色紙一枚、されど色紙
〜噺家たちの浮き沈み顛末記〜



〜まえがき〜

 人は、何にお金を払うのだろう。

 笑うためか。
 暇つぶしのためか。
 それとも、誰かの「これから」を見届けるためか。

 落語には不思議なところがあります。

 完成された名人芸を観る楽しさもあれば、
 まだ荒削りな若手が、高座の上でもがきながら少しずつ変わっていく姿を追いかける楽しさもある。

 そして時々、客の側もまた、気づかぬうちに人生を変えられている。

 本作の主人公・桑原誠一郎は、どこにでもいる定年後の男です。
 退職し、時間だけはたっぷりある。
 特別な才能もなければ、大きな夢もない。
 ただ、落語が好きだった。

 だから寄席へ行く。
 若手の会へ行く。
 色紙を差し出す。

 たったそれだけの話です。

 けれど「たったそれだけ」が、誰かを支え、誰かに覚えられ、長い時間をかけて小さな物語になっていく。

 華やかな成功譚ではありません。
 大逆転もありません。
 あるのは、高座と客席の間を静かに流れていく時間だけです。

 この物語を読み終えたあと、
 寄席の灯りや、終演後のざわめきや、楽屋口で交わされる短い会話が、少しだけ愛おしく見えていただけたなら幸いです。




プロローグ

 世の中には、じっとりと落語が好きな人間というのが一定数いる。
 雨の降る夜でも傘を差して寄席へ行き、噺が終われば柏手を打ち、帰りの電車でひとり余韻に浸る。そういう人種だ。
 本書の語り手、桑原誠一郎(くわはら・せいいちろう)、六十二歳もその一人である。
 元・地方公務員。現・完全無職。退職金は定期預金にそのまま眠り、毎月の年金と、妻・房江が細々と続けるカルトナージュ教室の収入で暮らしている。子供はなく、犬が一匹いたが昨年死んだ。名前はポン太。享年十四歳。
 誠一郎の趣味は落語鑑賞と、差し入れと、観察である。
 この三つが合わさると、なかなかに厄介な老人が完成する。
 若手の会があると聞けばどこへでも足を運び、終演後には楽屋へ顔を出す。気に入った噺家には声をかけ、三度目には色紙を差し出す。そして、その反応を——じっくりと、まるで鷹が野ねずみを観察するように——じっと見る。
 誠一郎はこの行為を「人物鑑定」と呼んでいた。
 だが周囲には、単なる暇なおじさんの道楽にしか見えていなかった。
 これは、そんな男と、彼が見守る若手噺家たちの、ちょっぴり滑稽で、少しだけ哀しく、時々うるっとくる物語である。


第一章 贔屓筋というものの正体

 誠一郎が初めて若手の会に足を踏み入れたのは、定年退職の翌月のことだった。
 それまでは有名どころの落語家の独演会か、国立演芸場の定席くらいしか行ったことがなかった。若手、という言葉には、どこか不安定なにおいがした。チケットが千五百円という安さも、逆に不信感を煽った。安いものは安い理由がある、と誠一郎は長年の公務員生活で学んでいた。
 しかし定年後の最初の一週間で、誠一郎は一つの真理に気づいた。
 時間が、ありすぎる。
 朝六時に目が覚める。妻の房江はすでに起きていて、カルトナージュ用の布地を眺めながら緑茶を飲んでいる。「今日も何か予定あるの?」と聞かれる。「ない」と答える。「そう」と言われる。それだけだ。
 誠一郎はその日の午後、吉祥寺の小さなライブハウスを改装した寄席へ、生まれて初めて若手の会のチケットを買った。
 出演者は三人。前座が一人、二ツ目が二人。客は七人。
 誠一郎を含めて七人である。
 前座の噺は「道灌」。緊張のせいか声が上ずっていたが、誠一郎はかえって親近感を覚えた。自分も三十年前、初めての窓口業務で声が上ずった。人間、緊張するのは当然だ。
 二ツ目の一人目は「時そば」。手慣れてはいたが、どこか計算が透けて見えた。笑いを取る場所が決まっていて、決まった場所で決まった笑いしか取れない。誠一郎はそれを見て、「こいつは伸びんな」と思った。根拠はなかった。ただの直感だった。
 二ツ目の二人目は「青菜」。名前は桂三太朗(かつら・さんたろう)といった。
 三太朗が高座に上がった瞬間、誠一郎は背筋を正した。
 何かが違った。
 うまいとか下手とかではない。何か、磁場のようなものがあった。客席に向かって頭を下げたときの角度、扇子を開く所作、最初の一声。全部が、自然だった。計算ではなく、自然。
 「青菜」は夏の噺だ。主人が植木屋に「鸚鵡が来たら鸚鵡が来たと言え」と言い残し、外出する。帰ってきた友人に「奥方は?」と聞かれた植木屋の女房が、「鸚鵡が来た」と言うべきところを忘れて「菜をおあがり」と言ってしまう、という滑稽話。
 三太朗の語る「青菜」は、夏の暑さがそこにあった。扇風機の音が聞こえるようだった。七人の客が、一斉に笑った。
 誠一郎はその夜、帰宅して房江に言った。
 「すごい若手を見つけた」
 「あら、女の子?」
 「違う。落語家だ」
 「あなたが落語家を見つけても、どうするの」
 確かにその通りだった。しかし誠一郎には、何かを言わずにはいられなかった。
 翌日、誠一郎はそのライブハウスの掲示板に次の若手の会の告知を見つけた。三太朗の名前はなかった。だが誠一郎は、それでもチケットを買った。
 こうして誠一郎の「若手観察日誌」が始まった。

 一方、三太朗の方はといえば、誠一郎のことなど全く覚えていなかった。
 当然である。あの夜の客は七人で、みなほぼ見知らぬ顔だった。三太朗が覚えているのは、前から二列目で一番大きな声で笑ってくれた、ちょっと恰幅のいい老人くらいのものだった。
 それが誠一郎だったと三太朗が気づくのは、ずっとずっと後のことになる。


第二章 色紙を断る男

 桂三太朗のほかにも、誠一郎が注目する若手は何人かいた。
 春風亭こはる(しゅんぷうてい・こはる)、女性の二ツ目。「死神」を演じさせると今の若手では最右翼と誠一郎は思っていた。しかし普段はなぜか「猫の皿」ばかりやっていた。得意なものをなぜやらないのか、誠一郎には理解できなかった。
 立川談一郎(たてかわ・だんいちろう)、男性の二ツ目。声がいい。顔もいい。だが何かが足りない。誠一郎は考えた末、「欲がない」という結論に達した。売れたいという気持ちが、声にも顔にも滲んでいない。それは一見謙虚に見えるが、実は最大の怠惰だと誠一郎は思った。
 そして——春風亭弁慶(しゅんぷうてい・べんけい)。
 弁慶は誠一郎が「最初から嫌いだった」唯一の若手だった。
 芸はまあまあだった。しかし態度が鼻についた。終演後に客席をちらりと見る目つきが、どこか値踏みするようだった。「今日の客、どのくらいお金持ってそうか」という目だ。誠一郎はその目を何度か見たことがある。銀行の窓口でよく見た目だった。
 それでも誠一郎は公平であろうとした。
 三度、弁慶の会に行った。三度目に色紙を持参した。
 「よかったよ、今日は」と楽屋口で声をかけた。
 弁慶は振り向いた。誠一郎を見た。一瞬、何かを計算する目になった。
 「ありがとうございます」
 「色紙、一枚書いてくれないか」と誠一郎は差し出した。
 弁慶の表情が、かすかに変わった。
 「……今日はちょっと」
 「そうか、忙しいか」
 「次の会があって、急ぎで準備が」
 「なるほど、わかった」
 誠一郎は色紙をかばんに戻した。弁慶はすでに視線を外していた。
 翌日、誠一郎は手帳の弁慶の名前に小さな「×」を書いた。
 その年の暮れ、弁慶は「芸風が合わない」という理由で師匠のもとを去り、廃業した。享年二十七。噺家としての寿命だった。
 誠一郎は特に驚かなかった。
 「まあ、そうなるな」とだけ思った。

 もう一人、色紙を断った男がいた。
 前座の田中喬太(たなか・きょうた)。
 喬太は断り方が弁慶と違った。弁慶は「忙しい」と言った。喬太は何も言わなかった。
 差し出した色紙を、喬太はじっと見た。次に誠一郎の顔を見た。そして、静かに言った。
 「すみません、僕、まだそんな価値ないんで」
 誠一郎は少し面食らった。
 「いや、そんなことはない。今日はよかったよ」
 「もったいないですよ。もっとうまくなってからにしてください」
 誠一郎は首をかしげながら色紙をしまった。
 帰り道、誠一郎はその言葉をずっと反芻した。謙遜なのか、本気なのか。照れなのか、哲学なのか。
 翌年、喬太は二ツ目昇進試験に三度落ちた。
 そしてある朝、師匠に「もう少し時間をください」と言い残し、行方をくらました。
 いまも、どこかにいるのだろう。
 誠一郎はたまに思い出す。あの「まだそんな価値ないんで」という言葉を。
 色紙を断ったことそのものより、あの真顔が引っかかっていた。価値がないと本当に思っていたのか、それとも——誰かに、そう言われ続けてきたのか。
 それだけは、今でもわからなかった。


第三章 筆ペンと千社札の美学

 色紙を受け取る者たちの反応は、千差万別だった。
 その多様性こそが、誠一郎の観察に深みを与えていた。
 最も多いのは「サラサラっとその場で書く」派だ。
 楽屋口で差し出すと、受け取り、持っていたボールペンでさらさらと書く。「○○ 三太朗」。所要時間、十五秒。ありがとうございます、と言って渡す。終わり。
 誠一郎はこれを「即興派」と名付けた。悪くはない。むしろ気さくで親しみやすい。しかし少しだけ、もったいない気がした。
 次に多いのが「少しお待ちくださいと引っ込む」派だ。
 春風亭こはるがこれだった。
 「少々お待ちいただけますか」と言い、色紙を持って楽屋の奥へ消える。五分後に戻ってくる。
 戻ってきたこはるの手には、筆ペンで丁寧に書かれた色紙があった。文字が美しかった。「春風亭こはる」という名前の後に、小さく「感謝」という二文字が添えてあった。
 誠一郎は思わず「字、うまいな」と言った。
 「稽古してます。文字も芸のうちだと師匠に言われてて」とこはるは答えた。
 誠一郎は手帳に「こはる——見込みあり」と書いた。
 そして——伝説の「千社札」派がいた。
 立川小三馬(たてかわ・こさんば)、前座三年目。
 小三馬は色紙を受け取ると、「少々お時間よろしいですか」と言い、やはり楽屋へ引っ込んだ。
 十分が経った。
 十五分が経った。
 誠一郎はそろそろ帰ろうかと思い始めた頃、小三馬が戻ってきた。
 色紙を見て、誠一郎は目を丸くした。
 筆ペンで書かれた「立川小三馬」の文字は、まるで手本のように整っていた。その下に、小さな朱色の落款。さらに——色紙の四隅に、小三馬の名前の入った千社札が一枚ずつ貼られていた。
 「これ……自分で作ったのか」
 「はい。半年前から準備してたんです。いつかこういう機会があると思って」
 誠一郎はしばらく色紙を眺めた。
 「楽屋に筆と朱肉を常備してるのか」
 「はい。毎回」
 「重くないか?」
 「それなりに」とだけ小三馬は言い、少し照れくさそうに笑った。
 誠一郎はその夜、帰宅してから房江に言った。
 「今日、千社札付きの色紙をもらった」
 「それは大げさな」と房江は言った。
 「いや、大げさなんじゃない。用意してたんだよ、ずっと」
 「用意って、誰があなたに色紙もらいに来るとわかって?」
 誠一郎は黙った。
 確かに、誠一郎のことを知って準備したわけではない。ただ「いつか誰かに頼まれる日のために」と準備していたのだ。
 それは、役者と客の関係ではなく、職人と仕事の関係に近かった。
 小三馬はその後、真打昇進まで最速記録を塗り替えた。誰もが「なぜあいつが」と言った。しかし誠一郎は知っていた。
 準備をしていた男が、準備の報いを受けただけだ、と。


第四章 楽屋の踊り場にて

 誠一郎が贔屓にする会のひとつに、中野の小さなホールで月に一度開かれる「二ツ目勉強会」があった。
 主催は桂三太朗。出演者は毎回四人から五人。チケットは前売り千八百円、当日二千円。
 誠一郎は毎月皆勤賞だった。
 この会で誠一郎は一人の女性と知り合った。
 仁科律子(にしな・りつこ)、四十代後半。職業は編集者。出版社に勤めているが、いまどき珍しく「紙の本に命を懸けている」と自称していた。
 最初に話しかけてきたのは律子の方だった。
 「いつも来てらっしゃいますよね。三太朗さんのファン?」
 「ファンというか、見守ってるというか」
 「見守る? 親戚の方?」
 「いや、赤の他人です」
 律子は不思議そうな顔をした。
 「赤の他人が見守る?」
 「贔屓筋というやつです」と誠一郎は言った。
 律子はしばらく考えてから、「それって要は、おじさんが若い子を観察してるってことですよね」と言った。
 誠一郎は「言い方が悪い」と思ったが、否定もできなかった。
 律子もまた、三太朗に目をつけていた。ただし目的が違った。
 「本を出させたいんですよ。噺家のエッセイって売れるんです。でもご本人がなかなか乗り気にならなくて」
 「三太朗は本を出したくないのか?」
 「出したい気持ちはあるらしいんですが、書く時間がないとか、文章が苦手とか、言い訳ばかりで」
 「忙しいんだろう」
 「忙しくなってから言うなら格好いいんですが、まだそんなに売れてない段階で忙しいって……」
 律子は肩をすくめた。
 誠一郎は苦笑した。確かに三太朗は、芸に関しては真剣だが、芸以外のことになると途端に及び腰になる傾向があった。
 二人はその後、終演のたびに雑談を交わすようになった。
 律子の観察眼は鋭かった。誠一郎が「伸びる」と思った若手を律子も目をつけていることが多く、逆もまた然りだった。
 ある夜、律子がぽつりと言った。
 「私たち、何やってるんですかね。こうして毎月来て、ああだこうだ言って」
 「楽しいじゃないですか」
 「楽しいですね。でも、噺家さんたちにとっては、私たちって邪魔じゃないですかね」
 誠一郎は首を振った。
 「邪魔かどうかは本人が決める。でも少なくとも、空席より埋まってる席の方がいい」
 律子は笑った。
 「それは確かに」
 誠一郎は帰り道、律子の言葉をずっと考えた。邪魔かどうか。贔屓筋というのは何なのか。
 結論は出なかった。しかし翌月も、誠一郎は中野のホールへ向かった。
 多分、答えなんてないのだ。行くから行く。見たいから見る。それだけでいい。
 誠一郎はそういう人間だった。


第五章 試されていると知らずに

 誠一郎には一つの悪癖があった。
 本人は「悪癖」とは思っていなかったが、客観的に見れば確かに悪癖だった。
 それは「わざと忙しそうな時に声をかける」という行動だった。
 終演直後、出演者が客席に出てきてサインや挨拶に応じる時間、多くの若手は複数の客の対応に追われる。その瞬間を狙って、誠一郎は声をかける。
 目的は単純だ。「余裕がない時の対応が、その人の本当の姿だ」という信念に基づいている。
 これを誠一郎は「ストレステスト」と呼んでいた。
 誰にも言ったことはなかったが。

 ある夜、三太朗の会の終演後。三太朗はすでに五人の客に囲まれていた。
 誠一郎はその輪の外側からじりじりと近づき、三太朗の視野の端に入ったところで声をかけた。
 「今日もよかった。特に『子別れ』がな」
 三太朗は囲まれながら、誠一郎の方へわずかに顔を向けた。
 「桑原さん! 今日もありがとうございます。少しだけお待ちいただけますか」
 そう言いながら、三太朗は手元のお客への対応を丁寧に続けた。サインを書き、写真を撮り、一人ひとりに言葉をかける。一切、手を抜かない。
 五分後、三太朗は誠一郎の前に来た。
 「お待たせしました。桑原さん、『子別れ』の上の部分、まだ迷ってるんですよ。今日はどこが気になりましたか?」
 誠一郎はこの瞬間が好きだった。
 三太朗は待たせた詫びより先に、芸の話をした。それが誠一郎への最大の敬意だった。「あなたはただの客じゃない、わかる人だ」という意味だった。
 「熊五郎が泣く場面。少し急ぎすぎだった」
 「やっぱりそこですか」と三太朗は言い、小さな手帳を取り出してメモした。
 誠一郎は心の中でそっと思った。合格、と。

 一方、不合格になった者もいた。
 立川談一郎は誠一郎のストレステストに、見事なまでに引っかかった。
 終演後、誠一郎が声をかけると、談一郎は別の客と話している最中に「ああ、はい」とだけ言い、視線を戻した。
 誠一郎は待った。
 三分後、談一郎はその客との話を終えたが、誠一郎の方を向かなかった。別の方向へ歩いて行った。
 忘れたのかもしれない。あるいは気づかなかったのかもしれない。
 しかし誠一郎には、それは言い訳にならなかった。
 「ああ、はい」と言ったなら、その言葉には責任が生じる。責任を果たさないなら、言葉を発するべきではない。
 誠一郎は帰り道、手帳を取り出した。
 談一郎の名前の横に、細い字で「惜しい」と書いた。
 「×」ではなく「惜しい」。それが談一郎への評価だった。
 芸はある。声もいい。ただ、人への意識が薄い。
 意識は習慣で変えられる。だから「×」ではない。だがこのままでは、惜しいで終わる。
 誠一郎の予言は、半分当たった。
 談一郎はその後、地方の演芸番組にレギュラーで呼ばれ、そこそこの知名度を得た。東京では売れなかったが、地方では顔が知られた。
 誠一郎はそれを聞いて、「惜しいはやっぱり惜しかった」と思った。


第六章 千人の噺家、足りぬ寄席

 誠一郎はある夜、律子と二人で終演後の居酒屋で向き合い、一つの数字の話をした。
 「落語家って今、千人近くいるんですってね」と律子が言った。
 「そうらしい」
 「で、常設の寄席って東京に何軒?」
 「定席は四軒だな。鈴本、浅草、新宿、池袋」
 律子は割り算をした。
 「全員が毎日出られるわけないですよね」
 「当然」
 「つまり、ほとんどの噺家はほとんど寄席に出られない」
 「そういうことだ」
 律子はビールを一口飲んだ。
 「過酷ですね」
 誠一郎もビールを飲んだ。
 「だから自分で会を作る。自分でチラシを刷って、自分でSNSで告知して、自分でチケットを売って、自分で演る」
 「三太朗さんもそうですもんね」
 「あいつはまだいい。毎回百人は入る。百人×千八百円で、十八万。会場費と諸経費で半分飛んで、残り九万。それを出演者で割る」
 「一人いくら?」
 「三太朗がやや多め取るとして、他は一万から一万五千、といったところか」
 律子は絶句した。
 「月一回の会で、一万五千円……」
 「もちろんそれだけじゃない。他の会にも出る。冠婚葬祭や企業の宴会にも呼ばれる。それでも、だいたい月に二十万いけば御の字な二ツ目が大半だ」
 「東京で二十万……」
 「しかも不安定だ。病気になったら収入ゼロ。コロナみたいなことが起きたら、会が全部つぶれる。現にそういう経験をした」
 律子はしばらく黙っていた。
 「それでもやる人が千人いるんですね」
 「それでもやる人が千人いる」
 誠一郎はそこが好きだった。この世界の、理屈の通らない部分が。
 合理的に考えれば、誰も噺家になんかならない。なってはいけない。リスクが高すぎる。リターンが小さすぎる。
 それでも千人いる。
 なぜか。
 好きだから、だ。
 誠一郎は退職金を定期預金に入れたまま触っていないが、もしも三十歳に戻れたら、と思うことがある。もしも三十歳に戻れたら、自分は何をするか。
 公務員にはならない、と断言できる。
 しかし噺家になれるかというと、それもわからない。
 ただ少なくとも、あの若手たちの、高座に上がる前の緊張した顔と、上がった後の晴れ晴れした顔を、もっと近くで見たかった、と思う。
 誠一郎は二杯目のビールを頼んだ。
 「律子さんは、三太朗の本、まだ諦めてないんですか」
 「諦めてませんよ。しぶとく口説き続けます」
 「それはそれで、大事な贔屓筋だと思うよ」
 律子は笑った。
 「あなたと私、同じですね。やることが違うだけで」
 誠一郎もつられて笑った。
 確かに、そうかもしれない。

第七章 残る者、去る者、しがみ付く者

 誠一郎が若手の会に通い始めて、三年が経った。
 三年でずいぶんと顔触れが変わった。
 廃業した者——弁慶、喬太を含めて七人。
 転向した者(芸能事務所に入りタレント活動へ)——二人。
 結婚し、子供が生まれ、副業で塾講師を始めた者——一人(談一郎の同期)。
 そして残った者たち。
 三太朗はいた。こはるもいた。小三馬もいた。
 三年で彼らは確実に変わっていた。
 三太朗の「子別れ」は、あの夜より深くなっていた。誠一郎が「急ぎすぎだ」と言った熊五郎の泣く場面は、今や三太朗の十八番になっていた。
 こはるの「死神」は、満を持して発表された。初演のチケットは即日完売。誠一郎はかろうじて一枚確保した。
 小三馬は相変わらず、毎回千社札付きの色紙を用意していた。もはや「小三馬の色紙には千社札がある」という噂が贔屓筋の間で広まり、それが一つのブランドになっていた。
 一方、「しがみ付く者」の話も聞いた。
 名前は出さないが、誠一郎が一度だけ会に行き、二度と行かなかった若手が何人かいる。
 芸がないわけではない。しかしどこか、方向を見失っているような印象があった。寄席でもなく、自前の会でもなく、ただ師匠の名前にぶら下がり、年だけ重ねていく。
 そういう人に誠一郎が声をかけることはなかった。声をかけるべき言葉が見つからなかった。
 「やめた方がいい」とは言えない。
 「続けろ」とも言えない。
 言えることがあるとすれば、ただ一つ。「お客さんを大事にしろ」だけだ。でもそれも、言える立場じゃない気がした。
 誠一郎はただの客だ。
 お金を払って、笑って、帰る。それが仕事だ。
 でも、そう割り切れないから、こうして毎月通っている。

 ある夜、こはるが誠一郎に言った。
 「桑原さんって、なんで来るんですか。毎回」
 誠一郎は少し考えた。
 「楽しいから」
 「それだけですか」
 「それだけだよ。それ以上の理由なんてあるかい」
 こはるはしばらく考えてから言った。
 「なんか、嬉しいです。それ」
 「なぜ?」
 「理由がないってことは、打算がないってことじゃないですか。損得なく来てくれてる」
 誠一郎は笑った。
 「打算がないというより、打算するほど頭が働かないんだよ、この歳になると」
 こはるも笑った。
 その笑い声は、誠一郎が今まで聞いた中で一番、高座の上の笑い声に近かった。


終章 お宝になる日まで

 誠一郎の書斎の棚には、今や色紙が山のように積まれている。
 房江は最初の頃こそ「また増えた」とため息をついていたが、今は何も言わない。ただ時々、棚を眺めながら「これ、いつか価値が出るのかしらね」とつぶやく。
 誠一郎は「出るかもしれない」と答える。
 本当にそう思っているし、半分は冗談でもある。
 色紙の価値は、書いた人間の値打ちで決まる。今は無名でも、いつか——。

 その「いつか」が来た。
 通い始めて四年目の秋、桂三太朗が真打昇進を発表した。
 新聞の芸能欄に小さく載った記事を見て、誠一郎は朝食のご飯をよそう手を止めた。
 房江が「どうしたの」と言った。
 「三太朗が真打になる」
 「あの、青菜の人?」
 「そう」
 房江は少し考えてから言った。
 「あなた、最初から言ってたわね。あの人は売れるって」
 誠一郎は何も言わなかった。
 言わなかったが、心の中で小さく、ほんの少しだけ、誇らしかった。

 昇進披露興行のチケットは、発売と同時に完売した。
 誠一郎はもちろん確保済みだった。律子も確保していた。
 二人で並んで座り、三太朗の高座を見た。
 「子別れ」だった。
 熊五郎が泣く場面。三太朗は急がなかった。たっぷりと間を取り、客席の空気が静まり返るのを待ってから、ゆっくりと泣いた。
 誠一郎の隣で、律子が静かにハンカチを取り出した。
 誠一郎は泣かなかった。
 泣かなかったが、拍手だけは誰より大きくした。

 終演後、楽屋口に挨拶に行った。
 三太朗は真打の紋付き袴姿だった。たくさんの人に囲まれていた。師匠、兄弟子、後援会の人々。
 誠一郎が輪の外から声をかけた。
 「よかったよ。特に子別れがな」
 三太朗は振り返り、誠一郎を見た。
 笑った。
 人をかき分けて、誠一郎の前に来た。
 「桑原さん。今日、来てくださると思ってました」
 「当然だ。皆勤賞だからな」
 「一つお願いがあるんですが」
 三太朗は懐から色紙を取り出した。
 新しい、真っ白な色紙だった。
 「今度は僕が書いてもいいですか。桑原さんに」
 誠一郎は面食らった。
 「俺に? 俺はただの客だぞ」
 「そうですよ。でも、最初の会からずっと来てくれたただの客です」
 三太朗は懐から筆ペンを取り出した。用意してきたのだ。
 丁寧に、ゆっくりと書いた。
 「桑原誠一郎様 おかげさまで真打になれました 桂三太朗」
 渡された色紙を受け取り、誠一郎はしばらく眺めた。
 「おかげさまで、はちょっと大げさだ。俺は何もしてないぞ」
 「来てくれました。毎回」
 「それだけだ」
 「それだけで十分です」と三太朗は言った。

 帰り道、誠一郎は一人で歩いた。
 律子とは「今日はゆっくりしてください」と別れた。
 夜の空気が冷たかった。秋も深まっていた。
 誠一郎は色紙をかばんの中で大事に抱えながら歩いた。
 棚の色紙が、また一枚増える。
 でも今日増えたこの一枚は、少し違う。
 他の色紙は全部、誠一郎が「書いてくれ」と頼んだものだ。でも今日の一枚は、向こうから書いてくれた。
 「お宝」というのは、そういうものかもしれない。
 金銭的な価値ではなく、受け取るまでの時間の価値。

 誠一郎は空を見上げた。
 月が出ていた。
 さて、次はどなたかな——と誠一郎は思った。
 こはるか。小三馬か。まだ名前も知らない誰かか。
 いずれにせよ、来月また行けばわかる。
 楽しみはまだまだ続く。
 それで十分だった。

            (了)

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〜あとがき〜

 この物語は、落語が好きなすべての「ただの客」に捧げます。
 舞台に上がらない。幕を作らない。照明も当てない。でも、客席を埋める。
 それが、あなたたちの仕事です。
 高座の上の噺家は、客席があるから噺家でいられる。客席の中の客は、高座があるから客でいられる。
 どちらが欠けても、落語は成立しない。
 誠一郎のように、色紙を集めながら若手を見守る人が、この国のどこかに何百人もいる。
 その「何百人」が、何十年かに一人の天才を育てている。
 世に出るのは偶然ではなく、必然なのだな——と、誠一郎はいつも思う。
 そしてきっと、あなたもそう思っている。
 だから来月も、寄席へ行く。
 さて、次はどなたかな。