芸術において、霊的な死とは、
それは、端的に、マテリアリズムとセンチメンタリズムの誘惑に負けることに他ならない。
もちろん、それらの誘惑に対する鈍感さについては、言わずもがな。
誘惑であるとさえ、思ってもみないのであるから。
ミームを既成事実のように受け入れて、そのことに無頓着であるとしたら、そのようなベクトルに何の意味があるだろうか?
そのような方向性に、芸術はない。
マテリアリズムの由来は、アーリマン。センチメンタリズムの来る(きたる)ところは、ルシファー。
定義すること自体、実のところ、いささか憚られるとはいえ、とりあえずは指標として。注意喚起のために。
アーリマンは、アンチ霊。極言すれば、アンチ・キリストである。
ルシファーは、「創世記」において、エヴァを誘惑し、人間をマテリアリズム/センチメンタリズムの情念の渦巻く世界に引きずり下ろした。エヴァの子どものカインは、嫉妬と復讐心に駆られ、弟のアベルを殺害する。
人間が、自らの魂と体の内に潜むアーリマンとルシファーの姿を、ドッペルゲンガーの鏡の中に見て、人類と自らの過去を知るとき、そこから新しいものが、新しい人間が生まれる。
ドッペルゲンガーは、誰でも同じなのか?
個々のドッペルゲンガーは、それぞれ異なる。一人として同じではない。その姿が似たものもあれば、大きく違うものもある。これは、人間の個体性ゆえだ。
ドッペルゲンガーに遭遇した後、新しい人間が生まれると私は言った。
その新しい人間は、誰でも同じなのか?
一人一人異なるドッペルゲンガーに対峙する故、また私たち一人一人の対峙の仕方も異なる故に、私たちの中に生まれる新しい人間は、そうした関係性故に、個別的であり、同時に霊的である。けっして抽象的ではなく、具体的である。この境域にこそ、霊的生命が関与している。
この境域に立つ守護者は、自らを「死の天使」とも呼ぶ。
然り、ここは生と死の深淵である。通常の生活において、私たちがこの深淵を意識することはまずない。私たちの目には、幸か不幸か、ミームの梁(はり)がかかっており、この深淵に気づくことがないのだ。
なぜ、そのようにミームの梁がかかっているのか?
私たちの生と死にまつわる謎のすべて故に。他者という謎のすべて故に。私たちは謎を前にして、なす術もなく立ちつくす。この寄る辺の無さと底知れぬ恐怖に二度と襲われないようにと、私たちは、ミームが私たちの魂に浸潤するのを許したのだ。
ところが、幸か不幸か、(おそらくこれは神の配剤なのだ)、私たちが自らの魂に浸潤することを許した、そのミームには、生と死にまつわる謎、そして他者の謎に対する、私たちの根源的な恐怖の感情が、透かし絵のように刻み込まれている。
この透かし絵が、トリガーとなる。隠したつもりが、隠したことがいつも気になっているから、実のところ隠せはしないのだ。後ろめたい、欺瞞めいたものが残って、いつまでも、どこまでも後をついてくる。いつもすきをうかがっている。
誰が?
そこには誰がいるのか?
そこにいるのは、ドッペルゲンガーであり、アーリマンであり、ルシファーだ。もちろん、彼らはあなたでもある。彼らの姿をよく見なければならない。
そのための勇気は、どこから来るのか?
それは、あなた自身の成す意志的な思考から来る。純粋思考から来る。