100万回転生したズッコケ神様
〜まえがき〜
人は、ときどき不思議な感覚を抱きます。
初めて会ったはずなのに、なぜか懐かしい人。
理由もないのに、なぜか気になる場所。
そして、説明できないのに、なぜか心が落ち着く時間。
それを人は「縁」と呼びます。
けれどもし、その“縁”が、百万回もの命の巡りの中で生まれたものだとしたら——。
この物語は、宇宙管理局の新人神様テンコが、うっかり宇宙規模の大事故を起こしてしまうところから始まります。
壊れた転生データベースを復元するため、テンコは地球で百万回の転生を繰り返すことになります。
メダカになり、犬になり、桜の木になり、サラリーマンになり、時代も姿も変えながら、命を巡っていく旅。
その中でテンコは、何度も何度も「同じ魂」と出会います。
それはバグなのか。
偶然なのか。
それとも——。
宇宙の話なのに、とても地球くさい物語です。
命のこと。
仕事のこと。
誰かと出会うこと。
そして、「なんとなく気が合う」という不思議について。
笑いながら、少しだけ優しい気持ちになっていただけたなら嬉しいです。
序章 宇宙管理局606号室
宇宙管理局は、天の川銀河の端っこにある。
端っこ、というのはテンコの主観であって、管理局の公式見解によれば「銀河の要衝に位置する重要拠点」ということになっているが、窓から見える景色がほぼ暗黒物質と何億光年も先のぼんやりした星雲だけという事実は、どう言い繕っても「端っこ」以外の何物でもないとテンコは思っていた。
テンコの正式名称は「転光エネルギー体・試験雇用第七期生・天光テンコ」であり、宇宙管理局・第三事業部・地球担当課に配属されてから、銀河時間で約三年が経過していた。地球時間に換算するとおよそ二百年に相当するが、テンコ本人の体感はもう少し短く、「なんとなく慣れてきたかな」と思い始めたところだった。
仕事の内容を一言で言うと、「魂の循環管理」である。
地球上で命が尽きるたびに、その魂は一度エネルギー体に戻り、太陽光を媒介として地球物質と結合し直し、新たな生命体として再び地上に降り立つ。テンコの仕事は、この転生プロセスが滞りなく行われているかを監視し、何か不具合が生じた場合には速やかに対応するというものだった。
要するに、魂の交通整理係である。
もう少し格好よく言えば「輪廻システムエンジニア」だが、実際のところやっていることは、巨大なデータベース端末の前に座って、無数にスクロールされていく転生ログを眺め、エラーが出たらチケットを上げるという地味な作業の繰り返しだった。
その日、テンコは昼食後の眠気と戦いながら端末を操作していた。
地球では今、アジアのどこかの国でちょうど春が始まったころで、転生データベースには花粉症で鼻をすすりながら電車に乗るサラリーマンの魂ログが大量に流れ込んできていた。
「また変な転生してる人いる……」
テンコは独り言をつぶやきながら、モニターの隅でぴかぴか光っている警告アイコンを何気なくクリックした。
その瞬間、606号室全体が白い光に包まれた。
ドォォォォォン。
という擬音が似合いそうな衝撃が走り、テンコはイスから転げ落ちた。天井のパネルがいくつか剥落し、隣の席の先輩・カゲロウが持っていたコーヒーカップが宙を舞った。
「テ、テンコ!! 何した!!」
カゲロウが叫んだ。
「わ、わかんないです! クリックしただけで……」
「『だけで』って言えるレベルじゃない!! メインサーバー見て!!」
テンコが慌ててメインモニターを確認すると、そこには今まで見たことのないエラーメッセージが表示されていた。
【CRITICAL ERROR 00000001:地球転生データベース・全データ損失の可能性。現在影響を受けている魂の数:推定2,847,193,044体。システム復旧まで転生プロセス停止中】
三十億近い魂が宙ぶらりんになっている。
テンコはしばらくモニターを見つめ、それからゆっくりと周囲を見渡した。カゲロウが青ざめている。廊下からは他の職員たちの騒ぎ声が聞こえてくる。テンコの額に冷や汗がにじんだ。
「……あの」
テンコは恐る恐る口を開いた。
「これって……どのくらいまずいですか」
カゲロウはしばらく無言だった。それからこう言った。
「宇宙始まって以来最大の人事事故」
テンコはそっと目を閉じた。
第一章 メダカに転生したら上司もメダカだった
宇宙管理局の緊急対策会議は、エラー発生から三時間後に開かれた。
会議室に集まったのは、部長のオオゾラ、副部長のナギサ、技術顧問のマキバ博士、そして事故を起こした当事者のテンコと、その直属上司のカゲロウである。全員の顔色が悪かった。
「状況を整理する」
オオゾラ部長が重々しく口を開いた。白髪交じりの厳めしい神様で、テンコは入局以来ずっと苦手にしていた。
「転生データベースのメインサーバーが損傷し、過去約百万年分の転生履歴データが壊れた。現在、約三十億体の魂が転生待機状態にある。データが復元されない限り、転生プロセスは再開できない」
「復元はできないんですか」
テンコが恐る恐る手を挙げると、マキバ博士が重い口を開いた。博士は三千歳を超える老齢の神様で、いつも丸眼鏡の奥からじっとりとした目でテンコを見る。
「通常の方法では不可能だ。データが失われたのではなく、暗号化されてしまっている。解読には元の転生パターンとの照合が必要なのだが……」
「照合できるデータが、失われた」
カゲロウが引き取った。
「つまり、鍵もかかっていない金庫の中に鍵がある状態ですか」
「もう少し複雑だが、その理解で概ね正しい」
沈黙が落ちた。
「解決策は一つだけある」
マキバ博士がテンコの方に眼鏡を向けた。
「損傷したデータを復元するには、そのデータを直接体験した存在が、実際に転生を追体験しながらパターンを照合していくしかない。バグ特定のために、魂が実際に転生プロセスを経験するんだ。百万回ぶん」
「……百万回」
「具体的には、地球上の様々な生命体として転生を繰り返し、各転生での経験データをリアルタイムでシステムに送り続ける。送られてきたデータを解析することで、損傷したデータベースのパターンを再構築できる仕組みだ」
「誰がその百万回の転生をするんですか」
テンコは全員の視線が自分に集まるのを感じながら聞いた。
「言わなければわからないか?」
オオゾラ部長がため息をついた。
「事故を起こした当事者が責任を持って行う。それが宇宙管理局のルールだ。テンコ、君が地球に降りて、百万回転生してもらう」
「百万回……百万回!?」
「問題ない。時間は十分にある」
「でも私、転生したことなくて……しかも百万回って……」
「大丈夫。初回は我々がサポートする。最初の転生体を何にするか、希望はあるか?」
テンコはぼんやりとした頭で必死に考えた。最初の転生。何がいいだろう。安全そうなもの。穏やかなもの。急に怖くなってきたので、できるだけのんびりしていそうなものがいい。
「……メダカ、とか」
「よかろう」
オオゾラ部長は即断した。
こうしてテンコは翌朝、地球のある小学校の教室に置かれた水槽の中に、一匹のメダカとして降り立った。
最初に気がついたのは、すべてが透明だということだった。
水の中にいる。それはわかる。周りが見える。ただし、視野が異様に広い。ほぼ三百六十度見渡せる気がする。それでいて、なんとなくすべてがぼんやりしている。
〈これが……メダカの視界……〉
テンコはぼんやりと思った。尾びれをぱたぱた動かしてみると、するっと前に進んだ。これは気持ちいい。思ったよりずっとスムーズだ。
水槽の中には水草が数本植わっていて、底には砂利が敷いてある。光が水面から差し込んできて、砂利の上に揺れる模様を作っていた。
〈きれいだな〉
テンコは素直にそう思った。宇宙管理局の窓から見える暗黒物質より、よっぽど好きかもしれない。
それから、もう一匹いることに気がついた。
水槽の端、水草の陰にじっとしているメダカがいる。体の大きさは自分とほぼ同じで、じっとしているせいか、存在感がやたらと薄い。
〈他にも誰か転生しているのかな〉
テンコが近づくと、そのメダカがびくっと動いた。
〈ぎゃっ、近づくな〉
声ではなく、なんとなく意味として伝わってくる。テンコはぴたっと止まった。
〈え、喋れるんですか?〉
〈喋れるも何も、同じ転生神だ。驚くことはない〉
テンコはもう一度そのメダカを見た。小さな体、じっとした佇まい、そして少し上から目線の物言い。
〈……カゲロウさん?〉
〈当たり前だ。お前が一人でできるわけないだろう。上司として監視に来た〉
テンコはしばらく沈黙した。
〈監視って……カゲロウさんもメダカになって監視するんですか〉
〈そういうことだ。文句あるか〉
〈いや……なんか、カゲロウさんがメダカだと思うと……〉
〈思うと、何だ〉
〈なんか可愛いな、と〉
しばらくの静寂の後、カゲロウ・メダカは水草の陰にぷいっと隠れた。
テンコはおかしくなって、ひれをぱたぱたさせながら水槽の中を泳ぎ回った。水が気持ちいい。光が揺れている。
その日の午後、小学三年生たちが教室に入ってきて、水槽を覗いた。
「あ、メダカ元気だ!」
「こっちの小さいのかわいい!」
「えさやっていい?」
子供たちの声が水越しに、くぐもって届いてくる。テンコは水面に上がって、えさのかけらをぱくぱくした。これがえさというものか。悪くない。
水草の陰から、カゲロウ・メダカがじっとこちらを見ていた。
〈テンコ、データ送信は忘れるな〉
〈はーい〉
〈はーい、じゃない。業務だぞ〉
〈わかってますよ。でもカゲロウさん、えさ食べないんですか〉
〈……食べる。でも今は業務中だ〉
〈え、でもこれえさですよ。おいしいですよ〉
〈………〉
ちょっと間があって、カゲロウ・メダカがそっと水草の陰から出てきた。テンコの隣に並んで、ぱくっとえさを食べた。
水槽の外では子供たちがきゃあきゃあ言っている。窓から春の光が差し込んでいた。
テンコは、これが地球というものか、と思った。思ったより悪くない。
第二章 犬は三回嚙まないと気が済まない
メダカとして三ヶ月を過ごしたテンコは、次の転生先として犬を指定された。
「犬か……犬か……」
転生前の待機時間に、テンコはそわそわしていた。犬の転生は、メダカより格段に複雑らしい。感情が豊かで、人間との関係も密で、しかも犬社会には犬社会なりのルールがある。
「うまくやれますかね」
〈やれなかったらデータが集まらない。やれ〉
カゲロウの声がインカムから届いた。前回はメダカとして一緒だったが、今回はカゲロウはシステム側のサポートに回ることになった。
「カゲロウさんは一緒に来ないんですか」
〈今回はこちらで監視する。心配するな〉
「さみしい」
〈仕事だ〉
「はい」
こうしてテンコは、東京郊外のとある家庭に、一匹の柴犬の子犬として生まれた。
子犬というのは、大変だった。
まず体の使い方がわからない。足が四本あって、しかも前足と後ろ足で動き方が違う。最初の二日間、テンコは家の中をよたよたと歩き回り、段差のたびに転んだ。
「もー、ゴロ、またころんだ!かわいい!」
飼い主の女の子——小学五年生のハナちゃんが笑いながら抱き上げた。ゴロというのはテンコの今回の名前らしい。
〈ゴロ……ゴロか……〉
テンコは複雑な気分になりながらも、ハナちゃんに抱っこされているのは気持ちよかった。温かい。人間というのは温かいものなのか。
しかし問題はすぐに起きた。
三日目、テンコは家の中を探索していて、廊下の曲がり角でばったり出会ってしまった。
先住犬である。
名前はチョコ。七歳のトイプードルで、テンコがゴロとしてこの家にやってきた瞬間から、明らかに機嫌が悪かった。
チョコがじっとこちらを見ている。
テンコはどうすべきか瞬時に悩んだ。犬同士の挨拶はどうするんだっけ。においを嗅ぐ? それとも伏せて服従を示す?
テンコが迷っている間に、チョコがゆっくりと近づいてきた。
そして、テンコの耳をがぶっと嚙んだ。
「いたい!!」
もちろんテンコが発したのは「ワンッ!」という声だったが、意味としてはそうだった。テンコは飛び上がって廊下を走り、ハナちゃんの部屋に逃げ込んだ。
〈どうした、データ送信が乱れているぞ〉
カゲロウがインカムで言った。
「嚙まれました」
〈誰に〉
「先住犬に」
〈それは洗礼だ。犬社会では普通のことだ〉
「普通なんですか!?」
〈上下関係の確認だ。気にするな〉
しかしテンコはどうしても気になった。チョコが怖い。部屋から出るとチョコがいる。チョコがいると嚙まれる。嚙まれると痛い。
一週間が経っても状況は変わらなかった。チョコは機会あるごとにテンコの耳やしっぽを嚙んだ。三回嚙むまでは気が済まないらしく、ちょうど三回嚙んだところで興味を失って去っていくのだった。
「なんで三回なんですか」
テンコはカゲロウに聞いた。
〈知らん。チョコにとってのルールだろう〉
「理不尽じゃないですか」
〈世の中そんなもんだ〉
テンコは釈然としなかったが、三週間が経ったある日、少し変化があった。
テンコが庭でひなたぼっこをしていると、いつの間にかチョコが隣に座っていた。嚙む様子はない。ただ、同じ方向を向いて座っている。
テンコは動かなかった。チョコも動かなかった。
春の日差しが温かかった。庭の隅に植わっている梅の木が白い花をつけていて、それが風に揺れるたびに花びらが舞ってきた。
しばらくそうしていると、チョコがそっとテンコの体に自分の体を寄せてきた。
テンコはなんだかわからないけれど、胸の奥がぽかぽかする感覚があった。
「カゲロウさん」
〈なんだ〉
「なんか、よくわかんないんですけど、なんかいい感じです」
〈……そうか〉
「犬っていいもんですね」
カゲロウからしばらく返事がなかった。それからこう言った。
〈データ、ちゃんと送信しろよ〉
「してますよ」
〈……よし〉
梅の花びらが一枚、テンコの鼻の上に落ちてきた。テンコはくしゃみをして、チョコがびくっとした。それからなんとなく二匹でしばらくじゃれ合った。
チョコは三回だけ嚙んで、また隣に座った。
第三章 桜の木になった夏
植物への転生は、テンコが最も心配していたものだった。
動けない。しゃべれない。ただ、そこにいるしかない。そんな転生に何の意味があるのか、テンコには最初理解できなかった。
しかしマキバ博士の説明によれば、転生データベースの復元には植物の転生データも不可欠で、特に「長期間一つの場所に固定されている存在の意識データ」は他では代替できないとのことだった。
「木の意識ってあるんですか」
テンコが聞くと、博士は少し考えてから答えた。
「厳密に言えば、あなたが木になるのではない。木という形でこの世界に存在することで生まれるデータを、あなたが収集する。木の年輪の一つひとつには、その年の気候が刻まれているだろう。それと同じだ」
「よくわかりません」
「行けばわかる」
こうしてテンコは、京都のある神社の境内に立つ桜の木になった。樹齢百五十年ほどの老木で、幹の太さは大人二人が抱えてもまだ余るほどだった。
最初、何もわからなかった。
感覚がない。動けない。視界もない。ただ、なんとなく全体として「ある」という感じだけがあった。
それがだんだん変化した。
光、という感覚があった。葉の一枚一枚が光を受けていて、その情報が何か大きなものへと集まってくる感じ。光合成、というのはこういうことかとテンコはぼんやり理解した。
水も感じた。根の先々から水分が吸い上げられて、幹を通り、枝を通り、葉の末端まで行き渡る。その流れがわかる。
虫も感じた。樹皮の隙間に住んでいる小さな虫たちの重みがわかる。鳥が枝に留まるとその重みが伝わってくる。
これはこれで、情報量が多い。
夏が来て、日差しが強くなった。葉が緑濃くなって、大きく広がった。テンコはその大きさを全体で感じた。自分がこんなに大きかったのかと驚いた。
境内には毎日、人がやってくる。参拝客。子供たち。老夫婦。カップル。それぞれがテンコの木の下で立ち止まり、幹を眺めたり、枝を見上げたりして、また去っていく。
ある日、若い女性が一人でやってきて、テンコの木の根元に座った。膝を抱えて、しばらく何もしなかった。
テンコはただそこにいた。何もできないが、ただそこにいた。
しばらくして、女性は顔を上げた。テンコの枝を見上げた。
「大きい木ね」
独り言のように言った。
「あなたは何か悩んだりするの?」
テンコは答えられない。ただ、葉が風に揺れた。
「そうよね、木は悩まないよね」
女性は少し笑った。「羨ましい」と言ってから、また少し笑った。「でも木になりたいわけじゃないか」と言って立ち上がり、拝殿の方へ歩いていった。
テンコはその背中を見送った、と言えれば格好よかったが、目がないので正確には「その気配が遠ざかるのを感じた」というべきだった。
〈テンコ、データ送信量が増えているな〉
カゲロウの声がした。植物転生の間も、カゲロウはシステム側で監視している。
「あの人、大丈夫ですかね」
〈誰だ〉
「さっきここに来た女の人。なんか悩んでるみたいで」
〈木がそんなこと気にするな〉
「気になるんですよ」
〈……まあ、また来るだろう〉
その予言は当たった。女性はそれから毎週日曜日にやってきて、テンコの木の根元に座った。最初は何も言わなかったが、二回目からは独り言を言うようになった。仕事のこと、友達のこと、将来のこと。テンコはただ聞いた。
秋が来て、葉が赤く染まった。テンコは自分が紅葉しているのを、全体として感じた。葉が一枚一枚落ちていく感覚があった。寂しいとも言えたが、それよりも、なんというか、自然な感じがした。
女性は秋のある日、テンコの木の下で、スマートフォンを手に長い電話をした。途中で泣いて、また話して、また泣いた。電話が終わると、すっきりした顔でテンコを見上げた。
「ありがとう」と言った。
テンコは何もしていない。ただそこにいただけだった。
でも、なんかよかった。
冬が来て、テンコは葉をすべて落とした。裸の枝だけになって、冷たい風の中に立っていた。でも、根の奥には春の準備が始まっていた。
次の春が来れば、また花が咲く。
テンコはそれをとても楽しみにしながら、静かな冬を過ごした。
第四章 サラリーマンの月曜日
「次は人間ですか」
テンコが聞くと、マキバ博士はうなずいた。
「データベースの復元において、人間の転生データが最も複雑で最も重要だ。今まで積み重ねてきたデータを土台に、そろそろ人間として転生してもらう」
「どんな人間ですか」
「三十四歳、男性、東京在住、会社員」
「……普通ですね」
「普通の人間のデータが、最も重要なんだ」
こうしてテンコは、佐々木ケンジという名の会社員として目覚めた。
目覚ましが鳴った。月曜日の朝七時。
人間の朝は大変だった。
まず、ベッドから出るのが難しい。布団が温かくて出たくない。でも目覚ましが鳴り続ける。テンコはこの「布団の温かさと目覚ましの戦い」が人間社会の根本的な問題の一つではないかと思ったが、とりあえず起き上がった。
次に、歯を磨かなければならない。
それから顔を洗って、服を着替えて、朝ごはんを食べて、鍵を持って、財布を持って、スマートフォンを持って。人間というのは、家を出るまでにすでにかなりの数のタスクをこなさなければならない存在だった。
電車に乗った。
朝の通勤電車は、テンコが今まで転生した中で最も密度の高い空間だった。メダカの水槽よりも密度が高い気がする。いや、それは気のせいか。でも水槽のメダカたちはもう少しゆったりしていた。
「プシューッ」とドアが閉まって、電車が動き出した。テンコは吊り革につかまりながら、周囲の人々を観察した。
みんな、スマートフォンを見ている。
全員、と言っていいほどの割合でスマートフォンを見ている。たまに目を閉じている人もいる。窓の外を見ている人はほとんどいない。
〈カゲロウさん、人間って電車の中でいつもこうなんですか〉
「そうだ」とカゲロウが返した。「慣れろ」
〈なんかさみしくないですか〉
「慣れるんだよ、そういうものに」
テンコは吊り革につかまりながら、窓の外を見た。東京の街が流れていく。ビルとビルの隙間に、青い空が見えた。
会社に着いた。佐々木ケンジとしての仕事は、中堅の食品メーカーの営業だった。テンコはケンジの記憶を参照しながら、なんとか業務をこなした。
「佐々木さん、昨日送ったメール見ましたか」
上司の田中課長が言った。
「あ、すみません、まだで……」
「今日の一時に先方との会議があるから、それまでに確認しておいてください」
「はい、わかりました」
テンコはメールを開きながら、宇宙管理局での自分とたいして変わらないな、と思った。上司がいて、仕事があって、締め切りがある。宇宙の広さにかかわらず、働くということの構造は同じなのかもしれない。
昼休み、テンコはコンビニでおにぎりを買って公園のベンチに座った。空が広かった。桜の木が一本あって、もう葉桜になっていた。
「あ」
テンコはその桜の木を見て、なんとなく親しみを感じた。自分も一度木だったから、というより、木というものの感覚を少しわかっているから。
その桜の木の下のベンチに、一人の女性が座っていた。
弁当を食べながら文庫本を読んでいる。ショートカットで、少し疲れた顔をしている。でもなんとなく、見覚えがある気がした。
〈カゲロウさん〉
「なんだ」
〈あそこに座ってる女の人、どこかで見たことある気がするんですけど〉
しばらく間があった。
「……データを確認する。少し待て」
テンコはおにぎりを食べながら待った。
「テンコ」
「はい」
「その女性……桜の転生のとき、毎週神社に来ていた女性と同一人物だ」
テンコはおにぎりを持ったまま固まった。
「え」
「魂の照合をした。間違いない。あの木の転生の時に、毎週根元に座って独り言を言っていた女性と、同じ魂だ」
「そんなことがあるんですか」
「これが……おそらく転生データベースの中の、重要なパターンだ。なぜかは、まだわからないが」
テンコは女性を見た。女性は本を読んでいる。気づいていない。
テンコはおにぎりの残りを食べて、席を立った。女性のそばには近づかなかった。でも、歩きながら何度か振り返った。
午後の会議に戻りながら、テンコはずっとそのことを考えていた。
第五章 100万回目の手がかり
それから転生は続いた。
縄文時代の漁師。江戸時代の豆腐屋。明治の女学生。戦時中の軍医。昭和の子供。平成のフリーター。時代も性別も職業も、転生のたびにめちゃくちゃに変わった。
そしてそのたびに、テンコはどこかで「その魂」と出会った。
縄文時代には、浜辺で貝を拾っている老婆として。江戸時代には、豆腐を買いに来る武家の奥方として。明治の女学生のときは、同じ学校の先生として。戦時中の軍医のときは、野戦病院に運び込まれた傷病兵として。
毎回、顔も性別も年齢も違う。でも、なんとなくわかる。あの魂だ、と。
「これはバグですか、それとも仕様ですか」
テンコが宇宙管理局に報告したのは、百回目の転生を終えたあとのことだった。マキバ博士は報告を受けてしばらく考え込んだ。
「仕様とは言いがたい。バグとも言い切れない」
「どういうことですか」
「転生データベースの中に、『魂の引力』とでもいうべきパターンが存在する。特定の魂同士が、転生を繰り返す中で、時代や形を超えて引き合う傾向がある。それ自体は昔から知られていた現象なんだ」
「じゃあ仕様じゃないですか」
「仕様なら問題はない。問題は、その引力の強度が、通常より何百倍も強い魂のペアがいくつか存在することだ。そのペアが転生するたびに、データベースに異常な負荷がかかる」
「……私が出会い続けている魂は」
「おそらく、そういう強度の高いペアの一つだ」
テンコはしばらく黙った。
「それが、今回のデータベースクラッシュと関係あるんですか」
博士は少し間を置いた。
「正確に言えば……関係している可能性が高い。君が今回のクラッシュのトリガーを押してしまったのは間違いないが、クラッシュが起きやすい状態を作っていたのは、この異常な引力パターンかもしれない。だが、その原因を特定するには……」
「まだ転生を続けるしかない」
「そういうことだ」
テンコはため息をついた。
「何回くらいで特定できますか」
「わからない」
「わからないんですか」
「転生データというのはカオス系の複雑系でね。どこまで続ければいいか、やってみないとわからないんだよ」
「やってみないとわからない……宇宙管理局って結構行き当たりばったりじゃないですか」
「そういうものなんだよ、宇宙も管理も」
テンコは頭を抱えた。
転生が進むにつれて、テンコはある法則に気づいた。
「出会い方」に、パターンがある。
接触するのは、いつも偶然に見える。でも、よく考えると偶然にしては多すぎる。そして接触の形は、「気になる」から始まる。なぜか目が向く。なぜか気になる。なぜか話しかけたくなる。
テンコはその感覚を、宇宙管理局の報告書にこう記した。
「対象魂との接触は常に偶然に見えるが、実態は偶然ではない可能性が高い。この『なぜか気になる』感覚は、転生データベースの引力パターンが魂レベルで現れたものと推測される。今回の調査で最も重要な発見の一つである」
カゲロウが報告書を読んで言った。
「格好つけた書き方してるが、要するに『縁』があるってことだな」
「縁……」
「昔からそう言う。なぜか気が合う、なぜか気になる。人間はそういう感覚を『縁』と呼んできた。犬も、花も、虫も、みんな同じだ。それが転生データベースの引力パターンとして現れているだけで、結局のところ、内容は同じだ」
テンコはしばらく考えた。
「カゲロウさんは、私と縁があると思いますか」
カゲロウはすぐには答えなかった。
「……業務上の関係だ」
「そうじゃなくて」
「業務上の関係だ」
「カゲロウさん」
「業務上の関係だと言っている」
テンコはくすっと笑った。
「わかりました。業務上の関係ですね」
「そうだ」
「それでも、メダカのとき一緒にえさ食べてくれて、よかったです」
カゲロウはしばらく何も言わなかった。
「……次の転生の準備をしろ」
「はーい」
第六章 宇宙管理局の陰謀?
転生五百回目を終えたあたりで、テンコは奇妙なことに気づいた。
報告書への返信が、以前より遅くなっている。
最初はただ忙しいのだろうと思っていたが、それにしても遅い。特に「魂の引力パターン」に関する報告に対して、管理局はいやに歯切れが悪い返答をするようになった。
ある日、テンコは江戸時代の大工として転生している最中に、カゲロウに直接聞いた。
「ねえカゲロウさん、何か隠してることありますか」
木の上に乗って屋根を葺きながら聞いた。カゲロウからすると、大工が大きな声で独り言を言っているように見えるだろうが、テンコは気にしなかった。
「……何の話だ」
「引力パターンの件です。管理局の反応が鈍すぎる。何か知ってて言わないことがあるんじゃないですか」
沈黙が続いた。
「カゲロウさん」
「……少し待て」
しばらく間があって、カゲロウの声が戻ってきた。
「テンコ、今から言うことは、管理局の公式見解ではない。私が独自に調べたことだ」
「はい」
「今回のデータベースクラッシュが起きやすい状態になっていた原因は、引力パターンの異常ではない」
「じゃあ何ですか」
「管理局が、引力パターンを人為的に強化していた」
テンコは手を止めた。大工の棟梁が怪訝そうにこちらを見たが、テンコは無視した。
「どういうことですか」
「転生データベースには、もともと魂同士の縁を記録するシステムがある。どの魂がどの魂と、どんな形で出会い、どんな関係を持ったか。それが蓄積されることで、転生のパターンが豊かになる。これは正常な機能だ」
「はい」
「ところが三百年前から、管理局の一部が、特定の魂のペアの引力を意図的に強化するプログラムを動かしていた。引力が強いほど、その魂たちは転生のたびにより鮮明な『縁』を経験する。その経験データが、転生システム全体の質を向上させる……という名目で」
「名目で?」
「実際には、その引力増強プログラムがシステムに過負荷をかけ続けていた。三百年かけて少しずつ。君がトリガーを押したのは、ちょうど限界を超えた瞬間だっただけだ」
テンコは屋根の上に座り込んだ。
「つまり……私のせいじゃなかった?」
「君が押したのは間違いないが、爆発寸前のところに偶然マッチを擦ったようなものだ。本質的な問題はプログラムにある」
「誰がそんなプログラムを……」
「それを調べている。だが、一つわかったことがある」
「なんですか」
「そのプログラムの対象となっている引力ペアの中に、君と……もう一つの魂が含まれている」
テンコはしばらく言葉が出なかった。
「私が、出会い続けている魂が」
「そうだ。そのペアの引力が、全ペアの中で最も強く増幅されていた。なぜそのペアが選ばれたのかは、まだわかっていない」
江戸の空が青かった。棟梁がまた怪訝そうにこちらを見ていた。テンコは「すみません、考えごとしてました」と言って立ち上がり、また作業を続けた。
でも頭の中は、ぐるぐると回り続けていた。
次の管理局との定期連絡で、テンコはオオゾラ部長に直接聞いた。
「引力増強プログラムのことを教えてください」
オオゾラ部長は一瞬だけ表情を変えた。それから元の無表情に戻った。
「どこでそれを」
「関係ありません。教えてください」
「……それは、長い話になる」
「聞きます」
部長はしばらく考えてから、話し始めた。
三百年前、転生システムの研究者たちは一つの仮説を立てた。魂同士の「縁」が深まることで、転生の質が上がり、地球上の生命の多様性と豊かさが増す。それを促進するために、特定の魂のペアを「実験対象」として引力を強化した。
「実験対象……」
「当初は小規模な実験だった。ところが引力が強いペアは、転生のたびにより強い縁を結び、そのデータが蓄積されることで、さらに引力が増幅される正のフィードバックループが起きた。三百年で制御不能なレベルになった」
「なぜ止めなかったんですか」
「データが美しかったから、というのが正直なところだ」
テンコは眉をひそめた。
「データが美しい?」
「そのペアが転生するたびに生み出すデータは……ほかの何十万ペアのデータを合わせたより豊かだった。喜びも、悲しみも、別れも、再会も。転生のたびに形を変えながら、何度も何度も繰り返される。それがシステムにとって貴重なデータだったのと同時に……見ていて、やめられなかった」
「見ていて、やめられなかった」
「私も含め、担当者の全員が、そのペアのデータを追うことに……夢中になっていた。それが判断を鈍らせた」
テンコはしばらく考えた。
「そのペアのもう一方の魂は、今どこにいますか」
「現在転生中だ。君もよく知っている」
「どこに」
部長は少し間を置いた。
「東京だ」
第七章 バグか愛か、それが問題だ
テンコは次の転生で、再び東京に降り立った。
今回は三十歳の女性、ミユキとして。出版社に勤めていて、仕事が好きで、でも少し疲れている。そういう設定だった。
「設定って言い方やめてください、なんか悪い気がして」
テンコがぶつぶつ言うと、カゲロウが「ただの状況説明だ」と返した。
ミユキとしての生活が始まった。毎日地下鉄で会社に行き、原稿を読み、著者と打ち合わせをし、校正をして帰る。休日は近所の公園を散歩するか、図書館に行くか、友達と食事をする。
穏やかで、少し寂しい日常だった。
一ヶ月が経ったある日曜日、ミユキは近所の神社に行った。特に理由はなかった。なんとなく、そっちの方向に足が向いた。
境内に入ると、老いた桜の木があった。
テンコはその木を見て、懐かしい気持ちになった。自分がかつて木として存在した感覚が、かすかに蘇ってくる。
木の根元のベンチに座った。
しばらくして、その隣に誰かが来て座った。
三十代後半くらいの男性だった。ジャケットを着ていて、少し疲れた顔をしていて、コンビニのコーヒーを持っている。
男性は桜の木を見上げ、それからテンコの方を見た。
「よく来るんですか、ここ」
「いえ、初めてで」
「そうですか。僕もです」
沈黙があった。でも不思議と、気まずくなかった。
テンコはその人の横顔を見て、何かを思った。こういう感覚は、何百回も経験してきた。でも今回は、特別に強かった。
「なんか……どこかで会ったことありますか」
思わず口に出てしまった。テンコは少し後悔したが、男性は笑った。
「そんな気がしますよね。不思議と。でも初対面だと思います」
「そうですよね。すみません」
「いや、僕もそう思ってたから。なんか気になるな、って」
〈カゲロウさん〉
テンコはそっと心の中で呼んだ。
〈この人が、そうですか〉
インカムの向こうでカゲロウがため息をついた。
〈そうだ〉
〈確認なんですけど、この引き合いは、プログラムで人工的に増幅されてるんですよね〉
〈……そうだ〉
〈じゃあ、これって本物じゃないんですか〉
沈黙が続いた。
「テンコ」
「はい」
「それは……難しい問いだ」
男性がまた話しかけてきた。「ここの桜、春はきれいらしいですよ」と言った。テンコは「そうみたいですね」と答えた。
「春になったらまた来てみようかな」と男性が言った。
テンコは少し考えてから言った。
「じゃあ私も来てみます」
「奇遇ですね」
「奇遇ですね」
二人は同時に言って、それから少し笑った。
〈テンコ〉
「はい」
〈引力が本物かどうかの答えを出すのは、お前自身じゃないか〉
「……」
〈プログラムで増幅されていても、それが百万回繰り返されて積み重なった縁だ。それを本物じゃないと言えるか?〉
テンコはしばらく黙った。
「言えないかもしれないです」
〈だろう〉
桜の木が風に揺れた。葉がかさかさと音を立てた。
男性が立ち上がった。「じゃあ、また春に」と言った。テンコも立ち上がった。「また春に」と答えた。
男性が歩いて行く。テンコは見送った。
「カゲロウさん、私は今、何をすべきですか」
「転生を続けろ。データを集めろ。それだけが今できることだ」
「それだけですか」
「……今は、それだけだ」
テンコは老桜の木を見上げた。自分もかつてこういう木だったのかな、と思った。ただそこにいて、人々が来ては去るのを感じて、それでも静かに春を待っている木。
悪くない。
第八章 最後の転生
転生が九十九万九千九百九十九回目に達したとき、マキバ博士から緊急の通信が入った。
「テンコ、データベースの復元が、あと一回の転生データで完成する」
「やっと……」
「最後の転生先を告げる。今回も人間だ。ただし、通常とは少し違う」
「どんな違いですか」
「今回の転生では、今まで集めてきたすべての転生データを、一度に統合して体験してもらう必要がある。メダカも、犬も、桜の木も、大工も、サラリーマンも、全部の記憶を持ったまま」
「全部の記憶を持ったまま……それは大変そうですね」
「大変だ。正直言えば、前例がない。理論的には可能なはずだが」
「理論的には、って……」
「やってみないとわからない」
「またその言葉ですか」
「転生とはそういうものだ」
カゲロウが口を挟んだ。
「テンコ、嫌ならやらなくていい。他の方法を探す」
「他の方法はあるんですか」
「……ない」
「じゃあやります」
「本当にいいのか」
「百万回やってきたんですよ。今更一回くらい」
カゲロウは少し間を置いた。
「……そうだな」
「あと、カゲロウさん」
「なんだ」
「最後の転生には、一緒に来てください。メダカのときみたいに」
長い沈黙があった。
「……わかった」
「本当ですか」
「一度言ったことは変えない」
テンコは笑った。
百万回目の転生は、現代の東京に始まった。
今回のテンコは、二十八歳の女性、ハルとして生まれた。百万回分の記憶を持っている。だが、それは夢のように、感覚のように、言葉にならない何かとして体の奥にあるだけで、普段の生活では出てこない。
ハルは普通に生活した。朝起きて、会社に行き、帰ってきて、眠る。
ただ、たまに、気のせいかもしれないが、妙な感覚があった。
道端の花を見ると、なんとなく懐かしい気持ちになる。犬を見ると、なんとなく親しみを感じる。池の端でメダカを見ると、なんとか笑いたくなる。
そして桜の木を見ると、胸の奥が静かになる。
春のある日、ハルはいつもの公園の桜並木を歩いていた。
花が満開だった。
ベンチに座った。
隣に、いつの間にか誰かが来て座っていた。
三十代前半の男性で、少し疲れた顔をしていて、コンビニのコーヒーを持っていた。
男性がハルの方を向いた。「よく来るんですか、ここ」と言った。
ハルはその顔を見た瞬間、何かが全身を走り抜けた気がした。
百万回の転生が、ほんの一瞬だけ、まるで夢のフラッシュのように浮かんだ。浜辺で貝を拾う老婆。野戦病院の傷病兵。神社の根元に座る疲れた女性。公園で本を読む人。桜の木の下のベンチ。
全部、この魂だった。
「よく来るんです」
ハルは答えた。「ここの桜が好きで」
「僕も好きなんですよ、なんとなく」
「なんとなく」
「うまく言えないんですけど……なんか、ここに来ると、落ち着くんですよね。前に来たことないのに」
ハルはその言葉を聞いて、そっと目を細めた。
「それ、すごくわかります」
花びらが一枚、ハルの膝の上に落ちた。
どこかの枝に鳥が来て、また飛び立った。空が青かった。
テンコは心の中でカゲロウを呼んだ。
〈カゲロウさん、今どこにいますか〉
少し間があって、カゲロウが答えた。
〈そこにいる〉
ハルは少し辺りを見渡した。隣のベンチに、ジャケットを着た男性が座っていた。コーヒーを飲んでいる。こちらを見ていない。
でも、なんとなく、その人だとわかった。
〈カゲロウさんも、転生してきたんですか〉
〈……監視だ〉
〈またそれですか〉
〈業務上の関係だ〉
テンコはくすっと笑った。隣に座っている男性がそれに気づいて、「何かおかしいことありましたか」と聞いた。
「いえ、ちょっと思い出し笑いで」
「そうですか」と言って、男性も少し笑った。
桜の花びらが、次々と舞い落ちてきた。
データが完成しつつあった。テンコには、その感覚がわかった。百万回分の転生が、ゆっくりと一つのパターンに収束していく。パズルの最後のピースがはまるような感覚。
これが、転生データベースが記録し続けてきたものか。
どの時代も、どの形も、どの関係も——全部ここに向かっていた。
「また来てください」
男性がそう言って立ち上がった。
「絶対来ます」
ハルは言った。
男性が歩いて行く。
カゲロウも、ベンチからそっと立ち上がった。
テンコはそれを見ながら、満開の桜の木を見上げた。
終章 地球があってこそ
百万回目の転生データが宇宙管理局に届いた瞬間、転生データベースが完全に復元された。
三十億近い魂が待機状態から解放され、一斉に転生プロセスを再開した。宇宙管理局の全モニターがグリーンに変わった。
606号室では、カゲロウが入力されてくるデータを確認しながら、静かに息をついた。
「完了した」
副部長のナギサが拍手した。技術顧問のマキバ博士が眼鏡を外して目を閉じた。
「テンコに連絡してやれ」
オオゾラ部長が言った。
カゲロウはインカムを手に取った。
ハルとして生きているテンコに、その報せが届いたのは、夕暮れの公園だった。
〈テンコ、完了した。お前の転生データで、データベースの復元が完了した〉
ハルは立ち止まった。夕日が空を橙色に染めていた。木々の影が長く伸びていた。
「よかった」
とだけ言った。
〈あとは、こちらでシステムを安定させる。引力増強プログラムも、適切な強度に調整する。今後は管理局が責任を持って管理する〉
「わかりました」
〈ご苦労だった〉
カゲロウの声は、いつもと同じそっけない声だった。でもテンコには、その声の奥に何かが含まれているのが、わかる気がした。
「カゲロウさん」
〈なんだ〉
「百万回付き合ってくれて、ありがとうございました」
〈…………〉
「一番最初、メダカのときに一緒にえさ食べてくれたこと、覚えてますか」
〈覚えていない〉
「覚えてるくせに」
〈覚えていないと言っている〉
テンコは笑った。
「私、この転生が終わったら、管理局に帰りますよね」
〈そうだ〉
「帰ったら……またシステムエンジニアとして働けますか。さすがにクビですかね〉
〈……部長に聞け〉
「カゲロウさんはどう思いますか」
沈黙があった。
〈私は……一緒に働けると思っている〉
テンコは夕空を見上げた。一番明るい星が一つ、見え始めていた。
「地球って、きれいですね」
〈そうだな〉
「管理局の窓から見るより、ずっときれいです」
〈端っこからじゃ、よく見えないからな〉
「要衝ですよ、公式見解では」
〈要衝だ〉
「またここに来たいな、と思います。転生じゃなくて、普通に」
〈テンコ〉
「はい」
〈お前は転生のたびに、いろんなものになった。メダカも、犬も、桜の木も、サラリーマンも、大工も。全部違う形で、全部この地球の上にいた〉
「はい」
〈その一つひとつを、全部覚えておけ。それがお前の財産だ〉
テンコはしばらく何も言わなかった。
「カゲロウさんも、ちゃんと覚えておいてくださいよ。メダカのこと」
長い沈黙があった。
〈……覚えておく〉
夕日が沈んでいく。空がだんだん暗くなっていく。星が増えていく。
テンコはしばらくそこに立って、夜空を眺めた。あの星のどこかに、宇宙管理局がある。あそこから見える地球は、きっとひどく小さい。でもここから見る空は、どこまでも広くて、きれいだった。
長い地球の歴史の中で、命は何度も何度も形を変えた。虫になり、犬になり、花になり、メダカになり、人間になった。それはすべて、地球があってこそで、太陽があってこそだった。
そしてその中で、「なぜか気が合う」誰かが、いつもどこかにいた。
それがバグだったとしても。それが増幅されたパターンだったとしても。それが百万回繰り返された縁だったとしても。
それは本物だった。
エピローグ 606号室、再び
宇宙管理局・第三事業部・地球担当課。
606号室に、テンコが帰ってきた。
相変わらず窓からは暗黒物質と遠い星雲しか見えない。天井のパネルはあの事故以来、まだいくつか修理されていない。机の上には、百万回分の転生報告書がデータとして積み上がっていた。
「おかえり」
カゲロウが、自分の席から声をかけた。相変わらずコーヒーを持っている。相変わらず少し無愛想な顔をしている。
「ただいま帰りました」
テンコは自分の席に座った。モニターを立ち上げると、転生データベースのインターフェースが開いた。グリーンのランプが並んでいる。すべて正常。
「仕事の引き継ぎをしろ。この三百年分の転生データの整理が山積みだ」
「三百年分!」
「当たり前だ。お前が転生している間、誰かがやらなければいけなかった。私がやっていた。感謝しろ」
「ありがとうございます」
「礼はいい。早く手伝え」
テンコは笑いながら端末を操作し始めた。
しばらく沈黙で作業が続いた。
「カゲロウさん」
「なんだ」
「メダカのえさって、どんな味でしたっけ」
カゲロウはしばらく無言だった。それからこう言った。
「覚えていない」
「本当ですか」
「覚えていないと言っている」
「私は覚えてますよ。なんかパリパリしてて、ちょっと香ばしかった」
「……業務に集中しろ」
「はーい」
窓の向こうに、遠い星雲がぼんやりと光っていた。百万光年も先のことだけれど、その中のどこかに、地球があって、太陽があって、今も命が巡っている。
メダカが泳いでいる。犬が走っている。桜の木が風に揺れている。サラリーマンが月曜日に電車に乗っている。
そして、なぜか気が合う誰かと、なぜか気になる誰かと、今日もどこかで出会っている。
テンコはモニターを見ながら、そのことを思った。
606号室は相変わらず宇宙の端っこにあったが、今はそれが、そんなに悪くない気がした。
了
〜あとがき〜
『100万回転生したズッコケ神様』は、「命は巡る」というイメージから生まれた物語でした。
人間は死ぬと、土へ還ります。
植物になり、虫になり、魚になり、また誰かになる。
そんな長い長い地球の循環の中で、もし同じ魂同士が何度も出会っていたら——。
そんなことを考えていたら、なぜか宇宙管理局の606号室が現れました。
しかもそこには、転生データベースをクラッシュさせる新人神様と、やたら無愛想な上司がいました。
書いているうちに思ったのは、命というのは案外、「大事件」よりも「小さな時間」でできているのかもしれない、ということでした。
メダカのえさ。
犬のひなたぼっこ。
桜の木の下の沈黙。
月曜日の通勤電車。
そういう、なんでもない時間の積み重ねが、人生というものなのかもしれません。
そしてその中で、人は誰かと出会います。
それが偶然でも、運命でも、システムのバグでも——。
何度も巡った末に「また会えた」と思えるなら、それはきっと本物なのだと思います。
この物語が、あなたの中の「なぜか気になる誰か」を思い出すきっかけになれば嬉しいです。
地球があってこそ。
太陽があってこそ。
そして、あなたが読んでくださったからこそ、この物語は完成しました。
ありがとうございました。

