死神さん、ちょいと商談しましょう
―― 江戸っ子死神と中山道と、ぱふのことなど ――
まえがき
人は時々、「もう会えない」と思った相手に、もう一度だけ会いたいと願う。
それが家族であれ、
友人であれ、
師匠であれ、
あるいは、一匹の犬であれ。
本作は、落語『死神』を下敷きにしながら、
「死」と「縁」と「旅」をめぐる物語として生まれた。
もし本当に死神がいたら。
もし本当に、“あじゃらかもくれん、きゅうらいす、てけれっつのぱー”が効いてしまったら。
そしてその先に、死神にも事情があり、人情があり、役所じみた組織まで存在していたら——。
そんな与太話から、この物語は始まっている。
江戸落語の匂い。
中山道の静かな風景。
失われたものを追いかける旅。
そして、もう帰ってこないと思っていた存在の気配。
笑っていいのか、
泣いていいのか、
自分でも分からないまま書いた。
けれど人生というものは案外、
その「分からなさ」の中にこそ、
大事なものが隠れているのかもしれない。
秋の夜長に、
湯気の立つ茶でも飲みながら、
ゆっくり読んでいただければ幸いである。
第一章 朝から葬儀というのは、縁起が悪いにも程がある
その朝、僕の携帯電話が鳴ったのは、まだ夢の続きを楽しんでいた午前七時の三十二分だった。
「もしもし」と出ると、相手は開口一番こう言った。「来てくれ。師匠が死んだ」
師匠というのは、落語家の山田圓生師匠のことだ。笑点の司会を二十年以上務め、国民的な人気を誇る大御所である。そしてその門下に僕が入っているかというと、まったく入っていない。完全なる他人だ。
では何故僕が呼ばれたかというと、話は少々複雑になる。
僕は昨年からとある落語研究家の助手をしており、その研究家というのが圓生師匠の幼馴染みで、その縁でちょくちょく師匠宅に出入りしていた。呼んできたのは三番弟子の圓太郎さんで、「研究家の先生も今朝は腰が痛いとかで動けないから、とにかく頼む」というわけだった。
僕は寝ぼけ眼のまま着替え、電車に乗り、師匠の自宅へと向かった。道中、スマートフォンでニュースを確認すると、すでに報道が出ていた。「名人・山田圓生、逝去。享年七十八歳。」
享年七十八歳。長生きといえば長生きだが、まだまだ現役で高座に上がっていた人だ。最後の独演会は先月のことで、チケットはとっくの昔に完売していた。
師匠の自宅は、東京の西側、緑の多い閑静な住宅街にある大きな日本家屋だった。門をくぐると、すでに数人の弟子たちが庭先に立っていて、誰もが神妙な顔をしている。
「来てくれたか」と圓太郎さんが出迎えた。目が赤い。「まあ、入ってくれ」
通された座敷の奥に、白い布で覆われた棺桶があった。その周囲には線香の煙が漂い、弟子たちが各々の場所で静かに佇んでいる。数えると、一番弟子から六番弟子まで、総勢六人がいた。
「あれ、二番弟子の圓次さんは?」と僕は小声で圓太郎さんに尋ねた。
圓太郎さんは首を振った。「それが、連絡がつかんのだ。昨晩から」
「昨晩から?」
「師匠が倒れたのが昨夜の十一時でな。すぐに全員に連絡したんだが、圓次兄さんだけ、どこに電話しても出んのだ」
二番弟子の立場で師匠の死に目に立ち会えないというのは、落語の世界ではどういう評価を受けるのだろうか。僕には分からないが、あまりいいことではなさそうだった。
「何か手伝えることがあれば言ってください」と僕は言い、まずは仏前に手を合わせた。
線香を切らさないように、と誰かに言われたので、時折その場を離れて線香に火をつけては、また戻るということを繰り返した。
そして、それが三度目か四度目のことだった。
棺桶が、揺れた。
最初は気のせいかと思った。線香の煙のせいで目がかすんでいたのかもしれない。しかし次の瞬間、「ガタガタ」という明確な音がして、棺桶が再び揺れた。今度は疑いようがなかった。
僕はぎょっとして、一歩引いた。
それから、蓋が跳ね上がった。
内側から。
「な、なんだ!」と僕は叫びかけて、声を飲み込んだ。
棺桶の中から、山田圓生師匠が上半身を起こしていた。白装束のまま、寝ぐせのついた頭で、目をぱちくりさせながら。
「あれ、」と師匠は言った。「ここはどこだい?」
第二章 死んだ人間が起き上がるときの、正しい対応について
落語の世界には「死神」という噺がある。
貧乏で困り果てた男のところに死神がやってきて、「お前を医者にしてやる」と言う。方法は簡単で、病人の枕元に死神が立っていたら、その人間は助からない。足元に立っていたら、まだ助かる余地がある。そこで呪文を唱えて死神を追い払えば、病人は回復する、というわけだ。
その呪文というのが、「あじゃらかもくれん、きゅうらいす、てけれっつのぱー」である。
もちろん、これは噺の中の話だ。現実には死神などいないし、呪文で人が生き返るわけがない。
……そのはずだった。
圓生師匠が棺桶から起き上がった瞬間、僕は全力で他の弟子たちを呼びに走った。
「大変だ!師匠が!師匠が起きた!」
座敷に飛び込んできた弟子たちが棺桶の前に並んだとき、師匠はすでに棺桶の縁に腰掛けて、首をかしげていた。
「圓太郎かい、お前は」
「し、師匠!」圓太郎さんが膝をついた。「師匠、ご無事で!」
「ご無事も何も、わしは眠ってただけのような気がするが……」
その後、師匠は弟子たちと短い会話を交わしたが、どうもぼんやりした様子だった。目の焦点が定まらず、言葉もどこか遠い場所から届いてくるような感じがした。
そして五分も経たないうちに、師匠はふらりと倒れ込み、再び棺桶の中に横たわった。
「師匠!」
圓太郎さんが飛びつき、脈を確かめた。首を振る。
「だめだ。また……」
「心臓マッサージだ!」
圓太郎さんが即座に胸骨圧迫を開始した。一番弟子の圓蔵さんが救急車を呼ぶために廊下に飛び出す。四番、五番、六番の弟子たちが圓太郎さんに加勢しようと棺桶の周りに群がった。
僕はその光景を見ながら、ふと気づいた。
部屋が暗くなっている。
外はまだ朝の十時だ。曇ってもいなかった。なのに、座敷の光がみるみる落ちていく。
そして僕は、師匠の枕元に、それを見た。
黒い影。
人の形をしているが、輪郭がはっきりしない。煙のように揺らめいているが、確かにそこにある。そして何より、見た瞬間に分かった。
死神だ。
なぜ分かるかというと、分かるのだ。説明できないが、人間には本能的に分かることというものがあって、「あ、これは普通ではないものだ」という確信が、理屈を介さずに湧き上がってくる。
問題は、どうやら僕にしか見えていないらしいことだった。
弟子たちは誰もその黒い影に気づいていない。圓太郎さんはひたすら胸骨圧迫を続けており、他の弟子たちも師匠の顔色を見るのに夢中だ。
僕だけが、師匠の枕元に立つ死神の存在を認識していた。
と、そこで頭の中に「死神」の噺がよみがえった。
死神を追い払うには、呪文を唱えればいい。ただし、死神が枕元に立っていると手遅れで、足元に立っていなければならない。
影を見ると、確かに枕元側にいる。
「だとすれば……」と僕は考えた。
棺桶を百八十度回せばいい。
師匠の頭と足が入れ替われば、死神は枕元ではなく足元に立つことになる。そこで呪文を唱えれば……
いや、待て。これは落語の噺の中の話だ。現実でそんなことが通用するわけがない。
しかし師匠はさっき確かに起き上がったのだ。白装束のまま。棺桶の中から。
「通用するかどうか試している場合ではない」と僕は思った。
第三章 棺桶を百八十度回転させるためのチームワーク
「圓太郎さん」
「今は忙しい!」
「一秒だけ聞いてください」
「……何だ」
僕は圓太郎さんの耳に口を寄せ、できるだけ簡潔に状況を説明した。師匠の枕元に死神がいる。落語の死神の噺の通り、棺桶を百八十度回転させて呪文を唱えれば消えるかもしれない。試す価値がある。
圓太郎さんは五秒間黙って僕を見た。
「正気か」
「見えてます、僕には。黒い影が」
また五秒間。
「……証明できるか」
「できません。でも師匠はさっき起き上がりました」
圓太郎さんはため息をついた。どうやら、「人が死んで棺桶から起き上がった」という前例が既に発生したことで、「死神に関する噺が現実になるかもしれない」という仮説が、急速に現実味を帯びはじめていたらしい。
「分かった。兄弟子たちに伝えよう」
圓太郎さんの伝達は速かった。耳打ちが弟子たちの間を伝わっていく。最初は怪訝な顔をした一番弟子の圓蔵さんも、「師匠が棺桶から起き上がったことを考えれば」という前提を受け入れると、「やってみよう」という結論に至るのにそれほど時間はかからなかった。
「いいか、合図したら一斉に回す。棺桶ごと、ぐるりと百八十度だ。中の師匠は……まあ、ご容赦いただくしかない」
弟子たちが棺桶の周りに位置についた。
僕は影を見た。まだ枕元にいる。
「さあ!」
手をポン、と叩いた。
六人の弟子たちが、一斉に棺桶を押した。
棺桶はぎーっという音を立てながら、畳の上を滑り、百八十度回転した。中の師匠の頭と足が入れ替わった。
死神の影は、今や師匠の足元側にいる。
「今だ!」
僕は呪文を唱えた。
「あじゃらかもくれん、きゅうらいす、てけれっつのぱー!」
声が座敷に響いた。弟子たちが息をのんだ。
僕は手を二度叩いた。
パン、パン。
黒い影が、すーっと薄くなり、煙のように散って、消えた。
一瞬の沈黙。
それから、棺桶の中で、ごそごそという音がした。
「うーん」という声。
師匠がまた起き上がった。今度はしっかりと、目に光を取り戻して。
「圓太郎かい」
「師匠!」
「腹が減った。何か食わせてくれ」
弟子たちがわっと泣き崩れた。
師匠は周りを見渡して、「なぜみんな泣いとるんだ」と首をかしげた。
圓太郎さんが僕の方を振り向き、「あんた……本当に死神が見えたのか」と言った。
「見えました」
「呪文も……本当に効いたのか」
「効いたようです」
圓太郎さんはしばらく考えてから、「ありがとう」と深々と頭を下げた。「あんたがいなければ、師匠は」
「いや、でも……」と僕は言いかけて、止まった。
「でも、何だ?」
「この後がちょっと問題なんです」
第四章 落語の噺のルールというのは、案外厳格なものらしい
師匠が弟子たちに囲まれて食事をとり始めた騒動の最中、僕はそっと庭に出た。
落語「死神」の噺には、続きがある。
主人公の男は、呼ばれた先で死神が枕元に立っていても、棺桶を回転させる機転を使って患者を救い、名医として名声を得る。しかし、傲慢になった男はいつか禁を破り、自分の寿命のろうそくが消えかけているのを見てしまう。噺によっては、そこで終わり、噺によっては、男は消えかけたろうそくに火を移そうとして失敗し、ぷっと吹き消されてしまう。
つまり、死神の邪魔をした人間には、相応の報いがある。
「まあ、来るだろうな」と僕は庭石に腰を下ろして思った。「死神が黙ってるはずがない」
縁側から見る庭は、手入れが行き届いていた。師匠が自ら植えたという梅の木が、まだ梅の実をつけている。のどかな光景だ。これが最後に見る景色になるかもしれない、と思うと、少々感慨深い。
「おい」
声がした。
振り返ると、縁側の柱のそばに、それがいた。
さっきの黒い影ではなく、今度は形がはっきりしていた。
着物姿の男。四十代か五十代くらいに見えるが、年齢というものが当てはまらない存在だということは顔を見た瞬間に分かる。着ているのは黒い紋付きで、帯も黒、雪駄も黒。ただし顔は人間と変わらず、むしろひどく疲れた顔をしたサラリーマンのような印象だった。
「あんたか」と死神は言った。「なんてことをしてくれたんだ」
「やはり来ましたか」
「当たり前だ!わしが何年かけてあの爺さんのところに辿り着いたと思ってる。順番があるんだよ、順番が。それをお前があんな呪文を……」
「まあまあ」と僕は言った。「落ち着いてください」
「落ち着けるかい!」
「少し話を聞いてください。商談したい」
「商談?」死神は訝しむように眉をひそめた。「お前、わしを何だと思ってる。商談だと?」
「死神さんでしょう。落語の噺に出てくる、あの」
「そうだよ!そのとおりだよ!そして今わしは、非常に怒っているんだ!」
「それは分かります。申し訳ない」
「申し訳ないで済む話じゃ……」
「でも聞いてください」
僕は石から立ち上がり、死神に向き合った。
「僕は命を惜しんで師匠を助けたわけじゃない」
「は?」
「命を惜しんでいたら、あんな呪文を唱えません。僕は、落語の噺が本当かどうか、確かめたかっただけだ」
死神が黙った。
「それだけのことか?」
「それだけです」
「…………」
「本当だったと分かった。それで結構」
死神は長い間、僕を見た。その目には怒りの他に、何か別のものが混じっていた。困惑、とでも言うべきか。あるいは、予想外の事態に直面したときの、戸惑い。
「お前さん、」と死神はついに口を開いた。「そんなことで命を張るな」
「は?」
「そんなことで!命を!張るな!」
「でも僕は——」
「わしはお前さんの先祖から頼まれてるんだ。お前さんにはまだまだやって貰わねばならんことが沢山あると」
第五章 先祖というのは、意外なところから口を挟んでくるものらしい
「先祖?」
「そうだ」
「誰の?」
「お前さんのだよ。他に誰がいる」
「それはもしや……善次郎か?」
死神が眉を動かした。「知ってるのか」
「うちの先祖に、中山道を歩いて旅をした人間がいると聞いたことがある。善次郎という名前だったと」
善次郎というのは、僕の曾祖父の曾祖父……だったか、もっと前だったか、正確なところは覚えていないが、江戸時代に中山道を歩いて京都まで旅をした人物だと、親から聞かされたことがあった。旅の記録を日記に書き残していて、その日記が今でも親族の手元にある、とも聞いた。
「そうだ、善次郎だ」と死神は言った。「わしが初めて担当した人間でな」
「初めて?」
「死神にも新人の時代というものがある。研修期間というか……まあいい。とにかく善次郎はわしの初仕事の相手だった。そのとき色々あってな」
「色々?」
「色々あったんだよ!人の過去を根掘り葉掘り聞くな」
死神は咳払いをした。
「とにかく、善次郎は中山道をもっと歩いてみろと言っている。お前さんに伝えてくれと」
「中山道を? 何が?」
「それはわしには分からん。善次郎がそう言っている」
「分からないんですか」
「分からん。わしは伝書鳩じゃない。でも伝えると約束してしまったので、伝えている」
死神は少々きまり悪そうに視線を逸らした。
「それと……ぱふのことも頼まれている」
その名前を聞いた瞬間、僕の胸が痛んだ。
「ぱふ?」
「そうだ。ぱふを預かっている。それはお前さんが分かった時に、戻すと」
「ぱふは……」
「犬だな。お前さんの犬だ。去年、わしが……まあ、そういうことだ」
ぱふは、去年の秋に死んだ。十四年一緒に生きた犬だ。
「ぱふを戻せるのか?」
「戻す、と善次郎が言っている。ただし条件がある」
「何だ」
「中山道をもっと歩いてみること。そして——」
死神は少し間を置いた。
「お前さんが、本当にやるべきことを見つけること。その時に、ぱふは戻る」
「本当にやるべきこと……」
「わしに聞くな。善次郎の言葉だ」
「善次郎はどこにいる? 会えるか?」
「会えん。死者に会う方法はない。ただし——」
また間。
「中山道を歩いていると、色々なものが見えてくる。善次郎が歩いたのと同じ道をな」
第六章 死神の管理局というのは、思いのほか官僚的な組織であるらしい
「一つ聞いていいか」と僕は言った。
「何だ」
「死神というのは、日本に何人いる?」
死神は眉をひそめた。「何が聞きたい」
「この国で毎日、大勢の人が死ぬ。それを全員、死神が一人でこなしているわけではないだろう」
「当たり前だ。大勢いる」
「組織か?」
「……まあ、そうだな」
「どんな組織だ」
死神は少しの間、言うべきか言わぬべきか迷うように唇を動かしてから、「まあいいか」とつぶやいた。
「正式名称は死者移送管理局だ」
「役所みたいな名前だ」
「役所みたいなものだ。総務、人事、現場と三部門あって、各地域に支局がある。わしは東京第四支局の現場担当だ」
「ということは上司がいる?」
「いる。うるさい上司が。今頃、わしに向けて怒りのメッセージを飛ばしているはずだ」
死神は懐から小さな何かを取り出した。薄い板状のもので、表面が光っている。一瞬スマートフォンかと思ったが、どうも違う。
「……おい。上司から来てる。『例の件はどうなっている、速やかに報告せよ』」
「例の件というのは」
「お前さんが師匠を助けた件だ。局内で大問題になっている」
「そうか」
「現場担当が人間に干渉を受けるなど前代未聞だと、大騒ぎだ。上の方では緊急会議が開かれているらしい」
「申し訳ない」
「申し訳ないで済めばいいが……」死神は板を懐に戻した。「まあ、お前さんの命はわしが保証する。先祖の約束もあるし、それに——」
「それに?」
「落語の噺の通りに呪文を唱えた人間というのは、お前さんが初めてじゃないんだが、」
「初めてじゃないのか!」
「ない。過去に三例ある。ただし全員、死神が見えておきながら、自分の命が惜しくて唱えなかったか、見えたふりをして実際は何もしなかったか、どちらかだ。本当に唱えたのはお前さんが初めてだ」
「それは、どういう意味があるんだ」
「さあ」と死神は言った。「わしには分からん。ただ善次郎が言うには、『そういうやつが出てきたときのために準備してある』とのことだ」
「準備?」
「詳しくは知らん。中山道を歩けば分かる、と言っていた」
「善次郎は、中山道のどこを歩けばいいと言っていた?」
「そこまでは言っていない。ただ、お前さんが以前歩いた続きを、と」
僕は確かに、一昨年の秋に中山道の一部を歩いていた。長野の某所から始めて、何宿か歩いて引き返した、一泊二日の旅だった。その続き、ということは——
「分かった。秋に歩く」
「そうしろ」
「でも一つだけ確認させてくれ。師匠の寿命は、どうなる? また死神が来るのか?」
死神は「ふん」と鼻を鳴らした。
「師匠の担当は今日でわしの手を離れた。あとは別の担当が引き継ぐ。いつかは分からんが、そのときが来たら来る。それはお前さんにも、わしにも変えられん」
「そうか」
「ただまあ……」死神は言いにくそうに続けた。「わしが今日やり損なったせいで、師匠の担当は別の者に回ったわけだが、そいつが来るのはまだしばらく先になる、という話は聞いている」
「それはつまり」
「師匠は、もうしばらく生きる、ということだ。お前さんのおかげで」
第七章 東京第四支局の死神が抱える、個人的な悩みについて
「一つだけ、聞いていいか」
「今度は何だ」
「あんたは、この仕事が好きか?」
死神は黙った。かなり長い間、黙った。
「……変なことを聞くな」
「いや、気になって」
「死神が仕事を好きかどうかが、お前さんに何の関係がある」
「ない。ただの興味だ」
また沈黙。
「……好きではない」と死神は言った。「好んでやっている仕事ではない」
「そうか」
「お前さんはどうだ。自分の仕事が好きか?」
「今は少し……分からなくなっている」
「そうか」
二人して庭を見た。梅の木が風に揺れている。
「善次郎はな」と死神は言った。「初仕事のとき、わしに一晩中、中山道の話をしてくれた。お前さんの先祖のことだから、いい気分でいられるかどうか分からんが、あれは良い時間だった」
「死神も良い時間というものがあるのか」
「当たり前だろう。わしも感情というものがある」
「そうか。知らなかった」
「知らなくて当然だ。教えていないのだから。ただ、善次郎はそれを知っていた。死神を相手に、旅の話をして聞かせた。そういう人間はなかなかいない」
「それでうちの先祖の頼みを聞いてやることにしたのか」
「まあ……そういうことだ」
死神はまた懐の板を取り出した。画面を見て、「そろそろ行かなければならない。仕事が溜まっている」と言った。
「そうか。お疲れ様」
「……なぜお前さんはそんなことを言う」
「大変な仕事だろうと思って」
「まあ……そうだな。大変と言えば、大変だ」
死神は立ち上がり、黒い着物の裾を直した。
「秋に中山道を歩け。そうすれば分かることがある」
「分かった」
「それと」
「何だ」
「師匠の二番弟子が行方不明になっているそうだが」
「圓次さんか?」
「そいつは今、中山道にいる。木曽の某所だ。師匠が倒れる前日に、突然出かけた。本人も理由が分からないようだが、何かに引き寄せられるようにして、歩いている」
「なぜそれを……」
「担当が連絡してきた。なんか変な人間がいると言ってな。まあ、取り越し苦労だったようだが」
「圓次さんは大丈夫なのか」
「死なん。しばらくしたら帰ってくる」
それだけ言うと、死神は庭の方に歩き出した。
そして梅の木の陰で、すーっと消えた。
後には、どこか遠くで鳴いている鳥の声と、縁側から聞こえる師匠と弟子たちの賑やかな声だけが残った。
第八章 死者移送管理局、臨時緊急会議の議事録(非公開)
死者移送管理局 東京本局 第三会議室
臨時緊急会議 議事録
出席者:局長、副局長、総務部長、人事部長、東京第一〜第五支局長
議題:現場担当・俗称「甚七(じんしち)」による処理案件不調、および人間による業務妨害に関する件
局長:ということで、今回の件についてご報告を。まず事実関係の確認から。
総務部長:はい。昨朝、東京担当・甚七が長年追跡していた山田圓生案件について、処理直前に人間の干渉を受け、案件が流れた件でございます。干渉の手段は、旧来の民間伝承に基づく呪文の使用でありまして、具体的には「あじゃらかもくれん、きゅうらいす、てけれっつのぱー」というものでございます。
副局長:……本当にそれで効いたのか?
総務部長:効きました。
副局長:なぜ効く。
総務部長:それが……我々も把握しきれていない部分がございまして。人間社会に伝わる各種の死神に関する伝承のうち、一部には実際に効力を持つものが混在しております。理論的な根拠は解明されておらず、経験則として現場担当に注意喚起を行ってはきたのですが、今回のように実際に使用されるケースは過去三例のみで、しかも三例とも不完全な形での試みに終わっていたため、十分な対策が講じられていなかったと言わざるを得ません。
局長:甚七は今どこにいる。
人事部長:通常業務に戻っております。連絡に応じていますが、今回の件については「先祖の約束があった、処理後に対象案件を引き継ぐ手配はした、問題ない」と報告してきております。
副局長:問題ない、ではない。前代未聞の事態だ。
東京第一支局長:しかし甚七の言うことにも一理あります。山田圓生案件は処理できなかったが、適切な担当に引き継がれ、スケジュールの調整は完了しています。今すぐ損害が出るわけではない。
局長:問題は今後のことだ。今回の人間——干渉を行った人物——の扱いをどうする。
総務部長:甚七によれば、その人物の先祖が長年にわたって甚七と関係を持っており、一種の「義理」が生じているとのことです。
副局長:義理? 我々に義理などというものが……
局長:甚七の判断を尊重する。あいつはうるさいが、仕事は正確だ。その人間の件は、甚七に一任する。他に議題はあるか。
人事部長:一点だけ。今回の件を機に、民間伝承由来の干渉手段に対する現場マニュアルの改訂を提案したいと考えております。「あじゃらかもくれん」については特に、使用可能な状況条件を明確にし、対策措置を……
局長:却下する。
人事部長:は?
局長:あれが効くのは、本当に死神を見ていて、かつ自分の命を惜しまずに唱えた場合だけだ。そういう人間が現れたなら、それはそれで意味がある。マニュアルで塞ぐことではない。
(沈黙)
局長:以上、閉会。
第九章 二番弟子、木曽にて
圓次が中山道を歩き始めたのは、師匠が倒れる前日のことだった。
理由は自分でも分からなかった。その日の朝、目が覚めたら、なぜか無性に歩きたくなっていた。高座の仕事は二日後まで入っていない。何かに呼ばれているような感覚があった。
新宿から特急に乗り、木曽福島で降りた。
なぜ木曽なのかも分からなかった。ただ「木曽」という二文字が頭に浮かんで、消えなかった。
中山道の、奈良井宿から木曽路へと続く道を、圓次は一人で歩いた。秋にはまだ早いが、山の空気は澄んでいて、歩いていると頭が静かになった。
師匠のことを考えた。ここ数年、師匠との関係がうまくいっていなかった。理由はいくつかある。落語の方向性の違い、先輩弟子たちとの軋轢、それから……師匠の口から出た一言が、ずっと胸に刺さっていた。
「お前の落語は、どこか他人事だ」
三年前のことだ。稽古の後で、師匠が静かな声で言った。「お前は上手い。でも上手いだけだ。聴いている人間の心に刺さらない。なぜか分かるか? お前が、自分の落語に真剣じゃないからだ」
あれ以来、師匠の顔を正面から見られなくなった。
そういうことを考えながら歩いていると、奇妙なことが起きた。
道の端に、老人が座っていた。
旅装束のような格好で、薄汚れた道中合羽を着ている。顔を見ると、やたらと目が明るかった。
「兄ちゃん、どこへ行く」と老人は言った。
「ちょっと歩いてます」
「一人か?」
「一人です」
「そうか。いい歳になっても一人で歩くのは、なかなか良いものだ」
圓次は礼儀として、老人の隣に腰を下ろした。
「おじいさんは?」
「わしか。わしもちょっと歩いている」
「この辺に住んでいる方ですか」
「まあ、そんなようなものだ」
老人は山の方を見た。「落語をやっているのか?」
圓次はぎょっとした。「なぜ分かるんですか」
「顔を見れば分かる。面白い顔をしとる」
「はあ……」
「師匠はいるか?」
「……います。大変な師匠で」
「そうか。師匠というのは皆、大変なものだ。大変でない師匠は、師匠じゃない」
老人はゆっくりと立ち上がった。
「帰れ。師匠が呼んでいる」
「え?」
「早く帰れ。生きている間に、言わなきゃならないことというのがある」
圓次が答えようとしたとき、携帯電話が鳴った。見ると圓太郎からだった。
「もしもし」
「圓次兄さん! 師匠が……師匠が生き返った! というか、いったん死んで、また……とにかく来てくれ!」
電話を切って振り返ると、老人の姿はなかった。
道の端に、古びた文庫本が一冊落ちていた。拾い上げると、表紙に「中山道道中記 善次郎」と書いてあった。
終章 この秋は、山ではなく中山道へ
圓生師匠は、その後、奇跡的な回復を遂げた。
医師たちは首をひねった。昨晩確認された死亡が、今朝になって覆るということは、医学的にあり得ないはずだった。しかしあり得ない事実は目の前にある。師匠は食欲旺盛で、弟子たちに囲まれて昔話に花を咲かせ、翌日には病院に連れていかれたが、検査結果はいずれも「年齢の割に健康」という評価だった。
二番弟子の圓次は、その日の夜に師匠宅に現れた。師匠の顔を見た瞬間、土下座して「申し訳ありませんでした」と言った。師匠は「何が申し訳ないんだ、ちょうどよかった、話がある」と言い、弟子と二人で長い時間を過ごした。
その後圓次がどんな落語をするようになったかは、また別の話だ。
僕は秋になって、中山道を歩いた。
前回歩いた続きから始めて、三日かけて次の宿場まで歩いた。一人で歩いたが、途中から、なんとなく一緒に歩いている気配がした。
ぱふの気配だ。
足元を歩く小さな存在。振り返ると何もないが、また歩き出すと、ついてくる。
「居るのか?」と一度だけ声に出して聞いた。
返事はなかった。でも歩みは止まらなかった。
二日目の夕暮れ、峠を越えたところで、古い茶店の跡を見つけた。今は廃屋だが、石垣だけが残っている。その石垣の前で立ち止まると、なぜか「ここだ」という感覚があった。
何がここなのかは分からない。しかしとにかく立ち止まって、山の夕焼けを見た。
その時、分かった。
何が分かったかを文章で書くのは難しい。ただ、今までずっと、喉の奥に詰まっていたものが、すとんと落ちた感覚があった。ぱふが死んで、何もできなかったこと。仕事の方向性を見失っていたこと。自分がどこへ向かっているのか分からなくなっていたこと。
そういうもろもろが、夕日の中で、少し解けた。
その夜、宿でうとうとしていると、枕元に温かいものが丸まった。
目を開けると、何もいなかった。
でも温かさは残っていた。
翌朝、目覚めたとき、スマートフォンに着信があった。知らない番号だった。出ると、しゃがれた声の男だった。
「おい」
「……甚七さんか?」
「そうだ。携帯電話の番号というのは、どこで手に入れるんだ。便利なものだな」
「死神も携帯を使うのか」
「同僚に聞いた。上司には内緒だ。……どうだ、中山道は」
「歩いた。分かったような気がする」
「そうか」
「ぱふは?」
短い沈黙。
「今夜、帰る」
「本当か」
「嘘は言わん。帰り道を教えてやった。あとはそいつ次第だ」
電話が切れた。
その夜、家に帰ると、玄関の前に犬がいた。
真っ白い犬。ぱふにそっくりだが、ぱふより少し毛並みがいい。歳の取り方も少し若い。
「ぱふか?」
犬は何も言わなかった。当たり前だ。犬は喋らない。
ただ、玄関に入ると、ついてきた。
台所に行くとついてきた。
布団を敷くと、その上に乗ってきた。
僕は笑った。久しぶりに、本当に笑った。
死神の噺には、色々な結末がある。
ろうそくが消えて終わるものもあれば、机の上に引き倒されて終わるものもある。
でも本当の結末というのは、噺家それぞれが決めるものだと、師匠は言っていた。
「落語というのはな、型じゃない。型の中に、自分を見つけることだ」
この秋の中山道が、僕にとっての結末だったのか、それとも始まりだったのか、それはまだ分からない。
ただ、玄関の前に犬がいたこと。
それだけは本当だ。
死神さん、ありがとう。
善次郎も、ありがとう。
―― 了 ――
Amazon Kindle
あとがき(これは嘘のあとがきである)
本書は夢を元に書かれた。
夢の中に、死神が出てきた。落語の「死神」の噺に出てくるような死神だったが、口調は江戸っ子で、態度は横柄で、しかしどこか人情があった。
「死者移送管理局」という組織は、実在しない(多分)。「甚七」という名前の死神も、実在しない(多分)。ただし中山道は実在するし、宿場も実在する。善次郎という先祖については、確認できていない。
ぱふについては、実在した。
「あじゃらかもくれん、きゅうらいす、てけれっつのぱー」という呪文は、落語「死神」に登場する本物の呪文である。実際に効くかどうかは、試した方のみぞ知る。
本書の出版に際し、死神甚七氏には無断で実名(仮名)を使用した。苦情は受け付けていない。というより、受け付ける窓口がない。
中山道は、良い道だ。
秋に歩くといい。

