AFTER THE GOLD RUSH

AFTER THE GOLD RUSH

とおくまでゆくんだ ぼくらの好きな音楽よ――

2005年9月、狭山の稲荷山公園で、焼けつくような猛暑と災害級の豪雨の中過ごしたあの2日間をぼくは決して忘れることはないだろう。そこでは、太陽が昇り沈みきるまで、木々の緑と一体化した土の匂いのする豊潤な音楽が演奏されていた。打楽器や電気楽器の増幅音すらかき消してしまう激烈な土砂降りの中でも――。ハイドパーク・ミュージック・フェスティバル。翌年の開催以降、それは経済的な事情により休止となった。

18年後の本年4月29日と30日、そのフェスティバルが奇跡的に復活した。再開に至る道程には主催者である麻田浩さんの尋常ならざる孤軍奮闘のハードシップストーリーがあったのであろうが、そのようなことは微塵も感じさせない明るく爽やかな笑顔でぼくらを迎えてくれた。(彼ほどテンガロンハットが似合う日本人をぼくはほかに知らない。)
稲荷山公園は、鮮やかな木々の緑、コンパクトな円形のステージ等々、そこだけまるで時間が止まっていたかのように何も変わっていなかった。

一方、主役の音楽の方は、どうであったろうか。ハイドパーク・ミュージック・フェスティバルは、1970年代初頭にこの地(狭山アメリカ村の米軍ハウス)に移住し、米国音楽をルーツとする優れたフォーク・ロックを創り出したミュージシャンに敬意を表しつつも、ノスタルジーに終わることなく、その進化形である現代(いま)の音楽も提示するユニークなフェスであったように思う。例えば、2005年に出演したラリーパパ&カーネギーママやSAKEROCKのように。

ぼくが参加した29日も、勿論素晴らしい音楽で溢れていた。もはやベテランの域に達しているが、EGO-WRAPPIN'や在日ファンクの熱演は幅広い年齢層の観客を波が立つようにスタンディングさせ、心地よく踊らせる魔法の力を持っていた。ギター1本でジャジーなグルーヴを繰り出しながらソウルフルに熱唱した田島貴男のパフォーマンスもさすがの一言であった。彼独特の節回しで「何度でも繰り返し諦めずアピールしよう この侵略戦争に反対であると」「音楽を奪うことはできない どんな圧力がかかっても どんなに威嚇されても」とシャウトすると、会場全体からウオーッという賛同と共感を示す歓声が沸き起こり、そのバイブレーションが夜の冷気に縮む身体を熱くさせた。彼が今これほど激しいラブソング=プロテストソングを歌っていることをぼくは不覚にも全く知らなかった。

加藤和彦トリビュートも選曲がフォークソングに偏り過ぎているきらいはあったが、北山修氏の軽妙な司会と松山猛氏の登場もあり、音楽だけでなくトークも楽しめる贅沢な内容であった。パフォーマンスとしては、加藤氏から生前譲り受けたというリゾネーターギターで弾き語るChihana(チハナ)の「光る詩」、そして「大学時代、牧村憲一先生から加藤和彦さんの音楽を教えてもらった」と話すカメラ=万年筆の佐藤優介とスカートの澤部渡らによるファンキーな「どんたく」が特に印象に残った。そして、トリのムーンライダーズ。かつて狭山アメリカ村で暮らし、今年2月に急逝された岡田徹氏に捧げたトム・ウェイツの「グレープフルーツ・ムーン」は、この特別な地で開催されたフェス初日を締めくくるに相応しい乾いたセレナーデであり、同時代を生きた同志に捧げるレクイエムのようにも聴こえた。

唯一残念に感じたことを書いておこう。それは、2005年のフェスでは匂い立つように濃厚に感じとれたルーツ音楽、すなわち狭山アメリカ村に根付いた音楽との連続性が希薄に思えたことである。要因としては、先の岡田氏や小坂忠、中野督夫など相次ぐ逝去によるオリジネーターの不在も大きいのだが、日本の音楽業界が構造的に抱える問題(その拙劣なガラパゴス化は米国ビルボード・ヒットナンバーの普遍的な質の高さと比較しても明らかであろう)に起因するようにも思えるため、それはまた別の機会に考察することとしたい。

思えば、このような大規模なライブに参加したのは、新型コロナウイルス感染症が世界中を席捲した2020年以来のことである。ミュージシャンと共にお気に入りのナンバーを歌い、叫び、少しばかり酔う中で、コロナ以前の日常が戻りつつあることを実感した。同時に、2021年9月のファームエイドの出演を断念した際のニール・ヤングの言葉が心のどこかで残響していたのも事実だ。

安全だと思えないからフェスに来ない人たちに、俺も同意する
それに、俺が演奏するのを観て、もう安全なんだとは思って欲しくないんだ
だから、君たちが安全だと思えるまで、または本当に安全になるまで、俺は演奏したくない
(※)

今、東京の感染者数はまた増えてきている。オミクロン株XBB系統の割合も上昇しており、実はもう第9波に入っているのではないかという気さえする。そんな中、明日8日から新型コロナは季節性インフルエンザと同等の5類感染症に移行する。感染状況の不可視化、すなわち、コロナがこれまで以上に見えない敵となり、無防備な人々を攻撃するような事態にならないことを祈る。もう、パンデミックや戦争や災害で死者が「数値化」されるニュースは聞きたくない。(そもそも、コロナの日々の死者数は、5類移行に伴い公表されなくなるため、「数値化」すらできない状況になるわけであるが。)

コロナ禍において、ぼくは一人の歌姫に魅せられ続けた。彼女の歌声は、美しく屈折し、優しくて残酷であり、透き通りながらドスの利いた凄みがある。それは、先月発表されたニューアルバム「Did you know that there's a tunnel under Ocean Blvd」にも満ちていて、「Norman Fucking Rockwell!」以降のラナ・デル・レイには、無条件で降伏状態なのである。


雑文失礼。次回は、「フォーク・ソングを殺したのは誰? その9」を――。

 

※中村明美「ニューヨーク通信」より(https://rockinon.com/blog/nakamura/199926.amp?__twitter_impression=true&fbclid=IwAR16De1DrcW1s1erwYxZMDa1SrsJngUUF0UDN3gt1Jv9kcNYM0rmspmC32E)
 

マーク・ボランの45年目の命日となる9月16日、ティラノザウルス・レックスの「King Of The Rumbling Spires」を無性に大音量で聴きたくなり、新宿三丁目のupset the apple-cartまで足を延ばした。あいにく目当ての曲はリストに無かったが、それでも極私的フェイバリット・ナンバーである「By the Light of a Magical Moon」と「Cat Black」を聴きながら一人献杯し、ボランの冥福を静かに祈ることができた。ティラノザウルス・レックス期特有の、アコースティックギター弦に激しくピックを叩きつけてストロークするパーカッシブなサウンドは、ヘッドフォンではなく、周囲の空気をびりびり震わす大型のラウド・スピーカーで聴いてこそ真価が分かると信じてやまない。彼のギターを馬鹿にする者は、恐らくロックン・ロールの神髄を何一つ理解していない無機質な技巧至上主義者であろう。断言するが、マーク・ボランは、唯一無二のセンスを持った優れたギタリストでもあった。

同日、届いたばかりの七尾旅人の最新アルバム「Long Voyage」をiPodで聴きながら帰途についた。酔客が行き交う新宿の雑踏で、マスク姿の疲弊した男女が吊革に体を委ねる最終電車の車内で、旅人の歌は、まるで子守歌のように優しく、同時にレクイエムのように悲しく胸に響いた。新型コロナウイルス感染症が世界中で猛威をふるい、差別、貧困、弾圧、暗殺、そして戦争が日常となったディストピアのような現代(いま)を、旅人は凝視し、熟考し、素晴らしい歌(ソウル)として昇華させた。「Wonderful Life」で歌われる「屋上で 飛び降りようか 飛び降りまいか 迷っている男」は、まさにぼく自身であり、「濃厚接触はいやだけど 商売相手にもたれて歩く ひとりのおんな」はもしかするとあなたなのかもしれない。ぼくたちは皆、「意図せざる航海、停泊」を強いられたダイヤモンド・プリンセス号の乗客であり、徴兵を怖れ、ギルティシンドロームに苦しむウクライナ市民なのだ。

以前からその傾向はあったのだが、ロシアとウクライナの戦争が始まってからは、前にもまして書くことがしんどくなってきた。2月中旬から6月上旬まで、御茶ノ水の米沢嘉博記念図書館で4期にわたって開催された「樹村みのり展」のことも一文字も書けないまま半年以上が経ってしまった。樹村みのりさんは寡作な漫画家で、一般に広く知られているとは言い難いため、このような企画展が開催されること自体驚きであったが、幸福なことに会期中多くの方が足を運ばれたようだ。
ぼくは、2月26日に訪問し、「贈り物」「ジョニ・ミッチェルに会った夜の私的な夢」「海辺のカイン」などの魂のこもった原画に圧倒された。中でも「わたしたちの始まり」(作中、ピート・シーガーの「We Shall Overcome」が印象的に使われている)とその続編で、政治の季節とベトナム戦争の終焉を詩的に描いた「星に住む人びと」は、ぼくより十数歳年上のベビーブーマーの青春を瑞々しく活写した名作であり、今も自分のそばにあり続ける大切な作品。その原画を見ることが出来たのは、本当に幸運なことであったと思う。


この日、渋谷駅前では、ロシアのウクライナ侵攻に抗議する集会が開催されていた。ぼくは、何だかしごく後ろめたい気分になり、俯きながらそこを通り過ぎた。

七尾旅人の新作についてもう一つ書いておかなければならないことがある。それは、このCD2枚組の大作が、“アルバム”というフォーマットで聴かれるべくして作られた作品であるということだ。配信サービスによる楽曲単位でのリスニングが主流となった今、アルバムの復権を掲げることは、音楽で生計を立てるアーティストにとって非常に勇気のいる決断だと思う。大体、今この時代に、4千円もの金を払い、1時間以上腰を据えてひとりのミュージシャンの楽曲を聴き続ける酔狂者がどのくらいいるのであろうか。かような絶滅危惧種に向けて、もしくは、新たなリスナー獲得を目的に、楽曲単位の切り売りではなく、アルバムというフォーマットを選択するのは、ビジネスとして全く賢い判断とは言えない。しかし、旅人は、あえてその道を選んだ。それは、ひとえに彼が音楽屋ではなく音楽家であることの証しであろう。「意図せざる航海、停泊」を強いられているぼくは、その志と才能に嫉妬するとともに、微かな希望を見るのだ。

 

 

昨年8月以来の更新である。今年はフォークソングに関する諸連載を再開させることを固く心に誓いつつ、コロナ禍で営業休止もしくは閉店となったすべてのロックバーとライブハウスに愛を込めて、お気に入りの曲のリクエストを捧げる。


You Didn't Have to Be So Nice/The Lovin' Spoonful(1965)

ジョン・セバスチャンの人懐こい笑顔をそのまま音符に置き換えたら、かくもハートウォーミングなポップミュージックになるのだろうかと思わせてしまう多幸感溢れるナンバー。イントロの弾むような三連のドラムに続けて、シンプルながらも春の街をスキップするかの如く躍動感あるギターのフレーズが心をときめかせる。そして何よりジョンのいつもよりすまして他所行き風でありながら、どこかシャツがはみ出している感じの微笑ましくもフレンドリーな歌声とジョー・バトラーの洗練されたニューヨークスタイルのコーラスが織りなすハッピーなサウンドは、幼き頃の意味も分からず幸せな気持ちが零れ落ちてきた初恋のフィーリングを思い出させる。季節はもう春――。

Captain Saint Lucifer/Laura Nyro(1969)

ローラ・ニーロの音楽は、静と動、陰と陽、正気と狂気のバランスが時に崩れそうになりつつも、ジャズ、ドゥーアップ、ブリル・ビルディング・サウンドといった幼少期から思春期にかけて寄り添い続けた音楽たちが、血となり肉となり、盤石な土台となって、ばらばらに引き裂かれそうな旋律を統合し、豊かでコクのある楽曲に昇華させているように思う。この聖なるルシファー船長に捧げる歌は、そんな彼女の音楽の特徴を散りばめたショーケースのような楽曲で、エキセントリックで不安定な揺らぎを見せる前半部から一気に華が咲いたように明るくなるリフレインへと移行する際のカタルシスは何物にも代えがたく、同時に夜と血に魅せられた残酷な少女の視線にたじろいでしまう。

Mellow My Mind/Neil Young(1975)

拝啓、ニール・ヤング様。あなたの歌声を聴いていると、日曜日の夕方に一人取り残されたような切ない気持ちでいっぱいになり、条件反射的に、飲めないバーボンをストレートで呷りたくなるから困ったものです。今だから正直に告白すると、あなたの歌を初めて聴いた16歳の時、暗い井戸の底で溺れかけているようなうら悲しいヴォーカルに馴染むことができず、CSN&Yのアルバム「デジャブ」は、あなたの「ヘルプレス」と「カントリー・ガール」が、デヴィッド・クロスビーの陰鬱で黒魔術的なナンバーよりもっと苦手だったのです。それがどうしたことか、幾度となく聴いているうちに、あなたの歌声がぼくの中にすぅっと入り込んできて、心が擦り切れた時、疲れ切って立ち上がれない気分の時、「なぁ、わけを話してごらんよ」とか「待ってても、誰も手を差し伸べてはくれないよ」などと、くぐもった声でぼそぼそと話しかけてくるようになったのです。以来40年、あなたの歌はいつもぼくのそばにあり続け、ふと後ろを振り返ると、人生の様々なシーンであなたのメロディーが聴こえてくるのです。「Mellow My Mind」におけるあなたの歌声は一際悲しく、その無防備なむせび泣きは、一方で号泣後の解放感にも似た清々しさすら感じさせるから不思議です。結局、ぼくは、死ぬまであなたの歌を聴き続けるのでしょう。

 

れもしない。2010年1月に、ぼくは、「フォーク・ソング派宣言」をし、フォークか、ロックか、などという二元論自体が全くのナンセンスであることは重々承知しつつも、あえてフォーク・ソングの側に立つことを固く心に誓ったのであった。その前々年から取り憑かれたように開始した東京フォーク・ゲリラに関する極私的なスクラップ・ブック作りは、ロック派の友人達にひときわ不評で、以来、音信不通になってしまった朋友のことなどを思い返すと、今でも一抹の寂寥感がせきあげてくるのだが、これもまた己の不徳の致すところなのでしょうがない。その頃、ぼくは、フォークとロックは、断じて対立する概念や音楽様式ではなく、正しく地続きの存在であり、であるからして一部のオールド・ロック・ファンが礼賛するこけおどしの暴力性や露悪趣味とは無縁の地点に、両者に共通するアティチュード(「原初的な感情の発露」や「孤高の精神性」といったもの)が存在すると思っていた。その考えは10年以上経った今もほぼ変わらない。だから、ロックを「様式」として捉える一群の人々とは、これから先も一切交わることはないだろう。思い出してみてほしい。女性を物のように扱い、高級ホテルのスイートルームを滅茶苦茶に破壊することを「ロックン・ロール」と称する幼稚でマッチョでそのくせセレブで鼻持ちならない麻薬中毒者に支配されていたあの頃のロックとやらを。ドラッグと快楽により骨抜きにされた「怒れる若者達」の末路を見てほくそ笑んだのは一体誰だったのか? LSDとCIAの抜き差しならぬ関係性といい、権力側の安全弁として機能し、あざとく利用された疑念すらあるロックの黒歴史から目を背けるべきではない。


かくも偏ったロック観を持つぼくが、「ロックエイジ宣言」を銘打った文章を書くことになるとは、全くもって皮肉なものである。前回の記事で紹介したロックバー「Upset The Apple-Cart」のマスターGさんこと西川宏樹さんから再度お誘いいただき、先月末刊行された「ロックバー読本」の第4弾に、またしても同人として名を連ねさせていただいた。(今回は、マスター命名のHRD名義)。これは全くの個人的な見解だが、前作の「新型コロナウイルスをぶっ飛ばせ」は、やや書き急ぎすぎ感のあるエッセイが散見され、熱く滾るものを感じた前2作(「すべての心若き野郎どもへ」及び「同Part.2」)ほどにはノレなかった。しかし、今作はまるで違う。度重なる緊急事態宣言下でのノンアル営業により強制的に酒断ちされた効果であろうか、文章のキレや冴えが見違えるように復活し、得意の猥談も程よい塩梅で、何より行間からロックとソウルへの粘っこい愛がスティッキー状に滲み出してくる、そんなファンキーで愛すべき不良音楽読本となっている。特に今年1月に急逝した高円寺のロックバー「ネブラスカ」の名物マスター信さんに捧げた一文は、寂しさの中にも飄々とした可笑しさがあり、読後感爽やかな名文だなァといたく感心した。
 


それにしても「ロックエイジ宣言」とは難しいお題だ。ぼくは、ロックが完全に凪の時代に入り、パンクも終焉期を迎えようとしていた1980年から意識してロックを聴き始めたので、リアルタイムでの音楽体験は必然的に貧弱なものとならざるをえない。そのような中、15歳のガキだったぼくが同時代的に激しく心を揺さぶられたのは、クラッシュの「Train in Vain」、エルヴィス・コステロの「Accidents Will Happen」、ジャムの「Going Underground」、そして、YMOの「Nice Age」、アナーキーの「Not Satisfied」といったシンプルでパンキッシュなナンバーであった。しかし、これらの楽曲は、少年期から青年期にかけての自分自身とあまりにも一体化しすぎているため、言語化することが大変難しい。どうしても客観的な文章にはなりえず、感傷的で赤面ものの「自分語り」になってしまうのだ。個人ブログならそれでも一向に構わないのだが、さずがに人様の書物の中で、独りよがりな「思い出巡り」をするのは気が引ける。ならば、自分との間に一定の距離感があり、恐らく他の誰とも選曲が被らず、しかし、そこそこ有名で、かつ、現在進行形で聴き続けている曲という観点で選んだのが、ジェファーソン・エアプレインの「We Can Be Together」であった。


この歌の歌詞は凄まじく過激だ。十数年ぶりに訳してみて、(政治党派のアジテーションからの引用など)詞の構造における、頭脳警察「世界革命戦争宣言」との相似形にあらためて驚かされた。以下、意訳である。
 

僕たちは一緒になれる あぁ 君と僕 連帯しよう

アメリカ帝国主義からみれば 僕らみんな無法者

生き残るために 盗み 騙し 嘘をつき 偽造し 畜生!ヤミの取引をする

僕たちは 卑猥で 無法で 醜く 危険で 汚く 暴力的で そして 若い

けれど 僕たちは一緒になるべきだ

さぁ 皆おいで

人生って 本当はとても素晴らしいものだから 連帯しよう

 

(資本家の豚どもよ)

お前達の私有財産は 敵に狙われている

そしてお前たちの敵は 僕たちだ

僕たちは 混沌と無秩序の力

誇りを持って 事を成す

 

壁に向かって立て

壁に向かって立つんだ マザーファッカー!

壁をぶっ壊せ!

ぶち壊すんだ その壁を!

 

さぁ 皆おいで

一緒に やろうじゃないか

連帯しよう 団結しよう

友よ 手を携えて 今 ここで おっぱじめよう

大地と炎が燃えさかる新しい大陸で

 

壁をぶっ壊せ!
ぶっ壊せ!
ぶっ壊せ!
ぶっ壊せ!

ぶち壊すんだ その壁を!

君もやってみないか?

 

かくも荒々しい決意と覚悟に満ちた歌をぼくは他に知らない。思想的には一定の距離を置くが、嘘偽り無いピュアなロック・スピリットには無条件で共鳴せざるをえない。そしてこの後、フォーク・ロック及びサイケデリック・ロックの開拓者であった彼らが、1970年代は彷徨える宇宙船となり、80年代には産業ロックの波に飲み込まれ、無様に崩壊していくことを想起すると、フォークかロックかなどと二者択一的に音楽のジャンルを論ずることは悉に無意味かつ不毛であり、つまるところ、「今、何を歌うべきか」という創作の動機と作品の質のみが評価の俎上に載せられるべきであろうと考えるのだ。


いまはもう長すぎるコンチェルトなど
聞いている時ではない
かけていって抱きあげなければならない
けが人で世界はうまっている

(詩 山内清)

その意味において、中川五郎氏が1960年代後半に大阪府高石市役所に勤務する詩人の山内清氏と共に作り、当時、梅田や新宿の地下街、地下広場で多くの人々に歌われたプロテスト・ソング「うた」は、清々しい程、評価に値する曲と言えよう。この世の中から、戦争や差別や貧困が無くならない限り、いや、もっと身近な問題に換言すれば、拙劣な労働環境、イジメ、虐待やDV、さらに言えば、新型コロナウイルス感染症の脅威が厳然として存在する限り、この歌のメッセージは何ら古びることはない。かように普遍性のあるフォーク・ソングが1970年以降、歌い継がれることなく、時代遅れなものとして忘れ去られ、打ち捨てられてしまったことが残念でならない。(だから、ぼくは、誰からも歓迎されない「フォーク・ソング派」として、後ずさりしながら、敗北の要因を探り続けるのだ。)

 


その「うた」が、50年の時を経て、静かに息を吹き返した。先月30日にNHK BSプレミアムで放送された「新日本風土記~東京の地下」でのこと。この番組もまた、制作者側の強靭な決意と覚悟を感じさせる良作であり、何より、元東京フォーク・ゲリラの大木晴子さんが、イラク戦争勃発直前の2003年2月から新宿西口地下広場で継続している「反戦意思表示」の様子をテレビで初めて放映したという点において画期的なドキュメンタリーであった。


「歌で戦争が止められるって、本当に純粋に思っていた若い時代ですから、一生懸命歌いましたね」と穏やかに話す大木さん。今は大きな声で歌うことはないが、手書きのプラカードを通して、広場を行き交う人々と心のキャッチボールを試みる。
「一番権力が怖いのは、市民の心が繋がっていくのを消したいんじゃないですか」。
52年前の夏、市民が自由に集まり、歌い、議論をした「広場」は、一夜にして「通路」となり、歌声は力ずくで弾圧され、圧殺された。同じような光景が、より激烈な暴力と多数の怪我人と死者を伴って、今も、香港で、ミャンマーで、アフガニスタンで繰り返される。大木さんは、新宿西口地下広場からそのような世界を見遣りながら、ひとつひとつの言葉を慈しむように「うた」を歌う。歌には人と人との思いを繋ぐしなやかな力がある。それを怖れることなく、活かすことが、今、ぼくたちに求められているのではないか。

 

昨年10月下旬、ぼくは5年ぶりにその店の重たい扉を開けた。途端に耳に飛び込んでくる大音量のハードロック。レスリー・ウエストの豪快なリードギターとパワフルなシャウト。マウンテンの「Never In My Life」だ。暗い店内では、背広姿の中年男性2人がカウンターの両端に座り(見事なソーシャル・ディスタンス!)、グラス片手に、首を少し上下に振りながら、音楽に聴き入っている。先客との距離を空け、中央の座席に腰かけると、カウンター奥からぬっと現れた強面のマスターがiPadを差し出しながら声をかけてくる。「おう、久しぶりだな」。

新宿三丁目の雑居ビル3階にあるロック・バー「Upset The Apple-Cart」。マスターのGさんこと西川宏樹氏は、自称「人生で2度ロック・バーを開いた狂人」。つまり、この店は、彼にとって2軒目となるロック・バーだ。店のシステムは、至ってシンプル。iPadに収録された膨大な楽曲リストから聴きたいナンバーを探し、紙にアーティスト名と曲目を書いてカウンターに置けばよい。音楽に貴賎無し、この店では、ビートルズも松田聖子もザ・バンドも早見優も同列だ。リクエストは全て受け入れられる。それどころか、マスターもしくは同人から、絶妙なセンスのアンサーソングが贈られることもしばしば。ぼくは、この返歌のメドレーを通して、ジャニス・ジョプリンのスワン・ソングやホット・ツナの洒落たアコースティック・ブルースナンバー、そして、初期のロッド・スチュワートの素晴らしさを学んだ。

さて、ぼくが久方ぶりにこの店を訪問したのには訳がある。それは、緊急事態宣言発令に伴う休業期間中に、“転んでも只では起きぬ”マスターが上梓した電子書籍「ロックバー読本:すべての心若き野郎どもへ」が何ともいえずピュアで、真っ直ぐなロック・スピリッツに満ちており、いたく共感するとともに、強く背中を押された気分になったからだ。曰く「お前は今も転がり続けているか?」。ぼくは、随分前から、社会的に地べたに這いつくばった状態でいることを甘受しているが、のし上がることは最早無理だとしても、転がることならまだできるかもしれない。そう思わせる何か(Something)が、マスターの文章にはあった。

そこで、本の感想だけ伝えて、早々に引き上げようと思っていたのだが、不覚にも久し振りに外で飲むバーボンの甘さと香ばしさ、そして全身を直撃する爆音の心地よさにやられ、途中から一切の記憶を失い、気付くと、午前3時、旧新宿厚生年金会館前あたりをうろうろと千鳥足で歩いていた。思えば、初めてこの店を訪問した時も、厚生年金会館跡地に移転したかつての名店「Rock in Rolling Stone」があまりにも酷くて、半ば絶望しながら、大学時代の悪友3人でとぼとぼ歩いて行ったのだ。(そのことを今になって思いだした。7年前の秋、ぼくは確かにモビー・グレイプの「Hey Grandma」をリクエストした。)

翌日、店のfacebookに、酔いつぶれたことを詫びるメッセージを送ると、すぐにマスターから返事が来た。幸いなことに、記憶が途切れている間も終始上機嫌な様子であったらしく、一切迷惑はかけていないとのこと。ほっとしたが、一方で(この時期の東京の陽性者数は1日100~200人程度であったとはいえ)、一歩間違えれば感染拡大につながりかねない自らの軽率すぎる行動を猛省するとともに大いに恥じた。マスターからは続けて、「ロックバー読本第3弾の原稿を同人から募っている。テーマは『My Music Life With COVID-19』、気が向いたら君も書きたまえ」とのお誘いがあり、締切は今日中との無茶ぶりに唖然としつつも、同人の仲間入りをさせていただく絶好の機会と、興奮状態でザザっと原稿を書き、マスターに送った。その書き下ろしならぬ書き殴りの散文は、先月刊行された「ロックバー読本:新型コロナウイルスをぶっ飛ばせ」に無事掲載された。文章に添えたリクエスト曲は、ビーチボーイズの「Long promised road」である。

 

 

先にUpset The Apple-Cartは、マスターの2軒目のロック・バーと書いた。2軒目ということは、当然のことながら1軒目の店舗が存在する。それが、1990年代に音楽系酒場の新たな潮流を創ったとも言われる伝説のロック・バー「コモン・ストック」である。一流大学を卒業し、大手総合商社と大手都市銀行の若き企業戦士であった2人の若者(火ダルマ・ブラザースG&A)が、親や会社の反対を押し切り、ドロップアウトして、バブル末期の西新宿につくりあげたはぐれ者のためのシェルター。そこに編集者であり腕利きの料理人でもあったコーが加わり、美味い料理と酒と、そして何より1960年代から70年代にかけての最高のロックを最大級の爆音で聴かせる店が誕生した。

そんな彼らが1991年に出版した「ころがる石ころになりたくて」を先日ようやく読むことができたのだが、ブルース・ブラザース、リチャード・マニュエル、And Your Bird Can Sing、シー・ユー・アゲイン雰囲気、ヴィム・ヴェンダース等々、彼らが好きなものは、ぼくの好みとほぼ一緒で、思わず「おぉ同志よ!」と肩を叩きたくなる思いに駆られた。同時に、90年代最後の年、消耗したAが客からのリクエストを一切けなくなったのを機に、彼らの青春も、西新宿の砦も共に終焉を迎えたのではないかと想像すると、この希望に満ちた青春譚が指し示すものも、つまるところ、閉塞感に支配された現在であるように思え、切なくて胸が痛くなってしまうのだ。

「コモン・ストック」は、幻のロック・バーでもあった。狭いエリアにブートレグ屋が密集する西新宿7丁目にありながら、奥まっていて、なかなか辿り着くことのできない店だった。極度の方向音痴のぼくは、いつも道に迷い、結局、飲み代は、ディスクランドやUK EDISON での猟盤経費に消えた。今回、Googleマップを頼りにかつて店があった場所を歩いてみると、驚いたことに、そこは、20数年前の通勤経路沿いであることが判明した。新宿警察署から青梅街道を渡ってすぐの寂れた小道を直進したところ。左側に天理教の建物があり、その向こうには、芸能事務所の若プロダクションや当時贔屓にしていた亀寿司があった。さらに直進すると、小滝橋通りへと続く小道に突きあたる手前右側に、古びた3階建ての雑居ビルが現れる。このビルの地下に「コモン・ストック」はあった。

90年代半ばまで高田馬場に住んでいたぼくは、この道を、つまり、探し続けていた幻のロック・バーの店先を何百回も自転車で通り過ぎていたのである。20代だったあの頃に、火ダルマ・ブラザースG&A、そしてコーさんに出会っていたら、ぼくの人生はまた違うものになっていただろうか? 東京で新型コロナの新規感染者が初めて千人を超えた日の翌朝、「コモン・ストック」跡地で、ウォーレン・ジヴォンの「Hasten Down The Wind」を聴きながら、そんなことを考えていた。


※ ストリートビューの2009年の画像は、閉店から10年経ってもなお、コモンストックのメイン・キャラクター火ダルマ(DARUMA)が、主の去った店先で、風に吹かれ、転がりつづけていたことを教えてくれる。
「風がビルの城壁を形づくっていた石を路上に投げた。いま路上(道端)のひとつの、いやふたつのちっぽけな石ころになったという実感がある。そしてその石ころはころがっている。ころがりつづける。」(火DARUMA BROTHERS G&A著「ころがる石ころになりたくて」)

(1/3追記)マスターからの貴重な指摘をいただき、コモン・ストック閉店の経緯に関する文章を一字修正した。

新御茶ノ水のウッドストック・カフェはとても素敵な店だ。ウッディな店内は掃除が行き届き、いつも清潔である。そして小さな本棚には、マスターお気に入りのセンスの良い音楽本が何冊も並んでいる(鶴見俊輔の「限界芸術論」とデイヴィド・ドルトンの「ローリングストーンズ・ブック」が同じ棚に収まっているのを眺めるのは痛快である)。酒はまぁまぁだが、ワンコインでビールやスコッチを飲めるので、懐も痛まない。何より、アコースティック・ライブの音響が素晴らしい。オーディオ方面には疎いのでメーカーや型番はさっぱり分からないのだが、なにやら大変性能の良いスピーカーが設置されているようだ。


昨夜(11月7日)開催されたよしだよしこさんのライブも、アコースティック・ギターとマウンテンダルシマーの音色の響きがすこぶる美しく、ぼくはまるで上質なコンサートホールで室内楽を聴いているようなそんな錯覚にとらわれた。しかし、よしこさんの「うた」はメロディー、歌詞、ヴォーカル、そして楽器演奏のどれをとっても名人芸の域に達している。驚くべきは、還暦を超えてから、それらがさらに進化し続けていることだ。この日アンコールで歌われた新曲は、世界を大きく動かした2人の少女マララ・ユスフザイさんとグレタ・トゥーンベリさん、そして世界中の“マララとグレタ”、すなわち、日常生活の中で変革に向けたさりげない一歩を踏み出す若者達に捧げられた。目線がまっすぐ前を向いた実に良い歌であった。かくも鮮度の高い、魅力的な曲を作り続けることができるのは、彼女のアンテナの鋭敏さ故であろうか。それとも研ぎ澄まされたリベラルな感性によるものであろうか。

よしこさんの秀逸な訳で歌われるカバー曲も素晴らしかった。マーク・ベノの「ドーナッツ・マン」(詩は高田渡さんとの共作である)、ジェリー・ガルシアの「ブラック・マディ・リバー」、そして、ザ・バンドの「オールド・ディキシー・ダウン」は、逆説的に最早彼女の代表作といっても過言ではないだろう。「崩れ落ちるものを感じるかい?」と題されたそれは、奇しくも、今この瞬間にテレビやネットが映し出すアメリカの熱狂と狂乱を予見していたかのようなバラッドであり、あらためて良質な歌のみが持ち得る普遍性について考えざるをえなかった。

 

焼野原のふるさと 黒山の人だかり

昨日まで将軍だった奴の処刑があるという

誰かが俺に石ころくれて自由を祝って投げろという

でも知りたいことがあるんだ いつも本当の敵はどこにいるんだい?

崩れ落ちるものを感じるかい?

鐘の音響く夜に 崩れ落ちるものを見ただろう?

皆が酔いしれる夜

1963年11月22日が大きな転機であったように思う。ボブ・ディランはこの日以降「ハリケーン」に至るまでの13年間、社会を直裁的に鋭く告発するプロテストソングを封印し、幻想と混沌の中に「痙攣する美」を探し続ける“転がる石の放浪者(ボヘミアン)”となった。そこには、CIAが巧妙に仕組んだフォークソング無力化計画及びLSDとアンファタミンでこの世界の最良の人々の知性と理性と良心を完膚なきまで破壊し、ただひたすら“カッコよさ”と“気持ちよさ”のみを追い求めるロック・ミュージックなる快楽(ガス抜き)音楽の跋扈を許し、ひいては若者達の非政治化と保守化が推進されたと言っては、陰謀論の誹りを免れないであろうか。

しかし、そのロックもついに終焉の時を迎えたようだ。鋭く空間を切り裂くようなフレーズで時代と対峙したリードギタリスト、そして、魂の叫びの如きシャウトで若者を扇動したヴォーカリストは、マンネリ化とルーティン化という勝ち目無き後退戦に自ら突入した後、自明の理として、表舞台から一掃され、新たなステージには、ミニマルなヒップホップと最新型ポップ・ミュージックがクールな佇まいで鎮座する、それが2020年の大衆音楽を取り巻く風景である。

そもそも、すべての商業音楽は、巨大資本や政治体制という“釈迦の手のひら”で踊る孫悟空のようなものなのだ。権力者が許可した範囲内での管理されたレジスタンス。その一線を超えてしまった者は、追放され、つぶされ、殺される。ディランが、1963年11月22日以降、社会の病巣ではなく、自分自身をテーマに歌い出したのは賢明な選択であった。何はともあれ、彼は生き延びることができたのだ。もし、権力の急所を容赦なく攻撃し続ける“政治的なジェームス・ディーン”であり続けたなら、ビートルズの全米制覇と入れ違いに、ニューヨークのどこかの街角で撃ち放たれた一発の銃弾が確実に彼の命を奪っていたことだろう。

そして今、世界史に永く刻まれるであろう陰鬱な厳冬の如きコロナの時代に、齢79歳のディランが、自らのターニングポイントとなった1963年11月22日、すなわちあの晩秋のダラスに立ち返り、壮大な叙事詩を紡ぎ出す。その歌「Murder Most Foul(最も卑劣な殺人)」は、ジョン・F・ケネディ暗殺から、ブリティッシュ・インベンション、ウッドストック、オルタモントとへと時を進め、ジャズ、ブルース、ロックンロール、フォークソング等の米国文化の底流をなす名曲のタイトルで用心深くカムフラージュしながら、国家の暗部を抉り出す。ケネディ暗殺の翌月、全米緊急市民自由委員会(ECLC)主催のトム・ペイン賞授与式で「(ケネディを撃った)リー・オズワルドの中に自分自身を見た」とスピーチし、激しいブーイングを浴び、米国中のリベラル陣営を敵に回した22歳の青年が、57年後にあらためて問う陰謀の真実。その覚悟を、今日も最前線でたたかう仲間と共有したい。

 

 

最近は、オンライン飲み会なるものが静かなブームのようです。ぼくは、家で一人本を読んだり、音楽を聴いたりしている時間が何にも代えがたい至福の時であり、そもそも大勢でワイワイやる飲み会自体が好きではないので、このような会はまったく縁がないのですが、それでも、人と人との空間的に緊密なコミュニケーションが忌み嫌われるご時世にあっては、便利なツールが生まれたものだと感心しています。


一方で、オンとオフの区別なく、友人と思しき人々と常にお付き合いしなければならない今の時代は、何と窮屈で生きづらいのだろうとも思ってしまうのです。集団の中にあっても「個」を埋没させることなく自分らしく生きていくには、その人自身の強さは勿論のこと、それなりに恵まれた環境も必要な気がします。その意味において、SNSは、本来すべての人が平等につながり、存分に「個」を活かせるツールであったはずなのですが、残念ながらそこでも集団の力学が働き、「個」が希薄化しているように思えるのです。例えば、フォロワーや友人の数で人の価値を判断する傾向、また、インフルエンサーに嫌われたくないがために、暴言を諫めることもせず、見て見ぬふりをしている愚かな「大人たち」、つまるところ、そこは現実の醜い人間社会の縮図でしかないのです。

まもなく非常時は終わり、いつもの場所で真の友人に再会できる時が来るでしょう。同時に、満員の通勤電車、人波でごった返す繁華街、深夜までの重労働といった戦場のような日常も唐突に再開されることでしょう。その時に、ぼくはぼく自身のままでいたいし、あなたはあなた自身でいてほしい。もっと言えば生き抜きたいし、生き抜いてほしい。ゾンビーズのこの歌は、まるで結婚披露宴かホームパーティ―を開催しているかのように友達の(カップルの)名前が沢山出てきますが、よく聴けば、主人公はとても孤独な人だということが分かるはずです。孤独であることはさほど悪くない、いやむしろ、「個」を守り抜くうえで必要不可欠な時間だということを噛みしめがら、来るべき第二波に備えようと思うのです。

 

働けども働けども金も無く、時間も無く、睡眠もろくにとれずという三密ならぬ三欠生活が続いている身としては、無条件で10万円がもらえるなど、夢のような話のはずなのですが、今回ばかりはそうも言ってはいられないのです。何故なら、ぼくの仕事は緊急事態宣言以降、猫の手も借りたい程忙しく、結果として給料はプラマイゼロという逆説的に恵まれた境遇にあるからでしょうか、心の中のジキルとハイドが相反する意見をぶつけ合って、引き裂かれそうな気分なのです。以下、恥をしのんで、我が心中の葛藤を披歴しましょう。


<ジキル>
今回の自粛要請でその日の暮らしにも困っている人を差し置いて、どうして将来の世代に大きなツケを残すであろう毒饅頭の如き10万円をホクホク顔で受け取れるものでしょうか。ぼくは経済的に平均以下のプアーな暮らしは、自らの甲斐性無しゆえ甘受しますが、精神的に平均以下のさもしく卑しい人間であることは断固拒否します。
巷では10万円で寄附をという話もききますが、経済的に余裕のある方はこういう時だからこそ自分の財布から分相応のお金を出すべきと思うのです。ぼくたちの血税から10万円をちゃっかり受け取っておいて何か良きことのために使うからなぞと悦に入っている小金持ちには、いやいやそもそも、一人が皆を、皆が一人を支えるために税金はあるんじゃないのと言いたくなるのです。
困っていない人は10万円の受け取りをキッパリと拒否することが「困っている人により厚く、より重点的に補償すべき」という正論を貫く決然たる意思表示となり、同時に子供や孫の世代に膨大なツケを残さないという点においても最も賢明な選択と考えるのですが、いかがでしょうか? さらに言えば、このアベ政権の行き当たりばったりの愚策に対し、少々やせ我慢をしてでも反対しなければ、これまでの批判は一体何だったのかということになりはしませんか? さらに加えて言えば、最近、影響力のあるセレブな方々がこぞって言い出している「自分も10万円を受け取る」宣言や、「受け取り拒否は悪」論は、発言の意図がどうであれ、個人の選択の自由を奪う同調圧力以外の何ものでもないということを申し添えておきます。

<ハイド>
先日、テレビでライブハウスの老舗ロフトプロジェクトの苦境が報道されていました。個性的なオーナーに対しては思うところが多々あるハコですが、それでも、半世紀にわたって日本のライブ文化を創ってきた功績や、社長の加藤梅造氏に対する大なり小なりの恩義などから、何か自分に出来ることはないだろうかと考えました。そうなると、クラウド・ファンディングで寄附をするか、無観客ライブの有料配信を視聴するくらいしか思いつかない。要はお金を何らかの形で届けることが一番の救済策であるということにあらためて気づかされたわけです。
その意味において、今回の10万円はチャンスだと思うのです。政府や財務省に任せておいても、どうせぼくたちの税金はろくな使われ方をしないでしょう。ならば、ぼくたち自身が、それぞれの信念に基づいて、よりマシな使い方をすればいいわけです。困っている方は、自分のために使い、困っていない方は、コロナとの戦いの最前線にいる医療従事者に寄付するもよし、苦境に陥っているお気に入りの店やアーティストを支援するのもよいでしょう。
次の世代に負債を残さないためにも、おのおのが10万円を有効に使うべきです。辞退など絶対にすべきではありません。とにかく受け取ること、そして、願わくば、お上が絶対に手を差し伸べないような場所にお金を確実に届けること、これが困っていないぼくたちに課せられた使命のような気さえするのです。

☆☆☆
NHK「ドキュメント72時間」のテーマ曲でもある松崎ナオの「川べりの家」は、彼女の20年以上のキャリアの中でも突出して優れた楽曲であり、畢生の名曲と呼ぶにふさわしい作品といえるでしょう。どこか中期ビートルズを想起させる浮遊感のあるメロディのセンスもさることながら、言葉の選び方が何より素晴らしいのです。「川のせせらぎが聞こえる家を借りて耳をすまし その静けさや激しさを覚えてゆく」あるいは「水溜まりに映っている ボクの家は青く透け 指でいくらかき混ぜても もどってくる」というフレーズ、そして非常時の今は「幸せを守るのではなく 分けてあげる」という言葉に励まされるのです。ぼくは、心の中のハイド氏を支持します。

 

今、日本は、妙な空気に支配されているような気がします。ほぼ無人の街と化した新宿や渋谷の大型ビジョンで感染拡大防止を呼び掛けるあの人こそ、東京中に感染を広げてしまったA級戦犯のように思えてしょうがないのですが、世間での受け止められ方はどうも違うようで、むしろぐんぐんと株を上げているというのは、忘れやすい国民性ゆえなのか、強そうなリーダーを無条件で支持してしまう農耕民族気質ゆえなのか、今ひとつわからないところなのです。


ジョン・レノンがビートルズ解散後に発表したソロアルバム「ジョンの魂」は、非常に重たいアルバムです。このアルバムでジョンは、「キリストもブッダも ヒトラーもケネディも エルヴィス、ディラン、そしてビートルズも信じない」と言い切り、これからは自分自身とヨーコさんだけを拠り所に生きていくことを世界中のビートルズファンに宣言しています。どこまでも自分自身であり続けること、空気やムードに流されずに生きていくことは、年を重ねるほどしんどく、なかなかに大変なことではあるのですが、特に今のような時代にあっては、そのような生き方こそが唯一無二のプロテストであり、プロテクトでもあることを、このアルバムは教えてくれるようです。

「Hold On」はアルバム2曲目に収録されたシンプルながらも大変美しいメロディを持った小曲で、「しっかりジョン」という絶妙なセンスの邦題でも知られています。ジョンは、この曲の1番で、自らとヨーコを鼓舞し、2番で、世界中の孤立した人たちに向けてメッセージを送ります。それは次のような――。

 がんばれ世界 もう一息持ちこたえて・・・
 やがて風向きは変わり
 光も射してくる

 ひとりぼっちは
 かけがえのないあなたであること
 だれも辿り着けなかった場所に
 あなたの旗を立てること

 だから もう一息持ちこたえて・・・

ぼくは、この曲を聴くといつも、ジョンに「しっかりしろよ」と背中を押された気分になるのです。このひどい時代にあっても、空気に流されず、とにかく生き抜きましょう。