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重岡大毅はなぜ「バナナうんち」と書いたか? ジャニーズWEST『おい仕事ッ!』を聴いて考えた

 

オーヤ「どうも、オーヤです」

マサトシ「どうも、マサトシです」

オーヤ「いや~、ジャニーズWESTの新シングル『週刊うまくいく曜日』、いいねえ。12月の配信ライブで、生バンドとともに披露されたパフォーマンスも素晴らしかったし」

 

 

マサトシ「こないだテレビでやった、楽曲を提供したサンボマスターとの共演もよかったよね。山口さんのギターがワウ踏みまくりで、ああサンボがやるとこういうアプローチなんだという発見もあって」

オーヤ「アレンジは変えてないのに、あの3人が演奏すると一気にサンボ色が強くなってよかったね。どっかの野外フェスでやってくれたらいいのにな」

マサトシ「まあそんな話もしつつ、そろそろ今回の本題に入ろうか」

ソングライター・重岡大毅の楽曲たち

オーヤ「はい! えーとそもそも俺らがジャニーズWESTの音楽を聴くようになったきっかけのひとつが、アルバム『WESTV!』に収録されている『間違っちゃいない』という曲を、偶然ラジオで聴いたことなんだよね」

マサトシ「うん。他ではあまり聴いたことのない叙情性にあふれる歌詞とメロディに、一気に惹きつけられてしまったんだけど、この曲、メンバーの重岡大毅さんが作詞作曲を担当してて」

オーヤ「これも驚いたよね、へえ~こんないい曲を作る人がグループ内にいるのか、と。で、その後重岡さんはアルバム『W trouble』収録の『to you』という曲を手掛けるんですが、これを聴いてますます彼の音楽が好きになり」

マサトシ「うん、この曲にはマジで驚いた! 2020年はこの曲をほんとによく聴いたよ。3月のリリース時点でははまさかコロナがここまでひどいことになると想像もしてなかったわけだけど、誰にとっても漏れなくしんどくキツかった2020年に『to you』という曲が存在してくれていたことは、すごくありがたいことだったね。

 

この曲については別途「ジャニーズWEST・重岡大毅『to you』――音楽で世界を受け入れるということ」というやつも書いたので、よろしければ。

 


重岡さんはこの他にも『乗り越しラブストーリー』『do you know, girl??』といった曲たちも手掛けてますね(『do you~』は小瀧望さんと共作)」

オーヤ「そして今度こそこっからがようやく本題。今回リリースされた新曲『週刊うまくいく曜日』のカップリングに、新たな重岡楽曲が収録されました。それが『おい仕事ッ!』という曲なんですが」

言葉遊びで歌詞を作る難しさ

※『おい仕事ッ!』は、2021年1月23日(土)夜あたりまで下記radiko経由で聴取可能です。頭出し済。地方在住の方はエリアフリーで。

 

 

マサトシ「まず聴いてみての感想、率直にどうだった?」

オーヤ「あのねえ、イントロでまず驚いた!」

マサトシ「意外だったよねえ。えーーこっちいくのか、と。『間違っちゃいない』~『to you』に心酔してきた俺らからしたら、めちゃめちゃアッパーじゃん、と」

オーヤ「そもそも聴く前にクレジット見たら、リズム隊がベース種子田健×ドラム吉田佳史from TRICERATOPSでしょ!! なにその最強タッグヤバい!! これでタイトルがおい仕事ッ!! えーどうなるの!? 再生!! うわーこういう感じーー!! ぐわーーー!!!!みたいなw」

マサトシ「大興奮だなw で、聴きながら歌詞を追ってさらにびっくりという。

テーマとしてはタイトル通り“仕事”なんですが、王道のお仕事がんばろうぜ的な応援歌・励ましソングというよりは、あっけらかんとしたユーモアを交えながら労働環境を軸として社会に対して怒りを表明するような歌詞が、生バンドによる4つ打ちロック×ディスコ調アレンジのトラックに乗っかるアッパーチューンです。

 

歌詞については『to you』と比較すると、言葉遊びの要素が色濃く出てるね」

オーヤ「あの、正直なことを言うと、俺らってこういう言葉遊び的な歌詞って、あんま得意じゃないじゃないですか」

マサトシ「うん。別にこういうタイプの曲の全部が全部ダメとは言わないけど、簡単に見えてやっぱ難しいと思うんだよ、上手くやらないと音と言葉どっちかに偏りが出る気がして。


この曲、おそらくサウンド先行で歌詞をあとから嵌めてるんだと思うんだけど、聴き心地を最優先にするとどうしてもどこかに無理が出てきたり、意味を放棄せざるを得ない場面が出てきたりする」

オーヤ「うん。まあこの曲も全部が全部神がかった言葉選びになってるかと言うと、ステレオタイプな物言いもなくはないしね。


例えば『to you』を振り返ると、2番の<お前の恥ずかしい過去知ってるぜ>の譜割りって、おまえのっはっずっかっしいっかこしってるぜ~っと、若干の詰め込み感があったりするじゃん。


でもこの跳ねてつんのめる感じが、互いの恥部も知り尽くしたうえで築かれた関係性の妙を絶妙な塩梅で表現してると思うんですよ、単なる言葉遊びじゃなくて」

マサトシ「わかる。でも『おい仕事ッ!』ってテンポも早いし、そういうチャレンジがしづらいというか、けっこう律儀に韻を踏んでいたりもするし、トラックとメロディからの要請にかなり厳密に歌詞を置いている感じというのかな。歌詞カード無しでは聴き取りが困難なのは、やっぱり第一には響きを重視してるからだと思う。

 

でも細かく見ていくと、やっぱ面白いんですよ。曲中随一のキラーワードはやっぱり<バナナうんち>よね」

「バナナうんち」をどう解釈するか

オーヤ「バナナうんちね、いいよねこれw まあ一見なんじゃそりゃという大爆笑ワードなんだけど、前後に配された言葉をどう解釈するかでニュアンスが変わってくるなと。


直前の<やかましい世間>からの流れでは、サイクル早すぎな社会にクソ!と吠える反骨の叫びにも取れる。一方でバナナうんちって要は快便ってことで、健康体の証でもあるじゃん。

 

その後の<健康に生きていたいだけ>を踏まえると、社会に対してバナナうんちを投げるという行為自体が、健康な肉体を持っていることの証明でもある、とも捉えられる」

マサトシ「確かに、そもそも社会の問題にふざけんなと吠えることと、健康に生きることを望むことって、相反しないどころか密接に繋がってるし、どちらも社会で生きる人の営みとしてめちゃめちゃ大事なことだもんね」

オーヤ「おかしいことばかりの世間にバナナうんちを投げつける=異議を表明することは、自分が健康に生きていくために必要なことなんだぜ、とも取れるんだよ。バナナうんちというワードは一見トリッキーだけど、実はめちゃめちゃ健全でまっとうなメッセージなんじゃないかと」

マサトシ「アイドルはトイレに行かないと公言していた時代から幾星霜、単なる下ネタとしてではなく、社会に対する異議申し立てのスタンスの表明としてバナナうんちを選び取るアイドルが現れた、というわけね。

 

確かにこの曲の歌詞って、バナナうんちの価値を実感としてわかってる人の言葉って感じがするのがいい。日々バナナうんちをする喜びを実感してる人から紡がれた言葉というか。……あのー念のため、これあくまで俺らの勝手な解釈ですけどね」

オーヤ「はははw まあ歌詞なんて深読みしてナンボでしょう! 誤読上等!」

マサトシ「もちろんよ! で、このバナナうんちよりもっと驚いた歌詞があるんだよね」

オーヤ「うん。それはどこかというと、終盤で藤井流星さんによって歌われる<頑張る時もありますけど 頑張らない時もあります>のラインだね。本曲の中でも最も注目を集めるであろう落ちサビパートに配されてます」

「頑張らない時もある」と表明するということ

マサトシ「この曲に通底するムードとして、色々あるけどまーまー適当にいこうぜ、っていう楽天的な感じがあるじゃん。それがアイドルポップスとしての聴きやすさに寄与してると思うんだけど。ただこの<頑張る時もありますけど 頑張らない時もあります>には、そういういい意味での適当さや楽観が薄くて、一気にマジな感じがするというか。


やっぱり“頑張る”って圧倒的に、絶対的に善なことじゃん。でもこの国の労働の現場においては、頑張る・頑張ろう・でも頑張れない・頑張ってもどうにもならない、みたいな現実が当たり前のようにゴロゴロ転がっている。

 

ブラック企業という言葉が子供の間にも普通に浸透してしまったほど、頑張ろうとした人たちが頑張れなくなって倒れてしまうしんどい状況が露呈し続けていて。それでもやっぱり“頑張ること”は善であり続けているわけで」

オーヤ「そこでこの<頑張る時もありますけど 頑張らない時もあります>って、絶対的な善とされてきた“頑張る”を、自ら、主体的に、放棄しますよ、っていう意思表示なんだよね。厳密には放棄することもありますよ、というニュアンスだけど、この主体性がポイントで。<頑張らなくていいんだよ>となだめるんじゃないのよ」

マサトシ「しかもそこから<目指すは大往生>につながるんだよね。だから要は、“頑張らないことを選び取ってでも、健康で生き延びようぜ”、ってことでしょ」

オーヤ「凄いのが、あえて言えばこれまでジャニーズWEST自身が歌ってきた応援ソングもやっぱり頑張ることを肯定してきたし、そもそも応援ソングというもの自体がそういう性質のものであるとは思うんですよ。それを否定するつもりはないし。

でも2021年にジャニーズ事務所所属のアイドルグループとして発表する仕事・労働をテーマにした楽曲の肝となる歌詞として<頑張らない時もあります>という言葉を持ってきたというのは、なんというか、ギリギリの抵抗というか……や、うーーん別に抵抗の意識はないのかもだけど、この国や社会に対しても、そしてこの国のエンタテインメントや自らの生業=男性アイドルという存在に対しても、結果的にすごく批評的な表現になっていると思う」

マサトシ「そもそも仕事をテーマにしたうえで、描き方は他にいくらでもあるわけで、その中からなぜ“怒り”や“抵抗すること”を切り口に設定したのか。この曲の結論としては、やっぱり大往生を迎えるためなんだよね。

 

つまりだから、“適当な時も頑張らない時もあるし、おかしいことには怒るし抵抗もする、そうやって社会の中でみんなバナナうんちしながら健康体で生き延びようぜ”って曲なんだよ。これ、2021年の日本においてけっこう切実なメッセージなのでは?っていう」

オーヤ「少なくとも俺らはおおっと思ったよね。で、大事なので繰り返すけど、そういうメッセージを一方的にではなく、聴き手の主体性に訴えかけてるのがポイントで。

 

<頑張らなくていいんだよ>じゃないんだもん。<頑張らない時もあります>って言い切ってるからね。聴き手をある意味挑発してるし、信頼してもいる」

マサトシ「いやー最初はシンプルにわかりやすいパーティーチューンとして聴いていたけど、何度も繰り返し聴くことで大きく印象が変わった曲だった。それだけ読み解きがいのある歌詞だったね。

 

まあ身も蓋もない言い方すれば、ここまで考え込まなくても普通に楽しく元気が出る曲ではあるんだけどw」

 

※リマインド。『おい仕事ッ!』は、2021年1月23日(土)夜あたりまで下記radiko経由で聴取可能です。頭出し済。

 

 

オーヤ「でもその、読み解きがいがあるっていうのは『to you』とか重岡さんの過去曲にも同じことが言えるよね。

 

小学生にも伝わる平易な言葉の組み合わせで、聴き手の想像力を拡張していくセンスとテクニック、そしてその先にあるメッセージの着眼点の独自性に、改めて気付かされた曲だったな。うーんこの他にもおもろい所は色々あるけどキリがないわ」

マサトシ「とりあえず今後の音楽家・重岡大毅による作品にさらなる期待を! という感じで今回は〆かね。じゃあお疲れさまでした~」

オーヤ「お疲れさまでした~」

 

マサトシ「……」

オーヤ「……」

マサトシ「……ごめんやっぱ最後にいっこいい? こないだの12月の配信ライブ、すごくよかったんだけどさ」

オーヤ「あ、やっぱ気になった?」

マサトシ「あのー、これ彼らに限らず、ロックバンドとかシンガーとか色々な表現者に言えるんですが、新譜のレコ発ツアーで新譜の曲をぜんぶやらないの、あれはどういうことなんだろう」

「レコ発ツアーで新譜の曲ぜんぶやらない問題」はなぜ起こる

オーヤ「だってレコ発ツアーなんだぜ? 新譜の曲を聴きたいと思うのって自然なんじゃないの?」

マサトシ「や、これまでは俺もそう思ってたよ。聴き手はもちろん、アーティスト側だってやっぱりいちばん新しい曲を聴いてほしいんじゃないの?って。でも本当に多いんだよ、新譜の曲がカットされること。

 

今回で言うと個人的に俺が観た回で『ごっつえーFriday』が聴けなかったのは痛恨の極みだったんだけど、それ以上に特にわけわからんかったのが、生バンドを引っさげたパートで披露された『ANS』がなななんと日替わり曲で入れ替えになってたんですよね……」

オーヤ「それを知ったときの落胆といったら……。『ANS』はジャニーズWESTのもうひとりのソングライターである神山智洋さん作で(作詞は藤井流星さんとの共作)。

 

重岡さんとはまったく違うタイプの音と言葉を紡ぐ人なんだけど、『ANS』はこれまでの彼のレパートリーの中でもメロディも歌詞も出色の出来だと思っていたし、音源でのメンバーの歌唱もすごく感情が乗っていて、きっとライブの沸点になるだろうと思ってたからさ」

マサトシ「しかも日替わりで入れ替えだったのがよりによって『アンジョーヤリーナ』って(頭抱)……いやそれテレコにする2曲じゃねーだろ!! アンジョーヤリーナもめちゃめちゃよかったけども!!!」

オーヤ「どっちもこのタイミングで聴きたかった曲だよねえ……選べるわけないよねえ……。まあライブ全体の構成の完成度を突き詰めるなかでの判断だというのもわかる。わかるよ。わかるし実際満足もしてる。してるけどさ……ううう」

マサトシ「まあ万人が完全に満足できるセットリストなど存在しないというのは揺るがぬ真理ではあるんだけどさ。まあこのレコ発ツアーで新譜の曲演奏されない問題は、地道に訴えていきましょう……。繰り返すけどライブ自体はよかったです! 

 

あと本当の最後に、今回各メンバーのパフォーマンスについて全然触れられなかったんだけどせめてこれだけでも。あのー、神山さんの歌の巧さ、あれは何?」

オーヤ「グループ内でも断トツにいい異様なまでのピッチの正確さ、あれほんとにどうなってんだろうね。そして言うまでもなく巧さを超える情緒もある。今回のシングルだと表題曲の歌い出しとか、カップリング『Candy Shop』の2番の歌唱とか、すさまじかった」

マサトシ「『週刊~』のMVの身のこなしもすごいしね。彼以外にもまだまだ俺らが気づいてない魅力がたくさんあるってことなんだろうなあ」

 

 

オーヤ「じゃあまた彼らの刺激的な音楽に出会えることを楽しみにつつ、本当に〆!」

マサトシ「『おい仕事ッ!』のライブ初披露はいつになるかなあ…」

 

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※1/21 19:00頃若干追記しました。

 

※2/9 22:04 読み返すと、「レコ発ツアーで新譜の曲演奏されない問題」と書いてるけど、これって細かく言うと新譜=リリースツアーに冠された新アルバム、という意味合いなんですね。なので『W trouble』を冠したツアーで『ごっつえーFriday』を(日替わりとは言え)やらないのはどうなのよ、という論旨だったわけです。で、それで言うと、『ANS』と『アンジョーヤリーナ』はどちらもシングルのカップリングで新譜(=アルバム『W trouble』)収録曲ではないので、おんなじ段落に収めるにはちょっと無理があるというか説明が足りないと言うか、若干書き飛ばしてしまってた感があるなと。ANSとアンジョーってテレコにする曲ではないじゃん、というのが主題ではありました。自省。

「No.9 -不滅の旋律-」狂人一代記! 壮大なコント! こんなに笑えてヤバい舞台だったのか

 

(連投ツイート用に下書きしてたんですが、これそのままブログに上げればよくない?と思い、そのまま載せます。いち段落=いちツイート想定。あー、こういう書き方だとかなり書きやすいな)

 

『No.9 -不滅の旋律-』を観た。以下、すっごい誤解されそうなので予め言っておくけど、ここから書くのは全部賛辞です。年明け一発目にこれを観られてかなりご機嫌です俺。それを踏まえてだけど、いやこの作品、かなりヤバいというかキてない??

思い立ってかなり突発的に観に行ったのだが、まさかこんなんとは。端的に言うと、狂人一代記! 壮大なコント!「才能と狂気は紙一重」的なのってまあよくあるモチーフではあるけど、狂ってる方の描き方がけっこうひどくて途中から笑いが止まらなくなってしまった。

 

1幕はまだわりと普通に観てたんだけど、1幕終盤の一番の大暴れシーン(マリアが五線譜買って戻ってくる前の件)でこらえ切れず爆笑(声こそあげなかったけど。コントでもやらんぞあのドタバタぷりwww)。そっからはべー(ベートーヴェンの略称。作・俺)が声を荒げるたびに「うわきたきたきたw」と盛り上がってしまい、2幕はほとんどずっと笑いっぱなしだった。

 

だいたいパターン決まってて天丼なんですよ、ベーさんの笑い(笑福亭鶴瓶の芸風みたいに読めてしまうな)。八つ当たり→やっぱりお前しかいない…好き→振られてブチ切れ→俺には音楽しかない!俺の才能を見よ!うははは→自信喪失→八つ当たり、以下ループ。意外に王道というかわりと親近感すら湧くというか、ベートーヴェンとはいえ人の子なのだなあとも思ったり。トラウマによる何度も現れる父の亡霊も天丼感あって、またきたー!的に盛り上がってしまった。

 

や、父のトラウマも含め冷静に振り返ると、リアルに感情移入すればべーの精神状態&それに振り回される人達の状況ってなかなかというか相当にしんどいんだけど、全く中だるみせず異様にテンポのいい脚本のストーリー運びと演出の影響もあったと思う(2幕の110分があっという間だったもんな)。実在した人物のリアリティを際立たせるというよりは、べーのヤバさがフィクショナルかつ客観的に浮かびあがる感じがあって、ある意味安心してコントとして観られたというか(※オフィシャルには本作はコントではありません)

とは言え、仮に史実としてべーが本当にああだったとして、ここまで笑えるわけはないと思うんですよ。だからやっぱこの作品がヤバい、ということなんだと思うんですね。稲垣吾郎を筆頭に俳優陣はもちろん、両脇に配された2人のピアニストの生演奏含め、演者の熱演はものすごくて、で、彼らがものすごいスキルと才能でもって、大真面目にこの狂った話をやってるというのが最高にキてて。ある意味究極に贅沢な舞台なのかも。

念のためもっかい改めて、これ全部賛辞ですからね。で、いちばん笑ったのここでした↓

 

 

唯一ガチで可哀想だったのはカールなんだけど(そりゃ拳銃自殺もしたくなるよ…)、カールを追いかけてくる件、ヤバかったなー。べー、怖すぎるし、面白すぎる。なんか、「才能と狂気は紙一重」のバランスでいうと、“これだけ狂っててもやっぱり才能すごくね?”という描き方が絶対必要で、それは一応ちゃんと描かれてるんですよ。ベーが暴れたあとで散らばった楽譜を拾ったマリアが「すごい…やっぱり名曲天才!」と見直す件とかさ。でもこれも天丼なんだけど、ベーがカールにすさまじい暴行虐待を加えたあとで、第九の楽譜読んで「やっぱりすごい……///!! ねえ見てっ」ってカールに楽譜見せてくるマリアとか完全にどうかしてるし。いやいやいや、あなたなんかうっとりしてるけども、ええ…?という。面白すぎる。

 

で、そのカールとカールの母親(彼女の扱いも本当にひどい)含め、色々あった面々がべーと次々に抱き合うラストがいっちばんヤバかった。マリアのいきなりの諭しモードにこれまたいきなり聖人モードに突入するべーも謎だし、つーか、や、あのラストは、全部ベーが死ぬ間際に見た妄想でしょ? そうであってくれ。第九の合唱が轟くなか「えっマジでえ…w(これで終わり!?)」と思わず小声を漏らしてしまった(轟く第九にかき消されましたが)

 

結局ベーの磁場にどっぷり飲み込まれているマリアを筆頭に、ベーの周りにいる人がたち結果的にもれなく人生を振り回されてるという意味では完全に悲劇なんだけど、「人の不幸は蜜の味(=悲劇を傍から眺めるのがいちばん面白い)」という意味では王道のコメディでもあるというか、俺は完全にそっちとして楽しんだな。いやーこんな作品だったとは(多分そういう意図で作ってないと思うけど確実に)。しかしこれ、再々演というのが信じられない。みんなどう受け止めてるんだろう。ガチの人間ドラマとして観てるのかしら。うーー。それはそれですさまじいな。

その他ストレートな美点もたくさんあって、酒場で歌った断片(サビ)が「第九」に仕上がる流れは、あの第九だってひとりのソングライターの手による産物なのだという気づきがあっていち音楽好きとしては素直にグッとくる所だったなあ。ぶつかり合うマリア姉妹が仕事の面では互いに敬意を持っていたり、あの時代に女性のピアノ職人としての矜持を持つ姉の描き方もよかった。

あとだらしない(?だっけ)ウィーンの街を愛していたフリッツの変貌ぶりとか、政治を含む世情における芸術の扱いや役割についての言及も面白かった。セットも基本けっこうシンプルで、ピアノ線モチーフなのかな、無数に垂れ下がるラインが印象的で好みだった。テロップの入れ方とか歴史の汲み取り方・提示の仕方の的確さは『アルトゥロ・ウイの興隆』を思い出しもした。ああいうのは白井さんらしさなのかな、よかった。あと単純に劇伴が両サイド2名のピアニストを配しての生演奏とか至福! そう、だから、舞台としてもエンタテインメントとしてもすごくよくできてて、めちゃめちゃ力の入った作品なんですよ。その結果がこのヤバさって、最高としか言えないのでは。

 

そんなわけで、しんどすぎた2020年を終え、まだまだしんどい日々が続くであろう2021年のド頭に、想定外に笑える舞台が観られてよかった。入場後に緊急事態宣言養成のニュースを観て歯を食いしばったが、これを観られてすんごくよかった。ベーの「うああああああああ!!!」という絶叫を反芻するだけで、多幸感が溢れます。なんか幸先いい感じ。おめでたい。大吉あたった気分です。ありがとう。今年もエンタメ浴びまくるぞっ。

キツかった2020年に心を動かされた、観たもの・聴いたもの

2020年12月31日15時42分。TBSラジオ「SESSION」のエドワード・ヴァン・ヘイレン&筒美京平追悼特集の再放送を聴きながら書き始めました。クソみたいな2020年が終わろうとしています。

いやーーーキツかった。想像以上に。というか想像のしようもない事態に陥ってしまった1年だったわけですが、大晦日になっても実際なにがそこまでキツかったのかが言語化しづらい、非常にモヤったまま実感だけはとんでもなくキツい、という不思議な1年だった。

今振り返ると2/22の「おおきく振りかぶって」は、まだギリギリ普通に上演できてたんだなあ。あの時点で観客全員マスクはしてた記憶あるけど。違うっけ。あれ以降、急速に中止ラッシュ→配信に移行していった。現場復帰は7/19(日)の「LIVE HAUS Garden」。5ヵ月もライブに行かないことなんてこの10年一度もなかった。下北駅前の芝生の上で、中原さんのDJ聴きながら寝落ちした夏の夕暮れを思い出す。RIJもRSRもなかった2020年、あれが今年唯一の“夏フェス”になったんだなあ。香取慎吾、坂本慎太郎、KIRINJI、POLYSICSと、敬愛する表現者たちの単独公演がことごとく中止になったのも、本当に辛かった。

とは言え今年も色々な表現に心を動かされた。特に残るものを書き残しておく。

 



・今年初ライブは銀座ソニーパークの「Park Live」環ROY。熱心に追っている人ではなかったけど、だからこそ彼のソロライブがこんなにいいものだったとは。言葉、ビート、ハーモニー、生身、丸腰で、人はここまで全てを解き放つことができるのか。そういう驚きを今年の頭に体験できていたことは、その後現場での肉体性が失われてしまう時間を過ごす中で、とても大きな経験だったと思う。年末あたりにDOMMUNEでまた観られたのも嬉しかった。

・「FORTUNE」は、これまで観た森田剛の舞台(と言っても近作2本しか観れていないが)で断トツによかった。声を枯らしながら舞台上で躍動する彼の肉体に終始惹きつけられた。40を超えてあの無軌道さや汚れた無垢を体現できるのは、やはり得難い魅力だと思う。

・「アルトゥロ・ウイの興隆」は、あのタイミングでこういう作品を観られた幸福と因果と必然に思いを巡らせる。強張りながら右手を天に向けて伸ばした瞬間の無力感は、いまもありありと思い出せる。演劇でしか成し得ない、警鐘のエンタテインメント。オーサカ=モノレールの生演奏も素晴らしかった。

・ジャニーズWEST『to you』は、3月のリリース時に感じた感慨と、12月の配信ライブで聴いた印象がガラッと変わっていて動揺した。重岡さんの「元気でなあ!」という叫びをここまでシリアスに受け止めてしまう俺自身のメンタルを自覚しつつ、そうさせるだけのものがすでに楽曲に備わっていたのだなという納得も。とにかくこの曲は今年よく聴いたし、歌った(路上で。カラオケは結果一度も行かなかったな)。

・「『未練の幽霊と怪物』の上演の幽霊」、6/28の時点であの表現(机の上に手のひら大の板を複数並べ、そこにZOOM画面上の俳優の姿を個々に投影させ、机上に仮想的に舞台を現出させる)を観た衝撃はすごかった。その後いくつかの演劇の配信を観たとき、一番ストレスだったのが「観たいものが観られない(=視点がカメラに固定されてしまう)こと」だったんだけど、その課題をああいう手法で解決してしまうの、なんというか先進性と普遍性がずば抜けてた。ザハの競技場デザインともんじゅの問題を重ね合わせる作品自体もすごくよくて。これ再演というか実演やるんだろうか。観に行きたい。

 

・KIRINJIは大大大傑作『cherish』のツアーが中止になってしまったことが本当に本当に悔やまれる。が、年末のバンド形態ラストワンマンは素晴らしかった。『cherish』のサウンドの肝となっていたリズム隊の演奏を堪能できる至福もありつつ、我ながら驚いたのは『The Great Journey』で泣けてきたことだった。楠さんの<営みは続く/想像してみよう/数千年後の世界で生きる子供達のことを>のラインを聴いて、この一年、未来に対してポジティブな思いをこんなにも持てていなかったのか、という事実に気づいて、ものすごく動揺してしまったし、そういうことを音楽によって気付かされたことの喜びもあった。大好きな『雑務』をついに聴けなかった無念は、この先まだまだ生きていきたい理由になったと思っておきます(白目)

・明日のアーと東葛スポーツは、年の瀬に強烈な2連発だった。

この一年にほとほと疲れ果て、とにかくひたすらに笑いたい、笑わせてくれ、そう思って観に行った明日のアーは、コロナを筆頭にひたすら2020年の出来事をネタにしまくるコントの乱発を観ながらの、「うん、俺、ちゃんと笑えてるじゃん! おもしろいおもしろい、よかったよかった」と自分で自分に言い聞かせるような妙な確認作業を経て(素直に爆笑したポイントもあったけど。一番笑ったのはZOOM画面の下半身がケンタウロスになってるやつ)、ラストで完全にバッドに入ってしまった。

最後に出てくる“コロナイヤイヤ期”に突入した藤原さんが言った「コロナやだ~、お願いします、今年一年、なかったことにしてください~」という喚き、あれ、完全に俺だった。俺が今年一年言いたくて、でも誰にも言えなかったやつだった。で、そこからの「わかりました、なかったことにしましょう」「なかったことにしましょう~」という大合唱ラスト。きつかった。えー、いやいやいや全然なかったことになんかならねーじゃん、と思ってしまった。きつかったなーあれ観てて、現場で。この言い方は自分でもどうかと思うけど、身も蓋もない本音として記録しておくけど、なんというか傷ついた気すらした。コント内に登場するブルーインパルスに舌打ちする医療従事者にガチで感情移入してしまう俺には、今回の明日のアーは結論、かなりきつかった。

で、きつかったこととか、(最終的に)笑えなかったことは、全然、まったく、ひとっつも、マイナスな指摘ではないのだ。本作が2020年の明日のアーにしかできない表現だったことは間違いない。心底観られてよかったし、次も絶対観に行く。ぶっ飛ばしてほしい。楽しみです。

その後で観に行った東葛スポーツは、過去観た中で(と言っても観るの3回目くらいだけど)断トツでよかった。彼らの作風であるメタ・内輪ネタって、これまではそんなに重要なのか?と半分疑問に思ってたけど、今作はそれがあるからこその強度があって、コント部分のシニカルさと、ラップ部分の熱量(今様に言えばエモさ?でもこの言葉では抱えきれないしんどさも苦しさも内包されている)のコントラストが強烈で、比喩ではなくマスクに伝うレベルで落涙してしまった。

彼らの表現がいちばん刺さる、刺さる状況が用意され、そこにちゃんと刺してくる内容だった。いくらネタとして、メタとして包もうとしても、作家&演者の「個」が漏れ出してて(つーか俺が勝手に共振してただけかもしれんが)メタみを超えた怒りややるせなさや、でもやったる、やるしかない、という切実さがすさまじくて。宮下公園のラップやったあとで「こんなんやっちゃいましたけど」とスカしたわけだけど、それであのラップの鋭さが損なわれるわけではないし、本編終了後の「しんみりしちゃったんでバカバカしいのやります」という主宰のアナウンスも別にそこに嘘はないんだろうけど、そのエクスキューズで直前のラップによって流れた俺の涙がナシになるわけじゃない。

これまでの作風の延長線上にある照れ隠しのような仕草、それらがガンガンすっ飛ばされ、文字通り身を切る切実さが放出される、すんばらしい作品だった。あと多分会場内で唯一レベルのガチSMAP好きだったであろう俺としては、実質アンコールのラップは至福すぎた。あと「東葛をやることは今世紀中ない by KAAT担当」は爆笑しました(記述は記憶によるもので、正確性は保証しません。ニュアンスです)

 

※(23:41大慌てで追記)「KEEP ON FUJI ROCKIN’II ~On The Road To Naeba 2021~」のコーネリアス。盤石かつ久々のライブとあってかラフというかスリリングな演奏が素晴らしかったのだが、とにもかくにも「環境と心理」だ。ええーーやってくれるのかよ泣。リリース時、METAFIVE復活の嬉しさ以上に、先が見えず息詰まる日々の中で、なんとなくでも、ちょっとだけでも、音楽で気分が上がる気持ちを取り戻させてくれたこの曲に、ずいぶんと助けられた。それを今年1年の本当の終わりの瞬間に演奏してくれるとは。LEOの分も、そして会長の分もひとりで歌い切る小山田リーダー、そしてそこからの「あなたがいるなら」。あなたがいるなら、この世はまだマシだ。そういう祈りがいっそう切実さを帯びてしまった2020年を生き延びたことは、きっといいことなのだと信じたい。


そんな感じでした。ライブハウスやフェスの現場がなかなか戻らない一方、演劇を観られる機会が比較的早めに戻ってきたことはかなり有り難いことではあった。演劇まで断たれていたらちょっとやばかったかもしれないなー。

 

あと文末のリスト含め音楽と演劇に絞って書き出したけど、実は今年一番触れていたのはラジオだった。たまむすび、生活は踊る、荻上チキ・Session。特に赤江さん、外山さんの笑い声には何度救われたことか。

 

そしてさらに書き漏らしていたけど、配信で観た「野ブタ。をプロデュース」も衝撃だった。どうすればこの世界と自分自身を肯定することができるのか。土曜9時×アイドル主演というフォーマットの中で青春ドラマとしてきっちり成立させながら生きるということの本質を鮮烈に描き出す物語のパワーに圧倒された。山P演じる彰の不定形な佇まいを未だに忘れることができない。

こういう言い方はあまりしないけど、今年観たあらゆる表現と、それを生み出した表現者と関係者全員に、できるだけの感謝を。これまでの人生もそうだったけど今年は特に、皆様ひとりひとりのお陰で、俺は生き延びることができました。

 

来年が、そしてこの先の未来が、皆様にとって、そして俺にとって、少しでもよいものであることを願います。

17:39 溝の口のシャトレーゼで買った樽出し生ワイン赤を飲みながら

 

※下記は2020年に見聴きしたものの中でも、実際に観た音楽・演劇(現場・配信含む)のリスト(全てではない。DOMMUNEとかもっと観てるけど書ききれないし、アートや映画も入れてない。あと単純に入れ忘れているものがかなりあり…思い出し次第追記します)。音源・ソフトは除く。

●2020

1/10(金)「Park Live」/環ROY/銀座ソニーパーク

1/12(日)「from HERE Vol.5」/キュウソネコカミ、tricot、Age Factory、ニガミ17/豊洲PIT

1/18(日)「NUFONIA MUST FALL」/Kid Koala、Afiara Quartet、Directed by K.K. Barrett/渋谷区文化総合センター大和田 さくらホール


1/19(日)「FORTUNE」/森田剛、吉岡里帆、他/東京芸術劇場 プレイハウス

1/25(土)「ORIGINAL LOVE presents『Love Jam vol.5』」/ORIGINAL LOVE、Cornelius、中村佳穂/Zepp DiverCity

1/31(金)「エブリ・ブリリアント・シング ~ありとあらゆるステキなこと~」佐藤隆太/東京芸術劇場 シアターイースト

2/1(土)「アルトゥロ・ウイの興隆」/草彅剛、他/KAAT 神奈川芸術劇場

2/2(土)POLYSICS「POLYSICS TOUR 2020 ~SynchroにCity」/千葉LOOK

2/8(土)Buffalo Daughter +フェルナンド・カブサッキ「バッファロー・ドーター Plays Euphorica with フェルナンド・カブサッキ」/フロントアクト:Ei Nonaka + pan pot 5 o’clock/甲府 桜座

2/11(火・祝)「RADIO EXPO ~TBSラジオ万博2020~」/爆笑問題、山里亮太、赤江珠緒、外山惠理 他/パシフィコ横浜展示ホール

2/16(日)スキマスイッチ「TOUR 2019-2020 POPMAN'S CARNIVAL vol.2」/宇都宮市文化会館

2/22(土)「おおきく振りかぶって」/西銘駿、大橋典之 他/サンシャイン劇場

2/28(金)スキマスイッチ「TOUR 2019-2020 POPMAN'S CARNIVAL vol.2」(配信)/市民会館シアーズホーム夢ホール(熊本市民会館)

3/1(日)NUMBER GIRL「NUMBER GIRL TOUR 2019-2020『逆噴射バンド』」(配信)/Zepp Tokyo

3/14(土)tricot「真っ黒リリースツアー『真っ白』」(配信)/Zepp DiverCity

3/18(水)エマーソン北村、Sugarcane/中野坂上 live bar Aja

4/23(火)「Place To Be」(配信)/エマーソン北村‬、吋吋吋‬、坂田律子、eminemsaiko/Bushbash

5/5(火)DOMMUNE「電気グルーヴ5G「THE EVE OF THE RESURRECTION」8HOURS!!!!!!!! WHO IS MUSIC FOR? MUSIC IS FOR EVERYONE! Chapter2」(配信)/石野卓球、KEN ISHII(70 Drums)他

5/8(金)「Park Live」(配信)/大野由美子

5/29(金)tricot「猿芝居vol1.『復興祈願祭』」(配信)

6/1(月)「LIVEHAUS SoundCHECK」(配信)/エマーソン北村/LIVEHAUS

6/11(木)「LIVEHAUS SoundCHECK」(配信)/NOEL & GALLAGHER/LIVEHAUS

6/27(土)スキマスイッチ「Streaming LIVE “a la carte 2020” ~実際にやってみた!~」(配信)

6/28(日)「『未練の幽霊と怪物』の上演の幽霊」(配信)/森山未來、片桐はいり、七尾旅人 他

7/18(土)KIRINJI「KIRINJI Studio Live Movie 2020 Part1」(配信)

7/19(日)「LIVE HAUS & BSEアーカイブ  presents LIVE HAUS Garden」/岸野雄一、中原昌也 他/下北線路街 空き地

7/25(土)KIRINJI「KIRINJI Studio Live Movie 2020 Part2」(配信)

7/27(月)Buffalo Daughter「New Rock, New Normal.」(配信)/月見ル君想フ

8/1(土)「Johnny's DREAM IsLAND 2020→2025 ~大好きなこの街から~」(配信)/ジャニーズWEST/大阪松竹座

8/12(水)銀杏BOYZ「『LIVEWIRE』銀杏BOYZ スマホライブ2020」(配信)/渋谷La.mama

8/15(土)~16(日)「RISING SUN ROCK FESTIVAL 2020 in EZO on YouTube」(配信)/矢野顕子×上原ひろみ、CORNELIUS、他

8/28(金)「UKFC in the Air」(配信)/POLYSICS 他

8/30(日)「JA全農COUNTDOWN JAPAN FLOWER PROJECT SPECIAL LIVE」/スキマスイッチ、関取花

9/12(土)「Slow LIVE'20 in 日比谷野外大音楽堂 SMART CITY SERENADE」/KIRINJI、ハンバートハンバート/日比谷野外大音楽堂

9/16(水)「わたしの耳」/ウエンツ瑛士、趣里、岩崎う大(かもめんたる)/新国立劇場小劇場

9/24(木)「あなたの目」/小林聡美、八嶋智人、野間口徹/新国立劇場小劇場

9/26(土)五反田団「いきしたい」/浅井浩介、岩瀬 亮、谷田部美咲/こまばアゴラ劇場

10/25(日)「PARCO劇場オープニング・シリーズ“ねずみの三銃士”第4回企画公演『獣道一直線!!!』」(配信)/古田新太、生瀬勝久、池田成志、他

11/1(日)V6「V6 For the 25th anniversary」(配信)/代々木第一体育館

11/15(日)「ビューティフル」/平原綾香、中川晃教、ソニン 他/帝国劇場

11/20(金)PANCETTA「PANCETTA special performance “un”」/佐藤竜、辻本耕志 他/シアタートラム

11/22(日)「エレファント・マン」/小瀧望、近藤公園 他/世田谷パブリックシアター

11/23(月・祝)新しい地図「NAKAMA to MEETING_vol.1.5」/舞浜アンフィシアター

 

11/27(金)パラドックス定数「蛇と天秤」(配信)

 

11/28(土)パラドックス定数「731」(配信)

 

11/29(日)「赤鬼」(配信)/東京芸術劇場 シアターイースト

 

12/4(金)「(死なない)憂国」(配信)/東出昌大、菅原小春

12/5(土)明日のアー「新しい生活様式下におけるゴリラ軍団vs新しい生活様式下におけるひょっとこ軍団」/7A、左右、藤原浩一 他/水上音楽堂(上野恩賜公園野外ステージ)

12/6(日)「エレファント・マン」(配信)

12/8(火)「23階の笑い」/瀬戸康史、松岡茉優、小手伸也 他/世田谷パブリックシアター

12/10(木)KIRINJI「KIRINJI LIVE 2020」/YONYON、鎮座DOPENESS 他/NHKホール

12/12(土)東葛スポーツ「A-②活動の継続・再開のための公演」/森本華(ロロ)、川﨑麻里子(ナカゴー)、名古屋愛(青年団/青春五月党) 他/シアター1010/稽古場1

12/13(日)ジャニーズWEST「ジャニーズWEST LIVE TOUR 2020 W trouble」(配信)

12/20(日)POLYSICS「Zher the ZOO YOYOGI 15年間ありがTOISU!!! Vol.3」/Zher the ZOO YOYOGI

12/20(日)POLYSICS「Zher the ZOO YOYOGI 15年間ありがTOISU!!! Vol.4」(配信)

12/27(日)城山羊の会「石橋けいのあたしに触らないで!」/石橋けい、吹越満、島田桃依 他/小劇場B1

12/30(水)明日のアー「新しい生活様式下におけるゴリラ軍団vs新しい生活様式下におけるひょっとこ軍団」(配信)

12/31(木)「KEEP ON FUJI ROCKIN’II ~On The Road To Naeba 2021~」(配信)/CORNELIUS 他

舞台『エレファント・マン』――メリック=小瀧望の“声”は、尊厳を貫こうとする人の叫びだった

 

音楽ライブは未だ完全な再開には程遠い感がある(コロナ以降、現場ではまだKIRINJI×ハンバートハンバート@野音しか観れていない…)が、演劇に関してはここ最近ようやく以前のような上演ペースが戻ってきた。

とは言え、役者・スタッフ・観客からひとりでも感染者が出たらアウトなわけで、特に会期後半のチケットを取ってしまうと、「自分が観られる日まで果たしてちゃんと上演されるのだろうか」という本当に余計な心配をするようになってしまった。(いや、作品を作る人たちの健康を祈る気持ちは大事なものだけど、あまりにハラハラしてしまうのでメンタル的に負担で…)

今年は五反田団「愛に関するいくつかの断片」が公演中止になってしまったことは、本当に惜しかった。その後上演された「いきしたい」も掛け値なしにすばらしかったが、「愛の~」は前田司郎のコメントを読むかぎりひとつのターニングポイントになりうる予感もしていたので。でも「いきしたい」が本当に最高だったからいいか!(無限ループ)



さて、「エレファント・マン」@世田谷パブリックシアターも、千秋楽の2日前の回を取ってしまったばっかりに、果たして無事に上演されるのかどうか、約1ヵ月のあいだとにかく心配しながら当日を待つ日々だったが、無事に観ることができた。

舞台は19世紀のロンドン。原因不明の奇形化によって人々から迫害され、見世物小屋で自らを晒すことで生き延びているジョン・メリックは、外科医フレデリック・トリーヴズと出会い、彼の研究対象として病院の一室で暮らすことになる。はじめて家を持ち、他人との心の交流を持ち、普通の人並みの生活を得ることができたメリックだったが――。

観ているうち、ふとした瞬間に、メリックをなにか異形のものとして観ている自分に気がつく。それはもちろん演出や物語がそうさせているのではあるのだけれど、他者を異物として観てしまう目や心が俺にもあるのだという事実を、実感として突きつけられる。これはメリックを“醜いもの”として観るだけではなく、どこか“聖なるもの”として観ることについても同じだ。

メリックと“面会”した人々は、口々に「メリックは私にそっくりだ」と言う。あれはつまり、メリックに反射する自分自身に見惚れているわけだ。彼らはメリック自身を見ていないし、そもそも見ようとしない。ん? 「彼ら」? 他人事のように言ってるけどそれは俺も同じなんじゃないか? そう突きつけられる。

そんなメリックと同じ人として向き合う数少ない人物が、演じることを生業としているケンダル夫人であることもうまい仕掛けだと思った。演じることと素であること、外見と内面、公と私、本音と建前、規律と本能――本作は様々な二項対立の狭間で自分自身とは何かを問い続ける者たちの物語でもあった。

 

あるときは見世物小屋の壁、あるときはメリックが民衆の迫害から逃げ込む建物、あるときはメリックが暮らす部屋と、内と外・世界の外側と内側を、真っ白な壁と明かりという極めてミニマムな要素で表現する美術セットと照明も、その世界観を非常によく具現化していた。



メリックとトリーヴズ、彼らを取り巻くさまざまな人物を描きながら、物語は「人間はほんとうの意味で“尊厳をもって生きる”ということができるのか」という問いに突き進む。

これはごくごく個人的な感想だが、始まってすぐ、メリックを演じる小瀧望の発声が、灰野敬二のそれに似ていると感じた。目の前の世界に対してたったひとりで対峙する、その勇気と必然を背負った者だけが発する、自らの存在の発露としての声。

メリックの慟哭、あの声が耳から離れない。小瀧があの声を選び取ったのは必然だったのだろう。

 

(※冷静に観返すと、似ているような、全然似ていないような……でもあのときメリックの声を聴いて、俺は本当にそう思ったし、それは見当違いなことではないと、↓の灰野さんの声を聴いて思う)

 




小瀧は言葉通りの意味での「上手い役者」というよりは、ちょっと面白い資質を持った演じ手なのでは、と思った。

 

メリックの造形の素晴らしさは言うまでもなく、トリーヴズの見る夢の中でのメリックを演じるとき、客席に向かってトリーヴズの“病状”を説明する堂々たる姿もさることながら、記者(?)とのやり取りでの受けの芝居に、すごくいいものを感じたのだ。あの一瞬に、人と人とのあいだに生まれる言葉と空気を乗りこなしていく彼の才気を見た。

今回は演じた役柄の性質上、他の俳優とのやり取りにおいてもかなりイレギュラーな要素が多かったと思うけど、たとえばいつか4人くらいの少人数で丁丁発止のやり取りを繰り広げる会話劇などでの彼の佇まいも観てみたいと思った。今後もいい作品と演出家・共演者に恵まれ、演劇の舞台でその姿を観られることを楽しみにしたい。近藤公園、高岡早紀も素晴らしかった。森新太郎作品は今回が初めてだったが、かなり好みに感じた。次作も追おうと思う。



最後に。本作は日本での上演は2002年以来(出典:wiki)とのこと。18年間でこの国に起きたことを踏まえて、歪んだ選民思想がついにやまゆり園の件にまで行き着いてしまったいまの日本(言うまでもなく俺自身を含む)の惨状と、ラストシーンのメリックの姿をどうしても重ねてしまった。あのシークエンスの、すさまじい静寂と、壮絶な悲壮は、思い出すと涙がこぼれそうになる。

これを書いているついさっき、今夏に上演された「赤鬼」(作・演出 野田秀樹)の配信を観終えたが、これも「エレファント・マン」同様(というかむしろより強く)異形の他者に対する偏見・デマ・差別、そしてコミュニティからの排除・分断を鋭く描いた得難い作品だった。

「エレファント・マン」、そして「赤鬼」、いずれの作品も観て、俺は鋭く強烈な痛みを覚えた。で、その痛みはどんなに目を逸し見ないフリをしても、いま俺らの目の前に確実に存在しているものなのだ。こういう作品たちが2020年のいま上演されたことは、俺の中の演劇という表現に対するある種の信頼を再確認することができた出来事でもあった。

 

「エレファント・マン」は、12月5日(土)18時から配信上映される。(ジャニーズ事務所所属の俳優の主演公演を含む)優れた演劇が配信フォーマットで観られる機会が増えたのは、コロナを経ての数少ない良い変化かもしれないな。

 

また先述の「赤鬼」も、12月7日(月)17時までYouTubeで無料配信中。2020年に観る意味にあふれまくった演劇なので、これをここまで読んだ人には、ぜひ。「エレファント・マン」との相似性も感じられるかも。

 

 

V6の音楽に触れる幸福。配信ライブ『V6 For the 25th anniversary』鑑賞

とにもかくにも、俺はV6の音楽が好きだ。V6の音楽を聴いていると幸せだし、満たされる思いになる。

で、それとは別に、「V6の音楽が好きなこと」と「V6が好きなこと」は、必ずしも両立するものではない。曲は好きだけど彼らのことは特別好きではない、ということだって全然あり得る話ではあるし、その逆でV6のことは好きだけど彼らの音楽はあまり好みではない、という人もいるだろう。

さて俺はというと、V6の音楽も好きだし、V6のことも好きだ。その理由はやはり音楽に関わる部分で、俺はV6という表現者集団の自身の音楽に対するスタンスを、とても信頼しているのだ。2020年11月1日、25周年記念として行われたV6の配信ライブ『V6 For the 25th anniversary』を観て、そのことを改めて感じた。

俺がV6の音楽を好きになるきっかけとなったアルバム『Oh! My! Goodness!』は、それまでの俺の中にあったV6像のようなものを軽々破壊し、異形のエレポップ桃源郷へと誘う怪作にして傑作だった。同作を引っさげたツアーのライブDVDには(過去記事:V6『Oh! My! Goodness!』のライブDVDがすごい面白かったよ)、冒頭からカップリング~未発表曲を連打し、終始ひたすらに鋭角なパフォーマンスを繰り広げる彼らの姿が記録されている。

 


その後、俺が初めてV6をライブを観たのは20周年ツアー『V6 LIVE TOUR 2015 -SINCE 1995~FOREVER』だったんだけど(過去記事:V6の20周年ライブがめちゃめちゃよかった・2015年10月29日@代々木)、あのとき彼らはライブの後半に6部構成にもわたる激長尺メドレーを披露した。もちろん往年のヒット曲も満載だったんだけど、あれはなんというか普通の発想で思いつくサービス精神の範疇をぶっちぎった、サービス精神の暴発、サービス精神の暴力とも言える極めて過剰な表現となっていて、会場で圧倒された記憶がある。

 


つまり俺にとってのV6原体験は、『MUSIC FOR THE PEOPLE』~『愛なんだ』~『WAになっておどろう』といったJ-POP黄金期の楽曲たちによって刷り込まれた彼らのパブリックイメージをことごとく覆され、新たな刺激の注入によって最新版V6にアップデートさせられる瞬間の連続だったのだ。

なので、今回の25周年ライブで、前半を終えて始まったMC(という名の着席だべり)(最高)(笑い転げた)で岡田准一が、今回のライブのテーマが「攻め」であり、皆で話し合って“いまの自分たち”をみせようということになった、と語る姿を見ても、冒頭『Right Now』で始まり、いわゆる代表曲は固めず、近年の新しい楽曲を中心とする前半の内容を踏まえるとまあ納得ではあったし、なるほどV6なんだからそりゃ攻めるわね、と、攻めという言葉とは裏腹にどこか安堵してもいた。「攻めるV6」は、それだけ、俺の中である意味常態化しているものでもあったのだ。

しかし。とは言え。それにしても。ひたすらにくだらないMC(という名の着席だべり)(最高)(笑い転げた)を経て、「この流れで次の曲いけないよ、けっこうクールな曲じゃん」という流れから始まった後半からラストまで、俺は口をあんぐりと開け、うひゃああ、とか、うっぎゃああ、とか、ひゅにゅる~~~ん、とか、むぷしゅにゅいみゅりわ~~~~~ん、とか、奇声を上げるほかなかった。いや。いやいやいや。攻めるとは言っても、まさかここまでとは。結果として後半もシングルは見事に近作で固められ、これまでのライブにおける定番のレパートリー含め、歴代売上上位の“V6といえば、これでしょ”といういわゆるベッタベタな代表曲はほぼ全く歌われなかったのだ。

 

アニバーサリー・イヤーということもあり、おそらく本来はリアルなツアーも予定されていただろう。コロナ禍で配信形式での開催を余儀なくされた中、むしろ配信だからこそこれまでライブ未参加の一見さんが初めてライブに触れる機会にもなりうるであろう今回のライブ。というかそもそもキャリア25周年という極めて重要なタイミングの公演で、「攻め」というひと言では到底収まりきらないライブを、V6はやってのけてしまったのだった。

構成~演出面でも、配信でしかありえない、配信だからこそできる魅せ方のオンパレード。特に個人的な白眉は『PINEAPPLE』~『TL』~『GOLD』の流れ。少し前なら遠距離恋愛に聴こえたはずだが今ではコロナ禍を生きる恋人たち、もっと言えばV6とファンの関係性をもダブらせる土岐麻子の歌詞が素晴らしい2020年のV6を象徴する1曲から、『TL』をあえてのインストゥルメンタルによる別撮りの水上ダンスパート(導入の坂本ソロダンス含め、えげつない見応え)で魅せ、そこから一瞬の静寂を経てまさかのまさかのまさかのまさかの『GOLD』ああああ~~~~あ~~あああああ~~~~んn!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!111111111111(あまりの衝撃に思い出すだけで文体が混乱しています)

シングル『COLORS / 太陽と月のこどもたち』のカップリングとしてこの世に生を受けながらこれまでライブの場では日の目を見なかった(というか普通はC/Wが日の目を見ることのほうが少ないのだけど)、俺のどストライクなエレポップサイドのV6をこれでもかと堪能できるドドドド傑作曲がついに放たれた喜びは、筆舌に尽くしがたいものがあった。もうこれで俺のライブは終わりました本当にありがとうございましたと賢者タイムに突入しそうになったのだが、間髪入れずに『Can't Get Enough』が始まり俺は無事に昇天・合掌・臨終したのだった。

で。何がすごいって、上記の流れを含め今回のライブ、あえてマニアックセトリで固めたよ~とかこれならファンのみんな喜ぶでしょ~とかそういうある種の戦略的な狙いよりも先に(いやそれはそれであっただろうし、客商売なんだからそれも大事だけど)、結果的にMCで語られたとおり、V6の今の音楽のパワーが最大限魅力的に爆発する内容になっていたことなのだ。

おそらく日本の総人口で考えたら先述した3曲を知らない人のほうが多いと思うし、俺だって『愛なんだ』も『グッデイ!!』も『バリバリBUDDY!』も聴きたかった。しかし今回のライブは、セットリスト・演出・構成・そして言うまでもなく6人の歌唱・ダンス・パフォーマンス含め、“彼らが現在進行系で鳴らす音楽”に焦点を当て、その魅力を余すことなく堪能できる極めてクオリティの高いものになっていた。何より表現として信じられないくらい刺激的だったし、この重要なタイミングの公演をそういうライブとして完遂してくれたことが心の底から嬉しかった。

 

そして改めて痛感した。あー、これだから俺V6が好きなんだ、これだからV6のことって信頼できるんだよなあ、と。音楽と真剣に向き合い、音楽を愛する表現者たちのライブが、素晴らしくないはずがない。そんな(V6にとっては)当たり前の、しかし当たり前じゃない得難さを噛み締めた一夜だった。

あともうひとつ、恥ずかしながら俺はこの日最後に披露された『羽根 ~BEGINNING~』という曲を今回初めて知ったのだけど、V6が音楽で表現してきたもののある一端が見事に表現されていて、すごく感動してしまった。<儚いもの失うこと 畏れないでいこう><なんの変哲もない この自分を讃えるのさ>ってもう、V6イズムそのものじゃないか。2000年リリースのアルバム『"HAPPY" Coming Century, 20th Century Forever』収録曲なのか。6人のボーカル含め、沁みたし、この機会に聴けたこともなんか嬉しかった。きっと俺以外の少なくない人たちに対しても、こういう新たな発見や気づきをもたらしたライブだったんじゃないだろうか。

 

あ、本当の最後にもういっこだけ。数年後しに改めて思った。森田の表現力に感銘(過去記事:V6『Oh! My! Goodness!』における森田剛氏のボーカルについて)。森田剛の歌声を聴くと、どうしようもなく心を乱されてしまうんです、俺。身も蓋もないけど、シンプルに言って彼の声がやっぱり好きなのだ。そのことを再確認した夜でもあった。溶けました……。

 

 

うーーん。いやー。しかし。そうかー。俺、まだ甘かったなー。事あるごとに言ってる気もするけど今回もまた、なんか、V6、ここまでとは思ってなかった。さすがにもっと安心できるライブやるのかと思ってた。参った。

ということは、これから先もまだまだ大丈夫ということだと思う。アニバーサリーの瞬間に「この先」について期待を抱かせてくれるって、当たり前なようですさまじいことだ。本当にいい時間だった。

映画『ミッドナイトスワン』――社会の中で「自分」を取り戻すことはできるのか

 

映画『ミッドナイトスワン』を観た。

トランスジェンダーの凪沙(草彅剛)は、性転換手術のために細々と貯金をしながら、新宿のニューハーフショーで日々の生計を立てている。

 

ある日故郷の親から、母親から虐待を受け保護された親戚の少女・一果(服部樹咲)を引き取ってくれないかと頼まれ、渋々引き受けることに。傷つき心を閉ざした一果と、孤独を抱える凪沙の、束の間の共同生活が始まる。

 

 

観終えて、いまもっとも強く心に残っているのは、凪沙と一果の「顔」だ。

「自分」とひと言に括っても、その中にはいろいろな顔がある。家族と会社の上司と学生時代の友人、全員にまったく同じように変わらぬ顔で接することができる人のほうが少ないだろう。

人生で出会う人の数だけ、自分の中に異なるさまざまな表情が生まれていく。逆に言うと、人との出会いによって、人は新たな自分を発見し、認め、獲得していく。ひとりきりでも生きていける人間が社会の中で生きる意味のひとつは、そこにあると思う。

一果は理屈ではなく本能で、あえて表情を作らない。表情を作ることを拒否している。それはつまり社会で生きること=大人たちの中で生きることを拒否する態度だ。根底には、母親から虐待を受けた経験による、大人や社会に対する強固な不信がある。

一方、凪沙は実母に対してはぶっきらぼうな「息子」として振る舞いもするし、就職面接では礼を欠く面接官を前に慎ましくそこに居続ける。そういった凪沙の中にあるさまざまな表情は、凪沙が社会で生きるために必要なものと判断して表出しているものだろう。しかしそうして作られた顔たちは、凪沙自身を幸福にしているだろうか。

顔を持たない一果と、顔を繕う凪沙。自分で自分自身をつかまえられないまま、社会から爪弾きにされたふたりは、衝突し、泣きながら身を寄せ合う。

 

いつしか、一果はバレエに出会うことで、凪沙はそんな一果と出会うことで、これまで知らなかった自分自身を発見し、これまで誰にも見せたことのない顔を、互いに見せ合っていく。

 

それはふたりが「自分」を取り戻し、社会で生きていくことを諦めないでいようともがく姿だった。

終盤、友人やかつて虐待を受けていた母親にすら笑顔を見せられるようになった一果は、変わり果てた姿の凪沙と再会する。その瞬間のふたりの顔は、思わず目を背けたくなるほどの痛々しさだった。

 

孤独を選んでいれば出会うはずのなかった痛みが、ふたりをつなぎとめているように見えてつらかった。でもその痛みだって、誰かとともに生きるということの得難さ故なのだよな、とも思う。

どんな台詞より、どんなエピソードより、人が人の中で、社会の中で生きていくことの幸福と困難をもっとも雄弁に物語っていたのは、凪沙と一果、ふたりがみせたたくさんの「顔」なのだった。

***

というように、主に俳優陣の演技において観るべき点はいくつもあったのだが、作品全体については実はあまりよくは思わなかった。端的に言うと俺個人の好みと、演出・脚本の相性が悪すぎたのだと思う。

まず、凪沙や一果、また東京で一果と出会う同級生・りん(上野鈴華の芝居、すごくよかった)など、作品の中心となる登場人物は異様なリアリティを放っているのに対し、その周辺には妙に味付けの濃い戯画的なキャラクターが遍在していた点。

特にりんの母親、ショーの最中に悪態をついて乱闘騒ぎを起こす男性客、配慮を履き違えた発言を行ってしまう面接担当の男性、彼らの描き方は、物語を推進することを優先した結果、不必要にステレオタイプに造形されているように感じた。

また、作中のいくつかの演出にも疑問が残る。ショーの最中の乱闘からとつぜん一果がステージに上りバレエを披露する流れ。公園で凪沙と一果が踊る極めて美しいシークエンスのあと唐突に出てくる老人とのやりとり。一果のコンテストとオーバーラップさせたりんの屋上のシーンの閉じ方。そして凪沙を背に海に入っていく一果。

このあたりはなんというか、映画的な盛り上がりとしてやっているのはすごくよくわかるし、これらを称賛する生理というのもわからなくはないのだけど、俺にとっては「それ、必要なのかしら」と白けてしまうポイントとなってしまった。

 

しかし、内田英治監督の下記ツイートの、

<これは娯楽。娯楽映画>
https://twitter.com/EijiUchidaFilm/status/1310221305040445440

という言葉を見返すと、なるほど確かにあれはあれで正しいのかもしれないな、とも思う。

重い話ではあるが、終始ストーリーは簡潔にテンポよく進む。描きたいものは明確で、それに即する筋と言葉がある。上記のように(俺は乗れなかったものの)映画として盛り上がる力のあるシーンもきっちり撮って、それらをえいやっとひとつにつなげて作品として仕上げられ、監督が意図するところの娯楽=エンタテインメントの中に見事におさまった。

で、俺にはそれがつまらなかった。特に俳優たちの熱演がそう料理されたことは、とてももったいないことだと思った。とは言え、別に俺は自分をいい映画鑑賞者だと思ってはいないので、だからこれは単純に相性の問題なのだと思っている。

***

最後に。先述のツイートで記述されているように、監督に<自分の映画を社会的にはしない>という思いで作品を作る自由はもちろん、ある。しかし同時に、観客がこの作品とどう向き合い、どう受け取るか、その自由も言うまでもなく、(例えそれが監督であったとしても)誰からも規定されるものではない。それこそが映画を含む、あらゆる表現の美点だろう。

 

また、<社会問題は誰も見ない。映画祭やSNSでインテリ気取りが唸り議論するだけ>という言い方は、社会問題の視点から作品に対して批評・批判的態度で発言する人たちに、極めて歪んだバイアスを与えてしまうものだ(現に当該ツイートを引き金に、潜在的にそれは広がっていると感じる)。

 

これだけ現在の日本社会に接続された作品を作りながら、トランスジェンダー当事者を含む社会の一員としてこの作品に向き合った人たちの批評や批判を<自分の映画を社会的にはしない><なので娯楽です。多くの人に観てほしい。それだけ>とかわすしぐさは、鑑賞者を、ひいては娯楽=エンタテインメントをも軽視する、なかなかひどい態度だと思う。

 

エンタメって、そんなやわなもんじゃないでしょう。そもそも社会問題とエンタメって、そんな分断されるようなものなのか。それってこの作品自体を否定することにもならないか。

 

前半で書いたように、俺はこの『ミッドナイトスワン』という映画を、社会の中で人はどう生きていくことができるのか、そういうことを描いた作品だと受け取った。で、そういう作品についてこのような状況が生まれてしまっているというのは、いろいろな意味で示唆的な出来事だなと思う。

2020年の梅雨、「としまえん」に行って、マジックとブラワーエンジンとサイクロンに乗りまくった

 

子どものころから大好きな遊園地・としまえんが閉園するので、最後の見納め・乗り納めに行ってきた。

閉園のニュースが出たあととは言え、梅雨時期の平日のとしまえんはガラガラで、乗りたかった乗り物には何度も何度も乗ることができた。もう今後一生乗れないと思うと残念だけど、こんなに乗ったのだから、まあいいかと思うことにしておく。

なかでも特に大好きな3つの乗り物について書き残しておく。

●3位:サイクロン



 

サイクロンは、まず丸太の形をした車体がいい。都心にしては緑が多い園内を走るときに、この木目のテクスチャが映える。



 

頑丈なバーを下ろすということはなく、体を固定するのはシートベルトだけ。

 

 

そのぶん激しい落下や極端なカーブはないが、いま乗ってもちゃんとスリルと爽快感があった。後半のトンネルも直球かつ意外性のある趣きが楽しい。最後に川にかかる橋を渡るのも、この都市×自然コースターの締めに相応しいあしらいだ。

俺が曲芸のようなアクロバティックなコースターではなく、キャメルバックを基調とした王道のコースターを好むようになったのは、このサイクロンの影響がでかいのだな、と改めて思った。

俺の脳内では、としまえんのサイクロン→よみうりランドのバンデッド→富士急ハイランドのFUJIYAMAが惑星直列しているのだけど、バンデッドやFUJIYMAを知った俺がいま乗っても(いやだからこそ)しっかりと美点を感じられるコースターとしてサイクロンが存在し続けていたことがうれしかった。




●2位:ブラワーエンジン

 



 

普段の生活では感じることが少なく、遊園地でないとなかなか体感できない感覚のひとつに「遠心力」がある。

ブラワーエンジンは小さな小さなコースターだ。蒸気機関車を模したブルーの車体は、コースの規模に合わせてやはり小さい。このちんまりしたSLが8の字コースを縦横無尽に走り回るとき、全身にグググッと絶妙な遠心力がかかる。これがたまらなく楽しい。



 

乗り場近くにあった解説板によると <ブラワーエンジンは、ドイツ鉄道で古くから多くのファンを持つ特急「青いリンドウ号」をもとにデザインされた自走式のコースターです。スムーズな乗り心地でダイナミックな走行感とスピード感が楽しめます> とのこと。



 

遠い記憶では毎回コースを2周していたと思っていたが、この日は3周していた。閉園前の大盤振る舞いなのかしら、と思った。

 

家に帰って調べるとやはり基本は2周なのだが、その日のラストランではおまけで周回を追加するサプライズがあったのだとか。そう言われれば記憶を辿るとそんな感じだった気もしてくる。

コースのほとんどはカーブで、そもそも乗り場の時点で特に先頭車両のあたりは、その先のカーブに突入せんとばかりにすでに若干左に傾いていたりする。

 

 

最初こそゆっくりスタートするのだが、1周目がおわる頃にはスピードはかなり加速し、そのまま2周めに突入。

 

普通のコースターなら停まってやっとひと息つけるはずの乗り場を、「ピロピロピロピロピロピロ」という警告音とともに全速で走り抜けていく瞬間の快感ったらない。

スピードは時速36km、しかし体感はそれ以上。急カーブではなかなかの遠心力がかかり、身長178cmの自分などは車体からはみ出た頭がレールにぶつかってしまうのではとビビるほど、見た目以上にスリルも十分。

 

小学生でも楽勝で乗れる気軽さと、コースターならではの醍醐味が凝縮された、小ぶりながらすさまじい名機だ。



 

●1位:マジック
 

 

遊園地の乗り物に乗って、マッサージを受けている気分になったのは初めてだった。この日3度めのマジックに乗っていたときのことだ。

 

やはりここでもキーワードは遠心力なのだけど、このマシーンの作り出す複雑な味わいの遠心力に身を任せると、いつもならスリルと快感で興奮状態になるはずの俺の五感と肉体は、なぜだかゆるゆると解きほぐされていったのだった。

としまえんには、回転系アトラクションが充実している。すべて乗ればどんな人でもひとつは気に入るものが見つかるのではないか。

 

回転系とはその名の通り基本の動作が回転なので、必然的に遠心力がかかるわけだけど、マジックはその回転のかけ方=遠心力のデザインがかなり複雑で、なんとも滋味深い遠心力を味わうことができる。

 

この、マジックだからこそ生まれる遠心力が、俺はどうしようもなく好きなのだ。

 

まず中央の軸から4本のアームが伸びており、このアーム自体が回転しながら上下する。そのアームの先にある新たな軸からさらに3本のアームが伸びており、この3本の第2アームも回転する。

 

第2アームの先には人が乗るゴンドラが設置されており、そのゴンドラ自体も回転する。

 

 

全然説明できている気がしないが、つまり上下運動と何重もの回転、さらにスピードが重なり合い、複雑な遠心力を生んでいるということだ。



 

 

この複雑な遠心力こそ、俺にマッサージ的なある種の治癒効果をもたらした正体である。すごかったよーあの体験。マジック乗りながらあっへはは~へはっは~とか笑いながら全身脱力してんだもん。一体どうなってたんだあのときの俺は。知るか。マジックに聞いてくれ。

実はこの日、俺はとしまえんにひとりで行った。それは少年時代、家族や友だちと行くと好きな乗り物になかなかたくさん乗れなかった切ない思い出があって、せっかく最後なのだから愛する乗り物に好きなだけ乗ってやる、という思いからだった。

 

当時、マジックが回転するさまを下から眺めているのが、俺は大好きだった。回るマジックをいつまででも見ていられた少年の日々を思い出す。

そして今回、念願叶っていちばん好きなマジックに好きなだけ乗った結果、アヘアヘ笑いながらナチュラルトリップするという衝撃の事態になった。なんというか、人生色々あるけど長生きするもんだよな、と思う。マジックのあの遠心力をもう味わえないのかと思うと、冒頭では強がって「まあいいか」とか書いたけど、やはり、割と意外なほど、とてもさびしい。

いま気がついたのだけど、公式サイトによると、このマシーンの最高時速は35kmなのだとか。ブラワーエンジンとほぼ同じじゃん。俺にフィットするスピード感なのかもしれないな。



本当はもっと早いタイミングで、もっと広く有益な情報も入れ込みつつまとめようと思っていたけど、そんなの他の誰かがもっと最適なかたちでやっているだろうし、俺は俺として忘れたくないことを書き留めておこうと思い直し、こういうかたちになった。

 

俺には大好きな乗り物がたくさんあって、そんなとしまえんが大好きだということを、忘れないように書き留めておこうと思ったのだ。

 

それにしてももっと書くべきことはなかったのかという気もする。カルーセルエルドラドも素晴らしかったし、フライングパイレーツに俺ひとりだけで乗れたのもいい思い出。マサラのカレーも食えたし、イーグルはやっぱり死ぬほど怖かった(イーグルが拘束具なしなの、いまだに信じられん)。

 

ちなみに今回書いた3つの乗り物には3回ずつ乗った。誰に気を使うこともなく、ひとりで好きなだけ乗りまくれたので、最後に最高の思い出ができたなあと思う。

 

というわけで、とにかく、ありがとう、としまえん。大好きな遊園地でたくさん遊べて幸せでした。

POLYSICSツアーが中止になって、「あーマジで残念だ」って、思おうと思った

 

多くの(と書き出してみたものの、今回の一連のコロナ対応において表現&文化活動に対するこの国の軽視っぷりを目の当たりにして、ああもはや日本においてはエンタテインメントに心酔する人間などはすでにマイノリティだったのか、という事実を痛感してはいるのだが、とはいえ少なくない人数の)エンタメ好きな人たちと同じく、俺もこの1ヵ月そこらでもいくつかの公演キャンセルを経験した。

書き出してみる。新しい地図ファンミ―ティング。KIRINJI。コーネリアスVSロザリオス。五反田団(現時点では発売延期だがおそらくやらないだろう)。ほりぶん。そしておそらく今月のバッファロー・ドーターと坂本慎太郎も見送りとなるだろう。書いていて目眩がしてくる。いったいどれだけの名演が、日の目を見ることなくその機会を奪われてしまったのか。

で、きょう4月3日、ポリシックスのツアー中止のアナウンスをツイッターのタイムラインで知って、そのとき俺は外を歩いていたのだけど、かなり大きな声で「あああ、はあーあ、あーーもう」と声を漏らしてしまった。

 

>POLYSICS公式ツイッター

https://twitter.com/POLYSICS_TOISU/status/1245999537782734848

>ハヤシヒロユキ公式ツイッター
https://twitter.com/HiroHayashi78/status/1246004226460758016

この状況、つまり誰のせいでもなく(明確な補償を設けずに自粛要請だけを繰り返す政府には大きな責任があるが、そういう経済面の話とは別に)ただただ公演を行うことができないという事態に対して、「いちばん辛いのは本人(=バンドや劇団)たちなんだよね」という人の気持ちもわかる。わかるというか実際そうなのかもしれない。身を削ってゼロから表現を作り上げ、やっと他人に披露しようというときにその道を絶たれる辛さは想像を絶する。

一方でウイルス対策の視点では、そもそもいまライブハウスでライブをやるのは、正直ありえないことでもある。仮に今バンドがライブを強行したとしても、正直、俺は行かなかっただろうし、バッファローや坂本さんのライブも、客のためにも演者スタッフのためにも正直延期または中止してくれないかとすら思っている。なぜって、事実、世界中で、というか日本でも人が死んでいるのだ。死んでいい人などいない。ましてや自分をここまで生かしてくれたライブハウスから死者を出すことなんてあってはいけない。

ただ。ただ、今夜ポリシックスのツアーが中止するという現実を前にして俺は、俺が感じた「とにかく残念でしかない」という気持ちを尊重しようと思ったのだった。

コロナのことを考えたらライブはやるべきではない。でも、残念だ。とにかく残念だ。やりきれない。ポリシックスのライブが観たかった。観たかった。残念でしかない。

本当は「残念」なんて言葉で済ませられない、このいまのどうにも言い表せられない気持ちは俺だけが感じた確かなもので、それで、俺はなんというか、その残念な気持ちの奥の方で、「あ、俺こんなにポリシックス好きだったんだ」と、ふと思った。で、それはそれで、変なんだけど、ちょっとうれしかったりもしたのだった。

俺は今夜くらいは、バンドのこととか音楽シーンのこととかこの先の日本のこととかは一旦置いといて、「ポリシックスのライブが観られなくて残念だ」といういまの気持ちを尊重しようと思う。で、いま様々な状況で引き裂かれそうになっているエンタメに心酔する人たちにも、そうあってほしいと勝手に思っている。

おそらくこの先(というかすでに)、「ファンならこうあるべき」という同調圧力があらゆる場面で生まれてくる予感がある。もちろん「こうありたい」という思いを胸に行動することは大事なことではある。しかし一方でそこからこぼれ落ちてしまうパーソナルな気持ちも、ちゃんと持っておきたいと思うのだ。

だって残念じゃん。悔しいじゃん。観たかったじゃん。誰に気を使うことなく、誰に引け目を感じる事なく、そう思っていいんだよな。自分で自分にそう言い聞かせるように、今夜はポリシックスのツアーが中止になってしまった悲しみを噛み締めようと思う。

 

それは、自分がバンドのことをどれだけ愛しているかということを実感することと同義なのだ。

 

で、それはきっと、すっごく幸せなことでもあるのだ。

 

****

さて蛇足として、なんでいまのポリシックスのライブが観られないことがこんなに残念なのかについても書いておく。理由はシンプルで、ツアーに冠されていた最新アルバム『In The Sync』が、バンドの最高傑作だからです。以上。ははははは。すごい、書くことを放棄しているw や、だって本当にそれに尽きるんだもん!

何度聴いても聴き足りない密度。すでに備えていたバンドの資質や魅力をここにきて再ブーストさせるような出色の楽曲群と演奏。とにかく血中興奮濃度(なんだその言葉)を沸騰させることだけに特化した刺激物の塊。こんなアルバムを結成ウン十年目でドロップしてしまったことは、2000年に『XCT』で出会ってから聴き続けてきた身としてはもうたまらなく嬉しかったし、今も絶賛リピートリピートリピート中です。

 

 

だからこそこの傑作を引っさげたツアーの中止はとてつもなく悔しいんですが、まだ未聴な人がいたら即聴いてほしいっす。よろしくね! ポリシックス=ライブバンドという見立てに異論はないけど、録音だってもんのすごいんだからな、ポリは! 特に最新アルバムは近年でも出色の音が刻まれているので、ここから入るのも全然OKというかむしろおすすめですので、ぜひに。

あとこれは蛇足かもですが、えげつないエネルギーを放出するポリシックスに相対するように、ベッドルーム・テクノ・ミュージック(そんなジャンルはない)としても機能しうるザ・ボコーダーズの活動がスタートしていたことは、この状況においてアドバンテージになりうるのでは、とも思った。(※同メンバーの別名義バンドです)

 

 

いやそんな単純な話ではないというのは重々承知の上ではあるのですが、この先、表現を生業とする人たちにとってはパラダイムシフトが起こる可能性もあり、現状のウイルス対策と照らし合わせると、唾を飛ばさずにいい塩梅のテクノをやるというコンセプトは意外と活路があるのでは、とも。とにもかくにも、バンドも俺もコロナ渦中を生き延びてまたライブハウスで再開したいものです。健康第一!!!!

(さらに超蛇足。ツアー初日の千葉LOOK観ましたがアルバム曲を全曲やらなかったんですよね。自分でもしつこいと思う、というかもはや粘着レベルの自覚はありますが、問答無用の傑作アルバムを引っさげたツアーで(ナカムラさん脱退ツアーとは言え)アルバム曲は全曲聴きたかったと思うのはそんなに無理難題な欲望なのでしょうか)(あー我慢できずに書いてしまった馬鹿馬鹿馬鹿ry

 

初めて行った千葉LOOK、最高のハコでした!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!11

ジャニーズWEST・重岡大毅『to you』――音楽で世界を受け入れるということ

 

ジャニーズWESTの重岡大毅ちゃん(※これは照れ隠しを踏まえた敬称です)がちょっと前に作詞と作曲を手がけた『間違っちゃいない』という曲を、密かに気に入っていた。

まずメロディがとてもいい。ジャニーズ所属のアイドルが歌うポップスとしての分別(そんなものが明確にあるわけでないけど、そのようなもの)はきちんと踏まえつつ、しかしありそうでなかなかない、普通ならこっちにいくだろうという定石を絶妙に排しながら、オリジナルな温度を持ったメロディラインなのだ。

そんなメロに対する言葉の乗せ方にも、新鮮な驚きがある。有り体に言えば応援ソングではあるのだけど、<間違っちゃいない>という平易かつ若干のいなたさをもった言い回しが、決して歌いやすくはない高低差のある音階と跳ねるリズムとともに歌われると、生きることを丸ごと肯定するマジカルなフレーズとしてキラキラと輝き出す。

まずメロディメイカーとして得難いセンスがあり、そこに最適な言葉を選ぶことができる。つまりはポップスを創作する音楽家として必要不可欠な能力を彼がすでに備えていることが、『間違っちゃいない』という曲を聴けばわかる。

さらに重要なのは、そのある種の器用さがテクニカルな領域にとどまることなく、今様に言えばエモさの発露として機能している、ということなのだ。

今回、重岡大毅ちゃんが、ジャニーズWESTのニューアルバム『W trouble』のために新たに書き下ろした『to you』という曲を聴いて、思い出したことがある。『文藝 2007年春季号 特集:恩田陸』(河出書房新社)内で展開された、恩田と漫画家・よしながふみの対談における、下記のやりとりだ。
http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309977065/


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恩田
あと、よしながさんの描く漫画では登場人物がちゃんと自分の人生に対するツケを払っているところが好きなんですよ、私。

『西洋骨董洋菓子店』でも、主人公が幼少時代に誘拐されるというトラウマを背負いながらも最後、「結局、オレは全然変わってねーじゃねーかよ、じゃあまたケーキ売るか」って呟いていつも通り家を出ていく、というのは、何かちゃんと自分の人生を自ら引き受けて生きているっていう感じがするんです。

よしなが
私はドラマが大好きでよく観るんですけど、例えばヒロインのトラウマがレイプだった場合、途中で男性恐怖症に陥りながらも、レイプした当事者を告訴し最後は恋人とよりを戻すという、まあいい終わりなんですよ、決して明るくはないけれど。これから苦しいこともあるだろうけど頑張っていこうというところで終わっている。

やっぱり物語だと克服させちゃうんですよね。でも実際生きている人の中には、加害者を告訴もできなければ恋人ともよりを戻せなかった要するにトラウマを乗り越えられなかったという人も大勢いると思うんです。

ただそうすると克服できない人というのは不幸なのか、男性恐怖症のまま幸せになるという道筋はないものかなという、何かそういうことを思って『西洋骨董洋菓子店』は描き始めたんです。

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恩田の<登場人物がちゃんと自分の人生に対するツケを払っている>という指摘は、よしなが作品に対する端的かつ的確な批評だと思う。

キャラクターそれぞれの人生を収まりのいい物語に回収させることなく、物語からどうしようもなくはみ出してしまう、生きているからこそ生まれてしまう、整理のつかなさややるせなさ、ままならなさ、そういったものを掬い取るのが、よしなが作品の魅力だ。

で、俺は重岡大毅ちゃんが作る音楽にも、同じものを感じる。

重岡ちゃんが作る楽曲は、ポップスとして、音楽として、すごくよくできている。あえてこういい方をしてしまうけど、この人は日本のヒットチャートを主戦場とする、しかもアイドルが歌う商業商品として成り立つポップスを作ることができる資質と能力を備えている。(個人的には彼が楽曲のアレンジ・編曲にどこまで自覚的に関わっているのか、とても興味深い)

しかし、繰り返すが、彼の作った曲を聴いて最終的に心に残るのは、そういった技巧的なうまさを超えた、彼自身の中からあふれるエモーションなのだ。

<あばよ、あばよ>という、彼らしいつっけんどんだけどチャーミングな言葉選びと、暖かさを増す春の日差しが似合う陽性のサウンドが相まって、喜びや悲しみといった単一の感情を表す言葉では整理できない、ストレンジな手触りが生まれる。

この世界には、自分の力では、ましてやどんな方法でもどうすることもできない、抗いようのないことが、確かにある。そんな世界に生きる者として、「そんな世界を愛せるのか?」、という自問。それはある種の諦観(=世界の原理に逆らうことはできないという確信)を含んでもいる。

そんなシビアかつ根源的な問いに対して、つまりこの世界が抱えるどうしようもなさ/ままならなさのすべてをまるっとひっくるめて、「おうよ、愛してやるぜ、愛してやろうじゃねーか」、と宣言してしまう、(投げやりや強がりも含んだ)覚悟のような、世界への応答。これは自分の人生、そして自分が生きる世界を、(ネガや矛盾も含め)受け入れていこう、受け入れてやる、という態度の表明だ。

で、彼は、そういうメッセージを、ヒットチャートを主戦場とするジャニーズ所属のアイドルグループであるジャニーズWESTの新作アルバム収録曲として、身と心を削って生み出したのだ。つまり自分が作るこの『to you』という音楽が、この世界にとって必要なものなのだ、と、心の中でグッとアクセルを踏んだのだ。

俺にとって『to you』はそういう曲で、あーいい音楽と出会ったなー、と思って、何度も聴いている。音楽が好きな者にとって、そう思えるような音楽と出会えることほど嬉しいことはないし、そういう音楽を作る表現者との出会いは、このうえない幸せだ。7人のボーカルもすごくいい。こういう曲が肯定・共有され、いま世に出たことが喜ばしいよ、俺は。

重岡大毅ちゃんには、もっともっと音楽を作って欲しい。まずはいま生み出されたばかりの『to you』という曲を繰り返し聴こうと思う。

●こちらもどうぞ●

 

 

 

 

※おそらく3/25くらいまではこのラジオ内でOAされたもの↓をタイムシフトで聴けるかもです(何も調べず書いてます間違ってたらすみません

http://radiko.jp/share/?sid=QRR&t=20200319232403

香取慎吾『10%』で踊る地獄――“パーフェクト・ビジネス・アイドル”は2019年に何を歌ったか

香取慎吾が『10%』という曲をリリースしましたね。結構聴いてます。
 

こちらはプロのライター氏が書いたレビュー。


●<香取慎吾「10%」レビュー>みんなが同じものを見ているわけではなくなった時代における“仲間づくり”のアンセム誕生
http://www.billboard-japan.com/special/detail/2778

うーーーーん。そうか。そうですか。いいなあ。なんか楽しそうで。何? この曲聴いてぐぬぬぬーって唸ってるの、俺だけ?

いや、曲じたいは楽しいですよ。文句なしに明るいし、ビートも極めて高性能でガシガシ踊れる。香取さんのボーカルもSMAP時代含め出色の出来。でもその前に、この曲、消費税増税をフックにした曲なんですよ。

 

2019年の10月1日に『10%』という曲を出した以上、そこでなにが歌われているかが重要になってくると思う(少なくとも俺はそう思う)のだけど、先述のレビューでいちばん引っかかるのは↓の部分。

<増税に反対 or 賛成というメッセージを打ち出すというよりも、むしろ「一度みんなでいろいろ一緒に考えてみない?」と、テーブルに多様な話題を並べ、ディスカッションに気軽に誘ってくれているかのような親しみ>

えーーーー?? 本当にそんな貧弱なメッセージしか込められていないわけ? この曲って。

仮に香取本人が“みんな! 消費税についていろいろ一緒に考えてみようよ! 気軽にディスカッションしようぜ!”と心から思ってこの曲をドロップしたのだとしたら、それこそ危機感もつべきだと思うんだけど。だって“俺らはこの増税について、気軽にディスカッションするところからしか始められないんだよね”と彼が判断した、ということになってしまうでしょう。


俺は『10%』を最初聴いたとき、正直かなりモヤッとした。というのも、配信開始時には歌詞が公開されていなかったのだ。

かなり細かい譜割り&耳だけだとほぼほぼ英詩に聴こえる言葉選びで、俺はほとんど歌詞が聴き取れず、そこで俺は若干の疑心暗鬼に陥った。いざ歌詞を確認して、この歌が増税タイミングにひっかけただけの、単なる話題作りだけの曲だったらどうしよう、と。

というか正直その可能性、つまりこの曲が全然ダメダメな表現に成り下がってしまっている可能性は十分にあると思っていた。個人的に新しい地図の活動には、おおすげー!と思う部分と、えっそれは…と思うところと両方あって、今回はそのダメな方が出ちゃったのかも、という疑念もあった。というのも、そもそも今回の増税に、俺はまっっっったく賛成していないからです。
 

小売店のなかにはこのタイミングで閉店を決めた店もあるというし、俺含む庶民~低所得層の生活にとって確実に痛手となる今回の増税。負担を薄めようと導入した軽減税率制度も混乱しまくりという有様。

●常連さんゴメン、もう限界…消費増税複雑で老舗続々閉店
https://www.asahi.com/articles/ASM9Y5WFYM9YUTIL014.html

せめて本当にこの国のために使ってくれればいいけど、すでに徴収されている8%の消費税も社会保障にはロクに使われず、大企業にばかり私腹を肥やさせてる現政権が、今更10%に上げたところで的確な使い方をしてくれるかは甚だ疑問。そしてそのことに意義を唱えることすらしないメディアと、それを鵜呑みにしてる世間。で、憤りながらもデモ参加かツイートくらいしか抗う術がない自分に苛立ってもいた。

10%に増えた税金は、俺(ら)の生活を間違いなく変化させた。実際、自分の財布から金がなくなって、その結果ツラいとかキツいとかっていう現実が生まれている。

今回の増税を表現のネタにしていい悪いとかいう話では全くなく、ネタにする以上こういうバックグラウンドを踏まえてそれが表現としてどう成立しているのか、というジャッジを聴き手に下されてしかるべきテーマなのだ、「増税」というのは。『10%』というタイトルで増税開始当日にドロップするのだから、なおさらでしょう。

俺は歌詞なしでこの曲を聴いだ段階では、評価を(かなり不安寄りの)保留扱いにしていた。少なくともわずかに聴き取れることばとサウンドからは、そこにどんな意図が込められているのか明確に読み取ることは出来なかったから。

さて。リリースから数日後、仕事終わりに有楽町でけっこう飲んで、酔っぱらって乗った電車の中でスマホをみたら、歌詞が公開されていた。ここからはまず↓を見て、曲を聴いて、各自が判断するしかないので、そこは各自にまかせる。まずは歌詞読んで、で、音を聴いてみてくれ。

https://utaten.com/lyric/%E9%A6%99%E5%8F%96%E6%85%8E%E5%90%BE/10%25

ここまで明確に反抗のメッセージを込めているとは思わなかった。
何に? 今回の増税に対して、だ。

正直まだよくわからんダブルミーニングっぽい部分もあるけど、だいたいにおいて当初聴き逃していた歌詞の殆どが、今回の増税を揶揄し、皮肉り、DISっている。まあそう聴こえてない人が大半ぽいので、俺のバイアスがかかってるのかもしれんけど、でもトータルで見たら明らかに「賛」ではなく「否」だと思う。

そもそも歌詞が意図的に聴き取れない(=聴き取らせない)仕様になってるから、わかりやすいプロテストソングとしては機能しないだろう。現に、増税タイミングに有名タレントが政権をアシストする楽曲を出したと批判する声も目にした(というか俺自身半分そうなんじゃないかと思ってた)し。

けど、少なくとも俺は、この時代を生きる表現者・香取慎吾が提示した『10%』という楽曲は決して見誤っていないと思うし、彼が安易なポジショニングでこの表現をしたとも思わない。むしろこの曲をいつから準備していたのかを逆算すると、彼の中にある問題意識は実は結構深いものなのではないか。

中でもいちばんキツいのは、<10% YOU DON'T KNOW 愚鈍脳 NOW>。

ここで歌われる“愚鈍脳”とは、この狂った増税を指揮した現政権のことでもあるし、そしてその判断を結果的についに受け入れてしまった(俺&歌い手自身を含む)国民のことに聞こえる。

“お前はまだ知らないふりをしている。これまでも、いまも、そしてこれからも。だろ?”

そんなメッセージを快楽に満ちたダンスビートに乗せて歌う香取慎吾。それを聴いてガッシガシに踊る俺。この曲で踊るとき、俺は引き裂かれる。彼の表現の鋭さに心底興奮しつつ、彼がこんな曲をドロップせざるをえない現実に吐き気がする。香取慎吾といえば「パーフェクト・ビジネス・アイドル」を自称するほど、プロとしてエンタテインメントを提供することにプライドと人並み外れた意地を持っている人間である。そんな彼のソロシングルでこんな生々しいアンビバレンツを味わうなんて、想像もしなかった。

 

「地獄をすこしでもマシな世界に変えようとしたら、いまここが地獄であることを自覚することからしかはじめられないのだ」

 

彼はそういうようなことを、極めて楽しく、気持ちよく、音楽を通してやってのけようとしているのかもしれない。いや別にそうじゃないかもしれない。でも『10%』を聴いて、俺はなんかそういうことを思ったよ。今年も、来年も、このビートで踊りまくってやるぜ。クソ!!

 

そんな『10%』が入ったアルバム『20200101』は、2020年元旦リリース(流れるような宣伝)。俺は昨日手に入れましたが、聴くのは元旦までのお楽しみに取っておくことにします。もちろん購入したのは『10%』の小西康陽REMIXが入ったGOLD盤。期待してるぞー!!

***

最後に余談。香取がかつて所属したSMAPというアイドルグループ。俺は彼らの最後のツアーを観て、こう綴ったことがある。

<要は「俺ら、いま、キツくね?」っていう現状認識なんだと思う、いまのSMAPは>

・SMAPの『Mr.S』ツアーは、なんでこんなに最高だったのかしら
https://ameblo.jp/oddcourage/entry-11980389543.html

そして↑のツアー最終日、アンコールで最後に歌われたのは、『ユーモアしちゃうよ』という曲だった。

<底抜けに明るいこの曲を聴くたびに俺は、

「で、きみはどうする?」

と、そう言われてる気がする。>

・<雨上がり、アスファルトの匂い>――『ユーモアしちゃうよ』を500回聴いて考えた
https://ameblo.jp/oddcourage/entry-12067625072.html

SMAPは(すべてがそうだったとは言わないけど)非常にシビアな現状認識をもったうえでメッセージを発し続けた表現者だったと俺は思っている。

『10%』を期にこういう視点でSMAPの楽曲たちを改めて辿ってみると、また違った聴き方ができるかもしれませんよ。その際は『007』(1995年作)と『Mr.S』(2013年作)の2枚のアルバムから聴いてみるのをおすすめします。激名盤なので!!

 

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