スキマスイッチ『新空間アルゴリズム』―「いま・ここ」に向き合うポップスの傑作 | オーヤマサトシ ブログ

スキマスイッチ『新空間アルゴリズム』―「いま・ここ」に向き合うポップスの傑作

 

スキマスイッチのニューアルバム『新空間アルゴリズム』。1曲目のイントロで予感し、最後まで聴き終えて確信した。彼らの表現の沸点を明らかに更新している、最新作にして最高傑作だ。

 

武者修行のようにライブを繰り返したこの数年間の成果が、全曲の演奏、メロディ、アレンジの豊かさに如実に現れている。アイデアや工夫が凝らされているとか、シンプルにいい曲であるとか、そういうことはもはや当然として、その先を見せてくれる奥行きがすべての楽曲にある。

 

 

スリーブデザインはそのことを端的に表現している。一面だけだと“耳なじみのいいポップス”に見えても、その奥には広大かつ豊かな音世界が広がっている。そんなスキマスイッチの魅力が、計10曲というミニマムなボリュームの中で最大限に表現されている。

 

とは言え、そのこと、つまり彼らのすごさを形容しようとするときに俺もつい使いがちな「ただのポップスに見えてそうじゃない」という枕詞が、いよいよ必要なくなった感がある。むしろ本作を聴くと、そういう視点こそが実は無駄なバイアスになっている可能性に気づかされもする。

 

なぜか。彼らはまぎれもなくポップスのまま、まっとうなやり方でこの地点にたどり着いたからだ。どんな聴き方でもこのアルバムのすごさ、少なくともその一端は絶対に伝わる。そう言い切ってしまいたくなるくらいに、この作品は驚くほど充実している。

 

本作に至るまでのここ数作のアルバムを聴けば、彼らがどれだけ愚直に自らの表現と向き合い続けてきたかがよくわかる。わかりやすく目新しいモチーフや仕掛けがあるわけではないのに、メロディ、アレンジ、言葉、うた、演奏の強度をただただ突き詰めることで、ここまでのみずみずしさを獲得しているのは、本当にすごいことだ。

 

 

もうひとつ自分が感動したのが、本作から、私たちがいま生きている「いま・ここ」によりコミットしようとするモチベーションを強く感じることだ。そこがこれまでの作品とは明確に異なる点だと思う。

 

例えば彼らのライブの多幸感が歌われる『パーリー! パーリー!』。音楽を共有することの喜びというテーマ自体は共通点がある2009年作『虹のレシピ』では比喩的表現が多かったのに比べると、はるかにストレートにライブ会場をイメージできる歌詞になっている。この明快さも、彼らがいま見ている「いま・ここ」を、より具体的に描こうとした結果のように思えるのだ。

 

また、彼らの作品には、カラフルなメロディの裏にいつもどこかしら影や鬱性のようなものが横たわっていた。それ自体は本作でも変わらない。それどころか彼らが描くネガティビティは、より等身大であるがゆえに安易に逃避できない、人生を重ねたからこその鈍い後悔や無力感をまといはじめている。要はよりシビアになっているのだ。

 

しかし、過去には楽曲によってはネガをネガのまま放り投げることもあった(それはそれで翳りをたたえた魅力があった)が、本作において表現されるネガティビティはすべて、最終的には前を向く、前を向こうとする姿勢として昇華されようとしている。

 

その原動力となっているのもまた、いまさらネガに体を埋め動けなくなっている暇などないという、彼らが立っている「いま・ここ」に対する現状認識の表れなのではないか。

 

ある種の鬱性を抱いたまま(というか影を見つめることなくしていまに向き合うことなどできないのだ、という前提のもと)ポップスを鳴らすということは、一体どういうことなのか。その回答として、未だに揺れながらも、しかし確信に満ちたアティテュードを、本作でふたりは掲げている。

 

 

それにしても。ここまでキャリアを重ねてなお円熟に向かうことなく、ここまでフレッシュな新譜が生まれたことに、本当に驚かされる。その理由として、彼らのライブにおける演奏の充実ぶりがついに盤に刻まれたという点も大きいだろう。

 

冒頭の『リチェルカ』~『LINE』のアンサンブルは、これは彼らの絶好調時のライブ音源ですと言われても信じてしまうほどの生々しい輝きにあふれている。それは先述した、とにかく修行のようにライブを繰り返した季節、更に言うなら他アーティストとのコラボ盤『re:Action』での百人組手の経験があったからこそ成し得たものであることは間違いないと思う。

 

ただ言うまでもなく、いいライブばかりやっていたからといって、いいアルバムができるわけではない。例えば近年のライブにおける『SL9』や『SF』、あるいは『僕と傘と日曜日』といった楽曲で見せていた、いわゆる耳なじみのいいポップスの枠から逸脱することを恐れない(具体的には録音版にはないもはやノイジーですらある轟音をセッション的に鳴らしたりする)ことで未知のグルーヴを獲得するというアプローチは、スキマスイッチのライブにとって今や欠かすことができないクライマックスとなっている。一方でいずれの楽曲も、ライブでの完成形に心底震えるからこそ、アルバム音源がそれに見劣りしてしまう、というジレンマを生んでいるのも事実だった。

 

そんなグルーヴをついに音源として刻みつけたのが、アルバムのラストに配された『リアライズ』だ。すごいのはそれをあくまでポップスのフィールドで鳴らしてしまっていることだ。

 

本作のすべての曲で本当に飛躍的に素晴らしい歌声を聴かせてくれる大橋卓弥のボーカル、その得難い声よりもさらに雄弁に楽曲のメッセージを伝えてくれるのが、この曲で聴けるストリングスの調べである。俺はこんなストリングスのソロ、聴いたことがない(というか、こんな風にストリングスを配するポップスを聴いたことがない)。

 

あのストリングスはただの間奏ではない。むしろあれこそがこの曲の肝であり核心であり本質だ。しかもそれは『SL9』や『SF』の轟音とは全く別種の美しいエモーションをもたらしてくれる響きなのである。これをアルバムの中で音源として具現化できた、ということそのものが、音楽家としてスキマスイッチが明確に別の次元に到達したことのなによりの証拠だろう。本当に感動的だ。

 

 

かつて遥かな彗星に想いを馳せ、猫型ロボットに劣等感を抱いていた青年はいま、夜に沈む第三京浜で取り返しのつかない現状にもがきながら、それでも明日に目を向けようとしている。このアルバムの最初と最後で言っていることはまったく同じだ。それは「未来は自分の手の中にある」ということだ。

 

スキマスイッチが描く「いま・ここ」は、楽しいことばかりがあるわけではないし、決して生やさしいものでもない。でも、だからこそ、ポップスじゃないとできない方法で聴き手を前へと一歩踏み出させてくれるメロディとビートと言葉が詰まっている。スキマスイッチを知らない人や、彼らを誤解している人にも聴いてほしい。そういう人も耳を傾ける価値のある傑作だから。