AFTER THE GOLD RUSH

AFTER THE GOLD RUSH

とおくまでゆくんだ ぼくらの好きな音楽よ――

(第10話)Road to Nowhere


 眼を覚ますと白い天井が見えた。天井の広さと丸いシーリングライトの位置がいつものリビングと違う。上半身をゆっくりと起こす。頭が鈍く痛み、救命ボートで時化た海を漂っているかのような軽い眩暈と吐き気に襲われる。正面の壁に、一つ星付きのベレー帽を被った精悍な顔立ちの男が強い眼差しで一点を凝視しているポスターが貼られている。赤い背景色に白文字でCHE GUEVARAと書かれている。チェ・ゲバラ、どこかで聞いたことのある名前だとは思うが、朦朧とした頭では、それが歴史上の人物なのか、仮面ライダーのショッカー怪人なのか、その区別すら付かない。ベッドの向かい側には簡素なパイプ机と木製の大きな本棚、そして、ギブソンのアコースティックギターとナチュラルカラーのフェンダー製テレキャスターがギタースタンドに立て掛けられている。間違いない、ここはカザマの部屋だ。昨夜のことを思い出す。俺は大阪行きの日航機遭難のニュースに強い衝撃を受け、呼吸もままならず半ば意識を失った状態でカザマとジュンに両肩を抱えられ、この部屋に担ぎ込まれたのだ。あれからどの位寝ていたのだろう。時計を見ると、もう正午をまわっている。ベッドから降りようとするが、身体がひどくふらつき、床に足を下ろすこともままならない。


「おい、無理するな。まだ寝とけよ。」
いつの間にかドアが開いて、キックが食事と水を乗せたお盆を持って立っている。
「お粥を持ってきたからな。無理してでも食わないと治らないぞ。」
 そう言いながら、ベッドの向いにあるパイプ椅子を俺の傍らに移動させて、お盆を置く。茶碗から炊き立てのご飯のような甘く優しい香りが漂ってくる。
「ありがとう。俺、昨日からずっと寝てたんだな。」
「びっくりしたぞ。お前、いきなり具合悪くなってさ。熱計ったら39度もあるし、救急車を呼ぶ事も考えたんだぜ。もうちょっとしたら医者が来るからな。これ食ったらまた横になってろよ。」
 食欲は全く無かったが、俺のためにお粥を作ってくれたキックへの礼儀として、込み上げてくる吐き気を抑えながら無理をして少しだけ口に運んだ。


 その日の記憶はここで途切れる。往診に来た医師のことも、墜落した日航機から奇蹟的に4人の生存者が救助されたことも知らず、俺はまるで電気ショックを受けて気絶した家畜の如く死んだように眠った。夢裡、俺は一人暗いトンネルの中を歩いていた。後方からケンジとマキの呼び声がこだまのように響いた。
「おーい、そっちに行っちゃだめだ、早く戻ってこい!」
「サトシ、それ以上進んだら戻れなくなるよ! こっちに戻ってきて!」
 振り向くと、遠く後ろの方でトンネルの入り口が、そこだけ漆黒の暗闇を半円形に切り抜いたかのように白く眩しく光っており、逆光で黒い影法師になったケンジとマキが俺に向かって大きく手招きしている姿が見えた。すぐ戻るから心配するなと叫ぼうとするが、声にはならず、結局俺は彼らの忠告を振り切る形で歩きだした。前方を美しい毛並みをした凛々しい白馬が薄青い光を放ちながらスローモーションで走っていた。この馬に付いていけば、俺が行くべき場所に辿り着くことができる、そう考えながらただひたすら前へ前へと歩き続けた。やがて、道標であった白馬の姿がすぅっと透明になって闇の奥に消えた時、俺は、このトンネルが行き先の無い道であることをようやく悟った。もう前にも後ろにも行くことができない。暗闇の中で俺は途方に暮れうずくまった――。 

 結局、俺は丸1日半眠り続けていた。次に目を覚ました時、鉛のように重たかった体がすっかり軽くなっていることに気付いた。頭痛も吐き気も収まり、体内から悪性のウイルスが全て抜けていったかのような爽やかな目覚めであった。


 リビングから、よく通る伸びやかな低音の声が聞こえてきた。それはまるで身体を左右に揺らしながらロックンロールを歌っているかのようなスピーディかつリズミカルな言葉の波動であり、俺の耳に到達した時点では言語ではなく朗々たる音響となっていたが、それでもその独特な抑揚ある喋りのリズムが俺の心を惹きつけた。一体誰が話しているのだろう。俺はリビングのドアを少しだけ開けて中を覗いた。奥のソファーにカザマをはじめとするメンバー全員が座り、彼らと向き合う形でその声の主は座っていた。黒縁の眼鏡をかけて水色のサマースーツを着たサラリーマン風の男。歳は30代後半だろうか。話は一段落着いたようで、彼は珈琲を飲みながら、「ま、明日はよろしく頼む。とにかく思いっきりデカい音でいこう。クソ忌々しいカミゾネの度肝を抜いてやるんだ」と艶のあるバリトンボイスで愉快そうに話すと、ハッハッハと豪快に笑った。 

 「委員長は人使いが荒いからなぁ。演奏中のサポートもお願いしますよ」とカザマが渋い声で言うと、「分かった、分かった」と応じながら立ち上がり、「そうだ、キック、明日はメイも来るからな。お前も気合入れて頑張れよ」とキックの頭を軽く叩いた。キックは今まで見たことのないはにかんだ表情で顔を真っ赤にして頷いた。


 俺は何か意外な思いでその光景を見ていた。ワイルド・ハーツは実はどこかのプロダクションに所属している鵜飼のバンドで、この男は、そこのオーナーか上役ではなかろうか。そんな上下関係のようなものをこの部屋の空気感から感じ取っていた。
――カザマさん、あなたは誰にも支配されない荒馬になるって言っていたじゃないか、誰かのために演奏するなんてやめろよ。俺は心の中でそう呟きながら、そっとドアを閉めた。

 男が帰った後も、カザマ達は何やら深刻な表情で話し合っていたが、俺が傍に立っていることに気付くと、カザマが手の平を前に出し、それを合図に話はピタリと止まった。
 カザマが俺の方に向き直り、声をかけてくる。
「サトシ、やっと起きてきたか。どうだ、気分は?」
「うん、すっかり良くなった。心配かけてごめん。」
「謝るなよ。俺達がもっと早くお前が具合悪いことに気付けばよかったんだ。」
 カザマは頭の後ろで手を組むと、壁に掛けてあるカレンダーの方を見ながら「明日、ちょっと音を出してくることになった。お前はまだ無理だから、ここで休んでいろ」と言った。
「俺はもう大丈夫だよ。一緒に行くよ。」
「駄目だ。明日はここにいるんだ。」 
 カザマの声からは、俺の体調を気遣うというより、むしろ参加することを強く拒むような厳しく冷たい響きが感じられ、俺を困惑させた。
「でも、ベース無しで大丈夫なのか?」
「明日の演奏にノリは必要無い。最低限のリズムがあればいい。だから、お前がいなくても大丈夫だ。」


 意味が分からなかった。さっき、あの男は「思いっきりデカい音でいこう」と言っていたではないか。それなのに、ベースは不要でノリも必要無いとは、一体どこで何を演奏するというのだ。俺は、黙っているキック、ジュン、ハカセの顔を見ながらこう言った。
「納得いかないな。俺が行くと迷惑なのか? なぁ、みんなはカザマさんと一緒に演奏するんだろ? どうして俺だけ仲間外れにするんだよ。」
 ジュンが、吸っていた煙草を灰皿に揉み消し、俺の顔を見上げ、静かに口を開いた。
「レコードにはA面とB面があるだろ。A面には派手な曲が収録されていて、B面は地味だがアーティストが本当に伝えたいメッセージが込められていることが多い。」
「そうそう、ストーンズなら、A面が『ホンキー・トンク・ウィメン』で、B面が『無情の世界』とかな」とキックが茶々を入れる。
「そんなこと知ってるよ。それがどうしたんだ。」
 話をはぐらかされているような気がして、次第に不愉快になってきた。そんな俺の感情の高ぶりを知ってか知らずか、ジュンは静かに語を継ぐ。
「ワイルド・ハーツにもA面とB面があるんだよ。サトシに手伝ってもらっているのは、派手なA面の方だ。明日は地味でしんどいB面だ。お前は今月いっぱいで辞めるんだろ。俺達は、最後まで一緒にやる覚悟のあるヤツとしかB面は共有しない。」


 普段無口なジュンがここまではっきりと言い切ったことに俺は強い衝撃を受けていた。俺はつまるところ彼らにとって「よそ者」なのだ。その事実がもたらす強烈な寄る辺なさが俺を打ちのめした。
 黙ってしまった俺を見て、カザマが場の雰囲気を変えるように手の平をポンと叩いて、話し出す。
「よし、この話はこれで終わりだ。サトシ、お前には、来週、ヤング・ブラッズの創刊イベントという大役が待っているぞ。朝までの長丁場になるからな、とにかく体調を整えておいてくれ。」 

 
 俺は何も言えず、ただうつむいていた。リビングでのミーティングは散会となり、それぞれが、自分の部屋や午後の雑踏へ向かおうとしていた。その時、俺の中で何かがはじけた。夢の中で見た行き先の無い道が俺の眼前に広がっていた。道の中央で凜々しい白馬が優しい瞳で俺を見つめていた。俺はそこに行かなければならない、行かなければ――。情動を抑えきれず、言葉が溢れ出てきた。
「待ってくれよ。もし俺が…、俺がさ、このまま続けたいと言ったら、みんなは受け入れてくれるのか? 俺を正式にみんなの仲間にしてもらえるのか?」
 全員の動きが止まり、4人の目が俺を見据えた。カザマが近づき、がっしりとした大きな手で俺の肩を叩く。
「もちろん大歓迎だ。お前達も異論はないな。」
 ジュン達3人が頷く。キックがニヤッと笑いながらこう言う。
「サトシ、お前のベース、俺は嫌いじゃないぜ。」

 

 暗闇の中、白馬がいななき、疾風の如く駆け出した。「そっちに行っちゃだめ!」というマキの悲鳴にも似た叫び声が聞こえたような気がしたが、カザマが針を下ろしたブルース・スプリングスティーンの「ノー・サレンダー」の爆音にかき消され、もう俺の耳には届かなかった。(つづく)

 

Illustration by Seachan
 ※この物語はフィクションです。実在する人物・地名・団体とは一切関係ありません。

 

(第9話)Temperature Drop


「明日からお盆か。」
 リビングの壁に掛けられた大型のカレンダーを眺めながら、俺は一人呟いた。カレンダーの日付の下には、こじんまりとした丸文字でバンドの予定が書かれている。几帳面なハカセが、マネージャーよろしく、こまめに俺たちのスケジュールを書き込んでいるのだ。今日の日付の下には「13時新宿御苑、撮影」と書かれ、その端正な文字に被せるように赤いマジックペンで書き殴られた「キメてこーぜ!」という悪筆は、まごうことなくキックの所業であった。明日以降は日付の下が空白になっているマス目が行の右端まで続いており、それは俺たちの活動が今週いっぱい休止状態になることを意味していた。
 ――大阪行ってこいよ。庶民的で、あっけらかんとしていい街だぞ。
 ケンジの声が窓の外から聞こえたような気がした。そうだな、お盆休みだしな。帰省にはもってこいのタイミングだ。しかし、かりそめの故郷とはいえ、一度も行ったことのない街に帰省するというのは、何だか妙な気分だった。

「サトシさん、今日は起きるの早いですね。」
 ハカセがパジャマ姿で目をこすりながら、部屋から出てきた。
「そういうお前も早いじゃないか。まだ7時前だぞ。」
「今日はね、御苑の撮影が終わったら、秩父に行くんです。その準備をしようと思って。」
「秩父? 何しに行くんだ?」
「知らないんですか? 今日はペルセウス座流星群の極大日ですよ。ぼくは高校の時、天文部に入っていたんです。それで今夜は、ОBとして観測合宿に参加するんです。」
「へー、流れ星を見に行くのか。いい趣味だな。」
 俺は、リビングの窓を開けて、空を見上げた。晴れてはいたが、青くはなく、薄い雲の色と混じったような白い空だった。
「ここからじゃ、流星は見えないだろうな。」
「都心でも、深夜だったら少しは見えるかもしれないけど。この辺りは夜遅くなっても明るいから無理でしょうね。」
 程なくして、カザマとジュンが起き出して、テレビを付けたり、煙草を吸いながら新聞を広げたりする中、キックが「よーし、今日は撮影だ。ばっちり寝たぞ」と言いながら部屋から出てきた。

 他の誰よりもキックが張り切っているこの日の撮影は、雑誌「ヤング・ブラッズ」創刊号でワイルド・ハーツを大々的に紹介しようというレイの発案によるものであった。
「君達がビートルズみたいに跳んだり跳ねたりしている写真を撮りたいんだ。まずは、ジャンプでいこうか。」
 新宿御苑の広大な芝生の上で、カメラマンを従えたレイが、俺達にポーズの指示を出す。初めての写真撮影で戸惑うばかりの俺を後目に、カザマ達は、ビートルズの「ツイスト・アンド・シャウト」のジャケットのように恰好良くジャンプをする。
「サトシ、駄目だよ、両手を広げてさ、こう大きくジャンプしないと。」
 レイが呆れたような顔をして、全く乗っていない俺に声をかける。
「分かったよ。跳べばいいんだろ。」
 俺はやけくそで、右手を空に大きく突き上げてジャンプした。真っ青な夏空が俺の視界に広がる。時が止まったかのような一瞬の静寂の中、ツピ、ツピ、ツピというシジュウカラの鳴き声だけが聞こえた。
「いいぞ、そんな感じだ。もう1枚撮ろう。」

 俺達は、真夏の強い陽射しが照り付ける中、売り出し中のアイドルグループのように様々なポーズをとらされた。例えば、こんなスナップショット――。
 カシャッ。キックが両手を広げ、芝生に寝転ぶ。その横にハカセも寝転び、二人はふざけ、じゃれ合いながら、ゴロゴロと左右に転がっていく。
 カシャッ。テンガロン・ハットを被ったジュンがユリノキの巨木にもたれてギターをつま弾く。咥え煙草の白い煙が空に向かってゆっくりと立ちのぼっていく。
 カシャッ。緑豊かな葉を茂らせるプラタナス並木の下で、カザマがウェストサイドストーリーのジョージ・チャキリスを真似て長い足を空高く蹴り上げる。
 誰もが笑っていた。悪い予感など微塵も無く、俺達は8月の太陽に惑わされたかのように、底抜けの高揚感と多幸感に包まれ、仲の良い兄弟の如くリラックスし、馬鹿みたいにはしゃいでいた。
 ふと思った。この写真が雑誌に掲載される頃には、俺はもうワイルド・ハーツの一員ではないのだ。俺は、夏の間だけカザマのマンションで彼らと寝食を共にするいわば通りすがりの旅人のような存在なのだ。

「どうした。少し疲れたか?」
 芝生に足を伸ばしてそんなことを考えていた俺の隣にカザマが腰を下ろし、話しかける。
「いや、大丈夫。でも、ちょっと蒸し暑いよね。」
 暑さより湿度の高さが体全体に鉛の重しが絡み付く感覚を増幅させていた。
「夏もまもなく終わるさ。しかし早いものだな。秋には、お前もいなくなってしまうんだからな。」
「いなくなるって…。俺は自分のバンドに戻るだけだから、また、いつでも会えるよ。」
「ならいいが。バンドを辞めると、それが、縁の切れ目になるになることが多いんでな。」
 カザマは煙草に火を付け大きく煙を吸い込み、ゆっくり吐き出すと、俺の顔を見ながらこう言った。
「サトシ、お前達のバンドは、何故オリジナルをやらないんだ?」
 あまりに意表を突く問いかけだったので、俺は少しうろたえた。SNAPは、セッションで作ったノリ一発の拙いオリジナルは2、3曲あったものの、ケンジや俺が個人的に書き溜めていた楽曲をレパートリーにすることはなかった。
「それは…、ロクな曲が出来ないのと、あと、オリジナルはメンバー全員の納得が得られないから…、無理にやるとバンドが壊れちゃうよ。」
「ワイルド・ハーツは、びくともしてないぞ。」
「それはカザマさんが絶対的なリーダーだからさ。俺は下手なオリジナルをやってバンドを潰す位なら、リーダー不在のコピーバンドのままでいい。」
 カザマは首を横に振りながら、分かってないなという表情をして「下手でも構わないじゃないか。自分が歌いたいことを、自分の言葉で、自由に歌うのがロックンロールなんだ。それで壊れるようなバンドならやめた方がいい」と静かに言った。

 俺は軽いショックを受けていた。カザマの言葉は、ワイルド・ハーツで演奏するようになってから少しずつ感じ始めていた俺自身の心の移ろいを看破しているようであった。これまで何の疑問も抱かずに無条件で格好いいと信じていたものが、実は20年も前に幕を下ろしたショーの出来の悪い物真似に過ぎず、俺は思い切り薄味な二番煎じ、三番煎じの出涸らしのパフォーマンスを演じていたのではないか。今この瞬間に起こっている悲惨な出来事や大きなものに屈服しそうになる負の感情から目を背け、ただひたすら1964年のロンドンの幻影を享楽的に追いかけている俺は、果たして「今」を生きていると言えるのか。そして、ついこの間までしごくワイセツなもののように忌み嫌っていた清く正しいメッセージソングのことが、どうしてこんなに気になるのか――。

 黙っている俺にカザマが語りかける。
「お前は、この土地に伝わる白馬伝説を知っているか?」
「知らない。どんな話?」
「徳川家康の家臣の内藤清成が、家康から『馬で一息に駆けまわれるだけの土地を与えよう』と言われ、感激した清成は自慢の白馬にまたがり、新宿御苑の大榎を中心にして、森と原野の一帯を息もつがずに一周した。しかし、この白馬は元の地点に戻ると滝のような汗を流して倒れそのまま死んでしまった。恐らく心臓麻痺だろう。家康は、約束通り清成に、南は千駄ヶ谷、北は大久保、西は代々木、東は四ツ谷の広大な土地を領地として与えた。清成は死んだ愛馬のために駿馬塚を邸内につくり、ねんごろに霊を祀ったという伝説だ。」
「ふーん、その白馬は相当な名馬だったのだろうね。」
「間違いなく名馬だ。でもな、俺はこの伝説を、『主人のために命を懸けて走った見事な馬』という美談にすることには抵抗がある。むしろ、お国のために命を投げ打って戦うことを礼賛する『殉国美談』に通じる危うさを感じている。俺は、主人の命令に忠実に従い命を捧げることも厭わない名馬ではなく、自分を支配する全てのものに抗い続ける制御不能な荒馬として生き抜きたい。歌はそのための武器なんだ。だからロックンロールは、自分の言葉で、自分のやり方で歌わなければならないんだ。」

 カザマは良く通る声で淀みなくそう言った。俺は返す言葉が見つからないまま、ドクターマーチンのワークブーツを履いた自分の足元に目をやり、いつになったら、かように自信に満ちた話し方ができるようになるのだろうかとぼんやり考えていた。遠くの方から「おーい、撮影再開するぞ」というレイの呼び声が聞こえた。俺とカザマはゆっくりと立ち上がり、皆のいる方向へと歩き出した。

***

「ただいま入った情報です。運輸省の羽田空港事務所に入った連絡によりますと、今日の夕方、羽田発大阪行きの日本航空123便の機影がレーダーから消えたということであります。」


 その夜、NHKの午後7時のニュースの終盤にアナウンサーが緊張した面持ちで読み上げたニュース速報が、史上最悪の航空事故の第一報となった。乗員乗客524名を乗せたボーイング747型ジャンボ・ジェット機が、離陸後間もなく垂直尾翼を破壊され、操縦不能に陥った末、群馬県上野村の御巣鷹の尾根に墜落した。

 テレビ画面に映し出される乗客名簿と不安な面持ちの家族の姿を見ながら、俺は激しい動悸とこれまで経験したことの無い強烈な息苦しさに襲われていた。次は自分の名前と無防備な両親の姿が映し出されるのではないかというリアルな妄想に取り憑かれ、暴風雨に晒された小舟の如く心は激しくかき乱された。いつになく神妙な表情のキックが何かを話しかけてきたが、意識を保つことが精一杯でそれを聞き取る余裕はなかった。吸っても吸っても呼吸をすることができず、もがきながら暗い海の底に沈んでいくようであった。カザマが近づき、俺の額に手を当てる。
「これはまずい。すごい熱だ。俺の部屋に運ぼう」
 カザマの声を遠くに聞きながら、俺は意識を失った。

 同刻、ペルセウス座流星群は1時間に100個近い流れ星の群れを出現させた。俺は夢の中で、夜空を切り裂くダイヤモンドの剣のような流星を見ながら、大阪に帰省する人達全員の無事を祈っていた。(つづく)

 

Illustration by Seachan

※この物語はフィクションです。実在する人物・地名・団体とは一切関係ありません。

(第8話)At Seventeen
「この間のアゴラは、いつもよりしゃれていたよ。あの選曲、君がやったんだろ?」
 どこか皮肉な笑みを浮かべたレイが、珈琲をゆっくりとすすりながらそう言った。
 飯田橋のジャズ喫茶&バー「ペガサス」は、初めて訪れる店だった。「ヤング・ブラッズ」編集部のあるリトル・マガジン社に隣接する雑居ビル地下の20人も入れば満員状態の10坪程の小さなライブスポット。ドアを開けると右手に8人席のカウンターバーがあり、左側に薄暗い船底のような縦長のテーブル席、その奥がこぢんまりとしたステージになっている。俺とレイは、グランドピアノが置かれたステージ手前の丸テーブルに座っていた。
「でも、正直言うと、ああいういかにも最新型って感じのすました曲より、君達がSNAPで演奏していた、怖いくらいに熱気があって、無鉄砲に突っ走るナンバーの方が僕は好きだな。」
 無理ないさ、俺が今回選んだ曲はちょっとばかし玄人向けの音だからな、と言いかけて、それはあまりにも嫌味だということに気が付き、慌てて口をつぐんだ。そして、鼻持ちならない特権意識を一瞬でも抱いたことに嫌悪し、恥じながらも、それとは気付かれぬようさりげなく話題を変えた。


「レイは、ニシカワさんとは、知り合いなのか?」
「知り合いというより同志だね。歳は離れているけど、あの人のことは『同世代』だと思っている。」
「つまり、イノセントであり、失うものが何もなく…。」
俺はレイの口癖を少し誇張して真似したが、彼は意に介することなく話を続けた。
「その通り。そして、大きなものに抗い続ける、そういう人であれば、皆『同世代』だ。年齢は関係ないよ。ニシカワさんはさ、僕と同じものを創ろうとして闘っている同志でもあるんだ。」
「同じものって?」
「広場だよ。身分や性別や年齢や国籍に関係無く、誰もが参加できて、自由に表現し、対等な立場で議論できる空間。僕は活字、ニシカワさんは電波、カザマさんは歌を通じて、そういう場を創ろうとしている。」 
  俺は、前にテレビで見たロンドンのハイド・パークにある「スピーカーズ・コーナー」を思い浮かべていた。意見がある市民はそこに立って自由に演説を始める。すると、たちまち人だかりができ、賛同の拍手を送ったり、野次を飛ばしたり、反論したりと、人と人との交流や議論の輪が波紋のように広がっていく。それは、個人が街頭でプラカードを掲げ、演説するなどの政治的な意思表示をすると、冷ややかな嘲笑と黙殺しか返ってこない東京ではありえない光景であった。


 そんなことをぼんやりと考えていた俺に、レイは顔を近づけて小声で話す。
「東海高校を知ってるかい。東大や京大といった超難関大学の合格者を多数出している名古屋の名門進学校だ。ニシカワさんは、そこで高三の時、広場と自由にまつわる事件の首謀者として逮捕されて退学になっている。」
「へぇ、それは初めて聞く話だな。」
「新宿のフォーク・ゲリラは聞いたことあるだろ。1969年に反戦フォークを歌うグループが何千という人を集めて土曜の夜の新宿駅西口地下広場に解放区をつくった歴史的な出来事だ。同じ頃、名古屋でも、栄の地下街で高校生達がプロテストフォークを歌い始めた。警察の規制で地下から追い出され、百貨店やバスターミナル前の歩道、名古屋テレビ塔下広場と場所を変えて歌い続けた。彼らは『栄解放戦線』と名乗り、毎週土曜の夜に300人程の若者を集めて、フォーク・ソングの合唱をし、議論をし、グループの旗を掲げてワッショイ、ワッショイとデモ行進もしたらしい。その中心メンバーがニシカワさん達東海高校のグループだったんだ。」


「なんだか夏祭りみたいで楽しそうだな。でも、その程度のことで逮捕されるのか?」
「道路交通法違反で逮捕できる。現に新宿では、何人もの学生や市民が捕まり、広場は潰された。名古屋でも週を追うごとに警察の規制は厳しくなっていた。そんな中、受験生でもあったニシカワさん達にとって、許しがたい法案が国会で成立した。いわゆる大学立法ってやつだ。」
「何だ、それは。」
「お上の言うことをきかない大学は、文部大臣の権限で廃校にできるという、大学の自治を破壊し学問・研究の自由を圧殺する極めて反動的な法律だ。ニシカワさん達は、この法案を強行採決した自民党を許すことができなかった。」
「許せないと言っても、高校生じゃ何もできないだろ。」
「そうだ、何もできない。まだ選挙権すら持っていないからね。丁度、その夏、文部大臣が講演のために名古屋にやってきた。『栄解放戦線』の主要メンバー10人は、大学立法への強い抗議の意思を示すため、白昼、文部大臣の移動ルートである本山交差点と本山派出所に火炎瓶を投げた。路上に大きな赤い炎が幾つも立ち上り、付近の交通は大混乱になった。でもそれだけだった。火はすぐに消し止められ、文部大臣は何事もなかったかのように悠々と次の講演会場へと移動し、後にはニシカワさん達の放火未遂や道路交通法違反という『罪状』だけが黒い染みのように残された。ニシカワさんは首謀者ということで鑑別所に送致された。その時一緒に鑑別所送りになった同志がトモベマサトだ。」

 

 トモベマサトいう名前は聞いたことがあった。日本のボブ・ディランとも言われている伝説的なフォークシンガー。俺はニュー・ミュージックと呼ばれる湿っぽい歌謡フォークが虫唾が走る程嫌いだったので、フォーク・ソングは十把一絡げにして唾棄すべき存在と思っていたが、唯一の例外は、1970年代初頭にURCやベルウッドというインディーズレーベルに結集した先鋭的なシンガーソングライター達であり、トモベマサトはまさにその一人であった。

「ニシカワさん達は、1969年の夏に全てを棄てたんだ。親も、学校も、将来の地位が約束されたエリートであることも。そして、鑑別所を出てから、もう一度路上に戻り、そこから出発したんだよ。自分自身の広場と自由を奪還する闘いに。」

 俺は、黙って新しい煙草を取り出し火を付けた。その時、白いワイシャツに蝶ネクタイを付けたオールバックの神経質そうな男がステージに現れ、グランドピアノの椅子に座った。男は俺達の方を見ると、険しい表情を少しだけ緩め、小声で「よお」と言ったが、すぐに陰気な表情に戻りピアノの方に向き直った。「バイ・バイ・ブラックバード」の軽やかに弾んだメロディが男の指からこぼれだし、それはゆっくりと店内に広がっていった。

「やっぱりここにいた!」
突然、後方から、この店の大人びた雰囲気には似つかわしくない少女の甲高い声が響き渡った。振り向くと、口をとがらせて仁王立ちをしているマキの姿があった。
「レイ君、編集部から突然いなくなってどういうつもり? みんなと意見が合わないからって少し勝手すぎない?」
 レイが慌てて人差し指を口に当て、「静かに」というジェスチャーをする。マキは不満そうな顔をして俺の隣に座り、「本当に勝手なんだから」と小声でブツブツ言いながら、「サトシ、私、アイスコーヒー」と俺に向かって注文をする。
「マキ、俺はウエイターじゃないぞ。」
「いいじゃない。ちょっと注文してきてよ。」
 仕方ない。俺は後方のカウンターに行き、アイスコーヒーを注文した。ステージでは、「バイ・バイ・ブラックバード」の演奏が終わり、オールバックの陰気なピアニストが次の曲のイントロを弾き始めた。と、ステージの袖から上品なピンクのドレスを着た若い女性がマイクスタンドの方に歩いてくる。腰まで届く淡い栗色の髪、憂いのある湧き水のように澄んだ瞳、間違いない、フユコさんだ。彼女は客席に軽くお辞儀をしてから、透明感のある柔らかな声で歌い始めた。

 笑って 心が痛んでも
 笑って たとえどんなに辛くても
 憂鬱な曇りの日だって 何とかなるわ
 怖くても 悲しくても
 笑っていれば きっと明日には
 太陽があなたを照らしてくれる

 チャールズ・チャップリンの「スマイル」を流麗に歌う彼女の姿を見ながら、俺は席に戻り、レイに小声で尋ねた。
「おい、フユコさんって歌手だったのか?」
「あぁ、この店の専属のジャズシンガーだよ。昼はピアノの先生。二足のわらじってやつさ。」
 前回、俺は唐突に相対した緊張感からフユコさんの顔を直視することができなかったが、今日は観客であることの距離感に助けられ、少し落ち着いて見ることができた。小さな卵形をした涼やかな顔は、まるで誰かに寄り添い、励ましているかのような眼差しで前方を見遣り、その優しげでありながら、しなやかで決然とした表情は、俺の胸を激しく揺さぶった。

 

 マキがアイスコーヒーをストローで吸いながら、俺の腕を肘で小突き、小声でささやく。
「ね、フユコさん、とても綺麗な人でしょ。」
「あぁ、この間、カザマさんのマンションで会って、ちょっとびっくりした。」
「私たちの編集部にも、差し入れのケーキを持ってきてくれたのよ。とっても優しくていい人なの。」
 間奏に入り、ピアニストがテーマのメロディを崩しながら、硝子細工のように繊細で美しいフレーズを奏でていく。フユコさんが俺たちに気付き、小さく右手を振って、にっこり微笑む。やはりこの人は女神だ。彼女の笑顔にまたしても魅了された俺は得も言われぬ多幸感に包まれていた。


 フユコさんは、柔らかく優しい声で客席に話しかける。
「今の歌は、悲しいことや辛いことがあっても、笑顔を絶やさなければ、希望の光が差してくるという歌です。」
一呼吸置き、少し首を傾げて、こう続けた。
「でも、本当にそうなのかな。私ね、悲しい時は夜通し泣いていいし、ひどいことされたら本気で怒っていいと思うの。私たちを悲しませたり、辛い思いにさせている原因があるのなら、それにしっかり立ち向かわないと、幸せになれないんじゃないかって、そんな気がしています。ふふ、駄目ね、こんなこと言ったら、歌を台無しにしてしまうわね。」
 店内が笑いに包まれる。フユコさんが俺たちの方を見る。
「今日はね、若いお友達も来てくれているのでとても嬉しいの。10代で新しい雑誌や音楽をつくろうと頑張っている人達。マキちゃんは高三だったわね。18歳になった?」
 マキがステージに向かって「まだ17歳。来月、誕生日!」と嬉しそうに声を上げる。
「そう、17歳か。一番いい年齢ね。それでは、私の若いお友達マキちゃんに、次の曲をプレゼントします。」
 そう言うと、フユコさんは、ピアニストに小声で曲名を告げる。軽く頷いたピアニストは、ボサノバ風のイントロを弾き始める。この夜、フユコさんは、マキのためにジャニス・イアンの「17歳の頃」を歌った。

「ペガサス」を出ると、外はすっかり暗くなっていた。日中の猛烈な熱気もこの時間になると随分と和らぎ、道路の向こう側から外堀の水面を伝って吹いてくる涼風が肌に心地良かった。レイはリトル・マガジン社へと戻り、俺とマキは飯田橋駅に向かって目白通り沿いを2人並んで歩いた。


「さっき店に入ってきた時は物凄い剣幕だったな。レイと何かあったのか?」
 マキは、珍しく思い詰めたような表情をしてふぅっと小さなため息をつき、ポツリポツリと話し出した。
「今、ヤング・ブラッズの表紙のことで意見が分かれてるの。編集部7人のうち私も入れた6人は、いろんな国の10代の子たちの写真を表紙にしようって言ってるんだけど、レイ君だけ意見が違うの。」
「レイは何て言っているんだ?」
「『あしたのジョー』の原画イラストを使いたいって。私たちが、ジョーは創られたキャラクターだし、今を生きている10代の方がいいよって言っても、全然聞く耳を持たないの。」
「『あしたのジョー』か。俺より少し上の世代が読んでいた漫画だな。」
「でしょ。編集部の子は誰一人読んだことがないのよ。それでもレイ君だけが『過去からのバトンを受け取って、次の世代につなぐべきだ』とか言い張っちゃって。今日はそれでみんなと言い合いになって、彼、一人で編集部を出て行っちゃったの。」
「編集長のくせに困ったやつだな。」


「レイ君は、お兄ちゃんやサトシとよく似ているのよ。」
「俺とケンジに? どこがさ?」
「今の時代を嫌っているところ。お兄ちゃんたちがダボっとした流行りのスーツを嫌っているように、レイ君は、明るくて楽しいことばかり持て囃される今の時代の雰囲気を嫌っているの。憎んでいるって言ってもいいくらい。だから、あの人の言う『10代』や『同世代』は、私たちのことじゃないの。多分、もっと上の世代、『あしたのジョー』とか、学生運動とか。」
 確かにそうかもしれないと思った。俺とケンジが1964年のロンドンに抱く憧憬の念と同質の重みをもって、レイの熱い眼差しは、1969年の連帯を求めて孤立の底に沈んだ「あしたのジョー」達に向けられているように思えた。


「ねぇ、少し変なこと言っていい?」
 マキが俺の腕をつかんで、急に足を止めた。
「何だよ、びっくりさせるなよ。」
「私もよく分からないんだけど、うちのパパがカザマさんの事をいろいろと知ってるみたいなの。それで、雑誌の編集のバイトはいいけど、あのバンドには絶対近づくなって。」
「あのバンドって、まさか……。」
「そう、ワイルド・ハーツのことよ。理由は教えてくれないけれど、とにかく近づくなって言うの。」
 俺の頭の中に、警察官僚であるマキの父親の鷹のように鋭い目をした顔が浮かんだ。
「それで私、サトシのことが心配になっちゃって。大丈夫よね。夏が終わったら辞めるっていう約束だものね。」
「あぁ、ケンジも秋には復帰できるだろうから、来月からはSNAPに専念するよ。」
「良かった。お兄ちゃんが絶対バンドに復帰できるように私も頑張るね。リハビリとか、家族会議とか。パパがあんまり分からず屋だったら、ストライキだってしちゃうから。」

 その晩遅く、夏の間のねぐらであるカザマのマンションのリビングで、トモベマサトのアルバムを初めて聴いた。深いしわが刻まれた老人の顔写真が印象的なそれは、初期のパンクロックと同等、いや、それ以上の衝撃を俺に与えた。特に、あさま山荘事件での連合赤軍逮捕の日を歌った「乾杯」というトーキング・ブルースは、俺の小市民的でつまらない常識をいとも簡単にひっくり返してくれた。

 どうして言えるんだい 
 やつらが狂暴だって
 新聞はうすぎたない涙を高く積み上げ
 今や正義の立て役者

 乾杯! 身もと引き受け人のいない
     ぼくの悲しみに
 乾杯! 今度逢った時には
     もっともっと狂暴でありますように

 真っ青な夏空に向けて投擲されたコカコーラの火炎瓶が、大きな弧を描きながらゆっくりと路上へと落ちていく瞬間、それらは無数の白い鳩になり、バサバサという羽音を立てて本山交差点から名古屋市の空高く飛び去っていく幻影を俺は見た。(つづく)


Illustration by Seachan
※この物語はフィクションです。実在する人物・地名・団体とは一切関係ありません。

(第7話)Do You Remember Rock 'n' Roll Radio?
 夏の夕暮れ時は特別な時間だ。日中のとこしえに燃える炉に投げ込まれたかのような猛烈な暑さが和らぎ、穏やかで涼しい風がどこか懐かしい夕餉の匂いとともに流れてくる。俺がカザマに連れられて小田急線参宮橋の駅を初めて降りたのは、8月になったばかりのそんな夕方のことであった。俺のショルダーバッグにはカセットテープが5本、そして3枚のLPレコードが入ったモダーン・ミュージックのショッパー袋を左手に抱え、気さくな下町のような開けっぴろげな雰囲気を漂わせる暖色の商店街を通り抜けていった。

 話は、2日前の夜に戻る。夕食後、俺がいつものようにキッチンで皿洗いをしていると、カザマがバンドメンバー全員をリビングに集め、おもむろに切り出した。
「提案がある。明日から掃除と皿洗いは、全員で分担してやることにしたい。」
「全員って、カザマさんもやるの?」
 ハカセが驚いた様子で聞き返す。
「あぁ、俺もやる。だから、お前達も交替でやれ。」
 カザマがきっぱりそう言い切ると、キックが明らかに不満そうな声を出した。
「そりゃ、カザマさんの提案なら反対しないけどさ、でも、ちょっと不公平じゃないの? 演奏以外のことでバンドに何か貢献するっていうのが、俺たちのルールだろ。じゃあさ、掃除と皿洗いを免除されるサトシは、一体俺たちに何をしてくれるっていうの?」
「サトシには、今週から『アゴラ』の方を手伝ってもらおうと思っている。」
 話が何やら面倒な方向に流れていこうとしているため、俺は水道を止め、慌てて口を開いた。
「ちょっと待ってくれよ。俺はそんな話聞いてないし、了解もしていない。大体、その『アゴラ』っていうのは何なんだ?」
 それまで黙っていたジュンが、天井に向けて煙草の煙を吐き出しながら口を開く。
「カザマさんがDJをやっているミニFMだよ。俺たちは、そこのミキサー兼選曲担当に駆り出され、全員クビになった。」
「お前はブルースとヘビメタしかかけないし、俺はストーンズ、ハカセはプログレとクラッシックだもんな」とキックは苦笑しながらそう言うと、カザマの方に向き直り、「サトシはつとまるのか。プリンスばっかりかけて、また『帰れ』って言われるんじゃないか」と疑わしそうに尋ねる。
「少なくとも、サトシは、俺たちより聴いている音楽の幅が広い。特にブリティッシュは、古いのから、新しいのまでいろいろ聴いているのは、お前達も知っての通りだ。俺は、アメリカ一辺倒だからな、そこを補ってほしいと思っている。」
 カザマは、喋りながら、何か確信を得たかのように一人頷き、俺の方を向いてこう言った。
「サトシ、明後日の夜、放送があるから、それまでに新旧取り混ぜて20曲選曲しろ。そして、それぞれの曲に対するお前の思いも書いておけ。レコードの宣伝文句やミュージシャンのデータじゃないぞ。お前がどうしてその曲に惹かれたのかを実体験として書くんだ。これがお前の新しい役割だ。」

 ミニFMとは、電波法の規制を受けない微弱電波(発信地点から100メートルの距離で15マイクロボルト以下※1985年当時の基準)を使った無免許の放送局のこと。1982年の暮れごろから大学生や高校生の間で急速に広まり、翌年には全国で約2千局ものミニFM局が現れたという。もっともその多くが幼稚で凡庸な「放送ごっこ」に過ぎず、1年足らずで閉局したようだが、中には、テレビ・ラジオ・新聞などの既存のメディアに飽き足らない好奇心旺盛なリスナーに支えられ、独自の放送を複数年に渡って放送し続けたニューメディアとしてのミニFM局も少なからず存在した。

 カザマがDJを担当する「自由ラジオ・アゴラ」もまたそのような個性的なミニFM局の一つであった。渋谷区の参宮橋商店街近くの3階建ての古いアパートメントの一室が放送局であり、屋上に建てた大型アンテナからは微弱電波とは言い難い、かなり強いワット数の電波が発信され、代々木郵便局の私書箱宛に届いたリクエスト葉書の住所を見ると渋谷を超えて新宿、中野、杉並、世田谷にもその放送は届いているようであった。だから、正確に言うと、「アゴラ」は電波法の枠内に行儀良く収まるミニFM局ではなく、非合法の海賊放送だったのだ。

 局のオーナーは、30代半ばのフリーライター。その男の顔を見た時、実に不思議な既視感を覚えた。口周りにワイルドな髭を蓄え、レイバンのアビエーターサングラスをかけた強面の男。「この人には絶対にどこかで会ったことがある」と瞬時に確信したが、いつどこで会ったのかをどうしても思い出すことができない。
「おい、少年。俺の顔に何か付いているか?」
 狭い玄関に突っ立ったまま、無言で顔を凝視し続けていたものだから、その男は露骨に不愉快そうな声を出して俺を睨みつけた。
「まぁ、ニシカワさん、お手柔らかに頼むよ。彼は、うちのバンドの新しいベーシストで、今日の選曲もしてくれたんだ。」
 カザマは、楽しそうにそう言いながら、ニシカワと呼んだ男の肩をポンポンと2回叩くと、靴を脱ぎ、部屋に上がろうとした。その瞬間、俺は思い出した。どこで「彼」に会ったのかを。それはライブハウス「ジェイク」のカウンター中央の壁に店長のマサさんが大切に飾っていたレコードジャケット。サングラスをかけた髭面の男が車のフロントシートにふてぶてしい格好で寝そべっているそれを、ケンジが入院するまで、毎週金曜の夜「ジェイク」で演奏する度に目にしていた。

 ジャケットの男、アメリカのフォークシンガーで、確か、ジョン何とかといったな。そう、ジョン・プライ、プライス……。
「分かった! ジョン・プラインだ!」
俺はつい自分でもびっくりする程の大声で叫んでしまった。カザマが驚いた顔をして振り向く。ニシカワも不意を突かれたように口をポカンと開けて、俺の顔を見る。
「ほう、おぬし、ジョン・プラインを知っているのか。」
 ニシカワの不機嫌そうな表情が一気に緩み、新しい同志を迎え入れる際の無条件の親密さを感じさせる笑みに変わった。そう、実際俺はこの時から、非合法の海賊放送局「アゴラ」の同志もしくは一味となったのだ。

 放送局のあるアパートメントは、ニシカワの住居でもあった。当然のことながら、そこではごく普通の日常生活が営まれており、ニシカワの妻が夕飯の支度をし、3歳の娘が玩具を持って走り回るそのすぐ横の食卓で、俺たち3人は企画会議を行った。
「放送は毎週土曜日の午後8時から10時まで。うちは見てのとおりのボロ団地で、ガキもいるんでな。それがギリギリの放送時間だ。」
 ニシカワは、いかつい顔に似合わず、面倒見が良く親切で、何よりよく喋る男だった。新参者の俺のために、局のコンセプトから丁寧に説明してくれた。
「アゴラは、古代ギリシャ語で広場っていう意味の言葉だ。市民が自由に集まって、議論をしたり、未知の音楽を聴いたりする、そういう場を俺たちはつくりたいと思っている。だから、この放送では、今流行りの音楽は一切かけない。そんなものは、大手FM2局(NHKとFM東京)で充分だ。俺たちは、強い思いを込めて、この東京で孤立している連中の傍らに寄り添い、海の底にいるような寂しさやどこにもぶつけようの無い怒りに共鳴し、時に脳天に強い衝撃を与えるような、そんな音楽を届けたいと思っている。」

 なるほど、カザマが俺に選曲だけでなく、楽曲に対する「思い」を書かせたのはそういう理由だったのか。前日、俺の文章を読んだカザマは、ザ・サウンドとカメレオンズは、テープではなくレコードで持ってくるよう指示を出した。いずれも、イギリスのネオ・サイケデリアバンドであり、ネオ・サイケの雄エコー&ザ・バニーメン程有名ではないが、透明感と喪失感に彩られた鋭角なギターサウンドと叙情的なメロディは雄をも遥かに凌駕するものがあった。特に俺は、ザ・サウンドのフロントマン、エイドリアン・ボーランドが創り出す閉塞感と緊迫感とその裏腹の解放感が入り混じったキャッチ―でポップな楽曲とエモーショナルなヴォーカルにロックンロールの未来を感じていた。

「それとトークもな、一方的に喋るのではなく、送り手と受け手が対等で並列な関係になるように工夫をしている。」
 そう言いながら、ニシカワは、番組の進行表を食卓に広げた。
「これは、キューシートと言って、台本のようなものだ。今日のテーマは『猫ッこ倶楽部をぶっとばせ!』だ。富士テレビの『サンセット・ニャンニャン』っていう番組は知っているだろ。俺たちは、公共の電波を独占しているテレビ局がああいう形で10代の少女のセックスを露骨に商品化していることに強い憤りを感じている。あれは断じて性の解放ではなく、資本による性の搾取だ。とはいえ人気番組だからな。賛否両論いろいろあるだろう。今日はハガキも沢山もらっているから、リスナーに電話をかけて、直接意見を聞こうと思っている。」
「あと、街頭インタビュー。ニシカワさん、今日、原宿行ったんだろ」とカザマが口を挟む。
「あぁ、竹下通りに行って、クレープの甘い匂いがする少女達の声を録音してきた。それは番組の前半で流す。」
「よし、構成はこれでいいんじゃないか。あとは、サトシ、お前が選んだ曲をキューシートに書き込んでくれ。」
 俺にそう指示すると、カザマは大きく伸びをしながら、「あー腹が減ったなぁ」と言い、じゃれてくるニシカワの娘に「ミッちゃん、今日のご飯は何かな」と笑顔で話しかける。訊くまでもなく、食卓には、カレーライスの香ばしい匂いが漂っていた。

 午後8時、ラモーンズのビートナンバー「Do You Remember Rock 'n' Roll Radio?」が土曜の夜の渋谷の空気を放射状に切り裂いていく。カザマが軽快に喋り出す。
 ――ハーイ、こちら、自由ラジオ・アゴラ。今、キミはひとり? どこにいる? 楽しいこと、嬉しいこと、悲しいこと、辛いこと、いろんなことがあった1週間が終わったネ。ここは、俺たちの解放区、何を言っても構わないし、何をしても構わない、但し誰かを傷つけることだけはダメだぜ。オッケー、今日の1曲目は、イギリスで静かに人気上昇中、ザ・サウンドの「Counting the Days」、涙の海を渡っていこう、幸せになるために――。(つづく)

Illustration by Seachan

※この物語はフィクションです。実在する人物・地名・団体とは一切関係ありません。

 

(第6話)Venus

 「ワイルド・ハーツ」に加入してから俺の生活は一変した。バンドメンバーが共同で生活しているカザマのマンションで彼らと寝食を共にすることになったからだ。飯田橋の外堀通り沿いにそびえ立つ13階建てマンションの最上階4LDKという、当時の流行語である「マル金」を象徴するかのようなロックバンドらしからぬ華美な住まいであり、何より冷暖房完備であったため、俺はようやく代田橋での筆舌に尽くしがたい真夏の灼熱地獄から抜け出すことができた。しかし、アマチュア・ロックバンドの一ヴォーカリストに過ぎないカザマがどうしてこのようなリッチな生活ができるのか、恐らく裕福な家庭のボンボンなのだろうとは思ったが、あえて俺からそれを訊くことはなかった。


 バンドメンバーには一部屋ずつあてがわれ、俺は、夏だけの臨時メンバーということもあり、個室ではなく、リビングのソファーをねぐらにした。

 さて、俺と一緒に生活することになったバンドの面々だが、年長者のカザマ以外は、皆俺とほぼ同い年の18歳から20歳までの少年もしくは青年であり、同世代の気安さゆえ、すぐに打ち解けることができた。そんな俺の新しい仲間を紹介しよう。

 リードギターはジュン、20歳。高校までは、ランディ・ローズとマイケル・シェンカーを神と崇めるヘビメタ少年であったが、18歳の冬、スティーヴィー・レイ・ヴォーンの「テキサス・フラッド」を聴いてブルース・ギターに開眼。今は、荒馬の如く凶暴で攻撃性の高いフレーズを超高速スピードで弾きまくる玄人はだしのブルース・ロック・ギタリストへと変貌した。身長180㎝とバンドの中で最も長身であり、肩まで伸ばした長髪、野生の狼のような鋭い眼光と相まって、一見近寄りがたい印象を与えるが、性格はいたって穏やかで、声を荒げることも、他人の悪口やつまらぬ愚痴を言うことも一切無い、冷静で信用のおける男である。

 ドラムはキクチ、愛称キック。19歳。高校時代にローリング・ストーンズのチャーリー・ワッツに心酔し、アルバムを聴き込み、ライブ映画「レッツ・スペンド・ザ・ナイト・トゥゲザー」を繰り返し観て(映画館に朝から晩まで居続け、スクリーンを凝視して、彼の叩き方の癖を学びとろうとしたらしい)、シンプルではあるがこれぞロックンロールというガッツ溢れる奏法を体得した。ドラムから離れると、いかにも「新人類」という軽いノリの男で、決して悪い奴ではないが、深刻な話も取るに足らない話もすべて同列に笑えないジョークにしてしまう傾向があり、その度を超した軽薄さだけは、正直なところどうにも馴染めなかった。

 キーボードはハカマダ。名前がセイジなので、略してハカセと呼ばれている。その愛称は、ピアノの英才教育により身に着けた高度な音楽理論と天賦の絶対音感に由来している。バンド最年少の18歳で、アグレッシブな演奏に似合わず、おっとりした性格のため、メンバー全員から弟のように愛されている。

 そして、バンドのリーダーで、ヴォーカルとサイドギター担当がカザマだ。23歳。早生まれなので、俺より4つ年上である。「ワイルド・ハーツ」の楽曲は、すべて彼が作詞作曲している。

 そんな4人との共同生活において、家主であるカザマを除くメンバー全員に課せられたルールがあった。それは、各自、演奏以外に何らかの役割を持ってバンドに貢献すること。例えば、ジュンは楽器の修理や調整に関する技術を有していたためリペアを担当し、ハカセは、採譜能力を活かしバンドのレパートリーの楽譜を作成、キックは、母親が使っていた暮しの手帖社の「おそうざい十二カ月」を片手に町の定食屋顔負けのボリューム満点の美味い料理を作り、俺たちの腹を満たした。そして俺は——、何の特技も知識も無い俺は、皆が敬遠する皿洗いと掃除を担当することになった。請われてバンドに入ったのに随分な扱いじゃないかとも思ったが、クーラーのある部屋で安眠できる魅力には抗いがたく、俺は甘んじてその屈辱に耐えることにした。

 ちょっとのひずみならば
 がまん次第で何とかやれる 
 日々の暮らしには辛抱がいつも大切だから
 心のもちようさ


 トイレや風呂場の掃除をしたり、台所の食器洗いをする時、俺はウォークマンでこんな歌を聴いていた。それは、御茶ノ水のレンタルレコードショップ「ジャニス」から借りてきた暗黒大陸じゃがたらのソノシートだった。

 

 共同生活を始めて3日目のこと、慣れない手つきで廊下に掃除機をかけていると、玄関のチャイムが鳴った。郵便か勧誘だろうか、掃除機を止めてドアの鍵を開けようとすると、リビングからキックが血相を変えて飛び出してきた。
「サトシ、開けるな!ちょっと待て!」
 あっけにとられている俺を残し、小走りでリビングに戻ったキックがインターフォン越しに誰かと話している。警戒した様子の小声が一転して、いつもの軽薄な笑い声に変わる。
「ごめーん、開けていいぞ。」
 リビングからキックが顔を出し、俺に指示を出す。全く人使いの荒いヤツだ。鍵を外し、乱暴にドアを押し開ける。真夏の強い日差しが一気に薄暗い廊下に差し込んでくる。ドアを全開し、そこに立っている女性を見て、俺は息を呑んだ。


 女神だ——

 白い半袖のワンピースに身を包んだ彼女は、すらりと背が高く、腰まで届く淡い栗色の髪を蓄え、憂いのある湧き水のように澄んだ瞳でこちらを見ている。その姿はまるで、サンドロ・ボッティチェッリが描いたヴィーナスのようであった。


「カザマくんいる?」
 “女神”はそう言うと、少し首を傾げ、俺の顔をまじまじと眺めながら、「あなた、新しくバンドに入った人?」と柔らかく優しい声で訊いてくる。
 俺は、すっかりドギマギしてしまい、「あ、ハイ」と思い切り声を裏返らせ、彼女の視線から逃れるように俯いたまま、「カザマさんなら、今、出かけてます」とぼそぼそ呟いた。
「そう。じゃあ、これ、渡しといてくれる?」
 彼女は、プランタン銀座のロゴの入った大きな紙袋を俺に渡した。
「明日、『馬小屋』のライブよね。頑張ってね。」
 彼女は、俺に向かってにっこり微笑んだ。俺は生まれてこの方、こんなに素敵な女性の笑顔を見たことがなかったので、彼女が去った後も、ボーっとした腑抜け面を晒して玄関に立ち尽くしていた。


「サトシ、大丈夫か? お前。」
 いつの間にか、俺の横に来ていたキックが、不審そうに俺の顔を見ている。
「キック、今の人、誰だ?」
「フユコさん。カザマさんの古い友達だよ。」
「凄く綺麗な人だったな。驚いた。」
「そうか、サトシはフユコさんに一目惚れしたんだな。」
 キックは、ニヤニヤしながら、言葉を継ぐ。
「でも、諦めた方がいいぜ。フユコさんとカザマさんは固い絆で結ばれているからさ。」

 翌日、新宿西口小滝橋通り沿いのライブハウス「馬小屋」で、新生ワイルド・ハーツのお披露目ライブがあった。彼らが「馬小屋」のレギュラー枠を持っていることを知った時、俺は本当に驚いた。何故ならそこは、有名ロックバンドを多数輩出しているメジャーへの登竜門的存在として知られていたからだ。

 俺たちがステージに登場すると、一斉に黄色い歓声が沸き起こった。ざっと見て300人近い観客がいるようだ。半数は高校生と思われる10代の少女、残り半数は大学生と社会人の男女だろうか。いずれも、俺のバンドに集まる連中とは明らかに感じの違う、いかにも健全な青少年のようであった。


 カザマが両手でマイクを握りしめ、早口でまくしたてる。

「今、俺たちは、真っ二つに分断されている。ネクラかネアカか、マジメかオモシロイか。そして、ネクラやマジメのレッテルが貼られたら、学校や職場でつまはじき者にされる。権力や資本の巧みな情報操作によって、俺たちは、自分の人生や社会のありようについて真面目に考えることすらできなくなっている。」

 カザマは会場を見渡しながら、MCを続けた。

「かつて、この国は、戦争に協力しない者を『非国民』と呼んで迫害した。共産主義者は『アカ』と蔑まれ、投獄され、残虐な拷問を受けた。強制連行され、虐殺された朝鮮の人達は今もなお学校や仕事において理不尽な差別を受け続けている。『ネクラ』という言葉は、かつての非国民のことであり、共産主義者や朝鮮の人達に対する蔑称と同じなんだ。」

 

 一拍置いて、カザマは拳を突き上げながら絶叫した。

「なぁ、みんな、俺たちはそんな卑しい言葉は今後一切使わないようにしよう! そして、俺たちを分断している薄汚い大人達に鉄槌を食らわしてやるんだ!」


 間髪入れずにキックがカウントを入れる。演奏が始まった。観客がワーッと反応し、一斉に拳を振り上げている。
 俺はベースを弾きながら、どこか冷めた思いでこの光景を眺めていた。どうして俺はここにいるのだろうと思った。ケンジやヨウイチと一緒に、MC無しで激しいブリティッシュ・ビートを演奏していた頃が随分昔のことのように思えた。そして、今日ここに来ているはずのマキの姿を探したが、彼女と同世代の少女があまりに多すぎて、ステージの上から見つけることはできなかった。
 演奏は終盤に入り、カザマが大きな赤旗をステージ後方から取り出し、左腕で持ち上げゆっくりと翻しながら歌った。白字で大きく「We Shall Overcome」と書かれたその旗は、昨日、フユコさんがプランタン銀座の紙袋に入れて持ってきたものだった。つづく


Illustration by Seachan

※この物語はフィクションです。実在する人物・地名・団体とは一切関係ありません。

(第5話)Born To Run

 1985年7月の第3土曜日、俺は、新宿三丁目の路上で、大きな暗雲が垂れ込める不穏な表情の夏空を見遣りながら、自分がどう動くべきかを決めかねていた。腕時計を見る。午後2時30分。既に約束の時間を30分も過ぎている。ひとまずは、この雑居ビルのドアを開けてスタジオに入るべきか。それとも、黙ってここから立ち去るべきか。俺は吸っていた煙草を歩道に投げ捨て、右足で潰しながら呟いた。「マキのやつめ」。レイと会ったあの日以来、マキと連絡がとれなくなったことが、事態を面倒にした要因なのだ。

 「ワイルド・ハーツ」のテープを聴いた翌日、俺は、バンドに加わる意思が無いことを伝えるため、ケンジの病室へと向かった。しかし、そこには、いつもなら必ずいるはずのマキの姿が無かった。今回の件はケンジには内密にするよう釘を刺されていた手前、彼に伝えるわけにいかず、また、マキの家には俺のことを毛嫌いする両親がいるため、電話もままならず、そうこうしているうちに約束の日になってしまったのだ。

 とはいえ、ここでいつまでも迷っているわけにもいかない。気が進まない時は、何もしない方がいいのだ。そう自分に言い聞かせ、今来た道を引き返そうとした時、ポツポツと雨が降ってきた。それは、すぐにボタボタと音を立てて路上を叩く大きな雨粒となり、右肩に背負ったベースギターのソフトケースに無数の黒い染みを作っていった。こうなると、もう選択肢は一つしか残されていない。俺は意を決して、スタジオ・キーの看板が出ている眼前のビルに飛び込んだ。

 重たく分厚い防音扉を開ける。途端に、圧縮され、閉じ込められていたエネルギーが噴出するかのように、制御不能な巨大な音の塊が飛び出してきた。激しくうねりながらアグレッシブなフレーズを繰り出すシンセサイザー、暴走列車のように轟音をあげてブルージーにドライブするギター、そして、軽快なエイトビートを叩き出すスネアとシンバルの炸裂音。それらが渾然一体となって、爆風の如く俺の全身を直撃する。すげぇ。俺は馬鹿みたいに口をポカンと開けて立ちすくむ。音の大きさなら俺のバンドも負けていないが、演奏のレベルがまるで違う。


 ドラマーと目があった。耳の上で切り揃えたセンター分けのストレートヘアに白いTシャツ姿の華奢な少年。俺と同い年くらいだろうか。そいつは、俺にニヤリと笑いかけると、スティックを握った右腕をまっすぐ頭上に上げて大声で叫んだ。
「おーい、ストップ! ストップ!」
 演奏が止まる。スティックの先端が俺の方に向けられる。
「ほら、来たみたいだぜ。新メンバー。」
 その言葉を合図に、スタジオにいる全員が俺に注目する。16畳程のスタジオにいるのは、テンガロン・ハットを被った長身で長髪のギタリスト、マッシュルームカットにボストン型黒縁メガネをかけたキーボーディスト、ドラムスの少年、そして、レイとマキ。笑顔で手を上げるレイとは対象的に、マキはわざとらしい位のふくれっ面をして俺を睨んでいる。30分も遅刻したのだ。怒る気持ちも分からないではないが、少しは今の俺の難しい立場も察してほしいものだ。


 俺は、教室の前でお披露目されるイカさない転校生のように、緊張した面持ちで、挨拶することも、遅刻を詫びることもできぬまま、ただ無言で突っ立っていた。
 その時、背後から若々しく快活な男の声が響き渡った。
「やぁ、よく来てくれたね。待っていたよ。」
 がっしりとした大きな手が俺の左肩を掴む。振り向くと、黒いバンダナを巻いた背の高い男が立っている。誰かに似ていると思った。そうだ、2年程前にヒットした海軍士官学校を舞台にした青春映画の主人公、リチャード・ギアだ。もっともこちらのリチャード・ギアは、ブルース・スプリングスティーンのようなくせ毛を乱雑にかきあげ、黒いタンクトップの上に黒い革の袖無しベストをまとい、ワイルドなロックスター然としているが。


「俺は、リーダーのカザマだ。話はレイから聞いている。ま、とりあえず、1曲やってみよう。」
 そう言いながら、カザマはマイクスタンドの前に立ち、「ボーン・トゥ・ランは出来るか」と俺に訊く。スプリングスティーンの「ボーン・トゥ・ラン」なら、高校時代に数え切れない程演奏した十八番のナンバーだ。
「大丈夫だと思う。キーはEでいい?」
俺は、ベースをソフトケースから取り出し、チューニングをしながら確認する。
「Eでノープロブレムだ。それでは、皆の衆、行くぞ!」
 そう叫ぶと、カザマは右腕を突き上げて、大きくジャンプした。ドラムスの少年がスネアを連打する。いきなり演奏が始まった。

 ベースでエイトビートを刻む。ただそれだけで、歩兵小隊が全力で走りながら銃を連射しているかのような、スタジオの下の方から地響きが沸き上がってくるかのような、強烈なグルーヴが生まれた。ドラマーの方を見る。クロスハンドで正確にエイトビートのリズムを刻みながら、スネアを叩くタイミングでハイハットを打つ右手を一瞬浮かせている。変わったことをしやがると思ったが、ハイハットの音に邪魔されることなくスネアが叩き出すバックビートが強調され、実に気持ちの良いリズムとなっている。なるほど、なかなかやるじゃないか。俺は、ベースの太いニッケル弦をはじきながら、一見軽薄そうなサラサラヘア野郎のセンスの良さに感心していた。

 間奏に突入する。俺はこのパートの踊るようなベースラインが一番のお気に入りだ。低音がR&Bのリズムでダンスし、バウンドして、華麗にスライディングする。原曲のサックスソロをなぞって、ボストンメガネのキーボードが躍動感溢れるフレーズを叩き出す。そして、2回目の間奏。マシンガンのように唸るオールドロックンロールスタイルのギターソロ、バンド全体で下降していくキメのフレーズ、バッチリだ、ワン、トゥ、スリー、フォー、カザマが最後の一節をシャウトする。

  いつか いつの日になるかは分からないが
  俺たちはきっと辿り着くだろう
  本当のゴール 太陽の下で歩ける場所へ
  その時まで 俺たちのようなはぐれ者は
  走り続けるしかないんだ


 「最高!」マキが手を叩きながらぴょんぴょんと飛び跳ねて喜んでいる。確かに、俺のこれまでのバンド経験の中でも抜きん出て出来の良い「ボーン・トゥ・ラン」であった。
 カザマが俺の前に立ち、手を差し出す。
「なかなか良かったよ、サトシ。これで俺たちは仲間だ。夏の間よろしく頼む。」
 成り行き上、握手せざるをえなかった。彼らの生真面目に破綻したオリジナル曲のことを思うと気が滅入ったが、ここはもう腹を括るしかない。
 こうして俺は、夏の間だけという約束で「ワイルド・ハーツ」の一員になった。つづく

 

Illustration by Seachan
※この物語はフィクションです。実在する人物・地名・団体とは一切関係ありません。

 

(第4話)Young Bloods
 俺がそのバンドの存在を知ったのは、ケンジの入院騒動の翌週、東京の空が南太平洋の海のように蒼く澄み渡り、10万ルクスを超える強烈な陽光が殺人光線の如く照り付ける真夏日の午後のことであった。その日、俺は、ケンジの病室でいつものように他愛も無いロック談義をし、帰ろうと薄暗い廊下を歩きだしたところでマキに呼び止められた。


「サトシ、ちょっとだけ時間ある?」
「何だよ、藪から棒に。今、ケンジと話し終わったところじゃないか。」
「お兄ちゃんのいないところで話したいことがあるの。」
 彼女の神妙な顔つきに俺は少し戸惑った。
「いいけど…、悪い話じゃないよな。」
 胸がざわついた。こういう時、悪い予感が次から次へと頭の中に浮かび、止まらなくなるのが俺の悪い癖だ。
「1階の喫茶店で、会ってほしい人がいるの。」
 そう言いながら、マキはそそくさとエレベーターに乗り込む。予期していなかった展開に、俺は何も言うことができず、ただ彼女に付いていくほかなかった。

 喫茶店は空いていたため、待ち人はすぐに分かった。奥の席に俺と同い年位の若い男が座っていた。短髪を綺麗に整え、白い半袖の開襟シャツを着た彼は、ケンジに似て鋭い一重の目をしていたが、雰囲気は遥かに上品で、どこか生真面目な学級委員のようにも見えた。


「こちら、タカヤマレイくん。雑誌『ヤング・ブラッズ』の編集長よ。」
 マキが紹介すると、彼はすくっと立ち上がり、会釈をする。
「タカヤマです。皆はレイって呼んでるけど、苗字でも名前でもどっちでも構わないので、呼び方はご自由に。」
 よく通る明るく快活な声で自己紹介する彼に気圧された俺は、ボソボソと「どうも、はじめまして」と言うことしかできず、全くサマにならない。
「レイくんはね、前からSNAPのライブを観に来てくれてたの。それで、お兄ちゃんがああいう状態でしょ。しばらくバンドも休止になるから、ね。」
 ここで、マキは言葉を止め、「あ、注文!」と叫び、クリームソーダとコーラを頼んだ。マキと一緒の時、俺はいつもコーラばかり飲まされる羽目になる。


「マキちゃんありがとう。ここからは、僕が話すよ。」
 そう言いながら、レイは、傍に置いてあったショルダーバッグから、1冊の雑誌を取り出し、テーブルの上に置いた。真っ白い表紙に赤いデザイン文字で「ヤング・ブラッズ創刊準備号」と書かれている。


「これは、春に発行したプロトタイプなんだけど、僕は今、10代による10代のための新しい雑誌を創っているんだ。」
「雑誌って、同人誌か自費出版?」
「いや、12月にリトル・マガジン社から刊行することが決まっている。」
 驚いた。リトル・マガジン社といえば、超大手の出版社ではないか。しかも編集長だって? この男は一体何者なのだ。
「レイくんは、サトシやお兄ちゃんと同じ学年なんだけど、早生まれだから来年の3月まで10代なんだよ。」
 マキがクリームソーダをストローでかき回しながら、とっておきの秘密を教えてあげると言わんばかりの得意げな口調で茶々を入れる。


「この雑誌は、僕たち10代の“広場”にしたいと思っているんだ。いや、本当のことを言うと実年齢はあまり関係なくてね。僕の言う10代は、イノセントであること、失うものが何も無いこと、大きなものに抗い続けること、そういう人であれば、皆10代であり、“同世代”だと思うんだ。そんな“同世代”が、自分の詩や歌を披露したり、小説を発表したり、自由闊達に議論をしたり、理不尽なことを強制してくるオトナたちに抗議したりすることができる、そういう解放区のような “広場”を創りたいと思っている。」


「でも、リトル・マガジン社といったら、体制ど真ん中の大出版社じゃないか。そんな自由なミニコミみたいなことができるとはとても信じられないな。」
「僕は、あそこの社長と“契約”を交わしている。オトナには一切口出しさせない。全てを10代が企画し、編集権限を持つ雑誌。これが刊行の絶対条件となっている。」


 俺は言葉を失った。こいつは希代の山師なのだろうか。言っていることが本当なら、俺と同い年で大出版社の社長を手玉にとって雑誌をモノにするこの男の胆力は想像を絶するものがある。


「マキちゃんには、先月から編集部に入ってもらっているんだ。僕が君達のバンドを観に行っていた縁でね。」
「レイ君を入れて7人の“少数精鋭”のチームなの。全員10代で、高校生が中心だけど、働いてる人もいて。部活動みたいですごく楽しいの。」

「で、ここからが本題になるんだけど、この雑誌には、精神的支柱とも言うべきバンドがいるんだ。『ワイルド・ハーツ』っていう5人組のロックンロール・バンドでね。そこのベースが急に脱退することになって、とても困っている。予定していた刊行イベントの日程も迫っているし。」
 レイは、俺の顔をじっと見ながら、こう切り出した。
「バンド、手伝ってもらえないかな。SNAPが休止している間だけで構わない。君がベースを弾いてくれると本当に助かるんだ。」


「どうして俺なんだ。ベーシストなんて他にいくらでもいるだろう?」
 俺は正直不愉快だった。これだから音楽の素人は困るとも思った。どういう音楽性のバンドかも知らされぬまま、白紙委任で加入できるわけがないだろう。

「それはさ。君がブルース・スプリングスティーンのことを理解しているからだよ。」
 マキがどうせ余計な入れ知恵をしたに違いない。俺はますます不愉快になった。
「俺がスプリングスティーンを好きなのは『ザ・リバー』までだ。それ以降の『ネブラスカ』も『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』も俺には理解できない。はっきり言うが、今の彼は大嫌いだ。」


「『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』を理解できないって?」
 レイが信じられないという顔をした。
「アルバムは聴いたのか? B面は最高だぞ。『No Surrender』を聴いた上で、そんなことを言っているのか?」


 畳み掛けるようなレイの言葉に俺はたじろいだ。実は「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」は、彼のマッチョなイメージを毛嫌いして、アルバムを聴く気すら失くしていたのだ。

 

「聴いてないよ。とにかく今のスプリングスティーンは好きじゃないんだ。」
「話にならないな。つまらない先入観を捨てて聴いてみてくれ。彼は、『ザ・リバー』の後も何一つ変わっていないよ。」
 レイは、明らかに失望した表情をしていたが、それでもまだ俺のことを諦めていなかった。
「これがバンドのテープだ。そして、これが楽譜。今週土曜日に新宿のスタジオ・キーでセッションするから、とりあえず来てくれないかな。その上で入るかどうか判断してくれ。頼むよ。」
 俺は喫茶店の天井を見上げ、回答を留保した。空になったクリームソーダのグラスを両手で握りしめて俺の顔をじっと見ていたマキが口を開いた。
「サトシ、お願いだから、このこと、お兄ちゃんには内緒にしてね。気が狂ったように嫉妬するから。」
 続けてこう言った。
「私は、サトシに『ワイルド・ハーツ』に入ってほしいな。大阪への帰省、延期できない?」

 その夜、俺は、代田橋のアパートで「ワイルド・ハーツ」のテープを聴いた。連日の真夏日で限界まで灼熱の太陽に痛めつけられたトタン屋根は夜が更けても凄まじい熱気を放ち続け、俺の部屋はさながらサウナ風呂の如く息が詰まる蒸し暑さであった。耐えきれず外に出た俺は、ウォークマンでテープを聴きながらあてどもなく夜道を歩いた。ヘッドホンから流れる軽快なキーボードとブルージーなギターの旋律、そしてハスキーな歌声が心地よい涼風となって俺の耳孔をふるわせた。そのバンドの演奏とヴォーカルは控え目に言ってもセミプロ級の巧さであった。俺などが入って足手まといにならないだろかと正直不安になる程、非の打ちどころのない完璧なパフォーマンスであった。ただ一点、歌詞を除けば――。

 愛、自由、平和、戦争、核、差別……、それらの陳腐な言葉の塊は、俺の羞恥心を直撃し、とてつもなくワイセツなものに関わっているようないたたまれない気持ちに襲われた。

 これはだめだな、やはり断ろう――。

 そう決めた俺は少しだけ気持ちが軽くなり、甲州街道のガードレールに腰をかけて、煙草を吸いながら、ぼんやりと空を見上げた。黒い夜空に大きな白い雲がゆっくりと流れていた。その時、俺は、大きな翼を付けた白馬が夜空を駆けていく姿を確かに見たような気がした。それが、これから始まる騒動の予兆だったとは、まだ知る由もなかった。(つづく)

 

Illustration by Seachan
※この物語はフィクションです。実在する人物・地名・団体とは一切関係ありません。

(第3話)Long Hot Summer
 ここで、俺の“城”について少し話しておこう。場所は、京王線代田橋駅の北口から歩いて8分程。甲州街道の歩道橋を渡り明大前方面に歩き、さらに北上すると戦後まもなくから営業している古びた中華料理屋の看板が見えてくる。その先の木造2階建てのアパートが俺の住まいだ。1階は大家の婆さんの住居になっていて、2階に6畳一間の部屋が4戸並んでいる。入居者は、浪人生、大学生、若い勤め人など独身の男ばかり。大家の婆さんがひどく神経質で口うるさいこと、隣の中華料理屋から醤油ラーメンとラードの匂いが朝から晩まで部屋に入ってくることなど細かな不満はあったが、家賃の安さを考えるといずれも大した問題ではない。

 俺の“城”の最大のウイークポイントは、頭上のトタン屋根にあった。雨の日は小石がバラバラと降ってくるような音でけたたましく鳴り響くし、夏場はまるでオーブンの中にいるような尋常ならざる暑さになる。貧乏学生にとってクーラーはまだ高嶺の花であったし、そもそもあのボロアパートにエアコンを設置すること自体物理的に不可能だったろう。


 東京逓信病院から戻った俺は、蒸し風呂状態の部屋の窓を開け、畳の上に大の字になった。帰路、ヨウイチは、しばらくライブは出来ないだろうから1学期の授業が終わったら実家のある福岡に帰ると言っていた。俺はどうしよう。俺の親は転勤族で日本中を転々とし、4月から吹田市にある万博記念公園近くのマンションに住んでいる。大阪か、一度行ってみるのも悪くないな。俺は、横になったまま、はるか昔に終わってしまった大阪万博(EXPO'70)の幻影を見た。真夏の万博会場で、俺はケンジ・マキ兄妹とソフトクリームを食べながら、巨大なドーム状の屋根が特徴的なアメリカ館の入場待ちの長い行列の中にいた。アポロ宇宙船が持ち帰った月の石はどの位の大きさなのだろう、小石程度ならこっそりポケットに入れて持ち帰れないだろうか、幻影の中の俺はそんなたわいもないことを考えながら、じりじりと焼けつくような陽射しの下、ソフトクリームを舐めていた。と、頭上から耳をつんざく轟音が鳴り響く。ケンジが黒いテレキャスターを抱えて、アメリカ館の楕円形の屋根の上に立ち、右腕を風車のように大きく回転させながらピックを激しく弦に叩きつけている。

 グワァァァァーン! ギャギャァァァァーン!


 ケンジがギターをストロークする度、会場内のパビリオンがその音に呼応するかのように大きな真紅の炎を噴き上げて炸裂する。ソ連館が、三菱未来館が、ガス・パビリオンが、凄まじい爆音と共に木っ端微塵に吹き飛んでいく。会場を埋め尽くした様々な国の白黒赤黄色の大人や子どもたちが歓喜の声を上げ、思い思いのダンスを踊りながら、一斉にハレルヤを歌い出す――。

 夢というやつは大抵脈絡の無いものであるが、この日の夢はいつにも増して荒唐無稽であった。幻影の中のハレルヤの大合唱は、いつしか、スタイル・カウンシルの「ロング・ホット・サマー」へと変わっていた。


 かつては誇らしかったものが 今 こんなにもちっぽけに感じる
 笑うべきか 泣くべきか・・・
 長く 暑い夏が 通り過ぎていく


 電話のベルが遠くから聞こえ、段々と近づいてくる。それが自分の耳元で鳴っていることに気付いた時、俺の意識は1970年の大阪万博会場から1985年の代田橋のアパートへと瞬時に引き戻された。目を開ける。窓の外の陽射しが眩しい。もう昼過ぎだろうか。畳の上に横になったまま、鳴り続ける電話の受話器に手を伸ばし耳に当てる。


「もしもし、私。」


 いきなりマキの声が飛び込んでくる。昨日とは打って変わって、弾じけるように明るい、いつもの彼女の声に戻っている。


「お兄ちゃんがね、今朝目を覚ましたの。ご飯もちゃんと食べたのよ。もう奇蹟みたい。ね、今から病院に来れる?」


 無論すぐにでも駆け付けたいが、昨夜の病院での一件が脳裏によみがえり、何といえばよいのか言葉に詰まる。そんな俺の躊躇を見透かしたかのように、くすくす笑いながらこう付け加える。

「大丈夫、今、パパもママもいないから。お兄ちゃんもすごく会いたがってるよ。」

 実は、病室に入るまで俺はものすごく怖かった。ケンジの体のどこかが欠損していたり、顔が醜く腫れあがっていたり、全身ミイラ男のようになっていたら、俺は以前と同じように、奴とフラットに接することができるだろうか。対等な友人としてではなく、ハンセン病患者にお言葉を賜る高貴な人のように、偽善的で厭らしい憐みの感情を全身から発散させながら、見下ろしてしまうことはないだろうか。 
 しかし、そのようなことは全くの杞憂だった。病室のケンジは、頭に包帯を巻き、左足はギブスで固定されているものの、8時間程前まで意識不明の重体であったとは思えない程元気であった。 

 

「大丈夫だ。この通り両腕も指もちゃんと動く。ほら、ギターだってすぐ弾けそうだろ。」 


ベッドから身を起こし、ギターを弾くポーズをしながら、切れ長の目を細ませてニヤリと笑う。


「何たって、俺は不死身のフェイス(顔役)だからな。」

「分かった、分かったから無理するな。お前は殺したって死なないよ。さすがは日本のピート・ミーデンだ。全く心配させやがって。」


 ピート・ミーデンは、1960年代英国の伝説のモッドで、何日間も不眠不休で踊り続け、喋り続けていたという逸話があるが、だれもその真偽は知らない。


「ヨウイチには連絡したのか?」

「ああ、マキが電話した。夕方、見舞いにきてくれるらしい。」
「マっさんも心配していたぞ。」
「そうか……。マサさんには本当に悪いことをした。昨日はジェイクのステージに穴をあけちまったしな。」
「しょうがないさ。お前が元気だと知ったら、マっさん、飛び上がって喜ぶぞ。帰り、店に寄って伝えとくよ。」


 そう言いつつ、俺の頭の中では、昨日のケンジの父親の言葉が不吉な警告音のように繰り返し響いていた。――回復しても音楽はやめさせる。金輪際、ロックなどという邪悪な道に息子を引き込まないでほしい――。

 

 その呪いの言葉から逃れようと、天井を見上げ、次に入口の方に顔を向けると、丁度、マキが花瓶を抱えて病室に入ってくるところであった。黄色いバラとピンクのカーネーション、そして、グレーのTシャツに白いオーバーオール姿のマキは、薄暗い病室の中でそこだけ眩しく、鮮やかな光を発しているようで、俺にはそれが「希望」の花言葉を持つアネモネの花に見えた。

 

「あ、サトシ、来てたの。」

「来てたのじゃないだろ。お前がすぐ来いって呼んだんじゃないか。」
「ごめん、そうだった。どう、お兄ちゃんったら、信じられないくらい元気でしょ。」
「うん、昨日事故ったのがウソみたいだ。医者は何て言ってるの?」
「1ヶ月位で退院できるんじゃないかって。その後は、お家でリハビリ。順調に行けば、9月には前みたいに歩けるようになるだろうって。そうそう、頭の方も切り傷だけで済んだの。念のため、大きな装置に入って診てもらったけど、何も問題無かったのよ。ね、昨日はあんなに心配したのに、ホント奇跡みたいでしょ。」

 ケンジが口を挟む。

「だからな、秋にはバンドも再開できると思うんだ。うちの親父が何を言ったのかは知らないが、俺はやめるつもりはないんで、一切気にしないでくれよな。」

 

 思わず苦笑した。どうしてこの兄妹は、揃いも揃って、俺の心の内を見透かしてくれるのだろう。しかし、あの鷹のように鋭い目をした父親がそんなに物分かりよくケンジの話をきいてくれるとは到底思えず、この先待ち受けているであろう陰惨な修羅場を想像すると、途端に気持ちが暗くなった。

 

「そういえば、今日、お前たち兄妹と万博会場にいる夢を見た。」
「万博? 筑波のか?」
「いや、俺たちが子どもの頃に開催された大阪万博だ。でも、何だか妙な夢だったな。」

 ふーん、とケンジは興味無さそうに相槌を打ち、こう続けた。

「それは、時空を超えた正夢かもしれないぜ。俺は小学校に上がるまで大阪に住んでいたからな。万博なら家族で何回も観に行った。まだマキが3歳でさ。すごい人混みの中、ずっと俺が手つないだり、親父が肩車したり、とにかくはぐれないようにするのが大変だった。」

「いつもそんなこと言って、アメリカ館に行けなかったのを私のせいにするのよ。」

 そう言いながら、マキが俺の方を向く。

「サトシ、その夢は帰巣本能なんじゃない。だって、今、ご両親は大阪にいるんでしょ。」

「そうだけど、春に引っ越したばかりで、俺、一度も行ったことないんだぜ。」

 ケンジが、フフッと笑う。

「まぁいいじゃないか。どうせ、夏の間はバンドの方も動けないからさ。大阪行ってこいよ。庶民的で、あっけらかんとしていい街だぞ。」

 そして、あーあと大きな欠伸をしながら、こうぼやいた。

「ここはな、消灯時間が夜10時なんだ。分かるか、この意味が。今日、ライブ・エイドを1時間しか観ることが出来ないんだぞ、俺は。」

 ライブ・エイド(LIVE AID)は、飢餓に苦しむアフリカの人々を救済するために、7月13日から14日にかけてロンドン・ウェンブリー・スタジアムとフィラデルフィア・JFKスタジアムで開催されたチャリティー・コンサートである。ポール・マッカートニー、ミック・ジャガー、クイーン、デビッド・ボウイ、マドンナ、ザ・フー、ボブ・ディランといった大物ミュージシャンが多数出演し、世界84か国で同時中継された。

 俺は、代田橋の“城”で、缶ビールを飲みながら、午後9時から始まった中継を観た。この夜は、開け放した窓から、いつもより少しだけ涼しい風が入ってきた。トップバッターのステイタス・クォーに続いて登場したスタイル・カウンシルは、演奏の途中で唐突に日本側スタジオに画面を切り替えられ、後半2曲のパフォーマンスを丸ごとオミットされてしまった。

 茫然としている俺を、テレビ画面の向こう側から、褐色の肌をしたやせ細った子どもがあきらめと絶望に支配された落ち窪んだ目でじっと見つめていた。この憐れな子どもたちに今必要なのは、音楽でも同情でもなく、的確な物的支援、すなわち、食糧と水と医薬品であろう。勿論それらを届けるためのチャリティーであることは理解しているが、ならば、今や世界中で最も富める層となったロック・ミュージシャンが率先して金を出し、一刻も早く彼らの命を救う手立てを講じるべきではないのか。

 そんな感情が沸き上がりつつも、言い出しっぺのボブ・ゲルドフのことだけは悪く言いたくなかった。ブームタウン・ラッツというお世辞にも大物とは言い難いアイリッシュバンドのフロントマンである彼は、孤立無援状態で死にゆく子どもたちの言葉にならない呻きや叫びに突き動かされ、利己を超えた絶対的な無私の心でこのコンサートの開催を呼びかけたのではないだろうか。そんなゲルドフの真っ直ぐな志を、俺はロックンロールの良心として前向きに受け止めたかった。

 スタジアムを埋め尽くした大観衆の前で「哀愁のマンデイ」を熱唱する彼の姿をテレビ越しに観ながら、消灯直前の薄暗い病室にいるケンジもまた同じことを考えながらこのパフォーマンスを見ているのではないか、そうであってほしいと思った。(つづく)

 

Illustration by Seachan
※この物語はフィクションです。実在する人物・地名・団体とは一切関係ありません。

(第2話)Family Affair
 病院ってやつは、いつ行っても気が滅入る場所だ。暗い廊下、鼻の奥にツンとくる消毒液の匂い、白衣姿の気難しい顔をしたイケ好かない医者。ましてやそこに知り合いが不慮の事故で入院しているとなると、メガトン級の容赦ない重力に押し潰されそうな気分になる。だから、東京逓信病院を出た俺とヨウイチは、浮かない顔をして、とっぷりと日が暮れた飯田橋の堀端を歩いていた。
「まいったな。」
 ヨウイチが、煙草の煙を吐き出しながら力無く呟く。
「あぁ、最悪だ。」
 まったく、このシチュエーションは、控え目に言っても最悪としかいいようがない。
 俺は、土手の左下を走っていく中央線のオレンジ色の車体を見やりながら、病院での光景を思い出していた。

 俺たちは、病院の待合室で、泣きじゃくるマキとその隣で暗く険しい顔をして座っている中年の男女――それはマキとケンジの両親だ――にいきなり対面することになった。この両親のことは、ケンジから度々聞かされていた。警察庁の上級官僚である厳格な父親と教育熱心な母親。長男のケンジは彼らの期待を一身に背負わされ、幼少の頃からいわゆるスパルタ教育の日々、一方、妹のマキは自由奔放に育てられた。

「家族ってヤツは、四六時中監視している門番がいて、ムチを持った鬼教官がいて、押しても引いてもビクともしない見えない鉄格子があって、俺にとっては監獄以外の何ものでもなかった。マキが自由に育てられたのは女だったからだ。女だから何も期待されなかったんだ。」

 ケンジは、酒を飲むと、よくそんな話をした。

 哀れな“囚人”は、16歳の冬の日、かねてより計画していた“脱獄”を決行する。家を出た彼は、そのまま高校の寮に転がり込んだのだ。血相を変えて奪還しにきた両親を理解ある良き教師が説得し、そのおかげで彼は家に戻ることなく寮生活を続け、大学入学後はアパートを借りて一人暮らしを始めた。

 その両親が、今俺たちの前にいる。父親は、ケンジによく似て、切れそうなほど鋭く引き締まった顔をしており、母親は、大きな目と丸く小さな顔立ちがマキによく似ている。2人は、まるで汚いものでも見るかのような冷ややかな視線を俺たちに送る。彼らの強い拒否感と嫌悪感が全身に突き刺さり、ただたじろぐしかない。父親が、静かに、しかし、強く厳しい調子で口を開く。


「君たち、その恰好はなんだ。ケンジは今集中治療室で懸命に格闘しているんだ。それなのに、そのふざけた恰好は――。」


迂闊だった。俺たちは、二人とも黒いスーツに黒いネクタイ姿だったのだ。悪気がないとはいえ、これではまるで喪服ではないか。


「やめて、パパ。この人たちは、お兄ちゃんの一番のお友達なの。私がすぐ来てって言ったから、ステージ衣装のまま駆け付けてくれたのよ。」
マキが泣きながら訴える。


「服装のことはお詫びします。今すぐジャケットもネクタイも外します。気付かなかった俺たちが馬鹿でした。本当にごめんなさい。」
 俺とヨウイチは、深く頭を下げる。
「帰った方が良ければ、すぐに帰ります。ただ、ケンジ君の今の状態だけ教えていただけないでしょうか。」


父親が、俺の目をじっと見る。警察官僚然とした鷹のように鋭いまなざしがほんの少しだけ柔らかくなったような気がした。
「分かった。二人ともここに座りなさい。」


 この後、聞かされた話は、心底、俺たちの気持ちを滅入らせた。
 父親曰く――、ケンジは、靖国通りの交差点をバイクで走行中、右折してきた車と衝突し、頭と胸と左足を強打。まだ意識が戻らず、集中治療室で処置を受けている。医師の見立てでは、命に別条はないだろうとのことだが、何らかの後遺症が残る可能性は大きい。こうなった以上、回復しても音楽はやめさせるし、アパートも引き払って実家に戻ってもらう。君たちも、もうケンジには関わらないでほしい。金輪際、ロックなどという邪悪な道に息子を引き込まないことを約束してほしい――。

 俺とヨウイチは何も言うことができなかった。ケンジがまた以前のように元気になってくれるのであれば、バンドのことなど最早どうでも良かった。それは彼の人生において大した話ではない。しかし、後遺症が残ったり、またぞろ “監獄”に入れられるというのは、到底些事とは言えないだろう。

「とんでもないことになったな、ケンジ。」

 俺は、この病院のどこかで、命をつなぐためにもがき苦しんでいるであろうケンジの姿を思い浮かべた。同時にマキのことも気になった。かほどに暗く悲しい顔をしたマキをこれまで見たことがなかった。にもかかわらず、俺は彼女に何もしてやることができない。それは、つまるところ、“家族の問題”だから。家族という排他的な絆が、大きく高い壁となって、俺とケンジ兄妹とを右と左に引き裂いてゆく。

 それは家族の問題
 家庭の事情ってやつさ


 スライ&ファミリー・ストーンの歌の一節が耳の奥でリフレインする。最悪だった。俺は目の前の悲劇をただ傍観することしかできない自分の無力さを恥じた。もし、俺に人智を超える力があったなら、ケンジとマキを今すぐこの苦しみから解放してやるのに。しかし、ロックの魔法ってやつは、こういう時何の役にも立たないものだな。あれは、ハッピーな時に一緒に踊ってくれたり、軽く落ち込んだ時に背中を押してくれる程度の力しかもたないのだろう。そんなものにうつつを抜かしていた俺たちは、金の子牛を崇拝したイスラエルの民のように愚かだったのかもしれない。

 じっとしていても汗が滲んでくる蒸し暑い病院の待合室で俺はそんなことを考えていた。1985年の暑い夏は、まだ始まったばかりであった。つづく

 

Illustration by Seachan

※この物語はフィクションです。実在する人物・地名・団体とは一切関係ありません。

エイドリアン・ボーランドとリード兄弟、そして今は無きCOMMON STOCKに捧ぐ――

 

(第1話)POP LIFE

 1985年、俺はハタチだった。あの年の夏から冬にかけて俺が体験したクールでもハッピーでもグレイトでもないごくごくありきたりでどこにでも転がっている石くれのようなチンケな出来事を今から少しだけ話そうと思う。個人的な話なので、俺のヒトリゴトだと思って聞き流してほしい。


 俺のシマは新宿だった。歌舞伎町から花園神社を抜けて、明治通りを大久保方面に歩いていくと、左側に古びた灰色のペンシルビルが姿を現す。その地下のライブハウス「ジェイク」が俺のバンドのホームグラウンドであり、ガジガジしてやり場のないフラストレーションを発散するシェルターでもあった。リッケンバッカーのベースギターを抱えてカビ臭いステージに立つと、俺はいつも下水管に生息する得体の知れない生き物、例えば、村上春樹言うところの「やみくろ」なんかに変異したような気分になった。どす黒い汚物の海に這いつくばり、俺は、ディストーションをかましたベースをマシンガンに見立て、全てのクソッタレな野郎どもめがけて、歪みながら尖った重低音を連射する。ダダダ、ダダダダ。イチコロ、ニコロ、ミナゴロシ。ほら、いっぱしのテロリストみたいだろ。


 俺のバンドは、スリーピースのビートバンドで、いつも揃いの黒いスーツを着ていたから、ブラックとかギャングとか呼ばれていたが、正式なバンド名はSNAPだった。そう、あの有名なJAMのアルバムから頂いた。俺たちは、ザ・フーやスモール・フェイセズやキンクスの初期のナンバーとモータウンのダンスナンバー、そして、出鱈目な英語を散りばめたしょうもないオリジナルを高速かつ最大級の爆音で演奏した。アンプのボリュームをマックスまで上げ続けることが、俺たちのポリシー(掟)であり、レゾン・デートル(存在証明)であったため、客もワーとかキャーとか歓声を上げることはほぼなく、耳をおさえながらただ黙々と踊っていたような気がする。

 その日、俺は、いつもより早く「ジェイク」に着いた。リハーサルまで30分程時間があったので、カウンターに腰掛け、コーラを飲みながら、ウォークマンでプリンスの「Around the World in a Day」をフルボリュームで聴いた。周囲の連中は彼のことを「変態」とか「紛い物ソウル」などと言って馬鹿にしていたが、俺は、プリンスこそ現代音楽の天才であると信じてやまなかったし、この新譜には、大袈裟ではなく震えがくる程の凄みを感じ、ただただ圧倒されていた。

 POP LIFE!
 誰もがトップになれるわけじゃない
 でもポップに生きなきゃ
 人生まったくイカさないぜ


 ――サトシ、サトシ!
 プリンスの歌声が、中年男の叫ぶような大声で妨害される。「ジェイク」
オーナーのマサさんだ。

「マっさん、どうしたの?」

「マキちゃんから電話だ。ケンジがバイクで事故ったらしい。」
 ケンジは、俺と同い年でバンドのヴォーカルとギター担当、マキはケンジの2つ下の妹で、この春、「猫ッこ倶楽部」というテレビ局がでっち上げた女子高生アイドルグループに勧誘され、本人も加入する気満々だったが、俺とケンジが2人して全力で阻止した。以来、俺はマキに目の敵にされている。

 電話の向こうのマキの声は震えていた。
「サトシ、お兄ちゃんがバイクで転倒して救急車で運ばれたって警察の人から連絡が来たの。一緒に病院に行ってくれる?」
「もちろんだ。すぐ行く。病院はどこ?」
 東京逓信病院。ここからならタクシーで10分もかからないだろう。マサさんに今日のライブは中止にする旨伝え、店を出ようとすると、丁度黒スーツの大男が入ってきた。ドラムのヨウイチだ。
「おう、いいところに来た。ライブは中止だ。今から病院に行くぞ。急げ!」
 状況がつかめず馬鹿みたいにポカンとした顔のヨウイチの腕を掴んで階段を駆け上がった俺は、ふと、これで何かが変わってしまうのではないかという漠然とした不安に襲われていた。
 1985年7月、燦々と太陽が照り付ける明治通りの真ん中で、俺は迷子になろうとしていた。つづく

 

Illustration by Seachan

※この物語はフィクションです。実在する人物・地名・団体とは一切関係ありません。