八月、九月、十月と、取材続きだった。こんなのは異常としか言いようがない。元来、そんなに取材が来るほどの書き手でもなく、撮り手でもない。でもまあ、仕事だからありがたく受けているのではあるが・・・

 九月の末は舟窪小屋にでかけた。評判のいい小屋である。食事といい、小屋主の人柄といい、数ある小屋のなかでも筆頭に位置するだろう。

 天気と紅葉はいまひとつだったが、小屋の取材がメインだったので、紅葉までもというのは欲張りというもの。

 その翌週は、嵐の連続で、妙高の山麓をうろうろし、天気の回復を待って妙高に登った。黒沢池ヒュッテの泊ったのだが、この小屋がアタリだった。きわめて稀な八角系のドームで知られる小屋で、私も知ってはいたが、泊るのは初めてだった。食事も豪華、なにせ朝食はクレープなのである。宿泊者の多いときなど、深夜からクレープを焼き始めるのだというから苦労のほどが偲ばれる。小屋主の植木毅さんは不在だったが、高橋さんを初めとする三人のスタッフの接客がとても気持ちの良いものだった。もっとこの小屋の評価は高くていいのではあるまいか。

 裏剱を見上げる仙人池ヒュッテも私の気に入っている小屋で、主の志鷹静代さんとは長い付き合いだ。ここしばらくご無沙汰だが、元気なご様子である。

 今回、図らずも二つの小屋を取材して感じたのだが、この二つの小屋に仙人池ヒュッテを加えた三つの小屋が、いま現在の食事の美味しいベストスリーの山小屋になるように思える。それほど小屋めぐりをしてきたわけではないから、もっと上を行く小屋もあるには違いないが、限られた料金の範囲で、心の篭もった手づくりの、それもとびきりの美味しい食事を提供している小屋となると、なかなか出合えるものではない。

 その山が泊らなければ登れない山ならば、山の記憶はまた、小屋の記憶でもあるはずだ。山を守るのが小屋ならば、小屋を育てるのもまた私たち登山者なのである。

 山と小屋と登山者は、三位一体ということだ。主の顔が見える小屋がいい。食事は、主の顔そのものなのである。


北海道の大雪連峰の縦走をした。旭岳からトムラウシを経て十勝岳までの大縦走だった。仕事だから当然だが、単独では辛いものがある。初日は白雲小屋、二日目はヒサゴ沼、三日目は双子池の手前。四日目は美瑛避難小屋だった。この小屋に、撮影済みのフィルム一式を忘れてしまい、下山の翌日、ふたたびピストンをしたのは、まあ付録というものだが、プロとしては失格といわざるを得まい。情けないね。

どうしても横位置の写真になってしまうのはどうしてかと考えたが、北海道の山のスケールが違うからだと気づいた。縦位置では写真になりにくいのである。いや、なんとも山のスケールには圧倒された。北の山並みに魅せられて、移住してしまうひとたちが多いのもうなづけるというものだ。

帰埼した翌日に釣りの取材をひとつ。その翌日から白神に行った。こんどは完璧なプライベート。三泊をしたが、連日の好天に溜飲を下げた。逍遥の沢旅だった。北海道とあわせ、しばらく毎年通うことになりそうな予感がある。

北海道から帰ったらパソコンが壊れていて、焦る。いかにパソコンに頼りきりの仕事なのかを思い知らされる。カメラの処理といい、請求書といい、ネットの振込み、原稿書き、メールなどのあれやこれや。

ともあれどうにか直ってきてひと安心。秋も深まり、来月はまた取材が相次ぐ。そのうちに、忘れていた原稿の催促が山積みになるだろう。そうこうしていると、スキーの季節になる。輪廻とはいうものの、季節のめぐりは年々早くなる。その半分以上を山で過ごしているのだから、文句は言えないのだが・・・ね。



 秋田に生まれ育ちながら、全国一の競技花火で知られる「大曲の花火大会」を観たことがなかった。この催しは毎年8月の3週(もしかしたら4週かも・・・)に行なわれるが、これまでは機会がなかった。それが今年、秋田に住んでいる古い山仲間に誘われて、初めてでかけた。彼はこの7~8年、毎回のように観にいっている、いわば大曲花火大会のフリークだ。

 彼には伝手があって、通常なら発売と同時に完売になる桟敷席を取ったのだという。豪華な花火を目前で眺められる極上の席で、ビールを飲みながら楽しみませんか、という殺し文句を断れなかった。

 凄まじい猛暑を路上に駐車した冷房をギンギンに効かせた車中でやり過ごし、暑さの柔らいだ夕刻に会場に入る。メンバーは秋田の山仲間夫妻と私、それに岩手と福島からやってきた、これまた古い山仲間の、合わせて5人。久々の再会にテンションもあがり、あとはもう、始まりを待つばかり。やがて、開会のアナウンスに続いて号砲一発。競技の採点基準となる標準花火が打ち上げられた。そのとたん、私の中に興奮と錯乱が忽然と湧いた。一瞬ののちに、目頭が熱くなった。そんな馬鹿な、と思いながら隣を見ると、福島の仲間また目を潤ませている。たかが一発の花火で泣くようなことか、と恥ずかしい思いでいたが、私だけではないと安堵する。その様子を見ていた、なんどもこの花火を見慣れている秋田と岩手の仲間が、にやにやして呟いた。「高桑さん、まだまだ、こんなもんで感動してちゃダメです。大会主催者提供の花火の凄さを見たら、こんなものは子供だましです」

「へえ、そうなんだ。でも初めてこの花火を見て感動する俺たちは、べつにおかしいわけじゃないのね?」

「そりゃあそうですよ。俺たちも初めてのときは、感動して泣いちゃいましたもん」

 こいつらも感動したのなら、なんと75万人も集まっている群集のほとんどが感動していると思って間違いではない。でなければ、毎年全国から大勢の観客が、まるでリピーターのように 集まるはずがないのである。

 たった一発、夜空を衝撃のように染めて開く花火が、たったそれだけで途方もない数の観客の心を鷲づかみにする。これはいったいなんなのだ。

 その瞬間、私の中に湧き上がったのは、もしかしたら、これは私たちがとうの昔に忘れ去った「火の記憶」なのではないか、という根拠のない推察だった。日常のように、炊事や風呂焚きに火を使った時代はとうの昔に過ぎ去り、電気やガスに代わられて久しい。しかし縄文の昔から、火は私たちの生活に欠かせないものとして存在してきたはずだ。その記憶の遺伝子が、思わず知らず、切磋琢磨して積み重ねられてきた伝統の技として観客を魅了したのではあるまいかと。そして彼らもまた、無意識のうちに火の記憶を求めて花火に見入っているのではないか、と。

 天空に炸裂する夢幻の色彩が、それから3時間にわたって夜空を彩り、私たちは痴呆のように魅せられていた。そのとき、鮮烈に思ったことがもうひとつある。それは、観客は川のこちら側にいて、花火師たちは川の向こう側にいる、ということだ。彼らは、己の技を天空にのみ開かせ、自身は闇に蠢き、ただひたすら走り回って、計算されたコンピューターのように複雑に構成された花火を打ち上げることだけに専念していることに、だ。もちろん、科学万能のこの時代、もしかしたら、以前とは違い、ボタンひとつで複雑な作業を操作しているのではないか、という疑念もいだかないわけではなかったが・・・。

 彼らは、もしかしたら山水河原者の系譜を持つのではないか。その思いもあった。表にでることなどなにひとつなく、それでもひとびとの暮らしに欠かすことのできない数々の作業に黙々と従事したひとびとの系譜を宿しているのではないか。なんの根拠も脈絡もなく、私は不意にそんなことを思い浮かべたのであった。

 可能なら、いつかはあちら側に身を置いて、たとえばこちらが此岸なら、彼岸ともいうべきあちら側に陣取って夜空を見上げてみたい。そんな想念が、いつまでも私の脳裏に宿っていた。

 その翌日から、私は花火を楽しんだ仲間と別れ、遠距離をものともせずにやってきた別の仲間たちと落ち合って、八幡平の大深沢をさまよう4泊5日の沢旅にでかけたのである。

 花火大会まで続いた猛暑はようやく和らぎ、空には秋の気配があった。その空には、あの幻想の花火が開いていた。おそらく、これから毎年、私は恒例のように大曲を訪れて花火を楽しみ、近くの渓流をセットにして旅をするに違いない、という予感たけがあった。

 阪神タイガースを応援している。夏は彼らの季節だからだ。高校野球に本拠地を奪われて、毎年夏になると「死のロード」を余儀なくされるからである。各地を転戦して帰るに帰れず、まるでジプシーのような生活を強いられている阪神タイガースを見るたびに、同情と共感を禁じえない私がいる。そう、私もまたジプシー生活の申し子なのである。

 八月は黒部に半月通った。黒部下流の黒薙谷と中流の阿曽原小屋、そして上流の東沢谷と、注文の違う三つの取材とガイドで、黒部にい続けたようなものだった。

 その半月のあいだ、雨が降ったのは、たった二時間程度なのだから、晴れ男の面目躍如といってみたい。

 黒部も最近は閑古鳥が鳴いている。げんに観光客の姿は乏しくなっていたし、上ノ廊下にいたっては、入山日に出合った奥黒部ヒュッテの主人によれば、いまだ入渓者はゼロとのこと。アルペンルートなどは、一時の喧騒が信じられないほどの寂しさだった。しかし、それは違う意味で考えれば、時代を映す鏡ともいえるのである。

 黒部ダムは堆砂率が0パーセントを超えたと聞くし、出し平ダムと宇奈月ダムの排砂問題は、自然を破壊して省みない暴挙である。マスコミや地元は被害者に同情と支援を寄せないというが、ようやく時代は、原生の自然に必要以上の手を加えることを容認しなくなっているようにも見える。その世論の積み重ねが、少しずつ、自然破壊の元凶のような黒部の観光開発のセレモニーに違和感を覚えるようになってきているのではあいのか。

 つまり、これまでの観光のPR方法が通用しなくなってきているということだ。いつまでも黒部ダムの威容と放水を見せて、これが世界に冠たる日本の技術力の勝利です、と喧伝している時代でもあるまい。

 その反省がどこにもないままに排砂ダムを稼動させ、沿岸の漁業をダメにして振り返らない関西電力の姿勢に、うんざりしているひとびとが少しずつ増えているのだと信じたい。

 できたものは仕方がない。ならば、その運用と開発の手法を変えればいい。観光もまたしかりで、いつまでもプロジェクトエックスの幻影にすがっていてはダメなのだ。私たちはこんなに本気で、自然にダメージを与えない範囲で開発をしています。電源開発は国民にとって必要不可欠なので、どうかみんなで知恵を出し合いながら、どうしたらいいのかを考えようではありませんか。その結果がご覧の光景です。とでもいえば、徐々にだろうが、すこしずつ観光客も戻ってくるに違いないのである。

 東北の桑原山地を知っているだろうか。焼石岳と栗駒山に挟まれた地域である。その秋田県側に北の俣沢が流れている。本流は成瀬川で、現在、成瀬ダム計画が進行中である。

「全国の、見直すべき公共事業」にも入っているダムだが、そんなことなどお構いなしに、見直した結果の公表もしたかどうかを知らされぬまま、工事は着々と進められている。

 おそらく、あと一二年で流域一帯は立ち入り禁止になってしまうだろう。そうなってしまう前にと、北の俣沢に入った。梅雨もまだ明けず、連日の雨だったが、岩魚はよく釣れた。森林生態系に指定された、隣の小出川と同じように、ブナの原生林がゆたかに流域を覆っているためだろう。

 北の俣沢の桑の木沢から唐松沢を下る予定が、悪天とテント場の快適さにそそのかされて、二泊とも同じ場所に陣取ったまま動かなかった。桑原岳は、またしても遠い山頂になってしまったわけである。

 この沢は初めてではない。十年ほど前にも訪れていた。同じ桑の木沢を遡行して、桑原岳の直下を乗越して唐松沢に下りたのである。しかし、そのときの記憶など微塵も残ってはいなかった。唯一、記憶の隅にあったのは、エメラルドグリーンの水の色。それも増水気味の濁っていたとなれば、記憶などないも同然のことになる。

 三日目の午後は、半日だけ晴れた。昔日の北の俣沢が蘇ったようであった。水は晴朗にして碧く、山の鼓動を運んでいた。水しぶきを上げて渓を下る私たちのかわす言葉はただひとつ。ダムに埋もれさせてしまうのはあまりに惜しい渓だねえ・・・ということばかりであった。高度成長期に計画され、バブルの崩壊を経ていながら、真摯に見直されることもなく、公然と進められているダムだろうと私は見ているが、過度の試算でダムを作ろうとし、既得権益に胡坐をかいているのではなく、ほんとうに必要なものを効率よく造る方向性に改めないと、この国の崩壊は早まるだけである。

 食糧自給率を減らそうとしていながら、農業用水を確保するというダムの計画性からして、眉に唾して聞かなくてはなるまい。

 折から各地で洪水の被害が続いている。被害を受けたひとたちに同情を感じながらも、そのことが、いたずらに「ダムを増やせばいいのだ! 」という論議に結びつかなければよいが、と願っている。

 今月初めの、死に掛けた月山のことはすでに書いた。そのときの、頂上直下のことを不意に思い出した。

 月山は、まだ深い残雪に埋もれているのだが、当然、徐々に消えていく。姥沢からのリフトに乗り、姥ヶ岳を経由して稜線を進んで雪渓にトラバースしてから、鍛冶川小屋までのきつい登りになる。山頂は、そのすぐ上だ。その雪渓までのトラバースをしていたときのことである。

 突然、前で休んでいたおばさんが「そこは登山道じゃないよ」と私に告げた。私はすかさず「はい!」と答えた。つまり、瞬間的に事態を悟り、いざこざをかわす対応をしたのである。はい! の次に「すみません」と言わないところにすべてがある。了解はしたが、過ちを犯しているわけではないからだ。

「なにをこのババア!」とやり返すのは簡単だった。どちらも自分の考え方を主張するのはいいが、その結果、論争になり、双方が砂を噛む思いになってしまうのは避けたかったのだ。せっかく来た山だ。なにも好んで嫌な思いをすることはない。

 北アルプスの剱沢もそうだが、剱沢小屋から真砂沢小屋までの間には、雪が消えるにつれて数本の登山道が出現する。季節に応じて少なくなっていく雪渓の消え際に登山道を作っておかないと、迷ってしまう危険があるからだ。早い季節は膨大に残る雪渓の上端の道を歩き、雪が消えるにつれて徐々に沢床に近い道をたどることになる。つまり、雪渓を歩かざるを得ない登山道というものは、何本もあって正解なのである。

 私が歩いていたのは、雪混じりだが、明らかにそうした道の一本で、彼女の通った道は石畳になっていたから、少しだけ雪の消えるのが早かったにすぎない。正規の道をたどったつもりの彼女が、たまたますぐ上の残雪に埋もれた道を踏んで合流しようとした私を見咎めたのだ。

 ここも道なんですよ、と言ってあげても良かったが、正義漢きどりの彼女に伝わるとは思えなかった。だから私は、論争よりも「はい!」を選んだのである。

 その前も彼女は、登山道に転がっている石を延々と取り除きながら、「みんながストックを突くからこうなるのよ!」と呟き、その後ろには、もはや諦め顔のダンナらしい登山者が、じっと歩き出すのを待っていた。

 あういう女性の頭の中は、どうなっているのだろうと思う。稚戯にしては偏屈で歳をとりすぎている。おそらく自分を信じるあまり、周囲が見えなくなっているのだろう。

 泣く子と喚くおばさんは放っとくにかぎる。仲間と顔を見合わせ、しょうがないね、とため息をひとつ突いて、私たちは辛い坂道を頂上に向かって歩き出した。白装束の月山講のひとたちの姿が、信仰の山と一体になって、やけに新鮮に見えた。そのとき、私は不意に、あのおばさんの行為も、もしかしたら信仰に支えられた結果なのかもしれない、と思い直したのである。

 

 海の日って、設定を誤ったのだと思う。加えて、例の強引な三連休の設定だ。だから、毎年祝日が微妙にずれてくる。今年は15~17が海の日の連休だった。輝く太陽の降り注ぐ海をイメージするなら、梅雨明け直後を狙うべきなのではなかったか。連休が毎年、梅雨雨寸前の集中豪雨になってしまうのは、なんとしたことだ。俺たちにとって、この時期の連休は貴重このうえない。ましてガイドを自認するものならなおさらである。これならまだ、ひと昔まえの飛び石連休のほうがよほどましだった。一日二日休みさえすれば、四日や五日の連休が手に入ったのである。まったく、国の行なう施策はどこかで詰めがあまい。

 連休は白神のガイドをした。世界遺産だから手続きは当然ながら、連日の雨に泣かされた。追良瀬源流と滝川の継続である。雨で苦労しながらも、まあまあ、予定通りの行動をこなした。クライアントによろこんでもらってひと安心というところ。二日目の朝、監視員の見回りを受ける。下流部ならいざしらず、あの源流部でのことだから、少なからず驚いた。さすが世界遺産。おそらく森林管理局の職員なのだろうが、世界に冠たる白神のブナを守ろうとする意気込みが伺えて、俺たちも迂闊なことはできないと、襟を正したのである、って、当然ながら、これは嫌味に他なりません。税金をかけて巡回させるほど営林署は暇なのか。他にすることってないのでしょうか?

 それはさておき、下山後の八森漁港の食堂「石塚」は秀逸でした。あちらに行かれたら是非立ち寄って欲しいお店です。メニューはもちろん魚介類のみ。私たちが頼んだのは「いいかげん丼」でしたが、それはもう絶品で・・・・なんと1000円。あの店に行くために八森まで出かけたくなるほどの、といっては言いすぎでしょうが、ともあれお薦めしておきます。


 さてさて、岳人8月号がでました。沢登り2006というのが特集です。私の写真と記事がメインになってます。めったにないことですので、これまた書店で購入してください。立ち読みはダメですよ。「瀬畑雄三の源流哲学」です。

 さて、梅雨はいつ明けるのでしょうか。待ち遠しいかぎりです。

 


 週末は月山に出かけた。清川行人小屋に泊まって周辺を釣ろうというのである。天気は日々刻々と変わり、神経を逆なでしたが、まあ、結果とすればまずまずだった。だが、この時期にスキーとスノボを持ち上げて滑ろうという計画が、いかに無謀だったかがよくわかった。滑る区間が圧倒的に短いのである。

 結果、私たちは滑降30分、その他のすべてを滑降のための機材であるスキーとスノボを背負うことになった。その重量は、軽く20キロを超えるだろう。

 それでもまあ、そこそこの写真を撮り、小屋に着いたのはすでに午後二時で、昼の素麺を食べるのももどかしく、夕方の釣りに出かけた。結果は釣果ゼロ。それはまあいいとして、そこで私がやってしまったのは雪渓の踏み抜きだった。私がいうと嫌味になるが、上手の手から水が漏れた。

 川の岩から雪渓に飛び移ったとたん、絵に描いたように雪渓が陥没したのである。目の前には陥没後の雪渓の新しい断面がある。それを掴んでも、足元は流れにさらわれて這い上がることができない。

 耐え切れなくなった私は雪渓から手を離し、真っ暗な雪渓の下を流されていった。

 頭をちらと掠めたものがある。たしか雪渓は百mほど続き、その間はまったく不明だということだ。雪渓を潜り抜けて下流に出ることなど不可能で、このまま流されて、もし淵にでもつかまれば、いや、そこに滝つぼでもあれば、絶体絶命である。まして夕闇は刻々と迫っている。流れに20分も浸かっていれば、低体温証でお陀仏なのは明らかだ。

 五メートルほど暗い雪渓に吸い込まれただろうか。足がどうにか岩に触れ、体勢を立て直すことができた。流れの上からは仲間の声が聞こえている。はは、まいったね。

 どうにか雪渓から抜け出した私の左手には、飛び移る直前に摘んだモミジガサがあった。これがいまでも腹立たしい。

 四月にも、条件は違うが、飯豊で死に掛けた。2度あることは3度ある。意外に冷静だったとは思うのだが、沢のシーズンはこれからだ。雪渓はどこにでもあるだろう。これがいい意味でのトラウマになればいいのだが・・・・と思うが、おそらくいまにも増して慎重になることだろう。

 心残りはぶら下げていたデジカメ一眼を水没させてしまったことだ。ウエストポーチに入れたレンズ二本とともに全滅である。およそ40万円の損失だが、それよりもなによりも、雪渓崩壊以降、撮影ができなくなってしまったことだ。ならば予備のカメラも持つべきだろう、といわれそうだが、それほど機材は安くない。

 そのあと私は仲間たちに、落ちたのが俺でよかったよ、と強がって見せた。あれが私でなかったら、事態を収拾するための果てしない苦労と苦悩が待っている。仲間を死なせないこと、死ぬならリーダーであるはずの私でなければいけない。それが私の山の鉄則である。

 下山は山頂経由ではなく、同宿したパーティーの車の便乗を当てにして、岩根沢に下りた。いい径だった。どこの誰かはいまだにわからないが、この場を借りてお礼を申し上げたい。清川月山会の五名の方々である。

 強がりを言えば、今回の件で、清川行人小屋への愛着が増した。こんどは単独でもいいから、何日かを過ごし、周辺の沢でテンカラを振ってみたい。暇は作ればいい。あとは天候だけだ。そんな場当たり的な日常が、私の望んだことである。この歳になって、世界が広がる愉悦がある。岳人2006、8月号に書いた「瀬畑雄三の源流哲学」の世界に、私も少しは近づけただろうか。

 週末は会津のガイドだった。雨が予想されたが、それがクライアントの指定した日程であれば、私に否応はなかった。もはや痕跡さえ探すのが難しい古い街道をたどり、峠の直下のブナ森で一日目の夜を過ごし、峠を下りたゼンマイ小屋場の跡地で二日目を過ごした。三日目の下山は渓と定めていたが、降りしきる雨で増水した流れが迷いをもたらした。

 下界まで、おおよそ3時間あまり、雨は引いたが最後の徒渉が気がかりで、足元が定まらなかった。渓は雪渓に埋まり、下を潜り、上を越えして下流に向かう。

 林道の橋に着いたと同時に迎えの車がきた。ドンぴしゃりの時間である。帳尻あわせたげは得意なのである。訊けば下界は電車の止まるほどの大雨だったとか。もちろん、山も負けずに大雨だったが、タープの下で焚き火を燃やし、酒を呑んでいた私たちは、雨を厭わず楽しんでいた。

 特に名の知れた山があるわけでもない会津の沢旅だったが、自然の濃密さだけはどこにも負けない。この沢旅を望み、悪天のなかを心から楽しんでくれたクライアントたちのセンスも相当のものである。

 ガイドとはいえ、ただ連れていけばいいというものではない。ともに気持ちを通わせあってこその旅である。

 帰路に立ち寄った地元の知り合いは、私たちが二日目の夜を過ごしたゼンマイ小屋を営んでいた夫婦である。心の篭もったもてなしが、辛くも楽しかった旅の余韻に拍車をかけた。いい旅の終わりだった。

 週末のほとんどをかけて原稿を仕上げた。出来がいいかどうかはわからない。原稿の質は掛けた労力に比例するとはかぎらないからである。それでもまあ、どうにか仕上げてほっとしている。

 週末はいい天気だったらしく、仲間から会心の山行の報告が届く。このやろうと思うが、楽しかった報告を聞くと、こちらも胸が弾んでうれしくなる。次は俺の番だと勇躍するが、しばらくは天候不順らしい。原稿を仕上げて暇ができたら、待っていたように晴天が続く、なんてことにならないものだろうか。

 きょうは朝からなにもせず、雨空を眺めている。やらねばならないことと、やる気は別物である。いつも締め切りに追われているとはかぎらない。忙しいときもあれば暇なときもある。それがメリハリというものなら、メリハリのある日常というのも満更ではない。