AFTER THE GOLD RUSH

AFTER THE GOLD RUSH

とおくまでゆくんだ ぼくらの好きな音楽よ――

昨年10月下旬、ぼくは5年ぶりにその店の重たい扉を開けた。途端に耳に飛び込んでくる大音量のハードロック。レスリー・ウエストの豪快なリードギターとパワフルなシャウト。マウンテンの「Never In My Life」だ。暗い店内では、背広姿の中年男性2人がカウンターの両端に座り(見事なソーシャル・ディスタンス!)、グラス片手に、首を少し上下に振りながら、音楽に聴き入っている。先客との距離を空け、中央の座席に腰かけると、カウンター奥からぬっと現れた強面のマスターがiPadを差し出しながら声をかけてくる。「おう、久しぶりだな」。

新宿三丁目の雑居ビル3階にあるロック・バー「Upset The Apple-Cart」。マスターのGさんこと西川宏樹氏は、自称「人生で2度ロック・バーを開いた狂人」。つまり、この店は、彼にとって2軒目となるロック・バーだ。店のシステムは、至ってシンプル。iPadに収録された膨大な楽曲リストから聴きたいナンバーを探し、紙にアーティスト名と曲目を書いてカウンターに置けばよい。音楽に貴賎無し、この店では、ビートルズも松田聖子もザ・バンドも早見優も同列だ。リクエストは全て受け入れられる。それどころか、マスターもしくは同人から、絶妙なセンスのアンサーソングが贈られることもしばしば。ぼくは、この返歌のメドレーを通して、ジャニス・ジョプリンのスワン・ソングやホット・ツナの洒落たアコースティック・ブルースナンバー、そして、初期のロッド・スチュワートの素晴らしさを学んだ。

さて、ぼくが久方ぶりにこの店を訪問したのには訳がある。それは、緊急事態宣言発令に伴う休業期間中に、“転んでも只では起きぬ”マスターが上梓した電子書籍「ロックバー読本:すべての心若き野郎どもへ」が何ともいえずピュアで、真っ直ぐなロック・スピリッツに満ちており、いたく共感するとともに、強く背中を押された気分になったからだ。曰く「お前は今も転がり続けているか?」。ぼくは、随分前から、社会的に地べたに這いつくばった状態でいることを甘受しているが、のし上がることは最早無理だとしても、転がることならまだできるかもしれない。そう思わせる何か(Something)が、マスターの文章にはあった。

そこで、本の感想だけ伝えて、早々に引き上げようと思っていたのだが、不覚にも久し振りに外で飲むバーボンの甘さと香ばしさ、そして全身を直撃する爆音の心地よさにやられ、途中から一切の記憶を失い、気付くと、午前3時、旧新宿厚生年金会館前あたりをうろうろと千鳥足で歩いていた。思えば、初めてこの店を訪問した時も、厚生年金会館跡地に移転したかつての名店「Rock in Rolling Stone」があまりにも酷くて、半ば絶望しながら、大学時代の悪友3人でとぼとぼ歩いて行ったのだ。(そのことを今になって思いだした。7年前の秋、ぼくは確かにモビー・グレイプの「Hey Grandma」をリクエストした。)

翌日、店のfacebookに、酔いつぶれたことを詫びるメッセージを送ると、すぐにマスターから返事が来た。幸いなことに、記憶が途切れている間も終始上機嫌な様子であったらしく、一切迷惑はかけていないとのこと。ほっとしたが、一方で(この時期の東京の陽性者数は1日100~200人程度であったとはいえ)、一歩間違えれば感染拡大につながりかねない自らの軽率すぎる行動を猛省するとともに大いに恥じた。マスターからは続けて、「ロックバー読本第3弾の原稿を同人から募っている。テーマは『My Music Life With COVID-19』、気が向いたら君も書きたまえ」とのお誘いがあり、締切は今日中との無茶ぶりに唖然としつつも、同人の仲間入りをさせていただく絶好の機会と、興奮状態でザザっと原稿を書き、マスターに送った。その書き下ろしならぬ書き殴りの散文は、先月刊行された「ロックバー読本:新型コロナウイルスをぶっ飛ばせ」に無事掲載された。文章に添えたリクエスト曲は、ビーチボーイズの「Long promised road」である。

 

 

先にUpset The Apple-Cartは、マスターの2軒目のロック・バーと書いた。2軒目ということは、当然のことながら1軒目の店舗が存在する。それが、1990年代に音楽系酒場の新たな潮流を創ったとも言われる伝説のロック・バー「コモン・ストック」である。一流大学を卒業し、大手総合商社と大手都市銀行の若き企業戦士であった2人の若者(火ダルマ・ブラザースG&A)が、親や会社の反対を押し切り、ドロップアウトして、バブル末期の西新宿につくりあげたはぐれ者のためのシェルター。そこに編集者であり腕利きの料理人でもあったコーが加わり、美味い料理と酒と、そして何より1960年代から70年代にかけての最高のロックを最大級の爆音で聴かせる店が誕生した。

そんな彼らが1991年に出版した「ころがる石ころになりたくて」を先日ようやく読むことができたのだが、ブルース・ブラザース、リチャード・マニュエル、And Your Bird Can Sing、シー・ユー・アゲイン雰囲気、ヴィム・ヴェンダース等々、彼らが好きなものは、ぼくの好みとほぼ一緒で、思わず「おぉ同志よ!」と肩を叩きたくなる思いに駆られた。同時に、90年代最後の年、消耗したAが客からのリクエストを一切けなくなったのを機に、彼らの青春も、西新宿の砦も共に終焉を迎えたのではないかと想像すると、この希望に満ちた青春譚が指し示すものも、つまるところ、閉塞感に支配された現在であるように思え、切なくて胸が痛くなってしまうのだ。

「コモン・ストック」は、幻のロック・バーでもあった。狭いエリアにブートレグ屋が密集する西新宿7丁目にありながら、奥まっていて、なかなか辿り着くことのできない店だった。極度の方向音痴のぼくは、いつも道に迷い、結局、飲み代は、ディスクランドやUK EDISON での猟盤経費に消えた。今回、Googleマップを頼りにかつて店があった場所を歩いてみると、驚いたことに、そこは、20数年前の通勤経路沿いであることが判明した。新宿警察署から青梅街道を渡ってすぐの寂れた小道を直進したところ。左側に天理教の建物があり、その向こうには、芸能事務所の若プロダクションや当時贔屓にしていた亀寿司があった。さらに直進すると、小滝橋通りへと続く小道に突きあたる手前右側に、古びた3階建ての雑居ビルが現れる。このビルの地下に「コモン・ストック」はあった。

90年代半ばまで高田馬場に住んでいたぼくは、この道を、つまり、探し続けていた幻のロック・バーの店先を何百回も自転車で通り過ぎていたのである。20代だったあの頃に、火ダルマ・ブラザースG&A、そしてコーさんに出会っていたら、ぼくの人生はまた違うものになっていただろうか? 東京で新型コロナの新規感染者が初めて千人を超えた日の翌朝、「コモン・ストック」跡地で、ウォーレン・ジヴォンの「Hasten Down The Wind」を聴きながら、そんなことを考えていた。


※ ストリートビューの2009年の画像は、閉店から10年経ってもなお、コモンストックのメイン・キャラクター火ダルマ(DARUMA)が、主の去った店先で、風に吹かれ、転がりつづけていたことを教えてくれる。
「風がビルの城壁を形づくっていた石を路上に投げた。いま路上(道端)のひとつの、いやふたつのちっぽけな石ころになったという実感がある。そしてその石ころはころがっている。ころがりつづける。」(火DARUMA BROTHERS G&A著「ころがる石ころになりたくて」)

(1/3追記)マスターからの貴重な指摘をいただき、コモン・ストック閉店の経緯に関する文章を一字修正した。

新御茶ノ水のウッドストック・カフェはとても素敵な店だ。ウッディな店内は掃除が行き届き、いつも清潔である。そして小さな本棚には、マスターお気に入りのセンスの良い音楽本が何冊も並んでいる(鶴見俊輔の「限界芸術論」とデイヴィド・ドルトンの「ローリングストーンズ・ブック」が同じ棚に収まっているのを眺めるのは痛快である)。酒はまぁまぁだが、ワンコインでビールやスコッチを飲めるので、懐も痛まない。何より、アコースティック・ライブの音響が素晴らしい。オーディオ方面には疎いのでメーカーや型番はさっぱり分からないのだが、なにやら大変性能の良いスピーカーが設置されているようだ。


昨夜(11月7日)開催されたよしだよしこさんのライブも、アコースティック・ギターとマウンテンダルシマーの音色の響きがすこぶる美しく、ぼくはまるで上質なコンサートホールで室内楽を聴いているようなそんな錯覚にとらわれた。しかし、よしこさんの「うた」はメロディー、歌詞、ヴォーカル、そして楽器演奏のどれをとっても名人芸の域に達している。驚くべきは、還暦を超えてから、それらがさらに進化し続けていることだ。この日アンコールで歌われた新曲は、世界を大きく動かした2人の少女マララ・ユスフザイさんとグレタ・トゥーンベリさん、そして世界中の“マララとグレタ”、すなわち、日常生活の中で変革に向けたさりげない一歩を踏み出す若者達に捧げられた。目線がまっすぐ前を向いた実に良い歌であった。かくも鮮度の高い、魅力的な曲を作り続けることができるのは、彼女のアンテナの鋭敏さ故であろうか。それとも研ぎ澄まされたリベラルな感性によるものであろうか。

よしこさんの秀逸な訳で歌われるカバー曲も素晴らしかった。マーク・ベノの「ドーナッツ・マン」(詩は高田渡さんとの共作である)、ジェリー・ガルシアの「ブラック・マディ・リバー」、そして、ザ・バンドの「オールド・ディキシー・ダウン」は、逆説的に最早彼女の代表作といっても過言ではないだろう。「崩れ落ちるものを感じるかい?」と題されたそれは、奇しくも、今この瞬間にテレビやネットが映し出すアメリカの熱狂と狂乱を予見していたかのようなバラッドであり、あらためて良質な歌のみが持ち得る普遍性について考えざるをえなかった。

 

焼野原のふるさと 黒山の人だかり

昨日まで将軍だった奴の処刑があるという

誰かが俺に石ころくれて自由を祝って投げろという

でも知りたいことがあるんだ いつも本当の敵はどこにいるんだい?

崩れ落ちるものを感じるかい?

鐘の音響く夜に 崩れ落ちるものを見ただろう?

皆が酔いしれる夜

1963年11月22日が大きな転機であったように思う。ボブ・ディランはこの日以降「ハリケーン」に至るまでの13年間、社会を直裁的に鋭く告発するプロテストソングを封印し、幻想と混沌の中に「痙攣する美」を探し続ける“転がる石の放浪者(ボヘミアン)”となった。そこには、CIAが巧妙に仕組んだフォークソング無力化計画及びLSDとアンファタミンでこの世界の最良の人々の知性と理性と良心を完膚なきまで破壊し、ただひたすら“カッコよさ”と“気持ちよさ”のみを追い求めるロック・ミュージックなる快楽(ガス抜き)音楽の跋扈を許し、ひいては若者達の非政治化と保守化が推進されたと言っては、陰謀論の誹りを免れないであろうか。

しかし、そのロックもついに終焉の時を迎えたようだ。鋭く空間を切り裂くようなフレーズで時代と対峙したリードギタリスト、そして、魂の叫びの如きシャウトで若者を扇動したヴォーカリストは、マンネリ化とルーティン化という勝ち目無き後退戦に自ら突入した後、自明の理として、表舞台から一掃され、新たなステージには、ミニマルなヒップホップと最新型ポップ・ミュージックがクールな佇まいで鎮座する、それが2020年の大衆音楽を取り巻く風景である。

そもそも、すべての商業音楽は、巨大資本や政治体制という“釈迦の手のひら”で踊る孫悟空のようなものなのだ。権力者が許可した範囲内での管理されたレジスタンス。その一線を超えてしまった者は、追放され、つぶされ、殺される。ディランが、1963年11月22日以降、社会の病巣ではなく、自分自身をテーマに歌い出したのは賢明な選択であった。何はともあれ、彼は生き延びることができたのだ。もし、権力の急所を容赦なく攻撃し続ける“政治的なジェームス・ディーン”であり続けたなら、ビートルズの全米制覇と入れ違いに、ニューヨークのどこかの街角で撃ち放たれた一発の銃弾が確実に彼の命を奪っていたことだろう。

そして今、世界史に永く刻まれるであろう陰鬱な厳冬の如きコロナの時代に、齢79歳のディランが、自らのターニングポイントとなった1963年11月22日、すなわちあの晩秋のダラスに立ち返り、壮大な叙事詩を紡ぎ出す。その歌「Murder Most Foul(最も卑劣な殺人)」は、ジョン・F・ケネディ暗殺から、ブリティッシュ・インベンション、ウッドストック、オルタモントとへと時を進め、ジャズ、ブルース、ロックンロール、フォークソング等の米国文化の底流をなす名曲のタイトルで用心深くカムフラージュしながら、国家の暗部を抉り出す。ケネディ暗殺の翌月、全米緊急市民自由委員会(ECLC)主催のトム・ペイン賞授与式で「(ケネディを撃った)リー・オズワルドの中に自分自身を見た」とスピーチし、激しいブーイングを浴び、米国中のリベラル陣営を敵に回した22歳の青年が、57年後にあらためて問う陰謀の真実。その覚悟を、今日も最前線でたたかう仲間と共有したい。

 

 

最近は、オンライン飲み会なるものが静かなブームのようです。ぼくは、家で一人本を読んだり、音楽を聴いたりしている時間が何にも代えがたい至福の時であり、そもそも大勢でワイワイやる飲み会自体が好きではないので、このような会はまったく縁がないのですが、それでも、人と人との空間的に緊密なコミュニケーションが忌み嫌われるご時世にあっては、便利なツールが生まれたものだと感心しています。


一方で、オンとオフの区別なく、友人と思しき人々と常にお付き合いしなければならない今の時代は、何と窮屈で生きづらいのだろうとも思ってしまうのです。集団の中にあっても「個」を埋没させることなく自分らしく生きていくには、その人自身の強さは勿論のこと、それなりに恵まれた環境も必要な気がします。その意味において、SNSは、本来すべての人が平等につながり、存分に「個」を活かせるツールであったはずなのですが、残念ながらそこでも集団の力学が働き、「個」が希薄化しているように思えるのです。例えば、フォロワーや友人の数で人の価値を判断する傾向、また、インフルエンサーに嫌われたくないがために、暴言を諫めることもせず、見て見ぬふりをしている愚かな「大人たち」、つまるところ、そこは現実の醜い人間社会の縮図でしかないのです。

まもなく非常時は終わり、いつもの場所で真の友人に再会できる時が来るでしょう。同時に、満員の通勤電車、人波でごった返す繁華街、深夜までの重労働といった戦場のような日常も唐突に再開されることでしょう。その時に、ぼくはぼく自身のままでいたいし、あなたはあなた自身でいてほしい。もっと言えば生き抜きたいし、生き抜いてほしい。ゾンビーズのこの歌は、まるで結婚披露宴かホームパーティ―を開催しているかのように友達の(カップルの)名前が沢山出てきますが、よく聴けば、主人公はとても孤独な人だということが分かるはずです。孤独であることはさほど悪くない、いやむしろ、「個」を守り抜くうえで必要不可欠な時間だということを噛みしめがら、来るべき第二波に備えようと思うのです。

 

働けども働けども金も無く、時間も無く、睡眠もろくにとれずという三密ならぬ三欠生活が続いている身としては、無条件で10万円がもらえるなど、夢のような話のはずなのですが、今回ばかりはそうも言ってはいられないのです。何故なら、ぼくの仕事は緊急事態宣言以降、猫の手も借りたい程忙しく、結果として給料はプラマイゼロという逆説的に恵まれた境遇にあるからでしょうか、心の中のジキルとハイドが相反する意見をぶつけ合って、引き裂かれそうな気分なのです。以下、恥をしのんで、我が心中の葛藤を披歴しましょう。


<ジキル>
今回の自粛要請でその日の暮らしにも困っている人を差し置いて、どうして将来の世代に大きなツケを残すであろう毒饅頭の如き10万円をホクホク顔で受け取れるものでしょうか。ぼくは経済的に平均以下のプアーな暮らしは、自らの甲斐性無しゆえ甘受しますが、精神的に平均以下のさもしく卑しい人間であることは断固拒否します。
巷では10万円で寄附をという話もききますが、経済的に余裕のある方はこういう時だからこそ自分の財布から分相応のお金を出すべきと思うのです。ぼくたちの血税から10万円をちゃっかり受け取っておいて何か良きことのために使うからなぞと悦に入っている小金持ちには、いやいやそもそも、一人が皆を、皆が一人を支えるために税金はあるんじゃないのと言いたくなるのです。
困っていない人は10万円の受け取りをキッパリと拒否することが「困っている人により厚く、より重点的に補償すべき」という正論を貫く決然たる意思表示となり、同時に子供や孫の世代に膨大なツケを残さないという点においても最も賢明な選択と考えるのですが、いかがでしょうか? さらに言えば、このアベ政権の行き当たりばったりの愚策に対し、少々やせ我慢をしてでも反対しなければ、これまでの批判は一体何だったのかということになりはしませんか? さらに加えて言えば、最近、影響力のあるセレブな方々がこぞって言い出している「自分も10万円を受け取る」宣言や、「受け取り拒否は悪」論は、発言の意図がどうであれ、個人の選択の自由を奪う同調圧力以外の何ものでもないということを申し添えておきます。

<ハイド>
先日、テレビでライブハウスの老舗ロフトプロジェクトの苦境が報道されていました。個性的なオーナーに対しては思うところが多々あるハコですが、それでも、半世紀にわたって日本のライブ文化を創ってきた功績や、社長の加藤梅造氏に対する大なり小なりの恩義などから、何か自分に出来ることはないだろうかと考えました。そうなると、クラウド・ファンディングで寄附をするか、無観客ライブの有料配信を視聴するくらいしか思いつかない。要はお金を何らかの形で届けることが一番の救済策であるということにあらためて気づかされたわけです。
その意味において、今回の10万円はチャンスだと思うのです。政府や財務省に任せておいても、どうせぼくたちの税金はろくな使われ方をしないでしょう。ならば、ぼくたち自身が、それぞれの信念に基づいて、よりマシな使い方をすればいいわけです。困っている方は、自分のために使い、困っていない方は、コロナとの戦いの最前線にいる医療従事者に寄付するもよし、苦境に陥っているお気に入りの店やアーティストを支援するのもよいでしょう。
次の世代に負債を残さないためにも、おのおのが10万円を有効に使うべきです。辞退など絶対にすべきではありません。とにかく受け取ること、そして、願わくば、お上が絶対に手を差し伸べないような場所にお金を確実に届けること、これが困っていないぼくたちに課せられた使命のような気さえするのです。

☆☆☆
NHK「ドキュメント72時間」のテーマ曲でもある松崎ナオの「川べりの家」は、彼女の20年以上のキャリアの中でも突出して優れた楽曲であり、畢生の名曲と呼ぶにふさわしい作品といえるでしょう。どこか中期ビートルズを想起させる浮遊感のあるメロディのセンスもさることながら、言葉の選び方が何より素晴らしいのです。「川のせせらぎが聞こえる家を借りて耳をすまし その静けさや激しさを覚えてゆく」あるいは「水溜まりに映っている ボクの家は青く透け 指でいくらかき混ぜても もどってくる」というフレーズ、そして非常時の今は「幸せを守るのではなく 分けてあげる」という言葉に励まされるのです。ぼくは、心の中のハイド氏を支持します。

 

今、日本は、妙な空気に支配されているような気がします。ほぼ無人の街と化した新宿や渋谷の大型ビジョンで感染拡大防止を呼び掛けるあの人こそ、東京中に感染を広げてしまったA級戦犯のように思えてしょうがないのですが、世間での受け止められ方はどうも違うようで、むしろぐんぐんと株を上げているというのは、忘れやすい国民性ゆえなのか、強そうなリーダーを無条件で支持してしまう農耕民族気質ゆえなのか、今ひとつわからないところなのです。


ジョン・レノンがビートルズ解散後に発表したソロアルバム「ジョンの魂」は、非常に重たいアルバムです。このアルバムでジョンは、「キリストもブッダも ヒトラーもケネディも エルヴィス、ディラン、そしてビートルズも信じない」と言い切り、これからは自分自身とヨーコさんだけを拠り所に生きていくことを世界中のビートルズファンに宣言しています。どこまでも自分自身であり続けること、空気やムードに流されずに生きていくことは、年を重ねるほどしんどく、なかなかに大変なことではあるのですが、特に今のような時代にあっては、そのような生き方こそが唯一無二のプロテストであり、プロテクトでもあることを、このアルバムは教えてくれるようです。

「Hold On」はアルバム2曲目に収録されたシンプルながらも大変美しいメロディを持った小曲で、「しっかりジョン」という絶妙なセンスの邦題でも知られています。ジョンは、この曲の1番で、自らとヨーコを鼓舞し、2番で、世界中の孤立した人たちに向けてメッセージを送ります。それは次のような――。

 がんばれ世界 もう一息持ちこたえて・・・
 やがて風向きは変わり
 光も射してくる

 ひとりぼっちは
 かけがえのないあなたであること
 だれも辿り着けなかった場所に
 あなたの旗を立てること

 だから もう一息持ちこたえて・・・

ぼくは、この曲を聴くといつも、ジョンに「しっかりしろよ」と背中を押された気分になるのです。このひどい時代にあっても、空気に流されず、とにかく生き抜きましょう。

 

思えば3か月前、このような事態になることを誰が予想していたでしょうか。武漢市で原因不明のウイルス性肺炎の発症が相次いでいるとの報道があったのが大晦日の晩。その後もしばらくはぼくたちにとってその病気は“ひとごと”であったように思います。広東省でヒトヒト感染が確認され、日本においても初の感染者が報告された1月下旬以降、我がステイトの度し難いほど場当たり的な対応により、横浜港に浮かぶ巨大なクルーズ船では悲惨なまでに感染が拡がり、さらに、たかだか2週間余りの運動会と尊い人命を天秤にかけ、躊躇なく前者を優先したリーダーの判断により、検査は抑制され、その結果、静かに、そして広範囲に感染が拡大していったことは、今や子供でも知っている事実でしょう。(運動会の延期を決定した後、東京都の感染者数が指数関数的に激増したことを不自然に思わない人などいるのでしょうか?)

緊急事態宣言が出された街は、行きつけのカフェもブックストアも店を閉じ、まばらに行きかう人たちは皆マスク姿で、まるでゴーストタウンのようです。こんな時に音楽など…と言う方もいるかもしれませんが、このような時こそ、音楽が必要だと思うのです。「ステイホーム」が求められている今、ぼくたちはそれぞれのやり方で、ささやかな楽しみや喜びを見出し、これまでと変わらぬ日常を守り抜く必要があると思うし、それこそが、あの未知のウイルスに打ち勝つ唯一の手段のような気さえするのです。
音楽の力を信じないミュージシャンがいる一方で、そのミュージシャンが紡ぎだす美しい旋律に救われているリスナーも現実にいる。「力」の語義を「政治」に特化し矮小化する姿勢は厳に慎むべきであるし、そのような「分かったようなこと」を宣うニヒリスティックな連中と彼らが創り出す音楽とは明確に切り分けて受け止めなければ、音楽は無力化するばかりだと思うのです。ぼくは、音楽の力を絶対的に信じます。

Roll Over Corona(略してR.O.C)とは、おかしな英語であることを自覚しつつ、「Roll Over Beethoven」の邦題「ベートーベンをぶっ飛ばせ」に最大級の敬意を表してタイトルにしました。ぼく自身が音楽の力を再確認するために、これまでの人生で感銘を受けた歌たちのことを週1回程度書いていければと思っています。

高田渡の突然の死から、早いものでまもなく15年が経とうとしています。ぼくは、京都山科の下宿屋でインスタントラーメンと角砂糖を齧っていた頃の若かりし渡氏の歌がとりわけ好きで、だから彼の初のフルアルバム「汽車が田舎を通るそのとき」は、親しい友人からの私信のように愛おしいのです。中でも、自身の極貧の少年時代を炭鉱労働者の哀しくも慎ましい生活に投影したかのような「鉱夫の祈り」は、詩人高田渡の真骨頂を示した作品としてこれからも長く歌い継がれるべき歌であると信じてやみません。(最近では、よしだよしこさんのマウンテン・ダルシマーによる弾き語りが大変素晴らしかった。)
その京都山科の下宿屋時代の彼の写真が、当時の音楽雑誌(フォーク・リポート1969年12月号)に掲載されていました。少し驚いたような表情でこちらを見やる渡氏は、加川良の「下宿屋」の一節「彼はいつも誰かと そしてなにかを待っていた様子で ガラス戸がふるえるだけでも ハイって答えてました」というイメージそのままの佇まいで、見る度に幼馴染と再会したような懐かしい気持ちになるのです。

「音楽を使ってとか、音楽にメッセージを込めてとか、音楽の社会利用、政治利用が僕は本当に嫌いです。(中略)音楽には暗黒の力がある。ダークフォースを使ってはいけないと子どもの頃から戒めていた。」(2020年2月2日朝日新聞「『音楽の力』は恥ずべき言葉」より)


敬愛する坂本龍一氏のこの発言は竹を割ったように明快であり異論を挟む余地がないように感じる向きも多いであろうが、一方で、例えば、ブロードサイド・バラッドや明治大正演歌、プロテスト・ソング、パンク・ロックなど、権力を皮肉り、おちょくり、時に激しく攻撃し、市井の人々のウサを晴らすような「うた」は、人としてごく自然な感情の発露であると当時に、やはり十分に「社会的」かつ「政治的」であるわけで、かような音楽まで十把一絡げにして否定するというのであればいささか賛同しかねるし、巨匠の明快すぎるステートメントは、タブーと自粛に縛られたこの国の音楽界の内向きで不自由で保守的な体質に(意図せずして)お墨付きを与えるのではないかと危惧もする。

 

音楽の社会利用、政治利用は論外であるが、メッセージ性や政治性をすべて否定するのはあまりに極論に過ぎ、むしろ角を矯めて牛を殺すようなことになりはしないか。最も警戒すべきは、一見非政治的で笑顔に満ちた音楽こそ実は最も政治的であるというパラドックスではなかろうか。約半世紀前に日本のフォーク・ソングが辿った経験から、そのことを学び直したい。

マイク真木の快進撃は続く。シングル「バラが咲いた」発売同日(1966年4月15日)に店頭に並んだファースト・アルバム「マイク真木 フォーク・アルバム」も、発売から僅か1か月余りで売り上げ1万枚を突破し、(LPが高値の花だった)当時としては異例のヒットとなった。このアルバムは、昨今のディガーによる和モノ再発見ムーブメントに鑑みれば、日本初の全曲日本語詞によるオリジナル・フォーク・ソング集として仰々しく発掘され、新たな評価を付与する動きがあっても何ら不思議ではないが、今のところそのような気配は全く見られない。これを、日本のフォーク・ソング研究の掘り下げの不十分さゆえとみるか、見識ゆえの黙殺とみるかは、見解の分かれるところだろう。確かに現代の耳で聴くと、詞・曲ともにパンチに欠け、面白みに乏しく、手本にしたであろうキングストン・トリオやピート・シーガーとは遠くかけ離れているように思える。一方で、演歌やムード歌謡といった当時主流であった日本的でウェットな音階やアレンジとは一線を画した、モダンで乾いた作風は、不十分ながらも一定程度評価しても良いのではないか。特に、当時真木がフーテナニーのオープニング・ナンバーとして愛唱していた「君の町」(マイク真木作詞・日高義作曲)や、バンジョーをかき鳴らしながら歌うシングアウト・ナンバー「歌おうよ、叫ぼうよ」(日高義作詞・作曲)などは、正しく日本のフォーク・ソングの嚆矢として評価されるべき作品と考える。 

問題は、このアルバムの要所要所に仕掛けられた“思想的な罠”にある。例えば「マキノ・アイランド」(マイク真木作詞・作曲)という曲では、ミシガン州マキノ島のことを「希望の島よ/自由の島よ」と手放しで礼賛するが、この島には、MRA(道徳再武装運動)の大規模な訓練センターがあり、世界大会が開催され、何より真木自身がライナーノーツにおいて、マキノ島すなわちMRAであることを吐露しているのである。また、「同じ国に住んで」(マイク真木作詞・日高義作曲)は、1965年11月にピークを迎えた日韓基本条約反対闘争を題材に、全学連と機動隊の国会前での衝突や、衆議院本会議での自民党による同条約の強行採決とそれに反対する野党(主に社会党)の様子をスケッチした歌だが、ここで真木は、全学連vs機動隊、自民党vs社会党という対立構造に「同じ日本の国に住んで/何故もっと話しあえぬ/平和を愛する国ならば/なぜもっと助けあわぬのだろう」と疑問を呈し、対立ではなく融和を求めるのだ。一見尤もらしく聞こえるが、このスタンスこそ、世界中の労働運動の闘士や左翼活動家を骨抜きにした「誰が正しいかではなく、何が正しいか」というMRA独特の思考法にほかならない。すなわち「他人を責める前に先ず自分を正せ」「自分が変われば他人も変わる」という、人生訓としてはしごく真っ当な教えを、「国家対個人」もしくは「資本対労働」という圧倒的にパワーバランスに差異のある政治的関係性に意図的に適用させることで、社会的矛盾を「自分自身の心のありよう」というパーソナルな問題に転化し、国家や資本による悪事や搾取の隠蔽及び根源的課題の限りなき矮小化を図るのだ。 


この点に当時唯一気付き、指摘したのが日本共産党であった。1966年6月19日発行の赤旗日曜版に掲載された「フォークソングのほんものとニセもの~“バラが咲いた”はだれをよろこばす?」という3段組の囲み記事は、真木の歌はフォーク・ソングを名乗ってはいるがその内容は本家アメリカのピート・シーガーやジョーン・バエズとは似ても似つかないものであること、例えば、ウディ・ガスリーが「サッコ・バンゼッティ事件」を歌って権力の陰謀を暴露し、ボブ・ディランが「戦争の親玉」で独占資本の醜い姿を痛烈に風刺したような“闘いの精神”を真木の歌から見出すことはできないこと、さらに、これらの弱点を、真木自身も活動家となっている反共団体MRAが利用し、フォークソングが持つ闘いの姿勢を骨抜きにしていること、などを指摘し、厳しく批判している(注1)


これに対し、真木側も猛然と反論した。真木の盟友であり、アルバムの収録曲の大半を真木とともに書いた日高義は「『同じ国に住んで』は、マイクが実際に日韓条約反対デモの渦に巻き込まれ、全学連と警官隊の大乱闘を見、テレビで自民、社会両党代議士のつかみ合いを見て“なぜもっと話しあえないのか!”と訴えた詩。それを赤旗は、日韓条約の政治的本質を理解していないニセものの歌と決めつけた。反対、反対と絶叫すればホンものにされたのだろうが、マイクは共産主義者ではなく、あくまでも平和主義者であり、ヒューマニスト。もしフォーク・ソングが、政治的なプロテストを意味するなら、マイクの歌はアマチュア・ソングというべきものであり、赤旗のニセもの呼ばわりは、マイク自身と無関係な批判だ」と応酬し、真木自身も「牛肉を売りつけたのに、この鳥肉はまずいといわれたような感じで、ぜんぜん話の次元が違う。『アカハタ』によれば、フォーク・ソングというのは戦いの歌であるから、『バラが咲いた』なんて歌ったって、どうにもしようがないし、日韓反対については政治的背景をぜんぜん理解していないとか・・・。ぼくはたしかに、政治的背景とか、安保とか、日韓の問題なんていうのは詳しく知らない。ただデモを見て、小さな子供でもあれを見たら、これはちょっと狂っているんじゃないか、どこかおかしいんじゃないかと感じる。それだけを歌にした。だからぜんぜん話の対象が違う」と抗弁する(注2)
 
つくづく残念なのは、この論争はごく一部の週刊誌が面白おかしく取り上げたのみで、議論を深めることも世間的な関心を呼ぶこともないまま立ち消えになってしまったことである。また、赤旗の記事も、真木の歌詞とMRAの教義の近似性及びMRAの真の狙い――すなわち、音楽を利用した人間改造(MRA用語で言うところの「チェンジ」)――にまで問題を掘り下げることができなかった。かような追求の中途半端さが、この後のロビー和田率いる日本版Up with People「レッツゴー'66」の快進撃を許し、ひいては、日本のフォーク・ソングのガラパゴス化へとつながっていくのだ(注3)

さて、共産党に水をかけられたものの、真木の人気に陰りは見られず、1966年7月には第2弾シングル「波と木彫りのクマ」を発売する。この曲は、同年2月に起きた全日空羽田沖墜落事故(札幌雪まつりの観光客多数を乗せた全日空機が羽田空港沖に墜落し乗客乗員133人全員が死亡した未曾有の航空事故) を題材に真木が詩と曲を書き下ろしたトピカル・ソングであった。海中に沈んだ北海道土産の木彫りのクマに語りかけるスタイルを採用した意欲作ではあったが、如何せんソングライターとしての力量不足ゆえ、詞も曲も稚拙で、何を言いたいのかが皆目伝わらず、未熟さばかりが際立つ残念な結果となってしまった。一方、B面に収録された日高義作の「ベトナムの空」は、意外な運命を辿る。本来、この歌は、勇ましいドラムマーチの演奏から明らかなとおり、真木がカバーすることを拒んだバリー・サドラー軍曹の「悲しき戦場(グリーン・ベレーのバラード)」をヒントに、(1月にMRA大会が開催された)セイロン島の鮮烈な夕陽とベトナムの戦場のイメージとを重ね合わせて書いたコマーシャルな“反戦歌”であったと推測される。さらに言えば、ラストにリフレインする「みんな同じ空」というフレーズからは、MRAの「融合」の思想すら透けて見えてくるのである。しかし、発売後程なくして、大阪・千里が丘の飯場で、フォーク・ソング本の譜面でこの歌を知った24歳の青年が独自の解釈で歌い始めてから、歌は作者の意図を超えて独り歩きしていく。彼は、「ハノイやサイゴン東京も/みんな同じ空」というフレーズを、「ハノイやサイゴン大阪も」に変えるとともに、「みんな同じ空」のリフレインは止め、最後に「空はどこまでも血のように赤い」の一節を付け加えた。この改変と説得力ある歌唱により、「ベトナムの空」は、真に人々の心に訴えかけるフォーク・ソングとして生まれ変わった。屋台のソバ屋を引いて生計を立てていた彼は、その夏、通り道にあった大阪YMCAの六甲キャンプに飛び入りし、集まっていた若者達を前に「ベトナムの空」を歌い、深い感動を呼び、10月には秦政明率いるアートプロモーション主催の「第2回フォーク・フォーク・フォーク」にも飛び入り参加し、ギター1本でこの歌を熱唱、会場全体を感動の渦に包み、圧倒的な評価を得る。彼、高石友也は、真木の持ち歌であった「ベトナムの空」と共に関西フォークへの第一歩を踏み出すのだ(注4)


日高義と関西フォークの関係については、もう一つ興味深い逸話がある。「波と木彫りのクマ/ベトナムの空」が発売されてまもない時期、正確には1966年7月18日の夕刻、彼のもとに一本の電話がかかってきた。それは、日高が音楽評論家の島田耕らと執筆した新刊本「フォーク・ソングを語ろう」を読んで感銘を受けたという17歳の少年からで、「今晩お伺いして、フォーク・ソングの話を聞かせてもらってもよいか」と言うものであった。唐突な依頼に呆れながらも、熱意に打たれた彼は即座に了承する。そして、日高と真木の創作の拠点でもある神宮マンションにやってきた少年は、自分は赤旗を印刷しているあかつき印刷の文選工であること、昨年(1965年)来ピート・シーガーやウディ・ガスリーなどのフォーク・ソングの魅力に心奪われ、今はアメリカ行を熱望していること、などを話し、日高がアメリカで見聞きしたフォーク・ソングのことを是非教えてほしいと言う。日高は、フォーク・ソングの話に留まらず、アメリカでの様々な体験や、ビザの取り方、入国手続きまで事細かく少年に説明し、さらに、ギターのカーター・ファミリー奏法やブルースハープの吹き方まで教えている。日高と少年の交流はその後も続き、日高がトンボ楽器製作所と試作した国産初のハーモニカ・ホルダーを最初に譲り受けたのもこの少年であった。少年の名は、高田渡。高田は、この後、赤旗日曜版の記者から「日高義という人は気をつけた方がいい」と忠告を受けることになる。その理由はあえて書くまでもないだろう(注5)。(つづく)


(注1) 1966年当時の赤旗日曜版は、赤旗縮刷版には収録されておらず、マイクロフィルム化もされていないため、国会図書館所蔵の原紙を確認するしかない。紙資料の耐用年数を考えると早急にデータ化することが望まれる。


(注2)日高義の発言は、「週刊明星」1966年7月号掲載「特報『赤旗』にニセモノと書かれたマイク真木の謎の行動」、真木の発言は、「ミュージック・ライフ」1966年9月号掲載の「マイク真木・栗原玲児のフォーク対談」より。なお、赤旗の記事が原因か否かは定かでないが、同時期、人気絶頂であった真木は 1回目の“失踪”をしている。先の「週刊明星」によると、「(行き先は)家族に聞いても、親しい仲間に聞いても、さっぱり分からない。そのうち『四国方面へ逃避行したらしい』『マスコミ嫌いの反抗的行動ではないか?』『いや、ビートルズの日本公演がすむまで、姿をくらましているのだ』なんていうウガった噂まで」流布されるという状況であったようだ。


(注3)ロビー和田率いる日本版Up with People「レッツゴー'66」については、「その9」において後述する。なお、彼らの活動のピークといえる1966年11月27日の武道館公演の様子は、以下の動画で見ることができる。

(注4)高石と「ベトナムの空」のエピソードは、高石友也・岡林信康・中川五郎共著「フォークは未来をひらく」(1969年新報新書)より。なお、本書において何より重要なのは、新森小路教会の村田拓牧師(当時、高石友也後援会長兼フォークキャンプ実行委員長)による「前書き」である。ここで村田牧師は、「ベトナムの空」を驚きと感嘆をもって絶賛している。歌が作者の意図を超え、自律的に新たなメッセージを訴求し、送り手側が想定していなかった受け手から評価された稀有な例として引用したい。
「ここには、現代詩の難解さはない。そして商業主義の大量生産である職人たちが作り出す、歌謡のなかでは決して歌われない歌であり、きびしい緊張をもっている。それに、その頃、盛んであったフォークブームのなかで歌われていた、数多くのフォークソングといわれていた歌ともまた異質であった。そして、また、ぼくが学生時代に歌っていた歌ごえ運動の中の、ことに革命歌といわれるものをこえる、より歌としての歌がここにあったのである。こうしたことが、ぼくには新鮮な感動を呼び起こす要因であっただろう。
 だが、それらの事柄にもまして、次の二つの事柄がぼくの心を捕らえてしまったといえる。そのひとつは、『ハノイやサイゴン、大阪もみんな同じ空』と歌い上げられたとき、それまで歌われていたベトナムの姿が、急にぼくの身近に迫って来たということだ。ぼくはこれまで、もっと内的に自分の身近にベトナムを、そしてさまざまな社会的な矛盾をとらえることができるかということに悩み続けて来た。ただ、観念や知的な世界においてではなく、ぼくたちの心、内的な情念の底まで深く全的に、ベトナムやたたかうべき諸矛盾をうけとめたかったのである。そうでない限りどれほど激しく闘われる反戦行動や反権力、反体制の行動でも、それは根の浅いものとなり、互いの連帯も深まらず、抑圧が激化すると必ず挫折し、それをはねかえしていくだけの主体性は、確立されはしないと考えてきたのだ。
 ところが、高石友也というひとりの強烈な個性を通して、この『ベトナムの空』が最後の節まで歌われたとき、フォークソング、つまり芸術のもつ意味が、このぼくにははっきりしてきた。フォークソングというものがもっているひとつの意味は、ぼくたちの戦いを内面化し、その連帯を内的なものにまで転化する本質をもっているということだ。
 もう一つの事柄は、この『ベトナムの空』という歌が、たんに絶叫し、アジル、つまり、単に社会の矛盾や戦争を弾劾し、告発して、平和や革命や労働を謳歌するのではなく、押えた調子と、金属質と戦争とベトナムの自然と、その生命をぶつからせる緊張とリズムによって、深いヒューマンな感動のなかで、ベトナムの民衆の心を適確に定着しきっているということである。それは、ベトナムの民衆だけでなく、戦争を心の底から憎み、平和な豊かな生活を求めてやまない、民衆すべての心のなかを表現しきっているということである。このような歌が日本人によって生み出されたのだ。ぼくはこれまで、ベトナム戦争といった問題をとらえながら、これほど同時に民衆の心を表現しえた歌を、比良九郎作詞、いずみたく作曲の、サイゴンの広場で若い解放戦線の兵士が公開銃殺されたとき、その銃殺執行兵が、その死んだ少年の顔を忘れることができないでいる、苦しい孤独な苦悩を歌った『消えない顔』のほかには知らない。そしていま、『ベトナムの空』がある。そうして、この『ベトナムの空』は、『消えない顔』と違って、やさしくだれにでも歌えるという長所をもっている。こうした民衆の心を歌いあげ、またより多くの民衆に歌われるということのなかに、フォークソングのもっているもう一つの意味があるのだ。」

(注5)高田渡著「マイ・フレンド: 高田渡青春日記1966ー1969」(2015年河出書房新社)より。無断欠勤・遅刻・早退を繰り返す問題社員であった渡少年は、一方で日本共産党の機関紙「赤旗」を印刷するあかつき印刷の労働者であることを誇りにしつつも、資本主義の総本山であるアメリカのフォーク・ソングへの思いとの葛藤に悩み、次のような思いを日記に吐露している。
「ぼくは今、アカツキにいる。そしてアメリカに渡るとしたら。はたしていけるだろうか? いや、アカツキにいたなんて事がわかれば、絶対にパスポートはおりないよ。(中略)アカツキを今やめたくないし、フォーク・ソングは研究したいし。どうすればいいのかわからなくなってきた。いっそのことボーナス(夏)もらったらやめて、正反対の仕事をして、まえのことをごまかすかな。つまり反共団体の巣のような所とかさ。そうすれば、なんとかごまかせるかもしれない。フォーク・ソングを学びたいだけに、どうすればいいかわからない。どうすれば、うまくごまかし、渡米できるか。」(1966年6月12日)

例えば、こういうシチュエーションを想定してみる。首都圏近郊の侘しい街にある小さな喫茶店。決して繁盛店ではないが、一定の固定客に支えられて、十年以上も細々と営業してきた。しかし、ある時期から不定期の臨時休業が増え、しかもそれが何か月もの長期に渡るものだから、数少ない常連たちもすっかり愛想をつかし、パタリと足を運ばなくなる。久しぶりに店を開けても、当然のことながら、客など来るわけがない。店主は自分で淹れた薄いコーヒーを飲みながら、日がな一日、開かずのドアを眺め続けているほかないのである――。今、このブログが、まさにそのような状態にある。

ネットを介しての人と人の繋がりは実は非常に儚い。そして大変難しい。だから、ぼくは、ある時期から、ブログをコミュニケーション・ツールとは考えなくなった。コメントが何件来たとか、何人の人が読んでくれているとか、そういうことはどうでも良くなった。ごく稀に、未知の読者の方から恐縮してしまう程有難いメッセージやメールが送られてくることがあり(不思議に最近は公開のコメントではなく、そのようなクローズドな手段でつながることが多い)、そういう時にコミュニケーション・ツールとしてのブログの意義を感じることも正直あるにはあるが、そのような椿事は多くて年に1度あるかないかであり、まさに宝くじに当たるようなもので、一般化できないのである。

それでは、何故書き続けているのか。各所で無断でアイデアを使われながら、何の見返りもない無償労働を細々と続けているのは何故なのか。あらためて考えてみると、やはりそれは、ブログ黎明期に体験した奇跡のような人と人とのつながりが忘れられないからのような気がするのだ。また、いつか、あの時のような同志に出会えるのではないか、などと、コミュニケーションを否定しているぼくが考えているとは、“可笑しくて涙が出そう” であるが、それもまた真実なのである。

しかし、今年は、例年にも増して書くことを怠ってしまった。半世紀も生きていると心身共に多少のガタが出てくるのはしょうがないが、恒常的な多忙とその裏腹にある怠惰という病は、人間を内側から蝕み、腐らせていくような気がする。だから、ぼくは、まもなくやってくる2020年に向けて、拙くても、生煮えでも、出涸らしでも一向に構わないから、とにかく書き続けようと思っている。それが、未知の誰かと奇跡的につながることのできる唯一の手段であると信じてやまないから。



笑わないでいただきたいのだが、ぼくは、小沢健二の新曲「彗星」の歌詞にある「1995年に生まれ 作曲したり録音したりしてる 少年」とは、ポスト・マローンのことではないかと当たりを付けているのだ。ポストがラッパーのスワエ・リーとタッグを組んで制作した「サン・フラワー」は、昨年末から今年の秋にかけて、ビルボードのチャート上位にランクインし続ける驚異的なロングラン・ヒットとなった。この美しくも悲しいラブソングに大いなるシンパシーと愛着を感じつつも、一方で、彼の最新アルバム「ハリウッズ・ブリーディング」を聴いていると、ある種の苛立ちのようなものを抑えることができなくなってしまう。それは、最新モデルを装いながらも、時折顔をのぞかせる陳腐で古色蒼然としたメロディラインに対する失望や嫌悪感から来る苛立ちであり、時に姑息であるとさえ感じてしまうのはエキセントリックなタトゥーに対する偏見であろうか。それにひきかえ、ビリー・アイリッシュの何と清々しいことよ。17歳の少女が作り出す音楽は、評論家が手放しで絶賛する程新しいとは思えないが、ビートルズ以前と以降のポップ・ミュージックを撹拌し、再構築することに成功しているし、何よりイノセントであり、邪念を一切感じさせないところが素晴らしい。

しかし、最近のビルボード・ヒットナンバーを聴いていて思うのは、細野晴臣氏のノン・スタンダード・レーベルでの試みが何と早すぎたのかということだ。そしてそのことに気付いた時に、またしても彼は「そこ」にはいないのである。