香取慎吾の「声」にもう一度出会った――明治座ライブを観て
香取慎吾のソロライブ『さくら咲く 歴史ある明治座で 20200101 にわにわわいわい 香取慎吾四月特別公演』を振り返って、良かったなと思うところはいくつもある。
例えばそれは、ほぼ巨大モニターのVJのみという激ミニマルなセットを最大限に活かした舞台演出の見事さだったり、ステージ上と客席で声の掛け合いができないコロナ禍の現状をユーモアに反転させるスマートフォンを用いたサイレントMCの鋭さだったり。
あるいは、アルバム『20200101』のバラエティ豊かな楽曲とそれ以外のナンバーを見事に織り交ぜトータル90分とは思えない充実感をもたらす構成の妙だったり、変幻自在に表情を変えついには自ら「Today, Who am i ?」とまで言ってのけながらもザ・香取慎吾としか言えない唯一無二の世界観を作り上げる彼のp.b.i――パーフェクト・ビジネス・アイドルっぷりだったり。
つまり、公演を観たあとの俺には「香取慎吾にしか作れない、完成された質の高いエンタテインメントを観た」という強烈な満足感があった。
それ以上に今回個人的に響いたものがある。当たり前すぎて今さら何だそれと言われそうだ。でも本当なのだから仕方ない。
それは香取慎吾の「歌」だ。もっと言えば「声」だ。
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『10%』みたいな曲をちゃんと踊って歌えていることとか、アルバム『20200101』のレパートリーに加え過去出演ミュージカルのナンバーから生バンドを従えてのカバー曲やさらに自身のCMソングまで多彩な振れ幅のセットリストを見事に歌いこなすこととか、パフォーマーとしてのスキルがここにきて伸びをみせていることとか――まあこんな言い方もあれなんだけど「こんなに歌える人だったのか」みたいな感慨もあるにはある。でも俺が受けた衝撃は、単純に歌唱スキルが飛躍的に伸びててすごーい、みたいなことではなかった。
今回のライブでは『ビジネスはパーフェクト』から『OKAY』への流れが特に素晴らしかった。表現者としてのプライド、ユーモア、喜び、自嘲、悲しみ、孤独、そして愛。そういうものたちを正反対のアプローチながらポップミュージックとして見事に落とし込んだアルバム中でも出色の2曲を立て続けに披露するパートは、普段は見せない香取慎吾という人間の根っこの部分が開陳されたような感動があった。
で、もし今回のライブが、昨年開催が予定されながら結局中止となってしまったさいたまスーパーアリーナ公演、つまり<アルバム『20200101』の参加ゲストを一堂に集めての一夜限りのライブ>と同じ形式で行われていたら、ライブの印象はまったく違ったものになったはずだ。
あの2曲の流れを実際にスチャダラパーとSALUを呼び寄せてパフォーマンスしていたら、それはそれで素晴らしいステージになっただろうことは想像できる(し、実際登場したステージもさぞ最高だったろう。ゲスト出演音源まとめて、開演前に流していたアルバムのインスト集と2枚組でリリースしてくれえ>香取ちゃん)。
けれど今回そうではなく、ダンサーやバンドメンバーといった仲間の存在はありつつも本質的な意味ではたったひとりでステージに立っていたからこそ、香取慎吾という「個」の純度のようなものは否応なしに高まったし、ひとりで立つステージだったからこそあの流れはあそこまで感動的なものになったのではないか。
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そのうえでいまになって思うのは、その素晴らしさの根幹にはやはり彼の歌があったのだ、ということだ。
このライブでの香取の歌は、ほとんどアレンジを加えず音源のニュアンスに極めて忠実で、ブレず、実直で、どんなに尖った曲を歌ってもなんというか芯の通った生真面目さがあった。で、それがすごくよかった。
それはもしかしたら楽曲参加アーティストへの敬意の表れだったのかもしれない。思い返せば、俺は『20200101』というアルバムを世代もジャンルも様々なアーティストとともに紡いだ「音」を聴く作品として捉えていたけど、それも違ったのかもな、とすら思う。あれは多彩な振れ幅を持つ音の上で清々しく伸びる香取慎吾の「歌」こそを聴く作品だったのではないか。配信を観たあとで『20200101』の楽曲を聴くと、これまでとは全然違って聴こえる。俺ってこれまで彼の歌を全然ちゃんと聴けてなかったんだ、と呆然とする。
ここにきてボーカリストとしての本当の資質が、やっと顕になりつつあるのかもしれない。彼には音楽を、歌うことを、これからも続けてほしいと願う。いまよりもっと面白く、さらに魅力的な歌い手になる可能性がめちゃめちゃあるから。そう確信できる輝きが、今回のライブの彼の歌には確かにあった。
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さて。今回のライブでの彼の「歌」について、ここまで書いたような感慨を抱いたことは、嘘偽りない事実である。
が、実は今回、歌以上に、もはや歌ですらない彼の「声」そのものに、とんでもなく感動してしまった瞬間があった。
正直に言うとそのことについて書くかどうか、ちょっと迷った。なぜならそれは、理論的な裏付けも批評的な視点もまるでなく、どこまでも個人的で、なんかこういう場に書くのもちょっと憚られるような、なんとも言えない体験だったからだ。
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劇場で2回、配信で1回観た中で、すべての回で俺はまったく同じところで落涙した。
それはライブのエンディングだ。小西康陽リミックスの『10%』が流れ桜吹雪が舞い散る中、ダンサーやバンドメンバーがステージ奥の奈落へと次々と飛び込み、舞台を去っていく。
最後まで客席に(配信ではカメラに)向かって手を振り続ける彼も、ついに飛び込もうとする。その寸前、彼はこちらを振り向き、あのいつもの笑顔で、この日一際大きな声である言葉を叫んで、ステージを去った。
ああ、このひとは、こんなこえで、こんなふうに、あいのことばをさけぶひとなんだ。
それは、これまで何度も何度も何度も何度も聴いてきた、いわば彼のキャッチフレーズである、馴染みの言葉だった。でも今回のそれは、まるでいまはじめて聴いた言葉のように、俺の心の深いところに刺さった。
それどころか、ここまで90分間存分に、もっと言えばこれまで何年にも渡って、彼の歌を、彼の声を聴き続けてきたはずなのに、そのときはじめて彼の声を聴いたような気持ちにすらなった。
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これ、実際にあのライブを観た人なら、「え、なんか色々大げさに言ってるけど最後のあの台詞にズッキュンやられちゃってるだけじゃん!」と笑うかもしれない。まあそうですそのとおりです。や、俺だってびっくりした。えー俺こんな歳にもなってまだ、あんな台詞ひとつでドキドキしちゃうんだって。最初劇場で1回目を観たときはまだそれくらいに思ってたから、泣きながらも少しの自嘲込みで笑ったりしてたもん。
でも2回目でも同じように泣いて、最後に配信を観てるときは途中からもう泣けて泣けてしょうがなくなって、最後の最後に彼のあの叫びを聴いてまた泣いて、そこでようやく、あ、俺は彼の声をこんなに求めていたんだ、ということに気がついた。
あれはなんかもはや、天啓に近い感じだった。
もう四半世紀くらい音楽聴き続けてるけど、人の声ってすげえパワーがあるんだな、ってバカみたいに驚いた。
本当にすごい体験だった。
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バンドでも漫画家でも俳優でもアイドルでもいい。ある表現者のことを好きになって、いつの間にかその人の活動を追い続けるようになる。誰かのファンになるというのはそういうことで、俺もそういう人生を送ってきた。
俺のファン人生においていちばんの幸せといったら、「いまこの瞬間が、これまででいちばんいい」と心の底から実感できる瞬間だ。ああ、いま目の前のこの人が、いちばん好きだ。心からそう思えることは、長い人生の中でもなかなかあるものではない。
4月の頭に観に行ったDC/PRGの解散ツアー。ステージで菊地成孔は「最後の俺たちが最新で最強だ」と宣言し、実際にその通りの最高すぎる演奏を繰り広げキャリアにおける沸点を更新したままバンドの歴史にピリオドを打った。めちゃくちゃ幸福なライブだったしその美学を理解し受け入れもしたけど、いままさに目の前で最高としか言えないライブをしているこのバンドをこの先もう二度と観られなくなるという事実は、やっぱりどうしようもなく寂しかった。
今回の明治座ライブは、少なくともこれまで俺が観てきた香取慎吾のあらゆる表現の中で、もっとも素晴らしいものだった。エンタテインメントを偏愛する人生の中で心からそう思える表現に立ち会える瞬間ほど、嬉しいことはない。
なにより幸福なのは、香取慎吾のエンタテインメントはこれで終わるわけではない。きっと、いや必ず、この先も続いていくのだ。
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あの日、誰もいなくなったステージを眺めて、涙を流しながら、俺は思った。
すごいスピードですっかり変わっていくこの世界で、しぶとく生きていく勇気を、俺はまだ持ててないから。
俺はまだ全然大丈夫じゃないから。
だから、いま出会ったばかりのあの声を、お守りにして生きよう。
あの声をまた聴くために、俺は生きよう。
彼の声を聴いて、俺はそう思ったのだった。
ありがとう。2021年の春、あなたの声に、俺はたしかに救われました。