(第10話)Road to Nowhere

眼を覚ますと白い天井が見えた。天井の広さと丸いシーリングライトの位置がいつものリビングと違う。上半身をゆっくりと起こす。頭が鈍く痛み、救命ボートで時化た海を漂っているかのような軽い眩暈と吐き気に襲われる。正面の壁に、一つ星付きのベレー帽を被った精悍な顔立ちの男が強い眼差しで一点を凝視しているポスターが貼られている。赤い背景色に白文字でCHE GUEVARAと書かれている。チェ・ゲバラ、どこかで聞いたことのある名前だとは思うが、朦朧とした頭では、それが歴史上の人物なのか、仮面ライダーのショッカー怪人なのか、その区別すら付かない。ベッドの向かい側には簡素なパイプ机と木製の大きな本棚、そして、ギブソンのアコースティックギターとナチュラルカラーのフェンダー製テレキャスターがギタースタンドに立て掛けられている。間違いない、ここはカザマの部屋だ。昨夜のことを思い出す。俺は大阪行きの日航機遭難のニュースに強い衝撃を受け、呼吸もままならず半ば意識を失った状態でカザマとジュンに両肩を抱えられ、この部屋に担ぎ込まれたのだ。あれからどの位寝ていたのだろう。時計を見ると、もう正午をまわっている。ベッドから降りようとするが、身体がひどくふらつき、床に足を下ろすこともままならない。
「おい、無理するな。まだ寝とけよ。」
いつの間にかドアが開いて、キックが食事と水を乗せたお盆を持って立っている。
「お粥を持ってきたからな。無理してでも食わないと治らないぞ。」
そう言いながら、ベッドの向いにあるパイプ椅子を俺の傍らに移動させて、お盆を置く。茶碗から炊き立てのご飯のような甘く優しい香りが漂ってくる。
「ありがとう。俺、昨日からずっと寝てたんだな。」
「びっくりしたぞ。お前、いきなり具合悪くなってさ。熱計ったら39度もあるし、救急車を呼ぶ事も考えたんだぜ。もうちょっとしたら医者が来るからな。これ食ったらまた横になってろよ。」
食欲は全く無かったが、俺のためにお粥を作ってくれたキックへの礼儀として、込み上げてくる吐き気を抑えながら無理をして少しだけ口に運んだ。
その日の記憶はここで途切れる。往診に来た医師のことも、墜落した日航機から奇蹟的に4人の生存者が救助されたことも知らず、俺はまるで電気ショックを受けて気絶した家畜の如く死んだように眠った。夢裡、俺は一人暗いトンネルの中を歩いていた。後方からケンジとマキの呼び声がこだまのように響いた。
「おーい、そっちに行っちゃだめだ、早く戻ってこい!」
「サトシ、それ以上進んだら戻れなくなるよ! こっちに戻ってきて!」
振り向くと、遠く後ろの方でトンネルの入り口が、そこだけ漆黒の暗闇を半円形に切り抜いたかのように白く眩しく光っており、逆光で黒い影法師になったケンジとマキが俺に向かって大きく手招きしている姿が見えた。すぐ戻るから心配するなと叫ぼうとするが、声にはならず、結局俺は彼らの忠告を振り切る形で歩きだした。前方を美しい毛並みをした凛々しい白馬が薄青い光を放ちながらスローモーションで走っていた。この馬に付いていけば、俺が行くべき場所に辿り着くことができる、そう考えながらただひたすら前へ前へと歩き続けた。やがて、道標であった白馬の姿がすぅっと透明になって闇の奥に消えた時、俺は、このトンネルが行き先の無い道であることをようやく悟った。もう前にも後ろにも行くことができない。暗闇の中で俺は途方に暮れうずくまった――。
結局、俺は丸1日半眠り続けていた。次に目を覚ました時、鉛のように重たかった体がすっかり軽くなっていることに気付いた。頭痛も吐き気も収まり、体内から悪性のウイルスが全て抜けていったかのような爽やかな目覚めであった。
リビングから、よく通る伸びやかな低音の声が聞こえてきた。それはまるで身体を左右に揺らしながらロックンロールを歌っているかのようなスピーディかつリズミカルな言葉の波動であり、俺の耳に到達した時点では言語ではなく朗々たる音響となっていたが、それでもその独特な抑揚ある喋りのリズムが俺の心を惹きつけた。一体誰が話しているのだろう。俺はリビングのドアを少しだけ開けて中を覗いた。奥のソファーにカザマをはじめとするメンバー全員が座り、彼らと向き合う形でその声の主は座っていた。黒縁の眼鏡をかけて水色のサマースーツを着たサラリーマン風の男。歳は30代後半だろうか。話は一段落着いたようで、彼は珈琲を飲みながら、「ま、明日はよろしく頼む。とにかく思いっきりデカい音でいこう。クソ忌々しいカミゾネの度肝を抜いてやるんだ」と艶のあるバリトンボイスで愉快そうに話すと、ハッハッハと豪快に笑った。
「委員長は人使いが荒いからなぁ。演奏中のサポートもお願いしますよ」とカザマが渋い声で言うと、「分かった、分かった」と応じながら立ち上がり、「そうだ、キック、明日はメイも来るからな。お前も気合入れて頑張れよ」とキックの頭を軽く叩いた。キックは今まで見たことのないはにかんだ表情で顔を真っ赤にして頷いた。
俺は何か意外な思いでその光景を見ていた。ワイルド・ハーツは実はどこかのプロダクションに所属している鵜飼のバンドで、この男は、そこのオーナーか上役ではなかろうか。そんな上下関係のようなものをこの部屋の空気感から感じ取っていた。
――カザマさん、あなたは誰にも支配されない荒馬になるって言っていたじゃないか、誰かのために演奏するなんてやめろよ。俺は心の中でそう呟きながら、そっとドアを閉めた。
男が帰った後も、カザマ達は何やら深刻な表情で話し合っていたが、俺が傍に立っていることに気付くと、カザマが手の平を前に出し、それを合図に話はピタリと止まった。
カザマが俺の方に向き直り、声をかけてくる。
「サトシ、やっと起きてきたか。どうだ、気分は?」
「うん、すっかり良くなった。心配かけてごめん。」
「謝るなよ。俺達がもっと早くお前が具合悪いことに気付けばよかったんだ。」
カザマは頭の後ろで手を組むと、壁に掛けてあるカレンダーの方を見ながら「明日、ちょっと音を出してくることになった。お前はまだ無理だから、ここで休んでいろ」と言った。
「俺はもう大丈夫だよ。一緒に行くよ。」
「駄目だ。明日はここにいるんだ。」
カザマの声からは、俺の体調を気遣うというより、むしろ参加することを強く拒むような厳しく冷たい響きが感じられ、俺を困惑させた。
「でも、ベース無しで大丈夫なのか?」
「明日の演奏にノリは必要無い。最低限のリズムがあればいい。だから、お前がいなくても大丈夫だ。」
意味が分からなかった。さっき、あの男は「思いっきりデカい音でいこう」と言っていたではないか。それなのに、ベースは不要でノリも必要無いとは、一体どこで何を演奏するというのだ。俺は、黙っているキック、ジュン、ハカセの顔を見ながらこう言った。
「納得いかないな。俺が行くと迷惑なのか? なぁ、みんなはカザマさんと一緒に演奏するんだろ? どうして俺だけ仲間外れにするんだよ。」
ジュンが、吸っていた煙草を灰皿に揉み消し、俺の顔を見上げ、静かに口を開いた。
「レコードにはA面とB面があるだろ。A面には派手な曲が収録されていて、B面は地味だがアーティストが本当に伝えたいメッセージが込められていることが多い。」
「そうそう、ストーンズなら、A面が『ホンキー・トンク・ウィメン』で、B面が『無情の世界』とかな」とキックが茶々を入れる。
「そんなこと知ってるよ。それがどうしたんだ。」
話をはぐらかされているような気がして、次第に不愉快になってきた。そんな俺の感情の高ぶりを知ってか知らずか、ジュンは静かに語を継ぐ。
「ワイルド・ハーツにもA面とB面があるんだよ。サトシに手伝ってもらっているのは、派手なA面の方だ。明日は地味でしんどいB面だ。お前は今月いっぱいで辞めるんだろ。俺達は、最後まで一緒にやる覚悟のあるヤツとしかB面は共有しない。」
普段無口なジュンがここまではっきりと言い切ったことに俺は強い衝撃を受けていた。俺はつまるところ彼らにとって「よそ者」なのだ。その事実がもたらす強烈な寄る辺なさが俺を打ちのめした。
黙ってしまった俺を見て、カザマが場の雰囲気を変えるように手の平をポンと叩いて、話し出す。
「よし、この話はこれで終わりだ。サトシ、お前には、来週、ヤング・ブラッズの創刊イベントという大役が待っているぞ。朝までの長丁場になるからな、とにかく体調を整えておいてくれ。」
俺は何も言えず、ただうつむいていた。リビングでのミーティングは散会となり、それぞれが、自分の部屋や午後の雑踏へ向かおうとしていた。その時、俺の中で何かがはじけた。夢の中で見た行き先の無い道が俺の眼前に広がっていた。道の中央で凜々しい白馬が優しい瞳で俺を見つめていた。俺はそこに行かなければならない、行かなければ――。情動を抑えきれず、言葉が溢れ出てきた。
「待ってくれよ。もし俺が…、俺がさ、このまま続けたいと言ったら、みんなは受け入れてくれるのか? 俺を正式にみんなの仲間にしてもらえるのか?」
全員の動きが止まり、4人の目が俺を見据えた。カザマが近づき、がっしりとした大きな手で俺の肩を叩く。
「もちろん大歓迎だ。お前達も異論はないな。」
ジュン達3人が頷く。キックがニヤッと笑いながらこう言う。
「サトシ、お前のベース、俺は嫌いじゃないぜ。」
暗闇の中、白馬がいななき、疾風の如く駆け出した。「そっちに行っちゃだめ!」というマキの悲鳴にも似た叫び声が聞こえたような気がしたが、カザマが針を下ろしたブルース・スプリングスティーンの「ノー・サレンダー」の爆音にかき消され、もう俺の耳には届かなかった。(つづく)
Illustration by Seachan
※この物語はフィクションです。実在する人物・地名・団体とは一切関係ありません。










