月の裏側ダイヤモンド計画
~カミさんは金属アレルギー~



〜まえがき〜

人類は、月へ行った。

火星を目指し、
ブラックホールを研究し、
宇宙の果てに耳を澄ませてきた。

しかし――。

婚約指輪の問題だけは、
なかなか解決できなかった。

「給料三ヶ月分」

いつ誰が決めたのかも分からない、
昭和から続く謎の呪文。

その呪文は、
令和になっても、
静かに男たちの財布を締め上げ続けている。

本作は、
そんな“小さすぎる悩み”を、
宇宙規模に拡大した物語です。

ダイヤモンド惑星を月の裏側まで運ぶ。
国家予算を投入する。
国連が動く。
世界が団結する。

けれど最後に残るのは、
味噌汁の湯気と、
「おかえり」の声だったりします。

宇宙時代になっても、
人間はたぶん、
そんなに変わりません。

愛に悩み、
見栄を張り、
ロマンに振り回され、
それでも誰かと一緒に生きていこうとする。

この物語が、
笑いながら、
少しだけ誰かを好きになれる時間になれば幸いです。




序章 ショーウィンドウの前で固まる男たち

新宿三丁目、伊勢丹本館の宝飾フロア。

蒲田誠一郎、三十四歳、独立行政法人「宇宙資源開発機構(JSRA)」総務部勤務、年収四百八十万円。彼はショーウィンドウの前で、人生で三度目の冷や汗をかいていた。

一度目は中学受験の合格発表。二度目は美咲にプロポーズの言葉を切り出した時。そして今、三度目は、ガラスの向こうに鎮座する小さな金属の輪っかを見つめながら、電卓を片手に固まっている。

「給料の、三ヶ月分……」

つぶやいた声は、隣で同じく石化している見知らぬ若いサラリーマンにも届いたらしい。彼は深く頷き、無言で握手を求めてきた。蒲田はその手を握り返した。世代も会社も違う男たちが、宝飾店の前で連帯する。これが令和の風景である。

百四十四万円。

誰が決めたのだ、これは。誰の入れ知恵で、いつから日本男児は給料三ヶ月分を婚約指輪に注ぎ込まねばならなくなったのだ。

蒲田は知っていた。これは一九七〇年代、デビアス社が日本市場向けに打ち出したキャッチコピーであり、世界中で唯一日本でだけ定着した、半ば呪いのような数字であることを。それなのに、令和の今に至るまで、この亡霊は男たちの首根っこを掴んで離さない。

彼は電卓を叩いた。家賃、光熱費、奨学金の残債、新居の敷金礼金、結婚式費用——

「……無理だな」

それでも、買わねばならない。なぜなら、いずれ。いずれ十年後、二十年後、夫婦喧嘩のどん詰まりで、こう言われないために。

『あたし、貰ってないし』

この一言の破壊力は、核兵器級である。蒲田は知っていた。先輩の田所が、結婚十二年目にしてこの一言を食らい、三日間口を利いてもらえず、四日目に半泣きで宝飾店に駆け込んだ姿を。

——買おう。

蒲田は深呼吸して、店内へ一歩を踏み出した。

その時である。

スーツの内ポケットで、社用スマートフォンが激しく震えた。表示されているのは、入庁以来一度も連絡を寄越したことのない上司、特別研究室長・遠野博士からの直通呼び出し。

『蒲田くん、至急、霞が関へ。極秘案件だ。君の人生が変わる』

蒲田は宝飾店のドアノブに手をかけたまま、しばらく動けなかった。

人生はもう、変わる予定だったのだ。美咲と。

しかし、遠野博士の声には、何か——もっと巨大なものが、押し寄せてくる予感があった。

彼はドアノブから手を離し、ショーウィンドウのダイヤモンドに小さく頭を下げた。

「すみません、また来ます」

夜の新宿を、彼はタクシーに乗って霞が関へと走った。

この瞬間、人類史上もっともスケールの大きい、そしてもっともしょうもない国家プロジェクトが、静かに動き出していたのである。



第一章 昭和の呪い、令和に立つ

霞が関の合同庁舎、地下三階。

蒲田が案内されたのは、内閣府の機密会議室だった。重厚な扉が音もなく開き、中には十数名の男女が円卓を囲んでいる。経産省、財務省、JAXA、文科省、そしてなぜか厚生労働省の少子化対策担当官までいた。

円卓の中央に立っていたのは、白衣の老人——遠野博士、七十二歳。蒲田の所属するJSRA特別研究室の室長であり、若い頃はNASAで小惑星軌道力学を研究していたという伝説の科学者である。

「蒲田くん、よく来た。座りたまえ」

蒲田が末席に座ると、博士はおもむろにスクリーンを起動した。

映し出されたのは、夜空の一点を拡大した画像だった。

「諸君。これが、かに座方向、地球から四十光年の位置に存在する系外惑星——かに座55番星eである」

博士は咳払いをし、続けた。

「公式名称『55 Cancri e』。直径約二万五千キロ、地球の約二倍。表面温度は二千四百度。そして——」

スクリーンが切り替わり、惑星の断面図が表示される。

「この惑星の内部は、ダイヤモンドで構成されている可能性が極めて高い」

会議室がざわめいた。

「炭素を主成分とする惑星であることは二〇一二年の論文で示唆されていたが、近年の我が国の観測衛星『SHINE-α』の分光分析により、内部の少なくとも三分の一がダイヤモンド結晶であることがほぼ確定した」

財務省の参事官が手を挙げた。

「博士、その情報は……経済的にはどのような意味を持つのですか」

遠野博士は、ニヤリと笑った。

「単純計算で、地球上の全ダイヤモンド埋蔵量の——おおよそ二京倍である」

会議室が沈黙した。

「二京……ばい?」

「二、京、倍」

蒲田は思わずつぶやいた。「ダイヤモンドの価値が、ゼロになりますね」

遠野博士は、彼を真っ直ぐに見つめて言った。

「そうだ、蒲田くん。それが、この計画の本質だ」

博士は円卓を見渡し、声を張った。

「諸君。私は若い頃、婚約指輪を買うのに半年間カップ麺だけで暮らした。当時の妻——今の妻だが——に『これだけ苦労した』と言ったところ、こう返された。『あら、私、別にダイヤモンドじゃなくてもよかったのよ』」

博士の目に、深い哀しみが宿った。

「これは個人の問題ではない。日本男児の構造的負債である」

少子化対策担当官が深く頷いた。「結婚に踏み切れない男性の三七・二パーセントが、初期費用、特に婚約指輪を理由に挙げています」

経産省の課長が続けた。「『給料の三ヶ月分』というキャッチコピーが昭和の頃に定着し、デフレ後も消費者心理として残存。婚姻数低下の隠れた要因です」

遠野博士は腕を組み、宣言した。

「ならば、我々が国家として、この呪縛を解く。ダイヤモンドの価値を、暴落させる。そのために——」

スクリーンが切り替わった。

そこには、巨大な探査船の設計図が映し出されていた。全長三キロ、イオンエンジン一万基、ワームホール航法試験機。船体の脇腹には、毛筆書きで——

『永遠の輝き号』

蒲田は呆然と画面を見つめた。

「これは……」

「作戦名『OPERATION: ETERNAL SHINE』」

遠野博士は、にっこりと微笑んだ。

「かに座55番星eを、月の裏側まで、連れて帰る」



第二章 大型はやぶさ計画、始動

「は……はやぶさで、惑星を……連れて帰る、ですか」

蒲田は震える声で確認した。

「そうだ」

「いえ、博士、はやぶさは確かに偉業でしたが、あれは小惑星イトカワからほんの数グラムの砂を持って帰っただけで……」

「だから『大型』のはやぶさだ」

「大型って……惑星ですよ。直径二万五千キロですよ」

「地球の二倍だ」

「持って帰れるんですか、そんなもの」

遠野博士は、自信たっぷりに胸を張った。

「重力テザー技術だ」

会議室の壁面ディスプレイに、巨大なロープのような構造体が映し出された。

「人工ブラックホールを微小化し、惑星の重心と結合させ、それを我らが『永遠の輝き号』が牽引する。理論的には可能だ」

JAXAの主任研究員が口を挟んだ。

「博士、ワームホール航法試験はまだ前例が——」

「やってみねば分からん」

「いや、宇宙船が引きちぎられる可能性が——」

「ロマンに引きちぎられるなら本望だろう」

蒲田は、この老科学者が完全に正気を失っていることを確信した。同時に、不思議な感動も覚えていた。

『ロマンに引きちぎられるなら本望』

——これは、ダイヤモンドを買おうと宝飾店の前で固まっていた、さっきの自分への言葉でもあった。

遠野博士は蒲田の肩に手を置いた。

「君を、地上管制官の主任に任命する。婚約中の身であろう、君は」

「は、はい、まだ指輪も買えてませんが……」

「買わなくていい」

博士は声を低めた。

「君が婚約者にプロポーズするのは、月の裏側だ。直径二万五千キロのダイヤモンド惑星の上で、好きなだけ採取してプロポーズしたまえ」

蒲田の頭の中で、何かが弾けた音がした。

それは、昭和の呪縛が崩壊する音だったかもしれない。

あるいは、ただ単に、彼の常識が爆発四散した音だったかもしれない。

「やります。やらせてください」

蒲田は立ち上がり、深々と頭を下げた。

「日本中の男性のために」

会議室に拍手が湧き起こった。

その夜、彼は美咲のアパートへ帰り、何食わぬ顔で食卓についた。美咲が嬉しそうに、明日宝飾店を見に行く予定を話している。

「ねえ誠ちゃん、私ね……」

彼女は、はにかみながら言った。

「誕生石、ダイヤモンドなの」

蒲田は味噌汁を吹いた。

天井を見上げ、彼は心の中で叫んだ。

——博士、間に合いません、間に合いません、急いでください!



第三章 永遠の輝き号、種子島より発進す

それから二年が経った。

種子島宇宙センター。

蒲田は管制室の最前列で、巨大な発射台を見上げていた。

全長三キロの探査船『永遠の輝き号』は、夕日に照らされてその全貌を見せていた。船体には、書道家・金澤翔子氏揮毫による「永遠の輝き」の四文字が、力強く描かれている。

「総理、いよいよです」

蒲田の隣で、内閣総理大臣が腕を組んでいた。彼もまた、若い頃に給料三ヶ月分で苦労した一人である。

「蒲田くん」

「はい」

「日本男児の未来、頼んだぞ」

「はい!」

カウントダウンが始まった。

10、9、8——

蒲田のポケットでスマートフォンが震えた。美咲からのLINEだった。

『結婚式場、ホテルニューオータニにしたよ。あと、引き出物のカタログ送ったから見ておいてね』

7、6、5——

『あ、それと、新婚旅行はモルディブで決まり! 指輪はね、月の石使ったやつとかロマンチックよね』

蒲田は、息を呑んだ。

——美咲、君のセンスは未来を予言している。

4、3、2、1——

点火。

イオンエンジン一万基が一斉に咆哮し、巨大な閃光が種子島の空を引き裂いた。地響き。そして加速。永遠の輝き号は、九州の夜空を駆け上がっていった。

「ワームホール突入、十二分後!」

管制室のオペレーターが叫ぶ。

蒲田は、夜空を仰いだ。

四十光年の彼方へ。日本男児の希望が、今、飛び立ったのである。

そしてその傍ら、彼のスマートフォンは、引き続き美咲からの式場の段取り連絡で、絶え間なく震え続けていた。

ロマンと現実は、いつだって同時に進行する。それが結婚というものだった。



第四章 四十光年の航海と、独身男たちの会議

永遠の輝き号、乗組員十二名。全員独身男性。理由は遠野博士の謎理論——「結婚の苦しみを知らぬ者では、この使命を全うできぬ」。

ワームホールを抜け、亜光速航行に入った船内では、毎晩のように奇妙な会議が開かれていた。

「では、本日の議題。元カノから返ってこないアクセサリーをどう処理するか」

議長はベテラン宇宙飛行士・桐生 大悟、四十歳、独身、過去の交際歴七回、すべて指輪を渡したまま音信不通。

「桐生さん、七個も……それ、もう博物館ですよ」

若手の早乙女が呆れる。

「だからこそ、今回の使命に魂を懸けてるんだ。日本男児の鏡となるべく、俺は」

副長の中条が静かに口を開いた。

「私は、結納金で家を建てられました」

「は?」

「妻側に、です。建ててもらいました、妻側のご両親のために」

「逆?!」

「ええ。だから、私は二度と結婚しません。今回の使命を終えて地球に戻ったら、そのまま独身寮で生涯を終えます」

「重い……」

会議室は、しみじみとした空気に包まれた。

通信オペレーターの白井が、画面を覗き込みながら言った。

「皆さん、地球から蒲田管制官の通信です」

スクリーンに、蒲田の顔が映った。なぜか彼は、自宅のキッチンにいた。背景でエプロン姿の女性が動いている。

『——皆さん、お疲れ様です。地上は順調です。今、ええと、家で婚約者と夕食を……』

「蒲田っ! お前は地球で幸せそうにするなッ!」

桐生が叫んだ。

『す、すみませんっ』

『誠ちゃん、誰と話してるのー?』

『仕事の人だよ、宇宙の』

『また宇宙ぅ? もう、ご飯冷めちゃうよぉ』

通信が切れた。船内に、深い静寂が訪れた。

中条が、ぽつりと言った。

「蒲田管制官は、我々の希望ですね」

「ですね」

「ですね」

——四十光年の彼方で、独身男たちが、ひとつになった瞬間であった。



第五章 惑星到達、そして合掌

航海開始から船内時間で十一ヶ月。

ついに、永遠の輝き号は目的地に到達した。

スクリーン全面に広がったのは——青白く輝く巨大な球体。

太陽光を浴びて、惑星全体がプリズムのように虹色を発している。表面のあちこちに、結晶構造の襞が見える。

それは、宇宙そのものを宝石箱に詰め込んだような、圧倒的な美しさだった。

乗組員一同、誰からともなく、合掌した。

「……南無……」

「……日本男児を……」

「……救いたまえ……」

桐生が、震える声で言った。

「俺たちは、これを地球まで持って帰る。月の裏側に置く。そして——」

彼は拳を握りしめた。

「全国の安月給の若者たちが、ここでプロポーズできるようにする」

中条が涙を流した。

「婚約指輪のために、人生を捧げなくていい時代を、作るのだ」

早乙女が、敬礼した。

「日本男児、ここに、宇宙を制す」

地球の管制室では、蒲田が映像を見ながら、同じく合掌していた。

その隣で、見学に来ていた美咲が、目を丸くしていた。

「ねえ誠ちゃん、これ、何の番組?」

「ドキュメンタリーだよ。すごく大事な」

「ふーん。きれいね、この星」

「うん、きれいだろう」

「ねえ、これ、何で出来てるの?」

蒲田は、静かに微笑んだ。

「全部、ダイヤモンドだよ」

美咲は、しばらく画面を見つめていた。

それから、ぽつりと言った。

「……あ、そうそう。私、金属アレルギーかも」

蒲田の合掌した手が、空中で固まった。

「……今、なんて」

「皮膚科行ったらね、ピアスの傷が治らないから検査受けたの。そしたらね、金属全般ダメっぽいって」

「……金属、全般」

「うん。ニッケルも金もプラチナもダメ。ま、指輪はやめとこっか、って先生に言われちゃった」

蒲田の視界が、暗転した。

スクリーンの中では、独身男たちが、二万五千キロのダイヤモンド惑星を前に、感涙にむせんでいた。

——博士。

蒲田は、心の中でつぶやいた。

——博士、計画に、致命的な欠陥がありました。



第六章 国際宇宙チキンレース

蒲田が呆然としている間にも、永遠の輝き号は仕事を始めていた。

人工微小ブラックホールを惑星の重心に挿入し、重力テザーで結合。エンジン出力最大。亜光速での牽引航行が始まった。

ところが——

「警告。未確認の宇宙艦隊、後方より接近」

通信オペレーターの白井が、緊張した声で報告した。

スクリーンに映ったのは、三隻の宇宙船。船体に描かれた国旗——星条旗、五星紅旗、そしてインド国旗。

「アメリカ、中国、インド……同時に来やがった」

桐生が舌打ちした。

通信が入った。アメリカ艦の艦長、白人の中年男性。

『ヘイ、ジャパニーズ。その惑星、シェアしないか? うちのカントリーも、エンゲージメントリングで男たちが苦しんでる』

中国艦の艦長、無表情な軍人。

『中華人民共和国も、結婚難の解決を急いでいる。三分の一をいただきたい』

インド艦の艦長、ターバンを巻いた紳士。

『私の国では、ダウリー(持参金)で女性側が苦しむ。逆だが、根は同じだ。ぜひ、共同利用を』

桐生は、頭を抱えた。

「ど、どうする中条さん」

中条は、しばし考え、それから通信機を取った。

『——皆さん、お聞きください。我々日本男児の苦しみは、世界共通の苦しみであった。であれば、これは一国の問題ではない。人類の問題である』

中条は、毅然と告げた。

『月軌道での共同管理を提案します』

スクリーンの向こうで、三人の艦長が深く頷いた。

『日本、お前さん、いい男だな』

『中国、賛成する』

『インド、永遠の友情を』

——こうして、宇宙の真ん中で、人類史上最も平和な国際会議が開かれた。

議題は『婚約指輪からの解放』。

地球では、緊急の国連総会が招集された。

ニューヨーク。国連本部。

各国代表が、次々と本音を告白する場となった。

フランス代表「私の祖父の代から、カルティエの指輪が家系の重圧でして」

ドイツ代表「うちは三ヶ月分どころか、ベンツ一台分です」

韓国代表「ウェディングの予算は、家一軒分が常識でして」

イタリア代表「マンマが指輪のグレードに口を出してきまして、ええ、もう、地獄でして」

ブラジル代表「ジャングルから採掘して何とか凌いでいますが、限界です」

——世界中の男たちが、密かに苦しんでいたのである。

国連事務総長は、満場一致で宣言した。

「ダイヤモンド惑星共同管理条約、ここに採択する」

会場が、拍手と涙に包まれた。

蒲田は、東京から中継を見ながら、ひとり呟いた。

「……うちの嫁、指輪つけられないんですけど」

世界は彼の悩みには気づかないまま、新時代へと進んでいった。



第七章 セカンドムーン、月の裏側に係留される

永遠の輝き号、地球圏帰還。

惑星牽引航行、地球時間にして二年四ヶ月。

人類は、息を呑んで、月の裏側を見つめていた。

——もちろん、地上からは月の裏側は見えない。だから、人類は月の表側を見ながら、その向こうにあるはずの新天体を想像していた、と言うべきだろう。

NASA、JAXA、ESA合同の中継映像が、世界中に配信された。

月の向こう側に、ゆっくりと姿を現す、青白い巨大球体。

太陽光を浴びて、宇宙空間で虹色にきらめくその姿は——

「うわぁ……」

世界中の人々が、息を呑んだ。

それは美しかった。圧倒的に、美しかった。

国連事務総長が、厳かに宣言した。

「本天体を、Second Moon——セカンドムーン——と命名する。これは、人類共通の宝である」

各国の宝飾業界は、この瞬間、株価が暴落した。

デビアス社、ティファニー、カルティエ、ハリー・ウィンストン——ダイヤモンド供給量が無限になることを意味する以上、希少価値はゼロに等しい。

しかし、不思議なことに、宝飾業界はパニックにならなかった。

なぜなら——

「採掘ツアー、爆発的に売れています!」

JTBの広報担当が、興奮した声で発表した。

「プロポーズ採掘パック・二泊三日、お一人様三十八万円。発売一時間で年内分が完売しました」

HISが追随。

「カップル限定・月面ピクニックプラン、九十八万円。初日で五千組の予約です」

近畿日本ツーリストも。

「ご家族で行こう! お子様の誕生石も採れる! ファミリープラン、想定の十倍の問い合わせです」

——ダイヤモンドは、希少だから売れていたのではなかった。

「プロポーズの舞台」として、人々はダイヤモンドを欲していたのだ。

そしてその舞台が、月の裏側にできた以上、男たちは喜んで月へ行く。安月給でも、ボーナス払いでも、月に行ける。三十八万円ならば、なんとかなる。給料の一ヶ月分以下である。

蒲田は、管制室で報告書を読みながら、満足げに頷いた。

「博士、計画は成功です。日本男児は、救われました」

遠野博士は、満面の笑みで頷いた。

「うむ。あとは、君自身のプロポーズだな、蒲田くん」

蒲田の顔が、すっと曇った。

「……博士、ちょっと、ご相談が」

「なんだ」

「うちの婚約者、金属アレルギーでして」

遠野博士は、メガネを落とした。



第八章 蒲田家、月へ行く

それでも、蒲田と美咲は月へ行った。

最初の社員家族向け招待ツアーに、JSRA関係者として参加できたのである。

スペースシャトル『月詣(つきもうで)号』が、東京湾の海上発射場から飛び立った。乗客二百名。新婚予定カップル多数。

美咲は窓に張り付いて、はしゃいでいた。

「誠ちゃん、地球がまるーい!」

「うん、丸いよね」

「すごーい、雲が下にあるー」

「うん、雲は下だよね」

——彼女は、結婚式場の見積もりにも、新居の家賃にも、引き出物のカタログにも一度たりとも興奮したことはなかった。だが、今、彼女は宇宙に来て、初めて子供のように笑っていた。

蒲田は、ふと思った。

『もしかして、こいつ、ダイヤモンドなんかどうでもよかったんじゃないか』

——いや、待て。

彼女は確かに言ったのだ。「私、誕生石ダイヤモンドなの」と。あれは、確かに圧をかけてきた発言ではなかったか。

しかしその後、「金属アレルギーだから指輪は無理」と言ったのも、彼女である。

蒲田の中で、何かが、繋がりかけていた。

『まさか、ダイヤモンドの惑星を月の裏側まで連れてきたのは、ぜんぶ、俺の早合点……?』

その思考を、彼は慌てて打ち消した。

——いや、日本男児全体の救済のためだ。俺だけの問題じゃない。そうだ、そういうことにしよう。

月詣号は、月の裏側に到達した。

セカンドムーンの表面に着陸船が降下していく。窓の外いっぱいに広がるのは、銀河系の星々を反射してきらめく、ダイヤモンドの大地。

「うわぁぁぁ……」

美咲は、絶句した。

蒲田は、彼女の手を取って、着陸船を降りた。

宇宙服越しに、ダイヤモンドの大地を踏みしめる。

足元で、結晶が、きらきらと、星屑のように散らばっている。彼は屈み、ひとつの大粒の原石を拾い上げた。クルミほどの大きさ。地球で換算すれば、十億円は下らないであろう代物。

それを、宇宙服のポケットに入れ、そのまま——

片膝を、ついた。

「美咲さん」

ヘルメット越しに、彼女の目を見つめた。

「俺と、結婚してください」

美咲は、ヘルメットの中で、涙を流していた。

その涙が、無重力で粒となって、彼女の頬の周りを浮遊した。

「うん」

彼女は、頷いた。

「うん、結婚する。誠ちゃんと、結婚する」

宇宙服の手袋越しに、二人は手を取り合った。

セカンドムーンの上で、人類史上もっともスケールの大きいプロポーズが、成功したのである。

地球の管制室では、遠野博士をはじめ、計画関係者全員が立ち上がって拍手していた。

世界中のメディアが、この瞬間を中継で報じた。

『日本の男性、月でプロポーズに成功』
『SECOND MOON ROMANCE, FIRST SUCCESS』
『ダイヤモンド惑星、初の婚約成立』

蒲田家のささやかな出来事は、奇しくも歴史的な瞬間となった。

——あとは、地球で、指輪に加工するだけである。

そう、加工するだけ、なのだが——



第九章 茶の間にて、すべてが崩壊する

東京、世田谷区。蒲田家、新居のリビング。

引っ越しを終えたばかりの部屋には、まだ段ボールが積まれていた。

蒲田は、その中で、小さな箱を取り出した。

渋谷の老舗宝飾店で加工してもらった、世界初の『セカンドムーン産ダイヤモンド・リング』。

職人は原石を見た瞬間、震える手で「これは……これは……」とつぶやき、涙を流した。「私の生涯で、最も純度の高いダイヤモンドです」と、彼は言った。

カットは伝統のラウンドブリリアント、五十七面体。台座はプラチナ950、シンプルで上品なソリテール。

蒲田は、その箱を持って、ソファに座る美咲の前に、跪いた。

二度目の、プロポーズ。

「美咲、これを」

箱を開けた。

ダイヤモンドが、リビングの蛍光灯の下で、銀河系を凝縮したような輝きを放った。

美咲は、目を丸くして、しばし、それを見つめていた。

そして、にっこりと、笑った。

「ありがとう、誠ちゃん」

そして、こう続けた。

「あのね、誠ちゃん。私ね……」

蒲田の心臓が、嫌な予感に跳ねた。

「金属アレルギーなの」

蒲田の世界が、止まった。

「……知ってる」

「うん。だから、これね、つけられないの」

「……知ってる」

「ごめんね?」

「……知ってる」

蒲田は、リングの箱を持ったまま、しばらく動けなかった。

リビングの時計が、こちん、と音を立てた。

——四十光年。

——二年と四ヶ月の航海。

——国際宇宙チキンレース。

——国連会議。

——セカンドムーン創設。

——日本男児全体の救済。

——月面プロポーズ。

——銀河系で最も純度の高いダイヤモンド。

——プラチナ950の台座。

すべての努力が、プラチナ950という、たった一語の前で、無効化された。

蒲田は、リングを箱に戻した。

そして、ぽつりと言った。

「美咲」

「うん」

「最初に言っといてよ、それ」

「えへへ。だって、ロマンチックだったから、最後まで黙ってたかったの」

「……」

「ねえ誠ちゃん、お味噌汁、温め直そうか?」

「……うん、お願い」

美咲は立ち上がり、台所へ消えた。

蒲田は、箱の中のダイヤモンドを見つめた。

セカンドムーンを写したような、宇宙そのものの輝きが、そこにあった。

彼は、ふと、笑った。

笑い始めて、止まらなくなった。

「ははは……」

「ははははは……」

「笑 笑 笑」

宇宙を制した男の、最後の砦が、台所で味噌汁を温めていた。



第十章 遠野博士、第二次計画を発動する

翌日、蒲田はJSRAの特別研究室に出勤し、遠野博士に報告した。

「博士、指輪、つけられませんでした」

「……金属アレルギーか」

「はい」

「すべての金属か」

「すべての金属、です」

遠野博士は、長い沈黙の後、立ち上がった。

そして、ホワイトボードに、巨大な文字でこう書いた。

『OPERATION: ETERNAL SHINE Ⅱ』
『金属を、使わない』

「博士、それは——」

「台座を、金属以外で作る」

蒲田の目が、見開かれた。

「木材、樹脂、シリコン、セラミック、カーボンファイバー、漆——あらゆる素材を試作する。日本男児の救済は、まだ終わっていない」

博士は、燃えるような目で蒲田を見た。

「金属アレルギーの妻を持つ、すべての夫たちのために」

蒲田は、深く頷いた。

「博士、ご一緒します」

——こうして、第二次国家プロジェクトが始動した。

その間にも、世界では、新たな問題が次々と発覚していた。

『金属アレルギーの婚約者、世界で三億人』

医療統計が示すところによれば、世界人口の約四パーセントが何らかの金属アレルギーを抱えており、ダイヤモンド惑星があってもなくても、指輪そのものを装着できない人々が、相当数いたのである。

セカンドムーンを月軌道に係留した後で、人類は気づいたのだ。

『問題は、ダイヤモンドではなかったかもしれない』

しかし、もう惑星は連れてきてしまった。

そして、月の裏側で煌めき続けている。

人類は、後戻りできない場所まで来てしまったのだった。



第十一章 ネックレスという、希望の光

蒲田家。新居のリビング。

美咲が、夕食の支度をしながら、ぽつりと言った。

「ねえ誠ちゃん、ネックレスなら、お洋服の上から着けられるよ」

蒲田は、味噌汁の椀から顔を上げた。

「……ネックレス?」

「うん。チェーンが直接お肌に当たらなければ、平気みたい」

「肌に、直接触れなければ」

「うん。あ、それかね、シリコンチェーンなら、直に触れても平気みたい」

蒲田の脳裏に、再び、光が差した。

——希望。

——希望が、ここにある。

「美咲」

「うん?」

「俺、もう一回、月に行ってくる」

「え?」

「ネックレス用の、もっとデカい原石を、採ってくる」

美咲は、首を傾げた。

「もったいなくない? もう一個あるよ、指輪のやつ」

蒲田は、首を振った。

「あれは、置物にする。永遠の輝き、として」

「……ふーん」

美咲は、しばらく考えてから、にっこりと笑った。

「じゃあ、待ってる。気をつけて行ってきてね」

——夫婦というものは、おかしなものである。

四十光年の彼方から惑星を引っ張ってきても、台所の味噌汁の前では、ただの夫婦になる。

しかし、その『ただの夫婦』のために、男はもう一度、月へ行く。

蒲田は、その夜、空を見上げた。

満月だった。その裏側に、見えないけれども、確かにある、セカンドムーン。

「……ネックレスのために、もう一回」

彼は、つぶやいた。

「ロマンに引きちぎられるなら、本望だ」

遠野博士の言葉が、彼の中で、生き続けていた。



第十二章 ジャガイモ型ダイヤモンド星

それから三年。

セカンドムーンは、もはや当初の球形ではなくなっていた。

世界中の男たちが、ネックレス、ピアス、ブローチ、ティアラ、果ては仏壇の飾りまで、こぞって採掘に押し寄せた結果、惑星の片面が、ごっそりと削られていたのである。

天文学者たちは、新たな名称を提案した。

『ジャガイモ型ダイヤモンド星』

国連は、最初これに反対した。「ロマンに欠ける」と。

しかし、形状がどう見てもジャガイモだったため、結局採用された。

月の裏側を観測する宇宙望遠鏡からは、半分削られた巨大ジャガイモが、太陽光を浴びてキラキラと光っている姿が、毎日確認された。

地球の子供たちは、宇宙の絵を描く時、月の隣に必ずジャガイモを描くようになった。

宇宙の風景は、変わってしまったのである。

しかし、誰も文句を言わなかった。

なぜなら——

『婚約指輪のために借金する人が、世界中で激減した』

これが、最大の成果だったからである。

少子化対策担当官は、報告書にこう記した。

『婚姻数、対前年比一三七パーセント。離婚率、九十二パーセントに低下』
『プロポーズ成功率、九十八・四パーセント』
『「あたし、貰ってないし」発言、ほぼ消滅』

国家プロジェクトは、大成功であった。

蒲田は、二度目の月旅行から戻り、巨大なペンダントトップを美咲に贈った。シリコンチェーンに、銀河系の星屑のような輝きを放つダイヤモンド。

美咲は、それを首にかけ、嬉しそうに笑った。

「重い」

「……うん、重いよね」

「肩こりそう」

「……だろうね」

「でも、きれいねぇ」

「……うん」

——夫婦は、こうして、また日常へと戻っていった。



第十三章 遠野博士、勲章を辞退する

国家プロジェクトの大成功により、政府は遠野博士に最高位の勲章を授与しようとした。

しかし、博士はこれを丁重に辞退した。

授与式の代わりに、彼が望んだのは、ひとつの、ささやかなことだった。

「妻と、月へ行きたい」

博士は、七十五歳になっていた。

JSRAは、特別便を手配した。博士夫妻のための、貸し切り月詣号。

博士は、白衣を脱ぎ、よれよれのカーディガンを着て、夫人と共に宇宙服を着用した。

夫人は、博士より三歳年下、白髪の優しい老婦人だった。

セカンドムーン、いやジャガイモ型ダイヤモンド星に着陸した二人は、ゆっくりと手を取り合って、結晶の大地を歩いた。

博士は、ひとつの小さな原石を拾った。

そして、夫人に渡しながら、言った。

「すまんかった、五十年も、待たせて」

夫人は、しばらくそれを見つめてから、笑った。

「あらやだ、こんな大きいの。重いから、要らないわ」

博士は、夫人の手を握った。

「……だろうな」

「でもね」

夫人は、博士の顔を見て、優しく言った。

「あなたが、私のために、これを採りに来てくれたこと——それは、永遠の輝きよ」

博士の宇宙服の中で、涙が、無重力で粒となって浮遊した。

地球の管制室では、蒲田が、その映像を見ながら、静かに泣いていた。

ダイヤモンドは、別に、要らなかったのかもしれない。

しかし、ダイヤモンドのために、男が宇宙の果てまで行く——その姿そのものが、もしかすると、最初から、永遠の輝きだったのかもしれない。

蒲田は、自宅に戻って、美咲を抱きしめた。

「どうしたの、誠ちゃん?」

「いや……ただ、ありがとう、って」

「えへへ、何それ」

——彼は、もう一つ、気づいてしまったことがあった。

セカンドムーンに行く前から、美咲は、彼のことが好きだった、ということに。

ダイヤモンドの有無は、最初から、関係なかったのだ。

ただ、ロマンチックな『誕生石ダイヤモンド』発言で、ちょっと夫を試してみたかっただけ——それだけだったのかもしれない。

そして夫は、その試しに応えて、惑星をひとつ、地球まで引っ張ってきた。

『笑 笑 笑』

これが、令和の、ある夫婦の、宇宙叙事詩の真相であった。

終章 永遠の輝きは、茶の間にあった

それから、五年が経った。

蒲田は、JSRAの室長に昇進していた。遠野博士は退官し、七十八歳になった今も、自宅で『金属アレルギー対応・新素材ジュエリー』の研究を続けている。

世田谷区、蒲田家のリビング。

蒲田の膝の上には、三歳になる娘がいた。名前は『輝(ひかり)』。永遠の輝きから取った名前である。

「お父さん、お月さま、見えるー!」

娘が窓を指差した。

満月だった。

「うん、見えるね」

「あのね、保育園で習ったの。お月さまの裏に、宝石のおイモがあるんだって!」

蒲田は、笑った。

「ああ、ジャガイモ星だね」

「お父さんが、運んできたんでしょー?」

「……ま、お父さん一人じゃないけどね」

「すごーい!」

——娘の世代にとって、ジャガイモ型ダイヤモンド星は、当たり前の宇宙風景になっていた。

蒲田は、ふと、テレビ台に置かれた小さなショーケースに目をやった。

そこには、五年前に作った、世界初のセカンドムーン産ダイヤモンドリングが、永遠に飾られている。

一度も、誰の指にも、はまることのない、置物としての、永遠の輝き。

美咲が、台所から声をかけた。

「誠ちゃん、ご飯できたよー」

「はーい」

ちゃぶ台に、味噌汁が並んだ。

蒲田は、椀を手に取った。一口、すすった。

「……うまいね」

美咲は、首から下げたシリコンチェーンのダイヤモンドを揺らしながら、笑った。

「ふふ、ありがと」

その時、蒲田は、ふと、つぶやいた。

「ダイヤモンドは、永遠の輝き、か」

美咲が、首を傾げた。

「えっ、何か言った?」

蒲田は、首を振った。

「いや、なんでもない」

「ふーん?」

——彼は、見上げた。

天井の向こう、空の向こう、月の向こう、その裏側に、削られたジャガイモ型の惑星が、静かに浮かんでいる。

人類が、宇宙の果てまで行って、ようやくたどり着いた答えは——

『永遠の輝きは、茶の間の味噌汁の中にあった』

ということだった、のかもしれない。

美咲が、笑った。

「もう、誠ちゃん、変な顔して」

「うん」

「笑 笑 笑」

——惑星を動かしても、夫婦のオチは、動かない。

それが、人類が宇宙時代に学んだ、最も大切な真理であった。

〈了〉



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〜あとがき〜

最後までお読みいただき、
本当にありがとうございました。

この物語を書きながら、
私は何度も思いました。

「人類、そこまでしてダイヤモンド欲しいか?」

と。

けれど書き進めるうちに、
だんだん分かってきた気がします。

人が欲しかったのは、
ダイヤモンドそのものではなく、

「あなたのために、ここまでした」

という記憶だったのだと。

宇宙の果てまで行く必要は、
本当はないのかもしれません。

高価な指輪も、
巨大な惑星も、
月面プロポーズも、
なくていいのかもしれません。

それでも、
誰かのために少し無茶をする。

その不器用さこそが、
人間の“永遠の輝き”なのだと思います。

そしてたぶん、
どれだけ文明が進んでも、
最後に人を救うのは、
豪華な宝石ではなく、

温かい味噌汁と、
「おかえり」

なのだろうとも思います。

もしこの物語を読んで、
少し笑っていただけたなら。

あるいは、
誰かを思い出していただけたなら。

とても嬉しく思います。


〜参考〜
かに座55番星eについて。


実在する系外惑星。地球から約四十光年の位置にあり、二〇〇四年に発見された。スーパーアース型の岩石惑星で、二〇一二年の研究で内部に大量の炭素・ダイヤモンドが含まれる可能性が指摘された。現在の科学技術では、これを地球まで運搬することは不可能だが、本作はあくまで小説である。