フィクションにしかできない“現実への抗いかた”――星野智幸『呪文』に震えた | オーヤマサトシ ブログ

フィクションにしかできない“現実への抗いかた”――星野智幸『呪文』に震えた

毎日新聞に載っていた鴻巣友季子さんの書評を読んで、がぜん気になっていた星野智幸さん『呪文』を読んだ。

<◇乗り越えられぬ前近代的けじめの呪縛>
http://mainichi.jp/shimen/news/20150913ddm015070029000c.html

こちらで60ページ(!)試し読みできます↓
http://www.kawade.co.jp/tachiyomi/978-4-309-02397-7.pdf

舞台はとある商店街。
「トルタ」というメキシコのサンドイッチ屋を営む霧生は、店の経営が行き詰まり途方に暮れている。
彼の相談相手は、潰れかけた店舗をいくつも復活させてきた商店街の救世主と言えるやり手の男・図領だ。
最初の数十ページだけ読んだら、つぶれかけ商店街の再生ストーリーとも読めそうだけど、途中からあらぬ方向に話は暴走し始める。

とは言え明らかな暴走がはじまるのを待つまでもなく、最初の1行から常に「なにかとんでもなくよくないことが起こりそうな気配」にさらされている感じがある。この感覚は個人的に3.11以降日々感じ続けているものだ。

多分中学生とかでも全然読めるレベルのめちゃめちゃ平易なことばで書かれていて、だからこそ書かれていることのすごみや空恐ろしさが際立つ。言葉のチョイスのセンスと技術がすごい精度なのだ。(「(笑)」の使い方が鋭すぎて、思わず吹き出しつつ戦慄)

とにかく目を背けたくなるようなひどすぎる光景や思想が、めちゃめちゃ淡々と綴られていくさまがマジで怖い。
ことばの平易さ、世界観など、坂本慎太郎『ナマで踊ろう』に通じるものを感じた。

作中に登場する集団“未来系”が過激化した先に標榜する「ある思想」は、はたから見たら単なる逃避でしかない。吐き気を覚えるような思想を喜々として語る未来系の面々。とは言え、彼らを自分とはまったく違うクズ人間だと切り捨てる自信が俺にあるのか。そう自問すると、作中であっという間に彼らに取り込まれ、戻れなくなっていく「普通の人間」たちの姿が脳裏に浮かぶ。

大きな流れに取り込まれていく「普通の人たち」は、自分がなぜこんなにも流されてしまうのかわからないままに、深みにはまっていく。
しかし、彼らを絡め取る権力者のほうも、自分がなぜそのような行動=弱者を管理し支配し搾取するのか、その欲望の理由を完全に自覚できていない様子なのが、より怖い。
でも実際の世界だってそうだ。扇動する側・される側に関わらず、知らぬ間に事態は進行してしまい、気づいたら元に戻ることができなくなっている。

冒頭から感じていた嫌な予感は読み進めるごとに具現化し、最後にひとつのクライマックス(というか始まり?)を迎えるのだが、そういう最悪のカタストロフィにすでに片足を踏みれていたとして、ひとはやはり流れに抗えず、一歩を踏み出してしまうのだろうか。作中では意外にも、“あちら側”に踏み出さないための具体的な方法論が提示される。それは極めてささやかな、しかしかなりのタフさを求められるものだ。

しかし、他者や世界と向き合うということは本来そういうものだろう。インスタントな言葉やまやかしの思想によって築かれる“つながり”は、いっときの興奮と快感をもたらすが、それがどれだけ脆く危ういものであるかは、これまでの歴史が証明している。

『呪文』は、読み終わって「さあ明日も頑張ろう!」「元気出して笑顔で行くぞ!」と思えるようになるとか、そういう目に見える即効性はまったくもってないし、むしろ読む人にとってはけっこうなショックになる可能性もある。この小説は読み手を都合よく癒やしてくれる、コスパのよいサプリのような存在ではない。

けど、俺はこれを読んで、ギリギリ歯を食いしばりながら、なんとかこの世界に立っていようと思えた。そう思えているうちは大丈夫、なはず、と、なんとか自分に言い聞かせながらではあるけど。

これをどう受け止め、そのうえで世界とどう向き合っていくのか。5年後、この小説をいまより前向きな気持ちで読める自分と世界でいられるだろうか。

フィクションだからこそできる・フォクションでしかできないやり方で、世界を刺激し、現実への抗いかたを示している1冊。いまこの表現に出会えてよかったと思う。震えながら、勇気づけられる。