とりわけ、意志的な純粋思考を経なければ、何ごとであれ、成就の見込みはない。
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さて、人はこの地上に生まれ落ちてからこの方、自らの由来を問い続ける宿命だ。
思考と感情と意志とが、いまだ調和的に結びついていない幼児期に、この問いが先鋭化することはまずないとはいえ、それでも幼児はいかにこの地上の世界に生きる場所を見出すか、まさしく混沌の中で試行錯誤している。
学齢期に入れば、家庭と学校とが共同して、子どもの魂の育成・調和を目指す。ここで、魂の調和とは、言葉を換えれば、思考と感情と意志の健全な結びつきであり、調和である。このときの魂とは、悟性魂/心情魂に他ならない。
このとき、自らの由来を求める問いが先鋭化する。
「自分は何者なのか?」という問いが、外界との関わりの中できわだってくる。
人は、まず自分のモデルと成り得る人物を見つけ出そうとする。そして、その人物の外見、ものの考え方や振る舞い方を模倣しようとする。
しかし、このような模倣が功を奏するとしても、それは一時的で、やがて満たされない不全感が頭をもたげてくる。これは、当然のことで、そのモデルは自分ではない、モデルの模倣によっては「自分は何者なのか?」という問いは解決しないのである。
ともあれ、このようなモデルの模倣は、ペルソナが作られてゆく過程の一部である。
人は、ほぼ回避することのできないモデルの模倣という失敗を通じて、ペルソナを形成するための他の方策を求める。これは、自分なりの、そして自分だけのかけがえのない魂、悟性魂/心情魂を形成するための涙ぐましい努力である。
思考と感情と意志とが、とりあえずの安定を獲得し、人は共同体の一員となる。だから、共同体は人間にとって、疑似的な故郷である。共同体においては、アーリマン衝動とルシファー衝動のとりあえずの均衡が追求される。
共同体は、ミームである。独自のアルゴリズムによって、形成されている。
そのアルゴリズムの由来は、この地上の世界をいかに生き抜くのかという問いにある。
“・・・マフィアのメンバーは個人事業者であり、一つに限らずあらゆる商売をする。賭博のノミ行為、暴利金融、ポルノ・セックス関連、故物売買以外に、パートナーと言われる周旋業がある。商売をしたい、賭博をしたい人間と、彼らにサービスを提供できる人間を繋ぎ、その代わり共同経営者になったり手数料を貰ったりする仕事である。”(ウィキペデイア「マフィア」より)
“コッポラは企画段階では原作にあまり興味を示していなかったが、後にこの素材に深いテーマを見出し、この映画は組織犯罪についてではなく、家族の年代記、アメリカにおける資本主義のメタファーであるべきだと決定し、文化、性格、権力、家族といったテーマを映画の前面に押し出したいと考えていたが、・・・”(ウィキペデイア「ゴッドファーザー (映画)」より)
“・・・賭博はいくら多額の金が賭けられても、胴元と参加者、あるいは参加者同士の間でその金が行き来するに過ぎず、経済生産が生じないため、そのような非生産的な行為に人々のエネルギーが費やされてしまうと、生産的な行為を阻害する可能性がある・・・”(ウィキペデイア「賭博」より)
“ギャングエイジは、9歳ごろから見られるようになる。これ以前の就学前から小学校低学年までの友人関係は、不安定で変化しやすく、男女が一緒になって遊ぶことも多い。しかし、小学校中学年ごろからは同性で仲の良い4~5人からなる閉鎖的な仲間集団(ギャング集団)を形成して遊ぶようになる。仲間内にリーダーを置き、集団独自のルールやギャグ、秘密基地などを作ったりすることやあだ名で呼び合ったりすること、共通の秘密を保持することによって仲間意識を持ち、外部に対して排他的で閉鎖的なギャンググループと呼ばれる集団を形成する。特に男子児童に顕著に見られるまた、この時期には保護者との約束よりも仲間との約束を重視するようになる。この時期に所属集団から受ける承認・拒否などが子どもの人格形成、問題行動に影響を及ぼす。”(ウィキペデイア「ギャングエイジ」より)
人間の生活にまつわる関連事項は、無数にあり、そのすべてを詳細に俯瞰することは、人間にはできない。しかし、だからと言って、ある程度の俯瞰を試みることはすべきである。なぜなら、そうした俯瞰の試みを諦めるならば、人はただミームに囚われ、そのアルゴリズムのままに漂う浮草のような存在になってしまうから。
ともあれ、人はその成長の過程で、この地上世界の現実を体感し、他者とかかわる中で自らの位置をことあるごとに確認しようとはしているのである。体感的な確認だが、同時にそれは極めて主観的である。共同性と主観性、この両者がミームにおいて交差する。共同性とはミームそのもの。主観性がその共同性とどの程度同調するか。この点は大きな肝である。
アルゴリズムの奴隷となるか?
悟性魂/心情魂は複数の(もしかすると無数の)アルゴリズムによって織られている。もちろん、このようなレトリックも俯瞰の試みの一つである。完全な俯瞰というのはない。人が何らかの俯瞰を成すとして、その俯瞰が悟性魂/心情魂のベクトルから成されていないなら、それは大きな一歩である。
悟性魂/心情魂に巣食った何らかのアルゴリズムを絶対視すれば、確かに何か俯瞰めいたイメージが浮かび上がって来ようが、実際のところ、それは俯瞰ではなく、幻想であり迷信だ。なぜなら、アルゴリズムはいくつもあって、それぞれ相互に対立し合っているわけではないが、特定のアルゴリズムに執着すれば、その執着が他者の執着とぶつかることになるから。このような意味のない衝突を避けるためには、人は自らの、そして他者の悟性魂/心情魂であるミームを俯瞰する必要がある。そして、そのような俯瞰以外に、悟性魂/心情魂のネガティヴな側面を乗り越える道はない。
人はこの地上の世界に生まれ、そしてそこで生きるために、悟性魂/心情魂を発達させた。だが、この世界は一方でアーリマンの支配する場所だ。だから、アーリマンから来るものとどのように対峙するのかということが、一刻一刻問われる。
そのようにアーリマンと向き合い、かかわるなかで、人間の悟性魂/心情魂はアーリマンに似たものにもなってゆく。
アーリマン衝動が強く影響を及ぼせば、人間の悟性魂/心情魂のミームの内にはたらくアルゴリズムは、死と反感の装置とでも呼べるようなネガティヴな色合いを帯びるようになる。
“主な活動内容は麻薬取引、殺人及び暗殺、密輸、密造、共謀、恐喝及び強要、みかじめ料(縄張り地域で営業する店舗から喝取する占有料)徴収、高利貸しなどの犯罪と、不動産業など合法的なものである。”(ウィキペデイア「マフィア」より)
マフィアの例は少し極端かもしれないが、私たちの誰もが同種のネガティヴィティを内に持っていることは間違いない。地続きである。行くところまで行く危険性を常にはらんでいるのだ。他者を排斥し、死にまでも至らしめるばかりか、そのような疎外行為の攻撃性が自らにはね返ってきて、思いもかけぬ形で命を落とすことさえあろう。
アーリマン由来の死と反感のアルゴリズム、そのようなミームのペルソナに自己同化した人間の運命だ。
さて、映画『ゴッドファーザー』の監督、フランシス・フォード・コッポラは、『ゴッドファーザー』を撮るに当たって、「この映画は組織犯罪についてではなく、家族の年代記、アメリカにおける資本主義のメタファーであるべきだと決定し、文化、性格、権力、家族といったテーマを映画の前面に押し出したい」と考えたという。マフィアの物語りが資本主義のメタファーになるという視点は、刺激的だ。
目的(金儲け)のためには、手段を問わず、犯罪に手を染めることもいとわないマフィアと、確かに金儲けが目的であることに間違いはないにしても、マス的には多くの場合、諸々のアクションが既に自動化/機械化して、もはや後戻りができない状態、機転を利かせる余地のない状態に陥っている資本主義のプレイヤーたちの類似性をあからさまにできる、とコッポラは睨んだ。
映画『ゴッドファーザー』の公開は、1972年だ。それから、もう半世紀以上の時が過ぎた。そして、資本主義社会は、当時からは想像もできない巨大で怪異な姿へと変容を遂げている。その全体像を誰も俯瞰することはできない。
はっきりしているのは、その歪なアルゴリズムの海を、マネーゲームのプレーヤーたちがネットという隠れ蓑の影で、自らがAI の化身ででもあるかの如く暗躍しているということだ。いやいや、そのプレーヤーの誰かは、もしかすると、既に人間ではないかもしれない。
資本主義の全体像を俯瞰し得た人間は、古今東西、誰もいない。だから、資本主義にまつわるナラティヴとレトリックは無数に成立し得るが、それぞれのナラティヴとレトリック相互の意思疎通と相互理解はほぼ不可能な状態だ。数限りない言語ゲームは出現しても、対話は生まれない。それぞれのナラティヴ/レトリックが相互に異なるミームに由来する。だから何らかの特定のミーム内では筋が通っていても、他のミームに照らせば、そうはならないということになる。
これは致し方ない。資本主義の全体像を反映するミームはいまだ存在しないのだから。
「鵺(ぬえ)のような資本主義」をAI検索すると、Google AI は、次のように回答した。
“「鵺(ぬえ)のような資本主義」という表現は、正体がつかめず、複数の異なる要素が怪しく混ざり合い、時代や状況に応じて次々と姿を変える現代の資本主義の複雑怪奇な性質をたとえた非常に秀逸で比喩的な言葉です。
日本の妖怪「ぬえ」は、頭は猿、胴体は狸、手足は虎、尾は蛇という姿を持ち、不気味な声で鳴くとされています。このイメージを資本主義に重ね合わせると、以下のような現代経済の側面が見えてきます。
1. 異なる「主義」のキメラ(複合体)
純粋な市場経済(自由主義)ではなく、国家の強力な介入や保護主義、さらにはデジタルプラットフォームによる支配など、本来は対立するはずの要素が融合しています。
・頭(新自由主義): 表面上は「自己責任」や「市場の自由」を掲げる。
・胴体(国家資本主義): 危機(パンデミックや金融危機)が起きると、国費による巨大な救済や介入が行われる。
・尾(監視資本主義): ビッグデータやAIが個人の行動を予測・操作して利益を生む。
2. 実体が見えない「虚業」の肥大化
ものづくりやリアルなサービスの提供(実物経済)以上に、金融工学、暗号資産、データ売買といった「実体のない価値の連載」で巨万の富が動く様子は、正体不明の煙のように現れるぬえの不気味さに似ています。
3. 定義をすり抜ける変幻自在さ
「格差が広がったから崩壊する」「環境破壊で行き詰まる」と言われながらも、資本主義はグリーン経済(環境対応)やサステナビリティ(SDGs)すらも新たな市場(ビジネス)として飲み込み、しぶとく生き残り、自己変革し続けます。”
また、「ギャンブル資本主義」の検索では、Google AI の回答は、次のようだった。
“「ギャンブル資本主義」という言葉は、一般的にイギリスの国際政治経済学者スーザン・ストレンジが1986年に提唱した著書のタイトルである『カジノ資本主義』(Casino Capitalism)、あるいはそれに近い文脈で語られる「実体経済から遊離し、金融市場が巨大な賭場(カジノ)と化した現代の経済構造」を指します。
主な特徴と背景
・実体経済からの乖離:工場でモノを作ったり、汗を流してサービスを提供したりする本来の経済(実体経済)から離れ、短期的な為替や株式、デリバティブなどの値動きで利益を奪い合うマネーゲームが世界経済を動かすようになった状態。
・金融自由化と変動相場制:20世紀後半の国際金融の自由化や変動相場制への移行を背景に、資本の移動が活発化し、同時に巨大なリスクとバブルが繰り返し発生するようになったこと。
・モラルハザードの温床:市場が混乱や破綻の危機に陥るたびに、中央銀行が大規模な金融緩和や公的資金による救済を行ってきた結果、「儲かれば個人のもの、失敗すれば社会(公的マネー)が肩代わりする」という歪みが定着したという批判もある。 ”
資本主義の全体を俯瞰し、それを語りきるナラティヴ/レトリックが、いまだ存在しないからと言って、この鵺(ぬえ)のような資本主義空間の中で不可避的に生じる想定外のよしなしごとの奔流に、ただ身を任せているだけではだめだと、人は気づき始めてはいるように思われる。ただ、地図がないので、なすすべなく、次の一歩が踏み出せない。そしてまたぞろ、旧来のミーム空間へと退却してゆく。血で血を洗うまさに地獄のようなミーム空間へ。
「ユダヤ人の行動規範」という検索ワードで得た、Google AI の回答は次の通り。
“ユダヤ人の行動規範は、モーセに授けられた聖書(トーラー)の律法と、それをまとめた口伝律法であるタルムードが中心となっています。日常生活のあらゆる側面に厳しい決まりが存在し、信仰と実践が強く結びついています。
主な行動規範とルールの柱
- 613のミツワー(戒律):
- 聖書(トーラー)に記された神との約束で、「〜せよ(積極的戒律)」が248、「〜してはならない(消極的戒律)」が365の合計613個あります。
- モーセの十戒:
- 律法の中でも核心をなす、神に対する義務や倫理的なルールです。
- カシュルート(食事規定):
- 食べるべきもの・食べてはいけないものを厳格に定めた清浄規定です。
- 草食ではない動物(ブタ、ウサギ、ラクダなど)、多くの海産物(甲殻類やタコ・イカなど)、昆虫は禁止されています。
- 肉と乳製品の同時摂取の禁止(胃の中で混ざってはいけないため、食べる時間の間隔を空ける必要があります)。
- シャバット(安息日):
- 金曜日の日没から土曜日の日没までを安息日とし、労働や火を使うこと、電気の操作などを避けて神と家族のために過ごします。
- ツェダカ(慈善・寄付):
- 収入の10%を寄付することや、困窮者への相互扶助を義務づけています。
- タルムードによる対話と学習:
- 世代を超えて受け継がれた学者たちの議論や解釈の書であり、絶え間ない問いや多角的な思考を重視します。”
ユダヤ共同体において、そこに所属する人間が、日常生活のほとんどすべてにわたって、ユダヤ律法に定められたことを厳密に守り、それに従って、生活しているのに対して、そのような律法を持たない私たちは、いかに生きているだろう?
これに答えるのは、実はたやすい。
自らの魂を支配している数限りないミームのアルゴリズムに従って生きているのだ。
現代資本主義の世の中に生きる我々の大半は、他ならぬとらえどころのない鵺(ぬえ)のような資本主義ミームに従って、日々の生活を送る。
ユダヤ律法をミームの一つだということができるのと同様に、「マフィヤ資本主義」や「ギャンブル資本主義」もミームなのだ。
そして、ミーム空間においては、すべてのミームが相互に相対化され、それらのフィクションとしての性格が明らかになる。
とはいえ、ここに大きなからくりが潜んでいるのだ。
それは、何らかのミームに囚われ、それに執着すると、そのミームは絶対化され、そのフィクション/虚構としての性質が見えなくなるのである。
これが、昏迷の現代において、私たちの悟性魂/心情魂が直面している驚くべき悲喜劇だ。だが、この奇怪(きっかい)な悲喜劇はフィクション/虚構ではない。リアルで霊的な出来事なのだ。歴史の顔(かんばせ)であると言ってもいい。