AFTER THE GOLD RUSH

AFTER THE GOLD RUSH

とおくまでゆくんだ ぼくらの好きな音楽よ――

23歳だった。ぼくのバンドは前年の暮れにあっけなく崩壊し、さらにその前年に某アングラ劇団の劇伴音楽を手伝った縁で、早稲田大学のM君と知り合い、新たな時代に向けて意気揚々と進めていたある企てもバンドの解散とともにすべて雲散霧消してしまった。1989年1月7日、吉祥寺東町のアパートで午前6時に目を覚ましたぼくは、あまりの寒さに煎餅布団から抜け出せないまま芋虫のような体制で煙草に火を付け、悴んだ手でテレビの電源を入れ、程なくして昭和が終わったことを知った。翌日、原宿に季節外れの秋の嵐が吹き、M君達が屈強な番犬に荒々しく連れていかれた時、ぼくは新宿アルタ前で、赤縁眼鏡の冴えない中年男が恭しく掲げる“新時代”の書初めをただぼんやりと眺めている無力な群衆の一人でしかなかった。ぼくにとって平成という時代はそういう風にして始まった。

その年の4月から6月にかけて、中国ではぼくと同世代の20代前半の若者たちが天安門広場に力強く結集し、そしていつものことではあるが、先導したエリートのリーダーどもが要領よく逃亡した後に、最後まで闘い続けた無名の誠実な学生や労働者達は虫けらのように戦車に押し潰され、虐殺されていった。同月、ポーランドではワレサ率いる「連帯」が自由選挙で圧勝し、そこから11月のベルリンの壁崩壊に至るまでの間、ぼくは、仕事が終わると、四条河原町の寂れたジャズ喫茶で向坂逸郎訳の資本論と宇野弘蔵の経済政策論を交互に精読する時代遅れのマルキストであった。笑わば笑え。バブルで浮かれている時代にそういうアナクロでいびつな青春も存在したのだ。

平成は、社会主義への幻想が潰えた時代としても記憶されるべきであろう。ぼくは当初、東欧の動きをソビエト型社会帝国主義の矛盾の噴出であるから、それはやがて昇華され、より高次の段階へと向かうのではないかなどと馬鹿みたいに楽観的(いや、狂信的か)に捉えていたのだが、事は当然のことながらかほどに単純でも簡単でもなかった。「東欧の優等生」と持て囃されていた東ドイツがベルリンの壁とともに脆くも崩壊し、その随分前から政治も経済も破綻していたという内実が明らかになった時の衝撃は忘れられない。あの時、この国における一つの思想、一つの幻想は完全に瓦解したのではないだろうか。平成元年秋の冷たく厳しい風向きを鮮明に記憶している身としては、そのような気がしてならない。

ぼくは、もう、薄く柔らかな甲羅を身にまとった幼い蟹のような姿で、ドン・キホーテよろしく強大な世界と対峙しようとしていたあの頃のぼくではない。今の自分は、長い懲役刑に服して疲れ果てた囚人であると同時に、粗暴な看守であり、無関心な傍観者でもある。そしていつ終わるともしれない暗いトンネルの中で、一人もがき、パニックに陥っている惨めで無様な家畜でもある。そんなぼくが、唐突ではあるが、平成という時代に記憶されるべき日本の歌を5曲選ぶなら、以下のラインナップとなる。

■青空/THE BLUE HEARTS(平成元年)
■歩いて帰ろう/斉藤和義(平成6年)
■夜空ノムコウ/SMAP(平成10年)
  (もしくは、Raining/Cocco)
■ハナミズキ/一青窈(平成16年)
■花束を君に/宇多田ヒカル(平成28年)

いずれの曲も、優れたメロディのみならず、心に響く美しい日本語の歌詞を持っている。そこが素晴らしい。特にスガシカオのペンによる「夜空ノムコウ」は、平成というぼんやりとした不安に包まれた時代の空気感を巧みに掬い取り、ぼくより少しだけ下の世代のアンセムともなったのではないか。そして、ぼくにはそれが、あの1989年の寒い朝以降、ただひたすら低空飛行を続けた陰鬱で希望が見えない時代の「友よ」のように聞こえるのだ。

あれからぼくたちは何かを信じてこれたかなぁ・・・
夜空のむこうには もう明日が待っている――

先月発売された麻田浩氏の自伝「聴かずに死ねるか! 小さな呼び屋トムス・キャビンの全仕事」が抜群に面白い。麻田氏といえば、(拙ブログの読者諸氏には説明不要であろうが)日本のフォーク黎明期にモダン・フォーク・カルテットの中心メンバーとして、MRA(道徳再武装運動)のショーケース「Sing Out‘65」に加わり、米国を横断する演奏旅行を体験し、その後、シンガーソングライターとして活動しながら、「小さな呼び屋」トムス・キャビンを設立、エリック・アンダーセン、トム・ウエイツ、エルヴィス・コステロ、トーキング・ヘッズ、XTC、ラモーンズ等、一癖も二癖もある英米のミュージシャンを日本に初めて招聘した方である。個人的に意外だったのは、昨秋公開された映画「さらば青春の新宿JAM」のエンドクレジットに氏の名前を発見し思わず「あっ」と叫んでしまったのだが、あな懐かしや、1980年代後半に初期ザ・コレクターズやピチカート・ファイヴを擁した「麻田事務所」の社長でもあった。

興味深いエピソード満載のこの本の内容について、あれこれと書き連ね、未読の皆さんの楽しみを奪うような野暮は差し控えるが、敢えてざっくりと書くなら、エピソードの一つ一つが実に奥深く、例えば、1967年の米国放浪時代、1972年のカントリー・ロッカー時代、1976年から1980年の第1期トムス時代など、それぞれのエピソードで一冊ずつ本ができるのではないかと思わせる程ドラマチックかつ濃厚であり、それをこの頁数に圧縮せざるをえなかった麻田氏及び共著者奥和宏氏の痛恨の念すら感じてしまうのである。特に、ローリング・ココナツ・レビューとハイドパーク・ミュージック・フェスティバルの顛末については、その成功と挫折の要因を後世に貴重な教訓として残すためにも、最低でも10倍の文字数は必要であったと思われ、是非、いつの日かより詳細に記録していただくことを期待する。(ローリング・ココナツ・レビューの舞台裏については、岩永正敏氏の著書「輸入レコード商売往来」に詳述されているらしいが残念ながら今は絶版となっている。)

さて、本書の発売に先立って、1月14日、新宿歌舞伎町のROCK CAFE LOFT(ロックカフェ・ロフト)にて、音楽プロデューサー牧村憲一氏と麻田氏のトークイベントが開催された。これが、1960年代初頭に麻田少年がFENでキングストン・トリオを初めて耳にした時の衝撃から話を掘り下げていくという牧村氏ならではの秀逸な進行で、日本のモダンフォーク黎明期の知られざるエピソードが次々と明らかにされていった。例えば――、
○モダン・フォーク・カルテットは、米軍キャンプなどで演奏していた凄腕カントリーバンド、ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズのコミカルな芸風から多大な影響を受けたこと(フォーク・フェスで大受けしたというギターの重見康一氏の「ジョークを散りばめたねっとりとした日本的なおしゃべり」によるMCは、このマウンテン・プレイボーイズがルーツなのだろう。)
○夢中になったキングストン・トリオは、アマチュアの学生3人組が自作の曲を自分達の演奏でレコードが出せることを証明した一番最初のシンガーソングライターであったこと
○下北沢の闇市で買ったストライプの生地を青山通りにあった米軍御用達の洋服屋に持ち込み、キングストン・トリオのアルバムそっくりにシャツを仕立ててもらったこと
○VANやメンズクラブに可愛がってもらい、同社主催のパーティで演奏するなど、1960年代半ばまではフォークソングとファッションが密接に結びついていたこと、等々。

その中で、1963年秋に日本初のフーテナニーが開催された原宿の教会のことが話題に上がった。「今、ラフォーレが建っている場所にあった教会(=移転前のセブンスデー・アドベンチスト東京中央教会)ですよね」と尋ねる牧村氏に、麻田氏は「いや、そこじゃないんです」とさらっと返す。「原宿駅から明治通りをもっと奥の方に行き」「千駄ヶ谷小学校を少し下ったところ」にあった小さな教会とのことで、牧村氏も私も「へーっ、そうだったんですか!」と驚かざるをえなかった。

とはいえ思い込みとは恐ろしいもので、私の中で原宿フーテナニーのイメージは、あのお洒落で大きなセブンスデー・アドベンチスト東京中央教会で固定化されてしまっている。半信半疑で1963年当時の渋谷区の住宅地図を調べてみると、麻田氏の証言と一致する場所、すなわち、千駄ヶ谷小学校から見て明治通りを挟んで斜め向かい側に教会のマークを見つけた。

このエリアの全景を俯瞰できる地図を確認すると、日本動物愛護協会附属動物病院とかたばみ荘別館の間に確かに小さな教会がある。東京都民教会。1918年(大正7年)設立、1945年5月25日の山手大空襲による教会堂焼失という苦難を経て、戦後再建、以後この地で伝道を続けていたが、1975年に下北沢駅近くに移転したという。


古地図を片手に同地を歩いてみた。日本動物愛護協会附属動物病院はイトキン本社原宿ビル(1977年竣工)に、かたばみ荘別館は第8宮庭マンション(1969年竣工)になっている。教会の裏手にあった神宮アパートは、1990年代に10階建のマンションに建て替えられた。この3つの大きな建物に囲まれるように、ポツンと小さな空地が現れる。ここが日本初のフーテナニーが開催された東京都民教会の跡地である。

左側がイトキン本社、右側が第8宮庭マンション、中央の空地が東京都民教会跡地。


三方を隣地建物に囲まれた教会跡地。このスペースから見ても小さな教会であったことが分かる。


空地前に一部残っている洒落た放射状の石畳は、教会時代の痕跡であろうか?

現地に行って分かったことは、日本初のフーテナニーは実にささやかに開催されたのであろうということだ。マイク真木の証言を思い出す。「仲間の一人が音頭をとって、原宿の教会にフォークのグループ5〜6組が集まることになった。なぜ、教会だったのかは分からないんだけど、それが関東では最初のフォークグループの集まりだったかもしれない。お客はあんまりいなかったけど、ただみんなで楽しむ集まりだったね。」 (島敏光「永遠のJ-ポップ」)
原宿の外れの小さな教会の小さな礼拝堂で行われた同好の士による先鋭的なフォークの集い。集まったグループは、モダン・フォーク・カルテット、PPMフォロワーズ、ジャッキー&クレイン、キャスターズ。若者達の美しいハーモニーとバンジョーやギターの乾いた音色は、秋風に乗って隣の動物病院まで届いただろうか?  それは、テキサス州ダラスでケネディ大統領が暗殺された56年前の秋の日のことであった。

この原宿フーテナニーから9年後の1972年秋、麻田氏は盟友石川鷹彦と共に渡米し、ケニー・バットリィ 、デヴィッド・ブリッグス、チャーリー・.マッコイらナッシュビルの腕利きのミュージシャンと初のソロアルバム「GREETINGS FROM NASHVILLE」を録音した。フォーク、ブルーグラス、ヒルビリーといったアメリカン・ミュージックを貪欲に吸収し、咀嚼し、日本人たる自身のものにした後に紡ぎ出した滋味深い楽曲は、70年代初頭に日本人が到達した米国情景音楽の偉大なる成果として再評価されて然るべきであろう。本アルバムに、「もはやナッシュビルに行く必要はなくなった」と麻田氏に言わしめたキャラメル・ママや徳武弘文らとのセッションを加えた2枚組CD「GOLDEN☆BEST」は、ドン・ガント、飯塚文雄、日高義という3人のミュージシャンに捧げられている。ドンは「GREETINGS FROM NASHVILLE」のプロューサーであり、飯塚はジミー時田とマウンテン・プレイボーイズのフィドル奏者(麻田率いる「99バンド」のメンバーでもあった)、そして、日高は、原宿フーテナニーの主催者であり、日本のフォークソングの最初期の優れたソングライターでもある。麻田浩の青春グラフィティは、この作品を持って、第一幕を閉じたのかもしれない。

 

 

マイク真木の「バラが咲いた」は、1966年4月15日に発売され(注1)、翌月、ゴールデンウイークが終わる頃には20万枚を売り上げる爆発的ヒットとなっていた。当時の記録によると、5月半ば、銀座山野楽器でシングルチャート1位、新宿コタニ楽器店でも2位を記録、購買層は学生を始めとする10代、20代の若者が中心だが、スクエアな教育ママ・パパといった風情の中年の客の姿もあり、この歌が極めて短期間にお茶の間に浸透していったことが分かる(注2)。その要因として、まず、お年寄りから子どもまで誰もが口ずさめるハマクラ・メロディの親しみやすさを挙げることができるだろう。浜口庫之助がサン・デグジュペリの「星の王子様」をモチーフに書いたといわれる「バラが咲いた」は、童謡の如くシンプルで分かりやすく、それでいて、日本的な湿ったマイナー調とは無縁などこかヨーロッパ的なモダンさがある。後述するとおり、この歌に対しては毀誉褒貶相半ばし、私も、いびつにガラパゴス化していく日本のフォーク・ソングの象徴的存在と捉えるが、昭和の歌謡曲として聴けば、大変良く出来た歌であることは否定しない。

大ヒットのもう一つの要因は、周到な宣伝戦略である。浜口の著書「ハマクラの音楽いろいろ」によると、松下電器が宣伝に使用し、歌は大ヒット、電気製品も売れ、会長の松下幸之助氏から「このような清潔な歌がヒットして大変嬉しい。ありがとう」と礼を言われたとあるから、恐らく発売前からテレビやラジオのCM、町の電気屋の店頭などで頻繁に流されていたのではないか(後述する朝日新聞の記事にも、レコードの発売前にもかかわらず「すでにめきめき人気をあげている」と書かれている)。だとすると、この刷り込み効果は大きい。さらに、シングル発売10日前の4月4日には、当時若者に絶大な影響力を持っていた週刊誌「平凡パンチ」が、マイク真木の特集記事を4頁にわたって掲載している
(注3)。ぶち上げた大見出しにはこうある。「世界へのチャンスをつかんだ日本の無名歌手/自作の曲でデビューする“日本のボブ・ディラン”マイク真木の素顔」。これは、明らかにステルスマーケティング、つまりスポンサーに“買われた”サクラ記事であろう。よって、鼻白む提灯記事である一方、“日本初のフォークシンガー・マイク真木”をいかにして売り出そうとしていたのかという当時の業界の思惑もくっきりと浮き彫りになっており、資料的価値は極めて大きい。以下、一部引用し検証する。




まず、デビュー前の特集という異例の記事ゆえ、出だしから記者の苦労の跡が窺える。
「マイク真木といっても、まったく無名の歌手。そのレコードも、4月中旬にならないと発売にならない。だから昨年12月末、日劇でおこなわれた『フォークソング・フェスティバル』で彼の歌を聞いた、ごく一部のフォークソング・ファンしか彼の名をしらない。『しかし、日劇での彼のステージを見るとわかりますが、たいへん熱狂的なファンを持っています。それも、ロカビリー・ファンとちがい、じつにカラッとしてます。ことにわたしたち女子大生の人気を一人じめにしてました』(フォークソング・ファン 梅田美子さん)。女子大生に人気があることは、彼につけられた“日本のボブ・ディラン”というニックネームにふさわしい。そしていまや、日本国中、いや全世界のレコード界は、いっせいに彼に焦点を合わせ、“国際的シンガー”に祭り上げようとしているのだ。その“売りこみ資金”は、日本国内だけで5百万円といわれ『世界各国の分を合わせると、はたしてどのくらいになるか見当もつかない』(フィリップス・レコード販売部長、伊藤信哉氏)という。」

ここから明らかになるのは、真木のデビューは、日本にとどまらず世界的な規模で準備されていたということだ。そして、そのマーケティングにかかる経費も桁外れであった。記事を続けて見てみよう。
「フィリップス・レコード社は、オランダ、フランス、ドイツ、イギリス、アメリカにチェーンを持っており、マイク真木のレコードは5月に世界同時に発売になるわけだ。それだけに、破格の売り込み資金が必要とされるわけだが、アメリカの場合、真珠をくわえこんだカキのカンヅメを5千個(1個2千円)全米のディスクジョッキーにくばり、『ビルボード』、『キャッシュボックス』誌に全ページ広告を毎週出すという。両誌とも全ページ広告ともなると千ドルが相場だから1か月続けたとして8千ドルになる勘定だ。他の国でもマイク真木のポスター、カレンダーなどを製作しているというから、まさに“どれくらいになるか見当もつかない”というもの。『これまで、日本の新人歌手のデビューに当たっての売り込み費はせいぜい5、60万円どまり』(某芸能プロ)といわれるだけにマイク真木自身『うれしいというより、こわいというのが本音』というのも当然だろう。」

しかし、ほんの2ヶ月前に“たまたまアルバイトでデモテープを吹き込んだ”に過ぎない無名の学生アマチュア・シンガーが、かくも破格の宣伝経費を費やして、いきなり世界デビューなどできるものであろうか? 日本人歌手の世界進出など夢のまた夢という時代状況を考えると、強烈な違和感を禁じ得ない。何より不自然なのは、1966年当時の真木に関する膨大な記事の中に、近年、真木と(レコード・ディレクターの)本城和治氏が繰り返し証言している「『バラが咲いた』は、デモテープが瓢箪から駒で大ヒットにつながった」という重要なトピックが一切見当たらないことだ。この初々しく清潔で、ストイックなフォークシンガー然としたエピソードは、フィリップスレコード、マスコミのいずれにとっても“おいしいネタ”であったはずなのに――。歴史の改ざんとは、真実が無かったこととされ、新たな定説によって上書きされるものだが、真木の場合は、その新たな定説が「デモテープ」であり、抹消された真実が、後述するとおり「MRA(道徳再武装運動)」であったのではないだろうか。

話がやや進みすぎたようだ。「バラが咲いた」の宣伝戦略に話を戻す。デビュー前に真木を取り上げたメディアは「平凡パンチ」だけではなかった。当時、圧倒的な部数を誇っていた朝日新聞もこれに追随した。シングル発売2日前の4月13日夕刊。大人も子どももまず目を通すテレビ欄に「フォークの有望スター・マイク真木」との見出しを付けた紹介記事が掲載された。2段ぶち抜きの大きな顔写真付きで――。全国紙が、デビュー前の無名歌手の記事を掲載するのは相当に異例なことではないか。これもまたステルスマーケティングと考えるのが妥当であろう。


このような周到な宣伝戦略と楽曲の良さも相まって、「バラが咲いた」は、この年だけで30万枚を売り上げる大ヒットとなった。しかし、ブラザース・フォアやキングストン・トリオなどを愛聴していたモダンフォーク・ファンのこの曲に対する反応は芳しいものではなかった。当時17歳のフォーク少年であった島敏光氏(現・映画評論家)は次のように回想する。
「ラジオから流れる『バラが咲いた』を聴きながら、僕はどうにも釈然としない気持ちに包まれていた。(中略)確かにマイク真木はMFQのメンバーだが、これを作った浜口庫之助は、『若い娘はウッフン』で『僕は泣いちっち』で『ありがたやありがたや』の人ではなかったか。これはフォークの形を借りた歌謡曲ではないのか。当時の多くのフォークソングのファンがそう感じていたはずだ。」
(注4)
また、音楽評論家の田川律氏も「これほど、その内容に乏しい歌もない。ぼくはいつもこの歌を思い出す度に『白地に赤く――』という日の丸の歌を思い出す。この歌もイメージこそきわめてはっきりしているが、これほど無内容の歌もない、といえるほどに意味がない」(注5)と酷評する。
一方で、それまでアメリカのフォーク・ソングを耳にしたことがなかった人達には、フォーク・ソングとは、かくも平和でのどかで健全な歌なのだというイメージが刷り込まれていった。それを裏打ちするかのように「アメリカでは反戦や人種差別反対などの主義主張を剥き出しにして歌うフォークシンガーもいるが、それは、芸術ではなく、イデオロギーの化け物であり、放送局からもオミットされている」と喧伝する評論家まで現れた。ピート・シーガー、フィル・オクス、ジョーン・バエズのように、不当な支配のくびきから人々を解放し、ギター一本で権力と対峙するフォークシンガーがいることをまだほとんどの日本人は知らなかった。
そして、この年、ウディ・ガスリーの「我が祖国」のアンサーソングであろうか、「君の祖国を」という和製フォーク・ソングが、藤田敏雄といずみたくのコンビによって作られ、ブラウン管から飛び出し、キャンパスへと広がっていった。「君だけは愛してほしい/この国を愛してほしい/なぜか今祖国とさえも/だれも呼ばないこの国を」と無条件に愛国心を鼓舞するこの歌は、ステイト(state)たる国家に対する反骨心がベースとなっているガスリーの「我が祖国」とは似ても似つかぬ代物であった。「バラが咲いた」といい、「君の祖国を」といい、批評性・社会性が徹底して排除された、その後の日本のフォーク・ソングのプロトタイプとも言える歌が、ともに1960年代半ばに誕生したことは、誠に興味深いものがある
(注6)

「バラが咲いた」には、有名な後日談がある。それは、この歌が大ヒットしている最中に、浜口から「メロディと詞の一部が違っているので録り直してほしい」とのクレームが付き、急きょレコーディングし直し、シングル盤を切り替えたというものである。最初のレコーディング時に間違いに気付かなかった理由を、本城は、「ハマクラさんのデモテープはマイクの手に渡って、僕らはオリジナル・テープの歌は聴いていなかったので、彼が歌を間違って覚えてしまったのを確認できなかった」
(注7)としているが、このエピソードもどこか不自然だ。世界デビューを視野に入れた歌手のレコーディングにおいて、制作担当者が原曲を聴かず、譜面すら用意していないということがあるのだろうか。加えて、この曲は、後にフォーク・クルセダーズの「イムジン河」や「悲しくてやりきれない」を手掛ける小杉仁三氏(ペンネーム・ありたあきら)が編曲に加わっている。真木しか原曲を知らないという状況で、いかに編曲の作業をしたのであろうか?
なお、先に紹介した平凡パンチには、この件についても以下のような興味深い記載がある。
「かれの歌の先生である浜口庫之助氏は、『自己主張を絶対まげない点では、これら3人の大先輩(引用者註:ボブ・ディラン、ジョーン・バエズ、ピート・シーガー)以上に深いものがある』という。たとえば、マイク真木の歌を聞いて、“一目ぼれ”した氏が、さっそく新曲をつくってやったところ、マイク真木は首を横にふり『もっとぼくにピッタリするものをつくってください』とキッパリことわり、浜口氏にさらに5、6曲オリジナルを書かせたという。その中から、ようやく気にいったものを選んだかれは、今度は『曲はいいが詩がどうも』とゴネ、結局、それを押し通し、自分のイメージどおりの歌に仕上げてしまったとか。」
ちなみに、浜口は、真木の父、小太郎の友人である。旧知の関係である真木と浜口との間でこの曲に関して何があったのか、真相は藪の中である。(つづく)

 

(注1)草野昌一率いる新興楽譜出版社が原盤を制作し、フィリップス・レコードが発売した。なお、富澤一誠の「あの素晴らしい曲をもう一度」に発売日が4月5日と記載されており、これを引用している資料も見受けられるが、富沢本は誤植であり、正しくは15日である。
(注2)「週刊平凡」(1966年5月26日号)
(注3)「平凡パンチ」(1966年4月11日号)。本号は国立国会図書館では欠番となっている。歴史的に検証を要する記事が掲載された資料の欠番が多いのは単なる偶然であろうか。
(注4)「永遠のJ-ポップ リレー音楽白書」島敏光著(学研)
(注5)「日本のフォーク&ロック史 志はどこへ」田川律著(音楽之友社)
(注6)ザ・シャデラックスのシングルは、翌1967年に発売されているが、「バラが咲いた」と同年の1966年には既にテレビやキャンパスでこの曲が歌われていたとの複数の証言を得たことから、このような記載とした。なお、藤田敏雄といずみたくのコンビは、1960年代前半から半ばにかけてフォークソングの先駆けともいえる優れた楽曲を多数生み出しており、「君の祖国を」もそのうちの1曲であったことは強調しておきたい。
(注7)2016年04月27日「大人のMusic Calendar」(http://music-calendar.jp/2016042701

エメラルドグリーンの美しく澄んだ海に、凶暴な野獣のようなブルドーザーが低くうなりをあげて茶色の土砂を投入していく。ブルドーザー、すなわち、威嚇し、脅迫し、強制排除し、暴力的に物事を押し通そうとするもの、戦後70年以上の長きにわたって、ウチナーンチュに絶筆に尽くしがたい程の屈辱と哀哭と塗炭の苦しみを与え続けてきたもの、そして、今、ブルドーザーは、東京メトロ溜池山王駅前の分厚い防弾ガラスに覆われた邸宅で、まるで独裁者のような顔をして、香りの良い舶来のポマードで髪を撫でつけながら調子外れの鼻歌を唄う。――進めよ、鋼鉄のキャタピラー、邪魔者どもはすべて押し潰せ――。街行く人々は、皆下を向いて小さな液晶画面に向かって忙しなく指ばかり動かしているものだから、遠く南の島で起こっている惨劇に気付かない、気付こうとしない。ある日突然、自分の部屋に大量の土砂が降り注ぎ、平穏無事な日常がブルドーザーに無慈悲に押し潰されるまで気付かないふりをしているのだろう。

七尾旅人は、沖縄を「自分のこと」として歌い続ける希有なアーティストだ。彼の沖縄三部作「沖縄県東村高江の唄」「機動隊を待ちながら」「蒼い魚」は、いずれもヘリパット問題で揺れる高江での生活、おじい、おばあ、わらばーとの交流から生まれた歌である。旅人は、沖縄が直面する不条理に激しい怒りを覚えながらも、その尖った思いをストレートに表現することはせず、住民たちの静かな生活や島の美しい風景を淡々と描く。そのことが“武器”や“機動隊”といった「国家の暴力装置」のグロテスクなまでの異物感をくっきりと浮き彫りにしてみせる。そして、かくも静かに穏やかに日常を歌うことが、実は最も過激で先鋭的な行為なのだということを、優れたソウル・シンガーであり、詩人でもある旅人だからこそ、説得力を持って、後輩たちに指し示すことができるのだ。

旅人の最新アルバム「Stray Dogs」は、静謐でリリカルでありながら、エモーショナルでソウルフルな12編の美しい楽曲で構成されている。沖縄三部作からは、最も抽象的で詩的な「蒼い魚」が収録された。彼の視点は、高江、辺野古にあり、モザンビークにあり、日本各地の被災地にあり、そして、迷子犬のようにさまよう絶滅寸前のぼくたちの来し方行く末にある。断言しよう、本作は七尾旅人の最高傑作であるのみならず、2010年代を象徴するエポックメイキングなアルバムとなるだろう。ラストにシークレットトラックとして収録された(恐らく)旅人の愛犬の鳴き声が愛おしい。ダウンロードではなく、岡田喜之氏のポップな犬のイラストが可愛い絵本仕様のCDを是非。

 

★★★
半年ぶりの更新となってしまいました。
七尾旅人さんの素晴らしいアルバムに触発され、何とか記事を書くことができました。新年からの「フォーク・ソングを殺したのは誰?」再開を宣言して、2018年の書き納めとします。
皆様にとって2019年が良き年となりますように
――

「フォーク・ソングを殺したのは誰?」をご覧いただき、ありがとうございます。最低でも月1回のペースで更新したいと思っていたのですが、悲しいまでに貧乏暇なし状態で、6月以降、更新にとりかかる時間を全く確保できない状態が続いています。引き続き資料及び証言の発掘は進めていきますが、更新の方はしばらく休止します。9月にまたお会いできればと思います。

MEN'S CLUB(メンズ・クラブ)1965年12月号には、「モダン・フォーク・クァルテットのマキノ島だより」と題して、同年夏にマキノ島で開催されたMRA世界大会に関するごく短いレポートと数枚の写真で構成されたグラビア記事が掲載されている。本ブログでも参考にさせていただいたが、モダン・フォーク・カルテットのマキノ島での生活の一端が垣間見える貴重な資料であり、埋もれたままにしておくのは惜しいので、その一部を紹介する。なお、冒頭の写真は、宿舎での練習風景のスナップである。(左から、眞木壮一郎、重見康一、麻田浩、渡邊かをる)

「六時、ラッパの音と共にグランドへとび出した。フットボールのユニホームを着た若者、テニス、ラグビーと、それぞれ勝手なスタイルでどんどん集まってくる。すがすがしい湖を渡る風が僕達を包む。ワン、ツー、スリー、マキノ島をゆさぶらんと体操が続く。MRA世界大会。正しい人を作り、正しい社会にし、正しい国に、そして正しい世界を作ろうと集まった若者達。(中略)馬車の鈴の音が聞こえる頃ミィーティングが始まる。ヴェトナム問題、日本のアジアに対する問題等、どの顔も真剣だ。昼にはバーベキューをした。どこからともなく集まってくる鳥。彼等も大会に参加しているのだろう。食べ終わる頃ギターやバンジョーを囲んでフーテナニーが始まった。(後略)」

昼食のバーベキューを食べ終わると、自然にフーテナニーが始まった

 


MRA訓練センターでは、コルウェル・ブラザーズがフォーク・ソングの演奏で迎えた

 


「Run and Catch the Wind(風をつかもう)」を歌うグリーン・グレン・シンガーズ

 


男子宿舎の前での麻田(左)と眞木(右)。マキノ島は、車の乗り入れが禁止されているため、交通手段は馬車か自転車のみ

1966年元旦、眞木壮一郎は機上の人となっていた。東京から遥か6,800キロ、インド洋に浮かぶ“光輝く島”セイロン島の首都コロンボへ。前年夏のマキノ・アイランドに次いで2度目のMRA(道徳再武装運動)大会に参加するためのフライト。今回は、新進気鋭の学生フォークシンガー・マイク真木としての招聘、同行者は親友のロビー和田と日高義だったと思われる(注1)
真木曰く「僕ら若者が10何年かすると国の指導者となってゆく。その若者たちに心身ともに新しいファッションを植えつけ、立派な人間に成長させ、この広いアジアに、そして世界の困難な問題をカタッパシから片付けていく、ファイトある若者を育てよう」という大会
(注2)。1ヶ月の滞在期間中、正しい人間・正しい国・正しい世界を造るMRAの教義を学び、現地の学生達とフォーク・ソングを歌い、若いエネルギーを爆発させるようにバレーボールやクリケットで汗を流した。様々な人と会った。中でも感銘深かったのが、インドの伝統楽器サーランギーを演奏するフォークシンガー・スリヤ・セナ氏との交流。「君がセイロンの歌を歌い、私が日本の歌を唄う。これが世界平和の秘訣じゃよ」。まるで修行僧のようなセナの言葉の一つ一つが真木の胸に響いた。最終日、友人達と出かけたハイキングの帰途に見た夕陽も忘れがたい。水牛の声がこだまするケラニ川の向こうに沈む大きな太陽。西の空はどこまでも血のように赤かった。

2月に帰国した真木は、シンコー・ミュージック(新興楽譜出版社)の制作により待望のレコーディングに入るのだが、この録音契約がいつどのように決まったかについては諸説あり、日本のフォーク・ソング黎明期の研究における混乱の原因となっている
(注3)。現在、定説とされているのが、「バラが咲いた」のデモテープを録音する学生アルバイトとして声がかかり、思いがけず出来栄えが良かったため、そのままレコードにして発売したというもの。この説は、当事者である真木本人とフィリップス・レコードのディレクター(当時)本城和治氏が近年繰り返し証言していることから疑う余地が無いように思われるが、1966年当時の様々な資料と関係者の証言をつぶさに検証すると、興味深いことに全く異なる“事実”が見えてくるのである。

まず、これだけは断言しておかなければなるまい。マイク真木は、たまたま「バラが咲いた」のデモテープを吹き込んだ無名で泡沫な学生アルバイトなどではなく、(当時日本ビクター株式会社が提携していた)フィリップス・レコードと、漣健児こと草野昌一率いる新興楽譜出版社の双方が周到な準備の下、世界的規模でのデビューとセールスを画策した、いわば作られた“麒麟児”であったということだ。そして、その背後に、MRAの世界戦略があったであろうことは、ほぼ間違いない事実と思われる。

以下、レコード・デビューまでの経緯を辿ってみる。当時の複数の雑誌によると、真木は、前回触れた1965年暮れの「日劇フォーク・ソングフェスティバル」でオリジナルのフォーク・ソングを歌って注目され、「世界のトップ・レーベル“フィリップス”でレコーディングする幸運をつかんだ」とある。原盤を制作したシンコ―・ミュージック社長の草野昌一は、後年、真木にレコーディングを持ちかけた際の様子を次のように回想している。

「たまたまマイク真木というのが、日比谷公会堂でコンサートをやると知っていたんでね、出かけていったんですよ。その頃マイクのお父さん(引用者註・舞台美術家の眞木小太郎氏)は東宝で大道具だか小道具の仕事をしていらして知っていたもんで、息子さん紹介してよ、ってノリで楽屋でマイクに会って、ちょっとレコーディングしない?と聞いたら、もうぜひやりたいって。それもマイクはその頃自分で作っていたヘンなフォークをレコーディングさせてもらえると思ったもんだから、“草野さんの言うことは何でも聞くから”って(笑)」(注4)
ファースト・コンタクトの場所が、有楽町の日劇ではなく、日比谷公会堂になっているなど、記憶の混乱が見られるが、この証言は、草野が直接真木と交渉したことを明らかにしている点において重要だ。

さて、セイロン島から帰国後の1966年2月、MFQ時代の仲間であるギターの渡辺かをるを引き連れて意気揚々とスタジオに現れた真木に、草野が提示した曲は、バリー・サドラー軍曹作・歌による「悲しき戦場(グリーン・ベレーのバラード)」の漣健児訳詞版であった
(注5)。「グリーン・ベレーのバラード」は、この年の1月にアメリカで発売されるやいなや、ひと月足らずのうちに約100万枚のセールスを上げた当時話題の特大ヒット曲である。そして、売上が型破りなら、歌の内容もまたすこぶる異色であった。タイトルのグリーン・ベレーとは、アメリカ陸軍のゲリラ戦用特殊部隊のこと。ベトナム戦争時、CIAの指揮下で、北ベトナム側の要人や兵士の誘拐・拷問・暗殺などの血なまぐさい秘密作戦を遂行した。そんな彼らを「アメリカの最高の男たち」と讃え、ベトナム戦争を礼賛した歌が「悲しき戦場(グリーン・ベレーのバラード)」なのである。それは、フォーク・ソングの形式をとってはいるが、決して民衆の側から生みだされたものではなかった。もう一点、指摘しておかねばならないことがある。それは、この歌がMRAの思想と奇妙に合致している点である。財団法人MRAハウス代表理事を務めた澁澤雅英は、政策研究大学院大学の伊藤隆教授らが2003年に実施したインタビューで次のように証言している。(注6)

澁澤 「アメリカとヨーロッパの(引用者註・MRAの)分裂というのは非常に面白い現象で、特にベトナム戦争をやっていたでしょう。それに対するヨーロッパの反応は、いまのイラク問題とちょっと似たところもあるけれど、イラクほど馬鹿なことではなかったかもしれないけれど、ちょっと似ていましたね。ヨーロッパのほうは、ブックマン本来の道徳でやろうといい、アメリカのほうはもっと若い人でワイワイやって、ベトナム戦争を肯定し――。」
伊藤 「肯定のほうですか。」
澁澤 「肯定でもないんだけれど、やっぱりアメリカとしては五十万人も兵隊を出しているんだから、それに反対するというわけにはいかないですよね。」
伊藤 「でもベトナム反戦運動というのがずいぶんあったじゃないですか。」
澁澤 「そうそう、それとは違うんですね。」

しかし、いくら大ヒットしているとはいえ、何もこのようなファナティックな好戦歌まで、アメリカの植民地よろしく、わざわざ日本語に訳して商売しなくともよかろうと思うし、何より、先の戦争の記憶もまだ風化していない中、大半の日本人が拒絶反応を示すであろうことは容易に推察されるが、そこは、手練れの訳詞家、漣健児の腕の見せどころ。彼は、この勇ましい戦争礼賛歌に「俺の願いはただただひとつ/母待つ国に帰ることだけ/俺もゆこう 平和の国へ/沈む夕陽に祈りを込めて」という(原曲と異なる)歌詞をのせることで、多くの日本人が共感できる厭戦歌にしてしまった。しかし、だからといって、この歌の危険な本質は何ら変わるものではなく、その点において、音楽の商売人たる草野の倫理感は厳しく問われるべきであろう。

当然というべきか、真木はこの歌を頑として拒絶した。原曲の右翼的イメージもさることながら、またぞろ外国のコピーに逆戻りすることが耐え難かったし、あくまでも自分のオリジナルを歌うことにこだわりたかった。一方、草野の耳には、真木の持ってきた楽曲は、稚拙で“ヘンなフォーク”にしか聴こえなかった。それらは、いずれもアマチュアっぽく、草野が過去に手掛けた日本語ポップスの誰もが口ずさめるヒットナンバーとは程遠い水準のように思えた。シングル盤に相応しい曲が無いのだ。窮する草野の頭にふと妙案が浮かんだ。そうだ、あの歌だ、ハマクラ(浜口
庫之助)さんがアフロ・クバーナで慈しむように歌っているあの歌でいこう。寂しかった僕の庭にバラが咲いたあの歌――。かくして、1966年春の東京に“和製フォーク・ソング”第一号が誕生することになるのである。(つづく)

(注1)この推測は、同年(1966年)秋、ロビー和田が、セイロン島の首都コロンボの素晴らしさを歌い上げた自作のフォーク・ソング「コロンボ」をシングル盤として発表し、日高義もまたセイロン島行きにインスパイアされたと思われる楽曲(詳細は次回述べる)を真木に書いていることによる。
(注2)メンズ・クラブVOL.52「セイロン島にて/マイク・真木」(1966年4月号)

 

(注3)中でも、黒沢進が行なった小山光弘氏(元フロッギーズ)のインタビュー証言は興味深い。小山曰く「フィリップスの本城さんという大プロデューサーがきて、新宿の喫茶店で昼の12時から(引用者註・フロッギーズが)プロになる、ならないで話しをするわけですよ。で、終わったのがね、夜中の12時。僕一人じゃどうしようもないから、金子(引用者註・洋明)さんや石川鷹彦さんや小室(等)さんを呼んだりして、説得してもらうわけですよ。“こいつら絶対にプロになりませんよ”と。それでとうとうあきらめてね、“それじゃわかりました、誰かプロになる人はいませんか”。僕が“あのう真木壮一郎さんて方、きっと僕やると思うんですよ”といって。それが『バラが咲いた』だよ。」(「資料日本ポピュラー史研究 GSとカレッジフォーク篇」1983年1月発行)。面白い話ではあるが、時系列に致命的な矛盾があり、信憑性は低い。恐らく、小山が黒沢相手に“かました”与太話の類であろう。

 

(注4)「熱狂の仕掛け人」湯川れい子(小学館)
(注5)赤旗(1966年6月12日)。なお、真木が蹴った「悲しき戦場」は、その後ケン・サンダースによって吹き込まれ、真木の「バラが咲いた」と同年同月(1966年4月)にビクターから発売された。

(注6)「澁澤雅英オーラルヒストリー」政策研究大学院大学(2004年1月)

1965年の秋から冬にかけて、眞木壮一郎は、盟友日高義が居を構える原宿駅近くの神宮マンション4D号室に入り浸り、オリジナルの日本語によるフォーク・ソング作りに没頭した。眞木とソングライティング・チームを組んだ日高は、新進気鋭のフォーク・ソング研究家であり、独創的なソングライターでもあった(注1)。彼は、2年前の1963年に4か月程渡米し、グリニッジ・ヴィレッジの「ビター・エンド」やサンフランシスコの「ハングリー・アイ」といった最先端のフォーク・クラブ、小劇場でのフーテナニー(hootenanny)など、当時アメリカの若者の間で大きなムーブメントとなっていたフォーク・リヴァイヴァルの魅力と熱気を直に体験していた。帰国した日高は、すぐさま、都内の大学キャンパスで先駆的かつ同時多発的に活動を始めていた学生フォーク・グループに連絡をとり、その年の秋、原宿のセブンスデー・アドベンチスト東京中央教会(現・ラフォーレ原宿に所在)に集合させた。これが、おそらく日本で初めて開催された“フーテナニー”ではないか(注2)。この「原宿フーテナニー(もしくは「日高フーテナニー」)」には、小室等率いるP.P.M.フォロワーズ、眞木、麻田らのモダン・フォーク・カルテット、後に小室の妻となるのり子の兄が在籍していたキャスターズなどのフォーク・グループが参集した。横のつながりがなく、「日本でモダン・フォークを演奏しているのは自分達だけだろう」と孤独の裡に己の感性の鋭敏さを自負していた20代前半の若者達は、この時初めて、同じ苦悩と喜びを抱えてフォーク・ソングの荒野を突き進む同志の存在を知ることになる。1963年、アメリカでは、夏にワシントン大行進、晩秋にケネディ暗殺という、ニューフロンティアに託した希望が悲嘆そして絶望へと大きく転換した年でもあった。

「ねぇ、ターちゃん(日高の愛称)、覚えてる? 中央教会に初めて集まった頃、ピート・シーガーが日本に来たよね」。眞木がバンジョーを爪弾きながら、愉快そうに話しかける。「あの時、ぼく達MFQのメンバーは、シーガーの楽屋に入れてもらったんだよ。それで、彼に『フォーク・ソングの歌手はどんな格好をしたらいいか』って質問したら、ひどく怒られてさ」。黒縁の眼鏡を押し上げながら楽譜にペンを入れる日高が苦笑交じりで応じる。「そりゃそうだ、彼は、キングストン・トリオじゃないんだからな」。「そうなんだよ。『フォーク・シンガーは歌を聴かせることに徹するべきで、服を見せびらかすようなことをしてはいけない』って言われてね。あの言葉は沁みたなぁ」。陽気に話す眞木は、黒のアルパカのカーディガンとチャコールグレイのスリムなスラックスでさりげなく決めた自らのアイビースタイルを見やりながら、「でも、やっぱり身だしなみも大事だよなぁ」と嘯く
(注3)

眞木と日高は、これまで日本にはなかったトピカル・ソングを作ろうとしていた。ディランやシーガーが、公民権運動やヴェトナム戦争をテーマに歌を作ったように、英米の民謡歌手が古くはタイタニック号の遭難、近年ではケネディ暗殺をも「うた」にしたように――。2人がまず目を付けたのが、この年の秋に大きく報道されたマリアナ海域での海難事故だった。1965年10月7日、南太平洋に出漁中の日本のかつお・まぐろ漁船10数隻が、台風29号の進路を避け、マリアナ諸島アグリガン島の島陰に退避していたところ、予想に反し台風の中心が同島海岸付近を通過。風速70メートル毎秒に達する暴風が吹き荒れ、荒れ狂う大波に飲み込まれた漁船7隻が次々に遭難。209人の犠牲者(死者1人、行方不明208人)を出す大惨事となった。
眞木は、この悲惨な海難事故を次のような詞にした。

マリアナの海遠く
マリアナの空遠く
消えた海の男たち  
静かにねむれ とこしえに

あれは南の海
広く青い海
かつお釣りの白い船
予期せぬ嵐29号

逆巻く荒波に
狂い叫ぶ嵐に
二度と帰らぬ二百余人

追いせまる波と風
逃れるすべもなく
自然のいかりを前にして
力尽きし船
今は木の葉

日高がこれにドラマチックな展開の曲を付けた。タイトルは「マリアナの海」。二人はその出来栄えに大いに満足した。職業作曲家による出来合いの歌ではなく、自分たちが本当に歌いたい歌、すなわち、若者による若者のための“本物のフォーク・ソング”が、今この国で生まれようとしているのだ。眞木は、まるでグリニッジ・ヴィレッジの古びたアパートメントで全世界に向けて歌という武器を投擲せんとするラジカルなフォーク・シンガーになったような、憧れのディランやシーガーと肩を並べたかのような、そんなすこぶる誇らしい気持ちになった。自信が漲り、歌は溢れ落ちるように生まれ出た。11月、国会議事堂前では日韓条約に反対する学生と機動隊が激しく衝突し、ブラウン管からは罵倒し合い掴みあう与野党議員の醜態が映し出され、窓を開ければ、空を覆う灰色のスモッグと道路を掘削するドリルの金属質な回転音、1965年秋の東京の風景が、若い2人の紡ぎ出す初々しい言葉と音符で次々とスケッチされていった。「同じ国に住んで」「君の町」「歌おうよ 叫ぼうよ」…、これらの歌は、年の瀬の12月19日から21日にかけて有楽町の日劇で開催された「フォーク・ソングフェスティバル」
(注4)における新生・眞木壮一郎の重要なレパートリーとなった。モダン・フォーク・カルテット解散後初のソロライブ。グループ時代と変わらぬ女子大生からの黄色い歓声を浴びながら、眞木は、この日、フォーク・シンガー「マイク真木」として新たな一歩を踏み出した。

ちなみにこの時、同じ日劇のステージに立ったのが、芝高校生と立教高校生の4人から成るキングストン・トリオのコピーバンド「オックス・ドライヴァーズ」である。揃いのアイビールックで「グリーンバック・ダラー」やオリジナルのユーモラスなフォーク・ソングを瑞々しくも躍動感たっぷりに演奏した彼らは、会場を埋め尽くしたフォークファンから割れんばかりの拍手を浴びた
(注5)。「やったナ」と特徴あるバリトンボイスでいたずらっぽく笑うのは、リーダーの立教高校3年、細野晴臣。彼もまたアメリカのフォーク・ソングに心奪われた、まだ何者でもない18歳の音楽少年であった。(つづく)

(注1)    日高義氏については、1966年当時の雑誌記事から現在のフォーク解説本に至るまで、元・日劇の演出家の日高仁氏との混同がしばしば見られる。混同例において最も顕著なのが、エリック・アンダーソンの「Come To My Bedside」の訳詞者の名義であり、高石友也「おいでぼくのベッドに」、岡林信康「カム・トゥ・マイ・ベッド・サイド」、加藤和彦「ぼくのそばにおいでよ」、これらはいずれも1969年に発表され、訳詞も同一の内容であるが、高石版は日高義名義(高石自身による解説にも「詩の日高義氏は以前、マイク真木君の詞や曲を多く手がけたこともあった人」と書かれている。)であるのに対して、岡林と加藤のバージョンは、日高仁名義となっている。ここから、日高義氏と仁氏は同一人物なのではないかと推測されるが、当時の記録によると、1966年当時、義氏は20代後半の青年であるのに対し、仁氏は35歳と年齢にかなり開きがある。また、仁氏が後に手がけた「星降る街角」などのムード歌謡曲も、義氏の作風とは違いがありすぎる。よって、同一人物説はとらないが、一方で、混同が起こっても権利関係等において問題が発生しない程近しい関係性にあったことは間違いないだろう。名前の類似性(義・ただし、仁・まさし)や両者の容貌の相似形から2人は兄弟ではないかと推察する。真相をご存じの方は是非情報をお寄せいただきたい。

 

(注2)    日本初のフォーク・フェスティバルは、1962年11月に銀座ガスホールで開催された「セアリーズ・ミーティング・ヒア・トゥナイト」(セント・ポールズ・フォーク・シンガーズ等出演)。一方、フーテナニー(フォーク・ソングを次々と歌い続けるスタイル)は、定説では、1963年12月31日に開催されたジュニア・ジャンボリー主催の「フーテナニー‘63」が日本初とされているが、その「フーテナニー‘63」にモダン・フォーク・カルテットを率いて出演した麻田浩氏当人が、「1963年の秋に原宿の教会でフーテナニーが行われるまでは、自分達しかモダン・フォークをやっていないと思っていた。それは、他のフォーク・グループも同じだったと思う。」と証言していることから、本文のように推測した。

 

(注3)    ピート・シーガーとのエピソードは、「平凡パンチ」(1966年4月11日号)の真木のインタビューより。
(注4)    1965年12月17日の読売新聞夕刊に掲載された「日劇フォーク・ソングフェスティバル」の広告は下の画像を参照。構成・演出は、前述の日高仁氏が担当した。
(注5)    当時の音楽雑誌によると、オックス・ドライヴァーズは、「うまさよりも、ワイルドな魅力を全面に押し出したユニークなチーム」で、十八番のキングストン・トリオのコピーのほか、「ヘンな日本語の歌詞のついたコミック・ソング」を演奏して「大いに観客を沸かせていた」らしい。翌1966年に細野が脱退した後は、ギター・バンジョー・ベースという編成の「オックス・ドライヴァーズ・トリオ」として活動した。

それは今朝のこと
通りを歩いていたら
牛乳屋さんに郵便屋さん
おまわりさんにも会ったよ
あっちの窓にも こっちの戸口にも
今まで気付かなかった人がいた

上へ!上へ行こう あの人たちと一緒に
どこへ行っても会えるよ
高み!高みを目指そう あの人たちと一緒に
ぼくが知る限り最高の種類の人たちだ

ぼくは見たんだ
南部から 北部から
強大な軍隊のように
あの人たちがやってくるのを
それは 王者にふさわしい
素晴らしい再会
人間が物質主義にずーっと勝ることを
その時ぼくは悟った

上へ!上へ行こう あの人たちと一緒に
どこへ行っても会えるよ
高み!高みを目指そう あの人たちと一緒に
ぼくが知る限り最高の種類の人たちだ

もっと沢山の人たちが 
あっちこっちでみんながね
己を捨てて人のために動くなら
悩み事や心配事は消え失せて
気づかい合いの灯がともる
社会不安や争いごとも無くなって
互いに理解し助け合うだろう

(Up With People 意訳)

1965年の東京のキャンパスでモダン・フォーク・カルテットはとにかく大変な人気者だった。麻田浩、眞木壮一郎、重見康一、渡邊かをるの4人の大学生によるフォーク・グループ。キングストン・トリオの凡百のコピーバンドから一歩も二歩も抜きん出て、ピート・シーガーやジェシー・フラー、レッドベリーなどの隠れた名曲を演奏する彼らは、真摯にフォーク・ソングの精神を追求する研究者であると同時に最新のアイビールックを恰好良く着こなし男性ファッション雑誌のモデルを務める華やかなファッション・リーダーでもあった。ステージでは、端正な顔立ちの麻田と眞木に人気が集中した。麻田がウッドベースを弾きながらヴォーカルを取ると“麻田派”の女性ファンは割れんばかりの歓声を上げ、眞木がバンジョーを奏でながら甘い声で歌い出だすと“眞木派”の少女達は負けじとキャーキャーと黄色い声援を送った。

そんな幸福なライブに明け暮れていたある日、――もう半世紀以上前の事で、記憶も混沌としているが、もしかするとそれは、4月に厚生年金会館で行われたスチューデント・フェスティバルの楽屋だったかもしれない。演奏を終えた彼らに「よ、お疲れ」と声をかけてきた若い男がいた。肉付きのよい逞しい体格に眉毛の濃い人懐っこい丸顔。彼らの後輩で共通の友人である和田良知である。本名、ロバート・良知・和田。19歳。日本人の父とオーストリア人の母を持つこの青年は「ロビー和田」と呼ばれていた。ロビーは、少年時代をアメリカンスクール、ドイツ学園と国際色豊かな環境で過ごし、英語、ドイツ語、オランダ語など語学に堪能であり、玉川学園高等部では、バスケットボール部のキャプテンを務めながら、青山学院高等部の眞木と「ファイアーサイド・ボーイズ」というフォーク・グループを結成していた。運命が大きく動いたのは高校2年の時。MRAから「音楽劇に加わって世界を回らないか」と誘われたのだ。受験勉強に浮き身をやつす高校生活に嫌気がさしていたロビーは同意し、高校を中退。ギターケースを抱え、MRAのグループと共に、インド、セイロン、台湾などアジア各国を回る音楽放浪の旅に出た。そして、帰国したロビーは、抜群の歌唱力と卓越した作曲能力を身に付けた優れたミュージシャンとしての顔と、反共宗教団体MRAのオーガナイザーとしての顔を併せ持つ童顔ながらもしたたかな「大人」の男になっていた。

「MRAを知っているか?」。ロビーは、麻田、眞木ら4人の前に座って、少し勿体付けて話し出した。後輩のくせに態度が大きいのはいつものことだ。4人は顔を見合わせた。キングストン・トリオの軽快なナンバー「M.T.A」なら知っているが、MRAなど聞いたこともない。訝し気な表情の麻田らをよそにロビーは口を開く。「道徳を通じた平和運動をしているアメリカの団体だ。夏にミシガン州のマキノ・アイランドで世界大会をやるのだが、そこに日本からバンドを1つ招待したいと言ってきている」。一拍置いてこう続けた。「僕は、君たちモダン・フォーク・カルテットを推薦したいと考えている。どうだ、行かないか、アメリカに。」
1ドル360円の時代である。海外旅行など政治家や財界人など一部のセレブ以外には夢のまた夢、貧乏学生にはとても手の届くものではなかった。それを何とタダで招待してくれるというのだ。しかも、尊敬するシーガーやディランを生んだフォーク・ソングの本場アメリカに! ロビーの誘いに対する彼らの答えは一つしかなかった。「行くに決まってるじゃないか、ロビー。是非推薦してくれ!」

7月末に羽田からアメリカに発った4人は、飛行機、汽車、フェリーと乗り継いでミシガン湖のずっと北、カナダとの国境近くにあるマキノ・アイランドのMRA訓練センターに到着した。バス・トイレと清潔なベッドが備え付けられた綺麗な宿泊施設、食事は、ジューシーなビーフパイ、肉厚のサーモンステーキ、デザートの甘いファッジ等々日本では食べたことのないものばかり。どれも美味い。世界中から集まった若者たちともすぐに仲良くなった。ヒューロン湖に囲まれた緑豊かな島の景色もこの上なく素晴らしい。いやがうえにも気分は高揚する。誰からともなく叫ぶような声が上がった。「歌おう! 叫ぼう! アメリカ中にぼくらの声を響かせよう!」。4人はMRAの選抜メンバー150人で構成された「Sing Out‘65」に加わり、アメリカを横断しながらの演奏旅行を体験することになる。その時のことを麻田と眞木は次のように証言する。

「僕らはアメリカに行って、すぐ帰ってくるはずだったんですが、『Sing Out '65』というショーで日本の曲を演奏することになり、3ヶ月くらいアメリカ中を回ったんですよ。これは凄く良い経験になりました。(中略)ただ、そのツアーは『道徳再武装運動』っていうくらいですから、男女の交際はダメとか色々厳しかったんですけど(笑)、それでも面白かったですね。若い子たちが100人くらい一斉に車に乗ったり飛行機に乗ったり、アメリカ中、いわゆるショーをして回るわけですよ。」
(注1)
「一番感動したのはケープ・コットという東海岸の避暑地のショーボートで演奏したときです。ぼくたちの歌が終わると、まわりにいたヨットやモーターボートが、拍手のかわりに汽笛を鳴らして、いっせいに集まってきた。ぼくたちはそこで、40カ国以上の国の若者たちと語りあったんです。」(注2)

「Sing Out '65」で演奏するモダン・フォーク・カルテット(左から、重見康一、麻田浩、眞木壮一郎、渡邊かをる)

モダン・フォーク調にアレンジした「こきりこ節」とジェシー・フラーの「サンフランシスコ・ベイ・ブルース」を演奏した。どこに行っても大いにうけた。ワシントンでは、ヒルトンホテルの豪華な舞踏場で共和党議員、外交官、財界のエスタブリッシュメントらを前に演奏し、ニューヨークでは世界博覧会、ハリウッドではハリウッドボウルにつめかけた3万人の観衆から割れんばかりの拍手を浴びた。戦後20年、日本人がギターを弾いてフォーク・ソングを歌っているというだけで珍しかったのだ。一方で、彼らの中にこんな感情も沸き上がってきた。
「すごい拍手を受けた。でも寂しかった・・・。『よくもまあ遠く日本からワザワザ、キングストン・トリオのマネをしにきたネ』・・・このようにその拍手は受け取れた。」
(注3)
アメリカのフォーク・ソングの物真似ではなく、拙くても「自分の歌」を歌いたい。特に眞木の中で、その思いが日に日に強くなっていった。
「日本ではフォーク・ソングという言葉はわりと新しいものだ。僕は高校の初めから興味を持ち、ごく一部の仲間の間で歌ってきた。また、自分では人のあまりやらないフォーク・ソングに早くから目をつけたことに、変なエリート意識を持っていた。だから、あまり多くの人に知られたくないと思っていた。ミーチャン、ハーチャンとは違うんだと思っていた・・・。大バカヤローのコンコンチキだ。そんな自分を今考えるとゾッとするくらいきらいだ。こんなチッポケな小児病は捨てよう。牛乳屋さん、おまわりさん、給仕さん、お医者さん、運転手さん、みんなみんなが歌ってこそフォーク・ソングなんだ。」
(注4)
麻田も思いは同じだった。しかし、眞木がMRAでの体験をストレートにそのまま歌にしたいと考えていたのに対し、麻田はもっとそれらの体験を咀嚼し自分のものにしてから歌にすべきではないかと感じていた。そのためにも、大好きなアメリカの音楽をもっともっと勉強する必要があると思った。大体、このMRAという団体は窮屈すぎるのだ。酒もダメ、遊びもダメ、男女交際などとんでもない?歌っている内容も、尊敬するガスリーやシーガーとはまるで違う。次は一人でアメリカに行くんだ。そのためにも帰国したら働いて金を貯めなければ…。

10月、わずかばかりのすれ違いを抱えたまま帰国した彼らは、月末にグループを解散。麻田は、大好きなミシシッピ・ジョン・ハートに会うことを目標に、旅費稼ぎのアルバイトに精を出した。残念ながらジョン・ハートは翌1966年暮れに亡くなってしまうが、麻田の再度のアメリカ行きは1967年に実現する。アメリカ大陸を1年間バイクで放浪し、デビュー前のジョニ・ミッチェルやジャクソン・ブラウンとも知り合いになった。それが後のTom's Cabinにつながっていく。
一方、眞木は、帰国後、早速「自分の歌」、すなわち、オリジナルのフォーク・ソング作りにとりかかった。曲作りのパートナーに選んだのは、数歳年上の気の置けない友人“ターちゃん”こと日高義(ただし)であった。そして自らのステージネームを少年時代からのニックネームである「マイク真木」に改めた。(つづく)


(注1)  Musicman-NETー LIVING LEGEND シリーズ ー【前半】新たな音楽&才能との出会いは一種の“麻薬”である Tom's Cabin代表、SXSW Asia代表 麻田 浩 インタビューより(https://www.musicman-net.com/focus/63655)
(注2) 週刊明星(1966年5月)「フォーク・ソング『バラが咲―いた』で人気爆発!マイク・真木の不敵な青春」
(注3)(注4)「マイク真木・フォーク・アルバムNO.2」(1966年9月)ライナーノーツより

1964年9月14日、カリフォルニア大学バークレー校の大学当局は、公民権運動の高まりを受け、これまでビラ配りや募金活動などの政治活動に使うことを黙認してきた正門前の舗道を使用禁止にする旨、学生諸団体に一方的に通告した。これに対し、学生達は、大学側の措置は合衆国憲法で保障された政治的権利の自由を奪うものとして強く反発。左右両翼を含むゆるやかな連合戦線「フリー・スピーチ・ムーヴメント」を結成し、禁止撤回を求めた。しかし、大学当局は学生達の要求には応えず、逆に抗議した学生の無期停学処分や警察力による活動家の排除を強行したため、紛争は激化。大学の管理部門が集中した最重要棟であるスポロール・ホール前では、連日シット・イン(座り込み)が決行され、ジョーン・バエズも支援のため何度も足を運んだ。そして、12月2日の集会で、バエズは「あなた達の力を奪い去ることは誰にもできないのです。今それを見せつけてやりましょう」と力強くスピーチし、歌で励ましながら、約1,000名の学生達と共に“平和的に”ホールを占拠した。翌3日未明、その晩の逮捕はないと判断したバエズがホールを出た直後、警官隊が構内に突入。無抵抗で座り込む学生達は暴力的に排除され、逮捕者は814名にのぼった。バエズは次のように述懐する。
「彼らは私を逮捕したくなかったのだと思う。何故なら、彼らにとって好ましからざる宣伝の種にされる恐れがあったからだ。(中略)この国の白人中産階級の若者たちの中に、たとえ本物の非暴力運動があったとしても、非暴力というのは、それで警官の警棒から身を守れるものではないことを知るべきだろう。その晩、彼らの中には、もし歌い続けていなかったら、パニック状態になって警棒がもっと激しく襲ってきたに違いない、ということを学んだ者もいた。だが、立派だったのは、彼らは勇敢だったし、怯えてもいなかった。そしてバークレーは、合衆国の諸大学の中に芽生えていた行動主義と危機の新たな段階を画したのだ。」
(注1)
かくして、1960年代後半に世界中で猛威を振るうことになる「スチューデント・パワー」の口火が切って落とされたのだ。
 

これに強い危機感を抱いた男がいた。「道徳再武装運動(MRA)」の新たな指導者J.ブラントン・ベルクである。彼は、戦後生まれの若者達の間に、現体制に対する不満が燎原の火のように広がりつつあることをいち早く予見した。同時に、フォーク・ソングが若者に与える影響力についても重く受け止めた。――バークレーでジョーン・バエズが果たした役割を過小評価することは間違いである。彼女の歌が学生達の叛乱の導火線に火を付けたのだ――。ベルクは、これまで演劇や映画を中心に展開してきたMRAのプロパガンダを、歌を中心としたものに切り替えることを決意した。1965年夏、ミシガン州マキノ・アイランドのMRA訓練センターにアメリカを中心に世界52か国から千人以上の若者を集めた彼は、その中から音楽を嗜む者を選抜し、プロのフォーク・ミュージシャンであり熱心なMRAの信者でもあるコルウェル・ブラザーズや演出家ヘンリー・カスの指導の下、歌と踊りで構成された一大音楽ショーを作り上げた。それは、約100名の男女混成のコーラス隊が、シンプルなコード進行の一見屈託無いフォーク・ソングを、満面の笑みを浮かべ、一糸乱れぬ振りで踊りながら大合唱するというパフォーマンスで、「Which Way America?(アメリカよ何処へ行く)」「What Color Is God's Skin(神様なに色)」「Design For Dedication(皆の責任 国づくり)」など、シンプルながらもその歌詞の内容はいずれもMRAの教義を的確かつ簡潔に人々の心に刷り込ませるものであり、ショーのフィナーレは、フランク・ブックマンの「融合」の思想を説いた人心改変(チェンジ)讃歌「Up With People」の大合唱で締めくくられた。下の動画を見れば、クリーンで健全でありすぎるが故の何とも言い難い一種異様な雰囲気が伝わるのではないだろうか。それは皮肉にも、MRAが最大の悪として徹底的に敵視した共産主義国家の“健全”で“皆笑顔”で“一糸乱れぬ”ショーによく似ている。ちなみに2分45秒から登場する女性4人のフォーク・グループは、映画女優のグレン・クローズが10代の時に在籍していたグリーン・グレン・シンガーズであり、今となっては貴重なグレン作による「The Happy Song」をワンコーラスだけ聴くことができる。経歴から抹消されているが、彼女も当時はMRAの忠実な伝道者であった。
 

このショーは「Sing Out‘65」と名付けられ、コネティカット、ニューヨーク、ワシントン、ニュー・メキシコ、カルフォルニアなどアメリカ各地を公演して回り、保守的な白人セレブ層を中心に驚く程好評を博した。大企業が次々にスポンサーとなり、数百万ドルに及ぶ莫大な資金援助を行った。特に大物右翼で福音主義者のパトリック・フローリー・ジュニアが経営していたシック(Schick)は、1時間のテレビ番組「Up With People」を提供するなど、最大の支持者となった。エクソンモービル、ハリバートン、ゼネラル・エレクトリック、トヨタ、コカコーラ、ファイザー、クアーズなどの大企業がその後に続いた。彼らは、この清潔で笑顔を絶やさない若者達のことを、自社の資産を共産主義の脅威から守ってくれる傭兵のように思っていたに違いない。

「Sing Out‘65」は、日本にもやってきた。1965年9月、総勢150名のメンバーがチャーター機で来日、北海道の千歳空港から入国し、中島スポーツ・センターで公演後、東京に移り、歌舞伎座、東京体育館、早稲田大学大隈講堂、日大講堂などで上演、大きな反響を呼んだという。東京体育館には7,500名の観客が集まり、佐藤栄作首相夫妻も観劇し、終演後舞台裏で出演者を慰労した。また大隈講堂では坂本九が特別出演した。
(注2)

この時の佐藤栄作の様子を、朝日新聞は「歌声に“我が意を得たり”」の見出しを付けて次のように報じている。
「『国会の所信表明演説では青年に訴える言葉を加えたい』と9日午前、橋本官房長官に指示した佐藤首相は午後、東京千駄ヶ谷で開かれたMRA(道徳再武装)の『歌の祭典』に出席した。世界各国から集まった青年達のコーラスを2時間もきいたが、その中で外国の青年が日本語で『日本はアジアの灯台。自由と希望に灯をともそう』と歌った時など首相は身を乗り出し、『いいねえ、いいねえ』の連発。『青年』づいた1日だった」
(注3)

「Sing Out‘65」には、日本の学生フォーク・グループも参加していた。それは意外にも、アメリカのフォーク・リヴァイバル運動の精神を正しく継承し、ウディ・ガスリーやピート・シーガーなどを歌っていた原宿教会フーテナニー派のモダン・フォーク・カルテットであった。当時、日本大学と明治学院大学の学生であったマイク真木と麻田浩がどうして道徳再武装運動の演奏旅行に加わることになったのか、そして、その翌年、日本に咲いた真っ赤なバラの話については、次回にゆずろう。(つづく)


(注1)    「ジョーン・バエズ自伝―WE SHALL OVERCOME」(矢沢 寛・佐藤ひろみ訳)
(注2)    アジアセンターODAWARA40周年記念 CD-ROM
(注3)朝日新聞(昭和40年10月10日朝刊)