Rock 'n' Roll Is Here To Stay(第3話) | AFTER THE GOLD RUSH

AFTER THE GOLD RUSH

とおくまでゆくんだ ぼくらの好きな音楽よ――

(第3話)Long Hot Summer
 ここで、俺の“城”について少し話しておこう。場所は、京王線代田橋駅の北口から歩いて8分程。甲州街道の歩道橋を渡り明大前方面に歩き、さらに北上すると戦後まもなくから営業している古びた中華料理屋の看板が見えてくる。その先の木造2階建てのアパートが俺の住まいだ。1階は大家の婆さんの住居になっていて、2階に6畳一間の部屋が4戸並んでいる。入居者は、浪人生、大学生、若い勤め人など独身の男ばかり。大家の婆さんがひどく神経質で口うるさいこと、隣の中華料理屋から醤油ラーメンとラードの匂いが朝から晩まで部屋に入ってくることなど細かな不満はあったが、家賃の安さを考えるといずれも大した問題ではない。

 俺の“城”の最大のウイークポイントは、頭上のトタン屋根にあった。雨の日は小石がバラバラと降ってくるような音でけたたましく鳴り響くし、夏場はまるでオーブンの中にいるような尋常ならざる暑さになる。貧乏学生にとってクーラーはまだ高嶺の花であったし、そもそもあのボロアパートにエアコンを設置すること自体物理的に不可能だったろう。


 東京逓信病院から戻った俺は、蒸し風呂状態の部屋の窓を開け、畳の上に大の字になった。帰路、ヨウイチは、しばらくライブは出来ないだろうから1学期の授業が終わったら実家のある福岡に帰ると言っていた。俺はどうしよう。俺の親は転勤族で日本中を転々とし、4月から吹田市にある万博記念公園近くのマンションに住んでいる。大阪か、一度行ってみるのも悪くないな。俺は、横になったまま、はるか昔に終わってしまった大阪万博(EXPO'70)の幻影を見た。真夏の万博会場で、俺はケンジ・マキ兄妹とソフトクリームを食べながら、巨大なドーム状の屋根が特徴的なアメリカ館の入場待ちの長い行列の中にいた。アポロ宇宙船が持ち帰った月の石はどの位の大きさなのだろう、小石程度ならこっそりポケットに入れて持ち帰れないだろうか、幻影の中の俺はそんなたわいもないことを考えながら、じりじりと焼けつくような陽射しの下、ソフトクリームを舐めていた。と、頭上から耳をつんざく轟音が鳴り響く。ケンジが黒いテレキャスターを抱えて、アメリカ館の楕円形の屋根の上に立ち、右腕を風車のように大きく回転させながらピックを激しく弦に叩きつけている。

 グワァァァァーン! ギャギャァァァァーン!


 ケンジがギターをストロークする度、会場内のパビリオンがその音に呼応するかのように大きな真紅の炎を噴き上げて炸裂する。ソ連館が、三菱未来館が、ガス・パビリオンが、凄まじい爆音と共に木っ端微塵に吹き飛んでいく。会場を埋め尽くした様々な国の白黒赤黄色の大人や子どもたちが歓喜の声を上げ、思い思いのダンスを踊りながら、一斉にハレルヤを歌い出す――。

 夢というやつは大抵脈絡の無いものであるが、この日の夢はいつにも増して荒唐無稽であった。幻影の中のハレルヤの大合唱は、いつしか、スタイル・カウンシルの「ロング・ホット・サマー」へと変わっていた。


 かつては誇らしかったものが 今 こんなにもちっぽけに感じる
 笑うべきか 泣くべきか・・・
 長く 暑い夏が 通り過ぎていく


 電話のベルが遠くから聞こえ、段々と近づいてくる。それが自分の耳元で鳴っていることに気付いた時、俺の意識は1970年の大阪万博会場から1985年の代田橋のアパートへと瞬時に引き戻された。目を開ける。窓の外の陽射しが眩しい。もう昼過ぎだろうか。畳の上に横になったまま、鳴り続ける電話の受話器に手を伸ばし耳に当てる。


「もしもし、私。」


 いきなりマキの声が飛び込んでくる。昨日とは打って変わって、弾じけるように明るい、いつもの彼女の声に戻っている。


「お兄ちゃんがね、今朝目を覚ましたの。ご飯もちゃんと食べたのよ。もう奇蹟みたい。ね、今から病院に来れる?」


 無論すぐにでも駆け付けたいが、昨夜の病院での一件が脳裏によみがえり、何といえばよいのか言葉に詰まる。そんな俺の躊躇を見透かしたかのように、くすくす笑いながらこう付け加える。

「大丈夫、今、パパもママもいないから。お兄ちゃんもすごく会いたがってるよ。」

 実は、病室に入るまで俺はものすごく怖かった。ケンジの体のどこかが欠損していたり、顔が醜く腫れあがっていたり、全身ミイラ男のようになっていたら、俺は以前と同じように、奴とフラットに接することができるだろうか。対等な友人としてではなく、ハンセン病患者にお言葉を賜る高貴な人のように、偽善的で厭らしい憐みの感情を全身から発散させながら、見下ろしてしまうことはないだろうか。 
 しかし、そのようなことは全くの杞憂だった。病室のケンジは、頭に包帯を巻き、左足はギブスで固定されているものの、8時間程前まで意識不明の重体であったとは思えない程元気であった。 

 

「大丈夫だ。この通り両腕も指もちゃんと動く。ほら、ギターだってすぐ弾けそうだろ。」 


ベッドから身を起こし、ギターを弾くポーズをしながら、切れ長の目を細ませてニヤリと笑う。


「何たって、俺は不死身のフェイス(顔役)だからな。」

「分かった、分かったから無理するな。お前は殺したって死なないよ。さすがは日本のピート・ミーデンだ。全く心配させやがって。」


 ピート・ミーデンは、1960年代英国の伝説のモッドで、何日間も不眠不休で踊り続け、喋り続けていたという逸話があるが、だれもその真偽は知らない。


「ヨウイチには連絡したのか?」

「ああ、マキが電話した。夕方、見舞いにきてくれるらしい。」
「マっさんも心配していたぞ。」
「そうか……。マサさんには本当に悪いことをした。昨日はジェイクのステージに穴をあけちまったしな。」
「しょうがないさ。お前が元気だと知ったら、マっさん、飛び上がって喜ぶぞ。帰り、店に寄って伝えとくよ。」


 そう言いつつ、俺の頭の中では、昨日のケンジの父親の言葉が不吉な警告音のように繰り返し響いていた。――回復しても音楽はやめさせる。金輪際、ロックなどという邪悪な道に息子を引き込まないでほしい――。

 

 その呪いの言葉から逃れようと、天井を見上げ、次に入口の方に顔を向けると、丁度、マキが花瓶を抱えて病室に入ってくるところであった。黄色いバラとピンクのカーネーション、そして、グレーのTシャツに白いオーバーオール姿のマキは、薄暗い病室の中でそこだけ眩しく、鮮やかな光を発しているようで、俺にはそれが「希望」の花言葉を持つアネモネの花に見えた。

 

「あ、サトシ、来てたの。」

「来てたのじゃないだろ。お前がすぐ来いって呼んだんじゃないか。」
「ごめん、そうだった。どう、お兄ちゃんったら、信じられないくらい元気でしょ。」
「うん、昨日事故ったのがウソみたいだ。医者は何て言ってるの?」
「1ヶ月位で退院できるんじゃないかって。その後は、お家でリハビリ。順調に行けば、9月には前みたいに歩けるようになるだろうって。そうそう、頭の方も切り傷だけで済んだの。念のため、大きな装置に入って診てもらったけど、何も問題無かったのよ。ね、昨日はあんなに心配したのに、ホント奇跡みたいでしょ。」

 ケンジが口を挟む。

「だからな、秋にはバンドも再開できると思うんだ。うちの親父が何を言ったのかは知らないが、俺はやめるつもりはないんで、一切気にしないでくれよな。」

 

 思わず苦笑した。どうしてこの兄妹は、揃いも揃って、俺の心の内を見透かしてくれるのだろう。しかし、あの鷹のように鋭い目をした父親がそんなに物分かりよくケンジの話をきいてくれるとは到底思えず、この先待ち受けているであろう陰惨な修羅場を想像すると、途端に気持ちが暗くなった。

 

「そういえば、今日、お前たち兄妹と万博会場にいる夢を見た。」
「万博? 筑波のか?」
「いや、俺たちが子どもの頃に開催された大阪万博だ。でも、何だか妙な夢だったな。」

 ふーん、とケンジは興味無さそうに相槌を打ち、こう続けた。

「それは、時空を超えた正夢かもしれないぜ。俺は小学校に上がるまで大阪に住んでいたからな。万博なら家族で何回も観に行った。まだマキが3歳でさ。すごい人混みの中、ずっと俺が手つないだり、親父が肩車したり、とにかくはぐれないようにするのが大変だった。」

「いつもそんなこと言って、アメリカ館に行けなかったのを私のせいにするのよ。」

 そう言いながら、マキが俺の方を向く。

「サトシ、その夢は帰巣本能なんじゃない。だって、今、ご両親は大阪にいるんでしょ。」

「そうだけど、春に引っ越したばかりで、俺、一度も行ったことないんだぜ。」

 ケンジが、フフッと笑う。

「まぁいいじゃないか。どうせ、夏の間はバンドの方も動けないからさ。大阪行ってこいよ。庶民的で、あっけらかんとしていい街だぞ。」

 そして、あーあと大きな欠伸をしながら、こうぼやいた。

「ここはな、消灯時間が夜10時なんだ。分かるか、この意味が。今日、ライブ・エイドを1時間しか観ることが出来ないんだぞ、俺は。」

 ライブ・エイド(LIVE AID)は、飢餓に苦しむアフリカの人々を救済するために、7月13日から14日にかけてロンドン・ウェンブリー・スタジアムとフィラデルフィア・JFKスタジアムで開催されたチャリティー・コンサートである。ポール・マッカートニー、ミック・ジャガー、クイーン、デビッド・ボウイ、マドンナ、ザ・フー、ボブ・ディランといった大物ミュージシャンが多数出演し、世界84か国で同時中継された。

 俺は、代田橋の“城”で、缶ビールを飲みながら、午後9時から始まった中継を観た。この夜は、開け放した窓から、いつもより少しだけ涼しい風が入ってきた。トップバッターのステイタス・クォーに続いて登場したスタイル・カウンシルは、演奏の途中で唐突に日本側スタジオに画面を切り替えられ、後半2曲のパフォーマンスを丸ごとオミットされてしまった。

 茫然としている俺を、テレビ画面の向こう側から、褐色の肌をしたやせ細った子どもがあきらめと絶望に支配された落ち窪んだ目でじっと見つめていた。この憐れな子どもたちに今必要なのは、音楽でも同情でもなく、的確な物的支援、すなわち、食糧と水と医薬品であろう。勿論それらを届けるためのチャリティーであることは理解しているが、ならば、今や世界中で最も富める層となったロック・ミュージシャンが率先して金を出し、一刻も早く彼らの命を救う手立てを講じるべきではないのか。

 そんな感情が沸き上がりつつも、言い出しっぺのボブ・ゲルドフのことだけは悪く言いたくなかった。ブームタウン・ラッツというお世辞にも大物とは言い難いアイリッシュバンドのフロントマンである彼は、孤立無援状態で死にゆく子どもたちの言葉にならない呻きや叫びに突き動かされ、利己を超えた絶対的な無私の心でこのコンサートの開催を呼びかけたのではないだろうか。そんなゲルドフの真っ直ぐな志を、俺はロックンロールの良心として前向きに受け止めたかった。

 スタジアムを埋め尽くした大観衆の前で「哀愁のマンデイ」を熱唱する彼の姿をテレビ越しに観ながら、消灯直前の薄暗い病室にいるケンジもまた同じことを考えながらこのパフォーマンスを見ているのではないか、そうであってほしいと思った。(つづく)

 

Illustration by Seachan
※この物語はフィクションです。実在する人物・地名・団体とは一切関係ありません。