見えない力 

〜銀河系道先案内人、地球に迷い込む〜

宇宙規模のドタバタ哲学SF
著:見えない何者か


〜まえがき〜

人は、自分の人生を「自分で選んでいる」と思って生きています。

朝、どの道を歩くか。
どの電車に乗るか。
どの店に入るか。
誰に声をかけるか。

けれど、ときどき不思議に思うことがあります。

なぜあの日、あのタイミングで立ち止まったのか。
なぜあの人と出会ったのか。
なぜ、もう少しで避けられたはずの出来事が、なぜか起きたのか。

そして逆に、
「偶然」としか思えないことに救われた経験も、誰しも一度くらいはあるのではないでしょうか。

遅刻したおかげで事故を避けた。
たまたま入った店で人生を変える本に出会った。
何気なく話しかけた相手が、長い付き合いになった。

私たちはそれを、
運命と呼んだり、
運と呼んだり、
縁と呼んだりします。

この物語は、そんな「見えない流れ」の話です。

もし宇宙のどこかに、
人間たちの小さな偶然を、
こっそり調整している案内人がいたら。

黄色信号で止まるかどうか。
カラスがどちらへ飛ぶか。
スーパーのもやしがどこに置かれるか。

そんな取るに足らないことが、
実は誰かの人生を少しだけ変えているのだとしたら。

本作は、宇宙規模の話をしながら、
結局のところ「人間って面白いな」という一点に辿り着く物語です。

大きな悪も、
世界を救う英雄も、
壮絶な戦争も出てきません。

あるのは、
少し不器用な宇宙人と、
迷いながら暮らしている普通の人々の日常だけです。

けれど私は、
世界を本当に動かしているのは、
そういう「小さな選択」の積み重ねなのではないかと思っています。

右へ行くか、左へ行くか。
謝るか、逃げるか。
立ち止まるか、進むか。

その一つ一つが、
見えないどこかで、
誰かの未来につながっている。

そんなことを想像しながら、
この物語を書きました。

もし読み終えたあと、
交差点で少し空を見上げたくなったなら。
コンビニのおにぎりを少し丁寧に開けたくなったなら。
あるいは、
最近うまくいかなかった出来事を「これも流れかもしれない」と少しだけ笑えたなら。

きっとゾーグも、
成層圏のどこかで四つの目を細めて喜んでいます。

どうぞ肩の力を抜いて、
宇宙の片隅のドタバタを、
ゆっくりお楽しみください。




プロローグ
銀河の交差点にて

宇宙の果て、といっても宇宙に果てなどないのだが、とにかく地球からずいぶん遠いところに、「銀河系道先案内局」という組織がある。

その名の通り、宇宙のあらゆる場所において「流れ」を整え、「運」を適切に配分し、「見えない力」を管理する機関だ。

全宇宙の出来事が偶然に見えて実は精妙に調整されていること——たとえば、ある人間が黄色信号で止まったせいで隣の車線の見知らぬ女性と目が合い、それが縁で結婚し、その子供が将来ノーベル賞を取る——そういった一見どうでもよい出来事の連鎖を、この局が密かに管理しているのである。

局員は全宇宙に七万三千四百十二名。

その中で、地球担当は現在のところ一名だけだ。

名前はゾーグ・アルファ・ムニュムニュ第七世。

身長二百三センチ。全身うっすら緑。目が四つ。耳は六つあるが、そのうち機能しているのは三つだけ(残りは飾りだと本人は言う)。

そして今日、このゾーグが重大なミスを犯した。

地球の「流れ管理システム」に、バグを混入させてしまったのである。


第一章
バグは黄色信号から始まった

午前九時十四分。大阪市内某所。

田中六郎(六十一歳、無職、元営業部長、趣味は俳句と競馬)は、自転車に乗って近所のスーパーへ向かっていた。

黄色信号。

六郎は迷った。

渡るか、止まるか。

——いや、渡れるな。

ペダルを踏み込もうとしたその瞬間、どこからともなくカラスが一羽飛んできて、六郎の顔面に向かって急降下した。

「うわあっ!」

六郎は急ブレーキ。危うく転倒。信号は赤に変わった。

これが発端だった。

この瞬間、ゾーグの管理端末では警告音が鳴り響いていた。

ゾーグの「仕事場」は地球の成層圏、高度一万二千メートル付近に浮かぶ、外から見ると雲にしか見えない楕円形の船の中にある。

端末には「田中六郎・本日の運勢フロー図」が表示されており、黄色信号での選択が、その後の流れを大きく左右するはずだった。

「あー……」

ゾーグは六つある耳のうち三つを折り畳み、残る三つでも聞きたくないというジェスチャーをしながら、端末を眺めた。

本来の予定では、六郎は黄色信号で止まる。そして信号待ちの間に隣に並んだ老婦人と天気の話をする。老婦人は実は元大学教授で、六郎の息子と同じ分野の研究者で……という五十七段階の「流れ」が設定されていたのだ。

しかし今、六郎は信号で止まったものの、カラスに驚いた拍子に老婦人の自転車に体当たりし、老婦人を転倒させ、謝罪どころか逃走を試みていた。

「なぜ逃げる!」

ゾーグは思わず日本語で叫んだ。三年間、日本語を習得したのはそのためではない。

端末の警告が次々と連鎖する。

六郎の「流れ」が狂うと、老婦人の「流れ」も狂う。老婦人の流れが狂うと、老婦人が午後に予定していた孫への電話が遅れ、その孫が暇を持て余して公園に行き、公園で見知らぬ少年と喧嘩し——

ゾーグは計算した。

このままいくと、三十七日後に埼玉県で謎の「全員が互いに怒っている」状態が発生する。

「やばい」

ゾーグは立ち上がった。六本の足がもつれた。四つの目が全部点滅した。

地球に降りるしかない。


第二章
宇宙人、スーパーに立つ

変装には自信があった。

ゾーグは全局員の中でも「人型生命体への擬態」で三年連続最優秀賞を取っている。木星人に扮して木星の嵐の中で現地調査をしたこともある。火星のテラフォーミング計画会議に「火星人のふり」で参加したこともある(火星人はいなかったが)。

しかし地球人への擬態は、今回が初めてだった。

ゾーグは端末に向かい、「日本人男性、六十代、カジュアル」と検索した。出てきた画像を参考に、皮膚の色を調整し、目を四つから二つに減らし、身長を縮め——

「……縮み方が足りなかったな」

百九十センチ。まあいい。

耳は六つのうち二つだけを耳っぽい場所に残し、残りは体内に収納した。しかし収納しきれなかった一つが首の後ろに半分だけ出ており、これは後ほど問題になる。

服装は、端末の参考画像に「ベージュのウィンドブレーカー、グレーのズボン、白のスニーカー」とあったので忠実に再現した。ただし微妙に素材感が違う。触ると少し温かい。

船を大阪市内の某ビルの屋上に一時停泊させ、ゾーグは地球に降り立った。

午前十時二分。

田中六郎は今、逃げた先のスーパーの中にいる。

スーパーの中は混沌としていた。

月曜の午前中、主婦たちと高齢者たちが、特売の豆腐コーナーで小さな静かな争いを繰り広げている。

ゾーグはその光景を眺めながら、地球人とはなんと複雑な生き物かと思った。銀河系で最も平和的な種族であるはずの地球人が、絹ごし豆腐一丁のために互いをじわじわ押しのけている。

「流れが乱れている……」

ゾーグは呟いた。

隣にいた七十代の女性が振り向いた。

「え?なんですか?」

「い、いえ。なんでもありません」

「ねえあなた、百九十センチもあって、この棚の一番上のもやし取ってもらえる?届かなくて」

「は、はい」

ゾーグは棚の上のもやしを取った。それが六袋同時に取れてしまい、床にばらまいた。

「ごめんなさい!」

「あら、いいのよ、助かったわ。あなた、耳が首のとこについてるわね」

「え」

「ファッションかしら、今どきの」

「……そうです。流行りです」

「へえ」

女性はもやしを一袋持って去っていった。

ゾーグはほっとして六郎を探した。

六郎は、精肉コーナーの前で固まっていた。

目の前に、先ほど転倒させた老婦人がいたのである。

「あの……」と六郎は言いかけた。

老婦人の名前は森山ヒサ子、七十四歳。転んだ膝をさすりながら、六郎を見上げた。その目は穏やかだった。

「あなた、さっきの人ね」

「す、すみませんでした!本当に!カラスが……」

「ああ、カラスね。あそこのカラス、いつも飛んでくるのよ。私も何度かやられたわ」

「え」

「大丈夫よ、転んだくらい。足腰は丈夫なの。で、逃げたのはなぜ?」

「…………」

「まあいいわ。謝りに来たのならそれでいい。許します」

六郎は呆然とした。こんなにあっさり許されるとは思っていなかった。

その瞬間、ゾーグの端末が鳴った。

〈流れの修復:部分完了〉

ゾーグは精肉コーナーの入口に立ち、こっそり確認した。

よし。六郎とヒサ子が会話を始めた。これは本来の流れに近い。若干手順が違うが、結果として「出会い」は発生している。

ゾーグは安堵した。

——が。

次の瞬間。

ゾーグはスーパーの床が濡れているのに気づかず、滑った。

百九十センチの体が盛大にすっ転んだ。

その音で、六郎もヒサ子も振り返った。

「だ、大丈夫ですか!?」と六郎。

「…………大丈夫です」

ゾーグは四つある目のうち二つを必死に人間っぽく保ちながら、よろよろ立ち上がった。

首の後ろの耳が、衝撃でまた半分ほど飛び出していた。


第三章
救世主、昼食をとる

ゾーグは六郎とヒサ子に介抱されるという、まったく予期せぬ事態になった。

「大丈夫?座る?こっち来なさい」とヒサ子。

「い、いえ、本当に大丈夫——」

「座りなさい」

有無を言わさぬ口調だった。ゾーグは銀河系道先案内局の主任研究員であり、宇宙歴では三百五十二歳だったが、この七十四歳の地球人女性には逆らえないと本能的に悟った。

スーパーのイートインコーナーへ連れて行かれ、三人はテーブルを囲んだ。

「あなた、どこから来たの?」とヒサ子。

「……遠いところから」

「一人暮らし?」

「まあ、そうですね」

「ご飯、ちゃんと食べてる?」

「食べています。ただ地球の食べ物はまだ——」

「地球の?」

「……外国の料理は慣れなくて、という意味です」

「どこの外国?」

「……はるかかなた」

六郎が口を挟んだ。「あんた、日本語うまいな」

「ありがとうございます。三年間、衛星経由で学習しました」

「衛星?」

「…………テレビです」

ヒサ子はどこからともなくおにぎりを二個取り出し、ゾーグに差し出した。

「食べなさい。コンビニで買ったやつだけど」

「あ、ありがとうございます」

ゾーグはおにぎりを受け取った。

問題は、食べ方がわからないことだった。

見た目はわかる。端末の資料で見た。三角形の食べ物で、海苔が巻いてある。しかしこれは「フィルムを剥がして食べる」という工程があることを、ゾーグは知らなかった。

「どうぞ」とヒサ子。

「はい」

ゾーグはおにぎりをフィルムごとかじった。

ガサッ。

「…………フィルム、剥がさなくていいの?」とヒサ子、穏やかに。

「あ。そうか。そうですね」

六郎が吹き出しそうになるのをこらえていた。

なんとかフィルムを剥がし、ゾーグはおにぎりを食べた。鮭だった。

地球の食べ物は、宇宙広しといえどもかなり上位に入る美味しさだとゾーグは思った。いや、ひょっとしたら一位かもしれない。惑星グラーツの発酵食品は有名だが、あれは匂いで気絶しそうになる。

「美味しい」

思わず四つ目で言ってしまった。

「え?」と六郎。

「いや、美味しい、と言いました」

「あんた……目、今、光らなかった?」

「気のせいです」


昼食(というには早い時間だが)を終え、三人は不思議な居心地のよさの中にいた。

六郎はヒサ子に謝罪でき、心が軽くなっていた。

ヒサ子は転んだことよりも、この奇妙な長身の男の正体が気になっていた。

ゾーグは流れの修復状況を確認したかったが、ヒサ子の「もう一個食べなさい」という圧力に負け、ツナマヨのおにぎりを受け取っていた。

ゾーグの端末では、六郎とヒサ子の接続が修復されたことを告げる通知が来ていた。しかし同時に、別の場所で新たなバグが発生したことも告げていた。

〈警告:第7区画・吉田家・本日の流れ、逸脱中〉

「…………」

ゾーグは心の中でため息をついた。全身のどこかに息をつく器官があればの話だが。

地球の「流れ管理」は、思ったより複雑だった。


第四章
吉田家の壁

吉田健一、四十二歳、IT企業勤務。

今朝から会社に出社できずにいた。

理由は単純で、玄関の鍵が壊れたのだ。

正確には、鍵は開くのだが、ドアの建て付けが悪くなって開かない。業者を呼んだが、今日は「急ぎの案件」でいっぱいで来られないという。

「壁か……」

健一は玄関を眺めながら言った。

ゾーグの設計では、健一は今日の午前中に会社に行き、同僚の田村さんに偶然廊下で会い、田村さんが持っていた資料を見て、自分のアイデアとの接点に気づき、共同プロジェクトを提案する——という流れになっていた。

しかし健一はドアの前でぼーっとしている。

ゾーグは急いで吉田宅付近に向かった。

と言っても徒歩では無理なので、局の小型移動装置(外見はほぼ電動キックボード)を使った。

大阪の道は複雑だった。

ゾーグは三回曲がり間違え、一回一方通行に入り、一回公園の中を走り、ようやく吉田家のマンションの前に到着した。

どうする。

ドアを直すには工具が必要だ。工具はない。しかし業者を呼ぶ権限はゾーグにはない。

ゾーグは考えた。

——「流れ」というのは、突き進むことではない。ぶつかる前に道を変える。

それはゾーグが三百五十二年かけて学んだ、宇宙の原則だ。

では、健一はドアから出る必要があるのか?

改めて流れを確認した。

健一が会社に行く必要があるのは「田村さんに会うため」だが、田村さんが今日の午後に有給を取ることを、ゾーグは管理データで知っていた。

つまり、健一が午前中に会社に行っても、田村さんはもういない。

ではドアが壊れているのは——

むしろ必然だったのでは?

ゾーグは計算した。

健一がドアを開けようとして格闘しているうちに、隣の部屋の住人・山本さんが「うるさい」と出てくる。山本さんは元大工。ドアを直してくれる。そのお礼に健一は夕食に誘う。山本さんの娘が健一と同じ会社で働いていることが判明する。山本さんの娘は田村さんと同期だ。

三十一段階後に接続が完成する。

ゾーグは安心した。

「じゃあ、私は何もしなくていいのか」

しかしゾーグが移動装置に乗って去ろうとした瞬間、移動装置のバッテリーが切れた。

ゾーグはマンションの前に取り残された。

しかも、上から健一が窓を開けて顔を出した。

「あの!ちょっとすみません!」

「え」

「玄関のドアが開かなくて……もし工具とか持ってたら貸してもらえませんか?あ、いや、貸してもらえなくてもいいんですけど……」

ゾーグは全身の目と耳(合計十個)でこの状況を把握した。

健一は自分でドアを直そうとしている。その場合、山本さんが出てくるタイミングが変わる。

ゾーグは移動装置のサドル部分を外した。中から小型工具セットが出てきた(局の規定で全移動装置に搭載されている)。

「あります」

「え、ほんとですか!助かります!」

ゾーグは工具セットを持ってマンションに入った。


第五章
ドタバタ修理と意外な真実

四〇三号室、吉田健一の玄関。

ゾーグは工具を広げた。

問題は、ゾーグが工具の使い方をほぼ知らないことだった。

端末で確認する。「丁番調整用六角レンチ」。画像を見る。健一の目の前でこっそり。

「あ、知ってます、これ」と健一。

「そうですか……ではお願いします」

ゾーグは工具を渡した。

「え、あなたがやるんじゃないんですか」

「……あなたの方が向いていると思いまして」

「なんで」

「経験値が高そうなので」

「全然ないですよ!」

結局、二人で端末(健一のスマートフォン)で検索しながら、ドアを直すことにした。ゾーグは検索スピードが異常に速く、動画を見ながら五秒で内容を完全に理解し、健一に的確に指示を出した。

「そこ、三ミリ左に……そうそう、次は上の丁番を……」

三十分後、ドアは完璧に直った。

「すごい!あなた、なんでそんなに詳しいんですか」

「……いろいろ調べる仕事なので」

「なんの仕事ですか」

「案内人、みたいな」

「ガイド?旅行の?」

「……そういうものです」

そのとき、廊下から声がした。

「なんか音してたけど、大丈夫?」

隣の部屋の扉が開いた。がっちりした体格の六十代男性。山本さんだった。

「ああ、直ったじゃないか。俺も気になってたんだよ」

「山本さん、ありがとうございます。この方が……」

「いや、俺は何もしてないよ。あなたが直したんでしょ」と山本さんはゾーグに向かって言った。

「二人でやりました」とゾーグ。

「うちの娘もこのマンションでよくお世話になってて……あ、健一さん、うちの娘って健一さんの会社じゃなかったっけ?」

「え!山本さんのお子さんが?」

会話が始まった。

ゾーグは廊下に立ったまま、端末を確認した。

〈流れの修復:完了〉〈第7区画・吉田家フロー:正常化〉

よかった。

ゾーグは静かにその場から離れようとした。

「あ、あなた!名前なんていうんですか?」と健一が振り返った。

「……ゾーグといいます」

「ゾーグさん、ありがとうございました!今度お礼に——」

「いえ、お気遣いなく」

ゾーグはエレベーターに乗った。

扉が閉まる寸前、健一の顔が見えた。笑っていた。

ゾーグは何かが、自分の胸の奥の方——心臓がある場所とは少し違う器官——に、温かく灯ったような気がした。

地球人の感情に影響されてはいけない、と局の研修で習っていた。

しかしゾーグは、なぜかその瞬間、研修の内容を忘れていた。


第六章
田中六郎、旅に出る

スーパーのイートインで出会った三人——六郎、ヒサ子、ゾーグ——は、不思議な縁でその後も関係が続いた。

六郎はヒサ子に謝罪したことで何かが吹っ切れ、その日の午後から「旅に出たい」と思い始めた。

還暦を過ぎて、どこか遠くへ行ってみたい。特に目的もなく。流れに身を任せて。

妻に話すと「いつから行くの」と即答された。

「来週くらいから」

「じゃあ私も行く」

「え」

「一人で行かせたら迷子になるでしょ」

六郎は否定できなかった。


ゾーグはこの展開を観察しながら、端末で記録していた。

六郎夫妻の旅行は、本来の「流れ」にはなかった。しかし悪い逸脱ではない。むしろ——

端末が告げた。

〈追加フロー生成:田中六郎・旅先選択により新規接続ポイント発生・可能性数:二百七十三〉

二百七十三通りの新しい出会いと流れが、この旅行によって生まれる可能性がある。

「旅先での一瞬の判断で、その後の行き先が大きく変わる……」

ゾーグは自分の端末の画面を見つめながら、なぜかそれがとても美しいことのように思えた。

宇宙広しといえど、これほど「偶然の組み合わせ」が豊かな星は珍しい。

どの道を曲がるか。右か、左か、直進か。

その一瞬が、何十人もの人間の「流れ」を変えていく。

人間たちはそれを「運」と呼ぶ。

六郎はその日の夜、旅の計画を立てようとして、地図を開いた。

しかし地図を見ているうちに、どこへ行くかより「なぜ行くのか」の方が大事だと気づいた。

「なんとなく」でいい。

なんとなく気になった道を選ぶ。なんとなく降りた駅で飯を食う。なんとなく声をかけた人と話す。

それが旅というものだ、と六郎は思った。

——思ったのだが、それを妻に言うと「計画くらい立てなさい」と言われた。

「じゃあ最初の目的地だけ決めよう」

「どこにする?」

「……なんとなく、京都より西がいいな」

「広島?」

「それとも九州かな……」

「温泉は?」

「温泉いいな……別府?湯布院?」

「両方でもいいじゃない」

「そうだな……」

地図の上で、二本の指が西へ西へと動いた。

成層圏の上で、ゾーグは端末に〈田中六郎・旅先:九州方面・暫定〉と入力し、九州担当のゾーグ・ベータ(同じ一族の別の個体)に連絡を入れた。

〈来週、地球人が行くから準備しといて〉

〈また日本列島か。最近多いな〉

〈仕方ない。面白い人間が多いんだ、この島国は〉


第七章
五輪と嘘と黄信号

ゾーグが地球担当になって三年が経つ。

その間に、最も頭を悩ませたのが「東京五輪」だった。

あれは「流れ」に完全に逆らったプロジェクトの典型だった。

始まりを見た時から、ゾーグには嫌な予感があった。

「アンダーコントロール」

ゾーグはその言葉を聞いた瞬間、端末に〈嘘フラグ〉をセットした。

宇宙の法則として、自分の力が及ばないものを「コントロールしている」と言った瞬間から、あらゆるものがほつれ始める。

ポスターの問題。競技場の問題。暑さの問題。

一つほつれると、次が出てくる。次が出ると、さらに次が。

これは「略奪」と同じ構造だ、とゾーグは思った。

本来そこにあるべきでないものを、無理やり引き寄せる。引き寄せたものは、すぐに逃げていく。

壁を乗り越えることは、乗り越えた先の問題を先送りにしているに過ぎない。

ゾーグは三百五十二年の経験でそれを知っていた。

一方で、ゾーグが「これは正しい流れ」と思う瞬間もある。

六郎が黄色信号で止まった日の夕方、六郎は帰り道に小さな書店に入った。

目的はなかった。なんとなく入った。

なんとなく手に取った本が、俳句の本だった。

六郎は趣味で俳句を作るが、最近スランプだった。その本の中に、ある一句があった。

「流れゆく雲よ 止まれとは言わず ただ見る」

六郎はしばらく動けなかった。

これだ、と思った。

無理に止めようとしない。無理に追いかけない。ただ、見ている。

その本を買って帰った六郎は、その夜、久しぶりに俳句を一句書いた。

それがのちに、ある俳句誌に掲載されることになるのだが、それはもう少し先の話だ。

ゾーグはこの一連の流れを端末に記録しながら、思った。

人間というのは、ときどき、自分でちゃんと気づく。

案内人が必要なときと、必要でないときがある。

その見極めもまた、案内人の仕事だった。


第八章
ヒサ子さんの秘密

森山ヒサ子、七十四歳。

スーパーで転んだ翌日、ゾーグは彼女の家の近くにいた。

理由は、ヒサ子の「流れ」に気になる分岐があったからだ。

端末によると、ヒサ子は今日、ある重要な決断をする。

〈森山ヒサ子・本日フロー:人生分岐点・確率高〉

「……分岐点?」

七十四歳の人生の分岐点とは何か。

ヒサ子の家は小さな一軒家だった。庭に植木が丁寧に並んでいた。

ゾーグは近くのベンチに座り(公園があったので)、端末で確認した。

ヒサ子の分岐点は「息子夫婦との同居を承諾するかどうか」だった。

息子が今日、電話してくる予定になっている。

ヒサ子が「いい」と答えれば、息子一家が引っ越してくる。孫たちが来る。ヒサ子の生活は賑やかになる。

ヒサ子が「まだ一人でいい」と答えれば、息子は遠慮する。ヒサ子は当面一人だ。しかし——

ゾーグは計算した。

どちらの選択も、間違いではない。

しかしヒサ子が「まだ一人でいい」と答えた場合、その翌月から、ヒサ子は週二回、近くのコミュニティセンターに通い始める。そこで友人ができ、その友人の紹介で習い事を始め、七十五歳で初めて水彩画を描く。

その水彩画が、二年後に地域の展覧会で入賞する。

ゾーグはどちらのルートも端末で先読みした。

同居ルートも幸せだ。孫との時間は豊かだ。

一人ルートも幸せだ。自分の世界が広がる。

「どちらが正しい」ではない。

どちらも、流れとして正しい。

午後二時、ヒサ子の家の電話が鳴った(窓が少し開いていて、外まで音が聞こえた)。

しばらくして、ヒサ子が庭に出てきた。

木に水をやりながら、空を見上げた。

それから、小さく笑った。

ゾーグにはその笑顔の意味がわかった。

ヒサ子は答えを出したのだ。どちらかを選んで、受け入れた。

後悔せずに。

ゾーグの端末が鳴った。

〈流れ確定:良好〉

ゾーグはベンチから立ち上がり、公園の出口に向かった。

振り返ると、ヒサ子がこちらに気づいて軽く頭を下げた。

ゾーグも頭を下げた。

お互い、何も言わなかった。

それで十分だった。


第九章
局長からの連絡

夜。船の中。

ゾーグが端末の整理をしていると、通信が入った。

相手は銀河系道先案内局・局長のダーク・グルーミン卿。全身紫、目が十二個、声が三重になっている生命体で、宇宙歴では五千年生きている。

〈ゾーグ〉

「はい、局長」

〈最近、地球への干渉が多いという報告が来ている〉

「……そうですか」

〈本来、案内人の仕事は最小限の介入だ。流れを見守り、必要なときだけ、そっと押す。それが原則だ〉

「わかっています」

〈しかし今日、お前は工具を持ってマンションに入った。直接、人間のドアを直した〉

「それは——流れが……」

〈流れは自分で修正されていた可能性がある〉

ゾーグは黙った。

局長の言う通りかもしれない。健一はいずれ、山本さんに声をかけていたかもしれない。別のきっかけで。

〈お前が最近、地球人に感情移入しているのではないかと、私は心配している〉

「感情移入は……していません」

〈本当か?〉

「……多少は」

〈正直だな〉

局長は沈黙した。

〈ゾーグ。お前の前任者が何をしたか覚えているか〉

「……辞表を出して地球に残りました」

〈そうだ。今でも東北地方のどこかで、人間として生活している。七十代の男性に化けて、畑を耕しているらしい〉

「……幸せそうですか」

〈非常に幸せそうだ。それが問題なんだが〉

通信が終わった後、ゾーグはしばらく窓の外を見ていた。

地球の夜景が見えた。

あちこちに光がある。

一つ一つの光の下に、人間たちがいる。

六郎と妻が、旅の話をしている。

健一が、山本さんの娘に連絡先を聞いている。

ヒサ子が、水彩画の道具を検索している(まだ決断から数時間しか経っていないが、すでに調べ始めていた)。

見えない力、とゾーグは思った。

それは「管理」ではないのかもしれない。

見守ること。ときどきだけ、そっと。

それで十分なのかもしれない。

人間たちは、思っているよりずっと、ちゃんとやっていける。


第十章
旅先の交差点

田中六郎と妻・幸子は、湯布院に来ていた。

温泉に入り、地元の食事をして、次の日の朝、旅館を出た。

「どこ行く?」と幸子。

「わからん」と六郎。

「それでいいの?」

「それがいい」

小さな街を歩いた。観光地だが、早朝なので人が少ない。

交差点に差し掛かった。

右に行けば、湖の方へ。

左に行けば、商店街へ。

直進すれば、山の方へ。

六郎は立ち止まった。

昨日スーパーで転んだ男のことを、なぜか思い出した。ゾーグ、とか言う名の。

あの人は何者だったんだろう。

工具を持っていて、知識は豊富で、なのに食べ方がわからない食べ物がある。耳が首のとこについてた。

……まあいいか。

「右行こう」と六郎は言った。

「なんで?」

「なんとなく」

湖の方に向かった。

湖のほとりに、小さなカフェがあった。開店直後で、老夫婦が二人でやっていた。

コーヒーを飲みながら、六郎と幸子は湖を眺めた。

静かだった。

水鳥が一羽、湖面をなぞるように飛んでいった。

「来て良かったな」と六郎。

「そうね」と幸子。

「お前がいてよかった」

「……急にどうしたの」

「いや、なんとなく」

幸子は少し笑った。

六郎も笑った。

成層圏の上で、ゾーグは端末を見ていた。

〈田中六郎フロー:順調〉

よかった。

ゾーグはコーヒーを一口飲んだ。局支給の、惑星ベガ産の液体だ。

美味しい。でも、ツナマヨのおにぎりの方が美味しいかもしれない。

ゾーグは思った。

局長は「感情移入するな」と言った。

でも、感情移入しなければ、案内人の仕事はできないのではないか。

その星の生き物を好きでなければ、その星の「流れ」を大切にできない。

ゾーグは端末に一言だけ記録した。

〈地球:好き〉

そして端末を閉じた。


第十一章
見えない道先案内人

一週間が経った。

ゾーグは相変わらず大阪の成層圏上空に浮かんでいた。

六郎は旅から帰り、俳句を三句書いた。

健一は山本さんの娘と仕事の話をするようになり、共同プロジェクトの芽が出始めた。

ヒサ子は水彩画の教室に申し込んだ。

それぞれが、それぞれの「流れ」の中にいた。

ある朝、ゾーグの端末に通知が来た。

〈地球担当・ゾーグ・アルファ・ムニュムニュ第七世へ〉
〈本局より連絡:次の任地が決定。火星担当に異動の辞令〉
〈地球担当の後任:ゾーグ・ガンマ・ニュムニュ第三世(研修中)〉

ゾーグは画面を見つめた。

火星。

火星には人間がいない。テラフォーミングはまだ計画段階だ。

「流れ」を管理するといっても、岩と砂の「流れ」だ。

ゾーグはしばらく考えた後、局長に通信を入れた。

「局長」

〈なんだ〉

「一つ確認させてください。前任者——東北で畑を耕しているあの方——は、今でも連絡はつきますか」

〈……なぜ〉

「参考にしたいことがあって」

〈……ゾーグ〉

「はい」

〈辞表を出すつもりか〉

「…………まだわかりません」

長い沈黙。

〈お前の前任者の連絡先を送る。好きにしろ〉

その日の夕方、ゾーグは船を降りて、大阪の街を歩いた。

変装なしで出かけるのは規則違反だが、もうどうでもいいような気がした。

百九十センチの、うっすら緑がかった、目が少し多い男が、商店街を歩いた。

誰も特に気にしなかった。

大阪というのは、そういう街だった。

商店街の端に、小さな本屋があった。

ゾーグは入った。

なんとなく。

棚を眺めていると、一冊の本が目に入った。

俳句の本だった。

ゾーグはそれを手に取った。

最初のページに、一句。

「迷わずに どこでもよくて 春の風」

ゾーグは本を買った。

店を出て、空を見上げた。

雲が流れていた。

西から東へ。

または東から西へ。

ゾーグには方向がよくわからないが、とにかく流れていた。

見えない力が、今日も、あちこちで、静かに、働いていた。


エピローグ
銀河は今日も流れている

ゾーグ・アルファ・ムニュムニュ第七世は、結局、辞表を出さなかった。

火星への異動も断った。

局長は怒ると思ったが、怒らなかった。

〈まあ、そうなるだろうと思っていた〉と言っただけだった。

〈地球担当を続けるか〉

「はい」

〈理由は〉

「……面白いので」

〈それだけか〉

「……好きなので」

局長はまた沈黙した。

〈正直だな、お前は〉

六郎は秋に、俳句誌への応募を決めた。

タイトルは「見えない力」。

健一は新しいプロジェクトを田村さんに提案した。田村さんは即断で「やろう」と言った。

ヒサ子の水彩画の最初の作品は、庭の植木だった。下手だったが、生き生きしていた。

ゾーグは今日も成層圏にいる。

端末には無数の「流れ」が流れている。

大半は、人間たちが自分で調整している。

ゾーグが手を出すのは、ほんの少しだけ。

黄色信号のタイミング。

カラスの飛ぶ方向。

棚の上のもやしの位置。

そんな、取るに足らないことだけ。

それで十分だと、ゾーグは思っている。

人間というのは、案内人が思っているより、ずっと賢い。

ずっと優しい。

ずっと、ちゃんとやっていける。

自分も、あなたも。

見えない力は今日も、静かに、宇宙の端っこから、地球を見ている。

カラスが一羽、どこかの交差点を横切っていった。

それが偶然かどうかは、誰にもわからない。

ゾーグだけが、少しだけ知っている。

でも、黙っておくことにした。

(了)


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〜あとがき〜

この話を書いた者(見えない何者か)は、黄色信号でいつも少し迷います。

渡るべきか、止まるべきか。

ただ最近は、どちらを選んでもたいてい大丈夫だということを、なんとなく知っています。

大事なのは選んだ後の話で、選んだことを後悔しないことで、止まったなら止まった先の景色を楽しむことで、渡ったなら渡った先で出会う人を大切にすることで。

ゾーグが実在するかどうかは、わかりません。

でも、困ったときに助けてくれる人がなぜか現れること、逆らってばかりいると何かがうまくいかないこと、流れに乗ったときには不思議なほどうまくいくこと——それは、おそらく実在します。

信じるかどうかは、あなたの選択です。

どちらでも、ゾーグは怒りません。

ただ、成層圏からニコニコ見ています

(目が四つなので、ヨコヨコしています)。笑