モンベルのOUTWARDという機関紙がある。年に四回発行なのだが、その№32(6月発売)に記事が載った。巻頭カラーの見開きで、書評である。取り上げたのは「星野道夫の見た風景」。
書店で販売しているとは思えないが、モンベルショップに行けばもらえるかも・・・。目にする機会があったら一読してくださいね。
週末の天気はどうなんだろう。行けないのが決定的なのに、気にだけはなりますな。
モンベルのOUTWARDという機関紙がある。年に四回発行なのだが、その№32(6月発売)に記事が載った。巻頭カラーの見開きで、書評である。取り上げたのは「星野道夫の見た風景」。
書店で販売しているとは思えないが、モンベルショップに行けばもらえるかも・・・。目にする機会があったら一読してくださいね。
週末の天気はどうなんだろう。行けないのが決定的なのに、気にだけはなりますな。
月初めから某山岳雑誌の執筆に追われている。山岳雑誌は、せいぜい数冊。山と渓谷、岳人、新ハイキング、山の本、登山時報などだが、私に依頼が来るのはほぼ決まっている。そうX誌である。
その8月号で沢登りの特集をやるのだが、その記事がどうにも書けず、しかも締め切りは迫っている。
そんなことはこれまでにも数え切れないほどあったのに、今回は異常だ。すでに文章量も決まっている。その量が、当初よりもべらぼうに増えてしまった。それ自体は構わないのだが、予想をしていなかったのが、私を困惑させた。こんなことは、本来書き手としては口が裂けても言えないのだが・・・。
しかし、特集カラー10ページに穴を空けることは許されない。よって、隙あらばと計画していた週末の渓は、みごとに泡沫のかなたに消え去ろうとしている。
半ば冗談、半ば本気で、私はもの書きとしての限界が近づいたのを悟っている。まあ、こんなもんだよなあ・・・というのが偽らざる思いである。
これをやっつけたら沢へ行くぞお! と思ったら、もうひとつの締め切りが近いことに気づいた。この綱渡りを結構楽しんでいる自分自身にも気づいてしまったのだが・・・。
6月2週は只見にいた。毎年恒例になっている東北OB山菜山行である。これは浦和浪漫山岳会のOB連中でやっている行事で、毎年東北と会津を行ったりきたりというしきたりなのだが、、それがこのところ、私の只見の山小屋を根城にして、確定する気配になっている。私にとってはうれしいことだ。なぜこの週なのかといえば、OB会長である坂内の嫁さんの実家の田植えがこの週だからにすぎない。
今年は雪も多く、絶好の山菜山行になった。半日、某只見の沢にでかけて山菜を採り、夜は雪月花で痛飲した。いつものことである。秋田から舘岡と淳子、淳子のダンナとガキの渓太、岩手から小松、宮城からは西田と坂本夫婦。そして関東からは現役と坂内夫妻、残念ながら郡山の水野は母親の不幸で不参加となった。
この布陣に加え、ガイドのお客さんのニンニクの二名、ヤマネコ曲技団の団長、今西夫妻、それと蕎麦うちに招いた本図夫妻である。そして茨城の竹濱さん。漏れはないと思うが、いまこの段階でも、淳子の旧姓を思い出せないのだから、私のアルツハイマーも相当進んでいるに違いない。
いやいや、楽しかった。糖尿病の数値を瞬間的に意識から遠ざけておき、呑みに呑んだ。あっ、思い出した。淳子の旧姓は平野だった。
翌日は天候不順。朝から酒を呑み始め、それから蕎麦うちをしてもらう。本図さんの蕎麦はいつもながら絶品で、面倒だったろうにとうれしく思う。できれば毎年来て欲しいと願うのは、私の勝手な思い入れにすぎないけれど。
夕刻、誰もいなくなった雪月花で、いつものメンバーが残り、酒を呑む。これがまたいい。宴のあとの打ち上げである。
それも、月曜の朝にはみんな去り、さて帰るかと思うが、某山岳雑誌の取材が待っている。その相手は、ここ只見にいるかもしれないのである。
もしかしたら、と思って立ち寄った叶津の番所に、その人物はいた。瀬畑雄三である。あれやこれやと七転八倒。事態は急転し、そのまま近くの渓に向かって取材を敢行。まさに綱渡りの日々。でも良かった。カメラマンにとって、天気は欠かせない要素だ。晴れたらなんとかなる。もちろん、晴れなくてもなんとかするのがプロだが、それでも雨よりは晴れたほうがいい。
取材帰りの夜はふたたび只見の番所で撮影をし、そのまま泊まらせてもらう。なんとも凄まじい週末、いやいや、埼玉に帰ったのは、5泊6日を過ごした末の水曜日であった。
以前、かなり当たる確率は高くなっていたが、それでもときおり外れる天気予報に、天気が100パーセント当たるようになったら、偶然の要素がなくなる分だけ、人生が色あせてしまうだろう。天気の当たる確率なんて、いまぐらいがちょうどいい、と書いたことがあった。そう書いてしまった手前、前言を翻すようで意気地がないのだが、週末の天気には泣かされた。
ある雑誌の沢登りの取材に出かけたのだが、当初予定の鈴鹿は悪天の予報。対して北に向かうほど晴天の予報が出ていた。沢登りの取材は明るい日差しが欠かせない。苦悩の末に秋田、山形、宮城の県境を選んだ。しかし、土曜の宮城は雨交じり。目的の沢に入ったら、どうにか晴れたものの、午後はどんよりと曇る。明日の好天に賭けようとするも、夜はふたたび霧雨が降り、翌日は晴れたり曇ったり。天候を睨んで、一喜一憂する二日間だった。だが、ラジオを聴く限り、秋田や青森は快晴で、県境周辺だけがすっきりしない天気だという。まるで悪天の区域を狙ってやってきたようなものだ。
二日目の朝、天候待ちを3時間ほどしていたおかげで下山が遅れ、ヘッデン歩行になってしまった。天気予報の確率に能書きを垂れてしまった以上、誰を恨むこともできず、悄然とする思いで帰途に着いたのである。知らなければ良かったのに、聞けば鈴鹿は予想外の晴れだったとか。うーん。
しかし、それでもなお、天気予報の確率は、この程度でいいのだとほざいておきたい。でもなあ・・・これではまるで、天に向かって吐いた唾が、自分の頭上に降り注ぐようなもので、なにかすっきりしない思いを、いまもいだいているのである。
ようやく沢シーズンに突入だ。スキーは倉庫にしまっておいて、沢モードに切り替えねば、と思う日々。
仕事がきたから沢に行く、鈴鹿の計画が、天気が悪そうだから東北になりそう。それもあるか、と思う。
なにはともあれ沢だ。沢に溺れず、被写体としてクールに捉えて写真を撮らなければならない。
光があればそれでいい。山がいとおしくなれば、きっといい写真が撮れる。
そんな思いを籠めて、いざ東北に向かおう。
やっと五月晴れになりましたね。ことしは天候不順で苦労しています。ゆうべの雷雨は凄かった。ベランダの鳩の巣が心配だったが、どうやら産まれたらしい。母は強しって、父もか。覗いても逃げるそぶりもない。しかし、これからが大変なんだよね。エサ探しが・・・。
●ナショナルジオグラフィック日本版の6月号に写真と記事が載りました。秩父の天然氷の阿左美さんです。明日発売とのことです。見開きの次のページの家族は仲間の黒沢芳一ファミリーです。
●岳人別冊夏山2006に、南アルプスの白根三山の取材記事が載りました。モデルは「ろうまん山房」のタケちゃんです。
一週間ぶりの月山だった。好天は土曜のみだと知ってはいたが、決行に踏み切った。たった一週間に過ぎないと言うのに、ブナの新緑は盛りを迎え、目に鮮やかだった。あれほど混雑していたリフトも、時間が早いためか、きょうはそれほどでもなく、すんなりと乗れた。
1時間半ほどで雪渓の上端へ。そこから40分で山頂に着くが、烈風が待ち受けていた。背負ったスキーが風にあおられ、荷を降ろしても、立って歩くのがやっとのありさま。
そのためか、はたまた感覚が鈍ったか、清川行人小屋に着くためには東南に向かわねばならないのに、いきなり立谷川に向けて滑り出す。快適な滑りを堪能したツケは確実に、しかもすみやかにやってきて、急斜面の上端で立ち往生した私たちは、眼下の渓の向こうに念仏ケ原を見出して、方向の間違いを知ったのである。そこから斜面をトラバースすること2時間、ようやく小屋を見つけてひと息ついたのは、すでに午後も遅い時刻だった。だが、清川行人小屋は、そんな苦労を吹き飛ばすような空間を私たちに与えてくれたのである。
あるひとは、まるで農家を移築したような、と表現したが、私の感覚では田舎の分教場だった。広い吹き抜けの広間にはストーブが置かれ、トレイがあり、入ることは叶わなかったが風呂まである。その気になれば50人は泊まれようか。懐かしくもあり、温かくもあるこのぬくもりは、体感してみなくてはわからないだろう。
宿泊者は私たちだけ。外にはカタクリやショウマなどの山菜が芽を出し、行者ニンニクまであった。枯らしてはならじと、ひとり1本だけと決めて大事に摘む。これはベーコンと炒めたが、絶品の味わいだった。
やがて風が吹き、雨になる。小屋の前には山桜が咲き、雨を受けて佇む地蔵が一体。立谷川が清川と名を変え、サカサ川に乗っ越す台地に建つこの小屋は、格別の風情がある。調べてみると、昭和30年に高松宮が月山に登った際に建てられたものらしい。当時は営林署の管轄で、小屋番もいたらしい。まだ姥沢のリフトもない時代のこと、つまり当時は清川からの月山が表参詣道だったということだろう。
近く改築されるという話も聞くが、この雰囲気だけは残しておいて欲しいものだ。
風雨に包まれながら、ストーブの前に陣取ってまったりと過ごす。どうやらこの小屋は癖になりそうだ。一泊だけでは足りないのである。それはなにも小屋の風情だけではなく、不思議な安静に満ちた空間の恩恵でもある。ラジオが各種の注意報を告げていた。風と雨は明日の昼まで止まないらしい。ならばゆっくり発つまでだと開き直ることにする。
翌日の昼過ぎに小屋を発ち、ふたたび山頂を経て姥沢に下りた。あたりはまったく見えない濃霧で、高度計とコンパスが頼りの計器飛行になったが、先週の記憶を信じて、無事日没寸前、駐車場に舞い降りることができた。
そして、まだ昨日のことだというのに、、私の脳裏は、いまふたたびの清川行人小屋へと飛んでいるのである。
一週間ほど、東北を旅してきた。月山と鳥海山のブナの新緑が、いまも鮮やかに目に浮かぶ。
四月の初めまでは毎週のように滑っていたのに、その後、パタリと出かけていなかったからだ。もちろん、仕事もあれば山岳会の行事もあった。それはそれで仕方がないのだが、年齢に応じて、そろそろソフト路線にシフトしたいと願っていた私にとって、それがテレマークだったのである。
山岳会の仲間との山行は文句なしに楽しいものだが、週末という制約の中での遊びに終始してしまうのは、ときに辛いものがある。天気が悪そうでも出かなくては現地の様子がわからず、出かけて天気が悪ければ、もちろん適当に遊んで帰るのだから、それはそれで楽しいとしても、やはり悪天の連続では不完全燃焼のような物足りなさが残ってしまう。まして、今年の春の天候の不順さを思えば、チャンスはあまりない。
だから私は、フリーの身の気安さで、晴れたら滑り、雨なら山麓で悪天をやり過ごす、という手法に出たのである。
21日の日曜は快晴で、月山に登った。翌日の月曜は、長躯秋田に移動して鳥海山に登った。ともに快適な滑降で、下手は下手なりに滑り納めを堪能したのである。
その翌日は、またまた悪天。それならと鳥海山の麓を徘徊し、来年のアプローチを確かめておき、それから秋田の実家に帰って数日を過ごした。そして、埼玉に帰ってきたきょう、小さな仕事を終えてから、会の仲間たちとふたたび月山に向かおうとしている。天気は悪そうだ。しかし、どうにか一本は滑りたい。それが私の、ほんとうの滑り納めになるだろうからだ。
週の初めに原人村に行ってきた。ようやく山桜が終わったらしく、獏の里は静謐に満ちていた。なにやら三月にテレビの取材があったというが、残念ながら私はまだ見ていない。
マサイさんとボケさんの生き方と名前がが広く知られるのは、私にとってもうれしいことだが、そのことによって獏の地が俗界にまみれてしまわないかと危惧している。おそらく、杞憂に終わるだろうが、それほど訪れるたびに心洗われる場所だ。
マサイさんたちが獏に入植した当時の写真を何枚か借りてきた。そのなかにマサイさんとボケさんの結婚式の写真がある。原人村で行なわれた手作りの式だ。ほのぼのとした、祝いの祈りが聞こえてきそうな写真である。間に合えば「渓流」に載るだろうから、見て欲しいが、いつまでも、かの地が穏やかな風に包まれているようにと、私もまた祈った。
原稿をひとつ終えるたびに、肩の荷が少しずつ軽くなるようだが、まだ終わりは見えない。そんな日々を、パソコンに向かって過ごしているうちに、団地の一室のベランダに、鳩が巣を作って驚いた。山道具を入れてあった段ボール箱で、知らぬ間に巣作りを始めていたのである。以前、鳩を飼っていたことがあるから、鳩は嫌いではない。エサをやろうとも思ったが、ドバトは自分でエサを取って生きている鳥だから、鳩の尊厳を尊重してやめることにした。
雛が孵るまで二週間ほどだろうか、どうにか無事に生まれればいいが、カラスなどの天敵も多いから、先のことはわからない。しかし、それもこれも天命である。自然界の生物にた対しては、なにもしないことが大事だ。エサをやって、相手にそのエサを当てにさせてしまうことはまずいのである。
メスのほうには足環がついていた。つまり、迷いの伝書鳩だということである。捕まえて足環を見れば、飼い主の名前が判るが、 それは野暮というものだろう。鳩レース界からドロップアウトした鳩が、違う生き方を求めて巣を作ったのが私の事務所だとすれば、見守ってやるのもまた一興である。ただ困るのは、ベランダの巣の前にある山道具の保管庫から、道具を出せなくなってしまうことだ。驚かせたくはないが、荷物を出せないのも困る。なるべく保管庫を開ける回数を少なくして、共存の途を探るとしようか。
やっと書けました。いつも思うことだが、今回がいちばんきつかった。あとは編集長の裁断がどうでるかだが、自分的には、いつも最良の原稿を書いているつもりである。書いているときは苦痛のひと言で、テレビっ子の私がテレビもつけずに、朝から深夜まで書き続けているのだから、沸騰したくもなるというものだ。しかし、結果はどうあれ、書き上げた瞬間の開放感がうれしくて、書き続けている。
今回は、福島県の山奥にある「獏原人村」の村長、マサイさんの記事だ。締め切りはきびしく、発行はのんびり、というのが雑誌「渓流」への私の皮肉だが、渓流2006夏号に、「希望の里暮らし、その9」として掲載される予定だ。いつになるかは編集長と神のみぞ知るのだが、まあ、のんびりとお待ちください。あっ、でも編集長殿、締め切りを守らなかったのは私の手落ちです。ごめんなさい、と言っておきます。
3月まで毎週行っていたテレマークスキーが、その後ビタリと止まっている。したがって、滑り足りない思いが体と脳を圧迫している。といって、それほど滑れるわけではない。体が動くうちに、少しでも上手になりたいだけなのだ。まだ、いくつか原稿が残っているが、早めにやっつけて、残雪の消えないうちに滑りに行こうと画策している。そのあいだは、お願いだから探さないでください。
●山岳雑誌「岳人」に連載していた「マイフェーバリットルート」が単行本になってます。タイトルは「日本の登山家が愛したルート50」発行は東京新聞出版局です。まとめてもらえれば、著者割引で買えそうです。まあ、とりあえずの宣伝です。よろしく。