”・・・この理念は、熱で私たちを貫き、私たちのなかの衝動、心情の力になるべきです。ある問いに対して得られる答えが、私たちに新たな問いを呈示すると、その理念はますます衝動、心情の力になります。問いから答えに導かれ、答えがまた問いになり、そして新しい答えがやってくるとき、その理念はますます衝動、心情の力になります。そうして、人間は精神的認識と精神的生活において前進します。”(ルドルフ・シュタイナー『エーテル界へのキリストの出現』西川隆範訳 アルテ p.7,8)
ナザレのイエス/キリスト・イエスが、生前いかに理解されなかったか、近しい弟子たちにさえ理解されていなかったかを、福音書は克明に/簡明に描く。
そしてこの周囲の無理解こそが、ゴルゴタの秘蹟への伏線であり、同時にその一部を成しているのである。
無理解が大きければ大きいほど、秘蹟の意味は増す。
いずれにしても、自分で魂の内に作り上げたイメージ体/文脈イメージに、徹底的に依存/執着していたが故に、弟子たちはキリスト・イエスを理解することができなかったのである。
しかし、決定的な出来事が起こり、事態は一変する。ゴルゴタの出来事/キリストの出来事(Christus-Erreignis)である。
弟子たちのイメージ体にとって、それは危機に他ならない。実際、彼らは自らのイメージ体を維持することができなくなり、それを脱ぎ捨てる。そして彼らは、キリストを理解することになるのである。
”一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「一番先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に使える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」”(『マルコによる福音書』 第9章)
子どものようにエーテル的視力がある人、そして他者のために自己を犠牲にできる人が求められている。しかし弟子たちにはまだそれができない。なぜならば、彼らはイメージ体の桎梏の内にあるからである。
イメージ体が精緻になり、どれほど巧みに作られても、エーテル的視力/純粋思考は生まれてこない。
キリスト・イエスは常に純粋思考の言葉で語る。表面上、純粋思考の言葉は通常の言葉と変わらない。しかし、その真意は純粋思考を以てしなければ分からないのである。
だから、弟子たちはキリスト・イエスが語る言葉の意味を理解することができなかったのである。なぜなら彼らは、イメージ体/文脈イメージに囚われていたから。
”奇妙な出来事を体験する心魂が存在するようになるでしょう。それらの心魂は個我意識を保ちながら、そのかたわらで、通常の意識の世界とはまったく別世界のなかに生きるようになります。その体験は、影のようにおぼろげなものに感じられます。秘教的な修練をとおして、明視能力はさらに高度に達成されます。けれども、人間が進化するので、自然な進化をとおして、明視力の発端が初歩的な段階で人類のなかに現れるでしょう。
しかし現代、人類にとって最も重要なこの出来事を人々が把握できない、ということが容易にありえます。以前よりも今のほうが、ずっと容易にそうなりえます。まだ影のように鈍い体験なので、それが現実の神霊世界の洞察であることを、人々がそもそも把握できないということがありえます。たとえば、陰険な唯物論が地上に広まり、多数の人間がわずかな理解さえ示さない、ということがありえます。そして、明視力を有する人が愚かだと見なされて、精神病院に入れられることがありうるでしょう。
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人間は、いままで知覚できなかったエーテル的なものを周囲に見る能力を有するようになるでしょう。いま、人間は物質的身体のみを見ています。しかし人間は、すくなくとも影のようなイメージでエーテル体を見ることができるようになり、非常に意味深い出来事をエーテルのなかで体験できるようになるでしょう。
人々は精神世界における出来事について、イメージと予感を持つようになるでしょう。その出来事は、3~4日後に物質界で実現するでしょう、人々はなにかをエーテル的なイメージのなかで見て、「これは、明日か数日後に起こる」と知るでしょう。
そのような人間の心魂能力の変化が生じるでしょう。「エーテル明視」と名付けうるものが到来するでしょう。それには何が伴うでしょうか。
キリストと呼ばれる存在が、西暦紀元の始めに地上の肉体の中に存在しました。そのような肉体の中に、キリストはもはや、やってきません。それは一度かぎりの出来事だったからです。
しかし、いま述べた時期に、キリストはエーテル的形姿のなかに再来するでしょう。人々はエーテル明視をとおしてキリストへと上昇することによって、キリストを知覚することを学ぶでしょう。キリストはもはや物質的身体のなかには下らず、エーテル体にまでしか下りません。
人間はキリストの知覚へと上昇しなければなりません。「私は地球時代の終わりまで、いつも君たちのところにいる」(「マタイ福音書」28章)というキリストの発言は本当だからです。キリストは、わたしたちの精神世界のなかにいます。特別に恵まれた者たちは、精神的・エーテル的世界で、常にキリストを知覚できます。”(ルドルフ・シュタイナー『エーテル界へのキリストの出現』西川隆範訳 アルテ p.25~28)
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純粋思考をエーテル的霊視と同一のものと考え、これをイメージ体/文脈イメージに対比させる。
1 純粋思考/エーテル的霊視ができない場合、人はイメージ体/文脈イメージに依存/執着し、現象と仮象の世界に生き、死ぬことを必要以上に恐れる。
2 純粋思考/エーテル的霊視がエーテル体に基盤を有するのに対して、イメージ体/文脈イメージは物質体とアストラル体に由来する。
2‐1 エーテル体はまだアーリマンに浸潤(しんじゅん)されてない。アストラル体はルシファーによって浸潤されている。
2‐2 アーリマンは肉体からエーテル体の方へ鉱物的死をもたらし、ルシファーはアストラル体からエーテル体の方へ反感/不快感に由来する感情的死をもたらす。
2‐3 これら鉱物的死と感情的死とによって、イメージ体/文脈イメージが作られる。影のような思考である。
2‐4 エーテル体には、復活したエーテル形姿のキリストが内在している。キリストは、アーリマンとルシファーによってもたらされる死からエーテル体を守る。しかし人間は、影のような思考を以てしては、エーテル形姿のキリストを見ることはできない。
2-5 ゴルゴタの秘蹟後、人間のエーテル体に内在するようになったキリスト、エーテル形姿のキリスト、天使存在としてのキリストを、人は純粋思考/生きた思考/エーテル的霊視によって見るようになる。
3 思春期に至る以前の子どもは、固有のアストラル体をまだ発達させていないので、ナイーブな純粋思考/エーテル的霊視を為すことができる。あくまでもナイーブで、それはごく自然ではあるけれども、そうであるが故に、他者からのアストラル的浸潤に対して無防備である。
3‐1 歯牙交代期から思春期へと至る過程(7歳~14歳)で、人間は自分自身のエーテル体を形作る。この若いエーテル体を媒介にして、子どもはナイーブな純粋思考/エーテル的霊視を為す。だから子どもは、それ以後の年齢段階の人間に比べて、格段にエーテル界が身近なのだ。やがてこのナイーブな純粋思考/エーテル的霊視の能力は、子どもから消えていく。その人間固有のアストラル体が成長を始めるからである。イメージ体/文脈イメージ/影のような思考の時が始まるのだ(14歳以降)。