(第5話)Born To Run
1985年7月の第3土曜日、俺は、新宿三丁目の路上で、大きな暗雲が垂れ込める不穏な表情の夏空を見遣りながら、自分がどう動くべきかを決めかねていた。腕時計を見る。午後2時30分。既に約束の時間を30分も過ぎている。ひとまずは、この雑居ビルのドアを開けてスタジオに入るべきか。それとも、黙ってここから立ち去るべきか。俺は吸っていた煙草を歩道に投げ捨て、右足で潰しながら呟いた。「マキのやつめ」。レイと会ったあの日以来、マキと連絡がとれなくなったことが、事態を面倒にした要因なのだ。
「ワイルド・ハーツ」のテープを聴いた翌日、俺は、バンドに加わる意思が無いことを伝えるため、ケンジの病室へと向かった。しかし、そこには、いつもなら必ずいるはずのマキの姿が無かった。今回の件はケンジには内密にするよう釘を刺されていた手前、彼に伝えるわけにいかず、また、マキの家には俺のことを毛嫌いする両親がいるため、電話もままならず、そうこうしているうちに約束の日になってしまったのだ。
とはいえ、ここでいつまでも迷っているわけにもいかない。気が進まない時は、何もしない方がいいのだ。そう自分に言い聞かせ、今来た道を引き返そうとした時、ポツポツと雨が降ってきた。それは、すぐにボタボタと音を立てて路上を叩く大きな雨粒となり、右肩に背負ったベースギターのソフトケースに無数の黒い染みを作っていった。こうなると、もう選択肢は一つしか残されていない。俺は意を決して、スタジオ・キーの看板が出ている眼前のビルに飛び込んだ。
重たく分厚い防音扉を開ける。途端に、圧縮され、閉じ込められていたエネルギーが噴出するかのように、制御不能な巨大な音の塊が飛び出してきた。激しくうねりながらアグレッシブなフレーズを繰り出すシンセサイザー、暴走列車のように轟音をあげてブルージーにドライブするギター、そして、軽快なエイトビートを叩き出すスネアとシンバルの炸裂音。それらが渾然一体となって、爆風の如く俺の全身を直撃する。すげぇ。俺は馬鹿みたいに口をポカンと開けて立ちすくむ。音の大きさなら俺のバンドも負けていないが、演奏のレベルがまるで違う。
ドラマーと目があった。耳の上で切り揃えたセンター分けのストレートヘアに白いTシャツ姿の華奢な少年。俺と同い年くらいだろうか。そいつは、俺にニヤリと笑いかけると、スティックを握った右腕をまっすぐ頭上に上げて大声で叫んだ。
「おーい、ストップ! ストップ!」
演奏が止まる。スティックの先端が俺の方に向けられる。
「ほら、来たみたいだぜ。新メンバー。」
その言葉を合図に、スタジオにいる全員が俺に注目する。16畳程のスタジオにいるのは、テンガロン・ハットを被った長身で長髪のギタリスト、マッシュルームカットにボストン型黒縁メガネをかけたキーボーディスト、ドラムスの少年、そして、レイとマキ。笑顔で手を上げるレイとは対象的に、マキはわざとらしい位のふくれっ面をして俺を睨んでいる。30分も遅刻したのだ。怒る気持ちも分からないではないが、少しは今の俺の難しい立場も察してほしいものだ。
俺は、教室の前でお披露目されるイカさない転校生のように、緊張した面持ちで、挨拶することも、遅刻を詫びることもできぬまま、ただ無言で突っ立っていた。
その時、背後から若々しく快活な男の声が響き渡った。
「やぁ、よく来てくれたね。待っていたよ。」
がっしりとした大きな手が俺の左肩を掴む。振り向くと、黒いバンダナを巻いた背の高い男が立っている。誰かに似ていると思った。そうだ、2年程前にヒットした海軍士官学校を舞台にした青春映画の主人公、リチャード・ギアだ。もっともこちらのリチャード・ギアは、ブルース・スプリングスティーンのようなくせ毛を乱雑にかきあげ、黒いタンクトップの上に黒い革の袖無しベストをまとい、ワイルドなロックスター然としているが。
「俺は、リーダーのカザマだ。話はレイから聞いている。ま、とりあえず、1曲やってみよう。」
そう言いながら、カザマはマイクスタンドの前に立ち、「ボーン・トゥ・ランは出来るか」と俺に訊く。スプリングスティーンの「ボーン・トゥ・ラン」なら、高校時代に数え切れない程演奏した十八番のナンバーだ。
「大丈夫だと思う。キーはEでいい?」
俺は、ベースをソフトケースから取り出し、チューニングをしながら確認する。
「Eでノープロブレムだ。それでは、皆の衆、行くぞ!」
そう叫ぶと、カザマは右腕を突き上げて、大きくジャンプした。ドラムスの少年がスネアを連打する。いきなり演奏が始まった。
ベースでエイトビートを刻む。ただそれだけで、歩兵小隊が全力で走りながら銃を連射しているかのような、スタジオの下の方から地響きが沸き上がってくるかのような、強烈なグルーヴが生まれた。ドラマーの方を見る。クロスハンドで正確にエイトビートのリズムを刻みながら、スネアを叩くタイミングでハイハットを打つ右手を一瞬浮かせている。変わったことをしやがると思ったが、ハイハットの音に邪魔されることなくスネアが叩き出すバックビートが強調され、実に気持ちの良いリズムとなっている。なるほど、なかなかやるじゃないか。俺は、ベースの太いニッケル弦をはじきながら、一見軽薄そうなサラサラヘア野郎のセンスの良さに感心していた。
間奏に突入する。俺はこのパートの踊るようなベースラインが一番のお気に入りだ。低音がR&Bのリズムでダンスし、バウンドして、華麗にスライディングする。原曲のサックスソロをなぞって、ボストンメガネのキーボードが躍動感溢れるフレーズを叩き出す。そして、2回目の間奏。マシンガンのように唸るオールドロックンロールスタイルのギターソロ、バンド全体で下降していくキメのフレーズ、バッチリだ、ワン、トゥ、スリー、フォー、カザマが最後の一節をシャウトする。
いつか いつの日になるかは分からないが
俺たちはきっと辿り着くだろう
本当のゴール 太陽の下で歩ける場所へ
その時まで 俺たちのようなはぐれ者は
走り続けるしかないんだ
「最高!」マキが手を叩きながらぴょんぴょんと飛び跳ねて喜んでいる。確かに、俺のこれまでのバンド経験の中でも抜きん出て出来の良い「ボーン・トゥ・ラン」であった。
カザマが俺の前に立ち、手を差し出す。
「なかなか良かったよ、サトシ。これで俺たちは仲間だ。夏の間よろしく頼む。」
成り行き上、握手せざるをえなかった。彼らの生真面目に破綻したオリジナル曲のことを思うと気が滅入ったが、ここはもう腹を括るしかない。
こうして俺は、夏の間だけという約束で「ワイルド・ハーツ」の一員になった。(つづく)
Illustration by Seachan
※この物語はフィクションです。実在する人物・地名・団体とは一切関係ありません。