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大分アントロポゾフィー研究会

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例えば、クンダリニーのセンターは、人間の性センターと重なるか、それと近接したところに位置しており、そこから発する霊的エネルギーの流れを意図的に、あるいは恣意的にコントロールすることは極めて困難である。クンダリニーの奔流は往々にして人を狂気に追いやったり、それに取りつかれた人間を獣(けもの)と化したりする。

いわゆる性産業が、いにしえより人間世界において隆盛を極めるのも、ここに端を発すると考えざるを得ない。また、優れた芸術が必ずと言ってよいほど、エロスと関連していることも同様である。

また、狂気の戦場において、獣と化した人間が、敵とみなされた人間の体を侮辱し、損壊するのは、聖なるものである霊とやはり同様に聖なるものである体を傷つけたいという悪魔的な衝動が噴出しているのだ。

戦時と平時との境界があいまいになった感のある、この時代においては、私たちの日常生活の領域にまで、暴力的な衝動が浸潤してきた。

 

このあたりの経緯については、高度に純粋思考を成すことができるようになった人間にしか、しかとは分からない。しかし、ある程度純粋思考が可能となった人間は、いわばいわゆる勘が働くようになり、悟性的思考では思いもよらない答えを見出すことができるようになる。

 

さて、インスピレーション/インスピラツィオーンによって、物事の霊的つながりが開示される。これは、ミームのアルゴリズムから出てくるご都合主義のシナリオとは全く異なる。

ミームのアルゴリズム・シナリオは、何一つ新しいものを生み出さない。それに対して、インスピラツィオーンは一度始まるともはや終わることがない。それは生命に似た何かであり、インスピラツィオーンがあなたの人生そのものになる。

 

インスピラツィオーンによって、物事の霊的つながり/霊的シナリオが開示されると、あなたはそれがミーム由来のシナリオとは全く異なったものであることを、そのとき初めて理解する。なぜなら、それはあなたが知る既存のいかなるシナリオとも違って、今初めてあなたが体験する全く新しい何ものかだから。それでいて、その新しいものはあなたを包み込む。あなたの中に霊的生命が流れ込んでくる。この地上に誕生し、日々の雑事に紛れて、もう久しく忘れていた故郷、すなわち霊たちの国の記憶が蘇る。

 

そして、ミーム由来のシナリオが、いわゆるフェイクであり、あるいはキッチュであることが分かる。フェイクでありキッチュであるそのようなシナリオに登場するいかなるイメージも、人を欺くものであることが分かるようになる。

 

ミームのアルゴリズムと純粋思考であるインスピラツィオーンは、けっして交わらない。悟性的思考と純粋思考とは、レイヤーが違うのだ。純粋思考はミームの外部にあり、純粋思考の側からミームを俯瞰することはできるが、ミームの内部から、すなわち悟性的思考の側から純粋思考を感知することはできない。そうなのだ、純粋思考はミームの何たるかを認識するが、ミームに対して直接的に働きかけることはできない。ミームが霊的に無意味であることを知る故に、霊である純粋思考が・・・。

 

さて、ここで極めて重要な一点に気づく。

それは、霊はミームの幻影に働きかけることはないが、人間の体(たい)に息づき、脈動する霊である純粋思考とは共鳴するということ。これは、つまるところ、イントゥイションに他ならないのだ。霊が人間の体に息づく自らに対峙する。そして、人間の体が単なる物(もの)ではないことが明らかとなる。

つまり、このことが成就することは、「その新しいものはあなたを包み込む。あなたの中に霊的生命が流れ込んでくる。この地上に誕生し、日々の雑事に紛れて、もう久しく忘れていた故郷、すなわち霊たちの国の記憶が蘇る」という特別な出来事が起こることを意味しているのである。

 

要するに、ここから新しい生活が始まるのだ。

あなたは、ミームの桎梏から自由になった。しかし、ミームは事あるごとに、あなたに接近してくる。なぜなら、霊的には外部であるとはいえ、ミームはあなたの悟性魂/心情魂として、あなたの中に鎮座(ちんざ)し続けているから。そこから、アーリマン的/ルシファー的な誘惑が来続ける。それらの誘惑は、必ずミームのアルゴリズムに則って現れる。イメージやシナリオ、迷信や空想、マテリアリズムに染め抜かれた諸理論、センチメンタリズムばかり追求するエンタメやメディア・・・。そうした諸々が、あなたの魂を誘惑し、ミームの泥濘に引き摺り込むのだ。一度引き摺り込まれると、そこから抜け出るのは一苦労だ。

 

“あなたのなかに残っている恐れの感情や、すべての行為や思考に対する責任を完全に引き受ける力は自分にはないのではないか、という不安感をとおして、あなたは私の境域と出会います。あなたが自分自身でみずからの運命を導くことに恐れを感じているあいだは、この境域には必要な部分が欠けていることになります。そして境域を構成する要素が一つでも不完全であるうちは、あなたは呪縛されたようにこの境域で立ち止まったり、つまずいたりします。ですからあなたが恐怖から完全に解放され、最高度の責任を自分で引き受ける心がまえができるまでは、この境域を越えようとしてはなりません。”(ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』松浦賢訳 柏書房 p. 230,231)

 

恐れの感情や不安感は、悟性魂に付随する心情魂の現れである。それらの感情はミームのアルゴリズムに由来する。ペルソナとシャドーとに分裂したあなたは、寝ても覚めても、何かに追い立てられているように感じ、その強迫感情から、小手先の逃避行動をし続ける。そして、逃れることはかなわず・・・。

だが、それは当然と言えば当然のことだ。なぜなら、ミームはあなたの中にあり、ペルソナもシャドーもあなた以外の何者でもない。あなたの低次の自我が、シナリオを伴ったイメージとして現れているに過ぎないから。

あなたの内なるミーム。ミームの内なるあなた。あなたの内なるミームの内なるあなたの内なる・・・。まるでメビウスの輪のようなこのミームの迷宮から脱出しない限り、あなたを消耗させるあなた自身の一人相撲は終わることはないのである。

 

あなたが、何らかのおそらくは緊急の必要に迫られて(幸運に恵まれて)、あなたの内なるミームを相対化することができれば、外なる景色/風景もその姿を変える。そこは生と死の深淵だ。あなたは境域にたたずんでいる。

 

さて、「あなたが自分自身でみずからの運命を導くことに恐れを感じているあいだは、この境域には必要な部分が欠けていることになります。そして境域を構成する要素が一つでも不完全であるうちは、あなたは呪縛されたようにこの境域で立ち止まったり、つまずいたりします。」とシュタイナーは語る。

 

「境域に必要な部分」とは、そして「境域を構成する要素」とは何だろう?

それは、端的に言えば、純粋思考である。外界にイントゥイツィオーンの光を照射し、その光に照らし出されたイマギナツィオーンを感知する。そして、インスピラツィオーンによって、イマギナツィオーンの関係性が開示される。

 

1 イントゥイツィオーンとは、霊である自我のみが持ち得る力である。これは意志的な力であり、カルマ的な力である。

 

2 インスピラツィオーンこそが、思考の根源的で本来的なあり方である。人は思考することによって、物事を関連づけるのである。イントゥイツィオーンによって根拠づけられたイマギナツィオーンの諸イメージの関係性を、インスピラツィオーンが開示する。霊的シナリオの開示。

2-1 イマギナツィオーンにおいて感得されたイメージは、イントゥイツィオーンによって裏打ちされており(根拠づけられており)、その意味において、悟性魂/心情魂に現れる恣意的なイメージとは異なっている。