オーヤマサトシ ブログ -3ページ目

『凪待ち』めちゃ重い映画だった。その「重さ」についての色々

 

『凪待ち』。いやー、重かった。重いよお! 観てから1週間たつのに、この作品のことを考えるとなんかずーんと重い気分になる。

別にギャンブル依存症の中年男が恋人の死をきっかけにゴロゴロと転落していくストーリー展開(ひどい要約)を指して「重い作品だった」って言ってるわけではなくてですね。(まあそれだけでも全然重いけど)

観始めてすぐに、画面のなかの「重さ」が気になり始めたんですよ。

たとえば、

乗り慣れない自転車にまたがって踏むペダルの重さ
フォークリフトでガコッて積み上げていく氷の重さ
口からボトボトッて地面に落下する吐瀉物の重さ
水の張ったビニールプールにドッシャーーーって放り出される人の身体の重さ

などなど、いろんな重さをいちいち意識して観てしまった。作品の重心がつねに地面にあるというか。

閉塞感っていう表現だとちょっと違くて、なんだろう、すっごい重力を感じる、重力というものの存在を否が応でも感じずにはいられない映像。「どこまでいっても人間って地べたの上で生きてく生き物だよな。な?」といわんばかりの。

それを象徴してるのが、香取慎吾演じる主人公・木野本の体躯。とにかく重々しい!! あとお前まず肘ついてメシ食うな!! あの肘のつき方、いやにリアリティあったなー。ごめん肘の件は関係なかった。話戻します。

木野本さんには申し訳ないですが、俺的にはもうちょっとこの人とはあんま関わりたくないです感がすごかった。まず40すぎて(作中の年齢設定どうなってるかわかんないまま書いてますが)あんな肘ついてメシ食う人はちょっとやだなー。怖いよ。でもあの肘のつき方はめっちゃめちゃリアリティーあった(2回目)。だからこそ怖い。あとごめんもっかい話戻しますね。

 

 

木野本の「自分で自分の身体の大きさを持て余してる感じ」は、彼の人間性がよくあらわれてるなーと思った。

木野本は恋人の亜弓と、彼女の子・美波とともに、亜弓の生まれ故郷である石巻に移り住むんだけど、じゃあその前に住んでた川崎が彼にとってホームタウンだったのかというと、全然そんな感じはしないよなー。知り合いらしい知り合いは、職場の同僚兼ギャンブル仲間の渡辺だけだし。

だから木野本って男には、どこにいても、どこにいっても俺はストレンジャー、よそ者なのだ、っていう自覚と諦観をそもそもまとってる感じが最初っからあって。

そんな彼の身体は、まーーーーとにかく重ったるい(重い+たるい)。すべてのうごきが鈍い。あと猫背。たまーにすばやく動いたと思ったら人に殴りかかるときだったりするし。そのいきなり殴りかかる乱闘シーンのときとかの、とにかく勢い任せに全身を体重移動させてく感じは、木野本っておそらく自分の身体のデカさを自覚はしていて、むしろ自らの巨体を憎んでるのでは、とすら。その感覚は、石巻で起きる“ある事件”を経てより加速、暴走する。

というかたぶん木野本、自分のこと大っっ嫌いだよなー。わかるよその気持ち(えっ)。

そう、この作品に通底する、そして木野本が体現するいろんな「重さ」は、実は、正直に、ホントのところを言うと、個人的になんかすごい身に覚えのある、あーーこれよく知ってるやつだーーー、って思っちゃう類のものだったのだ。よりによって。だから木野本に感じた関わりたくないです感は同族嫌悪ってことなのかもですね。あーあ。

この作品をフィクションと割り切って楽しめる人、いるのかな。いるか。いるか別に。知らんけど。俺はぜんぜんそんなふうには観れんかったよ、この作品のことも、木野本のことも。

なんか、ふだんは見ないフリしてる、絶対あるって知ってるのに知らんフリして目を背け続けてるいろんな「重さ」を、木野本の身体をとおして直視させられ続ける。俺にとって『凪待ち』の2時間ちょいは、そういう映画体験だった。

じゃあその「重さ」って具体的になんなのか、というのが多分この文章でほんとは書かなきゃいけないとこなんだと思うんだけど、結局観てから書き上げるまでに1週間かかってしまった理由は、ここが判然としないからなんですよ。

俺にとってこの作品はなんなのか。どんな意味のある作品なのか。または意味などないのか。そのへんが俺の中で全然消化できてないし、全然腑に落ちてないままなんです。

なので結局のところ、いま確かなのは、観終わって俺の身体と心に残ったのは、作品に内包されたさまざまな「重さ」なのだった、ということ。

で、こう思う。あーー、やっぱこの重さを背負って、地べたを這いつくばりながら、いつか死ぬその日までなんとか生きてくしかないのかなー。そのへん見ないフリして目先の毎日をやり過ごそうと思ってたのに。このテキストみたいな軽薄で無責任な文体よろしく軽々しく生きて、あわよくばそのまま逃げ切れればなーーとか思ってたのに。やっぱだめかー。だよなー。ですよねー。でへへへ(死んだ目で)。

これから『凪待ち』という映画のことを思い出すたびに、この感覚が蘇るのかと思うと、重い。どこまでも重い。

なんかせっかくブログ書くんだから、教訓めいたものを見出してラクになろうとか、「この作品を観た俺の心に“凪”が訪れる日は来るのだろうか」的なオチ(例えにしてもひどい)つけてそれなりに消化した気になろうとも思ったけど、そもそも全然消化できてないし。

まーだから俺的にむりくりまとめるなら、「自分には凪など決して訪れないと思っている人間が、“それでも凪を待つということ”を引き受けるようになるまで」についての話だった。のかしら。でも木野本、お前に凪は訪れるのかなあ本当に。お前に、というか、俺に。ははは。あーーあ。

というわけでいまのところ俺にとって『凪待ち』はやっぱめちゃめちゃ重い作品だった。です。次観るときがあったら、違うふうに感じたりするのだろうか。うーん。公開中。

 

http://nagimachi.com/

Buffalo Daughter / バッファロードーター「25+1 Party」ライブレポート

 

今年結成“25+1周年”を迎えたBuffalo Daughter。アニバーサリーを記念して、アルバム『Pshychic』(2003年)『Euphorica』(2006年)が、アナログ盤で再発。その収録曲を全曲再現×再構築するライブツアー「25+1 Party」が全国4ヵ所で開催中だ。

以前、バッファローを知らない人に『Cyclic』を聴かせたら「ああ、こういう感じね」と感想を漏らしたので、つづけて『Autobacs』を聴かせたら「えっこれ同じバンドなの!?」と驚かれたことがある。

このリアクションはある意味当然かもしれない。26年のキャリアでフルアルバムが7枚というけっして多作ではない中で、バッファローは作品ごとに作風をガラッと変えるのだ。

 

その時々の音楽的興味にどこまでも素直でありながら、もちろん根底にはバッファローらしさが一貫している。ものすごい振り幅が成立している理由は、それだけ幅広い音楽性をバンドらしさに落とし込めるプレイヤビリティの高さを各メンバーが備えているからだろう。じゃあその「バッファローらしさ」って言語化するとなんなんだろう?

5月30日、ツアー初日公演となった東京・LIQUIDROOM公演。『Pshychic』と『Euphorica』という見事にタイプの違う2枚のアルバムを、しかも多数のゲストを迎えて再現したこの日のライブは、そんなバッファローの魅力を体感するのにうってつけの夜だったと思う。

 

※以下ライブの内容ですが、終始興奮状態の記憶のため、あいまい&正確さを欠いている可能性大アリです。致命的な間違いなどはコメント等でご指摘くださいませ。

 



開場時間に合わせて会場に向かうと、入場待ち&物販スペースともに多くの人で溢れていた。前日にTwitterで検索したところ、10年ぶり~20年ぶりに彼らのライブを観るというツイートもあって、このライブへの期待の高さを感じる。

ちなみになんで25周年ではなく“+1”なのかについては、各メンバーが忙しかったりでキリの良いタイミングに間に合わなかったのだとか。そのゆるさもバッファローらしくていい。

今回のツアーは、東京・神戸・京都・小倉の各会場で異なるゲストを迎えて開催される。東京では、AAAMYYY(Tempalay)、小山田圭吾、菊地成孔、中村達也、SASUKE(50音順)という世代もスタイルも千差万別な豪華ラインナップが発表されていた。

6年前、2013年に代官山UNITで開催された20周年ライブの際は、当時発表されたベストアルバムにゲスト参加したアーティストが出演し、コラボ曲を生披露した。対して今回は、誰が何の曲を演奏するのか、ほぼほぼ未知数。

 

(ちなみに自分は開催前、ニヤニヤ妄想しながら下記を予想)

 

(◎本命 ▲穴)
中村達也→◎Pshychic A-Go-Go ▲Mutating
小山田圭吾→◎Lost Guiter ▲Cyclic
菊地成孔→◎303 Live ▲Deo Volente
AAAMYYY→◎Bird Song ▲Sometime Lover
SASUKE→◎Elephante Marinos ▲Chihuahua Punk

 

 

物販でTシャツ、バッジセット、ステッカーを購入し、入場。フロア左サイド前方3列目あたり、スピーカー前に陣取る。スタートまでの1時間弱のあいだ、ライブハウスのスタッフによる「すみませーん、このあとまだまだお客さんいらっしゃいますので、もう一歩ずつ前に詰めていただけますかー」というアナウンスが繰り返される。振り向くと後方までパンパン! すごいなあ。

定刻から少し遅れて(いた気がする)暗転、メンバーのシュガー吉永(g, vo, tb-303)と大野由美子(b, vo, electronics)がステージに現れ、ギターとベースのみで演奏スタート。聴き覚えのないリフ……これ何の曲だ?? 遅れて、ここ数年ライブをお休みしていて、今年正式にライブ復帰した山本ムーグ(turntable,vo)、サポートドラムというかほぼ正式メンバーの松下敦(ds)、ムーグさん欠席中のバッファローのライブに欠かせない存在となっている奥村建(何でも屋さん)が登場し、全員の音が揃って始まったのはアルバム『Euphorica』から『Beautiful You』!

さっそく大野さん×松下さんのリズム隊の音圧がすごい。リキッドでバッファローを観るのはミツメ主催『WWMM』出演時以来だけど、やっぱりリキッドってすこぶる音がいい。

 

 

最前エリア、スピーカー前でもまったく耳に負担がなく、しかし各楽器の音圧がビリビリ伝わってくる。それは会場のサウンドシステムに加え、バッファローの現場の音作りの巧みさによるところが大きい。PAは影のメンバーことzAkさん。職人の手腕がバンドのヤバい演奏を何倍にもブーストしていく。先日の銀座ソニーパークのフリーライブでも披露されていた曲だけど、そのときと比べて音圧がぜんぜん違う。うーん、きょうの演奏、気合い入ってるぞ!
 
続く『S.O.I.D』は、人力ダンスチューンが詰まったアルバム『Pshychic』の中では比較的おだやか&唯一の歌モノ曲だけど、久々にフルメンバーのライブで聴くと、アレンジのダイナミズムに驚く。さらに『Sometime Lover』は個人的にずっと生で聴きたかった曲! 腰にクるグルーヴとシュガーさんのボーカルが中毒性高いナンバーは、ライブでさらに肉感的になり大興奮。タイトとルーズが同居する唯一無二のグルーヴに乗るムーグさんのシャウトが痛快な『Peace』と合わせて、『Euphorica』というアルバムはバンドのファンクネスが炸裂した1枚だったんだなーと再確認。言うまでもなくガシガシ踊る!

 

※ソニーパークでの『Peace』の演奏。固定カメラのアングルがいい感じ。


ここで1人目のゲスト、TempalayからAAAMYYY女史が登場! 昨年から若手バンドとの対バンが続いているバッファロー、今年1月の新代田FEVERで素晴らしい化学反応をみせた北海道の雄・the hatchとのツーマンも記憶に新しい。Tempalayは昨年、青山・月見ル君想フで共演を果たしている。ポップなメロ×ひと癖あるオルタナなアプローチが同居するという点で、世代は異なれどバッファローとシンクロするスタンスを感じるバンドだ。

 

事前にシュガーさんのTwitterで「意外な曲をやるかも」と予告されていて、始まったのは確かに予想外の『Lost Guiter』! 失くした/亡くしたギターにプリーズカムバック…と呟き続けるストレンジな楽曲、ついさっきまでのダンスモードから一転、シュガーさんのギターエフェクトが轟き、そこにシュガー×AAAMYYY×大野の三重コーラスが乗ると、抗いようもなく意識がトリップしていく。『millor ball』然り、バッファローはこういう曲が本当にうまい。し、ライブで聴くとさらにすごい。『Lost Guiter』も初めて生で聴いた気がするけど、AAAMYYYさんのボーカルとの相性も抜群で、想像以上の衝撃だった。

 

 


そこから鳥たちが♪ルララルラッタ~と口ずさむチャーミングな1曲『Bird Song』に流れると、これがさっきまで轟音を鳴らしてたバンドの音か!?と、バッファロー楽曲の振り幅に改めて驚かされる。冒頭に書いたようにこの振り幅は、彼らの音楽的なバックグラウンドの豊かさと、自身の興味に極めて忠実に音楽を作り続けてきたことの証だろう。

大野×AAAMYYYが交互にソロを取るシンセセッションは、大野さんが参加するシンセカルテット・Hello,Wendy!のワンシーンのよう。歌メロがしっかりある曲でもバンドのフリーフォームな精神が貫かれているから、バッファローのライブは定型的にならずどこまでも風通しがいい。そのことをさっそく感じさせてくれるAAAMYYYさんとのセッションだった。

大野さんのシンセによるこのイントロは…うおおー『Elephante Marinos』! 本日のゲストのひとり・SASUKE氏が先日リワーク(リミックス)した楽曲で、リワークverでのリハを行っているとツイートされていたのでまさか原曲アレンジで聴けると思っておらず、これは嬉しいサプライズ! ムーグさんのライブ本格復帰によって、3人のボーカルの掛け合いを存分に楽しめるのも最高だ。

と聴いていたら、中盤のリフレインで一気にテンポアップ。からのリワークverになだれ込みSASUKEインザハウスな流れでフロア沸騰!

 


新しい地図に書き下ろした『#SINGING』でその存在を知ったSASUKEさん、ステージ映えするし演奏バツグンだしムーンウォークまで披露する絶好調っぷり。このリアレンジを聴いただけでも、バッファローが単なる懐古目的でこのツアーを企画したわけではないことは一聴瞭然。この1曲のみのコラボだったのが惜しくなる、この日のひとつの沸点となるセッションだった。

このツアーに対するバンドの意思をさらに感じたのが、次に披露された新曲だ(『Don't Punk Out』という曲らしい)。俺が初めてこの曲を聴いたのは2017年のビルボードライブ大阪でのASA-CHANGを迎えたライブだったので、少なくとも1年半くらいはライブの現場で演奏し続けている楽曲ということになる。

過去作の再構築&ゲスト多数のライブということで、この日久々にバッファローを観に来るお客さんが少なくないだろうことは、もちろんメンバーも予想していたはず。そこでバンドの最新系をガッツリ見せつけるスタンスに痺れたし、なによりその楽曲がまったく見劣りしないどころか更に鋭さをましているのが最高だった。今年リリースされる(はずの)新作アルバムにも期待しかない!

本当に全曲演奏するのだな!と興奮したのは、高速&キュートなパンクチューン『Chiuhahua Punk』。俺がバッファローのライブを初めて観たのは2006年のライジングサンロックフェスティバル。なのでこの曲が収録されている『Phychic』のレコ初ツアーなどには当然間に合っていないんだけど、この曲も当時ツアーでやってたのかな? いずれにしろ今回の企画がなければほぼ一生聴けることがなかったであろうナンバー、チワワがキャンキャン吠える様をそのまま音にしたようなチャーミングな曲だけど、高速で跳ねるリズムをガシガシ叩きまくる松下さんのドラミングの凄みを感じる演奏だった。

続いて披露された『Cyclic』は、ここ10年くらい可能な限り観続けてきたバッファローのライブでも度々演奏されてきた、彼らの代表曲のひとつと言っていい名曲。が、この日の『Cyclic』はちょっとほかと比較できないほどすさまじかった。『Pshychic』の人力ダンスミュージック路線を象徴する、超絶トランシーな長尺ナンバー。これを生演奏できるって、改めてどうなってるんだろうこの人たち。

 

※2013年のライブ、同曲のクライマックス。

 

あとここで言っておきたいのは、この日の『Cyclic』はゲストなしで演奏されていて、つまり現5人体制のバッファローの演奏のクオリティがすごいことになっているということ。

まずはパート説明で何でも屋と書いてしまった奥村さんの存在がデカい。ただでさえそれぞれ上手すぎるプレイヤーが集合したバンドの中で、かゆいところに手が届く音たちをバッチリ鳴らしてくれる奥村さんのポジションが、ライブに深みと奥行きをプラスしているのは間違いない。いつもノリノリでプレイするお姿もステキなのだ。

そして言うまでもなく、長年ドラマーとしてバッファローのライブ&レコーディングに参加している松下敦さんの存在。『Cyclic』のような機械的に寸分たがわぬビートを刻み続けなければいけない曲でも、人力だからこその躍動感をこれでもかとグルーヴさせる敦さんのドラムがなければ、この日のライブはありえなかった。永久に踊っていられそうなビート、また全身で受け止めたいわ…。

 

 

バッファローを知ったばかりの頃、フジテレビの伝説的音楽番組『FACTORY』で『Cyclic』のライブ映像を観て、えっライブでこのギターとシンセ生で弾いてんの!?と驚愕した記憶があるけど、全てのリフとメロとリズムが渾然一体となってリキッドのフロアにありえない圧で放出されるこの日の『Cyclic』の多幸感は、ちょっと、いや、かーなーり相当ヤバかった。

フィニッシュ後、雄叫びのような歓声が鳴り止まないフロアは、「ちょっと10分くらい休憩します、帰らないでね(笑)」という大野さんのひと声で、やっと落ち着きを取り戻したのだった。

開場時にも所狭しとセッティングされていた山のような機材、でも今夜のゲスト全員分を一度に収めるのは無理だったのか。インターバルの間に、新たにギターと、サックス用と思われるマイクが新たに設置される。後半戦も期待せずにはいられない!

前半のオープニングとは対象的に、ムーグさん、奥村さんがステージに現れ、ターンテーブルとサンプラー?シンセ?でセッション。続いてシュガーさん、大野さん、そして3人目のゲスト・小山田圭吾が登場。インプロ的な展開からしだいに曲の輪郭が顕になっていく。『Winter Song』だ。

2013年の20周年ライブでは『Great Five Lakes』と『Super Blooper』をコラボ、自身のライブでは大野さんをベーシストとして迎えるなど、以前からバンドとの親交が深い彼。

※こちらはバンコクで小山田さんがキュレーターを務めたイベント「Japanese Invention」での『Super Blooper』共演テイク。ただただ素晴らしい。

 

 

小山田節と言いたくなるあのエフェクトを織り交ぜながら、水を得た魚、水牛と遊ぶ猿?のごとく貫禄のセッションが展開された。敦さんは参加せずドラムレスで演奏された本曲。さっきまでの熱気を冷ますかのような、アンビエント的なセッションに聴き入った。

演奏後ステージを去る小山田さん。ざわつくフロアに「そりゃざわつくよね、1曲だけ!?って、金払ってんだよ、ってね(笑)」とシュガーさん。この日は演目が盛りだくさんだったからMCは少なめだったけど、ここでやっとチャーミングで少し毒っ気のあるシュガーさん節が聞けて嬉しい。

少しの間のあと、何度も聴いたあのイントロが鳴り、シュガー×大野のコーラスが響く。空席のままのドラムセット。そこに袖からのっしのっしと中村達也が現れ、ゆったりとセットに腰掛け、ドンピシャのタイミングでストローク、『Mutating』になだれ込む! ぐわあああーかっこいい!! 思い出しただけで脳が沸騰する流れ!!

 


敦さんとはまったく別種のドラムの迫力に圧倒される。野性的と言うと安直すぎるけど、バッファローのレパートリーの中でもかなりアグレッシブな部類に入る『Mutating』の攻撃性が、彼のドラミングでマシマシに。シュガーさんのギターは呻り、ムーグさんのシャウトが空間を切り裂き、目の前の大野さんはエグいチョッパーを連打しながら、なぜかずっと笑っている。壮絶な光景、壮絶な音。どこまでも刺激的な数分間だった。

曲が終わっても、達也さんは席を立たない。そこに現れるのはサックスを携えた菊地成孔。ええ、達也さんと一緒にやるの!? おもむろに菊地さんの即興演奏に導かれるように始まったのは『Deo Volente』!! やめて失神する!!!

 

 

全ての音が完璧なタイミングで重なり交わっていた先ほどの『Cyclic』とは対照的に、“音塊”としか言いようのないカオスの渦。ブレイクのキメのかっこよさよ!! 達也さんのドラムと菊地さんのサックスでフリーキー成分が何倍にも濃ゆくなって、こちらも楽曲のヤバさが増幅した熱すぎるセッションだった。

達也さんは退場するも、サックスを吹き続ける菊地さん。zAkさんのダブなエフェクトが強めにかかった音色がヤバい。ゲスト参加でここまでたっぷりソロを聴けると思っていなかった……本当に盛りだくさんな夜だ。あと何やってなかったっけ、と冷静に考える余裕もなくなってきたところで、TB-303のあのリフが投下される。ぐわあ……ここで『303 Live』かよ……!

正直、この曲の細部の記憶がすっぽりと抜け落ちている。覚えていても俺のボキャブラリーでは言語化不可能だったかもしれないけど。バッファローのなかでもおそらく最長尺で、最もセッション色の強い楽曲。この日の演奏はいつも以上に、1曲の中でものすごく深いところと、ものすごい高みに連れて行かれたことは覚えている。

菊地さんは曲の途中で離脱し、後半は再び戻ってきた敦さんを含むフルバッファロー5人で演奏。言いようのない興奮の中でフィニッシュを迎えた。この日何度めかのクライマックスに放心状態の俺に、満面の笑みで「全部やった!」と宣言するシュガーさん。大歓声の中、ライブは幕を閉じた。そういえば前回の20周年ライブでは、スタート時ちょっとリアクションが固かったフロアに、シュガーさんから激が飛んだ記憶が(笑)。この日はお客さんもめちゃめちゃ盛り上がっていて最高だったなー。

当然沸き起こるアンコールに応えて登場するメンバー。ラストは再びの小山田圭吾を迎えての『Psychic A-Go-Go』!

 

 

以前、青山 月見ル君想フの名物企画「パラシュートセッション」でも、「コードひとつだしやりやすいのでは」という理由でYasei Collectiveと即興セッションした曲。この日も小山田さんのカッティング&エフェクト使いが映える演奏を繰り広げ、セッション映えする曲だなーと改めて。とは言えそんなことを冷静に考える余裕などなく踊りまくる。大盛り上がりのまま、この日のライブは大団円を迎えたのだった。

※これはタイのフェス「Big Mountain Music Festival」でのライブ。こちらでは現地?のギタリストとコラボしている模様。最高。

 

いま自分が東京に務め&住んでいる理由は、大げさでなく「バッファロードーターのライブに極力行ける環境にいたいから」という部分が大きい。アンコール時に「やる曲もやることも一杯なのよ~」と大野さんが漏らしていたけど、そもそもワンマンライブの本数が決して多くはなく、ツアー開催に至ってはアルバム『Konjac-tion』(2014年)のレコ発ツアー以来5年ぶり。今回はさらに普段演奏しない曲も多い過去アルバムの再現、そこにこのゲストの多さとあって、確かに演奏する方は大変だったのかもしれない。

しかしそんな負担をまったく感じさせないどころか、個性強めのゲスト陣との化学反応を含め、事前の想像を軽く超える名演へと昇華させたこの日のバンドの演奏は、掛け値なしにすばらしかった。本数は少なくても足を運べば必ずこういうすごいライブを観せてくれるから、やっぱり俺はまたバッファローのライブに行くのだ。

あと今回のゲストとのセッションの素晴らしさは、ここ数年ゲストを迎えた公演を断続的に行ってきた経験も大きいのでは、と思う。自分が観た限りでも、ASA-CHANG、LEO今井、中原昌也という個性派たちを迎えて、素晴らしいライブを繰り広げてきた(特に昨年観た中原昌也とのノイズまみれのセッションの衝撃は忘れられない)。もともとセッションが得意なバンドではあるけど、ここにきてそのスキルが増してきているのがすごいし、これこそがバッファローの魅力のひとつなんだと思う。

ゲストの有無を抜きにしても、そもそもバンド自体がセッション性を大切にしているというか、自らの想像を超える音をメンバー自身がいちばん望んでいる感じが、作品からもライブからもひしひしと伝わってくるのだ。だから毎回観ても飽きないし、そもそも同じ曲でも同じ演奏がひとつもないし、だからひとつの音楽性に縛られる必要などあるはずもないし、新作を出すたびに、ライブのたびに、心地よく裏切られるのだと思う。

とはいえ恐ろしいのは、こんだけヤバいライブでも彼らのレパートリーの中からアルバム2枚分しか演奏していないという事実。『I』からも『The Weapons of Math Destruction』からも1曲もやってないのかよ…! これはバンド活動をもっと頑張ってもらって、30周年の再現企画を楽しみにしたいところですね!

これから神戸・京都・小倉とツアーは続く。神戸では和田晋侍(DMBQ、巨人ゆえにデカい)京都では山本精一といったツワモノたちを迎え、さらなる沸点を記録していくはず。小倉はOpening DJに常磐響、ゲストは近日発表とのことでこちらも楽しみ。というわけで結論は、いまのバッファロードーター、あらゆる意味で観とくべきです。ほんっとにすごいから。行かないとマジで損ですよ。各位よろしく(誰)。

そして今後控えている(ですよね!?>メンバー様)新作アルバムとそのツアーにも期待せずにはいられない。その日まではとりあえず、今回のライブの余韻に浸っておくことにします。いやー、こういうえげつないライブが観られる幸せを噛み締めた夜でした。あ、自分、京都は行きます。行きますよ。精一さん、どの曲に参加するんだろう…! 楽しみすぎる!!

 

 

サザンオールスターズ「ふざけるなツアー」ライブレポート、“刺激物としてのサザン”が炸裂した夜

 

2018年、ロックインジャパンフェスティバルで観たサザンオールスターズのライブについて、俺はこうツイートした。

<サザンがサザンを完遂した、そういうステージだったんだけど、歴代のキラーチューンと新曲の織り交ぜ方に新たな発見があって、ここにきて表現がアップデートされてることに改めて驚かされもした なんというか今回のライブの凄さはヒット曲オンパレードによるものだけでは全然なくて、それが嬉しかった>
https://twitter.com/oddcourage/status/1028639417747959808

ここで言う<サザンがサザンを完遂した>をもう少し正確に言うと<“みんなが観たい”サザンを完遂した>ということだった。当日のセットリストを振り返ってもそのことは明らかだと思う。

出し惜しみ一切なし、誰もが知っていて、誰もが聴きたいと思っている曲を演りまくった90分だった。イントロが鳴るたびに、もうこのまま意識を失ってしまうのではないかと思うほどの快感に全身を支配されるあの感覚は、未だに忘れられない。

M1 希望の轍
M2 いとしのエリー
M3 涙のキッス
M4 せつない胸に風が吹いてた
M5 栄光の男
M6 My Foreplay Music
M7 愛の言霊(ことだま) 〜Spiritual Message〜
M8 闘う戦士(もの)たちへ愛を込めて
M9 真夏の果実
M10 LOVE AFFAIR〜秘密のデート〜
M11 壮年JUMP
M12 東京VICTORY
M13 ミス・ブランニュー・デイ(MISS BRAND-NEW DAY)
M14 HOTEL PACIFIC
M15 マンピーのG★SPOT
EN1 みんなのうた
EN2 勝手にシンドバッド
https://rockinon.com/quick/rijfes2018/detail/178768

<“みんなが観たい”サザン>の<みんな>をもっと細かく言うと、みんな=フェスの客、つまり自分たち以外のアーティストのファンも含む不特定多数の音楽好き、ということだったのだと思う。

世代も嗜好もバラバラなフェスの客を笑顔でぶん殴り続けるような彼らのステージは、この国でトップを走り続けるバンドの凄みを見せつけるのに十分すぎるえげつない快楽性を発揮していた。

で、それから約9ヵ月後、現在開催中の全国ツアー『サザンオールスターズ LIVE TOUR 2019「“キミは見てくれが悪いんだから、アホ丸出しでマイクを握ってろ!!”だと!? ふざけるな!!」』、5月11日・メットライフドーム公演初日。

オリジナルアルバムを引っ提げない、アニバーサリーイヤーでのライブツアー。俺のように久しぶりにワンマンライブに足を運ぶ人や、はじめてサザンのライブを観るという人も少なくないだろう。俺は正直、ロックインジャパンのステージを踏襲するような内容になるんじゃないか、と無邪気に考えていた。というか正直ライブが始まって2曲目くらいまではまだそう思っていたかもしれない。

いま思い返しても、あのセットリストが現実に演奏されたということが信じられない。40周年を経て待ちに待ったタイミングで行われる全国ツアーで、だ。フェス出演、紅白出場を経て、改めて国民的バンドの底力を思い知らされたあとで行われるツアーで、だ。

シンプルに言うと、「サザン・オルタナサイド」が炸裂したライブだった。いやーー、しかし、とは言え、それにしても。まさか『JAPANEGGAE』と『女神達への情歌 (報道されないY型の彼方へ)』と『ゆけ!!力道山』と『CRY 愛 CRY』をいっぺんに聴ける日が自分の人生のなかに訪れるなんて、想像すらしていなかった。

なんと言っても『HAIR』。『HAIR』! 『HAIR』! 『HAIR』! この曲をライブで聴ける日が来るなんて! サザンの中でも確実にトップ3に入るどころか、もしかしたらいちばん好きかもしれない曲。歌い出した瞬間、視界がぐにゃんっと歪んだ気がした。これを書いているいまも、あの曲をライブで聴いたということが信じられない。うわあああ。

フェスのステージを観たあと、俺はこうもツイートしていたのだけど

<あと愛の言霊とマンピーの異端・異形っぷりを再認識した つーかなんでサザンにはあれが許されるのか、なんでサザンはあれを成立させられるのか、あれだけの盛り上がりをみてもまったく意味がわからなくて笑う マンピーて…どう考えてもダメだろマンピー…>
https://twitter.com/oddcourage/status/1028642109534875648

このことをまた別の角度&ボリューム増しで思い知らされたライブでもあった。“青春・国民的・ポップスター”というようなイメージは影を潜め、“オルタナ・猥雑・ストレンジ”な側面が爆発するいくつかの選曲には、比喩ではなく途中何度か体が痙攣するほど興奮してしまった。

律儀にビジョンに映し出される歌詞を追うと、彼らの楽曲の異様さが余計に際立つ。ライブ中、「なんちゅー歌詞なんだよ……」と頭を抱えながら爆笑すること数知れず、だった。

なによりすごかったのは、桑田佳祐のボーカル、バンドの演奏・アレンジが極めて充実していたことだった。

こんな例を出すのも失礼すぎて申し訳ないが、「レア曲演って古参ファンを喜ばせよう」的なサムさは皆無。ものすごい集中力で精度の高いアレンジを具現化する見事なボーカルと演奏は、桑田佳祐という巨大な才能を擁するサザンが、しかし彼のワンマンバンドなどでは決して無いことを痛感させるに十分なものだった。

MC少なめ、演出も最小限、ひたすら演奏のみで36曲(!!)を演奏しまくる構成含め、相当の気合いを入れて臨んだライブだったと思う。つまり、それだけの明確な意思を持って、2019年のサザンはこのセットリストでライブを行ったのだ。そのことがとてつもなく嬉しかった。

ひと言で音楽と言っても、色々な魅力がある。サザンオールスターズというバンドの音楽に対して感じる魅力も、それを聴く人の数だけ異なるのだろう。

で、俺にとってサザンの音楽って、切なさ、エロ、懐かしさ、暴力、感じる魅力は色々あるけど、それら全部ひっくるめて俺にとってはどこまでいってもめちゃくちゃ刺激的な音楽=「取扱い注意の刺激物」なのだ。

聴き手(=俺)をどこまでもぶっ飛ばしてくれる、圧倒的な刺激。そういうサザンの音楽を、本人たちの演奏で聴くことができる幸せに浸った3時間半だった。この先もいけるところまで生き続けて、また観に行くぜーー!!!

『真冬のラブレター』――SMAPがのこした“喪失のうた”について

https://twitter.com/oddcourage/status/906131381016641537

↑ここからの連ツイを転載します。

 

 

SMAP好きな人にも、そうでない人にも、ぜひ聴いてほしいのが『真冬のラブレター』っていう曲です まあ俺が今週通勤中にチャリ漕ぎながら毎日熱唱しててそのたびに泣けてしょうがない曲なんですけど

ひとことで言うと喪失がテーマの曲なんです しかも自分ではどうしようもない、どうすることもできない理由で大切なものを失ってしまうということについて、つまりこの世界に生きてる限りどうしたって逃れることのできないことについての歌

曲の主人公はなにかを失ったことに対して自責の念に駆られている <例え~だとしても>とエクスキューズするまでもなく、悲しみややるせなさでいっぱいになってしまってしょうがない状況にいる

この曲で何度も繰り返される<がんばってみるよ>ということばは、ギリッギリのところでなんとか主人公を支えてるつっかえ棒みたいなもので、その果てになんとか絞り出した<新しい明日>という未来にさえ、失ったものは決して戻らないという諦観が漂う

でも最後まで聴くと、同じくサビで繰り返される<理屈じゃないんだ>ということばの輝きが同時に真に迫ってくるんです 失われたものは戻らない でも失われたものを想うとき、それは確実に自分のなかに存在しているというもうひとつの真実

メロディとアレンジもすばらしい サビ直前の<♪こーこーろー><♪そーしーてー>のところで主旋律に寄り添うように鳴るギターが泣ける いまはここにいない誰かが彼方から伴奏/伴走してくれているような気がして

5人のボーカルも歴代のなかでも出色の出来 大胆かつ繊細な歌い出しは草彅以外ではありえなかったし、<出会ったことさえ悔やむ>というハードなラインをその切実さは損なわないまま柔和に届けてくれる稲垣

楽曲の切なさをいちばん体現しているのが中居の千切れるほどに儚いボーカルで、木村は決めのブリッジをいつもの逞しさの裏に一筋の優しさを込めて歌う そしてこの曲を象徴するのがなんと言ってもラストの香取ソロ

よけいな力をまったく込めずに、胸を締め付けるよなまぶしさと、その中にわずかな迷いやゆらぎをたたえた、彼のボーカル史上最高峰のテイクといっていい 近年のライブでのバラード曲の素晴らしさを思い返すたびに、この曲を生で聴けなかったのが本当に悔やまれる

アイドルって例え表面的にはどんなネガティブな表現をしても最終的には受け手にとってなんらかのプラスの影響をおよぼす表現者だと俺は思うんだけど、このどこまでも真摯でどこまでも悲しい曲をポップスとして成立させてるのはアイドルSMAPが歌っているからだと思う

改めてこの傑作をつくった方たち→『真冬のラブレター』作詞:甲斐名都 作曲:前田啓介 編曲:宗像仁志/田中邦和

で、なんでこの曲が #今こそ聴きたいSMAP曲 なのかというと、ただ俺が最近悲しい気持ちだったりするからなんですけどね ある意味お祝いの日なのかもしれないし、俺もそら前向きに行きたいわと思うけど、でもどうしても悲しかったり寂しいときってあるじゃないですか

俺はなんか最近ちょっと寂しくて で、変な言い方だけど、いま自分のなかに漂っている悲しさとか喪失感のこともないことにするんじゃなくてちゃんと大事にしたいなと思って そういうときに安易な慰めじゃなくて、ほんとの意味で悲しみに寄り添ってくれる曲もあるんだと

生きてる限り、いっつもなにかを失い続けて悲しくなったりしちゃう俺らのために、SMAPはこういう曲を歌ってくれてたんだと そういうことを思い出しておきたいと思って空気読まず連投する、そんな秋の泥酔の夜です

SMAPあんま興味ないとか知らんという皆様におかれましては、『僕の半分』というシングルのc/wに入ってるのでぜひ一度聴いてみてくださいね>真冬のラブレター TVはおろかライブでも一度も披露されぬままという曲なのですが、録音ほんと素晴らしいので

 

舞台『LIFE LIFE LIFE~人生の3つのヴァージョン~』が心底すばらしかったので再演希望

 

ライブでも演劇でも、数年に一度レベルで、ごくたまーにあるのです。始まってしばらくして、あ、これおもしろいぞと思って、そこからどんどんおもしろさが増しつづけてそのまんまおもしろさの極点を迎えて終わる、そういうやつが。

で、『LIFE LIFE LIFE~人生の3つのヴァージョン~』は、久々にそういう舞台だった。すばらしい。すばらしい。すばらしい。あと何回書けばいいでしょうか。ほんとうにすばらしかったし、掛け値なしに心底おもしろかった。

 


ある2組の夫婦が過ごす一夜が、同じキャラクター・同じシチュエーションで3パターン描かれる。1幕が終わると暗転し、セットが片付けられ、再び舞台が始まる。これが幕間なしで3度繰り返される。

当然最初は、3度繰り返す意味、つまり各回毎の違いやズレによって何が描かれていくのかに興味をそそられる。しかし観進めると、この作品はそう単純なものではないことに気づく。その単純でない奥行きのようなものこそ、俺が演劇に求めるものなのだ。

俺は、ただ「物語」を描いているだけの作品って、好きじゃないです。あと、ただ「キャラクター」を描いているだけの作品も好きじゃない。それは他の表現でも同じかもしれないけど、特に演劇については強くそう思う。なんというか、物語とキャラクターを通して、もっと別のいろんなもの――たとえば雰囲気とか空気感とか哲学みたいなものとか、なんか心に不定形に残るもの――を感じられるのが、演劇を観てておもしろいなーと思うところなんです、俺にとっては。

念のため、物語とキャラクターを描くことを軽視しているわけでは全然ない。どっちも必要不可欠なものだし、そこに魅力がないと始まらない。それを踏まえた上で、そこからどれだけ飛躍できるか、どれだけ逸脱できるかっていうのが、演劇のおもしろさを決めるんじゃないかと俺は思う。

そういう意味でこの作品は、「同じキャラクター・同じシチュエーションで3パターンの人生を描く」というある種キャッチーなフォーマットがあるし、そもそもコメディ要素も強いし、物語というか設定も身近でわかりやすいし、登場人物もみんなめちゃめちゃ魅力的なキャラクターだから、とっつきにくさも全然ないし、例えば演劇ビギナーにすすめるにしてもすごく敷居の低い作品だと思う。でも、そこから最終的にとんでもないところに連れていかれるのだ。

 

その“連れていき方”がじつに巧妙。めちゃめちゃよくできてる。その巧みさは、かの名言「敷居は低く、レベルは高く」(©石野卓球)がまさにピッタリくる。楽しくゲラゲラ観ていたはずなのに、あれ? なんかだんだんズレていってる? と気づいたときには、当初全然予想していなかった地点に放り投げられている。つまり俺が思う演劇のおもしろさが最良の塩梅で詰まった作品だったのです。

 

 

まずなんといってもヤスミナ・レザの戯曲がすばらしい。夫婦、上司・部下、男同士・女同士……人間関係のイヤ~な部分を絶妙に掬い取る会話の妙は、笑えるからこそ地獄感がエグい。大竹しのぶ・稲垣吾郎・ともさかりえ・段田安則という4人の芝居を観られるだけで本来眼福モノなはずなのに、「ああもう早くこのやり取り終わってええ!」と叫びたくなる瞬間が多々あり、それでも観続けてしまう自分の悪趣味っぷりも含め、“極めて品性を保ったまま描かれる人間の下品さ”というセンスが最高。海外の演劇にも、もっとアンテナ張らんとダメだなあと自戒。

そんな戯曲の魅力を何倍にもブーストさせるケラリーノ・サンドロヴィッチの演出もすごかった。回転する円形のセンターステージをじつに効果的に使っていて、舞台美術や照明(1,2,3の字幕の入れ方、すごくよかった)、音楽含めかなりミニマムに抑制された演出で、戯曲の異様さが一層際立っていた。俺、演劇を見始めて10年くらいでやっとKERA氏の作品を観たけど、いつもこんなにおもしろいのだろうか。これまで観損ねていたことを心底後悔しつつ、本作で出会えた巡り合わせに感謝してもいる。これからたくさん観に行こう。

出演者のすばらしさは言うまでもなく。今回縁あって2回どちらもかなりの至近距離で観たけど、ただでさえかなり難しいであろう戯曲をしかもほぼ出ずっぱりの90分1本勝負で、それを尋常じゃない集中力でこなす様に戦慄。4人それぞれに役者という仕事の技術の精度がすさまじかった。あれは才能や根性だけでは絶対できないわ。ひとつの作品で違う人生を3回生き直す彼らを観ていると、自らのカラダを使って表現するという行為の本質のようなものを垣間見た気分にもなった。

 

 

人が人であることに理由などない。なぜなら人として生まれてきてしまっただけだから。だから人であることを捨ててしまう人もいる(その方法はいろいろある)。けど、どこまでいっても人だから、やっぱり人は人であろうとする。それってつまりどういうことなのだろう。

人であろうとするからこそ生じる様々な無理――欲望、嫉妬、憎しみ、鬱、悲観、諦め、攻撃、苛立ちなど――に、2組の夫婦もおもしろいくらいに翻弄される。でもそれを観ている俺も人だから、他人には思えない。で、本作は、最後にはそれらもひっくるめて“あり”にしようとする。作品全体に人としてあること・人としてあろうとすることの“品”が通底しているというか。本作は高度な現代人の批評でもあり、最終的には人間賛歌でもあると思う。

稲垣と段田が天文物理学者を演じていることから、台詞にも度々宇宙についてのことばが登場する。しだいに回転する円形の舞台は、それじたいが惑星が回る小宇宙に見えてくる。回転する輪からたまに弾かれ、外から輪の中を傍観する者が出てきたり、ひと回りして同じところに戻ったり。宇宙に見えたその輪は、しだいにこの世の輪廻のようにも思えてくる。<取るに足らない存在>である人の営みから、宇宙や輪廻を見出す。それが、近所の工事の音が鳴り響く郊外の邸宅の一室で繰り広げられているというおかしみと、少しの悲しみ。

さっき、3パターンの人生を描くことを「キャッチーなフォーマット」と書いたけど、この作品はむしろ安直な型にはまることを周到に避け、じつに豊かな表現に着地している。そこには「誰の人生も型にはめることなどできない」という哲学があるように思う。

その証拠に、単純にこの回は成功パターン・この回は失敗パターンというような見せ方にはなっていなくて、どの人生も、誰の人生も、程度の差はあれど、等しくままならないのだ。でもそれが人生=LIFEなのだ。だからこそ、ふたりで階段を降りていくあのラストシーンがなんとも言えず感動的なのだ。

 

 

最後に。俺がこの舞台でいちばん震えたのは、暗転するなかで4人が定位置であるソファに腰掛ける瞬間なのだった。ああ、彼らがそこに座ったということは、ここからまた始まるのか、あの悪夢のような一夜が。そう思うだけで、演劇という行為への畏怖の気持ちで鳥肌が止まらなかった。

演劇は作品数も多いし、作風との相性もあるし、時間的にも経済的にもいろいろな作品に触れるのには限界がある。けれど、「これはおもしろそうだ」と思ったものに足を運び続けることでしか、いい作品と出会う機会は訪れない。当然、ハズレを引くこともある。

 

それでも観続けていると、こういう作品に出会えることがある。だから俺はこれからも演劇を観続けます。いやーほんっっっとうにおもしろかった!!!!!!

 

珍しくまだ公演期間中なので告知。シアターコクーンで4月30日まで。当日券あり。立ち見でもそんなに厳しくない性質の作品だと思いますので、ぜひぜひ。つーか俺がもっかい観たいわ! というわけでタイトルはそんな俺の心の声が漏れた結果でございます……。本作の上演に至る経緯を知っているので、再演が当たり前のものではないことはわかっているつもりです(同キャストで再演されるはずだった『ヴァージニア・ウルフなんかこわくない?』も、初演時は未見だったので観たかった。今となっては本作に差し替えになったことは幸運だったのかもと思えるけど)。でも、いつかまた観られたら嬉しいなー。

 

http://www.siscompany.com/life/

2018年に観たライブ・舞台――俺がエンタテインメントに求めること

2018年がはじまったとき、「観たライブすべてについて何かしら文章を残す」という目標を掲げていたのだけど、結局ライブ評どころかブログの更新もままならず、ライブ後のツイートすらできていないことも多々あるという体たらく! 原因はシンプルに面倒臭がっていただけなんだけど、いいふうに言えば2018年はインプットの年だった・2019年はアウトプットしまくるぞ、ということで気持ちに整理をつけました。

そんなわけで最後の悪あがきということで、今年観たライブ・舞台の中で特に強く衝撃を受けたものを、手短に振り返る。(※ライブは楽曲単位で、舞台は公演単位で言及)

 

●舞台

・ほりぶん
俺の2018年は「牛久沼」サーガ最新作で幕開け。ほりぶん本公演ではなくENBUゼミの卒制という若者たちの熱演が、劇作の異形さをより際立てていた。9月の「3」も見応えあり。そしてなによりその間に投下された『荒川さんが来る、来た』の衝撃! 舞台上全員の怒号でまったく台詞が聞き取れない時間が数分続くという地獄のような演出に爆笑しながら震撼。

・『インダハウス・プロジェクツ」no.1「三月の5日間[オリジナル版]』
2017年末にチェルフィッチュ版を初観劇、そのときとのギャップに驚いた。同じ戯曲でこうも変わるのかと、演劇の言語と身体について改めて考えさせられつつ、単純にあのメンツをあの空間で堪能できるのがめちゃくちゃ刺激的な時間だった。演出・音響もミニマムで最高。


・五反田団『うん、さようなら』
生き続ければ必ず訪れる「年老いる」という現象をこんなに可笑しく悲しく描けるのは前田司郎だからこそ。シームレスに時制が行き交うなか、変化する身体を見事に表現していく俳優の演技も素晴らしく、2010年より観続けてきて、過去最高傑作だったかも。再演熱望。

 

・マームとジプシー『BOAT』
約8年ぶりに観劇。リフレインの手法は更にダイナミズムを増し、言葉が繰り返されるたびにましていく、荒み続ける現実に抗う痛みと覚悟が込められた叫びの数々が息苦しくなるほど胸に迫った。劇場で聴いたことのない低音が唸る音響と、プレイハウスの大舞台を存分に活かした美術も素晴らしかった。

・昇悟と純子『Last Scene』
ラストシーンが延々続くというトリッキーな構成と俳優の演技に笑いつつ、次第に「このままならない世界をどうやり過ごして生きていくか」というシビアな問いへと突き進んでいく。愛する人を失うとドア見ただけで泣けてくる。そんな人間のかなしい薄っぺらさを暴かれ呆然とする。

・爆笑問題『爆笑問題30周年記念単独ライブ「O2-T1」』
テレビ、ラジオ、漫才、そのどれとも違うストレンジなコントを久々の単独公演で投下する心意気、そして想像以上のクオリティ。虚構と現実を入り混ぜこの世界を切り刻み再構築し、その果てに残る田中・太田という運命共同体の姿。でたらめは、魔法だ。この一言の切れ味に震える。

 

・『さいたまゴールド・シアター番外公演「ワレワレのモロモロ ゴールド・シアター2018春」』※2019年3月5日追記

忘れないために書いたはずなのにこの公演について書き漏らしている自分に恐怖を覚えつつ、忘れることを含む「老いる」ということ

ついてガチで向き合い生み出されたゴールドシアター×岩井秀人の表現を浴びて、ゲラゲラ笑い大泣きした初夏の日のことを今思い出せてよかった。

●音楽


・POLYSICS『Cock-A-Doodle-Doo』
20周年で新メンバー加入という荒業でキャリアの沸点を更新し、1日4公演の単独ライブサーキット、ヒカシューとの二度の邂逅と充実の1年。古いレア曲も堪能しつつ、ライブで聴いて最も興奮したのが最新作の変態高速チューンだったのが彼らの絶好調ぷりを体現していて嬉しかった。

・Buffalo Daughter+中原昌也『Autobacks』
今年度々披露された新曲群に通底する鋭い攻撃性、そんな彼らの新モードの一端が炸裂した中原をゲストに迎えてのワンマン。晴れ豆のフロアが音圧で震えるほどのノイズの嵐からあのモーグのリフが鳴り響く! 25周年にして新境地を開拓し続ける勢いが刻まれたセッションだった。

・CORNELIUS『Fit song』
『Mellow Waves』のホールツアー、アートとしての完成度は国際フォーラムに譲るが、バンドとしての生々しいグルーヴは仙台公演での本曲がダントツ。僅かなずれも許されない鉄壁のアンサンブルがわずかに均衡を崩したとき、バンドのエグい底力が顔を覗かせた。

・スキマスイッチ『リアライズ』
ぶっちぎり過去最高ベストライブとなった横浜アリーナ15周年ライブのラストで披露された際、自分はそこで鳴る音のあまりの美しさに思わず閉じた目を開けることができなかった。彼らの歩みの全てはあの調べのためにあった――そう言い切りたくなるストリングスの美しさ。

・PIZZICATO ONE『地球最後の日』
映画『クソ野郎と美しき世界』のために書かれた至高のラブソングを、作り手本人の歌唱で聴ける至福に、ライブを見ながら足が震えたのは初めて。なにより「9PARTY」という音楽とプロテストの交わるパーティでピチカート時代の名曲とともに聴けたことが嬉しかった。

番外
・関ジャニ∞『LIFE~目の前の向こうへ~』
地上波の生放送がSNSのバズに火を焚べる燃料でしかなくなってしまった2018年に、渋谷すばるラスト出演となった『関ジャム』にて、画面の向こうでリアルタイムで鳴らされる7人の演奏のこれでもかという生々しさよ。形骸化した“エモみ”などではなく真にエモーショナルな音楽。番外に入れつつあれは紛れもない“ライブ”だった。

特に音楽はこれまで聴き続けてきているアーティストばかりになった。新たな発見には乏しい1年だったかもしれない。これはシーンの問題ではなく俺のアンテナの感度の問題が大きい。情けない。他には「夏の魔物」の極悪音響の中で出音そのものでぶっ飛ばされたDMBQ、坂本慎太郎・GOMAというメンツを迎えながら圧倒的なグルーヴで2組の記憶が消し飛ばされた野音のROVOも生々しく記憶に残っている。数が少なすぎて上には挙げなかった映画では『羊の木』『来る』という共に異形の不穏エンタメ作がどっちもすごくよかった。

音楽でも演劇でも映画でもなんでも、総じて突き詰めると俺がエンタテインメント(現状俺にとってあらゆる優れた表現はエンタテインメントなのでこう表現しています。この先定義が変わる可能性はあり)に求めるものは、やっぱどこまでもぶっ飛ばしてほしいという一点なのだ。何を。俺自身を、だ。俺という存在などどうでもよくなってしまうほどの興奮、まだ感じたことのない未知の刺激。そういうものを俺はエンタテインメントに求めているのだと再確認した1年だった。そして実際にそういうエンタメに多く触れながらも、それを自分の言葉で表現することができなかった、表現しようとすることを諦めてしまった、俺にとって2018年はそういう年だった。無念。

とにかくインプットしまくった1年だったので、来年はアウトプットしたい。なにがどんなふうに出てくるのかは、まだ俺にもわからん。願わくば、俺の中から俺をぶっ飛ばすようなものを出したい。2019年最初のライブは銀杏BOYZの武道館になりそう。

 

2018年

・1/20 ENBUゼミナール卒業公演『牛久沼2』@花まる学習会王子小劇場
・3/2 POLYSICS『結成20周年記念TOUR “That's Fantastic!” ~Hello! We are New POLYSICS!!!!~』@LIQUIDROOM
・3/3 北山雅和 個展『TYPOGRAFFITI 2 -MIRROR- “SHE=HE=YOU=ME”』@阿佐ヶ谷VOID
・3/3 ほりぶん『荒川さんが来る、来た』@阿佐ヶ谷アルシェ

・3/24 『インダハウス・プロジェクツ」no.1「三月の5日間[オリジナル版]』@Bellrings Seminarhouse
・4/6 『TOWER RECORDS 39th anniversary live “THANK YOU FOR THE MUSIC”』@STUDIO COAST(THE SKA FLAMES、東京パノラママンボボーイズ、THE MICETEETH、LITTLE TEMPO、奇妙礼太郎、金 佑龍、松浦俊夫)
・4/13 Buffalo Daughter(with中原昌也)@晴れたら空に豆まいて
・4/21 『怪奇幻想歌劇「笑う吸血鬼」』@全労済ホール/スペース・ゼロ
・4/28 La.mama 36th anniversary『PLAY VOL.56』@渋谷La.mama(ヒカシュー、POLYSICS)
・4/29 モダンスイマーズ『嗚呼いま、だから愛。』@東京芸術劇場 シアターイースト
・5/4 『ROVO presents MDT Festival 2018』@日比谷野外大音楽堂(ROVOm、GOMA & THE JUNGLE RHYTHM SECTION、坂本慎太郎)
・5/13 『TABOO LABEL Presents GREAT HOLIDAY』@STUDIO COAST(菊地成孔とペペ・トルメント・アスカラール、DC/PRG、ものんくる、けもの、市川愛、オーニソロジー、JAZZ DOMMUNISTERS、SPANK HAPPY)
・5/16 『J-WAVE NIGHT in ADVERTISING WEEK ASIA』@EX THEATER ROPPONGI(石野卓球、POLYSICS、LILI LIMIT、DATS、Licaxxx VJ:DEVICEGIRLS)

・5/20 『さいたまゴールド・シアター番外公演「ワレワレのモロモロ ゴールド・シアター2018春」』@彩の国さいたま芸術劇場 NINAGAWA STUDIO (大稽古場)※2019年3月5日追記
・5/26 『KAAT神奈川芸術劇場×世田谷パブリックシアター「バリーターク」』@世田谷パブリックシアター
・6/2 五反田団『うん、さようなら』@アトリエヘリコプター
・6/6 スキマスイッチ『SUKIMASWITCH TOUR 2018 “ALGOrhythm” Supported by ACUVUE®、uP!!!』@NHKホール
・6/16 『鹿児島焼酎&ミュージックフェス』@代々木公園(高田漣、向井秀徳アコースティック&エレクトリック)
・6/19 『GEORAMA2017-18 presents「チャネリング・ウィズ・ミスター・クリヨウジ」』@WWW X(クリヨウジ aka 久里洋二 x 坂本慎太郎、キュレーター:宇川直宏(DOMMUNE)、VJ:REAL ROCK DESIGN)
・6/24 『Tokyo Wedding Showcase』@代々木公園(スキマスイッチ)
・7/16 マームとジプシー『BOAT』@東京芸術劇場 プレイハウス
・7/19 スキマスイッチ『SUKIMASWITCH TOUR 2018 “ALGOrhythm” Supported by ACUVUE®、uP!!!』@中野サンプラザ
・7/28 昇悟と純子『Last Scene』@SCOOL
・8/5 『ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2018』@国営ひたち海浜公園(Anly、Nulbarich、PHONO TONES×ADAM at、サンボマスター、スキマスイッチ、POLYSICS、NakamuraEmi、松任谷由実)
・8/12 『ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2018』@国営ひたち海浜公園(岡崎体育、モーニング娘。'18、cinema staff、ORANGE RANGE、RHYMESTER、04 Limited Sazabys、CHAI、サザンオールスターズ)
・8/16 『「Pop, Music & Street キース・ヘリングが愛した街 表参道」』@表参道ヒルズB3F スペース オー
・8/23 『Buffalo Daughter presents: Hello, Wendy! vs METALCHICKS』@Super Deluxe(Hello, Wendy!、METALCHICKS、立花ハジメとLow Powers)
・8/27 POLYSICS『red cloth 15th ANNIVERSARY ~2003年9月2日@red cloth 完全うろ覚え再現ライブ~』@新宿red cloth
・8/31 爆笑問題『爆笑問題30周年記念単独ライブ「O2-T1」』@EX THEATER ROPPONGI
・9/1 『PRODISM 5th Anniversary PRODISM 5th Anniversary NEIGHBORHOOD & adidas Originals Present HUMUNGUS』@VISION(CORNELIUS)
・9/2 『夏の魔物2018 in TOKYO』@お台場野外特設会場J地区(アーバンギャルド、フィロソフィーのダンス、クリトリック・リス、どついたるねん、SPANK HAPPY、tricot、Negicco、ベッド・イン、SPARTA LOCALS、おやすみホログラム×アヒト・イナザワ、向井秀徳アコースティック&エレクトリック、Hermann H & The Pacemakners、DMBQ、ROVO)
・9/4 Buffalo Daughter×Tempalay@月見ル君想フ
・9/8 『ビーマイベイビー 信藤三雄レトロスペクティブ』@世田谷文学館
・9/19 『勝手にサザンDAY ~みんなの熱い胸さわぎ2018~』@代々木公園(安藤裕子、おとぎ話、かせきさいだぁ、小西康陽、坂本美雨、DJダイノジ、浜崎貴司、フレンズ、LUCKY TAPES、)
・9/23 ほりぶん『牛久沼3』@北とぴあ カナリアホール
・9/29 『PIA MUSIC COMPLEX 2018』@若洲公園(Blue Encount、KING GNU、ストレイテナー、夜の本気ダンス、クリープハイプ、サンボマスター、ASIAN KUNG-FU GENERATION)
・10/7 『AUDIO ARCHITECTURE:音のアーキテクチャ展』@21_21 DESIGN SIGHT
・10/8 CORNELIUS『Mellow Waves Tour 2018』@東京国際フォーラム ホールA
・10/9 『NINE IS A MAGIC NUMBER』@UNIT / SALOON / UNICE(PIZZICATO ONE、オーサカ=モノレール、Reggaelation independence、RANKIN TAXI、エマーソン北村)
・10/13 『TOISU IN JAPAN FESTIVAL in 下北』@下北沢SHELTER、CLUB251(THE TOISU!!!!、POLYSICS)
・10/20 『横尾忠則 幻花幻想幻画譚 1974-1975』@ギンザ・グラフィック・ギャラリー
・10/27 CORNELIUS『Mellow Waves Tour 2018』@電力ホール
・11/10 スキマスイッチ『「SUKIMASWITCH 15th Anniversary Special at YOKOHAMA ARENA
~Reversible~Presented by The PREMIUM MALT'S』
・11/11 スキマスイッチ『「SUKIMASWITCH 15th Anniversary Special at YOKOHAMA ARENA
~Reversible~Presented by The PREMIUM MALT'S』
・11/15 『KIRINJI 20th Anniversary LIVE19982018』@豊洲PIT(KIRINJI、キリンジ、堀込泰行)
・11/23 北山雅和『TYPOGRAFFITI 2.1 -MIRROR- STiLL / WiLL』@AL
・11/23 明日のアーvol.4『観光』VACANT
・11/24 『光より前に~夜明けの走者たち~』@紀伊國屋ホール
・11/30 POLYSICS『ポリシックスの今日は何の日??ツアー ~祝っていいとも!~』@FEVER
・12/1 POLYSICS『ポリシックスの今日は何の日??ツアー ~祝っていいとも!~』@FEVER
・12/2 『uP!!!FESTIVAL 2018 ~SEKAI NO OWARI×WANIMA~』@幕張メッセ国際展示場 1-3ホール(SEKAI NO OWARI、WANIMA)
・12/23 『ヒカシュー黄金のクリスマス』@UNIT(ヒカシュー、POLYSICS、ZOMBIE-CHANG)
・12/28 『COUNTDOWN JAPAN 18/19』@(Hump Back、OLDCODEX、雨のパレード、SPECIAL OTHERS、tricot、東京スカパラダイスオーケストラ、佐藤千亜妃、電気グルーヴ、スキマスイッチ、BUMP OF CHCKEN)

俺は新しい地図を誤解していた――映画『クソ野郎と美しき世界』鑑賞3日後のおぼえがき

本作は新しい地図によるこの世界へのステイトメントである。
ステイトメントという言葉がちょっと固いならメッセージと言ってもいい。
本作の全てが、新しい地図からのメッセージだと思う。

いきなりぶちあげてみましたが、じゃあそのメッセージってなんなのか。
なんだろう。なんでしょうか。なんだと思います?(聞くな)
いや、正直、すごく聞いてみたい。いろんな人に。
みんなこの作品を観てなにを受け取ったのか。

実は本作を観ていちばんびっくりしたのが、
「“よくわからない”というフィーリングが存在する作品である」
ということだった。

や、これ、別に普通のことなんですけど。
普通というか、俺にとって
「よくわかんないけどすこぶるおもしろい」
という感想って、個人的にエンタテインメントに対する最上級の賛辞なんですね。
すでに知ってる感情や感覚を追体験することの楽しさもありますよ。
でもやっぱり未知の快感に出会いたいわけですよ。エンタメジャンキーとしては。

で、まさか(失礼)、新しい地図の映画で、そういう感覚になるとは(本当に失礼ながら)思っていなかったのだ。(そう思っていたことに観たあとで気付かされた)簡単に言うと、もっとお行儀がいいものができあがるのかと思ってた。

正直に言います。ナメてた。ごめんなさい。(土下寝)

例えば。最初に「本作の全てが、新しい地図からのメッセージ」と書いたけど、それはエピソード4における、香取慎吾による素晴らしい歌唱でうたわれる『新しい詩』の<世界のどこかにきっと仲間がいるから>というサビの一節なのかもしれない。

この一節は3人のことを言ってる気もするし、今回集結した4人の監督のことにも思えるし、異なるエピソードの中を生きながら最終的に一瞬だけ邂逅する映画の中の3人のことかもしれない。

新しい地図のファンクラブ会員がNAKAMAって呼ばれてることもかけてるのかなーとか、解釈を広げると他のSMAPのメンバーのことを言ってるのかしらとか、いろいろ深読みもできますわね。

でもじゃあ本作が単純に仲間っていいよね!的な映画なのかというと、全然そうじゃない。お行儀のよいオチを設けない、というか、いや別にそれでもいいしそうじゃなくてもいいし、という懐の深さがある。別の言い方をするとメッセージやアティチュードが確信犯的に整理されていない。かといって「受け取り方は観客の自由」みたいな投げっぱ感もない。なんだろう、ホスピタリティは十分で居心地めっちゃいいんだけどよく見ると内装がぜんぶモアレパターンになってて一晩いると気が狂っちゃうホテルに泊まったみたいな感覚?(なんだそれ)

なんなんだろう。なんでこんなにおもしろいんですかねこの作品?

各エピソードの内容やその解釈についてとか、各人の演技の素晴らしさとか、SMAPから新しい地図に至る文脈としての意義とか、そういうことについてはいくらでも語れるし語りたい欲もあるにはある(そういうのならスマホのメモ帳に下書きたくさんしてる)んだけど、この作品について語るってことはなんかそういうことじゃない気もするし、じゃあこの作品の本質ってなんなんだろうと考えてみるんだけど、うーん。

というか、こういうふうに言える=よくわかんないんだけどすごいもの観ちゃったと素直に言える作品だったということこそが、この作品の美点だとも思う。

新しい地図の活動開始を報じる新聞広告の、真っ青な空に描かれた
M A P S
の文字を見たときに感じた気持ちを、本作を観て久々に思い出したんです。

なにか面白いことが起きるんじゃないか。
見たことのない景色に出会えるんじゃないか。

あのときの予感が、本作を観て(はじめて)実感となった気がした。

(はじめて)というのは、正直言うとこの実感は、『72時間テレビ』を観ても、『72』を聴いても、『新しい別の窓』を観てもついに感じることができなかったものだったから。

↑の活動になくて本作にあるもののひとつに、「自身がSMAPでなくなったこと」をはじめてネタにしちゃった、ということがあると思う。ネタにしたという言い方がアレなら言い換えます。SMAPでなくなったことをはじめてエンタテインメントとして昇華しちゃったのが本作なのではないかと。しかもそのアウトプットがこんなに刺激的でストレンジな表現だったという。

 

正直こんなことになるとは思ってなかった。

俺、新しい地図というものを、誤解してた。見くびってた。ナメてた。
もっとやさしくて、人懐こくて、すがすがしいものなのかと思ってた。
本作も、もっとものわかりがよくて、安全で、整ったものになってるんだと思ってた。

違うわ。全っっっっっっっっ然違うわー。

新しい地図とは、実際はもっとしたたかで、貪欲で、狡猾で、人を楽しませるためなら、エンタテインメントのためならきっと平気で魂も売るような、まさにクソ野郎の集まりだったのだ。そんな彼らのほんとうの意味での始まりとなる一手が、この『クソ野郎と美しき世界』なのだ。ひえー。

というわけで、2週間しか公開されないし少しでも販促になるものが書ければと思ってたのですがこの有様です(むしろ各論をちゃんと書いたほうがよかったのでは疑惑)。修行が足りなすぎる。精進します。でも繰り返すけど、いい意味で混乱しちゃうような作品を彼らが生み出してしまったことがなにより嬉しい。

筆が滑り続けてるいきおいで書きますけど、時間を巻き戻すことができないのが全人類共通の掟なら、生きている限り前に進むことができる可能性を持っているのは全人類共通の権利だ。SMAPが存在する世界が続いていたなら、本作は生まれなかったわけだけど、もしそういう世界が存在するとしたら、その世界は美しい世界だったのだろうか。俺は本作を観てやっと、もしかしたらSMAPがいなくなった世界を愛せるかもしれないと思えました。失うことは、終わりを意味するわけじゃないのだ。

多分観た人それぞれの脳内に全然違うメッセージが受信されてると思いますし、俺が幻覚または幻聴を受け取っている可能性も大大大×∞ですが、受け取っちゃったんだからしょうがない。俺が本作を通して新しい地図から受け取ったメッセージは以下です。

<俺らは好き勝手にやるぜ。てめーらも好き勝手にしろ。このクソ野郎ども。以上>

彼らにそう言われて俺は、新しい地図の表現に向き合う覚悟がやっとできました。

映画『羊の木』――人と人のあいだで“まっとうに揺れ続けながら生きる”ということ

 

ある地方都市が、国の極秘事業として6人の元受刑者の移住を受け入れることを決めた。彼らは全員、元殺人犯。帰る場所のない彼らに住居と職を与え、10年間町に住まわせるというプロジェクトが成功すれば、田舎町の過疎化対策にもなる。しかし実際はそううまくいくはずもなく、町では不審な事件が次々と起こっていく――。

 

冒頭で映される町の遠景の、晴れていないわけではないのに、どうしようもなくどんよりとくすんだ空の色が忘れられない。映画『羊の木』は、とにかく全編に不穏なグルーヴが流れている。6人の元受刑者たちは誰もが個性的で、別の言い方をすると全員ヤバい奴に見える。いつなにかが起きてもおかしくない、そんな息が詰まる空気が画面の隅々にまで充満している。そしてその“なにか”は実際に起こっていく。

 

ただのミステリーなら、犯人探し的に観ることもできるだろう。「信じるか、疑うか」というキャッチコピーや、ヒューマンミステリーというジャンル分けは、そういう側面に重きを置いているようにも取れなくもない。しかし実際に観進めると、この作品はそこに留まることなく、さらに奥へと踏み込んでくる。

 

本作で観客の目線を代弁するのが、元受刑者たちを受け入れる市役所職員である、錦戸亮演じる主人公の月末だ。月末はどこまでも不審に見える彼らの間で、見事に狼狽え、戸惑い、揺れ続ける。「信じるか、疑うか」のコピーに倣うなら、月末は簡単に人を信じ、疑い、また信じてしまう。

 

そんな彼の姿を通して、信じることと疑うことは、実は表裏一体、というよりもはや同じ行為なのではないかと気付かされる。信じることは善、疑うことは悪、当たり前のようにそうカテゴライズされているけれど、どちらも独断と偏見で他人を判別する行為に変わりはないのだから。

 

6人の中で月末と“友だち”として交流を深める松田龍平演じる青年・宮越の一挙一動に動揺し続ける月末。そして月末の姿に重なる観客である俺の内心。俺は宮越の何を見ているのだろうか。そもそも自分に彼をジャッジする資格などあるのだろうか。

 

月末は最初から最後までずっと揺れ続けている。人と人の間で揺れるということをやめない人である。その姿は最終的に、揺れ続けるということを肯定する佇まいとして映る。

 

揺れているのは月末だけではない。クライマックスで宮越は月末に向けて「わかってないなあ」と漏らすが、実は宮越自身もなにもわかっていないのだということが、後のシーンで明らかになる。誰しも、自分にも他人にも、白黒など簡単につけられないのだ。なにも整理できないまま、それでも誰かと一緒に生きていくしかないのだ。しかし同じように揺れながらも月末にはできたそれが、宮越にはできなかった。

 

見知らぬもの同士が信じあって一緒に生きてゆくこと、それは実はとてもアクロバティックなことなのだろう。じゃあそんな世界をどう生きてゆくべきなのか。月末のように信じることと疑うことのあいだでまっとうに揺れ続けることも、この不条理な世界で生きてゆく人間のあるべき姿のひとつなのかもしれない。月末は戸惑いながらも、他者と向き合うことを放棄してはいない。それは職務とは別の、月末のそもそものパーソナリティがそうさせているように感じる。盲目的になにかを信じたり、なにかを疑う心を疑いもしなかったり、その結果他者との関わりから逃げ続けているような人たちより、戸惑い続ける月末はずっとまともだ。

 

わかりやすく観客を誘導したり、安直な結末を用意しない作品だからこそ、中心にいる月末が徹頭徹尾まっとうに揺れ続けている必要がある。それを可能にした錦戸亮の演技は素晴らしかった。冴えないアラサー青年にしか見えない人物造形もさることながら、6人+それ以外も含むすべての登場人物それぞれとの関係性における「揺れ」の微細なチューニングがあったからこそ、月末というキャラクターに揺れ続けることの肯定性が生まれ得たのだろう。また北村一輝の画面に出てきただけで確実に嫌なことが起きる予感をもたらすイヤな存在感は、原作ファンとしてもたまらなかった。元受刑者たちのキャラクターは全員ちょい戯画的要素強めで描かれていて、それが月末とのいいコントラストを生んでいたと思う。

 

どんなに近くにいても、ガラスを一枚隔てただけで、もう相手が何を言っているのか聞き取ることはできなくなる。ガラス越しのわずかな口の動きだけで、なんと言っているのか読み取ろうとする。はっきりとはわからない。でも、わかる気もする。それだけで、気持ちが通じたように思える。人と人とのコミュニケーションとは、なんて危ういものなんだろう。それでも人はひとりでは生きてゆけない。だから信じることと疑うことのあいだで揺れながら、誰かと一緒に生きていくのだ。

 

※写真は鑑賞後の帰り道で見つけた、投げ出されたふたつのペットボトル。さっきまで観ていたスクリーンの中で月末と宮越に見えて切なくなった。

スキマスイッチ『新空間アルゴリズム』―「いま・ここ」に向き合うポップスの傑作

 

スキマスイッチのニューアルバム『新空間アルゴリズム』。1曲目のイントロで予感し、最後まで聴き終えて確信した。彼らの表現の沸点を明らかに更新している、最新作にして最高傑作だ。

 

武者修行のようにライブを繰り返したこの数年間の成果が、全曲の演奏、メロディ、アレンジの豊かさに如実に現れている。アイデアや工夫が凝らされているとか、シンプルにいい曲であるとか、そういうことはもはや当然として、その先を見せてくれる奥行きがすべての楽曲にある。

 

 

スリーブデザインはそのことを端的に表現している。一面だけだと“耳なじみのいいポップス”に見えても、その奥には広大かつ豊かな音世界が広がっている。そんなスキマスイッチの魅力が、計10曲というミニマムなボリュームの中で最大限に表現されている。

 

とは言え、そのこと、つまり彼らのすごさを形容しようとするときに俺もつい使いがちな「ただのポップスに見えてそうじゃない」という枕詞が、いよいよ必要なくなった感がある。むしろ本作を聴くと、そういう視点こそが実は無駄なバイアスになっている可能性に気づかされもする。

 

なぜか。彼らはまぎれもなくポップスのまま、まっとうなやり方でこの地点にたどり着いたからだ。どんな聴き方でもこのアルバムのすごさ、少なくともその一端は絶対に伝わる。そう言い切ってしまいたくなるくらいに、この作品は驚くほど充実している。

 

本作に至るまでのここ数作のアルバムを聴けば、彼らがどれだけ愚直に自らの表現と向き合い続けてきたかがよくわかる。わかりやすく目新しいモチーフや仕掛けがあるわけではないのに、メロディ、アレンジ、言葉、うた、演奏の強度をただただ突き詰めることで、ここまでのみずみずしさを獲得しているのは、本当にすごいことだ。

 

 

もうひとつ自分が感動したのが、本作から、私たちがいま生きている「いま・ここ」によりコミットしようとするモチベーションを強く感じることだ。そこがこれまでの作品とは明確に異なる点だと思う。

 

例えば彼らのライブの多幸感が歌われる『パーリー! パーリー!』。音楽を共有することの喜びというテーマ自体は共通点がある2009年作『虹のレシピ』では比喩的表現が多かったのに比べると、はるかにストレートにライブ会場をイメージできる歌詞になっている。この明快さも、彼らがいま見ている「いま・ここ」を、より具体的に描こうとした結果のように思えるのだ。

 

また、彼らの作品には、カラフルなメロディの裏にいつもどこかしら影や鬱性のようなものが横たわっていた。それ自体は本作でも変わらない。それどころか彼らが描くネガティビティは、より等身大であるがゆえに安易に逃避できない、人生を重ねたからこその鈍い後悔や無力感をまといはじめている。要はよりシビアになっているのだ。

 

しかし、過去には楽曲によってはネガをネガのまま放り投げることもあった(それはそれで翳りをたたえた魅力があった)が、本作において表現されるネガティビティはすべて、最終的には前を向く、前を向こうとする姿勢として昇華されようとしている。

 

その原動力となっているのもまた、いまさらネガに体を埋め動けなくなっている暇などないという、彼らが立っている「いま・ここ」に対する現状認識の表れなのではないか。

 

ある種の鬱性を抱いたまま(というか影を見つめることなくしていまに向き合うことなどできないのだ、という前提のもと)ポップスを鳴らすということは、一体どういうことなのか。その回答として、未だに揺れながらも、しかし確信に満ちたアティテュードを、本作でふたりは掲げている。

 

 

それにしても。ここまでキャリアを重ねてなお円熟に向かうことなく、ここまでフレッシュな新譜が生まれたことに、本当に驚かされる。その理由として、彼らのライブにおける演奏の充実ぶりがついに盤に刻まれたという点も大きいだろう。

 

冒頭の『リチェルカ』~『LINE』のアンサンブルは、これは彼らの絶好調時のライブ音源ですと言われても信じてしまうほどの生々しい輝きにあふれている。それは先述した、とにかく修行のようにライブを繰り返した季節、更に言うなら他アーティストとのコラボ盤『re:Action』での百人組手の経験があったからこそ成し得たものであることは間違いないと思う。

 

ただ言うまでもなく、いいライブばかりやっていたからといって、いいアルバムができるわけではない。例えば近年のライブにおける『SL9』や『SF』、あるいは『僕と傘と日曜日』といった楽曲で見せていた、いわゆる耳なじみのいいポップスの枠から逸脱することを恐れない(具体的には録音版にはないもはやノイジーですらある轟音をセッション的に鳴らしたりする)ことで未知のグルーヴを獲得するというアプローチは、スキマスイッチのライブにとって今や欠かすことができないクライマックスとなっている。一方でいずれの楽曲も、ライブでの完成形に心底震えるからこそ、アルバム音源がそれに見劣りしてしまう、というジレンマを生んでいるのも事実だった。

 

そんなグルーヴをついに音源として刻みつけたのが、アルバムのラストに配された『リアライズ』だ。すごいのはそれをあくまでポップスのフィールドで鳴らしてしまっていることだ。

 

本作のすべての曲で本当に飛躍的に素晴らしい歌声を聴かせてくれる大橋卓弥のボーカル、その得難い声よりもさらに雄弁に楽曲のメッセージを伝えてくれるのが、この曲で聴けるストリングスの調べである。俺はこんなストリングスのソロ、聴いたことがない(というか、こんな風にストリングスを配するポップスを聴いたことがない)。

 

あのストリングスはただの間奏ではない。むしろあれこそがこの曲の肝であり核心であり本質だ。しかもそれは『SL9』や『SF』の轟音とは全く別種の美しいエモーションをもたらしてくれる響きなのである。これをアルバムの中で音源として具現化できた、ということそのものが、音楽家としてスキマスイッチが明確に別の次元に到達したことのなによりの証拠だろう。本当に感動的だ。

 

 

かつて遥かな彗星に想いを馳せ、猫型ロボットに劣等感を抱いていた青年はいま、夜に沈む第三京浜で取り返しのつかない現状にもがきながら、それでも明日に目を向けようとしている。このアルバムの最初と最後で言っていることはまったく同じだ。それは「未来は自分の手の中にある」ということだ。

 

スキマスイッチが描く「いま・ここ」は、楽しいことばかりがあるわけではないし、決して生やさしいものでもない。でも、だからこそ、ポップスじゃないとできない方法で聴き手を前へと一歩踏み出させてくれるメロディとビートと言葉が詰まっている。スキマスイッチを知らない人や、彼らを誤解している人にも聴いてほしい。そういう人も耳を傾ける価値のある傑作だから。

 

 

ENBUゼミナール卒業公演『牛久沼2』―俺が演劇を観る理由がここにあった

個人的にここ数年あらゆるエンタメの中でもっとも刺激を受け夢中になっているのが演劇。2018年一発目に観た作品も、めちゃくちゃ面白かった。

 

1月20日、花まる学習会王子小劇場にて、ENBUゼミナール卒業公演『牛久沼2』を見た。

 

 
ENBUゼミナールというのは映画と演劇を勉強するための学校で、本作はそこの生徒さんたちの卒業公演。作・演出の鎌田順也氏がやっているユニット「ほりぶん」の作品として2017年10月に上演された『牛久沼』の続編となる。

 

ストーリーは単純。牛久沼で採れたうなぎを巡って、いろいろな人たちが争いを繰り広げる。最後にうなぎと手にするのは誰か――!? ……そんな感じ。というかほぼそれだけ(本当に)。最初から最後までとにかく登場人物全員がひたすらうなぎを奪い合うのです。本当にそれだけなんです!

 

ほりぶん『牛久沼』を観て腹抱えて笑い転げた記憶も冷めないうちの続編だったので、かなり期待値を上げて観に行ったのだが、あっさり期待を超えられて驚いた。鑑賞から1ヵ月ちょっと経って細部はほぼ覚えてないにも関わらずとにかくめちゃくちゃに面白かったという記憶だけが残っている、ある意味最良の読後感。

 

タイプとしてはかなり笑える作品。ギャグがとにかくくだらなくて何度か頭も抱えてしまった。シュールとかベタとかというわかりやすい枠に逃げないタフな笑いがあそこまでひたすら連打されると、えも言われぬすごみが生まれるのだなあ。小学生でも楽しめそうな作風なんだけど、意外とけっこう暴力とエロが強めなのも好みの塩梅だった。

 

前作に比べて登場人物が倍近くに増えていたにも関わらず、そして全編うなぎを奪い合うだけというかなり限定された設定にも関わらず、そして全編ひたすらにくだらないギャグが畳み込まれるなかにおいても、全キャラをちゃんと魅力的に描き分けていて、台本と演出の巧みさに唸りもした。出演者ほぼ全員が常にうなぎを追いかけているのですごい数の人がずっと舞台上を走り回っているんだけど、出るところとハケるところのコントロールがすごいうまい。

 

あとラストにある仕掛けが待っていて(再演or続編の可能性なくもないので詳しくは伏せておく。しかしムーンウォークがまさかああなるとは。わちゃちゃーわちゃちゃー。ああーくだらなすぎる!)、確かにめちゃめちゃ面白いしあれをいちばんの山場と言ってしまっても良いんだけど、それだけの作品では決して無い。のがすごい。

 

出ていた人はほとんどが学生さんなんだけどそのなかにプロの俳優さんが何名か混じっていた。この舞台、とにかく全編みんな全力で走り回って、跳ねて飛んで叫んで大変なので(なんせうなぎを奪いあうのに必死なのだ)体力面では若者にアドバンテージがありそうなもんなんだけど、実際は体力だけではやっぱり全然無理で、当たり前だけど若さと勢いだけじゃ乗り越えられない作品なのだ。

 

正直『牛久沼』を観たときは、あまりのくだらなさに爆笑&呆然としてるうちに終わっちゃったんだけど、今回の『2』を観て、役者にも、そして観客にも、こんなにも一切手加減しない作品だったのか、ということを痛感した。で、そういう作品を学校の卒業制作として上演できる生徒さんたち、本当に幸せだったろうなあ、と勝手に感慨深くなってしまった。

 

若い人もそうじゃない人もみんな一緒になってこんなにくっだらないものを作り上げて、俺は俺でそれを観に王子まで行って働いて稼いだ金払って観て、結果1ヵ月後にはほぼ細部の記憶は残ってないけどとにかくめっちゃ良いもん観たなあという記憶だけが残っている――そういう一連の諸々がたまらなく面白くてたまらなく幸せだから、俺は演劇を見に行くんだよな、と、改めて噛みしめた夜だった。

 

パーマネントな劇団じゃなくて学校の卒業公演ということも含めてほぼ確実に二度と観られないという意味でも、演劇を観るヤバさをぞんぶんに味わうことができた。これだから演劇観るのやめられないんだよなあ。いいもの観た。そして続編を待ちます!

 

ほりぶんは3月に新作『荒川さんが来る、来た』を上演。前売りはすでに完売しているが、当日券もあるはず。今後も活動を続けていくと思うので、気になる人には激おすすめしておきます。

 

関連リンク:Togetter ENBUゼミナール卒業公演『牛久沼2』感想まとめ(俺のツイートもまとめられていた)