刻堕とし 弐 
〜死神の蝋燭〜


【まえがき】
落語には、演じ手を失い、時代の波間に消えていった「埋もれた噺(はなし)」が無数に存在します。もしもその忘れ去られた登場人物たちに、私たちと同じような「生きたい」という意志があったなら――。
本作は、古典落語の名作『死神』をモチーフに、時空の歪みを修正する旅人「継ぎ目守(つぎめもり)」の活躍を描くSFファンタジーです。伝統芸能が持つ独自の生々しい身体感覚と、パラレルワールドを監視するSF的なガジェット感を融合させた、少し奇妙で、どこか温かい物語をお楽しみください。




継ぎ目守異聞

一 継ぎ目守、辞令
高座を降りた圭馬が楽屋の鏡を覗き込むと、案の定、奥の曇りが遅れて引いた。
いつもより焦点が合うのが零コンマ三秒遅い。前の演者の顔の残像が、自分の顔に重なってからすっと消える。バグの予兆だった。
やがて白い文字が滲む。
――継ぎ目守圭馬へ。次回任務を通達す。演目『死神』にて蝋燭の不整合を確認。至急、現地調査されたし。
「次回任務って、軽々しく言われても困るんだよな」
羽織を脱ぎながら呟いた途端、鏡の縁がちりと鳴った。備え付けの風車が、逆回転しながらころと転がり出る。お馴染みの合図だった。
「旦那、お呼びと聞いて」
鏡の内側から、弥七がひょいと顔だけ出す。
「鏡から出てくるのやめろっていつも言ってるだろ。幽霊みたいで客が逃げる」


二 蝋燭の間
継ぎ目を潜ると、肺の空気が入れ替わった。
ひやりとした洞窟だ。湿度は高いのに、空気は乾いている。音がない。あるのは、無数の芯が蝋を舐める、ちりちりという微かな音だけだった。
天井まで届く巨大な木棚が、整然と並んでいる。一本一本に蝋燭。長さも炎の揺れ方も違う。この世の誰か一人の残り時間そのものだという。
「ここが死神の噺の心臓部でさ。人間一人につき、一本」
弥七が小声で言う。声が蝋燭の熱に溶ける。
圭馬は息を呑んだ。数多の命の灯りが、暗闇に光の海を作っている。美しいのに、底冷えがする。
影から、帳面を抱えた男が出てきた。黒い羽織、げっそりと痩けた頬。目の下に隈。どう見ても過労の役人だった。
「お前たちが継ぎ目守か。ちょうどいい。人手が欲しかった」
紛れもない、死神だった。


三 死神、多忙につき
「帳面と蝋燭の数が合わねえんだ。多い日もあれば、極端に少ない日もある。おかげで毎晩残業だ」
死神は深い溜息と共に、掌の脂で黒光りした帳面を投げてよこした。
圭馬が受け止める。紙は湿気で波打ち、指先が少しベタつく。
「本来、寿命が尽きた者の蝋燭は、音もなく消える。ところが最近は違う。消えるはずのないやつが、ふっと消える。逆に、とっくに消えるはずのやつが、図太く残ってやがる」
圭馬は棚の並びを見渡して尋ねた。
「それって、この噺の主人公、徳兵衛の周辺ですか」
死神が忌々しげに眉を寄せる。
「よく知ってるな。まさにそいつだ。あいつの周りで、命の計算が完全に狂ってる」


四 消えぬはずの灯
案内されたのは、古い木札に徳兵衛とだけ書かれた棚だった。
本来なら今夜にも尽きるはずの蝋燭が一本、そこだけ異様だった。炎が太い。蝋は溶けず、むしろ上へ、上へと不自然に伸びている。芯も一本ではない。よく見ると二本がねじれ、互いを食い合うように燃えている。
「これは、誰かが強引に手を加えた炎だ」死神が唸る。
弥七がそっと鼻を近づけた。犬のようにひくつかせるのではない。空気を薄く吸い、舌の奥で味わうような嗅ぎ方だ。
「旦那、こいつは櫨の匂いじゃねえや」
弥浅が目を細める。
「鉄錆と、安い石鹸。それに、消毒用の石炭酸だ。どこかの病室の匂いだぜ。明治か大正の。よその噺の寿命の匂いだ。誰かが別の蝋燭から灯を掬って、こっそり継ぎ足してやがる」
匂いで時代が特定できる。継ぎ目を跨いだ証拠だった。


五 偽医者、徳兵衛
真相を確かめるため、二人は噺の中の現実へ降りた。
かつて首を括ろうとしたところを死神に拾われ、死神が病人の足元に座れば助かる、枕元に座れば助からないという秘術を教わり、藪医者から一転して名医と持て囃されるようになった男、徳兵衛。
上等の絹を着込み、顔つきまでふてぶてしくなった徳兵衛は、突然現れた圭馬たちを胡散臭そうに見た。
「見ねえ顔だね。何の用だい」
「あんたの寿命の蝋燭が、おかしなことになってる。よその命を継ぎ足されてる。心当たりはないか」
圭馬が真っ直ぐ見据えると、徳兵衛の視線が泳いだ。畳の目へ、障子の桟へ、自分の爪先へ。


六 呪文アジャラカモクレン
さらに問い詰めると、徳兵衛はついに声を震わせて白状した。
「いやね、大金に目が眩んでよ、死神様との約束を破って病人の布団をひっくり返しちまったんだ。そしたら俺の蝋燭が急に短くなっちまって。もう今にも消えそうでよ。途方に暮れてたら、夜中に裏口を叩く奴がいたんだ」
冷や汗を拭う手が止まらない。
「そいつが言うにはね、先生、あんたの蝋燭はもう長くはない。だが金さえ積めば、余所の寿命を融通してやれるって」
「その男、名は何と言った」
「た、確か、蝋九郎とか言ったよ」


七 闇の蝋燭商人
蝋九郎。
圭馬が脳裏で検索窓を叩く。継ぎ目守にだけ許された、記憶のキャッシュを漁る感覚。指先で弾くように思考を走らせる。
一瞬、欠けたログが弾けた。かつて別の古典で、灯を分け合う心優しい行商人という美談の脇役として生まれながら、噺そのものが上演されなくなり、演じ手を完全に失った存在。記録はそこで途切れている。削除ではなく、忘却による自然消滅。
「己の噺が消えちまった代わりに、他人の蝋燭を右から左へ動かして、自分の炎を保ってるってわけか」弥七が舌打ちする。
「生き残りたい動機はわかる。だが寿命の帳尻をいじれば、あちこちの噺の死に際が狂う。物語の世界が崩れるんだ」


八 灯を分ける者
蝋燭の間の最奥。棚の影になった薄暗い一角に、男は潜んでいた。売り物の蝋燭を胸いっぱいに抱え、寂しげな作り笑いを浮かべている。
「継ぎ目守さんかい。私は悪いようにはしてないよ。金のある奴から金を貰い、命の足りない奴へ寿命を分けてやってろだけさ。お互い得をしてる」
「それで帳尻が合わなくなって、死ぬはずのない人が死んで、死ぬべき人が生き延びてる。あんたの都合で、いくつもの伝統ある噺が壊れかけてるんだぞ」
圭馬の厳しい言葉に、蝋九郎は初めて張り付いた笑みを崩した。
「仕方ないだろう。俺の噺は、もう誰も語っちゃくれないんだ。このままじゃ消えるしかない。だったら、せめて誰かの役に立って、この炎を保つしかないじゃないか」
声は恨みではなかった。ただ、消えるのが怖いという、素朴な恐怖だった。


九 己の蝋燭
哀しい理屈だった。しかし見過ごせば、歴史のバグは広がる。
圭馬はふうと息を吐いた。
「蝋九郎さん、あんた自身の蝋燭はどれだい」
震える指が示したのは、最下段の隅。埃を被った親指ほどの一本は、今にも消えそうなほど、炎が米粒のように縮こまっていた。
「なら、あんたの噺、あっしがここで語り納めてやるよ」
「俺の噺なんぞ、もう覚えてる演者はいねえよ」
「覚えてなくたって構やしない。今からここで、あっしが新しく作ればいいんだ」
継ぎ目を守るとは、古い噺を守ることだけではないのだと、その時初めて腑に落ちた。誰にも語られず消えかけた噺を、この手で新しく始めることも、守ることなのだ。


十 消えて、また灯る
圭馬は暗闇の蝋燭の間で、一席ぶった。
目の前の蝋九郎自身をモデルに、灯を分け合う心優しい行商人の噺をその場で紡ぐ。声は洞窟の冷気に吸われず、蝋燭の炎を少しだけ揺らした。弥七が膝を叩いて合いの手を入れる。死神が腕を組み、帳面を閉じて聞いている。
オチはこうだった。
行商人が最後に自分のなけなしの蝋燭を、病の少女に分けてやる。自身の灯は消える。けれど、その優しさは町の噂として長く長く語り継がれましたとさ。ほろ苦く、温かい結びだった。
語り終えた瞬間、隅の小さな蝋燭が、ふわりと太陽のように明るく膨らんだ。洞窟全体が昼のように照らされるほどの光。そして満足げに、音もなく消えた。
蝋九郎の姿も、未練を残さぬ霧のように解けていく。最後に、ありがとうと口の形だけが残った。
死神が、ぱたんと帳面を閉じた。
「これでようやく残業とはおざばらか。お前ら、なかなか使える継ぎ目守だな」
徳兵衛の蝋燭も、混ざりものの生臭い灯が抜け、細く、けれど真っ直ぐな、本来の炎に戻っていた。溶けずに伸びていた蝋が、じわりと溶け始める。
空間が歪む。現実の噺へ引き戻される感覚。圭馬が念を押した。
「先生、これからは真面目に医者をやるんだぞ」
戻りかけた徳兵衛は、苦笑いした。
「へえ。もう危ねえ橋は渡らねえよ。……たぶんね」
その落語の登場人物らしい、とぼけたたぶんに、弥七がにやりと笑った。
「旦那、噺ってのは、こうしてちゃんと落ちがついても、また誰かが揺らすもんでさ。だからこそ、あっしらの仕事は無くならねえ」
ぱぱん、と乾いた音がした。自分の音だった。
気づけば、眩しい。膝の下に座布団の感触。背筋が伸びている。自分の扇子がやけに重く感じられる。肺の中の冷気が、寄席の温い埃っぽい空気と入れ替わっていく。汗が背中を一筋伝う。
目の前には、息を詰めてこちらを見つめる無数の顔があった。今まさに、自分が現実の高座で『死神』のクライマックスを演じている真っ最中だったのだ。
圭馬は、魂の底から絞り出すように言った。
「アジャラカモクレン、テケレッツのパー!」
一拍、客席が静まり返る。そこから遅れて、堰を切ったようにドッと沸いた。

(了)




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【あとがき】
今回の第二話では、古典落語の定番『死神』を舞台に、「演じ手を失った噺の寿命」というテーマを描きました。落語の世界では、時代に合わなくなって消えていく演目がある一方で、現代の演者によって新しく蘇る演目もあります。作中の圭馬が語ったように、「新しく始めることも物語を守ること」という思いを込めて執筆いたしました。
今後も圭馬と弥七が様々な演目の「継ぎ目」を旅する、少し不思議な落語SFシリーズを紡いでいく予定です。また次の高座(お話)でお会いできることを楽しみに。

刻堕とし 

〜継ぎ目の花魁〜


まえがき
落語を聴いていて一番ぞっとするのは、サゲの一言で客の意識が現実に戻される瞬間です。あれほど笑っていたのに、拍手のあと廊下に出ると、外はただの日常で、何事もなかったかのように自販機が光っている。つまり落語は、一時的に異界へ連れていき、安全に帰す技術だと思ったのです。
もし帰し方が壊れたら、人はどうなるだろう。そこからこの物語は始まりました。古典への敬意は持ちつつ、古典を容赦なくバグらせるつもりで書いています。寄席の空調の効いたあの安心感と、吉原の泥の匂いが、同じ地続きにあると感じてもらえれば幸いです。




第一部 開幕

一 高座、開口一番
浅草演芸ホールは二階席まで熱気で膨らんでいた。高座を照らすのは行灯ではなく蛍光灯で、客席で揺れるのは渋紙の扇子ではなく演目表アプリの青白い光だ。それでも客の放つ業のような熱だけは、百年前と変わらない。
「へえ、毎度ばかばかしいお笑いを一席」
上がったのは若手真打、古今亭圭馬。今宵はお見立て。田舎から出てきた実直な杢兵衛大尽が、馴染みの喜瀬川花魁に会いたがってごねる。花魁はとうに愛想を尽かし、幇間の喜助にあれこれ言いつけ、果ては偽の墓まで拵えて誤魔化そうとする滑稽噺だ。
何百回も喉に馴染ませた噺だった。考えるより先に口が動く。
「へい、杢兵衛の旦那、こちらへどうぞ。いえね、喜瀬川花魁はどうしても外せない先客がありましてな」
言った瞬間、指先を異様な感触が掠めた。舞台の下から湿った風が吹き上がり、着物の裾を不自然に撫でる。防音と空調の行き届いた近代建築で吹くはずのない、泥と夜の匂いがした。

二 言葉が扉になる
噺には間がある。息を吸う一瞬。客が次の言葉を求めて固唾を呑む、ほんの数ミリ秒の空白。その間に、圭馬は自分の輪郭が劇場から浮き上がるような眩暈を覚えた。
耳の奥で空間そのものが軋む。目の前のパイプ椅子とマスク姿の客席が、古い障子の桟のように縦横にひび割れ、その隙間から漆黒の夜風がごうと吹き込んだ。
まずい、と直感した時には遅かった。重力が反転したように、身体は自分が今語った言葉の引力に引きずられ、網膜を塗りつぶす闇へ滑り落ちた。
気づくと吉原だった。ネオンの観光地ではない。湿った木の匂い、鼻を突く灯油の匂い。歩くたび雪駄の裏にまとわりつく本物の泥。肌を刺す寒さは、紛れもなく過去の夜のものだった。

三 生きている噺
「これ、喜助。聞いているのかい」
鈴を転がすような、しかし冷徹な声。振り返ると豪奢な打掛の喜瀬川花魁が立っていた。絹の擦れる音が生々しい。
どうやら自分は語っていたはずの幇間、喜助という配役に衣服ごと重なってしまったらしい。物語を外から操るはずの自分が、内部の歯車に組み込まれている。つねった皮膚の痛みも白粉の香りも本物だった。
現代へ戻ろうとしても、肉体は命令を拒絶し、喜助の台本をなぞるように滑らかに動く。言葉が喉から勝手に滑り出る。激流に押し流されるようだった。
「杢兵衛の旦那に、いい加減あたしの墓とやらを見つけておくれよ。死んだとでも言わなきゃ、あの田舎っぺは諦めやしないよ」
言われるまま、圭馬は寺の裏手をうろつき、無縁仏の塚を選んだ。花を山と供え、線香をどっさり焚く。墓石の文字が煙で見えなくなるほどに。
「おい、喜助。この墓、なんだか新しすぎやしねえか」
背後から声。杢兵衛大尽だった。恰幅のいい体に泥のついた着物。生身の人間の重苦しい威圧。台本通りのやり取りのはずなのに、背中を伝う汗は芝居のそれではない。恐怖の汗だった。
これは私の知っているお見立てではない。誰かが台本の外側から悪意に満ちた手を加えている。


第二部 事件
四 亡骸の花魁
本来ならここで噺は綺麗に終わるはずだった。墓石の文字を誤魔化そうとした喜助が苦し紛れに、どうぞよろしいのをお見立て下さいと言い放ち、杢兵衛がずっこけ、客席が沸いて幕になる。それが約束された落ちだ。
だが眼前の杢兵衛は納得しなかった。
「嘘をつけ。会わせろ、喜瀬川に会わせてくれるまで俺はテコでもここを動かねえぞ」
目が血走っている。台本が歪み始めている。
そこへ若い衆の忠助が顔を土気色にして駆け込んだ。
「大変だ。喜助の兄貴、大変だ。花魁が部屋で」
駆けつけた先で見たのは、本当に息絶えた喜瀬川だった。胸元に深々と刺さった匕首。まだ生温かい朱色の血が豪奢な褥をゆっくり染めていく。死体の放つ生臭い匂いは取り返しがつかなかった。
「お客と揉めて一突きに刺されなすった」
忠助は震える声で言うが、視線は定まらず部屋の隅を泳いでいる。圭馬は噺家としての勘で違和感を捉えた。刺し傷の角度が正確すぎる。素人の揉み合いの末ではなく、迷いなく急所を狙い澄ましたプロの業だ。

五 疑われる喜助
「人殺しだ。客を帰すな、表の戸を閉めろ」
廓じゅうが上を下への騒ぎになる。番頭の怒号、女将の金切り声。
混沌の中、疑いの目が圭馬、つまり喜助へ向いた。
「そういやあ喜助、お前さっきまで花魁の部屋で話し込んでいたじゃないか。墓の手配がどうとか怪しいことを言ってたな」
身に覚えのない罪をかぶせられそうになり、焦燥が走る。と同時に冷静な思考が囁いた。犯人を見つけ歪みを正さなければ、この噺は永遠に落ちない。自分はこの過去の闇に閉じ込められたままだ。
「あっしがやったんじゃありやせん。誰か他にこの部屋に出入りした者を見た者はいねえのか」
生まれて初めて台本を破り、圭馬は声を張り上げた。

六 大尽、大名、若い衆 三人の証言
まず杢兵衛を問い詰める。
「俺はずっとお前と一緒にいただろうが。部屋に近づく暇なんてねえよ」
泥臭い目は真っ直ぐで嘘には見えない。
次に隣の座敷に登楼していたという大名。後に帯ほどきの大名として噺の境界で圭馬を苦しめることになる、粘っこい爬虫類のような目の男だ。
「わしはあの喜瀬川に深く惚れ込んでおってな。だが殺す道理がどこにある。惚れた女をなぜこの手で手にかけねばならんのだ」
不敵に微笑むだけで証拠は掴めない。
最後に第一発見者の忠助。ガタガタ震えながら弁明するが、話すたび辻褄が合わなくなる。部屋に入った時刻、匕首の位置、血の量。どれも事前に用意された台詞を必死に思い出しているようだった。
「忠助。お前誰かに口止めされているね。何を隠している」
低く凄むと、忠助は顔を覆って泣き崩れた。

七 消えた匕首
「あっしはただ言われた通りにしただけで」
忠助の口から出たのは不可解な事実だった。事件の少し前、顔を不気味な頭巾で隠した声の低い奇妙な按摩が廓に上がり込み、忠助に小粒の金を握らせ、部屋の様子を見たらこう証言しろと言い含めて消えたという。
「その按摩は今どこにいるんだ」
「わかりやせん。煙のように消えちまって。それに喜助の兄貴、おかしいんでさ。花魁の胸に刺さっていたはずの凶器の匕首が、番屋の役人が来る前に忽然と消えちまったんだ」
凶器の消失。証人の誘導。これは男女の痴情の縺れという古典の筋ではない。何者かが明確な意志でこの噺を壊れた殺人事件へ書き換えている。

八 継ぎ目守、風車の弥七
廓の裏木戸で思考を巡らせる圭馬の背後に、気配もなく声が滑り込んだ。
「旦那さん、ずいぶん手を焼いているようで」
振り向くと着流しに縞の合羽、目つきの鋭い男が立っていた。手元で小さな紙の風車が、風もないのにぱちぱちと回っている。
「あんた誰だ。若い衆じゃないな」
「風車の弥七とでも名乗っておきやしょう。もっともこいつはこの世界での仮の名。あっしの本当の役目は継ぎ目守。噺と噺の継ぎ目に不届き者が悪さをしねえか見回るのが仕事でさ」
弥七の語る真実は圭馬の知性を刺激した。落語というものは独立しているようで、地の底の水脈のように深い次元で繋がっている。人間が何百年も同じ噺を語り込み、観客がそれを観測することで、世界の境界にわずかな隙間が生じる。その隙間を悪用し、物語の構造を破壊する者がいるという。
「旦那が現代の高座から堕ちちまったのもその隙間のせいだ。だが今度の一件はただの事故じゃあねえぞ」

九 噺が壊れるとき
「ここ最近あちこちの噺で不穏なバグが起きていやしてね」
弥七は懐から数式と古文書が混ざった奇妙な帳面を取り出した。
「芝浜じゃあ亭主が革財布を拾ったという事実そのものの帳尻が合わなくなった。死神じゃあ男が呪文を唱える前に誰も触れてねえ蝋燭の火が勝手に消えちまう。どれも噺の肝が横から掠め取られたような按配なんでさ」
喜瀬川の不自然な死、消えた匕首。
「つまり誰かが意図的に噺の落ちそのものを盗み集めていると」
「その通り。どうやらその何者かが、このお見立てを本拠にして本格的に世界を歪めにかかってきやがった」


第三部 手がかり

十 芝浜の忘れ物
弥七の先導で圭馬は空間の継ぎ目を跨ぎ、隣接する噺、芝浜の世界へ潜入した。魚屋の亭主が拾った大金は夢だったと諭され改心して涙を流す感動的な場面のはずが、世界の中心にあるべき革財布が概念ごと消滅していた。
「ここも同じだ。物語を成立させるプロットがそっくり抜き取られてやがる」
床几に座り込む魚屋の女房がうつろな目で呟いた。
「あの晩ね、おかしな按摩さんが来てね、うちの人に何か耳打ちしていったんですよ。それから世界の歯車が狂っちまって」
やはり同じ気配だった。

十一 死神の帳尻
続いて訪れたのは張り詰めた死気が漂う死神の世界。地下の暗闇で男が自分の命の蝋燭に火を移そうとする緊迫のクライマックス。しかし何度時間を巻き戻しても、炎が消える寸前で世界全体がフリーズを繰り返していた。
「落ちが来ないんだ。何度演っても終わりが来ないんだよ」
囚われていた名もなき噺家役の男は廃人のように繰り返した。
弥七が蝋燭の芯を見つめる。
「いいかい旦那。噺の落ちってなあただの笑い所じゃねえんだ。物語に明確な区切りをつけて、聞き手の精神を安全に現実に送り返す、いわば次元の扉を閉める鍵なんでさ。その鍵を片っ端から盗まれたら、人間は迷宮から出られなくなる」
「何のためにそんな真似を」
「鍵を集めて巨大な大扉を開けるつもりかもしれねえ。まだ確証がねえがな」

十二 闇語りという者
壊れた噺の断片を繋ぐうち、一つの不吉な名前に辿り着いた。闇語り。
「大昔ある野心的な噺家がとんでもねえ新作を語り始めた。だが途中で心臓が止まり行き倒れた。つまり落ちを語られずに死んだ物語さ。終わりを与えられなかった噺は未完のエネルギーのまま継ぎ目の底へ沈み怪物になっちまった」
「それが闇語り」
「そう。落ちのない物語は固有の形を保てねえ。だから他人の完成された噺から終わりを強奪し、自分の歪んだ身体を補おうとしているのさ」
背筋に冷たい戦慄が走る。純粋な悪意ではない。永遠に終わることができない物語の途方もない孤独と飢餓感が生んだ怪物だった。

十三 かつて堕ちた語り部
弥七は帳面をめくり過去の記録を見せた。遥か昔から継ぎ目に墜落し帰れなくなった歴代の語り部たちの名前が几帳面に記されている。
「無事帰れた者もいりゃあ、囚われて戻れなかった者もいる」
「戻れなかった者はどうなるんだ」
「個人の意識を失い、噺の部品になっちまうのさ。名前もない背景の登場人物として、来る日も同じ台詞をリピートさせられる刑罰のような存在さね」
圭馬の脳裏に忠助の怯えた泳ぐ目がよぎった。もしかしたら忠助もかつてどこかの時代から堕ちてきて、自分を忘れた元噺家だったのではないか。そう思うと眼前の人形たちが愛おしく、そして恐ろしく思えた。
「旦那腹をくくりな。喜瀬川を殺して落ちを奪った犯人は十中八九、その闇語りの本体だ」


第四部 対峙

十四 噺の底、語り納めの間
すべてのはぐれ話が流れ着く場所。あらゆる噺の継ぎ目が複雑に絡み合う噺の底へ二人は下りた。幾千の未完のプロットが灰色の霧となって漂う虚無の空間だった。
霧の最奥に頭巾の按摩の影が佇んでいた。
「よう来たな。目ざとい継ぎ目守と哀れな迷い込みの噺家」
声は何百人の声を重ねた不気味な反響を伴う。男が頭巾を剥ぐ。現れたのは輪郭が絶えずモザイクのようにぶれ続ける半透明の男の形だった。
「俺の名は半九郎。かつて半九郎の意地という新作を語ろうとして志半ばで喀血して倒れた噺家さ。落ちを言えなかった。たったそれだけで何百年もこの闇に縛られている」
半九郎は虚無の手のひらを広げた。そこには喜瀬川の胸から抜き取られた淡く明滅する結晶があった。お見立てと芝浜の物語を終わらせる概念、落ちそのものだ。
「これらを全て融解させ俺の物語に繋ぎ合わせれば、俺もようやく終わりを迎えて消えることができる。お前たちの世界の秩序など知ったことか」

十五 笑いという名の封じ手
弥七が風車を構え地を蹴った。だが圭馬は叫んで制止する。
「待ってくれ弥七さん。斬っちゃいけない」
「何言ってんだ旦那。こいつを消さなきゃあんたの高座も現実に引き裂かれちまうぞ」
「わかっている。でも」
圭馬は半九郎の瞳を真っ直ぐ見据えた。張り付いていたのは破壊衝動ではなく、狂いそうな孤独だった。誰にも終わりを聞いてもらえず、拍手も貰えず暗闇で硬直したままの物語の涙のような叫び。
「半九郎さん。あんたのその半九郎の意地って噺、まだ誰も最後まで聞いてねえんだな」
「そうだ。客はみんな途中で逃げちまった。誰も俺の言葉を待っちゃくれなかった」
「ならプロの端くれとしてあっしが聞かせてもらいやしょう。あんたの魂が置いてけぼりにしたその噺の続きを」

十六 花魁、最後の一言
半九郎の口から堰を切ったように物語が溢れ出す。意地っ張りな職人が己のくだらない意地のせいで一番大切な女を病から守れなかったという、不器用で痛ましい剥き出しの噺だった。
物語がかつて命を落とした途中の場面で止まる。言葉を失い震える半九郎。そこへ圭馬が滑らかに言葉を継いだ。
預かった無数の噺の文脈を総動員し、半九郎の無念も守れなかった悲しみもすべて優しく回収するように、完璧な古典の調子で即興のサゲを紡ぐ。
「なるほど意地を張った職人はずいぶん遠回りをしちまいましたが、最後の最後には冷たくなった大事な人の手を握って、すまねえ俺の意地なんかよりお前の方がずっと大事だったと泣いて謝ることができたんで。ええそれからというものこの職人の張る意地は職人仲間の間で極上の張り子の意地ってな具合で」
絶妙な間をおいて圭馬が扇子をとんと床に叩いた。灰色の霧の中にさざ波のような笑いが起きる。それは半九郎自身の枯れ果てていたはずの心底救われたような静かな笑い声だった。
その瞬間バグの霧が柔らかな光へ反転する。光の向こうから一人の影が歩み寄った。打掛を綺麗に着直した喜瀬川花魁だった。胸の傷は消え表情に一片の憂いもない。
「圭馬さん本当に粋な落とし前をありがとう」
艶やかに微笑み頬をそっと撫でる。
「あたしの噺もあんたの見事な裁きのおかげで綺麗にお見立てがついたよ」


第五部 終幕

十七 目覚め、あるいは千秋楽
半九郎の輪郭は満ち足りた光の粒子となり虚空へ溶けた。奪われていた落ちの結晶たちが本来の持ち主へ還るように四方へ飛び去る。喜瀬川も静かに手を振り返しながら正しい結末へ帰っていく。
「見事な高座だったぜ旦那」
いつの間にか弥七が風車を回しながら笑っていた。「この一件継ぎ目守の歴史に特級の功績として刻んでおきやす」
どんと太鼓の音が響き視界が暗転する。
気づくと圭馬は元の浅草演芸ホールの高座に正座していた。きらびやかな打掛も泥の匂いもない。いつもの紋付袴。膝の前に愛用の扇子一本。
見渡せば二階席まで満席のまま。誰もスマホをいじっていない。全員が次の言葉を待って身を乗り出している。壁の時計を見れば噺を始めてから現実の時間は一秒も経っていない。
「ええお後がよろしいようで、どうぞよろしいのをお見立て下さい」
今度は完全に自分自身の意志でその一言を完璧なタイミングで放った。ワンテンポ遅れて地鳴りのような拍手と割れんばかりの爆笑が寄席全体を揺らす。圭馬は溢れそうになる何かを堪え深々と頭を下げた。

十八 継ぎ目の向こう側
鳴り止まない拍手の中高座を降りようとした圭馬は右袖に目を留め息を呑んだ。現実の劇場にあるはずのない焦げたような線香の匂いが染み付いている。ごく小さな白い灰の跡。
袂を手繰ると指先に硬い感触。引っ張り出すと現代の職人が作ったとは思えない木彫りの小さな風車の根付だった。
楽屋に戻り古びた姿見の前に座る。前髪をかきあげようとした瞬間、鏡の表面に一瞬だけノイズのような文字が浮かび消えた。
継ぎ目守見習いとして正式登録。次回の演目、追って通知する。
圭馬は鏡に向かって苦笑いを返した。
その夜の奇妙な千秋楽以来古今亭圭馬の高座は化けたと批評家の間で評判になった。言葉の間の取り方がまるで世界の深淵を覗いてきたかのように圧倒的な説得力を持ち始めたからだ。
荷物をまとめながら懐の風車の根付に触れる。
もしまたあの言葉の隙間に堕ちたなら。次は一体どの噺のどんな歪んだ事件が自分を待っているのだろう。




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あとがき
この物語は落語が好きで、怪談も好きで、ついでにバグったゲームの裏世界に妙な郷愁を覚えてしまう性分の作者が、どうしても一回やってみたかったことを詰め込んだものです。
書いていて一番楽しかったのは弥七の風車です。紙でできているのに風がないのに回る。理屈の通らない小道具が一つあるだけで、世界が少しだけ落語らしくなると気づきました。逆に一番苦しんだのは半九郎のサゲです。彼を斬って終わらせるのは簡単ですが、それでは落語の物語になってくれない。誰も聴いてくれなかった噺を誰かが最後まで聴くことでしか、物語は閉じないのだと思います。
もし続きが読みたいと思ってくださったなら、圭馬の次なる堕ち先をぜひ教えてください。芝浜の革財布の行方も、帯ほどきの大名の本当の名前も、まだ継ぎ目の向こうに残っています。
改めて、あなたの貴重な時間をこの一席にお見立てくださり、ありがとうございました。
古今亭圭馬の次なる高座で、またお会いしましょう。


紹介文
落語にサゲがつかなくなったら、世界はどうなる。
若手真打が廓噺の最中に堕ちたのは、演じていた噺そのものの江戸だった。花魁は本当に殺され、凶器は消え、証言は誰かに用意された台詞のように歪む。噺と噺の継ぎ目を守る男、風車の弥七と出会い、彼は知る。物語の終わりを盗んで自分の未完を補おうとする怪物、闇語りの存在を。笑いは娯楽ではない。現実へ帰るための鍵だ。古典落語を異界の法則に読み替える、寄席発の世界系怪異譚。


あらすじ
浅草演芸ホール。高座に上がった古今亭圭馬は、廓噺の定番お見立てを口演する最中、指先を掠めた冷たい風と共に物語の内部へ引きずり込まれる。気づけばそこは本物の吉原。圭馬自身は幇間の喜助として組み込まれ、台詞は勝手に口から滑り出す。
本来なら墓の見立てで笑いが起きて終わるはずの噺が、終わらない。喜瀬川花魁が何者かに胸を一突きにされ、絶命する。疑われる喜助。食い違う証言。消えた匕首。誰かがこの噺のサゲを盗み、事件へ書き換えている。
廓の裏木戸で出会った継ぎ目守を名乗る男、風車の弥七の導きで、圭馬は隣接する噺へ潜る。財布という概念が抜け落ちた芝浜。蝋燭が消える直前で時間が凍る死神。すべての異常の奥に、落ちを語れずに死んだ噺家の成れの果て、闇語りこと半九郎がいた。終わることのできない物語の孤独を、圭馬は一席の即興で救うことができるのか。


刻堕とし (ときおとし)
〜お見立てのつづき〜


まえがき
落語には「間(ま)」というものがございます。
客席がしんと静まり返り、演者の次の一言を固唾を呑んで待つ、ほんの一拍の空白。
私たちが何気なく楽しんでいるあの静寂のなかに、もしも「隙間」が開いていたとしたら――。
何百年もの間、何千、何万という人々の口によって語り継がれ、磨かれてきた古典落語の世界。それはただの絵空事ではなく、人々の想像力という熱量によって、独自の時空を持って息づいているのかもしれません。あまりに深く語り込まれたその世界は、時に現実の天秤を狂わせ、語り手そのものを引きずり込んでしまう。
本作『刻堕とし』は、名作滑稽噺『お見立て』の舞台裏に潜む、そんな「芸の妖しさ」を描いた物語です。
どうぞ、寄席の客席に腰掛けたような心持ちで、幕が上がるのをお待ちください。ただし、耳をすますタイミングには、くれぐれもご注意を。




序 高座、開口一番
浅草演芸ホールは二階まで埋まっていた。高座を照らす照明、客の膝で光る演目表。それでも寄席の熱だけは昔のままだ。
圭馬は楽屋のテレビの話をマクラに振った。若い役者が捕物帖で風車を投げていたという、他愛ない話だ。
そこから今夜は廓噺、お見立てに入る。田舎から出てきた杢兵衛大尽が、馴染みの喜瀬川花魁に会いたいとごねる噺だ。何百回と演ってきたので口は勝手に動く。
「へい、旦那、こちらへどうぞ」
そう言った瞬間、舌の上で言葉が引っかかった。


一 言葉が扉になる
噺には間がある。客が固唾を呑む一拍。その一拍に、耳の奥が軋んだ。客席の景色が障子の桟のようにひび割れ、隙間から夜の冷気が吹き込んでくる。
まずい、と思ったときには遅かった。言葉そのものに足を取られるように、体が闇へ滑り落ちる。
気がつくと泥の匂いがした。木と油の匂い。着物の裾に本物の泥がつく、逃げ場のない吉原の夜だった。


二 墓を拵える
「喜助、聞いてるのかい」
艶のある声に振り向けば、煙管を手にした喜瀬川が立っていた。圭馬は自分が喜助になっていると悟る。外にいたはずが、内の役として扱われている。
「旦那に、あたしの墓でも見せて諦めさせておくれ」
言われるまま裏手の寺へ行く。適当な塚を選び、花を積み、線香を山ほど焚く。墓石の文字が隠れるほどに。
体は圭馬の意思より先に喜助として動く。台本という抗えない川に、ただ流される。


三 見抜かれる
「おい喜助、この墓、新しすぎやしねえか」
恰幅のいい男、杢兵衛が眉を寄せた。線香の煙を手で払い、石を覗き込む。
「よく見りゃ、嘘実一蓮妙法比丘尼と彫ってあるぞ。嘘をついてやがらねえか」
台本にはない詰問だった。背中に本物の汗が流れる。痛みも匂いも寒さも、すべて現実の手触りを持っていた。
これは芝居ではない、と悟る。


四 落ちない噺
本来ならここで落ちる。喜助が「よろしいのをお見立て下さい」と言えば笑いが起きて幕だ。
だが綻びを見抜いた大尽は得心しない。
「会わせろ。生きてる花魁に会うまで、俺は動かねえ」
現実は台本のように畳めない。そこへ若い衆が血相を変えて駆け込んでくる。
「大変だ。喜瀬川花魁が、客と揉めて刺された」


五 本当の死
駆けつけた座敷で、圭馬は花魁を見た。畳に広がる血の赤。冷えていく肌。取り返しのつかない死だった。
近くではまだ杢兵衛が会わせろと繰り返している。
どうする。サゲのない噺などあってたまるか。追い詰められた末に、圭馬はあり得ないことを思いつく。
自分が、花魁になればいい。


六 白塗りの覚悟
行灯の下で白粉を溶く。手が震える。重い打掛を借り、簪を挿す。鏡の中には女が立っていた。見覚えはあるが、自分の顔ではなかった。
「これなら」
呟いて大尽を探しに出ると、そこに大尽はいなかった。代わりに豪奢な身なりの男が一人、こちらを見ていた。供の数からして只者ではない。大名だ。目つきに粘りがある。


七 帯ほどきの大名
「その方が、噂の喜瀬川か」
大名がにじり寄り、帯に手をかける。扇で顔を隠し、声を作る。
「ああん、お戯れを」
大名は怪力で帯を引く。解ければ現れるのは、白粉だけの男の身体だ。
「騙したな」
興が覚めた大名の刀が、月明かりに光った。


八 風車の弥七、参上
刃が振り下ろされる。目を閉じる。硬い音が響く。
キン、と。
「旦那さん、ここはあっしに任せてもらおうじゃねえですか」
目を開けると、着流しに縞の合羽の男が、小さな道具で刀をいなしていた。手にあるのは赤と黄色の風車。回るたびに空気がわずかに巻き戻るような感覚がする。
「あんた、いったい」
「野暮なことは聞きっこなしだ。楽屋のテレビから、ちょいと出張ってきただけでさ」


九 刻の継ぎ目
弥七は夜の吉原に不釣り合いなほど朗らかに笑った。
「噺ってのはね、旦那。みんなどこかで繋がってるのさ。うんと語り込まれると、継ぎ目に隙間ができる。あっしみたいな虚構の住人が、たまに迷い込むのはそのせいでね」
風車がもう一度回る。大名も、遠くの杢兵衛の声も、糸が切れたように薄くなり消えた。
畳には喜瀬川の亡骸だけが、最初からそこに描かれていた絵のように残っていた。
「旦那も、そろそろ帰る頃合いだ。噺は、あんたが語り終えなきゃ、終わらねえもんでね」


十 目覚め、あるいは高座への帰還
気がつくと高座の上だった。白粉も打掛もない。いつもの着物で、扇子を膝に置いている。客席は満員のまま。出囃子の余韻がまだ残る。時計を見れば二十分しか経っていない。
乾いた喉から、言葉が勝手に出た。
「どうぞ、よろしいのを、お見立て下さい」
一拍置いて、万雷の拍手。深く頭を下げる。
袖口に目をやると、焦げた線香の匂いと、小さな灰の跡が一つだけ残っていた。その灰を指で払うと、耳の奥でテレビの砂嵐のような音が、ほんの一瞬だけ鳴った気がした。
その夜以来、圭馬は高座で間を取るたび、継ぎ目の向こうを恐れるようになった。次はどの噺の誰に重なってしまうのだろうか。






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あとがき
今回の物語のモチーフとした『お見立て』は、本来は田舎の大尽をあの手この手で騙す、実にあっけらかんとした、笑える滑稽噺です。しかし、嘘を重ねて「偽の墓」まで拵えるあの緊迫感の裏側には、一枚めくればいつでも怪談に化けうる妖艶さが潜んでいるように思えてなりませんでした。
幼い頃からテレビの向こうで観ていた時代劇のヒーローたち、あるいは昭和の Harajuku や LA の路地裏で感じたような、どこか「ここではないどこか」へと繋がっているようなあの独特の空気感。そうした私自身のノスタルジーを、落語という古典の器に注ぎ込んでみたのが本作です。
作中、窮地の圭馬を救い出す「風車の弥七」ですが、かつて私たちがブラウン管の砂嵐の向こうに観ていた虚構の住人たちは、今も世界のどこかで、語り継がれるのを待っているのかもしれません。
あなたのすぐ後ろでも、風車が、カラカラと回ってはいませんか?
また次の噺でお会いできますことを。






玉響路転生記 〜榊原凪と刻をこえた男〜
玉響転生記 第五十話 

最終話


まえがき
四十九度の邂逅を経て、榊原凪は七十六歳になっていた。
由井正雪とのあの最初の夜から幾星霜。凪は、明智光秀、石田三成、真田幸村、土方歳三、坂本龍馬、大石内蔵助、楠木正成、伊能忠敬、葛飾北斎、松尾芭蕉、杉田玄白、松平定信、吉田松陰、伊藤博文、田中角栄、渋沢栄一、野口英世、三島由紀夫、芥川龍之介、力道山、平将門、菅原道真、崇徳院、植村直己、手塚治虫、宮本武蔵、鼠小僧次郎吉、空海、清少納言、鑑真、千利休、板垣退助、藤原鎌足、源義経、太田道灌、加藤清正、一休宗純、足利尊氏、徳川家康、織田信長、小野小町、紫式部、卑弥呼、聖徳太子、ジョン万次郎、後醍醐天皇、伊達政宗、そして豊臣秀吉。四十九人もの時代も立場もまるで異なる人々の最期の日々に立ち会ってきた。
その一人一人が皆それぞれの陰にあるものを抱えていた。功績の陰にある恩人。栄光の陰にある悔い。伝説の陰にある地味な真実。凪はその一つ一つを静かに掘り起こし、言葉にし、小説として世に送り出し続けてきた。
だがその夜、凪は初めて思い知ることになる。
自分自身もまた四十九人の誰とも変わらぬ一人の人間であるということを。
そして自分の傍らにも四十九年もの間語られることのなかった一人の存在がいたということを。




プロローグ 五十度目の夜
東京は晩秋の静かな夜だった。
書き上げたばかりの小説『取り返しのつかぬ悔い』の原稿を、凪は書斎の文机の上に置いた。豊臣秀吉が正室ねねへの想いと甥秀次への拭えぬ罪の意識とを共に語ったあの夜のことを思い返しながら、凪は深く息をついた。
五十作目。
この物語を書き終えたら一区切りにしよう。そう漠然と考えていた。四十九人もの歴史上の人物たちの最期に立ち会ってきた。もう十分だと思っていた。
その夜、凪はいつものように書斎の椅子に腰掛けたままうたた寝をしていた。
ふと、いつもとは違う匂いがした。
墨でも香でもない。もっとありふれた煮物の匂いと古い畳の匂いだった。
顔を上げると部屋の様子がいつもと違うことに凪は気づいた。書斎ではない。もっと狭くもっと古い見覚えのある部屋だった。昭和の終わり頃のこの家の居間だった。
そしてその部屋の隅に一人の女性が繕い物をしながら座っていた。
まだ若い。三十代の半ばだろうか。凪の胸が大きく波打った。
「……静子」
その名を凪は掠れた声で呼んだ。
妻であった。四十九年間ただの一度もこの玉響の物語の中に登場することのなかった凪の妻、榊原静子。
彼女は繕い物の手を止めこちらを見た。だがその目は凪を見ていなかった。まるでこちらの存在に気づいていないかのようだった。
「なぜ……」凪は呟いた。「なぜ静子がここに」
答える声はなかった。ただ部屋の隅から聞き覚えのある様々な声が重なり合うようにして聞こえてくるだけだった。
由井正雪のあの最初の声。北斎の豪快な笑い声。芭蕉の静かな声。松陰の澄んだ声。ねねへの想いを語った秀吉のしわがれた声。
そなたが会うてきた者たちの気配がなんとのう伝わってくる、と。
四十九人がこれまで口を揃えて言い続けてきたあの台詞が、今凪自身に向けられているのだと気づいた。
「行きます」
凪は誰に言うでもなくそう呟いていた。
玉響。
世界が揺れた。


一章 五十度目のたゆたい
揺れが収まった後、凪はその居間の中に確かに立っていた。
これまでの四十九人には皆、死をどう引き受けるかというそれぞれの重さがあった。
だがこの五十度目はこれまでとはまるで違う質のものだった。
凪はこれまで常に訪れる者であった。歴史上の人物の最期に外から立ち会い、その陰にある存在に光を当てる役目を担ってきた。
だが今、凪は初めて気づいた。自分自身もまた四十九年間ある一つの役割を無意識のうちに演じ続けてきたのだということに。
取材と称して夜な夜な書斎に籠もり、時に何日も家を空けるように、心ここにあらずの状態で原稿に向かい続けてきた。
凪の胸に一つの問いが浮かんだ。
自分がこれまでの人生で本当に見つめ記憶しておくべきだったものは何だったのか。
歴史の闇に埋もれた人々の影だけだったのか。それとも。
凪は暗い天井を見つめた。いや、天井などなかった。そこには若き日の自分たちの質素な居間の天井があるだけだった。
「行きます」
もう一度凪は呟いた。
世界はもう一度揺れた。


二章 昭和の終わりのこの家
気づくと凪はこの家、今書斎として使っている部屋のあるこの同じ家の廊下に立っていた。
だが時代は明らかに違った。昭和の終わり頃、まだ子供たちが小さかった頃のこの家であった。
凪の身なりは当時着ていたくたびれたセーター姿に変わっていた。
「朋子」
台所にいた幼い娘に声をかけようとして、凪ははっと気づいた。
この子は娘の朋子だ。まだ五歳か六歳の頃だろうか。
朋子は凪に気づかず隣の部屋に向かって大声を上げていた。
「おかあさん、お父さんがまた書斎に籠もってる」
「お仕事なのよ」静子の声が台所の奥から聞こえてきた。「静かにしていてあげましょうね」
凪はその光景をただ立ち尽くして見つめていた。
これは覚えのあるいつかの夜だった。だがその時、凪自身は書斎の中から家族の声をただの雑音として聞き流していたはずだった。
今、初めてその声の外側に立ってそれを聞いている。


三章 若き日の書斎
凪はそっと書斎の障子を開けた。
そこには若き日の自分自身の姿があった。
四十代の榊原凪。まだ鋭いしかしどこか焦りを滲ませた目で原稿用紙に向かい、万年筆を忙しく走らせていた。
周囲には参考文献の山、書きかけの原稿。そして飲みかけのまま冷え切った茶碗がいくつも置かれていた。
若き凪はこちらに気づかない。ただひたすらに書き続けている。
「なぜそこまで書くことにのめり込んでいるんだ」
凪は若き日の自分に問いかけた。答えは返ってこない。ただ万年筆の走る音だけが部屋に響いていた。
やがて障子の向こうから静子の声がした。
「あなた。お夕食、召し上がりますか」
「……後で」
若き凪は顔も上げずにそう答えた。
静子の気配が静かに遠ざかっていった。
凪は今初めて気づいた。あの頃、静子がどれほどの回数あの障子の外に立ち、そして静かに諦めたように去っていったのかを。


四章 名の記されなかった妻
その夜、凪はこの家の縁側に一人座っていた。
「お仕事なのよ。静かにしていてあげましょうね」
娘に語りかけていた静子の言葉が頭から離れなかった。
凪は自身の記憶を静かにつむぐ。夜な夜な正体不明の取材に出かける自分を、静子はただの一度も咎めなかった。二人の子供をほとんど女手一つで育て上げ、冷え切った茶碗を黙って片付け続けてくれた。
他人の陰にばかり光を当てて、私はこの人の人生の時間をどれほど暗がりに置き去りにしてきたのだろう。
この玉響転生記という四十九の物語の中で、私は静子のことをただの一度も書いてこなかった。彼女の存在は私の物語の最も深い陰に埋もれていた。
庭の外、昭和の終わりの静かな夜風が遠く微かに感じられた。


五章 娘 朋子との対話
翌日、と凪には感じられる時間の中で、凪は庭で洗濯物を取り込んでいた娘朋子の姿を見つけた。時がまた少し進んでいるようだった。朋子はもう二十代の半ばになっていた。
「お母さんはお父さんのことをよく話していたかい」
凪が問いかけると、朋子は少し驚いた顔で振り返った。まるで凪の声が聞こえているかのように。
「お父さんの原稿が初めて雑誌に載った時のこと覚えてる」朋子は静かに言った。「お母さんその雑誌を何度も何度も読み返してた。誰よりも嬉しそうだったよ」
「静子はそれを誰かに話していたのだろうか」
朋子は首を振った。
「ううん。お母さんはいつも控えめな人だったから。お父さんの活躍を誰かに自慢するようなことは一度もしなかった」
凪はその言葉の重さを静かに受け止めた。
「静子自身はそれをどう思っていたのだろう」
朋子はしばらく考えていた。
「寂しかったと思う。お父さんが原稿に向かっている間、お母さんはいつも一人で私たちを育てていたんだから。でもお母さんはそれをはっきりとお父さんに伝えたことはなかったと思う」


六章 旧友 かつての編集者との対話
その日の夕刻、と感じられる頃、凪の若き日からの担当編集者であった人物の姿が見えた。
「サカキバラさんと、いつも呼んでいましたね」
凪は思わず声に出していた。あの四十九の物語の中でいつも名乗ってきたあの名、サカキバラ。それは他ならぬ自分自身の本当の姓であった。
「奥様のことをどう見ておられましたか」凪はその編集者の姿に問いかけた。
編集者はこちらに気づかぬまま独り言のように呟いた。
「榊原さんの原稿が締め切りに間に合ったのは、いつも奥様がそっとお茶を差し入れてくださったり、静かに環境を整えてくださっていたからだと思います。あの方なくば榊原さんのあの旺盛な執筆活動は成り立たなかったでしょう」
「それは私自身はっきりと認めてきたことだろうか」
凪は自問した。
「榊原さんは」編集者の呟きは続いた。「内心では誰よりも奥様への感謝を抱いておられるはずです。ただ次の締め切りのことばかりいつも考えておられましたから」
凪は深く頷いた。
もし私がはっきりと静子への想いを書き記していたら、何か変わっただろうか。


七章 夜半の対話 もう一人の自分
その夜、凪は若き日の自分自身に再び対峙していた。
今度はなぜか若き凪もこちらに気づいているようだった。
「あんたは……俺か」
若き凪は鋭い目で老いた凪を見つめた。
「差し出がましいことを申し上げます」老いた凪は静かに言った。「静子のことを、あなたはあまりにも当然の存在として扱ってこられたのではないでしょうか」
若き凪はしばらく黙っていた。
「俺は」やがて彼は絞り出すように言った。「静子がいなければこの執筆生活は成り立たなかった。それは分かっている。だが俺はいつも次の物語のことばかり考えて生きてきた」
「なぜですか」
「物語の中でしか表せない想いが俺にはあったんだ。だがそれゆえに静子への日々の言葉を疎かにしてしまったのかもしれない」
老いた凪は深く息を吸った。
「あなたは今この執筆生活のただ中におられます。ですが、もし静子への想いをはっきりと言葉にしないままこの生涯を走り続ければ、その支えはあなたの物語の陰に埋もれたままになってしまうかもしれません」
若き凪の目が微かに揺れた。
「あなたが本当に遺したいものは四十九いや五十の物語だけでしょうか。それとも静子というあなたを支え続けた一人の人間の存在をはっきりと言葉にして遺すことも含まれているのではないでしょうか」
若き凪は長い間黙っていた。
そして静かに頷いた。
「そうだな……俺はあまりに長い間それを後回しにしてきた」


八章 筆を執る夜
その夜遅く老いた凪はこの昭和の終わりの家の書斎、今は誰もいないあの文机の前にそっと座った。
そして静かに筆を執った。
「静子は」凪は震える手で言葉を綴り始めた。「四十九年間ただの一言も不満を口にすることなく私を支え続けてくれた。私が幾人もの歴史上の人物たちの陰にある存在に光を当て続けてきたその間、私自身の最も近くにいた陰にある存在、それが静子であった」
筆先から生まれる文字が静かに白紙の余白を埋めていった。
「これを書き記しておかねばならぬ。この五十番目の物語こそが私自身の最も伝えたかったことなのだと」
凪はその筆の動きをただ見つめ続けていた。
やがて書き終えると深く息をついた。
「これでようやく心残りが一つなくなった」


九章 現在への帰還
筆を置いた瞬間、部屋の空気が再び震えた。
気づくと凪は現在の書斎、七十六歳の自分の書斎に戻っていた。
文机の上には書き上げたばかりの原稿が確かに置かれていた。
だが今度の原稿の題名はこれまでの歴史上の人物たちの名前ではなかった。
『静子へ』
ただそれだけが記されていた。
凪は震える手でその原稿を手に取るとそっと書斎の外へと歩き出した。
居間では今も七十を超えた静子が静かに繕い物をしていた。
「静子」
凪はそっと声をかけた。
「あら、あなた。まだ起きていたの」
静子はいつもと変わらぬ穏やかな笑みを浮かべた。
凪はその隣に静かに腰を下ろした。
「読んでほしいものがある」
凪はその原稿を静子に差し出した。
静子は少し驚いた顔をしてそれを受け取った。
「これは……」
「五十番目の物語だ」凪は言った。「これまで四十九人の歴史上の人物たちの陰にある存在について書き続けてきた。だが今更ながら気づいたのだ。私自身の最も近くにいた陰にある存在が誰であったのかということに」
静子はその原稿にそっと目を落とした。
凪はその傍らでただ黙って待ち続けた。


十章 語られた言葉
読み終えた静子の目には静かな涙が浮かんでいた。
「あなたがこんなことを考えていたなんて」静子は小さく呟いた。
「今まではっきりと言葉にしてこなかった」凪は言った。「すまなかった」
静子は首を振った。
「謝る必要はないのよ」彼女は穏やかに微笑んだ。「私はあなたの物語が好きだった。あなたが夜な夜な何かに導かれるようにして原稿に向かうあの姿を見ているのが好きだったの」
「寂しくはなかったのか」
「寂しくないと言えば嘘になるわ」静子は言った。「でもあなたがこうしていつか私のことも書いてくれるだろうと、心のどこかでずっと信じていたのかもしれない」
凪は深く息をついた。
窓の向こうの夜空を見つめながらその温もりを心に刻んだ。


終章 もう一つの玉響路
数日後
凪の書斎には四十九人の歴史上の人物たちの物語、そして五十番目の『静子へ』と題された原稿とが並べて置かれていた。
凪はこの五十番目の物語をもってこの玉響転生記というシリーズを静かに締めくくることにした。
由井正雪から豊臣秀吉まで。時代も立場もまるで異なる四十九人の人々の陰にある存在を掘り起こし続けてきたこの長い旅は、最後に凪自身の最も身近な場所へと辿り着いた。
歴史上の人物たちの陰にある存在を掘り起こし続けた作家としてだけではなく、自分自身の最も近くにいた存在に気づくのに五十話を要した一人の不器用な人間として。


エピローグ 最後の光
東京の書斎で凪は書き上げたばかりのこの最後の原稿、『静子へ』の写しを静かに読み返していた。
窓の外では晩秋の風が静かに吹いていた。
「あなたが本当に伝えたかったのは四十九人の物語だけではなかったはずです」
凪は自分自身にそう呟いた。
パソコンの画面には彼が書き上げたこの最後の物語の最後の一文が残されていた。
『四十九の邂逅を経てある秋の夜、一人の老いた作家はようやく気づいた。自分がこれまで光を当て続けてきた陰にある存在は、いつもすぐ傍らに確かに在り続けていたのだと。彼はその最期の物語を静かに最も大切な人へと書き遺したのである。』
風が吹いた。墨と長年連れ添ったこの家の懐かしい匂いが微かにした。
玉響の揺らぎは、今ようやく静かに凪自身の許に辿り着いたのかもしれない。




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作者あとがき
玉響転生記は本作をもって五十話を数えここに一区切りとさせていただきます。
由井正雪から始まったこの物語は実在した様々な時代の人々の功績の陰にある忘れられがちな存在に光を当てることを一貫したテーマとしてまいりました。恩師、家族、無名の協力者、そして時に伝説そのものとそれが覆い隠してきたより地味な真実。形は様々でしたが根底にあったのは常に歴史の中で正当に光を当てられてこなかった誰かへの想像力でした。
最終話にあたりこれまで一貫して訪れる者であった主人公榊原凪自身にその視点を反転させることにいたしました。四十九人の陰にある存在に光を当て続けてきた彼もまた自分自身の最も身近な陰にある存在、家族に正面から向き合ってこなかったのではないかという着想からです。
凪の妻静子、娘朋子はいずれも本作のための創作上の人物ですが彼らの姿を通して私たち自身のすぐ傍らにある陰、すなわち当たり前すぎて見落としがちなしかし何よりも大切な存在に思いを馳せていただければ幸いです。
これまでお付き合いいただいた読者の皆様に心より御礼を申し上げます。
そして玉響の揺らぎはいつの時代にも誰の傍らにも静かに揺らぎ続けているのかもしれません。


太閤路転生記 〜豊臣秀吉と刻をこえた男〜

玉響転生記 第四十九話




まえがき

 四十八度の邂逅を経て、榊原凪は、また新たな「刻」へと導かれることになった。

 伊達政宗との旅で、凪は「使節路」という言葉を得た。今回、彼が得た言葉は「太閤路」であった。

 農民の子から、天下人へと駆け上がった男。

 慶長三年(千五百九十八年)七月。齢六十二。日本を統一しながら、幼い我が子の行く末を案じ続けていた男、豊臣秀吉。だが、その波乱の生涯には、最も低い身分であった頃から、静かに支え続けた一人の妻がいた。

 なお、本作は、秀吉の生涯における明るい功績のみを描くものではない。その最晩年、彼が抱えていたであろう、拭い去ることのできない悔いにも、静かに触れるものである。





プロローグ 文月の来訪

 東京は、盛夏の蒸し暑い夜だった。

 榊原凪は、七十五歳になっていた。伊達政宗との旅から、半年余りが経っている。

 江戸の病床で、政宗が支倉常長への想いを静かに語った、あの夜のことを、凪は今も思い出す。

 書き上げた小説『時代に翻弄された使者』は、静かな反響を呼んだ。

 その夜、凪は書斎で、古い城郭図と、系図の写しとを眺めながら、うたた寝をしていた。

 ふと、金箔と、乾いた薬草のような匂いがした。

 顔を上げると、部屋の隅に、一人の小柄な老人が座っていた。

 豪奢な小袖。だが、その顔には、老いと、病による疲れの色が濃く滲んでいた。

 「これは、何者じゃ」

 老人は、しわがれた声で言った。

 「あなたは……」

 「豊臣秀吉と申す。今は、太閤と呼ばれておる」

 凪は、息を呑んだ。

 豊臣秀吉。農民の出でありながら、天下統一を成し遂げた戦国の英傑。そして、このおよそひと月後、その生涯を閉じることになっている男。

 「なぜ、儂はここにおるのか」

 「さて、それがしにも分かりませぬ」凪は答えた。

 「妙な話じゃ」秀吉は、しわがれた声で力なく笑った。「気づけば、この妙な場所におった。由井、明智、石田、真田、土方、坂本、大石、楠木、伊能、北斎、芭蕉、玄白、定信、松陰、伊藤、田中、渋沢、野口、三島、芥川、力道山、将門、道真、崇徳院、植村、手塚、武蔵、次郎吉、空海、清少納言、鑑真、利休、板垣、鎌足、義経、道灌、清正、一休、尊氏、家康、信長、小町、紫式部、卑弥呼、聖徳太子、万次郎、後醍醐、政宗。そなたが会うてきた者たちの気配が、なんとのう伝わってくる。利休も、家康も、清正も、そなたに会うたのか」

 彼は、凪をじろりと見た。

 「儂は今、伏見城にて病の床に伏しておる。幼い秀頼のことが案じられてならぬ」

 「太閤様……」

 「されど」老いた天下人の目に、複雑な光が宿った。「その前に、伝えておきたいことがある」



一章 四十九度目のたゆたい

 その夜、凪は城郭図と系図の写しに埋もれながら、考え続けていた。

 これまでの四十八人には、皆、「死をどう引き受けるか」というそれぞれの重さがあった。

 だが豊臣秀吉の場合、その重さはまた違う質のものだった。

 史実において、秀吉は慶長三年八月、伏見城にてその生涯を閉じることになる。享年六十二。臨終の際、五大老を枕元に呼び、幼い秀頼への忠誠を繰り返し誓わせたと伝えられている。

 しかし、秀吉の生涯には、あまりに重く拭い去ることのできない出来事があった。文禄四年(千五百九十五年)、秀吉は、我が子秀頼の誕生により、それまで後継者として関白の座にあった甥秀次を、謀反の疑いありとして高野山にて切腹させる。さらには、秀次の妻子、係累に至るまで三十余名を、三条河原にて処刑させた。この出来事は、当時から多くの人々に消えない衝撃と恐怖を与えることになった。

 その一方で、秀吉の生涯には、あまり語られない確かな支えもあった。正室ねね、後の高台院である。秀吉がまだ織田家に仕える一介の武士に過ぎなかった頃から、その傍らにあり続けた女性であった。秀吉は戦の折々、大坂城にいるねねに宛てて、軍事、政治の重要なことを書状に綴っていたと伝えられている。

 凪の胸に、一つの問いが浮かんだ。

 秀吉が最期に伝えておきたいものがあるとすれば、それは幼い秀頼の行く末への案じだけなのか。それとも、低い身分の頃から共に歩んできた妻への想いもあるのではないか。

 凪は、暗い天井を見つめた。

 「行きます」

 呟くと同時に、部屋の空気が震え、城郭図の匂いが金箔と薬草の匂いに変わった。

 玉響。

 世界が揺れた。



二章 伏見城

 気づくと、凪は伏見城の裏手に立っていた。

 盛夏の蒸し暑い風が、壮麗な城を吹き抜けていく。

 凪の身なりは、城に仕える下人風の姿に変わっていた。

 「もし」

 城の前にいた小姓に声をかけると、彼は驚いた顔で凪を見た。

 「太閤様にお目通り願いたい」

 「そなた、何者じゃ」

 「太閤様のお導きで参った者です。到着を告げていただければ、通じるはずです」

 小姓は、訝しみながらも奥へと入っていった。

 しばらくして戻ってきた。

 「サカキバラとやら申したな。お入りくだされ」

 この小姓こそ、秀吉の身の回りの世話をしていた若き近習であった。



三章 秀吉の病床

 病床の間には、諸大名から取り交わされた誓紙の数々が静かに積まれていた。

 秀吉は、床の中からしわがれた目で凪を見た。

 「よう来たな、サカキバラ」

 「参りました」

 「座れ」秀吉は、はあ、はあと荒い息を吐きながら言った。「儂は農民の子から、この日の本を統一するまでになった。欲しいものは全て手に入れた。だがよ……」

 「ねね様のことを、伺ってもよろしいでしょうか」

 秀吉は、しばらく黙っていた。その目が、一瞬だけ優しく細められる。

 「あれはな……儂がまだただの『猿』と呼ばれておった頃から、傍らにおってくれた。戦に出るたび、儂はあれに泣き言混じりの文を送りつけたものよ。誰にも言えん格好の悪いことも、ねねにだけは全部ぶちまけられた」

 「今、ご自身の来し方をどう振り返っておられますか」

 秀吉は、がくりと頭を落とすように目を伏せた。

 「ねねのことを、近頃よく思う。天下なんぞを取ってからより、あれと二人貧乏侍をやっておった頃のことばかりが、妙に思い出されてならんのじゃ……」



四章 城内の風

 その夜、凪は伏見城の一室で眠れぬまま過ごした。

 秀吉の言葉が頭から離れなかった。

 ねねのことを、近頃よく思う。

 これまでの四十八人は、皆有限の生の中で何を選ぶかという問いを抱えていた。だが秀吉の場合、彼が向き合っていたのは「己が成し遂げた天下統一をどう遺すか」だけでなく、「己を最も低い身分の頃から支え続けた妻をどう記憶するか」という問いであるように思えた。

 史実において、ねねは、秀吉が織田家に仕える一介の武士に過ぎなかった頃から、周囲の反対を押し切って恋愛結婚を受け入れ、共に歩んできた人物であった。秀吉が戦に出ている間、大坂城を守り、家臣の妻たちをまとめ、政務にも深く関わっていた。だが後世、豊臣秀吉という名が「天下人」としてあまりに大きく語り継がれる一方で、ねねの存在はその陰に埋もれがちであった。

 さらに、今の城内には重苦しい空気が満ちていた。秀頼の生母である淀殿の勢力が力を増す中で、古参であるねねの立場はどこか微妙なものになりつつある。

 凪は、ふと思った。

 秀吉がこれほどまでに天下の功績を語られる一方で、低い身分の頃から支え続けた妻への感謝は、これまでどれほどはっきりと語られてきたのか。

 窓の外、伏見の夏の夜風が静かに吹いていた。



五章 近習との対話

 翌日、凪は病床の外で控えていた若い近習と言葉を交わす機会を得た。

 「太閤様は、ねね様のことをよく話されますか」

 「滅多に」近習は、周囲を気にするように声を潜めた。「北政所様のご人徳は、加藤清正様をはじめ多くの武将が慕うております。ですが、今は秀頼様の御引立てが何より最優先。城内では淀殿派の手前、北政所様のお噂を大っぴらにすることは憚られるのです」

 「太閤様ご自身は、それをどう思っておられるのでしょうか」

 近習は、しばらく考えていた。

 「太閤様は、ねね様を深く頼りにしておられます。ですが、それを公式な言葉として遺されたことはまだ一度もないように思います。このままでは、奥方様の功績は歴史の闇に隠れてしまうやもしれません」



六章 旧臣との対話

 その日の夕刻、秀吉に長く仕える古い旧臣の一人が病床から退出してきた。

 「サカキバラ殿と申されるか。太閤様より伺っております」

 「あなたは、ねね様のことをどう見ておられますか」

 旧臣は、深く息を吐き、遠い目をした。

 「あの御方なくば、太閤様の出世はこれほど早くは成らなかったでしょう。低い身分の頃から共に泥をすすり歩まれた、まことの伴侶でございます。大きな戦の前、太閤様がどれほど奥方に泣き言の書状を送り励まされていたか、我ら古参の者は皆知っております」

 「それは、秀吉様ご自身も深く認めておられることですか」

 「内心では誰よりもな」旧臣は苦渋をにじませた。「ただ太閤様は天下統一というあまりに大きな仕事に常に心を奪われてこられた。それゆえその感謝をはっきりと公に語る間がなかった。今はただ秀頼様の行く末ばかりに血眼になっておられる」

 凪は頷いた。

 「もし太閤様がはっきりとねね様への想いを言葉に遺されたら、何か変わると思われますか」

 旧臣は、強い目で凪を見た。

 「変わりましょう。豊臣の歴史に、あの御方の名が正しく刻まれることになります。太閤様のお言葉には、それだけの重みがございます」



七章 夜半の対話

 その夜、凪は秀吉に呼ばれ二人だけで病床に残った。

 「近習や旧臣から聞いた」と秀吉は言った。「そなたがねねのことをあれこれ問うておるそうじゃな」

 「差し出がましいことを申し上げました」

 「いや、儂自身向き合わねばならぬ角度であった」

 「太閤様はご自身が成し遂げられた天下統一の功績について多くを語られてこられました。ですが、ねね様への想いについてはあまりはっきりと言葉にされる場がなかったように見受けました」

 秀吉はしばらく黙っていた。

 「太閤様。もう一つ伺ってもよろしいでしょうか」

 秀吉は静かに頷いた。

 「秀次様とそのご一族のことについては、どのように受け止めておられますか」

 その瞬間、秀吉の顔が病床とは思えぬ恐ろしい眼光へと変わった。

 「黙れ」秀吉は激昂し、しわがれた声を震わせた。「あれは謀反を企てたのだ。豊臣の家を秀頼を守るためには仕方のないことであった。儂のしたことに間違いなどないわ」

 だが凪は一歩も引かず、その老いた天下人の目を静かに見つめ返した。

 「本当に、それだけですか。あなた様が本当に恐れていたのは何ですか」

 長い、痛切な沈黙が流れた。

 やがて、秀吉の肩から不自然な力が抜け、その瞳から鋭さが消え失せた。ぼろぼろと、老いた目から涙がこぼれ落ちる。

 「取り返しがつかぬ」秀吉は絞り出すように言った。「秀頼が可愛かったのだ。あの子に全てを遺したくて、儂は狂うてしまった。あの子らに何の罪があったというのか。三条河原の血が、今もこの目を離れんのじゃ……」

 「その悔いをどうすればよいとお考えですか」

 「分からぬ。詫びて済むことではない。ただこの罪をなかったことにはせぬ。それだけが儂にできるせめてものことじゃ」

 凪は深く息を吸った。

 「太閤様。あなたは今幼い秀頼様の行く末を案じておられます。ですが、もしねね様への感謝をはっきりと言葉にしないまま終われば、その支えはあなたの功績やこの血塗られた罪の陰に埋もれたままになってしまうかもしれません」

 秀吉の目が微かに揺れた。

 「あなたが本当に遺したいものは、ご自身の天下統一の功績だけでしょうか。それとも、ねね様というあなたを支え続けた妻の存在を次の時代へとはっきり伝えることも含まれているのではないでしょうか」

 秀吉は長い間目を閉じていた。



八章 語られた言葉

 その夜遅く、秀吉は旧臣と近習を呼び、静かに語り始めた。

 凪はその傍らに静かに控えていた。

 「ねねは……」

 秀吉は、短く息を継ぎながら、ゆっくりと言葉を絞り出した。

 「儂が、まだ……ただの『猿』であり、何者でもなかった頃から、変わらず傍らにおってくれた」

 静まり返る夜の間に、しわがれた声だけが落ちていく。

 「これより後……儂のことを語り継ぐ者は、皆にねねのことも伝えてほしい」

 秀吉は一度目を閉じ、いとおしむように小さく笑った。

 「『あの天下人のハゲネズミも、カカア天下には勝てなんだ』とな。今日の儂があるのは、すべて……あれの支えあってこそじゃ」

 旧臣と近習は、驚きに目を見張り、次いで深く頭を下げた。涙を流す者もいた。

 「秀頼のこともくれぐれも頼む。あれには儂の罪までは負わせとうない。ねねと共に豊臣を守ってやってくれ」

 凪は静かにその言葉を聞いていた。

 やがて秀吉は憑き物が落ちたような顔で深く息をついた。

 「これでよかろう」



九章 遺されたもの

 この夜からおよそひと月後、慶長三年八月、豊臣秀吉は伏見城にてその生涯を閉じることになる。享年六十二。臨終の際、五大老を枕元に呼び、幼い秀頼への忠誠を繰り返し誓わせたと伝えられている。

 史実において、ねねは秀吉の死後、豊臣家の存続のためには徳川家康に従うことが得策であると考え、淀殿を説得しようとしたが、これは実らなかった。慶長二十年(千六百十五年)、大坂夏の陣にて大坂城が落城し、淀殿と秀頼は自刃することになる。ねねは高台寺から燃え盛る大坂城を見ていたと伝えられている。

 だが、秀吉が最期に遺したあの不器用な言葉は、古参の武将たちの胸に深く刻まれ、ねねという女性の誇りを激動の時代の中で最後まで守り抜く盾となった。

 凪は、その事実を知り静かに思った。

 天下人としての秀吉の陰にも、確かに低い身分の頃から支え続けた妻への至純の感謝と、そして取り返しのつかぬ悔いとが共に息づいていたのかもしれない、と。



終章 もう一つの太閤路

 四百年余りの後。

 京都高台寺には、ねねの菩提を弔う静かな庭が今も残されていた。

 また、京都の瑞泉寺には、秀次とその一族を弔う供養塔が今も守り継がれている。

 「天下統一を成し遂げた英傑」としてだけではなく、「支えてくれた妻への感謝と取り返しのつかぬ悔いとを共に抱え続けた一人の人間」として。



エピローグ もう一つの光

 東京の書斎で、凪は書き上げたばかりの原稿を静かに読み返していた。

 窓の外では、盛夏の風がまだ蒸し暑く吹いていた。

 「あなたが遺したかったのはご自身の功績だけではなかったはずです」

 凪は静かに呟いた。

 パソコンの画面には、彼が書き上げた物語の最後の一文が残されていた。

『慶長三年八月、伏見の空は静かに暮れようとしていた。農民の子から天下人へと駆け上がった男は、その最期の日々に己の功績と拭えぬ悔いとを共に見つめながら、もう一つの光を確かに支え続けた妻へと語り遺したのである。』

 風が吹いた。金箔と薬草の匂いが微かにした。

 玉響の揺らぎは今日もまた静かに続いている。





作者注

 本作は豊臣秀吉の最晩年を題材としたフィクションです。豊臣秀吉、ねね(高台院)などは実在の人物ですが、物語における近習や旧臣との対話の内容は、著者の創作です。

 実際に秀吉は慶長三年(千五百九十八年)八月、伏見城にて六十二歳でその生涯を閉じました。臨終の際、五大老に幼い秀頼への忠誠を繰り返し誓わせたことは複数の記録に残されています。

 文禄四年(千五百九十五年)、秀吉は実子秀頼の誕生を受け、それまで後継者としていた甥秀次に謀反の疑いをかけ、切腹させ、その妻子、係累三十余名を処刑しました。この出来事は当時から多くの衝撃をもって受け止められ、後世まで秀吉の生涯における最も重い出来事の一つとして語り継がれています。本作はこの出来事を美化したり、簡単に解決した悔いとして描いたりすることを意図しておらず、秀吉自身がこの罪を取り返しのつかないものとして抱え続けていたであろうことをそのまま描いています。

 正室ねね(高台院)は、秀吉が織田家の一武士であった頃からの妻であり、秀吉が戦の折々大坂城の彼女に重要な報告を書き送っていたことも知られています。織田信長がねねに宛てた書状の中で秀吉をハゲネズミと評した逸話は有名ですが、本作ではその言葉を秀吉自身の自嘲と親愛の情の表現として引用しています。秀吉が最晩年ねねへの想いをどのように語っていたかについて具体的な記録は限られており、本作における描写は著者の創作です。

 本作は前四十八作と同じく、もし介入できたならという思考実験として書かれています。

 そして、玉響はいつの時代にも静かに揺らいでいるのかもしれません。




あらすじ

太閤路転生記 豊臣秀吉と刻をこえた男

四十九度目の玉響が、七十五歳の榊原凪を誘ったのは、慶長三年七月、死をひと月後に控えた豊臣秀吉の病床だった。

農民から天下人へ駆け上がった男は、幼き秀頼の行く末を案じる裏で、血塗られた秀次事件の悔恨に苛まれていた。

そんな天下人に、凪は静かに問いかける。あなたが本当に遺したいものは、功績だけですか、と。

歴史の陰に隠れゆく糟糠の妻ねねへの至純の感謝。最晩年の秀吉が、不器用な言葉で遺したもう一つの光とは。歪みと情愛に満ちた一人の人間の最期を描く歴史ファンタジー。


玉響転生記 第四十九話



まえがき
 四十八度の邂逅を経て、榊原凪は、また新たな「刻」へと導かれることになった。
 伊達政宗との旅で、凪は「使節路」という言葉を得た。今回、彼が得た言葉は「太閤路」であった。
 農民の子から、天下人へと駆け上がった男。
 慶長三年(千五百九十八年)七月。齢六十二。日本を統一しながら、幼い我が子の行く末を案じ続けていた男、豊臣秀吉。だが、その波乱の生涯には、最も低い身分であった頃から、静かに支え続けた一人の妻がいた。
 なお、本作は、秀吉の生涯における明るい功績のみを描くものではない。その最晩年、彼が抱えていたであろう、拭い去ることのできない悔いにも、静かに触れるものである。



プロローグ 文月の来訪
 東京は、盛夏の蒸し暑い夜だった。
 榊原凪は、七十五歳になっていた。伊達政宗との旅から、半年余りが経っている。
 江戸の病床で、政宗が支倉常長への想いを静かに語った、あの夜のことを、凪は今も思い出す。
 書き上げた小説『時代に翻弄された使者』は、静かな反響を呼んだ。
 その夜、凪は書斎で、古い城郭図と、系図の写しとを眺めながら、うたた寝をしていた。
 ふと、金箔と、乾いた薬草のような匂いがした。
 顔を上げると、部屋の隅に、一人の小柄な老人が座っていた。
 豪奢な小袖。だが、その顔には、老いと、病による疲れの色が濃く滲んでいた。
 「これは、何者じゃ」
 老人は、しわがれた声で言った。
 「あなたは……」
 「豊臣秀吉と申す。今は、太閤と呼ばれておる」
 凪は、息を呑んだ。
 豊臣秀吉。農民の出でありながら、天下統一を成し遂げた戦国の英傑。そして、このおよそひと月後、その生涯を閉じることになっている男。
 「なぜ、儂はここにおるのか」
 「さて、それがしにも分かりませぬ」凪は答えた。
 「妙な話じゃ」秀吉は、しわがれた声で力なく笑った。「気づけば、この妙な場所におった。由井、明智、石田、真田、土方、坂本、大石、楠木、伊能、北斎、芭蕉、玄白、定信、松陰、伊藤、田中、渋沢、野口、三島、芥川、力道山、将門、道真、崇徳院、植村、手塚、武蔵、次郎吉、空海、清少納言、鑑真、利休、板垣、鎌足、義経、道灌、清正、一休、尊氏、家康、信長、小町、紫式部、卑弥呼、聖徳太子、万次郎、後醍醐、政宗。そなたが会うてきた者たちの気配が、なんとのう伝わってくる。利休も、家康も、清正も、そなたに会うたのか」
 彼は、凪をじろりと見た。
 「儂は今、伏見城にて病の床に伏しておる。幼い秀頼のことが案じられてならぬ」
 「太閤様……」
 「されど」老いた天下人の目に、複雑な光が宿った。「その前に、伝えておきたいことがある」


一章 四十九度目のたゆたい
 その夜、凪は城郭図と系図の写しに埋もれながら、考え続けていた。
 これまでの四十八人には、皆、「死をどう引き受けるか」というそれぞれの重さがあった。
 だが豊臣秀吉の場合、その重さはまた違う質のものだった。
 史実において、秀吉は慶長三年八月、伏見城にてその生涯を閉じることになる。享年六十二。臨終の際、五大老を枕元に呼び、幼い秀頼への忠誠を繰り返し誓わせたと伝えられている。
 しかし、秀吉の生涯には、あまりに重く拭い去ることのできない出来事があった。文禄四年(千五百九十五年)、秀吉は、我が子秀頼の誕生により、それまで後継者として関白の座にあった甥秀次を、謀反の疑いありとして高野山にて切腹させる。さらには、秀次の妻子、係累に至るまで三十余名を、三条河原にて処刑させた。この出来事は、当時から多くの人々に消えない衝撃と恐怖を与えることになった。
 その一方で、秀吉の生涯には、あまり語られない確かな支えもあった。正室ねね、後の高台院である。秀吉がまだ織田家に仕える一介の武士に過ぎなかった頃から、その傍らにあり続けた女性であった。秀吉は戦の折々、大坂城にいるねねに宛てて、軍事、政治の重要なことを書状に綴っていたと伝えられている。
 凪の胸に、一つの問いが浮かんだ。
 秀吉が最期に伝えておきたいものがあるとすれば、それは幼い秀頼の行く末への案じだけなのか。それとも、低い身分の頃から共に歩んできた妻への想いもあるのではないか。
 凪は、暗い天井を見つめた。
 「行きます」
 呟くと同時に、部屋の空気が震え、城郭図の匂いが金箔と薬草の匂いに変わった。
 玉響。
 世界が揺れた。


二章 伏見城
 気づくと、凪は伏見城の裏手に立っていた。
 盛夏の蒸し暑い風が、壮麗な城を吹き抜けていく。
 凪の身なりは、城に仕える下人風の姿に変わっていた。
 「もし」
 城の前にいた小姓に声をかけると、彼は驚いた顔で凪を見た。
 「太閤様にお目通り願いたい」
 「そなた、何者じゃ」
 「太閤様のお導きで参った者です。到着を告げていただければ、通じるはずです」
 小姓は、訝しみながらも奥へと入っていった。
 しばらくして戻ってきた。
 「サカキバラとやら申したな。お入りくだされ」
 この小姓こそ、秀吉の身の回りの世話をしていた若き近習であった。


三章 秀吉の病床
 病床の間には、諸大名から取り交わされた誓紙の数々が静かに積まれていた。
 秀吉は、床の中からしわがれた目で凪を見た。
 「よう来たな、サカキバラ」
 「参りました」
 「座れ」秀吉は、はあ、はあと荒い息を吐きながら言った。「儂は農民の子から、この日の本を統一するまでになった。欲しいものは全て手に入れた。だがよ……」
 「ねね様のことを、伺ってもよろしいでしょうか」
 秀吉は、しばらく黙っていた。その目が、一瞬だけ優しく細められる。
 「あれはな……儂がまだただの『猿』と呼ばれておった頃から、傍らにおってくれた。戦に出るたび、儂はあれに泣き言混じりの文を送りつけたものよ。誰にも言えん格好の悪いことも、ねねにだけは全部ぶちまけられた」
 「今、ご自身の来し方をどう振り返っておられますか」
 秀吉は、がくりと頭を落とすように目を伏せた。
 「ねねのことを、近頃よく思う。天下なんぞを取ってからより、あれと二人貧乏侍をやっておった頃のことばかりが、妙に思い出されてならんのじゃ……」


四章 城内の風
 その夜、凪は伏見城の一室で眠れぬまま過ごした。
 秀吉の言葉が頭から離れなかった。
 ねねのことを、近頃よく思う。
 これまでの四十八人は、皆有限の生の中で何を選ぶかという問いを抱えていた。だが秀吉の場合、彼が向き合っていたのは「己が成し遂げた天下統一をどう遺すか」だけでなく、「己を最も低い身分の頃から支え続けた妻をどう記憶するか」という問いであるように思えた。
 史実において、ねねは、秀吉が織田家に仕える一介の武士に過ぎなかった頃から、周囲の反対を押し切って恋愛結婚を受け入れ、共に歩んできた人物であった。秀吉が戦に出ている間、大坂城を守り、家臣の妻たちをまとめ、政務にも深く関わっていた。だが後世、豊臣秀吉という名が「天下人」としてあまりに大きく語り継がれる一方で、ねねの存在はその陰に埋もれがちであった。
 さらに、今の城内には重苦しい空気が満ちていた。秀頼の生母である淀殿の勢力が力を増す中で、古参であるねねの立場はどこか微妙なものになりつつある。
 凪は、ふと思った。
 秀吉がこれほどまでに天下の功績を語られる一方で、低い身分の頃から支え続けた妻への感謝は、これまでどれほどはっきりと語られてきたのか。
 窓の外、伏見の夏の夜風が静かに吹いていた。


五章 近習との対話
 翌日、凪は病床の外で控えていた若い近習と言葉を交わす機会を得た。
 「太閤様は、ねね様のことをよく話されますか」
 「滅多に」近習は、周囲を気にするように声を潜めた。「北政所様のご人徳は、加藤清正様をはじめ多くの武将が慕うております。ですが、今は秀頼様の御引立てが何より最優先。城内では淀殿派の手前、北政所様のお噂を大っぴらにすることは憚られるのです」
 「太閤様ご自身は、それをどう思っておられるのでしょうか」
 近習は、しばらく考えていた。
 「太閤様は、ねね様を深く頼りにしておられます。ですが、それを公式な言葉として遺されたことはまだ一度もないように思います。このままでは、奥方様の功績は歴史の闇に隠れてしまうやもしれません」


六章 旧臣との対話
 その日の夕刻、秀吉に長く仕える古い旧臣の一人が病床から退出してきた。
 「サカキバラ殿と申されるか。太閤様より伺っております」
 「あなたは、ねね様のことをどう見ておられますか」
 旧臣は、深く息を吐き、遠い目をした。
 「あの御方なくば、太閤様の出世はこれほど早くは成らなかったでしょう。低い身分の頃から共に泥をすすり歩まれた、まことの伴侶でございます。大きな戦の前、太閤様がどれほど奥方に泣き言の書状を送り励まされていたか、我ら古参の者は皆知っております」
 「それは、秀吉様ご自身も深く認めておられることですか」
 「内心では誰よりもな」旧臣は苦渋をにじませた。「ただ太閤様は天下統一というあまりに大きな仕事に常に心を奪われてこられた。それゆえその感謝をはっきりと公に語る間がなかった。今はただ秀頼様の行く末ばかりに血眼になっておられる」
 凪は頷いた。
 「もし太閤様がはっきりとねね様への想いを言葉に遺されたら、何か変わると思われますか」
 旧臣は、強い目で凪を見た。
 「変わりましょう。豊臣の歴史に、あの御方の名が正しく刻まれることになります。太閤様のお言葉には、それだけの重みがございます」


七章 夜半の対話
 その夜、凪は秀吉に呼ばれ二人だけで病床に残った。
 「近習や旧臣から聞いた」と秀吉は言った。「そなたがねねのことをあれこれ問うておるそうじゃな」
 「差し出がましいことを申し上げました」
 「いや、儂自身向き合わねばならぬ角度であった」
 「太閤様はご自身が成し遂げられた天下統一の功績について多くを語られてこられました。ですが、ねね様への想いについてはあまりはっきりと言葉にされる場がなかったように見受けました」
 秀吉はしばらく黙っていた。
 「太閤様。もう一つ伺ってもよろしいでしょうか」
 秀吉は静かに頷いた。
 「秀次様とそのご一族のことについては、どのように受け止めておられますか」
 その瞬間、秀吉の顔が病床とは思えぬ恐ろしい眼光へと変わった。
 「黙れ」秀吉は激昂し、しわがれた声を震わせた。「あれは謀反を企てたのだ。豊臣の家を秀頼を守るためには仕方のないことであった。儂のしたことに間違いなどないわ」
 だが凪は一歩も引かず、その老いた天下人の目を静かに見つめ返した。
 「本当に、それだけですか。あなた様が本当に恐れていたのは何ですか」
 長い、痛切な沈黙が流れた。
 やがて、秀吉の肩から不自然な力が抜け、その瞳から鋭さが消え失せた。ぼろぼろと、老いた目から涙がこぼれ落ちる。
 「取り返しがつかぬ」秀吉は絞り出すように言った。「秀頼が可愛かったのだ。あの子に全てを遺したくて、儂は狂うてしまった。あの子らに何の罪があったというのか。三条河原の血が、今もこの目を離れんのじゃ……」
 「その悔いをどうすればよいとお考えですか」
 「分からぬ。詫びて済むことではない。ただこの罪をなかったことにはせぬ。それだけが儂にできるせめてものことじゃ」
 凪は深く息を吸った。
 「太閤様。あなたは今幼い秀頼様の行く末を案じておられます。ですが、もしねね様への感謝をはっきりと言葉にしないまま終われば、その支えはあなたの功績やこの血塗られた罪の陰に埋もれたままになってしまうかもしれません」
 秀吉の目が微かに揺れた。
 「あなたが本当に遺したいものは、ご自身の天下統一の功績だけでしょうか。それとも、ねね様というあなたを支え続けた妻の存在を次の時代へとはっきり伝えることも含まれているのではないでしょうか」
 秀吉は長い間目を閉じていた。


八章 語られた言葉
 その夜遅く、秀吉は旧臣と近習を呼び、静かに語り始めた。
 凪はその傍らに静かに控えていた。
 「ねねは……」
 秀吉は、短く息を継ぎながら、ゆっくりと言葉を絞り出した。
 「儂が、まだ……ただの『猿』であり、何者でもなかった頃から、変わらず傍らにおってくれた」
 静まり返る夜の間に、しわがれた声だけが落ちていく。
 「これより後……儂のことを語り継ぐ者は、皆にねねのことも伝えてほしい」
 秀吉は一度目を閉じ、いとおしむように小さく笑った。
 「『あの天下人のハゲネズミも、カカア天下には勝てなんだ』とな。今日の儂があるのは、すべて……あれの支えあってこそじゃ」
 旧臣と近習は、驚きに目を見張り、次いで深く頭を下げた。涙を流す者もいた。
 「秀頼のこともくれぐれも頼む。あれには儂の罪までは負わせとうない。ねねと共に豊臣を守ってやってくれ」
 凪は静かにその言葉を聞いていた。
 やがて秀吉は憑き物が落ちたような顔で深く息をついた。
 「これでよかろう」


九章 遺されたもの
 この夜からおよそひと月後、慶長三年八月、豊臣秀吉は伏見城にてその生涯を閉じることになる。享年六十二。臨終の際、五大老を枕元に呼び、幼い秀頼への忠誠を繰り返し誓わせたと伝えられている。
 史実において、ねねは秀吉の死後、豊臣家の存続のためには徳川家康に従うことが得策であると考え、淀殿を説得しようとしたが、これは実らなかった。慶長二十年(千六百十五年)、大坂夏の陣にて大坂城が落城し、淀殿と秀頼は自刃することになる。ねねは高台寺から燃え盛る大坂城を見ていたと伝えられている。
 だが、秀吉が最期に遺したあの不器用な言葉は、古参の武将たちの胸に深く刻まれ、ねねという女性の誇りを激動の時代の中で最後まで守り抜く盾となった。
 凪は、その事実を知り静かに思った。
 天下人としての秀吉の陰にも、確かに低い身分の頃から支え続けた妻への至純の感謝と、そして取り返しのつかぬ悔いとが共に息づいていたのかもしれない、と。


終章 もう一つの太閤路
 四百年余りの後。
 京都高台寺には、ねねの菩提を弔う静かな庭が今も残されていた。
 また、京都の瑞泉寺には、秀次とその一族を弔う供養塔が今も守り継がれている。
 「天下統一を成し遂げた英傑」としてだけではなく、「支えてくれた妻への感謝と取り返しのつかぬ悔いとを共に抱え続けた一人の人間」として。


エピローグ もう一つの光
 東京の書斎で、凪は書き上げたばかりの原稿を静かに読み返していた。
 窓の外では、盛夏の風がまだ蒸し暑く吹いていた。
 「あなたが遺したかったのはご自身の功績だけではなかったはずです」
 凪は静かに呟いた。
 パソコンの画面には、彼が書き上げた物語の最後の一文が残されていた。
『慶長三年八月、伏見の空は静かに暮れようとしていた。農民の子から天下人へと駆け上がった男は、その最期の日々に己の功績と拭えぬ悔いとを共に見つめながら、もう一つの光を確かに支え続けた妻へと語り遺したのである。』
 風が吹いた。金箔と薬草の匂いが微かにした。
 玉響の揺らぎは今日もまた静かに続いている。




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作者注
 本作は豊臣秀吉の最晩年を題材としたフィクションです。豊臣秀吉、ねね(高台院)などは実在の人物ですが、物語における近習や旧臣との対話の内容は、著者の創作です。
 実際に秀吉は慶長三年(千五百九十八年)八月、伏見城にて六十二歳でその生涯を閉じました。臨終の際、五大老に幼い秀頼への忠誠を繰り返し誓わせたことは複数の記録に残されています。
 文禄四年(千五百九十五年)、秀吉は実子秀頼の誕生を受け、それまで後継者としていた甥秀次に謀反の疑いをかけ、切腹させ、その妻子、係累三十余名を処刑しました。この出来事は当時から多くの衝撃をもって受け止められ、後世まで秀吉の生涯における最も重い出来事の一つとして語り継がれています。本作はこの出来事を美化したり、簡単に解決した悔いとして描いたりすることを意図しておらず、秀吉自身がこの罪を取り返しのつかないものとして抱え続けていたであろうことをそのまま描いています。
 正室ねね(高台院)は、秀吉が織田家の一武士であった頃からの妻であり、秀吉が戦の折々大坂城の彼女に重要な報告を書き送っていたことも知られています。織田信長がねねに宛てた書状の中で秀吉をハゲネズミと評した逸話は有名ですが、本作ではその言葉を秀吉自身の自嘲と親愛の情の表現として引用しています。秀吉が最晩年ねねへの想いをどのように語っていたかについて具体的な記録は限られており、本作における描写は著者の創作です。
 本作は前四十八作と同じく、もし介入できたならという思考実験として書かれています。
 そして、玉響はいつの時代にも静かに揺らいでいるのかもしれません。



あらすじ
太閤路転生記 豊臣秀吉と刻をこえた男
四十九度目の玉響が、七十五歳の榊原凪を誘ったのは、慶長三年七月、死をひと月後に控えた豊臣秀吉の病床だった。
農民から天下人へ駆け上がった男は、幼き秀頼の行く末を案じる裏で、血塗られた秀次事件の悔恨に苛まれていた。
そんな天下人に、凪は静かに問いかける。あなたが本当に遺したいものは、功績だけですか、と。
歴史の陰に隠れゆく糟糠の妻ねねへの至純の感謝。最晩年の秀吉が、不器用な言葉で遺したもう一つの光とは。歪みと情愛に満ちた一人の人間の最期を描く歴史ファンタジー。

使節路転生記 〜伊達政宗と刻をこえた男〜
玉響転生記・第四十八話



まえがき
四十七回の邂逅を経て、榊原凪はまた新たな刻へと導かれることになった。
後醍醐天皇との旅で、凪は「建武路」という言葉を得た。今回、彼が得た言葉は「使節路」であった。
独眼竜と呼ばれ、遠くローマにまで使節を送った男。
寛永十三年(一六三六年)五月。齢七十。仙台藩の礎を築いた男、伊達政宗。だが、その壮大な夢の陰には、遥かヨーロッパへ旅立ちながら、時代の変化の中で静かに世を去った一人の家臣がいた。




プロローグ 皐月の来訪
東京は初夏に向かう爽やかな夜だった。
榊原凪は七十五歳になっていた。後醍醐天皇との旅から半年余りが経っている。
吉野の行宮で、後醍醐が護良親王への悔いを静かに語ったあの夜のことを、凪は今も思い出す。
書き上げた小説『政治の犠牲となった皇子』は静かな反響を呼んだ。
その夜、凪は書斎で古い南蛮渡来の地図を眺めながらうたた寝をしていた。
ふと潮風と異国の香辛料のような匂いがした。
顔を上げると部屋の隅に一人の武将が座っていた。
片眼に黒い眼帯をかけていた。だが残る一眼には驚くほど鋭く、それでいて遠くを見据えるような光が宿っていた。
「これは、失礼つかまつる」
武将は静かに言った。
「あなたは……」
「伊達政宗と申す。奥州仙台を治めておる者じゃ」
凪は息を呑んだ。
伊達政宗。独眼竜と呼ばれ、仙台藩の礎を築いた戦国大名。慶長の遣欧使節を遠くローマにまで送った人物。そしてそれからひと月ほどでその生涯を閉じることになっている男。
「なぜ、ここにおるのか」
「さて、それがしにも分からぬ」政宗は静かに微笑んだ。「気づけばこの妙な場所におった。由井、明智、石田、真田、土方、坂本、大石、楠木、伊能、北斎、芭蕉、玄白、定信、松陰、伊藤、田中、渋沢、野口、三島、芥川、力道山、将門、道真、崇徳院、植村、手塚、武蔵、次郎吉、空海、清少納言、鑑真、利休、板垣、鎌足、義経、道灌、清正、一休、尊氏、家康、信長、小町、紫式部、卑弥呼、聖徳太子、万次郎、後醍醐、そなたが会うてきた者たちの気配がなんとのう伝わってくる。不思議な御仁じゃな、そなたは」
彼は凪を静かに見つめた。
「それがしは今、江戸にて病の床に伏しておる」
「政宗様……」
「されど」独眼竜の目に懐かしむような光が宿った。「その前に伝えておきたいことがある」


一章 四十八度目のたゆたい
その夜、凪は南蛮渡来の地図に埋もれながら考え続けていた。
これまでの四十七人には皆、死をどう引き受けるかというそれぞれの重さがあった。
だが伊達政宗の場合、その重さはまた違う質のものだった。
史実において政宗は寛永十三年五月、江戸にてその生涯を閉じる。享年七十。晩年は病に冒されながらも自らの最期を驚くほど冷静に家臣たちと語り合っていたと伝えられている。
政宗の生涯にはあまり語られない壮大な夢の残響があった。慶長の遣欧使節である。慶長十八年(一六一三年)、政宗は家臣・支倉常長(はせくらつねなが)を遠くメキシコ、スペイン、そしてローマへと派遣した。常長はスペイン国王やローマ教皇にまで謁見を果たすという当時の日本人としては前人未到の旅を成し遂げる。だが常長が七年の歳月を経て帰国した頃には幕府によるキリスト教禁教の動きが急速に強まっており、常長の使命は政治的な成果をほとんど得ることができなかった。常長は帰国のわずか一年後、静かにその生涯を閉じている。
凪の胸に一つの問いが浮かんだ。
政宗が最期に伝えておきたいものがあるとすれば、それは己が築いた仙台藩の礎だけなのか。それとも時代の変化の中で静かに世を去った常長への想いも、あるのではないか。
凪は暗い天井を見つめた。
「行きます」
呟くと同時に部屋の空気が震え、地図の匂いが潮風と香辛料の匂いに変わった。
玉響。
世界が揺れた。


二章 江戸・政宗の屋敷
気づくと凪は江戸にある政宗の屋敷の裏手に立っていた。
初夏の柔らかな日差しが庭を静かに照らしている。
凪の身なりは屋敷に仕える下人風の姿に変わっていた。
門前にいた家臣に声をかけた。
「御免くだされ」
家臣は驚いた顔で凪を見た。
「殿にお目通り願いたい」
「そなた、何者じゃ」
「殿のお導きで参った者です。到着を告げていただければ通じるはずです」
家臣は訝しみながらも奥へ入っていった。
しばらくして戻ってくる。案内に出てきたのは政宗の身の回りの世話をしていたまだあどけなさの残る若い従者だった。
「榊原とやら申したな。お入りくだされ」


三章 政宗の病床
病床の間には南蛮渡来の品々と遣欧使節の記録とが静かに置かれていた。
政宗は臥所から鋭い目で凪を見た。
「よう参られた」
「参りました」
「座られよ」政宗は静かに言った。「それがしはこの奥州の地に新しき国の礎を築いてまいった」
「支倉常長殿のことを伺ってもよろしいでしょうか」
政宗はしばらく黙っていた。
「あの者はそれがしの夢を託し遠くローマにまで渡ってくれた」彼は言った。「されどあの者が戻った頃には時代はすっかり変わってしもうておった」
「今ご自身の来し方をどう振り返っておられますか」
政宗は少し目を伏せた。
「常長のことを近頃よく思い出す」


四章 時代に取り残された使者
その夜、凪は政宗の屋敷の一室で眠れぬまま過ごした。
政宗の言葉が頭から離れなかった。
――常長のことを近頃よく思い出す。
これまでの四十七人は皆、有限の生の中で何を選ぶかという問いを抱えていた。だが政宗の場合、彼が向き合っていたのは己が築いた仙台藩の礎をどう遺すかだけでなく、己の夢を託し時代に取り残された家臣をどう記憶するかという問いであるように思えた。
帰国した常長を待っていたのは禁教の嵐だった。命懸けの役目を果たしながら誰からも顧みられぬまま静かに死んでいったという事実が、凪の胸に引っかかった。
政宗がこれほどまでに仙台藩の礎を語られる一方で、時代に翻弄された常長への想いはこれまでどれほどはっきりと語られてきたのか。
窓の外、江戸の初夏の夜風が静かに吹いていた。


五章 従者との対話
翌日、凪は病床の外で控えていた若い従者と言葉を交わす機会を得た。
「殿は支倉常長様のことをよく話されますか」
「はい」従者は頷いたが少し声を潜めて続けた。「遠くローマにまで渡られた御方だと伺っております。ただ近頃は幕府の目も厳しく、キリシタンの影がちらつくあの旅のことは屋敷内でも公には口にしづらい空気がございます。若い者の間ではもう常長様の名を知らぬ者も増えており、このまま歴史の闇に消え去ってしまうのではないかと寂しく思うことがございます」
凪はその言葉の重さを静かに受け止めた。
「殿ご自身はそれをどう思っておられるのでしょうか」
従者はしばらく考えていた。
「殿は時折遠い目をされて常長様のお名前を口にされます。ですがそれをはっきりと書き記されたことはまだございません。語ることすら許されぬこの時代をどこかじっと耐えておられるようにも見えます」


六章 旧臣との対話
その日の夕刻、政宗の旧臣であり常長と共に大海原を渡った老人一人が病床を訪れた。凪は廊下で彼を引き止め問いかけた。
「あなたは支倉常長様のことをどう見ておられますか」
旧臣は深く皺の刻まれた目を伏せた。
「あの御方なくばあの遥かなる航海は成らなかったでしょう。異国での七年、辛酸を嘗め尽くしてようやく帰国したというのに待っていたのはキリシタン禁教の嵐。命懸けの役目を果たしながら誰からも顧みられぬまま静かに死んでいかれた。私は今でも帰国された常長殿のあの寂しげな背中が忘れられませぬ」
「それは政宗様ご自身も深く感じておられることですか」
「殿は」旧臣は声を震わせながら言った。「内心では誰よりも常長殿への申し訳なさを抱いておられるはずです。我が身の野心が忠義の男を生きながら歴史の底へ葬ってしまったと。ただ藩の政(まつりごと)を守るため常に心を砕いてこられたゆえ、それをはっきりと口にされる間がなかったのでしょう」
凪は頷いた。
「もし殿がはっきりと常長様への想いを書き記されたら、何か変わると思われますか」
旧臣はじっと凪を見つめた。
「変わりましょう。殿のお言葉にはそれだけの重みがございます。歴史に不義理の烙印を押された常長殿の魂がようやく救われるはずです」


七章 夜半の対話
その夜、凪は政宗に呼ばれ二人だけで病床に残った。
「従者や旧臣から聞き申した」と政宗は言った。「そなたが常長のことをあれこれ問うておるそうじゃな」
「差し出がましいことを申し上げました」
「いや」政宗は静かに凪を見た。「それがし自身、向き合わねばならぬ問いではあった」
「政宗様はご自身が築かれた仙台藩の礎について多くを語られてこられました。ですが常長様への想いについてはあまりはっきりと言葉にされる場がなかったように見受けました」
政宗はしばらく黙っていた。
「それがしは」やがて彼は絞り出すように言った。「常長を遠くローマにまで送り出したのはそれがしじゃ。あの者はそれがしの夢を託され命懸けでその使命を果たしてくれた。だがあの者が戻った頃には時代はすっかり変わってしもうておった。あの者の偉業はほとんど報われることがなかった」
「それをどのように受け止めておられますか」
「申し訳なさと感謝と、その両方がいつもそれがしの中にござる」政宗は静かに言った。「あの者を遠い異国へと送り出したのはそれがしの壮大すぎる夢のためであった。その夢にあの者を巻き込んでしもうたのかもしれぬ」
凪は深く息を吸った。
「政宗様。あなたは今病の床にあられます。ですがもし常長様への想いをはっきりと言葉にしないまま終われば、その偉業はあなたの夢の陰に埋もれたままになってしまうかもしれません」
政宗の目が微かに揺れた。
「あなたが本当に遺したいものはご自身が築いた仙台藩の礎だけでしょうか。それとも常長様というあなたの夢を託され時代に翻弄された家臣の存在を次の時代へとはっきり伝えることも含まれているのではないでしょうか」
政宗は長い間目を閉じていた。


八章 語られた言葉
その夜遅く、政宗は旧臣と従者を呼び静かに語り始めた。
凪はその傍らに静かに控えていた。
「常長はな」政宗はゆっくりと言葉を選びながら言った。「それがしの夢を背負うて命懸けで遠くローマにまで渡ってくれた。あの者の偉業は時代の変化によって報われることがなかった。だがそれがしは決してその功績を忘れてはおらぬ」
旧臣と従者は深く頭を下げた。庭の虫の音がふっと止み、部屋には硯の墨の香りだけが残った。
「これより後、それがしのことを語り継ぐ者は皆に常長のことも伝えてほしい」政宗は静かに続けた。「あの遠い旅はそれがし一人の夢ではない。あの者と共に紡いだものなれば」
凪は静かにその言葉を聞いていた。
やがて政宗は深く息をついた。
「これで少しは心が安まった」


九章 遺されたもの
この夜からおよそひと月後、寛永十三年五月、伊達政宗は江戸にてその生涯を閉じることになる。享年七十。
支倉常長は遠くローマに渡りスペイン国王フェリペ三世、ローマ教皇パウロ五世との謁見を果たした。だが帰国した頃には幕府の禁教政策が強まっており、その功績が当時の日本で正当に評価されることはほとんどなかった。常長自身、帰国の翌年静かに世を去っている。
凪はその事実を知り静かに思った。
壮大な夢を掲げた大名の陰にも確かに時代に翻弄されながらも命懸けで使命を果たした一人の家臣の存在が息づいていたのかもしれないと。


終章 もう一つの使節路
四百年余りの後。
スペインのコリア・デル・リオの町には支倉常長ゆかりの人々の子孫が今も暮らしていると伝えられている。
独眼竜として天下にその名を知られる政宗の陰で、遠くローマにまで渡り時代の変化に翻弄された一人の家臣の存在を深く知る人は多くはない。
仙台藩の礎を築いた大名としてだけではなく、時代に翻弄された家臣への想いを生涯抱き続けた一人の武将として。
エピローグ もう一つの光
東京の書斎で凪は書き上げたばかりの原稿を静かに読み返していた。
窓の外では初夏の風が心地よく吹いていた。
「あなたが遺したかったのはご自身の夢だけではなかったはずです」
凪は静かに呟いた。
パソコンの画面には彼が書き上げた物語の最後の一文が残されていた。
「寛永十三年五月、江戸の空は静かに暮れようとしていた。独眼竜と呼ばれ遥かローマにまで夢を馳せた男は、その最期の刹那、共に荒波を越えた一人の家臣の名を愛おしむように優しく呼び遺したのだ。」
風が吹いた。潮風と香辛料の匂いが微かにした。
玉響の揺らぎは今日もまた静かに続いている。

――了――


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作者注
本作は伊達政宗の最晩年を題材としたフィクションです。伊達政宗、支倉常長などは実在の人物ですが、物語における従者や旧臣との対話の内容は著者の創作です。
実際に政宗は寛永十三年(一六三六年)五月、江戸にて七十歳でその生涯を閉じました。慶長十八年(一六一三年)、政宗は家臣・支倉常長をメキシコ、スペイン、ローマへと派遣し、慶長遣欧使節と呼ばれる使節団はスペイン国王フェリペ三世、ローマ教皇パウロ五世との謁見を果たしています。しかし元和六年(一六二〇年)に常長が帰国した頃には江戸幕府によるキリスト教禁教政策が強まっており、使節の本来の目的であった通商交渉は実を結びませんでした。常長は帰国の翌年である元和八年(一六二二年)頃、静かにその生涯を閉じたと伝えられています。政宗が最晩年、常長への想いをどのように語っていたかについて具体的な記録は確認されておらず、本作における描写は著者の創作です。
本作は前四十七作と同じく、もし介入できたならという思考実験として書かれています。
そして玉響はいつの時代にも静かに揺らいでいるのかもしれません。


建武路転生記 〜後醍醐天皇と刻をこえた男〜
玉響転生記・第四十七話


まえがき
四十六度の邂逅を経て、榊原凪は、また新たな「刻」へと導かれることになった。
ジョン万次郎との旅で、凪は「漂流路」という言葉を得た。今回、彼が得た言葉は「建武路」であった。
武家政権を打ち倒し、天皇親政の世を、再び築こうとした帝。
延元四年(一三三九年)七月。数え年、七十五。吉野の地にて、なお、京へ戻る日を、待ち続けていた男――後醍醐天皇。

※本作では榊原凪と響き合わせるため、史実と異なる年齢とした。

だが、その理想の陰には、政治の駆け引きの中で、自ら苦しい立場へと追いやってしまった、実の子がいた。




プロローグ 文月の来訪
東京は、盛夏の、蒸し暑い夜だった。
榊原凪は、七十五歳になっていた。ジョン万次郎との旅から、半年余りが経っている。
東京の隠居所で、万次郎がホイットフィールド船長への感謝を、静かに語った、あの夜のことを、凪は今も思い出す。
書き上げた小説『異国の恩人への手紙』は、静かな反響を呼んだ。
その夜、凪は書斎で、古い軍記物語の写本、すなわち『太平記』を眺めながら、うたた寝をしていた。
ふと、山霧と、乾いた土のような匂いがした。
顔を上げると、部屋の隅に、一人の男が座っていた。
質素ながらも、気品を漂わせる衣。だが、その目には、燃えるような執念と、深い疲労とが、共に宿っていた。
「これは、何者じゃ」
男は、鋭く、しかし静かに言った。
「あなたは……」
「朕は、後醍醐である」
凪は、息を呑んだ。
後醍醐天皇。鎌倉幕府を打倒し、建武の新政を敷きながら、足利尊氏の離反により、吉野へと逃れた帝。そして――このおよそひと月後、その生涯を閉じることになっている男。
「なぜ、朕は、ここにおるのか」
「さて、それがしにも、分かりませぬ」凪は答えた。
「不思議なことよ」後醍醐は、静かに言った。「気づけば、この妙な場所におった。だが、妙なこともあるものよ。由井、明智、石田、真田、土方、坂本、大石、楠木、伊能、北斎、芭蕉、玄白、定信、松陰、伊藤、田中、渋沢、野口、三島、芥川、力道山、将門、道真、崇徳院、植村、手塚、武蔵、次郎吉、空海、清少納言、鑑真、利休、板垣、鎌足、義経、道灌、清正、一休、尊氏、家康、信長、小町、紫式部、卑弥呼、聖徳太子、万次郎……。そなたが会うてきた者たちの気配が、なんとのう、伝わってくる。楠木も、尊氏も、そなたに会うたのか。妙な縁じゃな」
彼は、凪を鋭く見つめた。
「朕は今、吉野の地にて、いまだ、京へ戻る日を、待ち続けておる」
「後醍醐様……」
「されど」帝の目に、複雑な光が宿った。「その前に、はっきりさせておきたいことが、ある」


一章 四十七度目のたゆたい
その夜、凪は『太平記』の写本に埋もれながら、考え続けていた。
これまでの四十六人には、皆、「死をどう引き受けるか」という、それぞれの重さがあった。
だが後醍醐天皇の場合、その重さは、また違う質のものだった。
史実において、後醍醐は延元四年八月、吉野にて、その生涯を閉じることになる。数え年、七十五。『太平記』は、彼が経巻を手に、なお、京への回帰と、天皇親政の実現を、強く望みながら、その息を引き取ったと伝えている。
後醍醐の生涯には、あまり語られない、深い悔いがあった。皇子・護良親王である。鎌倉幕府打倒に大きな軍功を挙げたこの皇子は、建武の新政において、足利尊氏との対立を深め、後醍醐自身の政治的判断により、鎌倉へと幽閉されることになる。だが、建武二年(一三三五年)、鎌倉から撤退する足利直義の軍勢によって、幽閉先にて、命を落とすことになった。この出来事の背景には、後醍醐自身の、政治的な駆け引きがあったことも、指摘されている。
凪の胸に、一つの問いが浮かんだ。
後醍醐が最期にはっきりさせておきたいものがあるとすれば、それは、己の天皇親政という理想だけなのか。それとも――政治の駆け引きの中で失った、実の子への、深い悔いも、あるのではないか。
凪は、暗い天井を見つめた。
「行きます」
呟くと同時に、部屋の空気が震え、軍記物語の匂いが、山霧と土の匂いに変わった。
玉響。
世界が、揺れた。山霧が、一瞬だけ、金色に染まった。


二章 吉野の行宮
気づくと、凪は、吉野にある、行宮の裏手に立っていた。
盛夏の山霧が、質素な行宮を、静かに包んでいる。
凪の身なりは、行宮に仕える下人風の姿に変わっていた。
「もし」
行宮の前にいた廷臣に声をかけると、彼は驚いた顔で凪を見た。
「帝に、お目通り願いたい」
「そなた、何者じゃ」
「帝のお導きで参った者です。到着を告げていただければ、通じるはずです」
廷臣は、訝しみながらも、奥へと入っていった。
しばらくして、戻ってきた。
「サカキバラとやら申したな。お入りくだされ」
この廷臣こそ、後醍醐の身の回りの世話をしていた、若き公家であった。


三章 後醍醐の御座所
御座所は、質素ながらも、経巻と、書状とが、静かに積まれていた。
後醍醐は、床几に腰掛け、鋭い目で凪を見た。
「よう参った」
「参りました」
「座るがよい」後醍醐は、静かに言った。「朕は、この国に、天皇親政の世を、再び築こうとしておる。いかに武を誇る者が現れようとも、真の天下の主は、天子をおいて他にはない」
その言葉の重みを受け止めながら、凪は一呼吸置き、静かに核心へと進んだ。
「その、命を懸けて目指される高き理想の陰で。後醍醐様、護良親王様のことを、伺ってもよろしいでしょうか」
後醍醐は、しばらく黙っていた。
「あの者のことは、忘れようにも,忘れられぬ」彼は言った。「鎌倉幕府打倒に、あれほどの軍功を挙げながら、朕自身の判断で、あの者を、鎌倉へと幽閉することとなった」
「今、ご自身の来し方を、どう振り返っておられますか」
後醍醐は、少し目を伏せた。
「護良のことを、近頃、よく思うのだ」


四章 政治の犠牲となった皇子
その夜、凪は行宮の一室で、眠れぬまま過ごした。
後醍醐の言葉が、頭から離れなかった。
すなわち――護良のことを、近頃、よく思うのだ。
これまでの四十六人は、皆、有限の生の中で、何を選ぶかという問いを抱えていた。だが後醍醐の場合、彼が向き合っていたのは、「己の天皇親政という理想をどう遺すか」だけでなく、「政治の駆け引きの中で失った、実の子を、どう記憶するか」という問いであるように思えた。
史実において、護良親王は、鎌倉幕府打倒に大きな軍功を挙げながら、足利尊氏との対立の末、後醍醐自身の政治的判断により、鎌倉へと幽閉される。その背景には、尊氏との関係を保つため、我が子を切り捨てざるを得なかった、後醍醐の、苦しい政治的計算があったとされている。そして建武二年、鎌倉から撤退する足利直義の軍勢によって、幽閉先にて、命を落とすことになった。
凪は、ふと思った。
後醍醐が、これほどまでに天皇親政の理想を語られる一方で、政治のために失った、我が子への悔いは、これまで、どれほど、はっきりと語られてきたのか。
窓の外、吉野の山風が、静かに吹いていた。


五章 廷臣との対話
翌日、凪は、行宮で書状を整理していた若き廷臣と、言葉を交わす機会を得た。
「帝は、護良親王様のことを、よく話されますか」
「はい」若き廷臣は、憧憬を込めた目で頷いた。「鎌倉幕府打倒の折、あれほど見事な軍功を挙げられた御方はおらぬと、今も語り継がれております」
「では、その護良親王様の最期については、世に、広く語られておりますか」
廷臣は、少し戸惑ったように考え込んだ。
「帝の掲げられる大いなる理想の陰で、あの悲劇は、あまり、大きくは語られてこなかったように存じます。皆、触れてはならぬこととして、避けているのかもしれませぬ」
凪は、その言葉の重さを、静かに受け止めた。
「帝ご自身は、それを、どう思っておられるのでしょうか」
「時折、遠い目をされて、お一人で護良親王様のお名前を口にされることがございます。ですが、それを、我らにはっきりと、言葉にされたことは、まだございません」


六章 旧臣との対話
その日の夕刻、長年、後醍醐に仕えてきた老いた旧臣の一人が、御座所を訪れた。
「サカキバラ殿と申されるか。帝より、伺っておる」
「あなたは、護良親王様のことを、どう見ておられましたか」
旧臣は、深く皺の刻まれた目を伏せた。
「あの御方なくば、鎌倉の打倒は成らなんだ。それほどの器でありながら、政の駆け引きの中で、非業の死を遂げられた。実に、痛ましいことでござった」
「それは、帝ご自身も、深く悔いておられることですか」
「帝は……」旧臣は、周囲を気遣うように言葉を選んだ。「内心では、誰よりも、深い悔いを抱いておられるはずじゃ。ただ、天皇親政の実現という、この国を背負う大義の前では、それを一人の父として語る間が、なかったのだ」
凪は、頷いた。
「もし、帝が、はっきりと、護良親王様への悔いを、言葉に遺されたら、何か、変わると思われますか」
旧臣は、しばらく考えた後、強い眼差しで言った。
「変わる。主上の真のお心が遺されれば、それは次の時代にとって、大義と同じほどの重みを持つはずじゃ」


七章 夜半の対話
その夜、凪は後醍醐に呼ばれ、二人だけで御座所に残った。
「廷臣や、旧臣から、聞いた」と後醍醐は言った。「そなたが、護良のことを、あれこれ問うておるそうじゃな」
「差し出がましいことを、申し上げました」
「いや」後醍醐は、静かに凪を見つめた。「朕自身、向き合わねばならぬ角度であった」
「帝は、ご自身が目指された天皇親政の理想について、多くを語られてこられました。ですが、護良親王様への悔いについては、あまり、はっきりと言墨にされる場が、なかったように見受けました」
後醍醐は、長い沈黙に身を沈めた。
「朕は……」やがて彼は、絞り出すように言った。「護良の軍功なくば、鎌倉の打倒は成らんだ。だが朕は、尊氏との繋がりを保つため、あの者を切り捨てざるを得なかった。その果てに、あの者は非業の死を遂げてしもうた」
「それを、如何様に、受け止めておられますか」か
「悔いと、申し訳なさ。その両方が、いつも朕の胸にある」後醍醐は、静かに、しかし深く首を振った。「天皇親政の理想を追い求めるあまり」彼は、手にした経巻を、固く握り直した。「我が子を、政の道具のように、扱ってしもうたのかも、知れぬ」
凪は、深く息を吸った。
「後醍醐様。あなたは今、吉野の地にて、なお、京への回帰を、待ち続けておられます。ですが、後醍醐様。**あなたの建武路に、護良様は、おられますか。**言葉にされねば、道の途中で置き去りになってしまう」
後醍醐の目が、微かに揺れた。
「あなたが本当に遺したいものは、ご自身の天皇親政の理想だけでしょうか。それとも、護良親王様という、政治のために失った、実の子の存在を、次の時代へと、はっきり伝えることも、含まれているのではないでしょうか」
後醍醐は、長い間、目を閉じていた。


八章 語られた言葉
その夜遅く、後醍醐は、旧臣と廷臣を呼び、静かに語り始めた。
凪は、その傍らに、静かに控えていた。
「護良は」後醍醐は、ゆっくりと、言葉を選びながら言った。「鎌倉幕府打倒の、誰よりの功労者であった。それを、朕自身の政の駆け引きの中で、失うてしもうた。この悔いは、生涯、消えることはない」
旧臣と廷臣は、深く頭を下げた。
「これより後、朕のことを語り継ぐ者は、皆に、護良のことも、伝えてほしい」後醍醐は、静かに続けた。「この理想は、朕一人のものではなく、あの者の犠牲の上にも、築かれておるのだと」
凪は、静かに、その言葉を聞いていた。
やがて後醍醐は、深く息をついた。
「これで、少しは、心が安まった」


九章 遺されたもの
この夜からおよそひと月後、延元四年八月、後醍醐天皇は、吉野にて、その生涯を閉じることになる。数え年、七十五。『太平記』は、彼が、なお、京への回帰と、天皇親政の実現を、強く望みながら、その息を引き取ったと伝えている。
史実において、護良親王の非業の死は、後醍醐の政治的判断が、その一因であったことが、多くの歴史研究において、指摘されている。だが、後醍醐天皇という名が、建武の新政の中心人物として、あまりに大きく語り継がれる一方で、護良親王の悲劇は、その陰に、埋もれがちであった。
凪は、その事実を知り、静かに思った。
偉大な理想の陰にも、確かに、政治の犠牲となった、一人の皇子の存在が、息づいていたのかもしれない、と。


終章 もう一つの建武路
六百年余りの後。
鎌倉には、護良親王を祀る、静かな神社が、今も残されていた。
建武の新政という理想を掲げた後醍醐天皇の陰で、政治の駆け引きの中で、非業の死を遂げた、一人の皇子の存在を、深く知る人は、多くはない。
「天皇親政を目指した帝」としてだけではなく、「政治の犠牲となった我が子への悔いを、生涯、抱き続けた、一人の父」として。


エピローグ もう一つの光
東京の書斎で、凪は、書き上げたばかりの原稿を、静かに読み返していた。
窓の外では、盛夏の風が、まだ蒸し暑く吹いていた。
「あなたが遺したかったのは、ご自身の理想だけではなかったはずです」
凪は、静かに呟いた。
パソコンの画面には、彼が書き上げた物語の、最後の一文が残されていた。
『延元四年八月、吉野の空は、静かに暮れようとしていた。武家政権を打ち倒し、天皇親政の世を築こうとした帝は、その最期の日々に、己の理想を語りながらも、理想とは別の灯火を、護良へと手向けたのである。』
風が吹いた。山霧と、土の匂いが、微かにした。
玉響の揺らぎは、今日もまた、静かに続いている。

――了――


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【作者注】
本作は後醍醐天皇の最晩年を題材としたフィクションです。後醍醐天皇、護良親王などは実在の人物ですが、物語における廷臣や旧臣との対話の内容は、著者の創作です。
実際に後醍醐天皇は延元四年(一三三九年)八月、吉野にて、その生涯を閉じたと伝えられています。崩御時の年齢は数え五十二歳とするのが通説ですが、本作では榊原凪と響き合わせるため数え年、七十五歳としています。『太平記』には、彼が経巻を手に、天皇親政の実現を強く望みながら崩御したとする記述があります。
護良親王は、鎌倉幕府打倒に大きな軍功を挙げた後醍醐天皇の皇子ですが、足利尊氏との対立の末、建武二年(一三三五年)、鎌倉の幽閉先において、足利直義の軍勢により命を落としました。この経緯には、後醍醐天皇自身の政治的判断が関わっていたとする見方が、多くの歴史研究で指摘されています。後醍醐天皇が最晩年、この出来事にどのような想いを抱いていたかについて、具体的な記録は確認されておらず、本作における描写は、著者の創作です。
なお、本作は、シリーズ第三十九話(足利尊氏)、および楠木正成を題材とした回と、時代・出来事が重なる部分がありますが、それぞれ独立した物語として書かれています。
本作は、前四十六作と同じく、「もし介入できたなら」という思考実験として書かれています。
そして、玉響は、いつの時代にも、静かに揺らいでいるのかもしれません。


漂流路転生記 〜ジョン万次郎と刻をこえた男〜
玉響転生記・第四十六話


まえがき
四十五度の邂逅を経て、榊原凪は、また新たな「刻(とき)」へと導かれることになった。
聖徳太子との旅で、凪は「太子路」という言葉を得た。今回、彼が得た言葉は**「漂流路」**であった。
難破し、漂流し、奇跡のごとく海の彼方から、新しき世界を持ち帰った男。
明治三十一年(一八九八年)十月。齢七十一。日本と、遠いアメリカとの間に、確かな橋を架けた男――中濱万次郎、通称ジョン万次郎。だが、その波乱の生涯の出発点には、遠い異国の、一人の船長の存在があった。




プロローグ 神無月の来訪
東京は、秋の深まる、静かな夜だった。
榊原凪は、七十四歳になっていた。聖徳太子との旅から、半年余りが経っている。
斑鳩(いかるが)の宮で、太子が慧慈(えじ)への想いを、静かに語った、あの夜のことを、凪は今も思い出す。
書き上げた小説『異国の師の教え』は、静かな反響を呼んだ。
その夜、凪は書斎で、古い航海日誌の写しを眺めながら、うたた寝をしていた。
ふと、潮の匂いと、鯨油のような匂いがした。
顔を上げると、部屋の隅に、一人の老人が座っていた。
和装だが、どこか異国の気配を纏った佇まい。だが、その目には、驚くほど穏やかで、それでいて、遠くを見つめるような光が宿っていた。
「これは、失礼いたします」
老人は、静かに言った。
「あなたは……」
「中濱万次郎と申します。ジョン万次郎とも、呼ばれております」
凪は、息を呑んだ。
ジョン万次郎。土佐の漁師の子として生まれ、遭難の末、アメリカへと渡り、後に、日本の開国に、大きな役割を果たすことになる人物。
そして――このおよそひと月後、その生涯を閉じることになっている男。
「なぜ、ここにいるのでしょう」
「さあ、私にも、分かりません」万次郎は、小さく頷いた。
「気づけば、この妙な部屋におりました。由井、明智、石田、真田、土方、坂本、大石、楠木、伊能、北斎、芭蕉、玄白、定信、松陰、伊藤、田中、渋沢、野口、三島、芥川、力道山、将門、道真、崇徳院、植村、手塚、武蔵、次郎吉、空海、清少納言、鑑真、利休、板垣、鎌足、義経、道灌、清正、一休、尊氏、家康、信長、小町、紫式部、卑弥呼、聖徳太子。あなたが会ってこられた方々の気配が、なんとなく、伝わってまいります。不思議な方ですね、あなたは」
彼は、凪を穏やかに見つめた。
「私は今、東京にて、静かな余生を、過ごしております」
「万次郎様……」
「ですが」老いた漂流者の目に、懐かしむような光が宿った。「その前に、伝えておきたいことが、あります」


一章 四十六度目のたゆたい
その夜、凪は航海日誌の写しに埋もれながら、考え続けていた。
これまでの四十五人には、皆、「死をどう引き受けるか」という、それぞれの重さがあった。
だがジョン万次郎の場合、その重さは、また違う質のものだった。
史実において、万次郎は明治三十一年十一月、東京にて、その生涯を閉じることになる。享年七十一。晩年は、脳溢血を患いながらも回復し、長男・東一郎の庇護のもと、穏やかな日々を送っていた。
万次郎の出発点には、一人の恩人がいた。ウィリアム・H・ホイットフィールド船長である。
天保十二年(一八四一年)、遭難し、無人島に漂着した十四歳の万次郎を救助したこの船長は、当時の日本が鎖国下にあったことを踏まえ、万次郎を、我が子のようにアメリカへと連れ帰った。フェアヘイヴンで、英語、数学、測量、航海術などを、惜しみなく学ばさせたのは、この船長であった。
凪の胸に、一つの問いが浮かんだ。
万次郎が最期に伝えておきたいものがあるとすれば、それは、己が果たした「日米の架け橋」としての功績だけなのか。それとも、遠い異国で、我が子のように育ててくれた、船長への想いも、あるのではないか。
凪は、暗い天井を見つめた。
「行きます」
呟くと同時に、部屋の空気が震え、日誌の匂いが、潮と鯨油の匂いに変わった。
玉響。
世界が、揺れた。


二章 東京・万次郎の隠居所
気づくと、凪は、東京にある、万次郎の隠居所の玄関先に立っていた。
秋の柔らかな日差しが、質素な庭を、静かに照らしている。
凪の身なりは、書生風の姿に変わっていた。
「ごめんください」
玄関先にいた書生に声をかけると、彼は驚いた顔で凪を見た。
「万次郎様に、お目にかかりたい」
「あなたは、どなたですか」
「万次郎様のお導きで参った者です。到着を告げていただければ、通じるはずです」
書生は、訝しみながらも、奥へと入っていった。
しばらくして、戻ってきた。
「サカキバラさんとやら。お上がりください」
この書生は、万次郎の身の回りの世話をする者の一人であった。


三章 万次郎の居室
居室には、古い英語の書物と、航海術の資料とが、静かに置かれていた。
万次郎は、文机の前から、穏やかな目で凪を見た。
「よく来てくれました」
「参りました」
「座ってください」万次郎は、静かに言った。「私は、この国と、アメリカとの間に、橋を架けようと、生涯、努めてまいりました」
「ホイットフィールド船長のことを、伺ってもよろしいでしょうか」
万次郎は、しばらく黙っていた。
「あの方がいなければ、私は、あの無人島で、命を落としていたでしょう」彼は言った。「それだけでなく、我が子のように、育ててくださいました」
「今、ご自身の来し方を、どう振り返っておられますか」
万次郎は、少し目を細めた。
「船長のことを、近頃、よく思い出します」


四章 名の記されなかった恩人
その夜、凪は隠居所の一室で、眠れぬまま過ごした。
万次郎の言葉が、頭から離れなかった。
――船長のことを、近頃、よく思い出します。
これまでの四十五人は、有限の生の中で、何を選ぶかという問いを抱えていた。だが万次郎の場合、彼が向き合っていたのは、「己の日米の架け橋としての功績をどう語るか」だけでなく、「己を育ててくれた、異国の恩人を、どう伝えるか」という問いであるように思えた。
後世、ジョン万次郎という名が、日本の開国に貢献した人物としてあまりに大きく語り継がれる一方で、船長の存在は、日本国内の「公の記録」には、その功績ほど克明には残されていない。
万次郎の胸中にある、あふれんばかりの感謝は、これまでどれほど、はっきりと世に伝わってきたのだろうか。
窓の外、東京の秋の夜風が、静かに吹いていた。


五章 門下生との対話
翌朝、凪は、居室で書物を整理していた門下生と、言葉を交わす機会を得た。
「先生は、ホイットフィールド船長のことを、よく話されますか」
「はい」門下生は、頷いた。「先生を、我が子のように育ててくださった御方だと、伺っております」
「船長のお名前は、世間でも広く知られているのでしょうか」
門下生は、少し寂しそうに首を振った。
「いいえ。先生のお名前は、日本中に知られておりますが、船長のことまでは、みな、あまり深くは存じ上げないように思います。先生は時折、とても懐かしそうに船長のお名前を口にされますが、それを、はっきりと書き残された姿は、まだお見かけしたことがありません」
凪は、その言葉の重さを、静かに受け止めた。


六章 長男・東一郎との対話
その日の夕刻、万次郎の長男である、中濱東一郎(なかはま・とういちろう)が、居室を訪れた。
「サカキバラ殿と申されるか。父より、伺っております」
「あなたは、ホイットフィールド船長のことを、どう見ておられますか」
東一郎は、少し考えた。
「あの御方なくば、父は、あの無人島で、命を落としていたでしょう。異国の少年を、我が子のように迎え入れ、教育を受けさせるという、並外れた寛容さをお持ちの方です」
「それは、万次郎様ご自身も、深く感謝しておられることですか」
「父は……」東一郎は、言葉を選びながら言った。
「内心では、誰よりも船長への感謝を抱いているはずです。船長のご家族とは、今も文通を続けておりますから。ただ、明治のこの激動の中、国のために奔走するあまり、それを公にまとめて語る機会が、父にはなかったのでしょう」
凪は、深く頷いた。
「もし、父上が、はっきりと、船長への感謝を、この地に書き記されたら、何か、変わると思われますか」
東一郎は、しばらく考えた。
「変わるかもしれません。父の言葉には、それだけの重みがあると思います」


七章 夜半の対話
その夜、凪は万次郎に呼ばれ、二人だけで居室に残った。
「門下生や、東一郎から、聞きました」と万次郎は言った。「あなたが、船長のことを、あれこれ聞いておられるそうですね」
「差し出がましいことを、申し上げました」
「いえ」万次郎は、穏やかな目で凪を見た。「私自身、向き合わねばならない角度でした」
凪は、同じ老境を生きる者として、静かに言葉を紡いだ。
「万次郎様。あなたはこれまで、日米の架け橋として、この国のためにすべてを捧げてこられました。ですが、船長への感謝については、まとまった形で、語られる場がなかったように見受けられます」
万次郎は、しばらく、黙っていた。
「私は……」やがて彼は、静かに言った。
「船長の寛容さなくば、私は、あの無人島で、朽ち果てていたでしょう。あの方は、肌の色も、言葉も違う、異国の少年を、我が子のように、迎え入れてくださいました。ですが、私は、日本での役目に追われ、それを、はっきりと、まとまった形で、語る間を、作ってきませんでした。日本のために、働くことに、いつも、心を奪われてきたからでしょう」
「分かっております」凪は、万次郎の横顔を見つめた。
「ですが、万次郎様。あなたが今、こうして静かな余生を過ごされているのは、その恩を、言葉にされたいから、ではないでしょうか。あなたが語らねば、船長のあの美徳は、あなたの大きな功績の陰に、隠れたままになってしまうかもしれません」
万次郎の目が、微かに揺れた。
「あなたが本当に遺したいものは、ご自身の功績だけでしょうか。それとも、ホイットフィールド船長という、あなたを育てた恩人の存在を、次の時代へと、はっきり伝えることも、含まれているのではないでしょうか」
万次郎は、長い間、目を閉じていた。


八章 語られた言葉
その夜遅く、万次郎は、東一郎と門下生を呼び、静かに語り始めた。
凪は、その傍らに、静かに控えていた。
「船長は……」万次郎は、ゆっくりと、言葉を選びながら言った。「見返りを求めず、私を、我が子のように、育ててくださいました。今日の私があるのは、すべて、あの方のおかげです」
東一郎と門下生は、深く頭を下げた。
「これより後、私のことを語り継ぐ者は、皆に、船長のことも、伝えてほしい」万次郎は、静かに続けた。
「東一郎、そなたには、船長のご家族との文通を、これからも、大切に続けてほしい。この縁は、私一人のものではなく、次の世代へと、受け継がれていくべきものだから」
凪は、静かに、その言葉を聞いていた。
やがて万次郎は、深く息をついた。
「これで……少しは、心が、軽くなりました」


九章 遺されたもの
この夜からおよそひと月後、明治三十一年十一月、ジョン万次郎は、東京にて、その生涯を閉じることになる。享年七十一。
史実において、万次郎の長男・東一郎は、その後も、ホイットフィールド家との文通を続け、この日米の縁は、代を重ねて、今日に至るまで、受け継がれていくことになる。昭和八年(一九三三年)には、ホイットフィールド船長の親友の孫にあたる、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトから、東一郎のもとに、手紙が届いたとも伝えられている。
凪は、その事実を知り、静かに思った。
日米の架け橋となった人物の陰にも、確かに、見返りを求めぬ、異国の恩人の存在が、息づいていたのかもしれない、と。
玉響。
気づけば、凪は東京の書斎にいた。


終章 もう一つの漂流路
百年余りの後。
万次郎の故郷・土佐清水市と、ホイットフィールド船長の故郷・アメリカのフェアヘイヴンとは、姉妹都市として、今も、街ぐるみでの交流を、続けていた。
「日米の架け橋」としての万次郎の名の陰で、見返りを求めず、一人の漂流少年を育てた、異国の船長の存在を、深く知る人は、多くはない。
「日本の開国に貢献した人物」としてだけではなく、「異国で受けた恩を、生涯、忘れなかった、一人の漂流者」として。


エピローグ もう一つの光
東京の書斎で、凪は、書き上げたばかりの原稿を、静かに読み返していた。
窓の外では、秋の風が、静かに吹いていた。
「あなたが遺したかったのは、ご自身の功績だけではなかったはずです」
凪は、静かに呟いた。
パソコンの画面には、彼が書き上げた物語の、最後の一文が残されていた。

『明治三十一年の秋、東京の空は、静かに暮れようとしていた。難破し、漂流し、海の彼方から新しき世界を持ち帰った男は、その最期の日々に、己の功績を語りながらも、もう一つの光を、確かに、異国の恩人へと、書き遺したのである。』

風が吹いた。潮と、鯨油の匂いが、微かにした。

――了――



【作者注】
本作はジョン万次郎(中濱万次郎)の最晩年を題材としたフィクションです。ジョン万次郎、ウィリアム・H・ホイットフィールド船長、中濱東一郎などは実在の人物ですが、物語における門下生や東一郎との対話の内容は、著者の創作です。
実際に万次郎は明治三十一年(一八九八年)十一月、東京にて、七十一歳でその生涯を閉じました。天保十二年(一八四一年)、遭難し無人島に漂着した万次郎は、捕鯨船ジョン・ハウランド号の船長ウィリアム・H・ホイットフィールドに救助され、鎖国下の日本の事情を踏まえ、養子同然にアメリカへ連れて行かれ、フェアヘイヴンで教育を受けました。明治三年(一八七〇年)には欧州視察の途上、約二十年ぶりに恩人ホイットフィールドと再会を果たしています。
万次郎の子孫は、ホイットフィールド船長の子孫と、今日に至るまで交流を続けており、昭和八年(一九三三年)には、ホイットフィールドと縁のあったデラノ家の子孫にあたるフランクリン・ルーズベルト大統領から、長男・東一郎のもとに手紙が届いたことも記録されています。万次郎が最晩年、船長への想いをどのように語っていたかについて、具体的な記録は限られており、本作における描写は、著者の創作です。
本作は、前四十五作と同じく、「もし介入できたなら」という思考実験として書かれています。
そして、玉響は、いつの時代にも、静かに揺らいでいるのかもしれません。


太子路転生記 〜聖徳太子と刻をこえた男〜
玉響転生記・第四十五話


まえがき
 四十四度の邂逅を経て、榊原凪は、また新たな「刻(とき)」へと導かれることになった。
 卑弥呼との旅で、凪は「巫女路(みこみち)」という言葉を得た。今回、彼が得た言葉は「太子路(たいしみち)」であった。
 仏の教えと、新しき政(まつりごと)の形とを、この国に根付かせようとした皇子。
 推古三十年(六二二年)一月。斑鳩の宮にて、かつて十七条の憲法を定め、仏教を篤く敬った男――厩戸皇子、後の聖徳太子。だが、その学びの原点には、遠い高句麗から渡ってきた、一人の師の存在があった。
 なお、聖徳太子については、後世の仏教的な伝説によって、大きく理想化された人物像が形成されており、近年の歴史研究においては、史実としての実像と、後世の潤色とを、慎重に見分ける必要があるとされている。本作もまた、そうした伝説の重なりの上に、一つの物語を紡ぐものである。




プロローグ 睦月の来訪
 東京は松の内も明けた、冷え込む夜だった。
 榊原凪は、七十四歳になっていた。卑弥呼との旅から、半年余りが経っている。
 邪馬台国の御座所で、卑弥呼が弟への想いを静かに語ったあの夜のことを、凪は今も思い出す。
 書き上げた小説『鬼道の陰にある支え』は、静かな反響を呼んだ。
 その夜、凪は書斎で、古い経典の写本を眺めながらうたた寝をしていた。近頃、急に体の奥が冷えることが増えた。死が、遠い他人のものではなくなっていた。
 ふと、香と、乾いた木材のような匂いがした。
 顔を上げると、部屋の隅に、一人の若い皇子が座っていた。
 質素な衣。だが、その目には、驚くほど深い思索と、澄んだ知性の光が宿っていた。
 「夜分に、失礼つかまつる」
 皇子は、静かに言った。
 「あなたは……」
 「厩戸と申す。世の人々は、聖徳太子と、呼ぶこともあるようじゃ」
 凪は、息を呑んだ。
 聖徳太子。十七条の憲法を定め、冠位十二階を制定し、仏教を篤く敬った、推古天皇の摂政。そして――このおよそひと月後、その生涯を閉じることになっている男。
 「なぜ、ここにおるのか」
 「さて、それがしにも、分からぬ」厩戸は、静かに微笑んだ。「気づけば、この妙な場所におった。由井、明智、石田、真田、土方、坂本、大石、楠木、伊能、北斎、芭蕉、玄白、定信、松陰、伊藤、田中、渋沢、野口、三島、芥川、力道山、将門、道真、崇徳院、植村、手塚、武蔵、次郎吉、空海、清少納言、鑑真、利休、板垣、鎌足、義経、道灌、清正、一休、尊氏、家康、信長、小町、紫式部、卑弥呼。そなたが会うてきた者たちの気配が、なんとのう、伝わってくる。不思議な御仁じゃな、そなたは」
 彼は、凪を静かに見つめた。
 「それがしは今、斑鳩の宮にて、静かに、日々を過ごしておる」
 「太子様……」
 「されど」若き皇子の目に、懐かしむような光が宿った。「その前に、伝えておきたいことが、ある」


一章 四十五度目のたゆたい
 その夜、凪は経典の写本に埋もれながら、考え続けていた。
 これまでの四十四人には、皆、「死をどう引き受けるか」という、それぞれの重さがあった。
 だが聖徳太子の場合、その重さは、また違う質のものだった。
 史実において、太子は推古三十年二月、斑鳩の宮にてその生涯を閉じることになる。伝えられるところによれば、妃であった膳部菩岐々美郎女(かしわでの・ほききみのいらつめ)もほぼ同時期に世を去ったとされ、疫病がその死因であった可能性が指摘されている。
 太子の生涯には、あまり語られない、深い学びの原点があった。慧慈(えじ)という、高句麗から渡ってきた一人の仏教僧である。推古二十三年、慧慈は太子より先に故国・高句麗へと帰っており、太子の死の知らせを、遠い異国の地で受け取ることになる。『日本書紀』によれば、慧慈は太子の死を深く悲しみ、翌年の同じ日に、自らも世を去ることを誓ったと伝えられている。
 凪の胸に、一つの問いが浮かんだ。
 太子が最期に伝えておきたいものがあるとすれば――それは、己が定めた十七条の憲法や、仏教への篤い信仰だけなのか。それとも、遠い異国へ帰った、恩師への想いもあるのではないか。
 凪は、暗い天井を見つめた。
 「行きます」
 呟くと同時に、部屋の空気が震え、経典の匂いが、香と木材の匂いに変わった。
 玉響。
 世界が、揺れた。


二章 斑鳩の宮
 気づくと、凪は、斑鳩にある宮の裏手に立っていた。
 真冬の冷たい風が、静かな宮を吹き抜けていく。
 凪の身なりは、宮に仕える下人風の姿に変わっていた。
 「もし」
 宮の前にいた舎人に声をかけると、彼は驚いた顔で凪を見た。
 「太子様に、お目通り願いたい」
 「そなた、何者じゃ」
 「太子様のお導きで参った者です。到着を告げていただければ、通じるはずです」
 舎人は、訝しみながらも奥へと入っていった。
 しばらくして、戻ってきた。
 「サカキバラとやら申したな。お入りくだされ」
 この舎人こそ、太子の身の回りの世話をしていた、若き従者であった。


三章 太子の居室
 居室には、数多の経典と、かつて自らが定めた十七条の憲法の紐解かれた写本が、静かに置かれていた。
 太子は、文机の前から、澄んだ目で凪を見た。
 「よう参られた」
 「参りました」
 「座られよ」太子は、静かに言った。「それがしは、この国に、仏の教えと、新しき政の形とを、根付かせようとしてまいった」
 「慧慈様のことを、伺ってもよろしいでしょうか」
 太子は、しばらく黙っていた。
 「あの方は、それがしに、仏の教えの、真の深さを、教えてくださった」彼は言った。「今は、遠い高句麗の地に、おられる」
 「今、ご自身の来し方を、どう振り返っておられますか」
 太子は、少し目を細めた。
 「慧慈様のことを、近頃、よく思い出す」


四章 遠い異国へ帰った師
 その夜、凪は斑鳩の宮の一室で、眠れぬまま過ごした。
 太子の言葉が、頭から離れなかった。
 ――慧慈様のことを、近頃、よく思い出す。
これまでの四十四人は、皆、有限の生の中で、何を選ぶかという問いを抱えていた。だが太子の場合、彼が向き合っていたのは、「己が定めた政の形をどう遺すか」だけでなく、「己を育てた、異国の師を、どう記憶するか」という問いであるように思えた。
 史実において、慧慈は高句麗から渡ってきた仏教僧であり、若き日の太子に仏教の深い教えを説いた人物であった。だが、後世、聖徳太子という名が日本の仏教興隆の中心人物としてあまりに大きく語り継がれる一方で、慧慈の存在はその陰に埋もれがちであった。
 凪は、ふと思った。
 太子が、これほどまでに仏の教えと政の形を語られる一方で、その学びの原点にいた異国の師への感謝は、これまで、どれほど、はっきりと語られてきたのか。
 窓の外、斑鳩の夜風が、静かに吹いていた。風は、遠い大陸の匂いを運んで来はしなかった。


五章 従者との対話
 翌日、凪は、居室で経典を整理していた従者と、言葉を交わす機会を得た。
 「太子様は、慧慈様のことを、よく話されますか」
 「はい」従者は、頷いた。「太子様に、仏の教えを、最初に説かれた御方だと、伺っております」
 凪は、その言葉の重さを、静かに受け止めた。
 「太子様ご自身は、それを、どう思っておられるのでしょうか」
 従者は、しばらく考えていた。
 「太子様は、時折、遠い目をされて、慧慈様のお名前を、口にされます。ですが、それを、はっきりと、書き記されたことは、まだ、あまりないように思います」


六章 側近・秦河勝との対話
 その日の夕刻、太子の側近である、秦河勝(はたの・かわかつ)が、居室を訪れた。
 「サカキバラ殿と申されるか。太子様より、伺っております」
 「河勝殿は、慧慈様のことを、どう見ておられますか」
 河勝は、少し考えた。
 「あの御方なくば、太子様の仏教への深い理解は、生まれなかったでしょう。異国から渡られながら、太子様に、これほど深い教えを授けられた御方は、他におりません」
 「それは、太子様ご自身も、認めておられることですか」
 「太子様は……」河勝は、言葉を選びながら言った。「内心では、誰よりも、慧慈様への感謝を、抱いておられるはずです。ただ、遠く離れておられるゆえ、それを、はっきりと伝える機会が、なかったのでしょう」
 凪は、頷いた。
 「もし、太子様が、はっきりと、慧慈様への感謝を、書き記されたら、何か、変わると思われますか」
 河勝は、しばらく考えた。
 「変わりましょう。太子様のお言葉には、それだけの重みがございます」


七章 夜半の対話
 その夜、凪は太子に呼ばれ、二人だけで居室に残った。
 「従者や、河勝から、聞き申した」と太子は言った。「そなたが、慧慈様のことを、あれこれ問うておるそうじゃな」
 「差し出がましいことを、申し上げました」
 「いや」太子は、静かに凪を見た。「それがし自身、向き合わねばならぬ角度でござった」
 「太子様は、ご自身が定められた政の形や、仏教への信仰について、あれほど多くを、語られてこられました。ですが、慧慈様への感謝については、あまり、はっきりと言墨にされる場が、なかったように見受けました」
 太子は、しばらく、黙っていた。
 「それがしは……」やがて彼は、静かに言った。「慧慈様の教えなくば、それがしは、仏の道の、真の深さを、知ることは、なかったであろう。国をまとめ、新しき政を推し進める中では、それがしは『非の打ち所なき摂政』でい続けねばならなんだ。異国の師に甘えるような弱音は、誰にも見せられぬと、心を鬼にしておったのかもしれぬ。だが、正直に言えば、会いたかった。慧慈様に、一度でいいから、この国の寺の鐘の音を聞かせたかった。あの方は遠く離れた地におられる。今となっては、この感謝を直接伝える術もない」
 「それを、どのように、受け止めておられますか」
 「寂しさと、感謝と。その両方が、いつも、それがしの中にござる」太子は、静かに言った。「せめて、この地に残る者たちには、慧慈様のことを、はっきりと、伝えておきたい」
 凪は、深く息を吸った。
 「太子様。あなたは今、この国に、新しき政の形を、根付かせようとしておられます。ですが、もし、慧慈様への感謝を、はっきりと言葉にしないまま終われば、その教えの恩は、あなたの功績の陰に、埋もれたままになってしまうかもしれません」
 太子の目が、微かに揺れた。
 「あなたが本当に遺したいものは、ご自身が定めた政の形だけでしょうか。それとも、慧慈様という、あなたを育てた、異国の師の存在を、次の時代へと、はっきり伝えることも、含まれているのではないでしょうか」
 太子は、長い間、目を閉じていた。


八章 語られた言葉
 その夜遅く、太子は、河勝と従者を呼び、静かに語り始めた。
 凪は、その傍らに、静かに控えていた。
 「慧慈様は……」太子は、ゆっくりと、言葉を選びながら言った。「それがしに、仏の教えの、真の深さを、教えてくださった。この国に、仏教を根付かせることができたのも、あの方の教えあってこそじゃ」
 河勝は深く頭を下げ、従者は袖で目元を押さえた。
 「これより後、それがしのことを語り継ぐ者は、皆に、慧慈様のことも、伝えてほしい」太子は、静かに続けた。「この国の仏の道は、それがし一人のものではなく、あの方から受け継いだものなのだと」
 凪は、静かに、その言葉を聞いていた。
 やがて太子は、深く息をついた。
 「これで、少しは、心が、安まった」


九章 遺されたもの
 この夜からおよそひと月後、推古三十年二月、聖徳太子は、斑鳩の宮にて、その生涯を閉じることになる。妃・膳部菩岐々美郎女も、ほぼ同時期に、世を去ったと伝えられている。
 『日本書紀』によれば、太子の死の知らせを、遠い高句麗の地で受け取った慧慈は、深く悲しみ、「来年の同じ日に、私もまた、世を去るであろう」と語ったとされ、実際に、翌年の同じ日に、その生涯を閉じたと伝えられている。
 凪は、その事実を知り、静かに思った。
 仏教興隆の中心人物としての太子の陰にも、確かに、その学びを育てた、遠い異国の師の存在が、息づいていたのかもしれない、と。
終章 もう一つの太子路
 千四百年余りの後。
 法隆寺は、今も、その荘厳な姿を、伝え続けていた。
 「仏教興隆の中心人物」としての聖徳太子の陰で、その学びの原点を育てた、異国の師・慧慈の存在を、深く知る人は、今も多くはない。
 「十七条の憲法を定めた皇子」としてだけではなく、「異国の師から受けた恩を、生涯、忘れなかった、一人の学び人」として。


エピローグ もう一つの光
 東京の書斎で、凪は、書き上げたばかりの原稿を、静かに読み返していた。
 窓の外では、真冬の風が、まだ冷たく吹いていた。
 「あなたが遺したかったのは、ご自身が定めた政の形だけではなかったはずです」
 凪は、静かに呟いた。
 パソコンの画面には、彼が書き上げた物語の、最後の一文が残されていた。
『推古三十年二月、斑鳩の空は、静かに暮れようとしていた。仏の教えと、新しき政の形とを、この国に根付かせようとした皇子は、その最期の日々に、己の功績を語りながらも、もう一つの光を、確かに、異国の師へと、語り遺したのである。』
 香と、木材の匂いが、微かにした。
 風が吹いた。
 玉響の揺らぎは、今日もまた、静かに続いている。

——了——


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【作者注】
 本作は聖徳太子(厩戸皇子)を題材としたフィクションです。聖徳太子については、後世の仏教的な伝説によって、大きく理想化された人物像が形成されており、近年の歴史研究においては、史実としての実像と、後世の潤色とを、慎重に見分ける必要があるとされています。本作もまた、そうした伝説の重なりの上に書かれています。慧慈、秦河勝などは実在の人物とされていますが、物語における対話の内容は、著者の創作です。
 実際に太子は推古三十年(六二二年)二月、斑鳩の宮にて、その生涯を閉じたと伝えられています。妃・膳部菩岐々美郎女も、ほぼ同時期に世を去っており、疫病が死因であった可能性が指摘されています。
 慧慈は、高句麗から渡来した仏教僧で、太子の仏教の師であったとされ、太子の死の知らせを受けて深く悲しみ、翌年の同日に自らも世を去ったとする逸話が、『日本書紀』に記されています。太子が慧慈への想いを最晩年、具体的にどのように語っていたかについて、本作における描写は、著者の創作です。
 本作は、前四十四作と同じく、「もし介入できたなら」という思考実験として書かれています。
 そして、玉響は、いつの時代にも、静かに揺らいでいるのかもしれません。


巫女路転生記 〜卑弥呼と刻をこえた男〜
玉響転生記・第四十四話


まえがき
 四十三度の邂逅を経て、榊原凪は、また新たな「刻」へと導かれることになった。
 紫式部との旅で、凪は「物語路」という言葉を得た。今回、彼が得た言葉は「巫女路(みこじ)」であった。
 鬼道と呼ばれる神秘の力によって、倭国を統べた女王。
 時は、弥生時代の終わり。中国の史書『魏志倭人伝』にのみその名を留める、邪馬台国の女王――卑弥呼。だが、その神秘の陰には、表舞台に立つことのなかった、一人の弟がいた。
 なお、卑弥呼については、日本側に同時代の文字記録が一切残っておらず、その実像は、中国の史書『魏志倭人伝』の断片的な記述からしか窺い知ることができない。邪馬台国の所在地についても、九州説、畿内説など、今なお論争が続いている。本作は、この乏しい史料の上に立つ、あくまで一つの思考実験として書かれたものである。




プロローグ 名もなき来訪
 東京は、ある夜、静かに更けていった。
 榊原凪は、七十四歳になっていた。紫式部との旅から、半年余りが経っている。
 彰子の御所で、紫式部が娘・賢子への想いを筆に込めた、あの夜のことを、凪は今も鮮明に思い出す。
 あの旅の記憶を託すように紡いだ小説『母の影にある娘』は、世に静かな反響を呼んだ。
 その夜、凪は書斎で、『魏志倭人伝』のごく短い記述を眺めながら、うたた寝をしていた。
 ふと、勾玉と、燻された木の実のような匂いが鼻腔をくすぐった。
 顔を上げると、部屋の隅に、一人の女性が座っていた。
 装飾を凝らした衣を纏っている。だが、その顔は、頭から被った布の陰に深く隠されていた。
 「……」
 女性は何も言わず、ただ、静かに凪を見つめた。
 「あなたは……」
 「卑弥呼、と、人は呼ぶ」
 凪は、息を呑んだ。
 卑弥呼。中国の史書にのみその名を残す、邪馬台国の女王。鬼道と呼ばれる神秘の力をもって、倭国を統べたとされる人物。
 「なぜ、ここにいるのか」
 「分からぬ」卑弥呼は、静かに言った。「気づけば、この妙な場所におった。由井、明智、石田、真田……土方、坂本、大石、楠木。伊能、北斎、芭蕉より後の世の者まで。そなたが会うてきた者たちの気配が、なんとなく、伝わってくる。不思議な者じゃな、そなたは」
 彼女は、布の陰から凪を見つめた。
 「私は今、多くの者からは、その姿を見られることのない暮らしを送っている」
 「卑弥呼様……」
 「されど」神秘の女王の声に、微かな翳りが宿った。「伝えておきたいことが、ある」


一章 四十四度目のたゆたい
 その夜、凪は『魏志倭人伝』の記述に埋もれながら、考え続けていた。
 これまでの四十三人には、皆、「死をどう引き受けるか」という、それぞれの人生の重さがあった。
 だが卑弥呼の場合、その重さは、また違う質のものだった。
 史書によれば、彼女は呪術的な力によって倭国を統治し、多くの婢(ひ)に囲まれながら、人前にはほとんど姿を現さなかったという。 そして、その傍らには、あまり知られていない、実務を担う「弟」の存在が記されている。だが、その弟の名は、記録のどこにも残されていない。
 凪の胸に、一つの問いが浮かんだ。
 卑弥呼が最期に伝えておきたいものがあるとすれば――それは己の神秘の力による統治だけなのか。それとも、表舞台に立つことのなかった、弟への想いもあるのではないか。
 凪は、暗い天井を見つめた。
 「行きます」
 呟くと同時に、部屋の空気が震え、史書の匂いが、勾玉と木の実の匂いに変わった。
 玉響(たまゆら)。
 世界が、大きく揺れた。


二章 邪馬台国の宮室
 気づくと、凪は、幾重にも柵と楼観(ろうかん)に囲まれた、宮室の裏手に立っていた。
 夜の冷たい風が、高床の建物の間を、静かに吹き抜けていく。
 凪の身なりは、宮に仕える下人風の姿に変わっていた。
 「たのもう。お尋ね申す」
 柵の前にいた婢に声をかけると、彼女は驚いた顔で凪を見た。
 「卑弥呼様に、お目にかかりたい」
 「そなた、何者か」
 「卑弥呼様のお導きで参った者です。到着を告げていただければ、通じるはずです」
 婢は訝しみながらも、奥へと入っていった。
 しばらくして、戻ってきた。
 「サカキバラとやら言うたか。入るがよい」
 この婢こそ、卑弥呼の身の回りの世話を直接する、数少ない一人であった。


三章 卑弥呼の御座所
 御座所は、幾重もの帳(とばり)に囲まれ、外の光がほとんど届かない、薄暗い場所であった。
 卑弥呼は、帳の奥から、静かな声で凪を迎えた。
 「よう参った」
 「参りました」
 「そこへ、座るがよい」卑弥呼は、静かに言った。「私は、鬼道によって、この国を、治めてきた」
 「弟君のことを、伺ってもよろしいでしょうか」
 卑弥呼は、しばらく黙していた。
 「あの者は、民の暮らしを、日々、支えてくれている」彼女は言った。「私は、ただ、祈るばかりじゃ」
 「今、ご自身の統治を、どう振り返っておられますか」
 卑弥呼は、少し声を落とした。
 「弟のことを、近頃、よく思う」


四章 名を残さなかった弟
 その夜、凪は宮室の一室で、眠れぬまま過ごした。
 卑弥呼の言葉が、頭から離れなかった。
 ――弟のことを、近頃、よく思う。
 昼間、遠巻きに見た御座所の様子が脳裏をよぎる。行き交う人々は皆、帳の奥にいる女王の権威を恐れ、崇めていた。だが、その巨大な国を動かし、人々の不満を宥め、日々の糧を差配しているのは、あの名もなき弟なのだ。
 後世、卑弥呼の名は神秘の女王として刻まれるだろう。だが、彼が流した汗や、姉を支えた手の温もりは、誰の記憶にも残らないのかもしれない。
 「それで、本当に良いのだろうか……」
 帳の外、夜の静けさが、冷える夜気とともに凪の胸に染み込んでいった。


五章 婢との対話
 翌日、凪は、御座所の外で控えていた婢と、言葉を交わす機会を得た。
 「卑弥呼様は、弟君のことを、よく話されますか」
 「はい」婢は、深く頷いた。「日々の政務は、すべてあの御方がお裁きになっておられます。卑弥呼様にとっては、なくてはならぬ御方でございます」
 「弟君のお名前は、広く知られておりますか」
 婢は、寂しげに首を振った。
 「いいえ。卑弥呼様のお名前は、遠く海の向こうの国にまで知られておりますが、あの方のことまでは、国の者もあまり口にいたしません」
 凪は、その言葉の重さを静かに受け止めた。
 「卑弥呼様ご自身は、それを、どう思っておられるのでしょうか」
 婢は、しばらく考え込んでいた。
 「卑弥呼様は、弟君のことを、深く、頼りにしておられます。ですが……それを、はっきりと、外に向けて語られたことは、まだ、お見かけしたことがございません」


六章 弟との対話
 その日の夕刻、卑弥呼の弟が、御座所を訪れた。
 「サカキバラ殿と申されるか。姉上より、伺っております」
 「あなたご自身は、姉君との関わりを、どう見ておられますか」
 弟は、少し考えた。
 「姉上の鬼道なくば、この国は、まとまらなんだであろう。私は、ただ、その神秘を、日々の実務へと、繋ぐ役目を担っておるに過ぎぬ」
 「それは、卑弥呼様ご自身も、認めておられることですか」
 「姉上は……」弟は、言葉を選びながら言った。「内心では、誰よりも、私の役割を、認めてくれておるはずじゃ。ただ、姉上御自身が、人前に姿を見せぬ暮らしゆえ、それを、はっきりと語る場が、なかったのやもしれぬ」
 凪は、頷いた。
 「もし、卑弥呼様が、はっきりと、あなたへの想いを、伝えられたら――何か、変わると思われますか」
 弟は、しばらく考えた。
 「変わるやもしれぬ。……姉上の言葉には、それだけの重みがある」


七章 夜半の対話
 その夜、凪は卑弥呼に呼ばれ、二人だけで御座所に残った。
 「婢や、弟から、聞いた」と卑弥呼は言った。「そなたが、弟のことを、あれこれ問うておるそうじゃな」
 「差し出がましいことを、申し上げました」
 「いや」卑弥呼は、静かに凪を見つめた。「私自身、向き合わねばならぬ角度であった」
 「卑弥呼様は、ご自身の鬼道による統治について、多くを民に示してこられました。ですが、弟君への想いは、あまり、はっきりと語られる場がなかったように見受けました」
 卑弥呼は、長い間、黙っていた。
 やがて帳の奥で、ゆっくりと息を整え、こう言った。
 「私は……弟の支えなくば、この国は、とうに乱れておったであろう。私はただ、鬼道によって、人々の心を一つにまとめる役目を担うのみ。日々の実務は、すべて、あの者が担ってくれておる」
 「なぜ、それを、はっきりと語ってこられなかったのですか」
 「私が人前に姿を見せぬことこそが、鬼道の力を保つ所以であった」卑弥呼の声に、確かな重みが宿る。「それゆえ、あの者の功績を語る機会を、私は自ら閉ざしてしまっていたのかもしれぬな」
 凪は、深く息を吸った。
 「卑弥呼様。あなたは今、この国を鬼道によって治めておられます。ですが――もし、弟君への想いをはっきりと言葉にしないまま終われば、その支えは、あなたの神秘の陰に、完全に埋もれたままになってしまうかもしれません」
 卑弥呼の目が、布の陰で、微かに揺れた。
 「あなたが本当に遺したいものは、ご自身の鬼道による統治だけでしょうか。それとも――弟君という、あなたを支え続けた者の存在を、次の時代へと、はっきり伝えることも、含まれているのではないでしょうか」
 卑弥呼は、再び長い沈黙に沈んだ。


八章 語られた言葉
 その夜遅く、卑弥呼は、弟と婢を呼び、静かに語り始めた。
 凪は、その傍らに、静かに控えていた。
 「弟は……」卑弥呼は、ゆっくりと、言葉を選びながら言った。「この国の、日々の実務のすべてを、担ってくれておる。鬼道による私の力は、あの者の支えなくば、何も、なし得なかったであろう」
 弟と婢は、深く頭を下げた。
 「これより後、私を語る者は、必ず、弟のことも語れ」卑弥呼は、静かに続けた。「この国は、私一人の力ではなく、あの者と、共に治めてきたものなのだと」
 凪は、静かに、その言葉を聞いていた。
 やがて卑弥呼は、深く息をついた。
 「これで……よかろう」


九章 残されたもの
 弟の手をとり、静かに感謝を告げた卑弥呼の横顔を、凪は忘れない。
 やがて、勾玉の匂いが薄れ、宮室の景色がゆっくりと遠ざかっていく。
 史実では、彼女の死後に大きな塚が築かれ、国は一時乱れたと伝えられる。やがて一族の少女・台与(とよ)が新たな女王として立てられることで、ようやく再び治まったという。
 けれど、あの夜、二人の間に通い合った確かな光を、凪は胸の奥に深く刻み込んでいた。神秘に包まれた女王の陰にも、確かに、名も残さぬまま、国を支え続けた一人の弟の存在が、息づいていたのだ。


終章 もう一つの巫女路
 千七百年余りの後。
 考古学者たちは、今も邪馬台国の所在地を巡り、熱い議論を続けていた。
 「神秘の女王」として、世界中にその名を知られる卑弥呼。その陰で、名も残さず、国の実務を支え続けた、一人の弟の存在を、深く知る人は多くはない。
 しかし、あの「刻」をこえた旅の果てに、卑弥呼は「鬼道を操る女王」としてだけではなく、「名もなき支えを深く愛おしんでいた、一人の姉」としての言葉を、確かに遺した。


エピローグ もう一つの光
 東京の書斎で、凪は、書き上げたばかりの原稿を、静かに読み返していた。
 窓の外では、夜風が、静かに吹いていた。
 「あなたが遺したかったのは、ご自身の神秘の力だけではなかったはずです」
 凪は、静かに呟いた。
 パソコンの画面には、彼が書き上げた物語の、最後の一文が残されていた。
『倭国のある地に、静かな夜が暮れようとしていた。鬼道をもって国を統べた女は、その統治の物語の最後に、もう一つの光を、確かに名もなき弟へと遺したのである。』
 風が吹いた。書斎に、勾玉と、木の実の匂いが、微かにした。
 玉響の揺らぎは、今日もまた、静かに続いている。

——了——


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【作者注】
 本作は卑弥呼を題材としたフィクションです。卑弥呼については、日本側に同時代の文字記録が一切残っておらず、その実像は、中国の史書『魏志倭人伝』の、断片的な記述からしか窺い知ることができません。「卑弥呼」という名も、当時の実際の名か、称号のようなものであったのかも、判然としていません。邪馬台国の所在地についても、九州説、畿内説をはじめ、今なお、大きな論争が続いています。
 『魏志倭人伝』には、卑弥呼が鬼道と呼ばれる呪術的な力で国を治めたこと、弟がいて、政務を補佐していたこと、二三八年に魏へ使者を送り「親魏倭王」の称号を得たこと、そして、彼女の死後、大きな塚が築かれ、一時混乱の後、台与という少女が新たな女王として立てられたことなどが、簡潔に記されています。だが、それ以上の具体的な生涯や人物像、弟との関係については、史料上、ほとんど何も分かっていません。
 本作は、こうした乏しい史料の上に立つ、あくまで一つの思考実験として書かれたものであり、卑弥呼、その弟、婢などの人物像や対話の内容は、すべて著者の創作です。
 本作は、前四十三作と同じく、「もし介入できたなら」という思考実験として書かれています。
 空間と時間を超える玉響は、いつの時代にも、静かに揺らいでいるのかもしれません。