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『re:Action』へのリアクション――スキマスイッチへ13色の質問状

スキマスイッチの楽曲を、奥田民生、小田和正、KAN、GRAPEVINE、澤野弘之、SPECIAL OTHERS、田島貴男(ORIGINAL LOVE)、TRICERATOPS、フラワーカンパニーズ、BENNY SINGS、真心ブラザーズ、RHYMESTERという、敏腕かつ強烈な個性を持った12組のアーティストがリアレンジしたアルバム『re:Action』。

 

このアルバムを聴いていると、ふたりに聞きたいことが次々に出てくる。そしてこんなにも濃密で豊かな作品ながら、スキマスイッチの「次」の音楽が無性に待ち遠しくなってくるのだ。というわけで今回は収録曲13曲にちなんで、来るはずのない答えを妄想しながら、スキマスイッチへ13の質問を考えた。

 

 

 

Q1:『re:Action』<ただの遊びに見えて遊びじゃないんだ>というRHYMESTER・Mummy-Dのリリックのとおり、単なる企画モノとして片付けるにはあまりに濃密なコラボレーションが詰まった作品に仕上がっていますが、その特徴のひとつに、ある一定のキャリアを築いているアーティストやバンドがラインナップされていることが挙げられると思います。

 

音の世界観が明確に確立されたアーティストでないと成立しない企画であることは前提として、いわゆるニューカマー・新世代的なアーティストを排し、同世代~先輩世代に絞った理由はなんですか?

 

 

 

 

Q2:スキマスイッチはデビュー以来大橋卓弥と常田真太郎のふたりによるユニットという形態で活動されていますが、『ナユタとフカシギ』以降の作品とライブでは、サポートメンバーとの“チーム・スキマスイッチ”としてのバンド感やグルーヴの比重が高まっており、特に近作の楽曲では『僕と傘と金曜日』や『LINE』などそこからのフィードバックが如実に感じられる楽曲も増えてきているように感じます。

 

しかしどんなに優れたサポートとは言えやはりパーマネントなバンドではないわけで、そういう意味で今回長きに渡ってバンドとしての表現を追求してきたアーティストの仕事を目の当たりにして改めて感じること、例えば羨ましさや嫉妬のような思いを感じる瞬間はありましたか?

 

 

 

 

Q3:参加したアーティストからすれば、スキマスイッチの楽曲のなかでいかに自身の表現を成立させるかというハードルがあるわけですが、スキマスイッチ側からすると、セルフ・プロデュースを貫いてきたなかで生み出したアレンジを他者に超えられるかもしれないという可能性もあります。今回の楽曲の中で、「やられた、この手があったか」と思わされたり、自身のアレンジを超えられたと感じた楽曲はありますか?

 

 

 

 

Q4:2014年のアルバム『スキマスイッチ』でミニマムなボリュームながらを含めセルフタイトルに相応しい渾身の作品とライブツアーを完成させたあと、B面集『「POPMAN’S ANOTHER WORLD」』、充実のシングル『LINE』を挟みつつ、過去曲のリアレンジを中心としたツアー「POPMAN’S CARNIVAL」を経ての今作となりますが、「POPMAN’S~」ツアーから今作への流れはまっさらな新しい楽曲を生み出すよりも、過去の楽曲=自身に再び向き合うという側面に重きをおいた活動となっているように感じます(かかる時間や手間を考えると現実的ではないですが、まったくの新曲を各アーティストとコラボレーションするという手もあったはずです)。

 

『re:Action』というタイトルは、スキマスイッチの楽曲に対する各アーティストからのリアクション、それに対するスキマ側からのリアクションという意味合いとともに、あえて「re」と冠した理由としては、もちろん過去の楽曲を再びアクションさせるという意味はあるとして、スキマスイッチ自体がアルバム『スキマスイッチ』以降、新曲制作ではないなにかしらのアクションを求めていて、再びスキマスイッチの表現をアクションさせるために必要な行程として展開されているプロジェクトと捉えることもできます。

 

スキマスイッチがいま過去楽曲のリアレンジや他者とのコラボレーションに向かった理由のなかのひとつとして、例えば新しい表現に向き合う中で現状のスキマスイッチに対してある種の停滞のような、次へ進むために超えなければならない課題やハードルを自覚していて、より自身の表現をアクションさせるためのカンフル剤としてこの方法を選んだ、というような動機は(たとえわずかでも)あったのでしょうか?

 

 

 

 

Q5:上記のような仮説を立ててはみたものの、おふたりがなんらかの停滞を感じているとはとても思えないほど、音楽というものに対して過去最高潮に楽しく向き合っているスキマスイッチの姿が今作には記録されています。

 

複数のアーティストが自身の楽曲を演奏するという面ではカバーアルバムやトリビュートアルバムと構造こそ似ていますが、ボーカルは大橋卓弥のみで一貫しているからこそ、各アーティストの表現の本質的な魅力がよりビビッドに伝わってきて、聴くたびに多くの発見がありますが、逆に言うと、そのようなアーティストの本質を引き出したのは、紛れもなくスキマスイッチの楽曲であり、いま全身で音楽を楽しんでいるおふたりの姿勢であるとも思います。

 

今回多彩なアーティストとコラボレーションすることで、逆説的に見えてきたスキマスイッチの楽曲の魅力や、おふたりそれぞれの表現者としての他に負けない強み、他にはない得難さのようなものを再発見した瞬間はありましたか?

 

 

 

 

Q6:さらに振り返ると2012年のセルフカバーベストアルバム『DOUBLES BEST』も、ふたりだけという縛りのなかで自身の楽曲を再構築する試みであったことを考えると、そもそもおふたりは過去の自身の表現に向き合う機会が比較的多いように感じます。過去に生み出した表現と向き合うとき、「これを作った俺って偉い」というような自負と、「なんでこうしちゃったんだろう」という後悔、どちらを感じる瞬間が多いですか?

 

 

 

 

Q7:今作では、アレンジ・演奏はほぼ各アーティストが担当し、ボーカルは大橋さんが担当されたことで、常田さんはレコーディングを見学に徹する時間も多くあったようですが、以前インタビューでストリングスアレンジに関してとても苦労された経験があるとお話されていましたが、今回一歩引いたところで各アーティストの表現に接して、演奏家・アレンジャーとして得るもの、または自身を省みる瞬間はありましたか?

 

 

 

 

Q8:今回参加したアーティストはバンド・ソロそれぞれに素晴らしいボーカリストでもある方たちが揃っていますが、各アーティストからのボーカルのディレクションで、大橋さんが特に印象に残ったものはなんですか? また今作の制作を通して、歌をうたうということそのものに対する考え方やスタンスに影響はありましたか?

 

 

 

 

Q9:先述したとおり、近年のスキマスイッチのライブには強力なグルーヴを持つサポートメンバーの存在が欠かせませんが、今作のレコーディングで、今後一緒にライブを作ってみたいと感じたミュージシャンとの出会いはありましたか?

 

 

 

 

Q10:Q9の質問をした意図は、近年の活動からスキマスイッチは「変わること」をより肯定的に捉えていると感じることが多く、今作はまさにそういう姿勢が顕著に現れた作品であると思うからです。アーティストがキャリアを重ねる過程で、変わること/変わらないことのバランスにどう折り合いをつけながら、さらにどう必然性をもたせるかはひとつのポイントになると思いますが、おふたりはスキマスイッチとしての表現について、この部分はいくらでも変わってもオッケー、でもここは変えずにいこう、というようなラインを意識することはありますか?

 

 

 

 

Q11:スキマスイッチとしての活動をはじめてから今まで、自身のなかに「理想の音楽像」「理想のアーティスト像」のようなものを持ったことはありますか? またスキマスイッチに対しての理想像はありますか? それはおふたりのなかで共有されているのでしょうか?

 

 

 

 

Q12:これまで生み出した楽曲のなかで、いちばん納得がいっていない曲はなんですか? その理由はなんですか? その曲をいまリアレンジするとしたら、どのようなアプローチを考えますか?

 

 

 

 
Q13:個人的に、いまこの世界は混乱し、正常な判断を失いつつあり、とてもいい状態であるとは思えません。しかし、だからこそ芸術は自由であるべきだし、それを受け止める自分はできる限りの力と意思でそこに真摯に向き合い続けたいと考えています。おふたりはいまこの時代に音楽を生業とすること、またそれが“POP”であることの意味や意義を考えることはありますか?

 

 

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“らしさ”という先入観を無効化する、固有のおいしさ――大阪「かく庄」に行った

大阪・福島駅の近くにある「かく庄」というお店に行ってきた。最高だった。

 

いただいたのは、たこ玉焼(正式名称失念…)、豚の生姜焼き定食、生ビール、ハイボール。

 

かく庄は、お好み焼き・鉄板焼きのお店だ。

 

お好み焼きと聞いて、みんなが想像する「お好み焼きの味」というものがある。

 

で、そういう「みんなのなかで共有されているお好み焼きの味」を確実に提供するタイプの店が、名店と呼ばれることが、しばしばある。

 

そういう店のお好み焼きはしばしば「お好み焼きといったらあの店だよね」とか「あの店のお好み焼きを食べると、あーお好み焼きを食べたって感じがするんだよね」とか「あの店こそお好み焼きのよさが詰まってる、お好み焼きらしいお好み焼きだよね」などと評されたりする。

 

お好み焼きの部分は入れ替え可能で、アイドルでもポストロックでもBLでも魔法少女ものアニメでもなんでもいいので置き換えてみると、それぞれにそういう名作が浮かんでくる。

 

一方で、ジャンルの壁を飛び越える、というような賞賛の仕方をされるものもある。

 

その場合は、「これはもはやお好み焼きの概念を超えたよね」とか「お好み焼きらしくないからこそお好み焼きクラスタ以外にも届く」とか「お好み焼きの枠を壊すことで、逆にお好み焼きの魅力を再発見させられる」とか言われたりする。これもお好み焼きの部分は代替可能だ。

 

で。かく庄で食べたものたちは、ここまで書いたようなことがすべてどーーーーーーーーーでもよくなるようなおいしさを発揮していた。

 

たこ玉焼の、玉子のふわふわととろとろのグラデーションや、ぶつ切りのたこの火の通し方や、上にかかったソースの辛みと甘みの塩梅。

 

豚の生姜焼き定食の、玉ねぎのエッジの焦げ方や、やわらかな豚肉へのタレの絡み方や、鉄板の上で熱を帯びた付け合せの千切りキャベツの佇まいや、付け合せのみそ汁の滋味。

 

そのどれもに、こちらの先入観をしなやかに無効化し、やさしく新世界へと誘ってくれる、それぞれそのものにしかない、固有のおいしさがあった。生ビールやハイボールにすら、そんな個々の輝きが宿っているようだった。

 

料理の写真を撮るのを忘れるほど夢中で食べて、店をあとにした。

 

腹ごなしに寒空の大阪の街を歩きながら、考えた。「○○らしい」とか「○○の枠を超えた」みたいな物差しもいいけど、そのものにしかない美しさを見つけていきたいなあ。

 

おいしいものをひたすら食ったという多幸感で満たされながら、スッと姿勢を正されたような気持ちになった。

 

これからなにかに迷ったときは、かく庄の、かく庄にしかないあの味を思い出そうと思う。最高だった。また行きたいな。

2016年12月19日『SMAP×SMAP』――「BISTRO SMAP」に最後の客が訪れた

5人(かつては6人だった)のシェフが切り盛りする『BISTRO SMAP』に最後の客がやってきた。

 

彼はかつて大きな「終わり」を経験した。その終わりのあと、すぐさま世界を旅し、さまざまな音楽や文化に触れた話を、いままさにひとつの大きな「終わり」を迎えようとしている者たちに、必要以上にも思える軽妙な語り口で披露した。


彼は「一生ふざける」と言った。


「そもそもなんで終わるんですか?」
「バラエティは残酷ですね」

 

ふたりのシェフがそう言って涙を流したあの日を思い出す。あの終わりの日も、周りで涙を流す人たちの中心で、少し困ったような笑顔を含みながら、誰よりもふざけていたのが他でもない彼だったことを、思い出す。

 

そのときの映像を観て、「もうずいぶん前のような感じがするな」と彼は言った。


永遠とも思える時間も、一瞬のうちに過ぎてしまう時間も、等しく彼方へと過ぎ去ってしまう。

 

彼は大きな終わりを経験した。そして彼はいま、徹頭徹尾ふざけたこと言いながら、いままさに終わりを迎えようとするシェフたちが作った飯を、地味に食っている。

 

知らなかった音楽。味わったことのない料理。終わることで見える景色がある。終わらせることでしか見られない世界がある。


「そもそもなんで終わるんですか?」


その問いに彼は答えなかった。いま、彼に、俺はこう聞きたい。そもそも「終わる」とは、なんなのだ?

 

「人生に判定など必要ない」と。彼は言った。

「最後だからこそ、勝ち負けをはっきりと」と食い下がったレストランのオーナーに、彼はそれでも譲らなかった。

 

人生に判定など必要ない。

それはもっと正確に言うならば、「人生に判定などつけようがない」ということなのではないか。


それがなにによるものだったとしても、この世界には終わるものがある。そしてそこからはじまるものがある。彼はシェフたちにそう伝えるために、このレストランに訪れたように見えた。

 

「俺の人生、全部ひっくり返った人生だ」と、彼は言った。

 

彼の名は、何度も何度も何度も何度もひっくり返して、やっと呼べるようになるらしい。5人のシェフはこの夜、何度も何度も彼の名前を愛おしそうに呼んだ。

エマーソン北村『ロックンロールのはじまりは』――荒野を歩む僕らのサウンドトラック

 

エマーソン北村の新譜『ロックンロールのはじまりは』を聴いた。すっっごくいい!

 

早くそのすばらしさについて書きたいのだけど、まずはこのアルバムと出会うきっかけとなった、ある夏の思い出から書いておきたい。

 

 

今年何度目かの「RISING SUN ROCK FESTIVAL」に行った。俺が知る限り地球上でもっとも最高(日本語下手)なフェスだ。

 

いつもフォレストのテントサイトに立てられる友だちのテントにお邪魔していて、エマーソン北村は毎年そのフォレストでライブをしている。


入場時にはウェルカムライブをやっているし、ライブアクトとしても毎年演奏しているので、自分はRSRに毎年行っているわけではないけれど、行くたびに彼の演奏を耳にしていた。

 

なので、RSRに行った年は必ずといっていいほど彼の演奏を聴いているはずなのだけど、今年のそれは俺にとって特別なものになった。

 

フェス初日、カンカン照りの朝っぱらに入場したときのウェルカムライブが妙に耳に残ったのと、2日目の朝、またしてもピーカンのもとでのステージがとってもとってもよかったのだ。最初はテントで椅子に座りながら音漏れを聴いていたのに、あまりによくてステージ近くまで走ってしまったほど。

 

それは単純に、あのときの俺にあのときの彼の音がフィットしたってことなのだと思うけど、とにかく数々のアーティストの名演が繰り広げられたフェスのなかで、あの北海道の朝の強い日差しのなかで聴いた彼の音が、じんわり心に残ったのだった。

 

そのときのMCでも告知されていたのが、『ロックンロールのはじまりは』だ。

 

 

 

シンセやエレクトリック・オルガンの演奏と打ち込みのリズムを基調としたインストが6曲。冒頭の表題曲で、何処かからの通信音のような単音からはじまったのちの、エレクトロニクスによるノイジーな展開に耳を引かれた。アルバムタイトルが冠されているだけあって、この曲の肌触りがアルバムのムードを象徴している。

 

どの曲も、どんなにポップなメロディでも音の質感はどれもけっこうザラついている。音色そのものは柔らかなのだけど、音の輪郭はエッジがたっていて、耳に掠れる感じ。それがいい。

 

 

まあ毎日どこもかしこも、誰も彼も、ヒリヒリしている時代なわけで。少し気を抜いたらほんとうにあっけなく死んじゃったりする、そういう世界になってきていると思う。おおげさじゃなく。

 

『ロックンロールのはじまりは』にはそんな日々に疲弊した心が休まるグッド・メロディもたくさん入っている。が、それをただ優しく鳴らすのではなくて、「毒をもって毒を制す」ではないけど、この時代にフィットする響きでもって鳴らしている。それがこのアルバムのノイジーな手触りで、音ひとつひとつの強度がすごいし、説得力がある。一見物腰は柔らかいが、すごくタフな音楽だと思う。

 

なんというか、殺伐とした荒野を歩んでいくためのサウンドトラックとして、なんとも絶妙に最適な湯加減なのだ。誰も扇動せず、誰にも媚びないメロディたち。そんな音楽に『ロックンロールのはじまりは』という題がついているのは、個人的にはすごくしっくりくる。

 

それで言うと後づけかもしれないけど、今年のRSRは、フェスの享楽性より、現実世界のなかでいかに音楽とともに立っていくか、というようなことを考えさせられる場面が多くて、いま思うと彼の演奏が、あのときの自分のそういうメンタルとリンクした部分があったのかもしれない。とにかくいまこの音楽に出会えたことは、この音がいまの自分に必要だったからなんだろうな、と思う。

 

 

で、そういうあれやこれやをまったく考えなくてもそれはそれで全然問題なくて、記名性・作家性が高い作品であると同時に、聴く人の毎日を彩ってくれるBGMとしても、めちゃめちゃいい。早くiPhoneに同期していろんな風景にこのアルバムを連れ出したい。

 

表題曲から、RSRのステージでもまっさきに耳に残ってMVも作られているリード曲『帰り道の本』への流れが最高。そこで一気に引き込まれたあとは、あっという間の21分。コンパクトだけど曲の密度は濃厚で、満足感は高い。このサイズ感にも必然と確信を感じる。あとスカ~レゲエっぽいリズムが多いこともあってか、かなり踊れるのもいい。(RSRのステージで見たときもビール片手に踊りまくった。最高だったなー) ライブにも絶対行こう。

 

しかし、『帰り道の本』、ほんっっっっっっとにいい曲だなあ……。完璧に俺の心にフィットしてしまった。毎日口ずさんでいる。年が終わろうとしているときに、新しい音楽に出会える喜びは格別だ。ひとまずは自分勝手に聴き込んだあとで、同封された長めのブックレットを読んで、さらに作品を味わっていきたい。またひとついい音楽に出会ったぞー!

 

(余談。こちら↓アルバム収録の1曲。カバーなんだけど原曲がRIP SLYME『雑念エンタテインメント』の元ネタと知ってマジかー!と。無知だからこそこういう発見は嬉しい。好きなものはつながるのね)

 

SMAPの25周年ベスト盤&クリップ集ジャケデザイン見てめちゃめちゃアガった理由

ベスト・アルバム『SMAP 25 YEARS』とミュージック・ビデオ集『Clip! Smap! コンプリートシングルス』のジャケットデザインが公開された。端的に言って素晴らしい。

 

http://smap25years.com/

 

クレジットを確認できていないが(※追記 発表されたようです→http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161119-00000001-dal-ent)、おそらくほぼ確実に佐藤可士和によるデザインはそれぞれ、2001年発表のベスト盤『Smap Vest』と2002年発表のMV集『Clip! Smap!』の延長線上にある。

 

2000年のアルバム『S map ~SMAP014』から始まった佐藤氏とSMAPとの蜜月関係。その最初期であり、もっとも攻撃的で先鋭的だった(と個人的には思っている)コンセプトをいまもう一度やってみる、という試みは、「なんだ、やっぱ結局あの頃が最高だったんじゃん」という凡庸な感想を持たれかねないリスクを、「でも、や、というか、いまだからこそこそやるんだよ」という一点突破によって、ものすごいクオリティで完遂している。

 

ファンの投票によって選曲されたベスト盤と、レア映像を含むクリップ集。しかもこの解散というタイミングでのリリースである。しかし本作たちのデザインに余計な情緒や感傷は皆無である。いや、正確に言うと少なくとも表出しているデザインそのものには皆無である。

 

だからこそファンは、白地に黒い色で微妙に途切れてデザインされた「smap」という文字列や、いかにも無造作に(しかし見れば見るほど気持ちいいバランスの配置で)ばらまかれたゼムクリップたちに、それぞれの情緒や、人によってはある種の感傷をかさねることができるのだ。

 

特にCDジャケットについて、smapという文字列は完璧に表示されておらず、認識できるギリの範囲でトリミングされている。これは“「SMAP」というかたち”がすでに不定形になっていることを示唆している。

 

そのアプローチは『014』当時にもあったもの(SMAPという文字列を記号化することで、彼らをアイドルとしてではなく“媒介者=メディア”として扱うというアプローチ)だが、これを“いま”再び“反復”することで、当時とはまた別の意味合いを帯びてくる。

 

SMAPはその長いキャリアにおいて“反復”することを避けてきたアーティストだ。いわゆる勝ちパターンをなぞることをせず、常に新しい価値を求めているようなスタンスがあったし、そこがアイデンティティの一角になってすらいると思う。

 

それはデザインワークに関しても同じで、『014』から『裏スマ』まで続いた極端なミニマムがマキシマムへと反転するポップアートさながらの方法論は、それ以降のアルバムへ引き継がれつつも、各作ごとに新たなチャレンジを図っていた。が、そのアウトプットの結果は、当初ほどの鋭さを持ち得ていたかというと個人的に疑問は残る(それはデザインのみの問題ではなく作品のコンセプトそのものに依るところも大きいが)。

 

しかし、じゃあそこで安易に過去の反復に走ったところで、結果は火を見るより明らかだ。だからこそ今回のデザインワークの鮮やかさと潔さに驚かされた。

 

ここには自虐も諦めも投げやりもない。「これこそ現在進行形のSMAPの表現だろ」という確信が宿っている。つまり、余計な情緒や感傷といったわかりやすく消費されるシンボルを掲げるのではなく、いまこそ万人の想いを受け止め、映し、きらめかせる“媒介”としてのSMAPを再び現出させるという試みだ。

 

その行為は、今年の『SMAP×SMAP』における、自曲を一切歌わず他者の音楽に身を委ねさらに拡張させる役割に徹することで、逆説的に彼らにしかなし得ない方法でSMAPの表現を更新し続けていることにも通じるアティテュードである。というか順番としては逆で、『014』の時点でそういった姿勢が顕在化していたというほうが正確なのだろう。

 

そしてそんなことが可能だったのは、SMAP自身の力はもちろんのこと、長きに渡って彼らを支える優れたクリエイト・チームの存在があってこそだということ。今回のアートワークを見て、その想いを改めて深くしたのだった。というか今さらだけど、全員、本気だ。当たり前だ。だってSMAPが解散すんだぜ。こんなに本気にさせられる状況、ほかにねーだろ。そう言わんばかりのジャケなのだ。もっかい言う。素晴らしい。

 

(というか真面目っぽく書いてきたけど『広告批評』の広告SMAP特集読んでスマップすげー!ともろに影響受けてきたover30おじさんにはほんとに嬉しいデザインだったぜええええ早くこのポスターとビルボードで街が染まる光景が見たいいいいいいい)

2016年9月5日、SMAPと矢野顕子は「ひとつだけ」をうたった

あっこちゃんはいつも笑顔であのうたをうたってくれて
おれたちはそれをみていっしょに笑顔になったり
どうしようもなく泣いたりするわけだけど
きょうあっこちゃんと一緒にあのうたを歌うSMAPは
すごくシリアスな視線と力のこもった歌声を表出させていて
それはどこかなにかを覚悟したふうなたたずまいにも見えた

そこに余計な他意はなくて
あれはきっとSMAPなりのあのうたへの批評だったのだと思う

香取慎吾のソロにあっこちゃんのハミングが重なった瞬間

これまで何度も何度も何度も聴いてきたこのうたの

まだしらなかった表情に出会えた気がした

やさしいだけじゃない、あたたかいだけじゃない

なんでこのうたを聴くと涙が出てしまうのか

とっても深いところにあるその理由に触れた気がした

いまのおれたちはこのうたをシリアスにとどけたいんだ
それはいまゲストとしてやってきたあっこちゃんへの
5人の責任の取り方だったのだろうし
彼らにそうさせた『ひとつだけ』といううたと
矢野顕子という表現者のすごみを
あらためて思い知らされるパフォーマンスだった
音楽はときになによりも雄弁にいまをものがたる
やっぱりSMAPには音楽が必要だし
SMAPだからこそならせるおとが、うたえるうたがあるのだ
あっこちゃんありがとう
あなたのおかげできょうも彼らは音楽とともにありました

『ビニールの城』観劇レポート―森田剛が2016年の渋谷に現出させた”ダメ男・朝顔”の得がたい魅力

腹話術師の朝顔(森田剛)が、行方不明になってしまった相棒の人形・夕顔を探しに、持ち主を亡くした人形たちが集まる倉庫を訪れるシーンで、『ビニールの城』は幕を開ける。

 

はじまってすぐ、膨大なセリフとイメージの応酬に圧倒された。

 

会話の間や余韻をみせるというよりは、舞台上の人たちそれぞれが言いたいこと・吐きたいことをそれぞれにまくしたてる感じ。その言葉ひとつひとつは正体不明の、しかし並々ならぬ強度を持っている。それらが矢継ぎ早に放たれることで、言葉たちがもつ無数のイメージによって心が瞬間瞬間で切り刻まれ、塗り潰されるようだった。

 

これまでも膨大な台詞に圧倒された作品はあったけど、今回は冒頭の数分で、「あ、これはひとつひとつ消化しようとしたら間に合わん、とにかく身を任せてみよう」と頭を切り替えた。結果的にこれは正解だった気がする。

 

どんな作品でもそうだけど、観終えて2週間が経とうとしているいま、すでに舞台の細部は記憶からきれいさっぱり抜け落ちてしまっている。でもあの洪水のような言葉とイメージによってもたらされたある種の“傷”や“痛み”のようなものは、いまも心のなかに沈殿している。そのじんわり残った痛みを頼りに、この作品から受け取ったものを反芻してみたい。

 

 

舞台装置として印象に残ったのは、「水」と「ビニール」である。このふたつは相反しあう関係にある。ビニールは水をはじく(前方の客席には、ステージ上の水を避けるためのビニールが用意されていた)。水とビニールはそれぞれ交わることがない存在の象徴のようだった。

 

そのイメージはそのまま朝顔とモモ(宮沢りえ)のあいだの深い断絶につながる。人形の声を聞くため自ら水のなかへとダイブする朝顔と、自らをビニールのなかに閉じ込めることを選択するモモ。そもそもつがなりようがなかった、だからこそ不器用に求めあうしかなかったふたりの抱える悲しさが、意外なほど笑いどころも多かった作品に通底していた。

 

(余談だけど、舞台終盤で夕一(荒川良々)が持ち出す“霧吹き”は、相反しあう水とビニールを通わせることができる可能性のモチーフだったんじゃないかな。それを夕一という男が備えているというのがまた切ないのだけど。案の定、朝顔はそれに気づくことなく彼を遠ざけてしまう)

 

 

85年に初演された作品ということで(どうでもいいけど俺が生まれた年だ)、すでに30年以上が経過しているわけだけど、本作のコピー<アンダーグラウンド演劇の最高峰!>にあるようなアングラ臭をいま体感できる喜びもありつつ、作品のテーマとしては現代的な側面もかなり大きかったように思う。

 

腹話術という生業を超えて異常なまでに人形に執着し、その結果他者との距離を測ることに苦しむ朝顔って、今様に言えば“コミュ障”と揶揄されるような男で、彼が抱えているのは、他者への懐疑、社会への懐疑、そして自分自身という存在への懐疑だ。とにかく彼は誰のことも信用していない。

 

彼をほとんど盲目的と言っていいほど一心に思うモモとは対象的に、朝顔は他者との関わりを避け、人形である相棒・夕顔との対話に執着する。劇中でも言及されるように、そこには「腹話術によって語られる夕顔の声はそもそも朝顔自身の声ではないのか」という懐疑がつきまとう。

 

<腹の中の声/腹の外の声>の分断、これは社会と向きあう(向き合わざるをえない)外面の自分と、内に潜む内面の自分の葛藤と読むこともできる。これは2016年のいま、SNSの普及を背景にさらに肥大化しているテーマと言えるだろう。

 

朝顔は人形たちのことを<遠くから来た人>と表現する。人形の声が自分の腹の声=内面を映すものだとすれば、朝顔にとって“自分のほんとうの声”とは肉体からは遠くはなれたところにあって、人形を介することでやっと通信できるようなか細いものなのかもしれない。

 

中盤、水槽の上での長台詞で吐き出されるのは、社会に対する懐疑だ。社会のなかで取り残され、こぼれ落ちてしまう“やるせない者たち”への共感と、そういう者たちを排除する社会への苛立ちや絶望。

 

朝顔が抱えるさまざまな「疑いの目」。この朝顔という人物を2016年のいま渋谷のど真ん中に出現させたこと、そこにはかなり切実なメッセージが込められているように感じた。

 

 

とにかく朝顔は終始、周囲の人たちと濃く交わろうとせず、彼のなかには常に夕顔という存在への執着がある。だから彼が物語の主役であることは間違いないのだけど、物語を牽引している感は乏しい(物語の中心にいるのは実は朝顔ではなく、舞台上にいない人形・夕顔だったとすら思う)。

 

そんな極度にナイーブすぎる人物を、しかしこの作品はただただ繊細に描くことはしない。舞台上で朝顔はひたすらに惑い、怒り、混乱し、諦め、苦しむ。その姿は端的に言うとみじめでカッコ悪い。ぶっちゃけて言うとかなりのダメ男である。

 

で、俺はそんな朝顔に不覚にも共感してしまったのだった。そう、さっきからいろいろ書いてきたけど、結局のところいちばん心に残っているのは、超個人的にだけど「つーか、朝顔って、もうひとりの俺じゃん?」とまで言えてしまうほど、朝顔という男に無邪気な共感を覚えてしまったことなのだ(オナニストであることを指摘され「反オナニストです」と頑なに否定するあたりとか、ものすごい親近感 爆)。

 

ラスト、ついにモモ(=自分以外の他者)を求めたにも関わらず、あっけなく別れを告げられる朝顔。ビニールの城に囚われた彼女を呆然と見つめながら、再び人形を抱き目を閉じる朝顔……うーん、朝顔、お前、弱いし、脆いし、情けないなあ。でも、そんなダメ男っぷりをダメなままさらけ出す朝顔に、苦い羨ましさを感じもした。彼のようになりたくはないけど、彼のようになりたい、彼のように生きてみたい、そう思わせる得がたい魅力があった。

 

 

さっきも書いたけど、この作品を2016年のいまやる意義を感じる舞台だった。で、この朝顔という男はやはり森田剛だからこその人物造形だったなあとも思う。舞台での彼は初めて見たけど、カラダの使い方こそ本能的という言葉も似合う迫力だったけど、それよりもすごく丁寧に、繊細な演技をする人だなと思った。そして舞台によってまったく違うアプローチをする人なのだろうということも。朝顔というダメ男が共感できるほどの魅力を放ったのは、森田のピュアネスと悲しみが入り交じる佇まいと演技があってこそだった。

 

俺はついに蜷川幸雄の演出による舞台を観ることは叶わなかったけど、彼は、いま、この朝顔という男を森田剛にやらせたかったのだ。森田自身はもちろん、演出の金氏はじめ全キャスト全スタッフがその思いを成就させるべく一丸となった舞台だった。

 

森田剛はとてもすばらしかった。宮沢りえもすばらしかった。そしてそのすばらしさは、彼ら・彼女ひとりひとりだけでは決して成し得なかったものだろう。あらゆる面で、演劇というものだけが持ちうるパワーをそこかしこから感じる作品だった。これだから舞台はおもしろいんだよなあ。野蛮で、猥雑で、悲しくて、贅沢な時間だった。

 

(ちなみに会場で買ったパンフレットがビニールコーティングされたビニ本仕様だったの、芸が細かくて最高! いまだにビニールを破かずに中身を妄想している真性オナニストな俺…)

前田司郎×山田裕貴『宮本武蔵(完全版)』がすんごい面白くてみんな見たほうがいいよこれ(※終了済

 

『宮本武蔵(完全版)』、“完全版”という言葉に偽りなしの、充実の内容だった! 正確には完全版というより別モノと言ったほうがよいかも。や、でも完全に別ってわけでもないしなあ。なにが言いたいかというと、すごい面白かったの! 今回の宮本武蔵!

 

 

ストーリーらしいストーリーは特にない。山奥の温泉宿を訪れた宮本武蔵は、そこでさまざまな人物と出会う。その中には、営業トークがうまい男(佐々木小次郎)がいたり、武蔵をいやに慕う人のいい侍見習い(伊織)がいたり、かつて武蔵に義父を殺された過去を持ち血の繋がらない妹(千代)といい仲になっている若い侍(亀一郎)がいたり、武蔵の幼なじみでいい年して侍に憧れている今で言うニート?である温泉宿の倅(狸吉)と結婚した女性(ツル)がいたり。

 

彼らと武蔵の(ほんとうに)とりとめのない会話のなかからしだいに浮かび上がる、宮本武蔵という男の姿とは――(とまとめると真面目な舞台に思えるけど、上演時間の8割くらいはひたすらくだらない会話が続くので、今回も笑いっぱなしだった)。筋はそんな感じ。

 

2012年に上演された五反田団ver.で描かれたのは、今回の1幕、この温泉宿パートまで。つまり後半60分は今回あらたに付け加えられたパートだった。

 

第2幕はいきなり「数年後」というテロップからはじまり、佐々木小次郎が武蔵の名を借りて巌流島で八百長試合を打って出るというストーリーに。ところがニセ武蔵がマンガのような展開で死んでしまい、ついにモノホンの武蔵×小次郎の果たし合いが実現!?と、メジャー公演にふさわしいドラマチックな展開だぜーと盛り上がってきたところで、いきなり冷水をぶっかけられるような急展開により、衝撃と余韻を残しつつ舞台はあっけなく終わるのだった。

 

 

完全版になってのもっとも大きな違いは言うまでもなく、演者が全然違っていたことだ。

 

今回山田裕貴さんが演じた宮本武蔵を初演時に演じていたのは、他でもない作・演出の前田司郎さんだった。前田さんって演技そのものがかなりメタ的なアプローチなので、“宮本武蔵を完全口語体&オフビートで描く”というこの作品のアプローチを象徴するように舞台上に存在していて、めちゃめちゃ面白かった。

 

対して今回の山田さんは、そういうメタ的感覚というよりは、前田さんが描く武蔵をすごくまっとうに演じていて、武蔵のキャラクターがなんというか、きちんと掘り下げられていた。武蔵ってただでさえ流動的な作品のなかで、特に軸足をしっかりもたないとブレブレになってしまう恐れもある人物像で、山田さんが最初からずっと舞台上にしっかりと居てくれなかったら、あのラストシーンはできなかったと思う。

 

 

五反田団って、「え」「あ」「あ、はい」「え、あー、え?」という、間を埋めるためだけにテキトーに発している(ように見える)相槌(実際はすべて台本に書かれている)や、ムダ話が延々続いている(ように見える)中身のない(ように見える)会話の積み重ねによって、「舞台」という場や「演劇」という概念をことごとく脱臼させていきながら、最終的にはこれこそ演劇としか言えない地点に到達してしまうという、ものすごいアクロバティックなことをやっている人たちだ。

 

で今回、前田さん作品に関わりある人も、そうでない人もいたわけだけど、それらを一緒くたに前田ワールドに染めあげるのではなく、それぞれの解釈を尊重し、舞台上に混在させていて、それがこれまでにないグルーヴを生んでいてすごいよかった。ちゃんと五反田団じゃできない表現になっていたし、このメンバーだからやれること/このメンバーがやるべきことがちゃんとかたちになっていた感。その最たるものが、繰り返すけど今回あらたに書かれたラストシーンである。

 

五反田団verでは、ひたすら笑わされたあとで、武蔵が何でもないように寝込みを襲いあっけなく人を殺すシーンで、この作品の背景にあった「死」をいきなり突きつけられたわけだけど、今回はそのシーンを1幕のラストに置き、そこからはどんどん人が死ぬ。2幕で登場人物のほとんどが死んだんじゃないだろうか。

 

その死に様はどれもあっけなく、そこにドラマなどはない。さっきまでそこで生きていた人が、ただ死ぬだけ。そこではっと気づく。これまでの笑える会話も、あっけなく失われる命も、この作品(=前田さん)の中では等価であり、それらをめちゃめちゃ超・客観視点で描いているにすぎないのだ、ということに。2幕が進むにつれて客の笑いがどんどん乾いていくのがひしひしと伝わった。

 

 

だから今回、珍しくドラマチックと言えるシーンが最後に用意されていたのには驚いた。ツルに激しく拒絶され、「自分を守るためにしか人を殺さない」と言っていた武蔵が、彼女に向けて自ら刀を抜いてしまう。そんな武蔵を身を挺して止めるのが、彼に思いを寄せる(と書いていいでしょう)金子岳憲さん演じる伊織だ(金子さんほんっっっっとうまかった。前田さんの金子さんへの信頼が見えるようだった。今回のMVPかも)。

 

この舞台は、武蔵と伊織の決闘シーンから始まる。つまり最初ふたりは殺しあう関係だったのだ。しかし武蔵と行動をともにするうち伊織の中に情がわき、いつしかバディのような関係になっていく。この描き方も前作から付け加えられた部分で、ここが実はすごいでかいポイントだった気がする。

 

だれからも愛されることがない武蔵をただひとり愛した伊織。その思いは浮かばれない運命にある(伊織はゲイであるような描かれ方をしてた。終盤の宿で添い寝するシーン、ゲラゲラ笑いながらも伊織の「…大丈夫?」のセリフが切なかった)。武蔵はツルを、伊織は武蔵を、どんなに求めてもつがならないどうしが、それでもなにかを共有したりする。それがこの浮世というものなのだ。

 

あのラストシーンのあと、ふたりがどうなるかはわからないけど、武蔵の最後のセリフの答えを知っているのはやっぱり伊織なんだと思う。生まれ育ちや身分の差がいまよりもっとシビアだっただろう当時において、このふたりの関係性の描き方には、前田さんの超客観視点のなかにある温かさと悲しみが表れていた気がするなあ。

 

 

最後に。大好きな前田司郎ワールドを、イケメンのみなさんで(別に五反田団のみなさんがイケメンじゃないと言っているわけではありません!!!!!)やってくれて、俺得以外のなにものでもなかった。みなさん演技うまいうえにサービスシーン(ありがとうございますありがとうございます眩しかった)もふんだんにあって、すっかりファンになってしまった。

 

俺、イケメンとそうでない人ってやっぱ明確に違うし、ルックスってなんだかんだすごいでかい要素だと思うの。その意味で今回の作品は、顔がいいひとがやることにもちゃんと意味と意義が与えられていた気がして、そこもすごく幸福な作品だったなあと思う。この作品がDVDになるって、前田司郎作品の入門編としてもすごくいいと思うし、というかこれまでの前田さんの仕事の中でも屈指のできだったのでは。商業作品もうやらないかもとか言わないで、こんな作品ならいくらでもみたいわー。あーーーーおもしろかったーーーーー。最高!!

ぼんやりと蘇る「夏の記憶」――映画『ふきげんな過去』がすばらしかった

※最初に。「夏」という季節が好きな人は、見てソンないと思います。それくらいは保証できます。ぜひに。



映画館で見てから数週間というそれなりの時間がたって、ふと思い返してみると、『ふきげんな過去』という映画の記憶は、どこか自分が遠い昔に経験したことのようでもあり、小さいころに見た夢の思い出のようでもある、ぼんやりとした「夏の記憶」として、心のなかに蘇ってきた。


二階堂ふみと小泉今日子が初共演する、という時点で、わかりやすくガール度(©田中裕二)の高い映画にもできたはずだし、そういう作品を想像=期待している人も少なくないと思う。
(というか別に全然ガール度が低い映画というわけでもないんだけど)

で、そういう作品を期待してる人にこそ見て欲しい作品だったりもする。











徹底して無気力に日常を消化する、二階堂ふみ演じる果子(かこ)。
そんな彼女の前に、小泉今日子演じる死んだはずの伯母の未来子(みきこ)が突如、現れる。
ふたりを中心に生まれる、ひと夏のとりとめもない出来事が描かれる。


まず印象的だったのは、男と女の描き方だ。


画面に映る時間が長いのは、圧倒的に女性たちの姿だ。
女性の持つあっけらかんとした奔放さや、その裏に隠し持った湿度のあるほの暗さ。
この作品の女性たちは、一面的じゃない、だからこそ生々しい生命力のようなものを発している。

そしてその周りにいる男子(男性ではなく男子と呼びたくなる)たちは、そんなエネルギーのまえに成すすべなく佇んだり、すべてを知ってる風を装って苦笑いしたりする。
この作品に出てくる体を欠損している男たちの佇まいは、男といういきものにまとわりつく無力感や諦観の象徴のようで、もの悲しい。

作品全体に、わかりやすい憧れや敬意というのとは違う、なんというか、ばかみたいな言い方だけど、
「女ってすごいなー(いろんな意味で)」
という無邪気かつ本質的な感慨が流れているように思える。
(これは俺が男だからそう感じるのかもしれないけど)







そしてこれは男女問わず、そしてこの作品に限らず前田司郎の作品に共通するものだけど、人間というものがどうにもマヌケに見えてきてしようがない。

交わされる会話も、起こす行動も、そこには整合性も必然性もない。
とにかくなんだかマヌケ。

そのマヌケさを、無理に肯定もせず、かと言って嫌悪もせず、超俯瞰的な視線で描くことで、「人間って……あーあ(笑)」という、困った笑いが生まれる。

その困った笑いは、映画を見ている自分自身にも向けられるものであるはずなんだけど、不思議と嫌な気分にはならない。
むしろこの作品に漂う困った笑いは、ある種の治癒効果すらあると思う。

マヌケをマヌケなものとしてそこに存在させることで、マヌケを許しているのだ。







『ふきげんな過去』というタイトルの“過去”は“果子”とダブルミーニングになっていて、果子はとにかくいつも不機嫌で無気力でいつづける。

なににも期待せず、でも気になる男性を尾けてしまうようないじらしさもある、言ってみればどこにでもいる、おとなになる前のこどもな女の子。

この作品では、おとなより未来がある(はずの)こどもに“過去”を思わせる名前が与えられ、死んでいたはずの中年女が“未来”と名づけられている。

実際、果子は清々しいノーフューチャーっぷりを発揮する一方、未来子は危険な爆弾作りに小学生を巻き込む(そして起こった事件に反省する素振りすらない)という、ある意味で現実に対してアグレッシブな姿勢を貫いている。

未来子との出会いによって、果子の中に変化が起こっていく(ように見える)。
ただ、この作品の中で、果子と未来子(=過去と未来)は、別に対立構造として描かれているわけじゃない。
それらは地続きなはずなんだけど、ふとしたことでブツッと途切れてしまったりする、とても不安定なものとして存在している。

そして、そんなものたちの間に流れる「今」という時間が、過去や未来などとは比べものにならないくらい不確かなものに思えてくるのだ。







でも、そんな「今」をはっきりと感じられる瞬間もまた、この作品には散りばめられている。

それは
暑かった日の夜にふっと吹く風だったり、
居間で豆の皮を剥くときの音だったり、
夜の海辺に映るビルの明かりだったり、
遠くで爆発する火薬の匂いだったり、
地面に傘の先をガガガガガと擦り付ける音だったりする。

この作品に通底する、どこまでも不確かな「今」という時間の中で、見終えてから数週間経ってなお俺の心に残っているのは、マヌケな人間たちの、マヌケな言動とマヌケな行動のあいだに映し出される、そんなふとした風景や瞬間の積み重ねだった。

そんな些細な積み重ねが、ぼんやりとした、どこかにあるようでどこにもないような「夏の記憶」として、俺の心の中に残っているのだった。







俺のなかでこの作品はすでに過去になっている。でも映画は何度も見返すことができる。次にこの作品を見たとき、俺のなかの「夏の記憶」がどう変容するのか、ちょっと不安でもあり、楽しみでもある。



<ふきげんな過去>公式サイト

私信(SMAPでなくなること/SMAPがなくなること)

こんばんは。

みなさんに手紙を書くのはこれがはじめてです。
いや、このブログのいくつかの記事は、すでにみなさんへの手紙のようなものだったかもしれません。
でも、こうやって面と向かってみなさんに向かって何かを書くのは、はじめてです。
とか言いながら宛名がないのは失礼ですかね。
まあでも読めばわかると思いますが。



みなさんが解散すると聞きました。
まだ解散していないので気が早いかもしれませんが、とりあえず。
ここまで、本当に、本当にありがとうございます。
みなさんに出会えたことを、心から幸せに思います。

というか実際のところ、これ以外にお伝えしたいことはないのですが、せっかくなので、もう少し続けさせてください。




解散すると聞いてからまだたったの数日ですが、いろいろなことを考えました。
いまとにかく痛感しているのは、
「SMAPがSMAPでいるということは、要するにどういうことだったのか」
という、そもそものところでした。




自分は『SMAP×SMAP』のメンバー対談企画における、中居さんと香取さんの下記のやり取りがいまでも心に残っています。


「どっち考える? 自分がやりたいことをやって、それを観てもらうライブと、自分はこれちょっと違うかも、と思っても、お客さんが求めてるならそれをやろう、っていうライブ」

「(即答)お客さんだね。すべて、見に来てくれる人だね。だって…そのためにやってる感じだから」


何も見ずに書けるほど暗記してしまったこのやり取り。
アイドルという仕事の業の深さを垣間見た気がして、ここからみなさんの仕事を真剣に追うようになりました。

しかし、俺はみなさんのことをなにもわかっていなかった。
そして、自分自身のことも、やはりなにもわかっていなかったのだと、今回思い知らされました。




人間は、見たいものを見ようとし、見たくないものを見ようとしない生きものです。
きれいな花は花瓶に飾り、汚いゴミはゴミ箱へ捨てる。
それは当然のことかもしれません。

アイドルという人気商売を生業としてきたみなさんは、先述の香取さんの言葉通り、わたしを含むファンのために、あらゆる表現を研ぎ澄ませてきてくれたことと思います。

それが、みなさんのなかで
「わたしたちが見たいものを見せること“だけ”に徹する」
という行為と、どれだけ同質なものであったかは、俺にはわかりません。

しかしいま、解散というカードが切られてから、大勢の人から「こんなSMAPが見たい(=こんなSMAPは見たくない)」という欲望が、皮肉にも過去最大級かというほど、とめどなく溢れつづけています。(それは言うまでもなく、俺の中にも起こっていることです)



メンバー内で不仲が原因で分裂したSMAP
事務所内で孤立し、その不和が原因で分裂したSMAP
何年も前から崩壊していたSMAP
自らグループの看板を下ろしたがっていたSMAP


事務所の策略にはめられ解散を余儀なくされたSMAP
マスコミも牛耳られ本当の声を届けられないでいるSMAP
本人の意志とは関係ないのに解散させられる可哀想なSMAP
メンバー間もファンとの間も固い信頼で結ばれているSMAP



これらはすべて、みなさんへの「思い」であることには変わりありません。
みんなそれぞれの中に、それぞれが見たいSMAPがいるのです。
それぞれのSMAPを、“自分の中に”見ているのです。

俺は、SMAPとは、シンプルにみなさん5人(6人)の集合体のことを指すことばだと思っていました。
しかし、それは違いました。
ひとりひとりの心の中にいる「自分が見たいSMAP像」を重ねることで、はじめてSMAPは完成するのだと、いまさら気づきました。

そして言うまでもなくその一端を他でもない俺も担っていたのだということを、よりによってこんなタイミングで気づかされたのでした。

みなさんがSMAPでいつづけてきたということが、どんなに過酷なものだったのか。
自分には想像すらつきません。




みなさんは、ある楽曲でこんなふうに歌っていましたね。



<あなたのために出来る事は 僕が僕であり続ける事>



この歌詞に倣ってというわけではないですが、解散の知らせを知って以来、自分はとにかく心がしっくりくるところを探しています。
これは社会的にとか、道義的にとか、そういうことではなくて、俺個人の心にしっくりくることってなんだろう、つまりはこの件を受けたうえで“俺が俺であること”ってなんなんだろう、ということを、考えてみているのです。



まずはほとんど反射的に、この状況の原因と言われているものたちを憎んでみましたが、これはすぐになんか違うと思ったのと、どうにも疲れてしまい、長続きしませんでした。

つぎにとにかく悲しい気持ちに浸ってみましたが、これもうまくハマりませんでした。

かたちあるものはいつか終わるんだ、と達観してもみましたが、これも背伸びしすぎだったみたいでダメでした。

僕が僕であり続ける事。とても難しいです。
自分のことが、この世界中でいちばんわからないのに。



なので、そのとっかかりとして、いま自分がぼんやり考えているのは、みなさんがいま俺の姿を見たとして、そのときどんな自分でありたいか、ということです。

いま俺は、みなさんのことを想像しています。
いまどんな気持ちでいるのだろう。いまどんなふうに俺のことを見るのだろう。
そのとき想い浮かべているのは、あくまで俺の中にある、俺が見たいSMAPの姿ですが。

勝手な想像をお許し下さい。
俺が思うSMAPは、きっといま、僕らにこんなことを言いたいんじゃないかと、勝手にそう思っています。




「みんな、ひとりしかいない自分を大切に、自分の人生を大切にして、生きていってください」




どうでしょう。意外と遠からずな気もしているのですが。
「またお前らは勝手なことばっか言うなあ」と呆れているでしょうか。
そもそも答え合わせはできないですけどね。
でも、いまに限らず、こんなようなことを、俺はみなさんからさまざまなかたちで受け取ってきた気がしているんです。俺の思うSMAPって、そういうことを心から思っている、そういう人たちなんです。




どうもこの手紙の終わりが見えてきません。
やっぱりまだ全然混乱してるし、やっぱり悲しいし、なんだかよくわからないままに、よくわからないものを書いてしまいました。こんな手紙をもらっても迷惑でしょうね。すみません。

これからの4ヵ月ちょっとのあいだに(あるいはその先もずっと)また書く気がしているので、とりあえず今回はこの辺で。



最後に。俺はSMAPが終わることはないと思っています。
思っているというか、終わりません。終わらないですよ。絶対に。



みなさんが「SMAPでなくなる」ことと、「SMAPがなくなる」ことは、断じて同義ではありません。これは生まれたてのガキでもわかる、めっちゃめちゃ簡単なことです(よね?)。



自分は『愛が止まるまでは』という曲を聴いたときに、SMAPにとっての終わりとは、一体どういうことなんだろう、という疑問を持ちました。
しかし、いま、はっきりと確信できます。
SMAPが解散しても、SMAPは終わらない。終わるはずがない。
そのことはみなさんがいちばんよくわかっているのではないでしょうか。
もしかしたら僕らのほうが、そのことに気づくのが遅いかもしれません。




また手紙を書きます。
お前になんか言われたくねーよと思われるであろうことを承知で言います。
こちらのことは、なにも心配いりません。
明日も、明後日も、どうかお元気で、どうかよい人生を。
そしてこれからも、どうぞよろしく。