昨日屋
〜昨日のあなたへ 女将の宿る山小屋〜
〜まえがき〜
人は時々、
「引き返す」ということを、
負けのように感じてしまいます。
仕事を休むこと。
夢を延期すること。
誰かとの関係を終えること。
山で途中下山すること。
それらはどこか、
諦めに似て見えるからです。
けれど本当にそうなのだろうか、と、
ある日ふと思いました。
北アルプスの山々には、
昔から不思議な話があります。
霧の中で見知らぬ山小屋に辿り着いた人。
嵐の前に誰かに助けられた人。
夢の中で道を教えられた人。
山には時々、
説明のつかない優しさがあります。
この物語は、
「昨日にしか戻れない山小屋」の話です。
もし昨日へ戻れるなら、
人は何をやり直すのでしょう。
誰かを救うでしょうか。
言えなかった言葉を伝えるでしょうか。
それとも、
昨日の自分の背中を、
そっと押してやるのでしょうか。
山は逃げません。
だからこそ人は、
時々、引き返してもいいのだと思います。
また歩き始めるために。
この小説が、
読んでくださった誰かにとって、
小さな山小屋の灯りのような物語になれば嬉しく思います。
序章 夢の縁に立つ
男は気づいたとき、すでに山の中にいた。
足の裏に感じるのは、乾いた砂利の感触だ。踵から爪先へと重心を移すたびに、小石が転がる微かな音がする。空気は薄く、冷たく、肺の奥まで清潔に満ちてくる。
あたりを見渡せば、針葉樹の梢の向こうに、夕暮れ時の橙色をした空が広がっていた。その橙はまるで誰かが丁寧に溶いた絵の具のように、地平線へむかって青へと変わっていく。星は、まだ出ていない。けれど、もうすぐ出る。そういう気配を、空全体が持っていた。
どこから来たのか、なぜここにいるのか、男には分からなかった。
ただ、歩かなければならない、という感覚だけがあった。
山道は細く、岩を縫うように続いていた。左手の崖下には沢の音がある。水が岩を叩き、跳ね、また叩く。その繰り返しが、男の足音と奇妙に交差する。
やがて、木立の向こうに灯りが見えた。
橙色の、柔らかな光。
電球ではない。もっと古い光だ。ランタンか、あるいは囲炉裏の炎か。それが窓の向こうから滲み出て、夜の始まりの闇に小さく、しかし確かに、在った。
人が迷い込むように),
光はいつもそこにある。
問題は、
その光を見つけられるかどうかではなく、
その光へ向かって、
足を踏み出せるかどうかだ。
男は歩いた。
迷いなく、しかし急がずに。
山小屋の扉の前に立ったとき、そこには手書きの木の看板があった。
『昨日屋』
それだけが、墨で書かれていた。
男は首を傾け、その看板を読み、もう一度読んだ。意味が分からなかった。けれど、扉を開けることは自然な行為のように思われた。引き戸に手をかけ、ゆっくりと引く。
コーヒーの香りが、夜気に混じって流れ出た。
第一章 三十八時間前の男
現実の話から始めよう。
赤坂義孝が北アルプスへ向けて東京を発ったのは、その金曜日の深夜零時を少し過ぎた頃だった。新宿バスターミナルの蛍光灯の下で、彼は大型ザックの肩紐を確かめながら、スマートフォンの天気アプリを開いていた。
予報は微妙だった。
土曜の午前中は晴れ。午後から雲が広がり、夕方以降は雨の可能性あり。日曜は一日を通して不安定。
「不安定、か」
義孝は独り言を言った。三十四歳、編集者。山歴は七年になるが、本格的なアルプス縦走は今回が初めてではなかった。しかし、単独は初めてだった。これまでの山行は常にパートナーがいた。大学のワンダーフォーゲル部の先輩と、あるいは仕事仲間と、あるいは別れた恋人と。
今は、一人だった。
それは選択でもあり、成り行きでもあった。三ヶ月前に五年付き合った女と別れ、職場の人間関係が微妙にこじれ、休暇を取って一人になりたかった。山以外に、思い当たる場所がなかった。
バスは定刻通りに出発した。
車内は七割ほどの乗車率で、隣の席は空いていた。義孝は窓に額をつけて、暗い街の明かりが後ろへ流れていくのを見た。首都高速に乗ると、オレンジ色の光の帯が連なって、まるで地上の星座のように見えた。
眠れなかった。
天気のことが引っかかっていた。「不安定」という言葉の質感が、胃のあたりに留まって溶けない。七年の経験が言っていた。山での「不安定」は、都市での「不安定」とはまるで意味の重さが違う、と。
松本に着いたのは夜明けの少し前だった。駅前のコンビニで朝食を買い、始発電車を待つ間に食べた。おにぎり二つとホットコーヒー。プラスチックのカップから立ち上る湯気が、冬の朝の空気に溶けていった。
電車を乗り継ぎ、バスに揺られ、登山口に着いたのは午前九時を過ぎていた。
空は約束通り、青かった。
しかし青さの中に、どこか過剰な白さがあった。光が強すぎる。影が薄すぎる。そういう空は、午後から崩れる。義孝は長年の経験でそれを知っていた。知っていたが、歩き始めた。
登山届を提出し、靴紐を締め直し、深呼吸を一つ。
標高差千四百メートル。コースタイム七時間。目的地は稜線上の山岳ホテル。
計画は、完璧なはずだった。
序盤は樹林帯の中を行く。カラマツとシラビソが交互に現れ、足元には苔と枯れ葉が積み重なって、クッションのような感触を足の裏に返した。空気がひんやりと冷たく、首の後ろの汗をすぐに乾かす。
二時間ほど歩いたところで、最初のコルに出た。視界が急に開け、北アルプスの稜線が一望できた。
白かった。
残雪が、尾根の北面に大量に残っていた。六月上旬というのに、まるで三月の様相だ。今年の春は寒かった。雪が解けるのが遅い。それは知っていたが、目の当たりにするとやはり息を呑む。
同時に、義孝はスマートフォンを確認した。電波は入った。天気アプリを開く。
予報が変わっていた。
「雨の可能性」が「雨」に変わり、「夕方以降」が「午後三時以降」に前倒しになっていた。
「…まずいな」
時刻は十一時半。現在地から山岳ホテルまで、まだ三時間半はかかる。午後三時までに着けるか、着けないか、ギリギリの線だった。
判断が必要だった。
引き返すか、急ぐか。
義孝は五秒考えて、急ぐことを選んだ。
それが間違いの始まりだった、とは、あとになってからしか分からないことだった。
第二章 女将の名前
山小屋の名は『昨日屋』といった。
標高二千三百メートルの、ちょうど樹林限界のあたりに建っている。木造二階建て、外壁は年季の入った板張りで、冬の風雪に磨かれて黒光りしていた。看板は手書き。引き戸は重い。しかしその重さが、嵐からの隔絶を保証している。
女将の名は、島田時子といった。
六十二歳。白髪交じりの髪を後ろでひとつに束ね、紺色の割烹着を着ている。顔の皺は深いが、目が若い。じっと人を見るときの目が、三十代のような鋭さと明るさを持っていた。
夫は十三年前に山で亡くなった。
それ以来、一人でこの山小屋を守っている。
冬は麓へ降りる。春から秋の間だけ、ここで暮らす。毎年そうして生きてきた。登山者たちが来る。泊まる。話す。去る。また来る。繰り返される、この山の時間の中で、時子は自分の時間を刻んできた。
義孝が昨日屋の引き戸を初めて開けたのは、午後一時過ぎのことだった。
急ごうとしたが、思いのほか体が動かなかった。七年のブランクではなく、この三ヶ月の疲弊が、体の奥から滲み出ていた。別れ、仕事の摩擦、孤独。それらを抱えたまま山に来ることは、しばしば足を重くする。山は嘘をつかない。体の正直な声を、そのまま増幅して返してくる。
ペースが上がらないまま、雲が出た。
早い。天気予報より一時間は早い。
稜線を目指すことは断念した。地図を確認すると、樹林帯の中に山小屋の記号があった。昨日屋。名前は知らなかった。しかし選択肢はそこしかなかった。
引き戸を引くと、コーヒーの匂いがした。
薄暗い土間に、女将が立っていた。
「いらっしゃい」
その声は低く、穏やかで、驚いた様子が一切なかった。まるで来ることを知っていたような、そういう迎え方だった。
「…一泊、お願いできますか」
「もちろん」
時子は頷いて、「ザックを下ろして、そこの椅子に座って」と言った。義孝がザックを床に置き、ようやく体の重さから解放されると、すぐにコーヒーが目の前に出た。
陶器のカップ。インスタントではない。丁寧に淹れた、深い茶色。
「ありがとうございます」
「疲れたでしょう。ゆっくりしてね」
それだけ言って、時子は厨房へ戻った。
義孝はコーヒーを両手で包み、一口飲んだ。苦みが舌に広がり、温かさが食道を下りていった。体の中心から、何かがほどける感触があった。
雨の音が、屋根を叩き始めていた。
夕食は山小屋の定番、カレーライスだった。しかし普通のカレーではなかった。野菜が大きく切られ、煮込みの時間を十分にかけた、とろりとした深いカレー。義孝は黙って食べながら、何年ぶりかで食べることそのものに集中した。
食堂には他の客はいなかった。
「今日は、あなただけ」と時子が言った。「天気が悪いから、みんな上には行かないのよ」
「予報より早く崩れましたね」
「そうね。今年の六月は、そういう年みたい。午前晴れ、午後雨が多いのよ」
義孝は箸を置いた。
「ちょっとお聞きしてもいいですか。女将さんは、長くここにいるんですか」
「十三年。夫が亡くなった翌年から、一人でやってる」
「山で、ですか」
「そう。この山で」
時子の声は揺れなかった。事実を事実として言う、そういう話し方だった。
「それは…つらくはなかったですか。同じ山に居続けるのは」
時子は少し考えてから、「逆よ」と言った。
「夫がいなくなってから、この山が夫の居場所になった。ここにいれば、どこかにいる。そういう感じ」
義孝には、その感覚が少しだけ分かった。
あるいは、分かりたいと思った。
第三章 昨日への道
夜が深まった。
雨は激しくなり、時折、風が小屋全体を揺らした。義孝は二階の個室に荷物を運び込んだが、すぐには眠れなかった。寝袋の中で天井を見上げながら、明日の計画を考えていた。
天気次第では、もう一日ここに留まるべきかもしれない。しかし月曜には仕事がある。日曜に下りなければならない。とすれば明日、つまり日曜日の朝一番に出発して、午後には登山口へ戻る必要があった。
それで間に合うのか。
この雨が上がるのか。
スマートフォンを開く。電波は弱い。天気アプリが更新されない。
考え続けていると、一階から明かりが漏れてくるのに気づいた。時子がまだ起きているらしかった。
義孝は寝袋から出て、廊下へ出た。
階段を下りると、食堂の隅に小さなランプが灯っていて、その前に時子が座っていた。手元には、何かの書きもの。
「眠れませんか」と時子が言った。背中を向けたまま、振り向かずに。
「…はい。少し」
「そういう夜は、コーヒーは飲まない方がいいけれど、ミルクを温めましょうか」
「お構いなく」
「構いたいのよ」
時子はそう言って、厨房へ立った。義孝はランプの前の椅子に腰を下ろし、雨の音を聞いた。嵐は続いていた。
温かいミルクを受け取りながら、義孝は言った。
「昨日屋、という名前は、どういう意味ですか」
時子は向かいの椅子に座り、ゆっくりと微笑んだ。
「今日と昨日とを行き来しているから」
「は?」
「昨日に戻ることができるのよ、私。この小屋に来てから、そういうことができるようになった」
義孝は返事をしなかった。
聞き間違いかと思った。あるいは、比喩か何かか。
時子は続けた。
「昨日やり忘れたことを、今日やるんじゃなくて、昨日に戻ってやってくるのよ。そうすると、今日は最初から間に合ってる。快適でしょ」
「…それは、本当の話ですか」
「本当よ」
笑顔だった。しかし冗談を言っている顔ではなかった。
義孝はミルクを飲んだ。温かさが胃に落ちていく。
「どういう仕組みで」
「仕組みはわからない。目の前の空間が、ある日急に、割れたのよ。そこに昨日への道が見えた。最初は怖かったけど、飛び込んだら、戻れた。昨日に」
「なぜそんなことが」
「私が思うに、夫が死んだのと関係があると思う」
時子の声が、わずかに低くなった。
「夫が死んだのは、登山道での落石だった。突然のことで、どうにもならなかった。でも私は長いこと思ってた。もし昨日に戻れたなら、と。もし出発を一時間遅らせることができたなら、と。その気持ちがあまりに強すぎて、山がそれを許してくれたのかもしれない」
義孝はしばらく、何も言わなかった。
雨音が、続いた。
「それで、夫を」
「それは無理だった」時子は静かに首を振った。「昨日にしか戻れないの。夫が死んだのは十三年前。そこまでは届かない」
「そうですか」
「でも、この小屋に泊まる人たちは、守れることがある。昨日に戻って、足りないものを補って、間違いを正して。そうすれば今日が変わる」
義孝は、時子の目を見た。
嘘をついている目ではなかった。
「もしかして」と義孝は言った。「女将さんは今、俺を守るために、明日からここへ戻ってきた?」
時子は笑った。目が細くなった。
「そうかもね」
それだけ言って、答えなかった。
第四章 割れた空間
時子がこの力を手に入れたのは、十年前のことだった。
正確には、手に入れたのではない。気づいたのだ。あるいは、山から与えられたのだ。
その年の夏、昨日屋に十二人の団体客が泊まった。山岳サークルの仲間たちで、全員が経験豊かな登山者だった。夕食を共にし、翌朝の出発を送り出した。笑顔で手を振って。
その翌日、ニュースが入った。
稜線上で雷雨に遭い、落雷と強風で二名が転落。残る十名も滑落や岩に叩きつけられて重傷。全員が救助されたが、二名は意識不明の重体。
時子は茫然とした。
昨日まで、ここで笑っていた人たちが。
何かできたはずだ、という思いが、津波のように押し寄せた。天気は朝から不安定だった。自分も感じていた。なぜ引き止めなかったのか。なぜ、もう一日休んでいけと言わなかったのか。
そのとき、目の前の空気が裂けた。
比喩ではない。文字通り、空間が割れた。空気に亀裂が入るように、そこに暗い隙間ができて、その向こうに昨日の昨日屋が見えた。朝食の準備をしている自分が見えた。サークルの仲間たちが、まだ二階で眠っている、あの朝が。
時子は飛び込んだ。
気づいたとき、昨日の朝の昨日屋に立っていた。
そして彼女は、その十二人に言った。空が荒れる、今日は出ないで、と。
彼らは訝しんだ。天気予報は晴れだったから。しかし時子の言葉に、何か確信があった。説明のできない、しかし疑いようのない確信が。
十二人は一日、昨日屋に留まった。
その日、稜線では激しい雷雨があった。
翌日、彼らは無事に下山した。
それからだった。
時子は毎日、昨日へ戻るようになった。
何事もなくても戻る。戻って、今日の補いをする。準備が足りなければ補う。予報が変わっていれば確認する。そして今日へ帰ってくる。
それが習慣になった。
誰にも言わなかった。言えるはずがない。しかし、昨日屋に泊まった登山者たちの中で、ここを出発した後に事故に遭った者は、ほとんどいなかった。
ほとんど、というのは、時子にも手の届かないことがあったからだ。
昨日にしか戻れない。その制約は絶対だった。前日夜に泊まらずに朝から入山した者には、手が届かない。遠い山での事故には、届かない。K2で、ヒマラヤで、命を落とした者たちには、届かない。
昨日だけが、時子の領分だった。
義孝との会話の翌朝、時子は目を覚ます前から、もう動いていた。
昨日の自分として、目覚めていた。
窓の外に、雨の音がある。今日の嵐の前日、空が不穏な明るさを持っていたあの朝に、戻っていた。
彼女はすぐに山岳気象の詳細予報を調べた。スマートフォンではなく、昔から使っている専門の気象サービス。アマチュアでは気づかない細かい変数を、時子は長年の経験で読む。
見えてきた。
明日の朝、一時的に晴れ間が出る。しかしそれは罠だ。低気圧が想定より速く進んでいる。午前十一時頃から上空に湿った空気が流れ込み、午後一時には雷雲が発生する。稜線では午後二時から三時の間に、最大瞬間風速三十メートル超の突風が吹く。
それを知った上で、時子は義孝を迎える準備をした。
そして今日、あの夜の会話が終わったあと、もう一つのことを義孝に伝えなければならない。
彼が明日、山を目指すなら、どんな状況になるかを。
第五章 明日の話
夜の十一時過ぎ、雨が少し弱まった頃に、時子は再び義孝に声をかけた。
「もう少し、話していい?」
義孝は頷いた。眠れない夜は続いていた。
「あなた、明日、上を目指すつもりでしょ」
「…はい。日曜に下りないと、仕事があって」
「分かった」時子は椅子に座り直した。「ちゃんと言うね。明日の午前中は晴れる。でも午後から荒れる。それは今日と同じか、それ以上」
「天気予報は確認しましたが、午後から雨という話で」
「雨じゃない。嵐よ。稜線では突風が吹く。午後一時か二時頃に雷雲が来る。今年は気圧の谷の動きが速い。一般の天気予報は追いついていない」
義孝は黙って聞いた。
「あなたが今日ペースを上げられなかったのは知ってる。体の疲弊があった。それは明日も同じ。晴れた空に騙されて急ぐけれど、ペースは上がらない。稜線に出た頃に、ちょうど嵐が来る」
「なぜそんなに分かるんですか」
時子は答えなかった。少しの間、雨の音だけがあった。
「女将さんは、昨日から来たんですか。今日の、この時間に」
「…そうね」
「俺のために」
「あなたのために」
義孝はうつむいた。
「俺は…それほどの価値がある人間じゃないですよ。仕事も、人間関係も、ぐちゃぐちゃで。別れた女のことも引きずって、こんな状態で山に来て」
「価値は関係ない」
時子の声は静かだが、揺るぎがなかった。
「山に来た人は、みんな守りたい。それだけよ。理由はそれだけ」
義孝はしばらく、何も言えなかった。
目の奥が、熱くなった。
「明日、どうすればいいですか」
「正午前に、稜線には上がらないこと。ここから先へ行くなら、早朝に出発して、稜線に着くのは十時まで。そして、怪しいと思ったら、迷わず引き返す。それだけでいい」
「分かりました」
「それと、一つ確認させて。装備に雨具は?」
「ゴアテックスの上下が」
「手袋は?」
「薄手のが」
時子は眉を曇らせた。
「稜線でその手袋は、風が来たら意味がない。ここに夫のが残ってる。古いけど、厚くて丈夫。借りていって」
「そんな、いただけません」
「貸すだけよ。下山したら、麓の郵便局へ送り返してくれればいい」
義孝は頷いた。
「ありがとう、女将さん」
「ありがとうは、無事に帰ってから言って」
時子は立ち上がり、ランプを手にした。
「おやすみなさい。明日は早い。寝なさい」
「はい」
義孝も立ち上がった。
階段に足をかけたとき、時子が後ろから言った。
「あなた、いい山の体をしてる。疲れてるだけよ。ちゃんと休んだら、きっとまた歩ける」
義孝は振り返らなかった。
「…ありがとうございます」
今度だけは、今言ってしまった。
第六章 晴れた朝の罠
翌朝、五時に目が覚めた。
窓の外が、明るかった。
昨夜の嵐が嘘のように、空は澄み渡っていた。稜線の雪が朝日を受けて輝いている。白と金と青。北アルプスの朝の、最も美しい顔だった。
義孝は深呼吸をして、ゆっくりと荷物をまとめた。
時子の言葉が頭の中にある。
稜線に着くのは十時まで。怪しいと思ったら引き返す。
分かっている。分かっているが、この空を見ると、脚が前へ行きたがる。山者の本能として、晴れた空は「行け」と言う。
六時に出発した。
朝食を簡単に済ませ、時子に礼を言い、夫の手袋をザックの取り出しやすい場所に収めて、昨日屋の引き戸を開けた。
「気をつけて」
「はい」
「引き返す勇気も、山の技術よ」
「わかってます」
振り返ると、時子が引き戸の前に立って、小さく手を振っていた。白い割烹着が、朝の光の中で光っていた。
樹林帯を抜けるまでは順調だった。
体が昨日より動く。よく眠れたからか、あるいはあの会話が何かをほぐしたからか。足の置き場が自然に見え、呼吸が整っている。
八時半に森林限界を越えた。
視界が開ける。稜線が見える。残雪が続いている。
風が出た。
最初は微風だった。顔に当たって心地よいほどだった。しかし歩くにつれ、徐々に風の質が変わってきた。湿っている。冷たい。そして断続的ではなく、持続的になってきた。
義孝はスマートフォンを取り出した。電波が入った。天気アプリを確認する。
変化していた。
「午前中晴れ、午後雨」が、「午前十時以降、強風の可能性」に変わっていた。
時刻は九時十分。
稜線まで、まだ一時間はかかる。
義孝は足を止めた。
岩の上に座り、風の音を聞いた。頭上の空を見上げた。青かった。雲は少なかった。しかし東の方、まだ見えない空の向こうから、何かが来ている気がした。
臭い、と義孝は思った。
山の熟練者は、天気の変化を嗅ぐことがある。気圧の変化が皮膚に触れる感覚。湿度の上昇が鼻孔に引っかかる感触。それが今、確かにあった。
引き返すか、進むか。
昨日の時子の言葉が、耳の奥で繰り返した。
「正午前に稜線には上がらないこと。怪しいと思ったら、迷わず引き返す」
義孝は立ち上がった。
ザックの腰ベルトを締め直した。
そして、引き返す方向を向いた。
第七章 嵐、来たる
下り始めて三十分後に、嵐が来た。
まず音だった。
稜線の向こうから、唸るような音が近づいてきた。風の音ではなく、風の塊が大気を押しつぶしながら移動する音。それが増大し、増大し、やがて突風として義孝の体を横からなぎ倒した。
「っ!」
義孝はとっさに岩に手をついた。体重が四十キロのザックを背負っているため、横風に対して著しく不安定だ。岩を掴み、身体を低くし、突風が通り過ぎるのを待つ。
三秒。
五秒。
風がわずかに緩んだ隙に、また下り始めた。
雨が降り始めた。
最初は細かい霧雨だった。しかし急速に粒が大きくなり、横向きに叩きつけてきた。ゴアテックスの雨具を着込んだが、顔は守れない。雨が目に入り、前が見えにくくなる。
岩稜帯だった。
足元は大小の岩が積み重なっており、雨に濡れて滑る。一歩一歩、体重を乗せる前に確認する。急ぐと転ぶ。転べば、この斜面では止まらない。
時子の手袋を思い出した。
ザックのサイドポケットから取り出し、装着した。夫の残した厚手の手袋。革製で、岩の感触を手のひらに伝えながら、確実に手を守ってくれた。義孝は岩に手をつきながら、一歩ずつ下りた。
十分後に、雷が鳴った。
低く、腹に響く雷鳴。
義孝は足を速めた。稜線にいなくて正解だった。あの場所に今いたとすれば、逃げ場がなかった。岩の上に立ちつくす以外に選択肢がなかった。
三十分かけて森林限界を下った。
樹林帯に入ると、風が緩んだ。木々が壁になってくれる。雨は続いているが、突風の恐怖からは解放された。
義孝は大きく息を吐いた。
足が震えていた。恐怖ではなく、緊張の解放だ。膝が笑っている。
木の根元に座り込んで、水筒の水を飲んだ。
生きている、と思った。
引き返した、だから生きている。
昨日屋に戻ったのは、午前十一時過ぎだった。
引き戸を開けると、時子がすぐに出てきた。
「無事だった」
義孝の顔を見て、そう言った。問いかけではなかった。確認でもなかった。ただ、事実として言った。
「おかげさまで」
「濡れてる。着替えて。着替えがなければ、夫のを貸す」
「大丈夫です。替えがあるので」
「ストーブをつけるから、乾かして。お茶を淹れる」
義孝は靴を脱ぎながら、「女将さん」と言った。
「ん?」
「あなたの言う通りでした。十時前に嵐が来た。稜線にいたら、まずかった」
時子は頷いた。
「引き返せた」
「引き返せました」
「それでいい」
それだけ言って、時子は厨房へ消えた。
義孝は土間に立って、しばらく嵐の音を聞いた。屋根を叩く雨が、昨日よりも激しかった。
ここは安全だ、と思った。
この小屋は、人を守るために建てられている。
第八章 昨日からの声
昨日屋に二泊することになった。
嵐は午後になっても収まらず、下山は翌朝に持ち越しとなった。仕事のことは、携帯が通じた隙に上司に連絡した。事情を話すと、「山は命優先」と短く返ってきた。義孝の職場は、少なくとも上司だけは、そういう人だった。
午後は小屋の中で過ごした。
時子が古い棚から本を持ってきてくれた。山の記録集と、植物図鑑と、薄い詩集。義孝は詩集を手に取り、北アルプスの四季を詠んだ短い詩たちを読んだ。
窓の外で嵐が唸っている。
しかし、小屋の中は穏やかだった。
ストーブが赤く燃えていた。時子がミルクティーを淹れてくれた。クマやシカについての話をした。去年、昨日屋の近くでクマの親子を見た話。义孝が昔、友人と白馬に行ったときにライチョウを見た話。
会話は続いた。
こんなに長く話したのは、いつ以来だろうと義孝は思った。別れた恋人とは、最後の一年はほとんど話さなくなっていた。職場では必要な言葉しか交わさなかった。
話すことは、呼吸に似ている。
吸うだけでも、吐くだけでも、死ぬ。
夕食の後、時子が義孝に言った。
「一つ、見てもらえる?」
「何を」
「昨日からの記録よ」
時子は棚の奥から、古いノートを取り出した。表紙には日付が書かれていた。最初のものは十年前だった。
「毎日、昨日に戻るたびに、何を確認して、何を補ったか、書いてる。誰にも見せたことない。でも、あなたには見せてもいい気がして」
義孝はノートを受け取った。
ページを開く。
びっしりと、細かい文字が並んでいた。
「昨日。六月十四日。四人組の若者たち。翌日の天気が読めなかった様子。気象図を見せて出発を一日延ばしてもらう。一人が靴の補修を忘れていた。テープを貸す」
「昨日。七月三日。単独の女性。地図を見る目が怪しかった。一緒に地図を確認する。ルートの間違いを二つ見つける。ガスが一本足りなかった。予備を貸す」
「昨日。八月二十日。夫の命日。この日は毎年、昨日には戻らない。今日だけを生きる日として」
義孝は読みながら、ゆっくりとページをめくった。
十年分の昨日が、そこにあった。
何百人もの人が、知らぬ間にこの小屋に守られていた。
「すごい」と義孝は言った。
「別に」と時子は言った。「やれることをやってるだけ。誰だって、昨日に戻れたら、やることはある。私はたまたまそれができるだけ」
「でも、あなたが昨日に戻るたびに、昨日の自分はどうなるんですか」
「私が乗り移るの。今日の知識を持ったまま、昨日の体に」
「それは…疲れませんか」
時子は少し考えた。
「慣れたわ。あと、昨日へ行くと、夫がまだ生きていた頃の空気がする。山の、あの空気が。それが嬉しくて、また行くのかもしれない」
義孝は、ノートを閉じた。
「ありがとう、見せてくれて」
「ナイショね」と時子は言って、笑った。
第九章 夢の中の女将
夢は現実の裏側だ。
あるいは、
現実が夢の裏側かもしれない。
その境は、
眠りの縁に立ったときだけ、
溶けてなくなる。
深夜、義孝は夢を見た。
夢の中で、彼は山小屋の引き戸を開けていた。昨日屋だった。しかし微妙に違った。もっと古く、もっと暗く、もっと山の奥深くにあるような気がした。
女将が、コーヒーを淹れていた。
しかしその女将は、今日の時子ではなかった。
もっと若い、三十代か四十代の、まだ夫のいた頃の時子だった。
「いらっしゃい」と、その時子が言った。
「ここは?」と義孝は聞いた。
「昨日よ」と時子は言った。「十年前の昨日」
「なぜ俺がここに」
「あなたが呼んだのよ。夢の中で、昨日を見たかったから」
義孝は椅子に座った。コーヒーが出た。現実の味がした。
「夫は、どこにいますか」
時子の表情が、柔らかくなった。
「今日は山に行ってる。天気がいい日だったから」
「そうですか」
「毎日ここへ来て、呼びかければ、声が届くかもしれない。でもそれをしたら、私はここから出られなくなる。だからしない」
「それは…つらい選択ですね」
「つらくない。夫はもう、山そのものになってる。ここで生きている。私がここにいれば、一緒にいるのと同じ」
義孝はコーヒーを飲んだ。
夢の中のコーヒーは、なぜか現実より深い味がした。
「俺も、何か失いましたよ。人とのつながりを。少しずつ」
「知ってる」
「知ってるんですか」
「あなたの今日を見てたから、昨日から」
義孝はしばらく、何も言わなかった。
「女将さんは、俺に何を伝えたかったんですか。この三ヶ月のことを、山を通して」
時子は立って、窓の外を見た。
夢の中の窓の外に、青い空があった。
「引き返すことと、諦めることは違う。あなたはずっと、その二つを混同してた」
義孝の胸に、何かが刺さった。
「引き返すのは、また来るためよ。諦めるのは、もう来ないこと。山でも、人でも、仕事でも」
「俺は…引き返してたんですか。諦めてたんじゃなく」
「あなたに聞いてるのよ」
義孝は目を閉じた。
女と別れたとき、引き返したのか諦めたのか。
仕事を続けているのは、引き返しているのか、ただ惰性なのか。
山に来たのは、逃げたのか、それとも何かへ向かったのか。
分からなかった。
しかし、今日、稜線から引き返したことだけは、分かった。
あれは引き返したのだ。諦めたのではない。また来るための、引き返しだった。
夢の中で、目が開いた。
第十章 翌朝の光
月曜の朝は、完璧に晴れた。
嵐の後の空というのは、これほど澄むのかと義孝は思った。稜線の雪が、宝石のように白く輝いていた。空の青が、海よりも深かった。
六時に昨日屋を出る準備をした。
時子は朝早くから起きて、おにぎりを三つ作ってくれた。
「昼飯よ。自家製の梅干しが入ってる」
「ありがとうございます」
「今日は大丈夫。天気は持つ。ゆっくり下りなさい」
「はい」
义孝はザックを背負い、手袋の在処を確認した。夫の手袋は、ちゃんとサイドポケットにある。
「これ、下山したら送り返します」
「ええ。住所を書いたメモを入れておいた」
「あの」
「ん?」
「夢を見ました。昨日の女将さんの夢を」
時子は表情を変えなかった。ただ、目だけが少し細くなった。
「そう」
「俺に、言いたいことがありましたよね。昨日に戻って、伝えたかったこと」
「…何を聞いたの」
「引き返すことと諦めることは違う、と」
時子は頷いた。
「夢の中の女将さんが言いました。でも、あれは俺自身が言ったことなのかもしれない、とも思います」
「どちらでもいい。届いたんでしょ」
「届きました」
引き戸の前で、義孝は深くお辞儀をした。
「お世話になりました。また来ます」
「待ってる」
時子の声は、穏やかだった。
義孝は歩き始めた。
振り返らなかった。
振り返らなくても、女将がそこに立っていることが分かった。白い割烹着で、小さく手を振っている。そういう確信があった。
下山道は、昨日より歩きやすかった。
嵐で地面が締まり、滑りにくくなっていた。空気が洗われて、遠くまで見える。
歩きながら、義孝は考えた。
東京に帰ったら、何をするか。
仕事を辞めることは考えない。ただ、もう少し正直に働く。自分が面白いと思う本を、ちゃんと面白いと言う。会議で黙らない。
別れた恋人のことは、もう引き返さない。そこは諦めていい。しかし、また誰かと向き合うことは、諦めない。
体を整える。定期的に山に来る。山は逃げないが、体は逃げる。
それだけで、十分な気がした。
大きな転換ではなかった。ドラマティックな決意でもなかった。ただ、少しずつ、引き返してきた道を、また歩き始める、そういう感覚だった。
午後一時過ぎ、登山口に着いた。
バスを待ちながら、義孝はスマートフォンを開いた。天気アプリは「晴れ」を表示していた。
上司に「下山しました」と連絡した。
すぐに「お疲れ。明日、話したいことがある。案件の相談」と返ってきた。
義孝は、今度は「分かりました」と打った。
それだけでよかった。
第十一章 手袋の郵便
東京に帰った翌週、義孝は郵便局へ行った。
夫の手袋を、丁寧に畳んで、エアパッキンに包んで、箱に入れた。宛名は、時子のメモ通りに書いた。
「島田時子様。昨日屋。長野県〇〇郡〇〇村——」
送る前に、一枚の便箋を添えた。
女将さんへ
無事に下山しました。手袋のお陰で、岩場も安全に歩けました。夫さんの手袋は、現役のままでした。
山を下りてから一週間経ちました。今日、初めて「また来ます」という言葉が本当だと思えました。稜線には、まだ行けていません。でも、いつか行きます。そのときも、昨日屋に泊まります。
夢の中の女将さんに礼を言うのは変かもしれませんが、あの言葉を、ありがとうございました。引き返すことと諦めることは違う。忘れません。
東京で少しずつ、また歩いています。
赤坂義孝
封をして、郵便局の窓口に差し出した。
職員が重さを計り、料金を告げた。義孝は財布から小銭を取り出しながら、山の空気を思い出した。あの朝の青。嵐の音。コーヒーの匂い。
「お次の方どうぞ」
現実が戻ってきた。
義孝は郵便局を出て、曇りの東京の空を見上げた。
山の空に比べれば、薄くて、低くて、汚れている。
しかしそれが、自分の空だった。今、生きている場所の空だった。
義孝は電車に乗り、会社へ向かった。
デスクに着いたとき、上司から声がかかった。
「帰ってきたか。例の山の本の話なんだが」
「山の本ですか」
「ああ。山岳小説の新シリーズ。担当してみるか。お前、山好きだろ」
義孝は少しの間、黙った。
「やります」
「そうか。詳しくは明日。今日はゆっくりしろ」
短い会話だった。
しかし義孝には、何かが始まった感触があった。
まだ形のない、しかし確かに在る、何かが。
終章 昨日のあなたへ
目が覚めた。
赤坂義孝は、天井を見ていた。
自分のアパートの、白い天井。東京の、普通の朝。
夢だったのか。
全部が夢だったのか。
それとも、夢の中に真実があったのか。
しばらく
記憶に残らない夢ばかりだったけれど
ここ数日はまた
不思議な夢から生還している
義孝は寝袋の中で、体を確認した。
風邪の症状が、まだ残っていた。鼻がつまり、頭がわずかに重い。
今日、単独で山に行こうとしていた。
北アルプス。もう計画は立てていた。新宿からのバスのチケットも取っていた。
しかし、この体で行くべきか。
夢の中の女将が、言っていた。
「引き返す勇気も、山の技術よ」
夢の女将だけが言ったのではない。
どこかで本当に聞いた気がする、その言葉を。
義孝はスマートフォンを取り出して、バスの予約キャンセルのページを開いた。
指が、少しだけ躊躇した。
しかし、押した。
キャンセル完了の通知が来た。
義孝は起き上がり、窓を開けた。
東京の空が、灰色だった。
曇っている。雨が来るかもしれない。
それでいい、と思った。
山は逃げない。体が治れば、また行ける。次は晴れた日に、体調が整った日に、きちんと行く。稜線まで行く。
引き返したのだ。諦めたのではない。
コーヒーを淹れた。
インスタントだったが、丁寧に作った。お湯の温度を少し冷ましてから、ゆっくり注いだ。カップから湯気が上がって、コーヒーの匂いが部屋に広がった。
その匂いの中に、山の空気があった。
針葉樹の香りと、岩の冷たさと、雨の後の空気と。
あるいは、夢の小屋の匂いが、まだ体の中に残っているのかもしれなかった。
昨日に戻れるとしたら、
何をするだろう。
義孝はコーヒーを飲みながら、そう考えた。
昨日の自分に伝えるとしたら、何を言うだろう。
バスのチケットを取らないで、と言うだろうか。
それとも、それでもいい、と言うだろうか。
山に行こうとして、風邪を理由に延期する、その判断の前夜の自分に。
たぶん、何も言わないだろう、と思った。
昨日の自分はすでに、正しい方向を向いていた。
風邪をひいていることに気づいていた。天気が不安定なことも知っていた。体が重いことも分かっていた。
ただ、まだ決断できていなかっただけで。
その決断を、夢の女将が後押ししてくれた。
あるいは、夢の自分が後押ししてくれた。
人はいつも、
昨日の自分から
何かを受け取っている。
昨日の選択が、
今日の足元を作る。
昨日の勇気が、
今日の引き返しを可能にする。
義孝はカップを置いた。
布団を整え、薬を飲み、もう一度横になった。
今日は休む。
完全に、休む。
それが今日の仕事だった。
目を閉じる前に、思った。
昨日屋という名前の小屋は、本当にあるのだろうか。
北アルプスのどこかに、そういう女将が、本当にいるのだろうか。
分からなかった。
しかし、もし行くならば、その小屋を探してみようと思った。
標高二千三百メートル。樹林限界のあたり。手書きの看板。
コーヒーの匂いがする、引き戸の重い小屋。
来年の夏、
また来ます。
そのときは、
稜線まで。
そう思いながら、義孝は眠りに落ちた。
今度の夢が、どんな夢か、まだ分からない。
しかし、夢は来る。
昨日からも、今日からも、明日からも。
夢はいつも、時間を超えてやってくる。
〜エピローグ〜
この物語は、風邪で寝込んだある晩の夢から生まれました。
北アルプスの山小屋、昨日と今日の間を行き来する女将、そして風邪で山行を延期した詩の語り手。それらの断片が、一つの小説として繋がったとき、「引き返すことと諦めることは違う」という言葉が、自然と浮かんできました。
山は正直です。体の疲弊も、心の迷いも、そのまま返してきます。しかしそれは、山が冷たいのではなく、嘘をつかないからだと思います。
女将の島田時子のような存在が、この世界のどこかにいるかもしれない。昨日に戻って、静かに、誰かを守っている人が。そういう想像は、山への信頼に似ています。
読んでくださった方が、引き返すことを恐れなくなりますように。そして、また登り始めることを、忘れませんように。
ー了ー
〜あとがき〜
最後まで読んでくださり、
ありがとうございました。
この物語を書きながら、
私は何度も「昨日」という時間について考えました。
人は昨日をやり直すことはできません。
けれど、
昨日の経験によって、
今日の選択を変えることはできます。
それは、
ある意味では「昨日から助けられている」
ということなのかもしれません。
主人公の義孝は、
山へ行くことをやめました。
しかし彼は、
山を諦めたわけではありません。
ただ、
「今ではない」という判断をした。
それだけです。
けれど人生には、
その判断がとても大切な瞬間があります。
無理をしないこと。
立ち止まること。
休むこと。
引き返すこと。
それらは敗北ではなく、
「また来るための選択」なのだと思います。
女将の時子は、
昨日へ戻る力を持っています。
けれど本当は、
私たちも毎日、
昨日から何かを受け取っています。
昨日の失敗。
昨日の後悔。
昨日の優しさ。
昨日の勇気。
それらが今日の私たちを、
少しずつ作っている。
そんな気がしています。
もしこの物語が、
誰かの「今日は休もう」
という決断を肯定できたなら、
作者としてこれ以上嬉しいことはありません。
またどこかの山の物語で、
お会いできますことを願っています。
〜おまけ〜
これは以前
ブログで書いたものを
物語に膨らましたものです
それをここに載せて置きます
昨日のあなたへ
その宿の女将さんは
今日と昨日とを行き来していると
微笑んで コーヒーを淹れてくれた
昨日
やり忘れたことを
今日
やるのではなく
昨日に戻ってやって来ると
すれば
今日は最初から間に合っているから
快適に変わると…
宿泊している僕には
何のことか分からないが
どうやら
そういうことが出来るようだ
ここは? と思えば
山小屋だ
北アルプスだ
あなたは大丈夫かしら?
そう微笑んだけれど
もしもこの先
山奥へと入るならば
前日には
必ずここに
泊まってからにしてねと呟いた
えっ? と尋ねると
私ね
あなたたちを救いたいのよ
僕たちを?
そう
昨日に戻って
そっとアドバイスするの
すると
遭難せずに戻って来れるのよ
はっ?
わずかな装備不足や
間違ったルート
急変する天気
それから
落石 雪崩 豪雨 落雷 突風
熊 …
予知出来ないことに
巻き込まれることばかり
でもそれを
昨日に戻って伝えられたら
間に合うでしょ!
えぇ
でもそれは
いつから?
そうねえ
ここに来て数年した頃
初めての団体さんを受け入れて
その方々と
楽しく過ごした翌日
その方々
全員の事故を知った直後
突然
目の前の空間が割れて
昨日に戻る道が現れたのよ
ならばと
必死でそこへ飛び込んだら
間に合ってね
それから
毎日 何事もなくても
昨日へ戻って
今日 足りない部分を
補ってくるのよ
はあ?
それは
本当ですか?
そうよ
でもそれは
ナイショね!
ではもしかして
この夏
K2での彼らを救うことも
出来るのですか?
残念ながら
それは無理
だって
昨日にしか戻れないから
そう
一昨日には
もちろん
その先には戻れないの
そうですか
残念です
もしかして女将さん
今
僕を救う為に
明日からここへ戻って来た?
女将さんは
そうかもね? と
にっこり微笑んだ
そうかあ
確かに
明日の天気で悩んでいた
ありがとう! と伝えながら
そこで目が覚めた
しばらく
記憶に残らない夢ばかりだったけれど
ここ数日はまた
不思議な夢から生還している
さて
本日
単独で
出掛けようとしていた山行
今まだ風邪は治らず
残念ながら
延期とした…


