AFTER THE GOLD RUSH

AFTER THE GOLD RUSH

とおくまでゆくんだ ぼくらの好きな音楽よ――


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「フォーク・ソングを殺したのは誰?」をご覧いただき、ありがとうございます。最低でも月1回のペースで更新したいと思っていたのですが、悲しいまでに貧乏暇なし状態で、6月以降、更新にとりかかる時間を全く確保できない状態が続いています。引き続き資料及び証言の発掘は進めていきますが、更新の方はしばらく休止します。9月にまたお会いできればと思います。


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MEN'S CLUB(メンズ・クラブ)1965年12月号には、「モダン・フォーク・クァルテットのマキノ島だより」と題して、同年夏にマキノ島で開催されたMRA世界大会に関するごく短いレポートと数枚の写真で構成されたグラビア記事が掲載されている。本ブログでも参考にさせていただいたが、モダン・フォーク・カルテットのマキノ島での生活の一端が垣間見える貴重な資料であり、埋もれたままにしておくのは惜しいので、その一部を紹介する。なお、冒頭の写真は、宿舎での練習風景のスナップである。(左から、眞木壮一郎、重見康一、麻田浩、渡邊かをる)

「六時、ラッパの音と共にグランドへとび出した。フットボールのユニホームを着た若者、テニス、ラグビーと、それぞれ勝手なスタイルでどんどん集まってくる。すがすがしい湖を渡る風が僕達を包む。ワン、ツー、スリー、マキノ島をゆさぶらんと体操が続く。MRA世界大会。正しい人を作り、正しい社会にし、正しい国に、そして正しい世界を作ろうと集まった若者達。(中略)馬車の鈴の音が聞こえる頃ミィーティングが始まる。ヴェトナム問題、日本のアジアに対する問題等、どの顔も真剣だ。昼にはバーベキューをした。どこからともなく集まってくる鳥。彼等も大会に参加しているのだろう。食べ終わる頃ギターやバンジョーを囲んでフーテナニーが始まった。(後略)」

昼食のバーベキューを食べ終わると、自然にフーテナニーが始まった

 


MRA訓練センターでは、コルウェル・ブラザーズがフォーク・ソングの演奏で迎えた

 


「Run and Catch the Wind(風をつかもう)」を歌うグリーン・グレン・シンガーズ

 


男子宿舎の前での麻田(左)と眞木(右)。マキノ島は、車の乗り入れが禁止されているため、交通手段は馬車か自転車のみ


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1966年元旦、眞木壮一郎は機上の人となっていた。東京から遥か6,800キロ、インド洋に浮かぶ“光輝く島”セイロン島の首都コロンボへ。前年夏のマキノ・アイランドに次いで2度目のMRA(道徳再武装運動)大会に参加するためのフライト。今回は、新進気鋭の学生フォークシンガー・マイク真木としての招聘、同行者は親友のロビー和田と日高義だったと思われる(注1)
真木曰く「僕ら若者が10何年かすると国の指導者となってゆく。その若者たちに心身ともに新しいファッションを植えつけ、立派な人間に成長させ、この広いアジアに、そして世界の困難な問題をカタッパシから片付けていく、ファイトある若者を育てよう」という大会
(注2)。1ヶ月の滞在期間中、正しい人間・正しい国・正しい世界を造るMRAの教義を学び、現地の学生達とフォーク・ソングを歌い、若いエネルギーを爆発させるようにバレーボールやクリケットで汗を流した。様々な人と会った。中でも感銘深かったのが、インドの伝統楽器サーランギーを演奏するフォークシンガー・スリヤ・セナ氏との交流。「君がセイロンの歌を歌い、私が日本の歌を唄う。これが世界平和の秘訣じゃよ」。まるで修行僧のようなセナの言葉の一つ一つが真木の胸に響いた。最終日、友人達と出かけたハイキングの帰途に見た夕陽も忘れがたい。水牛の声がこだまするケラニ川の向こうに沈む大きな太陽。西の空はどこまでも血のように赤かった。

2月に帰国した真木は、シンコー・ミュージック(新興楽譜出版社)の制作により待望のレコーディングに入るのだが、この録音契約がいつどのように決まったかについては諸説あり、日本のフォーク・ソング黎明期の研究における混乱の原因となっている
(注3)。現在、定説とされているのが、「バラが咲いた」のデモテープを録音する学生アルバイトとして声がかかり、思いがけず出来栄えが良かったため、そのままレコードにして発売したというもの。この説は、当事者である真木本人とフィリップス・レコードのディレクター(当時)本城和治氏が近年繰り返し証言していることから疑う余地が無いように思われるが、1966年当時の様々な資料と関係者の証言をつぶさに検証すると、興味深いことに全く異なる“事実”が見えてくるのである。

まず、これだけは断言しておかなければなるまい。マイク真木は、たまたま「バラが咲いた」のデモテープを吹き込んだ無名で泡沫な学生アルバイトなどではなく、(当時日本ビクター株式会社が提携していた)フィリップス・レコードと、漣健児こと草野昌一率いるシンコー・ミュージックの双方が周到な準備の下、世界的規模でのデビューとセールスを画策した、いわば作られた“麒麟児”であったということだ。そして、その背後に、MRAの世界戦略があったであろうことは、ほぼ間違いない事実と思われる。

以下、レコード・デビューまでの経緯を辿ってみる。当時の複数の雑誌によると、真木は、前回触れた1965年暮れの「日劇フォーク・ソングフェスティバル」でオリジナルのフォーク・ソングを歌って注目され、「世界のトップ・レーベル“フィリップス”でレコーディングする幸運をつかんだ」とある
。原盤を制作したシンコ―・ミュージック社長の草野昌一は、後年、真木にレコーディングを持ちかけた際の様子を次のように回想している。

「たまたまマイク真木というのが、日比谷公会堂でコンサートをやると知っていたんでね、出かけていったんですよ。その頃マイクのお父さん(引用者註・舞台美術家の眞木小太郎氏)は東宝で大道具だか小道具の仕事をしていらして知っていたもんで、息子さん紹介してよ、ってノリで楽屋でマイクに会って、ちょっとレコーディングしない?と聞いたら、もうぜひやりたいって。それもマイクはその頃自分で作っていたヘンなフォークをレコーディングさせてもらえると思ったもんだから、“草野さんの言うことは何でも聞くから”って(笑)」(注4)
ファースト・コンタクトの場所が、有楽町の日劇ではなく、日比谷公会堂になっているなど、記憶の混乱が見られるが、この証言は、草野が直接真木と交渉したことを明らかにしている点において重要だ。

さて、セイロン島から帰国後の1966年2月、MFQ時代の仲間であるギターの渡辺かをるを引き連れて意気揚々とスタジオに現れた真木に、草野が提示した曲は、バリー・サドラー軍曹作・歌による「悲しき戦場(グリーン・ベレーのバラード)」の漣健児訳詞版であった
(注5)。「グリーン・ベレーのバラード」は、この年の1月にアメリカで発売されるやいなや、ひと月足らずのうちに約100万枚のセールスを上げた当時話題の特大ヒット曲である。そして、売上が型破りなら、歌の内容もまたすこぶる異色であった。タイトルのグリーン・ベレーとは、アメリカ陸軍のゲリラ戦用特殊部隊のこと。ベトナム戦争時、CIAの指揮下で、北ベトナム側の要人や兵士の誘拐・拷問・暗殺などの血なまぐさい秘密作戦を遂行した。そんな彼らを「アメリカの最高の男たち」と讃え、ベトナム戦争を礼賛した歌が「悲しき戦場(グリーン・ベレーのバラード)」なのである。それは、フォーク・ソングの形式をとってはいるが、決して民衆の側から生みだされたものではなかった。もう一点、指摘しておかねばならないことがある。それは、この歌がMRAの思想と奇妙に合致している点である。財団法人MRAハウス代表理事を務めた澁澤雅英は、政策研究大学院大学の伊藤隆教授らが2003年に実施したインタビューで次のように証言している。(注6)

澁澤 「アメリカとヨーロッパの(引用者註・MRAの)分裂というのは非常に面白い現象で、特にベトナム戦争をやっていたでしょう。それに対するヨーロッパの反応は、いまのイラク問題とちょっと似たところもあるけれど、イラクほど馬鹿なことではなかったかもしれないけれど、ちょっと似ていましたね。ヨーロッパのほうは、ブックマン本来の道徳でやろうといい、アメリカのほうはもっと若い人でワイワイやって、ベトナム戦争を肯定し――。」
伊藤 「肯定のほうですか。」
澁澤 「肯定でもないんだけれど、やっぱりアメリカとしては五十万人も兵隊を出しているんだから、それに反対するというわけにはいかないですよね。」
伊藤 「でもベトナム反戦運動というのがずいぶんあったじゃないですか。」
澁澤 「そうそう、それとは違うんですね。」

しかし、いくら大ヒットしているとはいえ、何もこのようなファナティックな好戦歌まで、アメリカの植民地よろしく、わざわざ日本語に訳して商売しなくともよかろうと思うし、何より、先の戦争の記憶もまだ風化していない中、大半の日本人が拒絶反応を示すであろうことは容易に推察されるが、そこは、手練れの訳詞家、漣健児の腕の見せどころ。彼は、この勇ましい戦争礼賛歌に「俺の願いはただただひとつ/母待つ国に帰ることだけ/俺もゆこう 平和の国へ/沈む夕陽に祈りを込めて」という(原曲と異なる)歌詞をのせることで、多くの日本人が共感できる厭戦歌にしてしまった。しかし、だからといって、この歌の危険な本質は何ら変わるものではなく、その点において、音楽の商売人たる草野の倫理感は厳しく問われるべきであろう。

当然というべきか、真木はこの歌を頑として拒絶した。原曲の右翼的イメージもさることながら、またぞろ外国のコピーに逆戻りすることが耐え難かったし、あくまでも自分のオリジナルを歌うことにこだわりたかった。一方、草野の耳には、真木の持ってきた楽曲は、稚拙で“ヘンなフォーク”にしか聴こえなかった。それらは、いずれもアマチュアっぽく、草野が過去に手掛けた日本語ポップスの誰もが口ずさめるヒットナンバーとは程遠い水準のように思えた。シングル盤に相応しい曲が無いのだ。窮する草野の頭にふと妙案が浮かんだ。そうだ、あの歌だ、ハマクラ(浜口
庫之助)さんがアフロ・クバーナで慈しむように歌っているあの歌でいこう。寂しかった僕の庭にバラが咲いたあの歌――。かくして、1966年春の東京に“和製フォーク・ソング”第一号が誕生することになるのである。(つづく)

(注1)この推測は、同年(1966年)秋、ロビー和田が、セイロン島の首都コロンボの素晴らしさを歌い上げた自作のフォーク・ソング「コロンボ」をシングル盤として発表し、日高義もまたセイロン島行きにインスパイアされたと思われる楽曲(詳細は次回述べる)を真木に書いていることによる。
(注2)メンズ・クラブVOL.52「セイロン島にて/マイク・真木」(1966年4月号)

 

(注3)中でも、黒沢進が行なった小山光弘氏(元フッギーズ)のインタビュー証言は興味深い。小山曰く「フィリップスの本城さんという大プロデューサーがきて、新宿の喫茶店で昼の12時から(引用者註・フロッギーズが)プロになる、ならないで話しをするわけですよ。で、終わったのがね、夜中の12時。僕一人じゃどうしようもないから、金子(引用者註・洋明)さんや石川鷹彦さんや小室(等)さんを呼んだりして、説得してもらうわけですよ。“こいつら絶対にプロになりませんよ”と。それでとうとうあきらめてね、“それじゃわかりました、誰かプロになる人はいませんか”。僕が“あのう真木壮一郎さんて方、きっと僕やると思うんですよ”といって。それが『バラが咲いた』だよ。」(「資料日本ポピュラー史研究 GSとカレッジフォーク篇」1983年1月発行)。面白い話ではあるが、時系列に致命的な矛盾があり、信憑性は低い。恐らく、小山が黒沢相手に“かました”与太話の類であろう。

 

(注4)「熱狂の仕掛け人」湯川れい子(小学館)
(注5)赤旗(1966年6月12日)。なお、真木が蹴った「悲しき戦場」は、その後ケン・サンダースによって吹き込まれ、真木の「バラが咲いた」と同年同月(1966年4月)にビクターから発売された。

(注6)「澁澤雅英オーラルヒストリー」政策研究大学院大学(2004年1月)


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1965年の秋から冬にかけて、眞木壮一郎は、盟友日高義が居を構える原宿駅近くの神宮マンション4D号室に入り浸り、オリジナルの日本語によるフォーク・ソング作りに没頭した。眞木とソングライティング・チームを組んだ日高は、新進気鋭のフォーク・ソング研究家であり、独創的なソングライターでもあった(注1)。彼は、2年前の1963年に4か月程渡米し、グリニッジ・ヴィレッジの「ビター・エンド」やサンフランシスコの「ハングリー・アイ」といった最先端のフォーク・クラブ、小劇場でのフーテナニー(hootenanny)など、当時アメリカの若者の間で大きなムーブメントとなっていたフォーク・リヴァイヴァルの魅力と熱気を直に体験していた。帰国した日高は、すぐさま、都内の大学キャンパスで先駆的かつ同時多発的に活動を始めていた学生フォーク・グループに連絡をとり、その年の秋、原宿のセブンスデー・アドベンチスト東京中央教会(現・ラフォーレ原宿に所在)に集合させた。これが、おそらく日本で初めて開催された“フーテナニー”ではないか(注2)。この「原宿フーテナニー(もしくは「日高フーテナニー」)」には、小室等率いるP.P.M.フォロワーズ、眞木、麻田らのモダン・フォーク・カルテット、後に小室の妻となるのり子の兄が在籍していたキャスターズなどのフォーク・グループが参集した。横のつながりがなく、「日本でモダン・フォークを演奏しているのは自分達だけだろう」と孤独の裡に己の感性の鋭敏さを自負していた20代前半の若者達は、この時初めて、同じ苦悩と喜びを抱えてフォーク・ソングの荒野を突き進む同志の存在を知ることになる。1963年、アメリカでは、夏にワシントン大行進、晩秋にケネディ暗殺という、ニューフロンティアに託した希望が悲嘆そして絶望へと大きく転換した年でもあった。

「ねぇ、ターちゃん(日高の愛称)、覚えてる? 中央教会に初めて集まった頃、ピート・シーガーが日本に来たよね」。眞木がバンジョーを爪弾きながら、愉快そうに話しかける。「あの時、ぼく達MFQのメンバーは、シーガーの楽屋に入れてもらったんだよ。それで、彼に『フォーク・ソングの歌手はどんな格好をしたらいいか』って質問したら、ひどく怒られてさ」。黒縁の眼鏡を押し上げながら楽譜にペンを入れる日高が苦笑交じりで応じる。「そりゃそうだ、彼は、キングストン・トリオじゃないんだからな」。「そうなんだよ。『フォーク・シンガーは歌を聴かせることに徹するべきで、服を見せびらかすようなことをしてはいけない』って言われてね。あの言葉は沁みたなぁ」。陽気に話す眞木は、黒のアルパカのカーディガンとチャコールグレイのスリムなスラックスでさりげなく決めた自らのアイビースタイルを見やりながら、「でも、やっぱり身だしなみも大事だよなぁ」と嘯く
(注3)

眞木と日高は、これまで日本にはなかったトピカル・ソングを作ろうとしていた。ディランやシーガーが、公民権運動やヴェトナム戦争をテーマに歌を作ったように、英米の民謡歌手が古くはタイタニック号の遭難、近年ではケネディ暗殺をも「うた」にしたように――。2人がまず目を付けたのが、この年の秋に大きく報道されたマリアナ海域での海難事故だった。1965年10月7日、南太平洋に出漁中の日本のかつお・まぐろ漁船10数隻が、台風29号の進路を避け、マリアナ諸島アグリガン島の島陰に退避していたところ、予想に反し台風の中心が同島海岸付近を通過。風速70メートル毎秒に達する暴風が吹き荒れ、荒れ狂う大波に飲み込まれた漁船7隻が次々に遭難。209人の犠牲者(死者1人、行方不明208人)を出す大惨事となった。
眞木は、この悲惨な海難事故を次のような詞にした。

マリアナの海遠く
マリアナの空遠く
消えた海の男たち  
静かにねむれ とこしえに

あれは南の海
広く青い海
かつお釣りの白い船
予期せぬ嵐29号

逆巻く荒波に
狂い叫ぶ嵐に
二度と帰らぬ二百余人

追いせまる波と風
逃れるすべもなく
自然のいかりを前にして
力尽きし船
今は木の葉

日高がこれにドラマチックな展開の曲を付けた。タイトルは「マリアナの海」。二人はその出来栄えに大いに満足した。職業作曲家による出来合いの歌ではなく、自分たちが本当に歌いたい歌、すなわち、若者による若者のための“本物のフォーク・ソング”が、今この国で生まれようとしているのだ。眞木は、まるでグリニッジ・ヴィレッジの古びたアパートメントで全世界に向けて歌という武器を投擲せんとするラジカルなフォーク・シンガーになったような、憧れのディランやシーガーと肩を並べたかのような、そんなすこぶる誇らしい気持ちになった。自信が漲り、歌は溢れ落ちるように生まれ出た。11月、国会議事堂前では日韓条約に反対する学生と機動隊が激しく衝突し、ブラウン管からは罵倒し合い掴みあう与野党議員の醜態が映し出され、窓を開ければ、空を覆う灰色のスモッグと道路を掘削するドリルの金属質な回転音、1965年秋の東京の風景が、若い2人の紡ぎ出す初々しい言葉と音符で次々とスケッチされていった。「同じ国に住んで」「君の町」「歌おうよ 叫ぼうよ」…、これらの歌は、年の瀬の12月19日から21日にかけて有楽町の日劇で開催された「フォーク・ソングフェスティバル」
(注4)における新生・眞木壮一郎の重要なレパートリーとなった。モダン・フォーク・カルテット解散後初のソロライブ。グループ時代と変わらぬ女子大生からの黄色い歓声を浴びながら、眞木は、この日、フォーク・シンガー「マイク真木」として新たな一歩を踏み出した。

ちなみにこの時、同じ日劇のステージに立ったのが、芝高校生と立教高校生の4人から成るキングストン・トリオのコピーバンド「オックス・ドライヴァーズ」である。揃いのアイビールックで「グリーンバック・ダラー」やオリジナルのユーモラスなフォーク・ソングを瑞々しくも躍動感たっぷりに演奏した彼らは、会場を埋め尽くしたフォークファンから割れんばかりの拍手を浴びた
(注5)。「やったナ」と特徴あるバリトンボイスでいたずらっぽく笑うのは、リーダーの立教高校3年、細野晴臣。彼もまたアメリカのフォーク・ソングに心奪われた、まだ何者でもない18歳の音楽少年であった。(つづく)

(注1)    日高義氏については、1966年当時の雑誌記事から現在のフォーク解説本に至るまで、元・日劇の演出家の日高仁氏との混同がしばしば見られる。混同例において最も顕著なのが、エリック・アンダーソンの「Come To My Bedside」の訳詞者の名義であり、高石友也「おいでぼくのベッドに」、岡林信康「カム・トゥ・マイ・ベッド・サイド」、加藤和彦「ぼくのそばにおいでよ」、これらはいずれも1969年に発表され、訳詞も同一の内容であるが、高石版は日高義名義(高石自身による解説にも「詩の日高義氏は以前、マイク真木君の詞や曲を多く手がけたこともあった人」と書かれている。)であるのに対して、岡林と加藤のバージョンは、日高仁名義となっている。ここから、日高義氏と仁氏は同一人物なのではないかと推測されるが、当時の記録によると、1966年当時、義氏は20代後半の青年であるのに対し、仁氏は35歳と年齢にかなり開きがある。また、仁氏が後に手がけた「星降る街角」などのムード歌謡曲も、義氏の作風とは違いがありすぎる。よって、同一人物説はとらないが、一方で、混同が起こっても権利関係等において問題が発生しない程近しい関係性にあったことは間違いないだろう。名前の類似性(義・ただし、仁・まさし)や両者の容貌の相似形から2人は兄弟ではないかと推察する。真相をご存じの方は是非情報をお寄せいただきたい。

 

(注2)    日本初のフォーク・フェスティバルは、1962年11月に銀座ガスホールで開催された「セアリーズ・ミーティング・ヒア・トゥナイト」(セント・ポールズ・フォーク・シンガーズ等出演)。一方、フーテナニー(フォーク・ソングを次々と歌い続けるスタイル)は、定説では、1963年12月31日に開催されたジュニア・ジャンボリー主催の「フーテナニー‘63」が日本初とされているが、その「フーテナニー‘63」にモダン・フォーク・カルテットを率いて出演した麻田浩氏当人が、「1963年の秋に原宿の教会でフーテナニーが行われるまでは、自分達しかモダン・フォークをやっていないと思っていた。それは、他のフォーク・グループも同じだったと思う。」と証言していることから、本文のように推測した。

 

(注3)    ピート・シーガーとのエピソードは、「平凡パンチ」(1966年4月11日号)の真木のインタビューより。
(注4)    1965年12月17日の読売新聞夕刊に掲載された「日劇フォーク・ソングフェスティバル」の広告は下の画像を参照。構成・演出は、前述の日高仁氏が担当した。
(注5)    当時の音楽雑誌によると、オックス・ドライヴァーズは、「うまさよりも、ワイルドな魅力を全面に押し出したユニークなチーム」で、十八番のキングストン・トリオのコピーのほか、「ヘンな日本語の歌詞のついたコミック・ソング」を演奏して「大いに観客を沸かせていた」らしい。翌1966年に細野が脱退した後は、ギター・バンジョー・ベースという編成の「オックス・ドライヴァーズ・トリオ」として活動した。


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それは今朝のこと
通りを歩いていたら
牛乳屋さんに郵便屋さん
おまわりさんにも会ったよ
あっちの窓にも こっちの戸口にも
今まで気付かなかった人がいた

上へ!上へ行こう あの人たちと一緒に
どこへ行っても会えるよ
高み!高みを目指そう あの人たちと一緒に
ぼくが知る限り最高の種類の人たちだ

ぼくは見たんだ
南部から 北部から
強大な軍隊のように
あの人たちがやってくるのを
それは 王者にふさわしい
素晴らしい再会
人間が物質主義にずーっと勝ることを
その時ぼくは悟った

上へ!上へ行こう あの人たちと一緒に
どこへ行っても会えるよ
高み!高みを目指そう あの人たちと一緒に
ぼくが知る限り最高の種類の人たちだ

もっと沢山の人たちが 
あっちこっちでみんながね
己を捨てて人のために動くなら
悩み事や心配事は消え失せて
気づかい合いの灯がともる
社会不安や争いごとも無くなって
互いに理解し助け合うだろう

(Up With People 意訳)

1965年の東京のキャンパスでモダン・フォーク・カルテットはとにかく大変な人気者だった。麻田浩、眞木壮一郎、重見康一、渡邊かをるの4人の大学生によるフォーク・グループ。キングストン・トリオの凡百のコピーバンドから一歩も二歩も抜きん出て、ピート・シーガーやジェシー・フラー、レッドベリーなどの隠れた名曲を演奏する彼らは、真摯にフォーク・ソングの精神を追求する研究者であると同時に最新のアイビールックを恰好良く着こなし男性ファッション雑誌のモデルを務める華やかなファッション・リーダーでもあった。ステージでは、端正な顔立ちの麻田と眞木に人気が集中した。麻田がウッドベースを弾きながらヴォーカルを取ると“麻田派”の女性ファンは割れんばかりの歓声を上げ、眞木がバンジョーを奏でながら甘い声で歌い出だすと“眞木派”の少女達は負けじとキャーキャーと黄色い声援を送った。

そんな幸福なライブに明け暮れていたある日、――もう半世紀以上前の事で、記憶も混沌としているが、もしかするとそれは、4月に厚生年金会館で行われたスチューデント・フェスティバルの楽屋だったかもしれない。演奏を終えた彼らに「よ、お疲れ」と声をかけてきた若い男がいた。肉付きのよい逞しい体格に眉毛の濃い人懐っこい丸顔。彼らの後輩で共通の友人である和田良知である。本名、ロバート・良知・和田。19歳。日本人の父とオーストリア人の母を持つこの青年は「ロビー和田」と呼ばれていた。ロビーは、少年時代をアメリカンスクール、ドイツ学園と国際色豊かな環境で過ごし、英語、ドイツ語、オランダ語など語学に堪能であり、玉川学園高等部では、バスケットボール部のキャプテンを務めながら、青山学院高等部の眞木と「ファイアーサイド・ボーイズ」というフォーク・グループを結成していた。運命が大きく動いたのは高校2年の時。MRAから「音楽劇に加わって世界を回らないか」と誘われたのだ。受験勉強に浮き身をやつす高校生活に嫌気がさしていたロビーは同意し、高校を中退。ギターケースを抱え、MRAのグループと共に、インド、セイロン、台湾などアジア各国を回る音楽放浪の旅に出た。そして、帰国したロビーは、抜群の歌唱力と卓越した作曲能力を身に付けた優れたミュージシャンとしての顔と、反共宗教団体MRAのオーガナイザーとしての顔を併せ持つ童顔ながらもしたたかな「大人」の男になっていた。

「MRAを知っているか?」。ロビーは、麻田、眞木ら4人の前に座って、少し勿体付けて話し出した。後輩のくせに態度が大きいのはいつものことだ。4人は顔を見合わせた。キングストン・トリオの軽快なナンバー「M.T.A」なら知っているが、MRAなど聞いたこともない。訝し気な表情の麻田らをよそにロビーは口を開く。「道徳を通じた平和運動をしているアメリカの団体だ。夏にミシガン州のマキノ・アイランドで世界大会をやるのだが、そこに日本からバンドを1つ招待したいと言ってきている」。一拍置いてこう続けた。「僕は、君たちモダン・フォーク・カルテットを推薦したいと考えている。どうだ、行かないか、アメリカに。」
1ドル360円の時代である。海外旅行など政治家や財界人など一部のセレブ以外には夢のまた夢、貧乏学生にはとても手の届くものではなかった。それを何とタダで招待してくれるというのだ。しかも、尊敬するシーガーやディランを生んだフォーク・ソングの本場アメリカに! ロビーの誘いに対する彼らの答えは一つしかなかった。「行くに決まってるじゃないか、ロビー。是非推薦してくれ!」

7月末に羽田からアメリカに発った4人は、飛行機、汽車、フェリーと乗り継いでミシガン湖のずっと北、カナダとの国境近くにあるマキノ・アイランドのMRA訓練センターに到着した。バス・トイレと清潔なベッドが備え付けられた綺麗な宿泊施設、食事は、ジューシーなビーフパイ、肉厚のサーモンステーキ、デザートの甘いファッジ等々日本では食べたことのないものばかり。どれも美味い。世界中から集まった若者たちともすぐに仲良くなった。ヒューロン湖に囲まれた緑豊かな島の景色もこの上なく素晴らしい。いやがうえにも気分は高揚する。誰からともなく叫ぶような声が上がった。「歌おう! 叫ぼう! アメリカ中にぼくらの声を響かせよう!」。4人はMRAの選抜メンバー150人で構成された「Sing Out‘65」に加わり、アメリカを横断しながらの演奏旅行を体験することになる。その時のことを麻田と眞木は次のように証言する。

「僕らはアメリカに行って、すぐ帰ってくるはずだったんですが、『Sing Out '65』というショーで日本の曲を演奏することになり、3ヶ月くらいアメリカ中を回ったんですよ。これは凄く良い経験になりました。(中略)ただ、そのツアーは『道徳再武装運動』っていうくらいですから、男女の交際はダメとか色々厳しかったんですけど(笑)、それでも面白かったですね。若い子たちが100人くらい一斉に車に乗ったり飛行機に乗ったり、アメリカ中、いわゆるショーをして回るわけですよ。」
(注1)
「一番感動したのはケープ・コットという東海岸の避暑地のショーボートで演奏したときです。ぼくたちの歌が終わると、まわりにいたヨットやモーターボートが、拍手のかわりに汽笛を鳴らして、いっせいに集まってきた。ぼくたちはそこで、40カ国以上の国の若者たちと語りあったんです。」(注2)

「Sing Out '65」で演奏するモダン・フォーク・カルテット(左から、重見康一、麻田浩、眞木壮一郎、渡邊かをる)

モダン・フォーク調にアレンジした「こきりこ節」とジェシー・フラーの「サンフランシスコ・ベイ・ブルース」を演奏した。どこに行っても大いにうけた。ワシントンでは、ヒルトンホテルの豪華な舞踏場で共和党議員、外交官、財界のエスタブリッシュメントらを前に演奏し、ニューヨークでは世界博覧会、ハリウッドではハリウッドボウルにつめかけた3万人の観衆から割れんばかりの拍手を浴びた。戦後20年、日本人がギターを弾いてフォーク・ソングを歌っているというだけで珍しかったのだ。一方で、彼らの中にこんな感情も沸き上がってきた。
「すごい拍手を受けた。でも寂しかった・・・。『よくもまあ遠く日本からワザワザ、キングストン・トリオのマネをしにきたネ』・・・このようにその拍手は受け取れた。」
(注3)
アメリカのフォーク・ソングの物真似ではなく、拙くても「自分の歌」を歌いたい。特に眞木の中で、その思いが日に日に強くなっていった。
「日本ではフォーク・ソングという言葉はわりと新しいものだ。僕は高校の初めから興味を持ち、ごく一部の仲間の間で歌ってきた。また、自分では人のあまりやらないフォーク・ソングに早くから目をつけたことに、変なエリート意識を持っていた。だから、あまり多くの人に知られたくないと思っていた。ミーチャン、ハーチャンとは違うんだと思っていた・・・。大バカヤローのコンコンチキだ。そんな自分を今考えるとゾッとするくらいきらいだ。こんなチッポケな小児病は捨てよう。牛乳屋さん、おまわりさん、給仕さん、お医者さん、運転手さん、みんなみんなが歌ってこそフォーク・ソングなんだ。」
(注4)
麻田も思いは同じだった。しかし、眞木がMRAでの体験をストレートにそのまま歌にしたいと考えていたのに対し、麻田はもっとそれらの体験を咀嚼し自分のものにしてから歌にすべきではないかと感じていた。そのためにも、大好きなアメリカの音楽をもっともっと勉強する必要があると思った。大体、このMRAという団体は窮屈すぎるのだ。酒もダメ、遊びもダメ、男女交際などとんでもない?歌っている内容も、尊敬するガスリーやシーガーとはまるで違う。次は一人でアメリカに行くんだ。そのためにも帰国したら働いて金を貯めなければ…。

10月、わずかばかりのすれ違いを抱えたまま帰国した彼らは、月末にグループを解散。麻田は、大好きなミシシッピ・ジョン・ハートに会うことを目標に、旅費稼ぎのアルバイトに精を出した。残念ながらジョン・ハートは翌1966年暮れに亡くなってしまうが、麻田の再度のアメリカ行きは1967年に実現する。アメリカ大陸を1年間バイクで放浪し、デビュー前のジョニ・ミッチェルやジャクソン・ブラウンとも知り合いになった。それが後のTom's Cabinにつながっていく。
一方、眞木は、帰国後、早速「自分の歌」、すなわち、オリジナルのフォーク・ソング作りにとりかかった。曲作りのパートナーに選んだのは、数歳年上の気の置けない友人“ターちゃん”こと日高義(ただし)であった。そして自らのステージネームを少年時代からのニックネームである「マイク真木」に改めた。(つづく)


(注1)  Musicman-NETー LIVING LEGEND シリーズ ー【前半】新たな音楽&才能との出会いは一種の“麻薬”である Tom's Cabin代表、SXSW Asia代表 麻田 浩 インタビューより(https://www.musicman-net.com/focus/63655)
(注2) 週刊明星(1966年5月)「フォーク・ソング『バラが咲―いた』で人気爆発!マイク・真木の不敵な青春」
(注3)(注4)「マイク真木・フォーク・アルバムNO.2」(1966年9月)ライナーノーツより


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1964年9月14日、カリフォルニア大学バークレー校の大学当局は、公民権運動の高まりを受け、これまでビラ配りや募金活動などの政治活動に使うことを黙認してきた正門前の舗道を使用禁止にする旨、学生諸団体に一方的に通告した。これに対し、学生達は、大学側の措置は合衆国憲法で保障された政治的権利の自由を奪うものとして強く反発。左右両翼を含むゆるやかな連合戦線「フリー・スピーチ・ムーヴメント」を結成し、禁止撤回を求めた。しかし、大学当局は学生達の要求には応えず、逆に抗議した学生の無期停学処分や警察力による活動家の排除を強行したため、紛争は激化。大学の管理部門が集中した最重要棟であるスポロール・ホール前では、連日シット・イン(座り込み)が決行され、ジョーン・バエズも支援のため何度も足を運んだ。そして、12月2日の集会で、バエズは「あなた達の力を奪い去ることは誰にもできないのです。今それを見せつけてやりましょう」と力強くスピーチし、歌で励ましながら、約1,000名の学生達と共に“平和的に”ホールを占拠した。翌3日未明、その晩の逮捕はないと判断したバエズがホールを出た直後、警官隊が構内に突入。無抵抗で座り込む学生達は暴力的に排除され、逮捕者は814名にのぼった。バエズは次のように述懐する。
「彼らは私を逮捕したくなかったのだと思う。何故なら、彼らにとって好ましからざる宣伝の種にされる恐れがあったからだ。(中略)この国の白人中産階級の若者たちの中に、たとえ本物の非暴力運動があったとしても、非暴力というのは、それで警官の警棒から身を守れるものではないことを知るべきだろう。その晩、彼らの中には、もし歌い続けていなかったら、パニック状態になって警棒がもっと激しく襲ってきたに違いない、ということを学んだ者もいた。だが、立派だったのは、彼らは勇敢だったし、怯えてもいなかった。そしてバークレーは、合衆国の諸大学の中に芽生えていた行動主義と危機の新たな段階を画したのだ。」
(注1)
かくして、1960年代後半に世界中で猛威を振るうことになる「スチューデント・パワー」の口火が切って落とされたのだ。
 

これに強い危機感を抱いた男がいた。「道徳再武装運動(MRA)」の新たな指導者J.ブラントン・ベルクである。彼は、戦後生まれの若者達の間に、現体制に対する不満が燎原の火のように広がりつつあることをいち早く予見した。同時に、フォーク・ソングが若者に与える影響力についても重く受け止めた。――バークレーでジョーン・バエズが果たした役割を過小評価することは間違いである。彼女の歌が学生達の叛乱の導火線に火を付けたのだ――。ベルクは、これまで演劇や映画を中心に展開してきたMRAのプロパガンダを、歌を中心としたものに切り替えることを決意した。1965年夏、ミシガン州マキノ・アイランドのMRA訓練センターにアメリカを中心に世界52か国から千人以上の若者を集めた彼は、その中から音楽を嗜む者を選抜し、プロのフォーク・ミュージシャンであり熱心なMRAの信者でもあるコルウェル・ブラザーズや演出家ヘンリー・カスの指導の下、歌と踊りで構成された一大音楽ショーを作り上げた。それは、約100名の男女混成のコーラス隊が、シンプルなコード進行の一見屈託無いフォーク・ソングを、満面の笑みを浮かべ、一糸乱れぬ振りで踊りながら大合唱するというパフォーマンスで、「Which Way America?(アメリカよ何処へ行く)」「What Color Is God's Skin(神様なに色)」「Design For Dedication(皆の責任 国づくり)」など、シンプルながらもその歌詞の内容はいずれもMRAの教義を的確かつ簡潔に人々の心に刷り込ませるものであり、ショーのフィナーレは、フランク・ブックマンの「融合」の思想を説いた人心改変(チェンジ)讃歌「Up With People」の大合唱で締めくくられた。下の動画を見れば、クリーンで健全でありすぎるが故の何とも言い難い一種異様な雰囲気が伝わるのではないだろうか。それは皮肉にも、MRAが最大の悪として徹底的に敵視した共産主義国家の“健全”で“皆笑顔”で“一糸乱れぬ”ショーによく似ている。ちなみに2分45秒から登場する女性4人のフォーク・グループは、映画女優のグレン・クローズが10代の時に在籍していたグリーン・グレン・シンガーズであり、今となっては貴重なグレン作による「The Happy Song」をワンコーラスだけ聴くことができる。経歴から抹消されているが、彼女も当時はMRAの忠実な伝道者であった。
 

このショーは「Sing Out‘65」と名付けられ、コネティカット、ニューヨーク、ワシントン、ニュー・メキシコ、カルフォルニアなどアメリカ各地を公演して回り、保守的な白人セレブ層を中心に驚く程好評を博した。大企業が次々にスポンサーとなり、数百万ドルに及ぶ莫大な資金援助を行った。特に大物右翼で福音主義者のパトリック・フローリー・ジュニアが経営していたシック(Schick)は、1時間のテレビ番組「Up With People」を提供するなど、最大の支持者となった。エクソンモービル、ハリバートン、ゼネラル・エレクトリック、トヨタ、コカコーラ、ファイザー、クアーズなどの大企業がその後に続いた。彼らは、この清潔で笑顔を絶やさない若者達のことを、自社の資産を共産主義の脅威から守ってくれる傭兵のように思っていたに違いない。

「Sing Out‘65」は、日本にもやってきた。1965年9月、総勢150名のメンバーがチャーター機で来日、北海道の千歳空港から入国し、中島スポーツ・センターで公演後、東京に移り、歌舞伎座、東京体育館、早稲田大学大隈講堂、日大講堂などで上演、大きな反響を呼んだという。東京体育館には7,500名の観客が集まり、佐藤栄作首相夫妻も観劇し、終演後舞台裏で出演者を慰労した。また大隈講堂では坂本九が特別出演した。
(注2)

この時の佐藤栄作の様子を、朝日新聞は「歌声に“我が意を得たり”」の見出しを付けて次のように報じている。
「『国会の所信表明演説では青年に訴える言葉を加えたい』と9日午前、橋本官房長官に指示した佐藤首相は午後、東京千駄ヶ谷で開かれたMRA(道徳再武装)の『歌の祭典』に出席した。世界各国から集まった青年達のコーラスを2時間もきいたが、その中で外国の青年が日本語で『日本はアジアの灯台。自由と希望に灯をともそう』と歌った時など首相は身を乗り出し、『いいねえ、いいねえ』の連発。『青年』づいた1日だった」
(注3)

「Sing Out‘65」には、日本の学生フォーク・グループも参加していた。それは意外にも、アメリカのフォーク・リヴァイバル運動の精神を正しく継承し、ウディ・ガスリーやピート・シーガーなどを歌っていた原宿教会フーテナニー派のモダン・フォーク・カルテットであった。当時、日本大学と明治学院大学の学生であったマイク真木と麻田浩がどうして道徳再武装運動の演奏旅行に加わることになったのか、そして、その翌年、日本に咲いた真っ赤なバラの話については、次回にゆずろう。(つづく)


(注1)    「ジョーン・バエズ自伝―WE SHALL OVERCOME」(矢沢 寛・佐藤ひろみ訳)
(注2)    アジアセンターODAWARA40周年記念 CD-ROM
(注3)朝日新聞(昭和40年10月10日朝刊)


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「道徳再武装運動(MRA=Moral Re-Armament)」については、創始者である米国人牧師フランク・ブックマン(1878年~1961年)及びその有能なスポークスマンであった劇作家でジャーナリストのピーター・ハワード(1908年~1965年)の著作を読むことで大体のことは理解できる。それらによると、共産主義との闘いにおいて“民主主義のためのイデオロギー”を提供するのが「道徳再武装運動(MRA)」であり、目的は二つある。第一は、神(キリスト)を国家生活の主導力として復元すること。第二は真に健全な国民生活を打ち立てることである。
 
第一の目的の達成のために、あらゆる人間関係、所有物、計画を人間以上の意思の支配下に置くこと、すなわち、家庭、仕事、金、時間、精力等について自分の最後の決定権を放棄し、神霊に委ねることが求められる。
第二の目的の実現のためには、個人的にも国家的にも、正直・純潔・無私・愛を「絶対」的なものにすることが重要であり、この「4つの絶対」で心を武装して闘う人たちを増やせば、何ものにも負けない強靱な勢力を社会にもたらすことができるとする。そして、そのために、「道徳再武装運動(MRA)」は、テレビ、映画、演劇、音楽などあらゆるメディアを使って、世界中のすべての人の心と家庭に入り込まねばならず、同時に、政治家にも、一般人にも、人間を改造(チェンジ)する技術の習得が求められるとする。フランク・ブックマンは、その著作「世界を再造する」の中で次のように主張する。
「現在、我々は利己主義に対し史上最大の世界戦争を戦っているのです。全員銃をとれ! (中略) 我々は世界を再造しなければなりません。男も、女も、子どももこのために動員され、すべての家庭はこのための城砦でなければなりません。 (中略) 今こそ、利己主義に制する世界戦争のための戦士を募る好機であります。我々は不断の戦士でなければなりません。」
 
ここでブックマンのいう「利己主義」とは、一般的な意味合いより、むしろ、彼らが「人間性の悪玉(猜疑心、不信感、憎悪)を革命の手段として利用している」として徹底的に敵視した共産主義を指していることに留意する必要がある。それは、MRAが1959年に発行したパンフレット「イデオロギーと共存」の冒頭で「アメリカにとっての選択は、MRAか共産主義かだ」と強調していること、また、1965年5月31日の日本経済新聞に掲載されたMRAの全面広告「新しい学生運動の提唱」の中で共産主義を利己主義と位置付けて批判していることからも明らかである。そして、彼らは、コミュニストや労働運動の活動家の心を改変(チェンジ)し、国家や資本と協調してやっていける従順な人間に仕立て上げ、労働の現場では労使協調路線の名の下の御用組合化、国民生活においては権力への反抗心をスポイルし「融合」という名の超保守化を推し進めた。つまり、MRAは、アメリカを中心とする現体制を改変(チェンジ)させないために、社会的公正や改良を求める人々の心を改変(チェンジ)し、有産階級や支配層にとって危険な芽を早期に摘み取る“防衛装置”として機能したのだ。
 
もう一つ指摘しておかねばならないことがある。それはMRAが教義的に保持している同性愛者に対する差別と偏見に満ちた極めてレイシスティックなアティテュードである。ブックマン曰く「同性愛は罪」であり、「罪は憎み、処理されなければならない」もので、「神のみがそれを癒す力を持っている」。さらに、これはハワードの言葉だが、「いまや同性愛常習者は、厚顔にも自分達の方が、より有能で、知的で、しかも自然であるという説を社会に押し付けるようになった。何百万の人がこれにごまかされている。昨日までは変質者と見られたものも、今日では正常だと思われるに至っているわけだ」。そして、このような“罪”を過小に扱ってはならず、最大限に強調すべきであり、チェンジし、融合し、戦うことが必要と訴える。何と凄まじいヘイトスピーチであることか。
 
この「道徳再武装運動(MRA)」を日本で推進したのが、自民党の岸信介、千葉三郎、福田赳夫、社会党の加藤シヅエ、日銀総裁の渋沢敬三、日本国有鉄道総裁の十河信二、このほか、石川一郎(日産化学工業社長、経団連初代会長)、石坂泰三(東芝社長、第2代経団連会長)、土光敏夫(石川島播磨重工業社長、東芝社長、第4代経団連会長)、本田親男(毎日新聞社長)等の錚々たるセレブの名を挙げることができる。中でも岸信介は1961年にブックマンをノーベル平和賞に推薦した際に「我々が今最も必要としているのは、攻勢に出て、MRAのイデオロギーを我が政府、我が国民の政策にすることである」と諸手を挙げて礼賛し、その反共イデオロギーに深く共鳴していた様子が伺える。
 
さて、前振りにしては話が長くなりすぎた。このままでは本題のフォーク・ソングに辿りつかない。ただ、「道徳再武装運動(MRA)」が、清廉な道徳運動の類ではなく、政治と宗教が密接に融合し、支配層の防衛装置として人々に洗脳を施していたカルト的な運動体であることを理解しておかないと、この後の話の危うさも理解することはできないのだ。

 

MRAが、ブックマンの“教義”を「世界中のすべての人の心と家庭に入り込ませる」ために利用したのが、当時、若者達を魅了していたフォーク・ソングであった。それは、1960年代半ばにバンジョーの明るく軽快な音色と共にやってきた。シングアウト、そして「Up With People」である。(つづく)


参考文献
・世界を再造する(フランク・ND・ブックマン著)
・フランク・ブックマンの秘訣(ピーター・ハワード著)
・人間の改造(ポールキャンベル、ピーター・ハワード著)
・消えゆく島(ピーター・ハワード著)
・「虎(タイガー)」世界をゆく(相馬不二子著)


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先月、といってももう昨年の話になってしまうが、千葉県佐倉市の国立民族博物館で開催された企画展示「1968年―無数の問いの噴出の時代」にて、城山三郎氏と小田実氏が腕を組んでジョーン・バエズとシングアウトしているあの有名なシーンの音源を聴くことができた。1967年1月25日のべ平連集会「みんなでベトナム反戦を!ジョーン・バエズとともに」の一コマ。丁度10年前、NHKの年末特番でこの写真の存在を知り、城山氏と小田氏の意外にも親密な関係に驚くとともに、お世辞にもスマートとは言いがたい戦前生まれのお二人が、当時フォークの女王と呼ばれ時代の最先端にいたバエズと一緒に「歌っていた」ことに新鮮な感動を覚えたものだ。その後、歌われていた曲が「ウイ・シャル・オーバーカム」であることや、両氏の間に実は開高健氏がいたこと、さらにべ平連とフォーク・ソングの密接な関係性などを知り、ぼくの志向(=思考)は、ロックからフォークへとじりじりと後ずさりしながら下降していった。そして今、日本のフォーク・ソング黎明期を象徴するこのシーンが、同時にフォーク・ソングにまつわる政治的な企みの第一幕フィナーレであったように思えてならないのだ。

そのことに気付かせてくれたのは、昨秋、六本木で開催された音楽プロデューサー牧村憲一氏と音楽評論家北中正和氏のトークライブ「北中・牧村ダイアログ」における牧村氏の次のような証言である。
◆1960年代の東京のフォーク・シーンは、関西フォークと対比する形で、お坊ちゃん、お嬢ちゃん的なイメージで一括りにされがちであるが、実は二つの潮流があった。
◆一つが、原宿の教会(現在ラフォーレのある場所に建っていた)を拠点にしていたフーテナニー・グループであり、アメリカのフォーク・リヴァイバル運動の精神を継承し、ウディ・ガスリーやピート・シーガーなどを歌っていた。主なメンバーは、小室等(P.P.Mフォロワーズ)、麻田浩(モダン・フォーク・カルテット)など。
◆もう一つが、当時主流であったスチューデント・フェスティバルであり、彼らは、キャンパスで歌って踊ってというヤング・アメリカンズ的な無害で健全な側面のみを直輸入し再現した。黒沢久雄率いるザ・ブロード・サイド・フォーや森山良子などの成城大学グループが有名。
◆後者を陰で牽引したのが、自民党の保守政治家らが中心となって推進していた「道徳再武装運動(MRA=Moral Re-Armament)」である。

牧村氏の話は、この後、カントリーからフォークに移行した学生ミュージシャン(ヨーデルを歌っていた金子洋明氏など)が主にスチューデント・フェスティバルの源流となり、FENでディランを聴いて衝撃を受けた者は原宿教会のフーテナーの側に結集したこと、二つのグループは相互に交流があり外目には違いが分かりにくかったこと(例えば、フーテナニー派のモダン・フォーク・カルテットは人気グループだったのでスチューデント・フェスティバルにも出演していた)、しかしながら
意識的には全く異なり、そのことが、後にURCと一緒にできる者(=自らの言葉や現代詩人の言葉で歌いはじめた者)とそのような動きとは全く無関係の者(職業作曲家の作った商業的な歌を抵抗無く歌う者)との別れ道になったのではないか、など、かなり大胆に、フォーク・ソング黎明期の知られざる真実を明らかにしていった。

 

ここで重要なことは、東京のフォーク・ソングの二つの潮流のうち、圧倒的にメジャーであったのが、お坊ちゃん、お嬢ちゃんフォークと揶揄されたスチューデント・フェスティバルであり、その背後に「道徳再武装運動(MRA)」が存在していた“らしい”という点である。(何故、「らしい」と断定を避けた文章にするかというと、現時点では牧村氏の証言以外にその確証を掴むことができないからである。)
しかし、「道徳再武装」とは、何とおどろおどろしいネーミングであることか。この奇妙な運動について調べてみると、驚くことに、日本に輸入されたフォーク・ソングに仕掛けられた“危険な罠”が見えてきた。(つづく)


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薄曇りの昼下がり、愛犬を連れて近所の公園までぶらぶらと。ゆるやかな坂をのぼり、かつて谷戸があったと言われる場所の頂に達すると、今度は下り坂。そこをゆっくり下っていくと目的地の公園がある。この道を通るといつも思い出す歌がある。六文銭の「私の家」だ。

  なだらかな坂道を
  くるまが登っていく
  坂の下には私の家がある
  大きな木の葉が
  空を隠している

及川恒平の素朴な詞に、六文銭最後のギタリスト原茂が曲を付け、自身で歌ったナンバー。穏やかで朴訥としたメロディも良いのだが、それを引き立てているのが、渡辺勝の虚飾を排したシンプルなピアノとストレイ・ゲイターズ期のケニー・バットリーを思わせるかしぶち哲郎の重たいドラムだ。六文銭でありながら六文銭的ではない、かといって、渡辺、かしぶちの両氏が在籍していたはちみつぱいとも違う、どこか西海岸を連想させる乾いたサウンドになっている。

この歌を口遊みながら、公園に向かう。頭の中に蘇ってくるのは、先週観たコンサートの一シーン。ベルウッド・レコード45周年記念コンサート。「さよならアメリカさよならニッポン」を歌う出演者たち。風都市のアーティストとその子どもたちだ。そこで浮き彫りになったのは、ある者の不在と勝者による歴史の書きかえ。小室等、及川恒平、四角佳子は何故ここにいないのだ? 大塚まさじ、ながいよう、武蔵野タンポポ団のシバ、中川五郎はベルウッドではなかったのか? 

今流の言葉でいうのなら、誰かが「忖度」しているのだ。80年代の音楽王達に。彼らが小室達と対極の位置で孤軍奮闘し、パイオニアの名に恥じない素晴らしい楽曲を残したことは否定しない。何よりぼくは、彼らの37年来のファンである。しかし、70年代にお洒落でナウなヤングがはっぴいえんどやはちみつぱいのレコードを小脇に抱えて青山通りを闊歩していたはずもなく、むしろじっとりと湿った地下の世界で蠢いている畸形な生命体としてのそれに近かったということは、だからこそ彼らに強烈に惹きつけられたぼくのような変わり者には、スティグマの如くメジャーへの怨念と共に深く刻印されているのだ。彼ら自身も自分達が端から主流であったかのような歴史の改ざんは一切望んでいないであろう。

大瀧詠一がベルウッド時代に発表した「あつさのせい」や「びんぼう」といった一連のノベルティ・ソングを「お前の書く歌詞は面白い」と高く評価した数少ない理解者として及川恒平は存在していた。ぼくは、そのことを大瀧がDJを務めるラジオ番組で知った。及川は当時ジョニ・ミッチェルに傾倒していたという。ジョニの「チェルシー・モーニング」を歌い、「ちぇるしい」という愛称もあった大瀧とは、諧謔的な歌詞に対するシンパシーだけでなく、音楽面でも話が合ったのかもしれない。そして、そのような意外な繋がりや両極互いにリスペクトし合う精神こそ、創立者である三浦光紀の大らかな人柄が醸し出す社風であり、ベルウッド・レコードの魅力の源泉であるような気がしてならないのだ。

そんなことを考えていたら公園に着いてしまった。愛犬が緑を駆ける。久しぶりにベルウッドの名盤「キングサーモンのいる島」を聴きたいと思った。


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まさに「瓢箪から駒」である。緑のタヌキが優しく微笑ながら「排除」を口にした途端、我先に蜘蛛の糸にぶら下がろうとしていた醜悪な権力の亡者どもは、カンダタのように地獄の底の血の池に落ちていった。ざまーみやがれ。呉越同舟の欺瞞に満ちた民進党など潰れてしまえばよろしい。志ある者、気骨のある者は、必ずや、血の池から再度這い上がってくるであろう。その時は、市民の側が、奴等を「選別」し「排除」する番だ。選別はいけません、多様性を認め合いましょうなんて綺麗ごとはこと政治の世界では無力で頓馬以外の何物でもない。その点、緑のタヌキは正しい。本来、安全保障、憲法観など、国政の根幹に関わる部分で一致しない政党などありえないのだ。だから我々は、血の池に一旦落ちた哀れなカンダタが改心し、這い上がってきた時、しっかりと踏絵を踏ませるべきだ。安保法制と共謀罪を廃止するか否か、憲法第9条を護るか否か、圧力一辺倒ではなく緊張を緩める方向に尽力する外交を行うか否か、一握りの権力者が富と力を独占する社会ではなく皆で分かち合う公正な社会を目指すか否か。この「選別」と「排除」を経て、市民は初めて真に信頼に値する政党を獲得することができるであろう。それすら儘ならないなら、茶色の政党に虐殺される時を待つだけだ。

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