刺青画像 「初代彫宇之 波瀾に富んだ一生」
初代彫宇之に関する新たな資料を発見しました!
第二次世界大戦の敗戦から3年後の1948年に発行されたカストリ雑誌『 艶麗 』 に、著名な彫師となる前の下積み時代の初代彫宇之についての珍しい記事がありましたのでご紹介します。
カストリ雑誌の記事というところに多少信憑性に疑問が残りますが、おそらく大筋では間違っていないのではないでしょうか?
※カストリ雑誌: 第二次世界大戦の敗戦と共に出版が自由化され、それを契機に統制外の粗悪紙を用いて粗製濫造された大衆娯楽紙
『 艶麗 』 創刊記念いれずみ大特輯号 1948年(昭和23年) 双立社・刊
表紙は、戦前の少女向け雑誌『少女の友』のイラストを手掛けていた中原 淳一氏が描いています。 中原 淳一 1913年(大正2) - 1983年(昭和58)
イラストの両肌脱ぎをした女性は、背に龍の刺青と、両腕に男女の生首が彫られています。 神田講武所の芸者「小高」は股に男女の生首を彫っていたと云いますが、このような図柄だったのかもしれませんね。
彫長聞書 近世刺青名人伝
女性の背に山婆と金太郎を彫り終え、ほくそ笑む彫り師の挿絵が面白い
『 艶麗 』 創刊記念いれずみ大特輯号 1948年(昭和23年) 双立社・刊
彫長聞書 近世刺青名人伝 より引用
初代 彫宇之 本名:亀井宇之助 1843年(天保14) - 1927年(昭和2)
明治三十五年(1902)頃から大正十年(1921)頃までを名人「彫宇之」時代と申せましょう。
明治の刺青師として「彫岩」「彫兼」「彫宇之」を三名人といいますが、宇之は彫岩と彫兼の長所をとり入れまして「日本一」とほめはやされた名人であります。
名人「彫宇之」の一代は、全く小説よりも奇と申せましょう。まことに波瀾に富んだ一生でありました。先にも一寸申しあげました大阪の「彫市」が、あの人の師匠ですが、「彫市」を知る前にすでにこんな半生を送っていました。
※彫市: 大工から刺青師になった関西随一と評判の名人
天保十四年(1843)… といえば御承知のように刺青大流行の時代ですが… 江戸は神田(父親は紀伊家のお?廻り)に生れ、本名 亀井宇之助といいました。だから初期の彫物に(彫卯)と入れています。十二才の時、主家の都合で姫路に移り、十八才までこの地に居りましたが、現在なら不良少年で、神戸の福原遊女町にグレた生活をつづけており、ある女郎屋の娘と子供が出来て婿に入りましたが、素行が納らず絵が上手なところから仲間や女郎に刺青してやって遊んでいるので養家追出されてしまいました。
※初期の銘は「彫卯」、後に「彫宇之」と署名
慶応三年(1867)二十五才の時大阪に出てきました。
当時大阪には有名な会津の小鉄親分がおりました。ヤクザ者の彼はその部屋にころがり込みまして、刺青をやって食っていました。小鉄には京大阪神戸に二千人の子分がありましたので彼は食うには困りません、転々と内職をして歩き、その中に小金が出来る、仲間でも顔が出来て乱暴もやれば、喧嘩もした。そしてある時、土地の博徒と喧嘩して相手を殺してしまいました。と申しても直接の下手人ではなく仲間が五六人もあったのです。そして一時身をかくすために「彫市」のところへ走ったのです。
※会津小鉄 本名:上坂 仙吉 京都の侠客 1833年(天保4) - 1885年(明治18)
ここで背中に鬼若丸の鯉退治、左腕に一つ家、右腕に雲龍九郎の刺青をしたのです。かくて「彫市」を見習ってその助手をしている中に段々有名になって明治五年(1872)三十才の時、東京に出ることになった。その間祇園の美妓とよい仲になり女房にしたが、東京で暮らしがつくようになったら迎えに来るといって残して東京に向かった。
ところが途中静岡で父の友人につかまって、静岡に足を止めてしまって、明治十八年(1885)四十三才までここで「駿府の宇之」として田舎刺青師生活を送ってしまったのです。
明治二十五年(1892)生活も安定したので、神田の通新石町(現在の神田須田町あたり)に家をもって、京都から女房を迎えました。彼女も長いこと辛抱したものであります。しかし表面切って宣伝できない仕事だけに苦しい生活がつづき、 「彫宇之」の名が世間に知れるようになりましたのは、明治三十年(1897) 五十五才の秋頃でありました。
江戸彫勇会 初代会長の刺青は、12歳の時 初代彫宇之に彫ってもらったものなんだそうです。
読売新聞 大正4年(1914)8月6日朝刊
倶利伽羅紋々競 神田ッ兒自慢の文身 より
五日午前十一時 神田彫勇会の連中二十五名 王子名主の瀧で文身競べを催した。発起人のよ組の紺三が逞しい両腕に自慢の龍の文身を見せて「サァみんな瀧に打たれろ」と怒鳴ると「よし来た」とばかり褌一つで瀧にかゝり銘々自慢の彫物を競べる折柄、紫電一閃轟く雷電にさしもの猛者連も辟易して茶屋に引揚げると、よ組の頭 紺三が「俺のァ多町の彫卯が十二の時に彫ったんだ、遼陽で兵隊芝居をやった時には此文身をサラケ出しての梯子乗りに乃木さんから大層お褒めに預った」と気焔を上げる。
連雀町の和吉さんも「俺のは張順の水門破りで肩から腕の散し模様は蔦にから松だが、一番痛いのは紅殻に朱ですよ。」と負けていない。
かくてお膳が配られ熱燗の日本酒に江戸っ兒の気焔を揚げた。此会に集った者は皆神田の市場に出る若衆に町内の鳶ばかりいづれも四十未満の血気盛んな男揃い 背には多町の彫卯が技術を振った見事なのを背負っている。
※遼陽 中国東北部 遼寧省の都市 日露戦争の遼陽会戦の地 1904年(明治37)
※乃木 希典 陸軍大将 1849年(嘉永2)-1912年(大正元)
彫宇之の三紋龍 よ組 紺三 文身百姿(1936年)より
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カストリ雑誌の記事というところに多少信憑性に疑問が残りますが、おそらく大筋では間違っていないのではないでしょうか?
※カストリ雑誌: 第二次世界大戦の敗戦と共に出版が自由化され、それを契機に統制外の粗悪紙を用いて粗製濫造された大衆娯楽紙
『 艶麗 』 創刊記念いれずみ大特輯号 1948年(昭和23年) 双立社・刊
表紙は、戦前の少女向け雑誌『少女の友』のイラストを手掛けていた中原 淳一氏が描いています。 中原 淳一 1913年(大正2) - 1983年(昭和58)
イラストの両肌脱ぎをした女性は、背に龍の刺青と、両腕に男女の生首が彫られています。 神田講武所の芸者「小高」は股に男女の生首を彫っていたと云いますが、このような図柄だったのかもしれませんね。
彫長聞書 近世刺青名人伝
女性の背に山婆と金太郎を彫り終え、ほくそ笑む彫り師の挿絵が面白い
『 艶麗 』 創刊記念いれずみ大特輯号 1948年(昭和23年) 双立社・刊
彫長聞書 近世刺青名人伝 より引用
初代 彫宇之 本名:亀井宇之助 1843年(天保14) - 1927年(昭和2)
明治三十五年(1902)頃から大正十年(1921)頃までを名人「彫宇之」時代と申せましょう。
明治の刺青師として「彫岩」「彫兼」「彫宇之」を三名人といいますが、宇之は彫岩と彫兼の長所をとり入れまして「日本一」とほめはやされた名人であります。
名人「彫宇之」の一代は、全く小説よりも奇と申せましょう。まことに波瀾に富んだ一生でありました。先にも一寸申しあげました大阪の「彫市」が、あの人の師匠ですが、「彫市」を知る前にすでにこんな半生を送っていました。
※彫市: 大工から刺青師になった関西随一と評判の名人
天保十四年(1843)… といえば御承知のように刺青大流行の時代ですが… 江戸は神田(父親は紀伊家のお?廻り)に生れ、本名 亀井宇之助といいました。だから初期の彫物に(彫卯)と入れています。十二才の時、主家の都合で姫路に移り、十八才までこの地に居りましたが、現在なら不良少年で、神戸の福原遊女町にグレた生活をつづけており、ある女郎屋の娘と子供が出来て婿に入りましたが、素行が納らず絵が上手なところから仲間や女郎に刺青してやって遊んでいるので養家追出されてしまいました。
※初期の銘は「彫卯」、後に「彫宇之」と署名
慶応三年(1867)二十五才の時大阪に出てきました。
当時大阪には有名な会津の小鉄親分がおりました。ヤクザ者の彼はその部屋にころがり込みまして、刺青をやって食っていました。小鉄には京大阪神戸に二千人の子分がありましたので彼は食うには困りません、転々と内職をして歩き、その中に小金が出来る、仲間でも顔が出来て乱暴もやれば、喧嘩もした。そしてある時、土地の博徒と喧嘩して相手を殺してしまいました。と申しても直接の下手人ではなく仲間が五六人もあったのです。そして一時身をかくすために「彫市」のところへ走ったのです。
※会津小鉄 本名:上坂 仙吉 京都の侠客 1833年(天保4) - 1885年(明治18)
ここで背中に鬼若丸の鯉退治、左腕に一つ家、右腕に雲龍九郎の刺青をしたのです。かくて「彫市」を見習ってその助手をしている中に段々有名になって明治五年(1872)三十才の時、東京に出ることになった。その間祇園の美妓とよい仲になり女房にしたが、東京で暮らしがつくようになったら迎えに来るといって残して東京に向かった。
ところが途中静岡で父の友人につかまって、静岡に足を止めてしまって、明治十八年(1885)四十三才までここで「駿府の宇之」として田舎刺青師生活を送ってしまったのです。
明治二十五年(1892)生活も安定したので、神田の通新石町(現在の神田須田町あたり)に家をもって、京都から女房を迎えました。彼女も長いこと辛抱したものであります。しかし表面切って宣伝できない仕事だけに苦しい生活がつづき、 「彫宇之」の名が世間に知れるようになりましたのは、明治三十年(1897) 五十五才の秋頃でありました。
江戸彫勇会 初代会長の刺青は、12歳の時 初代彫宇之に彫ってもらったものなんだそうです。
読売新聞 大正4年(1914)8月6日朝刊
倶利伽羅紋々競 神田ッ兒自慢の文身 より
五日午前十一時 神田彫勇会の連中二十五名 王子名主の瀧で文身競べを催した。発起人のよ組の紺三が逞しい両腕に自慢の龍の文身を見せて「サァみんな瀧に打たれろ」と怒鳴ると「よし来た」とばかり褌一つで瀧にかゝり銘々自慢の彫物を競べる折柄、紫電一閃轟く雷電にさしもの猛者連も辟易して茶屋に引揚げると、よ組の頭 紺三が「俺のァ多町の彫卯が十二の時に彫ったんだ、遼陽で兵隊芝居をやった時には此文身をサラケ出しての梯子乗りに乃木さんから大層お褒めに預った」と気焔を上げる。
連雀町の和吉さんも「俺のは張順の水門破りで肩から腕の散し模様は蔦にから松だが、一番痛いのは紅殻に朱ですよ。」と負けていない。
かくてお膳が配られ熱燗の日本酒に江戸っ兒の気焔を揚げた。此会に集った者は皆神田の市場に出る若衆に町内の鳶ばかりいづれも四十未満の血気盛んな男揃い 背には多町の彫卯が技術を振った見事なのを背負っている。
※遼陽 中国東北部 遼寧省の都市 日露戦争の遼陽会戦の地 1904年(明治37)
※乃木 希典 陸軍大将 1849年(嘉永2)-1912年(大正元)
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