刺青の人体標本 「八十吉さんの標本」
東京大学医学部標本室に収蔵されている刺青の人体標本57点の中で、最も素晴らしいのは「八十吉さん」の総身彫りの全身標本です。
病理学者 福士政一博士によって剥皮され刺青標本となった、献体者「八十吉さん」とは、どのような人物だったのでしょうか?
八十吉さんは戦前に亡くなったため、現在には ほとんど資料が残されていませんが、いくつかの書籍・新聞記事によって生前の"人となり"をうかがい知ることができます。
「幕末明治 女百話 (上)」 岩波文庫 篠田 鉱造著
近江のお兼の刺青女性 - 彫勇会頭領 体中の総彫 より引用
※情報提供 おじゃさん
「幹事さんが 元新富座の出方で、日清戦争の時、人夫十三人が捕虜になったその一人で、清国人のために、悪戯半分頭から体から、眼から鼻から、腹から臍から、小便のお道具、尻の穴まで、刺青をされたという、体中ほりものだらけの人なんですが、よく死ななかったもんで、この仁(ひと)が会の頭領さんなんです。」
※新富座: 現在の京橋税務署の場所にあった東京歌舞伎の劇場 1923年(大正12年)廃座
※出方: 客を座席に案内したり、飲食物の世話をしたりする人
※日清戦争: 1894年(明治27年)7月 - 1895年(明治28年)3 月
※人夫: 公役に徴用された国民
「お札博士と刺青の群像」
東京朝日新聞 1932年(昭和7年) 9月6日(火曜日)朝刊 より引用
「お札博士で通っているフレデリック・スタール氏は朝鮮旅行の予定を変えて来る八日午後三時横浜出帆の日枝丸で帰米の途につく事となったが五日午後同博士を中心に『くりからもんもん』のグロ大会が開かれた
会場は本郷湯島天神下の櫻湯の銭湯の中で刺青者ばかりの「彫勇会」から凄いのが四五十人、ぞろぞろ集まった、さすがに女の会員は顔を見せなかったがお湯屋は見物で黒山の人だかりだ
真紅のぼたんに戯れる唐獅子、雲を望む三紋龍、さてはオカメやヒョットコがヘソの上に踊ってるユーモラスなもの、しかし何といってもピカ一は新富座の止場をやっていた七十六歳の村上八十吉爺さんで会長の名に背かぬ偉観だ、はげた頭の頂辺はぼたんにちょうが戯れて くもが巣食い、首には連隊旗、背中は血に狂う瀧夜叉、胸は佐倉宗五郎のハリツケ、脚は昇り龍、降り龍、わき腹には父母の生首、下腹には妻と娘の生首、その他顔といわず耳たぶといわず体いっぱいの刺青が、彫ってないのは手の平と足の裏ばかりでさすがのお札博士もウームとうなってしまった、
この爺さん台湾総督府に軍夫の百人頭で出征し、生蛮に生捕られて刺青されたのがもとで全身を埋めてしまったものだという 博士は一一カメラに収め刺青奇談に感激して午後五時散会したがこの種の大会は明治初年頃、六尺の下に大名行列を彫ったのが出たりなどして以来始めての事だと」
【写真はグロ大会、中央和服がお札博士】
※フレデリック・スタール: (1858-1933)アメリカの人類学者 納札の蒐集・研究を行ったことから日本では「お札博士」として親しまれた
※軍夫: 軍隊に属して雑役をする人
※生蛮: 台湾の山地原住民 現在の高砂族
「刺青に喜ぶお札博士」
読売新聞 1932年(昭和7年) 9月6日(火曜日)朝刊 より引用
※情報提供くりヲ♪さん
「大の日本国びいきでお札博士の名で通っている例のスタール博士、今度十四度目の来朝を機会にかねてから憧れの日本人の刺青を是非見たいと江戸っ子の入墨党の団体である「江戸彫勇会」に伺いをたてたところ そこは人に頼まれていやといえない勇み肌揃いの事とてよし来たとばかり早速の承引、そこで五日午後一時から場所もはだかに縁のある本郷湯島天神三ノ一の「桜湯」で開かれたのが入墨大会である
詰めかけた会員はと見れば何れも浴衣がけのいなせな兄哥連で其の数四十人、さすがお自慢の芸術だけあって、血に狂う瀧夜叉姫や雲を望む三紋龍、さては牡丹に唐獅子などグロ味たっぷりな入墨群像に息つまるばかり
其の中で滝野川田端の村上八十吉と呼ぶ七十六歳のお爺さんは会長だけあって頭のてっぺんから足の爪尖まで絵の具でぬりつぶしたようなもの凄さ 聞けば匪賊征伐に従軍して不幸生番に捕われ うむをいわさず入墨されたのだという話、
此の爺さんクリスチャンであとで入れたというキリスト十字架だけが胸にありありと見える之を見たお札博士すっかり喜んで さすがに東洋芸術だと感嘆し一人一人カメラに収め刺青漫談に時を移し午後五時に散会した
右につきお札博士は語る「日本の刺青を見たい見たいと思っていたが、彫勇会のお厚意で見せて貰って真に嬉しく思う、イギリスの王やロシアの王子も刺青をやっているが、日本のような精巧を極めたぼかしは到底欧米では真似が出来ない」
【写真はお札博士を囲んだ刺青の兄哥連】
※兄哥: (あにい)勇み肌の若者
読売新聞では、八十吉さんがクリスチャンで、腹の「佐倉宗五郎 磔刑」の刺青は「キリスト十字架」ということになっているのが面白いですね。
東京朝日新聞も読売新聞も同じ写真を掲載しています。
■八十吉さんの納札
納札愛好家「新富座 村上」としても知られる八十吉さんが、大正15年に発行した自身の八丁札に下記の記述があります。
日清ノ役 時ハ明治二十八年十二月八日(台湾)総督府ノ命令ニテ突貫ヲナシ敵兵ヲ撃退セシ図ナリ 大正十五年二月 村上吉弘
※突貫: ときの声をあげて敵陣へ攻め込むこと 突撃。
八十吉さんの八丁札
敵の清の兵士を斧で撃退する八十吉さん 村上百人長と染め抜かれた半纏と脚絆に草鞋履きという服装が面白い。
当時39歳の八十吉さんは日清戦争に百人頭として出征し、下関条約締結後の台湾の日本領有に不満を持つ清国軍の残党や武装原住民など台湾の現地勢力の掃討作戦に参加したのだと思われます。
そこで八十吉さんを含む13名が台湾の高地原住民 生蛮(高砂族)の捕虜になり刺青を彫られ、後にそれを消すために重ねて刺青をしたのが始まりだったのでしょう。
※台湾の原住民には、泰雅族紋面(高砂族は泰雅族に含まれる)に代表される紋面と呼ばれる刺青を顔面や体に彫る風習があった。
台灣原住民族文化園區 泰雅族
その後、1902年(明治35)に創設された江戸彫勇会に参加し、1925年(大正14)より二代目会長に就任したそうです。
「 文身百姿 」 恵文社 玉林晴朗 著
櫓の次郞と其の作品 より引用
「櫓(やぐら)の次郎」と云う文身師が居た。(中略)明治十二年頃は新富町の俗に馬場という所に居り小鳥屋をしながら内職に文身師をしていた(中略)晩年は芝の櫓に移り大正の初め頃迄存命して居たが遂に七十余才で没した。
この人の彫った文身も随分あったが今では次第に死んでしまったので少なくなってしまった。其の中でも新富座に勤めて居た故村上吉弘(八十吉)の文身は最も有名であった。村上の文身は全身も全身、頭の中から手足は勿論の事、額から××の先端まで文身がある云う実に物凄いものであったが、其の中で一番主な図は背中の瀧夜叉姬と相馬太郞の二人立であって、これは明治三十年頃 櫓の次郎が彫った。
其の外のは次郎のもあり又彫五郎の彫ったのもあり、自分自身で彫ったのもあるが兎に角 前代未聞の文身であって頭の中には牡丹が咲き、蝶が飛び蜘蛛の巣があり桜が散り、又首には紅葉があり旗があり、顔は鼻の頭から眼瞼、唇に至る迄色々と彫ってあり、背中は前に云った通りだが胸には佐倉宗五郎の磔があり、弘法大師と書いた碑があり、腹には父母先妻娘の生首があり、腕には竹に牡丹、足には昇り龍 降り龍があり、内股にはおかめに鬼があり、××には火達磨(火だるま)があり、足の裏には賽(サイコロ)が彫ってあるという訳で、文身のないのは掌(てのひら)だけであった。
※標本を確認すると、サイコロは足の裏ではなく手の平に彫ってあります。
足の裏には、花札と他国の勲章のようなものが彫られています。
「 艶麗 」 創刊記念いれずみ大特輯号 双立社・刊(1948年)
彫長聞書 近世刺青名人伝 より引用
かくれた名人に、新富町に明治十二三年から三十年頃まで、内職でやっていた小島屋(※小鳥屋の誤植?)の次郎という人、人よんで「櫓の次郎」という人がおりました、大正十年に死んだ、新富座の人夫頭 村上八十吉の全身彫は、この人の針だといわれていますが この八十吉という人は世界一の「刺青男」として、内外の刺青の書籍に写真入りで出ています。
禿頭の中に牡丹が咲き、蝶がとび、蜘蛛の巣があり、さくらが散り、頭(※首の誤植?)には紅葉があり旗があり、顔は鼻の頭から眼瞼、唇に至る迄色々と彫ってあり、背中一杯に瀧夜叉姫と相馬太郎、胸には佐倉宗五郎のハリツケがあり、弘法大師の碑があり、腹に父母と亡妻、亡娘の首があり、腕には竹に牡丹、足には昇り龍降り龍、内股におかめと鬼、○部に火達磨、足の裏に賽子(サイコロ)掌(てのひら)をのこして全身に針の入ったグロテスクな刺青男でありました。
※大正十年(1921年)に亡くなったと書かれていますが、少なくとも昭和九年(1934年)までは御存命だったと思われます。 昭和十年の間違いでしょうか?
彫師: 櫓の次郎・彫五郎・自作
■背中: 瀧夜叉姫、相馬太郎
■腹: 佐倉宗五郎 磔刑の図、弘法大師と書いた碑
脇腹: 父母の生首
下腹部: 妻娘の生首
下腹部: 春 画
■腕: 竹 牡丹
■足: 昇り龍 降り龍
■内股: おかめ 鬼
■手の平: サイコロ
■頭: 牡丹、蝶、蜘蛛の巣、桜の花びら
■首: 連隊旗 紅葉
■局部: 火達磨
■その他: 顔(瞼・鼻・耳たぶ・唇)、臍、肛門など
■八十吉さんの標本
1946年に東大医学部標本室で撮影された八十吉さんの標本を調べる福士博士。
現在は額装されていますが、当時は壁に貼られて展示されていたようです。標本は、手の指先から足の甲の部分まで刺青を彫った、いわゆる"総身彫り"の標本です。(ルーペで観察しているのは、腹の部分の標本)
Doctor Examining Tattooed Human Skin, 1946 ©Frank Pictures Gallery.
TATTOO BURST vol.1 1999年
「LIFE」誌 1950年4月3日号
腹:磔刑 (佐倉宗五郎 磔刑の図) わき腹:(父母の生首) 下腹部:(妻娘の生首)
1946, Tokyo, Japan ~ Tattoos cover the skins of Japanese cadavers that were donated for research and preservation. ~ Image by © Horace Bristol
「漱石の脳」 弘文堂 齋藤 磐根著 より引用
『奥の裏口まで行くと、その上にの壁には総身彫りの文身が並んでいる。(中略)生前は頭と顔にも刺青が入っていたというが、さすがにこの部分だけは剥皮しなかったという。』
現在、八十吉さんの刺青標本は、「背/両腕」 「腹」 「足」の3つに分けて額装され、東京大学医学部標本室の裏口の壁に飾られています。
6:35~ 東大医学部標本室内部の映像あり!
左額:背(瀧夜叉姫と相馬太郎)と両腕 右額:腹(東山桜荘子)
TATTOO BURST vol.1 1999年
手のひらのサイコロの彫り物が面白い
瀧夜叉姫と相馬太郎
下腹部: 浮世絵「春 画」絵柄と局部の剥皮標本
右足:(降り龍) 左足:(昇り龍)
© morti vivos docent by Nicole Qualtieri
【参考文献・資料】
■東京大学コレクションを詳しく紹介(額装標本、トルソー型標本の写真掲載)
芸術新潮 1995年11月号 (特集・東京大学のコレクションは凄いぞ !)/著者不明
漱石の脳 (叢書死の文化)/斎藤 磐根
原色日本刺青大鑑 (1973年)/著者不明
■刺青標本の献体者「瀧さん」の標本写真掲載
死体の本 (別冊宝島 228)/著者不明
Pranks: Re/Search, No 11 (Re/Search, No. 11)/著者不明
文身百姿 (1956年)/玉林 晴朗
死体の文化史/下川 耿史
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病理学者 福士政一博士によって剥皮され刺青標本となった、献体者「八十吉さん」とは、どのような人物だったのでしょうか?
八十吉さんは戦前に亡くなったため、現在には ほとんど資料が残されていませんが、いくつかの書籍・新聞記事によって生前の"人となり"をうかがい知ることができます。
「幕末明治 女百話 (上)」 岩波文庫 篠田 鉱造著
近江のお兼の刺青女性 - 彫勇会頭領 体中の総彫 より引用
※情報提供 おじゃさん
「幹事さんが 元新富座の出方で、日清戦争の時、人夫十三人が捕虜になったその一人で、清国人のために、悪戯半分頭から体から、眼から鼻から、腹から臍から、小便のお道具、尻の穴まで、刺青をされたという、体中ほりものだらけの人なんですが、よく死ななかったもんで、この仁(ひと)が会の頭領さんなんです。」
※新富座: 現在の京橋税務署の場所にあった東京歌舞伎の劇場 1923年(大正12年)廃座
※出方: 客を座席に案内したり、飲食物の世話をしたりする人
※日清戦争: 1894年(明治27年)7月 - 1895年(明治28年)3 月
※人夫: 公役に徴用された国民
幕末明治 女百話 (上) (岩波文庫)/篠田 鉱造
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「お札博士と刺青の群像」
東京朝日新聞 1932年(昭和7年) 9月6日(火曜日)朝刊 より引用
「お札博士で通っているフレデリック・スタール氏は朝鮮旅行の予定を変えて来る八日午後三時横浜出帆の日枝丸で帰米の途につく事となったが五日午後同博士を中心に『くりからもんもん』のグロ大会が開かれた
会場は本郷湯島天神下の櫻湯の銭湯の中で刺青者ばかりの「彫勇会」から凄いのが四五十人、ぞろぞろ集まった、さすがに女の会員は顔を見せなかったがお湯屋は見物で黒山の人だかりだ
真紅のぼたんに戯れる唐獅子、雲を望む三紋龍、さてはオカメやヒョットコがヘソの上に踊ってるユーモラスなもの、しかし何といってもピカ一は新富座の止場をやっていた七十六歳の村上八十吉爺さんで会長の名に背かぬ偉観だ、はげた頭の頂辺はぼたんにちょうが戯れて くもが巣食い、首には連隊旗、背中は血に狂う瀧夜叉、胸は佐倉宗五郎のハリツケ、脚は昇り龍、降り龍、わき腹には父母の生首、下腹には妻と娘の生首、その他顔といわず耳たぶといわず体いっぱいの刺青が、彫ってないのは手の平と足の裏ばかりでさすがのお札博士もウームとうなってしまった、
この爺さん台湾総督府に軍夫の百人頭で出征し、生蛮に生捕られて刺青されたのがもとで全身を埋めてしまったものだという 博士は一一カメラに収め刺青奇談に感激して午後五時散会したがこの種の大会は明治初年頃、六尺の下に大名行列を彫ったのが出たりなどして以来始めての事だと」
【写真はグロ大会、中央和服がお札博士】
※フレデリック・スタール: (1858-1933)アメリカの人類学者 納札の蒐集・研究を行ったことから日本では「お札博士」として親しまれた
※軍夫: 軍隊に属して雑役をする人
※生蛮: 台湾の山地原住民 現在の高砂族
「刺青に喜ぶお札博士」
読売新聞 1932年(昭和7年) 9月6日(火曜日)朝刊 より引用
※情報提供くりヲ♪さん
「大の日本国びいきでお札博士の名で通っている例のスタール博士、今度十四度目の来朝を機会にかねてから憧れの日本人の刺青を是非見たいと江戸っ子の入墨党の団体である「江戸彫勇会」に伺いをたてたところ そこは人に頼まれていやといえない勇み肌揃いの事とてよし来たとばかり早速の承引、そこで五日午後一時から場所もはだかに縁のある本郷湯島天神三ノ一の「桜湯」で開かれたのが入墨大会である
詰めかけた会員はと見れば何れも浴衣がけのいなせな兄哥連で其の数四十人、さすがお自慢の芸術だけあって、血に狂う瀧夜叉姫や雲を望む三紋龍、さては牡丹に唐獅子などグロ味たっぷりな入墨群像に息つまるばかり
其の中で滝野川田端の村上八十吉と呼ぶ七十六歳のお爺さんは会長だけあって頭のてっぺんから足の爪尖まで絵の具でぬりつぶしたようなもの凄さ 聞けば匪賊征伐に従軍して不幸生番に捕われ うむをいわさず入墨されたのだという話、
此の爺さんクリスチャンであとで入れたというキリスト十字架だけが胸にありありと見える之を見たお札博士すっかり喜んで さすがに東洋芸術だと感嘆し一人一人カメラに収め刺青漫談に時を移し午後五時に散会した
右につきお札博士は語る「日本の刺青を見たい見たいと思っていたが、彫勇会のお厚意で見せて貰って真に嬉しく思う、イギリスの王やロシアの王子も刺青をやっているが、日本のような精巧を極めたぼかしは到底欧米では真似が出来ない」
【写真はお札博士を囲んだ刺青の兄哥連】
※兄哥: (あにい)勇み肌の若者
読売新聞では、八十吉さんがクリスチャンで、腹の「佐倉宗五郎 磔刑」の刺青は「キリスト十字架」ということになっているのが面白いですね。
東京朝日新聞も読売新聞も同じ写真を掲載しています。
■八十吉さんの納札
納札愛好家「新富座 村上」としても知られる八十吉さんが、大正15年に発行した自身の八丁札に下記の記述があります。
日清ノ役 時ハ明治二十八年十二月八日(台湾)総督府ノ命令ニテ突貫ヲナシ敵兵ヲ撃退セシ図ナリ 大正十五年二月 村上吉弘
※突貫: ときの声をあげて敵陣へ攻め込むこと 突撃。
八十吉さんの八丁札
敵の清の兵士を斧で撃退する八十吉さん 村上百人長と染め抜かれた半纏と脚絆に草鞋履きという服装が面白い。
当時39歳の八十吉さんは日清戦争に百人頭として出征し、下関条約締結後の台湾の日本領有に不満を持つ清国軍の残党や武装原住民など台湾の現地勢力の掃討作戦に参加したのだと思われます。
そこで八十吉さんを含む13名が台湾の高地原住民 生蛮(高砂族)の捕虜になり刺青を彫られ、後にそれを消すために重ねて刺青をしたのが始まりだったのでしょう。
※台湾の原住民には、泰雅族紋面(高砂族は泰雅族に含まれる)に代表される紋面と呼ばれる刺青を顔面や体に彫る風習があった。
台灣原住民族文化園區 泰雅族
その後、1902年(明治35)に創設された江戸彫勇会に参加し、1925年(大正14)より二代目会長に就任したそうです。
「 文身百姿 」 恵文社 玉林晴朗 著
櫓の次郞と其の作品 より引用
- 文身百姿 (1956年)/玉林晴朗
- ¥価格不明
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「櫓(やぐら)の次郎」と云う文身師が居た。(中略)明治十二年頃は新富町の俗に馬場という所に居り小鳥屋をしながら内職に文身師をしていた(中略)晩年は芝の櫓に移り大正の初め頃迄存命して居たが遂に七十余才で没した。
この人の彫った文身も随分あったが今では次第に死んでしまったので少なくなってしまった。其の中でも新富座に勤めて居た故村上吉弘(八十吉)の文身は最も有名であった。村上の文身は全身も全身、頭の中から手足は勿論の事、額から××の先端まで文身がある云う実に物凄いものであったが、其の中で一番主な図は背中の瀧夜叉姬と相馬太郞の二人立であって、これは明治三十年頃 櫓の次郎が彫った。
其の外のは次郎のもあり又彫五郎の彫ったのもあり、自分自身で彫ったのもあるが兎に角 前代未聞の文身であって頭の中には牡丹が咲き、蝶が飛び蜘蛛の巣があり桜が散り、又首には紅葉があり旗があり、顔は鼻の頭から眼瞼、唇に至る迄色々と彫ってあり、背中は前に云った通りだが胸には佐倉宗五郎の磔があり、弘法大師と書いた碑があり、腹には父母先妻娘の生首があり、腕には竹に牡丹、足には昇り龍 降り龍があり、内股にはおかめに鬼があり、××には火達磨(火だるま)があり、足の裏には賽(サイコロ)が彫ってあるという訳で、文身のないのは掌(てのひら)だけであった。
※標本を確認すると、サイコロは足の裏ではなく手の平に彫ってあります。
足の裏には、花札と他国の勲章のようなものが彫られています。
「 艶麗 」 創刊記念いれずみ大特輯号 双立社・刊(1948年)
彫長聞書 近世刺青名人伝 より引用
かくれた名人に、新富町に明治十二三年から三十年頃まで、内職でやっていた小島屋(※小鳥屋の誤植?)の次郎という人、人よんで「櫓の次郎」という人がおりました、大正十年に死んだ、新富座の人夫頭 村上八十吉の全身彫は、この人の針だといわれていますが この八十吉という人は世界一の「刺青男」として、内外の刺青の書籍に写真入りで出ています。
禿頭の中に牡丹が咲き、蝶がとび、蜘蛛の巣があり、さくらが散り、頭(※首の誤植?)には紅葉があり旗があり、顔は鼻の頭から眼瞼、唇に至る迄色々と彫ってあり、背中一杯に瀧夜叉姫と相馬太郎、胸には佐倉宗五郎のハリツケがあり、弘法大師の碑があり、腹に父母と亡妻、亡娘の首があり、腕には竹に牡丹、足には昇り龍降り龍、内股におかめと鬼、○部に火達磨、足の裏に賽子(サイコロ)掌(てのひら)をのこして全身に針の入ったグロテスクな刺青男でありました。
※大正十年(1921年)に亡くなったと書かれていますが、少なくとも昭和九年(1934年)までは御存命だったと思われます。 昭和十年の間違いでしょうか?
彫師: 櫓の次郎・彫五郎・自作
■背中: 瀧夜叉姫、相馬太郎
■腹: 佐倉宗五郎 磔刑の図、弘法大師と書いた碑
脇腹: 父母の生首
下腹部: 妻娘の生首
下腹部: 春 画
■腕: 竹 牡丹
■足: 昇り龍 降り龍
■内股: おかめ 鬼
■手の平: サイコロ
■頭: 牡丹、蝶、蜘蛛の巣、桜の花びら
■首: 連隊旗 紅葉
■局部: 火達磨
■その他: 顔(瞼・鼻・耳たぶ・唇)、臍、肛門など
■八十吉さんの標本
1946年に東大医学部標本室で撮影された八十吉さんの標本を調べる福士博士。
現在は額装されていますが、当時は壁に貼られて展示されていたようです。標本は、手の指先から足の甲の部分まで刺青を彫った、いわゆる"総身彫り"の標本です。(ルーペで観察しているのは、腹の部分の標本)
Doctor Examining Tattooed Human Skin, 1946 ©Frank Pictures Gallery.
TATTOO BURST vol.1 1999年
「LIFE」誌 1950年4月3日号
腹:磔刑 (佐倉宗五郎 磔刑の図) わき腹:(父母の生首) 下腹部:(妻娘の生首)
1946, Tokyo, Japan ~ Tattoos cover the skins of Japanese cadavers that were donated for research and preservation. ~ Image by © Horace Bristol
「漱石の脳」 弘文堂 齋藤 磐根著 より引用
『奥の裏口まで行くと、その上にの壁には総身彫りの文身が並んでいる。(中略)生前は頭と顔にも刺青が入っていたというが、さすがにこの部分だけは剥皮しなかったという。』
- 漱石の脳 (叢書死の文化)/斎藤 磐根
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6:35~ 東大医学部標本室内部の映像あり!
左額:背(瀧夜叉姫と相馬太郎)と両腕 右額:腹(東山桜荘子)
TATTOO BURST vol.1 1999年
手のひらのサイコロの彫り物が面白い
瀧夜叉姫と相馬太郎
下腹部: 浮世絵「春 画」絵柄と局部の剥皮標本
右足:(降り龍) 左足:(昇り龍)
© morti vivos docent by Nicole Qualtieri
【参考文献・資料】
■東京大学コレクションを詳しく紹介(額装標本、トルソー型標本の写真掲載)
芸術新潮 1995年11月号 (特集・東京大学のコレクションは凄いぞ !)/著者不明
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漱石の脳 (叢書死の文化)/斎藤 磐根
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原色日本刺青大鑑 (1973年)/著者不明
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■刺青標本の献体者「瀧さん」の標本写真掲載
死体の本 (別冊宝島 228)/著者不明
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■刺青標本の献体者「M.T.」氏の刺青の題材『桜姫東文章』や、
福士政一博士を題材に書かれた刺青標本にまつわる小説に
ついて詳しく解説されています。(標本写真掲載) - いれずみの文化誌/小野 友道
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Pranks: Re/Search, No 11 (Re/Search, No. 11)/著者不明
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文身百姿 (1956年)/玉林 晴朗
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