恐ろしい夢・・・しかしこれは本当に夢なのか
恐ろしい現実・・・しかしこれは本当に現実なのか
「ほんとう?うそだろう」「・・・」
「ほんとにわかったの?」「もちろん」「きっとそれはうそだわ」
「きみは、それが嘘だと言ってるのか」「それが嘘だということがわかったと言ってるんだ」「いや、きみにわかるわけない」
・・・もうなにがなにやら、もう・・・
恐ろしい夢を見た しかしこの夢しか私には現実というものはないと そのとき気づいたのだ
“・・・アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。・・・”(「創世記」第4章)
「羊」は生命を、「土」は物質を象徴する。つまり、アベルは霊/精神の世界とのつながりを忘れていないのに対して、カインはそこから切り離されている。だから、アベルは神に近く、カインは遠い。そして私たちはまさしく、カインの末裔なのである。
“・・・日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しいことをしているのでたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しいことをしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。”(「創世記」第4章)
自分の供え物が神に顧みられなかったカインは、情念の炎に囚われる。「大いに憤って、顔を伏せた」のである。
「顔を伏せる」とは、自らの「憤り」を隠そうとしているのである。
情念に囚われた者は、その情念の由来を知らない。だが、それが神から来たものではないことはわかっているのである。
つまり、情念とは罪であると。
神がカインに語るように、カインは自らの魂に吹き荒れる情念の嵐を治めなければならないのである。
“・・・そして主はカインを見付ける者が、だれも彼を打ち殺すことのないように、彼に一つのしるしをつけられた。・・・”(「創世記」第4章)
神はカインに、神自身との根源的対話を成した者としての「しるし」をつけた。
その「しるし」こそ、自我であり、意識である。自我をもつ者だけが、神とそのような対話を成すことができる。そのような対話こそ自我の証であり、その自我が神から来たことを示しているのである。
そして神がカインに語ったように、自我が情念を統べるという課題が、人間に与えられたのである。
霊/精神 - 自我 - 情念(ルシファー)/物質(アーリマン)
いずれにしても、人間の自我は、聖俗の境い目にあり、二面性をもつことになった。
この二正面作戦の状況を戦い抜くためには、意識魂における純粋思考が・・・
・・・神がカイン(私たち人間自身である)につけた「しるし」は、実のところまだ十分にはその本来の姿を現していない。
それは「しるし」である。それを私たち人間は実質を伴ったものへと変容させてゆかなければならない。
その「しるし」は私たちの自我なのだから、自我は自らを成長させる定めである。なぜならそれは、私たち自身に他ならないのだから。私たち自身に他ならないものは、私たち自身が責任をもち、聖と俗の間で引き裂かれそうな危いそれを再統合するのだ。分裂している自我を。
たとえ神であっても、私たち自身である私たちの自我をどうこうするということはない。それをどうこうするのは、まさしく私たち自らである。
「そして主はカインを見付ける者が、だれも彼を打ち殺すことのないように、彼に一つのしるしをつけられた」。自我という「しるし」は不死の証である。だれも他者の自我を無きものにすることはできない。
だが人の定めとして、自我は受肉し、地上の世界に生きるのである。そこは霊/精神から切り離されたいわば無法の場所である。
カイン自身がそのことを象徴的な言葉で述べている。「わたし(カイン)はあなた(主)を離れて、地上の放浪者とならねばなりません。わたしを見付ける人はだれでも私を殺すでしょう」と。
しかし神はそんなカインに告げる。「いや、そうではない。だれでもカインを殺す者は七倍の復讐を受けるであろう」と。つまり、自我をもつ他者を害する人間は、・・・人間存在の成り立ちの多層性ゆえに、その多層性のそれぞれのレベルにおいて、自らを害する定めに置かれる、つまり罰が下されるということである。このことを神は「七倍の復讐」と呼んでいる。
このような文脈から、カインの末裔の一人としてその名が挙がっているレメクの言葉の意味が明らかになる。
“・・・わたしは受ける傷のために、人を殺し、受ける打ち傷のために、わたしは若者を殺す。カインのための復讐が七倍ならば、レメクのための復讐は七十七倍」。”(「創世記」第4章)
この地上の世界に復讐が満ちている。一族と家族が増えれば、その分攻撃とその被害も大きなものとなる。やられたらやり返す復讐のネガティヴサイクルが止むことなく繰り返される。地上の世界はそのような世界なのだ。そこに自我が受肉してゆく。そして人はこの地上の世界を生きるのだ。
いずれにしても人は、情念に囚われるが故に、復讐という行為に出る。復讐はある意味、実に根源的な行為なのだ。自我が情念を統べることができないとき、思考によって情念を統べることができないとき、人は復讐という行為に至る。
人が自分に何らかの欠落感や不全感を抱くとき、その穴埋めをするために、人は他者を陥れる(おとしいれる)。
だが、その欠落感や不全感が埋まることはなく、人は罪の意識に苛まれ、不毛の場所をさまよう者となる。
「あなたの弟(アベル)の血の声が土の中からわたし(主)に叫んでいます。今あなたはのろわれてこの土地を離れなければなりません。この土地が口をあけて、あなたの手から弟の血を受けたからです。あなたが土地を耕しても、土地は、もはやあなたのために実を結びません。あなたは地上の放浪者となるでしょう」と神がカインに語る。
「アベルの血の声」は呪いである。アベルはカインによる復讐の犠牲者である。アベルの呪いに苛まれるカインから罪の意識が消えることはない。不毛の土地をさまようカイン。呪いから逃れるためにさまようのだ。
そしてカインの末裔たちは、不毛の土地を生きるために、種々の技術の担い手となる。
“カインはその妻を知った。彼女はみごもってエノクを産んだ。カインは町を建て、その町の名をその子の名にしたがって、エノクと名づけた。エノクにはイラデが生まれた。イラデの子はメホヤエル、メホヤエルの子はメトサエル、メトサエルの子はレメクである。レメクはふたりの妻をめとった。ひとりの名はアダといい、ひとりの名はチラといった。アダはヤバルを産んだ。彼は天幕に住んで、家畜を飼うものの先祖となった。その弟の名はユバルといった。彼は琴や笛を執るすべての者の先祖となった。チラもまたトバルカインを産んだ。彼は青銅や鉄のすべての刃物を鍛える者となった。トバルカインの妹をナアマといった。”(「創世記」第4章)
一方、アダムは、カインに殺されたアベルの代わりに、セツと名づけられた子どもを新たに授かる。
“アダムはまたその妻を知った。彼女は男の子を産み、その名をセツと名づけて言った、「カインがアベルを殺したので、神はアベルの代りに、ひとりの子をわたしに授けられました」。セツにもまた男の子が生れた。彼はその名をエノスと名づけた。この時、人々は主の名を呼び始めた。”(「創世記」第4章)
セツはアダムとエヴァの子であるから、血筋から言えばカインの弟であるが、アダム自身が言うように「アベルの代り」だから、カインの系譜ではなく、アベルの系譜である。
セツの子であるエノスはそれ故、カインの末裔ではない。
そして、「この時、人々は主の名を呼び始めた」とあることから、人々が自らの自我を意識するようになったことがわかる。神の名を呼び、神と対話することは、自我存在のみに許された特別な行為なのだ。これは言葉を換えれば、秘儀/秘蹟に他ならない。
カインの系譜が自我をもち、アベルの系譜も自我をもつようになった。
情念は自我を聖なるものから引き離すが、情念との格闘なしに自我は強くなることはできない。
自我が強くなることは、他者との関係性において、エゴイズムが増幅されるという危険性が高まることでもある。
エゴイズムの高まりは、情念の炎がいや増し、両刃の剣のようにその攻撃性が自我自身に向かってくるという皮肉な成り行きを生む。
いずれにしても、自我と情念にまつわる出来事の初っ端(しょっぱな)から、常に他者という謎が介在していたというわけである。
ひとつの自我があれば、それとは異なる別の自我がある。その別の自我があれば、また別の自我がある。
自我が「しるし」であるかぎり、それは自他を区別する「しるし」であり、すべての差異の象徴である。だから、唯我独尊の独我論や他者の存在を捨象する全体主義は、事実認識を誤っているのだ。
私たちの意識魂の前に、私たち自身の聖なる自我そして罪深い自我の姿が浮かび上がっている。そのどちらも他ならぬ私たち自身だ。
私たちは夢を見ているのではない。他者の介在によって覚醒したのである。
悟性魂/心情魂は、夢見る魂。
その魂が夢から覚めたとき、意識魂と成る。