36年間、第一の妻と(私には第二、第三の妻はいない)夫婦をやってきて、「ほとんどすべての夫婦は、いわゆるおこちゃま夫婦なのではないか。私たち夫婦も含めて。」という気がしてきたのである。
つまり、「みんなまだ子供なんじゃないか。」ということなのである。
「みんな人間ができていない。そして、人間ができていないことにあぐらをかいている。かき続けている。お年寄りさえも。」という結論に、・・・私は(まだおこちゃまの私は)達しつつあるようなのだ。
そして、この「みんな」の中には、まあ当然と言えば当然のように、未婚(既離婚)成人男女も含まれていることは言うまでもない。
おこちゃま/子供の特徴は、以下の通り。
1 物事を白か黒かで(恐怖の二分法で)色分けしたがる。
2 せっかちである。
3 自分の他人の問わずイメージ体/文脈イメージに依存・執着している。
3-1 自分を客観視できない。自分を相対化できない。
3-2 自分を相対化すると、そのまま自己否定と虚無主義/ニヒリズムに陥ってしまう。
なーんて思考を展開していると、私たち夫婦の現実はとんでもない展開を見せ始め、その夫婦的現実のある種恐怖の出来事を通して、私は大切なことを発見したのである。
それは、私の第一の妻(第二、第三の妻は私にはいない)が、いわゆる胆汁質であるということ。(cf.ルドルフ・シュタイナー)
それから、こちらの方が肝(きも)なのだが、
4 いくら相手がおこちゃま/子供であっても、その人に対して、「あんた、おこちゃま/子供ね」などと不用意に発言することは、その人を侮辱することになる。
そんな当たり前のことを、私は64歳にして思い知ったということの次第なんです・・・いずれにしても、たたかいはつづく。
"キリスト教は、それが聖なる書、すなわち新約・旧約聖書に基づいているかぎりにおいて、《書物の宗教》と規定することができる。だが実際には、これら聖書を超え、本質的にキリスト教は、信仰の対象そのものを構成するある歴史的な出来事に基礎を置いている。すなわち神はナザレのイエスにおいて自己をあらわした、という事実に、である。それはティベリウス帝治政下のパレスチナという人類の時間と空間の中に位置づけられた歴史上の出来事である。キリスト教はこの発顕に絶対的起源をもつ。「御言(みことば)は肉体(ひと)となった」のである。キリスト教信仰は歴史における神のイニシアティヴにその絶対的起源をもつのであって、人間による発見のうちに起源があるのではない。(原注1)このことから提起される問題を、もっぱら一般概念を哲学が、どうして一度かぎりの歴史的出来事を考慮に入れられるのか、というふうに強調することもできるだろう。"(エルヴェ・ルソー『キリスト教思想』文庫クセジュ 白水社 p.7)
いつの時代においても、またこの地球上のどんな場所においても、文脈イメージ/イメージ体ではなく、出来事(Erreignis)こそが決定的だったのである。
そして多くの場合、出来事の前にイメージ体が立ちふさがり、ものごとの真実の姿が見えなくなってしまう。人は、ものごとの真実(の姿)などは無いと考えるようになった。人々は、キリストの出来事(Christus-Erreignis)を忘れてしまったのだろう。
実のところ、どんなに精緻で壮大なイメージ体を構築しても、キリストの出来事(Christus-Erreignis)の想起にまでは至らないのである。
そうではなく、イメージ体/文脈イメージから脱け出す必要があるのだ。アーリマン原理とルシファー幻想に支配された迷宮から脱出するのだ。
しかし同時に、奇妙なことに気づくのである。
人はこの地上生において、基本的には自分の力で、自らの魂の内に、一度は自分のイメージ体/文脈イメージを構築する必要がある、ということに。自分が作ったイメージ体故の上っ面の幸福感や困難/問題を抱えることは、人間として生まれた者の宿命と言える。
つまり、イメージ体に起因するこれらの困難/問題こそが、イメージ体というものの本質を見抜くきっかけになるということなのである。
イメージ体の正体?・・・アーリマンとルシファーである。
アーリマンとルシファーから、人間の体(たい)と魂に向かって、死の力が来る。反感/不快感 ~ 血に逆らうもの、血を損なうもの、その他諸々・・・人間の高次の自我の本質である意志/キリスト衝動の生命を奪おうとしているのか・・・
いずれにしても、人間の魂というものは、その人間の高次の自我と低次の自我との戦いの主戦場であり、そこでは生と死とがせめぎ合い、内なるキリストが、時にアーリマン、時にルシファー、また同時にその両者と攻防を繰り返す・・・
だがどうも、このキリストの戦いをまったくの人ごとのように考えている人間の大人が多い、と言うか、決定的に多数派だ、と言うか、・・・この戦いに気づいていない、見向きもしない、取り違えている、etc.etc.etc.・・・そのような人間の主に(おもに)大人たちが、まさに群衆となって、そう群衆となって、暴走する高度資本主義のカオス的現実が、私たちの眼前に展開するという現実を私たちは日々、時々刻々、目の当たりにするという現実が、・・・そう現実が、・・・
この地上の世界においてのみ、出来事(Erreignis)が起こる。
出来事は、必ず一回限りの事柄である。個々の出来事は常に一回限りであり、繰り返されることはない。
霊界/精神界においては、出来事(Erreignis)という事柄が生起する余地はない。また、その必要もない。
なぜなら、こと(事/言)はすでに成就されているからである。霊界/精神界においては、人間の低次の自我は姿を消し、高次の自我のみが輝いている。もはや、秘儀の必要はない。
ただし個々の高次の自我が、”自由の霊 Geist der Freiheit”へと至る道のりは、まだまだ遠いのはまぎれもない事実である。
そして、人間が自由の霊へと成長/進化するためには、この地上の世界での生活が欠かせない。アーリマンとルシファーとの遭遇/対峙、そして彼らとの格闘を通して、人間は自由とは何かを少しずつ学んでゆかなければならない。
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そもそも、出来事(Erreignis)という事柄の原形/典型と呼ぶべき、キリストの出来事(Christus-Erreignis)/ゴルゴタの秘蹟(Mysterium von Golgatha)・・・
”わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣(つるぎ)をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。”(『マタイの福音書』 第10章)
キリストが来たのは、世に蔓延る(はびこる)旧来のイメージ体/文脈イメージの虚構性と欺瞞(これが「平和」の意味である)を暴くためである。革命と言って差し支えない。
旧来の価値観(イメージ体)に生きる父や母、しゅうとめが、若き人/新しき人の敵となる。
「わたし」とはもちろんキリストのことだが、同時に若き人/新しき人の高次の自我であり、そこにキリスト衝動が働いているのだ。それが、「十字架」である。「十字架」がキリスト衝動である。
そして、人は、「わたし」は、「あなた」の中に、「わたし」を見出し、「あなた」のために生きることができるようになる。自己犠牲に他ならない。「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものと」するのである。
イメージ体/文脈イメージというものは、繰り返し繰り返しコピーされ続ける。空間的にも時間的にもコピーが繰り返される。人から人に、まねされて増殖し、時代から時代へと受け継がれる。そのままコピーが繰り返されるだけなら、たしかにみんな同じように感じ、考え、時間が止まったように、同じ景色がどこまでもいつまでも続く。たしかに「平和」なのかもしれない。しかし、やがて飽きて深刻な停滞が訪れ、・・・
たしかに、人間がイメージ体/文脈イメージというものを所有できるようになったこと自体は、人類進化の一つの大きなプロセスであったことは疑いない。
しかし今や、キリスト自身が言うように、「わたし(キリスト)は、平和をもたらすために来たのではなく、剣(つるぎ)をもたらすために来た」のである。人類にイメージ体の超克(ちょうこく)を促すために来たのである。
キリストは人類に、人類自身の魂の中で働いているアーリマンとルシファーの正体を見据えて、・・・
いずれにしても、アーリマン/ルシファーとの対峙と格闘なしに、人間が第二の自己認識に至ることは不可能である。「平和」から脱出するのだ。その生温かい(なまあたたかい)温室のような「平和」から。
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本当の芸術家・・・