(第6話)Venus
「ワイルド・ハーツ」に加入してから俺の生活は一変した。バンドメンバーが共同で生活しているカザマのマンションで彼らと寝食を共にすることになったからだ。飯田橋の外堀通り沿いにそびえ立つ13階建てマンションの最上階4LDKという、当時の流行語である「マル金」を象徴するかのようなロックバンドらしからぬ華美な住まいであり、何より冷暖房完備であったため、俺はようやく代田橋での筆舌に尽くしがたい真夏の灼熱地獄から抜け出すことができた。しかし、アマチュア・ロックバンドの一ヴォーカリストに過ぎないカザマがどうしてこのようなリッチな生活ができるのか、恐らく裕福な家庭のボンボンなのだろうとは思ったが、あえて俺からそれを訊くことはなかった。
バンドメンバーには一部屋ずつあてがわれ、俺は、夏だけの臨時メンバーということもあり、個室ではなく、リビングのソファーをねぐらにした。
さて、俺と一緒に生活することになったバンドの面々だが、年長者のカザマ以外は、皆俺とほぼ同い年の18歳から20歳までの少年もしくは青年であり、同世代の気安さゆえ、すぐに打ち解けることができた。そんな俺の新しい仲間を紹介しよう。
リードギターはジュン、20歳。高校までは、ランディ・ローズとマイケル・シェンカーを神と崇めるヘビメタ少年であったが、18歳の冬、スティーヴィー・レイ・ヴォーンの「テキサス・フラッド」を聴いてブルース・ギターに開眼。今は、荒馬の如く凶暴で攻撃性の高いフレーズを超高速スピードで弾きまくる玄人はだしのブルース・ロック・ギタリストへと変貌した。身長180㎝とバンドの中で最も長身であり、肩まで伸ばした長髪、野生の狼のような鋭い眼光と相まって、一見近寄りがたい印象を与えるが、性格はいたって穏やかで、声を荒げることも、他人の悪口やつまらぬ愚痴を言うことも一切無い、冷静で信用のおける男である。
ドラムはキクチ、愛称キック。19歳。高校時代にローリング・ストーンズのチャーリー・ワッツに心酔し、アルバムを聴き込み、ライブ映画「レッツ・スペンド・ザ・ナイト・トゥゲザー」を繰り返し観て(映画館に朝から晩まで居続け、スクリーンを凝視して、彼の叩き方の癖を学びとろうとしたらしい)、シンプルではあるがこれぞロックンロールというガッツ溢れる奏法を体得した。ドラムから離れると、いかにも「新人類」という軽いノリの男で、決して悪い奴ではないが、深刻な話も取るに足らない話もすべて同列に笑えないジョークにしてしまう傾向があり、その度を超した軽薄さだけは、正直なところどうにも馴染めなかった。
キーボードはハカマダ。名前がセイジなので、略してハカセと呼ばれている。その愛称は、ピアノの英才教育により身に着けた高度な音楽理論と天賦の絶対音感に由来している。バンド最年少の18歳で、アグレッシブな演奏に似合わず、おっとりした性格のため、メンバー全員から弟のように愛されている。
そして、バンドのリーダーで、ヴォーカルとサイドギター担当がカザマだ。23歳。早生まれなので、俺より4つ年上である。「ワイルド・ハーツ」の楽曲は、すべて彼が作詞作曲している。
そんな4人との共同生活において、家主であるカザマを除くメンバー全員に課せられたルールがあった。それは、各自、演奏以外に何らかの役割を持ってバンドに貢献すること。例えば、ジュンは楽器の修理や調整に関する技術を有していたためリペアを担当し、ハカセは、採譜能力を活かしバンドのレパートリーの楽譜を作成、キックは、母親が使っていた暮しの手帖社の「おそうざい十二カ月」を片手に町の定食屋顔負けのボリューム満点の美味い料理を作り、俺たちの腹を満たした。そして俺は——、何の特技も知識も無い俺は、皆が敬遠する皿洗いと掃除を担当することになった。請われてバンドに入ったのに随分な扱いじゃないかとも思ったが、クーラーのある部屋で安眠できる魅力には抗いがたく、俺は甘んじてその屈辱に耐えることにした。
ちょっとのひずみならば
がまん次第で何とかやれる
日々の暮らしには辛抱がいつも大切だから
心のもちようさ
トイレや風呂場の掃除をしたり、台所の食器洗いをする時、俺はウォークマンでこんな歌を聴いていた。それは、御茶ノ水のレンタルレコードショップ「ジャニス」から借りてきた暗黒大陸じゃがたらのソノシートだった。
共同生活を始めて3日目のこと、慣れない手つきで廊下に掃除機をかけていると、玄関のチャイムが鳴った。郵便か勧誘だろうか、掃除機を止めてドアの鍵を開けようとすると、リビングからキックが血相を変えて飛び出してきた。
「サトシ、開けるな!ちょっと待て!」
あっけにとられている俺を残し、小走りでリビングに戻ったキックがインターフォン越しに誰かと話している。警戒した様子の小声が一転して、いつもの軽薄な笑い声に変わる。
「ごめーん、開けていいぞ。」
リビングからキックが顔を出し、俺に指示を出す。全く人使いの荒いヤツだ。鍵を外し、乱暴にドアを押し開ける。真夏の強い日差しが一気に薄暗い廊下に差し込んでくる。ドアを全開し、そこに立っている女性を見て、俺は息を呑んだ。
女神だ——
白い半袖のワンピースに身を包んだ彼女は、すらりと背が高く、腰まで届く淡い栗色の髪を蓄え、憂いのある湧き水のように澄んだ瞳でこちらを見ている。その姿はまるで、サンドロ・ボッティチェッリが描いたヴィーナスのようであった。
「カザマくんいる?」
“女神”はそう言うと、少し首を傾げ、俺の顔をまじまじと眺めながら、「あなた、新しくバンドに入った人?」と柔らかく優しい声で訊いてくる。
俺は、すっかりドギマギしてしまい、「あ、ハイ」と思い切り声を裏返らせ、彼女の視線から逃れるように俯いたまま、「カザマさんなら、今、出かけてます」とぼそぼそ呟いた。
「そう。じゃあ、これ、渡しといてくれる?」
彼女は、プランタン銀座のロゴの入った大きな紙袋を俺に渡した。
「明日、『馬小屋』のライブよね。頑張ってね。」
彼女は、俺に向かってにっこり微笑んだ。俺は生まれてこの方、こんなに素敵な女性の笑顔を見たことがなかったので、彼女が去った後も、ボーっとした腑抜け面を晒して玄関に立ち尽くしていた。
「サトシ、大丈夫か? お前。」
いつの間にか、俺の横に来ていたキックが、不審そうに俺の顔を見ている。
「キック、今の人、誰だ?」
「フユコさん。カザマさんの古い友達だよ。」
「凄く綺麗な人だったな。驚いた。」
「そうか、サトシはフユコさんに一目惚れしたんだな。」
キックは、ニヤニヤしながら、言葉を継ぐ。
「でも、諦めた方がいいぜ。フユコさんとカザマさんは固い絆で結ばれているからさ。」
翌日、新宿西口小滝橋通り沿いのライブハウス「馬小屋」で、新生ワイルド・ハーツのお披露目ライブがあった。彼らが「馬小屋」のレギュラー枠を持っていることを知った時、俺は本当に驚いた。何故ならそこは、有名ロックバンドを多数輩出しているメジャーへの登竜門的存在として知られていたからだ。
俺たちがステージに登場すると、一斉に黄色い歓声が沸き起こった。ざっと見て300人近い観客がいるようだ。半数は高校生と思われる10代の少女、残り半数は大学生と社会人の男女だろうか。いずれも、俺のバンドに集まる連中とは明らかに感じの違う、いかにも健全な青少年のようであった。
カザマが両手でマイクを握りしめ、早口でまくしたてる。
「今、俺たちは、真っ二つに分断されている。ネクラかネアカか、マジメかオモシロイか。そして、ネクラやマジメのレッテルが貼られたら、学校や職場でつまはじき者にされる。権力や資本の巧みな情報操作によって、俺たちは、自分の人生や社会のありようについて真面目に考えることすらできなくなっている。」
カザマは会場を見渡しながら、MCを続けた。
「かつて、この国は、戦争に協力しない者を『非国民』と呼んで迫害した。共産主義者は『アカ』と蔑まれ、投獄され、残虐な拷問を受けた。強制連行され、虐殺された朝鮮の人達は今もなお学校や仕事において理不尽な差別を受け続けている。『ネクラ』という言葉は、かつての非国民のことであり、共産主義者や朝鮮の人達に対する蔑称と同じなんだ。」
一拍置いて、カザマは拳を突き上げながら絶叫した。
「なぁ、みんな、俺たちはそんな卑しい言葉は今後一切使わないようにしよう! そして、俺たちを分断している薄汚い大人達に鉄槌を食らわしてやるんだ!」
間髪入れずにキックがカウントを入れる。演奏が始まった。観客がワーッと反応し、一斉に拳を振り上げている。
俺はベースを弾きながら、どこか冷めた思いでこの光景を眺めていた。どうして俺はここにいるのだろうと思った。ケンジやヨウイチと一緒に、MC無しで激しいブリティッシュ・ビートを演奏していた頃が随分昔のことのように思えた。そして、今日ここに来ているはずのマキの姿を探したが、彼女と同世代の少女があまりに多すぎて、ステージの上から見つけることはできなかった。
演奏は終盤に入り、カザマが大きな赤旗をステージ後方から取り出し、左腕で持ち上げゆっくりと翻しながら歌った。白字で大きく「We Shall Overcome」と書かれたその旗は、昨日、フユコさんがプランタン銀座の紙袋に入れて持ってきたものだった。(つづく)
Illustration by Seachan
※この物語はフィクションです。実在する人物・地名・団体とは一切関係ありません。