無理だったけど、なんとかなったじゃない」
「なんとかなった」
 ケンジは缶ビールを一口飲んだ。台所に立ったまま、サオリが腕を組んで少し遠くを見ていた。
「あのね」とサオリは言った。「私、あの頃のこと、すごく大事に思ってるの。不便だったけど」
「うん」
「水曜日の九時に電話の前で待ってるとき、なんか……ちゃんと待ってる、って感じがして。誰かを待つって、ああいうことなんだなって思ってた」
「俺も同じこと思ってた。かける前にすごく考えるんだよ。何を話しようかって。で、考えて、考えて、電話して、いざ声が聞こえたら全部忘れて、でもそれで全然よかった」
 サオリが笑った。
「忘れてたの?」
「忘れてた。でも声が聞こえた瞬間に、全部どうでもよくなった」
「それは私も同じ」
 居間から亜美の笑い声が聞こえた。
 屈託のない、明るい笑い声だった。
 ケンジとサオリは顔を見合わせた。
「亜美の彼氏、どんな子なんだろうな」ケンジは言った。
「今時の子よ。スマートフォンで当たり前にテレビ電話して、LINEで当たり前にメッセージして」
「そっちのほうが合理的だよな」
「合理的ね」
「でも……」
「でも?」
 ケンジは少し間を置いた。
「あの子たちは、誰かを待つっていう時間を、あんまり経験しないのかもしれないな、と思って」
 サオリは何も言わなかった。でも少し頷いた。
「不便だったから、待った。待ったから、相手のことを考えた。考えたから、言葉を選んだ。言葉を選んだから、ちゃんと伝わった」
「そうね」
「今の子たちが不幸だとは思わない。でも俺たちが経験したものは、不便の中にしかなかったものだったと思う」
 サオリがケンジの隣に来て、並んで台所に立った。
「ねえ」とサオリが言った。「あなた、初めて電話してきたとき、何日待ったか覚えてる?」
「四日」
「四日間、かけられなかったの?」
「何を話すか決まらなくて」
「何を話したかったの?」
「……正直に言うと、特に何も。ただ声が聞きたかっただけ」
 サオリがまた笑った。肩の揺れる笑い方で。
「四日間待って、声が聞きたかっただけ」
「そう」
「それで十分だったじゃない」
「十分だった」
 居間の亜美の電話が終わったらしく、笑い声が止んだ。
 しばらくして「おやすみ」と言いながら亜美が廊下を通り過ぎた。
「おやすみ」とケンジとサオリは声を揃えた。
 亜美の部屋のドアが閉まった。
 台所に、静かな時間が戻った。
「お茶でも飲む?」サオリが聞いた。
「飲む」
 やかんを火にかけながら、サオリが言った。
「また今度、昔みたいに電話してよ」
「今はすぐ繋がるぞ」
「それでもいいじゃない。繋がってから、ちゃんと話せば」
 ケンジは笑った。
「じゃあ、水曜日の夜、九時ちょうどに」
「待ってる」
 お湯が沸き始める音がした。
 窓の外の秋の夜が、静かに更けていった。
 昭和は遠くなった。ダイヤルは消えた。寮の一台の電話も、もうどこにもない。
 でも、あの頃に積み上げた言葉と時間と、待つことで生まれた何かは、今もここにある。
 重く、厚く、確かに。
                      ――了――



ーあとがきに代えてー

 この物語は、まさにあの頃の僕です。ダイヤル電話の時代、寮の一台の電話、親父さんの低い声、水曜日の九時ちょうど。不便だったからこそ、言葉も時間も相手も大切にした——そんな恋愛の風景を書きました。
 ご同輩の皆さんへ。あの頃の重く厚い恋愛を、今も大切に持っていてください。


ここアメブロも

22年にもなり

当初からバカバカしい話を

好き勝手に書き込んでは

バッサリ消して来た


するとそれらは

膨大な資料として

古いパソコンにだけ残り

30代から今までの

僕の変わり具合をも

明確に残してくれた


それらを

懐かしみながら

今頃掘り出しては

こうして物語風に直し

週に10冊ほど

Kindleへと載せている


それが30冊にもなったけれども

膨大なKindleの数ゆえ

まだまだ

埋もれたまま…


もしも

お願い出来るのならば

ペンネーム

カトウかづひさ で検索し

覗いて欲しい


カトウをカタカナにし

かづひさをひらがなにしたのは

SFもあらば

歴史もあらば

恋愛もあらば

ドタバタも…    なんて

何でも屋にしたかったからで


今まだ力不足ゆえ

長編には至らないが

短編〜中編はさらりと

読んで頂けると思う


きっとそこには

世代を越えて共感して頂ける

物語があると思う


キンドル


ありがとう



本能寺は変!
〜夢で天下、取ってみた〜

争いに良いことは、ひとっつもないのに……

一、ぱふのいない朝
 目が覚めると、六畳間に朝の光がやわらかく差し込んでいた。
 蒼井宙(あおい・そら)は、四十八歳。京都市左京区の古いマンションに一人で暮らしている。出版社を早期退職してから三年が経ち、今は小さな文筆業と、京都の歴史を歩き回ることを生きがいとしていた。
 枕元の時計は午前八時を示していた。
 いつもと同じ時間だ。二十時に床につき、深夜零時頃に一度目が覚め、そのまままた眠って午前四時まで。そこから浅い眠りを重ねて八時——それがここ数年の宙のリズムだった。
 だが、今朝は何かが違った。
 布団の中で目を開けたまま、宙はしばらく天井を見つめた。夢を見ていた。鮮烈な、まるで現実のような夢を。煙と炎と、馬の嘶きと、男たちの怒号と。
 夢の内容を思い出そうとすると、するりと逃げていく。砂が指の間からこぼれるように。
 宙はゆっくりと上体を起こし、足元に目をやった。
 そこには何もなかった。
 かつて、小さな白い毛玉がそこにいた。ぱふ、という名の柴犬の雑種で、体重は三・八キロ。毛足が長く、丸まって眠ると本当に毛糸のぽんぽんのように見えた。だから「ぱふ」。それが宙のつけた名前だった。
 ぱふが逝ったのは、半年前の十月だった。
 十六年間、一緒に生きた。朝の五時半になると必ず宙の顔を舐めて起こしに来た。散歩は一日に二回、鴨川の土手を三十分ずつ。宙の原稿が行き詰まると、机の脚元に来て丸まった。ご飯の時間になると台所でくるくると回った。
 その全部が、今はない。
 宙は立ち上がり、台所でお湯を沸かした。インスタントコーヒーを一杯。窓の外、細い路地に朝の光が落ちている。どこかで鳥が鳴いた。
 かつては、この時間はもう散歩から帰ってきていた頃だった。ぱふのリードを玄関に掛け、泥足を拭いてやり、水を飲ませてから自分もコーヒーを飲む——そういう朝だった。
 今は、散歩に出ない。
 出られない、というわけではない。足も体も動く。ただ、ぱふのいない鴨川の土手を歩く気になれなかった。あそこには、ぱふとの記憶が染み込みすぎている。
 コーヒーカップを両手で包んで、宙は窓の外を眺めた。
 朝からたっぷりの時間が、ただそこにある。
 ふと、さっきの夢が帰ってきた。
 燃えている。赤い。煙。男の声——「殿、お逃げください!」
 宙は急いでノートを引き出しから取り出した。夢日記をつけるようになったのも、ぱふが逝ってからのことだった。眠れない夜が続いた頃、何かに書き留めることで気持ちを落ち着かせようとしたのがきっかけだった。今では毎朝の習慣になっている。
 ペンを走らせた。
 「今朝の夢——京都。寺。燃えている。本能寺か。信長か。自分は誰かの家臣で、影武者に……」
 書いているうちに、記憶がほどけるように戻ってきた。
 そうだ。あれは本能寺だった。
 宙はペンを置き、ぼんやりと考えた。本能寺。天正十年、六月二日。明智光秀の謀反。本能寺の変。歴史上、最も劇的な夜のひとつ。信長は包囲され、炎の中に消えた。遺体は見つからなかった。
 宙は本能寺が好きだった。
 好きというのは、変な言い方かもしれない。あそこは、人が死んだ場所だ。しかも大勢。それを「好き」と言うのは不謹慎とも取られかねない。だが、歴史の磁場というものが確かにあって、本能寺跡にはそれが濃厚に漂っていると宙は感じていた。
 現在の本能寺は、事変の後に移転しており、本来の場所には碑だけが残っている。宙が好きなのはその碑の前だった。四条西洞院の、ひっそりとした一角。そこに立つたびに、宙は手を合わせた。信長のために、ではない。あそこで死んでいったすべての人のために。
 コーヒーを飲み干して、宙は立ち上がった。
 今日は、久しぶりに本能寺跡まで歩いてみようと思った。
 なぜかは分からない。ただ、夢がそう言っているような気がした。

 十月の京都は、観光客で溢れている。
 宙は地下鉄烏丸線に乗り、四条で降りた。アーケードの商店街を抜け、西洞院通りへ折れる。雑踏を離れると、急に静かになった。
 本能寺跡の碑は、駐車場の隣にひっそりと立っていた。観光客はほとんど来ない。知る人ぞ知る場所だ。宙はその前に立ち、手を合わせた。
 いつもそうするように。
 手を合わせながら、宙は夢を思い出していた。炎の中、誰かの声がした。「殿——」。自分は誰かの家臣で、信長に頼んで影武者になろうとして、そして時空が歪んで——
 ふいに、めまいがした。
 立ちくらみかと思った。しかし足は地についている。周囲の景色はそのままだ。だが、何かが違う。
 空気の匂いが、変わった。
 アスファルトと排気ガスと、コンビニの食べ物の匂いが混じった現代の京都の匂いではない。もっと土の匂いが濃く、木の匂いがして、それから——煙。
 宙は目を開けた。
 碑は、消えていた。
 代わりに、目の前には木造の塀が続いていた。夕闇の中、篝火が揺れていた。遠くで馬が嘶いた。
 そして、炎が見えた。
 赤と橙の炎が、夜空に向かって立ち上っていた。建物が燃えている。大きな建物が。
 人が走っている。鎧をつけた男たちが、怒鳴り合いながら走っている。
 宙はその場に立ち尽くした。
 夢だ、と思った。また夢を見ている。
 しかし、熱が本物だった。頬に当たる熱気が、リアルで、生々しかった。足元の土の感触が、確かだった。
 誰かが宙の腕を掴んだ。
「おい! 何をしておる、早くこちらへ!」
 振り返ると、鎧姿の男が宙を引っ張っていた。年は三十代半ばか。精悍な顔に、汗と煤が混じっていた。
「お、おい待て——」
「喋るな、走れ!」
 男に引きずられるように、宙は走った。
 燃えている建物の横を抜け、塀の脇を走り、暗い路地へと入り込む。遠くで怒号が続いている。
 路地の奥で、男は立ち止まり、宙の顔をまじまじと見た。
「……お前、いつからそこに立っておった?」
「わ、わからない。気がついたら……」
「怪我はないか」
「ない、と思う」
 男は一瞬考えてから、素早く宙の手首を掴み、脈を取った。それから宙の目を見た。
「生きておる。よし。今は説明する暇はない。ついてこい」
「あの、ここは——」
「本能寺よ。燃えておる。それだけ分かれば十分じゃ」
 本能寺。
 宙の胸が、ぐんと鳴った。
 夢の中で来た場所に、今また来てしまった。しかも今度は、夢ではないかもしれない。
「殿は——信長様は?」と宙は思わず聞いた。
 男の顔が曇った。
「……奥におられる。だが、もはや」
 男は言葉を切り、首を振った。その一瞬で、宙は全てを理解した。
 歴史は、動いている。今まさに、この瞬間に。



ニ、夢の中の本能寺
 男の名は、三村半蔵(みむら・はんぞう)といった。
 信長の直参家臣ではなく、小姓組の末端に連なる者で、本能寺の変の夜は宿直の番に当たっていたという。つまり、たまたまそこにいた。
「お前は何者だ」と半蔵は歩きながら宙に問うた。
 答えに詰まった。現代から来た者です、とは言えない。
「旅の者です」と宙は答えた。「京見物に来たら、こんなことに……」
「運の悪い旅人よ」と半蔵は言ったが、疑う様子はなかった。混乱の夜だ、見知らぬ男が一人いても不思議ではなかったのかもしれない。
 二人は暗い路地を南へ向かって走った。
 宙は走りながら頭の中を整理しようとしたが、うまくできなかった。足元は土と石畳で、履いているのは現代のスニーカーだ。着ているのはユニクロのフリースと綿パン。鎧姿の半蔵と並んで走っているのが、現実なのか夢なのか、分からない。
 ただ、熱は本物だった。汗が額を流れた。足が疲れた。息が切れた。
 これは夢じゃない、と宙は思い始めていた。
 路地を抜けると、小さな社があった。半蔵はそこへ飛び込み、宙を引き込んで木戸を閉めた。
 暗い社の中で、二人は息を整えた。外では怒号と馬の蹄の音が続いている。
「殿は……」と宙はもう一度聞いた。
「介錯されたか、あるいは炎の中で」と半蔵は低く言った。「確かめることは、できなかった」
 信長、死す。
 歴史通りだ。天正十年六月二日(新暦一五八二年六月二十一日)、本能寺の変。明智光秀の謀反によって、織田信長は京都本能寺において自刃——あるいは焼死した。遺体は発見されず、真相は今も謎のままだ。
 だが、今、宙はその「謎」の夜のただ中にいる。
「光秀は、今どこに?」と宙は聞いた。
「本能寺を囲んでいる。一万三千とも聞く」と半蔵は言った。「信忠様は二条城におられるはず。今頃は……」
 半蔵は言葉を切り、目を閉じた。
 信長の嫡男・信忠も、この夜に死ぬ。二条御新造(にじょうごしんぞ)で、光秀軍に包囲され自刃した。それも歴史の事実だ。
「逃げられますか」と宙は聞いた。「ここから、この京都から」
「逃げて、どこへ」
「どこへでも。とにかく今夜を生き延びれば……」
「武士が戦場を逃げるか」と半蔵は言ったが、その声には怒りよりも疲労があった。「だが……今夜ばかりは。数が違いすぎる」
 宙は半蔵の目を見た。この男は怖がっている。当然だ。包囲されているのだから。
「逃げましょう」と宙は言った。「生きていれば、いつか光秀を討てる」
 半蔵は黙った。
「秀吉が来る」と宙は続けた。「必ず。備中から取って返して——」
「お前は何者だ」と半蔵が鋭く言った。「秀吉公が来ると、なぜ知っておる。あの方は今、備中におられるはず」
 しまった、と宙は思った。
 「備中から取って返す」——これは後に「中国大返し」と呼ばれる秀吉の電光石火の帰還を指す。この夜の時点で、それを知っている人間がいるはずがない。
「……勘です」と宙はごまかした。「秀吉殿ならばそうなさる、という」
 半蔵は宙を見つめた。疑っている。だが、今はそれよりも先に逃げることの方が重要だと判断したのか、やがて頷いた。
「よかろう。だが、逃げるにしても道が要る。お前、京の地理は分かるか」
「多少は」と宙は答えた。
 現代の京都の地理は、宙には庭のようなものだ。だが、戦国時代の京都の道筋とは、どれほど重なっているのか。
 そこへ、社の木戸が激しく叩かれた。
「誰かおるか! 織田の家臣と旅人を探しておる!」
 光秀の兵だ。
 宙と半蔵は、息をひそめた。

 木戸の向こうで足音が遠ざかるのを待ち、二人は社の裏手から這い出た。
 夜空が赤い。本能寺の炎が、京の夜を染めていた。
 宙はその空を見上げながら、奇妙な静けさを感じていた。恐怖はある。体が震えている。しかし、同時に、妙な明晰さがあった。歴史を知っている、ということの強さだった。
 この夜の後、何が起きるかを宙は知っている。
 光秀は天下を取り、しかし十三日後に秀吉に討たれる。「三日天下」と後世に呼ばれる、短い天下だ。
 つまり——逃げて生き延びれば、この夜は終わる。
「半蔵殿」と宙は低く言った。「北へ向かいましょう。鞍馬口から出て、大原へ」
「大原? なぜ大原へ」
「身を隠せる場所があります。寺が多い。静かな山里です」
 半蔵は一瞬考え、頷いた。
「お前……本当に何者だ」
「旅の者です」と宙は繰り返した。「ただの、旅の者」
 二人は暗闇の中を北へと向かった。
 走ると目立つ。だから早歩きで、できるだけ人気のない道を選んだ。宙はスニーカーのおかげで足元は楽だったが、半蔵の鎧がきしむ音が気になった。
「鎧、脱げますか」と宙は言った。「目立ちます」
 半蔵は苦い顔をしたが、道の端で鎧を脱ぎ始めた。その下には、普通の着物姿が現れた。これなら、なんとか旅人に見える。
「鞘はつけておく」と半蔵は刀を帯に差しながら言った。「それだけは譲れん」
「それで構いません」
 二人は再び歩き出した。
 闇の中を、宙は歩いた。
 ぱふのことを、唐突に思い出した。
 散歩。毎朝の散歩。あの時も、こうやって暗い道を歩いた。夜明け前の鴨川の土手を、白い毛玉を連れて。ぱふは鼻を地面に押しつけながら、ゆっくり歩いた。急かしても聞かなかった。匂いの世界に没頭していた。
 宙は、その時間が好きだった。
 誰にも邪魔されない、ぱふと宙だけの時間。
 今も、誰かと歩いている。だが、それはぱふではない。鎧を脱いだ戦国武士と、十六世紀の京都の夜道を。
 なんと奇妙な夜だろうと、宙は思いながら歩いた。

 鞍馬口まで来た時、関所があった。
 光秀の兵が、通行者を一人一人改めている。
「まずい」と半蔵がつぶやいた。
「大丈夫です」と宙は言った。
「なぜそう思う」
 宙には確信があった。歴史において、本能寺の変の夜に逃げ延びた人々は少なくない。関所の兵は、ことさら一般の旅人を捕らえることに積極的ではなかったはずだ。光秀の目標は信長・信忠であって、一介の旅人を捕まえても意味がない。
「私が話します」と宙は言った。「半蔵殿は黙っていてください。何があっても」
 半蔵は頷いた。信用しているのか、状況に流されているのか。おそらく後者だろうが、今はそれで構わない。
 宙は兵士に向かって歩いた。
「もし。大原の親戚の家に急ぎ用がございまして」
 兵士が宙を眺めた。その目が、スニーカーで止まった。
「その……足のものは?」
「異国渡来の履物でございます」と宙は平然と言った。「南蛮よりの商人から求めました。足が弱くて、普通の草履では」
 兵士はもう一度宙を見た。それから、後ろの半蔵を見た。
「連れか」
「はい。道案内を頼んでおります者で」
 長い沈黙。宙は心臓が激しく打つのを感じた。
 やがて、兵士は手を振った。「行け」



三、影武者となりて
 大原は静かだった。
 京の騒乱が嘘のように、山里に夜の静寂が満ちていた。遠くで梟が鳴いた。小川の水音がした。
 半蔵は歩きながら、ほとんど喋らなかった。
 宙もまた、言葉を持てなかった。
 たった数時間の出来事が、あまりにも濃密すぎた。炎を見た。兵士をごまかした。歴史の夜を生き延びた。
 それよりも、宙の頭にあったのは——信長はどこへ行ったのか、という問いだった。
 遺体が見つからなかった。歴史はそう記している。
 ということは、もしかして。
 まさか、とは思う。しかし、宙は歴史の研究者として、その「もしかして」を打ち消す確証を持っていない。本能寺の変の真相は、四百年以上経った今もはっきりしていない。
「半蔵殿」と宙は歩きながら言った。「殿は、本当にあの炎の中に?」
 半蔵は長い沈黙の後、言った。
「……私には、分からん」
「見ておられないので?」
「最後まで傍におれなかった。炎が激しくなって、押し出されてしまった。その時に……お前に会った」
 宙は考えた。
「もし」と宙は言った。「もし殿が生きておられたとしたら」
「縁起でもない」と半蔵は言ったが、否定ではなかった。
「逃げておられるかもしれない。どこかへ」
「遺体が見つからねば、光秀は安心できまい」
「そうです。だから……探す価値はある」
 半蔵が立ち止まった。振り返った顔に、初めて強い感情が見えた。
「お前は……本気か」
「本気です」
「なぜだ。お前は信長様の家臣でもない。ただの旅人と言うたではないか」
 宙は少し考えた。
「……歴史が、好きなんです」と宙は言った。「この国の歴史が。そして、この夜のことを、ずっと不思議に思っていた。信長はどこへ消えたのかと」
 半蔵はしばらく宙を見つめた。
「お前は変わった旅人だな」
「よく言われます」
 星明かりの中で、半蔵が初めて笑った。小さな、疲れた笑いだった。

 大原の里に、一軒の庵があった。
 庵主は、七十を超えた尼だった。名をお縁(おえん)といい、もとは京の商家の女だったが、夫を亡くして出家し、この山里で静かに暮らしていた。半蔵の遠縁にあたるという。
 お縁は二人を中へ引き入れ、粥を出し、何も聞かなかった。
 翌朝、宙は目を覚ました。
 板敷きの床に、薄い布団を敷いて眠っていた。体中が痛かった。昨夜の疾走の後遺症だ。
 それでも、生きている。
 窓の外に、山の稜線が見えた。朝靄が漂っていた。鳥が鳴いた。
 宙はぼんやりとその景色を見た。
 ぱふがいたら、もうとっくに起こしに来ていた時間だ。顔を舐められて、嫌だ嫌だと言いながら起きて、それでも嬉しくて。
 ぱふ、と宙は心の中で呼んだ。
 返事はなかった。当然だ。ここは四百年前の山里で、愛犬はもうどこにもいない。
 だが、不思議と、孤独ではなかった。
 人がいるからかもしれない。半蔵がいて、お縁がいて、この山里に命が満ちているからかもしれない。
 それとも——夢の中にいるような、この非現実の状況が、逆に宙の喪失感を薄めているのかもしれなかった。

 その日の昼、思いもよらないことが起きた。
 庵の戸を、誰かが叩いた。
 半蔵が刀に手をやった。宙は縁側の陰に隠れた。お縁が戸を開けると——。
 そこに立っていたのは、一人の老人だった。
 いや、老人に見えるが、その目は鋭かった。着物はくたびれているが、その立ち居振る舞いに、どこか普通ではないものがあった。
「お縁殿、しばらく厄介になれるか」と老人は言った。
 宙は、その声を聞いた瞬間、全身の毛が逆立った。
 半蔵の顔色が変わった。
 老人は——信長だった。
 いや、正確には、分からない。宙は信長の顔を知らない。絵画の中の信長しか見たことがない。しかし、この老人の纏う空気は、普通ではなかった。逃げ延びた、何かの大きな力を持っていた者の気配があった。
「……殿?」と半蔵が、震える声で言った。
 老人は半蔵を見た。
「三村か。生きておったか」
「は、はい……殿、ご無事で——」
「声を上げるな」と老人は静かに言った。「まだ、終わっておらん」

 老人の名は、「三郎」と名乗った。
 信長の幼名は「吉法師」、後の通称は「三郎」——織田三郎信長。だが、今は単なる山の老人として名乗っているのだという。
 宙は動揺を抑えて、老人の話を聞いた。
 本能寺で炎が上がった時、老人——信長は、少数の護衛と共に裏口から脱出していた。遺体が見つからなかったのはそのためだった。ただし、護衛たちは途中で光秀の追手に討たれ、信長は一人になった。そうして大原の山中を彷徨い、縁のあるお縁の庵に辿り着いた。
「追手がいます」と宙は言った。「光秀は必ず探します」
「分かっておる」
「ですが——」と宙は続けた。「十三日後に、羽柴秀吉が備中から帰ってきます。そして山崎で光秀を破る。それが——」
 全員が宙を見た。
「なぜそれを知っておる」と信長が静かに言った。
 静寂が落ちた。
 宙は考えた。ここで嘘をついても意味がない。この状況で。
「私は」と宙は言った。「未来から来ました」

 誰も笑わなかった。
 お縁は目を細めて宙を見た。半蔵は驚きで固まっていた。信長は——少しも表情を変えなかった。
「未来とは、いつの」
「四百年以上、後の世です。この本能寺の変が起きた年から、四百四十年ほど先」
「四百四十年」と信長はゆっくり繰り返した。「この国は、今もあるか」
「あります。平和です」
「戦はないか」
 宙は少し間を置いた。
「……この変から二百五十年ほどは、おおよそ平和でした。江戸という時代が続きます。しかしその後、一時、大きな戦が起きました。多くの命が失われました。今はまた平和になっています」
「そうか」と信長は言った。「して、余は歴史の中でどう伝わっておる」
「英雄として。改革者として。この国で最も有名な武将の一人として」
 信長はわずかに目を細めた。それが感情を表しているのか、宙には読めなかった。
「して」と信長は言った。「お前は未来から何をしに来た」
「来ようと思って来たのではありません」と宙は正直に答えた。「夢を見ていたら——気がついたらここにいた」
「夢か」
「はい。私は最近、よく夢を見ます。大切なものを失ってから……毎晩夢を見るようになりました」
「大切なもの」と信長が静かに言った。「何を失った」
 宙は答えた。
「犬を」
 場の空気が、少し和らいだ。お縁がくすりと笑った。信長の口元にも、かすかに何かが浮かんだ。
「犬か」と信長は言った。「余も、かつて犬を飼っておった。よく懐いておったが、先に逝ってしまってな」
「……そうでしたか」
「名はなんという」
「ぱふ、と申します」
「ぱふ」と信長は繰り返した。「変わった名だ。しかし、良い名だ」



四、時空の狭間を駆ける
 三日が経った。
 宙は大原の庵で、半蔵と信長と、そしてお縁と共に過ごした。
 戦国時代の生活は、不便だった。当然だ。電気はない。水道はない。スマートフォンも、インターネットも、コーヒーも、インスタントラーメンも何もない。
 しかし、不思議と苦ではなかった。
 朝は早く起きた。ぱふがいた頃と同じ時間に自然と目が覚めた。お縁の庵の周囲を歩いた。山の朝の空気は澄んでいて、鳥の声が豊かで、遠くに京の盆地が霞んで見えた。
 半蔵は日々の警戒を続けた。信長は、宙に色々なことを聞いた。
 未来の国のこと。戦のこと。平和のこと。
 信長は聡明だった——歴史が伝える通り、いやそれ以上に。宙の語ることを、疑いながらも吸収していった。
「電気というものがあって、夜でも明るいと」
「はい。太陽が沈んでも、部屋の中は昼のように明るくできます」
「火を使わずに?」
「火は使いません。別の力です」
「ふむ」
 信長は興味深そうに頷いた。
「その未来において、余のようなことを試みた者はおるか。天下を統一しようとした者は」
「おります。徳川家康という方が、この本能寺の変から二十年後、天下を取りました。それから二百五十年、その一族が治めました」
「家康か。あの狸め」と信長は低く言ったが、その目は笑っていた。「したたかな男だ。なるほど、あ奴ならばそうするであろう」
 宙は、信長の人間臭さに驚いていた。
 歴史の中の信長は、どこか神話的な存在として語られることが多い。魔王、革命者、天才。しかし目の前の老人は——確かに非凡ではあったが、疲れ、迷い、時に悲しそうな目をする、人間だった。
「三村が逝ってしまったら、どうしようかと思うておった」と信長は、ある夜、宙に言った。「一人では、この山を出る気にもなれなかった」
「半蔵殿は忠義の方です」
「ああ。しかし……忠義だけでは、人は生きられん」
 信長はしばらく黙った。
「お前の犬は、忠義だったか」
「忠義というより……」と宙は考えた。「ただ、いてくれた。それだけで十分でした」
「そうだな」と信長は言った。「そうだな。余も、そう思う」

 四日目の朝、追手が来た。
 庵の近くの山道を、武装した一団が通過していくのを半蔵が発見した。
「六人。光秀の旗印を持っておる」
 信長の顔が引き締まった。
「見つかる前に動かねばならん」
「どこへ」と宙は言った。
「当てはある」と信長は言った。「しかし、ここを出るには山を越えねばならん」
 宙は地図を頭の中に描いた。大原から——比叡山の北側を通り、琵琶湖方面へ出るルートだ。かつて光秀はその比叡山を焼き打ちにした。信長の命令で。つまり、その方面には光秀に恨みを持つ者がいるかもしれない。
「比叡山を越えて、坂本へ向かいましょう」と宙は言った。
 半蔵が顔色を変えた。「坂本は光秀の城下だ」
「だからこそ、意外です。探されないかもしれない」
「無謀だ」
「かもしれません。でも——」
「やってみよう」と信長が言った。
 全員が信長を見た。
「策を取るのは易しい。しかし時に、無謀の中にしか活路はない」
 信長が初めて、武将の顔をした瞬間だった。

 山を越えた。
 険しかった。宙のスニーカーは泥だらけになり、フリースは枝に引っかかって何度も破れそうになった。半蔵は信長を助けながら斜面を登った。
 頂上近くで、宙は立ち止まった。
 眼下に琵琶湖が見えた。
 夕陽を受けて、水面が金色に輝いていた。宙はその景色を見て、息をのんだ。
 美しかった。
 現代の琵琶湖も美しい。しかし、今見ている琵琶湖は、汚れがなかった。工業化以前の、澄んだ水をたたえた内海の姿だった。
「きれいだ」と宙はつぶやいた。
「毎年見ておる」と信長がそっけなく言ったが、その目も、湖を見ていた。
 この景色を愛でる人間が、こんなに戦を好んだのか——と宙は不思議に思った。しかし考えれば、戦国の武将たちは誰もがこういう景色の中で生まれ育った。美しいものを知っている人間だからこそ、守るために戦えたのかもしれない。
 あるいは、美しいものを力で手に入れようとしたのかもしれない。
 どちらでもあって、どちらでもないのかもしれない。

 坂本の町に入った時、夜になっていた。
 光秀の城下町だった。しかし、意外にも混乱は少なかった。本能寺の変の直後とは思えないほど、人々は静かに暮らしていた。
 宙たちは町外れの小さな宿に入った。名も名乗らず、金だけを払った。半蔵が持っていた銀で、何とか一夜の宿を得た。
 部屋に入ると、信長はすぐに横になった。
 疲れていた。老いた体で山を越えたのだ。無理もない。
 半蔵は部屋の外で番をすると言って、出て行った。
 宙は一人、暗い部屋に座っていた。
 ふいに、あのめまいが来た。
 さっきのとは違う。もっと強い。部屋が揺れるような感覚。時空が歪む、あの感触。
 来た時と同じ感覚だ、と宙は直感した。
 帰れる。今なら帰れるかもしれない。
 宙は立ち上がり、信長を見た。老人は静かに眠っていた。その顔は、穏やかだった。
 秀吉はあと九日で来る。光秀は山崎で敗れる。信長はこの後どうなるのか——歴史には記されていない。しかしこの夜、生きている。
 それで、十分かもしれない。
 宙はそっと、信長の傍に近づいた。
「……ありがとうございました」と小声で言った。「ぱふの話を、聞いてくれて」
 信長は目を開けなかった。眠っているのか、聞こえているのか。
「争いに良いことは、ひとっつもない——そう、私は思っています。四百年後の世界でも、まだ人は争っています。それが悲しい」
 応答はなかった。
 宙は立ち上がり、めまいの方向へと体を向けた。
 闇の中に、光が見えた気がした。

 次の瞬間、宙は四条西洞院の路上に立っていた。
 朝の光。アスファルトの匂い。遠くでバスが通る音。
 本能寺跡の碑が、目の前にあった。
 宙は手を合わせた。
 今度は、以前とは違う気持ちで。
 ここに信長が眠っているわけではない——あの夜、あの人は生きていた。少なくとも、宙が見た夜には。
 その後どうなったのかは、分からない。
 しかし、宙はもはやそれを「謎」とは思わなかった。
 あの夜の本能寺は、変だった。歴史の教科書通りの、乾いた事件ではなかった。そこには人間がいた。疲れて、怖くて、それでも生きようとしていた人間が。
 宙は深く頭を下げ、顔を上げた。
 その時、足元に何かが触れた。
 気のせいかもしれない。しかし確かに、柔らかい何かが、宙の足首をかすめた。
 白い、毛玉のような何かが。
 振り返っても、何もいなかった。
 ただ、朝の光が眩しかった。


五、天下より大切なもの
 その日の夜、宙は早く眠った。
 二十時に布団に入り、すぐに落ちた。
 夢は見なかった。
 いや、見たのかもしれない。しかし覚えていなかった。ぐっすりと、深く眠った。気がつくと、窓の外が明るかった。
 八時だった。
 宙は起き上がり、台所に行き、お湯を沸かした。コーヒーを一杯。窓の外の細い路地に、朝の光が落ちている。
 いつもと同じ朝。
 しかし何かが、少し違った。
 宙は窓を開けた。秋の朝の空気が入ってきた。冷たくて、澄んでいて、わずかに土と草の匂いがした。
 大原の山の朝に似ていた。
 あれは夢だったのかもしれない。いや、やはり夢ではなかったと宙は思う。体の痛みは今朝も残っていたし、フリースには確かに枝に引っかかった傷がある。
 だが証明する手段はない。
 宙はコーヒーを飲みながら、ノートを開いた。
 夢日記を書こうとして、しかし今朝は夢がなかったから、代わりに思ったことを書いた。
 「本能寺の夜に、信長に会った。たぶん、本当に」
 「あの人は、犬が好きだった」
 「争いに良いことはないと思っている。四百年後の世界でも、まだ人は争っている。それを変えられるのは、力ではない。たぶん」
 「ぱふは、天下など欲しがらなかった。ただ、一緒にいたかっただけだと思う。私も」
 書きながら、宙は少し泣いた。
 静かに、音もなく。
 ぱふへの涙だったのか、信長への涙だったのか、あの夜に死んでいった名もない人々への涙だったのか——自分でも分からなかった。
 全部、かもしれない。

 翌朝から、宙は散歩を再開した。
 ぱふなしの散歩を、半年ぶりに。
 鴨川の土手を、一人で歩いた。
 怖かった。ぱふとの記憶が染み込んだ道だから。しかし歩き始めると、意外と歩けた。記憶は痛かったが、その痛みは悪いものではなかった。ぱふが確かにいた証拠だった。
 川の水が光っていた。鳥が飛んでいた。
 向こうから、柴犬を連れた老人が歩いてきた。
 犬が宙に気づき、尻尾を振りながら近づいてきた。ぱふとは違う犬だ。もっと大きく、茶色い。しかし、その目が愛らしかった。
「触っていいですか」と宙は老人に聞いた。
「もちろん」と老人は言った。
 宙はしゃがんで、犬の頭を撫でた。
 犬は目を細めた。尻尾がもっと速く動いた。
「ぱふ」と宙は小声で言った。違う犬の名前に言うのは変だと思いながらも、言ってしまった。
 犬は宙の顔を舐めた。
 宙は笑った。
 久しぶりに、声に出して笑った。

 それから宙は、文章を書き始めた。
 本能寺の夜のことを。信長のことを。半蔵のことを。お縁のことを。
 そして、ぱふのことを。
 フィクションとして書いた。誰も信じないだろうから。しかしそれで構わなかった。宙が経験したことは、宙の中にある。それを言葉にしたかった。
 タイトルは、最初から決まっていた。
 「本能寺は変! 〜夢で天下、取ってみた〜」
 変な夜だった。本当に。
 しかし、あの夜があったから、宙は散歩を再開できた。あの夜があったから、ぱふのいない朝を、少しだけ受け入れられるようになった。
 信長は言っていた。「犬が先に逝ってしまってな」と。
 天下人も、犬の死を悲しむ。
 四百年の時を隔てても、それは変わらない。

 京都では、歴史の舞台に出向き、ひとり身震いしながら佇むことが多かった。
 本能寺もまた、そのひとつだった。
 宙はその後も、折に触れてあの碑の前に立った。手を合わせた。
 信長はどこへ行ったのか、と以前は思っていた。
 今は、そうは思わない。
 あの人は、生きた。それだけで十分だ。
 足元の土に向かって、宙は低く言った。
「天下より大切なものが、あったかもしれませんね」
 風が吹いた。
 銀杏の葉が、一枚、宙の足元に落ちてきた。

 この国は、本能寺の変から二百五十年、おおよそ平和だった。
 しかしその後、戦が起きた。多くが死んだ。
 それに懲りず、今また、タカ派と呼ばれる者たちが軍備を叫んでいる。
 争いに良いことは、ひとっつもないのに。
 宙は思う。信長も、きっとそう思っていたはずだ——あの静かな坂本の夜に、琵琶湖の金色の水面を思い浮かべながら。
 守るものがあるから、人は生きる。
 しかし、守るために傷つけるのでは、失うものの方が多くなる。
 それを、人はなかなか学ばない。
 学べないのか、学ばないのか。
 宙には分からない。
 ただ、鴨川の土手を歩きながら、宙は祈る。
 ぱふに。信長に。半蔵に。お縁に。本能寺の夜に死んでいったすべての人に。
 そして、今この瞬間も、世界のどこかで戦の中にいるすべての人に。
 どうか、生き延びてほしい。
 どうか、誰かに撫でてもらえる日が来てほしい。
 犬が尻尾を振るような、そんな平和な朝が。


エピローグ
 ある夜のこと。
 宙はまた夢を見た。
 大原の山の中にいた。朝靄の中、庵の縁側に座っている。遠くで鳥が鳴いた。
 隣に、白い毛玉がいた。
 ぱふだった。
 老いて、白くなった、ぱふの最後の姿だった。丸まって、目を細めて、ただそこにいた。
 宙は手を伸ばして、その頭を撫でた。
 柔らかかった。温かかった。
 ぱふは目を閉じた。
 宙も目を閉じた。
 風が吹いた。山の朝の、冷たくて澄んだ風。
 遠くで、誰かの声がした。
「お前の犬は、良い名だな」
 信長の声だった。
「ぱふ——良い名だ」
 宙は笑った。
 夢の中で、声に出して笑った。
 目が覚めると、部屋に朝の光が差し込んでいた。枕が少し濡れていた。
 宙は起き上がり、ノートを開いて、書いた。
 「今朝の夢——大原の山。ぱふがいた。温かかった。信長も来た。ぱふを良い名だと言っていた」
 「今日も、散歩に行こう」






この物語は、歴史的事実をもとにしたフィクションです。登場する人物の一部は実在しましたが、本作における描写・台詞・行動はすべて創作です。
ぱふへ。ありがとう。

もう少し手直ししての Kindle 予定


人生はLPレコード
〜A面からB面へ〜

ー序詩ー
レコード盤に針を落とし
緩やかに曲が始まると
いくつかの節目を跨ぎ
中央へと向かえば
その回転は急ぎ足となる
それはまるで
僕らの人生のようで
それでも A面が終われば
自動的に針は戻り
さてと思えば
頑張ったわね
では ご褒美よ!と
女神さまが現れて
もしや B面の時間も
授けてくれるかもなんて…



序、「針を落とす」
十一月の午後というのは、光がやけに斜めになる。
窓から差し込む陽は、壁に貼った古いコンサートのポスターをかすめ、埃をかぶったレコードラックの前で止まった。僕はしばらく、その光の帯を眺めていた。何をするでもなく、ただ眺めていた。
還暦を過ぎてから、こういう時間が増えた。
急ぐ必要がない、という感覚。いや、正確には、急いでいたはずなのにいつのまにかその理由を忘れてしまった、という感覚に近い。仕事は続けている。子どもたちはそれぞれの場所に根を張った。妻とふたりの食卓は、以前より言葉が少なく、しかし不思議と居心地が悪くない。
僕はそっと立ち上がり、レコードラックに近づいた。
三十年ぶりに、ちゃんと向き合う気がした。
棚の最上段、埃をかぶったまま並んでいるLP盤たち。指でなぞると、黒い粉が指紋に沿って残った。
一枚ずつ、タイトルを確認する。学生時代に買ったもの。誰かにもらったもの。レコード屋の閉店セールで衝動買いしたもの。それぞれに、顔がある。買った日の空気がある。
一枚を選んだ。
古いジャズのアルバムだった。ビル・エヴァンスの、静かなピアノ。これを最後に聴いたのはいつだっただろうか。
レコードプレーヤーは、長い間動かしていなかった。針を交換したのも、もう十年以上前だ。おそるおそる電源を入れると、プラッターがゆっくりと回り始めた。まだ生きていた。
盤をのせる。針をそっと、最初の溝の手前に落とす。
しゅっ、という小さなノイズの後、音楽が始まった。
その瞬間、何かが胸の奥で動いた。
音楽そのものというより、その音の質感だ。デジタルの音楽にはない、わずかなゆらぎ。ぬくもりと呼んでもいいし、不完全さと呼んでもいい。人の手が触れた痕跡が、音のなかに残っている。
僕はソファに腰を下ろし、目を閉じた。
レコードは、外側から内側へと針が進む。最初はゆっくり、中心に近づくにつれて、盤の回転に対して針の速度が上がっていく。同じ回転数なのに、内側の溝は外側の溝より短いから、同じ時間でより多くを通り過ぎなければならない。
物理の話だ。
でも、人生に重ねてみると、なぜか苦しくなる。
二十代は、あんなに一日が長かった。
三十代、四十代と進むうち、一年が短くなっていった。五十代になると、季節が追いかけてくる感じがした。振り返るたびに、もう年が明けている。
それは、人生という盤の中心に、針が近づいているということなのかもしれない。
目を開けると、部屋はすこし暗くなっていた。
ビル・エヴァンスのピアノは、まだ静かに鳴り続けていた。
A面が終われば、針は自動的に戻る。
そして、B面がある。
僕の人生は、今、A面の終わりにいるのか、それともB面が始まったところなのか。
そんなことを考えながら、僕はしばらく、音楽の中にいた。

A面 〜 加速する時間 〜

一、「最初の一溝」
僕が初めてレコードの音を聞いたのは、四歳か五歳のころだったと思う。
父の書斎の隅に、古びたプレーヤーがあった。週末になると父はそこで、煙草を一本くわえながら、静かに音楽を聴いていた。子どもには近づくなと言われていたその部屋に、ある日こっそり忍び込んだ。
盤が回っていた。
黒くて丸いそれが、一定のリズムで回転し続けている。その上に、細い針がそっと乗っている。触ったら壊れそうで、それでも触りたくて、僕はしゃがんで息を殺した。
音楽は、流れていた。
何の曲かはわからなかった。ただ、その音が部屋の空気を変えていることはわかった。いつもと同じ書斎なのに、音楽があるだけで、そこは少し別の場所になっていた。
父に見つかった。
怒られると思ったが、父は黙って僕の隣にしゃがんだ。そして、低い声で言った。
「針が、溝をなぞっているんだ。この小さな溝の中に、音楽が全部入っている」
僕は目を丸くして、盤の表面を見た。たしかに、光に透かすと、無数の細い線が渦を巻いているのがわかった。
「全部?」
「全部だ。この一枚の中に、演奏した人たちの声も、息づかいも、全部入っている」
その言葉は、長い間、僕の中に残った。
人の声が、物質の中に刻まれる。そしてまた、取り出せる。
子ども心に、それは魔法に思えた。
父はそれからも毎週末、書斎で音楽を聴いていた。僕は少しずつ、その部屋に入ることを許されるようになった。ソファの端に座って、父の煙草の煙が天井に向かってゆっくり広がるのを見ながら、音楽を聴いた。曲の名前を教えてもらった。演奏者の名前を教えてもらった。
父はいつも、「聴くときは目を閉じろ」と言った。
「目を閉じると、音が全部、耳から入ってくる。脳がほかのことを考えなくなる」
僕にとって、音楽を聴くとはそういうことだった。目を閉じて、音の中に入り込むこと。
小学校に上がると、友人たちはポップスを聴き始めた。テレビから流れてくる歌謡曲。アイドルの曲。僕もそれが嫌いではなかったが、父の書斎で聴く音楽とは、別の種類のものだという気がしていた。
どちらがいいということではない。
ただ、父の書斎の音楽は、もっと深いところに届く気がした。
中学に入ったとき、父が一枚のLPをくれた。
ビル・エヴァンスのアルバムだった。今夜、ソファで聴いていた、あれだ。
「お前はいつか、これがわかる人間になると思う」
父はそれだけ言って、また煙草に火をつけた。
当時の僕にはまだ難しかった。静かすぎて、眠くなった。でも、捨てなかった。大学に持っていき、社会人になってからも、引越しのたびにダンボールに入れて持ち運んだ。
父は、僕が三十五歳のとき、逝った。
その夜、僕はあのアルバムを出して、初めてちゃんと聴いた。
目を閉じると、父の書斎の煙草の匂いがした気がした。

ニ、「メロディーを覚える頃」
高校生になると、僕は自分のレコードを買い始めた。
小遣いをやりくりして、月に一、二枚。近所の中古レコード屋に通った。店の名前は「ヴィニール」といった。狭くて薄暗くて、主人は無口だった。
その店で、僕は音楽の世界が途方もなく広いことを知った。
ジャズ、ロック、フォーク、クラシック、ソウル。どれも手に取れば、知らない世界への扉だった。聴いたことのないアーティスト名、知らない国のことば、見たこともないジャケットの絵。一枚のレコードが、どこか遠い場所へ連れていってくれた。
十七歳の春、同じクラスの女子と好きな音楽の話をした。
彼女はユーミンが好きだと言った。
僕はジャズが好きだと言った。
「渋いね」と彼女は笑った。
その笑い方が好きで、僕はその日から彼女のことが気になり始めた。
名前は、明日香といった。
髪が短くて、いつも少し眠そうな目をしていた。授業中は窓の外ばかり見ていたが、音楽の話になると目が覚めたように生き生きとした。
「ユーミンのレコード、持ってる?」
「持ってない」
「貸してあげようか」
こうして、僕は初めてユーミンのレコードを聴いた。
最初は正直、ピンとこなかった。でも繰り返し聴くうちに、その歌詞の鮮やかさに気づいた。情景が、音楽とともに浮かぶ。あの頃の若者の心が、あの頃の空気ごと、溝に刻まれている。
明日香とは、卒業まで付き合った。
大学は別々になり、自然に会う機会が減り、気づけば連絡が途絶えた。今どこで何をしているかは知らない。
ただ、ユーミンの曲を聴くたびに、十七歳の春が戻ってくる。
それで十分だという気もする。
大学に入ると、友人たちはCDを買い始めていた。
音が格段によくなった、と彼らは言った。ノイズがない、と。
僕は半信半疑だった。ノイズがなくなって、何かが失われないか。あのしゅっという針の音、盤面の小さなキズが作るプツプツという音、それらは音楽の一部ではないのか。
でも、CDは便利だった。
ウォークマンに入れて持ち歩けた。電車の中でも聴けた。それはたしかに、新しい自由だった。
僕は徐々に、レコードからCDへと移行していった。
「ヴィニール」の主人は、「時代だな」と言った。その言葉には、あきらめともとれるし、静かな誇りともとれる、不思議な響きがあった。

三、「サビへと向かう」
二十七歳で結婚した。
相手は、職場の同期だった陽子だ。
出会いはどこにでもある話で、入社して三年目の忘年会、隣に座ったのがきっかけだった。彼女は仕事の愚痴を言わなかった。「どうしてもうまくいかないことってあるじゃないですか」と、困ったように笑う人だった。その笑い方が、なぜかとても誠実に見えた。
結婚式の日、僕は緊張していた。
だが披露宴でかかったバックグラウンドミュージックが、ビル・エヴァンスだったとき、すこし力が抜けた。陽子が選んでいた。「あなたが好きなものを流したかった」と、後で言った。
そのとき思った。この人と生きていける、と。
翌年、長男の健太が生まれた。
三年後、長女の葵が生まれた。
子育てというのは、渦だ。入ったら出られない。出ようと思ったことも、特になかった。ただ毎日が速く、気づけば夜になり、週末になり、また月曜だった。
仕事も、加速していた。
三十代の半ばで課長になった。部下が増えた。会議が増えた。出張が増えた。成果を求められ、数字を追い、人を育て、上を説得し、下を守る。それを同時にこなしながら、家では父親でもあらねばならなかった。
レコードプレーヤーは、いつからか動かなくなっていた。
引越しのとき、段ボールに入れたまま、物置の奥に押し込んだ。LPも一緒に。
「音楽聴かないの?」と陽子に言われたことがある。
「聴いてるよ」と答えた。
「CDも最近かけてないじゃない」
そう言われて初めて気づいた。車の中でラジオを流すことはあったが、ちゃんと音楽と向き合う時間を、いつのまにか持たなくなっていた。
針は、中央へと近づいていた。
回転は、急ぎ足になっていた。
でも当時の僕には、そのことに気づく余裕すらなかった。
四十歳の誕生日、健太が「お父さんってどんな音楽好きなの?」と聞いた。
「ジャズ」と答えた。
「ジャズってなに?」
答えようとして、うまく言葉が出なかった。
「一緒に聴こう」と言えばよかった。だが、その日も仕事の電話が来て、僕は席を立った。
健太はそれきり、ジャズについて聞いてこなかった。

四、「針は中央へ」
五十代に入ったとき、父が死んだときのことを、また思い出した。
三十五歳の夜、あのビル・エヴァンスのアルバムをかけながら、泣いた夜のことを。
人の死というのは、自分の残り時間を教える。
父が逝ったとき、僕はまだどこか遠い話だと思っていた。自分が五十を過ぎたとき、初めてその重さが変わった。父が死んだとき父は六十二歳だった。僕はもうすぐそこまで来ている。
五十三歳の秋、健康診断で引っかかった。
精密検査の結果、大事には至らなかった。だが、待合室で結果を待つ一時間は、妙に長かった。
窓の外の木が、風に揺れていた。
あの木は、来年もあそこにあるだろう。僕は?
そんな問いが、頭をよぎった。
それまで「健康」というのは、特に意識しないものだった。空気のようなものだ。あって当たり前で、なくなって初めてわかる。
検査から帰った夜、陽子に「長生きしてね」と言われた。
その一言が、思いのほか、胸に刺さった。
同じ年の冬、部下のひとりが突然辞めた。
三十代の男で、仕事のできる人間だった。引き留めようとしたが、「やりたいことがある」と言って、聞かなかった。
「何をするんだ?」と聞いたら、「レコード屋を開きます」と言った。
意表を突かれた。
「レコード? 今どき?」
「今どきだから、いいんです」
その答えを、僕はしばらく考え続けた。
今どきだから、いい。デジタルが当たり前になった時代に、あえてアナログを選ぶ。そこに何かがある。彼にはそれが見えていて、僕には見えていなかった。
五十五歳で、部長になった。
おめでとうと言われた。うれしかったが、その夜、ひとりで飲みながら、なぜか空虚だった。
これが、僕が望んでいたものだったのか。
答えは出なかった。
五十八歳の春、母が逝った。
父とはちがい、長い闘病だった。最後の数年、施設に入った母を、月に一度は訪ねた。母はだんだん僕の名前を呼ばなくなったが、歌は覚えていた。
童謡を口ずさむと、母も一緒に歌った。
音楽は、言葉より深いところに刻まれる。
父がそう言っていたわけではないが、そのとき初めてその意味がわかった気がした。
母を送り出した夜、物置を開けた。
段ボールの中に、レコードプレーヤーがあった。
ほこりをかぶっていたが、捨てていなかった。
僕はそれをそっと取り出して、また段ボールに戻した。
まだ、その時ではない気がした。

五、 「A面の最後の溝」
還暦の誕生日は、家族で食事をした。
健太と葵と、それぞれのパートナーと、孫がひとり。陽子が予約した和食の店で、個室に七人が集まった。
ケーキのろうそくを吹き消すとき、何を願えばいいかわからなかった。
健康。それは確かに願う。でも、それだけではない何かを探して、ろうそくの前で少し間が空いた。
「お父さん、早く吹いて」と葵が笑った。
僕は笑って、吹いた。
その夜、帰宅して陽子とふたりになったとき、彼女が言った。
「六十年、生きてきたんだね」
「そうだな」
「どう?」
「どう、って?」
「六十年、生きてみて」
考えた。
速かった。それが正直な感想だった。あっという間だったと言うと陳腐だが、本当にそうとしか言いようがない。
「速かった」と言ったら、陽子は「私も」と言った。
しばらく黙っていた。
テレビもつけず、音楽もなく、ただ夜の静けさの中に、ふたりでいた。
そのとき初めて、物置のレコードプレーヤーのことを思った。
今夜、出してみようか。
いや、今夜はやめよう。
でも、もうすぐ。
六十一歳になり、定年まで一年を切った。
後任の選定が始まり、引き継ぎの準備が始まり、自分の仕事の輪郭が、少しずつ薄くなっていく感覚があった。
それが寂しいのか、清々しいのか、自分でもよくわからなかった。
六十二歳の春、会社を辞めた。
最終日、部下たちが小さな花束をくれた。スピーチを求められ、短く挨拶した。
駐車場で車に乗り込んだとき、なぜか、父の書斎が浮かんだ。
煙草の煙。回るレコード盤。細い針。
父は定年後、書斎でどんな音楽を聴いていたのだろう。聞いておけばよかった。
帰り道、ラジオを消した。
エンジン音だけの車内で、僕はゆっくり走った。
急ぐ必要がなかった。
もう、急ぐ必要がなかった。
幕間 「針が戻る」
A面が終われば
自動的に針は戻り
さてと思えば
頑張ったわね では
ご褒美よ! と
女神さまが現れて
もしや B面の時間も
授けてくれるかもなんて…
その夜、僕はついにレコードプレーヤーを物置から出した。
段ボールを開け、丁寧に梱包材を外し、ラックの上に置いた。電源ケーブルを差し込み、スイッチを入れる。プラッターがゆっくりと回り始めた。
まだ生きていた。
LPの入った段ボールも運び出し、ソファの前に広げた。何十枚もある。一枚一枚、ジャケットを見ながら、記憶を確かめた。
あの日の、あの店の、あの季節の。
ビル・エヴァンスのアルバムを選んだ。
盤をのせ、針を落とした。
しゅっ、という音の後、ピアノが始まった。
陽子が隣に来て、黙って座った。
ふたりで、音楽を聴いた。
何も言わなかった。
何も言わなくてよかった。
A面が終わると、針が自動で戻った。
アームがゆっくりと持ち上がり、元の位置に収まる。プラッターだけが、静かに回り続ける。
さて。
B面を、かけようか。
それとも今夜はここまでにして、明日また続きを聴こうか。
どちらでもよかった。
時間は、ある。
急がなくていい。
僕はそっと、B面に盤をひっくり返した。


B面 〜 スローバラードを選ぶ 〜

六、「B面、一曲目」
退職してはじめての月曜日、目が覚めたのは七時だった。
いつもと同じ時間だ。身体が、まだ覚えている。
でも起き上がる理由が、いつもとちがった。急いで用意しなくていい。電車に乗らなくていい。会議もない。
不思議な朝だった。
空白、と言えばそうだが、空虚ではなかった。むしろ、白いキャンバスのようなものを渡された感じがした。何を描いてもいい。あるいは、何も描かなくてもいい。
コーヒーを淹れた。
いつもより丁寧に、豆を挽くところから始めた。ドリッパーにお湯をゆっくり注ぎながら、湯気の形を眺めた。以前は、こんな時間は贅沢に思えた。今は、これが朝の形だ。
窓の外を、鳥が横切った。
名前は知らない鳥だ。でも確かに、そこにいた。
陽子はパートの仕事を続けていた。午前中に出かけ、昼過ぎに帰ってくる。僕はその間、ひとりで家にいた。
最初の一週間は、何をすればいいかわからなかった。
テレビをつけては消した。本を開いては閉じた。
ある日の午前中、気づいたらレコードの前に立っていた。
そうか。これがある。
一枚選んで、針を落とす。
音楽が始まる。
ソファに座り、目を閉じる。
父に教わった聴き方だ。
三十年以上ぶりに、それをやっていた。
音楽は、変わっていなかった。
僕が変わっていた。
同じ曲が、以前とは別の場所に届いた。若い頃には聞こえなかった音が、今は聞こえる気がした。演奏者の息づかい、一音ごとの間、次の音への予感。
これが、B面の一曲目か。
スローバラードから、お願いしたい。
そう思った通りの、静かな始まりだった。

七、 「テンポを抑える」
急がないことを、意識的に選ぶのは、思いのほか難しい。
長年の習慣とは恐ろしいもので、身体が自動的に次のタスクを探す。食器を洗ったら、次は何か。買い物から戻ったら、次は何か。何もしていない自分を、責める声がどこかから聞こえる。
それに気づいたのは、退職して一ヵ月ほどたったころだった。
庭の草むしりをしていて、ふと手が止まった。
空が、青かった。
ただそれだけのことなのに、しばらくその空を見上げていた。仕事をしていた頃には、空を見上げる習慣がなかった。いつも地面か、画面か、人の顔を見ていた。
空には、雲が流れていた。
その雲は、西から東へ、ゆっくりと動いていた。
急いでいない雲だった。
そうか。急がなくていいのか。
言葉にすると当たり前のことだが、身体がそれを受け入れるには時間がかかった。
散歩を始めた。毎朝、決まったルートではなく、気の向いた方へ歩く。分かれ道では、行ったことのない方を選ぶ。時間を気にしない。目的地を決めない。
近所に、知らない路地があった。
知らない店があった。
知らない猫がいた。
三十年以上この街に住んでいたのに、見えていなかったものが、たくさんあった。
ある朝の散歩で、小さな古本屋を見つけた。
入ってみると、主人は六十代後半とおぼしき男性で、奥でお茶を飲んでいた。
「いらっしゃい」と言って、それ以上は何も言わなかった。
それが、居心地よかった。
文庫本を一冊買った。知らない作家の小説だった。
家に帰り、レコードをかけながら読んだ。
午後がゆっくり過ぎた。
それが、なぜか、とても豊かな気がした。

八、「子どもたちの知らない音」
健太が孫を連れて遊びに来た日のことだ。
孫の名前は湊、四歳になったばかりだ。
リビングに入るなり、湊はレコードプレーヤーに目を止めた。
「じいじ、あれなに?」
「レコードプレーヤーだよ」
「れこーど?」
健太が苦笑いした。「こういうの、見たことないよな」
「CDも知らないんじゃないかな」と僕は言った。「生まれたときからスマホがある世代だから」
「そうだね。俺もCDは一応知ってるけど、買ったことはほとんどないし」
湊は、プレーヤーの前にしゃがんで、じっと見ていた。
黒い盤が、ゆっくり回っている。その上を、針が静かにたどっている。
ピアノの音が、部屋に流れている。
「おと、でてる」と湊が言った。
「そうだよ。あの盤の中に、音楽が入ってるんだ」
「はいってる?」
「細い溝に、全部刻まれてる。針がなぞると、音になる」
湊は目を丸くした。
その表情を見て、胸が締め付けられた。
五十年以上前、父の書斎で、僕が同じ顔をしていたに違いない。
「じいじが小さいころ、ひいじいじに教えてもらったんだ」
「ひいじいじ?」
「うん。もう会えないけど、この音楽を教えてくれた人だよ」
湊はしばらく、音楽を聴いていた。
四歳の子が、静かにジャズを聴いている。
その光景が、妙に美しかった。
健太が隣に来て、小さな声で言った。「俺、ちゃんとお父さんの好きな音楽、聞いたことなかったな」
「これからでも遅くないよ」
「一枚、もらっていい?」
意外だった。でも、うれしかった。
僕はLPの棚から、一枚選んで渡した。
「針がないと聴けないけど」と言ったら、「プレーヤー、買ってみる」と健太は言った。
音楽は、こうして渡っていく。
溝から溝へ、世代から世代へ。

九、 「レコードへ戻る若者」
散歩の途中で見つけた古本屋の主人と、少しずつ話すようになった。
名前は田中さん、六十八歳。もとは出版社の編集者だったが、五十代で辞めてこの店を始めたという。
「音楽はお好きですか」と聞いたら、「ええ、ジャズを少し」と言った。
それだけで、話が長くなった。
田中さんの店の近くに、最近レコード屋が開いたという。
「若い人がやってるんですよ。昔のLPを仕入れて、ちゃんと手入れして売ってる。流行ってるみたいで」
行ってみた。
小さな店だった。白い壁に、木の棚。センスのいい照明。ジャケットが、絵のように飾られている。
客が三人いた。二十代と思しき若者が、熱心にLPを一枚一枚見ていた。
店主は、三十二、三歳の男性だった。
「いらっしゃいませ」と言って、あとは押しつけがましくしなかった。
僕はゆっくりと棚を見た。ジャズの棚があった。ロックの棚があった。日本のポップスの棚もあった。
一枚、見覚えのあるジャケットがあった。
「ヴィニール」で、高校生のとき買った盤と同じものだ。
手に取ると、状態がよかった。
値段を見ると、当時の何倍もしていた。でも、買った。
帰り際、店主に聞いた。「若いお客さんが多いですね」
「増えましたね。ここ数年で」
「どうしてだと思います?」
彼はすこし考えてから言った。「便利になりすぎたからじゃないですかね。何でも一瞬で手に入る時代に、時間をかけないと聴けないものが、逆に新鮮なのかもしれない」
時間をかけないと、聴けない。
針を落として、A面を聴いて、ひっくり返して、B面を聴く。その手間が、今の若者には新鮮に映る。
僕らにとっての「当たり前」が、彼らには「贅沢」になっている。
面白いな、と思った。
失われたと思っていたものが、別の形で戻ってきている。
時代は螺旋を描く。そういうことかもしれない。

十、 「さて、何から始めようか」
十一月の午後、僕はソファに座ってビル・エヴァンスを聴いていた。
これは、序章の夜ではない。その三ヵ月後の、別の午後だ。
だが光の傾き方は、あの夜とよく似ていた。
この三ヵ月、いくつかのことが変わった。
変わったというより、戻ってきた、という感じに近い。
朝、コーヒーを丁寧に淹れる。散歩に出る。田中さんの古本屋に寄る。帰ってきて、レコードをかける。本を読む。陽子の帰りを待つ。一緒に夕食を作る。
何も大きなことはない。
でも、一日が充実している気がする。
先週、健太からメッセージが来た。「レコードプレーヤー、買ったよ。湊がまた聴きたいって言うから」
添付の写真に、湊がプレーヤーの前にしゃがんでいた。
あの表情だった。
葵からは、「今度レコード聴かせて」と連絡が来た。「友達の間でアナログが流行ってて」
子どもたちの世代が、また戻ってきている。
さて。
何から始めようか。
この問いは、答えが出ないまま、ずっと僕の中にある。
そして今は、答えが出なくてもいいと思っている。
始めたいことが、いくつかある。
音楽の話を書いてみたい。父から教わったこと、「ヴィニール」で覚えたこと、一枚一枚のレコードに刻まれた記憶。それを、誰かに残したい。
田中さんと、もっと話したい。編集者だった彼が見てきた本と言葉の世界を、聞いてみたい。
湊と、もっと音楽を聴きたい。いつか、父がそうしてくれたように、湊にレコードを一枚渡す日が来るかもしれない。
スローバラードを選びたい、と思っていた。
でも気づいたことがある。
スローバラードというのは、ゆっくりした曲のことじゃない。
どんなテンポでも、丁寧に聴くことだ。一音一音を、聞き逃さないことだ。
人生も、そういうものかもしれない。
B面の一曲目は、もう始まっている。
どこで始まったかさえ、はっきりしない。
ただ、確かに流れている。
プラッターが回り続けている。
針が、溝をたどっいる。
音楽は、部屋に満ている。
これが、今の僕の場所だ。

終、「盤が回り続ける間」
レコードには、終わりの溝がある。
音楽が終わった後、針は無音の溝をたどり続ける。盤は回り、針は動く。でも、もう音は出ない。
それを、ロックグルーブという。
父は、そこまで教えてくれなかった。
あるいは教えてくれたのかもしれないが、僕が覚えていないだけかもしれない。
人生も、きっとそういうものだ。
音楽が終わっても、盤はしばらく回り続ける。
そして誰かが、針を上げる。
僕のB面は、まだ始まったばかりだ。
何曲入っているかは知らない。
テンポがどう変わるかも知らない。
でも今日も、針を落とす。
音楽が始まる。
それだけで、十分だという気がする。
陽子が隣に来て、座った。
何も言わなかった。
ふたりで、音楽を聴いた。
窓の外、夕暮れが来ていた。
光が傾き、部屋がすこし暗くなった。
でも、電気はつけなかった。
このまま、音楽の中にいたかった。
レコードが、回り続けている。

── 了 ──



ーおまけー

人生はLPレコード


レコード盤に針を落とし

緩やかに曲が始まると


いくつかの節目を跨ぎ

中央へと向かえば

その回転は急ぎ足となる


それはまるで

僕らの人生のようで

僕もそろそろ

中央が近づいて

急ぐ時間と戦っている


それでも

そんな

A面が終われば

自動的に針は戻り


さてと思えば

頑張ったわね

では

ご褒美よ! って

女神さまが現れて


もしや

B面の時間も

授けてくれるかもなんて…


還暦を越し

今がまさに

その時かもで


すれば

その1曲目は

スローバラードから

お願いしたい


いや

仕方なくも

徐々にテンポが上がるのならば


すべてを

スローバラードとして

その速度を抑えてみたい


さて

何から始めようか…


我が子たちは

そのレコードすら知らず

CDが入口となったけれど

それもまた

ダウンロードにもなって

その姿すら消えてしまい


昨今

便利さと引き換えた時代を

遡る僕ら世代と

一部の若者たちは

またレコードへと

戻りつつあるそうだ けれど…



ーあとがきー
この物語は、一篇の詩から生まれた。
針が中央に向かうほど速くなる――
ただの物理現象が、なぜこれほど人生に似ているのか。
書きながら、ひとつ気づいたことがある。
人生は、速くなるものではなく、
速く感じるものなのだと。
だからこそ、B面では――
ゆっくり生きるのではなく、
丁寧に生きたいと思う。
あなたのレコードは、今どこにあるだろうか。
A面の途中か。
それとも、B面の一曲目か。
いずれにしても――
針は、まだ落とせる。
さて。
何から、聴こうか…

昨晩
仲間から
年末の武道館
抽選 どの日にする? と
連絡があり

迷った末
すまんね
辞めとく… と返事をした

辞めとく?…

そう
もうね
矢沢に飽きてしまった…

とうとう

この日が来たようだ…

失礼を言えばね
昨今のCD

なにこれ? な…

そう
そこにもやはり
老いはあって

また
僕の感性も変わってしまった

ライブもまた然り
ここんとこ
毎度 同じライブにしか
見えない

更には
高騰するチケット代に

こんな早くからの抽選


キャロルから
リアルタイムで追い掛けて来て
ならば
その最後まで見届けようかと
思って来たけれど

どうやらそれは
本人よりも
こちらが先なようだ

この国 唯一の
スーパースターも76歳
そろそろかと思ってみる



やはり
僕が好きだったのは
時間よ止まれ の78年の夏がピークで

その時代の曲と共に
時間は衰え出したようだ

アスリートのように
ピークで
去った方がカッコイイのに…

失礼…



フィクション

時間よ止まれ ーある男の告白 ー


〜プロローグ〜


スマートフォンの画面が光った。

午後十一時を過ぎた頃、田村 誠一は風呂上がりのビールを片手にソファに沈んでいた。五十八歳。どこにでもいる、疲れた中年男だ。


メッセージの送り主は幼馴染の竹内 浩二。

「誠一、年末の武道館、抽選どの日にする? 俺は12月28日がいいんだけど」


矢沢永吉の武道館ライブ。毎年恒例の行事だ。田村は二十代の頃から、かれこれ三十年以上、この男と一緒に通い続けてきた。


だが今夜、画面を見つめながら、田村の指は止まった。

返信しなければ。わかっている。でも、何かが胸に引っかかって、どうしても文字を打てない。


ビールを一口飲んだ。喉が鳴る。

テレビは消えている。部屋は静かだ。


田村は天井を見上げた。

──もしかして俺、永ちゃんに飽きてしまったのか。

その言葉が頭の中に浮かんだとき、自分でも驚いた。そんなはずがない、とすぐに打ち消そうとした。しかし打ち消せなかった。


静かな夜に、その問いだけがずっと残っていた。



〜キャロルとの出会い〜


田村が矢沢永吉を知ったのは、小学六年生の夏だった。

兄の部屋から聞こえてきたのだ。ドアを開けると、兄は仁王立ちでギターを弾くふりをしていた。レコードから流れてくる音は、田村がそれまで聞いたことのないものだった。


キャロル。

「ファンキー・モンキー・ベイビー」のイントロが鳴り出した瞬間、田村の体に何かが走った。電気のようなものが、つま先から頭のてっぺんまで一気に駆け抜けた。


「なんだこれ」

兄が振り返った。

「矢沢永吉だよ。かっこいいだろ」


かっこいい。その一言では足りなかった。田村には、それを表現する言葉がなかった。ただ、何か大事なものに触れた気がした。


その夜、田村は布団の中でずっとメロディを口ずさんだ。眠れなかった。こんな音楽が世の中にあったのか、という興奮と、これをもっと聞きたいという飢えで、胸がいっぱいだった。


中学に上がると、田村は小遣いを貯めてキャロルのレコードを買い集めた。

リアルタイムではなかった。キャロルはすでに解散していた。田村が聞いたのは、すべて過去の記録だ。それでも構わなかった。音楽に時代は関係ない、と子供ながらに思った。


矢沢永吉はその後ソロになった。

田村が初めてソロの矢沢を見たのは、高校一年のとき、竹内に誘われてテレビで見た武道館ライブの録画だった。


真っ白なスーツ。マイクスタンドを引き倒すパフォーマンス。万単位の客が一斉に白いタオルを振り回す光景。


「なんだこれ」

また同じ言葉が出た。

田村は震えた。これが生で見たいと、初めて本気で思った。



〜七八年の夏〜


田村が「時間よ、とまれ」を初めて聞いたのは、一九七八年の夏だった。


高校二年。十六歳。


ラジオから流れてきたとき、田村は自転車に乗っていた。信号が赤に変わった。止まった。そのまま動けなくなった。

曲が終わっても、しばらくペダルを踏めなかった。


なんだこの歌詞は。なんだこのメロディは。

大人になるということは、いつか何かを失うことだ、と歌っていた。少年のまま、このまま、どこへも行きたくない、と歌っていた。


十六歳の田村には、それが全部わかった。いや、わかった気がした。まだ何も失っていないのに、いつか失うことへの恐怖は、もうそこにあった。


あの夏の夕暮れ。信号の前で、自転車にまたがったまま、田村は少し泣いた。なぜ泣いているのかわからなかったが、泣かずにはいられなかった。


その年の暮れ、田村は初めて矢沢永吉のコンサートに行った。竹内と二人で、当時住んでいた大阪から夜行バスに乗って武道館まで。


入場したとき、田村は圧倒された。これだけの人間が一つの人間を見るために集まっている。それだけで、もうすごいことだと思った。


矢沢が登場した瞬間、会場の空気が変わった。物理的に変わった、と思った。気圧が変わったような感覚だった。


「時間よ、止まれ」が流れ始めたとき、田村の目に涙が滲んだ。あの夏の夕暮れが戻ってきた。自転車の前で止まったあの瞬間が。


コンサートが終わって外に出たとき、田村は竹内に言った。

「また来年も来よう」

竹内は笑った。


「もちろんだろ」

そこから、二人の年中行事が始まった。



〜三十年の積み重ね〜


就職し、結婚し、子供が生まれ、そして離婚した。

田村の人生は、いくつかの場面で大きく揺れた。それでも毎年、武道館には行った。


三十代の頃、仕事で大きな失敗をして、会社に居場所を失いかけたときも、その年の暮れ、竹内と二人で武道館のあの場所に立った。矢沢が「A DAY」を歌い始めた瞬間、田村は馬鹿みたいに泣いた。

なぜ泣くのかわからなかった。でも泣いた。


四十代で離婚したときも、武道館には行った。一人で行こうかと思ったが、竹内が「俺も行く」と言ってくれた。二人でビールを飲んで、コンサートが終わって、夜の東京を歩いた。


「矢沢ってすごいな」と竹内が言った。

「何が」


「いつ見ても同じだろ。変わらない。ずっとかっこいいまま」


田村は頷いた。変わらない、というのは、この年になると特別な意味を持つ。誰もが何かを失って、丸くなって、妥協していく。なのに矢沢はステージに立ち続けている。

それが羨ましくもあり、眩しくもあった。


五十代になると、田村の体はあちこちガタが来た。膝が痛い。腰が重い。それでも毎年立ち続けた。

コンサートの後半になると、足が疲れてくる。でも座るわけにはいかない。周りが全員立っているのに、自分だけ座るのは矢沢に失礼だと思っていた。


いつからそんなことを気にするようになったのか。若い頃は何も考えずに立っていたのに。

加齢、というのは、本人が気づかないうちに進行していくものだ。



〜違和感〜


最初に違和感を覚えたのは、三年前のコンサートだった。


アルバムに新曲が入っているのは知っていた。ライブでもその曲が演奏された。

聞きながら、田村は思った。


──なにこれ。

悪い曲ではない。むしろ完成度は高い。プロが作った、きちんとした音楽だ。でも、どこかが違う。田村が矢沢に求めていた何かが、そこにはなかった。


何が違うのか、うまく言葉にできなかった。ただ、胸に響かなかった。

コンサートが終わって竹内と飲んでいるとき、田村は言えなかった。


言えなかったのは、竹内が「今日の新曲、よかったなあ」と言ったからではない。田村自身が、その感覚を認めたくなかったからだ。


矢沢の曲に感動できなくなった、というのは、自分の感性が鈍ったということではないか。それは老いではないか。

そう思って、田村は黙って飲み続けた。


二年前もそうだった。去年もそうだった。

ライブの構成も、どこか見慣れた感じがしてきた。同じ曲を同じ順番で、同じ演出で。もちろん細かい違いはある。でも田村には、毎年少しずつ同じものに見えてくる気がした。


矢沢が変わったのか。

それとも、田村が変わったのか。

どちらでもあるような気がした。そしてどちらでもあるとしたら、止められるものではない。



〜その夜の返信〜


田村はもう一度スマートフォンを手に取った。

竹内からのメッセージ。「12月28日がいいんだけど」


田村は長い間、画面を見つめた。

行きたいのか、行きたくないのか。


正直に言えば、どちらでもなかった。義務感もない。でも「行きたくない」と言い切る気持ちもない。ただ、去年のライブを終えたとき、「来年また来よう」という気持ちが、自然には湧いてこなかった。それだけだ。


田村は文字を打ち始めた。

「すまんね、今年は辞めとくわ」

送信した。


しばらくして、竹内から返事が来た。

「え、まじか。どうした? 体でも悪いの?」


田村は少し迷ってから、正直に打った。

「なんか、飽きてしまった気がして」


竹内からの返事は、しばらく来なかった。

五分ほど経って、こう来た。


「そっか。まあ、しょうがないかもな」

その一言が、田村には意外だった。責めるでも、慰めるでもなく。ただ、受け入れた。


田村はもう一度打った。

「お前は行くの?」


「行く。でも正直、俺も去年ちょっと思ったわ。同じこと」


田村は、少し笑った。

そうか。竹内も感じていたのか。

何かが、すとんと落ちた気がした。



〜七十六歳のスーパースター〜


矢沢永吉は七十六歳だ。

田村はそれを思うとき、ただ敬意を感じる。七十六歳で、あれだけのステージをやり続けている。それは本物だ。


ただ、だからといって、田村が感動しなければならない義務はない。

長い間、田村はそこを混同していたかもしれない。矢沢を尊敬することと、矢沢に感動することは、別のことだ。尊敬したまま、感動しなくなることは、ありうる。


あるいは、田村が求めていたものが最初から矢沢ではなく、あの七八年の夏の自分自身だったのかもしれない。


十六歳の、信号の前で泣いた自分。

あれは矢沢永吉に感動したのではなく、あの曲がたまたま、田村の中にある何かを解放したのかもしれない。


音楽とはそういうものだ。曲そのものに価値があるのではなく、それを聞いたときの自分の状態が、その瞬間を作る。


田村はもう十六歳ではない。何かを失うことへの恐怖を、もうとっくに通り過ぎてしまった。実際にいくつかのものを失った。仕事の意欲。結婚。若さ。


失ってみれば、それほど大したことではなかった。失うことへの恐怖の方が、実際の喪失より大きかった。


「時間よ、止まれ」は、もう田村に刺さらない。

なぜなら、田村はもう時間を止めたいとは思っていないからだ。


〜キャロルから追いかけてきて〜


田村はビールを飲み干して、缶をテーブルに置いた。

キャロルから。リアルタイムではなかったが、兄の部屋のレコードから始まって、ここまで来た。


何十年だろう。軽く四十年は超える。

その間に、矢沢も変わった。田村も変わった。日本も変わった。


チケット代が高騰した。抽選が早くなった。コンサートの演出が巨大になった。それに伴って、昔とは違う客層も来るようになった。


かつて武道館の外でたむろしていた、斜に構えた革ジャン姿の兄ちゃんたちはもういない。今は整然と列を作って入場する、おじさんとおばさんたちがいる。田村もその一人だ。

それが悪いということではない。ただ、変わった。


矢沢は最後まで現役でいるつもりなのだろう。それはそれで美しいことだ。七十六歳で、まだステージに立てる体と気力を持っていること、それ自体がすごい。


ただ、田村は思う。

アスリートは、ピークで引退した方がかっこいいと言われる。それは音楽家にも言えるのかもしれない。でも音楽家は、引退のタイミングが難しい。体が動く限り、声が出る限り、ステージに立てる。


それは自由でもあり、呪縛でもある。

矢沢が一番かっこよかったのは、田村にとってはあの七八年の夏だ。それは田村の問題であって、矢沢の問題ではない。


矢沢はずっとかっこいい。ただ、田村にとっての「かっこいい」の基準が、あの頃の矢沢で止まってしまっているのだ。


〜本人よりも先に〜


「どうやらそれは、本人よりもこちらが先なようだ」

田村は、さっき自分の頭の中で思ったことを、もう一度なぞった。


矢沢を最後まで見届けようとしていた。なのに、先に田村の方が降りてしまった。

笑えるような、笑えないような話だ。


でも、これもまた一つの人生の区切りだろう。

三十年以上続いた習慣が終わるとき、そこには必ずわずかな悲しみと、わずかな解放感がある。


田村は窓の外を見た。夜の住宅街。街灯が一つ、ゆらゆらしている。

これからどうするのか。年末の予定が一つ空いた。

別にどうもしなくていい。ゆっくり過ごせばいい。家で本を読んで、酒でも飲んで、好きな音楽を聞けばいい。


好きな音楽。

田村は立ち上がって、古いCDラックに向かった。ほとんど忘れていたが、そこには昔のキャロルのベスト盤がある。矢沢のソロが出る前に聞いていたやつ。


引っ張り出して、CDプレーヤーに入れた。まだ動くかと思ったが、動いた。


「ファンキー・モンキー・ベイビー」のイントロが流れた。

田村は目を閉じた。

兄の部屋の、あの音が戻ってきた。



〜エピローグ〜


翌朝、竹内からメッセージが届いた。

「一人で行くのも何だから、別の友達誘ってみる。でもまた飲もう、年末に」


田村は返信した。

「もちろん。飲もう」

それだけで十分だった。


武道館がなくなっても、竹内との関係が消えるわけじゃない。矢沢永吉への気持ちが薄れても、あの七八年の夏は消えない。


好きだったものを好きでなくなることは、裏切りではない。

それもまた、時間の流れの中で起こる、自然なことだ。


その夜、田村はまたCDをかけた。

「時間よ、止まれ」が流れ始めた。

今度は、泣かなかった。

ただ静かに、聞いた。

それで良かった。


──了──


今朝 載せた

長い物語は読めましたか?


途中で

面倒になりませんでしたか?


きっと

面倒になったでしょう


ならば

これならば…     笑



来週 Kindle  予定


不完全の美学

ーまえがきー
世の中に、完全なものなんてひとつもない。
そんなことは、とうの昔に知っていたはずだった。
けれど、若い頃の僕らは、その「不完全さ」を埋めるために必死に背伸びをし、少しでも早く、少しでも深く、世の中というシステムの正体を暴こうと躍起になっていた。
薬局のレジで震えた指先。
偽物の煙にむせた放課後。
誰にも言えない秘密を共有した、仲間たちの笑い声。
今振り返れば、それはあまりに滑稽で、あまりにおバカな季節だったかもしれない。
しかし、あの「不完全」だった時間の中にこそ、僕らが手にした唯一無二の自由があったのではないか。
この本を手に取ったあなたが、もし今、完璧な大人を演じることに少しだけ疲れているのだとしたら。
どうか、封印したはずの「あの頃」を、少しだけ覗き見てほしい。

ー序章ー
ガキの頃の僕らは
やはり
その 不完全で
いやいや
それは今ですら
不完全なままではあるけれども
 
その不完全さは
あの頃よりは
少しばかし
ほんのすこしばかし
完全な方向へと
向かった けれども…
 
思えば
世の中に完全なるものは
何1つないはずで
時折
"パ~フェクト" って叫びながらも
そこには
必ずや 隙間があって
 
でも
その不完全な中で
自由を楽しみ
わがままを笑い
気ままで
おバカな季節を生きたならば
やはり
その不完全さは
間違いじゃあ~なかったはずで
 
物心がついたのは
やはり
それも
僕らには遅かったけれども
右も左も わからないほど
グレちゃ~いなかったわけで
 
でも
少しばかし斜に構え出したガキどもは
世の中の あれこれを
世の中の システムとやらを
誰よりも
1早く
知りたかったわけで
体験したかったわけで…
 
使いもしないのに
いつ
使うのかすらわからんとゆ~のに
オドオドしながら
薬局で手に入れたコンド~くん
それを
仲間たちで分けて
財布へと忍ばせたもんにゃ~
その財布には
すっかりその跡がついて
いざ
そんな場面が訪れた日には
そのコンド~くん
すっかり
カッサカサになってて…
 
早いうちから
タバコを覚えて
学ランの内ポケットじゃあ~ バレバレだからと
ボンタンに隠れた靴下の
それも内側にかくした ショッポの箱
 
そのうち
誰かが
大麻草に似たやつを河原で見つけて来て
紙に巻いて試したけれど
けむいだけで…
 
それじゃあ~って
これまた
どこからか
誰かが聞いてきた バナナの皮を乾かして粉にして
パイプで吸って
でもこれもまた おバカ…
 
仲間の家での飲み会には
酒とつまみとを調達に
バイトで仲間がレジ打つス~パ~へと押し掛け
カゴ一杯 1000円でと頼み
 
ダルマに
ジョニ赤に
カティ~サ~クに と山盛り詰め込み
1000円で
300円のおつりまでもらって…
 
恥ずかしさで
エロ本が買えず
隣町の自販機まで
皆で 夜中に出掛け
あれ? って
別の仲間に遭遇なぞして…
 
河原に落ちてたエロ本は
まさに ビニ本 ってやつで
大事な部分がにっくき黒塗りのやつ
そいつを落としてやろ~と
ない頭を使い
あれこれ努力はしてみたものの
結局
下のエロ画像まで消えてなくなって…
 
時を隔て
そんな連中が

家庭を持って
パパなんて呼ばれて
タバコなんてと~に止めて
酒だって
控えめに生きて
そろそろ
その 女もか… って齢を向かえ
 
そんな頃の姿も
匂いすらをも
一切 洗い落とし

すっかり
家族最優先で
真面目な父親を演じる
 
そしてこれぞ
不完全だったガキの頃を封印する美学だと
微笑む
 
あ~~~

一、川のある町
昭和五十八年の夏、北関東の小さな城下町には、まだ時間がゆっくりと流れていた。
人口三万に満たないその町を、水量の豊かな一級河川がゆったりと横切っていた。春には桜並木が川面に映り、夏には中学生や高校生が土手に屯して、秋風が吹くころには薄の穂が揺れた。冬になれば山の方から白い息のような霧が流れ込んできて、町全体が白くかすんだ。季節だけは、どこよりも正直に変わっていった。
竹内ヒロシは、その町の外れ、川沿いの一角に建つ古い木造の家で育った。父親は鉄工所に勤め、母親は近所の縫製工場でパートをしていた。二人とも無口で、家の中はいつも微妙な静けさに満ちていた。怒鳴り合うわけでも、笑い転げるわけでもなく、ただ湯飲みのお茶が冷めていく音がするような、そういう静けさだった。
ヒロシには三歳上の姉がいたが、中学を卒業すると郡山の洋裁学校へ行ってしまい、以来ほとんど戻ってこなかった。だからヒロシは事実上、一人っ子のような中学時代を過ごしていた。
中学二年の夏が始まる少し前、ヒロシの人生にとって最も重要な出来事が起きた。それは河川敷のタバコでも、薬局の戦利品でも、スーパーの千円でもなく、単純に「仲間」が揃ったということだった。
河原の土手の斜面に、ヒロシ、マコト、タケ、そしてキヨシの四人がはじめて同時に集まったのは、七月の中旬のことだった。夕立の後で、空気はまだ湿っていて、土手の草は雨粒を引きずってきらきらしていた。
「なんか今日、やけにぬるいな」
マコトがそう言いながら缶コーラを飲んだ。クラスが違うのに不思議と気が合う、そういうやつだった。口が達者で、どこからか情報を仕入れてくる才能があった。
「川、増えてるじゃん」とタケ。
タケは野球部だったが、三年が引退したとたんに部活をやめた。理由を聞いたら「なんかもう、いいかな」と言った。その潔さをヒロシは少し尊敬していた。
キヨシはそのころまだ、ほとんど喋らなかった。ただ川を眺めていた。後でわかることだが、キヨシは物事を人の何倍も時間をかけて考えてから口にするタイプで、それが結果として寡黙に見えていただけだった。
四人が初めて揃ったその夜、マコトが言い出した。
「なあ、コンドームって薬局で買えるん?」
それが、ある種の青春の始まりだった。


二、薬局の革命
翌日の午後、四人は町の外れにある「小山薬局」の前に集まった。昔ながらの薬局で、外には蚊取り線香と風邪薬の看板が出ていて、中では白衣を着た初老の店主が新聞を読んでいた。
「お前が買えよ」
「なんで俺なんだよ」
「じゃんけんにしよう」
三回やって、三回ともマコトが負けた。
「これ絶対イカサマだろ」と言いながら、それでもマコトは薬局に入っていった。ヒロシたちはガラス越しに見ていた。マコトが棚の前でうろうろしている。店主がちらりと顔を上げる。マコトがまたうろうろする。
およそ五分後、マコトは真っ赤な顔をして出てきた。両手に白い小さな袋を持って。
「買えた」
「うおーっ」
四人で笑い転げた。土手の上で、腹を抱えて。
それは「コンドーム」ではなく、ある種の「勲章」だった。少なくともあの夏には、そう感じた。マコトが店内でどれほど恥ずかしかったか、どんな顔をして店主に金を渡したか、それを聞いているだけで笑いが止まらなかった。
四人で中身を分けた。それぞれ財布に入れた。
ヒロシはしばらくの間、その財布を毎晩眺めた。存在するだけで何かが違う気がした。自分がひとつ先に進んだような、根拠のない自信があった。
もちろん、それが使われることはなかった。少なくともしばらくの間は。
夏が深まるにつれ、財布の中のそれはゆっくりと乾いていった。中学二年の夏というのは、そういう季節だった。理想と現実の間に、広大な草むらが広がっていた。
キヨシが初めてまとまった言葉を発したのも、この頃だった。
「でもさ」と彼は言った。川を見ながら。「使えなくても、別に困らなくないか」
誰も何も言わなかった。でもなんとなく、みんなそう思っていた。


三、ボンタンと煙
二学期が始まると、四人の中で微妙なヒエラルキーが生まれた。といっても誰かが誰かを支配するわけではなく、それぞれの役割が自然に固まっていった、というだけのことだった。
マコトは情報屋。タケは行動屋。キヨシは理論屋。そしてヒロシは、なんとなくまとめ役、というか、みんなが集まってくる場所に気づいたらなっていた。
秋口に、タバコが始まった。
最初に持ってきたのはタケだった。「ショッポ」という銘柄の、昔ながらのタバコだった。どこから手に入れたかは言わなかったが、後で聞いたら親父のを一本ずつ抜いていたと白状した。
「学ランの内ポケットは絶対ダメだぞ」とマコトが言った。「先生は絶対そこを見る」
「じゃあどこに隠すんだ」
「靴下の中」
「くさくなるじゃないか」
「それも靴下の内側にすれば大丈夫」
タケが実際にやってみせた。ボンタンズボンの裾をまくって、靴下の内側にショッポの箱を滑り込ませる。ズボンを戻すと完全に見えなかった。
「完璧だな」
「天才だわ」
もちろん天才でも完璧でもなかったが、あの瞬間は本当にそう思えた。
河原でタバコを吸った。初めて火をつけたとき、ヒロシは盛大にむせた。マコトも同じだった。タケだけがなんとか格好をつけようとしたが、三口目でやはり咳き込んだ。キヨシはゆっくりと一口だけ吸って、静かに煙を吐き出した。
「なんか、あんまりうまくないな」とキヨシが言った。
「大人の味ってやつだろ」とマコトが強がった。
「大人ってのが可哀想だな」
全員で笑った。河原で笑うとよく響いた。
大麻草に似た草を持ってきたのはタケだった。河原の茂みの中で見つけたと言って。四人で恐る恐る紙に巻いて試してみたが、ただ煙くて、目が痛くなっただけだった。次の日も何も起きなかった。
「これ普通の草じゃないのか」とヒロシが言った。
「じゃあなんで似てるんだ」
「世の中にはいろんな草がある」
バナナの皮を乾燥させて粉にして吸う、という方法は、マコトがどこかで読んできた。古い雑誌か何かに書いてあったらしい。四人で一週間かけてバナナの皮を集め、天日干しにして、丁寧に粉砕して、パイプで試した。
何も起きなかった。
「完全に嘘だったな」
「でも面白かったじゃないか」
それもまた本当のことだった。結果よりも過程が輝いていた、ということを、当時の四人はまだ言葉にできなかったが、体でわかっていた。

四、千円の魔法
冬になって、飲み会が始まった。
といっても豪勢なものではない。タケの家は両親が共働きで夜は空いていることが多かった。そこに四人が集まって、テレビを見て、レコードを聴いて、いつしか酒のことを考えるようになった。
問題は金だった。四人とも中学生で、あったとしても小遣いは月三千円程度だった。
マコトが策を立てた。
「バイトで仲間がレジ打ってるスーパーがあるだろ」
「鈴木んちの兄ちゃんがいるやつか」
「そう。あそこのレジ、鈴木んちの兄ちゃんが入ってる時間を狙えば、千円でかなりいけるんじゃないか」
誰も具体的に何を意味するか聞かなかった。なんとなく全員わかっていたし、誰も「それはまずいんじゃないか」とも言わなかった。当時の判断基準は複雑だった。
週末の夕方、四人は「ニコニコストア」に乗り込んだ。鈴木んちの兄ちゃん、鈴木ユウジ、十九歳は、確かに三番レジに入っていた。
買い物かごにタケとマコトが次々に入れた。ダルマのポスター瓶、ジョニーウォーカーの赤ラベル、カティーサークと、それから柿ピーやイカ天やポテトチップス。かごはたちまち山盛りになった。
レジに並んで、鈴木ユウジの前に差し出す。
「千円で頼む」
ユウジは一瞬目を細めた。それからゆっくりとレジを打ち始めた。スーパーの喧騒の中で、カチャ、カチャ、という音が規則正しく続く。

ユウジの手が止まる瞬間があった。でも止まらなかった。

「千円ちょうどいただきます」
ヒロシは確かに聞いた、「三百円のおつりです」という言葉を。
四人はスーパーを出てから走った。笑いながら走った。タケが「ダルマ落としそうになった」と言いながら走った。河原の土手まで走って、それから止まって、四人で笑い転げた。
夜、タケの家で飲んだ。中学生には強すぎる酒だったが、そんなことはわかりながら飲んだ。マコトが途中で気持ち悪くなってトイレに駆け込んだ。タケは途中で眠ってしまった。キヨシとヒロシは最後まで起きて、テレビを見ながらぽつりぽつりと話した。
「大人ってこういうことやってんのかな」とヒロシが言った。
「大人はもっとうまくやるんじゃないか」とキヨシが言った。「でも、うまくやるのが正解かどうかはわからん」
そのころキヨシが言うことは、いつも少し先を行っていた。

五、自販機の夜
エロ本の話は長くなる。
正確に言えば、「エロ本を手に入れるまでの話」が長いのであって、手に入れてからの話はほとんどない。なぜなら、手に入れることそのものが目的で、手に入れた後はなんとなく気まずくなったからだ。
最初のきっかけは、河原でビニ本を拾ったことだった。
ビニ本というのは、当時の成人向け雑誌の一種で、肝心な部分が黒塗りにされたやつだ。法律の規制でそうなっていた。四人はそれを拾って、ひとしきり見て、マコトが言った。
「この黒、落とせないのかな」
「落とせたら、すごいな」
四人は思いつく手段を片っ端から試した。水でぬらす。除光液を塗る。砂消しでこする。ドライヤーで熱する。薬局で買った何かよくわからない溶剤を塗る。
全部失敗した。
最後に試みたのは、マコトが「ネガにしたらどうか」と言って、カメラのネガフィルムに透かして見るという方法だった。
これは黒い部分が消えたが、その下の画像も全部消えた。
「消えた」
「完全に消えたな」
「いや、でも、これはこれで」
「何が「これはこれで」なんだ」
笑い声が川面に響いた。
本物を買おうという話になったのは、それから一ヶ月後のことだった。町内の本屋には置いていなかった。正確にはあったが、知り合いに見られる恐れがあって誰も近づけなかった。
マコトの調査によると、隣町の国道沿いに自動販売機があるという。
「自販機なら、誰にも見られない」
「夜中に行けば完璧だ」
深夜の自転車行軍が決定した。四人で国道を走った。冬の夜で、息が白かった。街灯の間隔が広くて、暗い区間では声を掛け合いながら進んだ。
たどり着いた自販機の前で、四人は突然固まった。
なぜかというと、自販機の前にすでに二人の人間がいたからだ。
「あれ」とタケが言った。小声で。「東中の、桐島んじゃないか」
「桐島と……誰だろう」
向こうも気づいた。沈黙があった。それからほぼ同時に、全員が笑い出した。
桐島は翌月、四人と同じ高校に入学してきた。そのことで、仲間は五人になった。
自販機の夜は、ある種の出会いの夜でもあった。

六、バブルの中の地方都市
高校に入ると、世の中が少しずつ変わってきた。
昭和が終わり、平成になった。バブルという言葉がテレビから頻繁に聞こえてくるようになった。東京では地価が信じられない速度で上がり、ディスコが毎晩満員になり、女の子たちの肩パッドがどんどん大きくなっていった。
地方都市のその町にも、その波は届いていた。ただし、遅れて、薄まった形で。
商店街に一軒、ディスコ風のクラブができた。名前は「キャメロット」。入口にミラーボールが吊るされていた。金曜の夜になると、高校生たちが集まってきた。四人も、というか五人も、そこに出入りするようになった。
ヒロシがはじめて女の子と踊ったのは、高校二年の秋のことだった。相手は同じクラスの松田ミキで、化学の授業でグループになったのがきっかけだった。キャメロットで偶然会って、マコトが「踊ってこいよ」と背中を押した。
ヒロシはステップを知らなかったから、ただ体を揺らしていた。ミキも似たようなものだった。二人で向かい合って、音楽に合わせて揺れた。それだけだったが、帰り道のヒロシの頭の中は、なんだかざわざわしていた。
マコトはこの頃、すでに彼女がいた。一個下の子で、名前はユキといった。付き合い始めると、マコトは急に落ち着いた。以前の情報屋としての鋭さが薄れた代わりに、何か別の柔らかさが出てきた。恋愛というものが人を変えるということを、ヒロシはマコトを見て学んだ。
タケは相変わらず行動屋だった。高校に入ってバイクの免許を取り、原付で山の向こうの町まで遠出するようになった。ひとりで走るのが好きだと言っていた。仲間といるのも好きだが、ひとりで走っているときにしか考えられないことがある、と珍しく詩的なことを言った。
キヨシは図書館に入り浸るようになった。小説を読み始めた。夏目漱石から始まって、太宰治、三島由紀夫と読み進んで、気がつけば翻訳文学にも手を出していた。そのことを自分から言わなかったが、たまに読んでいる本を見せてくれた。
桐島は、五人の中で一番早く社会のルールを理解した。「どうすれば怒られないか」ではなく、「どうすれば生き延びられるか」を本能的に知っていた。高校三年のとき、桐島は進路について「東京の専門学校に行って、音楽で食っていく」と言った。全員が笑ったが、桐島だけは笑わなかった。
バブルの時代は、夢を言っても笑われない時代だった。少なくともそういう空気があった。何かをやれば何かになれる気がした。それが幻想だったとしても、幻想が人を動かすことはある。
高校三年の夏、五人で最後の河原に来た。日が落ちてから、土手の草の上に寝転んで、星を見た。
「なんか、あっという間だったな」とマコトが言った。
「これからが長いんじゃないのか」とキヨシが言った。
「俺、東京行く」と桐島が言った。
「俺も」とマコトが言った。
「俺は残る」とタケが言った。「この町にいたい理由がある」
理由は言わなかった。でも全員なんとなくわかった。タケには、この町に好きな人がいた。
ヒロシは何も言わなかった。空を見ていた。
星がよく見えた。地方都市の空は、まだ暗くて、星が多かった。

七、父親たちの夜
三十年後の秋、その町の駅前に「居酒屋 天下一」という店があった。昔は電気屋だったが、バブルが弾けて閉店して、しばらく空き家になって、いつのまにか居酒屋になっていた。
ヒロシが東京から帰ってきたのは、父親の葬儀のためだった。連絡を受けて、新幹線で、それから在来線で、久しぶりに懐かしい駅に降り立った。
葬儀の翌々日、マコトから連絡が来た。
「集まろう」
それだけだった。居酒屋の名前が書いてあった。
五人が揃うのは、十年ぶりだった。それ以上だったかもしれない。
タケは太っていた。ヒロシより確実に十キロ以上重そうだった。でも顔は変わらなかった。笑うと昔のタケだった。
マコトは白髪が増えていた。でも口の達者さは変わらなかった。席についた瞬間から喋り始めた。
キヨシは相変わらず静かだった。でも目の奥に、何か重なったものがある感じがした。長い読書の痕跡のような何かが。
桐島は東京にいた。この日のために飛行機で戻ってきた。音楽で食ってはいないが、レコード会社の営業をしていると言った。「間接的には音楽で食ってる」と笑った。
最初のビールを飲んで、しばらく近況報告をして、そのうちみんな昔の話を始めた。
「コンドームを薬局で買った話、覚えてるか」
「忘れるわけないだろ」とマコトが赤くなりながら言った。「恥ずかしすぎて、今でも夢に見る」
「千円でスーパーで山ほど買った話」
「ユウジ、今は川向こうで米屋やってるぞ」とタケが言った。「この間、米買ったら笑ってた」
「何がおかしかったんだ」
「わかってるくせに」
全員で笑った。
バナナの皮の話もした。大麻草もどきの話もした。自販機の夜の話もした。桐島が「あの夜がなかったら、俺、今ここにいなかったな」と言った。「出会い方が最高だった」
酒が進むにつれて、話は静かになっていった。子供たちの話をした。奥さんの話をした。仕事の話をした。ヒロシが父親のことを話したとき、誰も何も言わなかったが、キヨシがそっと肩を叩いた。それで十分だった。
閉店間際、マコトが言った。
「俺たち、ずいぶんいい加減なガキだったな」
「そうか?」とタケが言った。「俺はそんなに悪くなかったと思うけど」
「悪いとか良いとかじゃなくて、いい加減だったってことだ」
「まあな」
「でも」とキヨシが言った。久しぶりにまとまった言葉で。「あの頃の不完全さが、今の俺たちを作ったんじゃないか。完全だったら、こんなに仲良くなかった気がする」
誰も何も言わなかった。
店の外に出ると、冷たい空気だった。駅の方向に、昔と同じように街灯が並んでいた。川の方から、かすかに水の匂いがした。
「また来年」
「来年」
「来年」
ヒロシは最後に残った。一人でしばらく立っていた。
星は、昔ほど見えなかった。町に光が増えたからだ。でも全部消えたわけでもなかった。
ヒロシは少し笑って、駅の方向に歩き始めた。

昭和後期〜バブル期
北関東の地方都市を舞台に

ー完ー


ーあとがきー
気がつけば、僕らはすっかり「パパ」や「社会人」という仮面が似合う年齢になった。
煙草を止め、酒を覚え、家族の幸せを最優先に考える。
それは、ある意味では「完全な大人」に近づいた証拠なのかもしれない。
けれど、ふとした瞬間に思い出す。
財布に残っていたあの輪っかの跡や、雨の日の河原の匂いを。
そのたびに、僕らの内側にある「不完全なガキ」が、今もひっそりと息づいていることを知る。
過去を洗い落とし、真面目な父親を演じること。
それ自体が、実は「不完全だった自分たち」への、最大級の敬意であり、美学なのではないか。
あの頃の僕らは、間違いじゃなかった。
そして、今を生きる僕らも、きっと間違いじゃない。
この詩の最後の余韻が、あなた自身の「不完全な物語」と重なり、柔らかな微笑みへとつながることを願って。


ー紹介文ー
「僕らはいつ、不完全であることをやめたのだろう?」
昭和から平成へ、煤けた風が吹く河原で、僕らは「大人」の真似事をして生きていた。
財布に忍ばせたカッサカサの秘密、靴下に隠した煙草の箱、黒塗りの向こう側に夢見た世界——。
時を経て、かつての少年たちは今、立派な「父親」を演じている。
けれど、その背中に流れるのは、消したはずのあの頃の匂いだ。
本書は、そんな「不完全な季節」を駆け抜けたすべての人に贈る、不器用な魂の記録。
恥ずかしくて、滑稽で、けれど最高に美しい「あの頃」を封印し、今を懸命に生きる男たちのための詩集です。




8章「手を差し出して」

 三月の第三週に入ると、金沢はようやく春の気配を見せ始めた。
 雪はほとんど消えた。兼六園の梅が咲き始めた、という話を田中から聞いた。誠はまだ見ていなかったが、朝の空気に確かに何かが混じっていた。土の匂いのようなもの。冬の間ずっと眠っていた何かが、少しずつ目を覚ます匂い。
 誠の引き継ぎは、ほぼ終わっていた。
 田中は優秀だった。誠が渡したものを、丁寧に受け取り、自分なりに咀嚼して、すでに自分のものにしつつあった。「所長がいなくなっても、大丈夫です」と田中は笑いながら言った。冗談のようで、本気だった。誠はそれが少し誇らしかった。
 取引先への挨拶は、まだ続いていた。
 長く付き合いのあった取引先ほど、別れを惜しんでくれた。石川の代理店の社長が、「柏木さんは変わった」と言った。「最初の頃は、仕事はできるが近寄りがたい人という印象だったが、この一年で何か変わった気がする」と。誠は苦笑しながら、「そうかもしれません」と答えた。
 変わった、とまた言われた。
 田中にも言われた。取引先にも言われた。
 変えたつもりはなかった。ただ、蛇口が少しずつ緩んできた。それだけのことが、外から見ると「変わった」に見えるらしかった。

 あの夜以来、誠は喫茶ソラへ、ほぼ毎日行くようになった。
 残り時間を意識していたからかもしれない。あるいは、言葉にしてしまったことで、格好をつける必要がなくなったからかもしれない。とにかく、誠は仕事を終えると、まっすぐ喫茶ソラへ向かった。
 芽依との関係は、あの夜を境に変わった。
 変わった、というのも正確ではないかもしれない。本質は変わらなかった。芽依は相変わらず丁寧にコーヒーを淹れ、誠は相変わらずカウンターの端に座った。沈黙は相変わらず心地よかった。
 ただ、二人の間にあった宙ぶらりんな感じが、消えていた。
 言葉にしたことで、何かが定まった。お互いの気持ちを知っている。現実も知っている。その上で、この時間を過ごしている。そういう透明さが、以前とは違った。
 芽依は時々、誠の隣に来て、並んでカウンターに肘をついた。客が少ない夜は、そうすることが増えた。肩が触れるほどの距離ではなかったが、以前より近かった。その距離が、誠には温かかった。
 「今日、兼六園の梅が満開だそうです」と芽依が言ったのは、ある夜のことだった。
 「見に行きましたか」
 「昼間、少しだけ」と芽依は言った。「白い梅と、ピンクの梅と。白い方が好きです」
 「なぜ」
 「派手じゃないから」と芽依は言った。「ひっそり咲いている感じが」
 「あなたに似ていますね」と誠は言った。
 芽依が少し、笑った。
 「褒めているんですか」
 「もちろんです」
 「なら、ありがとうございます」
 こういう会話が、今の二人にはあった。以前はなかった種類の会話。軽くて、温かくて、お互いの距離がわかっている人間同士の会話。

 ある夜、芽依が誠に言った。
 「一つ、お願いがあります」
 「何ですか」
 「金沢を去る前に」と芽依は言った。少し考えながら。「一度だけ、昼間に一緒に歩きませんか。この街を」
 誠は少し驚いた。
 「店は」
 「定休日があるので」と芽依は言った。「月曜日は休みです。来週の月曜日に、時間がありますか」
 来週の月曜日。誠が金沢を去る一週間前だった。
 「あります」と誠はすぐに言った。
 「よかった」と芽依は言った。「どこへ行きたいですか」
 「あなたが決めてください」と誠は言った。「あなたの金沢を、見せてほしいので」
 芽依は少し嬉しそうな顔をした。
 「わかりました」と芽依は言った。「じゃあ、案内します」

 月曜日の朝、誠が待ち合わせ場所へ行くと、芽依はもう来ていた。
 犀川の橋のたもとで、コートを着て、川を見ていた。店のエプロン姿ではなく、普通の格好をした芽依を見るのは初めてだった。紺色のコートで、マフラーをしている。髪を下ろしていた。
 誠が近づくと、芽依が振り返った。
 「おはようございます」
 「おはようございます」と誠は言った。「待たせましたか」
 「いいえ、私が早く来すぎた」と芽依は言った。「川を見ていました。冬の川と、春の川は、色が違うので」
 「どう違うんですか」
 「春の方が、少し緑がかっている気がします。雪が溶けて、山から流れてくる水が増えるから」
 誠は川を見た。
 確かに、水量が増えていた。水の色が、深かった。
 「行きましょうか」と芽依が言った。

 その日、芽依は誠を、観光地ではない金沢へ連れて行った。
 最初に行ったのは、芽依が子どもの頃に通っていた小学校の近くだった。今は廃校になって、建物だけが残っている。古い木造の校舎で、窓に板が打ち付けてあった。
 「ここで育ったんですか」
 「すぐそこに実家があって、毎日歩いて通っていました」と芽依は言った。「冬は雪で、ランドセルが重くて。でも、友達と雪合戦をしながら帰るのが好きだった」
 誠はその景色を見ながら、芽依の子どもの頃を想像した。
 「妹とも、一緒に通っていましたか」
 「三年間だけ」と芽依は言った。「妹の方が三つ下なので。妹が入学してきたとき、すごく恥ずかしかったのを覚えています。小学生は、家族に対して恥ずかしがるじゃないですか」
 「しましたね」と誠は笑った。「私も、母親が学校に来ると恥ずかしかった」
 「どんなお母さんですか」
 「明るい人です。大阪の人間なので、よくしゃべる」
 「今も、連絡を取っていますか」
 「月に一度くらい。もう少し増やしてもいいかもしれない、と最近思っています」
 「なぜ最近」
 「あなたが、お父さんともっと話せばよかったと言っていたので」と誠は言った。「思い出して」
 芽依は少し驚いた顔をして、それから柔らかく笑った。
 「それは、よかった」

 次に芽依が連れて行ったのは、小さな神社だった。
 観光地として知られているわけではなく、地元の人間が参る、古くて小さな社だった。石段が苔むしていて、境内に大きな木が一本立っていた。
 「子どもの頃、ここで遊んでいたんですか」
 「遊ぶというより」と芽依は言った。「父と来ていました。父が、ここが好きで。用事があるわけでもないのに、時々来ていた」
 「お父さんは、信心深い人だったんですか」
 「どうでしょう。信心というより、静かな場所が好きだったんだと思います。人が少なくて、木があって、時間がゆっくり流れているところ」
 誠は境内を見渡した。
 確かに、静かだった。街の中にあるのに、ここだけ時間が違う。木の葉が風に揺れる音と、遠くで鳥が鳴く声だけがある。
 「父が亡くなってから、時々来ます」と芽依は言った。「話せなかったことを、ここで話すような気分で」
 「何を話すんですか」
 「色々と」と芽依は言った。少し笑いながら。「今日は、柏木さんのことを話していました。来る前に」
 「私のことを」
 「ええ」
 「なんと」
 「来月、金沢を去る人がいます、と」と芽依は言った。「その人のことが、好きです、と」
 誠は、しばらく何も言えなかった。
 神社の木が、風に揺れた。
 「お父さんは、何と答えましたか」
 「答えは返ってこないですよ」と芽依は笑った。「でも、風が少し吹いた気がしたので、聞こえたんじゃないかと思っています」
 誠は境内の木を見た。
 「よかった」と誠は言った。「ちゃんと話してくれて」
 「柏木さんのことは、ちゃんと報告しておきたかったので」と芽依は言った。当然のことのように。
 誠はその言い方が、好きだった。

 昼は、芽依が予約していた店に行った。
 近江町市場の近くの、小さな料理屋だった。カウンターだけの、十席もない店。店主が一人で切り盛りしていた。
 「ここは、父に連れてきてもらった店です」と芽依は言った。「特別な日に、来ていた」
 「今日は特別な日ですか」
 「そうです」と芽依は言った。迷わず。
 料理は、地のものを丁寧に使った献立だった。加賀野菜の炊き合わせ、香箱蟹の和え物、白海老の天ぷら。どれも派手さはないが、素材の良さが正直に出ていた。
 誠は食べながら、これが金沢の味だと思った。三年間いて、こういう場所を知らなかった。観光地のレストランや、会社の接待で使う料理屋は知っていたが、こういう小さくて正直な店を、誠は一人では見つけられなかった。
 「うまいですね」と誠は言った。「本当に」
 「父も、ここのご飯が一番好きだと言っていました」と芽依は言った。「派手じゃないけど、正直な味だと」
 「お父さんと言葉が似ていますね」
 「似ているんですか、私と父」
 「派手じゃないから好き、と言うあたりが」と誠は言った。「今朝の梅の話でも」
 芽依が声を出して笑った。
 「言われてみれば、そうかもしれない」
 店主が二人の様子を見て、「ご夫婦ですか」と言った。
 誠と芽依は、一瞬、顔を見合わせた。
 「いいえ」と芽依が言った。
 「友人です」と誠が言った。
 二人の答えが重なった。
 店主は「そうですか」と言って、次の料理を運んできた。
 誠は芽依を見た。芽依も誠を見た。
 二人とも、何も言わなかった。
 だがその沈黙の中に、言葉にしなかった何かがあった。友人、と言った。それは嘘ではなかった。だが全部でもなかった。
 芽依が少し、目を逸らした。
 誠は、その横顔を見た。

 午後、芽依は誠を海へ連れて行った。
 金沢から車で三十分ほどの場所に、日本海に面した浜があった。芽依が運転した。誠は助手席に乗り、窓の外の景色を見た。
 田んぼが広がって、山が遠くに見えて、やがて海が見えてきた。
 「よく来るんですか」
 「年に何度か」と芽依は言った。「行きたくなったとき」
 「どんなときに行きたくなるんですか」
 「気持ちが詰まったとき」と芽依は言った。「広いものを見ると、少し楽になるので」
 浜に着くと、風が強かった。
 三月の日本海は、まだ荒い。波が白く砕けて、浜に打ち寄せてくる。誠はコートの前を押さえながら、芽依と並んで浜に立った。
 誰もいなかった。
 ただ、海と、空と、二人だけだった。
 「父の絵は、ここの海ですか」と誠は言った。
 「近くの海です」と芽依は言った。「父が生まれた場所の近く。輪島の方の、もう少し小さな浜」
 「いつか、見に行けますか」
 芽依は少し驚いた顔をした。
 「柏木さんが、ですか」
 「いつか、という話です」と誠は言った。「来月のことではなく。いつか、また金沢へ来ることがあれば、連れて行ってほしい」
 芽依はしばらく、海を見ていた。
 波が打ち寄せては、返していった。
 「連れて行きます」と芽依はやがて言った。「来てくれれば」
 「来ます」
 「約束ですか」
 「約束です」と誠は言った。
 芽依は海を見たまま、少し微笑んだ。
 誠も海を見た。
 灰色の空の下、日本海が広がっていた。波の音だけが、絶えずある。風が二人の間を吹き抜けた。
 誠は、芽依の手が自分の手に近いことに気づいた。
 コートのポケットから出した手が、芽依の手のそばにあった。数センチの距離だった。
 誠はその距離を、しばらく感じていた。
 それから、ゆっくりと、手を動かした。
 芽依の手に、触れた。
 芽依は動かなかった。
 引かなかった。
 誠はそっと、芽依の手を包んだ。
 芽依の手は、冷たかった。風に当たっていたから。だが、誠の手の中で、少しずつ温かくなっていった。
 二人は何も言わなかった。
 海を見ていた。
 波が来て、返して、また来た。
 その繰り返しの中で、二人は並んで立っていた。
 どのくらいそうしていたか、誠にはわからなかった。
 時間が、違う速度で流れていた。

 帰り道、芽依が運転しながら言った。
 「今日、来てくれてよかった」
 「私も」と誠は言った。「ありがとうございます。あなたの金沢を、見せてくれて」
 「私の金沢、というほどのものじゃないですが」
 「十分です」と誠は言った。「むしろ、こちらの方が本物だと思いました」
 「本物」
 「観光の金沢ではなくて」と誠は言った。「あなたが育って、生きてきた場所としての金沢。それを見せてもらえた気がします」
 芽依はしばらく黙って運転した。
 「柏木さんは」と芽依はやがて言った。「東京で、どんなふうに暮らしますか」
 「どんなふうに、というのは」
 「今まで通りに戻るんですか。仕事だけで、一人で」
 誠は少し考えた。
 「戻りたくないです」と誠は言った。「今まで通りには。でも、どうすればいいかは、まだわからない」
 「少しずつでいいと思います」と芽依は言った。「今日みたいに、ちゃんと見ることができる人は、大丈夫です」
 「ちゃんと見る、というのは」
 「海とか、梅とか、川の色とか」と芽依は言った。「そういうものをちゃんと見られる人は、一人でいても、孤独じゃないと思うので」
 誠はその言葉を、静かに受け取った。
 孤独じゃない。
 一人でも、孤独じゃない。
 それは、芽依自身にも当てはまる言葉だと思った。父親を亡くして、恋人と別れて、一人で店を続けてきた女が、それを知っている。
 「あなたは」と誠は言った。「孤独ですか」
 「時々は」と芽依は言った。正直に。「でも、今日は違います」
 「今日は」
 「柏木さんがいるので」
 誠は窓の外を見た。
 夕暮れの田んぼが、オレンジ色に染まっていた。

 金沢の街へ戻ってきたとき、空はもう夕暮れだった。
 芽依が車を停めた。喫茶ソラの近くの、小さな駐車場だった。
 二人は車を降りて、路地に立った。
 「店を開ける時間です」と芽依は言った。「今日は、ありがとうございました」
 「こちらこそ」と誠は言った。「本当に」
 芽依がコートのボタンを直した。それから、誠を見た。
 「来週も、来てくれますか」
 「来ます。毎日」
 「毎日は、大げさですよ」と芽依は笑った。
 「大げさじゃないです」と誠は言った。「残り一週間しかないので」
 芽依の笑顔が、少し変わった。
 笑ったままだったが、目の奥に何かが浮かんだ。
 「そうですね」と芽依は言った。「残り一週間」
 二人の間に、短い沈黙があった。
 誠は芽依を見た。夕暮れの光の中の芽依を。
 今この瞬間を、覚えていようと思った。
 この光の色を。この路地の空気を。この人の顔を。
 「行きます」と芽依は言った。「店を開けないといけないので」
 「はい」
 「おやすみなさい。今夜は来ないでください。ゆっくり休んでください」
 「わかりました」と誠は言った。
 芽依が路地を歩き始めた。
 数歩行って、振り返った。
 「今日、楽しかったです」
 「私もです」
 芽依が笑った。それからまた歩き始めた。
 喫茶ソラの引き戸を開けて、中に入った。
 カランコロン、という鈴の音が、路地に小さく響いた。

 誠は路地に一人、立っていた。
 夕暮れの光の中で。
 しばらく、そのまま立っていた。
 何かが、胸の中に満ちていた。
 何と名付ければいいかわからなかった。幸福、と呼ぶには少し重かった。感謝、と呼ぶには少し違った。ただ、満ちている、という感覚だった。
 長い間、空っぽだったものが、少しずつ満たされていく感覚。
 誠はコートのポケットに手を入れた。
 さっき芽依の手を包んだ手が、まだ少し、温かかった気がした。
 東京へ行く。
 それは変わらない。
 だが何かが変わった。何かが、変わった。
 誠は歩き始めた。
 マンションへ向かって。
 三月の夕暮れの金沢を、一人で、しかし満ちた気持ちで歩いた。


9章「責任という名の愛」
 金沢を去る一週間前から、誠の時間の流れ方が変わった。
 同じ二十四時間のはずなのに、密度が違った。朝起きて、空の色を確かめる。通勤の道で、石畳の感触を意識する。営業所の窓から見える山の稜線を、これまでより長く眺める。三年間いて、見ていたようで見ていなかったものが、去ることが決まった途端に、急に鮮明になってくる。
 人間とはそういうものだ、と誠は思った。
 手放すとわかったとき、初めてその重さがわかる。
 田中への引き継ぎは完了していた。取引先への挨拶も、ほぼ終わった。残っているのは、荷物の整理と、いくつかの事務手続きだけだった。仕事の上では、誠はすでに金沢を半分出ていた。
 だが気持ちの上では、まだここにいた。
 この街に、この路地に、あの小さな喫茶店に。

 約束通り、誠は最後の一週間、毎日喫茶ソラへ行った。
 芽依は「毎日は大げさですよ」と言っていたが、実際に毎日来る誠を、文句も言わずに迎えてくれた。
 それぞれの夜は、それぞれの色を持っていた。
 月曜日の夜は、客が少なくて、二人でずっと話した。誠の大阪の話。子どもの頃の話。父親とうまく話せなかった話。芽依は静かに聞いて、「電話してみてください、お父さんに」と言った。
 火曜日の夜は、芽依が新しいお菓子を試作していて、誠が最初の客として食べた。レモンのケーキだった。少し酸っぱくて、しかし後味が爽やかだった。「どうですか」と芽依が聞いた。「春の味がします」と誠は答えた。芽依がメニューに加えることを決めた。
 水曜日の夜は、珍しく誠が酒を持ち込んだ。能登の地酒を一本。芽依に許可を取ってから、二人でカウンターで少しずつ飲んだ。芽依は「お酒はあまり強くないです」と言いながら、二杯飲んだ。頬が少し赤くなった。誠はその顔を、ずっと見ていた。
 木曜日の夜は、雨だった。雨の音を聞きながら、二人はほとんど何も話さなかった。ただ、同じ空間にいた。その沈黙が、誠にはこれまでで一番心地よかった。
 金曜日の夜、誠は言った。
 「明後日、出発します」
 「日曜日ですね」と芽依は言った。
 「はい」
 「荷物は」
 「業者に頼んで、先に送りました。残りは鞄一つです」
 芽依はしばらく黙った。
 「土曜日は、来ますか」
 「来ます。最後に」
 「わかりました」と芽依は言った。「土曜日は、早めに閉めます。あなたと、ちゃんと話したいので」
 ちゃんと話したい、という言葉が、誠には重かった。
 何を話すのか。
 何を話すべきなのか。
 誠にはまだ、答えがなかった。

 土曜日の夜、誠は少し早めに喫茶ソラへ向かった。
 最後の夜だった。
 引き戸を開けると、店には客が二人いた。芽依が「少し待ってください」と目で言った。誠はカウンターに座り、コーヒーを飲みながら待った。
 客が帰った。
 芽依が「少し早いですが、閉めます」と言い、看板の明かりを消した。
 店に二人だけになった。
 芽依がカウンターの前に来て、誠の向かいに立った。
 「最後の夜ですね」と芽依は言った。
 「そうです」
 「何か、飲みますか」
 「コーヒーを」と誠は言った。「最後も、コーヒーで」
 芽依が丁寧にコーヒーを淹れた。
 誠はその様子を、目に焼き付けるように見ていた。豆を挽く動作。お湯を注ぐ動作。カップを置く動作。全部、見ていた。
 コーヒーを受け取った。
 一口飲んだ。
 「うまい」と誠は言った。
 「ありがとうございます」と芽依は言った。「三年間で、何百回言ってもらったかわからないですが、毎回嬉しいです」
 「本当のことを言っているので」
 「知っています」と芽依は言った。「だから嬉しい」

 しばらく、二人は静かにいた。
 誠がコーヒーを飲み、芽依がカウンターを拭き、雨の音が外で続いていた。金沢の最後の夜も、雨だった。最初の夜も雨だった。始まりと終わりが同じ天気であることを、誠は少し不思議に思った。
 「聞いてもいいですか」と誠は言った。
 「どうぞ」
 「私が東京へ行った後のことを、どう考えていますか」
 芽依は少し間を置いた。
 「どう考えているか、というのは」
 「私たちのことを」と誠は言った。「正直に、聞かせてください」
 芽依はカウンタークロスを置いた。
 誠を見た。
 「正直に言います」と芽依は言った。「続けたいと思っています」
 誠は息を止めた。
 「続ける、というのは」
 「連絡を取り合って」と芽依は言った。「会える時に会って。それが、どこへ向かうかは、まだわからないですが。ただ、終わりにしたくないと思っています」
 「終わりにしたくない」
 「はい」
 誠はしばらく、芽依の顔を見ていた。
 芽依は目を逸らさなかった。いつもより少し緊張した顔だったが、まっすぐに誠を見ていた。
 「私も」と誠は言った。「同じです」
 「よかった」と芽依は小さく言った。
 「ただ」と誠は続けた。「一つ、正直に言わせてください」
 「はい」
 「私は」と誠は言った。「あなたに対して、誠実でいたいと思っています。連絡を取り合うとか、時々会うとか、そういう曖昧な関係ではなく。それがどういう形になるかは、これから考えていきたいですが、あなたのことを、ちゃんと大切にしたいと思っている」
 芽依は黙って聞いていた。
 「以前、妻を透明にした。それは私の失敗で、その失敗を、あなたに繰り返したくない。だから、中途半端にはしたくないんです」
 「中途半端にしたくない」と芽依は繰り返した。
 「はい」
 芽依はしばらく考えた。
 「それは」と芽依はやがて言った。「重い言葉ですね」
 「重いですか」
 「重い」と芽依は言った。「でも、嬉しいです。重くて、嬉しい」
 「矛盾していますね」
 「矛盾していません」と芽依は言った。静かに、しかしはっきりと。「大切にされるということは、重いことだと思うので。重くない大切にされ方は、たぶん本物じゃないから」
 誠はその言葉を、静かに受け取った。
 重くない大切にされ方は、本物じゃない。
 芽依は、そういうことを知っている女だった。四年間の恋の終わりを、父親の死と同じ時期に経験した女が、それでもここに立って、重いけれど嬉しいと言っている。
 誠はその強さを、あらためて感じた。

 「一つ、私からも言っていいですか」と芽依は言った。
 「もちろんです」
 「柏木さんは」と芽依は言った。「自分のことを、人を透明にした男だと言いますが」
 「はい」
 「私は、そうは思っていません」
 誠は少し驚いた。
 「過去のことは、私にはわかりません」と芽依は続けた。「でも、今のあなたを見ていると、ちゃんと人を見ている人だと思います。私のことも、ちゃんと見てくれている。最初の夜から」
 「最初の夜」
 「最初に来てくれた夜、父の絵を見て、同じ手の絵だと言ってくれた」と芽依は言った。「あれを言ってくれた人は、初めてでした。ちゃんと見ていないと、そういうことは言えない」
 誠は、あの夜のことを思い出した。
 壁の水彩画を見て、「同じ手の絵に見えた」と言った。それだけのことが、芽依には残っていた。
 「あなたも、ちゃんと見ていてくれたんですね」と誠は言った。
 「ずっと」と芽依は言った。「来てくれる度に」
 誠はその言葉を、静かに受け取った。
 見ていた。お互いに、見ていた。
 長い間、誰かにちゃんと見てもらえていないと思っていた。誰かをちゃんと見ることができていないと思っていた。だがここでは、見ていた。見てもらっていた。
 それが、この場所の本当の意味だったのかもしれない。

 十一時近くなった頃、誠は立ち上がった。
 コートを着た。
 「明日、何時に出発ですか」と芽依が聞いた。
 「午前中に、金沢駅から新幹線で」
 「見送りは」
 「田中が来てくれると言っていますが、来なくていいと伝えました」
 「私もですか」
 誠は少し考えた。
 「来てくれますか」
 「来たいです」と芽依は言った。「来ていいですか」
 「もちろんです」と誠は言った。「来てほしいです」
 「では、来ます」
 「ありがとうございます」
 芽依がカウンターを出てきた。
 誠の前に立った。
 誠は芽依を見た。
 「長い間、ありがとうございました」と誠は言った。「この店のことも、あなたのことも、金沢を好きにしてくれて」
 芽依は少し、目が潤んだ。
 泣くかと思った。だが芽依は泣かなかった。
 「こちらこそ」と芽依は言った。「来てくれて、ありがとうございました」
 誠は少し迷った。
 それから、両腕を広げた。
 芽依は一瞬、驚いた顔をした。
 それから、誠の胸に、そっと寄り添った。
 誠は芽依を、静かに抱いた。
 強くではなく、壊れないように、しかし確かに。
 芽依の肩が、誠の腕の中で少し震えた。
 泣いているのかもしれなかった。誠にはわからなかった。ただ、震えていた。
 誠も、何かがこみ上げてくる感じがした。目が熱くなった。四十七の男が泣くのかと思った。だが、こみ上げるものをこらえることが、今夜は格好つけることに思えた。
 だから、こらえなかった。
 二人は、しばらくそうしていた。
 店の中は静かだった。
 雨の音だけが、外で続いていた。

 別れ際、芽依が言った。
 「明日、ちゃんと会いましょう」
 「はい」
 「今夜は、おやすみなさい」
 「おやすみなさい」
 誠は引き戸を開けた。
 鈴がカランコロンと鳴った。
 その音を、誠は最後まで聞いた。

 マンションへ帰ると、部屋はがらんとしていた。
 荷物はほとんど送ってしまった。ソファだけが残っていた。業者が引き取りに来るのは、翌日の出発前だった。
 誠はそのソファに座った。
 空っぽの部屋を見渡した。
 三年間、一人で住んだ部屋だった。最初は何も感じなかった部屋が、今は少し惜しい気がした。この部屋の窓から、何度も雨を見た。雪を見た。この部屋で、何度も芽依のことを考えた。
 誠はコートのポケットから、スマートフォンを取り出した。
 父親の番号を探した。
 芽依に言われたことを、思い出した。「電話してみてください、お父さんに」。
 誠は少し迷った。
 夜の十一時過ぎだった。父親はもう寝ているかもしれない。だが、かけてみようと思った。
 呼び出し音が二回鳴って、父親が出た。
 「誠か」
 「ああ。起きていたか」
 「ニュースを見ていた。どうした、こんな時間に」
 「明日、金沢から東京へ戻る。それを言おうと思って」
 「そうか」と父親は言った。「元気か」
 「元気だ」
 「金沢は、どうだった」
 誠は少し考えた。
 「よかった」と誠は言った。「来てよかったと思う」
 「そうか」
 「親父は、元気か」
 「まあまあだ。膝が痛いが、それ以外は」
 「一度、帰る。東京へ落ち着いたら」
 父親が少し黙った。
 「そうか」と父親はやがて言った。その声が、少し柔らかくなった気がした。「待っている」
 「ああ」
 「気をつけて帰ってこい」
 「わかった」
 電話を切った。
 誠はスマートフォンを膝の上に置いて、しばらくそのままでいた。
 父親の声が、思ったより温かかった。何年もまともに話していなかったのに、「待っている」と言った。
 待っている。
 その言葉が、誠には重かった。
 芽依の父親は、もういない。芽依はもう「待っています」と言ってもらえない。その代わりに、神社の木が風に揺れる。
 誠の父親は、まだいる。
 そのことを、誠は今夜初めて、正面から感じた。

 翌朝、誠は早く目が覚めた。
 ソファで眠っていた。ベッドはもうなかった。
 窓から空を見た。晴れていた。三月末の金沢に、珍しく晴れた朝が来ていた。
 誠は最後の荷物をまとめた。鞄一つ。三年間の金沢が、鞄一つに収まっていた。
 業者が来てソファを引き取った。部屋が完全に空になった。
 誠は空っぽの部屋に一人で立って、窓の外を見た。
 金沢の空が、青かった。
 三年間、この窓から何度空を見たか。雨の日が多かった。雪の日もあった。だが今日は晴れていた。去る日に、晴れている。
 誠はそれを、良い兆しだと思った。

 金沢駅の改札前で、芽依は待っていた。
 コートを着て、マフラーをして、手に小さな紙袋を持っていた。誠が近づくと、芽依が顔を上げた。
 「おはようございます」
 「おはようございます」と誠は言った。「来てくれた」
 「来ると言いましたから」
 「寒くなかったですか」
 「少し」と芽依は言った。「でも、今日は晴れているので」
 二人で改札の前に立った。
 乗車時間まで、十五分ほどあった。
 「これ」と芽依が紙袋を差し出した。「持っていってください」
 誠は受け取った。中を見ると、レモンのケーキが入っていた。あの火曜日に試作した、春の味がするケーキ。
 「作ってきてくれたんですか」
 「今朝、早起きして」と芽依は言った。「電車の中で食べてください」
 誠はしばらく、その袋を見ていた。
 「ありがとうございます」
 「お口に合えばいいですが」
 「合います」と誠は言った。「必ず」
 芽依が少し笑った。
 駅のアナウンスが流れた。誠の乗る新幹線の案内だった。
 「そろそろですね」と芽依は言った。
 「そうですね」
 二人は向かい合った。
 誠は芽依を見た。晴れた朝の光の中の芽依を。
 「連絡します」と誠は言った。「東京に着いたら」
 「待っています」
 「ゴールデンウィークに、来てもいいですか。金沢に」
 芽依の顔が、少し明るくなった。
 「来てください」と芽依は言った。「待っています」
 「二度も待っていると言ってくれた」と誠は言った。
 「二度分、待っています」と芽依は言った。
 誠は小さく笑った。
 「では」と誠は言った。
 「では」と芽依も言った。
 誠は鞄を持ち直した。紙袋を、大切に持った。
 改札へ向かおうとして、止まった。
 振り返った。
 芽依がそこに立っていた。
 誠は戻らなかった。戻れば、行けなくなる気がした。
 ただ、芽依を見た。
 芽依も、誠を見た。
 その目が、何かを言っていた。言葉にしない何かを。
 誠はそれを受け取った。
 それから、改札を通った。

 新幹線の座席に座ると、誠はしばらく動かなかった。
 窓の外に、金沢駅のホームが見えた。
 芽依はもういなかった。改札の外だった。見えない場所にいた。
 だが誠には、確かにそこにいる気がした。
 列車が動き出した。
 ゆっくりと、金沢の街が流れ始めた。
 誠は窓の外を見た。駅のビル、街の屋根、犀川の橋、遠くの山。三年間の景色が、後ろへ流れていった。
 誠は紙袋を膝の上に置いた。
 レモンのケーキ。今朝、芽依が早起きして作ったケーキ。
 誠はそれを、すぐには開けなかった。
 しばらく、ただ窓の外を見ていた。
 金沢が遠ざかっていく。
 惑星の軌道のように、遠ざかっていく。
 だが今回は違う、と誠は思った。
 戻ってくる。
 必ず戻ってくる。
 それは軌道ではなく、自分の意志だった。宇宙の法則ではなく、誠という人間が、そう決めた。
 ゴールデンウィークに来ると言った。芽依は「待っています」と言った。
 それだけで十分だった。今は。

 金沢を出て一時間ほどして、誠はケーキを開けた。
 レモンのケーキは、朝の光の中でも、変わらず爽やかな香りがした。
 一口食べた。
 酸っぱくて、甘くて、後味が清々しかった。
 春の味がした。
 誠は窓の外を見た。
 景色はもう、北陸の田んぼから、少しずつ変わっていた。山が変わり、空が変わり、光の角度が変わっていた。
 東京へ向かっていた。
 新しい場所へ。
 誠はケーキをもう一口食べながら、考えた。
 東京での生活を、どう変えるか。
 仕事だけにならないように。感情の蛇口を締めないように。誰かを透明にしないように。芽依との時間を、ちゃんと作るように。父親に、もっと連絡するように。
 やるべきことが、以前より具体的に見えていた。
 それは全部、自分への約束だった。
 誰かに求められた約束ではなく、自分が自分に、静かに誓う約束。
 誠はそれを、責任と呼んでいいと思った。
 芽依への責任。自分自身への責任。そして、これから先に待つかもしれない何かへの責任。
 重い。
 だが、重いから本物だ。
 芽依が言っていた。重くない大切にされ方は、本物じゃないと。
 それは大切にすることも、同じだと誠は思った。
 重くない愛し方は、本物じゃない。

 東京駅に着いたのは、昼過ぎだった。
 ホームに降り立つと、人の多さに少し圧倒された。三年ぶりの東京の空気。騒がしくて、速くて、誰もが自分の目的地へと向かっている。
 誠はしばらく、ホームに立ったまま、その流れを見ていた。
 以前の自分なら、この流れにすぐ合流していた。だが今日は、少し立ち止まった。
 スマートフォンを取り出した。
 芽依にメッセージを送った。
 「着きました。ケーキ、食べました。春の味がしました」
 しばらくして、返信が来た。
 「よかったです。東京、寒くないですか」
 誠は少し笑った。
 「大丈夫です。金沢より、少し暖かいかもしれない」
 「そうですか」と返ってきた。それから少し間を置いて、「ゴールデンウィーク、待っています」と。
 誠はその文字を、しばらく見ていた。
 待っています。
 その三文字が、東京駅のホームで、誠の足元をしっかりと地に着かせた。
 根、と誠は思った。
 金沢に根がある。
 芽依がいる場所に、誠の根の一部がある。
 根が二つある人間は、どちらかが揺れても倒れない。
 誠はスマートフォンをポケットに入れた。
 鞄を持ち直した。
 東京の雑踏の中へ、歩き出した。
 以前と同じ足取りではなかった。
 確かに、以前とは違う足取りで、誠は歩き始めた。


10章「悠々として急げ」
 東京は、速かった。
 金沢にいた三年間で、誠はそのことを忘れていた。人の歩く速度、電車の本数、街の音の密度。すべてが金沢より速く、多く、大きかった。最初の一週間は、その速度に少し酔った。金沢の時間の流れ方に慣れた身体が、東京のリズムを異物のように感じた。
 だが二週間が過ぎると、少しずつ慣れてきた。
 本社の営業企画部は、誠にとって新しい環境だった。フィールドではなく、戦略を立てる部署。数字を作る側ではなく、数字の作り方を考える側。仕事の質が変わった。誠は最初の週、会議で自分が最も経験を持っていることに気づいた。北陸で積み上げた三年間が、この場所では武器になった。
 部下が新しくなった。
 三十代の若い社員が多かった。田中ほど気が利く者はいなかったが、それぞれ能力があった。誠は以前のように距離を置かなかった。意識してそうしたわけではなく、自然にそうなった。金沢で蛇口が緩んだまま、東京へ来た。
 「柏木部長は、話しやすいですね」と若い部下の一人が言った。
 「そうか」と誠は言った。
 「なんか、怖い人かと思っていたので」と部下は言い、「すみません」と慌てて付け加えた。
 「正直に言ってくれてありがとう」と誠は言った。「怖くないように努力する」
 部下が笑った。
 誠も少し、笑った。

 芽依とは、毎日連絡を取った。
 メッセージのやり取りが、朝と夜に必ずあった。たわいもない話が多かった。今日の天気、今日の店のお菓子、今日の仕事で面白かったこと。誠は金沢の天気を聞くたびに、あの空を思い出した。鉛色の冬の空を、春に近づきつつあった三月の空を。
 週に一度、電話で話した。
 芽依の声を聞くと、喫茶ソラの空気が蘇った。コーヒーの匂い。古い木のカウンター。キャンドルの光。雨の音。
 「今日のお菓子は何ですか」と誠はある夜、電話で聞いた。
 「苺のタルト」と芽依は言った。「今日、市場で良い苺が入ったので」
 「いいですね」
 「こっちで食べてほしかったです」
 「ゴールデンウィークに食べます」
 「苺の季節が終わるかもしれません」
 「ではまた別のものを作ってください」
 「作ります」と芽依は言った。「待っていてください」
 こういう会話が、誠には大切だった。
 内容は何でもなかった。苺のタルトの話、それだけだ。だが誠はその会話の中に、二人の距離が確かに縮まっていることを感じた。物理的な距離は変わらない。金沢と東京、三百キロ以上ある。だが言葉の距離は、毎日少しずつ縮まっていた。

 四月のある夜、誠は父親に電話した。
 金沢から戻ってきてすぐ、一度かけていた。その時は短い会話だった。今夜は少し、長く話した。
 父親の声が、電話越しでも温かかった。
 「金沢は、良かったか」と父親は聞いた。
 「良かった」と誠は言った。「人に恵まれた」
 「そうか」
 「連絡が少なかった。申し訳なかった」
 「仕事が忙しかったんだろう」
 「それだけではなかったが」と誠は言った。「これから、もう少し連絡する」
 父親がしばらく黙った。
 「待っている」と父親は言った。
 その言葉が、また誠の胸に落ちた。
 待っている。
 父親も、芽依も、待っていると言う。
 誠はこれまで、誰かを待たせることを考えなかった。誰かが待っているという事実を、受け取ることができなかった。だが今は、その重さが、ちゃんとわかった。
 待っている、という言葉の中にある、その人の時間を感じた。
 「ゴールデンウィークに、帰る」と誠は言った。「大阪へ」
 「そうか」と父親は言った。声が少し、明るくなった。「母さんが喜ぶ」
 「親父も、喜べ」
 父親が笑った。電話越しでも、わかった。
 誠も笑った。

 四月の終わり、誠は新しい手帳を買った。
 これまでは手帳をスケジュール管理にしか使っていなかった。会議の予定、出張の日程、締め切り。機能としての手帳だった。
 だが新しい手帳には、スケジュール以外のことも書いた。
 今日見えたもの。今日感じたこと。今日誰かと話して、大切だと思ったこと。
 小説家になりたかった頃の、書く習慣を、少しだけ取り戻した。
 うまくはなかった。文章として整っていなかった。だが書くと、何かが整理された。
 芽依が言っていた言葉を思い出した。書くことで自分のことが整理される、と。
 あの時、誠は「今さらですよ」と言った。
 今さらではなかった。
 四月のある夜、誠は手帳にこう書いた。
 「金沢で、本物のコーヒーを飲んだ。本物の沈黙を知った。本物の話をした。本物の感情を、人に渡した。これがどこへ向かうかは、まだわからない。ただ、向かっている場所がある。それで十分だ」
 書いてから、少し恥ずかしかった。
 だが消さなかった。

 ゴールデンウィーク、誠はまず大阪へ帰った。
 実家のドアを開けると、母親が玄関まで出てきた。
 「誠、痩せた?」と母親は言った。
 「痩せていない」
 「なんか、顔が変わった気がする」
 「また変わったと言われた」
 「良い方に変わった」と母親は言った。「なんか、柔らかくなった」
 父親はリビングにいた。テレビを見ていた。誠が入ると、テレビを消した。
 「帰ったか」
 「帰った」
 「飯を食え」
 それだけだった。
 だがその「飯を食え」の中に、長い時間が詰まっていた。電話で「待っている」と言った父親の、その待ち方が、この三文字に凝縮されていた。
 誠は実家の食卓で、母親の作った料理を食べた。
 久しぶりの家の味だった。
 うまかった。
 飾りのない、正直な味だった。
 喫茶ソラのコーヒーに似ていると、誠は思った。正直なものは、どこかで通じている。

 大阪に二日いて、誠は金沢へ向かった。
 新幹線が金沢駅に着くと、誠は少し早足になっていることに気づいた。
 改札を抜けた。
 芽依はいなかった。
 今日は待ち合わせはしていなかった。誠が夕方に着いて、店へ直接行く、という話になっていた。
 誠はそのまま、タクシーで喫茶ソラへ向かった。

 路地の角を曲がると、喫茶ソラの明かりが見えた。
 引き戸の向こうで、温かい光が揺れている。
 誠は立ち止まった。
 最初の夜のことを思い出した。雨の中、この明かりを見つけて、入ろうかどうか迷った夜のことを。あの夜の自分に、今の自分が何を言えるか。
 迷うな、と言うだろう。
 急げ、と言うだろう。
 誠は引き戸に手をかけた。
 カランコロン、と鈴が鳴った。

 芽依がカウンターの奥にいた。
 誠が入ってきた音で顔を上げた。
 一瞬、動きが止まった。
 それから、「いらっしゃいませ」と言った。
 いつもと同じ言葉だった。だがその声が、少し違った。あるいは、誠の耳が変わったのかもしれない。
 「来ました」と誠は言った。
 「来てくれた」と芽依は言った。「本当に」
 「約束しましたから」
 「約束する人は多いですが、来る人は少ないので」と芽依は言った。少し笑いながら。
 「私は来ます」
 「知っています」と芽依は言った。「だから、待っていられた」

 その夜、店には何人かの客が来た。
 誠はカウンターの端で、コーヒーを飲みながら、芽依が客を迎える様子を見ていた。
 変わっていなかった。
 動きの無駄のなさ、接客の丁寧さ、客が帰るときの「またどうぞ」の言葉。全部、変わっていなかった。
 変わっていないことが、誠には嬉しかった。
 変わらずここにいる。変わらずこの場所を守っている。
 誠が変わろうとしている間、芽依はここで変わらずいてくれた。それが、誠にとってどれほどの支えだったか。
 客が帰り、店が静かになった。
 芽依がカウンターに来た。
 「瘦せましたか」と芽依は言った。
 「大阪の実家でもそう言われた」と誠は笑った。
 「東京、大変でしたか」
 「大変でした。でも、大丈夫でした」
 「大丈夫だった理由は」
 「連絡をくれていたので」と誠は言った。「毎日、金沢の天気を教えてくれていたので」
 芽依が少し、照れたような顔をした。
 「そんな理由ですか」
 「十分な理由です」と誠は言った。
 「お菓子の話しかしていなかったですが」
 「お菓子の話が、十分でした」
 芽依はしばらく、誠を見ていた。
 「コーヒー、もう一杯淹れます」
 「ありがとうございます」

 閉店後、二人はカウンターで並んで座った。
 芽依が自分のコーヒーも淹れて、誠の隣に来た。
 誠はしばらく、その隣にいることの温かさを感じていた。
 「少し、真剣な話をしてもいいですか」と誠は言った。
 「どうぞ」
 「私は」と誠は言った。「あなたとの関係を、ちゃんとしたものにしていきたいと思っています」
 芽依はコーヒーカップを持ったまま、誠を見た。
 「ちゃんとした、というのは」
 「曖昧なままでいたくないということです」と誠は言った。「遠距離だということは知っています。すぐに同じ場所にいられるわけではないことも。でも、向かっている場所を、二人でちゃんと持っていたい」
 芽依は少し考えた。
 「向かっている場所、というのは」
 「一緒にいること」と誠は言った。「いつかは。それを目指して、今できることをしていきたい」
 芽依はしばらく黙っていた。
 カウンターの木目を、見ているような、見ていないような目で。
 誠は待った。
 急かさなかった。
 これまでの自分なら、沈黙を埋めようとして、言い訳のような言葉を重ねていた。だが今夜は、待てた。芽依の時間を、芽依のペースを、信頼して待てた。
 「私も」と芽依はやがて言った。「同じことを、考えていました」
 「同じことを」
 「曖昧なままでいたくないと」と芽依は言った。「ただ、言い出すのが怖くて」
 「なぜ怖かったんですか」
 「重すぎると思われるかもしれなくて」と芽依は言った。少し苦笑しながら。「まだそんなに会っていないのに、一緒にいることを目指すなんて、重すぎると」
 「重い方がいいと言ったのは、あなたですよ」と誠は言った。
 芽依が笑った。
 「言いましたね、そんなことを」
 「重くない愛し方は、本物じゃないとも言いましたよ」
 「言いすぎましたね、私」
 「正しいことを言ったと思います」と誠は言った。「私は、あなたの言葉に、何度も助けられた。あなたが言ったことが、ずっと頭の中にあって、それが支えになっていた」
 芽依は少し、目が潤んだ。
 今夜も、泣かなかった。だが、目の奥が揺れた。
 「柏木さん」と芽依は言った。
 「はい」
 「一つ、聞いてもいいですか」
 「どうぞ」
 「名前で、呼んでもらえますか」と芽依は言った。「柏木さんではなくて」
 誠は少し、面食らった。
 「誠、と」
 「はい」と芽依は言った。少し恥ずかしそうに。「私も、芽依で」
 誠はしばらく、その言葉を受け取っていた。
 名前で呼ぶ。それだけのことが、二人の間の何かを変える。距離を縮める。壁を一枚、取り除く。
 「芽依」と誠は言った。
 芽依が、少し顔を赤くした。
 「はい」
 「これからも、よろしくお願いします」
 芽依はしばらく、誠を見ていた。
 それから、「よろしくお願いします」と言った。「誠さん」
 その言葉が、静かな店の中に、柔らかく響いた。

 ゴールデンウィークの間、誠は金沢に三泊した。
 二日目、芽依は約束通り、誠を輪島の近くの浜へ連れて行った。
 父親の水彩画に描かれていた海だった。
 能登の海は、日本海の荒さと、どこか穏やかな入り江の静けさが混じっていた。岩場があり、砂浜があり、水が透き通っていた。
 芽依は浜に立って、海を見た。
 誠もその隣に立った。
 「父は、ここで何を考えていたんでしょうね」と芽依は言った。
 「この景色を描きながら」
 「きっと、色々と考えていたと思います。店のこと、家族のこと、自分の人生のこと」
 「あなたのことも」
 「そう思いたいです」と芽依は言った。「思っていてくれたと」
 誠は海を見た。
 波が、ゆっくりと打ち寄せていた。金沢の浜とは少し違う波の音がした。より深い、より遠くから来る波の音だった。
 「ここへ来られてよかった」と誠は言った。
 「連れてきてよかったです」と芽依は言った。
 二人は並んで、しばらく海を見ていた。
 今日は風が穏やかだった。
 誠は芽依の手を取った。
 今日は、浜辺の風に当たって冷たくなっていたわけでもなかった。誠の手も冷たくなかった。それでも、手を取りたかった。
 芽依は引かなかった。
 今日は、指を絡めてきた。
 誠はその感触を、静かに感じた。
 海が光っていた。
 春の能登の海が、二人の前で光っていた。

 三日目の夜、閉店後の喫茶ソラで、誠は芽依に言った。
 「東京へ帰ったら、また来ます」
 「いつですか」
 「夏に。それから秋に。冬にも来ます」
 芽依が笑った。
 「毎シーズン来るんですか」
 「来ます」と誠は言った。「金沢の四季を、全部見たことがないので。あなたと一緒に」
 「桜は、もう少し遅ければ見られたんですが」
 「来年、見ます」
 「来年」と芽依は繰り返した。来年という言葉を確かめるように。
 「来年も、再来年も」と誠は言った。「来ます。来られる限り」
 芽依はしばらく、カウンターの木目を見ていた。
 「ねえ」と芽依は言った。珍しく、ねえ、という呼びかけで始めた。
 「はい」
 「こういう関係が、続いていく先に、何があるんでしょう」
 誠は少し考えた。
 「わからないです」と誠は正直に言った。「今はまだ。でも」
 「でも」
 「向かっている気はします」と誠は言った。「二人が同じ場所にいる未来へ、向かっている気が」
 「その未来というのは」
 「結婚、と言ってしまえば重すぎますか」
 芽依はしばらく黙った。
 カウンターの向こうで、静かに息をしていた。
 「重くないです」と芽依はやがて言った。「さっき、重い方が本物だと言ったばかりなので」
 「あなたが言ったことですよ、それは」
 「知っています」と芽依は言った。少し笑いながら。「だから、重くないです」
 誠はその答えを、静かに受け取った。
 まだ何も決まっていない。明日が決まったわけでも、来年が決まったわけでもない。だが向かっている場所が、二人の間で共有された。それは小さなことではなかった。
 人生の方角が、一致した。
 それがどれほどのことか。

 翌朝、誠は金沢を発った。
 芽依は駅まで来てくれた。
 改札の前で、向かい合った。
 「また来ます」と誠は言った。
 「待っています」と芽依は言った。
 「夏に」
 「夏に」と芽依は繰り返した。「海へ行きましょう。夏の能登は、また違う顔をしているので」
 「楽しみです」
 「私も」
 誠は芽依を見た。
 春の朝の光の中の芽依を。
 桜が少し遅かったが、駅の近くの木に、薄いピンクの花が残っていた。その花びらが、風に一枚、芽依の肩に落ちた。
 芽依は気づかなかった。
 誠は手を伸ばして、その花びらを、そっと取った。
 芽依が少し驚いた顔をした。
 「桜が」と誠は言った。「落ちていたので」
 芽依が誠の手の中の花びらを見た。
 「来年は、ちゃんと桜の時期に来てください」と芽依は言った。
 「来ます」
 「約束ですか」
 「約束です」と誠は言った。「悠々として急げ、で来ます」
 芽依がその言葉を聞いて、少し首を傾けた。
 「悠々として、急げ」
 「焦らず、しかし一瞬も無駄にせず」と誠は言った。「そういうことだと、私は思っています」
 「素敵な言葉ですね」と芽依は言った。「どこで知ったんですか」
 「長い時間をかけて、自分で辿り着いた言葉です」と誠は言った。
 芽依が微笑んだ。
 誠も笑った。
 「では」と誠は言った。
 「では」
 誠は改札へ向かった。
 振り返らなかった。
 今日は振り返らなかった。
 振り返らなくても、芽依がそこにいることがわかっていたから。

 新幹線の中で、誠は手帳を開いた。
 窓の外に、金沢が遠ざかっていく。山が流れる。川が流れる。田んぼが流れる。
 誠はペンを取り、書いた。
 「悠々として急げ。本物が見えたなら、迷わず手を差し出せ。掴め。手繰り寄せよ。それは二度と同じ場所へは戻らないかもしれないから。でも今日、私は振り返らずに改札を通った。振り返らなくても、あそこに芽依がいることを知っているから。それが変わったということだ。根が、二つになったということだ」
 書いてから、少し読み返した。
 うまくはなかった。
 だが、本当のことだった。
 誠はペンを置いて、窓の外を見た。
 北陸の春の景色が、流れていた。
 遠ざかっていく金沢を見ながら、誠は思った。
 遠ざかることは、終わりではない。
 軌道は回る。惑星は戻ってくる。だが今の誠が持っているのは、惑星の軌道ではなく、自分の意志だった。
 夏に来る。
 秋に来る。
 冬に来る。
 来年の桜の時期に来る。
 その度ごとに、芽依がいる。喫茶ソラがある。あのコーヒーがある。カランコロンという鈴の音がある。
 それで十分だった。
 今は。
 そして、今が積み重なって、やがてはもっと近くなる。
 誠はそれを、確信していた。根拠のある確信として。
 窓の外で、山が遠くなった。
 空が広くなった。
 東京へ向かう空が、晴れていた。


エピローグ「春の金沢」
 翌年の四月、金沢は桜の季節を迎えていた。
 兼六園の桜が満開だという話を、芽依からメッセージで受け取ったのは、三日前だった。写真が一枚、添付されていた。白い空を背景に、薄いピンクの花が重なっている。芽依が撮った写真だった。構図が良かった。派手さはなかったが、正直な美しさがあった。
 誠はその写真を、しばらく眺めた。
 それから、「行きます」と返信した。
 「待っています」と芽依は返してきた。

 金沢駅に着いたのは、金曜日の夕方だった。
 改札を抜けると、芽依がいた。
 コートではなく、春物のジャケットを着ていた。マフラーもなかった。髪を下ろしていた。春の芽依は、冬の芽依とは少し違って見えた。同じ人間なのに、季節が変わると、また新しい顔がある。
 「来てくれた」と芽依は言った。
 「約束しましたから」と誠は言った。「桜の時期に、と」
 「覚えていてくれた」
 「忘れるわけがないです」
 芽依が笑った。
 春の明るさの中で、その笑顔が、誠にはいつもより鮮やかに見えた。

 その夜、喫茶ソラで誠はコーヒーを飲んだ。
 いつもの席に座った。カウンターの端。最初の夜から変わらない席。
 店は変わっていなかった。古い木のカウンター、壁の水彩画、小さな観葉植物。全部、変わらずそこにあった。
 ただ一つだけ、変わっていた。
 カウンターの隅に、小さな写真立てが増えていた。
 誠と芽依が、能登の浜で並んで撮った写真だった。夏に来たとき、芽依が撮ってくれた。二人とも海を見ていて、カメラを見ていない。風で芽依の髪が少し乱れている。誠は少し目を細めている。
 「飾ってくれているんですか」と誠は言った。
 「いいですか」と芽依は少し照れながら言った。
 「もちろんです」
 「お客さんに、誰ですかって聞かれたら、友人ですって言っています」
 「友人」
 「まだそう言っています」と芽依は言った。「でも、近いうちに、別の言い方ができるといいなと思っています」
 誠はコーヒーカップを置いた。
 「別の言い方、というのは」
 「それは」と芽依は言った。「誠さんが決めてください」
 誠はしばらく、芽依を見た。
 「決めてもいいですか」
 「決めてください」
 「今夜、ここで」
 「はい」と芽依は言った。静かに、しかし真剣に。「ここで」

 その夜、閉店後に、誠は芽依に言った。
 カウンターで並んで、二人のコーヒーが湯気を立てている中で。
 「結婚してください」
 言ってから、少し笑ってしまった。
 四十七の、いや今は四十八になっていた。四十八の男が、喫茶店のカウンターで、プロポーズをしている。場所も、状況も、少しも洒落ていなかった。
 だが、正直だった。
 ここで言うのが、正しいと思った。
 最初に会った場所で。最初にコーヒーを飲んだカウンターで。最初の夜と同じ鈴の音が聞こえる場所で。
 芽依はしばらく、動かなかった。
 コーヒーカップを両手で包んだまま、下を向いていた。
 誠は待った。
 急かさなかった。
 悠々として、待った。
 「はい」と芽依はやがて言った。
 顔を上げた。
 目が少し赤かった。今夜は、少し泣いていた。
 「はい」ともう一度言った。「喜んで」
 誠はその言葉を聞いて、何も言えなかった。
 言葉が、出てこなかった。
 ただ、芽依の手を取った。
 カウンターの上で、両手で包んだ。
 温かかった。
 いつも、温かかった。

 翌朝、二人は兼六園へ行った。
 桜の下を、並んで歩いた。
 観光客が多かったが、二人にはあまり関係なかった。ただ、桜の下を歩いていた。
 白い花びらが、時折風に舞った。
 芽依が空を見上げた。
 「きれい」と言った。
 「きれいですね」と誠も言った。
 「父も、毎年ここへ来ていたそうです」と芽依は言った。「母から聞きました。一人で、よく来ていたと」
 「今日、見ていますよ」と誠は言った。
 「そうですね」と芽依は言った。「見ていると思います」
 花びらが一枚、芽依の肩に落ちた。
 誠は今日は取らなかった。
 そのままにしておいた。
 芽依の肩にある桜が、風に揺れた。
 誠はそれを見ながら、歩き続けた。

 昼過ぎ、喫茶ソラへ戻ると、芽依が開店の準備を始めた。
 誠はカウンターの端に座って、その様子を見ていた。
 いつもと同じ動きだった。
 変わらずここにいる女の、変わらない動き。それが誠には、何より美しかった。
 「手伝いましょうか」と誠は言った。
 「じゃあ」と芽依は言った。「あの黒板、今日のメニューを書いてください」
 「書いたことがないですが」
 「見ていればわかります」と芽依は言った。チョークを渡しながら。「今日のお菓子は、桜のロールケーキです」
 誠は黒板の前に立った。
 チョークを持って、書いた。
 「本日のお菓子:桜のロールケーキ」
 書いてから、芽依に見せた。
 芽依が笑った。
 「字が大きすぎます」
 「すみません」
 「でも、いいです。今日はそれで」
 誠も笑った。
 店の引き戸が、外から開いた。
 カランコロン、と鈴が鳴った。
 最初の客が来た。
 芽依が「いらっしゃいませ」と言った。
 誠はカウンターの端の席へ戻った。
 いつもの席。最初の夜から変わらない席。
 コーヒーを一口飲んだ。
 壁の水彩画が、春の光の中で、いつもより鮮やかに見えた。能登の海を描いた六枚の絵が、それぞれの季節の光を持っていた。嵐の前の海、夕暮れの海、朝の海。その隣に、カウンターの隅の小さな写真立てがあった。夏の浜辺で、二人が海を見ている写真。
 誠はそれをしばらく見ていた。
 去年の夏の写真だった。
 来年の夏には、また別の写真が撮れるだろう。
 その次の夏にも。
 誠はコーヒーを飲みながら、そんなことを考えた。
 取り立てて大きなことではなかった。
 ただ、来年も夏が来る。その夏に、二人でまた海へ行く。それだけのことが、誠にはずっしりと、しかし温かく感じられた。
 そういうことが、人生だ、と誠は思った。
 大きな決断だけが人生ではない。
 春の桜の下を歩くことも、黒板に字を書くことも、カウンターでコーヒーを飲むことも、全部が人生だ。
 そのどれもを、ちゃんと受け取ること。
 ちゃんと見ること。
 それが、変わったということだ。

 夕方、誠は東京へ帰る前に、神社へ寄った。
 一人で、芽依には言わずに。
 石段を上って、古い木の前に立った。
 芽依の父親が、よく来ていた場所だった。
 誠はしばらく、木を見ていた。
 何を言おうか、考えた。
 それから、考えるのをやめた。
 「お嬢さんを、ください」
 そう言った。声に出して。
 誰も聞いていなかった。
 風が、少し吹いた。
 木の葉が、揺れた。
 誠はそれを、返事だと思うことにした。
 頭を下げて、石段を降りた。

 金沢駅で、芽依と向かい合った。
 「また来ます」と誠は言った。
 「待っています」と芽依は言った。
 「夏に」
 「夏に」
 「それまでに」と誠は言った。「色々と、考えておきます。場所のこととか、時期のこととか」
 「私も考えます」と芽依は言った。「この店のこととか」
 「急がなくていいです」と誠は言った。「ただ」
 「ただ」
 「急ぎすぎなくても、いけないので」
 芽依が笑った。
 「悠々として急げ、ですか」
 「そうです」
 「わかりました」と芽依は言った。「悠々として、急ぎます」
 誠はその答えが、好きだった。
 「では」
 「では」
 誠は改札へ向かった。
 今日も、振り返らなかった。
 振り返らなくても、芽依がそこにいることを知っていたから。
 芽依の「またね」という声が、後ろから聞こえた。
 誠は手を少し上げて、応えた。
 振り返らずに、歩いた。

 新幹線が動き出すと、誠は窓の外を見た。
 金沢が遠ざかっていく。
 桜の季節の金沢が、春の光の中で遠ざかっていく。
 誠は手帳を開いた。
 白いページに、ペンを走らせた。
 「悠々として急げ。本物が見えたなら、迷わず手を差し出せ。掴め。手繰り寄せよ。それは二度と同じ場所には戻らないかもしれないから。でも今日、私には戻る場所がある。戻る場所があるということは、帰れるということだ。帰れるということは、根があるということだ。根が、ある。ここに」
 書いて、ペンを置いた。
 窓の外を見た。
 山が流れる。川が流れる。春の北陸の景色が、後ろへ流れていく。
 遠ざかっていく。
 だが今は、遠ざかることが怖くなかった。
 遠ざかることは、戻ることの始まりだ。
 惑星は軌道を回る。だが誠の軌道は、もう宇宙の法則ではなく、自分の意志が決める軌道だった。
 夏に来る。
 秋に来る。
 冬に来る。
 そして来年の春も、桜の下を、芽依と歩く。
 今度は、妻と。
 誠はその言葉を、頭の中で静かに繰り返した。
 妻。
 芽依が、妻になる。
 その事実が、温かく、重く、確かに、誠の胸の中にあった。
 重い方が、本物だ。
 そう言ったのは、芽依だった。
 そう信じているのは、今は誠も、同じだった。

 新幹線は速度を上げた。
 東京へ向かって。
 新しい季節へ向かって。
 誠は目を閉じた。
 瞼の裏に、桜の花びらが見えた。
 芽依の肩に落ちた、一枚の花びら。
 そのままにしておいた、あの花びら。
 風に揺れていた、あの花びら。
 それが今も、誠の中で、静かに揺れていた。



ーあとがきー
 この物語を書きながら、私は何度も「人はどこで立ち止まるのか」を考えました。
 人生の軌道は、いつも自分で選んでいるようで、実際には環境や役割や過去の傷に左右されてしまう。気づけば、望んだ場所とは少し違うところに立っていることもある。
 しかし、軌道がずれてしまったとしても、そこからまた歩き直すことはできる。
 そのきっかけは、大きな出来事ではなく、ほんの小さな出会いや、静かな時間の中に潜んでいるのではないか。
 そんな思いが、この作品の根底に流れています。
 金沢という街の湿度、雨の匂い、古い木のカウンター、静かに笑う人の目元。
 そうした細部が、主人公の心を少しずつ溶かしていく。
 読者の皆さまにも、その空気を感じていただけたなら、これ以上の喜びはありません。
 最後まで読んでくださり、心から感謝いたします。



ー紹介文ー
 四十七歳、独身。仕事一筋で感情を閉ざして生きてきた男・柏木誠。
 赴任先の金沢で偶然見つけた小さな喫茶店「ソラ」。
 そこで出会った店主・芽依との静かな会話が、止まっていた彼の心の針をわずかに動かし始める。
 雨の匂い、丁寧に淹れられたコーヒー、満ちた静けさ。
 大きな事件は何も起きない。
 それでも人生は、静かに変わっていく。
 “軌道の外側”で再び息を吹き返す、大人のための再生の物語。




4章「気取る男」

 十二月二十五日、誠は昼過ぎから落ち着かなかった。

 マンションの中をうろうろした。コーヒーを淹れ、飲み切らないうちに流しに捨てた。本を開いたが、一ページも頭に入らなかった。窓の外を見た。昨夜の雪は積もらずに溶けていた。道路が濡れて光っている。曇り空だが、雨は降っていない。

 何をそんなに緊張しているのか、と誠は自分に言い聞かせた。

 ただ、いつもの喫茶店へ行くだけだ。コーヒーを飲んで、少し話して、帰る。それだけのことだ。クリスマスだからといって、何かが特別なわけではない。芽依は「ぜひ」と言った。だがそれは、客を歓迎する店主の言葉だ。そこに余計な意味を見出すのは、四十七の男のすることではない。

 誠は時計を見た。

 午後四時。

 営業は夕方からだと言っていた。五時頃に行けばいい。まだ一時間ある。

 誠はソファに座り、足を組み、また本を開いた。今度は少し読めた。三ページ読んで、内容が頭に入っていないことに気づいた。同じページを読み返した。やはり入らなかった。

 本を閉じた。

 四十七年生きてきて、これほど情けない午後があっただろうか。


 喫茶ソラに着いたのは、五時十分だった。

 引き戸を開けると、店の中はいつもと少し違う雰囲気だった。カウンターに小さなキャンドルが灯っている。テーブルにも同じように。天井の照明を少し落として、キャンドルの光が揺れている。クリスマスだからといって派手な飾りはない。ただ、あの小さな炎だけが、静かに店を変えていた。

 客は誠の他に一組だけ。奥のテーブルで、老夫婦が向かい合ってコーヒーを飲んでいた。

 「来てくれた」と芽依が言った。

 「来ました」

 芽依は今日、いつもと少し違う格好をしていた。エプロンは同じだが、その下が白いブラウスだった。髪も、いつもより丁寧にまとめてある。化粧が少し、濃いわけではないが、今日は少し手をかけている、そういう違いだった。

 誠は気づいていた。

 気づいていたが、何も言わなかった。

 言えばよかった、と後になって思うのだが、その瞬間は言えなかった。


 「今日は、特別なメニューがあるんです」

 芽依がカウンターに小さなカードを置いた。手書きで、クリスマスのケーキと、ホットワインが書いてある。

 「ホットワインを」と誠は言った。「コーヒーの前に」

 「初めてですね、コーヒー以外を頼むの」

 「クリスマスなので」

 芽依がホットワインを作り始めた。シナモンとクローブの香りが、店の中に広がった。スパイスの匂いと、キャンドルの光と、窓の外の冬の夜。誠は静かにそれを受け取り、両手で包んだ。

 温かかった。

 一口飲むと、甘みの中にスパイスの刺激があった。身体の中から温まる感じがした。

 「うまい」

 「よかった。初めて作ったので」

 「初めて?」

 「クリスマスにホットワインを出すのが、ずっとやりたかったんです。今年初めてやってみました」

 やりたかったことを今年初めてやった。その言葉の裏に、去年まではできなかった何かがある気がした。誠は聞こうとして、また止めた。

 止める癖が、今日は特に出ていた。

 なぜ止めるのか。自分でもわかっていた。踏み込めば、その分だけ、引き返せなくなる。だから止める。距離を保つ。軌道の上をぐるぐると回り続ける。

 誠はホットワインを飲みながら、自分のその癖を、冷静に観察していた。


 老夫婦が帰った。

 店には誠と芽依だけになった。

 芽依はカウンターの内側で、クリスマスケーキを切り分けながら言った。

 「今日は来てくれてよかったです。本当に」

 「一人でしたか、来る前は」

 「ええ」

 「寂しくなかったですか」

 「寂しい、と思う前に忙しかったので」と芽依は言った。「でも、静かになると、少し」

 「少し」

 「思うこともあります」と芽依は言った。曖昧に、しかし正直に。

 誠は黙った。

 何か言えばよかった。たとえば、「私も同じです」と言えばよかった。あるいは、「来年もここで過ごしましょう」と言えばよかった。どちらも嘘ではなかった。だが誠は、何も言わなかった。

 ケーキを一口食べた。イチゴのショートケーキだった。地元の洋菓子屋のものだと芽依は言った。甘すぎず、生クリームが軽かった。

 「おいしい」

 「よかった」

 また、それだけになった。

 沈黙が流れた。いつもならこの沈黙は心地よかった。だが今夜の沈黙は、少し違った。何かが言われるのを待っているような、あるいは何かが言われるべきなのに言われていないような、そういう沈黙だった。

 誠はそれを感じていた。

 芽依も感じているかもしれない、とも思った。

 だが誠は、格好をつけた。

 正確には、格好をつけるという意識さえなかった。ただ、踏み込むことへの恐れが、自然に言葉を引き留めた。四十七年かけて身についた、感情の蛇口を締める習慣が、今夜も静かに働いた。


 「少し聞いていいですか」

 芽依が言ったのは、九時を過ぎた頃だった。

 「どうぞ」

 「柏木さんは」と芽依は言った。カウンターを拭きながら、しかし目は誠の方を向いていた。「この街で、何かを待っていますか」

 誠は少し考えた。

 「待っている、というのは」

 「なんとなく、そう見えることがあって」と芽依は言った。「何かを待ちながら、でも自分では気づいていないような。そういう人に見える時がある」

 「鋭いですね、相変わらず」

 「そうじゃなくて」と芽依は言った。少し真剣な顔で。「気になっているんです。柏木さんのことが」

 誠は、その言葉を聞いた瞬間、胸の中で何かが動いた。

 気になっている。

 その言葉の重さが、どのくらいのものなのか。芽依の言う「気になっている」は、どういう意味の気になっているなのか。誠はまた考えた。分析した。距離を測った。

 そして言った。

 「私も、ここへ来るのが楽しみになっています」

 楽しみになっています。

 我ながら、情けない言葉だと思った。

 芽依が言いたいことの半分にも応えていない。もっと正直に言えばよかった。気になっている、と言われたなら、私もあなたのことを考えている、と言えばよかった。だが誠は、「楽しみになっています」という、どこまでも当たり障りのない言葉を選んだ。

 芽依はしばらく、誠を見ていた。

 何かを言いかけて、止めたような気がした。

 「それはよかったです」と芽依は言った。静かに、微笑みながら。

 その微笑みの奥に、何があったのか。

 誠には読めなかった。あるいは、読もうとしなかった。


 翌朝、誠は目が覚めてすぐ、昨夜のことを後悔した。

 後悔というのは正確ではないかもしれない。後悔するほどのことは、何も起きていない。ただ、できたはずのことをしなかった、という感覚が、胸の奥にじんわりと残っていた。

 「気になっている」と言われた。

 それに対して「楽しみになっています」と答えた。

 誠は布団の中で天井を見ながら、自分のその答えを反芻した。なぜそう言ったのか。なぜ正直に言えなかったのか。

 怖かったのだ、と誠は認めた。

 芽依が気になっている、というのが、客として気になっているという意味だったとしたら。誠が踏み込んで、的外れだったとしたら。その恥ずかしさが怖かった。それだけではない。もし正直に言って、受け入れられたとしても、その先が怖かった。また誰かを透明にするかもしれない。また誰かを傷つけるかもしれない。

 誠は四十七年かけて、傷つくことを上手に避けてきた。

 その代わりに、何も得なかった。

 布団から出て、洗面所で顔を洗いながら、鏡の中の自分を見た。四十七の男の顔だった。そのことを今更どうこう言うつもりはない。だが、この顔をした男が、感情の蛇口を締めたまま、残りの人生を生きていくのか。

 誠はそれを、初めて、本気で考えた。


 年が明けた。

 一月の金沢は、雪が多い。誠は雪かきをしながら、営業所へ通った。仕事は年始から忙しかった。新年の挨拶回りがあり、福井の件の続きがあり、本社からの年間計画の提出期限があった。

 喫茶ソラへは、週に一度行った。

 芽依はいつもと変わらなかった。誠を見て、「いらっしゃいませ」と言い、コーヒーを淹れ、時々話をした。クリスマスの夜のことは、どちらも触れなかった。

 触れなかったのは、誠の方が先に避けたからだ。

 あの夜以来、誠は意識して、踏み込まないようにしていた。芽依が何か個人的なことを話しそうになると、少し話題を変えた。芽依が誠に何かを聞こうとすると、表面的な答えを返した。

 気取っていた。

 自分でそれを知っていた。

 大人として振る舞っていた。分別がある男として、感情に流されない男として、自分を演じていた。なぜそうするのか。理由は明快だった。踏み込めば傷つく可能性がある。だから踏み込まない。合理的な判断だと、誠は自分に言い聞かせた。

 だがある夜、帰り際に芽依が言った言葉が、誠の胸に刺さった。

 「最近、柏木さんが遠い気がします」

 さりげない一言だった。責めているのではない。ただ、気づいたことを言った、そういう口調だった。

 誠は立ち上がりながら、「そんなことはないですよ」と言った。

 嘘だった。

 芽依はそれ以上何も言わなかった。ただ、いつものように「また」と言った。

 誠も「また」と言い、引き戸を閉めた。

 鈴の音が、今夜はどこか寂しく聞こえた。


 一月の終わり、誠は本社から電話を受けた。

 人事部の担当者からだった。「来月、本社へ来ていただけますか。少し話があります」。その言い方が、誠には引っかかった。来月の東京出張は予定になかった。話があります、という含みのある言い方。

 転勤の話か、と誠はすぐに思った。

 北陸への赴任は三年が目安だと、最初から言われていた。もう三年が経った。次の赴任地がどこかはわからないが、動く時期が来ているのかもしれない。

 誠はその電話を切ってから、しばらく椅子に座ったまま動けなかった。

 転勤になれば、金沢を出る。

 金沢を出れば、喫茶ソラへは来られない。

 芽依に会えなくなる。

 そのことが、誠には予想外の重さで感じられた。仕事の話として受け止めようとしたが、そうならなかった。金沢を離れるということが、まず最初に意味したのは、仕事の環境の変化ではなく、芽依と会えなくなるということだった。

 誠はそのことを、しばらくぼんやりと考えた。

 自分はいつから、この女のことをそこまで大切に思うようになったのか。


 二月の第一週、誠は東京へ出張した。

 本社の会議室で、人事部長と向かい合った。話は誠が予想したとおりだった。「三月末で北陸営業所長の任期を終え、四月から本社の営業企画部へ異動してほしい」。東京への帰還だった。役職は上がる。給与も上がる。キャリアとしては、明らかにステップアップだ。

 「考える時間はありますか」と誠は言った。

 人事部長は少し驚いた顔をした。これまでの誠なら、即座に「わかりました」と言っただろう。実際、これまでの赴任では全部そうだった。辞令に逆らったことはなかった。

 「一週間、もらえますか」

 「構いませんが、どうかされましたか」

 「個人的なことです」と誠は言った。

 人事部長はそれ以上聞かなかった。


 東京から金沢へ戻る新幹線の中で、誠は窓の外を見続けた。

 冬の北陸の景色が流れていく。田んぼに雪が残っている。鉛色の空が、水平線まで続いている。誠はその景色を見ながら、考えた。

 転勤を断るという選択肢は、現実的にはほぼない。会社員としての自分には、それはできない。もし断れば、キャリアに傷がつく。左遷の可能性もある。それはわかっている。

 ではどうするか。

 受け入れて、東京へ戻る。それが現実的な答えだ。

 だがそうなれば、芽依のことはどうなる。

 誠はそこで、自分に正直になろうとした。

 芽依のことを、どう思っているのか。

 ただの行きつけの喫茶店の店主か。それとも。

 答えは出ていた。ずっと前から、出ていた。ただ認めていなかっただけだ。

 誠は芽依のことが、好きだった。

 その言葉を、頭の中で声に出してみた。

 好きだ。

 四十七の男が、三十一の女を。十六歳の年の差があって、一度離婚していて、感情の蛇口を長い間締め続けてきた男が。

 好きだ。

 窓の外を景色が流れた。雪の白が、目に染みた。

 好きだと気づいた。

 だがそれだけでは、何も変わらない。

 気づいたからといって、どうすればいい。三月末には金沢を離れる可能性が高い。残り二ヶ月もない。その間に何ができる。何をすべきか。

 誠はまた、考えた。分析した。リスクを計算した。

 そしてまた、格好をつけた。

 答えを出さないことが、最も賢明な選択だと、自分に言い聞かせた。もう少し様子を見よう。時間が解決するかもしれない。あるいは、何もしないまま金沢を去る方が、お互いのためにいいかもしれない。

 惑星は、太陽に落ちない。

 軌道の上を回り続ける。それが安全だ。

 誠は目を閉じた。

 新幹線は金沢へ向かって、速度を上げた。


 金沢に戻った夜、誠はまっすぐマンションへ帰った。

 喫茶ソラへは行かなかった。

 行けなかった、というのが正確だった。芽依の顔を見たら、正直に言ってしまいそうだった。東京への転勤の話が出ていること。金沢を去るかもしれないこと。そしてそれよりも、あなたのことが好きだということ。

 全部言いそうだった。

 だから行かなかった。

 マンションのソファに座って、缶ビールを開けながら、誠は自分を情けないと思った。四十七年生きてきて、喫茶店に行けない。好きな女に会いに行けない。

 気取っている。

 自分でわかっている。

 では、気取るのをやめればいい。簡単な話だ。

 しかし、それができない。

 長い間かけて作り上げた壁は、意志の力だけでは崩せない。わかっていても、動けない。頭の中では正解がわかっているのに、身体が動かない。それが今の誠だった。

 ビールを飲み干して、二本目を取りに立った。

 冷蔵庫の扉を開けながら、誠はふと思った。

 このまま、何もしないで終わるのか。

 また軌道を回り続けて、やがて転勤して、金沢を去って、また東京で一人で生きていくのか。

 答えは出なかった。

 だが、その問い自体が、誠の中で少しずつ大きくなっていた。


5章「芽依の過去」

 二月に入ると、金沢の雪は本格的になった。

 朝、目が覚めると窓の外が白い。そういう日が続いた。誠は雪かきをしながら、営業所へ向かった。北陸の冬に慣れたとはいえ、この時期の寒さは骨に染みる。息を吐くと白くなり、手袋をしていても指先が痛くなる。

 誠は喫茶ソラへ行く間隔を、少し空けるようになっていた。

 意図的に、ではなかった。少なくとも最初は。仕事が忙しかったことも確かだった。だが正直に言えば、東京転勤の話が出てから、芽依の顔を見ることが、少し怖くなっていた。

 見れば、言いたくなる。

 言えば、何かが変わる。

 何かが変わることへの恐れが、誠の足を鈍らせていた。

 それでも、二週間に一度は店へ行った。行かないでいると、もっと遠くなる気がして。距離を保つことと、完全に離れることは違う。誠はその微妙な線の上を、綱渡りのように歩いていた。


 二月の中旬、誠が店へ行くと、芽依の様子がいつもと少し違った。

 表情は穏やかだった。接客も丁寧だった。だがどこか、いつもより疲れている気がした。目の下に、うっすらと疲労の影がある。動きは変わらないが、少し重い。

 客が自分だけになったとき、誠は聞いた。

 「疲れていますか」

 芽依は少し驚いた顔をした。

 「そんなに見えますか」

 「少しだけ」

 芽依はカウンターを拭きながら、「昨日、あまり眠れなくて」と言った。

 「何かあったんですか」

 「昔の友人から、連絡があって」

 それだけ言って、芽依は少し黙った。続けるかどうか迷っているような間だった。誠は急かさなかった。ただ、コーヒーカップを両手で包んで、待った。

 「友人というか」と芽依はやがて言った。「昔、付き合っていた人です」

 誠は何も言わなかった。

 「結婚したと、連絡が来て。報告したかったんだと思います。子どもも生まれると」

 「それで眠れなかった」

 「眠れなかった、というのとは少し違うんですけど」と芽依は言った。「なんだろう、うまく言えないんですが。悲しいとか、悔しいとか、そういうのとも違って。ただ、何かが締まるような感じがして」

 「締まる」

 「心の何かが、きゅっと締まる感じ。痛みとも違う。ただ、締まる」

 誠はその言い方を、黙って聞いた。

 締まる感じ。それは誠にも、なんとなくわかる気がした。終わったと思っていたものが、終わったことを改めて告げられる。それは悲しみではない。だが確かに、何かが閉じる音がする。

 「その人と別れたのは、いつですか」

 「三年前です」と芽依は言った。「ちょうど、父が亡くなった頃に」


 その夜、芽依は少しだけ、過去の話をした。

 誠が急かしたわけではなかった。芽依が、自分から話し始めた。話したかったのかもしれないし、話す相手が誠しかいなかったのかもしれない。あるいは、誠だから話せたのかもしれない。どれが本当かは、誠にはわからなかった。

 「大学の同級生でした」と芽依は言った。「金沢の出身で、私とは地元が同じで。卒業してから、東京でそれぞれ就職して、また会うようになって」

 「東京にいたんですか」

 「三年ほど。父が病気になってから、戻ってきました」

 「その人とは、東京で付き合っていた」

 「はい。四年間」

 四年間、と誠は心の中で繰り返した。それは短くない時間だ。

 「別れたのは」

 「私が金沢へ戻ることになったとき」と芽依は言った。少し間を置いてから。「彼は東京を離れたくなかった。仕事があって、それは理解できました。私も強く求めはしませんでした。遠距離でもいいと最初は言っていたんですが、父の病気が進んで、私が金沢に戻りっきりになって、そのうちに自然と、連絡が減って」

 「自然と」

 「自然と、という言い方が正確かどうかわからないですが」と芽依は言った。「彼も悪い人ではなかったし、私も無理を言えなかった。ただ、お互いの場所が違ってしまった」

 「それで終わった」

 「終わりました」と芽依は言った。静かに。感情を抑えているのではなく、本当に静かに。「父が亡くなった三ヶ月後に、正式に別れました」

 誠は黙っていた。

 父親の死と、四年間の恋の終わりが、同じ時期に重なった。それがどれほどの重さだったか、誠には想像するしかない。だがあの「整理の途中」という言葉の意味が、今少しわかった気がした。

 「辛かったですね」と誠は言った。

 芽依はしばらく黙ってから、「辛かったです」と言った。「素直に言えば」

 「素直に言えば?」

 「あの頃は、素直に辛いと言えなかったので」と芽依は言った。「お母さんに心配かけたくなかったし、妹には子どもが生まれたばかりで、店を続けることで精一杯で。だから、辛いという気持ちをどこに置けばいいかわからなくて」

 「ここに置いていたんですか」と誠は言った。店を見回しながら。「この店に」

 芽依が少し驚いた顔をした。

 「そうかもしれません」と芽依は言った。「父が作った店を続けることが、何かを支えてくれていたので。この場所が、私を保ってくれていた」


 コーヒーを二杯目に替えながら、誠は少し考えてから言った。

 「その人のことを、まだ好きですか」

 芽依はすぐには答えなかった。

 誠は聞きすぎたかと思った。まだそこまでの話をする間柄ではないかもしれない。だが聞いてしまった。

 「好きかどうか、というのとは違うと思います」と芽依はやがて言った。「四年間、一緒にいた人だから、消えるわけはないんですが。でも、戻りたいとか、悔しいとか、そういうのはもうない。ただ、昨日連絡が来て、結婚すると聞いて、何かが完全に終わった気がして」

 「締まった」

 「そう。締まった感じ」と芽依は言った。そして少し笑った。「うまく言語化してくれる人が初めていました」

 「私も似たような経験があるので」

 「離婚のことですか」

 「妻に、私といると透明になっていく気がすると言われました。最後に」

 芽依は黙って、誠を見た。

 「それを聞いたとき、どう思いましたか」と芽依は言った。

 「わからなかった。当時は。今はわかります」

 「今は」

 「私が彼女を見ていなかった。隣にいる人間の存在を、ちゃんと受け取っていなかった。仕事に逃げていた」

 「逃げていた、と今は思うんですか」

 「そう思います」と誠は言った。「仕事が大事だというのは本当だったが、それだけが理由じゃなかった。誰かに深く関わることへの恐れがあって、仕事はその言い訳になっていた」

 芽依はしばらく、誠の顔を見ていた。

 「正直な人ですね」と芽依は言った。

 「今だから言える話です。当時は気づいていなかったので、正直でもなんでもない」

 「それでも」と芽依は言った。「今、正直に言えるということは、変わったということだと思います」

 誠はその言葉を、静かに受け取った。


 その夜の帰り際、誠はコートを着ながら、ふと壁の水彩画を見た。

 六枚の海の絵。能登の海。朝の海、夕暮れの海、嵐の前の海。

 「木村さんは、最近来ていますか」と誠は言った。

 芽依の動きが、少し止まった。

 「木村さん?」

 「いつも窓際で文庫本を読んでいる、年配の方です。私が初めて来た夜もいらっしゃって」

 芽依はしばらく黙った。

 「実は」と芽依はやがて言った。「先週から、来ていなくて」

 「そうですか」

 「ご家族から連絡があって」と芽依は言った。少し声が落ちた。「木村さん、先週の水曜日に、亡くなられたそうです」

 誠は動きを止めた。

 「先週の水曜日」

 「はい。その日も、ここへ来てくれていたんです」と芽依は言った。「いつものコーヒーを飲んで、いつもの文庫本を読んで、帰り際に『また来ます』と言って帰って。それが、最後になってしまって」

 また来ます、と言って。

 誠はその言葉を、静かに受け取った。

 また来ます、という言葉は、約束ではない。ただの挨拶だ。だが人はその言葉を信じる。次もここへ来られると、当たり前のように思っている。

 だが当たり前ではない。

 「木村さんは、何年来てくれていたんですか」

 「十三年です」と芽依は言った。「父が店を始めた頃からの、最初のお客さんの一人で」

 「十三年」

 「詩集を読みながら、コーヒーを飲むのが好きな方で。若い頃から詩が好きだったと、一度話してくれたことがあって。それ以来、詩集が入ったときは、木村さんに話すようにしていました」

 誠は窓際のテーブルを見た。

 木村さんが座っていた席だった。

 そこに誰もいなかった。

 文庫本もなかった。ただ、白いテーブルがあるだけだった。

 「あなたが守っていたんですね」と誠は言った。「その時間を」

 芽依は下を向いた。

 肩が、少し震えた。

 誠はコートを着たまま、カウンターに戻った。

 芽依の手に、そっと自分の手を重ねた。

 芽依は顔を上げなかった。

 だが手を引かなかった。

 しばらく、そのままでいた。

 雨の音が、外で始まっていた。

 誠はその雨の音を聞きながら、思った。

 時間は、有限だ。

 木村さんは「また来ます」と言って、来られなかった。誠にも、また来ますと言える保証はない。誰にも、ない。

 ならば今、できることをしなければならない。言えることを、言わなければならない。今しかないことを、今しなければならない。

 誠は芽依の手の温かさを感じながら、その当たり前のことを、初めて骨の髄まで感じた。


 やがて芽依が顔を上げた。

 目が少し赤かった。

 今夜は、泣いていた。

 誠が芽依の涙を見たのは、初めてだった。

 「すみません」と芽依は言った。

 「謝らないでください」と誠は言った。

 「柏木さんの前で、こんな」

 「いいんです」と誠は言った。「ここにいるので」

 芽依はしばらく、誠を見た。

 それから、小さく「ありがとうございます」と言った。

 その言葉が、今夜は以前とは違う重さで、誠に届いた。


 帰り道、誠は雪の中を歩いた。

 木村さんのことを考えながら歩いた。

 十三年間、詩集を読みながらコーヒーを飲んだ老人。「また来ます」と言った老人。来られなかった老人。

 誠は空を見上げた。

 雪が、また降り始めていた。

 街灯の光の中で、白いものがひらひらと落ちてくる。

 時間は有限だ。

 その言葉が、雪のように、誠の中に静かに積もっていった。



6章「遠ざかる軌道」

 来週、と言ったのに、誠はすぐには行けなかった。

 理由は仕事だった。少なくとも、表向きは。月末の数字の締めがあり、福井の取引先でトラブルが起きて、田中が体調を崩して誠が直接動かなければならない場面が続いた。気づけば、芽依に「来週来ます」と言った日から十日が過ぎていた。

 だが正直に言えば、仕事だけが理由ではなかった。

 行けば、何かを言わなければならない気がした。

 芽依が「返事をする前に来てください」と言った。その言葉の意味を、誠はずっと考えていた。考えれば考えるほど、重くなった。あれは単なる常連客への気遣いだったのか。それとも、もっと別の何かを含んでいたのか。

 どちらだとしても、行けば向き合わなければならない。

 向き合うことへの怖さが、誠の足を止めていた。

 人事部への返事の期限は、今週末だった。


 そこへ、木曜日の朝、スマートフォンが鳴った。

 母親からだった。

 こんな時間に母親から電話が来ることは、ほとんどない。誠は胸に何かが走るのを感じながら、電話を取った。

 「誠、落ち着いて聞いてね」

 その一言で、わかった。

 「親父か」

 「昨夜、胸が痛いと言って。今、病院にいるんだけど」

 「心臓か」

 「先生が、軽い心筋梗塞だって。でも、処置が早かったから、命に別状はないって言ってくれていて」

 誠は椅子から立ち上がっていた。

 「今すぐ行く」

 「仕事は」

 「関係ない」

 電話を切って、田中を呼んだ。

 「父親が倒れた。今日から数日、頼む」

 田中は「わかりました、行ってきてください」と即座に言った。迷いがなかった。誠はその即座さが、ありがたかった。

 荷物をまとめながら、誠はスマートフォンを見た。

 芽依に連絡しようとして、少し止まった。

 なぜ芽依に連絡しようとしているのか。

 緊急の場面で、最初に連絡したいと思った相手が、芽依だった。

 その事実を、誠は一瞬、静かに受け取った。

 仕事の連絡は、田中にした。だが個人として、誰かに伝えたいと思ったとき、浮かんだのが芽依だった。

 それが何を意味するか。

 誠は考えかけて、止めた。今は考えている場合ではない。

 メッセージを送った。

 「父が倒れました。大阪へ行きます」

 返信はすぐに来た。

 「大丈夫ですか。気をつけて」

 たった二文だった。だがその二文が、誠には十分だった。

 走るように、営業所を出た。


 大阪の病院へ着いたのは、夕方だった。

 父親は個室のベッドに寝ていた。点滴がつながれて、顔色が悪かった。だが目は開いていた。誠が入ってきた気配で、ゆっくりと顔を向けた。

 「来たか」

 「来た」

 「大げさやな」と父親は言った。大阪弁で。「命に別状ないって言われたのに」

 「うるさい」と誠は言った。

 父親が少し、笑った。

 誠は椅子を引いて、ベッドの横に座った。

 しばらく、何も言わなかった。父親も何も言わなかった。だがその沈黙は、以前の二人の間にあった沈黙とは違った。あの頃の沈黙は、お互いに何も言うことがない沈黙だった。今夜の沈黙は、言葉の前にある沈黙だった。

 「心配したか」と父親が言った。

 「した」と誠は言った。

 「そうか」

 また少し、黙った。

 「親父」と誠は言った。

 「なんや」

 「もう少し、連絡する。これから」

 父親はしばらく、点滴の管を見ていた。

 「ああ」と父親はやがて言った。「待っとる」


 大阪に三日いた。

 父親の容態は安定していた。医師から「しばらく安静にしていれば問題ない」と言われた。母親が「あんた、顔が変わったね」と言った。「良い方に」と付け加えた。

 三日間、毎晩芽依からメッセージが来た。

 「お父さん、今日はどうでしたか」

 「顔色が良くなってきたと言っていました」と誠は返した。

 「よかったです。あなたも、ちゃんと食べてください」

 あなたも、という言葉が、誠には温かかった。

 父親のことを心配しながら、誠のことも心配している。その両方が、あなたも、という二文字の中に入っていた。

 三日目の夜、父親が少し回復して、二人で話した。

 「金沢は、どうやった」と父親が聞いた。

 「良かった」と誠は言った。「人に恵まれた」

 「女か」

 誠は少し驚いた。

 「なんでわかる」

 「顔に出とる」と父親は言った。「お前、昔からそういうのが顔に出る」

 誠は苦笑した。

 「来月、金沢を離れる」

 「それで、どうするんや」

 「どうするか、考えています」

 父親はしばらく黙った。

 「誠」と父親は言った。

 「なんや」

 「お前、若い頃から考えすぎるとこがあったからな」と父親は言った。「頭で考えて、感情を後回しにして。仕事はそれでうまくいくかもしれんけど、人間関係はそれじゃあかんことがある」

 誠は父親を見た。

 「知っとる」

 「知っとるなら、ええ」と父親は言った。「後は、動くだけや」

 「親父に言われたくないな」

 「そうやな」と父親は笑った。「わしも人のこと言えんから」

 二人で笑った。

 病院の個室で、点滴がつながれたベッドの横で、父と息子が笑った。

 誠は、それがいつぶりのことか、思い出せなかった。

 だがそれでいいと思った。

 今日笑えた。それで十分だ。


 大阪から金沢へ戻った夜、誠はまっすぐ喫茶ソラへ向かった。

 引き戸を開けると、芽依がカウンターの奥にいた。

 誠を見て、少し安堵したような顔をした。

 「帰ってきた」と芽依は言った。

 「帰ってきました」と誠は言った。

 「お父さんは」

 「大丈夫です。少し、話もできた」

 「よかった」と芽依は言った。「本当に」

 誠はカウンターの端に座った。

 いつもの席。帰ってきた場所。

 コーヒーを受け取って、一口飲んだ。

 「帰ってきた気がします」と誠は言った。「ここへ来ると」

 芽依はしばらく、誠を見ていた。

 「ここは」と芽依は言った。静かに。「いつでも、あります」

 誠はその言葉を、静かに受け取った。

 いつでも、ある。

 父親が倒れた朝、最初に連絡したいと思った相手が芽依だった。三日間、毎晩メッセージが来た。大阪から戻って、まっすぐここへ来た。

 自分にとってここが何なのか、もう言葉にする必要もなかった。

 「もう一つ、正直に言っていいですか」と誠は言った。

 「どうぞ」

 「父が倒れた朝、最初に連絡したいと思ったのが、あなたでした」

 芽依は少し、動きを止めた。

 「それを言うんですか」

 「言いたかったので」

 芽依はしばらく、カウンターの木目を見ていた。

 「私も」と芽依はやがて言った。「毎晩、連絡しながら、早く帰ってきてほしいと思っていました」

 「帰ってきましたよ」

 「知っています」と芽依は言った。「だから、よかったと言ったんです」

 店の中が、静かだった。

 雨の音が、外で始まっていた。

 誠はコーヒーを飲みながら、父親の言葉を思い返した。

 考えすぎるとこがあった。後は、動くだけや。

 動く。

 そうだ。もう十分、考えた。

 あとは動くだけだ。


 木曜日の夜、誠はようやく喫茶ソラへ向かった。

 意を決した、というほど大げさなものでもない。ただ、このまま行かずに週末を迎えるのは違う、という感覚があった。芽依と話さないまま返事をするのは、何かを間違える気がした。

 引き戸を開けると、店の中は静かだった。

 客が一人、奥のテーブルにいた。誠より少し年上に見える男性が、一人でグラスを傾けている。赤ワインだろうか。静かに、何かを考えながら飲んでいる様子だった。

 芽依がカウンターの奥から出てきた。

 誠を見た瞬間、何かが顔に浮かんだ。安堵のようなもの、あるいは、来たか、というような表情。一瞬だったが、誠にはそれが見えた。

 「来るのが遅かったですね」と芽依は言った。責める口調ではなく、ただ事実として。

 「すみません。仕事が立て込んで」

 「そうですか」

 芽依はコーヒーを淹れ始めた。誠はいつもの席に座った。

 カウンターに肘をついて、芽依の後ろ姿を見た。慣れた手つきでコーヒーを淹れる。その動きが、誠にはいつもより少し緊張して見えた。あるいは、自分が緊張しているから、そう見えるのかもしれない。

 「返事は、しましたか」と芽依が聞いた。背中を向けたまま。

 「まだです。今週末までに」

 芽依は何も言わなかった。

 コーヒーがカップに注がれる音だけが、静かな店の中に響いた。


 奥の客が帰ったのは、九時を少し前だった。

 店には誠と芽依だけになった。

 芽依はカウンターの内側に立ったまま、しばらく誠を見ていた。何かを言おうとして、どう言おうか測っているような、そういう表情だった。

 誠も黙っていた。

 先に口を開いたのは、芽依だった。

 「聞いてもいいですか」

 「どうぞ」

 「迷っているのは、仕事のことですか」

 誠はコーヒーカップを置いた。

 「仕事のことだけではないです」

 「金沢に、残る理由があると言っていましたね」

 「はい」

 「それは」と芽依は言った。少し間を置いて。「この店のことですか」

 誠は芽依を見た。

 芽依は真剣な顔をしていた。探るような目ではない。確かめようとしている目だった。自分が感じていることを、正確に確かめようとしている。

 「この店のことでもあります」と誠は言った。「そして」

 「そして」

 誠は少し間を置いた。

 言えるか、と自分に問いかけた。

 言え、と自分に言い聞かせた。

 父親の言葉が、頭の中で響いた。

 後は、動くだけや。

 「あなたのことでもあります」

 店の中が、しんとした。

 芽依はしばらく、誠を見ていた。

 誠もまた芽依を見た。目を逸らさなかった。これまでの自分なら、言った瞬間に目を逸らしていた。だが今夜は、逸らさなかった。

 「柏木さん」と芽依はやがて言った。

 「はい」

 「それは、どういう意味で言っていますか」

 「そのままの意味で言っています」

 芽依はまた黙った。

 誠は続けた。言い始めたら、止まれなかった。

 「あなたのことが気になっています。ここへ来るたびに、あなたと話すたびに、それは大きくなっている。私は長い間、こういうことを感じないようにしてきたので、うまく言葉にできないですが。ただ、正直に言えば、そういうことです」

 芽依は下を向いた。

 カウンターの木目を、見ているのか、見ていないのかわからない。

 誠は待った。

 長い沈黙だった。十秒か、二十秒か。誠には長く感じられた。

 「ありがとうございます」と芽依はやがて言った。

 「ありがとう、というのは」

 「正直に言ってくれて」と芽依は言った。顔を上げて、誠を見て。「うれしかったです。本当に」

 「でも」と誠は言った。「でも、があるんですね」

 芽依は少し、困ったような顔をした。

 「でも、があります」


 芽依が話し始めたのは、しばらく経ってからだった。

 誠のコーヒーカップに、二杯目を注ぎながら。自分の手を動かしていた方が、話しやすいのかもしれなかった。

 「私も」と芽依は言った。「柏木さんのことは、気になっていました」

 「気になっていた、と過去形で言う」

 「今も、です」と芽依は少し苦笑しながら言った。「ただ」

 「ただ」

 「私は、一度同じことをして、うまくいかなかったので」と芽依は言った。「場所が違う人と。どちらかが動かなければならなくて、でもどちらも動けなくて、そのまま終わった。また同じになるのが、怖いんです」

 誠は黙って聞いた。

 「柏木さんは東京へ行く話が出ている。私はここを離れられない。また同じだと思うと、最初から踏み込めない自分がいて」

 「それは」と誠は言った。「正直な話をありがとうございます」

 「お互い様です」と芽依は言った。

 「東京へ行くことは、決まったわけではないです」

 「でも、可能性は高い」

 「そうです」と誠は認めた。「高い」

 芽依はカップを置いて、両腕をカウンターの上でゆっくりと組んだ。

 「柏木さんは、どうしたいんですか」と芽依は言った。「仕事のことじゃなくて。自分が、どうしたいか」

 誠はすぐには答えられなかった。

 どうしたいか。

 その問いに、誠はこれまで正面から向き合ってこなかった。何が得か、何が損か、何が合理的か。そういう軸でしか考えてこなかった。

 だが今夜は、木村さんのことが頭にあった。

 また来ます、と言って、来られなかった老人のことが。

 時間は有限だ。

 「ここにいたい」と誠はやがて言った。「正直に言えば」

 「金沢に、ですか」

 「金沢に。そして、ここに。あなたのそばに」

 芽依は少し、目を伏せた。

 「それを言われると」と芽依は言った。小さな声で。「困ります」

 「困る、というのは」

 「うれしくて、困ります」

 誠は、その言葉を聞いた瞬間、胸の中で何かが動いた。

 うれしくて、困る。

 芽依も同じ場所にいた。誠と同じように、踏み込むことへの怖さを持ちながら、しかし引かれている。その事実が、誠には重かった。重かったが、温かかった。


 だがその夜、二人は答えを出さなかった。

 出せなかった、というのが正確だった。

 芽依には怖さがあった。場所が違う男と、また同じ轍を踏むことへの怖さ。誠には返事の期限があった。今週末。選択が迫っている。

 「今週末に、返事をしてから」と誠は言った。「また来てもいいですか」

 「もちろんです」と芽依は言った。「ただ」

 「ただ」

 「返事の前でも、後でも」と芽依は言った。「柏木さんが決めることは、仕事のことだけで決めてください。私のことを、理由にしないでください」

 誠は少し、面食らった。

 「それは」

 「私がいるから金沢に残る、という理由で決めてほしくないんです」と芽依は言った。まっすぐに、しかし柔らかく。「私はまだ、柏木さんに何かを約束できる立場にないから。だから、私を理由にしないでほしい」

 誠はその言葉の意味を、ゆっくりと受け取った。

 芽依は誠を突き放しているのではない。誠の人生の決断を、自分という不確かなものの上に乗せてほしくない、ということだ。

 「わかりました」と誠は言った。

 「ごめんなさい」と芽依は言った。「難しいことを言って」

 「難しくないです」と誠は言った。「正しいと思います」

 芽依は少し、安堵したような顔をした。


 マンションへ帰る道、誠は重い足取りで歩いた。

 雪はなかった。乾いた冷たい空気の中を、コートの襟を立てて歩いた。

 うれしくて、困る、と芽依は言った。

 誠は何度もその言葉を反芻した。

 芽依も、誠のことを気にかけていた。それは確かだった。

 詩の一節が、頭の中で繰り返された。

 惑星の軌道の如く、すぐにまた遠ざかり。

 まさにそれだ、と誠は思った。

 近づいたと思ったら、また遠ざかる。引力に引かれながら、しかし軌道を外れることができない。

 だが今夜は、以前と少し違った。

 木村さんの「また来ます」が、頭の中にあった。

 父親の「後は、動くだけや」が、頭の中にあった。

 二つの言葉が、誠の中で静かに重なっていた。

 誠は空を見上げた。

 冬の空に、星が見えた。


 土曜日の朝、誠は人事部長に電話をした。

 「受けます」

 言ってから、少し驚いた。自分の口からその言葉が出たことに。

 「ただ」と誠は続けた。

 「はい」

 「三月末まで、金沢でやるべきことがあります。それはやり切らせてください」

 「もちろんです。引き継ぎも含めて、三月末まではそちらで」

 電話を切った。

 窓の外を見た。曇り空だった。雪がまた、降り始めていた。

 受けた。

 東京へ行く。

 それが現実になった。

 誠はソファに座って、しばらく動かなかった。

 だがその夜、喫茶ソラへ行くと、芽依が「返事をした前でも後でも、柏木さんが決めることは仕事のことだけで」と言った通りになった。

 誠はそれを、正しい選択だと思った。

 そしてもう一つ、正しい選択が残っていることも、わかっていた。

 それはこれから、しなければならない選択だった。



7章「決断の夜」

 三月に入った。

 金沢の三月は、まだ冬の匂いがする。雪は減るが、完全には消えない。日によっては真冬のような寒さが戻ってくる。だが光は確かに変わっていた。朝の光が、二月とは違う角度で差し込んでくる。夕方の空が、少しだけ長く明るい。春は、まだ遠いようで、しかし確実に近づいていた。

 誠の残り時間も、確実に減っていた。

 三月末まで、あと一ヶ月を切っていた。

 引き継ぎの準備が本格的に始まった。田中が次の所長候補として本社から認められ、誠は田中に仕事を渡していく作業を、毎日少しずつ進めた。取引先への挨拶回りも始まった。長年付き合いのあった福井の担当者が、「柏木さんがいなくなるのは寂しい」と言った。誠は「お世話になりました」と言い、頭を下げた。

 仕事の上での金沢との別れは、淡々と進んでいた。

 だが誠の頭の中では、別の問いが大きくなり続けていた。

 芽依のことを、このまま終わらせていいのか。


 三月の第一週、誠は週に二度、喫茶ソラへ行った。

 芽依はいつもと変わらなかった。コーヒーを淹れ、時々話をし、静かな時間を作った。東京転勤の話が出てから、二人の間の空気は変わっていた。変わった、というのは悪い意味ではない。ただ、何かが決まっていない宙ぶらりんな感じが、常にどこかにあった。

 誠はそれを感じながら、しかし踏み込めずにいた。

 芽依に「私のことを理由にしないでください」と言われた。その言葉は正しかった。誠もそう思う。だが東京行きを決めた今、その言葉の意味は変わっていた。

 もう決断は終わった。

 仕事の決断は、した。

 残っているのは、別の決断だ。

 誠は毎夜、マンションのソファに座って、その別の決断と向き合った。

 言うべきか。

 言うべきだ、と頭ではわかっていた。このまま三月末を迎えて、「お世話になりました」と頭を下げて金沢を去る。それは最も楽な選択だ。傷つかない。傷つけない。誰も何も失わない。

 だが本当にそうか。

 何も失わないのか。

 誠はそこで立ち止まった。

 何も言わずに去ることは、何かを失うことだ。言葉にしなかった感情は、言葉にしなかったという事実として残る。あの惑星の軌道の話ではないが、今ここで動かなければ、この機会は遠ざかる。人生くらいの時間では、二度と戻らないかもしれない距離へ。


 三月の第二週の水曜日、誠は仕事を早めに切り上げた。

 田中に「今日は直帰する」と伝えた。田中は「わかりました」と言い、それ以上聞かなかった。

 誠はマンションへ戻り、コートを脱いで、ソファに座った。

 窓の外では、雪が少し舞っていた。三月の雪は儚い。降ってもすぐに溶ける。それでも降る。春になりきれない空が、最後の冬を手放せずにいるような雪だった。

 誠はしばらく、その雪を見ていた。

 何かが、今夜決まる気がした。

 根拠はなかった。ただ、そういう感覚があった。これ以上先送りにできない、という感覚。もう時間がない、という感覚。そして、今夜言わなければ、永遠に言えないかもしれない、という感覚。

 誠は立ち上がった。

 コートを羽織った。

 玄関で靴を履きながら、鏡に映る自分の顔を見た。

 四十七の男の顔だった。

 情けないとは思わなかった。今夜は。ただ、この顔をした男が、今から何かをしようとしている。それは、この顔に似合うことだと思った。

 扉を開けた。


  喫茶ソラへ向かう道を、誠は歩いた。

 いつもの道だった。営業所を出て、片町を抜けて、犀川の方へ向かう道。三年間、何度歩いたかわからない道。最初の頃は、ただの帰り道だった。それがいつの間にか、目的地のある道になっていた。

 雪が少し、強くなっていた。

 誠は傘を差さなかった。

 なぜかは自分でもわからなかった。ただ、今夜は傘を差したくなかった。雪に打たれながら歩きたかった。身体で何かを感じながら、この道を歩きたかった。

 頭の中に、言葉が浮かんでいた。

 何を言うか、は決めていなかった。

 決めすぎると、また格好をつけ始める。言葉を選びすぎて、肝心のことを言えなくなる。だから決めなかった。ただ、正直に言おう、とだけ思った。思っていることを、飾らずに、正直に。

 それだけでいい。

 路地の角を曲がると、喫茶ソラの明かりが見えた。

 引き戸の磨りガラスの向こうで、温かい光が揺れている。

 誠は立ち止まった。

 一呼吸置いた。

 それから、引き戸に手をかけた。


 カランコロン、と鈴が鳴った。

 店の中には、客がいなかった。

 平日の夜の、少し早い時間だった。芽依がカウンターの奥で、何かを書いていた。帳簿か、メモか。誠が入ってきた音で顔を上げた。

 「いらっしゃい」と言いかけて、止まった。

 誠の顔を見て、何かを感じたのかもしれない。いつもと違う、という何かを。

 「どうかしましたか」と芽依は言った。

 「少し、話してもいいですか」

 「もちろん」

 「座る前に、話したいことがあって」

 芽依はペンを置いた。カウンターの前に立ち、誠を見た。

 誠は引き戸の前に立ったまま、コートについた雪を少し払った。それから、芽依を見た。

 「あなたのことが、好きです」

 店の中が、しんとした。

 雪の音もしない。街の音も遠い。ただ、二人の間に、その言葉だけがあった。

 芽依は動かなかった。

 誠も動かなかった。

 「四十七の男が、何を言っているんだと思うかもしれないですが」と誠は続けた。「十六歳の差があって、一度離婚していて、来月には金沢を去る男が。それはわかっています。だから言うべきではないかもしれない。ずっとそう思っていた。でも言わないまま金沢を去ることの方が、ずっと間違いだと今夜思ったので」

 芽依はまだ、動かなかった。

 誠は続けた。

 「金沢に来て、この店に来て、あなたと話すようになって、私は少し変わった気がしています。長い間閉めていた何かが、少しずつ開いてきた。それがあなたのおかげだとは、図々しくて言えないですが。ただ、あなたと話す時間が、私には大切だった。それだけは正直に言いたかった」

 言い終えた。

 誠は芽依を見た。目を逸らさなかった。

 芽依は下を向いていた。

 十秒ほど、沈黙があった。

 それから芽依が顔を上げた。

 目が、少し赤かった。泣いているわけではなかった。だが、何かをこらえている目だった。

 「座ってください」と芽依は言った。静かに。「コーヒーを淹れます」


 誠はカウンターの端に座った。

 いつもの席だった。最初の夜からずっと、この席に座ってきた。

 芽依がコーヒーを淹れる音がした。豆を挽く音。お湯を注ぐ音。それらがいつもより丁寧に聞こえた。

 コーヒーが来た。

 誠はそれを受け取り、一口飲んだ。

 いつも通りのコーヒーだった。変わらない味。だが今夜は、その味がいつもより深く感じられた。

 芽依はカウンターの内側で、誠と向かい合うように立った。

 「柏木さん」と芽依は言った。

 「はい」

 「正直に言っていいですか」

 「もちろんです」

 芽依はしばらく間を置いた。

 「私も」と芽依は言った。「柏木さんのことが、好きです」

 誠は息を止めた。

 「最初に気づいたのは、たぶんクリスマスの頃でした」と芽依は続けた。「はっきりとは言えないですが、あの夜、気になっていると言ったとき、本当はもっと別のことを言いたかった。でも言えなかった」

 「なぜ言えなかったんですか」

 「怖かったから」と芽依は言った。「また同じことになるのが。場所が違う人と、また同じことになるのが。それに」

 「それに」

 「柏木さんが、遠い気がしていたので」と芽依は言った。少し苦笑しながら。「こちらが踏み込もうとすると、するっと引いてしまう感じがして。だから、私も踏み込めなかった」

 誠は、その言葉を正直に受け取った。

 「私が格好をつけていたからですね」

 「格好をつけていた」

 「自分でもわかっていました。踏み込まれそうになると、引いていた。怖かったので」

 「何が怖かったんですか」

 誠は少し考えた。

 「また誰かを透明にするのが、怖かった。あなたを透明にするのが」

 芽依は、その言葉を聞いて、少し目を伏せた。

 「透明にはなりませんよ」と芽依は言った。「私は、なりません」

 「わかっています」と誠は言った。「あなたは、根がある人だから」

 芽依が少し、驚いた顔をした。

 「根が、ある」

 「この店に。この場所に。どれだけ揺れても、倒れない根が」

 芽依はしばらく、その言葉を受け取っているようだった。

 「それを言われたのは、初めてです」と芽依は言った。

 「本当のことです」

 「柏木さんも」と芽依は言った。「根が、できてきていると思います。ここへ来る度に、そう思っていました」

 誠はその言葉に、何も言えなかった。

 ただ、コーヒーカップを両手で包んで、温かさを感じた。


 だがやがて、芽依が言った。

 「でも」と。

 「でも」と誠は繰り返した。「あります。私にも」

 「柏木さんは、東京へ行く」

 「行きます」

 「私は、ここを離れられない」

 「そうですね」

 「お互いの気持ちは、わかった」と芽依は言った。「でも、それだけでは、どうにもならないことが、あります」

 誠は黙った。

 芽依の言う通りだった。気持ちがわかっても、現実は変わらない。誠は来月、金沢を去る。芽依はここに残る。その事実は、言葉では変えられない。

 「わかっています」と誠は言った。「だから、答えを求めて来たわけではないです」

 「では、なぜ」

 「言わないまま去るのは、違うと思ったから」と誠は言った。「言葉にしないまま終わるのは、間違いだと思ったから。それだけです」

 芽依はしばらく、誠を見ていた。

 「言ってくれて、よかったです」と芽依はやがて言った。「本当に」

 「よかったと思えますか。こんな話をされて」

 「こんな話、というのは」と芽依は少し笑った。「来月去る男に好きだと言われて、という意味ですか」

 「そうです」

 「困りますよ」と芽依は言った。「すごく困る。でも、よかったとも思います。言ってくれなかったら、もっと困っていたと思うので」

 「もっと困る、というのは」

 「言ってくれなかった方が、ずっと気になり続けたと思うので」と芽依は言った。「言葉にしてもらえた方が、ちゃんと向き合える気がします。気持ちに」


 その夜、二人は長い時間、話した。

 これまで話せなかったことを、話した。

 誠は美和との結婚について、もう少し詳しく話した。どこで間違えたか。何が足りなかったか。それを今の自分がどう見ているか。芽依は静かに聞いていた。

 芽依は、父親が亡くなる前の二年間について話した。病院への送り迎え。店を閉める日が続いたこと。父親が最後まで「店を頼む」と言わなかったこと。言わなかったけれど、それが父親の信頼だとわかったこと。

 誠はそれを、静かに聞いた。

 二人は、お互いの過去を少しずつ、丁寧に手渡し合った。

 それはとても静かな時間だった。

 劇的なことは何も起きなかった。誰かが泣いたわけでも、抱き合ったわけでも、何かを誓い合ったわけでもない。ただ、二つの人間が、それぞれの時間を持ち寄って、テーブルの上に広げた。そういう夜だった。

 十一時を過ぎた頃、芽依が「そろそろ閉める時間です」と言った。

 誠は立ち上がり、コートを着た。

 「また来ます」

 「来てください」と芽依は言った。「残りの時間、来てください」

 「来ます」

 誠は引き戸に手をかけた。

 「柏木さん」

 振り返った。

 芽依がカウンターの前に立っていた。エプロン姿で、髪が少し乱れていた。一日店に立ち続けた後の顔だった。それが、誠には美しかった。

 「東京へ行っても」と芽依は言った。「連絡してください」

 誠は少し、驚いた。

 これまで芽依は、先のことを言わなかった。金沢を去った後のことを、意図的に話題にしなかった。だから今夜もそうなると思っていた。

 「していいんですか」

 「していいです」と芽依は言った。はっきりと。「したいです、私も」

 誠はしばらく、芽依の顔を見た。

 「わかりました」と誠は言った。

 「おやすみなさい」

 「おやすみなさい」

 引き戸を閉めた。

 鈴がカランコロンと鳴った。


 外へ出ると、雪は止んでいた。

 路地に、薄く雪が積もっていた。誠の靴が、その雪を踏んで、小さく音を立てた。

 誠は少し、歩く速度を落とした。

 言えた、と思った。

 格好をつけずに、言えた。

 返ってきた言葉は、簡単なものではなかった。東京に行く現実は変わらない。二人の間にある距離は、まだある。何かが解決したわけではない。

 だが何かが、確かに変わった。

 言葉にしたことで、何かが実体を持ち始めた。靄の中にあったものが、少しだけ輪郭を持ち始めた。それがこれからどうなるかは、わからない。芽依との間にどんな未来があるかも、まだわからない。

 ただ、「連絡してください」と言ってくれた。

 「したいです、私も」と言ってくれた。

 それで今夜は、十分だった。

 誠は空を見上げた。

 雪が止んだ後の空は、澄んでいた。星が、いくつか見えた。

 惑星は、軌道の上を回り続ける。だが今夜、誠は少しだけ、その軌道から外れた気がした。太陽の引力に、少しだけ、身を委ねた気がした。

 燃え尽きるかもしれない。

 それでもいい、と思った。

 四十七年かけて、初めてそう思えた。


 翌朝、誠は早く目が覚めた。

 いつもより一時間ほど早かった。だが眠れなかったわけではない。むしろ、よく眠れた。ただ、目が自然に覚めた。

 カーテンを開けると、外が明るかった。

 雪は溶けていた。道路が光っていた。空が、薄い青色をしていた。

 誠はコーヒーを淹れた。

 マグカップに注いで、窓の前に立って、飲んだ。

 芽依のコーヒーには及ばない、と思った。

 だがそれでいい。及ばないから、また飲みに行ける。

 誠は残り三週間を、頭の中で数えた。

 三週間。

 短い。

 だが何もないわけではない。言葉にしたことで、時間の密度が変わった気がした。これまでの三年間より、この三週間の方が、濃いかもしれない。

 誠はマグカップを置いて、着替えを始めた。

 仕事がある。引き継ぎがある。取引先への挨拶もある。やるべきことは山積みだ。

 だが今日は、それらが少し違って見えた。

 終わりに向かう作業ではなく、次へ向かうための準備として。

 誠は玄関で靴を履きながら、昨夜のことを思い返した。

 芽依の「おやすみなさい」という言葉。カウンターの前に立っていた、その顔。

 まだ、何も終わっていない。

 むしろ、始まったばかりかもしれない。

 そう思いながら、誠は扉を開けた。

 三月の朝の空気が、冷たく、しかし確かに春の匂いを含んで、顔に当たった。


続く


Kindle 予定

力不足なわりに
なんとかひとつ
中編が出来まして
試しにここへ載せて置きます

でも
ここでこれを読み切るのは
ちょいと大変かも… 笑





ーまえがきー

 人生には、気づかぬうちに速度を失い、しかし止まることもできず、ただ惰性で進んでしまう時期がある。

 仕事に追われ、感情を閉じ、傷つかないために心の蛇口を固く締めてしまう。そんな日々が長く続くと、人はいつの間にか、自分自身の輪郭さえ曖昧になっていく。

 本書の主人公・柏木誠は、まさにその只中にいる男だ。

 四十七歳。離婚歴あり。仕事はできるが、心は乾いている。

 そんな彼が、金沢の片隅にある小さな喫茶店「ソラ」で、ひとりの女性と出会う。

 大きな事件は起きない。

 派手な恋愛も、劇的な転機もない。

 ただ、静かな会話と、丁寧に淹れられたコーヒーと、雨の匂いがある。

 だが人生は、そうした“わずかな揺らぎ”から変わり始めるのかもしれない。

 この物語は、失われた感情が少しずつ戻っていく過程を描いた、小さな再生の記録である。

 読んでくださるあなたの中にも、そっと灯るものがあれば幸いだ。



1章「軌道の外側」

 十一月の金沢は、雨が多い。

 柏木誠は、営業所の窓から外を眺めながら、そのことを改めて思った。東京にいた頃は、雨といえばただの障害だった。傘を持ってくるのを忘れたか忘れなかったか、それだけの話だ。だがここでは雨は違う意味を持つ。空から降りてくるというよりも、街全体がじわりと湿っていく感じ。石畳も、瓦屋根も、兼六園の松の枝も、すべてが少しずつ水を含んで、重くなっていく。

 誠は四十七歳だった。

 中堅メーカー、旭川産業株式会社の北陸営業所長。部下は六人。担当エリアは石川・富山・福井の三県。年間売上目標は十二億。去年は達成した。今年もおそらく達成する。それが誠という男の、ここ二十年の生き方だった。

 目標を立て、逆算し、動く。感情は後回しにする。

 それが仕事というものだと思っていた。いや、正確には、それが自分というものだと思っていた。

 「所長、例の福井の件ですが」

 声をかけてきたのは部下の田中だった。二十八歳。入社四年目。愛想がよく、要領もいい。誠が赴任してきた三年前から変わらず、いちばん気の利く部下だ。

 「後でいい」

 「でも先方が——」

 「後でいいと言った」

 田中が引き下がる気配がした。誠は窓から視線を外さなかった。

 雨はまだ続いていた。


 誠が金沢に来たのは、三年前の春だった。

 本社からの辞令はいつも突然だ。「北陸営業所、所長として赴任せよ」。それだけ。理由の説明も、選択の余地もない。ただし給与は上がる。役職も上がる。だから文句は言えない。そういう仕組みになっている。

 当時、誠には特に失うものがなかった。

 妻の美和とは、その六年前に離婚していた。子どもはいない。東京の目黒に借りていたマンションは、離婚と同時に引き払っていた。その後は会社の近く、品川の1LDKに一人で住んでいた。家具は最小限。週末は近くのジムに行くか、ランニングをするか、気が向けば映画を一本観るか。そういう生活だった。

 誰かに「寂しくないか」と聞かれれば、「慣れた」と答えた。

 それは嘘ではなかった。ただ、本当のことでもなかった。

 寂しいという感情は、ある日を境に、どこかへ消えた。正確には、消えたというよりも、感じることをやめた。そのほうが楽だったから。感じなければ、傷つかない。傷つかなければ、仕事に集中できる。仕事に集中すれば、目標を達成できる。達成すれば、また次の目標が来る。

 その繰り返しが、誠の人生だった。

 金沢に来てからも、それは変わらなかった。街は美しかった。東茶屋街の格子戸、ひがし廓の石畳、冬の兼六園に積もる雪。観光客が写真を撮りたがるのはわかる。だが誠にとってそれらは、背景だった。自分の人生の舞台の、ただの書き割り。

 そう感じていることに、罪悪感すら覚えなくなっていた。


 路地を一本入ったところに、明かりが見えた。

 小さな店だった。間口は二間ほど。引き戸の上に、古びた木の看板がかかっている。筆文字で「喫茶ソラ」と書いてあった。

 誠は立ち止まった。

 入ったことはない。この辺りを歩いたことは何度かあったが、いつも素通りしていた。だが今夜は、なぜか足が止まった。引き戸の磨りガラス越しに、温かい光が滲んでいる。誰かが中にいる気配がする。コーヒーの匂いが、雨の空気に混じってかすかに漂ってくる。

 誠はしばらく、その引き戸の前に立っていた。

 入るべきか、素通りするか。

 ばかばかしい、と思った。喫茶店に入ることを、なぜ迷う必要がある。疲れているだけだ。コーヒーを一杯飲んで、少し休んで、それから帰ればいい。

 誠は引き戸に手をかけた。

 ゆっくりと、横に引いた。

 カランコロン、と古い鈴が鳴った。


 店の中は、外から想像したよりも広かった。

 テーブルが四つ。カウンターに丸椅子が五脚。天井は低く、古い梁が横に走っている。壁には小さな絵が何枚か飾られていた。どこかの海岸の水彩画。それから、小さな観葉植物がいくつか。

 先客は一人だった。窓際のテーブルで、文庫本を開いている老人。七十代だろうか。誠と目が合うと、軽く会釈をした。誠も会釈を返した。

 カウンターの奥に、女がいた。

 誠に気づくと、顔を上げた。

 「いらっしゃいませ」

 声は静かだった。うるさくない。しかし確かに、届く声だった。

 三十代前半だろうか。エプロンをしている。髪は後ろでまとめている。目が、少し大きい。整った顔立ちだが、作ったような美しさではない。どこか、疲れを知っている人間の静けさのようなものが、その顔にあった。

 「お一人ですか」

 「はい」

 「どこでも、お好きな席へ」

 誠はカウンターの端に腰を下ろした。習慣的に、出口に近い席を選ぶ。どこへ行っても、そうする。

 「コーヒーを」

 「ホットでよろしいですか」

 「はい」

 女は無駄なことを言わなかった。それが誠には心地よかった。余計な愛想笑いも、「今日はお寒いですね」といった社交辞令もない。ただ、必要なことだけを、静かに、的確に。

 コーヒーが来るまでの間、誠はカウンターの木目を眺めていた。長年使い込まれた、飴色の木。傷もあるが、丁寧に手入れされている。こういう古いものを大切に使う人間がいる。誠はそれを、どこかで羨ましいと思った。

 「どうぞ」

 白いカップが、静かに置かれた。

 誠はそれを両手で包んだ。温かかった。コーヒーの湯気が、ゆっくりと立ち上っていく。一口飲む。苦みの中に、かすかな甘さがある。丁寧に淹れられた、正直なコーヒーだった。

 「おいしい」

 気づくと、声に出していた。

 女が少し、表情を動かした。笑った、というほどではない。ただ、目の奥が、わずかに和らいだ。

 「ありがとうございます」

 それだけだった。

 誠はもう一口飲んだ。雨の音が、遠くで続いていた。店の中は静かで、老人が文庫本をめくる音だけが、時折聞こえた。

 誠はふと思った。

 こんなに静かな場所に、いつぶりに来ただろうか。

 いや、そうではない。静かな場所には、いつもいた。マンションも、営業所も、十分に静かだった。だが、あの静けさとこれは違う。あの静けさは、空っぽの静けさだ。ここにあるのは、満ちた静けさだ。

 何かが、ここにはある。

 誠にはまだ、それが何なのかわからなかった。


 三十分ほど、誠はそこにいた。

 コーヒーをもう一杯頼んだ。女は何も言わずに、また丁寧に淹れてくれた。老人はいつの間にか帰っていた。店には誠と女だけになった。

 「この辺りは、よく来られますか」

 女が聞いた。押しつけがましくない、ただの問いかけだった。

 「いや、初めてです。犀川の方を歩いていたら、明かりが見えて」

 「そうでしたか」

 「長く続いている店ですか」

 「七年になります。私の父が始めて、三年前に引き継ぎました」

 「お父さんは」

 「亡くなりました」

 「失礼しました」

 「いいえ」と女は言った。「よく聞かれることなので」

 その言い方に、感傷はなかった。事実として話している。それがかえって、誠には重く感じられた。七年分の、この店の時間が、その一言に凝縮されているような気がした。

 「柏木と言います」と誠は言った。「営業所に勤めています。三年前からこちらに」

 「朝倉です」と女は言った。「芽依といいます」

 名前を教えてくれるとは思っていなかった。誠は少し、面食らった。

 「金沢は、慣れましたか」と芽依が聞いた。

 誠は少し考えた。

 「慣れた、とは少し違うかもしれない。まだ、どこか距離を置いている気がします、この街と」

 「距離を置いている」

 芽依はその言葉を繰り返した。考えるように。

 「それは街のせいですか。それとも」

 「それとも?」

 「あなたのせいですか」

 誠は答えられなかった。

 おかしな問いだ、と思った。こんなことを、初対面の人間に言われたことはない。失礼だとも思わなかった。ただ、鋭いと思った。そして、正しいとも思った。

 「おそらく」と誠はようやく言った。「私のせいです」

 芽依はまた、目の奥だけで笑った。

 「また来てください」と彼女は言った。「雨の日でも、やっています」


 外に出ると、雨はまだ続いていた。

 誠は傘を開きながら、来た道を戻り始めた。足取りは、来るときより軽かった。なぜかはわからなかった。コーヒーがうまかったから、というだけではないような気がした。

 芽依という女のことを、考えていた。

 初めて会った人間のことを、こんなふうに考えるのはいつぶりだろう。記憶の中を探ったが、うまく見つからなかった。それほど長い間、誠は誰かのことを「考える」ということをしてこなかった。

 「あなたのせいですか」

 あの問いが、頭の中で繰り返された。

 誠は苦笑した。

 四十七年生きてきて、喫茶店の女将に核心を突かれるとは。

 だが不思議と、不快ではなかった。

 マンションに帰り、コートを脱ぎ、シャワーを浴びた。ベッドに入りながら、誠はふと思った。次に雨が降ったら、また寄ってみようか。

 それから、首を振った。

 馬鹿なことを考えている。

 しかし眠りにつくまでの間、誠の頭の中には、あの温かい光と、静かな声と、目の奥だけで笑う女の顔が、消えずに残っていた。



2章「喫茶ソラ」

 次に雨が降ったのは、三日後だった。

 誠は朝から気づいていた。空の色が違う。金沢の雨は、降る前から街の空気が変わる。湿度が上がり、光が鈍くなり、どこか全体がひとつ息を吸い込んで止めているような、そういう気配がある。東京にいた頃はそんなことに気づきもしなかった。三年間この街にいて、ようやく少しずつ、そういうことがわかるようになってきた。

 午後二時を過ぎた頃、窓の外でぽつりぽつりと降り始めた。

 誠は書類から目を上げ、雨粒が窓ガラスを伝うのを見た。

 また寄ってみようか、と思ったのは正直なところだった。だがすぐに、それを打ち消した。仕事がある。報告書の締め切りは明日だ。それに、二度も行くことに、どんな意味がある。たまたまコーヒーがうまかっただけの店に、また足を向けるのは、どこか子どもじみている気がした。

 「所長、今日は直帰ですか」

 田中が声をかけてきた。

 「ああ」

 「じゃあ福井の件、明日の朝に改めてご報告します」

 「わかった」

 田中が去り、誠は再び報告書に目を落とした。数字を追いながら、しかし頭の中では別のことを考えていた。あの店の木目のカウンター。コーヒーの湯気。そして、「あなたのせいですか」という問い。

 馬鹿馬鹿しい、と誠は思った。

 四十七の男が、一度しか会っていない女のことを三日間も頭の片隅に置いている。我ながら情けない。

 報告書を仕上げたのは、午後六時過ぎだった。

 コートを羽織り、傘を手に取り、誠は営業所を出た。

 気づけば、犀川の方へと足が向いていた。


 「いらっしゃいませ」

 引き戸を開けると、同じ声がした。

 芽依は驚いた様子を見せなかった。ただ、誠の顔を見て、わずかに表情が和らいだ気がした。

 「また来てしまいました」

 「雨の日だから」と芽依は言った。「約束どおりです」

 約束、という言葉が少し意外だった。「雨の日でもやっています」というのはそういう意味だったのか。誠はカウンターの、前回と同じ端の席に腰を下ろした。

 「コーヒーでよろしいですか」

 「はい。同じので」

 「同じの、というのを覚えていてくださるといいのですが」と芽依は言った。少し困ったような、しかしどこかおかしそうな口調で。「うちはブレンドが一種類しかないので」

 誠は少し笑った。

 自分が笑ったことに、気づいて少し驚いた。営業の席での作り笑いではない、こういう笑い方をいつぶりにしたか。

 「それは失礼しました」

 「いいえ」と芽依は言い、コーヒーを淹れ始めた。

 その日の店には、先客が二人いた。奥のテーブルに、若い女性が二人。小声で話しながら、スマートフォンを見せ合っている。誠はカウンターに肘をついて、店の中をゆっくりと見渡した。

 前回は気づかなかったことが、今日はいくつか目に入った。

 カウンターの脇に、小さな黒板がかかっている。チョークで「本日のお菓子:栗の羊羹」と書いてある。壁の水彩画は、全部で六枚ある。どれも海の絵だが、季節や時間帯が少しずつ違う。朝の海、夕暮れの海、嵐の前の海。描いた人間が同じであることは、タッチを見ればわかった。

 「絵は、お父さんが描いたんですか」

 コーヒーを受け取りながら、誠は聞いた。

 「よくわかりましたね」と芽依が言った。

 「全部、同じ手の絵に見えたので」

 「父は絵が好きでした。店を開く前は、ずっと会社員だったんですが、休みのたびに海へ行って」

 「どこの海ですか」

 「能登の方です。輪島の近く。生まれた場所だったので」

 誠はもう一度、壁の絵を見た。知っている海ではなかった。だが、描いた人間がその海を愛していたことは、見ればわかった。愛情というのは、描き方に出る。写実的かどうかではなく、その対象をどれほど長く眺めたか、どれほど丁寧に感じたか、そういうことが筆の運びに滲み出る。

 「いい絵ですね」と誠は言った。「本当に」

 「ありがとうございます」

 芽依の声が、少しだけ柔らかくなった気がした。


 その夜は、前回より長くいた。

 若い女性二人は早めに帰り、また誠と芽依だけになった。芽依はカウンターの内側で、閉店後の仕込みをしながら、時々誠と言葉を交わした。押しつけがましくない会話だった。聞かれたことに答え、話が途切れれば沈黙になり、その沈黙が不快でない。

 誠はそういう会話が、ひどく久しぶりだと思った。

 仕事の会話は、常に目的がある。情報を伝えるか、判断を求めるか、関係を構築するか。どんな言葉にも機能がある。だがここでの会話には、機能がない。ただ、時間を共有している。それだけだ。そのことが、不思議と心地よかった。

 「金沢には、家族はいないんですか」

 芽依が聞いた。手を動かしながら、さりげない口調で。

 「いないです。単身赴任、というほどでもなくて。もともと一人なので」

 「もともと」

 「離婚して、十年になります」

 「そうですか」

 芽依はそれ以上聞かなかった。同情の言葉も、「大変でしたね」という類のものも、何もない。ただ「そうですか」と言って、また手を動かした。誠はそれが、ありがたかった。

 「朝倉さんは」と誠は聞いた。「ご家族は」

 「母が片町の近くにいます。父が亡くなってから、一人で。時々顔を出しています」

 「兄弟は」

 「妹が一人。東京にいます。結婚して、子どもが二人」

 「金沢を出たかったんでしょうか」

 「どうでしょう」と芽依は少し考えるように言った。「出たかったというより、出る必要があったのかもしれません。私は逆に、残る必要があった」

 残る必要があった、という言い方が、誠には引っかかった。義務として残ったのか。それとも、残ることを自分で選んだのか。

 聞こうとして、やめた。

 まだそこまで踏み込む間柄ではない。

 誠は代わりに、「羊羹をいただけますか」と言った。

 「もうほとんど売れてしまったんですが」と芽依は言い、奥へ入って小さな切れ端を持ってきた。「これで申し訳ないですが」

 栗の羊羹は、上品な甘さだった。栗の風味がしっかりと残っていて、しかし甘さが押しつけがましくない。地元の和菓子屋のものだと芽依は言った。

 「毎日変わるんですか、お菓子は」

 「日によって。仕入れられるものが変わるので。あと、私の気分で」

 「気分で」

 「だめですか」

 「いいと思います」と誠は言った。「それくらいの自由は、あっていい」

 芽依がまた、目の奥だけで笑った。


 九時を少し過ぎた頃、誠は席を立った。

 会計を済ませながら、誠は少し迷ってから言った。

 「また来てもいいですか」

 自分でも、なぜそんなことを確認するのかわからなかった。来たければ来ればいい。客が店主に「また来ていいですか」と聞くのは、冷静に考えれば奇妙なことだ。

 だが芽依は、少しも奇妙に思わなかった様子で、

 「もちろん」と言った。「いつでも」

 誠はコートを着て、傘を手に取った。

 「ところで」と芽依が言った。「お名前、もう一度教えていただいても」

 「柏木です。柏木誠」

 「柏木さん」と芽依は繰り返した。確かめるように。「また」

 「また」と誠は言った。

 引き戸を閉めると、鈴がカランコロンと鳴った。


 それから、誠は週に一度か二度、喫茶ソラに通うようになった。

 意識してそうしているわけではなかった。少なくとも、最初はそのつもりがなかった。ただ、仕事を終えて外へ出ると、足が自然にあの方向へ向くようになっていた。雨の日でなくても。晴れた夜でも。

 芽依は毎回、誠を覚えていた。当たり前のことかもしれない。常連客の顔を覚えるのは、店をやる者の基本だ。だが誠には、それ以上の何かがあるような気がした。芽依が誠を見る目には、ただ客を認識する以上の、何か静かな注意のようなものがあった。

 二度目の訪問の翌週、誠が店に入ると、カウンターの上に文庫本が置いてあった。

 「読んでいたんですか」

 「少し前に」と芽依は言った。「柏木さんが読みそうな気がして、出しておきました」

 本のタイトルを見た。開高健の『オーパ!』だった。

 「なぜこれを」

 「なんとなく」と芽依は言った。「似合うと思って」

 誠は苦笑した。開高健を読むような人間に見えるのか、自分は。だが、嫌な気はしなかった。むしろ、見られていたのだという事実が、どこかくすぐったかった。

 「借りてもいいですか」

 「どうぞ」

 誠はその本を持ち帰り、一週間かけて読んだ。久しぶりに、仕事以外の本を読んだ。アマゾンの奥地で巨大魚を釣る話だ。命がけで、無謀で、しかしどこかに純粋な喜びがある。そういう生き方が、かつての誠には遠く感じられたはずだった。

 だが今は、少し羨ましいと思った。

 翌週、本を返しに行ったとき、芽依は「どうでしたか」と聞いた。

 「面白かった。久しぶりに、何かに夢中になった気がします」

 芽依はそれを聞いて、少し考えてから言った。

 「それは本のせいだけじゃないかもしれませんよ」

 誠は、その言葉の意味をすぐには理解できなかった。


 十一月が終わり、十二月に入った。

 金沢の冬は、日本海からの風が冷たく、雪が混じることも多い。誠は赴任して三度目の冬を迎えていた。もう驚きはなかった。ただ、今年の冬は去年と少し違うと感じていた。

 何かが変わっている。

 街が変わったのではない。仕事が変わったのでもない。

 自分の中の何かが、少しずつ動いている。長い間止まっていた時計の針が、どこかで小さく動き始めたような。

 誠はそれを、認めることが怖かった。

 認めれば、何かが変わる。何かが変われば、また傷つくかもしれない。長い間かけて作り上げた、この何も感じない均衡が、崩れるかもしれない。

 美和に言われた言葉を、また思い出した。

 「あなたといると、私が透明になっていく」

 あのとき誠は、美和を透明にしていたのだ。相手を見ていなかった。隣にいる人間の存在を、ちゃんと受け取っていなかった。仕事に集中するあまり、感情の蛇口を締め続けた結果、最後には閉め方がわからなくなっていた。

 あれから十年。

 蛇口は、まだ閉まったままだ。

 だが今、誠は感じていた。

 その蛇口の奥で、何かが、かすかに音を立てている。


 十二月の第二週、誠が店に行くと、芽依が一人でカウンターに肘をついて、窓の外を見ていた。

 客はいなかった。誠が引き戸を開けると、芽依はいつものように振り返り、「いらっしゃいませ」と言った。だが今日は、その顔に何か翳りがあった。いつもの静けさとは少し違う。沈んでいる、というのでもない。ただ、何かを考えている、遠くにいる、という感じがした。

 「お邪魔でしたか」と誠は言った。

 「いいえ」

 「何か考えていましたか」

 芽依はしばらく間を置いてから、「ちょっとだけ」と言った。

 「聞かない方がいいですか」

 「聞いてもいいですよ」と芽依は言った。「でも、たいした話じゃないんです。ただ、昔のことを考えていただけで」

 「昔というのは」

 「昔です」と芽依は繰り返した。笑みをわずかに浮かべながら。「まだそこまでの話はしてないですよね、私たち」

 誠は少し考えてから、「そうですね」と言った。「順番がある」

 「そう思います」

 コーヒーを受け取って、一口飲んでから、誠は言った。

 「では、順番を守って聞きますが、今日は調子はどうですか」

 芽依が声を出して笑った。

 誠はそれを初めて聞いた。これまで芽依は、目の奥だけで笑うことはあっても、声を出して笑ったことはなかった。その笑い声は、店の空気を少し柔らかくした。

 「まあまあです」と芽依は言った。「柏木さんは」

 「今日は、まあまあより少し上です」

 「何かあったんですか」

 「ここに来たので」

 言ってから、誠は少し後悔した。気障だと思われるかもしれない。四十七の男が、そういうことを言うのは少し痛い。

 だが芽依は笑いもせず、引きもせず、「そうですか」とだけ言って、カウンターを拭き始めた。

 その「そうですか」の中に、何かが含まれていた気がした。誠にはまだ、それが何なのかわからなかった。


 その夜、帰り際に芽依が言った。

 「来週の日曜日、お昼も開けてるんです。よかったら」

 営業時間は夕方からだと思っていた。誠がそう言うと、芽依は「基本はそうなんですが、週に一回だけ昼間も開けていて」と言った。

 「お昼はまた違う雰囲気なんですか」

 「全然違います。日が差し込んで、明るくて。夜より、少し騒がしいです。子ども連れの方とか来るので」

 「それは」と誠は言った。「少し想像できないですね」

 「来てみてください」

 誠は少し間を置いた。

 日曜日の昼。これはどういう意味の誘いだろう。ただの常連客への営業なのか。それとも。

 「考えておきます」

 「考えないでください」と芽依は言った。静かに、しかしはっきりと。「考えると来なくなりそうなので」

 誠は一瞬、言葉を失った。

 それはまるで、自分のことをずいぶん正確に見ている言い方だった。考えすぎて動けなくなる。踏み出す前に引き返す。誠のそういう癖を、わずか数回会っただけで、この女は見抜いていた。

 「じゃあ」と誠は言った。「行きます」

 「よかった」

 芽依が、また目の奥だけで笑った。今度は少し、違う笑い方だった気がした。



3章「惑星のように」

 日曜日の昼、誠は喫茶ソラへ行った。

 考えないで、と芽依に言われたから、考えなかった。考えないようにした、というのが正確で、完全に考えなかったわけではないが、少なくとも行かない理由を探すのをやめた。それだけで、足は自然にあの路地の方へ向いた。

 十二月の昼間の金沢は、夜とは別の顔をしている。

 曇り空だったが、夜の暗さはない。石畳が白く光って、人通りも多かった。観光客らしき若い女性が、傘を差しながら路地の写真を撮っている。老いた夫婦が、並んで歩いている。誠はその間を縫いながら、路地を進んだ。

 引き戸を開けると、昨夜とは別の場所に来たかのように感じた。

 光が違った。天井の低い店に、曇り空の柔らかな昼の光が差し込んでいる。壁の水彩画が、夜よりも鮮やかに見えた。テーブルには白い布が敷かれ、小さな花瓶に冬の花が挿してある。客は四組いた。家族連れが一組、女性二人が二組、そして一人で本を読んでいる年配の男性が一人。

 確かに、夜より賑やかだった。

 「いらっしゃいませ」

 芽依が奥から声をかけた。誠を見て、「来てくれた」と言った。声には、小さな驚きと、それ以上の何かがあった。

 「考えなかったので」

 「よかった」

 芽依は誠をカウンターの席へ案内した。夜と同じ端の席。芽依が誠の定位置を把握していることが、誠には少しくすぐったかった。


 昼間の店は、夜とはテンポが違った。

 客の出入りが多く、芽依は厨房と客席を行き来していた。誠はコーヒーを飲みながら、その様子を静かに眺めた。

 芽依は動きに無駄がなかった。注文を取り、コーヒーを淹れ、ケーキを皿に乗せ、テーブルへ運ぶ。その一連の動作が、ひとつひとつ丁寧で、しかも速い。効率のために丁寧さを犠牲にするのではなく、丁寧さの中に効率が内包されているような動き方だった。

 誠は仕事柄、人の動きを見る癖がある。

 部下の田中はどうだろう。愛想はいいが、動きに少し余分がある。無駄を省く意識がまだ足りない。福井担当の坂本はその逆で、効率は高いが丁寧さに欠ける。どちらも一長一短だ。

 芽依は、誠がこれまで見てきた誰とも違った。

 仕事として動いているのに、仕事に見えない。義務としてではなく、この空間を作ることそのものを、楽しんでいるように見えた。それがあの動きの源なのかもしれない。

 「そんなに見ていると、恥ずかしいですよ」

 芽依がカウンター越しに言った。手はケーキを切りながら、目だけ誠の方へ向けている。

 「失礼しました。仕事で人の動きを観察する癖があって」

 「仕事で?」

 「営業の管理職なので。部下の動きを見る癖が抜けなくて」

 「私は部下じゃないですよ」と芽依は言った。少し笑いながら。

 「そうですね。すみません」

 「ただ、見られているのに気づいたのは、柏木さんが初めてです」

 「え?」

 「見られているのに気づく人が、ということです」芽依はケーキの皿をトレイに乗せながら言った。「たいていの人は、もっと自分のことを見ているので。スマホとか、連れの人とか。私のことは、景色の一部くらいにしか見ていない」

 「それは」と誠は言った。「悪いことじゃないと思いますが」

 「悪いとは思っていません」

 「でも」

 「でも」と芽依は繰り返した。「たまには、ちゃんと見てもらうのも、悪くないと思います」

 誠はその言葉を、どう受け取ればいいかわからなかった。

 芽依はトレイを持ってテーブルへ向かった。誠は残ったコーヒーを一口飲み、窓の外を見た。

 ちゃんと見てもらうのも、悪くない。

 それはどういう意味だろう。

 純粋に、客として店主を見ているということへの反応か。それとも、もう少し別の何かか。誠は考えすぎるなと自分に言い聞かせながら、しかし考えずにはいられなかった。


 昼過ぎに客が一度引けて、店が少し静かになった。

 芽依がカウンターに戻ってきて、自分用のコーヒーを淹れた。それからカウンターの内側に立ったまま、誠のそばにやってきた。

 「少しだけ休憩します」

 「どうぞ」

 「聞いていいですか」

 「何を」

 「柏木さんは、どういう人だったんだろう、と思って」

 誠は少し面食らった。「どういう人、というのは」

 「若い頃」と芽依は言った。「今とは違う時期の。仕事以外の話」

 誠は少し考えた。若い頃。仕事以外の話。それはずいぶん長い間、誰にもしてこなかった話だ。

 「あまり面白い話はないですよ」

 「面白くなくてもいいです」

 「大阪の出身で」と誠は言い始めた。「大学は東京へ行って、そのまま就職して。特に夢があったわけじゃなくて、安定していそうな会社を選んで」

 「夢はなかったんですか」

 「若い頃は、小説家になりたいと思っていた時期がありました」

 「本当ですか」

 「笑わないでください」

 「笑っていません」と芽依は言った。実際、笑っていなかった。真剣な顔で、誠を見ていた。「続きを聞かせてください」

 「大学の頃、少し書いていました。短編を。サークルの同人誌に載せたりして。でも、続けることができなかった。才能がないとわかったから、というよりは、才能があるかどうかを確かめることが怖くて。中途半端なまま諦めた方が、夢のままでいられるから」

 言いながら、こんなことを話すつもりはなかったのに、と思った。誰にも言ったことのない話だった。美和にも言っていない。

 「それは」と芽依は言った。静かに、しかしはっきりと。「もったいないと思います」

 「今さらですよ」

 「今さらじゃないかもしれない」

 誠は芽依を見た。芽依は真剣な顔のまま、誠を見ていた。

 「四十七で小説を書く人間がいますか」

 「います」と芽依は即座に言った。「たくさん。それに、書くことと出版することは別の話で。書くことで何かが整理されることがあるんじゃないかと思って」

 「何が整理されるんですか」

 「自分が」と芽依は言った。「自分のことが」

 誠はしばらく黙った。

 この女はなぜ、こんなに核心に近いところを突いてくるのだろう。初めて会ったときからそうだった。「あなたのせいですか」という問い。そして今度は、書くことで自分が整理される、という言葉。

 誠の中に何があるかを、この女はどこかで知っているような気がした。あるいは、知ろうとしている。

 「朝倉さんは」と誠は言った。「整理されましたか。自分のことが」

 「まだです」と芽依は言った。少し間を置いてから。「整理の途中です」


 その日の昼間、誠は三時間ほど店にいた。

 昼の客が引けた後、夕方の営業が始まるまでの少しの間、芽依は誠に頼んでいくつかの本棚の本を整理してもらった。店の隅に小さな本棚があって、客が自由に読めるようになっている。誠が気づいていなかった棚だった。

 「この本は誰が選んでいるんですか」

 「私と、父が残したものと、半々くらいです」

 誠は背表紙を眺めながら、本を棚に戻した。開高健の隣に、向田邦子があった。その隣に、ヘミングウェイ。脈絡があるような、ないような選書だったが、選んだ人間の好みが滲んでいた。

 「お父さんと趣味が似ていたんですか」

 「似ていたというより、父の読んだものを後から追いかけていた感じです。父が読んでいた本を、父が亡くなってから読み始めて」

 「追いかけるように」

 「そう」と芽依は言った。「遅れて、追いかけるように」

 誠はその言い方が、胸に刺さった。

 亡くなった父親が読んでいた本を、一冊ずつ読んでいく。父親がどんな言葉に触れてきたか、何を考えていたか、その足跡を辿るように。それは追悼の形であり、対話の形でもある。

 誠は自分の父親のことを思った。

 七十三歳で、大阪の実家にいる。年に一度か二度、帰省するかしないか。電話もほとんどしない。元気かどうかは母親から聞く。父親とちゃんと話したのは、いつが最後だったか。

 「父とは、仲がよかったんですか」と誠は聞いた。

 「よかったと思います」と芽依は言った。「でも、ちゃんと話せばよかったと思うことが、今でもあります。病気になってから最後まで、二年間あったのに、大事なことをあまり話せなかった」

 「大事なこととは」

 「たとえば」と芽依はしばらく考えてから言った。「私が幸せかどうか、って話」

 誠は黙った。

 「父は、心配していたと思うんです。私のことを。でも、直接聞けなくて、私も答えられなくて。そのまま終わってしまった」

 「今は」と誠は言った。「幸せですか」

 芽依は少し驚いたような顔をした。誠がそんな直接な問いをするとは思っていなかったのかもしれない。

 「それを聞くんですか」

 「順番を守らなかったですね。すみません」

 「いいえ」と芽依は言った。少し考えてから。「悪くない問いだと思います」

 「答えなくていいです」

 「答えます」と芽依は言った。「今は、まあまあです。でも、もっとなれる気がしている。最近」

 最近、という言葉に、誠は何かを感じた。

 聞くべきか、聞かないべきか。

 誠はまた、考えすぎた。そして聞かなかった。


 誠がマンションへ帰ったのは、夕方の六時を過ぎていた。

 部屋に入り、コートを脱ぎ、ソファに座った。テレビをつけなかった。しばらく、ただ座っていた。

 芽依のことを考えていた。

 いや、正確には、芽依のことを考えていることを、自分で認めることにした。これまでは考えているということを、何かに紛らわせていた。仕事の数字を頭の中で追ったり、翌日のスケジュールを確認したり。だが今夜は、それをやめた。

 朝倉芽依という女のことを、考えた。

 三十一歳。父親の店を引き継いで、一人で七年間続けている。妹は東京にいる。自分は地元に残ることを選んだ。過去に何か、傷ついた恋がある。そのことはまだ詳しく聞いていない。整理の途中、と言っていた。自分のことが。

 誠は彼女に引かれていた。

 それは今日、はっきりと認識した。

 引かれているという言葉が正確かどうかわからない。好きだという感情とも、少し違う。もっと静かで、深くて、じわりとした何かだった。川の底に溜まる砂のように、気づかないうちに積み重なって、ある日見てみると、もうずいぶん深くなっていた、そういう感じ。

 だが、誠はすぐに首を振った。

 ばかばかしい。

 自分は四十七だ。相手は三十一。十六歳の差がある。それだけではない。自分は一度結婚に失敗している。相手を透明にした男だ。あの失敗を繰り返す権利が、自分にあるのか。

 それに、芽依は誠のことを、客として親切にしているだけかもしれない。常連客を大切にする、それだけの話かもしれない。「ちゃんと見てもらうのも悪くない」という言葉も、「最近もっと幸せになれる気がしている」という言葉も、誠が勝手に意味を読み込んでいるだけかもしれない。

 誠は立ち上がり、冷蔵庫からビールを一本取った。

 缶を開けながら、窓の外を見た。金沢の夜景が、遠くに広がっていた。

 惑星のようだ、と誠は思った。

 太陽の周りを回る惑星のように、あの店の周りを自分は回っている。引力に引かれながら、しかし落ちることを恐れて、一定の距離を保ちながら。落ちれば燃え尽きる。だから遠回りを続ける。軌道の上を、ぐるぐると。

 それが今の自分だ。

 わかっている。

 しかし、どうすればいい。


 十二月の終わり、仕事納めの日、誠は早めに営業所を出た。

 部下たちと忘年会の予定があったが、二次会は断った。一人で街を歩いた。年末の金沢は、観光客が多い。普段は静かな路地も、この時期は人で賑わう。誠はその人波の中を、少し疎外感を感じながら歩いた。

 みんな、誰かと歩いている。

 当たり前のことだが、今夜はそれが目に入った。カップルが多い。家族連れも多い。一人で歩いているのは、誠くらいのものだった。

 喫茶ソラの前まで来た。

 暖かい光が、引き戸の向こうで揺れていた。年末の夜だというのに、営業している。

 誠は入ろうとして、足を止めた。

 もし中に誰かいたら。芽依が誰かと話していたら。誠が知らない誰かと、笑い合っていたら。

 そんなことを考えた自分が、みっともなかった。

 誠は引き戸を引いた。

 カランコロン、と鈴が鳴った。

 店の中には、客が二人いた。カウンターに、中年の男性。テーブルに、一人の女性。芽依は厨房にいた。誠の顔を見て、「今日は仕事納めですか」と言った。

 「そうです。忘年会があって」

 「お酒、飲んできたんですね」

 「少し」

 「コーヒーにしますか。それともお水」

 「コーヒーを」

 席に座りながら、誠は少し安堵していた。芽依はいつもと変わらなかった。年末であることも、誠が酒を飲んできたことも、何かを変えるわけではなかった。

 コーヒーを受け取り、一口飲んだ。

 「メリークリスマス、は少し早いですね」と誠は言った。

 「三日後ですね」と芽依は言った。

 「クリスマスは、営業するんですか」

 「します」

 「一人で?」

 「そうなりそうです」と芽依は少し笑った。「毎年そうなので」

 毎年そうなので、という言い方が、誠には少し寂しく聞こえた。寂しいと感じていないのか、それとも感じないようにしているのか、誠にはわからなかった。

 「一人じゃない方がいいですか」と誠は聞いた。

 芽依は少し、沈黙した。

 「柏木さんは」と芽依は言った。「答えを誘導するような質問をしますね」

 「そうですか」

 「そうです」と芽依は言った。「でも、まあ」

 「まあ」

 「悪くないですよ」と芽依は言った。「一人じゃない方が」

 誠はコーヒーカップを持ったまま、しばらく黙った。

 これは、そういう意味なのか。

 考えるな、と自分に言い聞かせた。考えればまた、軌道の上を回り始める。

 「では」と誠は言った。「二十五日、来てもいいですか」

 「ぜひ」と芽依は言った。

 その「ぜひ」の中には、ただの営業スマイルではない何かがあった。誠にはそれが感じられた。感じられたが、確信できなかった。確信できないまま、しかしその言葉を、誠は胸のどこかに仕舞い込んだ。


 クリスマスイブの夜、誠はマンションで一人だった。

 テレビをつけると、どこかのホテルのディナーショーの映像が流れていた。すぐに消した。

 窓の外で、雪が降り始めていた。

 金沢の初雪だった。今年は遅かった。ひとひら、またひとひら、街灯の光の中で白く輝きながら、ゆっくりと落ちてくる。

 誠はしばらく、その雪を見ていた。

 明日、芽依に会える。

 そのことだけを、考えた。

 考えすぎない。余計なことを考えない。ただ、明日あの店へ行く。コーヒーを飲む。芽依と話す。それだけでいい。それで十分だ。

 だがベッドに入ってから、眠れない時間の中で、誠は正直に自分に問いかけた。

 本当に、それだけでいいのか。

 答えは出なかった。

 雪は夜通し降り続いた。


続く


Kindle 予定

もう少し手直しが必要ですが…


シガラミを捨てる夏
〜持ち時間と白紙という自由〜

ーまえがきー
私たちはいつから、これほど多くの「しがらみ」を背負って歩くようになったのでしょうか。
現役時代の役職、義理だけの付き合い、惰性で続く飲み会。
それらに追われるうちに、私たちは自分自身の「持ち時間」が有限であることを、どこか忘れてしまっているのかもしれません。
この物語の主人公・誠一は、私の分身であり、そしておそらく、現代を生きる多くの「大人たち」の分身でもあります。
彼がスマホの連絡先を消去し、古い友人の足跡を辿り、歪んだ湯飲みに温もりを見出すまでの過程は、私自身が心の奥底で求めていた「心の掃除」でもありました。
もし今、あなたが何かに息苦しさを感じているのなら、ほんの少しだけ誠一の夏に付き合ってみてください。
読み終えたとき、あなたの手帳にある「空白」が、少しだけ愛おしく見えることを願っています。


一、定年という名の牢獄
 七月の朝、桐島誠一は背広のボタンを留めながら鏡の中の自分を見た。
 六十二歳。白髪が増えた。顎の下にたるみができた。それでも背広を着れば、どこかまだ現役のような気がした。そういう気がしたかった。
 再雇用という制度が始まってから丸一年が過ぎていた。定年退職後、かつて部下だった者たちに交じって会議に出る。意見を求められることはほとんどない。資料を印刷し、コーヒーを淹れ、夕方になれば「お先に失礼します」と言う。二十八年間勤めた会社で、誠一はいつの間にか「邪魔にならないように存在する」ことを覚えてしまっていた。
 その日の午前、会議室で後輩の大島が言った。
 「桐島さん、この資料、フォント間違ってますよ。明朝体じゃなくてゴシック体でお願いします」
 三十七歳の大島は、かつて誠一の直属の部下だった。課長になったのは三年前のことだ。誠一はうなずき、「すみません、直します」と言って会議室を出た。廊下の角を曲がったところで、誠一は立ち止まった。
 胸の中で何かがゆっくりと煮えていた。怒りとも悲しみとも違う、もっと静かで重いもの。それが何かを誠一はその時まだ言葉にできなかった。
 昼休み、誠一は一人で近くの公園のベンチに座った。弁当を開く気にもなれず、ただ鳩の群れを眺めた。
 ポケットから手帳を出した。ページを繰ると、びっしりと予定が書き込まれていた。〇〇部長との懇親会。△△取引先のゴルフ。元同僚の息子の結婚式二次会。送別会。歓迎会。飲み会。飲み会。飲み会。
 誠一は手帳を閉じた。
 これのどれが、本当に行きたいものだろう。
 答えは出なかった。いや、出ていた。ただ認めたくなかっただけだ。
 公園のベンチで、誠一はボールペンを取り出し、手帳の余白に何かを書き始めた。詩、と呼べるものではなかった。ただの言葉の断片だった。
 「シガラミを捨てる」
 と書いた。
 その四文字を眺めていると、胸の中で煮えていたものが、少しだけ静かになった気がした。


二、シガラミの地図
 家に帰ると、妻の久美子はキッチンにいた。
 「今日は早いのね」
 「まあな」
 それだけの会話だった。誠一と久美子の間には、長い年月をかけて作られた「適切な距離感」があった。激しい喧嘩をしたことはない。しかし深い話をしたこともない。子供たちは独立し、それぞれの生活を持っている。この家に残ったのは二人と、猫のムギだけだった。
 風呂から上がり、誠一は書斎に入った。
 机の引き出しから一枚の白紙を取り出し、広げた。そして思いつくままに人の名前を書き始めた。自分の人間関係の「地図」を作るつもりだった。
 最初に書いたのは会社関係だ。大島。田中専務。営業部の連中。再雇用仲間の松岡。次に近所付き合い。町内会長の北川。奥さんのPTA仲間の夫たち。それから妻の実家の親族。誠一の親族。
 書き終えると、紙はびっしりと名前で埋まった。
 誠一はその紙を眺め、一人ひとりの顔を思い浮かべた。
 笑顔で会いたいと思える人間が、何人いるか数えてみた。
 指が止まった。
 翌朝、誠一はもう一枚紙を取り出した。
 昨日の「地図」を横に置き、新しい紙に線を引いた。左に「会いたい人間」、右に「会いたくない人間」と書いた。
 そして移し始めた。
 「会いたくない人間」の欄が埋まっていくのは早かった。大島の名前を書いた時、少しだけ手が止まった。嫌いというわけではない。ただ、あの男と過ごす時間が自分の命を削っているような気がしてならなかった。
 「会いたい人間」の欄に書いた名前は、三つだけだった。
 田村 浩二。
 松本 哲也。
 そして、空白。
 三人目の名前が書けなかった。もう一人いたはずだった。顔は覚えている。声も覚えている。しかし名前が、ぼんやりとかすんでいた。
  

三、削除
 七月の三連休の初日、誠一はスマートフォンを手に取った。
 連絡先一覧を開く。スクロールすると、次々と名前が現れた。
 大島雅之。誠一は一秒だけ考え、削除した。
 田中専務。削除。
 町内会長・北川。削除。
 再雇用仲間の松岡。少し迷った。松岡は悪い人間ではない。ただ、会うたびに会社の愚痴を二時間聞かされる。それが誠一には耐えられなかった。削除。
 一つ消えるたびに、誠一の肩が軽くなるような気がした。奇妙な感覚だった。罪悪感もあった。しかしそれを上回る、奇妙な爽快感があった。
「気がつくと、陽はすっかり傾いていた。数時間かけて整理された連絡先は、半分以下になっていた」
 久美子が書斎をのぞいた。
 「何してるの?」
 「掃除」
 「スマホの?」
 「ああ」
 久美子は何も言わずに引っ込んだ。誠一は画面を見つめた。
 残った名前の中に、「田村浩二」はいなかった。
 当然だ。四十年近く連絡を取っていないのだから。
 その夜、誠一は久しぶりに酒を一人で飲んだ。
 冷蔵庫にあった缶ビールを三本空け、ぼんやりとした頭で天井を見上げた。
 田村浩二。松本哲也。
 あの頃の仲間だった。中学から高校にかけての、無礼講で笑い合えた仲間だった。どんな馬鹿話も言えた。建前なんてものがなかった。ただそこに三人がいれば、それだけで笑えた。
 いつから、人間関係がこんなにも重いものになったのだろう。
 誠一は缶ビールの最後の一口を飲み干した。


四、古い写真
 お盆が近づいたある夜、誠一は押し入れの奥を整理し始めた。
 段ボールが三箱出てきた。一番古い箱を開けると、黄ばんだアルバムが出てきた。
 中学の卒業アルバムだった。
 誠一はそれをめくった。制服姿の子供たちの顔が並んでいる。クラスの集合写真。クラブ活動の写真。卒業式の日の写真。
 田村浩二の顔を見つけた。
 丸い顔で笑っている。眉が太い。いかにも人懐っこそうな顔だった。
 隣のページに、松本哲也がいた。
 背が高く、どこか斜に構えたような表情。しかし目は笑っている。クールなふりをしていつも茶目っ気があった。それが松本だった。
 三人が並んで写っている写真があった。
夏祭りの夜だったと思う。商店街のスピーカーからは、その夏に発売されたばかりのサザンの「いとしのエリー」が、少し割れた音で流れていた。
中学三年の夏休み。発売されたばかりのウォークマンを誰が最初に手に入れるか、そんな馬鹿げたことで競い合っていた。
三人とも浴衣を着て、金魚すくいのポイを持って笑っていた。誠一は十五歳で、田村も松本も同い年だった。
あの夏から、もう四十七年が経っていた。
 誠一は写真をしばらく眺めた。それから静かにアルバムを閉じた。
 翌朝、誠一はパソコンを開き、SNSの検索窓に「田村浩二」と入力した。


五、四十年ぶりの声
 検索結果に、それらしきアカウントが出てきた。
 プロフィール写真は風景画だった。しかし「大阪在住。元会社員。釣りと山が好き」という一行に、誠一は確信を持った。田村は高校の時から釣りが好きだった。
 誠一は画面の前で十分間、動けなかった。
 メッセージを送ることを考えると、手が震えた。四十年近くも連絡を取っていなかった。向こうは覚えているだろうか。いや、田村なら覚えている。そういう男だった。でも迷惑ではないだろうか。突然連絡してきた老いた元友人を、迷惑に思わないだろうか。
 誠一は深呼吸をした。
 そして打ち込んだ。
 「田村か。桐島誠一だ。急に連絡してすまない。元気にしてるか」
 送信ボタンを押した瞬間、誠一はスマートフォンを机に伏せた。心臓がうるさかった。
 返信が来たのは翌日の昼だった。
 「誠一! おまえか! 生きてたか! 笑」
 それだけだった。それだけで十分だった。
 誠一は一人で笑った。声を出して笑ったのは、いつ以来だろう。
 それからメッセージのやり取りが始まった。
 田村は定年退職後、大阪で妻と二人暮らしをしていること。釣りと登山を楽しんでいること。孫が二人いること。体の節々が痛いこと。
 誠一は東京で再雇用中であること。妻と猫と暮らしていること。最近、人間関係を整理したくなっていること。
 最後の一文を打った後、誠一は少し迷った。こんなことを書いても大丈夫だろうか。
 田村の返信は早かった。
 「わかる。俺もそれやった。六十過ぎたら、付き合う人間を選ぶ権利があると思う」
 誠一はその言葉を三回読んだ。


六、もう一人の行方
 田村とのやり取りが数日続いたある夜、誠一は書いた。
 「松本はどうしてる。連絡取ってるか」
 返信はすぐには来なかった。
 一時間後、田村から電話が来た。メッセージではなく、電話で。
 誠一は嫌な予感を感じながら画面を見た。
 「誠一、松本のことなんだが」
 田村の声は、メッセージの時と違って少しくぐもっていた。
 「知らないか」
 「何を」
 短い沈黙があった。
 「松本、もう…いないんだ。三年前に」
 誠一は言葉が出なかった。
 「病気だったらしい。俺も風の便りで聞いたんだが、確認したくなくてな。しばらく経ってから、向こうの奥さんに連絡してやっとわかった」
 スマートフォンを持つ手に力が入った。
 「そうか」
 それしか言えなかった。
 電話を切った後、誠一はしばらく書斎の椅子に座ったまま動かなかった。
 松本哲也。
 いつも斜に構えていて、でも一番まっすぐだった男。泣き虫のくせに泣いたところを見せなかった男。卒業の日、「じゃあな」とだけ言って去っていった男。
 三年前。誠一が再雇用でへとへとになっていた頃、松本はもうこの世にいなかった。
 知らなかった。
 知ろうとしなかった。
 それが胸に刺さった。


七、再会、居酒屋の個室
 八月の終わり、田村が東京に来た。
 品川の居酒屋、個室を予約した。誠一が先に着いて、生ビールを一口飲んだところで田村が現れた。
 太った。髪が白い。でも笑うと眉が太くて、目が細くなって、あの頃の田村だった。
 「でかくなったな」と誠一は言った。
 「おまえこそ爺さんになったな」と田村は言った。
 それで二人は笑った。ぎこちない挨拶は必要なかった。
 ビールが進むにつれて、話は昔に戻っていった。
 松本が授業中に先生の物真似をして怒られたこと。田村が初めての彼女と映画に行って緊張のあまり二時間一言も話せなかったこと。誠一が試験前夜に三人で川沿いを歩き回ったこと。
 笑い話ばかりだった。でも笑いながら、二人は松本の名前を出すたびに少しだけ沈黙した。
 「会いに行けばよかった」と田村が言った。
 「ああ」と誠一は言った。
 「忙しいとか、なんか気恥ずかしいとか、そんなことで後回しにしてた」
 「同じだ」
 誠一はビールを一口飲んだ。
 「でも、もう後悔しても仕方ない」と田村は続けた。「松本の娘さんに会ってみないか。向こうもそれを望んでるかもしれない」
 夜が深くなった。締めのラーメンを食べながら、二人は次の約束をした。
 松本の娘に連絡を取る。会いに行く。それだけのことが、何より大切に思えた。


八、松本を探して
 田村が松本の娘・松本亜紀に連絡を取ってくれた。
 亜紀は三十代の半ばで、神奈川の茅ヶ崎に住んでいた。父の昔の友人が会いに来ると聞いて、「ぜひ」と言ってくれたらしかった。
 九月の週末、誠一と田村は茅ヶ崎に向かった。
 電車の中で田村は車窓を眺めながら言った。
 「松本ってさ、死ぬ前、わりと穏やかだったらしいな」
 「そうか」
 「会社辞めてから、趣味に生きてたみたいだ。陶芸とか、畑とか。俺らが知ってる松本より、ずっとのんびりしてたらしい」
 誠一は窓の外の海を眺めた。青かった。
 茅ヶ崎の駅前で亜紀が待っていた。
 背が高くて、少し斜に構えたような立ち姿が、確かに松本に似ていた。でも目は柔らかかった。
 「父の話をしてくださる方に会えて、嬉しいです」と亜紀は言った。
 三人で近くの喫茶店に入った。


九、喪失
 亜紀は父のことを静かに話した。
 胃がんが見つかったのは六十一歳の時だった。手術をしたが、転移していた。二年間闘った後、昨日のように眠るように逝った、と亜紀は言った。
「痛かった時期もあったみたいですけど、最後の方は穏やかでした。海が見える部屋で、好きな音楽を聴きながら、まるで眠るように。」
 誠一は何も言えなかった。
 田村が言った。「お父さん、俺たちのこと、覚えてくれてたかな」
 亜紀は微笑んだ。「覚えてましたよ。桐島さんと田村さんの名前、何度か出てきました。中学の頃の思い出話が好きで、よく話してましたから」
 その言葉が、誠一の胸に重く落ちた。
 覚えていた。忘れていなかった。向こうも、こちらのことを、ずっとどこかで覚えていたのだ。
 なのに誠一は、会いに行かなかった。
 忙しいという言い訳があった。照れくさいという感情があった。連絡先を知らないというごまかしがあった。本当は全部、後回しにしていただけだった。
 誠一は窓の外を見た。海が光っていた。松本の好きだった海だったかもしれない。


十、松本の娘
 喫茶店を出た後、亜紀が言った。「父の工房、見ますか。陶芸をやってた小屋が庭にあって、道具がそのままになってるんです」
 二人は亜紀の家に向かった。
 庭の隅に小さな木造の小屋があった。中に入ると、轆轤(ろくろ)と、乾きかけの粘土と、棚に並んだいくつかの器があった。素朴な器だった。素人の作品だったが、どれも温かみがあった。
 「父が定年後に始めたんです。最初は下手くそで、割れてばかりで笑ってました。でも最後の方は、友人にあげられるくらいになって。嬉しそうでしたよ」
 棚の一番端に、少し歪んだ小さな湯飲みがあった。
 「それ、父が一番気に入ってた器です。歪んでるから失敗作なんですけど、なぜか愛着があるって言って」
誠一は湯飲みを手に取った。
たしかに歪んでいた。焼き物のざらりとした肌が、驚くほどしっくりと掌に吸い付いた。
松本の手が作ったものだ、と思った。器用ではなかったけれど、あいつはいつも、本物だけを掴もうとしていた。
 「いただいていいですか」と誠一は言った。声が少し震えた。
 「ぜひ。父も喜ぶと思います」と亜紀は言った。
 帰り道の電車の中、誠一は湯飲みを膝の上の紙袋の中に入れて、ずっとそれを手で包んでいた。
 田村は隣で目を閉じていた。
 誠一は窓の外を見た。夕陽が海を赤く染めていた。
 松本は最後の方、わがままに生きたのだ、と誠一は思った。
 会社を辞めて、海の見える場所に住んで、下手な陶芸を続けて、好きな音楽を聴いて逝った。
 それで良かったのだと、誠一には思えた。


十一、持ち時間
 茅ヶ崎から帰った夜、誠一は久美子に話しかけた。
 久美子はソファでテレビを見ていた。ムギが膝の上で丸くなっていた。
 「少し、話していいか」
 久美子はテレビを消した。何も言わずに誠一の方を向いた。
 誠一は、再雇用をやめようと思っていること。人間関係を整理したこと。松本が死んでいたこと。田村に会ったこと。茅ヶ崎に行ったこと。歪んだ湯飲みのこと。
 全部話した。こんなに話したのは何年ぶりだろう、と自分で思った。
 久美子はずっと黙って聞いていた。
 最後まで聞いて、久美子は言った。
 「辞めていいよ、再雇用」
 「いいのか」
 「あなたがいなくても家計は困らない。年金で足りる。私も少し仕事してるし」
 誠一は久美子の顔を見た。
 いつから、こんなに老いたのだろう。いや、自分もそうなのだ。二人でゆっくりと年を取っていたのだ。
 「ありがとう」と誠一は言った。
 久美子は照れたように「ムギが太ってきたから、ご飯減らそうと思って」と言って、話題を変えた。それが久美子のやり方だった。
 誠一は笑った。
 その夜、書斎で誠一は手帳を開いた。
びっしりと書き込まれていた予定を、一つひとつ線で消した。
飲み会。懇親会。ゴルフ。二次会。
 消していくと、白いページが増えた。
白いページは怖くなかった。むしろ美しかった。
誠一は、かつて地図の右側に残していた「空白」を思い出した。
あの時書けなかった名前を、今は迷わず書き込める気がした。
誠一はペンを執り、さらさらと二つの名前を書いた。
『久美子』
そして、
『自分自身』。
この白さの中に、本当に行きたい場所と、本当に会いたい人間だけを書こう、と誠一は思った。


十二、シガラミを捨てる夏
 十月の連休、誠一は一人で海に行った。
 茅ヶ崎ではなく、千葉の小さな漁村だった。特に意味はない。ただ海が見たかっただけだ。
 砂浜に折り畳みの椅子を置き、水平線を眺めた。波の音だけが聞こえた。
 ポケットから手帳を取り出した。ボールペンを持った。
 書き始めた。
 「シガラミを捨てる」
 以前も同じ言葉を書いた。しかし今回は続きがあった。
 捨てた後に残るものが
 怖かった
 でも残ったのは
 海と
 田村の笑い顔と
 松本の歪んだ湯飲みと
 久美子の「いいよ」という声だった
 持ち時間はもう
 多くない
 だから
 好きなものだけで
 埋めていこう
 わがままに
 心のままに
 それが
 松本が教えてくれたことだ
 波が来ては引いていった。
 空が高かった。
 誠一はペンを置き、目を閉じた。
 潮の匂いがした。
 六十二年生きてきて、今日が一番自由な気がした。
時間とは、そんなことだよ

──了──



ーおまけー
これは
いつか心が落ちた時
ふと
ブログに書いたものを
物語に挿げ替えたものです
それをここに載せて置きます


ーシガラミを捨てるー

還暦を越せば
もう良いじゃあないかと

目の前の厄介な連中との
無理した付き合いを断つ

ストレスに思う連中を
すべて排除する

更には
新たな友達を作ることなく
ガキの頃からの
嘘偽りない無礼講な仲間たちとだけ
微笑んでいたらそれで良い

昨今
そう思うばかり

更には
ご無沙汰してしまった
あの頃の連中に

会いたくもなって
連絡をと急ぐ

もう
あの頃って頃からと
同じだけの時間さえ
残っていない

持ち時間は
更に加速し
何もせずとも
目の前を過ぎて行く

老後というものが
こんなにも早く
ここへと来るとは思わなかった

本当はもう
わがままに生きて良いのだろう
心のままで良いのだろう

制御などせず
思うがままが良いのだろう

時間とは
そんなことだよ


ーあとがきー
この物語は、私がかつて心が折れそうになった時、ふとブログに書き留めた一篇の詩が種となって生まれました。
「還暦を越せば、もう良いじゃあないかと」
その一行を書いた時、私の胸の中にいた桐島誠一が、ようやく深い呼吸を始めたような気がしました。
私たちは、誰かのために生きる時期を十分に過ごしてきました。ならば、残りの時間は、少しぐらい「わがまま」に、そして「心のまま」に生きても良いはずです。
作中に登場する松本の歪んだ湯飲みは、完璧ではない私たちの人生そのものです。
不格好で、少し歪んでいる。けれど、だからこそ掌にしっくりと馴染む。
そんな人生の愛おしさを、誠一という男を通して描きたいと思いました。
最後になりましたが、この物語を最後まで読んでくださったあなたに、心からの感謝を捧げます。
あなたの「持ち時間」が、あなた自身の笑顔で埋まっていくことを、茅ヶ崎の海のような穏やかな心で見守っております。

令和八年
カトウかづひさ


ー紹介文ー
「持ち時間は、もう多くない。」
六十二歳、再雇用。かつての部下に頭を下げ、会議室の片隅で「邪魔にならないように存在する」ことを覚えた桐島誠一。
ある夏の朝、彼は手帳に書き込まれた膨大な予定を眺め、自問する。
「これのどれが、本当に行きたいものだろう」
スマートフォンから消し去った数百の連絡先。
代わりに手に取ったのは、中学時代の古いアルバムと、今は亡き親友が遺した一客の「歪んだ湯飲み」だった。
還暦を越え、しがらみを脱ぎ捨てた先に残ったのは、孤独ではなく、あまりに美しく白い自由。
一篇の詩から生まれた、人生の「持ち時間」を愛おしむ大人のための物語。


次週 Kindle 予定


週に10冊までという

Kindleの規則により

書き溜めた多くは

まだまだ燻ったまま…


それらを1週間掛けて

追加や手直しをしてみるが

力不足ゆえ

なかなか長編にはならず

しばし短編で行こうかと

思ってみる…



次元の裂け目
〜記憶が書き換わる夜〜

ーまえがきー
私たちは、世界を「確かなもの」だと思い込んで生きています。
昨日と同じ道があり、昨日と同じ家族がいて、昨日と同じ記憶を共有している。それが当たり前だと。
しかし、最先端の物理学は教えてくれます。この宇宙には目に見えない「余剰次元」が隠されており、私たちの現実は無数の可能性(世界線)の重なり合いでできているかもしれないと。
もし、ある日突然、その「重ね合わせ」の隙間が見えてしまったら?
もし、自分だけが覚えている「もう一つの過去」が、この世界から消し去られていたら?
これは、ある物理学者が体験した、奇妙で、それでいてひどく孤独で、けれど最後には光を見出す物語です。どうぞ、固定観念を脱ぎ捨てて、桐島透と共に「次元の裂け目」を覗いてみてください。

1 最初の光
それが最初に現れたのは、十一月の終わりごろ、雨がしとしとと窓を叩いていた夜のことだった。
桐島透は、リビングのソファに深く沈み込み、ウイスキーのグラスを片手に天井を眺めていた。妻の陽子はすでに寝室に引き上げており、部屋には小さなフロアランプの橙色だけが揺れていた。研究室での長い一日、素粒子の振る舞いをシミュレートし続けた疲労が、骨の芯まで染み込んでいた。
ふと、視野の端に何かが光った。
透は目を細めた。
光は小さく、丸く、乳白色に近い青みを帯びていた。直径は十センチほどだろうか。それはゆっくりと、しかし確かな意志を持つかのように、テーブルの角を回り込み、本棚の前をすり抜け、壁の中へと消えた。
壁の中へ。
透はグラスをテーブルに置き、立ち上がった。本棚に近づいて壁面を触れてみる。ただの石膏ボード。冷たく、硬く、固体の感触しかない。何も通り抜けた痕跡はなかった。
「疲れているだけだ」
声に出してみると、言葉が空虚に部屋に溶けた。
透は四十三歳。国立科学研究所の素粒子物理学部門に籍を置いて十五年になる。扱うのは目に見えないものばかりだ。クォーク、ニュートリノ、ヒッグス粒子――存在は数式で証明できても、肉眼では決して捉えられない世界の住人たちを相手にしてきた。それでも、あるいはだからこそ、「見えたもの」を安易に信じることには慎重だった。
科学者は幻を見ない。見えたとしても、それには原因がある。疲労、アルコール、光の反射。説明のつかないことなど、ほとんどない。
透は電気を消し、寝室へ向かった。
だが翌朝、シャワーを浴びているとき、またそれが現れた。
今度は明らかだった。複数いた。三つ、いや四つ。浴室の蒸気の中を、ゆっくりと旋回しながら漂っていた。大きさはまちまちで、最も小さいものはビー玉ほど、最も大きいものはソフトボールほどの球体だった。色は同じ乳白色。内側からほのかに発光しているようで、周囲の蒸気をわずかに染めていた。
透は動かなかった。息をひそめた。
球体たちはシャワーヘッドを、透自身の頭を、タイルの壁を、すべて無視して漂い続けた。そして一分ほどたったころ、何事もなかったかのように、浴室の壁の中へ吸い込まれるように消えた。
シャワーから出た透は、タオルを持ったまましばらく鏡を見つめていた。映っているのは、くたびれた中年の物理学者だった。白髪が増え、目の下に隈が浮かんでいた。しかし目の焦点は正常で、瞳孔の大きさも左右対称だ。
「……記録しよう」
透はそうつぶやいた。科学者としての本能が動いた。説明のつかない現象を前にしたとき、まず行うべきことは観察と記録だ。解釈はあとでいい。
彼はスマートフォンを手に取り、ノートアプリを開いた。
11月28日 6時42分 浴室にて観察。球体状の発光体、4個。直径1〜12cm程度。乳白色、内部発光。物理的障害物を無視して移動。私の身体には接触せず。約60秒後に壁面に消失。
それが、桐島透の「観察日誌」の最初の一行になった。

2 記録
十二月に入ると、観察の頻度は増した。
一日に一度か二度、オーブ――透はいつの間にかそう呼ぶようになっていた――が視界に現れた。出現場所に規則性はなかった。自宅の寝室、研究所の廊下、スーパーマーケットの冷凍食品コーナー、電車の車内。どこにでも現れ、どこにでも消えた。
透はノートへの記録を続けた。やがて手書きのノートも用意し、詳細なスケッチも加えるようになった。球体の軌跡、速度の変化、複数個体が同時に出現した場合の相互の距離感。
気づいたことが三つあった。
1つ目は、オーブは「物質を完全に無視する」ということだ。壁、床、天井、テーブル、本、――あらゆる固体をすり抜けた。物理の世界ではあり得ない。固体を構成する原子の電子雲は、外部から侵入しようとする粒子を強力に弾くはずだ。オーブが何らかの物質で構成されているならば、それは通常の物質とは根本的に異なる何かでなければならない。
2つ目は、しかしオーブは「生命体だけは避ける」という点だ。透の身体はもちろん、電車内で乗客たちの間をオーブが漂うとき、決して人々に触れることなく、するりと交わしていった。研究所の廊下で同僚の神田が通り過ぎたとき、その背後にいた三つのオーブは、神田の動きに合わせるように進路を変えた。壁はすり抜けるのに、人は避ける。この非対称性が引っかかった。
3つ目は、神田には見えていないという事実だ。透がオーブを目で追うのを見た神田は「桐島さん、どうしました?」と不思議そうに声をかけただけだった。
つまりこれは、透にだけ見える何かだった。
客観的な証拠がない。撮影を試みたが、スマートフォンのカメラにはまったく映らなかった。可視光の範囲外なのかもしれない。あるいは透の網膜か脳の中だけで生じている現象なのかもしれない。
眼科に行った。異常なし。神経内科に行った。異常なし。脳のMRIを撮った。異常なし。
医学的には健康な脳が、説明のつかないものを見続けている。
ある夜、透は研究室に残り、自分の専門知識を総動員して考えた。弦理論は十次元あるいは十一次元の時空を要請する。余剰次元は極めて小さく折り畳まれているため、通常は観測できないとされている。
しかしもし、何らかの理由で余剰次元の一部が「開いて」いたとしたら?
余剰次元を移動できる存在は、私たちの三次元空間の物質を「すり抜ける」ように見えるだろう。三次元の壁は、四次元以上の存在にとっては障害物にならない。丁度、二次元の紙に描かれた迷路が、三次元の存在にとってはただ上から覗き込めるだけの図に過ぎないように。
「そして彼らが生命体を避けるとすれば……」
透は手を止めた。生命体もまた、余剰次元に何らかの「足場」を持っているのかもしれない。意識や量子的なコヒーレンスによって、わずかに余剰次元に根を張っているからこそ、オーブは生命体を「認識」し、衝突を回避できる。
荒唐無稽だと思った。証明できる仮説ではない。しかし透は、その考えを消すことができなかった。

3 妻の記憶
十二月の中旬、透と陽子は夕食後に珍しくゆっくりと話をしていた。結婚して十二年になる二人の会話は、以前より確実に減っていた。それでもその夜は、なんとなく昔話になった。
「ねえ、覚えてる? 最初にデートしたときのレストラン」と陽子が言った。
「ああ、銀座のイタリアン。窓際の席」と透は答えた。
陽子が眉をひそめた。「銀座? 違うよ。新宿のフレンチじゃなかった?」
透は首を振った。「いや、絶対に銀座だ。俺、予約するのに苦労したの覚えてるもん。二週間前から電話して」
「でも新宿よ。私、テーブルクロスが白くて、窓から夜景が見えたの覚えてるもん」
二人は互いに確信を持っていた。これは単純な記憶違いとは思えない質の違和感だった。お互い、その夜の情景を「はっきりと」思い出せる。しかし細部がまったく一致しない。
透は次の日から、意識的に陽子との過去の記憶を確認するようになった。
結果は驚くべきものだった。
透が覚えている陽子の誕生日の花は黄色のバラだった。陽子は赤いガーベラだと言った。新婚旅行で泊まったホテルの名前が一致しない。飼っていた猫の名前――透は「コペル」だと思っていたが、陽子は「コペルニクス」だと言った。愛称が「コペル」だったのは確かだが、正式な名前が違う。
どれも些細なことだった。しかし積み重なると、奇妙な感覚が生まれた。もしかして自分たちは、完全に同一の過去を共有していないのではないか。
透は一人で書斎に籠り、マンデラエフェクトについて調べた。元々は、南アフリカの活動家ネルソン・マンデラが刑務所の中で死亡したという誤った記憶を多くの人が共有していたことから命名された現象で、集団的な記憶の食い違いを指す言葉だ。一般的には「記憶違い」や「集合的な誤認」として説明される。
しかし一部の思想家は別の解釈を提唱している。並行世界の存在だ。
多世界解釈によれば、量子力学的な選択が行われるたびに宇宙は分岐し、無数の並行世界が生まれる。私たちは通常、自分の属する世界の流れの中だけで生きている。しかしもし、ごく稀に世界線の「滑り」が起きるとしたら? 個人が、ほんのわずかに異なる世界線へと移動してしまったとしたら?
記憶は前の世界線のものを保持したまま、身体は新しい世界線にある。だから記憶が一致しない。
「馬鹿げている」と透は思った。検証も証明もできない話だ。科学者として受け入れてはならない。
しかしその夜、透は夢の中で、見知らぬ街を歩いていた。空の色が少しだけ、青すぎた。

4 同僚の消失
一月の初め、透は研究所に出勤したとき、異変に気づいた。
廊下ですれ違う顔ぶれがいつもと違う気がする。いや、正確には、いつもいるはずの顔が見当たらない。
「神田は?」と透は受付の田中に聞いた。
田中は怪訝な顔をした。「神田……ですか?」
「神田圭介。粒子加速器チームの。いつも一緒に昼飯食いに行ってる」
田中はしばらく考えてから言った。「申し訳ありません、桐島さん。当研究所には神田という研究員は在籍しておりません」
透は笑い飛ばそうとした。しかし田中の表情は真剣だった。
「冗談を言っている?」
「いいえ。名簿を確認しましょうか」
田中が端末で検索した。神田圭介という名前は、研究所のデータベースのどこにも存在しなかった。
透は自分のスマートフォンを取り出した。神田の連絡先を呼び出そうとした。連絡先の一覧に「神田圭介」の名前はなかった。
透は自分のメール履歴を確認した。神田とやり取りしたはずのメールが、一通もなかった。
研究室に戻り、自分のデスクを見回した。神田から借りた本が棚にあったはずだ――素粒子論の最新の論文集。しかしその本は存在しなかった。棚の並びに、一冊分の隙間すら開いていない。最初からそこには何もなかったかのように。
透は額に手を当て、深呼吸した。「落ち着け。考えろ」
神田圭介は実在した。透はその男と三年間同じ研究室で働き、昼食を共にし、論文について議論し、一度だけ二人で飲みに行った。身長は透より少し低く、細い縁の眼鏡をかけていて、よく「宇宙の果てってどこですかね」と言いながらコーヒーを飲んでいた。
その記憶は鮮明だった。作り話にしては具体的すぎる。しかし証拠がない。
透は一日かけて、かつての神田との記憶を辿った。彼と共同執筆したはずの論文を検索した。自分の名前はある。しかし共著者の欄に神田圭介の名前はなく、代わりに見覚えのない別の名前があった。
画面に並ぶ文字を指でなぞってみる。そこには『桐島透・佐藤修一 共著』と刻まれていた。佐藤修一。誰だ、それは。記憶の断片すら掴めない男の名前が、かつて神田と徹夜で議論し、書き上げたはずの数式の横に、さも当然の顔をして居座っている。
自分の過去の一部が、他人の人生にすり替わっている。それは死よりも冷徹な、存在そのものの書き換えだった。
まるで、神田だけがこの世界から綺麗に消去されているようだった。
その夜、帰宅した透は陽子に言った。「神田のこと覚えてる? 俺の同僚の」
陽子は首を傾げた。「神田? 知らない。あなたの職場の人?」
透は黙った。
窓の外で、雪が降り始めていた。その雪の中を、無数のオーブが音もなく漂っていた。透にだけ見える光の球体たちが、降りしきる白い雪と混ざり合い、この世界がどこか別の場所に変わってしまったような錯覚を与えた。

5 マンデラの亀裂
一月の下旬、透は一つの結論に至った。
「自分は、世界線を移動している」
書斎の壁一面に張り巡らされたメモと図解を見ながら、透は独り言のようにそう言った。荒唐無稽な仮説だと自覚している。しかし他の説明がつかない。
神田圭介は、元の世界線では確かに存在していた。しかしある時点から透は、神田のいない世界線に移動してしまった。違いは微細で、ほとんどわからない。空の青さが少しだけ違う。妻との記憶が少しだけ食い違う。そして同僚が一人、存在ごと消えている。
透はノートに書き記した。
仮説:世界線の移動は量子的な確率過程によって生じる。通常はデコヒーレンスによって抑制されるが、特定の条件下ではコヒーレンスが長時間維持され、マクロな物体(人間を含む)が異なる固有状態に「落ちる」ことがある。これをマクロ量子遷移と呼ぶ。
透は日付と時刻を記録しながら、オーブの出現タイミングと「記憶のズレ」を感じた瞬間の相関を調べた。一ヶ月分のデータを並べると、あることに気づいた。
オーブの数が多い日の翌日に、必ずといっていいほど、現実の細部が変化していた。
道端の自動販売機のラインナップが変わっている。昨日まであったはずの飲料が消えて、飲んだことのない銘柄が並んでいる。テレビのニュースキャスターが、昨日と違う人物になっている。研究所の廊下の非常口の位置が、なぜか左右入れ替わっている。
どれも些細なことだ。気にしなければ流せる。ほとんどの人が流している。しかし透には積み重なって見えた。
世界が少しずつ、少しずつ、書き換えられている。あるいは透が、少しずつ別の世界へと移動しつつある。
四十三歳。人生の折り返し地点を過ぎた自覚はある。しかし、最近感じる「時間の加速」は、単なる加齢による錯覚なのだろうか。
三年前に見送った愛犬の、あの温かな重みを思い出す。もし今、私が別の世界線に滑り込んでいるのだとしたら、あの時看取った犬と、私の記憶の中にいる犬は、果たして同一の存在なのだろうか。
物理学者として、世界は数式で記述できる強固なものだと信じてきた。だが今、私の足元にある現実は、古い地層がズレ動くように音もなく形を変えている。残された時間は、私が思っているよりもずっと「流動的」で、脆いものなのかもしれない。
人生の残り時間を意識し始めたこの時期に、世界が足元から崩れていくような感覚。私は今、いくつもの層が重なった次元の、どの階層に立っているのか。かつて信じていた「確かな現実」は、砂時計の砂のように指の間をすり抜けていく。
そして透は一つのことに気づき、背筋が冷えた。
もし移動が続くとしたら、どこへ向かっているのか。
世界線の「差異」は今のところ微細だ。しかしそれが蓄積すれば、いつか自分が知っているどの現実とも異なる場所に到達するかもしれない。陽子が知らない存在になるかもしれない。自分自身の過去が、この世界には記録されていないかもしれない。
透は立ち上がり、窓の外を見た。
真夜中の街に、オーブが飛び交っていた。今夜は特に多い。数十個。赤信号の下を、街灯の光を、走る車を、完全に無視して漂い、群れ、散らばっていた。
「お前たちは何なんだ」と透は窓ガラスに額をつけながら言った。「なぜ俺にだけ見える」
オーブたちは答えなかった。しかし透の部屋に三つが侵入し、ゆっくりと彼の周りを旋回し始めた。まるで、何かを伝えようとするように。

6 交信
二月。透は一つの実験を試みることにした。オーブに語りかけることだ。
馬鹿げていると思う。しかし科学的なプロセスとして考えれば、これは「刺激を与えて反応を観察する」という極めて正当な実験だ。
書斎に一人でいるとき、三つのオーブが漂っていた。透は静かに言った。「聞こえているか?」
オーブたちの動きが変わった。気のせいかもしれない。しかし、漂い方がより緩やかになったように見えた。
「お前たちが何なのか、教えてくれ」
オーブの一つが透に近づいてきた。直径十センチほどの球体が、彼の顔から二十センチほどの距離で止まった。透は息をのんだ。
それまでオーブたちは、生命体に近づいても接触はしなかった。しかし今、目の前の球体は明らかに静止していた。まるでこちらを見ているかのように。
「お前は俺に、何かを見せようとしているのか」
透がそう言った瞬間、書斎の壁際に漂っていた残り二つのオーブが動いた。一つが本棚の前で止まり、明らかに「ここ」と示すように振動した。
透は本棚を確認した。振動したオーブの前にあった本は、十年以上前に大学院で使っていた量子力学の教科書だった。棚の奥に押し込まれ、ほとんど開いたことのない本だ。
取り出してパラパラとめくると、一枚の付箋が落ちた。自分の字ではない。細く、几帳面な文字で、こう書かれていた。
「次元は隣接する。境界は意識の中にある。見ることができる者は、渡ることができる」
透は凍りついた。
この本を最後に誰かに貸したのは、確か――神田だった。
神田圭介が、このメモを挟んでいたのだ。
透は手が震えるのを感じながら、付箋をもう一度見た。「渡ることができる」。これは、どういう意味なのか。次元を渡れるということか。世界線を意図的に移動できるということか。
そして「見ることができる者」とは、透のことを指しているのか。
「神田は、知っていたのか」と透は呟いた。「俺が見え始める前から、こんなメモを」
オーブたちは静かに揺れていた。
その夜、透は眠れなかった。朝方近くまでベッドの天井を見上げていると、光がふと視野に入った。一つのオーブが枕元でゆっくりと回っていた。
透はその光を見ながら、初めて「怖い」とは思わなかった。代わりに感じたのは、不思議な安堵だった。

7 次元の境界線
二月の末から、透の身体に変化が起きた。
最初は小さなことだった。指先が、物を持つ前に「重さ」を感じるようになった。直感的に、このコップは水が入っている、この封筒は厚い書類が入っている、とわかる。当たることの方が多くなった。
次に、人の気配を感じるようになった。背後に誰かがいる、廊下の向こうに人がいる、そういったことが、目で確認する前にわかった。
そして、夢と現実の境界が薄くなった。
夢の中でオーブと話している、という体験が繰り返された。言葉ではなく、イメージや感覚として何かが伝わってくる。目覚めると内容は忘れている。しかし「何かを理解した」という感覚だけが残った。
透は書斎の壁のメモを更新し続けた。今や壁一面を覆うほどになっていた。
3次元空間+1次元時間=通常の現実
余剰次元の感知能力→オーブの認識
世界線移動の頻度増加→現在進行形
身体的変化→余剰次元への適応?
ある日曜日の昼、陽子が書斎を覗いた。
「何これ」と彼女は言った。驚きというより、心配の色があった。「透、大丈夫?」
「大丈夫だよ」と透は言った。
「全然大丈夫じゃないわよ。何日も書斎に籠って、ご飯もろくに食べないで」
「研究してる」
「何の研究よ」
透は言葉を選んだ。「並行世界について」
陽子は額に手を当てた。「……病院行った方がいいんじゃないかな」
「行った。異常なし」
「でもこれは」と陽子は壁を指した。「普通じゃないよ」
透は立ち上がり、陽子の肩に手を置いた。「俺は正気だ。ただ、俺に見えているものを、お前には見せられない。もう少し時間をくれ」
陽子は長い間、夫の目を見ていた。そして小さく頷いた。「わかった。でも食事はちゃんとして」
その夜、透は久しぶりに陽子と並んでソファに座り、テレビを見た。陽子が眠りに落ちると、透は彼女の寝顔を見た。
十二年間、隣にいた人間。おそらく今も同じ陽子だ。しかし透の移動した世界線では、二人の記憶の細部が少しずつ違う。それでも彼女はここにいる。
「俺がどこへ行っても、お前はいてくれるのか」
オーブが一つ、テレビの前を横切った。

8 決断
三月に入り、透はついに答えを出さなければならない状況に追い込まれた。
研究所から内示が届いた。「次年度からのプロジェクト再編に伴い、桐島透の担当を基礎研究部門から応用計算部門へ移管する」という内容だった。実質的な左遷を意味していた。
しかし透にはそれよりも大きな問題があった。世界線の移動が、加速しているように感じた。
毎日、どこかが変わっている。昨日まで工事中だったビルが完成している。行きつけのコーヒーショップのメニューが変わっている。研究所の所長が別の人物に変わっている――しかし周囲の誰もが、最初からその人物が所長だったかのように振る舞っている。
透だけが「前の状態」を覚えている。
そして神田が残したメモが、脳裏に焼き付いていた。「見ることができる者は、渡ることができる」
オーブを「見る」能力は、単なる症状ではなく、能力だ。透は余剰次元を感知できるようになっている。そして感知できるということは、制御できるかもしれない。受動的に流されるだけでなく、意図的に「渡る」ことができるかもしれない。
透はノートに二つの選択肢を書いた。
A: このまま流れに任せる。世界線の移動は続き、やがて誰も知らない場所に到達するかもしれない。
B: 意識的に移動を試みる。元の世界線に戻る、あるいは別の場所を目指す。リスクは不明。「渡る」方法も不明。
透は長い間、ペンを持ったまま止まっていた。
そこにオーブが現れた。いつにも増して多い。書斎中に満ちていた。十、二十、三十個以上。それらが静止しながら、透を取り囲んでいた。
初めて、透は怖いと思った。しかし同時に確信した。「これは警告じゃない。背中を押されている」
透はBに丸をつけた。
その夜、陽子に話した。全部。オーブのこと、神田のこと、世界線の移動のこと。陽子は最初から最後まで黙って聞いた。
「信じるか信じないかは関係ない」と透は言った。「ただ、俺がこれから何かを試みること、知っていてほしかった」
陽子はしばらく黙った後で言った。「透。あなたが戻ってきてくれれば、それでいい」

9 跳躍
三月の終わり、透は書斎で一人、長い夜を過ごした。
準備は整えた。観察日誌を全て読み返し、オーブの出現パターンと世界線移動のデータを整理した。仮説を組み立てた。余剰次元への「意図的な接続」が可能であるとすれば、それは高度な集中状態と、オーブとの意識的な同調によって可能になるはずだ。
真夜中の書斎。透は床に座り、目を閉じた。
意識を静かにした。脳内の言語的な思考を止め、ただ「見る」状態だけを保つよう努めた。目を閉じていても、オーブは見えた。まぶたの向こうで、無数の光点が揺れていた。
透はその光に向けて、言葉ではなく「意図」を送った。「連れて行ってくれ」
何も起きなかった。一分、二分。
五分が過ぎたとき、変化が起きた。
オーブたちが一斉に静止した。そして、一つずつ透に近づいてきた。透の身体の周囲を、ゆっくりと旋回し始めた。これまでとは違う動き方だった。群れのような、コーラスのような、調和のとれた動き。
透の皮膚が、静電気のような感覚に包まれた。
次いで、視界が変わった。
書斎が消えたわけではない。しかし書斎の上に、あるいは書斎と「重なって」、別の空間が見え始めた。同じ部屋の形をしているが、細部が違う。壁の色が少し違う。窓の外の街の光の配置が違う。本棚の並びが違う。
透はその「重なり」の中に立っていた。二つの世界が同時に見えていた。
その中のひとつに、ある本があった。透の本棚にはない本。見覚えのある表紙――神田が貸してくれた論文集だ。あの、この世界では存在を消されてしまった本が、重なった世界の書斎の棚に、確かに存在していた。
透は手を伸ばした。届かない。物質的な壁がある。
しかしオーブたちが、その瞬間、透の手の周囲に集まった。
透は感じた。わずかな「滑り」を。現実の地面が、わずかにずれるような感覚。重力が一瞬だけ向きを変えたような、目眩とも違う奇妙な浮遊感。
右手と左手の境界が曖昧になる。書斎の空気の密度が変わり、無数のオーブが放つ光が、私の意識を細かく砕いていく。
私は「移動」したのではない。無数に存在する可能性の中から、神田が実在する確率の波を、私の意志で無理やり一本に束ね、引き寄せたのだ。観測者が世界を決定する。量子力学の残酷なまでの真理が、今、私の指先に結実しようとしていた。
そして。
本が、手の中にあった。
透は目を開いた。書斎は元の書斎だ。重なりは消えている。しかし手の中に、確かに本がある。論文集。表紙をめくると、扉ページに神田の字で「神田圭介」と署名があった。
透は本を胸に抱き、深呼吸した。「できた」
小さな声だった。しかし書斎に満ちたオーブたちが、一斉に明るく輝いた。まるで応答するように。まるで「そうだ」と言うように。
世界はひとつではない。そして意識は、その壁を超えることができる。
透は確信した。
その瞬間、透の中で何かが静かに欠けた。
ほんの些細な違和感。
だが確実に、そこにあったはずの記憶が一部、曖昧になっている。
――陽子と初めて出会った日の会話。
思い出そうとしても、輪郭だけが残り、言葉が消えていた。
透はゆっくりと息を吐いた。
「……これが、代償か」

10 新しい光の中で
四月になり、桜が散り始めた。
透は研究所への異動を断り、依願退職した。上司は驚いていたが、透の目を見て何も言わなかった。
自宅の書斎に籠り、透は新しい論文を書き始めた。「マクロ量子遷移と意識の余剰次元接続に関する仮説的フレームワーク」。どの学術誌も受け取らないだろう。それでも書く必要があった。この経験を、少なくとも言語化しておくために。
神田の論文集は今も手元にある。読み返すたびに、神田がどこかで同じ体験をしているのだろうと思う。あるいは彼はすでに「渡った」先で、別の世界を生きているのかもしれない。
陽子との記憶のズレは、今も完全には解消されない。二人の過去は微妙に食い違い続けている。しかし透はもうそれを気にしなくなった。同じ現在を生きていれば、それで十分だと思うようになった。世界線のズレは一つの事実を教えてくれた。どの記憶が「正しい」かではなく、今この瞬間に何を選ぶかが、現実を作るということだ。
透はオーブたちと、今も付き合い続けている。
彼らが何者であるかは、まだわからない。別次元の生命体か、意識の投影か、宇宙の構造そのものの可視化か。データは積み重なっているが、結論は出ない。
ただ一つ確かなのは、彼らは透を害しようとしていない、ということだ。むしろ、導いている。人類は長い間、見えるものだけを現実として扱ってきた。しかし宇宙は、見えないものの方がずっと多い。ダークマター、ダークエネルギー、余剰次元――現代物理学はすでにそれを知っている。ただ、「見る」方法を知らなかっただけだ。
ある夕方、透は陽子とベランダに立ち、沈む太陽を眺めていた。空はオレンジと紫が混ざり合い、街の輪郭を柔らかく溶かしていた。その空の中を、オーブたちが舞っていた。
陽子には見えない光が、夕空に満ちていた。
「きれいね」と陽子が言った。
「ああ」と透は答えた。「すごくきれいだ」 
透は一瞬だけ、不安を覚えた。
――この陽子は、本当に「自分が知っている陽子」なのか。
しかし次の瞬間、その考えを手放した。
たとえ世界線が違っても、
今ここで隣にいるこの人を選ぶことに、意味がある。
それでいいと、透は思った。
かつて、人生は一本の線だと思っていた。だが今は違う。無数の選択肢と、無数の世界線が重なり合い、私たちはその波打ち際を歩いているのだ。
四十代という、働き盛りでありながら、ふと背後を振り返りたくなる絶妙な年齢。そこで出会ったオーブたちは、私に「別の出口」があることを教えてくれた。滅びゆく次元に固執するのではなく、新しい光を受け入れる準備をせよ、と。
二人の見ているものは、少しだけ違うかもしれない。
それでも、隣に立っている人間の温もりは、どの世界線でも同じだった。
透はある仮説に辿り着いていた。
彼らは「別の存在」ではないのかもしれない。
もしかすると――
異なる世界線を生きた“人間の記憶”そのもの。
あるいは、選ばれなかった可能性の残響。
だからこそ彼らは、物質を持たず、しかし生命を避ける。
それは、かつて“生命だったもの”の名残だからではないか。
透は空を見上げながら思った。次元が何層重なっていても、この瞬間に誰かと共にいるという事実は、宇宙で最も単純で、最も確かな現実なのかもしれない、と。
オーブたちが夕空に溶けていくのを、透はそっと見送った。
ふと、自分のポケットを弄ると、そこには見覚えのない古いコインが一つ入っていた。



ーおまけー
これは
今 僕が置かれている日常を
ブログに書き残そうと
覚え書きをしたものを
物語に置き換えてみました
それをここに載せて置きます

次元上昇

この世は
いくつもの空間が
重なっているらしい

僕らは
縦 横 高さ
この3つに
一方通行で流れる時間が
重なっただけの
3次元+1 の中で暮らしている

ところが
どうやらそれとは別の
更にいくつもの次元が
ここには
目の前にはあるらしい

そんなことを
思い始めたのは
還暦を越し
愛犬をも失い

あまりの悲しみの中
節分の夜
浮遊するオーブたちが
突然 見え始めたからで

彼らは
壁も床も物もすり抜ける
ようするに
この世にある
物質をすべて無視して
浮遊しているから

それらがある
この次元とは違う場所を
動いているのだろう

ただし
不思議かな
この僕の身体だけは
すり抜けることなく
瞬時に交わし
衝突さえしない

彼らもまた
高速で動き回っていても
決して衝突することなく
さらりと交わしている

これはきっと
僕の身体を含め
生命体どうしは
お互いを認識し
その衝突を回避しているのだろう

そのように見えるのは
こちらの世界からで

もしかすると
あちらの世界では
僕らがオーブとして
見えているのかもしれない

そして
それらが見え始めたということは
3次元+1 に
もうひとつ加えた側へと
足を入れ出したのかも? と

勝手に想像してみれば
僕は今
3.5次元+1 あたりにいるのか
3次元+1.5次元あたりを
彷徨っているのかと
ふと思ってみるが
分からない

ただし
時間を行き来出来たことはなく
その感覚は
速さを増しながら
一瞬も止まることなく
相変わらず一方通行で
進んでいる

昨今
マンデルエフェクトという
言葉がある

それは
単に記憶違いではなく
並行して別の世界が
目の前で
動いているというものらしく

それを
時折
行き来しているのではないかと
いうことらしい

今がまさに
それかと
振り返ってみれば

なるほど
昨今
同じはずの記憶が
カミさんと重ならないことばかり

それは
記憶違いだけなはずではなく
僕のいた場所と
カミさんのいた場所とが
わずかに0.5ほど
ズレていたのかもしれないと

なんだか
そんなことを思ってみるが
わからない

持ち時間は軽くなって
これからは
その時間と戦いながら
効率良く生きねばならない

そしてその中で
もしも
そこを手に入れられたならば

多くの常識はひっくり返り
望んだ楽園を
手にすることも出来るのだろう

バカな人間たちは
相変わらず
自分のことばかりを尊重し
争い血を流す

そろそろ
滅び掛けたこの次元から
脱出せねばと思いながら…

あなたが今
当然のように信じているその記憶も
本当にこの世界のものだと
言い切れますか…



ーあとがきー
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
この物語は、僕の日常に起きた「ある不思議な体験」の覚え書きから始まりました。還暦を過ぎ、愛犬を失った悲しみの中で出会った、浮遊するオーブ(光の球体)たち。彼らが見せた「物質を無視し、生命を避ける」という振る舞いは、私にこの世界の多層性を強く意識させました。
物語の中の「桐島透」は、私の分身でもあります。
私たちは40代、50代と年齢を重ねる中で、ふと「人生の残り時間」や「失われた可能性」に思いを馳せることがあります。マンデラエフェクト(集団的記憶の不一致)という現象は、単なる脳のミスリードではなく、私たちが今この瞬間に、無数の世界の中から「どの未来を選び取るか」という自由意志の現れなのかもしれません。
たとえ世界線のズレによって、隣にいる大切な人と記憶が食い違ったとしても、今ここで共に温もりを感じているという事実。それこそが、どの次元においても変わることのない、唯一の「真実」ではないかと思うのです。
今、あなたの目の前にも、オーブたちが漂っているかもしれません。
彼らは決してあなたを害しません。ただ、新しい光、新しい次元へと、そっと背中を押してくれているだけなのです。

ー紹介文ー
「世界が、足元から書き換えられていく――。」
40代、素粒子物理学者の桐島透。ある夜、彼の前に現れたのは、物質を透過し、意志を持つかのように漂う「光の球体(オーブ)」だった。
それは幻覚か、それとも高次元からの使者か。
妻との記憶のズレ、消えた同僚、書き換わった過去。日常を侵食する「マンデラエフェクト」の正体に気づいたとき、彼は理論を超えた究極の選択を迫られる。
実体験の断片から編み出された、科学と哲学が交差する不可思議な物語。
「今、あなたが見ている世界は、本当に昨日と同じ世界ですか?」

ーあらすじー
主人公: 桐島 透(きりしま とおる)/40代・元素粒子物理学者。妻と二人暮らし。ある日から「光の球体=オーブ」が見え始める。
オーブが見え始めた透は、それを幻覚と疑いながらも記録し始める。やがてオーブが「何かを伝えようとしている」と気づく。妻との記憶のズレ、消えた同僚、書き換わった過去——マンデラエフェクトが日常を侵食し始め、透は「この世界は本物か」という問いに命がけで向き合うことになる。