七月五日から七日まで、苗場山に登った。山小屋の主を訪ねて、という取材である。めざすは山頂の山小屋、遊仙閣。主は高波菊男といい、私と同年代のジジイである。土樽山の家の有名な小屋番であり、吾策新道を拓いた高波吾策の三男。

 和田小屋手前の駐車場から歩く。登りはおよそ五時間ていどだろうか。なかなか歩き応えがあるが、この道が高波さんお薦めの道なのである。

 神楽峰から雷清水は、おそらく山岳信仰の名残りだ。清水の傍らにペットボトルの入った籠があった。容器に「ちょび髭仙人より、小屋まで水を運んでね」という書き込みが。そう、遊仙閣は天水を使うから、水が命なのである。見てしまったからには無視もできず、二リットルを背負う。

 雲尾坂の花に慰められて山上の湿原に立つ。この落差が苗場山の魅力。標高2000メートルを越える山頂に、これほどの平坦な湿原がある。雪の消え残る湿原の脇の木道で、しばし呆然と時を忘れた。

 山小屋の主を訪ねて、という企画では、いつも小屋に二泊はする。写真もさることながら、一泊では忙しすぎて、ろくに話も聴けないからだ。でもまあ、写真さえ押さえておけば、話はいつでも聞けるのではあるが・・・。

 翌二日は苗場山の山開き。そこいらへんの山と違い、行政の参加はなく、山伏がお祓いをしながら山頂に登るのである。遊仙閣を建てた初代の沼尾翁の孫だという山伏が、ほら貝を吹きながら各地の祠を清め、遊仙閣の二階に安置されている神様を拝んで完結する。

 いい絵がもらえるといいながら、私の狙いは参詣者、つまり同席している登山者に均等に振舞われるビールとお酒。山伏たちの道中があまりに長いので、その日、赤湯まで下ろうと思っていた私たちは、ついに連泊になった。連泊を当然のこととしながら、高波さんはその日、父吾策さんの胸像移転のお披露目に立ち会うために山を下ってしまっていたからである。

 やがて奥さんの恵子さんも山を下り、小屋をしきるのは次男の太一さんだけだった。山小屋の二代目を背負う覚悟の太一くんと、山のことを語り合った一夜は忘れがたい。時代は少しずつ次代へと引き継がれていく。まだ未婚の太一くんだが、山好きの嫁さんを得て、いい二代目になってほしいと、しみじみ思う夜だった。


 七月一日、二日、と雄国沼の取材に出かけた。雄国沼は裏磐梯にある。当初は猫魔岳に登ってから雄国沼に向かう計画だったのだが、天気と先方の都合が悪かった。なにせ、天気が悪いと写真にならない。「花の達人と行く山」という計画なのだから、ひとりではどうにもならず、それでも花の写真だけは押さえておこうと、一日は単独で雄国沼へ。

 雄子沢の駐車場で仮眠。といっても酒を呑んで寝るだけなのだが・・・。行く前の心配は、誰も登山者がいないのでは、背景にもつかえないよなあ・・・・という不安。ところがとんでもないことに、次から次へと車がやってきて、やがて駐車場は満杯になった。あとで知ったことだが、この時期はニッコウキスゲの最盛期で、登山者が殺到するのだとか。そんなことも知らずに取材に行くのだから、おめでたいにもほどがある。

 せせらぎの小道、だったか、ブナの森に囲まれたステキな登山道だった。歩いて1時間足らずの道だから、果たしてこれを登山と呼んでいいものやら、悪いものやら。それでも雄国沼の向こうの金沢峠までは、もっと近いシャトルバスが通っている。バスを降りて10分で雄国沼に着けるのだから、いささか考えてしまう。

 雄国沼をめぐって休憩所にもどり、さらに雄国山に登った。郭公やホトトギスが鳴き、山の雰囲気が味わえた。遠くには飯豊連峰や磐梯山の雄姿がある。このまま北方の下山路に向かおうかとも思ったが、雄国沼から猫魔岳への道を歩いてみたい誘惑を抑えきれず、ふたたび休憩所へ。雄国沼の東に沿う山道をたどり、ひと気のない湖岸で弁当を使う。

 下山してビジターセンターに立ち寄って話を聞く。説明をしてくれた新井さんの奥さんの実家が、私の秋田の実家のすぐ近くだという話になり、互いにびっくり。

 そこからペンション「とも」まで、道に迷いながらもたどり着く。オーナーの友坂さんは花の達人で、写真家でもある。かなり硬派で、反体制派という印象の御仁。いっぺんで気に入り、あーだこうだと夜遅くまで話が弾んだ。

 翌朝、彼の案内でふたたび雄国沼へ。前日に負けないほどの人混みだった。これではさすがにオーバーユースを心配するが、この十日間を除けば、信じられないほどの静寂が訪れるという。なんとも理不尽で不可解な心境になった。

 花のガイドもしている友坂さん。この日はお客さんもおらず、ならばと勝手に通りすがりの登山者をモデルにお願いして撮影を切り抜ける。それでも、一方通行の木道では立ち止まることさえゆるされない。

 そこで放った友坂さんの名言。「なに、なんと゛もまわればいいんですよ」の言葉に、目からウロコが落ちた。

 ニッコウキスゲのような大花よりも、小さな花が好きだという友坂さん。望遠と広角のレンズを駆使して対象に迫る撮影態度に刺激を受けた一日だった。ああ、せっかく三脚を背負っているのだから、俺ももっと貪欲にならなくちやあ。




 大行沢に行ったクライアントをKさんとしよう。彼との二回目のガイドは会津の蒲生川にした。天気も悪く、地震の余波も心配だったが、まあ、勝手知った会津ならなんとかなると考えたのだ。

 6月21と22日であった。前夜、太田原の関所で泊まり(太田原は、わが「ろうまん山房」会員の石井が住んでいて、最近では素通りするとぶん殴られるので、しばしば泊まってしまうことから、関所と名付けられているのだが・・・)早朝、日留賀岳に登る石井とともに出て会津に向かい、蒲生岳の駐車場でK氏と合流する。

 予報が外れて空は快晴。蒸し暑さが難だが、沢に入るためにあるような日だ。蒲生川へのゲートを嫌い、まずは手前の持場沢に入るが、水が少なく、これではイワナの出は悪いだろうと推測。でもまあ、まだ二回目のK氏だから、渓の生活術を学んでもらうだけでもいいと判断。

 山道が続き、持場沢と井戸沢の出合に降りる。道は中間尾根に続いており、たどってみたい誘惑を抑えて左の持場沢へ。しかし、イワナは出ず、すぐに想定外の雪渓に出くわす。里の雪消えは早かったが、山の雪は例年よりも多いほどである。

 ならば井戸沢を狙うしかないと、少し戻って井戸沢に入る。そこそこ魚影も見え、期待を持たせるが、そこまでだった。適当な台地に泊まり場を定め、あちこちと釣ってみるが、結局一尾だけが今宵のおかずになる。でもまあ、タープの張り方や焚き火での飯の炊き方など、少しは学んでもらえたと思う。夜、少々雨が降った。

 翌日、手ごたえを求めていったん車に戻り、空身で蒲生川に向かう。ゲートから1時間と少しで蒲生川。そこから山道を歩いて入渓する。ゲートからの歩きの分、イワナはほどぼとに釣れ、ほっと胸を撫で下ろす。

 雪渓を幾つか越えた場所で釣りをやめ、山道の入り口で昼の麺を作ってから車に戻る。いまだ山越えのガイドをしていないが、焦ることもあるまい。徐々にステップアップしていけばいい。年をとってから沢歩きに焦りと油断は禁物である。

 山菜山行の翌週の6月二週、こんどは某古道の道刈りに出かけた。会津の某所から新潟の某所まで、古来使われていた街道がある。その裏街道をガイドして欲しいという声があった。しかし、この三年というもの、歩いていない。道はすでに廃道と化し、果たして通れるのかと案じた私は、それなら偵察と道刈りをすべし、と思い立ったのである。

 ここで、その場所を明示できないのは、そこを誉めそやす記事を、ある時期書きまくったために、某沢屋さんとか、某つり人たちが、聖地巡礼のように訪ね始めたからである。だから数年前から、私はその場所のことを書かなくなった。書かなくなってもひとは絶えず、まあ、自業自得かと、ただただ悲しんでいるのだが、仕事とあっては悲しんでばかりもいられず、重い腰をあげた。

 匿名の場所を語るのが、こんなに面倒だとは思わなかったから簡単に書くが、A沢の奥までは、なんと道が啓いてあった。地元のゼンマイ採りだとは思うが、?の連発。でもそこから突然途絶え、藪を漕ぎつつBゼンマイ小屋の跡。ここからは崩壊地形のため、道は崩れて跡形もなく、C沢を遡行する。

 やがてブナ森の登り口を探しあて、赤テープを付けながらこれを登る。右手上方でルンゼを渉るが、雪渓あり。あっちとこっちにテープをつける。そこから消えぎえの踏み跡を登さて、ようやくD峠へ。

 峠からも難渋し、なんどか行きつ戻りつしたあげく、なんとか雪渓にたどりつく。ここからは雪渓が道なのである。

 そしてようやくEのゼンマイ小屋場。かの憧れの地である。少ない薪を集めて日を点せば、一日の苦労も消えようというもの。ここからはさらに二つ目のF峠があるのだが、そこはもっとひどい状況になっているはずで、再度出直そうと決意。世が明けてからもちびちびとやり、昼近くになって重い腰をあげ、整備した峠道をくだったのである、って、なんのことか分かるひとは少ないよね。これが分かるひとは、私の本を丹念に読んでいるひとに違いない。いやにしいな、なんて思わずに、まあ、見逃してくださいな。

 ろうまん山房恒例の山菜山行が開かれた。場所はもちろん、只見の雪月花。つまり私の山荘ということだ。あちこち放浪の旅を重ねた結果、山菜山行は毎年只見でいいではないか、ということになった。

 しかし、OBとはいっても中心は五人だけ、いずれも親がそろそろなあ・・・という年頃で、やれ看病だ、やれ法事だなどと、なかなか思うに任せない。そもそも山菜山行の日程は、OB会の会長である坂内の田植えによって決まる。といって、毎年変動してばかりではたまらないので、六月の二週に決めているのである。

 結果、坂内は来たものの、今度は小松が法事でキャンセル。舘岡までも法事が入ったと駄々をこねる。

 集まったのは私と水野と坂内、それになんと、前夜だけでも参加せねば顔向けができないという舘岡が、奥様の茉莉さんをともなって、たかが夜だけ参加するために、長躯秋田から駆けつけてくれた。ただ呑むだけなのにね。

 ほかには現役数名と私のガイドのお客さん数名(群馬の今西ペアと怪しいニンニクの二名)、仙台Y・・・・山岳会の坂本ペア。これで15名ほどにはなったから、まずまずというところか。

 初日は小戸沢に入る。といっても遡行をしながら山菜を採る歳ではない。ただ二俣まで歩き、沢宴会をしながら山菜を調達し、雪月花に戻ってから再度宴会突入というだけの、まあ馬鹿馬鹿しい遊びである。

 ただその、決まりきったテーマに沿って粛々と進めるのがまた楽しく、まあ、いつものように夜が過ぎていくのでありました。

 昨年のこの日、突然水野が「そういえば、OB山行って、そろそろ20年近くなるんじゃないですかね」と言い放ち、そんなことなど考えもせず、ただ狼狽するばかりだったわれわれは、それじゃあ来年は20周年行事をやろうぜ、と相成った。いつも参加して蕎麦うちを疲労してくれる茨城ACCJの本図さんが不参加になり、誰がやるかと、まるで魔女狩りのようにもめたあげく、めでたく蕎麦うち初心者の水野に白羽の矢が立った。

 結果を語るほどでもない。みんなで慣れない蕎麦を打ち、慣れないなりに打ちあがった蕎麦を「うんうん、うめえじゃねえか」とほおばった。

 そのうち、そんなことには細かいAB型の坂内が、いろいろ調べた結果、ことしはOB会が始まって23年目、だから再来年は25周年を華々しくやろうぜ、ということになった。

 まあ、顰蹙ものの話も多々あったのだが、お家の事情まで話す義理はないから、ここまで。

 

 初めてのお客さんとのガイド山行は、仙台市近郊の大行沢(おおなめさわ)だった。たったひとりのプライベートガイドだが、お客さまはかなりのビップ。でも、お客さまが誰であろうと、もちろん気は抜けないのである。

 二口渓谷の駐車場に着いたときはすでに雨。翌朝、彼が到着したときにはますます強く雨が降るあいにくの天気。そうそう、日程は5月31日と6月1日。お互いに自分は晴れ男だと主張するのには笑ってしまったが、さりとて初めてのガイド山行を秋保温泉で沈没してしまうわけにもいかなかった。

 とりあえず樋の沢の避難小屋まで進み、様子をみることにする。もちろん、登山道からである。なんどか通っていたから、知った道のつもりだったが、かなりの時間を要したのには驚いた。

 午後の早い時間に小屋に着く。日帰りの釣りはしていたが、泊まっての釣りがしたいためのガイド釣行を希望したのだから、こちらとしては、なんとしても沢でのタープ泊、焚き火付き、という歓迎をしてあげたかったのだが、あまりの吹き降りと寒さのために、あえなく避難小屋で沈没。そそくさと身支度を整えて渓にはいる。なれど、こう寒くてはイワナの活性も鈍いのか、まったくあたりもなく釣れず。ものの30分もサオをだしていただろうか。寒さで手が震えるのでそろそろ戻りましょうか、という彼の声にほっとして、以後は小屋で宴会モード。

 翌日は念願の晴れ。あわよくば大行沢から南面白山周遊を目論んだのだが、釣りに時間を取られて思うように進めず、標高900メートルを最後にサオを畳んだ。それでも渓には春の日が降り、とても綺麗で楽しめた。途中で昼飯を作り、焚き火を囲んで刺身などを食べる。私はサオを出さなかったが、彼のサオ先でかなりのイワナが舞った。どうやら満足してもらえたらしい。

 小屋を昼に出て、近くで懸垂下降の練習などをし、午後四時近く駐車場に帰着。風呂にも入らず埼玉まで飛ばすが、途中で事故渋滞に巻き込まれ、襲い帰宅になってしまった。

 某山岳誌の写真取材で笛吹川流域に出かけた。いつもながら頭を悩ませるのは天気のこと。モデルは仕事持ちだから週末になるのは避けられない。あいにく天気は下降気味。中止して、思ったほど天気が崩れず、「ああー、行けばよかった」と後悔するよりは、行って後悔するほうを選んだ。

 場所は東沢釜の沢西俣である。奥秩父の主稜線のミズシに突き上げる名渓として知られたこの渓に入るのは、なんと初めてのこと。一級の渓だというので、舐めてかかったのが失敗だった。

 一日目は予定通り西俣に入り、所定のテント場に着いたのが午後四時近く。いやいや、渓は生き物で、苦労させられた。メンバーの口から出るのは「これが一級の沢?」という疑問符ばかり。私の見立てでも、とても一級とは思えぬほどの難しさで、初心者同士には薦められない沢であった。登攀あり、高巻きありで、ザイルを使うこと数回。そもそもザイルを使った時点で一級の沢とはいえまいと思う。

 テント場についたころ雨が降り出し、翌日の昼まで降り続いた。当然、停滞で、うだうだと過ごしたのだが、これがとても好評で、まさに天与の雨。「夢のような停滞日」という賛辞をいただいたのだが、なに、昼から酒を呑んでいただけのことに過ぎなかったのである。

 三日目、快晴で明けた。これが5月26日のこと。最初は鼻唄だった。これじゃあ、いつ水が涸れても不思議じゃないね、などと贅沢を口走っていたのだが、それから渓は変貌し、滝また滝の連続となる。あげくの果ては雪渓が断続し、遡行図にない滝が頭上高く連なるのである。しかし、そんな滝など遡行図のどこにもない。

 まさか、違う沢に迷い込んだが、とも思うが、まさか迷うはずなどないのである。ようやくミズシに立ってひと安心。だが、ここからが遠かった。登山道は春の雪に埋もれ、難渋するばかり。甲武信岳に立ち、甲武信小屋にいた北爪君と再会してビールの差し入れを戴き、徳ちゃん新道を下って暗闇の不動小屋に着いたのが、なんと午後の七時半。もうばてばてで、その夜は帰京することも叶わず、あえなく塩山の温泉宿で沈没し、近くの飲み屋で宴会となった。もちろん、これはこれで楽しかったのではあるが。

 ともあれ、すべては水量のなせる業である。渓は生きている、というとこを痛感させられた、春の遡行だった。沢を舐めてはいかんぜよ! 夏目雅子の顔が一瞬、思い浮かんだ、なんてことはなかったが・・・・。

 

 

 


渓流の原稿締め切りが10月の31日。なんとか書き終えて紅葉の取材に行けば、どうにか間に合うと思ったのつかの間、1日2日は雨模様。これでは取材にならじ、と一念発起。30日に書き終えて、その夜から秋山郷へ。運よく晴天が続き、いい写真が撮れた。

そこから移動して、明日は北又小屋の小屋締めに参加。帰ればまた原稿漬けの日々がしばらく続くが、少しのんびりするつもり。

ごぶさたしている雪月花の冬支度もせねばならず、そうこうしているうちにスキーシーズンが駆け足でやってくる。閑と忙の使いわけにも、少しずつ慣れてきた。今年は(今年も・・・か)滑りまくるつもり。


高桑です。

ただいま北アルプスの朝日小屋に滞在中。三日目です。天気が悪くて仕事になりません。日一日と小屋閉めが迫るというのに、どうなってしまうのでしょう。この秋は紅葉も駄目、天気も駄目で、取材者泣かせです。

このままでは帰宅がいつになるのか、まったく分かりません。でも、小屋暮らしは快適そのもので、くせになりそうです。小屋閉めまでいれば? なんて、ゆかりさんに言われて、その気になりそうな私が怖い。

なにせ、このブログを小屋で書けるというのが凄くない? 時代は確実に変わったようです。

 なんであんなに忙しかったの、という一年だったのに、潮を引くように暇になった。たまに舞い込む小さな仕事を細々とこなしている。仕事がなければ無いで心配になるのがフリーの常だが、まあ、晴読雨読、時おりテレビ、という生活も悪くはないと思い直している次第。きょうは、きのうの雨が信じられないほどのいい天気だ。スキーを新調したので、早く試してみたいのだが、どこもまだ充分の積雪ではないらしい。  残された日々は少ないので(またいつもの口癖か)、せめて生きている間は正常な季節感を味わっていたい。地球温暖化で冬山にいけなくなる日なんて、想像したくもないが、これからの子どもたちは、どう対処していくのだろうか。生まれ変わったら、という言い方があるけれど、私は生まれ変わらなくていい。好きに生きてきたなあ、という実感だけがある。