それは起こる ~ 出来事 | 大分アントロポゾフィー研究会

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出来事(Ereignis)には、常に危機(クライシス/crisis/Krise)の徴候が認められる。

多かれ少なかれ深刻で、必ずどこかなにがしかの死のにおいが漂っている。アーリマン/ルシファーがそこにいるから。

・・・キリストは、その死の淵から復活したのだ。

だから同時にそこには、キリストの意志/キリスト衝動/Christus-Impuls が働いている。

 

ゴルゴタの秘蹟からこの方、キリストの意志は、私たち一人一人の高次の自我を貫いている。

だが同時に、私たちはいまだ、アーリマン/ルシファーの共働によって私たちの魂の内に構築されるイメージ体の桎梏(しっこく)から逃れることができないでいる。

 

”すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。”(『ヨハネの福音書』 第1章)

 

「まことの光」とは、他ならぬ「わたし/Ich」であり、神であるが、同時に神の「属性」をあらわす言葉でもある。

つまり神は、「わたし/Ich」であるから、「わたし/Ich」であることにおいて、人間の高次の自我と同質である。

そして、すべての高次のヒエラルキア存在たちが同様に、彼ら自身の自我/高次の自我/神性を持つのだ。

その”自我の光”が、「やみの中に輝いている」。やみ/アーリマン/ルシファー/イメージ体は、これに(自我の光/輝き)に打ち勝つことはないのである。

だから人間の高次の自我は、キリストと同質であり、それが故に、人間の自我とキリストとは共振し合うのである。

「この方(神/キリスト)を受け入れた人々/その名(「わたし/Ich/高次の自我/ロゴス」)を信じた人々」は、イメージ体の虚しさ/仮象性を脱け出、純粋思考によって(聖霊によって)、神/キリストと共振する。神/キリストと合一し(unio mystica)、「神の子どもとされる」。「神の子ども」は、”自由の霊”への道のりを歩むのである。

 

いかなるイメージ体も人を自由にすることはないのに対して、純粋思考は自由にする。

「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(『ヨハネの福音書』 第8章)

イメージ体は人を拘束し、人はイメージ体に依存/執着する。

人は自分を守るためにイメージ体を更新し肥大化させる。そして自分が拠り所としているそのイメージ体を守るために他者と敵対する。自分を守るために、できるだけ似かよったイメージ体を持つ他者と共に群集化する。あるいは他者に対して自分のイメージ体を強要する。他者をマインドコントロールする。

そして人は群集化して、アーリマン/ルシファーの幻想のイメージ体に安住するに至る。

ある群れは別の群れに対して常に敵対的である。なぜなら、いずれの群れも相異なるイメージ体によってその群集化した魂を支配されているからである。相異なるイメージ体は敵対する。未熟な自我は、他者を常に敵とみなすものである。

 

イメージ体の驚くべき仮象性に気づくことができるのか。イメージ体がアーリマン/ルシファー由来であることを見抜けるのか。

まさしく出来事(Ereignis)が、そしてそれだけが、イメージ体の仮象性に気づくきっかけになる。

そして、自らの内にキリスト衝動が働くのを感じ、ロゴスによってアニマが受胎するのを感じることができれば、アーリマンとルシファーに対峙する勇気を得ることになる。

 

・・・・・・・・・

 

重力の中に、アーリマンが働いている。だから、人間は大地から離れることができない。

 

”・・・神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。人は答えた、「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです

」。そこで主なる神は女に言われた、「あなたはなんということをしたのです」。女は答えた、「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」。主なる神はへびに言われた、「おまえは、この事を、したので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう。わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」。”(「創世記」 第3章)

 

重力/アーリマンは、すべてを鉱物界、あるいはさらに下層の世界に引き寄せる。

人間の魂は、霊界/精神界に憧れる。上方の世界である。魂はそこへ至ろうとして、やみくもにイメージ体/文脈イメージを構築し続ける。そこに、ルシファー衝動が働いている。

ところが、すべてのイメージ体/文脈イメージは、アーリマン原理によって貫かれている。「おまえ(へび/ルシファー)は腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう。」神は、ルシファーをもアーリマン原理の支配下に置いたのである。

 

だから、イメージ体/文脈イメージには、アンチ・ロゴスのアーリマンの力が働いており、常に死のにおいがするのである。そして、イメージ体を以てしては、何人(なんびと)も、アーリマン/アンチ・ロゴス/死を克服することはできない。

アーリマンに打ち勝つためには、ロゴス/光/キリストの助けが必要である。芸術を以てして初めて、人はアーリマン/死を克服できる。

芸術を生み出すことは、出来事(Ereignis)の領分(りょうぶん)である。

 

”この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。”(『ヨハネの福音書』 第1章)

 

「この方」とは、神でありキリストである。「いのち」とは、意志でありキリスト衝動である。意志/キリスト衝動が、人間の高次の自我の中に輝いているのである。

「やみ」とは、アーリマン/死の世界である。鉱物界とその下層の世界と呼んでもよい。そして、・・・

 

だから、「それ/Es」について、次のように考えることができる。

「それ/Es」は、”もの”であって、”もの”には生命はない。死の世界である。その死の世界を、人はイメージ体/文脈イメージを媒介にして、見ているのである。常に仮の世界・・・ヴァーチャル・リアリティと言えば言える。ただし、イメージ体がイメージ体を見る、イメージ体でイメージ体を追っかけるという堂々巡りをやっている暇はない。

「それ/Es」の死の世界に、いのちを与えることができるのは、・・・