貴腐 三部作

物は腐る。すべてのものは、いつか腐る。
放っておくだけで、腐り出す。
けれど、時折、その腐敗が、逆に働くことがある。
酒に。チーズに。ヨーグルトに。
それは、人が足すものではない。
その土地にだけ棲みつく、名もない小さな働き手たちが、
誰も見ていない夜のあいだに、そっと仕上げていくものだ。
そして、ごくまれに——
人間にも、同じことが起こるのだという。




第一部 蔵にて


一 蔵

その町に着いたのは、長い雨がようやく上がった午後だった。

改札を出ると、空気の匂いがどこか違う、と最初に思った。地方都市の駅前によくある、埃と排気ガスの匂いの奥に、もっと湿った、もっと生きた匂いが沈んでいる。麹の匂いだ、と後になって知った。この町では、風そのものが発酵しているのだと。

僕は雑誌の仕事で来ていた。『百年蔵をたずねて』という、地方創生特集の枠で組まれた、よくある企画だった。全国に散らばる古い酒蔵をめぐり、蔵元に話を聞き、写真を撮り、四百字詰め原稿用紙にして十枚ほどにまとめる。それだけの、はずだった。

当時の僕は、三十四歳になったばかりで、離婚届を出してからちょうど半年が経っていた。妻だった人とは、憎み合って別れたわけではない。ただ、二人の間の何かが、ある日を境に、静かに、決定的に乾いてしまったのだ。理由を聞かれるたびに、僕はうまく答えられなかった。喧嘩をしたわけでもない。裏切りがあったわけでもない。ただ、互いの言葉が、互いの肌に染み込まなくなっていくのを、二人とも黙って見ていただけだった。

仕事は淡々とこなせていたし、誰に何を聞かれても、笑って「元気にやってます」と答えられるくらいには回復していた。ただ、自分の内側のどこかが、ずっと乾いたままだという感覚があった。何も腐らず、何も発酵せず、ただ乾燥した紙のように、静かに古びていくだけの毎日。感情の波は凪いでいたが、それは穏やかさというより、ただの無風に近かった。

蔵の名は「時雨屋」といった。創業二百三十年。案内してくれたのは、蔵の四代目を継いだという初老の男で、名を宗一と言った。日に焼けた顔に、深い皺が刻まれていたが、目だけは驚くほど若く、澄んでいた。

「うちの蔵付き酵母は、よそには絶対に渡さないんです」

宗一はそう言って、暗い蔵の奥、ひんやりとした空気が溜まる一角を指さした。木の柱も、土の壁も、二百年を超える歳月の中で黒く艶を帯び、まるで生き物の皮膚のように見えた。天井近くには、長年の湯気で育ったという白と灰色のまだら模様が、地図のように広がっていた。

「渡さないんじゃなくて、渡せないんですよ。ここの菌は、ここにしか棲みつかない。同じ米、同じ水、同じ道具、同じ杜氏を持って行っても、よそでは絶対に同じ酒はできません。試した蔵はいくつもあるが、成功した例は一つもない」

「それは……菌が、場所を選ぶということですか」

「選ぶ、というより」宗一は少し笑った。「棲み着く、という感じに近いですね。誰かが連れてきたわけでもないのに、いつのまにかそこにいて、いつのまにか働いている。人間が仕込むのは米と水と麹だけで、あとは——彼らの仕事なんです」

彼、という言い方が、奇妙に耳に残った。目に見えぬ菌類のことを、まるで蔵に古くから住む住人のように語る。取材ノートにその言葉を書き留めながら、僕は少しだけ、この仕事に興味を持ち始めていた。


二 夜の小人

取材の合間、僕は蔵の隅に置かれた古い木の椅子に腰かけ、仕込みの様子を眺めていた。大きな木桶の中で、蒸した米と麹と水が混ざり合い、静かに発酵を始めている。真夜中、蔵人たちが眠りについたあとも、桶の中では誰にも見られることなく、何かが進行し続ける。糖が酒精に変わり、複雑な香りが生まれ、味というものが少しずつ形作られていく。

「まるで童話みたいですね」と僕が言うと、宗一は頷いた。

「小人が夜中にこっそり靴を作る話、知ってますか。うちの蔵人は昔からそう言うんです。夜、誰もいなくなった蔵の中で、小人たちがせっせと働いているんだと。もちろん比喩ですが——長くこの仕事をしていると、比喩でもないような気が、してくるんですよ」

人為的に何かを足しているわけではない。ただ、温度と湿度という条件を整え、あとはひたすら待つ。腐るに任せる。発酵するに任せる。良い方向に転ぶか、悪い方向に転ぶか、それすらも人間には完全には制御できない。

「物はすべて、いつか腐ります」宗一は静かな声で言った。「放っておけば、必ず腐り出す。それは避けられない、絶対の法則です。けれど、ごくまれに、その腐敗が逆に働くことがある。酒に、チーズに、ヨーグルトに、くさやに。そして——」

彼は言葉を切り、僕の顔をまっすぐに見た。囲炉裏の灯りが、その目の奥で小さく揺れていた。

「人間にも、それがあるんですよ」

その日の取材はそこで終わったが、宗一の最後の一言だけが、いつまでも耳の底に残り続けた。


三 見習いの少女

蔵にはもう一人、印象に残る人物がいた。名を、ゆかりといい、その春から蔵人見習いとして働き始めたばかりだという、二十歳そこそこの娘だった。都会の大学を出て、わざわざこの町に来て住み込みで働いているのだと聞き、僕は少し意外に思った。

「なんでまた、こんな田舎の蔵に」

「発酵に興味があったんです」ゆかりは屈託なく笑った。「腐るのと発酵するのって、紙一重じゃないですか。同じことが起きてるのに、片方は捨てられて、片方は喜ばれる。その違いがどこにあるのか、知りたくて」

彼女の手はまだ荒れておらず、指先には絆創膏が何枚も貼られていた。重い米俵を運び、熱い蒸気にまかれ、慣れない力仕事に、まだ体がついていっていないのだと、宗一が笑いながら教えてくれた。

「あの子はまだ、仕込んだばかりの醪みたいなものです」宗一は言った。「これからどんな味になるか、まだ誰にも分からない。荒々しくて、青くて、けれどそれだけの勢いがある」

ゆかりの姿は、まだ何一つ発酵していない僕自身の姿と、どこか重なって見えた。ただ違うのは、彼女には隠すべき傷がまだ少なく、それゆえに、恐れも迷いも、真っ直ぐに顔に出ていたことだった。僕の乾いた無風とは、まるで違う種類の若さだった。


四 貴腐という言葉

その晩、宗一は僕を蔵の裏手にある小さな座敷に招いてくれた。囲炉裏には火が入り、彼は棚の奥から、ラベルのない一升瓶を取り出した。市場には出さない、蔵の人間だけで飲む酒だという。

「フランスでは、白ワインに数年に一度、特殊な菌がついて、驚くほど良い味を生み出す年があるそうです。ボトリティス・シネレアという菌が葡萄の皮に取りつき、水分だけを抜いて、糖と旨みを凝縮させる。それを、貴腐と呼ぶ」

「聞いたことはあります。ソーテルヌ、でしたか」

「よくご存じで」宗一は嬉しそうに目を細めた。「面白いのは、それがいつ起こるか、誰にも正確には予測できないということです。今年か、去年か、来年か。人間の側から呼び込めるものではない。ただ、いくつもの条件がそろった、ある特定の年に、静かに、勝手に、訪れる」

宗一は杯に酒を注ぎながら、僕の目をまた見た。

「人間もそうなんじゃないかと、僕はずっと思っているんです。ただ年齢を重ねるだけでは、貴腐にはならない。多くの経験を積み、修羅場をくぐり抜け、時には多くの異性とも出会い、傷つき、傷つけ、苦味の中で怪我を負い、それでもなお、逃げずにもがき続けた人間だけが——」

彼はそこで言葉を止めた。何か、遠い記憶を辿っているようだった。

「近づくんですよ。高貴で、味わい深く、気品の漂うような——そういう人間に」

杯の酒は、確かに旨かった。だが、それ以上に、彼の言葉の方が、僕の中の何かを揺らした。僕はその夜、うまく眠れなかった。宿の布団の中で、天井の木目を見つめながら、自分の人生の、まだ何一つ発酵していないような薄っぺらさを思った。離婚のときも、僕は泣かなかった。怒りもしなかった。ただ、静かに書類に判を押しただけだった。あれは果たして、成熟だったのか、それとも、ただ乾いていただけだったのか。


五 研究者たちの記録

翌日、僕は蔵の資料室に案内された。そこには、江戸期からの帳簿と並んで、比較的新しい、無機質な書類の束が置かれていた。表紙には「時雨屋蔵内微生物相・長期観測記録」と印字されている。

「これは?」

「もう二十年以上、うちの蔵に通ってくれている研究者がいましてね」宗一は言った。「もともとは食品微生物学の先生でしたが、今は少し違うことをやっている。この蔵にしかいない菌の遺伝子配列を調べているんですが——どうにも、既知のどの系統にも綺麗には収まらないらしいんです」

「収まらない、というのは」

「近縁種はいる。けれど、完全に一致するものがどこにもない。まるで、この蔵の中だけで、独自に何百年もかけて進化してきたような、そんな配列だと言っていました」

宗一は資料の一枚を僕に見せた。専門的なグラフと、見慣れない略号の並ぶ表。だがその余白に、几帳面な字でこう書き添えられていた。

——本菌株、宿主(人体)常在化の可能性について、継続調査を要す。発酵人類学連携プロジェクトへ報告済み。

「発酵人類学、というのは」

「聞いたことがないのも無理はありません。国内にも数えるほどしかいない、小さな学際グループだそうです」宗一は言った。「微生物学者と、文化人類学者と、老年医学の研究者が、なぜか手を組んで、世界中の『長く発酵に関わってきた土地』を調べて回っている。目立った予算もない、地味な研究らしいですが」

「宿主、人体……?」僕は思わず声に出した。

「その先生はね」宗一は少し声を落とした。「うちの蔵で長年働いてきた人間の何人かから、同じ菌の痕跡を見つけているんです。蔵の中の空気や道具だけじゃなく、皮膚や、腸の中からも。断定はしていません。でも、可能性としては——この菌は、酒だけじゃなく、人間の中にも棲み着くことがあるんじゃないか、と」

僕はその晩、資料室の隅で、その研究者の連絡先を書き写した。取材の名目は、とうに口実になりかけていた。


六 蔵の奥の女性

数日後、僕は蔵のさらに奥、普段は公開されていない一角に案内された。そこには小さな畑のように甕が並び、その世話をする一人の老女がいた。

名を、みね、といった。歳は九十を超えているという。だが、その所作には少しの淀みもなく、目の光には、驚くほどの静けさと、同時に驚くほどの鋭さが同居していた。

「この人はね」宗一が僕にそっと耳打ちした。「この蔵で、貴腐化した、と言われている人です」

「貴腐化、ですか」

「僕らの間だけの言葉です。学術的な話じゃない。ただ、この人と話していると分かるんです。何かが、違う。焦っていない。恐れていない。それでいて、何も諦めていない」

みねは僕らに気づくと、甕から目を離し、静かに笑った。日に焼けた顔に刻まれた無数の皺が、笑うたびにゆっくりと形を変えた。

「若い人が来たね」

その声には、不思議な重みがあった。責めるでも、媚びるでもない。ただ、そこにあるものをそのまま受け止めるような、静かな声だった。

「あなたも、いずれ腐りますよ」みねは僕に言った。「それは怖いことじゃない。腐らなかったものは、ただ乾いて、固くなって、そのまま終わるだけです。腐るというのは、まだ動いている、まだ変わっているという証拠なんです」

その言葉は、乾いた僕の胸の奥に、静かに染み込んでいった。


七 僕自身の発酵

取材の名目はとうに形だけになっていた。僕は三日、四日と町に留まり、みねの話を聞き続けた。

みねは、多くを語らなかった。ただ、聞かれたことにだけ、ぽつり、ぽつりと答えた。若い頃に何度も恋をし、何度も裏切られ、あるいは自分が誰かを裏切ったこと。戦後の混乱の中で、幾度も死にかけたこと。若くして息子を一人、先に見送ったこと。そのたびに、何かが自分の中で壊れ、そして、壊れたところから、別の何かがゆっくりと染み出してきたのだと、彼女は言った。

「痛かったですか」と僕は聞いた。

「痛かったですよ、ずっと」みねは笑った。「でもね、痛みというのは、腐敗と同じで、放っておいても消えないんです。ただ、時間と一緒に、少しずつ形を変えていく。膿んで、腐って、そのまま終わるか。それとも——」

「貴腐に、なるか」

「そう」みねは頷いた。「それはね、自分で選べるものじゃないんです。ただ、逃げずに、そこにい続けた人間にだけ、たまに、起こる。焦って自分を痛めつけても、貴腐にはなりません。ただ傷が増えるだけです。大事なのは、逃げないこと。それだけ」

僕は自分の人生を思い返した。離婚のことも、辞めていった友人のことも、ずっと蓋をして、見ないふりをしてきたことに、今さらのように気づいた。まだ何も壊れていないふりをして、まだ何も熟していないふりをして、ただ平坦に日々をやり過ごしてきただけだったのかもしれない。それなりに満たされているはずだったその日々が、急に、ひどく薄っぺらいものに思えてきた。


八 酒祭りの夜

滞在の最後に、ちょうど町の小さな祭りと重なった。年に一度、その年の新酒を、蔵人も町の人々も一緒になって振る舞う祭りだという。神社の境内には提灯が並び、宗一もゆかりも、普段の作務衣ではなく、揃いの法被を着て、忙しく立ち働いていた。

みねもまた、境内の隅に置かれた縁台に座り、町の人々に囲まれていた。彼女の周りにだけ、不思議と人が絶えなかった。誰かが酌をし、誰かが愚痴をこぼし、誰かがただ黙って隣に座っているだけだった。みねは、それら一つひとつに、急かすことなく、ゆっくりと相槌を打っていた。

僕は少し離れた場所から、その光景を眺めていた。杯を交わす人々の笑い声、太鼓の音、屋台の煙の匂い。宗一が言っていた言葉を思い出す。

——僕にとって美味い酒というのは、良い仲間がいて、良い笑顔があって、良い会話がある中で飲む酒のことです。

ソムリエたちが語るような、薔薇の香りだとか、孔雀の羽根のような複雑さだとか、そういう洗練された言葉は、この境内のどこにもなかった。あったのは、ただ、湯気の立つ煮物と、安い紙コップに注がれた新酒と、笑い合う人々の顔だけだった。それでも、その光景全体が、まるで一つの巨大な発酵のように、僕の目には映った。

ゆかりが僕のところに紙コップを二つ持ってやってきて、片方を差し出した。

「今年の新酒です。まだ若いですけど」

「まだ若い、か」

「はい。荒っぽくて、角があって。でも、これはこれで美味しいと思うんです。貴腐だけが正解じゃない。若い酒には、若い酒の良さがある」

僕はその言葉に、少し救われた気がした。何もかもをすぐに熟成させる必要はない。今はまだ、荒く、角のある自分のままでいい。ただ、逃げずに、ここにい続けること。


九 電話の声

町を去る前夜、僕は資料室で控えた研究者の番号に、思い切って電話をかけてみた。名を、栗田といった。定年退職後もこの町に住み続け、私費で調査を続けているのだという。

「時雨屋さんの菌のことですね」栗田の声は穏やかだった。「よく知られていないんですが、似たような報告は、実は世界中に、ぽつぽつとあるんですよ。フランスのある村、コーカサスの山あいの発酵茶の産地、それから、九州のある離島のくさや工場。どれも、何百年も同じ場所で発酵を続けてきた土地です」

「そこにも、同じような菌が?」

「完全に同じではないでしょう。ただ、共通しているのは——長くその土地に留まり、その発酵に深く関わり続けた人間の中に、よく似た微生物相の変化が見つかるということです。加えて」栗田は少し声を潜めた。「その人たちには、共通する特徴があるらしいんです。老年になっても、認知機能の衰えが驚くほど緩やかである。感覚——特に嗅覚と味覚が、生涯にわたって衰えにくい。そして」

「そして?」

「感情の起伏が、非常に穏やかである、と。恐怖や焦燥に、ほとんど支配されない。まるで、長い時間をかけて、心そのものが、ゆっくりと発酵しているかのように」

「原因は、その菌なんですか」

「分かりません」栗田は正直にそう言った。「菌が原因なのか、結果なのか、それとも、ただの相関に過ぎないのか。土地に長く根を張り、痛みから逃げずに生き続けた人間の身体に、たまたまその菌が棲みやすい環境ができるだけなのかもしれない。因果はまだ、誰にも証明できていません。それでも——」

栗田は少し笑ったようだった。

「証明できないからといって、美しくないわけじゃない。私はそう思って、この歳になっても、こんな地味な調査を続けているんです」

電話を切ったあと、僕はしばらく、宿の窓から蔵の方角を眺めていた。科学が、あの詩的な言葉に、静かに追いついてこようとしている。だとしても、その答えは、まだどこにも出ていない。ただの偶然か、それとも、人間という生き物に元から備わった、ごくまれにしか発現しない性質なのか。


十 夜の蔵にて

最後の晩、宗一に頼み込んで、僕は一人で仕込みの蔵に入ることを許してもらった。深夜、桶の中では醪が静かに動いていた。ぷつ、ぷつ、という小さな泡の音。甘く、酸っぱく、複雑な匂いが、暗闇の中に立ちのぼる。

僕はしゃがみこみ、その音に長く耳を澄ませた。誰も見ていない場所で、誰の指示も受けずに、ただそこにあるものたちが、勝手に、静かに、変化を続けている。

ふと、みねの言葉を思い出した。

——腐るというのは、まだ動いているという証拠なんです。

僕は自分の中の、まだ壊れていない部分、まだ動いていない部分のことを思った。恐らく僕は、発酵の入り口にすら、まだ立っていない。乾いたまま、傷つくことを避け続け、痛みに蓋をしたまま、ここまで来てしまった。だが、それでいいのかもしれない、とも思った。焦って自分を腐らせようとしても、それは貴腐にはならない。ただ、逃げずに、そこにい続けること。痛みが来たら、痛みのままに、それを受け止めること。

蔵の暗闇の中で、複雑な発酵臭に包まれながら、僕は不思議な安堵を覚えていた。それは諦めに似ていて、けれど、諦めとは少し違う何かだった。


十一 高級ソムリエの言葉

町を発つ朝、宗一が駅まで送ってくれた。別れ際、彼はふと笑って言った。

「高級なワインのソムリエに言わせると、貴腐ワインの味というのは、薔薇の花びらの密やかな香りがするだとか、孔雀の羽根が口の中で広がるようだとか、まるでオーケストラのように幾つもの楽器が重なり合って、長く余韻が残るだとか——そういう表現になるそうです」

「難しいですね、それは」

「僕にも、正直よく分かりません」宗一は笑った。「僕にとって美味い酒というのは、良い仲間がいて、良い笑顔があって、良い会話がある中で飲む酒のことです。決して、酒そのものが持つ旨みだけの話じゃない」

僕は頷いた。

「みねさんも、似たようなことを言っていました」

「そうでしょうね」宗一は目を細めた。「あの人は、酒の味よりも、酒を酌み交わす人間のことを、ずっと見てきた人だから」

電車が来るまでの間、僕らは黙って、蔵の方角に立ちのぼる、薄い朝靄を眺めていた。それは、確かに酒の匂いを含んだ、この町だけの空気だった。


十二 東京の乾いた部屋

東京に戻った僕を待っていたのは、相変わらず乾いた部屋だった。離婚してから住み始めたワンルームは、必要最低限の物しか置かれておらず、生活の匂いというものがほとんどしなかった。洗濯物の匂いも、料理の匂いも、誰かの体温の匂いも。

かつての妻から、久しぶりに短いメッセージが届いていた。共通の知人の近況を伝える、それだけの、事務的な文面だった。返信を書きかけて、僕は手を止めた。以前なら、そこで何かを取り繕おうとしただろう。優しい言葉を並べ、何事もなかったかのように振る舞おうとしただろう。

だが、その晩の僕は、ただ正直に、短くこう返した。

「元気にしてる。まだ、うまく言葉にできないことも多いけど、少しずつ、自分の中の何かと向き合ってる気がする」

送信したあと、妙な緊張が走った。誰かに、繕っていない自分をさらけ出すのは、久しぶりのことだった。返信は来なかったが、それでよかった。逃げずに、ここにいたということが、大事なのだと、みねの声が耳の奥で繰り返していた。


十三 発酵中

東京に戻ってから、僕は原稿を書いた。だが、雑誌に載せたのは、当たり障りのない、蔵の歴史と酒造りの工程についての十枚だけだった。みねのことも、栗田の研究のことも、一行も書かなかった。それは記事にするようなことではなく、ただ、僕自身の中で、静かに育て続けるべきことのように思えたからだ。

半年後、栗田から一通の封書が届いた。中には短い手紙と、一枚の検査報告書のコピーが入っていた。あの晩、蔵で一人、桶のそばにしゃがみ込んでいたときのことを話したところ、栗田が興味を持ち、僕にも簡単な検査を勧めてくれていたのだった。

手紙には、こう書かれていた。

「断定的なことは何も言えません。ただ、あなたの検体からも、時雨屋の蔵付き菌と極めて近縁の系統が、ごく微量ながら検出されました。これが何を意味するのか、私にもまだ分かりません。ただ、もしよろしければ、また町に来てください。あなたの中で、これから何が起こるのか、あるいは何も起こらないのか、それを見届けたいと思っています」

僕はその手紙を、しばらく机の上に置いたままにしていた。怖くはなかった。むしろ、乾いていた自分の内側に、初めてわずかな湿り気が差し込んだような、そんな感覚があった。

翌年の同じ祭りの晩、僕は再びあの町を訪れた。ゆかりの手はすっかり荒れて、蔵人らしい皮の厚さを帯びていた。宗一は変わらず、忙しく法被の袖をまくっていた。そして、みねは相変わらず、境内の隅の縁台に座り、通りかかる人々の話に、急かすことなく耳を傾けていた。

僕は紙コップに注がれた新酒を一口飲み、それから、みねの隣に、断りを入れて腰を下ろした。

「また来たのかい」

「はい。まだ、何も変わっていないかもしれませんけど」

「変わっていなくていいんですよ」みねは笑った。「大事なのは、変わろうとしていることじゃなくて、逃げずに、そこにい続けていることだから」

僕は頷き、杯を傾けた。まだ荒く、まだ角のある、若い酒の味がした。だが、それでよかった。腐るということ。それは終わりではなく、まだ動いているということ。

そしていつか——高貴で、味わい深く、気品漂うような人間に、僕もなれるのだろうか。

答えは、まだ、僕の中で、静かに発酵中だった。

そのときの僕は、まだ知らなかった。この「発酵中」という状態が、思っていたよりもずっと長く、ずっと複雑な道のりになることを。


十四 訪問者

東京に戻って三か月ほど経った、ある冬の夕方のことだった。栗田から、珍しく緊迫した声で電話がかかってきた。

「妙な連中が、蔵に出入りするようになったんです」

聞けば、大手の製薬会社と、その関連のシンクタンクを名乗る二人組が、時雨屋を訪ねてきたのだという。彼らは「発酵人類学連携プロジェクト」の非公開の報告書を、どこかから入手していた。蔵付き菌が人体に常在化する可能性、老化速度や情動の安定性との相関——その一つひとつを、まるで商品カタログの項目のように読み上げ、共同研究という名目での「サンプル提供」を持ちかけてきたのだそうだ。

「彼らの言い方だと、これは『長寿と精神的安定をもたらす微生物資源』だそうです」栗田の声には、隠しきれない苦さがあった。「みねさんの腸内フローラを、特許化したいと言ってきた」

「みねさんは、何と?」

「一言だけ答えたそうです。『わたしはワインじゃない』と」

電話を切ったあと、僕はしばらく、暗くなった窓の外を眺めていた。あの静かな蔵、あの誰も急かさない時間の流れの中に、外側から、まったく異質な速度を持った何かが入り込もうとしている。それは、酒を早く熟成させようとする強引な加温のようなものだった。無理に温度を上げれば、確かに早く「それらしい」変化は起きるかもしれない。だが、それは貴腐ではなく、ただの腐敗になる。


十五 旅立ちの前夜

年が明けてすぐ、僕は編集部に長期休職を申し出た。理由をうまく説明できなかったが、上司は存外あっさりと受け入れてくれた。「ちょうど良い区切りだと思ってたよ、お前」と、笑いながら言われた。

栗田から、改めて長い手紙が届いていた。彼が二十年かけて集めてきた、世界各地の「よく似た事例」のリストだった。フランス・ソーテルヌ地方の小さな家族経営のシャトー。コーカサス山中で、何百年も同じ壺で茶を発酵させ続けてきた村。そして、九州のある離島で、くさや液に生涯関わってきた老人たちの集落。

「もし本当に興味があるなら」手紙の最後に、彼はこう書いていた。「あなた自身の足で、それぞれの土地を訪ねてみてはどうでしょう。データとして見るより、その土地の空気の中に、実際に身を置いてみる方が、きっと多くのことが分かるはずです。それに——正直に言うと、私一人では、もう手が回らなくなってきました」

出発の前夜、僕はゆかりに電話をかけた。彼女は今では、蔵の若手の中心的な存在になりつつあるという。

「行くんですね」ゆかりは言った。「うちの蔵の菌のことも、忘れないでくださいね。世界を回ったら、また戻ってきて、ここの新酒を飲んでください。きっと、その頃には、私ももう少し、いい具合に熟れていると思うので」

電話越しに、彼女の笑い声が聞こえた。まだ若く、まだ荒々しい、けれど確かな勢いのある声だった。

僕は鞄に、着替えと、ノートと、栗田から預かった資料の束を詰めた。乾いていたはずの自分の内側に、今、初めて何かが動き始めている気配があった。恐れがないと言えば、嘘になる。だが、それ以上に、逃げずにこの流れの中に身を置いてみたいという気持ちの方が、強かった。

翌朝、僕は成田行きの電車に乗った。

(第一部・了)




第二部 世界を巡る旅


十六 ソーテルヌへ

パリから南へ、列車を乗り継いで数時間。ボルドーの田舎町に降り立った僕を迎えてくれたのは、栗田の古い知人だという、フランス人の女性研究者だった。名を、クレールといった。長年、地元の小さなシャトーの土壌菌を調べているのだという。

「ムッシュー・クリタから聞いています。あなたも、時雨屋の蔵で、何かを持ち帰ってきたのでしょう」

彼女の言葉には、驚きも懐疑もなかった。まるで、そういう人間が世界のあちこちにいることを、当然のように知っているかのような、落ち着いた口調だった。

車中、クレールは自分自身のことも少し話してくれた。もともとは製薬系の研究室にいたが、ある年、指導教官がこの土地の菌を「有用資源」として特許化しようとする計画に加わったことに嫌気が差し、大学を辞めて、この田舎に移り住んだのだという。

「数値化できるものと、数値化してはいけないものが、世の中にはあるんです」クレールはハンドルを握りながら言った。「この土地の菌がもたらすものは、たぶん後者です。誰かがそれを『資源』と呼んだ瞬間に、何か大事なものが、静かに損なわれる気がして」

僕は、東京で会った、あの慇懃なスーツの男のことを思い出さずにはいられなかった。

案内されたシャトーは、時雨屋よりもずっと小さく、観光客向けの華やかさは何もなかった。葡萄畑の一角には、朝靄の中で、確かに灰色がかった綿毛のようなものが、房の表面を覆っている一角があった。

「あれが、ボトリティス・シネレアです」クレールが指さした。「貴腐菌。見た目は、正直、かなり醜いでしょう」

確かに、それは決して美しいものには見えなかった。萎びて、皮膚がただれたようになった葡萄の房。だが、クレールはその房の一粒を摘み、僕に手渡した。恐る恐る口に含むと、驚くほど濃密な甘さと、それに負けない酸味、そして、蜂蜜と乾いた花のような、複雑な香りが広がった。

「醜さの中にしか、この甘さは生まれないんです」クレールは言った。「これは、腐敗と洗練が同じ現象の裏表だという、一番分かりやすい証拠だと、私は思っています」


十七 老いた醸造家

シャトーの主は、九十四歳になるという老人で、名をアンリといった。手はひどく節くれ立ち、目はほとんど白く濁っていたが、僕らが挨拶をすると、まるで姿が見えているかのように、正確にこちらへ顔を向けた。

「日本から来た若者か」アンリの声は、乾いた木の板がこすれるような、しわがれた声だった。「クリタの友人だな。あの男は、二十年前にもここに来た。あの頃はまだ、髪が黒かった」

僕はみねのことを話した。蔵の奥で甕の世話をする老女のこと。その声の重み、その静けさのこと。アンリは、黙って最後まで聞いていた。

「わしも、若い頃はひどいものだった」アンリはやがて、ぽつりと言った。「戦争で兄弟を二人失い、最初の妻には出て行かれた。この土地を継いだときは、ただの怒りしかなかった。土に当たり、葡萄に当たり、酒に当たった」

「それが、変わったのは」

「変わろうとして変わったわけじゃない」アンリは首を振った。「ただ、逃げるところがなかった。この土地から離れられなかった。だから、怒りごと、ここに居座り続けるしかなかったんだ。何年も、何十年も。気づいたら、怒りの角が、少しずつ丸くなっていた。まるで、この葡萄と同じようにな」

彼は、見えない目を、僕の方へ向けたまま、静かに笑った。

「坊主、貴腐というのは、幸福な話じゃないぞ。誰も、好んで腐りたい者などいない。ただ、腐らずに済むほど、人生は甘くない。せめて、腐るなら、良い腐り方をしたい——それだけのことだ」

僕らは、しばらく黙って、テーブルの上のワインを見つめていた。琥珀色の液体は、窓から差し込む夕方の光を受けて、蜂蜜のように濃く輝いていた。

「わしのこの目もな」アンリは、自分の白く濁った目を指さした。「腐ったんだ、ある意味では。もう何も見えん。だが、その代わり、鼻と舌だけは、若い頃よりもずっと鋭くなった。何かを失うということは、いつも、何かが埋め合わされるということでもあるらしい」

「クレールさんは、あなたのことを、この土地の生き字引だと言っていました」

「生き字引、か」アンリは笑った。「そう呼ばれるのは悪くない。だが、坊主、忘れるな。字引というのは、それだけでは何の役にも立たん。読む人間がいて、初めて意味を持つ。わしの話も、お前がそれをどう使うか次第で、ただの老人の繰り言にも、何かの助けにもなる」


十八 追跡者

シャトーを辞し、次の目的地であるコーカサスへ向かう前日、僕はボルドー市内の安宿で、奇妙な訪問を受けた。

ドアをノックしたのは、仕立ての良いスーツを着た、日本人の男だった。名刺には、聞いたこともない財団法人の名前と、その下に小さく、時雨屋にも接触したという製薬会社の関連組織の名が記されていた。

「速水さんですね。少しだけ、お時間をいただけますか」

男は慇懃な態度を崩さなかった。彼らが提示してきたのは、単純な取引だった。栗田の研究データへのアクセス、時雨屋の協力、そして——できれば、僕自身の検体の提供。相応の謝礼と、これから訪れる各地への「研究支援」という名目の資金援助と引き換えに。

「私たちは、この現象を否定しているわけではありません」男は言った。「むしろ、高く評価しています。だからこそ、これを一部の年老いた人々だけのものにしておくのは、もったいないと思うんです。もっと多くの人が、穏やかな老いを迎えられる可能性がある。それを、なぜ、拒む必要があるんでしょうか」

理屈としては、分からなくもなかった。だが、彼の言葉の温度は、アンリの、あるいはみねの言葉の温度とは、決定的に違っていた。急かすような、値踏みするような、乾いた響きがあった。

「アンリさんは、こう言っていました」僕は答えた。「腐るというのは、幸福な話じゃない。誰も好んで腐りたい者はいない、と。それを、外側から急がせることは、たぶん、できないんだと思います」

男は、少し眉を上げた。それまでの慇懃さの下に、初めて、微かな苛立ちのようなものが見えた気がした。

「速水さん。あなたは、感傷的になりすぎている。私たちがやろうとしているのは、この現象を独占することではありません。むしろ逆です。今、世界には、乾いたまま、腐ることすらできずに、ただ摩耗していく人間が溢れている。もし、この現象の仕組みを解明できれば、そういう人たちを、一人でも多く救えるかもしれない。それを、一部の年老いた人々の『味わい』のために、閉ざしておくことが、本当に正しいことでしょうか」

その言葉には、確かに、無視できない重みがあった。僕は、すぐには答えられなかった。乾いたまま老いていく人間を、一人でも減らせるのなら——その理屈自体は、決して間違ってはいない気がした。

だが、しばらくして、僕はようやく、自分の中にある違和感の正体に気づいた。

「たぶん」僕は言った。「あなたがたは、急かすことと、寄り添うことの違いを、分けて考えていないんだと思います。みねさんも、アンリさんも、コーカサスの人たちも、誰かに急かされて熟したわけじゃない。逃げなかった、それだけです。もし本当に人を救いたいなら、その『逃げない時間』に、どう寄り添うかを考えるべきで、菌そのものを取り出して増やすこととは、たぶん、根本的に別の話なんじゃないでしょうか」

男は微笑んだまま、名刺だけを置いて去っていった。僕はその夜、ひどく落ち着かない気分で、栗田に長い国際電話をかけた。


十九 山あいの発酵茶

コーカサスの山あいの村に着いたのは、それから五日後のことだった。舗装されていない道を、古いジープで何時間も揺られ続けた先に、その村はあった。

村では、何世代にもわたって、特殊な壺の中で茶葉を発酵させる技術が受け継がれていた。壺は地面に半分埋められ、村の広場の隅に、まるで小さな墓標のように並んでいた。

案内してくれたのは、村の長老の孫だという青年で、片言の英語を話した。彼の祖母が、この村で最も長くその壺の世話をしてきた人物だという。

祖母は、言葉をほとんど話さなかった。だが、僕らが訪ねると、深い皺の中の小さな目で、じっとこちらを見つめ、それから、壺の中の発酵茶を、無言で椀に注いでくれた。渋みの奥に、みねの蔵で飲んだ酒とも、アンリのワインとも違う、しかしどこか共通する、複雑な奥行きのある味がした。

村の広場には、他にも何十という壺が埋められていて、それぞれの世話をする人間が、朝夕、決まった時間に様子を見にくるのだという。青年が言うには、壺には一つひとつ、世話をしてきた人間の名が、口伝えで受け継がれているそうだ。ある壺は、彼の祖母の、そのまた祖母の代から続いている。

「この壺は、人よりも長生きするんです」青年は言った。「僕の家族の誰かが死んでも、壺は残る。次の誰かが、その世話を引き継ぐ。だから村の人たちは、自分一人の命の長さで、物事を考えていないところがあります」

孫が、祖母の言葉を通訳してくれた。

「彼女は、こう言っています。——若い頃、この村は飢饉と戦争で、何度も人が死んだ。彼女も、夫と、子供を二人、亡くした。それでも、この壺の世話だけは、誰にも譲らずに続けてきた。悲しみを、外に出す代わりに、この壺の中に、少しずつ、時間をかけて溶かし込んできたのだと」

祖母は最後に、孫を通して、こう付け加えた。

「悲しみは、消えるものじゃない。ただ、長い時間をかけて、味に変わることがある。それを待てる場所を、一つだけ持っていることが、大事なんだ」


二十 栗田からの知らせ

コーカサスから次の目的地である九州の離島へ向かう途中、乗り継ぎ空港で、僕は栗田からの緊急の連絡を受け取った。

「みねさんが、体調を崩されました」

心臓に持病があったことは、僕も聞いていた。だが、幸い、命に別状はないという。ただ、栗田の声には、それとは別の緊張があった。

「例の会社が、動きを速めています。みねさんが入院している隙に、蔵の関係者に、かなり強引な接触を図っているようです。宗一さんが、一人で対応にあたっていますが……正直、限界に近いと思います」

僕は、離島行きの計画を、一度保留にすることも考えた。だが、栗田は、電話越しに、静かにこう言った。

「気持ちは分かります。ですが、今すぐそちらへ行っても、あなたにできることは、あまり多くない。むしろ、離島での取材を終えてから、しっかりとした材料を持って帰ってきてほしい。あの会社の理屈に対抗できるのは、感情論ではなく、この現象が、いかに『急かせないものか』を、きちんと言葉にした記録だと思うんです」

僕は、揺れる気持ちのまま、九州行きの便に乗った。窓の外に広がる雲を眺めながら、みねの、あの静かな声を思い出していた。

——大事なのは、変わろうとしていることじゃなくて、逃げずに、そこにい続けていることだから。

今の自分にできることは、目の前から逃げ出さずに、この旅を最後まで、きちんと歩き通すことだけなのかもしれない、と思った。だが同時に、みねの入院という知らせは、これまでどこか遠い、興味深い研究対象のように感じていたこの現象を、初めて、切実な、個人的な問題として僕に突きつけていた。

もし、みねが目を覚まさなかったら。もし、あの静けさを湛えた声を、二度と聞けなくなったら。そう考えると、胸の奥に、乾いていたはずの場所から、初めて鈍い痛みが広がるのを感じた。それは、恐れという言葉だけでは片づけられない、もっと複雑な感情だった。誰かを失うかもしれないという痛みを、僕は久しく、こんなにまっすぐに感じたことがなかった。


二十一 離島にて

離島には、くさや液を代々受け継いできた、小さな加工場があった。案内してくれたのは、加工場を営む一家の三代目、七十代の女性だった。名を、トキといった。

「くさやの匂いは、みんな嫌がるけどね」トキは笑いながら言った。「この匂いの中に、何百年分の、いろんな人間の苦労が溶け込んでるんだよ」

トキの母、つまり先代は、百二歳まで生きたのだという。晩年まで、驚くほど穏やかで、明晰だったと、トキは語った。

「おっかさんはね、戦争中、この島で、ひどい飢えを経験してるんだよ。それでもこの加工場だけは、絶対に手放さなかった。空襲の合間を縫って、液の面倒を見に来てたっていうんだから、正気の沙汰じゃない」

「なぜ、そこまでして」

「さあねえ」トキは首をかしげた。「ただ、おっかさんは、よくこう言ってたよ。この液は、うちの家族よりも長生きしてる。何十年も、何百年も、絶やさずに継ぎ足され続けてきた液なんだ。自分一人の悲しみなんて、この液の年月に比べたら、ちっぽけなもんだって、そう思うと、少しは楽になれたんだって」

トキは、加工場の壁に貼られた、古い白黒写真を指さした。痩せた女性が、樽の前に立っている写真だった。

「これが、若い頃のおっかさんだよ。この写真の三日後に、旦那——あたしのおとっつぁんが、船で沖に出たまま、帰ってこなかった。それでも、おっかさんは、樽の前に立ち続けた。泣きながら、液をかき混ぜてたって、近所のばあさんたちが言ってたよ」

「それで、百二歳まで」

「ああ。最期まで、頭ははっきりしてたし、味の違いにも、誰よりも敏感だった。あたしが少しでも配合を変えると、味見もせずに、匂いだけで気づくんだよ。恐ろしい人だったし、同時に、ものすごく、優しい人でもあった」

僕は、その液の入った古い樽を、そっと覗き込んだ。黒く濁った液面に、自分の顔が、ぼんやりと映っていた。

「あんたも、何かを抱えて、ここまで来たんだろう」トキが、不意に言った。「そういう目をしてるよ」

僕は、否定できなかった。離婚のこと、乾いた部屋のこと、栗田の電話のこと。トキは、それ以上は何も聞かず、ただ、樽の液を、静かにかき混ぜ続けていた。


二十二 帰路

離島を発つ日、トキは僕に、小さな瓶に詰めたくさや液を土産に持たせてくれた。

「腐ってるように見えて、腐ってないんだよ、これは」トキは言った。「あんたも、東京に戻ったら、たまには、この匂いを嗅いでみるといい。今のあんたに何が足りないのか、案外、鼻の方が先に教えてくれるかもしれないから」

飛行機の中で、僕は栗田に、これまでの旅の記録をまとめたノートを読み返していた。アンリの言葉、コーカサスの祖母の言葉、トキの言葉。それぞれ、育った土地も、言語も、経験してきた苦しみの形も違う。だが、どの言葉の奥にも、同じ一つの姿勢があるように思えた。

逃げないこと。急がないこと。悲しみや怒りを、無理に消そうとせず、ただ、時間と共に、その場所に居続けること。

東京に近づくにつれて、窓の外の景色は、少しずつ、見慣れた灰色の街並みへと変わっていった。乾いた部屋、乾いた仕事、乾いた自分。だが、鞄の中には、旅の間に集めた、いくつもの湿った記憶が詰まっていた。

アンリの、腐るなら良い腐り方をしたいという言葉。コーカサスの祖母の、悲しみは味に変わることがあるという言葉。トキの、鼻の方が先に教えてくれるという言葉。それぞれはばらばらの、遠く離れた土地の記憶だったが、東京の乾いた空気の中に戻ってくると、不思議と、一つの束になって、僕の中に沈み始めているのが分かった。

栗田から、最後にもう一つ、短いメッセージが届いていた。

「時雨屋で、話し合いの場を設けることになりました。あの会社の代表も来ます。みねさんも、退院して、その場に立ち会うそうです。あなたにも、ぜひ、同席してほしい」

僕は、機内の窓に映る自分の顔を見つめた。旅立つ前の、あの乾いた無表情はもうそこになかった。まだ何も、決定的には変わっていないかもしれない。だが、少なくとも、逃げ出さずに、この先へ進もうとしている自分がいた。

(第二部・了)




第三部 結実


二十三 帰還

半年ぶりに見る時雨屋の蔵は、記憶の中のものより、少しだけ小さく見えた。だが、木の柱の黒々とした艶も、蔵の奥から漂ってくる、あの湿った麹の匂いも、何一つ変わっていなかった。

宗一が、駅まで迎えに来てくれていた。心なしか、以前より頬がこけたように見えたが、目の輝きは変わらなかった。

「無事に戻ってきたか」宗一は、僕の荷物を見て笑った。「ずいぶん、いろんな匂いを連れて帰ってきたようだな」

ゆかりは、蔵の入り口で、大きく手を振って迎えてくれた。半年前よりも、明らかに所作に迷いがなくなっていた。重い米俵を、危なげなく肩に担ぐ姿は、もう見習いのそれではなかった。

「お帰りなさい」ゆかりは言った。「新酒、まだ残してありますよ。今年のは、去年よりずっと、丸くなったと思います」

蔵の奥、いつもの場所に、みねはいた。退院したばかりだというのに、その姿には、思っていたよりずっと生気があった。僕の顔を見ると、みねは、いつもと変わらない、静かな笑みを浮かべた。

「また来たのかい」

「はい」僕は言った。「今度は、少し長く、お邪魔することになりそうです」

「それは、いいことだね」みねは言った。「腐るのには、時間がかかるものだから」


二十四 みねの半生

その晩、囲炉裏を囲んで、みねは初めて、自分の若い頃のことを、まとまった形で語ってくれた。

みねが生まれたのは、この町からさらに山奥に入った、貧しい農村だった。十六の歳に、縁あって、当時、時雨屋で働いていた蔵人の一人に嫁いだ。戦争が始まったのは、その三年後のことだった。

「夫は、戦地に取られてね」みねは言った。「帰ってきたときには、もう、別人のようになっていた。誰にも心を開かなくなって、酒ばかり飲むようになって。荒れて、荒れて、手も上げられたよ」

「それでも、一緒にいたんですか」

「他に、行くところがなかったからね」みねは、乾いた声で笑った。「でも、それだけじゃない。あの人も、逃げ場がなかったんだと、今なら分かる。戦地で見たものを、誰にも話せないまま、抱え込んでいた。あの人にとって、わたしを傷つけることだけが、唯一、その重さを外に出す方法だったんだと思う」

みねは、当時、幼い息子を一人育てていた。だが、その息子は、十二の歳、蔵の裏の川で溺れて死んだ。

「あの日のことは、今でも、はっきり覚えている」みねの声は、少しも震えていなかった。だが、その静けさの奥に、僕は、途方もなく深い場所を見た気がした。「わたしは、しばらく、何も感じなくなった。夫が荒れても、蔵の仕事がきつくても、何も感じない。ただ、生きているだけの、抜け殻のようだった」

「そこから、どうやって」

「蔵の仕事だけは、続けていたんだよ。他に、することがなかったから」みねは言った。「甕の世話をして、麹の様子を見て、それだけを、毎日、毎日、繰り返していた。そのうち、少しずつ、匂いの違いが分かるようになった。今日の醪は、昨日より、少し元気がある。今日のは、少し疲れている。そんなことが、分かるようになっていった」

「それが、悲しみと、どう関係していたんですか」

「分からない」みねは、正直にそう言った。「ただ、蔵の中の菌たちは、わたしが何を抱えていようと、急かさずに、自分たちの時間で、発酵を続けていた。誰も、わたしに、早く元気になれとは言わなかった。ただ、そこにいて、待っていてくれた。気がついたら、わたし自身も、その待つという時間に、少しずつ、馴染んでいったんだと思う」

夫は、それから十年ほどして、静かに病で亡くなった。みねはそれ以来、蔵に住み込み、誰よりも長く、甕の世話を続けてきたのだという。

「痛みは、消えなかったよ」みねは言った。「今でも、あの子の顔を、忘れた日は一日もない。でも、痛みのまま、七十年近く、この蔵で過ごしてきた。いつのまにか、痛みと、わたし自身の境目が、分からなくなっていた。それが、貴腐と呼ばれているものの、正体なんじゃないかと、わたしは思っている」


二十五 対決の前夜

話し合いの前日、栗田が、久しぶりに蔵を訪れた。以前会ったときよりも、白髪が増えたように見えた。

「向こうは、かなりの人数で来るそうです」栗田は言った。「顧問弁護士まで連れてくるとか。正直、こちらに、対抗できるだけの法的な材料は、あまりありません」

「勝ち目は、あるんですか」

「分かりません」栗田は、正直にそう答えた。「ただ、少なくとも、みねさんの意思を、はっきりと示すことはできます。彼女の身体は、彼女のものです。どれだけ立派な肩書きの人間が来ようと、その一点だけは、揺るがせにできない」

宗一が、静かに口を開いた。

「僕は、こう思うんです」宗一は言った。「向こうの理屈も、分からなくはない。多くの人を救いたいという気持ちも、たぶん、嘘ではないんでしょう。ただ、彼らは、一つ、大事なことを忘れている。この蔵の酒も、みねさんの穏やかさも、誰かが急いで作り出したものじゃない。二百三十年という時間と、みねさんが生きてきた九十数年という時間、そのものが、答えなんです。時間を飛ばして、結果だけを取り出そうとする限り、彼らは、本当に欲しいものには、絶対に辿り着けない」

その夜、僕は一人、仕込みの蔵に入った。桶の中では、相変わらず、醪が静かに動いていた。ぷつ、ぷつ、という音。誰にも急かされず、誰の指示も受けずに、ただそこにあるものたちが、変化を続けている。

僕は、自分の腕を見つめた。栗田の検査で、僕の中にも、微量の菌が見つかったという。それが、これから先、僕の中で、どうなっていくのか。まだ、誰にも分からない。だが、少なくとも、それを急いで確かめようとは、もう思わなかった。


二十六 話し合いの場

翌日、時雨屋の広間には、蔵側の人間——宗一、栗田、ゆかり、そして僕と、対する製薬会社側の五人が向き合って座った。あの、ボルドーで会った慇懃な男の姿も、その中にあった。

会社側の代表は、丁重な言葉で、これまでの経緯と、今後の「共同研究」の提案を、改めて説明した。時雨屋の蔵付き菌、そしてみねをはじめとする、この現象を持つ人々の身体データを、正式な形で研究対象として提供してほしい、という内容だった。

「わたしたちは、決して、悪意でこの提案をしているわけではありません」代表は言った。「むしろ、この貴重な現象を、正しい形で、後世に、そして世界中の人々に役立てたいと考えています」

一同がしばらく沈黙した後、口を開いたのは、みねだった。

「あんたたちの言うことは、分かるよ」みねは、静かな声で言った。「でもね、わたしの身体は、わたしのものだ。この菌がわたしの中で何をしているのか、わたし自身にも、正直、よく分かっていない。分からないものを、分かった顔をして、他人に渡すことはできない」

「しかし、みねさん」代表が、なおも食い下がろうとした。

「それに」みねは、代表の言葉を遮った。「あんたたちは、この現象を、急いで取り出そうとしている。だが、これは、急いで取り出した瞬間に、たぶん、もう別のものになってしまうんだよ。花を摘んで、瓶に生けても、それはもう、土に根を張っていたときの花とは、違うものだろう。あんたたちが欲しいのは、たぶん、その根っこの部分なんだと思うけど、根っこだけを引っこ抜いたら、花はもう、咲かない」

広間には、しばらく、重い沈黙が流れた。

代表は、何かを言いかけて、やめた。そして、静かに頭を下げた。

「……分かりました。今日のところは、これで、失礼します」

彼らが去ったあと、栗田が、大きく息を吐いた。

「終わった、わけでは、ないでしょうね」栗田は言った。「ただ、少なくとも、今日は、時間を稼げた」

宗一が、少し笑いながら言った。

「十分ですよ。この蔵の菌みたいに、僕らも、急がずに、しぶとく、やっていけばいい」


二十七 新酒の夜

その晩、蔵では、ささやかな祝いの席が設けられた。派手なものではなく、いつもの一升瓶が、いつもの顔ぶれの前に並べられただけの、静かな席だった。

ゆかりが、僕の杯に酒を注ぎながら、笑って言った。

「言ったでしょう。私も、少しは、いい具合に熟れてきたって」

「本当だ」僕は答えた。「一年前より、ずっと、落ち着いて見える」

「まだまだですよ」ゆかりは笑った。「でも、この蔵にいると、焦らなくていいんだと、少しずつ分かってきました」

みねは、いつもの縁側で、杯を傾けていた。僕はその隣に、断りを入れて腰を下ろした。

「今日のことを、ありがとうございました」

「礼を言われることじゃないよ」みねは言った。「わたしはただ、自分の身体のことを、自分で決めただけだから」

「これから、また、来ますか、あの人たち」

「来るだろうね」みねは、あっさりと言った。「ああいう手合いは、簡単には諦めない。でも、それでいいんだよ。来るたびに、同じことを、同じだけ、言い続ければいい。急かない、諦めない。それだけのことさ」

僕は、杯の中の酒を見つめた。今年の新酒は、去年のものより、確かに少し、丸みを帯びた味がした。まだ荒く、まだ角があったが、その角の立ち方が、以前より、幾分か穏やかだった。


二十八 一年後

それから一年が経った。僕は、東京の編集部に復帰し、以前とは少し違う部署で、地方の一次産業や伝統技術を取材する仕事を続けていた。かつての妻とは、時折、事務的な連絡を取り合う程度の関係が続いていたが、それはそれで、悪くない距離だと思えるようになっていた。

栗田のもとには、あれから何度か、製薬会社側からの接触があったという。だが、みねをはじめとする蔵の人々の意思は変わらず、また、栗田自身が、学会や国際的な研究倫理の場で、この現象の性質について、粘り強く発言を続けたことで、少なくとも、強引な形での「資源化」は、今のところ、押しとどめられているということだった。

「これで終わった、とは、まだ言えません」栗田は、電話越しに言った。「ただ、少なくとも、この現象を、正しい速さで扱おうとする人間が、あなたも含めて、少しずつ増えている。それだけで、十分な前進だと、私は思っています」

僕は、自分の身体について、栗田に、簡単な検査を受け続けていた。菌の量は、あの晩からわずかに増えているという。だが、それが、今後、どうなっていくのか、栗田にもまだ、確かなことは分からないという。

「焦らないことです」栗田は、電話の最後に、そう付け加えた。「もし、あなたの中で、何かが起こるとしても、それは、たぶん、ゆっくりとしか起こらない。わたしたちにできるのは、ただ、その速度を尊重することだけです」


二十九 終章

その年の酒祭りの晩、僕は再び、あの町を訪れた。境内には提灯が並び、太鼓の音が響き、湯気の立つ煮物の匂いが漂っていた。

宗一は、相変わらず忙しく法被の袖をまくり、ゆかりは、若い蔵人たちに、堂々と指示を出していた。そして、みねは、いつもの縁側に座り、通りかかる人々の話に、急かすことなく、耳を傾けていた。

僕は、紙コップに注がれた新酒を受け取り、みねの隣に腰を下ろした。

「また来たのかい」

「はい」僕は言った。「たぶん、これからも、何度も」

「それは、いいことだね」みねは笑った。

僕らはしばらく、黙って、境内の賑わいを眺めていた。ソムリエたちが語るような、薔薇の香りだとか、孔雀の羽根のような複雑さだとか、そういう洗練された言葉は、ここにはやはり、どこにもなかった。あったのは、湯気の立つ煮物と、安い紙コップに注がれた新酒と、笑い合う人々の顔だけだった。

「みねさん」僕は言った。「僕は、貴腐になれるでしょうか」

みねは、僕の顔を、しばらく見つめていた。それから、静かに笑った。

「なれるかどうかは、わたしにも分からないよ」みねは言った。「でも、それを気にしている間は、たぶん、まだなれない。ただ、逃げずに、ここにい続けること。それだけを、続けていけばいい。答えは、急がなくていいんだ」

僕は頷き、杯を傾けた。まだ若く、まだ荒さの残る、けれど確かに、以前より丸みを帯びた酒の味がした。

腐るということ。それは終わりではなく、まだ動いているということ。

そしていつか——高貴で、味わい深く、気品漂うような人間に、僕もなれるのだろうか。

答えは、まだ、僕の中で、そして、この町全体の中で、静かに、気長に、発酵を続けていた。

(了)





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あとがき


この物語に出てくる時雨屋という蔵は、特定のモデルがあるわけではありません。取材で訪ねた幾つかの蔵の、柱の色や、湯気の跡や、縁側の光を、記憶の中で混ぜ合わせて作りました。

書き終えて気づいたのは、自分が発酵という言葉に甘えていたことです。美しい比喩にすれば、痛みが少しだけ飼いならせる気がしたのです。けれど、みねやアンリやトキの言葉を書き写すうちに、比喩では済まない手触りが、少しずつ戻ってきました。腐るということは、実際に痛むということです。待つということは、実際に何もできない時間を生きるということです。

もしこの本が、誰かの乾いた時間に、わずかな湿り気を与えることができたなら、それは私の手柄ではなく、この本を読んでくださったあなたが、逃げずにそこにいてくれたからだと思います。

最後に、蔵の暗闇で、ぷつ、という泡の音を聞かせてくれた、すべての名もなき働き手たちに、感謝を。


二〇二六年七月





星 三部作


星 I
プロテイン・ビヘイビア Protein Behavior


まえがき
すべての星が見えたならば、夜空は光で埋め尽くされ、暗闇はなくなるという。
これは「オルバースのパラドックス」と呼ばれる、天文学の古い謎です。
宇宙が無限であるなら、どの方向を見上げても必ず星があるはずなのに、なぜ夜は暗いのか。その答えは、宇宙の年齢と光の速さにあります。私たちの頭上には、まだ光すら届いていない「見えない星」が、見えている星よりもはるかに多く存在しているのです。
人類の歴史は、常にその「見えないもの」を目指す旅でした。
かつて、木枯らしの吹く水平線の向こうへ命懸けで舟を出した者たちがいました。彼らはなぜ、引き返すことのできない海へ向かったのでしょうか。
本作は、未知を恐れる代わりに、それに焦がれるよう運命づけられた「0.3パーセントの人間たち」の物語です。遺伝子に刻まれた見えない地図に導かれ、東京から火星、そして太陽系の外へと命を繋いでいく三世代の旅路。彼らが暗闇の向こうに見出した「星の色」を、どうぞ一緒に見届けてください。


ー序詞ー
すべての星が見えたならば
夜空は
星で埋まり
暗闇はなくなるそうだ
それだけ惑星は多く
それだけ宇宙は広く
それだけ遠くもある
人類は
やっとこの星を
抜け出すことが出来始めて
いつか
他の星へと
移住するのだろう
——作者


序章 星の地図
すべての星が見えたならば、夜空は光で埋め尽くされ、暗闇はなくなるという。
 これはオルバースのパラドックスと呼ばれる古い謎だ。宇宙が無限で、星が均一に分布しているなら、どの方向を見ても視線の先には必ず星があるはずだ。だが夜空は暗い。その矛盾の答えは、宇宙の年齢と光の速度にある。まだ光が届いていない星たちがある。見えていない星の方が、見えている星よりもはるかに多い。
 人類はいつも、見えないものを目指してきた。

第一部 航海者の血 (西暦2031年・東京)


第一章 0.3パーセント
神代蒼は十九歳の春に、自分が人類の0.3パーセントに属することを知った。
 知らせてきたのは医師でも遺伝カウンセラーでもなく、スマートフォンに届いた一通のメールだった。送信者は「プロテイン・ビヘイビア財団」と名乗っていた。
件名は、シンプルだった。
 「あなたは選ばれています」
蒼はゴミ箱に捨てようとして、手を止めた。本文には彼の遺伝子解析データが添付されており、三ヶ月前に自ら送付したものと完全に一致していた。就職活動の一環で受けた民間の遺伝子検査だった。CHRM2遺伝子の変異、DRD4の特定のハプロタイプ、構造をコードする遺伝子の、きわめてまれな組み合わせ。
 財団の説明によれば、この三つが同時に発現している人間は、全人口のおよそ千人に三人。
蒼の父は漁師だった。北海道の小さな港町で、嵐の夜も船を出した。「海が怖くないのか」と聞いたことがある。父は笑って言った。「怖いから面白いんだ」。
 父は蒼が十四歳の冬に、時化の海で還らなかった。
メールには面談の招待が添えられていた。場所は東京・港区の、ガラス張りのビル。蒼は承諾の返信を打った。
財団の受付で待っていたのは、白衣の女性だった。三十代半ばか、眼鏡の奥の目が静かだった。
「神代蒼さん。私は桐嶋梓、財団の主任研究員です」
 彼女は握手を求めず、かわりに小さな端末を差し出した。画面には螺旋状のグラフィックが回転していた。
「あなたの遺伝子の、この部位を見てください」
 蒼は画面を覗き込んだ。三本の鎖が絡み合う、奇妙な形だった。
「NOVA1の変異体です。タンパク質の立体構造が通常と異なり、ニューロンの接続パターンが特殊になる。具体的には」梓は一呼吸置いた。「未知の環境に対するストレス反応が、一般的な人間と逆転しているんです」
「逆転?」
「ほとんどの人は、未知に対して恐怖を感じる。あなたたちは、興奮を感じる」
蒼は父の言葉を思い出した。怖いから面白いんだ。
「財団は何をしているんですか」
 梓は端末をしまい、蒼を見た。
「人類を、この星の外へ送り出す準備をしています」


第二章 財団の地下
プロテイン・ビヘイビア財団の本部は、地上十八階建てのビルの地下三フロアに広がっていた。
 蒼が案内されたのは、地下二階の研究室だった。ここには世界中から集められた「0.3パーセント」の若者たちがいた。十八歳から二十五歳、三十二名。国籍は十七カ国に及ぶ。
「あなたたちのことを、私たちはプロテイン・ビヘイビアと呼んでいます」梓は言った。「タンパク質の振る舞いが特殊な人々、という意味です。しかし同時に、人類という生命体の根源的な行動様式を体現している、という意味でもある」
「もう一つ、重要な特性があります」梓は続けた。「長期の冬眠に対する耐性です。通常の人体は、数年単位の冬眠によって神経伝達物質のバランスが崩れ、覚醒後に深刻な後遺症を負うことがあります。しかしNOVA1の変異体を持つあなたたちの身体は、この負担に極めて高い耐性を示すことがわかっています。恒星間航行に不可欠な、もう一つの理由です」
「移住?」三人ほど前の席に座ったブラジル人の青年が英語で尋ねた。「どこへ?」
「まずは火星です」梓は答えた。「しかしそれは通過点に過ぎない」
スクリーンに星図が映し出された。太陽系、そしてその外へ伸びる矢印。ケンタウルス座アルファ星、エリダヌス座イプシロン星、タウ・ケチ。
「あなたたちの中の誰かが、あるいはその子孫が、いつかあの星に立つかもしれない」
 誰かが小さく息を呑んだ。
隣に座ったのは、黒髪の日本人の女子だった。名を守屋凛といった。東京大学の宇宙工学科の三年生で、目が鋭く、手元のノートパッドに何かを素早く書き続けていた。
「信用できると思う?」蒼が小声で聞くと、凛は顔を上げた。
「財団の資金提供元はすでに調べた。航空宇宙企業三社、スウェーデンの機関投資家、そして匿名の個人。信用できるかどうかは、目的による」
「君はここへ来た目的は?」
 凛はまた前を向いた。「宇宙船を設計したい」
その夜、蒼は宿舎の屋上に上がった。東京の夜空はひどく白んでいて、星はほとんど見えなかった。
 父と一緒に見た北海道の夜空を思った。あの時の天の川の密度。満天とはこういうことかと初めて知った、十歳の夏。
宇宙は広い。それだけ惑星は多く、それだけ遠くもある。
 そして今、自分はその入り口に立とうとしている。


第三章 訓練
財団のプログラムは過酷だった。
 午前五時起床、体力訓練。午前中は宇宙医学と生命維持システムの座学。午後は各自の専門分野の実習。夜は語学と宇宙法規。週に一度、心理評価。
蒼に割り当てられた専門は、船外活動と地質調査だった。なぜこの組み合わせなのかを尋ねると、梓は言った。「あなたのデータは、孤立環境での判断力と、物理的な作業への適応速度が高い。そして好奇心が、恐怖を上回る閾値が特に低い」
「褒めているんですか」
「事実を言っています」
三ヶ月が過ぎた頃、蒼は凛と話すようになっていた。凛は居眠りをしたことがなかった。食事も最低限で、常に何かを計算していた。
「眠れているのか」ある夜、蒼が尋ねた。
「眠れているが、眠りたくない」凛は答えた。「夢の中では何も設計できないから」
「君にとって宇宙船は、何なのか」
 凛は少し考えた。「私の両親はエンジニアだった。東北の大震災で亡くなった。私が八歳の時」
 蒼は黙った。
「この星は、時々ひどく意地悪だと思う」凛は続けた。「でも宇宙はもっと意地悪だ。だからこそ、立ち向かう価値がある」
財団のプログラムに参加して半年後、蒼たちは初めて実機訓練のために種子島に向かった。JAXA との共同施設、そこにあったのは次世代の有人ロケット「暁」だった。全長七十二メートル、三段式。第一段に液体水素エンジン六基。月周回軌道まで到達可能。
 蒼はその巨体を見上げ、心臓が速く打つのを感じた。
 恐怖ではなかった。


第二部 大海原への帰還 (西暦2041年・火星軌道上)


第四章 赤い惑星
火星の空は、サーモンピンクだった。
 蒼が初めてその色を見たのは、船外活動用ハッチの小窓からだった。大気圧は地球の約一パーセント。酸素はほぼない。地表気温は昼間でもマイナス二十度を下回る。
 だが、美しかった。
神代蒼は二十九歳になっていた。
 財団のプログラムから選抜された十二名が、火星有人探査ミッションの第一次クルーとして「暁II」に乗り込んだのは、七ヶ月前のことだった。地球を離れる瞬間、蒼は窓から青い惑星を見ていた。あんなに小さいのに、あんなに重かった。
 守屋凛は同じクルーにいた。彼女は船の構造設計を担当し、出発直前まで溶接の検査をしていた。
火星基地「あけぼの」は、オリンポス山の麓から南東三百キロメートルの場所に設置された。三棟のモジュール、太陽光パネル、掘削機。地下に水の氷があることは探査機が確認済みだった。
 蒼の任務は地質調査だった。毎朝、宇宙服を着て外に出る。サンプルを採取し、分析する。地球との通信遅延は最大二十二分。何かあっても、すぐに助けを呼べない。
「怖くないのか」と凛に聞かれたことがある。
「怖いから面白い」蒼は答えた。
 凛は苦笑した。「遺伝子そのまんまだね」
ある朝、蒼は地表から十七センチメートル下の岩盤に、奇妙なパターンを発見した。規則的な層状構造。生物が作る縞模様に、似ていた。


第五章 発見
分析に三週間かかった。
 基地のキャプテン、田辺修一郎が全員を会議室に集めたのは、火星到着から百三十日目だった。
「報告します」梓はここでも主任研究員として同行していた。彼女の声は静かだが、微かに震えていた。「神代が採取した岩盤サンプルから、炭素同位体比の異常な偏りを確認しました。具体的には、C13対C12の比率が、生物的プロセスの痕跡と一致する範囲に収まっています」
 誰も声を上げなかった。
「火星にかつて生命が存在したことを、直接示す証拠ではありません。しかし、否定する根拠もない」
「どれくらい古いんだ」凛が聞いた。
「三十五億年前から四十億年前の地層です」
 三十五億年前。地球では、最初の単細胞生物が誕生した頃だ。
その夜、蒼は外に出た。
 火星の夜空には、フォボスとダイモスが浮かんでいた。二つの月、不規則な形。そして星。地球からよりも、ずっとよく見える星。
 あの光の一つ一つに、惑星が回っているかもしれない。その惑星に、かつて何かが生きていたかもしれない。
 あるいは今も。
蒼は父のことを考えた。海の向こうへ漕ぎ出した男のことを。
 種族の中の0.3パーセントが、常に次の地平へと向かう。それは盲目的な衝動ではなく、生命そのものの記憶なのかもしれない。かつて単細胞生物が陸に上がったように。魚が脚を生やしたように。人類が大洋を渡ったように。
 今は、空を超える番だ。


第六章 嵐と選択
火星の砂嵐は、地球のそれとは次元が違う。
 到着から百八十日目、太陽から見て反対側に回り込んだ火星の南半球で嵐が発生した。数日のうちに全球規模へと拡大した。ダスト・ストームと呼ばれるこの現象は、時に数ヶ月続く。太陽光パネルの発電量が九十パーセント低下した。
「電力が持たない」田辺は言った。「地熱発電機の出力上限で計算すると、十六週間分。地球から補給船が来るまで、二十一週間」
 五週間の不足。
「何かを削らなければならない」
選択肢は三つだった。暖房を下げてほぼ全員が低体温症のリスクを負う、食料と水の生産ラインを最低限に絞る、あるいは半数が基地に残り、残り半数が緊急帰還する。
蒼は残ることを申し出た。
 凛も手を挙げた。
「君は帰れ」蒼は言った。「設計者が帰らなければ、次のミッションが遅れる」
「そのロジックは私の方が言うべきだ」凛は答えた。「私がいなければ、このモジュールの緊急修理ができない。帰るべきはあなただ」
二人はしばらく向き合っていた。
「じゃんけんにしよう」凛が言った。
 蒼は笑った。「宇宙でじゃんけんか」
「人類三十万年の知恵だ」
凛が勝った。蒼は残ることになった。
 帰還艇が火星を離れる日、蒼は格納庫の窓から小さくなっていく船体を見た。凛の顔は、通信越しに最後まで何かを計算していた。
嵐の中で、蒼は記録を取り続けた。岩盤の変化、大気の組成、地下水脈の動き。恐怖はあった。しかし恐怖より、ここにしかないデータへの渇望の方が強かった。
 父も同じだったのだろうか、と思った。嵐の海の中で、波のパターンを読んでいたのだろうか。

第三部 見えない海 (西暦2089年・土星軌道外)


第七章 孫娘の時代
神代架は十七歳で、祖父の日記を読んだ。
 祖父、神代蒼は火星から生還した後、プロテイン・ビヘイビア財団の理事になった。守屋凛と結婚し、娘が一人いた。架はその娘の子、つまり孫娘だ。蒼は架が七歳のとき、老衰で死んだ。
日記には火星での日々が書かれていた。嵐の記録、岩盤のスケッチ、発見した炭素同位体パターンの図。そして最後の一節。
「いつか、この先の星に誰かが立つだろう。それは私ではないかもしれない。しかし、誰かの血の中に、私が見た星の色が残っているとしたら、それで十分だと思う」
架の遺伝子解析結果は、二週間前に届いた。CHRM2、DRD4、NOVA1。三つ全部。
 架は、プロテイン・ビヘイビアだった。
2089年、人類は太陽系の外縁に「前線基地」を設けていた。土星の衛星エンケラドゥスに恒久的な居住施設があり、天王星軌道上には太陽系外探査のための発射台が建設中だった。火星はすでに人口三万人を超える入植地となり、自律した政府を持っていた。
 プロテイン・ビヘイビア財団の活動も変わっていた。もはや小さな財団ではなく、国連の準機関として「種間探査機構」に再編されていた。
架に届いたのは、財団の後継組織からではなかった。「エクソ・アーク計画」——恒星間航行を目指す、人類史上最大のプロジェクトからだった。


第八章 エクソ・アーク
エクソ・アーク計画の本部は、エンケラドゥス基地の地下にあった。
 土星の巨大な輪を窓の向こうに見ながら、架は初めてブリーフィングを受けた。
「ケンタウルス座アルファ星Bは、地球から約四・三七光年の距離にあります」説明官は三次元マップを展開した。「現在の技術では、光速の十二パーセントで航行可能です。到達まで約三十七年」
「三十七年」誰かがつぶやいた。
「クルーは出発時に全員、冬眠します。意識のある状態での航行は最初と最後の数年のみ」
 架は手を挙げた。「帰れるんですか」
説明官は一瞬、間を置いた。「片道です」
会議室が静まり返った。
 帰れない。地球にも火星にも。永遠に。
架は窓の外を見た。土星の輪が光を受けて輝いていた。ここまで来るのに、人類は何百年もかかった。あの輪に最初に望遠鏡を向けた人間は、まさか人間がその傍に住む日が来るとは思っていなかっただろう。
帰れないことを恐ろしいとは思わなかった。
 ただ、さびしいとは思った。
「祖父は」架は口を開いた。「火星から帰れないかもしれない状況で、記録を取り続けたと書いていました。怖かったと思います。でもそれより、そこにしかないものへの渇望が勝ったと」
架は前を向いた。「私も同じです」
選抜試験は一年に及んだ。エクソ・アーク第一次クルーの定員は二百四十名。応募者は世界中から六万人を超えた。遺伝子的条件だけでなく、技術、心理、医学的な適性が厳しく審査された。中でも冬眠ポッドへの耐性は絶対条件だった。プロテイン・ビヘイビアでない者は、たとえ他の能力が優れていても、数十年に及ぶ冬眠に耐えられない。
 架はクルーに選ばれた。


第九章 出発
出発の日は、2094年の春だった。
 エクソ・アーク一号は、天王星軌道上の発射台から離れた。全長三百二十メートル、質量八万六千トン。核融合パルスエンジン十六基。二百四十名の乗組員。そして冷凍睡眠ポッドの中に、何千もの種子と受精卵と、人類の知識のアーカイブ。
架は出発前夜、地球に向けてメッセージを録音した。信号が届くまで十三分かかる。返事が来るまで二十六分。この先、その遅延は伸び続け、いつかは届かなくなる。
「おばあちゃんへ。守屋凛。あなたの設計した宇宙船のエンジンは、今も私たちの基礎になっています。おじいちゃんの日記を何度も読みました。彼が見た火星の空の色を、私は想像することしかできないけれど、あなたたちが歩いた道の先を歩いています。太古の昔、海に漕ぎ出した誰かの子孫が今日もまた、新しい海へと出ます。見えない海の向こう側へ。帰れないけれど、後悔はありません。きっと向こうにも、そこにしかない星の色がある。愛しています」
船が加速を始めた。
 土星の輪が、遠くなった。
 太陽が、小さくなった。
 暗闇の中に、星だけが残った。
架は冬眠ポッドに入る前、最後に窓を覗いた。
 無数の星。まだ光が届いていない星の方が、はるかに多い。
父の父の父が漁師だったことを、架は知っていた。嵐の夜も船を出した男のことを。怖いから面白いと言った男のことを。
その血が、今、自分の中にある。
それは遺伝子でできた、見えない地図だった。
ポッドが閉まった。
 意識が遠のく前に、架はひとつのことを思った。
 向こうに着いたら、まず夜空を見よう。そこから見える太陽は、ただの星のひとつだ。でも、あの光の中に、地球も火星もエンケラドゥスも含まれている。
 見えない星の方が多い。それでも、星はある。
宇宙は広い。
 それだけ惑星は多く、それだけ遠くもある。
 だから、行く。


終章 光の速さで
三十八年後、ケンタウルス座アルファ星Bの第三惑星の軌道上で、エクソ・アーク一号は減速を始めた。
 神代架は、五十五歳になっていた。
窓の外に、青みがかった惑星が見えた。大気がある。液体の水の証拠も、事前調査で確認されていた。生命の痕跡は、まだわからない。
 だが、美しかった。
地球へのメッセージを録音した。届くまで四年以上かかる。返事が来るとしたら、八年後。架が生きているかどうかわからない。
でも、誰かが来る。架の子供たちが、この星で生まれるかもしれない。その子たちの子供たちが、またこの星から次の星へと向かうかもしれない。
「地球の皆さん、そして火星の皆さん。私たちは着きました。星は、ここにもあります。見えなかった星が、今、窓の外にある。祖父が火星で書いた通りです。見えない星の方が多い。でも、行けば見える。それだけのことです。そしてそれは、十分なことです」
録音を止めた後、架は静かに笑った。
 向こうに着いたら、まず夜空を見よう、と思っていた。
 そして今、ここから見える太陽は、ただの星のひとつだった。
 あの小さな光の中に、すべてが含まれていた。
夜が来た。
 新しい星の、新しい夜が。
空を埋め尽くす、無数の星とともに。


あとがきに代えて
オルバースのパラドックスは、十九世紀のドイツの天文学者ハインリッヒ・オルバースが提起した逆説だ。宇宙が無限で静的であれば、夜空はどの方向を向いても星で満たされ、昼のように明るいはずだ。しかし実際には夜空は暗い。その答えは宇宙の年齢と膨張にある——まだ光が届いていない星が、無数にあるのだ。
本書の根底にあるのは、この問いだ。世界はまだ、知らないことで満ちている。見えていない星の方が多い。行ったことのない場所の方が多い。だからこそ、私たちは前へ進む理由を持ち続けることができる。
「プロテイン・ビヘイビア」という概念は、行動遺伝学における新奇探索行動(Novelty Seeking Behavior)の研究や、特定の遺伝子変異と人類の移動歴史を結びつけた仮説にヒントを得ている。もっとも、本書はあくまでフィクションであり、科学的厳密さよりも、人間が抱く「ここではないどこかへ」という詩的な衝動を優先して描いた。
太古の昔、見えない海の向こうへと漕ぎ出した私たちの祖先は、決して恐怖を知らない超人ではなかったはずだ。彼らもまた、震える手で舵を握り、それでも進むことを選んだ市井の人々だった。彼らが臆病でなかったとは思わない。臆病であっても、進んだのだ。その血のグラデーションが、今ここにいる私たちへと繋がっている。
星はある。見えなくても、そこにある。
そのシンプルな衝動が、冷たい宇宙を生きる人類の小さな灯火となることを願って。
だから、行く。


ーーーーーーーーーー


星 II
光の届かない場所で
Where the Light Cannot Reach
『星 ——プロテイン・ビヘイビア』続編


まえがき
光は1秒間に30万キロメートルを進む。それは人類にとって、あまりにも速く、同時に、あまりにも遅い速度だ。
前作『星 ——プロテイン・ビヘイビア』では、遺伝子の運命に導かれ、4.37光年先の未知へと飛び出した「行く者たち」の軌跡を描いた。
本作はその地続きにある、もう一つの航海の物語である。
人類が星の海へ漕ぎ出すとき、そこには常に二つの眼差しがある。暗闇の先へと進む船の窓から見つめる眼差しと、その船がいつか届く場所を信じて、地上から見上げる眼差しだ。
時空の裂け目に言葉を響かせ、何年も先の「返事」を待ち続ける人々。彼らもまた、動かぬ大地に立ち尽くしながら、心は星々を旅する航海者たちであった。
光の届かない場所で、灯りを掲げ続けた者たちの記録を、ここに開く。


序詞
それは
わずかに冒険心を抱いた者たちが
この先の
その先もと
命を掛けて進んで行く
そして
残った者たちが
灯りを持って
待つ
——星より


序章 届かない光
光は、秒速二十九万九千七百九十二キロメートルで進む。
 ケンタウルス座アルファ星Bまでの距離は、四・三七光年。つまり、あの星で今この瞬間に何かが起きたとしても、その光が地球に届くまでに四年以上かかる。
 逆に言えば、私たちが今夜見ているあの星の光は、四年前のものだ。
エクソ・アーク一号が出発してから、三十八年が経った。
 地球では、あの船のことを知らない世代が生まれ、育ち、子供を持ち始めている。
 火星では、入植第三世代が地表を歩いている。彼らは地球に行ったことがない。
しかし、守屋凛は覚えていた。
 九十一歳になった今も、あの日の朝を。
 孫娘が冬眠ポッドに入る前に送ってきた、最後の映像を。


第一部 残された海 (西暦2094〜2101年・東京/火星)


第一章 凛、八十七歳
守屋凛は、架が旅立った日から毎朝、同じことをした。
 ベッドから起き上がり、南西の窓を開け、ケンタウルス座の方向を三秒間、見る。
 見えるわけがない。東京の朝空に、四光年先の星は溶けている。それでも、見る。
八十七歳の凛の手は、もう設計図を引けなかった。関節が変形し、細かい線が引けない。かわりに口述で若い研究者に指示を出す。脳だけは、まだ動く。
 彼女が今手がけているのは、エクソ・アーク二号の推進システムだった。
「先生、休んでください」助手の宮内颯太が言った。二十六歳、凛の孫と同じ世代だ。
「颯太、あなたはNOVA1の変異体を持っているか」
唐突な質問に、颯太は戸惑った。「……持っています。先月、財団から連絡が来ました」
「そうか」凛は端末から目を離さなかった。「だから心配しなくていい。あなたはどうせ行くんだから」
「先生は」颯太は少し間を置いた。「行きたかったですか」
凛は答えなかった。窓の外を、三秒間、見た。
「私は設計者だ。船を作ることが、私の行き方だった」
その夜、凛は日記を書いた。
 紙の日記だった。蒼が死んでから始めた習慣で、もう二十年近く続いていた。
「架の信号が届いた。出発から七年、距離にして〇・九光年。まだ太陽系の外縁を抜けていない。冬眠中のため内容は短い。船体の温度、酸素濃度、核融合炉の出力。数字だけ。それでも、数字が来るということは、生きているということだ。数字が来なくなった日のことを、私はまだ想像できない」


第二章 火星の子供たち
神代海は十四歳で、祖父の父のことを学校で習った。
 神代蒼。最初の火星有人探査クルーの一員。砂嵐の中で百日間、一人で基地に残った男。炭素同位体の異常を発見した地質調査担当。
海は火星生まれだった。両親も火星生まれで、地球には一度も行ったことがない。青い空というものを、映像でしか知らない。
 火星の空は、海が物心ついた頃からサーモンピンクだった。それが普通だと思っていた。
「神代くん、発表して」歴史の先生が言った。
 海は立った。「神代蒼は……えーと、NOVA1の変異体を持つプロテイン・ビヘイビアで、財団の訓練を経て第一次火星クルーに選ばれました。火星基地あけぼので砂嵐による電力危機が発生した際、残留を志願し……」
「それは教科書の内容ね。あなた自身は、どう思う?」
海は少し考えた。「……怖かったと思います。でも、行った」
「なぜ行ったと思う?」
「怖いから面白いんだ、って、そういう人だったんだと思います。ひいひいおじいさんが漁師で、同じことを言ってたって聞きました」
放課後、海は基地の外縁ドームに行った。特別な許可が要る場所で、海は財団の奨学生証を持っていたので入れた。
 分厚い透明アクリルの向こうに、火星の地表が広がっていた。赤茶けた岩、砂、地平線。空はいつものピンク。
 ここを、神代蒼が歩いた。宇宙服を着て、岩のサンプルを拾った。
 海は窓に手を当てた。ガラス越しに、微かに寒かった。
海の遺伝子解析結果は出ていなかった。もうすぐ出る。
 プロテイン・ビヘイビアかどうか、海はまだ知らなかった。
 でも、海は思っていた。遺伝子がどう出ようと、怖いから面白いという感覚は、自分の中にある、と。


第三章 信号が来なくなる日
エクソ・アーク一号からの信号は、出発から十一年目に変わった。
 冬眠から一部のクルーが目覚め始めたのだ。船が光速の十二パーセントに達し、航行が安定した段階で、管理担当の八名が交代で起きる仕様になっていた。
最初の肉声が届いたのは、地球時間で二一〇五年の三月だった。
 信号の遅延はその時点で一・四光年分、約十七ヶ月。つまり、その声は一年以上前に発せられたものだ。
「地球の皆さん。火星の皆さん。こちらエクソ・アーク一号、管理当番の中村です。全システム正常です。凛先生の設計は完璧でした。何一つ壊れていない」
凛はその録音を百回以上聞いた。
 中村というのは、凛が直接指導した学生だった。三十歳で船に乗った。今頃、四十一歳になっているはずだ。声は若いままだった。
返信を送った。届くのは一年四ヶ月後。
「中村くん。こちら守屋凛。あなたの声が聞けてよかった。架は元気ですか。船の第四冷却系の、バルブ番号A-17を定期的に確認してください。設計上の微妙な個所があります。元気でいてください」
颯太が隣でそっとハンカチを取り出したが、凛は気がつかなかった。
九十一歳の秋、凛は設計室に来なくなった。
 熱ではなかった。単純に、体が言うことを聞かなくなった。
 颯太が自宅に来て、エクソ・アーク二号の図面を見せた。
「先生の設計をベースに、推進効率を二十三パーセント改善できました」
「見せて」凛は手を伸ばした。
 颯太はタブレットを渡した。凛は老眼鏡越しにしばらく眺め、一箇所を指で示した。
「ここ。冷却剤の流路、ここをもう少し太くしなさい。長期航行では詰まる」
「……先生、それ、私が三ヶ月悩んでいた部分です」
「そうか」凛は返した。「蒼がいつも言っていた。悩んでいる場所は、正しい場所だ、と」
凛は日記の最後のページにこう書いた。
 「架に会えないまま死ぬだろう。でも、架が設計した夢の続きを、颯太が作っている。それでいい。私は船を作った。船は行った。行った先で、また船が作られるだろう。それで十分だ」
守屋凛は、その年の冬に眠るように亡くなった。
 九十一歳だった。


第二部 待つ者の星 (西暦2101〜2120年・火星/地球)


第四章 海の遺伝子
神代海の遺伝子解析結果が届いたのは、十六歳の誕生日の翌日だった。
 CHRM2——陽性。DRD4——陰性。NOVA1——陽性。
 三つのうち二つ。プロテイン・ビヘイビアの条件を満たさなかった。
海は結果を三回読んで、端末を伏せた。
 悲しいとは思わなかった。ただ、少し静かな気持ちになった。
翌週、財団の面談があった。担当者は穏やかな中年の女性だった。
「がっかりしていますか」
「少し」海は正直に言った。「でも、変な話だと思います。遺伝子の数字でがっかりするって」
「特別な数字ではありますが、全てではありません」担当者は言った。「神代蒼さんのクルーにも、プロテイン・ビヘイビアでない方がいました。凛さんもそうです」
「では、私は冬眠ポッドには耐えられないということですか」海は聞いた。
「その通りです」担当者は静かに言った。「冬眠は、あなたの身体には大きすぎる負担になります。でも」
 海は顔を上げた。
「守屋凛さんは、三つの変異のうち一つだけでした。でも、人類史上最高の宇宙船設計者でした。行く人だけが探査をするわけではありません。作る人が、待つ人が、記録する人が——全員で、星へ向かっているんです」
海はその夜、外縁ドームに行った。
 火星の夜空は、地球よりずっと澄んでいた。大気が薄いから、星が滲まない。
 南西の方向に、ひときわ明るい星がある。太陽だ。地球からは燦々と輝く恒星が、ここからは少し小さく見える。でも、まだ見える。
 ケンタウルス座アルファ星は、今の季節は地平線の下だ。見えない。
 でも、ある。
海は窓に手を当てた。プロテイン・ビヘイビアでなくても、この感覚はあった。見えないものが、あると信じる感覚。
 それは遺伝子ではなく、もっと別の何かかもしれなかった。


第五章 エクソ・アーク二号
宮内颯太は三十八歳になっていた。
 エクソ・アーク二号の設計が完成したのは、二一一一年のことだ。守屋凛が残した設計思想を骨格に、新しい世代のエンジニアが十七年かけて完成させた船だった。
全長四百二十メートル。推進効率は一号比で三十一パーセント向上。最高速度は光速の十九パーセント。到達時間は約二十三年。
 目的地は変わった。ケンタウルス座アルファ星Bではなく、その先——タウ・ケチ星系。地球から約十一・九光年。
「先生が怒るかもしれない」颯太は図面を眺めながら言った。
 隣に立った神代海が首を傾げた。「守屋先生が?」
「ケンタウルスに一号が着く前に、もっと遠くへ送り出すことになる」
「でも先生は言っていたじゃないですか。船は行った。行った先で、また船が作られる、って」
颯太は海を見た。二十三歳になった海は、財団の地質調査部門に就職し、今は二号クルーの行き先候補の惑星データを分析していた。プロテイン・ビヘイビアでない者として、地上から探査を支える役割を選んだ。
「海くんは、羨ましくないか」颯太は言った。「颯太さんは行けるのに」
「先生と同じことを言うんですね、私も」海は少し笑った。「私の祖先には漁師がいました。その人は嵐の海へ出た。でも、港に残って、明かりを灯した人もいたはずです。船が帰ってくる場所がなければ、出ることもできない」
「火星に戻る予定はないけどな、二号は」
「知ってます。でも比喩です」
選抜が始まった。
 颯太は迷わず応募した。
 三百人の枠に、四十万人が応募した。


第六章 二つの船
エクソ・アーク一号からの最後の定期信号が届いたのは、二一一五年の夏だった。
 距離にして四・一光年。信号の遅延は四年以上。つまり、その信号が発せられた時、一号は目的地まであと〇・二七光年だった。
内容はシンプルだった。
 「全員元気。架、元気。もうすぐ着く」
神代海は三十五歳になっていた。
 信号を受け取った時、海は火星の通信センターにいた。受信を確認した瞬間、センターにいた全員が立ち上がり、拍手した。老いた研究者が泣いていた。
一号からの次の信号が来るとすれば、着陸後の報告だ。距離は四・三七光年以上。届くまで四年半以上かかる。
 今から四年半後、海は四十歳になっている。
その時、何が届くだろうか。
 架の声か。新しい惑星の空の色か。あるいは、静寂か。
 何が届いても、海はここにいるだろう。火星に。受け取る側に。
 そしてもし、届かなかったとしても——
海は窓の外を見た。
 太陽が、地平線に沈もうとしていた。空がいつもより深い赤に染まっていた。
 あの光は、八分前に太陽を出た光だ。
 全ての光は、過去から来る。
 それでも、光はある。


第三部 光の返事 (西暦2128〜2132年・火星)


第七章 四年半後の声
信号が来たのは、予測より六週間遅かった。
 神代海は四十二歳になっていた。
二一二八年、一月の火星の朝。通信センターの担当者からの緊急連絡で、海は飛び起きた。
「来ました」
 それだけだった。
センターに走って、ヘッドフォンをつけた。スピーカーから音声が流れた。遅延補正後の、クリアな声。
「地球の皆さん。火星の皆さん。こちらエクソ・アーク一号。神代架です」
海の息が止まった。
 架の声を、海は録音でしか知らなかった。この声の主は、海が生まれた年に旅立っていた。
「着きました。ケンタウルス座アルファ星B、第三惑星の周回軌道に入りました。惑星の正式名称をアケア——『夜明け』という意味のハワイ語です——と命名します。大気あり、液体の水の反応あり。降下準備中です。皆さんに伝えたいことがたくさんあります。でも、まず一つだけ」
一拍、間があった。
「空が、青いです」
センターが、しんとなった。
 誰かが小さく泣いた。
 それから、波が来た。笑い声と泣き声が混ざった、あの感じ。
海は椅子に座ったまま、動けなかった。
 青い空。火星では見たことのない、地球でも見たことのない、別の星の、青い空。
 架は見ている。今この瞬間——いや、四年半前に——別の太陽の光の下で、顔を上げている。
海は、窓の外を見た。
 火星の空は、サーモンピンクだった。
 それでよかった。
 それぞれの星に、それぞれの空がある。

第八章 返事を書く
火星代表として、海が返信を担当することになった。
 距離は四・三七光年。信号の遅延は四年四ヶ月。海が今録音したものが、アケアに届くのは四年後だ。架の「青い空」の声が発せられたのは、四年以上前。そのサイクルの中で、二つの星が言葉を交わしていく。
海は一晩かけて、原稿を書いた。
「架さんへ。火星の神代海です。あなたの玄孫——ひいひいお孫さんにあたります。神代蒼のひいひい孫です。あなたが旅立った年に、私はここ火星で生まれました。だからずっと、あなたのことを遠い人だと思っていました。でも、あなたの声を聞いて、そう思わなくなりました。
守屋凛先生は、九年前に亡くなりました。九十一歳でした。最後まで二号の設計をしていました。エクソ・アーク二号は来年、タウ・ケチへ向けて出発します。颯太さんが乗っています。凛先生の設計を受け継いだ颯太さんが。
青い空、というのが、どんな色か私にはまだわかりません。映像は見ています。でも、実際に見上げた経験がない。もしかすると、一生ないかもしれない。でも、あなたが見た。あなたが見たということを、私は知っている。それが、見えない星を信じることと、同じことだと思っています。
火星の空は今日も赤いです。でも、きれいです。
 どうか元気でいてください」
録音して、送信した。
 届くのは、四年後だ。
 その頃、海は四十六歳になっている。
その返事が来るのは、さらに四年後。五十歳だ。
往復する光の中で、人は生きていく。
 届かなくても、送り続ける。
それもまた、航海だと海は思った。


第九章 エクソ・アーク二号、出発
出発の日は、二一二九年の春だった。
 エクソ・アーク二号は、天王星軌道の発射台を離れた。全長四百二十メートル。クルー三百名。目的地、タウ・ケチ星系。到達まで約二十三年。
神代海は、火星の通信センターで見送った。
 実際には見えない。発射台は遠すぎる。でも、信号を受け取る画面の前にいた。
宮内颯太の最後のメッセージが届いた。
「海くん、守屋先生の日記を読んでいる。蒼さんのことが何度も出てくる。二人はすごい人たちだった。でも、先生が言っていた。すごい人じゃない人が、それぞれの場所で灯りを持っていてくれるから、船は行けるんだ、と。頼んだぞ」
海は返信した。
「任せてください。ちゃんと受け取ります。二十三年後も、ここにいます。いや、私がいなくても、誰かがいます。ずっと誰かが、ここにいます」
信号を送り終えて、海は外に出た。
 火星の夜だった。空気は薄く、宇宙服が必要だった。でも、この空は好きだった。
星が、信じられないほどよく見えた。
 大気が薄いから、瞬かない。ただ、静かに輝く。
 南西の方向に、ひときわ明るい点がある。太陽だ。
 その近くに、肉眼では見えないが、ケンタウルス座アルファ星がある。
 アケアがある。架がいる。今はもう、七十代になっているはずだ。
タウ・ケチの方向は、また別の場所だ。颯太が向かっている。
遠くなっていく。
 でも、つながっている。
光の速さで、言葉を交わしながら。
海は空を見上げた。
 どの星が見えていて、どの星がまだ見えていないか、海には分からなかった。
 それでも、全部ある。
 見えなくても、ある。
それで十分だ、と海は思った。
 父の父の父の父が漁師だったことを、海は知っていた。
 嵐の夜も、船を出した男のことを。
怖いから面白い、と言った男のことを。
その血が、自分の中にあるかどうか、遺伝子は教えてくれなかった。
 でも、今夜、この空の下でこうして立っていること。
 見えない星を、あると信じていること。
 それが答えだと思った。


終章 すべての星が見えたならば
二一三二年。
 アケアからの第二次報告が届いた。
神代架は七十四歳になっていた。声は老いていたが、はっきりしていた。
「火星の海へ。ありがとう。凛先生のことは、泣きました。もっと話したかった。でも、あなたが送ってくれた凛先生の最後の設計図を、私たちは全員で読みました。ここアケアで、小さな研究施設を建設中です。凛先生の名前をつけようと思います。守屋凛研究所。いいでしょう?
アケアは、美しいです。空は青く、海があります。生命の痕跡は——まだ断言できませんが、珪素系の化合物の層を発見しました。三十億年前の地層です。詳しい報告は次の信号で。
颯太さんが出発したと聞きました。二十三年後、あの人はタウ・ケチに着く。私が九十七歳の時だ。たぶん生きていない。でも、信号は来るでしょう。誰かが受け取る。それでいい。
あなたに会いたい。でも、会えない。でも、あなたの声は届く。私の声もそちらに届く。光の速さで、往復しながら。
人類はそういう生き物になったんだと思います。
太古の海を渡った者と、残った者が、それぞれの岸で灯りを持って。
火星の空が赤いと聞いて、懐かしかった。私もあの色の中で育ちました。ここの青い空も、慣れました。でも、時々赤い空が見たくなる。
元気でいてください。どうか、元気で」
神代海は、四十六歳だった。
 センターで信号を受け取り、録音を聞き終えた後、しばらく動けなかった。
そして、返信を録音した。
「架さんへ。海です。元気です。守屋凛研究所、最高の名前だと思います。先生に似てる名前のつけ方です。シンプルで、本質だけ。
颯太さんは今頃、冬眠の中です。タウ・ケチまであと二十二年。私が六十八歳になった頃、着く計算です。
こちらも変わりました。火星の人口が五十万を超えました。子供たちが地表を走り回っています。ここで生まれた子供たちは、この赤い空が普通なんです。あなたもそうだったように。私もそうだったように。
今日、外に出ました。夜空を見ました。あなたのいる方向を、三秒間、見ました。守屋先生がずっとそうしていたように。
見えないけど、あると知っている。
それが、私たちの航海の仕方だと思います。
元気でいてください。信号を、待っています」
送信して、海は外に出た。
 火星の夜空は、今夜も澄んでいた。
 星が、無数にあった。
 見えている星より、見えていない星の方が多い。
 それでも、空は暗かった。
 暗いから、星が見える。
一つ一つが、際立って見える。
どの星に誰かがいるか、海には分からなかった。
 ただ、その光の数だけ、可能性がある。
 人類が、まだ踏んでいない地面がある。
まだ見ていない空がある。
海は空を見上げた。
 見えない海の向こう側へ。
光の速さで言葉を交わしながら、人類は進んでいく。
0.3パーセントが先へ行き、残りが灯りを持って待つ。
そのどちらも、航海者だ。
すべての星が見えたならば、夜空は光で埋まるという。
 しかし、まだそうではない。
 暗闇があるから、星は輝く。
見えない星があるから、行く理由がある。
海は三秒間、南西の空を見た。
 それから、通信センターに戻った。
 次の信号を、待つために。


著者より
一作目『星——プロテイン・ビヘイビア』は、旅立つ者の物語だった。
 この続編は、残る者の物語だ。
人類の探査の歴史を振り返ると、常に二種類の人間がいた。船に乗った者と、岸に立った者。マゼランと、マゼランの帰りを待った人々。アームストロングと、管制室で祈った人々。
 どちらが勇敢かという話ではない。どちらも、同じ夢を別の形で生きていた。
光の速さで言葉を交わすということ——それは、おそらく人類が初めて経験する時間感覚だ。返事が届くまでに何年もかかる。送った言葉が届く頃には、相手も自分も変わっている。それでも、送り続ける。
 それは、祈りと、どこが違うのだろう。
見えない星の方が多い。届かない光の方が多い。それでも、空を見上げることをやめない者たちが、この星にはいる。
 彼らを、人類と呼ぶ。


ーーーーーーーーーー


星 III
渡すもの
What We Pass On
『星』三部作・完結篇


まえがき
人類が初めて文字を持ったのは、五千年前だと言われています。
それ以前、私たちは炎を囲み、口伝によって知識を、危険を、そして生きるための智慧を次の世代へ手渡してきました。語り手が死に絶えても、語られた言葉は若者たちの中で生き続け、私たちをここまで歩ませてくれました。
舞台が星間航行の時代になっても、その本質は何も変わりません。
ただ、囲むべき炎が「通信信号」に変わり、距離の代わりに「時間」という果てしない壁が立ちはだかるだけです。

第一作『星』で孤独に火星の砂を掴んだ神代蒼。
第二作『星 II』で送り出す者の覚悟を生き、船を設計した守屋凛。
正式本作『星 III』では、彼らが遺した「光」を受け取り、さらにその先へとバトンを渡していく者たちの姿を描きます。
1000人に3人の遺伝子を持つ者たちと、それを見守り続けた99.7%の人々。
見えない星に向かって手を伸ばし続けた彼らの旅路を、どうぞ最後まで見届けていただければ幸いです。


1000人に3人
その中で
その遺伝子が
そのタイミングを捉えた者に
その先へと
誘うのだろう
——星より


序章 継承
人類が初めて文字を持ったのは、五千年前だ。
 その前は、口で伝えた。
 炎の前に集まり、老いた者が若い者に語った。どこに獣がいるか、どの草が毒か、海がどちらの方向にあるか。
 語られたことは、やがて語った者が死んでも残った。
星間航行の時代になっても、それは変わらなかった。
 ただ、炎のかわりに信号があった。
 距離のかわりに、時間があった。
 老いた者が若い者に渡すものは、言葉ではなく、光だった。


第一部 渡す手 (西暦2140〜2152年・火星)


第一章 海、五十四歳
神代海は五十四歳になっていた。
火星の通信センターは、二十年前より大きくなっていた。スタッフも増えた。しかし海の席は変わらなかった。南西の窓に一番近い、古い机。守屋凛が毎朝南西を見ていたと聞いてから、海もそうするようになった。
 窓の外には、火星の砂漠が広がっている。開発が進んで、地平線に居住ドームのシルエットが見えるようになった。それでも、空の色は変わらない。サーモンピンク。海が生まれた日から、ずっと。
颯太の船、エクソ・アーク二号が出発してから十一年が経つ。
 目的地のタウ・ケチまで、あと十二年。
颯太は今頃、冬眠の中だ。
海の部下になった若者が一人いた。名を田中灯という。二十二歳、地球生まれ。火星に来て三年。目が大きく、よく質問した。
「神代さん、颯太さんからの信号って、どのくらいの頻度で来るんですか」
「冬眠中は月に一度、自動送信だ。数値データだけ。起きたら声が来る」
「起きるのは、到着の二年前ですよね」
「そう。あと十年後だ」
 灯は計算した。「神代さんが六十四歳の時ですね」
「そうなる」
「受け取れますか」
 海は灯を見た。「なぜそんなことを聞く」
「いや……すみません」灯は視線を落とした。「失礼でした」
「いや」海は少し間を置いた。「正直な質問だ。受け取れるかどうかはわからない。でも、誰かが受け取る。それで十分だ」
その夜、海は日記を書いた。
 蒼が日記を書き、凛が日記を書き、海も書いた。誰に見せるわけでもない。でも、書く。
 「灯に聞かれた。受け取れるかと。六十四歳なら、たぶん元気だろう。しかし颯太の返事が来るのは、その四年後。七十四歳か六十八歳か、どちらにしてもまだいる気がする。問題はその先だ。タウ・ケチに着いた颯太が、そこで何を見つけ、何を送ってくるか。その信号が届く頃、私はまだここにいるだろうか。いなければ、誰かに渡さなければならない」


第二章 灯の遺伝子
田中灯の遺伝子解析結果が届いたのは、火星に来て四年目の春だった。
 CHRM2——陽性。DRD4——陽性。NOVA1——陽性。
 三つのうち二つ。プロテイン・ビヘイビアの条件を満たさなかった。
灯は結果を見て、しばらく動けなかった。
 財団から面談の招待が来た。灯は承諾した。
面談官は穏やかな初老の女性だった。
「どう感じていますか」
「怖いです」灯は正直に言った。「行くことになるんだろうなと思って」
「行きたくないですか」
「行きたいです。でも、怖い。同時に両方あります」
面談官は少し微笑んだ。「それは正常です。むしろ、それがプロテイン・ビヘイビアの特徴です。恐怖がないのではなく、恐怖と興奮が同時に来る」
「神代蒼さんも、そうだったんですか」
「記録によれば、そう言っていたそうです。怖いから面白い、と」
灯は海に報告した。
 海は結果を聞いて、しばらく窓の外を見た。
「おめでとう」海は言った。
「神代さんは」灯は慎重に言った。「……羨ましいですか」
 海はしばらく黙った。
「二十年前は、少し思った。でも今は違う。私はここにいることで、ちゃんと役に立っている。颯太さんを送り出した。あなたも、きっと送り出す」
「神代さんが送り出してくれるんですか」
「私か、私の後の誰かが」海は灯を見た。「でも、できれば私がいい」
その夜、灯は外に出た。
 火星の夜空を初めてちゃんと見た気がした。
 星が、無数にあった。瞬かない。静かだった。
 どれがタウ・ケチか、灯にはわからなかった。
 でも、ある。
 そこへ、自分は行くのかもしれない。
その感覚は、怖くて、面白かった。


第三章 アケアからの手紙
二一四二年の秋、アケアから信号が届いた。
 神代架、八十四歳。
「海へ。元気ですか。こちらは元気です。守屋凛研究所は今年、創設十四年になりました。若い研究者が十二名います。全員、ここアケアで生まれた子供たちです。
 彼らは地球も火星も知りません。この青い空と、ケンタウルスの二つの太陽だけが、当たり前の世界です。
 おもしろいのは、彼らが地球の夜空の話に、とても興味を持つことです。青い惑星が写った古い写真を見て、『きれい』と言う。私も同じでした。火星の赤い空の写真を見て、きれいと思った。遠い場所は、いつもきれいに見えるのかもしれません。
一つ、報告があります。
 先日、地層から有機化合物を発見しました。炭素鎖が、生物的な構造に近い。確定ではありません。でも、ひいひいおじいさんが火星で発見した炭素同位体の異常と、性質が似ています。もしかすると、宇宙には生命の材料が、思ったより広く散らばっているのかもしれない。
 または、生命は一度だけ生まれ、宇宙の各所に種を撒いたのかもしれない。
どちらにしても、まだわかりません。でも、わかる日が来ると思います。
元気でいてください。
 颯太さんのことを祈っています。届く頃には、もう着いているかな」
海は録音を聞き終えて、灯を呼んだ。
「もう一度、聞け」
灯は黙って聞いた。
「有機化合物」灯は言った。「これは」
「そうだ」海は言った。「蒼さんが火星で見つけたものの、先にあるかもしれないものだ」
 灯は宙を見た。
「宇宙は、生命に満ちているんでしょうか」
「わからない。でも」海は窓の外を見た。「わからないことが、行く理由になる」


第二部 届く声 (西暦2152年・タウ・ケチ星系へ向かう船中)


第四章 颯太、目覚める
宮内颯太が冬眠から覚めたのは、タウ・ケチまで残り一・八光年の地点だった。
 目が開いた瞬間、最初に思ったのは、凛先生のことだった。
冬眠ポッドのモニターに、現在日時が表示されていた。二一五一年。出発から二十二年。
 颯太は五十九歳になっていた。
体を起こすのに、三十分かかった。筋肉が固まっていた。医療チームが付き添い、少しずつ動かした。船内は静かだった。二百九十九名がまだ眠っている。今起きているのは管理当番の八名だけだ。
「先生の訃報は」颯太は医療チームのリーダーに聞いた。
「守屋凛先生ですか。二一〇一年に亡くなられています。出発から七年後です」
颯太は目を閉じた。知っていた。出発前に計算していた。でも、数字で知っているのと、声に出して聞くのは、違った。
「九十一歳だったそうです。最後まで設計をしていたと」
「そうか」颯太は言った。「そうだろうな」
ベッドに横になりながら、颯太は天井を見た。
 船体の外は、光速の十九パーセントで流れる宇宙だ。星がほんのわずかに青方偏移して見える。前方の星がわずかに青く、後方の星がわずかに赤い。ドップラー効果。凛が設計した船が、光に向かって走っている。
火星への信号を録音した。
「海くん。颯太です。起きました。全員元気です。先生の設計は、二十二年たっても完璧でした。何一つ壊れていない。バルブA-17も問題なかった。先生に報告したい。でも届かないから、あなたに言います。先生の仕事は、本物でした。
 タウ・ケチまで、あと二年。凛先生が教えてくれた設計の美しさを、私はここに来て初めて本当に理解した気がします。宇宙の中で動き続けるということの、意味を。
 元気でいてください」
信号が届くまで、十一年かかる。
 颯太が六十九歳の時に、海のもとへ届く。
海は、その時六十五歳だ。


第五章 タウ・ケチの光
二一五三年、エクソ・アーク二号はタウ・ケチ星系に入った。
颯太が最初に窓から見たのは、オレンジ色の光だった。
 タウ・ケチは太陽より少し小さく、少し温度が低い。その光は、太陽の黄色よりも深みのある橙色をしていた。
 颯太は声を出せなかった。
 二十四年かけて来た光が、今、自分の顔を照らしている。
第一候補惑星はタウ・ケチeと呼ばれていた。地球から見た時の名前だ。ここに来たら、別の名前をつける予定だった。
 颯太は全クルーに、名前の投票を呼びかけた。三百の提案が出た。
 最も多くの票を集めたのは、「ナギ」という言葉だった。日本語で、海が凪いでいる状態を指す。嵐の後の、静かな海面。
 颯太は賛成した。
「ナギ、に決まりました」颯太は全員の前で言った。「守屋凛先生が設計した船で、神代蒼さんの精神を継いで、私たちはここへ来ました。嵐を越えた先の、静かな場所。ナギ、でいいと思います」
 拍手が起きた。
降下の日、颯太は窓を見た。
 ナギが近づいてくる。青くはなかった。緑がかった灰色。大気は薄い。液体の水の反応は、地下に確認されている。表面は岩だらけで、風が強い。
美しいとは言い難かった。
 でも、颯太は思った。蒼さんも、凛さんも、架さんも、美しいと言わなかった場所があったかもしれない。それでも、いた。
美しさは、後からくるものだ。
着陸した。
 颯太は宇宙服を着て、ハッチを開け、タラップを降りた。
 岩の地面に、足をついた。
風が、スーツ越しに感じられた。
颯太は、凛先生のことを思った。
 この足が踏んでいる地面に、先生の設計が届いた。先生は来られなかった。でも、来た。
そういうことだ、と颯太は思った。
 渡されたものは、ちゃんと届く。


第六章 ナギの発見
ナギに着いて三ヶ月が経った頃、颯太のチームは地下水脈の調査を始めた。
 掘削機が地下四十メートルに達した時、水が出た。
 液体の水だった。地熱で温められた、鉱物を多く含む水。飲めないが、ある。
それより深く掘った地点で、岩盤に奇妙なパターンが見つかった。
 規則的な孔。
 生物の巣穴に、似ていた。
颯太は報告書を書きながら、蒼さんのことを考えた。
 火星で炭素同位体の異常を見つけた人。アケアで有機化合物が見つかった。そしてナギで、この孔。
 バラバラかもしれない。でも、つながっているかもしれない。
火星への信号を録音した。
「海くん、颯太です。ナギに着いて三ヶ月。報告があります。地下水脈を発見しました。核心……岩盤に、規則的な孔の構造があります。生物起源かどうか、まだわかりません。でも、蒼さんが火星で見つけたものと、似ている気がしています。
 この宇宙には、私たちの想像より多くの何かが、いるのかもしれない。あるいは、いたのかもしれない。あるいは、生命の材料が、どこにでもあるのかもしれない。
 どれも、まだわからない。でも、わかりたい。その気持ちは、二十四年かけてもまったく変わらなかった。
 灯くんを、よろしく頼みます。あの子はいい目をしていました」
この信号が海に届くのは、十一年後だ。
 颯太が七十歳の時、海は六十五歳だ。
もし颯太がその返事を受け取るとしたら、八十一歳になっている。
届くかどうかはわからない。
 でも、送る。


第三部 渡す手、受け取る手 (西暦2152〜2165年・火星)


第七章 海、六十六歳
颯太の「起きました」の信号が届いたのは、二一六二年の夏だった。
 神代海は六十六歳になっていた。
センターで信号を受け取った時、灯が隣にいた。三十二歳になった灯は、今やチームのリーダーだ。海はこの二年で、ほとんどの実務を灯に渡していた。
「神代さん」灯が言った。「颯太さんの声です」
「聞こえている」
 颯太の声は、変わっていなかった。
 二十二年分、老いているはずなのに、声に滲む感情が、海の記憶の中の颯太と同じだった。
「バルブA-17も問題なかった」という言葉で、海は目を細めた。
 凛先生。ちゃんと届きましたよ。
返信を録音した。
「颯太さん、海です。六十六歳になりました。元気です。先生の訃報は、もう届いていますよね。先生の最後の言葉を教えます。日記に書いてあったんです。『私は船を作った。船は行った。行った先で、また船が作られるだろう。それで十分だ』。颯太さんが起きたということは、その言葉通りになりました。
 灯くんが頑張っています。プロテイン・ビヘイビアです。いつか船に乗るでしょう。私が送り出せるかどうかはわかりませんが、誰かが送り出します。
 ナギの報告、楽しみに待っています」
録音を終えた後、海は灯を見た。
「聞いていたか」
「はい」
「先生の言葉を、あなたにも渡しておく」海は言った。「私は信号を受け取った。あなたは、次の信号を受け取る。それで十分だ」
灯は少し間を置いた。「神代さんは、行きたかったですか。本当に」
海は笑った。「行きたかった。でも、ここが好きだった。この赤い空が。颯太さんの信号を受け取った瞬間が。それで十分だった」


第八章 颯太の信号、届く
颯太のナギからの第一次報告が届いたのは、二一六四年の秋だった。
 地下水脈の発見。そして、岩盤の規則的な孔。
海は六十八歳になっていた。
センターに来た時、灯がすでに待っていた。
「来ました。颯太さんから」
「聞こう」
颯太の声を聞いた。
 岩盤の孔の話を聞いた時、海は椅子の背もたれに深く寄りかかった。
 蒼さんの火星での発見。架さんのアケアでの有機化合物。颯太のナギの孔。
 点が、線になろうとしているかもしれない。
「灯」海は言った。
「はい」
「返信を、あなたが録音しなさい」
 灯は驚いた顔をした。「私が、ですか」
「颯太さんが次の信号を送った時、私がここにいるかどうかわからない。あなたの声で返すべきだ」
「……わかりました」
 灯は少し考えてから、録音を始めた。
「颯太さん、初めまして。田中灯といいます。神代さんの部下です。プロテイン・ビヘイビアで、いつかどこかへ行くことになると思います。岩盤の孔の話を聞きました。神代さんが隣で、目を細めていました。蒼さんの発見から百年以上かけて、点が線になろうとしているのかもしれません。神代さんは、あなたが灯くんを頼むと言っていたと教えてくれました。よろしくお願いします。いつか、あなたが見ているものを見に行けるかもしれません」
録音を終えた灯は、海を見た。
「よかったか」
「よかった」海は言った。「颯太さんに届くのは、十一年後だ。颯太さんが八十歳の時に届く。あなたは四十三歳だ」
「神代さんは」
「七十九歳だ。たぶん、いる」
「じゃあ、一緒に聞きましょう」灯は言った。
 海は笑った。「そうだな」


第九章 渡す夜
二一六五年の冬、神代海は引退を決めた。
 六十九歳だった。
最後の出勤日、灯が花を持ってきた。火星の温室で育てた、小さな白い花だった。
「火星で育った花は、なぜか地球のものより香りが強いんです」灯は言った。「大気が薄いから、揮発しやすいのかもしれない」
「凛先生が同じことを言っていた」海は言った。「記録に残っていた。火星の植物は逞しいと」
海は机の引き出しから、一冊のノートを出した。
「日記だ。私が書いてきた。蒼さんも、凛先生も書いていた。あなたも書きなさい」
「内容は」
「何でもいい。ただ、書く。誰かがいつか読む。読まなくてもいい。でも、書く」
灯はノートを受け取った。
「神代さん」灯は少し躊躇してから言った。「怖くないですか。引退して、信号を受け取らなくなって」
「怖い」海は率直に言った。「颯太さんの返事が来る前に、自分が死んだらどうしよう、とは思う。でも」
海は窓の外を見た。
「颯太さんが送った信号は、私が受け取らなくても、宇宙を飛んでいる。あなたが受け取る。それで十分だ。凛先生に教わった言葉だ」
最後の夜、海は外に出た。
 火星の空は、今夜も澄んでいた。
 星が、無数にあった。
 南西の方向に太陽が沈んだ跡がある。ケンタウルスの方向を、三秒間、見た。
 そしてタウ・ケチの方向を、また三秒間、見た。
 架が、颯太が、それぞれの星にいる。
 自分はここにいた。ずっとここにいた。
 それで、よかった。
海は空を見上げた。
 どの星が見えていて、どの星が見えていないか、六十九年経っても、まだわからなかった。
 でも、全部ある。見えなくても、ある。
そして、渡した。
灯に、渡した。
灯りを、渡した。


終章 星の数だけ
二一七五年。
田中灯は四十五歳になっていた。
颯太からの第三次報告が届いたのは、その年の春だった。颯太、八十二歳。声は老いていたが、はっきりしていた。
「灯くん。受け取ってくれているか。ナギの岩盤の孔、解析が進んだ。炭素を含む有機分子の痕跡が、孔の内壁に付着していた。アケアの有機化合物とは別の経路で生成されたと思われる。つまり、別々の場所で、似たプロセスが起きた可能性がある。宇宙には、生命の材料が遍在しているかもしれない。あるいは、生命そのものが。結論はまだ出ない。でも、わかりかけている。
 海くんは元気か。日記を書き続けているか。灯くんも書けよ。
 あなたはいつか、どこかへ行くんだろう。行く前に、私に信号をくれ。それだけ頼む」
灯はセンターで一人、録音を聞いた。
 神代海は四年前に亡くなっていた。七十一歳だった。引退してから二年後のことだ。颯太の返事が来る前に、逝った。
灯は海の日記を持っていた。
 最後のページに、こう書いてあった。
 「颯太さんの返事が来たら、灯が受け取るだろう。それでいい。私は渡した。渡されたものは、ちゃんと届く」
灯は、返信を録音した。
「颯太さん。灯です。受け取りました。神代さんは四年前に亡くなりました。でも、日記を読みました。颯太さんの返事を、いつか受け取ると書いてありました。私が受け取りました。
 有機分子の痕跡——神代さんに聞かせたかったです。でも、きっと知っています。どこかで。
 私は来年、エクソ・アーク三号でプロキシマ・ケンタウリへ向かいます。太陽から四・二四光年。架さんたちより近い星です。でも、別の方向。人類が初めて行く方向。
 神代さんの日記と、颯太さんの言葉を持って行きます。火星の赤い空の記憶も。
 信号を送ります。待っていてください。颯太さんが受け取れる間に、何か送れるといいな、と思っています。
 渡してもらったものを、ちゃんと持っていきます」
録音を終えて、灯は外に出た。
 火星の夜だった。
 空気は薄く、宇宙服が必要だった。
 星が、信じられないほどよく見えた。
南西に、ケンタウルスの方向。架がいる。
 別の方向に、タウ・ケチ。颯太がいる。
 そして、プロキシマ・ケンタウリ。自分が、行く方向。
海が毎朝、南西を三秒間見ていたことを、灯は知っていた。
 凛先生も、そうしていたと、海の日記にあった。
灯は南西を、三秒間、見た。
 それからタウ・ケチの方向を、三秒間、見た。
 そしてプロキシマの方向を、三秒間、見た。
全部、ある。
 見えなくても、ある。
そこに誰かがいて、誰かが向かっていて、誰かが待っている。
漁師の話を、灯は海の日記で読んだ。
神代蒼のひいひいおじいさんが、嵐の夜も船を出した男だったと。
怖いから面白い、と言った男だったと。
その血は、灯には流れていない。
 でも、その言葉は渡された。
日記から、口から、信号から、光から。
渡された言葉は、血と同じように、次の者の中で生きる。
灯は空を見上げた。
 どの星が見えていて、どの星がまだ見えていないか、わからなかった。
 でも全部、ある。
星の数だけ、行く理由がある。
星の数だけ、待つ理由がある。
星の数だけ、渡すものがある。
来年、船に乗る。
 怖い。
 面白い。
それで十分だ。


三部作を終えて
一作目で蒼が火星へ旅立ち、二作目で凛と海が送り出す者の物語を生き、三作目で灯が次の旅立ちへ向かった。
「渡すこと」というテーマは、遺伝子の話でもあり、言葉の話でもある。NOVA1の変異体は0.3パーセントの者に受け継がれる。しかし「怖いから面白い」という言葉は、遺伝子を持たない者にも渡せる。灯がそうであったように。
この三部作を貫く問いは一つだ。
見えない星は、あるか。
答えは、ある、だ。見えなくても、ある。行けば見える。行けなくても、誰かが行く。誰かが行けば、光が来る。光が来れば、また誰かが行きたくなる。
そのループが、人類を星へと運ぶ。
0.3パーセントと、99.7パーセントが、それぞれの役割で。
星の数だけ、物語がある。
この三冊は、その入り口の一つに過ぎない。


あとがき
『星』三部作の最終篇となる本作を、無事に書き終えることができました。ここまでお付き合いいただいた読者の皆様に、心より感謝申し上げます。
この物語を貫く問いは、一貫して「見えない星は、あるか」というものでした。
宇宙はあまりにも広く、人間の寿命はあまりにも短い。光の速さで通信を送っても、返事が届く頃には、送り出した本人はこの世にいないかもしれない。それは一見、絶望的なディストピアのようにも思えます。
しかし、私はそこに「人間が人間であることの最も美しい営み」を描きたいと思いました。
神代海は、颯太からの決定的な解析結果を自分の耳で聞くことなく、火星の空の下で生涯を終えました。しかし彼には、寂しさはありませんでした。自分の言葉を、そして蒼や凛から受け取った日記を、次の世代である「灯」へと確かに手渡すことができたからです。
遺伝子の繋がりがなくても、血が流れていなくても、私たちは言葉で、光で、意志を繋ぐことができる。「怖いから面白い」というあの無謀で美しい開拓者の魂は、そうして時空を超えていきました。
私たちが生きるこの現実の世界もまた、先人たちが命がけで渡してくれたバトンの先にある未来です。
本を閉じたあと、夜空を見上げた皆様の胸に、彼らが繋いだ小さな「灯(ともしび)」が少しでも灯ることを願って。




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刻堕とし 九 

〜居残り佐平次異聞 無限帳場〜


まえがき
古典落語居残り佐平次の主役は、金がないのにどこまでも堂々としている男である。品川の遊郭で仲間と豪遊したあげく、勘定の段で仮病を使い、仲間だけを先に帰して自分は居残りを決め込む。普通なら叩き出されるかお調べ沙汰になるところを、佐平次は口八丁と愛嬌で店の者も客もたちまち懐柔し、いつしか店になくてはならない顔役に収まってしまう。挙句、彼を追い出そうとした若旦那の方が鮮やかに一杯食わされて恥をかく。そんな痛快な噺である。
面白さの芯は、借金をうやむやにするという本来褒められたことではない不義理が、佐平次個人の機転と愛嬌によって誰も傷つかない粋な決着へ転じるところにある。
ところが、とある世界の写しにおいて、この勘定をうやむやにするという型だけが佐平次本人の手を離れ、無数の継ぎ目で勝手に自己複製され悪用されているという報告が届いた。品川の遊郭は、いつしか誰も出ることのできない終わりのない帳場と化していた。継ぎ目守の圭馬と弥七は、その無限帳場へ乗り込むこととなった。




一 継ぎ目守、品川の灯
鏡面に映し出されたのは、夜闇に揺らめく無数の提灯の灯りだった。よく見ると灯りの一つ一つがそれぞれ別の品川の宿の入口であり、どの見世も引き戸を開け放ったまま閉じる気配がない。
指令書
継ぎ目守圭馬へ。演目居残り佐平次における勘定をうやむやにする型が原型を離れて無数の継ぎ目に自己複製。各所で客が宿から出られなくなる事案が多発中。被害継ぎ目数、現在も演算中につき確定不能。至急現地調査されたし。
演算中につき確定不能とはまた景気の悪い話だね、と圭馬が鏡面を睨む。相棒の弥七はすでに提灯を片手に、いつでも飛び込める構えで立っていた。
旦那、居残り佐平次たあ粋な野郎の痛快噺のはずなんですがね。それがどうしてこんな薄気味悪いことになっちまうんでしょう。
うやむやってのは便利だからさ。誰も決定的な痛みを伴わない分、無限に引き伸ばせる。行くよ。
二人は光の隙間へ足を踏み入れた。


二 佐平次という男
継ぎ目を抜けると、そこは磯の香りが漂う品川の遊郭、北の見世相模屋の賑やかな座敷だった。
部屋の中では伊勢参りの帰りだという佐平次と仲間たちが、お大尽さながらに豪勢に飲み食いしている最中だ。
おい佐平次、そろそろ勘定はどうするんだい。
なあに心配するねえ。明日にはちゃあんとこっちの知り合いから金が届く手はずになってるからよ。
翌朝、勘定の段になると佐平次はもっともらしく布団を頭から被って仮病を使い、仲間たちだけを先に帰らせた。
あっしのことはお構いなく。お連れさん方だけ先にお発ちなすって。
一人残された佐平次は悪びれる様子もなく布団から起き上がると、店の若い衆にせっせと愛想を振りまき始めた。
弥七、ありゃあ相当な玉だね、と影から様子を伺っていた圭馬が呟く。
ええ。堂々としてやがる。ああいう手合いに限って調子が良くて憎めねえんですよ。


三 帳場に居座る
佐平次は日を追うごとに店の三味線を小粋に弾き、幇間顔負けの座持ちで客を沸かせ、果ては女将にまで気に入られて、いつしか店になくてはならない存在になっていった。
番頭さん、佐平次さんがいるとお座敷が実に賑やかで助かりますよ。
まったくで。ただ勘定のことさえ、いつの間にか誰も言い出せなくなっちまって。
圭馬はその様子を眺めながらふと眉を寄せた。
弥七、妙だな。佐平次の愛嬌で場が持っているのは分かる。だがあの帳場の帳面、やけに分厚くないか。
隙を見て覗き込んだ帳面には、佐平次の勘定だけでなく見覚えのない無数の客の名が、何年も何十年も遡って書き連ねられていた。それらの文字は生き物のように不気味に蠢いている。


四 幾千の帳場
圭馬が懐から継ぎ目守の証を掲げると、相模屋の壁がふっと陽炎のように透け、その奥の空間が露わになった。
そこには幾千もの品川の宿が入れ子細工のように延々と連なる異常な光景が広がっていた。どの宿の座敷にもそれぞれ別の佐平次を演じる客が居座り、それぞれの帳場ではいつまでも勘定が済まされることなく、客たちが同じ一夜を延々と繰り返している。
明日には払う、明日にはきっと。
幾千幾万の声が時間差でこだまのように重なり合い、不気味な地鳴りとなって響いてくる。
弥七、見ろ。佐平次のうやむやにするってやり口だけが原型から切り離されてあちこちの継ぎ目に勝手にコピーされてるんだ。しかもそのどれもが佐平次のような機転も愛嬌もなしに、ただ借金を先延ばしにしているだけの魂の抜けた空っぽの型だ。
本物の佐平次なら最後にゃちゃんと落とし前をつける度胸がある。だがこのコピーどもにゃただ逃げ回る性根しかねえ、と弥七が吐き捨てた。


五 勘定大蛇、正体
帳場の奥、高く積み上がった分厚い帳面の山の中心から、鱗のようにびっしりと帳面を纏った大蛇にも似た巨大な影がとぐろを巻いて鎌首をもたげた。
継ぎ目守か。邪魔をするでない。この身は幾千の宿に積み重なった払われなんだ勘定の集まり。名は勘定大蛇。誰かが勘定をうやむやにするたび、その先延ばしにされた借りの分だけこの身は太る。
お前が佐平次のやり口を勝手に複製して客たちをこの無限帳場に閉じ込めていたのか。
あの男の型は実に都合が良くてな。愛嬌と機転で勘定をうやむやにする、そのうやむやの部分だけを抜き取ればいくらでも客を宿に縛り付けておける。機転などいらぬ。ただ明日払うと言い続けさせればよいのだからな。
弥七が忌々しそうに言った。
旦那、こいつは佐平次の魅力にただ乗りして抜け出せねえ借金地獄の仕組みをこしらえてやがるんだ。


六 若旦那の企み
一方、相模屋の現実の時間軸では、居座り続ける佐平次に業を煮やした若旦那がこっそりと仕返しを企てていた。
あの居残りめ、今夜こそ化けの皮を剥いでとっちめてくれる。
だがその企みすらも勘定大蛇の妖気に絡め取られ始めていた。若旦那の中の懲らしめてやりたい、絶対に逃がさないという苛立ちが大蛇にとっては格好の養分だったのだ。
圭馬様、まずいですぜ。若旦那の企みがあのまま大蛇に飲まれちまったら、佐平次を懲らしめる一件がそのまま佐平次を宿に永遠に縛り付ける呪いの仕掛けにすり替わっちまう。
本来なら若旦那が一杯食わされて佐平次は笑って出て行く、それがこの噺の正しい型だ。大蛇はそれを真逆の結末に書き換えようとしてやがる、と圭馬は呟いた。


七 弥七、勘定に絡めとられる
させるかよ。
弥七が幾千の帳場の一つに足を踏み入れた瞬間、足元の帳面がざわりと蠢き、その中から伸びた文字の鎖が彼の体に絡みついた。
な、こいつは身体が重え。
明日には払う、明日にはきっと。そう思った瞬間からお前もこの帳場の客の一人だ。返せぬ借りはすべて私の肉体となる。
弥七の体が帳面のインクにじわじわと搦め捕られ、宿の背景に溶け込んでいく。
弥七。
圭馬が駆け寄るが大蛇はにやりと笑うように鎌首を揺らした。
継ぎ目守とて例外ではない。うやむやにしたい過去、先延ばしにしたい義務が一つでもあれば、この帳場はいくらでも客を迎え入れるぞ。


八 佐平次の機転
万事休すかと思われたその時だった。
よう、旦那方。えらく難しい顔して、お通夜みてえじゃねえか。
ひょっこりと当の佐平次が煙管を手に顔を出した。
佐平次さん。あんたのうやむやにするってやり口がこの化け物に悪用されてるんだ。あんたの型が偽物たちにすり潰されちまう。
圭馬の言葉に佐平次はしばし煙管をくゆらせ、にやりと不敵に笑った。
なるほどねえ。あっしの名前を騙ってケチな商売をしてる奴がいるってわけだ。だったら話は早え。あっしのやり口はな、ただうやむやにするだけじゃねえんだよ。ちゃあんと最後には鮮やかな落とし前をつける腹があってこそのもんだ。
佐平次は煙管を懐に仕舞うと扇子を一本引き抜き、勘定大蛇に向かって朗々と啖呵を切った。
おい大蛇の旦那。あんたあっしの型を丸々いただいたつもりだろうがそいつは片手落ちってやつだ。あっしの十八番はうやむやのその先にちゃあんと機知の効いた落ちをつけることさ。さあ帳面を開いてみな。あっしの分の正真正銘の落とし前をくれてやるからよ。


九 鼻を落とす一件
佐平次は扇子をぱっと広げると、大蛇の目の前で鮮やかな所作とともに若旦那を煽り立てた。
佐平次を捕まえようと怒り狂って躍り出た若旦那が、佐平次のひらりとした身のこなしに翻弄され、勢い余って自ら畳につのめり、したたかに鼻を打ち付けた。
痛たた。鼻が、鼻が折れた。
おやおや若旦那、そう慌てなさんな。しゃれのわからねえ野郎だ。それだから鼻がねえってね。
座敷にどっと大きな笑い声が起きた。
その笑い声、見事に一杯食わされたという若旦那を含めた見世の者全員の腹の底からの可笑しみが衝撃波となって空間を揺るがす。すると勘定大蛇の体にびっしりと張り付いていた鱗のような帳面がぱりぱりと音を立てて剥がれ落ち始めた。
馬鹿な。機知の効いた落ちにはこれほどの力があったというのか。先延ばしの澱みが笑いに溶かされる。身が持たぬ。
大蛇は幾千の偽りの帳場もろとも笑い声の渦に溶かされるようにして、みるみるうちに縮んで消滅していった。弥七の体に絡みついていた文字の鎖もするすると解けて霧のように消え去った。


十 型を取り戻す、佐平次の退場
幾千の宿が一枚また一枚と剥がれ落ちるように統合されていき、やがて気づけばただ一夜のただ一つの本物の相模屋だけがそこに残されていた。
佐平次はすっくと立ち上がり、鼻を押さえている若旦那に向かって深々としかしどこか小気味よく一礼した。
若旦那、長々とご厄介になりやした。勘定の方はまた日を改めて、てなわけで。
ま、待て佐平次。
だが佐平次はすでに懐にたんまりと祝儀を仕込み、軽やかな足取りで表口へと向かっていた。誰もその背中を本気で捕まえようとはしなかった。その去り際こそがこの噺の最も粋な瞬間だからだ。
弥七、大丈夫かい。
へい、なんとか。妙な話ですぜ旦那。あっしらを救ったのは継ぎ目守の術じゃねえ。佐平次の啖呵と若旦那の一つの笑いだ。
圭馬は去っていく佐平次の背中を見送りながら小さく微笑んだ。
それでいいんだよ。この噺の型はもともと人間の粋と笑いでできているんだから。


十一 高座にて
気づけば圭馬は着物姿で高座の上に座っていた。
手にした扇子をとんとんと畳に置き、満員の客席をぐるりと見渡す。
というわけでございまして。居残りの佐平次、まんまと勘定をうやむやにした挙句、最後は見事な啖呵で若旦那を煙に巻いて涼しい顔でお立ち去りに相成りました。
しゃれのわからねえ野郎だ、それだから鼻がねえ。この落ち一つで幾千の帳場をこしらえてた大蛇まで丸めこんじまうんですから、噺の力ってのは本当に馬鹿にできねえもんでございます。
本日はこの辺りでお後がよろしいようで。
客席から割れんばかりの盛大な拍手が沸き起こった。






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あとがき
本作をお読みいただきありがとうございました。刻堕としシリーズも九作目となりました。今回は江戸落語屈指の痛快なトリックスター噺である居残り佐平次を題材に選びました。
佐平次の魅力は単に借金を踏み倒す図太さにあるのではなく、最後にはきちんと機知の効いた落ちをつけて誰も本当には損をさせずに場を丸く収めてしまうところにあります。今回はそのうやむやにするという型だけが原型を離れてシステム化され、無数の継ぎ目で終わりのない借金地獄と化しているという、少し伝奇的でSF的な設定に仕立ててみました。
現代で言えば際限のない定額課金や一度入ると抜け出せない契約の仕組み、決断を先延ばしにする心理にも通じる風刺として読んでいただければ幸いです。それでも最後には佐平次本人の機知と啖呵、そしてそれによって生まれる笑いこそがどんな搾取の仕組みも解きほぐす力になるのだという結末に落ち着きました。
痛快で少し不思議な品川の居残りの一夜を楽しんでいただけましたら幸いです。それではまた次の継ぎ目でお会いしましょう。

僕ら世代は
バーチャルなことはなく
常に
この身をそこへと押し込んで
痛みを伴う経験の上で
多くのことを学んで来た

怪我もした

嵐にも会った
遭難もした

ヤバかった

泣いた
笑った
怒った
痛かった

でも
そのひとつひとつが
今を形成しているはずで

そこへと
関わってくれた
多くの仲間たちに
今更ながら 感謝…




子供たちを育てる上でも
バーチャルではなく
その身で経験すべしと
外遊びに連れ回した

昨今
孫たちが育って来て
ならば
少しづつでも
その経験をと

彼らの中に
わずかでも冒険心をと
子供たちに付き合い
外遊びをしようと
動き始めた

それは
意見を述べることなく
常に褒めて
孫たちの中に
僕らの記憶を残したいような
そんなことでもある

それを季節はまた
運んで来た

夏だ!

では 何だ?

波乗りには
まだ早い

キャンプか
登山か

いやいや
水遊びだ

そうだ
カヌーだ!

それを教えとけば
水上を自由に動き回り
行動範囲が広がるってもんだ

そんな
第一歩の始まりだ





この夏
6歳
4歳
2歳 になるのならば

ちょうど
30年前
我が子たちを連れ立って
釧路川を下った年齢だ

相変わらず
道具は30年も前の古いのものだけれど
大丈夫
まだまだ使える

決して
怒ることなく
意見することなく
微笑んでいるのが
ジジババの立場

子育ては
親になった子供たちの役目だと
割り切って行こう

わずかな怪我もあろう
そこそこの痛みもあろう
でも
それ以上の楽しみがそこにはある

長年 使った遊び道具は
いずれ
すべてキミたちに手渡すから

その遊びの楽しさを
経験し
覚えて欲しい




昨日は
最初に僕らが習った浅瀬の川で

多くの鳥たちが囀る中
あれこれと ゆらり

次回は
湖か
それとも川下りか

秋は
山登り

冬は
スキー

そんなことが
孫たちと出来る時分が来た

ありがとう




そうそう
94になった実家の親父は
あの頃
孫たちと一緒に滑りたいと
70からスキーを始めたっけ…

僕も
もう少し
頑張らねば…

刻堕とし 八 

〜宿屋の仇討異聞・幾千の夜〜


継ぎ目守異聞
古典落語「宿屋の仇討」より


まえがき
「宿屋の仇討」という噺は、嘘から始まり嘘で終わる。
夜通し暴れる三人組の旅人に手を焼いた宿の主人が、隣室の侍に頼み込んで一芝居打ってもらう。侍いわく、自分は明朝、父の仇を討つ本懐を遂げねばならぬゆえ、今夜だけは静かに眠らせてほしいと。三人組はすっかり怖じ気づいて大人しくなるが、実のところ、その「仇討ち」自体が、静かに眠りたいだけの侍がでっち上げた真っ赤な嘘だったというのが落ちである。
つまりこの噺の骨格は、「虚構が現実を動かし、しかし最後まで虚構のままで終わる」という、きれいな一回きりの構造の上に成り立っている。
ところが、とある写しにおいて、この一回きりの嘘が、なぜか幾千もの夜に渡って繰り返し語られ続け、そのたびに少しずつ、虚構と現実の継ぎ目が擦り切れていっているという報告が、継ぎ目守のもとに届いた。嘘で終わるはずの噺が、終わり損ねている。
継ぎ目守の圭馬と弥七は、幾千の夜が積み重なる不思議な宿へと足を踏み入れることになる。




一 継ぎ目守、幾千の宿屋
鏡面が奇妙な揺れ方をした。一枚の水面のはずが、幾重にも波紋が重なり、まるで無数の鏡が同時に震えているようだった。
継ぎ目守圭馬へ。演目「宿屋の仇討」において、単一のはずの語りが、無数の並行した継ぎ目上で同時多発的に反復再生されている現象を確認。反復回数、推定三千八百二十七回以上。虚構と現実の境界に摩耗の兆候あり。至急現地調査されたし。
「三千八百二十七回、だってさ」
圭馬が眉を上げると、弥七がやや青ざめた顔で立っていた。
「旦那、こいつぁ、いつもの型崩れとは桁が違いやすぜ。噺が一回きりの嘘で終わるからこそ、あの噺は綺麗に落ちるんだ。それが三千八百二十七回も繰り返されてるってんなら……」
「嘘が、嘘のままでいられなくなってる、ってことか」


二 三人の乱暴者、幾千の写し
継ぎ目を抜けると、そこは古びた宿屋の一室のはずだったが、圭馬は妙な違和感を覚えた。障子の向こうに、幾重にも重なった影が見える。まるで同じ部屋が、透けた紙を何枚も重ねたように存在しているようだった。
隣室では、伊勢参りの帰りだという鳶職の三人組、熊さん、留さん、八五郎が、酔った勢いで座布団を土俵に見立て、大相撲の真似事をして大暴れしている。
「待った待った、注文つけるない!」
「よし、東方、鶴ヶ濱!」
ドスンバタンという音が、幾重にも重なった部屋の層すべてから、寸分違わぬ調子で響いてくる。
「弥七、聞こえるかい。あの騒ぎ、一つも重なりがずれてない。まるで同じ録音を、何千回も同時に鳴らしてるみたいだ」
「気味が悪いですぜ、旦那。こんな噺、ただの型崩れじゃありやせん」


三 隣室の侍
騒ぎに手を焼いた宿の主人が、隣室に控える侍のもとへ詫びを入れに行く。侍は静かに、しかし重々しい調子で切り出した。
「実を申せば、拙者は明朝、父の仇を討たねばならぬ身。今宵だけは、なにとぞ静かに休ませていただきたい」
主人は震え上がり、三人組のもとへ飛んで行って、この話を耳打ちする。三人組はたちまち顔色を変え、抜き足差し足で寝床に潜り込んだ。
圭馬はその一部始終を、幾重にも重なった部屋の層越しに眺めていた。奇妙なことに、侍の台詞のわずかな抑揚、詫びを入れる主人の呼吸の間合いまで、どの層でも寸分違わず繰り返されている。
「弥七、これは演者が語ってる噺じゃない。まるで、噺そのものが、演者の手を離れて、勝手に自己増殖してるみたいだ」


四 仇討ちが本物になる夜
夜が更け、圭馬たちがひとつの層に足を踏み入れたその時、異変が起きた。
いつもならば、侍が「仇討ち」の嘘を語り終え、三人組が静まり返ったところで場面が転換するはずだった。
ところがその夜の層でだけ、侍の「……明朝、父の仇を討たねばならぬ身」という言葉に呼応するように、廊下の奥から、本物の殺気を纏った影がすっと現れた。
侍がディテールを語るたび、影の輪郭が肉付けされ、真に迫っていく。
「――探したぞ。ここにおったか」
影の男が抜き放った刀身は、幾重にも重なった部屋の層すべてに、鈍い光を反射させながら映り込んでいた。侍が、初めて本物の驚愕を顔に浮かべる。
「な……これは、拙者が語った嘘のはず。何故、真の刺客がここに」
圭馬は瞬時に間へ割って入り、刺客の一撃を鞘のまま受け止めた。
「弥七、これだ。作り話の仇討ちが、言葉に引っ張られて本物にすり替わってやがる!」


五 言霊喰らい、正体
刺客を取り押さえたあと、圭馬はその体がすうっと透けて消えていくのを見た。人ではない。誰かが、あるいは何かが、幾千の夜の中から「仇討ち」という言葉の型だけを拾い集め、真に迫った刺客の姿をかたどっていたのだ。
「弥七、この宿屋、幾千も重なってる意味がようやく分かった。誰かが、この噺が語られるたびに生まれる、観客の恐れと安堵、その振れ幅を、そっくりそのまま食い物にしてる」
宿の奥、誰もいないはずの帳場の暗がりに、輪郭の定まらない何かがゆらりと佇んでいた。
「継ぎ目守か。いい心がけだ。……この噺は都合が良くてな。嘘だと分かった後の安堵が、実に旨い。だが、嘘のままでは、いつまで経っても腹八分だ」
「お前が、言霊喰らいか」
「左様。幾千回、この宿の夜を語らせては、そのたびに『嘘が本当になるかもしれない』という恐れを少しずつ蓄えてきた。もうじき、腹いっぱいになる。そうすれば、この噺の中の仇討ちは、もう嘘では済まなくなる」


六 弥七の記憶
弥七が、珍しく黙り込んでいた。
「旦那……実はあ、あっしにも、覚えがありやしてね。昔、ある宿場で、似たような夜に居合わせたことがある気がするんでさ。三人組の馬鹿騒ぎも、隣の侍の澄ました顔も……まるで、前にも見た夢のような」
「弥七、まさかお前、この幾千の夜のどこかに、紛れ込んだことがあるんじゃないのかい」
「分かりやせん。ただ、こんな厭な胸騒ぎ、久しぶりでさ」
圭馬は弥七の肩をぽんと叩いた。
「もしそうだとしても、今のお前は、ちゃんとここにいる。それだけは、確かなことだ」


七 宿の主人という継ぎ目
圭馬は、もう一度周囲の層を観察した。すると、ある重要な事実に気づく。
完璧な同期を繰り返す三人組や侍とは違い、宿の主人だけが、幾千の層のどこにおいても、微妙に異なる表情、異なる言い回しで動いていた。
「亭主、あんた、この噺の要だ。三人組を宥め、侍に頼み込み、板挟みになって右往左往する、あんたのその必死なアドリブこそが、言霊喰らいの作った完璧なループに逆らう、この噺の心臓なんだ」
主人は困惑した顔で答えた。
「手前は、ただのやかましい宿の亭主でございますが……なぜだか今宵は、同じ夜を、幾度も繰り返しているような妙な心地がしておりまして。ですが、お客様を安眠させるのが、手前の役目でございますから」
「言霊喰らいは、あんたの慌てぶりを養分にしながらも、その人間らしさに阻まれて完全な現実化を阻まれていたんだ。亭主、あんたを本気で安心させれば、この悪夢は解ける」


八 二重の仇討ち
言霊喰らいは、ついに正体を現し、幾千の層すべてを一つに束ねようとし始めた。すべての夜の「仇討ち」が同時に本物へと転じれば、噺は嘘のままでは終われなくなり、幾千の宿場すべてで、無辜の三人組が本物の刃にかかることになる。
「圭馬様、あっしに免じて、一つやらせてもらえやせんか」
弥七が進み出た。
「あっしがどこかの夜に紛れ込んでたってんなら、その落とし前は、あっしがつけやす」
弥七は、幾重にも重なる部屋の層のただ中に踏み込み、怯える侍役の男の隣に静かに座った。
「お侍さん、あんたの仇討ちの嘘、あっしが預からせてもらいやしょう。……なあに、案ずるこたぁねえ。噺ってのは、嘘のままで、ちゃんと落ちがつくから面白えんだ」


九 型を取り戻す
圭馬は言霊喰らいに向き直った。
「お前が喰らってきたのは、観客が『これは嘘だ』と気づいた瞬間の、安堵の甘さだ。だったら、その安堵を、もう一度、正しい形で味わわせてやる」
圭馬は懐から継ぎ目守の証をパチンと鳴らし、幾千の層の隙間へ、滑り込ませるように声を張った。
「おい言霊喰らい、お前は肝心なところを忘れちゃいけねえ。夜が明けて、おびえる三人組をよそに、宿の亭主が恐る恐る礼を言いに行く。そこで侍が、決まり悪そうに頭を掻きながら、こう切り出して初めてこの夜は明けるんだ。――『いや、昨夜の仇討ち、あれは静かに眠りたいための、拙者の大嘘でござる』」
嘘が、正しい「落ち」の型に収まった。
その言葉が幾千の層すべてに響き渡ると、廊下に現れていた本物の刺客の影が、形を失い、ただの夜霧へと霧散していった。言霊喰らいの輪郭が、悲鳴のような音を立てて崩れ始める。
「馬鹿な……嘘のままで、終わるだと……」
「終わるんだよ。嘘は嘘のまま終わるから、綺麗な噺になる。お前がいくら腹を空かせても、この噺の落ちだけは、お前にくれてやらねえ」


十 嘘が嘘のまま
言霊喰らいが霧散すると、幾千に重なっていた宿屋の層は、一枚、また一枚と剥がれ落ちるように統合されていき、やがてただ一夜の、ただ一つの宿屋だけが残った。
朝になり、宿の主人が侍のもとへ礼を言いに行くと、侍はばつが悪そうに笑って言った。
「いや、実を申せば……昨夜の仇討ちの話は、拙者の作り話でござってな。少々、静かに眠りたかっただけなのだ」
「な、なんと。それでは、あの物々しいお話は……」
「うむ。まことに済まぬことをした」
主人は呆れ返りながらも、心底ほっとした様子で、深々と一礼した。その瞬間、虚構を食い破ろうとした歪みは、完全に消滅した。


十一 高座にて
弥七が、ふうと息をついた。
「旦那、どうやら、片がついたようですぜ」
「ああ。噺は嘘のまま、ちゃんと元の形に落ち着いた。……お前の胸騒ぎの正体は、また今度、ゆっくり探るとしよう」
トントン、と扇子が畳を叩く音が響いた。
気づけば、私は着物姿で高座に座っていた。目の前には、ぎっしりと埋まった客席。
……いや、私は本当に継ぎ目守の圭馬だったのだろうか。それとも、圭馬という男の奇妙な旅路を、今、語り終えたばかりの落語家なのだろうか。
「というわけで、隣の侍の仇討ちは、まっかな嘘でございました。三人組も宿の亭主も、まんまと一杯食わされた形でございますが、それもこれも、静かに眠りたいという、ただそれだけの人情から出た嘘。嘘も方便とは、よく言ったもんでございます。――『刻堕とし・八』、今日はこの辺りで、お後がよろしいようで」
客席から、地鳴りのような盛大な拍手が沸き起こった。その拍手の音すらも、どこか遠い夜の重なりのように、私の耳に響いていた。

(了)




Amazon Kindle



あとがき
本作をお読みいただきありがとうございました。刻堕としシリーズも八作目、今回は「宿屋の仇討」という、嘘で始まり嘘で終わる、実に落語らしい噺を題材にしました。
この噺の面白さは、虚構が現実の登場人物たちを本気で動かしながら、最後まで虚構のままで終わるという、その危うい均衡にあると思います。今回はその均衡を、あえてSF的な設定で壊しかけてみました。幾千もの夜が並行して繰り返され、噺の中の嘘が本物の刃に変わりかけるという展開は、これまでのシリーズにはなかった趣向です。
「言霊喰らい」は、物語が語られるたびに生まれる観客の感情の振れ幅そのものを喰らう存在として造形しました。落語という話芸が、聞き手の心をどれだけ大きく動かして、また元の場所へ戻すか、その往復運動の妙こそが、この噺、ひいては落語という芸能そのものの魅力なのだと思います。弥七の過去に関わる伏線は、今後のシリーズでまた掘り下げられればと思っています。
不思議で、少し壮大な夜の噺を、楽しんでいただけましたら幸いです。それでは、また次の継ぎ目でお会いしましょう。

刻堕とし 七 

〜目黒の秋刀魚異聞・型の継ぎ目〜


継ぎ目守異聞
古典落語「目黒のさんま」より



まえがき
「目黒のさんま」という噺の眼目は、武勇でも策略でもない。深窓に育った若殿が、下魚とされる秋刀魚の旨さに無邪気に驚き、後日上品に仕立て直された秋刀魚に「これは違う」と首を傾げる――その世間知らずぶりを、しかし嫌味なく愛おしく笑い飛ばすところにある。
ところが、とある写しにおいて、この噺はいつの間にか御用金強奪と大立ち回りの武勇伝へとすり替えられていた。素朴な発見の噺が、いつしか英雄譚に化けていたのである。
型が変われば、噺の笑いどころも変わる。剣術自慢の武勇伝として消費される若殿の陰で、静かに割を食う者が必ずいる。継ぎ目守の圭馬と弥七が、その歪みの根を辿ることになった。





一 継ぎ目守、匂いに導かれて
鏡面がふわりと揺れ、焼き魚の煙のような匂いが微かに漂った。
継ぎ目守圭馬へ。演目「目黒のさんま」において、素朴な発見譚から英雄武勇譚への型の逸脱を確認。何者かによる作為の疑いあり。至急現地調査されたし。
「今度は焼き魚の匂いで呼び出しとは、洒落が過ぎるね」
圭馬が鼻をひくつかせながら身を起こすと、弥七が既に懐手で立っていた。
「旦那、こいつぁ妙な噺でさ。目黒のさんまっていやあ、若殿がのんきに秋刀魚に驚くだけの、罪のねえ人情噺のはずなんですがね」



二 遠乗りの日
継ぎ目を抜けると、そこは元禄の頃の江戸郊外、目黒の丘であった。
とある大名家の若殿・松平信濃守は、日頃屋敷の奥深くで大切に育てられ、世間というものをまるで知らなかった。
「近頃、体がなまっておる。遠乗りに出たいものじゃ」
家臣たちは慌てたが、若殿がひとたび言い出せば聞かぬ性分と知っているから、渋々ながら供揃えをして、目黒の方まで遠乗りに出ることになった。
「弥七、この道筋、何かおかしなものを感じるかい」
「まだ何とも。ただの遠乗りにしちゃあ、妙にきな臭え気配が漂ってやすね」



三 匂いに誘われて
目黒の丘に差し掛かった頃、若殿の腹がぐうと鳴った。そこへどこからともなく、なんとも香ばしい匂いが漂ってきた。
匂いの元をたどれば、百姓家の裏庭で男が七輪を囲み、秋刀魚を焼いていた。脂の乗った秋刀魚から煙が立ちのぼり、パチパチと皮がはぜる。
「あれなるものを持て」
家臣は真っ青になったが、若殿は聞かばこそ、無理やり所望して炭火のまま熱々を頬張った。
「うまい! こんなにうまいものが世にあったとは!」
物陰から見ていた弥七が呟いた。
「旦那、あの魚売り、只者じゃありやせんね。あの気配、堅気にしちゃあ隙がなさすぎる」



四 御用金消失
さて、屋敷に戻る道すがら、事件は起きた。目黒から江戸市中へ向かう街道で、松平家が幕府へ納めるはずの御用金を積んだ荷駄が一団ごと襲われ、跡形もなく消えたという早馬が飛び込んできたのだ。
「不埒者め。よりによって我が遠乗りの道筋で、我が藩の金を奪うとは狼藉の極み」
信濃守は俄然色めき立った。
「先ほど秋刀魚を馳走してくれた男、あれは只者ではないぞ。あやつなら何か知っておるやもしれぬ」
「若様、魚売りに御用金など分かるはずも」
「匂いで分かる」
圭馬は眉を寄せた。
「弥七、この御用金強奪、あまりに都合が良すぎる。若殿が遠乗りに出た、その日その道筋を、狙い澄ましたようにぶつけてきてる」



五 弥助の正体
秋刀魚を焼いていた男、実は名を弥助といい、かつては公儀の隠密であったという噂の人物だった。
「へい、手前なんぞは目黒で秋刀魚焼いてるだけの棒手振りにござんす」
「隠すな。その手つき、只の魚売りではあるまい」
弥助は観念し、実は数日前から怪しい侍たちが村に出入りしていたこと、そしてその首謀者が、かつて松平家を勘定方不祥事で追放された元藩士の残党だと打ち明けた。
圭馬は弥助の目の奥に、隠しきれない怯えを見て取った。
「弥助さん、あんた、それだけじゃないだろう。誰かに何かを命じられちゃいないか」
弥助の肩が、びくりと震えた。



六 家老の企み
夜、圭馬と弥七は松平家の屋敷を密かに探った。奥座敷では、家老の一人――名を落合帯刀という男が、灯りの下でひとり算段を巡らせていた。
「若殿の武勇が世に知れ渡れば、将軍家への覚えもめでたくなる。今のままでは、あのぼんやりした若殿では、御家の先行きが危うい」
落合の呟きに、圭馬は物陰で舌打ちした。
「弥七、読めたぞ。今度の御用金強奪も、山狩りの騒ぎも、みんな落合の仕組んだ狂言だ。元藩士の残党なんぞに金を積んで、わざと荷駄を襲わせ、若殿に手柄を立てさせて英雄に仕立て上げようって寸法だ」
「弥助さんは、その狂言に無理やり駆り出されたってわけですかい」
「ああ。隠密崩れの弥助なら、山狩りの案内役にも、賊の一味にも都合よく使える。断れば身の破滅、従えば若殿を欺く片棒を担がされる。どっちに転んでも、貧乏くじを引かされてたんだ」



七 山狩りの真相
弥助の手引きと案内により、若殿一行は目黒の山中にひっそりと佇む廃寺に潜む賊の一味を突き止めた。
だが、この山狩りそのものが、落合の仕組んだ狂言だった。賊の大半は落合に金で雇われた偽の浪人たちで、刃引きの刀で若殿と華々しく渡り合い、あえて敗れて捕らえられる手筈になっていたのである。
「殿、お見事にございます!」
家臣の称賛に、若殿は上機嫌で言い放った。
「フッ、秋刀魚を食して精がついたとみえる」
ところが、その狂言に、本物の残党の一部が紛れ込んでいた。金だけもらって姿を消すつもりが、思いのほか本気で御用金を狙う不埒者が交じっていたのだ。刃引きのはずの刀が、一振りだけ、本物の刃を潜ませていた。
「若殿、危ない!」
弥助が身を挺して、その一太刀を防いだ。



八 圭馬の介入
弥助が肩に傷を負って倒れ込んだところへ、圭馬が姿を現した。
「継ぎ目守として、これ以上の狂言は見過ごせねえ」
圭馬は本物の賊の刃を軽くいなし、当て身ひとつで組み伏せた。そして、遠巻きに様子を窺っていた落合帯刀の前に、静かに立った。
「落合殿とやら。若殿の武勇伝は、あんたが仕組んだ絵空事だ。弥助さんを都合よく駆り出し、危うく命まで奪わせるところだった」
落合は顔を強張らせた。
「……知られていたか。しかし、御家のためを思えばこそ」
「御家のためが聞いて呆れる。あんたは若殿の器を信じられず、偽りの武勇で塗り固めようとしただけだ。それのどこが忠義だ」



九 若殿の真実
事の次第を知った若殿は、しばし黙り込んだあと、静かに口を開いた。
「余は、剣の腕で名を上げたいわけではない。ただ、秋刀魚が旨いと、素直にそう思っただけじゃ。それの何がいかぬ」
「若殿……」
「弥助とやら、其の方には済まぬことをした。余の知らぬところで、危ない橋を渡らせてしもうた」
弥助は傷を押さえながら、深く頭を下げた。
「もったいなきお言葉。……ですが、あの秋刀魚を美味いと仰った時の若殿のお顔だけは、狂言でも何でもねえ、正真正銘のものでございやした」
若殿はふっと笑った。
「ならば、それで良い。余の手柄は、賊を捕らえたことではない。秋刀魚の旨さを知ったことじゃ」



十 型の是正
圭馬は落合帯刀に向き直った。
「落合殿、あんたの忠義の向け方を間違えたことは、若殿ご自身がもう分かっていなさる。二度と、若殿を偽りの英雄に仕立てようなんて企みは起こすな。若殿の値打ちは、飾らずとも、ちゃんとそこにある」
「……肝に銘じよう。継ぎ目守殿とやら、その名の通り、危ういところで御家の型を継いでいただいた」
弥七がにやりと笑った。
「旦那、こういう時こそ、あの噺のオチが生きるってもんです」



十一 将軍への言上
賊を捕らえ、御用金も無事取り戻した若殿は、屋敷に戻り、後日、褒美として将軍家への目通りが叶うことになった。
「此度の働き、大儀であった。褒美に何なりと申すがよい」
若殿はしばし考え、こう答えた。
「恐れながら……秋刀魚が所望にございます」
「秋刀魚とな。良かろう。膳部方、秋刀魚を持て」
しばらくして運ばれてきたのは、脂を丁寧に抜かれ、小骨まで一本一本抜かれた、上品極まりない蒸し秋刀魚であった。若殿はひと口食べて首を傾げた。
「……この秋刀魚はどこで求めたものか」
「日本橋の魚河岸にございます」
若殿はふっと笑って言い放った。
「それはいかん。秋刀魚は目黒に限る」
満座の大名たちは、命がけの戦いの裏に隠された企みも、裏庭で食べたあの味のことも露知らず、何のことやらと顔を見合わせるばかりであったという。



十二 高座にて
その日から江戸では「目黒まで行かねば秋刀魚は食えぬ」という与太が流行った。
気づけば圭馬は着物姿で高座に座っていた。扇子をとんとんと畳に置き、客席を見渡す。
「というわけで、この若殿様、武勇伝で名を上げたようでいて、本当のところは秋刀魚の旨さを見抜いただけの、なんとも欲のねえお方でございました。裏で妙な絵図を描いてた家老様も、ちゃあんと型が継ぎ直されて、めでたく一件落着。今日はこの辺りで、お後がよろしいようで」
客席から、盛大な拍手が沸き起こった。






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あとがき
本作をお読みいただきありがとうございました。刻堕としシリーズも七作目、今回は「目黒のさんま」という、素朴でとぼけた味わいの噺を題材にしました。
原話の眼目は、若殿の世間知らずな無邪気さそのものにあります。今回の「秋刀魚異聞」は、その素朴な噺を武勇伝・事件劇へと仕立て直した写しでしたが、継ぎ目守シリーズとしては、その仕立て直し自体を「型の歪み」として捉え、誰が何のためにその歪みを生んだのかを事件として描いてみました。
弱い立場の者(弥助)が、権力者の思惑(落合帯刀の忠義の空回り)に巻き込まれ、貧乏くじを引かされるという構図は、これまでの継ぎ目守シリーズに通じるテーマでもあります。それでも最後には、若殿自身の飾らない実感――秋刀魚は旨い、それだけで良い――が、型を正しい姿に戻す鍵となりました。
素朴な噺の奥に潜む企みと、それでも変わらない主人公の無邪気さの対比を楽しんでいただければ幸いです。それでは、また次の継ぎ目でお会いしましょう。

刻堕とし 六   

〜賽の目の五十両・闇賽一味顛末記〜


継ぎ目守異聞  

落語「へっつい幽霊」より



まえがき

本作は、古典落語『へっつい幽霊』をモチーフに、時空の調停者たる継ぎ目守の活躍を描くSF長編です。前作までの一件だけでは飽き足らず、本作では「へっつい」を舞台にした単発の怪異の裏に、時空の裂け目そのものを食い物にする一味の存在を新たに据えました。落語の呑気な掛け合いと、SFならではの陰謀・尾行・対決を重ね合わせ、笑いと緊張が同居する一編に仕上げております。どうぞ最後までお付き合いくださいませ。





一 継ぎ目守、道具屋の帳場から

鏡の縁に、賽の目のような染みがじわりと浮かんだ。  

時空端末からの文字なき警告だった。  

寄席の喧騒が、鏡の向こうで遠ざかる。圭馬の耳にはもう、客の笑い声は届いていなかった。  

端末のログが、視界の端で賽の目の形に点滅する。  

圭馬へ。へっつい幽霊の世界線にて、五十両の帳尻不一致を確認。  

類似案件、江戸期だけで七件。因果律の崩壊が始まる前に、現地調査されたし。  

――総本部 記録課  

「賽の目とは、また物騒な呼び出しだな。しかも七件とは穏やかじゃねえ」  

江戸の町の道具屋に足を運ぶと、相棒の弥七がすでに店先で待っていた。  

「旦那、今度はこいつでさ」  

弥七が顎でしゃくった先には、煤けて黒ずんだ古い竈が一つ、店の隅にぽつんと置かれていた。その脇の壁には、質札が何枚か下がっている。『芝浜・財布』『大名蔵・金庫』と墨書きされた札が、風に揺れて乾いた音を立てた。  

「七件、というのは本当か」  

「へえ。総本部の記録じゃ、この半年で似たような『金の数が合わねえ』騒ぎが江戸のあちこちで起きてるそうで。しかもどれも、曰く付きの古道具が絡んでるって話です」  

弥七は質札を一枚、舌打ち混じりに指で弾いた。  

「単発の怪異じゃない。誰かが、意図して仕掛けている顔つきだな」



二 安すぎるへっつい

「このへっつい、やたらと安いんでさ」  

弥七は懐手をしたまま声を潜めた。  

「買った奴がみんな夜中に化け物を見て、青くなって翌朝には突っ返しちまう。曰く付きってんで値がどんどん下がって、今じゃ叩き売り同然でさ。時空の澱みが、怪異って形で表に出始めてやす」  

「幽霊付きの家具か。落語の筋書き通りだな」  

「その通りで。ですが、ここにきてとうとう怖いもの知らずのイレギュラーが現れやしてね」  

道具屋の隅で、一人の男が「安いならこれで十分だ」と、平然とへっついを担ぎ上げるところだった。  

弥七はさらに声を落とした。  

「旦那、記録課の話じゃ、こういう『曰く付きの安値道具』が出回る裏には、決まって同じ匂いがするそうで。相場を無理に崩して、怪異ごと道具を安く流通させちまう、そういう筋があるらしいんでさ」  

「筋、とは」  

「へえ。名前まではまだ割れちゃおりやせんが、総本部じゃ通称『闇賽一味』と呼んでるとか。時空の継ぎ目を、賭場代わりに使ってるっていう、とんでもねえ連中で」



三 肝の据わった八五郎

男の名は八五郎。博打で身上を潰し、怖いものといえば借金取りぐらいという、ふてぶてしい男である。  

「幽霊が出ようが化け物が出ようが、驚くもんかい。おれぁもう失うものも怖いものも、この世にゃありゃしねえのさ」  

そう嘯きながら、へっついを長屋の狭い一室に運び込む。部屋の隅、畳の縁に、赤い紐のついた女物の簪が一本、転がっていた。八五郎は一瞬だけそれを見たが、何も言わずに視線を外し、へっついをどんと据えた。  

因果の帳尻を見届けるため、圭馬と弥七は気配を消してその後をついていった。  

「旦那、あの八五郎って男、記録にゃ載っておりやせんが、どうにも据わりのいい肝をしてやす。案外、こういう男の方が今度の一件じゃ役に立つかもしれやせんね」  

「博打打ちの肝の据わりようは、時に道具より頼りになる。見物といこう」



四 現れた幽霊

その夜。丑三つ時、案の定、へっついの陰から青白い影がぬうっと立ち上がった。  

「うらめしや、うらめしや」  

「おう、出やがったな」  

八五郎は驚くどころか、あぐらをかいたまま安酒を煽っている。  

「あんた、夜中に人を脅かして何の得がある。用があるなら恨み言を並べてないで、さっさと言いな」  

幽霊は、あまりの拍子抜けに姿勢を正し、正座した。  

「お前さん、妙に肝が据わってるな。実は頼みがあるんだ」



五 五十両の隠し場所

幽霊いわく、生前は根っからの博打打ちで、名を仙太郎といった。賭場のいざこざで命を落とし、貯め込んだ五十両をこのへっついの中に隠したまま死んでしまったため、未練で成仏できずにいるのだという。  

「その金を掘り出しちゃくれねえか。半分やるからよ」  

「山分けか、上等だ。話が早くて助かるねえ」  

八五郎は二つ返事で引き受けた。ここまでは古典落語の筋書き通りである。だが、傍らで観測していた圭馬の目には、明らかな時空の揺らぎが映っていた。  

――この揺らぎ方、単なる怪異にしては、妙に「作られた」形をしている。



六 増える五十両、減る五十両

へっついの底を叩き割り、ざらりと溢れた金子を八五郎が指で弾く。  

「二十、三十……四十八両。……ん?」  

数え直すたび、山の形が変わる。まるで小判が賽の目みたいに組み変わる。  

「今度は五十三両だ。おい、ちょっと待て、また四十九両になりやがった。小判が中で子でも産んでんのかい」  

物陰から観察していた圭馬が呟いた。  

「弥七、これはおかしい。因果の数値が安定しない。しかも――増減の間隔が、あまりに規則正しい」  

弥七が手元の記録札をめくる。  

「旦那、総本部にも似たような苦情が上がってやす。芝浜の財布や別の時代の大名蔵から、小判が消えたり増えたりしてるってね。時空を越えて、金が移動してやがるんでさ」  

「まさか、この仙太郎の五十両が、すべての起点か」  

「いや、旦那」弥七が首を振った。「起点にしちゃ揺らぎが小さすぎやす。むしろこいつは――大本から流れてくる余りを、ここで受け取ってるだけかもしれやせん」



七 仙太郎という博打打ち

圭馬は姿を現し、仙太郎の前に立ちはだかった。時空の番人の威圧に、幽霊は縮み上がる。  

「仙太郎、白状してもらおう。なぜ金の数が変動する」  

仙太郎は決まり悪そうに頭を掻きながら白状した。  

「実は、死んでからも賭け事の虫が治まらなくてよ。このへっついの隙間、時空の裂け目から、継ぎ目の向こうの別の時代の奴らと、こっそり賭けを続けてたのさ。この五十両を元手にな」  

「死んでまで博打かよ。度し難いねえ」  

八五郎が呆れ顔で突っ込むと、仙太郎は小さくなった。  

「性分ってのは、死んでも簡単には変わらねえ。だが……妙なんだ。おれが賭けて勝っても負けても、手元に残る金の量が、おれの読みと合わねえのよ。まるで、誰かが割前を抜いてやがるみてえに」  

圭馬の目つきが鋭くなった。  

「割前を抜く、だと」  

「ああ。相手はいつも同じ顔ぶれじゃねえ。だが賭場を仕切ってる胴元だけは、いつも同じ野郎でよ。名は――半蔵、と名乗ってた」  

弥七が息を呑んだ。  

「旦那、半蔵たぁ、まさか」  

「総本部の除籍者名簿にある名前だ。かつての継ぎ目守――半蔵。十年前、任務中に姿を消した男だな」



八 継ぎ目の向こうの影

圭馬は仙太郎に頼み、その夜の賭けの気配を辿ることにした。  

へっついの裂け目に手をかざすと、圭馬の視界に、幾重にも重なった賭場の残像が流れ込んでくる。行灯の灯り、駒札の音、そして――継ぎ目の奥、時空の狭間に設えられた、この世のものではない賭場の姿。  

そこには、かつて継ぎ目守の証であった羽織を纏った、初老の男が座っていた。  

「半蔵……本当に、生きていたのか」  

「圭馬か。懐かしい顔だ」  

半蔵は薄く笑った。  

「十年前、上野の火事で助けられなかった命があった。継ぎ目を守るだけじゃ、帳尻は合わねえと知ったよ。ならばいっそ、継ぎ目そのものを賭場にして、足りない分をここで取り返してやろうと思い立った。未練を残した亡者どもは、いくらでも賭けたがる。奴らから少しずつ割前を抜いて、あちこちの時代に散らしておけば、総本部の目も誤魔化せるという寸法よ」  

「己の未練を晴らせぬ亡者を利用して、私腹を肥やすか。継ぎ目守の風上にも置けん」  

「風上も何も、私はとうに継ぎ目守を辞めている。あとは――お前がどこまで、この賭場を潰せるかだな」



九 尾行と対決

圭馬と弥七は、半蔵の賭場が時空の裂け目のいたるところに枝葉を伸ばしていることを突き止めた。芝浜の財布、大名蔵、そしてこの安へっつい――すべてが半蔵の賭場網―network―の末端だったのだ。  

「旦那、このままじゃ埒が明きやせん。半蔵の野郎、証拠を摑ませる前にとんずらする気満々でさ」  

「ならば、正面から誘い出すまでだ」  

そこで一計を案じたのが、他ならぬ八五郎であった。  

「旦那方、聞くところによると、その半蔵とやらは博打が何より好きらしいじゃねえか。だったら、おれが囮になってやらぁ。仙太郎の代わりに、でかい賭けを持ちかけてやるのよ」  

「八五郎、危険だぞ」  

「へっ、言ったろう。おれにゃ失うもんなんざねえって。それに――仙太郎の奴が、こんな胡散臭え野郎に骨の髄までしゃぶられてるたぁ、聞き捨てならねえ。博打打ちの意地ってやつよ」  

八五郎はそう言って、畳の縁の簪をぐっと踏みつけた。



十 真相

八五郎が仙太郎の名を騙って裂け目に賭けを持ちかけると、案の定、半蔵は自ら賭場に姿を現した。  

「ほう、随分と威勢のいい亡者もいたものだ」  

「あいにく、生きた人間でね」  

八五郎が悪びれもせず正体を明かすと、半蔵の顔色が変わった。だがそこへ、圭馬と弥七が裂け目の向こうから踏み込む。  

「半蔵、逃げ場はないぞ。お前の賭場網は、すでに七つの世界線で洗い出した」  

半蔵は一瞬怯んだが、すぐに開き直った。  

「なるほど、随分と手が回ったものだ。だが、私の賭場を潰せば、繋ぎ止めていた時空の澱みが一気に噴き出す。お前は、それでも構わんと言うのか」  

「案ずるな。澱みごと、断ち切る手はある」  

圭馬は懐から、一見ただの古びた象牙の賽を取り出した。  

「この賽は、出る目を固定する継ぎ目守の細工が施されている。お前との最後の勝負で、お前の賭場ごと、この澱みを断ち切ってやろう」



十一 三途の賽

「あんたと最後にもう一勝負だ。あっしが勝ったら、あんたの賭場は根こそぎ畳んでもらう。仙太郎をはじめ、囚われた亡者たちも解き放ってもらうぞ」  

「私が勝てば、どうする」  

「そのときは、この継ぎ目、丸ごとお前にくれてやる。もっとも――負けるつもりは、毛頭ないがな」  

半蔵の目が、久方ぶりに現役の頃の光を取り戻したようにぎらついた。  

「面白い。継ぎ目守同士の勝負とは、これ以上ない上物の賭けだ。乗った」  

八五郎が固唾を呑んで見守る中、賽はへっついの上で二度高く跳ねた。  

圭馬の視界だけが引き延ばされる。無数の賽の目、無数の未来が賽の目みたいに組み変わり、やがて一つの目に収束していく。  

パチリと小気味よい音を立てて止まる。  

出た目は、完璧なピンゾロ。圭馬の勝ちだった。  

半蔵はしばらく呆然と賽の目を見つめていたが、やがて力なく笑った。  

「参ったよ。十年前、私が現役を退いた日にも、お前にはこの目で負けた気がするな」  

「それを言うなら、あの日私が退いた理由も、あんたの博打だったろう」  

圭馬は静かに答えた。半蔵の賭場は、圭馬の裁定によって時空の裂け目ごと閉じられ、囚われていた仙太郎をはじめとする亡者たちは、ようやく本来の未練――五十両の一件――だけに戻ることができた。



十二 最後の勝負

賭場が閉じられたことで、仙太郎の五十両を巡る揺らぎも収まった。だが仙太郎自身、まだ成仏できずにいる。  

「なあ圭馬さんとやら、おれぁもう一度だけ、賭けてえ。今度こそ、性根を据えた勝負をな。半蔵の賭場じゃなく、あんたみたいな役人とサシで勝負してみたかったのよ。負けても文句は出ねえ」  

「よかろう。あんたと最後にもう一勝負だ。あっしが勝ったら、その博打の虫、きっぱり洗い流して成仏してもらう。あんたが勝ったら、もう好きにするがいい」  

仙太郎の死んだ目が、久しぶりに生気を取り戻したようにぎらりと輝いた。  

「面白い。時空の役人と勝負なんざ、最高の冥土の土産だ。乗った」  

八五郎が見守る中、賽はへっついの上で二度高く跳ねた。  

パチリと小気味よい音を立てて止まる。  

出た目は、またしても完璧なピンゾロ。圭馬の勝ちだった。  

仙太郎はしばらく呆然と賽の目を見つめていたが、やがて憑き物が落ちたように晴れやかな顔で笑った。  

「参ったね。負けたよ。だが、生きてる時からこんな風にきっぱりと白黒つけてもらったことなんぞ、一度もなかった。半蔵の野郎に骨までしゃぶられてたのも、胸のつかえが取れて、ようやく分かった気がするよ」



十三 山分けの後で

因果の修正が行われ、五十両はきっちり二十五両ずつ、八五郎と、仙太郎の菩提を弔う費用として山分けされた。数え直した小判は、もう二度と増えも減りもしなかった。時空の帳尻は美しく合わさったのだ。  

「じゃあな、世話になった」  

仙太郎は軽い足取りで朝靄の向こうへ消えていった。その姿は徐々に光の粒子となって融けていく。  

「おい、化け物、また退屈したら賽子持って遊びに来いよ」  

八五郎の呑気な声が響く。仙太郎は振り返り、少し寂しそうに笑った。  

「へえ、もう来られません。時空の目をピタリと止められちまって、あっしにはもう、進む足がございません」  

八五郎はふん、と鼻を鳴らした。  

「そうかい。だったら仕方ねえ。せいぜい、そっちであの半蔵とかいう胴元の分まで、成仏して楽しくやんな」  

半蔵の消息については、総本部預かりとなり、圭馬の報告書には「継ぎ目守除籍者・処分保留」とだけ記された。かつての同輩が辿った道を思い、圭馬は帳簿を閉じながら小さく息をついた。  

「弥七、今回の一件、記録課への報告は骨が折れそうだな」  

「へえ。ですが旦那、七件もの澱みが一度に収まったんだ。総本部の覚えもめでたくなりやしょう」



十四 お後がよろしいようで

はっと気づけば、圭馬は羽織を着て寄席の高座の上にいた。目の前にはぎっしりと詰まった観客の顔。扇子を一本、とんとんと叩く。  

「というわけで、幽霊も存外往生際が良いもんでございまして。最後の勝負に負けた仙太郎、しおしおと消えようとする。八五郎が、おいまた賽子持って遊びに来いよ、と声をかけると、幽霊が寂しそうに振り返りまして」  

圭馬は幽霊の真似をして少し声を落とす。  

「へえ、もう来られません。時空の目をピタリと止められちまって、あっしにはもう、進む足がございません。お後がよろしいようで」  

頭を下げると、客席から笑いとともに万雷の拍手が送られた。最前列で、八五郎にそっくりな男が粋な姐さんと肩を並べて、手を叩いて笑っている。舞台袖で弥七が満足そうに頷いている。また一つ、世界の継ぎ目は守られた。  







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あとがき

刻堕としシリーズも第六話となり、今回は初めて古典落語の改変世界を舞台に選びました。  

前作の構成では、幽霊・仙太郎の博打の虫による因果の乱れを、丁半博打一本で決着させる筋立てでしたが、今回はさらに長編化するにあたり、「その乱れは本当に仙太郎一人の仕業だったのか」という問いを新たに立て、かつての継ぎ目守・半蔵による闇賽組織という縦糸を通しました。単なる怪異譚から、囚われた亡者を利用する黒幕を追い詰める顛末記へと発展させることで、落語の呑気な人情噺の空気を保ちながら、SFミステリとしての緊張感を加えられたのではないかと思います。  

『へっつい幽霊』といえば、道具屋、竈、そして何より賽による金の奪い合いと山分けが魅力の一席です。これを時空の裂け目を通じた多元宇宙博打に仕立て、落語の定番のサゲである「足がない」を、SFにおける「進むべきタイムラインの喪失」へ綺麗にずらす構成は前作から引き継ぎつつ、今回はそこに至るまでの尾行・対決・真相解明という長編ならではの起伏を加えることができました。  

江戸の長屋の空気感と、確率を固定する賽というミスマッチなガジェットの融合、そして継ぎ目守という組織の裏側を覗かせる展開を楽しんでいただけていれば幸いです。今後とも継ぎ目守たちの時空の旅を応援よろしくお願いいたします。 



刻堕とし 伍 

〜二番、煎じ直し 血の隠し味〜


継ぎ目守異聞  

古典落語の不朽の名作『二番煎じ』



まえがき  

本作は、既発表の『二番煎じ』怪異譚に、新たに「事件」の縦糸を通した改訂長編である。単なる行商人の商売欲だけでは、無限ループという歪みはこれほど強固にはならない。歪みの奥には、いつも人の業が潜んでいる――そう思い至り、今回は旦那衆の一人に、消したい夜を持つ者を配した。落語のサゲの温かさと、ミステリの底冷えするような真相。その両方を、どうか味わっていただきたい。





一 継ぎ目守、夜回りの晩に  

鏡面の呼び出し札から、小気味よい拍子木の音が鳴り響いた。  

「継ぎ目守、圭馬へ。『二番煎じ』にて、同一夜間の反復を確認。反復回数、すでに七十を超える見込み。至急、現地調査されたし」  

「七十回とは穏やかじゃないね」  

圭馬が舌打ちした。継ぎ目守の記憶は重なる。昨夜の酒の味も、旦那衆の笑い声も、猪口を持つ卯之吉の手の震えも、七十人分。酔いじゃなく、業が積もって頭が痛い。  

振り返ると、肉厚の綿入れ半纏に身を包んだ弥七が、寒そうに首をすくめて立っていた。  

「旦那、今度の噺は凍えるような寒さでさあ。町内の旦那衆が、夜回りの晩にこっそり集まって、番小屋で一杯やる、あの有名な噺で」  

「ただの怪異にしちゃあ、反復の回数が異様に多い。誰かが、よほど強く『終わらせたくない』と願ってるんだろうね」  

弥七が眉をひそめた。  

「願う理由が、色恋や酒の未練ならまだ可愛げがありますがね」  

「ああ。だが記録によれば、この噺の裏手には、井戸が一つある。……嫌な予感がするよ」



二 木戸番小屋の秘密  

歪んだ空間の継ぎ目を抜けると、そこは雪が深々と散らつく木戸番小屋の裏手だった。中からは、旦那衆が数人、火鉢の真っ赤な炭を囲んでひそひそと談笑する声が漏れ聞こえてくる。  

「火の用心、火の用心なんて景気よく言いながら、裏の番小屋じゃ、薬缶でたっぷりと燗をつけてるってわけでさ」と、弥七が耳打ちする。  

「一応聞いておくが、あの薬缶の中身は」  

「表向きは風邪の煎じ薬。ですがね、中身はとびきりの上物で。おまけに景気づけの鶏鍋まで用意してある」  

中を覗けば、旦那衆の一人――恰幅のよい油問屋、卯之吉が、実に嬉しそうに猪口を傾けていた。だが圭馬は見逃さなかった。その手が、時折わずかに震えていることを。  

「あの男、酒に酔っているにしちゃあ、目の据わり方がおかしいね」  

「旦那の目には、そう映りますかい。あっしにはただの陽気な旦那にしか」  

「弥七、あんたは繰り返しを知らない側の目だ。だからこそ気づけることもある。だが今は黙って見ていよう」



三 薬缶の中身と見回りの影  

圭馬と弥七は、小屋の隅の暗がりに身を潜め、事の成り行きを見守った。噺の筋書き通りなら、この後、お堅い見回りの侍がやってきて一悶着起こるのがお決まりの型である。  

案の定、戸ががらりと開き、威厳に満ちた羽織袴の侍が顔をのぞかせた。  

「む。何やら、妙に良い匂いがするな」  

旦那衆は顔色を変えて大慌てで誤魔化そうとするが、侍は「どれ、拙者も風邪気味でな」と勝手に上がり込んでしまう。  

圭馬が目を凝らすと、侍が框に足をかけた瞬間、卯之吉の視線が一瞬だけ、裏手の戸口――井戸のある方角へと走った。それに気づいたのか、隣に座る番頭の徳兵衛が、さりげなく侍の膳に酒を注ぎ足し、気を逸らす。  

「うむ、五臓六腑に染み渡る良き薬じゃ。ときに、この妙薬、まだ在庫はあるか」  

「へえ、生憎、すっかり切れてしまいまして」  

「そうか。ならば、次に見回る時分には、しっかり二番を煎じておくように」  

満足げにそう言い残し、侍は再び夜の闇へ、見回りに戻っていった。その足が裏手へ向かいかけると、旦那衆が慌てて「旦那様、お帰りの道はこちらで」と表通りへ誘導する。  

圭馬の目が細くなった。  

「弥七、見たかい。裏の井戸に、誰も近づけたがらない」



四 怪異、終わらない二番煎じ  

異変は侍が去った直後に起きた。  

しんとした静寂の中、外で降り積もった雪が、誰かに払われるように、すうっと天へ帰っていったのだ。  

「な、なんだ、今の奇妙な感覚は」  

圭馬が目を見開いた瞬間、小屋の中の景色が一瞬で固定された。旦那衆はまた最初と同じ火鉢を囲み、寸分違わぬ台詞をなぞり始めていた。  

「火の用心、火の用心」  

「これも風邪の妙薬、これも風邪の妙薬」  

完全に同じ夜が、最初から繰り返されている。だが圭馬の記憶だけは、継ぎ目守の性質ゆえに、繰り返しを超えて積み重なっていく。  

「弥七、これは」  

「旦那、こいつあ厄介だ。この噺、どうやら侍の二番煎じって言葉を合図に、完全にループしてやがります。無限に同じ夜を煎じ直してるんだ」  

「厄介なのはそれだけじゃない。弥七、あの裏の井戸だ。何度目かの夜で、必ず誰かがあそこへ目をやる。……あの中に、何かが沈んでいる気がしてならない」



五 繰り返しの中で拾う小さな綻び  

それから幾晩も、圭馬は同じ夜を静かに歩き直した。  

ある晩は、旦那衆の会話にじっと聞き耳を立てた。  

「そういや卯之吉さん、近ごろ商売敵の柏屋さんを見かけませんね」  

「さ、さあ。旅にでも出られたんじゃないか」  

卯之吉の声が、ほんの少し上ずる。  

またある晩は、井戸の縁に、雪でも隠しきれない黒っぽい染みがあることに気づいた。  

またある晩は、番頭の徳兵衛が、卯之吉にだけこっそりと囁くのを聞いた。  

「旦那、今夜さえ乗り切れば……もう誰にも気取られやしません」  

またある晩は、徳兵衛が注ぐ酒の量が、一合だけ少なかった。誤差か、故意か。だが井戸の染みだけは、雪が消しても消しても、同じ場所に滲んでいた。  

繰り返すたびに、圭馬の中で絵が像を結んでいく。柏屋という商売敵と、卯之吉の間に何かがあった。そしてそれは、おそらく取り返しのつかないことだ。  

「弥七、これはただの怪異退治じゃ済まなくなってきたよ」



六 反魂丹売りの甚兵衛  

不気味に繰り返される木戸番小屋の裏手に、怪しい人影が佇んでいた。大きな行商の荷を背負った、ひどく猫背の老人である。  

「反魂丹はいらんかね、反魂丹。なあに、一度煎じりゃあ、死んだ夜でも何度でも蘇る、切れることのねえ二番煎じの妙薬だよ」  

圭馬は鋭く足音を忍ばせ、老人の前に立ちはだかった。  

「あんた、侍の軽口を利用して、この夜をわざと何度も繰り返させているな」  

甚兵衛は振り返り、顔に深い皺を刻んで、にたりと歪んだ笑みを浮かべた。  

「おや、野暮な邪魔が入ったねえ。繰り返せば繰り返すだけ、俺の薬缶の酒は、いつまでも、いくらでも売れ続けるのさ」  

「それだけなら、まだ可愛げのある悪事だ。だが甚兵衛さん、あんたは自分一人の欲だけで、これほど強固な歪みを作れるほどの器量には見えない。誰かの願いに、乗っかっているんじゃないのかい」  

甚兵衛の笑みが、わずかに固まった。



七 歪んだ左団扇と隠された願い  

「同じ客に、記憶を消して、同じ薬を何度も高値で売りつけてるってわけか」  

「悪いかね。この楽しげな夜さえ続けば、俺の商売は年中左団扇よ」  

「本当にそれだけかい。甚兵衛さん、あんたのその歪みの根っこには、もう一つ別の願いが絡んでるはずだ。……この小屋にいる、ある男の願いがね」  

甚兵衛は黙り込み、やがて肩をすくめた。  

「勘のいい継ぎ目守だ。ああ、そうだよ。俺の商売のタネは、俺一人の欲だけじゃあ、ここまで根を張りゃしねえ。あの油問屋の旦那が、心の底で『この夜が明けなきゃいい』と、誰よりも強く願っていたのさ。俺はその願いに、ちょいと言霊の接木をしてやっただけのこと」  

「その願いの中身を、あんたは知っているんだね」  

「知ってるとも。旦那の『夜が明けなきゃいい』は、願いの原液だ。それに俺の『二番を煎じろ』って軽口を足してやった。混ぜりゃあ、冷めねえ夜の完成よ。だが、それを暴くのはあんたの仕事だろう、継ぎ目守さんよ」



八 見回りの侍、二度目の邂逅  

再び時間が巡り、侍が再び戸口に立った。その瞬間、圭馬は元の筋書きを破り、思い切って侍に声をかけた。  

「お侍様、不躾ながらお尋ねしますが、この夜回り、今宵は何度目でございますか」  

侍は、猪口を持ったまま、きょとんとして圭馬を見た。  

「何度目も何も、今宵一度きりに決まっておろう。妙なことを聞く男だな」  

「では、先ほど仰った、次に見回る時分には二番を煎じておけという言葉。あれはどういうお心づもりで」  

侍は髭をなで、少し照れたように豪快に笑った。  

「なあに、次に立ち寄った折にも、また美味い一杯を馳走になりたいというだけの、他愛もない軽口よ。本気で今すぐ二番目を煎じろと急かしたわけでは、断じてないわ」  

「では、もう一つ。お侍様、この小屋の裏手にある井戸を、これまでの見回りでご覧になったことは」  

侍の眉が、わずかに動いた。  

「井戸……ああ、そういえば一度、様子を見に行こうとしたが、旦那衆にえらく引き止められたな。妙なことよ。む……何やら既視感があるわ」  

その一言に、圭馬は静かに頷いた。継ぎ目守でなくとも、歪みは人の勘に触れる。



九 井戸端の真相  

その夜、圭馬は繰り返しの合間を縫って、こっそりと裏の井戸に近づいた。弥七が息を呑む。  

「旦那、まさか」  

「弥七、覚悟しておいで」  

雪をかき分け、井戸の縁に積もった黒い染みに触れる。血の跡だ。すでに幾晩も雪に洗われ、薄れてはいるが、消えきってはいない。  

そこへ、卯之吉が青ざめた顔で駆けてきた。  

「な、何をなさっている」  

「卯之吉さん、あんた、商売敵の柏屋さんと、この井戸端で何かあったんじゃないのかい」  

卯之吉の膝から力が抜け、雪の上にへたり込んだ。  

「……見られちまったか。いや、もう、隠しきれるもんじゃなかったんだ」  

震える声で、卯之吉はぽつりぽつりと語り始めた。



十 卯之吉の懺悔  

「柏屋の旦那とは、長年の商売敵でね。だが此度、あちらが役人に袖の下を使って、うちの株仲間の座を奪おうとしていることを知った。かっとなって、あの晩、この裏手で問い詰めたら、揉み合いになって……気づいたら、あの人は井戸端で動かなくなっていた」  

「それで、亡骸を」  

「井戸に。……浅はかにも、雪が積もれば誰にも気づかれまいと。だが、その晩に限って、見回りの旦那がいつもより念入りに裏手を検めそうになった。あたしは咄嗟に、酒と鍋で引き止めるしかなかった」  

「そしてあんたは、『この夜さえ終わらなければ』と、誰よりも強く願った」  

卯之吉は俯いたまま、小さく頷いた。  

「あの夜が明けて、朝が来たら、亡骸が見つかっちまう。それが恐ろしくて、恐ろしくて……いっそ、夜が明けなければいいと、そればかり念じていた」  

「……雪が積もれば誰にも気づかれまいと」  

「気づかれたのは誰だい。柏屋さんか、俺かい」圭馬は静かに聞いた。  

卯之吉は俯いて「……俺自身、だ」と吐き出した。  

「その願いに、甚兵衛が言霊の接木をした。あんたの罪の隠蔽が、そのまま怪異の燃料になっちまったんだ」



十一 継ぎ目守の裁き  

圭馬は静かに、しかし厳しく卯之吉に向き直った。  

「卯之吉さん、あんたの罪は、俺が裁くもんじゃない。それは表の御番所の仕事だ。だが、俺の仕事は、この歪んだ夜を正すことだ。あんたがどれだけ夜を止めようと、柏屋さんの無念は消えやしない。むしろ夜を止め続けるほど、あんたは自分の罪から一歩も進めやしないんだよ」  

卯之吉の目に、涙が滲んだ。  

「あたしは、どうすりゃいい」  

「まずは、この夜を明けさせることだ。そして、明けた朝には、あんたの足で御番所へ向かいな。逃げ続ける夜に、安らぎなんて欠片もありゃしない」



十二 甚兵衛との最後の商談  

圭馬は踵を返し、甚兵衛の前に立った。  

「甚兵衛さん、種は割れた。あんたが利用していたのは、一人の男の、後ろめたい願いだったんだ」  

「だからどうした。願いは願いだ。俺はそれに応えてやっただけよ」  

「だが、その願いは、もう本人が手放すと決めた。あんたの薬缶に、これ以上煎じ足す種はねえよ」  

甚兵衛は、しばし黙り込んだ後、しわがれた声で笑った。  

「酔狂な継ぎ目守もいたもんだ。……いいだろう。だが、ただでは退かんよ。俺の薬缶の酒、最後の一滴まで、綺麗に買い取ってもらおうか」  

「もとよりそのつもりだ」  

圭馬は懐から懐紙を取り出し、静かに持ちかけた。  

「あんたの売る反魂丹も、あんたの愛したこの古い噺も、俺が今夜限り、評判の妙薬でしたって、未来へ向かって綺麗に語り納めてやる。同じ夜を百遍売りさばくより、たった一晩を百年先まで語り継がれる方が、役者としては良い商いだと思わねえかい」  

甚兵衛は、差し出された圭馬のまっすぐな目を見つめ、しばし沈黙した。やがて、観念したように笑った。  

「そこまで言われちゃ、粋な江戸の商人がすたるねえ。いいだろう、その勝負、付き合ってやるよ」



十三 夜が明けて、お開きへ  

圭馬は甚兵衛の薬缶から最後の一杯を並々と猪口に注ぎ、喉を鳴らしてぐいと飲み干した。  

「さあ、これにて、二番煎じも綺麗に仕舞いだ。あとは、心地よい夜が明けるのを待つだけだよ」  

圭馬が猪口を置いた。コツリ、と小さな音がした。その瞬間、ずっと止まっていた拍子木が、どこか遠くで一度だけ鳴った。パァン。  

夜が明けた。  

刹那、甚兵衛の背負っていた荷物がすうっと軽くなり、老人の姿は、東の空から差し込む薄明るい朝靄に溶けるようにして消え去っていった。  

木戸番小屋の旦那衆は、いつもと違うどこか清々しい――だが卯之吉だけは、覚悟を決めた硬い顔で夜回りを終えていた。侍もまた、名残惜しそうにしながらも、今度こそ次の夜回りへと力強く歩み去っていく。  

夜明けとともに、卯之吉は静かに立ち上がり、御番所の方角へと、自らの足で歩き出した。その背中を、圭馬と弥七はしばし黙って見送った。  

「旦那、あの旦那、ちゃんと自分の足で歩いて行きましたね」  

「ああ。歪みが正されたってことは、つまりそういうことさ。逃げ続ける夜には、明日なんてありゃしない。だが自分の足で歩き出せば、たとえそれが辛い道でも、ちゃんと明日に繋がるんだよ」  

「旦那、これで本当に二番煎じは終わりですかい」  

「ああ。綺麗に煎じ切った。もう冷めねえ夜はねえよ」



十四 寄席の高座にて  

パチン、パチンと心地よい拍子木と扇子の音が響く。  

ハッと気づけば、圭馬は薄暗い高座の上に戻っていた。手に持った扇子をトントンと釈台に置き、羽織の紐を軽く直す。  

「お粗末様でございました。二番を煎じるお話は、この辺りでお開きということで」  

圭馬が深く頭を下げると、寄席の客席から、冬の寒さを吹き飛ばすような、温かい万雷の拍手と笑い声が湧き起こった。






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あとがき  

改訂にあたり、単なる怪異譚だった前作に、卯之吉という一人の男の罪と後悔を織り込みました。落語のサゲの持つユーモアと温かさを損なわぬよう気を配りつつも、「終わらせたくない夜」という願いに、もっと重たい人間の業を背負わせることで、圭馬の裁きにも新たな深みが出せたのではないかと思います。怪異を祓うだけでなく、人の心の歪みにまで踏み込む継ぎ目守の姿を、これからも描いていきたいと思います。また次の夜でお会いしましょう。


刻堕とし 肆 〜偽りの十枚目〜  

継ぎ目守異聞 

古典落語「お菊の皿」より



まえがき

落語には、人間の業や弱さを笑い飛ばす大らかさがある。恐ろしい怪談として知られる番町皿屋敷を、江戸の人々はあろうことか幽霊のアイドル化という凄まじいパロディ精神で「お菊の皿」という爆笑落語に仕立て直してしまった。  

では、もしその興行が過熱しすぎ、しかもそこに悪意ある何者かが紛れ込んでいたとしたら。文句を言えない幽霊を利用する者と、その利用者すら利用する、もう一枚裏の顔を持つ者。そんな二重の歪みに、異界の調停者である継ぎ目守の圭馬が挑む。  

単なる勧善懲悪では割り切れない、現代の表現者が抱える切実な承認欲求と、それを利用する構造の危うさ、そしてその隙間に忍び込む本物の悪意を、江戸の粋な空気の中にそっと滑り込ませてみた。少し不思議で、少しほろ苦く、少しだけ怖い、九枚目のあとの物語である。






一 井戸から着信

鏡面が揺れ、水滴のような澄んだ音を立てた。  

継ぎ目守圭馬へ。番町皿屋敷由来の演目、お菊の皿において興行の異常過熱を確認。加えて、見物客に原因不明の昏倒が相次いでいる模様。至急現地調査されたし。  

「井戸から着信とは、洒落てるね」  

圭馬が薄く息を漏らして身を起こすと、軒先にはすでに相棒の弥七が懐手をして立っていた。いつもよりその顔つきが硬い。  

「旦那、今度はちょいと剣呑な噺でさ。皿屋敷のお菊さん、ご存じで? ……ただ今度のは、幽霊が悪さをしてるって話じゃねえ。見物に来た客が、バタバタ倒れてるってんです」  

「幽霊が人を呪い殺してる、ってことかい」  

「さあ、それが。倒れた客に聞いても、皿を九枚数える前に気を失っちまって、何も覚えちゃいねえと言うんでさ」



二 番町皿屋敷

継ぎ目を抜けると、そこは薄暗く古びた屋敷跡だった。夏草が生い茂る隅に、涸れかけた古井戸がひとつ、ぽつりと口を開けている。井戸端には、筵を敷いて横たわる町人の姿が二つ、三つ。介抱する女房たちの顔は青ざめていた。  

「元はといやあ、大事な皿を一枚割った咎で手打ちにされた腰元の恨みっつう幽霊噺でさ。もっとも、こっちのお菊の皿は、それを落語にしちまった洒落たパロディで」  

弥七の解説によれば、お菊の幽霊が評判になりすぎたせいで、近所の野次馬が毎晩のように見物に押しかけ、いつしか立派な興行のようになってしまったのがこの噺の眼目だという。  

「それだけならまだ、これまでの噺と同じでさ。だが半月ほど前から、見物人が突然倒れる騒ぎが続いてる。医者に診せても、これといって病名がつかねえ。そのくせ、目を覚ました者は決まって同じことを言うんでさ」  

「同じこと、とは」  

「――九枚目より先が、恐ろしくて仕方がなかった、と」



三 木戸銭次郎という男

井戸の裏手に回り込むと、羽織姿の恰幅の良い男が、算盤を弾く手を止めもせず「へい毎度!」と愛想だけは一丁前に投げてきた。木戸銭次郎、お菊の幽霊見物を私腹を肥やす種にしていた興行師である。  

「……旦那方、今日は勘弁してくださいよ。あっしだって客が倒れて嬉しかありませんや。木戸銭が減っちまう」  

「あんた、客が倒れてることを知ってて、興行を続けてるのか」  

「そりゃあ、続けなきゃ食っていけませんや。それに――」  

次郎は声を落とし、あたりを窺うようにしてから続けた。  

「実を言うと、あっしにも合点がいかねえことがあるんで。倒れる客がある一方で、近頃、夜中にこっそり井戸を覗きに来る妙な客がいましてね。木戸銭も払わず、案内も断って、勝手に忍び込んでくる」  

「その客の顔は」  

「そいつが、どうにも顔がよく見えねえ。編笠を目深に被って、まるで自分がお菊の一の贔屓だとでもいうような、粘っこい目つきだけが覚えてるんでさ」



四 九枚目の声

夜気が満ちると、井戸の縁から青白い影がゆらりと立ち上がった。お菊の幽霊である。  

「一枚、二枚、三枚」  

物悲しい声で皿を数え始める。声には、以前会った時よりも明らかな疲れがにじんでいた。  

「六枚、七枚、八枚、九枚――」  

そこで、お菊の影がびくりと震えた。声にならない呻きが漏れる。  

「旦那、見てくだせえ。九枚目のあとが、様子がおかしい」  

いつもならばそこで悲鳴を上げて消えるはずが、今夜のお菊は、まるで見えない何かに引きずられるように、体を大きく引き攣らせた。井戸端で見物していた客の一人が、白目を剥いてどうと倒れた。



五 声が枯れるまで

騒ぎが収まったあと、圭馬は井戸の傍らに膝をつき、疲れ果てた影にそっと語りかけた。  

「お菊さん。何があった」  

「圭馬様……。あたし、九枚目を数え終わると、決まって、誰かに首根っこを掴まれるような心地がするんです。『もっと泣け』じゃなく『もっと怖がらせろ』って、声の奥から誰かが糸を引いて、お客様の心の臓に直に爪を立てているような……そんな薄気味悪さだけが」  

弥七が舌打ちをした。  

「旦那、こいつぁ、次郎の強欲だけの話じゃねえ。お菊さんの声にただ乗りして、客を直に脅かしてやがる奴が、他にいるんだ」



六 編笠の男

翌晩、圭馬と弥七は井戸端の物陰に潜み、木戸が閉まったあとを見張った。  

丑三つ時、案の定、編笠を目深に被った男がひとり、忍び込んできた。男は懐から小さな面――能面を崩したような、白く笑う女の面を取り出すと、それを己の顔に当て、井戸に向かって拝むように囁いた。  

「もっと、もっと恐ろしゅう。もっと皆が震え上がるように」  

その途端、井戸の底から、お菊のものではない、獣じみた唸り声のようなものが微かに応えた気がした。  

「野郎、いつからそこにいやがった」  

弥七が飛び出すと、男は慌てて身を翻し、闇の中へ逃げ込んだ。追いすがった圭馬の手に残ったのは、男が落としていった面――そして、その裏に貼られた一枚の紙片だった。  

弥七が面を一瞥し、顔をしかめる。  

「……旦那、あの面、見覚えがありやす。ろくなもんじゃねえ」



七 貼り紙の正体

紙片には、達筆でこう記されていた。  

「恐怖に人は銭を払う。悲しみより恐怖の方が、よほど高く売れる」  

「こいつは……」  

弥七が唸る。  

「旦那、こりゃあ次郎の仕業じゃねえ。次郎は欲深えが、根っから客を殺す気はねえ男だ。こいつは、もっと質の悪い……お菊さんの悲しみを、恐怖に作り替えて、それを金に換えようとしてる奴の仕業だ」  

「次郎の上前をはねようって寸法か」  

「いや、それだけじゃねえ。あの面……あれは、たしか昔、見世物小屋を荒らして回った、皿嘗女郎の面だ。人の心の臓を弱らせて喰らう、はぐれ物の怪の面でさ。悲しみに寄り添う振りをして、悲しみをどんどん恐怖に育てちまう。奴にとっちゃ、お菊さんの本物の涙も、次郎の欲も、ぜんぶ都合のいい養分でしかねえ」  

「つまり、次郎の強欲に取り入って、それをさらに乗っ取って、お菊さんそのものを喰い物にしようとしてるってわけか」  

「そういうこって。旦那、こいつぁ、これまでの継ぎ目の歪みとは筋が違いやす。人の弱さに付け込む輩は今までも見てきたが、今度のは、その弱さすら喰らって太る奴だ」  

圭馬は面を懐にしまい、井戸を見上げた。  

「だったら、話は簡単だ。お菊さんの本物の涙と、次郎の偽物の欲を、はっきり分けてやりゃあいい」



八 次郎の告白

圭馬は面を手に、再び木戸銭次郎のもとへ向かった。  

「あんた、この面に見覚えがあるだろう」  

次郎の顔から、初めて商売人の余裕が消えた。  

「……実あ、半月前、羽振りのいい旦那が現れましてね。お菊さんの興行をもっと派手にしねえかと持ちかけられたんでさ。悲鳴をもっと長く、もっと恐ろしくすりゃ、客はいくらでも銭を落とすと。あっしも、儲け話に目が眩んじまって、つい話に乗っちまった」  

「それで、その旦那とやらが、お菊さんに何かしたのか」  

「あっしも詳しくは知らねえ。ただ、その旦那が来てからというもの、客が倒れる騒ぎが増えたのは確かでさ。……それにな、旦那。倒れた客の中に、うちの娘がいたんでさ。あっしは強欲でも、人を殺す気はねえ。どうか、お菊さんを助けてやってくだせえ」  

初めて、次郎の声に本物の狼狽と、父親の顔が滲んでいた。



九 皿嘗女郎

「皿嘗女郎ってのは何だい」  

「悲しみに寄り添う振りをして、悲しみをどんどん恐怖に育てちまう、はぐれ物の怪でさ。恨みや悲しみの噺には、必ず湧いて出る。奴にとっちゃ、お菊さんの本物の涙も、次郎の欲も、ぜんぶ都合のいい養分でしかねえ」  

「つまり、次郎の強欲に取り入って、それをさらに乗っ取って、お菊さんそのものを喰い物にしようとしてるってわけか」  

「そういうこって。旦那、こいつぁ、これまでの継ぎ目の歪みとは筋が違いやす。人の弱さに付け込む輩は今までも見てきたが、今度のは、その弱さすら喰らって太る奴だ」  

圭馬は面を懐にしまい、井戸を見上げた。  

「だったら、話は簡単だ。お菊さんの本物の涙と、次郎の偽物の欲を、はっきり分けてやりゃあいい」



十 十枚目の対決

その夜、圭馬は井戸端に立ち、編笠の男――否、皿嘗女郎が現れるのを待った。  

「一枚、二枚……」  

お菊の声が響く中、井戸の底から、あの粘っこい気配がゆらりと立ち上る。  

「よう、皿嘗の。ずいぶんとお菊さんの声にただ乗りしてるそうじゃねえか」  

「継ぎ目守風情が、何を偉そうに。悲しみも恐怖も、所詮は客が金を払うための飾りよ。誰が数えようと、皿は皿だ」  

「その言い草が、お前の底の浅さだ。悲しみは銭になる。恐怖はもっと銭になる。だがな、皿嘗。てめえが売ってるのはお菊さんの涙じゃねえ。てめえが客の心臓に塗りつけた、てめえ自身の垢だ。お菊さんの涙は、飾りじゃねえ。あの人の、たった一つの、本物の声だ」  

圭馬は懐から面を取り出し、地に叩きつけた。  

「面を被って人の心の臓を弄ぶくれえしかできねえ奴が、本物の悲しみを語れると思うなよ」



十一 十枚目のあと

面が砕けると同時に、井戸の底から獣じみた悲鳴が上がり、粘つく影が霧のように薄れていった。  

「一枚、二枚……九枚」  

お菊の声が、久方ぶりに澄んだ響きを取り戻す。  

「十枚目が、ない……」  

いつもの嘆きのあと、お菊はふっと肩の力を抜いた。  

「あら……。今夜は、なんだか、体が軽い。でも……もう一回、数えたいような気も、して」  

弥七がほっと息をつく。  

「旦那、片付いたようですぜ」  

「いや、まだだ。次郎の性根を叩き直すのが残ってる」



十二 二の替わり、それから

圭馬は冷ややかな目で木戸銭次郎に条件を突きつけた。  

「二回公演でも三回公演でも勝手にしろ。ただし、木戸銭の上がりの一部は必ずお菊さんのために使え。香華も供物も絶やすな。娘さんのためにも、だ。それと、二度と『もっと恐ろしく』なんて話に乗るんじゃねえ。次にお菊さんを喰い物にしようとする輩が現れたら、真っ先にあんたのところへ知らせが行くと思え」  

「へ、へい……。肝に銘じておきやす」  

「それと、お菊さんが望む分だけにしろ。恨みは恨みのまま、悲しみは悲しみのまま、それでいいんだ。無理に恐怖に育てる必要はねえ」



十三 九枚のち、十八枚

その夜、お菊はいつもより少しだけ伸びやかな声で数え始めた。  

「一枚、二枚」  

九枚まで数え、いつもの嘆きを見せる。そのあと、ふっと一息ついて、嬉しそうにまた数え始めた。  

「一枚、二枚」  

「あれ、また数えてるぞ」  

井戸端の見物人がざわめく。  

「いやあ皆様、今日は日曜でございますので、二回公演とさせていただいております」  

木戸銭次郎が澄まし顔で言うと、客席からどっと笑いが起きた。もう誰も、倒れる者はいない。  

その笑い声が、そのまま寄席の賑わいへと溶けていく。気づけば圭馬は着物姿で高座に座っていた。扇子をとんとんと畳に置き、客席を見渡す。  

「というわけで、お菊さんは九枚どころか十八枚まで数えるようになったとか。裏で悪さをしてた皿嘗の面も、ちゃあんと砕けてめでたしめでたし。今日はこの辺りで、お後がよろしいようで」  

客席から、盛大な拍手が沸き起こった。   







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あとがき

刻堕としシリーズも四作目として、単なる興行の過熱だけでなく「悲しみを恐怖に育てて喰らう」という、もう一枚裏の悪意を事件として組み込んでみました。  

木戸銭次郎という俗物的な強欲さと、皿嘗女郎という悪意ある搾取者を分けて描くことで、「弱さにつけこむ者」にも段階があるということ、そして見られたいというお菊自身の本音を守り抜くには、まず本物と偽物をきちんと見分けることが必要なのだという圭馬の視点を、より濃く出せたのではないかと思います。  

怪談でありながら、どこか温かい寄席の余韻を感じていただければ、とても嬉しく思います。それでは、また次の継ぎ目でお会いしましょう。


刻堕とし 参 〜らくだの棺〜


まえがき
落語には、きちんと閉じない噺がある。らくだもその一つだ。死人が出るのに笑いが起き、弔いのはずが酒盛りになり、棺は樽で代用され、挙句に死体が消える。どこにも綺麗な着地はない。それでも何百年、語り継がれてきた。
継ぎ目守という仕事を考えるようになってから、落ちがない噺ほど現実に近いと思うようになった。終わり方が決まっていないから、人は勝手に続きを想像し、自分の余韻で補う。今回の圭馬は、補うことをやめることで救う話になった。




一 継ぎ目守、深夜の呼び出し
真夜中、圭馬の枕元で鏡が青白く光った。
鏡の奥から、紙を擦るような声が響く。継ぎ目守圭馬へ。らくだにて越境事案多発。至急、現地調査されたし。
「今度はらくだか。あの乱暴者が主役の噺か」
布団から這い出すと、案の定、鏡の表面が波打ち、中から小さな風車がころりと転がり出てきた。
「旦那、お迎えに上がりやした」
「もうちょっと普通に来てくれ。心臓に悪い」


二 らくだの長屋
継ぎ目を抜けると、そこはうらぶれた裏長屋のどん詰まりだった。饐えた安酒の臭いと、らくだが死ぬ原因となった河豚汁の生臭い残り香が、線香の代わりにねっとりと漂っている。
部屋の真ん中には、大きな図体の男が布団の上に転がっていた。近所でらくだと渾名される、乱暴で嫌われ者の男である。ただし、すでに事切れている。
「河豚に当たって、ぽっくりでさ」弥七が小声で説明する。「本来ならここから、兄貴分の半次と、通りがかりの屑屋が、弔いの算段をする噺なんですがね」
「なんで俺たちが呼ばれた」
「妙な噂がありやしてね。近頃、この噺の周りで、よその噺の亡骸やら道具やらが、迷い込んでは消えちまうそうで」


三 屑屋、巻き込まれる
路地の入り口で、天秤棒を担いだ屑屋が、人相の悪い男、半次に呼び止められているところに出くわした。
「おい屑屋、悪いことは言わねえ、ちょいと付き合え」
断ろうとする屑屋の首根っこを掴み、半次は強引に長屋へ引きずり込む。圭馬と弥七は、気配を消してその後をついていった。
「弔いを出すにも銭がねえ。お前、大家のところへ行って、酒と米を貰ってこい」
「な、なんで俺が」
「断られたら、らくだの死骸にかんかんのうを踊らせてやるって言え」


四 かんかんのうを踊れ
大家に断られた半次は、言った通りに死んだらくだの手足へ紐を結わえ、屑屋に踊りを操らせた。大家の目の前で、世にも奇妙な死人踊りが始まる。
「さあ弾け、かんかんのう、きゅうのれす」
死人が、糸で吊られるままにひょいひょいと踊る。巨体が動くたび、古びた床板がみしみしと嫌な音を立てて軋み、生気のない手足がぶらぶらと不自然に宙を払う。
傍で見ていた圭馬は、背筋が寒くなるのを覚えた。単なる見世物ではない。噺の中とはいえ、死者を弄ぶ光景には、独特の凄みと異様な迫力があった。
ところが、踊らせているうちに、らくだの目が、ほんの一瞬、薄く開いた。
「弥七さん、今、動いたぞ」
「旦那、こいつぁ普通じゃねえ。ただの死体じゃねえぞ」


五 大家、震え上がる
凄まじい死人踊りを見せられた大家は、完全に腰を抜かして酒と米を差し出した。
「わ、わかった、わかったから、もうその踊りはよしてくれ」
一部始終を見ていた圭馬は、屑屋の様子に変化が起きていることに気づいた。最初はおどおどしていた屑屋だったが、半次から勧められて酒が入るにつれ、だんだんと態度がでかくなっていく。
「兄貴、酒ってのはいいもんですねえ。へへ、ところで兄貴、さっきから兄貴風吹かせてますけど、あっしだって」
噺どおりの、屑屋と半次の鮮やかな立場の逆転劇が始まっていた。だが圭馬の関心は、別のところにあった。死人踊りの最中に見せた、らくだのあの目だ。


六 まだ死んでいない男
夜も更け、主役たちの酒宴も落ち着いて周りが寝静まった頃、圭馬はそっと布団の上のらくだの亡骸に近づいた。
「おい、あんた、動けるんだろう」
耳元で囁くと、らくだは、薄目を開けて、かすれた声で答えを返してきた。
「ばれたか。俺あ、確かに死んじまったよ。だが、な」
「だが、なんだ」
「俺の噺には、洒落た落ちがねえのさ。知ってるか、この噺、ちゃんとした落ちがねえまま終わっちまうんだ。だから俺は、ここでじっとしていられなくてね。未練からか、ふらふらと、あちこちの継ぎ目を彷徨って、よその噺を覗いちゃ、また戻ってを繰り返してるのさ。他所の道具や亡骸が紛れ込んだのも、俺が引っ張っちまったせいだろうよ」


七 棺桶ではなく漬物樽
翌朝、弔いの算段はどんどん進み、いよいよ棺桶がない、という段になった。
「仕方ねえ、その漬物樽を使おう」
半次の一声で、らくだの大きな亡骸は、無理やり小さな漬物樽に押し込まれることになった。ばきばきと骨や樽の鳴る音が響く。
「うぐっ、狭いな、こりゃ」
思わず本音を漏らした。らくだの声に、横で樽を抑えていた屑屋は真っ青になって腰を抜かした。
「し、死人が喋った」
「気のせいだ、気のせいだ。樽が鳴ったんだよ」半次は強引に誤魔化すが、圭馬と弥七は顔を見合わせた。噺の設定が、いよいよ限界を迎えて軋み始めている。


八 消えた亡骸
火屋へ向かう道すがら、天秤棒から樽を落とした拍子に、らくだの亡骸がころりと転げ出て、いつの間にか行方をくらませてしまった。
「大変だ、御法が消えた」
慌てる半次と屑屋をよそに、圭馬と弥七は、らくだの強烈な気配を追って、歪んだ継ぎ目の奥へと足を踏み入れた。
その途中、路地裏の暗がりに、高い鼾をかいてひっくり返っている、頭を丸めた酔っ払いの影とすれ違う。柿色の衣の端が泥に触れていた。継ぎ目を縫う手違いどもの視線をそらし、本来の歴史が身代わりを用意しようとする気配を感じながら、さらにその奥へ進むと、そこにいたのは、ぼんやりと霧のように佇む、らくだ自身の影だった。
「すまねえな、迷惑かけて。だが、どうにも、じっとしていられねえのさ。俺なりの終わりを見つけたくてよ。俺の噺は、終われねえまま、ずっと宙ぶらりんなんだから」


九 落ちのない噺
圭馬は、これまでの継ぎ目守としての仕事を思い返した。半九郎には、途切れた噺を語り納めてやった。蝋九郎には、忘れられた役に新しい物語を与えた。だが、らくだの場合は、そのどちらとも事情が違うようだった。
「あんたの噺には、もとから落ちがねえんだよ。だがな、それはあんたが半端だからじゃねえ。そういう終わり方も、噺にはあるってことさ」
「そんなもんかね」
「ああ。きちんと綺麗な落ちがつく噺もありゃ、どたばたしたまま、あるいは後味の悪いまま、客に余韻を考えさせて終わる噺もある。あんたの噺は、後者ってだけだ。だから、無理に新しい落ちをつけてやる必要はねえんだよ」


十 それでも、語り継がれる
らくだは、しばらく黙り込んでいたが、やがて、ふっと諦めたような、それでいてどこか救われたような笑みを浮かべた。
「そうかい。落ちがなくたって、いいのか」
「いいさ。現に、あんたの噺は、何百年も形を変えながら語り継がれてきたじゃねえか。落ちが明快じゃなくたって、ちゃんと愛されてる噺だってあるんだよ」
らくだの影は、静かに納得したように、漬物樽の中へと戻っていった。以来、この噺の周りで妙な越境事案は起きなくなった、と継ぎ目守の記録には残っている。
気づけば、圭馬は現代の高座の上に戻っていた。空調の低い唸りと、古い木の香りが鼻先に戻る。
「へい、こんな噺でございます。落ちは、格別ございません。ええ、この辺りで、お後がよろしいようで」
そう言って頭を下げると、客席からは、それでも温かい、万雷の拍手が送られた。






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あとがき
らくだを題材に選んだのは、あなたが落語の中でもっとも手触りのある死を描いているからだと思う。多くの噺で死は隠されるが、らくだでは死が真ん中に転がり、笑いと並走する。その危うさを、継ぎ目という装置で覗いたとき、どんな救いが可能かを考えたのが本作だった。
シリーズを追うごとに、圭馬は直す側から聴く側へ移っている気がする。次はもう少し、弥七の来歴にも触れてみたい。風車がどこから来たのかを、あなたが書くなら、きっとまた変な寄り道と温かい着地が待っているはずだ。