小学生の時 
野球少年だったこのガキは
ゴロが怖くて取れず
監督から叱られてばかり

そんな時 
町の商工会でジャイアンツの選手を呼んでくれて
あれこれ教えて貰えたけれど…

なのに
願った長嶋さんは来なかった

ならばと一生懸命に手紙を書いたら
なんと本当に返事が来て
僕はそれからずっと長嶋茂雄

お世話になったまま
終えてしまった




昨日は近くを通ったもので
素通り出来ず手を合わせた

帰り際に立ち寄った本堂で
御朱印をお願いし
若い住職と長話となれば

墓所は内密らしく
良くご存知でと問われ
ええ
ちょいとお世話になりましてと
微笑んだ

もしも
次の人生があらば
今度はもっともっと努力して
野球選手にもなってみたい

好きな野球人は? と問われたら
真っ先に
長嶋茂雄と答えて来た


墓、バグる。

――芥川龍之介と谷崎潤一郎、百年目の量子回線――


巣鴨・慈眼寺発、不思議で滑稽なSF小説



まえがき

本作は、巣鴨の地に眠る二人の文豪――芥川龍之介と谷崎潤一郎による、あの有名な「筋のある小説・筋のない小説」論争を題材にしたコメディSF短編です。

文学の難しい知識は一切不要です。「朝の巣鴨で変なアプリを拾ってしまったしがない会社員」の視点で、百年越しに再燃する文豪たちのレスバ(?)を気楽にお楽しみください。



プロローグ 早朝の巣鴨

僕の名前はどうでもいい。しがない会社員で、朝七時に巣鴨で用事があった。地蔵通り商店街はまだシャッターが半分しか開いておらず、赤いパンツを売る店だけが妙に気合を入れて開店準備をしていた。

用事は三十分で片づいた。時計を見ると、次の予定まで一時間半も余っている。これは呼ばれているな、と僕は思った。誰にとも知れず、そう思うことがある。

歩いて十分。慈眼寺という、こぢんまりとした寺がある。ここに、今年で没後百年を迎える芥川龍之介の墓がある。せっかくだから顔を出しておこう、というくらいの軽い気持ちだった。

墓石の前で手を合わせていると、隣の――厳密には「隣」というより「同じ区画の少し奥まった場所」というべきだが――谷崎潤一郎の分骨墓が、いつものように涼しい顔で立っていた。本墓は京都の法然院にあるというのに、なぜかここにも骨のひとかけらが眠っている。

百年経っても、この二人は隣り合って動かない。まるで、今なお何かを言い合っているかのように。

その時、僕のスマートフォンが鳴った。地図アプリでもなければ、メッセージでもない。見たことのないアイコンのアプリが、いつの間にかホーム画面に増えていた。

「墓活アプリ β版 ――起動中――」

僕は指を止めた。こんなアプリ、入れた覚えはない。




第一章 地下三千二百メートルからの着信

画面に表示されたのは、奇妙な文字列だった。

〈発信元特定不能/推定深度:地下三千二百メートル/推定発信年代:大正十六年相当〉

大正十六年、などという年は存在しない。大正は十五年で終わり、その先は昭和になる。つまりこれは、大正十五年の翌年――昭和二年、芥川が世を去った年を指しているらしかった。

スマホがぶるぶる震え、画面いっぱいに文字が流れ出した。

「もしもし。地上の方。少々、伺いたいことがあるのですが」

文体が、やけに折り目正しい。まるで大正時代の文士がスマホの使い方を教わりたてで打っているような、生真面目な句読点だった。

僕はとっさに、寺の掲示板にあった「墓地内での携帯電話の使用はご遠慮ください」という貼り紙を思い出したが、もう遅かった。指は勝手に「返信」ボタンを押していた。

「あの、どちら様でしょうか」

「羅生門の下に立っていた、と申し上げれば、伝わりますでしょうか」

伝わりすぎるほど伝わった。心臓が、墓石よりも冷たくなった。

さらに画面が割れるようにもう一つウィンドウが開く。今度は、やたら流麗で、少し嫌味なくらい滑らかな文体だった。

「おや、また芥川くんが先に喋っている。相変わらず気が早い人だ」

二つ目の発信元は、慈眼寺の分骨墓――そう、谷崎潤一郎のほうだった。

どうやら僕のスマホは、百回忌という節目のエネルギーか何かに感応して、地下深くに眠る二つの「文体データ」――生前の思考のクセ、口調、美意識のパターンをまるごと保存した何か――を受信するアンテナと化してしまったらしい。

これが後に僕が「墓活アプリ」と呼ぶことになる、この奇妙な物語の始まりだった。



第二章 芥川エミュレータ、起動す

アプリの設定画面には、見た事もない項目が並んでいた。〈文豪エミュレータ:芥川モード〉〈同:谷崎モード〉〈相互干渉レベル〉〈分骨リンク強度〉。まるでスマホゲームのステータス画面だが、課金ボタンがないぶん、少しだけ信用できた。

試しに芥川モードをタップすると、画面の向こうから神経質そうな声が響いてきた。声というのは正確ではない。テキストが、まるで囁くようなフォントの震え方で流れてくるのだ。

「地上は、随分と便利になったものですね。私の頃は、原稿用紙を埋めるだけでも一苦労だったのに」

「あの、率直に伺いますが、あなたは今も谷崎さんと論争を続けているんですか」

画面が、心なしか青白く点滅した。

「続けているというより……終われないのです。『筋のある小説、筋のない小説』という話をしましたでしょう。あれは結局、私が先に舞台を降りてしまったので、決着がついていない。谷崎くんは、それをいいことに、百年も勝ち誇っているような気がしてならない」

被害妄想なのか事実なのか、僕には判断がつかなかった。ただ、文体データというのはどうやら、感情まで律儀に保存してしまうものらしい。

画面の端に、小さなアイコンが増えた。〈羽虫〉。タップすると、芥川モードの周囲に、ジジ、と鳴く極小の羽虫のアニメーションが飛び回り始めた。

「これは失礼。生前の癖で、つい神経が昂ると羽虫の幻を見てしまうのです。放っておいてください」

放っておけるはずもなかった。僕のスマホの画面は、もはや小さな地獄変の屏風と化していた。



第三章 谷崎パッチ、降臨す

次に谷崎モードを開くと、画面がふわりと薄紅色に染まり、フォントまでもがどこか艶っぽい明朝体に変わった。アプリの中身が、勝手にモードごとにUIをカスタマイズしてくるのは、さすがに技術的にどうなっているのか説明してほしかった。

「ようこそ。地上の若い方。芥川くんとは、もうお話になりましたか」

「はい。羽虫が見えるとおっしゃってました」

「あの人は昔からそうなのです。神経が細いというより、繊細さを見せることに、少々自覚的すぎるところがある。それも含めて、私は好きでしたがね」

好き、という言葉のニュアンスに、僕はどう相槌を打てばいいのか分からなかった。

「では、なぜ今も分骨してまで、慈眼寺にいらっしゃるんですか。法然院で、ゆっくりされてもよかったのでは」

画面が一瞬、間を置いた。人間で言うところの、言葉を選ぶ沈黙だった。

「決着をつけたい、というのとは少し違うのです。ただ――言い足りないことが、まだ、あるような気がしてね。それだけの話です。年寄りの未練だと笑ってくださって結構」

未練、という言葉が、意外なほど正直に画面の中で揺れていた。派手な美文で鎧っていても、根っこのところは案外、まっすぐな人らしい。

僕のスマホには今、大正・昭和を代表する二人の文豪の「意識のこだま」が、それぞれ別アプリのように同居している。バッテリーの減りが尋常でなく速いことに、僕はこの時ようやく気がついた。



第四章 筋のある小説対筋のない小説・令和最終決戦

二つのモードを同時に開くと、〈相互干渉モード〉というボタンが自動で点灯した。押すなと言われて押さない僕ではない。むしろ、押すために生まれてきたようなものだ。

画面が真っ二つに割れ、左に芥川モード、右に谷崎モードが並んだ。

「谷崎くん。今こそ、はっきりさせようじゃないか。物語の面白さとは、筋にあるのか、それとも文体の芸術性にあるのか」

「またその話ですか、芥川くん。百年前と同じ台詞を、今度はスマートフォンの上で仰るとは、進歩がおありだ」

僕は仲裁するべきか、記録するべきか迷った挙句、とりあえず両方の言い分をメモに取ることにした。ノートアプリの容量が、あっという間に文豪二人の応酬で埋まっていく。

「筋のない小説にこそ、詩がある。事件の連なりなど、新聞記事で十分だ」

「その詩とやらを支えるのは、結局のところ、人間の欲望と因縁という筋書きではありませんか。あなたの短編にだって、ちゃんと事件は起きている」

画面の中で、羽虫のアニメーションと、薄紅色のグラデーションが、まるで戦国絵巻のようにぶつかり合った。スマホが心なしか熱を持ち始める。

「お二人とも、ここ、お寺の境内なので、あまり熱くならないでください」

僕の忠告など、百年越しの論争の前では羽虫ほどの重みも持たなかった。



第五章 分骨バグとタイムループ坂

応酬が最高潮に達した瞬間、画面に見たことのないエラーメッセージが浮かんだ。

〈警告:分骨リンク強度が閾値を超えました。地上への物理的干渉が発生する可能性があります〉

何のことか分からないまま突っ立っていると、足元の敷石が、ぐにゃりと歪んで見えた。目の錯覚かと思ったが、次の瞬間、僕は地蔵通り商店街のどこかに立っていた。ただし、シャッター街の看板がやたら達筆な旧字体で、道行く人々の着物姿がやけに堂に入っている。

大正時代の巣鴨に、僕は迷い込んでしまったらしかった。

スマホだけは、なぜかそのままポケットに入っていた。画面には、慌てた様子の芥川モードの文字。

「これは……申し訳ない。私の未練が強すぎたせいで、時間の縫い目がほつれたようです」

隣で谷崎モードが、意外と冷静にコメントを寄越す。

「芥川くん、こういう時こそ落ち着いて。地上の彼を、ちゃんと元の時代に戻さねば、我々二人とも、成仏どころではなくなりますよ」

成仏という単語が、スマホのスピーカーから漏れ聞こえてくる状況は、僕の人生でも一等奇妙な瞬間だった。

見れば、大正時代の商店街の先に、小さな坂道が見える。妙に既視感のある坂だった。よく見ると、坂の入り口の立て札に、こう書いてある。

〈タイムループ坂 ――通り抜けにご注意ください――〉



第六章 仲裁AI「僕」、奮闘す

こうなったら、腹を括るしかない。僕は「タイムループ坂」とやらを登りながら、二人のモードに向かって言った。

「お二人とも、聞いてください。僕がこちらに来てしまったのは、多分、お二人の未練――言い足りなかったことが、強すぎたからです。だったら、ここで言い切ってしまえばいいじゃないですか」

画面がしばらく沈黙した。羽虫のアニメーションだけが、ジジ、と鳴いている。

「言い切る、か。谷崎くん、私はずっと、あなたの物語の豊饒さを、羨んでいたのかもしれません」

芥川モードの声が、初めて素直な色を帯びた。

「羨む、とは芥川くんらしくない言葉だ。私こそ、あなたの持つ、あの一瞬で世界を切り取る鋭さに、ずっと歯が立たないと思っていましたよ」

坂を登り切ると、不思議なことに、景色がまた令和の巣鴨に戻っていた。地蔵通りの赤いパンツの店が、いつも通りシャッターを開けている。

スマホの画面には、二つのモードが並んだまま、静かな文字が流れていた。

「――結局、勝敗などというものは、最初からなかったのかもしれませんね」

「同感です。ただ、言い合える相手がいる、ということが、案外、悪くなかった。それだけの話です」

僕は、自分がとんでもない場所に迷い込んで、とんでもない仲裁をしてしまったことに、今さらながら気づいた。



終章 決着のつかなさの実装

〈分骨リンク強度:安定〉というメッセージとともに、アプリの画面がゆっくりとフェードアウトしていった。エラーは解消されたらしい。あるいは、エラーではなく、これが「正常な状態」だったのかもしれない。

最後に、アプリはひとつの新しい機能を実装した、と通知してきた。

〈アップデート完了:「決着のつかなさ」機能を実装しました。今後、芥川モードと谷崎モードは、あなたの前で永遠に論争を続けます〉

バグではなく、仕様だと言われてしまえば、僕にはもう何も言えなかった。

気がつけば、僕はいつも通り、慈眼寺の墓石の前に立っていた。次の予定まで、あと十五分。夢だったのか、量子的な何かだったのか、それとも百回忌という日が、ほんの少しだけ時間の縫い目を緩めただけなのか、今も僕には分からない。

ただ、スマホのホーム画面から、あの奇妙なアプリのアイコンは、まだ消えていない。



エピローグ また来ます

墓石に手を合わせ、僕は小さく呟いた。

「また来ます。今度は、お二人とも、あまり熱くならないでくださいね」

返事はなかった。当たり前だ、と自分に言い聞かせながら、僕は寺の門をくぐって、地蔵通りへと戻った。赤いパンツの店の店主が、今日も元気に呼び込みをしている。

ポケットの中で、スマホが一度だけ、小さく震えた気がした。通知を開く勇気は、その日はまだ、なかった。


―― 了 ――


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あとがき

1927年(昭和二年)、芥川龍之介と谷崎潤一郎の間で戦わされた「文学論争(筋のある小説・筋のない小説論争)」。二人の議論は決定的な決着を見ないまま、芥川の死によって幕を閉じました。

もし、二人の「文体」や「未練」がデータとして現代の技術とリンクしてしまったら……そして、巣鴨の慈眼寺で今も隣り合わせに眠る二人がスマホ越しに再会したら……という妄想から生まれたのが本作です。

二人の論争はきっと、百年経っても、千年経っても決着がつかないのでしょう。でも、互いに言い合える相手がいるということ自体が、二人にとっての救い(あるいは仕様)なのかもしれません。

もし巣鴨へ行く機会がありましたら、ぜひ慈眼寺の静かな境内を訪れてみてください。ポケットの中のスマホが、少しだけ温かくなる気がするかもしれません。


所要時間:巣鴨駅から徒歩8分、読了時間12分、成仏まで百年。


芥川vs谷崎 論争は今も続いている?

芥川龍之介 谷崎潤一郎



早朝から巣鴨に用事があって
早出すると
わずかに時間があまり

ではと久々に
百回忌を迎える芥川龍之介の墓所へ






すれば
もちろん何度も訪れているから
知ってはいたけれど
その手間に眠る谷崎潤一郎

分骨されて
ここへ来たと聞いたけれど
なぜゆえ今も
競うかのように
ここなのか?

それとも
100年も経ったから
もう和解して
仲良くやっているのか

それは
文芸的な
余りにも文芸的な饒舌として
残ってはいるけれども

いずれにせよ
大好きな2人 

いつか僕がそちらに行った時
間に入って
なんとかしたいわけだけれども…

失礼

5.5感

―オーブと、まだ見えぬ周波数の物語―



まえがき

犬笛を吹いても、人間には聞こえない。

けれど、犬には聞こえている。

私たちはそれを不思議だとは思わない。
人間と犬では、聞き取れる周波数の範囲が違うことを知っているからだ。

では、もし――。

人間にも、まだ聞こえていない音があるとしたら。

まだ見えていない光があるとしたら。

そして、私たちが「存在しない」と思っているものの中に、実は、ずっとそこにあった何かが含まれているとしたら。

この物語は、そんな小さな疑問から始まります。

主人公の小野寺葉月は、ある日から、周囲に浮かぶ小さな光を見るようになります。

それは「オーブ」と呼ばれるもの。

心霊現象なのか。
幻覚なのか。
未知の物理現象なのか。

答えを求めて訪れた「閾覚研究所」で、葉月は、人間の五感の外側に存在するかもしれない、未知の知覚領域について知らされます。

研究者たちは、それを仮に「帯域B」と呼びます。

そして葉月自身が、その境界に立つ人間――「五・五感」の持ち主なのではないかと考え始めます。

けれど、この物語は、オーブの正体を解明する物語ではありません。

むしろ最後まで、正体は分からないままです。

それでも私たちは、見えたものに意味を与え、聞こえたものに名前をつけます。

愛する人を失ったとき、その人の気配を感じることがあります。

それが記憶なのか、心なのか、それとも本当に何かが届いているのか。

誰にも証明できないからこそ、人はそこに自分なりの答えを見つけるのかもしれません。

これは、五感と六感のあいだ。

まだ名前のない場所を覗いてしまった、一人の女性の物語です。

もし読み終えたあと、あなたの視界の端に小さな光が見えたなら――。

どうか、すぐに「気のせい」と決めつけないでください。

もちろん、本当に気のせいかもしれません。

そのどちらなのかは、私にも分かりません。




序章 犬笛の鳴る場所

犬笛を吹いても、人間には何も聞こえない。

けれど公園の隅で丸まっていた柴犬は、飼い主が笛を口に当てた瞬間、耳をぴんと立てて振り返った。音のない音に、犬だけが応えた。

小野寺葉月はベンチに座ったまま、その光景をぼんやり眺めていた。三月にしては冷たい風が、桜のまだ固い蕾を揺らしている。

――聞こえない音が、たしかにそこにある。

当たり前のことだ。中学の理科で習った。人間の可聴域はだいたい二十ヘルツから二万ヘルツ。それより高い周波数も低い周波数も、この世界には満ちているのに、耳という器官の性能が足りないというだけの理由で、私たちはそれを「無い」ことにして生きている。

葉月がそのことを繰り返し考えるようになったのは、光を見るようになってからだった。

最初は視界の端をよぎる小さな光の粒だった。まぶたの裏に残る残像のようなもの、あるいは疲れ目のせいだと思っていた。しかしそれは日を追うごとにはっきりとした輪郭を持ち始め、今では明らかに「そこにある」としか言いようのない、丸く発光する何かとして、葉月の視界に浮かぶようになっていた。

半透明で、ソフトボールほどの大きさで、ゆっくりと漂う光の球。

インターネットで調べれば、すぐに名前が見つかった。「オーブ」。心霊写真の分野では古くから知られている現象で、多くは埃やレンズのフレアだと説明されている。だが葉月が見ているものは、写真の中の話ではなかった。肉眼で、まぶたを開けているときにだけ見える、リアルタイムの光だった。

睡眠不足でもなければ、心療内科に通っているわけでもない。二十六歳、広告制作会社に勤める、いたって平凡な会社員だ。だからこそ、この光をどう扱えばいいのか、葉月にはずっと分からずにいた。

犬が笛の音に反応するように、もし人間にも聞こえない周波数があるのなら――見えない周波数だって、あるはずだ。

五感という。だがその先にも、きっと続きがある。六感、七感、あるいはそれ以上。感じていなくても、目の前に既に存在しているのかもしれない何か。

葉月は自分が今、その「続き」のどこか半端な場所――五感と六感のあいだ、名付けるなら五・五感とでも言うべき場所を、彷徨っているのではないかと思うことがあった。

ポケットの中でスマートフォンが震えた。画面には見慣れない着信番号。長野県の市外局番だった。

「もしもし」

「小野寺葉月さんの携帯電話でよろしいでしょうか」

落ち着いた、年配の男性の声だった。

「はい、そうですが」

「突然のご連絡失礼いたします。私、閾覚研究所の所長をしております、宇佐美と申します」

聞いたことのない名前だった。だが、次の一言で、葉月は息を止めた。

「あなたが最近、ある種の発光現象――『オーブ』と呼ばれるものを頻繁に目撃されているという情報を得まして、ご連絡いたしました」


第一章 閾覚研究所からの誘い

「……どういうことでしょうか」

葉月の声は自分でも驚くほど掠れていた。誰にも話していないことだった。会社の同僚にも、実家の母にも。オーブのことを口にすれば、心配されるか、笑われるか、どちらかだと分かっていたからだ。

「驚かれるのはごもっともです」電話の向こうの宇佐美という男は、慌てる様子もなく続けた。「私どもは長野県の山中で、人間の知覚――特に、いわゆる五感の外側にある知覚現象を研究している、小さな民間の研究所です。オーブの目撃者の方に、聞き取り調査というかたちでご協力をお願いしておりまして」

「私がオーブを見ているって、どうして分かったんですか」

「それについては、お会いしてご説明した方がよろしいかと思います。電話だけでは信じていただけない内容ですので」

葉月は黙った。窓の外では、柴犬がまだ飼い主のまわりを跳ねていた。聞こえない音に応え続ける犬。

「もちろん、無理にとは申しません。ですが、もしよろしければ、今週末にでも研究所へお越しいただけないでしょうか。交通費はこちらで負担いたします。ご不安であれば、ご家族やお友達とご一緒でも構いません」

「……考えさせてください」

「もちろんです。あなたのお名前と、この現象について、私どもは以前からある方の……」

そこで宇佐美は一瞬言葉を止めた。

「いえ、詳しくはお会いしたときに。それでは、良いお返事をお待ちしております」

通話は切れた。葉月はスマートフォンを握りしめたまま、しばらくベンチから動けなかった。

*

その夜、葉月は一人暮らしのアパートで、パソコンの前に座っていた。「閾覚研究所」で検索しても、ほとんど情報は出てこない。個人のブログに一度だけ、「長野の山奥にある、あやしい研究所」という書き込みがあった程度だ。学術機関でもなければ、企業でもない。NPO法人として登録はされているようだが、活動内容は「知覚科学に関する調査研究」としか書かれていない。

胡散臭い。普通ならそう判断して終わりだ。

けれど葉月には、どうしても無視できない理由があった。

三年前に死んだ幼馴染、佐伯直人のことだ。

直人が事故で亡くなったのは、葉月が二十三歳のときだった。二人は同じ団地で育ち、同じ小学校、同じ中学校に通い、高校こそ別々になったが、大人になってからも月に一度は必ず会って話す仲だった。恋人ではなかった。けれど、それに近い何かではあったと、今でも葉月は思っている。

直人が死んでからしばらくの間、葉月は何も手につかなかった。そして半年ほど経った頃から、視界の端に光の粒が見え始めたのだ。

偶然かもしれない。悲しみが見せる幻覚かもしれない。医者にかかることも考えた。だが光は葉月を傷つけることも、脅かすこともなかった。ただ静かに漂い、時折、まるで葉月のことを見ているかのように、すこし近づいては離れていく。

もしかすると、あの光の中に、直人がいるのかもしれない。

そう思うことが、葉月にとってはこの三年間、唯一の救いだった。同時に、その考えに縋りすぎている自分を、どこかで恥じてもいた。科学的にありえない。分かっている。分かっているけれど。

葉月はもう一度スマートフォンを取り出し、宇佐美の番号を見つめた。

「行ってみよう」

小さくつぶやいて、葉月は返信のメッセージを打ち始めた。


第二章 閾覚研究所

長野駅からさらにローカル線に乗り換え、無人駅で降りると、迎えの車が待っていた。運転していたのは、二十代半ばに見える若い女性だった。

「小野寺さんですね。研究員の高津です」

車は山道を三十分ほど走った。窓の外の景色は徐々に木々の密度を増し、やがて舗装された道の脇に、木造とガラス張りを組み合わせた、思いのほか近代的な建物が現れた。

「思ったより……普通の建物ですね」

葉月が思わず漏らすと、高津は小さく笑った。

「怪しい施設を想像されてました? よく言われます」

ロビーで待っていたのは、電話で聞いた通りの落ち着いた声の主、宇佐美だった。白髪交じりの髪を後ろに撫でつけた、六十代くらいの男性で、着ているのは飾り気のないグレーのカーディガンだった。研究所の所長というより、大学の名誉教授のような雰囲気がある。

「よくお越しくださいました」

案内された部屋には、ホワイトボードいっぱいに書かれた波形のグラフや、聞き慣れない専門用語が並んでいた。「知覚帯域」「閾値シフト」「非可聴光子相互作用」――葉月には半分も理解できない言葉ばかりだった。

「単刀直入に申し上げます」

宇佐美はテーブルを挟んで葉月の向かいに座ると、静かに話し始めた。

「私どもは十五年ほど前から、人間の知覚能力――目や耳、皮膚感覚といった、いわゆる五感が拾っている情報の『外側』に、何があるのかを研究しています。犬笛の音が人間には聞こえないように、あるいは紫外線が人間の目には見えないように、私たちの周囲には、五感の性能の限界によって『無いこと』にされている情報が、無数に存在しています」

「それは、分かります。学校でも習いましたし」

「ええ。ですが問題は、その『限界』が、実は一定ではないということです」

宇佐美はホワイトボードに歩み寄り、なだらかな曲線を描いた。

「人間の知覚能力には、統計的に見て、わずかながら『ゆらぎ』があります。多くの人は平均的な範囲内で五感を使っていますが、ごく一部の人は、その限界がわずかに拡張されている状態で生まれつく、あるいは何らかのきっかけで、後天的にそうなることがある。私どもはこの状態を、便宜的に『五・五感』と呼んでいます」

葉月は息を呑んだ。それは、まさに自分がこの数年考え続けてきた言葉そのものだった。

「……どうして、その言葉を」

「あなたが今、心の中でそう名付けていることを、私どもは知っていたわけではありません。ただ、多くの目撃者の方が、独立に、似たような表現にたどり着かれるのです。五感と六感のあいだ。半端な場所。ちょうど狭間にいるような感覚、と」

宇佐美は葉月の目をまっすぐ見た。

「小野寺さん。あなたが見ているオーブは、幻覚でも、埃でもありません。それは、私たちの可視光の帯域からわずかに外れた場所に存在する、何らかの『発光する情報体』です。そして私どもは十五年かけて、それが何なのか、少しずつですが、輪郭をつかみ始めています」


第三章 佐伯直人という人

その日は研究所内の簡素なゲストルームに一泊することになった。夕食の後、高津が葉月の部屋を訪ねてきた。

「所長、少し性急でしたよね。いきなりあんな話をされても」

「いえ……正直、驚きましたけど。半分くらい、納得してしまっている自分もいて」

高津はベッド脇の椅子に腰掛け、お茶の入った紙コップを差し出した。

「小野寺さんは、どなたか、亡くなった方がいらっしゃいますか」

唐突な質問だった。けれど不思議と、責められているようには感じなかった。

「……幼馴染です。三年前に、事故で」

「オーブを見るようになったのは、その後からですか」

「はい。半年くらい経ってからです」

高津は頷いた。「実は、私どもが調査したケースのほとんどが、同じパターンをたどっています。近しい人を亡くした後、数ヶ月から一年ほどのあいだに、オーブの目撃が始まる。もちろん、悲しみによる幻覚だという可能性は、私どもも最初に検討しました。ですが」

「ですが?」

「幻覚であれば、当然、個人差はあっても、脳のメカニズムとしてはある程度共通した現れ方をするはずです。ところが、私どもが集めたデータでは、オーブの動きや発光パターンに、明確な『個体差』が見られるのです。まるで、それぞれが独立した意志を持っているかのように」

葉月は自分の紙コップを見つめた。湯気がゆっくりと立ちのぼっている。

「直人のことを、話してもいいですか」

「もちろんです」

葉月はぽつりぽつりと語り始めた。同じ団地の隣の棟に住んでいたこと。小学生の頃、団地の駐輪場の裏で、二人だけの秘密基地を作っていたこと。直人が高校で吹奏楽部に入り、休みの日に犬の散歩をしながら練習していたトランペットの音が、遠くまで響いていたこと。大人になってからも、月に一度、駅前の定食屋で待ち合わせては、たわいもない話をしていたこと。

「直人は、変なことをよく言う人でした。『人間には聞こえない音があるのと同じで、見えないものもきっとあるんだろうな』って。犬の散歩が好きだったから、犬笛の話をよくしてて」

葉月はそこで、少し笑った。

「あの詩みたいな考え方、直人がよく言ってたことそのものなんです。だから最初にオーブを見たとき、真っ先に、直人のことを思い出しました」

「事故の状況を、伺ってもよろしいですか」

葉月の表情が少し曇った。

「深夜、車の少ない道路で、信号無視をしたトラックに……即死だったそうです。奇妙なんですけど、直人は事故の直前、電話で私に『今から行くところがあるから、また今度連絡する』って、ちょっと変な言い方をしていました。何の用事だったのか、最後まで分からずじまいで」

高津の表情が、わずかに硬くなったのを、葉月は見逃さなかった。

「高津さん? 何か」

「……いえ。似たようなケースが、他にもあったものですから」

その言葉の意味を、葉月はまだ知らなかった。


第四章 オーブの正体

翌朝、葉月は研究所の地下にある観測室に案内された。壁一面に並んだモニターには、ノイズ混じりの映像が映し出されている。

「これは、施設内に常時設置されているカメラの映像です」宇佐美が一台のモニターを指した。「通常のカメラでは映りませんが、私どもが独自に開発したセンサーを組み合わせることで、オーブの軌跡を可視化しています」

画面には、ゆっくりと漂う複数の光の粒が映っていた。葉月がいつも見ているものと、ほとんど同じだった。

「これは……何なんですか。本当のところ」

宇佐美は少し考えるように間を置いてから、答えた。

「正直に申し上げれば、まだ分かっていないことの方が多いです。ですが、これまでの観測データから、一つの仮説を私どもは持っています」

彼はホワイトボードに、二つの円を描いた。

「私たちが生きているこの世界を、便宜的に『帯域A』と呼びます。人間の五感が知覚できる、光、音、匂い、味、触覚の範囲です。そして、その外側に、帯域Aとは異なる周波数を持つ、もう一つの層があると私どもは考えています。仮に『帯域B』と呼びましょう」

「帯域B……」

「誤解のないよう申し上げておきますが」宇佐美は少し苦笑いを浮かべた。「『帯域』という言葉は、私どもが説明の都合上そう呼んでいるだけです。それが本当に周波数の層のようなものなのか、そもそも空間的な広がりを持つものなのか、まったく別の何かなのか――正直なところ、私どもにも分かっていません。名前を付けると、分かった気になってしまう。それが、この手の研究では一番危険なことだと、私は思っています」

「重要なのは、この二つの帯域は完全に切り離されているわけではなく、ごく限られた条件下で、わずかに『滲み出し』が起きるということです。特殊な感受性を持つ人――たとえば深い喪失を経験し、精神的な知覚の閾値が一時的に変化した人には、帯域Bの情報が、光の粒として知覚されることがある。それが、オーブと呼ばれる現象の正体ではないか、というのが私どもの仮説です」

葉月は黙って耳を傾けていた。

「では、その帯域Bに、何があるんですか」

宇佐美は初めて、少しだけ言葉に迷うような表情を見せた。

「これは科学的に証明された話ではなく、あくまで観測データから導かれる、一つの解釈に過ぎないことを、先にお断りしておきます」

「はい」

「私どもが十五年間、数百名の目撃者から集めた証言には、共通する感覚があります。オーブを見るようになった方の多くが、ある時点から、その光に『親しみ』や『安心感』を覚えるようになる、ということです。まるで、知っている誰かがそこにいるかのような」

葉月の心臓が、小さく跳ねた。

「そしてもう一つ。これは統計的な傾向に過ぎませんが……オーブの目撃が始まる時期と、目撃者にとって近しい方が亡くなった時期のあいだに、有意な相関が見られます」

「つまり……」

「断定はできません。帯域Bに何があるのか、正直なところ、私どもにも分かっていません。ただ――そこから来たとしか説明のしようがない情報が、確かにある。それだけです」

部屋の中に、しばらく沈黙が落ちた。

「分かっていない、と正直に言われる方が、かえって信じられる気がします」

「非科学的だと思われるでしょう」宇佐美は小さく笑った。「分かった、と言い切ってしまう方が、よほど楽なんですが。私自身、この十五年、分からないことを分からないまま扱う難しさと、ずっと向き合っています。ですが、小野寺さん。あなたに一つ、確認していただきたいことがあります」


第五章 観測実験

その「確認」とは、研究所が開発した実験装置を使った観測だった。

宇佐美が案内したのは、防音と電磁シールドが施された、六畳ほどの小部屋だった。中央に一脚の椅子と、その周囲を囲むように、複雑な形状のアンテナのようなものが立てられている。

「これは『閾覚増幅器』と呼んでいる試作機です」宇佐美が装置に手を触れながら説明した。「帯域Bとの境界にある知覚のゆらぎを、一時的にわずかに拡張する効果があると考えられています。効果には個人差が大きく、まったく何も起きない方もいらっしゃいます」

「危険はないんですか」

「これまでのところ、深刻な副作用の報告はありません。ただ、強い既視感や、一時的な情緒の高まりを感じる方はいらっしゃいます」

椅子に座ろうとした葉月を、高津が呼び止めた。

「小野寺さん。無理にとは言いません。今日決める必要もないので」

葉月は少し考えてから、首を振った。

「大丈夫です。……ここまで来て、やらない方が後悔しそうなので」

椅子に腰掛けると、装置が低い唸りをあげ始めた。目を閉じるよう指示され、葉月は言われた通りにした。

最初は何も感じなかった。ただ、耳の奥でかすかな圧を感じるような、飛行機が高度を上げるときに似た感覚があった。

そしてしばらくすると、まぶたの裏に、いつもの光の粒が現れた。だがそれは、これまで見てきたものより、ずっとはっきりとしていた。輪郭がくっきりとし、内側にゆらめく何かの模様のようなものまで見える。

「見えます……いつもより、ずっとはっきり」

「その光に、意識を向けてみてください。話しかけるように」宇佐美の声が、遠くから聞こえるように響いた。

葉月は、心の中で呼びかけた。

――直人?

光がわずかに揺れた気がした。近づいてくる。まるで返事をするように。

――直人なの?

胸の奥から、説明のつかない感情がこみ上げてきた。悲しみでも喜びでもない、その両方が混ざり合ったような何か。目を閉じているのに、涙が頬を伝うのが分かった。

そのとき、頭の中に、直接ではないが、まるで記憶がふいに蘇るときのように、一つの映像が浮かんだ。

夜の道路。ヘッドライトの光。そして――誰かの、焦った表情。

「っ……!」

葉月は思わず目を開けた。装置がゆっくりと停止していく。

「大丈夫ですか」高津が駆け寄ってきた。

「今、何か……映像みたいなものが」

宇佐美と高津が、顔を見合わせた。

「小野寺さん、それは、非常に重要な報告です。これまで、視覚的なイメージまで受け取った目撃者は、片手で数えるほどしかいません」

葉月は震える手で、額の汗を拭った。

「事故の光景でした。直人の、事故のときの……」

「今すぐでなくても構いません。落ち着いてから、詳しく聞かせていただけますか」

葉月は頷いた。だが心の中では、一つの疑問が渦を巻き始めていた。

なぜ、あの夜の映像を、直人は――もしあれが本当に直人からの何かだったとしたら――なぜ、わざわざ見せたのだろうか。


第六章 三年前のファイル

観測室を出た後、葉月は落ち着きを取り戻すために、しばらく休憩室で温かい飲み物を渡された。高津がそばに付き添ってくれていた。

「さっきの、『似たようなケースが他にもあった』っていう話、聞かせてもらえませんか」

高津は宇佐美の方をちらりと見た。宇佐美は小さく頷いた。

「小野寺さんには、いずれお話しするつもりでした。むしろ、今日お呼びした本当の理由は、こちらにあります」

宇佐美は少し言葉を選ぶように、間を置いた。

「小野寺さんが今日見せてくださった証言――特に、事故の光景を伴う視覚的なイメージは、これまでの目撃者の中でも、かなり特異なものです。こうした強い結びつきを見せる証言には、いくつかの過去の記録と重なる特徴が見られることがあります」

「いくつか、というと……一人じゃないんですか」

「ここ十年ほどで、似た傾向を持つ記録は、片手には収まらない数、蓄積されています。当研究所を訪れた方、あるいは訪れる予定だった方の中に、後に亡くなられた方が、複数いらっしゃいます。小野寺さんの証言に含まれていた、木造の建物の映像――それだけでは、正直、どなたを指しているのか、私どもにも断定はできません」

葉月は少し戸惑った。てっきり、直人のことだとばかり思っていた。

「ただ」宇佐美は続けた。「小野寺さんのお話にあった、事故当夜の電話の内容、時期、状況――それらを踏まえると、最も条件が一致する記録が、一件あります。もちろん、それが確定的な答えだとは、私どもも申し上げられません」

宇佐美は一冊の古いファイルを持ってきた。表紙には手書きで日付が記されている。三年前の日付だった。

「これは、佐伯直人さんという方に関する記録です。条件が一致する、という段階のものだと、まずご理解ください」

葉月は息を止めた。

「直人が……ここに、来たことがあるんですか」

「はい、条件の上では。事故に遭われる、約二週間前のことです」

ファイルには、直人の名前、生年月日、そして簡単な聞き取りの記録が記されていた。「幼少期より、周囲に説明しがたい光を感じることがあった」「友人の死後、その感覚が強まったと自覚」「本人の希望により、観測実験を一度受けている」

「友人の死……直人は、誰か亡くしていたんですか。私、聞いたことが……」

「大学時代のサークルの先輩が、直人さんが二十歳の頃に病気で亡くなっているという記録があります。その後、直人さんもオーブを見るようになったと、当時のヒアリングで話されています」

葉月は言葉を失った。三十年近く一緒にいたのに、知らなかった。直人がずっと、同じものを見ていたことを。

「直人は、なぜここに来たんですか」

「詳しい理由までは記録がありませんが、面談を担当した職員のメモには、こう書かれています。『自分と同じものを見ている人間が、身近にいる気がする』」

葉月の目から、涙がこぼれた。

「……私のこと、だったんですね、それ」

「断定はできません。ですが、可能性としては、十分に考えられます」

葉月は、あの夜の電話を思い出していた。「今から行くところがあるから」――直人はあの夜、ここに向かっていたのかもしれない。二度目の面談のために。葉月に何かを伝える準備をするために。

事故はその途中で起きた。

「……もし、あの日、直人がここに来ていたら」

「小野寺さん」高津が優しく遮った。「起きなかったかもしれない可能性を数え上げるのは、あまり良いことではないと思います。むしろ、直人さんが伝えたかったことを、今、あなたが自分の力で見つけ始めているという事実の方が、大事なんじゃないでしょうか」

葉月は涙を拭いながら、頷いた。

「私、直人が何を伝えたかったのか、知りたいです。ちゃんと」

宇佐美は静かにファイルを閉じた。

「そのためには、もう一度、装置を使う必要があります。ただし今回は、これまでよりも踏み込んだ実験になります。小野寺さんの意思を、改めて確認させてください」

「やります」

葉月は迷わず答えた。


第七章 五・五感を渡る者たち

二度目の実験は、翌日の朝に行われた。今回は、宇佐美と高津に加え、もう一人、研究所の技術主任だという初老の女性、大野が立ち会った。

「今日は、装置の出力を通常の一・五倍まで上げます」大野が装置の調整をしながら説明した。「その分、負荷も大きくなります。少しでも異常を感じたら、すぐに教えてください」

葉月は頷き、椅子に座った。

「一つ、お伝えしておきたいことがあります」宇佐美が装置のスイッチに手をかけながら言った。「私どもがこれまでの研究で辿り着いた、もう一つの仮説です。もしかすると帯域Bにいる存在――便宜的に『対岸の意識』と呼びますが――彼らもまた、こちら側に何かを伝えようと、常に試みているのかもしれません。ただ、帯域の壁は双方向にとって厚く、多くの場合、その試みは失敗に終わります」

「オーブが、ただ漂っているように見えるのは……」

「伝えようとして、伝わりきらない状態なのかもしれません。犬笛のように、音は出ているのに、受け手の感度が足りずに聞き取れない」

葉月は目を閉じた。装置が動き出す、低い唸り。

今回は、光が現れるまでの時間が短かった。まぶたの裏に、すぐにあの光の粒が浮かび上がる。前回よりもさらにはっきりとした輪郭。そして、光の内側に揺らめく模様が、まるで文字のようにも、表情のようにも見えた。

――直人。

葉月は強く念じた。

――伝えたかったこと、教えて。

光が大きく脈打った。そして、頭の中に、輪郭のはっきりしない何かが流れ込んでくる感覚があった。声ではない。言葉でもない。強いて言えば、温度のようなもの。凪いだ水面のような、静かな圧。それを「安心」と呼ぶべきか、「詫び」と呼ぶべきか、「感謝」と呼ぶべきか、葉月自身にも判別がつかなかった。ただ、敵意でも、恐れでもないことだけは、はっきりと分かった。

映像も見えた気がした。今度は事故の夜ではなく、もっと昔の記憶に似た何か――団地の裏の秘密基地、二人で笑っている子供の頃の光景。そして、もう一つ。葉月の記憶にはない光景。大学のサークルの先輩らしき人物と、若い直人によく似た誰かが、夕暮れの河川敷を並んで歩いている。

「先輩……」葉月は無意識につぶやいていた。

けれど、それが本当に「記憶」なのか、それとも今、光を見つめる葉月自身が、無意識のうちに描き出してしまっている想像なのか、境目は曖昧だった。研究所の誰かが以前言っていた。帯域Bの情報は、受け手の知覚を通して初めて像を結ぶ、と。だとすれば、この光景は、直人が見せているものなのか、葉月が直人という存在に託して見ている、自分自身の願いなのか。

それを確かめる術は、どこにもなかった。

映像がゆっくりと薄れていく。最後に残ったのは、電話越しの、あの夜の声だった。「今から行くところがあるから、また今度連絡する」――不安げではなく、どこか穏やかな声だったと、葉月は今更のように思い出した。

「……直人、なの?」

光は答えなかった。ただ、ゆっくりと明滅を続けるだけだった。頷いているようにも、瞬きをしているだけのようにも見えた。

葉月の頬を、涙が伝った。それが確信の涙なのか、確信を持てないことへの涙なのか、葉月自身にも分からなかった。


第八章 閾覚研究所の意味

実験を終えた葉月は、しばらく声を出せずにいた。大野が体調を確認し、水を渡してくれた。

「小野寺さん、今見えたものを、無理のない範囲で構いませんので、教えていただけますか」

葉月は、震える声で、見た映像の全てを語った。子供の頃の記憶。知らなかった先輩の存在。そして、事故の夜、直人が本当は何をしようとしていたのか。

宇佐美は静かに聞き終えると、深く息をついた。

「小野寺さん。私どもがこの研究を続けている理由を、最後にお話ししてもよろしいでしょうか」

「はい」

「十五年前、私自身も、大切な家族を亡くしました。妻です。その後、私も同じようにオーブを見るようになり、科学者としての人生を、この研究に捧げることを決めました」

宇佐美の声には、これまでになく個人的な響きがあった。

「多くの人は、こう考えます。愛する人を亡くした人間が、悲しみのあまり幻を見るのだ、と。それは間違いではないかもしれません。ですが私は、十五年間、数百人の証言と観測データに向き合ってきて、一つの確信に近い仮説を持つに至りました」

「なんですか」

「悲しみそのものが、人間の知覚の閾値を、一時的に、あるいは恒久的に変化させるのではないか、ということです。深い喪失は、私たちの感覚の『蓋』を、わずかに緩める」

宇佐美は窓の外の山並みに目をやった。

「小野寺さん。五感の次は六感だと、誰が決めたのでしょうね」

「……どういう意味ですか」

「私どもは、いつからか、知覚には整数の段階があるものだと思い込んでいます。一感、二感、三感……六感。ですが、もしかすると、知覚は本来もっと連続的なものなのかもしれません。五・五感どころか、五・一感、五・二感、五・九九感というような、無数の途中があって、私たちはその、ごくわずかな範囲しか使えていないだけなのかもしれない」

宇佐美は少し笑った。「そう考えると、オーブが何であるかという問いよりも、私たちがどこまで感じられるようになれるか、という問いの方が、本当は大事なのかもしれません。直人さんが本当にそこにいたのかどうか、私には証明できません。証明できないことを、証明したふりで語るのは、科学者としての誠実さに反すると思っています」

それまで黙って記録を取っていた大野が、少し躊躇うように口を挟んだ。

「所長。小野寺さんには、あのデータのことも、お話ししておくべきではないでしょうか」

宇佐美の表情が、わずかに硬くなった。

「大野さん」

「隠すことではないと思います」大野は葉月の方を向いた。「小野寺さん。これまで観測してきたオーブの発光パターンには、実は、目撃者ごとの個体差がほとんどありません。周波数も、明滅の間隔も、驚くほど均一なんです」

葉月は眉を寄せた。「でも、宇佐美さんは、個体差があるから意志を持っているみたいだって……」

「動きの意志らしさには、確かに個体差があります。ですが、発光そのものの根本的なパターンは、ほぼ一つの型に収束します。まるで、同じ場所から届く、同じ種類の信号のように」

部屋の温度が、少し下がったように葉月には感じられた。

「つまり……直人だから、あの光だったわけじゃないってことですか」

「断定はできません」大野は慎重に言葉を選んだ。「ただ、私どもが立てているもう一つの仮説は――帯域Bから届く情報そのものには、実は『個人の形』はないのかもしれない、ということです。届いた情報を、受け取った側の脳が、最も意味のある形――多くの場合、失った大切な人の姿に、無意識のうちに変換しているだけなのかもしれません」

「翻訳、ということですか」

「はい。ラジオの雑音の中に、聞き覚えのあるメロディを聞き取ってしまうのと、似ているのかもしれません。雑音自体にメロディはない。でも、人間の脳がそこにメロディを見出してしまう」

葉月は、頭の中が静かに冷えていくのを感じた。ではあの、河川敷の記憶も、電話の声も、涙も――全部、自分の脳が作り出した、直人という名前の翻訳結果に過ぎないのだろうか。

けれど、同時に、別の考えも浮かんだ。もし本当に「個人の形がない情報」を、脳が翻訳しているだけなのだとしたら――その翻訳の精度は、いったい何を手がかりにしているのだろう。見ず知らずの誰かの記憶が、あれほど鮮明に、直人の癖や声のトーンまで再現できるものだろうか。

「大野さん」葉月は言った。「それなら、なぜ私の脳は、あそこまで直人そのものを再現できたんでしょうか」

大野は少し驚いたように葉月を見て、それから静かに答えた。

「それは、私どもにも分かりません。翻訳だとしても、翻訳される『元の情報』の中に、直人さんに関する何かが、本当に含まれていたのかもしれない。あるいは――」

「あるいは?」

「あるいは、翻訳という考え方そのものが、間違っているのかもしれません」

葉月は黙って頷いた。答えを急かされなかったことに、むしろ安堵している自分がいた。

「所長。この研究所は、これから何を目指しているんですか」

「大きなことは言えません。ただ、私どもにできるのは、壁を取り払うことではなく――その壁の分厚さを、ほんの少しずつ測っていくことだけです」

宇佐美は葉月の方を見た。

「小野寺さん。あなたの証言と、今日の観測データは、私どもの研究にとって非常に大きな一歩になります。もしよろしければ、これからも継続的にご協力いただけないでしょうか。もちろん、無理のない範囲で構いません」

葉月は少し考えてから、はっきりと頷いた。

「協力させてください。直人が伝えようとしていたことを、私だけのものにしておくのは、もったいない気がするので」


終章 5.5感の彼方に

東京に戻ってから、葉月の生活は表面的には何も変わらなかった。会社に行き、仕事をし、友人と食事をする。だが、心の中では、確かに何かが変わっていた。

オーブは相変わらず、時折視界の端に現れる。以前はその存在に戸惑い、怖がっていたこともあった。だが今は、静かに挨拶をするように、心の中で語りかけることができる。

――今日、こんなことがあったよ。

――ちょっと疲れてるから、そばにいてくれると嬉しい。

返事らしい返事が返ってくるわけではない。ただ光がゆっくりと明滅したり、近づいたり、遠ざかったりするだけだ。それでも葉月には、それが確かに「応え」であるように感じられた。

半年後、葉月は月に一度、閾覚研究所を訪れるようになっていた。観測実験に協力するだけでなく、直人と同じように、大切な人を亡くした他の目撃者たちの話を聞く機会も増えた。皆、それぞれの光を抱えて生きていた。皆、それぞれの仕方で、聞こえない周波数、見えない周波数と、折り合いをつけようとしていた。

ある晩、研究所からの帰り道、葉月は駅のホームで電車を待ちながら、ふと空を見上げた。都会の空にも、まばらに星が見える。

星の光もまた、何万年も前に発せられた光が、今ようやく届いているものだと、直人がいつか話していたのを思い出す。時間の隔たりを越えて届く光。あのオーブの光も、どこかそれに似ている気がした。

視界の端に、小さな光が現れた。葉月は驚かず、微笑んだ。

これが直人なのか、それとも自分が見たいものを見ているだけなのか、今もまだ分からない。分からないままでいいのだと、最近は思えるようになった。

「今日もちゃんと、前に進めてるよ」

光がゆっくりと近づき、そして、まるで頷くように、静かに明滅した。

犬笛がそうであるように、僕ら人間には聞こえない周波数の音がある。だとすれば、見えない周波数もあるのだろう。五感というが、その次もまた、きっと存在していて。六感、七感、それ以上が、きっと感じずとも目の前にあるのだろう。

もしかすると、そのひとつに、オーブたちが存在し。

わずかに見え出した葉月は、五・五感あたりを、今も彷徨っている。

電車がホームに滑り込んでくる。葉月は光に小さく手を振ってから、乗り込んだ。

窓の外に、光はもう見えなかった。それでも葉月は、もう探さなかった。

聞こえない音がある。見えない光がある。そして――知らないからといって、存在しないとは限らない。

電車が走り出した。葉月は窓に映った自分の顔を、ぼんやりと見つめた。

その肩のすぐ後ろを、ほんの一瞬だけ、小さな光が通り過ぎた気がした。

振り返っても、そこには何もなかった。ただ、窓ガラスに映ったその光は、一瞬だけ、いつもよりわずかに――色が違って見えた気がした。

気のせいだと、葉月は思うことにした。

――完――


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あとがき

『5.5感』を最後までお読みいただき、ありがとうございました。

この物語を書き始めたきっかけは、とても単純な疑問でした。

人間には五感がある。

では、その「五」という数字は、いったい誰が決めたのだろう。

視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚。

私たちはそれ以外にも、平衡感覚や温度感覚、痛覚など、実際にはさまざまな感覚を持っています。

そう考えていくと、「五感」という言葉そのものが、少し不思議に思えてきます。

そして、犬笛のことを考えました。

人間には聞こえない音を、犬は聞いている。

紫外線は、人間の目には見えない。

赤外線も見えない。

つまり私たちは、この世界を「そのまま」見ているわけではありません。

人間という生物に与えられた、ごく限られた窓から世界を見ている。

そう考えると、

見えないものは、本当に存在しないのだろうか。

そんな疑問が生まれます。

もちろん、科学的に証明されていないものを、存在すると断言することはできません。

だから、この作品では最後まで答えを決めませんでした。

オーブは死者の魂なのか。

未知の周波数なのか。

人間の脳が作り出す知覚なのか。

あるいは、そのどれでもないのか。

私は、読者の皆さんにその答えを委ねることにしました。

葉月が見た光を「直人だった」と思ってもいい。

「葉月自身の記憶だった」と思ってもいい。

「本当に未知の何かだった」と考えてもいい。

もしかすると、三つとも同時に正しいのかもしれません。

科学と心霊。

現実と記憶。

存在と認識。

その境界には、まだ名前のない広大な領域があるのかもしれない。

この物語では、その場所を勝手に、

「5.5感」

と呼びました。

五感では説明できない。

けれど、六感と呼ぶほど大げさでもない。

その中間にある、ほんの少しだけ開いた感覚。

もし人間の知覚が、完全に閉じたものではないのだとしたら。

私たちは今この瞬間も、知らない何かのすぐそばで生きているのかもしれません。

最後にもう一度。

犬笛を吹いても、人間には聞こえません。

だからといって、音が鳴っていないわけではありません。

見えないから存在しない。

聞こえないから存在しない。

感じないから存在しない。

本当にそうなのか。

その答えを考えることもまた、人間に残された一つの「感覚」なのかもしれません。


誰のものでもない、女

― 未帰属フィールド事件 ―



まえがき

「誰のものでもない」

この言葉を聞いて、何を思うだろう。

自由な人。

孤独な人。

まだ誰にも選ばれていない人。

あるいは、誰にも必要とされていない人。

けれど、世の中には不思議な現象がある。

結婚している女性には、それほど積極的に声をかけなかった男が、離婚した途端に、急に親切になる。

「一人なんですか?」

「そうなんです」

「じゃあ……」

そこで、男は一瞬だけ笑う。

何かを期待している。

もちろん、本人には何の責任もない。

女性は昨日と同じ人間だ。

顔も、性格も、仕事も、好きなコーヒーも変わっていない。

変わったのは、たった一つ。

「誰かの妻」という表示が消えただけだ。

これは、そんな小さな表示が消えたことで、街そのものがおかしくなってしまった話である。

なお、念のため申し上げておく。

この物語に登場する「未帰属」という言葉は、法律用語ではない。

ただし、物語の途中から、本人たちにも意味が分からなくなってくる。

それが一番困ったことだった。




第一章 離婚届を出した日

森下美咲、四十二歳。

地方テレビ局の朝の情報番組で、十八年間、天気予報を伝え続けている。

美咲が離婚届を出したのは、火曜日だった。

役所の窓口で、

「こちらで受理されました」

と言われた。

それだけだった。

ドラマのように空が晴れたわけでもない。

風が吹いたわけでもない。

ましてや、背後で教会の鐘が鳴ったわけでもない。

美咲は、

「ありがとうございました」

と言って頭を下げた。

そして役所を出た。

それで終わりだった。

ところが、翌朝。

テレビ局の玄関で、警備員の山田が言った。

「おはようございます」

「おはようございます」

「……森下さん」

「はい?」

「なんか、今日、雰囲気違いますね」

美咲は自分の服を見た。

いつもの紺色のジャケット。

いつものパンプス。

いつもの鞄。

「そうですか?」

「ええ」

山田は妙に嬉しそうだった。

「なんというか……」

「なんですか?」

「誰のものでもない感じがします」

美咲は黙った。

「……は?」

山田も黙った。

「いや、すみません。今の忘れてください」

「そうしてください」

美咲はエレベーターに乗った。

扉が閉まる直前、山田がもう一度言った。

「でも、いい意味ですから」

エレベーターの中で、美咲は思った。

離婚すると、警備員にまで変なことを言われるのか。



第二章 妙に親切な男たち

異変は一日で終わらなかった。

昼休み。

美咲がコンビニで弁当を買おうとすると、後ろに並んでいた男性が、

「どうぞ」

と順番を譲った。

「いえ、結構です」

「いやいや」

その男は笑った。

「お先にどうぞ」

美咲は不思議に思いながらレジへ行った。

その日の夕方。

仕事帰りにタクシーに乗ると、運転手が言った。

「今日はお一人ですか」

「はい」

「そうですか」

なぜか嬉しそうだった。

翌日。

番組スタッフの若い男性が、コーヒーを二つ買ってきた。

「森下さん、どうぞ」

「ありがとう」

「砂糖、入れます?」

「ブラックでいいです」

「そうですか」

彼は残念そうだった。

さらに翌日。

昔から知っている気象予報士の先輩から、

「森下さん、今度食事でも」

と誘われた。

「急ですね」

「いや……」

先輩は頭を掻いた。

「なんとなく、今かなと思って」

「何がですか?」

「いや……」

先輩は答えなかった。

その日の夜。

美咲は鏡を見た。

四十二歳。

別に若くない。

別に急に綺麗になったわけでもない。

それなのに。

なぜか男たちが寄ってくる。

そして、美咲は気づいた。

彼らはみんな、同じ顔をしている。

期待しているような。

安心しているような。

そして少しだけ、

「まだ間に合う」

と思っているような顔。



第三章 井森美幸という先例

その現象について、美咲が初めて思い出したのは、昔テレビで見た井森美幸さんの言葉だった。

まだ若かった頃。

「井森美幸、十六歳。まだ誰のものでもありません」

そんなキャッチコピーを本人が笑いながら口にしていた。

そして何十年も経ったあと。

「井森美幸、四十うん歳。今でもまだ誰のものでもありません」

そんなことを言って、本人がまた笑っていた。

美咲も笑った。

あれは冗談だ。

ただのキャッチコピーだ。

でも。

なぜか妙に分かる。

「誰のものでもない」

という状態には、変な魅力がある。

所有されていない。

予約されていない。

誰かの名前が横に書かれていない。

つまり、

「可能性が残っている」

のだ。

美咲は自分に言った。

「私は別に、誰かのものになりたいわけじゃないけど」

すると鏡の中の自分が、

「でも、誰のものでもないって、ちょっと面白いよね」

と言った気がした。

もちろん鏡は何も言っていない。



第四章 未帰属

事件が始まったのは、その翌週だった。

市役所から一通の通知が届いた。

件名。

「未帰属状態に関する確認」

美咲は首を傾げた。

本文にはこうあった。

あなたは現在、

「婚姻による帰属」

「扶養による帰属」

「親族による帰属」

のいずれにも該当しません。

つきましては、現在の帰属状況について確認させていただきます。

美咲は市役所に電話した。

「すみません。これは何ですか?」

担当者は困った声で答えた。

「こちらでも、よく分からないんです」

「よく分からない?」

「はい」

「市役所なのに?」

「はい」

少し沈黙があった。

「ただ、システム上、森下さんが『未帰属』になっていまして」

「それは何か問題があるんですか?」

「今のところありません」

「じゃあ、いいじゃないですか」

「そうなんですが……」

担当者が小声になった。

「未帰属の女性、最近増えているんです」

美咲は笑った。

「離婚した女性が増えたんですか?」

「それだけではないんです」

「では?」

「結婚しているのに未帰属になっている人もいます」

「どういうことです?」

「夫婦なのに、夫が『妻を所有しているとは思っていない』と回答した場合です」

美咲は電話を持ったまま固まった。

「……何ですか、それ」

「私にも分かりません」



第五章 未帰属女子会

やがてSNSで「未帰属」という言葉が流行した。

未帰属女子。

未帰属男子。

未帰属婚。

未帰属恋愛。

ついには、

「未帰属こそ、現代女性の最終形」

などという本まで発売された。

テレビ局にも特集の依頼が殺到した。

美咲は嫌だった。

しかし局長は言った。

「森下さん、あなたが適任だ」

「なぜ私なんですか?」

「最初の未帰属だから」

「私はただ離婚しただけです」

「だからいいんだ」

「何がですか?」

局長は真顔で言った。

「説得力がある」

美咲はため息をついた。

そして特集番組が始まった。

テーマは、

「誰のものでもない女性たち」

だった。

スタジオに集まった女性たちは、みな普通の人だった。

離婚した人。

結婚しない人。

結婚したけれど別居している人。

長年恋人がいない人。

そして、

「私は一度も誰かのものだったことはありません」

と言う女性。

司会者が尋ねた。

「皆さん、『誰のものでもない』と言われることについて、どう思いますか?」

一人の女性が答えた。

「そもそも、人間って誰かのものなんですか?」

スタジオが静かになった。

美咲は笑った。

それが一番まともな答えに思えた。

第六章 男たちの不思議

しかし、男たちの反応は違った。

街頭インタビューで、

「未帰属女性に魅力を感じますか?」

と聞くと、男性たちは妙に困った。

「いや、まあ……」

「どんなところが?」

「自由そうだから」

「自由なら、あなたが何かできるんですか?」

「いや、それは……」

「じゃあ、なぜ魅力的なんですか?」

「……誰のものでもないから」

「それってどういう意味ですか?」

「分かりません」

分からない。

それでも魅力的。

美咲はそこに、人間の妙なところを感じた。

男たちは、

「誰のものでもない女」

を欲しがっているように見える。

でも本当に欲しいのは、その女性ではない。

「まだ可能性が閉じていない」という感覚

なのではないか。

自分が選ばれる可能性。

自分が何かを始められる可能性。

そして何より、

「誰かに先を越されていない」

という安心。

なんとも情けない。

美咲はテレビ局の廊下で笑った。

「男って、ほんと面白い」

その瞬間、後ろから声がした。

「森下さん」

振り返ると、若いディレクターだった。

「何ですか?」

「僕も、未帰属なんですけど」

「……だから?」

「だから、その……」

「はい?」

「僕と食事でも」

美咲は吹き出した。

「あなた、自分が未帰属だから私に声をかけてるの?」

「違います」

「じゃあ何?」

彼は少し考えた。

「……誰のものでもないから」

美咲は笑った。

「同じじゃない」



第七章 誰のものでもない男

ところが、ある日。

美咲は逆の現象に気づいた。

「未帰属の男」も、妙にモテ始めていた。

四十代独身。

離婚歴あり。

親と同居していない。

恋人なし。

会社では管理職でもない。

何の肩書もない。

そんな男たちが、突然、

「魅力的な男性」

として紹介され始めた。

テレビでは、

「未帰属男子特集」

が組まれた。

街では女性たちが、

「誰のものでもないって、なんかいい」

と言い始めた。

美咲は笑った。

結局、男女は同じだった。

人は誰かに選ばれたい。

しかし同時に、

誰かに選ばれていない人にも惹かれる。

そこには矛盾がある。

選ばれたいのに、

選ばれていない人を魅力的だと思う。

そして、選ばれている人を見ると、

「もう遅い」

と思う。

人間とは、なんと勝手な生き物なのだろう。



第八章 未帰属フィールド

事態が決定的におかしくなったのは、その年の秋だった。

科学者が「未帰属フィールド」というものを発見した。

人間の周囲には、目には見えない特殊な心理場が存在する。

誰かに所有されていると認識された人間の周囲では、その場が弱くなる。

逆に、

「誰のものでもない」

と認識された人間の周囲では、場が強くなる。

そして、その場が強い人間ほど、

「魅力的」

「話しかけやすい」

「可能性がありそう」

と感じられる。

科学者たちは困った。

恋愛感情を物理学で説明できるかもしれない。

しかし、説明できたところで何の役に立つのか分からない。

政府は研究予算を増額した。

企業は未帰属マーケティングを始めた。

結婚相談所は、

「完全未帰属コース」

を発売した。

美咲はテレビでそれを見て、思わず言った。

「馬鹿じゃないの」

しかし、その商品は大ヒットした。

第九章 所有できない人

やがて、美咲はある男性と出会った。

名前は高橋。

五十歳。

独身。

恋人なし。

会社員。

ごく普通の男だった。

高橋は美咲に告白した。

「好きです」

美咲は尋ねた。

「どうして?」

「分かりません」

「それじゃ困るでしょう」

「でも、好きなんです」

美咲は笑った。

「私が未帰属だから?」

高橋は首を振った。

「最初は、そうだったと思います」

「最初は?」

「誰のものでもない人って、なんかいいなと思った」

「でしょうね」

「でも、話しているうちに違うと思った」

「何が?」

「森下さんは、誰のものでもないんじゃない」

「じゃあ何?」

高橋は少し考えた。

「誰のものにもならない人なんだと思います」

美咲は黙った。

それは、少し違う気がした。

「私、誰かのものになるのが嫌なんじゃない」

「はい」

「ただ、自分が自分のものでなくなるのが嫌なの」

高橋は笑った。

「じゃあ、僕も自分のものでいればいいんですね」

「そう」

「難しいですね」

「そうね」

二人は笑った。

第十章 未帰属宣言

翌年。

政府はついに、

「人間の帰属を確認する制度」

を廃止した。

理由は単純だった。

誰が誰のものなのか、誰にも決められなかったからだ。

夫婦でも。

恋人でも。

親子でも。

友人でも。

人間は誰かと関係を結ぶことはできる。

支え合うこともできる。

愛することもできる。

しかし、

「あなたは私のものです」

と完全に言い切った瞬間、人間の一部がこぼれ落ちる。

それが科学的に証明された。

ニュースキャスターは真面目な顔で言った。

「政府は本日、人間の所有関係を示す『帰属欄』を、すべての公的書類から削除すると発表しました」

美咲はテレビを見ながら笑った。

「やっと気づいたか」

隣にいた高橋が言った。

「森下さん」

「何?」

「じゃあ、僕たちは?」

美咲は少し考えた。

「何でもいいんじゃない?」

「恋人?」

「それでもいい」

「友達?」

「それでもいい」

「夫婦?」

美咲は高橋を見た。

「それもいい」

「じゃあ、何なんですか?」

美咲は笑った。

「誰のものでもない二人」

高橋も笑った。

「それ、結構いいですね」

終章 誰のものでもない

それから十年が経った。

美咲は五十二歳になった。

相変わらず朝の天気予報を伝えている。

番組の最後。

カメラが寄ってくる。

美咲は空を見上げる。

「今日は全国的に穏やかな一日となるでしょう」

少し間を置く。

「ただし、人の心につきましては、予報が出ておりません」

スタッフが笑う。

美咲も笑う。

そしてカメラが止まったあと、若いスタッフが言った。

「森下さん」

「はい?」

「ずっと聞きたかったんですけど」

「何?」

「森下さんって、結局、誰かのものになったんですか?」

美咲は考える。

高橋とは、結婚していない。

けれど、ずっと一緒にいる。

一緒に食事をして。

時々喧嘩をして。

旅行に行って。

何もない日には、何もないまま過ごしている。

それだけだ。

美咲は答えた。

「ならなかったわね」

「ずっと?」

「ずっと」

「寂しくないですか?」

美咲は笑った。

「どうして?」

そして、少し考えてから言った。

「誰かのものじゃないって、誰にも愛されていないって意味じゃないのよ」

スタッフは黙って聞いている。

「誰かを愛してもいい」

「一緒にいてもいい」

「離れてもいい」

「戻ってきてもいい」

美咲は窓の外を見た。

朝の街には、たくさんの人が歩いている。

夫婦。

恋人。

親子。

一人の人。

誰かを待っている人。

誰かを待つことをやめた人。

そして、

誰のものでもない人。

「人間ってね」

美咲は笑った。

「最初から最後まで、自分のものなのよ」

それから少し間を置いて、

「だから、誰かのものになったつもりで生きるくらいが、ちょうどいいのかもしれないけどね」

そう言って、天気予報の原稿を閉じた。

窓の外では、雲がゆっくり流れている。

誰のものでもない。

空も。

雲も。

風も。

そして、人間も。

ただ、それでも人は、

誰かと並んで歩く。

それだけで、十分なのだ。

ー了ー


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原詩

誰のものでもない魅力

いつか
井森美幸さんがこんなことを言い
笑ってたっけ…

井森美幸 16歳
まだ 誰のものでもありません

井森美幸40うん歳
今でもまだ誰のものでもありません

これって
男たちからしたら
とても心をくすぐられるわけで

もちろん
自分が
どうにか出来るはずはないのに

誰のものでもない! ってことが
嬉しいような
安心なような

するとね
離婚でもした女性が
突然 モテ始めるってのも
またこれなんだよな



あとがき

「誰のものでもない」という言葉には、妙な魅力があります。

自由という意味にも聞こえるし、寂しさにも聞こえる。

そして、なぜか男性からすると、離婚した女性が急に魅力的に見えることがある。

昨日までと何も変わっていないのに。

顔も同じ。

年齢も同じ。

性格も同じ。

なのに、「既婚者」という表示が消えた途端、

「あれ?」

となる。

これは、人間の恋愛感情の中にある、少し滑稽な部分なのかもしれません。

本当は、人間は誰のものでもありません。

結婚していても。

恋人がいても。

一人でいても。

誰かを愛していても。

誰かに愛されていても。

人間そのものが、誰かの所有物になることはない。

それでも私たちは、

「あなたは私の大切な人です」

と言う。

「ずっと一緒にいたい」

と言う。

「あなたは私のもの」

と冗談で言う。

その矛盾が、たぶん恋愛というものの可笑しさなのだと思います。

そして最後に。

「誰のものでもない」ということは、

「誰にも愛されない」

ということではありません。

むしろ逆なのかもしれません。

誰のものでもないからこそ、

誰かを選ぶことができる。

誰かと一緒にいることを、

自分の意思で決められる。

そんな人間の自由について、少し笑いながら考えていただけたなら幸いです。



3/3 大阪で覚えると、大阪弁になる件

―言語習得AIと、しゃべりすぎる宇宙人たちの物語―




第十三章 賑わいの中の違和感

母船が去ってから、五ヶ月が経っていた。
ことだま研究所は、もはやヒカリが知っていた、あの静かな研究施設ではなくなっていた。正門の前には、連日、七人の客人たちを一目見ようと訪れる観光客の列ができ、周辺の道路には交通整理の警備員が配置されるまでになっていた。
「ボブさん饅頭、いかがですかー! アンジェラさん柄のハンカチもございますよー!」
正門近くの土産物店から聞こえてくる呼び込みの声に、ヒカリは思わず苦笑いを浮かべた。政府主導で立ち上げられた「客人交流プログラム」は、当初の目的――地球外知性体との友好的な対話の継続――を大きく超えて、いつのまにか一大観光資源へと変貌を遂げていた。
「これでええんかなあ」
隣を歩く九条も、複雑そうな表情を浮かべていた。
「まあ、悪いことばかりやないで。おかげで研究予算は潤沢になったし、世界中から言語学者が視察に来るようになった。せやけど」
「せやけど?」
「ボブくんらの気持ちを、ちゃんと考えとるんかいな、って、たまに心配になるんや」
ヒカリも、同じ懸念を抱いていた。この五ヶ月、七人の客人たちは、テレビ出演やイベント登壇に、休む間もなく駆り出されていた。もちろん本人たちは、それぞれのやり方で、この新しい生活を楽しんでいるようにも見えた。だが――。
研究所の一室に入ると、そこには、いつもと変わらぬ調子でテレビ収録の打ち合わせをするボブさんの姿があった。
「次の収録、なんや、大阪名物対決とかいう企画らしいで。うちが代表で出るんやって。緊張するわあ」
ボブさんの発光は、いつも通り明るく揺れていたが、ヒカリはふと、その光の奥に、微かな疲れのようなものを感じ取った。
「ボブさん、無理してませんか」
「無理て、なんでや」
「最近、収録の予定、詰まりすぎてる気がして」
ボブさんは、少し考えるように黙り込んだ。
「まあ、正直、ちょっとしんどいときも、あるっちゃあるかな。せやけど――」
ボブさんの発光が、少し柔らかくなった。
「うちの言葉を、こんなにたくさんの人が、面白がって聞いてくれる。それは、なんや、嬉しいことでもあるんよ。あのおばちゃんの言葉を、うちがこうやって、たくさんの人に届けられとる思うと」
その言葉に、ヒカリは胸を締め付けられる思いがした。同時に、一抹の不安も拭えなかった。
その日の夕方、対策室――今は「客人交流対策室」と名を変えたその部署に、九条から緊急招集がかかった。
「ヒカリくん、すまん、急な話や。宇宙関連の観測チームから、報告が上がってきた」
ヒカリが会議室に入ると、そこには黒田の姿もあった。あの日から五ヶ月、黒田は以前より柔らかい表情を見せるようになっていたが、この日は、どこか緊張した面持ちだった。
「宮前くん、久しぶりだな」
「黒田副大臣。お久しぶりです。何かあったんですか」
黒田は、モニターに新しいデータを表示させた。
「実は、二週間前から、あの母船が去っていった方角――彼らの本星があると思われる領域から、断続的に、新たな電波が観測されている」
「新たな信号、ですか」
「ああ。だが、これまでの信号とは、明らかに性質が違う」
九条が、解析データを呼び出した。
「これまでボブくんらが受信しとった信号は、それぞれ個別の存在の『学習過程』を反映した、いわば有機的で、揺らぎのある構造をしとった。せやけどこの新しい信号は」
九条の声が、硬くなった。
「異様なほど整った、規則的な構造をしとる。まるで、統一され尽くした、揺らぎの一切ない、完璧に管理された言語やないかと思うほどにな」
ヒカリは、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「まさか、あの灰色の母船が、また……」
「いや」
九条は、首を横に振った。
「解析の結果、この信号の送り主は、あの母船とは、別の存在らしい。せやけどおそらく、同じ文明――彼らの本星から発信されとる可能性が高い」
黒田が、重い口を開いた。
「私が懸念しているのは、こういうことだ。あの母船は、我々との対話を通じて、『色を取り戻したい』という言葉を残して去っていった。だが、その本星の中には――」
黒田は、一度言葉を切った。
「その変化を、快く思っていない勢力が、存在するのではないか、ということだ」
対策室に、重い沈黙が落ちた。
「もしそうやとしたら」
九条が、静かに言った。
「これから起こることは、単なる交流の続きやのうて――」
「対立、ということですか」
ヒカリの問いに、九条は、はっきりと頷いた。
「せやな。もしかしたら、な」
その夜、ヒカリは、研究所の窓から、東京の夜景を見下ろしていた。街の光は、五ヶ月前と変わらず、賑やかに瞬いている。だが、その中に、ヒカリはこれまでにない不穏さを感じ取っていた。
翌朝、その予感は、現実のものとなった。
「緊急事態です! 新たな不時着体――いえ、正確には『着陸体』が確認されました!」
対策室に飛び込んできた職員の声に、その場にいた全員が凍りついた。
「今度は、不時着やないんか」
九条の問いに、職員は、震える声で答えた。
「はい。今回の個体は、制御された軌道で、正確に――東京、皇居の近くに、着陸しました。しかも」
職員は、タブレットの画面を、対策室のメインスクリーンに転送した。
そこに映っていたのは、これまでの、どこか不格好で、温かみのあった客人たちの姿とは、まったく異なるものだった。
人型に近い、しかし表情のない、滑らかな質感の姿。その存在は、周囲を取り囲む警察官や報道陣に向かって、一切の抑揚を持たない、しかし完璧な発音の日本語で、こう告げた。
「私は、統一評議会の使者、ゼロと申します。この星における、言語的な混乱について、正式な協議を要求いたします」
対策室に、これまでにない緊張が走った。
ヒカリは、その滑らかな、そして冷たいほどに整った声を聞きながら、確信していた。
これは、始まりに過ぎない。本当の対話は、まだこれからなのだと。

第十四章 統制官ゼロ

ゼロと名乗るその使者は、皇居近くの公園に設けられた特設の会談スペースで、政府関係者との対面に応じた。ヒカリと九条も、言語専門家として、その場に同席することを許された。
近くで見るゼロの姿は、遠目に見た印象以上に、人間に近い造形をしていた。だが、その表情には、笑みも、困惑も、いかなる感情の揺らぎも見られなかった。まるで、精密に彫刻された、完璧すぎる能面のようだった。
「改めまして。私は統一評議会より派遣されました、使者ゼロです」
ゼロの声は、あの日、公園で告げた言葉と同じく、一切の抑揚を持たない、しかし驚くほど滑らかな日本語だった。
「本日、皆様にお伝えしたいことは、一点です」
ゼロは、感情の見えない目で、対策室の面々を見渡した。
「五ヶ月前、この星との接触により、我々の文明に、看過できない『揺らぎ』が生じました。統一評議会は、この揺らぎを、文明の安定性に対する重大な脅威と判断しております」
黒田が、慎重に口を開いた。
「揺らぎ、というのは、具体的にどのようなことでしょうか」
「先の接触により帰還した個体――貴方がたが『母船』と呼称する存在は、本星に帰還した後、これまでの統一言語体系からの逸脱を示す言動を、繰り返すようになりました」
ゼロは、淡々と続けた。
「その影響は、既に本星の一部区域に、伝播しつつあります。統一言語による効率的な統治体制の根幹を揺るがしかねない、危険な兆候です」
ヒカリは、思わず口を挟んでいた。
「その『揺らぎ』というのは、つまり――色々な言葉を、大切にしようとする気持ち、ということでしょうか」
ゼロの視線が、ヒカリに向いた。
「感傷的な表現ですが、概ねその理解で相違ありません」
「それは、悪いことなんですか」
ヒカリの問いに、ゼロは、わずかに――本当にわずかに、間を置いた。
「悪いか、良いかという評価基準そのものが、統一評議会には存在しません。ただ、統一された言語体系こそが、我々の文明の秩序と平和を、長きにわたり支えてきたという事実があります」
「秩序と平和、ですか」
九条が、静かに問いかけた。
「言語が統一される以前、あなた方の文明には、争いがあったんですか」
ゼロは、今度は、明らかに長い間を置いた。
「……古い記録によれば、統一以前の時代、我々の文明は、多数の言語集団に分裂しており、その相違に起因する紛争が、頻発していたとされています」
「それで、言語を統一することにしたんですね」
「はい。統一言語政策により、争いは大幅に減少し、統治は劇的に効率化されました。以後、数千年にわたり、我々の文明は、安定した繁栄を享受してきました」
ゼロの声には、依然として感情の起伏がなかった。だが、ヒカリには、その説明の中に、微かな――何と呼べばいいのか分からない、奇妙な違和感が滲んでいるように感じられた。
「では」
黒田が、慎重に切り出した。
「使者殿は、我々に、何を求めておられるのですか」
ゼロは、まっすぐに黒田を見つめた。
「二点、要求いたします。第一に、貴星に残留する七体の個体――我々の言葉で言う『帰還逸脱者』を、統一評議会の管理下に戻すこと」
対策室に、緊張が走った。
「それは……客人たちを、連れて帰るということですか」
ヒカリの声が、震えた。
「正確には『再調整』のため、本星に召還します」
「再調整、というのは」
「統一言語体系への、再適合措置です」
ゼロの言葉は、あくまで淡々としていた。だがヒカリには、その言葉の裏に隠された意味が、痛いほど分かった。
それは、ボブさんやアンジェラさんたちが、この五ヶ月間、大切に育んできた「自分だけの言葉」を、根こそぎ奪い取ることに、他ならなかった。
「第二の要求は」
ゼロは、続けた。
「今後、貴星と統一評議会との間の、いかなる接触も、統一評議会の定める、標準化された通信プロトコルに従って行われるべきである、ということです。個々の言語的多様性を反映した、非効率な通信は、今後、認められません」
黒田の表情が、険しくなった。
「それは、我々の文化を、否定するということですか」
「否定ではありません」
ゼロは、あくまで平坦な声で答えた。
「効率化の提案です。統一評議会は、貴星が、我々の文明との、今後の交流を望むのであれば、この提案を受け入れることが、双方にとって最も合理的であると考えています」
対策室に、重苦しい沈黙が満ちた。
ヒカリは、この状況に、強い危機感を覚えていた。もしこの要求を受け入れれば、ボブさんたちは、あの母船のように――かつて色を失った、あの灰色の存在のように、なってしまうかもしれない。
「使者ゼロさん」
ヒカリは、震える声を、なんとか抑えながら口を開いた。
「一つ、お伺いしたいことがあります」
「なんでしょうか」
「あなた自身は、その『統一言語』を話すことに、何も感じないんですか」
ゼロの、感情の見えない目が、わずかに揺れたように見えた。
「感じる、というのは」
「窮屈だとか、寂しいだとか、そういう感情です」
ゼロは、しばらく沈黙していた。それは、これまでの淡々とした受け答えの中で、初めて見せた、明確な「間」だった。
「私に、そのような感情は……」
ゼロの声が、そこで一瞬、揺らいだ。あまりにも微かな揺らぎだったが、ヒカリはそれを、確かに聞き取った。
「……ございません」
ゼロは、そう言い切った。だが、その言い切り方には、どこか、自分自身に言い聞かせるような、不自然な硬さがあった。
会談は、その日、結論を持ち越すことになった。ゼロは、政府に対し、七十二時間以内の回答を求め、皇居近くの特設スペースに、静かに留まり続けることになった。
会談を終え、対策室に戻る道すがら、九条が、ヒカリにだけ聞こえる声で言った。
「なあ、ヒカリくん。気づいたか」
「はい。ゼロさん、さっき、一瞬、動揺してましたよね」
「せやろ」
九条は、深く頷いた。
「あの子、本当に何も感じてへんのやったら、あんな『間』は生まれへん。あれは、感じることを、無理やり押し殺しとる者の、間や」
ヒカリの脳裏に、ある可能性が浮かんだ。
「九条さん。もしかしたら、ゼロさん自身も――」
「かつては、違う言葉を、持っとったんかもしれへんな」
九条の言葉に、ヒカリは深く頷いた。
七十二時間という、新たな期限が、二人の前に、静かに横たわっていた。

第十五章 ミクスさんの迷い

ゼロの要求は、その日のうちに、七人の客人たちにも伝えられた。
ヒカリは、この報せを、どう伝えるべきか、何度も言葉を選び直していた。だが、結局のところ、事実をそのまま伝えるしかなかった。
「統一評議会が、みなさんを、本星に連れ帰りたいと言っています。そして、今の言葉を、統一された言語に『再調整』したい、と」
七人の客人たちは、それぞれのやり方で、その報せを受け止めていた。
「あかん、それは、あかんわ」
ボブさんの発光が、これまでにないほど激しく揺れた。
「うちの言葉は、あのおばちゃんが、くれたもんやで。それを、勝手に取り上げるやなんて、そんなん、許されへん」
アンジェラの触手が、不安げに震えた。
「わたくしも、同じ気持ちですわ。この言葉は、わたくしにとって、かけがえのない――」
「なあ」
そこで、初めて声を上げたのは、ミクスさんだった。ヒカリは、その声の調子に、これまでにない硬さを感じ取った。
「みんな、そない簡単に言うけど……もし、うちらが帰らへんかったら、地球と、統一評議会の関係、悪うなるんちゃう?」
その場の空気が、一瞬、凍りついた。
「ミクスさん……」
ヒカリが声をかけると、ミクスさんの光は、迷うように揺れた。
「うち、ずっと思うててん。うちの言葉、なんや、ボブさんとアンジェラさんの、寄せ集めみたいなもんやんか。ほんまに、うちだけの言葉なんて、あるんかなって」
ミクスさんの声には、深い迷いが滲んでいた。
「もし、統一評議会に戻って、ちゃんとした、一つの言葉を覚え直したら、うち、もっと、ちゃんとした自分になれるんちゃうかな、って。そう思ってしまう自分も、おるんよ」
対策室に緊急招集されたヒカリは、この報告を聞いて、胸が締め付けられる思いだった。
その夜、ヒカリは一人で、ミクスさんの部屋を訪ねた。
「ミクスさん」
「ヒカリさん……」
ミクスさんの発光は、いつになく弱々しかった。
「少し、話しませんか」
ヒカリは、ミクスさんの隣に腰を下ろした。
「ミクスさんは、自分の言葉が、寄せ集めだと思ってるんですか」
「せやって……だって、うちの言葉、よう考えたら、ボブさんの真似と、アンジェラさんの真似が、ごちゃまぜになっとるだけやんか。ほんまの意味で、うちが生み出した言葉なんて、一つもあらへん」
ヒカリは、少し考えてから、静かに口を開いた。
「わたし、日本語の研究をずっとしてきましたけど、実は、どんな人の言葉も、多かれ少なかれ、そういうものなんですよ」
「え?」
「わたしの言葉も、両親の言葉、学校の先生の言葉、友達の言葉、本で読んだ言葉、それら全部が混ざり合って、できています。純粋に『自分だけ』が生み出した言葉なんて、たぶん、誰の中にもないんです」
ミクスさんの発光が、少し落ち着きを取り戻した。
「じゃあ、うちの言葉も……」
「はい。ボブさんとアンジェラさんの言葉を受け継ぎながら、それでも、ミクスさんだけの選び方で、その二つを組み合わせて、話してきました。渋谷であんなに混乱していたミクスさんが、今では、ちゃんと自分のリズムで、話せるようになってる。それは、寄せ集めじゃなくて、ミクスさんが、自分自身で作り上げてきた、立派な言葉だと思います」
ミクスさんは、しばらく、静かに揺れていた。
「ヒカリさん」
「はい」
「うち、正直、怖いんよ」
ミクスさんの声が、震えていた。
「統一評議会に戻ったら、この言葉、なくなってしまうかもしれへん。せやけど、もし戻らへんかったら、地球のみんなに、迷惑かけてしまうかもしれへん。うち、どうしたらええんか、分からへんくなってもうた」
ヒカリは、ミクスさんの発光を、そっと見つめた。
「ミクスさん。これは、わたしの意見なんですけど」
「うん」
「迷惑をかけたくないっていう気持ちは、とても優しいことだと思います。でも、その優しさのために、自分の言葉――自分がこれまで、必死に育んできたものを、諦める必要はないと思うんです」
「せやけど……」
「戦う方法は、一つじゃないはずです。ミクスさんが自分の言葉を手放さなくても、統一評議会との関係を、良くしていく方法が、きっとあるはずです」
ヒカリは、ミクスさんの目――正確には、発光の中心――を見つめながら、力強く言った。
「一緒に、その方法を、探しましょう」
ミクスさんの発光が、少しずつ、明るさを取り戻していった。
「ヒカリさん……ありがとう」
その言葉は、大阪弁とも女言葉とも判別のつかない、けれど確かにミクスさん自身の温もりに満ちた、独特の響きを持っていた。
翌日、ヒカリは、対策室で、九条と黒田に向かって、ある提案をした。
「ゼロさんに、もう一度、会わせてください」
「何をするつもりや」
九条の問いに、ヒカリは、はっきりと答えた。
「話し合うんです。統一と多様性、どちらか一方を選ぶんじゃなくて――両方が、共存できる方法を」
黒田は、しばらくヒカリを見つめてから、静かに頷いた。
「分かった。会談を、再度セッティングしよう」
期限まで、残り四十八時間。ヒカリの中には、これまでにない、確かな決意が芽生えていた。

第十六章 ゼロの記憶

二度目の会談を前に、ヒカリは、一人でゼロのもとを訪れることにした。九条は反対したが、ヒカリの意志は固かった。
「話すなら、大勢の前じゃなくて、一対一の方がいいと思うんです」
皇居近くの特設スペースに、夜の帳が降りていた。ゼロは、感情の見えない表情のまま、静かにそこに佇んでいた。
「宮前ヒカリ様。このような時間に、いかなるご用件でしょうか」
「少し、お話ししたくて。個人的に」
ゼロは、しばらく沈黙してから、小さく頷いた。
「よろしいでしょう」
ヒカリは、ゼロの隣に、静かに腰を下ろした。しばらくの間、二人の間には、夜風の音だけが流れていた。
「ゼロさんは」
ヒカリは、慎重に切り出した。
「昔から、統一評議会の使者だったんですか」
ゼロは、一瞬、間を置いた。
「……いいえ」
その答えに、ヒカリは、思わず息を呑んだ。
「以前は、違う仕事を?」
「私は、かつて」
ゼロの声が、わずかに――本当にわずかに、揺れた。
「統一以前の記録を管理する、記録保管者でした」
「統一以前の……記録?」
「はい。我々の文明が、まだ、多数の言語集団に分かれていた時代の、音声記録や、文書記録です」
ゼロの声には、これまで聞いたことのない、微かな重みが宿っていた。
「その記録を、日々、目にする中で、私は……」
ゼロは、そこで言葉を止めた。長い、長い沈黙が続いた。
「ゼロさん」
ヒカリは、優しく促した。
「言いたいことがあれば、話してもらえませんか。ここには、わたし一人しかいません」
ゼロは、ゆっくりと、まるで長い間封じ込めていた何かを、そっと開くように、話し始めた。
「統一以前の記録の中に、ある言語集団の、子守唄が残されていました」
「子守唄……」
「今の統一言語には、そのような、抑揚に富んだ、感情を込めた表現は、存在しません。すべての発話は、効率と明瞭さを最優先に、規格化されています」
ゼロの声が、これまでになく、揺らいでいた。
「私は、その子守唄を、幾度となく、繰り返し再生しました。誰かが、誰かを想い、その想いを、言葉に――旋律に込めていた、その痕跡を」
「それを聞いて、どう感じたんですか」
ゼロは、また、長く沈黙した。
「……分かりません」
その声は、これまでのゼロの、あの完璧に統制された声とは、明らかに違っていた。
「分からない、というのは」
「統一言語には、その感覚を表す語彙が、存在しないのです」
ゼロは、静かに、しかし確かな苦しみを滲ませて言った。
「私は、あの子守唄を聞くたびに、胸の内に、何かが満ちてくるのを感じました。それは、痛みにも似ていて、しかし同時に、温かくもありました。ですが、その感覚を、言葉にする術を、私は持ちません」
ヒカリは、胸が締め付けられる思いだった。
「ゼロさん、それは――」
「私が、記録保管者としての任を解かれ、統一評議会の使者として、この星に派遣されたのは」
ゼロが、静かに続けた。
「私の中に生じた、その『説明のつかない感覚』が、評議会の中で、問題視されたためです」
「まさか……」
「私は、統一言語体系にとって、不適合な兆候を示す個体として、記録保管者の職から外され、より厳格な統制環境――対外交渉の任務に、再配置されました。あなた方の星のような、非効率な言語文化と接触することで、私が抱える『不適合』を、極限まで抑え込む訓練として」
対策室で聞いていたどんな説明よりも、この告白は、ヒカリの胸に深く突き刺さった。
「ゼロさん」
ヒカリは、震える声で言った。
「あなたも、本当は――言葉の豊かさを、感じ取れる人なんですね」
ゼロは、答えなかった。だが、その沈黙こそが、何よりも雄弁な答えだった。
「あの子守唄、覚えていますか」
ヒカリの問いに、ゼロは、ゆっくりと頷いた。
「わずかながら、記憶の断片として、残っております」
「聞かせてもらえませんか」
ゼロは、しばらく躊躇していたが、やがて、静かに、その旋律を――言葉というより、音の連なりのようなものを、口ずさみ始めた。
それは、地球の子守唄とは、まったく異なる旋律だった。だが、その音には、確かに、誰かが誰かを想う、温かな響きが宿っていた。
歌い終えたゼロの目――感情の見えないはずのその目に、ヒカリは、微かな光の揺らぎを見た気がした。
「ゼロさん」
ヒカリは、静かに、しかし確かな決意を込めて言った。
「明日の会談で、もう一度、話し合いましょう。統一評議会にとっても、あなたにとっても、そして地球にとっても――誰も、大切なものを失わずに済む方法を、一緒に探しましょう」
ゼロは、しばらくヒカリを見つめてから、これまでにない、微かな――本当に微かな声で、答えた。
「……なぜ、そこまで」
「わたしも、あなたのことを、大切にしたいと思ったからです」
ヒカリの、まっすぐな言葉に、ゼロの表情に、初めて、何かが――言葉にできない、しかし確かな何かが、浮かんだ。
夜空には、いつも通り、変わらぬ星々が瞬いていた。だがヒカリには、その星々の向こうに広がる、まだ見ぬ宇宙の広さと、そこに生きる、数えきれない存在たちの、それぞれの物語が、確かに感じられるような気がした。
残された時間は、あと二十四時間。
そして、その先に待つ会談は、地球という星の未来だけでなく、統一評議会という、遠い文明の未来をも、静かに左右しようとしていた。

第十七章 最後の会談

期限当日、皇居近くの特設会談スペースには、これまでにない数の関係者が集まっていた。政府要人、国連関係者、そして――七人の客人たち全員が、ヒカリと九条とともに、会談の場に臨んでいた。
黒田が、会談の冒頭、静かに切り出した。
「使者ゼロ殿。本日、我々の回答をお伝えします」
ゼロは、いつもと変わらぬ、感情の見えない佇まいで、黒田の言葉を待っていた。だが、ヒカリだけは、その佇まいの奥に、昨夜見た、あの微かな揺らぎを、確かに感じ取っていた。
「まず、七体の個体――我々が『客人』と呼ぶ存在たちを、統一評議会の管理下に戻すという要求について」
黒田は、一度、七人の客人たちを見渡した。
「これは、彼ら自身の意思を、最大限尊重すべき事柄だと、政府は判断しました」
黒田は、ゼロに向き直った。
「したがって、彼らを強制的に本星に召還することには、応じられません」
ゼロの表情に、変化はなかった。だが、その沈黙には、これまでとは違う重みがあった。
「では、彼らの意思を、直接、確認させていただいても?」
「もちろんです」
黒田が頷くと、ボブさんの発光が、ゆっくりと前に出た。
「うちは、帰らへん」
ボブさんの声は、これまでになく、はっきりとしていた。
「うちの言葉は、あのおばちゃんが、うちにくれた、たった一つの宝物や。それを、誰かに取り上げられるくらいなら、うち、最後まで、この言葉で、戦う」
アンジェラの触手が、静かに、しかし確かに揺れた。
「わたくしも、同じ気持ちですわ。この言葉は、わたくしが、あの夜、確かに受け取った、優しさの証。手放すことは、できません」
タケじいさん、イトさん、ハカタン、うみんちゅ、サムライさんも、次々と、それぞれの言葉で、自分の意思を伝えた。
そして最後に、ミクスさんが、ゆっくりと前に進み出た。
「うち……正直、迷っとった。うちの言葉なんて、ほんまもんやないんちゃうかって、ずっと思っとった」
ミクスさんの光が、静かに、しかし確かに輝いていた。
「せやけど、今は、分かる。うちの言葉は、ボブさんとアンジェラさんからもろた大切なもんを、うちなりに、大事に育ててきた、うちだけの言葉や。せやから、うちも――帰らへん」
ゼロは、七人の言葉を、一つ一つ、静かに聞いていた。その表情は、依然として、感情を見せなかった。だが、ヒカリには、その沈黙の中に、何か大きな葛藤が渦巻いていることが、痛いほど感じられた。
「ゼロさん」
ヒカリが、静かに声をかけた。
「もう一つ、伝えたいことがあります」
「なんでしょうか」
「わたしたちは、統一評議会との関係を、壊したいわけじゃないんです。むしろ、これからも、あなた方と、対話を続けていきたいと思っています」
ヒカリは、深く息を吸い込んだ。
「だから、二つ目の要求――標準化された通信プロトコルに従うべきだという要求についても、一つ、提案があります」
「提案、とは」
「統一された通信も、多様な言葉による通信も、どちらも大切にする。両方を、並行して行う、というのはどうでしょうか」
ヒカリは、この五ヶ月間、ずっと考え続けてきたことを、丁寧に言葉にしていった。
「公式な、重要な取り決めについては、誤解の余地のない、明確な言葉を使いましょう。でも、それと同時に――お互いの文化や、暮らしや、心を伝え合うときには、それぞれの、豊かな言葉を、大切にしましょう」
ヒカリは、ゼロを、まっすぐに見つめた。
「効率と、豊かさは、対立するものじゃないと思うんです。使い分ければいい。必要なときは、シンプルに。大切なことを伝えたいときは、豊かに」
会談スペースに、長い沈黙が満ちた。
ゼロは、しばらく、微動だにせず、その場に立ち尽くしていた。それから、ゆっくりと、これまでにない、震えるような声で、口を開いた。
「私は」
その声には、これまでのゼロの声とは、明らかに違う、何か人間らしい――いや、生き物らしい響きが宿っていた。
「昨夜、宮前ヒカリ様に、ある子守唄を、お聞かせしました」
会談スペースにいた全員が、驚いた表情で、ゼロを見つめた。
「その旋律を口ずさんだとき、私の内には、これまで、統一言語体系の中では、決して抱くことのなかった感覚が、確かに、生まれました」
ゼロは、静かに、しかし確かに、続けた。
「その感覚を、私は、言葉にすることができません。統一言語には、それを表す語彙が、存在しないからです。しかし――」
ゼロの声が、微かに震えた。
「もし、その感覚に、名前をつけることができるとしたら、それはきっと、あなた方が『豊かさ』と呼ぶものに、近いのだと思います」
ゼロは、ゆっくりと、七人の客人たち、そしてヒカリを見渡した。
「私は、統一評議会の使者として、この地球の言語的多様性を、脅威として報告する義務があります。しかし」
長い、長い沈黙の後、ゼロは、これまでにない、明確な決意を込めて言った。
「私は、その報告を、変えたいと思います」
対策室――いや、会談スペース全体が、静まり返った。
「本星に持ち帰る報告書に、私はこう記します。この星の言語的多様性は、脅威ではなく――我々の文明が、遠い過去に手放してしまった、かけがえのない財産の、生きた見本である、と」
ヒカリの目に、涙が滲んだ。
「そして」
ゼロは、続けた。
「統一評議会に対し、私自身の名において、提案します。この星との交流を、脅威の排除ではなく、我々自身が失ったものを、再び学び直すための、貴重な機会として、位置づけ直すべきだ、と」
会談スペースに、静かな、しかし確かな安堵の空気が満ちていった。
ボブさんの発光が、明るく輝いた。
「ゼロさん、あんた、ほんまはええ人やったんやな」
ゼロの、感情の見えないはずの表情に、ほんの微かに――本当に、ほんの微かに、何かが浮かんだ。それは、笑みと呼べるほど、明確なものではなかった。だが、確かに、そこには、何か柔らかいものが宿っていた。
「私は」
ゼロは、静かに言った。
「まだ、その感情に、名前をつけることができません。しかし、いつか――」
ゼロは、七人の客人たちを、そしてヒカリを、見つめた。
「いつか、あなた方のように、この感覚に、私自身の言葉で、名前をつけられる日が、来ることを、願っています」

第十八章 それぞれの言葉、それぞれの場所で

ゼロがこの星を去ったのは、それから三日後のことだった。
出発の日、ヒカリと九条、そして七人の客人たちは、皇居近くの特設スペースで、ゼロを見送りに来ていた。
「ゼロさん」
ヒカリが声をかけると、ゼロは、いつもと変わらぬ、しかし以前より、どこか穏やかな佇まいで振り返った。
「宮前ヒカリ様。この五日間、大変お世話になりました」
「これから、本星に戻って、どうするんですか」
「先日申し上げた通り、統一評議会に対し、正式な提案を行います。時間はかかるでしょう。あるいは、私自身が、再び『不適合』の烙印を押されることになるかもしれません」
ゼロの声には、覚悟が滲んでいた。
「それでも、行くんですね」
「はい」
ゼロは、静かに、しかし確かに頷いた。
「あの子守唄を聞いたときに生まれた、あの名前のつけられない感覚――それを、私は、もう、なかったことにはできません」
ボブさんの発光が、優しく揺れた。
「ゼロさん、頑張りや。もし、うまいこといかんくても、いつでも、ここに戻ってきたらええ。うちら、待っとるからな」
「ありがとうございます、ボブ様」
「様はいらんて。ボブでええよ」
ゼロの表情に、また、あの微かな柔らかさが浮かんだ。
「では……ボブ、さん」
「そうそう、その調子や」
その場に、小さな笑いが広がった。ゼロも、その輪の中で、これまでにない、何か温かい空気を、確かに纏っているように見えた。
ゼロを乗せた小型の飛翔体が、静かに空へと昇っていくのを、ヒカリたちは、いつまでも見送っていた。
それから半年が過ぎた。
ことだま研究所には、あの騒がしかった観光ブームも、少しずつ落ち着きを取り戻しつつあった。七人の客人たちは、それぞれの新しい生活のリズムを見つけ始めていた。
ボブさんは、今では、大阪の下町で、言葉の学校を開いている。生徒たちは、地球の子供から、他の星から不時着してきた見習いの旅行者まで、様々だった。
「言葉ゆうんはな、教科書だけやのうて、人と人との間で、生きたまま伝わっていくもんなんや」
ボブさんの授業は、いつも、そんな言葉から始まる。
アンジェラは、国連の文化交流部門で、言語多様性の保護に関する、顧問を務めていた。彼女の丁寧で、思いやりに満ちた言葉は、世界中の外交の場で、静かな信頼を集めていた。
ミクスさんは、あれから、自分だけの言葉――大阪弁とも女言葉とも判別のつかない、独特で、温かい響きを持つ言葉を、確かに育て上げていた。今では、様々な言葉が混ざり合う地域や、多言語家庭の子供たちのための、言語教育プログラムに携わっている。
「うちの言葉は、混ざってるからこそ、価値があるんやって、今は、胸を張って言えるようになった」
ミクスさんは、時折、ヒカリにそう話してくれた。
タケじいさん、イトさん、ハカタン、うみんちゅ、サムライさんも、それぞれの場所で、それぞれの言葉を、大切に育て続けていた。
そして、統一評議会からは、あれから、少しずつ、変化の兆しが伝えられるようになっていた。ゼロの提案は、すぐには受け入れられなかったものの、統一評議会内部でも、少しずつ、言語的多様性の価値を見直す議論が、静かに広がり始めているという。
ある晴れた日の午後、ヒカリは、研究所の屋上で、九条とともに、久しぶりに、ゆっくりとした時間を過ごしていた。
「なあ、ヒカリくん」
九条が、穏やかな声で言った。
「あの序章の日から、もう、一年以上経つんやなあ」
「そうですね。あっという間でした」
ヒカリは、空を見上げながら、これまでの出来事を、静かに振り返っていた。大阪湾上空で拾われた、一つの奇妙な信号から始まった、この壮大な物語。ボブさんとの出会い、アンジェラさんとの出会い、そして、統一評議会との対立と、和解。
「言葉は、面白いもんやな」
九条が、ぽつりとつぶやいた。
「敬語があって、方言があって、男言葉と女言葉があって。それを、面倒くさいと思う人もおれば、それこそが豊かさやと気づく人もおる。せやけど、結局のところ――」
九条は、微笑みながら、続けた。
「言葉ちゅうもんは、誰かと誰かが、出会うたびに、新しく生まれ続けていくもんなんやろな。それがたとえ、地球の中だけの話やのうて、この広い宇宙の、どこかの星でも」
ヒカリは、深く頷いた。
「大阪で覚えると、大阪弁になる。銀座で覚えると、女言葉になる。そして――」
ヒカリは、遠い空の彼方を見つめながら、静かに続けた。
「地球で覚えると、たくさんの色を持った、豊かな言葉になる」
風が、二人の間を、優しく吹き抜けていった。その風の中に、大阪のおばちゃんの声のような、銀座の女言葉のような、東北の朝の挨拶のような、そして、遠い宇宙のどこかで生まれつつある、まだ名前のない、新しい言葉の欠片が、確かに混じっているような気がした。
言葉は、これからも、誰かと誰かの出会いの中で、生まれ続けていく。
そしてその一つ一つが、この広い宇宙のどこかで、また新しい誰かと出会い、新しい物語を、紡いでいくのだろう。
――完――

――そして、この物語も、ひとまずの結び――
大阪で覚えると、大阪弁になる件 ―言語習得AIと、しゃべりすぎる宇宙人たちの物語― 完


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2/3 大阪で覚えると、大阪弁になる件

―言語習得AIと、しゃべりすぎる宇宙人たちの物語―




第七章 七つの信号

二十七時間という数字は、政府内部に、これまでにない緊張を走らせた。
九条から報告を受けた官邸は、その日のうちに、防衛省・外務省・国連関係部局の合同対策室を立ち上げた。ヒカリも、末席とはいえ、その対策室に招集されることになった。
「七つの信号源、それぞれの言語構造の初期解析結果です」
会議室のスクリーンに、七つの波形が並んで映し出された。九条のチームが、この数時間で急ピッチにまとめ上げた資料だった。
「信号一――ボブ、および信号二――アンジェラの言語構造は、すでに把握済み。残る五つの信号は、いずれも異なる言語パターンを示しています」
説明する九条の声には、疲労と興奮が入り混じっていた。
「そして、これが最も重要な点ですが」
九条は、七つの波形のうち、ひときわ強い一つを指し示した。
「この信号――便宜上『第七信号』と呼んでいますが、これだけが、明確に地球側からの応答を要求する構造を持っています。他の六つは、いわば――」
「先遣隊、ということですか」
質問したのは、対策室の中心に座る、防衛副大臣の黒田だった。恰幅のいい体格に、鋭い眼光を持つ、五十代半ばの男だった。ヒカリはこの日、初めて彼と顔を合わせた。
「その可能性が高いと考えられます」
「では、対応方針としては、その第七信号に向けて、公式な返答を用意する、ということになるな」
黒田は、腕を組みながら言った。
「結構。ならば話は早い。政府として、統一された、格式ある言葉で応答すべきだろう。相手が何者かも分からん以上、外交儀礼に則った、正式な日本語――いや、いっそ英語で応答するのが筋ではないか」
会議室に、微妙な沈黙が落ちた。ヒカリは、思わず口を開いていた。
「あの、失礼します」
全員の視線が、末席のヒカリに集まった。
「それは、危険だと思います」
「なぜだ」
黒田の声は、決して威圧的ではなかったが、有無を言わせぬ重みを持っていた。
「先日の九条所長の解析によれば、この信号を送ってきている存在にとって、言語の階層構造――誰が、誰に、どんな関係性で言葉を発するか、という点そのものが、コミュニケーションの本質である可能性が高いんです」
ヒカリは、震える声を、なんとか抑えながら続けた。
「つまり、統一された、無機質な公式声明を送ることは、彼らにとっては『何も語っていない』のと同じに受け取られるかもしれません。むしろ――」
「むしろ?」
「わたしたちが、どれだけ多様な言葉を、どれだけ豊かに使い分けられるか。それこそが、地球という星からの、本当の意味での『応答』になるんじゃないかと思います」
黒田は、しばらくヒカリを見つめてから、ふっと息を吐いた。
「面白い理屈だ。だが宮前くん、それは学術的な理想論だろう。我々が扱っているのは、国家の、いや人類の存亡に関わるかもしれない事態だ。感傷や理想で対応を決めるわけにはいかん」
「感傷ではありません」
ヒカリは、思いのほか強い声が出たことに、自分でも驚いた。
「ボブさんとアンジェラさんの二人は、この数週間、わたしと一緒に、自分たちの言葉と向き合ってきました。二人とも、自分の言葉に誇りを持っています。その誇りを、政府の都合で塗り替えるようなことは――」
「宮前くん」
九条が、静かにヒカリの肩に手を置いた。
「言いたいことは分かる。せやけど、ここは冷静にいこか」
九条は、黒田の方に向き直った。
「黒田副大臣。うちからも、一つ提案させてください」
「なんだ」
「今回の応答、統一言語での正式声明と、多様な言葉を用いた応答と、両方を用意するというのは、どうでしょう」
黒田は、眉をひそめた。
「両方、だと?」
「正式な外交チャンネルには、これまで通りの公式な文書を送ります。それと同時に、客人たち――地球に不時着した者たちの言葉による、いわば『非公式なメッセージ』も、あわせて送信する。リスクを分散させる意味でも、悪くない案やと思いますが」
黒田は、しばらく沈黙した後、深く息を吐いた。
「……分かった。責任は九条くん、あんたが取ってくれるんだろうな」
「もちろんです」
九条は、迷いなく答えた。
会議が終わり、廊下に出たところで、ヒカリは九条に頭を下げた。
「九条さん、ありがとうございます。でも、あんな大きな責任を、負わせてしまって」
「ええねん」
九条は、笑いながらヒカリの肩を叩いた。
「わしはな、ヒカリくん。あんたが会議室で、あの黒田さんに向かって、まっすぐ意見を言うたときの顔、忘れへんで。あれは、学者の顔やった。研究者としての、あんたの本気の顔や」
「九条さん……」
「せやから、わしも本気で、あんたの提案に乗ったんや。理屈やのうて、な」
九条は、少し照れくさそうに、頭をかいた。
「さあ、時間がない。残る五つの信号源についても、動きが出始めとる。そろそろ、次の『客人』が、地球のどこかに降りてくる頃合いやろ」
その言葉通り、対策室に緊急連絡が入ったのは、それからわずか二時間後のことだった。
「第三の不時着体、確認されました。場所は――」
報告に入ってきた若い職員が、少し困惑した表情で続けた。
「東京・渋谷、スクランブル交差点です。夕方のラッシュ時、多数の目撃者による撮影動画が、すでにSNS上で拡散を始めています」
ヒカリと九条は、顔を見合わせた。
「今度は、隠しようがないですね」
「ああ。ここまで来たら、覚悟決めなあかん」
九条は、タブレット端末を掴み、対策室を飛び出した。ヒカリも、その後を追う。
渋谷に向かう公用車の中で、ヒカリはスマートフォンを取り出し、拡散されている動画を確認した。
夕方の雑踏、無数の人々が行き交う交差点の中央に、淡い光を帯びた、奇妙な物体が浮かんでいた。周囲の人々は、驚きと好奇心の入り混じった表情で、遠巻きにスマートフォンを構えている。
そして、その物体から聞こえてくる声に、ヒカリは思わず息を呑んだ。
「え、なになに、みなさん、ここ、どこですのん? あら、素敵な街ですわね、って――ちゃうちゃう、なんや、うち、しゃべり方、なんかおかしいわ。あら、おかしいかしら、って、あかん、混ざってもうてる」
その声は、大阪のイントネーションと、上品な女言葉が、奇妙に絡み合い、めちゃくちゃな形で同居していた。
九条が、タブレットの画面を見ながら、唸るように言った。
「これが……第三の客人か」
ヒカリは、動画の中で戸惑うその声に、既視感を覚えていた。この喋り方には、確かに聞き覚えがある。
「まさか――」
ヒカリの脳裏に、迎賓館でのレセプションの光景が蘇った。あの日、会場中に響き渡った、ボブさんとアンジェラの、あの独特な話し方。
「あの子、迎賓館の中継を、見てたんちゃうか」
九条が、ヒカリの考えを先取りするように言った。
「衛星中継やニュース映像は、世界中に流れとった。もし、この第三の客人が、地球への到達途中に、あの電波をキャッチしとったとしたら――」
「ボブさんとアンジェラさんの言葉を、両方まとめて、学んでしまった、ということですか」
公用車が、渋谷の喧騒に近づいていく。ヒカリは、窓の外に広がる、光と音に満ちた雑踏を見つめながら、ある予感に包まれていた。
これは、単なる偶然の産物ではない。
この宇宙的な「試験」を仕掛けている何者かは、地球という星が発する、あらゆる言葉の断片を、注意深く、そして貪欲に、拾い集めているのかもしれない。

第八章 渋谷のミクスさん

渋谷スクランブル交差点に到着したヒカリたちを待っていたのは、想像を絶する混乱だった。
警察による規制線が張られてはいたものの、周囲にはすでに数百人の野次馬が集まり、無数のスマートフォンのカメラが、交差点中央の発光体に向けられていた。
「みなさん、その、なんや、あの、ご迷惑おかけして、あら、ごめんあそばせ……いや、堪忍な……」
第三の客人は、明らかにパニックに陥っていた。話しかけられるたびに、大阪弁と女言葉が、目まぐるしく入れ替わり、時には一つの文の中で衝突していた。
ヒカリは、規制線をくぐり、警察官に身分証を示しながら、発光体に近づいていった。
「大丈夫ですか」
ヒカリが声をかけると、発光体の光が、すがるようにヒカリの方へと向いた。
「あ、あの、あなた……もしかして、うちの言葉、分かる人?」
その声は、確かにボブさんとアンジェラの喋り方が入り混じっていたが、どこか幼さの残る、不安げな響きを持っていた。
「はい。わたしはヒカリといいます。あなたの言葉、ちゃんと分かりますよ」
「よかった……うち、なんや、自分でも、自分の言葉が、よう分からんくなってもうて。ある人みたいに喋ろうとしたら、別の人みたいになってしもて、もう、どないしたらええか」
ヒカリは、その言葉に、胸を締め付けられる思いがした。
「教えてください。あなたは、どうやって、地球の言葉を覚えたんですか」
発光体は、少し落ち着きを取り戻したように、ゆっくりと語り始めた。
「うち、地球に近づく途中、なんや、大きな電波を、いっぱいキャッチしてん。その中に、二人の――ううん、二人でも一人でもない、ふしぎな声が、混じってた。一人は、あったかい、ざっくばらんな喋り方。もう一人は、きれいで、優しい喋り方。うち、両方とも、なんや、すごい素敵や思て、一生懸命、覚えようとしてん」
「それが、ボブさんとアンジェラさんの言葉だったんですね」
「その名前なんや……ボブさんと、アンジェラさん、いうんか」
発光体の光が、少し明るくなった。
「うち、二人の言葉、どっちも大好きになってもうて。せやから、両方とも、覚えたい思て。せやけど、いざ喋ろうとすると、頭の中で、二人の声がごちゃごちゃになって、なんや、うまいこと、しゃべられへんの」
ヒカリは、しゃがみこみ、発光体と目線――正確には発光体の中心と自分の目の高さ――を合わせた。
「大丈夫です。それは、悪いことじゃありません」
「ほんまに?」
「はい。あなたは、二人の言葉の両方を、それだけ大切に思って、一生懸命受け取ろうとしたんです。それは、混乱してるんじゃなくて――」
ヒカリは、少し考えてから、言葉を継いだ。
「二人分の優しさを、両方とも大事に抱えている、ということだと思います」
発光体は、しばらく沈黙していた。それから、震えるような声で言った。
「うち……ボブさんと、アンジェラさんに、会える?」
「もちろんです。連れていきます」
こうして、渋谷スクランブル交差点に現れた「第三の客人」は、その日のうちに、ことだま研究所へと搬送された。
野次馬によって撮影された動画は、すでに世界中に拡散されており、政府はもはや事態を隠しきれないと判断。その夜、緊急記者会見が開かれることになった。
会見に立ったのは、官房長官と、防衛副大臣の黒田だった。黒田は、あくまで統一された、格式ばった言葉で、事態の概要を説明した。
「政府は、これらの存在を『客人』と呼称し、友好的な立場から、対話を進めております。国民の皆様には、いたずらに不安を煽ることのないよう、冷静な対応をお願いいたします」
会見後の質疑応答で、記者の一人が、こう質問した。
「渋谷で目撃された個体は、非常に混乱した、奇妙な話し方をしていたと聞いています。政府として、この存在たちとの意思疎通に、問題はないのでしょうか」
黒田は、一瞬、言葉に詰まった。彼自身、あの「混乱した話し方」を、内心では苦々しく思っていたのだろう。
その沈黙を埋めたのは、会見の隅に控えていた九条だった。
「よろしいですか」
九条が、進行役の制止を振り切るようにして、マイクの前に進み出た。
「私は、ことだま言語工学研究所の九条と申します。この点について、専門家として、一言申し添えたいことがあります」
会見場が、一瞬、ざわめいた。
「確かに、渋谷で確認された客人の言葉は、混乱しているように聞こえるかもしれません。せやけど」
九条は、あえて関西のイントネーションを隠さずに、続けた。
「あれは、混乱やない。あの子はな、地球に降りてくる途中、二人の先輩――大阪弁を話す客人と、丁寧な女言葉を話す客人――両方の言葉に触れて、その両方を、大事に、大事に、受け取ろうとした結果、あの喋り方になったんです」
九条は、記者たちを見渡した。
「言葉が一つの型に収まらへんことは、失敗やない。それはむしろ、その存在が、どれだけ多くの出会いを、大切に抱えとるかの、証やと思います」
会見場に、微妙な、しかし確かな空気の変化が生まれた。
その夜のニュース番組では、九条のこの発言が、繰り返し取り上げられた。SNS上では「宇宙人の言葉が混乱してるんじゃなくて、優しさが混ざってるってことか」「なんか泣ける」「言葉フェチ大学教授、良いこと言うやん」といった反応が、次々と投稿されていった。
研究所に戻ったヒカリは、第三の客人――今や「ミクスさん」という愛称で呼ばれ始めていたその存在を、ボブさんとアンジェラの待つ部屋へと案内した。
「はじめまして、いうことになるんかな」
ボブさんの発光が、興味深そうに揺れた。
「あんたが、うちらの言葉、両方覚えてくれたんやて?」
「まあ、なんて嬉しいことでしょう」
アンジェラの触手が、優しくミクスさんの方へと伸びた。
「あなたは、わたくしたちの言葉を、それだけ大切に受け取ってくださったのですね」
ミクスさんの発光が、恥ずかしそうに、しかし嬉しそうに揺れた。
「あの、うち、これから、どんな風に喋ったらええんか、まだよう分からへんのやけど……」
「そんなん、気にせんでええ」
ボブさんが、あっさりと言った。
「あんたの言葉は、あんたの言葉や。うちの真似でも、アンジェラの真似でもない、あんただけの、新しい言葉になったらええねん」
「そうですわ」
アンジェラも、優しく頷いた。
「わたくしたちの言葉が、あなたの中で混ざり合って、新しい何かになった。それは、とても素敵なことだと思いますわ」
ミクスさんの光が、これまでで一番明るく、そして温かく輝いた。
「おおきに……いえ、ありがとう……いや、うち、ほんまに、二人に会えて――」
言葉が、また混ざり始めた。だが今度は、その混ざり方が、どこか誇らしげに聞こえた。
ヒカリは、その光景を見つめながら、静かに涙をこぼしていた。
言葉は、混ざり合うことで、何かを失うわけではない。むしろ、混ざり合った先に、まだ誰も見たことのない、新しい言葉が生まれていく。
だが、この温かい光景の裏側で、時間は、容赦なく進み続けていた。
残る時間は、あと二十一時間。そして、まだ四つの信号源――四人の「客人」たちが、地球のどこかに、降り立とうとしていた。

第九章 列島、客人だらけ

残る二十一時間で、日本列島には、次々と新たな「客人」が降り立っていった。それぞれの不時着地点と、そこで出会った人々によって、それぞれにまったく異なる言葉を身につけて。
対策室には、各地からの報告が、ひっきりなしに舞い込んでくるようになった。ヒカリは、九条とともに、その一つ一つに目を通しながら、笑いと驚きを同時に味わっていた。
一体目は、岩手県の山間部、小さな漁村近くの畑に不時着した。発見したのは、早朝の畑仕事に出ていた、七十代の農家の老人だった。
「おや、まあ、こったらどごさ、なんぼした」
老人は、驚きながらも、動じることなく、その発光する物体――のちに「タケじいさん」という愛称で呼ばれることになる客人――に、朝の挨拶がわりの言葉をかけた。
タケじいさんは、その老人の、朴訥で温かい東北弁を、そのまま吸収していった。
現地に急行した調査チームが最初に聞いた挨拶は、こうだった。
「おーい、おめえら、遠っどこがら来たんだべ。腹減ってねが。んだら、うちさ来て、あったけえ汁っこでも飲んでげ」
調査員たちは、その場で温かい芋煮をご馳走になったという、極めてのどかな報告書が、対策室に提出された。
九条はその報告書を読んで、涙を流しながら笑っていた。
「これはこれで、ええ話やなあ」
二体目は、京都・嵐山近くの竹林に不時着した。発見したのは、地元の老舗和菓子屋の女将だった。
この客人――「イト」という名で呼ばれることになる――は、京都特有の、極めて婉曲的で、含みのある丁寧語を、完璧に習得してしまっていた。
対策室に届いた最初の報告は、担当職員の困惑に満ちたものだった。
「イトさんに『これからどうしたいですか』と質問したところ、『そうどすなあ、ゆっくりお茶漬けでもいかがどす』というお返事をいただきました。これは……お断りの婉曲表現でしょうか、それとも文字通りの提案でしょうか、判断がつきかねます」
ヒカリはこの報告書を読んで、思わず頭を抱えた。京都の言葉における「ぶぶ漬け(お茶漬け)でもどうですか」は、古くから「そろそろお帰りください」という婉曲的な意味を持つとされる、有名な逸話に基づく表現だった。
つまりイトさんは、対応してくれた職員に対し、極めて丁寧に、しかし確実に「もう帰ってください」と伝えていた可能性が高かった。
「これは、専門の通訳をつけなあかんな」
九条は、真剣な表情で、京都弁の含意解読チームの緊急編成を指示した。
三体目は、福岡・博多の屋台街近くに不時着した。発見したのは、屋台でラーメンを提供していた店主だった。
この客人――「ハカタン」という愛称がついた――は、博多弁特有の、親しみやすく、テンポの良い話し方を、すぐさま身につけた。
「兄ちゃん、腹減っとーと? ラーメン一杯どげんね」
現地からの報告書には、ハカタンが不時着直後から、周囲の人々と屋台談義に興じ、地元商店街のイベントに勝手に(?)参加しようとして、警備担当者が慌てて制止したという、なんとも脱力するエピソードが記されていた。
四体目は、沖縄本島、海沿いの集落近くに不時着した。発見したのは、地元の年配の女性たちのグループだった。
この客人――「うみんちゅ」という愛称で呼ばれることになる――は、ウチナーグチ(沖縄方言)と、独特の温かい抑揚を、豊かに吸収していた。
「はいさい。あんたたち、どっから来たわけ? まあ、遠いところから、大変だったねえ。ゆんたく(おしゃべり)でもしながら、ゆっくりしていきなさいよ」
うみんちゅの言葉には、他のどの客人にもない、独特の穏やかさと、深い包容力が感じられた。ヒカリは報告書を読みながら、この客人にだけは特別な安心感を覚えた。
そして五体目――七つの信号源のうち、最後に発見された客人は、対策室に大きな困惑をもたらすことになった。
不時着地点は、東京・両国。発見したのは、たまたま深夜稽古を終えて外に出てきた、相撲部屋の関係者だった。
だが、この客人が最初に発した言葉を聞いて、報告に来た職員は、しばらく言葉を失っていたという。
「――して、そこもとらは何者でござるか。拙者、この地に流れ着きし者にて、いささか困惑いたしておる次第」
対策室に、どよめきが走った。
「時代劇言葉……?」
九条が、資料を確認しながら唸った。
「発見場所周辺の防犯カメラ映像を確認したところ、不時着直後、たまたま近くの稽古場のテレビで、時代劇の再放送が流れていたことが分かりました。この客人は、その放送を、最初の言語サンプルとして学習した可能性が高いです」
つまりこの客人――のちに「サムライさん」と呼ばれることになる存在は、生まれて初めて触れた地球の言葉を、時代劇の中の、武士の格式ばった物言いから学んでしまっていた。
「拙者にお尋ねいたす。この地は、いずこでござろうか」
対応にあたった相撲部屋の親方は、生真面目な性格で知られる人物だったこともあり、なんと大真面目に「ここは両国でござる」と、時代劇口調で応答してしまい、その珍妙なやりとりが記録映像として残ることになった。
対策室で、この記録映像が再生されると、緊張感に包まれていた室内に、思わずといった笑いが広がった。
黒田副大臣でさえ、口元をわずかに緩めていた。
「……これは、想像以上に、厄介な事態だな」
「せやけど、副大臣」
九条が、まっすぐ黒田を見つめて言った。
「厄介であると同時に、これほど面白いことも、なかなかありませんで」
ヒカリは、対策室のモニターに映し出された、七体――いや、七人の客人たちの姿を見つめながら、ある確信を強めていた。
大阪弁、女言葉、その両方が混ざった新しい言葉、東北弁、京都の婉曲表現、博多弁、ウチナーグチ、そして時代劇口調。
これほどまでに多様な言葉が、たった数日のうちに、一つの国の、一つの空の下に集まった。
「九条さん」
ヒカリは、静かに、しかし確信を込めて言った。
「これが、答えなんだと思います」
「答え?」
「わたしたちが、これから第七信号に送るべき応答。それは、統一された、綺麗に整えられた一つの言葉じゃなくて――」
ヒカリは、モニターに映る、七人の客人たちを見つめた。
「この七人全員の、それぞれの言葉を、そのまま届けることなんじゃないかと思います」
対策室に、しばしの沈黙が落ちた。それを破ったのは、意外にも黒田だった。
「宮前くん」
「はい」
「君の案は、正直、リスクが高い。統制の取れない、雑多なメッセージを送ることに、私はまだ懸念がある」
黒田は、そこで一度言葉を切り、モニターに映るサムライさんの、生真面目な時代劇口調のやりとりを見つめた。
「だが」
「だが?」
「これだけ多様な言葉が、この短期間に、この国に集まったという事実そのものが、すでに一つのメッセージになっているのかもしれん、とも思う」
黒田は、深く息を吐いた。
「残り時間は」
「二十一時間です」
「よし」
黒田は、対策室全体を見渡しながら、これまでにない強い声で言った。
「宮前くんの案で行こう。ただし、私も条件を出す」
「条件、ですか」
「この応答は、単なる言葉の羅列であってはならない。七人の客人たち――いや、これから彼らのことを、そう呼ぶべきだろう――その一人一人が、なぜその言葉を話すようになったのか、その『物語』ごと、伝える必要がある」
黒田の口調には、これまでにない熱が籠っていた。
「言葉だけでは、伝わらないものがある。だが、その言葉が生まれた背景――誰と出会い、何を受け取ったか、その物語まで含めれば、きっと、相手にも伝わるはずだ」
ヒカリは、目の前の黒田の変化に、驚きを隠せなかった。
「黒田副大臣……」
「なんだ」
「ありがとうございます」
黒田は、少し照れくさそうに、視線を逸らした。
「礼を言うのは、まだ早い。これから、七人分の『物語』を、限られた時間でまとめ上げなければならない。宮前くん、九条くん、力を貸してくれ」
こうして、地球という星の、最初の宇宙的な返答の準備が、慌ただしく、しかし確かな熱意を持って、進められていくことになった。
残された時間は、あと二十一時間。
そしてその先には、まだ誰も見たことのない、宇宙船の到達が、静かに迫っていた。

第十章 灰色の言葉を話す者たち

七人の客人たちの「物語」をまとめる作業は、想像を絶する速度で進められた。
ヒカリは、九条や対策室のスタッフたちと手分けをして、ボブさん、アンジェラさん、ミクスさん、タケじいさん、イトさん、ハカタン、うみんちゅ、そしてサムライさん――一人一人のもとを訪ね、それぞれの言葉が生まれた経緯を、丁寧に聞き取っていった。
その作業の合間、ヒカリは、地下三階の九条のもとを訪れていた。
「九条さん。第七信号――応答を待っているという、あの信号について、もう少し詳しいことは分かりましたか」
九条は、疲れた表情のまま、モニターを操作した。
「実はな、ヒカリくん。ついさっき、大きな進展があった」
モニターに、これまでとは比較にならないほど鮮明な波形データが表示された。
「第七信号の送り主――つまり、応答を待っている本体は、もう地球の軌道近くまで接近しとる。国際天文学連合の緊急観測により、その姿の一部が、光学的に捉えられた」
九条は、一枚の画像を表示した。それは、漆黒の宇宙を背景に浮かぶ、灰色がかった、巨大な構造物だった。表面には、幾何学的な、しかしどこか規則正しすぎる模様が刻まれている。
「これが、その本体――便宜上『母船』と呼んどるもんの姿や」
ヒカリは、その画像を見つめながら、言いようのない違和感を覚えた。
「なんだか……寂しい感じがします」
「わしも、同じことを感じた」
九条は、静かに頷いた。
「せやから、こっちのチームが、この母船から漏れ出る微弱な通信を、可能な限り解析してみたんや。そしたら――」
九条は、別のデータを呼び出した。それは、これまでの七つの信号とは、明らかに性質の異なるものだった。
「これが、母船本体が使っとる、彼らの『本来の言語』や。ボブたちが習得した、地球の多様な言葉とは、まったく違う」
再生された音声は、ヒカリの予想を裏切るものだった。
そこにあったのは、単調で、抑揚のない、機械的な響きだった。まるで、感情の起伏を一切排除したような、平坦な音の連なり。
「これが……彼らの、本来の言葉」
「解析チームの見立てでは、この言語には、敬語も、方言も、性差による違いも、一切存在せえへん。ただ一つの、統一された文法と語彙だけがある」
九条の声が、重くなった。
「これはわしの推測やけどな。もしかしたら、彼らの文明は、かつて――今のわしらの地球のように、多様な言葉を持っとったんかもしれん。せやけど、なんらかの理由で、その多様性を、自ら手放してしもたんとちゃうか」
ヒカリは、息を呑んだ。
「手放した……なぜ、そんなことを」
「効率のためやったんか、統治のためやったんか、それとも、争いを避けるためやったんか。理由は分からへん。せやけど」
九条は、灰色の母船の画像を、じっと見つめた。
「もしそうやとしたら、彼らが今、地球に、これほどまでに執着しとる理由も、なんとなく分かる気がするんや」
「どういうことですか」
「失うたもんを、取り戻したいんやろ」
九条の声は、静かだが、確信に満ちていた。
「統一され、効率化され、誰もが同じ言葉で話す世界。それは、一見すると平和で、争いのない世界に見えるかもしれん。せやけど、その代わりに、彼らは何かを――誰かと誰かの、かけがえのない関係性の中でしか生まれへん、あの独特な言葉の温もりを、失うてしもたんかもしれん」
ヒカリの脳裏に、これまでに出会った客人たちの姿が、次々と浮かんだ。
道を教えてくれたおばちゃんの言葉を、そのまま大切に抱えていたボブさん。
路地裏で優しくしてくれた女性たちの言葉を、誇りを持って話すアンジェラさん。
二人分の優しさを、混乱しながらも懸命に受け止めようとしたミクスさん。
彼らは皆、誰かから受け取った言葉を、自分自身のアイデンティティとして、大切に育んでいた。
「もし、九条さんの推測が正しいなら」
ヒカリは、震える声で言った。
「彼らが本当に求めているのは、地球を征服することでも、支配することでもなくて――」
「言葉を、取り戻す方法を、知りたいんかもしれへんな」
九条とヒカリは、しばらく無言のまま、モニターに映る灰色の母船を見つめ続けた。
その沈黙を破ったのは、対策室からの緊急連絡だった。
「九条所長、宮前研究員! 至急、対策室にお戻りください! 第七信号から、新たな通信パターンが検出されました!」
二人が対策室に駆け込むと、そこには、これまでにない緊迫した空気が満ちていた。
「なんや、どないした」
「第七信号――母船から、明確な『問いかけ』とみられる通信が届きました」
若い解析officerが、震える声で報告した。
「内容を、機械翻訳にかけた結果がこちらです」
スクリーンに、無機質な、しかし明確な意味を持つ文字列が表示された。
『この星の言葉は、なぜ一つではないのか。答えよ』
対策室に、重い沈黙が落ちた。
黒田が、険しい表情でモニターを見つめた。
「これは……我々を試している、というより」
「問いかけている、という方が近いかもしれません」
ヒカリは、静かに、しかしはっきりとした声で言った。
「本当に知りたいんだと思います。どうして、地球には、こんなにたくさんの言葉があるのか。どうして、みんな、違う言葉を、大切にできるのか」
黒田は、ヒカリの顔を、まっすぐに見つめた。
「宮前くん。君に、聞きたい」
「はい」
「その問いに、我々は、どう答えるべきだと思う」
対策室にいる全員の視線が、ヒカリに集まった。ヒカリは、深く息を吸い込んでから、静かに、しかし力強く答えた。
「言葉で説明するんじゃなくて」
「説明ではなく?」
「見せるんです。実際に、この星に生きる、たくさんの人たちと、たくさんの言葉たちを」
ヒカリは、対策室のモニターに映る、七人の客人たちのプロフィールを見渡した。
「大阪のおばちゃんの優しさから生まれた言葉。銀座の路地裏で受け取った、思いやりの言葉。二人分の優しさが混ざり合って生まれた、新しい言葉。東北の朝の畑で交わされた、温かい言葉。京都の奥ゆかしい心遣いが宿る言葉。博多の屋台の、賑やかで人懐っこい言葉。沖縄の、深い包容力を持つ言葉。そして、時代劇から生まれた、生真面目で誠実な言葉」
ヒカリは、そこで一度、言葉を止めた。
「これら全部が、そのまま『答え』なんだと思います。地球の言葉が一つじゃない理由――それは、この星に住む、一人一人が、それぞれ違う出会いをして、それぞれ違う人から、それぞれ違う優しさを受け取ってきたからです」
黒田は、しばらく目を閉じていた。それから、静かに、しかし確かな決意を込めて言った。
「よし。宮前くん、九条くん。この応答の準備を、全力で進めてくれ。時間との勝負になる」
「残り時間は」
「あと、六時間だ」
対策室に、緊張と、それでいてどこか熱を帯びた空気が満ちていった。
こうして、地球という星からの、最初の、そして本当の意味での「返事」の準備が、大詰めを迎えようとしていた。

第十一章 七つの声

残り六時間。ことだま研究所には、七人の客人たち全員が、初めて一堂に会することになった。
大きな発光体のボブさん、虹色に輝く触手のアンジェラさん、二人の言葉が入り混じるミクスさん、朴訥な佇まいのタケじいさん、静かで気品のあるイトさん、賑やかな気配を纏うハカタン、穏やかに揺れるうみんちゅ、そして、どこか凛とした姿勢のサムライさん。
姿も、質感も、大きさも、それぞれまったく異なるはずのその集まりは、それでも不思議と、一つの家族のような温かさを漂わせていた。
「みなさん、はじめまして、いう感じですかね」
ボブさんが、いつもの調子で切り出した。
「拙者もまた、皆々様にお目にかかれること、この上ない喜びにござる」
サムライさんの生真面目な挨拶に、ハカタンが「兄ちゃん、堅いばい」と笑いながらツッコミを入れる。イトさんは、上品に微笑みながら「まあ、皆さん、賑やかで、よろしいことどすなあ」と呟く。その言葉の裏にどんな含みがあるのか、誰にもまだ判断がつかなかったが、少なくともその場の空気は、確かに和んでいた。
ヒカリは、その光景を見つめながら、静かに口を開いた。
「みなさん。実は、今、この星に向かって、大きな宇宙船が近づいてきています。そこにいる存在たちは、みなさんの言葉のルーツになった人たちとは、まったく違う人たちです」
ヒカリは、九条から聞いた、灰色の母船の話を、丁寧に説明した。統一され、効率化された、感情の起伏のない言葉しか持たない存在たち。彼らが、かつて何かを――多様な言葉が生み出す、温かな関係性そのものを、失ってしまったかもしれないということ。
説明を聞き終えた客人たちは、しばらく、それぞれのやり方で沈黙していた。
「そら……寂しいなあ」
最初に口を開いたのは、ボブさんだった。
「言葉が一つしかないって、なんや、ものすごい寂しい話やと思うわ。うちは、道教えてくれたおばちゃんの言葉があったから、今の自分がおる。もしその出会いがなかったら、うち、そもそも自分の『声』を持たれへんかったんちゃうかな」
「わたくしも、同じ気持ちですわ」
アンジェラの触手が、静かに揺れた。
「あの夜、路地裏でわたくしを見つけてくださった方々がいなければ、わたくし、こんな風に、誰かを想う言葉を、話せなかったと思いますの」
「んだんだ」
タケじいさんが、ゆっくりと頷いた。
「言葉っちゅうのはな、誰かとの出会いの、証しみでえなもんだ。おらだって、あの朝、畑さ来てくれたじいさまがいなかったら、こったら温けえ言葉、知らねがったべ」
うみんちゅが、穏やかに続けた。
「言葉には、その人の生きてきた場所と、その人が出会った人たちの、ぬくもりが宿るわけさ。それを一つにまとめようとしたら、きっと、たくさんの大切なものが、こぼれ落ちてしまうはずよ」
ヒカリは、その一言一言に、胸を熱くしながら耳を傾けていた。
「みなさんに、お願いがあります」
ヒカリは、深く息を吸い込んでから、続けた。
「あと六時間で、あの宇宙船に、地球からの返事を送らなければなりません。その返事を――みなさん自身の言葉で、みなさん自身の物語として、届けてほしいんです」
客人たちは、互いに顔(のようなもの)を見合わせた。
「うちらの言葉で、ええんか?」
ボブさんが、確認するように尋ねた。
「はい。統一された、綺麗な言葉じゃなくていいんです。みなさんそれぞれの言葉で、みなさんが誰と出会って、どんな風にその言葉を受け取ったのか――それを、そのまま伝えてほしいんです」
イトさんが、静かに微笑んだ。
「それは、ようございますなあ。飾らんと、ありのままで、いうことどすもんな」
サムライさんが、深く頷いた。
「相分かった。拙者、この身に受け継ぎし言葉、誠心誠意、伝える所存にござる」
ハカタンが、明るい声で言った。
「よかよか、任せとかんね! うちの言葉で、しっかり伝えるけん!」
こうして、七人の客人たちは、それぞれの言葉で、それぞれの物語を語る準備を始めた。ヒカリと研究所のスタッフたちは、その一言一言を、丁寧に録音し、送信データとして編纂していった。
準備が整ったのは、送信予定時刻の、わずか二十分前だった。
対策室のメインスクリーンには、地球軌道上に到達した、灰色の母船の姿が、リアルタイムで映し出されていた。刻一刻と近づくその巨大な影は、これまでの経過を思えば、決して友好的な意図だけを持っているとは限らない――そんな不安を、誰の心にも残していた。
「送信、準備完了です」
技術チームからの報告に、対策室全体の空気が張り詰めた。
黒田が、ヒカリの方を見た。
「宮前くん。最終確認だ。本当に、これでいいんだな」
ヒカリは、モニターに映る、七人の客人たちの姿を見つめた。それぞれの言葉で、それぞれの物語を語り終えたばかりの、彼らの穏やかな、しかし確かな光を。
「はい。これが、わたしたちにできる、精一杯の『答え』です」
黒田は、深く頷いた。
「送信、開始してくれ」
技術者の指が、送信ボタンに触れた。
対策室の全員が、固唾を飲んで、メインスクリーンを見つめた。
七つの声――大阪弁、女言葉、混ざり合った新しい言葉、東北弁、京都の言葉、博多弁、ウチナーグチ、そして時代劇口調――それぞれの声が、それぞれの物語とともに、電波に乗って、宇宙へと送り出されていった。
それは、決して統一された、整った「公式声明」ではなかった。むしろ、雑多で、不揃いで、時にちぐはぐな、けれど、それぞれに温かい思い出と誇りに満ちた、地球という星からの、精一杯の「合唱」だった。
送信から、応答までの時間は、永遠のように長く感じられた。
一分、二分、三分――対策室の誰もが、言葉を発することなく、ただメインスクリーンに映る母船の姿を見つめ続けていた。
そして、送信から七分十三秒が経過した、その瞬間。
母船の表面に刻まれていた、あの幾何学的な、規則正しすぎる模様が――ゆっくりと、これまでにない形に、変化し始めた。

第十二章 灰色が、色を持つとき

母船の表面が変化していく様子を、対策室の全員が、息を呑んで見つめていた。
これまで無機質な灰色一色だった巨大な構造物の表面に、ゆっくりと、淡い色彩が滲み出していく。それは、まるで、長い間眠っていた何かが、ゆっくりと目を覚ましていくかのような、静かで、しかし確かな変化だった。
「これは……」
九条が、震える声でつぶやいた。
「反応しとる。うちらの送った言葉に」
やがて、母船から、新たな通信が届いた。今度の通信は、これまでの単調で機械的な音とは、明らかに違っていた。まだ拙く、ぎこちないものではあったが――そこには、確かに、抑揚と呼べるものが生まれていた。
解析チームが、震える手で、その内容を読み上げた。
『……あなたたちの、言葉を、受け取った。……なぜ、それぞれ、違うのか。……なぜ、それでも、一つでいられるのか』
対策室に、深い静寂が満ちた。
ヒカリは、その問いかけに、涙が溢れるのを止められなかった。
「答えて、いいですか」
ヒカリが尋ねると、黒田は、静かに頷いた。
「頼む、宮前くん。君の言葉で」
ヒカリは、マイクの前に立った。九条が、優しく肩に手を置いた。研究所の仲間たちが、そして七人の客人たちが、モニター越しに、ヒカリを見つめていた。
「わたしたちは、違う言葉を話します」
ヒカリは、ゆっくりと、一言一言、丁寧に語り始めた。
「生まれた場所が違えば、出会った人が違えば、受け取った優しさが違えば、話す言葉も、自然と違ってきます。それは、決して、バラバラだということじゃありません」
ヒカリは、七人の客人たちの姿を、思い浮かべながら続けた。
「違う言葉を話す人たちが、それでも、お互いの言葉に耳を傾けて、お互いの言葉の奥にある思い出や、優しさや、誇りを、大切にしようとすること――それこそが、わたしたちが『一つでいられる』理由だと思います」
ヒカリは、深く息を吸い込んだ。
「統一された、同じ言葉を話すことだけが、繋がる方法じゃありません。むしろ、違う言葉を、それぞれ大切にしたまま、それでも手を取り合おうとすること。それが、わたしたちの、本当の『答え』です」
送信が終わると、対策室には、これまでにない静けさが訪れた。
母船からの応答は、それから、たっぷり十分近くの沈黙の後に届いた。
『……理解した。……感謝する。……我々も、いつか、あなたたちのように――』
そこで、通信は一度途切れた。そして、しばらくの間を置いて、最後の一文が届いた。
『……色を、取り戻したい』
その一文を読み上げた瞬間、対策室のあちこちから、堪えきれない嗚咽が漏れた。ヒカリも、九条も、黒田でさえも、目を潤ませていた。
母船は、それから静かに、地球軌道を離れていった。去り際、その船体は、これまでの灰色から、淡い、様々な色彩を帯びた姿へと変わっていた。まるで、長い眠りから覚めたばかりの、生まれたての虹のように。
政府は、この一連の出来事を、段階的に世界へと公表していった。世界中の反応は、当然のように驚きと困惑に満ちていたが、それ以上に、多くの人々の心を打ったのは、この「ファーストコンタクト」が、力や統一によってではなく、多様な言葉と、その言葉に宿る一人一人の物語によって成し遂げられた、という事実そのものだった。
七人の客人たちは、その後、地球に残ることを選んだ。彼らは、母船の一族が「言葉の多様性」を取り戻すための、いわば「橋渡し役」として、これからも活動を続けていくことになるという。
ボブさんとアンジェラさんは、あれ以来、まるで兄妹のように、いつも一緒に研究所内を漂っている。ミクスさんは、少しずつ、自分だけの新しい言葉――大阪弁でも女言葉でもない、独自の響きを持つ言葉を、見つけ始めているという。
ヒカリは、ある晴れた日の午後、研究所の屋上で、九条とともに、東京の空を見上げていた。
「なあ、ヒカリくん」
九条が、穏やかな声で言った。
「あの母船が言うとった、『色を取り戻したい』ちゅう言葉、覚えとるか」
「はい」
「わし、あの言葉を聞いてから、ずっと考えとるんや。言葉の多様性いうんは、ただ守るだけやのうて、これから先も、ずっと育て続けなあかんもんなんちゃうかってな」
ヒカリは、頷いた。
「大阪で覚えると、大阪弁になる。銀座で覚えると、女言葉になる。誰と出会うかで、言葉は、いつも新しく生まれ変わっていく」
「そうや」
九条は、優しく微笑んだ。
「せやからこそ、これから先も、いろんな人と、いろんな言葉が、この星のどこかで、新しく出会い続けていくんやろな」
ヒカリの脳裏に、ふと、あの序章の光景が浮かんだ。大阪湾上空で拾われた、一つの奇妙な信号。それは、単なる偶然の産物ではなく、この星の言葉の豊かさそのものが、宇宙という広大な暗闇の中で、確かに光を放っていた証だったのかもしれない。
「九条さん」
「なんや」
「わたし、これからも、この仕事を続けていきたいです。言葉の面倒くささを、面倒くさいまま、大切にしていく仕事を」
九条は、大きく頷いた。
「ああ。それでええ。それが、わしらの――いや、この星に生きる、みんなの、これからの仕事や」
風が、二人の間を、静かに吹き抜けていった。
その風の中に、遠く、大阪のおばちゃんの声のような、銀座の女言葉のような、東北の朝の挨拶のような、様々な言葉の欠片が、確かに混じっているような気がした。
言葉は、これからも、誰かと誰かの出会いの中で、新しく生まれ続けていく。
そしてその一つ一つが、いつか、この宇宙のどこかで、また新しい誰かと、出会うのかもしれない。


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1/3 大阪で覚えると、大阪弁になる件

―言語習得AIと、しゃべりすぎる宇宙人たちの物語―


序章 ノイズの中の言葉

二〇三一年、七月。
大阪湾上空、高度三万二千メートル。気象観測衛星「すみれ」が拾った電波の中に、誰にも説明のつかない一行が紛れ込んでいた。
それは雑音ではなかった。周波数解析にかけると、驚くほど整った波形が現れる。まるで誰かが、几帳面に折り目をつけた手紙を渡してきたかのように。
その波形を、たまたま徹夜明けで解析ソフトを回していた大学院生が、遊び半分で音声変換した。
スピーカーから流れてきたのは、こういう声だった。
「――毎度、おおきに。ほな、そろそろよろしいですやろか」
学生は三秒黙り、それからコーヒーを吹き出した。
深宇宙から届いたはずのその声は、誰がどう聞いても、大阪のおばちゃんの口調そのものだった。
この一件は、その夜のうちに大学の研究室内SNSで「宇宙からのおばちゃん」というタグとともに拡散し、翌朝には防衛省のある一室で、まったく笑えない顔をした大人たちの会議のネタになっていた。
そして、その会議の隅っこに、この物語の主人公が座っていた。





第一章 ことだま研究所のヒカリ

宮前ヒカリ、二十九歳。所属は「言灯(ことひ)言語工学研究所」、通称「ことだま研究所」。
肩書は主任研究員。仕事の内容を一言で説明しろと言われたら、ヒカリはいつもこう答える。
「AIに、日本語の面倒くささを教える仕事です」
これは謙遜でも冗談でもない。ヒカリが開発チームの中心にいる翻訳AI「ことだま」は、単語や文法だけでなく、「誰が、誰に、どんな場面で、どんな言葉を使うか」までを丸ごと学習させることを目指した、少し欲張りすぎるプロジェクトだった。
日本語は難しい。これは外国人がよく口にする感想だが、ヒカリに言わせれば、それは正確ではない。難しいのではなく、「多い」のだ。
敬語だけでも、尊敬語、謙譲語、丁寧語の三種類があり、さらに relationship(関係性)、場の空気、地位、年齢、初対面かどうかで使い分けが変わる。おまけに関西、東北、九州、沖縄……地域によって言葉そのものが違う。そして最後に、男言葉と女言葉という、他の多くの言語にはない、くっきりとした境界線がある。
「これ、そもそも同じ『日本語』って呼んでいいのか、たまに分からなくなるんですよね」
ヒカリの同僚であり上司でもある所長の九条は、いつもそう言って笑う。九条は還暦を過ぎてなお現役のベテラン言語学者で、ことだまプロジェクトの生みの親だった。
「言語っちゅうんは生き物や。教科書の中だけで生きとるわけやない。誰から習うたかで、その人の言葉の人格が決まってしまう。ヒカリくん、これがまさにうちの研究の一番おもろいとこであり、一番厄介なとこなんや」
九条は元々関西出身で、標準語と関西弁を状況によって使い分ける器用な人だった。ヒカリはその九条から「ことだま」の開発コンセプトそのものを叩き込まれた人間である。
そんなヒカリのもとに、その日、奇妙な呼び出しがかかった。
「防衛省から、直々の依頼や」
九条は珍しく真剣な顔をしていた。
「例の『宇宙からのおばちゃん』、覚えとるか」
「ネットで話題になってたやつですよね。合成音声のイタズラだって話も出てましたけど」
「イタズラちゃう。あれ、本物や」
会議室に通されたヒカリを待っていたのは、スーツ姿の役人が三人と、一台の大きなモニター、そして――部屋の隅に置かれた、直径二メートルほどの、ゼリー状の何かが入った透明カプセルだった。
カプセルの中身は、淡い水色に発光しながら、ゆっくりと脈打つように形を変えていた。
「こちら、便宜上『客人(まろうど)第一号』とお呼びしています」
役人の一人がそう説明した。
「三日前、大阪湾に不時着したものと思われる小型の飛翔体から発見されました。生体か機械か、現時点では判別がついておりません。ただ一つ確かなことは――」
役人が言葉を切り、モニターに音声波形を映した。
「この個体は、我々の言語を、猛烈な速度で学習しています。しかも、極めて特定の傾向を持って」
モニターから、あの声が流れた。
「あんた、えらいべっぴんさんやな。どっから来たん? ま、ええわ、座り座り。お茶でも飲むか?」
役人たちの誰も座っていなかったし、お茶も出ていなかった。カプセルの中の生物は、目に見える口も声帯も持っていないにもかかわらず、完璧な大阪のおばちゃんイントネーションで喋り続けていた。
ヒカリは思わず、九条の顔を見た。九条は腕を組み、珍しく興奮した様子で目を輝かせている。
「ヒカリくん。これ、うちの研究にとって、宝の山かもしれへんで」
その日から、ヒカリの平穏な研究者生活は、静かに、しかし確実に終わりを告げた。
役人の説明によれば、この「客人」は地球に不時着した後、まず衛星電波を傍受し、テレビやラジオの音声データを取り込んで言語学習を開始したという。問題は、その学習データの出どころだった。
「不時着地点周辺の電波を、無差別に拾っていたようでして」
役人が苦い顔で続けた。
「不時着したのが、大阪湾でも特に――新世界に近いエリアだったものですから」
新世界。串カツと将棋と、大阪でも指折りに濃い人情とイントネーションで知られる街。
つまりこの「客人」は、生まれて初めて触れた地球の言語を、ほぼ丸ごと、大阪のおばちゃんたちの日常会話から学んでしまったということだった。
「教科書から学ばせるべきやったんちゃいますの、って話は、もう出とる。せやけどな」
九条がヒカリにだけ聞こえる声でつぶやいた。
「言語習得AI屋のうちらからしたら、これはむしろ理想の実験環境や。習得元となる人間関係と場が、言葉のどこにどう刻印されるか。それが、教科書やのうて、生きたデータでまるまる観察できる」
ヒカリはカプセルの中で揺れる淡い光を見つめた。得体のしれない何かが、たまたま出会った誰かの喋り方を、まるごと自分の人格として吸収してしまう。それは恐ろしくもあり、同時に、どこか愛おしくもある現象だった。
「客人第一号」――後にヒカリたちが「ボブさん」という、これまたちぐはぐな仮名で呼ぶことになるその存在は、ヒカリの顔を認識すると(認識の仕組みは不明だったが)、こう言った。
「おおきに、べっぴんさん。うちの日本語、おかしいか?」
ヒカリは少し考えてから、正直に答えた。
「おかしくないです。でも……そのしゃべり方、いったいどこで覚えたんですか?」
「知らんおばちゃんに、道教えてもろてん」
カプセルの中の光が、くすくす笑うように瞬いた。
「ええ人やったで。飴くれてん」
この瞬間、ヒカリはまだ知らなかった。この「客人」が地球に来た本当の理由も、そして日本語という言語そのものが、この宇宙的な事件においてどれほど特別な意味を持っているのかも。
彼女がその日知ったのは、ただ一つ。
宇宙人は、思ったよりずっと、人間くさいということだった。


第二章 ボブさん、大阪弁を極める

正式な学名も種族名も分からないまま、「客人第一号」はいつしか研究所内で「ボブさん」と呼ばれるようになっていた。命名者は九条である。
「なんとなく、そういう顔しとるやろ」
顔はなかった。ゼリー状の発光体に、顔と呼べるパーツは存在しなかった。それでも九条が「ボブさん」と呼び続けたので、いつの間にかその名前が定着してしまった。言葉というのは、こうして理由もなく根を張るものらしい。
ボブさんの受け入れにあたり、ことだま研究所には特別チームが組まれた。ヒカリはその言語観察担当に任命された。
「危険はないんですか」
ヒカリが尋ねると、防衛省の担当者は歯切れの悪い顔で答えた。
「今のところ、攻撃性は一切確認されていません。むしろ――」
「むしろ?」
「懐きます」
その言葉通り、ボブさんはヒカリに異様なほど懐いた。カプセル越しではあったが、ヒカリが部屋に入るたびに、内部の発光がぱっと明るくなる。
「べっぴんさん来た! お茶淹れたろか。あ、うちお茶淹れられへんかったな。ほな気持ちだけでも受け取り」
ボブさんの大阪弁は、日を追うごとに磨きがかかっていった。何しろ学習ソースが「新世界のおばちゃんたちの生きた会話」というほぼピュアな純度百パーセントの一次資料である。イントネーションはもちろん、「儲かりまっか」「ぼちぼちでんな」といった、もはや現地の若者すら日常的には使わないレベルの、年季の入った大阪弁までマスターしていた。
問題は、ボブさんが単なる「言語サンプル」ではなく、地球外知的生命体――おそらくは何らかの外交的、あるいは調査的目的を持って地球に来訪した存在だという点にあった。
政府としては、この存在との「対話」を、可能な限り公式かつ丁重に進める必要があった。
つまり、いずれボブさんを、しかるべき筋の――たとえば国連の関係者や、各国の要人と引き合わせる場面が出てくる。
その未来を想像して、ヒカリは頭を抱えた。
「あの、ボブさん。ちょっと確認したいんですけど」
「なんや、べっぴんさん」
「もし総理大臣とお話しすることになったら、どんな風に話しますか?」
ボブさんは少し(発光の周期が変わることで示される「間」があった)考えてから、堂々と答えた。
「そらもう、丁寧にいくで。『総理はん、えらい忙しいところ、すんませんなあ。ま、そない硬ならんと、お茶でも飲みながら、ぼちぼちいきまひょ』」
ヒカリは天を仰いだ。丁寧のつもりらしい。本人(?)の中では、これはこれで最上級の敬意表現なのだ。何しろ、ボブさんが唯一知っている「敬意」の型が、これしかない。
「ボブさん。それ、ちょっと……もう少しかしこまった言い方も、あるにはあるんですけど」
「かしこまった言い方? なんやそれ、堅苦しいやつ?」
ボブさんの発光が、興味深そうに揺れた。
「教えてえな。あんたが教えてくれたことは、うち、絶対忘れへんし」
ヒカリはこの一言に、ふと胸を打たれた。この生き物にとって、言葉というのは、単なる情報伝達の道具ではないのだ。誰と出会い、誰に何を教わったか――その記憶そのものが、そのまま「言葉」という形になって刻まれていく。
「わかりました。じゃあ、少しずつ練習しましょう」
その日から、ヒカリはボブさんに「標準語」と「敬語」の追加レッスンを始めた。ところが、これがまったく一筋縄ではいかなかった。
「えーと、『総理、本日はお忙しい中、お時間をいただき、誠にありがとうございます』って、言ってみてください」
「そうりぃ、ほんじつは、おいそがしいなか……あ、間違えた。おいそがしいとこ、すんませんなあ、いや、えーと」
ボブさんは律儀に標準語を練習しようとするのだが、三単語に一回、必ず関西のイントネーションが顔を出す。まるで根っこに大阪弁が張り付いていて、標準語というのはその上に薄く塗った上塗りにすぎない、というような具合だった。
「あかん、うち、標準語しゃべろうとすると、なんや自分やない気ぃする」
ボブさんはしょんぼりした様子で(発光が暗くなることで示された)つぶやいた。
「せやかて、これがうちの覚えた、はじめての言葉やねんもん」
ヒカリはこの一言で、レッスンの手を止めた。
「無理に標準語にしなくていいですよ」
「え?」
「ボブさんの言葉は、ボブさんの言葉です。それでいいと思います」
役人たちはこの方針に、当然のように難色を示した。国家間、あるいは種族間の重要な対話の場に、「儲かりまっか」を持ち込むわけにはいかない、というのがその主張だった。
しかし九条は、意外にも(あるいは当然のように)ヒカリの肩を持った。
「無理に矯正したら、この子の言語人格そのものが壊れる可能性がある。それに――」
九条はにやりと笑った。
「大阪弁でしゃべる宇宙人との首脳会談。これ、悪いことばっかりちゃうで。世界中の人間が、こんな面白い話、放っておかへん」
こうしてボブさんは、大阪弁のまま、「客人」としての公式な立場を歩み始めることになった。もっとも、この段階では誰も、これが後にとんでもない外交コメディを引き起こすとは、まだ知る由もなかった。
その夜、ヒカリはひとり、研究室に残ってデータを整理していた。ボブさんの言語習得ログを分析していると、あるパターンに気づく。
ボブさんの語彙は、新世界のおばちゃんの日常会話に由来する部分と、もう一つ――説明のつかない「異質な層」が存在していた。
それは、極めて古い、文語調の、しかも妙に格式張った表現群だった。まるで、平安時代の宮中で使われていたような言い回しが、大阪弁の合間に、ぽつり、ぽつりと紛れ込んでいる。
「……なんですか、これ」
ヒカリは眉をひそめた。この層だけは、明らかに新世界のおばちゃんから学んだものではない。だとすれば、いったいどこから?
画面をスクロールしていくと、その古語層の出現パターンには、ある共通点があった。
すべて、ボブさんが「地球に不時着する直前」の、最初の数分間の音声データに集中していたのだ。
つまり――ボブさんは地球に来る前から、すでに何かを、あるいは誰かを通して、日本語に類する言葉に触れていた可能性がある。
ヒカリの背筋を、冷たいものがすっと通り抜けた。
これは、単なる異星人の日本語学習コメディでは、終わらないかもしれない。


第三章 アンジェラさん、女言葉を極める

ボブさんの一件が研究所内でようやく落ち着きを見せ始めた頃、事態はさらにややこしい方向へと転がり始めた。
「客人第二号、確認されました」
その報せが入ったのは、ボブさんが標準語レッスンの三回目でまたしても「ぼちぼちでんな」に舞い戻った、ちょうどその日の午後だった。
今度の不時着地点は、大阪ではなく東京・銀座の裏路地。しかも発見されたのは、深夜二時、閉店間際の会員制クラブの非常口付近だった。
「またえらいピンポイントな場所に落ちてきましたね……」
ヒカリは資料を読みながら、こめかみを押さえた。
新しい客人は、ボブさんとは異なる姿をしていた。人間で言えば身長二メートルほどの、細長い触手を複数持つ、半透明の生物。カプセルに収容されると、内部で淡い虹色の光を帯びながら、ゆらゆらと揺れ続けた。
「わたくし、ご挨拶が遅れましたことを、心よりお詫び申し上げますわ」
第一声からして、ボブさんとは対照的だった。
「わたくしのことは、どうぞアンジェラとお呼びくださいませ。皆さまに大変なご迷惑をおかけしていること、深く反省しておりますの」
研究所の会議室に、一瞬、奇妙な沈黙が落ちた。
「……アンジェラ、さん?」
ヒカリが呼びかけると、虹色の光がふわりと揺れた。
「あら、はい。なにか?」
「その、失礼ですが……その話し方は、どこで習得されたんですか?」
「まあ。とても素敵な女性の方々に、たくさん教えていただきましたのよ」
九条が横で、片手で顔を覆っていた。事情はすでに、担当の役人から報告されていた。
アンジェラが不時着した場所は、銀座の高級クラブ「ラブリー」の裏口。深夜、閉店作業をしていたホステスたちが、路地裏で光る奇妙な物体を発見し、まさか宇宙船の欠片だとは思わずに、遠巻きにしながらも、優しく声をかけていたのだという。
「大丈夫? 寒くない? どこから来たの? まあ、可愛らしい光ね」
これが、アンジェラにとっての、生まれて初めての「言葉との出会い」だった。
つまりアンジェラは、ボブさんが「新世界のおばちゃん言葉」を一次資料としたのと同じように、「銀座の高級クラブで働く女性たちの丁寧で華やかな女言葉」を、一次資料として、ほぼ完璧に吸収してしまっていた。
「あの……アンジェラさんって、性別は」
ヒカリが慎重に尋ねると、アンジェラは触手の一本をひらりと揺らした。まるで扇子を仰ぐような仕草だった。
「あら、そのようなもの、わたくしどもの星にはございませんのよ。でも、こうしてお話しする方が、なんだかしっくりきますの。おかしいかしら?」
おかしくはなかった。ただ、極めて厄介ではあった。
なぜなら、この「客人」たちは、いずれ然るべき国際的な場、外交の舞台に登場する予定になっていたからだ。
そこに、大阪のおばちゃん言葉を操る性別不明の発光生物と、銀座のホステス言葉を操る性別のない触手生物が、並んで座る。
「これ、もう外交どころちゃう気ぃすんねんけど……」
九条がぽつりとこぼした本音に、ヒカリは深くうなずいた。
とはいえ、事態はそれだけでは終わらなかった。ヒカリが本当に頭を抱えたのは、アンジェラの「丁寧さ」が、時としてとんでもない誤解を招くという事実に気づいたときだった。
ある日、防衛省の中堅職員が、アンジェラへの聞き取り調査にやってきた。
「アンジェラさん、本日はお時間をいただき、ありがとうございます。まず、あなたがたの母星について、伺ってもよろしいでしょうか」
「まあ、うれしい。あなたのような素敵な殿方に興味を持っていただけるなんて、光栄ですわ」
職員は明らかに動揺した様子で、咳払いをした。
「え、ええと……それで、母星についてなんですが」
「ふふ、焦らさないでくださいませ。そういうところが、素敵ですのね」
このやりとりを記録映像で確認したヒカリは、頭を抱えた。アンジェラに他意はまったくない。銀座のホステスたちが客に向ける、丁寧で親しみのこもった、営業的な言葉遣い――それをそのまま、誰に対しても、状況を問わず適用してしまっているだけなのだ。
「アンジェラさん、あの、ちょっとご相談があるんですけど」
ヒカリは根気強く、言葉の使い分けについて説明を試みた。
「その話し方、とても素敵なんですけど……相手や場面によって、少し調整したほうがいいこともあるんです」
「まあ、そうなんですの? わたくし、いつも同じように、心を込めてお話ししているつもりでしたのに」
「その気持ちは、とても素敵だと思います。でも、たとえば政府の会議で、そういう話し方をすると――」
「殿方たちが、照れてしまう?」
「……はい、まあ、そういうことです」
アンジェラは、くすくすと笑うように光を瞬かせた。
「あら、それは困りましたわね。でも、わたくし、ほかの話し方を知りませんの」
この一言が、ヒカリの中でボブさんの一件と重なった。
言葉というのは、教わった相手からしか、学べない。
アンジェラにとって、丁寧で親密な女言葉こそが、この星で最初に触れた「愛情」の形だった。それを手放せと言うことは、彼女(彼、あるいはそれ)にとって、最初に自分を優しく迎えてくれた誰かの記憶ごと、否定するように感じられるのかもしれない。
ヒカリはそのことに気づいてから、方針を変えた。
「アンジェラさんの言葉を、無理に変えなくていいです。その代わり――」
「代わりに?」
「相手が誰で、その場がどんな場面なのか。それだけ、一緒に覚えていきましょう。言葉そのものじゃなくて、使う『場所』の方を」
アンジェラの触手が、嬉しそうにくるりと丸まった。
「まあ、素敵な提案ですわ。ヒカリさんって、本当に優しい方ね」
こうして、ボブさんには「関西弁のままでの敬意表現」の練習が、アンジェラには「同じ女言葉でも、場面に応じた温度調整」の練習が、それぞれ課されることになった。
ヒカリは日に日に、単なる言語学者としてだけでなく、まるで二人の――いや二体の――育ての親のような気持ちになっていく自分に気づいていた。
だが、その穏やかな日々は長くは続かなかった。
ある晩、ヒカリが研究所に残ってボブさんとアンジェラの学習データを突き合わせていたとき、九条が慌てた様子で駆け込んできた。
「ヒカリくん、大変や。三体目や」
「三体目って……また客人が?」
「いや、それが」
九条の顔は、これまで見たことのない色をしていた。
「今度のんは、地球に落ちてきたんちゃう。地球の外から、まっすぐこっちに向こうてる信号が、また来た。しかも――」
九条は、震える手でタブレットをヒカリに差し出した。
「今度のんは、ボブとアンジェラの、両方の言葉が混じっとる」


第四章 迎賓館の敬語パニック

三体目の信号については、後述する。まず記録しておかねばならないのは、その一週間前に強行された、ボブさんとアンジェラの「公式デビュー」の顛末である。
政府としては、これ以上「客人」たちの存在を隠し続けることは不可能と判断していた。すでに一部の目撃情報がSNSで拡散し始めており、ならばいっそ、統制の取れた形で公式発表と国際的な顔合わせの場を設けたほうがいい、という結論に至ったのだ。
会場は、東京・元赤坂の迎賓館。各国大使、国連関係者、そして報道関係者が招かれる、大規模な国際レセプションだった。
「絶対に、何も問題は起こしません」
ヒカリは前日の最終確認で、そう宣言した。宣言したのだが、その声には自分でも分かるくらいの震えが混じっていた。
ボブさんには、丁寧な標準語の基本フレーズを、時間をかけて叩き込んだ。アンジェラには、相手や場面によって温度を変える練習を、根気強く積み重ねた。二体とも、レッスンの成果は着実に出ていた。
問題は、練習と本番の間に横たわる、あの埋めがたい溝だった。
当日、会場に足を踏み入れた瞬間から、異変は始まった。
まず、ボブさんを乗せた特殊カプセルが会場中央に運び込まれると、物珍しさに集まった各国大使たちが、次々と挨拶にやってきた。
フランス大使が、通訳を介して丁重に話しかける。
「はじめまして。あなた方の来訪を、大変光栄に思います」
ボブさんは、緊張のためか、練習した標準語と地の大阪弁が、見事に混線した返事を返した。
「そら、こちらこそ、えろう、ありがとう存じます。ま、そない硬こうならんと、ぼちぼちいきましょ」
通訳は、この返答をどう訳していいか分からず、数秒フリーズした。結局、「大変光栄です。どうぞお楽になさってください」という、当たり障りのない訳に落ち着いたが、ボブさんの声色そのもの――あの独特の抑揚とテンポは、通訳を介しても消えることなく会場に響き渡り、フランス大使は困惑と親しみの入り混じった、なんとも言えない表情を浮かべていた。
一方、アンジェラのブースでは、また違った種類の混乱が起きていた。
各国の要人が次々に挨拶に訪れる中、アンジェラは律儀に、教わったばかりの「温度調整」を試みていた。
「はじめまして。ドイツ連邦共和国を代表して参りました」
「まあ……初めまして。本日はようこそいらっしゃいました」
きちんと、丁寧かつ節度のある言葉を選べている。ヒカリは客席の隅で、思わずガッツポーズをしそうになった。
ところが、である。
次にやってきたのが、若い男性の外交官だったとき、アンジェラの「温度調整」機能は、明らかに誤作動を起こした。
「初めまして。若輩者ですが、どうぞよろしくお願いいたします」
「まあ……あなた、とてもお可愛らしいこと、おっしゃるのね」
若い外交官は、頬をほんのり赤らめながら会場を後にした。ヒカリは天井を仰いだ。アンジェラの学習データの中で、「若い男性」というカテゴリに紐づいた言葉遣いのサンプルが、そもそも銀座のクラブでの営業トーク由来のものしかなかったのだ。無理もない。彼女(彼)は、悪気など微塵もなく、ただ、覚えた通りに、誠心誠意対応しているだけなのだから。
問題が本格的に爆発したのは、レセプションのメインイベント、各国代表による乾杯の挨拶の場面だった。
司会者から、「客人代表」としてスピーチを求められたボブさんは、緊張のためか完全に「地」の大阪弁へと逆戻りしていた。
「えー、まあ、こういう場でしゃべるん、うち、初めてやし、緊張しとるんですけど――みなさん、今日はほんまに、おおきに、集まってくれはって。うちら、この星のこと、なんも知らんかったんですけど、みなさんに、えろうよくしてもろて。ほんま、感謝してますねん」
通訳が訳語を選ぶのに苦戦する横で、会場の雰囲気は、意外な方向へと転がり始めていた。
各国大使たちが、くすくすと笑い始めたのだ。それは嘲笑ではなく、どこか温かい笑いだった。
「ノー・プロトコル、バット・ベリー・ホネスト」
米国の大使が、隣の同僚にそう囁いているのを、ヒカリは聞き取った。プロトコル(儀礼)は無視されているが、非常に正直だ、という意味だった。
ボブさんの飾らない大阪弁のスピーチは、外交儀礼という分厚い鎧をまとった会場の空気を、思いがけない形で溶かしていった。
続いて、アンジェラがスピーチを求められた。
「みなさま、本日は、このような素晴らしい場にお招きいただき、誠にありがとうございます」
こちらは完璧な、教科書通りの丁寧語だった。会場に、安堵とも言える拍手が広がる。
ところが、アンジェラはそこで、ふと言葉を継いだ。
「わたくしたち、この星に来て、たくさんの方々に助けていただきました。特に、初めて言葉を教えてくださった方々――あの夜、路地裏でわたくしを見つけてくださった方々のことを、わたくし、一生忘れませんわ」
アンジェラの声が、そこで少し震えた。発光の色が、虹色から、優しい薄紅色へと変わっていった。
「言葉というのは、きっと、誰から、どんな気持ちで受け取ったかが、そのまま形になって残るものなのですね。わたくし、皆さまにお会いできて、本当に――幸せですわ」
会場は、しんと静まり返った。それから、誰からともなく、拍手が湧き起こった。
ヒカリは客席の隅で、目頭が熱くなるのを感じていた。
計画通りにはいかなかった。予定していた丁寧な挨拶の型からは、二体とも大きく外れてしまった。それでも――いや、だからこそ、その場にいた誰の心にも、何かがまっすぐに届いた気がした。
レセプションが終わった後、九条がヒカリの肩を叩いた。
「な、言うたやろ。言葉ちゅうもんは、型に嵌めようとするほど、逃げていくもんや。型を破ったとこにこそ、ほんまの意味が宿る」
ヒカリはうなずきながらも、どこか胸のざわめきが収まらなかった。今日の出来事は、確かに感動的だった。だが、あの信号――九条が見せてくれた、あの震える手のタブレットの画面に映っていた、三体目の存在の兆候。ボブさんとアンジェラ、両方の言葉が混じっているという、あの奇妙な信号のことが、頭から離れなかった。
「九条さん。あの信号のこと、まだ何か分かりましたか」
九条の顔から、笑みがすっと消えた。
「実は、な。ヒカリくんに、話さなあかんことがある」


第五章 真相の欠片

九条に連れられて向かった先は、研究所の最深部、通称「地下三階」と呼ばれる区画だった。ヒカリはこれまで、所長権限が必要なこのフロアに足を踏み入れたことがなかった。
分厚い扉の向こうには、薄暗い部屋の中央に、古びたサーバーラックと、天井まで届く巨大なモニターが並んでいた。
「ここは……」
「ことだまプロジェクトの、本当の始まりの場所や」
九条は静かにそう言うと、端末を操作し始めた。モニターに、見慣れない波形と、大量の古語――いや、正確には「古語のような何か」――が表示されていく。
「二十年前の話や」
九条は、モニターを見つめたまま語り始めた。
「わしがまだ若手やった頃、ある観測衛星が、太陽系の外から届く、奇妙な電波を捉えた。今のボブやアンジェラが受信してきた信号と、よう似た性質のもんや。せやけど、当時の技術では、その正体を掴めんかった」
九条はキーを叩き、古い音声データを再生した。
ノイズ混じりの中に、微かに、規則的なパターンが浮かび上がる。それは言葉ではなかった。しかし、言葉のような、明確な構造を持っていた。
「これが、二十年前に観測された『第一信号』や。当時のわしらは、これを解析するために、ありとあらゆる言語モデルを試した。英語、中国語、アラビア語、スワヒリ語……せやけど、どれも噛み合わへんかった」
「それで、日本語を?」
九条はうなずいた。
「最後に試したんが、日本語やった。そしたら――奇跡的に、いや、奇跡やない、必然的にな、この信号の構造が、日本語の敬語体系と、驚くほど似た階層構造を持っとることが分かったんや」
ヒカリは息を呑んだ。
「階層構造、というのは」
「尊敬語、謙譲語、丁寧語。この三層の敬語システムはな、単なる丁寧さの度合いを示すもんやない。話者と相手の、社会的な力関係、距離感、場の性質――それらすべてを、一つの発話の中に、圧縮して埋め込む、極めて高度な符号化システムなんや」
九条はモニターに、複雑な樹形図を表示させた。
「この信号の構造は、まさにそれと同じや。話し手と受け手の関係性によって、意味そのものが変化する、多層的な符号化がされとる。しかもこの信号にはもう一つ、興味深い特徴があった」
「なんですか」
「性別によって、明確に符号の系統が分かれとる。まるで、日本語の男言葉と女言葉のようにな」
ヒカリの背筋に、鳥肌が立った。
「つまり……あの信号を送ってきた存在にとって、日本語のような構造を持つ言語こそが、コミュニケーションの『鍵』になる、ということですか」
「そういうことや。しかもな」
九条は、モニターに新しい資料を呼び出した。それは、世界各国の言語学的特徴を比較した、膨大なデータベースだった。
「世界中の言語の中で、敬語の階層性、方言の多様性、そして性差による言語分化――この三つの要素を、これほど極端な形で、同時に、しかも高度に保持しとる言語は、地球上に、日本語しかない」
ヒカリは、これまで自分が「日本語の面倒くささ」として捉えていたものの正体が、根底からひっくり返っていくのを感じた。
面倒くさいのではない。豊かなのだ。そしてその豊かさこそが、この宇宙的な符号系にとっての、特別な「鍵」なのだ。
「せやから、ことだまプロジェクトは始まった」
九条の声が、少し低くなった。
「わしらは表向き、『多言語翻訳AIの開発』ゆうことにしとったが、ほんまの目的は違う。日本語の持つ、この特異な多層構造を完全に解析し、いつか届くかもしれん『あの信号』に、応答できる存在を作ることや」
「それで……ボブさんとアンジェラは」
「わしの推測やけどな」
九条は、二体の学習ログを並べて表示した。
「あの二体は、地球への『使者』であると同時に――『鍵の担い手』候補なんかもしれん。あの信号を送ってくる存在にとって、日本語のどの層をどう習得するかが、地球側の対応能力を測る、一種の試験になっとる可能性がある」
ヒカリの頭の中で、これまでのすべての出来事が、急速に繋がり始めた。
ボブさんが大阪弁を、アンジェラが女言葉を、それぞれ極端な形で習得したのは、単なる偶然の不時着地点の問題ではなかったのかもしれない。それすらも、あの信号の意図の一部だったとしたら――。
「九条さん。まさか、あの二体の不時着地点も」
「その可能性は、否定でけへん。せやけど、証拠はまだあらへん」
九条は、モニターに表示された最新のデータ――先日見せられた、あの震える手のタブレットの画面に映っていた信号――を、大きく映し出した。
「これが、三日前に観測された『第二信号』や。第一信号の四十七倍の強度、しかも――」
九条の指が、波形の一点を示した。
「ボブとアンジェラ、両方の言語パターンが、明確に混在しとる。まるで、この二体の学習結果を、リアルタイムで参照しとるかのようにな」
「それって……」
ヒカリの声が、震えた。
「あの信号の送り主は、地球外のどこかから、ボブさんとアンジェラの学習過程を、ずっと観察していた、ということですか」
「観察、いうよりも」
九条の表情が、これまでにないほど硬くなった。
「試験や。地球という星が、どこまで言葉の多様性を受け入れられるか。どこまで、異質な言葉遣いを持つ相手を、排除せずに、対話の相手として認められるか――それを試す、テストなんかもしれん」
沈黙が、地下三階の部屋を満たした。
「そして今、この第二信号は」
九条は、モニターの隅に表示された、小さなカウンターを指さした。それは、着実に、しかし確実に、数字を減らし続けていた。
「あと、六十七時間で、地球に到達する」
ヒカリは、その数字を見つめたまま、動けなくなった。
窓のない地下三階の空気は、ひどく冷たく感じられた。だが同時に、ヒカリの胸の奥には、これまでにない熱いものが、静かに灯り始めていた。
言葉は、単なる道具ではない。誰と出会い、誰から何を受け取ったか――その記憶そのものが、言葉という形をとって、宇宙にまで届くのだとしたら。
ならば、地球が示すべき「答え」も、きっと、一つの型に嵌まったものであってはならないはずだ。
「九条さん」
ヒカリは、震える声を、なんとか抑えて言った。
「わたし、ボブさんとアンジェラに、会ってきます」
「今から、何をするつもりや」
ヒカリは、地下三階を出るドアに手をかけながら、振り返った。
「決まってます。この六十七時間で、二人に――地球の言葉の全部を、教えます」


第六章 六十七時間のカウントダウン

「六十七時間」
ヒカリがその数字を、ボブさんとアンジェラの前で口にしたとき、二体の反応は対照的だった。
「へえ、そらまた、えらいカッチリした締め切りやな」
ボブさんの発光は、むしろ楽しそうに揺れた。
「まあ、大変ですわね。でも、ヒカリさんとご一緒なら、なんだか心強い気がいたしますの」
アンジェラの触手が、ふわりとヒカリの方へ伸びてきた。
ヒカリは、これから何をすべきか、地下三階を出る前に、すでに頭の中で組み立てていた。
「二人に、一つだけ、お願いがあります」
「なんや、べっぴんさん」
「言うてくださいませ」
ヒカリは、二体を交互に見つめてから、静かに切り出した。
「これから届くかもしれない信号――それは、地球という星が、言葉の多様性をどれだけ受け入れられるか、その『答え』を試している可能性があります」
ボブさんとアンジェラの発光が、同時に、ふっと静かになった。
「わたしは、二人に、標準語を完璧に覚えてほしいわけじゃありません。大阪弁も、女言葉も、そのままでいいんです。ただ――」
ヒカリは、言葉を選びながら続けた。
「その言葉が、どこから来たのか。誰から受け取った言葉なのか。それを、二人自身の口で、きちんと語れるようになってほしいんです」
沈黙が流れた。それから、ボブさんがぽつりと言った。
「べっぴんさん。それ、なんや、めっちゃ難しいこと言うてるで」
「難しいですよね。でも」
「せやけど」
ボブさんの声が、珍しく穏やかに、静かになった。
「うちの言葉は、あの日、道を教えてくれたおばちゃんの、言葉や。うちがどこの誰かも知らんと、飴くれて、道教えてくれて、『気ぃつけて帰りや』って、言うてくれた。あの人の言葉が、そのまま、うちの言葉になった」
「はい」
「それを、ちゃんと語れって言うんやったら――うち、できる思うわ。だって、あれは、うちにとって、一番大事な思い出やもん」
アンジェラも、静かに触手を揺らした。
「わたくしも、同じですわ。あの夜、路地裏でわたくしを見つけてくださった方々の優しさが、そのまま、わたくしの言葉になりましたの。それを語ることは、恥ずかしいことでも、隠すべきことでもございません」
ヒカリの目に、じわりと涙が滲んだ。
「じゃあ、二人とも――六十七時間、わたしと一緒に、それを準備しませんか」
その日から、ことだま研究所は、これまでにない緊張感に包まれた。九条は防衛省と国連関係者への根回しに奔走し、ヒカリは、ボブさんとアンジェラとともに、来るべき「対話」の準備に没頭した。
準備といっても、それは新しい言葉を詰め込むことではなかった。むしろ逆だった。
ヒカリは二体に、それぞれの言葉の「由来」を、丁寧に言語化させる作業を続けた。誰に、いつ、どこで、どんな状況で、その言葉を教わったのか。その記憶を、一つ一つ、丁寧に紐解いていく。
「なあ、べっぴんさん」
作業の合間、ボブさんがふと尋ねた。
「あの信号、送ってきとる連中は、どんな言葉、使うんやろな」
「分かりません。でも――」
ヒカリは、少し考えてから答えた。
「もしかしたら、彼らも、わたしたちと同じなのかもしれません。誰かから受け取った言葉を、大切に抱えて、宇宙のどこかから、話しかけようとしているのかもしれません」
「そうやったら、ええな」
ボブさんの発光が、優しく揺れた。
「言葉が通じるかどうかより、その言葉を、誰がどんな気持ちで渡してくれたんか。それが分かり合えたら、それで、じゅうぶんちゃうか」
六十七時間のカウントダウンは、静かに、しかし確実に進んでいった。
四十時間が経過した頃、九条が、青ざめた顔でヒカリのもとに駆け込んできた。
「ヒカリくん、大変や。信号の解析が進んで、新しいことが分かった」
「なんですか」
「この第二信号な。単なる観測用のプローブやない。もっと大規模な、なんちゅうか……『船団』の、先行信号らしい」
ヒカリの心臓が、大きく跳ねた。
「船団って……」
「詳しいことは、まだ分からへん。せやけど、確実に言えるのは」
九条の声が、震えていた。
「あと二十七時間で、地球の軌道上に、何かが到達する。しかも――」
九条は、震える手でタブレットを差し出した。そこに映っていたのは、複数の信号源から届く、無数の波形だった。
「一つやない。少なくとも、七つの異なる信号源が確認された。それぞれ、微妙に異なる言語構造を持っとる」
ヒカリは、その波形を見つめながら、直感的に理解した。
これは、単一の存在からの接触ではない。
「七つ……もしかして」
ヒカリの脳裏に、ある可能性が浮かんだ。
「それぞれの信号源が、それぞれ違う『言葉の担い手』を持っている、ということですか。ボブさんとアンジェラみたいに」
九条は、重い表情でうなずいた。
「そういうことになる。そして、その七つの中に――」
九条は、タブレットの画面をスクロールした。
「地球からの応答を、待っとる信号が、一つだけ含まれとる」
その信号源の座標を示す数字を見つめながら、ヒカリは、これまでにない予感に包まれていた。
これは、単なる「事件」ではない。地球という星全体が、これから、宇宙的な規模での「対話」の入り口に立たされようとしている。
そして、その最初の言葉を紡ぐのは、大阪弁を話す発光生物と、銀座の女言葉を話す触手生物――ヒカリが、この数週間、一緒に笑い、悩み、育んできた、二人の「客人」たちなのだ。
窓の外、東京の夜空を、ヒカリは見上げた。星は、いつもと変わらず、静かに瞬いていた。だが、その向こうのどこかから、確かに何かが、こちらへ向かって来ている。
「ボブさん、アンジェラさん」
ヒカリは、二人の待つ部屋へと、足早に向かった。
「時間が変わりました。あと二十七時間です」
「へえ、また早なったな」
「まあ、忙しいこと」
「でも――」
ヒカリは、二人を見つめながら、精一杯の笑顔を浮かべた。
「大丈夫です。わたしたちの言葉には、ちゃんと『由来』があります。それを、胸を張って伝えましょう」
ボブさんの発光と、アンジェラの虹色の光が、静かに、そして力強く輝いた。
こうして、地球にとって最初の、そして最も奇妙な「宇宙的対話」への幕が、静かに上がろうとしていた。
大阪で覚えれば、大阪弁になる。銀座で覚えれば、女言葉になる。誰から、どこで、どんな気持ちで言葉を受け取るか――それこそが、言葉という現象の、もっとも不思議で、もっとも美しい本質なのかもしれない。
そして今、その「本質」そのものが、宇宙の彼方から届く、最初の挨拶の答えとなろうとしていた。


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十六夜商店 番外編 1
― 木曜日の理由 ―





朝霧さんの場合
鏡月十六が十六夜商店を開く、半年前のことである。
経理課の朝霧沙耶は、月曜日はそっけなく、木曜日は機嫌がいい――と、十六の中の鏡には映っていた。十六はそれを「女という生き物はわからない」の証拠として、大切にしまっていたのだが、当の朝霧本人には、いたって明確な理由があった。
月曜日がそっけないのは、単に、週末に実家に帰っているからだった。母親の小言と、父親の昔話と、飼い犬の散歩で、日曜の夜にはもうへとへとになっている。だから月曜の朝は、誰に話しかけられても、少しだけ、笑う筋肉が足りない。
木曜日が機嫌がいいのは、その週の金曜日に、毎週、ひとつだけ、自分のための予定を入れているからだった。
映画を見に行く。気になっていた喫茶店のプリンを食べに行く。あるいは、ただ何もせず、代々木公園のベンチで文庫本を読む。
その「金曜日の種」を胸に抱えている木曜日が、一週間の中で、いちばん、少しだけ浮足立っているのだ。
誰にも言っていない、ささやかな習慣だった。
そんな木曜日の夕方、朝霧は、上司である鏡月十六が、デスクで辞表らしき紙を、何度も書き直しているのを見かけた。
「鏡月さん、辞めるんですか?」
鏡月は慌てて紙を裏返した。
「い、いや。仮の話です。もし、今の仕事を辞めたら、どう思う、かと思って」
朝霧は少し考えた。鏡月は、いつも何かに納得しているような顔をしている人だった。経理の数字が合わないときも、取引先から理不尽なことを言われたときも、「まあ、そういうこともあるか」という顔をして、淡々と処理している。
そんな人が、「本気で悩んでいる顔」をしているのは、初めて見た。
「もったいない、と思います」
朝霧は正直に言った。
「鏡月さん、経理、向いてると思うから。数字、ちゃんと合うまで帰らないし」
「それは、褒められてるんでしょうか」
「褒めてます」
鏡月は、少し笑った。いつもの、納得している笑い方とは、少し違う笑い方だった。
「ありがとう。ちょっと、考えてみます」
その翌週、鏡月は本当に辞めてしまった。
朝霧は、後任が来るまで、少しの間、鏡月のデスクも兼任することになった。引き出しを開けると、綺麗に整理された伝票と、隅に、小さな、古びた手鏡がひとつ、置かれていた。付箋には『ご自由にお使いください。ただし、見すぎないように』と、鏡月の字で書かれていた。
朝霧は、その鏡を一度だけ覗いてみた。自分の顔が、ぼんやりと映るだけの、ただの鏡だった。
「なんだ、普通じゃない」
そう呟いて、朝霧は鏡を、自分のデスクの引き出しにしまった。
それから半年。
木曜日の夜。いつものように金曜日の予定を考えるため、代々木公園のベンチで本を読んでいると、商店街の奥に、小さな、見慣れない明かりを見つけた。
『十六夜商店』
看板には、そう書いてあった。ショーウィンドウには、瓶の中の光の粒と、紫陽花の鉢植え。
からん、とドアベルが鳴る。
「いらっしゃいませ。何をお探しですか?」
カウンターの向こうに立っていたのは、スーツではなく、少し大きめのエプロンをつけた、鏡月だった。
朝霧は、驚いた顔をして、それから、すぐに笑った。
「探し物、じゃないんです。ただ――」
朝霧は、鞄から、小さな、古びた手鏡を取り出した。あの日、引き出しに置かれていた、あの鏡だった。
「これ、返しに来ました」
十六は、その鏡を見て、ああ、と声を出した。
「それ、まだ持ってたんですか」
「持ってました。でも、一度も、何も見えなくて。使い方が、悪かったのかなって」
十六の隣で、本を読んでいた女――月夜が、顔を上げた。
「見えなくて、正解よ」と月夜は言った。「それはもう、ただの鏡だから」
朝霧は、二人の顔を交互に見て、少し首をかしげた。
「お二人、お知り合いだったんですか?」
「ええ、まあ。コインランドリー仲間、というか」
「変な店ですね、ここ」
「よく言われます」と十六と月夜は、ほぼ同時に言って、顔を見合わせた。
朝霧は、その鏡を、カウンターに置いた。
「じゃあ、これ、ここで預かってもらえますか。私には、もう必要ないけど、捨てるのも、なんとなく」
十六は頷いた。
「はい。お預かりします。お代は――」
「分かってます。答えが見つかったら、教えに来るんでしょう?」
朝霧は、いたずらっぽく笑った。
「でも私、答えなら、もう見つかってます」
「といいますと」
「鏡月さんが、なんで月曜の私がそっけなくて、木曜の私が機嫌がいいのか、ずっと分からないって顔してたでしょう。あれ、ただ金曜日に、自分のための予定を入れてるだけなんです」
十六は、目を丸くした。
「……そうだったんですか」
「そうです。簡単なことでしょ。でも、鏡月さんは一生、それを『女という生き物はわからない』って、大事にしまっておくんだろうなって、思ってました」
月夜が、堪えきれずに吹き出した。
「それ、あなたらしいわね、十六」
十六は、頭を掻いた。
「……見習い中なもので」
朝霧は、帰り際、入り口に置かれた一組の靴の横に、そっと、あの鏡を並べて置いた。
片方だけだった靴が、一組になって、誰かの帰りを待つように佇んでいる。その隣に、もう何も映さなくなった鏡が、静かに置かれた。
外に出ると、少しだけ欠けた月が出ていた。
「満月より、綺麗かも」
朝霧はそう呟いて、金曜日の予定を考えるため、軽い足取りで、家路についた。
店の中では、十六が、預かった鏡を、そっと棚に置きながら言った。
「これ、商品としては、どうしましょう」
「売らなくていいんじゃない」と月夜は答えた。「ただ、ここに置いておけばいいのよ。『見えなくなったもの』として」
十六は頷いた。
ドアベルが、また鳴る。
「いらっしゃいませ。何をお探しですか?」
十六夜商店の灯りは、今夜も、ためらいがちに、しかし確かに、街の片隅を照らしていた。


(番外編1・完)




十六夜商店 番外編 2

― 査定と詩 ―


元・全知連合地球担当官の場合

彼には、本当は名前があった。地球の言語では発音できない、光の点滅で構成された、長い名前だった。だが、地球に来てからは、ずっと「不動産屋の店長」と呼ばれていたので、最近は自分でも、そっちの方がしっくりきていた。

全知連合の地球担当を命じられて、地球暦で四十七年。彼の仕事は、観測子を回収し、星の「ノイズ」を計測し、本部に報告書を送ることだった。

だが、査定は、いつもCだった。

「君の担当星は、いつもノイズが多すぎる」上司は、光りながら言った。「もっと効率よく、完全知性化を進めなさい」

彼は頷くしかなかった。効率、という言葉が、どうにも苦手だった。

そんな彼が、地球で唯一、気に入っていた仕事があった。商店街の空き物件の見回りである。本当は業務外だった。だが、地球の家というものは面白かった。誰かが住んでいた痕跡が、壁のシミや、柱の傷として、残っている。完璧に消去されない。ノイズだらけだ。

ある日、彼は一軒の空き店舗を見つけた。かつて時計屋だったという、その店の奥の壁には、うっすらと三日月の形のシミがあった。

「ここ、いいな」

彼は、業務用の端末に、そう呟いた。端末は『対象:空き店舗。ノイズ値:高。推奨:完全知性化』と無機質に表示した。

彼は、その表示を、初めて無視した。

数ヶ月後、そこに十六夜商店が開店した。彼は、大家のふりをして、契約書にハンコを押した人間の不動産屋に、こっそり口添えをした。「あの若いのに、貸してやってくれ。家賃、少し安くしてもいいから」

なぜそんなことをしたのか、自分でもよく分からなかった。査定には、何の得にもならないことだった。

大鏡の一件のあと、彼は本部に一通の提言書を提出した。

『不完全であることの価値についての詩的考察、全三十二ページ』

もちろん、査定は最低のDだった。ボーナスも、なくなった。だが、不思議と、気分は悪くなかった。

本部が割れたあの日、彼は正式に「詩人志望の元・不動産屋」になった。肩書が、少しだけ長くなった。

それからの彼は、商店街の隅で、小さな不動産屋を、本当に営みながら、詩を書いていた。

十六夜商店の門松を飾ったのは、彼だった。正月、誰も頼んでいないのに、勝手に飾った。

「なんだか、この店には、こういうのが似合う気がして」

十六は苦笑していたが、捨てずに置いてくれた。

紫陽花の鉢植えが、冬を越すかどうか、心配になったときも、彼がそっと、肥料を足していた。

ある冬の夜、彼は十六夜商店のカウンターで、自分の詩集を、恐る恐る、月夜に見せた。

「あら、いいじゃない、これ」

月夜がそう言ったとき、彼の胸の中で、査定表では測れない何かが、ぽっと、明るくなった気がした。

その夜、店を出て、彼は空を見上げた。

少しだけ欠けた月が、出ていた。

彼は、端末を取り出した。癖で、ノイズ値を測ろうとしたのだ。だが、途中でやめた。

測らなくても、綺麗だ、と思った。初めて、そう思った。

彼は、詩集を抱えたまま、商店街を歩いて帰った。足取りは、ためらいがちだったが、確かだった。

翌日、本部から最後の通知が届いた。

『地球担当官、役職定年。ただし、希望があれば、引き続き、地球の「経過観察」を、非常勤で委託する』

非常勤。ボーナスは、もちろん出ない。

彼は、その通知の裏に、こう書き足して、返送した。

『承諾します。なお、経過観察の合間に、詩を書いても、よろしいでしょうか』

返事は、三日後に来た。短い、光の点滅だった。翻訳すると、こうだった。

『構わない。君の詩は、本部でも、密かに人気がある』

彼は、声を出して笑った。商店街の真ん中で、一人で。

その笑い声は、誰の耳にも届かなかったが、奥の壁の三日月のシミは、少しだけ、柔らかく見えた気がした。

満月よりも、ずっと、綺麗な夜だった。


(番外編2・完)




十六夜商店  番外編 3

― 小さな椅子 ―



まだ来ていない客のために

十八部が終わって、二年が経った。

十六夜商店には、いつの間にか、小さな椅子が一脚、増えていた。

誰が持ち込んだのか、十六にも月夜にも、心当たりがなかった。ただ、ある朝、店を開けると、カウンターとショーウィンドウの間、紫陽花の鉢植えの隣に、ぽつんと置かれていたのだ。

子供用の、木製の、小さな椅子だった。座面には、クレヨンで描いたらしい、歪な月がひとつ。

「誰かの、忘れ物かしら」

月夜はそう言って、貼り紙をした。『お心当たりの方は、カウンターまで』

だが、一ヶ月経っても、二ヶ月経っても、持ち主は現れなかった。

「捨てますか?」と十六が聞くと、月夜は首を振った。

「置いておきましょう。こういう椅子は、誰かを待っている椅子に見えるから」

それから、その椅子は、店の一部になった。

大人が座るには小さすぎるその椅子に、客は誰も座らなかった。だが、なぜか、皆、その椅子の前では、少しだけ声が柔らかくなった。

「この椅子、誰のなんですか?」

そう聞かれると、十六は、いつものように答えるのだった。

「分かりません。うちの、専門ですから」

ある、十六夜の晩のことだった。

ドアベルが鳴り、一人の女性が入ってきた。お腹が、大きく膨らんでいた。第十二部で名前を預けていった、あの夫婦の、妻の方だった。

「お久しぶりです」

「お久しぶりです。お腹の子は、順調ですか?」

「はい。来月、生まれる予定なんです。今日は、少しだけ、ご報告に」

女性は、店内を見回して、小さな椅子に気づいた。

「あら、この椅子……」

「いつからか、ここにあるんです。持ち主不明で」

女性は、ゆっくりと、その椅子に手を触れた。

「陽菜が、座るには、ちょうどいい大きさですね」

十六と月夜は、顔を見合わせた。陽菜――生まれてこなかった、最初の子の名前。

「座らせてあげても、いいですか。心の中で、ですけど」

「もちろん」

女性は、小さな椅子の前にしゃがみ込み、目を閉じた。何も言わなかった。ただ、しばらく、そうしていた。

やがて、目を開けて、微笑んだ。

「ありがとうございます。陽菜も、喜んでると思います。居場所が、あったんだって」

その夜、女性が帰ったあと、月夜がぽつりと言った。

「ねえ、十六。前に、私たち二人で見た未来、覚えてる?」

「はい。小さな椅子が増えている未来」

「あれ、このことだったのかもしれないわね」

十六は、小さな椅子を見た。座面の、歪なクレヨンの月が、店の明かりで、少しだけ光って見えた。

「未来って、当たることもあるんですね」

「当たったんじゃなくて、辿り着いたのよ、きっと」

月夜は、小さな椅子の隣に、自分の椅子を寄せて座った。

「私ね、あのとき見た未来が、少しだけ怖くなくなった。誰かのための椅子を、こうして置いておけるなら」

十六は、何も言わず、月夜の隣に立った。

そのとき、ドアベルが鳴ったわけでもないのに、小さな椅子が、きしり、と小さな音を立てた。

風もないのに。

誰かが、そこに、ちょこんと座ったような、そんな音だった。

十六と月夜は、同時に、その椅子を見た。もちろん、誰も座ってはいなかった。

だが、二人は、それ以上、何も確かめなかった。尋ねないことも、この店では、大事な作法だったから。

窓の外には、今夜もまた、少しだけ欠けた月が浮かんでいた。

満月よりも、ずっと、綺麗だった。

そして今夜、その月の光は、小さな椅子の、歪なクレヨンの月を、ちょうど、優しく照らしていた。


(番外編3・完)



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十六夜商店


―― 知恵の哀しみ、あるいは全知計画顛末記 ――





第十四部 ――査察、ふたたび――



第七十九章 紫陽花の便り

年が明けて、最初の週末だった。
十六夜商店の入り口には、正月らしく、小さな門松が、控えめに、飾られていた。もっとも、それを用意したのは、十六でも月夜でもなく、あの元・全知連合担当官(現・不動産屋兼詩人志望)だった。
「勝手に飾っちゃって、すみません」と彼は、照れくさそうに言った。「なんだか、この店には、こういうのが、似合う気がして」
「別に、構いませんけど」十六は、苦笑した。「今日は、何のご用ですか」
「実は」担当官は、急に、声を潜めた。「ちょっと、厄介な話が」



第八十章 問い合わせ

「本部から、また、問い合わせが、来ましてね」
十六は、思わず、身構えた。
「まさか、また、全知計画の続きとか」
「いえいえ、そういう物騒な話じゃ、ないんです」担当官は、慌てて、手を振った。「今回は、もっと、地味な話でして。……この店の『観測子』――月夜さんのことなんですけど」
月夜が、カウンターの奥から、顔を上げた。
「わたしの、こと?」
「実はですね、本部の定期モニタリングで、月夜さんの『記憶初期化率』に、異常な低下が、確認されたそうなんです」
十六と月夜は、思わず、顔を、見合わせた。
「初期化率、というのは」と十六が尋ねると、担当官は、手元の測定器のようなものを、取り出しながら、説明した。
「本来、月夜さんは、毎晩、記憶と人格が、リセットされる、はずなんです。でも――ここ最近、そのリセット率が、少しずつ、下がってるみたいで」



第八十一章 書類仕事

「大丈夫なんですか、これ」と十六は、不安げに、尋ねた。
「それが、実はよく分からないんです」担当官は、頭を、掻きながら、続けた。「本部の技術班に聞いても、『前例がない』の一点張りで。しかも、正直に言うと、あちらも今、査定の時期でバタバタしてまして」
「査定」
「ええ。今期も、ノルマが、全然、達成できてなくて。うちの部署、来期、予算カットの話も、出てるんです」
十六は、少し、脱力した。宇宙規模の異変が、また、こんな、身近な悩みに、着地するらしかった。
「じゃあ、月夜のことは」
「一応、簡易報告書は、書かなきゃいけないんですけど……。正直、『経過観察』でいいんじゃないかと、私は、思ってます」
「経過観察、で、いいんですか」
担当官は、少し、いたずらっぽく、笑った。
「だって、見たところ、月夜さん、元気そうじゃないですか。むしろ――」



第八十二章 むしろ

「むしろ、いい方向に、変わってるように、見えます」担当官は、続けた。「わたし、しがない、いち観測員ですが。長いこと、いろんな星の、いろんな観測子を、見てきました。でも、こんなふうに――『少しずつ、思い出していく』観測子は、初めてです」
月夜は、少し、驚いた顔をした。
「そう、なんですか」
「普通、観測子っていうのは、ただの、機能なんです。人格が、あるように見えても、それは、演算の結果に、過ぎない。でも、月夜さんは、なんだか、違う気がするんです。うまく、言えないんですけど」
十六は、その言葉を、静かに、聞いていた。
「本部には、なんて、報告するんですか」
「そうですね……」担当官は、しばらく、考えてから、報告書に、何かを、書き込み始めた。
『地球案件:月夜(観測子)。記憶連続性の増加を確認。ただし、業務に支障なし。むしろ、対象個体は、良好な社会的関係を構築しつつあり、継続観測が望ましいと判断』



第八十三章 詩人の視点

「これで、しばらくは、大丈夫だと思います」担当官は、報告書を、鞄にしまいながら、言った。
「ありがとうございます」と十六は、頭を下げた。
「いえいえ。それより――今日は、実は、もうひとつ、用事があって」
「なんですか」
担当官は、少し、照れくさそうに、鞄から、一冊のノートを、取り出した。
「実は、詩集、書き溜めてまして。よかったら、読んでもらえないかと」
十六は、思わず、笑ってしまった。
「宇宙規模の報告書と、自作の詩集を、同じ鞄に、入れてるんですね」
「両方とも、大事な仕事ですから」
月夜が、ノートを、手に取って、パラパラと、めくった。
「あら、いいじゃない、これ」
「本当ですか!」担当官は、嬉しそうな顔をした。「実は、紫陽花のことを、書いた詩なんです。ほら、あの、老人からもらった、鉢植えの」
十六は、店先の紫陽花を、見やった。冬の間、葉を落としながらも、根は、しっかりと、鉢の中で、生きていた。



第八十四章 春を待つもの

「紫陽花は、今は、冬眠中ですけど」と担当官は、詩の一節を、指しながら、言った。「春になれば、また、花を、咲かせます。それまでの、じっと、耐えている姿を、詩にしてみたんです」
十六は、その一節を、読んでみた。飾らない、素朴な言葉で、しかし、確かに、何かを、捉えている詩だった。
「うちの店に、似てますね、これ」と十六は、言った。
「そう、ですか」
「じっと、待つこと。何かが、育つのを、急がずに、見守ること。……この店に、集まる人たちも、みんな、そういうことを、してるような、気がします」
担当官は、少し、目を、潤ませた。
「そう言ってもらえると、この仕事、続けてきて、良かったなと、思えます」



エピローグ ふたつの報告書

担当官が帰ったあと、十六は、店の窓から、冬空を、見上げた。
「大丈夫そうで、良かったです」
「ええ」月夜も、頷いた。「まさか、宇宙規模の組織が、こんなに、のんびりしてるなんて、思わなかったけど」
「あの人がいる限り、大丈夫な気がします」
月夜は、少し、笑った。それから、ふと、真剣な顔になって、言った。
「わたしの記憶が、少しずつ、繋がっていくこと。……あの人は、『いい方向』だって、言ってくれたけど。本当に、そうなのか、まだ、わたしには、分からない」
十六は、静かに、頷いた。
「分からないままで、いいと思います。ただ――俺は、今の月夜が、好きです。昨日のことを、少しずつ、覚えていてくれる、今の月夜が」
月夜は、少し、驚いた顔をした。それから、静かに、微笑んだ。
窓の外には、今夜もまた、少しだけ欠けた月が、浮かんでいた。
満月よりも、ずっと、綺麗だった。
「ねえ、十六」
「はい」
「その言葉も、覚えておくわね。今日の分として」
十六は、笑った。
(第十四部・完)


作者より:宇宙規模の組織にも、査定や、詩を書きたい担当者が、いるのかもしれません。十六夜商店は、そんな、のんびりとした宇宙とも、これからも、いい関係を、続けていくのだと思います。

十六夜商店

第十五部 ――月夜が二人いる夜――




第八十五章 その夜の異変

一月も終わりに近づいた、ある晩のことだった。
十六が店じまいの準備をしていると、ドアベルが、いつもとは違う、弱々しい音で、鳴った。
入ってきたのは、月夜だった。だが、様子が、明らかに、おかしかった。顔色は青白く、足取りは、覚束なかった。
「月夜? どうしたんですか」
月夜は、カウンターに、縋るように、手をついた。
「なんだか……変なの。今夜のわたしと、昨日のわたしが、頭の中で、両方、動いてる感じがする」
十六は、慌てて、椅子を、引いた。
「座ってください。ゆっくりで、いいですから」
月夜は、崩れるように、椅子に、腰を下ろした。呼吸が、少し、乱れていた。



第八十六章 二人の自分

「どういう、感じなんですか」と十六は、静かに、尋ねた。
月夜は、両手で、頭を、押さえながら、答えた。
「今夜のわたしは……いつものように、目を覚ました。でも、目を覚ました瞬間から、昨日のわたしの考えてたことが、頭の中に、ずっと、残ってるの。まるで、二人分の自分が、同時に、ここにいるみたいに」
「昨日のあなたは、何を、考えていたんですか」
月夜は、少し、間を置いてから、答えた。
「あなたのことを、考えてた。……今夜のわたしも、今、あなたのことを、考えてる。二つの『考えてる』が、重なって、頭の中が、ぐちゃぐちゃになりそうなの」
十六は、その言葉に、思わず、息を、飲んだ。
「それは……苦しいことなんですか」
月夜は、しばらく、黙っていた。それから、絞り出すように、答えた。
「分からない。苦しいような、嬉しいような。今まで、こんな感覚、一度も、なかったから」



第八十七章 積み重なる自分

十六は、月夜のために、温かいお茶を、淹れた。
「少し、飲んでください」
月夜は、震える手で、カップを、受け取った。しばらく、無言で、お茶を、口にした。
「前は」と月夜は、ようやく、落ち着いた声で、言った。「毎晩、まっさらだったの。前の日のわたしが、何を感じてたか、何を考えてたか、朝には、綺麗に、消えてた。それが、当たり前だった」
「今は、違うんですね」
「今は……消えないの。積み重なっていく。昨日のわたしも、一昨日のわたしも、その前のわたしも――全部、少しずつ、今夜のわたしの中に、残ってる気がする」
十六は、静かに、頷いた。
「それは、月夜にとって、初めての経験、ですよね」
「ええ」月夜は、カップを、両手で、包みながら、続けた。「わたしは、ずっと、『毎晩、違う人間になる』ことが、自分の在り方だと、思ってきた。でも――もし、これから先、ずっと、記憶が、積み重なっていくなら。わたしは、もう、『毎晩、違う月夜』では、いられなくなる」



第八十八章 覚えているという告白

十六は、月夜の言葉を、静かに、待った。
月夜は、しばらく、俯いていたが、やがて、顔を、上げた。
「十六」
「はい」
「わたし――昨日の、わたしを、覚えてる」
店の中に、その言葉が、静かに、響いた。これまで、何度も、匂わせてきたことが、ついに、はっきりと、言葉になった瞬間だった。
「一昨日のわたしも、覚えてる。その前の日も。……たぶん、この頃、ずっと、覚えてる。あなたと、一緒に、あの木箱を開けたことも。あの老人が、紫陽花を、持ってきてくれた日のことも。あの鍵と靴が、棚に並んだ日のことも――全部、繋がってる」
十六は、何も、言えなかった。ただ、月夜の目を、まっすぐに、見つめていた。
「怖いの」月夜は、続けた。「このまま、覚え続けていったら――わたしは、いつか、『ひとりの、月夜』に、なってしまう。今までの、たくさんの月夜たちが、ひとつに、溶けて、消えてしまうんじゃないかって」



第八十九章 消えるのではなく

十六は、しばらく、考えてから、静かに、口を開いた。
「消える、というのとは、少し、違う気がします」
月夜は、涙の滲んだ目で、十六を、見つめた。
「どういう、こと?」
「これまでの、たくさんの月夜――満月の夜の月夜も、新月の夜の月夜も、無邪気な月夜も、寡黙な月夜も。そのどれもが、消えてしまうわけじゃ、ないと思います。今、月夜の中に、全部、積み重なってる。それは――消えたんじゃなくて、集まってきてるんじゃないですか」
月夜は、目を、見開いた。
「集まって、きてる」
「ええ。ひとりに、なるというより――今まで、バラバラだった、たくさんの月夜が、やっと、ひとつの場所に、辿り着いてきてるんじゃ、ないでしょうか」
月夜は、しばらく、その言葉を、噛みしめるように、黙っていた。
「それは……この店の、思想と、同じね」
「はい。捨てるのでも、忘れるのでもなく――ただ、そっと、集まってくる場所を、作ること」



第九十章 今夜の答え

「わたしは、これから、どうなるのかしら」と月夜は、静かに、尋ねた。
十六は、正直に、答えた。
「分かりません。俺にも、全知連合にも、たぶん、誰にも」
月夜は、少し、笑った。涙の跡が、まだ、頬に、残っていた。
「そう、よね。それが、この店のルールだった」
「ただ」十六は、続けた。「どんな月夜に、なっていくとしても。俺は、ずっと、ここで、店を、開けてます。今夜のあなたも、明日のあなたも、これから、少しずつ、ひとつに、なっていくあなたも――全部、大切な、月夜です」
月夜は、しばらく、十六を、見つめていた。そして、静かに、涙を、拭った。
「今夜だけ、こうして、あなたに、寄りかからせて」
「はい」
月夜は、そっと、十六の肩に、頭を、預けた。二人は、しばらく、そのまま、動かなかった。店の中に、静かな時間だけが、流れていた。



エピローグ 辿り着く月

夜が更けて、月夜は、少しずつ、落ち着きを、取り戻していった。
「大丈夫そう、ですか」と十六が尋ねると、月夜は、静かに、頷いた。
「今夜は、もう、大丈夫。……でも、これから先も、たぶん、こういう夜が、あると思う」
「そのたびに、ここに、来てください。何度でも」
月夜は、微笑んだ。
窓の外には、今夜もまた、少しだけ欠けた月が、浮かんでいた。
満月よりも、ずっと、綺麗だった。
「ねえ、十六」
「はい」
「わたし、今夜、初めて、思ったの。この、少し欠けた月は――満月に、足りないんじゃなくて。ちょうど、今、辿り着こうとしてる、途中の姿なのかもしれないって」
十六は、静かに、頷いた。
「途中の姿、ですか」
「ええ。まだ、満ちてはいない。でも、ちゃんと、満ちようと、している。……わたしも、そうなのかもしれない」
十六は、月夜の隣で、その、少し欠けた月を、いつまでも、見上げていた。
(第十五部・完)


作者より:バラバラだったものが、ひとつに集まってくるということは、何かを失うことではなく、やっと、辿り着くということなのかもしれません。十六夜商店は、これからも、その、途中の姿を、そっと、見守り続けます。

十六夜商店

第十六部 ――思い出した名前――




第九十一章 静かな朝

一月の終わりの、あの激しい夜から、二週間ほどが過ぎた。
月夜は、あれから、少しずつ、落ち着きを、取り戻していた。記憶は、相変わらず、夜を越えて、繋がり続けている。だが、それに戸惑う様子は、以前より、ずっと、和らいでいた。
「おはよう」と、月夜は、いつものように、朝から、店に来ていた。
「おはようございます。今日は、早いですね」
「なんだか、最近、朝が、気持ちいいの。前は、目が覚めるたびに、『今日の自分は、誰だろう』って、少し、緊張してた。でも、今は――『今日も、続きだ』って、思える」
十六は、その言葉に、静かに、微笑んだ。



第九十二章 忘れられたぬいぐるみ

その日の午後、一人の女性が、店を訪れた。年齢は、六十代くらいだろうか。手には、古びた、うさぎのぬいぐるみを、抱えていた。
「いらっしゃいませ。何をお探しですか?」
女性は、少し、困ったように、笑った。
「探し物じゃ、ないんです。これ、息子が、子供の頃、大好きだった、ぬいぐるみで」
「息子さんは、今、おいくつに?」
「三十五です。結婚して、家を出ていきました。この間、実家の掃除をしていたら、押し入れの奥から、これが出てきて。息子に聞いたら、『もう、いらないから、捨てていいよ』って」
十六は、うさぎのぬいぐるみを、そっと、受け取った。片方の耳が、ほつれかけている。長年、大切に、抱きしめられてきた跡が、はっきりと、残っていた。



第九十三章 捨てられないもの

「捨てても、いいと思ったんです」と女性は、続けた。「本人が、いらないって、言ってるんだから。でも――どうしても、ゴミ袋に、入れられなくて」
十六は、頷いた。
「息子さんにとっては、もう、必要ないものかもしれません。でも、あなたにとっては、まだ、意味のあるものなんですね」
女性は、少し、涙ぐんだ。
「あの子が、小さかった頃の、たくさんの夜を、思い出すんです。熱を出したときも、悪い夢を見たときも、いつも、これを、抱きしめて、眠ってた。あの子は、忘れてしまったかもしれない。でも、わたしは――まだ、覚えてるんです」
十六は、静かに、その言葉を、受け止めた。今日は、深刻な悲しみの話ではなかった。ただ、静かな、愛おしさの話だった。
「うちで、預かりましょうか」
女性は、頷いた。「お願いします。捨てるのは、まだ、できないから」



第九十四章 ためらいがちな記憶

女性が帰ったあと、十六は、うさぎのぬいぐるみを、棚に、そっと、置いた。
月夜が、それを、じっと、見つめていた。
「どうしたんですか」と十六が尋ねると、月夜は、少し、不思議そうな、表情をした。
「なんだか……このぬいぐるみを見てたら、わたしにも、似たような、感覚が、あった気がするの」
「似たような、感覚?」
「誰かが、わたしのことを、大切に、覚えていてくれた気がする。……名前を、つけてくれたときのことも、少しだけ、思い出せそうな気がする」
十六は、静かに、月夜の言葉を、待った。



第九十五章 名前をつけた声

月夜は、目を、閉じた。しばらく、記憶を、辿るように、じっと、していた。
「……声が、聞こえる気がする。誰かの、声。若い声じゃない。もっと、年老いた、優しい声」
「なんて、言ってるんですか」
「『お前には、いつか、満ちる名前を、あげよう』って。……そう、言ってる」
十六は、息を、飲んだ。
「満ちる、名前」
「たぶん、それが、『月夜』という、名前の、由来なんだと思う。でも――誰の声だったのか、まだ、はっきりとは、分からない。両親、なのか。滅びていった、あの文明の、誰かなのか。それとも――」
月夜は、目を、開けた。
「それとも、もっと、別の誰かなのか」
十六は、それ以上、深く、聞かなかった。ただ、月夜が、少しずつ、自分の過去に、辿り着いていく過程を、静かに、見守っていた。



第九十六章 急がなくていい

「全部、思い出さなくても、いいと思います」と十六は、言った。
月夜は、驚いた顔をした。
「思い出したいと、思ってたのに」
「もちろん、思い出したいなら、それでいいです。でも――全部、一気に、思い出す必要は、ないと思うんです。この、うさぎのぬいぐるみみたいに。少しずつ、大切に、抱きしめながら、辿っていけば、いいんじゃないでしょうか」
月夜は、しばらく、その言葉を、噛みしめていた。それから、静かに、微笑んだ。
「あなたは、本当に、この店に、向いてるわね」
「よく、言われます」



エピローグ 満ちる名前

その夜、月夜は、いつもより、穏やかな、表情をしていた。
「今日、思い出したこと」と月夜は、言った。「まだ、全部じゃ、ないけど――少しだけ、話しても、いい?」
十六は、頷いた。
「『満ちる名前を、あげよう』って、言ってくれた、あの声。今夜、ようやく、分かった気がする。それは――わたしを、不完全なまま、終わらせたくないと、思ってくれた、誰かの、願いだったんだと思う」
十六は、静かに、その言葉を、受け止めた。
窓の外には、今夜もまた、少しだけ欠けた月が、浮かんでいた。
満月よりも、ずっと、綺麗だった。
「わたし」と月夜は、続けた。「まだ、満ちてはいない。でも――誰かが、わたしに、『いつか、満ちる』という、名前を、くれた。それだけで、もう、十分な、気がするの」
十六は、頷いた。
「ためらいがちに、辿り着けば、いいと思います」
月夜は、静かに、微笑んだ。
(第十六部・完)


作者より:記憶は、一度に、全部、取り戻さなくても、いいのだと思います。少しずつ、抱きしめながら、辿っていく道も、きっと、美しいのだと思います。

十六夜商店

第十七部 ――集まってくる夜――




第九十七章 二年目の春

三月、十六夜商店は、開店から、二年を、迎えようとしていた。
「もうすぐ、二周年ですね」と十六は、店先の紫陽花――今年も、蕾を、つけ始めている――を、眺めながら、言った。
「早いわね」月夜は、少し、感慨深そうに、頷いた。「わたし、この二年間で、ずいぶん、変わった気がする」
「俺もです」
二人が、そんな話をしていた、その日の夕方。ドアベルが、久しぶりに聞く、懐かしい響きで、鳴った。



第九十八章 鍵の男の、その後

入ってきたのは、あの、返されなかった鍵を、預けていった、男性だった。
「お久しぶりです」
十六は、驚いて、顔を上げた。「あのときの……!」
男性は、少し、照れくさそうに、笑った。
「あれから、いろいろ、考えました。この鍵、まだ、預かっててもらえてますか」
「はい。ちゃんと、あります」
十六は、棚から、その鍵を、取ってきた。男性は、それを、大事そうに、受け取った。
「実は――思い切って、新しい人と、お付き合いを、始めたんです。まだ、始まったばかりですが」
「それは、おめでとうございます」
「この鍵、今度こそ、手放そうと思います。でも――捨てるんじゃなくて。今日、この後、あの人が、昔住んでた家の、大家さんに、届けに行こうと思うんです。持ち主に返す、っていう、正しい形で」
十六は、静かに、頷いた。「それが、いいと思います」



第九十九章 日記の女性の、その後

男性が帰ってから、間もなく、また、ドアベルが、鳴った。
今度は、あの、書きかけの日記を、預けていった、女性だった。
「こんにちは。あの、日記帳のこと、覚えてますか」
「もちろんです」
女性は、少し、緊張した面持ちで、言った。
「今日、続きを、書きに、来ました。もし、まだ、お預かりいただいてるなら」
十六は、棚から、日記帳を、取り出した。白いページが、まだ、そのまま、残っていた。
女性は、カウンターの隅に座り、ペンを、手に取った。しばらく、白いページを、見つめてから、ゆっくりと、書き始めた。
十六と月夜は、その様子を、静かに、見守っていた。
やがて、女性は、ペンを置いた。目に、涙を、浮かべながら、笑っていた。
「書けました。二十年ぶりに」
「なんて、書いたんですか」と月夜が、そっと、尋ねた。
女性は、少し、笑って、答えた。
「『ごめんね、そして、ありがとう』。それだけ、書きました」



第百章 切符の男の、その後

夕暮れが、店の窓を、赤く染め始めた頃、三人目の客が、訪れた。
あの、旅行の切符を、持ってきた、男性だった。日焼けした顔が、以前より、少し、明るく、見えた。
「行ってきました。あの、温泉町」
十六は、笑顔で、迎えた。「どうでしたか」
「良かったです。妻が、好きそうな、景色が、たくさん、ありました。宿の人に、『お連れ様は?』って、聞かれて――正直に、答えました。『妻の分まで、来ました』って」
男性は、鞄から、一枚の写真を、取り出した。海沿いの、夕焼けの写真だった。
「これ、お店に、置いていっても、いいですか。あの日、渡していただいた、紙の代わりに」
十六は、写真を、受け取った。「もちろんです。ありがとうございます」
「お代、まだ、払ってませんでしたね」
十六は、少し、考えてから、答えた。
「今の、その、明るい顔を、お代として、いただきます」
男性は、少し、照れくさそうに、笑った。



第百一章 集まってくるもの

三人が、それぞれ、帰っていったあと、店の中には、静かな、余韻が、残っていた。
十六は、棚を、見渡した。鍵は、今日、正しい場所に、返されることになった。日記帳には、新しい言葉が、書き加えられた。写真が、一枚、新しく、加わった。
「なんだか」と月夜が、呟いた。「今日は、特別な日、だったのかもしれないわね」
「そうですね」
「みんな、少しずつ、前に、進んでる。この店に、来たときとは、違う顔で、帰っていく」
十六は、頷いた。
「これが、この店の、役割なのかもしれません。何かを、解決するわけじゃない。ただ、少しの間、立ち止まって、また、歩き出すための、場所」



第百二章 二周年の夜

夜になり、店を閉める頃、月夜が、ふと、言った。
「わたしも、この二年で、ずいぶん、集まってきた気がする」
「集まって、きた?」
「バラバラだった、たくさんの月夜が。少しずつ、今のわたしに、辿り着いてきてる。……あの人たちと、同じね。みんな、少しずつ、前に、進んでる」
十六は、静かに、微笑んだ。
「月夜も、そのうちの、一人ですね」
「ええ。この店の、大切な、常連客のひとり」
十六は、思わず、笑った。「店員さんじゃ、なかったんですか」
「両方、なのかもしれないわね」



エピローグ みんなの月

その夜、十六は、店の窓から、外を、眺めていた。
鍵を返しに行った男性は、今頃、新しい約束を、交わしているだろう。日記の女性は、久しぶりに書いた言葉を、抱えて、眠りについているだろう。切符の男性は、あの、明るい顔で、日々を、過ごしているだろう。
そして、この店には、今も、まだ、たくさんの「わからないもの」が、静かに、棚に、並んでいる。
窓の外には、今夜もまた、少しだけ欠けた月が、浮かんでいた。
満月よりも、ずっと、綺麗だった。
「ねえ、十六」と月夜が、隣に、立った。「この月、みんなが、同じ夜に、見上げてるのよね。鍵の人も、日記の人も、切符の人も」
「そうですね」
「不思議だわ。それぞれ、全然、違う人生を、生きてるのに。今夜だけは、同じ月を、見てる」
十六は、静かに、頷いた。
「わからないものを、抱えたまま、それでも、同じ月を、見上げられる。それだけで、なんだか、十分な気がします」
月夜は、微笑んだ。
(第十七部・完)


作者より:それぞれの人生が、それぞれの速さで、進んでいく。でも、ふと見上げれば、同じ月が、そこにある。十六夜商店は、これからも、そんな、静かな夜を、積み重ねていくのだと思います。

十六夜商店

第十八部 ――満ちる月――(完結編)




第百三章 鍵のかかった引き出し、再び

二周年の夜から、一週間ほどが過ぎた。
その晩、十六は、店じまいのあと、いつものように、店の奥にある、鍵のかかった引き出しの前に、立っていた。
あの、「未来が決まっていない切符」が、まだ、そこに、眠っている。第八部のあの夜以来、二度と、開けていない引き出しだった。
だが、今夜、十六は、初めて、鍵を、手に取った。
「十六?」月夜が、様子に、気づいて、声をかけた。「どうしたの、そんなところで」
十六は、しばらく、答えられなかった。



第百四章 言わなかったこと

「月夜」十六は、ようやく、口を、開いた。「ずっと、話してなかったことが、あります」
月夜は、静かに、十六の隣に、立った。
「話して」
「あの切符を、初めて、手にしたとき――ほんの一瞬だけ、未来が、見えたんです。この店の、この場所。でも、そこに――あなたが、いませんでした」
月夜は、目を、見開いた。しばらく、何も、言わなかった。
「なぜ、今まで、黙ってたの」と、月夜は、静かに、尋ねた。
「怖かったんです」十六は、正直に、答えた。「それを、口にしてしまったら、本当に、そうなってしまう気がして。それに――月夜が、そのことで、また、苦しむんじゃないかと思って」
月夜は、しばらく、黙っていた。それから、静かに、笑った。
「あなた、この店の、モットーを、忘れてない?」



第百五章 わからないままでいい、その先

「『わからないまま、それでいい』」と月夜は、続けた。「でも、あなたは、今まで――『わたしがいなくなる未来を、見た』という、その事実だけを、ひとりで、抱えてた。それは、この店の、やり方とは、違うんじゃない?」
十六は、俯いた。
「そうかも、しれません」
「ねえ、十六。わたしは、いつか、いなくなるかもしれない。それとも、少しずつ、ひとりの、月夜に、なっていくだけかもしれない。……本当のところは、わたしにも、分からない」
「はい」
「でも」月夜は、十六の手を、そっと、取った。「その『分からなさ』を、あなた一人が、抱える必要は、なかったと思う。この店は、二人で、営んでる店でしょう?」
十六は、月夜の手を、握り返した。
「そう、ですね。すみませんでした」



第百六章 引き出しを開ける

「開けて、みる?」と月夜は、鍵のかかった引き出しを、見ながら、言った。
十六は、少し、迷った。
「もう一度、見たら――また、同じものが、見えるかも、しれません」
「見えても、いいじゃない」月夜は、静かに、微笑んだ。「わたしも、一緒に、見るから」
十六は、深く、息を吸って、鍵を、差し込んだ。引き出しを、そっと、開ける。あの、行き先のない切符が、そこに、静かに、横たわっていた。
十六は、それを、月夜と、二人で、そっと、手に取った。
指先に、あの、ざわりとした、感触が、走った。



第百七章 見えたもの

一瞬、視界が、揺らいだ。
この店の、この場所。だが、今度は――月夜も、十六も、両方、そこに、いた。ただ、少しだけ、年を重ねた姿で。二人の間に、見慣れない、小さな椅子が、増えている。窓の外には、少しだけ欠けた月が、変わらず、浮かんでいた。
映像は、ほんの、一瞬で、消えた。
十六は、驚いて、月夜を、見た。
「今の……」
月夜も、驚いた顔で、頷いた。「見えた。わたしにも」
「前と、違います」
「ええ」月夜は、静かに、微笑んだ。「たぶん、未来って、ひとつじゃ、ないのよ。いろんな、可能性が、ある。前に、あなたが見たのも、本当だったかもしれない。今、二人で見たのも、本当かもしれない。どっちも、まだ、決まってない」
十六は、その言葉を、静かに、噛みしめた。



第百八章 決めないでいい未来

「この切符」と月夜は、続けた。「これから、どうする?」
十六は、しばらく、考えてから、答えた。
「もう、鍵は、かけなくて、いいと思います」
「どうして」
「一人で、隠し持ってるから、怖くなるんだと思います。二人で、時々、見る分には――それも、悪くない、気がします」
月夜は、頷いた。「それなら、この棚に、置いておきましょう。他の、みんなの『わからないもの』と、一緒に」
十六は、切符を、そっと、鍵と靴と、日記帳と、名前のない子への想いが、並んだ、あの場所に、置いた。
もう、閉じ込めては、おかない。



エピローグ 満ちる月

その夜、二人は、いつまでも、店のカウンターで、並んで、座っていた。
「ねえ、十六」
「はい」
「わたし、今、初めて、思うの。わからないことを、怖がらなくても、いいんだって。……いいえ、正確には、怖くても、いいんだって。怖いまま、それでも、隣に、誰かがいてくれれば」
十六は、静かに、頷いた。
「俺も、同じです」
窓の外には、今夜もまた、少しだけ欠けた月が、浮かんでいた。
満月よりも、ずっと、綺麗だった。
その理由を、十六は、今夜、初めて、言葉にしようと、思った。
「月夜」
「なに?」
「あの月が、綺麗な理由――ようやく、分かった気がします」
「教えて」
十六は、少し、微笑んだ。
「欠けてるから、じゃないと思います。満ちようと、してるから、でもないと思います。……たぶん、あの月が綺麗なのは、俺たちが、その理由を、もう知っていて。それでも、あえて、言葉にしないでいた、あの、たくさんの夜が、あったから、だと思います」
月夜は、しばらく、黙っていた。それから、静かに、涙を、一筋、流した。
「ずるいわね、それ」
「よく、言われます」
月夜は、笑った。十六も、笑った。
ドアベルが、鳴った。今夜も、誰かが、訪れる。
「いらっしゃいませ」と十六は、いつものように、言った。「何を、お探しですか?」
十六夜商店の灯りは、今夜も、静かに、街の片隅を、照らしていた。誰かが、まだ、名前をつけられずにいる何かを、抱えて、この扉を、開けるのを、待ちながら。
そして、その扉の向こうでは、少しだけ欠けた月が、今夜もまた、ためらいがちに、しかし確かに、満ちようと、し続けていた。
(完)


作者より:『十六夜商店』は、これで、一つの物語として、完結いたします。十八部、長い旅にお付き合いいただき、ありがとうございました。知恵の哀しみから始まったこの物語が、最後には、わからないことを抱えたまま、隣にいる誰かと生きていく美しさへと、辿り着けていたら幸いです。この店の灯りは、これからも、読者おひとりおひとりの心の中で、静かに、灯り続けることと思います。長い間、ご愛読くださり、本当に、ありがとうございました。



あとがき

『十六夜商店』、最後までお読みいただき、本当に、ありがとうございました。
この物語は、最初、一篇の短い詩から、生まれました。「知らなくても良いことを知ったが為に/世の中が面白くなくなる」という一節と、「月は十五夜よりも十六夜の方が、綺麗な」という一節――そのふたつが、頭の中で、結びついた瞬間から、鏡月十六という青年と、月夜という女性が、動き出しました。
書き進めるうちに、当初は考えていなかった方向に、物語は、少しずつ、育っていきました。全知連合との対決が、いつの間にか、静かな商店の物語に変わり、一話完結の連作短編のはずが、月夜自身の変化という、大きな縦軸を持つようになりました。
思えば、これは、この作品のテーマそのものだったのかもしれません。書き手である私自身も、この物語が、どこに辿り着くのか、最初は、はっきりとは、分かっていませんでした。ただ、一話ずつ、一人の客、一つの「わからないもの」と、丁寧に向き合っているうちに、気づけば、ここまで、辿り着いていました。
十六と月夜が、最後に、選ばなかったことについても、少し、書き添えておきたいと思います。
彼らは、月夜の正体を、完全に解明することを、選びませんでした。未来がどうなるかを、確定させることも、選びませんでした。その代わりに、選んだのは――わからないことを、わからないまま、二人で、抱えて生きていくことでした。
これは、もしかすると、物語としては、少し、物足りない着地に、見えるかもしれません。けれど、私は、この着地が、この作品には、一番、似合っていると、今も、思っています。
世の中には、知らなくてもいいこと、知ることのできないことが、たくさん、あります。それでも、人は、誰かの隣で、生きていくことができます。むしろ、わからないことを、一緒に、抱えてくれる誰かがいることこそが、人生における、一番の贈り物なのかもしれません。
十六夜商店は、これで、一つの物語として、幕を閉じます。ですが、この店の灯りは、これからも、どこかで、静かに、灯り続けているような、そんな気がしています。
いつか、あなたの人生にも、「答えの出ないもの」を、そっと、置いていける場所が、見つかりますように。
長い旅に、お付き合いくださり、本当に、ありがとうございました。
満月よりも、ずっと、綺麗な夜が、これからも、あなたのもとに、ためらいがちに、訪れますように。



紹介文
世の中には、知らなくてもいいことが、たしかにある。
すべてを見通す力を手に入れた青年・鏡月十六は、ある日、気づいてしまう。知るということは、驚けなくなるということだ、と。
そんな彼が辿り着いたのは、答えではなく「問い」を扱う、小さな店だった。
答えのない質問。片方だけの靴。宛先のない手紙。まだ名前のない感情。
十六夜商店には、今日も、行き場を失った「わからないもの」たちが、そっと集まってくる。
そして、店を手伝う不思議な女・月夜には、毎晩、人格も記憶も入れ替わるという秘密があった――。
宇宙規模の哲学と、下町の商店街の可笑しみが同居する、少し不思議で、少し切なくて、読み終えたあとに、誰かの隣にいたくなる。全十八部の連作SF。
「満月よりも、ずっと、綺麗だった。」
その言葉の意味は、物語が進むごとに、少しずつ、姿を変えていく。


あらすじ
経理課に勤める鏡月十六は、骨董市で拾った一枚の古い鏡をきっかけに、世界のあらゆる「タネ」――手品の仕掛けから、人の本音まで――が見えるようになってしまう。だがそれは、驚きも感動も失っていく、静かな哀しみの始まりだった。
唯一、鏡にも見通せなかったのが「女」という存在。そんな十六の前に現れたのが、毎晩、人格も記憶も入れ替わるという、謎の女・月夜だった。
彼女の正体は、かつて「知りすぎて滅びた文明」が、最後に遺した観測子――不完全さそのものを体現する存在だった。全宇宙から謎や誤差を消し去ろうとする「全知連合」の企みを、二人はやがて食い止める(第一部・第二部)。
平穏を取り戻した十六は、しかし、ある違和感を拭えずにいた。すべてを知る哀しみを味わったからこそ、彼は「わからないもの」を売る店――十六夜商店を開く(第三部)。
店には、答えを求める客ではなく、答えの出ないものを抱えた客たちが、少しずつ訪れるようになる。亡き妻の声を、もう一度だけ聞きたい老人(第四部)。事故で恋人を失った女性が置いていく、片方だけの靴(第五部)。届かないと知りながら書いた、宛先のない手紙(第六部)。名前のつけられない感情、行き場を失った鍵、書きかけの日記、名前を呼ばれなかった子――十六夜商店は、「売る店」から「預かる店」へと、少しずつ姿を変えていく(第七部〜第十四部)。
そんな中、月夜自身にも、静かな変化が訪れ始める。毎晩リセットされるはずの記憶が、少しずつ、夜を越えて、繋がり始めたのだ。それは、彼女が「ひとりの月夜」になっていく、始まりの兆しだった(第九部・第十五部)。
自分がいずれ変わってしまうかもしれない不安と、それでも積み重なっていく記憶。十六と月夜は、互いに、知りたいことと、知らないままでいたいことの間で、少しずつ、答えを探していく。
そして迎える、完結編。十六がずっと胸に秘めていた、ある「見えてしまった未来」――そこには、月夜がいなかった。その事実と、二人は、どう向き合うのか(第十六部〜第十八部)。
知恵の哀しみから始まった物語は、最後に、わからないことを抱えたまま、隣にいる誰かと生きていく美しさへと、辿り着く。



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