例えば、「左(ひだり)」という言葉がある。「左とはどういう意味か?」とその意味を自問し、何か辞書的に説明しようとするや、その意味がますます分からなくなっていくというか、説明のしようがない、ということに気づくのだ。
同じような言葉に、「右(みぎ)」「上(うえ)」「下(した)」「斜め(ななめ)」などがあり、「周り(まわり)」「はやい」「おそい」「ながい」「みじかい」「かたい」「やわらかい」「さむい」「つめたい」「あつい」「あたたかい」「ぬるい」なども、これと似た肌合いの言葉だ。
やや感触が違うが、「わたし」「あなた」「それ」「これ」「あれ」なども、辞書的な説明を拒む感じは似ている。
いわゆる日本語の助詞に相当する言葉も同様に、辞書的な説明には馴染まない。
これら、辞書的な説明にそぐわない、いわば直接的な言葉に対して、辞書的な説明に親和的な無数の言葉がある。だが、これらの言葉は、辞書的な説明といういわば媒介を必要とするという性質から、ロゴス的直接性から遠ざかるという、いわば致命的な弱さを持たざるを得なくなる。
直観性から離れてゆくのだ。そして、辞書的な説明を重ねれば重ねるほど、その言葉の意味がぼやけて、分からなくなってくる。
このような辞書的な説明は、悟性的思考の現れである。
この悟性的思考を突き詰めていけば、あらゆるイメージ的要素と心情的要素とを捨象した、二進法のデジタル思考に至る。人間はもはや何も考えなくてよくなり、コンピューターやAI に考えてもらえば楽だし、正しい答えが出る、などという怠惰極まる思い込みが蔓延することになる。もちろん、コンピューターやAI の内部では、二進法のアルゴリズムが機械的に動いているだけなのだが。
これは、思考の矮小化と呼ぶべきだ。
思考が矮小化して、感情や意志と切れる。そのようないわば情緒的要因は、思考の邪魔になるという気がしてくる。そうなれば、機械的なアルゴリズムの方向に、ぐっと舵が切られることになってくる。アーリマンの方向だ。
そして、そのように思考が生命を失い、弱体化して、魂があたたかさを失うと、人は温もりが欲しくなって、センチメンタリズムを強める。だが、ここに大きな危険が潜む。なぜなら、センチメンタリズムはルシファーから来るものだから。
いまだ人間は、このようなアーリマン性とルシファー性に対して、極めてナイーブな状態に留まっている。
言葉の辞書的な説明のような事柄に顕著に現れる悟性的思考こそが、躓き(つまずき)の石である。
悟性的思考の大きな特徴は、必ず他者の成した事柄の説明に頼るというところにある。その時点で、自ら成した思考ではない。
他の誰かに意見を聞く。本を読んで、知識をつける。ネットで検索する。・・・悟性魂が、他の悟性魂を参照する。だから、どこまで行っても、ただ悟性的思考が続いていくばかり、辞書的な説明が延々と続いていくばかりで、そこには何の飛躍もないのである。
このとき、人は、言葉と思考とを区別していない。両者を混同しているのだ。ここから、いろいろの致命的な勘違いが生じてくる。
いちばん典型的な勘違いは、言葉の辞書的な意味が分かれば、それで答えが見つかった、と思い込んでしまうことである。もちろん、ここで言う答えとは、辞書的な説明であって、ロゴス的な意味における開示ではない。
ロゴス的開示とは?
言葉と思考とを明確に区別できなければ、これは分からないままにとどまる。
分かりやすい例を一つ上げる。
例えば、ベートーヴェンの第5交響曲に感動する。その感動を言葉で表そうとする。それはなかなか容易なことではない。「感動したなあ」という言い方以上の言い回しが欲しい。でも、それはなかなか見つからない。
「第一楽章のテンポがよかったね」とか「終楽章のたたみかけるような感じはすごかった」などと言ってみても、あまりにも言葉足らずで変な感じだ。上っ面をなぞっているだけ、隔靴掻痒(かっかそうよう)というような中途半端な感じはぬぐいがたい。
だからと言って、音楽批評家がやるような楽曲分析だとか、何らかの出来合いのシナリオをこしらえてセンチメンタルな思いに浸るというようなことは、やらないに越したことはない。あなたの体験した感動から、どんどん遠ざかっていくから。
つまり、感動体験とそれを言葉で表すこととは、まったく異なる事柄なのである。
感動体験というのは、突き詰めて言えば、純粋思考と純粋思考との共振/共鳴であり、言葉ではない。
だから、芸術家は、他の芸術家の成す純粋思考に共振/共鳴したとき、それに触発されて、彼自身の芸術作品を創り出すことによって、自らの感動を外化/表現する。けっして、悟性的思考の言葉の迷宮にはまり込むことはない。芸術家としての彼は、それが霊的な死であることをよく知っているから。
実は、これとまったく同じことが、日々の生活の中でも起こり得る。日々の何気ない暮らしの中で、同様の思考の共振が起こっているのだが、ミームに囚われ、悟性的思考ばかりを拠り所にする習慣が染みついて(しみついて)いると、この極めて繊細な魂の霊的出来事に気づくことはできないのである。
肉体レベルで、この純粋思考の体験を観察すると、この繊細さが端的に明らかになる。
自分の体を見つめてみる。その成り立ちを想起しながら、目の前の自分の体のリアルを見つめるのだ。その肌の色合い、ぬくもり、触った時の質感、そうした眼前のリアルをよく観察していると、霊的ヒエラルキアたちが私たちにもたらした肉体の奇跡に言葉を失う。この肉体に組み込まれた「神経」「律動/循環」「新陳代謝」という三つのレイヤー(cf. ルドルフ・シュタイナー)の驚嘆すべきはたらきに思いをはせるとき、科学の言葉がこれらの生命活動/魂の営みを、いまだほとんどフォローしきれていないのを痛感する。
とはいえ、科学的フォローを待つまでもなく、私たちは、自らの肉体にはたらく、霊的ヒエラルキアのこのような関与とともに、日々の暮らしを、一刻一刻、生きているのだ。霊的ヒエラルキアとのこのような交流を、私たちは、それこそ無意識の純粋思考によって成している。もし、体に何らかの不調があれば、この純粋思考を微調整する。