(第8話)At Seventeen
「この間のアゴラは、いつもよりしゃれていたよ。あの選曲、君がやったんだろ?」
どこか皮肉な笑みを浮かべたレイが、珈琲をゆっくりとすすりながらそう言った。
飯田橋のジャズ喫茶&バー「ペガサス」は、初めて訪れる店だった。「ヤング・ブラッズ」編集部のあるリトル・マガジン社に隣接する雑居ビル地下の20人も入れば満員状態の10坪程の小さなライブスポット。ドアを開けると右手に8人席のカウンターバーがあり、左側に薄暗い船底のような縦長のテーブル席、その奥がこぢんまりとしたステージになっている。俺とレイは、グランドピアノが置かれたステージ手前の丸テーブルに座っていた。
「でも、正直言うと、ああいういかにも最新型って感じのすました曲より、君達がSNAPで演奏していた、怖いくらいに熱気があって、無鉄砲に突っ走るナンバーの方が僕は好きだな。」
無理ないさ、俺が今回選んだ曲はちょっとばかし玄人向けの音だからな、と言いかけて、それはあまりにも嫌味だということに気が付き、慌てて口をつぐんだ。そして、鼻持ちならない特権意識を一瞬でも抱いたことに嫌悪し、恥じながらも、それとは気付かれぬようさりげなく話題を変えた。
「レイは、ニシカワさんとは、知り合いなのか?」
「知り合いというより同志だね。歳は離れているけど、あの人のことは『同世代』だと思っている。」
「つまり、イノセントであり、失うものが何もなく…。」
俺はレイの口癖を少し誇張して真似したが、彼は意に介することなく話を続けた。
「その通り。そして、大きなものに抗い続ける、そういう人であれば、皆『同世代』だ。年齢は関係ないよ。ニシカワさんはさ、僕と同じものを創ろうとして闘っている同志でもあるんだ。」
「同じものって?」
「広場だよ。身分や性別や年齢や国籍に関係無く、誰もが参加できて、自由に表現し、対等な立場で議論できる空間。僕は活字、ニシカワさんは電波、カザマさんは歌を通じて、そういう場を創ろうとしている。」
俺は、前にテレビで見たロンドンのハイド・パークにある「スピーカーズ・コーナー」を思い浮かべていた。意見がある市民はそこに立って自由に演説を始める。すると、たちまち人だかりができ、賛同の拍手を送ったり、野次を飛ばしたり、反論したりと、人と人との交流や議論の輪が波紋のように広がっていく。それは、個人が街頭でプラカードを掲げ、演説するなどの政治的な意思表示をすると、冷ややかな嘲笑と黙殺しか返ってこない東京ではありえない光景であった。
そんなことをぼんやりと考えていた俺に、レイは顔を近づけて小声で話す。
「東海高校を知ってるかい。東大や京大といった超難関大学の合格者を多数出している名古屋の名門進学校だ。ニシカワさんは、そこで高三の時、広場と自由にまつわる事件の首謀者として逮捕されて退学になっている。」
「へぇ、それは初めて聞く話だな。」
「新宿のフォーク・ゲリラは聞いたことあるだろ。1969年に反戦フォークを歌うグループが何千という人を集めて土曜の夜の新宿駅西口地下広場に解放区をつくった歴史的な出来事だ。同じ頃、名古屋でも、栄の地下街で高校生達がプロテストフォークを歌い始めた。警察の規制で地下から追い出され、百貨店やバスターミナル前の歩道、名古屋テレビ塔下広場と場所を変えて歌い続けた。彼らは『栄解放戦線』と名乗り、毎週土曜の夜に300人程の若者を集めて、フォーク・ソングの合唱をし、議論をし、グループの旗を掲げてワッショイ、ワッショイとデモ行進もしたらしい。その中心メンバーがニシカワさん達東海高校のグループだったんだ。」
「なんだか夏祭りみたいで楽しそうだな。でも、その程度のことで逮捕されるのか?」
「道路交通法違反で逮捕できる。現に新宿では、何人もの学生や市民が捕まり、広場は潰された。名古屋でも週を追うごとに警察の規制は厳しくなっていた。そんな中、受験生でもあったニシカワさん達にとって、許しがたい法案が国会で成立した。いわゆる大学立法ってやつだ。」
「何だ、それは。」
「お上の言うことをきかない大学は、文部大臣の権限で廃校にできるという、大学の自治を破壊し学問・研究の自由を圧殺する極めて反動的な法律だ。ニシカワさん達は、この法案を強行採決した自民党を許すことができなかった。」
「許せないと言っても、高校生じゃ何もできないだろ。」
「そうだ、何もできない。まだ選挙権すら持っていないからね。丁度、その夏、文部大臣が講演のために名古屋にやってきた。『栄解放戦線』の主要メンバー10人は、大学立法への強い抗議の意思を示すため、白昼、文部大臣の移動ルートである本山交差点と本山派出所に火炎瓶を投げた。路上に大きな赤い炎が幾つも立ち上り、付近の交通は大混乱になった。でもそれだけだった。火はすぐに消し止められ、文部大臣は何事もなかったかのように悠々と次の講演会場へと移動し、後にはニシカワさん達の放火未遂や道路交通法違反という『罪状』だけが黒い染みのように残された。ニシカワさんは首謀者ということで鑑別所に送致された。その時一緒に鑑別所送りになった同志がトモベマサトだ。」
トモベマサトいう名前は聞いたことがあった。日本のボブ・ディランとも言われている伝説的なフォークシンガー。俺はニュー・ミュージックと呼ばれる湿っぽい歌謡フォークが虫唾が走る程嫌いだったので、フォーク・ソングは十把一絡げにして唾棄すべき存在と思っていたが、唯一の例外は、1970年代初頭にURCやベルウッドというインディーズレーベルに結集した先鋭的なシンガーソングライター達であり、トモベマサトはまさにその一人であった。
「ニシカワさん達は、1969年の夏に全てを棄てたんだ。親も、学校も、将来の地位が約束されたエリートであることも。そして、鑑別所を出てから、もう一度路上に戻り、そこから出発したんだよ。自分自身の広場と自由を奪還する闘いに。」
俺は、黙って新しい煙草を取り出し火を付けた。その時、白いワイシャツに蝶ネクタイを付けたオールバックの神経質そうな男がステージに現れ、グランドピアノの椅子に座った。男は俺達の方を見ると、険しい表情を少しだけ緩め、小声で「よお」と言ったが、すぐに陰気な表情に戻りピアノの方に向き直った。「バイ・バイ・ブラックバード」の軽やかに弾んだメロディが男の指からこぼれだし、それはゆっくりと店内に広がっていった。
「やっぱりここにいた!」
突然、後方から、この店の大人びた雰囲気には似つかわしくない少女の甲高い声が響き渡った。振り向くと、口をとがらせて仁王立ちをしているマキの姿があった。
「レイ君、編集部から突然いなくなってどういうつもり? みんなと意見が合わないからって少し勝手すぎない?」
レイが慌てて人差し指を口に当て、「静かに」というジェスチャーをする。マキは不満そうな顔をして俺の隣に座り、「本当に勝手なんだから」と小声でブツブツ言いながら、「サトシ、私、アイスコーヒー」と俺に向かって注文をする。
「マキ、俺はウエイターじゃないぞ。」
「いいじゃない。ちょっと注文してきてよ。」
仕方ない。俺は後方のカウンターに行き、アイスコーヒーを注文した。ステージでは、「バイ・バイ・ブラックバード」の演奏が終わり、オールバックの陰気なピアニストが次の曲のイントロを弾き始めた。と、ステージの袖から上品なピンクのドレスを着た若い女性がマイクスタンドの方に歩いてくる。腰まで届く淡い栗色の髪、憂いのある湧き水のように澄んだ瞳、間違いない、フユコさんだ。彼女は客席に軽くお辞儀をしてから、透明感のある柔らかな声で歌い始めた。
笑って 心が痛んでも
笑って たとえどんなに辛くても
憂鬱な曇りの日だって 何とかなるわ
怖くても 悲しくても
笑っていれば きっと明日には
太陽があなたを照らしてくれる
チャールズ・チャップリンの「スマイル」を流麗に歌う彼女の姿を見ながら、俺は席に戻り、レイに小声で尋ねた。
「おい、フユコさんって歌手だったのか?」
「あぁ、この店の専属のジャズシンガーだよ。昼はピアノの先生。二足のわらじってやつさ。」
前回、俺は唐突に相対した緊張感からフユコさんの顔を直視することができなかったが、今日は観客であることの距離感に助けられ、少し落ち着いて見ることができた。小さな卵形をした涼やかな顔は、まるで誰かに寄り添い、励ましているかのような眼差しで前方を見遣り、その優しげでありながら、しなやかで決然とした表情は、俺の胸を激しく揺さぶった。
マキがアイスコーヒーをストローで吸いながら、俺の腕を肘で小突き、小声でささやく。
「ね、フユコさん、とても綺麗な人でしょ。」
「あぁ、この間、カザマさんのマンションで会って、ちょっとびっくりした。」
「私たちの編集部にも、差し入れのケーキを持ってきてくれたのよ。とっても優しくていい人なの。」
間奏に入り、ピアニストがテーマのメロディを崩しながら、硝子細工のように繊細で美しいフレーズを奏でていく。フユコさんが俺たちに気付き、小さく右手を振って、にっこり微笑む。やはりこの人は女神だ。彼女の笑顔にまたしても魅了された俺は得も言われぬ多幸感に包まれていた。
フユコさんは、柔らかく優しい声で客席に話しかける。
「今の歌は、悲しいことや辛いことがあっても、笑顔を絶やさなければ、希望の光が差してくるという歌です。」
一呼吸置き、少し首を傾げて、こう続けた。
「でも、本当にそうなのかな。私ね、悲しい時は夜通し泣いていいし、ひどいことされたら本気で怒っていいと思うの。私たちを悲しませたり、辛い思いにさせている原因があるのなら、それにしっかり立ち向かわないと、幸せになれないんじゃないかって、そんな気がしています。ふふ、駄目ね、こんなこと言ったら、歌を台無しにしてしまうわね。」
店内が笑いに包まれる。フユコさんが俺たちの方を見る。
「今日はね、若いお友達も来てくれているのでとても嬉しいの。10代で新しい雑誌や音楽をつくろうと頑張っている人達。マキちゃんは高三だったわね。18歳になった?」
マキがステージに向かって「まだ17歳。来月、誕生日!」と嬉しそうに声を上げる。
「そう、17歳か。一番いい年齢ね。それでは、私の若いお友達マキちゃんに、次の曲をプレゼントします。」
そう言うと、フユコさんは、ピアニストに小声で曲名を告げる。軽く頷いたピアニストは、ボサノバ風のイントロを弾き始める。この夜、フユコさんは、マキのためにジャニス・イアンの「17歳の頃」を歌った。
「ペガサス」を出ると、外はすっかり暗くなっていた。日中の猛烈な熱気もこの時間になると随分と和らぎ、道路の向こう側から外堀の水面を伝って吹いてくる涼風が肌に心地良かった。レイはリトル・マガジン社へと戻り、俺とマキは飯田橋駅に向かって目白通り沿いを2人並んで歩いた。
「さっき店に入ってきた時は物凄い剣幕だったな。レイと何かあったのか?」
マキは、珍しく思い詰めたような表情をしてふぅっと小さなため息をつき、ポツリポツリと話し出した。
「今、ヤング・ブラッズの表紙のことで意見が分かれてるの。編集部7人のうち私も入れた6人は、いろんな国の10代の子たちの写真を表紙にしようって言ってるんだけど、レイ君だけ意見が違うの。」
「レイは何て言っているんだ?」
「『あしたのジョー』の原画イラストを使いたいって。私たちが、ジョーは創られたキャラクターだし、今を生きている10代の方がいいよって言っても、全然聞く耳を持たないの。」
「『あしたのジョー』か。俺より少し上の世代が読んでいた漫画だな。」
「でしょ。編集部の子は誰一人読んだことがないのよ。それでもレイ君だけが『過去からのバトンを受け取って、次の世代につなぐべきだ』とか言い張っちゃって。今日はそれでみんなと言い合いになって、彼、一人で編集部を出て行っちゃったの。」
「編集長のくせに困ったやつだな。」
「レイ君は、お兄ちゃんやサトシとよく似ているのよ。」
「俺とケンジに? どこがさ?」
「今の時代を嫌っているところ。お兄ちゃんたちがダボっとした流行りのスーツを嫌っているように、レイ君は、明るくて楽しいことばかり持て囃される今の時代の雰囲気を嫌っているの。憎んでいるって言ってもいいくらい。だから、あの人の言う『10代』や『同世代』は、私たちのことじゃないの。多分、もっと上の世代、『あしたのジョー』とか、学生運動とか。」
確かにそうかもしれないと思った。俺とケンジが1964年のロンドンに抱く憧憬の念と同質の重みをもって、レイの熱い眼差しは、1969年の連帯を求めて孤立の底に沈んだ「あしたのジョー」達に向けられているように思えた。
「ねぇ、少し変なこと言っていい?」
マキが俺の腕をつかんで、急に足を止めた。
「何だよ、びっくりさせるなよ。」
「私もよく分からないんだけど、うちのパパがカザマさんの事をいろいろと知ってるみたいなの。それで、雑誌の編集のバイトはいいけど、あのバンドには絶対近づくなって。」
「あのバンドって、まさか……。」
「そう、ワイルド・ハーツのことよ。理由は教えてくれないけれど、とにかく近づくなって言うの。」
俺の頭の中に、警察官僚であるマキの父親の鷹のように鋭い目をした顔が浮かんだ。
「それで私、サトシのことが心配になっちゃって。大丈夫よね。夏が終わったら辞めるっていう約束だものね。」
「あぁ、ケンジも秋には復帰できるだろうから、来月からはSNAPに専念するよ。」
「良かった。お兄ちゃんが絶対バンドに復帰できるように私も頑張るね。リハビリとか、家族会議とか。パパがあんまり分からず屋だったら、ストライキだってしちゃうから。」
その晩遅く、夏の間のねぐらであるカザマのマンションのリビングで、トモベマサトのアルバムを初めて聴いた。深いしわが刻まれた老人の顔写真が印象的なそれは、初期のパンクロックと同等、いや、それ以上の衝撃を俺に与えた。特に、あさま山荘事件での連合赤軍逮捕の日を歌った「乾杯」というトーキング・ブルースは、俺の小市民的でつまらない常識をいとも簡単にひっくり返してくれた。
どうして言えるんだい
やつらが狂暴だって
新聞はうすぎたない涙を高く積み上げ
今や正義の立て役者
乾杯! 身もと引き受け人のいない
ぼくの悲しみに
乾杯! 今度逢った時には
もっともっと狂暴でありますように
真っ青な夏空に向けて投擲されたコカコーラの火炎瓶が、大きな弧を描きながらゆっくりと路上へと落ちていく瞬間、それらは無数の白い鳩になり、バサバサという羽音を立てて本山交差点から名古屋市の空高く飛び去っていく幻影を俺は見た。(つづく)
Illustration by Seachan
※この物語はフィクションです。実在する人物・地名・団体とは一切関係ありません。