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香取慎吾×ザキヤマ=『おじゃMAP!!』が大好きな理由――誰かの心に“おじゃま”するということ

そもそも、いつもは適当男キャラを担うアンタッチャブル・山崎弘也がツッコミ役にまわり、さらに自由に振る舞う香取を制するという『おじゃMAP!!』(以下、おじゃマップ)の構図は、番組開始当初から、それ自体が新鮮な仕掛けだった。

はじめは意外にも思えたコンビはすぐに馴染み、番組の色を決定づけていった。

見知らぬ土地や、はじめて出逢う人たちのなかに“おじゃま”していくとき、ふたりの関係性が効いてくる。

香取の天性の人懐っこさと、ザキヤマの誰も傷つけない気持ちよい図々しさは、実は表裏一体とも言えるもので、このふたりだから“おじゃまする”という番組のコンセプトがより立体的に、魅力的に発揮される。このふたりをキャスティングしたスタッフの彗眼はすごい。

香取とザキヤマは、以前はもっとわかりやすくバラエティ然としたキャラクターや役割をそれぞれに果たそうとしていたと思う。それがしだいに、まるで同じ家で育った兄弟のように、長く連れ添った夫婦のように、安直な言葉だが、ふたりのあいだにだけ流れる阿吽の呼吸を獲得していった。

各々がタレントとして培ってきた“技”をこれみよがしに使わずとも、それぞれが絶妙な距離を保って同じ画面にいるだけで、番組のグルーヴが成立するレベルにまで、ふたりの関係性は高まっている。俺が特にそう感じはじめたのは、2016年に入ってからである。

思えば、あの騒動が公になってから、香取がはじめてそのことに番組中で触れたのは、2016年初頭のこの番組で、自由が丘を散策する回だったと記憶している。

それから1年半ほど経った今週、2017年7月19日の放送では、噂されていたという自身の進退と今後について、香取はまたこの番組のなかで発言を行った。

そこでなにを言ったのか、それを言うことにどんな意味があるのかについては、ここでは論じない。

俺が言いたいのは、香取とザキヤマが、自身について、この番組のなかでなにかを語るときの画面から伝わる空気が、とっても好きだということである。

言うまでもなく、彼らの傍らには何台ものカメラが回っていて、その向こうには俺を含む何万、何億もの人々の視線があることを、彼らは知っている。

でもその瞬間、ふたりは、タレントとしてのテクニックや演出的観点はもちろんあるけど、そのうえで、その瞬間に目の前にいるひとに向けて、極力、“ただ”語りかけている。俺にはそう見える。

目の前にいるひとにただ語りかけること。それをただきちんと受け止めること。そしてそれをそのまんま映すこと。それがテレビを通して、『おじゃマップ』という番組を通して、誰かになにかを伝えるうえで最良のやり方であると、香取も、ザキヤマも、スタッフも、きっとそう確信している。俺にはそう思えるのだ。

言ってみれば、ひとになにかを打ち明けるということは、相手の心に“おじゃま”するようなものだ。自分の人生や価値観や心のなかの一部を、他人の心に共有させるのだから。

それは、香取があの騒動について語るときだけではない。上戸彩をゲストに迎え三崎港を巡った回で、昼飯を食べながらザキヤマが家庭での振る舞いについて話すシーン。あれも無意識の“打ち明け話”だったと思う。

話を聞いて香取は「なんか悔しい、イメージアップだよね」とザキヤマをいじった。確かに、タレントとしてのザキヤマのキャラクターとは違う微笑ましいエピソードだった。今週の放送では、限界集落の旅館を整備する作業のなかで、とにかく細かい几帳面な一面を覗かせて、またも香取にいじられていた。

それは、ザキヤマという一面的なタレントとしてのキャラクターとしてではなく、ふと家での自分や、実は几帳面な自分を、さりげなく打ち明けた瞬間だったのではないか。

香取がザキヤマに、またザキヤマが香取に、なにかを打ち明けたときの、それぞれの受け止め方も好きだ。気を使っていないわけではない。むしろ必要以上に気づかいをしてしまうふたりだからこその、照れと敬意と節度をたたえたリアクション。

結局のところ、俺が『おじゃマップ』という番組のなにが好きかというと、見ていて「ああ、俺も香取とザキヤマのように、あんなふうにひとと関わっていたいな」と思えるところだ。

ひとはひとりでは生きていけない。自分以外の誰かの心に、ここではないどこかに、“おじゃま”していくこと。つまり、他者と関わっていくこと。それこそが社会のなかで生きるということだ。

誰かの心に“おじゃま”しようとするとき、ひととして、どうありたいか。

『おじゃマップ』の香取とザキヤマは、その豊かな阿吽の呼吸でもって、そのヒントを伝えてくれるのだ。

<結論は出ない 人間だからね>――やっぱりこの世界には、SMAPの歌が必要なんだ

こないだパワスプを聴いていたら、草彅剛が宇多田ヒカルの『Kiss & Cry』を選曲していてマジでか!!やべーーーーー!となった。

すごい曲なんですよ、これ。

2008年リリースのアルバム『HEART STATION』収録曲で、あの才気が爆発しまくっている作品のなかでも特にブッ飛んでるほうのやつ。

 

 

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宇多田はこの曲のなかで、「キスと涙」、つまりこの世に存在するポジとネガを、表裏一体の存在として歌う。

ふつう応援歌って、悪いこともあればいいこともあるさって感じで、“「いいこと」こそがいいものである”という価値観が前提になっているものがほとんどじゃないですか。というかその前提を崩したら、なにに対して応援してんだかわかんなくなっちゃうか(状況をいいものにするためにするのが応援なので)

でもこの曲で、宇多田はそういうふうには歌わない。

キスと涙、ポジとネガ、どっちかがいいとか、悪いとかじゃない。どっちも存在するのが当たり前。
というかもはやペア。みたいな。切り離すという発想がそもそも間違い。的な。

そんな浮世を、それはもうそういうものとして認めたうえで、サバイブしてこーぜみんな!

『Kiss & Cry』は、そういう感じの歌だ(宇多田とかかってる超面白いやつ)。

これだけでもすごいんだけど、じゃあ宇多田はこの曲の中で、具体的にどうサバイブしていけばよいと歌っているのか。
彼女はこんなやり方を提示する。


<うまくいかなくたって まあいいんじゃない>


えええええええええええーーーーーーー
まあいいんじゃない、で済ますのーーーーーーーーーー
いやいやいや、それじゃすませらんないことばっかでしょ世の中ーーーーーーーー


と思ったそこのあなた!
この歌詞、実際はこうなっている。

<もっと勇気出して もっと本気見せて うまくいかなくなって まあいいんじゃない Kiss and Cry>

勇気出して、本気見せて、それでもうまくいかなくたって、まあいいんじゃない。

勇気を出して、本気を見せて、それでうまくいかない。
ときに人はそんな状況を「絶望」と呼んだりする。

絶望を前に、まあいいんじゃない、と口にすること。


これは一体なんなのだろう?
諦観? ただの投げやり? それとも悟り?


さて、なんでいま『Kiss & Cry』について語っているのかというと、冒頭に戻って、草彅剛がラジオでこの曲をかけたからである。

で、なんで毎週いろんな曲をかけてるなかでこの曲なのかというと、実はSMAPにも似た曲がたくさんあるからだ。

というか俺は、SMAPというポップアーティストのアティチュードは、宇多田の『Kiss & Cry』とほぼ同じといってもいいとすら思っている。


具体的な楽曲を挙げてみる。


まず、過去にブログ(<雨上がり、アスファルトの匂い>――『ユーモアしちゃうよ』を500回聴いて考えた)でも書いてる『ユーモアしちゃうよ』。

 



この曲では、宇多田のいうところの「キスと涙」、つまり「善と悪」「喜びと悲しみ」という対立項が、いとも鮮やかに無効化されている。

この曲の2番ではこんなようなことが歌われる。


「風がそよいで君の髪が香る、ふと星空を見上げたら、イチョウの木にぶつかって超痛い」

「そんな僕を見て吹き出した君がふと見せた涙、その理由は聞かないよ、でも悪いけどすごいキレイだった」


例えば


ふと星空を見上げる行為=美しい

涙を流す行為=悲しい


こういう定型的なイメージをうまく利用して、その体をなしている表現物がある。

特にヒットチャートを主戦場とするポップスであれば、多くの人の共感を得るためにステレオタイプな物言いがあえて使われることは多い。そこが腕の見せ所なわけだけど。


で、SMAPは『ユーモアしちゃうよ』のなかで、星空見上げたら頭ぶつけることあるよね、君がなんでか知らないけど流してるその涙キレイだって思っちゃうことあるよね、と言っている。

「善と悪」「喜びと悲しみ」なんてふとした瞬間にひっくり返るし、感情は一面的なものではない。世界ってそういうふうにできているものだよね、と歌っているわけだ。




もうひとつ。これもブログ(いまこそ「たぶんオーライ」を聴こう――無責任で無根拠、だからこそ響くSMAPの“呪文”)で前に書いた『たぶんオーライ』。


『たぶんオーライ』で歌われる主人公の生活は、ごく平凡ではあるが、実はかなりしんどく厳しいものだったりする。

「余計な仕事を押し付けられて、案の定ミスが山積み、そりゃまあ申し訳ないけど…」

この社会のどこにでも転がっている日常の風景ではあるが、とは言えこの現実は、ひとりひとりの心の中を確実にすり減らしていくものでもある。つまり、日常こそがいちばん身近な戦場である、そんな現状認識が通底している楽曲なのだ。

そんな現実に対してSMAPが放つのが、「たぶんオーライ」なのである。

 

これは宇多田の「まあいいんじゃない」とほっとんど同義である。
2曲だけ挙げたけど、SMAPの音楽には多かれ少なかれ、こういう感じが通底している。

草彅剛が『Kiss & Cry』をフェイバリットとして挙げた理由は知らないけど、それが不思議なことだとは思わない。
 

だって彼もずっと同じようなことを歌ってきたのだから。SMAPとして。



ここで同じ問いをもう一度繰り返す。


絶望を前に、まあいいんじゃない、と口にすること。
絶望を前に、たぶんオーライ、ユーモアしちゃうよ、と、口にすること。


これは一体なんなのだろう?
諦観? ただの投げやり? それとも悟り?




もう一曲紹介したい。『A Day in the Life』という曲だ。

前述の『たぶんオーライ』と同じく、アルバム『SMAP 007 ~Gold Singer~』に収録されている。曲の世界観も『たぶんオーライ』と地続きである。

歌われるのは、当時のメンバーの等身大とも言える、きわめて平凡な若者たちの日常のスケッチだ。

駅前の募金の呼びかけをスルーして罪悪感を覚えたり。
テレビに映る悲惨な映像を前に、なにもできない自分に虚しさを感じたり。
徹夜明けで散歩しに行った公園で、久々に見た朝日に感動しちゃったり。

楽曲発表は阪神大震災・オウム事件があった1995年だが、その後9.11、3.11を経て、ブラック企業で疲弊したのちの過労死・自殺が相次ぎ、他国では自爆テロのニュースがひっきりなしに飛び交う2017年においても、まったくリアリティが損なわれることがない描写力に唸らされる。

そしてタイトル通り、彼らはそんな毎日こそが俺らの日常だ、と歌う。

ではそんな日常をどう生きていけばいいのか、
SMAPはちゃんとそこにも言及している。
しかし彼らは、頑張ろう、とも、元気を出そう、とも、
夢は叶う、とも、希望を持とう、とも、言わない。


<結論は出ない 人間だからね>


と、歌う。


その前段には

<恋に落ちて悩み 相談にも乗る>
というラインがあるので、恋愛って結論でないもんだよね、という読みもできる。
でも俺はそうは思ってなくて、この<結論は出ない 人間だからね>というフレーズこそが、SMAPの本質だと思う。

や、別に本質かどうかとかもどうでもよくて、確かなのは俺がSMAPから受け取ったもっとも大切なもののひとつが、このフレーズだということだ。


しつこいが、同じ問いをもう一度繰り返す。


絶望を前に、結論は出ない、と口にすること。

これは、一体、なんなのだ?
諦観? ただの投げやり? それとも悟り?



違う。



俺は、SMAPが「がんばれ」「やればできる」「夢は叶う」とばかり歌うアイドルだったら、こんなに彼らの歌を好きになることはなかった。

そういう言葉はクスリみたいなもので、効くときは速攻で効くけど、癖になって手放せなくなったり、摂りすぎると逆に心を壊したりもするものだとも思う。

SMAPが歌う

「結論は出ない」「たぶんオーライ」「ユーモアしちゃうよ」

という言葉たちは、クスリみたいにわかりやすい効き目があるわけじゃない。

でも、ただ生活してるだけのつもりなのに気づかないうちにずっしり、どんよりと重くなってしまう心を、ふっと、軽くしてくれる。

 



SMAPは聴き手に干渉しない。SMAPは聴き手を、それぞれに人生を抱えた「他人」として「尊重」してくれている。俺は彼らの歌からそういうものを受け取ってきた。

「結論は出ない 人間だからね」という歌詞は、一見突き放しているようだけど、これは人間という生きものを、できるかぎりまっとうに尊重しようとした結果のフレーズなのだと思う。

干渉はしない。でも適度な距離で、寄り添っていてくれる。そんな距離感。

「うまくいかなくたって、まあいいんじゃない」

と歌う宇多田ヒカルにも、俺は同じものを感じる。
だからつまり、優れたポップミュージックって、そういうものなんじゃないかなあ、と俺は思う。

 

 

俺はSMAPに、ずいぶん助けられてきた。
SMAPがいなくなって、そのことを改めて痛感した。

俺は去年ブログにこう書いた。

<「SMAPでなくなる」ことと、「SMAPがなくなる」ことは、断じて同義ではありません>

私信(SMAPでなくなること/SMAPがなくなること)

実際にSMAPがいなくなって、いま、「SMAPはなくならない」という確信が、実感として心のなかにある。

例えば何が捨てても、無くなったとしても、不安になることはない。

ほんとにそうだな、と思う。



SMAPはなくならない。
だから、5人も安心して、飛び立ってほしい。

いま俺が素直に思うのは、そんなようなことだ。

 

帰りたくなったら、帰ってくればいい。

もし帰る必要がなくなったと感じたのなら、後ろを振り向かずに、どこまでも飛んでいけばいい。

そして願わくば、俺のこんな戯言など一切聞かなくていいから、どこまでも勝手に、気ままに、自由に生きていってほしい。

 

人生に結論なんかない。SMAPが俺に、そう教えてくれたんだ。

SMAPが俺を尊重してくれたように、俺もSMAPを尊重したい。

 

これから先、世界がどんなにひどいものになったとしても、

「結論は出ない」「たぶんオーライ」「ユーモアしちゃうよ」

そう口ずさみながら、世界を、そして自分を肯定しようとする、そんな人間でいたい。

それが、俺がSMAPから教わったやり方なのだ。

 

これから世界がひどくなればなるほど、SMAPの歌は、より多くの気づきとモチベーションを与えてくれるはずだ。


何度でも言ってやる。

SMAPがいなくなっても、

この先、「SMAP的なもの」が世界から消えかけたとしても、
 

俺がSMAPを聴き続ける限り、
SMAPは、なくならない。

俺には、この世界で生きていく限り、SMAPの音楽が、やっぱり必要だ。

 

 

 

 

こっちは大丈夫です。なので、お互い自由に楽しくやりましょう。

 

また逢う日まで、お互い元気で。

ドラッグよりよっぽどタチが悪い3人―シティボーイズ「仕事の前にシンナーを吸うな、」初日を見た

よみうり大手町ホールにて、シティボーイズ「仕事の前にシンナーを吸うな、」初日を見てきた。

五反田団・前田司郎と組み、”ファイナル パート1”と銘打たれた前回公演「燃えるゴミ」がめちゃめちゃ挑戦的かつラスト公演として捉えてもすごくよい出来だったので(詳しくは過去レポ<シティボーイズ×前田司郎=『燃えるゴミ』 最後の3人、最高の3人 2015.6.20>参照)、またいつか気が向いたらやってほしいなーと思っていた俺。

それから2年、今回唐突に発表された新作公演は、超久々に三木聡を召喚したコント1本+ゲストとしてキングオブコントを獲ったコンビ・ライスの単独コントという、ミニマム&イレギュラーな公演。ファイナル撤回? 一度限りの気まぐれ? 色々な思いを巡らせながら、雨雲渦巻く梅雨空のもと、会場に向かった。



月曜夜の大手町はオフィスガイ&レディが闊歩するシュッとした街だった。今回の会場は街の中心にそびえ立つ読売新聞社ビル内の、これまた品のあるホール。ここでコントをやる、しかもタイトルは「仕事の前にシンナーを吸うな、」、そしてそこに集ういい大人な俺たちw

舞台上にはテーブルと椅子が2脚ずつと、下手側に台の上に置かれた電子レンジ。阿佐ヶ谷姉妹の影アナのあと暗転すると、後方の壁がスライドし、大竹さんの息子さんによる生ピアノ演奏がはじまる、贅沢な演出。そして登場したのは大竹まこと、きたろうのご両人。おお、シティボーイズが先手なのか! てっきりライスが前座的な扱いかとばかり思っていたので、いきなり不意をつかれる。

物語の舞台は薬物中毒者の更生施設。大竹が施設の職員、きたろうが新たな入居者として登場する。少しあとに登場する斉木しげるの、場の空気を強引にかっさらっていく謎の引力も健在だ。



円熟というか、熟しすぎて溶けかけているようなゆるさを発揮しつつ、しかし極めて乾いた3人の演技によって繰り出されるギャグは、ひとつ残らず、途方もなく、くだらないw なかでも、ボタンを押すとチキン・ビーフ・シーフードなどの単語が表示される電光掲示板、カレーの具を決める装置かと思いきや…というギャグのひどさには、腹よりも頭を抱えて笑ったw あれをガツンとできるって、改めてすごい。

そんな脳が溶けそうなギャグを連打しつつ、役柄とシチュエーションはシームレスに変化していき、ただでさえシュールな世界観は、舞台が進むにつれ徐々に不安定さを増していく。

同時に物語のなかに放り込まれる、フリスク/粘土でできた縄/妖怪百目のお目目ぱっちりプリクラ/鳩サブレ/スタバのキャラメルマキアート/窓から覗く大仏、などなど、意味があるようでないようなシンボルたちが、世界の軸をさらに狂わせていく。このあたりは三木聡×シティボーイズの独壇場といった感じ。



ドラッグというテーマも相まって、見進めるうちに自分がどこにいるのか・なにを見ているのか、よくわからなくなっていく感じ。ふだん疑いなく見ている目の前の現実って、ほんとにホントなの? 当たり前に思ってる当たり前って、ほんとにアタリマエなの?

トリップするためには、実はシンナーも覚せい剤も必要なくて、笑いと毒があれば、世界の見え方はいくらでも歪んでいく。

俺にとってシティボーイズは、そういうことを身をもって思い出させてくれる存在なのだ。と、天井から降りしきるフリスクに打たれる3人を見ながら、改めて感じ入った。

最後の最後にコントそのものを歪める大竹の痛恨のミス(「察せろよ!」との名言がww)を経て、約30分のコントは終了。シティボーイズ・ワールドに再び浸ることができる幸せを噛み締めた、濃密な時間だった。



どこまでも不定形なシティボーイズのコントのあと、キングオブコントで彼らのファンになったというきたろうの呼び込みで披露されたゲスト・ライスのコントは、若干放心状態だった俺をもガッツリと笑わせてくれる力強いもので、めちゃ面白かった! 最初は意外に思えたこの出演順も、3人からライスのふたりへの「こいつらならきっと笑わせてくれるはず」という信頼の証だったのだろう。終わってみるとすごく気持ちのいいコントラストを生んでいた。(きたろうは「面白いかどうか保証はしない」と言っていたけどw)

再び3人が登壇し、ちょっと長めのエンドトーク。2年前にファイナルと銘打ちながら今回イレギュラーに復活した経緯などには一切触れず、結成当初のエピソードを披露するあたりも、なんとも彼ららしい。(きたろう「お笑いスター誕生は審査員じゃなくてプロデューサーが勝敗決めてた」 斉木「ここで負けるけど代わりにその後出続けられるから、とか言われてた」ww)

人間はよかったことは忘れるのに、嫌なことは覚えている、という話も。大竹曰く、失敗した記憶ばかり覚えているのは、二度同じ過ちを繰り返さぬよう、人間の本能として覚えているようにできているのだそうだ。(大竹「さっきの俺の失敗みたいにな。あれだけフリスクが散らばってたらフリスクで頭が一杯になるんだよ!」ww)



改めてライスを呼び込み、大竹の「またお逢いしましょう」のひと言で退場。生ピアノに乗せてのエンドロール上映中も鳴り止まない拍手にカーテンコールで再び登場した3人、客席に向かってきたろうが「なんでそんなに優しいんだよ!」と言ったとき、一瞬泣けてくるほどウェットな気持ちになって困った。

過去の失敗に頭を抱えて眠れなくなる夜もあるけど、失敗すんのも悪くないよな。

で、ひっどいことも多い世界だけど、人間もそんなに悪くねーよな。

ゲラゲラ笑ったり、なんだかゾッとしたりして、全部が終わったあとでふとそんなふうに思えることも、俺がシティボーイズの舞台を見たくなる理由だったと、最後の最後に思い出した。俺はこの夜のこと、当分忘れないと思う。

変わり続ける世界と、変わり続ける銀杏BOYZ。「東京のロック好きの集まり」ライブを見た

 

2017年5月28日、新木場・STUDIO COASTで行われた、銀杏BOYZのライブに行ってきた。

昨年行った中野サンプラザでのライブでは、ホール会場で演奏にじっくり向き合い、峯田和伸が稀代のメロディメイカーであることを、改めて実感することができた。

そして今回、久々のライブハウスでの銀杏はどんなものになるだろうと思い足を運んだ。
結果的に中野のライブを軽く超えてくる、すばらしいライブだった。



1曲目、『人間』で

「こんなときだからこそ戦争反対って歌わなきゃいけないと思うんです」

と叫んだ峯田。(意訳&記憶は曖昧です)

かつて<戦争反対って言ってりゃいいんだろ>という歌詞に、ひとという生き物のうぬぼれと憐憫とやりきれなさを刻んだ峯田が、こう叫ばずにはいられない時代に、俺たちはいま生きている。
そういう時代にロックをやるんだという覚悟のもと、峯田は銀杏BOYZを続けている。
その事実の重さにいきなり震えた。

峯田は、自身を除く全メンバーが脱退したいまも、サポートメンバーを入れて、銀杏BOYZを「続けている」。
中野公演のMCではその理由について

「俺にとって銀杏BOYZはお墓なんです。たまに綺麗にしてあげたりして、みんなが集まってくれるお墓として、これからもずっと残したいんです」

と語った。(出典・ライブ後の俺のツイート)

ただ、「続けること」と「変わらないこと」は決してイコールではない。

そもそも、人間は生きている限り、変わらざるを得ない生き物である。
日々息をするだけで、髪は伸び、シワは増え、体重は増える。
というか本来は逆で、変わり続けることこそが、呼吸をしている証なのだ。

「戦争反対と言わなきゃいけない」と叫ぶ峯田を見て、峯田も、俺も、そしてこの世界も、常に変わり続けているのだということを否応にも実感させられた。



ライブの空間も一瞬一瞬のうちに目まぐるしく変化していく。
立て続けに始まった『若者たち』では峯田のダイブを引き金に将棋倒しが置き、早々に演奏が一時中断。
もう少し後ろに下がってと優しく促す峯田。

昔の峯田だったら、こんなふうに冷静に対処しただろうか。
もしもを考えたらキリがないが、「ワンツー!」という咆哮から突入した『駆け抜けて性春』では、よりバンド感を増した演奏によるでっかい塊のような轟音に、かつての銀杏ライブの感覚がゾワゾワと蘇る。
目の前で鳴らされる楽曲が、過去といまを一瞬でつないでいく。

銀杏の代表曲のひとつである『援助交際』は、『ぽあだむ』にもつながるダンスミュージックのビートを組み入れ、大きくアレンジを変えて披露された。

安直に言ってしまえば、サウンドはポップで聴きやすく、ノリやすくなったし(『ぽあだむ』もそうだけど、銀杏のライブで“腰で踊る”日が来るとは!)、この曲ってこんないいメロだったか!こんないいコード進行だったか!という、メロディメイカー・峯田和伸の魅力を最大限に感じられるアレンジにもなっていた。

ではそれによって、歌われているメッセージも変わったのかというと、これも確かに変わった。端的に言って、よりエグさを増していたのだ。
 

以前の銀杏のライブでは、破綻寸前のカオティックなバンドアンサンブルで歌われていたこの曲を、この日の峯田は盤石の演奏力を保ちつつ溢れ出る熱量を見事に放出するバンドの演奏(この日のバンドの演奏は本当にすばらしかった)に体を揺らし、タンバリンを持ちながら楽しそうに歌った。

しかし歌われているのが「あの娘は他の誰かと援助交際」という悲しき叫びであることに変わりはない。

むしろ、多幸感にあふれてすらいるアレンジで歌われるからこそ、曲のメッセージは逆説的にこれまでにない切実さを増して胸に刺さってきた。
(逆に以前のバンドアレンジはある意味、楽曲のメッセージにすごく実直なアレンジだったんだなとも思った)

そして思った。峯田は、かつて自らが楽曲のなかに刻んだ、どうしようもなさを引きずりながらただ生きることしかできない少年の姿を、いまも引き受け続け、抱え続けているのだと。

思わず笑顔になるダンサブルなビートに乗せて「あの娘のIDをゲットするため僕は生まれてきたの」「ああ世界が滅びてしまう」と歌うのが、いまの峯田の引き受け方なのだ。

悲惨でみじめでどうにもならない現実=自分自身を音楽で爆発させる、という銀杏の本質は、この日の『援助交際』に、そして今回のライブすべてにおいて、形は変えどもしっかりと、そして新たな衝撃をもって息づいていた。



で、とにもかくにも新曲だ。『エンジェルベイビー』。ものすごいタイトルだけど、中身はもっとすごかった。

銀杏には珍しい、なんの衒いもない、ストレートなロックチューンだ。
詳しい歌詞はほとんど覚えてないけど、あれは間違いなく、なにかを失った人にしか歌えない曲だった。

ロックンロールは世界を変える、と歌っていた気がした。
青春の終わりに、みたいなことも歌ってた気がする。
すごい。
峯田が、そんなことを歌うとは。

この新曲は、アリアナ・グランデ公演で起きた自爆テロの犠牲者に30秒の黙祷を捧げたのちに披露された。

世界はきょうも取り返しがつかない。
明日自分がどうなっているか、明日世界がどうなっているか、分かる人は誰ひとりとしていない。
この世界に確かなことなんて、びっくりするほど、あっけないほど、なーーーんも、ない。

峯田はこの日、

「生まれてよかったと思ったことはないけど、
生きててよかったと思うことはある」

と言った。

この世界に生まれて、生き続けて、
なにかを失って、失って、失って、失い続けて。

それでも手の中に残ったものを、
必死こいて引き受けていこうとする、
『エンジェルベイビー』はそんな曲だった。

ついにこれを歌うことができたんだな、峯田は。

きょうも変わり続ける世界で生きている俺は、
これからも変わり続けるだろう銀杏のライブに、また行きたいと思った。

そして新しい曲を、もっと聴きたいと思った。

そういうふうに思えるライブを見られる幸せを、噛み締めた夜だった。

『re:Action』へのリアクション――スキマスイッチへ13色の質問状

スキマスイッチの楽曲を、奥田民生、小田和正、KAN、GRAPEVINE、澤野弘之、SPECIAL OTHERS、田島貴男(ORIGINAL LOVE)、TRICERATOPS、フラワーカンパニーズ、BENNY SINGS、真心ブラザーズ、RHYMESTERという、敏腕かつ強烈な個性を持った12組のアーティストがリアレンジしたアルバム『re:Action』。

 

このアルバムを聴いていると、ふたりに聞きたいことが次々に出てくる。そしてこんなにも濃密で豊かな作品ながら、スキマスイッチの「次」の音楽が無性に待ち遠しくなってくるのだ。というわけで今回は収録曲13曲にちなんで、来るはずのない答えを妄想しながら、スキマスイッチへ13の質問を考えた。

 

 

 

Q1:『re:Action』<ただの遊びに見えて遊びじゃないんだ>というRHYMESTER・Mummy-Dのリリックのとおり、単なる企画モノとして片付けるにはあまりに濃密なコラボレーションが詰まった作品に仕上がっていますが、その特徴のひとつに、ある一定のキャリアを築いているアーティストやバンドがラインナップされていることが挙げられると思います。

 

音の世界観が明確に確立されたアーティストでないと成立しない企画であることは前提として、いわゆるニューカマー・新世代的なアーティストを排し、同世代~先輩世代に絞った理由はなんですか?

 

 

 

 

Q2:スキマスイッチはデビュー以来大橋卓弥と常田真太郎のふたりによるユニットという形態で活動されていますが、『ナユタとフカシギ』以降の作品とライブでは、サポートメンバーとの“チーム・スキマスイッチ”としてのバンド感やグルーヴの比重が高まっており、特に近作の楽曲では『僕と傘と金曜日』や『LINE』などそこからのフィードバックが如実に感じられる楽曲も増えてきているように感じます。

 

しかしどんなに優れたサポートとは言えやはりパーマネントなバンドではないわけで、そういう意味で今回長きに渡ってバンドとしての表現を追求してきたアーティストの仕事を目の当たりにして改めて感じること、例えば羨ましさや嫉妬のような思いを感じる瞬間はありましたか?

 

 

 

 

Q3:参加したアーティストからすれば、スキマスイッチの楽曲のなかでいかに自身の表現を成立させるかというハードルがあるわけですが、スキマスイッチ側からすると、セルフ・プロデュースを貫いてきたなかで生み出したアレンジを他者に超えられるかもしれないという可能性もあります。今回の楽曲の中で、「やられた、この手があったか」と思わされたり、自身のアレンジを超えられたと感じた楽曲はありますか?

 

 

 

 

Q4:2014年のアルバム『スキマスイッチ』でミニマムなボリュームながらを含めセルフタイトルに相応しい渾身の作品とライブツアーを完成させたあと、B面集『「POPMAN’S ANOTHER WORLD」』、充実のシングル『LINE』を挟みつつ、過去曲のリアレンジを中心としたツアー「POPMAN’S CARNIVAL」を経ての今作となりますが、「POPMAN’S~」ツアーから今作への流れはまっさらな新しい楽曲を生み出すよりも、過去の楽曲=自身に再び向き合うという側面に重きをおいた活動となっているように感じます(かかる時間や手間を考えると現実的ではないですが、まったくの新曲を各アーティストとコラボレーションするという手もあったはずです)。

 

『re:Action』というタイトルは、スキマスイッチの楽曲に対する各アーティストからのリアクション、それに対するスキマ側からのリアクションという意味合いとともに、あえて「re」と冠した理由としては、もちろん過去の楽曲を再びアクションさせるという意味はあるとして、スキマスイッチ自体がアルバム『スキマスイッチ』以降、新曲制作ではないなにかしらのアクションを求めていて、再びスキマスイッチの表現をアクションさせるために必要な行程として展開されているプロジェクトと捉えることもできます。

 

スキマスイッチがいま過去楽曲のリアレンジや他者とのコラボレーションに向かった理由のなかのひとつとして、例えば新しい表現に向き合う中で現状のスキマスイッチに対してある種の停滞のような、次へ進むために超えなければならない課題やハードルを自覚していて、より自身の表現をアクションさせるためのカンフル剤としてこの方法を選んだ、というような動機は(たとえわずかでも)あったのでしょうか?

 

 

 

 

Q5:上記のような仮説を立ててはみたものの、おふたりがなんらかの停滞を感じているとはとても思えないほど、音楽というものに対して過去最高潮に楽しく向き合っているスキマスイッチの姿が今作には記録されています。

 

複数のアーティストが自身の楽曲を演奏するという面ではカバーアルバムやトリビュートアルバムと構造こそ似ていますが、ボーカルは大橋卓弥のみで一貫しているからこそ、各アーティストの表現の本質的な魅力がよりビビッドに伝わってきて、聴くたびに多くの発見がありますが、逆に言うと、そのようなアーティストの本質を引き出したのは、紛れもなくスキマスイッチの楽曲であり、いま全身で音楽を楽しんでいるおふたりの姿勢であるとも思います。

 

今回多彩なアーティストとコラボレーションすることで、逆説的に見えてきたスキマスイッチの楽曲の魅力や、おふたりそれぞれの表現者としての他に負けない強み、他にはない得難さのようなものを再発見した瞬間はありましたか?

 

 

 

 

Q6:さらに振り返ると2012年のセルフカバーベストアルバム『DOUBLES BEST』も、ふたりだけという縛りのなかで自身の楽曲を再構築する試みであったことを考えると、そもそもおふたりは過去の自身の表現に向き合う機会が比較的多いように感じます。過去に生み出した表現と向き合うとき、「これを作った俺って偉い」というような自負と、「なんでこうしちゃったんだろう」という後悔、どちらを感じる瞬間が多いですか?

 

 

 

 

Q7:今作では、アレンジ・演奏はほぼ各アーティストが担当し、ボーカルは大橋さんが担当されたことで、常田さんはレコーディングを見学に徹する時間も多くあったようですが、以前インタビューでストリングスアレンジに関してとても苦労された経験があるとお話されていましたが、今回一歩引いたところで各アーティストの表現に接して、演奏家・アレンジャーとして得るもの、または自身を省みる瞬間はありましたか?

 

 

 

 

Q8:今回参加したアーティストはバンド・ソロそれぞれに素晴らしいボーカリストでもある方たちが揃っていますが、各アーティストからのボーカルのディレクションで、大橋さんが特に印象に残ったものはなんですか? また今作の制作を通して、歌をうたうということそのものに対する考え方やスタンスに影響はありましたか?

 

 

 

 

Q9:先述したとおり、近年のスキマスイッチのライブには強力なグルーヴを持つサポートメンバーの存在が欠かせませんが、今作のレコーディングで、今後一緒にライブを作ってみたいと感じたミュージシャンとの出会いはありましたか?

 

 

 

 

Q10:Q9の質問をした意図は、近年の活動からスキマスイッチは「変わること」をより肯定的に捉えていると感じることが多く、今作はまさにそういう姿勢が顕著に現れた作品であると思うからです。アーティストがキャリアを重ねる過程で、変わること/変わらないことのバランスにどう折り合いをつけながら、さらにどう必然性をもたせるかはひとつのポイントになると思いますが、おふたりはスキマスイッチとしての表現について、この部分はいくらでも変わってもオッケー、でもここは変えずにいこう、というようなラインを意識することはありますか?

 

 

 

 

Q11:スキマスイッチとしての活動をはじめてから今まで、自身のなかに「理想の音楽像」「理想のアーティスト像」のようなものを持ったことはありますか? またスキマスイッチに対しての理想像はありますか? それはおふたりのなかで共有されているのでしょうか?

 

 

 

 

Q12:これまで生み出した楽曲のなかで、いちばん納得がいっていない曲はなんですか? その理由はなんですか? その曲をいまリアレンジするとしたら、どのようなアプローチを考えますか?

 

 

 

 
Q13:個人的に、いまこの世界は混乱し、正常な判断を失いつつあり、とてもいい状態であるとは思えません。しかし、だからこそ芸術は自由であるべきだし、それを受け止める自分はできる限りの力と意思でそこに真摯に向き合い続けたいと考えています。おふたりはいまこの時代に音楽を生業とすること、またそれが“POP”であることの意味や意義を考えることはありますか?

 

 

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“らしさ”という先入観を無効化する、固有のおいしさ――大阪「かく庄」に行った

大阪・福島駅の近くにある「かく庄」というお店に行ってきた。最高だった。

 

いただいたのは、たこ玉焼(正式名称失念…)、豚の生姜焼き定食、生ビール、ハイボール。

 

かく庄は、お好み焼き・鉄板焼きのお店だ。

 

お好み焼きと聞いて、みんなが想像する「お好み焼きの味」というものがある。

 

で、そういう「みんなのなかで共有されているお好み焼きの味」を確実に提供するタイプの店が、名店と呼ばれることが、しばしばある。

 

そういう店のお好み焼きはしばしば「お好み焼きといったらあの店だよね」とか「あの店のお好み焼きを食べると、あーお好み焼きを食べたって感じがするんだよね」とか「あの店こそお好み焼きのよさが詰まってる、お好み焼きらしいお好み焼きだよね」などと評されたりする。

 

お好み焼きの部分は入れ替え可能で、アイドルでもポストロックでもBLでも魔法少女ものアニメでもなんでもいいので置き換えてみると、それぞれにそういう名作が浮かんでくる。

 

一方で、ジャンルの壁を飛び越える、というような賞賛の仕方をされるものもある。

 

その場合は、「これはもはやお好み焼きの概念を超えたよね」とか「お好み焼きらしくないからこそお好み焼きクラスタ以外にも届く」とか「お好み焼きの枠を壊すことで、逆にお好み焼きの魅力を再発見させられる」とか言われたりする。これもお好み焼きの部分は代替可能だ。

 

で。かく庄で食べたものたちは、ここまで書いたようなことがすべてどーーーーーーーーーでもよくなるようなおいしさを発揮していた。

 

たこ玉焼の、玉子のふわふわととろとろのグラデーションや、ぶつ切りのたこの火の通し方や、上にかかったソースの辛みと甘みの塩梅。

 

豚の生姜焼き定食の、玉ねぎのエッジの焦げ方や、やわらかな豚肉へのタレの絡み方や、鉄板の上で熱を帯びた付け合せの千切りキャベツの佇まいや、付け合せのみそ汁の滋味。

 

そのどれもに、こちらの先入観をしなやかに無効化し、やさしく新世界へと誘ってくれる、それぞれそのものにしかない、固有のおいしさがあった。生ビールやハイボールにすら、そんな個々の輝きが宿っているようだった。

 

料理の写真を撮るのを忘れるほど夢中で食べて、店をあとにした。

 

腹ごなしに寒空の大阪の街を歩きながら、考えた。「○○らしい」とか「○○の枠を超えた」みたいな物差しもいいけど、そのものにしかない美しさを見つけていきたいなあ。

 

おいしいものをひたすら食ったという多幸感で満たされながら、スッと姿勢を正されたような気持ちになった。

 

これからなにかに迷ったときは、かく庄の、かく庄にしかないあの味を思い出そうと思う。最高だった。また行きたいな。

2016年12月19日『SMAP×SMAP』――「BISTRO SMAP」に最後の客が訪れた

5人(かつては6人だった)のシェフが切り盛りする『BISTRO SMAP』に最後の客がやってきた。

 

彼はかつて大きな「終わり」を経験した。その終わりのあと、すぐさま世界を旅し、さまざまな音楽や文化に触れた話を、いままさにひとつの大きな「終わり」を迎えようとしている者たちに、必要以上にも思える軽妙な語り口で披露した。


彼は「一生ふざける」と言った。


「そもそもなんで終わるんですか?」
「バラエティは残酷ですね」

 

ふたりのシェフがそう言って涙を流したあの日を思い出す。あの終わりの日も、周りで涙を流す人たちの中心で、少し困ったような笑顔を含みながら、誰よりもふざけていたのが他でもない彼だったことを、思い出す。

 

そのときの映像を観て、「もうずいぶん前のような感じがするな」と彼は言った。


永遠とも思える時間も、一瞬のうちに過ぎてしまう時間も、等しく彼方へと過ぎ去ってしまう。

 

彼は大きな終わりを経験した。そして彼はいま、徹頭徹尾ふざけたこと言いながら、いままさに終わりを迎えようとするシェフたちが作った飯を、地味に食っている。

 

知らなかった音楽。味わったことのない料理。終わることで見える景色がある。終わらせることでしか見られない世界がある。


「そもそもなんで終わるんですか?」


その問いに彼は答えなかった。いま、彼に、俺はこう聞きたい。そもそも「終わる」とは、なんなのだ?

 

「人生に判定など必要ない」と。彼は言った。

「最後だからこそ、勝ち負けをはっきりと」と食い下がったレストランのオーナーに、彼はそれでも譲らなかった。

 

人生に判定など必要ない。

それはもっと正確に言うならば、「人生に判定などつけようがない」ということなのではないか。


それがなにによるものだったとしても、この世界には終わるものがある。そしてそこからはじまるものがある。彼はシェフたちにそう伝えるために、このレストランに訪れたように見えた。

 

「俺の人生、全部ひっくり返った人生だ」と、彼は言った。

 

彼の名は、何度も何度も何度も何度もひっくり返して、やっと呼べるようになるらしい。5人のシェフはこの夜、何度も何度も彼の名前を愛おしそうに呼んだ。

エマーソン北村『ロックンロールのはじまりは』――荒野を歩む僕らのサウンドトラック

 

エマーソン北村の新譜『ロックンロールのはじまりは』を聴いた。すっっごくいい!

 

早くそのすばらしさについて書きたいのだけど、まずはこのアルバムと出会うきっかけとなった、ある夏の思い出から書いておきたい。

 

 

今年何度目かの「RISING SUN ROCK FESTIVAL」に行った。俺が知る限り地球上でもっとも最高(日本語下手)なフェスだ。

 

いつもフォレストのテントサイトに立てられる友だちのテントにお邪魔していて、エマーソン北村は毎年そのフォレストでライブをしている。


入場時にはウェルカムライブをやっているし、ライブアクトとしても毎年演奏しているので、自分はRSRに毎年行っているわけではないけれど、行くたびに彼の演奏を耳にしていた。

 

なので、RSRに行った年は必ずといっていいほど彼の演奏を聴いているはずなのだけど、今年のそれは俺にとって特別なものになった。

 

フェス初日、カンカン照りの朝っぱらに入場したときのウェルカムライブが妙に耳に残ったのと、2日目の朝、またしてもピーカンのもとでのステージがとってもとってもよかったのだ。最初はテントで椅子に座りながら音漏れを聴いていたのに、あまりによくてステージ近くまで走ってしまったほど。

 

それは単純に、あのときの俺にあのときの彼の音がフィットしたってことなのだと思うけど、とにかく数々のアーティストの名演が繰り広げられたフェスのなかで、あの北海道の朝の強い日差しのなかで聴いた彼の音が、じんわり心に残ったのだった。

 

そのときのMCでも告知されていたのが、『ロックンロールのはじまりは』だ。

 

 

 

シンセやエレクトリック・オルガンの演奏と打ち込みのリズムを基調としたインストが6曲。冒頭の表題曲で、何処かからの通信音のような単音からはじまったのちの、エレクトロニクスによるノイジーな展開に耳を引かれた。アルバムタイトルが冠されているだけあって、この曲の肌触りがアルバムのムードを象徴している。

 

どの曲も、どんなにポップなメロディでも音の質感はどれもけっこうザラついている。音色そのものは柔らかなのだけど、音の輪郭はエッジがたっていて、耳に掠れる感じ。それがいい。

 

 

まあ毎日どこもかしこも、誰も彼も、ヒリヒリしている時代なわけで。少し気を抜いたらほんとうにあっけなく死んじゃったりする、そういう世界になってきていると思う。おおげさじゃなく。

 

『ロックンロールのはじまりは』にはそんな日々に疲弊した心が休まるグッド・メロディもたくさん入っている。が、それをただ優しく鳴らすのではなくて、「毒をもって毒を制す」ではないけど、この時代にフィットする響きでもって鳴らしている。それがこのアルバムのノイジーな手触りで、音ひとつひとつの強度がすごいし、説得力がある。一見物腰は柔らかいが、すごくタフな音楽だと思う。

 

なんというか、殺伐とした荒野を歩んでいくためのサウンドトラックとして、なんとも絶妙に最適な湯加減なのだ。誰も扇動せず、誰にも媚びないメロディたち。そんな音楽に『ロックンロールのはじまりは』という題がついているのは、個人的にはすごくしっくりくる。

 

それで言うと後づけかもしれないけど、今年のRSRは、フェスの享楽性より、現実世界のなかでいかに音楽とともに立っていくか、というようなことを考えさせられる場面が多くて、いま思うと彼の演奏が、あのときの自分のそういうメンタルとリンクした部分があったのかもしれない。とにかくいまこの音楽に出会えたことは、この音がいまの自分に必要だったからなんだろうな、と思う。

 

 

で、そういうあれやこれやをまったく考えなくてもそれはそれで全然問題なくて、記名性・作家性が高い作品であると同時に、聴く人の毎日を彩ってくれるBGMとしても、めちゃめちゃいい。早くiPhoneに同期していろんな風景にこのアルバムを連れ出したい。

 

表題曲から、RSRのステージでもまっさきに耳に残ってMVも作られているリード曲『帰り道の本』への流れが最高。そこで一気に引き込まれたあとは、あっという間の21分。コンパクトだけど曲の密度は濃厚で、満足感は高い。このサイズ感にも必然と確信を感じる。あとスカ~レゲエっぽいリズムが多いこともあってか、かなり踊れるのもいい。(RSRのステージで見たときもビール片手に踊りまくった。最高だったなー) ライブにも絶対行こう。

 

しかし、『帰り道の本』、ほんっっっっっっとにいい曲だなあ……。完璧に俺の心にフィットしてしまった。毎日口ずさんでいる。年が終わろうとしているときに、新しい音楽に出会える喜びは格別だ。ひとまずは自分勝手に聴き込んだあとで、同封された長めのブックレットを読んで、さらに作品を味わっていきたい。またひとついい音楽に出会ったぞー!

 

(余談。こちら↓アルバム収録の1曲。カバーなんだけど原曲がRIP SLYME『雑念エンタテインメント』の元ネタと知ってマジかー!と。無知だからこそこういう発見は嬉しい。好きなものはつながるのね)

 

SMAPの25周年ベスト盤&クリップ集ジャケデザイン見てめちゃめちゃアガった理由

ベスト・アルバム『SMAP 25 YEARS』とミュージック・ビデオ集『Clip! Smap! コンプリートシングルス』のジャケットデザインが公開された。端的に言って素晴らしい。

 

http://smap25years.com/

 

クレジットを確認できていないが(※追記 発表されたようです→http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161119-00000001-dal-ent)、おそらくほぼ確実に佐藤可士和によるデザインはそれぞれ、2001年発表のベスト盤『Smap Vest』と2002年発表のMV集『Clip! Smap!』の延長線上にある。

 

2000年のアルバム『S map ~SMAP014』から始まった佐藤氏とSMAPとの蜜月関係。その最初期であり、もっとも攻撃的で先鋭的だった(と個人的には思っている)コンセプトをいまもう一度やってみる、という試みは、「なんだ、やっぱ結局あの頃が最高だったんじゃん」という凡庸な感想を持たれかねないリスクを、「でも、や、というか、いまだからこそこそやるんだよ」という一点突破によって、ものすごいクオリティで完遂している。

 

ファンの投票によって選曲されたベスト盤と、レア映像を含むクリップ集。しかもこの解散というタイミングでのリリースである。しかし本作たちのデザインに余計な情緒や感傷は皆無である。いや、正確に言うと少なくとも表出しているデザインそのものには皆無である。

 

だからこそファンは、白地に黒い色で微妙に途切れてデザインされた「smap」という文字列や、いかにも無造作に(しかし見れば見るほど気持ちいいバランスの配置で)ばらまかれたゼムクリップたちに、それぞれの情緒や、人によってはある種の感傷をかさねることができるのだ。

 

特にCDジャケットについて、smapという文字列は完璧に表示されておらず、認識できるギリの範囲でトリミングされている。これは“「SMAP」というかたち”がすでに不定形になっていることを示唆している。

 

そのアプローチは『014』当時にもあったもの(SMAPという文字列を記号化することで、彼らをアイドルとしてではなく“媒介者=メディア”として扱うというアプローチ)だが、これを“いま”再び“反復”することで、当時とはまた別の意味合いを帯びてくる。

 

SMAPはその長いキャリアにおいて“反復”することを避けてきたアーティストだ。いわゆる勝ちパターンをなぞることをせず、常に新しい価値を求めているようなスタンスがあったし、そこがアイデンティティの一角になってすらいると思う。

 

それはデザインワークに関しても同じで、『014』から『裏スマ』まで続いた極端なミニマムがマキシマムへと反転するポップアートさながらの方法論は、それ以降のアルバムへ引き継がれつつも、各作ごとに新たなチャレンジを図っていた。が、そのアウトプットの結果は、当初ほどの鋭さを持ち得ていたかというと個人的に疑問は残る(それはデザインのみの問題ではなく作品のコンセプトそのものに依るところも大きいが)。

 

しかし、じゃあそこで安易に過去の反復に走ったところで、結果は火を見るより明らかだ。だからこそ今回のデザインワークの鮮やかさと潔さに驚かされた。

 

ここには自虐も諦めも投げやりもない。「これこそ現在進行形のSMAPの表現だろ」という確信が宿っている。つまり、余計な情緒や感傷といったわかりやすく消費されるシンボルを掲げるのではなく、いまこそ万人の想いを受け止め、映し、きらめかせる“媒介”としてのSMAPを再び現出させるという試みだ。

 

その行為は、今年の『SMAP×SMAP』における、自曲を一切歌わず他者の音楽に身を委ねさらに拡張させる役割に徹することで、逆説的に彼らにしかなし得ない方法でSMAPの表現を更新し続けていることにも通じるアティテュードである。というか順番としては逆で、『014』の時点でそういった姿勢が顕在化していたというほうが正確なのだろう。

 

そしてそんなことが可能だったのは、SMAP自身の力はもちろんのこと、長きに渡って彼らを支える優れたクリエイト・チームの存在があってこそだということ。今回のアートワークを見て、その想いを改めて深くしたのだった。というか今さらだけど、全員、本気だ。当たり前だ。だってSMAPが解散すんだぜ。こんなに本気にさせられる状況、ほかにねーだろ。そう言わんばかりのジャケなのだ。もっかい言う。素晴らしい。

 

(というか真面目っぽく書いてきたけど『広告批評』の広告SMAP特集読んでスマップすげー!ともろに影響受けてきたover30おじさんにはほんとに嬉しいデザインだったぜええええ早くこのポスターとビルボードで街が染まる光景が見たいいいいいいい)

2016年9月5日、SMAPと矢野顕子は「ひとつだけ」をうたった

あっこちゃんはいつも笑顔であのうたをうたってくれて
おれたちはそれをみていっしょに笑顔になったり
どうしようもなく泣いたりするわけだけど
きょうあっこちゃんと一緒にあのうたを歌うSMAPは
すごくシリアスな視線と力のこもった歌声を表出させていて
それはどこかなにかを覚悟したふうなたたずまいにも見えた

そこに余計な他意はなくて
あれはきっとSMAPなりのあのうたへの批評だったのだと思う

香取慎吾のソロにあっこちゃんのハミングが重なった瞬間

これまで何度も何度も何度も聴いてきたこのうたの

まだしらなかった表情に出会えた気がした

やさしいだけじゃない、あたたかいだけじゃない

なんでこのうたを聴くと涙が出てしまうのか

とっても深いところにあるその理由に触れた気がした

いまのおれたちはこのうたをシリアスにとどけたいんだ
それはいまゲストとしてやってきたあっこちゃんへの
5人の責任の取り方だったのだろうし
彼らにそうさせた『ひとつだけ』といううたと
矢野顕子という表現者のすごみを
あらためて思い知らされるパフォーマンスだった
音楽はときになによりも雄弁にいまをものがたる
やっぱりSMAPには音楽が必要だし
SMAPだからこそならせるおとが、うたえるうたがあるのだ
あっこちゃんありがとう
あなたのおかげできょうも彼らは音楽とともにありました