映画『羊の木』――人と人のあいだで“まっとうに揺れ続けながら生きる”ということ | オーヤマサトシ ブログ

映画『羊の木』――人と人のあいだで“まっとうに揺れ続けながら生きる”ということ

 

ある地方都市が、国の極秘事業として6人の元受刑者の移住を受け入れることを決めた。彼らは全員、元殺人犯。帰る場所のない彼らに住居と職を与え、10年間町に住まわせるというプロジェクトが成功すれば、田舎町の過疎化対策にもなる。しかし実際はそううまくいくはずもなく、町では不審な事件が次々と起こっていく――。

 

冒頭で映される町の遠景の、晴れていないわけではないのに、どうしようもなくどんよりとくすんだ空の色が忘れられない。映画『羊の木』は、とにかく全編に不穏なグルーヴが流れている。6人の元受刑者たちは誰もが個性的で、別の言い方をすると全員ヤバい奴に見える。いつなにかが起きてもおかしくない、そんな息が詰まる空気が画面の隅々にまで充満している。そしてその“なにか”は実際に起こっていく。

 

ただのミステリーなら、犯人探し的に観ることもできるだろう。「信じるか、疑うか」というキャッチコピーや、ヒューマンミステリーというジャンル分けは、そういう側面に重きを置いているようにも取れなくもない。しかし実際に観進めると、この作品はそこに留まることなく、さらに奥へと踏み込んでくる。

 

本作で観客の目線を代弁するのが、元受刑者たちを受け入れる市役所職員である、錦戸亮演じる主人公の月末だ。月末はどこまでも不審に見える彼らの間で、見事に狼狽え、戸惑い、揺れ続ける。「信じるか、疑うか」のコピーに倣うなら、月末は簡単に人を信じ、疑い、また信じてしまう。

 

そんな彼の姿を通して、信じることと疑うことは、実は表裏一体、というよりもはや同じ行為なのではないかと気付かされる。信じることは善、疑うことは悪、当たり前のようにそうカテゴライズされているけれど、どちらも独断と偏見で他人を判別する行為に変わりはないのだから。

 

6人の中で月末と“友だち”として交流を深める松田龍平演じる青年・宮越の一挙一動に動揺し続ける月末。そして月末の姿に重なる観客である俺の内心。俺は宮越の何を見ているのだろうか。そもそも自分に彼をジャッジする資格などあるのだろうか。

 

月末は最初から最後までずっと揺れ続けている。人と人の間で揺れるということをやめない人である。その姿は最終的に、揺れ続けるということを肯定する佇まいとして映る。

 

揺れているのは月末だけではない。クライマックスで宮越は月末に向けて「わかってないなあ」と漏らすが、実は宮越自身もなにもわかっていないのだということが、後のシーンで明らかになる。誰しも、自分にも他人にも、白黒など簡単につけられないのだ。なにも整理できないまま、それでも誰かと一緒に生きていくしかないのだ。しかし同じように揺れながらも月末にはできたそれが、宮越にはできなかった。

 

見知らぬもの同士が信じあって一緒に生きてゆくこと、それは実はとてもアクロバティックなことなのだろう。じゃあそんな世界をどう生きてゆくべきなのか。月末のように信じることと疑うことのあいだでまっとうに揺れ続けることも、この不条理な世界で生きてゆく人間のあるべき姿のひとつなのかもしれない。月末は戸惑いながらも、他者と向き合うことを放棄してはいない。それは職務とは別の、月末のそもそものパーソナリティがそうさせているように感じる。盲目的になにかを信じたり、なにかを疑う心を疑いもしなかったり、その結果他者との関わりから逃げ続けているような人たちより、戸惑い続ける月末はずっとまともだ。

 

わかりやすく観客を誘導したり、安直な結末を用意しない作品だからこそ、中心にいる月末が徹頭徹尾まっとうに揺れ続けている必要がある。それを可能にした錦戸亮の演技は素晴らしかった。冴えないアラサー青年にしか見えない人物造形もさることながら、6人+それ以外も含むすべての登場人物それぞれとの関係性における「揺れ」の微細なチューニングがあったからこそ、月末というキャラクターに揺れ続けることの肯定性が生まれ得たのだろう。また北村一輝の画面に出てきただけで確実に嫌なことが起きる予感をもたらすイヤな存在感は、原作ファンとしてもたまらなかった。元受刑者たちのキャラクターは全員ちょい戯画的要素強めで描かれていて、それが月末とのいいコントラストを生んでいたと思う。

 

どんなに近くにいても、ガラスを一枚隔てただけで、もう相手が何を言っているのか聞き取ることはできなくなる。ガラス越しのわずかな口の動きだけで、なんと言っているのか読み取ろうとする。はっきりとはわからない。でも、わかる気もする。それだけで、気持ちが通じたように思える。人と人とのコミュニケーションとは、なんて危ういものなんだろう。それでも人はひとりでは生きてゆけない。だから信じることと疑うことのあいだで揺れながら、誰かと一緒に生きていくのだ。

 

※写真は鑑賞後の帰り道で見つけた、投げ出されたふたつのペットボトル。さっきまで観ていたスクリーンの中で月末と宮越に見えて切なくなった。