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『SD慎語辞典』で香取慎吾の脳内を覗くことは本当に可能なのか

じ‐てん【事典】
百科事典や専門語辞典など、語を手がかりとして、それを名目とする事柄の内容を知らせる辞書。ことてん。
(出典:デジタル大辞泉 http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/98995/m0u/


つまり『SD慎語辞典』と題されたこの本は、香取慎吾が彼自身のことばを通して、彼自身の“内容=中身”をこちらに知らせるための1冊ということなのだろうか。
確かにそのことはブログ開始時からたびたび書かれていたし、本書の前書きにもこう書かれている。


<覗いてみない?
香取慎吾を。。。。。>



異様なまでの“いびつさ”とモノクロ写真の真意

とにかく、すげー変わった本だ。

まず本文のレイアウトがわかりやすくフォーマット化されてない。
厳密にはされてるんだろうけど、そうは見えないような文字組みになってる。

例えば記事タイトルの級数は揃ってるけど、本文テキストのサイズはバラバラ(5~6パターンくらいかしら、もっとあるか)だし、写真の入れ方も全ページ違う。

これは普通の辞書ではまずありえないことだ。
ぶっちゃけ、読みやすくはない。

香取慎吾ってタイプ的には自身のバランスや立ち位置をものすごく器用にコントロールしている、あらゆる意味ですごいプロフェッショナルな表現者だと思うんだけど、そんな彼の裏に潜む特異さやいびつさが際立っている本だ。

こないだの私服本はすごい丁寧かつバランスよくディレクションされてたけど、『SD慎語辞典』はまったく違うアプローチになっている。
読みやすさとか、バランスのよさとか、そういうことはこの本では二の次になっている。

今回、連載時はすべてモノクロだった写真のカラーバージョンが収録されている。
ブログを読んでいた人にも本を買うメリットを感じて欲しい、との意図から、Webではモノクロだった写真をカラーで掲載した、と香取は話している。

彼らしいサービス精神の表れだが、そういうこと以前に本書はそもそもブログとはまったくの別物になっている。

俺は本書のカラー写真を見たとき、なんか嘘っぽく感じてしまった。
モノクロ写真のほうが、“『SD慎語辞典』の世界”としては正しいありように感じたのだ。



ブログを事典にしてしまう発想のヤバさ

ブログは殆どの場合、書き手の「素」を表現する表現手法だし、『SD慎語辞典』もその側面がないわけではない。
しかしこの本から受け取る印象は、香取慎吾の「素」や「プライベート」という有り体のことばでまとめられるような、単純なフィーリングではない。
そんな複雑怪奇な感触こそが、彼が提示したい「香取慎吾の“内容=中身”」なのだと思う。

その人の「素」や「プライベート」を詳しく把握することと、他人の脳内をそっくりそのまま覗くことは、当然イコールにはならない。

自分に置き換えればわかるけど、自分の脳内なんて人に見せたくないものばかりだし、そもそもそっくりそのまま人に見せられるほど整理整頓されているものでもない。

だからこそ、「自分の“中身”を描写したブログ」を書籍というフォーマットのなかでもっとも整理整頓されたものである「事典」に置き換えてアウトプットしようとするという発想自体だいぶヤバい。
本来そのふたつはもっとも相反することだから。

そもそもブログ本で時系列順に並べずにタイトルの五十音順で並べるってだけでも、けっこうキてる。
何も知らない人が読んだらかなり意味不明なところも当たり前のようにあるし、正直、読みにくいし、わかりにくい。
普通に時系列で並んでたほうが、本としては全然読みやすいに決まってる。
でもこのいびつさこそが「香取慎吾の脳内」なのだ。



俺にはモノクロ写真がその象徴のように思える。
『SD慎語辞典』のなかでは、テキストも写真も彼の脳内を描写する要素にすぎない。
本書に載っている写真は、現実を映したものではなく、あくまで香取慎吾の脳内風景としてのスナップである。
だからこそ現実の色味ではなく、モノクロである必要があったのだと思う。

そんないびつさを、すべてを冷静にコントロールしたうえで、あくまで意図的に、ここまでの表現に落としこんでいる。
彼のクリエイティビティが最大限に発揮された一冊だと思う。

本来ある種の「種明かし」であるはずのカラー写真のほうが、俺には「嘘」に思えてしまった。
そのことは、俺が香取慎吾の脳内世界に取り込まれつつある証なのかもしれない。




結局わたしたちは香取慎吾の脳内を覗くことができたのか

『SD慎語辞典』は、香取慎吾がこれまで作り上げてきたあらゆる表現の中で、もっとも精度が高く、研ぎ澄まされたもののひとつだ。
彼がなぜ人を惹きつけ続けるのか、この本に触れるとその理由がわかると思う。

本書で表現されているのはあくまで<香取慎吾が表現する香取慎吾の脳内>であって、それがイコール本当に香取慎吾の脳内であるかどうかは、結局のところ俺にはわからない。(というかほぼ確実に違うと思う)
でもそんなことは全然大した問題ではない。

事典であるはずなのに、何度読んでも、いや読めば読むほど、ここに載っている言葉の意味がわからなくなっていく。
やっと近づけたと思ったら、気づくとさらに遠くに行ってしまっている気がする。

なにが本当でなにが嘘なのか――そんな無粋な詮索より、もっと不思議でもっと豊かな世界があることを、この本は教えてくれる。

SMAPはなぜ「いつの日にか また幸せになりましょう」と歌うのか――『がんばりましょう』を聴いて

こないだパワスプで流れてきた『がんばりましょう』を聴いて思った。
めっっっっっっっっっっっちゃめちゃいい曲だなこれ!!!(周回遅れ)

や、『がんばりましょう』がいい曲だ、っていうのはなんかもう一般常識レベルで共有されてる概念だとは思うし、俺だって前からそう思ってはいたけど、こないだパワスプで聴いたとき、そういうあれとは全然違う感慨が胸に迫ってきたんだよなあ。



「いつの日にか また幸せになりましょう」



この曲、なにに対して「がんばりましょう」って言ってるのかっていうと、「幸せになるためにがんばりましょう」って言ってるんだよね。最後のサビで「いつの日にか 幸せを勝ちとりましょう」って言ってるし。

で、その前の2番のサビで歌われるのが、このフレーズ。



「いつの日にか また幸せになりましょう」



いつの日にか・また、って、どういうことなんだろう。
文面通りに読み取ると、<かつては幸せだったけど、いまは幸せではない>、ってことだよね。
なんでわざわざこんな言い方をするんだろう。

そう思って冒頭の歌詞を読み返すと、そもそも最初に歌ってることもそういうことなんだよな。

「かっこいいゴール」を決められたことは、言ってみれば“幸せ”だけど、そんなものは「あッとゆーまにおしまい」。
幸せや希望の象徴である「星」は一瞬で消えてしまい、また別の、なんでもない、いつもの朝がやってきてしまう。



この曲のサビでSMAPは「どんな時も くじけずにがんばりましょう」と歌う。

なんでどんなときもがんばらなきゃいけないのか。
毎日クソみたいなことや、投げ出したくなるようなことばっかりで、幸せなんて、ほんの少しのきっかけであっという間に消えてしまうようなものだからだ。

この文脈って、「日々の小さなことに幸せを見つけていきましょう」っていうやつとは全然違う。
極端に言うと「生きてるってことはそれだけで素晴らしいこと」――そんなの嘘だって、この曲は言ってる。俺はそう思う。


終盤で「空は青い 僕らはみんな生きている」って歌われるけど、これは、「生きてるだけで素晴らしい」という意味ではない。
ただただ「空が青いこと」「僕らはみんな生きているということ」という、善も悪もないただの現実を見つめているだけだ。
つまり、どん底の血圧で、寝グセだらけで、頭を抱える悩みや、逃れられない過去や、貧困や戦争が消えることのない、そんな<きみの目の前の現実を見つめること>、<きみのとっての“いま・ここ”から逃げないこと>、それだけが「また幸せになる」ために必要なことだと、SMAPはそう言っているのだ。これ、応援ソングっってレベルじゃないほど、実はめちゃめちゃシビアなことを言ってると思う。



「がんばる」という概念とセットとして捉えられがちな「努力」や「根性」という言葉を「東京タワーのみやげ物に張り付いてるような薄っぺらな言葉」と言い放ちつつ、「それだってひとつの真実かもしれないよ」という解釈の余地を残してる。
これ、つまりは


<考え、行動するのは、君自身だよ>


というメッセージだ。

で、こういうメッセージを押し付けずに聴き手の主体性に委ねる姿勢は、SMAPだからこそのものだと思う。
SMAPは人にああしろこうしろとは言わない。
もっと言うと、こうしたほうがいいんじゃない、くらいのことも、ほっとんど言わない。
彼らが示すのはいつも自らの姿勢だけだ。
僕らはただ行動するだけ。判断するのはあなたたち。
そういう、どこまでも自由だけど実はすっげーシリアスなことをSMAPは発信し続けてるのだと思う。
もっと言うと、この曲に限らず、SMAPの活動にはすべてこの感覚が通底してる。
で、そういう人たちだからこそ、俺はSMAPが好きなんだなーと思う。


だからある意味、受け手である自分たちは試されてるとも言える。
自分はいま、彼らのメッセージを、ちゃんと受け取れているのだろうか?
俺はSMAPと向き合うとき、いつもそう考えているような気がする。



そんなようなことはこれまでだって感じてきたはずだったけど、
こないだのパワスプで
「いつの日にか また幸せになりましょう」
というフレーズを聴いて、また気付かされたのだった。
不思議だな。もう何度も聴いてきた歌なのに、まだ受け取れていなかったものがあったのか。

まあ、でもこれまでもそうだったように、きっとこれからもそういう瞬間が幾度となく訪れるのだと思う。
人と同じで、歌とも、ながく、ながーく、付き合っていくもんだしね。
で、そんな人たちの表現をこれからも受け取れるなら、こんなに幸せなことはない。

シティボーイズ×前田司郎=『燃えるゴミ』 最後の3人、最高の3人 2015.6.20

シティボーイズ『燃えるゴミ』(2015年6月20日、公演2日目、通算3回目の公演)。
最高だった!


シティボーイズを初めて見たのは『ウルトラ・シオシオ・ハイミナール』(2000年)が最初。
当時ピチカート・ファイヴが大好きだった俺(15歳)は、ピチカートのボーカル担当・野宮真貴さんが舞台に初挑戦するということで、この舞台を見に行ったのだった。
正直、当時の記憶はほとんどないけど、とにかくこれがシティボーイズとのファーストコンタクトだった。

そのあとは『ラ・ハッスル・きのこショー』と数年前の近作を1本見たくらいで、すいぶん生の舞台はご無沙汰してしまっていたんだけど、ここ5年くらい見続けている五反田団という大好きな劇団を主宰し作・演出を手がけている前田司郎がシティボーイズの舞台をやる、しかもそれがシティボーイズ最後の舞台になるかもしれない、ということで、これは行かねば!と、なんとか土曜日のチケットを入手し、行ってきた。


見終えて、これは紛れもなくシティボーイズの舞台であると同時に、五反田団をはじめとする数々の作品で見せてきた前田司郎の世界観は想像以上にしっかり確立されていて、つまりシティボーイズと前田司郎の作風ってこんなに相性が良いのか、と、まずびっくりした。


初めて五反田団の芝居を見たとき新鮮だったのが、これほんとに芝居なのかと?思うほど自然な感じの会話だったんだけど、終演後に売られていた上演台本を読んでさらに驚いたのは、そんな自然な会話(細かい相づちとか言いよどみとかどもりとか)がぜんぶ台本にしっかりと書かれていたことだった。
つまり、どうでもいい(ように見える)会話も、意味のない(よううに見える)相づちも、ぜんぶ計算ずくの演出なのだ。


で、今回の『燃えるゴミ』も、そんな前田司郎ならではの世界観は健在だった。

これまではオムニバス的な形式が多かったシティボーイズの舞台構成に比べて、基本的には最初に登場した中年男性3人を軸にして進む話運び、暗転せずに登場人物が入れ替わる(きたろうと斉木しげるの七変化ぶりよ!)仕掛け、そしてなにより延々と不毛すぎる、そしてすれ違い脱線しまくりながら進む会話の感じなど、五反田団の作品を見ているような前田ワールドがグローブ座で繰り広げられるさまはかなり痛快だった。
しかもそれをやっているのが、還暦をとうに過ぎたシティボーイズの3人なのだ!!
3人だけで、ワンシーンで、あれだけ長い時間くだらない会話を続けて、あれだけ面白いって、こんなゼイタクあるか!?


しかし、そんな前田ワールド全開の作品でも、これは五反田団ではなくやっぱりシティボーイズの最新作なのだ。
先述した、ゆるゆるに見えて激緻密な演出に必至で食らいつきつつも、実際やってみるとシティボーイズのグルーヴにしかならない、その絶妙なまじり具合がめちゃめちゃ面白い。

冒頭はじまって数分、「おお、これ想像以上に五反田団じゃん! この感じで進むのか?」と思ってたら、なんか噛み合わなかったのか、きたろうが「ちょっとうまくいかないから、最初からやり直そう」とまさかのリスタートw
えええーーーーーと思ったけど、でも多分前田さんのホンって相当難しいから、実はけっこう3人とも苦労してるんじゃないかなあ。
たぶんカンペキに台本通りにやってはいない(≠できていないw)と思うけど、だからこそシティボーイズと前田ワールドの絶妙なミックス感が生まれている気もする。


前半~中盤のコントならではのダイナミズムを駆使したパートを経て(カーテンコールで大竹まことが斉木しげるに「お前あそこのことしか考えてないだろ!」と言われてたw)後半~ラストの展開はヒーヒーゲラゲラ笑いながらも切ないし悲しいしでも優しくて、最後の最後に3人が文字どおりひとつになるシーンは、前田さんにしか書けないおかしくて愛のあるものだと思った。

前田さんが今回どれだけ「シティボーイズに書く」ということを意識したかわかんないけど(もちろんシティボーイズの作品を書くという意識は当然あったと思うけど、いわゆる“シティボーイズというキャラクターをどう活かすか”みたいな発想はなかったのでは、と個人的には思う)、現実に老境にいる3人のおじさんに何を書くか、という意味では、すごく意欲的な作品になっていたと思う。あの年であそこまで不毛な言い争いをできるってことこそが、人間といういきもののすばらしさだと真剣に思うよ、俺は。


今回がほんとうに最後のシティボーイズだとしても、これを最後にもってくるということも含め、俺は異論ないです。や、もちろんこれからもやってほしいけど、そういう気持ちは別にして。

なんか前田さんのことばっか書いたけど、3人の面白さは言うまでもなく。
この3人の、3人だけの舞台に、仕事して稼いだ金を払って見に行ける幸せよ。
めちゃめちゃかっこいいぜ、シティボーイズ。
おかげで金欠なのに、当日券でもっかい見に行く気まんまんです。
カーテンコールできたろうさんは「今回は完成しないかもしれないなあ…」と言ってたけどw
いやとにかく最高でした。

『木更津キャッツアイ』と岡田准一に出会った日――2002年早春、とある教室での記憶

今日たまたまこのツイートを見かけまして、

https://twitter.com/hraom/status/601277318670192640

うーん岡田准一がブレイクしたきっかけか…
なにを指してブレイクというのかいまいち分からんのですが、俺(30歳・ゲイ)のなかで岡田准一が炸裂したのは『木更津キャッツアイ』で間違いございません。

いつか『木更津キャッツアイ』についてちゃんと書きたいな―とは思いつつ、すでに感想も批評も山ほど出てるし、好きすぎて何から書いていいかわからんし…と尻込みしてたのですが、せっかくの機会なので、あえてごくごく超私的な視点で書いてみようと思います。





ドラマが始まった2002年1月当時、俺は16歳。クドカンのことは名前だけは聞いたことあるって感じだったです。『池袋ウエストゲートパーク』は見てなかったけど、なんとなく“クドカン”というワードは目に入ってきている、そんな状態。どこでクドカンの名前を知ったのか…クイックジャパンとかその辺だったのかなあ。

で、どこでもらったのかは忘れたのですが、ぶっさんとバンビが表紙のTBSの番宣フリーペーパーが手元に残っています。これが俺のなかで最古のキャッツ関連資料なので、おそらくこれをどこかで入手して、『木更津キャッツアイ』がはじまることを知ったんだと思います。





当時、俺の中での岡田准一という人の印象は「V6のかっこいい人」、正直これくらいでした。フリーペーパーの表紙に写る岡田と櫻井のツーショットを見た印象はこんな程度だったかと↓

「あ、V6のかっこいい人・岡田と、嵐のなんかかわいい人・櫻井のドラマやるんだ。あ、しかもクドカンなんだ。ならジャニーズのドラマでも見れるかも…!」

「ならジャニーズのドラマでも見れるかも」のニュアンスを詳しく説明すると、もともと小学校のころから『金田一少年の事件簿』とか『透明人間』とか土9のジャニーズドラマを見て育った子どもではあったのですが、さすがに高校生くらいになると、なんか家でジャニーズのドラマを見るってことに対してちょっと恥ずかしさが生まれてきてたんですね。なにより、ジャニに興味がある=家族にゲイであることがバレるかも…という恐怖もありました。

でもクドカン作品という前提があれば、「別にジャニーズが見たいわけじゃなくて、いまキテるクドカンのドラマを見たいだけだから」という言い訳ができ、家でも堂々と見れると思ったわけです。はい、実際はクドカンよりジャニーズが目当てでした。当時からイケメン大好きですし(というか当時はイケメンという言葉すらなかったのかも…(遠い目))

そんな感じでいろいろ不純なところもありつつ、16歳の俺は『木更津キャッツアイ』を見てみようと思い立ったのです。





放送当日、確かリアルタイムでは見られず、ビデオに撮って、週末に見ました。しかも録画に失敗し、冒頭の数分が録れてなくて、そこだけ見逃してしまいました(当時のテープ残ってるはずですが未確認)。

が、おそらく当時でも全国数万人はいたであろう多くのキャッツ狂と同じく、1話を見終えたときの衝撃はすさまじいものでした。

見てるあいだじゅう、興奮しっぱなしでした。
「なにこれ? なにこれ!? なにこれ!!!??? よくわかんないけどすっげえおもしれええええ!!!!!」
面白さの理由は全然消化できなかったけど、とにかくめちゃめちゃ面白いってことはわかりました。





週明け、高校に行って、クラスのいろんな人に「きのう『木更津キャッツアイ』見た!? ヤバくなかった!?」とハイテンションで言い続けましたが、初回終了後の段階で、俺がいたクラスの人らはほぼ誰も見ていませんでした。クラスでもイケてる部類にいたある男子A(少しタイプだった)が言った「えーあのジャニーズのやつ? あんなん見てんの?」という反応をよく覚えています。

当時クラスに友だちがほとんどいなくてつまんない高校生活を送ってた俺ですが、あのときばかりはとにかくこの衝撃を誰かと共有したい気持ちでいっぱいでした。なので

「いや、ジャニーズだけど、すげえんだよ! なんか普通のドラマと違くてなんか映画みたいで、しかも最初は普通に話が進むんだけど途中でなんか巻き戻るの! なんかわかんないけど超おもしろくて超かっけーの!」

こんなようなことを、金曜夜の放送を見て週明け月曜の朝に学校に行ってはクラスの連中に言い続けてました。すると回が進むにつれて、クラスのなかに放送を見始める人が出てきました。

放送が中盤に差し掛かったころ、先述のクラスでもイケてる部類の男子A(少しタイプだった)が「前に言ってた『木更津キャッツアイ』、おもしれえな! にゃーとか言ってw」と言ってきたことは、俺の高校生活のなかでいまでも燦然と輝く思い出のひとつです(不憫すぎる)。それだけのパワーが、当時の『木更津キャッツアイ』にはあったということでしょう。





正確に言うと、当時の俺は、岡田准一のすごさそのものには気づいていなかったかもしれません。

というのも、『木更津キャッツアイ』を見続けた3ヵ月のあいだ、おそらく1秒も、画面の中のぶっさんを岡田准一として意識して見た瞬間は、ほぼゼロと言っていいほど、まっっっったくなかったのです。

『木更津キャッツアイ』のぶっさんはあくまでぶっさん本人。
そう言い切れるほど、画面の中のぶっさんはぶっさんにしか見えず、俳優として岡田が優れているという客観的な評価ができる余裕などまったくありませんでした。当時の俺は作品の世界に、そしてぶっさんという人物にのめりこんでいました。





ようやく本題です。そんな中、いま振り返ると印象的なのが、徐々に放送を見始めたクラスの男子たちが口々に

「ぶっさんかっけー」

と言っていたことでした。


そう、ぶっさんはとにかくかっこよかった。それまで見てきたどんなドラマや映画の主人公とも違うかっこよさがありました。それはひと言で言うと、

「男が憧れる男像」

ということになるのかもしれませんが、それだとなんかキレイにまとまりすぎてて本質とずれてる気がするので、ここではあえて

「こいつ、いつもムラムラしてそうだな感」

と表現してみます。


夜中に理由もなくなーんかムラムラしてきちゃったり、やることなさすぎてなーんかムラムラしてきちゃったり、っていう思春期の男なら誰でも絶対経験してるであろう“男子特有のどうにもならない、どうしようもない感じ”。

キャラクターを形成するための記号としての「男子感」ではなく

「あ、こいつ、俺といっしょだ」

って、男なら本能で思えるあの感じが、『木更津キャッツアイ』という作品、そしてぶっさんという人物にはありました。
で、それを岡田准一がやっちゃう、っていうかっこよさ。俺も、おそらくクラスの男子たちも、そこにしびれたんだと思います。


で、もちろん、クドカンの脚本に描かれたぶっさんのキャラクターの魅力が前提にあることは当然として、こういう絶妙な感じを成立させてしまう岡田准一という人のすごさが、いまならわかります。

彼の演技があったからこそ、「ジャニーズ(笑)」とスカしていたクラスの男子たちも思わず共感し憧れてしまうぶっさんというキャラクターが生まれたことは間違いないでしょう。あらゆる意味で本当に幸福な作品だったと思います。


アイドルのブレイクポイントを考える指標のひとつとして「同性からの支持を集める」というポイントを挙げるならば、『木更津キャッツアイ』でのぶっさん=岡田准一は、少なくとも自分のまわりでは、驚くほど男子の支持が高かったです(こ)


あのとき『木更津キャッツアイ』を見てクラスの男子が口々に「ぶっさんかっけー」と言い出したあの瞬間は、自分にとってけっこう衝撃かつ、めちゃめちゃ痛快な出来事でした。そしてあのときの「ぶっさんかっけー」は、岡田准一その人に対して向けられた賛辞の言葉でもあったと言えるでしょう。


俺にとっても、岡田准一という表現者のすごさに初めて気付いたのが『木更津キャッツアイ』でした。その後の活躍ぶりはそれこそ言わずもがな、です。
というわけで、あくまで超超超私的な俺の中の岡田准一のブレイクポイントは『木更津キャッツイアイ』です。
なお、このテープは自動的に消め(ry





結局、作品自体に関しては全然書けなかったなあ…。今回も安定の「何から書いていいかわからん状態」になってしまった。まーいいや、また機会があったら書いてみよう。

ちなみにドラマ終了後は木更津に何度も足を運び、リピーターズナイト、やっさいもっさいキャッツ連、映画エキストラとだいたいの行事をこなし、ワールドシリーズまで突き進み見事に燃え尽きたのだった(内心、映画はあくまでサイドストーリーで、作品としてはドラマで完結してると思ってるけど←)。青春時代にこういう作品に出会えて幸せだといまでも真剣に思ってる。

しかしあの頃は、30近くなってからV6のアルバムに興奮し(V6の『Oh! My! Goodness!』ってアルバムがめちゃめちゃいい)ライブDVDに心酔し(V6『Oh! My! Goodness!』のライブDVDがすごい面白かったよ)森田剛氏ついて熱く語る(V6『Oh! My! Goodness!』における森田剛氏のボーカルについて)日が来るとは夢にも(ry

ドラマ『未成年』2015年初見の感想・8~11話

8話から11話をいっき見したわけですが、まず前回7話の感想で書いた「登場人物の不幸が物語の駒にしかなってない」という件、あれ撤回。つーかそういう次元じゃなかった。
なんなんだ後半の不幸フルコースは。
なんつーか「これをやりたいからこうしました」っていう意図がモロバレな感じというか。
うーーーーーーーーーん、このストーリー運びは、ドラマとしては全然ダメだろ。
つーかこれ、当時はどう受け止められてたんだろう。


しかし、とは言え、この作品は失敗作どころか野島伸司の中でも、そして出てる役者の中でもいまだに代表作と言われることも多い作品で、まあその理由もわからなくもない。
物語の整合性とかクオリティを差し引いても残るものがある作品ではあるのだ。





8話

すべての発端となるデクの銃撃事件が起こる回。
物語としてはクライマックスへと向かうブリッジ的役割。

事件に対する順平の反応はそりゃそうだろうなあという感じ。
俺だったらあんな状況になったら順平とおなじセリフを吐く気が。

桜井幸子はいい演技するなあ……。

しかしここにきてより思うのが、要はこの物語って

「未成年は大人や社会から抑圧されている存在である」

という前提があってこそ成り立つものなんだけど、当時ってそこまでそういうものだったのかしら。

これって2015年のいまではもはや成立し得ない。
いま現在若者が抑圧から開放されているという意味ではもちろんなく、抑圧を理由にこういう行動をするってこと自体がメッセージになり得ない時代になってると思う。この作品よりより過酷で悲惨な世界に明らかになってるから。いまの日本は。

でも当時もどうだったんだろうな。
ヒロが校舎のガラスを割るシーンとかヘタすると「尾崎かよ」のひと言で片付けられちゃう気もするんだけど。そして2015年現在では「尾崎かよ」の前提すら消え行く時代という。

しかしいきなり銀行で銃発砲からの逃避行とは……驚きなのがこの時点で全11話のまだ8話だってことだよね。えーーまだどんだけ引っ張るの!? っていう。いまの連ドラでは考えられん!

でもそれこそさらに冷静に考えると、自分が当時(ここ重要。いま15~6でこれ見るのとは全然違うと思う)15~6だったとしたら、かなり熱くなってた可能性はあるかもなあ。
むしろジュブナイル的な物語として見るとすごくハラハラしつつもキラキラした冒険譚に思えなくもない。にしては人が不幸になりすぎだけどな…w






9話

「お前は綺麗だな」

デクに向かってヒロが言うセリフ。
回を重ねるごとに、ヒロのデクに対する想いが強くなっていくよね。
もはや憧れに近い感じ。

ヒロがすごいのは、「大人」「社会」とかいう漠然とした言葉を使ってはいるものの、それを発現する自分自身=ヒロ本人の立場から逃げてないことだと思う。

ネットが発達・普及したのはいいことの方が多いと俺は思ってるけど、反面SNSで、失言やちょっとミスしたした芸能人にまで「正義」という名のバッシング(という名のただの憂さ晴らし)を行う人たちが増えた。
ああいう人は自分の言葉を使わない。どっかで聞きかじった借り物のを使う。それは自分が発言するという責任から逃げているからだ。

でもヒロは違う。まさに借り物の、有り体の言葉をヒロに吐くマスコミのおやじとは対照的に、ヒロはヒロの言葉で人々に語りかける。

そしてここ超重要なのが、ヒロは自分で自分の名を名乗った!!!!!!!!!!!111

俺もそうだけど、公の場で自分の名前(本名)を語りたがらない時代になって久しい。
本名でいなくていい場所=心を開放できる場所=ネットを手に入れた結果、その歪として先述のバッシング炎上社会がまれたとも言える。

けど、それよりもはるかにリスキーなあの状況でヒロは自分の名前をはっきりと名乗った。
あれは自分の発言から、自分自身から逃げないというヒロのアティチュードそのものだ。
いま見ると荒唐無稽なシーンも多い作品だけど、あのシーンは、いまだからこそ響く・刺さるものだと思う。

そしてちょっと文脈はずれるけど、名前という縛りから唯一解き放たれてる存在がデクなんじゃないか。

障害を持っている=社会から予めドロップアウトしている(という描かれ方をしている)彼に新たな名前を与えたのはヒロだった。
そして彼はその「デク」という名前を自らに受け入れた。その時点でふたりには特別な絆がうまれていたのかもしれないな。

で、そんなヒロ像に説得力をもたせたいしだ壱成の演技が右肩上がりにすごいことになってきてる。目だけで演技できる人なんだよなあ。すごい。

かみやくん怖…なんという地獄絵図……
河相我聞の演技もやばいw
犯罪者が山に逃げ込んで内ゲバって、山本直樹『レッド』かよ!!!!とツッコミを入れたけど、次回でそういうセリフが出てきて驚いた。まあでもそう見えるよな普通。






10話

ヒロパパ超いいやつ…と思ったらダメかあ! つか、まあ、言うほどそこまでダメじゃない気もするけど。いや、だめかあ。なんかよくわかんなくなってくる(白目

もか兄貴、かんぜんに人権侵害だろw

神谷くんの妻、「こんなとこいても意味ないわ!」ってセリフ、母だなあ。
うん意味は無い 無いのだよ。全然、まったく。すごい正しいと思う。しかしそのあとで学校に残ってしまうのも、まあわからなくもないけど。

撃たれた銀行員がいちばん不憫な気がしてくる。

五郎「バーカお前がいちばんどうかしてたんだよぉ」
これ!!!! いちばん言ってほしかったことをwwwwwwwwwwwwwwwww!!!!!!!!!!1111111111111111


かつてヒロが“この世でいちばん美しい”と言ったデク。
彼はなにをわかってなくて、なにをわかっているのだろうか。
立てこもってからの彼を見て、そんなことを考えるようになった。
立てこもりはじめてからのデク、明らかに変わったよね。
9話で映った全員集合ポラの中のデク、いままで見たことない不自然にまではっちゃけた笑顔をしてるんだよね。
デクは自分の気持ちを言葉にしないから表情や仕草とわずかな言葉だけでこちらが読み取るしかないんだけど、立てこもりが始まってからのデクは以前より心情が読み取りづらくなってくる。


マスコミおやじから安田講堂のセリフきたねえ。
「かわいそうな未成年たちよ」
そしてフランスの核実験のことも!
借り物の言葉ばっかり吠えてたマスコミ人が「どういつもこいつも不感症さ」だあああああああ!!!!!1????? ざけんなクソ大人!!!!!!!(←ヒロ達に同化しすぎ疑惑

しかし野島伸司は自覚的に学生運動と重ねて描いていたんだね。ますます当時このあたりがどう受け止められてたのか気になる。


えっクリスマスイブ最後の晩餐に、もかの友だちはいないのwww
意外とシビアっつーかひどいwww もかも呼んであげればいいのに…そして食事を渡すデク…つーか食事も渡してなかったのかwww!!!!!!!!!!!!!1


桜井幸子の演技すげええええええええええええええええええええ


かみやくん「僕が東京にとどまっていたら、こんなに胸の奥底から高揚することはなかったに違いない」
そんなことないよきっと別にまだ若いんだし高揚することなんてこれからいくらでも!!!!!!!!!!!!!!111
あでも警察に追われて逃避行ほどの高揚はないか……←


「あなたと一緒にいると、私にはこわいものなんてないの」

「ヒロ、愛してるわ」


こんなシンプルなセリフもここまでの経緯を踏まえると泣けるわ…


ラスト、立てこもりはじめてからデクの表情が見えなかった理由はこれだったのか。
イラスト、せつない デク デク デクううううううううううう(←感情移入しすぎ
そしてストーリーは破綻&暴走しまくりながらも(もはや五郎が撃たれたことに動揺する余裕もない)、モノローグはいしだ壱成も声の演技も含め相変わらず冴えまくりなのであった。



早くおとなになりたいね
そしたら誰も文句は言わないんだろ?

へえー、そうでもないの?
おとなはおとなで大変なんだね

質問
だったらいったいいつなのさ
自由に羽を伸ばせるとき








11話

結論から言うと、11話は蛇足だと思う。
車が横転してヒロだけ逃げてって……
結局もかも死ぬしかみやくんの母親も死ぬし死にすぎだし、これはないだろーーーーーーーーーーーー

でもそんな無茶をしたのも、すべてはあるシーンのためだったのではないか。
ヒロの演説シーンではない(あれもよかったけど)。
ヒロとデクの邂逅だ。



あのシーンを撮りたいがために、すべての無理なストーリーがあったのではないか。
そう思えるほど、精神病棟でのふたりのシーンはすごかった。

ヒロが病室に入ってきたときのデクの表情は、この作品での香取のベスト演技かと。
そしてそれを受けるヒロもほんとうに素晴らしい。



初回の感想で俺はこう書いた。

<ヒロとデクのシーンの、あのやわらかな空気感は無くしてほしくないなー>

結果として、10話までヒロトデクのシーンでのやわらかな空気感が損なわれることはなかった。
むしろ後半は荒んだ状況になればなるほど、ヒロにとって羨望の対象であり、ある意味神聖化されていったデクとのシーンの美しさは際立っていった。


だが最後の最後に、最も切なく、やりきれなく、そして美しいシーンをふたりに用意していた。
本作ではそこまで使われることのなかった過去シーンのプレイバックを伝家の宝刀的に用いてまで、このシーンを最後の最後に用意してきたのだな。
ここがこの作品における、俺にとってのクライマックスでした。




もうこれ以外はどっからツッコんでいいのかわからないレベルの大波乱展開www
ラストシーン無理矢理いい感じふうにしてるけど全然大団円じゃないし、もうなにこれどうすればいいの感すごかったけど、デクとヒロのシーンはほんとうに心に残るものだった。
なので、もうそれでいい。もうそういうことにしておきます。





そんなわけでうーん総括するのも難しいけど、まずは役者がすごい。つか役者が引っ張ってたドラマだと思うます。
個人的にはいしだ壱成のすごさを発見しました。『聖者の行進』は毎週見てたんだけど、あれもいま見ると凄そうだなあ。


でも見てよかった。いろんな意味で、いまではありえない内容だったので。
作品に込められてるエネルギーはすごかった。
あと10年後に見たらまた違って見えるかも。
面白かったーーーーーーーーーーーー

『burst! 危険なふたり』はなにが“危険”なのか~2015/5/4公演を見て

『burst! 危険なふたり』はなにが“危険”なのか

草彅剛と香取慎吾のふたり芝居『burst! 危険なふたり』を見てきた。
おもしろかった!
早くパンフ読みたいんだけど、その前にとりあえずの印象を走り書き。

素直な感想としては、決して手放しで満足はしていなかったりする。
だけどその「足りない感じ」は、すこぶる意義のあるものだった。





見る前の予想としては

「しんつよコンビの仲の良さやコンビネーションを最大限に活かした芝居」
「あえてふたりの関係性を排したストイックな芝居」

という2パターンを考えていた。
このふたつを両極として、そのあいだのグラデーションのどこをついてくるか、そういう仕上がりを想像していた。
で、結果としてその想像は軽々と覆されたのだった。


<手違いでテロリストから爆弾を仕掛けられた一般市民と爆弾処理のプロフェッショナルが時限爆弾の解除に挑む>
というワンシチュエーションの設定じたいはまあいいとして、ポイントはふたりの別の場所に置き、ふたりのコミュニケーションを電話での会話のみに限定したことだ。


舞台上にはふたつのセットがある。ひとつはソファが置かれたリビング、もうひとつはホワイトボードと机が置かれた会議室のような部屋。会議室にいる草彅が、リビングの香取に電話で呼びかけるところから物語は始まるのだが、基本この構図は最後まで変わらない。


ふたり芝居=舞台上にはふたりしかいないにも関わらず、ふたりの身体が触れうことはおろか、目が合うことすらない、それどころか常に観客側を見て芝居をしなければならない(ワンシーンだけ互いを見て芝居するシーンがあるけどあれは演出上ああなってるのであって、この舞台全体で見るとまったく無いと言っていい)

それでいて作品の内容はほぼふたりのやりとりだけで進んでいく会話劇という、俳優にめちゃめちゃ負荷をかける構成になっていた。

で、正直、俺個人としてもこの構成は最初戸惑った。
さっき書いた

>「しんつよコンビの仲の良さやコンビネーションを最大限に活かした芝居」
>「あえてふたりの関係性を排したストイックな芝居」

という予想は、方向性は違えどいずれもふたりが濃密に交わり合うことを期待していたからこそ浮かんだものだった。

しかし蓋を開けてみると、ふたりは全編にわたって目を合わせるどころか、同じフィールドに立つこともなく(それぞれの持ち場は最後まで固定されている)、しかも途中で役柄を入れ替え、最後まですれ違いを繰り返すのだった(とは言え濃密に絡んでいないわけでは決してなく、むしろより高度かつトリッキーで密度の高いコミュニケーションなんだけど)。
いろんな意味ですごいサディスティックな演出だったと思う。





香取は今回きっちり三谷ワールドを体現する演技に徹していたと思う。
三谷コメディとの相性は言うまでもなく抜群で、特に後半入れ替わってからは水を得た魚のようにノリノリ。
しかし足元はしっかり地面についてる感じがして、頼もしかった。

対する草彅は、ひと言で言うとすげー自由。
これだけ制限のある舞台にもかかわらず、あらゆるものから解き放たれてる感。
つか舞台の彼はこんなにすごかったのかとけっこう衝撃。
舞台を震わす声と、ラストシーンの彼の表情が忘れられない。

簡単に言うと「静の香取、動の草彅」って感じで、全然タイプが違う役者なんだと感じつつ、そんなふたりのコメディ(そう、この舞台はまさかの全編コメディなのだ!)を生でたっぷり観られるとは……改めてなんたる贅沢よ!

そういえばふたりの役柄だけど、入れ替わる前と後で微妙に人物造形が違ってる気がした。
そのへんは無理に合わせるのではなくそれぞれの個性を尊重してたのかなー。





冒頭で
「常に観客側を見て芝居をしなければならない」
って書いたけど、正確には観客を見てるわけじゃない。
あえて言うなら、どこも見ていない。


いや、もっと正確に言うと、ふたりは具体的に目を合わせることはないが、この作品でふたりは100分ものあいだ、やはりお互いを凝視しているのだと思う。


<相手に的確に物事を伝えるためには、正確な表現力が必要だ>
劇中にそんなようなセリフが出てくるけど、もうひとつ重要なことがあって、それは「相手のことを強く思うこと」だ。
トリッキーな構成だからこそ、ふたりのチームワークの良さが際立っていたことは言うまでもなく(息の合い方が尋常じゃない。なんであそこまでぴったりハマるんだ…)、なにしろ始まってから終わるまで、ふたりは互いのことをずっと考え続けているのだ。

常に相手の姿を想像しながらの会話劇は、このふたりだからこそ活きる設定なんだと思う。最初は戸惑ったけど、見終えて思うのは、これを書いた三谷幸喜のすごさと、これを成立させてしまう草彅剛と香取慎吾のすごさだ。





その他、思い出したことをつらつらと。

音楽よかったなー。基本、不穏で。セットもよかった。
コメディだけど、なんか不安な気分がずーっと通底してる舞台だった。
ラストシーンも意味深だし。あれをどう捉えるか、ひとによってずいぶん変わる気がする。
一緒に見た友だちのラストシーンの解釈は興味深かったなー。
あとキャパの小ささは色々言われていたけど、パルコ劇場の狭さでやる意味のある芝居だったのも事実。





最後に。
「この作品には手放しで満足してない」と書いたのは、このふたりにはもっとできることがあると思ったからだ。
贅沢言うのもアレだけど、この作品じゃまだ足りない。
もっともっと、いろんなふたりを見てみたい。し、ふたりにはもっとできることがあるだろーと思った。

変な話、三谷幸喜以外の作家の作品でもふたりを見てみたくなった。
それこそガツンと向きあうような芝居とかね(この舞台もガツンとぶつかり合ってはいるんだけど、イレギュラーな形式なので)

とは言え、草彅剛と香取慎吾による初のふたり芝居にこのホンを書いた三谷幸喜はいろんな意味ですごい。これってふたりを信用していないと書けないものだと思う。
今回いちばん危険だったのは、こういうホンを書いてしまった三谷その人だと思う。
一本とられた感。うーーんやられたーー。

草彅も香取も、自分たちから持ちかけた話とはいえ、ビビったんじゃないかなー。まさかこんな話が来るとは、とw
なんせあのふたりをもってしても、あくまで俺が見た感想でいうと、なんというか全然完成されてる感じがしなかったのだ。実はけっこうすごい格闘してるんじゃないかなーふたりとも。この作品を経て、草彅・香取が役者として何を得ていくのかも楽しみ。

そんなわけで、5月4日時点で、完成度はかなり高いものの、まだまだ未完成に思えたこの作品。
うーん最後にもう一度だけ贅沢言わせて。
もっかい見てえ!!!





オマケ・5月4日のカーテンコール(記憶は曖昧です)



剛「今日はGWなのにここを選んでくれて本当にありがとうございました。どうだった慎吾?」

慎吾「いやー本当にありがとうございました。GWなのにここを選んでくれて…(真似る)」

剛「今日昼に劇場入るときにGWで渋谷がすごい人出で、みんな楽しそうで、そんな中俺は舞台かと…」

慎吾「え…嫌々なの!?」

剛「いや違いますよ!? ただ、すごくいい天気なのにこんな室内で…」

慎吾「こんな室内!? パルコ劇場に謝れよ!!」





慎吾「他のメンバーはまだ見に来てないんですよ。来るのかな?」

剛「でもみんな気にしてますよね、特にふたり」

慎吾「中居正広と木村拓哉ね。ふたりとも別々に聞いてきたりしてね」

剛「(木村の真似で)『おう、いまどんな感じなの? まだそこまでしかいってねえのかよ』って、木村くん内容知らないのに何言ってんだろうと思ったけど」

慎吾「や、あれは、台本全部で何ページでいま何ページまで行ってるって話をしたからああ言ってたわけで…あーいないとこだと木村くんのことそういうふうに言うんだー」

剛「いや違いますよ! でも内心そう思ってたんだよね、木村くん内容知らないのにな…って」

慎吾「稲垣吾郎の話はあんま聞かないですけどね」

剛「でもパルコ劇場の大巨匠ですからね。吾郎さんとパルコ劇場って同い年なんだって」

慎吾「俺、ごろちゃんと一緒がよかったな…俺もうだめだよ、千秋楽までつよぽんとできない」

剛「何言ってんだよ! ちょっと待ってろ!」

~剛はける~

慎吾「俺つよぽんとできないよ…なんなんだよさっきのトークも全然噛み合わないし…明日からごろちゃんとやります!(客笑い&拍手)」

~剛ギターを持って登場~

ドラマ『未成年』2015年初見の感想・7話

ええーーー死ぬのそっちーーーーーー…
うーん俺この作品のこういうとこあんま好きじゃないなあ。
人の不幸(今回で言えば死)が物語の駒にしかなってない感じがする。
ここで死ぬ必要あるかなあ?
「友だちの死」というタイトルをつけて前半の不自然なまでに幸せな生活描写されても不安を煽るだけだし(俺が煽られてるだけかもだけど)(つか煽る意図でそういうことにしてるんだろうけど)
これまでもこういう傾向はなくはなかったけど、あんましいいやり方には思えない。
連ドラというエンタメとしてはすこぶる正しいとは思うけど。

とは言え、そういうウィークポイントを差し引いてなお、セリフの破壊力は相変わらずすさまじい。
もかとヒロの電話越しの会話の
「嘘じゃないよ」
「言わないで」
なんていうシンプルな言い回しに込められた痛みと切なさよ。
そしてそういうセリフに説得力をもたせる役者の演技はどんどんよくなってるなあ。つか役者で持ってる作品とすら言いたくなってくる。

シナリオの完成度は正直そこまで高くはない。でもそれをもって余りある魅力が確かにある作品でもある。この均衡がどうフィニッシュするのかしら。
ヒロの受験もダメになりそうだし、また雲行きが怪しくなってきたしなあ……大丈夫なのかしら(いろんな意味で)

あ、あと繰り返しになるけど大事なことなので何回でも言うます。
いしだ壱成、すげえ!!!

スキマスイッチの『スキマスイッチ』はこんなにもすごかった―2015/4/2・NHKホール

※ネタバレあります



●つーか俺ずっと言ってるけど、ヤバイよ、いまのスキマスイッチ。ほんとはこのヤバさを、まだ知らない人にも伝わるように書ければいいんだけど。うーん。難しいw こんなにいい音楽をやる人たちなんだってことを、もっと知らせたいんだけどなあ。とりあえず今回は見終わった雑感のみ書き散らかす。



●4月2日、木曜日。スキマスイッチのツアー『スキマスイッチ』、NHKホール公演1日目。見ていて最初に頭に浮かんだのは「みずみずしい洗練」という言葉だった。



●『musium』ツアーから現在までのさまざまなトライアル(ベスト盤~ダブルス~ストリングス等)がすべて結実した、一切の無駄のないライブだったと思う。最新作+近年のシングル+過去アルバム曲というセットリストも、すべてに必然があった。他の会場のライブは一切見ていないしセットリストも見てないけど、今日のセットリスト固定でも全然問題ないんじゃないかな。むしろ他が想像つかん。



●そういうライブとしてのクオリティの高さは「洗練」と呼べるレベルに達している。一方で、じゃあすべてが“できあがっている”のかというと、そうでもない。この日のライブには一見洗練とは相反するような“みずみずしさ”が同時に存在していた。



●このツアーのために用意されたという過去曲のアレンジは、どれも簡単に言うと大人っぽく感じた。で、「雰囲気変えるために大人っぽくアレンジしよう」ではなく「いまの自分たちから出るものを素直に音にした結果、大人っぽくなった」という感じなのがよかった。これがいまの彼らにとっての等身大なんだろうなー、というのが出す音から伝わるから、洗練されながらもすっごくみずみずしく聴こえたんだと思う。全てに「無駄」も「無理」もない、よけいなものは何ひとつないのに、すこぶる豊かなライブだった。



●特に予想してたわけではなかったけど、1曲目は心地良く裏切られた。そこからの『夏のコスモナウト』『双星プロローグ』あたりのミドルチューンがよかった! あのBPMであそこまで腰にくるグルーヴを纏わせる演奏力はマジですごい。つかスキマライブにおいて村西さんのドラムがいかに重要さを思い知ったライブでもあったなー。手数は最小限に、それでいて1000発1000中レベルのドラミングにしびれた。

アルバムでアレンジの自由さに戦慄した『僕と傘と日曜日』はライブでより大きく羽ばたいていてこの日のベストプレイのひとつだったし、バリバリのチョッパーベースアレンジからの雪崩れ込む『アーセンの憂鬱』など、過去曲を差し込むセットリストの流れも素晴らしかった。あと『パラボラヴァ』の多幸感やばすぎ。昇天。



●全体にハッピーな雰囲気だったな。会場の空気がシリアスに引っ張られることがほぼほぼなかったというか。『musium』ツアーもすごく幸福なものだったけど、あのメッセージ性の強いステージに比べると、ただただいい演奏だけをするという、ある種聴き手に委ねるような姿勢がすごく潔く、気持ちいいライブだった。これも『musium』以降のダブルスやベスト盤ツアーの経験が活きてる気がする。こんなに観客を緊張させないライブも珍しいのでは。

しかし色々なライブをしているスキマだけど、彼らの本領はやはりアルバムツアーなのだなと痛感。これだけ満足させられたのに、まだあと何回でも見たくなる懐の深さ。そしてホールクラスの会場の使い方うますぎ。音もめちゃめちゃよかった。あと客のノリが最高。メンバー登場時から異様なまでの歓声と熱気。このファンとの関係も、かれらが地道に作り上げてきたものなんだよなあ。そう思うと感慨深い。



●最後の最後に歌った曲については、ある意味このライブに用意された明確な「オチ」で、この曲について長々語るのは野暮かもと思いながらも、やっぱり語らずにはいられない。この曲を鳴らすためにこのアルバムが、そしてこのライブが用意されたのかと思うほど、ほんとうに素晴らしかった。音源の時点でもかなり完成度高かったアレンジはさらに進化し、ライブだからこその緊張感とダイナミズムでこの曲の持つパワーをさらに増幅・拡大させていた。

『SL9』のライブアレンジをカオスと表現するなら、この日のこの曲はすごくシンフォニック。静寂から生まれた音と音が呼び合い、重なり、美しい轟音となり、そしてまたひとつの音に戻っていく。これだけの幸せに満ちたポップス・フルコースをさんざん食べさせられたあとのデザートにしては刺激的すぎる、しかしこれ以上の締めは考えられない。あの「音楽」を聴けたことが、この日何より嬉しかった。



●アルバム『スキマスイッチ』は、スキマ史上もっともメッセージのないアルバムだと個人的には思っている。10曲というミニマムな構成の中で、ただただ異様に純度の高いポップスが並んでいるだけ。この“だけ感”はこの日のライブも一緒で、ただただいい曲をいい演奏で届ける“だけ”のライブだった。で、それがなによりも最高だった。というかもっと言うと、スキマはずっとこういうことがやりたかったんじゃないだろうか。

これまでもその傾向は強まってきていたけど、今回のアルバムとツアーでその感じは過去最高に極まっていて、だからこそ彼らはこのタイミングでセルフタイトルを掲げたのかもしれない。スキマスイッチの『スキマスイッチ』は、こんなにもみずみずしく、洗練され、躍動し、美しく、そしてわたしたちのそばに寄り添う音楽だった。こういう音楽に向き合えることの幸せを噛み締めた一夜だった。



●最後に。もっかい見てえ!!!

ドラマ『未成年』2015年初見の感想・5~6話

そうか、未成年な若者の悩みが学歴社会とかストレスとか、そう言えてしまう時代だったのかー(そのあとでヒロの反論があるけど)。
なんか隔世の感があるな。
いまなんて普通に貧困で人が死んだりする時代だからなあ。



1話の感想でも書いたけど、この作品は当時の時代性を強く反映した作品だと思う。
当然そこで描かれてる世界と2015年のいまとではだいぶ状況は変わってるんだけど、じゃあいまこの物語がまったく有効ではないかというとそんなことはなくて、例えば面接での教授とのやり取りで描かれる「大人に自分を肯定してもらえる喜び」とか、すごい普遍的な喜びや悲しみが描かれてる(と俺は思う)。

(と俺が思う)とわざわざ断りを入れたのには理由がある。
ヒロが
「500万年前の奴らも、やっぱり自分と同じように『世の中くだらねえ』って思ったのかなと思って」
と言ってたけど、いまこの作品を見て思うのは
「1995年のガキも『世の中くだらねえ』と思ってたんだな」
「いまのガキたちは2015年のこの世界をどう見てるんだろうな」
「いまのガキにこの作品はどう映るんだろうな」
という、複雑な感慨だ。



『未成年』という作品は、「物語の持つ力」を信じている作品だと思う。
フィクションだからこそ描ける真実があると信じている、そう信じていなきゃ、この物語は作れないだろうと思う。

『未成年』は、荒い。
ストーリーも、演技も、演出も、全然洗練されてない。暴力的だし、偏見や決め付けも多いし、あまりにステレオタイプな表現も少なくない。ただ、そうあることでしか描けない物語があることを身を持って証明している作品だとも思う。



で、やっぱ俺はこの作品を「2015年に生きるアラサーの準中年」としてしか見られない。いまの俺はこの物語を信じられるけど、いまの未成年たちがこの作品をどう見るのか、想像もつかない。

もしかするといまって当時より「物語」の需要は高まっている気はする。でも「物語の持つ力」じたいは、弱まっている時代だとも思う。正確に言うと『「物語を信じる力」が弱まってる時代』というか。そういう時代に生きる未成年たちは、この作品をどう見るんだろうなあ。




5話

「ちょっとだけ未来が開けて見えた」
このセリフ超いいな。30超えたいまでも、たまーに訪れるそういう瞬間があるから、なんとか日々生きていけてると本気で思う。

桜井幸子の聖母感すごい。まだ20歳とかなはずなのに…

後楽園ゆうえんち!!!!!!!!!!!!!!!1
トップスピン!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!1111111111111
元遊園地ヲタな自分狂喜。

そしてなにより言いたいのが、「優秀で非の打ち所がない兄」という役どころなはずの谷原章介が、ずっとすごい頭悪いしゃべり方してるのはどういうことなんだ! 最後に出てくるセリフのリフレイン不気味wwww ある意味怪演と言ってもいいのでは。結局6話で当然のごとくモカを捨てるし。ヒロ不憫すぎる。




6話

「とりあえず次のページを捲るっきゃねえ。天国だろうが、地獄だろうが」
相変わらずモノローグがキレッキレ。

初回で書いたとおり、ヒロとデクのシーンが本当に毎回唯一の癒しになってきてる……。しかしデクのダークサイド(というか生い立ちとか怪我の原因とか)がまだ明らかになってないのがなあ。

つかまだ6回でこの展開の早さは大丈夫なんだろうか。7回のタイトル見たら「友人の死」とか書いてあるし。
死ぬんかい! まだ7話じゃん! うーーん誰が死ぬんだ? 普通にいけば反町か?
「嘘を嫌えば嫌うほど、周りから嫌われていく」
というセリフは響いたなあ。彼もまた大人の犠牲になっていく未成年なんだよな。

「傷を負っているもののほうが綺麗に見える時がある」
これは野島伸司イズムをそのまま言っちゃったようなセリフだなー。俺はそうは思わないけど。

モカの初夜報告TELにマジで心配するヒロがけなげすぎる…泣




なんか1話のなかに色々ありすぎて、感想書くのが難しくなってきた。見はじめのころ疑問だった
「デクがこの物語に必要である理由」はなんとなくわかってきたので、そのことは5日ちゃんと書きたい。ん? つか来週いっぱいで再放送終わり? 早!

にせんねんもんだい『N'』だいぶいい



にせんねんもんだい『N'』を聴いた。
ディスクユニオンでTシャツ付きのやつ買った。
ジャケデザイン、クール!

最近レコ発@o-nest~落合スープとライブを立て続けに見たので、あの緊張感と迫力が心身にこびりついていたけど、音源だとまた違った聴こえ方をして、こちらもすばらしい。

ライブよりもっと無機質な印象。プレイヤーの肉体性とか、あと想いとか思想とかメッセージとか、そういう情報がもう皆無ってほど読み取れない。もうなんか想いとかどうでもいいって感じ。
ほんとうに「音」しかない音楽。

このアルバムを聴いてると、巷に溢れる「音楽」と呼ばれるものの多くがいかに「音楽以外のサムシングたち」によって成立しているか、そして自分もいかにそういうものをありがたがっているか、痛感する。

俺は別にそれ自体を悪いことだとはまったく思ってない(つかそういう物差しで音楽に優劣をつけるのはナンセンスだと思ってる)けど、にせんねんもんだいの音楽のかっこよさを目の前にすると、ふと我に返るような感覚がある。耳や脳がリセットされる感じというか。その感じが心地いい。

あとすっっごい集中して聴くと、どっかに連れてかれちゃいそうな感覚に陥って怖いので注意(←と自分に)
や、ほんとにゾワッとする瞬間がたまーにある。
ライブだとあんまないんだけどなー。やっぱ目の前で演奏してるという熱量があるからかしら。
音源の「これどっからなってる音なの…」っていう底知れなさはすごい。

お気に入りは『B-1'』。これマジ名曲!
ドラム&ベースの鬼リズムが気持ちよすぎる。
ギターのノイズ&リバーブもCDだとまた違う感触でだいぶ素敵。
とはいえどの曲もそんなに大きな違いはないんだけどw
シャクルトンremixもかっこえーーー
落合スープのプレイも最高だったし、また共演してほしいなー。
そして今度は野外で見たい。
フリードミューン、今年あたり東扇島でリベンジやんないかなー。