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大分アントロポゾフィー研究会

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ついさっきまで、ユーチューブで、エマニュエル・トッドとピーター・ティールの対談の動画を見ていた。そこで気づいたのだ。彼ら二人の口から言葉が出てくるとき、それはあたかも音楽のインプロヴィゼーションのようだと。何かあらかじめ下書きのようなものがあって、そのテキストから一つ一つの言葉を選んでいるというより、譜面を暗譜していて演奏しているのとも違って、彼ら自身のペルソナでさえ、当人たちの口からどんな言葉が飛び出してくるか、気づいていない、また制御できない、それでも彼らの語りは説得力を持っている、そんな感じだ。

なかなか適切な表現にならないかもしれないが、二人の出会いと対談の行われた日本という場所、さらにはその時間的ポイントなど、無数の要因が絡み合って、幾重にも重層する文脈をもった語りが生まれたと言えるだろう。一回限りの、その場だけの語りのインプロヴィゼーション。つまり、彼らの意識魂におけるインスピレーションの言語化である。彼らの魂において、インスピレーションはもう何十年間も続いていた。そして、今現在においてもそれは続いているのだ。

 

このような純粋思考を言語化し、語ったり、記述したりするのは、いかなる時代においても、並大抵のことではなく、たとえそれが言語化されたとしても、意識魂が覚醒しておらず、悟性的思考しかできない通常の人間には、それらの語りや記述を理解することはできない。ミームに囚われて、思考のカテゴリーエラーを犯してしまうのだ。

 

もう一度、ティールとトッドに話を戻すと、彼らの話を聞きながら、彼らの純粋思考が必ずしも道を外れないわけではないということにも気づくのだ。既存のミームに引きずられるというか、インスピレーションがどういうわけか屈折するというか、要するに思考の弱さが出てくる瞬間があるように思われるのだ。

だが、これはやむを得ないことだ。この地上に生きるどんな人間も、キリスト・イエスのレベルの純粋思考までは、到達しないから。

ティールもトッドも、その辺の事情は直感的に分かっていて、彼らの態度や振る舞いは謙虚さを失わない。ここが大切な点だ。

 

さて、キリスト・イエスは弟子たちと純粋思考の対話を成した。そのうちのどれほどが、福音書に記録され、後に遺されているのかはわからないが、福音書に書き記されたそれらの純粋思考のやりとりについて、私たちが自らの意識魂を覚醒させ、自ら純粋思考を成して、その意味するところを読み解いていけばいいだけの話で、「その全部が遺されていないのではないか」などと気に病むのはまったく意味がない。

要するに、意識魂の覚醒と自分で純粋思考を成すことだけが求められるのである。純粋思考を成せば、福音書の意図を理解することができる。また、福音書を読まずとも、それが分かる。しかし、純粋思考なしに、福音書は理解できない。カテゴリーエラーを成すことは、許されないのだ。

 

だから、例えば、キリスト・イエスは次のように語る。

 

「・・・あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。・・・」(「マタイによる福音書」第6章)。

 

私たちは物事の優先順位を取り違えて、霊ではなく物を選んでしまう。ミームに囚われた悟性魂/心情魂の悲しい性(さが)である。

 

意識魂の前に、「それ/Es」すなわち他者は、まずイメージとして現れるが、そのイメージはまさに初めて私たちの意識の前に現れる如くに出現する。出現/apparition である。何か過去から来るありきたりのイメージの繰り返しではない。この違いを逸することなく感得し、感受しなければならない。

もう一度確認しよう。

霊的他者が出現するときには、それは常に新しく、常に生成しつつ、私たちの意識魂の前に現れる。

私たちが、そのような霊的他者のイメージをとらえることができるか否か、その新しさのニュアンスを感得することができるか否かは、私たちの内に息づくイントゥイション如何による。高次の自我から来るイントゥイションの光、霊的生命の光によって、霊的他者の諸々のイメージが照射され、この世ならぬ輝きを放つ。このような霊的イメージを感受することが、イマジネーションである。

だから、イマジネーションの成立/生起は、イントゥイションによって、いわば裏打ちされている、ということなのだ。イントゥイションは高次の自我に端を発する。つまり、それはいわばカルマ的必然である。ミームに囚われた悟性魂/心情魂は、そのような霊的事情には無頓着だ。そのように無神経な悟性魂/心情魂がひねり出すありきたりのシナリオ、マテリアリズムとセンチメンタリズムのシナリオに、私たちはそろそろ見切りをつけた方がいい。

 

さて、イントゥイション → イマジネーション から、純粋思考の核心部分とみなすことができるインスピレーションが活躍するところに来る。

感受され、観察される複数の霊的イメージの相互の関連を見出し、思考し、そして新たな霊的シナリオを生み出すのが、インスピレーションである。