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舞台『エレファント・マン』――メリック=小瀧望の“声”は、尊厳を貫こうとする人の叫びだった

 

音楽ライブは未だ完全な再開には程遠い感がある(コロナ以降、現場ではまだKIRINJI×ハンバートハンバート@野音しか観れていない…)が、演劇に関してはここ最近ようやく以前のような上演ペースが戻ってきた。

とは言え、役者・スタッフ・観客からひとりでも感染者が出たらアウトなわけで、特に会期後半のチケットを取ってしまうと、「自分が観られる日まで果たしてちゃんと上演されるのだろうか」という本当に余計な心配をするようになってしまった。(いや、作品を作る人たちの健康を祈る気持ちは大事なものだけど、あまりにハラハラしてしまうのでメンタル的に負担で…)

今年は五反田団「愛に関するいくつかの断片」が公演中止になってしまったことは、本当に惜しかった。その後上演された「いきしたい」も掛け値なしにすばらしかったが、「愛の~」は前田司郎のコメントを読むかぎりひとつのターニングポイントになりうる予感もしていたので。でも「いきしたい」が本当に最高だったからいいか!(無限ループ)

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さて、「エレファント・マン」@世田谷パブリックシアターも、千秋楽の2日前の回を取ってしまったばっかりに、果たして無事に上演されるのかどうか、約1ヵ月のあいだとにかく心配しながら当日を待つ日々だったが、無事に観ることができた。

舞台は19世紀のロンドン。原因不明の奇形化によって人々から迫害され、見世物小屋で自らを晒すことで生き延びているジョン・メリックは、外科医フレデリック・トリーヴズと出会い、彼の研究対象として病院の一室で暮らすことになる。はじめて家を持ち、他人との心の交流を持ち、普通の人並みの生活を得ることができたメリックだったが――。

観ているうち、ふとした瞬間に、メリックをなにか異形のものとして観ている自分に気がつく。それはもちろん演出や物語がそうさせているのではあるのだけれど、他者を異物として観てしまう目や心が俺にもあるのだという事実を、実感として突きつけられる。これはメリックを“醜いもの”として観るだけではなく、どこか“聖なるもの”として観ることについても同じだ。

メリックと“面会”した人々は、口々に「メリックは私にそっくりだ」と言う。あれはつまり、メリックに反射する自分自身に見惚れているわけだ。彼らはメリック自身を見ていないし、そもそも見ようとしない。ん? 「彼ら」? 他人事のように言ってるけどそれは俺も同じなんじゃないか? そう突きつけられる。

そんなメリックと同じ人として向き合う数少ない人物が、演じることを生業としているケンダル夫人であることもうまい仕掛けだと思った。演じることと素であること、外見と内面、公と私、本音と建前、規律と本能――本作は様々な二項対立の狭間で自分自身とは何かを問い続ける者たちの物語でもあった。

 

あるときは見世物小屋の壁、あるときはメリックが民衆の迫害から逃げ込む建物、あるときはメリックが暮らす部屋と、内と外・世界の外側と内側を、真っ白な壁と明かりという極めてミニマムな要素で表現する美術セットと照明も、その世界観を非常によく具現化していた。

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メリックとトリーヴズ、彼らを取り巻くさまざまな人物を描きながら、物語は「人間はほんとうの意味で“尊厳をもって生きる”ということができるのか」という問いに突き進む。

これはごくごく個人的な感想だが、始まってすぐ、メリックを演じる小瀧望の発声が、灰野敬二のそれに似ていると感じた。目の前の世界に対してたったひとりで対峙する、その勇気と必然を背負った者だけが発する、自らの存在の発露としての声。

メリックの慟哭、あの声が耳から離れない。小瀧があの声を選び取ったのは必然だったのだろう。

 

(※冷静に観返すと、似ているような、全然似ていないような……でもあのときメリックの声を聴いて、俺は本当にそう思ったし、それは見当違いなことではないと、↓の灰野さんの声を聴いて思う)

 


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小瀧は言葉通りの意味での「上手い役者」というよりは、ちょっと面白い資質を持った演じ手なのでは、と思った。

 

メリックの造形の素晴らしさは言うまでもなく、トリーヴズの見る夢の中でのメリックを演じるとき、客席に向かってトリーヴズの“病状”を説明する堂々たる姿もさることながら、記者(?)とのやり取りでの受けの芝居に、すごくいいものを感じたのだ。あの一瞬に、人と人とのあいだに生まれる言葉と空気を乗りこなしていく彼の才気を見た。

今回は演じた役柄の性質上、他の俳優とのやり取りにおいてもかなりイレギュラーな要素が多かったと思うけど、たとえばいつか4人くらいの少人数で丁丁発止のやり取りを繰り広げる会話劇などでの彼の佇まいも観てみたいと思った。今後もいい作品と演出家・共演者に恵まれ、演劇の舞台でその姿を観られることを楽しみにしたい。近藤公園、高岡早紀も素晴らしかった。森新太郎作品は今回が初めてだったが、かなり好みに感じた。次作も追おうと思う。

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最後に。本作は日本での上演は2002年以来(出典:wiki)とのこと。18年間でこの国に起きたことを踏まえて、歪んだ選民思想がついにやまゆり園の件にまで行き着いてしまったいまの日本(言うまでもなく俺自身を含む)の惨状と、ラストシーンのメリックの姿をどうしても重ねてしまった。あのシークエンスの、すさまじい静寂と、壮絶な悲壮は、思い出すと涙がこぼれそうになる。

これを書いているついさっき、今夏に上演された「赤鬼」(作・演出 野田秀樹)の配信を観終えたが、これも「エレファント・マン」同様(というかむしろより強く)異形の他者に対する偏見・デマ・差別、そしてコミュニティからの排除・分断を鋭く描いた得難い作品だった。

「エレファント・マン」、そして「赤鬼」、いずれの作品も観て、俺は鋭く強烈な痛みを覚えた。で、その痛みはどんなに目を逸し見ないフリをしても、いま俺らの目の前に確実に存在しているものなのだ。こういう作品たちが2020年のいま上演されたことは、俺の中の演劇という表現に対するある種の信頼を再確認することができた出来事でもあった。

 

「エレファント・マン」は、12月5日(土)18時から配信上映される。(ジャニーズ事務所所属の俳優の主演公演を含む)優れた演劇が配信フォーマットで観られる機会が増えたのは、コロナを経ての数少ない良い変化かもしれないな。

 

また先述の「赤鬼」も、12月7日(月)17時までYouTubeで無料配信中。2020年に観る意味にあふれまくった演劇なので、これをここまで読んだ人には、ぜひ。「エレファント・マン」との相似性も感じられるかも。

 

 

V6の音楽に触れる幸福。配信ライブ『V6 For the 25th anniversary』鑑賞

とにもかくにも、俺はV6の音楽が好きだ。V6の音楽を聴いていると幸せだし、満たされる思いになる。

で、それとは別に、「V6の音楽が好きなこと」と「V6が好きなこと」は、必ずしも両立するものではない。曲は好きだけど彼らのことは特別好きではない、ということだって全然あり得る話ではあるし、その逆でV6のことは好きだけど彼らの音楽はあまり好みではない、という人もいるだろう。

さて俺はというと、V6の音楽も好きだし、V6のことも好きだ。その理由はやはり音楽に関わる部分で、俺はV6という表現者集団の自身の音楽に対するスタンスを、とても信頼しているのだ。2020年11月1日、25周年記念として行われたV6の配信ライブ『V6 For the 25th anniversary』を観て、そのことを改めて感じた。

俺がV6の音楽を好きになるきっかけとなったアルバム『Oh! My! Goodness!』は、それまでの俺の中にあったV6像のようなものを軽々破壊し、異形のエレポップ桃源郷へと誘う怪作にして傑作だった。同作を引っさげたツアーのライブDVDには(過去記事:V6『Oh! My! Goodness!』のライブDVDがすごい面白かったよ)、冒頭からカップリング~未発表曲を連打し、終始ひたすらに鋭角なパフォーマンスを繰り広げる彼らの姿が記録されている。

 


その後、俺が初めてV6をライブを観たのは20周年ツアー『V6 LIVE TOUR 2015 -SINCE 1995~FOREVER』だったんだけど(過去記事:V6の20周年ライブがめちゃめちゃよかった・2015年10月29日@代々木)、あのとき彼らはライブの後半に6部構成にもわたる激長尺メドレーを披露した。もちろん往年のヒット曲も満載だったんだけど、あれはなんというか普通の発想で思いつくサービス精神の範疇をぶっちぎった、サービス精神の暴発、サービス精神の暴力とも言える極めて過剰な表現となっていて、会場で圧倒された記憶がある。

 


つまり俺にとってのV6原体験は、『MUSIC FOR THE PEOPLE』~『愛なんだ』~『WAになっておどろう』といったJ-POP黄金期の楽曲たちによって刷り込まれた彼らのパブリックイメージをことごとく覆され、新たな刺激の注入によって最新版V6にアップデートさせられる瞬間の連続だったのだ。

なので、今回の25周年ライブで、前半を終えて始まったMC(という名の着席だべり)(最高)(笑い転げた)で岡田准一が、今回のライブのテーマが「攻め」であり、皆で話し合って“いまの自分たち”をみせようということになった、と語る姿を見ても、冒頭『Right Now』で始まり、いわゆる代表曲は固めず、近年の新しい楽曲を中心とする前半の内容を踏まえるとまあ納得ではあったし、なるほどV6なんだからそりゃ攻めるわね、と、攻めという言葉とは裏腹にどこか安堵してもいた。「攻めるV6」は、それだけ、俺の中である意味常態化しているものでもあったのだ。

しかし。とは言え。それにしても。ひたすらにくだらないMC(という名の着席だべり)(最高)(笑い転げた)を経て、「この流れで次の曲いけないよ、けっこうクールな曲じゃん」という流れから始まった後半からラストまで、俺は口をあんぐりと開け、うひゃああ、とか、うっぎゃああ、とか、ひゅにゅる~~~ん、とか、むぷしゅにゅいみゅりわ~~~~~ん、とか、奇声を上げるほかなかった。いや。いやいやいや。攻めるとは言っても、まさかここまでとは。結果として後半もシングルは見事に近作で固められ、これまでのライブにおける定番のレパートリー含め、歴代売上上位の“V6といえば、これでしょ”といういわゆるベッタベタな代表曲はほぼ全く歌われなかったのだ。

 

アニバーサリー・イヤーということもあり、おそらく本来はリアルなツアーも予定されていただろう。コロナ禍で配信形式での開催を余儀なくされた中、むしろ配信だからこそこれまでライブ未参加の一見さんが初めてライブに触れる機会にもなりうるであろう今回のライブ。というかそもそもキャリア25周年という極めて重要なタイミングの公演で、「攻め」というひと言では到底収まりきらないライブを、V6はやってのけてしまったのだった。

構成~演出面でも、配信でしかありえない、配信だからこそできる魅せ方のオンパレード。特に個人的な白眉は『PINEAPPLE』~『TL』~『GOLD』の流れ。少し前なら遠距離恋愛に聴こえたはずだが今ではコロナ禍を生きる恋人たち、もっと言えばV6とファンの関係性をもダブらせる土岐麻子の歌詞が素晴らしい2020年のV6を象徴する1曲から、『TL』をあえてのインストゥルメンタルによる別撮りの水上ダンスパート(導入の坂本ソロダンス含め、えげつない見応え)で魅せ、そこから一瞬の静寂を経てまさかのまさかのまさかのまさかの『GOLD』ああああ~~~~あ~~あああああ~~~~んn!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!111111111111(あまりの衝撃に思い出すだけで文体が混乱しています)

シングル『COLORS / 太陽と月のこどもたち』のカップリングとしてこの世に生を受けながらこれまでライブの場では日の目を見なかった(というか普通はC/Wが日の目を見ることのほうが少ないのだけど)、俺のどストライクなエレポップサイドのV6をこれでもかと堪能できるドドドド傑作曲がついに放たれた喜びは、筆舌に尽くしがたいものがあった。もうこれで俺のライブは終わりました本当にありがとうございましたと賢者タイムに突入しそうになったのだが、間髪入れずに『Can't Get Enough』が始まり俺は無事に昇天・合掌・臨終したのだった。

で。何がすごいって、上記の流れを含め今回のライブ、あえてマニアックセトリで固めたよ~とかこれならファンのみんな喜ぶでしょ~とかそういうある種の戦略的な狙いよりも先に(いやそれはそれであっただろうし、客商売なんだからそれも大事だけど)、結果的にMCで語られたとおり、V6の今の音楽のパワーが最大限魅力的に爆発する内容になっていたことなのだ。

おそらく日本の総人口で考えたら先述した3曲を知らない人のほうが多いと思うし、俺だって『愛なんだ』も『グッデイ!!』も『バリバリBUDDY!』も聴きたかった。しかし今回のライブは、セットリスト・演出・構成・そして言うまでもなく6人の歌唱・ダンス・パフォーマンス含め、“彼らが現在進行系で鳴らす音楽”に焦点を当て、その魅力を余すことなく堪能できる極めてクオリティの高いものになっていた。何より表現として信じられないくらい刺激的だったし、この重要なタイミングの公演をそういうライブとして完遂してくれたことが心の底から嬉しかった。

 

そして改めて痛感した。あー、これだから俺V6が好きなんだ、これだからV6のことって信頼できるんだよなあ、と。音楽と真剣に向き合い、音楽を愛する表現者たちのライブが、素晴らしくないはずがない。そんな(V6にとっては)当たり前の、しかし当たり前じゃない得難さを噛み締めた一夜だった。

あともうひとつ、恥ずかしながら俺はこの日最後に披露された『羽根 ~BEGINNING~』という曲を今回初めて知ったのだけど、V6が音楽で表現してきたもののある一端が見事に表現されていて、すごく感動してしまった。<儚いもの失うこと 畏れないでいこう><なんの変哲もない この自分を讃えるのさ>ってもう、V6イズムそのものじゃないか。2000年リリースのアルバム『"HAPPY" Coming Century, 20th Century Forever』収録曲なのか。6人のボーカル含め、沁みたし、この機会に聴けたこともなんか嬉しかった。きっと俺以外の少なくない人たちに対しても、こういう新たな発見や気づきをもたらしたライブだったんじゃないだろうか。

 

あ、本当の最後にもういっこだけ。数年後しに改めて思った。森田の表現力に感銘(過去記事:V6『Oh! My! Goodness!』における森田剛氏のボーカルについて)。森田剛の歌声を聴くと、どうしようもなく心を乱されてしまうんです、俺。身も蓋もないけど、シンプルに言って彼の声がやっぱり好きなのだ。そのことを再確認した夜でもあった。溶けました……。

 

 

うーーん。いやー。しかし。そうかー。俺、まだ甘かったなー。事あるごとに言ってる気もするけど今回もまた、なんか、V6、ここまでとは思ってなかった。さすがにもっと安心できるライブやるのかと思ってた。参った。

ということは、これから先もまだまだ大丈夫ということだと思う。アニバーサリーの瞬間に「この先」について期待を抱かせてくれるって、当たり前なようですさまじいことだ。本当にいい時間だった。

映画『ミッドナイトスワン』――社会の中で「自分」を取り戻すことはできるのか

 

映画『ミッドナイトスワン』を観た。

トランスジェンダーの凪沙(草彅剛)は、性転換手術のために細々と貯金をしながら、新宿のニューハーフショーで日々の生計を立てている。

 

ある日故郷の親から、母親から虐待を受け保護された親戚の少女・一果(服部樹咲)を引き取ってくれないかと頼まれ、渋々引き受けることに。傷つき心を閉ざした一果と、孤独を抱える凪沙の、束の間の共同生活が始まる。

 

 

観終えて、いまもっとも強く心に残っているのは、凪沙と一果の「顔」だ。

「自分」とひと言に括っても、その中にはいろいろな顔がある。家族と会社の上司と学生時代の友人、全員にまったく同じように変わらぬ顔で接することができる人のほうが少ないだろう。

人生で出会う人の数だけ、自分の中に異なるさまざまな表情が生まれていく。逆に言うと、人との出会いによって、人は新たな自分を発見し、認め、獲得していく。ひとりきりでも生きていける人間が社会の中で生きる意味のひとつは、そこにあると思う。

一果は理屈ではなく本能で、あえて表情を作らない。表情を作ることを拒否している。それはつまり社会で生きること=大人たちの中で生きることを拒否する態度だ。根底には、母親から虐待を受けた経験による、大人や社会に対する強固な不信がある。

一方、凪沙は実母に対してはぶっきらぼうな「息子」として振る舞いもするし、就職面接では礼を欠く面接官を前に慎ましくそこに居続ける。そういった凪沙の中にあるさまざまな表情は、凪沙が社会で生きるために必要なものと判断して表出しているものだろう。しかしそうして作られた顔たちは、凪沙自身を幸福にしているだろうか。

顔を持たない一果と、顔を繕う凪沙。自分で自分自身をつかまえられないまま、社会から爪弾きにされたふたりは、衝突し、泣きながら身を寄せ合う。

 

いつしか、一果はバレエに出会うことで、凪沙はそんな一果と出会うことで、これまで知らなかった自分自身を発見し、これまで誰にも見せたことのない顔を、互いに見せ合っていく。

 

それはふたりが「自分」を取り戻し、社会で生きていくことを諦めないでいようともがく姿だった。

終盤、友人やかつて虐待を受けていた母親にすら笑顔を見せられるようになった一果は、変わり果てた姿の凪沙と再会する。その瞬間のふたりの顔は、思わず目を背けたくなるほどの痛々しさだった。

 

孤独を選んでいれば出会うはずのなかった痛みが、ふたりをつなぎとめているように見えてつらかった。でもその痛みだって、誰かとともに生きるということの得難さ故なのだよな、とも思う。

どんな台詞より、どんなエピソードより、人が人の中で、社会の中で生きていくことの幸福と困難をもっとも雄弁に物語っていたのは、凪沙と一果、ふたりがみせたたくさんの「顔」なのだった。

***

というように、主に俳優陣の演技において観るべき点はいくつもあったのだが、作品全体については実はあまりよくは思わなかった。端的に言うと俺個人の好みと、演出・脚本の相性が悪すぎたのだと思う。

まず、凪沙や一果、また東京で一果と出会う同級生・りん(上野鈴華の芝居、すごくよかった)など、作品の中心となる登場人物は異様なリアリティを放っているのに対し、その周辺には妙に味付けの濃い戯画的なキャラクターが遍在していた点。

特にりんの母親、ショーの最中に悪態をついて乱闘騒ぎを起こす男性客、配慮を履き違えた発言を行ってしまう面接担当の男性、彼らの描き方は、物語を推進することを優先した結果、不必要にステレオタイプに造形されているように感じた。

また、作中のいくつかの演出にも疑問が残る。ショーの最中の乱闘からとつぜん一果がステージに上りバレエを披露する流れ。公園で凪沙と一果が踊る極めて美しいシークエンスのあと唐突に出てくる老人とのやりとり。一果のコンテストとオーバーラップさせたりんの屋上のシーンの閉じ方。そして凪沙を背に海に入っていく一果。

このあたりはなんというか、映画的な盛り上がりとしてやっているのはすごくよくわかるし、これらを称賛する生理というのもわからなくはないのだけど、俺にとっては「それ、必要なのかしら」と白けてしまうポイントとなってしまった。

 

しかし、内田英治監督の下記ツイートの、

<これは娯楽。娯楽映画>
https://twitter.com/EijiUchidaFilm/status/1310221305040445440

という言葉を見返すと、なるほど確かにあれはあれで正しいのかもしれないな、とも思う。

重い話ではあるが、終始ストーリーは簡潔にテンポよく進む。描きたいものは明確で、それに即する筋と言葉がある。上記のように(俺は乗れなかったものの)映画として盛り上がる力のあるシーンもきっちり撮って、それらをえいやっとひとつにつなげて作品として仕上げられ、監督が意図するところの娯楽=エンタテインメントの中に見事におさまった。

で、俺にはそれがつまらなかった。特に俳優たちの熱演がそう料理されたことは、とてももったいないことだと思った。とは言え、別に俺は自分をいい映画鑑賞者だと思ってはいないので、だからこれは単純に相性の問題なのだと思っている。

***

最後に。先述のツイートで記述されているように、監督に<自分の映画を社会的にはしない>という思いで作品を作る自由はもちろん、ある。しかし同時に、観客がこの作品とどう向き合い、どう受け取るか、その自由も言うまでもなく、(例えそれが監督であったとしても)誰からも規定されるものではない。それこそが映画を含む、あらゆる表現の美点だろう。

 

また、<社会問題は誰も見ない。映画祭やSNSでインテリ気取りが唸り議論するだけ>という言い方は、社会問題の視点から作品に対して批評・批判的態度で発言する人たちに、極めて歪んだバイアスを与えてしまうものだ(現に当該ツイートを引き金に、潜在的にそれは広がっていると感じる)。

 

これだけ現在の日本社会に接続された作品を作りながら、トランスジェンダー当事者を含む社会の一員としてこの作品に向き合った人たちの批評や批判を<自分の映画を社会的にはしない><なので娯楽です。多くの人に観てほしい。それだけ>とかわすしぐさは、鑑賞者を、ひいては娯楽=エンタテインメントをも軽視する、なかなかひどい態度だと思う。

 

エンタメって、そんなやわなもんじゃないでしょう。そもそも社会問題とエンタメって、そんな分断されるようなものなのか。それってこの作品自体を否定することにもならないか。

 

前半で書いたように、俺はこの『ミッドナイトスワン』という映画を、社会の中で人はどう生きていくことができるのか、そういうことを描いた作品だと受け取った。で、そういう作品についてこのような状況が生まれてしまっているというのは、いろいろな意味で示唆的な出来事だなと思う。

2020年の梅雨、「としまえん」に行って、マジックとブラワーエンジンとサイクロンに乗りまくった

 

子どものころから大好きな遊園地・としまえんが閉園するので、最後の見納め・乗り納めに行ってきた。

閉園のニュースが出たあととは言え、梅雨時期の平日のとしまえんはガラガラで、乗りたかった乗り物には何度も何度も乗ることができた。もう今後一生乗れないと思うと残念だけど、こんなに乗ったのだから、まあいいかと思うことにしておく。

なかでも特に大好きな3つの乗り物について書き残しておく。

●3位:サイクロン



 

サイクロンは、まず丸太の形をした車体がいい。都心にしては緑が多い園内を走るときに、この木目のテクスチャが映える。



 

頑丈なバーを下ろすということはなく、体を固定するのはシートベルトだけ。

 

 

そのぶん激しい落下や極端なカーブはないが、いま乗ってもちゃんとスリルと爽快感があった。後半のトンネルも直球かつ意外性のある趣きが楽しい。最後に川にかかる橋を渡るのも、この都市×自然コースターの締めに相応しいあしらいだ。

俺が曲芸のようなアクロバティックなコースターではなく、キャメルバックを基調とした王道のコースターを好むようになったのは、このサイクロンの影響がでかいのだな、と改めて思った。

俺の脳内では、としまえんのサイクロン→よみうりランドのバンデッド→富士急ハイランドのFUJIYAMAが惑星直列しているのだけど、バンデッドやFUJIYMAを知った俺がいま乗っても(いやだからこそ)しっかりと美点を感じられるコースターとしてサイクロンが存在し続けていたことがうれしかった。




●2位:ブラワーエンジン

 



 

普段の生活では感じることが少なく、遊園地でないとなかなか体感できない感覚のひとつに「遠心力」がある。

ブラワーエンジンは小さな小さなコースターだ。蒸気機関車を模したブルーの車体は、コースの規模に合わせてやはり小さい。このちんまりしたSLが8の字コースを縦横無尽に走り回るとき、全身にグググッと絶妙な遠心力がかかる。これがたまらなく楽しい。



 

乗り場近くにあった解説板によると <ブラワーエンジンは、ドイツ鉄道で古くから多くのファンを持つ特急「青いリンドウ号」をもとにデザインされた自走式のコースターです。スムーズな乗り心地でダイナミックな走行感とスピード感が楽しめます> とのこと。



 

遠い記憶では毎回コースを2周していたと思っていたが、この日は3周していた。閉園前の大盤振る舞いなのかしら、と思った。

 

家に帰って調べるとやはり基本は2周なのだが、その日のラストランではおまけで周回を追加するサプライズがあったのだとか。そう言われれば記憶を辿るとそんな感じだった気もしてくる。

コースのほとんどはカーブで、そもそも乗り場の時点で特に先頭車両のあたりは、その先のカーブに突入せんとばかりにすでに若干左に傾いていたりする。

 

 

最初こそゆっくりスタートするのだが、1周目がおわる頃にはスピードはかなり加速し、そのまま2周めに突入。

 

普通のコースターなら停まってやっとひと息つけるはずの乗り場を、「ピロピロピロピロピロピロ」という警告音とともに全速で走り抜けていく瞬間の快感ったらない。

スピードは時速36km、しかし体感はそれ以上。急カーブではなかなかの遠心力がかかり、身長178cmの自分などは車体からはみ出た頭がレールにぶつかってしまうのではとビビるほど、見た目以上にスリルも十分。

 

小学生でも楽勝で乗れる気軽さと、コースターならではの醍醐味が凝縮された、小ぶりながらすさまじい名機だ。



 

●1位:マジック
 

 

遊園地の乗り物に乗って、マッサージを受けている気分になったのは初めてだった。この日3度めのマジックに乗っていたときのことだ。

 

やはりここでもキーワードは遠心力なのだけど、このマシーンの作り出す複雑な味わいの遠心力に身を任せると、いつもならスリルと快感で興奮状態になるはずの俺の五感と肉体は、なぜだかゆるゆると解きほぐされていったのだった。

としまえんには、回転系アトラクションが充実している。すべて乗ればどんな人でもひとつは気に入るものが見つかるのではないか。

 

回転系とはその名の通り基本の動作が回転なので、必然的に遠心力がかかるわけだけど、マジックはその回転のかけ方=遠心力のデザインがかなり複雑で、なんとも滋味深い遠心力を味わうことができる。

 

この、マジックだからこそ生まれる遠心力が、俺はどうしようもなく好きなのだ。

 

まず中央の軸から4本のアームが伸びており、このアーム自体が回転しながら上下する。そのアームの先にある新たな軸からさらに3本のアームが伸びており、この3本の第2アームも回転する。

 

第2アームの先には人が乗るゴンドラが設置されており、そのゴンドラ自体も回転する。

 

 

全然説明できている気がしないが、つまり上下運動と何重もの回転、さらにスピードが重なり合い、複雑な遠心力を生んでいるということだ。



 

 

この複雑な遠心力こそ、俺にマッサージ的なある種の治癒効果をもたらした正体である。すごかったよーあの体験。マジック乗りながらあっへはは~へはっは~とか笑いながら全身脱力してんだもん。一体どうなってたんだあのときの俺は。知るか。マジックに聞いてくれ。

実はこの日、俺はとしまえんにひとりで行った。それは少年時代、家族や友だちと行くと好きな乗り物になかなかたくさん乗れなかった切ない思い出があって、せっかく最後なのだから愛する乗り物に好きなだけ乗ってやる、という思いからだった。

 

当時、マジックが回転するさまを下から眺めているのが、俺は大好きだった。回るマジックをいつまででも見ていられた少年の日々を思い出す。

そして今回、念願叶っていちばん好きなマジックに好きなだけ乗った結果、アヘアヘ笑いながらナチュラルトリップするという衝撃の事態になった。なんというか、人生色々あるけど長生きするもんだよな、と思う。マジックのあの遠心力をもう味わえないのかと思うと、冒頭では強がって「まあいいか」とか書いたけど、やはり、割と意外なほど、とてもさびしい。

いま気がついたのだけど、公式サイトによると、このマシーンの最高時速は35kmなのだとか。ブラワーエンジンとほぼ同じじゃん。俺にフィットするスピード感なのかもしれないな。

*

本当はもっと早いタイミングで、もっと広く有益な情報も入れ込みつつまとめようと思っていたけど、そんなの他の誰かがもっと最適なかたちでやっているだろうし、俺は俺として忘れたくないことを書き留めておこうと思い直し、こういうかたちになった。

 

俺には大好きな乗り物がたくさんあって、そんなとしまえんが大好きだということを、忘れないように書き留めておこうと思ったのだ。

 

それにしてももっと書くべきことはなかったのかという気もする。カルーセルエルドラドも素晴らしかったし、フライングパイレーツに俺ひとりだけで乗れたのもいい思い出。マサラのカレーも食えたし、イーグルはやっぱり死ぬほど怖かった(イーグルが拘束具なしなの、いまだに信じられん)。

 

ちなみに今回書いた3つの乗り物には3回ずつ乗った。誰に気を使うこともなく、ひとりで好きなだけ乗りまくれたので、最後に最高の思い出ができたなあと思う。

 

というわけで、とにかく、ありがとう、としまえん。大好きな遊園地でたくさん遊べて幸せでした。

POLYSICSツアーが中止になって、「あーマジで残念だ」って、思おうと思った

 

多くの(と書き出してみたものの、今回の一連のコロナ対応において表現&文化活動に対するこの国の軽視っぷりを目の当たりにして、ああもはや日本においてはエンタテインメントに心酔する人間などはすでにマイノリティだったのか、という事実を痛感してはいるのだが、とはいえ少なくない人数の)エンタメ好きな人たちと同じく、俺もこの1ヵ月そこらでもいくつかの公演キャンセルを経験した。

書き出してみる。新しい地図ファンミ―ティング。KIRINJI。コーネリアスVSロザリオス。五反田団(現時点では発売延期だがおそらくやらないだろう)。ほりぶん。そしておそらく今月のバッファロー・ドーターと坂本慎太郎も見送りとなるだろう。書いていて目眩がしてくる。いったいどれだけの名演が、日の目を見ることなくその機会を奪われてしまったのか。

で、きょう4月3日、ポリシックスのツアー中止のアナウンスをツイッターのタイムラインで知って、そのとき俺は外を歩いていたのだけど、かなり大きな声で「あああ、はあーあ、あーーもう」と声を漏らしてしまった。

 

>POLYSICS公式ツイッター

https://twitter.com/POLYSICS_TOISU/status/1245999537782734848

>ハヤシヒロユキ公式ツイッター
https://twitter.com/HiroHayashi78/status/1246004226460758016

この状況、つまり誰のせいでもなく(明確な補償を設けずに自粛要請だけを繰り返す政府には大きな責任があるが、そういう経済面の話とは別に)ただただ公演を行うことができないという事態に対して、「いちばん辛いのは本人(=バンドや劇団)たちなんだよね」という人の気持ちもわかる。わかるというか実際そうなのかもしれない。身を削ってゼロから表現を作り上げ、やっと他人に披露しようというときにその道を絶たれる辛さは想像を絶する。

一方でウイルス対策の視点では、そもそもいまライブハウスでライブをやるのは、正直ありえないことでもある。仮に今バンドがライブを強行したとしても、正直、俺は行かなかっただろうし、バッファローや坂本さんのライブも、客のためにも演者スタッフのためにも正直延期または中止してくれないかとすら思っている。なぜって、事実、世界中で、というか日本でも人が死んでいるのだ。死んでいい人などいない。ましてや自分をここまで生かしてくれたライブハウスから死者を出すことなんてあってはいけない。

ただ。ただ、今夜ポリシックスのツアーが中止するという現実を前にして俺は、俺が感じた「とにかく残念でしかない」という気持ちを尊重しようと思ったのだった。

コロナのことを考えたらライブはやるべきではない。でも、残念だ。とにかく残念だ。やりきれない。ポリシックスのライブが観たかった。観たかった。残念でしかない。

本当は「残念」なんて言葉で済ませられない、このいまのどうにも言い表せられない気持ちは俺だけが感じた確かなもので、それで、俺はなんというか、その残念な気持ちの奥の方で、「あ、俺こんなにポリシックス好きだったんだ」と、ふと思った。で、それはそれで、変なんだけど、ちょっとうれしかったりもしたのだった。

俺は今夜くらいは、バンドのこととか音楽シーンのこととかこの先の日本のこととかは一旦置いといて、「ポリシックスのライブが観られなくて残念だ」といういまの気持ちを尊重しようと思う。で、いま様々な状況で引き裂かれそうになっているエンタメに心酔する人たちにも、そうあってほしいと勝手に思っている。

おそらくこの先(というかすでに)、「ファンならこうあるべき」という同調圧力があらゆる場面で生まれてくる予感がある。もちろん「こうありたい」という思いを胸に行動することは大事なことではある。しかし一方でそこからこぼれ落ちてしまうパーソナルな気持ちも、ちゃんと持っておきたいと思うのだ。

だって残念じゃん。悔しいじゃん。観たかったじゃん。誰に気を使うことなく、誰に引け目を感じる事なく、そう思っていいんだよな。自分で自分にそう言い聞かせるように、今夜はポリシックスのツアーが中止になってしまった悲しみを噛み締めようと思う。

 

それは、自分がバンドのことをどれだけ愛しているかということを実感することと同義なのだ。

 

で、それはきっと、すっごく幸せなことでもあるのだ。

 

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さて蛇足として、なんでいまのポリシックスのライブが観られないことがこんなに残念なのかについても書いておく。理由はシンプルで、ツアーに冠されていた最新アルバム『In The Sync』が、バンドの最高傑作だからです。以上。ははははは。すごい、書くことを放棄しているw や、だって本当にそれに尽きるんだもん!

何度聴いても聴き足りない密度。すでに備えていたバンドの資質や魅力をここにきて再ブーストさせるような出色の楽曲群と演奏。とにかく血中興奮濃度(なんだその言葉)を沸騰させることだけに特化した刺激物の塊。こんなアルバムを結成ウン十年目でドロップしてしまったことは、2000年に『XCT』で出会ってから聴き続けてきた身としてはもうたまらなく嬉しかったし、今も絶賛リピートリピートリピート中です。

 

 

だからこそこの傑作を引っさげたツアーの中止はとてつもなく悔しいんですが、まだ未聴な人がいたら即聴いてほしいっす。よろしくね! ポリシックス=ライブバンドという見立てに異論はないけど、録音だってもんのすごいんだからな、ポリは! 特に最新アルバムは近年でも出色の音が刻まれているので、ここから入るのも全然OKというかむしろおすすめですので、ぜひに。

あとこれは蛇足かもですが、えげつないエネルギーを放出するポリシックスに相対するように、ベッドルーム・テクノ・ミュージック(そんなジャンルはない)としても機能しうるザ・ボコーダーズの活動がスタートしていたことは、この状況においてアドバンテージになりうるのでは、とも思った。(※同メンバーの別名義バンドです)

 

 

いやそんな単純な話ではないというのは重々承知の上ではあるのですが、この先、表現を生業とする人たちにとってはパラダイムシフトが起こる可能性もあり、現状のウイルス対策と照らし合わせると、唾を飛ばさずにいい塩梅のテクノをやるというコンセプトは意外と活路があるのでは、とも。とにもかくにも、バンドも俺もコロナ渦中を生き延びてまたライブハウスで再開したいものです。健康第一!!!!

(さらに超蛇足。ツアー初日の千葉LOOK観ましたがアルバム曲を全曲やらなかったんですよね。自分でもしつこいと思う、というかもはや粘着レベルの自覚はありますが、問答無用の傑作アルバムを引っさげたツアーで(ナカムラさん脱退ツアーとは言え)アルバム曲は全曲聴きたかったと思うのはそんなに無理難題な欲望なのでしょうか)(あー我慢できずに書いてしまった馬鹿馬鹿馬鹿ry

 

初めて行った千葉LOOK、最高のハコでした!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!11

ジャニーズWEST・重岡大毅『to you』――音楽で世界を受け入れるということ

 

ジャニーズWESTの重岡大毅ちゃん(※これは照れ隠しを踏まえた敬称です)がちょっと前に作詞と作曲を手がけた『間違っちゃいない』という曲を、密かに気に入っていた。

まずメロディがとてもいい。ジャニーズ所属のアイドルが歌うポップスとしての分別(そんなものが明確にあるわけでないけど、そのようなもの)はきちんと踏まえつつ、しかしありそうでなかなかない、普通ならこっちにいくだろうという定石を絶妙に排しながら、オリジナルな温度を持ったメロディラインなのだ。

そんなメロに対する言葉の乗せ方にも、新鮮な驚きがある。有り体に言えば応援ソングではあるのだけど、<間違っちゃいない>という平易かつ若干のいなたさをもった言い回しが、決して歌いやすくはない高低差のある音階と跳ねるリズムとともに歌われると、生きることを丸ごと肯定するマジカルなフレーズとしてキラキラと輝き出す。

まずメロディメイカーとして得難いセンスがあり、そこに最適な言葉を選ぶことができる。つまりはポップスを創作する音楽家として必要不可欠な能力を彼がすでに備えていることが、『間違っちゃいない』という曲を聴けばわかる。

さらに重要なのは、そのある種の器用さがテクニカルな領域にとどまることなく、今様に言えばエモさの発露として機能している、ということなのだ。

今回、重岡大毅ちゃんが、ジャニーズWESTのニューアルバム『W trouble』のために新たに書き下ろした『to you』という曲を聴いて、思い出したことがある。『文藝 2007年春季号 特集:恩田陸』(河出書房新社)内で展開された、恩田と漫画家・よしながふみの対談における、下記のやりとりだ。
http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309977065/


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恩田
あと、よしながさんの描く漫画では登場人物がちゃんと自分の人生に対するツケを払っているところが好きなんですよ、私。

『西洋骨董洋菓子店』でも、主人公が幼少時代に誘拐されるというトラウマを背負いながらも最後、「結局、オレは全然変わってねーじゃねーかよ、じゃあまたケーキ売るか」って呟いていつも通り家を出ていく、というのは、何かちゃんと自分の人生を自ら引き受けて生きているっていう感じがするんです。

よしなが
私はドラマが大好きでよく観るんですけど、例えばヒロインのトラウマがレイプだった場合、途中で男性恐怖症に陥りながらも、レイプした当事者を告訴し最後は恋人とよりを戻すという、まあいい終わりなんですよ、決して明るくはないけれど。これから苦しいこともあるだろうけど頑張っていこうというところで終わっている。

やっぱり物語だと克服させちゃうんですよね。でも実際生きている人の中には、加害者を告訴もできなければ恋人ともよりを戻せなかった要するにトラウマを乗り越えられなかったという人も大勢いると思うんです。

ただそうすると克服できない人というのは不幸なのか、男性恐怖症のまま幸せになるという道筋はないものかなという、何かそういうことを思って『西洋骨董洋菓子店』は描き始めたんです。

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恩田の<登場人物がちゃんと自分の人生に対するツケを払っている>という指摘は、よしなが作品に対する端的かつ的確な批評だと思う。

キャラクターそれぞれの人生を収まりのいい物語に回収させることなく、物語からどうしようもなくはみ出してしまう、生きているからこそ生まれてしまう、整理のつかなさややるせなさ、ままならなさ、そういったものを掬い取るのが、よしなが作品の魅力だ。

で、俺は重岡大毅ちゃんが作る音楽にも、同じものを感じる。

重岡ちゃんが作る楽曲は、ポップスとして、音楽として、すごくよくできている。あえてこういい方をしてしまうけど、この人は日本のヒットチャートを主戦場とする、しかもアイドルが歌う商業商品として成り立つポップスを作ることができる資質と能力を備えている。(個人的には彼が楽曲のアレンジ・編曲にどこまで自覚的に関わっているのか、とても興味深い)

しかし、繰り返すが、彼の作った曲を聴いて最終的に心に残るのは、そういった技巧的なうまさを超えた、彼自身の中からあふれるエモーションなのだ。

<あばよ、あばよ>という、彼らしいつっけんどんだけどチャーミングな言葉選びと、暖かさを増す春の日差しが似合う陽性のサウンドが相まって、喜びや悲しみといった単一の感情を表す言葉では整理できない、ストレンジな手触りが生まれる。

この世界には、自分の力では、ましてやどんな方法でもどうすることもできない、抗いようのないことが、確かにある。そんな世界に生きる者として、「そんな世界を愛せるのか?」、という自問。それはある種の諦観(=世界の原理に逆らうことはできないという確信)を含んでもいる。

そんなシビアかつ根源的な問いに対して、つまりこの世界が抱えるどうしようもなさ/ままならなさのすべてをまるっとひっくるめて、「おうよ、愛してやるぜ、愛してやろうじゃねーか」、と宣言してしまう、(投げやりや強がりも含んだ)覚悟のような、世界への応答。これは自分の人生、そして自分が生きる世界を、(ネガや矛盾も含め)受け入れていこう、受け入れてやる、という態度の表明だ。

で、彼は、そういうメッセージを、ヒットチャートを主戦場とするジャニーズ所属のアイドルグループであるジャニーズWESTの新作アルバム収録曲として、身と心を削って生み出したのだ。つまり自分が作るこの『to you』という音楽が、この世界にとって必要なものなのだ、と、心の中でグッとアクセルを踏んだのだ。

俺にとって『to you』はそういう曲で、あーいい音楽と出会ったなー、と思って、何度も聴いている。音楽が好きな者にとって、そう思えるような音楽と出会えることほど嬉しいことはないし、そういう音楽を作る表現者との出会いは、このうえない幸せだ。7人のボーカルもすごくいい。こういう曲が肯定・共有され、いま世に出たことが喜ばしいよ、俺は。

重岡大毅ちゃんには、もっともっと音楽を作って欲しい。まずはいま生み出されたばかりの『to you』という曲を繰り返し聴こうと思う。

●こちらもどうぞ●

 

 

 

 

※おそらく3/25くらいまではこのラジオ内でOAされたもの↓をタイムシフトで聴けるかもです(何も調べず書いてます間違ってたらすみません

http://radiko.jp/share/?sid=QRR&t=20200319232403

香取慎吾『10%』で踊る地獄――“パーフェクト・ビジネス・アイドル”は2019年に何を歌ったか

香取慎吾が『10%』という曲をリリースしましたね。結構聴いてます。
 

こちらはプロのライター氏が書いたレビュー。


●<香取慎吾「10%」レビュー>みんなが同じものを見ているわけではなくなった時代における“仲間づくり”のアンセム誕生
http://www.billboard-japan.com/special/detail/2778

うーーーーん。そうか。そうですか。いいなあ。なんか楽しそうで。何? この曲聴いてぐぬぬぬーって唸ってるの、俺だけ?

いや、曲じたいは楽しいですよ。文句なしに明るいし、ビートも極めて高性能でガシガシ踊れる。香取さんのボーカルもSMAP時代含め出色の出来。でもその前に、この曲、消費税増税をフックにした曲なんですよ。

 

2019年の10月1日に『10%』という曲を出した以上、そこでなにが歌われているかが重要になってくると思う(少なくとも俺はそう思う)のだけど、先述のレビューでいちばん引っかかるのは↓の部分。

<増税に反対 or 賛成というメッセージを打ち出すというよりも、むしろ「一度みんなでいろいろ一緒に考えてみない?」と、テーブルに多様な話題を並べ、ディスカッションに気軽に誘ってくれているかのような親しみ>

えーーーー?? 本当にそんな貧弱なメッセージしか込められていないわけ? この曲って。

仮に香取本人が“みんな! 消費税についていろいろ一緒に考えてみようよ! 気軽にディスカッションしようぜ!”と心から思ってこの曲をドロップしたのだとしたら、それこそ危機感もつべきだと思うんだけど。だって“俺らはこの増税について、気軽にディスカッションするところからしか始められないんだよね”と彼が判断した、ということになってしまうでしょう。


俺は『10%』を最初聴いたとき、正直かなりモヤッとした。というのも、配信開始時には歌詞が公開されていなかったのだ。

かなり細かい譜割り&耳だけだとほぼほぼ英詩に聴こえる言葉選びで、俺はほとんど歌詞が聴き取れず、そこで俺は若干の疑心暗鬼に陥った。いざ歌詞を確認して、この歌が増税タイミングにひっかけただけの、単なる話題作りだけの曲だったらどうしよう、と。

というか正直その可能性、つまりこの曲が全然ダメダメな表現に成り下がってしまっている可能性は十分にあると思っていた。個人的に新しい地図の活動には、おおすげー!と思う部分と、えっそれは…と思うところと両方あって、今回はそのダメな方が出ちゃったのかも、という疑念もあった。というのも、そもそも今回の増税に、俺はまっっっったく賛成していないからです。
 

小売店のなかにはこのタイミングで閉店を決めた店もあるというし、俺含む庶民~低所得層の生活にとって確実に痛手となる今回の増税。負担を薄めようと導入した軽減税率制度も混乱しまくりという有様。

●常連さんゴメン、もう限界…消費増税複雑で老舗続々閉店
https://www.asahi.com/articles/ASM9Y5WFYM9YUTIL014.html

せめて本当にこの国のために使ってくれればいいけど、すでに徴収されている8%の消費税も社会保障にはロクに使われず、大企業にばかり私腹を肥やさせてる現政権が、今更10%に上げたところで的確な使い方をしてくれるかは甚だ疑問。そしてそのことに意義を唱えることすらしないメディアと、それを鵜呑みにしてる世間。で、憤りながらもデモ参加かツイートくらいしか抗う術がない自分に苛立ってもいた。

10%に増えた税金は、俺(ら)の生活を間違いなく変化させた。実際、自分の財布から金がなくなって、その結果ツラいとかキツいとかっていう現実が生まれている。

今回の増税を表現のネタにしていい悪いとかいう話では全くなく、ネタにする以上こういうバックグラウンドを踏まえてそれが表現としてどう成立しているのか、というジャッジを聴き手に下されてしかるべきテーマなのだ、「増税」というのは。『10%』というタイトルで増税開始当日にドロップするのだから、なおさらでしょう。

俺は歌詞なしでこの曲を聴いだ段階では、評価を(かなり不安寄りの)保留扱いにしていた。少なくともわずかに聴き取れることばとサウンドからは、そこにどんな意図が込められているのか明確に読み取ることは出来なかったから。

さて。リリースから数日後、仕事終わりに有楽町でけっこう飲んで、酔っぱらって乗った電車の中でスマホをみたら、歌詞が公開されていた。ここからはまず↓を見て、曲を聴いて、各自が判断するしかないので、そこは各自にまかせる。まずは歌詞読んで、で、音を聴いてみてくれ。

https://utaten.com/lyric/%E9%A6%99%E5%8F%96%E6%85%8E%E5%90%BE/10%25

ここまで明確に反抗のメッセージを込めているとは思わなかった。
何に? 今回の増税に対して、だ。

正直まだよくわからんダブルミーニングっぽい部分もあるけど、だいたいにおいて当初聴き逃していた歌詞の殆どが、今回の増税を揶揄し、皮肉り、DISっている。まあそう聴こえてない人が大半ぽいので、俺のバイアスがかかってるのかもしれんけど、でもトータルで見たら明らかに「賛」ではなく「否」だと思う。

そもそも歌詞が意図的に聴き取れない(=聴き取らせない)仕様になってるから、わかりやすいプロテストソングとしては機能しないだろう。現に、増税タイミングに有名タレントが政権をアシストする楽曲を出したと批判する声も目にした(というか俺自身半分そうなんじゃないかと思ってた)し。

けど、少なくとも俺は、この時代を生きる表現者・香取慎吾が提示した『10%』という楽曲は決して見誤っていないと思うし、彼が安易なポジショニングでこの表現をしたとも思わない。むしろこの曲をいつから準備していたのかを逆算すると、彼の中にある問題意識は実は結構深いものなのではないか。

中でもいちばんキツいのは、<10% YOU DON'T KNOW 愚鈍脳 NOW>。

ここで歌われる“愚鈍脳”とは、この狂った増税を指揮した現政権のことでもあるし、そしてその判断を結果的についに受け入れてしまった(俺&歌い手自身を含む)国民のことに聞こえる。

“お前はまだ知らないふりをしている。これまでも、いまも、そしてこれからも。だろ?”

そんなメッセージを快楽に満ちたダンスビートに乗せて歌う香取慎吾。それを聴いてガッシガシに踊る俺。この曲で踊るとき、俺は引き裂かれる。彼の表現の鋭さに心底興奮しつつ、彼がこんな曲をドロップせざるをえない現実に吐き気がする。香取慎吾といえば「パーフェクト・ビジネス・アイドル」を自称するほど、プロとしてエンタテインメントを提供することにプライドと人並み外れた意地を持っている人間である。そんな彼のソロシングルでこんな生々しいアンビバレンツを味わうなんて、想像もしなかった。

 

「地獄をすこしでもマシな世界に変えようとしたら、いまここが地獄であることを自覚することからしかはじめられないのだ」

 

彼はそういうようなことを、極めて楽しく、気持ちよく、音楽を通してやってのけようとしているのかもしれない。いや別にそうじゃないかもしれない。でも『10%』を聴いて、俺はなんかそういうことを思ったよ。今年も、来年も、このビートで踊りまくってやるぜ。クソ!!

 

そんな『10%』が入ったアルバム『20200101』は、2020年元旦リリース(流れるような宣伝)。俺は昨日手に入れましたが、聴くのは元旦までのお楽しみに取っておくことにします。もちろん購入したのは『10%』の小西康陽REMIXが入ったGOLD盤。期待してるぞー!!

***

最後に余談。香取がかつて所属したSMAPというアイドルグループ。俺は彼らの最後のツアーを観て、こう綴ったことがある。

<要は「俺ら、いま、キツくね?」っていう現状認識なんだと思う、いまのSMAPは>

・SMAPの『Mr.S』ツアーは、なんでこんなに最高だったのかしら
https://ameblo.jp/oddcourage/entry-11980389543.html

そして↑のツアー最終日、アンコールで最後に歌われたのは、『ユーモアしちゃうよ』という曲だった。

<底抜けに明るいこの曲を聴くたびに俺は、

「で、きみはどうする?」

と、そう言われてる気がする。>

・<雨上がり、アスファルトの匂い>――『ユーモアしちゃうよ』を500回聴いて考えた
https://ameblo.jp/oddcourage/entry-12067625072.html

SMAPは(すべてがそうだったとは言わないけど)非常にシビアな現状認識をもったうえでメッセージを発し続けた表現者だったと俺は思っている。

『10%』を期にこういう視点でSMAPの楽曲たちを改めて辿ってみると、また違った聴き方ができるかもしれませんよ。その際は『007』(1995年作)と『Mr.S』(2013年作)の2枚のアルバムから聴いてみるのをおすすめします。激名盤なので!!

 

●こちらもどうぞ●

 

『凪待ち』めちゃ重い映画だった。その「重さ」についての色々

 

『凪待ち』。いやー、重かった。重いよお! 観てから1週間たつのに、この作品のことを考えるとなんかずーんと重い気分になる。

別にギャンブル依存症の中年男が恋人の死をきっかけにゴロゴロと転落していくストーリー展開(ひどい要約)を指して「重い作品だった」って言ってるわけではなくてですね。(まあそれだけでも全然重いけど)

観始めてすぐに、画面のなかの「重さ」が気になり始めたんですよ。

たとえば、

乗り慣れない自転車にまたがって踏むペダルの重さ
フォークリフトでガコッて積み上げていく氷の重さ
口からボトボトッて地面に落下する吐瀉物の重さ
水の張ったビニールプールにドッシャーーーって放り出される人の身体の重さ

などなど、いろんな重さをいちいち意識して観てしまった。作品の重心がつねに地面にあるというか。

閉塞感っていう表現だとちょっと違くて、なんだろう、すっごい重力を感じる、重力というものの存在を否が応でも感じずにはいられない映像。「どこまでいっても人間って地べたの上で生きてく生き物だよな。な?」といわんばかりの。

それを象徴してるのが、香取慎吾演じる主人公・木野本の体躯。とにかく重々しい!! あとお前まず肘ついてメシ食うな!! あの肘のつき方、いやにリアリティあったなー。ごめん肘の件は関係なかった。話戻します。

木野本さんには申し訳ないですが、俺的にはもうちょっとこの人とはあんま関わりたくないです感がすごかった。まず40すぎて(作中の年齢設定どうなってるかわかんないまま書いてますが)あんな肘ついてメシ食う人はちょっとやだなー。怖いよ。でもあの肘のつき方はめっちゃめちゃリアリティーあった(2回目)。だからこそ怖い。あとごめんもっかい話戻しますね。

 

 

木野本の「自分で自分の身体の大きさを持て余してる感じ」は、彼の人間性がよくあらわれてるなーと思った。

木野本は恋人の亜弓と、彼女の子・美波とともに、亜弓の生まれ故郷である石巻に移り住むんだけど、じゃあその前に住んでた川崎が彼にとってホームタウンだったのかというと、全然そんな感じはしないよなー。知り合いらしい知り合いは、職場の同僚兼ギャンブル仲間の渡辺だけだし。

だから木野本って男には、どこにいても、どこにいっても俺はストレンジャー、よそ者なのだ、っていう自覚と諦観をそもそもまとってる感じが最初っからあって。

そんな彼の身体は、まーーーーとにかく重ったるい(重い+たるい)。すべてのうごきが鈍い。あと猫背。たまーにすばやく動いたと思ったら人に殴りかかるときだったりするし。そのいきなり殴りかかる乱闘シーンのときとかの、とにかく勢い任せに全身を体重移動させてく感じは、木野本っておそらく自分の身体のデカさを自覚はしていて、むしろ自らの巨体を憎んでるのでは、とすら。その感覚は、石巻で起きる“ある事件”を経てより加速、暴走する。

というかたぶん木野本、自分のこと大っっ嫌いだよなー。わかるよその気持ち(えっ)。

そう、この作品に通底する、そして木野本が体現するいろんな「重さ」は、実は、正直に、ホントのところを言うと、個人的になんかすごい身に覚えのある、あーーこれよく知ってるやつだーーー、って思っちゃう類のものだったのだ。よりによって。だから木野本に感じた関わりたくないです感は同族嫌悪ってことなのかもですね。あーあ。

この作品をフィクションと割り切って楽しめる人、いるのかな。いるか。いるか別に。知らんけど。俺はぜんぜんそんなふうには観れんかったよ、この作品のことも、木野本のことも。

なんか、ふだんは見ないフリしてる、絶対あるって知ってるのに知らんフリして目を背け続けてるいろんな「重さ」を、木野本の身体をとおして直視させられ続ける。俺にとって『凪待ち』の2時間ちょいは、そういう映画体験だった。

じゃあその「重さ」って具体的になんなのか、というのが多分この文章でほんとは書かなきゃいけないとこなんだと思うんだけど、結局観てから書き上げるまでに1週間かかってしまった理由は、ここが判然としないからなんですよ。

俺にとってこの作品はなんなのか。どんな意味のある作品なのか。または意味などないのか。そのへんが俺の中で全然消化できてないし、全然腑に落ちてないままなんです。

なので結局のところ、いま確かなのは、観終わって俺の身体と心に残ったのは、作品に内包されたさまざまな「重さ」なのだった、ということ。

で、こう思う。あーー、やっぱこの重さを背負って、地べたを這いつくばりながら、いつか死ぬその日までなんとか生きてくしかないのかなー。そのへん見ないフリして目先の毎日をやり過ごそうと思ってたのに。このテキストみたいな軽薄で無責任な文体よろしく軽々しく生きて、あわよくばそのまま逃げ切れればなーーとか思ってたのに。やっぱだめかー。だよなー。ですよねー。でへへへ(死んだ目で)。

これから『凪待ち』という映画のことを思い出すたびに、この感覚が蘇るのかと思うと、重い。どこまでも重い。

なんかせっかくブログ書くんだから、教訓めいたものを見出してラクになろうとか、「この作品を観た俺の心に“凪”が訪れる日は来るのだろうか」的なオチ(例えにしてもひどい)つけてそれなりに消化した気になろうとも思ったけど、そもそも全然消化できてないし。

まーだから俺的にむりくりまとめるなら、「自分には凪など決して訪れないと思っている人間が、“それでも凪を待つということ”を引き受けるようになるまで」についての話だった。のかしら。でも木野本、お前に凪は訪れるのかなあ本当に。お前に、というか、俺に。ははは。あーーあ。

というわけでいまのところ俺にとって『凪待ち』はやっぱめちゃめちゃ重い作品だった。です。次観るときがあったら、違うふうに感じたりするのだろうか。うーん。公開中。

 

http://nagimachi.com/

Buffalo Daughter / バッファロードーター「25+1 Party」ライブレポート

 

今年結成“25+1周年”を迎えたBuffalo Daughter。アニバーサリーを記念して、アルバム『Pshychic』(2003年)『Euphorica』(2006年)が、アナログ盤で再発。その収録曲を全曲再現×再構築するライブツアー「25+1 Party」が全国4ヵ所で開催中だ。

以前、バッファローを知らない人に『Cyclic』を聴かせたら「ああ、こういう感じね」と感想を漏らしたので、つづけて『Autobacs』を聴かせたら「えっこれ同じバンドなの!?」と驚かれたことがある。

このリアクションはある意味当然かもしれない。26年のキャリアでフルアルバムが7枚というけっして多作ではない中で、バッファローは作品ごとに作風をガラッと変えるのだ。

 

その時々の音楽的興味にどこまでも素直でありながら、もちろん根底にはバッファローらしさが一貫している。ものすごい振り幅が成立している理由は、それだけ幅広い音楽性をバンドらしさに落とし込めるプレイヤビリティの高さを各メンバーが備えているからだろう。じゃあその「バッファローらしさ」って言語化するとなんなんだろう?

5月30日、ツアー初日公演となった東京・LIQUIDROOM公演。『Pshychic』と『Euphorica』という見事にタイプの違う2枚のアルバムを、しかも多数のゲストを迎えて再現したこの日のライブは、そんなバッファローの魅力を体感するのにうってつけの夜だったと思う。

 

※以下ライブの内容ですが、終始興奮状態の記憶のため、あいまい&正確さを欠いている可能性大アリです。致命的な間違いなどはコメント等でご指摘くださいませ。

 

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開場時間に合わせて会場に向かうと、入場待ち&物販スペースともに多くの人で溢れていた。前日にTwitterで検索したところ、10年ぶり~20年ぶりに彼らのライブを観るというツイートもあって、このライブへの期待の高さを感じる。

ちなみになんで25周年ではなく“+1”なのかについては、各メンバーが忙しかったりでキリの良いタイミングに間に合わなかったのだとか。そのゆるさもバッファローらしくていい。

今回のツアーは、東京・神戸・京都・小倉の各会場で異なるゲストを迎えて開催される。東京では、AAAMYYY(Tempalay)、小山田圭吾、菊地成孔、中村達也、SASUKE(50音順)という世代もスタイルも千差万別な豪華ラインナップが発表されていた。

6年前、2013年に代官山UNITで開催された20周年ライブの際は、当時発表されたベストアルバムにゲスト参加したアーティストが出演し、コラボ曲を生披露した。対して今回は、誰が何の曲を演奏するのか、ほぼほぼ未知数。

 

(ちなみに自分は開催前、ニヤニヤ妄想しながら下記を予想)

 

(◎本命 ▲穴)
中村達也→◎Pshychic A-Go-Go ▲Mutating
小山田圭吾→◎Lost Guiter ▲Cyclic
菊地成孔→◎303 Live ▲Deo Volente
AAAMYYY→◎Bird Song ▲Sometime Lover
SASUKE→◎Elephante Marinos ▲Chihuahua Punk

 

 

物販でTシャツ、バッジセット、ステッカーを購入し、入場。フロア左サイド前方3列目あたり、スピーカー前に陣取る。スタートまでの1時間弱のあいだ、ライブハウスのスタッフによる「すみませーん、このあとまだまだお客さんいらっしゃいますので、もう一歩ずつ前に詰めていただけますかー」というアナウンスが繰り返される。振り向くと後方までパンパン! すごいなあ。

定刻から少し遅れて(いた気がする)暗転、メンバーのシュガー吉永(g, vo, tb-303)と大野由美子(b, vo, electronics)がステージに現れ、ギターとベースのみで演奏スタート。聴き覚えのないリフ……これ何の曲だ?? 遅れて、ここ数年ライブをお休みしていて、今年正式にライブ復帰した山本ムーグ(turntable,vo)、サポートドラムというかほぼ正式メンバーの松下敦(ds)、ムーグさん欠席中のバッファローのライブに欠かせない存在となっている奥村建(何でも屋さん)が登場し、全員の音が揃って始まったのはアルバム『Euphorica』から『Beautiful You』!

さっそく大野さん×松下さんのリズム隊の音圧がすごい。リキッドでバッファローを観るのはミツメ主催『WWMM』出演時以来だけど、やっぱりリキッドってすこぶる音がいい。

 

 

最前エリア、スピーカー前でもまったく耳に負担がなく、しかし各楽器の音圧がビリビリ伝わってくる。それは会場のサウンドシステムに加え、バッファローの現場の音作りの巧みさによるところが大きい。PAは影のメンバーことzAkさん。職人の手腕がバンドのヤバい演奏を何倍にもブーストしていく。先日の銀座ソニーパークのフリーライブでも披露されていた曲だけど、そのときと比べて音圧がぜんぜん違う。うーん、きょうの演奏、気合い入ってるぞ!
 
続く『S.O.I.D』は、人力ダンスチューンが詰まったアルバム『Pshychic』の中では比較的おだやか&唯一の歌モノ曲だけど、久々にフルメンバーのライブで聴くと、アレンジのダイナミズムに驚く。さらに『Sometime Lover』は個人的にずっと生で聴きたかった曲! 腰にクるグルーヴとシュガーさんのボーカルが中毒性高いナンバーは、ライブでさらに肉感的になり大興奮。タイトとルーズが同居する唯一無二のグルーヴに乗るムーグさんのシャウトが痛快な『Peace』と合わせて、『Euphorica』というアルバムはバンドのファンクネスが炸裂した1枚だったんだなーと再確認。言うまでもなくガシガシ踊る!

 

※ソニーパークでの『Peace』の演奏。固定カメラのアングルがいい感じ。


ここで1人目のゲスト、TempalayからAAAMYYY女史が登場! 昨年から若手バンドとの対バンが続いているバッファロー、今年1月の新代田FEVERで素晴らしい化学反応をみせた北海道の雄・the hatchとのツーマンも記憶に新しい。Tempalayは昨年、青山・月見ル君想フで共演を果たしている。ポップなメロ×ひと癖あるオルタナなアプローチが同居するという点で、世代は異なれどバッファローとシンクロするスタンスを感じるバンドだ。

 

事前にシュガーさんのTwitterで「意外な曲をやるかも」と予告されていて、始まったのは確かに予想外の『Lost Guiter』! 失くした/亡くしたギターにプリーズカムバック…と呟き続けるストレンジな楽曲、ついさっきまでのダンスモードから一転、シュガーさんのギターエフェクトが轟き、そこにシュガー×AAAMYYY×大野の三重コーラスが乗ると、抗いようもなく意識がトリップしていく。『millor ball』然り、バッファローはこういう曲が本当にうまい。し、ライブで聴くとさらにすごい。『Lost Guiter』も初めて生で聴いた気がするけど、AAAMYYYさんのボーカルとの相性も抜群で、想像以上の衝撃だった。

 

 


そこから鳥たちが♪ルララルラッタ~と口ずさむチャーミングな1曲『Bird Song』に流れると、これがさっきまで轟音を鳴らしてたバンドの音か!?と、バッファロー楽曲の振り幅に改めて驚かされる。冒頭に書いたようにこの振り幅は、彼らの音楽的なバックグラウンドの豊かさと、自身の興味に極めて忠実に音楽を作り続けてきたことの証だろう。

大野×AAAMYYYが交互にソロを取るシンセセッションは、大野さんが参加するシンセカルテット・Hello,Wendy!のワンシーンのよう。歌メロがしっかりある曲でもバンドのフリーフォームな精神が貫かれているから、バッファローのライブは定型的にならずどこまでも風通しがいい。そのことをさっそく感じさせてくれるAAAMYYYさんとのセッションだった。

大野さんのシンセによるこのイントロは…うおおー『Elephante Marinos』! 本日のゲストのひとり・SASUKE氏が先日リワーク(リミックス)した楽曲で、リワークverでのリハを行っているとツイートされていたのでまさか原曲アレンジで聴けると思っておらず、これは嬉しいサプライズ! ムーグさんのライブ本格復帰によって、3人のボーカルの掛け合いを存分に楽しめるのも最高だ。

と聴いていたら、中盤のリフレインで一気にテンポアップ。からのリワークverになだれ込みSASUKEインザハウスな流れでフロア沸騰!

 


新しい地図に書き下ろした『#SINGING』でその存在を知ったSASUKEさん、ステージ映えするし演奏バツグンだしムーンウォークまで披露する絶好調っぷり。このリアレンジを聴いただけでも、バッファローが単なる懐古目的でこのツアーを企画したわけではないことは一聴瞭然。この1曲のみのコラボだったのが惜しくなる、この日のひとつの沸点となるセッションだった。

このツアーに対するバンドの意思をさらに感じたのが、次に披露された新曲だ(『Don't Punk Out』という曲らしい)。俺が初めてこの曲を聴いたのは2017年のビルボードライブ大阪でのASA-CHANGを迎えたライブだったので、少なくとも1年半くらいはライブの現場で演奏し続けている楽曲ということになる。

過去作の再構築&ゲスト多数のライブということで、この日久々にバッファローを観に来るお客さんが少なくないだろうことは、もちろんメンバーも予想していたはず。そこでバンドの最新系をガッツリ見せつけるスタンスに痺れたし、なによりその楽曲がまったく見劣りしないどころか更に鋭さをましているのが最高だった。今年リリースされる(はずの)新作アルバムにも期待しかない!

本当に全曲演奏するのだな!と興奮したのは、高速&キュートなパンクチューン『Chiuhahua Punk』。俺がバッファローのライブを初めて観たのは2006年のライジングサンロックフェスティバル。なのでこの曲が収録されている『Phychic』のレコ初ツアーなどには当然間に合っていないんだけど、この曲も当時ツアーでやってたのかな? いずれにしろ今回の企画がなければほぼ一生聴けることがなかったであろうナンバー、チワワがキャンキャン吠える様をそのまま音にしたようなチャーミングな曲だけど、高速で跳ねるリズムをガシガシ叩きまくる松下さんのドラミングの凄みを感じる演奏だった。

続いて披露された『Cyclic』は、ここ10年くらい可能な限り観続けてきたバッファローのライブでも度々演奏されてきた、彼らの代表曲のひとつと言っていい名曲。が、この日の『Cyclic』はちょっとほかと比較できないほどすさまじかった。『Pshychic』の人力ダンスミュージック路線を象徴する、超絶トランシーな長尺ナンバー。これを生演奏できるって、改めてどうなってるんだろうこの人たち。

 

※2013年のライブ、同曲のクライマックス。

 

あとここで言っておきたいのは、この日の『Cyclic』はゲストなしで演奏されていて、つまり現5人体制のバッファローの演奏のクオリティがすごいことになっているということ。

まずはパート説明で何でも屋と書いてしまった奥村さんの存在がデカい。ただでさえそれぞれ上手すぎるプレイヤーが集合したバンドの中で、かゆいところに手が届く音たちをバッチリ鳴らしてくれる奥村さんのポジションが、ライブに深みと奥行きをプラスしているのは間違いない。いつもノリノリでプレイするお姿もステキなのだ。

そして言うまでもなく、長年ドラマーとしてバッファローのライブ&レコーディングに参加している松下敦さんの存在。『Cyclic』のような機械的に寸分たがわぬビートを刻み続けなければいけない曲でも、人力だからこその躍動感をこれでもかとグルーヴさせる敦さんのドラムがなければ、この日のライブはありえなかった。永久に踊っていられそうなビート、また全身で受け止めたいわ…。

 

 

バッファローを知ったばかりの頃、フジテレビの伝説的音楽番組『FACTORY』で『Cyclic』のライブ映像を観て、えっライブでこのギターとシンセ生で弾いてんの!?と驚愕した記憶があるけど、全てのリフとメロとリズムが渾然一体となってリキッドのフロアにありえない圧で放出されるこの日の『Cyclic』の多幸感は、ちょっと、いや、かーなーり相当ヤバかった。

フィニッシュ後、雄叫びのような歓声が鳴り止まないフロアは、「ちょっと10分くらい休憩します、帰らないでね(笑)」という大野さんのひと声で、やっと落ち着きを取り戻したのだった。

開場時にも所狭しとセッティングされていた山のような機材、でも今夜のゲスト全員分を一度に収めるのは無理だったのか。インターバルの間に、新たにギターと、サックス用と思われるマイクが新たに設置される。後半戦も期待せずにはいられない!

前半のオープニングとは対象的に、ムーグさん、奥村さんがステージに現れ、ターンテーブルとサンプラー?シンセ?でセッション。続いてシュガーさん、大野さん、そして3人目のゲスト・小山田圭吾が登場。インプロ的な展開からしだいに曲の輪郭が顕になっていく。『Winter Song』だ。

2013年の20周年ライブでは『Great Five Lakes』と『Super Blooper』をコラボ、自身のライブでは大野さんをベーシストとして迎えるなど、以前からバンドとの親交が深い彼。

※こちらはバンコクで小山田さんがキュレーターを務めたイベント「Japanese Invention」での『Super Blooper』共演テイク。ただただ素晴らしい。

 

 

小山田節と言いたくなるあのエフェクトを織り交ぜながら、水を得た魚、水牛と遊ぶ猿?のごとく貫禄のセッションが展開された。敦さんは参加せずドラムレスで演奏された本曲。さっきまでの熱気を冷ますかのような、アンビエント的なセッションに聴き入った。

演奏後ステージを去る小山田さん。ざわつくフロアに「そりゃざわつくよね、1曲だけ!?って、金払ってんだよ、ってね(笑)」とシュガーさん。この日は演目が盛りだくさんだったからMCは少なめだったけど、ここでやっとチャーミングで少し毒っ気のあるシュガーさん節が聞けて嬉しい。

少しの間のあと、何度も聴いたあのイントロが鳴り、シュガー×大野のコーラスが響く。空席のままのドラムセット。そこに袖からのっしのっしと中村達也が現れ、ゆったりとセットに腰掛け、ドンピシャのタイミングでストローク、『Mutating』になだれ込む! ぐわあああーかっこいい!! 思い出しただけで脳が沸騰する流れ!!

 


敦さんとはまったく別種のドラムの迫力に圧倒される。野性的と言うと安直すぎるけど、バッファローのレパートリーの中でもかなりアグレッシブな部類に入る『Mutating』の攻撃性が、彼のドラミングでマシマシに。シュガーさんのギターは呻り、ムーグさんのシャウトが空間を切り裂き、目の前の大野さんはエグいチョッパーを連打しながら、なぜかずっと笑っている。壮絶な光景、壮絶な音。どこまでも刺激的な数分間だった。

曲が終わっても、達也さんは席を立たない。そこに現れるのはサックスを携えた菊地成孔。ええ、達也さんと一緒にやるの!? おもむろに菊地さんの即興演奏に導かれるように始まったのは『Deo Volente』!! やめて失神する!!!

 

 

全ての音が完璧なタイミングで重なり交わっていた先ほどの『Cyclic』とは対照的に、“音塊”としか言いようのないカオスの渦。ブレイクのキメのかっこよさよ!! 達也さんのドラムと菊地さんのサックスでフリーキー成分が何倍にも濃ゆくなって、こちらも楽曲のヤバさが増幅した熱すぎるセッションだった。

達也さんは退場するも、サックスを吹き続ける菊地さん。zAkさんのダブなエフェクトが強めにかかった音色がヤバい。ゲスト参加でここまでたっぷりソロを聴けると思っていなかった……本当に盛りだくさんな夜だ。あと何やってなかったっけ、と冷静に考える余裕もなくなってきたところで、TB-303のあのリフが投下される。ぐわあ……ここで『303 Live』かよ……!

正直、この曲の細部の記憶がすっぽりと抜け落ちている。覚えていても俺のボキャブラリーでは言語化不可能だったかもしれないけど。バッファローのなかでもおそらく最長尺で、最もセッション色の強い楽曲。この日の演奏はいつも以上に、1曲の中でものすごく深いところと、ものすごい高みに連れて行かれたことは覚えている。

菊地さんは曲の途中で離脱し、後半は再び戻ってきた敦さんを含むフルバッファロー5人で演奏。言いようのない興奮の中でフィニッシュを迎えた。この日何度めかのクライマックスに放心状態の俺に、満面の笑みで「全部やった!」と宣言するシュガーさん。大歓声の中、ライブは幕を閉じた。そういえば前回の20周年ライブでは、スタート時ちょっとリアクションが固かったフロアに、シュガーさんから激が飛んだ記憶が(笑)。この日はお客さんもめちゃめちゃ盛り上がっていて最高だったなー。

当然沸き起こるアンコールに応えて登場するメンバー。ラストは再びの小山田圭吾を迎えての『Psychic A-Go-Go』!

 

 

以前、青山 月見ル君想フの名物企画「パラシュートセッション」でも、「コードひとつだしやりやすいのでは」という理由でYasei Collectiveと即興セッションした曲。この日も小山田さんのカッティング&エフェクト使いが映える演奏を繰り広げ、セッション映えする曲だなーと改めて。とは言えそんなことを冷静に考える余裕などなく踊りまくる。大盛り上がりのまま、この日のライブは大団円を迎えたのだった。

※これはタイのフェス「Big Mountain Music Festival」でのライブ。こちらでは現地?のギタリストとコラボしている模様。最高。

 

いま自分が東京に務め&住んでいる理由は、大げさでなく「バッファロードーターのライブに極力行ける環境にいたいから」という部分が大きい。アンコール時に「やる曲もやることも一杯なのよ~」と大野さんが漏らしていたけど、そもそもワンマンライブの本数が決して多くはなく、ツアー開催に至ってはアルバム『Konjac-tion』(2014年)のレコ発ツアー以来5年ぶり。今回はさらに普段演奏しない曲も多い過去アルバムの再現、そこにこのゲストの多さとあって、確かに演奏する方は大変だったのかもしれない。

しかしそんな負担をまったく感じさせないどころか、個性強めのゲスト陣との化学反応を含め、事前の想像を軽く超える名演へと昇華させたこの日のバンドの演奏は、掛け値なしにすばらしかった。本数は少なくても足を運べば必ずこういうすごいライブを観せてくれるから、やっぱり俺はまたバッファローのライブに行くのだ。

あと今回のゲストとのセッションの素晴らしさは、ここ数年ゲストを迎えた公演を断続的に行ってきた経験も大きいのでは、と思う。自分が観た限りでも、ASA-CHANG、LEO今井、中原昌也という個性派たちを迎えて、素晴らしいライブを繰り広げてきた(特に昨年観た中原昌也とのノイズまみれのセッションの衝撃は忘れられない)。もともとセッションが得意なバンドではあるけど、ここにきてそのスキルが増してきているのがすごいし、これこそがバッファローの魅力のひとつなんだと思う。

ゲストの有無を抜きにしても、そもそもバンド自体がセッション性を大切にしているというか、自らの想像を超える音をメンバー自身がいちばん望んでいる感じが、作品からもライブからもひしひしと伝わってくるのだ。だから毎回観ても飽きないし、そもそも同じ曲でも同じ演奏がひとつもないし、だからひとつの音楽性に縛られる必要などあるはずもないし、新作を出すたびに、ライブのたびに、心地よく裏切られるのだと思う。

とはいえ恐ろしいのは、こんだけヤバいライブでも彼らのレパートリーの中からアルバム2枚分しか演奏していないという事実。『I』からも『The Weapons of Math Destruction』からも1曲もやってないのかよ…! これはバンド活動をもっと頑張ってもらって、30周年の再現企画を楽しみにしたいところですね!

これから神戸・京都・小倉とツアーは続く。神戸では和田晋侍(DMBQ、巨人ゆえにデカい)、京都では山本精一といったツワモノたちを迎え、さらなる沸点を記録していくはず。小倉はOpening DJに常磐響、ゲストは近日発表とのことでこちらも楽しみ。というわけで結論は、いまのバッファロードーター、あらゆる意味で観とくべきです。ほんっとにすごいから。行かないとマジで損ですよ。各位よろしく(誰)。

そして今後控えている(ですよね!?>メンバー様)新作アルバムとそのツアーにも期待せずにはいられない。その日まではとりあえず、今回のライブの余韻に浸っておくことにします。いやー、こういうえげつないライブが観られる幸せを噛み締めた夜でした。あ、自分、京都は行きます。行きますよ。精一さん、どの曲に参加するんだろう…! 楽しみすぎる!!

 

 

サザンオールスターズ「ふざけるなツアー」ライブレポート、“刺激物としてのサザン”が炸裂した夜

 

2018年、ロックインジャパンフェスティバルで観たサザンオールスターズのライブについて、俺はこうツイートした。

<サザンがサザンを完遂した、そういうステージだったんだけど、歴代のキラーチューンと新曲の織り交ぜ方に新たな発見があって、ここにきて表現がアップデートされてることに改めて驚かされもした なんというか今回のライブの凄さはヒット曲オンパレードによるものだけでは全然なくて、それが嬉しかった>
https://twitter.com/oddcourage/status/1028639417747959808

ここで言う<サザンがサザンを完遂した>をもう少し正確に言うと<“みんなが観たい”サザンを完遂した>ということだった。当日のセットリストを振り返ってもそのことは明らかだと思う。

出し惜しみ一切なし、誰もが知っていて、誰もが聴きたいと思っている曲を演りまくった90分だった。イントロが鳴るたびに、もうこのまま意識を失ってしまうのではないかと思うほどの快感に全身を支配されるあの感覚は、未だに忘れられない。

M1 希望の轍
M2 いとしのエリー
M3 涙のキッス
M4 せつない胸に風が吹いてた
M5 栄光の男
M6 My Foreplay Music
M7 愛の言霊(ことだま) 〜Spiritual Message〜
M8 闘う戦士(もの)たちへ愛を込めて
M9 真夏の果実
M10 LOVE AFFAIR〜秘密のデート〜
M11 壮年JUMP
M12 東京VICTORY
M13 ミス・ブランニュー・デイ(MISS BRAND-NEW DAY)
M14 HOTEL PACIFIC
M15 マンピーのG★SPOT
EN1 みんなのうた
EN2 勝手にシンドバッド
https://rockinon.com/quick/rijfes2018/detail/178768

<“みんなが観たい”サザン>の<みんな>をもっと細かく言うと、みんな=フェスの客、つまり自分たち以外のアーティストのファンも含む不特定多数の音楽好き、ということだったのだと思う。

世代も嗜好もバラバラなフェスの客を笑顔でぶん殴り続けるような彼らのステージは、この国でトップを走り続けるバンドの凄みを見せつけるのに十分すぎるえげつない快楽性を発揮していた。

で、それから約9ヵ月後、現在開催中の全国ツアー『サザンオールスターズ LIVE TOUR 2019「“キミは見てくれが悪いんだから、アホ丸出しでマイクを握ってろ!!”だと!? ふざけるな!!」』、5月11日・メットライフドーム公演初日。

オリジナルアルバムを引っ提げない、アニバーサリーイヤーでのライブツアー。俺のように久しぶりにワンマンライブに足を運ぶ人や、はじめてサザンのライブを観るという人も少なくないだろう。俺は正直、ロックインジャパンのステージを踏襲するような内容になるんじゃないか、と無邪気に考えていた。というか正直ライブが始まって2曲目くらいまではまだそう思っていたかもしれない。

いま思い返しても、あのセットリストが現実に演奏されたということが信じられない。40周年を経て待ちに待ったタイミングで行われる全国ツアーで、だ。フェス出演、紅白出場を経て、改めて国民的バンドの底力を思い知らされたあとで行われるツアーで、だ。

シンプルに言うと、「サザン・オルタナサイド」が炸裂したライブだった。いやーー、しかし、とは言え、それにしても。まさか『JAPANEGGAE』と『女神達への情歌 (報道されないY型の彼方へ)』と『ゆけ!!力道山』と『CRY 愛 CRY』をいっぺんに聴ける日が自分の人生のなかに訪れるなんて、想像すらしていなかった。

なんと言っても『HAIR』。『HAIR』! 『HAIR』! 『HAIR』! この曲をライブで聴ける日が来るなんて! サザンの中でも確実にトップ3に入るどころか、もしかしたらいちばん好きかもしれない曲。歌い出した瞬間、視界がぐにゃんっと歪んだ気がした。これを書いているいまも、あの曲をライブで聴いたということが信じられない。うわあああ。

フェスのステージを観たあと、俺はこうもツイートしていたのだけど

<あと愛の言霊とマンピーの異端・異形っぷりを再認識した つーかなんでサザンにはあれが許されるのか、なんでサザンはあれを成立させられるのか、あれだけの盛り上がりをみてもまったく意味がわからなくて笑う マンピーて…どう考えてもダメだろマンピー…>
https://twitter.com/oddcourage/status/1028642109534875648

このことをまた別の角度&ボリューム増しで思い知らされたライブでもあった。“青春・国民的・ポップスター”というようなイメージは影を潜め、“オルタナ・猥雑・ストレンジ”な側面が爆発するいくつかの選曲には、比喩ではなく途中何度か体が痙攣するほど興奮してしまった。

律儀にビジョンに映し出される歌詞を追うと、彼らの楽曲の異様さが余計に際立つ。ライブ中、「なんちゅー歌詞なんだよ……」と頭を抱えながら爆笑すること数知れず、だった。

なによりすごかったのは、桑田佳祐のボーカル、バンドの演奏・アレンジが極めて充実していたことだった。

こんな例を出すのも失礼すぎて申し訳ないが、「レア曲演って古参ファンを喜ばせよう」的なサムさは皆無。ものすごい集中力で精度の高いアレンジを具現化する見事なボーカルと演奏は、桑田佳祐という巨大な才能を擁するサザンが、しかし彼のワンマンバンドなどでは決して無いことを痛感させるに十分なものだった。

MC少なめ、演出も最小限、ひたすら演奏のみで36曲(!!)を演奏しまくる構成含め、相当の気合いを入れて臨んだライブだったと思う。つまり、それだけの明確な意思を持って、2019年のサザンはこのセットリストでライブを行ったのだ。そのことがとてつもなく嬉しかった。

ひと言で音楽と言っても、色々な魅力がある。サザンオールスターズというバンドの音楽に対して感じる魅力も、それを聴く人の数だけ異なるのだろう。

で、俺にとってサザンの音楽って、切なさ、エロ、懐かしさ、暴力、感じる魅力は色々あるけど、それら全部ひっくるめて俺にとってはどこまでいってもめちゃくちゃ刺激的な音楽=「取扱い注意の刺激物」なのだ。

聴き手(=俺)をどこまでもぶっ飛ばしてくれる、圧倒的な刺激。そういうサザンの音楽を、本人たちの演奏で聴くことができる幸せに浸った3時間半だった。この先もいけるところまで生き続けて、また観に行くぜーー!!!