(第7話)Do You Remember Rock 'n' Roll Radio?
夏の夕暮れ時は特別な時間だ。日中のとこしえに燃える炉に投げ込まれたかのような猛烈な暑さが和らぎ、穏やかで涼しい風がどこか懐かしい夕餉の匂いとともに流れてくる。俺がカザマに連れられて小田急線参宮橋の駅を初めて降りたのは、8月になったばかりのそんな夕方のことであった。俺のショルダーバッグにはカセットテープが5本、そして3枚のLPレコードが入ったモダーン・ミュージックのショッパー袋を左手に抱え、気さくな下町のような開けっぴろげな雰囲気を漂わせる暖色の商店街を通り抜けていった。
話は、2日前の夜に戻る。夕食後、俺がいつものようにキッチンで皿洗いをしていると、カザマがバンドメンバー全員をリビングに集め、おもむろに切り出した。
「提案がある。明日から掃除と皿洗いは、全員で分担してやることにしたい。」
「全員って、カザマさんもやるの?」
ハカセが驚いた様子で聞き返す。
「あぁ、俺もやる。だから、お前達も交替でやれ。」
カザマがきっぱりそう言い切ると、キックが明らかに不満そうな声を出した。
「そりゃ、カザマさんの提案なら反対しないけどさ、でも、ちょっと不公平じゃないの? 演奏以外のことでバンドに何か貢献するっていうのが、俺たちのルールだろ。じゃあさ、掃除と皿洗いを免除されるサトシは、一体俺たちに何をしてくれるっていうの?」
「サトシには、今週から『アゴラ』の方を手伝ってもらおうと思っている。」
話が何やら面倒な方向に流れていこうとしているため、俺は水道を止め、慌てて口を開いた。
「ちょっと待ってくれよ。俺はそんな話聞いてないし、了解もしていない。大体、その『アゴラ』っていうのは何なんだ?」
それまで黙っていたジュンが、天井に向けて煙草の煙を吐き出しながら口を開く。
「カザマさんがDJをやっているミニFMだよ。俺たちは、そこのミキサー兼選曲担当に駆り出され、全員クビになった。」
「お前はブルースとヘビメタしかかけないし、俺はストーンズ、ハカセはプログレとクラッシックだもんな」とキックは苦笑しながらそう言うと、カザマの方に向き直り、「サトシはつとまるのか。プリンスばっかりかけて、また『帰れ』って言われるんじゃないか」と疑わしそうに尋ねる。
「少なくとも、サトシは、俺たちより聴いている音楽の幅が広い。特にブリティッシュは、古いのから、新しいのまでいろいろ聴いているのは、お前達も知っての通りだ。俺は、アメリカ一辺倒だからな、そこを補ってほしいと思っている。」
カザマは、喋りながら、何か確信を得たかのように一人頷き、俺の方を向いてこう言った。
「サトシ、明後日の夜、放送があるから、それまでに新旧取り混ぜて20曲選曲しろ。そして、それぞれの曲に対するお前の思いも書いておけ。レコードの宣伝文句やミュージシャンのデータじゃないぞ。お前がどうしてその曲に惹かれたのかを実体験として書くんだ。これがお前の新しい役割だ。」
ミニFMとは、電波法の規制を受けない微弱電波(発信地点から100メートルの距離で15マイクロボルト以下※1985年当時の基準)を使った無免許の放送局のこと。1982年の暮れごろから大学生や高校生の間で急速に広まり、翌年には全国で約2千局ものミニFM局が現れたという。もっともその多くが幼稚で凡庸な「放送ごっこ」に過ぎず、1年足らずで閉局したようだが、中には、テレビ・ラジオ・新聞などの既存のメディアに飽き足らない好奇心旺盛なリスナーに支えられ、独自の放送を複数年に渡って放送し続けたニューメディアとしてのミニFM局も少なからず存在した。
カザマがDJを担当する「自由ラジオ・アゴラ」もまたそのような個性的なミニFM局の一つであった。渋谷区の参宮橋商店街近くの3階建ての古いアパートメントの一室が放送局であり、屋上に建てた大型アンテナからは微弱電波とは言い難い、かなり強いワット数の電波が発信され、代々木郵便局の私書箱宛に届いたリクエスト葉書の住所を見ると渋谷を超えて新宿、中野、杉並、世田谷にもその放送は届いているようであった。だから、正確に言うと、「アゴラ」は電波法の枠内に行儀良く収まるミニFM局ではなく、非合法の海賊放送だったのだ。
局のオーナーは、30代半ばのフリーライター。その男の顔を見た時、実に不思議な既視感を覚えた。口周りにワイルドな髭を蓄え、レイバンのアビエーターサングラスをかけた強面の男。「この人には絶対にどこかで会ったことがある」と瞬時に確信したが、いつどこで会ったのかをどうしても思い出すことができない。
「おい、少年。俺の顔に何か付いているか?」
狭い玄関に突っ立ったまま、無言で顔を凝視し続けていたものだから、その男は露骨に不愉快そうな声を出して俺を睨みつけた。
「まぁ、ニシカワさん、お手柔らかに頼むよ。彼は、うちのバンドの新しいベーシストで、今日の選曲もしてくれたんだ。」
カザマは、楽しそうにそう言いながら、ニシカワと呼んだ男の肩をポンポンと2回叩くと、靴を脱ぎ、部屋に上がろうとした。その瞬間、俺は思い出した。どこで「彼」に会ったのかを。それはライブハウス「ジェイク」のカウンター中央の壁に店長のマサさんが大切に飾っていたレコードジャケット。サングラスをかけた髭面の男が車のフロントシートにふてぶてしい格好で寝そべっているそれを、ケンジが入院するまで、毎週金曜の夜「ジェイク」で演奏する度に目にしていた。
ジャケットの男、アメリカのフォークシンガーで、確か、ジョン何とかといったな。そう、ジョン・プライ、プライス……。
「分かった! ジョン・プラインだ!」
俺はつい自分でもびっくりする程の大声で叫んでしまった。カザマが驚いた顔をして振り向く。ニシカワも不意を突かれたように口をポカンと開けて、俺の顔を見る。
「ほう、おぬし、ジョン・プラインを知っているのか。」
ニシカワの不機嫌そうな表情が一気に緩み、新しい同志を迎え入れる際の無条件の親密さを感じさせる笑みに変わった。そう、実際俺はこの時から、非合法の海賊放送局「アゴラ」の同志もしくは一味となったのだ。
放送局のあるアパートメントは、ニシカワの住居でもあった。当然のことながら、そこではごく普通の日常生活が営まれており、ニシカワの妻が夕飯の支度をし、3歳の娘が玩具を持って走り回るそのすぐ横の食卓で、俺たち3人は企画会議を行った。
「放送は毎週土曜日の午後8時から10時まで。うちは見てのとおりのボロ団地で、ガキもいるんでな。それがギリギリの放送時間だ。」
ニシカワは、いかつい顔に似合わず、面倒見が良く親切で、何よりよく喋る男だった。新参者の俺のために、局のコンセプトから丁寧に説明してくれた。
「アゴラは、古代ギリシャ語で広場っていう意味の言葉だ。市民が自由に集まって、議論をしたり、未知の音楽を聴いたりする、そういう場を俺たちはつくりたいと思っている。だから、この放送では、今流行りの音楽は一切かけない。そんなものは、大手FM2局(NHKとFM東京)で充分だ。俺たちは、強い思いを込めて、この東京で孤立している連中の傍らに寄り添い、海の底にいるような寂しさやどこにもぶつけようの無い怒りに共鳴し、時に脳天に強い衝撃を与えるような、そんな音楽を届けたいと思っている。」
なるほど、カザマが俺に選曲だけでなく、楽曲に対する「思い」を書かせたのはそういう理由だったのか。前日、俺の文章を読んだカザマは、ザ・サウンドとカメレオンズは、テープではなくレコードで持ってくるよう指示を出した。いずれも、イギリスのネオ・サイケデリアバンドであり、ネオ・サイケの雄エコー&ザ・バニーメン程有名ではないが、透明感と喪失感に彩られた鋭角なギターサウンドと叙情的なメロディは雄をも遥かに凌駕するものがあった。特に俺は、ザ・サウンドのフロントマン、エイドリアン・ボーランドが創り出す閉塞感と緊迫感とその裏腹の解放感が入り混じったキャッチ―でポップな楽曲とエモーショナルなヴォーカルにロックンロールの未来を感じていた。
「それとトークもな、一方的に喋るのではなく、送り手と受け手が対等で並列な関係になるように工夫をしている。」
そう言いながら、ニシカワは、番組の進行表を食卓に広げた。
「これは、キューシートと言って、台本のようなものだ。今日のテーマは『猫ッこ倶楽部をぶっとばせ!』だ。富士テレビの『サンセット・ニャンニャン』っていう番組は知っているだろ。俺たちは、公共の電波を独占しているテレビ局がああいう形で10代の少女のセックスを露骨に商品化していることに強い憤りを感じている。あれは断じて性の解放ではなく、資本による性の搾取だ。とはいえ人気番組だからな。賛否両論いろいろあるだろう。今日はハガキも沢山もらっているから、リスナーに電話をかけて、直接意見を聞こうと思っている。」
「あと、街頭インタビュー。ニシカワさん、今日、原宿行ったんだろ」とカザマが口を挟む。
「あぁ、竹下通りに行って、クレープの甘い匂いがする少女達の声を録音してきた。それは番組の前半で流す。」
「よし、構成はこれでいいんじゃないか。あとは、サトシ、お前が選んだ曲をキューシートに書き込んでくれ。」
俺にそう指示すると、カザマは大きく伸びをしながら、「あー腹が減ったなぁ」と言い、じゃれてくるニシカワの娘に「ミッちゃん、今日のご飯は何かな」と笑顔で話しかける。訊くまでもなく、食卓には、カレーライスの香ばしい匂いが漂っていた。
午後8時、ラモーンズのビートナンバー「Do You Remember Rock 'n' Roll Radio?」が土曜の夜の渋谷の空気を放射状に切り裂いていく。カザマが軽快に喋り出す。
――ハーイ、こちら、自由ラジオ・アゴラ。今、キミはひとり? どこにいる? 楽しいこと、嬉しいこと、悲しいこと、辛いこと、いろんなことがあった1週間が終わったネ。ここは、俺たちの解放区、何を言っても構わないし、何をしても構わない、但し誰かを傷つけることだけはダメだぜ。オッケー、今日の1曲目は、イギリスで静かに人気上昇中、ザ・サウンドの「Counting the Days」、涙の海を渡っていこう、幸せになるために――。(つづく)
Illustration by Seachan
※この物語はフィクションです。実在する人物・地名・団体とは一切関係ありません。