俺の不安な気持ち
(仕事たりーなんか疲れてきたわ…)
(気分転換に、ちとネットサーフィン(死語)でも)
(初恋のあいつの名前で検索なんてしてみちゃったりなんかして)
(そういやこの前部屋整理して出てきた、彼に告白したときの日記というか手紙は焦ったわー)
(告白した日のその日1日を写真と文章で記録してるという、もう正視できないやつ)
(というかよく写真まで撮ってたよなあ、ある意味すごい記録だわ←若干ストーカー疑惑)
(まあもちろんふられたというか、そもそもどうにかしようとして告白したわけじゃないけど)
(それでも俺にとっては大事な思い出だよ…←遠い目)
(気持ち悪いとか言わずに、ちゃんと話聞いてくれたもんな)
(結局直接会ったのあれが最後で、まああのときもそうなる気はしたけど、まあそれは別にいいんだけど)
(まーいいや、とりあえず検索検索ぅ)
(あーはいはい、あーやっぱ出るよねこのフェイスブックページ←前科あり疑惑)
(やっぱ全然更新してねーのかなー前と変わらず←ストーカー疑惑確定)
(あ、やっぱり全然更新されてないわ。最後の更新4年前とか。そりゃそーかーあいつの性格ならなー)
(ん?)
(所在地表記がいつのまにか、九州のほうになってる)
(あれ、引っ越したの、北の方じゃなかったっけ)
(えー、まじで、ああ、ええ)
喜びも、悲しみも、不安も、切なさも、感情というのは、誰が代弁できるものでも、誰と共有できるものでもなく、どこまでいってもごくごく個人的なものである。
――という当たり前のことを、気まぐれに仕事をサボったおかげで、ふいに実感させられてしまった。
俺はいま、ずっとずっと前に知っていたひとのことを、いきなり心配している。
かつてそのひとのことを勝手に好きになったように、いまもひとりで勝手に思って、不安な気持ちになっている。

(気分転換に、ちとネットサーフィン(死語)でも)
(初恋のあいつの名前で検索なんてしてみちゃったりなんかして)
(そういやこの前部屋整理して出てきた、彼に告白したときの日記というか手紙は焦ったわー)
(告白した日のその日1日を写真と文章で記録してるという、もう正視できないやつ)
(というかよく写真まで撮ってたよなあ、ある意味すごい記録だわ←若干ストーカー疑惑)
(まあもちろんふられたというか、そもそもどうにかしようとして告白したわけじゃないけど)
(それでも俺にとっては大事な思い出だよ…←遠い目)
(気持ち悪いとか言わずに、ちゃんと話聞いてくれたもんな)
(結局直接会ったのあれが最後で、まああのときもそうなる気はしたけど、まあそれは別にいいんだけど)
(まーいいや、とりあえず検索検索ぅ)
(あーはいはい、あーやっぱ出るよねこのフェイスブックページ←前科あり疑惑)
(やっぱ全然更新してねーのかなー前と変わらず←ストーカー疑惑確定)
(あ、やっぱり全然更新されてないわ。最後の更新4年前とか。そりゃそーかーあいつの性格ならなー)
(ん?)
(所在地表記がいつのまにか、九州のほうになってる)
(あれ、引っ越したの、北の方じゃなかったっけ)
(えー、まじで、ああ、ええ)
喜びも、悲しみも、不安も、切なさも、感情というのは、誰が代弁できるものでも、誰と共有できるものでもなく、どこまでいってもごくごく個人的なものである。
――という当たり前のことを、気まぐれに仕事をサボったおかげで、ふいに実感させられてしまった。
俺はいま、ずっとずっと前に知っていたひとのことを、いきなり心配している。
かつてそのひとのことを勝手に好きになったように、いまもひとりで勝手に思って、不安な気持ちになっている。

いまこそ「たぶんオーライ」を聴こう――無責任で無根拠、だからこそ響くSMAPの“呪文”
おう‐えん〔‐ヱン〕【応援】
1 力を貸して助けること。また、その助け。「選挙運動の―に駆けつける」「―演説」
2 競技・試合などで、声援や拍手を送って選手やチームを励ますこと。
出典:http://dictionary.goo.ne.jp/jn/27436/meaning/m0u/
「応援する」という行為、というか気持ちが、実のところ俺にはよくわからない。むしろ、そういうものを疑っているふしすらある。
表舞台に立つひとたちは、よく「いつもみなさんの応援に感謝しています」と言う。俺もライブに行くと、精一杯の声援をおくることはある。でも俺にとってそれは、別に誰かを応援しているという感覚ではない。
自分の声が誰かの助けになるなんて、勝手に思い込むにしてもどんだけおこがましいことかと思ってしまうし、これまで誰かの応援が自分の力になったという実感も、(応援してくれたひとには本当に申し訳ないけど)実は乏しい。
いや、別に応援という行為自体に罪はない。ただ、応援という行為を必要以上にありがたがることに違和感を感じるのかもしれない。
それは俺がひねくれまくっている性格であることは前提として、応援すること・されることに酔いしれるひとたちの姿に引いてしまうのだ。自分は誰からも責められない、とってもいいことをしている――そんな気分に浸るときほど、客観性を失う瞬間はないだろう。
俺がいくら応援したところで、誰かの人生を支えることなどできないし、仮に誰かが救われることになったとして、それは俺の応援によるものなどではない。
*
応援をテーマにしたSMAP楽曲と言えば、『がんばりましょう』『世界に一つだけの花』『この瞬間、きっと夢じゃない』などが筆頭にあがるだろうか。『がんばりましょう』は応援歌にしてはかなり複雑かつメタな構造を持った楽曲だが(過去記事 SMAPはなぜ「いつの日にか また幸せになりましょう」と歌うのか――『がんばりましょう』を聴いて )、特に『世界~』以降のキャリア後期は、いわゆる“応援ソング”的フォーマットのもった楽曲も目立つようになってきた。
その『がんばりましょう』の次のシングルとしてリリースされたのが、『たぶんオーライ』という曲だ。が、この曲を応援ソングと認識しているひとは、『がんばりましょう』のそれに比べれば、そう多くはないのではないか。
『たぶんオーライ』がリリースされたのは、94年12月。その翌年、日本は阪神・淡路大震災に地下鉄サリン事件と、様々な方面から強烈なダメージを負うことになる。その震災発生直後に出演した『ミュージックステーション』でSMAPは、リリース直後の『たぶんオーライ』を歌う予定だったのを急きょ差し替え、『がんばりましょう』をパフォーマンスしている。
『たぶんオーライ』を応援ソングと呼ぶのに若干気が引ける理由は、オーライ=all rightの前に置かれた「たぶん」というエクスキューズによるものだろう。多分大丈夫だよ――誰かを応援するのには、どうも弱気な印象を受けてしまう。特に大きな悲しみが訪れた直後には、『がんばりましょう』のようなストレートなメッセージのほうが響くのは当然だろう(繰り返すが、『がんばりましょう』も別に安直な応援ソングではまったくないのだが)
たぶんオーライ。なんて無責任な言葉だろう。それ、なにを根拠に言ってるの? 確かに大きな悲しみが訪れた直後に、その当事者の目の前で歌える曲ではないかもしれない。
しかし、このなんの根拠も、なんの責任も背負わないこのワンフレーズが必要になるときも確かにあって、それがいまなんだと、俺は思う。
*
今回のよくわからない(本当に、本当によくわからない)「騒動」について、5人の口から公式に語られたのは、あの『SMAP×SMAP』生放送しかない。あの放送で5人が話した内容は、やっぱりよくわからないものだった。あの放送を見て俺は、空中にポーンと放り投げられたような気分になった。
彼らがああいうことになってから、多くのファンの方々は、なんとかして、どうにかして彼らを応援したいという思いを色々な行動に移していて、それは前述したような自尊心を満たすためだけの行為とはまったく異なる美しい行為で、それは本当にすごいことだと思う。
で、俺は今回の件で、これまでとは違う意味で「応援」という行為の前に立ち尽くして、動けなくなっていた。応援するって、なんなんだろう。誰かのためを思って応援するということが、果たして俺にできるんだろうか。というかそもそも、今回、彼らのなにをどう応援すればいいのだ? なにが起きて、誰がどうなったのかも、(週刊誌やテレビ等の伝聞を除けば)なにもはっきりしていないというのに。
*
『たぶんオーライ』のなかで彼らは、目の前の現実を肯定も否定もしない。忙しすぎて彼女とケンカしてしまう日々も、将来への漠然とした不安を感じることも、自分の前に、そして自分の中に当たり前に存在するものとして、とりあえず向き合っている。
この「とりあえず」というのが重要で、別に真摯でも真剣でもないんだけど、とりあえず、向き合うことからは逃げないでいる。そのうえで、目の前のどうしようもない現実を踏まえたうえで、「とりあえず、たぶんオーライ」と言ってのけるのだ。
割にあわないことは眠って忘れよう。
不安になったときは、お腹を満たそう。
どうにかなると信じて、その日をこなそう。
たぶん、オーライ。
これらは誰に言われるまでもなく、わたしたちが無意識のうちに繰り返している、日々をなんとかやり過ごすためのおまじないのようなものだ。言葉にすると、なんて間抜けで、なんて乱暴で、なんて無責任な呪文だろう。
でも、そんなダメダメな呪文こそが、前へと進む一歩を踏み出させるパワーになる。ミもフタもないからこそ、確かに次の一歩へと誘うひと押しになり得る。
「頑張れ」「君ならできる」「努力は無駄にならない」「夢は叶う」「光へ向かって」――どんな応援の台詞もたどり着くことができないものが、この曲にはある。
一時の励ましではなく、これから先ずっと歩き続けるためのガソリンになるような、小さいけど消えることのない灯火のようなことばたち。その鈍くしたたかな輝きは、いまも失われていないどころか、この荒野のような時代のなかでより際立っているように思う。それはこの曲が優れたポップ・ミュージックであり続けていることの確固たる証拠だ。
*
よくわからない、いろいろなことがあって、それも徐々に忘れられようとしていて、でもなにも納得できることはなくて。
でもそこで、ありもしない伝聞や知りもしない憶測に絡め取られるのではなく、とりあえず、そんな現実と向きあう。そうすることでしか、前に進むことはできない。
そういう当たり前を思い出させてくれたのは、いろんな考えのなかで身動きがとれずに悶々としていた自分の心をほぐしてくれたのは、やっぱり彼らのうただった。
*
いろいろ考えたけど、誰かを応援したりするの、俺はやっぱり苦手だ。俺がいくら応援したところで、誰かの人生を支えることなどできないし、仮に誰かが救われることになったとして、それは俺の応援によるものなどではない。
俺はこれまで通り、彼らの表現に対して、うわー好きだーとか、うわーすげーとか、うーんこれはイマイチとか、そんなふうに向き合っていたい。
それが、俺がSMAPから(勝手に)受け取ったやり方だから。
無責任で、自分勝手で、間違ったやり方かもしれないけど、それがきっと、「たぶんオーライ」と言える未来につながる気がするから。
曲の最後の最後の最後に、たった一度だけ歌われる「大丈夫」のひと言。
これを聴いて、俺は明日も、なんの根拠もなしに、ジタバタしながら、前を向く。きっと彼らもそうやって日々を過ごしているのだと、これまたなんの根拠もなしにそう信じながら。
1 力を貸して助けること。また、その助け。「選挙運動の―に駆けつける」「―演説」
2 競技・試合などで、声援や拍手を送って選手やチームを励ますこと。
出典:http://dictionary.goo.ne.jp/jn/27436/meaning/m0u/
「応援する」という行為、というか気持ちが、実のところ俺にはよくわからない。むしろ、そういうものを疑っているふしすらある。
表舞台に立つひとたちは、よく「いつもみなさんの応援に感謝しています」と言う。俺もライブに行くと、精一杯の声援をおくることはある。でも俺にとってそれは、別に誰かを応援しているという感覚ではない。
自分の声が誰かの助けになるなんて、勝手に思い込むにしてもどんだけおこがましいことかと思ってしまうし、これまで誰かの応援が自分の力になったという実感も、(応援してくれたひとには本当に申し訳ないけど)実は乏しい。
いや、別に応援という行為自体に罪はない。ただ、応援という行為を必要以上にありがたがることに違和感を感じるのかもしれない。
それは俺がひねくれまくっている性格であることは前提として、応援すること・されることに酔いしれるひとたちの姿に引いてしまうのだ。自分は誰からも責められない、とってもいいことをしている――そんな気分に浸るときほど、客観性を失う瞬間はないだろう。
俺がいくら応援したところで、誰かの人生を支えることなどできないし、仮に誰かが救われることになったとして、それは俺の応援によるものなどではない。
*
応援をテーマにしたSMAP楽曲と言えば、『がんばりましょう』『世界に一つだけの花』『この瞬間、きっと夢じゃない』などが筆頭にあがるだろうか。『がんばりましょう』は応援歌にしてはかなり複雑かつメタな構造を持った楽曲だが(過去記事 SMAPはなぜ「いつの日にか また幸せになりましょう」と歌うのか――『がんばりましょう』を聴いて )、特に『世界~』以降のキャリア後期は、いわゆる“応援ソング”的フォーマットのもった楽曲も目立つようになってきた。
その『がんばりましょう』の次のシングルとしてリリースされたのが、『たぶんオーライ』という曲だ。が、この曲を応援ソングと認識しているひとは、『がんばりましょう』のそれに比べれば、そう多くはないのではないか。
『たぶんオーライ』がリリースされたのは、94年12月。その翌年、日本は阪神・淡路大震災に地下鉄サリン事件と、様々な方面から強烈なダメージを負うことになる。その震災発生直後に出演した『ミュージックステーション』でSMAPは、リリース直後の『たぶんオーライ』を歌う予定だったのを急きょ差し替え、『がんばりましょう』をパフォーマンスしている。
『たぶんオーライ』を応援ソングと呼ぶのに若干気が引ける理由は、オーライ=all rightの前に置かれた「たぶん」というエクスキューズによるものだろう。多分大丈夫だよ――誰かを応援するのには、どうも弱気な印象を受けてしまう。特に大きな悲しみが訪れた直後には、『がんばりましょう』のようなストレートなメッセージのほうが響くのは当然だろう(繰り返すが、『がんばりましょう』も別に安直な応援ソングではまったくないのだが)
たぶんオーライ。なんて無責任な言葉だろう。それ、なにを根拠に言ってるの? 確かに大きな悲しみが訪れた直後に、その当事者の目の前で歌える曲ではないかもしれない。
しかし、このなんの根拠も、なんの責任も背負わないこのワンフレーズが必要になるときも確かにあって、それがいまなんだと、俺は思う。
*
今回のよくわからない(本当に、本当によくわからない)「騒動」について、5人の口から公式に語られたのは、あの『SMAP×SMAP』生放送しかない。あの放送で5人が話した内容は、やっぱりよくわからないものだった。あの放送を見て俺は、空中にポーンと放り投げられたような気分になった。
彼らがああいうことになってから、多くのファンの方々は、なんとかして、どうにかして彼らを応援したいという思いを色々な行動に移していて、それは前述したような自尊心を満たすためだけの行為とはまったく異なる美しい行為で、それは本当にすごいことだと思う。
で、俺は今回の件で、これまでとは違う意味で「応援」という行為の前に立ち尽くして、動けなくなっていた。応援するって、なんなんだろう。誰かのためを思って応援するということが、果たして俺にできるんだろうか。というかそもそも、今回、彼らのなにをどう応援すればいいのだ? なにが起きて、誰がどうなったのかも、(週刊誌やテレビ等の伝聞を除けば)なにもはっきりしていないというのに。
*
『たぶんオーライ』のなかで彼らは、目の前の現実を肯定も否定もしない。忙しすぎて彼女とケンカしてしまう日々も、将来への漠然とした不安を感じることも、自分の前に、そして自分の中に当たり前に存在するものとして、とりあえず向き合っている。
この「とりあえず」というのが重要で、別に真摯でも真剣でもないんだけど、とりあえず、向き合うことからは逃げないでいる。そのうえで、目の前のどうしようもない現実を踏まえたうえで、「とりあえず、たぶんオーライ」と言ってのけるのだ。
割にあわないことは眠って忘れよう。
不安になったときは、お腹を満たそう。
どうにかなると信じて、その日をこなそう。
たぶん、オーライ。
これらは誰に言われるまでもなく、わたしたちが無意識のうちに繰り返している、日々をなんとかやり過ごすためのおまじないのようなものだ。言葉にすると、なんて間抜けで、なんて乱暴で、なんて無責任な呪文だろう。
でも、そんなダメダメな呪文こそが、前へと進む一歩を踏み出させるパワーになる。ミもフタもないからこそ、確かに次の一歩へと誘うひと押しになり得る。
「頑張れ」「君ならできる」「努力は無駄にならない」「夢は叶う」「光へ向かって」――どんな応援の台詞もたどり着くことができないものが、この曲にはある。
一時の励ましではなく、これから先ずっと歩き続けるためのガソリンになるような、小さいけど消えることのない灯火のようなことばたち。その鈍くしたたかな輝きは、いまも失われていないどころか、この荒野のような時代のなかでより際立っているように思う。それはこの曲が優れたポップ・ミュージックであり続けていることの確固たる証拠だ。
*
よくわからない、いろいろなことがあって、それも徐々に忘れられようとしていて、でもなにも納得できることはなくて。
でもそこで、ありもしない伝聞や知りもしない憶測に絡め取られるのではなく、とりあえず、そんな現実と向きあう。そうすることでしか、前に進むことはできない。
そういう当たり前を思い出させてくれたのは、いろんな考えのなかで身動きがとれずに悶々としていた自分の心をほぐしてくれたのは、やっぱり彼らのうただった。
*
いろいろ考えたけど、誰かを応援したりするの、俺はやっぱり苦手だ。俺がいくら応援したところで、誰かの人生を支えることなどできないし、仮に誰かが救われることになったとして、それは俺の応援によるものなどではない。
俺はこれまで通り、彼らの表現に対して、うわー好きだーとか、うわーすげーとか、うーんこれはイマイチとか、そんなふうに向き合っていたい。
それが、俺がSMAPから(勝手に)受け取ったやり方だから。
無責任で、自分勝手で、間違ったやり方かもしれないけど、それがきっと、「たぶんオーライ」と言える未来につながる気がするから。
曲の最後の最後の最後に、たった一度だけ歌われる「大丈夫」のひと言。
これを聴いて、俺は明日も、なんの根拠もなしに、ジタバタしながら、前を向く。きっと彼らもそうやって日々を過ごしているのだと、これまたなんの根拠もなしにそう信じながら。
髪を切った
髪を切りにいくのが苦手だ。
髪を切ってもらうこと自体は好きだと思う。
髪を洗ってもらうのも好きだし、
切ってさっぱりするのも好きだし。
苦手なのは、美容室という空間と、そこで発生する空気やコミュニケーション。
おしゃれに縁のない人生を送ってきた俺にとって、どうも相性が悪い場所なのだ。
俺みたいな人間にオシャレとかカッコヨサとか、似合わねーし。
あと、個人的にはあくまで髪だけ切ってもらえればいいのに、どうしても「人」に寄った付き合いになるのも苦手なところ。
まあその人の技術にお金を出すわけなので、しょうがない部分もあるとは思うけど、できればひと言も交わさずに切ってもらえるほうがありがたい。
それでもなんとなく付き合いやすかった、ふた駅先にある美容室の美容師さんが他店に移動になってから、それまでも少なかった美容室通いがさらに遠のいてしまった。
前回切ったのが、もう10ヵ月近く前になる。
このボッサボサ頭で外回りに行ってもなにも言われないっていうのも、特殊な職場というか職種だと思うけど、いいかげん鬱陶しくなってきた。
でも金もないし、新しい美容室を探すのも億劫だし。うーん。
そんな消極的すぎる理由から、数年前に一度だけ行ったことがある、1000円ちょっとでカットだけしてもらえる簡易的な理髪店に行くことにした。
最近はこういう店でもある程度ちゃんと切ってもらえるのだ。むしろ俺にはこういう店のほうが性に合ってるのかもしれない。
店に入り、券売機で1100円のカットの券を買って、ベンチで順番が来るのを待つ。
奥から女性の店員が顔を出し、俺を呼んだ。
マスクをつけているので顔は半分しかわからないけど、そんなに若くはないだろう。
「上着はそちらへかけてください」
「あ、わかりました」
これだけのやり取りに緊張してしまう。
あー、やっぱ俺、髪切るの、苦手だ。
「どうしましょうか?」
そう聞かれた俺は、事前に考えてきたポイントを伝えた。
長さは5cmくらい切ってください、あとはできるだけ量を減らしたいので、多めにすいていただけると。
1100円で切ってもらうのだ、これだけやってもらえれば十分だろう。
彼女はうなずきつつ、さらに尋ねてきた。
「耳はどうしますか?」
「え?」
「5cmくらい切ると耳が少し出ますが、それで大丈夫ですか?」
耳のことなんて考えてなかった。
「あ、えー、そのままで大丈夫です」
緊張して、うまく返事ができない。
聞きたかった答えが得られなかったような戸惑いをみせながら、彼女はさらに続ける。
「前髪は、眉の上くらいで大丈夫ですか?」
「え? あ、や、いまの感じをそのまま切ってもらえれば大丈夫です」
なんなんだ。俺は5cm切ってくださいと言ったじゃないか。
それだけ切ってくれれば、それでいいのに。
めんどくさい。
うーん、と首を傾げながら、彼女は俺に言った。
「髪を切って、どういう風になりたいんですか?」
ドウイウフウニナリタインデスカ?
ドウイウフウニナリタインデスカ?
ドウイウフウニナリタインデスカ?
「……あ、えーと、なんかこの髪の感じでそのまま短くしてもらえれば」
彼女は笑って「わかりました、量はさっぱりした感じでいいんですよね」と言って、髪を切りはじめた。
髪を切りはじめたら、自分は必ず目を閉じる。髪の毛が目に入ってしまうし、切られる過程を見る必要がないからだ。
あとは切る人に任せるだけだし、仕上がりのイメージなんて元々ない。
俺は、髪を切ることで「自分がどうなりたいか」「自分をどうしたいか」というイメージなんて、持ったことがなかった。髪を切るとき、こうありたいという自分の姿を思い描く、ということを、俺は、してこなかった。
俺が美容室が苦手なほんとうの理由は、オシャレな店員にビビるからでも、コミュニケーションがめんどくさいからでもなくて、
「俺はこういう自分になりたいんです」
と、自己申告しなければいけないからだ。
俺にとって、そんな恥ずかしいことはない。なんでそんなことを、赤の他人に知られなきゃいけないんだ。そんな願望を知られるくらいなら、美容室なんて行かなくていい。安いだけの店で、切る長さだけ伝えて、無言で切ってもらえればそれでいい。
金もないし、カッコつけるなんてカッコわりーし、俺なんて1100円の床屋でいいや。
俺なんて。
俺なんて。
こんなクソみたいなコンプレックスを30過ぎて抱えてるってこと自体は、別に俺がキモくてめんどくさい奴ってだけで、そんなん言うなら自分のバリカンで坊主にしとけアホ、それで済む話だ。
だけど、そういう考え方が、誰かに対してこんなに失礼なものだったとは。
つぶっている目の奥が、ジンジンしてくる。
彼女は自分の仕事をまっとうしている。
客がどんな髪型になりたいのか、どんな自分になりたいと思っているのか、
そのために自分ができることはなんなのか。
こんなよくわからない客にもちゃんと向き合って、髪を切っている。
俺はどうだろう。
前に人から言われたことがある。
「君って、なにも自分で決めてこなかったでしょ、流されてここまできたでしょ」
自分のこともろくに決められないまま、ここまで来てしまった。
そんな逃げようのない現実をつきつけられた気分になった。
目を開けられない。鏡に写る自分の姿も、彼女の姿も、見られない。
「リンスって使われてます?」
急に彼女が声をかけてきた。
「いえ、使ってないです」
「全然普通のどんなものでもいいんですけど、最初はちょっと気持ち悪いかもしれないですけど、髪の毛がけっこう固くて、量も多いし、くせもあるので、週に1回とかでも使ってみると、しっとりしていいかもしれませんよ」
「ああ、そうなんですか、ありがとうございます」
「もみあげはどうされます? いまは髭とつながってる感じですけど」
「じゃあそこも整えていただけますか」
「わかりました、じゃあきれいにしますね」
俺はまた目をつぶる。
いつの間にか、彼女と自然に話せるようになっていた。
「ずいぶん切ってなかったんですか?」
「ああ…そうですね、ずいぶん」
「お仕事が忙しかったとか?」
「や、もうただめんどくさいっていうか…」
「ああ、そうですよね、一度行かなくなると、そういうの、ありますよね」
「お時間かかってすみません、いかがですか?」
もみあげを整えてもらい、めがねをかけて、鏡を見る。
髪が短くなって、さっぱりした自分がいる。
なんの意思も願望もなく、流されるままにこうなった、自分。
俺、どんな自分になりたかったのかなあ。
これまで考えたことがないものを、いますぐわかるわけがない。
でも、いま鏡に写る自分は、よくわかんないけど、なんかいい感じだ。
ありがたい。ありがたいなあ。
じゃあ次は夏になる前に、また来てくださいね。
彼女はそう笑って、ポイントカードを渡してくれた。
次またあの店に行くことがあったら、もう少しマシな自分になっていたい。
いたい、じゃねーな。マシになっていよう、必ず。うし。
久しぶりに、また髪を切りに行きたくなる店ができた。
髪を切ってもらうこと自体は好きだと思う。
髪を洗ってもらうのも好きだし、
切ってさっぱりするのも好きだし。
苦手なのは、美容室という空間と、そこで発生する空気やコミュニケーション。
おしゃれに縁のない人生を送ってきた俺にとって、どうも相性が悪い場所なのだ。
俺みたいな人間にオシャレとかカッコヨサとか、似合わねーし。
あと、個人的にはあくまで髪だけ切ってもらえればいいのに、どうしても「人」に寄った付き合いになるのも苦手なところ。
まあその人の技術にお金を出すわけなので、しょうがない部分もあるとは思うけど、できればひと言も交わさずに切ってもらえるほうがありがたい。
それでもなんとなく付き合いやすかった、ふた駅先にある美容室の美容師さんが他店に移動になってから、それまでも少なかった美容室通いがさらに遠のいてしまった。
前回切ったのが、もう10ヵ月近く前になる。
このボッサボサ頭で外回りに行ってもなにも言われないっていうのも、特殊な職場というか職種だと思うけど、いいかげん鬱陶しくなってきた。
でも金もないし、新しい美容室を探すのも億劫だし。うーん。
そんな消極的すぎる理由から、数年前に一度だけ行ったことがある、1000円ちょっとでカットだけしてもらえる簡易的な理髪店に行くことにした。
最近はこういう店でもある程度ちゃんと切ってもらえるのだ。むしろ俺にはこういう店のほうが性に合ってるのかもしれない。
店に入り、券売機で1100円のカットの券を買って、ベンチで順番が来るのを待つ。
奥から女性の店員が顔を出し、俺を呼んだ。
マスクをつけているので顔は半分しかわからないけど、そんなに若くはないだろう。
「上着はそちらへかけてください」
「あ、わかりました」
これだけのやり取りに緊張してしまう。
あー、やっぱ俺、髪切るの、苦手だ。
「どうしましょうか?」
そう聞かれた俺は、事前に考えてきたポイントを伝えた。
長さは5cmくらい切ってください、あとはできるだけ量を減らしたいので、多めにすいていただけると。
1100円で切ってもらうのだ、これだけやってもらえれば十分だろう。
彼女はうなずきつつ、さらに尋ねてきた。
「耳はどうしますか?」
「え?」
「5cmくらい切ると耳が少し出ますが、それで大丈夫ですか?」
耳のことなんて考えてなかった。
「あ、えー、そのままで大丈夫です」
緊張して、うまく返事ができない。
聞きたかった答えが得られなかったような戸惑いをみせながら、彼女はさらに続ける。
「前髪は、眉の上くらいで大丈夫ですか?」
「え? あ、や、いまの感じをそのまま切ってもらえれば大丈夫です」
なんなんだ。俺は5cm切ってくださいと言ったじゃないか。
それだけ切ってくれれば、それでいいのに。
めんどくさい。
うーん、と首を傾げながら、彼女は俺に言った。
「髪を切って、どういう風になりたいんですか?」
ドウイウフウニナリタインデスカ?
ドウイウフウニナリタインデスカ?
ドウイウフウニナリタインデスカ?
「……あ、えーと、なんかこの髪の感じでそのまま短くしてもらえれば」
彼女は笑って「わかりました、量はさっぱりした感じでいいんですよね」と言って、髪を切りはじめた。
髪を切りはじめたら、自分は必ず目を閉じる。髪の毛が目に入ってしまうし、切られる過程を見る必要がないからだ。
あとは切る人に任せるだけだし、仕上がりのイメージなんて元々ない。
俺は、髪を切ることで「自分がどうなりたいか」「自分をどうしたいか」というイメージなんて、持ったことがなかった。髪を切るとき、こうありたいという自分の姿を思い描く、ということを、俺は、してこなかった。
俺が美容室が苦手なほんとうの理由は、オシャレな店員にビビるからでも、コミュニケーションがめんどくさいからでもなくて、
「俺はこういう自分になりたいんです」
と、自己申告しなければいけないからだ。
俺にとって、そんな恥ずかしいことはない。なんでそんなことを、赤の他人に知られなきゃいけないんだ。そんな願望を知られるくらいなら、美容室なんて行かなくていい。安いだけの店で、切る長さだけ伝えて、無言で切ってもらえればそれでいい。
金もないし、カッコつけるなんてカッコわりーし、俺なんて1100円の床屋でいいや。
俺なんて。
俺なんて。
こんなクソみたいなコンプレックスを30過ぎて抱えてるってこと自体は、別に俺がキモくてめんどくさい奴ってだけで、そんなん言うなら自分のバリカンで坊主にしとけアホ、それで済む話だ。
だけど、そういう考え方が、誰かに対してこんなに失礼なものだったとは。
つぶっている目の奥が、ジンジンしてくる。
彼女は自分の仕事をまっとうしている。
客がどんな髪型になりたいのか、どんな自分になりたいと思っているのか、
そのために自分ができることはなんなのか。
こんなよくわからない客にもちゃんと向き合って、髪を切っている。
俺はどうだろう。
前に人から言われたことがある。
「君って、なにも自分で決めてこなかったでしょ、流されてここまできたでしょ」
自分のこともろくに決められないまま、ここまで来てしまった。
そんな逃げようのない現実をつきつけられた気分になった。
目を開けられない。鏡に写る自分の姿も、彼女の姿も、見られない。
「リンスって使われてます?」
急に彼女が声をかけてきた。
「いえ、使ってないです」
「全然普通のどんなものでもいいんですけど、最初はちょっと気持ち悪いかもしれないですけど、髪の毛がけっこう固くて、量も多いし、くせもあるので、週に1回とかでも使ってみると、しっとりしていいかもしれませんよ」
「ああ、そうなんですか、ありがとうございます」
「もみあげはどうされます? いまは髭とつながってる感じですけど」
「じゃあそこも整えていただけますか」
「わかりました、じゃあきれいにしますね」
俺はまた目をつぶる。
いつの間にか、彼女と自然に話せるようになっていた。
「ずいぶん切ってなかったんですか?」
「ああ…そうですね、ずいぶん」
「お仕事が忙しかったとか?」
「や、もうただめんどくさいっていうか…」
「ああ、そうですよね、一度行かなくなると、そういうの、ありますよね」
「お時間かかってすみません、いかがですか?」
もみあげを整えてもらい、めがねをかけて、鏡を見る。
髪が短くなって、さっぱりした自分がいる。
なんの意思も願望もなく、流されるままにこうなった、自分。
俺、どんな自分になりたかったのかなあ。
これまで考えたことがないものを、いますぐわかるわけがない。
でも、いま鏡に写る自分は、よくわかんないけど、なんかいい感じだ。
ありがたい。ありがたいなあ。
じゃあ次は夏になる前に、また来てくださいね。
彼女はそう笑って、ポイントカードを渡してくれた。
次またあの店に行くことがあったら、もう少しマシな自分になっていたい。
いたい、じゃねーな。マシになっていよう、必ず。うし。
久しぶりに、また髪を切りに行きたくなる店ができた。
ひとりぼっちを祝福すること――「清水ミチコの一人フェス」がすばらしかった
MISIA、Mr.Children、いきものがかり、椎名林檎、松田聖子、松任谷由実、中島みゆき、山下達郎、森山良子、美輪明宏、矢野顕子、忌野清志郎――。
昨晩から続いた暴風と豪雨がパタッと止み、2月には似つかわしくないさんさんと晴れた陽気のなか、これだけの豪華メンツが勢揃いする音楽フェスが東京・三軒茶屋で行われた。「清水ミチコの一人フェス2016」だ。
*
冒頭に挙げた面々は、モノマネ芸人である彼女のレパートリーである。コンサートタイトルのとおり、彼女はこれだけの人の声を巧みに演じ分け、たったひとりで2時間半の“フェスティバル”を作りあげる。
ただ、その声色づくりの上手さだけで、数年連続で日本武道館をソールドアウトさせるほどの人気を誇れるわけがない。声を似せるだけでなく、その人物を切り取る独特すぎる視点の妙に、人々は魅了されるのだ。
その視点の面白さを言葉にするなら、「毒」という言葉がわかりやすいだろう。黒木瞳、森山良子、ナオト・インティライミ……各界のスターたちをいじるやり方は、なにもそこまでと思ってしまうほど、ときにシビアでまったく容赦がない。しかしその潔い振り切り方に、涙がでるほど笑わされてしまう。
これを「彼女のモノマネの根底には、確かな愛情があるから」と、簡単にまとめてしまうことには若干の抵抗がある。もちろんそれも間違いではないのだろうが、それだけではない。
*
清水ミチコのモノマネを通して俺は、人間という生き物そのものを笑い飛ばしている気持ちになる。どんな善人でも、誰しもが心の底に隠し持っている“ちょっといじわるな感情”を掬いあげるのが、彼女はほんとうにうまい。それはつまり、人間がそもそも持っている“いじのわるさ”を、肯定しているということでもある。
基本的にいじがわるくて、他人のことを笑ったり、羨んだり嫉妬したりする、性格の悪い、どうしようもない生き物、それが人間だ。普段は奥の奥に押し込めているいじわるな気持ちを、清水ミチコはひとりで背負い、憑依し、表現することで、わたしたちを開放してくれるのだ。
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この日、彼女の身体を通してわたしたちに届けられたさまざまな声たち。そこに優劣などはなく、長年のレパートリーであるあっこちゃんもユーミンも、新ネタとして加えられたゲスの極み乙女。・川谷絵音も、彼女のフィルターを通すことで、等価な存在になる。
年末の武道館公演では矢野顕子との共演によって実現した、矢野(本人)×忌野清志郎(清水)による『ひとつだけ』。この日のアンコールでは、スクリーンに映し出される矢野の演奏に合わせ、舞台上の清水が清志郎のモノマネで歌うというかたちで披露された。
<悲しい気分の時も わたしのこと すぐに呼び出してほしいの ねぇおねがい>
いま清志郎を「呼び出す」事ができるのは、清水ミチコしかいない。それは“ニセモノ”にしかできないとんでもなくミラクルなことで、それは“ホンモノ”である矢野顕子でも絶対に不可能なことなのだ。元々の歌詞のメッセージの意味合いを変えてしまうほどの圧倒的な説得力をたたえたパフォーマンスに、思わず涙がこぼれた。
矢野顕子の映像をバックに、たったひとりで清志郎を呼び出し、歌い叫ぶ清水ミチコの姿は、孤独で、しかしどこまでも自由だった。その姿は、本物の矢野と共演したときよりも、彼女の“業”のようなものを浮かび上がらせていた。今年30週年を迎えるという清水ミチコ。彼女はこんなことを、30年ものあいだ、たったひとりで続けてきたのだ。
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自分は誰かの代わりになることはできないし、自分は自分としてしか生きることはできない。自分は生まれてから死ぬまで、いつだって、たったひとりだ。
「清水ミチコの一人フェス」というコンサートタイトルは、モノマネによってひとりでフェスティバルを名乗ってしまうおもしろさと同時に、<ひとりであることを祝福しよう>という意味もあるのだと、数々のモノマネでドヒャドヒャ笑い転げながらそう思った。
清水ミチコのモノマネに触れることによって、わたしたちは“ひとりぼっちである自分”を、毒たっぷりの笑いとともに祝福することができるのだ。
昨晩から続いた暴風と豪雨がパタッと止み、2月には似つかわしくないさんさんと晴れた陽気のなか、これだけの豪華メンツが勢揃いする音楽フェスが東京・三軒茶屋で行われた。「清水ミチコの一人フェス2016」だ。
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冒頭に挙げた面々は、モノマネ芸人である彼女のレパートリーである。コンサートタイトルのとおり、彼女はこれだけの人の声を巧みに演じ分け、たったひとりで2時間半の“フェスティバル”を作りあげる。
ただ、その声色づくりの上手さだけで、数年連続で日本武道館をソールドアウトさせるほどの人気を誇れるわけがない。声を似せるだけでなく、その人物を切り取る独特すぎる視点の妙に、人々は魅了されるのだ。
その視点の面白さを言葉にするなら、「毒」という言葉がわかりやすいだろう。黒木瞳、森山良子、ナオト・インティライミ……各界のスターたちをいじるやり方は、なにもそこまでと思ってしまうほど、ときにシビアでまったく容赦がない。しかしその潔い振り切り方に、涙がでるほど笑わされてしまう。
これを「彼女のモノマネの根底には、確かな愛情があるから」と、簡単にまとめてしまうことには若干の抵抗がある。もちろんそれも間違いではないのだろうが、それだけではない。
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清水ミチコのモノマネを通して俺は、人間という生き物そのものを笑い飛ばしている気持ちになる。どんな善人でも、誰しもが心の底に隠し持っている“ちょっといじわるな感情”を掬いあげるのが、彼女はほんとうにうまい。それはつまり、人間がそもそも持っている“いじのわるさ”を、肯定しているということでもある。
基本的にいじがわるくて、他人のことを笑ったり、羨んだり嫉妬したりする、性格の悪い、どうしようもない生き物、それが人間だ。普段は奥の奥に押し込めているいじわるな気持ちを、清水ミチコはひとりで背負い、憑依し、表現することで、わたしたちを開放してくれるのだ。
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この日、彼女の身体を通してわたしたちに届けられたさまざまな声たち。そこに優劣などはなく、長年のレパートリーであるあっこちゃんもユーミンも、新ネタとして加えられたゲスの極み乙女。・川谷絵音も、彼女のフィルターを通すことで、等価な存在になる。
年末の武道館公演では矢野顕子との共演によって実現した、矢野(本人)×忌野清志郎(清水)による『ひとつだけ』。この日のアンコールでは、スクリーンに映し出される矢野の演奏に合わせ、舞台上の清水が清志郎のモノマネで歌うというかたちで披露された。
<悲しい気分の時も わたしのこと すぐに呼び出してほしいの ねぇおねがい>
いま清志郎を「呼び出す」事ができるのは、清水ミチコしかいない。それは“ニセモノ”にしかできないとんでもなくミラクルなことで、それは“ホンモノ”である矢野顕子でも絶対に不可能なことなのだ。元々の歌詞のメッセージの意味合いを変えてしまうほどの圧倒的な説得力をたたえたパフォーマンスに、思わず涙がこぼれた。
矢野顕子の映像をバックに、たったひとりで清志郎を呼び出し、歌い叫ぶ清水ミチコの姿は、孤独で、しかしどこまでも自由だった。その姿は、本物の矢野と共演したときよりも、彼女の“業”のようなものを浮かび上がらせていた。今年30週年を迎えるという清水ミチコ。彼女はこんなことを、30年ものあいだ、たったひとりで続けてきたのだ。
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自分は誰かの代わりになることはできないし、自分は自分としてしか生きることはできない。自分は生まれてから死ぬまで、いつだって、たったひとりだ。
「清水ミチコの一人フェス」というコンサートタイトルは、モノマネによってひとりでフェスティバルを名乗ってしまうおもしろさと同時に、<ひとりであることを祝福しよう>という意味もあるのだと、数々のモノマネでドヒャドヒャ笑い転げながらそう思った。
清水ミチコのモノマネに触れることによって、わたしたちは“ひとりぼっちである自分”を、毒たっぷりの笑いとともに祝福することができるのだ。





