死海断章 1 ~ 誘惑 ~ | 大分アントロポゾフィー研究会

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鉱物界 - 自然法則 - 鉱物、重力、三次元空間 ・・・アーリマン、死

エーテル界 - 擬自然法則 - 植物、生命 ・・・生命の法則

アストラル界 - 擬倫理法則 - 動物、魂 ・・・魂の法則

霊界/精神界 - 倫理法則 - 人間、霊/精神 ・・・人類の記憶、カルマ

 

霊界/精神界からキリストの力が、鉱物界へ向かって、アストラル界そしてエーテル界を通って、反映する。

鉱物界からアーリマンの死の力が、エーテル界を通って、アストラル界へと至る。

 

アストラル界に到達したアーリマンの死の力は、悟性魂/心情魂に巣食ったミームに浸透し、思考の柔軟さを奪い、人間をニヒリズムと絶望にまで追いつめる。

人間は他者に共感する力を失い、人間社会は砂漠と化す。

 

悟性魂/心情魂に巣食い広がったミームは、最初からミームだったわけではない。もとは、それは思考/思考体だった。霊/精神だったのである。

地上に受肉した人間の魂に入ることで、ミームとなった。その由来は根源的である。

ルシファーの誘惑によって、人間は善悪を知る木からその実を取って食べ、「神のように善悪を知る者」となった。人は情念に従って生きるようになった。情念に振り回されて生きるようになった。つまり、情念がすべてであり、思考は情念に仕えるという位置づけになったのである。

 

情念は、アストラル体の奥深いところから出てくる。ルシファーが勢力を広げる領域である。だから、ルシファーは人間を「善悪を知る木」から食べるように誘惑することができたし、今もなお誘惑し続けているのだ。

情念のもつエネルギーは、それ故、通常の人間からしたら計り知れないほどの破壊力をもつ。ルシファー由来なのだから。人の通常の生活をたやすく破壊するほどの。現代社会に蔓延する種々の依存症の類を思い浮かべれば、その質(たち)の悪さは容易にイメージできるだろう。

 

さて、アーリマンが来る。

 

“さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使いたちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから」。イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ使えよ』と書いてある」。そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使いたちがみもとにきて仕えた。”(「マタイによる福音書」第4章)

 

アーリマンが言うように「石をパンに変える」ことができれば、たしかに楽かもしれない。まさに魔術である。しかしそのような地上的な利便の諸々ゆえに、人は聖なるものを忘れ、そこから遠ざかり、自らの魂を荒廃させる。

悪魔はイエスに「宮の頂上から飛び下りてみよ」と試す。神のようなパワーを見せてみよ、と唆すのだ。だが、そのようないわゆる超能力を誇示するのはさもしい。神に対する侮辱とも言える。現代においても怪しい宗教的カルトの教祖や幹部たちが、それをやっている。そして、迷信とマインドコントロールが蔓延るのだ。

そして最後にアーリマンは、「地上の王である自分に仕えよ」とイエスを誘う。「この世のすべての国々とその栄華」を与えるというのである。だが、地上的な安楽さと快楽とはむしろ、魂の成長を阻む大きな要因である。

 

霊/精神と体(物質体)の間に、魂が位置し、現れる。

人間においては、魂がなければ、霊/精神は、この地上の世界を生きることはない。

また、魂がなければ、人間の地上生が、霊界/精神界とつながることもない。

魂は、霊と体(たい)とがなければ、存在し得ないものなのだ。

 

魂は通常、意識として意識される。

意識として意識されるそれは、思考そのものではなく、思考のアストラル的な反射である。思考が魂の実質としてのアストラル体に反射し、いわば映像化しているのである。

魂のこのような構造なしに、人がこの地上の世界において生活することはできない。

意識としての魂は、思考によっていわば文脈イメージの枠組みを提供される。

つまり、どのような思考が、いかなる性質を有する思考が、アストラル体に到達するかによって、魂の空間に現れる文脈イメージの性格も異なったものになるのである。

 

人間のアストラル体深くに浸潤したルシファーから魂の空間に、罪の臭いに満ちた強力な情念が、多種多様な情念が吹き込まれる。魂の空間は情念の嵐の様相を呈する。

そのような情念の嵐を統べることができるものがあるとすれば、それは思考以外のものではありえない。

思考の由来は、まさに直接的に霊/精神である。霊/精神が魂を統べるのである。

この場合、思考はまさしく霊/精神としての自我に他ならない。

デカルトはこのような含みと射程も見据えて、あの命題で表されているイントゥイションを確認し、記述したのだ。

 

「我思う、故に我あり」

 

また、「出エジプト記」にはこうある。

 

“・・・神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『わたしは有る』というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。神はまたモーセに言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい『あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。これは永遠にわたしの名、これは世々のわたしの呼び名である。・・・”(「出エジプト記」第3章)

 

元をたどれば共感と反感に根をもつ感情がルシファー的に増幅されたものが情念だとすれば、それを統べることができるのは思考のみ。そしてその思考は自我に由来するので、意志的な性格をもつ。自我のイントゥイションが思考に力をもたらすのだ。意志的な性格はこの力から来る。