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大分アントロポゾフィー研究会

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境域の守護者はシャドーとして現れるが、そもそもシャドーを自分に敵対する他者として疎外し、外なる世界に投影したのは、私に他ならないということを思い出せば、境域の守護者は私の似姿であり、私が自分の魂の中で、独り相撲をしているというどことなく空虚な在り様が見えてくるのだ。

 

シャドーとしての境域の守護者は、私が自らの魂の内に抱え込み、私の魂をいわば乗っ取ったミームが生み出した他者に他ならない。その内なる他者の在り様を、私は外に向けて投影する。そのように投影することによって、ミームの魔術的空間が現出し、私はそれを現実と取り違えるのだ。

 

通常、私たちが寝ても覚めても目撃しているものは、このようなミームの魔術が生み出すイメージの連続だ。このミームのイメージ空間の外部へと至ることはできるだろうか。

それができなければ、私たちは霊的に生きることはできない。

 

“私(境域の守護者)はこれまで、あなたが死ぬ瞬間に目に見えない姿でそばに立っていましたが、いま、私は目に見える姿であなたの前に立っています。私の境域を踏み越えると、あなたは、いままであなたが地上を去るたびに足を踏み入れてきた領域に入っていくことになります。あなたは完全に意識的にこれらの領域に足を踏み入れ、それから先はずっと、外面的に目に見える姿をとって地上で生活しているときにも、同時に死の領域で(しかし本当は、それは永遠の生命の領域なのです)活動することになります。ある意味において、私は死の天使です。しかし同時に私は、決して涸れることのない高次の生命をもたらす存在でもあります。生きている肉体のなかにいるときに、あなたは私をとおして死を体験しますが、それは決して滅ぼすことのできない存在のなかで、ふたたびよみがえるためなのです。”(ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』松浦賢訳 柏書房 p. 231,232)

 

“神秘学の学徒は初めて、民族や種族や人種の霊に完全に去られるということが、何を意味するのかを認識します。学徒は自分自身の体験をとおして、これから先の人生において、これまで民族や種族や人種がほどこしてくれたあらゆる教育が意味を失うことを知ります。それまで学徒が学んだ事柄はすべて、意志と思考と感情の糸が断ち切られることによって、完全に消滅します。学徒はあらゆる教育の成果を振り返ります。いまや学徒にとって、自分が受けてきた教育は一つひとつのレンガに分解してしまった家のようなものであり、学徒はこれからふたたびレンガを積み上げて、新しい形の家を作らなくてはならないのです。”(ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』松浦賢訳 柏書房 p. 236,237)

 

“・・・そのとき「境域の守護者」は、それまで人生の深淵な秘密を覆い隠していたカーテンを取り去ります。種族や民族や人種の霊が完全な現実として姿を現します。学徒は、いままで自分がこれらの導き手たちによって指導されていたことを知るとともに、これから先はどのような導き手も頼りにできないことも理解します。これこそが、境域に到達するときに、学徒が「守護者」から受ける第二の警告なのです。

あらかじめ準備ができていないと、私たちはここで述べているような光景を見ることにとうてい耐えられません。しかし境域まで到達することを可能にするような高度な訓練を積んでおけば、私たちは、ふさわしい瞬間に必要な力を見出すことができるようになります。このような訓練は私たちに調和的な作用を及ぼすため、境域を越えて新しい人生に足を踏み入れるときに、私たちが興奮したり、動揺したりすることはなくなります。そうなると神秘学の学徒である私たちは、境域の体験をするときに、新しく目覚めた人生の基調となる至福感を予感することになります。自分が新たに自由になったという感情が、そのほかのすべての感情を圧倒します。そしてこのような自由の感情とともに、一定の段階に到達した人間が当然引き受けなくてはならない新しい義務と責任が姿を現すのです。”(ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』松浦賢訳 柏書房 p. 237,238)

 

「これまで民族や種族や人種がほどこしてくれたあらゆる教育」・・・。

この地上を生きる誰もが、何らかの共同体の一員である。どんなにアウトサイダーに見えるどんな人でさえ。誰もが何らかの共同性に関わらざる得ず、ときにそれに組み込まれ、ときにそれに敵対し、ときにそこから排除される。いずれにしても、何らかの共同性に関係するということは、たとえそれに敵対したり、そこから排除されたりする場合でも、その共同性の存在を抜きに自らの存在を考えられないのだ。

ここにミーム一般の厄介な性格が隠れている。シャドーとみなして、自らの外部に追いやったかと思うのは錯覚で、むしろミームの方が根源的で、ペルソナとして生きるあなたは表面的なのだ。

だから、ミームを簡単にシャドーとみなすことはできず、外部へと追いやることもできず、いつまでもミームに囚われ、実のところ、ずっとそのまま依存し続けて、自由になどなることはできない。ミームの影はいつまでもどこまでもあなたについてくる。聡明にもそのことに気づいたときには、あなたはすでにミームに飲み込まれている。ものごころついた時には、もう囚われているのだ。悟性的な思考ができるようになるとは、そういうことだから。

 

だから誰もが、ミームの影/シャドーに成り下がってしまわないように必死になる。

この世はミーム中心に回っている。誰もが操り人形だ。ミームに反旗を翻すことはできない。みんな、ミームに媚びへつらいながら生きているのだ。「媚びてなどいない」と嘘を言うのは勝手だが、魂の内奥で、自分が嘘を言っていることをあなたは知っている。ミームから逸脱することが死に直結することをあなたは知っている。

 

さて、民族や種族や人種といった類的なるものの正体は何か。

そうした地上的でかつ類的な諸々を作り出した存在こそ、高次の霊的ヒエラルキア存在たちであり、一方でアーリマンとルシファーに他ならない。

そして、人間の霊はそこに関与していないのである。人間の霊の意志的なものはそこに働いていない。

高次の霊的ヒエラルキアたち、そしてアーリマン/ルシファーが、人間たちのために働いた。ミームはその成果だ。

 

そのミーム空間において、人間は一種の操り人形のようにペルソナとして振る舞う。

ペルソナはその疑似的な自我を守るために必死だ。これをエゴイズムと呼ぶ。エゴイズムとはペルソナの疑似的な自我の防衛機制に他ならない。

エゴイズムはミーム空間において機能する。そのアルゴリズムを最大限利用することによって、エゴイズムは目的を達成しようとする。その過程で、エゴイズムは自他に向けて、ありとあらゆる地上的な快苦をばらまくのだ。この地上の世界はそのように展開している。

このとき、ミームとエゴイズムは一体化している。

 

結局のところ、エゴイズムからは至福は生まれない。ミームはいずれにしても至福へと至る道ではないのである。

 

さて、ミームから脱すること、境域の守護者を目の当たりにすることは、何を意味するのか。

そのとき人は、「意志と思考と感情の糸が断ち切られる」のを体験する。

ミームないしミームのアルゴリズムは、意志と思考と感情の糸で編まれているから。

 

そのようなミーム空間が消滅すると、深淵が、生と死の深淵が現れる。

境域の守護者は自らを「死の天使」とも呼んだ。生と死の深淵に彼は現れる。この深淵を越えると人は霊的な生命の領域へと至る。

ともあれ、そこはミーム空間ではない。随伴していたエゴイズムも霧散している。

だが、いずれにしても、ここは深淵。悟性魂/心情魂の死だ。ある意味それは、ニヒリズムに等しい。深淵であり虚無。

 

人はこの死の境域から復活する。霊としてよみがえる。

悟性魂/心情魂が死に、その闇の中に光が灯る。

 

“「境域の守護者」が最初の要求を語ったあと、「境域の守護者」が立っている場所から旋風が巻き起こります。この旋風は、それまでの人生の道を照らし出してきた霊的な灯りをすべて吹き消してしまいます。完全な闇が神秘学の学徒の前に広がります。この闇のなかでただ一つ輝いているのは、「境域の守護者」自身が発する光だけです。そして闇のなかから、「境域の守護者」のさらなるいましめの言葉が鳴り響いてきます。

  * *

目の前に広がる暗闇を自分自身で照らし出さなくてはならない、ということを理解するまで、あなたは私の境域を越えてはなりません。あなた自身のランプに十分に燃料が入っていると確信できないうちは、一歩たりとも、先に進んではなりません。これまであなたが頼りにしてきた、導き手たちのランプは、これから先の未来においては存在しないのです。”(ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』松浦賢訳 柏書房 p. 237)

 

それまで教育され、学習してきた事柄のすべてが、実は自分のものにはなっていなかったことが明らかになる。人から聞いた情報や読書で得た知識の虚しさを痛感する。何の役にも立たないのだ。いわゆる「無知の知」(ソクラテス)だ。このことをシュタイナーは「この闇のなかでただ一つ輝いているのは、『境域の守護者』自身が発する光だけです。」と表現している。

 

自分の無知を知るのは他ならぬあなた自身だ。

過去の蓄積としてのミームはもはやあなたを助けてはくれない。あなたの方ももうミームを頼りにしようなどとは思わない。

あなたはミームの縛りから脱して、一人立ちする。自分で考えることを始める。

 

生と死の深淵をのぞき込み、そして境域の守護者のありのままの姿を知ったあなたの思考は深く力強い。そこに恐怖はない。あなたの心は静かだ。

あなたはこの地上に生きるが故の無数の制約を達観し、他者が他者であって自分の思い通りにはならないことを平静に受け止める。その上で、他者とともによりよくこの地上の世界を生きる術について考えることができる。

 

あなたの魂は意識魂となり、その意識魂においてあなたは純粋思考を成す。

この地上の世界を生きる上で、あなたの使命は、自ら成した純粋思考を記述し伝達するための語彙を作り出すことである。

 

例えば、ベートーヴェンはそのことを成し遂げた。そのベートーヴェンが生み出したものを理解できるのは、自ら純粋思考を成す者だけである。