リンゴ狩り
リンゴの味は、如何でしたか?
帰園してすぐ、「人生で一番楽しかった」と、大声を出す男の子がいました。
山に行くまでは、リンゴは「スーパーでつくっている」と言っている子もいましたが、現地に着くと、「リンゴのトンネルだ~!」と、感動が拡がりました。
お弁当は、リンゴの木の下で。
現地の職員さんのお話では、リンゴは赤くならなくても、美味しいものは美味しいのだそうです。
真っ赤なものほど美味しい、と思っていましたが、リンゴのお尻の部分が黄色くなれば、充分美味しく食べられる、とのことでした。
リンゴは、実(み)が大きくなるにつれ、少しずつ色を変えていく、という説明にも、子どもたちは、興味を持ったようでした。
果実は、「もぎとる」と言いますが、リンゴもハサミで切るわけでもなく、引きちぎるのでもありません。
お尻の部分を軽く手で持ち上げ、リンゴを「逆さま」状態にすれば、いとも簡単に「もぎとる」ことができます。
そんなお話を聞いた子どもたちは、さっそく「リンゴ狩り」に挑戦。
低い所にもリンゴがありましたから、年少さんも「もぎとる」ことができました。
みんな、力を入れる必要がないことを実感したようです。
リンゴに限ったことではないかもしれませんし、私の勝手な解釈かもしれませんが、なんだかリンゴの実は、神様からの「賜物(たまもの)」として育ったにちがいない、と思った次第です。
余談ですが、歯周病に罹っている園長は、リンゴをかじった翌日、歯医者に急行しました。
芋ほり
先日のお芋、あまり大きくなくて、申し訳ありませんでした。
農園までは、中追渓谷専用バスを利用。
当日は、私だけ留守番でしたから、以下は、帰園した先生方からの報告です。
芋掘りの作業は、子どもたちのほうが元気で、先生たちはちょっと疲れたそうです。
無理もありません。
当日までの準備、バスの中での園児への世話、現地での安全対策…。
でも、主役は、子どもたち。
蔓を植え、草を引き、土の中で育つと聞いていた芋に、ついに出会ったのです。
みんな、夢中です。
芋を掘っていた子どもたちは、疲れた先生の姿を見て、「椅子に座って、休みよりや」と言ってくれたり、肩を叩いてくれたり…。みんな優しい子どもたちです。
最初の頃、土をさわるのがイヤな子もいましたが、先生が「お芋をやさしく、そっとそっと、なでてあげると、お芋さんがよろこぶよ」と声をかけたら、「うん」と言って、他の子たちと楽しそうに芋を掘り出しました。
ミミズ、ダンゴ虫に出会った子もいました。
郵便局探検
先日、スクールバスに乗って、ちょっと遠方の郵便局まで「探検」に行ってきました。
子どもたちは、郵便局の仕分け作業の現場を見て、圧倒された様子でした。
なにせ、あまりにも巨大で、精密な機械が動きだしたからです。
現場が一段落し、迷惑にもならない、危険もない、そんな時間におじゃましたわけですが、局側のご好意で、機械を動かしてもらったのです。
最初は圧倒された子どもたちも、「ポストはなぜ、四角なの?」と質問し、「丸いと、大きなものが入らないからだよ」といった説明には、しっかり頷いていました。
今回の園外保育は、8月に下見をし、それ以降、何回か電話で打ち合わせをし、やっと実現させたものですが、子どもたちの反応を見ていると、本物を見せることの大切さを感じました。
保育には、「~ごっこ」を通し、想像力をのばしたり、夢を与えてやったり、あるいは、工夫、協力、努力などが必要なことを感じ取らせてあげることも大切ですから、今後も従来の保育を継続させていきますが、いっぽうでは今回のように、実物、本物の持つ「すごさ」を子どもたちに体感させてあげたい、と思います。
皆様は、郵便物の表面に、目には見えないバーコードを吹き付け、特殊な機械にそれを読み取らせ、仕分け作業の効率化を図っている、という郵便局の先端技術をご存知でしたか?
こんな園外保育には保護者としても参加したい、ということでしたら、ご意見、ご希望をお寄せ下さい。
体験入学
先日、近所の小学校の「体験入学」に、年長さんといっしょに出かけていきました。
その小学校は、以前から定期的に「学校だより」を届けていただいてましたし、私も何度かおじゃましたことがありましたから、教育方針の素晴らしさ、実践の様子など、多少は理解していたつもりでしたが、今回子どもたちの立場であらためて見つめ直すと、いくつもの発見がありました。
発見のひとつだけを紹介しますと、それはチャイムの優しい音色です。
当園には、チャイム自体がありませんし、今回出向いた小学校のチャイムは、中学校や高校などのような、無機質で、囂(かまびす)しいものではありませんでしたから、私はその音色のすばらしさに我を忘れ、ずっと聞き入っていました。
年長さんを受け入れていただく様子を見ておりましても、たとえば、絵本の読み聞かせ、あるいは楽しいゲーム、いろいろ準備いただいた先生方の、その細やかで、心優しい気遣いは、まるでチャイムの音色と同じように、心に浸みました。
年長さんは、広い体育館を走り回り、本当に楽しそうでしたが、ここでこんなことを言い出すと、他の方々に申し訳ないことになってしまいますが、あえて言わせていただければ、当園の制服が一番素敵でした。
誇りに思いました。
お別れ遠足
いったい何キロ歩いたでしょう。
みんな元気に帰ってきました。
年少さんは、さぞ疲れたことでしょう。
私が自分の子どもを育てた経験からすると、子どもはたいがい、途中で「ぐずる」ものです。
でも、遠足の日、「ぐずる」子はいませんでした。
ここが家庭と、幼稚園などの教育施設との違いです。
子どもはみんな、最初から歩かねば、と思って、集まってきているのです。
みんなと歩くと楽しいことを知っているのです。
教育施設の存在理由のひとつは、ここにあります。
「集団力」です。言葉を換えれば、「みんなの力」が自然に作用するのです。
道中の子どもたちを見ていると、ゴミが散乱している現場に、眉をしかめていました。
春先のお花に見とれていました。
梅の花を見て、「私の服と同じ色だあ!」と喜んでいた子もいました。
石と石を擦り合わせ、一方の石に線が描けることを発見した子たちは、石探しに夢中になりました。
「電車はどうして走ることができるの?」と聞いた子もいました。
落ち葉のようなものを大切そうに持ち帰った子もいました。
異年齢の子と手をつなぎ、楽しく歩く姿は素敵でした。
それぞれの心に、何か幸せがもたらされたような、そんな遠足でした。
子どもの会話
通常保育が終わると、すぐ各クラスから、預かり保育の部屋に、多くの子どもが集まってきます。
預かり保育でない子もやってきます。
多くの子が自然に集まってくる理由は、いろいろあるだろうと思いますが、友だちとまだ遊びたい、とか、自分たちの部屋にない遊具があるから、とか、あるいは、子どもなりの「自由」を楽しみたい、と思っているのかもしれません。
年少と年長では、いろんな面で発育に差がみられます。
園見学に訪れた保護者を案内するたび、見学者から驚きの声が上がるほど、3~5歳の成長は目を見張る変化があります。
そんな発育差が、「優しさ」になって感じられるのが、預かり保育室での会話です。
「それ、かして」
年少さんが言えば、
「いいよ」
と年長さんが渡してくれます。
「こうすると…、ほら、いいだろ」
別の年長さんがアドバイス。
子どもの会話には、「優しさ」が溢れています。
その「優しさ」は、通常保育における「優しさ」とは違う、「優しさ」に「幅」や「厚み」が感じられるのです。
親子遠足
先日は、お疲れ様でした。
ヘビやハチが出るかも、と職員に言われ、びっくりなさったお方もいらっしゃったかもしれません。
でも、よくよく考えれば、「自然界」とは、そういうところです。
日頃、危険を感じず、安心して生きている現代は、とても幸せな時代ですが、危険をまったく感じずに生きているほうが、よほど危険で、不自然なのではないでしょうか?
「花が、きれい」
「おべんとう、おいしかった」
「むちゃくちゃ、あそんだぞ」
子どもたちの声を聞きながら、私は思いました。
自然に即応できる子どもたちの能力を、どのように磨き、伸ばしていってあげたらいいのか。
いまの世の中には、「自然体験」といっても、自然そのものの体験をする企画など、まず絶対に、と言い切ってもいいぐらい、ありません。
大人が準備した「自然」、危険を除いた「自然」、そんな「プチ自然」「似而非(えせ)自然」ばかりです。
子どもの安全を図りつつも、本当の自然のすごさを理解させるのはどうしたらいいのか。
私には、大きなテーマを与えられたような一日でした。
どんぐりネズミ
今、子どもたちの間では、「どんぐりネズミ」づくりが人気です。
年長組の遊びが、他の組に拡がりつつあります。
どんぐりに、目を描き、耳をつけ、尻尾は毛糸。
ネズミの耳は、どんぐりの「お椀」をボンドでつけます。
子どもたちは、この「お椀」を、「どんぐりのぼうし」と言っています。
余分なことですが、正式名は「殻斗(かくと)」といいます。
年長組の部屋には、子どもたちが作った可愛い「くるまや」「おすしや」「さかなや」「やおや」などのお店が並んでいます。
自分たちでお店を作り、自分たちで「お店屋さんごっこ」を楽しんでいますが、よく見ると、一番横に、新しく「ねずみや」ができていました。
豆まき
2月3日午後1時30分、雨が降っている園庭に鬼が現われました。
その数分前、廊下で妙に怪しい物音がしましたので、園の管理責任上、園長が急いで総点検しました。
その時には何ら異状はありませんでした。
ただ、園長が見回りをしていることを知らない保育中の担任のひとりは、急に園長が廊下に現れましたから、びっくりしたようでした。
それを見た園長は、子どもたちや先生方を動揺させてはいけないと、しばらく廊下の隅で様子を見守っていたのですが……。
その時です。園庭に鬼が出たのです。
子どもたちも、先生方も、豆をにぎり、「福は内、鬼は外」と、一斉に鬼に豆を投げつけました。
年長さんのひとりが、「あの鬼、○○先生じゃない?」と言ったのですが、「○○先生はさっき、洗濯していたのを見た」という証言があって、やはり本物の鬼だということになり、みんな思いっきり豆を投げつけました。
鬼は、大きな牙を光らせ、手には大きな鉄棒(かなぼう)を持っていました。怖い鬼でした。
でも、園をあげての鬼退治のため、鬼は泣きながら退散しました。
園長は、正門に向かって逃げ出した鬼の様子をじっと観察していましたが、鬼は鉄棒以外に、傘を持っていました。その点がいまも謎なのです。
開かれた環
何週間前でしたか、NHKの番組で、「オノ・ヨーコ 平和の鐘展」という展示会のことを知りました。
オノ・ヨーコといえば、ジョン・レノンと結婚した人だとか、平和運動家だとか、前衛作家だとか、いろんな側面を持った凄い人です。
近年では、アメリカでも、カナダでも、韓国でも、いままで展示会が開かれるたび、話題は騒然。
イデオロギー問題を持ち出す者が白眼視されるほど、彼女は傑出したアーティストとして注目されています。
私はここで、オノ・ヨーコを推奨する気もありませんし、批判するつもりもありません。
オノ・ヨーコ「平和の鐘展」の「形式」を面白く感じましたので、その点を紹介させてもらいたいだけです。
展示場の一区画には、訪れた人たちが願い事を書いて飾るようなオブジェがあります。
まるで神社のご神木に、おみくじを結ぶような、そんな感じのオブジェなのです。
参観者が増え、銘々がオブジェに関わりをもてば、オブジェは姿を変えていきます。
作者は、オノ・ヨーコのようでもありますが、参観者でもあるのです。
テレビは、もうひとつ、オノ・ヨーコ展の別のコーナーを紹介していました。
そのコーナーでは、壊れたコーヒーカップなどを参観者が自由に再生し、展示するのです。
オノ・ヨーコは、参観者を「仲間」にしようとしているのです。「共同」とか「共生」といった言葉を使ってもいいと思うのですが、とにかく私は、この展示会は「開かれた環」だと直感しました。
参観者は、その場で急に作者になるのです。
この「開かれた環」の展示会は、オノ・ヨーコさえ想像しなかった変容を遂げるはずです。
こんな「開かれた環」に対し、世間には、「閉ざされた環」がいたるところにあるように思います。
「環」が完全に「閉ざされた」状態であれば、いろんな意味での「混乱」は生じないでしょう。
でも、「閉ざされた環」は、発展が期待できません。
われわれは、知らぬ間に、「閉ざされた環」をいっぱい作ってきたのではないでしょうか?
経済の低迷、成果主義、自己責任、説明責任……、あれよあれよという間に、さまざまな難題を突きつけられ、だんだん「環」を閉ざしてしまったのではないでしょうか?
閉塞感が漂う今の世の中を打破するためには、いろいろなレベルでの「開かれた環」づくりが必要だと思います。
「環」を開くためには、オノ・ヨーコがそうであるように、人を根底から信じることが必要だと思います。
人は自分以上の存在だ、と敬愛する必要があります。
隣の人間に声をかけなくては、何もはじまりません。
自分から「開かれた環」を提示しなければ、何も変化しません。
子育てに関しても、大人の「開かれた環」づくりの努力がきっと、素晴らしい結果をもたらすと思いますが、皆さんはどのようにお考えでしょうか?
