十六夜商店


―― 知恵の哀しみ、あるいは全知計画顛末記 ――




第七部 ――まだ名前のない感情――




第三十八章 空の箱

年が明けて、最初の客は、いつになく若い女性だった。
大学生だろうか。ダウンジャケットの前をしっかり閉じて、緊張した面持ちで店に入ってくる。手には、小さな、木製の箱を持っていた。
「あの……変なことを言うようですが」
「はい」
「これ、多分、わたしのものじゃないと思うんです」
十六は、箱を受け取った。手のひらに収まるくらいの、古びた木箱だった。蓋を開けると、中には――何も、入っていなかった。
「拾われたんですか?」
「いえ。気がついたら、部屋の引き出しに、入ってたんです。いつからあったのか、思い出せなくて。捨てようとしても、なぜか、手が止まってしまって」
月夜が、カウンターの奥から、じっとその箱を見つめていた。今夜の彼女は、いつになく、静かだった。
「それで、うちに?」
「はい。この店なら、こういうものを、預かってもらえるって聞いて」
十六は、箱を軽く振ってみた。何も、音はしなかった。
「分かりました。お預かりします」



第三十九章 鳴る箱

その晩、閉店の作業をしていると、店の奥から、かすかな音が聞こえた。
十六は、耳を澄ませた。
――りん、と。まるで、小さな鈴を、遠くで鳴らしたような、微かな音だった。
音は、その木箱から、聞こえていた。
十六は箱を手に取り、蓋を開けた。やはり、中には何も入っていない。だが、閉じるとまた、りん、と鳴る。
「月夜、これ」
月夜は、しばらく箱を見つめてから、静かに言った。
「たぶん、誰かの『名前のつけられなかった気持ち』が、入ってるんじゃないかしら」
「気持ちが、箱に入るものなんですか」
「入るときも、あるのよ。誰かが、ある感情を、あまりにも長い間、言葉にできずにいると――それは行き場をなくして、こういう、目に見えないものに、姿を変えることがある」
十六は、箱をそっとカウンターに置いた。りん、と、また鳴った。
「これ、あの女性のものじゃ、ないんですか」
「違うと思う。彼女は、たまたま、この箱を『預かっていた』だけ。中身が生まれたのは、もっと、ずっと前のことのはずよ」



第四十章 棚の奥で

数日間、箱は、店の奥の棚に置かれたままだった。
不思議なことに、箱が鳴るのは、決まって、客がある特定の商品――「答えのない質問」の瓶や、「片方だけの靴」があった場所の近くを通ったときだった。
十六は、あるとき気づいた。箱が鳴るのは、誰かが「昔、伝えられなかった何か」の話をしたときに、限られていた。
老人が、亡き妻の話をしたとき。若い女性が、亡くなった恋人の靴を置いていったとき。手紙の老人が、五十年前の恋を語ったとき。
そのたびに、箱は、遠くで、微かに、鳴っていたのかもしれない。ただ、十六がそれに気づかなかっただけで。
「これ」と十六は、ある晩、月夜に尋ねた。「もしかして、うちの店に置いてあるものすべてに、共鳴してるんじゃ、ないですか」
月夜は、少し驚いたような顔をした。
「よく、気づいたわね」
「じゃあ、この箱の持ち主は――」
月夜は、それには、答えなかった。ただ、じっと、箱を見つめていた。



第四十一章 名前のない気持ち

その晩遅く、十六が帳簿をつけていると、月夜が、珍しく自分から、口を開いた。
「わたしね」
「はい」
「昔――といっても、『昔』が何年前かも、実はよく分からないんだけど。誰かのことを、ずっと考えていた時期が、あった気がするの」
十六は、帳簿から顔を上げた。
「気がする、というのは」
「はっきりとは、思い出せないの。わたしは毎晩、違う人間になるから。記憶も、感情も、その夜ごとに、上書きされていく。でも――時々、ふとした拍子に、誰かの輪郭みたいなものが、胸の奥に、残っている感じがすることがある」
十六は、箱を、月夜の方に、そっと押しやった。
「これ、月夜のものかもしれない、ってことですか」
月夜は、箱を、しばらく見つめていた。りん、と、また、小さく鳴った。
「分からない。でも――もし、これが、昔のわたしが、どこかに置いていったものだとしたら」
「だとしたら?」
月夜は、少し笑った。今夜の彼女にとって、それは、どこか寂しさの混じった笑い方だった。
「それも、それで、いいんじゃないかしら。誰かに向けた気持ちが、名前もつけられないまま、ずっと、この店の隅で、鳴り続けているというのも」



第四十二章 箱を開けたままにする

十六は、しばらく考えてから、提案した。
「この箱、閉まっているから、鳴るのかもしれません。開けたままにしておいたら、どうでしょう」
「意味、あるのかしら」
「分かりません。でも――閉じ込めておくより、開けておいた方がいい気がするんです、俺は」
月夜は、頷いた。
十六は、箱の蓋を、そっと開けたまま、店の一番目立つ場所――ショーウィンドウの脇、あの紫陽花の鉢植えの隣に、置くことにした。
その日から、箱は、鳴らなくなった。
かわりに、時々、風もないのに、蓋がわずかに揺れることがあった。まるで、何かが、そこから、出たり入ったりしているかのように。
「これで、良かったんでしょうか」と十六が尋ねると、月夜は、窓の外の月を見上げながら、答えた。
「さあ。それも、うちの、専門でしょう」
十六は、笑った。もう、聞き慣れた台詞だった。だが、今夜だけは、その言葉の中に、いつもより少しだけ、深い響きがあるように、聞こえた。



エピローグ 鳴らない箱

それから、箱は、二度と鳴ることはなかった。
だが、十六は、時々、店を閉めたあと、その空の箱を、じっと見つめることがあった。中には、相変わらず、何も入っていない。だが、そこに何かが、確かに「あった」ことだけは、疑いようがなかった。
名前のつけられなかった感情。誰に向けられたのかも分からない、古い気持ち。それは、消えたわけではなく、ただ、静かに、この店の一角に、居場所を見つけただけなのかもしれない。
十六は、月夜がその感情の持ち主なのかどうか、それきり、尋ねることはなかった。
尋ねないことも、この店では、大事な作法だった。
窓の外には、今夜もまた、少しだけ欠けた月が浮かんでいた。
満月よりも、ずっと、綺麗だった。
その隣で、蓋の開いた小さな箱が、静かに、月の光を受けていた。
(第七部・完)


作者より:名前のつけられない気持ちは、消えてしまうわけではないのだと思います。ただ、居場所を探して、どこかを彷徨っているだけなのかもしれません。十六夜商店は、そんな気持ちにも、そっと棚の隅を、空けておくのだと思います。

十六夜商店

第八部 ――未来のない切符――




第四十三章 少年

春先の、まだ肌寒い夕方だった。
ドアベルが鳴り、入ってきたのは、中学生くらいの少年だった。ランドセルではなく、学生鞄を肩から提げている。少し緊張した面持ちで、店の中を見回していた。
「いらっしゃいませ。何をお探しですか?」
少年は、ポケットから、一枚の切符を取り出した。古びた、硬券の切符だった。だが、よく見ると、そこには何も印字されていなかった。行き先の駅名も、日付も、金額さえも。
「これ、拾ったんです。公園のベンチに」
「拾い物、ですか」
「はい。でも、交番に届けようとしたら、なんだか、届けちゃいけない気がして。それで、この店のことを、思い出して」
十六は、切符を受け取った。手に取った瞬間、指先に、ざわりとした感触が走った。以前、鏡を初めて手にしたときの、あの感覚に、少しだけ似ていた。
月夜が、カウンターの奥から、じっとその切符を見つめていた。今夜の彼女は、めずらしく、緊張しているように見えた。
「これは……」
「知ってるものですか?」と十六が尋ねると、月夜は、小さく頷いた。
「『未来が決まっていない切符』。開店の頃から、うちの商品棚にあったはずのものよ」



第四十四章 行き先のない切符

十六は、記憶を辿った。たしかに、開店したばかりの頃、店の棚に、そんな商品があった。だが、いつの間にか、それは見当たらなくなっていた。売れた記憶も、なかった。
「これ、いつの間に、店から出ていったんでしょう」
「分からない。うちの商品は、時々、そうやって、勝手に出ていくことがあるの。誰かに呼ばれるみたいに」
少年は、不安そうに、二人のやり取りを見ていた。
「あの、これ、危ないものなんですか」
十六は、首を振った。
「危なくは、ないと思います。ただ――少し、不思議な切符です。これを持っていると、まだ起きていない未来が、ほんの少しだけ、見えることがあるそうです」
「未来が、見えるんですか」
「はっきりと、ではありません。ただ、断片みたいなものが、時々、差し込んでくるらしいです」
少年は、しばらく考えてから、言った。
「じゃあ、これ、僕には必要ないです。将来のこと、まだ全然、決めてないから。見えちゃったら、逆に、怖いです」
十六は、少年の言葉に、少し驚いた。
「怖い、ですか」
「だって、先に見えちゃったら、それに向かって、頑張ればいいのか、逆らえばいいのか、分からなくなりそうで」
十六は、その言葉を、静かに、胸の中で反芻した。



第四十五章 預かりもの

「これ、お店で、預かってもらえますか」と少年は言った。「なんとなく、僕が持ってちゃいけない気がするんです」
「分かりました。お預かりします」
少年は、少しほっとした顔をして、店を出ていった。
十六は、切符を、カウンターの上に、そっと置いた。手を離した瞬間――
視界の端に、何かが、一瞬、差し込んだ。
それは、映像というよりも、感覚に近いものだった。この店の、この場所。だが、そこに、月夜の姿が、なかった。カウンターの向こうに立っているのは、十六一人だけだった。
十六は、思わず、切符から手を離した。
「どうしたの?」と月夜が、心配そうに、覗き込んだ。
十六は、しばらく、答えられなかった。
「……いえ。なんでも、ないです」



第四十六章 見えてしまったもの

その晩、十六は、なかなか寝付けなかった。
見えたのは、ほんの一瞬だった。だが、そこには、たしかに、月夜がいなかった。それが、いつのことなのか、なぜそうなったのか、十六には、まったく分からなかった。事故なのか、別れなのか、それとも、もっと別の何かなのか。
考えれば考えるほど、分からなかった。
そして、その「分からなさ」が、以前とは違う種類の重さを持って、十六の胸を押し潰しそうになった。
翌日、十六は、切符を、もう一度、手に取ってみようとした。だが、月夜が、それを、そっと制した。
「もう一度、見るつもり?」
「……気になって、しかたないんです」
月夜は、静かに、首を振った。
「やめておいた方がいい。あなたが見たのは、たぶん、『まだ起きていない、いくつもの未来のうちの、ひとつ』でしかないの。それを、確定した運命だと思い込むのは、危ないことよ」
「でも」
「でも、なに?」
十六は、言葉に詰まった。月夜がいなくなる未来を見てしまった、と、正直に言うべきかどうか、迷った。



第四十七章 言わないという選択

結局、十六は、その晩見たものを、月夜には、話さなかった。
理由は、自分でも、うまく説明できなかった。ただ、それを口にしてしまうと、何か、大切なものが、崩れてしまう気がしたのだ。
「切符は、どうする?」と月夜が尋ねた。
十六は、少し考えてから、答えた。
「このまま、店で、預かっておきます。誰にも、使わせない方が、いいと思います」
「未来を知りたい人が来たら?」
「その人には、正直に言います。『見えるかもしれないけど、それが本当に起きることかどうかは、誰にも分からない』って」
月夜は、少し、笑った。
「あなた、ずいぶん、店主らしくなったわね」
「そうですかね」
「最初は、自分の身に起きたことに、戸惑うばかりだったのに。今は、他人の『わからなさ』を、ちゃんと、扱えるようになってる」
十六は、切符を、店の一番奥、鍵のかかる引き出しの中に、そっとしまった。
「これは、売り物にはしません。ただ、うちで、預かっておきます」



第四十八章 尋ねなかったこと

その夜、店を閉めたあと、十六は、月夜に、ひとつだけ、尋ねた。
「月夜は、自分の未来のこと、知りたいと思いますか」
月夜は、少し考えてから、答えた。
「知りたいような、知りたくないような。――でも、たぶん、知らない方が、いいんでしょうね。わたしは、毎晩、違う自分になる。もし、未来のどこかで、わたしが『いなくなる』日があるとしても――それがいつなのか、知ってしまったら、たぶん、今夜のわたしは、今夜のわたしでいられなくなる」
十六の心臓が、ひやりとした。
「いなくなる、って」
月夜は、少し首をかしげた。
「たとえばの話よ。どうしたの、そんな顔して」
十六は、慌てて、首を振った。
「いえ。……なんでも、ないです」
月夜は、それ以上、深くは聞かなかった。ただ、少しだけ、いつもより長く、十六の顔を見つめていた。



エピローグ 鍵のかかった引き出し

その切符は、それから、二度と、引き出しから出されることはなかった。
十六は、時々、その引き出しの前に立ち、鍵を、じっと見つめることがあった。開けてしまえば、また、あの一瞬が、見えるかもしれない。だが、十六は、もう、それを、見ないことに決めていた。
見てしまった未来が、本当に起きることなのか。それとも、無数にある可能性のひとつに、過ぎないのか。それは、誰にも――全知連合にすら――分からないことだった。
そして、それでいい、と十六は思った。
分からないまま、今夜も、月夜と、この店に立てる。それだけで、十分だった。
ドアベルが鳴った。今夜も、誰かが訪れる。
「いらっしゃいませ。何をお探しですか?」
見上げた窓の外には、今夜もまた、少しだけ欠けた月が浮かんでいた。
満月よりも、ずっと、綺麗だった。
その美しさの理由に、今夜だけは、十六は、あえて、目を伏せた。知らないままでいることの方が、時には、優しさになる。そう、思ったから。
(第八部・完)


作者より:未来を知ることは、時に、今を損なうことがあります。十六夜商店は、これからも、見えてしまったものより、まだ見えていないものを、大切に扱う店であり続けるのだと思います。

十六夜商店

第九部 ――わたしを、預かってくれる?――




第四十九章 いつもと違う夜

夏の終わり、蝉の声が、少しずつ、鈴虫の声に変わり始めていた。
その晩、店を閉めたあと、月夜は、いつまでも、帰ろうとしなかった。カウンターに頬杖をついて、ぼんやりと、店の奥――鍵のかかった引き出しの方を、見つめていた。
「どうしたんです? 今夜は」と十六が尋ねると、月夜は、少し困ったような顔をした。
「今夜のわたし、ちょっと、変なの」
「変、というのは」
「いつもは、夜が変われば、性格も、記憶も、ちゃんと入れ替わる。でも今夜は――昨日のわたしのことも、一昨日のわたしのことも、なんだか、全部、覚えてる気がするの」
十六は、片付けの手を止めた。
「それは……」
「初めてのことよ。これまで、一度も、なかった」
店の中に、夜の静けさが、いつもより重く、降りてきた。



第五十章 積み重なっていくもの

「もしかして」と十六は、慎重に、言葉を選んだ。「この店に来るようになってから、少しずつ、何かが、変わってきてるんじゃ、ないですか」
月夜は、頷いた。
「わたしね、たぶん、この店で、いろんな人の『わからないもの』を見ているうちに――少しずつ、自分の中にも、何かが、積み重なっていってる気がするの。今までは、毎晩、まっさらになってた。でも、今は違う。昨日の記憶が、今夜のわたしの中に、ちゃんと、残ってる」
「それは、いいことなんじゃ、ないですか」
「分からないの。それが、いいことなのか。それとも――」
月夜は、言葉を、途中で止めた。
「それとも?」
「わたしという存在の、仕組みそのものが、壊れかけてる、ということなのかも、しれない」
十六の胸が、ざわりとした。第八部で見た、あの一瞬の光景――月夜のいない、この店の風景が、脳裏をよぎった。
「壊れる、って」
「分からない。本当に、分からないの。でも――もし、わたしが、いつか、『月夜』でいられなくなる日が来るとしたら」



第五十一章 わたし自身

月夜は、しばらく黙り込んでから、ゆっくりと、口を開いた。
「ねえ、十六」
「はい」
「わたしを、預かってくれる?」
十六は、一瞬、言葉の意味が、うまく飲み込めなかった。
「預かるって……何を、ですか」
「わたし自身を」
店の中の空気が、止まったように感じられた。
「それは……」十六は、慎重に言葉を選んだ。「どういう、意味ですか」
「分からない」月夜は、正直に答えた。「わたし自身にも、うまく説明できないの。ただ――このまま、いつか、わたしが『わたし』でなくなる日が来るとしたら。その前に、今の、この気持ちを、この夜を――どこかに、置いておきたい。この店の、他の商品と、同じように」
十六は、しばらく、答えられなかった。
「それは……商品じゃ、ないですよ、月夜は」
月夜は、少し笑った。今夜の彼女は、これまで見たどの月夜とも、違う表情をしていた。
「でも、この店は、分からないものを預かる店でしょう?」
十六は、その言葉に、何も、言い返せなかった。



第五十二章 困惑

「……そうでしたね」
十六は、ようやく、そう答えた。だが、頷くことは、できなかった。
「でも、月夜を、あの棚に置くわけには、いきません。あなたは、物じゃない」
「じゃあ、どうすればいいの」
十六は、必死に、考えた。これまで、この店で扱ってきた「わからないもの」――答えのない質問、片方だけの靴、宛先のない手紙、まだ名前のない感情。そのどれもが、誰かの人生の、行き場を失った欠片だった。
だが、月夜は、欠片ではなかった。
月夜は、今、ここに、生きて、目の前にいる。
「月夜」十六は、はっきりと、言った。「あなたを、商品にすることは、できません」
月夜の表情が、少し曇った。
「それじゃあ、わたしは、この不安を、どこに置けばいいの」
十六は、深く、息を吸った。
「置く場所は、必要ないと思います」



第五十三章 待つということ

「置く場所が、必要ない、って」と月夜は、戸惑った顔をした。
十六は、ゆっくりと、言葉を続けた。
「月夜が、いつか、『月夜』でなくなる日が、来るのかもしれません。それは、俺にも、分かりません。全知連合にも、たぶん、分からない。でも――」
十六は、少し、間を置いた。
「もし、そういう日が来たとしても。俺は、その日も、店を開けて、待ってます。今夜のあなたが、どんなあなたであっても。明日のあなたが、まったく違うあなたであっても。あるいは、あなたが、『わたしが誰なのか分からない』という顔で、このドアを開けたとしても――俺は、『いらっしゃいませ』って、言います」
月夜は、じっと、十六を見つめていた。
「それは……答えに、なってないんじゃない?」
「なってないと思います」十六は、少し笑った。「でも、この店、そういう店ですから」
月夜は、しばらく、黙っていた。そして、目に、うっすらと、涙を浮かべた。今夜の彼女にとって、それは、おそらく、初めて見せる涙だった。
「ずるいわね、それ」
「よく、言われます」



第五十四章 十六夜の約束

「じゃあ」月夜は、涙を拭いながら、言った。「わたしのこの不安は、どこにも、預けられないまま?」
十六は、首を振った。
「いえ。――俺が、預かります。商品としてじゃなく」
「どうやって」
「覚えておく、というのは、どうでしょう。今夜、あなたが、こうやって、不安を口にしたこと。それを、俺が、忘れずに、覚えておきます。もし、いつか、月夜が、今夜のことを忘れてしまっても――俺が、代わりに、覚えています」
月夜は、しばらく、十六を見つめていた。
「それは、この店のやり方じゃ、ないんじゃない? わたしたち、『わからないまま、それでいい』が、モットーだったはずよ」
「ええ。だから、俺は、月夜がなぜ不安になったのか、その理由までは、分からないままでいいと思ってます。全知連合にも、分からない。俺にも、分からない。でも――『月夜が、今夜、不安だった』という事実だけは、分かってます。それだけは、覚えておきます」
月夜は、長い沈黙のあと、小さく、頷いた。
「――分かった。それなら、いい」



エピローグ ためらいがちに昇る月

その夜、二人は、いつまでも、店のカウンターで、並んで座っていた。
窓の外には、少しだけ欠けた月が、いつもより、ゆっくりと、昇ってきていた。
「ねえ、十六」
「はい」
「昔、木工職人さんが、言ってたでしょう。十六夜の月は、満月よりも、出るのが遅れるって。ためらいがちに出るから、待たせるから――出てきたときに、ああ良かったと思うって」
「覚えてます」
月夜は、月を見上げながら、静かに、言った。
「わたしも、そうなのかもしれない。ためらいがちに、少しずつ、この店に、居場所を、見つけていってるのかも」
十六は、頷いた。
「だったら、俺は、ずっと待ってます。あなたが、ためらいがちにでも、ここに、辿り着くのを」
月夜は、何も、言わなかった。ただ、静かに、十六の隣で、少し欠けた月を、いつまでも、見上げていた。
満月よりも、ずっと、綺麗だった。
その理由は、今夜、初めて、はっきりとした形を持った気がした。
――待たせるものほど、辿り着いたときに、美しい。
(第九部・完)


作者より:ある人にとって、誰かを待つということは、答えを知ることよりも、ずっと、大きな贈り物になるのだと思います。十六夜商店は、これからも、そういう「待つこと」を、そっと、扱う店であり続けます。

十六夜商店

第十部 ――返されなかった鍵――




第五十五章 小さな違和感

秋が深まった、ある平日の昼下がりだった。
十六は、開店前の店内で、棚の埃を払っていた。月夜は、カウンターの向こうで、コーヒーを淹れている。今夜――ではなく、今日の月夜は、朝から店にいた。珍しいことだった。
「ねえ、十六」
「はい」
「この瓶、昨日もここに、ありましたよね」
月夜が指したのは、「答えのない質問」の瓶が並んでいた場所の隣、空いたままの一角だった。以前、そこには別の瓶があったが、先週、客に譲ってからは、空いたままになっていた。
十六は、手を止めた。
「ええ、そうですけど……よく、覚えてますね」
月夜は、一瞬、きょとんとした顔をした。
「そう、かしら。……なんとなく、そう思っただけ」
十六は、それ以上、深く聞かなかった。ただ、埃を払う手を、少しの間、止めていた。



第五十六章 鍵を持った男

その日の夕方、一人の男が、店に入ってきた。
三十代半ば、スーツ姿。仕事帰りらしく、少し疲れた顔をしている。手には、小さな鍵が一本、握られていた。
「いらっしゃいませ。何をお探しですか?」
男は、しばらく、言葉を選ぶように、黙っていた。
「探してる、というより……これを、どうすればいいか、分からなくて」
男は、鍵を、カウンターに置いた。ごく普通の、家の合鍵だった。ただ、持ち手の部分に、小さな、色褪せたリボンが結ばれている。
「これは?」
「元恋人の、家の鍵です。三年前に、別れました。渡すタイミングを、逃したまま、ずっと、持ってるんです」
「返しに行かなかったんですか」
「行こうとは、しました。何度も。でも、行くたびに、理由をつけて、やめてしまって」
十六は、鍵を、手に取った。ずっしりとした重みが、ただの金属以上のものを、含んでいるように感じられた。



第五十七章 返せない理由

「今も、その方は、同じ家に、住んでるんですか」と十六は尋ねた。
男は、首を振った。
「いえ。もう、引っ越してます。風の噂で、聞きました。だから、この鍵は、もう、どこの扉も開けられません」
「それなら――」
「捨てればいい、って、分かってるんです」男は、少し、自嘲するように笑った。「でも、できないんです。この鍵を捨てたら、本当に、何もかも、終わってしまう気がして」
十六は、月夜の方を見た。月夜は、静かに、男の話を聞いていた。
「返さなかったのは、なぜだと、思いますか」と十六は、慎重に尋ねた。
男は、しばらく、考えていた。
「たぶん……返しに行くという行動そのものが、『もう終わったこと』を、認めることになるからだと、思います。鍵を持っている限り、どこかで、まだ、繋がっている気がしていられた」



第五十八章 開かずの扉

「これ、うちで、預かりましょうか」と十六は言った。
男は、少し、驚いたような顔をした。
「預かって、どうするんですか。どこにも、開けられない鍵ですよ」
「開けられなくても、いいんです。この店には、そういうものが、たくさんあります」
十六は、これまで店に集まった品々を、思い浮かべた。答えのない質問。片方だけの靴。宛先のない手紙。まだ名前のない感情。どれも、「使えないもの」ではあったが、「意味のないもの」では、なかった。
男は、しばらく、鍵を見つめていた。
「これを手放したら、俺、あの人のことを、本当に、忘れてしまうんじゃ、ないでしょうか」
十六は、首を振った。
「鍵を手放すことと、思い出を手放すことは、たぶん、違うと思います。鍵がなくても、思い出は、あなたの中に、ちゃんと、残ります」
男は、その言葉を、しばらく、噛みしめるように、黙っていた。
「……そう、なんでしょうか」
「分かりません。俺にも、正直、確信は、ありません。でも――そう思っておいた方が、少なくとも、鍵を持ち続けているより、楽になれる気がします」



第五十九章 鍵を置いていく

男は、長い沈黙のあと、ゆっくりと、頷いた。
「預かって、もらえますか」
「はい」
「お代は……」
十六は、いつもの台詞を、口にしようとした。だが、男の状況を考えると、「答えが見つかったら教えに来てください」という約束は、少し、重すぎる気がした。
「今日、ここに来るまでに、どれくらい、迷いました?」
「三年間、ずっと」
「では、その三年間の迷いを、お代として、いただきます」
男は、少し、笑った。今日、初めて見せた、心からの笑顔だった。
「変な店ですね」
「よく、言われます」
男が帰ったあと、十六は、鍵を、カウンターの上に、そっと置いた。



第六十章 鍵置き場

「これ、どこに、置きましょうか」と十六が月夜に尋ねると、月夜は、少し考えてから、答えた。
「入り口の靴の、隣は、どう?」
十六は、頷いた。「片方だけの靴」があった場所――今は、一組の靴が、そっと佇んでいる、あの場所に、鍵を、並べて置いた。
「開かない鍵と、行き場を失った靴。並べると、なんだか、仲間みたいですね」
「そうね」月夜は、少し、微笑んだ。「そのうち、こういうものだけで、棚が、いっぱいになるかもしれない」
「困りますね、それは」
「困らないでしょう、あなたは」
十六は、苦笑した。
その時、月夜が、ふと、小さく、呟いた。
「あの人、また来るかもしれないわね。鍵を返しに」
十六は、少し、驚いた。
「返しに、来る? どこに帰したらいいか、分からないって、言ってましたよね」
月夜は、一瞬、自分の言葉に、戸惑ったような表情を、見せた。
「そう、だったかしら。……なんとなく、そんな気が、しただけ」
十六は、その言葉を、静かに、心の中に留めた。何かが、少しずつ、変わり始めている。そう、感じながら。



エピローグ 静かな確信

その夜、店を閉めたあと、十六は、鍵と靴が並んだ棚を、じっと見つめていた。
月夜が、今日、二度、「なんとなく」という言葉で、何かを、覚えていた。それが、偶然なのか、それとも――
十六は、確かめることを、しなかった。尋ねないことも、この店の、大事な作法だったから。
だが、心の奥で、小さな確信が、静かに、育ち始めていた。
窓の外には、今夜もまた、少しだけ欠けた月が、浮かんでいた。
満月よりも、ずっと、綺麗だった。
今夜の理由は、まだ、言葉には、ならなかった。ただ、十六は、その理由が、少しずつ、形を持ち始めていることだけは、分かっていた。
(第十部・完)


作者より:気づいても、すぐには確かめない。そういう優しさも、この世には、あるのだと思います。十六夜商店は、これからも、小さな変化を、そっと、見守り続けます。

十六夜商店

第十一部 ――書きかけの日記――




第六十一章 名前を呼ぶ

十一月に入り、店の窓には、結露が浮かぶようになっていた。
その日の最初の客は、静かに店を出ていった。名前も、名乗らなかった。ただ、探し物ではなく「もう読み返さなくていい古い写真」を、そっと置いていっただけの、ごく短い訪問だった。
客が帰ったあと、月夜が、片付けをしながら、ふと、呟いた。
「谷口さん、また来るといいわね」
十六は、手を止めた。
「谷口、さん?」
月夜は、きょとんとした顔をした。
「え? 今の人、そういう名前じゃ、なかった?」
十六は、記憶を辿った。その客は、名乗っていない。カルテのようなものも、この店には、ない。だが――たしかに、三日前に来た、また別の客が、「谷口」と名乗っていたのを、十六は覚えていた。
「谷口さんは、三日前に来た、別の方ですよ。今日の人とは、違います」
月夜は、しばらく、黙っていた。
「……そう、だったかしら。ごめんなさい、勘違いね」
だが、その声には、いつもの「なんとなく」とは、少し違う、戸惑いの色が、混じっていた。



第六十二章 日記帳の客

夕方、ドアベルが鳴った。入ってきたのは、四十代くらいの女性だった。
手には、古い、皮の日記帳を抱えている。表紙は、ずいぶんと使い込まれているのに、ページの多くは、白紙のままのように見えた。
「いらっしゃいませ。何をお探しですか?」
女性は、日記帳を、カウンターに置きながら、静かに言った。
「これ、二十年前に、書き始めたものなんです。でも――途中で、やめてしまって」
十六は、日記帳を、そっと開いてみた。最初の数ページだけ、丁寧な字で、日々の出来事が綴られている。だが、ある日を境に、ぱたりと、記述が途切れていた。
「何か、きっかけがあったんですか」
女性は、少し、目を伏せた。
「あの日、書くのをやめました。理由は――今でも、うまく、言えないんです。ただ、なんとなく、これ以上、自分の気持ちを、文字にするのが、怖くなった気がします」



第六十三章 書けなかった続き

「今、続きを、書きたいと思いますか」と十六は尋ねた。
女性は、しばらく、考えていた。
「書きたいような、書けないような。……正直、自分でも、よく分からないんです。ただ、この日記帳を、家に置いておくと、いつも、そのページの白さが、目に入ってしまって」
十六は、月夜の方を見た。月夜は、いつになく、真剣な表情で、日記帳を見つめていた。
「うちで、預かりましょうか」と十六は、提案した。
「預かって、どうするんですか」
「このまま、白紙のまま、お預かりします。もし、いつか、続きが書きたくなったら、また、いらしてください。そのときは、ここで、続きを、書いていただいても、構いません」
女性は、少し、驚いたような顔をした。
「ここで、書くんですか」
「はい。この店には、そういう、場所も、あります」



第六十四章 二十年分の白紙

女性は、しばらく、日記帳を、見つめていた。
「あの日、何があったか――話しても、いいですか」
十六は、頷いた。
「二十年前、大切な人と、大きな喧嘩をしました。売り言葉に買い言葉で、ひどいことを、たくさん言ってしまって。その夜、日記に、そのことを、書こうとしたんです。でも――書き始めたら、自分がどれだけ、ひどいことを言ったか、文字にすることで、はっきりしてしまう気がして。それが、怖くて、書けなかった」
「その方とは、今、どうなってるんですか」
「仲直りは、しました。もう、随分、昔のことです。でも、この日記帳だけが、あの日のまま、止まってる」
十六は、静かに、頷いた。
「日記が止まっていることと、あなたと、その方の関係が、止まっていることは、たぶん、別のことだと思います」
女性は、その言葉に、少し、目を潤ませた。
「分かってはいるんです。でも、この白いページを見るたびに、なんだか、あの日の自分に、まだ、追いつかれてる気がして」



第六十五章 預かるという選択

「これ、お預かりします」と十六は、日記帳を、そっと、手元に引き寄せた。
「本当に、いいんですか」
「ええ。続きは、書いても、書かなくても、いいと思います。ただ、この白いページを、家で、毎日、見なくてよくなるだけでも、少しは、楽になるんじゃないかと思います」
女性は、深く、頭を下げた。
「お代は……」
十六は、少し、考えてから、答えた。
「今日、ここに来る前に、その方に、電話でも、しましたか」
女性は、驚いた顔をした。
「……はい。実は、来る前に、少しだけ、電話で、話しました。特に用事は、なかったんですけど、なんとなく」
「では、それを、お代として、いただきます。二十年ぶりに、理由のない電話をかけた、その気持ちを」
女性は、少し、笑った。
「本当に、変な店ですね」
「よく、言われます」



第六十六章 棚が増えていく

女性が帰ったあと、十六は、日記帳を、棚に並べようとして、ふと、手を止めた。
先ほどの、月夜の「谷口さん」という言葉が、まだ、心の中に、残っていた。
「月夜」
「なに?」
「さっきの、谷口さんのこと、なんですけど」
月夜は、少し、表情を、曇らせた。
「ああ……ごめんなさい、あれは、本当に、勘違いだったと思う」
「いえ、責めてるわけじゃ、ないんです。ただ――」
十六は、言葉を、選んだ。
「最近、月夜が、前の日のことを、覚えてるみたいなことが、何度か、あった気がして」
月夜は、しばらく、黙っていた。それから、静かに、答えた。
「……わたしも、実は、少し、そんな気がしてる」
十六は、それ以上、深くは、聞かなかった。ただ、月夜の言葉を、静かに、受け止めた。



エピローグ 止まったページ、動くページ

その夜、十六は、預かった日記帳を、店の奥の棚――鍵と靴が並んだ場所の、隣に、そっと置いた。
「そのうち」と月夜が言った。「この店、預かりもので、埋め尽くされるかもしれないわね」
「困りますね、本当に」
「でも」月夜は、少し、微笑んだ。「悪くない、埋まり方だと思う」
十六は、日記帳の、白いページを、もう一度、開いてみた。二十年分の、書かれなかった言葉が、そこには、静かに、眠っていた。
窓の外には、今夜もまた、少しだけ欠けた月が、浮かんでいた。
満月よりも、ずっと、綺麗だった。
十六は、隣に立つ月夜を、そっと、見た。彼女もまた、この白いページのように、少しずつ、何かを、書き込まれ始めているのかもしれない。
そう思うと、その美しさは、今夜、少しだけ、切ないものに、感じられた。
(第十一部・完)


作者より:書けなかったページも、白いまま、大切にしまっておいていい。そう思えるだけで、少し、楽になれることが、この世には、あるのだと思います。

十六夜商店

第十二部 ――名前のない子――




第六十七章 転んだ日のこと

師走の声を聞くようになった、ある朝のことだった。
十六は、開店の準備をしながら、少し、足を引きずっていた。数日前、店の裏で、荷物を運んでいる最中に、段差に躓いて、したたかに膝を打っていた。誰にも、言っていないことだった。
月夜が、コーヒーを運んできながら、ふと、言った。
「膝、まだ、痛む?」
十六は、驚いて、顔を上げた。
「……なんで、知ってるんですか。誰にも、言ってないのに」
月夜は、自分でも、不思議そうな顔をした。
「あなたが、先週、店の裏で、転んだこと。……わたし、見てないはずなのに、なぜか、覚えてるの」
十六は、しばらく、何も、言えなかった。あの日、店にいたのは、十六一人だった。月夜は、その日、来ていなかったはずだった。
「その日、月夜は、店に、いませんでしたよね」
月夜は、頷いた。
「そのはずなの。でも――なぜか、知ってる。あなたが、右足を、少し、引きずって歩いてたことも」
十六は、何も、言わなかった。ただ、心の中で、小さな確信が、また一つ、育っていくのを、感じていた。



第六十八章 小さな来店者

その日の午後、店に、若い夫婦が、訪れた。
女性は、少し、お腹が大きかった。男性は、緊張した面持ちで、彼女に、寄り添っていた。
「いらっしゃいませ。何をお探しですか?」
夫婦は、しばらく、顔を見合わせてから、女性の方が、口を開いた。
「探し物じゃ、ないんです。……相談に、乗ってもらえますか」
十六は、二人を、カウンターの椅子に、案内した。
「わたしたち、五年前に、一人、子供を、亡くしているんです」
十六は、静かに、頷いた。
「お腹の中で、その子は、まだ、生まれてくることが、できませんでした。名前を、考えてはいたんです。でも、まだ、決めきれないうちに――」
女性は、言葉を、途中で、止めた。男性が、そっと、彼女の肩に、手を置いた。



第六十九章 考えていた名前

「今、こうして、また、新しい命を、授かることができました」と女性は、お腹に、そっと手を当てながら、続けた。「嬉しいんです。本当に。でも、同時に――あの子のことを、思い出さない日は、ないんです」
十六は、黙って、話を聞いていた。
「名前を、つけてあげたいと、ずっと、思ってました。生まれてこなかった、あの子に。でも――誰かに言われたんです。『もう、忘れて、前を向いた方がいい』って。それから、名前をつけることが、なんだか、いけないことのように、思えてしまって」
十六は、少し、考えてから、尋ねた。
「その名前、今も、覚えてますか」
女性は、頷いた。目に、うっすらと、涙が、浮かんでいた。
「はい。ずっと、心の中に、あります。でも、口に出すのが、怖いんです。声に出したら、また、あの日の悲しみが、戻ってきそうで」



第七十章 名づけるということ

十六は、月夜と、目を合わせた。月夜は、静かに、頷いた。
「この店には」と十六は、ゆっくりと、言葉を選びながら、言った。「まだ、名前のない感情を、置いていく場所が、あります。でも、今日、お二人が、お持ちなのは――もう、名前が、決まっている。ただ、それを、言葉にする、勇気だけが、必要なんだと、思います」
女性は、十六を、じっと、見つめた。
「ここで、言っても、いいんですか」
「はい。ここでなら、誰にも、咎められません。忘れろとも、言われません。ただ、その名前を、この店が、聞かせていただきます」
女性は、しばらく、震える声で、黙っていた。それから、静かに、口を開いた。
「――陽菜(ひな)、です」
店の中に、その名前が、静かに、響いた。
「陽菜。……いい、名前ですね」と十六は、言った。
女性は、涙を、堪えきれずに、流した。男性も、目を、潤ませていた。



第七十一章 棚に置くもの

「これを」と十六は、静かに、続けた。「店の、大切な場所に、置かせていただいても、よろしいでしょうか。物ではなく――今、聞かせていただいた、その名前を」
女性は、驚いた顔をした。
「名前を、置く、ということが、できるんですか」
「分かりません」十六は、正直に、答えた。「でも、この店には、そういうことが、できる気がするんです。物ではないものを、預かる場所が、たしかに、あります」
女性は、しばらく、考えてから、頷いた。
「お願い、します」
十六は、店の奥、まだ名前のない感情の入っていた、あの木箱の隣に、心の中で、静かに、その名前を、置いた。目には、見えないものだったが、たしかに、そこに、何かが、留まった気がした。
女性は、お腹を、そっと、撫でながら、言った。
「この子にも、いつか、お姉ちゃんのことを、話してあげられる気がします」



第七十二章 お代のいらないもの

夫婦が帰る際、十六は、いつものように、お代の話を、しようとした。だが、途中で、言葉を、止めた。
「今日は、お代は、いただきません」
「でも……」
「今日、いただいたのは、名前だけです。それは、俺たちの店にとっても、大切な、贈り物でした。お代は、いりません」
夫婦は、深く、頭を下げて、店を、出ていった。
月夜が、静かに、隣に、立った。
「いいことしたわね、今日は」
「そうですかね」
「ええ」月夜は、木箱の方を、見つめながら、続けた。「名前を、預かるっていうのは、この店にとって、初めてのことだったと思う」
十六は、頷いた。それから、ふと、思い出したように、月夜に、尋ねた。
「月夜は、名前、持ってますよね」
月夜は、少し、驚いた顔をした。
「……そうね。『月夜』が、わたしの、名前」
「それは、誰が、つけたんですか」
月夜は、しばらく、黙っていた。そして、静かに、答えた。
「――分からない。でも、今、少しだけ、思い出せそうな、気がする」



エピローグ 思い出せそうな気配

その夜、月夜は、いつもより、長く、店に、留まっていた。
「大丈夫ですか」と十六が尋ねると、月夜は、少し、笑った。
「大丈夫。ただ――今日、あの人たちが、名前を、口にするのを、見てたら。わたしにも、誰かが、この名前を、つけてくれた瞬間が、あったはずだって、思えてきたの。それが、誰だったのか、まだ、思い出せないんだけど」
十六は、何も、言わなかった。ただ、静かに、月夜の、隣に、立っていた。
窓の外には、今夜もまた、少しだけ欠けた月が、浮かんでいた。
満月よりも、ずっと、綺麗だった。
「ねえ、十六」
「はい」
「わたしの名前を、つけてくれたのが、誰だったのか。いつか、思い出せたら――ちゃんと、あなたに、話すわね」
十六は、頷いた。
「待ってます。ためらいがちに、辿り着くのを」
月夜は、静かに、微笑んだ。その微笑みは、今夜、いつもよりも、少しだけ、人間らしく、見えた。
(第十二部・完)


作者より:名前を呼ぶということは、その存在を、確かに、この世に、留めておくことなのだと思います。十六夜商店は、これからも、まだ声にできない名前たちを、そっと、預かり続けます。

十六夜商店

第十三部 ――使われなかった切符――




第七十三章 同じ言葉

年の瀬が近づき、店の前の通りにも、イルミネーションが灯るようになっていた。
その日の朝、十六が店を開けると、月夜は、すでにカウンターに座って、窓の外を、眺めていた。
「おはようございます」
「おはよう」月夜は、振り向いて、続けた。「今日は、寒くなりそうね。灯油、切らさないようにしないと」
十六は、一瞬、手を止めた。
――その台詞、昨日も、聞いた。
まったく同じ言葉を、まったく同じ調子で、昨日の月夜も、口にしていた。
「月夜、それ、昨日も、言ってましたよ」
月夜は、少し、驚いた顔をした。
「そう、だったかしら」
「一言一句、同じでした。『今日は、寒くなりそうね。灯油、切らさないようにしないと』って」
月夜は、しばらく、黙っていた。それから、静かに、自分の手のひらを、見つめた。
「……前の日に、自分が、何を考えていたのか。最近、目が覚めると、なんとなく、分かる気がするの。そのまま、口に出てしまうことが、あるみたい」
十六は、それ以上、何も、言わなかった。ただ、灯油のタンクを、静かに、確認しに行った。



第七十四章 旅行の切符

その日の午後、店に、一人の男性が、訪れた。年齢は、五十代半ばくらいだろうか。手には、古い、二枚綴りの切符を、握っていた。
「いらっしゃいませ。何をお探しですか?」
男性は、切符を、カウンターに、置いた。ずいぶんと、色褪せた、鉄道の乗車券だった。日付は、二十年以上前のものだった。
「これ、妻と、二人で、旅行に行くはずだった、切符なんです」
「行かれなかったんですか」
男性は、頷いた。
「出発の、前日に、妻の父親が、倒れました。急いで、実家に、駆けつけることになって。旅行は、キャンセルするしかなかった」
「それで、切符は」
「払い戻しも、できたはずです。でも、なぜか、そうしなかった。ずっと、財布の中に、入れたまま、持ち歩いてました」



第七十五章 行けなかった場所

「その旅行、その後、行かれたんですか」と十六は、尋ねた。
男性は、静かに、首を振った。
「行こう、行こうと、何度も、話しては、いたんです。でも、いつも、何かしらの理由で、後回しになって。子供が生まれたり、仕事が忙しくなったり。そうこうしているうちに――」
男性は、言葉を、途中で、止めた。
「妻は、五年前に、病気で、亡くなりました」
十六は、静かに、頷いた。
「結局、あの旅行には、二人で、行けずじまいでした。この切符だけが、ずっと、あのときのまま、財布の中に、残ってます」
十六は、切符を、そっと、手に取った。行き先の欄には、海沿いの、小さな温泉町の名前が、印字されていた。



第七十六章 代わりに行く場所

「うちで、預かりましょうか」と十六は、提案した。
男性は、しかし、少し、違う表情を、見せた。
「いえ――今日は、預けに来たわけじゃ、ないんです」
「と、いいますと」
「この店の噂を、聞いたとき、思ったんです。もしかしたら、この切符で、あの日、行けなかった場所に、今からでも、行けるんじゃないか、って」
十六は、少し、困った顔をした。
「すみません。うちの店に、時間や、場所を、動かす力は、ありません。この切符も、もう、当時の乗車券としては、使えないと思います」
男性は、少し、俯いた。
「そう、ですよね。分かっては、いたんです。ただ――もしかしたら、って」
十六は、しばらく、考えた。それから、静かに、口を開いた。
「切符自体は、もう、使えません。でも――もし、よろしければ、今からでも、その温泉町に、一人で、行ってみては、どうでしょうか」



第七十七章 新しい切符

男性は、顔を上げた。
「一人で、ですか」
「はい。同じ、電車には、乗れないかもしれません。でも、同じ場所には、今からでも、行けます。奥様と、行くはずだった場所に、今度は、奥様の分まで、見て、帰ってくる。それも、悪くないんじゃないかと、思います」
男性は、しばらく、黙って、考えていた。
「この古い切符は、どうしたら、いいでしょうか」
「これは、うちで、お預かりします。代わりに――」
十六は、店の引き出しから、一枚の、白紙の紙片を、取り出した。それに、自分で、簡単な文字を、書き込んだ。
『これは、いつか、あなたが、あの町に行ったことを証明する、たった一枚の切符です』
「新しい切符、というわけには、いきませんが。行ってきたときの、証を、お渡しできればと」



第七十八章 お代

男性は、その紙片を、大事そうに、受け取った。
「行ってみます。妻の分まで」
「お代は」と十六は、続けようとした。
「今回は」男性は、先回りするように、言った。「行ってきてから、また、来ても、いいですか。そのときに、お代を、払わせてください」
十六は、頷いた。
「お待ちしてます」
男性が帰ったあと、十六は、古い切符を、そっと、棚に置いた。鍵と靴と、日記帳と、名前のない子への想いが、静かに並んだ、あの場所に。
月夜が、その様子を、じっと、見ていた。
「あの人、ちゃんと、行くと、思う?」
「分かりません。でも、行けたら、いいなと思います」



エピローグ 繰り返す言葉

その夜、店を閉めながら、十六は、ふと、月夜に、尋ねた。
「今日、俺が、さっき言った言葉、覚えてますか」
月夜は、少し、考えた。
「『行けたら、いいなと思います』?」
「はい」
月夜は、頷いた。
「不思議ね。前は、こういうこと、次の日には、忘れてたはずなのに」
十六は、静かに、頷いた。
「月夜も、同じことを、昨日、俺に言ったこと、覚えてますか」
月夜は、しばらく、記憶を辿るように、目を閉じた。
「……なんとなく、分かる気が、する。あなたに、似たようなことを、言った気が、する」
十六は、それ以上、深く、聞かなかった。ただ、その変化を、静かに、受け止めていた。
窓の外には、今夜もまた、少しだけ欠けた月が、浮かんでいた。
満月よりも、ずっと、綺麗だった。
「ねえ、十六」
「はい」
「わたし、少しずつ、昨日のわたしに、追いついてきてる気がするの。それが、いいことなのか、怖いことなのか――まだ、分からないけど」
十六は、静かに、答えた。
「分からないままで、いいと思います。それが、うちの店の、専門ですから」
月夜は、小さく、笑った。
(第十三部・完)


作者より:行けなかった場所には、誰かの分まで、今からでも、行くことができます。十六夜商店は、そんな、少し遅れた旅立ちも、静かに、見送り続けます。



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十六夜(いざよい)商店

―― 知恵の哀しみ、あるいは全知計画顛末記 ――


まえがき

世の中には、知らなくてもいいことが、たしかにある。
手品のタネを知ってしまうくらいなら、まだいい。だが、もし、この世界のすべての「タネ」が見えてしまったら――人は、驚けなくなる。感動できなくなる。ただ、答えの出ているクイズのような日々を、生きることになる。
この物語は、そんな「知恵の哀しみ」から、始まります。
けれど、これは、知ることを否定する物語では、ありません。むしろ、知ってしまった人間が、もう一度、「わからないこと」の豊かさに、辿り着いていく物語です。
答えのない質問。片方だけの靴。宛先のない手紙。まだ名前のない感情――。
この店に集まってくるのは、どれも、解決されることを、望んでいないものたちです。ただ、少しの間、誰かに、そっと、抱きしめておいてほしいだけの、人生の欠片たち。
そして、そんな店を営む二人もまた、わからないことを、たくさん、抱えたまま、生きています。
十八部にわたる、少し長い物語です。どうか、急がずに、ためらいがちに、少しずつ、読み進めていただければと思います。
満月よりも、十六夜の月の方が、綺麗だと言われます。
その理由を、この物語の中に、探していただけたら、これほど嬉しいことは、ありません。
それでは――いらっしゃいませ。何を、お探しですか。





プロローグ 手品のタネ

世の中には、知らなくてもいいことというのが、たしかに存在する。
たとえば、目の前で消えたはずのハトが助手の上着の裏に仕込まれていたと知ること。たとえば、隣の部署の課長が実は週に三度も競馬場にいると知ること。たとえば――
鏡月十六(かがみづき じゅうろく)、三十六歳、独身、経理課勤続十一年。彼が知ってしまったのは、そのどれでもなかった。
もっと厄介なものだった。
「世界の、タネ」だ。



第一章 骨董市の鏡

事の起こりは、三月にしては妙に生暖かい日曜日、代々木の骨董市だった。
十六は特に何かを探していたわけではない。ただ、独り身の週末というのは時間を持て余すもので、彼はよく当てもなく歩いた。骨董市に来たのも、コーヒーの匂いに釣られただけだった。
その屋台の隅に、それはあった。
古びた手鏡。柄の部分に、蔦のような模様が彫られている。値札には「江戸期・和鏡(推定) 三千円」とだけ書かれていた。店主の老人は居眠りをしていて、十六が手に取っても目を覚まさなかった。
裏返してみる。鏡面は妙に曇っていて、自分の顔がぼんやりとしか映らない。
――なんだ、これは。
そう思った瞬間だった。
鏡の曇りの奥で、何かが「ピッ」と小さく鳴った。
十六は驚いて鏡を落としかけた。慌てて両手で抱え直す。老人は相変わらず眠っている。周囲の誰も気づいていない。
もう一度、恐る恐る鏡を覗き込む。
すると――見えたのだ。
隣の屋台で売られている「本物の古伊万里」という皿が、実は昨日どこかの工場でこしらえられたばかりの複製品であることが。焼き上がりの温度ムラ、釉薬の配合比、それを作った職人の疲労度合いまでもが、まるで設計図を見るように、頭の中に流れ込んできた。
「……は?」
十六は自分の目を疑った。しかし疑う間もなく、次から次へと「タネ」が見えてしまう。
道端で手品をしているストリートパフォーマーのコインが、実はマグネット式の特殊コインであること。
向かいのカフェの「本日のスープ」が、実は三日前から寸胴で継ぎ足されていること。
すれ違ったカップルの女の方が、内心「もうこの人とは無理かもしれない」と思いながら、笑顔を作っていること。
――待て。待ってくれ。これはさすがに、知らなくていいことだ。
十六は鏡を鞄に突っ込み、老人に三千円を叩きつけるように払うと、逃げるようにその場を後にした。



第二章 世界がつまらなくなる

その日から、十六の世界は一変した。
会社に行けば、同僚の愛想笑いの裏にある本音が透けて見える。上司の「頑張ってるな」という激励が、実のところ「こいつを異動させる口実を探している最中」であることが分かってしまう。
テレビをつければ、CMのタレントの契約金額から、バラエティ番組の「やらせ」の分量まで、何もかもが丸裸になって見えてしまう。
推理小説を読めば、三ページ目で犯人が分かってしまう。手品ショーを見れば、仕掛けが先に見えてしまう。恋愛映画を見れば、脚本家がどこで観客を泣かせようとしているか計算式のように分かってしまう。
――知恵とは、こんなにも、哀しいものだったのか。
十六はある夜、コンビニで買った缶チューハイを片手に、ベランダでぼんやりと呟いた。
面白いはずだったものが、面白くなくなる。それは、手品のタネを知ってしまったのとは、ちょっとばかり違う感覚だった。手品ならまだいい。「へえ、そうだったのか」で笑って済ませられる。
だがこれは、生きること全体のタネが見えてしまうということだった。人が笑う理由、人が怒る理由、人が誰かを好きになる理由――そのすべてが、機構図のように、無粋に、無慈悲に、頭の中で分解されてしまう。
十六はこの鏡を、二度と使うまいと心に決めた。
しかし、鏡はもう、彼の中に住み着いてしまっていた。
使う、使わないの問題ではなかった。見えてしまうのだ。世界の縫い目が、常に。



第三章 わからない生き物

そんな十六にも、たったひとつだけ、鏡が「見せてくれない」ものがあった。
女、というものだ。
正確に言えば、鏡は女性の行動の「表面的な仕組み」――何を買ったか、何を食べたか、口紅のブランドが何か――は見せてくれる。だが、「なぜ、その人が、その瞬間に、その感情を選んだのか」という核心だけは、決まって曇ったまま、何も映さなかった。
これは十六にとって、奇妙な救いだった。
会社の後輩、朝霧(あさぎり)さんが、月曜は妙にそっけなく、木曜になると急に機嫌がよくなる。その理由を、十六の中の鏡は――計算しようとしても、計算できなかった。
「まあ、それもそれで、いいか」
十六は、まだまだ自分がこの世の「女という生き物」について、見習い中なのだと思うことにした。全知全能になりかけている自分の中に、まだ分からないものがひとつでも残っているというのは、思いのほか、心を軽くしてくれた。
そんな折、彼は妙な女に出会う。



第四章 夜ごと姿を変える女

深夜二時。眠れずに近所のコインランドリーに向かった十六は、そこで一人の女を見た。
年の頃、二十代後半から三十代のどこか。乾燥機の前に座り、文庫本を読んでいる。
十六の中の鏡が、反射的に彼女の「タネ」を読み取ろうとした。
――が、何も出てこない。
いや、正確には、出てくるには出てくるのだが、その内容がまるで意味をなさなかった。
『対象:女性。年齢:推定不能(変動)。職業:不明(複数存在)。感情パターン:一致する既知データなし。特記事項――満ち欠けあり』
満ち欠け?
十六が首をひねっていると、女がふと顔を上げ、こちらを見た。
「あなた、見えてるでしょう」
「……は?」
「その鏡。見えてるんでしょう、いろいろと」
心臓が跳ねた。鞄の中の鏡が、かすかに温かくなった気がした。
「わたしは月夜(つきよ)。よろしく」と女は言った。「言っておくけど、わたしを鏡で覗いても無駄よ。わたしは、毎晩ちがう人間になるから」
「は……?」
「今夜のわたしと、明日のわたしは、別人。性格も、記憶の重みも、好きな食べ物さえ変わる。満月の夜のわたしは、やたら気が大きくて、新月の夜のわたしは、ほとんど喋らない。だから、あなたのその鏡じゃあ、わたしのことは一生わからない」
十六は、乾燥機のブザーが鳴るのも忘れて、彼女を見つめていた。
――ああ、これはまずい。これは、深入りしてしまいそうな女だ。
そう直感したのを、はっきりと覚えている。



第五章 全知計画

月夜と名乗る女との会話は、思いがけない方向に転がっていった。
「あの鏡ね、骨董品なんかじゃないの」と彼女は文庫本を閉じて言った。「『観測子(オブザーバー)』っていう、地球外由来の装置」
「地球外……」
「正確には、とある文明が送り込んだ観測用の端末。目的は、この星の『知的生命体が、完全な知識を得たときに、どう壊れるか』を調べること」
十六はコインランドリーの丸椅子にへたり込んだ。
「壊れる、って……」
「あなた、もう気づいてるでしょ。何もかも分かってしまうと、世界はつまらなくなる。それはあなた個人の感傷なんかじゃなくて、宇宙的にわりと普遍的な現象なの。知りすぎた文明は、たいてい滅びる。好奇心をなくして、探求をやめて、緩やかに死んでいく」
「それを、その、送り込んできた連中は……」
「『全知連合』。彼らは逆に、それを利用しようとしてる」
月夜は声を落とした。
「全知連合は、『不完全さ』というものそのものを、宇宙から消し去ろうとしてる。謎、誤差、勘違い、片思い、読み違え――そういう『ノイズ』を全部きれいに刈り取って、完璧に予測可能な、完璧に退屈な宇宙を作ろうとしてるの。もう好き好んで、ではなく――彼ら自身が、かつて知りすぎて、面白みをなくして、それでも止まれなくなった成れの果てだから」
「……なんだか、他人事とは思えない話ですね」
「そうよ。だからこそ、あなたのその鏡が危ないの。それは全知連合が地球に落とした『種』のひとつ。これから先、あなたが知れば知るほど、鏡はあなたを媒介にして、この星の『ノイズ』を吸い上げていく。最終的には――この星ごと、退屈にされる」
十六は、ごくりと唾を飲んだ。
「じゃあ、俺は、どうすれば」
月夜は、乾燥機から取り出したばかりの、まだ温かいタオルを一枚、十六に放って寄越した。
「簡単よ。――知らないままでいる勇気を、思い出すこと」



第六章 十五夜の女、十六夜の女

翌日から、十六は月夜と共に「全知連合」の痕跡を追うことになった――というと大仰だが、実態はもっと滑稽だった。
まず、全知連合の地球担当官を名乗る自称・宇宙人が現れたのだが、それがどう見ても近所の不動産屋の店長にしか見えない中年男で、「いやあ、こちらとしても本部からのノルマがありましてね」とやたら愚痴っぽいのだった。
「今期中に、この銀河系の三パーセントの知的種族を『完全知性化』させないと、査定に響くんですよ」
「査定……」
「ボーナスにも直結しますし。いや、お恥ずかしい話、私も好きでこんな仕事してるわけじゃないんです。若い頃はもっと、こう、詩的なことをやりたかったんですがね」
十六は毒気を抜かれた。宇宙規模の陰謀のはずが、どうにも中間管理職のぼやきにしか聞こえない。
一方の月夜は、日によってまるで別人だった。
ある夜は、やたら攻撃的で、不動産屋もとい宇宙人担当官に食ってかかる。
ある夜は、妙にしんみりとして、十六の話に静かに耳を傾ける。
ある夜は、子供のように無邪気に、コインランドリーの洗濯機を「宇宙船」に見立てて遊びだす始末。
「あなた、今日はどの月夜さんなんですか」と十六が尋ねると、彼女は決まってこう答えた。
「さあ。今夜、月がどれくらい欠けてるか見てみたら?」
十六はあるとき気がついた。満月の夜――つまり「十五夜」の月夜は、たしかに華やかで、誰の目にも美しい。だが、彼が本当に惹かれるのは、その翌日、少しだけ欠け始めた「十六夜(いざよい)」の月夜の方だった。
完璧じゃない。ほんの少し、ためらいがちに欠けている。だからこそ、そこに奥行きが生まれる。
「昔の人は言ったらしいですよ」と十六はある十六夜の晩、月夜に言った。「満月よりも、十六夜の月の方が、風情があるって」
「あら、詳しいのね」
「鏡が教えてくれたわけじゃないですよ、これは。ただの、受け売りです」
月夜は、その夜、珍しく声を出して笑った。



第七章 大事件、勃発

平和(?)な調査期間は、しかし長くは続かなかった。
ある晩、不動産屋もとい担当官が、青ざめた顔でコインランドリーに駆け込んできた。
「た、大変です! 本部が痺れを切らして、直接介入してきます!」
「直接介入って……」
「『完全知性化装置』の本体――『大鏡』を、直接この街に降下させるつもりです! あれが起動したら、半径十キロの人間全員が、一晩で全知全能になります!」
十六の背筋が凍った。
「全員が、俺と同じ目に遭うってことですか」
「ええ。ただし、あなたと違って加減はしてもらえません。老若男女、問答無用で、世界のすべてのタネが見えるようになる。恋も、仕事も、家族も、友情も、全部、種明かし済みの手品みたいに、色褪せてしまいます」
月夜が静かに立ち上がった。今夜の彼女は、やけに落ち着いた声をしていた。満ちる直前の、十四夜の月のような。
「十六。あなたの鏡、貸して」
「え、でも……」
「大丈夫。わたしね、実はこう見えても、この星に『不完全さ』を守るために送り込まれた、いわば――逆・観測子なの。全知連合とは違う、もうひとつの勢力の端末」
「それを早く言ってくださいよ!」
「言う機会が、なかったのよ。毎晩、性格変わるんだもの」
月夜はそう言って、悪びれもせずに笑った。



第八章 欠けているからこそ

夜空に、見慣れない銀色の球体――「大鏡」が、ゆっくりと降りてきた。街灯という街灯が消え、テレビもスマホも一斉にノイズだらけになる。全知連合の作戦が始まったのだ。
十六と月夜、そして情けなく震える担当官(元・不動産屋)の三人は、屋上でそれを見上げていた。
「あの大鏡を止めるには」と月夜が言った。「『答えのない問い』を、思いっきりぶつける必要があるの。全知を目指す装置は、皮肉なことに、『永遠にわからないもの』には弱い」
「答えのない問い、って言われても……」
十六は、鞄の中の手鏡を握りしめた。この数週間、彼を苦しめ続けた「知恵の哀しみ」の元凶。だが同時に、彼に月夜を出会わせてくれた鏡でもあった。
十六は、大鏡に向かって、鏡を高く掲げた。そして、叫んだ。
「なあ、教えてくれよ! ――女って、一体、何なんだ!?」
大鏡が、ピシリ、と音を立てて硬直した。
「なんだ、その問いは……処理、できない……処理、できない……」
「教えられないだろ! 俺だって、まだまだ見習い中なんだ! この人生、何年生きても、女って生き物が、まったくもってわからん! だが、それでいいんだよ、たぶん!」
大鏡が、明滅を始めた。
月夜が、十六の隣でそっと付け加えた。
「ついでに教えてあげる。――なぜ、十五夜より、十六夜の月の方が美しく見えるか。それもね、永遠に、答えの出ない問いなの。欠けてる部分を、人がどう思うか。そこに理屈はないの」
大鏡は、悲鳴のような高音を発しながら、みるみる縮んでいき――最後には、ただの古びた手鏡サイズにまで小さくなって、月夜の手のひらにころんと収まった。
担当官が、へなへなとその場に座り込んだ。
「た、助かった……。いやあ、今期の査定はもう諦めますよ。むしろ、詩でも書こうかな、これを機に」
街の明かりが、ゆっくりと戻ってくる。



エピローグ 見習い中

翌朝、十六はいつも通り出社した。
不思議なことに、鏡はもう何も見せてくれなくなっていた。同僚の愛想笑いは、ただの愛想笑いに戻った。上司の激励は、額面通りに受け取っていいものになった。
世界は、また少しだけ、わけのわからないものに戻った。
そしてそれは、思いのほか、心地よかった。
その晩、十六はまたコインランドリーに足を運んだ。乾燥機の前には、月夜が座っていた。今夜は、どの月夜だろうか。
「今夜は、どなたですか」と十六は尋ねた。
月夜は文庫本から顔を上げ、少し困ったように微笑んだ。
「さあ、それは――」
その先は、教えてくれなかった。
十六は、それでいいと思った。わからないことは、まだまだ、たくさんある。この人生、見習い中なのだ。
見上げた夜空には、少しだけ欠けた月が浮かんでいた。
満月よりも、ずっと、綺麗だった。
(第一部・完)


作者より:この物語は、まだ続きます。全知連合の本部、月夜の正体、そして「見習い中」の十六がこの先どんな大事件に巻き込まれていくのか――続編をお望みでしたら、ぜひお申し付けください。

十六夜商店

第二部 ――満ちる前の話――




第九章 平穏という名の違和感

大鏡の一件から、ひと月が過ぎた。
十六の日常は、驚くほどあっさりと元に戻っていた。経理課の仕事、上司のどうでもいい説教、後輩の朝霧さんの気まぐれな機嫌――そのどれもが、以前のように「わからないまま」で、それがどうにも心地よかった。
ただひとつ、変わったことがあるとすれば。
コインランドリーに、以前ほど頻繁に通わなくなっていた月夜が、ある晩、ふらりと十六のアパートの前に現れたことだった。
「ひさしぶり」
「……いや、ひさしぶりって、あなた、俺の住所知ってたんですか」
「知らなかったわよ。今夜のわたしが、たまたま見つけただけ」
十六はもう驚かなくなっていた。今夜の月夜がどんな人格なのか、探るのはとっくにやめている。それが、月夜という人と付き合う上での、いちばん賢いやり方なのだと分かってきていた。
「入る?」と十六が聞くと、月夜は珍しく、少し躊躇うような顔をした。
「……その前に、話しておきたいことがあるの。わたしの、正体について」
十六の胸が、ざわりと音を立てた。



第十章 月夜の正体

部屋に上がった月夜は、缶ビールを一本、断りもなく開けてから話し始めた。
「わたしはね、本当は――『人』じゃないの」
「まあ、それは、薄々」
「観測子(オブザーバー)だって言ったでしょう。でも、全知連合の観測子とは、成り立ちがちがう。わたしは――ある文明が、滅びる寸前に作った、最後の希望なの」
十六は黙って続きを促した。
「はるか昔、ある星の知的種族が、あなたの鏡と同じような装置を作りすぎて、自分たちの世界からすべての『謎』を消してしまったの。その結果、その文明は緩やかに死んでいった。恋も、芸術も、宗教も、冒険も――何もかもが『答えの出ているクイズ』になって、誰も何にも心を動かされなくなって」
「……それが、全知連合の前身、ってことですか」
「その通り。彼らは滅びる直前、最後の一手として、わたしを作った。『不完全さを、宇宙に配って回る存在』として。だからわたしは、決まった形を持たない。決まった性格も、決まった記憶も持たない。毎晩ちがう人間になるのは――バグじゃなくて、仕様なの。わたし自身が、『欠けていること』の体現だから」
十六は缶ビールを握りしめたまま、しばらく何も言えなかった。
「じゃあ、月夜さんは……本当の月夜さんって、いないんですか。今夜のあなたも、明日には、いなくなる?」
月夜は、少し困ったように笑った。
「さあ、それはわたしにも分からない。分からないままにしておくのが、たぶん、いちばん正しいのよ」
十六は思わず、詩の一節のようなものを、ぼそりと呟いた。
「――夜ごと姿を変える、月のように……か」
「あら、詳しいのね」
「これも、受け売りですけど」



第十一章 召集令状

その夜遅く、十六の鏡――もはや「観測子」としての力は失っているはずのそれが、ふいに、淡く光り始めた。
「これは……」
月夜が鏡を覗き込んで、表情を険しくした。
「全知連合の本部から、緊急招集。あなたと、わたし、両方宛て」
「え、俺も呼ばれてるんですか」
「あなたが大鏡を止めたこと、本部にはとっくにバレてる。しかも――」月夜は鏡の表面を見つめたまま続けた。「あの、査定に怯えてた担当官のおじさん、あれから独断で本部に『地球からの提言書』を提出したみたい。内容は――」
「内容は?」
「『不完全であることの価値についての詩的考察、全三十二ページ』」
十六は思わず吹き出した。
「あのおじさん、詩を書きたいって言ってたの、本気だったんですね」
「本気も本気。おかげで本部は今、大混乱。『完全知性化計画』推進派と、『不完全さ保護』派に、真っ二つに割れてるらしいわ」
「それで、俺たちが呼ばれてる、と」
「たぶん、証人喚問みたいなものね。――行く?」
十六は少し考えてから、頷いた。
「行きます。せっかく見習い中なんです。少しくらい、単位を稼いでおかないと」



第十二章 本部は会議室だった

全知連合の本部は、想像していたような煌びやかな宇宙ステーションでもなければ、荘厳な神殿でもなかった。
そこは――どこまでも続く、蛍光灯の白い会議室だった。
長机がずらりと並び、無数の「担当官」らしき存在(見た目は人間だったり、触手だったり、光る球体だったりとバラバラ)が、それぞれノートパソコンならぬ「思考端末」を前に、疲れた顔をして座っている。
正面のスクリーンには、こう表示されていた。
『第四七八二回 定例知性化推進委員会 ―― 議題:地球案件、継続の可否について』
十六は場違いなことに、既視感を覚えた。
「これ、なんか……うちの会社の月次会議と、変わらないですね」
「宇宙のどこに行っても、会議って、こういうものなのよ、きっと」と月夜が疲れたように答えた。
議長席に座っていたのは、意外にも、あの元・不動産屋の担当官だった。
「あ、十六さん! 月夜さん! ちょうどよかった、証言お願いしてもいいですか!?」
「証言、って、俺、何を話せば……」
「知恵の哀しみについて、です。あなたが、鏡によって全知に近づいて、何を感じたか。それを、ここで話してほしいんです」
十六は、居並ぶ委員たちを見渡した。全員が、こちらをじっと見ている。全知に近い存在であるはずの彼らの目に、なぜか、飢えたような、羨むような光が見えた。
十六は、ゆっくりと口を開いた。



第十三章 証言

「俺は……鏡を手に入れて、世界のタネが、全部見えるようになりました」
会議室が静まり返る。
「最初は、便利だと思いました。手品の仕掛けが分かる。人の嘘が分かる。仕事の裏側が分かる。――でも、すぐに気づいたんです。分かるということは、驚けなくなるということだって」
十六は、朝霧さんの機嫌のことを思い出しながら、続けた。
「俺には、後輩がいます。月曜はそっけなくて、木曜には機嫌がいい。理由は、たぶん一生分かりません。前は、それが煩わしいと思ってました。でも今は――分からないから、木曜が来るたびに、ちょっと嬉しいんです。理由を知らないまま、嬉しいって思える。それって、実は、けっこう贅沢なことなんじゃないかって、思うようになりました」
委員の何人かが、思考端末に何かを打ち込み始めた。
「あなたたちの文明は、たぶん、知りすぎて、しんどくなったんだと思います。俺にも、ちょっとだけ分かります、その気持ち。でも――」
十六は、隣に立つ月夜を見た。
「でも、全部の謎をなくしたら、たぶん、こういう出会いもなくなるんです。俺は、月夜さんのことが、いまだに、まったくもってわかりません。今夜のこの人が、明日もこの人かどうかも、分からない。だけど、わからないからこそ、明日もまた会いたいって思える。俺、まだまだ、見習い中なんです。この人生も、女ってものも、宇宙のことも、何ひとつ分かっちゃいない。でも、それでいいって、今は思ってます」
しばらくの沈黙のあと、議長席のおじさんが、ぽつりと言った。
「……詩的ですねえ」
「あなたの提言書ほどじゃ、ないと思いますよ」
会議室に、小さな笑いが起きた。それは、機械的な存在たちが久しく忘れていた類の、温かみのある笑い声だった。



第十四章 採決

「では」と議長が、居住まいを正して言った。「採決を取ります。地球案件――『完全知性化計画』の継続に、賛成の方」
数人の手(あるいは触手、あるいは発光)が挙がった。
「反対の方」
それよりも、ずっと多くの手が挙がった。
「よし……。地球案件は、無期限凍結。ついでに、他の係属案件についても、一度見直しを行うことを提案します。――みなさん、もしかしたら我々は、ちょっと、先を急ぎすぎていたのかもしれません」
議場に、拍手とも、電子音とも、触手のこすれる音ともつかない、不思議な喝采が広がった。
十六は、月夜と目を合わせた。月夜は、今夜はやけに晴れやかな顔をしていた。
「終わったんですね」と十六が言うと、月夜は首を横に振った。
「終わってないわよ。これは、ただの『継続審議』。宇宙の会議って、そういうものなの」
「……ですよね。うちの会社の会議も、だいたいそうです」



エピローグ 欠けたままで、いい

地球に戻った十六は、鏡をもう一度、骨董市の同じ屋台に――ではなく、自宅の本棚の隅に、そっと仕舞った。
もう光ることはなかった。だが、捨てる気にはなれなかった。
その晩も、月夜はコインランドリーにいた。今夜の彼女がどんな人格なのか、十六はもう尋ねなかった。ただ、隣に座った。
「ねえ」と月夜が言った。「あなた、最後にひとつだけ、聞いてもいい?」
「なんです?」
「あなたにとって、女って、結局、何なの?」
十六は、しばらく考えてから、笑って答えた。
「わかりません。一生かけても、たぶん、わからないと思います」
「それが答え?」
「それが答えです」
月夜は満足そうに、あるいは呆れたように――今夜の彼女にしか分からない表情で、微笑んだ。
見上げた窓の外には、今夜もまた、少しだけ欠けた月が浮かんでいた。
満月よりも、ずっと、綺麗だった。
(完)


作者より:知恵の哀しみとは、結局のところ、「わかってしまうこと」への哀しみなのだと思います。この物語が、わからないままでいることの豊かさを、少しでもお届けできていたら幸いです。

十六夜商店

第三部 ――開店、いたしました――




第十五章 辞表

全知連合の会議から半年が経った、ある冬の朝。
鏡月十六は、経理課の自分のデスクで、一枚の紙を前に、長いこと固まっていた。
辞表、である。
「……いや、俺、何やってんだ」
十六は自分でも驚いていた。あれほど平穏を取り戻すことに必死だったはずなのに、いざその平穏を十一年間分手に入れてみると、どうにも、収まりが悪かった。
朝霧さんが月曜にそっけなく、木曜に機嫌がいいという「わからなさ」を、以前は贅沢だと思っていた。だが半年もすると、その贅沢さえも、日常という名の分厚い布に包まれて、見えにくくなっていく。
十六は、本棚の隅に仕舞ったままの、あの鏡を思い出した。
もう光らないその鏡を、久しぶりに取り出してみたのは、辞表を書く三日前の晩だった。鏡は相変わらず、何も映さなかった。ただの、古い手鏡だった。
――だが、そこに映るはずのなかったものが、うっすらと浮かんで見えた気がしたのだ。
一軒の、小さな店の輪郭。
とはいえ、輪郭が見えたからといって、すぐに決心がついたわけではなかった。
その晩から三日間、十六はほとんど眠れなかった。
十一年間、経理課で積み上げてきたものが、頭の中で数字になって浮かんでは消えた。退職金の額。次の職が見つかるまでの生活費。そもそも「わからないものを売る店」などという商売が、この世に成立するのかどうか――考えれば考えるほど、それは正気の沙汰とは思えなかった。
「馬鹿げてる」
十六は、何度も声に出してそう呟いた。三十六歳、独身、これといった商才もない男が、いきなり店を構える。しかも、売るものが「答えのない質問」だの「片方だけの靴」だのという、値札のつけようのない代物だ。銀行に融資を頼みに行くことすら、想像できなかった。
会社の給湯室で顔を合わせた朝霧さんに、それとなく「もし今の仕事を辞めたら、どう思う?」と聞いてみたこともあった。
「え、鏡月さん辞めるんですか?」
「いや、仮の話。仮の話です」
朝霧さんは、少し首をかしげてから、こう言った。
「鏡月さんが本気で悩んでる顔、初めて見た気がします。いつも、何かに納得してるみたいな顔してるから」
その一言が、十六の中で、思いのほか長く残った。全知の鏡を手放してから、自分は「わからないこと」を受け入れる余裕を手に入れたつもりでいた。だが実際には、ただ会社という枠の中で、波風を立てずに生きていただけなのかもしれない――そう思うと、余計に怖くなった。
怖い。でも、やってみたい。
その両方が、同じ重さで、胸の中に居座っていた。
三日目の晩、十六はコインランドリーに向かい、月夜(今夜はやけに寡黙な月夜だった)の隣に座って、ぽつぽつと迷いを話した。
「怖いんです。この歳で、こんな馬鹿げたことを始めるのが」
月夜は、しばらく黙って聞いていたが、やがて言った。
「怖くない決断なんて、たぶん、決断のうちに入らないわよ」
「それ、慰めになってます?」
「なってないでしょうね」
十六は思わず笑った。笑ってしまったら、なぜか、少しだけ気が軽くなった。
「――やってみます」
「そう」
「後悔、するかもしれませんけど」
「するかもね。でも、しないかもよ」
「どっちなんですか」
「それも、わからないままでいいんじゃない? あなたの店の、専門でしょう」
十六は、その晩、家に帰って、もう一度辞表を書き直した。三日前に書いたものよりも、字が、少しだけしっかりしていた。



第十六章 物件探し

「――というわけで、店を、始めようと思うんです」
十六がそう切り出すと、コインランドリーの丸椅子に座っていた月夜(今夜は妙に大人びた雰囲気の月夜だった)は、文庫本から顔を上げて、少し目を丸くした。
「店? 何の店?」
「それが、まだよく分かってないんです。ただ、なんとなく、扱う商品だけは、ぼんやり見えてます」
「聞かせて」
十六は、深呼吸をしてから言った。
「――『わからないもの』を、売る店です」
月夜は、しばらく黙って十六を見つめていた。それから、ゆっくりと笑った。今夜の彼女の中では、一番柔らかい笑い方だった。
「いいじゃない。それ」
「変ですかね、こんな商売」
「変よ。でも、あなたらしい。それに――」月夜は文庫本を閉じて立ち上がった。「わたしも、手伝いたいわ。なんてったって、わたし自身が、『わからないもの』の見本市みたいなものだから」
十六は、退職金と、これまでの貯金をはたいて、下町の古い商店街の一角に、小さな空き店舗を見つけた。
かつて時計屋だったというその店は、ショーウィンドウがやけに大きく、そして――どういうわけか、店の奥の壁に、うっすらと三日月の形のシミが浮かんでいた。
「ここ、いいと思う」と月夜は言った。「なんだか、呼ばれてる感じがする」
不動産屋(あの元・全知連合担当官とは無関係の、ごく普通の人間の不動産屋だった)は、怪訝な顔をしながらも、「まあ、お客さんが気に入ったなら」と契約書にハンコを押した。



第十七章 看板

店の名前を決めるのに、十六はさほど悩まなかった。
「十六夜商店」
看板を頼んだ職人――これがまた偶然にも、あの元担当官の遠い知り合いだという、腕のいい老木工職人だった――は、木の板に丁寧にその文字を彫り込みながら、こう言った。
「十六夜、ねえ。いい名前だ。満月の次の日の月ってのは、ちょっと出るのが遅れる。ためらいがちに出る、あの感じが好きでね」
「ためらいがちに、出る、ですか」
「そう。完璧じゃないから、待たせる。待たせるから、出てきたときに、ああ良かったと思う。あんたの店の名前は、そういう店になるといいねえ」
十六は、その言葉を、ずっと覚えておくことにした。
開店準備には、三ヶ月かかった。棚を作り、照明を選び、そして――肝心の「商品」を、揃えていった。



第十八章 商品棚

十六夜商店の商品棚には、値札のついた「モノ」は、ひとつも並んでいなかった。
代わりに並んでいたのは――
一枚のガラス瓶に閉じ込められた、「答えのない質問」。瓶を振ると、中でかすかに光の粒が舞う。ラベルには『なぜ人は、遠くの星を見て、切なくなるのか』とだけ書かれている。
小さな木箱に収められた、「まだ名前のない感情」。箱を開けると、何も入っていないように見えるが、耳を近づけると、微かに、何かがざわめく音がする。
古びた封筒に入った、「誰にも読めない手紙」。封は開けられるが、中の文字は、誰の目にも――たとえ十六の元・鏡の力をもってしても――解読できない文字で綴られている。
一枚の、行き先も日付も印字されていない切符。「未来が決まっていない切符」。
そして、店の一番奥、ガラスケースの中には――「片方だけの靴」が、静かに置かれていた。
「これ、どうやって仕入れたんです?」
十六が月夜に尋ねると、彼女は、今夜はやけに悪戯っぽい顔で答えた。
「仕入れたんじゃないわ。集まってきたのよ、勝手に。世界中の『わからないもの』が、居場所を求めて」
「そんな馬鹿な」
「馬鹿なことばかりだったでしょう、これまでも」
十六は、それもそうだ、と思って、笑った。



第十九章 開店

十六夜商店は、満月ではなく、十六夜の晩――満月の翌日の夜に、静かに開店した。
看板に明かりが灯る。ショーウィンドウの奥で、瓶の中の光の粒が、ゆらゆらと揺れている。
最初の客は、なかなか現れなかった。三十分、一時間。十六はカウンターの向こうで、少し落ち着かない気持ちで、通りを眺めていた。
「大丈夫よ」と月夜がレジ横で本を読みながら言った。「『わからないもの』を探してる人は、そう頻繁には現れない。でも、必要になったときには、ちゃんとここに辿り着くわ」
そして、一時間半が過ぎた頃――
からん、とドアベルが鳴った。
入ってきたのは、二十代半ばと思われる、疲れた顔の女性だった。会社帰りらしく、リクルートスーツにも似た地味なスーツを着て、傘の雫を払いながら、店内を見回している。
十六は、思わず背筋を伸ばした。
「いらっしゃいませ。何をお探しですか?」
女性は、しばらく口ごもってから、ぽつりと言った。
「……自分でも、何を探しているのか、分からないんです」
十六は、少し笑った。長年、経理課で身につけた愛想笑いとは、まるで違う種類の笑みだった。
「それなら」
十六は、ゆっくりと、棚の方へ手を伸ばしながら、続けた。
「うちの、専門です」



第二十章 最初の客

女性の名は、まだ聞いていなかった。だが十六は、名前を聞く必要はないと感じていた。この店に来る客は、たぶん、そういうものなのだろう。
「何かに、行き詰まってます?」と十六は尋ねた。
「はい……。仕事も、恋も、これからのことも。何もかも、頑張ってるはずなのに、何を頑張ってるのか、自分でも分からなくなってて」
十六は棚から、あの「答えのない質問」の瓶を、そっと取り出した。
「これは、いかがですか」
瓶を渡された女性は、不思議そうにそれを見つめた。光の粒が、彼女の手の中で、ゆっくりと渦を巻いた。
「これ……何なんですか?」
「答えのない質問です。中身は――お客様ご自身にしか、決められません」
「決められない質問を、買うんですか」
「ええ。でも、それでいいんです。答えの出ない問いを、大事に持っておくというのも――生きていく上では、案外、必要なものなんです」
女性は、しばらく瓶を見つめてから、ふっと、小さく笑った。今日初めて見せた、心からの表情だったのかもしれない。
「――買います、これ」
「お代は」と十六は言った。「今度、答えが見つかったら、教えに来てください。それで結構です」
「変な商売ですね」
「よく言われます」
女性が帰った後、月夜が本を閉じて、十六の隣に立った。
「悪くない、初日ね」
「ええ」十六は、ショーウィンドウの外、夜空を見上げた。「悪くない」
そこには、開店の晩と同じ、少しだけ欠けた月が、静かに浮かんでいた。



エピローグ いらっしゃいませ

十六夜商店は、それから、静かに、しかし着実に、街の片隅で噂になっていった。
「探し物が見つかる店」ではなく、「探し物が見つからなくても、なぜか救われる店」として。
鏡月十六は、もう鏡を必要としなかった。世界のタネを見通す力は、とうに失われていた。だが、それでよかった。彼はもう、答えを売る人間ではない。
問いを、そっと差し出す人間になっていた。
その夜も、ドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」と十六は、いつものように言った。「何をお探しですか?」
見上げた窓の外では、今夜もまた、少しだけ欠けた月が、ためらいがちに、しかし確かに、昇っていた。
満月よりも、ずっと、綺麗だった。
(第三部・完)


作者より:十六夜商店は、これで一応の「開店」を迎えました。この店に、これからどんな客が訪れ、どんな「わからないもの」が並んでいくのか――それはまた、いつか。ご愛読、ありがとうございました。

十六夜商店

第四部 ――なくしたものを探す人――




第二十一章 雨の日の客

十六夜商店が開店して、半年が過ぎた。
噂は、思いのほか静かに、しかし確かに広がっていった。「探し物が見つかる店」ではなく「探し物が見つからなくても、なぜか救われる店」として。客は多くない。週に二人か三人。だが、来る客は皆、どこかに何かを抱えていた。
その日は、朝から冷たい雨が降っていた。
からん、とドアベルが鳴ったのは、閉店の少し前だった。入ってきたのは、傘も差さずにずぶ濡れになった、七十代とおぼしき老人だった。
「あの、すみません……こういう店だと、聞いたもので」
十六は慌ててタオルを差し出しながら、老人をカウンターの椅子に座らせた。月夜(今夜は珍しく、ひどく物静かな月夜だった)が、無言で温かい茶を淹れてくれた。
「何をお探しですか?」
十六がいつもの台詞を口にすると、老人はしばらく黙り込んだあと、絞り出すように言った。
「……妻の、声が」
「声、ですか」
「三年前に、亡くなりましてね。もう一度だけでいい。あれの声を、聞きたいんです」
店の中に、雨の音だけが響いた。



第二十二章 記憶の音

十六は、月夜と目を合わせた。月夜は、小さく頷いた。奥の棚――普段はあまり近づかない、一番奥まった棚――から、彼女は小さなガラスの瓶を持ってきた。
瓶の中には、何も入っていないように見えた。だが、耳を近づけると、かすかに、何かの気配のようなものが揺れていた。
「これは、『一度だけ聞ける、記憶の音』です」と十六は、瓶を老人の前にそっと置いた。
「妻の、声が……入ってるんですか」
「いいえ」十六は正直に答えた。「入っているわけじゃないんです。これは、お客様ご自身の記憶の中から、その声を、もう一度だけ、鮮明に呼び覚ますものです。実際に録音されていたわけではない声も、まるで昨日聞いたばかりのように、聞こえるようになります」
老人の目に、光が宿った。
「ただ」と十六は、ここで一度、言葉を切った。「ひとつだけ、知っておいていただきたいことがあります」
「なんでしょう」
「これを使うと――奥様との、最後の記憶が、変わります」
老人は、怪訝な顔をした。
「変わる、とは」
十六は、月夜の方を見た。月夜が、代わりに説明を引き取った。
「記憶というのは、思い出すたびに、少しずつ、その時の自分の気持ちで塗り替えられていくものなんです。今のあなたが、もう一度、あの人の声を鮮明に聞いてしまったら――その瞬間の感情が、今までの『最後の記憶』の上に、上書きされます。悪いことばかりじゃありません。でも、今、あなたの中にある『最後の記憶』とは、少し違うものに、変わってしまうんです」
老人は、しばらく黙っていた。
「今の、最後の記憶というのは……」
「病室で、あなたが眠ってしまっている間に、奥様が旅立たれた。それが、今のあなたの『最後の記憶』ではありませんか」
老人は、はっとした顔をした。
「……なぜ、それを」
「この店では、なんとなく、分かってしまうんです。すみません」



第二十三章 迷い

老人は、瓶を握りしめたまま、長い間、動かなかった。
「聞いたら……後悔、しますかね」
十六は、正直に答えた。
「分かりません。それは、俺にも、月夜にも、誰にも分かりません。それを決めるのは、お客様ご自身です」
「ずるいな、それは」
「ええ。ずるい商売です、うちは」
老人は、ふっと、笑った。涙混じりの、それでいて、どこか軽くなったような笑い方だった。
「ワシはね」と老人は言った。「あの日、女房の最期に、間に合わなかった。眠っていたんです。看病疲れで、うとうとと。目を覚ましたら、もう、息をしていなかった。それからずっと――最後に何か、声をかけてやれなかったことが、心残りで」
十六は、黙って聞いていた。
「もう一度、聞けるなら。何でもいい。怒られたって、いい。あれの、声が」
月夜が、静かに口を開いた。
「聞いたら、もしかしたら、今よりも辛い記憶に変わってしまうかもしれません。それでも?」
老人は、瓶をしっかりと両手で包んだ。
「それでも、いい。何もないより、ずっといい」
十六は、頷いた。
「それでは――」



第二十四章 声

瓶の蓋を開けると、光の粒がひとつ、老人の耳元に、ふわりと寄っていった。
老人の目が、大きく見開かれた。
店の中には何も聞こえなかった。十六にも、月夜にも。だが、老人にだけは、確かに、何かが聞こえているようだった。
老人の頬に、涙が伝った。だが、その顔は、店に入ってきたときよりも、ずっと穏やかだった。
やがて、老人は、ゆっくりと瓶を置いた。
「……なんて、言ってました?」と十六は、聞いていいものか迷いながら、小さく尋ねた。
老人は、少し笑って、首を振った。
「それは、内緒です。夫婦の、秘密ってことで」
「そうですね。すみません」
「いや」老人は、涙を拭いながら、続けた。「ワシの『最後の記憶』はね、たしかに、変わりました。眠ってしまって、間に合わなかったっていう記憶は、消えません。でも――今、聞こえた声のおかげで、あの日のワシは、決して見捨てられてたわけじゃなかったんだって、分かった。それだけで、もう、十分です」
十六は、何も言えなかった。ただ、深く頭を下げた。



第二十五章 代金

「お代は」と十六は言った。「今度、答えが見つかったら、教えに来てください。それで結構です」
老人は、不思議そうな顔をした。
「答え、というのは」
「奥様の声を聞いて、これから、あなたがどう生きていくか。それが決まったら――いつか、また、この店に、教えに来てください。それが、代金です」
老人は、しばらく考えてから、頷いた。
「分かりました。……ワシ、実はね、女房が亡くなってから、庭仕事もやめてしまってたんです。あれが好きだった、紫陽花も、枯らしたままで」
「では、それを」
「ええ。また、育ててみます。それで、いつか花が咲いたら、また来ます」
老人が店を出ていくと、雨は、いつの間にか止んでいた。



第二十六章 全知連合、また来る

老人が帰ったあと、店の奥で、何かがぼそぼそと動く気配がした。
「……あの、すみません、営業妨害するつもりはないんですが」
現れたのは、あの、元・全知連合担当官(今は詩人志望の不動産屋)だった。彼は、なぜか小型の測定器のようなものを手に、店の隅で何かを計測していた。
「なんですか、それ」
「いやあ、実は本部の一部からまだクレームが来てましてね。『地球の一商店が、こっそり記憶操作技術を使っているのではないか』と。私、査察に来ちゃったんです」
「勘弁してくださいよ」
「大丈夫です、大丈夫です。今、測定しましたけど――これ、記憶操作じゃないですね。ただの、『思い出す力』を、ちょっとだけ後押ししてるだけだ。宇宙のどんな法律にも、引っかかりません」
十六は、脱力した。
「それを言いに、わざわざ?」
「ついでに、紫陽花の苗、いいのがあるって聞いたので、分けてもらえないかなと」
「あなた、庭いじりもするんですか」
「詩を書くには、まず、庭が必要なんですよ」
月夜が、堪えきれずに、声を出して笑った。今夜の彼女にとって、それは、ずいぶん久しぶりの、心からの笑い声だった。



エピローグ 紫陽花

それから、季節がひとつ、過ぎた。
ある梅雨の晩、十六夜商店のドアベルが、また鳴った。
入ってきたのは、あの老人だった。手には、小さな鉢植え――淡い紫色の、紫陽花の花が、一輪、咲いていた。
「約束、守りに来ました」
「答え、見つかったんですね」
老人は、鉢植えをカウンターに置きながら、頷いた。
「これからは、女房の分まで、いろんなものを、育てていこうと思います。花も、孫との時間も、忘れかけてた友達付き合いも」
十六は、その鉢植えを、店の一番目立つ場所――ショーウィンドウの脇に、大切に置いた。
「これからは、この店の、看板がわりにさせてもらいます」
老人が帰ったあと、月夜が、紫陽花をじっと見つめながら、ぽつりと言った。
「いいわね、こういうの。値段のつかない、代金」
「うちの店、そんなのばっかりですけどね」
窓の外には、今夜もまた、少しだけ欠けた月が浮かんでいた。雨上がりの空気の中で、それは、いつもより少し、滲んで見えた。
満月よりも、ずっと、綺麗だった。
(第四部・完)


作者より:十六夜商店に、最初の常連客ができました。この店は、これからも、こうして一人ひとりの「わからなさ」に、そっと寄り添っていくのだと思います。次にドアベルを鳴らすのは、誰でしょうか。

十六夜商店

第五部 ――片方だけの靴――




第二十七章 答えのない質問、その後

紫陽花が店先に根付いてから、また季節がひとつ巡った、ある秋の夕方。
からん、とドアベルが鳴った。
入ってきたのは、見覚えのある女性だった。会社帰りらしいスーツ姿。だが、以前とは、まるで顔つきが違っていた。あの雨に濡れたような疲れた表情は、もうそこにはなかった。
「覚えてます? 一年くらい前に、変な瓶を買った者です」
十六は、思わず顔をほころばせた。
「もちろん、覚えてます。『答えのない質問』の――」
「はい。あれ、ずっと机の引き出しに入れてたんです。時々、眺めて」
「答え、見つかりました?」
女性は、少し照れくさそうに笑った。
「見つかった、というか……あの質問自体が、実は間違ってたんだって、気づいたんです。『何を頑張ればいいのか分からない』って悩んでたんですけど、そもそも、何かを頑張らなきゃいけないって思い込んでたこと自体が、しんどさの原因だったんですよね」
「それは、いい発見ですね」
「今の会社、辞めることにしました。次のことは、まだ何も決まってないんですけど――なんか、それでもいいかなって、思えるようになったんです」
十六は、頷いた。
「お代、まだいただいてませんでしたね」
「あ、それなんですけど」女性は鞄から、小さな包みを取り出した。「これ、お礼というか。手作りのクッキーなんですけど、よかったら」
「これは、ありがたくいただきます」
女性が帰ったあと、月夜が、包みを覗き込みながら言った。
「ほら、言った通りでしょう。答えが見つかったら、ちゃんと教えに来てくれる」
「ええ」十六は、クッキーの包みを、そっとカウンターの端に置いた。「こういうの、悪くないですね」
そのとき、店の奥のガラスケースの中で――「片方だけの靴」が、かすかに、震えたような気がした。



第二十八章 もう一人の客

その日の最後の客は、少し変わった来店の仕方をした。
ドアベルは鳴らなかった。気がつくと、若い女性が、もう店の中に立っていたのだ。
「あの……すみません、いつからいらっしゃいましたか」と十六は驚いて尋ねた。
「たった今です。ベル、鳴らなかったですか?」
「いえ、その……失礼しました。何をお探しですか?」
女性は、俯いたまま、答えなかった。手には、小さな紙袋を、大事そうに抱えている。
月夜が、じっとその女性を見つめていた。今夜の月夜は、いつになく、真剣な表情をしていた。
「探し物じゃなくて」と、ようやく女性が口を開いた。「置いていきたいものが、あるんです」
「置いていく、ですか」
十六は、それが今までの客とは逆の申し出であることに気づいた。十六夜商店は、これまで、誰かに何かを差し出す店だった。誰かから何かを引き取る、という発想は、なかった。
女性は、紙袋の中から、そっと、それを取り出した。
片方だけの、古い革靴だった。
十六は、思わず息を呑んだ。ガラスケースの中に、ずっと飾られていたものと、まったく同じ型の靴だった。



第二十九章 もう片方

「これ……」
十六が言いかけると、女性は小さく頷いた。
「気づいてます? そこのケースにある靴と、対なんです」
十六は、ガラスケースに歩み寄った。中の靴と、女性が持ってきた靴を見比べる。サイズも、革の質感も、経年の傷み方まで、たしかに一組だった。
「もう片方は、いつからうちに?」
「開店の準備をしてる頃から、ずっとありました。仕入れたわけじゃないんです。気がついたら、棚に、そっと置かれていて」
女性は、静かに息を吐いた。
「五年前です。わたし、この靴の持ち主と、一緒に暮らしてました。ある朝、いつものように、彼が出かけようとして――片方だけ、靴が見つからなくなったんです。急いでたから、彼は別の靴を履いて出ていきました。それきり、帰ってきませんでした」
十六は、黙って続きを待った。
「事故でした。誰のせいでもない、ただの、不運な事故。でも、わたしはずっと、あの朝、靴が片方見つからなかったことが、何か虫の知らせだったんじゃないかって、考え続けてしまって」
「その、もう片方の靴が――ここに?」
「はい。ずっと、押し入れの奥に、しまい込んでいました。捨てられなくて。でも、この店の噂を聞いて。『わからないもの』を扱う店があるって。もしかしたら、ここでなら、この靴の意味が――分かるんじゃないかと思って」
十六は、ゆっくりと首を振った。
「すみません。この店には、意味を教える力は、ありません」
女性は、少し傷ついたような顔をした。
「ただ」十六は、続けた。「意味を、一緒に探すことなら、できます」



第三十章 虫の知らせではなく

十六は、ガラスケースから、もう片方の靴を取り出した。両方の靴を、カウンターの上に、並べて置く。
五年の時を隔てて、靴は、ようやく一組になった。
「不思議なんですけど」と月夜が、静かに口を挟んだ。「この靴、うちに来たときから、片方だけで、寂しそうにしてたのよね。ずっと、もう片方を待ってたんじゃないかしら」
女性の目に、涙が浮かんだ。
「わたし、ずっと、あの朝のことを、悪い前兆だったんだって、思い込んでました。でも――」
「でも?」
「ただの、靴紐が緩んで、どこかに滑り落ちただけだったのかもしれない。……でも、あの朝から五年間、わたし、その『ただのこと』に、ずっと意味を探し続けていたんですね」
十六は、頷いた。
「虫の知らせだったのか、ただの偶然だったのか――それは、たぶん、誰にも分かりません。俺にも、月夜にも」
「うちの、専門ですもんね」
女性は、涙を拭いながら、笑った。
「その靴、引き取ってもらえますか。もう、家には、置いておかなくて、いいような気がします」
「はい。お預かりします」



第三十一章 空っぽになったケース

女性が店を出ていったあと、ガラスケースは、空になった。
「片方だけの靴」という商品は、もう、そこにはなかった。代わりに、一組の靴が、カウンターの隅に、静かに置かれていた。
「これ、どうします?」と十六が尋ねると、月夜は少し考えてから答えた。
「捨てないであげて。でも、もう、商品棚には、戻さなくていいと思う」
「じゃあ、どこに」
「店の入り口に、置いておきましょう。誰かが、これから何かを『置いていきたい』と思ったときの、目印として」
十六は、その通りにした。一組の靴は、それから、十六夜商店の入り口に、静かに佇むことになった。
夜、店を閉めながら、十六はふと思った。
この店は、「わからないもの」を売る店として始まった。だが、いつの間にか、「わからないもの」を、引き取る店にもなっていた。
売ることと、引き取ること。差し出すことと、預かること。
その両方が、この店には、必要なのかもしれない。



エピローグ 靴が揃った夜

冬が近づいた、ある十六夜の晩。
十六は、店じまいの前に、入り口に置かれた一組の靴を、そっと磨いていた。
「なんだか、その靴、あなたに似合ってきたわね」と月夜が言った。
「まさか。俺のサイズじゃないですよ、これ」
「サイズの話じゃないの」
十六は、その言葉の意味を、あえて聞き返さなかった。分からないままにしておくことも、この店では、大事な作法だった。
ドアベルが鳴った。今夜も、誰かが訪れる。
「いらっしゃいませ。何をお探しですか?」
見上げた窓の外には、今夜もまた、少しだけ欠けた月が浮かんでいた。
満月よりも、ずっと、綺麗だった。
そしてその美しさの意味は、今夜もまた、ほんの少しずつ、違って見えた。
(第五部・完)


作者より:十六夜商店には、売るだけでなく、引き取ることもできるようになりました。この店にはこれからも、いろんな形の「わからなさ」が、出たり入ったりしていくのだと思います。

十六夜商店

第六部 ――名前のない手紙――




第三十二章 古い封筒

入り口に一組の靴が置かれるようになってから、十六夜商店には、少しずつ変化が生まれていた。
「何かを買いに」ではなく、「何かを置いていきに」訪れる客が、ぽつり、ぽつりと現れるようになったのだ。使わなくなった結婚指輪。読み終えられなかった本の栞。もう会うことのない誰かからもらった、色褪せた手紙――そのどれもが、十六と月夜によって、丁寧に迎え入れられた。
その老人が店を訪れたのは、木枯らしの吹く、十二月のはじめだった。
年の頃、八十は過ぎているだろうか。杖をつき、背中を丸めながら、ゆっくりと店の中に入ってくる。手には、古い、黄ばんだ封筒を、大事そうに抱えていた。
「いらっしゃいませ。何をお探しですか?」
十六がいつもの台詞を口にすると、老人は、椅子に腰を下ろしながら、静かに答えた。
「探し物じゃ、ないんです。……これを、預かってもらえませんか」
老人は、封筒をカウンターに、そっと置いた。



第三十三章 宛先のない手紙

十六は、封筒を見つめた。表には、何も書かれていなかった。
「宛先は?」
「分かりません」
「差出人は?」
老人は、少し目を伏せてから、答えた。
「私です」
十六は、首をかしげた。
「では、なぜ、宛先が分からないんです? ご自分がお書きになった手紙、なんですよね」
老人は、しばらく黙っていた。店の中に、ストーブの音だけが、小さく響いていた。
「……もう、この世にいない人だからです」
十六は、思わず、月夜の方を見た。月夜も、静かに老人を見つめていた。今夜の彼女は、いつになく、穏やかな表情をしていた。
「亡くなった方への、手紙ということですか」
「そうとも言えますし、そうでないとも言えます」老人は、杖に両手を重ねながら、ゆっくりと言葉を選んだ。「この手紙はね、五十年前に、一度、書いたものなんです。若い頃、私には、好きな人がいました。でも、いろいろあって、伝えられないまま、その人は、遠くに行ってしまった。それきり、会うこともなかった」
「その方に、宛てた手紙ですか」
「いいえ」老人は、首を振った。「これは、その人が、まだこの世にいた頃に書いた手紙じゃないんです。ずっとあとになって――もう、その人がとっくに亡くなったと知ってから、書いたものなんです」



第三十四章 届かないと知りながら

十六は、封筒を、そっと手に取った。開けてもいいものか、迷った。
「読んでも、よろしいですか」
老人は、頷いた。
十六は、封を開けた。中には、一枚の便箋が入っていた。文字は、達筆とは言えないが、丁寧な、几帳面な筆致で、綴られていた。
十六は、その内容を、声には出さずに、目で追った。
――そこに書かれていたのは、謝罪でも、告白でも、なかった。ただ、静かな、日々の報告だった。あれから自分がどんな人生を送ったか。どんな仕事をして、どんな家族を持ち、どんな失敗をして、どんな小さな喜びがあったか。まるで、隣に座っている誰かに、世間話でもするような調子で、それは綴られていた。
最後の一文だけが、少し違っていた。
『あなたに会えなかった人生も、悪くはありませんでした。ただ、時々、あなたなら、これをどう思っただろうと、考えることがあります』
十六は、手紙を、そっと封筒に戻した。
「これを、書いたときの気持ちを、聞いてもいいですか」
老人は、小さく笑った。
「届かないと分かってて、書いたんです。おかしいでしょう」
「いえ」十六は、首を振った。「そんなことは、ないと思います」



第三十五章 届く、とは言わない

「なぜ、うちに、これを?」と十六は尋ねた。「捨てることも、できたはずです」
「捨てられなかったんです。かといって、家に置いておくのも、なんだか、違う気がして。……この手紙は、誰かに読まれるために書いたものじゃない。でも、誰にも読まれずに、私と一緒に消えてしまうのも、なんだか、寂しい気がして」
月夜が、静かに口を開いた。
「うちで、お預かりしましょうか」
老人は、少し驚いたような顔をした。
「預かって、どうするんです? まさか、届けてくれる、というわけでは」
「いいえ」十六は、正直に答えた。「届けるとは、言えません。うちには、そんな力は、ありません。宛先のない手紙は、どこにも届きません。それは、この店でも、変わらないことです」
老人は、少し肩を落とした。
「では、預かって、どうなるんです」
十六は、少し考えてから、答えた。
「ただ、ここに、あり続けます。誰かに読まれることもなく、捨てられることもなく。あなたが、これを書いたという事実だけが、ずっと、この店の奥に、残り続けます。――それだけでは、駄目でしょうか」
老人は、しばらく、黙って考えていた。
やがて、ゆっくりと、頷いた。
「それで、いいのかもしれません。届くことより、消えないことの方が、大事なのかもしれない」



第三十六章 お代

「お代は」と十六は、いつものように言おうとして、ふと、言葉を止めた。
老人の年齢を考えると、「今度、答えが見つかったら教えに来てください」という、いつもの約束は、あまりに、酷なもののように思えた。
十六が言葉を選んでいると、老人の方が、先に口を開いた。
「お代なら、もう、払っています」
「え?」
「今日、ここに来るまでの間、五十年分の思い出を、もう一度、全部、歩きながら思い出しました。それだけで、もう、十分な気がします」
十六は、静かに頷いた。
「では、それを、お代として、いただきます」
老人は、少し安堵したような顔をした。
「妙な店ですね、ここは」
「よく言われます」
「でも」老人は、杖をつきながら、立ち上がった。「悪くない店です。こういう店が、あってもいい」



第三十七章 奥の棚

老人が帰ったあと、十六は、その封筒を、店の一番奥――「片方だけの靴」があった場所の隣に、そっと置いた。
「宛先のない手紙、か」
「これから、増えるかもね」と月夜が言った。「届かないと分かってても、書かずにいられないものって、案外、多いものよ」
「月夜も、そういうもの、ありますか」
月夜は、少し黙ってから、いつもとは違う、どこか遠くを見るような目をして、答えた。
「――さあ。それも、うちの、専門じゃない?」
十六は、それ以上、何も聞かなかった。



エピローグ 消えない手紙

その晩、店を閉めたあと、十六は、奥の棚に並んだ品々を、ひとつずつ、眺めて回った。
答えのない質問。まだ名前のない感情。片方だった靴の記憶。そして今夜、新たに加わった、宛先のない手紙。
どれも、売り物ではなかった。誰かの人生の、行き場のなかった欠片たちだった。
十六は思った。この店は、きっと、これからも、こうして少しずつ、増えていくのだろう。答えの出ないものを、少しずつ、預かりながら。
窓の外には、今夜もまた、少しだけ欠けた月が浮かんでいた。
満月よりも、ずっと、綺麗だった。
その理由を、十六はもう、言葉にしようとはしなかった。理由は、たぶん、毎回、少しずつ違う。それでいいのだと、今は思える。
(第六部・完)


作者より:届かないと分かっていて、それでも書く。伝わらないと分かっていて、それでも残す。そういう人の営みを、この店は、これからも、静かに預かり続けるのだと思います。



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常世の灯
――提灯を渡る夏

まえがき
人はだれしも、かたちのない重みを背負って生きているのかもしれません。
代々受け継がれてきた家柄や儀式といった大層なものばかりではなく、かつて共に笑い、いつの間にか見送ることになった大切な人の記憶。あるいは、時代の移ろいの中で静かに姿を消していく故郷の景色や、墓所の佇まい。そうした「失われていくもの」を前にしたとき、私たちはどこか足元が薄くなるような心細さを覚えます。
この物語は、山と海に挟まれた小さな町で、父から古びた盆提灯を受け継いだひとりの青年の手記であり、静かな祈りの記録です。
迎え火を焚き、送り火で還す。その当たり前の営みの果てに、彼が目にした「常世(とこよ)」の景色と、迷い火となった友の気配。それは決して特別な異界の出来事ではなく、今この瞬間も、私たちのすぐ隣で静かに紡がれている思いの姿なのかもしれません。
形が変わろうとも、繋ぐべき場所が失われようとも、誰かが誰かを思い、その名を呼ぶ心がある限り、灯りは途絶えることがない――。
夏の終わりの静けさの中で、この小さな物語が、あなたの中にある大切な誰かの火を、そっと温める一助となれば幸いです。



序
 これは、実在するとも、しないとも言い切れない話だ。
 僕は今も、あの夏に何が起きたのか、うまく人に説明する言葉を持たない。ただ、ひとつだけ確かなことがある。あの夏を境に、僕にとっての「先祖」という言葉の意味も、「弔う」という行為の意味も、それまでとはまるで違うものになった。
 もし、これから語ることの中に、あなた自身の身の回りにも思い当たるような気配があるのなら――それは、決して珍しいことではないのかもしれない。この国のどこかで、今この瞬間にも、誰かが誰かの火を、静かに探し続けているのだろうから。

第一章 迎え火
 八月十三日の朝は、いつも同じ匂いから始まる。
 線香の匂いと、朝露に濡れた庭の草の匂い。それに、まだ日の昇りきらない空気の、ひんやりとした青い匂い。実家の勝手口を開けると、その三つが混ざり合ったものが、待ちかまえていたようにこちらへ流れ込んでくる。
 実家のある町は、山と海の間に挟まれた、小さな盆地のような土地だ。人口は年々減り続け、僕が子供だった頃にはまだ賑わっていた商店街も、今ではシャッターの下りた店が目立つようになった。それでも、この町を包む山の稜線や、朝夕に鳴る寺の鐘の音、通学路だった川沿いの道は、記憶の中とほとんど変わらない。変わらないものと、静かに失われていくものとが、同じ町の中に、当たり前のように同居している。
 僕はその匂いの中に突っ立ったまま、しばらく提灯を見つめていた。
 仏間の鴨居に掛けられていた古い盆提灯は、去年までは父の手が下ろすものだった。骨は竹、紙は薄く黄ばんでいて、家紋が墨で描かれている。母によれば、僕の曾祖父の代から使っているものらしい。何度も紙を張り替え、骨を継ぎ足し継ぎ足し、そのたびに違う手が触れてきたはずなのに、なぜか「同じ提灯」だということになっている。
 ――お前が持っていきなさい。
 去年の夏、父はそう言って、僕の手にその柄を握らせた。特別な儀式めいた言葉があったわけではない。むしろ拍子抜けするほど普通の口調だった。まるで「醤油を取ってくれ」とでも言うような。けれど僕は、その一言で自分の背骨に何か重たいものが継ぎ足されたのを感じた。
 本家の長男というのは、そういうことなのだと思う。何かが劇的に変わるわけではない。ただ、それまで誰かがやっていた仕事の続きを、ある日から自分がやることになる。それだけのことだ。それだけのことのはずなのに、いざ自分の番になってみると、提灯の柄はやけに重く感じられた。
 仏壇の前に座り、蝋燭に火を灯す。マッチの先が擦れる音、硫黄の匂い、そして小さな炎が芯に移る瞬間の、あの独特の間。僕はその火を提灯の中の蝋燭へと移し、ガラスの覆いをそっと閉じた。中で炎は一度大きく揺れ、それからすぐに落ち着いて、まっすぐに立った。
 仏壇には、板状に収められた位牌がずらりと並んでいる。数えたことはなかったが、母がいつか「二百は超えているはずよ」と言っていたのを覚えている。二百。その数字を聞いたとき、僕はうまく実感が持てなかった。二百人という人間が、かつてこの家に生き、この土地で笑ったり泣いたりして、そして死んでいった。その全員の名前を、僕は知らない。知っているのは、せいぜい祖父母とその親の代くらいまでだ。それより前は、ただの文字の連なりでしかない。
 けれど、その文字の連なりのおかげで、今ここに僕という一人の人間が立っている。そのことだけは、なぜかいつも妙にはっきりと感じられた。
「行ってくるよ」
 誰に言うともなく呟いて、僕は提灯を提げて玄関を出た。
 実家のある町では、盆の入りの朝、こうして提灯を提げて墓所へ出かけ、そこで灯した火を家まで持ち帰るのが習わしになっている。迎え火だ。近所を見渡せば、あちこちで同じように提灯を提げた人影が歩いている。老人もいれば、僕と同じくらいの年格好の者もいる。みな一様に、少し眠そうな、けれどどこか背筋の伸びた顔をしていた。
 墓所までは歩いて十五分ほどだ。緩やかな坂を上り、竹林の脇を抜けると、山際にひらけた墓地が見えてくる。夏の朝の光はまだ柔らかく、墓石の影は長く伸び、蝉の声はまだ本調子ではなく、ところどころ試すように鳴いている。
 僕は家の墓の前に立ち、提灯を足元に置いて手を合わせた。
 ――お迎えに上がりました。
 声には出さない。心の中でそう唱えるだけだ。それでも毎年、この瞬間だけは、自分の言葉が届くべき相手が本当にそこにいるような気がしてならなかった。墓石の向こうの、目に見えない何かに向かって。
 線香を上げ、墓前の小さな蝋燭に、提灯の火を移す。その火を、今度はもう一度提灯の中へと戻す。行きは家の火を墓へ、帰りは墓の火を家へ。そうやって火を渡すこと自体が、この儀式の核心なのだと、子供の頃に祖母から聞いた覚えがある。
 しかし今年は、何かが違っていた。
 提灯の中の炎に、墓前の蝋燭の火を移した瞬間――ほんの一瞬のことだった――炎が、ふっと大きくなった気がした。風もないのに、ろうそくの火が突風を受けたように揺らぎ、それから元の大きさに戻る。ただそれだけのことだ。気のせいだと言われれば、それまでの現象だった。
 けれど僕は、その一瞬に、何かとても大勢の視線を感じた。まるで、炎の向こう側にたくさんの目が並んでいて、こちらを覗き込んでいるような。ぞくりとしたが、同時にそれは、恐怖というより懐かしさに近い感覚だった。
 僕は提灯のガラスの中で静かに燃える炎をしばらく見つめた。何も変わったところはない。いつも通りの、小さな橙色の炎だ。
 それでも、その火を提げて墓所を後にするとき、僕は妙な確信を抱いていた。――今年の迎え火は、いつもと違う。何かを連れて帰ることになる。

第二章 提灯を提げて
 墓所からの帰り道は、行きとは違う道を通ることが多い。町を大きく迂回するような形になるのだが、これも昔からの決まりのようなもので、理由を聞いたことはない。ただ、その道すがら、近所の家々の墓の様子や、迎え火の提灯の灯りを見て歩くのが、僕は子供の頃から好きだった。
 道中、見知った顔とすれ違うたびに、軽く会釈を交わした。隣の田村さんの家では、腰の曲がったおばあさんが、孫らしき小さな男の子の手を引いて、同じように提灯を提げて歩いていた。少し先には、去年会社を早期退職したという幼馴染みの父親が、久しぶりに帰ってきたらしい息子と並んで歩いている姿もあった。誰もが一様に、同じ朝の同じ儀式を、それぞれの事情を抱えながら、それでも続けている。
 この光景も、あと何年見られるだろうか。ふと、そんなことを考えてしまう自分がいた。この道沿いの家々のうち、いくつが、この先も同じように迎え火を続けていけるのだろう。跡取りがいない家、遠方に移り住んでしまった家、体力的に墓参りそのものが難しくなってしまった老夫婦だけの家。この町では、そうした話を、もう珍しくもなく耳にするようになっていた。
 坂を下りきったところに、幼馴染みの家の墓地がある――はずだった。
 数軒隣り、小さな松の木を目印にした一角。子供の頃、亮と二人でよく肝試しと称して忍び込んでは、大人に叱られた場所だ。亮の家の墓は、その松のすぐ脇にあった。古い、けれど手入れの行き届いた墓石で、正面に「安らかに眠れ」という彼の曾祖父の代からの家訓めいた言葉が刻まれていたのを覚えている。
 僕はいつもの癖で、そちらへ視線をやった。
 なかった。
 松の木はまだそこに立っている。しかし、その脇にあったはずの墓石は、影も形もなかった。地面には四角く土が均され、まだ真新しい砂利が敷かれている。まるで最初から何もなかったかのように、きれいに、あまりにきれいに整地されていた。
 僕は立ち止まり、しばらくその場所を見つめた。提灯の柄を握る手に、じわりと汗がにじむ。
 ああ、と小さく声が漏れた。息を呑んだ。
 頭では理解していたはずだった。近頃、後継ぎのいない家が増えて、墓仕舞いをする話をよく耳にする。うちの近所でも、去年一件、その前の年にも一件あった。珍しいことではない。むしろ、これからますます増えていくだろうと、誰もが分かっている変化のひとつだ。
 けれど、それがまさかあいつの家だとは、思ってもみなかった。
 亮の両親は、まだそれほど年老いてはいなかったはずだ。それに、亮には妹がいる。彼女が結婚して家を出たという話は聞いていたが、墓を仕舞うところまで話が進んでいたとは知らなかった。もっとも、僕が知らなかっただけで、この一年、実家との連絡も疎かにしていたのは自分自身だ。知らなくて当然だったのかもしれない。
 僕は提灯を提げたまま、しばらくその場所に立ち尽くしていた。
 ここに、亮がいた。二年前までは。
 いや――厳密に言えば、それは正確ではない。二年前、亮はもうこの世界にいなかった。彼が事故で死んだのは、僕たちが二十六になった年の冬だった。あの日から、この墓地の一角は、亮そのものが「収まっている場所」になった。少なくとも僕の中では、そういうことになっていた。
 その場所が、今、更地になっている。
 不思議な感覚だった。悲しいというよりも、足元が急に薄くなったような、頼りない感じ。まるで、自分が今まで信じてきた地図の一部が、忽然と白紙に戻ってしまったような。
 提灯の炎が、僕の手の中で小さく揺れた。風はない。それなのに、その炎はまるで何かに呼応するように、松の木の方向へとわずかに傾いだ。
 僕は目を凝らした。気のせいだと思いたかった。しかし、松の木の根元、更地になったその一角に、ほんの一瞬、蜃気楼のように淡い光の揺らぎが見えた気がした。橙色でも、白でもない、名付けようのない色の光。それは瞬きの間に消えた。
 僕はしばらくそこに立ち尽くしていたが、やがて我に返り、家路を急いだ。提灯の中の火を、絶やすわけにはいかない。それだけは、体に染み付いた習慣として、僕をその場から動かした。
 歩きながら、僕はずっと、あの止まった時間のような更地のことを考えていた。そして、久しく開いていなかったブログのことを思い出していた。
 あのブログを始めたのは、亮が死んだ直後だった。誰に読んでもらうためというよりも、自分の中に溜まっていくものをどこかに吐き出さなければ、立っていられなかったからだ。半年ほど熱心に更新して、それから徐々に間隔が空き、この一年はほとんど開いてすらいなかった。
 あいつの家の墓が消えていた。その事実が、止まっていた何かを、また動かし始めているのを感じた。

第三章 父の背中
 家に戻ってから、僕は提灯の火を仏壇の蝋燭へと移し、しばらくの間、その場に座り込んでいた。頭の中では、まだあの松の木の下の更地が、消えることなく像を結んでいた。
 台所からは、母が朝食の支度をする音が聞こえてくる。まな板の上で何かを刻む音、鍋の蓋がかたかたと鳴る音。いつも通りの、何でもない夏の朝の音だった。その日常の音が、かえって僕の中の落ち着かなさを際立たせた。
 父は縁側に座り、湯呑みを片手に、庭の朝顔をぼんやりと眺めていた。定年退職してからというもの、父はこうして朝の時間を、ただ庭を眺めることに使うようになった。若い頃は、そんな悠長なことをする人ではなかったはずだ。
「亮の家の墓、なくなってた」
 僕は父の隣に腰を下ろしながら、そう切り出した。父は湯呑みを口に運びかけた手を止め、少しの間、黙っていた。
「そうか」
 それだけだった。驚いた様子はなかった。おそらく、噂くらいは耳にしていたのだろう。
「父さんは、寂しくないの。同級生の家の墓が、こうやってどんどん消えていくの」
 父は湯呑みを縁側に置き、少し考えるような間を置いてから、口を開いた。
「寂しいさ。当たり前だろう。だがな、寂しいということと、それを止められるかということは、また別の話だ」
「うちは、どうなの。この先」
 僕がそう尋ねると、父は初めて、こちらに顔を向けた。
「お前が継いでくれると、信じているよ」
 その一言に、僕は何も言い返せなかった。信じている、という言葉の重さが、朝の光の中で、静かに僕の肩にのしかかってきた。
「父さんは、この提灯を受け継いだとき、どう思った」
 父は少し笑った。自嘲めいた、それでいてどこか懐かしそうな笑い方だった。
「正直、重荷だと思ったよ。俺が二十代の頃は、この家からとにかく出ていきたかった。田舎の因習じみたことに、うんざりしていたんだ。位牌が二百枚あろうと三百枚あろうと、俺には関係ないと思っていた」
 意外な告白だった。父がそんなふうに感じていたとは、想像したこともなかった。
「それが、どうして」
「お祖父さんが倒れた年があってな。お前が生まれる少し前だ。あのとき、初めて本気で、この家のことを考えた。誰かがやらなければ、この家に伝わってきたものが、そこで途切れてしまう。途切れさせてしまっていいのか、と自分に問うたとき、答えは自然と決まっていた」
 父は湯呑みを再び手に取り、ゆっくりと茶をすすった。
「継ぐというのはな、何かを我慢することじゃないんだ。むしろ、自分より大きなものの一部に、自分を差し出すということに近い。差し出した分だけ、自分がその大きなものと、繋がっていられる。俺はそう思うようになった」
 僕は父の横顔を見つめた。長年、日に焼けてきた肌に刻まれた皺の一本一本が、この家と、この土地で過ごしてきた時間の長さを物語っているようだった。
「怖くなかったの。自分より大きなものに、差し出すのが」
「怖かったさ、そりゃあ。だがな、怖さと、やるべきことは、両立するもんだ。怖いから逃げる、というのは、案外、後になって一番後悔する選び方だぞ」
 父はそう言って、少し照れくさそうに笑った。柄にもなく語りすぎたと思ったのかもしれない。
「亮の家は、繋がりを断つ方を選んだんだね」
「断つ、というのは、少し違うと思うぞ」
 父は静かに首を振った。
「あの家は、繋がりの形を変えただけだ。墓という場所に頼らない繋がり方を、選んだんだ。それが正しいか間違っているか、俺には分からん。ただ、あそこの親御さんが、簡単にそれを決めたとは思えん。相当に、悩んだ末のことだろう」
 その言葉は、亮の母から直接聞くよりも先に、僕の胸に、静かに沁みこんできた。
 父は湯呑みの中身を飲み干すと、立ち上がりながら、僕の肩に軽く手を置いた。
「お前がこれから、この提灯をどう継いでいくかは、お前次第だ。俺のやり方をそのまま真似る必要もない。ただな……継ぐというのは、決して一人だけの仕事じゃないということだけは、覚えておくといい」
 その言葉を残して、父は台所の方へと戻っていった。僕は縁側に一人残され、朝顔の蔓が、支柱に沿って一日ごとに伸びていくのを、しばらくの間、ぼんやりと眺めていた。
 一人だけの仕事ではない。その言葉が、後になって、僕の中で何度も反芻されることになる。

第四章 常世の兆し
 その日の夕方、僕は仏間で、久しぶりに祖母と二人きりになった。
 祖母は今年で八十六になる。足腰はまだしっかりしているが、耳が少し遠くなった。それでも、この家に関することとなると、母よりも祖母の方がずっと詳しい。位牌の数を教えてくれたのも、迎え火と送り火の細かい作法を教えてくれたのも、すべて祖母だった。
「今日、墓所で妙なものを見た気がする」
 僕がそう切り出すと、祖母は畳の上に座ったまま、湯呑みを両手で包むようにして、ゆっくりとこちらを見た。
「妙なもの、とは」
「提灯の火が、急に大きくなった。それと……亮の家の墓が、なくなっていた」
 祖母はしばらく黙っていた。長い沈黙だった。障子から差し込む夕方の光が、畳の目に沿って長い影を作っていた。
「亮くんの家、とうとう仕舞ったんだねえ」
 祖母の声には、驚きよりも、何かを確かめるような響きがあった。
「知ってたの」
「噂には聞いていたよ。あそこの跡取りは女の子一人だったから、いずれはと思っていた」
「……それだけ? 火が大きくなったことは」
 祖母は湯呑みをそっと畳の上に置いた。それから、しばらく僕の顔を見つめてから、ようやく口を開いた。
「お前も、もうその年頃だからね。話しておいた方がいいのかもしれない」
 僕は黙って続きを待った。
「この家に伝わる話でね。迎え火や送り火は、ただの決まり事じゃないんだよ。あの火はね、渡るための火なんだ」
「渡る、って」
「こちらとあちらを、渡る」
 祖母はそう言うと、仏壇の方へ視線を移した。二百を超える位牌が、夕方の薄闇の中で、静かに並んでいる。
「あの位牌の一枚一枚が、ただの木の板だと思うかい。違うんだよ。あれはね、こちらとあちらを繋ぐ、目印のようなものなんだ。あちらというのはね……この世のすぐ隣にある、もうひとつの世界のことだよ。うちのお祖母ちゃんは、常世と呼んでいた」
「常世」
「行ったことのある者は、あまり多くを語らないものだけどね。あちらでは、時間の流れ方がこちらとは違うらしい。亡くなった人たちが、こちらで生きていたときの姿のまま、静かに留まっている場所だそうだ。お盆というのは、その常世との境がいっとき薄くなる時期でね。迎え火はその境を開く鍵で、送り火はその境を、また閉じるための鍵なんだよ」
 僕は半信半疑のまま、それでも黙って聞いていた。夕方に聞くこの手の話は、いつも妙に説得力がある。
「じゃあ、亮の家の火が大きくなったように見えたのは」
「それはたぶん、亮くんのご先祖さまたちが、今年はもう戻る場所がないと分かって、慌てて別の火を探したんだろうね。墓を仕舞うということはね、単に骨を移すというだけの話じゃない。境を繋ぐ目印そのものを、消してしまうということなんだよ」
 祖母の声は淡々としていたが、その言葉の重みは、僕の胸に静かに沈んでいった。
「消えたら、どうなるの」
「戻る場所を失った火は、迷い火になる。境の狭間を、当てもなく漂うようになるんだと聞いている。運が良ければ、他所の家の火に紛れて、一緒に常世へ戻れることもあるらしい。けれど、それもいつまでも続くわけじゃない。送り火の刻限が過ぎれば、境はまた閉じてしまう。閉じたあとに、まだ迷ったままの火がどうなるのか……それは、私も聞いたことがないよ」
 僕は仏壇の位牌の群れを見つめた。二百を超える名前の連なり。その一枚一枚が、ただの記録ではなく、この家という「戻る場所」を持つ者たちの証だということが、今になってようやく実感を伴って迫ってきた。
 そして、その戻る場所を持たない者が、今、亮という形をして、どこかを彷徨っているかもしれないということも。
「じゃあ、うちみたいな本家は、その分、多くの火を、ちゃんと繋ぎ止めておく役目がある、ということ」
 僕がそう尋ねると、祖母は静かに頷いた。
「そういうことだね。本家というのは、ただの家系の中心という意味だけじゃない。多くの火の、行き場を守り続ける器のようなものなんだよ。だからこそ、代々、長男には重い役目が回ってくる。お前の父さんも、その前のお祖父さんも、みんな同じ重さを背負ってきたんだ」
「重いね」
「重いよ。でもね」
 祖母は、僕の手に、自分の手をそっと重ねた。骨ばった、しかし温かい手だった。
「その重さは、一人で背負うものじゃない。二百を超える火が、みんなお前を支えてくれているんだよ。お前が迷ったときは、あの位牌の一枚一枚が、きっと力を貸してくれる。そう思って、生きていけばいい」
 その言葉に、僕は少しだけ、肩の力が抜けるのを感じた。
「お祖母ちゃんは、常世に行ったことがあるの」
 僕がそう尋ねると、祖母は少しだけ目を細めて笑った。長い間、何かを懐かしむような笑い方だった。
「さあ、どうだったかねえ」
 はぐらかすようなその答えに、僕はそれ以上踏み込むことができなかった。ただ、その夜、仏間に灯る提灯の火を眺めながら、僕はもう一度、亮のことを、心の中で強く思い浮かべていた。

第五章 古い日記
 その夜、僕は眠れないまま、蔵の奥にしまわれている古い荷物のことを思い出していた。子供の頃、探検と称して蔵に忍び込んでは、古い家具や、正体の分からない道具に胸を躍らせたものだった。あの中に、確か、曾祖父の代から伝わる古い日記帳や書付の束があったはずだ。
 懐中電灯を片手に、僕は蔵へと足を運んだ。夜の蔵は、昼間とはまるで違う顔をしている。埃と古い木材の匂い、行李や長持ちが並ぶ薄闇の中を、僕は記憶を頼りに奥へと進んだ。
 目当ての木箱は、すぐに見つかった。中には、和紙を綴じた古い帳面が、幾冊も重なっている。字は達筆すぎて、すぐには読み解けないものも多かったが、比較的新しい――といっても大正から昭和初期にかけてのものらしい――帳面の中に、僕の目を引く記述があった。
 筆者は、僕の高祖父にあたる人物のようだった。日記というよりは、家の記録や、農作業の覚書のような性質のものだったが、その中に、ぽつりぽつりと、不思議な記述が混じっていた。
 「盆の入りの夜、提灯の火、常より大きく揺れる。近隣の某家、去る春に墓を仕舞いたる由。哀れなる火、しばし迷いたるを見る」
 僕は息を呑んだ。今回、僕自身が体験したことと、あまりにも似通った記述だった。少なくとも百年近く前から、この家の人間は、同じような現象を経験し、それを記録していたのだ。
 さらにページをめくると、こんな一文もあった。
 「送り火の刻限、迷い火を導くには、名を呼び、恩を語るに如くはなし。血縁の有無を問わず。ただし、無理に留め置かんとするは、かえって仇となる。この理、亡き祖母より伝え聞く」
 まるで、僕がこの三日間で、身をもって学んだことを、そのまま言い当てているかのような文章だった。祖母の言っていたことも、あながち、この家だけの言い伝えというよりは、代々受け継がれてきた、確かな知恵の体系なのだと、僕は理解した。
 さらに奥のページには、もっと古い時代のものらしい、別の筆跡による書付も挟まっていた。こちらは古文めいた候文で、僕にはほとんど解読できなかったが、「常世」「迎え火」「送り火」といった単語が、繰り返し登場しているのだけは見て取れた。
 この家は、少なくとも数世代にわたって、この不思議な現象と向き合い、それを記録し、次の世代へと伝え続けてきたのだ。二百を超える位牌の列は、単に血縁の記録であるだけでなく、この現象そのものへの向き合い方の、長い長い試行錯誤の証でもあったのかもしれない。
 さらにページをめくっていくと、高祖父自身の体験らしき記述に行き当たった。文字は所々かすれていたが、辛抱強く読み進めるうちに、おおよその内容がつかめてきた。
 それによれば、高祖父にはかつて、幼くして亡くした弟がいたという。流行り病で、七つになる前に世を去った弟の墓は、家の事情でその後、一度整理されることになった。まだ「墓仕舞い」という言葉が一般に使われるより、ずっと前の時代の話だ。高祖父は、その後何年もの間、盆になるたびに、名も持たぬままさまよう弟の火を探し続けたらしい。
 「幾年か過ぎ、弟の火、ようやく穏やかになるを見る。何をしたるにあらず。ただ、来る年も来る年も、その名を呼び続けたるのみ。急く心を捨て、待つことこそ肝要なりと、この身をもって知る」
 その一文を読んだとき、僕は胸の奥が熱くなるのを感じた。何年もかけて、ただ弟の名を呼び続けた高祖父の姿が、まるで目の前に浮かぶようだった。すぐに答えの出ないことを、それでも辛抱強く続けること。それこそが、この現象と向き合う上での、何よりの心得なのだと、時代を超えて伝わってくるようだった。
 僕が今、亮のために為そうとしていることも、あるいは、一度で終わる話ではないのかもしれない。今日、明日で全てが解決しなくても、思い続けることさえやめなければ、いつか必ず、道は見つかる。高祖父の言葉が、そのことを、静かに保証してくれているように感じられた。
 僕はその帳面を、そっと胸に抱いた。誰に見せるでもなく、ただ、自分の中にあった確信を、より確かなものにするために。
 蔵を出ると、外はすでに白み始めていた。八月十四日の朝が、静かに始まろうとしていた。あと一日で、あの野原の刻限がやってくる。僕は帳面を持ったまま、しばらく庭先に立ち、夜明けの空を見上げていた。

第六章 亮
 亮と出会ったのは、小学校に上がる前だった。この町の子供の数など知れているから、幼稚園も小学校も中学校も、ずっと同じ顔ぶれで過ごすことになる。その中でも、亮とは家が近く、母親同士も仲が良かったこともあって、物心つく前から兄弟のように育った。
 夏になれば、二人で自転車を漕いで川に行き、蝉を捕まえ、盆の時期には互いの家の迎え火を見に行き合ったりもした。亮の家は分家筋で、うちのように二百を超える位牌があるわけではなかったが、それでも彼の家の仏壇には、彼の祖父母や曾祖父母の位牌が、ちゃんと並んでいた。
「うちは本家じゃないから、気楽でいいよ」
 高校生の頃、亮はそう言って笑っていた。長男である僕が、いずれ家を継ぐことについて重たい顔をしていたのを見透かしてのことだったと思う。彼自身も長男だったが、家の跡取りとしての重さは、うちほどではなかったのだろう。あるいは、彼なりの気遣いだったのかもしれない。
 大学は別々になった。僕は都会へ出て、亮は地元に残り、家業の手伝いをしながら、消防団に入り、青年会の活動にも顔を出すようになった。会うたびに、彼はどんどんこの町に根を張っていくように見えた。僕はその逆で、帰省するたびに、自分がこの町からどんどん遠ざかっていくような感覚を覚えていた。
 それでも、盆と正月に帰れば、必ず亮とは会っていた。互いの近況を報告し合い、たわいもない話で笑い合う。その関係は、大人になっても不思議と変わらなかった。
 亮とは、他にも数えきれないほどの思い出がある。中学の頃、二人で自主的に作った「町の妖怪マップ」というものがあった。山の奥にある古い祠や、誰も近寄らない廃屋、夜になると光ると噂されていた墓地のことなど、町のあちこちに散らばる不思議な噂を、自転車で巡って調べ上げ、ノートにまとめたものだ。今思えば、あの頃から僕たちは、この町の「見えないもの」に惹かれていたのかもしれない。
 高校の文化祭では、二人で肝試し企画を運営した。亮は脅かし役に徹し、僕は道案内をした。あの日、亮が白い布を被って暗闇から飛び出し、後輩の女子生徒を本気で泣かせてしまい、後で二人揃って先生にこっぴどく叱られたことを、今でも鮮明に思い出せる。
 二年前の冬、亮は事故で死んだ。消防団の活動中、崖崩れの二次災害に巻き込まれたのだと聞いた。詳しい話は、今でもあまりよく分かっていない。分かっているのは、電話越しに母からその知らせを聞いたとき、僕は言葉を返すことができず、しばらく黙って立ち尽くしていたということだけだ。
 葬儀には、この町のほとんどの人間が集まったように思う。亮の両親は憔悴しきっていたが、それでも気丈に、参列者一人一人に頭を下げていた。妹は、まだ幼さの残る顔で、ただ茫然と座っていた。
 僕はあの日、何を話したのかも、どんな顔をしていたのかもよく覚えていない。ただ、帰りの電車の中で、無性に何かを書き残しておかなければという衝動に駆られたことだけは、はっきりと覚えている。その夜のうちに、僕は古いブログのアカウントを引っ張り出し、亮との思い出を、思いつくままに書き殴った。
 それが、あのブログの始まりだった。
 最初のうちは、毎日のように更新した。亮との子供時代のこと、彼の口癖、彼が好きだった食べ物、彼が最後に僕に送ってきたメッセージのこと。書いても書いても、何かが埋まる感じはしなかった。むしろ書けば書くほど、彼がもうこの世にいないという事実が、輪郭をはっきりとさせていくようだった。
 半年ほどして、更新は徐々に間遠になっていった。仕事が忙しくなったこともある。だが本当のところは、書くことに疲れたのだと思う。悲しみを言葉にすることと、悲しみそのものと向き合うことは、似ているようで、まったく別のことだった。僕は前者だけを繰り返し、後者からはずっと目を逸らし続けていたのかもしれない。
 この一年、僕はほとんど実家にも帰らなかった。理由のひとつは、単純に仕事が忙しかったからだ。会社では新しいプロジェクトを任され、休日出勤も珍しくなかった。けれど、それだけが理由ではなかったことを、僕自身、うすうす分かっていた。
 実家に帰るということは、あの家の空気に触れるということだ。二百を超える位牌の連なりに囲まれ、本家の長男としての自分と向き合わなければならない。そして何より、亮のいない町を歩かなければならない。都会の雑踏の中にいる間は、そうした重さから、目を逸らしていられた。忙しさは、ある意味では、都合の良い言い訳でもあった。
 父から提灯を渡されたときも、正直なところ、その重さを実感として受け止めきれていなかった。ただ形式的に受け取っただけで、心のどこかでは、まだ自分が本家の長男として何かを背負う覚悟には至っていなかったのだと思う。
 けれど今日、亮の家の墓所が消えているのを見た瞬間、二年間ずっと見ないふりをしてきた何かが、一気に胸の中に押し寄せてきた。
 あいつは、ちゃんと「戻る場所」を持てているのだろうか。
 祖母の話が本当だとするなら――もちろん、そんなことを本気で信じるのは、どうかしていると自分でも思う。それでも、僕はもう、信じないという選択肢を選べなくなっていた。あの更地で見た、名付けようのない色の光の揺らぎが、頭から離れなかった。
 その夜、僕は布団に入ってからも、なかなか寝付けなかった。窓の外では、蝉の声に混じって、遠くの家々から線香の匂いが風に乗って流れてくる。盆の夜というのは、いつもどこか、空気の密度が違う気がする。
 僕は目を閉じ、亮の顔を思い出そうとした。最後に会ったのは、彼が死ぬ三ヶ月ほど前、正月に帰省したときだった。彼は少し痩せていて、それでもいつもの調子で、消防団の後輩の失敗談を笑いながら話していた。
 ――また夏に会おうな。
 別れ際、彼はそう言った。何気ない、いつも通りの挨拶だった。あの言葉が、結果として最後の約束になった。
 僕はその約束を、まだ果たせていない。
 思い返せば、亮とは、一度だけ大きく喧嘩をしたことがあった。大学を出て、僕が都会での就職を決めたときのことだ。
「お前まで出ていくのか」
 電話越しに、亮はそう言った。責めるような口調ではなかったが、その声には、隠しきれない落胆が滲んでいた。当時の僕は、それを鬱陶しく感じてしまった。
「お前と違って、俺はこの町にずっといるつもりはない」
 売り言葉に買い言葉で、僕はそんなことを言ってしまった。今思えば、ひどい言い方だった。亮は何も言い返さず、ただ「そうか」とだけ言って、電話を切った。
 それから半年ほど、僕たちはほとんど連絡を取らなかった。互いに意地を張っていたのだと思う。関係が元に戻ったのは、次の盆に、僕が実家に帰省したときだった。墓所で偶然顔を合わせ、気まずい沈黙の後、亮の方から「久しぶり」と声をかけてきた。それだけで、それまでの気まずさが、嘘のように消えていった。
「悪かったな、あんな言い方して」
 僕がそう謝ると、亮は笑って、軽く肩を小突いてきた。
「別にいいさ。お前の選んだ道だ。俺はこっちで、こっちなりにやっていくから」
 その言葉に、僕はどれだけ救われたか分からない。それ以来、僕たちは互いの生き方の違いを、責めることも、羨むこともなく、ただそれぞれの道として受け入れ合えるようになった。少なくとも、僕はそう思っていた。
 けれど今、あの更地を目の当たりにして、僕は改めて考えずにはいられなかった。もし僕が、あのとき意地を張らずに、この町に残る道を選んでいたら。あるいは、もっと頻繁に帰省して、亮ともっと多くの時間を過ごしていたら。何かが、違っていたのだろうか。
 答えの出ない問いだと分かっていた。それでも、考えることをやめられなかった。

第七章 迷い火
 盆の中日にあたる八月十四日は、家にいる先祖たちをもてなす日とされている。仏壇には、いつもより多くの供物が並び、家族総出で、ただそこにいるだけの一日を過ごす。特別な儀式があるわけではない。ただ、静かに、丁寧に、時間を過ごす。それが習わしだった。
 しかし僕は、その日の夜、家族が寝静まったのを確認してから、そっと家を出た。手には、あの古い提灯を提げていた。
 自分でも、何をするつもりなのか、はっきりとは分かっていなかった。ただ、あのとき墓所で見た光の揺らぎを、もう一度確かめたいという衝動が、僕を突き動かしていた。あるいは、祖母の言葉を、自分自身の目で確かめてみたいという気持ちもあったのかもしれない。
 夜の墓所は、昼間とはまるで違う顔をしていた。あちこちの提灯や灯籠に火が灯され、墓地全体が、無数の小さな橙色の光で埋め尽くされている。まるで、地上に星空が降りてきたようだった。蝉の声はやみ、代わりに虫の音が、絶え間なく空気を震わせている。
 僕は亮の家があった場所――今は更地になった一角――の前に立ち、提灯の火を掲げた。
「亮」
 声に出して呼んでみた。返事があるとは思っていなかった。ただ、そうせずにはいられなかった。
 しばらく、何も起こらなかった。虫の声だけが響いている。僕は自分がひどく馬鹿げたことをしているように感じ始めていた。
 そのとき、提灯の中の炎が、また大きく揺らいだ。今度は、はっきりと分かるほどに。炎は上へ向かって細く伸び、まるで手招きするように、揺れながら形を変えていった。
 僕は息を呑んだ。目の前の空間が、陽炎のように歪んで見えた。耳の奥で、水の中に潜ったときのような、こもった音が響く。足元の感覚が消え、体が急に軽くなったかと思うと、次の瞬間には、重力が反対側から引っ張るような奇妙な浮遊感に包まれた。夏の夜の匂いが遠のき、代わりに、どこか懐かしい、乾いた線香のような匂いが鼻をかすめる。景色の輪郭が滲み、色が抜け落ち、そして――気がついたときには、僕は見たこともない場所に立っていた。
 そこは、どこまでも続く薄暗い野原のようだった。地面は柔らかい光を帯びていて、足元から淡い霧のようなものが立ち上っている。空を見上げても、月も星も見当たらない。それでいて、闇というほど暗くもない。全体が、ぼんやりとした灰色がかった光に包まれていた。
 そして、その野原のあちこちに、無数の小さな炎が浮かんでいた。人の背丈ほどの高さに、ふわりふわりと漂う、橙色や白や、時には青みがかった炎。それぞれの炎の下には、小さな板のようなものが、地面に突き立っている。位牌に似た形をしていた。
 僕はおそるおそる、一番近くの炎に近づいた。板には、見覚えのない名前が刻まれていた。おそらく、うちの家の遠い先祖の誰かなのだろう。炎はゆっくりと脈打つように明滅し、僕が近づくと、まるで応えるようにわずかに揺れた。
 それは、恐怖よりも、ただただ懐かしさに似た感情を僕に呼び起こした。
 よく見ると、炎の形や色合いには、それぞれ微妙な個性があった。長く穏やかに、大きくゆったりと揺れる炎もあれば、せわしなく、小刻みに瞬く炎もある。生前のその人の性格が、炎の揺らぎ方に、そのまま表れているのではないかと、僕はふと思った。気の長かった人、せっかちだった人、優しかった人、頑固だった人。誰であったかは分からずとも、その人らしさだけは、確かにそこに残っている。
 板に刻まれた文字を辿っていくと、時代がだんだんと遡っていくのが分かった。近くには、僕の記憶にある祖父や、会ったこともない曾祖父母の名前があり、そこから離れるにつれて、江戸期を思わせる旧い名乗りへと変わっていく。さらにその奥には、文字がすっかり摩耗して読み取れないほど古い板もあった。それでも、その炎は、他のものと変わらず、静かに、しかし確かに燃え続けていた。
 時間の感覚が、この場所にはないのかもしれない。百年前に亡くなった人の炎も、去年亡くなった人の炎も、同じ強さで、同じ穏やかさで、そこに在り続けている。それは、僕がこれまで抱いていた「死」というものの概念を、静かに、しかし根底から揺さぶるものだった。
 僕はゆっくりと歩きながら、炎の間を進んだ。どの炎も、それぞれのリズムで静かに燃えている。中には、二つ、三つとまとまって漂っているものもあった。夫婦だろうか、それとも親子だろうか。想像すると、胸の奥が温かくなるような、切なくなるような、複雑な気持ちになった。
 ここが、常世なのだ。祖母の言葉を、僕はようやく実感として理解した。
 しかし、しばらく歩くうちに、僕は野原の様子が少しずつ変わっていくのに気づいた。整然と、それぞれの場所に留まっていた炎の群れが途切れ、代わりに、あてもなくふらふらと漂う、不安定な炎が目につくようになってきた。板を持たない炎だった。地面に根を持たず、風もないのに、あちこちへとさまよっている。
 迷い火だ。
 僕はその中に、見覚えのある揺れ方をする炎を探した。理屈ではなく、直感だった。そして、しばらく彷徨った末に、僕はそれを見つけた。
 他の炎よりも一回り小さく、色は橙色というより、少し赤みを帯びた、どこか不安げな揺れ方をする炎。近づくと、それは僕を認識したかのように、ふわりと大きく揺れた。
「亮」
 僕はもう一度、その名を呼んだ。今度は、確信を持って。
 炎は、まるで頷くように、上下に揺れた。言葉は聞こえない。それでも僕には、その揺らぎの中に、確かに彼の気配を感じ取ることができた。

第八章 名もなき声
 亮の炎のそばに座り込んだまま、僕はしばらく動けずにいた。何をすればいいのか分からない。ただ、そこにいることしかできない自分の無力さが、もどかしかった。
 そのとき、背後で何かが揺れる気配がした。振り返ると、整然とした炎の群れの中から、一つの炎が、するりとこちらへ近づいてくるのが見えた。うちの家紋に似た模様が刻まれた、古い板を伴った炎だった。
 その炎が近づくと、不思議なことに、頭の中に、直接何かが流れ込んでくるような感覚があった。言葉ではない。むしろ、記憶の断片のようなものだった。
 見知らぬ女性の姿。着物姿で、赤子を背負い、畑を耕している。時代は、おそらく僕が生まれるよりずっと前――明治か、大正の頃だろうか。彼女は、僕にとって何代も前の先祖のうちの一人らしかった。
 その記憶の断片の中に、もうひとつの光景が混じっていた。彼女もまた、かつて、この野原で、誰かの迷い火のそばに座り込んでいたことがあるようだった。血の繋がらない、けれど彼女にとって大切だった誰かの火。近所に住んでいた、若くして亡くなった友人の火だったらしい。
 彼女もまた、僕と同じように、その火を送り届けようとしたのだろうか。その記憶の断片だけでは、結末までは分からなかった。ただ、彼女がその後も長く、その友人のことを思い、命日には必ず手を合わせ続けていたらしいという、温かな気配だけが伝わってきた。
 僕はその記憶に、深く胸を打たれた。この野原で迷う炎に寄り添おうとした人間は、僕が最初ではないのだ。何代も前から、この家に連なる誰かが、血の繋がりを超えて、誰かの火を思い、寄り添おうとしてきた。その積み重ねの果てに、今、僕がここに立っている。
 考えてみれば、二百を超える位牌というのは、単に血筋の記録なのではなく、それだけの数の「思い続けた記憶」の集積でもあるのだろう。誰かが誰かを弔い、誰かが誰かの名を呼び続けたという行為そのものが、この家という器の中に、幾重にも積み重なっている。僕は今、その分厚い地層の、ほんの表面に触れているに過ぎないのかもしれない。
「教えてくれて、ありがとうございます」
 僕がそう呟くと、その古い炎は、満足したように小さく瞬き、再び整然とした群れの中へと戻っていった。
 僕は改めて、亮の炎に向き直った。先ほどまでの焦りは、いくらか和らいでいた。代わりに、静かな覚悟のようなものが、胸の内に据わっていくのを感じた。
 急いで結論を出す必要はない。ただ、正しいやり方で、彼に向き合うこと。それが、何よりも大切なのだと、名もなき先祖の記憶が、教えてくれた気がした。
 しかし、空の色は、確実に赤みを増していた。悠長にしている時間は、もう残されていなかった。

第九章 巡る者
 立ち上がり、あたりを見回したとき、僕は少し離れた場所に、もう一つの人影を見つけた。
 この野原に、僕以外の生きた人間がいるとは思っていなかった。驚いて目を凝らすと、それは背の曲がった、白髪の老人だった。着物姿で、片手に古びた提灯を提げている。老人は、僕と同じように、一つの迷い火のそばに膝をつき、何かを静かに語りかけていた。
 僕はしばらく、声をかけるべきかどうか迷った。この場所での出会いに、どんな作法があるのかも分からなかったからだ。しかし、老人の方が先に、こちらに気づいたようだった。皺の深い顔を上げ、僕を見て、小さく頷いた。
「お前さんも、迎えに来たクチかね」
 しわがれた、しかし穏やかな声だった。僕はおそるおそる頷いた。
「あちらは、あんたの誰かい」
「幼馴染みです。血の繋がりはありません」
 老人は、なるほど、というように目を細めた。
「わしのは、倅だ。もう三十年も前に、山で遭難してな。当時は、こんな仕組みがあるとは、誰も教えてくれなんだ。わしがこのことを知ったのは、随分後になってからだった。だから、最初の何年かは、ずっとこの子を、迷わせたままにしてしまった」
 老人の声には、深い後悔の色が滲んでいた。
「今は」
「今はもう、大丈夫だ。長い時間がかかったがな、やっとこの子に、ちゃんとした言葉を届けられるようになった。それからは、毎年こうして、様子を見に来ておる。もう迷ってはおらんよ。ただ、顔を見に来るだけだ」
 老人はそう言うと、自分の傍らで穏やかに揺れる炎――もはや迷い火の不安定さを持たない、落ち着いた光――に、優しい眼差しを向けた。
「わしは、この子が遭難したと聞いた日、ろくに悲しむこともできなんだ。捜索隊に加わって、山を何日も歩き回った。見つかったときにはもう、遅かった。それからしばらくは、自分を責めることしかできんでな。もっと早く探していれば、もっと注意して見ていれば、と。そんなことばかり考えて、何年も過ごした」
「僕にも、少し分かる気がします」
 僕は、あの喧嘩の記憶を思い浮かべながら、そう答えた。老人は静かに頷いた。
「けれどな、ある年の盆に、ふとこの場所に迷い込んでな。この子の火を見つけたとき、わしは初めて気づいたんだ。悔やむことと、思い出すことは、違うんだとな。悔やんでいる間は、結局、自分のことしか考えていない。あの子を、ちゃんと思い出して、あの子がどんな子だったか、どんなふうに笑っていたか、それを語りかけてやることの方が、よほど、あの子のためになるんだと」
 その言葉は、僕の胸の奥深くに、静かに、しかし確かに刻み込まれた。
「お前さんも、諦めずにやりなさい。時間はかかるかもしれん。だが、この場所は、思い続ける者を、見捨てはせん」
 その言葉に、僕は深く勇気づけられた。この現象を知り、こうして向き合い続けている人間が、この国のどこかに、他にもいる。しかも、三十年という歳月をかけてもなお、その繋がりを諦めなかった人がいる。それを知ったことは、何よりの支えになった。
「ありがとうございます」
 僕が頭を下げると、老人は静かに微笑み、再び自分の息子の炎へと向き直った。僕もまた、亮の炎へと向き直った。
 空の赤みは、いよいよ強くなっていた。刻限が近い。僕は一度、この場所を離れ、正しい手順を踏んで、もう一度戻ってこなければならない。老人の存在が、その確信を、より強いものにしてくれていた。

第十章 蝋燭の刻限
 言葉のやり取りができたわけではない。それでも、僕はその炎のそばに座り込み、しばらく黙って寄り添っていた。不思議なことに、それだけで、伝わるものがあった。
 亮は――炎になってもなお、彼だと分かるその揺らぎは――戸惑っていた。自分がどこにいるのか、どうしてここにいるのか、分からないまま漂い続けているようだった。ときおり、思い出したように何かを求めるように、遠くの、整然とした炎の群れの方へ揺れ動く。しかし、そこに近づくことはできず、また元の場所へと戻ってくる。それを何度も繰り返しているようだった。
 僕は、周りにいる他の迷い火たちにも目をやった。数えきれないほどの数だった。かつては誰かの家の墓に、誰かの家の仏壇に、確かな居場所を持っていたはずの者たちが、今はこうして、当てもなく揺れ続けている。時代が変わり、家という形が失われていくにつれて、この数はきっと、これからも増え続けていくのだろう。
 僕の中に、静かな怒りに似た感情が湧いた。誰のせいでもない。仕方のないことだと、頭では分かっている。それでも、目の前で彷徨う亮の炎を見ていると、何かにやり場のない感情をぶつけたくなった。
 そのとき、ふと、遠くの空――もし空と呼べるものがあるならば――の色が、わずかに変わり始めているのに気づいた。灰色がかった光の中に、薄く赤みが差し始めている。まるで、夜明けが近づいているかのように。
 その変化と同時に、周囲の空気に、かすかな緊張感が満ちていくのを感じた。整然と並んでいた炎たちが、一斉に、ある一定の方向――僕がこの世界に入ってきたであろう方角――へと、静かに傾き始めた。
 僕は直感的に理解した。これは、時間が近づいている合図だ。
「刻限が近い、ということかな」
 誰にともなく呟くと、隣に浮かんでいたうちの家の遠縁らしき炎が、そっと揺れて答えるように瞬いた。まるで、僕の直感を肯定するように。
 祖母の言葉を思い出す。送り火の刻限が過ぎれば、境はまた閉じてしまう。閉じたあとに、まだ迷ったままの火がどうなるのか――それは分からない、と彼女は言っていた。
 僕は焦りを感じながら、亮の炎に向き直った。周囲を見渡すと、他の迷い火たちの中にも、それぞれの家族や友人らしき者が、あちこちから駆けつけている様子が見えた。誰かが泣きながら手を伸ばし、誰かが必死に何かを語りかけている。この現象は、僕たち家族にだけ起きていることではないのだと、その光景を見て、僕は改めて思い知らされた。この国のあちこちで、今この瞬間も、同じような別れと再会が、静かに繰り返されているのかもしれない。
「一緒に、帰ろう」
 そう口にしてみて、すぐに自分の言葉の危うさに気づいた。帰る、とはどういうことだろう。彼を、僕の家の位牌の列に加えることなど、できるはずがない。血の繋がりも、家の繋がりもない。この世界の理が、そんな都合の良いことを許すとは思えなかった。
 案の定、亮の炎は、僕に近づこうとして、しかし何か見えない壁に阻まれるように、それ以上は近寄れなかった。何度も、何度も、同じように試みては、押し返される。その様子を見ているうちに、僕は自分の考えの浅さを思い知らされた。
 彼を、無理やりどこかに繋ぎ止めることはできない。それは、彼のための行為というよりも、僕自身が「彼を失いたくない」というエゴを、形を変えて押し付けているだけなのかもしれなかった。
 空の赤みは、少しずつ強くなっていく。時間がない。
 僕は必死に考えた。彼を救う方法があるとすれば、それは何だろう。無理に連れて帰ることでも、この場所に永遠に留め置くことでもないとしたら――。
 ふと、祖母の言葉の中に、もうひとつのヒントがあったことを思い出した。
 ――運が良ければ、他所の家の火に紛れて、一緒に常世へ戻れることもあるらしい。
 紛れる。それは、彼を僕の家の一員として偽装するということではない。彼を、僕の家の誰かとして扱うのでもない。ただ、僕自身が――今、ここに立っている僕という一人の人間が、彼のために、彼の名前を、彼の存在を、心から思い出し、感謝を告げること。それこそが、彼を正しい場所へと導く、唯一の火になるのではないか。
 僕は提灯を強く握りしめた。中の炎は、まだ静かに燃えている。
「待ってろ。もう一度、ちゃんとした形で来る」
 僕はそう告げると、来た道を――どこが道なのかも分からなかったが――引き返し始めた。景色がまた歪み、気づいたときには、僕は夜の墓所に、独り立っていた。提灯の火は、行く前と変わらず、静かに燃え続けていた。
 空は白み始めていた。八月十五日の朝が、すぐそこまで来ていた。

第十一章 送り火
 八月十五日は、朝から落ち着かない一日だった。
 家族と共に過ごしながらも、僕の頭の中は、あの薄暗い野原と、そこで揺れていた亮の炎のことでいっぱいだった。何をどうすればいいのか、明確な手順が分かっているわけではなかった。ただ、ひとつだけ確信していることがあった。今日の夕方――送り火の刻限――が、最後の機会になる。
 昼過ぎ、僕は思い切って、亮の両親を訪ねることにした。
 突然の訪問に、亮の母は驚いた顔をしたが、すぐに僕を招き入れてくれた。仏間には、以前あったはずの仏壇がなく、代わりに小さな写真立てと、線香立てだけが、簡素な棚の上に置かれていた。
「墓、仕舞ったんですね」
 僕がそう切り出すと、亮の母は、少し疲れたような、それでいてどこか安堵したような、複雑な表情を浮かべた。
「私たちも、もう年だから。あの子の妹も、遠くに嫁いでしまったし……この先、誰も手入れできない墓を、そのままにしておくのも、あの子に申し訳なくてね」
「そうですか」
 僕は部屋の中を、そっと見渡した。以前ここに来たときにはあったはずの仏壇の代わりに置かれた小さな棚には、亮の写真と並んで、消防団の活動で使っていたヘルメットが、丁寧に磨かれて飾られていた。彼が生きた証を、この家なりのやり方で、大切にしまい続けているのが分かった。
「寂しくないと言えば嘘になるけど。でも、これでよかったんだと思ってる。あの子の骨は、永代供養にお願いすることにしたのよ。もう、誰の手も煩わせずに済むように」
 僕はその言葉に、何も返すことができなかった。彼女の選択を、責める権利など僕にはない。むしろ、それは深い愛情から出た、苦しい決断だったのだろう。ただ、その決断の裏側で、亮の魂が今、行き場をなくして彷徨っているという事実を、僕は伝えることができなかった。伝えたところで、何が変わるわけでもない。彼女をこれ以上苦しめるだけだ。
「今日は、どうしたの」
 亮の母に尋ねられ、僕は一瞬迷ったが、正直に答えることにした。
「今年は、僕がうちの提灯を持つ番になったんです。それで……亮のことを、思い出していて。良かったら、少し、線香を上げさせてもらえますか」
 彼女は少し驚いた様子だったが、優しく頷いてくれた。僕は写真の前に座り、線香に火を灯し、手を合わせた。
「お前のこと、ちゃんと送るから」
 声には出さなかった。それでも、写真の中の亮は、いつもと変わらない笑顔で、こちらを見ていた。
 夕方、僕は家に戻り、家族と共に送り火の準備を始めた。仏壇の蝋燭から提灯へと火を移し、これから墓所まで、その火を持っていく。三日間家にいた先祖たちを、再びあちらの世界へと送り届けるための儀式だ。
 支度をしていると、祖母がそっと僕の袖を引いた。他の家族が土間で草履を履いている隙をついて、祖母は僕だけに聞こえるような小さな声で言った。
「昨日の晩、庭に出ていただろう」
 僕は驚いて、祖母の顔を見た。誰にも気づかれていないつもりだった。
「気づいてたの」
「この年になるとね、眠りが浅いんだよ。それに……お前の提灯の火が、いつもと違う揺れ方をしていたのが、窓から見えたのさ」
 祖母は、僕の手をそっと握った。骨ばった、けれど温かい手だった。
「亮くんのところへ、行ったんだね」
 僕は隠すことをやめ、素直に頷いた。祖母は、驚く様子もなく、ただ静かに目を伏せた。
「あの子は今、どんな様子だい」
「戸惑ってる。帰る場所を、探し続けてる」
 祖母は少しの間、黙っていた。それから、僕の手をもう一度強く握り、こう言った。
「いいかい、無理に連れ帰ろうとするんじゃないよ。それは、あの子のためにはならない。ただ、ちゃんと、名前を呼んでやりなさい。ちゃんと、感謝を伝えなさい。血の繋がりよりも、ずっと強く効くものが、この世にはあるんだ」
「どうして、それを知ってるの」
 祖母は答える代わりに、少しだけ、目を潤ませた。
「私にもね、昔、同じようなことがあったんだよ。今日は、それ以上は言わないでおくけどね」
 その言葉の奥に、僕は祖母自身が背負ってきた、何か大きな物語の気配を感じた。しかし、今はそれを深く尋ねている時間はなかった。祖母は僕の背中を、そっと押した。
「行っておいで。刻限までに、ちゃんと戻ってくるんだよ」
 僕は提灯の柄を握りながら、密かに、もうひとつの覚悟を固めていた。祖母の言葉が、その覚悟の輪郭を、より確かなものにしてくれていた。
 墓所に着くと、あたりはすでに薄暗くなり始めていた。あちこちの家族が集まり、それぞれの墓の前で、線香を焚き、手を合わせている。僕も家の墓の前に立ち、提灯の火を、墓前の蝋燭へと移した。
「ありがとうございました」
 家族と声を揃えて、そう唱えた。その言葉と共に、視界の端で、墓石の周りの空気が、わずかに揺らいだ気がした。二百を超える名も知らぬ先祖たちが、静かに、この場所から旅立っていく気配。それは悲しみというよりも、深い安堵に満ちた感覚だった。
 家族が墓所を離れ始めるのを見送りながら、僕は一人、その場に残った。
「先に帰ってて」
 母には、そう言い訳をした。不審には思われなかったようだ。長男の気まぐれくらいに受け取ってくれたのかもしれない。
 あたりに人がいなくなったのを確認してから、僕は提灯の火を見つめ、目を閉じて、強く念じた。もう一度、あの場所へ。
 再び、景色が歪んだ。
 薄暗い野原に戻ったとき、あたりの空気は、行きよりもさらに緊迫していた。整然とした炎の列は、ほとんどが同じ方向へと吸い込まれるように動き始めている。遠く、地平線と呼べるかどうかも分からないその境目からは、無数の光の筋が、まるで川の流れのように、一方向へと注ぎ込まれていくのが見えた。それはこの世界で初めて目にする、はっきりとした「流れ」だった。境が閉じる時が、もう本当にすぐそこまで迫っていた。
 あちこちで、僕と同じように駆けつけた人々の姿があった。老人も、僕と同年代の男女も、中には子供を連れた家族もいた。誰もが、自分たちの迎え火を、自分たちの言葉で、必死に語りかけている。声にならない祈りが、この野原全体を、静かな熱気で満たしていた。
 僕は急いで、亮の炎を探した。以前と同じ場所で、彼はまだそこにいた。しかし、その揺らぎは、以前よりも弱々しく、今にも消え入りそうに見えた。
「亮」
 僕は炎のそばに膝をつき、線香を――こちらの世界から持ってきた、亮の母の家で灯したのと同じ香りのものを――そっと地面に立てた。線香の煙が、細く真っ直ぐに立ち上っていく。
「お前の家、墓は仕舞ったけど、お母さんもお父さんも、ちゃんとお前のことを思ってる。線香だって、ずっと欠かさず上げてる。永代供養、頼んだんだって。お前を忘れたわけじゃない。むしろ、これから先も、ずっと誰かが、お前のことを大事に思い続けられるようにって、そう考えた末の選択なんだ」
 炎は、かすかに揺れた。聞こえているのかどうかも分からない。それでも、僕は続けた。
「俺も、忘れてなかった。この二年間、お前のことをちゃんと考えるのが怖くて、ずっと逃げてた。ブログも、途中でやめた。でも、もう逃げない。お前のこと、ちゃんと覚えてる。これから先も、ずっと」
 炎は、じっとこちらを見つめるように、揺れを止めた。まるで、耳を澄ませているかのようだった。僕は続けた。
「大学出るとき、お前に酷いこと言った。今さらだけど、あれ、ずっと謝りたかった。お前は、この町に残って、消防団に入って、ちゃんとこの土地の人間として生きてた。俺は、それを羨ましく思う気持ちを、認めたくなかったんだと思う。だから、あんな言い方をした」
 言葉にしてみると、それは思っていた以上に、長い間、僕の中に沈んでいた重石のようなものだった。口に出した途端、その重さが、少しだけ軽くなった気がした。
「町の妖怪マップ、覚えてるか。文化祭の肝試しも。お前と過ごした時間、全部、俺の中にちゃんと残ってる。お前がいたから、俺は今、ここに立っていられるんだと思う」
 僕は手を合わせた。
「今まで、ありがとう。友達でいてくれて、ありがとう」
 そう告げた瞬間、亮の炎が、大きく、はっきりと揺れた。それは、これまでの不安げな揺らぎとはまったく違う、力強い動きだった。まるで、長い間探し続けていたものを、ようやく見つけたかのように。
 炎の色が、少しずつ変わっていくのが分かった。赤みを帯びていた不安定な色が、次第に、あの整然とした炎たちと同じ、穏やかな橙色へと近づいていく。
 そして、その炎は、ふわりと宙に浮かび上がると、あの吸い込まれるように動いていく方向――境が閉じようとしている方角――へと、静かに流れていった。他の炎たちの群れに紛れ込むようにして。
 僕はその光景を、ただ黙って見送った。悲しみはあったが、それ以上に、深い安堵があった。彼は、正しい場所へ向かっている。誰かに、ちゃんと思われた者として。
「またな、亮」
 最後にそう呟いたとき、僕の視界は再び歪み始めていた。

第十二章 灯りを継ぐ者
 気がつくと、僕は夜の墓所に、独り立っていた。提灯の中の火は、静かに、しかし力強く燃えている。あたりを見回すと、他の家族たちの姿はすでになく、墓地全体が、しんと静まり返っていた。
 空には、いつのまにか満天の星が広がっていた。八月十五日の夜、送り火の夜の空だ。
 僕は提灯を提げて、家路についた。歩きながら、体の芯から、何か大きなものが抜け落ちていくような、それでいて、新しい何かが根を張り始めるような、不思議な感覚を覚えていた。
 家に戻ると、家族はすでに、送り火を終えた静かな夕食の席についていた。僕は何も説明せず、ただ「ちょっと考え事をしていた」とだけ言って、その輪に加わった。
 その夜、布団に入る前に、僕は久しぶりに、あのブログを開いた。
 最後の更新から、一年以上が経っていた。画面には、二年前の自分が書いた、拙い文章がずらりと並んでいる。亮との思い出、彼の口癖、彼の最後の言葉。読み返すと、当時の痛みが、鮮やかに蘇ってくる。それでも、以前とは少し違う感触があった。痛みの中に、確かな温かさが混じっていた。
 僕は新しい記事を書き始めた。
 ――お盆に。実家の街では、お盆の八月十三日の朝、提灯を持参し、墓所へと出掛け、お迎えに上がりましたと、手を合わせ……
 その言葉から始まる文章を、僕はゆっくりと、丁寧に綴っていった。今年、初めて自分の役目として迎え火を灯したこと。二百を超える位牌のこと。そして、あいつの家の墓所が、無くなっていたこと。
 その先に何があったのかは、書かなかった。書けなかった、というのが正確かもしれない。あの野原のことも、迷い火のことも、常世のことも、言葉にした瞬間に、何か大切なものが壊れてしまうような気がした。ただ、こう締めくくった。
 ――仕方なくも時間は過ぎて、そんな時が来たのかと、多くを思いながら。それでも、思い続けることだけは、誰にも消せない灯りなのだと、今は思う。
 記事を投稿してから、僕は仏間へと足を運んだ。夜も更け、家族はもう寝静まっていた。仏壇の前には、祖母がまだ一人、座っていた。
「眠れないの」
 僕が声をかけると、祖母は振り返り、少し驚いた顔をした後、微笑んだ。
「今日は、なんだか眠れる気がしなくてね。お前もかい」
「うん」
 僕は祖母の隣に腰を下ろした。仏壇の位牌の群れが、月明かりの下で、静かに佇んでいる。
「お祖母ちゃん」
「なんだい」
「常世に、行ったことがあるって、本当は本当なんでしょう」
 祖母は、僕の顔をしばらくじっと見つめた。それから、これまで見たことのないような、深く、穏やかな笑みを浮かべた。
「さあ、どうだったかねえ」
 また、同じはぐらかし方だった。しかし今度は、その言葉の裏に、確かな何かが隠されているのを、僕ははっきりと感じ取ることができた。
「私がもう、あちらへ渡る日も、そう遠くはないだろうね。そのときは、お前が、ちゃんと迎えに来ておくれ」
「お祖母ちゃんの、その『同じようなこと』って、何だったの」
 僕が思い切って尋ねると、祖母は少しの間、迷うような素振りを見せた。それから、ゆっくりと語り始めた。
「私が嫁に来る前にね、好いた人がいたんだよ。この土地の人間じゃなかった。戦争で、遠くへ行ったきり、帰ってこなかった。向こうの家も、後を継ぐ者がなくてね、早くに墓仕舞いをしてしまったのさ。まだ、そんな言葉もなかった時代の話だけどね」
 祖母の声は、驚くほど穏やかだった。長い年月をかけて、その痛みを、そっと自分の中に納め終えた者の声だった。
「私はね、毎年のお盆に、こっそり自分の家の迎え火の端を分けて、その人のことを思い出しながら、手を合わせていたんだよ。誰にも言わずにね。ある年、確かに感じたんだ。その人が、ちゃんと、還っていく気配を」
「じゃあ、お祖母ちゃんも、あの野原に」
「さあ、どうだったかねえ」
 祖母は、また同じ言葉で微笑んだ。しかし、その笑みには、これまでとは違う、深い確信のようなものが滲んでいた。
「大事なのはね、行けるかどうかじゃないんだよ。思い続けられるかどうか、なんだ。それさえあれば、火は、ちゃんと道を見つける。私はそう信じて、ここまで生きてきた」
 祖母はそう言うと、ゆっくりと立ち上がり、仏間を後にした。僕は一人、仏壇の前に残された。
 二百を超える位牌。その一枚一枚の向こうに、確かに生きていた誰かがいる。そして、いつか僕自身も、この列の続きに、名前を連ねることになるのだろう。
 僕は仏壇の蝋燭に、そっと手を合わせた。炎は、何も語らず、ただ静かに揺れている。それでも、その揺らぎの中に、僕は確かに、大勢の気配を感じた。
 来年もまた、この提灯を提げて、僕は墓所へ向かうだろう。誰かを迎え、誰かを送るために。そして、その火の中に、また新しい誰かの気配を見つけることがあるかもしれない。
 それでいいのだと、僕は思った。
 灯りを継ぐということは、きっと、そういうことなのだから。
 盆が明けて、僕は都会での日常に戻った。しかし、それまでとは、少し違う日常だった。
 ブログには、あの夜に書いた記事のあと、ぽつぽつとコメントが付き始めた。その中に、思いがけない名前を見つけた。亮の妹だった。
「兄のこと、書いてくれて、ありがとうございます。実は最近、家族で墓を仕舞うことになって、少し複雑な気持ちでいたんです。でも、これを読んで、少し救われました」
 僕はそのコメントに、しばらく返事を書けずにいた。何度も文章を打っては消し、打っては消しを繰り返した末、結局、こう書いた。
「お兄さんは、ちゃんと、みんなの心の中にいます。墓の形が変わっても、それは変わらないと思います」
 それが、精一杯の、けれど嘘のない言葉だった。
 それから数日後、彼女から個人的にメッセージが届いた。今度実家に帰る用事があるので、もし都合が合えば少し話せないか、という内容だった。僕は迷わず、承諾の返事を送った。
 実際に会ったのは、それから二週間ほど経った、九月の初めの土曜日だった。町の小さな喫茶店で、僕たちは向かい合って座った。彼女は、記憶にある少女の面影を残しながらも、すっかり大人びた顔つきになっていた。
「兄の墓のこと、両親、ずっと悩んでたんです。私は正直、あまり実感が湧かなくて。遠くに住んでるから、お墓参りにもなかなか行けなくて、それで負い目みたいなものもあって」
 彼女は、コーヒーカップを両手で包みながら、ぽつぽつと話してくれた。僕はただ、静かに耳を傾けた。
「でも、この間、直人さんのブログを読んで思ったんです。お墓がなくなっても、兄のことを大事に思ってくれる人が、こんなにいるんだって。それだけで、少し気持ちが軽くなりました」
「俺の方こそ、あの子に、ずっと助けられてたんだと思う。今更だけど、ちゃんと伝えられてよかった」
 その日、僕たちは、亮の思い出話を、時間を忘れて語り合った。悲しみだけではない、笑い話もたくさんあった。喫茶店を出るころには、外はすっかり夕暮れに染まっていた。
 九月になって、僕は久しぶりに、平日の休みを取って実家に帰った。理由は、特にない。ただ、なんとなく、帰りたい気分だった。
 縁側では、相変わらず父が庭を眺めていた。台所では母が何かを刻んでいる音がした。
「珍しいね、平日に帰ってくるなんて」
 母は手を止めずに、そう声をかけてきた。僕はしばらく迷ってから、ぽつりと言った。
「来年から、もう少し、頻繁に帰ってこようと思って」
 母は驚いた様子で振り返り、それから、ゆっくりと笑った。
「お父さん、喜ぶわよ。あの人、ああ見えて、あなたが提灯を継いでくれたこと、本当に嬉しかったみたいだから。口には出さないけどね」
「知ってる。この間、聞いた」
 僕がそう言うと、母は少し意外そうな顔をしたが、それ以上は詮索せず、また野菜を刻む作業に戻った。台所に響く、規則正しい包丁の音を聞きながら、僕はしばらくその場に立っていた。誰かが日々の暮らしを丁寧に営んでいる音は、それだけで、確かな安心を運んでくるものなのだと、初めて実感した気がした。
 仏間では、祖母が、いつものように仏壇の前に座っていた。
 二百を超える位牌が、秋の柔らかい光の中で、静かに並んでいる。僕はその前に座り、線香に火を灯した。
 来年の夏も、僕はまたこの提灯を提げて、墓所へ向かうだろう。誰かを迎え、誰かを送るために。そして、その火の中に、また誰かの気配を見つけることがあるかもしれない。
 この家に連なる二百人以上の名もなき先祖たちと、血の繋がりのない一人の友人と、そして、まだ名前の付かない、これから出会うはずの誰かたち。その全てを乗せて、火は毎年、同じ道を渡っていく。
 いつか、この提灯もまた、僕の子か、あるいは甥や姪の誰かの手に渡ることになるのだろう。そのとき、僕は父がそうしてくれたように、多くを語らず、ただその柄を、次の誰かの手に握らせるのだと思う。そして、その誰かもまた、いつか自分なりのやり方で、この火の重さと、その先にある温かさに気づいていくのだろう。
 仕方なくも時間は過ぎていく。町は変わり、家は減り、墓仕舞いという言葉は、これからもっと当たり前のものになっていくのかもしれない。それでも、思い続けることだけは、誰にも消せない灯りなのだと、今は確かに、そう思う。かたちを失っても、道筋を失っても、名を呼び、恩を語る心さえ絶えなければ、火はきっと、迷わずに帰るべき場所を見つけ出す。
 僕はそう信じて、これからも、毎年の夏を迎えるのだろう。

(了)

あとがき
物語の中で描いた「墓じまい」や過疎化による家々の変化は、現代を生きる私たちにとって、決して遠い世界の出来事ではありません。大切に守ってきたものを自分の代で手放さざるを得ない苦渋や、繋ぎ手が失われていく寂しさは、今の日本中のあちこちで静かに繰り返されている現実です。
私自身、歳月を重ねる中で、「継ぐ」ということの真義について思いを巡らせることが増えました。
形あるものをそのまま残すことだけが、継承ではないのかもしれません。親から子へ、先祖から今を生かされている者へ、そして大切な友人へ――目には見えない思いや感謝を携え、自らの人生を確かに生きていくこと。それこそが、最も確かな「灯りを継ぐ」行為なのではないかと感じています。
主人公が目にした二百を超える位牌の連なりや、常世の地に揺れる無数の火は、かつてこの地に生き、誰かを思い、誰かに思われて逝った人々の証です。そしてそれは、いつかこの世を去る私たち自身の未来の姿でもあります。
形を失っても、道筋を見失っても、名を呼び、恩を語る心さえ絶えなければ、火は迷わずに還るべき場所を見つける――。
もし、あなたにも忘れられない人や、今も胸の奥で静かに灯り続けている思い出があるのなら、どうかその火を大切になさってください。そしていつか巡ってくる夏の夜に、空を見上げてその名をそっと呼んでいただけたなら、作者としてこれ以上の喜びはありません。
末筆ではございますが、本作の執筆にあたり温かい眼差しを寄せ続けてくれた家族、そしてこの本を手にとってくださった読者の皆様に、心より感謝を申し上げます。
深く、静かな感謝を込めて。


実家の街では
お盆の8月13日の朝
提灯を持参し
墓所へと出掛け

お迎えに上がりましたと
手を合わせ
その中の蝋燭に火を灯し

その火を
実家の仏陀へとお連れする

それはきっと
その火に多くの先祖たちを
乗せての
わずかなそんな心からなのだろう

そして
15日の夕方には
仏陀でその提灯へと火を灯し
墓所までお連れし

その火から
線香を灯し
ありがとうございましたと
手を合わせる

そんな古くからの
毎年の習慣も
昨年 親たちから引き継ぎ
僕の役目となり

本家の長男
この時期には
出掛けることなく
先祖たちへの感謝を
添えねばならない

実家の仏陀には
板状に収められた位牌が
200をも越えて備えてある

すれば
それだけの方々が
墓所に納まっているはずで

その全員をもってして
今があることを感謝し
次へと繋げねばならない




昨今
後継ぎがいない家庭が増えて
墓仕舞いなることを
良く耳にする

一昨日のお迎えの日
数軒隣りにあったはずの
友達の家の墓所が
無くなっており

ああ とため息を吐き
息を呑んだ

そう
しばし休んでいたこのブログを
10年前 

再開したきっかけとなった
あいつの家の墓所だ


あいつ


仕方なくも
時間は過ぎて
そんな時が来たのかと
多くを思いながら…

複勝1.1倍の神様
――有馬記念が世界を救う日――


まえがき
競馬場には、独特の熱気と、どこか浮世離れした寂寥感が同居している。
パドックを回る馬たちの美しい馬体、締め切り間際にマークシートを握りしめる手、そしてレース直前に訪れる一瞬の静寂。
本書は、「もしも絶対に負けない勝負が存在したら」というひとつの  if  から始まった物語である。




第一章 三十連敗の男
僕には特技がない。
宝くじは当たったためしがない。年末ジャンボもサマージャンボも掠りもしない。商店街の福引きですら、ここ十年ポケットティッシュより上等なものは引いたことがない。
にもかかわらず、僕は年に一度だけ賭け事をする。十二月最終日曜日、有馬記念。
理由はない。強いて言うなら一年の「運勢占い」のようなものだ。競馬新聞も買わない。予想の記号も知らない。スポーツ紙の隅の予想欄を眺め、字面が強そうな馬を一頭、単勝で一枚だけ買う。それが僕の一年の総決算だった。
そして毎年、外れる。今年でちょうど三十連敗である。
「宮田さん、また外れたんすか」
帰り道、後輩の高橋がニヤニヤしながら追いついてきた。毎週末場外に通う筋金入りで、僕のことを「年に一度だけ現れる貧乏神みたいな人」と呼んでいる。
僕、宮田修一、四十二歳。都内の中堅広告代理店の営業。貯金はほぼゼロ、住宅ローンと塾代でカツカツ。勇気もゼロ。会議で反対意見を言ったことなど数えるほどしかない。石橋を叩いた上で、結局渡らない人。それが僕だった。
家に帰れば妻の由美子に「今年もダメだったの」と驚きもされず、小学五年生の娘の遥には「パパ、才能ないねー」と言われる。
「お父さんのそのお金、貯金しておけば三十万円は貯まってたのに」
一年一万円、三十年で三十万円。計算は正確だった。
その日、高橋に誘われるまま駅前の立ち飲み屋で飲み、酔った足取りで駅へ向かう途中、僕はいつもと違う裏路地に迷い込んだ。
そこに、見たことのない店があった。
古い喫茶店のような木造二階建て。看板には掠れた墨文字で「馬券堂」とだけある。磨りガラスの向こうから確かにブラウン管モニターの青白い光が漏れていた。
吸い寄せられるように引き戸に手をかけた。カラン、と澄んだ鈴の音が鳴った。


第二章 馬券堂の老人
店内は外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。色褪せた提灯、壁一面の古い競走馬ポスター。線香のような香り。
カウンターの奥に、恐ろしく年老いた男が一人座っていた。真っ白な眉と髭。だが目だけが若々しく爛々と光っている。
「いらっしゃい。三十連敗の兄さん」
なぜ連敗数を知っているのか。困惑する僕の前に、老人は古い十円玉をコトリと置いた。
「これを持って、来年の有馬記念で複勝を買いなさい」
「複勝ですか」
「そう。ただし1.0倍では絶対に買うな。1.1倍以上ついたときにだけ買いなさい」
「そんなに違うもんなんですか」
「大違いだ。多くの人間は、その差に気づかない」
老人はそれ以上語らなかった。十円玉は普通のものより少し重く、表面に円を三つ重ねたような紋章が刻まれていた。
顔を上げると老人の姿はなかった。照明も看板の灯りも音もなく消え、店は最初から存在しなかったかのように静まり返っていた。
酔いのせいだと思い、僕は十円玉をコートのポケットに突っ込んで帰った。
翌日、気になって裏路地を訪ねたが、馬券堂は見つからなかった。そこにあったのはシャッターの下りた空き店舗で、テナント募集の張り紙が貼られていた。不動産屋は「五年くらい空いてますよ」と言った。
財布の中の小さなポケットに、僕はその十円玉をしまった。


第三章 見えてしまうもの
数日後の昼休み、来年の有馬記念の出走予定をスマホで眺めていたとき、ポケットの十円玉に指先が触れた。
瞬間、視界が変わった。
画面の奥に無数の光の糸が見えた。出走予定馬の名前の脇に細い金色の糸が幾重にも絡み、その太さや輝き方がまるで未来の確からしさを示しているようだった。
それから毎晩、十円玉を握ってオッズや出走表を見つめると金色の糸が見えるようになった。日を追うごとに解像度が上がっていく。
居酒屋で高橋に半分冗談で聞いてみた。
「もし競馬の未来が見える力があったらどうする?」
「即、家買います。会社辞めます」
「俺は多分、その力があっても怖くて大きい額は張れないと思う」
「相変わらずですね」
セコいのではない。臆病なのだ。その臆病さが誰も予想しなかった形で世界の運命を左右するとは、その時の僕はまだ知らなかった。


第四章 オッズという名の多元宇宙
十二月に入り、毎晩十円玉を握りしめて情報を眺めていたある夜、ついに声が聞こえた。
『ようやく見えてきたようだね』
老人の声だった。
『儂の名は名乗るほどではない。強いて言うなら複勝の神様とでも呼んでくれ』
老人は金色の糸の意味を説明し始めた。あれは単なる予想オッズではない。並行して存在する無数の有馬記念、その結果の束だという。
『この世界には無数のもしもが同時に存在している。もしもあの馬が絶好調だったら。もしも天候が違っていたら。その無数のもしもの世界でそれぞれ違う馬が勝ち負けしている』
「じゃあ1.1倍ってのは」
『複勝オッズというのは本来ほぼ確実に三着以内に入ると見なされた馬につく極めて低い倍率だ。多くの並行世界でその馬は三着以内に収まっている。だがごくわずか、全体の一割ほどでは不覚を取る』
「一割で負ける」
『そう。そしてその一割の不確実性がわずかなプレミアム、1.1倍という上乗せを生む。1.0は全ての世界で当たる。だから何も起きない。1.1にだけ、世界と世界との隙間がある』
「でも複勝1.1倍なら九割の並行世界で当たる」
『理屈の上ではな。だが九割で勝てると分かってるのにそれが当然の権利みたいに思えてくるんだよ。欲は少しずつ当たり前の顔をして忍び込んでくる』
『その一回に大枚を張った人間たちが何人も消えていった』


第五章 消えた人々
『欲望の重さに器が耐えられなくなったとき落ちる場所がある。儂はそれをオッズの狭間と呼んでいる』
『無数の競馬場が幾重にも折り重なった場所だ。同じレース、同じ馬、同じ観客席。だが着順だけが少しずつ違う。そのすべてが同時に存在している』
『閉じ込められるというより選べなくなるのだ。どの結果が本当の自分の結果なのか分からなくなる。いつまでも決着がつかないまま無限にレースを繰り返し続ける』
『この力を使い複勝1.1倍で大金を得た人間の多くは、次の年もっと大きな金額を賭けようとする。九割という安全神話に酔い、賭け金を吊り上げていく。そしていつか必ず来る一割の日に全てを失う。正確には並行世界のどこか、負けた世界の自分に意識ごと吸い込まれてしまうのだ』
「実際にそんな人間がいたのか」
『儂が最初に十円玉を託した相手は二十年ほど前、お前と同じような平凡な男だった。五年目まではうまくいった。だが六年目、彼は思ったのだ。もっと大きく張っても同じではないかと。そして八年目の有馬記念、彼は三百万円を複勝一点に注ぎ込んだ。その年、選んだ馬はゴール寸前で不利を受け四着に敗れた。翌朝、家族が目を覚まさない彼を見つけた。医者は原因不明の昏睡と診断した。今も病院のベッドで眠り続けているはずだ』
『だから儂は毎年一人、器に見合った人間にだけ託す。強欲な人間ではなく臆病な人間にだ』
「なあ、他のギャンブラーって負けた話はほとんどしないよな。みんな勝った話しかしない。本当はどれくらい負けてるのか誰にも分からない」
『鋭いな。人間は勝った自慢は饒舌に語るが負けた恥は打ち明けない。だからこの世界には実態の見えない静かな敗北が無数に積み重なっている』
その夜、僕は決意した。今年の有馬記念、複勝で一万円だけ、あの光る糸の馬に賭けてみようと。


第六章 プレ有馬記念
有馬記念前日、高橋を誘って場外に下見に行った。
一番人気の馬を仮にクロノスバレットとしよう。その複勝オッズは1.0倍。鉄板中の鉄板だ。
僕は十円玉を握りしめた。掲示板の向こうに金色の糸が見えた。クロノスバレットの糸は太く輝いていたが、一部だけ微かに揺らいでいる。
そして電光掲示板が切り替わった瞬間、1.0倍から1.1倍へ変わった。
『これが今年の答えだ。明日、レース直前までオッズは1.0と1.1の間を揺れ動くだろう。締め切り直前、必ず一度だけ1.1倍以上になる瞬間がある。そこで買え』


第七章 有馬記念、当日
十二月最終日曜日、中山競馬場は朝から異様な熱気に包まれていた。
第十一レース、発走時刻が近づく。僕は電光掲示板の前に立ち、十円玉越しに金色の糸を見つめ続けた。
クロノスバレットの複勝オッズは1.0と1.1の間を行ったり来たりしていた。
締め切り五分前。
『今だ』
オッズが1.1を表示した瞬間、窓口に駆け込んだ。
「クロノスバレット、複勝、一万円!」
発券されたたった一枚の紙切れ。三十年分の連敗を経て初めて勝算という言葉の意味を少しだけ理解した気がした。
その時、異変が起きた。電光掲示板の光が激しく明滅し始めたのだ。
後で知ったことだが、この異変は中山だけではなかった。京都のウインズでも、大阪の場外でも、全国のテレビ画面でも同様のノイズが確認され、SNSには #有馬記念バグ が広がったという。
金色の光の糸が嵐に巻き込まれたかのように渦を巻き、ちぎれかけている。
『何かが狂い始めている。誰かが儂の想定を遥かに超える大金をこの揺らぎに注ぎ込んだ』


第八章 諭吉一万枚の男
ゲートが開く直前、巨大スクリーンに映るクロノスバレットの姿が一瞬透けて二重に見えた。
「なんだあれ!」
観客席がどよめく。場内アナウンスの声が一瞬だけ二重に聞こえ、空を見上げれば有り得ないはずの二つの太陽が薄く重なって見える。
『見つけた。どこかの並行世界で誰かが儂の力のまがい物を使い途方もない額を注ぎ込んでいる。諭吉にして一万枚以上』
「十億か!」
『並行世界のバランスは賭けられる金額の熱量によっても揺らぐ。あまりに巨大な熱量が一点に集中すれば世界と世界の境界そのものが軋み始める』
『このままでは今日のレースそのものが無数の並行世界に引き裂かれる。どの世界のクロノスバレットが本物の三着以内なのか答えが定まらなくなる。レースの結果が永遠に確定しなくなるということだ』
「どうすりゃいいんだ!」
『分不相応の欲に対して真逆の分相応の意志を同じだけの強さでぶつけることだ。お前の中にあるちっぽけな一万円の複勝馬券を最後まで握り締め続けろ』
ゲートが開いた。十六頭が一斉に飛び出す。
僕はポケットの中で一万円の複勝馬券を握りしめた。


第九章 もう一人の宮田修一
直線、クロノスバレットが抜け出した。スクリーンのノイズが激しくなる。
一瞬、視界が真っ白になった。
気がつくと見知らぬ高級マンションのリビングに立っていた。壁には有名な画家の絵、棚には高級ウイスキー。
振り返るともう一人の宮田修一がソファに沈み込んでいた。憔悴しきった顔で目の下に濃いクマ。
『ここがあちらの世界の俺の部屋だよ。羨ましいか?この部屋も時計も全部複勝1.1倍で稼いだ金だ。最初の五年はお前と同じようにちっぽけな額から始めた。だが止まらなくなった』
『九割で勝てると分かってるのにそれが当然の権利みたいに思えてくるんだよ。欲は少しずつ当たり前の顔をして忍び込んでくる』
『今日負けたら俺は全部失う。分かってるのに止められない。お前はまだ引き返せる。俺みたいになるなよ』
視界は再び真っ白になり、中山競馬場の喧騒に引き戻された。
ゴール板が近づく。僕は目を閉じ、ずっと前からぼんやり考えていたことを思い出した。
「それの勝ち負けよりも、そこにそれだけの大枚を張れるかどうかってことの度胸を試されてるのかもしれないけれども。僕はそんな度胸もないし、またそんな予算もないけれども」
そうだ。それでいい。それが僕なんだ。


第十章 ゴール、そして選択
「ゴール!一着クロノスバレット!」
実況が響いた瞬間、電光掲示板の明滅がふっと止んだ。嘘のように静寂が戻った。
クロノスバレット複勝確定1.1倍。三着以内、当たっている。
高橋が肩を叩いた。
「宮田さん当たってるじゃないですか複勝!いくら賭けたんです?」
「一万円」
「しょっぼ!三十連敗の後の一勝が一万円て!」
確定払戻金は一万一千円。利益たった千円。だが胸の奥が温かかった。三十年間味わえなかった当たったという感覚だった。
翌週のスポーツ紙には小さく載った。
『十二月二十八日、中山競馬場にて発生した映像トラブルについてJRAは一時的な信号障害と発表。原因は調査中。レース結果および払戻金には影響がない』
たった三行。あれほどの騒ぎが味気ない三行に収められてしまうことに可笑しさを覚えた。


第十一章 馬券堂、ふたたび
家に帰って一人になったとき十円玉が最後にもう一度だけ淡く光った。
『よくやった、宮田修一』
「あんたのおかげだよ」
『それでいい。分からないままちゃんと分相応を選べる。それがお前の唯一にして最大の才能だ』
『九割九分の人間が持ちえない、それだけの度胸がなくてもそれでいいと思える静かな強さのことだ』
「なああんたと馬券堂はいつからあるんだ」
『儂の記憶が正しければあの土地は遥か昔まだ中山に競馬場すらなかった時代から旅人の賭け事の願掛けを受け付けていた小さな祠のあった場所らしい』
「なんで有馬記念なんだ?」
『有馬記念はファン投票で出走馬の一部が決まる年に一度唯一のレースだ。専門家の理屈だけでなく無数のただの人間の願望が直接レースの構成に織り込まれる。しかも一年の締めくくりだ。無数の並行世界のズレが最も凝縮しやすいのがまさにこの瞬間なのだ』
「あんた結局何者なんだよ」
『儂も昔はお前と同じただの人間だった。ある年の有馬記念で一枚の十円玉を託された。そして欲に呑まれかけた。だが寸前で踏みとどまった。その踏みとどまる力を買われて今は次の誰かに託す役目を負っている。儂も三十連敗の兄さんだったのさ』
十円玉の光がふっと消えた。それきり声は聞こえなくなった。


第十二章 三十一年目の男
年が明けた。会社は変わらず忙しく僕は変わらず平凡なサラリーマンとして働いている。貯金はほとんど増えていない。千円の利益など忘年会の割り勘一回分にもならない。
僕は誰にも話していない。年に一度しか馬券を買わないしがない中年男が並行世界の崩壊を一万円の複勝で食い止めたなんて誰が信じるだろう。
一つだけ変わったことがある。毎晩ポケットの中の何もない空間を少しだけ確かめるようになった。あの十円玉がまた光り出さないかと。
もちろん光りはしない。ただの日常が続くだけだ。それでいいと思う。
来年の有馬記念も僕はきっとあの裏路地を探すだろう。
三十一連敗目にならなかったことだけは確かな事実として僕の手帳の隅に小さく記されている。
とほほ、ではなく。ちょっとだけ、めでたし、めでたし。


番外編 三十二年目、ふたたびの十二月
翌年の十一月末、ふと思い立って裏路地を再び訪れてみた。シャッターの下りた空き店舗は相変わらずそこにあった。
帰り道、財布を確認するとあの十円玉はいつの間にかただの十円玉に戻っていた。円を三つ重ねた紋章もよく見れば経年劣化の傷にしか見えない。
僕はその十円玉を自動販売機に入れてみた。ジュースが一本コトンと落ちてきた。ただの十円玉としてその生涯を静かに終えたようだった。
それでも今年も有馬記念の季節がやってくる。今度は単勝か複勝か、まだ決めていない。1.1倍かどうか確かめる術はもうないけれど。
娘の遥は中学生になった。「お父さんの複勝理論、数学の確率の授業でちょっと役立ったよ」と生意気なことを言う。妻の由美子は以前ほど文句を言わなくなった。
分不相応な夢は見ない。分相応のささやかな一点。それが僕という男の精一杯の度胸なのだから。
さて、あなたならどうする?

(了)


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あとがき
この物語はある年末、一編の詩から始まった。
「博才なんてあるはずはなく、宝くじはかすりもせず」――そんな自嘲めいた一節を書き留めた人物が果たして本当にどこかにいるのかどうか僕は知らない。だがもしいるのだとしたらその人はきっと宮田修一と同じように年に一度だけこっそりと馬券を買い続けているのだろう。
三十連敗してもなお続けてしまう理由。それは勝つためではないのかもしれない。負け続けることそのものがその人にとってのささやかな年中行事なのかもしれない。
複勝1.1倍の理論は決して絵空事ではない。実際に複勝のわずかな上乗せに着目する馬券戦略は昔から一部の玄人の間で語られてきた実在する考え方だ。もっともそれで並行世界が崩壊するかどうかはもちろん誰にも分からない。
「それの勝ち負けよりも、そこにそれだけの大枚を張れるかどうかってことの度胸を試されてるのかもしれない」――そんな言葉を残した誰かに、この物語をささやかな返歌として捧げたい。
度胸も予算もなくても。それでも僕らは今日も明日も自分の身の丈に合った小さな賭けを続けていく。それでいいのだとそう思わせてくれる物語をこれからも書いていきたい。



ーー原詩ーー
博才考
博才 なんてあるはずはなく
宝くじは かすりもせず
商店街のくじ引きすら当たらず
日常 ギャンブルには手を出さず
それでも年に1度だけ 馬券を買う
有馬記念 来年を占う意味で わずか1点 こっそりと買う
しかしてすでに 30連敗中~
とほほ…
結局1着も当たらないわけだから 1着2着の両方を!ってな連勝の買い方が当たるはずはなく ましてや1着から3着までをも なんて奇跡でも起こらない限り難しいってなわけだ
なんたって相手はこれで食ってるわけだからね こちらに部が悪いに決まってるわけだ
またギャンブラーたちはみんな勝ったときのことしか話さないから本当はどのくらい やられてるのかすらわからない
しかしてもしも利益が取れるとしたならばおそらくこんな買い方しかないはずで…
それはガチガチの鉄板な1番人気を複勝で見たときに1.0倍戻しではなく1.1倍以上付いたときそこに大枚をドカンとに入れる
これはまあどう転んでも3着までなら大丈夫だろう!ってやつでサドンリーアクシデント!でもない限りそこそこの確率は取れるはずで…
仮に諭吉100枚とすれば一瞬で諭吉10枚の利益となり1000枚なら100枚10000枚にしたならばな なんと 1000枚にもとなる
現にそれで食ってる方々がいるらしいからその度胸とやらは生半可ではない
ようするにそれの勝ち負けよりもそこにそれだけの大枚を張れるかどうかってことの度胸を試されてるのかもしれないけれども…
さてあなたなら どーする?
僕はそんな度胸もないしまたそんな予算もないけれども…残念



屋根の上のフィラメント
― あるいは、電気の次に来たものについての、いささか間の抜けた記録 ―



まえがき
電気の次に来るものは、何だろう。 
水素かもしれない。核融合かもしれない。あるいは、私たちがまだ名前すら知らない何かかもしれない。 
これは、そういう「次のエネルギー」についての話である。 
ただし、いわゆる本格的な科学小説を期待してはいけない。
主人公は六十二歳の元・地方紙記者で年金生活者。
屋根の上に上ることすら、医者から止められている男だ。 
そんな男のところへある日突然、自分を「孫」だと名乗る青年が現れ、透明な球体を差し出した。
青年は言った。「これが、電気の次です」と。 
人間が何かに気づいた瞬間――「あ、そうか」と世界の見え方がほんの少し変わった瞬間。そこには測定されたことのない微弱なエネルギーが発生していた。
私たちはそれを「気づき」と呼ぶことにした。 
しかし、世界には「便利にした瞬間、価値を失うもの」があるらしい。
これは、そのことに気づいてしまった老人たちと、昭和のアナログな記憶が巻き起こす、いささか間の抜けて、少しだけ切ない事件の記録である。 




第一章 ガソリンスタンドの葬式と透明な球体
ガソリンスタンドの閉店セールというものに、まさか香典袋を持って行くやつがいるとは思わなかった。
しかも、それが私だった。 
二〇三八年の梅雨明け、旧国道沿いの「出光サービスステーション袋田町店」が、四十七年の営業を終えるという日のことである。
私はいちおう新聞記者を三十年やった人間だから、こういう「時代の終わり」の匂いには、犬並みに鼻が利く。利くのだが、鼻が利いたところで入ってくる年金が増えるわけではない。 
香典袋には「ご霊前」と印刷された墨字が薄く光っていた。中には千円札を三枚だけ入れた。三枚にした理由は特にない。四枚では縁起が悪いし、五枚では見栄っ張りに見える。日本人の金額感覚というのは、だいたいこの辺の中途半端さで決まっている。 
店長の若田さんは、私の顔を見て、それから香典袋を見て、それから空を見上げた。
「袋田さん、これは……」
「香典です」
「いや、うちはまだ死んでないんですが」
「今日でしょう」
「今日ですけど」 
若田さんは香典袋を受け取り、それをレジの上に置き、それから少し笑った。笑ったあとで、少し泣きそうな顔をした。
私は気づかないふりをして、隣にある自動販売機で缶コーヒーを買った。百八十円だった。ガソリンより高いのか安いのか、もう私にはよくわからなかった。 
思えば、この国はいろいろなものに香典を出しそびれてきた。
黒電話にも、ブラウン管テレビにも、公衆電話ボックスにも、フィルムカメラにも、CDにも、現金にも、はんこにも。そしてたぶん、そう遠くない未来には、自動車のハンドルにも。
私たちは香典を出さないまま、いつのまにか通夜を済ませてしまう。 
アナログからデジタルへ。石油から電気へ。紙から光へ。
「狭間の世代」というのは、そういう葬式にいちいち立ち会わされる世代のことである。 
缶コーヒーを開けた瞬間、頭上でバタバタと音がした。
見上げると、若田さんの店の屋根の上に、青いつなぎを着た男が三人、張り付いていた。ソーラーパネルの設置業者だった。ガソリンスタンドが閉店するその日に、もう次のテナントのための工事が始まっている。 
「袋田さーん」
屋根の上から声がした。三人のうちのいちばん若そうな男が、私に向かって手を振っていた。
「誰?」
「僕ですよ、僕。ほら……袋田さんの、孫です」 
私は、まだ独身のまま一人暮らしをしているはずだった。 

青年は私が帰宅するまでついてきた。
私の家はガソリンスタンドから歩いて十五分ほどの古い一戸建てである。築四十年。屋根は瓦。妻のよし江は三年前に他界し、今は私一人。 
「本当に孫なのか?」
「僕の名は『零』と言います。未来……ううん、もっと先の記録では、僕は袋田さんの孫ということになっているんです」 
青年は、古いスマートフォンを取り出して画面を見せた。そこには若い女性の写真が写っていた。
見覚えがあった。三十年前に私が取材先で知り合った、里美だった。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
三十年前、私はあの女と別れた。理由は、今となっては思い出せない。いや――あまりにくだらなさすぎて、思い出したくないから忘れたのかもしなくもない。
確か、あの日も腹を空かせていた。
妻のよし江と出会う前の、若い日の青い傷痕のような記憶だ。
「母の母……つまり僕の祖母です。袋田さんの昔の知り合いでしょう」
零は背負っていた大きなリュックから、直径十五センチほどの透明な球体を取り出した。中には何もない。ガラスのようだが、触れると妙に温かい。 
「これはなんです?」
「エネルギーです」
「見えないぞ」
「見えないんです」
「詐欺か」
「違います。『電気の次』です」 
零の表情は切迫していた。彼が語るには、人間が何かに深く気づいた瞬間――「あ、そうか」と世界の見え方が変わった瞬間に発生する微弱な未知の波形を「気づきエネルギー」と呼び、この球体はその受信・可視化装置なのだという。 
「袋田さん。あなたは今日、なぜガソリンスタンドに香典を持っていったんですか?」
「時代が終わると思ったからだ」
「そう思った瞬間は?」
「……ああ」 
その直後、卓袱台の上の球体が、まるでフィラメントが灯るように淡く、青白く光った。 
私は息をのんだ。しかし、驚きが収まる間もなく、零のスマートフォンが激しく鳴り響いた。
画面を見た零の顔から、一瞬で血の気が引いた。
「筑波の……僕の研究室が、火事になりました」
「火事?」
「違います。放火です。指導教授の神原先生が……中で亡くなりました」
ニュースの速報画面を見つめながら、私は嫌な悪寒を覚えた。
「筑波の物理研究所……放火殺人……」
三十年前、私がまだ「常陸日報」の事件記者だった頃、八郷町で起きた未解決の研究所放火殺人事件。
あの時、炎の中で死んだ神原教授の父親――すなわち零の曾祖父にあたる先代研究者が残したノートのタイトルと、目の前の零が持っている球体の裏に刻まれた刻印が、寸分違わず一致していたからだ。
「フィラメント・プロジェクト」――。
止まっていた三十年前の時計が、目の前でガチリと動き始めた音がした。



第二章 30年前の焦げ痕
神原教授の死は、瞬く間に全国ニュースとなった。
そして翌朝、事件は最悪の展開を見せる。警察が「現場から青いつなぎを着た若い男が逃走するのを目撃された」と発表し、零が事件の重要参考人として指名手配されたのだ。
「僕じゃありません! 僕は夕方までガソリンスタンドの屋根の上にいたんです!」
我が家の茶の間で、零は頭を抱えて叫んだ。
「分かっている。若田や他の作業員もいた。完璧なアリバイだ」
私は縁側に腰掛け、ぬるくなったお茶をすすった。
警察の手回しが速すぎる。まるで最初から「犯人」を用意していたかのような手際だ。記者の勘が告げていた。これは単なる放火殺人ではない。裏に巨大な「何か」が動いている。
「零。神原教授と君は、何を作ろうとしていた?」
「……『気づき』の集積システムです」 
零の話によれば、現代の巨大IT企業「アーク・コミュニケーションズ」が、この研究に巨額の資金を投じていたという。アーク社は、AIを用いて人間の行動を100%予測・管理する次世代都市インフラの開発を進めていた。
「アーク社は、人間の『閃き』や『直感』すらもデータ化し、AIに予測させようとしていたんです。神原先生は、亡くなったお父様……僕のひいおじいちゃんの志を継いで研究していましたが、アーク社の危険性に気づいてデータを持ち出そうとした。だから……殺されたんです」
その時、卓袱台の上の球体が、昨日よりも強く光を放った。 
光の波長を見つめながら、私は三十年前の記憶の引き出しを片っ端からひっくり返していた。
三十年前、八郷町の研究所が燃えた夜。
現場に一番乗りした私は、焦げくさい煙の中で一人の男とすれ違った。当時、同じ新聞社でライバルだった同僚の男――加賀美創。
加賀美はその後、新聞社を辞め、IT起業家として成り上がり、今や「アーク・コミュニケーションズ」のCEOに君臨している。
「あいつか……」
「袋田さん、何か気づいたんですか?」
「ああ。三十年前の放火事件、犯人は捕まらなかった。だが、一番得をした奴が一人だけいる。加賀美だ。あいつはあの夜、燃える研究所から何かを持ち出していた」 
球体『フィラメント』が、まるで合図を送るかのように明滅した。
人間が真実に近づき、「あ、そうか」と気づいた瞬間。
見えないフィラメントに電波が走り、闇の中に隠されていた過去の事件の「焦げ痕」が、くっきりと浮かび上がり始めていた。 
「零。警察にもアーク社にも追われる身になった。腹をくくれ」
「どうするんですか?」
「味方を集める。事件を解くには、デジタルな検索エンジンなんか役に立たん。昭和の泥臭い人間の目と勘が必要だ」
私は固定電話の受話器を上げ、古い電話帳を開いた。
「『狭間世代研究会』を立ち上げる」 



第三章 狭間世代研究会、始動
研究会の発足場所は、我が家から徒歩五分ほどの場所にある小さな公民館の会議室だった。
看板には手書きの紙を一枚、ぺたりと張った。 
『狭間世代研究会』 
命名者は私だ。「気づき研究会」では怪しいし、「新エネルギー研究会」では新興宗教と間違われる。この程度にボカしておけば、町内会の下部組織として予算が下りる可能性すらある。 
集まったのは、昔なじみの老人たち六人。
元中学校教師の田代さん。元信用金庫幹部の宮坂さん。元美容師の小野寺さん。豆腐屋の店主、三宅さん。そしてガソリンスタンドを畳んだばかりの若田さん。そこに私と、手配中の身である零を加えた陣容だ。 
「袋田さん、突然呼び出して何をする会なんです?」
田代さんが老眼鏡の位置を直しながら尋ねた。 
「事件の捜査だ」
「事件?」
私は卓袱台の上に透明な球体――『フィラメント』を置いた。そして、零が筑波で放火殺人事件の容疑者にされていること、その背後に三十年前の放火事件とアーク・コミュニケーションズの影があることをかみ砕いて説明した。 
「つまりだな、AIだの監視カメラだのが張り巡らされたこの街で、警察の手を逃れつつ真犯人を見つけなきゃならん。そのためには、ネットにも防犯カメラにも引っかからない『人間の勘と観察眼』が必要なんだ」
「要するに、年寄りの知恵袋ってわけかい?」
小野寺さんがくすくす笑った。
「そうだ。そしてこの球体は、人間が真実に近づいた時……つまり『あ、そうか』と直感が走った瞬間にだけ光る」 
「試してみましょう」
零が言った。
宮坂さんが腕を組み、うーんと唸った。
「そういえば……事件があった昨日の夜、うちの近所の防犯カメラ付き自動販売機、業者がメンテナンスに来てたな。夜の十時にだ。あんな時間に自販機の修理なんて来るか?」 
「あ」
田代さんが声を上げた。
「それ、アーク社の関連会社のロゴが入ったトラックじゃなかったか? 私も散歩中にすれ違ったぞ」
ぽわん、と球体が青白く光った。 
「光った!」
三宅さんが声を上げた。 
「自販機のメンテに見せかけて、街頭防犯カメラのデータを書き換えたんだ……」
零が目を見開いた。
「そういうことだ」
私はニヤリと笑った。「最新のAI監視システムは完璧に見えて、運用の現場には『人間の都合』という隙ができる。デジタルに頼りきった連中には、昭和の年寄りが持つ『ご近所の違和感』が見えないんだ」
老人たちの目が、一斉に輝き始めた。
「よし、町内の防犯カメラと自販機の位置、全部洗ってみよう」
「防犯カメラの死角になる裏道なら、私抜け道を知ってるわ」
「アーク社の社長が昔通っていた居酒屋のオヤジ、俺の連休の釣り仲間だ」
長年この街で暮らし、人間を観察し続けていた老人たちの「気づき」が、次々と鎖のように繋がり始めた。
そのたびに球体は淡く、しかし力強く光を放つ。 
警察もAIも追えない真相の糸口が、小さな公民館の一室で、着実に手繰り寄せられようとしていた。



第四章 見えざる手と「集めようとする者たち」
「袋田さん、表に怪しい車が止まっています」
公民館の窓から外を覗いていた若田さんが低い声で言った。
旧国道沿なに、黒塗りの高級ミニバンが二台、静かにエンジンをかけたまま停まっている。車体には控えめに「ARK」のロゴマーク。
「勘づかれたか……」
直後、公民館の扉が開いた。
入ってきたのは二人組の男だった。一人は仕立ての良いスーツを着た経済産業省の役人、もう一人はアーク・コミュニケーションズのセキュリティ部門を名乗る男だった。 
「袋田征二さんですね」
役人の男は、目の奥がまったく笑っていない笑みを浮かべた。
「零君を匿っているでしょう。彼は重要参考人です。引き渡してください。それと……その球体も」 
「何の権限で言っている?」
私が問い返すと、アーク社の男がタブレット端末を提示した。
「このデバイス『フィラメント』に搭載された波形受信技術は、我が社の知的財産権に該当します。神原教授が不正に持ち出したものです。直ちに返還していただけない場合、強硬手段をとらざるを得ません」
男たちの視線が、卓袱台の上の球体に注がれた。
アーク社の狙いは明確だった。
彼らは「気づきエネルギー」をAI予測システムに組み込み、人間の「閃き」や「直感」すらも事前に収集・管理する国家規模の監視インフラを作ろうとしているのだ。 
「持って行くがいい」
私はあっけらかんと言い、球体を役人の前に押し出した。
役人は不審そうに手を伸ばし、球体をつかみ上げた。
「……素晴らしい。これがあれば、全国の国民から『ひらめきデータ』を常時集積し、産業の効率を極限まで高められる……」 
役人がそう語りかけた瞬間――
球体の中の光が、ふっと完全に消え失せた。 
まるで冷や水を浴びせられた火のように、球体はただの冷たい透明なガラス玉に戻ってしまった。 
「な……なぜ光らない! 故障か!?」
アーク社の男が焦ってタブレットを操作する。
零が静かに言った。
「無駄です。気づきは、人間が純粋に何かを『分かった』瞬間にしか発生しません。それを集めて利用しよう、管理しようと意図した瞬間、エネルギーは消滅するんです」 
「そんな馬鹿な! エネルギーである以上、制御可能なはずだ!」
「それが『電気の次』の性質なんです」
私が腕を組み、男たちを見下ろした。「便利にしようとした瞬間に、価値を失う。お前たちの都合の良いツールにはならんのだよ」 
男たちの顔色が失われた。
管理と効率を追求する彼らにとって、「制御できないエネルギー」ほど不都合で不気味なものはない。
「……力ずくで研究資料を洗えば済む話だ。行くぞ」
男たちは捨てゼリフを残し、球体を卓袱台に叩きつけて去っていった。
だが、これで終わるはずがない。
敵は手段を選ばなくなっている。
「袋田さん、これからどうします?」
怯える零に、私は不敵に笑ってみせた。
「あいつらが『管理できないもの』を恐れているなら、こっちはとことん非効率で予測不能な動きをしてやるまでだ。若田、例の車を出せ」
「へい! 昭和五十二年式、完全アナログのダイハツ・ハイゼット、出動できます!」
電子制御もGPSも一切搭載されていない古い軽トラ。
AI監視網の追跡を完全に無効化する「昭和の走る死角」に乗って、私たちは事件の真の発祥地へと向かうことにした。
目標は、福島・阿武隈高地――三十年前の放火事件の痕跡が眠る場所だ。 



第五章 Wi-Fiに乗った死者の声
若田さんが整備した昭和五十二年式の軽トラは、電子制御の「で」の字もない機械仕掛けの塊だった。
エンジンをかけるたびに「ガタガタガタ」と車体が大きく揺れ、マフラーから黒い煙が立ち上る。GPSもドライブレコーダーも車載通信機器もない。最新の都市監視システム「アーク・アイ」が街中の車両データをスキャンしても、この軽トラはただの「動く金属の塊」としてしか認識されない。
「完璧だろ?」
若田さんが誇らしげにハンドルを叩いた。「排気ガスはちょっと臭いが、AIには絶対追えない」
助手席に私、荷台の幌の中に零とフィラメントの球体を押し込め、私たちは深夜の旧街道を北へ向かった。
走行中、荷台から零が声を上げた。
「袋田さん! パソコンに異常な波形が入ってきています!」
車を旧道のパーキングエリアに止め、荷台の幌をめくった。
零のノートPCの画面には、日本地図の上に張り巡らされた無数の光の線が映し出されていた。一見するとWi-Fiや携帯電話の電波網のようだが、波形の周期がまったく違う。 
「これは……『気づき波』です」
零が息をのんだ。「人間が何かに気づいた瞬間に発生する微弱な波形が、空間や既存の通信網を伝って、伝播しているんです」 
「電波に乗って飛んでいるのか?」
「はい。人間から発生したエネルギーが、空間を飛び交って、互いに共鳴している。世界中で……」 
画面上の光の束を辿っていくと、一つの地域に異様な密度の反応が集積していた。
福島県・阿武隈高地――かつて三十年前に「八郷町・有機物理研究所」が移転しようとしていた山あいの廃村跡地だった。 
「ここだ」
私は画面の焦点を指で示した。「三十年前、事故として処理された放火事件。あの現場で亡くなったのは、零、君のひいおじいちゃんだ」
「ひいおじいちゃん……神原先代教授……」
「そうだ。あの夜、加賀美創は炎の中から研究ノートを盗み出し、それを元手にアーク社を起こした。だが、研究の核となる『なぜ人間が気づくと空間が歪むのか』という根本の理論だけは解明できなかった」
だから加賀美は、三十年経った今でも神原教授を追い詰め、零の持っている球体を躍起になって探しているのだ。
「死んだ人間の思いや記憶も……この波形に残るんでしょうか」
零が静かに呟いた。
「さあな。記者は目に見える事実しか記事にしない」
私はポケットからタバコを取り出し、火をつけた。「だがな、言えなかった言葉や、届かなかった思いってやつは、案外そこらじゅうの空気にへばりついているもんさ」
軽トラは再び暗闇の国道を走り出した。
阿武隈の深い山々が、黒い影となって迫っていた。



第六章 阿武隈高地の暗号
霧の深い阿武隈高地の旧道を進み、私たちは半ば草に埋もれた廃研究所の跡地に到着した。
三十年前の火災で焼け落ちたコンクリートの骨組みが、まるで巨大な獣の肋骨のように倒れている。
車を降りると、冷たい山風が吹き抜けた。
零が掲げたフィラメントの球体が、これまで見せたことのない、透き通った濃い青色に発光し始めた。押しボタンもスイッチもない球体が、この場所の「空間」そのものに反応している。 
「袋田さん、これ……」
「ああ。聞こえるか?」
耳を澄ますと、風の音の合間に、微かにノイズのような、しかしどこか懐かしい「人間の声」の余韻が混じっている気がした。
研究所の奥、焦げた金庫が転がっている半地下の部屋へ足を踏み入れる。
壁には、三十年前の炎でも焼き尽くせなかった手書きの数式と、グラフの引っかき傷が残されていた。
「これだ……」
零が壁に近づき、ライトで照らした。
「AIや計算機によるデータ解析じゃない。人間が五感を使って世界を観察し、思考の限界を超えた瞬間にだけ導き出せる『手計算の極限公式』……」
加賀美がどれほど高性能なスーパーコンピュータを回しても解明できなかった理由がここにあった。
このエネルギーの本質は「効率化」ではなく「人間が苦悩し、考え抜いた果てに到達する直感」だからだ。効率を求めて思考をAIに委ねた瞬間、人間はこの公式を理解する能力を失う。 
「加賀美は最初から負けていたんだ」
私は焦げた壁に手を置いた。「効率とスピードを求めて新聞社を飛び出し、巨大IT企業を作ったが、あいつが捨てた『面倒くさくて非効率な人間の思考』の中にしか、答えはなかった」
その時だった。
「カツン……」
乾いた車椅子の車輪の音が、暗がりから響いた。
ライトの光の中に現れたのは、黒い服を着た数人の男たちと――車椅子に乗った加賀美創だった。
加賀美創。
三十年前、私と共に事件現場の煙を吸った、かつてのライバル記者だ。
「久しぶりだな、袋田」
加賀美の顔には、かつての野心に満ちた影はなく、どこか酷く疲れ切った哀愁が漂っていた。「相変わらず、犬並みに鼻が利くようだ」 
「加賀美……」
「袋田。お前は私を、金と権力に目がくらんだ悪党だと思っているのだろう」
加賀美は静かに車椅子の膝の上を見つめた。「二十年前、私の妻は事故で死んだ。AIの走行支援も自動ブレーキもない、旧式の車のブレーキ故障だ。ほんの少しの不確実性、ほんのわずかな機器の見落としが、妻の命を奪った」
加賀美の声が微かに震えた。
「人間は愚かだ。うっかり忘れ、見落とし、間違える。人間のその『不確実さ』がある限り、世界からは悲劇も事故も消えない。だから私は、AIによって人間の行動もすべて100%予測・補正できる社会を作りたかった。悲しみを生む『エラー』を、この世界から完全に失くしたかったのだ」
「加賀美……だからといって、人間の閃きまで管理しようというのか?」
「エラーを失くすには、原因となる人間の『気まぐれな直感』そのものを予測するしかないのだよ!」
加賀美の叫びが焦げた壁にこだました。
袋田=不確実だからこそ人生は愛おしく、美しい。
加賀美=不確実だからこそ人間は間違え、深く傷つく。
かつて同じ現場で事件を追った二人の記者の間には、決して埋まらない「悲しみの断層」が横たわっていた。
「頼む、袋田。球体を渡してくれ。私に……完璧で安全な世界を作らせてくれ」
「断る」私は静かに首を振った。「事故や悲劇が減るのはいい。だがな加賀美、間違える余白を全部埋めてしまったら、人間が自らの足で気づいたときのあの眩しい喜びまで、消えてしまうんだ」
絶体絶命の沈黙の中、零の持つ球体が、二人の対立に応えるように静かに明滅し始めた。 



第七章 デジタル社会の「死角」
「説得は無理なようだな……」
加賀美は悲しそうに目を伏せ、警備員に手を上げた。「球体を回収しろ。怪我はさせるな」
男たちが踏み込んできたその瞬間――
「おい加賀美! 昭和の年寄りを舐めるなよ!」
半地下の入口から、若田さんが叫び声とともに強力な手動式信号煙幕弾を投げ込んだ。
シュバァッと猛烈なオレンジ色の煙が充満する。最新の暗視スコープやAI解析機能を搭載した敵のゴーグルが、ホワイトアウトを起こした。
「視界遮断! AIターゲットリンク不能!」
「走れ、零!」
私は零の腕を掴み、煙の中を駆け抜けた。
若田さんの吹かす軽トラの荷台になだれ込み、爆音とともに山道へ飛び出す。
しかし、追手も引かない。
加賀美の部隊が乗る最新鋭のEV車両が無音で迫り、上空のドローンが通信波をスキャンして私たちの逃走ルートを完璧に予測していた。
「袋田さん、敵のAIが僕たちの逃走ルートを100%予測しています! どちらへ曲がっても先回りされます!」
零がPC画面を見ながら叫んだ。
「予測だと?」
私はバックミラーに映る敵を睨みつけた。
加賀美のシステムは「人間の論理的な最適行動」を予測している。急カーブでは減速し、最短ルートで国道を目指すという合理的なデータ分析だ。
「若田! そこを右だ!」
「袋田さん、そこは道じゃない! 崖ですよ!?」
「崖でいい! 落ちながら曲がれ!」
「ひええぇぇっ!」
若田さんは絶叫しながらハンドルを右に叩き切った。
軽トラは泥斜面へと突っ込み、木々をなぎ倒しながら滑り落ちていく。
上空のドローンが一瞬、ホバリングしたまま固まった。
AIの予測アルゴリズムに存在しない「完全な狂気(非合理)」。
データ集積によって作られた未来予測が、老人たちの命知らずな暴走によって完全にフリーズした瞬間だった。 
車体を打ち付けながら、軽トラは下の旧旧国道へと奇跡的に着地した。
「やった……撒いた……!」
零が荒い息を吐いた。
卓袱台から持ち出した球体『フィラメント』が、まるで腹を抱えて笑うかのように、チカチカと愉快に明滅していた。 
「見たか加賀美……」
私は煙草を咥え、笑った。「データで人間が測れると思うなよ。お前が消そうとした『エラー』の中にこそ、人間の本領があるんだ」



第八章 屋根の上のフィラメント
翌朝。
私たちがたどり着いたのは、すべての始まりの場所――旧国道沿いの「出光サービスステーション袋田町店」跡地だった。 
解体工事を待つガソリンスタンド。
ソーラーパネルが整然と並ぶ屋根の上に、私は零とともに登っていた。 
公民館から駆けつけた「狭間世代研究会」の仲間たちが、地上で見守っている。
田代さん、宮坂さん、小野寺さん、三宅さん。全員が黒電話のダイヤルや古い地図を手に持っている。 
やがて、車椅子に乗った加賀美創が車列とともに現れた。
「袋田……無駄な悪あがきだ。街中のアーク・アイ(AI監視網)が起動した。お前たちの『気づき』などという曖昧な波形は、我が社の高出力電波で上書きされる」
ガソリンスタンド周辺の基地局から猛烈なノイズ電波が放射され、零のPC画面が砂嵐で覆われた。
「ダメだ……電波が強すぎて、『気づき波』が消される……!」 
私は立ち上がり、屋根の上から加賀美を見下ろした。
「加賀美。お前は悲しみのあまり、大切なことを忘れている」
「何だと?」
「お前は『気づき』を管理し、エラーのない世界を作ろうとしている。だがな、このエネルギーの最大の性質は……【便利にしようとした瞬間に消える】ことなんだよ」 
私はポケットから、あの千円札が三枚入った香典袋を取り出した。 
「人間はな、失敗し、間違え、遠回りをするからこそ、自分の足で『あ、そうか』と気づけるんだ。お前が作ろうとしている完璧な世界は、人間からその一番の喜びを奪う冷たい箱庭だ!」 
「間違いのない世界が、なぜ悪い!」加賀美が絞り出すように叫んだ。
「悪くはないさ。だが……つまらんのだよ!」
私は地上にいる老人たちに向かって手を振った。
「みんな! 『あ、そうか会議』を始めるぞ!」 



第九章 あ、そうか
地上で、元教師の田代さんがノートを開いた。
元銀行員の宮坂さんがそろばんを弾き始めた。
元美容師の小野寺さんが、加賀美の手下たちの髪の癖を指摘し始めた。
「加賀美社長! あなたの右の靴底、三ミリ減ってますよ! 昔から右足に体重を乗せる癖があった!」
「加賀美君! 30年前の放火の夜、君が持っていたのは取材ノートじゃない、ただの文庫本だったろう!」
老人たちが、長年蓄積された観察眼と記憶を一気に爆発させる。
デジタルデータには残っていない、完璧に無意味で、愛おしい『人間だけの気づき』。 
「あ!」
「そうか!」
「そういうことか!」
街のあちこちから、閃きの声が上がった。
その瞬間――
屋根の上に置かれた透明な球体『フィラメント』が、太陽をも凌駕するほどの圧倒的な純白の光を解き放った。 
過剰で、無秩序で、計算不可能な「人間の感情と閃き」の奔流が空間を埋め尽くす。
加賀美の車椅子のモニターや、街頭のAI監視システムの画面が激しく明滅し始めた。
【予測不能】
【予測不能】
【予測不能】
【予測不能】
処理中。
再計算。
再計算。
再計算。
――解析不能。
――予測不能。
――対象定義を変更してください。
静まり返る空間の中、数秒の沈黙の後、画面の中央にたった一行の文字が浮かび上がった。
【人間を予測対象から除外してください】
「……そんな馬鹿な」
加賀美は、点滅するその文字を呆然と見つめた。
私は屋根の上で煙草の煙を吐き出し、静かに笑った。
「馬鹿だから、人間なんだよ」
球体の中で舞う光のフィラメントは、まるで生き物のように空へと昇り、完璧すぎた世界を柔らかく解き放っていった。



第十章(終章) 空を見上げる
事件の決着は、呆気ないものだった。
アーク・アイが「人間を予測対象から除外」したことで、都市監視システムは自動的に機能を停止。
過去の不正なデータ隠蔽が公になり、加賀美創は警察の取調室に入ることとなった。
取調室の面会室。アクリル板越しに対峙した加賀美は、小さくなった肩をすくめて私に聞いた。
「……袋田。私は、間違っていたのか?」
「さあな。俺にも分からんよ」
私は煙草の箱をポケットにしまいながら言った。
「ただな。分からないまま生きるってのも、案外悪くないぞ」
加賀美は一瞬目を見開き、それからゆっくりと、長年忘れていたような小さな苦笑いを浮かべた。

『気づきエネルギー』の実用化?
もちろん、そんなものは幻となった。
発電機に繋いだ瞬間に光らなくなる「役立たずのエネルギー」。だが、それでいいのだ。 
数ヶ月後。
ガソリンスタンドの跡地は、小さな町民広場になっていた。
屋根の上に並んだソーラーパネルの端っこに、あの透明な球体がぽつんと置かれている。 
広場のベンチで、私と零は缶コーヒーを飲んでいた。
「袋田さん」
零がふと、遠くの雲を見つめながら言った。
「僕の名前……『零』って言うんです」
「知ってるよ」
「零は、ゼロじゃないんです。何もない場所じゃなくて……『すべてが始まる前の場所』っていう意味なんです。未来の記録では、僕は本当に袋田さんの孫ということになっているんですよ」
零はそう言って、少しだけ悪戯っぽく笑った。
「袋田さん。おばあちゃん……里美さんのこと、思い出しました?」
「ん? ああ……」
私は空を見上げた。青い空に、すうっと白い筋雲が伸びている。
三十年前、里美と別れた日のこと。
あの日、なぜ別れたのか。思い出したくないからずっと忘れたフリをしていたが、先日ふと思い出したのだ。
「うどん屋で天ぷらをどちらが食べるか」でくだらない喧嘩をしただけだった。
「あ」
私が呟いた瞬間。
屋根の上の球体が、ほんの少しだけ、温かい青色にぽわんと光った。 
「また光りましたね」
零が嬉しそうに笑った。 
「元記者なのに、くだらんことしか思い出さん」
「元記者だからですよ」 
人間は便利になればなるほど、何かを忘れていく。
効率を求め、答えを急ぎ、検索画面ばかりを見つめて生きている。 
けれど、少しだけ足を止め、空を見上げて「あ」と呟いたとき。
世界はほんの少しだけ、こちらを振り返って微笑んでくれるのかもしれない。 
屋根の上には、今日も何かが静かに飛んでいる。
電波かもしれない。
誰かの記憶かもしれない。
あるいは、すべてが始まる前の、まだ名前すらない「次の何か」かもしれない。 

ー了ー


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あとがき
人間は、何かを発明すると、それ以前のものを忘れてしまう。 
火を使えば、暗闇の恐ろしさを忘れる。
電気を使えば、火のありがたさを忘れる。
スマートフォンを使えば、自分でじっくり考える面倒くささを忘れてしまう。 
便利になることは決して悪いことではない。
けれど便利になればなるほど、人間は「自ら気づく」という営みを機械やシステムへ預けてしまう。 
検索すれば一瞬で答えが出る。
AIに聞けば整った説明を返してくれる。 
それでも最後に残るのは、
「で、自分はどう思ったのか?」
という、とても古くさくて、ひどく面倒で、けれど愛おしい問いだけなのだと思う。 
この物語を書きながら、私自身も幾度となく「あ、そうか」と思った。
そしてそのたびに、見慣れたはずの街並みや古い道具たちが、少しだけ違った表情を見せてくれた。 
測れなくてもいい。
発電できなくてもいい。
社会の仕組みに組み込めなくてもいい。 
誰かが自分の頭で考え、何かに気づいた瞬間、その人の世界がほんのわずかに広がる。
物語と人間にとって、必要なのはそれだけなのかもしれない。 
空を見上げ、ふと「あ」と呟く。
その一瞬のために、屋根の上には今も目に見えないフィラメントが灯っている。


刻堕とし 二十 〜粗忽長屋異聞・終いの継ぎ目〜 完結編

古典落語「粗忽長屋」より


まえがき
「粗忽長屋」という噺は、落語の中でも屈指の、突き抜けた不条理噺である。粗忽者――そそっかしい八五郎が、浅草の観音様の境内で、行き倒れの死人を見物する人だかりに行き当たる。死人の顔を覗き込んだ八五郎は、驚いてこう言い出す。
「こいつは、おれの長屋の熊公じゃねえか」
騒ぎを聞きつけた当の熊公を長屋から引っ張り出し、死人の前に連れてくると、八五郎は熊公にこう言い聞かせる。「お前は死んでるんだよ。ほら、これがお前の死骸だ」。熊公は最初こそ面食らうが、生来の粗忽さも手伝って、次第に「そういえば、自分は死んでいるのかもしれない」と思い込み始め、しまいには自分の死骸を、自分の手で抱き上げて、長屋まで運ぼうとする。
そして、噺はあの有名な一言で幕を閉じる。
「抱かれているのは確かにおれだが、こうして抱いているおれは、一体誰なんだろう」
この噺の凄みは、単なる勘違いや粗忽の可笑しさに留まらない。自分が自分であることの根拠を、他人の言葉一つで、いとも簡単に手放してしまう人間の危うさを、突き抜けた不条理の中に描き出しているところにある。
継ぎ目守の圭馬と弥七が、これまで十九の噺を渡り歩いてきた、その最後に待っていたのが、この噺だったのは、あるいは必然だったのかもしれない。皿屋敷の井戸から始まり、目黒の秋刀魚、宿屋の仇討、居残り佐平次、時そば、元犬、紙入れ、松山鏡、まんじゅう怖い、火焔太鼓、芝浜、お血脈、文七元結、寿限無――幾多の型崩れを継ぎ直してきた継ぎ目守自身が、ここで初めて、自分自身の輪郭を問われることになる。




一 継ぎ目守、終いの報せ
いつものように、圭馬の傍らの鏡面が揺れた。だが、その揺れ方は、これまでのどの継ぎ目とも違っていた。まるで、鏡そのものが、深く息をついているようだった。
継ぎ目守圭馬へ。演目「粗忽長屋」における『自分が自分であることの根拠』の型に、これまで継ぎ直してきたすべての型崩れの残滓が、収束しつつある事案を確認。これが、当面の最後の継ぎ目となる見込み。至急現地調査されたし。
「これが、当面の最後の継ぎ目、か」
圭馬が鏡面の文字を読み上げると、弥七がいつになく静かな面持ちで立っていた。
「旦那、とうとう来ちまいましたね。……これまでの型崩れの残滓が、みんな集まってきてるってのは、穏やかじゃありやせん」
「弥七、行くぞ」
「へい」



二 浅草、行き倒れの死人
継ぎ目を抜けると、そこは浅草の観音様の境内だった。人だかりの向こうに、筵をかけられた行き倒れの死人が横たわっている。
粗忽者の八五郎が、人垣をかき分けて死人の顔を覗き込んだ。
「あっ、こいつは、おれの長屋の熊公じゃねえか。かわいそうに、行き倒れちまったか」
八五郎は駆け出し、当の熊公を長屋から引きずり出してきた。
「熊、大変だ。お前は死んでるんだよ」
「な、なんだって。おれが、死んでる、だと」
熊公は困惑した様子で、死人の前に連れてこられた。圭馬と弥七は、その一部始終を物陰から見守っていた。
「弥七、噺の型どおりだ。だが、あの死人の顔、心なしか、見るたびに輪郭がぼやけていかないか」



三 これが俺だ
「ほら、よく見ろ。これがお前の死骸だ」
八五郎に言われるがまま、熊公は死人の顔をまじまじと見つめた。
「言われてみりゃあ……たしかに、おれの顔にも見えてきた」
「そうだろう、そうだろう。お前は、いつの間にか死んじまってたのさ」
熊公は次第に、自分が死んでいるという八五郎の言葉を、疑いもなく信じ込み始めた。
圭馬は眉を寄せた。
「弥七、これも噺の型どおりのはずだ。だが……この後の展開、ずいぶんと様子が違ってきてる気がする」



四 止まらぬ問い
本来ならば、熊公が自分の死骸を抱き上げ、「抱かれているのは確かにおれだが、抱いているおれは、一体誰なんだろう」という、あの有名な一言で締めくくられるはずだった。
だが、熊公は死骸を抱き上げたまま、いつまで経っても、その先へ進もうとしなかった。
「抱かれているのは、おれだ。……だが、抱いているおれは……おれは、いったい……」
同じ問いを、何度も何度も、熊公は繰り返していた。あたりの喧騒が、少しずつ遠のいていく。
「弥七、まずいぞ。この問いが、これまでの型崩れすべての、行き着く先だったんだ」



五 幾千の境内、収束する残滓
圭馬が継ぎ目守の証を掲げると、境内の景色が透け、その奥に、これまで訪れてきたすべての継ぎ目の残像が、幾重にも折り重なって見えた。
皿屋敷の井戸、目黒の丘、宿屋の一室、品川の帳場、夜鳴きそばの屋台、稲荷の社、商家の寝間、松山の村、若い衆の座敷、大名屋敷、芝の浜辺、閻魔庁、大川端の橋、寺の門前――それらすべての残滓が、まるで川が海に注ぎ込むように、この浅草の境内へと集まってきていた。
「弥七、見ろ。これまでの型崩れの向こうにいた奴ら――皿嘗女郎、勘定大蛇、刻喰らい、祈願喰らい、確定喰らい、鏡喰らい、恐怖喰らい、値上喰らい、夢喰らい、極楽喰らい、捨て身喰らい、名呑喰らい――そのすべての残り滓が、ここに集まってきてやがる」
「まさか、こいつら全部が、繋がってたってんですかい」



六 名も無き、終いの正体
境内の中心、幾千の残像が渦を巻く先に、これまで見てきたどの怪異とも似ていない、輪郭すら定かでない、ただの淡い揺らぎのような存在が、静かに佇んでいた。
「継ぎ目守か。……この身に、名は無い。お前たちが継ぎ直してきた、それぞれの型崩れの、その根っこにあった、ただ一つの問い――『自分が自分である証は、何なのか』。その問いそのものが、幾百幾千の写しを渡り歩くうちに、寄り集まって、ここに至った」
「お前が、あれもこれも、みんな引き起こしてたってのか」
「いいや、違う。この身は、引き起こした者ではない。……この身は、お前たち自身が、これまで繰り返し繰り返し、問い続けてきたものの、成れの果てだ」



七 弥七の言葉
圭馬は、その言葉に、ふと足元が揺らぐのを感じた。
「弥七……俺は、本当に、最初の継ぎ目守なのかな。これまで、幾つもの噺を渡り歩いてきた。だが、もしかしたら俺自身も、誰かが継ぎ直した、写しの一つに過ぎないのかもしれない」
「旦那……」
弥七は、しばし黙り込んだあと、静かに、しかしはっきりと口を開いた。
「旦那、それを言うなら、あっしだって同じことでさ。あっしが本物の弥七なのか、写しの弥七なのか、そんなこたぁ、正直、あっしにも分かりやしません」
「弥七……」
「ですがね、旦那。あっしが知ってるのは、こういうことでさ。お菊さんの涙を、一緒に見た。居残り佐平次の啖呵を、一緒に聞いた。松山の鏡に映った旦那の顔を、あっしはちゃんと、そこにいて見てた。……それが、写しだろうと本物だろうと、あっしにとっちゃ、紛れもない、旦那と過ごしてきた刻でさ」



八 自分である証
熊公が、死骸を抱いたまま、なおも問い続けている。
「抱かれているのは、おれだ。……だが、抱いているおれは……」
圭馬は、熊公の傍らに歩み寄り、静かに声をかけた。
「熊公さん、その答えは、もう出てるはずだ」
「な、なんだって」
「あんたが今、迷いながらも、その死骸を大事に抱きかかえてる。その手の温もり、その困惑、その優しさ――それこそが、あんた自身の証だ。死んでるのが誰だろうと、抱いてるのが誰だろうと、そんなことは、二の次でいい」



九 終いの啖呵
圭馬は、名も無き揺らぎに向き直った。
「お前の問いに、答えてやろう。自分が自分である証ってのはな、生まれの一点にあるんじゃねえ。積み重ねてきた刻、共に過ごしてきた誰か、その積み重ねの中にこそあるんだ」
「戯言を。積み重ねなど、いくらでも書き換えられる。写しは写しに過ぎぬ」
「いいや。書き換えられねえもんが、一つだけある。……弥七が、今この瞬間、俺の隣に立って、俺を見ていてくれる。その事実だけは、誰にも書き換えられねえ」
圭馬は懐から継ぎ目守の証を掲げ、境内に渦巻く幾千の残像すべてに向けて、力強く語りかけた。
「皿屋敷のお菊さんも、居残りの佐平次も、元犬のシロも、松山の娘も、みんな、自分が自分であることに、迷いながらも、答えを見つけてきた。誰かに見ていてもらえること、誰かのために手を伸ばせること――それが、自分自身の輪郭ってもんだ」



十 型を取り戻す
圭馬の言葉が、幾千の残像すべてに染み渡っていくと、名も無き揺らぎは、少しずつ、その輪郭を失っていった。
「そうか……この身は、問いそのものであった。答えを得れば、問いである意味も、失われる」
揺らぎは、悲しむでもなく、恨むでもなく、ただ静かに、朝靄が晴れるように、消えていった。
熊公は、抱いていた死骸をそっと下ろすと、大きく息をついた。
「なんだか、無性に腹が減ってきたな。おい八五郎、飯でも食いに行こうじゃねえか」
「お、おう。お前、もう死んでるってこたぁ、いいのか」
「なあに、腹が減るってこたぁ、生きてる証だろうよ」
二人は笑いながら、境内を後にしていった。



十一 弥七との対話
境内に静けさが戻ると、圭馬は弥七と並んで、朝焼けの空を見上げた。
「弥七、済まなかったな。柄にもなく、迷っちまって」
「なあに、旦那らしくもねえって思いやしたが、まあ、こういう日もあるでしょうよ」
「これで、当面の継ぎ目は、終いってことらしい」
「へい。……旦那、これから先、あっしらはどうなるんでしょうね」
圭馬はしばし考えて、にやりと笑った。
「さあな。だが、また新しい型崩れが起きりゃ、俺たちはまた呼び出されるだろう。その時は、また一緒に行こうじゃないか」
「そりゃもう、望むところでさ」



十二 高座にて、終いの一席
気づけば圭馬は着物姿で高座に座っていた。だが、この日はどこか、いつもと違う静けさが、寄席の空気を包んでいた。
「というわけで、粗忽長屋の熊公さん、自分が死んでるんだか生きてるんだか、最後まで分からずじまいでございました。ですが、腹が減るってこたぁ、生きてる証だってんで、笑って幕を閉じることになりました。……さて、あっしらもこうして、幾つもの継ぎ目を渡り歩いてまいりましたが、自分が自分である証ってやつは、案外、こういう小さな積み重ねの中にあるのかもしれません」
圭馬は、扇子をとんとんと畳に置き、客席をゆっくりと見渡した。
「お菊さんの涙も、居残り佐平次の啖呵も、元犬のシロの一途さも、松山の娘の亡き父を思う心も、みんな、誰かに見ていてもらえたからこそ、ちゃんと自分自身でいられたんでございましょう。……あっしも、こうして皆様に見ていただいたからこそ、圭馬という一人の継ぎ目守で、いられたのかもしれません」
弥七が、高座の袖から、そっと頭を下げた。
「長らくのご贔屓、ありがとうございました。今日はこの辺りで、お後がよろしいようで」
客席から、これまでで一番大きな、盛大な拍手が沸き起こった。

了




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あとがき
本作をお読みいただきありがとうございました。刻堕としシリーズも、この二十作目をもって、一つの区切りを迎えることとなりました。
シリーズを通じて、お菊の皿、目黒のさんま、宿屋の仇討、居残り佐平次、時そば、元犬、紙入れ、松山鏡、まんじゅう怖い、火焔太鼓、芝浜、お血脈、文七元結、寿限無と、実に多彩な古典落語の型に挑んでまいりました。それぞれの噺には、それぞれの型崩れと、それぞれの怪異がおりましたが、振り返ってみれば、そのどれもが、根っこのところで「自分が自分である証は何か」「誰かのために何かを手放す、あるいは差し出すとはどういうことか」という、一つの太い幹に繋がっていたように思います。
最終話「粗忽長屋」は、その太い幹そのものを、正面から見つめ直す物語として書きました。継ぎ目守の圭馬自身が、自分の輪郭に迷い、それを弥七の言葉が支えるという構図は、十三作目「松山鏡」で描いたテーマの、いわば集大成です。写しであろうと本物であろうと、積み重ねてきた刻と、隣にいてくれる誰かの存在こそが、自分自身の確かな証になる――そんな結論に、シリーズ全体の答えを込めたつもりです。
圭馬と弥七のこれからについては、あえて明確な終わりを描かず、「また型崩れが起きれば、また呼び出されるだろう」という、開かれた余韻を残しました。江戸の噺というものが、時代を超えて何度も語り直されてきたように、この継ぎ目守たちの物語もまた、いつかまた、どこかの継ぎ目で、静かに再開するのかもしれません。
長きにわたり、このシリーズにお付き合いいただき、誠にありがとうございました。それでは、また、いつかの継ぎ目でお会いしましょう。


刻堕とし 十九 〜寿限無異聞・名呑喰らい〜

継ぎ目守異聞
古典落語「寿限無」より


まえがき
「寿限無」という噺は、落語の中でも最も広く知られた前座噺の一つである。子が生まれた八五郎、祝いの席で和尚に「めでたい名前をつけてやってくれ」と頼み込むが、和尚が挙げる名前の候補を、あれもいい、これもいいと欲張って、結局一つに絞れず、全部くっつけてしまう。
「寿限無寿限無、五劫の擦り切れ、海砂利水魚の、水行末雲来末風来末、食う寝る処に住む処、藪ら柑子の藪柑子、パイポパイポパイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの、長久命の長助」
これが子の名前になってしまい、この長い名前が、噺全体を通じて何度も繰り返され、そのたびに笑いを誘う――名前を呼ぶだけで一苦労、遊び友達と喧嘩しても、名前を呼んでいるうちに喧嘩そのものが有耶無耶になってしまう、という、名前の長さそのものが笑いの種になる噺である。
この噺の面白さは、目出度い言葉を全部欲張って詰め込んだ、その親馬鹿な欲張りさと、名前が長すぎることによる、実生活での不便さの対比にある。
ところが、とある写しにおいて、この「言い終わらないほど長い名前」という型が、あちこちの継ぎ目で本物の呪いと化し、名を呼ばれた者が、名が呼び終わるまで、時そのものから置き去りにされてしまうという報せが届いた。継ぎ目守の圭馬と弥七は、長助の暮らす長屋へと足を踏み入れることになった。




一 継ぎ目守、終わらぬ呼び声
鏡面から、途切れることのない声が漏れ聞こえてきた。「寿限無寿限無、五劫の擦り切れ……」と、同じ名前が、幾重にも重なりながら、いつまでも続いている。

継ぎ目守圭馬へ。
演目「寿限無」における『言い終わらないほど長い名』の型が、無数の継ぎ目にて実体化。名を呼ばれた者が、名乗りが終わるまで時間の流れから切り離される事案を確認。至急現地調査されたし。

「名乗りが終わるまで時が止まる、たあ、これは難儀な話だね」
圭馬が鏡面から漏れる声に耳をふさぎながら呟くと、弥七がすでに、何やら早口の練習をしながら立っていた。
「旦那、寿限無たあ、目出度い言葉を欲張って全部くっつけただけの、罪のねえ前座噺のはずなんですがね」



二 目出度い名前
継ぎ目を抜けると、そこは江戸の裏長屋だった。八五郎という男が、生まれたばかりの我が子を抱え、寺の和尚のもとを訪れていた。
「和尚さん、この子に、うんと目出度い名前をつけてやっておくんなさい」
和尚は、あれこれと目出度い言葉を並べ立てる。八五郎は、その一つ一つに感心し、「それもいい」「これも捨てがたい」と、結局どれも諦めきれずに、全部くっつけて子の名前にしてしまった。
「寿限無寿限無、五劫の擦り切れ、海砂利水魚の……」
長々と続く名前を、圭馬と弥七は物陰から聞いていた。
「弥七、噺の型どおりだ。だが、あの名前、心なしか、唱えるたびに、周りの景色が少しずつ滲んでいかないか」



三 長助、遊びに出る
数年が過ぎ、長助と名付けられた子は、元気に育っていた。ある日、遊び友達の一人と喧嘩になり、殴られた拍子に頭にたんこぶをこしらえてしまう。
友達の親が、長助の家に詫びを入れに来る。
「申し訳ない、うちの子が、長助ちゃんを殴っちまいまして」
「なに、長助を殴っただと。……ときに長助のやつは、今どこにいるかね」
「へえ、それが……」
友達の親が説明を始めると、長助の父・八五郎は、律儀に子の名前をフルネームで呼ばなければ気が済まない性分だった。
「これ、寿限無寿限無、五劫の擦り切れ、海砂利水魚の、水行末雲来末風来末、食う寝る処に住む処、藪ら柑子の藪柑子、パイポパイポパイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの、長久命の長助や、出ておいで」
名前を呼び終える頃には、すっかりたんこぶも引っ込んでしまっていた――というのが、本来の落ちの一つである。
弥七がにやりと笑った。
「旦那、これがこの噺のオチの一つでさ。名前が長すぎて、そうこうしてるうちに、時が経っちまう」



四 止まらぬ名乗り
だが、圭馬たちが見守るうちに、様子がおかしくなってきた。八五郎が名前を呼び終えても、長助が姿を現さないのである。
「あれ、長助のやつ、まだ出てこねえな。もう一遍呼んでみよう」
八五郎は再び深く息を吸い込むと、声を張り上げた。
「寿限無寿限無、五劫の擦り切れ、海砂利水魚の……パイポパイポ……シューリンガン……」
八五郎の口から果てなく溢れ出す目出度い言葉の連なり。二度、三度と名前を呼び直すうちに、あたりの景色が、まるで凍りついたように動きを止め始めた。井戸端の水音も、遠くの物売りの声も、すべてが止まったまま、八五郎の名乗りの声だけが、いつまでも響き続けている。
「弥七、これはおかしい。噺の型なら、名前を呼び終えたところで、話は先へ進むはずだ。それが、いつまで経っても、名乗りが終わらない」



五 幾千の長屋、止まった刻
圭馬が継ぎ目守の証を掲げると、長屋の壁が透け、その奥に、幾千もの同じ長屋が、鏡合わせのように連なって見えた。どの継ぎ目でも、誰かが誰かの名を呼び、その名乗りが、いつまでも終わらないまま、時が止まっていた。
「これじゃ、長助や、まだかい……」
うわ言のように名を呼び続ける親たちの姿は、どこも同じだった。
「弥七、見ろ。あちこちの継ぎ目で、名乗りそのものが、終わらない呪いになっちまってる」



六 名呑喰らいの正体
幾千の長屋が収束する先、暗い蔵の奥のような場所に、無数の音の欠片を鱗のように纏った、輪郭の定まらない影が蠢いていた。
「継ぎ目守か。……この身は、幾百幾千の写しで宙に浮いたままだった『言い終わらない名前』から生まれた者。名は名呑喰らい。名を呼ぶ、あの息の長さ、あの焦れったさ――それが何よりの馳走よ」
「お前が、あちこちの継ぎ目で、名乗りを終わらせないようにしてるのか」
「名乗りが終われば、旨みは失せる。ならば、いつまでも終わらせねばよい。呼んでも呼んでも届かぬ、あの焦れったい刻こそが、何よりの糧よ」
弥七が唸った。
「旦那、こいつぁ、八五郎さんの親馬鹿な欲張りさを、逆手にとって食い散らかしてやがる」



七 弥七、名乗りに巻き込まれる
調べを進める中、弥七がふと、幾千の長屋の一つで、誰かの名を呼ぼうとしてしまった。
「おい、そこの――」
言いかけた瞬間、弥七の口から、次から次へと、目出度い言葉の羅列が、止めどなく溢れ出し始めた。
「な……こいつは、口が、勝手に……」
「弥七!」
圭馬がとっさに弥七の口を塞いだ。
「弥七、しっかりしろ。名呑喰らいの縄張りじゃ、うっかり誰かを呼ぶと、名乗りそのものに引きずり込まれちまう」



八 長助の言い分
その時、長屋の奥から、時間の止まった異界の空間を悠々と歩いてくる人影があった。時の歪みの中で歳月を重ねたのか、すっかり成長し、立派な大人になった長助である。ひょっこりと顔を出すと、どこか大人びた笑みを浮かべた。
「継ぎ目守の旦那方、難儀してなさるようだね。一つ、あっしの言い分を聞いちゃもらえやせんか」
「長助さん、あんたの言い分とは」
「なあに、簡単なことでさ。あっしの名前が長ったらしいのは、確かに親父の欲張りのせいだ。だが、あの名前にゃ、ちゃんと『長く生きてほしい』っていう、親心が全部詰まってる。……名前ってのは、呼び終えるためのもんじゃねえ。呼ぶ相手を思う気持ちを、込めるためのもんだ」
「呼ぶ相手を思う気持ち、か」



九 圭馬の啖呵
圭馬は名呑喰らいに向き直し、江戸前の威勢のよさで堂々と啖呵を切った。
「お前の魂胆は分かったよ。名乗りを終わらせず、その焦れったさを食い荒らしてやがったんだな。……だがな、野暮を言っちゃいけねえ。長助さんの言う通り、名前ってのは最後まで言い切らなきゃ届かねえようなケチなもんじゃねえんだ。我が子を思う最初のひと声に、もう溢れるほどの想いが詰まってんだよ!」
「戯言を。呼び終えねば、想いなど届きはせぬ」
「いいや。八五郎さんは、長助のことが心配で心配で、たまらねえから、あの長い名前を、律儀に最後まで呼ぼうとしてるんだ。その心配りそのものが、もう十分に、想いは届いてる」
圭馬は懐から継ぎ目守の証を掲げ、幾千の長屋すべてに向けて、力強く語りかけた。
「八五郎さん、名乗りを最後まで言い切らなくたっていい。あんたが子を呼ぶ、その最初のひと声にだって、もう十分に、親心はこもってるんだ」



十 型を取り戻す
圭馬の言葉が、幾千の継ぎ目すべてに染み渡っていくと、止まっていた時が、少しずつ動き出した。八五郎の呼び声は、途中までしか続かなかったが、それでも長助は、ちゃんと駆けつけてきた。
「おとっつぁん、呼んだかい」
「お、おお、長助。すぐに来てくれたか」
「あたりめえよ。おとっつぁんの声、途中まで聞こえりゃ、あっしにゃ十分でさ」
名呑喰らいは、途中までしか呼ばれなくても、ちゃんと想いが届いてしまうという道理に耐えかね、纏っていた音の鱗を一枚また一枚と剥がされながら、静かに霧散していった。
「ぐ……名乗りを、言い切らずとも、想いが届くとは……身が、痩せて……」



十一 高座にて
幾千の長屋は、一枚また一枚と収束していき、やがて、あの一つの長屋だけが、正しい形で残った。
気づけば圭馬は着物姿で高座に座っていた。扇子をとんとんと畳に置き、客席を見渡す。
「というわけで、寿限無寿限無、五劫の擦り切れ……と、この調子で全部言い終わる頃にゃ、たんこぶも引っ込んじまうってな、実に長閑な噺でございます。ですが、名前ってのは、最後まで言い切らなくたって、その最初のひと声に、もうちゃんと想いはこもってるもんでございます。今日はこの辺りで、お後がよろしいようで」
客席から、盛大な拍手が沸き起こった。

了




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あとがき
本作をお読みいただきありがとうございました。刻堕としシリーズも十九作目、今回は「寿限無」という、落語の入門編としても親しまれる、言葉遊びの効いた前座噺を題材にしました。
この噺の面白さは、目出度い言葉を全部欲張って詰め込んだ、その親馬鹿な欲張りさにあると思います。今回はその「言い終わらないほど長い名前」という型そのものが、あちこちの継ぎ目で本物の呪いと化し、名乗りが永遠に終わらなくなるというSF的な事件にしてみました。
長助自身の「名前は呼び終えるためのものではなく、呼ぶ相手を思う気持ちを込めるためのもの」という一言は、この噺が本来持っている、名付けにまつわる親心の温かさを、そのまま言葉にしたものです。名乗りを最後まで言い切らずとも、想いは届く――そんな結末に、シリーズを通じてのテーマを重ねられたのではないかと思います。
早口言葉のような賑やかさと、名付けにまつわる親心、その両方を楽しんでいただけましたら幸いです。それでは、また次の継ぎ目でお会いしましょう。



二十一世紀のあなたへ
―未開封の手紙―


まえがき
人は誰しも、過去のどこかに「選ばなかった道」を残して生きているのではないでしょうか。
「あの時、あの一言を伝えていれば」「あの手紙を開けていれば」――振り返れば愛おしく、けれど二度と戻ることはできない分岐点。西暦2000年から2001年にかけて、新しい世紀の訪れを祝うように様々な「未来への手紙」企画が行われました。二十年後の自分や大切な人へ宛てた言葉たちは、時という名の川を渡り、それぞれの元へ届けられたはずです。
もしも、その手紙を開けずに捨ててしまったとしたら。そして、もしも自分が知らなかった「もう一通の手紙」が四十年間、静かに自分を待ち続けていたとしたら――。
変わりゆく時代の冷たさの中で、私たちが胸の奥に灯し続けるささやかなぬくもりについて考えながら、この物語を綴りました。どうぞ、静かな夜にページをめくっていただければ幸いです。




プロローグ 二〇〇一年、正月
 その手紙は、正月の陽光が差し込む実家の茶の間に、年賀状の束に紛れて届いた。
 消印は前年の十二月。差出人の名は、藤崎由紀。当時の恋人だった。封筒の表には几帳面なフォントで「21世紀のあなたへ」と印刷されている。郵政省(当時)が企画した、二十年後の誰かに手紙を届けるという、あの年だけのどこか浮き足立った奇妙な催しだった。
 実家の居間で、母は何も言わずにその封筒を差し出した。だが、その目の奥には「まさか、お前まだこの子と……?」という疑念と心配が揺れていたのを、青年だった僕は見逃さなかった。
 開ける前から、文面はなんとなく想像がついた。お元気ですか。そこに、私もいますか。そんな、拙くて、まっすぐな問いかけ。
 あの手紙は、開けられないまま、実家の抽斗の奥にしまい込まれた。就職し、独り暮らしを始め、何度か引っ越しを重ねるたびに、僕はその封筒を手に取っては、結局開けることも、捨てることもできずにいた。まるで、開けてしまえばふたりの曖昧な関係に何かが確定してしまうことを、無意識に恐れていたかのように。
 二〇二一年。二十年後の僕は、その手紙をとうとう開けることなく、迷った末に家庭ごみと一緒に処分した。
 ――正確には、処分したはずだった。
 だが、この物語はそこから始まる。



第一章 還暦間近の朝
 二〇四一年、如月。
 小田島涼は、五十九歳になっていた。
 窓の外には、灰色の空を突っ切るように無人配送ドローンの群れが飛んでいる。子どもの頃に夢見た「空飛ぶ車」のような華やかさはない。ただ荷物を効率よく運ぶためだけの、無機質な羽虫の大群だ。台所の壁に取り付けられたスマートAIディスプレイスピーカーが、合成音声で淡々とニュースを読み上げている。
『……昨年度の十代の自殺者数が過去最多を更新しました。有識者は「将来的な不透明感と社会的孤立」を指摘しており……次のニュースです。主要企業の株価が上昇し、富裕層の資産形成が……』
 涼はため息をつき、手元の端末でスピーカーの電源を落とした。静寂が部屋に満ちる。台所で湯を沸かしながら、壁にかけたカレンダーを見た。今日は二月一日。特別な日ではない。ただ、なぜか胸の奥が、朝から妙にざわついていた。
 携帯端末が震えた。見知らぬ番号。詐欺かセールスだろうと無視しかけたが、画面に表示された発信元――「日本郵政アーカイブ機構」という聞き慣れぬ公的組織の名前に、指が止まった。
「もしもし、小田島涼様のお電話でよろしいでしょうか」
 落ち着いた、性別の判別しがたい声だった。
「……そうですが」
「突然のご連絡失礼いたします。私ども、二〇〇一年に実施されました『21世紀のあなたへ』事業の記録を管理している者です。小田島様宛に、当時未達のまま保管されていた郵便物が一件見つかりまして」
 涼の手から、湯呑みが滑り落ちそうになった。
「未達……? そんなはずは。手紙はちゃんと、届きましたが」
「それが、実は――」
 電話の向こうで、声が一瞬、言葉を選ぶように静まった。
「小田島様が受け取られたのとは別に、もう一通、存在していたようなのです。差出人は同じく藤崎由紀様。ただし宛先の記載に不備があり、四十年間、当機構の保管庫で眠っておりました」
 涼は、しばらく言葉を失った。
 最初に受け取った一通は、確かに二十年前に読まずに捨てた。それは自分の手で捨てたのだから間違いない。だが、まさかもう一通、四十年もの間、宛先不備のまま眠っていたなんて。
「その手紙は、どこに」
「よろしければ、直接お越しいただけますか。電話や郵送でお渡しできる性質のものではなく……その、少々、複雑な事情がございまして」



第二章 保管庫
 都心から電車で一時間半。かつて大規模な郵便物流拠点だった施設は、今は「アーカイブ機構」という名の、半ば忘れられた公的機関の建物になっていた。灰色のコンクリートの外壁には、枯れた蔦が好き放題に這っている。
 受付で名乗ると、白髪を後ろで束ねた女性職員が現れた。名札には「碓井」とある。年齢は涼と同じくらいだろうか。
「小田島様。ようこそ、いらっしゃいました」
 碓井は先に立って歩き出した。長い廊下の両側には、天井まで届くスチール棚がびっしりと並び、色褪せた段ボール箱がひしめいている。どの箱にも、几帳面な手書きの数字――年と地域を示すコードが記されていた。
「この施設に眠っているのは、単なる『届かなかった手紙』ではないんです」
 碓井は歩きながら、静かに言った。
「詳しいことは、後ほどゆっくりお話しします。今はまず、あの手紙に会っていただくのが先かと」
 涼は、その言い方に、かすかな違和感を覚えた。まるで手紙そのものが、何か意志を持った存在であるかのような言い方だった。
「一つだけ伺っても」涼は尋ねた。「なぜ、こんな公的施設が、今も残っているんですか。二〇〇一年の郵便企画なんて、とっくに終わっているはずでしょう」
 碓井は少し足を止め、涼を振り返った。
「いい質問です。理由はあります。ただ、それをお話しするのは、もう少し後にさせてください。先に、ご自分の目で確かめていただいた方が、早いと思いますので」
「僕が捨てた手紙は……もう、取り戻せないんですよね」
「ええ。開封され、そして処分された時点で、それは『定まった過去』になりました。もう戻りません」
 碓井の声には、静かな憐みが滲んでいた。
「ですが、もう一通は違います。宛先不備のまま、この四十年、誰にも読まれることなく、ここに眠っていました」
 碓井は、棚の奥にある小さな温度管理された室の扉を開いた。部屋の中央にある小さな台の上に、一通の古びた封筒が置かれていた。
 四十年という年月の重みで、封筒の角はわずかに丸く擦り切れ、紙全体がほのかに飴色に褪せている。表書きの文字を見た瞬間、涼の喉が詰まった。
 由紀の字だ。間違いない。



第三章 二〇〇一年、もうひとつの正月
「これを、開封されますか」
 碓井の問いに、涼はすぐには答えられなかった。
「開封すれば、何が起きるんですか」
「正直に申し上げると、私どもにも分かりません。これまでこの施設で保管されてきた、こうした特別な手紙のうち、実際に開封を許可されたのは数件のみです。ただ、共通して報告されているのは――」
 碓井は言葉を選んだ。
「開封した瞬間、その人物の『記憶』に、微細な変化が生じる場合がある、ということです。危険はありません。ただ、まるで――開けなかった四十年間と、開けていたかもしれない人生の断片が、ほんの一瞬だけ、重なり合うような感覚だと。体験者は皆、そう証言しています」
 涼は封筒を見つめた。指先が震えているのが自分でも分かった。そっと触れると、古書の持つ甘く乾燥した紙の匂いがほのかに鼻腔をくすぐった。
 由紀とは、大学を卒業してすぐに別れた。理由らしい理由はなかった。ただ、お互いに目の前の生活に追われていくうちに、自然と連絡が途絶えた。それだけのことだった、はずだった。
 だが本当にそうだったか。あの頃、由紀は「結婚して、家庭を持って」と、まっすぐに未来を語る人だった。涼はそのたびに、曖昧な相槌を打つばかりでまともに向き合ってこなかった。それが、ふたりの間にゆっくりと深い溝を作っていったのではなかったか。
「開けます」
 涼は言った。声が思ったより掠れていた。
 碓井が深く頷き、静かに部屋を出て行った。一人残された涼は、震える指で封を切った。
 便箋は一枚。四十年の時を経てもなお、由紀らしい丸みを帯びた文字がそこにあった。
『21世紀のあなたへ。
 この手紙が届く頃、私たちはどうなっているでしょうか。
 正直に言うと、今すごく不安なんです。あなたは、いつも私が将来の話をすると、困ったような顔をする。私が重いのかな、って、最近よく思う。
 でも本当は、あなたと一緒に、家を持って、車を持って、犬か猫を飼って、笑って年を取っていきたいって、それだけなんです。
 二十年後、私たちはまだ一緒にいますか。それとも、もうお互い、違う人生を歩んでいますか。
 どちらでも、私はきっと、後悔していないと思います。だってあなたと過ごした今この瞬間は、本物だったから。
 でも、もしまだ迷う瞬間があったら。もし、二十年後のあなたが、まだ独りぼっちで、これを読んでいるのだとしたら。
 伝えたいことがあります。
 私は、ずっと待っているわけじゃない。でも、もし縁があるなら――』
 そこで文章は途切れていた。便箋の続きは、経年劣化のシミで酷く滲み、判読不能になっていた。
 涼は便箋を持ったまま、しばらく動けなかった。
 そのとき、視界が一瞬、白く眩むように滲んだ。
 めまいだろうか。いや、違う。頭の奥で、現実の輪郭がすり替わるような激しい感覚があった。
 ――遠い記憶の中で、涼は二〇〇一年の自分に戻っていた。年賀状の束の中から、あの手紙を見つけ出す自分。封を切ろうとして手を止め、結局、開けずに引き出しの奥にしまい込んだ、あの日の自分。
 だが今、その記憶の中の涼は、もう一通の手紙の存在を、どこかで知っている。知らないはずの未来の記憶が、過去の自分に染み込んでいくかのように――。
 目を開けると、涼は保管庫の部屋の中に立っていた。手の中の便箋は変わらずそこにあった。だが、自分の中の「何か」が、確かに不可逆的に変化していた。



第四章 分岐点
 碓井が部屋に戻ってきたとき、涼は放心したように椅子に座り込んでいた。
「大丈夫ですか」
「……今、何かを見ました。二〇〇一年の自分を。まるで自分の中に、二つの記憶が同時にあるような」
 碓井は驚いた様子もなく、静かに頷いた。
「そろそろ、きちんとお話しする頃合いですね」
 碓井は涼の向かいの椅子に静かに腰を下ろした。
「二〇〇一年のあの企画には、実は表に出ていない側面がありました。当時、心理学と、まだ黎明期だった初期量子情報理論を組み合わせた、ある実験的な研究チームが関わっていたのです。名目は『未来への手紙』でしたが、本当の目的は別にありました。『人が、まだ見ぬ未来に何を託すか』という意思データを集め、集合的な未来予測モデルを作ることだったのです」
「それが、この施設が残っている理由ですか」
「研究自体は途中で行き詰まりました。ですが、思いがけない副産物が見つかったのです。ごく一部の手紙――受取人に届かず、未開封のまま長期間保管された手紙に限って、ある奇妙な現象が観測されました。その手紙が語っていた未来と、実際に起きた出来事の間に、確率的な揺らぎが見られたのです。私たちはこれを『臨界書簡』と呼んでいます」
「アンド、それを開けると……」
「開封の瞬間、可能性として存在していた『もう一つの過去』の記憶の断片が流れ込んでくる。研究チームはこれを『分岐残響』と名付けました。小田島様の中には今、実際の人生の記憶と、『もし当時、開封していたら』という可能性の記憶が同居しています」
「それで、僕はどうすればいいんですか」
 碓井は少し困ったように微笑んだ。
「過去は変わりません。ですが、これから先の未来はまだ定まっていません。研究チームの仮説では、臨界書簡が開封されるとき、これから先の未来の分岐確率が、わずかに揺らぐのだと言われています」
 涼は便箋の最後の一文を、もう一度目で追った。
 ――もし縁があるなら――
 続きは読めない。だが、そこに何が書かれていたのか、涼には解る気がした。
「由紀は、今どこにいるか分かりますか」
 碓井は微笑んだ。
「今回の一件に際し、由紀様にもご連絡を差し上げております。由紀様もまた、ご自身宛の未来の手紙がここに眠っておりました。明日、いらっしゃる予定です」



第五章 街灯の下で
 その夜、涼は自宅に戻ってからもほとんど眠れなかった。
 テレビをつけると、また若い世代の悲しいニュースが流れていた。涼は画面を見つめながら、かつて思い描いていた「二十一世紀」を思った。もっと明るく、誰もが笑顔になれる時代のはずだった。だが現実は格差が広がり、若者たちが未来に希望を持てない世界になってしまっている。
 涼はコートを羽織り、外へ出た。ドローンの羽音だけが響く夜の街角。ふと、公園のベンチで膝を抱えて肩を震わせている若い女性が目に入った。
 涼は迷った末に、近づいた。
「大丈夫ですか」
 女性は驚いて顔を上げた。目が真っ赤に腫れている。
「……すみません、こんな時間に」
 女性はぽつりぽつりと、就職の不安や将来への絶望を語り始めた。涼はただ静かに耳を傾けた。
「僕はね」涼は言った。「若い頃、二十一世紀はもっといい時代になると思っていた。でも実際はひどい有様だ。僕たち大人が、君たちにこんな未来を押し付けてしまった。ごめんな」
 女性がはっと涼を見た。
「でもね、今日、僕は四十年前に書かれた手紙を読んだんだ。『今この瞬間が本物だったから後悔しない』って書いてあった。未来がどうなるかは分からない。でも、今君がここにいて、こうして話していることは本物だ。それだけは誰にも奪えない」
 女性は涙を拭い、小さく頷いた。
「……ありがとうございます。もう少しだけ、頑張ってみます」
 立ち去ろうとする彼女に、涼はふと思い直して、ポケットから取り出した小さなメモ用紙に自分の連絡先アドレスを書いて渡した。
「これ、もしまたどうしても辛くなったときに」
 連絡が来るとは思っていなかった。ただ、世界のどこかに自分を気にかけている人間がいるという感覚だけを、手渡してやりたかったのだ。



第六章 再会
 翌日、保管庫の面会室で、涼は由紀と四十年ぶりに顔を合わせた。
「久しぶり」
 由紀が微笑んだ。白髪の混じった髪に目尻の皺。だが、涼を見つめる瞳の強さは昔のままだった。
「読んだの、手紙」
「読んだよ」
「私も自分宛のを読んだの。恥ずかしいくらいまっすぐだった。あなたに宛てて二通書いていたなんて忘れてたけど、読んだ瞬間、全部思い出したわ」
 ふたりは静かに微笑み合った。
「あの頃の僕は、逃げてばかりで向き合っていなかった。悪かった」
「今更謝られてもね。でも、恨んでなんていないわ。お互い精一杯だったもの。私、結婚もしたし離婚もした。後悔もあるけど、それ以上に愛おしい人生だった」
 涼は由紀を見つめた。
「由紀、手紙の最後の言葉……覚えているか?」
 由紀は一瞬驚いた顔をし、それから優しく首を振った。
「覚えているわ。でも……言わないでおく。あの時の私が書いた言葉より、これから私たちが何を話すかの方が、ずっと大切でしょう?」
 涼は胸の奥が温かくなるのを感じた。
「ああ、そうだな」
「だったら」由紀はまっすぐに涼を見た。「もう一度、ゼロから始めてみるのはどう?」



第七章 新しい手紙
 ふたりは碓井の立ち会いのもと、施設の一角で新しい便箋に向かい合った。
「二十年後のご自身たちへ、新しい手紙を書いてみませんか」
 碓井の提案に、ふたりは頷いた。涼はペンを取り、静かに文字を走らせた。
『八十歳になった自分へ。
 あの頃、二十一世紀はもっと素晴らしい時代になると思っていた。
 実際は厳しい現実ばかりだったけれど、僕はもう絶望だけを残す大人ではいたくない。
 今日、公園で会った見知らぬ誰かに、小さな希望を渡せたと思う。
 由紀ともう一度、歩き出すことにした。
 二十年後の僕へ。どうか若い人たちが安心して夢を見られる世界を、少しでも作れていますように。』
 ふたりは互いの手紙を封じ、碓井に託した。二〇六一年に開封されるはずの、新しい希望の種だ。



エピローグ 二〇四一年、その後
 施設を出ると、夕暮れの空が淡いオレンジ色に染まっていた。
「送っていくよ」
「うん、お願い」
 並んで歩き始めたとき、涼の端末が静かに震えた。昨夜の女性からの短文が届いていた。
『昨日はありがとうございました。アドレス、嬉しかったです。今日、面接に行ってきます』
 涼は端末を握りしめ、静かに微笑んだ。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない。ただの、いい知らせだ」
 空を見上げると、ドローンの群れの隙間に、久しぶりに本物の星が瞬いていた。子どもの頃に夢見た未来とは違うかもしれない。けれど、この灰色の時代の中にも、確かに拾い上げることができる光はある。
 ――未来は、今よりずっと良いはずだった。
 その言葉は、もう悲しい後悔ではなかった。それは、これから自分たちが綴っていく新しい時代への、静かな祈りだった。

(完)


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あとがき
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
デジタル技術が飛躍的に発達し、効率や即時性が求められる現代において、「手紙」という媒体はどこか時代遅れのようにも思えます。文字を書き、切手を貼り、届くまで時間を要する。しかし、だからこそそこには、書いた人の「その瞬間の時間と温度」がそのまま閉じ閉じ込められているのではないでしょうか。
作中に登場する「臨界書簡」や「分岐残響」という概念はフィクションですが、「誰かの思いが巡り巡って、巡り合った誰かの未来をほんの少しだけ温かい方向へ変える」という現象は、私たちの現実の世界にも確実に存在していると私は信じています。
この物語が、お読みいただいた皆様の胸の奥にある「選ばなかった過去」を優しく包み込み、明日という未来へ向かって踏み出す小さなしるべとなれば幸いです。


             



ーーー原詩ーーー

21世紀のあなたへ


21世紀 ってやつは
もっともっと
良い時代だと思っていた

もしかすると
車は空を飛び
人々は家事の大半を
ロボットに任せ
余暇を楽しむ みたいな

ところがどうよ
このざま!

ズルイ連中が
国を騙し
人々を騙し
自分が自分だけがな世の中に
変えてしまった

若者たちは
未来を不安視し
自ら命を断つ

本当は皆が家庭を持って
家を車をペットを…と
笑顔だったはずなのに

若者たちの
出会いも 恋愛も
コロナで止まってしまった

やはり
人間たちの罪は重く
今すぐ 考えを改めないと
取り返しの付かないことになるのだろう

いつぞやか
未来へと書いた
タイムレターを開くことなく…

未来は
今より
ずっと良いはずだった…


2001年のお正月に
実家へと
年賀状に紛れて届いた手紙

差出人は当時の彼女

お袋
何も言わなかったけれど
きっと
まさか お前 まだ? なんて
疑ったかも?

それは
「21世紀のあなたへ 」っていう
20年も前の 郵便局の企画で
2001年の未来のどなたかに
今の気持ちを届けるというもの

お元気ですか?
そして
そこに 私もいますか? って。。。

一瞬にして
連れ戻された時間

叶わなかったけれど
嬉しかった心遣い

ありがとう
ありがとう と呟き
少し迷ったけれど 処分した手紙

そんな日から
更にまた
20年もが過ぎようとしている今日

お互いすでに還暦間近
ならば
あれこれのことは
もうすべてが時効なはずで

取り巻く環境すらも
おそらくすべてが許すはず
ならば
元気な内に
また笑顔でとも思いながら

この人生の中で…


盆帰り
――あの日の君に、もう一度だけ会いたかった




まえがき
お盆になると、故郷へ帰る。それは昔から変わらない。
東京で暮らすようになって四十年以上になるが、八月になると、なぜか実家へ帰りたくなる。
父も母ももういない。実家といっても、今では誰も住んでいない古い家だ。それでも盆になると帰る。仏壇に線香を上げ、庭の草を少し抜き、縁側に座って夕暮れを見る。それだけのために。
人間には、理由を説明できない習慣がある。たぶん故郷というのは、そういうものなのだろう。
ところが、六十六歳になった今年の盆。私は夢を見た。
初恋の人が出てきた。五十年以上前の、あの日の姿で。
彼女は笑っていた。そして私の隣に座ると、昔と変わらない声で言った。
「これからは一緒よ」
私は目を覚ました。真夜中だった。胸が、妙に苦しかった。
そして思った。なぜ、今なのだろう。なぜ、彼女なのだろう。なぜ――盆なのだろう。





第一章 隣の家
彼女の名前は、佐伯美奈子という。私と同じ六十六歳になっているはずだ。「なっているはず」という言い方をするのには理由がある。
私は、彼女が今どこにいるのか知らない。結婚したのか。子供がいるのか。どこに住んでいるのか。生きているのか。それすら知らない。最後に会ったのは、三十五年ほど前の同窓会だった。それが最後だった。
けれど、私が彼女を知ったのは、もっとずっと前。小学生の頃だった。
私の家が引っ越した。父の仕事の都合だった。新しい家は、古い木造住宅だった。庭は狭く、隣家との境に低いブロック塀があった。その向こうが、彼女の家だった。
引っ越した翌朝。私は学校へ行こうとして玄関を出た。すると、隣の家の門から女の子が出てきた。
白いブラウス。紺色のスカート。肩まで伸びた髪。ランドセルを背負っていた。
彼女は私を見ると、少しだけ首を傾げた。
「転校生?」
「うん」
「何年?」
「五年」
「同じじゃん」
それが最初だった。たったそれだけ。
けれど子供というのは不思議なものだ。その日から私は、彼女がいることを当たり前のように受け入れた。
朝、家を出る。隣から彼女が出てくる。一緒に学校へ行く。帰りも、だいたい一緒だった。夏休みには、塀越しに話をした。冬になると、彼女の家の窓から漏れる明かりが見えた。
近すぎた。本当に近すぎた。だからこそ、私は何もできなかった。好きだと言うこともできなかった。手を握ることもできなかった。
中学生になっても、それは変わらなかった。むしろ、余計に何も言えなくなった。彼女のことを好きなのだと、自分で気づいてしまったからだ。




第二章 言えなかった言葉
中学三年の冬。卒業が近づいていた。高校は別々になる。私は、それが怖かった。
今まで当たり前に隣にいた人が、突然、人生から消えてしまう。そんなことがあるのだと、その頃初めて知った。
卒業式の日。校門の前で彼女と写真を撮った。彼女は笑っていた。私は笑えなかった。
何か言おうと思った。ずっと好きだった。高校が別々になっても会いたい。そんなことを言いたかった。けれど、言葉が出てこなかった。
彼女が言った。
「じゃあね」
「うん」
それだけだった。その「うん」が、私の初恋の結末になった。
高校に入ると、会わなくなった。電話もしなかった。手紙も書かなかった。
若いというのは、どうしてあんなに不器用なのだろう。会いたければ会えばいい。話したければ話せばいい。好きなら好きと言えばいい。今ならそう思う。けれど、十六歳の私は、そんな簡単なことができなかった。
そして時間が流れた。
大学へ行った。就職した。結婚した。子供が生まれた。仕事に追われた。父が死んだ。母が死んだ。
気づけば、六十六歳になっていた。人生は、思っていたより短い。そして記憶は、思っていたより早く薄くなる。彼女の顔さえ、いつの間にかぼんやりしていた。
それなのに。あの夜。夢の中の彼女だけは、はっきりしていた。




第三章 同窓会
三十五年ほど前。一度だけ、中学の同窓会があった。
私は三十一歳だった。結婚したばかりだった。左手には指輪があった。
会場は駅前のホテルだった。懐かしい顔が並んでいた。
「お前、変わったな」
「そっちこそ」
そんな会話をしていた。
そして彼女が来た。
「久しぶり」
私は、一瞬、何も言えなかった。彼女は笑った。
「やあ」
私も笑った。
「やあ」
彼女の目が、私の左手に落ちた。
「結婚したの?」
「ああ」
それだけ答えた。本当は違うことを言いたかった。「君と結婚したかった」。もちろん、そんなことは言えるはずもない。
彼女は少し笑って、「そうなんだ」と言った。
そして、私は余計なことを言った。
「美奈子も、早く嫁に行かないと」
言った瞬間。自分でも、しまったと思った。
彼女は笑っていた。「うん」。その笑顔が、ほんの少しだけ寂しそうに見えた。
けれど私は、気づかないふりをした。いや。気づきたくなかった。
それからしばらくして、彼女は帰った。私も帰った。そして二度と会わなかった。
だが、その一言だけは残った。「早く嫁に行かないと」。何十年経っても。時々、思い出した。
もし、あのとき。あんなことを言わなかったら。
もし、「君はどうしているの?」と聞いていたら。
もし、「昔から好きだった」と言っていたら。
人生は変わったのだろうか。私は何度も、その「もし」を考えた。




第四章 夢
盆の三日前。私は夢を見た。
夢の中で、私は中学生だった。校庭にいた。夕方だった。校舎の窓が赤く染まっていた。
彼女がいた。制服姿だった。卒業式の日の姿。
彼女は私を見ると笑った。
「遅いよ」
「何が?」
「ずっと待ってた」
私は何も言えなかった。彼女が近づいてきた。そして私の隣に座った。
「これからは一緒よ」
「え?」
「だって、もう離れないから」
彼女は笑った。
私は目を覚ました。午前二時十七分。汗をかいていた。胸が激しく鳴っていた。
そして妙なことに気づいた。夢の中で見た時計。その時刻を、私は知っていた。午前二時十七分。なぜ知っているのか、わからなかった。ただ、嫌な感じがした。
私は台所へ行き、水を飲んだ。窓の外を見る。真っ暗だった。その向こうに、隣家の屋根が見えた。
もちろん、今の隣家だ。あの頃の家は、もうない。取り壊されている。
私は窓を閉めた。そして、眠れなくなった。




第五章 盆帰り
盆になった。私は実家へ帰った。
久しぶりに見る町は、さらに小さくなっていた。子供の頃には広かった道路が、今では狭く感じる。商店街も半分ほどシャッターが下りている。駅前にあった本屋はなくなっていた。駄菓子屋もない。公園の遊具も変わっていた。
けれど、私の家だけは残っていた。古い家だった。
玄関を開ける。空気が違った。誰も住んでいない家には、時間が溜まっている。
私は仏壇に線香を上げた。父と母の写真を見る。
「帰ってきたよ」
そう言った。自分でも、なぜそんなことを言ったのかわからない。
夕方。縁側に座った。蝉の声が聞こえる。遠くで盆踊りの音がしていた。
ふと。隣を見た。昔、彼女の家があった場所。そこには、新しい家が建っていた。誰かが住んでいるらしい。カーテンが閉まっている。
私は立ち上がった。なぜか、胸がざわついた。
そして、その夜。再び夢を見た。




第六章 午前二時十七分
「来たね」
彼女が言った。私は夢の中で、何かがおかしいと思った。
「どこへ?」
「ここ」
「ここって?」
彼女は答えなかった。ただ、私の手を取った。手が温かかった。その温度が、あまりにもリアルだった。
私は言った。
「美奈子」
彼女が振り向く。
「なに?」
「今、何歳?」
彼女は笑った。
「知らない」
「え?」
「あなたは?」
「六十六」
「じゃあ、私も六十六」
「……でも」
彼女は昔のままだった。十六歳の姿。
「これは夢だから?」
私が聞くと、彼女は首を振った。
「夢じゃないよ」
「じゃあ、何?」
彼女は少し考えて、「帰ってきたの」と言った。
その瞬間。世界が揺れた。




第七章 記憶の部屋
私は知らない部屋にいた。
白い壁。白い床。窓がない。
正面に巨大なスクリーンがあった。そこに数字が表示されていた。「2038」。その下に、「TEMPORAL MEMORY INTERFACE」と書かれていた。
「何だ、これ」
彼女が横に立っていた。
「覚えてない?」
「知らないよ」
「そう」
彼女は悲しそうに笑った。
スクリーンに映像が流れた。子供の頃の私。隣の家。ランドセル。夏休み。彼女。私たち二人。
私は息を呑んだ。
「これ……」
「記憶」
「誰の?」
「あなたの」
映像が変わった。中学卒業の日。そして、同窓会。
「ここで止まってる」
彼女が言った。
「何が?」
「私たちの人生」
私は彼女を見た。
「どういう意味?」
彼女は答えなかった。代わりにスクリーンに一行の文字が浮かんだ。
《観測対象:佐伯美奈子》
その下。
《最終観測時刻:2038年8月13日 02:17》
私は固まった。
「2038年?」
「そう」
「今は2026年だぞ」
彼女は頷いた。
「知ってる」
「じゃあ、これは……」
「未来」




第八章 十二年後
私は混乱した。彼女は言った。
「私たちが住んでいる世界には、時間が一つしかないと思ってるでしょう?」
「違うのか?」
「違うかもしれない」
「かもしれない?」
「科学者たちも、まだわかってない」
彼女は笑った。
「でも、人間の記憶には、時間を越える性質があるらしい」
「そんな馬鹿な」
「だから夢なんじゃない?」
私は何も言えなかった。彼女は続けた。
「2038年。私はこの町に戻ってきた」
「なぜ?」
「わからない」
「それで?」
「隣の家を見た」
私は息を止めた。
「私の家?」
「そう」
「でも私は……」
「あなたはまだ生きてる」
「2026年に?」
「そう」
彼女は微笑んだ。
「だから会いに来た」
「十二年後から?」
「うん」
私は頭を抱えた。
「そんなこと、できるわけがない」
「私もそう思った」
彼女は静かに言った。
「でも、人間は死んだ人間に会うことができるでしょう?」
「夢の中で?」
「記憶の中で」




第九章 もう一つの人生
スクリーンに映像が出た。別の人生だった。
私は結婚していない。彼女と一緒に暮らしている。小さな家。二人の子供。犬。庭。
私は笑っていた。彼女も笑っていた。
私はそれを見て、胸が痛くなった。
「これは……」
「もう一つの可能性」
「こんな世界があるのか?」
「ある」
「本当に?」
「少なくとも、観測された」
私は画面から目を離せなかった。別の私、彼女と庭にいた。年を取っていた。それでも幸せそうだった。
私は思った。こっちの人生のほうが、幸せだったのだろうか。
彼女が言った。
「そう思う?」
私は答えられなかった。
「でもね」彼女は続けた。「この世界のあなたにも、幸せはあったでしょう?」
私は頷いた。妻がいた。子供がいた。孫もいる。平凡だった。けれど、幸せだった。
「じゃあ、何が違う?」彼女が聞いた。
私はしばらく考えて言った。
「君がいない」
彼女は笑った。
「私も」




第十章 言葉の修正
「未来から来たなら、過去を変えられるのか?」
私は聞いた。彼女は首を振った。
「変えられない」
「どうして?」
「変えるんじゃなくて、分岐するから」
「分岐?」
「あなたが今ここで、私に好きだと言ったとしても、それは過去のあなたには届かない」
「じゃあ意味がない」
「意味はある」
彼女は私の手を握った。
「あなた自身が、ずっと抱えていた後悔を終わらせることができる」
私は黙った。
「ねえ」彼女が言った。「同窓会の日のこと、覚えてる?」
胸が痛くなった。
「覚えてる」
「私に言ったよね」
「何を?」
彼女は笑った。
「早く嫁に行かないと、って」
私は目を伏せた。
「……悪かった」
「どうして謝るの?」
「ずっと後悔してた」
彼女はしばらく黙っていた。そして言った。
「あの日ね。私は、あなたがそう言ったから、あなたが私のことを何とも思ってないんだと思った」
私は息を呑んだ。
「だから、何も言わなかった」
「……」
「でも」彼女は笑った。「私も好きだったよ」
その瞬間。世界が音を失った。




第十一章 遅すぎた告白
私は泣いていた。六十六歳にもなって。夢の中で。十六歳の彼女の前で。
「もっと早く言ってくれよ」
私は笑いながら言った。彼女も笑った。
「あなたもね」
「そうだな」
「お互い様」
「本当に」
二人で笑った。そして私は聞いた。
「今まで、結婚したの?」
彼女は首を振った。
「してない」
「どうして?」
「待ってたわけじゃないよ」
「じゃあ?」
「好きな人ができなかった」
私は何も言えなかった。彼女は続けた。
「あなたは?」
「結婚した」
「うん」
「妻はいい人だった」
「知ってる」
「どうして?」
「あなたの記憶を見たから」
私は笑った。
「なんだ、それ」
「幸せだった?」
私は頷いた。「幸せだった」
彼女も頷いた。「よかった」
その言葉が、なぜか一番悲しかった。




第十二章 妻
目が覚めた。朝だった。
私は布団の中で泣いていた。
妻はもういない。三年前に亡くなった。
私は、彼女のことを愛していた。それは本当だ。だからこそ、初恋の人への気持ちを長い間、胸の奥にしまっていた。罪悪感があった。
けれど、その朝。私は初めて思った。
人間の心には、複数の人生が入ることができるのかもしれない。
妻への愛と。初恋への想い。どちらかが嘘だったわけではない。
人生は、一つしか選べない。けれど心の中には、選ばなかった人生も残っている。そのことを、私は六十六歳になって初めて理解した。




第十三章 隣の家
朝食を食べていると。隣の家から音がした。玄関が開く音。
私は箸を置いた。外へ出た。
隣の家の前に、白髪の女性が立っていた。後ろ姿だった。
私は動けなくなった。女性が振り向いた。
違った。知らない人だった。
私は苦笑した。
「何を期待してるんだ」
家に戻ろうとした。そのとき。ポストに何か入っているのが見えた。
白い封筒。宛名は私だった。
差出人の名前を見て。私は立ち尽くした。
佐伯美奈子。




第十四章 手紙
手が震えた。封筒を開ける。中には一枚の紙。
《久しぶり》
その文字を見ただけで、彼女だとわかった。
《たぶん、あなたは驚いていると思います。私も驚いています。あなたがこの手紙を読む頃、私はもう、この町にはいません》
私は読み進めた。
《あの日のことを、私はずっと覚えていました。同窓会で、あなたが「早く嫁に行かないと」と言ったこと。あの言葉を、私はずっと気にしていました》
私は目を閉じた。
《でも、最後にあなたの夢を見ました。そこで、あなたは私に言いました。ずっと好きだった、と》
私は息を止めた。
《だから、もう十分です。私もずっと好きでした。でも、それぞれの人生を生きてきたことも、間違いではありません。だから、後悔しないでください》
最後に。
《盆になったら、帰ってきてください。あなたが故郷に帰る限り、私はどこかで帰ってきます》
名前の下に。日付があった。
2038年8月13日。
私は紙を落とした。




第十五章 十二年後の手紙
私は震える手で、もう一度日付を見た。2038年。未来の日付だった。
しかし、手紙は今ここにある。あり得ない。そんなことはわかっている。
私は封筒を裏返した。消印があった。2038年8月13日。
そして、もう一つ。小さな文字。
《この手紙は、2026年のあなたへ》
私は笑った。笑うしかなかった。
「なんだよ、それ」
その瞬間。携帯電話が鳴った。知らない番号だった。
出る。
「もしもし」
無言。そして。
「……遅いよ」
私は凍りついた。彼女の声だった。
「美奈子?」
「うん」
「どこにいる?」
「隣」
私は窓を見た。隣の家。カーテンが開いた。誰もいない。
「見えないよ」
「まだね」
「まだ?」
「十二年後なら見える」
電話が切れた。




第十六章 2038年
私はその年の盆を、何度も思い返した。そして十二年が過ぎた。
私は七十八歳になった。身体は弱った。髪はほとんど白くなった。けれど、盆になると故郷へ帰った。
2027年。2028年。2029年。2030年。毎年。何も起きなかった。
それでも帰った。妻の墓参りもした。父母の墓にも行った。そして隣の家を見た。彼女の姿はなかった。
2037年。私はもう、帰れないかもしれないと思った。けれど帰った。
そして2038年。八月十三日。
私は実家の縁側に座っていた。午後二時十七分。
突然。庭の向こうに人影が見えた。
若い女性だった。白いブラウス。紺色のスカート。肩までの髪。
私は立ち上がった。
「美奈子」
女性が笑った。
「やっと会えたね」




第十七章 帰ってきた人
私は歩いた。一歩ずつ。彼女も歩いてくる。近づくほど、顔がはっきりする。十六歳の彼女だった。
「どうして?」
私は聞いた。彼女は笑った。
「お盆だから」
「それだけ?」
「それだけでいいじゃない」
私は泣いた。
「俺、ずっと待ってた」
「知ってる」
「本当に?」
「夢で見てた」
「じゃあ……」
「うん」
彼女は私の隣に座った。昔と同じように。
「これからは一緒よ」
私は笑った。
「遅すぎるよ」
「そう?」
「半世紀以上だぞ」
「でも、会えた」
私は頷いた。




第十八章 観測
その夜。私は奇妙な夢を見た。
白い部屋。巨大なスクリーン。そこに文字が出ていた。
《時間接続終了》
《記憶転送終了》
《観測結果:成功》
私は気づいた。これは彼女の実験なのだ。
彼女は未来の研究者たちとともに、記憶を過去へ送った。けれど、記憶だけではない。「感情」も送れる。
科学者たちはそれをまだ理解していない。人間が持つ強い感情には、時間を越える何かがある。
初恋。後悔。言えなかった言葉。そういうものは、記憶の中で消えない。むしろ時間が経つほど、純粋になる。
スクリーンに最後の文字が出た。
《最も強い時間接続因子:後悔》
私は笑った。
「そんなものが、科学になるのか」
すると声がした。
「なるんだよ」
彼女だった。
「だから会えた」




第十九章 もう一つの盆
夢の中で。私は再び十六歳になっていた。彼女も十六歳。
私たちは並んで歩いていた。昔の通学路。蝉の声。夕方の空。
私は言った。
「なあ」
「なに?」
「好きだった」
彼女が笑った。
「知ってる」
「ずっと」
「うん」
「もっと早く言えばよかった」
「私も」
「ごめん」
「私もごめん」
二人で笑った。そして、彼女が言った。
「でもね」
「うん」
「言えなかったから、ずっと好きだったのかもしれないよ」
私は考えた。確かにそうかもしれない。
叶わなかった恋だからこそ。そこには、誰にも壊せない形が残っている。




第二十章 妻への手紙
目を覚ました。朝だった。
私は机に向かった。そして妻へ手紙を書いた。もう読むことはない。けれど書きたかった。
《君と結婚してよかった。君と生きた人生は、本物だった。そして、私にはもう一つ、選ばなかった人生があった。それも、本物だった》
私はそこで筆を止めた。
初恋の彼女との人生。それは実際には存在しなかった。けれど、私の中には確かに存在した。
人生とは、起きた出来事だけでできているのではない。起きなかった出来事も。言わなかった言葉も。会わなかった人も。選ばなかった道も。全部、心の中では人生なのだ。
私は手紙を畳んだ。仏壇の妻の写真の前に置いた。
「ありがとう」
そう言った。妻の写真、いつものように笑っていた。




第二十一章 最後の盆
それから十年。私は八十八歳になった。
身体はすっかり弱った。けれど盆だけは、故郷へ帰った。
ある年。実家の庭で、私は彼女を見た。昔と同じ姿だった。
私は笑った。
「また来たのか」
「あなたこそ」
「俺は毎年帰ってる」
「知ってる」
「じゃあ、君も毎年?」
「うん」
「どこから?」
彼女は空を見上げた。
「少し遠いところ」
私は笑った。
「未来?」
「そう」
「何年?」
「秘密」
「なんだよ、それ」
彼女は笑った。そして私の隣に座った。
私は言った。
「来年も来る?」
彼女は答えなかった。ただ、私の手を握った。温かかった。




第二十二章 盆帰り
その夜。私は夢を見た。
若い私がいた。隣に彼女がいた。二人は並んで歩いていた。
何も言わなかった。ただ歩いた。昔の道を。
家の前まで来る。彼女が立ち止まった。
「じゃあね」
私は言った。
「また来年」
彼女は笑った。
「うん」
目を覚ます。朝だった。蝉の声が聞こえた。
私は窓を開けた。隣の家が見える。もう誰も住んでいない。庭も荒れている。
それでも。塀の向こうから。声が聞こえた気がした。
「早く帰ってきて」
私は笑った。
「わかった」
そして、もう一度目を閉じた。




終章 それとも……
盆が終わる。私は東京へ戻る。
実家の鍵を閉める。最後に振り返る。
隣の家。昔、彼女が住んでいた家。
そこに。一瞬だけ。人影が見えた。
少女だった。白いブラウス。紺色のスカート。肩までの髪。
彼女が笑った。私は手を振った。少女も手を振った。そして消えた。
私は思う。あれは夢だったのか。未来から送られてきた記憶だったのか。それとも。お盆だから、帰ってきたのか。
答えは、わからない。
ただ。人生には、ときどき。科学では説明できないものがある。
忘れたはずの声。消えたはずの面影。言えなかった言葉。
そして。半世紀を越えて届く、たった一つの「好きだった」。
私は駅へ向かって歩き出す。振り返らない。もう、後悔はしていない。
あの日。「早く嫁に行かないと」と言ってしまった自分も。何も言えなかった十六歳の自分も。全部、私だった。
そして彼女も。きっと同じように。あの日の私を、どこかで待っていたのだ。
だから。盆になると、帰る。帰ってくる。
どこからなのかは、もうわからない。過去からなのか。未来からなのか。それとも。人の心の、時間のない場所からなのか。
ただ一つだけ。私は知っている。
初恋は、終わらない。
叶わなかった恋だけが、時間の向こう側で、ずっと生きていることがある。
今年もまた。盆が来る。私は帰る。
隣の家に、彼女の姿はあるだろうか。
それとも――もう、私のほうが、彼女のいる場所へ帰っていくのだろうか。
盆帰り。そう呼ぶことにした。
それで、いい気がした。

了




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あとがき
お盆の時期になると、誰もいなくなった故郷の家へと足が向きます。縁側に座り、暮れていく空を眺めていると、かつて過ごした時間や、かつてそこにいた人々の気配が静かに蘇ってくる感覚を覚えます。
誰の人生にも、思い返すたびに小さな痛みを伴う「言えなかった言葉」や「選ばなかった道」が存在するのではないでしょうか。十六歳の青さゆえに手放してしまった初恋、三十代の同窓会でかけてしまった余計な一言――それらは長い月日を経てもなお、胸の奥底で消えることはありません。
本作『盆帰り』は、そうした人生の後悔や切なさを、少しのファンタジーとSFの要素を交えて描いた物語です。過去を変えることはできません。けれど、心の深い場所で過去と向き合い、そっと受け入れることはできるのではないか。そんな思いを込めて執筆いたしました。
選んだ人生も、選ばなかった人生も、どちらも大切な自分の物語です。このささやかな物語が、お読みいただいた皆様の記憶のどこかにそっと寄り添うことができれば、とても嬉しく思います。