たまに数えてみれば
4852話らしく
あと148話で
ここも5000話にもなる

毎日毎日
よくもまあ
書き込むことがあったもんで

65歳ともなり
いよいよ次の人生をと
考えねばならないようだ

仕方なくも
体力は急激に劣り出して
それを否定し続けて来た
氣持ちもまた
今回の手術により
認めざるを得ない

人間
あるタイミングにより
そこから
急激に落ちることがあるそうだが
どうやら
そんな時分を迎えたようで

そんな時に
あれこれと面倒なことに
巻き込まれて
その解決をと急ぐけれども
なかなか
一筋縄ではいかない矛盾を前に
苛立ってみても何も変わらない



疲れは
忘れた頃にやって来て
予定してたことにまで
影響を及ぼす

身体が基本だと分かっているが
痛みを共い
落ちて行くのならば
そんなにまで
ここにいなくても良いかとすら
思ってしまうのは

やはり
次の世がありそうだと
オーブたちに告げられてるようで

まあ
それでも
運任せで生きてみよう

何度もの運に
救われて来た人生
もう少しは
その運も残っているはずと
信じたい

更には
騙され続けたこの人生
ロスタイムもまた
そこそこありそうだと
願い出てみようか

ベッドへ潜り込み
目を閉じる寸前に

神様
この身体
あとどのくらいもつかねえ? と
呟いてみる

すると
目の前に神様が現れて

そうだなあ
この調子だと
あと5年
古希くらいまでだなあと
笑って言う

なるほど
手術後 大事を取って
ほとんど動いてないから
身体は鈍るばかり



ぱふを失い 3年半
あれだけ毎日歩いていたのに
もう
すっかり歩かなくなってしまった

そうだ
男の
それも老いた男の独り歩きは
見掛けから不自然で

日中ならまだしも
夜間ともなれば
怪しい姿に変わってしまう

そこへ
犬くんがいたら
健全にも見えるから不自然だ

ならば
次の相棒を探せば良いのに
ぱふを愛し過ぎたこと

そして
もしかするともう
犬たちの方が長生きするかも?
なんてこと

この国では
還暦を越すと
ペットたちを迎えるにも
審査があって

もしもの時
その後
彼らを受け入れる
身内はいるのかとまで
問われるそうで

すると我が家では
もうそこでアウトとなる


さて
その神様は
いや
神様だと思う方は

オーブたちに紛れて
緑色に輝き
ゆっくり浮遊しており

そんなにゆっくりなら
キャッチ出来そうだと
手を伸ばせば

ゆらりその直前で
衝突せず
この手をすり抜ける

彼らの姿が
突然 見え始めてから
2年が過ぎた

相変わらず
何も本当のことは
分からない

それでも
この間
毎日 彼らの姿を確認し
また
言葉を掛け続けてもいる

そろそろ
本当が分かる頃かとも思うが
何も聞こえては来ない

ただし
それらは幻ではなく
いつも
どこでも
目の前にいる

僕を見守るかのように
僕を監視してるかのように
重なった別の次元から
何かを告げるかのように…


しかし
大国のバカな大将たちにより
こんな世の中

本当は
彼らの動きを制御して欲しいと
願い出たら良いのに

まだまだ
自分と
その周りのことばかりをねだる
人間たちのサガ

未来は
どんなだろうか…

人生の中で
まさか
弁護士さんにお願いすることなど
ないと思っていたけれど

それが
とうとう現実となり

回収出来るか分からない
高額な着手金を納めて来た

会社は抜け殻
本人は連絡取れず

連帯保証人の自宅も抜け殻
連絡が取れず

内容証明は届かず
戻って来た

自宅を調べて出掛けてみれば
奥様が出てらして
なんと
もう2年も戻らず
離婚調停中とのこと

そのガレージには
派手なベンツが乗り捨てられていて
豪勢にやっちまった
ツケかな…


仕方なくも
やっぱりダメかと
弁護士さんに頼むことにした

謄本を取れば
自宅には
たっぷりの抵当権があり

また
連帯保証人の自宅にも
そこそこの抵当権が付いている

はてさて
どうなるのか!

問題は
倉庫に残った荷物を出して
空にして欲しいってこと

すれば
次に向かえるのにと

ようするに
放棄してくれたならば
すぐにそれの買い手を探すのに

なんせ
連絡が取れない

それでも
時折 強い表現をメールすれば
慌てて
ひと言 嘘の言葉が戻って来る

だから
生きてることだけは
分かるから
腹が立つ

こんな世の中
情けゆえ
半年ほど放置したらこの始末

これで
連絡は取れずとも
いずれ裁判となり
強制執行となるから

時間だけは
費やさねばならないようだ

ここに
あれもこれもが重なって
このトンネルを抜けるのは
いつになるのか…

しかし
弁護士費用ってのは
高いもんだな!



そうだ

先週 フィリスと来てた

キャリーに頼めば…


いや

彼女はカリフォルニアの弁護士だった…


Kindle 予定


安物のギターと老いた音楽家の物語



その夜、桐島慎一はクローゼットの奥からギターケースを引っ張り出した。七十二歳の膝が軋んだが、構わなかった。

ケースの留め金は錆びていた。四十年。いや、もう少し経つかもしれない。三十二歳の夏、大阪の楽器屋の隅で埃をかぶっていた安物の国産ギター。値段は当時で一万八千円。「こんな音のしないギター、誰が買うんや」と店主が苦笑いしていたのを覚えている。

慎一はそれを買った。

理由は今でも説明できない。見た目が気に入ったのかもしれない。あるいは、見捨てられそうになっているものへの親近感だったのかもしれない。

ケースを開けると、黄ばんだクロスが一枚入っていた。妻の典子が「ギター磨きなさいよ」と折り畳んで入れてくれたものだ。典子は三年前に逝った。

慎一はギターを取り出した。

ネックを握った瞬間、何かが変わった。

気のせいかもしれない。老人の妄想かもしれない。しかし慎一には確かに感じられた。ギターが、温かかったのだ。ケースの中で眠っていたはずなのに、まるで誰かに抱かれていたかのように、ほのかな温もりを帯びていた。

「……久しぶりやな」

慎一はそう呟いて、弦を一本はじいた。

音が出た。

それだけのことなのに、慎一は目を細めた。調弦も狂っているし、弦も古い。それでも。それでも、その音には何かあった。四十年分の何かが、そこに込められていた。

慎一が音楽家だったのは、遠い昔の話だ。

若い頃はバンドでギターを弾いていた。プロになろうとしたこともある。でも三十代半ばに会社員に転じ、そのまま五十年近くが経った。

週末に少し弾くだけになり、やがてそれも減り、典子が病気になってからは完全に止まった。ギターを弾いている場合じゃなかった。病院の送り迎え、食事の支度、薬の管理。それが慎一の音楽になった。

典子が逝って、慎一の生活から音が消えた。

テレビはつけない。音楽も聴かない。近所の人たちが心配して声をかけてくれるが、慎一はうまく返せなかった。言葉が、音が、全部どこか遠いところから聞こえるような気がしていた。

あの夜、クローゼットを開けたのは、もしかしたら典子のカーディガンを探していたからかもしれない。匂いが残っているかもしれないと思って。

でも手が触れたのは、ギターケースだった。

翌朝、慎一は弦を買いに行った。老人が楽器屋に入るのは妙な気分だった。若い店員が「何かお探しですか」と聞いてきたとき、慎一は少し照れながら答えた。「アコースティックの弦。古いギターに張りたいんや」

店員は丁寧に選んでくれた。「このギター、いつ頃のものですか」「四十年以上前の国産です」「それなら、ちょっと柔らかめの方が馴染むかもしれません」

その言葉が嬉しかった。

馴染む。そうか、ギターにも馴染むものがあるのか。

家に帰って弦を張り直す間、慎一はずっとそのことを考えていた。四十年間、このギターは何に馴染んできたのだろう。自分の弾き方に? 自分の部屋の空気に? 典子の声に?

新しい弦を張って、慎一は一曲弾いた。

ボサノバの古い曲。典子が好きだった曲だ。

弾き終えたとき、頬が濡れていた。

その話をしたのは、娘の友人に対してだった。

娘の瑠衣が連れてきたルシア・マルティネスは、スペイン人の楽器職人で、ヴァイオリンの修復を専門としていた。京都の工房で働いており、瑠衣の友人の紹介で知り合ったのだという。

「お父さん、ルシアさんが古い楽器に詳しいから、ギター見てもらったら」

慎一は最初、断った。「こんな安物、見てもらうようなもんやない」

でもルシアが「見るだけでも」と言ったので、仕方なくギターを出した。

ルシアは小柄な四十代の女性で、眼鏡をかけ、手袋をせずにギターを持ち上げた。

「ああ」と、彼女は小さく声を上げた。

「どうかしましたか」と慎一が聞くと、ルシアは日本語でゆっくり答えた。「木が、よく響いています。長い年月をかけて、木の繊維が変化しています。これは……とても珍しい」

「そんな大げさな。一万八千円のギターですよ」

「値段は関係ありません」ルシアは真剣な顔で言った。「ストラディバリウスも、最初は一介の職人の作った楽器でした。三百年の時間が、あの音を作ったんです。このギターが特別なのは、弾かれ続けたからじゃない。大切に持たれ続けたからです。愛されたものは変わる。木も、変わる」

慎一は黙って聞いていた。

「あと百年、二百年と経ったら……」ルシアは笑った。「保証はできませんけど、すごい楽器になるかもしれません」

「三百年後には、ストラディバリになるかもしれんということですか」

「笑い話でも、間違いでもないと思います」

その夜、慎一はギターを膝に置いたまま、長い時間考えた。

自分はもう七十二歳だ。三百年後には、当然いない。

でも、このギターはいるかもしれない。どこかの誰かの手の中で、響いているかもしれない。

それは悲しいことのようで、なぜか、とても穏やかな気持ちをくれた。

慎一はその日から、毎日ギターを弾いた。

うまくはない。指は昔ほど動かない。コードを押さえると、関節が痛む日もある。それでも慎一は弾いた。朝、コーヒーを飲んだ後に少しだけ。夕方、日が落ちる前に少しだけ。

典子が好きだった曲をよく弾いた。ボサノバ、古いフォーク、懐かしいJ-POP。慎一が弾くたびに、その音は部屋に染み込んでいくようだった。

近所の子供が、ある日窓の外から「おじいさん、ギター弾いてる」と言った。母親に引っ張られながら歩いていたその子が、足を止めて窓を見上げていた。慎一は照れくさくなって、でも弾くのを止めなかった。

瑠衣が電話してきたとき、慎一は珍しく長く話した。「毎日弾いてるんや」「そうなの、良かった」「良かったって何が」「お父さんが、音楽の話してくれたのが、久しぶりやから」

慎一はそこで初めて気がついた。自分は笑っていた。

ルシアから後日、一枚のカードが届いた。スペイン語と日本語で書かれていた。

「楽器は弾かれることで育ちます。あなたが毎日弾いてくれることが、そのギターへの最高の贈り物です。三百年後の誰かが、あなたの弾いた音の記憶を持つ木と出会う日を、私は想像しています」

慎一はカードを読んで、ギターを取り出した。

調弦して、Gのコードを押さえた。関節が少し痛んだが、構わなかった。

音が鳴った。

部屋に広がって、窓の外へ出て、空気の中に溶けていく音。今日もこうして、このギターに何かが積み重なっていく。四十年分の記憶に、今日という一日が加わっていく。

慎一はそっと目を閉じた。

三百年後、誰かがこのギターを手に取る。その人は慎一のことを知らない。典子のことも知らない。でも、その音の中に、二人のいた部屋の空気が、典子の好きだった曲の余韻が、ほんの少しだけ残っているかもしれない。

それでいい、と慎一は思った。

それで、十分だ。

彼はゆっくりと、ストロークを一度だけ鳴らした。

その音は、三百年先まで、静かに旅を続けていた。


楽器職人アントニオ・ストラディバリが最後の一挺を仕上げたのは、1737年のことだった。彼が何も知らなかった三百年後の世界で、その楽器は数億円の価値を持ち、世界中のコンサートホールで鳴り響いている。

あなたの手元にある、古いギター。古いピアノ。古い本。大切にされてきたものには、時間が宿る。そしてその時間は、いつか誰かの心に届く。

三百年後のことは、誰にもわからない。でも、今日弦を鳴らすことは、できる。


Kindle 予定

『出雲・神議(かみはかり)騒動記

島根県、出雲。
旧暦の十月、全国から八百万の神々が集まるこの月を、人々は敬意を込めて「神在月(かみありづき)」と呼びます。
 古くから伝わる神話によれば、神様たちはこの一週間、出雲大社に籠もって、人々の「誰と誰を結ぶか」という会議——「神議(かみはかり)」を行うのだそうです。なんともロマンチックで、神秘的なお話です。
しかし、ふと思ったのです。
もし、その「縁結び」という仕事が、現代の私たちの仕事と同じように、膨大なデータ処理やクレーム対応、そして人間関係……いえ、神様同士の「神関係」に追われる激務だとしたら?
 エナジードリンクを飲み干して徹夜で会議を回す議長、潔癖症すぎて除菌に余念がないお局様、そして自分の「いいね」を増やすことに必死なインフルエンサー気質の女神。そんな、どこか身近に感じてしまうような神様たちが、もし私たちの知らない地下事務局で、キーキー言いながら縁の糸をこねくり回していたら……。
 本作の主人公、佐藤は、そんな神様たちのドタバタに文字通り「巻き込まれた」一人の平凡な男です。
 彼は特別なヒーローではありません。会社が倒産し、恋人に振られ、ネギを背負って砂浜を走り回る、ちょっと運の悪い……けれど、誰よりも一本の「赤い糸」に誠実であろうとする男です。
 この物語は、神様たちの不完全さと、人間の泥臭い執念がぶつかり合って生まれる、ちょっとおかしな、けれど真っ直ぐな再会の記録です。
 もしあなたが、今の仕事に疲れ果てていたり、自分だけが「縁」に見放されているような気がしていたりするのなら、どうぞ安心してこのページを捲ってください。
 大丈夫。
 たとえあなたの縁が、神様たちの手違いで「茹ですぎた蕎麦」のように絡まってしまっていたとしても、それを手繰り寄せる力は、きっとあなたの手の中に残っているはずですから。
 それでは、神在月の出雲へ——。
 八百万のドタバタ劇、開演です。


「神様、もしいるなら……俺の最悪な現状をどうにかしてくれ!」
人生どん底の33歳独身男、佐藤。会社は倒産、恋人には振られ、文字通り「縁」に見放された彼が、藁をも掴む思いで訪れたのは、神在月の出雲大社だった。
そこで救い上げたのは、海に流されていた「アロハシャツを着た小さな老人」。
その正体は、なんと知恵の神・オモイカネ! 腰を痛めた神に泣きつかれ、佐藤は八百万の神々が集う秘密の「神議(かみはかり)事務局」で、一週間の派遣社員として働く羽目に……。
しかし、そこは神秘のイメージとは程遠い、欲望と私情が渦巻く**「超ブラック職場」**だった!
• エナジードリンクを煽り、数千万件の苦情に震える議長・大国主命。
• SNSの「いいね」を増やすため、勝手に縁を書き換える誘惑の女神・アメノウズメ。
• 「不潔!」と叫び、除菌スプレー片手に縁を切り刻むお局様・ミズハノメ。
さらに最悪なことに、佐藤自身の「運命の赤い糸」が、事務局の昼飯用の出雲そばと一緒に茹で上げられ、こんがらがった蕎麦の塊と化してしまう!
婚活女子の執念が生んだデーモン、女神たちのストライキ、そしてネギを担いで神域を爆走する佐藤。
果たして彼は、神々が引き起こした「十年前のパケットロス」を修正し、あの雨の日の約束を果たすことができるのか?
神様だって楽じゃない!
笑いと涙、そして蕎麦の香りが織りなす、ノンストップ・神事エンターテインメント、ここに開幕!


 稲佐の浜に、一人の男が立ち尽くしていた。佐藤、三十三歳。会社は倒産、恋人には振られ、文字通り「縁」に見放された男だ。
「神様、助けてくれ……」
 その時、波打ち際に流れてきたのは、アロハシャツを着た小さな老人だった。
「……お主に救われたわい。ワシはオモイカネ。……腰をやってしもうてな。お主、明日から出雲大社の『神議(かみはかり)事務局』で働け。給料は……お主の『縁』の修復じゃ」
 こうして佐藤の、神様相手の「派遣社員生活」が始まった。


 出雲大社の地下、そこには巨大なコールセンターのような「神議事務局」が広がっていた。
「ちょっと! この『年収2000万以上のイケメンと結婚したい』っていう苦情、誰が仕分けしたの!?」
 怒鳴り散らすのは、潔癖症で知られる女神・ミズハノメ。
「佐藤、ボーッとするな。この数千万件の『縁結び申請』をホログラム化して、議長の大国主様に回せ!」
 神様たちも、パンク寸前のブラック企業状態で働いていたのだ。


 佐藤は、事務局の古いデータの中に「自分自身の名前」を見つけた。
 十年前、土砂降りの雨の中で出会った、赤い傘の女性。あの時、確かに運命の糸は繋がっていたはずだった。
「……なんだこれ? 『神事中のネットワーク障害(女神のダンスによる電波干渉)』で未接続……!? 俺の人生、ただのエラーで片付けられてたのかよ!」
 佐藤の拳が、デスクを叩いた。


 佐藤の前に、艶やかな美女が現れた。芸能の女神、アメノウズメだ。
「あら、熱血事務員さん? あなたの縁、私がちょっと『映える』感じに書き換えてあげようか? ただし、私のダンス動画の『いいね』を百倍に増やすのが条件よ」
 神様たちも、承認欲求とノルマに追われている。佐藤は、神々の私情に振り回される現実に目眩を覚えた。


 新米神のタクミが、会議用の「出雲そば」を運んできた。
「佐藤さん! あなたの赤い糸、解こうとしたら、蕎麦に絡まっちゃったっす!」
 なんと、佐藤の運命の糸は、事務局の昼飯用の蕎麦と一緒に茹で上げられ、こんがらがった「蕎麦の塊」と化してしまった。
「俺の人生、十割蕎麦かよ!」
 
 会議室に戻った佐藤の目は、もはやただの事務員のものではなかった。ノルマ未達の月末を乗り切る営業マンのような、暗く鋭い光を宿している。
「……スクナヒコナ様。この『未決議案件』のリストの最上段に、俺のIDをねじ込んでください」
「正気か? 自分の縁を神々の吊るし上げに遭わせるつもりか。……まあ面白い、やってみろ」
 数分後、議場の中央ホログラムに、佐藤の「グチャグチャに絡まった赤い糸」がドアップで投影された。
「えー、次の議題。事務局補助員・佐藤の、十年前の接続エラー案件について……」
 大国主が、死にそうな声で読み上げた。その瞬間、議場が沸騰した。
「あら、この糸の絡まり方、芸術的じゃない!」
 アメノウズメが扇子を叩いて立ち上がる。
「これ、無理に解こうとしても無駄よ。いっそ、私の担当する『近所の雷神様(独身・強面・バツイチ)』の髭と結んじゃいましょう! ワイルドな生活、お似合いよ!」
「冗談じゃないわ!」
 反対側からイワナガヒメの怒号が飛ぶ。
「彼は地味な生活で悟りを開くべきよ! 私が管理している『山奥で盆栽を愛でる90歳のお婆さん』との縁に繋ぎなさい。静かな老後が待っているわ!」
「雷神の髭か、盆栽のお婆さんか……究極の選択だな」
 周囲の神々がニヤニヤと見守る中、佐藤はマイクをひったくった。
「ふざけるな! 俺の人生を、お前たちのその場のノリで決めるな! 俺には、十年前、神様のストリップのせいで繋ぎ損ねた相手がいるんだ!」
 静まり返る議場。神様に「ストリップ」と言い放った人間に、神々が呆気にとられる。
「……ほう。人間が、神議(かみはかり)に異を唱えるか」
 大国主が、ゆっくりと身を乗り出した。その重圧だけで、佐藤の膝がガクガクと震える。
「……佐藤。縁とは、お前が望む形だけが正解ではない。……だが、女神たちのその私情まみれの提案も、確かに目に余るな」
「そうよ、大国主様! 私のマッチングの方が『映える』に決まってるわ!」
 アメノウズメが佐藤の肩に手を置き、挑発的にイワナガヒメを睨む。二人の女神が、佐藤の赤い糸を左右から引っ張り合い始めた。
「あ、痛い! 痛い痛い! 糸を引っ張ると、俺の心臓が痛いんだよ!」
 物理的に引き裂かれそうになる佐藤の赤い糸。さらには潔癖症のミズハノメが、「……ああ、もう。糸が手垢で汚れるじゃない!」と、霧吹きで聖水を噴射し、場内は水浸しに。
「ええい、やめろ! 会議が、また壊れる……!」
 大国主の悲鳴も虚しく、議場は「佐藤の縁」を巡る、女神たちの意地のぶつかり合いへと変貌した。その混乱の最中、佐藤の水晶タブレットが激しく点滅した。
『緊急警告:過度な干渉により、赤い糸が熱を帯びています。まもなく暴走します』
「……嘘だろ。俺の縁が、物理的に爆発するのか!?」
 佐藤は、絡まった糸を握りしめ、女神たちの包囲網を突破して逃げ出すしかなかった。


「待って、佐藤さん! そのまま走ったら、縁のログがブチ切れるっす!」
 議場を飛び出した佐藤を追ってきたのは、新米神のタクミだった。彼は両手に、神事に供えるための大量の「出雲そば」を抱え、必死に短い足を動かしている。
「うるさい! 雷神の髭に結ばれるくらいなら、ログなんて切れた方がマシだ!」
 佐藤は神域の廊下を猛進した。しかし、そこは八百万の神々がひしめく迷宮。曲がり角で、巨大な蒸気を上げる「神苑キッチン」の入り口に突っ込んでしまう。
「わわわっ!」
 後ろから突っ込んできたタクミが、蕎麦の束をぶちまける。そして、あろうことか、佐藤の右手に絡みついていた「赤い糸」の先端が、タクミが放り投げた蕎麦の束に絡まったまま、ぐらぐらと煮え立つ釜の中へと吸い込まれていった。
「ああっ! 俺の縁が……茹でられてる!?」
「ひえええ! すみません! 縁の糸は熱に弱いのに、十割蕎麦と一緒に茹でちゃったっす!」
 釜の中では、佐藤の赤い糸が蕎麦と渾然一体となり、絶望的な「茶褐色の塊」へと変貌していく。そこへ、優雅な足取りでアメノウズメが現れた。
「あら、いい香り。十割蕎麦の風味に、人間の未練が隠し味……。これ、いっそ『縁結び蕎麦』として、私が全部食べちゃおうかしら。そうすれば、佐藤の人生は永遠に私の胃袋の中。素敵だと思わない?」
「縁を食うな! 悪食にも程があるだろ!」
「あら、悪い女だと思った? 私はただ、有効活用したいだけよ。……でも、見て。茹で上がったおかげで、あなたの糸、変な『意志』を持ち始めたみたいよ」
 アメノウズメが指差す先。釜の中から、茹で上がった蕎麦の塊が、蛇のようにぬるりと這い出してきた。それは佐藤の「執念」と「蕎麦の粘り」が合体した、正体不明のクリーチャー。
「……待て、逃げるな! 俺の人生!」
 蕎麦化した赤い糸は、神域の窓を突き破り、夜の出雲の街へと逃走を開始した。


「待て! 伸びるな、俺の蕎麦……じゃなくて、俺の人生!」
 神門通りを爆走する「蕎麦化した赤い糸」を追い、佐藤とタクミは再び出雲大社の境内、広大な「神苑」へと転がり込んだ。しかし、そこはもはや清浄な神域ではなかった。
 ズンドコ、ズンドコ。巨大な松の木の間から、重低音が響いてくる。そこでは、数百柱の女神たちが、神事のストレスを発散させるべく「神域限定・シークレット・クラブイベント」を絶賛開催中だったのだ。
「あら、佐藤じゃない! 蕎麦の香りをさせて、私を誘ってるのかしら?」
 ステージの中央、ミラーボール代わりに光り輝く「勾玉(まがたま)」の下で、アメノウズメがマイクを握っていた。彼女はすでに神酒で泥酔しており、頬を赤く染めて千鳥足だ。
「ウズメ様、仕事に戻ってください! 佐藤さんの糸が、あそこのスピーカーに絡まって……!」
「細かいことはいいのよ! さあ、ミュージック・スタート!」
 鳴り響いたのは、あのイントロ。『マツケンサンバⅡ』。アメノウズメが佐藤の首根っこを掴み、無理やりステージへと引きずり上げた。
「さあ踊りなさい、佐藤! 縁が蕎麦になったなら、コシが命よ! 叩けボンゴ、響けサンバ!」
「嫌だ! 離せ! 俺は自分の糸を回収したいだけなんだ!」
 佐藤の抵抗も虚しく、周囲の女神たちが一斉に「サウザーンド(八百万)!」と叫びながら、金色の扇子を振り回して踊り狂い始めた。潔癖症のミズハノメまでもが、「……もう、どうにでもなればいいわ! 消毒液入りのカクテル、おかわり!」と叫んで暴れている。
 佐藤は、アメノウズメに強引に神酒を口に流し込まれた。
「……ハッ! オレ、サンバ! オレ、サトウ!」
 気がつけば、佐藤はアメノウズメと肩を組み、腰を振り、キラキラと輝く蕎麦の糸を新体操のリボンのように振り回しながら、神苑の夜を踊り明かしていた。


「……つめたっ! 何するんだよ、お局様!」
 ミズハノメの放った聖水で、佐藤は神苑の芝生から飛び起きた。
「汚らわしい。酒とネギの臭いをさせた人間が、神聖な神苑で朝帰りを決め込むなんて。……早くこれを受け取りなさい。スクナヒコナ局長が、『これはお前にしか処理できない』と放り投げたわよ」
 手渡されたのは、雪のように白く、しかし触れると火傷しそうなほど熱い一通の巻物だった。それは「特別申請書」。現世の人間が、己の命や全生涯の良縁をすべて返上する覚悟で書いたときにのみ届く「魂の叫び」だ。
 佐藤が震える手で紐を解くと、十年前のあの雨の日の記憶が流れ込んできた。
『神様。十年前、あの雨の日に道を聞いたあの人に、もう一度だけ会わせてください。それが叶うなら、私のこれからの人生に、他のどんな良縁もいりません』
「……え」
 パケットロスに苦しんでいたのは、自分だけではなかった。
「あら、重いわねえ」
 アメノウズメが背後から覗き込む。「十年前のたった一度のすれ違いに一生を賭けるなんて。これだから人間の女は怖いわね。佐藤、そんな重い女はやめて私のマッチングにしなさいよ」
「……冗談じゃない。これは『誠実さ』だ。彼女はずっとこれを守り続けてきたんだ。お前たちのサンバとは重みが違うんだよ!」
 佐藤は、鳩に突っつかれて短くなった「蕎麦の縁」を握りしめ、再びブラック事務局へと走り出した。


「……もう働けん。縁なんてどうでもいい」
 事務局の床には、二日酔いと過労で力尽きた八百万の神々が転がっていた。
「ちょっと佐藤、私のデリバリー注文してよ。タピオカ……じゃなくて、天界の甘露がいいわ」
 アメノウズメが虚ろな目で呟く。佐藤は、かつて建設現場の夜勤明け、冷え切った身体で啜ったあの「飯」の記憶を呼び起こした。
「……甘露なんて甘っちょろいもんじゃ、その濁った血は綺麗になりませんよ」
 佐藤は神域キッチンを占拠した。
 茹ですぎてクタクタになった蕎麦を細かく刻み、霊泉でじっくりと煮込む。そこへ、神聖なネギをこれでもかと刻み入れ、隠し味に現場御用達の「ガツンとくる塩気」を利かせた。
「食え! 佐藤特製『ドカ食い神在そば粥』だ!
 冬の北アルプスの山小屋で出す、あの熱量。現場の男たちが、明日も生きるために胃袋に流し込む『本気の補給食』を再現してやったぞ!」
 一口啜った神々に、電流が走った。
「……熱い! だが、身体の芯から力が湧いてくるわい!」
「このネギの辛み……溜まっていた情念が、汗と一緒に吹き出していくわ!」
 神々の目が、かつてないほど鋭く見開かれた。
「よし、お前ら! この粥の熱量で、溜まった申請書を一気に片付けるぞ!」
 佐藤の怒号に、神々が再びデスクへと向かう。……はずだった。
「……決めたわ。こんなに旨い粥を毎日作れる人間がいるなら、もう真面目に働くのが馬鹿らしい! みんな、ストライキよ! 佐藤を専属シェフにして、私たちは温泉に行きましょう!」
「……おい! 現場の士気を上げるための飯が、まさかの福利厚生の要求に化けるとは……!」
 佐藤の「本気の現場飯」は、皮肉にも神々を「働いたら負け」モードへと突入させてしまった。


 神々のストライキにより、下界の「婚活女子」たちの執念が暴走した。
『警告:下界より、異常なまでの負のエネルギーが流入中。神域結界、限界です!』
 事務局の天井を突き破り流れ込んできたのは、巨大な毛糸玉のような怪物「縁結びデーモン(婚活の化身)」だった。
「ひえええ! 俺の赤い糸が、怪物の心臓部に取り込まれてるっす!」
 デーモンは「既読スルーするな!」「年収800万以上!」という怨嗟の声を放ち、事務局を破壊し始める。その闇の渦の中に、彼女の「特別申請書」も飲み込まれようとしていた。
「……アメノウズメ! ミズハノメ! 喧嘩してる場合か! この怪物を止めないと、お前たちの管理する縁も全部めちゃくちゃになるぞ!」
 佐藤は神聖なネギを剣のように構え、デーモンに立ち向かった。


「……一律で切断(デリート)します。この汚れきった縁も、佐藤……あなたのグチャグチャな赤い糸も!」
 不潔さに耐えかねたミズハノメが、禁断の「縁切り鋏」を持ち出し暴走した。
「やめろ! それを使ったら、俺の十年越しの再会も全員破局だぞ!」
 鋏が空を切るたびに、空間そのものが削り取られていく。デーモンは切り裂かれる痛みにのた打ち回り、佐藤の赤い糸と彼女の巻物をさらに深く闇の中へと飲み込もうとした。
「佐藤、死ぬわよ!」
「死なねえよ! 神様のヒステリーくらい、会社員時代に慣れっこなんだよ!」
 佐藤はアメノウズメの羽衣を腰に巻き、デーモンの体内にダイブした。闇の最深部、ボロボロになりながらも光を放つ「赤い糸」と「白い巻物」を、佐藤は必死に抱きしめた。


 鋏が振り下ろされる寸前、地鳴りのような声が響いた。
「……いい加減にしろ。私の事務局で、これ以上の不作法は許さんぞ」
 覚醒した大国主命が手をかざすと、デーモンは一瞬で黄金の粒子へと浄化された。霧が消えた後、佐藤はボロボロの姿で「白い巻物」を守り抜いていた。
「……返してやるんだ。彼女が、十年も守ってきた……この想いだけは……」
 その姿に、アメノウズメの瞳から大粒の涙がこぼれた。「バカな男。……私、決めたわ。あんたのその泥臭い縁、私が世界で一番『映える』形にプロデュースしてあげる!」
「不潔……。でも、その巻物の汚れだけは、私が真っ白に洗い清めてあげるわ」
 大国主が指先で巻物に触れる。「八百万の諸君、最終議決だ。佐藤のこの縁、特級案件として再接続することを承認するか!」
『承認――!!』
 事務局中に賛成の声が響き、佐藤の赤い糸は眩い光を放ち始めた。


 神等去出祭の朝。事務局は元の静寂を取り戻していた。
「佐藤殿、お疲れ様じゃった。……来年の神在月も、ワシはまた腰をやる予定でな。その時は……また履歴書を送るが良い。即採用じゃ」
 オモイカネは笑いながら光の中に消えた。ミズハノメは「二度と汚しに来ないでよ」と毒づきながら、真っ白な手拭いをくれた。アメノウズメは佐藤の首筋に、羽衣の切れ端で作った赤いミサンガを巻き付け、頬にキスをして舞い上がった。
 神域の力が消え、感覚が「現世」へと戻っていく。
「……よし。行こう」
 佐藤は稲佐の浜へと走り出した。


 凪の朝、稲佐の浜。
 そこには、十年前と同じ赤い傘を畳んで、朝日を見つめる一人の女性がいた。
「……あの」
 佐藤の声に、彼女がゆっくりと振り返る。驚きと、確信と、そして溢れんばかりの慈愛が混ざった瞳。彼女は佐藤の姿を見て、堪えきれずに吹き出した。
「……ふふっ。あはは! ……すみません。……あなたの肩に、まだ『ネギ』が乗っていますよ?」
 佐藤は自分の肩を叩き、苦笑した。ボロボロの服、ネギの臭い、手首のミサンガ。
「……ああ、これ。……神様たちと、ちょっと『人生の予算交渉』をしてきた跡なんです。……すっかり、十年も待たせてしまいましたね」
 彼女の瞳に、うっすらと涙が浮かぶ。
「……いいえ。……私、知っていました。あなたが、どこかでずっと戦ってくれていること。……この傘を差すたびに、あの雨の日のあなたの言葉が聞こえていたから」
 佐藤は、右手首に巻かれた黄金色に輝く「蕎麦の糸」を、そっと彼女へと差し出した。
「……佐藤、と言います。佐藤和久。……もう二度と、パケットロス(通信エラー)はさせません」
 彼女は、そのボロボロになった糸の先を、自分の指先でそっと掴んだ。
「……はい。……私のお名前、十年前にお教えできなかった続きから、聞いてもらえますか?」
 朝日が二人を包み込み、出雲の海に新しい風が吹いた。
 神様たちがこねくり回した、最高に「コシの強い」縁が、今、結ばれた。
(完)


【あとがき】
 本作の主人公・佐藤が、ネギを背負いながらも一本の「赤い糸」を守り抜く姿は、不器用ながらも懸命に生きる私たち自身の姿でもあります。神様たちがどれほど計算しようとも、最後に縁を手繰り寄せるのは、人間の泥臭い執念なのかもしれません。

Kindle予定


一 師走の東京駅
 十二月の夜風は、思ったより冷たかった。
 田村誠一は、コートの襟を立てながら、東京駅の丸の内口を抜けた。特に目的があったわけではない。久しぶりに都内をひとりで歩いてみたくなっただけだった。五十二歳になった男が、師走の東京をひとりで散歩する。妻に言えば「またそんな子どもみたいなことを」と笑われるだろう。だから何も言わずに出てきた。
 銀座を歩き、日比谷を抜け、有楽町のガード下で缶ビールをひとつ買って飲んだ。赤提灯の向こうから、サラリーマンたちの笑い声が聞こえてきた。忘年会の季節だ。誠一にも、今週末に会社の忘年会がある。それが少し憂鬱で、こうして街を歩いているのかもしれなかった。
 気がつけば、足は東京駅へと向かっていた。
 新幹線のホームへの階段を上がりながら、誠一は自分でも少し可笑しくなった。新幹線に乗るわけでも、誰かを見送るわけでもない。ただ、なんとなく、ここへ来たかった。理由を言葉にするのは難しかった。強いて言えば、この場所には何かがある、とでも言うほかなかった。
 二十番線のホームに出ると、夜の空気がひときわ冷えた。発車を間近に控えた「のぞみ」が、静かな緊張感を漂わせながら停まっていた。乗り込む人々の流れの中に、誠一はひとり、柱にもたれて立った。
 そのとき、視界の端に、若いふたりの姿が映った。
 二十代の前半だろうか。女性は小さなキャリーバッグを持ち、男性はその肩に手を置いていた。ふたりは何も話していなかった。ただ、互いの体温を確かめるように、寄り添って立っていた。発車のベルが鳴った。女性が顔を上げた。男性が何か耳元に囁いた。女性は小さく笑って、それから泣きそうな顔になって、ドアの中へと消えていった。
 男性は、発車したホームの端まで歩いて行き、遠ざかる車両をいつまでも見送っていた。
 誠一は、そのうしろ姿から目が離せなかった。
 ずいぶん昔に、自分もああして立っていたことがある。
 あの頃のことを、もうずっと思い出していなかった。


二 一九九〇年代、大阪
 誠一が竹内あかりと出会ったのは、大学の二年生のときだった。
 同じゼミに入ってきた彼女は、愛知県の出身で、真面目で、笑うと口角が右だけ少し高くあがった。最初に話したのは、図書館の返却コーナーで同じ棚に同じ本を返しに行ったときだ。誠一が司馬遼太郎の文庫本を差し入れようとしたら、彼女が同じタイトルの本を持って隣に立っていた。ふたりして笑い出し、それが始まりだった。
 付き合い始めたのは、その年の秋だった。
 誠一は大阪の出身で、実家から大学に通っていた。あかりは大学の近くにアパートを借りていた。週に何度か、ふたりで食事をし、映画を観に行き、休日には神戸や京都まで出かけた。距離がないということが、こんなにも幸福なことだとは、そのときの誠一には分からなかった。幸福というのは、失ってはじめてその輪郭が見えるものだ。
 問題は、四年生になったときに現れた。
 あかりが東京の出版社に内定をもらった。誠一は大阪の機械メーカーに決まった。ふたりは、その事実を前にして、しばらくうまく話せなかった。別れを選ぶことも、続けることを選ぶことも、どちらも怖かった。結局、「続けよう」と言ったのは誠一のほうだった。あかりは小さく頷いた。
 そうして、ふたりの遠距離が始まった。
 新幹線で三時間弱。当時の特急料金は今より高く、新入社員の誠一には気軽には使えない金額だった。それでも、月に一度か二度、どちらかが会いに行った。東京へ行く月もあれば、あかりが大阪へ戻ってくる月もあった。待ち合わせはいつも新幹線の改札口で、会えた瞬間の喜びと、別れの瞬間の切なさが、毎回鮮やかに誠一の胸を締め付けた。
 あの頃、「シンデレラエクスプレス」というテレビドラマが流行っていた。東京と大阪を行き来するカップルの話で、日曜日の夜の最終新幹線に乗る女性が「シンデレラ」と呼ばれていた。魔法が解けるように、新幹線は彼女を日常へと連れ去っていく。誠一とあかりも、そのドラマを一緒に観たことがあった。
 「私たちみたいだね」と、あかりは言った。
 「どっちが王子でどっちがシンデレラだ」と、誠一は笑った。
 あかりはしばらく考えて、「あなたがシンデレラでいいよ」と言った。「私はちゃんと迎えに行くから」
 誠一はその言葉を、何年も胸の中に持ち続けた。


三 距離と時間
 遠距離というのは、不思議な時間の流れをつくりだす。
 会っている間は、時間がひどく速く過ぎる。一泊二日が夢のようにあっという間に終わって、気がつけばまた駅のホームに立っている。逆に、離れている間の時間は、時として恐ろしくゆっくり流れた。電話は週に一度か二度。メールはまだ普及していなかった。手紙を書いた。あかりからの手紙を、誠一は引き出しの中に大切にとっておいた。
 だが一方で、離れている時間の中で、ふたりはそれぞれの生活をしっかりと作り上げていった。それは当然のことだった。仕事があり、同僚がいて、飲み会があり、趣味があった。誠一には仕事仲間の飲み友達ができ、あかりには東京での暮らしが根を張り始めた。
 ふたりの間に、薄い膜のようなものが張り始めたのは、いつ頃からだっただろう。
 二年目の秋に、誠一は初めて気がついた。電話をかけながら、話す言葉を探している自分がいる。以前は言葉が溢れて止まらなかったのに、なんとなく、空白が生まれるようになっていた。あかりもそれを感じていたのかもしれない。会話はどこかぎこちなく、当たり障りのない話で埋められていった。
 決定的な出来事があったわけではなかった。
 ふたりは徐々に、会う頻度を減らしていった。互いに忙しくなったこともある。交通費の問題もあった。だが本当のことを言えば、会いに行くことへの理由を、お互いが少しずつ失い始めていたのだと思う。
 別れ話らしい別れ話は、しなかった。
 三年目の春に、誠一からあかりに電話をかけなくなった。あかりからもかかってこなかった。それがすべてだった。
 誠一はずいぶん長い間、あの別れを「距離に負けた」と思っていた。東京と大阪の三時間が、ふたりを引き離したのだと。だがこの年齢になって振り返ると、もう少し複雑な気がしてくる。距離は口実だったのかもしれない。本当に愛していたなら、三時間など乗り越えられたのではないか。それとも、三時間という距離は、若い人間が思うよりずっと重かったのか。
 分からない。
 ただ、それが若さというものだったのかもしれない、と誠一は思う。若さとは、傷つく力のことでも、愛する力のことでもなく、まだ「諦める理由」を知らない状態のことだ。そしてある日突然、諦め方を覚えてしまう。
 誠一にとって、あかりとの別れが、その最初の「諦め」だった。

四 その後の人生
 誠一は三十二歳のときに、今の妻、良子と結婚した。
 良子は同じ会社の営業部にいた。明るく、実用的で、誠一の不器用さをさらりと補ってくれる人だった。恋愛というより、信頼から始まった関係だったが、それが結婚には向いていたのかもしれない。ふたりの間には、長女の彩と、次女の莉子が生まれた。
 誠一は仕事をし、家庭を持ち、父親になった。
 平凡と呼ぶ人もいるだろう。誠一自身はそう思わなかった。平凡とはつまり、毎日が続いているということだ。大切な人が今日も笑っているということだ。それがどれほど難しく、どれほど尊いことか、若い頃には分からなかった。
 あかりのことは、ほとんど思い出さなかった。
 思い出さない、というより、思い出す機会がなかった、というほうが正確かもしれない。日々の中に、あの頃を呼び起こすものが何もなかった。リニアの開業ニュースを見たとき、「新幹線と言えば」と一瞬だけ蘇ってきたが、それは記憶というより風景の断片だった。東京駅のホーム。発車ベルの音。遠ざかる車両の窓に映った、若い自分の顔。
 そういえば、あかりはちゃんと幸せになっているだろうか、と思った。
 それだけだった。



五 莉子のこと
 次女の莉子は、今年で二十六歳になった。
 大学を出て、大阪の食品会社に就職した莉子は、同い年の岩瀬拓という男性と付き合っていた。真面目で穏やかな青年で、何度か家に連れてきたことがあった。誠一は彼のことを悪くないと思った。良子はもっと積極的で、「あの子ならいいわね」と莉子がいないところで何度か言った。
 だが今年の春、拓が福岡へ転勤になった。
 莉子はしばらく元気がなかった。誠一はそれを遠くから見ながら、何も言えなかった。親に何が言えるというのか。「頑張れ」とも「別れろ」とも「信じろ」とも言えない。ただ、毎晩ご飯を一緒に食べるときに、莉子が笑っているかどうかを確かめるだけだった。
 夏になって、莉子は少し明るくなった。月に一度か二度、神戸や大阪で拓と会っているようだった。中間地点を選ぶあたり、ふたりなりに知恵を使っているのだと分かった。
 誠一は、それを聞いたときに、胸の奥で何かが揺れた。
 中間地点。自分はそういう発想をしただろうか。会いに行くか、来てもらうか、その二択しか考えなかった気がする。あるいはその発想ができるくらいには、ふたりが対等だということかもしれない。
 今週末のクリスマスも、莉子は神戸へ行くらしかった。
 「帰りは何時になる?」と良子が聞いた。
 「終電より前には帰る」と莉子は答えた。
 誠一は、その「終電」という言葉を聞いた瞬間、またあのホームを思い出した。


六 リニアという名の未来
 二〇二七年、リニア中央新幹線の品川―名古屋間が開業する、はずだった。
 誠一の世代にとって、リニアはずっと「未来の乗り物」だった。子どもの頃に図鑑で見た、磁力で浮いて走る銀色の列車。それが現実になる日が来ると言われていたのに、工事の遅れや用地問題が重なって、開業は先送りになった。
 東京と名古屋が四十分になる世界。
 それが良いのか悪いのか、誠一には判断できなかった。便利になることは良いことだ。経済的にも意味がある。だが、四十分という距離の意味を、誠一は少し違う角度から考えてしまう。
 かつて三時間かかったから、別れが切なかった。
 かつて三時間かかったから、再会が喜びだった。
 距離が短くなれば、その感情の振れ幅も小さくなるのだろうか。別れの悲しさが薄くなる分、再会の喜びも薄くなってしまうのだろうか。
 それとも、距離は関係ない。感情の深さは、移動時間では測れない。
 どちらが正しいのか、誠一には分からなかった。ただ、自分たちが生きたあの時代、東京と大阪の間には、確かに「越えなければならない何か」があった。その「何か」が、ふたりを鍛えることもあれば、ふたりを引き離すこともあった。
 莉子と拓は、今その「何か」の中にいる。
 負けないでほしい、と誠一は思った。
 だがそれは、距離に負けないでほしいということではない。自分たちの気持ちに、正直でいてほしいということだ。諦める理由を、距離のせいにしないでほしいということだ。


七 真夜中のホーム、再び
 東京駅のホームで、誠一はまだ立っていた。
 若い男性はもう去っていた。「のぞみ」は夜の闇の中へ消えていった。代わりに次の列車の乗客たちが、ホームへと流れ込んできた。
 誠一は、ホームのベンチに腰を下ろした。
 隣に、若い女性がひとり座っていた。膝の上に小さなリュックを乗せ、スマートフォンの画面を見つめていた。メッセージのやりとりをしているのか、時折指が止まり、画面を見つめ、また動き出した。誠一にはその内容は見えなかったが、彼女の表情が、その言葉の温度を語っていた。
 嬉しそうで、少し不安そうで、でも確かに、誰かとつながっていた。
 誠一はそっと視線を外した。
 ガラス越しに、夜の東京が広がっていた。ビルの灯りが、ホームのガラスに映り込んでいた。誠一は若い頃、この景色を何度見たことだろう。別れのたびに、この灯りを見た。帰りたくない、と思いながら、行かなければならなかった。そして帰ったあとも、この灯りの残像が、しばらく脳裏に焼きついていた。
 あかりは今どこにいるのだろう、と誠一はふと思った。
 五十代になっているはずだ。どこかの街で、誰かと暮らしているだろう。子どもがいるかもしれない。自分と同じように、子どもの恋愛を遠くから眺める年齢になっているかもしれない。
 願わくは、幸せでいてほしい。
 それは恋情ではなく、もっと穏やかな、ほとんど見知らぬ人への祈りに近いものだった。かつて自分が大切にした人が、今も大切にされていることへの、静かな願いだ。


八 ガラスの靴
 新幹線のホームというのは、不思議な場所だと誠一は思う。
 空港とも、普通の駅とも違う。空港は「遠くへ行く」ための場所だ。普通の駅は「日常の移動」のための場所だ。新幹線のホームは、その中間にある。遠くへ行くけれど、まだ帰れる距離。異国ではないけれど、隣町でもない。
 そういう微妙な距離感が、人の感情を揺さぶるのかもしれない。
 行けば会える。でも、そう簡単には行けない。
 その「簡単ではない」という部分が、感情に重さを与える。毎日会える人への気持ちと、月に一度しか会えない人への気持ちは、質が違う。良い悪いではなく、密度が違う。離れているから見えてくるものが、確かにある。
 あのドラマの主人公は「シンデレラ」と呼ばれていた。
 魔法が解ければ、馬車はカボチャに戻り、ガラスの靴だけが残る。新幹線が走り去れば、ホームには男だけが残る。女はもう、遠い場所へ向かっている。
 でも、ガラスの靴は残った。
 王子はその靴を持って、シンデレラを探しに行く。それが物語の続きだ。
 誠一は、あかりとの間に、ガラスの靴を残しただろうか。
 残したとすれば、それは何だったのだろう。
 引き出しの中にしまった手紙の束か。図書館の返却コーナーで重なった、司馬遼太郎の文庫本か。「あなたがシンデレラでいいよ」という言葉か。
 どれも、もう手元にはない。
 だが確かに、あったのだ。


九 クリスマスの神戸
 十二月二十三日、莉子は朝から浮き足立っていた。
 誠一が気づかないふりをしていると、良子が「見ててあげな」と耳元で囁いた。莉子は大きなコートを着て、「行ってきます」と言い、玄関を出た。
 誠一はその後ろ姿を見送りながら、胸の中で何か言おうとして、やめた。
 代わりに、心の中だけで呟いた。
  負けるなよ。
 それはかつて東京駅のホームで若いカップルに向けた言葉と、同じ言葉だった。だが今度は、その言葉に少し違う意味が混じっていた。
 距離に負けるな、ではない。
 自分たちの弱さに、負けるな。
 面倒くさくなったとき、会いに行く理由が見つからなくなったとき、そのとき逃げるな。諦める言葉を、距離のせいにするな。それだけだ。
 あとは、ふたりで決めること。
 誠一にできることは、もうそれだけだった。


十 シンデレラエクスプレス
 夜の九時を過ぎた頃、莉子から短いメッセージが来た。
 「楽しかった。もうすぐ帰る」
 誠一はその文面を見て、小さく笑った。
 良子は「夕飯、取っておこうか」と聞いた。誠一は「おいといてやれ」と答えた。ふたりしてテレビを見ながら、莉子の帰りを待った。
 十一時を少し過ぎた頃、玄関のドアが開いた。
 莉子は頬が少し赤かった。寒さのせいか、それとも別の何かのせいか。コートを脱ぎながら、「ただいま」と言った声が、いつもより少しだけ柔らかかった。
 「どうだった」と良子が聞いた。
 「うん」と莉子は言った。「良かった」
 それだけだった。だが誠一には、それで十分だった。
 良かった、という言葉の中に、どれだけのものが詰まっているか。苦労して会いに行った日の「良かった」は、簡単に手に入れた「良かった」とは、やはり密度が違う。
 莉子はお風呂に入りに行った。
 誠一は、テレビの画面をぼんやりと見ながら、東京駅のホームのことを考えた。あの若い男性は、今夜どんな夜を過ごしているだろう。あの女性は、どこかの街へ帰り着いただろうか。
 それから、あかりのことを考えた。
 今夜も、どこかで誰かを待っている人がいる。どこかで誰かを見送っている人がいる。列車が走るかぎり、別れと再会は繰り返される。それはリニアになっても変わらないだろう。四十分になっても、人が誰かを恋しいと思う気持ちは、距離とは別のところで生まれるのだから。
 シンデレラの魔法は、真夜中に解ける。
 でも、ガラスの靴は残る。
 そして王子は、靴を持って歩き続ける。
 誠一は、ソファの背もたれに身を預けながら、目を閉じた。
 外では、今夜もどこかで、新幹線が走っているだろう。
 師走の夜の、灯りの中を。
 誰かを乗せて、誰かの元へと、走り続けているだろう。



♪ ガラスに浮かんだ街の灯に
溶けてついてゆきたい
ため息ついてドアが閉まる
何も云わなくていい 力を下さい
距離に負けぬよう
シンデレラ 今 魔法が
消えるように列車出てくけど
ガラスの靴 片方 彼が持っているの。。。 ♪



あとがき
 この物語は、一篇の詩から生まれました。
 詩を書いた人は、師走の夜にひとりで都内を散歩し、最後に東京駅へと足を向けました。特に理由があったわけではない、と詩の中にあります。でも、理由がないのに足が向く場所というのは、実は最も正直な場所なのだと思います。頭で選んだのではなく、体が覚えていた場所。そこには必ず、何かが眠っています。
 東京駅の新幹線ホームで、若いカップルの別れを目にしたとき、詩の書き手の中で何かが静かに揺れた。その揺れを、私はこの小説の中で「田村誠一」という人物に託しました。
 遠距離恋愛というテーマは、時代を超えて普遍的です。しかしその中身は、時代によって少しずつ形を変えてきました。手紙しかなかった時代、電話が中心だった時代、メールが登場した時代、そしてスマートフォンでいつでも繋がれる今の時代。道具は変わっても、誰かを待つ夜の長さは、たぶん変わっていない。
 リニアのことを詩の中で触れていたのが、印象的でした。
 四十分になれば、距離は消えるのか。消えたとして、それは幸福なことなのか。便利さと引き換えに、何かが薄れていくのではないか。そんな問いが、詩の行間から滲み出ていました。私もその問いに、簡単には答えられません。ただ、距離があったからこそ生まれた感情の深さというものは、確かにあった気がします。不便の中にしか育たない何かが、あの時代にはあったのかもしれない。
 詩の最後に、次女の恋愛が静かに登場します。
 父親として、何も言えない。でも、心の中で「負けるなよ」と呟く。その一言に、この詩のすべてが詰まっていると感じました。かつて距離に負けた自分が、同じ道を歩き始めた娘に向けて、言葉ではなく祈りのように発する言葉。それは後悔でも説教でもなく、ただの、愛情です。
 「シンデレラエクスプレス」というタイトルは、かつて実在したテレビドラマから着想を得ています。東京と大阪を繋ぐ新幹線を「魔法の馬車」に見立て、日曜の夜に帰っていく女性を「シンデレラ」と呼んだ。その詩的な比喩が、時代を経た今も色褪せないのは、別れの切なさというものが、どの時代にも変わらないからでしょう。
 魔法は解ける。列車は走り去る。
 でも、ガラスの靴は残る。
 そしてそれを手に、人は次の一歩を踏み出していく。
 この物語を読んでくださった方の中に、かつてホームで誰かを見送った記憶のある方がいれば、その夜のことをほんの少し思い出していただけたなら、それ以上の喜びはありません。そして今まさに、誰かを待っている夜の中にいる方がいれば、どうか、負けないでいてほしいと思います。
 距離は、関係を壊すためにあるのではなく、関係を深めるために与えられた試練なのかもしれないから。
令和七年 冬


近日 Kindle  予定


【まえがき:止まった時計と、四十分の魔法】
 

二〇二七年。
 本来なら、この国を走る鉄路の歴史が塗り替えられているはずだった。東京と名古屋をわずか四十分で結ぶという、夢の超特急。その「魔法」のような速さが現実になる日を、私はどこか落ち着かない気持ちで待ちわびていた。


 しかし、開業のベルは鳴らなかった。
 工事の遅れ、延期。ニュースが伝える乾いた事実を耳にしたとき、私は落胆よりも、ふとした安堵(あんど)を覚えたのだ。もし、四十分で着いてしまったら。あの切ない別れの時間も、再会を願う焦がれるような時間も、すべて「効率」という言葉の中に溶けて消えてしまうのではないか。


 かつて、新幹線が「一時間四十分」という重い時間をかけて二つの街を繋いでいた時代があった。日曜日の夜、東京駅のホーム。そこには、距離という怪物に必死に抗い、そして負けていった、名もなき恋人たちの物語が無数に転がっていた。


 還暦を目前にした今、私は再びあのホームに立つ。そこには、かつての自分によく似た若者たちが、今も変わらず別れを惜しんでいる。これは、距離に負けてしまった「あの日」の僕と、物理的な距離を軽やかに飛び越えていく「今」の若者たち、そしてその狭間で揺れ動く、一人の男の物語である。


【第1章:未完の線路と、六十歳の境界線】
 二〇二七年、春。三月の風にはまだ尖った冷たさが残っているが、街路樹の蕾(つぼみ)は確実に膨らみ、新しい季節の足音を告げている。


 リビングのソファに深く腰を下ろし、僕はスマートフォンの画面に躍るニュースを眺めていた。『リニア中央新幹線、開業延期――』。
「……やっぱり、伸びちまったか」
 思わず漏れた独り言に、キッチンから妻のアキコが顔を出した。「あら、残念?」
「残念、っていうか……。四十分で着いちまうなんて、魔法みたいだと思ったけどな。いざ延びたとなると、どこかホッとしてる自分もいるんだ。四十分じゃあ、心の準備ができないだろ」


 アキコとの出会いは、大学の図書館だった。一冊の専門書に伸ばした僕の手が、誰かの手と重なった。譲り合っているうちに、結局別の誰かに借りられてしまい、その本が何だったのかは今も分からない。けれど、その「空白」から僕たちの物語は始まった。


 そんな穏やかな日常に、次女のナナが飛び込んでくる。「今年のクリスマスは、彼と中間地点の神戸で会うことにしたの」。合理的で軽やかな令和の恋。僕たちの「昭和」とは違う、新しい魔法がそこにはあった。


【第2章:ガラスの靴を落とした駅】
 一九八〇年代後半。リニアなんて影も形もなかった頃。大学時代の恋人、ユウコ。卒業と同時に訪れた遠距離恋愛。当時は「一時間四十分(ひかり)」という数字が、絶望的な壁として立ちはだかっていた。


 日曜の夜、東京駅十九番ホーム。二十四歳の僕たちは、一分一秒を惜しむように立っていた。「カズヒサ、大好きだよ。忘れないで」。プシューという音とともにドアが閉まる。ガラス越しにユウコが何かを叫んでいる。


 結局、僕たちは距離に負けた。電話の声は少しずつ遠い街のノイズに混じって消えていった。今の僕がホームで若いカップルに呟く「負けるなよ」という言葉は、あの日、彼女の手を離してしまった自分自身への、長い年月をかけた赦(ゆる)しの言葉だったのかもしれない。


【第3章:中継地点のクリスマス】
 十二月。ナナは「中間地点」の神戸へ行く準備に余念がない。ビデオ通話で挨拶してきた彼女の恋人・祥太くんは、屈託のない笑顔でリニアを待ち望む現代の青年だった。


「道中、気をつけてな。……ちゃんと、寂しい顔をするんだぞ」
 僕の小言にナナは笑う。「離れるのが寂しいのは、新幹線が何分になっても同じだよ」。その言葉に、僕は少しだけ救われた。便利になっても、人を想う心の震えは変わらない。


【第4章:もらいに来る足音】
 僕は娘たちに厳しく伝えてきた。「お前たちが選んだ男なら信じる。だが、もし父さんがダメだと言ったなら、その時は諦めろ」。それは父としての最後の矜持だった。けれど、彼女たちはいつも僕がカードを出す隙もないほど、良い男を選んできた。


 クリスマス当日、ボストンバッグを肩に家を出て行くナナの背中を見送りながら、僕は思う。そろそろ、彼がナナを「もらいに来る」頃かもしれない。僕がかつて持てなかった「一線を踏み越える勇気」を、今の若者たちは持っている。


【第5章:40分の魔法が解けても(エピローグ)】
 二〇二七年、冬。結局、リニアの工事現場を覆う白いフェンスはまだそのままだ。


 僕は再び、東京駅のホームに立っていた。スマホには、新神戸駅で笑い合うナナと祥太くんの写真。「いい男じゃないか」。僕は満足げに鼻を鳴らした。


 リニアが四十分で世界を繋ぐ日が来ても、あるいは永遠に来なくても、大切な人の元へ駆けつけたいと願う「心の距離」だけは、誰にも奪えない。


「良い時代を、過ごせたのかもしれないな」
 滑り込んできた新幹線の白い車体に、街の灯が鮮やかに反射する。僕は、自分の人生という物語の「次の一行」を書くために、ゆっくりと歩き出した。


【あとがき:ガラスの靴を、次の世代へ】
 最後までお読みいただき、ありがとうございます。
 この物語の断片は、ある夜、久々に歩いた東京駅のホームで生まれました。最終列車を見送る若いカップルたちの姿を見たとき、私は不意に、四十年前の自分に出会ったような気がしたのです。


 不器用だった昭和の恋。距離に負け、ホームに片方のガラスの靴を置き去りにしたまま生きてきた私。けれど、その後に始まったアキコとの人生が、私を還暦という節目に導いてくれました。


 今、娘たちは新しい魔法で距離を乗り越えようとしています。父親として、私は彼女たちの選んだ道を信じています。


 この本を書き終えた今、ようやく私は、あの夜のホームに置き去りにしていたガラスの靴を、そっと拾い上げることができたような気がします。
 「負けるなよ」。かつての自分に、そして今を生きるすべての恋人たちに、この言葉を贈ります。

二〇二六年 春




ーおまけー
これは以前ブログに書いたものを
物語に仕立てました
その時のブログを
そのまま掲載しておきます

シンデレラエクスプレス

2027年
リニアは開業になる予定だったけれども
どうやら伸びてしまったようで
僕たちは間に合うのだろうか

間に合ったならば
それにより
東京~名古屋間は わずか40分にもなるそうだが

それが良いのか
悪いのか

僕ら世代には分からない

それでもあの頃
多くの若者たちが
距離に負けた いくつもの運命に
是非 味方して欲しいと願いつつ
目の前の今を
生きねばならない…

先日
久々に
あちらこちらを散歩してみた都内で

最後に選び 乗り込んだ駅は
東京駅で

真夜中のホームでは
あちらこちらに
チラホラ見える 若いカップルたちの姿

なんだか
昔の僕らを見たかのようで
嬉しさと
切なさとが交差する心の中で

ひとり
”負けるなよ” って呟いた。。。

週末を
ギリギリまで東京で過ごし
遅い時間の新幹線となったホームでは

別れを惜しむ
多くのカップルたちの姿が
そこにはあって

それぞれの事情と
この先の未来とを
勝手に想像なんかして

あ~~ と
僕も
昔を懐かしんだ

♪ ガラスに浮かんだ街の灯に
溶けてついてゆきたい
ため息ついてドアが閉まる
何も云わなくていい 力を下さい
距離に負けぬよう

シンデレラ 今 魔法が
消えるように列車出てくけど
ガラスの靴 片方 彼が持っているの。。。 ♪

大学時代に 
つきあい始めた2人なのに
卒業と同時に 
それぞれの地に戻り 
想像以上の遠距離になってしまい

たまの週末に 
どちらかで再会し 
また 名残惜しく去ってゆく

場面を浮かべるならば
東京駅の新幹線のホ~ムでの
日曜日の夜の最終列車で
またしても
離れ離れになってしまう
多くの若いカップルたち

確かに
こんな僕にも
そんな時代があったことを
すっかり 忘れて過ごしていた今日

いつかのドラマで見たような
甘く 
切ない
そんな時代

なぜかまた
羨ましくなった その若さ

結局
その
距離に負けちまった僕らだったけれども

もしかすると
こんな僕も
良い時代を
過ごせたのかもね

この春に
彼氏の転勤により
遠距離となってしまった次女は
今週末のクリスマスには
中間の神戸で会うらしい

それよりも
そろそろ
貰いに来る頃かとも
親は
勝手に
思っては
みるけれども…


近日 Kindle 予定作


『21世紀のあなたへ  届かなかった未来と、時効の恋』

ーはじめにー
二十一世紀になれば、世界はもっと輝いていると信じていました。
幼い頃に思い描いた未来には、空を飛ぶ車や、生活を支えてくれるロボットが存在し、人はただ穏やかに生きるだけでよいはずでした。
しかし、実際に辿り着いた現代は、その理想とはどこか違う場所にあります。
便利さの裏で、失われていく心の余裕。
繋がりやすくなったはずなのに、深まらない人と人との距離。
そんな時代の中で、ふと思い出したのは、かつて届いた一通の手紙でした。


それは、二十年の時を越えて届けられた「未来への問い」でした。
そして今、さらに二十年という歳月を経て、私は人生の節目に立っています。
過去は戻りません。
けれど、記憶は消えません。
この物語は、ある一人の男の回想であり、かつて未来を信じていたすべての人へ向けた、小さな記録です。
読み終えたとき、あなたの中に、わずかでも静かな風が残ることを願っています。


第一部:失われた未来
二十一世紀になれば、世界はもっと優しくなると思っていた。
それは、誰かに教えられたわけではない。
ただ、子どもの頃に見た未来図が、そう語っていただけだ。
だが現実は違った。
世界は便利になり、速くなり、繋がりやすくなった。
それでも、人の心はどこか置き去りにされたままだった。
ニュースは絶えず誰かの過ちを告げ、
人は簡単に他人を切り捨てる。


若者は未来を語らない。
語る前に、諦めてしまう。
——何かが、間違っている。
そう思いながらも、その「何か」を掴めないまま、時間だけが過ぎていく。


眠れない夜。
机の引き出しを、私は開けた。
そこにあったのは、かつて捨てたはずの記憶の欠片だった。
擦り切れた一枚の紙。
そして、かすかに残る言葉。
「お元気ですか?」
その一行だけで、時間は巻き戻る。
——まだ、終わっていなかったのか。


第二部:あの頃の光
彼女と出会ったのは、夏の終わりだった。
駅前の喫茶店で、偶然隣に座ったのが最初だった。
特別な出来事は何もなかった。
未来を語り、
笑い、
同じ時間を共有するだけで満たされていた。
「二十一世紀って、きっとすごいよね」
あの頃の私たちは、未来を疑わなかった。
あの日のことを、今でも覚えている。


雨が降っていた。
喫茶店の窓を、細い雨筋がゆっくりと流れていく。
店内には古いジャズがかかっていて、客はまばらだった。
彼女は、いつものように本を持ってきていたが、その日はほとんどページをめくらなかった。
「ねえ」
ふいに、彼女が言った。
「もしさ、未来が思ってたのと違ってたら、どうする?」
私は少し考えてから、肩をすくめた。
「そのとき考えるよ」
「ずるい答え」
彼女は笑ったが、その目は笑っていなかった。


「私はね」
少し間を置いて、彼女は続けた。
「たぶん、ちゃんと悲しむと思う」
その言葉は、妙に心に残った。
未来は、裏切ることがある。
でも、それを受け止める準備をしている人間と、していない人間がいる。
彼女は、前者だったのだと思う。
私は、そのとき初めて、彼女が自分よりも少しだけ大人であることに気づいた。

違和感は、少しずつ積もっていた。
言葉の端々に、わずかな距離が生まれていた。
沈黙の時間が、以前よりも長くなっていた。
それでも私は、それを見ないふりをしていた。
ある日、帰り道で彼女は立ち止まった。


「ねえ」
呼び止められて振り返ると、彼女は少しだけ困ったような顔をしていた。
「あなた、未来のこと、ちゃんと考えてる?」
私は答えられなかった。
その瞬間、見えない何かが決定的にずれていることだけが、はっきりと分かった。

別れは、静かだった。
「あなたは、このままじゃいけない人だから」
私は、何も聞かなかった。


第三部:時間の手紙
二〇〇一年。
届いた一通の年賀状。
それは、二十年前の彼女からだった。
手紙を開くまでに、少し時間がかかった。
紙の感触が、妙に生々しかった。

二十年という時間を越えてきたはずなのに、
それはまるで「今」書かれたばかりのようだった。
「お元気ですか?」
その一行で、視界がぼやけた。
呼吸を整え、続きを読む。
「そして、そこに私もいますか?」
時間が、止まった。

私は、そこにいなかった。
彼女も、いなかった。
それだけが、はっきりと分かった。
私は、その手紙を捨てた。


第四部:再びの現在
さらに二十年が過ぎた。
還暦を目前にした私は、ようやく理解し始めていた。
人は、すべてを持って進むことはできない。
何かを置いていくことでしか、前に進めない。

だが、それでも——
完全に手放すことなど、本当はできないのだ。

私は考えた。
会いに行くべきか、と。
そして、その答えは静かに決まった。


終章:未来へ
彼女には、会わなかった。
会わないほうが、美しいものがある。

あの手紙の中の彼女。
記憶の中の彼女。
それは、時間に触れられていない、唯一の場所にあった。


私は、あの問いに答える。
「そこに私もいますか?」
——いる。
ずっと。

君は、あの頃のままで。
そして私は、机に向かった。
便箋を取り出し、静かに書き始める。

未来の自分へ。
あるいは、まだ見ぬ誰かへ。
二十一世紀は、思い描いていた未来ではなかった。
それでも。
人は、誰かを想い、言葉を残すことができる。
それだけで、未来は完全に失われたわけではない。
書き終えた手紙を、そっと封じる。
今度は、捨てない。
残す。
届くかどうかではなく、
ここに確かにあったという証として。

夜は静かだった。
それでも——
確かに生きてきた時間だけが、
胸の奥に、わずかな温もりとして残っていた。

私は目を閉じる。
振り返ることはしない。
ただ、抱えたまま、生きていく。
それでいいと思えた。



ーあとがきー
二十一世紀は、もっと優しい未来だと思っていた。
空を飛ぶ車、穏やかな暮らし、満ち足りた時間。
けれど私たちが辿り着いた現実は、どこか違っていた。
そんな時代の中で、ふと届いた一通の手紙。
それは、二十年前に書かれた「未来の自分へ」の言葉だった。

「お元気ですか?
 そして、そこに私もいますか?」

かつて愛した人からの問いに、今の自分は何を答えられるのか。

再会しない選択。
それでも消えない記憶。
そして、時間の中に残された想い。

本作は、過ぎ去った時代と、届かなかった未来を静かに見つめる、ひとりの男の回想です。

派手な出来事は何もない。
けれど、誰の心にも確かにある「失われた時間」と「忘れられない人」を描いた、静かな物語。
読み終えたあと、あなたの中にも、ひとつの記憶がそっと息を吹き返すかもしれない。




ーおまけー
これは以前
ブログで書いたものを
物語に仕立てたものです
その時のブログを
そのままここに載せて置きます

2001年のお正月に
実家へと 
年賀状に紛れて届いた手紙

差出人は当時の彼女

お袋
何も言わなかったけれど
きっと
まさか お前 まだ? なんて
疑ったかも?

それは
「21世紀のあなたへ 」っていう
20年も前の 郵便局の企画で
2001年の未来のどなたかに
今の気持ちを届けるというもの

お元気ですか?
そして
そこに 私もいますか? って。。。

一瞬にして
連れ戻された時間

叶わなかったけれど
嬉しかった心遣い

ありがとう
ありがとう と呟き
少し迷ったけれど 処分した手紙

そんな日から
更にまた
20年もが過ぎようとしている今日

お互いすでに還暦間近
ならば
あれこれのことは 
もうすべてが時効なはずで

取り巻く環境すらも
おそらくすべてが許すはず
ならば
元気な内に
また笑顔でとも思いながら

この人生の中で。。。

近日 Kindle 予定作


十代の刻印   二千四十六人の行進

現代の孤独な男が、身体の痣に導かれて300年前の「義」の真相に触れ、自身の命の意味を再定義する物語です。

【あらすじ】
都内の中堅商社に勤める**佐藤(主人公)**は、50歳を過ぎた頃から奇妙な夢にうなされるようになる。それは真珠湾の爆音、そして雪降る江戸の街。ある夜、夢に現れた大石内蔵助に「なぜ来ぬのだ」と一喝され、飛び起きた彼の身体には、夢の中の負傷と同じ場所に「痣」が浮かび上がっていた。
自分のルーツを探るべく泉岳寺を訪れた彼は、47士の一人・横川宗四郎の墓前で、自分のDNAに仕掛けられた「300年目の時限装置」が作動する音を聞く。



【主要登場人物】
• 佐藤 慎一(52):現代の主人公。独身。自分の人生に虚無感を感じていたが、痣の発現を機に先祖調査を始める。
• 横川 宗四郎:赤穂浪士の一人。夢の中に現れ、慎一に「命の繋ぎ方」を説く。
• 志乃:泉岳寺近くで古本屋を営む女性。古文書に詳しく、慎一のルーツ探しを助ける。実は彼女もまた「ある記憶」を継ぐ者だった。

第一章:雪の糾弾
 その声は、鼓膜ではなく、直接魂の奥底を揺さぶるような地鳴りとなって響いた。
「討ち入りの日に、なぜ貴殿は来ぬのだ」
 視界を埋め尽くすのは、狂おしいほどに純白な雪。そして、闇を切り裂く松明の炎。その中心に、一人の男が立っていた。浅野家の家紋、丸に違い鷹の羽を背負った男――大石内蔵助だ。その眼光は、降り頻る雪さえも射抜くほどに鋭く、そして深い悲しみを湛えていた。
「……私は」
 声が出ない。慎一は、自分が足袋(たび)ひとつ履かず、冷たい石畳の上に立ち尽くしていることに気づく。
「腹に傷があるだろう。首にも傷があるだろう。それが義士であった証拠ではないか。それほどの証を刻んでおきながら、なぜ今、ここに立ち会わぬ!」
 内蔵助が半歩、踏み出す。その威圧感に圧し潰されそうになった瞬間、視界が歪んだ。
 内蔵助の背後に、もう一人の影が立つ。静かな、しかし確かな存在感を持つ男。
 ――横川宗四郎。
 彼は何も言わず、ただ自分の左手を見つめていた。その小指からは、どろりとした赤黒い血が雪の上に滴り落ちている。
「はっ……!」
 慎一は、弾かれたように跳ね起きた。
 寝室の空気は冷え切っていた。喉は焼けつくように乾き、心臓の鼓動が耳元で暴れている。
 夢だ。ただの夢だ。
 そう自分に言い聞かせようとして、彼は凍りついた。
 左手の小指が、疼いている。
 長年、原因不明のまま治ることのなかった古傷。それが、今この瞬間だけは、まるでたった今切り裂かれたかのような熱を帯びていた。
 慎一は震える手で寝巻きの裾を捲り上げた。
 鏡を見るまでもない。そこには、幼い頃からあった「左太ももの痣」と、へその横にある「妙な形の痣」が、暗闇の中でどす黒く浮き上がっていた。
「では……私は、一体……」
 独り言が、冷たい部屋に溶けて消える。
 夢の中で内蔵助が最後に漏らした「いずれわかる」という言葉が、呪文のように脳裏をリフレインしていた。
 慎一は、窓の外を仰ぎ見た。
 時計の針は午前五時を回ったところだ。
 彼は吸い寄せられるようにクローゼットを開け、コートを手に取った。向かう先は決まっている。高輪、泉岳寺。
 そこには、三百年分の「私」が待っているはずだった。

第二章:二千四十六人の行進
 早朝の環状八号線は、まだ眠りの中にある。慎一はハンドルを握りながら、何度も左手の手のひらを突き返して見た。小指の古傷が、脈打つように熱い。
(気のせいだ。ただの夢だ。……そう言い切れるか?)
 五十二歳。人生の折り返し地点を過ぎ、ふと背後を振り返ったとき、そこには何もない空虚が広がっていると思っていた。独り身の自分がいなくなれば、この血筋は絶える。ただそれだけのことだと。
 しかし、昨夜の計算が、頭の中から離れない。
 信号待ちの最中、彼は指を折った。
 父と母がいて、自分がいる。その上には四人の祖父母。さらに上には八人の曾祖父母。
 一代を三十年と仮定して、江戸元禄のあの日まで遡れば、およそ十代。
「……二千、四十六人」
 その数字を口にした瞬間、車内の空気が一変した。
 バックミラーに映る自分の顔の背後に、無数の影が揺らめいた気がした。
 三百年という時間は、歴史の教科書の中では果てしなく遠い。しかし、命のリレーで見れば、たった十人がバトンを繋いだだけの距離に過ぎないのだ。
 飢饉があった。震災があった。戦火があった。
 その過酷な三百年を、二千四十六人の誰一人として欠けることなく、戦い抜き、生き延び、次の世代へ命を託した。その凄まじい執念の連鎖の最先端に、今、自分は座っている。
「……時限装置か」
 誰かが、この血の中に仕掛けたのだ。
 「いつか、この動乱の記憶が必要になる時が来る。その時まで、この傷を、この痣を、目印として残しておこう」と。
 それが、五十を過ぎた今、泉岳寺へと自分を突き動かしている。

第三章:呼応する石
 午前六時。開門直後の泉岳寺は、凛とした静寂に包まれていた。
 線香の匂いが微かに漂う境内を、慎一は吸い寄せられるように奥へと進む。
 四十七士の墓所。
 そこには、整然と並ぶ小さな石碑があった。一つ一つに刻まれた名。
 慎一は、足が止まった。
 「横川宗四郎」
 その名の前に立った瞬間、左太ももの痣が、燃えるような熱を発した。
「……横川殿」
 慎一は膝をつき、墓石に手を触れた。
 その瞬間、視界が白く弾けた。
 ――雪。飛び散る火花。滑る足元。
 裏門から突入した際、槍の柄を握り直そうとして、敵の刃が左の小指を掠めた。
 激痛。しかし、止まることは許されない。
 「横川、行けッ!」
 背後から響くのは、夢で聞いたあの内蔵助の声だ。
 私は叫び、冷たい空気を切り裂いて、吉良の懐へと踏み込んだ。
 その時、首筋に走った冷や汗のような戦慄。そして、腹部に受けた衝撃。
「うっ……!」
 慎一は思わず自分の腹を押さえた。
 痣がある場所だ。首の後ろの古傷がある場所だ。
 墓石から伝わってくるのは、死者の沈黙ではない。今もなお、脈動し続ける「意志」だった。
「わかったんですよ。自分が何者かが」
 慎一は、誰に言うでもなく呟いた。
 横川宗四郎が夢で見せた微笑。それは「よくぞ辿り着いた」という労いだったのか。
 
 ふと視線を感じて顔を上げると、少し離れた場所に、一人の女性が立っていた。
 古びた和綴じの本を抱え、不思議なほど透き通った瞳で慎一を見つめている。
「……あなたも、その痣に呼ばれたのですか?」
 彼女の問いかけに、慎一は息を呑んだ。

第四章:古文書の囁き
 志乃と名乗ったその女性は、泉岳寺の門前で細々と古書店を営んでいるという。彼女が抱えていたのは、表紙の擦り切れた一冊の和綴じ本だった。
「その左手の仕草……小指を無意識にかばう癖。横川宗四郎公の遺した書状にある記述と、全く同じです」
 境内近くの小さな茶所に席を移すと、志乃は慎一の前にその本を広げた。そこには、討ち入り直前の緊迫した空気の中で綴られた、隊士たちの私的な記録が写されていた。
「横川公は、討ち入りで左の小指を深く負傷しました。しかし、彼はそれを『不覚』とは呼ばなかった。彼はこう記しています。『この痛みこそ、我が生きた証。願わくば、この熱き血の記憶を、いつか遠き日の同胞(はらから)に託さん』と」
 慎一は息を呑んだ。「託さん……?」
「ええ。彼は単なる復讐者ではなかった。自分の命が潰えても、その精神や、あの夜に見た雪の白さ、義の重みを、誰かが受け継いでくれると信じていたのです」
 志乃は慎一の痣を、まるで見透かすように見つめた。
「占い師は前世の傷だと言うでしょう。でも、私は違うと思います。これは**『情報の転写』**です。三百年前、横川公や、彼を取り巻いた人々の強い想いが、DNAという名の微細な回路に焼き付けられた。それが十代の年月を経て、あなたという器の中で発火した。それが、あなたの言う『時限装置』の正体ではありませんか?」

第五章:二千四十六人の咆哮
 志乃の言葉を聞きながら、慎一の脳裏に、かつて見た真珠湾の夢が重なった。激しい爆音、海へと突っ込んでいく絶望と使命感。そして、今の赤穂の夢。
「……私は、複数の記憶を持っているようです。真珠湾で散った若者の記憶も、赤穂で腹を切った男の記憶も」
「当然です」志乃は力強く頷いた。「あなたの背後には、二千四十六人の先祖がいる。その一人一人が、それぞれの時代を必死に生き、命を繋いできた。戦国を駆け抜けた者もいれば、幕末の動乱に散った者もいるでしょう。その膨大な『生』のデータが、あなたの身体には詰まっているんです」
 慎一は自分の両手を見つめた。
 この手は、単なる自分の手ではない。
 ある時は槍を握り、ある時は操縦桿を握り、またある時は愛する者の手を握りしめてきた、二千四十六人分の「手」なのだ。
 急激な熱が、足首からせり上がってくるのを感じた。
 それは恐怖ではなかった。得体の知れない勇気のような、太い奔流だった。
「内蔵助に『なぜ来ない』と責められた理由が、ようやく分かった気がします。彼は、私が逃げていると叱ったのではない。これほど多くの命を受け継ぎながら、自分一人だけの人生だと思い込み、小さくまとまって生きている私を、揺さぶり起こしたんだ」

第六章:全うする使命
 泉岳寺の門を出るとき、日は高く昇っていた。
 朝の刺すような寒さは和らぎ、柔らかな陽光が慎一の肩を包んでいる。
 慎一は、スマホを取り出し、しばらく連絡を絶っていた仕事仲間にメッセージを送った。そして、実家の仏壇に供えるための新しい線香を買い求めた。
 三百年。わずか十代。
 そのリレーの最終ランナーとして、今、自分はバトンを握っている。
 左手小指の痛みは、もう不快ではなかった。むしろ、自分が「独りではない」ことを教えてくれる、誇らしい勲章のように思えた。
(横川殿。そして、私に繋がってくれた二千四十六人の皆。……見ていてくれ)
 慎一は、誰にも聞こえない声で誓った。
 この命、必ず全うする。
 日々を大切に、丁寧に、そして時には大胆に。
 彼らが生きられなかった「今日」という時間を、自分は二千四十六人分の重みを持って生きてみせる。
 歩き出した慎一の背筋は、かつてないほど真っ直ぐに伸びていた。
 風が吹き抜け、彼の耳元で、誰かが満足げに笑ったような気がした。

終章:共鳴する魂(エピローグ)
 あれから、三年の月日が流れた。
 十二月十四日。今年もまた、東京には冷たい風が吹いている。しかし、慎一の心には、かつてのような凍てつく孤独はなかった。
 彼は今、一冊の本を手に泉岳寺の山門をくぐった。表紙には、彼自らが綴った物語のタイトルが躍っている。
『十代の刻印 ― 二千四十六人の行進』。
 自分の身体に現れた痣、夢の中の内蔵助の叱咤、そして横川宗四郎との魂の邂逅。それらすべてを、彼は逃げることなく言葉に定着させたのだ。
 驚くべきことに、本が出版されると、全国から不思議な便りが届き始めた。
「自分も右肩に刀傷のような痣がある」「理由もなく特定の時代に郷愁を感じる」……。
 慎一は悟った。自分だけではなかったのだ。この国に生きる多くの人々が、DNAという名の「時限装置」を抱え、先祖たちの未完の想いを静かに運んでいる。
 横川宗四郎の墓前に、慎一は静かに本を供えた。
「……全うしていますよ。精一杯に」
 左手小指の傷は、今ではもう疼くことはない。しかし、その痕跡は消えることなく、誇り高い「戦友」のようにそこに在る。
 ふと、背後から声をかけられた。
「良い顔になられましたね、佐藤さん」
 振り返ると、あの古書店の店主、志乃が立っていた。彼女もまた、三年前と変わらぬ透き通った瞳で慎一を見つめている。
「志乃さん。……おかげさまで、ようやく分かりました。私が何者であるか」
「それは良うございました。先祖たちは、あなたがその答えに辿り着くのを、三百年待っていたのですよ」
 二人は並んで、冬の青空を仰いだ。
 空の向こうには、かつて慎一が夢に見た真珠湾の蒼穹(そうきゅう)があり、さらにその奥には、雪の江戸の闇がある。それらすべてが、今、この瞬間の光の中に溶け込んでいる。
 慎一の背後には、二千四十六人の先祖たちが、まるで巨大な翼のように広がっている。
 彼らはもう、慎一を責めることはない。
 ただ、彼の歩む一歩一歩に、静かな喝采を送っているのだ。
「行きましょうか」
 慎一は志乃に微笑みかけ、歩き出した。
 一歩踏み出すごとに、地を踏みしめる確かな感覚がある。
 
 命は、繋がっている。
 傷は、愛した証。
 痣は、生きた証。
 
 慎一の影は、冬の陽光を浴びて、どこまでも長く、力強く伸びていった。
(完)


―あとがき ―
二千四十六人の足音を聞きながら

 最後までお読みいただき、ありがとうございます。
 本作『十代の刻印 ― 二千四十六人の行進』を書き終えた今、私の心には、静かな、しかし確かな雪の夜の冷たさと、それに相反するような熱い血の鼓動が残っています。
 物語の鍵を握る赤穂浪士、横川宗四郎。
 彼のモデルとなったのは、史実における赤穂四十七士の一人、**横川勘平宗利(よこがわ かんぺい むねとし)**です。
 横川勘平は、吉良邸討ち入りにおいて激しい負傷を負ったと伝えられています。一説には、あまりの重傷ゆえに自力で歩くことができず、引き上げの列からは遅れ、駕籠(かご)に揺られてようやく泉岳寺へ辿り着いたといいます。
 仲間に遅れてでも、命の火が消えかかるその瞬間まで、彼は「義」の場所を目指しました。
 なぜ、私が数ある義士の中から彼を選び、「宗四郎」という新たな名を贈って現代に呼び戻したのか。
 執筆中、私は何度も不思議な感覚に襲われました。それは、私がかつて波を待っていた湘南の海や、遠くカリフォルニアの空の下で感じた「何者かになりたい」ともがいていた若き日の自分と、ボロボロになりながら泉岳寺を目指した彼の姿が、時を越えて重なったからかもしれません。
 私たちは、自分一人の力で生きていると思いがちです。
 しかし、計算してみてください。
 江戸元禄のあの日から現代まで、およそ十代。そのリレーを繋いできた先祖は、実に二千四十六人にのぼります。
 飢饉、震災、そして戦禍。その過酷な三百年を、誰一人欠けることなくバトンを繋いできた結果が、今、この本を手に取っている「あなた」という存在です。
 私の身体に刻まれた記憶、あるいはあなたがふとした瞬間に感じる郷愁。
 それは単なる偶然ではなく、二千四十六人の誰かが「いつか思い出してほしい」と託した**情報の転写(時限装置)**なのかもしれません。
 横川勘平が遅れてでも辿り着いたように、私たちもまた、どんなに傷つき、時代に翻弄されても、自分自身の「真実」へと辿り着くことができる。
 この物語が、あなたの日常のふとした瞬間に、背後に控える二千四十六人の温かな気配を感じるきっかけとなれば、著者としてこれ以上の喜びはありません。
 最後に、この物語の誕生を支えてくれた家族、そして、今も私の心の中で JAMES DEAN のように輝き続ける、かつての友へ感謝を捧げます。

二〇二六年 三月吉日



ーおまけー


これは以前

ブログに書いたものを

物語に膨らましたものです

ここにそのまま添付致します


討ち入りの日に

なぜ お前は来ないのだ     と

大石内蔵助に責められた 夢枕

 

腹に傷があるだろう

首にも傷があるだろう

それが義士だった証拠だと

詰められ

はっ として飛び起きた

 

では

私は いったい?  と問うと

そのうちわかると

そう怒り 消えた

 

早朝から

人影なき墓前のひとつひとつを

丁寧にたどり

感じるものを探してはみたが

わかるはずはなく

 

なにかあるとは 思わないが

なにもないとも 思えない

さて。。。


こんなことを話すと

皆 笑うでしょうが

わかったんですよ

自分が何者かがね

 

占い師たちは

生まれ持って 

身体のどちらかにアザがある者は

前世にて そこに傷を負ったと説く

 

時折 見る夢は

まさに

真珠湾で突っ込んだ映像ばかりだったけれども

 

はてさて

50を過ぎた頃から

赤穂の夢が現れ出した

 

全員無事だったはずの討ち入りも

さすがにそこそこの怪我を負ったはずだと

調べてみて驚いた

 

左太ももにあるアザ

左手小指の治らない怪我

更に

ヘソ横のアザ

右後ろの首の傷

切腹の傷だろうか?

 

いずれわかると

内蔵助は夢の中で微笑んだけれど

はてさて。。。

 

そろそろまた

出掛けてみるかな 泉岳寺

そして

横川の墓前で 手を合わせてみるかな

 

今度は

何かを

感じるかもしれんな。。。

 

もちろん

僕らの先祖たちもまた

その時代時代を生き

様々なことを思い 

また悩み

それでも

無事にここまで繋げてくれた


300年

仮に1代を30年としたならば

わずか 10代

されど 10代


1代前は 父と母の 2人

2代前は 2×2=4   4+2=6人

3代前は 4×2=8   8+6=14人。。。


これが 10代前になると

なんと 512×2=1024  1024+1022=2046人 にもなる


そう

今 生きる僕ら1人に繋げる為には

わずか 10代遡っただけで

こんなにも多くの先祖たちが

関係していたということで

しかも その全員が

1人も欠けることなく

無事に大人になったという奇跡なわけだ


大きな事件だったはずの

この 忠臣蔵の時代に

リアルタイムでその賑わいを感じた方々ですら

1024人も なわけだから


そのどなたかが 

そっとDNAに仕掛けた時限装置が 

そこそこの齢にもなると

泉岳寺へと向かわせるのかもしれない


いずれにせよ

この命

必ず全うしなければ なんて

改めて思う今日


そして

日々 もっと 

大切に生きなければとも。。。


昨日の
1ヶ月検診で
今回の通院は終了となったけれど

それでも
先日のクシャミから
痛みが戻り

その旨を伝えると
もう大丈夫な頃だから
少し様子を見てくれとのこと

何かあれば
すぐに対応するからと
とりあえずここまでらしい

仕方ないが
自分でも
治りが遅くなって来たのが分かる

そんな齢かと
苦笑いしてみるが

まあ
それは益々…なのだろう

ならば
怪我をせんようにと
更に氣をつけねばと
心してみても

氣持ちは
あの頃と変わらないから
始末が悪い

それは特に
足の先に出るらしく

わずか
数ミリの感覚の誤差が出て
あちこちにぶつけるらしい

そんなだから
落ちた体力を早く戻したいが
無理をすれば
こうして風邪をひき
また
痛みをも戻してしまう

焦る心はあれども
実年齢は
どうあがいても65歳

年齢を表示する体重計ならば
まだ51歳なんだがなあと
自分を褒めながらも
そんなはずはないらしい


さてすれば
本日は何もない曜日

いや
この体調だから
出掛けず家の中

ではと
苦手なパソコンに向かい
カチャカチャしてみれば
Kindleへの8本が仕上がった



では
今すぐにと
調子に乗って
載せようとしてみれば

あらま
1週間に10本まで
なんて制限があるそうで

本日 準備した8本は
来週となった




なるほど
急いては事を仕損じる って
ことかな?

いや
そんな言葉ではないな

では
なんだろう?  なんて
考えても出て来ない

まあいい
ヒマだから
更に何本か
準備してしまおう