秋田に生まれ育ちながら、全国一の競技花火で知られる「大曲の花火大会」を観たことがなかった。この催しは毎年8月の3週(もしかしたら4週かも・・・)に行なわれるが、これまでは機会がなかった。それが今年、秋田に住んでいる古い山仲間に誘われて、初めてでかけた。彼はこの7~8年、毎回のように観にいっている、いわば大曲花火大会のフリークだ。

 彼には伝手があって、通常なら発売と同時に完売になる桟敷席を取ったのだという。豪華な花火を目前で眺められる極上の席で、ビールを飲みながら楽しみませんか、という殺し文句を断れなかった。

 凄まじい猛暑を路上に駐車した冷房をギンギンに効かせた車中でやり過ごし、暑さの柔らいだ夕刻に会場に入る。メンバーは秋田の山仲間夫妻と私、それに岩手と福島からやってきた、これまた古い山仲間の、合わせて5人。久々の再会にテンションもあがり、あとはもう、始まりを待つばかり。やがて、開会のアナウンスに続いて号砲一発。競技の採点基準となる標準花火が打ち上げられた。そのとたん、私の中に興奮と錯乱が忽然と湧いた。一瞬ののちに、目頭が熱くなった。そんな馬鹿な、と思いながら隣を見ると、福島の仲間また目を潤ませている。たかが一発の花火で泣くようなことか、と恥ずかしい思いでいたが、私だけではないと安堵する。その様子を見ていた、なんどもこの花火を見慣れている秋田と岩手の仲間が、にやにやして呟いた。「高桑さん、まだまだ、こんなもんで感動してちゃダメです。大会主催者提供の花火の凄さを見たら、こんなものは子供だましです」

「へえ、そうなんだ。でも初めてこの花火を見て感動する俺たちは、べつにおかしいわけじゃないのね?」

「そりゃあそうですよ。俺たちも初めてのときは、感動して泣いちゃいましたもん」

 こいつらも感動したのなら、なんと75万人も集まっている群集のほとんどが感動していると思って間違いではない。でなければ、毎年全国から大勢の観客が、まるでリピーターのように 集まるはずがないのである。

 たった一発、夜空を衝撃のように染めて開く花火が、たったそれだけで途方もない数の観客の心を鷲づかみにする。これはいったいなんなのだ。

 その瞬間、私の中に湧き上がったのは、もしかしたら、これは私たちがとうの昔に忘れ去った「火の記憶」なのではないか、という根拠のない推察だった。日常のように、炊事や風呂焚きに火を使った時代はとうの昔に過ぎ去り、電気やガスに代わられて久しい。しかし縄文の昔から、火は私たちの生活に欠かせないものとして存在してきたはずだ。その記憶の遺伝子が、思わず知らず、切磋琢磨して積み重ねられてきた伝統の技として観客を魅了したのではあるまいかと。そして彼らもまた、無意識のうちに火の記憶を求めて花火に見入っているのではないか、と。

 天空に炸裂する夢幻の色彩が、それから3時間にわたって夜空を彩り、私たちは痴呆のように魅せられていた。そのとき、鮮烈に思ったことがもうひとつある。それは、観客は川のこちら側にいて、花火師たちは川の向こう側にいる、ということだ。彼らは、己の技を天空にのみ開かせ、自身は闇に蠢き、ただひたすら走り回って、計算されたコンピューターのように複雑に構成された花火を打ち上げることだけに専念していることに、だ。もちろん、科学万能のこの時代、もしかしたら、以前とは違い、ボタンひとつで複雑な作業を操作しているのではないか、という疑念もいだかないわけではなかったが・・・。

 彼らは、もしかしたら山水河原者の系譜を持つのではないか。その思いもあった。表にでることなどなにひとつなく、それでもひとびとの暮らしに欠かすことのできない数々の作業に黙々と従事したひとびとの系譜を宿しているのではないか。なんの根拠も脈絡もなく、私は不意にそんなことを思い浮かべたのであった。

 可能なら、いつかはあちら側に身を置いて、たとえばこちらが此岸なら、彼岸ともいうべきあちら側に陣取って夜空を見上げてみたい。そんな想念が、いつまでも私の脳裏に宿っていた。

 その翌日から、私は花火を楽しんだ仲間と別れ、遠距離をものともせずにやってきた別の仲間たちと落ち合って、八幡平の大深沢をさまよう4泊5日の沢旅にでかけたのである。

 花火大会まで続いた猛暑はようやく和らぎ、空には秋の気配があった。その空には、あの幻想の花火が開いていた。おそらく、これから毎年、私は恒例のように大曲を訪れて花火を楽しみ、近くの渓流をセットにして旅をするに違いない、という予感たけがあった。