漂流路転生記 〜ジョン万次郎と刻をこえた男〜
玉響転生記・第四十六話


まえがき
四十五度の邂逅を経て、榊原凪は、また新たな「刻(とき)」へと導かれることになった。
聖徳太子との旅で、凪は「太子路」という言葉を得た。今回、彼が得た言葉は**「漂流路」**であった。
難破し、漂流し、奇跡のごとく海の彼方から、新しき世界を持ち帰った男。
明治三十一年(一八九八年)十月。齢七十一。日本と、遠いアメリカとの間に、確かな橋を架けた男――中濱万次郎、通称ジョン万次郎。だが、その波乱の生涯の出発点には、遠い異国の、一人の船長の存在があった。




プロローグ 神無月の来訪
東京は、秋の深まる、静かな夜だった。
榊原凪は、七十四歳になっていた。聖徳太子との旅から、半年余りが経っている。
斑鳩(いかるが)の宮で、太子が慧慈(えじ)への想いを、静かに語った、あの夜のことを、凪は今も思い出す。
書き上げた小説『異国の師の教え』は、静かな反響を呼んだ。
その夜、凪は書斎で、古い航海日誌の写しを眺めながら、うたた寝をしていた。
ふと、潮の匂いと、鯨油のような匂いがした。
顔を上げると、部屋の隅に、一人の老人が座っていた。
和装だが、どこか異国の気配を纏った佇まい。だが、その目には、驚くほど穏やかで、それでいて、遠くを見つめるような光が宿っていた。
「これは、失礼いたします」
老人は、静かに言った。
「あなたは……」
「中濱万次郎と申します。ジョン万次郎とも、呼ばれております」
凪は、息を呑んだ。
ジョン万次郎。土佐の漁師の子として生まれ、遭難の末、アメリカへと渡り、後に、日本の開国に、大きな役割を果たすことになる人物。
そして――このおよそひと月後、その生涯を閉じることになっている男。
「なぜ、ここにいるのでしょう」
「さあ、私にも、分かりません」万次郎は、小さく頷いた。
「気づけば、この妙な部屋におりました。由井、明智、石田、真田、土方、坂本、大石、楠木、伊能、北斎、芭蕉、玄白、定信、松陰、伊藤、田中、渋沢、野口、三島、芥川、力道山、将門、道真、崇徳院、植村、手塚、武蔵、次郎吉、空海、清少納言、鑑真、利休、板垣、鎌足、義経、道灌、清正、一休、尊氏、家康、信長、小町、紫式部、卑弥呼、聖徳太子。あなたが会ってこられた方々の気配が、なんとなく、伝わってまいります。不思議な方ですね、あなたは」
彼は、凪を穏やかに見つめた。
「私は今、東京にて、静かな余生を、過ごしております」
「万次郎様……」
「ですが」老いた漂流者の目に、懐かしむような光が宿った。「その前に、伝えておきたいことが、あります」


一章 四十六度目のたゆたい
その夜、凪は航海日誌の写しに埋もれながら、考え続けていた。
これまでの四十五人には、皆、「死をどう引き受けるか」という、それぞれの重さがあった。
だがジョン万次郎の場合、その重さは、また違う質のものだった。
史実において、万次郎は明治三十一年十一月、東京にて、その生涯を閉じることになる。享年七十一。晩年は、脳溢血を患いながらも回復し、長男・東一郎の庇護のもと、穏やかな日々を送っていた。
万次郎の出発点には、一人の恩人がいた。ウィリアム・H・ホイットフィールド船長である。
天保十二年(一八四一年)、遭難し、無人島に漂着した十四歳の万次郎を救助したこの船長は、当時の日本が鎖国下にあったことを踏まえ、万次郎を、我が子のようにアメリカへと連れ帰った。フェアヘイヴンで、英語、数学、測量、航海術などを、惜しみなく学ばさせたのは、この船長であった。
凪の胸に、一つの問いが浮かんだ。
万次郎が最期に伝えておきたいものがあるとすれば、それは、己が果たした「日米の架け橋」としての功績だけなのか。それとも、遠い異国で、我が子のように育ててくれた、船長への想いも、あるのではないか。
凪は、暗い天井を見つめた。
「行きます」
呟くと同時に、部屋の空気が震え、日誌の匂いが、潮と鯨油の匂いに変わった。
玉響。
世界が、揺れた。


二章 東京・万次郎の隠居所
気づくと、凪は、東京にある、万次郎の隠居所の玄関先に立っていた。
秋の柔らかな日差しが、質素な庭を、静かに照らしている。
凪の身なりは、書生風の姿に変わっていた。
「ごめんください」
玄関先にいた書生に声をかけると、彼は驚いた顔で凪を見た。
「万次郎様に、お目にかかりたい」
「あなたは、どなたですか」
「万次郎様のお導きで参った者です。到着を告げていただければ、通じるはずです」
書生は、訝しみながらも、奥へと入っていった。
しばらくして、戻ってきた。
「サカキバラさんとやら。お上がりください」
この書生は、万次郎の身の回りの世話をする者の一人であった。


三章 万次郎の居室
居室には、古い英語の書物と、航海術の資料とが、静かに置かれていた。
万次郎は、文机の前から、穏やかな目で凪を見た。
「よく来てくれました」
「参りました」
「座ってください」万次郎は、静かに言った。「私は、この国と、アメリカとの間に、橋を架けようと、生涯、努めてまいりました」
「ホイットフィールド船長のことを、伺ってもよろしいでしょうか」
万次郎は、しばらく黙っていた。
「あの方がいなければ、私は、あの無人島で、命を落としていたでしょう」彼は言った。「それだけでなく、我が子のように、育ててくださいました」
「今、ご自身の来し方を、どう振り返っておられますか」
万次郎は、少し目を細めた。
「船長のことを、近頃、よく思い出します」


四章 名の記されなかった恩人
その夜、凪は隠居所の一室で、眠れぬまま過ごした。
万次郎の言葉が、頭から離れなかった。
――船長のことを、近頃、よく思い出します。
これまでの四十五人は、有限の生の中で、何を選ぶかという問いを抱えていた。だが万次郎の場合、彼が向き合っていたのは、「己の日米の架け橋としての功績をどう語るか」だけでなく、「己を育ててくれた、異国の恩人を、どう伝えるか」という問いであるように思えた。
後世、ジョン万次郎という名が、日本の開国に貢献した人物としてあまりに大きく語り継がれる一方で、船長の存在は、日本国内の「公の記録」には、その功績ほど克明には残されていない。
万次郎の胸中にある、あふれんばかりの感謝は、これまでどれほど、はっきりと世に伝わってきたのだろうか。
窓の外、東京の秋の夜風が、静かに吹いていた。


五章 門下生との対話
翌朝、凪は、居室で書物を整理していた門下生と、言葉を交わす機会を得た。
「先生は、ホイットフィールド船長のことを、よく話されますか」
「はい」門下生は、頷いた。「先生を、我が子のように育ててくださった御方だと、伺っております」
「船長のお名前は、世間でも広く知られているのでしょうか」
門下生は、少し寂しそうに首を振った。
「いいえ。先生のお名前は、日本中に知られておりますが、船長のことまでは、みな、あまり深くは存じ上げないように思います。先生は時折、とても懐かしそうに船長のお名前を口にされますが、それを、はっきりと書き残された姿は、まだお見かけしたことがありません」
凪は、その言葉の重さを、静かに受け止めた。


六章 長男・東一郎との対話
その日の夕刻、万次郎の長男である、中濱東一郎(なかはま・とういちろう)が、居室を訪れた。
「サカキバラ殿と申されるか。父より、伺っております」
「あなたは、ホイットフィールド船長のことを、どう見ておられますか」
東一郎は、少し考えた。
「あの御方なくば、父は、あの無人島で、命を落としていたでしょう。異国の少年を、我が子のように迎え入れ、教育を受けさせるという、並外れた寛容さをお持ちの方です」
「それは、万次郎様ご自身も、深く感謝しておられることですか」
「父は……」東一郎は、言葉を選びながら言った。
「内心では、誰よりも船長への感謝を抱いているはずです。船長のご家族とは、今も文通を続けておりますから。ただ、明治のこの激動の中、国のために奔走するあまり、それを公にまとめて語る機会が、父にはなかったのでしょう」
凪は、深く頷いた。
「もし、父上が、はっきりと、船長への感謝を、この地に書き記されたら、何か、変わると思われますか」
東一郎は、しばらく考えた。
「変わるかもしれません。父の言葉には、それだけの重みがあると思います」


七章 夜半の対話
その夜、凪は万次郎に呼ばれ、二人だけで居室に残った。
「門下生や、東一郎から、聞きました」と万次郎は言った。「あなたが、船長のことを、あれこれ聞いておられるそうですね」
「差し出がましいことを、申し上げました」
「いえ」万次郎は、穏やかな目で凪を見た。「私自身、向き合わねばならない角度でした」
凪は、同じ老境を生きる者として、静かに言葉を紡いだ。
「万次郎様。あなたはこれまで、日米の架け橋として、この国のためにすべてを捧げてこられました。ですが、船長への感謝については、まとまった形で、語られる場がなかったように見受けられます」
万次郎は、しばらく、黙っていた。
「私は……」やがて彼は、静かに言った。
「船長の寛容さなくば、私は、あの無人島で、朽ち果てていたでしょう。あの方は、肌の色も、言葉も違う、異国の少年を、我が子のように、迎え入れてくださいました。ですが、私は、日本での役目に追われ、それを、はっきりと、まとまった形で、語る間を、作ってきませんでした。日本のために、働くことに、いつも、心を奪われてきたからでしょう」
「分かっております」凪は、万次郎の横顔を見つめた。
「ですが、万次郎様。あなたが今、こうして静かな余生を過ごされているのは、その恩を、言葉にされたいから、ではないでしょうか。あなたが語らねば、船長のあの美徳は、あなたの大きな功績の陰に、隠れたままになってしまうかもしれません」
万次郎の目が、微かに揺れた。
「あなたが本当に遺したいものは、ご自身の功績だけでしょうか。それとも、ホイットフィールド船長という、あなたを育てた恩人の存在を、次の時代へと、はっきり伝えることも、含まれているのではないでしょうか」
万次郎は、長い間、目を閉じていた。


八章 語られた言葉
その夜遅く、万次郎は、東一郎と門下生を呼び、静かに語り始めた。
凪は、その傍らに、静かに控えていた。
「船長は……」万次郎は、ゆっくりと、言葉を選びながら言った。「見返りを求めず、私を、我が子のように、育ててくださいました。今日の私があるのは、すべて、あの方のおかげです」
東一郎と門下生は、深く頭を下げた。
「これより後、私のことを語り継ぐ者は、皆に、船長のことも、伝えてほしい」万次郎は、静かに続けた。
「東一郎、そなたには、船長のご家族との文通を、これからも、大切に続けてほしい。この縁は、私一人のものではなく、次の世代へと、受け継がれていくべきものだから」
凪は、静かに、その言葉を聞いていた。
やがて万次郎は、深く息をついた。
「これで……少しは、心が、軽くなりました」


九章 遺されたもの
この夜からおよそひと月後、明治三十一年十一月、ジョン万次郎は、東京にて、その生涯を閉じることになる。享年七十一。
史実において、万次郎の長男・東一郎は、その後も、ホイットフィールド家との文通を続け、この日米の縁は、代を重ねて、今日に至るまで、受け継がれていくことになる。昭和八年(一九三三年)には、ホイットフィールド船長の親友の孫にあたる、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトから、東一郎のもとに、手紙が届いたとも伝えられている。
凪は、その事実を知り、静かに思った。
日米の架け橋となった人物の陰にも、確かに、見返りを求めぬ、異国の恩人の存在が、息づいていたのかもしれない、と。
玉響。
気づけば、凪は東京の書斎にいた。


終章 もう一つの漂流路
百年余りの後。
万次郎の故郷・土佐清水市と、ホイットフィールド船長の故郷・アメリカのフェアヘイヴンとは、姉妹都市として、今も、街ぐるみでの交流を、続けていた。
「日米の架け橋」としての万次郎の名の陰で、見返りを求めず、一人の漂流少年を育てた、異国の船長の存在を、深く知る人は、多くはない。
「日本の開国に貢献した人物」としてだけではなく、「異国で受けた恩を、生涯、忘れなかった、一人の漂流者」として。


エピローグ もう一つの光
東京の書斎で、凪は、書き上げたばかりの原稿を、静かに読み返していた。
窓の外では、秋の風が、静かに吹いていた。
「あなたが遺したかったのは、ご自身の功績だけではなかったはずです」
凪は、静かに呟いた。
パソコンの画面には、彼が書き上げた物語の、最後の一文が残されていた。

『明治三十一年の秋、東京の空は、静かに暮れようとしていた。難破し、漂流し、海の彼方から新しき世界を持ち帰った男は、その最期の日々に、己の功績を語りながらも、もう一つの光を、確かに、異国の恩人へと、書き遺したのである。』

風が吹いた。潮と、鯨油の匂いが、微かにした。

――了――



【作者注】
本作はジョン万次郎(中濱万次郎)の最晩年を題材としたフィクションです。ジョン万次郎、ウィリアム・H・ホイットフィールド船長、中濱東一郎などは実在の人物ですが、物語における門下生や東一郎との対話の内容は、著者の創作です。
実際に万次郎は明治三十一年(一八九八年)十一月、東京にて、七十一歳でその生涯を閉じました。天保十二年(一八四一年)、遭難し無人島に漂着した万次郎は、捕鯨船ジョン・ハウランド号の船長ウィリアム・H・ホイットフィールドに救助され、鎖国下の日本の事情を踏まえ、養子同然にアメリカへ連れて行かれ、フェアヘイヴンで教育を受けました。明治三年(一八七〇年)には欧州視察の途上、約二十年ぶりに恩人ホイットフィールドと再会を果たしています。
万次郎の子孫は、ホイットフィールド船長の子孫と、今日に至るまで交流を続けており、昭和八年(一九三三年)には、ホイットフィールドと縁のあったデラノ家の子孫にあたるフランクリン・ルーズベルト大統領から、長男・東一郎のもとに手紙が届いたことも記録されています。万次郎が最晩年、船長への想いをどのように語っていたかについて、具体的な記録は限られており、本作における描写は、著者の創作です。
本作は、前四十五作と同じく、「もし介入できたなら」という思考実験として書かれています。
そして、玉響は、いつの時代にも、静かに揺らいでいるのかもしれません。


太子路転生記 〜聖徳太子と刻をこえた男〜
玉響転生記・第四十五話


まえがき
 四十四度の邂逅を経て、榊原凪は、また新たな「刻(とき)」へと導かれることになった。
 卑弥呼との旅で、凪は「巫女路(みこみち)」という言葉を得た。今回、彼が得た言葉は「太子路(たいしみち)」であった。
 仏の教えと、新しき政(まつりごと)の形とを、この国に根付かせようとした皇子。
 推古三十年(六二二年)一月。斑鳩の宮にて、かつて十七条の憲法を定め、仏教を篤く敬った男――厩戸皇子、後の聖徳太子。だが、その学びの原点には、遠い高句麗から渡ってきた、一人の師の存在があった。
 なお、聖徳太子については、後世の仏教的な伝説によって、大きく理想化された人物像が形成されており、近年の歴史研究においては、史実としての実像と、後世の潤色とを、慎重に見分ける必要があるとされている。本作もまた、そうした伝説の重なりの上に、一つの物語を紡ぐものである。




プロローグ 睦月の来訪
 東京は松の内も明けた、冷え込む夜だった。
 榊原凪は、七十四歳になっていた。卑弥呼との旅から、半年余りが経っている。
 邪馬台国の御座所で、卑弥呼が弟への想いを静かに語ったあの夜のことを、凪は今も思い出す。
 書き上げた小説『鬼道の陰にある支え』は、静かな反響を呼んだ。
 その夜、凪は書斎で、古い経典の写本を眺めながらうたた寝をしていた。近頃、急に体の奥が冷えることが増えた。死が、遠い他人のものではなくなっていた。
 ふと、香と、乾いた木材のような匂いがした。
 顔を上げると、部屋の隅に、一人の若い皇子が座っていた。
 質素な衣。だが、その目には、驚くほど深い思索と、澄んだ知性の光が宿っていた。
 「夜分に、失礼つかまつる」
 皇子は、静かに言った。
 「あなたは……」
 「厩戸と申す。世の人々は、聖徳太子と、呼ぶこともあるようじゃ」
 凪は、息を呑んだ。
 聖徳太子。十七条の憲法を定め、冠位十二階を制定し、仏教を篤く敬った、推古天皇の摂政。そして――このおよそひと月後、その生涯を閉じることになっている男。
 「なぜ、ここにおるのか」
 「さて、それがしにも、分からぬ」厩戸は、静かに微笑んだ。「気づけば、この妙な場所におった。由井、明智、石田、真田、土方、坂本、大石、楠木、伊能、北斎、芭蕉、玄白、定信、松陰、伊藤、田中、渋沢、野口、三島、芥川、力道山、将門、道真、崇徳院、植村、手塚、武蔵、次郎吉、空海、清少納言、鑑真、利休、板垣、鎌足、義経、道灌、清正、一休、尊氏、家康、信長、小町、紫式部、卑弥呼。そなたが会うてきた者たちの気配が、なんとのう、伝わってくる。不思議な御仁じゃな、そなたは」
 彼は、凪を静かに見つめた。
 「それがしは今、斑鳩の宮にて、静かに、日々を過ごしておる」
 「太子様……」
 「されど」若き皇子の目に、懐かしむような光が宿った。「その前に、伝えておきたいことが、ある」


一章 四十五度目のたゆたい
 その夜、凪は経典の写本に埋もれながら、考え続けていた。
 これまでの四十四人には、皆、「死をどう引き受けるか」という、それぞれの重さがあった。
 だが聖徳太子の場合、その重さは、また違う質のものだった。
 史実において、太子は推古三十年二月、斑鳩の宮にてその生涯を閉じることになる。伝えられるところによれば、妃であった膳部菩岐々美郎女(かしわでの・ほききみのいらつめ)もほぼ同時期に世を去ったとされ、疫病がその死因であった可能性が指摘されている。
 太子の生涯には、あまり語られない、深い学びの原点があった。慧慈(えじ)という、高句麗から渡ってきた一人の仏教僧である。推古二十三年、慧慈は太子より先に故国・高句麗へと帰っており、太子の死の知らせを、遠い異国の地で受け取ることになる。『日本書紀』によれば、慧慈は太子の死を深く悲しみ、翌年の同じ日に、自らも世を去ることを誓ったと伝えられている。
 凪の胸に、一つの問いが浮かんだ。
 太子が最期に伝えておきたいものがあるとすれば――それは、己が定めた十七条の憲法や、仏教への篤い信仰だけなのか。それとも、遠い異国へ帰った、恩師への想いもあるのではないか。
 凪は、暗い天井を見つめた。
 「行きます」
 呟くと同時に、部屋の空気が震え、経典の匂いが、香と木材の匂いに変わった。
 玉響。
 世界が、揺れた。


二章 斑鳩の宮
 気づくと、凪は、斑鳩にある宮の裏手に立っていた。
 真冬の冷たい風が、静かな宮を吹き抜けていく。
 凪の身なりは、宮に仕える下人風の姿に変わっていた。
 「もし」
 宮の前にいた舎人に声をかけると、彼は驚いた顔で凪を見た。
 「太子様に、お目通り願いたい」
 「そなた、何者じゃ」
 「太子様のお導きで参った者です。到着を告げていただければ、通じるはずです」
 舎人は、訝しみながらも奥へと入っていった。
 しばらくして、戻ってきた。
 「サカキバラとやら申したな。お入りくだされ」
 この舎人こそ、太子の身の回りの世話をしていた、若き従者であった。


三章 太子の居室
 居室には、数多の経典と、かつて自らが定めた十七条の憲法の紐解かれた写本が、静かに置かれていた。
 太子は、文机の前から、澄んだ目で凪を見た。
 「よう参られた」
 「参りました」
 「座られよ」太子は、静かに言った。「それがしは、この国に、仏の教えと、新しき政の形とを、根付かせようとしてまいった」
 「慧慈様のことを、伺ってもよろしいでしょうか」
 太子は、しばらく黙っていた。
 「あの方は、それがしに、仏の教えの、真の深さを、教えてくださった」彼は言った。「今は、遠い高句麗の地に、おられる」
 「今、ご自身の来し方を、どう振り返っておられますか」
 太子は、少し目を細めた。
 「慧慈様のことを、近頃、よく思い出す」


四章 遠い異国へ帰った師
 その夜、凪は斑鳩の宮の一室で、眠れぬまま過ごした。
 太子の言葉が、頭から離れなかった。
 ――慧慈様のことを、近頃、よく思い出す。
これまでの四十四人は、皆、有限の生の中で、何を選ぶかという問いを抱えていた。だが太子の場合、彼が向き合っていたのは、「己が定めた政の形をどう遺すか」だけでなく、「己を育てた、異国の師を、どう記憶するか」という問いであるように思えた。
 史実において、慧慈は高句麗から渡ってきた仏教僧であり、若き日の太子に仏教の深い教えを説いた人物であった。だが、後世、聖徳太子という名が日本の仏教興隆の中心人物としてあまりに大きく語り継がれる一方で、慧慈の存在はその陰に埋もれがちであった。
 凪は、ふと思った。
 太子が、これほどまでに仏の教えと政の形を語られる一方で、その学びの原点にいた異国の師への感謝は、これまで、どれほど、はっきりと語られてきたのか。
 窓の外、斑鳩の夜風が、静かに吹いていた。風は、遠い大陸の匂いを運んで来はしなかった。


五章 従者との対話
 翌日、凪は、居室で経典を整理していた従者と、言葉を交わす機会を得た。
 「太子様は、慧慈様のことを、よく話されますか」
 「はい」従者は、頷いた。「太子様に、仏の教えを、最初に説かれた御方だと、伺っております」
 凪は、その言葉の重さを、静かに受け止めた。
 「太子様ご自身は、それを、どう思っておられるのでしょうか」
 従者は、しばらく考えていた。
 「太子様は、時折、遠い目をされて、慧慈様のお名前を、口にされます。ですが、それを、はっきりと、書き記されたことは、まだ、あまりないように思います」


六章 側近・秦河勝との対話
 その日の夕刻、太子の側近である、秦河勝(はたの・かわかつ)が、居室を訪れた。
 「サカキバラ殿と申されるか。太子様より、伺っております」
 「河勝殿は、慧慈様のことを、どう見ておられますか」
 河勝は、少し考えた。
 「あの御方なくば、太子様の仏教への深い理解は、生まれなかったでしょう。異国から渡られながら、太子様に、これほど深い教えを授けられた御方は、他におりません」
 「それは、太子様ご自身も、認めておられることですか」
 「太子様は……」河勝は、言葉を選びながら言った。「内心では、誰よりも、慧慈様への感謝を、抱いておられるはずです。ただ、遠く離れておられるゆえ、それを、はっきりと伝える機会が、なかったのでしょう」
 凪は、頷いた。
 「もし、太子様が、はっきりと、慧慈様への感謝を、書き記されたら、何か、変わると思われますか」
 河勝は、しばらく考えた。
 「変わりましょう。太子様のお言葉には、それだけの重みがございます」


七章 夜半の対話
 その夜、凪は太子に呼ばれ、二人だけで居室に残った。
 「従者や、河勝から、聞き申した」と太子は言った。「そなたが、慧慈様のことを、あれこれ問うておるそうじゃな」
 「差し出がましいことを、申し上げました」
 「いや」太子は、静かに凪を見た。「それがし自身、向き合わねばならぬ角度でござった」
 「太子様は、ご自身が定められた政の形や、仏教への信仰について、あれほど多くを、語られてこられました。ですが、慧慈様への感謝については、あまり、はっきりと言墨にされる場が、なかったように見受けました」
 太子は、しばらく、黙っていた。
 「それがしは……」やがて彼は、静かに言った。「慧慈様の教えなくば、それがしは、仏の道の、真の深さを、知ることは、なかったであろう。国をまとめ、新しき政を推し進める中では、それがしは『非の打ち所なき摂政』でい続けねばならなんだ。異国の師に甘えるような弱音は、誰にも見せられぬと、心を鬼にしておったのかもしれぬ。だが、正直に言えば、会いたかった。慧慈様に、一度でいいから、この国の寺の鐘の音を聞かせたかった。あの方は遠く離れた地におられる。今となっては、この感謝を直接伝える術もない」
 「それを、どのように、受け止めておられますか」
 「寂しさと、感謝と。その両方が、いつも、それがしの中にござる」太子は、静かに言った。「せめて、この地に残る者たちには、慧慈様のことを、はっきりと、伝えておきたい」
 凪は、深く息を吸った。
 「太子様。あなたは今、この国に、新しき政の形を、根付かせようとしておられます。ですが、もし、慧慈様への感謝を、はっきりと言葉にしないまま終われば、その教えの恩は、あなたの功績の陰に、埋もれたままになってしまうかもしれません」
 太子の目が、微かに揺れた。
 「あなたが本当に遺したいものは、ご自身が定めた政の形だけでしょうか。それとも、慧慈様という、あなたを育てた、異国の師の存在を、次の時代へと、はっきり伝えることも、含まれているのではないでしょうか」
 太子は、長い間、目を閉じていた。


八章 語られた言葉
 その夜遅く、太子は、河勝と従者を呼び、静かに語り始めた。
 凪は、その傍らに、静かに控えていた。
 「慧慈様は……」太子は、ゆっくりと、言葉を選びながら言った。「それがしに、仏の教えの、真の深さを、教えてくださった。この国に、仏教を根付かせることができたのも、あの方の教えあってこそじゃ」
 河勝は深く頭を下げ、従者は袖で目元を押さえた。
 「これより後、それがしのことを語り継ぐ者は、皆に、慧慈様のことも、伝えてほしい」太子は、静かに続けた。「この国の仏の道は、それがし一人のものではなく、あの方から受け継いだものなのだと」
 凪は、静かに、その言葉を聞いていた。
 やがて太子は、深く息をついた。
 「これで、少しは、心が、安まった」


九章 遺されたもの
 この夜からおよそひと月後、推古三十年二月、聖徳太子は、斑鳩の宮にて、その生涯を閉じることになる。妃・膳部菩岐々美郎女も、ほぼ同時期に、世を去ったと伝えられている。
 『日本書紀』によれば、太子の死の知らせを、遠い高句麗の地で受け取った慧慈は、深く悲しみ、「来年の同じ日に、私もまた、世を去るであろう」と語ったとされ、実際に、翌年の同じ日に、その生涯を閉じたと伝えられている。
 凪は、その事実を知り、静かに思った。
 仏教興隆の中心人物としての太子の陰にも、確かに、その学びを育てた、遠い異国の師の存在が、息づいていたのかもしれない、と。
終章 もう一つの太子路
 千四百年余りの後。
 法隆寺は、今も、その荘厳な姿を、伝え続けていた。
 「仏教興隆の中心人物」としての聖徳太子の陰で、その学びの原点を育てた、異国の師・慧慈の存在を、深く知る人は、今も多くはない。
 「十七条の憲法を定めた皇子」としてだけではなく、「異国の師から受けた恩を、生涯、忘れなかった、一人の学び人」として。


エピローグ もう一つの光
 東京の書斎で、凪は、書き上げたばかりの原稿を、静かに読み返していた。
 窓の外では、真冬の風が、まだ冷たく吹いていた。
 「あなたが遺したかったのは、ご自身が定めた政の形だけではなかったはずです」
 凪は、静かに呟いた。
 パソコンの画面には、彼が書き上げた物語の、最後の一文が残されていた。
『推古三十年二月、斑鳩の空は、静かに暮れようとしていた。仏の教えと、新しき政の形とを、この国に根付かせようとした皇子は、その最期の日々に、己の功績を語りながらも、もう一つの光を、確かに、異国の師へと、語り遺したのである。』
 香と、木材の匂いが、微かにした。
 風が吹いた。
 玉響の揺らぎは、今日もまた、静かに続いている。

——了——


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【作者注】
 本作は聖徳太子(厩戸皇子)を題材としたフィクションです。聖徳太子については、後世の仏教的な伝説によって、大きく理想化された人物像が形成されており、近年の歴史研究においては、史実としての実像と、後世の潤色とを、慎重に見分ける必要があるとされています。本作もまた、そうした伝説の重なりの上に書かれています。慧慈、秦河勝などは実在の人物とされていますが、物語における対話の内容は、著者の創作です。
 実際に太子は推古三十年(六二二年)二月、斑鳩の宮にて、その生涯を閉じたと伝えられています。妃・膳部菩岐々美郎女も、ほぼ同時期に世を去っており、疫病が死因であった可能性が指摘されています。
 慧慈は、高句麗から渡来した仏教僧で、太子の仏教の師であったとされ、太子の死の知らせを受けて深く悲しみ、翌年の同日に自らも世を去ったとする逸話が、『日本書紀』に記されています。太子が慧慈への想いを最晩年、具体的にどのように語っていたかについて、本作における描写は、著者の創作です。
 本作は、前四十四作と同じく、「もし介入できたなら」という思考実験として書かれています。
 そして、玉響は、いつの時代にも、静かに揺らいでいるのかもしれません。


巫女路転生記 〜卑弥呼と刻をこえた男〜
玉響転生記・第四十四話


まえがき
 四十三度の邂逅を経て、榊原凪は、また新たな「刻」へと導かれることになった。
 紫式部との旅で、凪は「物語路」という言葉を得た。今回、彼が得た言葉は「巫女路(みこじ)」であった。
 鬼道と呼ばれる神秘の力によって、倭国を統べた女王。
 時は、弥生時代の終わり。中国の史書『魏志倭人伝』にのみその名を留める、邪馬台国の女王――卑弥呼。だが、その神秘の陰には、表舞台に立つことのなかった、一人の弟がいた。
 なお、卑弥呼については、日本側に同時代の文字記録が一切残っておらず、その実像は、中国の史書『魏志倭人伝』の断片的な記述からしか窺い知ることができない。邪馬台国の所在地についても、九州説、畿内説など、今なお論争が続いている。本作は、この乏しい史料の上に立つ、あくまで一つの思考実験として書かれたものである。




プロローグ 名もなき来訪
 東京は、ある夜、静かに更けていった。
 榊原凪は、七十四歳になっていた。紫式部との旅から、半年余りが経っている。
 彰子の御所で、紫式部が娘・賢子への想いを筆に込めた、あの夜のことを、凪は今も鮮明に思い出す。
 あの旅の記憶を託すように紡いだ小説『母の影にある娘』は、世に静かな反響を呼んだ。
 その夜、凪は書斎で、『魏志倭人伝』のごく短い記述を眺めながら、うたた寝をしていた。
 ふと、勾玉と、燻された木の実のような匂いが鼻腔をくすぐった。
 顔を上げると、部屋の隅に、一人の女性が座っていた。
 装飾を凝らした衣を纏っている。だが、その顔は、頭から被った布の陰に深く隠されていた。
 「……」
 女性は何も言わず、ただ、静かに凪を見つめた。
 「あなたは……」
 「卑弥呼、と、人は呼ぶ」
 凪は、息を呑んだ。
 卑弥呼。中国の史書にのみその名を残す、邪馬台国の女王。鬼道と呼ばれる神秘の力をもって、倭国を統べたとされる人物。
 「なぜ、ここにいるのか」
 「分からぬ」卑弥呼は、静かに言った。「気づけば、この妙な場所におった。由井、明智、石田、真田……土方、坂本、大石、楠木。伊能、北斎、芭蕉より後の世の者まで。そなたが会うてきた者たちの気配が、なんとなく、伝わってくる。不思議な者じゃな、そなたは」
 彼女は、布の陰から凪を見つめた。
 「私は今、多くの者からは、その姿を見られることのない暮らしを送っている」
 「卑弥呼様……」
 「されど」神秘の女王の声に、微かな翳りが宿った。「伝えておきたいことが、ある」


一章 四十四度目のたゆたい
 その夜、凪は『魏志倭人伝』の記述に埋もれながら、考え続けていた。
 これまでの四十三人には、皆、「死をどう引き受けるか」という、それぞれの人生の重さがあった。
 だが卑弥呼の場合、その重さは、また違う質のものだった。
 史書によれば、彼女は呪術的な力によって倭国を統治し、多くの婢(ひ)に囲まれながら、人前にはほとんど姿を現さなかったという。 そして、その傍らには、あまり知られていない、実務を担う「弟」の存在が記されている。だが、その弟の名は、記録のどこにも残されていない。
 凪の胸に、一つの問いが浮かんだ。
 卑弥呼が最期に伝えておきたいものがあるとすれば――それは己の神秘の力による統治だけなのか。それとも、表舞台に立つことのなかった、弟への想いもあるのではないか。
 凪は、暗い天井を見つめた。
 「行きます」
 呟くと同時に、部屋の空気が震え、史書の匂いが、勾玉と木の実の匂いに変わった。
 玉響(たまゆら)。
 世界が、大きく揺れた。


二章 邪馬台国の宮室
 気づくと、凪は、幾重にも柵と楼観(ろうかん)に囲まれた、宮室の裏手に立っていた。
 夜の冷たい風が、高床の建物の間を、静かに吹き抜けていく。
 凪の身なりは、宮に仕える下人風の姿に変わっていた。
 「たのもう。お尋ね申す」
 柵の前にいた婢に声をかけると、彼女は驚いた顔で凪を見た。
 「卑弥呼様に、お目にかかりたい」
 「そなた、何者か」
 「卑弥呼様のお導きで参った者です。到着を告げていただければ、通じるはずです」
 婢は訝しみながらも、奥へと入っていった。
 しばらくして、戻ってきた。
 「サカキバラとやら言うたか。入るがよい」
 この婢こそ、卑弥呼の身の回りの世話を直接する、数少ない一人であった。


三章 卑弥呼の御座所
 御座所は、幾重もの帳(とばり)に囲まれ、外の光がほとんど届かない、薄暗い場所であった。
 卑弥呼は、帳の奥から、静かな声で凪を迎えた。
 「よう参った」
 「参りました」
 「そこへ、座るがよい」卑弥呼は、静かに言った。「私は、鬼道によって、この国を、治めてきた」
 「弟君のことを、伺ってもよろしいでしょうか」
 卑弥呼は、しばらく黙していた。
 「あの者は、民の暮らしを、日々、支えてくれている」彼女は言った。「私は、ただ、祈るばかりじゃ」
 「今、ご自身の統治を、どう振り返っておられますか」
 卑弥呼は、少し声を落とした。
 「弟のことを、近頃、よく思う」


四章 名を残さなかった弟
 その夜、凪は宮室の一室で、眠れぬまま過ごした。
 卑弥呼の言葉が、頭から離れなかった。
 ――弟のことを、近頃、よく思う。
 昼間、遠巻きに見た御座所の様子が脳裏をよぎる。行き交う人々は皆、帳の奥にいる女王の権威を恐れ、崇めていた。だが、その巨大な国を動かし、人々の不満を宥め、日々の糧を差配しているのは、あの名もなき弟なのだ。
 後世、卑弥呼の名は神秘の女王として刻まれるだろう。だが、彼が流した汗や、姉を支えた手の温もりは、誰の記憶にも残らないのかもしれない。
 「それで、本当に良いのだろうか……」
 帳の外、夜の静けさが、冷える夜気とともに凪の胸に染み込んでいった。


五章 婢との対話
 翌日、凪は、御座所の外で控えていた婢と、言葉を交わす機会を得た。
 「卑弥呼様は、弟君のことを、よく話されますか」
 「はい」婢は、深く頷いた。「日々の政務は、すべてあの御方がお裁きになっておられます。卑弥呼様にとっては、なくてはならぬ御方でございます」
 「弟君のお名前は、広く知られておりますか」
 婢は、寂しげに首を振った。
 「いいえ。卑弥呼様のお名前は、遠く海の向こうの国にまで知られておりますが、あの方のことまでは、国の者もあまり口にいたしません」
 凪は、その言葉の重さを静かに受け止めた。
 「卑弥呼様ご自身は、それを、どう思っておられるのでしょうか」
 婢は、しばらく考え込んでいた。
 「卑弥呼様は、弟君のことを、深く、頼りにしておられます。ですが……それを、はっきりと、外に向けて語られたことは、まだ、お見かけしたことがございません」


六章 弟との対話
 その日の夕刻、卑弥呼の弟が、御座所を訪れた。
 「サカキバラ殿と申されるか。姉上より、伺っております」
 「あなたご自身は、姉君との関わりを、どう見ておられますか」
 弟は、少し考えた。
 「姉上の鬼道なくば、この国は、まとまらなんだであろう。私は、ただ、その神秘を、日々の実務へと、繋ぐ役目を担っておるに過ぎぬ」
 「それは、卑弥呼様ご自身も、認めておられることですか」
 「姉上は……」弟は、言葉を選びながら言った。「内心では、誰よりも、私の役割を、認めてくれておるはずじゃ。ただ、姉上御自身が、人前に姿を見せぬ暮らしゆえ、それを、はっきりと語る場が、なかったのやもしれぬ」
 凪は、頷いた。
 「もし、卑弥呼様が、はっきりと、あなたへの想いを、伝えられたら――何か、変わると思われますか」
 弟は、しばらく考えた。
 「変わるやもしれぬ。……姉上の言葉には、それだけの重みがある」


七章 夜半の対話
 その夜、凪は卑弥呼に呼ばれ、二人だけで御座所に残った。
 「婢や、弟から、聞いた」と卑弥呼は言った。「そなたが、弟のことを、あれこれ問うておるそうじゃな」
 「差し出がましいことを、申し上げました」
 「いや」卑弥呼は、静かに凪を見つめた。「私自身、向き合わねばならぬ角度であった」
 「卑弥呼様は、ご自身の鬼道による統治について、多くを民に示してこられました。ですが、弟君への想いは、あまり、はっきりと語られる場がなかったように見受けました」
 卑弥呼は、長い間、黙っていた。
 やがて帳の奥で、ゆっくりと息を整え、こう言った。
 「私は……弟の支えなくば、この国は、とうに乱れておったであろう。私はただ、鬼道によって、人々の心を一つにまとめる役目を担うのみ。日々の実務は、すべて、あの者が担ってくれておる」
 「なぜ、それを、はっきりと語ってこられなかったのですか」
 「私が人前に姿を見せぬことこそが、鬼道の力を保つ所以であった」卑弥呼の声に、確かな重みが宿る。「それゆえ、あの者の功績を語る機会を、私は自ら閉ざしてしまっていたのかもしれぬな」
 凪は、深く息を吸った。
 「卑弥呼様。あなたは今、この国を鬼道によって治めておられます。ですが――もし、弟君への想いをはっきりと言葉にしないまま終われば、その支えは、あなたの神秘の陰に、完全に埋もれたままになってしまうかもしれません」
 卑弥呼の目が、布の陰で、微かに揺れた。
 「あなたが本当に遺したいものは、ご自身の鬼道による統治だけでしょうか。それとも――弟君という、あなたを支え続けた者の存在を、次の時代へと、はっきり伝えることも、含まれているのではないでしょうか」
 卑弥呼は、再び長い沈黙に沈んだ。


八章 語られた言葉
 その夜遅く、卑弥呼は、弟と婢を呼び、静かに語り始めた。
 凪は、その傍らに、静かに控えていた。
 「弟は……」卑弥呼は、ゆっくりと、言葉を選びながら言った。「この国の、日々の実務のすべてを、担ってくれておる。鬼道による私の力は、あの者の支えなくば、何も、なし得なかったであろう」
 弟と婢は、深く頭を下げた。
 「これより後、私を語る者は、必ず、弟のことも語れ」卑弥呼は、静かに続けた。「この国は、私一人の力ではなく、あの者と、共に治めてきたものなのだと」
 凪は、静かに、その言葉を聞いていた。
 やがて卑弥呼は、深く息をついた。
 「これで……よかろう」


九章 残されたもの
 弟の手をとり、静かに感謝を告げた卑弥呼の横顔を、凪は忘れない。
 やがて、勾玉の匂いが薄れ、宮室の景色がゆっくりと遠ざかっていく。
 史実では、彼女の死後に大きな塚が築かれ、国は一時乱れたと伝えられる。やがて一族の少女・台与(とよ)が新たな女王として立てられることで、ようやく再び治まったという。
 けれど、あの夜、二人の間に通い合った確かな光を、凪は胸の奥に深く刻み込んでいた。神秘に包まれた女王の陰にも、確かに、名も残さぬまま、国を支え続けた一人の弟の存在が、息づいていたのだ。


終章 もう一つの巫女路
 千七百年余りの後。
 考古学者たちは、今も邪馬台国の所在地を巡り、熱い議論を続けていた。
 「神秘の女王」として、世界中にその名を知られる卑弥呼。その陰で、名も残さず、国の実務を支え続けた、一人の弟の存在を、深く知る人は多くはない。
 しかし、あの「刻」をこえた旅の果てに、卑弥呼は「鬼道を操る女王」としてだけではなく、「名もなき支えを深く愛おしんでいた、一人の姉」としての言葉を、確かに遺した。


エピローグ もう一つの光
 東京の書斎で、凪は、書き上げたばかりの原稿を、静かに読み返していた。
 窓の外では、夜風が、静かに吹いていた。
 「あなたが遺したかったのは、ご自身の神秘の力だけではなかったはずです」
 凪は、静かに呟いた。
 パソコンの画面には、彼が書き上げた物語の、最後の一文が残されていた。
『倭国のある地に、静かな夜が暮れようとしていた。鬼道をもって国を統べた女は、その統治の物語の最後に、もう一つの光を、確かに名もなき弟へと遺したのである。』
 風が吹いた。書斎に、勾玉と、木の実の匂いが、微かにした。
 玉響の揺らぎは、今日もまた、静かに続いている。

——了——


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【作者注】
 本作は卑弥呼を題材としたフィクションです。卑弥呼については、日本側に同時代の文字記録が一切残っておらず、その実像は、中国の史書『魏志倭人伝』の、断片的な記述からしか窺い知ることができません。「卑弥呼」という名も、当時の実際の名か、称号のようなものであったのかも、判然としていません。邪馬台国の所在地についても、九州説、畿内説をはじめ、今なお、大きな論争が続いています。
 『魏志倭人伝』には、卑弥呼が鬼道と呼ばれる呪術的な力で国を治めたこと、弟がいて、政務を補佐していたこと、二三八年に魏へ使者を送り「親魏倭王」の称号を得たこと、そして、彼女の死後、大きな塚が築かれ、一時混乱の後、台与という少女が新たな女王として立てられたことなどが、簡潔に記されています。だが、それ以上の具体的な生涯や人物像、弟との関係については、史料上、ほとんど何も分かっていません。
 本作は、こうした乏しい史料の上に立つ、あくまで一つの思考実験として書かれたものであり、卑弥呼、その弟、婢などの人物像や対話の内容は、すべて著者の創作です。
 本作は、前四十三作と同じく、「もし介入できたなら」という思考実験として書かれています。
 空間と時間を超える玉響は、いつの時代にも、静かに揺らいでいるのかもしれません。


物語路転生記 〜紫式部と刻をこえた男〜
玉響転生記・第四十三話


まえがき
四十二の刻を越えて――榊原凪は、また新たな「刻」へと導かれた。
小野小町との旅で、凪が得た言葉は「歌路」だった。今回、彼が得た言葉は「物語路」である。
この世に、初めての長編物語を生み出した女。
時は平安。中宮彰子に仕え、『源氏物語』を書き上げた女房――紫式部。だが、その名声の陰には、彼女自身の才を受け継ぎながら、母の大きな影に隠れがちな、一人の娘がいた。




プロローグ 晩年の来訪
東京は、ある冬の、静かな夜だった。
榊原凪は、七十三歳になっていた。小野小町との旅から、半年余りが経っている。
都のはずれの路傍で、小町が深草少将への悔いを、静かに語った、あの夜のことを、凪は今も思い出す。
書き上げた小説『百夜の悔い』は、静かな反響を呼んだ。
その夜、凪は書斎で、古い物語の写本――『源氏物語』を眺めながら、うたた寝をしていた。
ふと、墨と、几帳に焚き染めた香のような匂いがした。
顔を上げると、部屋の隅に、一人の女性が座っていた。
質素な袿。だが、その目には、深い知性と、どこか物静かな翳りとが宿っていた。
「あら、これは……」
女性は、静かに言った。
「あなたは……」
「紫式部と申します」
凪は、息を呑んだ。
中宮彰子に仕えながら、世界最古の長編物語とも言われる『源氏物語』を書き上げた女房。
「なぜ、ここにいるのでしょう」
「さあ、私にも、分かりませんわ」紫式部は、静かに微笑んだ。「気づいたら、この妙な部屋におりました。由井、明智、石田、真田、土方、坂本、
大石、楠木、伊能、北斎、芭蕉、玄白、
定信、松陰、伊藤、田中、渋沢、野口、
三島、芥川、力道山、将門、道真、崇徳院、
植村、手塚、武蔵、次郎吉、空海、清少納言、
鑑真、利休、板垣、鎌足、義経、道灌、清正、
一休、尊氏、家康、信長、小町――
あなたが会ってこられた方々の気配が、なんとなく、伝わってまいります。不思議な御方ですね、あなたは」
彼女は、凪を穏やかに見つめた。
「私は今、随分と歳を重ねました。宮仕えも、もう長いことになります」
「紫式部様……」
「ですが」物語作家の目に、複雑な光が宿った。「まだ、伝えておきたいことがございます」


一章 四十三度目のたゆたい
その夜、凪は『源氏物語』の写本に埋もれながら、考え続けていた。
これまでの四十二人には、皆、「死をどう引き受けるか」という、それぞれの重さがあった。
だが紫式部の場合、その重さは、また違う質のものだった。
凪の胸に、一つの問いが浮かんだ。
紫式部が最期に伝えておきたいものがあるとすれば――それは、己が書き上げた、あの壮大な物語だけなのか。それとも――女手一つで育てた、娘への想いも、あるのではないか。
娘の名は、賢子。後の世に大弐三位と呼ばれる歌人である。夫・藤原宣孝を早くに亡くした紫式部が、女手一つで育て上げたこの娘もまた、母譲りの歌才を受け継いでいた。だが後世、紫式部という名が『源氏物語』の作者としてあまりに大きく語り継がれる一方で、賢子の存在は、その母の影に隠れがちであった。
凪は、暗い天井を見つめた。
「行きます」
呟くと同時に、部屋の空気が震え、物語の匂いが、墨と香の匂いに変わった。
玉響。
世界が、揺れた。


二章 都・彰子の御所
気づくと、凪は、都にある中宮彰子の御所の裏手に立っていた。
冬の冷たい風が、御所の庭を静かに吹き抜けていく。
凪の身なりは、身分の低い女房の姿に変わっていた。
「もし」
庭先にいた侍女に声をかけると、彼女は驚いた顔で凪を見た。
「紫式部様に、お目通り願いたい」
「そなた、何者じゃ」
「紫式部様のお導きで参った者です。到着を告げていただければ、通じるはずです」
侍女は、訝しみながらも奥へと入っていった。
しばらくして、戻ってきた。
「サカキバラとやら申したな。お入りくだされ」
この侍女こそ、紫式部の身の回りの世話をしていた、若い女房であった。


三章 紫式部の局
局の中は、質素ながらも、書きかけの物語の草稿と書物とが整然と積み上げられていた。
紫式部は、文机の前から、穏やかな目で凪を見た。
「よく参られました」
「参りました」
「お座りなさい」紫式部は、静かに言った。「私は、この物語を書き続けてまいりました」
「賢子様のことを、伺ってもよろしいでしょうか」
紫式部は、しばらく黙っていた。
「あの子のことは、いつも気にかかっております」彼女は言った。「夫を亡くしてから、女手一つで育ててまいりました」
「今、ご自身の来し方を、どう振り返っておられますか」
紫式部は、少し目を伏せた。
「賢子のことを、近頃よく思い出します」


四章 母の影にある娘
その夜、凪は彰子の御所の一室で、眠れぬまま過ごした。
紫式部の言葉が、頭から離れなかった。
――賢子のことを、近頃よく思い出します。
これまでの四十二人は、皆、有限の生の中で何を選ぶかという問いを抱えていた。だが紫式部の場合、彼女が向き合っていたのは、「己の物語をどう完成させるか」だけでなく、「己の才を受け継いだ娘を、どう見つめるか」という問いであるように思えた。
凪は、ふと思った。
紫式部が、これほどまでに己の物語を語られる一方で、娘への想いは、これまでどれほどはっきりと語られてきたのか。
窓の外、冬の夜風が静かに吹いていた。


五章 女房との対話
翌日、凪は、局で書物を整理していた女房と、言葉を交わす機会を得た。
「紫式部様は、賢子様のことをよく話されますか」
「はい」女房は、頷いた。「母君譲りの歌才をお持ちだと伺っております」
「賢子様のお名前は、世に広く知られておりますか」
女房は、少し考えた。
「宮中では、存じている者もございましょう。ですが、紫式部様の物語ほどに、後の世まで広く伝わるかどうか……」
凪は、その言葉の重さを静かに受け止めた。
「紫式部様ご自身は、それをどう思っておられるのでしょうか」
女房は、しばらく考えていた。
「紫式部様は、賢子様のことを誇らしげにお話しになります。ですが……それをはっきりと書き記されたことは、まだあまりないように思います」


六章 同僚女房との対話
その日の夕刻、紫式部と共に彰子に仕える、女房の一人が局を訪れた。
「サカキバラ殿と申されるか。紫式部様より伺っております」
「あなたは、賢子様のことをどう見ておられますか」
同僚女房は、少し考えた。
「母君に決して劣らぬ、歌の才をお持ちの方です。ただ、どうしても紫式部様の、あの壮大な物語と比べられてしまい、その才が正当に評価されにくいのかもしれません」
「それは、紫式部様ご自身も感じておられることですか」
「紫式部様は……」同僚女房は、言葉を選びながら言った。「内心では誰よりも娘の才を誇りに思っておられるはずです。ただ、ご自身の物語を書き上げることに常に心を注いでこられたゆえ、それをはっきりと語る間がなかったのでしょう」
凪は、頷いた。
「もし紫式部様が、はっきりと賢子様への想いを書き記されたら――何か変わると思われますか」
同僚女房は、しばらく考えた。
「変わりましょうとも。……紫式部様のお言葉には、それだけの重みがございますもの」


七章 夜半の対話
その夜、凪は紫式部に呼ばれ、二人だけで局に残った。
「女房たちから聞きました」と紫式部は言った。「あなたが、賢子のことをあれこれ聞いておられるそうですね」
「差し出がましいことを申し上げました」
「いいえ」紫式部は、静かに凪を見た。「私自身、いずれ向き合わねばならぬ問いでございました」
「あなたは、ご自身の物語について、あれほど多くを書き記されてこられました。ですが、娘さんへの想いについては、あまりはっきりと言葉にされる場がなかったように見受けました」
紫式部は、しばらく黙っていた。
「私……」やがて彼女は、静かに言った。「あの子の歌の才を、誰よりも誇りに思っております。夫を亡くし、女手一つで育てる中で、あの子だけが私の確かな支えでございました。……ですが、私は、いつしか物語を書くことにあまりに多くの時を費やしてまいりました」
「なぜですか」
「物語の中でしか表せぬ想いが、私にはあったのです」紫式部は、静かに言った。「……そして、賢子を文の中に閉じ込めてしまうのが、恐ろしかった。あの子は、私の物語の続きではないのですから」
凪は、深く息を吸った。
「紫式部様。あなたは今、この物語を書き続けておられます。ですが――もし娘さんへの想いをはっきりと言葉にしないまま終われば、あの方の才は、あなたの物語の陰に埋もれたままになってしまうかもしれません」
紫式部の目が、微かに揺れた。
「あなたが本当に遺したいものは、ご自身の物語だけでしょうか。それとも――才を受け継いだ娘の存在を、次の時代へとはっきり伝えることも、含まれているのではないでしょうか」
紫式部は、長い間、目を閉じていた。


八章 筆を執る夜
その夜遅く、紫式部は、文机に向かい筆を執った。
凪は、その傍らに静かに控えていた。
「賢子は……」紫式部は、筆を運びながら静かに言った。「私の確かな誇りです。あの子の歌には、私にはない、しなやかな強さがございます」
筆先から生まれる文字が、書きかけの草稿の余白に静かに書き足されていった。
賢子は、幼きより歌を好みぬ。その詠みぶり、たをやかにして、しかも折れず。母なる我が及ばぬところなり。これを書き添えておきたし。この物語のみが、我がすべてにあらざることを。
凪は、静かにその筆の動きを見つめていた。
やがて紫式部は、筆を置き、深く息をついた。
「これで……少しは、心が軽くなりました」
「それが、あなたの物語路でございますね」
紫式部は、初めて柔らかく笑った。


九章 遺されたもの
史実において、娘の賢子は、後に大弐三位と呼ばれる歌人としてその名を歴史に残すことになる。後年、後冷泉天皇の乳母を務め、『百人一首』にも、その歌が選ばれている。
有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする
母譲りの才は、確かに次の世へと渡ったのだ。
だが後世、紫式部という名が『源氏物語』の作者としてあまりに大きく語り継がれる一方で、賢子の存在は、その母のあまりに大きな影に隠れがちであった。
凪は、その事実を知り、静かに思った。
偉大な物語の陰にも、確かに、その才を受け継いだ一人の娘の存在が息づいていたのかもしれない、と。


終章 もう一つの物語路
千年余りの後。
『源氏物語』は、今も世界中で読み継がれていた。
その作者・紫式部の名の陰で、母譲りの歌才を持ち、優れた歌人として生きた娘・賢子の存在を、深く知る人は多くはない。
「世界最古の長編物語の作者」としてだけではなく、「娘の才を、誰よりも誇りに思っていた、一人の母」として。


エピローグ もう一つの光
東京の書斎で、凪は書き上げたばかりの原稿を静かに読み返していた。
窓の外では、冬の風が静かに吹いていた。
「あなたが遺したかったのは、ご自身の物語だけではなかったはずです」
凪は、静かに呟いた。
パソコンの画面には、彼が書き上げた物語の最後の一文が残されていた。
『平安の都に、静かな冬の夜が訪れようとしていた。この世に初めての長編物語を生み出した女は、その物語を語りながらも、才を受け継いだ娘という、もう一つの物語を確かに書き遺したのである。』
風が吹いた。墨と、香の匂いが微かにした。
玉響の揺らぎは、今日もまた静かに続いている。

―― 了 ――

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あらすじ
本作は紫式部を題材としたフィクションです。紫式部、賢子(大弐三位)などは実在の人物ですが、物語における女房たちとの対話の内容は、著者の創作です。
紫式部の没年については確かな記録が残っておらず、諸説あります。本作は、その最晩年にあたると考えられる時期を舞台にした一つの思考実験であり、特定の没年や最期の様子を史実として描くものではありません。
娘の賢子(大弐三位)は、母譲りの歌才を持ち、後に後冷泉天皇の乳母を務め、『百人一首』にもその歌が選ばれるなど、優れた歌人として知られています。紫式部が娘への想いをどのように抱いていたかについて、具体的な記録は限られており、本作における描写は、著者の創作です。
本作は、前四十二作と同じく、「もし介入できたなら」という思考実験として書かれています。
そして、玉響は、いつの時代にも、静かに揺らいでいるのかもしれません。

歌路転生記 〜小野小町と刻をこえた男〜
玉響転生記・第四十二話


まえがき
四十一度の邂逅を経て、榊原凪は、また新たな「刻」へと導かれることになった。
織田信長との旅で、凪は「布武路」という言葉を得た。今回、彼が得た言葉は「歌路」であった。
絶世の美女と謳われながら、歌の道に、生涯を捧げた女。
時は、平安の世。六歌仙の一人に数えられる歌人――小野小町。晩年、老い衰えた姿で、路傍に座す、一人の女がいた。だが、その傍らには、かつて、百夜通いの果てに、命を落とした、一人の男への、深い悔いがあった。
なお、小野小町については、確かな伝記的史料がほとんど残っておらず、その生涯の大半は、後世の説話や能楽によって形作られた、伝説である。本作は、特に、世阿弥の能『卒塔婆小町』などに描かれる、老いた小町の伝説を基に、一つの物語を紡ぐものである。




プロローグ 晩年の来訪
東京は、ある秋の、静かな夜だった。
榊原凪は、七十三歳になっていた。織田信長との旅から、半年余りが経っている。
安土城で、信長が弥助への想いを、静かに語った、あの夜のことを、凪は今も思い出す。
書き上げた小説『才ある者の名』は、静かな反響を呼んだ。
その夜、凪は書斎で、古い歌集の写本を眺めながら、うたた寝をしていた。
ふと、白粉と、朽ちかけた卒塔婆のような匂いがした。
顔を上げると、部屋の隅に、一人の老いた女性が座っていた。
粗末な衣。だが、その目には、かつての輝きの名残と、深い哀愁とが、共に宿っていた。
「これは……失礼いたしますわ」
女性は、静かに言った。
「あなたは……」
「小野小町と申します」
凪は、息を呑んだ。
小野小町。六歌仙の一人に数えられる、絶世の美女と謳われた歌人。
空間の揺らぎが正しければ――伝説によれば、このおよそひと月後、その生涯を閉じることになっている女性。
「なぜ、ここにいるのでしょう」
「さあ、私にも、分かりませんわ」小町は、静かに、寂しげに微笑んだ。「気づいたら、この妙な部屋におりました。由井、明智、石田、真田、土方、坂本、大石、楠木、伊能、北斎、芭蕉、玄白、定信、松陰、伊藤、田中、渋沢、野口、三島、芥川、力道山、将門、道真、崇徳院、植村、手塚、武蔵、次郎吉、空海、清少納言、鑑真、利休、板垣、鎌足、義経、道灌、清正、一休、尊氏、家康、信長――あなたが会ってこられた方々の気配が、なんとなく、伝わってまいります。不思議な御方ですのね、あなたは」
彼女は、凪を穏やかに見つめた。
「私は今、随分と、歳を取りました。かつての輝きは、もう、どこにもございません」
「小町様……」
「ですが」老いた歌人の目に、複雑な光が宿った。「まだ、伝えておきたいことが、ございます」


一章 四十二度目のたゆたい
その夜、凪は歌集の写本に埋もれながら、考え続けていた。
これまでの四十一人には、皆、「死をどう引き受けるか」という、それぞれの重さがあった。
だが小野小町の場合、その重さは、また違う質のものだった。
小町の生涯については、確かな記録がほとんど残っていない。だが、後世、能楽『卒塔婆小町』などに描かれる伝説によれば、絶世の美女と謳われた小町も、晩年には、老い衰え、貧しい姿で、路傍をさすらうことになったとされている。
小町の生涯には、もう一つ、よく知られた伝説があった。深草少将という貴公子が、小町に恋い焦がれ、彼女の課した「百夜通い」――百夜にわたり、通い続ければ、想いに応えるという約束――に挑む。だが、少将は、九十九夜目の夜、悪天候の中、力尽きて、命を落としてしまう。この伝説において、小町は、しばしば、冷たく、高慢な美女として、描かれがちである。
凪の胸に、一つの問いが浮かんだ。
小町が最期に伝えておきたいものがあるとすれば――それは、己の歌の道だけなのか。それとも――己のために命を落とした、一人の男への、深い悔いも、あるのではないか。
凪は、暗い天井を見つめた。
「行きます」
呟くと同時に、部屋の空気が震え、歌集の匂いが、白粉と卒塔婆の匂いに変わった。
玉響。
世界が、揺れた。


二章 都のはずれの路傍
気づくと、凪は、都のはずれにある、朽ちた卒塔婆の傍らに立っていた。
晩秋の冷たい風が、寂れた路傍を、吹き抜けていく。
凪の身なりは、旅の僧風の姿に変わっていた。
「もし」
卒塔婆の傍らに座る、老いた女性に声をかけると、彼女は驚いた顔で凪を見た。
「小町様に、お目にかかりたい」
「あなたは、どなたですか」
「小町様のお導きで参った者です。到着を告げていただければ、通じるはずです」
しばらくの沈黙の後、彼女は、静かに頷いた。
「サカキバラさんとやら。よくぞ、ここまで、参られました」
この卒塔婆の傍らに座る老女こそ、晩年の小町、その人であった。


三章 小町の路傍
路傍には、粗末な藁筵と、古い歌の草稿が、置かれていた。
小町は、筵の上から、寂しげな目で凪を見た。
「よく参られました」
「参りました」
「お座りなさい」小町は、静かに言った。「私は、この歌の道に、生涯を捧げてまいりました」
「深草少将様のことを、伺ってもよろしいでしょうか」
小町は、しばらく黙っていた。
「あの方のことは、忘れようにも、忘れられません」彼女は言った。「九十九夜、通い続けてくださった末に、あの方は、命を落とされました」
「今、ご自身の来し方を、どう振り返っておられますか」
小町は、少し目を伏せた。
「深草少将様のことを、近頃、よく思い出します」


四章 語られなかった悔い
その夜、凪は路傍の片隅で、眠れぬまま過ごした。
小町の言葉が、頭から離れなかった。
――深草少将様のことを、近頃、よく思い出します。
これまでの四十一人は、皆、有限の生の中で、何を選ぶかという問いを抱えていた。
だが小町の場合、彼女が向き合っていたのは、「己の歌の道をどう遺すか」だけでなく、「己のために命を落とした男を、どう記憶するか」という問いであるように思えた。
伝説において、深草少将は、小町への恋慕から、百夜通いの試練に挑み、九十九夜目にして、力尽きて世を去った人物であった。この伝説は、しばしば、小町を、冷たい美女として描く、教訓譚として、後世に伝えられてきた。だが、小町自身が、この出来事に、どのような想いを抱いていたのかは、あまり、深く語られてこなかった。
凪は、ふと思った。
小町が、これほどまでに歌の道を追求する一方で、少将への、深い悔いは、これまで、どれほど、はっきりと語られてきたのか。
路傍の外、晩秋の虫の声が、遠く微かに聞こえていた。


五章 里人の噂
翌日、凪は、路傍を通りかかった、里の女性と、言葉を交わす機会を得た。
「小町様は、深草少将様のことを、よく話されますか」
「はい」里人は、頷いた。「百夜通いの果てに、亡くなられた御方だと、伺っております」
「その話は、世間で、どのように、語られておりますか」
里人は、少し言いにくそうに、声を潜めた。
「小町様が、あまりに情けなく、高慢であられたから……少将様は無理を重ねて、命を落とされたのだと。世間では皆、あの方を『冷酷な美女』と、後ろ指を指すように語っております」
凪は、その言葉の重さを、静かに受け止めた。
「小町様ご自身は、それを、どう思っておられるのでしょうか」
「さあ……いつも遠い目をされて、少将様のお名前を呟かれますが、私どもの前では、それ以上は何も。ただ、世間の噂を、寂しそうに受け入れておいでるように見えます」


六章 旧知の女房の吐露
その日の夕刻、かつて宮中で小町と共に仕えた、女房の一人が、路傍を訪れた。
「サカキバラ殿と申されるか。小町様より、伺っております」
「あなたは、深草少将様のことを、どう見ておられますか」
女房は、少し目を伏せ、ため息をついた。
「あれほどまでに、一途に、想いを貫かれた御方はおりません。ですが、まわりの目はあまりに勝手なものでございます。人前では、どこまでも気高く、凛として振る舞っておられた小町様ですが……あの方が誰もいない夜、どれほど深く、心を痛めて涙しておられたか。私は知っております」
「それは、小町様ご自身にとって、どれほどの重みを持つ出来事だったのでしょうか」
「生涯の棘でございます。ですが小町様は、己の非を世間に言い訳することを、良しとされぬお方。だからこそ、本当の想いは、誰の耳にも届かぬままなのです」
凪は、深く頷いた。
「もし、小町様が、世間の噂ではなく、ご自身の本当の想いを、はっきりと言葉にされたら――何か、変わると思われますか」
「変わるかもしれません。……ですが、それを、はっきりと語ることは、ご自身の罪と向き合うこと。小町様にとっても、身を削るほど辛いことでございましょう」


七章 夜半の対話
その夜、凪は小町に呼ばれ、二人だけで路傍に残った。
「里人や、女房から、聞きました」と小町は言った。「あなたが、深草少将様のことを、あれこれ聞いておられるそうですね」
「出過ぎた真似を、仕りました」
「いいえ」小町は、静かに凪を見た。「私自身、見つめ直さねばならぬ道でした。避けては通れぬお裁きのようなもの、とでも申しましょうか」
「世間は、あなたのことを、冷たい美女として、語り継ごうとしております。ですが、あなたご自身は、それを、どう思っておられるのでしょうか」
小町は、しばらく、黙っていた。
「私は……」やがて彼女は、静かに言った。「あの試練を、少将様に課したのは、私自身。まさか、それが、あの方の命を奪うことになろうとは、思いもしませんでした。……ですが、結果として、私は、あの方を、死なせてしまいました。後悔と、哀しみと……その両方が、いつも、私の中にございます。世間が私をどれほど冷たい女と蔑もうと、甘んじて受け入れるつもりでした。ですが、あの方の一途さまでもが、私の傲慢さの引き立て役にされるのは……あまりに、忍びないのです」
凪は、深く息を吸い、静かに語りかけた。
「小町様。あなたは今、老い衰え、路傍に座しておられます。ですが――もし、深草少将様への、本当の想いを、はっきりと言葉にしないまま終われば、あの方の一途さも、あなたの悔いも、共に、『冷たい美女』という伝説の陰に、永遠に埋もれたままになってしまうでしょう」
小町の目が、微かに揺れた。
「あなたが本当に遺したいものは、冷たい美女という、都合の良い世間の伝説だけではございますまい。……深草少将という、一途な想いを貫いた男がいたこと、そして、それに対するあなたの、本当の悔い。それを次の時代へと、はっきりと伝えることもまた、あなたの歩むべき『歌路』なのではないですか」
小町は、長い間、目を閉じていた。


八章 語られた言葉
その夜遅く、小町は、女房を呼び、静かに語り始めた。
凪は、その傍らに、静かに控えていた。
「深草少将様は……」小町は、ゆっくりと、言葉を選びながら言った。「一途に、私を想い続けてくださいました。あの方の想いを、試すような不遜をしてしまったこと、そして、それが、あの方の命を奪う結果になってしまったことを、私は、生涯、悔いております」
女房は、深く頭を下げた。
「これより後、私のことを語り継ぐ人は、少将様のことも、どうか伝えておくれ」小町は、静かに続けた。「冷たい女としてではなく、一途な想いを受け止めきれなかった、一人の、あまりに弱い女の物語として」
女房の目から、涙がこぼれ落ちた。
凪は、静かに、その言葉を聞いていた。
やがて小町は、深く息をついた。
「これで……少しは、心が、軽くなりました。私の歌の道に、ようやく、ひとつの誠が灯った気がいたします」


九章 遺されたもの
伝説によれば、この夜からおよそひと月後、小野小町は、老い衰え、路傍にて、その生涯を閉じたとされている。だが、その正確な最期については、史料上、確かなことは、何も分かっていない。
後世、能楽『卒塔婆小町』をはじめとする、様々な物語の中で、小町の晩年の姿と、深草少将との悲恋は、繰り返し描かれることになる。だが、多くの物語において、小町は、冷たい、あるいは、高慢な女性として、描かれがちであった。
凪は、その事実を知り、静かに思った。
伝説として語り継がれる、冷たい美女の物語の陰にも、確かに、一人の人間の、深い悔いと哀しみが、息づいていたのかもしれない、と。


終章 もう一つの歌路
千年余りの後。
小野小町の歌は、今も、多くの人々に、読み継がれていた。
「絶世の美女」「冷たい美女」としての伝説の陰で、深草少将への、深い悔いを抱き続けた、一人の女性の心情を、深く知る人は、多くはない。
「六歌仙の一人」としてだけではなく、「一途な想いを受け止めきれなかったことを、生涯、悔い続けた、一人の女性」として。


エピローグ もう一つの光
東京の書斎で、凪は、書き上げたばかりの原稿を、静かに読み返していた。
窓の外では、晩秋の風が、静かに吹いていた。
「あなたが遺したかったのは、冷たい美女という伝説だけではなかったはずです」
凪は、静かに呟いた。
パソコンの画面には、彼が書き上げた物語の、最後の一文が残されていた。
『平安の都のはずれに、静かな夕暮れが、訪れようとしていた。絶世の美女と謳われながら歌の道に生きた女は、その最期の日々に、己の伝説を見つめ直しながらも、もう一つの光を、確かに、一途な想いを貫いた男へと、語り遺したのである。』
画面の右下で、縦線のカーソルが、規則正しく、静かに点滅を繰り返している。
風が吹いた。白粉と、卒塔婆の匂いが、微かにした。
玉響の揺らぎは、今日もまた、静かに続いている。

——了——


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あとがき
本作は小野小町を題材としたフィクションです。小野小町については、確かな伝記的史料がほとんど残っておらず、深草少将との「百夜通い」の伝説、晩年に老い衰えたとする伝説(『卒塔婆小町』などの能楽作品に代表される)は、いずれも、後世に形成された説話・伝承であり、史実として確認されたものではありません。本作は、これらの伝説を基にした、完全な創作です。
深草少将という人物、そして百夜通いの伝説そのものの史実性についても、研究者の間で様々な見解があります。小町が実際にこの伝説にどのような想いを抱いていたか、という点も、当然ながら、著者の創作です。
本作は、前四十一作と同じく、「もし介入できたなら」という思考実験として書かれています。
そして、玉響は、いつの時代にも、静かに揺らいでいるのかもしれません。


布武路転生記 〜織田信長と刻をこえた男〜
玉響転生記・第四十一話



まえがき
四十度の邂逅を経て、榊原凪は、また新たな「刻」へと導かれることになった。
徳川家康との旅で、凪は「天下路」という言葉を得た。今回、彼が得た言葉は「布武路」であった。
「天下布武」の印を掲げ、旧き秩序を、次々と打ち破っていった男。
天正十年(一五八二年)五月。齢四十九。天下統一を、目前にしていた男――織田信長。だが、その傍らには、遠い異国から来た、一人の従者がいた。
なお、本作で描かれる、信長暗殺(本能寺の変)の経緯そのものについては、深く立ち入ることを意図しない。本作は、その、およそひと月前の日々に、光を当てるものである。




プロローグ 皐月の来訪
東京は、初夏に向かう、爽やかな夜だった。
榊原凪は、七十二歳になっていた。徳川家康との旅から、半年余りが経っている。
駿府城で、家康が信康、築山殿への想いを、静かに語った、あの夜のことを、凪は今も思い出す。
書き上げた小説『政治の犠牲となった家族』は、静かな反響を呼んだ。
その夜、凪は書斎で、古い南蛮渡来の品々を描いた絵図を眺めながら、うたた寝をしていた。
ふと、硝煙と、異国の香辛料のような匂いがした。
顔を上げると、部屋の隅に、一人の武将が座っていた。
鋭い眼光。当世風の南蛮胴。だが、その目には、限りない好奇心と、確かな自信とが、宿っていた。
「なんじゃ、そなたは」
武将は、静かに、しかし鋭く言った。
「あなたは……」
「織田信長じゃ」
凪は、息を呑んだ。
織田信長。旧き秩序を次々と打ち破り、天下統一を目前にしていた、稀代の革命児。そして――このおよそひと月後、その生涯を閉じることになっている男。
「なぜ、儂は、ここにおるのか」
「さて、それがしにも、分からぬ」信長は、鋭い目のまま、微かに笑った。「気づけば、この妙な部屋におった。家康――そなたが会うてきた者たちの気配が、なんとのう、伝わってくる。随分と面妖な男じゃな、そなたは」
彼は、凪を鋭く見つめた。
「儂は今、安土におる。間もなく、上洛する予定じゃ」
「信長様……」
「されど」革命児の目に、懐かしむような光が宿った。「その前に、伝えておきたいことが、ある」


一章 四十一度目のたゆたい
その夜、凪は南蛮渡来の絵図に埋もれながら、考え続けていた。
これまでの四十人には、皆、「死をどう引き受けるか」という、それぞれの重さがあった。
だが織田信長の場合、その重さは、また違う質のものだった。
これまでの人物たちの多くは、自らの死期を、ある程度、悟っていた。だが信長は違う。史実において、彼は天正十年六月、京の本能寺にて、家臣・明智光秀の謀反により、その生涯を閉じることになる。本人は、まだ、その日が来ることを、知らない。
信長の傍らには、あまり知られていない従者がいた。弥助である。イエズス会の宣教師・ヴァリニャーノに連れられ、アフリカから、遠く日本へと辿り着いたこの男を、信長は、その黒い肌と、強靭な体軀に強い関心を示し、家臣として召し抱えた。日本で初めて、武士としての身分を与えられた、外国出身の人物であった。
だが、後世、織田信長という名が、天下統一を目前にした革命児としてあまりに大きく語り継がれる一方で、弥助の存在は、広くは知られていない。
凪の胸に、一つの痛みが走った。天下統一の物語で、必ず“消される名”がある。
信長が、あとひと月後に迎える運命を前に、伝えておきたいものがあるとすれば――それは、己の天下統一の構想だけなのか。それとも、遠い異国から来た、一人の従者への想いも、あるのではないか。
凪は、暗い天井を見つめた。
「行きます」
呟くと同時に、部屋の空気が震え、絵図の匂いが、あの匂いに変わった。
玉響。
世界が、揺れた。


二章 近江・安土城
気づくと、凪は、近江国にある、安土城の裏手に立っていた。
初夏の緑が、壮麗な天主を、鮮やかに彩っている。
凪の身なりは、城に仕える下人風の姿に変わっていた。
「もし」
城の前にいた小姓に声をかけると、彼は驚いた顔で凪を見た。
「上様に、お目通り願いたい」
「そなた、何者じゃ」
「南蛮寺の伴天連様より、珍しき品を届けに参った者です。到着を告げていただければ、通じるはずです」
小姓は、訝しみながらも、奥へと入っていった。
しばらくして、戻ってきた。
「サカキバラとやら申したな。お入りくだされ」
この小姓こそ、信長の身の回りの世話をしていた、若き近習であった。


三章 信長の居室
障子の向こうでは、甲冑を磨く音と、京への道程を論じる重臣たちの声が絶え間なく響いていた。上洛の準備が、城全体をざわめかせている。
居室からは、琵琶湖を望む、壮大な景色が、一望できた。
信長は、窓辺から、鋭い目で凪を見た。その部屋には、硝煙と、香辛料の匂いが混ざった、異国の香りが満ちていた。
「よう来たな」
「参りました」
「伴天連からの珍しき品とは何じゃ。見当たらぬが」
信長が目を細める。凪は静かに頭を下げた。
「品ではございませぬ。信長様、あなたへの、一つの『問い』にございます」
「ほう……面白い」信長は、簡潔に言った。「座れ。儂は、この国の、古き秩序を、すべて、作り変えるつもりじゃ」
「弥助という従者について、伺ってもよろしいでしょうか」
信長は、しばらく黙っていた。
「面白い男よ」彼は言った。「肌の色も、体格も、儂が知る誰とも違う。それだけで、召し抱える理由には、十分じゃ」
「今、弥助殿のことを、どう思っておられますか」
信長は、少し目を細めた。
「あの男のことを、近頃、よく思い出す」


四章 名の記されなかった従者
その夜、凪は安土城の一室で、眠れぬまま過ごした。
信長の言葉が、頭から離れなかった。
――あの男のことを、近頃、よく思い出す。
これまでの四十人は、皆、有限の生の中で、何を選ぶかという問いを抱えていた。だが信長自身は、自らの運命が、ひと月後に迫っていることを、まだ知らない。それにもかかわらず、天下統一の壮大な構想を語る一方で、なぜ弥助への関心を、繰り返し口にするのか。
旧来の身分や出自にこだわらず、才ある者を、迷わず登用する――信長の、そうした気性を、最もよく体現する人物こそが弥助であった。しかし信長自身は、それを「特別なこと」として、これまで、はっきりと語ってこなかったのではないか。
信長にとっては、あまりにも「当たり前」の流儀だったからこそ、あえて言葉にされる機会がなかった。だが、それゆえに、後世の巨大な「天下統一」という記録の陰に、その想いが埋もれてしまうのではないか。
窓の外、琵琶湖の夜風が、遠く微かに感じられた。


五章 南の空を見上げる男
翌日の昼、凪は天主の庭で、一人の男が空を見上げているのを見つけた。
弥助であった。
他の者が上洛の準備に慌ただしく駆ける中、彼は一人、じっと南の空を仰いでいる。
「弥助殿」
凪が声をかけると、彼は振り返った。その黒い瞳は、静かで、澄んでいた。
「故郷、恋しいか」
凪が指で南を指し、問いかける。弥助はゆっくりと首を振った。
そして、己の分厚い胸に手を当て、ただ一言、言った。
「ノブナガ」
言葉は、通じていたのか。いや、通じなくても良かった。分厚い胸に当てた手と、「ノブナガ」の一語だけで――
風が、二人の間を吹き抜けた。
凪には、分かった。弥助は、故郷ではなく、ここにいることを選んでいるのだ、と。


六章 近習との対話
その日の午後、凪は、居室の外で控えていた近習と、言葉を交わす機会を得た。
「上様は、弥助殿のことを、よく話されますか」
「はい」近習は、頷いた。「あの強靭な体軀と、その気性を、大変、気に入っておられます」
「弥助殿のことは、家中で、広く知られておりますか」
近習は、少し考えた。
「城中の者は、皆、存じております。ですが、後の世まで、どう伝わるかは、また、別の話でございましょう」
凪は、その言葉の重さを、静かに受け止めた。
「上様ご自身は、それを、どう思っておられるのでしょうか」
近習は、しばらく考えていた。
「上様は、弥助殿を、単なる珍しい存在としてではなく、一人の家臣として、扱っておられます。ですが……それを、はっきりと、言葉にされたことは、まだ、あまりないように思います」


七章 小姓・森蘭丸との対話
その日の夕刻、信長の側近くに仕える、森蘭丸が、居室を訪れた。
「サカキバラ殿と申されるか。上様より、伺っております」
「蘭丸殿は、弥助殿のことを、どう見ておられますか」
蘭丸は、少し考えた。
「正直、嫉妬したこともございます」蘭丸は、自嘲するように笑った。「あの方は肌の色一つで、上様の目を引いた。されど、上様がご覧になっていたのは、肌ではなく……」彼はそこで口をつぐんだ。「私には、まだ見えぬものなのでしょう。才ある者は、才ある者として、扱われる――それが、上様の、変わらぬ流儀でございます」
「それは、信長様ご自身の、はっきりとしたお考えによるものですか」
「上様は……」蘭丸は、言葉を選びながら言った。「古き慣習に、まったく囚われぬ御方です。ただ、それを、後の世に向けて、特別なこととして、語られたことは、まだ、ないように思います」
蘭丸は、己の帯刀に視線を落とした。「……もし上様が、あの方を“刀”として見ておられたなら、私はとうに学ばねばならぬ」
凪は、頷いた。
「もし、上様が、はっきりと、弥助殿への想いを、書き記されたら――何か、変わると思われますか」
蘭丸は、しばらく考えた。
「変わりましょう。……上様のお言葉には、それだけの重みがございます」


八章 夜半の対話
その夜、凪は信長に呼ばれ、二人だけで居室に残った。
「近習や、蘭丸から、聞いたぞ」と信長は言った。「そなたが、弥助のことを、あれこれ聞いておるそうじゃな」
「差し出がましいことを、申し上げました」
「いや」信長は、鋭い目で凪を見た。「儂自身、向き合わねばならぬ角度じゃった」
「信長様は、天下統一の構想について、あれほど雄弁に語られてこられました。ですが、弥助殿への想いについては、あまり、はっきりと言葉にされる場が、なかったように見受けました」
信長は、しばらく、黙っていた。
「儂は……」やがて彼は、静かに言った。「才ある者は、その出自を問わず、用いる。それが、儂の、変わらぬ考えじゃ。弥助は、その考えを、最も分かりやすく、体現しておる。……だが、それを、特別なこととして、後の世に、語り遺そうとは、考えておらんだ」
「なぜですか」
「珍しき物を集めるは、天下人の余興よ。余興を、わざわざ記録に残す者がおるか」信長は、吐き捨てるように言った。
鉄と異国の匂いが、ふと濃くなった。
(珍しき物――そう言えば、茶器も、南蛮の甲冑も、皆そうよな。飽きれば蔵に入れる。だが弥助は、蔵に入らぬ。なぜじゃ)
信長の目に、一瞬、迷いのようなものが過ぎる。
凪は、一歩も引かず、信長を見据えた。
「ではなぜ、近習に『後の世に伝えよ』と命じなかったのですか。余興なら、語る必要はない。されど、あなたは近頃、弥助殿のことを『よく思い出す』と仰った。余興の相手を、思い出すものですか」
信長の目が、鋭く凪を射抜いた。天下人としてのプライドが、かすかに空気を震わせる。
「……儂に意見するか、不届き者が」
低く、しかし冷徹な声。居室の空気が、凍りついた。
だが、信長はすぐに、ふっと自嘲するように笑った。
「いや……妙に腹に落ちる言葉よ。確かに、そなたの言う通りかもしれぬな。余興と言い訳をしておったのは、儂の方よ」
凪は一礼し、さらに言葉を続けた。
「あなたが本当に遺したいものは、天下統一という構想だけでしょうか。それとも――弥助殿という、あなたの流儀を体現する者の存在を、次の時代へと、はっきり伝えることも、含まれているのではないでしょうか」
信長は、長い間、黙っていた。


九章 語られた言葉
その夜遅く、信長は、蘭丸と近習を呼び、静かに語り始めた。
凪は、その傍らに、静かに控えていた。
「弥助は……」信長は、ゆっくりと、言葉を選びながら言った。「出自など、儂には、関わりのないことよ。才ある者を、才ある者として、扱う。それだけのことじゃ。珍しき余興ではない。儂の布武路そのものよ」
蘭丸と近習は、深く頭を下げた。蘭丸の目に、安堵のような光が宿った。刀に落とした視線の意味を、彼はもう理解していた。
「これより後、儂のことを語り継ぐ者は、皆に、弥助のことも、伝えてほしい」信長は、静かに続けた。「儂の流儀は、あの男の存在に、最もよく表れておるのだと」
凪は、静かに、その言葉を聞いていた。
やがて信長は、深く息をついた。
「これで……よかろう」


十章 残されたもの
この夜からおよそひと月後、天正十年六月、信長は、京の本能寺にて、家臣・明智光秀の謀反に遭い、脱出は不可能と悟った信長は、「是非に及ばず」と言い残し、自ら寺に火を放ち、その生涯を閉じたと伝えられている。享年四十九。
弥助も、その場にいた。信長の死後も奮戦したが、明智軍に捕らえられ、宣教師のもとへ引き渡されたという。その後の消息は、史料から辿ることができない。
史実において、弥助という人物の存在は、近年、多くの研究者によって、改めて注目されることになった。信長が、旧来の身分や出自にとらわれず、才ある者を登用したという、その気性を、最もよく物語る存在として。
凪は、その事実を知り、静かに思った。
天下統一を目前にした革命児の陰にも、確かに、遠い異国から来た、一人の従者の存在が、息づいていたのかもしれない、と。


終章 もう一つの布武路
四百年余りの後。
世界各地の研究者や、物語の作り手たちが、弥助という人物の生涯に、改めて光を当て始めていた。
「天下統一を目前にした革命児」としてだけではなく、「旧き秩序にとらわれず、才ある者を、才ある者として遇した、一人の為政者」として。


エピローグ もう一つの光
東京の書斎で、凪は、書き上げたばかりの原稿を、静かに読み返していた。
窓の外では、初夏の風が、心地よく吹いていた。
「あなたが遺したかったのは、天下統一の構想だけではなかったはずです」
凪は、静かに呟いた。
パソコンの画面には、彼が書き上げた物語の、最後の一文が残されていた。
『天正十年五月、安土の空は、静かに暮れようとしていた。旧き秩序を次々と打ち破った男は、その最期の日々に、己の構想を語りながらも、もう一つの光を、確かに、遠い異国から来た従者へと、語り遺したのである。』
風が吹いた。硝煙と、香辛料の匂いが、微かにした。
玉響の揺らぎは、今日もまた、静かに続いている。

——了——


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あとがき
本作は織田信長の最晩年を題材としたフィクションです。織田信長、弥助、森蘭丸などは実在の人物ですが、物語における対話の内容は、著者の創作です。
実際に信長は天正十年(一五八二年)六月、京の本能寺にて、家臣・明智光秀の謀反に遭う。本能寺の変が起こった経緯や、光秀の動機については、今日に至るまで様々な説があり、本作ではその点に深く立ち入ることを意図していません。
弥助は、イエズス会宣教師ヴァリニャーノに伴われて日本へ渡り、信長に召し抱えられた人物です。その出身地や経緯については、断片的な史料からの推測にとどまり、確定的なことは分かっていません。本能寺の変の際、信忠の元へ向かい交戦した後、明智軍に捕らえられ、宣教師のもとに引き渡されたと伝えられていますが、その後の消息は不明です。信長が弥助への想いを最晩年、具体的にどのように語っていたかについて、本作における描写は、著者の創作です。
本作は、前四十作と同じく、「もし介入できたなら」という思考実験として書かれています。
そして、玉響は、いつの時代にも、静かに揺らいでいるのかもしれません。

天下路転生記 〜徳川家康と刻をこえた男〜
玉響転生記・第四十話


まえがき
三十九度の邂逅を経て、榊原凪はまた新たな「刻」へと導かれることになった。
足利尊氏との旅で、凪は「将軍路」という言葉を得た。今回、彼が得た言葉は「天下路」であった。
耐え忍び、待ち続け、ついに天下を統べた男。
元和二年(一六一六年)四月。齢七十三。関ヶ原の戦いを制し、江戸幕府を開いた男――徳川家康。だが、その天下統一の道の、遥か手前には、政治のために、実の子と、正室とを失った過去があった。




プロローグ 卯月の来訪
東京は、晩春の、穏やかな夜だった。
榊原凪は、七十二歳になっていた。足利尊氏との旅から、半年余りが経っている。
室町第で、尊氏が弟・直義への想いを、静かに語った、あの夜のことを、凪は今も思い出す。
書き上げた小説『失われた弟』は、静かな反響を呼んだ。
その夜、凪は書斎で、古い系図の写しを眺めながら、うたた寝をしていた。
ふと、薬草と、駿府の潮風のような匂いがした。
顔を上げると、部屋の隅に、一人の老人が座っていた。
恰幅のよい体躯。だが、その顔には、老いによる疲れの色が、濃く滲んでいた。
「夜分に、失礼つかまつる」
老人は、静かに言った。
「あなたは……」
「徳川家康と申す。今は、大御所と呼ばれておる」
凪は、息を呑んだ。
徳川家康。関ヶ原の戦いに勝利し、江戸幕府を開いた、天下人。そして――このおよそ一月後、その生涯を閉じることになっている男。
「なぜ、ここにおるのじゃ。そなたは何者じゃ」
「さて、儂にも分からぬよ」家康は、静かに微笑んだ。「気づけば、この妙な部屋におった。由井、明智、石田、真田、土方、坂本、大石、楠木、伊能、北斎、芭蕉、玄白、定信、松陰、伊藤、田中、渋沢、野口、三島、芥川、力道山、将門、道真、崇徳院、植村、手塚、武蔵、次郎吉、空海、清少納言、鑑真、利休、板垣、鎌足、義経、道灌、清正、一休、尊氏――そなたが会うてきた者たちの気配が、なんとのう、伝わってくる。不思議な御仁じゃな、おぬしは」
彼は、凪を静かに見つめた。
「儂は今、駿府にて、静かに余生を過ごしておる」
「家康様……」
「されど」老いた天下人の目に、複雑な光が宿った。「その前に、はっきりさせておきたいことが、ある」


一章 四十度目のたゆたい
その夜、凪は系図の写しに埋もれながら、考え続けていた。
これまでの三十九人には、皆、「死をどう引き受けるか」という、それぞれの重さがあった。
だが徳川家康の場合、その重さは、また違う質のものだった。
史実において、家康は元和二年四月、駿府城にて、その生涯を閉じることになる。享年七十三。
家康の生涯には、あまり語られない、深い悲劇があった。天正七年(一五七九年)、家康の嫡男・松平信康は、武田氏との内通を疑われ、同盟者・織田信長の意向を受け、自害を命じられる。信康の母であり、家康の正室であった築山殿もまた、ほぼ同時期に、命を落とすことになる。天下統一を成し遂げるはるか以前、徳川家がまだ不安定な立場であった頃、この二人の死は、御家を守るために受け入れざるを得ない、痛恨の犠牲であった。
凪の胸に、一つの問いが浮かんだ。
家康が最期にはっきりさせておきたいものがあるとすれば――それは、己が築いた「天下泰平」という功績の確証だけなのだろうか。それとも、遥か昔に失った、実の子と正室への、心の奥底に仕舞い込んだ想いなのだろうか。
凪は、暗い天井を見つめた。
「行きます」
呟くと同時に、部屋の空気が震え、系図の匂いが、薬草と潮風の匂いに変わった。
玉響。
世界が、揺れた。


二章 駿府城
気づくと、凪は、駿府城の裏手に立っていた。
晩春の柔らかな日差しが、城を、静かに照らしている。
凪の身なりは、城に仕える下人風の姿に変わっていた。しかし、七十二歳になった凪が醸し出す静かな風格は、ただの下人のそれとは明らかに異なっていた。
「もし」
城の前にいた家臣に声をかけると、彼は驚いた顔で凪を見た。
「大御所様に、お目通り願いたい」
「そなた、何者じゃ」
「大御所様のお導きで参った者です。到着を告げていただければ、通じるはずです」
家臣は、訝しみながらも、奥へと入っていった。
しばらくして、戻ってきた。
「サカキバラとやら申したな。お入りくだされ」
この家臣こそ、家康の身の回りの世話をしていた、若き従者であった。


三章 家康の居室
居室には、天下泰平のための、様々な法令の草案が、静かに積まれていた。
家康は、文机の前から、静かな目で凪を見た。
「よう参られた」
「参りました」
「座られよ」家康は、静かに言った。「儂は、長い戦乱の世を終わらせようと、生涯、耐え忍んでまいった」
「信康様のことを、伺ってもよろしいでしょうか」
家康は、しばらく黙っていた。
「あの日のことは、忘れようにも忘れられぬ」彼は言った。「弱小であった、あの頃の儂には、他にどうする術もなかった」
「今、ご自身の来し方を、どう振り返っておられますか」
家康は、少し目を伏せた。
「信康と、築山殿のことを、近頃、よく思い出すのだ」


四章 名の記されなかった母子
その夜、凪は駿府城の一室で、眠れぬまま過ごした。
家康の言葉が、頭から離れなかった。
――信康と、築山殿のことを、近頃、よく思い出す。
これまでの三十九人は、皆、有限の生の中で、何を選ぶかという問いを抱えていた。だが家康の場合、彼が見つめていたのは、「天下泰平をどう遺すか」という政治の問いだけではない。「歴史の歯車の陰で、名を奪われた家族の記憶をどう残すか」という、一個の父としての問いでもあった。
史実において、松平信康の自害と築山殿の死の真相は、今なお謎に包まれている。後世、徳川家康という名が、天下統一を成し遂げるはるか以前、徳川家がまだ不安定な立場であった頃、この二人の死は、御家を守るために受け入れざるを得ない、痛恨の犠牲であった。
凪は、窓の外で静かに吹く駿府の夜風を感じながら、彼らの無念に思いを馳せた。


五章 従者との対話
翌日、凪は、居室で書状を整理していた従者と、言葉を交わす機会を得た。
「大御所様は、信康様のことを、よく話されますか」
「はい」従者は、頷いた。「若くして、自害を命じられた、ご嫡男だと、伺っております」
「信康様のお名前は、世に、広く知られておりますか」
従者は、首を振った。
「いいえ。大御所様のお名前は天下に知られておりますが、信康様のことまでは、あまり、知られていないように思います」
凪は、その言葉の重さを、静かに受け止めた。
「大御所様ご自身は、それを、どう思っておられるのでしょうか」
従者は、しばらく考えていた。
「大御所様は、時折、遠い目をされて、信康様のお名前を口にされます。ですが……それを、はっきりと誰かに言葉として打ち明けられたことは、まだないように思います」


六章 旧臣との対話
その日の夕刻、家康の古くからの家臣が、居室を訪れた。
「サカキバラ殿と申されるか。大御所様より、伺っております」
「あなたは、信康様、築山殿のことを、どう見ておられますか」
旧臣は、少し目を伏せた。
「あの頃の我が家は、織田公の機嫌一つで首が飛ぶような有様でございました。三河一国すらままならぬ弱小の身、御家を守るためには、泣いて馬謖を斬る他なかった。殿がどれほどの苦渋を呑んであの決断を下されたか……わしらは皆、胸の内に仕舞うております。殿は、誰よりも深い悔いを抱いておられるはずです。ただ、天下を取るという大きな仕事に、常に心を占められておられたゆえ、それを表に出す暇がなかったのでございましょう」
「もし、大御所様が、はっきりと、信康様、築山殿への想いを、言葉に遺されたら――何か、変わると思われますか」
旧臣は、しばらく考えた。
「変わりましょう。……大御所様のお言葉には、それだけの重みがございます。岡崎の土の下に眠るお二人の魂も、さぞ、報われましょう」


七章 夜半の対話
その夜、凪は家康に呼ばれ、二人だけで居室に残った。
「従者や、旧臣から聞き申した」と家康は言った。「そなたが、信康と、築山殿のことを、あれこれ問うておるそうじゃな」
「差し出がましいことを、申し上げました」
「いや」家康は、静かに凪を見た。「儂自身、向き合わねばならぬことじゃ」
「家康様。あなたが天下泰平の礎を語られる時、その影にあるものについて、言葉にされる機会は、これまでございましたか」
家康は、長い沈黙の後、絞り出すように言った。
「儂は……あの頃、弱小な儂には、信長公の意向に逆らう力がなかった。それゆえ、我が子と、妻とを失うた。……この悔いは、生涯、消えることはない。悔いと、申し訳なさと……その両方が、いつも、儂の中にござる。天下泰平を築くことができたのも、あの頃の耐え忍びがあったればこそじゃ。だが、その礎に、あの二人の犠牲があったことを忘れてはならぬのだ」
凪は、深く息を吸った。
「家康様。あなたが本当に遺したいものは、ご自身が築いた天下泰平の功績だけでしょうか。それとも――信康様、築山殿という、政治のために失った、実の子と正室との存在を、次の時代へと、あなたの言葉ではっきり伝えることも、含まれているのではないでしょうか。そうでなければ、お二人の存在は、あなたの天下統一の栄光の陰に、埋もれたままになってしまうかもしれません」
家康の目が、微かに揺れた。そして長い間、静かに目を閉じていた。


八章 語られた言葉
その夜遅く、家康は、旧臣と従者を呼び、静かに語り始めた。
凪は、その傍らに、静かに控えていた。
「信康と、築山殿は……儂が、弱小であったがゆえに、失うた者たちじゃ。天下泰平を築いた今、その礎に、あの二人の犠牲があったことを、決して忘れてはならぬ」
旧臣と従者は、深く頭を下げた。
「これより後、儂のことを語り継ぐ者は、皆に、信康と、築山殿のことも伝えてほしい」家康は、静かに続けた。「この天下泰平は、儂一人の功績ではなく、あの二人の犠牲の上にも、築かれたものなのだと」
凪は、静かに、その言葉を聞いていた。
やがて家康は、深く息をついた。
「これで……少しは、心が、安まろう。信康、築山よ、許せ」


九章 遺されたもの
この夜からおよそ一月後、元和二年四月、徳川家康は、駿府城にて、その生涯を閉じることになる。享年七十三。
史実において、松平信康、築山殿の悲劇は、後世に語られる家康の華々しい天下統一の物語の中で、しばしば簡潔に触れられるのみであった。だが、後世の歴史研究においては、この出来事が、家康の生涯に、深い影を落とし続けたことが指摘されている。
凪は、その事実を知り、静かに思った。
偉大な天下統一の物語の陰にも、確かに、政治のために失われた、家族の犠牲が、息づいていたのだ、と。


終章 もう一つの天下路
四百年余りの後。
静岡のある寺には、松平信康、築山殿を弔う、静かな墓所が、今も残されていた。
江戸幕府を開いた、偉大な天下人としての家康の陰で、政治のために失われた、実の子と、正室との存在を深く知る人は、多くはない。
「天下泰平を築いた将軍」としてだけではなく、「政治の犠牲となった家族への悔いを、生涯、抱き続けた、一人の人間」としての家康の姿が、そこにはあった。


エピローグ もう一つの光
東京の書斎で、凪は、書き上げたばかりの原稿を、静かに読み返していた。
窓の外では、晩春の風が、心地よく吹いていた。
「あなたが遺したかったのは、ご自身の功績だけではなかったはずです」
凪は、静かに呟いた。
パソコンの画面には、彼が書き上げた物語の、最後の一文が残されていた。
『元和二年四月、駿府の空は、静かに暮れようとしていた。耐え忍び、待ち続け、ついに天下を統べた男は、その最期の日々に、己の功績を語りながらも、もう一つの光を、確かに、失われた家族へと、語り遺したのである。』
風が吹いた。薬草と、駿府の潮風の匂いが、微かにした。
玉響の揺らぎは、今日もまた、静かに続いている。

――了――


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あとがき
本作は徳川家康の最晩年を題材としたフィクションです。徳川家康、松平信康、築山殿などは実在の人物ですが、物語における従者や旧臣との対話の内容は、著者の創作です。
実際に家康は元和二年(一六一六年)四月、駿府城にて、七十三歳でその生涯を閉じたと伝えられています。天正七年(一五七九年)、嫡男・松平信康は、武田氏との内通を疑われ、同盟者・織田信長の意向を受けて自害を命じられ、正室・築山殿もまた、ほぼ同時期に命を落としました。この事件の真相については、今日でも研究者の間で見解が分かれており、信長の強要説のほか、家康と信康との対立、あるいは家中の内部事情によるものとする説なども唱えられています。
家康が晩年、この二人への想いをどのように語っていたかについて、具体的な記録は確認されておらず、本作における晩年の対話や心情描写は、著者の創作です。
本作は、前三十九作と同じく、「もし介入できたなら」という思考実験として書かれています。
そして、玉響は、いつの時代にも、静かに揺らいでいるのかもしれません。


将軍路転生記 〜足利尊氏と刻をこえた男〜
玉響転生記・第三十九話


まえがき
三十八度の邂逅を経て、榊原凪は、また新たな「刻」へと導かれることになった。
一休宗純との旅で、凪は「狂雲路」という言葉を得た。今回、彼が得た言葉は「将軍路」であった。
鎌倉幕府を倒し、後醍醐天皇に叛き、新たな武家政権を打ち立てた男。
延文三年(一三五八年)四月。齢五十四。室町幕府を開き、征夷大将軍として、この国に君臨していた男――足利尊氏。だが、その武家政権の礎には、共に幕府を築きながら、その確執の末、非業の死を遂げた、実の弟がいた。
なお、南北朝の動乱という、評価の分かれる時代のことゆえ、尊氏の生涯については、後世、時代によって、大きく異なる評価がなされてきた。本作は、特定の立場からの断定的な評価を下すことを意図するものではない。





プロローグ 卯月の来訪
東京は、晩春の、穏やかな夜だった。
榊原凪は、七十一歳になっていた。一休宗純との旅から、半年余りが経っている。
大徳寺の庵室で、一休が森侍者への想いを、詩に込めた、あの夜のことを、凪は今も思い出す。
書き上げた小説『狂雲の恋』は、静かな反響を呼んだ。
その夜、凪は書斎で、古い軍記物語の写本を眺めながら、うたた寝をしていた。
ふと、鎧の匂いと、乾いた墨のような匂いがした。
顔を上げると、部屋の隅に、一人の武将が座っていた。
質素な直垂。だが、その目には、武人らしい鋭さと共に、深い疲労と、複雑な陰とが、宿っていた。
「夜分に、無礼つかまつる」
武将は、静かに言った。
「あなたは……」
「足利尊氏と申す。征夷大将軍を、務めておる者じゃ」
凪は、息を呑んだ。
足利尊氏。鎌倉幕府を倒し、後に後醍醐天皇と袂を分かち、室町幕府を開いた武将。そして――このおよそひと月後、その生涯を閉じることになっている男。
「なぜ、ここにおるのか」
「さて、それがしにも、分からぬ」尊氏は、静かに微笑んだ。「気づけば、この妙な部屋におった。由井正雪から一休宗純まで、三十八度の邂逅の気配が、なんとのう、伝わってくる。不思議な御仁じゃな、そなたは。」
彼は、凪を静かに見つめた。
「それがしは今、京にて、幕府を、束ねておる」
「尊氏様……」
「されど」武将の目に、複雑な光が宿った。「その前に、はっきりさせておきたいことが、ある」


一章 三十九度目のたゆたい
その夜、凪は軍記物語の写本に埋もれながら、考え続けていた。
これまでの三十八人には、皆、「死をどう引き受けるか」という、それぞれの重さがあった。
だが足利尊氏の場合、その重さは、また違う質のものだった。
史実において、尊氏は延文三年四月、京にて、病により、その生涯を閉じることになる。享年五十四。
尊氏の生涯には、あまり語られない、深い確執があった。実の弟、足利直義である。幕府創設の当初、尊氏が武士の統率を、直義が政務・裁判を担うという、「二頭政治」体制が敷かれ、直義の緻密な政治手腕が、幕府の基礎を、確かに築き上げていた。だが、やがて両者の間には、深刻な対立が生じ、「観応の擾乱」と呼ばれる、骨肉の争いへと発展する。観応三年(一三五二年)、直義は、鎌倉にて、その生涯を閉じるが、この死には、尊氏による毒殺の疑いが、後世、囁かれることになった。
凪の胸に、一つの問いが浮かんだ。
尊氏が最期にはっきりさせておきたいものがあるとすれば――それは、己が開いた、幕府という功績だけなのか。それとも――共に幕府を築きながら、非業の死を遂げた、実の弟への想いも、あるのではないか。
凪は、暗い天井を見つめた。
「行きます」
呟くと同時に、部屋の空気が震え、軍記物語の匂いが、鎧と墨の匂いに変わった。
玉響。
世界が、揺れた。


二章 京・室町第
気づくと、凪は、京にある、室町第の裏手に立っていた。
晩春の柔らかな日差しが、御所を、静かに照らしている。
凪の身なりは、御所に出入りする商人風の姿に変わっていた。
「もし」
御所の前にいた家臣に声をかけると、彼は驚いた顔で凪を見た。
「尊氏様に、お目通り願いたい」
「そなた、何者じゃ」
「尊氏様のお導きで参った者です。到着を告げていただければ、通じるはずです」
家臣は、訝しみながらも、奥へと入っていった。
しばらくして、戻ってきた。
「サカキバラとやら申したな。お入りくだされ」
この家臣こそ、尊氏の身の回りの世話をしていた、若き従者であった。


三章 尊氏の居室
居室には、幕府の政務に関わる書状が、静かに積まれていた。
尊氏は、文机の前から、静かな目で凪を見た。
「よう参られた」
「参りました」
「座られよ」尊氏は、静かに言った。「それがしは、この国に、新しき武家の世を、築いてまいった」
「弟君・直義様のことを、伺ってもよろしいでしょうか」
尊氏は、しばらく黙っていた。
「あの者のことは、忘れようにも、忘れられぬ」彼は言った。「幕府の礎は、あの者の政務あってこそ、築かれたものであった」
「今、ご自身の来し方を、どう振り返っておられますか」
尊氏は、少し目を伏せた。
「直義のことを、近頃、よく思い出す」


四章 名の記されなかった弟
その夜、凪は室町第の一室で、眠れぬまま過ごした。
尊氏の言葉が、頭から離れなかった。
――直義のことを、近頃、よく思い出す。
これまでの三十八人は、皆、有限の“道”の中で、何を選ぶかという問いを抱えていた。だが尊氏の場合、彼が向き合っていたのは、「己が開いた幕府をどう遺すか」だけでなく、「己と袂を分かち、非業の死を遂げた弟を、どう記憶するか」という問いであるように思えた。
足利直義は、幕府創設期の政務・裁判制度の整備に、大きな功績を残した人物であった。だが、兄との対立の末、鎌倉にてその生涯を閉じる。足利尊氏という名が、室町幕府の創始者としてあまりに大きく語り継がれる一方で、直義の功績は、その確執の陰で、広くは知られてこなかった。
凪は、ふと思った。
尊氏が、これほどまでに幕府創設の功績を語られる一方で、共に幕府を築き、非業の死を遂げた弟への想いは、これまで、どれほど、はっきりと語られてきたのか。
窓の外、京の夜風が、静かに吹いていた。


五章 従者との対話
翌日、凪は、居室で書状を整理していた従者と、言葉を交わす機会を得た。
「上様は、直義様のことを、よく話されますか」
「はい」従者は、頷いた。「幕府の政務の礎を築かれた御方だと、伺っております」
「直義様のお名前は、世に、広く知られておりますか」
従者は、首を振った。
「いいえ。上様のお名前は、天下に知られておりますが、直義様のことまでは、あまり、知られていないように思います」
凪は、その言葉の重さを、静かに受け止めた。
「上様ご自身は、それを、どう思っておられるのでしょうか」
従者は、しばらく考えていた。
「上様は、時折、遠い目をされて、直義様のお名前を、口にされます。ですが……それを、はっきりと、言葉にされたことは、まだ、あまりないように思います」


六章 執事・高師直の後継者との対話
その日の夕刻、幕府の重臣の一人が、居室を訪れた。
「サカキバラ殿と申されるか。上様より、伺っております」
「あなたは、直義様のことを、どう見ておられますか」
重臣は、少し目を伏せた。
「あの方なくば、幕府の政務は、これほど、整ったものには、ならなかったでしょう。我が一族にとっては仇とも言える御方ですが、その才だけは認めざるを得ませぬ。上様の武と、直義様の文――その両方があって、初めて、幕府は、その形を成したのです」
「それは、尊氏様ご自身も、認めておられることですか」
「上様は……」重臣は、言葉を選びながら言った。「内心では、誰よりも、直義様への想いを、抱いておられるはずです。ただ、あの確執の記憶は、上様ご自身にとっても、あまりに、重いものなのでしょう」
凪は、頷いた。
「もし、上様が、はっきりと、直義様への想いを、言葉に遺されたら――何か、変わると思われますか」
重臣は、しばらく考えた。
「変わりましょう。……上様のお言葉には、それだけの重みがございます」


七章 夜半の対話
その夜、凪は尊氏に呼ばれ、二人だけで居室に残った。
「従者や、重臣から、聞き申した」と尊氏は言った。「そなたが、直義のことを、あれこれ問うておるそうじゃな」
「差し出がましいことを、申し上げました」
「いや」尊氏は、静かに凪を見た。「それがし自身、向き合わねばならぬ角度でござった」
「尊氏様は、ご自身が開かれた幕府の功績について、多くを語られてこられました。ですが、直義様への想いについては、あまり、はっきりと言葉にされる場が、なかったように見受けました」
尊氏は、しばらく、黙っていた。
「それがしは……」やがて彼は、絞り出すように言った。「直義の政務の才なくば、幕府は、これほど早くは、その形を成さなんだであろう。……いや、偽りじゃな。それがしは、あの者が恐ろしかったのだ。されど、いなくなってみれば、己の半身を削ぎ落としたような痛みが、今も止まぬ」
尊氏の手が、微かに震えていた。
「あの者の死に、それがしが、どこまで関わってしまったのか――それは、それがし自身にも、はっきりとは、申せぬ。悔いと、申し訳なさの狭間で、いつも、心が引き裂かれそうになるのだ」
凪は、深く息を吸った。
「尊氏様。あなたは今、幕府を束ねる立場にあられます。ですが――もし、直義様への想いを、はっきりと言葉にしないまま終われば、あの方の功績と、あなたの悔いは、共に、幕府の歴史の陰に、埋もれたままになってしまうかもしれません」
尊氏の目が、微かに揺れた。
「あなたが本当に遺したいものは、ご自身が開いた幕府の功績だけでしょうか。それとも――直義様という、共に幕府を築き、そして、失った弟の存在を、次の時代へと、はっきり伝えることも、含まれているのではないでしょうか」
尊氏は、長い間、目を閉じていた。
尊氏の肩が、わずかに下りた。鎧を脱いだ後の武人にある、あの脱力だった。


八章 語られた言葉
その夜遅く、尊氏は、重臣と従者を呼び、静かに語り始めた。
凪は、その傍らに、静かに控えていた。
「直義は……」尊氏は、ゆっくりと、言葉を選びながら言った。「それがしの、実の弟であり、幕府の政務を、誰よりも、支えてくれた者であった。あの確執は、それがしにとって、生涯、消えぬ、深い悔いじゃ」
重臣と従者は、深く頭を下げた。
「これより後、それがしのことを語り継ぐ者は、皆に、直義のことも、伝えてほしい」尊氏は、静かに続けた。「この幕府は、それがし一人のものではなく、あの者と、共に築いたものなのだと」
凪は、静かに、その言葉を聞いていた。
凪には、それが六百年の重さを一つ降ろす音に聞こえた。
やがて尊氏は、深く息をついた。
「これで……少しは、心が、安まった」


九章 遺されたもの
この夜からおよそひと月後、延文三年四月、足利尊氏は、京にて、その生涯を閉じることになる。享年五十四。
史実において、足利直義が、幕府創設期の政務整備に果たした役割は、今日、多くの歴史研究において、高く評価されている。
凪は、その事実を知り、静かに思った。
新しい武家政権の礎の陰にも、確かに、その礎を築き、そして、兄弟の確執の中で失われた、一人の弟の存在が、息づいていたのかもしれない、と。


終章 もう一つの将軍路
六百年余りの後。
室町幕府の歴史を伝える史料の中に、足利直義の名が、今も、静かに記されていた。
「室町幕府を開いた将軍」としてだけではなく、「実の弟との確執を、生涯、悔い続けた、一人の人間」としての尊氏の記憶と共に。
共に幕府を築きながら、兄弟の確執の末に、非業の死を遂げた一人の弟。その存在と功績は、時を超えた今も、歴史の編目の隙間で静かに呼吸を続けている。兄の遺した言葉の傍らで。


エピローグ もう一つの光
東京の書斎で、凪は、書き上げたばかりの原稿を、静かに読み返していた。
窓の外では、晩春の風が、心地よく吹いていた。
「あなたが遺したかったのは、ご自身の功績だけではなかったはずです」
凪は、静かに呟いた。
パソコンの画面には、彼が書き上げた物語の、最後の一文が残されていた。
『延文三年四月、京の空は、静かに暮れようとしていた。新たな武家政権を打ち立てた男は、その最期の日々に、己の功績を語りながらも、もう一つの光を、確かに、失われた弟へと、語り遺したのである。』
風が吹いた。鎧と、墨の匂いが、微かにした。
玉響の揺らぎは、今日もまた、静かに続いている。

――了――


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あとがき
本作は足利尊氏の最晩年を題材としたフィクションです。足利尊氏、足利直義などは実在の人物ですが、物語における従者や重臣との対話の内容は、著者の創作です。
実際に尊氏は延文三年(一三五八年)四月、京にて、五十四歳でその生涯を閉じたと伝えられています。弟の直義は、幕府創設期において、尊氏が軍事を、直義が政務・裁判を担う「二頭政治」体制のもと、幕府の行政基盤の整備に大きく貢献しましたが、観応の擾乱と呼ばれる兄弟間の争いを経て、観応三年(一三五二年)、鎌倉にて死去しました。この死については、尊氏による毒殺を疑う説が後世唱えられていますが、確証はなく、今日でも研究者の間で見解が分かれています。
南北朝の動乱、および尊氏の歴史的評価については、時代や立場によって大きく異なる評価がなされてきました。本作は、特定の立場からの断定的な評価を下すことを意図するものではなく、尊氏と直義の兄弟関係という、一つの側面に焦点を当てています。なお作中の「尊氏が直義への想いを語る場」は記録に残る史実ではなく、著者の物語的解釈です。
本作は、前三十八作と同じく、「もし介入できたなら」という思考実験として書かれています。
そして、玉響は、いつの時代にも、静かに揺らいでいるのかもしれません。

狂雲路転生記 〜一休宗純と刻をこえた男〜
玉響転生記・第三十八話


まえがき
三十七度の邂逅を経て、榊原凪は、また新たな「刻」へと導かれることになった。
加藤清正との旅で、凪は「城路」という言葉を得た。今回、彼が得た言葉は「狂雲路」であった。
破戒の禅僧。
文明十三年一四八一年十月。齢八十七。大徳寺の住持となって十年。なお酒を愛し、女を愛し、詩を詠み続けた男、一休宗純。だが、その奔放な生涯の最晩年には、盲目の女性、森侍者との、深く、確かな情があった。
なお、後世「とんちの一休さん」として親しまれる童話的な人物像は、江戸時代以降に広まった創作であり、史実の一休とは大きく異なる。本作は、史実に基づく、晩年の一休の姿を描くものである。




プロローグ 神無月の来訪
東京は、秋の深まる、静かな夜だった。
榊原凪は、七十一歳になっていた。加藤清正との旅から、半年余りが経っている。
熊本城で、清正が飯田覚兵衛への想いを、静かに語った、あの夜のことを、凪は今も思い出す。
書き上げた小説『石垣を支えた男』は、静かな反響を呼んだ。
その夜、凪は書斎で、古い詩集の写本『狂雲集』を眺めながら、うたた寝をしていた。
ふと、酒と、墨のような匂いがした。
顔を上げると、部屋の隅に、一人の老僧が座っていた。
質素な、しかしどこかだらしなく着崩した法衣。だが、その目には、驚くほど鋭く、それでいて、人懐こい光が宿っていた。
「よう、邪魔するぞ」
老僧は、ぶっきらぼうに、しかし気さくに言った。
「あなたは……」
「一休宗純と申す。大徳寺の住持じゃ」
凪は、息を呑んだ。
一休宗純。形骸化した禅の権威を、痛烈な言葉で批判し続けた男。後世、「とんちの一休さん」として、まったく異なる人物像で親しまれることになる人物。そして、このおよそひと月後、その生涯を閉じることになっている男。
「なぜ、儂は、ここにおるのかのう」
「さて、それがしにも、分からぬ」一休は、豪快に笑った。「気づけば、この妙な部屋におった。由井、明智、石田、真田、土方、坂本、大石、楠木、伊能、北斎、芭蕉、玄白、定信、松陰、伊藤、田中、渋沢、野口、三島、芥川、力道山、将門、道真、崇徳院、植村、手塚、武蔵、次郎吉、空海、清少納言、鑑真、利休、板垣、鎌足、義経、道灌、清正。そなたが会うてきた者たちの気配が、なんとのう、伝わってくる。不思議な御仁じゃな、そなたは」
彼は、凪をじろりと見た。
「儂は今な、大徳寺の再建で手一杯じゃ。応仁の乱で、寺が焼けてのう」
「一休様……」
「されど」老僧の目に、懐かしむような光が宿った。「その前に、伝えておきたいことが、ある」


一章 三十八度目のたゆたい
その夜、凪は『狂雲集』の写本に埋もれながら、考え続けていた。
これまでの三十七人には、皆、「死をどう引き受けるか」という、それぞれの重さがあった。
だが一休宗純の場合、その重さは、また違う質のものだった。
史実において、一休は文明十三年十一月、京にて、瘧と思われる病により、その生涯を閉じる。享年八十七。晩年、応仁の乱で焼失した大徳寺の再建のため、乞われて住持となり、その名声を頼りに勧進に奔走していた。
しかし、一休の生涯には、あまり語られない、深い情があった。齢七十七で住持となってほどなく、一休は、盲目の女性、森侍者と出会う。年齢差を超えた二人の情愛は、一休自身の詩集『狂雲集』に、驚くほど率直な、時に官能的な言葉で、繰り返し詠まれている。
凪の胸に、一つの問いが浮かんだ。
一休が最期に伝えておきたいものがあるとすれば、それは、己の禅の教えや、大徳寺の再建だけなのか。それとも、晩年を共に過ごした、森侍者への想いも、あるのではないか。
凪は、暗い天井を見つめた。
「行きます」
呟くと同時に、部屋の空気が震え、詩集の匂いが、酒と墨の匂いに変わった。
玉響。
世界が、揺れた。


二章 京、大徳寺の裏手
気づくと、凪は、京、大徳寺の裏手に立っていた。
晩秋の冷たい風が、再建途上の伽藍を、吹き抜けていく。
凪の身なりは、寺に仕える下働き風の姿に変わっていた。
「もし」
境内にいた小僧に声をかけると、彼は驚いた顔で凪を見た。
「和尚様に、お目通り願いたい」
「あんた、何者だい」
「和尚様のお導きで参った者です。到着を告げていただければ、通じるはずです」
小僧は、訝しみながらも、奥へと入っていった。しばらくして、戻ってきた。
「サカキバラとやら言うたな。入りな」
この小僧こそ、一休の身の回りの世話をしていた、若き僧であった。


三章 一休の庵室
庵室には、書きかけの詩と、酒器が、無造作に置かれていた。
どこからか微かに、しかし澄んだ琵琶の音が聞こえてくる。奥の部屋で、誰かが静かに爪弾いているのだろう。
一休は、文机の前から、鋭い目で凪を見た。
「よう来たな」
「参りました」
「まあ、座れよ」一休は、ぶっきらぼうに言った。「儂は、この歳になっても、まだ、俗世の欲を、捨てきれておらんわ」
「なぜ、そこまで、正直に、生きてこられたのですか」
一休は、しばらく黙って、奥の部屋から響く琵琶に耳を傾けていた。
「坊主どもが、口では悟りを説きながら、裏では金と権威にしがみつく。そんな偽善が、儂には我慢ならなんだのじゃ。儂は、酒も飲む、女も愛する。それを隠す方が、よほど偽りというものじゃ。なぁ、サカキバラとやら」
「奥にいらっしゃるのは、森侍者様のことでしょうか」
一休は、少し目を細めた。
「あれのことを、近頃、よく思い出す。あれがおらねば、儂の晩年は、随分と寂しいものであったろう」


四章 名の記されなかった女性
その夜、凪は大徳寺の一室で、眠れぬまま過ごした。
一休の言葉が、頭から離れなかった。
これまでの三十七人は、皆、有限の生の中で、何を選ぶかという問いを抱えていた。だが一休の場合、彼が向き合っていたのは、「己の禅をどう語るか」だけでなく、「己を支えた女性を、どう記憶するか」という問いであるように思えた。
史実において、森侍者は盲目の女性でありながら、優れた歌や琵琶の才を持ち、晩年の一休の傍らで深い情愛を交わした。一休自身は『狂雲集』で彼女への想いを率直に詠んでいる。だが、後世にお伽話としての「一休さん」のイメージが広まれば広まるほど、この生身の一休を支えた彼女の存在は、その陰に隠れてしまうのではないか。
凪は、ふと思った。
一休がこれほどまでに熱烈な詩を彼女に捧げていた一方で、その情愛は、これから先の世に、どれほど正しく伝わっていくのだろうか、と。
窓の外、大徳寺の木々のざわめきが、遠く微かに聞こえていた。


五章 小僧との対話
翌日、凪は、庵室の掃除をしていた小僧と、言葉を交わす機会を得た。
「和尚様は、森侍者様のことを、よく話されますか」
「はい」小僧は、頷いた。「盲目でいらっしゃいますが、琵琶が、大変お上手だと、聞いております」
「街の者は、森侍者様のことを、知っておりますか」
小僧は、首を振った。
「いいえ。和尚様のお名前は、都の者なら誰でも知っております。ですが、森侍者様のことまでは……」
凪は、その言葉の重さを、静かに受け止めた。
「和尚様ご自身は、それを、どう思っておられるのでしょう」
小僧は、しばらく考えていた。
「和尚様は、詩の中で、森侍者様への想いを、はっきりと詠まれます。ですが、それを街の者が読むことは、まあ、ございませんので」


六章 弟子との対話
その日の夕刻、一休の弟子の一人が、庵室を訪れた。
「サカキバラ殿と申されるか。和尚様より、伺っております」
「あなたは、森侍者様のことを、どう見ておられますか」
弟子は、少し驚いた顔をした。
「あの方なくば、和尚様の晩年は、これほど、豊かなものには、ならなかったでしょう。盲目でありながら、和尚様の心を、誰よりも深く、理解しておられた」
「後世の禅僧は、『狂雲集』を、どう扱うと思われますか」
弟子は、言葉を選びながら言った。
「和尚様の詩は、あまりに、赤裸々でございます。後の世の坊主どもは、読んで顔を赤くするか、あるいは、なかったことにしてしまうやもしれません。ただ、それでも、写本は、残ります。残しとうございます」
凪は、頷いた。
「もし、和尚様が、はっきりと、森侍者様への想いを、弟子たちに、語り遺されたら。何か、変わると思われますか」
弟子は、しばらく考えた。
「変わりましょう。和尚様のお言葉には、それだけの重みがございます。語られた言葉は、詩よりも、強くございます」


七章 夜半の対話
その夜、凪は一休に呼ばれ、二人だけで庵室に残った。
奥からの琵琶は止み、代わりに静かな寝息のような気配だけが、薄い障子越しに伝わってくる。
「小僧や、弟子から、聞いたぞ」と一休は言った。「そなたが、森侍者のことを、あれこれ聞いておるそうじゃな」
「差し出がましいことを、申し上げました」
「いや」一休は、鋭い目で凪を見た。「儂自身、向き合わねばならん角度じゃったよ」
「一休様」凪は、少しだけ身を乗り出した。「あんた、詩に書いて満足してるけどよ。それで森殿は浮かばれるのか。あんたが死んだらな、世間は勝手に“とんちの一休さん”を作って、森殿のことなんざ、綺麗さっぱり忘れちまうぞ。あんたが死んだあと、何が残る。瓦の寺か、それとも森殿と分かち合った確かな日々か」
一休は、しばらく、黙っていた。
「あれの見えぬ眼にゃな」やがて彼は、静かに言った。「儂の醜きところも、愛おしきところも、丸見えだったのかもしれんのう。だが、後の世に、儂がどう語り継がれるかまでは、儂には、どうしようもないことじゃ」
「それで、いいんですか」
「儂は、儂の詩に、すべてを、正直に書き記してきた。それが、どう伝わるかは、後の世の者たちに、委ねるしかあるまい」
凪は、深く息を吸った。
「一休様。あなたは今、大徳寺の再建に、心を砕いておられる。だが、森殿への想いが、お伽話の陰に埋もれたままなら、あんたの本当の姿は、誰にも伝わらない。あんたが遺したいものは、瓦と柱だけか。違うだろう」
一休の目が、微かに揺れた。
「あんたが本当に遺したいものは、大徳寺だけじゃねえはずだ。森殿という、晩年を支えた女の存在を、その詩と共に、次の時代へ、はっきり伝えることじゃねえのか」
一休は、長い間、黙っていた。


八章 語られた言葉
その夜遅く、一休は、弟子を呼び、静かに語り始めた。凪は、その傍らに、静かに控えていた。
障子の向こうで、衣擦れの音がした。
「……森か」一休が小さく呼んだ。
返事はない。ただ、布越しに、深い呼吸の音だけが返ってきた。一休はその確かな気配に向けて、語り始めた。
「森侍者への詩はな」一休は、ゆっくりと、言葉を選びながら言った。「儂の、偽らざる心じゃ。これを、決して隠すでない。恥じることも、ない。綺麗事ばかりを並べる腐った禅僧どもに、これこそが儂の、最後の『悟り』の姿じゃと、見せつけてやるがよい」
弟子は、深く頭を下げた。
「儂の詩集は、そのまま、後の世に、伝えてほしい」一休は、静かに続けた。「儂が、どのように語り継がれようとも、この詩に込めた、森侍者への想いだけは、消してくれるな。よいな」
凪は、静かに、その言葉を聞いていた。
やがて一休は、深く息をついた。
「これで……少しは、心が、軽うなったわ」


九章 遺されたもの
この夜からおよそひと月後、文明十三年十一月、一休宗純は、京にて、その生涯を閉じる。享年八十七。
史実において、一休の詩集『狂雲集』は、その率直な言葉と共に、後世に伝えられる。森侍者への想いを詠んだ数々の詩も、その中に、確かに残された。お伽話の影に隠れて、一般には広く知られることはなくとも、その生々しい情愛の記録は、時を越えて保存されることとなった。
凪は、その事実を知り、静かに思った。
親しみやすい伝説の陰にも、確かに、一人の人間の、率直で、豊かな情愛の記録が、息づいていたのだ、と。


終章 もう一つの狂雲路
五百年余りの後。
『狂雲集』は、今も、わずかな者たちに、大切に読み継がれていた。
「破戒の禅僧」としてだけではなく、「盲目の女性を、生涯、深く愛し続けた、一人の人間」として。
エピローグ もう一つの光
東京の書斎で、凪は、書き上げたばかりの原稿を、静かに読み返していた。
窓の外では、晩秋の風が、静かに吹いていた。
「あなたが遺したかったのは、大徳寺の再建だけではなかったはずです」
凪は、静かに呟いた。
パソコンの画面には、彼が書き上げた物語の、最後の一文が残されていた。
『文明十三年十一月、京の空は、静かに暮れようとしていた。形骸化した禅を批判し続けた男は、その最期の日々に、己の詩を語りながらも、もう一つの光を、確かに、愛した女性へと、書き遺したのである。』
風が吹いた。酒と、墨の匂いが、微かにした。
玉響の揺らぎは、今日もまた、静かに続いている。

――了――


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あとがき
本作は一休宗純の最晩年を題材としたフィクションです。一休宗純、森侍者などは実在の人物ですが、物語における小僧や弟子との対話の内容は、著者の創作です。
実際に一休は文明十三年一四八一年十一月、京にて、八十七歳、数え八十八でその生涯を閉じたと伝えられています。晩年、応仁の乱で焼失した大徳寺の再建のため、乞われて住持を務めました。死因は瘧とされます。
森侍者は、一休が晩年に深い情愛を交わした盲目の女性であり、一休の詩集『狂雲集』には、彼女への率直な想いを詠んだ詩が、多数収められています。この関係の詳細や、一休が最晩年、森侍者への想いをどのように語っていたかについて、具体的な記録は限られており、本作における描写は、著者の創作です。なお、二人の出会いの年齢には諸説あります。
また、江戸時代以降に広まった「とんちの一休さん」という童話的な人物像は、史実の一休とは大きく異なる、後世の創作であることを、付記しておきます。
本作は、前三十七作と同じく、「もし介入できたなら」という思考実験として書かれています。
そして、玉響は、いつの時代にも、静かに揺らいでいるのかもしれません。

昨今

まとめ打ちが多くなりまして

読むのが面倒だと

お嘆きの貴兄に…




スマホには

読んでくれる機能があるので

是非

そちらで…     笑