自信とは、単なる感情ではない。
より高次の在り方であり、端的に言えば、それは自我そのものである。
意志的思考として自我を特徴づけることもできるから、自信をこれに結びつけることは適切である。
どういうことかと言うと、「自我」という言葉が、そもそも「わたし/Ich」の別名であるように、「わたし/Ich」というものが本質的には、「我思う、故に我在り」というイントゥイツィオーンを、古来私たち人類は、様々に呼び習わそうと努めてきたということなのだ。
ところが私たちは、それらの呼び名の意味するところを、忘れ、取り違え続け、その果てにセンチメンタリズムの迷宮、ルシファー幻想の牢獄にはまり込んだ。
だから、アーリマン/ルシファーの王国であるこの地上の世界に生きる私たちは、「自信とは感情ではなく、自我の謂いである」と聞かされたところで、それが何のことを言っているのか、さっぱり分からない、まさに無明(むみょう)の状態に陥っているのだ。
そもそも、芸術は、自我の作法以外の何ものでもない。それは、自信の別名である。
誰もがこの地上生において、生と死の深淵の際まで行き、そこに辿り着き、そこを乗り越えることで自信を深める。それは、一回限りの体験ではない。気づかないかもしれないが、この地上生で何度も、そうした境域の体験をしているのだ。
多くの場合、その恐怖に耐えきれずに、逃げ出す。だが、境域自体は、人間の魂の中にあり、いわば、誰もが自分の中にそれを携えつつ、日々の暮らしを成しているわけで、逃げても無駄なのだ。それは、いつもそこにある!
あなたの生と死とは、二つの別のものではない。生の別名が死であり、死の別名が生なのだ。
もちろん、私は、あらゆるセンチメンタリズムを超えたところで、このように言っているのだ。