唯一の霊的関係性、それは、「わたし/Ich」ー「あなた/Du」。
この関係性においてのみ、生命霊が現れる。
生命霊の介在しない場所は、死が支配し、そこは地獄となる。
歌唱においては、身体それ自体が、音楽を奏でるのでわかりやすいが、例えば、ピアノ演奏においてはどうなるのか。
ピアノを演奏する人間がピアノの一部になる。そして、ピアノの方も、それを演奏している人の一部となる。人と物理的な楽器とが一つの生命霊の楽器となり、一つの霊的音楽を奏でるのだ。
では、楽器とは、この場合、何を意味するだろうか?
ただ、物質があるのみでは、それは成立しない。たしかに、物質なしには、それはそもそもあり得ないのだが、人間の体(たい)が、単なる物質ではないことを合わせて考えれば、霊的音楽を奏で得る楽器が、物質としての体をもちながら、そこにエーテル的なるもの、アストラル的なるもの、そして意志的なるものをも、合わせ有していることに思いを致すべきである。
ちょうど、人間の物質体が霊人(れいじん)に由来し、エーテル体が生命霊に由来し、アストラル体が霊我(れいが)に由来するように。
霊人/アートマ、生命霊/ブッディ、霊我/マナス。
そして、人間の物質体とエーテル体とアストラル体とのつながり方、その関係性が自在であって、有機的でなければ、それぞれの体が適切に機能できず、濁り澱んで、心身の何らかの不調をきたすように、例えば、霊的音楽を奏でるべき楽器としてのピアノにおいても、いわば、オルフェウスの竪琴は実現しない。
ピアノにおけるアートマ、ブッディ、マナス。ピアノの製造者、それをメンテナンスする人、それを弾く人、さらに、それが弾かれる会場、実演を聴きに来る聴衆。このようなつながり、ネットワークはさらに広げて考えることできる。そして、その全体を俯瞰することはできない。
そのような俯瞰の不可能性に直面したときに、思考のベクトルを変える必要が出てくる。
“『平均律クラヴィーア曲集』はピアニストにとって逃げられないものだと思います。私自身、集中的に取り組んでみて、それこそ「量」をこなすことで、色々わかったことがあります。できれば若いときにもっと勉強しておけばよかった(笑)。なぜなら、ここにはピアノ(鍵盤)演奏にとって大切なものすべてが入っているからです。
いちばん感動したのは、バッハも手の感覚で作曲していたということがわかったこと。バッハ自身がすばらしい鍵盤奏者だったことを、初めて感覚的に理解できた。偉大な作曲家としてではなく、生きた人間としてのバッハが実感できたんですね。当時の楽器(チェンバロやクラヴィコードなど)は、現代のピアノとは機能も違うし、奏法も違う。でもやっぱり発想は手から来ている。どうやってきれいな音で弾くかとか、鍵盤楽器でどうやって歌うようにレガートで弾くか、どのようにして指を独立させるか、それをバッハがすごく意識していたことが肌で感じられたんです。ある意味、ショパンに近いかもしれません。ショパンがバッハをものすごく大事にしていたのは有名な話です。ショパンは自作を弾くリサイタルの二週間ぐらい前からは作曲をしないで、バッハの『平均律』だけを毎日何時間も弾いていた。そうすればピアニストとして完璧なフォルムに仕上がる、と言っていたそうです。その言葉の重みがよくわかります。”(イリーナ・メジューエワ『ピアノの名曲 聴きどころ 弾きどころ』 講談社現代新書 p. 14,15)
鍵盤音楽の作曲において、作曲家は人間の身体と鍵盤とのインタラクティヴな、そして身体的な関係性を前提にして、作曲をする。鍵盤音楽の演奏者は、作曲家が成した人間の身体と楽器との生命と有機性に満ちた対話を、自らの身体と楽器を共鳴させることによって、いわば再臨させる。
メジューエワが、「私自身、集中的に取り組んでみて、それこそ『量』をこなすことで、色々わかったことがあります。」と述べているように、「集中的に取り組むこと」、「『量』をこなすこと」によって、謎が解明され始める。自らの体(たい)を動かして、思考する。このとき思考は、純粋思考へと変容し、インスピラツィオーンとなる。このような認識の変化には、時間がかかる。すべてを一度に成し遂げることなど、誰にもできないのだ。偉大なるバッハにも、それはできないことだ。
メジューエワは、彼女一流の表現で語っている。
「偉大な作曲家としてではなく、生きた人間としてのバッハが実感できたんですね。」
さらに、
「ショパンは自作を弾くリサイタルの二週間ぐらい前からは作曲をしないで、バッハの『平均律』だけを毎日何時間も弾いていた。そうすればピアニストとして完璧なフォルムに仕上がる、と言っていたそうです。」
じつにすばらしい。ここには、人間の身体と楽器としての鍵盤の霊的であると同時に身体的な関係性、その謎が解明されていることを読み取らなければならない。
シュタイナーは、「ピアノはアーリマン性の強い楽器だ」と語ったが、人間の身体はピアノの霊的な部分と共振/共鳴することによって、ピアノのもつアーリマン性を超克するのだ。
このとき人とピアノとは、一つの身体のようなもの、一つの楽器となって、・・・あのオルフェウスの竪琴になる。オルフェウスと彼の竪琴は一体である。
人間の身体と楽器とは、共にいわば人類の記憶の集積なのである。そこに神々のはたらきかけがある。人類の自我と神々との協働。