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エマーソン北村『ロックンロールのはじまりは』――荒野を歩む僕らのサウンドトラック

 

エマーソン北村の新譜『ロックンロールのはじまりは』を聴いた。すっっごくいい!

 

早くそのすばらしさについて書きたいのだけど、まずはこのアルバムと出会うきっかけとなった、ある夏の思い出から書いておきたい。

 

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今年何度目かの「RISING SUN ROCK FESTIVAL」に行った。俺が知る限り地球上でもっとも最高(日本語下手)なフェスだ。

 

いつもフォレストのテントサイトに立てられる友だちのテントにお邪魔していて、エマーソン北村は毎年そのフォレストでライブをしている。


入場時にはウェルカムライブをやっているし、ライブアクトとしても毎年演奏しているので、自分はRSRに毎年行っているわけではないけれど、行くたびに彼の演奏を耳にしていた。

 

なので、RSRに行った年は必ずといっていいほど彼の演奏を聴いているはずなのだけど、今年のそれは俺にとって特別なものになった。

 

フェス初日、カンカン照りの朝っぱらに入場したときのウェルカムライブが妙に耳に残ったのと、2日目の朝、またしてもピーカンのもとでのステージがとってもとってもよかったのだ。最初はテントで椅子に座りながら音漏れを聴いていたのに、あまりによくてステージ近くまで走ってしまったほど。

 

それは単純に、あのときの俺にあのときの彼の音がフィットしたってことなのだと思うけど、とにかく数々のアーティストの名演が繰り広げられたフェスのなかで、あの北海道の朝の強い日差しのなかで聴いた彼の音が、じんわり心に残ったのだった。

 

そのときのMCでも告知されていたのが、『ロックンロールのはじまりは』だ。

 

*

 

 

シンセやエレクトリック・オルガンの演奏と打ち込みのリズムを基調としたインストが6曲。冒頭の表題曲で、何処かからの通信音のような単音からはじまったのちの、エレクトロニクスによるノイジーな展開に耳を引かれた。アルバムタイトルが冠されているだけあって、この曲の肌触りがアルバムのムードを象徴している。

 

どの曲も、どんなにポップなメロディでも音の質感はどれもけっこうザラついている。音色そのものは柔らかなのだけど、音の輪郭はエッジがたっていて、耳に掠れる感じ。それがいい。

 

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まあ毎日どこもかしこも、誰も彼も、ヒリヒリしている時代なわけで。少し気を抜いたらほんとうにあっけなく死んじゃったりする、そういう世界になってきていると思う。おおげさじゃなく。

 

『ロックンロールのはじまりは』にはそんな日々に疲弊した心が休まるグッド・メロディもたくさん入っている。が、それをただ優しく鳴らすのではなくて、「毒をもって毒を制す」ではないけど、この時代にフィットする響きでもって鳴らしている。それがこのアルバムのノイジーな手触りで、音ひとつひとつの強度がすごいし、説得力がある。一見物腰は柔らかいが、すごくタフな音楽だと思う。

 

なんというか、殺伐とした荒野を歩んでいくためのサウンドトラックとして、なんとも絶妙に最適な湯加減なのだ。誰も扇動せず、誰にも媚びないメロディたち。そんな音楽に『ロックンロールのはじまりは』という題がついているのは、個人的にはすごくしっくりくる。

 

それで言うと後づけかもしれないけど、今年のRSRは、フェスの享楽性より、現実世界のなかでいかに音楽とともに立っていくか、というようなことを考えさせられる場面が多くて、いま思うと彼の演奏が、あのときの自分のそういうメンタルとリンクした部分があったのかもしれない。とにかくいまこの音楽に出会えたことは、この音がいまの自分に必要だったからなんだろうな、と思う。

 

*

 

で、そういうあれやこれやをまったく考えなくてもそれはそれで全然問題なくて、記名性・作家性が高い作品であると同時に、聴く人の毎日を彩ってくれるBGMとしても、めちゃめちゃいい。早くiPhoneに同期していろんな風景にこのアルバムを連れ出したい。

 

表題曲から、RSRのステージでもまっさきに耳に残ってMVも作られているリード曲『帰り道の本』への流れが最高。そこで一気に引き込まれたあとは、あっという間の21分。コンパクトだけど曲の密度は濃厚で、満足感は高い。このサイズ感にも必然と確信を感じる。あとスカ~レゲエっぽいリズムが多いこともあってか、かなり踊れるのもいい。(RSRのステージで見たときもビール片手に踊りまくった。最高だったなー) ライブにも絶対行こう。

 

しかし、『帰り道の本』、ほんっっっっっっとにいい曲だなあ……。完璧に俺の心にフィットしてしまった。毎日口ずさんでいる。年が終わろうとしているときに、新しい音楽に出会える喜びは格別だ。ひとまずは自分勝手に聴き込んだあとで、同封された長めのブックレットを読んで、さらに作品を味わっていきたい。またひとついい音楽に出会ったぞー!

 

(余談。こちら↓アルバム収録の1曲。カバーなんだけど原曲がRIP SLYME『雑念エンタテインメント』の元ネタと知ってマジかー!と。無知だからこそこういう発見は嬉しい。好きなものはつながるのね)

 

SMAPの25周年ベスト盤&クリップ集ジャケデザイン見てめちゃめちゃアガった理由

ベスト・アルバム『SMAP 25 YEARS』とミュージック・ビデオ集『Clip! Smap! コンプリートシングルス』のジャケットデザインが公開された。端的に言って素晴らしい。

 

http://smap25years.com/

 

クレジットを確認できていないが(※追記 発表されたようです→http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161119-00000001-dal-ent)、おそらくほぼ確実に佐藤可士和によるデザインはそれぞれ、2001年発表のベスト盤『Smap Vest』と2002年発表のMV集『Clip! Smap!』の延長線上にある。

 

2000年のアルバム『S map ~SMAP014』から始まった佐藤氏とSMAPとの蜜月関係。その最初期であり、もっとも攻撃的で先鋭的だった(と個人的には思っている)コンセプトをいまもう一度やってみる、という試みは、「なんだ、やっぱ結局あの頃が最高だったんじゃん」という凡庸な感想を持たれかねないリスクを、「でも、や、というか、いまだからこそこそやるんだよ」という一点突破によって、ものすごいクオリティで完遂している。

 

ファンの投票によって選曲されたベスト盤と、レア映像を含むクリップ集。しかもこの解散というタイミングでのリリースである。しかし本作たちのデザインに余計な情緒や感傷は皆無である。いや、正確に言うと少なくとも表出しているデザインそのものには皆無である。

 

だからこそファンは、白地に黒い色で微妙に途切れてデザインされた「smap」という文字列や、いかにも無造作に(しかし見れば見るほど気持ちいいバランスの配置で)ばらまかれたゼムクリップたちに、それぞれの情緒や、人によってはある種の感傷をかさねることができるのだ。

 

特にCDジャケットについて、smapという文字列は完璧に表示されておらず、認識できるギリの範囲でトリミングされている。これは“「SMAP」というかたち”がすでに不定形になっていることを示唆している。

 

そのアプローチは『014』当時にもあったもの(SMAPという文字列を記号化することで、彼らをアイドルとしてではなく“媒介者=メディア”として扱うというアプローチ)だが、これを“いま”再び“反復”することで、当時とはまた別の意味合いを帯びてくる。

 

SMAPはその長いキャリアにおいて“反復”することを避けてきたアーティストだ。いわゆる勝ちパターンをなぞることをせず、常に新しい価値を求めているようなスタンスがあったし、そこがアイデンティティの一角になってすらいると思う。

 

それはデザインワークに関しても同じで、『014』から『裏スマ』まで続いた極端なミニマムがマキシマムへと反転するポップアートさながらの方法論は、それ以降のアルバムへ引き継がれつつも、各作ごとに新たなチャレンジを図っていた。が、そのアウトプットの結果は、当初ほどの鋭さを持ち得ていたかというと個人的に疑問は残る(それはデザインのみの問題ではなく作品のコンセプトそのものに依るところも大きいが)。

 

しかし、じゃあそこで安易に過去の反復に走ったところで、結果は火を見るより明らかだ。だからこそ今回のデザインワークの鮮やかさと潔さに驚かされた。

 

ここには自虐も諦めも投げやりもない。「これこそ現在進行形のSMAPの表現だろ」という確信が宿っている。つまり、余計な情緒や感傷といったわかりやすく消費されるシンボルを掲げるのではなく、いまこそ万人の想いを受け止め、映し、きらめかせる“媒介”としてのSMAPを再び現出させるという試みだ。

 

その行為は、今年の『SMAP×SMAP』における、自曲を一切歌わず他者の音楽に身を委ねさらに拡張させる役割に徹することで、逆説的に彼らにしかなし得ない方法でSMAPの表現を更新し続けていることにも通じるアティテュードである。というか順番としては逆で、『014』の時点でそういった姿勢が顕在化していたというほうが正確なのだろう。

 

そしてそんなことが可能だったのは、SMAP自身の力はもちろんのこと、長きに渡って彼らを支える優れたクリエイト・チームの存在があってこそだということ。今回のアートワークを見て、その想いを改めて深くしたのだった。というか今さらだけど、全員、本気だ。当たり前だ。だってSMAPが解散すんだぜ。こんなに本気にさせられる状況、ほかにねーだろ。そう言わんばかりのジャケなのだ。もっかい言う。素晴らしい。

 

(というか真面目っぽく書いてきたけど『広告批評』の広告SMAP特集読んでスマップすげー!ともろに影響受けてきたover30おじさんにはほんとに嬉しいデザインだったぜええええ早くこのポスターとビルボードで街が染まる光景が見たいいいいいいい)

2016年9月5日、SMAPと矢野顕子は「ひとつだけ」をうたった

あっこちゃんはいつも笑顔であのうたをうたってくれて
おれたちはそれをみていっしょに笑顔になったり
どうしようもなく泣いたりするわけだけど
きょうあっこちゃんと一緒にあのうたを歌うSMAPは
すごくシリアスな視線と力のこもった歌声を表出させていて
それはどこかなにかを覚悟したふうなたたずまいにも見えた

そこに余計な他意はなくて
あれはきっとSMAPなりのあのうたへの批評だったのだと思う

香取慎吾のソロにあっこちゃんのハミングが重なった瞬間

これまで何度も何度も何度も聴いてきたこのうたの

まだしらなかった表情に出会えた気がした

やさしいだけじゃない、あたたかいだけじゃない

なんでこのうたを聴くと涙が出てしまうのか

とっても深いところにあるその理由に触れた気がした

いまのおれたちはこのうたをシリアスにとどけたいんだ
それはいまゲストとしてやってきたあっこちゃんへの
5人の責任の取り方だったのだろうし
彼らにそうさせた『ひとつだけ』といううたと
矢野顕子という表現者のすごみを
あらためて思い知らされるパフォーマンスだった
音楽はときになによりも雄弁にいまをものがたる
やっぱりSMAPには音楽が必要だし
SMAPだからこそならせるおとが、うたえるうたがあるのだ
あっこちゃんありがとう
あなたのおかげできょうも彼らは音楽とともにありました

『ビニールの城』観劇レポート―森田剛が2016年の渋谷に現出させた”ダメ男・朝顔”の得がたい魅力

腹話術師の朝顔(森田剛)が、行方不明になってしまった相棒の人形・夕顔を探しに、持ち主を亡くした人形たちが集まる倉庫を訪れるシーンで、『ビニールの城』は幕を開ける。

 

はじまってすぐ、膨大なセリフとイメージの応酬に圧倒された。

 

会話の間や余韻をみせるというよりは、舞台上の人たちそれぞれが言いたいこと・吐きたいことをそれぞれにまくしたてる感じ。その言葉ひとつひとつは正体不明の、しかし並々ならぬ強度を持っている。それらが矢継ぎ早に放たれることで、言葉たちがもつ無数のイメージによって心が瞬間瞬間で切り刻まれ、塗り潰されるようだった。

 

これまでも膨大な台詞に圧倒された作品はあったけど、今回は冒頭の数分で、「あ、これはひとつひとつ消化しようとしたら間に合わん、とにかく身を任せてみよう」と頭を切り替えた。結果的にこれは正解だった気がする。

 

どんな作品でもそうだけど、観終えて2週間が経とうとしているいま、すでに舞台の細部は記憶からきれいさっぱり抜け落ちてしまっている。でもあの洪水のような言葉とイメージによってもたらされたある種の“傷”や“痛み”のようなものは、いまも心のなかに沈殿している。そのじんわり残った痛みを頼りに、この作品から受け取ったものを反芻してみたい。

 

*

 

舞台装置として印象に残ったのは、「水」と「ビニール」である。このふたつは相反しあう関係にある。ビニールは水をはじく(前方の客席には、ステージ上の水を避けるためのビニールが用意されていた)。水とビニールはそれぞれ交わることがない存在の象徴のようだった。

 

そのイメージはそのまま朝顔とモモ(宮沢りえ)のあいだの深い断絶につながる。人形の声を聞くため自ら水のなかへとダイブする朝顔と、自らをビニールのなかに閉じ込めることを選択するモモ。そもそもつがなりようがなかった、だからこそ不器用に求めあうしかなかったふたりの抱える悲しさが、意外なほど笑いどころも多かった作品に通底していた。

 

(余談だけど、舞台終盤で夕一(荒川良々)が持ち出す“霧吹き”は、相反しあう水とビニールを通わせることができる可能性のモチーフだったんじゃないかな。それを夕一という男が備えているというのがまた切ないのだけど。案の定、朝顔はそれに気づくことなく彼を遠ざけてしまう)

 

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85年に初演された作品ということで(どうでもいいけど俺が生まれた年だ)、すでに30年以上が経過しているわけだけど、本作のコピー<アンダーグラウンド演劇の最高峰!>にあるようなアングラ臭をいま体感できる喜びもありつつ、作品のテーマとしては現代的な側面もかなり大きかったように思う。

 

腹話術という生業を超えて異常なまでに人形に執着し、その結果他者との距離を測ることに苦しむ朝顔って、今様に言えば“コミュ障”と揶揄されるような男で、彼が抱えているのは、他者への懐疑、社会への懐疑、そして自分自身という存在への懐疑だ。とにかく彼は誰のことも信用していない。

 

彼をほとんど盲目的と言っていいほど一心に思うモモとは対象的に、朝顔は他者との関わりを避け、人形である相棒・夕顔との対話に執着する。劇中でも言及されるように、そこには「腹話術によって語られる夕顔の声はそもそも朝顔自身の声ではないのか」という懐疑がつきまとう。

 

<腹の中の声/腹の外の声>の分断、これは社会と向きあう(向き合わざるをえない)外面の自分と、内に潜む内面の自分の葛藤と読むこともできる。これは2016年のいま、SNSの普及を背景にさらに肥大化しているテーマと言えるだろう。

 

朝顔は人形たちのことを<遠くから来た人>と表現する。人形の声が自分の腹の声=内面を映すものだとすれば、朝顔にとって“自分のほんとうの声”とは肉体からは遠くはなれたところにあって、人形を介することでやっと通信できるようなか細いものなのかもしれない。

 

中盤、水槽の上での長台詞で吐き出されるのは、社会に対する懐疑だ。社会のなかで取り残され、こぼれ落ちてしまう“やるせない者たち”への共感と、そういう者たちを排除する社会への苛立ちや絶望。

 

朝顔が抱えるさまざまな「疑いの目」。この朝顔という人物を2016年のいま渋谷のど真ん中に出現させたこと、そこにはかなり切実なメッセージが込められているように感じた。

 

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とにかく朝顔は終始、周囲の人たちと濃く交わろうとせず、彼のなかには常に夕顔という存在への執着がある。だから彼が物語の主役であることは間違いないのだけど、物語を牽引している感は乏しい(物語の中心にいるのは実は朝顔ではなく、舞台上にいない人形・夕顔だったとすら思う)。

 

そんな極度にナイーブすぎる人物を、しかしこの作品はただただ繊細に描くことはしない。舞台上で朝顔はひたすらに惑い、怒り、混乱し、諦め、苦しむ。その姿は端的に言うとみじめでカッコ悪い。ぶっちゃけて言うとかなりのダメ男である。

 

で、俺はそんな朝顔に不覚にも共感してしまったのだった。そう、さっきからいろいろ書いてきたけど、結局のところいちばん心に残っているのは、超個人的にだけど「つーか、朝顔って、もうひとりの俺じゃん?」とまで言えてしまうほど、朝顔という男に無邪気な共感を覚えてしまったことなのだ(オナニストであることを指摘され「反オナニストです」と頑なに否定するあたりとか、ものすごい親近感 爆)。

 

ラスト、ついにモモ(=自分以外の他者)を求めたにも関わらず、あっけなく別れを告げられる朝顔。ビニールの城に囚われた彼女を呆然と見つめながら、再び人形を抱き目を閉じる朝顔……うーん、朝顔、お前、弱いし、脆いし、情けないなあ。でも、そんなダメ男っぷりをダメなままさらけ出す朝顔に、苦い羨ましさを感じもした。彼のようになりたくはないけど、彼のようになりたい、彼のように生きてみたい、そう思わせる得がたい魅力があった。

 

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さっきも書いたけど、この作品を2016年のいまやる意義を感じる舞台だった。で、この朝顔という男はやはり森田剛だからこその人物造形だったなあとも思う。舞台での彼は初めて見たけど、カラダの使い方こそ本能的という言葉も似合う迫力だったけど、それよりもすごく丁寧に、繊細な演技をする人だなと思った。そして舞台によってまったく違うアプローチをする人なのだろうということも。朝顔というダメ男が共感できるほどの魅力を放ったのは、森田のピュアネスと悲しみが入り交じる佇まいと演技があってこそだった。

 

俺はついに蜷川幸雄の演出による舞台を観ることは叶わなかったけど、彼は、いま、この朝顔という男を森田剛にやらせたかったのだ。森田自身はもちろん、演出の金氏はじめ全キャスト全スタッフがその思いを成就させるべく一丸となった舞台だった。

 

森田剛はとてもすばらしかった。宮沢りえもすばらしかった。そしてそのすばらしさは、彼ら・彼女ひとりひとりだけでは決して成し得なかったものだろう。あらゆる面で、演劇というものだけが持ちうるパワーをそこかしこから感じる作品だった。これだから舞台はおもしろいんだよなあ。野蛮で、猥雑で、悲しくて、贅沢な時間だった。

 

(ちなみに会場で買ったパンフレットがビニールコーティングされたビニ本仕様だったの、芸が細かくて最高! いまだにビニールを破かずに中身を妄想している真性オナニストな俺…)

前田司郎×山田裕貴『宮本武蔵(完全版)』がすんごい面白くてみんな見たほうがいいよこれ(※終了済

 

『宮本武蔵(完全版)』、“完全版”という言葉に偽りなしの、充実の内容だった! 正確には完全版というより別モノと言ったほうがよいかも。や、でも完全に別ってわけでもないしなあ。なにが言いたいかというと、すごい面白かったの! 今回の宮本武蔵!

 

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ストーリーらしいストーリーは特にない。山奥の温泉宿を訪れた宮本武蔵は、そこでさまざまな人物と出会う。その中には、営業トークがうまい男(佐々木小次郎)がいたり、武蔵をいやに慕う人のいい侍見習い(伊織)がいたり、かつて武蔵に義父を殺された過去を持ち血の繋がらない妹(千代)といい仲になっている若い侍(亀一郎)がいたり、武蔵の幼なじみでいい年して侍に憧れている今で言うニート?である温泉宿の倅(狸吉)と結婚した女性(ツル)がいたり。

 

彼らと武蔵の(ほんとうに)とりとめのない会話のなかからしだいに浮かび上がる、宮本武蔵という男の姿とは――(とまとめると真面目な舞台に思えるけど、上演時間の8割くらいはひたすらくだらない会話が続くので、今回も笑いっぱなしだった)。筋はそんな感じ。

 

2012年に上演された五反田団ver.で描かれたのは、今回の1幕、この温泉宿パートまで。つまり後半60分は今回あらたに付け加えられたパートだった。

 

第2幕はいきなり「数年後」というテロップからはじまり、佐々木小次郎が武蔵の名を借りて巌流島で八百長試合を打って出るというストーリーに。ところがニセ武蔵がマンガのような展開で死んでしまい、ついにモノホンの武蔵×小次郎の果たし合いが実現!?と、メジャー公演にふさわしいドラマチックな展開だぜーと盛り上がってきたところで、いきなり冷水をぶっかけられるような急展開により、衝撃と余韻を残しつつ舞台はあっけなく終わるのだった。

 

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完全版になってのもっとも大きな違いは言うまでもなく、演者が全然違っていたことだ。

 

今回山田裕貴さんが演じた宮本武蔵を初演時に演じていたのは、他でもない作・演出の前田司郎さんだった。前田さんって演技そのものがかなりメタ的なアプローチなので、“宮本武蔵を完全口語体&オフビートで描く”というこの作品のアプローチを象徴するように舞台上に存在していて、めちゃめちゃ面白かった。

 

対して今回の山田さんは、そういうメタ的感覚というよりは、前田さんが描く武蔵をすごくまっとうに演じていて、武蔵のキャラクターがなんというか、きちんと掘り下げられていた。武蔵ってただでさえ流動的な作品のなかで、特に軸足をしっかりもたないとブレブレになってしまう恐れもある人物像で、山田さんが最初からずっと舞台上にしっかりと居てくれなかったら、あのラストシーンはできなかったと思う。

 

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五反田団って、「え」「あ」「あ、はい」「え、あー、え?」という、間を埋めるためだけにテキトーに発している(ように見える)相槌(実際はすべて台本に書かれている)や、ムダ話が延々続いている(ように見える)中身のない(ように見える)会話の積み重ねによって、「舞台」という場や「演劇」という概念をことごとく脱臼させていきながら、最終的にはこれこそ演劇としか言えない地点に到達してしまうという、ものすごいアクロバティックなことをやっている人たちだ。

 

で今回、前田さん作品に関わりある人も、そうでない人もいたわけだけど、それらを一緒くたに前田ワールドに染めあげるのではなく、それぞれの解釈を尊重し、舞台上に混在させていて、それがこれまでにないグルーヴを生んでいてすごいよかった。ちゃんと五反田団じゃできない表現になっていたし、このメンバーだからやれること/このメンバーがやるべきことがちゃんとかたちになっていた感。その最たるものが、繰り返すけど今回あらたに書かれたラストシーンである。

 

五反田団verでは、ひたすら笑わされたあとで、武蔵が何でもないように寝込みを襲いあっけなく人を殺すシーンで、この作品の背景にあった「死」をいきなり突きつけられたわけだけど、今回はそのシーンを1幕のラストに置き、そこからはどんどん人が死ぬ。2幕で登場人物のほとんどが死んだんじゃないだろうか。

 

その死に様はどれもあっけなく、そこにドラマなどはない。さっきまでそこで生きていた人が、ただ死ぬだけ。そこではっと気づく。これまでの笑える会話も、あっけなく失われる命も、この作品(=前田さん)の中では等価であり、それらをめちゃめちゃ超・客観視点で描いているにすぎないのだ、ということに。2幕が進むにつれて客の笑いがどんどん乾いていくのがひしひしと伝わった。

 

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だから今回、珍しくドラマチックと言えるシーンが最後に用意されていたのには驚いた。ツルに激しく拒絶され、「自分を守るためにしか人を殺さない」と言っていた武蔵が、彼女に向けて自ら刀を抜いてしまう。そんな武蔵を身を挺して止めるのが、彼に思いを寄せる(と書いていいでしょう)金子岳憲さん演じる伊織だ(金子さんほんっっっっとうまかった。前田さんの金子さんへの信頼が見えるようだった。今回のMVPかも)。

 

この舞台は、武蔵と伊織の決闘シーンから始まる。つまり最初ふたりは殺しあう関係だったのだ。しかし武蔵と行動をともにするうち伊織の中に情がわき、いつしかバディのような関係になっていく。この描き方も前作から付け加えられた部分で、ここが実はすごいでかいポイントだった気がする。

 

だれからも愛されることがない武蔵をただひとり愛した伊織。その思いは浮かばれない運命にある(伊織はゲイであるような描かれ方をしてた。終盤の宿で添い寝するシーン、ゲラゲラ笑いながらも伊織の「…大丈夫?」のセリフが切なかった)。武蔵はツルを、伊織は武蔵を、どんなに求めてもつがならないどうしが、それでもなにかを共有したりする。それがこの浮世というものなのだ。

 

あのラストシーンのあと、ふたりがどうなるかはわからないけど、武蔵の最後のセリフの答えを知っているのはやっぱり伊織なんだと思う。生まれ育ちや身分の差がいまよりもっとシビアだっただろう当時において、このふたりの関係性の描き方には、前田さんの超客観視点のなかにある温かさと悲しみが表れていた気がするなあ。

 

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最後に。大好きな前田司郎ワールドを、イケメンのみなさんで(別に五反田団のみなさんがイケメンじゃないと言っているわけではありません!!!!!)やってくれて、俺得以外のなにものでもなかった。みなさん演技うまいうえにサービスシーン(ありがとうございますありがとうございます眩しかった)もふんだんにあって、すっかりファンになってしまった。

 

俺、イケメンとそうでない人ってやっぱ明確に違うし、ルックスってなんだかんだすごいでかい要素だと思うの。その意味で今回の作品は、顔がいいひとがやることにもちゃんと意味と意義が与えられていた気がして、そこもすごく幸福な作品だったなあと思う。この作品がDVDになるって、前田司郎作品の入門編としてもすごくいいと思うし、というかこれまでの前田さんの仕事の中でも屈指のできだったのでは。商業作品もうやらないかもとか言わないで、こんな作品ならいくらでもみたいわー。あーーーーおもしろかったーーーーー。最高!!

ぼんやりと蘇る「夏の記憶」――映画『ふきげんな過去』がすばらしかった

※最初に。「夏」という季節が好きな人は、見てソンないと思います。それくらいは保証できます。ぜひに。



映画館で見てから数週間というそれなりの時間がたって、ふと思い返してみると、『ふきげんな過去』という映画の記憶は、どこか自分が遠い昔に経験したことのようでもあり、小さいころに見た夢の思い出のようでもある、ぼんやりとした「夏の記憶」として、心のなかに蘇ってきた。


二階堂ふみと小泉今日子が初共演する、という時点で、わかりやすくガール度(©田中裕二)の高い映画にもできたはずだし、そういう作品を想像=期待している人も少なくないと思う。
(というか別に全然ガール度が低い映画というわけでもないんだけど)

で、そういう作品を期待してる人にこそ見て欲しい作品だったりもする。







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徹底して無気力に日常を消化する、二階堂ふみ演じる果子(かこ)。
そんな彼女の前に、小泉今日子演じる死んだはずの伯母の未来子(みきこ)が突如、現れる。
ふたりを中心に生まれる、ひと夏のとりとめもない出来事が描かれる。


まず印象的だったのは、男と女の描き方だ。


画面に映る時間が長いのは、圧倒的に女性たちの姿だ。
女性の持つあっけらかんとした奔放さや、その裏に隠し持った湿度のあるほの暗さ。
この作品の女性たちは、一面的じゃない、だからこそ生々しい生命力のようなものを発している。

そしてその周りにいる男子(男性ではなく男子と呼びたくなる)たちは、そんなエネルギーのまえに成すすべなく佇んだり、すべてを知ってる風を装って苦笑いしたりする。
この作品に出てくる体を欠損している男たちの佇まいは、男といういきものにまとわりつく無力感や諦観の象徴のようで、もの悲しい。

作品全体に、わかりやすい憧れや敬意というのとは違う、なんというか、ばかみたいな言い方だけど、
「女ってすごいなー(いろんな意味で)」
という無邪気かつ本質的な感慨が流れているように思える。
(これは俺が男だからそう感じるのかもしれないけど)



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そしてこれは男女問わず、そしてこの作品に限らず前田司郎の作品に共通するものだけど、人間というものがどうにもマヌケに見えてきてしようがない。

交わされる会話も、起こす行動も、そこには整合性も必然性もない。
とにかくなんだかマヌケ。

そのマヌケさを、無理に肯定もせず、かと言って嫌悪もせず、超俯瞰的な視線で描くことで、「人間って……あーあ(笑)」という、困った笑いが生まれる。

その困った笑いは、映画を見ている自分自身にも向けられるものであるはずなんだけど、不思議と嫌な気分にはならない。
むしろこの作品に漂う困った笑いは、ある種の治癒効果すらあると思う。

マヌケをマヌケなものとしてそこに存在させることで、マヌケを許しているのだ。



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『ふきげんな過去』というタイトルの“過去”は“果子”とダブルミーニングになっていて、果子はとにかくいつも不機嫌で無気力でいつづける。

なににも期待せず、でも気になる男性を尾けてしまうようないじらしさもある、言ってみればどこにでもいる、おとなになる前のこどもな女の子。

この作品では、おとなより未来がある(はずの)こどもに“過去”を思わせる名前が与えられ、死んでいたはずの中年女が“未来”と名づけられている。

実際、果子は清々しいノーフューチャーっぷりを発揮する一方、未来子は危険な爆弾作りに小学生を巻き込む(そして起こった事件に反省する素振りすらない)という、ある意味で現実に対してアグレッシブな姿勢を貫いている。

未来子との出会いによって、果子の中に変化が起こっていく(ように見える)。
ただ、この作品の中で、果子と未来子(=過去と未来)は、別に対立構造として描かれているわけじゃない。
それらは地続きなはずなんだけど、ふとしたことでブツッと途切れてしまったりする、とても不安定なものとして存在している。

そして、そんなものたちの間に流れる「今」という時間が、過去や未来などとは比べものにならないくらい不確かなものに思えてくるのだ。



*



でも、そんな「今」をはっきりと感じられる瞬間もまた、この作品には散りばめられている。

それは
暑かった日の夜にふっと吹く風だったり、
居間で豆の皮を剥くときの音だったり、
夜の海辺に映るビルの明かりだったり、
遠くで爆発する火薬の匂いだったり、
地面に傘の先をガガガガガと擦り付ける音だったりする。

この作品に通底する、どこまでも不確かな「今」という時間の中で、見終えてから数週間経ってなお俺の心に残っているのは、マヌケな人間たちの、マヌケな言動とマヌケな行動のあいだに映し出される、そんなふとした風景や瞬間の積み重ねだった。

そんな些細な積み重ねが、ぼんやりとした、どこかにあるようでどこにもないような「夏の記憶」として、俺の心の中に残っているのだった。



*



俺のなかでこの作品はすでに過去になっている。でも映画は何度も見返すことができる。次にこの作品を見たとき、俺のなかの「夏の記憶」がどう変容するのか、ちょっと不安でもあり、楽しみでもある。



<ふきげんな過去>公式サイト

私信(SMAPでなくなること/SMAPがなくなること)

こんばんは。

みなさんに手紙を書くのはこれがはじめてです。
いや、このブログのいくつかの記事は、すでにみなさんへの手紙のようなものだったかもしれません。
でも、こうやって面と向かってみなさんに向かって何かを書くのは、はじめてです。
とか言いながら宛名がないのは失礼ですかね。
まあでも読めばわかると思いますが。



みなさんが解散すると聞きました。
まだ解散していないので気が早いかもしれませんが、とりあえず。
ここまで、本当に、本当にありがとうございます。
みなさんに出会えたことを、心から幸せに思います。

というか実際のところ、これ以外にお伝えしたいことはないのですが、せっかくなので、もう少し続けさせてください。




解散すると聞いてからまだたったの数日ですが、いろいろなことを考えました。
いまとにかく痛感しているのは、
「SMAPがSMAPでいるということは、要するにどういうことだったのか」
という、そもそものところでした。




自分は『SMAP×SMAP』のメンバー対談企画における、中居さんと香取さんの下記のやり取りがいまでも心に残っています。


「どっち考える? 自分がやりたいことをやって、それを観てもらうライブと、自分はこれちょっと違うかも、と思っても、お客さんが求めてるならそれをやろう、っていうライブ」

「(即答)お客さんだね。すべて、見に来てくれる人だね。だって…そのためにやってる感じだから」


何も見ずに書けるほど暗記してしまったこのやり取り。
アイドルという仕事の業の深さを垣間見た気がして、ここからみなさんの仕事を真剣に追うようになりました。

しかし、俺はみなさんのことをなにもわかっていなかった。
そして、自分自身のことも、やはりなにもわかっていなかったのだと、今回思い知らされました。




人間は、見たいものを見ようとし、見たくないものを見ようとしない生きものです。
きれいな花は花瓶に飾り、汚いゴミはゴミ箱へ捨てる。
それは当然のことかもしれません。

アイドルという人気商売を生業としてきたみなさんは、先述の香取さんの言葉通り、わたしを含むファンのために、あらゆる表現を研ぎ澄ませてきてくれたことと思います。

それが、みなさんのなかで
「わたしたちが見たいものを見せること“だけ”に徹する」
という行為と、どれだけ同質なものであったかは、俺にはわかりません。

しかしいま、解散というカードが切られてから、大勢の人から「こんなSMAPが見たい(=こんなSMAPは見たくない)」という欲望が、皮肉にも過去最大級かというほど、とめどなく溢れつづけています。(それは言うまでもなく、俺の中にも起こっていることです)



メンバー内で不仲が原因で分裂したSMAP
事務所内で孤立し、その不和が原因で分裂したSMAP
何年も前から崩壊していたSMAP
自らグループの看板を下ろしたがっていたSMAP


事務所の策略にはめられ解散を余儀なくされたSMAP
マスコミも牛耳られ本当の声を届けられないでいるSMAP
本人の意志とは関係ないのに解散させられる可哀想なSMAP
メンバー間もファンとの間も固い信頼で結ばれているSMAP



これらはすべて、みなさんへの「思い」であることには変わりありません。
みんなそれぞれの中に、それぞれが見たいSMAPがいるのです。
それぞれのSMAPを、“自分の中に”見ているのです。

俺は、SMAPとは、シンプルにみなさん5人(6人)の集合体のことを指すことばだと思っていました。
しかし、それは違いました。
ひとりひとりの心の中にいる「自分が見たいSMAP像」を重ねることで、はじめてSMAPは完成するのだと、いまさら気づきました。

そして言うまでもなくその一端を他でもない俺も担っていたのだということを、よりによってこんなタイミングで気づかされたのでした。

みなさんがSMAPでいつづけてきたということが、どんなに過酷なものだったのか。
自分には想像すらつきません。




みなさんは、ある楽曲でこんなふうに歌っていましたね。



<あなたのために出来る事は 僕が僕であり続ける事>



この歌詞に倣ってというわけではないですが、解散の知らせを知って以来、自分はとにかく心がしっくりくるところを探しています。
これは社会的にとか、道義的にとか、そういうことではなくて、俺個人の心にしっくりくることってなんだろう、つまりはこの件を受けたうえで“俺が俺であること”ってなんなんだろう、ということを、考えてみているのです。



まずはほとんど反射的に、この状況の原因と言われているものたちを憎んでみましたが、これはすぐになんか違うと思ったのと、どうにも疲れてしまい、長続きしませんでした。

つぎにとにかく悲しい気持ちに浸ってみましたが、これもうまくハマりませんでした。

かたちあるものはいつか終わるんだ、と達観してもみましたが、これも背伸びしすぎだったみたいでダメでした。

僕が僕であり続ける事。とても難しいです。
自分のことが、この世界中でいちばんわからないのに。



なので、そのとっかかりとして、いま自分がぼんやり考えているのは、みなさんがいま俺の姿を見たとして、そのときどんな自分でありたいか、ということです。

いま俺は、みなさんのことを想像しています。
いまどんな気持ちでいるのだろう。いまどんなふうに俺のことを見るのだろう。
そのとき想い浮かべているのは、あくまで俺の中にある、俺が見たいSMAPの姿ですが。

勝手な想像をお許し下さい。
俺が思うSMAPは、きっといま、僕らにこんなことを言いたいんじゃないかと、勝手にそう思っています。




「みんな、ひとりしかいない自分を大切に、自分の人生を大切にして、生きていってください」




どうでしょう。意外と遠からずな気もしているのですが。
「またお前らは勝手なことばっか言うなあ」と呆れているでしょうか。
そもそも答え合わせはできないですけどね。
でも、いまに限らず、こんなようなことを、俺はみなさんからさまざまなかたちで受け取ってきた気がしているんです。俺の思うSMAPって、そういうことを心から思っている、そういう人たちなんです。




どうもこの手紙の終わりが見えてきません。
やっぱりまだ全然混乱してるし、やっぱり悲しいし、なんだかよくわからないままに、よくわからないものを書いてしまいました。こんな手紙をもらっても迷惑でしょうね。すみません。

これからの4ヵ月ちょっとのあいだに(あるいはその先もずっと)また書く気がしているので、とりあえず今回はこの辺で。



最後に。俺はSMAPが終わることはないと思っています。
思っているというか、終わりません。終わらないですよ。絶対に。



みなさんが「SMAPでなくなる」ことと、「SMAPがなくなる」ことは、断じて同義ではありません。これは生まれたてのガキでもわかる、めっちゃめちゃ簡単なことです(よね?)。



自分は『愛が止まるまでは』という曲を聴いたときに、SMAPにとっての終わりとは、一体どういうことなんだろう、という疑問を持ちました。
しかし、いま、はっきりと確信できます。
SMAPが解散しても、SMAPは終わらない。終わるはずがない。
そのことはみなさんがいちばんよくわかっているのではないでしょうか。
もしかしたら僕らのほうが、そのことに気づくのが遅いかもしれません。




また手紙を書きます。
お前になんか言われたくねーよと思われるであろうことを承知で言います。
こちらのことは、なにも心配いりません。
明日も、明後日も、どうかお元気で、どうかよい人生を。
そしてこれからも、どうぞよろしく。

おれもまたヤギの群れの一匹なのか――「ゴーゴーボーイズ ゴーゴーヘブン」を見たぞおお

『ゴーゴーボーイズ ゴーゴーヘブン』。すごかったーすばらしかったーーーーーーー!!!
いまここでこれを見られてよかったと思える舞台だった。


*


舞台は、クーデターによって自爆テロが乱発する中東(と思われるどこかの国)と、事務所のしがらみでかんじがらめになる芸能界でてんやわんやの日本。ふたつの国をめまぐるしく行き来しながら物語が展開する。

とある事情から武装集団に捕えられてしまった先輩・ヤギ(吹越満)を救出するべく、単身彼の国に乗り込む永野(阿部サダヲ)と、そこで出会ったクラブ・コナジュースの男娼・ゴーゴーボーイズのトーイ(岡田将生)による逃避行。

一方、日本で永野の帰りを待つ永野の妻・ミツコ(寺島しのぶ)は、芸能事務所のマネージャー・オカザキ(岡田・二役)と関係を持ちながら、しだいに夫への愛が暴走してゆく。

遠く離れたふたつの国の出来事がしだいに交錯していく。というより、そもそもはるかな距離があるように思える(=思い込んでいる=そう思い込みたい)ふたつの国の間にそもそも距離なんて存在しておらず、我々はすでにどこにいても本質的には変わらない“戦場”にいるのだ、というメッセージが、あちこちから噴き出してくる。


*


そんなふたつの世界の橋渡しとして大きな役割を担ったものとしてまっさきに挙げたいのが岡田さんの演技だった。

無垢な悲しさをまとった美しい(ほんとうに美しい!)男娼・トーイと、担当する女優と寝ながら仕事は割りきってこなす今どきの若者・マツオカ。正反対、表裏一体のふたりを見事に演じ分けながら、終盤に近づくにつれ、死への執着を強めるトーイの表情にオカザキの影が宿るような瞬間があってゾクッとした。

つーか、こんなに舞台映えする俳優さんだったとは! 百戦錬磨の俳優陣のなかで全然気圧されることなく立ち続けていた。(見たのが千秋楽だったんだけど、最後の挨拶のキョドりっぷりがギャップありすぎて可愛かった 笑)

また、とにかくめまぐるしい展開に振り落とされそうになったときに適切なガイドラインを引いてくれたのは、伊藤ヨタロウさん率いる演奏陣の歌と音楽だった。

黒い着物に身を包んだ美しい女性たちがベンベンかき鳴らす三味線と、伊藤さんの朗々とした歌が、混沌とした世界観をさらにかき回しつつも、ストーリーを整理してくれる役割も担っていて、生演奏であることも含め音楽面でもゼイタクな舞台だった。

役者さんはもうすごすぎうますぎ。特に吹越さん、なんだろうあの不穏な感じ。佇まいが不穏。阿部さん、寺島さんもすごかったなあ。つかみんなすごかった。すごい(語彙)!


*


岡田さんの美しさを筆頭に、ゴーゴーボーイズたちをはじめとする男たちの肉体がさまざまなシーンでまぶしくはじける、ゲイの俺には眼福としか言いようのない舞台だった(尻見せ&キスシーンもふんだん!)けど、同時に戦時下におけるマイノリティの扱いにもガシガシ踏み込むシビアさが突き刺さった。

「誰かのために踊る」ことだけを努めてきたボーイズたちが「戦うんじゃない、殺せばいいんだ」と人殺しを命じられる件は、どうにもやりきれなかった。

現状への皮肉や批判精神もたっぷり。もろ安倍首相と思われる日本のトップが動画サイトの画面のなかで「自己責任」という言葉を連呼するさなか、ただの風俗ライターでありながら人質となってしまったヤギ先輩は武装集団にあっけなく殺されてしまう。彼を助けるために1億円の身代金が支払われることはない。

また内戦で四肢をもがれた男性(松尾)の姿が顕になった際の「これは…笑っていいのか?」という観客(=おれ)の微妙な空気と、それをすぐさま言葉にしてしまう松尾さんの台詞に背筋が凍った(フロアの空気も一瞬凍った気がした)。どんなものでも笑います/笑えます/だってそのつもりで来たんですから、というこちらの取り繕った上辺などすべて見透かされているのだ。

そんなヒリヒリどころかリアルすぎて笑えない設定のうえで繰り広げられる、もうメチャクチャというかくだらなすぎるギャグの数々。執拗にいじられる(というかDISられる)日芸ネタ(おれ日芸出身です…笑)、絶対にうまく座れないイス、モチベーションを保てない現地ガイド(岩井秀人さん最高 笑)、唐突に登場する楳図先生、あー全部思い出せないのが悔しい! つーかなんなんだよ大麻吸う太郎って……笑。

ゲラゲラ笑いながら、暴力的なまでにくだらないギャグと、きびしすぎる現実のギャップは後半になるにつれてよりビビッドになっていく。

登場シーンから爆笑を生んでいた皆川猿時さん演じるゴーゴーボーイズたちの振り付け担当バグワンが戦時下になるとコロッと権力にころがるさまは、ああいうひょうきんかつ世渡り上手な男のリアルな生き様という感じで、絶妙にイヤーな感じがすごくよかった。


*


観終えて思うのは、日本と彼の国という舞台に象徴されるように、いまここ/ここではないどこか、という異なるふたつの世界をどう捉えるか、というようなことだ。

ヤギ3頭と引き換えに売られた少年=ゴーゴーボーイズたちは、ケツにGPSを埋め込まれ、いつでも管理下に置かれている。逃げ出せば待っているのは死だ。

中盤で登場する、吹越さん演じる「集団のなかで目覚めてしまったヤギ」は、「メーメー言いながら思考することを放棄したヤギたち」と争い、そこから逃げようとする。

永野とその妻ミツコも、それぞれ理由は違うけど、異なる世界へと越境してしまう。世界を飛び越えた彼らはひとり残らず、喜劇と悲劇に巻き込まれていく。


*


いまここから、ここではないどこかへと向かう=逃げるということは、どういうことなのか? というか、そもそも“いまここ”とは一体何なんだろう? そもそもどこか=それこそヘブン、天国へ逃げることなんて、ほんとうに可能なんだろうか?

話が進むごとに、観ている自分の足元が危うくなっていく。劇場に入るまではここにしっかり立っていたはずなのに。それもただ何も考えず、メーメー言いながら考えることを止めていただけだったのか?

黒目が横に伸びてしまった(=何を見ているのかわからない=何も見ようとしていない?)ヤギというモチーフがラストに再び登場するとき、いまの日本、そしてそこに生きるわたしたちの姿を痛烈に突きつけられる。「自由がないって、こんなに安全なんですね」という台詞を、いまこの国に生きる俺たちが笑えるはずがない。

ヘブンを目指し歌い踊り続けたボーイズたちは、結果どこにたどりついたのだろう。つーか、おれにとってのヘブンって、どこだっけ?


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これでもかというほど現在進行形の舞台だった。休憩込みで3時間超。パンフに「問題作」と書かれるような内容ながら、アングラ臭や難解さは皆無で、ちゃんと(というのも変だけど)エンタテインメント性が残る作品に仕上がっているのがなによりすごい。

なんといっても、これまでの松尾スズキ作品のなかでも一番見やすかったのだ。それでいて攻撃力は弱まるどころか、鋭さを増している。

つまり誰にでも進められるし、誰もがそれにぞれに重いショックをうけるだろう作品だということで、これはすごい。すごい作品を見た。「いま・ここ」で、これを見られてよかった。




追記

無謀にも千秋楽の日に立ち見当日券を求めたものの、あえなく玉砕。しかたなく帰ろうとしたところ、男性の方に呼び止められ、なななんとコクーンシートのチケットを譲っていただけたのだった。終演後すぐにお帰りになられてしまったのでちゃんとお礼も言えず……。ほんとうに、ほんとうにありがとうございました。おかげさまで、こんなすごい作品に出会うことができました。ありがとうございました!!!!!!!!!!!!!!11

スキマスイッチの持つ“牙”―「POPMAN'S CARNIVAL」の『僕と傘と日曜日』を聴いて



スキマスイッチの最新ツアー「POPMAN'S CARNIVAL」が

<ふたりがいまやりたい曲をやる>

というコンセプトのツアーだということは事前に本人の口からも公言されていて、それを知って俺は、ある種のゆるさも湛えつつ、自ずと趣味性が濃い内容になるのかしらん、とかぼんやり想像していたんだけど、結果的にその想像はいとも簡単に、どんがらがっしゃーーーんと覆されたのだった。
端的に言うとエグいほどガチなライブだったのだ。


*


サポートメンバー(もはやこの言い方もどうなんだ感あるほど)とのリレーションシップは、あらゆるアブノーマルなプレイを試し尽くした果てにセックスの快感に回帰しめちゃくちゃやりまくる変態熟年夫婦みたいな域(なんだそれ)に達していて、過去曲のリアレンジの多さも含め、スキマスイッチ=大橋+常田という図式が霞むほど“チーム・スキマスイッチ”の存在感が全面に出たライブだった。

それが端的かつ笑えるほどあからさまに出たのがアンコールでの『デザイナーズ・マンション』のしつこすぎる(とあえて言うw)ソロ回しで、あれが全然というかむしろ「アリ」、となるのがいまのスキマスイッチのライブなのだ。


まあうまい。とにかくうまい。もうみんな激ヤリチン。
そんなヤリチンたちが好き勝手にやりまくるのだ。気持ちよくないはずがない。
(重要なのは、ヤリチンたちが思う存分やりまくれる懐の深さを、スキマスイッチの楽曲が湛えている、という事実なんだけど)

とは言え、バンドのうまさについてはとっくの昔からめちゃうまだったわけで、あとスキマスイッチが変態やりまくりおじさんであることもすでに自明も自明なわけで、俺が今回のツアーに新鮮に震撼した理由は少し別のところにある。


*


いきなりですが、ポップスって多くのひとに聴かれる前提で作られる音楽じゃないですか。
それってものすごいエゴイスティックな行為だと思う。
自分がいいと思う音楽を作って、それを多くのひとに聴いてほしい、あまつさえ人前に出て歌い演奏して盛り上がって欲しいって、どんだけだよと。



で、今回披露された『僕と傘と日曜日』という曲は、最新オリジナルアルバム『スキマスイッチ』のなかでも抜群にポップなメロディと共感しやすい歌詞で構成されていて、シングルカットされても全然おかしくない、ポップスとしてめちゃクオリティの高い曲だと思う。
(とは言え音源の時点でそもそもかなり変な曲ではあるんだけど)

しかし今回のツアーで演奏されたその曲は、そんな音源ともまったく違った表情をみせていた。
もっと言えば昨年のツアー時とも全然違っていた。
ひと言で言えば、過剰なのだ。



明らかに逸脱している。
何から逸脱しているのか。耳馴染みよく、心地よく聴けるポップスという枠からだ。



曲本体に入る前のドラムソロ。不穏である。
この曲の大事な骨格であるシンプル&ミニマムなリズムをいきなり脱臼させ、サビまで隠すべきはずのこの曲の凶暴性をチラ見せする気味の悪さ。

ラストの大サビのアンサンブルは、まさに打ち付ける豪雨のようにこちらが為す術もない無力感を感じるほどの圧倒的な力を見せつけながらも、ほんの少しバランスが崩れただけですべてが崩壊してしまうような危うさもある。

しかしそんな危険な轟音から聴こえてくるのは、どこまでもキャッチーなメロディと、胸を締め付ける“ポップス然”としたことばたちなのだ。



めちゃめちゃアホみたいな言い方すると、エモすぎるし、エグすぎるんですよ。
多くのひとに無難にまんべんなく聴かせようとしたら、あのアレンジにはならないと思う。



や、うーん、違う。
スキマスイッチには、自分たちがポップスをやっているという自覚と自負がある。
で、あえて、やっているのだ。ああいうゾッとするほど恐ろしいことを。


*


ポップスをやる男たちが繰り広げる、一夜のカーニバル。
なんとも絶妙なツアータイトルをつけたもんだなと、今さらながら思う。

ツアーのキャパも含め、シンボルマークになっているテントさながらに、ある種密室的な共犯関係のもとに作られた感もあった今回のツアーで、ミュージシャンとしては“閉じる”気配などまっっっっっっっっっったくなかったけど、普段は隠している「牙」を、いつもより多めに見せてくれた気がするのは、こういう性質のツアーだったからこそかもしれない。

そんな鋭い牙の先端が放つ鈍い輝きが、次のスキマスイッチの作る音楽にどんな影響をおよぼすのか、早く次の音楽を聴きたくてしょうがない。
湯水のように新曲が生まれているということなので、よろしくお願いしますよー!

森田はなぜ「こちら側」を恐怖させるのか――『ヒメアノ~ル』が問いかけるもの

すっごく変わった映画だった。とんでもない怪作だし、名作だった。観てよかった。



この作品でおおきな比重を占める森田剛演じる森田によるいくつもの殺人シーンは、どれもものすごく丁寧というか実直に描かれていて、言い方は変だがある意味朴訥としてすらいる。「人を殺すってこういうことか」という、妙に腑に落ちる感覚もあった。

人を殴る/人が殴られるさまをじっくりと見せてくれることで、変な言い方だが森田がそのつど「ちゃんと殺している」のがわかるし、彼ら・彼女らが「ちゃんと殺されている」のが伝わる。その結果、森田の“生”も、彼らの“死”も、どこか等価のものに映るのだ。そんな森田の暴力の異様なまでの説得力が、とにかく怖かった。

それは殺人シーンだけでなく、前半のラブコメシーンを含むこの作品全体に通底するものだ。予告編やキャッチコピーで謳われていた「日常と狂気が交錯する緊迫の99分」というフレーズ。俺には交錯というより、日常と狂気はずっと前から当たり前にそこに存在していた、そんなふうにも感じた。



森田が人を殺すその朴訥とした様は、変な話、日常的とも言える佇まいだ。息をするように人を殺す。そんな森田の脅威にもともとあった日常を脅かされていく周囲の人間の姿に、そもそも当たり前にあると感じていた「こちら側の日常」こそ、いつ壊れてもおかしくない非日常だったのではないか、そう思えてきてしまう。そこには主従関係はないし、因果関係すらない。どちらもこの世界に、なんの理由もなく、ただ等しく存在するものである。

そんな世界観を作り上げたのは、先述した殺人シーンに顕著なように、無駄な感情描写を排し、徹底的に「目の前で起きていること“のみ”」を捉えようとする演出と、それに応えた俳優陣の演技の賜だろう。森田を演じた森田剛をはじめ、全員がその役割を極めて精度高くまっとうする仕事っぷりをみせ、このストレンジな世界観を成立させていた。



登場人物の行動や発言、その結果起こるできごとをただただ映し出していくことで、あらゆるシークエンスが、極めてフラットに差し出される。そこに意味やメッセージはない。そこにあるのは、「こういうものですよね、世界って」という、そっけない問いかけだ。



この作品でもっとも不可解な存在が、森田だ。森田が作中でみせる行動の理由というか動機が、俺には最後までよくわからなかった。森田は嘘を付く。森田は食事をする。森田は歩く。森田は刺す。森田は殴る。森田は人を殺す。そのすべてに、明確な理由を見つけることはできない。

森田が凶行に走るバックボーンとして、あるエピソードが描かれはする。濱田岳演じる岡田を含め複数の登場人物の口からもそれは語られるし、さらにラストシーンでのシークエンスもそのひとつの手がかりになり得るのだとは思う。でも俺には、そういった森田の過去の断片たちと、なんのひっかかりもなしに台所の包丁を手に取る現在進行形の森田の姿は、最後まで結びつかなかった。



森田の怖さは、「なにを考えているかわからない人間が一番怖い」というのとは、違う。いくつかのヒントを与えられているのに、俺は最後まで森田にたどり着くことはできなかったし、たどり着ける気すらしなかった。しかし、森田は、<「こちら側」が決してたどりつけない「対岸」にいるようにも、思えない>のだ。

森田という男の存在感が森田剛によってもたらされたものが大きかったことは言うまでもないだろう。作品のなかでの森田剛を観ていると純粋に動揺してしまう瞬間がいくつもあって、それは単純にイッちゃってるとか狂ってるという便利な「箱」に仕舞えるたぐいのものではなく、逆にそういった言語化を拒む、得体の知れない質感をもっていた。彼の演技があってこそ、森田の不穏な存在感が際立ったことは間違いない。

そんな人物造形は、森田という人物への共感や理解はおろか、把握といったレベルすらも拒んでいるように思える。明確なバックボーンを持ち復讐に燃える殺人鬼、またはなんの理由もなく快楽に身を任せ殺人を繰り返すシリアルキラー。そういった安易な「キャラクター」に収束させることなく、ただそこにいるひとりの人間として森田を描いたこと。

それこそが「こちら側」から見るととてつもない恐怖なわけだが、しかしそんな恐怖の先に行き着くのは、やはり「こういうものですよね、世界って」という、ぶっきらぼうな問いかけなのだ。



俺にとってあのラストシーンは救いでも絶望でもなく、森田のなかに、そしてこの世界にいくつも存在する断片のひとつでしかない、そう映った。そのことに幸せも不幸もない。

「こちら側」を徹底的に破壊されたあとで見せつけられた、あのシークエンス。美しいBGMを聴きながら、俺は呆然とするしかなかった。俺は一体なにを見せられているんだろう。



森田と岡田の会話が耳に入ってくる。どこにでもあるような、でもかつて確かにあった、ふたりのあいだでだけかわされた、いくつかの無垢な言葉たち。



そんな森田と岡田の会話も、そして、金属バットで何度も何度も何度も何度も殴られ光を失う女の目も、何度も何度も何度も何度も突き刺され血に滲んでいく男の背中も、その包丁を握った同じ手で食べかけのカレーを掬う森田の手もまた、等しくこの世界に存在するものなのだ。



ラストシーンの神々しいほどの光を放つ美しさは、99分のなかで俺の心のなかにドス黒く沈殿していた森田の影を、よりいっそう色濃く際だたせるのだった。



白い光のなかで肩を並べる森田と岡田の背中を見ながら、俺にはなにがなんだか、さっぱりわけがわからない。そんな「わからなさ」を抱えた世界、そして自分自身と向き合って、改めてその「わからなさ」を見渡してみること。『ヒメアノ~ル』を通して俺はそんな経験をしたのだと思う。



すっごく変わった映画だった。とんでもない怪作だし、名作だった。観てよかった。