“初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。”(「ヨハネによる福音書」第1章)
「言(ことば)」とはロゴス。神と同質である。~「言は神と共にあった。言は神であった」。
ロゴスは神であり、それがすべてを造った。~「すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」。
ロゴスは生命である。~「この言に命があった」。
つまり、ロゴスは生きた思考である。よって、神とは生きた思考に他ならない。
・・・自我は思考以外のものではありえない。そしてこの思考を意志が貫いている。~「そしてこの命は人の光であった」。
自我/意志的な思考と共にやみに光が点る/輝く。~「光はやみの中に輝いている」。
「やみ」とはアーリマンである。
アーリマンは自我の神であるキリストに勝たない。~「やみはこれ(光)に勝たなかった」。
だが、アンチ・キリストとしてのアーリマンはことあるごとに戦いを挑んでくる。
そしてあろうことか、その主戦場は、私たちの魂だ。
アーリマンは、この地上を生きる私たちに、地上を生きるに便利な無数の道具をもたらす。あくまでも地上を生きるためにのみ。アーリマンのもたらすものを媒介にすることで、霊/精神に至ることはない。
だが、霊/精神から切り離された放浪者である私たちの目に、アーリマンの魔術は最高のものだと映る。
自然科学の諸々の理論やコンピューターに象徴される科学技術、それらの理論や技術を成立させている唯物論的なミームが、現代文明を主導しているのである。
これらのミームと共に、私たちの生活は、ひと言で言えば、きわめて楽で便利になったのかもしれない。
しかし、このことと同時進行で、私たちは、人間関係上の様々な不調と深刻な問題を抱え込むようになった。そして、当然のことながら、自我と魂とにまつわるそれら危急の事柄について、適切に説明したり記述したりするための語彙を、私たちはまだもつに至っていない。つまり、それらの事柄について、自分で考えて、そして他者とそれについて対話することができるようになってはいないのだ。
言葉を換えれば、私たちは自我を失ったも同然の状態にある。
自我は繰り返さない。常に一回限りで、人類の星の時間とともに成長を遂げる。
アーリマン由来のミームは常にコピーであり、繰り返しである。コンピューターに代表されるデジタル技術に端的に示されている唯物論的アルゴリズムのアーリマン的特性を見究める必要がある。なぜならば、私たちはこのような特性をもったものこそ、現代のいわば救世主だと感じるようになっているからである。
ミームに対する依存度が高まれば、人は自分で考えることを止めるようになる。思考しなくなるのだ。思考の代わりに、ミームのアルゴリズムがある。そして、そのアルゴリズムはアーリマンから来ている。
そのようにして、人間は自我を見失う。そして、ミームと同化して・・・
自我をもたないミーム人間は、「それ・人間」と化し、ミームのアルゴリズムの自動性のままに行動する。
このようなミーム空間においては、人間のアストラル体に巣食うルシファー由来の情動/情念が、魂の主だった推進力となる。この状態を表すのに、心情魂という言葉は実にぴったりくる。モラルのないむき出しの情念の世界だ。自我が消えているから、もはや統べる者はいなくなっているのだ。
ミーム空間においては、人が人としてあつかわれることはない。あなたがもしミーム空間において何不自由なく生きているとすれば、あなたも他者を人とは見ていない。他者があなたをどう見ているかというイメージをあなたはもつかもしれないが、そのイメージのすべてが幻想である。ただその幻想であるイメージをあなたが現実だと思い込んでいるにすぎない。
あなたは生まれてこの方、一人のリアルな人間としての他者に、一人として出会ったことなどないのだ。驚くべきことに。
そうかもしれないとあなたが認めないとすれば、それはあなたがミーム空間の住人になってしまっている証拠である。
ミームの魂の空間とは、そのような場所である。
アーリマンとルシファーが支配するところなのだ。
自我を失ったあなたは、彼らの奴隷である。
次に、カントの『純粋理性批判』に強い関心を抱いていた少年ルドルフ・シュタイナーの思い出より。
“・・・当時『純粋理性批判』を読むための時間的余裕はほとんどなかった。しかし私は次のような抜け道を見つけた。歴史の授業では、先生は講義をしているような体裁はとっているものの、その実、ある本を朗読しているだけだった。それ故、授業を重ねるにつれて私たちは、この授業の内容は私たちの教科書から学べばいいのだと悟った。本に書いてあることを読むだけなら、家にいてもできると私は思った。私は先生の「講義」を無視し、彼の朗読の内容は何一つ耳に入れないようにした。その代り私はカントの本を一ページごとに切り離し、それを授業中、眼の前に置いてある歴史の教科書の中にはさみ、講壇から歴史が「教えられている」間にカントを読んだ。無論このことは、義務の原則に照らしてみれば、大変な不正であろう。しかしこの密かな読書は誰の邪魔をするわけでもなかったし、私は自分に要求されている歴史の勉強も怠ることはなかったので、私は歴史で「優」をとったのである。”(ルドルフ・シュタイナー『シュタイナー自伝 わが人生の歩み Ⅰ』伊藤勉+中村康二訳 人智学出版社 p. 39,40)
なぜ少年ルドルフ・シュタイナーがカントの『純粋理性批判』を読みたいと思ったか、シュタイナー自身が次のように語っている。
“思考それ自体が、自然現象の本質に到達することのできるような形に形成されるならば、人間は魂の経た霊的体験を把握することができる - 実科学校の第三、四学年の間、私はこのような考えを抱いていた。私は、私の勉学のすべてを、この目標に接近できるように方向づけた。
・・・カントが私の思考圏に入ってきた時、カントが人類の精神史上に占める位置については私は全く無知であった。肯定論であれ、否定論であれ、カントがどのような評価を受けているかについても私は全く知らなかった。『純粋理性批判』に対する私の強い関心は、全く私の個人的な精神生活に由来していた。事物の本質を洞察するにあたって、人間理性は何を為し得るのかという問題を、少年なりのやり方で私は理解しようと努めたのである。”(ルドルフ・シュタイナー『シュタイナー自伝 わが人生の歩み Ⅰ』伊藤勉+中村康二訳 人智学出版社 p. 38,39)
いずれにしても、シュタイナーの自我に輝く彼の強い意志の力が、ねらいを定めた目標に向かって、彼の思考を貫いている様が見て取れる。
読書も本来、このような意志的な思考の営みの一環なのであり、この歴史の教師がしていたただの朗読は、ミーム的な行動の一種で、自我の成す思考とは根本的に異なるのだ。ホワイトボードに書き散らかれた文字や画像の類をただ書き写したり、書物に印刷された文字面をただなぞって発音したりすることを、それ自体を思考と呼ぶことはできない。
思考によって生み出されたものが記憶となる。
肉体とエーテル体とアストラル体の間に調和が形成され、新たなものが生み出され、そして自我を高める。
ミームは自らのコピーを増殖させるが、それはコンピューターを媒介にしたデジタルコピーのようなもので、そこからは何ら新しいものが生まれない。どこまで行っても、ゼロサムゲームである。
デジタルコピーは、人間の主体的な関与なしに、何ごとも起こっていないかたちで、いわば真空状態で、無機的に現れる。現象する。まさにアーリマンの魔術である。コンピューターヴィルスが増殖する様を私たちは日々目の当たりにしている。ヴィルスはひとかけらの慈悲もなくコピーを繰り返し、上書きを繰り返す。もともと何もなかったのだから、いくら無がコピーされたところで何もないままだ。ゼロ×ゼロはゼロである。人間の物質体にとっては安楽さの極みのように見える。何の努力も要らないのだ。
このようなアーリマンのアルゴリズムが、ルシファー由来の情念の発露のために機能する。そこに人間の自我は主体的に関与しない。無意識である。
反感に根差すルシファー由来の情念が動因となり、アーリマン由来のアルゴリズムが組み立てられる。そこに人間の自我と思考は関与しない。人はまさしく思考停止の状態に陥る。そのようにして、アーリマン/ルシファー由来のミームに、人は従属し囚われるようになってゆく。
その従属の度合い、囚われの強さは、人さまざまであるとはいえ、現代社会において、アーリマン/ルシファーの罠/魔術から自由な人はいない。だれもが多かれ少なかれアーリマン/ルシファーに魂を乗っ取られた、憑依された状態にあると言える。
この現実をしっかりと見据える必要がある。