AFTER THE GOLD RUSH

AFTER THE GOLD RUSH

とおくまでゆくんだ ぼくらの好きな音楽よ――

(第6話)Venus

 「ワイルド・ハーツ」に加入してから俺の生活は一変した。バンドメンバーが共同で生活しているカザマのマンションで彼らと寝食を共にすることになったからだ。飯田橋の外堀通り沿いにそびえ立つ13階建てマンションの最上階4LDKという、当時の流行語である「マル金」を象徴するかのようなロックバンドらしからぬ華美な住まいであり、何より冷暖房完備であったため、俺はようやく代田橋での筆舌に尽くしがたい真夏の灼熱地獄から抜け出すことができた。しかし、アマチュア・ロックバンドの一ヴォーカリストに過ぎないカザマがどうしてこのようなリッチな生活ができるのか、恐らく裕福な家庭のボンボンなのだろうとは思ったが、あえて俺からそれを訊くことはなかった。


 バンドメンバーには一部屋ずつあてがわれ、俺は、夏だけの臨時メンバーということもあり、個室ではなく、リビングのソファーをねぐらにした。

 さて、俺と一緒に生活することになったバンドの面々だが、年長者のカザマ以外は、皆俺とほぼ同い年の18歳から20歳までの少年もしくは青年であり、同世代の気安さゆえ、すぐに打ち解けることができた。そんな俺の新しい仲間を紹介しよう。

 リードギターはジュン、20歳。高校までは、ランディ・ローズとマイケル・シェンカーを神と崇めるヘビメタ少年であったが、18歳の冬、スティーヴィー・レイ・ヴォーンの「テキサス・フラッド」を聴いてブルース・ギターに開眼。今は、荒馬の如く凶暴で攻撃性の高いフレーズを超高速スピードで弾きまくる玄人はだしのブルース・ロック・ギタリストへと変貌した。身長180㎝とバンドの中で最も長身であり、肩まで伸ばした長髪、野生の狼のような鋭い眼光と相まって、一見近寄りがたい印象を与えるが、性格はいたって穏やかで、声を荒げることも、他人の悪口やつまらぬ愚痴を言うことも一切無い、冷静で信用のおける男である。

 ドラムはキクチ、愛称キック。19歳。高校時代にローリング・ストーンズのチャーリー・ワッツに心酔し、アルバムを聴き込み、ライブ映画「レッツ・スペンド・ザ・ナイト・トゥゲザー」を繰り返し観て(映画館に朝から晩まで居続け、スクリーンを凝視して、彼の叩き方の癖を学びとろうとしたらしい)、シンプルではあるがこれぞロックンロールというガッツ溢れる奏法を体得した。ドラムから離れると、いかにも「新人類」という軽いノリの男で、決して悪い奴ではないが、深刻な話も取るに足らない話もすべて同列に笑えないジョークにしてしまう傾向があり、その度を超した軽薄さだけは、正直なところどうにも馴染めなかった。

 キーボードはハカマダ。名前がセイジなので、略してハカセと呼ばれている。その愛称は、ピアノの英才教育により身に着けた高度な音楽理論と天賦の絶対音感に由来している。バンド最年少の18歳で、アグレッシブな演奏に似合わず、おっとりした性格のため、メンバー全員から弟のように愛されている。

 そして、バンドのリーダーで、ヴォーカルとサイドギター担当がカザマだ。23歳。早生まれなので、俺より4つ年上である。「ワイルド・ハーツ」の楽曲は、すべて彼が作詞作曲している。

 そんな4人との共同生活において、家主であるカザマを除くメンバー全員に課せられたルールがあった。それは、各自、演奏以外に何らかの役割を持ってバンドに貢献すること。例えば、ジュンは楽器の修理や調整に関する技術を有していたためリペアを担当し、ハカセは、採譜能力を活かしバンドのレパートリーの楽譜を作成、キックは、母親が使っていた暮しの手帖社の「おそうざい十二カ月」を片手に町の定食屋顔負けのボリューム満点の美味い料理を作り、俺たちの腹を満たした。そして俺は——、何の特技も知識も無い俺は、皆が敬遠する皿洗いと掃除を担当することになった。請われてバンドに入ったのに随分な扱いじゃないかとも思ったが、クーラーのある部屋で安眠できる魅力には抗いがたく、俺は甘んじてその屈辱に耐えることにした。

 ちょっとのひずみならば
 がまん次第で何とかやれる 
 日々の暮らしには辛抱がいつも大切だから
 心のもちようさ


 トイレや風呂場の掃除をしたり、台所の食器洗いをする時、俺はウォークマンでこんな歌を聴いていた。それは、御茶ノ水のレンタルレコードショップ「ジャニス」から借りてきた暗黒大陸じゃがたらのソノシートだった。

 

 共同生活を始めて3日目のこと、慣れない手つきで廊下に掃除機をかけていると、玄関のチャイムが鳴った。郵便か勧誘だろうか、掃除機を止めてドアの鍵を開けようとすると、リビングからキックが血相を変えて飛び出してきた。
「サトシ、開けるな!ちょっと待て!」
 あっけにとられている俺を残し、小走りでリビングに戻ったキックがインターフォン越しに誰かと話している。警戒した様子の小声が一転して、いつもの軽薄な笑い声に変わる。
「ごめーん、開けていいぞ。」
 リビングからキックが顔を出し、俺に指示を出す。全く人使いの荒いヤツだ。鍵を外し、乱暴にドアを押し開ける。真夏の強い日差しが一気に薄暗い廊下に差し込んでくる。ドアを全開し、そこに立っている女性を見て、俺は息を呑んだ。


 女神だ——

 白い半袖のワンピースに身を包んだ彼女は、すらりと背が高く、腰まで届く淡い栗色の髪を蓄え、憂いのある湧き水のように澄んだ瞳でこちらを見ている。その姿はまるで、サンドロ・ボッティチェッリが描いたヴィーナスのようであった。


「カザマくんいる?」
 “女神”はそう言うと、少し首を傾げ、俺の顔をまじまじと眺めながら、「あなた、新しくバンドに入った人?」と柔らかく優しい声で訊いてくる。
 俺は、すっかりドギマギしてしまい、「あ、ハイ」と思い切り声を裏返らせ、彼女の視線から逃れるように俯いたまま、「カザマさんなら、今、出かけてます」とぼそぼそ呟いた。
「そう。じゃあ、これ、渡しといてくれる?」
 彼女は、プランタン銀座のロゴの入った大きな紙袋を俺に渡した。
「明日、『馬小屋』のライブよね。頑張ってね。」
 彼女は、俺に向かってにっこり微笑んだ。俺は生まれてこの方、こんなに素敵な女性の笑顔を見たことがなかったので、彼女が去った後も、ボーっとした腑抜け面を晒して玄関に立ち尽くしていた。


「サトシ、大丈夫か? お前。」
 いつの間にか、俺の横に来ていたキックが、不審そうに俺の顔を見ている。
「キック、今の人、誰だ?」
「フユコさん。カザマさんの古い友達だよ。」
「凄く綺麗な人だったな。驚いた。」
「そうか、サトシはフユコさんに一目惚れしたんだな。」
 キックは、ニヤニヤしながら、言葉を継ぐ。
「でも、諦めた方がいいぜ。フユコさんとカザマさんは固い絆で結ばれているからさ。」

 翌日、新宿西口小滝橋通り沿いのライブハウス「馬小屋」で、新生ワイルド・ハーツのお披露目ライブがあった。彼らが「馬小屋」のレギュラー枠を持っていることを知った時、俺は本当に驚いた。何故ならそこは、有名ロックバンドを多数輩出しているメジャーへの登竜門的存在として知られていたからだ。

 俺たちがステージに登場すると、一斉に黄色い歓声が沸き起こった。ざっと見て300人近い観客がいるようだ。半数は高校生と思われる10代の少女、残り半数は大学生と社会人の男女だろうか。いずれも、俺のバンドに集まる連中とは明らかに感じの違う、いかにも健全な青少年のようであった。


 カザマが両手でマイクを握りしめ、早口でまくしたてる。

「今、俺たちは、真っ二つに分断されている。ネクラかネアカか、マジメかオモシロイか。そして、ネクラやマジメのレッテルが貼られたら、学校や職場でつまはじき者にされる。権力や資本の巧みな情報操作によって、俺たちは、自分の人生や社会のありようについて真面目に考えることすらできなくなっている。」

 カザマは会場を見渡しながら、MCを続けた。

「かつて、この国は、戦争に協力しない者を『非国民』と呼んで迫害した。共産主義者は『アカ』と蔑まれ、投獄され、残虐な拷問を受けた。強制連行され、虐殺された朝鮮の人達は今もなお学校や仕事において理不尽な差別を受け続けている。『ネクラ』という言葉は、かつての非国民のことであり、共産主義者や朝鮮の人達に対する蔑称と同じなんだ。」

 

 一拍置いて、カザマは拳を突き上げながら絶叫した。

「なぁ、みんな、俺たちはそんな卑しい言葉は今後一切使わないようにしよう! そして、俺たちを分断している薄汚い大人達に鉄槌を食らわしてやるんだ!」


 間髪入れずにキックがカウントを入れる。演奏が始まった。観客がワーッと反応し、一斉に拳を振り上げている。
 俺はベースを弾きながら、どこか冷めた思いでこの光景を眺めていた。どうして俺はここにいるのだろうと思った。ケンジやヨウイチと一緒に、MC無しで激しいブリティッシュ・ビートを演奏していた頃が随分昔のことのように思えた。そして、今日ここに来ているはずのマキの姿を探したが、彼女と同世代の少女があまりに多すぎて、ステージの上から見つけることはできなかった。
 演奏は終盤に入り、カザマが大きな赤旗をステージ後方から取り出し、左腕で持ち上げゆっくりと翻しながら歌った。白字で大きく「We Shall Overcome」と書かれたその旗は、昨日、フユコさんがプランタン銀座の紙袋に入れて持ってきたものだった。(つづく)


Illustration by Seachan

※この物語はフィクションです。実在する人物・地名・団体とは一切関係ありません。

(第5話)Born To Run

 1985年7月の第3土曜日、俺は、新宿三丁目の路上で、大きな暗雲が垂れ込める不穏な表情の夏空を見遣りながら、自分がどう動くべきかを決めかねていた。腕時計を見る。午後2時30分。既に約束の時間を30分も過ぎている。ひとまずは、この雑居ビルのドアを開けてスタジオに入るべきか。それとも、黙ってここから立ち去るべきか。俺は吸っていた煙草を歩道に投げ捨て、右足で潰しながら呟いた。「マキのやつめ」。レイと会ったあの日以来、マキと連絡がとれなくなったことが、事態を面倒にした要因なのだ。

 「ワイルド・ハーツ」のテープを聴いた翌日、俺は、バンドに加わる意思が無いことを伝えるため、ケンジの病室へと向かった。しかし、そこには、いつもなら必ずいるはずのマキの姿が無かった。今回の件はケンジには内密にするよう釘を刺されていた手前、彼に伝えるわけにいかず、また、マキの家には俺のことを毛嫌いする両親がいるため、電話もままならず、そうこうしているうちに約束の日になってしまったのだ。

 とはいえ、ここでいつまでも迷っているわけにもいかない。気が進まない時は、何もしない方がいいのだ。そう自分に言い聞かせ、今来た道を引き返そうとした時、ポツポツと雨が降ってきた。それは、すぐにボタボタと音を立てて路上を叩く大きな雨粒となり、右肩に背負ったベースギターのソフトケースに無数の黒い染みを作っていった。こうなると、もう選択肢は一つしか残されていない。俺は意を決して、スタジオ・キーの看板が出ている眼前のビルに飛び込んだ。

 重たく分厚い防音扉を開ける。途端に、圧縮され、閉じ込められていたエネルギーが噴出するかのように、制御不能な巨大な音の塊が飛び出してきた。激しくうねりながらアグレッシブなフレーズを繰り出すシンセサイザー、暴走列車のように轟音をあげてブルージーにドライブするギター、そして、軽快なエイトビートを叩き出すスネアとシンバルの炸裂音。それらが渾然一体となって、爆風の如く俺の全身を直撃する。すげぇ。俺は馬鹿みたいに口をポカンと開けて立ちすくむ。音の大きさなら俺のバンドも負けていないが、演奏のレベルがまるで違う。


 ドラマーと目があった。耳の上で切り揃えたセンター分けのストレートヘアに白いTシャツ姿の華奢な少年。俺と同い年くらいだろうか。そいつは、俺にニヤリと笑いかけると、スティックを握った右腕をまっすぐ頭上に上げて大声で叫んだ。
「おーい、ストップ! ストップ!」
 演奏が止まる。スティックの先端が俺の方に向けられる。
「ほら、来たみたいだぜ。新メンバー。」
 その言葉を合図に、スタジオにいる全員が俺に注目する。16畳程のスタジオにいるのは、テンガロン・ハットを被った長身で長髪のギタリスト、マッシュルームカットにボストン型黒縁メガネをかけたキーボーディスト、ドラムスの少年、そして、レイとマキ。笑顔で手を上げるレイとは対象的に、マキはわざとらしい位のふくれっ面をして俺を睨んでいる。30分も遅刻したのだ。怒る気持ちも分からないではないが、少しは今の俺の難しい立場も察してほしいものだ。


 俺は、教室の前でお披露目されるイカさない転校生のように、緊張した面持ちで、挨拶することも、遅刻を詫びることもできぬまま、ただ無言で突っ立っていた。
 その時、背後から若々しく快活な男の声が響き渡った。
「やぁ、よく来てくれたね。待っていたよ。」
 がっしりとした大きな手が俺の左肩を掴む。振り向くと、黒いバンダナを巻いた背の高い男が立っている。誰かに似ていると思った。そうだ、2年程前にヒットした海軍士官学校を舞台にした青春映画の主人公、リチャード・ギアだ。もっともこちらのリチャード・ギアは、ブルース・スプリングスティーンのようなくせ毛を乱雑にかきあげ、黒いタンクトップの上に黒い革の袖無しベストをまとい、ワイルドなロックスター然としているが。


「俺は、リーダーのカザマだ。話はレイから聞いている。ま、とりあえず、1曲やってみよう。」
 そう言いながら、カザマはマイクスタンドの前に立ち、「ボーン・トゥ・ランは出来るか」と俺に訊く。スプリングスティーンの「ボーン・トゥ・ラン」なら、高校時代に数え切れない程演奏した十八番のナンバーだ。
「大丈夫だと思う。キーはEでいい?」
俺は、ベースをソフトケースから取り出し、チューニングをしながら確認する。
「Eでノープロブレムだ。それでは、皆の衆、行くぞ!」
 そう叫ぶと、カザマは右腕を突き上げて、大きくジャンプした。ドラムスの少年がスネアを連打する。いきなり演奏が始まった。

 ベースでエイトビートを刻む。ただそれだけで、歩兵小隊が全力で走りながら銃を連射しているかのような、スタジオの下の方から地響きが沸き上がってくるかのような、強烈なグルーヴが生まれた。ドラマーの方を見る。クロスハンドで正確にエイトビートのリズムを刻みながら、スネアを叩くタイミングでハイハットを打つ右手を一瞬浮かせている。変わったことをしやがると思ったが、ハイハットの音に邪魔されることなくスネアが叩き出すバックビートが強調され、実に気持ちの良いリズムとなっている。なるほど、なかなかやるじゃないか。俺は、ベースの太いニッケル弦をはじきながら、一見軽薄そうなサラサラヘア野郎のセンスの良さに感心していた。

 間奏に突入する。俺はこのパートの踊るようなベースラインが一番のお気に入りだ。低音がR&Bのリズムでダンスし、バウンドして、華麗にスライディングする。原曲のサックスソロをなぞって、ボストンメガネのキーボードが躍動感溢れるフレーズを叩き出す。そして、2回目の間奏。マシンガンのように唸るオールドロックンロールスタイルのギターソロ、バンド全体で下降していくキメのフレーズ、バッチリだ、ワン、トゥ、スリー、フォー、カザマが最後の一節をシャウトする。

  いつか いつの日になるかは分からないが
  俺たちはきっと辿り着くだろう
  本当のゴール 太陽の下で歩ける場所へ
  その時まで 俺たちのようなはぐれ者は
  走り続けるしかないんだ


 「最高!」マキが手を叩きながらぴょんぴょんと飛び跳ねて喜んでいる。確かに、俺のこれまでのバンド経験の中でも抜きん出て出来の良い「ボーン・トゥ・ラン」であった。
 カザマが俺の前に立ち、手を差し出す。
「なかなか良かったよ、サトシ。これで俺たちは仲間だ。夏の間よろしく頼む。」
 成り行き上、握手せざるをえなかった。彼らの生真面目に破綻したオリジナル曲のことを思うと気が滅入ったが、ここはもう腹を括るしかない。
 こうして俺は、夏の間だけという約束で「ワイルド・ハーツ」の一員になった。つづく

 

Illustration by Seachan
※この物語はフィクションです。実在する人物・地名・団体とは一切関係ありません。

 

(第4話)Young Bloods
 俺がそのバンドの存在を知ったのは、ケンジの入院騒動の翌週、東京の空が南太平洋の海のように蒼く澄み渡り、10万ルクスを超える強烈な陽光が殺人光線の如く照り付ける真夏日の午後のことであった。その日、俺は、ケンジの病室でいつものように他愛も無いロック談義をし、帰ろうと薄暗い廊下を歩きだしたところでマキに呼び止められた。


「サトシ、ちょっとだけ時間ある?」
「何だよ、藪から棒に。今、ケンジと話し終わったところじゃないか。」
「お兄ちゃんのいないところで話したいことがあるの。」
 彼女の神妙な顔つきに俺は少し戸惑った。
「いいけど…、悪い話じゃないよな。」
 胸がざわついた。こういう時、悪い予感が次から次へと頭の中に浮かび、止まらなくなるのが俺の悪い癖だ。
「1階の喫茶店で、会ってほしい人がいるの。」
 そう言いながら、マキはそそくさとエレベーターに乗り込む。予期していなかった展開に、俺は何も言うことができず、ただ彼女に付いていくほかなかった。

 喫茶店は空いていたため、待ち人はすぐに分かった。奥の席に俺と同い年位の若い男が座っていた。短髪を綺麗に整え、白い半袖の開襟シャツを着た彼は、ケンジに似て鋭い一重の目をしていたが、雰囲気は遥かに上品で、どこか生真面目な学級委員のようにも見えた。


「こちら、タカヤマレイくん。雑誌『ヤング・ブラッズ』の編集長よ。」
 マキが紹介すると、彼はすくっと立ち上がり、会釈をする。
「タカヤマです。皆はレイって呼んでるけど、苗字でも名前でもどっちでも構わないので、呼び方はご自由に。」
 よく通る明るく快活な声で自己紹介する彼に気圧された俺は、ボソボソと「どうも、はじめまして」と言うことしかできず、全くサマにならない。
「レイくんはね、前からSNAPのライブを観に来てくれてたの。それで、お兄ちゃんがああいう状態でしょ。しばらくバンドも休止になるから、ね。」
 ここで、マキは言葉を止め、「あ、注文!」と叫び、クリームソーダとコーラを頼んだ。マキと一緒の時、俺はいつもコーラばかり飲まされる羽目になる。


「マキちゃんありがとう。ここからは、僕が話すよ。」
 そう言いながら、レイは、傍に置いてあったショルダーバッグから、1冊の雑誌を取り出し、テーブルの上に置いた。真っ白い表紙に赤いデザイン文字で「ヤング・ブラッズ創刊準備号」と書かれている。


「これは、春に発行したプロトタイプなんだけど、僕は今、10代による10代のための新しい雑誌を創っているんだ。」
「雑誌って、同人誌か自費出版?」
「いや、12月にリトル・マガジン社から刊行することが決まっている。」
 驚いた。リトル・マガジン社といえば、超大手の出版社ではないか。しかも編集長だって? この男は一体何者なのだ。
「レイくんは、サトシやお兄ちゃんと同じ学年なんだけど、早生まれだから来年の3月まで10代なんだよ。」
 マキがクリームソーダをストローでかき回しながら、とっておきの秘密を教えてあげると言わんばかりの得意げな口調で茶々を入れる。


「この雑誌は、僕たち10代の“広場”にしたいと思っているんだ。いや、本当のことを言うと実年齢はあまり関係なくてね。僕の言う10代は、イノセントであること、失うものが何も無いこと、大きなものに抗い続けること、そういう人であれば、皆10代であり、“同世代”だと思うんだ。そんな“同世代”が、自分の詩や歌を披露したり、小説を発表したり、自由闊達に議論をしたり、理不尽なことを強制してくるオトナたちに抗議したりすることができる、そういう解放区のような “広場”を創りたいと思っている。」


「でも、リトル・マガジン社といったら、体制ど真ん中の大出版社じゃないか。そんな自由なミニコミみたいなことができるとはとても信じられないな。」
「僕は、あそこの社長と“契約”を交わしている。オトナには一切口出しさせない。全てを10代が企画し、編集権限を持つ雑誌。これが刊行の絶対条件となっている。」


 俺は言葉を失った。こいつは希代の山師なのだろうか。言っていることが本当なら、俺と同い年で大出版社の社長を手玉にとって雑誌をモノにするこの男の胆力は想像を絶するものがある。


「マキちゃんには、先月から編集部に入ってもらっているんだ。僕が君達のバンドを観に行っていた縁でね。」
「レイ君を入れて7人の“少数精鋭”のチームなの。全員10代で、高校生が中心だけど、働いてる人もいて。部活動みたいですごく楽しいの。」

「で、ここからが本題になるんだけど、この雑誌には、精神的支柱とも言うべきバンドがいるんだ。『ワイルド・ハーツ』っていう5人組のロックンロール・バンドでね。そこのベースが急に脱退することになって、とても困っている。予定していた刊行イベントの日程も迫っているし。」
 レイは、俺の顔をじっと見ながら、こう切り出した。
「バンド、手伝ってもらえないかな。SNAPが休止している間だけで構わない。君がベースを弾いてくれると本当に助かるんだ。」


「どうして俺なんだ。ベーシストなんて他にいくらでもいるだろう?」
 俺は正直不愉快だった。これだから音楽の素人は困るとも思った。どういう音楽性のバンドかも知らされぬまま、白紙委任で加入できるわけがないだろう。

「それはさ。君がブルース・スプリングスティーンのことを理解しているからだよ。」
 マキがどうせ余計な入れ知恵をしたに違いない。俺はますます不愉快になった。
「俺がスプリングスティーンを好きなのは『ザ・リバー』までだ。それ以降の『ネブラスカ』も『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』も俺には理解できない。はっきり言うが、今の彼は大嫌いだ。」


「『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』を理解できないって?」
 レイが信じられないという顔をした。
「アルバムは聴いたのか? B面は最高だぞ。『No Surrender』を聴いた上で、そんなことを言っているのか?」


 畳み掛けるようなレイの言葉に俺はたじろいだ。実は「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」は、彼のマッチョなイメージを毛嫌いして、アルバムを聴く気すら失くしていたのだ。

 

「聴いてないよ。とにかく今のスプリングスティーンは好きじゃないんだ。」
「話にならないな。つまらない先入観を捨てて聴いてみてくれ。彼は、『ザ・リバー』の後も何一つ変わっていないよ。」
 レイは、明らかに失望した表情をしていたが、それでもまだ俺のことを諦めていなかった。
「これがバンドのテープだ。そして、これが楽譜。今週土曜日に新宿のスタジオ・キーでセッションするから、とりあえず来てくれないかな。その上で入るかどうか判断してくれ。頼むよ。」
 俺は喫茶店の天井を見上げ、回答を留保した。空になったクリームソーダのグラスを両手で握りしめて俺の顔をじっと見ていたマキが口を開いた。
「サトシ、お願いだから、このこと、お兄ちゃんには内緒にしてね。気が狂ったように嫉妬するから。」
 続けてこう言った。
「私は、サトシに『ワイルド・ハーツ』に入ってほしいな。大阪への帰省、延期できない?」

 その夜、俺は、代田橋のアパートで「ワイルド・ハーツ」のテープを聴いた。連日の真夏日で限界まで灼熱の太陽に痛めつけられたトタン屋根は夜が更けても凄まじい熱気を放ち続け、俺の部屋はさながらサウナ風呂の如く息が詰まる蒸し暑さであった。耐えきれず外に出た俺は、ウォークマンでテープを聴きながらあてどもなく夜道を歩いた。ヘッドホンから流れる軽快なキーボードとブルージーなギターの旋律、そしてハスキーな歌声が心地よい涼風となって俺の耳孔をふるわせた。そのバンドの演奏とヴォーカルは控え目に言ってもセミプロ級の巧さであった。俺などが入って足手まといにならないだろかと正直不安になる程、非の打ちどころのない完璧なパフォーマンスであった。ただ一点、歌詞を除けば――。

 愛、自由、平和、戦争、核、差別……、それらの陳腐な言葉の塊は、俺の羞恥心を直撃し、とてつもなくワイセツなものに関わっているようないたたまれない気持ちに襲われた。

 これはだめだな、やはり断ろう――。

 そう決めた俺は少しだけ気持ちが軽くなり、甲州街道のガードレールに腰をかけて、煙草を吸いながら、ぼんやりと空を見上げた。黒い夜空に大きな白い雲がゆっくりと流れていた。その時、俺は、大きな翼を付けた白馬が夜空を駆けていく姿を確かに見たような気がした。それが、これから始まる騒動の予兆だったとは、まだ知る由もなかった。(つづく)

 

Illustration by Seachan
※この物語はフィクションです。実在する人物・地名・団体とは一切関係ありません。

(第3話)Long Hot Summer
 ここで、俺の“城”について少し話しておこう。場所は、京王線代田橋駅の北口から歩いて8分程。甲州街道の歩道橋を渡り明大前方面に歩き、さらに北上すると戦後まもなくから営業している古びた中華料理屋の看板が見えてくる。その先の木造2階建てのアパートが俺の住まいだ。1階は大家の婆さんの住居になっていて、2階に6畳一間の部屋が4戸並んでいる。入居者は、浪人生、大学生、若い勤め人など独身の男ばかり。大家の婆さんがひどく神経質で口うるさいこと、隣の中華料理屋から醤油ラーメンとラードの匂いが朝から晩まで部屋に入ってくることなど細かな不満はあったが、家賃の安さを考えるといずれも大した問題ではない。

 俺の“城”の最大のウイークポイントは、頭上のトタン屋根にあった。雨の日は小石がバラバラと降ってくるような音でけたたましく鳴り響くし、夏場はまるでオーブンの中にいるような尋常ならざる暑さになる。貧乏学生にとってクーラーはまだ高嶺の花であったし、そもそもあのボロアパートにエアコンを設置すること自体物理的に不可能だったろう。


 東京逓信病院から戻った俺は、蒸し風呂状態の部屋の窓を開け、畳の上に大の字になった。帰路、ヨウイチは、しばらくライブは出来ないだろうから1学期の授業が終わったら実家のある福岡に帰ると言っていた。俺はどうしよう。俺の親は転勤族で日本中を転々とし、4月から吹田市にある万博記念公園近くのマンションに住んでいる。大阪か、一度行ってみるのも悪くないな。俺は、横になったまま、はるか昔に終わってしまった大阪万博(EXPO'70)の幻影を見た。真夏の万博会場で、俺はケンジ・マキ兄妹とソフトクリームを食べながら、巨大なドーム状の屋根が特徴的なアメリカ館の入場待ちの長い行列の中にいた。アポロ宇宙船が持ち帰った月の石はどの位の大きさなのだろう、小石程度ならこっそりポケットに入れて持ち帰れないだろうか、幻影の中の俺はそんなたわいもないことを考えながら、じりじりと焼けつくような陽射しの下、ソフトクリームを舐めていた。と、頭上から耳をつんざく轟音が鳴り響く。ケンジが黒いテレキャスターを抱えて、アメリカ館の楕円形の屋根の上に立ち、右腕を風車のように大きく回転させながらピックを激しく弦に叩きつけている。

 グワァァァァーン! ギャギャァァァァーン!


 ケンジがギターをストロークする度、会場内のパビリオンがその音に呼応するかのように大きな真紅の炎を噴き上げて炸裂する。ソ連館が、三菱未来館が、ガス・パビリオンが、凄まじい爆音と共に木っ端微塵に吹き飛んでいく。会場を埋め尽くした様々な国の白黒赤黄色の大人や子どもたちが歓喜の声を上げ、思い思いのダンスを踊りながら、一斉にハレルヤを歌い出す――。

 夢というやつは大抵脈絡の無いものであるが、この日の夢はいつにも増して荒唐無稽であった。幻影の中のハレルヤの大合唱は、いつしか、スタイル・カウンシルの「ロング・ホット・サマー」へと変わっていた。


 かつては誇らしかったものが 今 こんなにもちっぽけに感じる
 笑うべきか 泣くべきか・・・
 長く 暑い夏が 通り過ぎていく


 電話のベルが遠くから聞こえ、段々と近づいてくる。それが自分の耳元で鳴っていることに気付いた時、俺の意識は1970年の大阪万博会場から1985年の代田橋のアパートへと瞬時に引き戻された。目を開ける。窓の外の陽射しが眩しい。もう昼過ぎだろうか。畳の上に横になったまま、鳴り続ける電話の受話器に手を伸ばし耳に当てる。


「もしもし、私。」


 いきなりマキの声が飛び込んでくる。昨日とは打って変わって、弾じけるように明るい、いつもの彼女の声に戻っている。


「お兄ちゃんがね、今朝目を覚ましたの。ご飯もちゃんと食べたのよ。もう奇蹟みたい。ね、今から病院に来れる?」


 無論すぐにでも駆け付けたいが、昨夜の病院での一件が脳裏によみがえり、何といえばよいのか言葉に詰まる。そんな俺の躊躇を見透かしたかのように、くすくす笑いながらこう付け加える。

「大丈夫、今、パパもママもいないから。お兄ちゃんもすごく会いたがってるよ。」

 実は、病室に入るまで俺はものすごく怖かった。ケンジの体のどこかが欠損していたり、顔が醜く腫れあがっていたり、全身ミイラ男のようになっていたら、俺は以前と同じように、奴とフラットに接することができるだろうか。対等な友人としてではなく、ハンセン病患者にお言葉を賜る高貴な人のように、偽善的で厭らしい憐みの感情を全身から発散させながら、見下ろしてしまうことはないだろうか。 
 しかし、そのようなことは全くの杞憂だった。病室のケンジは、頭に包帯を巻き、左足はギブスで固定されているものの、8時間程前まで意識不明の重体であったとは思えない程元気であった。 

 

「大丈夫だ。この通り両腕も指もちゃんと動く。ほら、ギターだってすぐ弾けそうだろ。」 


ベッドから身を起こし、ギターを弾くポーズをしながら、切れ長の目を細ませてニヤリと笑う。


「何たって、俺は不死身のフェイス(顔役)だからな。」

「分かった、分かったから無理するな。お前は殺したって死なないよ。さすがは日本のピート・ミーデンだ。全く心配させやがって。」


 ピート・ミーデンは、1960年代英国の伝説のモッドで、何日間も不眠不休で踊り続け、喋り続けていたという逸話があるが、だれもその真偽は知らない。


「ヨウイチには連絡したのか?」

「ああ、マキが電話した。夕方、見舞いにきてくれるらしい。」
「マっさんも心配していたぞ。」
「そうか……。マサさんには本当に悪いことをした。昨日はジェイクのステージに穴をあけちまったしな。」
「しょうがないさ。お前が元気だと知ったら、マっさん、飛び上がって喜ぶぞ。帰り、店に寄って伝えとくよ。」


 そう言いつつ、俺の頭の中では、昨日のケンジの父親の言葉が不吉な警告音のように繰り返し響いていた。――回復しても音楽はやめさせる。金輪際、ロックなどという邪悪な道に息子を引き込まないでほしい――。

 

 その呪いの言葉から逃れようと、天井を見上げ、次に入口の方に顔を向けると、丁度、マキが花瓶を抱えて病室に入ってくるところであった。黄色いバラとピンクのカーネーション、そして、グレーのTシャツに白いオーバーオール姿のマキは、薄暗い病室の中でそこだけ眩しく、鮮やかな光を発しているようで、俺にはそれが「希望」の花言葉を持つアネモネの花に見えた。

 

「あ、サトシ、来てたの。」

「来てたのじゃないだろ。お前がすぐ来いって呼んだんじゃないか。」
「ごめん、そうだった。どう、お兄ちゃんったら、信じられないくらい元気でしょ。」
「うん、昨日事故ったのがウソみたいだ。医者は何て言ってるの?」
「1ヶ月位で退院できるんじゃないかって。その後は、お家でリハビリ。順調に行けば、9月には前みたいに歩けるようになるだろうって。そうそう、頭の方も切り傷だけで済んだの。念のため、大きな装置に入って診てもらったけど、何も問題無かったのよ。ね、昨日はあんなに心配したのに、ホント奇跡みたいでしょ。」

 ケンジが口を挟む。

「だからな、秋にはバンドも再開できると思うんだ。うちの親父が何を言ったのかは知らないが、俺はやめるつもりはないんで、一切気にしないでくれよな。」

 

 思わず苦笑した。どうしてこの兄妹は、揃いも揃って、俺の心の内を見透かしてくれるのだろう。しかし、あの鷹のように鋭い目をした父親がそんなに物分かりよくケンジの話をきいてくれるとは到底思えず、この先待ち受けているであろう陰惨な修羅場を想像すると、途端に気持ちが暗くなった。

 

「そういえば、今日、お前たち兄妹と万博会場にいる夢を見た。」
「万博? 筑波のか?」
「いや、俺たちが子どもの頃に開催された大阪万博だ。でも、何だか妙な夢だったな。」

 ふーん、とケンジは興味無さそうに相槌を打ち、こう続けた。

「それは、時空を超えた正夢かもしれないぜ。俺は小学校に上がるまで大阪に住んでいたからな。万博なら家族で何回も観に行った。まだマキが3歳でさ。すごい人混みの中、ずっと俺が手つないだり、親父が肩車したり、とにかくはぐれないようにするのが大変だった。」

「いつもそんなこと言って、アメリカ館に行けなかったのを私のせいにするのよ。」

 そう言いながら、マキが俺の方を向く。

「サトシ、その夢は帰巣本能なんじゃない。だって、今、ご両親は大阪にいるんでしょ。」

「そうだけど、春に引っ越したばかりで、俺、一度も行ったことないんだぜ。」

 ケンジが、フフッと笑う。

「まぁいいじゃないか。どうせ、夏の間はバンドの方も動けないからさ。大阪行ってこいよ。庶民的で、あっけらかんとしていい街だぞ。」

 そして、あーあと大きな欠伸をしながら、こうぼやいた。

「ここはな、消灯時間が夜10時なんだ。分かるか、この意味が。今日、ライブ・エイドを1時間しか観ることが出来ないんだぞ、俺は。」

 ライブ・エイド(LIVE AID)は、飢餓に苦しむアフリカの人々を救済するために、7月13日から14日にかけてロンドン・ウェンブリー・スタジアムとフィラデルフィア・JFKスタジアムで開催されたチャリティー・コンサートである。ポール・マッカートニー、ミック・ジャガー、クイーン、デビッド・ボウイ、マドンナ、ザ・フー、ボブ・ディランといった大物ミュージシャンが多数出演し、世界84か国で同時中継された。

 俺は、代田橋の“城”で、缶ビールを飲みながら、午後9時から始まった中継を観た。この夜は、開け放した窓から、いつもより少しだけ涼しい風が入ってきた。トップバッターのステイタス・クォーに続いて登場したスタイル・カウンシルは、演奏の途中で唐突に日本側スタジオに画面を切り替えられ、後半2曲のパフォーマンスを丸ごとオミットされてしまった。

 茫然としている俺を、テレビ画面の向こう側から、褐色の肌をしたやせ細った子どもがあきらめと絶望に支配された落ち窪んだ目でじっと見つめていた。この憐れな子どもたちに今必要なのは、音楽でも同情でもなく、的確な物的支援、すなわち、食糧と水と医薬品であろう。勿論それらを届けるためのチャリティーであることは理解しているが、ならば、今や世界中で最も富める層となったロック・ミュージシャンが率先して金を出し、一刻も早く彼らの命を救う手立てを講じるべきではないのか。

 そんな感情が沸き上がりつつも、言い出しっぺのボブ・ゲルドフのことだけは悪く言いたくなかった。ブームタウン・ラッツというお世辞にも大物とは言い難いアイリッシュバンドのフロントマンである彼は、孤立無援状態で死にゆく子どもたちの言葉にならない呻きや叫びに突き動かされ、利己を超えた絶対的な無私の心でこのコンサートの開催を呼びかけたのではないだろうか。そんなゲルドフの真っ直ぐな志を、俺はロックンロールの良心として前向きに受け止めたかった。

 スタジアムを埋め尽くした大観衆の前で「哀愁のマンデイ」を熱唱する彼の姿をテレビ越しに観ながら、消灯直前の薄暗い病室にいるケンジもまた同じことを考えながらこのパフォーマンスを見ているのではないか、そうであってほしいと思った。(つづく)

 

Illustration by Seachan
※この物語はフィクションです。実在する人物・地名・団体とは一切関係ありません。

(第2話)Family Affair
 病院ってやつは、いつ行っても気が滅入る場所だ。暗い廊下、鼻の奥にツンとくる消毒液の匂い、白衣姿の気難しい顔をしたイケ好かない医者。ましてやそこに知り合いが不慮の事故で入院しているとなると、メガトン級の容赦ない重力に押し潰されそうな気分になる。だから、東京逓信病院を出た俺とヨウイチは、浮かない顔をして、とっぷりと日が暮れた飯田橋の堀端を歩いていた。
「まいったな。」
 ヨウイチが、煙草の煙を吐き出しながら力無く呟く。
「あぁ、最悪だ。」
 まったく、このシチュエーションは、控え目に言っても最悪としかいいようがない。
 俺は、土手の左下を走っていく中央線のオレンジ色の車体を見やりながら、病院での光景を思い出していた。

 俺たちは、病院の待合室で、泣きじゃくるマキとその隣で暗く険しい顔をして座っている中年の男女――それはマキとケンジの両親だ――にいきなり対面することになった。この両親のことは、ケンジから度々聞かされていた。警察庁の上級官僚である厳格な父親と教育熱心な母親。長男のケンジは彼らの期待を一身に背負わされ、幼少の頃からいわゆるスパルタ教育の日々、一方、妹のマキは自由奔放に育てられた。

「家族ってヤツは、四六時中監視している門番がいて、ムチを持った鬼教官がいて、押しても引いてもビクともしない見えない鉄格子があって、俺にとっては監獄以外の何ものでもなかった。マキが自由に育てられたのは女だったからだ。女だから何も期待されなかったんだ。」

 ケンジは、酒を飲むと、よくそんな話をした。

 哀れな“囚人”は、16歳の冬の日、かねてより計画していた“脱獄”を決行する。家を出た彼は、そのまま高校の寮に転がり込んだのだ。血相を変えて奪還しにきた両親を理解ある良き教師が説得し、そのおかげで彼は家に戻ることなく寮生活を続け、大学入学後はアパートを借りて一人暮らしを始めた。

 その両親が、今俺たちの前にいる。父親は、ケンジによく似て、切れそうなほど鋭く引き締まった顔をしており、母親は、大きな目と丸く小さな顔立ちがマキによく似ている。2人は、まるで汚いものでも見るかのような冷ややかな視線を俺たちに送る。彼らの強い拒否感と嫌悪感が全身に突き刺さり、ただたじろぐしかない。父親が、静かに、しかし、強く厳しい調子で口を開く。


「君たち、その恰好はなんだ。ケンジは今集中治療室で懸命に格闘しているんだ。それなのに、そのふざけた恰好は――。」


迂闊だった。俺たちは、二人とも黒いスーツに黒いネクタイ姿だったのだ。悪気がないとはいえ、これではまるで喪服ではないか。


「やめて、パパ。この人たちは、お兄ちゃんの一番のお友達なの。私がすぐ来てって言ったから、ステージ衣装のまま駆け付けてくれたのよ。」
マキが泣きながら訴える。


「服装のことはお詫びします。今すぐジャケットもネクタイも外します。気付かなかった俺たちが馬鹿でした。本当にごめんなさい。」
 俺とヨウイチは、深く頭を下げる。
「帰った方が良ければ、すぐに帰ります。ただ、ケンジ君の今の状態だけ教えていただけないでしょうか。」


父親が、俺の目をじっと見る。警察官僚然とした鷹のように鋭いまなざしがほんの少しだけ柔らかくなったような気がした。
「分かった。二人ともここに座りなさい。」


 この後、聞かされた話は、心底、俺たちの気持ちを滅入らせた。
 父親曰く――、ケンジは、靖国通りの交差点をバイクで走行中、右折してきた車と衝突し、頭と胸と左足を強打。まだ意識が戻らず、集中治療室で処置を受けている。医師の見立てでは、命に別条はないだろうとのことだが、何らかの後遺症が残る可能性は大きい。こうなった以上、回復しても音楽はやめさせるし、アパートも引き払って実家に戻ってもらう。君たちも、もうケンジには関わらないでほしい。金輪際、ロックなどという邪悪な道に息子を引き込まないことを約束してほしい――。

 俺とヨウイチは何も言うことができなかった。ケンジがまた以前のように元気になってくれるのであれば、バンドのことなど最早どうでも良かった。それは彼の人生において大した話ではない。しかし、後遺症が残ったり、またぞろ “監獄”に入れられるというのは、到底些事とは言えないだろう。

「とんでもないことになったな、ケンジ。」

 俺は、この病院のどこかで、命をつなぐためにもがき苦しんでいるであろうケンジの姿を思い浮かべた。同時にマキのことも気になった。かほどに暗く悲しい顔をしたマキをこれまで見たことがなかった。にもかかわらず、俺は彼女に何もしてやることができない。それは、つまるところ、“家族の問題”だから。家族という排他的な絆が、大きく高い壁となって、俺とケンジ兄妹とを右と左に引き裂いてゆく。

 それは家族の問題
 家庭の事情ってやつさ


 スライ&ファミリー・ストーンの歌の一節が耳の奥でリフレインする。最悪だった。俺は目の前の悲劇をただ傍観することしかできない自分の無力さを恥じた。もし、俺に人智を超える力があったなら、ケンジとマキを今すぐこの苦しみから解放してやるのに。しかし、ロックの魔法ってやつは、こういう時何の役にも立たないものだな。あれは、ハッピーな時に一緒に踊ってくれたり、軽く落ち込んだ時に背中を押してくれる程度の力しかもたないのだろう。そんなものにうつつを抜かしていた俺たちは、金の子牛を崇拝したイスラエルの民のように愚かだったのかもしれない。

 じっとしていても汗が滲んでくる蒸し暑い病院の待合室で俺はそんなことを考えていた。1985年の暑い夏は、まだ始まったばかりであった。つづく

 

Illustration by Seachan

※この物語はフィクションです。実在する人物・地名・団体とは一切関係ありません。

エイドリアン・ボーランドとリード兄弟、そして今は無きCOMMON STOCKに捧ぐ――

 

(第1話)POP LIFE

 1985年、俺はハタチだった。あの年の夏から冬にかけて俺が体験したクールでもハッピーでもグレイトでもないごくごくありきたりでどこにでも転がっている石くれのようなチンケな出来事を今から少しだけ話そうと思う。個人的な話なので、俺のヒトリゴトだと思って聞き流してほしい。


 俺のシマは新宿だった。歌舞伎町から花園神社を抜けて、明治通りを大久保方面に歩いていくと、左側に古びた灰色のペンシルビルが姿を現す。その地下のライブハウス「ジェイク」が俺のバンドのホームグラウンドであり、ガジガジしてやり場のないフラストレーションを発散するシェルターでもあった。リッケンバッカーのベースギターを抱えてカビ臭いステージに立つと、俺はいつも下水管に生息する得体の知れない生き物、例えば、村上春樹言うところの「やみくろ」なんかに変異したような気分になった。どす黒い汚物の海に這いつくばり、俺は、ディストーションをかましたベースをマシンガンに見立て、全てのクソッタレな野郎どもめがけて、歪みながら尖った重低音を連射する。ダダダ、ダダダダ。イチコロ、ニコロ、ミナゴロシ。ほら、いっぱしのテロリストみたいだろ。


 俺のバンドは、スリーピースのビートバンドで、いつも揃いの黒いスーツを着ていたから、ブラックとかギャングとか呼ばれていたが、正式なバンド名はSNAPだった。そう、あの有名なJAMのアルバムから頂いた。俺たちは、ザ・フーやスモール・フェイセズやキンクスの初期のナンバーとモータウンのダンスナンバー、そして、出鱈目な英語を散りばめたしょうもないオリジナルを高速かつ最大級の爆音で演奏した。アンプのボリュームをマックスまで上げ続けることが、俺たちのポリシー(掟)であり、レゾン・デートル(存在証明)であったため、客もワーとかキャーとか歓声を上げることはほぼなく、耳をおさえながらただ黙々と踊っていたような気がする。

 その日、俺は、いつもより早く「ジェイク」に着いた。リハーサルまで30分程時間があったので、カウンターに腰掛け、コーラを飲みながら、ウォークマンでプリンスの「Around the World in a Day」をフルボリュームで聴いた。周囲の連中は彼のことを「変態」とか「紛い物ソウル」などと言って馬鹿にしていたが、俺は、プリンスこそ現代音楽の天才であると信じてやまなかったし、この新譜には、大袈裟ではなく震えがくる程の凄みを感じ、ただただ圧倒されていた。

 POP LIFE!
 誰もがトップになれるわけじゃない
 でもポップに生きなきゃ
 人生まったくイカさないぜ


 ――サトシ、サトシ!
 プリンスの歌声が、中年男の叫ぶような大声で妨害される。「ジェイク」
オーナーのマサさんだ。

「マっさん、どうしたの?」

「マキちゃんから電話だ。ケンジがバイクで事故ったらしい。」
 ケンジは、俺と同い年でバンドのヴォーカルとギター担当、マキはケンジの2つ下の妹で、この春、「猫ッこ倶楽部」というテレビ局がでっち上げた女子高生アイドルグループに勧誘され、本人も加入する気満々だったが、俺とケンジが2人して全力で阻止した。以来、俺はマキに目の敵にされている。

 電話の向こうのマキの声は震えていた。
「サトシ、お兄ちゃんがバイクで転倒して救急車で運ばれたって警察の人から連絡が来たの。一緒に病院に行ってくれる?」
「もちろんだ。すぐ行く。病院はどこ?」
 東京逓信病院。ここからならタクシーで10分もかからないだろう。マサさんに今日のライブは中止にする旨伝え、店を出ようとすると、丁度黒スーツの大男が入ってきた。ドラムのヨウイチだ。
「おう、いいところに来た。ライブは中止だ。今から病院に行くぞ。急げ!」
 状況がつかめず馬鹿みたいにポカンとした顔のヨウイチの腕を掴んで階段を駆け上がった俺は、ふと、これで何かが変わってしまうのではないかという漠然とした不安に襲われていた。
 1985年7月、燦々と太陽が照り付ける明治通りの真ん中で、俺は迷子になろうとしていた。つづく

 

Illustration by Seachan

※この物語はフィクションです。実在する人物・地名・団体とは一切関係ありません。

2021年以降に更新した記事わずか7本。かような超スローペースでもなんとか継続させていただいている拙ブログですが、来週から月1回更新を目標に再開したいと思っています。
実は、今年の初め、新宿三丁目のロックバーの同人誌にロックンロール小説もどきを掲載する手はずで原稿を送ったのですが、その後マスターが入院されたり、予定している他の原稿が揃わなかったりと、いまだ発表の目途が立っていないため、こちらで連載を始めることにしました。タイトルは「Rock 'N' Roll Is Here To Stay」。お気付きの方もいらっしゃるかと思いますが、故アレックス・チルトン率いるビッグ・スターの名曲「Thirteen
」の歌詞の一節から拝借しました。ちなみに、このフレーズは、かの伝説のロックバー、COMMON STOCK(コモンストック)の営業終了後に流れる電話のメッセージでも使われていたとのこと。

今後は、以下の3本の連載に絞って更新していこうと思います。
・Rock 'N' Roll Is Here To Stay(1985年のCock and Bull Story)
・フォーク・ソングを殺したのは誰
・フォークゲリラを知ってるかい

「Rock 'N' Roll Is Here To Stay」は、イラストもオリジナル作品を使用する予定です。随分とブランクが空いてしまいましたが、また読んでいただけると嬉しいです。

 


父が隣町の介護付き老人ホームに入所してまもなく1年になる。不可逆的に進行する認知症により新たな記憶を重ねることができず、今という瞬間は地面に落ちた粉雪のように何一つ痕跡を残さないまま儚く消え去ってしまう。そして、彼の時間は遥か遠く80年前へと遡上し、今、父は、10代前半まで暮らした鹿児島の生家や、最年少の主計兵として従事した鹿屋基地にいる。ぼくは、毎週末そこに行く。父の頭の中にしか存在しない、郵便局のあった大きな生家に、若い特攻隊員が飛び立つ真夏の軍事基地に――。

ホームでいつも挨拶を交わす刀自がいる。太田キヨコさん。彼女は会うたびに父のことを「私の父にとてもよく似ている」と言いながら、何故か涙を流す。東京の下町生まれのキヨコさんは、尋常小学校3年の時に東京大空襲を経験している。深夜に物凄い数の戦闘機が空から爆弾を落とし、辺り一面が火の海になる中、母親と妹と一緒に必死に逃げたという。「大勢の人が死んで、家も大切なものも全部焼かれて・・・」。いつもここで話が止まる。そして、話題はまた父のことになり、「私の父もお父さんと同じように立派な髭でした」(ちなみに父は髭を貯えたことは1度もない)と言いながら綺麗な涙を流してくれる。当の父は、毎日キヨコさんに会っているはずなのに、記憶することができないから、2人はいつまでも初対面のままである。

ホームの入口には頑丈な鍵がかけられ、誰かに頼まなければ入ることも出ることもできない。13平米の居室は終のすみかとしてはいかにも狭く貧弱だ。ぼくは、そこに行くと、良くないことと思いつつも、どうしてもゲットーを想起してしまう。そして、一歩外に出ればほぼ無制限の自由を享受できる自分が、こうして父やキヨコさんに向き合っていることを後ろめたく感じる。

Do you feel ashamed. When you hear my name?

ロサンゼルス出身の若きシンガー・ソング・ライター、フィービー・ブリジャーズが数年前に発表した「スコット・ストリート」の一節。最近ことあるごとにこのフレーズがぼくの耳元でこだまする。

JR新宿駅の西口改札を出て、天井の低い地下広場の大きな柱に寄りかかり目を瞑ると、以前のぼくであれば、あの夏の地下広場に立っているかのような錯覚に陥ったはずだ。「ウイ・シャル・オーバーカム」の歌声が、何千という人々が議論をする活気に満ちた話声が確かに聞こえたはずだ。しかし、今、それらはすべて消え失せてしまった。新宿駅西口地下広場の心臓部であり、人々の生活の拠点でもあった小田急百貨店は昨年10月に営業を終了し、目下解体工事が進められ、この街は再開発によりその姿を大きく変えようとしている。何ということだろう。土地や建物には精霊が宿り、移り行く時の流れを慈しむかのように街の記憶を語り継いでいるというのに。その神聖な存在を蹂躙し根絶やしにし、過去から未来への繋がりを力づくでぶった切る「再開発」という名の蛮行が、いかに東京を無機質でつまらない街にしてしまったことか。――ぼくはかねてよりこの無知性で凶暴な破壊行為は、東京のことを少しも愛していない成り上がりの田舎者どもの所業であると思っている――。そして、2003年2月から毎週土曜日の夜に平和の祈りを込めたスタンディングを続けていた大木晴子さんもついにこの地を去ってしまった。4月29日が地下広場での最後のスタンディング。ぼくはそのことを毎日新聞の記事で知った。

読み終えた時、言葉では言い表せない衝撃と喪失感に襲われた。同時に、傍観するのみで一度も主体的に意思表示をすることが出来なかった自分自身の心の弱さを恥じた。晴子さんに連絡すると、当の本人はさばさばしたもので、「20年背負ってきたものを下ろしてホッとしています」とのご返事。こういう時、ザ・バンドの歌のように「荷物を下ろして自由になってください。その荷物は私たちが引き受けますから」などとさりげなく言えればよいのだが、そんな覚悟を持てないぼくは、「お体に気をつけてください」とか「またお会いしましょう」といった間延びした常套句を力無く呟くことしかできない。
しかし、そのような空々しい気遣いは一切無用であった。晴子さんは今日も日本のどこかでエネルギッシュに平和への意思表示を続けている。11月19日には、彼女のもう一つのホームグラウンドである渋谷ロフト9で、「中川五郎+伊東正美ライブ&トーク~希望をつなぐために語り!歌おう!」を主催された。フォーク・ゲリラ時代からの仲間である中川五郎さんが「1923年福田村の虐殺」「真新しい名刺」「トーキング烏山神社の椎ノ木ブルース」という「関東大震災朝鮮人差別三部作」を1時間半かけて熱唱。この日は伊東正美さんの流麗なギター演奏が加わったことで音楽としての完成度や豊穣さがより一層高まり、五郎さん流バラッドの真骨頂をみた思いであった。

五郎さんのフォーク・ゲリラに関するトークが大変興味深かった。以下、備忘録として書き残す。
・政治的な主張を訴える場所でギターを持って歌う動きは大阪から始まった。自分も南大阪べ平連や北摂べ平連の仲間達と梅田の地下街で頻繁に歌ったことを覚えている。
・べ平連の人達とはとても仲が良く、山口文憲さん、吉岡忍さん、小黒弘さんも良く知っていて、だから、1969年の春から夏にかけては、既に自分のLPレコードを出し、日本全国歌って回っていたが、プロとかアマとかいう意識は無く、一人の参加者として新宿西口のフォーク・ゲリラの集会で歌わせてもらった。
・当時は大阪に住んでいたので、東京に出てきた時にスケジュールが合えば新宿西口に向かった。2回か3回歌った記憶がある。べ平連の時からの付き合いがあったのでフォーク・ゲリラ側もいつもの友達が来てくれたとごく自然に迎えてくれたし、自分自身も当たり前のこととして歌いに行っていた。それが仮に岡林信康さんであれば、有名人やプロが来たと受け止められたかもしれないが、自分の場合は物凄く自然な感じで参加していた。
・新宿西口で一番記憶に残っているのは、大木晴子さん。いつも皆をリードして歌っていた姿が脳裏に焼き付いている。たまたま大木さんと自分が横に並んでいる写真が記録として残っているが、(自分はそういう自然なスタンスで参加していたので)大木さんは気付かなかったのだろう。

周知のとおり、五郎さんはフォーク・ゲリラの重要なレパートリーの大半を作られた関西フォークのオリジネーターであり、当時既にプロのフォーク・シンガーとして活躍されていた。にもかかわらず、新宿西口では無名の一参加者として歌っていたという事実にあらためて驚くとともに、それこそが、自らの責任の下に行動する一個人が主役である新宿西口フォーク集会の本質であったのだろうと得心もした。

当日参加された方(※)から、晴子さんは1枚の写真を渡されたという。そこには、1969年8月に大阪城公園で開催された「ハンパク」(反戦のための万国博)会場でフォークギターをつま弾く20歳の晴子さんが写っている。ジーンズの裾に書かれた「Anti- Expo」の文字が眩しい。この時期、新宿駅西口地下広場は「通路」に変わり、戦闘服姿の機動隊に占拠され、仲間もご自身も逮捕され、先の見えない後退戦を強いられていたというのにこの明るい笑顔は一体何なのだろう。それは、晴子さんが座右の銘とする故中村哲さんの言葉「捨て身の楽天性」を半世紀以上も前から体現していたかのようだ。


フィービー・ブリジャーズの歌声が、晴子さんの声に変わる。
Do you feel ashamed. When you hear my name?


※    この素晴らしい写真を撮影されたのは、斎田裕二さん。斎田さんは、高校生の時にハンパクに参加され、以来この写真を大切に保管されていたという。

雨上がりの底冷えする初冬の夜。千代田区二番町の狭い歩道の一角に押し込められた900人の市民が抗議の声を上げる。Shame on Israel! Israel shame on you! 100m程先にあるイスラエル大使館前の道路は警官隊に封鎖され、市民は近づくことができない。「私達がいる日本とパレスチナは遠く離れています。だけどここからでも声を上げることは無力ではないと思います」。総がかり行動実行委員会青年PTの若者がアピールする。今回、追い詰められた弱者の抵抗は、最悪の形で暴発してしまった。一般市民に対する拉致と殺戮は絶対に許されることではないが、その報復として、圧倒的な軍事力を行使して無抵抗のガザ市民を虐殺してよいはずがない。何より心揺さぶられ、怒りや悲しみを通り越し、絶句する程の絶望の感情が沸き上がってきたのは、イスラエル軍に包囲され燃料の供給が途絶えたシファ病院で、電力が尽きた保育器から生まれたばかりの赤ん坊がベッドに移され、瀕死の状態であえぐ映像だ。ずっと自問自答している。暴力も殺戮も当然否定する。しかし、絶望の淵に生きる人々のぎりぎりの抵抗をテロと呼んで切って捨ててもよいのであろうか。圧倒的な暴力と不条理の下、支配され隷属を強いられ、やるせない怒りに押しつぶされそうになっている人々に非暴力を唱えることはどれだけ意味があるのであろうか。答えはいまだに出ないが、それでも叫び続けるしかない。殺すな。殺させるな。
千代田区二番町の路上で、ぼくは、東京大空襲から命からがら生き延びた太田キヨコさんのことを考えていた。シュプレヒコールの向こう側から彼女の声が確かに聞こえたような気がした。
Do you feel ashamed. When you hear my name?


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続・1969年新宿西口地下広場で中川五郎は――(2014-02-23)
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フォーク・ゲリラとブロードサイド・バラッドに関する一つの考察(2010-09-23)
腰まで泥まみれ(2008-01-21)

 

 

(←その8

1960年代のマイク真木とМRA(道徳再武装運動)に関するエピソードは、日本のフォーク・ソング、いや、そこに留まらず、ロック、ポップスに至るまで、この国の“若者の音楽”と呼称されるものが、すべからく非政治化し、せいぜい「夜の校舎の窓ガラスを壊してまわる」程度のレジスタンスが関の山であった理由を探る上で避けて通ることのできないトピックであると信じてやまない。そして、その背後には、資本と米国の共通の利害、すなわち「反共」(今、この言葉のおぞましさを理解できる者がどの位いるのであろうか?)という過剰に右寄りで保守的な政治イデオロギーが潜んでいることを忘れてはならない。(注1)
左右を問わず、政治という巨大な力によって歪められたエンターテイメントは、パフォーマー側にそれに耐えうるしたたかさ、もしくは確固とした信念が無いと、遅かれ早かれ無様に破綻してしまうものだ。言うまでもないが、難破した船乗りは、無慈悲に見捨てられる。その象徴的な事例として、「バラが咲いた」の国民的ヒットの後に、若きマイク真木が駆け抜けた1960年代後半をもう少しだけ辿ってみようと思う。

1966年5月、真木はNETテレビ(現・テレビ朝日)の「木島則夫モーニング・ショー」に1週間ゲスト出演し、サブ司会の栗原玲児が詞を書き下ろした「風に歌おう」を軽快にバンジョーで弾き語った。同年9月15日に真木の第3弾シングルとして発売されることとなるこの曲は、父小太郎のマンドリンと合奏しながら作曲したカントリー調のナンバーで、その明るく乾いたメロディは、彼の自作曲の中でも一頭地を抜く出来栄えと言っても過言ではなかろう。番組で披露した際の評判も上々であった。不発に終わった前作「波と木彫りのクマ」の挽回を期す意欲作として大いに期待された。この頃、「バラが咲いた」は依然としてヒットチャート上位にあり、真木の前途には、日本のフォーク・ソングの未来が大きくひらけているように思えた。
(注2)

意気盛んな真木は、同年8月13日から15日にかけて、「マイク真木の世界」と題する初のリサイタルを名古屋・名鉄ホールで開催する。構成・演出・音楽を数年来の真木のフォーク・ソング仲間でありブレーンでもある仁(ひとし)と義(ただし)の日高兄弟が担当し、舞台美術には父小太郎が腕を奮ったこのショーは、当時のフーテナニーの典型的なスタイルを踏襲したプログラムになっているので、少しだけ当日の様子を見てみよう。(注3)

オープニングは、出演者全員による「我が祖国(This Land is Your Land)」の合唱。続けて、フォーク・ソング・メドレー、まず、真木が盟友日高義のペンによる「君の町」と「赤い貝がら」を弾き語ると、PPM+1(女性1人と男性3人)編成のフォア・ダイムズが「ハンマーを持ったら(If I Had a Hammer)」「悲惨な戦争(The Cruel War)」の2曲を美しく歌い上げる。続けて、揃いの半袖ストライプのボタンダウンシャツを着た男性3人組ニュー・フロンティアーズが、本家キングストン・トリオ顔負けの達者な演奏と三重奏のハーモニーで「M.T.A」と「風に吹かれて(Blowin' In The Wind)」を披露。会場全体が大いに盛り上がったところで、再び真木がベースの吉田勝宣を従えて登場。ここからは、真木のオンステージである。当時の学生コンサートでよく歌われていた友利謙三の「あの光が忘れられようか」を熱唱した後、「同じ国に住んで」「白、黒、黄色、赤」「マリアナの海」「いじめっこの歌」等々のオリジナルナンバーをギターとバンジョーを器用に持ち替えながら歌う。フォーク・ソング仲間であるザ・カッペーズの川手国靖が書いたチャーミングな小曲「小さな歌」を静かに歌い終わると真木退場。ホールが暗転し、程なくして照明が点くと、ステージには再度出演者全員登場、日高義作による「歌おうよ 叫ぼうよ」を、真木と瀬戸龍介(ニュー・フロンティアーズ)のバンジョー合戦を交えながら楽しくシングアウト。次いで、フォア・ダイムズが軽快なPPMナンバー「ベティー&デュプリー」と「カム・アンド・ゴー・ウイズ・ミー」を歌うと、ニュー・フロンティアーズも負けじと、キングストン・トリオの「バヌア」と「ハード・エイント・イット・ハード」をバンジョーの速弾きと迫力満点のハーモニーで躍動感たっぷりに聴かせる。そして、会場の誰もが待っていた歌、「バラが咲いた」を真木が客席と一緒に歌った後、「我が祖国」の大合唱で幕となった。真木は、2時間の公演を声をかぎりに、ほとばしる汗を拭こうともせずに歌い切った。満員の客席からは割れんばかりの拍手と歓声がしばらく鳴りやまなかった。こうして、1966年夏の名古屋のリサイタルは、真木にとって生涯忘れられないステージとなった。

同じ頃、先に真木がゲスト出演した「木島則夫モーニング・ショー」では、サブ司会の栗原玲児が「なんとも疲れました」とコメントし、8月いっぱいで急遽降板することを表明していた。栗原は、この“日本初のワイドショー”において、正義感を生にぶつけてズバズバ直言する若者代表の役割を求められ、メイン司会の木島則夫と激しく議論する場面も多かった。そのため、この降板には、「木島との不仲が原因では」「政治的な圧力があったのでは」などの憶測も立ったが、ここでは、その真相には立ち入らない。しかし、元NHKのアナウンサーであり、博報堂を経て、フリーの放送作家として音楽番組の構成、司会も担当し、何より知識豊富で頭の切れが抜群に良く、体制批判も厭わなかった栗原には、経済団体から局上層部に対して苦言が呈されていたのは確かなようだ。
(注4)

栗原の後任として抜擢されたのが真木であった。当時、日大芸術学部放送学科の現役大学生でもあった真木は、学問を実践できること、そして、自分の歌を広く伝える場ができることから、「是非やりたい」と自ら希望したという。真木が所属するフィリップス・レコードはこれに強く反対した。政治を含めた日々のニュースを取扱い、「やや左翼的でアメリカに対して非友好的な傾向にある」と政府から警戒の目を向けられているこの番組にレギュラー出演することは、真木のデビューの経緯を考えると到底容認できる話ではなかった。ディレクターの本城和治氏が何度も思いとどまるよう説得したが、真木の決意は変わらなかった。しかし、この懸念は、一方では的中し、一方では杞憂に終わる。前者はレコードセールスの低迷という点において、後者は左翼勢力を利するのではないかという点において。
(注5)

真木は、当時、テレビの歌番組の出演に辟易としていた。歌わされるのはいつも「バラが咲いた」であり、そうでない時は「漕げよマイケル」の合唱だった。自分には社会問題をテーマにした新しい日本のフォーク・ソングが十指に余る程あるというのに。人種差別、原爆、ベトナム戦争、デモ隊と機動隊との対立、交通事故…、「木島則夫モーニング・ショー」では、こういった自分の歌いたいものを歌わせてくれるに違いないと信じて出演契約を結んだ。あまり得意とは言えないトークではなく、歌を通して、日々のニュースを、市井の人の喜びや悲しみを伝える、そんな新しい司会像を自分なりに思い描いていた。そして、もう一つ、真木の思いは、前年夏のミシガン州マキノ・アイランドで開催されたMRA世界大会で受けた強い衝撃に囚われていたのではないか。リーダーズダイジェストによると、それは、次のような光景であったという。(注6)

一人の美しい溌剌とした女子学生が立ち上がって発言した。
「私は、ビート族や徴兵カードを燃やす人達、学校内の暴動、反戦デモ隊が作り上げたアメリカの青年像にはあきあきしました。ここにいる皆さんや私は、ああいう人達が、私達青年の代表像ではないということを知っています。しかし、一般大衆は知っているでしょうか? 外国の人々は知っているでしょうか? 私達はこの不名誉な印象を改めるために、何か目ざましいことをしなければなりません。」
集まった若者達に電撃的な反応が起こった。会場の処々方々から高校生や大学生が立ち上がって発言した。アイオア州立大学の陸上競技の花形選手ジョン・エバーソンはこう言った。
「騒々しい少数の平和主義者は『反対!反対!』とがなり立てています。何故、僕達は自分の支持するものを盛り立てる『支持デモ』を計画しないのでしょう?」
(注7)

革共同の学生活動家奥浩平の遺稿集「青春の墓標」がベストセラーとなり、右派の若者が少数派であった時代背景を考えると、社会党より自民党にシンパシーを感じていた真木にとって、彼らの勇猛な発言は一種の天啓の如く聞こえたであろうことは想像に難くない。そして、反共を旗頭とする超保守的なМRAの教義も「僕ら若者が十何年かすると国の指導者となってゆく。その若者たちに心身ともに新しいファッションを植えつけ、立派な人間に成長させ、そして世界の困難な問題をカタッパシから片付けていく」ための先鋭的なイデオロギーとして好意的に受け止め、貪欲に吸収していった。その帰結するところとして、彼は自分が学んだ“新しいものの見方”を、テレビを通してより多くの人に伝えたいと思ったのかもしれない。しかし、体制を批判せず、社会的な問題を個人の問題に矮小化するMRA独特の思考法は、歯に衣着せぬコメントで時の政府や権力者を叩き、庶民の留飲を下げるワイドショーにおいては、大きな足枷となってしまう。(注8)

9月1日、真木は「木島則夫モーニング・ショー」のサブ司会者として初登場した。この日、木島に「原子力潜水艦シードラゴンの横須賀入港についてどう思う?」と訊かれた真木は、「原潜というのは、自分の寝ているベッドの下にヘビが入ってきてそのまま居ついてしまった感じ。噛みつきゃしないかと、ひやひやしているのだが…」と切り返し、生CMでは、洗剤のハイターを“歯痛”ともじってユーモアたっぷりに紹介するなど、出だしは好調であった。
(注9)

しかし、真木の起用と同じタイミングで世間を騒がせ始めた自民党議員の連鎖的な不祥事事件、いわゆる「黒い霧」がニュースの中心になると、一転して歯切れが悪くなる。木島が「真木さんなんか、若い世代の代表としては、今回の不祥事をどう思いますか」と話しかけると、真木は胸をそらしてこう答えた。「僕は政治には全く興味がありません。興味を持たせる何物もありませんね」。木島もびっくりしたが、これを見ていた視聴者はもっと驚き、真木の非常識さを非難する投書や電話がテレビ局に相次いだ。それでも、木島は真木をかばい続けたが、翌1967年1月30日の番組で、ついにお手上げ状態となる。この日、「黒い霧解散」後の衆議院選挙特集を組んだスタジオには、映画監督の羽仁進、作家の藤本義一などの若手文化人が揃い、政治への批判と提言を行う座談会は冒頭からヒートアップしていた。皆一様に怒っていた。汚職に塗れた政治家に、癒着する財界に――。そんな中、発言を振られた真木はこう言い放った。「僕は、どの政党、どの候補者が当選するかより、上野動物園のサル山で、どのサルがボスになるかの方がはるかに興味がありますね」。スタジオが一瞬静まり返る。真木流の気の利いたジョークのつもりだろうか。真意を測りかねているところに、さらに発言が続く。「日大芸術学部の僕の友達は、誰も政治に関心を持っていませんよ。僕は自分個人の生活に満足しているし、はっきり言ってこのままでいいんです」。ここまで来ると、とても逆説を弄したとは思えない。テレビには、ありありと軽蔑の表情を浮かべる出演者の顔が映し出された。羽仁進が「あなた方若い人達がそんな風に政治に無関心なのは困ったことだ。個人主義もいいがもっと広い視野を持ちなさい」と説教口調でたしなめると、真木はやや気色ばみ「僕達があと二、三十年経って、国の主導的立場に立った時は――」と言い返すものの、藤本義一の怒声に遮られる。「二、三十年経ってとは何だ! 今、君達若者が主導的立場に立たなくてどうする!」。これには木島もなす術もなく、この日は真木抜きで番組を進行せざるをえなかった。(注10)

真木はこの時、深刻なジレンマに陥っていたのではないか。汚職が許されないものであることは十分理解している。私利私欲に走る薄汚い政治家は殴ってやりたいくらいキライだ。しかし、それをお茶の間に向けてストレートに発信すると、自民党や財界と対立する左翼勢力を利する結果になりかねない。それくらいなら政治の話は一切口をつぐんでいよう。そう考えたのが真木自身なのか、MRA関係者なのかは定かではないが、いずれにせよ「政治に無関心なマイク真木」という一つの虚像が作られ、その虚像が真木の本体に強烈なダメージを与えることとなった。「批判精神がマヒ」「大人をちゃかしすぎる」等の批判の声が止まらず、本業のフォーク・ソングの方にも影響が出始める。期待のシングル「風に歌おう」は思った程売れず、続く浜口庫之助作「カラスと柿のタネ」も、石原慎太郎作詞による芸術祭参加作品「俺の心の海」もヒットとは程遠い結果となった。

それでも真木は歌いたかった。政治的な制約があるにせよ、自分の思いを歌で表現したかった。先に書いたとおり、その希望が叶うと信じてモーニング・ショーとの出演契約を結んだのであるが、期待は大きく外れ、歌わせてもらえるのは、日本の古い民謡や毒にも薬にもならないほのぼのして清潔そうで単純なメロディの曲ばかりであった。
しかし、ようやくチャンスが巡ってきた。自作の「マリアナの海」を歌うよう、ディレクターから要請されたのだ。1965年10月7日に発生したマリアナ海域での海難事故を題材に日高義と共作した歌である。

マリアナの海遠く 
マリアナの空遠く
消えた海の男たち  
静かにねむれ とこしえに


歌いながら、感情が込み上げ、真木の目から涙が溢れ出てきた。あの日、マリアナの暗い海には、遭難したカツオ漁船の乗組員207人の死体が漂っていた。その中には十代の少年が30人もいたという。日本が独自に気象観測機を持つことができず、アメリカからの情報に頼らざるをえなかったことも事故の要因であったらしい。そして、この歌を作った時の情景が脳裏に浮かぶ。1年前、原宿の神宮マンションで、盟友ターちゃんと若者による若者のための“本物のフォーク・ソング”を作ろうと夢を語り合いながら、自分が詞を書き、ターちゃんが曲を付けた。あれから、随分と遠いところに来てしまったようだ――。
涙にむせんで歌うことができなくなった真木は、嗚咽しながら歌詞を呟いた。
(注11)

生命こめたSOS
むなしく空を飛び
救いの船は はるか遠く
沈み行く船 七隻


1967年4月28日、真木は「木島則夫モーニング・ショー」を降板した。
(つづく)


(注1)「日本大百科全書」の五十嵐仁法政大学大原社会問題研究所名誉教授の記述によると、反共主義は、厳密には共産主義批判と異なり、資本家による対労働者用の思想的武器としての面と、反民主的・反自由的手段としての面を併せ持つ。その典型例は、枢軸国(ナチス・ドイツ、イタリア王国、大日本帝国)のファシズムや、アメリカのマッカーシズム等だという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E5%85%B1%E4%B8%BB%E7%BE%A9

(注2)「ミュージック・ライフ」1966年9月号「マイク真木・栗原玲児のフォーク対談」

(注3)「名鉄フォークソング・フェスティバル マイク真木の世界」パンフレット、週刊明星(1966年8月28日号)

(注4)「ニュース・ショーに賭ける」浅田孝彦(現代ジャーナリズム出版会)、「おはよう木島則夫です「モーニング・ショー」こぼれ話」木島則夫(講談社)、「放送をつくった人たち」塩沢茂(オリオン出版社)、新婦人(1966年10月号)

(注5)1965年7月に自民党の広報委員会がまとめたモニター調査「注目される放送事例――最近の重要問題をめぐって」には、「木島則夫モーニング・ショー」について「この種の番組の司会者は政治、外交、社会問題などを取り上げる場合、つよい主観色を出さず、きわめて常識的な立場から微温的な発言をするのが定石であるが、木島ショーのレギュラー三人(木島・栗原玲児・井上加寿子)は相当つよい色を出す。(略)そのことは、彼らがしばしば勇み足をやって批判されることにもあらわれている。ところで問題は、勇み足とか、言い過ぎとかにとどまらず、それを越えた傾向が看取されることである。左翼的という評価があたっているかどうかは、簡単に言えないが、ややそれに近いものを感じさせる。ことにアメリカに対して非友好的なことは否めない」と記されている。(「朝日ジャーナル」(1965年10月24日号)、「現代の内幕 : 恐るべき日本」茶本繁正等(山王書房))
 真木の出演意向及びフィリップスレコード・ディレクターによる説得に関する下りは、「放送をつくった人たち」塩沢茂(オリオン出版社)、週刊平凡(1966年9月8日号)、週刊サンケイ(1968年2月5日号)による。

(注6)「婦人公論」(1967年5月号)「司会者落第記」

(注7)「リーダーズダイジェスト」(1967年10月号)

(注8)1967年1月23日の毎日新聞において、真木は、前回の選挙(1964年の参院選、真木にとって初めての選挙)で自民党に投票したと発言している。МRAの教義に関する真木の思いは、メンズ・クラブVOL.52「セイロン島にて/マイク・真木」(1966年4月号)より。

(注9)「週刊現代」(1966年9月15日号)

(注10)「週刊新潮」(1967年2月11日号)、「週刊平凡」(1967年2月16日号)、「婦人公論」(1967年5月号)等。真木の「政治には全く興味が無い」発言は「成功するセールス話法 第5巻」堀川直義 等編(河出書房)といったビジネス書にも「失敗話法例」として掲載されている。

(注11)「婦人公論」(1967年5月号)「司会者落第記」に真木はこう書いている。「1回もうたったことがない、と言ったが、1回だけ、チャンスはあった。マリアナでの漁船遭難の一周忌のとき、僕の作った歌をうたえと言われた。ギターなしで、口ずさむようにというのが、ディレクターの指示だった。そのときは嬉しかったなぁ。しかし、僕は不覚にも涙がこみあげてきて、どうしてもうたえなくなってしまった。(略)涙にむせんで、ただつぶやくだけ。そのあとのコマーシャルでも何も言えなかった。(略)司会者としての、フォークシンガーとしての僕にとっては、最大の失敗だった。」

2005年9月、狭山の稲荷山公園で、焼けつくような猛暑と災害級の豪雨の中過ごしたあの2日間をぼくは決して忘れることはないだろう。そこでは、太陽が昇り沈みきるまで、木々の緑と一体化した土の匂いのする豊潤な音楽が演奏されていた。打楽器や電気楽器の増幅音すらかき消してしまう激烈な土砂降りの中でも――。ハイドパーク・ミュージック・フェスティバル。翌年の開催以降、それは経済的な事情により休止となった。

18年後の本年4月29日と30日、そのフェスティバルが奇跡的に復活した。再開に至る道程には主催者である麻田浩さんの尋常ならざる孤軍奮闘のハードシップストーリーがあったのであろうが、そのようなことは微塵も感じさせない明るく爽やかな笑顔でぼくらを迎えてくれた。(彼ほどテンガロンハットが似合う日本人をぼくはほかに知らない。)
稲荷山公園は、鮮やかな木々の緑、コンパクトな円形のステージ等々、そこだけまるで時間が止まっていたかのように何も変わっていなかった。

一方、主役の音楽の方は、どうであったろうか。ハイドパーク・ミュージック・フェスティバルは、1970年代初頭にこの地(狭山アメリカ村の米軍ハウス)に移住し、米国音楽をルーツとする優れたフォーク・ロックを創り出したミュージシャンに敬意を表しつつも、ノスタルジーに終わることなく、その進化形である現代(いま)の音楽も提示するユニークなフェスであったように思う。例えば、2005年に出演したラリーパパ&カーネギーママやSAKEROCKのように。

ぼくが参加した29日も、勿論素晴らしい音楽で溢れていた。もはやベテランの域に達しているが、EGO-WRAPPIN'や在日ファンクの熱演は幅広い年齢層の観客を波が立つようにスタンディングさせ、心地よく踊らせる魔法の力を持っていた。ギター1本でジャジーなグルーヴを繰り出しながらソウルフルに熱唱した田島貴男のパフォーマンスもさすがの一言であった。彼独特の節回しで「何度でも繰り返し諦めずアピールしよう この侵略戦争に反対であると」「音楽を奪うことはできない どんな圧力がかかっても どんなに威嚇されても」とシャウトすると、会場全体からウオーッという賛同と共感を示す歓声が沸き起こり、そのバイブレーションが夜の冷気に縮む身体を熱くさせた。彼が今これほど激しいラブソング=プロテストソングを歌っていることをぼくは不覚にも全く知らなかった。

加藤和彦トリビュートも選曲がフォークソングに偏り過ぎているきらいはあったが、北山修氏の軽妙な司会と松山猛氏の登場もあり、音楽だけでなくトークも楽しめる贅沢な内容であった。パフォーマンスとしては、加藤氏から生前譲り受けたというリゾネーターギターで弾き語るChihana(チハナ)の「光る詩」、そして「大学時代、牧村憲一先生から加藤和彦さんの音楽を教えてもらった」と話すカメラ=万年筆の佐藤優介とスカートの澤部渡らによるファンキーな「どんたく」が特に印象に残った。そして、トリのムーンライダーズ。かつて狭山アメリカ村で暮らし、今年2月に急逝された岡田徹氏に捧げたトム・ウェイツの「グレープフルーツ・ムーン」は、この特別な地で開催されたフェス初日を締めくくるに相応しい乾いたセレナーデであり、同時代を生きた同志に捧げるレクイエムのようにも聴こえた。

唯一残念に感じたことを書いておこう。それは、2005年のフェスでは匂い立つように濃厚に感じとれたルーツ音楽、すなわち狭山アメリカ村に根付いた音楽との連続性が希薄に思えたことである。要因としては、先の岡田氏や小坂忠、中野督夫など相次ぐ逝去によるオリジネーターの不在も大きいのだが、日本の音楽業界が構造的に抱える問題(その拙劣なガラパゴス化は米国ビルボード・ヒットナンバーの普遍的な質の高さと比較しても明らかであろう)に起因するようにも思えるため、それはまた別の機会に考察することとしたい。

思えば、このような大規模なライブに参加したのは、新型コロナウイルス感染症が世界中を席捲した2020年以来のことである。ミュージシャンと共にお気に入りのナンバーを歌い、叫び、少しばかり酔う中で、コロナ以前の日常が戻りつつあることを実感した。同時に、2021年9月のファームエイドの出演を断念した際のニール・ヤングの言葉が心のどこかで残響していたのも事実だ。

安全だと思えないからフェスに来ない人たちに、俺も同意する
それに、俺が演奏するのを観て、もう安全なんだとは思って欲しくないんだ
だから、君たちが安全だと思えるまで、または本当に安全になるまで、俺は演奏したくない
(※)

今、東京の感染者数はまた増えてきている。オミクロン株XBB系統の割合も上昇しており、実はもう第9波に入っているのではないかという気さえする。そんな中、明日8日から新型コロナは季節性インフルエンザと同等の5類感染症に移行する。感染状況の不可視化、すなわち、コロナがこれまで以上に見えない敵となり、無防備な人々を攻撃するような事態にならないことを祈る。もう、パンデミックや戦争や災害で死者が「数値化」されるニュースは聞きたくない。(そもそも、コロナの日々の死者数は、5類移行に伴い公表されなくなるため、「数値化」すらできない状況になるわけであるが。)

コロナ禍において、ぼくは一人の歌姫に魅せられ続けた。彼女の歌声は、美しく屈折し、優しくて残酷であり、透き通りながらドスの利いた凄みがある。それは、先月発表されたニューアルバム「Did you know that there's a tunnel under Ocean Blvd」にも満ちていて、「Norman Fucking Rockwell!」以降のラナ・デル・レイには、無条件で降伏状態なのである。


雑文失礼。次回は、「フォーク・ソングを殺したのは誰? その9」を――。

 

※中村明美「ニューヨーク通信」より(https://rockinon.com/blog/nakamura/199926.amp?__twitter_impression=true&fbclid=IwAR16De1DrcW1s1erwYxZMDa1SrsJngUUF0UDN3gt1Jv9kcNYM0rmspmC32E)