出来事とは何か | 大分アントロポゾフィー研究会

大分アントロポゾフィー研究会

ブログの説明を入力します。

”主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。主よ。私の声を聞いてください。私の願いの声に耳を傾けてください。主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。しかし、あなたが赦してくださるからこそ あなたは人に恐れられます。

私は主を待ち望みます。私のたましいは、待ち望みます。私は主のみことばを待ちます。私のたましいは、夜回りが夜明けを待つのにまさって、主を待ちます。

イスラエルよ。主を待て。主には恵みがあり、豊かな贖いがある。主は、すべての不義から イスラエルを贖い出される。”(「詩篇」 130)

 

 

「出来事とは何か」と問うからと言って、それを定義しようというのではない。

定義とは何らかのイメージ体/文脈イメージをこしらえ上げることを意味するが、そうではなく、聖書にならって記述しようと思うのである。純粋思考の言葉によって。

 

1 出来事は人を巻き込む。人は出来事に巻き込まれる。あたかもその主体が人ではないかのように。主体は出来事の側にある。

 

2 出来事には順序/オーダーがある。順序/オーダーは不可逆であり、繰り返されることもない。常に一回限りのまさに出来事なのである。

2‐1 イメージ体/文脈イメージはコピーされる。それは更新され、あたかも変容するかのように見えるが、可逆である。

 

3 イメージ体/文脈イメージをこしらえるもともとの主体は人だが、こしらえる過程で人はアーリマンとルシファーに頼らざるを得ない。イメージ体/文脈イメージを膨らませるには、どうしてもアーリマン/ルシファーの力が必要になるのである。

3‐1 イメージ体/文脈イメージにはキリスト衝動が働いていない。一つのイメージ体は別のイメージ体と対立する。イメージ体同士が対立し合う。

 

4 イメージ体に人が依存/執着する限り、人は他者と歪(いびつ)な関係にあり続ける。その場合、他者は例外の余地なく「それ/Es」として現れる。

4‐1 「それ/Es」は「もの」であり、人間ではない。「それ/Es」の正体は、アーリマン/死である。

 

”それからイエスは弟子たちといっしょにゲッセマネという所へ来て、彼らに言われた。私があそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとを連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。

そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」

それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」

それから、イエスは、弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」

イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずに済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」

イエスが戻って来て、ご覧になると、彼らはまたも眠っていた。目をあけていることができなかったのである。

イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた。

それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」”(『マタイの福音書』 第26章)

 

死すべき人間の定め。人と成った神/ナザレのイエス/キリスト・イエスにも、死/アーリマンは近づく。

だが死ぬのは、肉体である。それでもナザレのイエスの魂には、人間が死に対峙した時に不可避の感情が沸き起こらざるを得ない。「・・・イエスは悲しみもだえ始められた。そのとき、イエスは彼らに言われた。『わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。・・・』」

そして、イエスは祈る。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」

「この杯」とは、ゴルゴタの秘蹟の出来事を指す。だが、出来事は人の意志によって左右されるものではない。そのことは、神であるナザレのイエス/キリスト・イエスは誰よりも了解している。だからこの祈りの中に、神であり同時に人でもあるナザレのイエス/キリスト・イエスの葛藤を見て取ることはできると思う。人は悲しみ、神も悲しむ。

しかし、この出来事/ゴルゴタの秘蹟は成就されなければならない。それが、神の望むところ、神の意志である。「イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。『わが父よ。どうしても飲まずに済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。』」

 

なぜこの出来事/ゴルゴタの秘蹟が起こらなければならなかったのか。この秘蹟の意味は何なのか。

 

神が人と成り、人がアーリマン/死に勝利するためである。

この神の意図/キリスト・イエスの使命を理解し、ゴルゴタの丘までナザレのイエスに付き従うことができた弟子は誰もいなかった。福音書はその様子を克明に描く。

 

弟子たちに事の成り行きとその意味とが理解できたのは、キリスト・イエスの復活の後、事が成就した後になって、弟子たちはすべてを理解するようになった。

弟子たちはゴルゴタの丘までナザレのイエスと共には辿り着かなかったが、ゴルゴタの出来事の成り行きには巻き込まれており、いわばその役目をそれぞれに果たしていたのである。

 

”・・・わたし(ナザレのイエス)がこれらのことをあなたがたに話したのは、その時が来れば、わたしがそれについて話したことを、あなたがたが思い出すためです。わたしが初めからこれらのことをあなたがたに話さなかったのは、わたしがあなたがたといっしょにいたからです。しかし今わたしは、わたしを遣わした方のもとに行こうとしています。しかし、あなたがたのうちには、ひとりとして、どこに行くのですかと尋ねる者がありません。

・・・わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益(えき)なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。

・・・その方、すなわち真理の御霊(みたま)が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。」(『ヨハネの福音書』 第16章)”

 

弟子たちは聖霊降臨によって、自分たちが巻き込まれていた出来事のすべてを思い出し、ゴルゴタの秘蹟の意味を理解するのである。

 

・・・・・・・・・

 

光と影が、運命を際立たせる。光は命であり、影は死である。

出来事に光と影/光と闇は付き従う。