還暦を越せば
もう良いじゃあないかと

目の前の厄介な連中との
無理した付き合いを断つ

ストレスに思う連中を
すべて排除する

更には
新たな友達を作ることなく
ガキの頃からの
嘘偽りない無礼講な仲間たちとだけ
微笑んでいたらそれで良い

昨今
そう思うばかり




更には
ご無沙汰してしまった
あの頃の連中に

会いたくもなって
連絡をと急ぐ

もう
あの頃って頃からと
同じだけの時間さえ
残っていない

持ち時間は
更に加速し
何もせずとも
目の前を過ぎて行く

老後というものが
こんなにも早く
ここへと来るとは思わなかった

本当はもう
わがままに生きて良いのだろう
心のままで良いのだろう

制御などせず
思うがままが良いのだろう

時間とは
そんなことだよ

きっと…


先月から

週に10冊づつ Kindleに載せて

もう30冊にもなりました


それでも

膨大なKindleの中

まだまだ 埋もれたままのようです


次週 これをまた

あれこれと手直しをして

載せる予定でおります



節分の夜、天井に瞳が現れた
ー幕末転生の記憶ー

ー紹介文ー
節分の夜、天井に「瞳」が現れた。
それが、すべての始まりだった。
「人間は二度死ぬ。一度目は肉体の終わり、二度目は忘れられた時――。」
還暦を前にした著者の身に、ある日突然起きた異変。空間を浮遊する謎の発光体「プラーナ」と、深夜の天井に現れる無数の「瞳」。科学では説明のつかない怪現象は、一通の「招待状」だった。
意識が飛ばされた先は、文久三年の中山道。そこには、神道無念流の免許皆伝として浪士組に加わり、京へと向かう五代前の先祖・加藤善次郎の姿があった。
歴史の影で、芹沢鴨と刃を交え、清河八郎の最期を見届けた名もなき武士。なぜ彼は新選組に残らず、江戸へ戻る道を選んだのか? 160年の時を超えて明かされる、命を繋ぐための「決断」の物語。
実体験に基づくスピリチュアルな感性と、幕末の動乱が交錯する。これは、今を生きるすべての人に捧げる、魂の継承の記録である。


ーまえがきー
「人間の死亡率は100%である」
当たり前のことですが、還暦という節目を意識するようになり、この言葉が妙に現実味を帯びて私の胸に居座るようになりました。
そんな折、私の身に不思議なことが起こり始めました。節分の夜を境に、空間に漂う光の粒子「プラーナ」が目に見えるようになったのです。そして夜な夜な天井に現れる、私を見守るような「瞳」たち。
最初は戸惑いました。家族には心配され、自分でも正気を疑いました。しかし、その現象は恐怖ではなく、ある「記憶」へと私を誘う合図でした。
私には、五代前の直系にあたる先祖がいます。名を加藤善次郎。幕末、神道無念流の使い手として浪士組に名を連ねた男です。なぜ、今の私にこれらが見えるようになったのか。なぜ、私はあの日、幕末の風を肌で感じるような夢を見たのか。
この物語は、私の奇妙な実体験と、我が一族に伝わる血脈の記憶を編み上げたものです。読み終えたとき、あなたの中にも眠っている「繋がれた命」の温かさを感じていただければ幸いです。


第一章:次元の揺らぎ
それは、節分の夜のことだった。
豆撒きのあとの、少しだけ大豆の香ばしさが残る居間で、私はそれを見つけた。最初は疲れ目かと思った。還暦を目前に控え、根を詰めて電子書籍の原稿を書き進めているせいだろうと。だが、目を擦っても、瞬きを繰り返しても、それは消えなかった。
空中を浮遊する、微細な光の粒子。
「プラーナ」と呼ぶのが正しいのか、あるいは科学的に説明のつかない何かなのか。目を凝らせば、それは意思を持っているかのように、銀色の軌道を描いて私の周りを回っている。
「……見えているのか、これ」
独り言が、静かな部屋に落ちる。スマホのカメラをかざすと、画面越しにはオーブのような光の球がはっきりと映り込む。しかし、録画ボタンを押して見返せば、そこには何も映っていない。物質的な記録を拒絶し、私の視神経にだけ直接語りかけてくる、非物質の「住人」たち。
それ以来、私の日常は少しずつ変質していった。
真夜中にふと目を覚ます。暗闇に慣れた視界の先、天井を見上げると、そこには無数の「瞳」のようなものが浮かんでいる。金色、銀色、あるいは深い藍色。彼らは私を監視しているのではない。まるで、何かが始まるのをじっと待っている、観客のように見えた。
「おい、そこにいるのか?」
呼びかけてみる。返事はない。だが、ドライヤーの熱風をぶつけても、壁をすり抜けても、彼らは私の身体だけは決して侵さず、丁寧に避けて通る。確実な「敬意」と「認識」がそこにはあった。
妻には一度だけ話してみた。「最近、変な光が見えるんだ」。返ってきたのは、心配そうな顔と「お祓いでも行く?」という現実的な提案だった。それ以来、私は口を閉ざした。家族を不安にさせたいわけではない。ただ、この現象が「恐ろしいもの」ではないという直感だけが、私の胸の中に錨(いかり)のように沈んでいた。
そんなある夜。
天井の瞳が、これまでにないほど強く輝いた。視線が絡み合った瞬間、私の意識は急激な睡魔に襲われ、深い、深い底へと引きずり込まれていった。
「――善次郎。善次郎、起きろ」
誰かの声がする。現代の、高気密な住宅の匂いではない。湿った土、馬の排泄物、焚き火の煙、そして――研ぎ澄まされた鋼(はがね)の匂い。
私は目を開けた。
そこは、中山道の険しい峠道だった。足元を見れば、履き慣れないはずの草鞋が、自分の足の一部であるかのように大地を掴んでいる。腰には、ずっしりとした二本の刀の重み。
五代前の先祖、加藤善次郎。神道無念流の免許皆伝。200人の門弟を抱える道場主。
私は、私であって、私ではなかった。160年の時を超え、血脈という名の見えない糸が、私を「あの時代」へと手繰り寄せたのだ。
目の前を、巨大な背中が通り過ぎていく。近藤勇だ。その後に続く、殺気を帯びた男たちの群れ。「浪士組」――のちの新選組となる、時代に翻弄されることになる者たち。
「行こうか、善次郎」
誰かが私の肩を叩く。私は無言で頷き、一歩を踏み出した。
この先に待つのは、血塗られた壬生の地か、あるいは歴史を覆す「一撃」か。天井で見つめていたあの瞳たちが、今、この中山道の空にも、無数の星となって瞬いていた。


第二章:神道無念流の矜持
中山道の冷たい風が、袴の裾を揺らす。
私は、善次郎の肉体を通して、初めて「命を懸けて歩く」という実感を味わっていた。一歩踏み出すたびに、腰に差した二振りの刀が、大腿部に確かな重みを与える。現代の私が知る「重さ」とは違う。それは、いつでも自分の、あるいは誰かの命を断つ準備ができているという「責任」の重さだった。
「善次郎さん、何を考えとる」
不意に声をかけてきたのは、試衛館の面々の一人だった。若き日の近藤勇が、まだどこか泥臭さを残した笑顔で隣に並ぶ。私は、とっさに言葉を飲み込んだ。
(あんたは、数年後にこの国の歴史を背負って、そして流山で散るんだ)
喉元まで出かかった言葉を、善次郎の意志が押し戻す。今の私は、五代先の子孫ではなく、神道無念流の道場主、加藤善次郎なのだ。
「……いや、この先の空模様が気になったまでだ」
私は、現代の私が天井で見たあの瞳を探すように、曇天の空を仰いだ。
芹沢鴨、その狂気
宿場町に着く頃には、一行の空気は刺々しくなっていた。その中心にいたのは、筆頭格の一人、芹沢鴨だ。彼は、歩くたびに酒の匂いを撒き散らしていた。大きな身体を揺らし、すれ違う町人を理由もなく怒鳴りつける。その横暴さは、武士の「義」とは程遠いものだった。
「あいつの命日」――。
現代の私が墓前に供えた酒が、皮肉にもこの男の血管を駆け巡り、狂気を増幅させている。酒は人を陽気にさせる薬にもなれば、魂を腐らせる毒にもなる。芹沢にとっては、明らかに後者だった。
「おい、そこの小僧! 邪魔だと言っているのが聞こえんのか!」
芹沢が、荷運びの少年の胸ぐらを掴み上げた。周囲の浪士たちは、見て見ぬふりをする。近藤ですら、今は波風を立てるまいと奥歯を噛み締めているのが分かった。
だが、私の身体が勝手に動いた。いや、私の中に眠る善次郎の、免許皆伝としての「誇り」が許さなかったのだ。
「芹沢殿。その手を放されよ。相手は子供だ」
私の声は、自分でも驚くほど低く、冷徹に響いた。街道の喧騒が、一瞬で凍りつく。
「あぁ……? 誰だ、貴様は。……あぁ、江戸の道場主か。神道無念流だか何だか知らんが、田舎侍が俺に指図するのか」
芹沢が少年を投げ捨て、ゆっくりと私に向き直った。その目は血走り、腰の大きな太刀に手がかけられる。
刹那の交差
神道無念流。それは「力の剣」と呼ばれる。
だが、その真髄は力任せに叩き斬ることではない。相手の気を読み、理を制し、無駄な動きを一切削ぎ落とした「一撃」にある。
私は左足を半歩引き、重心を落とした。右手が、使い込まれた柄に吸い付く。
(ここで斬れば、歴史が変わる)
現代の私の意識が叫ぶ。
(だが、この男を生かしておけば、さらに多くの血が流れる)
善次郎の正義が、それに答える。
「抜くなら、抜かれよ。加藤善次郎、容赦は致さぬ」
芹沢が吼え、凄まじい力で抜刀した。大上段からの、力任せの唐竹割り。並の剣客なら、その圧に圧され、防ぐことも叶わず叩き潰されていただろう。
だが、私は見えていた。プラーナの光が流れるように、芹沢の剣の軌道が、白い残像となって私の視界に浮かび上がったのだ。
「――っ!」
(間に合わない――)
そう思った瞬間、身体ではなく「何か」が先に動いた。
踏み込みは一瞬。私は芹沢の懐へ滑り込んだ。肉を斬らせて骨を断つのではない。肉すら斬らせず、ただその喉元を、鞘を払った瞬間の閃光で撫で切る。
神道無念流、秘剣。
鈍い音がして、芹沢の身体がその場に崩れ落ちた。彼の太刀は、私の肩を掠めることもなく、虚しく土を打った。
「……やりおった」
誰かが呟いた。近藤が、土方が、呆然と私を見つめている。
歴史の歯車が、目に見えるほどの速さで狂い始めた。芹沢鴨は、京の壬生で暗殺されるはずの男だ。それが今、この名もなき峠道で、五代前の先祖・善次郎の手によって最期を迎えた。
私は返り血を拭うこともせず、ただ静かに刀を鞘に収めた。その瞬間、天井で見つめていたあの瞳たちが、一斉に瞬いたような気がした。
「善次郎……お前は、何をした」
自問自答しながら、私は再び歩き始めた。
京、壬生。そこには清河八郎が待っている。そして、私が江戸へ戻らなければならない理由が、そこにあるはずだった。


第三章:壬生の分岐点
京都、壬生。
八木邸の離れにある新徳寺の本堂は、異様な熱気に包まれていた。
「我らの真の目的は、将軍守護にあらず。朝廷に忠を尽くし、攘夷の魁(さきがけ)となることにある!」
清河八郎の朗々たる声が、堂内の鴨居を震わせる。その言葉は、集まった浪士たちの胸を突き刺した。
私は、柱に背を預けてその光景を眺めていた。
(清河八郎。あんたはここで、近藤たちを敵に回す。そして江戸へ戻り、麻布で斬られる……)
現代の知識が、私の頭の中で警鐘を鳴らす。
「清河殿、話が違う! 我らは上洛の途上、何を誓い合ったかお忘れか!」
近藤勇の咆哮。彼らの離脱は決定的だった。彼らは京に残り、のちに「新選組」として歴史の表舞台に躍り出る。私は迷っていた。神道無念流の免許皆伝として、近藤たちと共に京に残れと血が叫んでいる。
だが、その時。私の視界が、ふっと歪んだ。
現代の自宅の天井で見つめていた、あの「瞳」が現れたのだ。薄暗い寺の天井。梁の影から、銀色の粒が降り注ぐ。それは私にしか見えないプラーナの奔流だった。その光は、私を導くように、江戸の方角を指し示している。
(……そうだ。ここで京に残れば、私は戦死する。善次郎がここで死ねば、五代先の「私」は生まれてこない)
「善次郎。お前はどうする」
ふいに、清河八郎が私を直視した。
「芹沢を斬ったお前の腕、私は高く買っている。京に残るか、それとも私と共に江戸へ戻るか」
私は、近藤の背中を見た。彼は、誠の旗の下に散る運命にある。そして私は、名もなき「生」を繋ぐ運命にある。
「清河殿。私は江戸へ戻ります」
数日後。私たちは京を後にし、再び中山道を江戸へと引き返した。
遺伝子のスイッチ
江戸に着いた夜、私は自宅の小さな神棚の前に座った。そこには、まだ見ぬ未来の子孫たちの影が、プラーナとなって漂っているように見えた。
「繋ぐぞ。俺の代では、終わらせない」
私は、神道無念流の愛刀を固く握りしめた。ふと、私は闇の中に浮かぶ未来の断片を見た。
いつか子孫の中で、私によく似た男が現れるだろう。その男が還暦を迎えた時、そっとDNAに残した次元装置のスイッチが入る。その瞬間に男は多くを思い、私の足跡を追うように仕掛けたのだ。今、私の目の前で舞っているこの光の粒子は、160年後の彼へ送るための道標だ。
だが、歴史は無情だ。江戸に戻った直後、清河八郎に刺客が迫る。麻布一ノ橋。そこが、私の「最後の戦場」になることを、私は確信していた。
天井で瞳が瞬く。
「もうすぐだ」と、誰かの声がした。



第四章:一ノ橋の血煙、そして繋がる瞳
文久三年、四月十三日。
江戸の空は、泣き出しそうなほど重い雲に覆われていた。
麻布一ノ橋。清河八郎は、上機嫌だった。「善次郎、江戸へ戻って正解だったな。これからは我らの時代だ」。彼はそう言って懐の書状を叩いた。だが、私の鼻腔には、数日前からまとわりついていた血の匂いが立ち込めていた。
(来る。歴史が動き出す瞬間が、今だ)
橋の向こうから、殺気を殺した男たちが近づいてくる。幕府の刺客、佐々木只三郎たちだ。
「清河殿、下がれ!」
私が叫んだ瞬間、抜き放たれた刃が闇を裂いた。
「おのれ、裏切り者め!」
刺客たちの咆哮。清河は驚愕に目を見開いたまま、その場に崩れ落ちた。史実は変えられなかった。一人の力では、時代の奔流は押し戻せない。
だが。
「……ここからは、俺の戦いだ」
私は、清河を討ち取って勝ち誇る刺客たちの前に立ちはだかった。神道無念流、免許皆伝。ここで私が彼らを食い止めなければ、清河の一派は根絶やしにされ、その余波は加藤の一族にまで及ぶ。五代先の「私」が消えてしまう。
「神道無念流、加藤善次郎! 命を繋ぐために、お前たちを斬る!」
雨が頬を叩く。空中を、銀色のプラーナが高速で駆け巡る。それは、未来から差し伸べられた無数の手のようだった。
「せいやっ!」
一閃。刺客たちは、見たこともない速さで崩れ去っていく。
「化け物か……!」
佐々木が恐怖に目を見開き、後退りした。私は追わなかった。私の目的は、この場を生き残り、「加藤」の名を明日へ、そして百年先へと運ぶこと。
「行け……」
闇の中から、誰かの声がした。私は、倒れた刺客たちの間を抜け、江戸の闇へと消えた。背後で、一ノ橋を打つ雨音が、全てを洗い流していくような気がした。


終章:死亡率100%の先にある再会
「……はっ!」
私は、跳ね起きるように目覚めた。そこは、いつもの居間だった。カーステレオから流れていた70年代のナンバーは、いつの間にか止まっている。
天井を見上げた。そこには、あの「瞳」たちがいた。だが、もう彼らは私を監視してはいなかった。優しく、慈しむような光を湛えて、ただゆらゆらと揺れている。
「……善次郎さん。繋いだよ。あんたが命懸けで守ったバトンを、俺はちゃんと持ってる」
私は、自分の右手の甲を見た。そこには、拳を固め、刀を握り続けた男の血が、確かに流れている。人間は、肉体が滅びた時に一度死に、忘れられた時に二度死ぬ。ならば、私がこうして善次郎様を思い出し、言葉に綴る限り、彼は死なない。
ふと、机の上の資料に目を落とした。清河八郎暗殺の記録。そこには、史実にはない奇妙な一行が、後世の追記として書き込まれていた。
『――清河の遺体の傍らに、凄まじき剣気を持つ浪士一人あり。刺客数名を瞬く間に斬り伏せ、雨の中に消ゆ。その面立ち、後年の加藤家の男に似たりという。』
私は、思わず微笑んだ。きっと、あいつも同じように笑っているだろう。
いつか訪れる、私の「死亡率 100%」の日。その時、向こう側の世界で、酒瓶を抱えたあいつらが、そして五代前の善次郎様が、「遅かったじゃねえか」と笑いながら、私を迎えに来てくれるに違いない。
――その時、私はようやく、自分がどこから来たのかを知るのだろう。
それまでは、もう少しだけ、このプラーナが舞う世界で足掻いてみよう。この不思議な体験と、受け継いだ命の重さを、一文字ずつ刻み込みながら。
(完)


ーおまけー
この物語は
還暦を越した頃
突然 見え始めた
オーブたちと
プラーナたちとが
仕組んだとしか思えない
不思議な夢を見るようになり

ある日
それをブログに書いたものを
フィクションな物語に
仕立てたものです

それを
ここに載せて置きます

…浪士組に…
空中を浮遊するプラーナは
目をこらせば
いつでも見えるようになった

でもそれは
映像には撮れず
本当がわからない

オーブは
スマホを通してだけだったけれど
昨今 
一瞬 通った軌道が
見えるようにもなった

特に
真夜中に目を開けると
天井には
それらが僕を見張るかのように
姿を表す

時折
様々な色の目のようなものが現れ
龍か?
鳳凰か? とすら思うが
その姿はわからない

調べれば
次元上昇というらしいが
これまたわからない

節分に
突然 見え始めてから
半年も越したというのに
まだ
何もわからない

そうそう
昨晩は風呂あがりに
髪を乾かしたついでに
ドライヤーの熱風を当ててみたけれど
彼らの動きは変わらないので
やはり
違う次元にいるのだろう

ただし
壁や物はすり抜けるけれども
僕の身体は避けて通るから
確実に認識している

また
こちらからの言葉は
伝わっているようで
いないの? と呼ぶと
直後に姿を現すけれども

彼らからの言葉は
今まだ何も聞こえない

当初
そんなことがあると
カミさんに話すと
ならば
お祓いでもと心配するので
それ以来
家族には何も告げてはいない

さて
昨晩
久々に見た
いや
覚えていた夢は…

山道を歩いている
京都へ向かっているようだが
かなり険しい峠のようだ

この峠を降りたら
この街道から外れ
善光寺へと誰かが言う

そこで手を合わせ
江戸へ戻れと言うが
誰だかわからない

大勢で歩いているが
皆の姿は確認出来ない

旅姿はと見れば

物騒にも刀を差している

浪士組か?

すれば
善次郎か?

やはり
善次郎の中にいるようだ

近藤がいる
土方は見えない

後方で芹沢が暴れている
厄介な奴だ

いずれ
近藤たちに討たれると
知っているのは僕だけか

ならばと

おい!
いい加減にしろ! と
言ってしまった

なに! と
刀を抜いて来た

仕方ないと
相手をする

こちらは
200人もの門弟を持つ道場主
神道無念流の免許皆伝
負けるはずはない

一瞬で斬り捨てた

さてどうする?
歴史を変えてしまったか?

いや
この厄介者
大して変わらないだろう

しかし
これで浪士組だけでは
いられなくなった

そうだ
新撰組だ

いや
それでは我が一族が絶えてしまう
やはり
江戸へ戻らねばならない

壬生に着いた
新徳寺に集められた
清河が演説している
皆 不満な顔で聞いている

近藤たちは
それは違うと出て行った

僕は迷っていたが
清河から
芹沢を討った罪は放免とするから
加勢をと頼まれ
江戸へと戻った

そうだ
直後 清河が討たれることも
知っている

どうする?
守るか?
歴史を変えてしまうか!

そこで
突然 時代は変わり


書物を見れば
芹沢は
清河が討ったこととなっている

清河は
やはり江戸へ戻った直後
刺客に討たれたと書かれている

やはり
守りに行かなかったのかと
うなだれていると

駆け付けた浪士組だった男は
間に合わなかったが
その刺客たちを
全員 倒したと追記されている

そうだったか! と
微笑んだ直後
目が覚めた

天井を見れば
いくつかの目が
こちらを見て輝き
その瞬間 消え去った


ーあとがきー
物語の幕を閉じるにあたり、少しだけ現実の話をさせてください。
作中に登場する加藤善次郎は、私の実在の先祖です。彼が江戸へ戻り、命を繋いでくれたからこそ、今の私があり、こうしてペンを執ることができています。
今も私の部屋には、オーブやプラーナが舞っています。ドライヤーの熱風を当てても動じず、それでいて私の身体だけは避けて通る彼ら。最近では、こちらが「いるの?」と問いかければ、すぐさま姿を現してくれるようにもなりました。
彼らは、先立った「あいつら」なのか。あるいは、私を見守る善次郎様たちなのか。その答えは、まだ完全には分かりません。けれど、一つだけ確信していることがあります。
私たちがこの世を去る時、それは決して孤独な旅ではないということです。先に往った仲間たちや先祖たちが、「遅かったじゃねえか」と笑いながら迎えに来てくれる。そんな再会が待っているのだと思うと、残された「持ち時間」を精一杯、自分らしく生きようと思えるのです。
この本が、かつての友を想う方や、ご自身のルーツに想いを馳せる方の心に、小さな灯火を灯すことができれば、著者としてこれ以上の喜びはありません。
最後に、私をここまで導いてくれた「あいつ」と、命を繋いでくれた善次郎様に、心からの献杯を。

本日はあいつの命日で
それは
実家へと向かう途中にあって
素通り出来ず
いや
そこが目的で出掛け
手を合わす

花は週末にどなたかが来たはずと
毎度 花より団子とばかし
酒をと選ぶ

でも本当は
その酒が原因だったから
ダメ! だと強く言いたいが
そこはすでに向こうの世界

美味いだろ? と
献杯をする

呑めばお互い譲らず
殴り合いの喧嘩をした仲
それでもこうして
毎年 出掛けるのは
やはり マブダチだったのだろう



人は2度 死ぬんだそうで
1度目は肉体の終わり
そして
2度目は忘れられた終わり

ならば
僕の持ち時間の中くらい
生かして置きたいと
思うのが常

無理に出掛ける必要はなく
覚えていた者が
出掛けられる立場でいたならばで
良いと思っている

この齢ともなれば
毎月だった墓参りも
毎週にもなってしまった

あとどのくらい? と
時折 思うけれど
こればかりは 分からない

僕ら
人間の死亡率は100%
いずれ必ずその日は訪れて
その時
何を思うのだろうか

きっと
先立ったあいつらが
遅かったじゃねえか? 
なんて
笑いながら
迎えに来るのだろう



ここもまた氣配がして

撮れば

ほら

分かってるよ! とばかり

玉響は姿を見せた


Kindle  予定


世界は、音もなく変わった。


それは、かつて歴史の教科書が描いたような劇的な革命でも、地平線を焼き尽くすような悲劇的な戦争でもなかった。ただ、朝が来れば太陽が昇り、喉が渇けば水を飲むのと同じくらい、ごく自然に、人々の「選び方」が静かに変わっただけだった。

かつて人類は火を手に入れた。

数万年前、闇を恐れた祖先が雷の跡から拾い上げたその小さな光は、夜を退け、寒さを遠ざけ、文明という名の壮大な物語の始まりとなった。火は、肉を焼き、金属を溶かし、蒸気を生み出し、ついには鋼鉄の巨人を動かすまでになった。

二十世紀から二十一世紀にかけて、人類は地中に眠る黒い液体を掘り出し、それを「命の糧」とした。ガソリン、石油、石炭。

それらは強大だった。一滴の液体が爆発的な熱を生み、数トンの鉄の塊を時速百キロメートルで走らせる。一瞬で都市の夜を真昼のように輝かせ、地球の裏側まで声を届ける。そのあまりの便利さに、誰もがその「火」が永遠に続くものだと信じて疑わなかった。

だが――人間には、それを作ることができなかった。

数億年の歳月をかけて地球が醸成した遺産を、わずか数百年で食いつぶしているのだという事実に気づいたとき、世界の時計の針が少しずつ狂い始めた。資源を巡る争い、煤けた空、上昇し続ける気温。そして何より、「いつか無くなる」という拭い去れない恐怖。

作れないものに、人類の未来は預けられない。

それは世界の首脳がどこかの会議場で宣言したわけではない。だが、市井の人々が一人、また一人と、黒い煙を吐く車を捨て、静かなモーターの音を選び始めたとき、新しい時代の幕が上がった。

風。光。水。

この星が誕生したときから、そこにあり、明日も、千年後も、変わらずそこにあり続けるもの。それらからエネルギーを「分ける」ことが、新しい時代の共通認識となった。

「燃やす」という破壊的な行為ではなく、自然の循環の中にそっと手を差し込み、必要な分だけを分けてもらう。消費するのではなく、循環させる。人類は、火を使いこなした傲慢な時代を卒業し、静かな、あまりに静かな方向転換を果たした。

空は、かつてないほど高く、青かった。




ユウが働く「第七水素分解プラント」は、その名の通り、かつて石油コンビナートが立ち並んでいた海岸沿いに鎮座している。

かつてのコンビナートが鉄錆と重油の匂いにまみれた異形の怪物だったとしたら、今のプラントは、まるで深海から現れた巨大な真珠のようだった。磨き上げられた白い外壁が朝日に反射し、複雑に絡み合う透明な強化樹脂のパイプの中を、分解される前の澄んだ海水がリズミカルに流れていく。

施設内は、不快な騒音とは無縁だ。ただ、耳を澄ませば、高圧の電気が水を酸素と水素に引き裂く際の、微かな、しかし力強い「キーン」という高周波のハミングが聞こえてくる。

二十三歳のユウにとって、それはすでに「朝の音」だった。

目覚まし時計の代わりに、始業前点検のアラームが彼を叩き起こす。コンビニのサンドイッチを自転車の前かごに突っ込んで、潮風を切って走る十五分間。ゲートを抜けた瞬間に鼻をかすめる、微かな塩素の香りと海の匂いが混ざり合った独特のにおい。それがユウにとっての「仕事が始まる合図」だった。

技師として採用されて半年。まだ先輩の後ろをついて回ることが多いが、計器の読み方も、バルブの感触も、少しずつ自分のものになりつつある。そんな手応えを感じながら、今日もユウはメインコンソールの前に立っていた。

「ユウ、またぼーっとしてる。計器のチェック、終わったの?」

背後からかけられた少し低めの落ち着いた声に、ユウは跳ねるように振り返った。

そこに立っていたのは、ミナだった。

ユウより二つ年上の先輩技師である彼女は、機能性を重視した白いタクティカル・ウェアに身を包んでいる。短く切り揃えられた黒髪が、プラント内の空調に揺れていた。眼鏡の奥の目が、ちょうど半分だけ呆れた色をしている。残り半分は――これはユウの主観だが――どこか面白がっているように見えた。

「あ、ミナさん。すみません、三番ラインの圧力を見てたんですけど、つい……」

「パイプの中を見てたんでしょ? 水が流れるのを」

見透かしたようなミナの言葉に、ユウは苦笑いを浮かべた。

「……きれいだなと思って。この透明な水が、街中の明かりや、走っているバスの動力になる。不思議ですよね。昔はこれ、全部燃やして作ってたなんて」

「そういうこと言う人って、だいたい仕事が遅い」

「手厳しい」

「事実を言ってるだけ」

ミナは、ユウの隣に並び、自分より少し背の高い透明なパイプに手を触れた。パイプを通して、プラントの心臓部から伝わってくる微弱な振動。彼女の細い指先が、そのリズムを確かめるように、静かに添えられる。

「ねえ、ユウ。この音、どう思う?」

ユウは再び耳を澄ませた。規則正しく、一切の澱みがない、完璧なシステムの音。

「安心します。心臓の鼓動みたいで。この音がしている限り、世界は平和なんだなって思えます」

ユウが素直な感想を伝えると、ミナはふっと視線を落とした。彼女の長い睫毛が、白い頬に薄い影を落とす。その表情には、普段の凛とした彼女からは想像もつかないような、深い「影」が差していた。

「私はね、少し怖い」

「え?」

「止まったら、全部終わる気がして。この音も、この透明な水の流れも、誰かが作ったものだから。作られたものは、いつか壊れる。それが怖いのよ」

彼女の指先が、冷たいパイプの上でかすかに震えていた。

ユウには、その恐怖の正体がまだわからなかった。だが、彼女の言葉は、完璧に管理されたプラントの空調よりも、ずっと冷たく彼の胸に響いた。



「止まるわけないですよ」

ユウは、少しだけおどけた調子で言った。重たくなった空気を振り払いたかったのだ。

「これは、僕たちが自分たちの手で作れるエネルギーです。海は枯れないし、太陽は明日も昇る。火を燃やして、いつか尽きる地下資源に怯えていた時代とは違う。循環しているんですから」

ミナは、触れていたパイプからゆっくりと手を離した。指先の形が、結露した透明な樹脂の上に、小さな、しかし確かな痕跡を残して消えていく。

「“作れる”ってね」

彼女の声は、プラントに響くハミングにかき消されそうなほど細かった。

「“止まる可能性がある”ってことでもあるのよ。ユウ」

ユウは言葉を失った。

彼にとって、エネルギーは「与えられるもの」ではなく「生み出すもの」だった。科学の勝利であり、人類が到達した正解だ。作れるからこそ、未来は約束されている。そう信じて疑わなかった。

だが、ミナの瞳は、足元を流れる無機質な排水のラインを見つめていた。

「全部がつながってるから。このプラントも、街の灯りも、君が持っている端末も。どこか一つでも、誰かの意志や、些細なエラーで止まれば、ドミノ倒しみたいに連鎖する。……作られた調和は、壊れるときも一瞬なのよ」

彼女はそれ以上、何も言わなかった。ただ、作業用グローブをはめ直し、次のチェックポイントへと歩き出した。その背中は、頼りがいのある先輩のそれでありながら、どこか嵐の前の静けさを恐れる子供のようにも見えた。

ユウは、その背中をしばらく目で追った。

何かを言いたかった。「大丈夫ですよ」でも、「心配しすぎです」でも。だが、どんな言葉も、彼女の「影」の前では薄っぺらく感じられて、口を開けなかった。

(そういえば――)

ユウは、ミナがいつも最終チェックを一人でやっていることに、あらためて気がついた。退勤時刻を過ぎても、誰よりも遅くまでコンソールを眺めている。それが「責任感」ではなく、「怖くて帰れない」のだとしたら?

プラントのハミングが、変わらず続いている。

今日も、世界は平和だ。

その音に耳を傾けながら、ユウはなぜか、少しだけ切ない気持ちになった。



プラントの北端には、地図から消された場所がある。

高い鉄柵に囲まれ、「高線量につき立入禁止」と古びたプレートが掲げられたその区域は、今のクリーンな水素社会において、唯一の「汚れ」のように居座っていた。

そこは、古い原子力発電所の跡地だ。

かつて「夢のエネルギー」と謳われ、無限に近い力を約束した場所。だが、今のユウたちの世代にとって、そこは「終わらせ方が分からない遺物」が眠る墓場に過ぎない。近づけば線量計が鳴り、空気が違う色に見えるような錯覚を起こす。誰も近づかない。近づく理由がない。そう思っていた。

「あそこには近づかないで」

ある日の夕暮れ、プラントの屋上で防波堤を眺めていたユウに、ミナが背後から釘を刺した。彼女の口調は、いつになく鋭く、拒絶の響きを含んでいた。

「わかってますよ。あそこは、まだ『終わって』ないんでしょう?」

「ええ。終わってない」

ミナは、遠くに見える巨大なコンクリートの塊――かつての原子炉建屋を睨みつけるように見つめた。潮風が彼女の黒髪を揺らし、彼女はそれを耳の後ろに押し込んだ。

「人類が手に入れて、結局、畳み方も、捨て方もわからなかった力。今もあの中で、目に見えない熱が燻り続けている。……私たちは、あんな重たい未来を背負うわけにはいかないの」

「終わらせ方を知らない力は、呪いと同じだわ」

彼女の吐き出した言葉は、海風にさらわれて消えた。

ユウは、彼女の横顔を盗み見た。

ミナはいつも凛としている。感情を表に出さず、論理的で、仕事が速い。新人のころから「この人は怖いな」と思っていた。だが今は違う。あの封鎖区域を見つめるときの彼女の目には、恐怖ではなく――もっと深い何かが宿っている。

それは、喪失だ。とユウはなんとなく思った。

「ミナさんは……あそこで、誰かを知ってるんですか」

問いかけは、自分でも驚くほど直接的だった。

ミナの肩が、かすかに揺れた。

「……いつかね」

彼女はそれだけ言って、屋上から立ち去った。

いつか。その言葉の中に、ユウはたくさんのものが詰まっているような気がして、追いかけることができなかった。



それから、ユウはミナのことを意識し始めた。

意識すると、今まで見えていなかったものが見えてくる。

たとえば、ミナが毎朝コーヒーを一人で飲む癖。自動販売機の前で、ブラックの缶を手のひらで包んで、熱を確かめるように立ち止まる。その時間は、ほんの十秒ほどだが、一日の中で唯一、彼女が「止まる」瞬間だ。

たとえば、作業中の口癖。難しい計算をするとき、ミナは必ず口の中で数字をつぶやく。声に出すことで思考を整理しているらしく、誰かに聞かせているわけではない。だから、ユウが「聞こえてますよ」と言うと、彼女は露骨に不機嫌な顔をする。その顔が、ユウはちょっと好きだった。

たとえば、晴れた日の昼休み。窓の向こうに広がる青い海を、彼女は五分間だけ眺める。時計を見るでもなく、端末を確認するでもなく、ただただ海を見る。その五分間が終わると、彼女は何もなかったように席に戻る。

ユウがそれに気づいたのは、ある木曜日のことだった。昼食のサンドイッチを持ったまま窓辺に近づいたユウに、ミナは「邪魔」とも「来るな」とも言わなかった。ただ少しだけ体を横にずらして、ユウが隣に立てる空間を作った。

それが、二人で海を見る習慣の始まりだった。

言葉は、ほとんどなかった。

「今日、波が高いですね」

「台風の余波ね」

「あの船、どこに行くんでしょう」

「さあ」

それだけだ。それだけなのに、ユウにとってその五分間は、一日の中で最も充実した時間になっていた。

六月のある雨の日、昼休みに窓の外が見えなかった。ミナはいつもの場所に立ったが、視界はグレーの雨雲に遮られている。ユウは隣に立って、傘をさした人々が行き交う駐車場を眺めた。

「今日は海、見えないですね」

「見えなくても、ある」

ミナはそう言った。

当たり前のことだ。だが、その言い方が、なぜかユウの胸の奥に小さな棘のように刺さった。

見えなくても、ある。

消えたわけじゃない。消えないものは、ある。

ミナが何を思ってその言葉を口にしたのか、ユウにはわからなかった。だが、その言葉は長いあいだ、彼の頭の中をぐるぐると回り続けた。



七月になった。

「はい、ミナさん。今日の分の『燃料』です」

休憩時間、ユウは自動販売機で買ったばかりの缶コーヒーを二つ、ミナの前に差し出した。プラント内の高い気圧と湿度のせいで、缶の表面にはすぐに細かい水滴が宿る。

「……苦いよ? 私がブラック派だって知ってて買ったでしょ」

ミナは、作業用の手袋を外した白い指先で、熱い缶を受け取った。その唇の端が、ほんの少しだけ悪戯っぽく吊り上がる。

「知ってますよ。大人ぶってるミナさんには、これくらいが丁度いいかなって」

「失礼ね。これでも、あなたより二年も長くこの『水の鼓動』を聞いてるんだから」

二人は、プラントの排熱を利用した温室のようなテラスに座り、並んでコーヒーを啜った。かつての労働者たちが煙草の煙を燻らせていた場所は、今では青々とした熱帯植物が育つ憩いの場になっている。

「ユウ、あなたはこの仕事、好き?」

ふとした問いかけ。ミナの視線は、遠くの水平線に沈みゆく夕日に向けられていた。

「好きですよ。……というか、誇りに思ってます。僕たちがここで水から取り出したエネルギーが、誰かの家の冷蔵庫を動かし、子供の勉強机を照らしている。それは、火を燃やして空を汚していた時代にはできなかった、綺麗な循環の一部ですから」

ミナは、コーヒーの最後の一口を飲み干し、空き缶を両手で包み込んだ。

「……そうね。綺麗よね。その綺麗さを、汚さないように守らなきゃね」

並んだ二人の影が、オレンジ色の床に長く伸びる。

ユウは、その隣にあるミナの影に、自分の影をそっと重ねてみた。

彼女の肩に触れたい。その震えを止めてあげたい。

そんな、言葉にするにはあまりに青臭い衝動が、プラントのハミングに混じって胸の奥で波打っていた。

「ミナさんって、もともとどこの出身なんですか」

唐突な質問だった。ユウ自身、なぜそれを聞こうと思ったのかよくわからない。

「内陸」とミナは答えた。「海のない県」

「じゃあ、毎日窓から海を見るの、好きなんですか」

「好きというか……確認してるのかもしれない」

「確認?」

「あそこに水があるって。まだある、って」

ユウはしばらく沈黙した。

「……なんで、なくなると思うんですか」

「なくなるとは思ってないわ」とミナは言った。「ただ、あるものを当たり前だと思いたくないの。当たり前だと思い始めたとき、人は守ることをやめるから」

彼女が何を守りたいのか、ユウにはまだわからなかった。

だが、その言葉の重さだけは、胸の奥にずしりと届いた。



抗いがたい好奇心は、夜に育つ。

ミナが口にした「終わらないもの」の正体を、ユウは自分の目で確かめたかった。

深夜の静寂の中、彼は警備の隙を突き、封鎖区域の境界にある古い管理棟へと忍び込んだ。月明かりに照らされた廃墟は、まるで巨大な白骨死体のようだった。草木は枯れ果て、風が吹くたびに錆びた鉄板が悲鳴を上げる。地面を踏む靴の音が、異様に大きく響いた。

「何をしに来た、若造」

背後からかけられた低い声に、ユウの心臓が跳ね上がった。

振り返ると、そこには一人の老人が立っていた。

深い皺が刻まれた顔、鋭い眼光。汚れひとつない最新の作業服を着るユウとは対照的に、彼は数十年前のものと思われる、煤けた灰色の防護服を纏っていた。体型は痩せてはいるが、背筋だけは鉄の棒を飲んだように真っ直ぐだった。

「……知りたいんです」

ユウは震える声を絞り出した。

「今の僕たちが、何の上に立っているのか。昔のエネルギーが、どうして捨てられたのかを」

老人はしばらく黙ってユウを見つめていた。品定めするような、それでいてどこか懐かしそうな目だった。やがて、深く、重いため息をつく。

「知ることは悪くない。だが、使うな」

老人は、コンクリートの壁に手をついた。その手は、まるで岩石のように無骨で、力強い。

「理解しないままの力は、人を壊す。火も、原子も、そしてお前たちが信じているその『水』とやらもな」

「カガミ、と申します」と老人は名乗った。「かつてここで働いていた」

彼の名はカガミ。かつてこの施設で、最後の日まで制御棒を握り続けていた伝説の技師だった。

「原子炉が止まる日、誰も残りたがらなかった」とカガミは静かに語り始めた。「みな、新しい時代に行った。水素、太陽光、風力。華やかで、綺麗で、未来が明るそうな仕事へ。……だが、誰かが残らなければならなかった。止めた後の熱は、まだそこにある。終わった炉の中で、数百年、数千年かけて冷えていく何かが、まだそこにある」

「だから、あなたは」

「私は残った。それだけのことだ」

老人は空を見上げた。雲一つない夜空に、星が冷たく光っている。

「坊主、覚えておけ。エネルギーとは『力』ではない。『責任』だ。力を手に入れた瞬間、その力が消えるまでの時間も、お前たちのものになる。それを理解しないまま力を握る者は、いつか必ず取り返しのつかないことをする」

ユウは、老人の言葉を全身で受け止めた。

「フレアという集団を知っているか」

カガミが唐突に言った。

「……聞いたことあります。過激派の、何かですよね」

「過激派と片付けるな」老人は、静かだが厳しい声で言った。「彼らにも、理由がある。腹を空かせた子供が泥を食うのを、お前は責められるか?」

ユウは答えられなかった。

「世界が変わるとき、必ずこぼれ落ちる者がいる。その者たちが怒ることを、清潔な側に立つ者は笑うな。……だが」

老人の目が、細く、深くなった。

「怒りは、理由にはなっても、正当化にはならない。それだけは、覚えておけ」

帰り道、ユウはずっと老人の言葉を反芻していた。

怒りは、理由にはなっても、正当化にはならない。

その言葉はまるで、まだ来ていない何かを予告するように、彼の胸の中で静かに燃えていた。



帰り道、街灯の少ない夜道で、ミナが待っていた。

彼女は街路樹の影に寄りかかり、ユウが来るのを予感していたかのように視線を上げた。怒っているわけではない。だが、その声は微かに震え、湿り気を帯びていた。

「どうして行ったの」

「知りたかったんです。カガミという老人に会いました」

ユウが正直に告げると、ミナは絶望したように目を閉じた。長い沈黙。虫の声と、遠くを走る無人バスの低いモーター音だけが、二人の間を流れた。

「私の父もね……あそこにいたの」

彼女の声が、夜の闇に沈んでいく。

「原子力技師だった。事故が起きたわけじゃない。でも、父は毎日、終わりの見えない廃炉作業に通い、目に見えない敵と戦い続けて、最後には心を壊してしまった」

ユウは黙って聞いた。

「父はね、もともと明るい人だったの。冗談ばかり言って、料理が好きで、日曜日には必ず家族で海に行っていた。それがいつからか、休日も作業服のまま窓の外を見るようになって、笑わなくなって……」

「私が高校を卒業する頃には、もう別人みたいだった」

ミナは、自分の肩を抱くように腕を組んだ。

「父は死ぬ間際まで、ずっと言ってたわ。終わらせ方を知らない力は、使うなって。それは未来からの前借りにすぎないんだって」

「だから私は、この水素プラントに入ったの。ここなら、燃やさず、何も残さず、未来を汚さずに済むと思ったから」

「……でも」

彼女の声が、わずかに震えた。

「最近思うのよ。私たちは本当に、終わらせ方を知っているのかしらって」

その夜、二人は明け方まで語り合った。

技術、哲学、そして互いの傷。

ユウは、幼い頃に見た、石油コンビナートの夜景の話をした。子供の目には、それは美しかった。夜空に立ち上る橙色の炎と、無数のパイプが生み出す複雑な影。あれは何だと父に聞くと、「人間がつくったもので一番大きいものだ」と誇らしげに言った。今思えば、あの炎の一つひとつが、地球の未来を少しずつ食い荒らしていたのだと気づく。美しさと罪は、案外近い場所に住んでいる。

ミナは、水素プラントに入ったばかりの頃の話をした。最初の一週間、プラントのハミングが怖くて眠れなかったと。あの音が止まったら、街が死ぬ。そう思うと、頭の中でずっとその音を反芻してしまって。いつか先輩に言ったら「繊細すぎる」と笑われた。だから、それ以来ずっと一人で抱えてきた。

「……ミナさん」

「なに」

「その話、僕に言ってくれてよかった。繊細すぎるなんて思わないから」

ミナは、しばらく黙っていた。

「ありがとう」とだけ、言った。

その声は、ユウがこれまで聞いた中で、最も小さくて、最も柔らかいミナの声だった。



フレアが最初に名前を世に現したのは、その年の初秋のことだった。

彼らは最初、小さなサイバー攻撃から始めた。地方の変電所の制御システムに侵入し、一時的なシステム障害を引き起こす。ほんの数時間の停電。被害は軽微で、当局は「技術的な問題」として発表した。

だが、翌週、また別の都市で。

翌月、今度は三ヵ所同時に。

そして彼らは、初めて「声明」を発した。

拡散されたその映像の中に映っていたのは、顔を隠した一人の男だった。低く、静かで、しかし奇妙なほど説得力のある声。

「私たちは奪われた」

男は言った。

「石油の時代が終わったとき、世界は美しい言葉を並べた。循環、共生、未来。だがその言葉の影で、何十万という人々が職を失い、街が死んだ。誰も補償しなかった。誰も謝罪しなかった。清潔なエネルギーの恩恵を受けているあなたたちの豊かさは、私たちの犠牲の上に積み上げられている」

「だから、私たちは止める。あなたたちの清潔な世界を、一度だけ、暗闇に落とす」

「奪われた者が、奪い返す。それの何が間違いなのか」

ユウは、プラントの休憩室でその映像を見ていた。

隣ではミナが、眉根を寄せながら腕を組んでいる。

「……理解できないわけじゃない」

ミナがぽつりと言った。

「え?」

「石炭で飯を食っていた町が、十年で消えた。水素プラントは都市部にしか建たない。技術を持っている若者はそっちに行く。残ったのは、再就職もできない中高年と、過疎化した地方だけ。……そういう現実が、あるのよ」

「でも、だからって」

「だからって、暴力は許されない。わかってる」ミナは、静かに続けた。「でも、彼らの怒りの種を蒔いたのは、私たちが享受しているこの豊かさかもしれない。それを忘れたくないだけよ」

ユウは、カガミの言葉を思い出した。

――怒りは、理由にはなっても、正当化にはならない。

二人は、しばらく無言で映像の静止画を見つめていた。



フレアのリーダーは、「リョウ」と名乗っていた。

後になってわかることだが、彼の本名は如月涼(きさらぎ・りょう)。かつて、今のユウと同い年くらいの頃、国内最大の石油精製会社に入社した男だった。

涼の父は、製油所の現場技師だった。鉄と油の匂いの中で育った涼は、迷うことなく父と同じ道を選んだ。自分の手で炎を操ること。巨大なエネルギーを制御すること。それを誇りとして生きた。

だが、入社して三年目の秋。会社が突然の「脱炭素移行計画」を発表した。

十年以内に石油精製部門を段階的に廃止する。

社員への説明は一時間のプレゼンテーションだった。「時代の流れ」「社会的責任」「持続可能な未来」。美しい言葉が並んだ。再就職支援プログラムへの案内が配られた。

涼の父は、その説明会の三日後から、会社に来なくなった。

再就職支援の窓口に行くことも、転職活動をすることもなかった。ただ、毎日家の中で、自分が三十年かけて磨いてきた技術書を眺め、煙草を吸い続けた。涼が実家に帰るたびに、父は煙草の煙越しにつぶやいた。

「俺たちの仕事は、悪だったのか」

涼は答えられなかった。

父が死んだのは、廃止計画発表の二年後だった。病名は肺癌だったが、涼には「時代に殺された」ようにしか思えなかった。

その日から、涼は変わった。

最初は仲間と小さな異議申し立てをした。地方議員に陳情書を送り、SNSで声を上げた。だが、誰も聞かなかった。清潔なエネルギーは正義であり、その移行で傷ついた者への目線は、社会には存在しなかった。

「声で届かないなら、体で届かせるしかない」

涼がそう結論づけるまでに、それほど長い時間はかからなかった。

彼は間違っていた。その手段において、明確に。

だが、彼の傷は本物だった。そして、その傷を生んだ社会の無関心もまた、本物だった。



十月。

フレアの攻撃が、明らかに規模を増していた。

標的は都市部の水素プラントに絞られ、ハッキングだけでなく、物理的な妨害工作の報告も出始めた。送電線の切断。排気口への異物投入。無人の警備システムを騙す電波妨害。

第七水素分解プラントにも、当然のように警戒態勢が敷かれた。

「全員、退勤時間を確認するように。夜間の単独行動は原則禁止」

朝礼でそう告げる所長の声を、ユウは真剣に聞いていた。隣のミナは、眼鏡のブリッジを指先で押し上げながら、すでに何かを考えている顔だった。

「ミナさん、どう思います」

「物理的に来るとしたら、北の岸壁側ね」とミナは即答した。「第一外郭のフェンスが古くて、センサーの死角がある。私、前から言ってたんだけど、予算が通らなくて」

「じゃあ、そっちから入られたら」

「最悪の場合、第三タンクまで行かれる。そこを壊されたら……三日は街の電力供給が止まる」

ユウは、その言葉の重さを咀嚼した。

三日間、街の電力が止まる。

信号が消え、病院の非常用電源が稼働し、食料の冷蔵が止まり、通信が混乱する。誰かが死ぬかもしれない。現代のライフラインとは、その程度の脆さの上に建っている。

「ミナさん、怖くないですか」

「怖い」と彼女は言った。「でも、怖いからこそ、ちゃんと考えておく必要がある」

その日の夜、ユウはなかなか眠れなかった。

布団の中で、ミナの声をずっと思い返していた。

怖いからこそ、ちゃんと考えておく。

彼女はずっとそうやって生きてきたのだろう。父を失った喪失の中で、恐怖を飼い慣らすことで、自分を保ってきた。

(その孤独を、もっと早く知っていたら)

と、ユウは思った。

でも、知っても何ができた。何もできなかったかもしれない。それでも、知っていたかった。隣にいたかった。

その衝動の正体を、ユウはもうとっくに知っていた。ただ、言葉にする勇気が、まだなかっただけだ。



十一月の終わり、初冬の雨が降っていた夜。

残業を終えたユウがロッカールームで荷物をまとめていると、ミナが入ってきた。珍しく傘を持っておらず、肩が少し濡れていた。

「ミナさん、傘は?」

「忘れた」

「貸しますよ、僕の」

「いい。すぐ止む」

「止まないと思いますよ、今日は」

「……じゃあ、一緒に入れて」

ユウは一瞬、自分の耳を疑った。

「は、い」

返事が上擦った。ミナは、まるで何も言っていないかのように、「行くよ」と先に歩き出した。

駐輪場まで、二人で一本の傘に入って歩いた。距離にして五十メートル。時間にして、おそらく二分。

それだけのことだった。

だが、ユウは傘の柄を握る手が汗をかいていることに気づいて、自分でも呆れた。肩が触れる。濡れないようにと傘を彼女側に傾けると、自分の右肩だけが雨に当たる。

「……濡れてる」

ミナが気づいて、少しだけ傘を戻した。今度は二人の肩が、均等に乾いた。

「ありがとうございます」

「謝辞はいらない。早く歩いて」

「はい」

駐輪場に着くと、ミナは自分の自転車を引き出した。雨の中を走るつもりなのか、と思ったが、彼女はかごからレインカバーを取り出してサドルにかけ始めた。

ユウはその横に立って、傘を差しかけた。

「……本当にいいから」

「いいんです。別に」

ミナは少し間を置いてから、黙って自転車の整備を続けた。

「ユウ」

「はい」

「あなた、真面目すぎる」

「そうですか」

「……でも、嫌いじゃない」

それだけ言って、彼女は自転車に乗って雨の中に走り出した。

ユウはしばらく、傘を差したまま動けなかった。

嫌いじゃない。

その言葉がぐるぐると頭を回る。何度回しても、なんだかじわじわと、胸の奥が温かくなった。

伝えたかった。今すぐ自転車で追いかけて、「好きです」と言いたかった。

でも、言えなかった。

もし今の感情が、日々の近さが生んだ錯覚だったら。もし、伝えることで今の心地よい関係が壊れてしまったら。

そんな言い訳を並べながら、ユウは雨の中を帰った。

足元に、水たまりがいくつも光っていた。



フレアとの初めての「接触」は、予想外の形でやってきた。

十二月の初旬。ユウがプラント近くのコンビニでコーヒーを買っていると、隣に背の高い男が立った。三十代後半くらい。作業着姿で、目元に疲労の影がある。普通の人間に見えた。

「ここで働いてるの?」

男はそう聞いた。

「……はい」

「どう、楽しい?」

「楽しいというか、やりがいはあります」

男は缶コーヒーを手に取り、ユウと同じように蓋を開けた。

「俺の親父はね、石油の人間だった。この辺の製油所に三十年いた」

ユウは黙って聞いた。

「廃炉になって、再就職支援に行ったけど、五十歳で転職なんて無理だった。ハローワークに通って、半年で心が折れて、今は年金待ちの生活してる。……あなたたちが守ってる『未来』のために、俺の親父の三十年は無駄になったんだよ」

男の声に、怒りはなかった。ただ、静かな、乾いた事実の陳述だった。

「……それは」

「責めてるわけじゃない」と男は言った。「どっちが正しいとか、そういう話がしたいんじゃなくて。ただ、忘れないでほしいんだよ。きれいな未来を作るコストを、誰かが払ってるってことを」

男は、コーヒーを飲み干して立ち去った。

ユウは、その男の後ろ姿をしばらく見送った。

その男がフレアの構成員だったと気づいたのは、翌日のことだった。プラントに届いた警察からの情報提供に、コンビニのカメラ映像が添付されていて、そこに同じ顔があった。

ユウには不思議だった。

彼はなぜ、ユウに声をかけたのだろう。攻撃するつもりなら、話しかける必要はない。彼は、ただ、誰かに聞いてほしかっただけじゃないのか。

その思いを、誰にも言えないまま、ユウは一人で抱えた。



その日は、あまりに平穏な火曜日だった。

ユウがメインコンソールの数値をチェックし、ミナが第四ユニットのバルブを点検していた、その時。

――世界から、音が消えた。

「キーン」という、鼓動のように鳴り続けていた水素分解のハミングが、プツリと断ち切られた。

直後、プラント全体を包んでいた清潔な白い光が、一斉に吐瀉されるように消え去った。

「……え?」

ユウの声が、異常なほどの静寂の中に響く。

非常用の赤い予備灯が数秒遅れて点灯したが、それは広い施設内を照らすにはあまりに弱々しく、周囲を禍々しい深紅に染めるだけだった。

「ユウ……!?」

暗闇の向こうから、ミナの悲鳴に近い声が聞こえた。

ユウは反射的に駆け出した。足元の配線や工具を蹴飛ばしながら、彼女がいるはずのバルブエリアへ。

「ミナさん! どこですか!」

「ここよ……足が、挟まって……っ」

瓦礫が崩れたわけではない。だが、電磁ロック式の安全装置が、停電と同時に誤作動を起こし、ミナの足首を鋼鉄のクランプで固定してしまっていた。

ユウは膝をつき、彼女の冷え切った手を掴んだ。

「大丈夫、今外します。……くそっ、手動開放が動かない!」

「ユウ、落ち着いて。……これ、ただの故障じゃないわ。プラントの外を見て」

ミナに促され、ユウは強化ガラスの窓の外に目をやった。

そこにあったのは、完全な「死の街」だった。

常に輝いていた港湾都市の灯りが、一滴のインクを落としたように闇に飲み込まれている。

「ブラックアウト……全域が」

「ええ。これ、同時多発よ。フレアがやった」

ミナの声は静かだった。恐怖ではなく、最悪の予感が当たったときの、乾いた声だった。

ユウはミナの手を強く握りしめた。

自分の手のひらの熱が、彼女の冷たい肌に伝わるのを感じる。

「大丈夫だ。僕がここにいる。絶対に、離しませんから」

ミナは、小さく、確かに頷いた。

その瞬間、ユウは自覚した。

科学への信頼が崩れ去った暗闇の中で、唯一信じられるのは、この手に伝わる確かな体温だけなのだということを。



手動解錠に三十分かかった。

非常用工具の場所を暗記していたユウが、手探りでレンチを探し出し、ミナの足を固定しているクランプを一つひとつ解除した。暗闇の中で作業するのは、思った以上に難しかった。金属に何度も指をぶつけ、血が滲んだが、気にする余裕はなかった。

「もう少し。あと二本」

「ユウ……」

「喋らないでください。集中できないから」

「そういうこと言える状況で、冷静なんだか冷静じゃないんだか」

「うるさい。こういう時は黙っててください」

缶が外れた。ミナの足が自由になる。

ユウはその場に崩れ落ちるように座り込み、大きく息をついた。

「……ありがとう」

ミナの声。近い。暗闇の中で、彼女がどこにいるかはわかる。声の方向で。

「どうしたんですか、急に」

「感謝を伝えるのに、タイミングも何もないでしょ」

「まあ、そうですけど」

しばらく、二人は暗闇の中で並んで座っていた。外では、遠くサイレンの音が聞こえる。非常用の発電機を持つ病院や避難所が、周囲に光を灯し始めている。

「ユウ」

「はい」

「怖い?」

「正直、怖いです」

「私も」

ミナが、暗闇の中で笑った気がした。

「でも、あなたがいてよかった。一人だったら、もっと怖かった」

ユウには、何百という言葉が浮かんだ。

「好きです」という三文字も、その中にあった。

でも、言えなかった。

極限状態の中の感情を、本当の気持ちだと証明できるか。平常時に言えなかったことを、今言うのは、ずるくないか。

そんな問いが頭を回って、言葉は喉の奥に詰まったままだった。

「……電気が復旧したら、またさっきのコーヒーでも飲みましょう」

代わりに出てきたのは、そんな言葉だった。

「今度は、私が奢るわ。砂糖たっぷりのやつ」

「え、僕に甘いの飲ませたいんですか」

「あなたはもう少し、甘やかされてもいいと思うから」

ミナの、その言葉の意味を問い返す前に、外から怒声が響いた。

フレアが、次の段階に移ったのだ。



停電から三日。世界は再び揺らぎ始めていた。

彼らは街の巨大モニターをジャックし、高らかに宣言した。

顔を晒したのは、初めてだった。

涼は、カメラの前に立ち、静かな声で話した。

「循環社会は嘘だ。あなたたちの清潔な未来は、誰かの廃墟の上に建っている。私たちの父が、私たちの故郷が、その代価を払った。それを誰も認めなかった。誰も見なかった。だから、私たちはここにいる」

「もう一度だけ言う。私たちが求めているのは、復讐ではない。承認だ。私たちが存在したという、その事実を。あなたたちが豊かになった陰で、私たちが消えたという事実を、誰かに認めてほしいだけだ」

「だが、誰も聞かないなら。もう、燃やすしかない」

声明の最後で、涼の後ろに整列した仲間たちが、巨大なエンジンに火を入れた。

轟音と共に、黒い煙が夜空を焦がした。

「……嘘だろ。あんなものを、また使うっていうのか」

ユウは、避難所となった管理棟の窓から、遠くで燃え上がる黒い煙を見つめていた。

「承認だ、と言った。承認のために、これをやっているのか」

ミナの声は、怒りでも憐れみでもなかった。

「彼らは間違ってる。でも、求めているものがわかる分、余計に複雑だわ」

車椅子に座ったミナの手の上に、ユウはそっと自分の手を重ねた。

彼女は、振り払わなかった。



フレアの構成員が、プラントに接触してきたのはその夜だった。

武器は持っていなかった。一人で来た男は、ユウがコンビニで話した、あの男だった。

「会いに来るとは思わなかった」とユウは言った。

「俺も、まさか来るとは思ってなかった」と男は言った。「でも、来ないといけない気がした」

「なんで」

「お前が、ちゃんと聞いてたから」

避難所の隅、非常用の赤いランプの下で、二人は向き合った。ミナが、車椅子のまま少し離れた場所から二人を見守っていた。

男の名は、タケシと言った。涼の幼なじみで、最初はただ「話を聞いてほしくて」集まった仲間の一人だった。

「涼は、最初からこんなつもりじゃなかった。俺もそうだ。ただ、誰も聞かなかった。陳情しても、SNSで叫んでも、誰も振り向かなかった。それが、どれだけ人を追い詰めるかわかるか」

「わかる、とは言えません」とユウは言った。「でも、想像しようとすることはできます」

「……それだけでも、違う」

タケシは、疲れた顔でため息をついた。

「俺はもう、止めたい。こんなことじゃ、何も変わらない。壊しても、誰かの父ちゃんの三十年は戻ってこない。わかってる。でも、涼を止められない。あいつは本気で、世界に見せたいんだ。『俺たちはここにいた』ってことを」

「タケシさん」

「なんだ」

「涼さんに、伝えてほしいことがあります」

ユウは、真剣な目でタケシを見た。

「承認してもらいたいなら、壊すのは逆効果です。壊した側は、憎まれるだけで承認されない。そうじゃなくて、彼らが何を失ったか、どう生きてきたか、それを世界に伝える方法が必要です。……もし、そういう場を作れるなら、僕は協力します」

タケシは、長いこと黙っていた。

「……お前、面白いな」

「よく言われます」

「嘘だろ」

初めて、タケシが苦笑いをした。



だが、対話の時間は残っていなかった。

夜明け前の最も深い闇を切り裂くようにして、それは始まった。

「警報! 第一外郭、突破されました!」

避難所と化していた管理棟に、若手技師の悲鳴が響き渡る。

地を這うような重低音。水素プラントの澄んだハミングとは対極にある、どろりとしたエンジンの咆哮。フレアの連中が持ち出した、旧時代の大型重機と改造車の一団だった。

「ユウ、逃げて……!」

車椅子に座ったミナが、ユウの袖を強く引く。

「嫌だ。ミナさんを置いていくなんて、そんな選択肢、僕にはない!」

ドォォォン!

凄まじい衝撃音が響き、管理棟の強化ガラスが粉々に砕け散った。爆風と共に流れ込んできたのは、忘れていたはずの、鼻を突く「焦げた油」の匂い。

フレアはプラントの心臓部、メインタンクへと黒い炎を放った。

「やめろ……! そこを壊したら、街のライフラインが!」

ユウの叫びは、重機の爆音にかき消された。

崩落が始まった。天井の鉄骨が、歪んだ悲鳴を上げてミナの頭上へと振り下ろされる。

「危ない!」

ユウは反射的に身体を投げ出した。

視界が、真っ白な光と、その後の深い紅に染まった。



「……ユウ……ユウ、起きて」

耳鳴りの中に、遠く、ミナの声が聞こえた。

ユウが目を開けると、そこは瓦礫の山だった。自分の背中に、巨大なコンクリートの破片が圧し掛かっている。だが、幸運にも隙間に守られていた。

「ミナ、さん……?」

必死に首を巡らせる。

その先にいたのは、瓦礫の山に下半身を深く埋もれさせたミナだった。白い作業服は、見る影もなく赤黒く汚れ、彼女の口元からは一筋の血が流れている。

「ミナさん! 今、今すぐ助けますから!」

「……いいの。もう、わかってる。私の……足……感覚が、ないの」

ミナは、力なく微笑んだ。その瞳には、すでに死の影が差していたが、不思議なほど透き通っていた。

「ミナさん、喋らないで。助けが来ます。絶対に来ます」

「来るわね。でも……間に合わないかも」

「間に合います」

「……強情ね」

「ミナさんほどじゃないです」

彼女は、かすかに笑った。

「ユウ……ねえ、聞いてもいい?」

「なんでも」

「あの雨の日、傘に入れてくれたじゃない。……その時、少し、嬉しかった?」

ユウは、瓦礫の中で、涙が出そうになった。

「嬉しかったですよ。めちゃくちゃ嬉しかった。手に汗かきました」

「ふふ……やっぱり」

「知ってたんですか」

「なんとなく」

彼女の指先から、熱が失われていく。プラントに火が回り、酸素が薄くなっていく。

ミナは、震える手で、自分の首にかけていたペンダント型の記録端末を外すと、ユウの手に押し付けた。

「ユウ……好き、でした。あなたの……淹れてくれた……あの苦い、コーヒー……」

「ミナさん」

「あなたと……もっと、たくさん、海を見たかった」

それが、彼女の最期の言葉だった。

世界を愛し、水を愛し、誰よりも「終わらせ方」を恐れていた一人の女性が、終わりのない火の中に消えていった。

ユウは、彼女の冷えた手を、いつまでも握り続けていた。

助けが来ても、手を離さなかった。



フレアの暴動は、軍によって四十八時間以内に鎮圧された。

涼は逮捕された。タケシも。ユウがコンビニで会った男も、みな捕まった。

涼は最後まで、叫び続けたらしい。

「俺たちの声を聞け」と。

だが、誰にも届かなかった。いや、届いたかもしれない。でも、彼らの行為が生んだ破壊と犠牲が、その声をかき消した。

ユウは、ミナの葬儀に出た。

喪服を着た人々が並ぶ中で、彼は一人、ひどくぼんやりとしていた。涙は、もうとっくに枯れていた。

ミナの母親が挨拶に来た時、ユウは頭を下げることしかできなかった。「お世話になりました」と母親は言った。「あの子、あなたのこと、よく話してたの」

「……どんなふうに」

「真面目すぎるけど、嫌いじゃないって」

ユウは、その言葉で初めて泣いた。

葬儀の帰り道、ユウはプラントに向かった。

まだ封鎖中のゲートの前に立ち、半壊した白い外壁を見つめた。プラントは沈黙している。あの「キーン」というハミングが、今はどこにもない。

音がなければ、世界は平和じゃない。

ミナがそう感じていたことを、ユウは今、痛いほど理解した。

「……見つけてみせます」

ユウは、ミナの端末を握りしめて、一人、誓った。

もっと正しい未来を。もっと壊れない方法を。もっと、誰も取り残さない循環を。



一ヵ月後。復興会議の壇上に、ユウは立っていた。

目の前には、かつての利権を復活させようと目論む政治家や、不安に駆られた市民たちが並んでいる。

「皆さんは、あの炎を見て『力』だと感じたかもしれません」

ユウの声は、静かだが会場の隅々まで響いた。

「でも、それは錯覚です。終わらせ方を知らない力は、ただの暴走です。未来からの前借りです」

彼は、ミナが遺したデータ――彼女が密かに研究していた、水素プラントの真の「調和」の記録をモニターに映し出した。

「そして、もう一つ。私たちには、負債がある」

会場が静まり返った。

「エネルギーの転換が生んだ犠牲者たちへの、負債が。彼らの怒りを、私たちは正面から受け取らなかった。彼らが叫んでも、聞こえないふりをした。それが今回の事件の、もう一つの原因です」

「フレアの行為を、擁護するつもりはありません。彼らは間違っていた。しかし、彼らを生んだ社会の無関心は、私たちが作ったものです。だから、エネルギーの問題は、技術だけでは解決できない。必ず、人間の問題と一緒に考えなければならない」

「私たちは、もう戻れません。戻ってはいけない。だが、前に進むためには、置いてきてしまったものを取りに戻ることも、必要なのだと思います」

拍手はなかった。

だが、会場には、プラントに流れる水のような、静かな沈黙が広がった。



それから、ユウは変わった。

変わったのは、目標の話ではない。視点が変わった。

ミナの遺した端末の中には、彼女が最期に書き込もうとしていた未完成の数式があった。それは、エネルギーを「取り出す」のではなく、「同調する」という概念だった。

ユウはプラントの地下、巨大な水槽の前に座り込んだ。

かつては「機械の音」だと思っていたものが、今は違う響きを持って聞こえてくる。

風が建物をなでる音。潮が満ち、コンクリートの壁を叩く一定の周期。地殻の奥底で、巨大なプレートが軋み合う超低周波。

すべては、振動だった。

「エネルギーを作るのではない……」

ユウは、ミナの端末に記された断片的な計算式を、脳内で反芻する。

「私たちは、すでにエネルギーの海の中に浸かっているんだ」

火を燃やすことは、その海に石を投げ込んで波紋を無理やり作ることだった。水素を取り出すことは、海からバケツ一杯の水を汲み出すことだった。だが、海そのものが持っている「うねり」を、そのまま受け取ることができたなら?

ユウは、自作の小さなデバイスを手に取った。

それは、特定の周波数に同調して微かに震える、水晶の核を用いた受信機だった。

世界は、一瞬たりとも静止していない。

そのことに気づいた瞬間、ユウは初めて、ミナが「見えなくても、ある」と言った意味を理解した。



「重なると、増幅する」

ユウは、デバイスの調整ダイヤルを極限まで細かく回していく。プラント内を流れる海水の振動と、大気を伝わる風の唸り。それらが、ある一点でピタリと重なった瞬間。

シィィィィン……。

耳鳴りのような、澄んだ音が響いた。

デバイスに埋め込まれた小さなLEDが、これまでに見たこともないような、純白で、かつ体温を感じさせるほど柔らかな光を放ち始めた。

「これだ……」

外部から燃料を供給されたわけではない。太陽光を受けているわけでもない。ただ、そこにある「世界の揺れ」とデバイスが共鳴しただけで、莫大なエネルギーが溢れ出している。

それは、奪うことも、燃やすことも、分けることすら必要のない力。世界がそこにある限り、永遠に供給され続ける「祈り」のような光。

ユウの脳裏に、ミナの笑顔が浮かんだ。

『ねえ、ユウ。この音、どう思う?』

あの時、彼女が感じていた恐怖の正体は、「断絶」だったのだ。人間が自然から切り離され、力として抽出しようとするから、歪みが生まれる。だが、世界と「つながる」ことができれば、もう何も恐れる必要はない。

涼が求めていた「承認」もまた、つながることだった。

壊すことでしか届けられなかった声を、つながることで届けられたなら、全ては違っていたかもしれない。

技術も、人間も、つながることで初めて、正しく循環する。



ユウはその技術を、「ルーメン・リンク(光の絆)」と名付けた。

それは装置というより、一種の「楽器」に近い。地球が奏でるオーケストラに、人類がそっと音色を合わせるためのインターフェース。

「カガミさん、見てください」

ユウは、封鎖区域の片隅で、今も廃炉作業を見守る老人のもとを訪れた。

差し出されたルーメン・リンクの柔らかな光を見て、老人は長い沈黙のあと、震える手でその光に触れた。

「……温かいな」

老人の目から、一筋の涙がこぼれた。

「火のような熱さではない。だが、生きているものの体温だ。坊主……お前たちは、ようやく『終わらせ方』を気にしなくていい場所に辿り着いたのかもしれんな」

カガミは、かつての巨大な原子炉建屋を見上げた。

「これでもう、誰もあの中で、終わらない熱に焼かれなくて済むのだな」

「……カガミさん」

ユウは、老人の隣に立った。

「涼さんたちのことも、いつか、ちゃんと記録に残したいと思っています。彼らが何を失って、何を求めていたかを。技術の歴史の中に、彼らの怒りも入れないと、また同じことが起きる気がして」

カガミは、ユウを見た。

長い長い沈黙。

「……お前は、やはりいい技師になるな」

その言葉が、ユウには、ミナの代わりに言ってもらえた言葉のように聞こえた。



一年の月日が流れた。

復興したプラントの広場で、一人の少年が、ユウを見上げて尋ねた。

「ユウ先生。その次は、どうなるの?」

ユウは今、この場所で次世代の技師を育てる講師となっていた。

「その次?」

「うん。水から水素を作るのも、電気がいるんでしょ? その電気も、風や光から作ってる。戻せるエネルギーって言っても、もし風が止まって、太陽も隠れたら、僕たちはどうすればいいの?」

ユウは答えなかった。

いや、答えられなかった、というより――答えを急がなかった。

この問いは、急いで答えるべきものじゃない。

「いい質問だね」とユウは言った。「その問いを、ずっと持ち続けてほしい。答えを出した瞬間に、思考は止まるから」

「でも、答えを出さないと、怖くない?」

「怖いよ」とユウは言った。「でも、怖いからこそ、ちゃんと考えておく必要がある」

それは、ミナの言葉だった。

少年は、少し考えてから「うん」と頷いた。

その目に、かつての自分と同じ光が宿っているのを見て、ユウの胸に温かいものが広がった。



新エネルギー「ルーメン・リンク」の全容が公開される日。

ユウは、かつてフレアに破壊され、美しく再建された中央ホールの壇上に立っていた。客席には、かつての水素プラントの仲間たち、そして未来を担う子供たちが詰めかけている。

会場の一角には、タケシの姿もあった。

執行猶予付きの判決を受けた彼は、今、地方の再雇用支援センターで働いている。石油産業から零れ落ちた人々の、再就職を手伝う仕事だ。涼とは、まだ面会できていないと、先日ユウに打ち明けた。

「私たちは、これまでエネルギーを『作る』ものだと考えてきました」

ユウは、胸元のポケットに忍ばせた、ミナのドッグタグにそっと触れた。

「ですが、ルーメン・リンクは違います。私たちは、世界を作るのではない。世界と『つながる』のです。この星が奏でる鼓動に、私たちの歩幅を合わせる。それだけで、未来を照らす光は十分に得られるのです」

「そして、この技術が示すもう一つのことがあります」

ユウは、客席のタケシを見た。タケシは、静かに目を合わせた。

「つながりは、強さと弱さを選ばない。燃やす側も、循環する側も、同じ海の中にいる。誰かを切り捨てて成立する未来は、本物の未来じゃない。私は、そう信じています」

彼がスイッチを入れると、ホール全体が、柔らかな乳白色の光に包まれた。

それは眩しすぎず、かといって暗くもない。まるで、愛する誰かと手を繋いでいる時のような、絶対的な安心感を与える光だった。

「これは、僕が愛した人が信じていた、正しい未来への第一歩です」

万雷の拍手が鳴り響く中、ユウは空を見上げた。

天井のガラス越しに見える青空の向こうで、ミナが「よく頑張ったね」と笑っているような気がした。



潮風が吹き抜ける。

透明な水が、音を立てて流れる。

柔らかな光が、地上を余すことなく照らす。

ユウは一人、海に面したあのプラントの屋上に立っていた。

かつてミナと一緒に、五分間だけ海を見た場所。コーヒーを飲んだ場所。二人の影が一つに重なりかけた、あの場所。

「見つけたよ、ミナさん」

手元のルーメン・リンクが、トク、トクと心臓のように脈動している。それは、もはや彼女の鼓動そのものであるかのように、ユウの掌に馴染んでいた。

火から電気へ。電気から水素へ。そして、水素からルーメン・リンクへ。

人類の歴史は、エネルギーの変遷そのものだ。

けれど、一番大切なものは、どれだけ時代が変わっても、変換されることはない。

誰かを守りたいと思う心。正しい未来を選ぼうとする意志。そして、決して消えない「約束」。

「君が好きだった未来を、僕は選び続ける」

ユウは、ポケットから取り出した冷たい缶コーヒーを開けた。

一口飲むと、あの時と同じように、ひどく苦かった。

けれど、その苦さこそが、彼がこの世界で生き、彼女と出会ったという、確かな証拠だった。

風が、ユウの髪を揺らして吹き抜けていく。

ルーメン・リンクの光を纏った街並みが、宝石を散りばめたように、どこまでも美しく輝いていた。

ミナはもういない。

だが、海は、今日もそこにある。

見えなくても。見えていても。

変わらず、ある。

それだけで十分だと、ユウはゆっくりと思えるようになってきた。

(完)


ーあとがきー
エネルギーとは選択です。
それは、どのような社会で生きたいかという、私たちの意志の表明に他なりません。
かつての「火」の時代、私たちは強さを求めました。今の「水」の時代、私たちは調和を求め始めています。そしていつか、私たちは「つながり」そのものに価値を見出す時代を迎えるでしょう。
だが、変化には必ず取り残される者がいる。豊かさには必ず影がある。その影を見ないふりをした豊かさは、いつか足元を崩す。
それは、技術の話でもあり、人間の話でもある。

恋もまた、選択です。
誰を愛し、その人のために何を残したいと願うか。強さではなく、正しさを選ぶこと。その小さく、苦い積み重ねの先にしか、本当の光は存在しません。
この物語を、未来を選ぶすべての人へ。
そして、言えなかった言葉を、まだ胸に持っている人へ。
言える日が来ることを、願っています。

今日は
暖かくなりそうだからと
早朝から
カミさんに連れ出された
大きな公園

目的は
もちろん花見で
わずかに葉桜も見え出したけれど
まあ
ギリギリってくらいの
満開の桜



人々は
ブルーシートで場所取りをし
持ち込んだ酒と
沢山のツマミとで

これからの時間
仲間たちと微笑んで
宴たけなわ! 
ってことになるのだろう



僕は
昨晩のクシャミで
せっかく戻った腹の痛みが
わずかにぶり返してしまい

まるで老人のように
てくてくと
カミさんの後を付いて歩いてみる

多く並んだテキヤさんたちは
威勢良く
いらっしゃい! と微笑みながら
美味そうな匂いを流し始めた

公園をぶらりすれば
その隣りには
大きな神社があり

ではと
今の悩みを頼んでみる



不思議かな
長いこと大吉ばかりだった
おみくじを引けば

あらま!
見たことのない
吉凶末分 なんてものが出て

なるほど
ここから再スタートかと
背筋を伸ばし 一礼をした

公園と
その近辺を
半日ほどぶらりすれば

やはり
病み上がりの身体は
体力が落ちていて

昨晩
そろそろ山登りしよう!
なんて連絡があった仲間たちに

もう大丈夫
いつでもオッケー! なんて
返事をしたことを
後悔などして…

明日からまた
ちょいと多めに歩き回らねば
このブランクは
とても戻らないようだ


帰宅後
吉凶末分 って何だ? なんて
調べてみれば


これから

あなた次第ってことらしい


頑張らねば…




Kindle 予定


また日本人に生まれたい
〜 転生江戸奇譚 〜

桜が散っていた。
病室の窓から、春の光が薄く差し込んでいた。カーテンの隙間から見えるのは、廊下の向こう、中庭の老木だった。白い花びらが風に乗って舞い上がり、また静かに落ちていく。田中喜一郎は、その光景をぼんやりと眺めながら、もう長くないな、と思った。

八十三歳。自分でも、よく生きたと思う。戦後の混乱期に生まれ、高度経済成長の波に乗り、バブルを経験し、失われた三十年を老いながら眺め、そしてコロナ禍を生き延びた。時代の荒波をくぐってきた一人の日本人の生涯が、今まさに幕を引こうとしていた。

息子の義雄が、椅子に座って静かに目を閉じている。疲れているのだろう。三日間、付きっきりで看ていてくれた。五十四歳になった息子の横顔には、亡き妻の面影がある。喜一郎はその顔を見るたびに、妻のフミ子を思い出した。

フミ子は三年前に逝った。二人で暮らした五十二年間の記憶が、今は宝石のように光っている。喜一郎は目を細めた。よかった。本当によかった。日本に生まれて、この人と出会えて、この家族を持てて、よかった。

呼吸が、少しずつ浅くなっていく。
桜の花びらが一枚、窓ガラスに触れて、また離れた。
田中喜一郎の意識は、やがて光の中へと溶けていった。

それが、始まりだった。



喜一郎が最初に覚えている記憶は、母親の背中だった。

昭和二十五年、東京の下町。まだ戦争の傷跡があちこちに残っていた頃のことだ。防空壕の跡地に建てられたバラックの窓から、隅田川が光っているのが見えた。母は毎朝、ボロボロになった割烹着を身につけ、近くの工場に弁当を届けに行った。その背中が、子供心に大きく、温かく見えた。

父は大工だった。口数は少ないが、仕事ぶりは丁寧だった。家を建てるのは、人の暮らしを作ることだと言い続けた人だった。喜一郎はその父の仕事を横で見ながら育ち、やがて大工の道を継ごうとしたが、時代の流れで建設会社へ就職した。現場監督として、東京の街が再建されていくのを間近で見守った。

昭和三十年代、街は急速に変わっていった。木造の長屋が姿を消し、コンクリートのビルが建ち並んだ。三種の神器と呼ばれた家電が家の中に入ってきた。白黒テレビの前に家族が集まり、東京オリンピックの開会式を息を呑んで見た。あの時の興奮は、今でも胸の底に焼きついている。

フミ子と出会ったのは、昭和四十二年の秋だった。会社の同僚の妹だった。初めて見た時、喜一郎は声も出なかった。小柄で、目が大きく、笑うと目尻に細い皺が寄る。その笑顔に、一瞬で魂を持っていかれた。

三年後に結婚した。仲人は会社の上司が立ってくれた。結婚式は近所の料亭で質素に行ったが、フミ子は白無垢を着て、それはそれは美しかった。花嫁の父が涙をこらえていたのを、喜一郎はずっと覚えている。俺は大切なものを預かったのだ、と、その日から心に刻んだ。

義雄が生まれたのは、昭和四十七年だった。初めて我が子を腕に抱いた時の、あの震えるような感覚は、何にも代えがたかった。こんなにも小さな命が、自分の腕の中に収まっている。この命を守らなければならないという、静かな、しかし揺るぎない決意が、自然と湧き上がってきた。

その三年後には、娘の朋子も生まれた。兄妹げんかをしながら育った二人は、いつしか立派な大人になった。義雄は建設会社で設計士として働き、朋子は学校の教師になった。二人とも、よい伴侶を見つけ、孫を授かってくれた。

孫は六人いた。一番上の孫娘、さくらが生まれた時、喜一郎はもう六十を過ぎていた。しわくちゃの手で孫を抱きながら、また新しい命が来た、と思った。命というのは、こうして続いていくものなのだと、その時初めて腑に落ちた。

フミ子はどの孫にも分け隔てなく愛情を注いだ。運動会には必ず赤飯を炊いて持っていき、誕生日には必ず手作りのケーキを焼いた。孫たちの記憶の中に、おばあちゃんの味が残っているだろうと思うと、喜一郎は今でも胸が温かくなる。

フミ子が倒れたのは、令和三年の春だった。脳梗塞だった。病院で目が覚めた彼女は、最初に喜一郎の名前を呼んだ。その声を聞いた時、喜一郎は廊下に出て、声を殺して泣いた。五十年以上連れ添った妻の声が、こんなにも自分の核心に触れるものだとは知らなかった。

リハビリを経て、フミ子は自宅に戻ってきた。少し言葉が不自由になったが、笑顔は変わらなかった。その年の冬、縁側で二人で日向ぼっこをしながら、フミ子がぽつりと言った。

「喜一郎さん、私、幸せだったよ」

喜一郎は何も言えなかった。ただ、その手を握った。
翌年、フミ子は静かに逝った。眠るように、穏やかな顔で。

フミ子を見送ってから、喜一郎は時々、縁側に座ってぼんやりと空を見るようになった。何を考えているわけでもない。ただ、日本の空を眺めている。

春には桜が咲き、夏には入道雲が湧き、秋には金木犀が香り、冬には富士山が白く輝く。この繰り返しの中に、日本人の心が宿っている気がした。移ろいを愛でる心、散るものへの哀愁、再生への祈り。喜一郎は、自分がそういう土壌の中で育ったことを、改めて有り難いと感じた。

日本語もそうだった。「もったいない」「おかげさま」「わびさび」「やまとごころ」。他の言語に訳しにくいこれらの言葉に、日本人の感性の核心がある。喜一郎は若い頃からそれを意識していたわけではないが、老いてから、これらの言葉の深さを味わえる自分に気づいた。

そして、食だった。朝の味噌汁の匂いほど、人を安心させるものがあるだろうか。炊きたての白いご飯の輝き。旬の野菜の味。職人が丹精込めて作った豆腐の絹のような舌触り。喜一郎にとって、日本の食は単なる栄養ではなく、魂の糧だった。

病床の中で、喜一郎は思った。もしもう一度生まれてくることができるなら、また日本人に生まれたい。この言葉を、また誰かに使える言語で語れる存在に生まれたい。この桜の美しさを、またこの目で見たい。

その思いを最後に抱きながら、田中喜一郎の意識は、深い光の海へと沈んでいった。
最初に感じたのは、温かさだった。

体がない。痛みもない。不安もない。ただ、広大な温かさの中に、「自分」という意識の核だけがある。田中喜一郎は、もはや体ではなかったが、確かに存在していた。

光があった。一方向からではなく、あらゆる方向から、柔らかく、しかし確かな光が満ちていた。まるで薄い絹の布を何枚も重ねたような、そういう光だった。

川が見えた。正確には、川のようなものが見えた。光でできた流れが、どこまでも続いている。その川岸に、喜一郎の意識は静かに降り立っていた。

声がした。声というより、響き、と表現した方が正確かもしれない。言葉ではないが、意味を持つ何かが伝わってきた。

——よく生きた。

喜一郎は答えようとした。言葉は出なかったが、思いは伝わった気がした。ありがとう、と。フミ子に、義雄に、朋子に、孫たちに、父に、母に、自分の人生を彩ったすべての人に。そして、日本という国に。

——また、行くか。

その問いかけに、喜一郎は迷わなかった。行きたい、と思った。また、あの桜を見たい。また、あの味噌汁の匂いの中で目を覚ましたい。また、愛する人の声を聞きたい。また、日本人として、この世界を生きたい。

光の川の向こうに、無数の扉のようなものが見えた。いや、扉ではない。窓、だろうか。あるいは、時代の断面。それぞれの窓の向こうに、異なる時代の日本の風景が広がっていた。

一つの窓の向こうに、見慣れた東京の街並みがあった。令和の日本だ。ビルが立ち並び、電車が走り、スマートフォンを手にした人々が行き交っている。

別の窓には、昭和の下町が見えた。喜一郎が少年時代を過ごした街に似ている。路地に子供たちが溢れ、豆腐売りの声が聞こえる。
そして、もう一つの窓があった。

その窓の向こうには、木と土と水でできた街があった。建物の屋根は瓦で葺かれ、石畳の道を着物姿の人々が歩いている。遠くに山が見え、川が光っている。荷物を担いだ商人、笑いさざめく子供たち、着流しで歩く武士の姿。

江戸だった。

喜一郎の意識は、その窓に引き寄せられた。なぜかはわからない。ただ、その風景の中に、懐かしさとも呼べない感覚が宿っていた。日本の原風景、とでも言うべき何かが、そこにあった。

光の川が揺れた。
意識が、渦を巻くように回転し始めた。
温かさが、すべてを包んだ。
そして、田中喜一郎は消えた。

暗闇があった。

しかしそれは恐ろしい暗闇ではなかった。温かく、湿った、生命の気配に満ちた暗闇だった。何かが聞こえる。くぐもった音。リズム。規則正しい、力強い、鼓動のような音。

意識はある。しかし、体が思うように動かない。時間の感覚もない。ただ、あの光の川を渡ってきたという確かな記憶と、かつて田中喜一郎であったという確かな感覚だけが、この小さな存在の中に宿っていた。

光が見えた。細い、遠い光だった。
声が聞こえた。女の声だった。
何かが始まろうとしていた。

文政三年(一八二〇年)、春。
神田の大工の家に、男の子が生まれた。

産婆の手が自分を受け取り、空気に触れた瞬間、この小さな命は大きく泣いた。泣きながら、光を感じた。朝の光だった。障子越しに差し込む、柔らかくも確かな光。その光の中に、生の喜びが凝縮されているようだった。

「達者な子だ」と、産婆が言った。「元気な産声だ」

母が、震える腕でその子を受け取った。温かかった。人の温もりというのは、時代が変わっても同じなのだと、この小さな意識は何かを思い出すように感じた。

名前は、清太郎と名付けられた。

田中清太郎。かつて田中喜一郎だった魂が、江戸の大工の息子として、新たな命を生き始めた。

清太郎が初めてはっきりと外の世界を認識したのは、生後半年ほどが過ぎた頃だった。母に抱かれて外に出た時、世界の豊かさに圧倒された。

神田の町は、生き物のように騒がしかった。

魚河岸から運ばれてくる魚の匂い。豆腐売りの「とーふー」という長く伸びた声。拍子木を鳴らしながら歩く夜回りの音。大工仕事の槌音。子供たちの笑い声。そして、どこからともなく漂う味噌や醤油の匂い。

この匂い、と清太郎の小さな心が思った。この、日本の匂いだ。

かつての人生で、築地の市場を歩いた時の記憶が、うっすらと蘇った。魚の匂い、海の匂い、人の熱気。二百年の時を隔てながら、人間の生活の根っこにあるものは、驚くほど変わっていない。

川が見えた。神田川だ。水面が光を弾き、小舟が行き交い、川岸では洗濯をする女性たちが笑いながら話している。清太郎は母の腕の中から、その光景をじっと見ていた。

生きている、と思った。また、生きている。

涙が出た。赤ん坊の涙は、母を心配させたが、その涙の本当の意味は、誰にもわからなかった。感謝の涙だった。この世界に、また戻ってこられたことへの、純粋な感謝の涙だった。

清太郎は言葉を覚えるのが早かった。

周囲の大人たちは、賢い子だと褒めた。しかし清太郎本人には、言葉を「覚えている」というより、「思い出している」感覚があった。言葉の響きが、体の奥の何かに触れて、するすると沁みていく。

江戸言葉は歯切れがよかった。「べらんめえ」調の下町言葉、武士の堅い話し言葉、商人の柔らかい敬語。同じ日本語でも、その豊かさに清太郎は驚いた。現代では失われた言い回しや表現が、ここでは当たり前のように生きている。

「清太郎、今日は何を見た?」と、父の弥吉は夕餉の後によく聞いた。

清太郎は一生懸命、自分が見たものを言葉にした。川の光、飛ぶ鳶、荷物を担ぐ棒手振りの姿。父はそれをにこにこしながら聞いた。物を見る目を持て、という父なりの教えだった。

その教えは、清太郎の魂の奥にある記憶と共鳴した。かつての父も、仕事の中で世界を見ていた。大工の父は、木の目を見る目を持っていた。二つの父の姿が重なり、清太郎の胸を温かく満たした。

父の弥吉は、神田で評判の大工だった。

その手は、常に傷だらけだった。鑿の跡、鋸の跡、何年もの仕事が刻み込まれた手。しかしその手が木材に触れる時、不思議な優しさが宿った。木の声を聞くように、ゆっくりと材を撫で、どこに鑿を入れるかを判断する。

清太郎が六歳になった頃、父は初めて仕事場に連れていってくれた。建てかけの商家の現場だった。柱が立ち並び、棟木が渡され、職人たちが互いに声を掛け合いながら働いている。その連帯感に、清太郎は胸が震えた。

「木というのはな」と弥吉は言った。「生きていた時の癖が残っている。南向きに育った木は、南に向けて使ってやる。そうすれば、家が長持ちする」

清太郎はその言葉を、全身で受け取った。かつての人生で、コンクリートとガラスの建物を何棟も建てた経験が蘇る。効率を求め、コストを計算し、工期を管理した。しかし弥吉の言葉には、そういう次元とは別の、もっと根源的な建築の哲学があった。

素材と対話すること。自然の理に従うこと。それが、本当の職人の仕事なのだと、清太郎は深く胸に刻んだ。

母のつやは、料理が上手だった。

朝は必ず、味噌汁と漬物とご飯が出た。江戸の朝は早く、夜が明けるとともにつやは竈に火を入れ、米を洗い、豆腐や油揚げ、季節の野菜を切って味噌汁を作った。その匂いで清太郎は目が覚めた。

ある朝、清太郎は台所で眠そうな目のまま座り、つやが味噌汁を作る様子を眺めた。出汁を取る。煮干しの入ったにべ鉢に、昆布を加えて一晩おいておいたものだ。そこに具を入れ、最後に味噌を溶く。

できあがった味噌汁を一口すすった時、清太郎は言葉を失った。

これだ、と思った。この味だ。何百年経っても変わらない、日本の朝の味。かつての自分が、病床で最後に飲んだ薄い味噌汁の記憶が蘇った。あの時、なぜあれほどその味が染みたのか、今ならわかる。この味は、日本人の魂の味だから。

「清太郎、どうしたんだい?」と、つやが心配そうに聞いた。

清太郎は首を振った。「おいしいよ、かあちゃん。とても、おいしい」
つやは目を細めて笑った。

その笑顔に、亡きフミ子の笑顔が重なった。清太郎は椀を抱え、熱い目頭を押さえた。

七歳になった清太郎は、近所の寺子屋に通い始めた。
師匠は隠居した元武士の老人で、名を筒井半蔵といった。厳格だが公平な人物で、身分に関わらず子供たちを平等に教えた。

読み書きと算盤が主な教科だった。清太郎は文字を覚えるのが早く、半蔵は目を細めて褒めた。しかし清太郎は、褒められること以上に、学ぶこと自体が楽しかった。かつての人生で当たり前に使っていた文字が、ここでは習字の筆先から少しずつ生まれてくる。その過程に、言葉が生き物であることを感じた。

ある日、半蔵が子供たちに問うた。「おまえたちは、何のために学ぶのか?」

子供たちは思い思いの答えを言った。商人の息子は「商売のため」、武家の子は「立身出世のため」。

清太郎の番が来た。清太郎は少し考えてから、答えた。「人を、大切にするためです。学ぶほど、人のことがわかるようになる気がします」

半蔵は驚いたような顔をした。それから、深くうなずいた。「よく言った。そうだ。学問の本分は、人を知ることにある」

清太郎は、その言葉を胸に仕舞った。八十三年の人生で、ようやく辿り着いた答えを、七歳の自分が言葉にできたことが、不思議だった。前世の記憶は、確かに自分の中に生きているのだと、その時、改めて実感した。

清太郎が十二歳の夏、神田祭の年がやってきた。

神田祭は、江戸三大祭りの一つとして名高かった。二年に一度の本祭りには、町中が沸き立った。町内ごとに山車や神輿の準備が始まり、子供たちは普段とは違う大人たちの興奮を感じながら、祭りの日を指折り数えた。

弥吉も、町内の山車の制作に加わっていた。大工として、山車の骨組みを組み立てる仕事だった。清太郎は放課後、父の手伝いに行った。鑿を持たせてもらい、小さな端材を削る練習をした。木の香りが、鼻腔を満たした。

この匂いが好きだ、と清太郎は思った。木の匂い、人の汗の匂い、江戸の夏の匂い。

町内の顔役である甚兵衛が、弥吉に話しかけた。「弥吉さん、今年の山車は一段と立派だな。さすがだ」

弥吉は照れたように頭をかいた。「いやあ、みんなで作ったものですから」

清太郎はその謙遜に、父の品格を見た。自分の仕事を誇ることより、仲間への感謝を先に述べる。かつての自分も、そういう人間でありたいと思いながら、いつも半分しかできなかった。この父から、もう一度学ぼうと思った。
祭りの当日は、快晴だった。

江戸の空は高く、真夏の光が町中に降り注いだ。神田明神の参道には屋台が立ち並び、飴細工売り、金魚売り、香具師の口上、三味線の音が入り混じった。人々は晴れ着に身を包み、老いも若きも笑顔で溢れていた。

清太郎は友人の捨吉と並んで、その光景を眺めた。捨吉は同じ町内の鍛冶屋の息子で、無鉄砲だが義理堅い友だった。

二人で飴細工売りのもとへ走った。職人が手際よく飴を引き伸ばし、見る間に鶴の形を作り上げる。清太郎は、その技を見ながら深く感動した。技術というのは、どんな時代にも美しい。人が技を磨き、それを人に喜ばれる形にする。この行為に、人間の尊さが宿っている。
夕暮れ時、神輿が担ぎ出された。

「わっしょい、わっしょい」の掛け声が、夕空に響き渡った。揃いの半纏を着た担ぎ手たちが、神輿を高く持ち上げ、路地を進んでいく。沿道の人々が手を叩き、声援を送る。

清太郎は、その光景を見ながら、気づいたら泣いていた。

なぜ泣いているのか、自分でもよくわからなかった。ただ、この光景の中に、日本というものの本質が宿っている気がした。共に神を迎え、共に喜び、共に生きる。個人が集団の中に溶け込み、しかし誰もが輝いている。このあり方が、日本の祭りだ。

捨吉が気づいて、肩を叩いた。「どうしたんだ、清太郎」

「なんでもない」と清太郎は首を振った。「祭りって、いいな、と思って」

捨吉はきょとんとした顔をしてから、笑った。「そうだな。いいな」

二人は並んで、神輿が夕闇の中に消えていくのを見送った。

祭りが終わり、人々が家路についた後、清太郎は一人で神田川のほとりに座った。

川面に星が映っている。江戸の夜は暗く、星がよく見えた。かつての東京では、光に満ちた夜空に星はほとんど見えなかった。しかしここでは、天の川が川のように横たわり、無数の星が手の届きそうなところで瞬いている。

また生まれた
この空の下に
星は変わらず
川は流れ
人は生きる

それでよい
それで、よい

清太郎は、水面に映る星を眺めながら、静かに誓った。この命を、丁寧に生きよう。日本人として、この時代を、精一杯に生きよう。かつての人生で学んだことを、心の奥に持ちながら、しかし今ここにある命として、完全に生きよう。
川が、静かに流れていた。

十五歳になった清太郎は、時々、不思議な夢を見た。

夢の中では、見知らぬ世界が広がっていた。石畳ではなく、黒く硬い道が延びている。空を大きな鳥のような乗り物が飛んでいる。人々は不思議な箱を手に持ち、誰かと話している。建物は空まで届くほど高く、夜でも昼のように明るい。

その世界に、自分がいた。老いた自分が、窓から桜を眺めている。

目が覚めると、清太郎は夢の余韻の中にしばらく浸った。あれは何だろう、と思う。しかし、不思議と恐怖は感じない。懐かしさに近い何かがあった。あれは自分の記憶なのか、それとも見たこともない未来なのか、清太郎には判断できなかった。

この不思議な夢について、清太郎は誰にも話さなかった。話したところで、信じてもらえないとわかっていたから。そしてまた、この秘密を胸に持つことで、自分の中に不思議な力が宿っている気がしたから。

十六歳の秋、清太郎は寺子屋の師匠、半蔵を訪ねた。すでに師匠の教えを卒えていたが、時々こうして話を聞きに来ていた。

半蔵は縁側に座り、秋の庭を眺めていた。柿の実が赤く染まり、菊が白く咲いている。

「師匠、人は死んだらどうなるのでしょう」と清太郎は聞いた。

半蔵は、しばらく柿の実を見ていた。「仏の教えでは、輪廻転生という。魂は死んで、また別の体に生まれ変わる」

「その時、前の生の記憶は?」

「消えると言われている。しかし……」半蔵は少し間を置いた。「完全には消えないのかもしれない。魂の奥の奥に、何かが残る。それが、人それぞれの天性というものかもしれない」

清太郎は、その言葉を静かに受け取った。 


「師匠は、前の生があると思いますか」
半蔵は清太郎を見た。老いた目が、何かを見透かすように細くなった。「おまえは……何か、思うことがあるのか?」

清太郎は少し迷ってから、うなずいた。「夢を見るのです。見知らぬ場所の夢を。しかし懐かしい夢を」

半蔵は長い沈黙の後、言った。「それは……大切にしなさい。人の魂には、一つの生では学びきれないことがある。だから何度も生まれ変わる。おまえの夢は、過去の自分からの贈り物かもしれない」

清太郎は深々と頭を下げた。「ありがとうございます、師匠」

半蔵は微笑んだ。秋の光が、二人の間に静かに差していた。

その年の冬、弥吉が現場で怪我をした。足場から落ちて、腰を打った。幸い骨は折れなかったが、しばらく仕事ができなくなった。

清太郎は弥吉の代わりに、町内の小さな修繕仕事を引き受けた。屋根の板の交換、雨戸の建て付け直し、塀の修理。まだ見習いの腕だったが、弥吉から習ったことを一つ一つ思い出しながら、丁寧にこなした。

回復した弥吉は、清太郎の仕事を見て、黙ってうなずいた。その一言のない承認が、清太郎には何より嬉しかった。

「父ちゃん」と清太郎は言った。「俺、大工になる。父ちゃんみたいな大工に」

弥吉は少し驚いた顔をした。それから、目を細めた。「そうか。それなら、もっといい師匠につけてやる。俺よりうまい大工を知っている」

「父ちゃんで十分だ」

弥吉は首を振った。「職人は、師匠を超えなければならない。俺を超えろ。そのためには、もっと良い師から学べ」

清太郎は、この父の言葉の深さに打たれた。自分への執着より、息子の成長を望む。かつての父も、そういう人だった。時代は変わっても、よい父の在り方は変わらない。

その夜、清太郎は布団の中で、かつての父のことを思った。大工だった父。仕事は口数少なく、しかし確かだった父。二人の父の記憶が重なり、清太郎の胸の中で温かく光った。

清太郎が二十歳になった春、弥吉の紹介で、武蔵野の庄屋の家の普請に関わることになった。

神田から一日かけて歩くと、武蔵野の原野が広がっていた。江戸の喧騒とは別世界の静けさがそこにあった。萌黄色の草原に、散り始めの桜が重なり、遠くに山の連なりが霞んでいる。清太郎はその景色に足を止め、しばらく動けなかった。

日本の原風景とはこれだ、と思った。かつての人生で旅行した山梨や長野の山里に、この景色は似ていた。しかしここには、人の手による整備もなく、電線もなく、ただ自然と人間の暮らしが静かに溶け合っている。

庄屋の田辺屋敷は、大きな茅葺き屋根の家だった。母屋の普請と離れの新築が仕事だった。清太郎は師匠の長兵衛親方の下で、一心に働いた。

その仕事の初日の夕方、庄屋の娘と目が合った。
田辺庄屋の一人娘、芳は、十八歳だった。

背は低く、色白で、目がくりっとしていた。仕事場に水を運んできた時、清太郎と目が合い、少し頬を染めてうつむいた。その仕草が、清太郎の胸の何かに触れた。

フミ子だ、と思ってしまった。

もちろん、フミ子ではない。しかし、あの初めて会った時の感覚に似ていた。見知らぬはずなのに、懐かしい。初めて会ったはずなのに、ずっと知っていたような気がする。

仕事が続く中で、清太郎と芳は少しずつ言葉を交わすようになった。芳は賢く、読み書きができ、庄屋の娘らしい落ち着きがあった。しかし時々、子供のように笑う。その笑顔に、清太郎は胸を打たれた。

普請が終わる頃、清太郎は長兵衛親方に打ち明けた。「お芳さんのことが、忘れられません」

長兵衛は驚きもせずに言った。「そうか。庄屋の娘だぞ。大工の若造では釣り合いが取れないかもしれないが……わしから田辺のご主人に話してみよう」

清太郎は頭を下げた。親方の厚意が身に染みた。
縁談は、意外にも早くまとまった。

田辺庄屋は、清太郎の仕事ぶりを見ていた。丁寧で、誠実で、仲間への気配りも忘れない若者だと評価していた。大工の腕は確かで、将来性がある。娘の縁談として悪くないと判断したのだった。

結婚の前夜、清太郎と芳は庄屋の庭で少しの間、二人になった。秋の月が明るかった。

「清太郎さん」と芳が言った。「私のことを、大切にしてくれますか?」

清太郎は、その問いの重さを感じた。かつての自分が、フミ子に問われた言葉に似ていた。あの時も、この言葉に答えられたか。答えられたと思う。五十二年間、共に生きた。

「必ず」と清太郎は言った。「命をかけて、大切にします」

芳は静かに微笑んだ。月明かりの中で、その顔が光って見えた。

清太郎は思った。また、出会えた。形は違っても、この縁は続いていたのだ。魂というのは、何度でも、大切な人と出会うように導かれるのかもしれない。

それが、日本人の言う「縁」というものの本質なのだと、清太郎はこの夜、初めて腑に落ちた。

結婚した清太郎と芳は、神田に家を構えた。

清太郎は独立して、小さな大工の仕事場を持った。最初は苦労の連続だった。仕事はなかなか取れず、お金の工面に苦しむこともあった。しかし芳は一言の不満も言わず、清太郎の帰りを温かい食事で迎えた。

二年後、長男の庄吉が生まれた。続いて、娘の花、次男の平三が生まれた。三人の子供たちで、小さな家はにぎやかになった。

子供たちの顔を見るたびに、清太郎は義雄と朋子を思い出した。しかし今の子供たちへの愛は、記憶の中の子供たちへの愛とは別の、生き生きとした現在のものだった。清太郎は、この違いに気づいて苦笑した。過去を懐かしむことと、今を生きることは、両立できる。それが、二度目の人生で学んでいることだった。

清太郎が三十代の半ばを過ぎた頃、天保の大飢饉が江戸を襲った。

凶作が続き、米の値が跳ね上がった。町には貧しい人々が溢れ、物乞いが路上に倒れ、盗みや喧嘩が増えた。神田の町でも、日々の食事に困る家が出てきた。

清太郎は、自分たちに余裕がない中でも、近所の困った人々に食料を分けた。芳は何も言わずに、清太郎の判断に従った。そしてまた、自分でも工夫して、少ない食材から家族と近所の子供たちの分の食事を作り出した。

ある夜、芳が言った。「清太郎さん、苦しい時でも、あなたは人のことを考えている。そういう人に嫁いで、よかった」

清太郎は首を振った。「俺だけじゃない。お前もだ。お前が文句も言わず支えてくれるから、俺は動けるんだ」

芳は照れたように笑った。

この夜の会話を、清太郎は長く覚えていた。苦しい時こそ、人の本質が出る。そして、苦しい時を共に支え合えた時、夫婦の絆は深まる。それは二百年後の世界でも、この時代でも、変わらない真実だった。

飢饉が明け、清太郎の仕事は少しずつ軌道に乗り始めた。

弥吉から継ぎ、長兵衛親方から学んだ技を磨きながら、清太郎は江戸の大工として確かな評判を築いていった。手がける仕事は小さなものが多かったが、一つ一つを丁寧に仕上げた。どんな小さな修繕も、手を抜かなかった。

清太郎の仕事には、一つの特徴があった。施主の話をよく聞くことだ。何が不便で、どんな暮らしをしたいか。その要望を丁寧に聞いた上で、最善の方法を考える。この姿勢は、かつての現場監督としての経験が染み込んでいたかもしれない。施主の声を聞くことが、良い建物を作る第一歩だという確信。

「清太郎親方は、話を聞いてくれる」という評判が広がり、仕事は絶えなかった。

大工の仕事とは、人の生活の土台を作ることだ。人が生まれ、育ち、老い、死んでいく場所を作る仕事だ。これほど人に近い仕事はない。清太郎は、この仕事に誇りを持って生きた。

子供たちが成長した。庄吉は大工の道を継いだ。花は近くの商人に嫁いだ。平三は学問の道に進み、寺の弟子になった。

孫が生まれ始めた。最初の孫は庄吉の子で、男の子だった。清太郎は孫を抱きながら、またこの感覚だ、と思った。小さな命を、両腕に抱く感覚。これは何度経験しても、初めての感動だった。

あの病室の桜を思い出した。そして、この孫の将来に桜が咲くことを思った。命は続いていく。花が散り、根が深まり、また花が咲く。日本は桜の国だ。散ることで美しく、また咲くことで生きる。その繰り返しの中に、日本人の魂がある。

清太郎は孫に言った。「日本人に生まれたことを、大事にしなさい。それだけで、もう十分幸せなんだから」

孫は何も分からず、ただ清太郎の顔を見てにこっと笑った。

その笑顔が、清太郎の胸を満たした。

清太郎が六十を過ぎた頃、芳が病に倒れた。

夏の暑い盛りだった。熱が出て、咳が続き、みるみる体が細くなっていった。当時の医術では限界があり、清太郎は為す術なく、ただ芳の手を握り続けた。

芳は最後まで、清太郎の心配をしていた。食事を摂っているか、仕事を無理しすぎていないか。清太郎は何度も「大丈夫だ」と答えながら、声が震えそうになるのを必死でこらえた。

芳が逝った秋の朝、縁側に金木犀が香っていた。

清太郎は、その香りの中で泣いた。かつての人生でフミ子を見送った時と同じ、喪失の痛みが、胸の核心を貫いた。人を愛することは、いつかこの痛みを引き受けることだ。しかし、それでも愛することを選ぶ。それが人間というものだ。

金木犀の香りが、長く漂っていた。

芳を見送った後、清太郎は少しずつ仕事を庄吉に譲った。

隠居した清太郎は、近所の子供たちに大工の基礎を教えるようになった。木の扱い方、道具の使い方、それ以上に、仕事への向き合い方。道具は大切に使え。人の暮らしを作る仕事に、粗雑な心では向き合えない。そういうことを、時間をかけて伝えた。

かつての寺子屋の師匠、半蔵の姿が重なった。半蔵も、こんな気持ちで子供たちに向き合っていたのかもしれない。知識を伝えることより、生き方を伝えること。それが本当の教えというものだと、老いてからようやくわかった。

孫たちが大きくなった。それぞれに個性があり、それぞれの道を歩み始めた。清太郎は孫の一人一人と話すことを楽しんだ。老人と子供は、不思議なほど気が合う。どちらも、余計なものが剥ぎ取られた存在だからかもしれない。

七十五歳になった清太郎は、春の日に神田川のほとりに座っていた。

若い頃と同じ場所だった。川の流れは変わらない。水面の光の揺れも変わらない。しかし、川岸の家並みは変わり、行き交う人の顔も変わった。変わらないものと変わるものが、川のほとりに共存している。

清太郎は、二つの人生を静かに眺めた。

田中喜一郎として生きた八十三年。日本が焼け野原から復興し、豊かになり、また曲がり角に差し掛かるのを見た人生。そして今、田中清太郎として生きている七十五年。江戸の町に生まれ、職人として生き、妻を愛し、子を育てた人生。

二つの人生で、同じものがあった。桜の美しさ。食の豊かさ。家族の温もり。職人の誇り。人と人の縁。そして、日本という土壌への感謝。

これが、日本人というものなのだと、清太郎は思った。時代が変わっても、本質は変わらない。日本人の魂というのは、川と同じで、形を変えながらも流れ続ける何かだ。

川面に、桜の花びらが一枚、流れてきた。
もう春だ、と清太郎は思った。また桜が咲いた。

文政から数えて六十余年。元号は幾たびか変わり、清太郎の最後の春は、嘉永の頃だった。

七十八歳の清太郎は、縁側に座り、庭の桜を見ていた。

庄吉が心配そうに茶を持ってきた。孫たちが庭で遊んでいる。その笑い声が、風に乗って聞こえてくる。清太郎は目を細めた。この賑やかさが、心地よかった。

体は弱っていた。昨年の冬から、起き上がるのに時間がかかるようになった。飯も少ししか食えなくなった。しかし、心は穏やかだった。あるべきことが、あるべき時に来ようとしている。清太郎には、その予感があった。

庄吉が隣に座った。「父上、気分はいかがですか?」

「よい」と清太郎は答えた。「とてもよい」

それは嘘ではなかった。体は弱くても、心は本当に穏やかだった。やるべきことはやった。伝えるべきことは伝えた。愛するべき人を愛した。

桜が一枚、風に舞った。

その夜、清太郎は庄吉と花と平三を枕元に呼んだ。三人の子供が揃うのは久しぶりだった。

「おまえたちに、礼を言いたい」と清太郎は言った。「よい子に育ってくれた。それだけで、父は十分だ」

庄吉は目を赤くした。花は静かに手を握った。平三は合掌した。

清太郎は続けた。「日本に生まれたことを、誇りに思え。この国には、大切なものがある。見えにくいが、確かにある。山の形も、川の流れも、食の味も、人と人の縁も。それを大切にして生きなさい」

三人は黙ってうなずいた。

「お芳に、会いたいな」と清太郎はつぶやいた。「もうすぐ会えるだろう。そしてまた……また、どこかで生まれてくるかもしれない」

平三が驚いたように見た。「父上、それは……」

「冗談ではない」と清太郎は穏やかに言った。「魂というのは、続くものだ。俺は、そう思っている。また日本に生まれてきたい。またこの桜を見たい。またこの飯を食いたい。そう思っている」

その言葉に、三人はしばらく黙っていた。

やがて庄吉が言った。「では父上、またいつか、どこかで会いましょう」
清太郎は微笑んだ。「そうだな。また、会おう」

夜明け前、清太郎は静かに目を閉じた。

意識が遠くなる中で、二つの人生の記憶が走馬灯のように流れた。母の背中、父の手、フミ子の笑顔、義雄の横顔、孫たちの声。そして、弥吉の槌音、つやの味噌汁、半蔵の教え、芳の笑顔、庄吉の仕事ぶり、花の歌声、平三の読経。

二つの人生が、一つの光になっていく。
温かかった。

光の川が見えた。またあの場所に来た。川岸に立ち、清太郎は川面を見た。星が映っている。無数の星が。その一つ一つに、無数の命が宿っているような気がした。

——よく生きた。

また、あの響きが聞こえた。清太郎は答えた。ありがとう、と。二つの人生で出会ったすべての人に。日本というこの国に。この空に。この川に。この桜に。

——また、行くか。

清太郎は迷わなかった。

行きたい。また、日本に生まれたい。また桜を見たい。また味噌汁の匂いで目を覚ましたい。また、愛する人の声を聞きたい。また、誰かの役に立ちたい。また、日本人として、この美しい国を、精一杯に生きたい。

光の川が揺れた。
清太郎の意識は、また渦を巻くように回転し始めた。

温かさが、すべてを包んだ。

── 了 ──





今回の人生で
幸せだったのは

やはり
日本人に生まれたこと

健康であったこと
家族を持てたこと

それに尽きるわけで

どこかで、また
桜が咲いている

川が流れている

誰かが
味噌汁の匂いで
目を覚ます

それが
日本というもの

何度生まれ変わっても
また、ここへ帰ってくる

また、会おう

不思議かな
手術により
腹の痛みが出ると
足の痛みが氣にならなくなった

それとは逆に
腹の痛みが落ち着くと
足の痛みが顔を出す

結局
痛みはいつもここにあって
その多くを
1番強い痛みが
背負ってるかのようだと
氣付いたけれど

それでも
あっちこっちに
痛みは姿を現し始めたこの身体

65にもなれば
もう絶好調なんて日はなく
いつも
必ず
どこかに不都合を背負っている

若い頃は
すぐに治ったわずかな傷も
なかなか治らずここに残るばかり

疲れもまた
翌日には現れず
この疲れ
いつの疲れ? なんて
数日前を振り返る

それでも
この1ヶ月ほど
安静にと言われサボった身体は

昨日の
ハスの植え替えでの
筋肉痛がもう出て来たから
まだ
大丈夫なようだ


氣が付けば
今シーズンのスキーを棒に振った
右膝は治っていたけれども

右足小指の
内反小趾が痛み出して
次はこれを
なんとかせねばならない

そう
わずかな痛みにも敏感で
常にそこが氣になるばかり
分かっちゃいるが耐えられず
ジタバタしてみる男たち

入院中
毎日 検診に来てくれた
綺麗な女医さんも
男は痛みに弱いですからね
なんて微笑んでいたっけ…

脳というのは
特に
男の脳というのは
そういうことらしい…

先日 帰った
フィリスから
真夜中に時差を無視して
こんな連絡が入って来た




OZ



ラスベガスにいて

あなたが大好きな
オズの魔法使いを観て来たと

それは
あまりにも素晴らしいので

来たら? と

それに

早く来ないと終わっちゃうわよ! と…


その画像には
旦那のロバートと
友達のタミーとが
一緒に微笑んでいて

なるほど
3人で出掛けたのかと思ったら
なんと
タミーは今
ラスベガス在住とのこと

久々のその笑顔に
元気そうで良かった
宜しくお伝え下さいと返すと

タミーから
ベガスに越したから
いつでも泊まりに来て! と
返事が戻った



ベガスか
30年前の記憶しかないそこは
どうやら
かなり変わったらしく
そろそろ
出掛けておかねばとも思う



LAから

フリーウェイを東へ5時間
ひたすら砂漠の中を走ると
突然 
ド派手なオアシスが見えて来る

これでまたひとつ
回り込む場所が増えた

しかし
今のアメリカのあまりの物価高
さて
いつ落ち着くやら

なんせ
こんなだからね



大統領が変われば
また戻るかな?

その頃には僕も
もう古希だけれどな

オズ


子供の頃から
大好きなこれだけは
観ておきたいからね
急がねばならないようだ

そうそう
もう
あの頃のように
ギャンブルはやらずとも…

ベガス


不思議かな
1ドル 160円で
ぼやいてる今

45年前のあの頃は
250円だったけれど
それでも
高いとは感じなかったのに…



もう6年かと
手帳を見て確認した今朝

ならば
黒姫へと出掛けようかと
ふと思ったけれど
今まだこの身体では
ひとりでは
ちょいとまだ辿り着けそうもない



ネットを見れば
今年も
今夜には
財団からのYouTube放送がある

ならば
それを観て
手を合わせよう



4月ともなれば
黒姫の森も雪解けとなり
森の木々にも新芽が出る頃だろう

ニックさんが眠る
メモリアルストーンも
もう雪を掘り起こすことなく
姿を見せているだろう




我が家の庭の
マザーツリーの子供たちも
新芽を出し始めた



振り返ると
初めて
オーブたちを観たのは
6年前のその日で

それって
まさか
ニックさんが会いに来た?なんて
今頃
氣付いて
ここを振り返ってみる


オーブ


あれから益々
この国は荒れる一方

まだ間に合うはずだった
最後の砦までもを失い

なんで
ニックさんが
いないんだよ! と
毎年
この日には
叫んでみるけれども…



先月中に
やらねばと思っていたけれど
この身体

ちょいと遅くなったけれど
この暖かな日

無理は出来ずとも
やらねばと
重い腰を上げた

種から再スタートして
4年目を迎え
なかなか
花を見せてはくれないが

今年のレンコンならば
きっと花をつけてくれるだろう



種を蒔き直した日には
そこにいた ぱふ

今年は無理でも
来年は咲くかもよ なんて
言葉を掛けて
一緒に眺めていたけれど
間に合わなかったから
今年咲いたら
それをすぐに
ぱふの仏壇に納めよう




そうだ
先日 実家のお袋からも
今年は私が出来ないから
植え替え
頼むね! と言われたばかり

もちろん! と
答えながらも
この身体ゆえ
ちょいと待っててねと…

来週あたり
天気の良い日にでも
植え替えに行こうと思う




さて

いくつ

咲くかな…