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大分アントロポゾフィー研究会

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自信の無いあなたを慰めてくれるのは、さしあたり、センチメンタルなイメージやシナリオだ。それらのイメージ/シナリオは、テレビやシネコンや、惰性で繰り返される退屈な音楽イベントに、いやと言うほどあふれかえっている。

 

自信の無いあなたは、その自信の無さから来る不安感や虚無感を一時的に忘れるために、ギャンブルめいたことに手を出したり、甘いものを食べに出かけたり、温泉に行ったり、酒を飲み過ぎたり、エッチなコンテンツに浸ったり、車を飛ばしてみたり、・・・とまあ、やることはいくらでもあるわけだが、これらはみな一種の依存(症)である。このとき、あなたが依存している他者とは、物(もの)としての他者であり、あなたはそれらの他者から、付け焼刃でしかない、ありきたりで一過性のポジティヴイメージを得ようと躍起になっているのだ。こんなことを、「癒し(いやし)」などと言って、安心するのはどう考えてもおかしい。

 

私自身がそうだったから、よく分かるのだが、私たちが依存する「物としての他者」は、ミームのアルゴリズムに、それなりの歴史性を有して組み込まれており、そのため、「物としての他者」への依存は、私たちの意志とはほとんど無関係に、自動的に起こってしまうのだ。

気づいたら、酒を飲み過ぎているし、いつのまにか足がパチンコ屋に向かっている。なぜだか理由が分からないのに、誰かを追っかけている。見知らぬ若い女の人か、タレントか、はたまた・・・。そんなとき、あなたの記憶は部分的にあいまいになったり、消えたりしている。ブラックアウトだ。そして時に、気づいたら、知らない場所で目が覚める。

まさに、ミームの迷宮。悟性魂/心情魂の闇だ。

 

悟性的思考にとどまれば、このような他者依存は起こらざるを得ない。なぜなら、ミームのアルゴリズム自体が、他者の存在を前提とする大きな文脈から派生して増殖してきた、そういう歴史があるが故に。

どういうことかと言うと、「人は一人では生きていけない」が故に、あるいは、「私たちの故郷である、霊たちの国において、私たちは共に生きてきた」が故に、他者の存在を前提とした思考/アルゴリズムが自ずと据えられるということだ。

だから、本来、この根源的な思考/アルゴリズムにおいては、他者に対するアプローチの方向性は、「他者を希求する思い」とか「他者への憧憬(しょうけい)」という形で現れる。

 

ところが、人間がこの地上の世界に生まれ落ち、その悟性魂/心情魂を成長させる過程で、アーリマンから来る死が支配し、ルシファーから来る情念の嵐で地獄の様相を呈する、この俗世を旅する中で、私たちには、他者の本当の姿が見えなくなってくる。それとともに、本来の私たち自身の姿も見えなくなる。私たちがその暗闇で立ちすくまないでいるために、何か支えになってくれるものが要るような気がしてくる。自分一人では立っていられないと感じる。「自信がなくなる」のだ。この心もとなさを他者に覚られ(さとられ)たくないと感じる。自分にさえ隠したい感情なのだ。

その「自信の無さ」を、一時的にでもいい、その感情を覆い隠すために、あなたは、ミームのアルゴリズムに組み込まれた種々のイメージ/シナリオにすがる。「物としての他者」への依存。

 

このとき、あなたのすがる「物としての他者」に潜むアーリマン性/ルシファー性が徐々に明らかになってくる。マテリアリズム、センチメンタリズム、そしてその中毒性が。そこには霊的生命が息づいていない。アーリマンから死が、ルシファーから魂を害する様々のネガティヴな情念が浸潤してくる。しばらくの間は、そうした麻薬の効果に酔いしれていられるかもしれないが、やがてその毒性が害を及ぼし始める。

あなたは、自らの魂のみならず、身近な他者、家族や友人、あなたが、ある程度社会的に影響力のある立場の人間ならば、あなたの家族には直接関係のない他の多くの人間までも害し始める。その魂と体(たい)において。

そのように、アーリマン/ルシファーにある意味憑依された人間が、自らの思考と行為を自覚していることはまずない。自分が何をしているか、他の人から見たとき、自分がどのように見えているか、そんなことは考えていないのが普通である。彼は、まったくの主観の中に、絶対的主観の中に生きている。彼の主観にとって、他者は存在しないのだ。このような驚くべき状況が、いたるところで起こっている。まさしく悲劇である。本人にとってのみならず、家族や友人にとって、さらには他の多くの人間にとって。もちろん、すべての生き物にとって。

 

そこで、考えてほしいのだ。アーリマンやルシファーに魂を乗っ取られているのは、なにも、そのような彼だけではないということを。

そのような彼を目の当たりにし、その被害を被っているとしたら、私は彼にどのように向き合い、どのように付き合えばいいのだろうか?

その答えは、私が私の中に彼を見出さなければ、見つからないはずだ。これは、もちろん最高度に難しい人生の問いであり、課題である。なぜならば、このことは同時に、彼が彼自身の中に、この私を見出さなければならないことを意味するから。彼の思考や行動を、私がコントロールすることは、原理的にできない。

いやいや、そんなことではなく、私の中にも「それ/Es」はいる。彼の中に「それ/Es」がいるのと同じだ。その同じものが私の中にいるからこそ、私が彼を理解することはできる。もちろん、「それ/Es」を見出すことは、それ自体、最高度に難しい。悟性的思考の及ばぬ難題である。

さて、「それ/Es」とは何者か?

 

ともあれ、もし私が本当に、私自身の中に、彼を見て、彼の魂の境域の困難を理解するとしたら、そんな私を見る彼の眼差しに、いくぶん柔らかな光が、それまであたかも狂気に取りつかれたかのようだった彼の表情に、少しずつ生気とゆとりが戻ってくるはずだ。そして、このことは、センチメンタリズムでは全くないのである。もちろん、このあたりの経緯を、悟性魂/心情魂として理解し、洞察することはできない。

 

さて、悟性魂/心情魂としてのあなたは、ペルソナとシャドーとに分裂している。そして、ペルソナを自分、シャドーを他者だと思い込んでいる。そして、シャドーからの攻撃を受けないように、ペルソナを必死に守ろうとしている。これ以上はっきりとした、単純明快な、そして同時にまったくのフィクションでしかない二元論はないだろう。真っ黒なシャドーの背景の中に、白々しくも嘘くさい薄っぺらなペルソナが浮かび上がるのだ。ペルソナは寝ても覚めても、「私は黒じゃない。白だ」と言い張る。

 

しかし、シナリオはそんなに単純ではない。シャドーは、うわべだけの薄っぺらなペルソナの嘘を、白日の下にさらすために、シャドーから分かれたのだ。分かれたとは言っても、シャドーはいつもペルソナの隣にあって、つかず離れず伴走し続けており、ことあるごとにペルソナから主導権を奪おうとする。メンタルの不調、狂気、病気、事故・・・。人生のいわば影の側面が表に現れる。そのようなときに、ペルソナはまったくと言っていいほど無力なのだ。ミームのアルゴリズムの片割れでしかないペルソナ。

 

これが、要するに、私たちの悟性魂/心情魂の構造/組み立てだ。ミームを基盤にして、ペルソナとシャドーとに分かれている。人工的で表面的なペルソナに対して、シャドーはより根源的だ。とはいえ、シャドーはペルソナの影である。シャドーとペルソナ、二つ合わせて、私たちの魂だ。その魂が、自らを振り返り、鏡に映った自分をよく観察するために、二つに分かれたのだ。

 

魂が危機的な出来事に遭遇すると、シャドーは境域の小守護者として、魂のスクリーンに姿を現す。

その姿はいかにも化け物じみているとはいえ、そのシャドーであり境域の守護者であるその存在の中に、あなたは自分の分身を見る。そして、その分身があなたの過去の所業のみならず、あなたの所属する社会的グループ、家族や職業や国があなたにもたらしたものをも、その存在根拠として担っていることが分かる。あなたとミームの切っても切れない結びつきが見えてくるのだ。

 

しかし、魂が危機的な出来事に遭遇すると、この固い結びつきに、いわば亀裂が生じる。ペルソナとシャドーとの虚構の二元論が、壊れ始める。あたかも、ペルソナがシャドーの内部に溶け出し、シャドーがペルソナのわざとらしい仮面を剥ぎ取るかのように。まさしく緊急事態である。この醜態を取り繕うことのできるものは、あなたの中に何もない。

 

このようなクライシスが起こってしまうことを恐れて、あなたはやみくもにミームにすがりついてきたのだ。そして、ミームはあなたに悟性魂/心情魂の人生ゲームという贈り物をしてくれたのである。そして、あなたは多少の苦労はあっても、そこそこの快感とスリルに満ちたそのゲームに興じ続けてきたのだ。そのゲームのプレーヤーは、あなただけではなく、あなたの家族や友人、職場の仲間、仕事上の知り合い、・・・要するに、あなた自身も属している社会に生きるすべての人間たちだ。みんなが、そのゲーム盤の上で、勝負している、戦っている、負けるわけにはいかない、他の人間を蹴落としても。ゲームからドロップアウトするなどもっての外だ。一度負けたとしても、復讐してやり返すのだ。

そんなふうに考えて、あなたは生きてきた。そのようなあなたの考え方こそ、ミームのアルゴリズムに他ならない。

あなたがそんなミームに取りすがっている理由は、唯物論的な死に至るマテリアリズム由来のニヒリズムが、いつも背後に忍び寄るのを感じているからだ。死の影におびえているのだ。死臭を漂わせた、まさに想像上の他者が、あなたを脅かすのだ。

だが、そのような他者の由来は、元をたどれば、あなたの中に事の初めから疼いて(うずいて)いる疎外感と反感である。これこそ、あなたの自信の無さの正体だ。

 

ともあれ、あなた自身が生み出した死の天使としての他者に、あなたは今、対峙しているのだ。ここは生と死の深淵。霊界の境域である。

 

さて、私たちは、音楽に、生の歓喜とその高まりを聴くばかりではなく、地獄ないしは生と死の深淵からの音響をも聴き取るのである。例えば、ショスタコーヴィチの交響曲第4番の「地獄のフーガ」(cf. David Hurwitz : The 12 Greatest Contrapuntists of All Time on YouTube)やマーラーの交響曲第9番。このような響きを、私たちは、マーラーやショスタコーヴィチ以前の時代にも、すでに例えば、J・S・バッハのパッションやカンタータはもちろんのことだが、クラヴィアやオルガン、ヴァイオリンやチェロのための独奏曲の中に聴いている。また、それ以前にも、根源的なディエス・イレ/Dies irae の旋律が、人類の歴史に刻まれている。これらの音楽の根源的な性格は、人間の魂が一種の霊的極限状況へと突入し、眼前に生と死の深淵を見て、そこから響いてくる境域の守護者の声を、純粋思考がとらえたということに他ならない。

 

いずれにしても、人類は古(いにしえ)より、その時代その時代、そしてそれぞれの民族が、それぞれのやり方で、境域の体験を成してきた。そして、それぞれの純粋思考の言葉で、その体験を記述してきた。そのようにして遺された記憶が・・・純粋思考が、私たち、彼らの後に生きる者たちのために遺されている。私たちは、彼らの成した純粋思考の記憶を手掛かりにすることができるのだ。

つまり、例えば、ショスタコーヴィチの第4交響曲第1楽章の疾走するフーガを、自らの純粋思考をとおして感受すると、ショスタコーヴィッチの成した境域の純粋思考と私の純粋思考とが共振/共鳴する。この純粋思考の共振/共鳴によって、私は境域を体験することになる。生と死の深淵の体験である。そこには、アーリマンとルシファーも姿を見せる。彼らに対峙しなければならない。ショスタコーヴィチの音楽もそのように造形されているのだ。自信の無い人向きの音楽ではない。当然のことながら、自信の無い人は、このような、ある意味において死と恐怖の音楽に出会う機会を逸する。幸か不幸か、逸し続けるのだ。

 

“私はこれまで、あなたが死ぬ瞬間に目に見えない姿でそばに立っていましたが、いま、私は目に見える姿であなたの前に立っています。私の境域を踏み越えると、あなたは、いままであなたが地上を去るたびに足を踏み入れてきた領域に入っていくことになります。あなたは完全に意識的にこれらの領域に足を踏み入れ、それから先はずっと、外面的に目に見える姿をとって地上で生活しているときにも、同時に死の領域で(しかし本当は、それは永遠の生命の領域なのです)活動することになります。ある意味において、私は死の天使です。しかし同時に私は、けっして涸れることのない高次の生命をもたらす存在でもあります。生きている肉体のなかにいるときに、あなたは私をとおして死を体験しますが、それはけっして滅ぼすことのできない存在のなかで、ふたたびよみがえるためなのです。

いまあなたが足を踏み入れようとしている領域において、あなたは高次の存在たちと出会います。この領域に関与することによって、あなたは無上の幸福感を味わうことになります。しかしあなたがこの世界で最初に出会うのは私(すなわちあなた自身が生み出した存在としての私)でなくてはなりません。いままでは、私はあなた自身の生の営みをとおして存在していました。しかしいま私は、あなたをとおして自分自身の存在に目覚めました。そして私は、未来の行為の目に見える基準として(場合によっては、あなたをたえず叱責する存在として)、あなたの前に立っています。あなたは私を生み出すことができました。しかしあなたは同時に、私を作り変える義務も引き受けたのです。”(ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』松浦賢訳 柏書房 p. 231,232)

 

このように境域の小守護者は、あなたに語る。あなたは、生と死の深淵に、霊界の境域に立っているのだ。カルマがあなたをその場所へと導いた。だから、あなたはそこに来るべくして来たということだ。そこに至る道は、けっして平坦ではなかったはずだ。ミームに派生した悟性魂/心情魂として、あなたはマテリアリズムとセンチメンタリズムに徹底的に染め抜かれたイメージとシナリオとで作り上げられたお決まりの人生ゲームを戦い抜いたのだ。そして、その最後までたどり着いたとき、後ろを振り返って、強烈な虚無感に襲われたに違いない。そして、足元に目をやると、死の深淵がぱっくりと口を開けていることに気づく。ほどなくして、あなたはこの深淵が、あなたが生まれてこの方ずっとあなたの周りに、口を開けていたことを悟るのだ。あなたの魂が光を失えば、いつでもこの深淵に転落する。そんな綱渡りのような世渡りだった、と。

 

とはいえ、人間の魂に霊的生命を賦活する新しきものは、常にこの深淵から、霊界の境域から生まれてくるものなのである。それ以外のものは、古きものの繰り返し、何らかのミームのアルゴリズム上に既にあるものの複製でしかない。コピーである。

 

まさに、境域の守護者が、「ある意味において、私は死の天使です。しかし同時に私は、けっして涸れることのない高次の生命をもたらす存在でもあります。生きている肉体のなかにいるときに、あなたは私をとおして死を体験しますが、それはけっして滅ぼすことのできない存在のなかで、ふたたびよみがえるためなのです。」と語っているように。まさしくこの領域こそが、芸術の誕生する場所なのだ。

 

だが、彼は次のようにも言う。

 

「いまあなたが足を踏み入れようとしている領域において、あなたは高次の存在たちと出会います。この領域に関与することによって、あなたは無上の幸福感を味わうことになります。しかしあなたがこの世界で最初に出会うのは私(すなわちあなた自身が生み出した存在としての私)でなくてはなりません。」

 

つまり、彼はミームの終点に立っており、その意味ではミームでもある。しかし、新しきものが生まれるためには、人類のミームのコピーでしかない彼は一度死ななければならない。彼の死は同時に、悟性魂/心情魂としてのあなたの死でもある。

この生と死の深淵を乗り越えなければ、再生はないのだ。蘇り(よみがえり)はないのだ。