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フィクションにしかできない“現実への抗いかた”――星野智幸『呪文』に震えた

毎日新聞に載っていた鴻巣友季子さんの書評を読んで、がぜん気になっていた星野智幸さん『呪文』を読んだ。

<◇乗り越えられぬ前近代的けじめの呪縛>
http://mainichi.jp/shimen/news/20150913ddm015070029000c.html

こちらで60ページ(!)試し読みできます↓
http://www.kawade.co.jp/tachiyomi/978-4-309-02397-7.pdf

舞台はとある商店街。
「トルタ」というメキシコのサンドイッチ屋を営む霧生は、店の経営が行き詰まり途方に暮れている。
彼の相談相手は、潰れかけた店舗をいくつも復活させてきた商店街の救世主と言えるやり手の男・図領だ。
最初の数十ページだけ読んだら、つぶれかけ商店街の再生ストーリーとも読めそうだけど、途中からあらぬ方向に話は暴走し始める。

とは言え明らかな暴走がはじまるのを待つまでもなく、最初の1行から常に「なにかとんでもなくよくないことが起こりそうな気配」にさらされている感じがある。この感覚は個人的に3.11以降日々感じ続けているものだ。

多分中学生とかでも全然読めるレベルのめちゃめちゃ平易なことばで書かれていて、だからこそ書かれていることのすごみや空恐ろしさが際立つ。言葉のチョイスのセンスと技術がすごい精度なのだ。(「(笑)」の使い方が鋭すぎて、思わず吹き出しつつ戦慄)

とにかく目を背けたくなるようなひどすぎる光景や思想が、めちゃめちゃ淡々と綴られていくさまがマジで怖い。
ことばの平易さ、世界観など、坂本慎太郎『ナマで踊ろう』に通じるものを感じた。

作中に登場する集団“未来系”が過激化した先に標榜する「ある思想」は、はたから見たら単なる逃避でしかない。吐き気を覚えるような思想を喜々として語る未来系の面々。とは言え、彼らを自分とはまったく違うクズ人間だと切り捨てる自信が俺にあるのか。そう自問すると、作中であっという間に彼らに取り込まれ、戻れなくなっていく「普通の人間」たちの姿が脳裏に浮かぶ。

大きな流れに取り込まれていく「普通の人たち」は、自分がなぜこんなにも流されてしまうのかわからないままに、深みにはまっていく。
しかし、彼らを絡め取る権力者のほうも、自分がなぜそのような行動=弱者を管理し支配し搾取するのか、その欲望の理由を完全に自覚できていない様子なのが、より怖い。
でも実際の世界だってそうだ。扇動する側・される側に関わらず、知らぬ間に事態は進行してしまい、気づいたら元に戻ることができなくなっている。

冒頭から感じていた嫌な予感は読み進めるごとに具現化し、最後にひとつのクライマックス(というか始まり?)を迎えるのだが、そういう最悪のカタストロフィにすでに片足を踏みれていたとして、ひとはやはり流れに抗えず、一歩を踏み出してしまうのだろうか。作中では意外にも、“あちら側”に踏み出さないための具体的な方法論が提示される。それは極めてささやかな、しかしかなりのタフさを求められるものだ。

しかし、他者や世界と向き合うということは本来そういうものだろう。インスタントな言葉やまやかしの思想によって築かれる“つながり”は、いっときの興奮と快感をもたらすが、それがどれだけ脆く危ういものであるかは、これまでの歴史が証明している。

『呪文』は、読み終わって「さあ明日も頑張ろう!」「元気出して笑顔で行くぞ!」と思えるようになるとか、そういう目に見える即効性はまったくもってないし、むしろ読む人にとってはけっこうなショックになる可能性もある。この小説は読み手を都合よく癒やしてくれる、コスパのよいサプリのような存在ではない。

けど、俺はこれを読んで、ギリギリ歯を食いしばりながら、なんとかこの世界に立っていようと思えた。そう思えているうちは大丈夫、なはず、と、なんとか自分に言い聞かせながらではあるけど。

これをどう受け止め、そのうえで世界とどう向き合っていくのか。5年後、この小説をいまより前向きな気持ちで読める自分と世界でいられるだろうか。

フィクションだからこそできる・フォクションでしかできないやり方で、世界を刺激し、現実への抗いかたを示している1冊。いまこの表現に出会えてよかったと思う。震えながら、勇気づけられる。

今年V6ツアーに行けない俺が選んだ「2015年ライブで聴きたい曲」極私的ベスト14+@

(※結局行きました→V6の20周年ライブがめちゃめちゃよかった・2015年10月29日@代々木



一般発売で撃沈したあの日から
「俺はV6のライブに行けないのだ」
という現実と日々向き合っているマンこと俺だけど、そういう切なさ/やりきれなさとは別に、V6楽曲は日々聴き続けている。

特に『SUPER Very best』を買ったのはやっぱりでかくて、えーこんないい曲あったの? この曲知ってたけどこんなによかったっけ?という発見や気づきがめちゃめちゃあり、ふと「これライブで見たかったなあ」と思ってまた無力感にうちひしがれたりらじばんだr(ry

ということで今回はベストの収録曲の中から、「今年のツアーで聴きたい曲ランキングBEST15」を独断偏見満載で選んだ。(言うまでもなく、ここで選ばなかった曲達にも最大限の敬意を)(あと「聴きたかった」ではなくあくまで「聴きたい」としてるところに俺の意気込みを感じていただきたい)

俺今回のツアー、いちおうセトリネタバレを回避してるの。ここからものすごい奇跡が起きてライブに行けることになるかもしれないし(例:道で倒れている人を助けたら大富豪で助けたお礼に金持ちコネクションでチケットを手に入れてもらう、とか)

なのでここで挙げた曲が今回のセトリに入ってるのかどうかまったく知らないで書いてるのだが、実際どうなってるのかなあ。もし今年結局最後までライブ行けなかったら、DVD発売までセトリ回避しようかなあ……




14位『太陽のあたる場所』

これ知らなかった……こんな曲あったんだ。いい曲だ。

この曲1999年7月リリースてことは、V6にとって90年代最後のシングルがこの曲だったのか。そう考えるとまた別種の感慨があるな。ベスト盤の流れで聴くと、ラップの感じはだいぶ洗練されてきてる感じ。坂本ラップがイケボすぎて照れる。この頃はほんと坂本&イノッチの二大巨塔体制なのな。ふたりともうますぎる。

ということもあり、これ、いまの6人でセルフカバーしてほしい。歌割りとかもガラッと変えてバランスも6人均等にして。そういう意味でも、いまライブで見れたらけっこうグッとくる気がする。



13位『野生の花』

これもちゃんと聴いたの初めてでしたが、すごい曲だなー。
あくまでベスト盤の中での話だけど、これ以前の曲って、歌う主体がV6本人って感じの曲がほとんどだった感じがあって。なんというか「頑張れ」って歌詞があったらそれを言ってるのはV6本人たちという感じがするというか。それって6人の人柄とかV6としてのキャラクターと楽曲ががっちりコミットしてるってことだと思うんだけど。

でもこの曲ってちょっとフィクションというか、V6というキャラクターからは切り離された感じというか「歌で演じてる」感じがして、そこが新鮮だし、歌で演じることができるくらいの表現力を身につけた6人の成長も感じる。だからこそいまの6人が歌ったらまた違うすごみが生まれるのでは。

つかこれ田島貴男さんの曲なんだ! Bメロがもろ田島さん節でかっけー。
あとこの曲の大サビをカミセンの森田が担った意味は大きい気がする。
「お前、行け」って背中を押された森田の、まだ頼りないけど「男」の表情をみせる声もいい。
派手な曲ではないけど、少なくともこのベストの中ではひとつのターニングポイントになってる曲。



12位『BEAT YOUR HEART』

すみませんこの曲もちゃんと知らなかったけど……うわかっこええ!
イントロすげえクール。90年代バンザイ。こんな曲あったのか…しかもこれデビュー3曲目て…すごいな。最初サビがどこかわからなかったw 「♪よー! えびばでぃげっだうん!」のとこがサビでいいのか?

ホーンの♪ぱぱぱぱぱっぱっぱっぱっぱぱーぱぱっぱぱっのリフの耳残り率すごい。Bメロの転調も気持ちいいなあ。
カミセンのラップにどぎまぎしてしまう。そしてトニセンの安定感よ。こういう曲いまのライブでもやってんのかなあ。聴きたいなあ。



11位『スピリット』

『OMG』のDVDで見たときは全然ピンときてなかったんだけど、改めて聴くととてもいい曲。素直にライブで盛り上がりたい。

DISC3前半の楽曲は個人的な記憶からはすっぽり抜け落ちてる時期だったんだけど、この時期のV6(も)、すごかったのな…。もはやなんか盤石感すらある。

6人のボーカルの表現力もなんの心配もいらないほど頼もしいし、楽曲のクオリティはうなぎのぼりに上昇しつづけてるし。あらゆる意味でたくさんの「武器」を手にしたグループの、「円熟」を感じる楽曲がズラリ並んでる感じ。

なかでも初期の友情・努力・勝利的世界観の進化系『LIGHT IN YOUR HEART』、さらに別のディメンションに飛び級しはじめてる『GUILTY』、そして人の背中を押す「V6の応援歌」の超絶アップデート版であるこの『スピリット』と、ポップスとしてのクオリティがどんどん高まってる。

なかでもこの曲は、聴いててなんの不安もない安定感がありながらも、余分な既視感を取り払う気づきにもあふれてて、すごいハイクオリティ。

あとボーカルの録り方(特にサビのユニゾン)も変わりはじめてる時期な気がする。単純に言うと6人それぞれの声をより尊重した録り方になってるというか。その方向性はこの3曲でより加速して、で『only dreaming』に雪崩れ込むという流れだったのか。うーーん、ベスト盤で聴くからこその気づきだなあ。



10位『ありがとうのうた』

これ、めっちゃええ曲やんけ!!!!!!!111 これはメドレーじゃなくてぜひフルで歌ってほしい。

曲としてはもちろん知ってたけど、「ありがとう」という王道・鉄板・普遍的すぎるテーマをここまで洗練されたかたちでメッセージしてる曲だったとは。すごく繊細かつ慎重に精査された歌詞が沁みる。

今回ベストを聴いて改めて気づかされたことのひとつに、(言い方なんか他にねーのかよとは思いつつあえて言葉にするなら)V6はずっと「応援歌」を歌ってきたグループなのだなあ、ということがあった。

20年やってるアイドルグループにしては「シングルにおける恋愛曲の割合」が少ない気がするんです。それよりも大半を占めるのは、<未来・希望・勇気・愛・絆>といった、でっかい意味での応援歌的で前向きなメッセージ。端的にいうと、すっごく真面目。もう少し正確に言うと、生真面目。

バレーボールの応援団的なやつでデビューしたというグループの性格もあるのかもだし、そもそもアルバム曲では全然そうじゃない曲もたくさんあるんだけど、まあ一般に広く知られる存在になりうるシングルとして打ち出す際に、とにかくそういう役割というか使命を背負ったグループだったのだな、と、このベストを聴いて勝手に思った。

で、ここからは完全に俺の好みというか人間性の問題だけど、俺は応援ソング的なやつが元々わりと苦手な性格で、この曲の<感謝>というメッセージも、俺個人の基本的なスタンスとしては普段はあんま素直に受け入れられるメッセージではなかったりする。

んだけど、この曲はありだと思えるの。それはシンプルに、「ありがとう」という使い古されすぎまくりまくったメッセージをどう届けるか、というところがめちゃめちゃシビアにこだわりぬかれていて、そういうプロの仕事っぷりがすごい精度で表現されている結果だと思う。最初から最後まで、一度として歌い上げる瞬間がない。ボーカルもオケも至って平熱。だから沁みる。

6人の歌もすごくいい。こういう穏やかな曲で聴かせる声の魅力に気づかされる。あと間奏のストリングスソロがめちゃめちゃ好き。安牌を置きにいくんじゃなくて、この曲だけの、この曲こその響きが鳴ってるメロディ。

「ありがとう」だけじゃなくて「ありがとうのうた」と冠するところも、別に理屈はないけど、なんかいいな。



9位『出せない手紙』

これ、いい曲……(ボキャブラリー喪失中 ライブでやってるのかな、こういうガチのバラード系。

ちょっと前に歌詞が恩田陸だと知って驚愕した曲。『ネバーランド』のドラマ版を三宅氏がやってたのね。否応にも切ない、でも明確に悲劇とも言い切れない、安易に割り切れないマーブル模様というかグラデーションの世界観が恩田ワールドでもあり、V6的には新境地という気もして素敵。

あとちょっとブレイクビーツっぽいリズムも変わってて好き。サビの「♪信じられるように~(タカタカタッタッ)」のとことか(伝わる自信皆無
これ2001年の曲なのか。なんかそういう年代ごとの音楽の流行の変遷と絡めたV6のガチ楽曲分析みたいなの誰か詳しい人やってくれないかしら(←人任せ



8位『Sky's The Limit』

謝罪。俺、この曲、正直リリースされたときあんまピンときてなかった。ファンの方たちがすごい盛り上がってるのは見てて感じながらも、もちろん悪い曲じゃないけど、そこまでいいかあ?と。

で、この曲もベスト盤で聴いてその意義に気付かされた。めちゃめちゃ有り体に言えばデビュー時のユーロビート路線の2015年アップデート版とも言える音なんだけど、音の変化というより、俺自身がこのベスト盤を通してV6サウンドをうまく体内に取り入れられるように変化したことで、この曲をより味わうことができるようになった気がする。

逆に言うと、V6の音楽に長い時間真摯に向き合ってきた人ほどグッとくる曲なんじゃないかと。

この曲を含む20周年の今年出たシングルはどれもそうだけど、V6はファンとの絆というかつながりをすごく大事にしてきたグループなんだなあ、というのも今回気づいたことだった。『over』とかベストに入ってる『~此処から~』とか、そういう曲を正面から届けられる誠実さも、彼らの大事な魅力のひとつなのだなと。

それにしても『~此処から~』には腰抜かしたけど(俺が買ったのは初回Aだった)。メンバー作詞作曲曲であの渋さw 渋すぎないか!? もうちょっと調子乗ってもいいのでは…と思ったけど、まああの感じもV6らしさなのか。文句なしの名曲ですが。念のため。

で、そういう曲だからこそ、ライブの現場で、ファンの前でどんなパフォーマンスで届けられるのか、目撃したいと思う。



7位『COSMIC RESCUE』

これいい曲やんけ!(何度目
個人的な聴きどころはなんといっても前奏~ブリッジのシンセリフ&ボコーダーボイス。この耳をグッと掴んで離さない引力が、楽曲の強度を物語ってる。サビだけ聴くと普通に聴きなじみのいいポップスなんだけどなあ。この曲をバンドでコピーするならボコーダー係やりたい。やらせて!

初期の曲ではどうにも偏りがあるように思えてしまったカミセンとトニセンのボーカルバランスもいい塩梅になってる。カミセンのしゃかりきな歌声が全面に出てきたからこそ、トニセンの確かな歌声の得難さが浮きだつという相乗効果。自称森田剛ボーカル研究家としては大サビソロもたまらん。

俺の中で『サンダーバード-Your Voice-』と『COSMIC RESCUE』はなんかセットって感覚があって、どっちもタイアップソングとしては異常なほどクオリティ高いところとか、ワクワク感が異常なところとか、なんか双子みたいな2曲。で、もちろんライブでも確実に盛り上がるだろう。見たい聴きたい歌いたい!(©中山秀征



6位『IN THE WIND』

んがあああああああああああちょーーーーーーーーーーーいい曲やんけ!!!!!!!!!!!!!!1111
ディスコ~ソウルな雰囲気がたまらんし、なにより曲のクオリティが高すぎる。これライブでやってるのかなあ。うわ超ライブで聴きたい……聴かせてえ!!!! 行けないけど!!!!!!!!!!!111111(発狂&号泣

いきなり取り乱したけど、サビのメロディ美しい&心地よい……うあー知らなかったこんないい曲あったのかあ。キー抑えめな6人のボーカルもいい。ファルセットも素敵。

AメロでふとSMAPのアルバム『SMAP012 ~VIVA AMIGOS!』収録の『世界は僕の足の下』のAメロのメロディラインを思い出したりもした。音楽性としては90年代中~後半のSMAPに近い感もある。

つか今回のベスト盤の中ではけっこー異質というかイレギュラーな感じ。ここまでのクオリティのシングルを切りながらも、こっちには振らなかったのだな。後出しジャンケン的に考えると、まあそれはそれで正解だった気もする。

しかしいい曲。間奏の展開も洒落てるなあ。ラストの「醒めない 夢のように」のキメまで完璧やんけ! こういう曲、いまも出せばいいのに。や、うーんでもこの若さだからこそいいのかなあ。うーんとにかくいい曲だ。知らなかった。知れてよかった。「ライブで聴きたい曲」って縛りにしたからこの順位だけど、楽曲としてだけならもっと好きかも。



5位『愛なんだ』

ほぼV6を知らない時代から、密かに俺のカラオケレパートリーに入ってた曲。だって歌うのすげー楽しいんだもん!この曲。ライブであの多幸感に包まれたい。

「傷つくことを恐れるな」「振り向いてばかりいるな」っていうある種手垢にまみれたメッセージを「だめ だめ だめ だめだよ BABY」っていう愛らしさのトッピングで、嫌味なくストンと心に届けてしまうのがにくい。

小さいころからいちばん馴染み深かかった曲かもなあ。ディスコグラフィ的に見ると、ガツガツ攻撃的なシングルから方向転換するっていうタイミングでこの曲を引き寄せたのはすげーデカかったのでは。とにかくいい曲。それしか言葉が出てこない。この文字数の少なさが逆にそのへんを物語ってる的な。ライブで聴いて多幸感に包まれたい。以上!(ボキャブラリーの限界疑惑



4位『TAKE ME HIGHER』

出た問題作(俺の中で)。
今年に入ってから歌番組で何回か見た「♪わなていくゆーべいびー ていくみていくみはいやー♪」って歌始まりのバージョンが超かっこよくて、ちゃんと音源聴きたかった曲。で聴いてみたら、めちゃめちゃ変わってる曲だったという。

♪てってってーてってれー のシンセリフ(至高)で始まる1番~2番までは文句なしにかっこいい。もうめちゃくちゃかっこいい。それこそライブで超盛り上がりそう。踊りたい。俺も。

んだけど、間奏でいきなりのストリングスソロ、からの荒ぶるギター(裏では地味に弦も荒ぶってるし)、からの♪いつかは届くきっと~のブリッジを挟んでついに大サビに行くかと思いきやまたもや荒ぶるギターw! なんだこの構成w

最後はなんか大団円風に終わるんだけど、途中どこに連れてかれるのかハラハラしたw
しかしすべて♪てってってーてってれーのリフがもっていってしまう曲。結論としてはすごいかっけー。

これもライブでフルでやったりしてるのかしら…どうするんだろ間奏の演出とか。とにかくイントロでぶちアガるのは確実だけど。

あと余談として今回ベスト盤聴いてすごい発見だったのが、今回ちゃんと聴くまでユーロビートってものにものすごい偏見があって、あえて聴くようなもんじゃねーだろ、俺には関係のない音楽だし、と思ってた、で、V6の初期曲がどれだけユーロビートにおける本道なのかは知らないけど、今回ほぼ初めてちゃんとユーロビートサウンドを聴いてみて……かっこいいやんけ!と。

厳密に言うとユーロビートがかっこいいというか、音楽が産業としてガンガンいってる時代の、ある種の“豊かさ”にあふれまくってる音だなあと。

いちいち音が厚いし、とりあえずドンシャリ効かせとけばOKみたいな無粋さがないというか。チャラい中にもそういう一線を守っているからこそ、なんか豊かに聴こえるのかな。



3位『Orange』

『タイガー&ドラゴン』の主題歌『UTAO UTAO』ではじめてV6に興味を持ち始めた当時の俺の心を射抜いた曲。実はこの曲だけ延々聴いてた時期があった。大学2年くらいだったか。リリースからもう10年経つのか。古びないなあ。この曲もフルで歌ってくれえ。あの長いイントロがあってこそ、この曲だし。

この曲はトラックのクオリティは言うまでもなく、ボーカルも素晴らしい。録音・ミックスもよくて、ちゃんとそれぞれの声がいい感じで聴こえる。歌のキーが基本低くて、男の俺でもちょっと歌いづらいくらいなんだけど、みんないい声して歌ってるんだよなあ。

『出せない手紙』のときにも書いたけど、この曲もポジとかネガとか、明確な指標では表せない感情を表現してる感じがあって、そういう曲を10周年タイミングで出す・出せるというのは、すごくいいことだと思う。それだけ自身の表現に自負がないとできないことだと思うし。

未だにV6の中でトップを争うほど好きな曲で、好きすぎてあまり言うことがないという例のやつ。つか単純に超かっけーよ! 大好き。



2位『グッデイ!!』

この曲はサビくらいは知ってた気がするけど、ちゃんと聴いたのははじめてだった。で、最高だった。すげえいい曲なのな!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!111111 つか驚いた。この曲もフルで(ry うーん好きな曲ほどちゃんとフルでやってほしい率は高くなるな。この曲は特に間奏がすばらしいので、フルでないと魅力半減だもん。

イントロも歌のメロもキャッチーだけど、実はリズムというかビートが主体になってる楽曲で、イントロもそうだし、間奏に入る前の4小節の展開もほぼリズム要素だけで突っ走ってて最高。ライブでは踊りまくってたりするのかしら。イントロだけループさせたらとてもV6とは思えないトラックw 間奏の展開も個性的ですごくいい。間奏のとこもバリバリ踊ってんのかな。はあ……見たい。

スピード感がありつつも、ちゃんと歌心も感じられる名チューン。歌詞も応援歌ではあるけど、メッセージが上滑りしてなくて心にストンと届く洗練さ。ボーカル面ではイノッチのスキルを再確認。ええ声や。

これ、『Orange』の次に出た曲だったのか。V6のディスコグラフィの中では『Orange』が突出してチャレンジングな曲なのかと思ってたけど、ベスト盤の流れで聴くと、この曲にもフロンティア精神がちゃんと息づいてるのがわかる。今回ベストで聴いていちばん驚いて好きになった曲かも。

つかDISC2の打率の高さすごいな! なんか覚醒した感ある。特に『Darling』からの流れはアイドルとしての最強感あふれすぎててヤバい。『Darling』とか『HONEY BEAT』がこんなにいい曲だったのかというのも今回改めて知ったし、それを言うなら『愛のMelody』もこんなに踊れるダンスチューンだったのかと発見だったし、先述の『COSMIC RESCUE』と『サンダーバード-Your Voice-』もそうだよな。もうどれだけ語っても終わらん(ry



1位『kEEP oN.』

この曲を生で聴くまでは死ねない。密かにそう思ってる曲が人生の中でいくつかあって、この曲も俺にとってそういう存在。

『スピリット』のところで書いた、長いキャリアの中でV6が手にした「武器」というのはスキルとかテクニックと言いかえてもいいと思うんですが、そういうものを手にした表現者が向かう先としてわかりやすいのは「円熟」なんだと思う。実際V6もそっちに進んで異様なクオリティの楽曲を連発してたんじゃないかと。

でもそういう楽曲じたいの良し悪しがどうこうではなく、V6というグループとして、一直線に「円熟」へと向かうことをよしとしなかったんだな、6人は。だからこそ、この曲が、そしてOMGというアルバム生まれたんだと思う。

ベスト盤の流れで聴くことによって、V6のディスコグラフィの中ではある意味突然変異的に捉えていた『Oh! My! Goodness!』も実は必然のもとに生まれたアルバムだったんだなあ、という感慨があった。例えるなら手にした武器を磨き上げるのではなく、いっかい放り投げて、身軽になったカラダでどこまで飛べるかダイブしたような感じ。

これは言うまでもなく、武器を使いこなすだけのスキルと積み重ねがないとできないことで、『OMG』はここまでの道のりを歩んできたV6だからこそできたアルバムだったんだと。

とは言え俺がデビュー時からのV6ファンだったとして、いきなりこのへんの曲を連続して出されたら、それはそれでもしかしたら戸惑ったかもしれないw でもそこまで振り切ったからこそ、俺みたいな門外漢が夢中になったわけなので、そのへんは彗眼と言うしかない。つか俺はまんまとハメられた側なわけですが(爆

で、これもいまさらすぎるし他の人も散々言い尽くしてる感あるけどいいもんはいいんだから何回でも言います『kEEP oN.』クソ名曲やんけ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!111111

特にベスト盤の流れで聴くと、ここまでの音楽性/6人のボーカル/メッセージなどなどアーティスト・V6のさまざまな変遷がほんとに1曲に凝縮されてて、しかもこれだけアクロバティックな構成でありながらポップ・ミュージックとして堂々と鳴り響くという、ムチャクチャなんだけど、だからこそひたすらに美しい音楽。最高。いまのところV6の中でこの曲がいちばん好きかも。

つかやってるよね。今回のツアーで。当然。やってないわけはない。それくらいに思ってる。




というわけでランキングはこれで終わり。すでに長すぎるというのは重々わかっていつつ、もうちょっと書きたいことがあるのでまだ続くらしい。まあ誰も読んでねーだろうしいいか…(←




番外その1『君がいない世界』

こないだ『Sky's The Limit』の通常盤を聴いたんだけど、表題曲はもちろん、アイドルバリバリの『Eyes to Eyes』に、これシングルでもいいんじゃないかと思う変化球な応援歌『明日は来るから』、そして6人のユニゾンなしのバラード『君がいない世界』っていうミニアルバム級の充実度で。

その中で現時点、ほんとにリアルタイムでいまいちばん聴いてるのが『君がいない世界』。

元カノに偶然会って未練ウジウジってだけの内容なんだけど、それだけの話をどこまでドラマチックに表現できるかがプロの力量なわけで、歌詞・メロ・トラックどれも素晴らしい。「きっとここにつながっていたんだ」という掴みがさすがだし、ハンドクラップ音を使用したリズムトラックもサビの裏打ちシンセも、ありそうでなさそうなストレンジな質感でよい。

そんな楽曲のクオリティと同時に、この曲を繰り返し聴いてしまう理由は、6人のボーカルをよく聴ける曲であることもでかい。森田→長野・岡田→坂本→長野・岡田→井ノ原→三宅→長野・岡田、と6人のユニゾンが一切ない歌割りで、しかもじっくり歌う系のバラードなので、みんなの声がよく聴こえる。

この曲を森田の長めのソロで始めたかったのはすごくよくわかるし、(森田剛ボーカル研究家としてはこの曲だけで20000字書けるけど今回は自重)森田と対称的な坂本の円熟ボーカル(力がまったく入っていないように聴こえるのがすごい)もさすがだし、イノッチの味ありすぎなブリッジが心に沁みすぎるし、大サビの三宅の歌声には心の襞をざわつかせる得難い魅力がある。ということを踏まえつつ、いちばん発見だったのは長野と岡田のボーカルだった。

V6の歌声をモノマネしてみるとわかりやすいけど(←したのか)まず森田・三宅はけっこうマネしやすい。坂本・イノッチもできるかどうかは別として特徴はつかみやすいと思う。

対して長野と岡田ってちょっとマネしづらくないですか?歌に特徴的なアクセントがあるわけでもないし、抑揚の付け方も抑えめという、ほかの4人に比べてフラットな歌い方をしているからだと思う。

何が言いたいかというと、それこそベスト盤を聴いて「トニセン・カミセンという2世代のボーカルがミックスされることで生まれる面白さ」がV6のボーカルの魅力だと思ってたんだけど、つかまあそれはそれで実際ありつつも、ボーカルの個性の強い4人がいる一方で、フラットに歌を届ける長野と岡田がいなかったら「V6のうた」は成立しなかったんだなあ、ということを、この曲を聴いてて思ったのだった。

なんか、それこそいろんな個性をひとつにミックスさせるための潤滑油というか、このふたりの歌声があることで6人の声が「V6のうた」としてしっくり馴染んでるというか。

だから最初はこの曲「なんで全員ソロじゃなくて長野と岡田だけいっしょなんだろ?」って思ったけど、サビを長野・岡田で歌うからこそ、逆説的にV6のボーカルの真髄を開陳している曲になってるんだと思う。この曲を聴いてからベスト盤聴くと、また違った声の聴こえ方したりするもん。

長々と書きましたが結論としては、は2015年現在の6人のボーカルを活かしに活かしてるのがこの曲で、だからこそライブで生声で聴きたいということが言いたかったのだった。まあ今回のライブじゃなくてもいいから、いつか歌って欲しいなあ。

あと個人的に、この曲を6人全員の声マネで歌うという宴会芸をほぼ完成させつつあるのですが(森田パートは完璧)、そんなものを見せる宴会に参加する予定は少なくとも今回の人生では皆無だし仮にそもそも人前でやったらボコられること必至なので(特に森田の真似は死んでも見せられん)来世に持ち越し予定(←吐くほどどうでもいい情報)




番外その2『musicmind』

なんでいきなり関係ないアルバムの話なんだよ! と。自分もそう思います。すみません(←怒られる前に謝るスタイル

実はベストの前に『musicmind』というアルバムを聴きまして、まあまたこれがいいアルバムで。

これちょうど10年前、つまり10周年のタイミングで出たアルバムなのな。それで初っ端から6分超えの長尺ロックチューンかましたりとか最高やんけ!!!!1 『サンダーバード-Your Voice-』はランキングに入れようと思いつつも、こっちに入ってるバージョン違いのほうがかっこよかったので泣く泣く外したのだった。おそらく生バンドよね? 演奏者のクレジットが載ってないのが残念すぎる。すげーかっけーの。

あと『恋と弾丸』『ずっと僕らは』『夕焼けドロップ』とデュオ曲がどれもめちゃめちゃ出色の出来。特に『夕焼けドロップ』は、長野と井ノ原コンビが、声質の相性としては決して合ってるわけではないんだけど、このふたりにしか描けない世界観を開陳してて最高。これもライブで楽しそうな曲だよなあ。と、めちゃめちゃクオリティ高いアルバム。このアルバム全曲分でも全然書きたくなるレベル。

何が言いたいかというと、この20年に出た数々のオリジナルアルバムにはまだまだこういう豊かな音楽がザクザク収められているのだろうし、このベスト盤で何かをわかった気になるのは違うなと、ふと思ったのだった。

なんか最初は全曲レビューしようかなとか、V6の音楽性の変遷を分析してみようかなとか色々考えてたんだけど、そもそも俺にそんなスキルがないという前提もありつつ、それ以上に、このベスト盤だけで語れる20年じゃないというのは『OMG』と『musicmind』というたった2枚のオリジナルアルバムしか聴いてない俺でもわかる。

だから今回はあくまで俺の好みに徹して、自分が思う好きなところを好きなだけ素直に書くことにした。なのでこういう形式のあれになった。分析とかは頭の良い人にまかせた! 俺、頭悪いし酔ってるときしか書かないから! とはいえそれっぽいこと書いてる部分もあるけど、まあ酔ってるから許して(←最低の言い訳

というわけで一応これで終わり。肩がバキバキに痛いので推敲しないで上げます。あ…書き忘れてた。本当はこないだOMGツアーの『FLASH BACK』マルチアングル映像をはじめて観てわかった「パフォーマーV6の真髄」的なやつも書きたかったんだけど、これもう書き始めてからひと月たってるしこれ以上あれするとほんとあれなのでもうやめよう。こんな意味不明な長文を勝手に発表できるってほんとインターネット最高としか(ry 俺に黒歴史という概念はないんです。なぜかって? 常に黒歴史を更新してるからさ!

最後に。V6のみなさん20周年おめでとうございます。俺まだツアー諦めてねーから!!!!1(断末魔
まあ今年行けなくても次回いつになるかわかんねーけどやっぱいつか見に行きたい。ライブの場でこれらの楽曲がどう自分の身体に飛び込んでくるのか、それを体感するまでは、まだ死ねねーや(©ぶっさん

「そっちのほうが面白いからなんじゃねえのか」――ドラマ『ど根性ガエル』が肯定したもの

『ど根性ガエル』は2015年のいまだからこそ見るべき(とは言えエバーグリーンな輝きをも同時に放っているのでいつ見てもそのときどきのよさを感じられる作品だとは思いますが)切実かつ豊かなドラマで本当に傑作なので見てない人はほかの予定をさしおいてでもいますぐに見るべきだしそのためなら手段を選ぶ必要はない。見ましょう。見れ!


(以上本文、以下余談)


毎回ボロ泣きしながら見てたけど、なんで泣くかって言うと登場人物に共感or感情移入するからでは(それはそれでもちろんなくはないけど)厳密にはなくて、作品とは別の俺個人としての大事な人とか俺自身のこととかこの世界のこととかを考えて泣いてた。つか見ててそういうことに思いを巡らさざるをえない作品だった、少なくとも俺には。俺にとってそれくらい『ど根性ガエル』は現実世界に深くコミットした作品だった。

最終回に出てきたひろしにそっくりな男は、俺がいま生きている現実世界の矛盾や葛藤をいちばん反映した野郎だ。

あの男は知っている。ど根性なんかではどうにもならないような悲惨で大変なことだらけで、人と人のつながりなんてめちゃめちゃ簡単に千切れて消えてしまって、平面ガエルのピョン吉なんて100000000%賭けても絶対存在しえないのが、自分が死ぬまで生きなければいけない世界なのだということを、ひろしにそっくりなあの男は痛いほど知っている。で、そんな世界に絶望してもいるのだろう。

なんでか知らないけどあの男は『ど根性ガエル』の世界に迷い込み、空腹に耐えかねてちょっとずつ食い逃げをはたらき(あの慎ましさがまた情けないというかいじらしいというか泣ける)、ひろし宅にたどりついた。

あの男は平面ガエルのピョン吉と、彼を囲むひろしをはじめとする“あの世界”の住人たちを見て、何を思ったんだろう。彼が最後に五郎に見せた笑顔は、安堵しているようでもあり、どこか諦めているようにも見えた。「こんな世界、ありえない」。もしかしたらそんなことを思っていたのかもしれない。じゃあ、この作品が提示した“あの世界”は、やっぱり存在しえない架空の夢の世界なのか? 俺はただただ、絵に書いた餅を見せられてただけなのか? ふざけんな。そんなわけなあるか。

ひろしは最終話で、いなくなったピョン吉について「なんでかわかんないのに俺のせいで平面ガエルになって、今度は俺を成長させるためにいなくなるって、そんなのあんまりじゃないか」(激意訳)というようなことを言った。ひろしは昔、絵本で同じような話を読んで、すごく怒ったことがあったらしい。なんで成長するために別れなければいけないんだ。終わらない物語があったっていいじゃないか。

「ピョン吉の死」という大きな命題を掲げて進んできた物語は、9話で実質的な“終わり”を迎え、最終話でけっこうあっさりと復活を遂げた。最後、ひろしとピョン吉が「ど根性ーー!」と叫びながら走り続けるシーンは、普通に見れば希望に満ち溢れてるようにも見えるかもしれないけど、俺にはそうは見えなかった。

ピョン吉が死んだ理由も、ピョン吉が戻ってこれた理由も、作中で説明されることはなかった。だからつまり、理由なんてないのだ。生まれた理由も、死ぬ理由も、どっちもなーーーーんもない。これが、この世界である――というのが、この作品の提示した世界観だった。

これ、例のひろしにそっくりなあの男のように“世界に絶望する理由”としても、十分すぎる現実だと思う。だってどんなにいいことがあったって、どんなに成功したって、どんなに愛を育んだって、あるとき、いつか、なんの理由もなしに消え去ってしまう、そんな可能性を孕んだまま生きていかなければいけないのがこの世界なんだってことでしょ。ヘビーだよそれ確かに。キツいよ、なんでそんなとこで生きなきゃならんのよ。辛いよ。しんどいよ。

でも人はいろんなところでこの感覚に晒され続けてる。理不尽な暴力。予期せぬ天災。望むはずもない病気や事故。で、『ど根性ガエル』にはこういうネガティブネスに対抗しうるいろんな方法やヒントがいくつも提示されてるんだけど、俺がもっとも響いたのはやっぱりピョン吉の存在だった。

ピョン吉ってこの作品のなかでいちばんの“ありえない嘘”だ。平面ガエルなんて絶対存在しえない。でも、そんなありえない存在に、いちばん心を動かされてしまう。これって要は「フィクションだからこそ持ちえる力」なんだと思う。

ピョン吉は、シャツから剥がれ落ち自らの死を覚悟したとき、「自分は生きていていいんだろうか」と自問する。それはフィクション=物語がいまの世界において果たして効力を持ちうるのか、という、このドラマ自体が抱える自問だったんじゃないか。そして一度は死を迎え、再びこの世に生を取り戻したピョン吉に、最後の最後にこの作品はひとつの結論を与えた。

「そっちのほうが面白いからなんじゃねえのか」

これ、重要なのは、これを見出したのはピョン吉じゃなくてひろしだってことだ。生まれた意味も死ななければいけない意味も持ち得ない、でもいま再びここにいるピョン吉に対して、面白ければいいじゃん、と、ひろしがピョン吉の存在を肯定したのだ。で、そんなひろしをピョン吉も「生きてていいぜ」と肯定する。

ゲラゲラ笑えるドタバタコメディの中にシリアスで切実なメッセージを込め続けた『ど根性ガエル』の矜持が詰まったこのひと言を、最後の最後にひろしに言わせた作り手の勇気に思いを馳せる。

どんなフィクションだって、どんなつくりものだって、人が必死こいて作ってる。そういう人の血が通った表現だけが、いま生きている現実を変えうるパワーを持つんだということが、この作品を見れば一発でわかると思う。

ひろしに似たあの男は、いまどうして暮らしているだろう。あいつは俺とおんなじだ。あいつだってひとりきりのふりをしているけど、誰かに肯定され、誰かを肯定しながら生きている。

で、あいつも俺も、理由はないけど『ど根性ガエル』に出会った。そっからどう生きるかは、自分次第なんだよな。根性だけじゃどうにもなんない世の中だってのは知ってるけど、見ると根性出してみたくなるんだよ、このドラマ。

最後にもっかい、冒頭のやつを繰り返します。

『ど根性ガエル』は2015年のいまだからこそ見るべき(とは言えエバーグリーンな輝きをも同時に放っているのでいつ見てもそのときどきのよさを感じられる作品だとは思いますが)切実かつ豊かなドラマで本当に傑作なので見てない人はほかの予定をさしおいてでもいますぐに見るべきだしそのためなら手段を選ぶ必要はない。見ましょう。見れ!

<雨上がり、アスファルトの匂い>――『ユーモアしちゃうよ』を500回聴いて考えた

この曲は「雨上がり」という言葉から始まる。


雨上がり。いい言葉だよねー。
雲間からさす眩しい陽の光、葉っぱの上の水滴にその光が反射してキラっと光る。
そんな光景が思い浮かぶ。
近年でも出色のポップチューンにふさわしい始まりだ。

でも、こないだ聴いててふと思った。
「雨上がり」ってことは、この曲の世界にはそれまで「雨」が降ってたってことなんだよな。

そう思って、続く歌詞に目をやると、
「アスファルトの匂い」
というフレーズが飛び込んでくる。
湿って蒸れた地面からムワッと立ち上ってくる、あのなんとも言えない匂い。

つよぽんの優しい歌声で歌われてたから全然気にもとめなかったけど、なんでこのフレーズを持ってきたんだろう。
そのあとの「子どもたち はしゃぐ声BGM」につなげるなら、もっとわかりやすくポジティブな言葉でもいいはずなのに。





もうひとつ、何度も何度も聴いてきたはずなのに、急に気になったフレーズがある。
サビの最後、決めのフレーズ。

「アユレディフォ スマイル?」

Google翻訳さんに訳してもらうと、
<あなたは笑顔のために準備ができていますか?>
と出てきた。
まあもう少し整えると「笑顔になる準備はできてるかい?」という感じかなあ。

これ、その前のサビの内容、つまり君の笑顔で嫌なことも全部吹っ飛んじゃう、そんな笑顔をいつも感じていたいから僕はユーモア=YOU MOREしちゃうよ、という歌詞を受けてのフレーズだ。

この歌の主人公は、誰かの笑顔で元気になった自分が、“ユーモアする”ことでお返しに誰かを笑顔にしてあげようとしている。
笑顔と笑顔の交換。なんて素敵なコミュニケーションだろう。

でも、こないだ聴いてて、ふと思った。
笑顔という概念がなんで成立するかといえば、「笑顔じゃない時間、笑顔になりたくてもなれない時間」があるからだ。
ずっと笑顔でいる(ように周りからは見える)人だって、心から笑っているかどうかはその人にしかわからない。

それは天気だって同じだ。
晴れの日しかない世界に雨という概念は存在しないだろう。
「雨上がり」は、「雨」なしには生まれ得ない。





いま俺のiTunesの再生回数を見てみたら、シングル音源がちょうど100回、カラオケが122回(カラオケのほうが多く聴いてたのかw)、あとこれ以外に、正月のカウントダウンTVで初披露したときに録画した放送から音声だけ録音したやつを取り込んで、シングル出るまでそれを聴いてたんだけど、それが342回。なので全部合わせて500回以上は聴いてることになる。

で、なんか、聴けば聴くほど、色々考えさせられる。この曲。

俺は前に『Mr.S』ツアーのことを書いたとき、こう書いた。


<「俺ら、いま、キツくね?」っていう現状認識なんだと思う、いまのSMAPは。>
http://ameblo.jp/oddcourage/entry-11980389543.html


これも何回も言ってるけど、そもそもSMAPは「いま・ここ」から決して目をそらさない表現者だ。
そんな彼らがなんでいま「ユーモアしちゃうこと」を歌うのか。
なんでそんな曲が「雨上がり」から始まるのか。
なんでそのあと「アスファルトの匂い」と続くのか。
なんで最後に5人揃って「アユレディフォ スマイル?」と歌うのか。





SMAPにはメッセージ性の強い曲もそうでない曲もあるけど、どの曲も人に何かを押し付けたり、指図したり、扇動することをしない。
彼らは、自身の表現を受け取った人の主体性にすべてを委ねている。
これって、聴き手である俺たちを信頼してくれていると同時に、試しているんだと思う。


「HEY, YOU, MOREしちゃうよ」
「MORE しちゃいなよ」
「アユレディフォ スマイル?」


底抜けに明るいこの曲を聴くたびに俺は、

「で、きみはどうする?」

と、そう言われてる気がする。

長い雨が降ろうとも、噎せ返るアスファルトの上を、俺たちは歩いていくんだ。
そういう曲を2015年のいまSMAPが歌ってくれたことがほんとうに嬉しいし励まされる。
で、励まされてばかりいちゃダメだな、とも思う。
そのことを繰り返し心に刻むために、何度も何度もこの曲を聴くのかもしれないなー。


『SD慎語辞典』で香取慎吾の脳内を覗くことは本当に可能なのか

じ‐てん【事典】
百科事典や専門語辞典など、語を手がかりとして、それを名目とする事柄の内容を知らせる辞書。ことてん。
(出典:デジタル大辞泉 http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/98995/m0u/


つまり『SD慎語辞典』と題されたこの本は、香取慎吾が彼自身のことばを通して、彼自身の“内容=中身”をこちらに知らせるための1冊ということなのだろうか。
確かにそのことはブログ開始時からたびたび書かれていたし、本書の前書きにもこう書かれている。


<覗いてみない?
香取慎吾を。。。。。>



異様なまでの“いびつさ”とモノクロ写真の真意

とにかく、すげー変わった本だ。

まず本文のレイアウトがわかりやすくフォーマット化されてない。
厳密にはされてるんだろうけど、そうは見えないような文字組みになってる。

例えば記事タイトルの級数は揃ってるけど、本文テキストのサイズはバラバラ(5~6パターンくらいかしら、もっとあるか)だし、写真の入れ方も全ページ違う。

これは普通の辞書ではまずありえないことだ。
ぶっちゃけ、読みやすくはない。

香取慎吾ってタイプ的には自身のバランスや立ち位置をものすごく器用にコントロールしている、あらゆる意味ですごいプロフェッショナルな表現者だと思うんだけど、そんな彼の裏に潜む特異さやいびつさが際立っている本だ。

こないだの私服本はすごい丁寧かつバランスよくディレクションされてたけど、『SD慎語辞典』はまったく違うアプローチになっている。
読みやすさとか、バランスのよさとか、そういうことはこの本では二の次になっている。

今回、連載時はすべてモノクロだった写真のカラーバージョンが収録されている。
ブログを読んでいた人にも本を買うメリットを感じて欲しい、との意図から、Webではモノクロだった写真をカラーで掲載した、と香取は話している。

彼らしいサービス精神の表れだが、そういうこと以前に本書はそもそもブログとはまったくの別物になっている。

俺は本書のカラー写真を見たとき、なんか嘘っぽく感じてしまった。
モノクロ写真のほうが、“『SD慎語辞典』の世界”としては正しいありように感じたのだ。



ブログを事典にしてしまう発想のヤバさ

ブログは殆どの場合、書き手の「素」を表現する表現手法だし、『SD慎語辞典』もその側面がないわけではない。
しかしこの本から受け取る印象は、香取慎吾の「素」や「プライベート」という有り体のことばでまとめられるような、単純なフィーリングではない。
そんな複雑怪奇な感触こそが、彼が提示したい「香取慎吾の“内容=中身”」なのだと思う。

その人の「素」や「プライベート」を詳しく把握することと、他人の脳内をそっくりそのまま覗くことは、当然イコールにはならない。

自分に置き換えればわかるけど、自分の脳内なんて人に見せたくないものばかりだし、そもそもそっくりそのまま人に見せられるほど整理整頓されているものでもない。

だからこそ、「自分の“中身”を描写したブログ」を書籍というフォーマットのなかでもっとも整理整頓されたものである「事典」に置き換えてアウトプットしようとするという発想自体だいぶヤバい。
本来そのふたつはもっとも相反することだから。

そもそもブログ本で時系列順に並べずにタイトルの五十音順で並べるってだけでも、けっこうキてる。
何も知らない人が読んだらかなり意味不明なところも当たり前のようにあるし、正直、読みにくいし、わかりにくい。
普通に時系列で並んでたほうが、本としては全然読みやすいに決まってる。
でもこのいびつさこそが「香取慎吾の脳内」なのだ。



俺にはモノクロ写真がその象徴のように思える。
『SD慎語辞典』のなかでは、テキストも写真も彼の脳内を描写する要素にすぎない。
本書に載っている写真は、現実を映したものではなく、あくまで香取慎吾の脳内風景としてのスナップである。
だからこそ現実の色味ではなく、モノクロである必要があったのだと思う。

そんないびつさを、すべてを冷静にコントロールしたうえで、あくまで意図的に、ここまでの表現に落としこんでいる。
彼のクリエイティビティが最大限に発揮された一冊だと思う。

本来ある種の「種明かし」であるはずのカラー写真のほうが、俺には「嘘」に思えてしまった。
そのことは、俺が香取慎吾の脳内世界に取り込まれつつある証なのかもしれない。




結局わたしたちは香取慎吾の脳内を覗くことができたのか

『SD慎語辞典』は、香取慎吾がこれまで作り上げてきたあらゆる表現の中で、もっとも精度が高く、研ぎ澄まされたもののひとつだ。
彼がなぜ人を惹きつけ続けるのか、この本に触れるとその理由がわかると思う。

本書で表現されているのはあくまで<香取慎吾が表現する香取慎吾の脳内>であって、それがイコール本当に香取慎吾の脳内であるかどうかは、結局のところ俺にはわからない。(というかほぼ確実に違うと思う)
でもそんなことは全然大した問題ではない。

事典であるはずなのに、何度読んでも、いや読めば読むほど、ここに載っている言葉の意味がわからなくなっていく。
やっと近づけたと思ったら、気づくとさらに遠くに行ってしまっている気がする。

なにが本当でなにが嘘なのか――そんな無粋な詮索より、もっと不思議でもっと豊かな世界があることを、この本は教えてくれる。

SMAPはなぜ「いつの日にか また幸せになりましょう」と歌うのか――『がんばりましょう』を聴いて

こないだパワスプで流れてきた『がんばりましょう』を聴いて思った。
めっっっっっっっっっっっちゃめちゃいい曲だなこれ!!!(周回遅れ)

や、『がんばりましょう』がいい曲だ、っていうのはなんかもう一般常識レベルで共有されてる概念だとは思うし、俺だって前からそう思ってはいたけど、こないだパワスプで聴いたとき、そういうあれとは全然違う感慨が胸に迫ってきたんだよなあ。



「いつの日にか また幸せになりましょう」



この曲、なにに対して「がんばりましょう」って言ってるのかっていうと、「幸せになるためにがんばりましょう」って言ってるんだよね。最後のサビで「いつの日にか 幸せを勝ちとりましょう」って言ってるし。

で、その前の2番のサビで歌われるのが、このフレーズ。



「いつの日にか また幸せになりましょう」



いつの日にか・また、って、どういうことなんだろう。
文面通りに読み取ると、<かつては幸せだったけど、いまは幸せではない>、ってことだよね。
なんでわざわざこんな言い方をするんだろう。

そう思って冒頭の歌詞を読み返すと、そもそも最初に歌ってることもそういうことなんだよな。

「かっこいいゴール」を決められたことは、言ってみれば“幸せ”だけど、そんなものは「あッとゆーまにおしまい」。
幸せや希望の象徴である「星」は一瞬で消えてしまい、また別の、なんでもない、いつもの朝がやってきてしまう。



この曲のサビでSMAPは「どんな時も くじけずにがんばりましょう」と歌う。

なんでどんなときもがんばらなきゃいけないのか。
毎日クソみたいなことや、投げ出したくなるようなことばっかりで、幸せなんて、ほんの少しのきっかけであっという間に消えてしまうようなものだからだ。

この文脈って、「日々の小さなことに幸せを見つけていきましょう」っていうやつとは全然違う。
極端に言うと「生きてるってことはそれだけで素晴らしいこと」――そんなの嘘だって、この曲は言ってる。俺はそう思う。


終盤で「空は青い 僕らはみんな生きている」って歌われるけど、これは、「生きてるだけで素晴らしい」という意味ではない。
ただただ「空が青いこと」「僕らはみんな生きているということ」という、善も悪もないただの現実を見つめているだけだ。
つまり、どん底の血圧で、寝グセだらけで、頭を抱える悩みや、逃れられない過去や、貧困や戦争が消えることのない、そんな<きみの目の前の現実を見つめること>、<きみのとっての“いま・ここ”から逃げないこと>、それだけが「また幸せになる」ために必要なことだと、SMAPはそう言っているのだ。これ、応援ソングっってレベルじゃないほど、実はめちゃめちゃシビアなことを言ってると思う。



「がんばる」という概念とセットとして捉えられがちな「努力」や「根性」という言葉を「東京タワーのみやげ物に張り付いてるような薄っぺらな言葉」と言い放ちつつ、「それだってひとつの真実かもしれないよ」という解釈の余地を残してる。
これ、つまりは


<考え、行動するのは、君自身だよ>


というメッセージだ。

で、こういうメッセージを押し付けずに聴き手の主体性に委ねる姿勢は、SMAPだからこそのものだと思う。
SMAPは人にああしろこうしろとは言わない。
もっと言うと、こうしたほうがいいんじゃない、くらいのことも、ほっとんど言わない。
彼らが示すのはいつも自らの姿勢だけだ。
僕らはただ行動するだけ。判断するのはあなたたち。
そういう、どこまでも自由だけど実はすっげーシリアスなことをSMAPは発信し続けてるのだと思う。
もっと言うと、この曲に限らず、SMAPの活動にはすべてこの感覚が通底してる。
で、そういう人たちだからこそ、俺はSMAPが好きなんだなーと思う。


だからある意味、受け手である自分たちは試されてるとも言える。
自分はいま、彼らのメッセージを、ちゃんと受け取れているのだろうか?
俺はSMAPと向き合うとき、いつもそう考えているような気がする。



そんなようなことはこれまでだって感じてきたはずだったけど、
こないだのパワスプで
「いつの日にか また幸せになりましょう」
というフレーズを聴いて、また気付かされたのだった。
不思議だな。もう何度も聴いてきた歌なのに、まだ受け取れていなかったものがあったのか。

まあ、でもこれまでもそうだったように、きっとこれからもそういう瞬間が幾度となく訪れるのだと思う。
人と同じで、歌とも、ながく、ながーく、付き合っていくもんだしね。
で、そんな人たちの表現をこれからも受け取れるなら、こんなに幸せなことはない。

シティボーイズ×前田司郎=『燃えるゴミ』 最後の3人、最高の3人 2015.6.20

シティボーイズ『燃えるゴミ』(2015年6月20日、公演2日目、通算3回目の公演)。
最高だった!


シティボーイズを初めて見たのは『ウルトラ・シオシオ・ハイミナール』(2000年)が最初。
当時ピチカート・ファイヴが大好きだった俺(15歳)は、ピチカートのボーカル担当・野宮真貴さんが舞台に初挑戦するということで、この舞台を見に行ったのだった。
正直、当時の記憶はほとんどないけど、とにかくこれがシティボーイズとのファーストコンタクトだった。

そのあとは『ラ・ハッスル・きのこショー』と数年前の近作を1本見たくらいで、すいぶん生の舞台はご無沙汰してしまっていたんだけど、ここ5年くらい見続けている五反田団という大好きな劇団を主宰し作・演出を手がけている前田司郎がシティボーイズの舞台をやる、しかもそれがシティボーイズ最後の舞台になるかもしれない、ということで、これは行かねば!と、なんとか土曜日のチケットを入手し、行ってきた。


見終えて、これは紛れもなくシティボーイズの舞台であると同時に、五反田団をはじめとする数々の作品で見せてきた前田司郎の世界観は想像以上にしっかり確立されていて、つまりシティボーイズと前田司郎の作風ってこんなに相性が良いのか、と、まずびっくりした。


初めて五反田団の芝居を見たとき新鮮だったのが、これほんとに芝居なのかと?思うほど自然な感じの会話だったんだけど、終演後に売られていた上演台本を読んでさらに驚いたのは、そんな自然な会話(細かい相づちとか言いよどみとかどもりとか)がぜんぶ台本にしっかりと書かれていたことだった。
つまり、どうでもいい(ように見える)会話も、意味のない(よううに見える)相づちも、ぜんぶ計算ずくの演出なのだ。


で、今回の『燃えるゴミ』も、そんな前田司郎ならではの世界観は健在だった。

これまではオムニバス的な形式が多かったシティボーイズの舞台構成に比べて、基本的には最初に登場した中年男性3人を軸にして進む話運び、暗転せずに登場人物が入れ替わる(きたろうと斉木しげるの七変化ぶりよ!)仕掛け、そしてなにより延々と不毛すぎる、そしてすれ違い脱線しまくりながら進む会話の感じなど、五反田団の作品を見ているような前田ワールドがグローブ座で繰り広げられるさまはかなり痛快だった。
しかもそれをやっているのが、還暦をとうに過ぎたシティボーイズの3人なのだ!!
3人だけで、ワンシーンで、あれだけ長い時間くだらない会話を続けて、あれだけ面白いって、こんなゼイタクあるか!?


しかし、そんな前田ワールド全開の作品でも、これは五反田団ではなくやっぱりシティボーイズの最新作なのだ。
先述した、ゆるゆるに見えて激緻密な演出に必至で食らいつきつつも、実際やってみるとシティボーイズのグルーヴにしかならない、その絶妙なまじり具合がめちゃめちゃ面白い。

冒頭はじまって数分、「おお、これ想像以上に五反田団じゃん! この感じで進むのか?」と思ってたら、なんか噛み合わなかったのか、きたろうが「ちょっとうまくいかないから、最初からやり直そう」とまさかのリスタートw
えええーーーーーと思ったけど、でも多分前田さんのホンって相当難しいから、実はけっこう3人とも苦労してるんじゃないかなあ。
たぶんカンペキに台本通りにやってはいない(≠できていないw)と思うけど、だからこそシティボーイズと前田ワールドの絶妙なミックス感が生まれている気もする。


前半~中盤のコントならではのダイナミズムを駆使したパートを経て(カーテンコールで大竹まことが斉木しげるに「お前あそこのことしか考えてないだろ!」と言われてたw)後半~ラストの展開はヒーヒーゲラゲラ笑いながらも切ないし悲しいしでも優しくて、最後の最後に3人が文字どおりひとつになるシーンは、前田さんにしか書けないおかしくて愛のあるものだと思った。

前田さんが今回どれだけ「シティボーイズに書く」ということを意識したかわかんないけど(もちろんシティボーイズの作品を書くという意識は当然あったと思うけど、いわゆる“シティボーイズというキャラクターをどう活かすか”みたいな発想はなかったのでは、と個人的には思う)、現実に老境にいる3人のおじさんに何を書くか、という意味では、すごく意欲的な作品になっていたと思う。あの年であそこまで不毛な言い争いをできるってことこそが、人間といういきもののすばらしさだと真剣に思うよ、俺は。


今回がほんとうに最後のシティボーイズだとしても、これを最後にもってくるということも含め、俺は異論ないです。や、もちろんこれからもやってほしいけど、そういう気持ちは別にして。

なんか前田さんのことばっか書いたけど、3人の面白さは言うまでもなく。
この3人の、3人だけの舞台に、仕事して稼いだ金を払って見に行ける幸せよ。
めちゃめちゃかっこいいぜ、シティボーイズ。
おかげで金欠なのに、当日券でもっかい見に行く気まんまんです。
カーテンコールできたろうさんは「今回は完成しないかもしれないなあ…」と言ってたけどw
いやとにかく最高でした。

『木更津キャッツアイ』と岡田准一に出会った日――2002年早春、とある教室での記憶

今日たまたまこのツイートを見かけまして、

https://twitter.com/hraom/status/601277318670192640

うーん岡田准一がブレイクしたきっかけか…
なにを指してブレイクというのかいまいち分からんのですが、俺(30歳・ゲイ)のなかで岡田准一が炸裂したのは『木更津キャッツアイ』で間違いございません。

いつか『木更津キャッツアイ』についてちゃんと書きたいな―とは思いつつ、すでに感想も批評も山ほど出てるし、好きすぎて何から書いていいかわからんし…と尻込みしてたのですが、せっかくの機会なので、あえてごくごく超私的な視点で書いてみようと思います。





ドラマが始まった2002年1月当時、俺は16歳。クドカンのことは名前だけは聞いたことあるって感じだったです。『池袋ウエストゲートパーク』は見てなかったけど、なんとなく“クドカン”というワードは目に入ってきている、そんな状態。どこでクドカンの名前を知ったのか…クイックジャパンとかその辺だったのかなあ。

で、どこでもらったのかは忘れたのですが、ぶっさんとバンビが表紙のTBSの番宣フリーペーパーが手元に残っています。これが俺のなかで最古のキャッツ関連資料なので、おそらくこれをどこかで入手して、『木更津キャッツアイ』がはじまることを知ったんだと思います。





当時、俺の中での岡田准一という人の印象は「V6のかっこいい人」、正直これくらいでした。フリーペーパーの表紙に写る岡田と櫻井のツーショットを見た印象はこんな程度だったかと↓

「あ、V6のかっこいい人・岡田と、嵐のなんかかわいい人・櫻井のドラマやるんだ。あ、しかもクドカンなんだ。ならジャニーズのドラマでも見れるかも…!」

「ならジャニーズのドラマでも見れるかも」のニュアンスを詳しく説明すると、もともと小学校のころから『金田一少年の事件簿』とか『透明人間』とか土9のジャニーズドラマを見て育った子どもではあったのですが、さすがに高校生くらいになると、なんか家でジャニーズのドラマを見るってことに対してちょっと恥ずかしさが生まれてきてたんですね。なにより、ジャニに興味がある=家族にゲイであることがバレるかも…という恐怖もありました。

でもクドカン作品という前提があれば、「別にジャニーズが見たいわけじゃなくて、いまキテるクドカンのドラマを見たいだけだから」という言い訳ができ、家でも堂々と見れると思ったわけです。はい、実際はクドカンよりジャニーズが目当てでした。当時からイケメン大好きですし(というか当時はイケメンという言葉すらなかったのかも…(遠い目))

そんな感じでいろいろ不純なところもありつつ、16歳の俺は『木更津キャッツアイ』を見てみようと思い立ったのです。





放送当日、確かリアルタイムでは見られず、ビデオに撮って、週末に見ました。しかも録画に失敗し、冒頭の数分が録れてなくて、そこだけ見逃してしまいました(当時のテープ残ってるはずですが未確認)。

が、おそらく当時でも全国数万人はいたであろう多くのキャッツ狂と同じく、1話を見終えたときの衝撃はすさまじいものでした。

見てるあいだじゅう、興奮しっぱなしでした。
「なにこれ? なにこれ!? なにこれ!!!??? よくわかんないけどすっげえおもしれええええ!!!!!」
面白さの理由は全然消化できなかったけど、とにかくめちゃめちゃ面白いってことはわかりました。





週明け、高校に行って、クラスのいろんな人に「きのう『木更津キャッツアイ』見た!? ヤバくなかった!?」とハイテンションで言い続けましたが、初回終了後の段階で、俺がいたクラスの人らはほぼ誰も見ていませんでした。クラスでもイケてる部類にいたある男子A(少しタイプだった)が言った「えーあのジャニーズのやつ? あんなん見てんの?」という反応をよく覚えています。

当時クラスに友だちがほとんどいなくてつまんない高校生活を送ってた俺ですが、あのときばかりはとにかくこの衝撃を誰かと共有したい気持ちでいっぱいでした。なので

「いや、ジャニーズだけど、すげえんだよ! なんか普通のドラマと違くてなんか映画みたいで、しかも最初は普通に話が進むんだけど途中でなんか巻き戻るの! なんかわかんないけど超おもしろくて超かっけーの!」

こんなようなことを、金曜夜の放送を見て週明け月曜の朝に学校に行ってはクラスの連中に言い続けてました。すると回が進むにつれて、クラスのなかに放送を見始める人が出てきました。

放送が中盤に差し掛かったころ、先述のクラスでもイケてる部類の男子A(少しタイプだった)が「前に言ってた『木更津キャッツアイ』、おもしれえな! にゃーとか言ってw」と言ってきたことは、俺の高校生活のなかでいまでも燦然と輝く思い出のひとつです(不憫すぎる)。それだけのパワーが、当時の『木更津キャッツアイ』にはあったということでしょう。





正確に言うと、当時の俺は、岡田准一のすごさそのものには気づいていなかったかもしれません。

というのも、『木更津キャッツアイ』を見続けた3ヵ月のあいだ、おそらく1秒も、画面の中のぶっさんを岡田准一として意識して見た瞬間は、ほぼゼロと言っていいほど、まっっっったくなかったのです。

『木更津キャッツアイ』のぶっさんはあくまでぶっさん本人。
そう言い切れるほど、画面の中のぶっさんはぶっさんにしか見えず、俳優として岡田が優れているという客観的な評価ができる余裕などまったくありませんでした。当時の俺は作品の世界に、そしてぶっさんという人物にのめりこんでいました。





ようやく本題です。そんな中、いま振り返ると印象的なのが、徐々に放送を見始めたクラスの男子たちが口々に

「ぶっさんかっけー」

と言っていたことでした。


そう、ぶっさんはとにかくかっこよかった。それまで見てきたどんなドラマや映画の主人公とも違うかっこよさがありました。それはひと言で言うと、

「男が憧れる男像」

ということになるのかもしれませんが、それだとなんかキレイにまとまりすぎてて本質とずれてる気がするので、ここではあえて

「こいつ、いつもムラムラしてそうだな感」

と表現してみます。


夜中に理由もなくなーんかムラムラしてきちゃったり、やることなさすぎてなーんかムラムラしてきちゃったり、っていう思春期の男なら誰でも絶対経験してるであろう“男子特有のどうにもならない、どうしようもない感じ”。

キャラクターを形成するための記号としての「男子感」ではなく

「あ、こいつ、俺といっしょだ」

って、男なら本能で思えるあの感じが、『木更津キャッツアイ』という作品、そしてぶっさんという人物にはありました。
で、それを岡田准一がやっちゃう、っていうかっこよさ。俺も、おそらくクラスの男子たちも、そこにしびれたんだと思います。


で、もちろん、クドカンの脚本に描かれたぶっさんのキャラクターの魅力が前提にあることは当然として、こういう絶妙な感じを成立させてしまう岡田准一という人のすごさが、いまならわかります。

彼の演技があったからこそ、「ジャニーズ(笑)」とスカしていたクラスの男子たちも思わず共感し憧れてしまうぶっさんというキャラクターが生まれたことは間違いないでしょう。あらゆる意味で本当に幸福な作品だったと思います。


アイドルのブレイクポイントを考える指標のひとつとして「同性からの支持を集める」というポイントを挙げるならば、『木更津キャッツアイ』でのぶっさん=岡田准一は、少なくとも自分のまわりでは、驚くほど男子の支持が高かったです(こ)


あのとき『木更津キャッツアイ』を見てクラスの男子が口々に「ぶっさんかっけー」と言い出したあの瞬間は、自分にとってけっこう衝撃かつ、めちゃめちゃ痛快な出来事でした。そしてあのときの「ぶっさんかっけー」は、岡田准一その人に対して向けられた賛辞の言葉でもあったと言えるでしょう。


俺にとっても、岡田准一という表現者のすごさに初めて気付いたのが『木更津キャッツアイ』でした。その後の活躍ぶりはそれこそ言わずもがな、です。
というわけで、あくまで超超超私的な俺の中の岡田准一のブレイクポイントは『木更津キャッツイアイ』です。
なお、このテープは自動的に消め(ry





結局、作品自体に関しては全然書けなかったなあ…。今回も安定の「何から書いていいかわからん状態」になってしまった。まーいいや、また機会があったら書いてみよう。

ちなみにドラマ終了後は木更津に何度も足を運び、リピーターズナイト、やっさいもっさいキャッツ連、映画エキストラとだいたいの行事をこなし、ワールドシリーズまで突き進み見事に燃え尽きたのだった(内心、映画はあくまでサイドストーリーで、作品としてはドラマで完結してると思ってるけど←)。青春時代にこういう作品に出会えて幸せだといまでも真剣に思ってる。

しかしあの頃は、30近くなってからV6のアルバムに興奮し(V6の『Oh! My! Goodness!』ってアルバムがめちゃめちゃいい)ライブDVDに心酔し(V6『Oh! My! Goodness!』のライブDVDがすごい面白かったよ)森田剛氏ついて熱く語る(V6『Oh! My! Goodness!』における森田剛氏のボーカルについて)日が来るとは夢にも(ry

ドラマ『未成年』2015年初見の感想・8~11話

8話から11話をいっき見したわけですが、まず前回7話の感想で書いた「登場人物の不幸が物語の駒にしかなってない」という件、あれ撤回。つーかそういう次元じゃなかった。
なんなんだ後半の不幸フルコースは。
なんつーか「これをやりたいからこうしました」っていう意図がモロバレな感じというか。
うーーーーーーーーーん、このストーリー運びは、ドラマとしては全然ダメだろ。
つーかこれ、当時はどう受け止められてたんだろう。


しかし、とは言え、この作品は失敗作どころか野島伸司の中でも、そして出てる役者の中でもいまだに代表作と言われることも多い作品で、まあその理由もわからなくもない。
物語の整合性とかクオリティを差し引いても残るものがある作品ではあるのだ。





8話

すべての発端となるデクの銃撃事件が起こる回。
物語としてはクライマックスへと向かうブリッジ的役割。

事件に対する順平の反応はそりゃそうだろうなあという感じ。
俺だったらあんな状況になったら順平とおなじセリフを吐く気が。

桜井幸子はいい演技するなあ……。

しかしここにきてより思うのが、要はこの物語って

「未成年は大人や社会から抑圧されている存在である」

という前提があってこそ成り立つものなんだけど、当時ってそこまでそういうものだったのかしら。

これって2015年のいまではもはや成立し得ない。
いま現在若者が抑圧から開放されているという意味ではもちろんなく、抑圧を理由にこういう行動をするってこと自体がメッセージになり得ない時代になってると思う。この作品よりより過酷で悲惨な世界に明らかになってるから。いまの日本は。

でも当時もどうだったんだろうな。
ヒロが校舎のガラスを割るシーンとかヘタすると「尾崎かよ」のひと言で片付けられちゃう気もするんだけど。そして2015年現在では「尾崎かよ」の前提すら消え行く時代という。

しかしいきなり銀行で銃発砲からの逃避行とは……驚きなのがこの時点で全11話のまだ8話だってことだよね。えーーまだどんだけ引っ張るの!? っていう。いまの連ドラでは考えられん!

でもそれこそさらに冷静に考えると、自分が当時(ここ重要。いま15~6でこれ見るのとは全然違うと思う)15~6だったとしたら、かなり熱くなってた可能性はあるかもなあ。
むしろジュブナイル的な物語として見るとすごくハラハラしつつもキラキラした冒険譚に思えなくもない。にしては人が不幸になりすぎだけどな…w






9話

「お前は綺麗だな」

デクに向かってヒロが言うセリフ。
回を重ねるごとに、ヒロのデクに対する想いが強くなっていくよね。
もはや憧れに近い感じ。

ヒロがすごいのは、「大人」「社会」とかいう漠然とした言葉を使ってはいるものの、それを発現する自分自身=ヒロ本人の立場から逃げてないことだと思う。

ネットが発達・普及したのはいいことの方が多いと俺は思ってるけど、反面SNSで、失言やちょっとミスしたした芸能人にまで「正義」という名のバッシング(という名のただの憂さ晴らし)を行う人たちが増えた。
ああいう人は自分の言葉を使わない。どっかで聞きかじった借り物のを使う。それは自分が発言するという責任から逃げているからだ。

でもヒロは違う。まさに借り物の、有り体の言葉をヒロに吐くマスコミのおやじとは対照的に、ヒロはヒロの言葉で人々に語りかける。

そしてここ超重要なのが、ヒロは自分で自分の名を名乗った!!!!!!!!!!!111

俺もそうだけど、公の場で自分の名前(本名)を語りたがらない時代になって久しい。
本名でいなくていい場所=心を開放できる場所=ネットを手に入れた結果、その歪として先述のバッシング炎上社会がまれたとも言える。

けど、それよりもはるかにリスキーなあの状況でヒロは自分の名前をはっきりと名乗った。
あれは自分の発言から、自分自身から逃げないというヒロのアティチュードそのものだ。
いま見ると荒唐無稽なシーンも多い作品だけど、あのシーンは、いまだからこそ響く・刺さるものだと思う。

そしてちょっと文脈はずれるけど、名前という縛りから唯一解き放たれてる存在がデクなんじゃないか。

障害を持っている=社会から予めドロップアウトしている(という描かれ方をしている)彼に新たな名前を与えたのはヒロだった。
そして彼はその「デク」という名前を自らに受け入れた。その時点でふたりには特別な絆がうまれていたのかもしれないな。

で、そんなヒロ像に説得力をもたせたいしだ壱成の演技が右肩上がりにすごいことになってきてる。目だけで演技できる人なんだよなあ。すごい。

かみやくん怖…なんという地獄絵図……
河相我聞の演技もやばいw
犯罪者が山に逃げ込んで内ゲバって、山本直樹『レッド』かよ!!!!とツッコミを入れたけど、次回でそういうセリフが出てきて驚いた。まあでもそう見えるよな普通。






10話

ヒロパパ超いいやつ…と思ったらダメかあ! つか、まあ、言うほどそこまでダメじゃない気もするけど。いや、だめかあ。なんかよくわかんなくなってくる(白目

もか兄貴、かんぜんに人権侵害だろw

神谷くんの妻、「こんなとこいても意味ないわ!」ってセリフ、母だなあ。
うん意味は無い 無いのだよ。全然、まったく。すごい正しいと思う。しかしそのあとで学校に残ってしまうのも、まあわからなくもないけど。

撃たれた銀行員がいちばん不憫な気がしてくる。

五郎「バーカお前がいちばんどうかしてたんだよぉ」
これ!!!! いちばん言ってほしかったことをwwwwwwwwwwwwwwwww!!!!!!!!!!1111111111111111


かつてヒロが“この世でいちばん美しい”と言ったデク。
彼はなにをわかってなくて、なにをわかっているのだろうか。
立てこもってからの彼を見て、そんなことを考えるようになった。
立てこもりはじめてからのデク、明らかに変わったよね。
9話で映った全員集合ポラの中のデク、いままで見たことない不自然にまではっちゃけた笑顔をしてるんだよね。
デクは自分の気持ちを言葉にしないから表情や仕草とわずかな言葉だけでこちらが読み取るしかないんだけど、立てこもりが始まってからのデクは以前より心情が読み取りづらくなってくる。


マスコミおやじから安田講堂のセリフきたねえ。
「かわいそうな未成年たちよ」
そしてフランスの核実験のことも!
借り物の言葉ばっかり吠えてたマスコミ人が「どういつもこいつも不感症さ」だあああああああ!!!!!1????? ざけんなクソ大人!!!!!!!(←ヒロ達に同化しすぎ疑惑

しかし野島伸司は自覚的に学生運動と重ねて描いていたんだね。ますます当時このあたりがどう受け止められてたのか気になる。


えっクリスマスイブ最後の晩餐に、もかの友だちはいないのwww
意外とシビアっつーかひどいwww もかも呼んであげればいいのに…そして食事を渡すデク…つーか食事も渡してなかったのかwww!!!!!!!!!!!!!1


桜井幸子の演技すげええええええええええええええええええええ


かみやくん「僕が東京にとどまっていたら、こんなに胸の奥底から高揚することはなかったに違いない」
そんなことないよきっと別にまだ若いんだし高揚することなんてこれからいくらでも!!!!!!!!!!!!!!111
あでも警察に追われて逃避行ほどの高揚はないか……←


「あなたと一緒にいると、私にはこわいものなんてないの」

「ヒロ、愛してるわ」


こんなシンプルなセリフもここまでの経緯を踏まえると泣けるわ…


ラスト、立てこもりはじめてからデクの表情が見えなかった理由はこれだったのか。
イラスト、せつない デク デク デクううううううううううう(←感情移入しすぎ
そしてストーリーは破綻&暴走しまくりながらも(もはや五郎が撃たれたことに動揺する余裕もない)、モノローグはいしだ壱成も声の演技も含め相変わらず冴えまくりなのであった。



早くおとなになりたいね
そしたら誰も文句は言わないんだろ?

へえー、そうでもないの?
おとなはおとなで大変なんだね

質問
だったらいったいいつなのさ
自由に羽を伸ばせるとき








11話

結論から言うと、11話は蛇足だと思う。
車が横転してヒロだけ逃げてって……
結局もかも死ぬしかみやくんの母親も死ぬし死にすぎだし、これはないだろーーーーーーーーーーーー

でもそんな無茶をしたのも、すべてはあるシーンのためだったのではないか。
ヒロの演説シーンではない(あれもよかったけど)。
ヒロとデクの邂逅だ。



あのシーンを撮りたいがために、すべての無理なストーリーがあったのではないか。
そう思えるほど、精神病棟でのふたりのシーンはすごかった。

ヒロが病室に入ってきたときのデクの表情は、この作品での香取のベスト演技かと。
そしてそれを受けるヒロもほんとうに素晴らしい。



初回の感想で俺はこう書いた。

<ヒロとデクのシーンの、あのやわらかな空気感は無くしてほしくないなー>

結果として、10話までヒロトデクのシーンでのやわらかな空気感が損なわれることはなかった。
むしろ後半は荒んだ状況になればなるほど、ヒロにとって羨望の対象であり、ある意味神聖化されていったデクとのシーンの美しさは際立っていった。


だが最後の最後に、最も切なく、やりきれなく、そして美しいシーンをふたりに用意していた。
本作ではそこまで使われることのなかった過去シーンのプレイバックを伝家の宝刀的に用いてまで、このシーンを最後の最後に用意してきたのだな。
ここがこの作品における、俺にとってのクライマックスでした。




もうこれ以外はどっからツッコんでいいのかわからないレベルの大波乱展開www
ラストシーン無理矢理いい感じふうにしてるけど全然大団円じゃないし、もうなにこれどうすればいいの感すごかったけど、デクとヒロのシーンはほんとうに心に残るものだった。
なので、もうそれでいい。もうそういうことにしておきます。





そんなわけでうーん総括するのも難しいけど、まずは役者がすごい。つか役者が引っ張ってたドラマだと思うます。
個人的にはいしだ壱成のすごさを発見しました。『聖者の行進』は毎週見てたんだけど、あれもいま見ると凄そうだなあ。


でも見てよかった。いろんな意味で、いまではありえない内容だったので。
作品に込められてるエネルギーはすごかった。
あと10年後に見たらまた違って見えるかも。
面白かったーーーーーーーーーーーー

『burst! 危険なふたり』はなにが“危険”なのか~2015/5/4公演を見て

『burst! 危険なふたり』はなにが“危険”なのか

草彅剛と香取慎吾のふたり芝居『burst! 危険なふたり』を見てきた。
おもしろかった!
早くパンフ読みたいんだけど、その前にとりあえずの印象を走り書き。

素直な感想としては、決して手放しで満足はしていなかったりする。
だけどその「足りない感じ」は、すこぶる意義のあるものだった。





見る前の予想としては

「しんつよコンビの仲の良さやコンビネーションを最大限に活かした芝居」
「あえてふたりの関係性を排したストイックな芝居」

という2パターンを考えていた。
このふたつを両極として、そのあいだのグラデーションのどこをついてくるか、そういう仕上がりを想像していた。
で、結果としてその想像は軽々と覆されたのだった。


<手違いでテロリストから爆弾を仕掛けられた一般市民と爆弾処理のプロフェッショナルが時限爆弾の解除に挑む>
というワンシチュエーションの設定じたいはまあいいとして、ポイントはふたりの別の場所に置き、ふたりのコミュニケーションを電話での会話のみに限定したことだ。


舞台上にはふたつのセットがある。ひとつはソファが置かれたリビング、もうひとつはホワイトボードと机が置かれた会議室のような部屋。会議室にいる草彅が、リビングの香取に電話で呼びかけるところから物語は始まるのだが、基本この構図は最後まで変わらない。


ふたり芝居=舞台上にはふたりしかいないにも関わらず、ふたりの身体が触れうことはおろか、目が合うことすらない、それどころか常に観客側を見て芝居をしなければならない(ワンシーンだけ互いを見て芝居するシーンがあるけどあれは演出上ああなってるのであって、この舞台全体で見るとまったく無いと言っていい)

それでいて作品の内容はほぼふたりのやりとりだけで進んでいく会話劇という、俳優にめちゃめちゃ負荷をかける構成になっていた。

で、正直、俺個人としてもこの構成は最初戸惑った。
さっき書いた

>「しんつよコンビの仲の良さやコンビネーションを最大限に活かした芝居」
>「あえてふたりの関係性を排したストイックな芝居」

という予想は、方向性は違えどいずれもふたりが濃密に交わり合うことを期待していたからこそ浮かんだものだった。

しかし蓋を開けてみると、ふたりは全編にわたって目を合わせるどころか、同じフィールドに立つこともなく(それぞれの持ち場は最後まで固定されている)、しかも途中で役柄を入れ替え、最後まですれ違いを繰り返すのだった(とは言え濃密に絡んでいないわけでは決してなく、むしろより高度かつトリッキーで密度の高いコミュニケーションなんだけど)。
いろんな意味ですごいサディスティックな演出だったと思う。





香取は今回きっちり三谷ワールドを体現する演技に徹していたと思う。
三谷コメディとの相性は言うまでもなく抜群で、特に後半入れ替わってからは水を得た魚のようにノリノリ。
しかし足元はしっかり地面についてる感じがして、頼もしかった。

対する草彅は、ひと言で言うとすげー自由。
これだけ制限のある舞台にもかかわらず、あらゆるものから解き放たれてる感。
つか舞台の彼はこんなにすごかったのかとけっこう衝撃。
舞台を震わす声と、ラストシーンの彼の表情が忘れられない。

簡単に言うと「静の香取、動の草彅」って感じで、全然タイプが違う役者なんだと感じつつ、そんなふたりのコメディ(そう、この舞台はまさかの全編コメディなのだ!)を生でたっぷり観られるとは……改めてなんたる贅沢よ!

そういえばふたりの役柄だけど、入れ替わる前と後で微妙に人物造形が違ってる気がした。
そのへんは無理に合わせるのではなくそれぞれの個性を尊重してたのかなー。





冒頭で
「常に観客側を見て芝居をしなければならない」
って書いたけど、正確には観客を見てるわけじゃない。
あえて言うなら、どこも見ていない。


いや、もっと正確に言うと、ふたりは具体的に目を合わせることはないが、この作品でふたりは100分ものあいだ、やはりお互いを凝視しているのだと思う。


<相手に的確に物事を伝えるためには、正確な表現力が必要だ>
劇中にそんなようなセリフが出てくるけど、もうひとつ重要なことがあって、それは「相手のことを強く思うこと」だ。
トリッキーな構成だからこそ、ふたりのチームワークの良さが際立っていたことは言うまでもなく(息の合い方が尋常じゃない。なんであそこまでぴったりハマるんだ…)、なにしろ始まってから終わるまで、ふたりは互いのことをずっと考え続けているのだ。

常に相手の姿を想像しながらの会話劇は、このふたりだからこそ活きる設定なんだと思う。最初は戸惑ったけど、見終えて思うのは、これを書いた三谷幸喜のすごさと、これを成立させてしまう草彅剛と香取慎吾のすごさだ。





その他、思い出したことをつらつらと。

音楽よかったなー。基本、不穏で。セットもよかった。
コメディだけど、なんか不安な気分がずーっと通底してる舞台だった。
ラストシーンも意味深だし。あれをどう捉えるか、ひとによってずいぶん変わる気がする。
一緒に見た友だちのラストシーンの解釈は興味深かったなー。
あとキャパの小ささは色々言われていたけど、パルコ劇場の狭さでやる意味のある芝居だったのも事実。





最後に。
「この作品には手放しで満足してない」と書いたのは、このふたりにはもっとできることがあると思ったからだ。
贅沢言うのもアレだけど、この作品じゃまだ足りない。
もっともっと、いろんなふたりを見てみたい。し、ふたりにはもっとできることがあるだろーと思った。

変な話、三谷幸喜以外の作家の作品でもふたりを見てみたくなった。
それこそガツンと向きあうような芝居とかね(この舞台もガツンとぶつかり合ってはいるんだけど、イレギュラーな形式なので)

とは言え、草彅剛と香取慎吾による初のふたり芝居にこのホンを書いた三谷幸喜はいろんな意味ですごい。これってふたりを信用していないと書けないものだと思う。
今回いちばん危険だったのは、こういうホンを書いてしまった三谷その人だと思う。
一本とられた感。うーーんやられたーー。

草彅も香取も、自分たちから持ちかけた話とはいえ、ビビったんじゃないかなー。まさかこんな話が来るとは、とw
なんせあのふたりをもってしても、あくまで俺が見た感想でいうと、なんというか全然完成されてる感じがしなかったのだ。実はけっこうすごい格闘してるんじゃないかなーふたりとも。この作品を経て、草彅・香取が役者として何を得ていくのかも楽しみ。

そんなわけで、5月4日時点で、完成度はかなり高いものの、まだまだ未完成に思えたこの作品。
うーん最後にもう一度だけ贅沢言わせて。
もっかい見てえ!!!





オマケ・5月4日のカーテンコール(記憶は曖昧です)



剛「今日はGWなのにここを選んでくれて本当にありがとうございました。どうだった慎吾?」

慎吾「いやー本当にありがとうございました。GWなのにここを選んでくれて…(真似る)」

剛「今日昼に劇場入るときにGWで渋谷がすごい人出で、みんな楽しそうで、そんな中俺は舞台かと…」

慎吾「え…嫌々なの!?」

剛「いや違いますよ!? ただ、すごくいい天気なのにこんな室内で…」

慎吾「こんな室内!? パルコ劇場に謝れよ!!」





慎吾「他のメンバーはまだ見に来てないんですよ。来るのかな?」

剛「でもみんな気にしてますよね、特にふたり」

慎吾「中居正広と木村拓哉ね。ふたりとも別々に聞いてきたりしてね」

剛「(木村の真似で)『おう、いまどんな感じなの? まだそこまでしかいってねえのかよ』って、木村くん内容知らないのに何言ってんだろうと思ったけど」

慎吾「や、あれは、台本全部で何ページでいま何ページまで行ってるって話をしたからああ言ってたわけで…あーいないとこだと木村くんのことそういうふうに言うんだー」

剛「いや違いますよ! でも内心そう思ってたんだよね、木村くん内容知らないのにな…って」

慎吾「稲垣吾郎の話はあんま聞かないですけどね」

剛「でもパルコ劇場の大巨匠ですからね。吾郎さんとパルコ劇場って同い年なんだって」

慎吾「俺、ごろちゃんと一緒がよかったな…俺もうだめだよ、千秋楽までつよぽんとできない」

剛「何言ってんだよ! ちょっと待ってろ!」

~剛はける~

慎吾「俺つよぽんとできないよ…なんなんだよさっきのトークも全然噛み合わないし…明日からごろちゃんとやります!(客笑い&拍手)」

~剛ギターを持って登場~