フォーク・ソングを殺したのは誰? その9 | AFTER THE GOLD RUSH

AFTER THE GOLD RUSH

とおくまでゆくんだ ぼくらの好きな音楽よ――

(←その8

1960年代のマイク真木とМRA(道徳再武装運動)に関するエピソードは、日本のフォーク・ソング、いや、そこに留まらず、ロック、ポップスに至るまで、この国の“若者の音楽”と呼称されるものが、すべからく非政治化し、せいぜい「夜の校舎の窓ガラスを壊してまわる」程度のレジスタンスが関の山であった理由を探る上で避けて通ることのできないトピックであると信じてやまない。そして、その背後には、資本と米国の共通の利害、すなわち「反共」(今、この言葉のおぞましさを理解できる者がどの位いるのであろうか?)という過剰に右寄りで保守的な政治イデオロギーが潜んでいることを忘れてはならない。(注1)
左右を問わず、政治という巨大な力によって歪められたエンターテイメントは、パフォーマー側にそれに耐えうるしたたかさ、もしくは確固とした信念が無いと、遅かれ早かれ無様に破綻してしまうものだ。言うまでもないが、難破した船乗りは、無慈悲に見捨てられる。その象徴的な事例として、「バラが咲いた」の国民的ヒットの後に、若きマイク真木が駆け抜けた1960年代後半をもう少しだけ辿ってみようと思う。

1966年5月、真木はNETテレビ(現・テレビ朝日)の「木島則夫モーニング・ショー」に1週間ゲスト出演し、サブ司会の栗原玲児が詞を書き下ろした「風に歌おう」を軽快にバンジョーで弾き語った。同年9月15日に真木の第3弾シングルとして発売されることとなるこの曲は、父小太郎のマンドリンと合奏しながら作曲したカントリー調のナンバーで、その明るく乾いたメロディは、彼の自作曲の中でも一頭地を抜く出来栄えと言っても過言ではなかろう。番組で披露した際の評判も上々であった。不発に終わった前作「波と木彫りのクマ」の挽回を期す意欲作として大いに期待された。この頃、「バラが咲いた」は依然としてヒットチャート上位にあり、真木の前途には、日本のフォーク・ソングの未来が大きくひらけているように思えた。
(注2)

意気盛んな真木は、同年8月13日から15日にかけて、「マイク真木の世界」と題する初のリサイタルを名古屋・名鉄ホールで開催する。構成・演出・音楽を数年来の真木のフォーク・ソング仲間でありブレーンでもある仁(ひとし)と義(ただし)の日高兄弟が担当し、舞台美術には父小太郎が腕を奮ったこのショーは、当時のフーテナニーの典型的なスタイルを踏襲したプログラムになっているので、少しだけ当日の様子を見てみよう。(注3)

オープニングは、出演者全員による「我が祖国(This Land is Your Land)」の合唱。続けて、フォーク・ソング・メドレー、まず、真木が盟友日高義のペンによる「君の町」と「赤い貝がら」を弾き語ると、PPM+1(女性1人と男性3人)編成のフォア・ダイムズが「ハンマーを持ったら(If I Had a Hammer)」「悲惨な戦争(The Cruel War)」の2曲を美しく歌い上げる。続けて、揃いの半袖ストライプのボタンダウンシャツを着た男性3人組ニュー・フロンティアーズが、本家キングストン・トリオ顔負けの達者な演奏と三重奏のハーモニーで「M.T.A」と「風に吹かれて(Blowin' In The Wind)」を披露。会場全体が大いに盛り上がったところで、再び真木がベースの吉田勝宣を従えて登場。ここからは、真木のオンステージである。当時の学生コンサートでよく歌われていた友利謙三の「あの光が忘れられようか」を熱唱した後、「同じ国に住んで」「白、黒、黄色、赤」「マリアナの海」「いじめっこの歌」等々のオリジナルナンバーをギターとバンジョーを器用に持ち替えながら歌う。フォーク・ソング仲間であるザ・カッペーズの川手国靖が書いたチャーミングな小曲「小さな歌」を静かに歌い終わると真木退場。ホールが暗転し、程なくして照明が点くと、ステージには再度出演者全員登場、日高義作による「歌おうよ 叫ぼうよ」を、真木と瀬戸龍介(ニュー・フロンティアーズ)のバンジョー合戦を交えながら楽しくシングアウト。次いで、フォア・ダイムズが軽快なPPMナンバー「ベティー&デュプリー」と「カム・アンド・ゴー・ウイズ・ミー」を歌うと、ニュー・フロンティアーズも負けじと、キングストン・トリオの「バヌア」と「ハード・エイント・イット・ハード」をバンジョーの速弾きと迫力満点のハーモニーで躍動感たっぷりに聴かせる。そして、会場の誰もが待っていた歌、「バラが咲いた」を真木が客席と一緒に歌った後、「我が祖国」の大合唱で幕となった。真木は、2時間の公演を声をかぎりに、ほとばしる汗を拭こうともせずに歌い切った。満員の客席からは割れんばかりの拍手と歓声がしばらく鳴りやまなかった。こうして、1966年夏の名古屋のリサイタルは、真木にとって生涯忘れられないステージとなった。

同じ頃、先に真木がゲスト出演した「木島則夫モーニング・ショー」では、サブ司会の栗原玲児が「なんとも疲れました」とコメントし、8月いっぱいで急遽降板することを表明していた。栗原は、この“日本初のワイドショー”において、正義感を生にぶつけてズバズバ直言する若者代表の役割を求められ、メイン司会の木島則夫と激しく議論する場面も多かった。そのため、この降板には、「木島との不仲が原因では」「政治的な圧力があったのでは」などの憶測も立ったが、ここでは、その真相には立ち入らない。しかし、元NHKのアナウンサーであり、博報堂を経て、フリーの放送作家として音楽番組の構成、司会も担当し、何より知識豊富で頭の切れが抜群に良く、体制批判も厭わなかった栗原には、経済団体から局上層部に対して苦言が呈されていたのは確かなようだ。
(注4)

栗原の後任として抜擢されたのが真木であった。当時、日大芸術学部放送学科の現役大学生でもあった真木は、学問を実践できること、そして、自分の歌を広く伝える場ができることから、「是非やりたい」と自ら希望したという。真木が所属するフィリップス・レコードはこれに強く反対した。政治を含めた日々のニュースを取扱い、「やや左翼的でアメリカに対して非友好的な傾向にある」と政府から警戒の目を向けられているこの番組にレギュラー出演することは、真木のデビューの経緯を考えると到底容認できる話ではなかった。ディレクターの本城和治氏が何度も思いとどまるよう説得したが、真木の決意は変わらなかった。しかし、この懸念は、一方では的中し、一方では杞憂に終わる。前者はレコードセールスの低迷という点において、後者は左翼勢力を利するのではないかという点において。
(注5)

真木は、当時、テレビの歌番組の出演に辟易としていた。歌わされるのはいつも「バラが咲いた」であり、そうでない時は「漕げよマイケル」の合唱だった。自分には社会問題をテーマにした新しい日本のフォーク・ソングが十指に余る程あるというのに。人種差別、原爆、ベトナム戦争、デモ隊と機動隊との対立、交通事故…、「木島則夫モーニング・ショー」では、こういった自分の歌いたいものを歌わせてくれるに違いないと信じて出演契約を結んだ。あまり得意とは言えないトークではなく、歌を通して、日々のニュースを、市井の人の喜びや悲しみを伝える、そんな新しい司会像を自分なりに思い描いていた。そして、もう一つ、真木の思いは、前年夏のミシガン州マキノ・アイランドで開催されたMRA世界大会で受けた強い衝撃に囚われていたのではないか。リーダーズダイジェストによると、それは、次のような光景であったという。(注6)

一人の美しい溌剌とした女子学生が立ち上がって発言した。
「私は、ビート族や徴兵カードを燃やす人達、学校内の暴動、反戦デモ隊が作り上げたアメリカの青年像にはあきあきしました。ここにいる皆さんや私は、ああいう人達が、私達青年の代表像ではないということを知っています。しかし、一般大衆は知っているでしょうか? 外国の人々は知っているでしょうか? 私達はこの不名誉な印象を改めるために、何か目ざましいことをしなければなりません。」
集まった若者達に電撃的な反応が起こった。会場の処々方々から高校生や大学生が立ち上がって発言した。アイオア州立大学の陸上競技の花形選手ジョン・エバーソンはこう言った。
「騒々しい少数の平和主義者は『反対!反対!』とがなり立てています。何故、僕達は自分の支持するものを盛り立てる『支持デモ』を計画しないのでしょう?」
(注7)

革共同の学生活動家奥浩平の遺稿集「青春の墓標」がベストセラーとなり、右派の若者が少数派であった時代背景を考えると、社会党より自民党にシンパシーを感じていた真木にとって、彼らの勇猛な発言は一種の天啓の如く聞こえたであろうことは想像に難くない。そして、反共を旗頭とする超保守的なМRAの教義も「僕ら若者が十何年かすると国の指導者となってゆく。その若者たちに心身ともに新しいファッションを植えつけ、立派な人間に成長させ、そして世界の困難な問題をカタッパシから片付けていく」ための先鋭的なイデオロギーとして好意的に受け止め、貪欲に吸収していった。その帰結するところとして、彼は自分が学んだ“新しいものの見方”を、テレビを通してより多くの人に伝えたいと思ったのかもしれない。しかし、体制を批判せず、社会的な問題を個人の問題に矮小化するMRA独特の思考法は、歯に衣着せぬコメントで時の政府や権力者を叩き、庶民の留飲を下げるワイドショーにおいては、大きな足枷となってしまう。(注8)

9月1日、真木は「木島則夫モーニング・ショー」のサブ司会者として初登場した。この日、木島に「原子力潜水艦シードラゴンの横須賀入港についてどう思う?」と訊かれた真木は、「原潜というのは、自分の寝ているベッドの下にヘビが入ってきてそのまま居ついてしまった感じ。噛みつきゃしないかと、ひやひやしているのだが…」と切り返し、生CMでは、洗剤のハイターを“歯痛”ともじってユーモアたっぷりに紹介するなど、出だしは好調であった。
(注9)

しかし、真木の起用と同じタイミングで世間を騒がせ始めた自民党議員の連鎖的な不祥事事件、いわゆる「黒い霧」がニュースの中心になると、一転して歯切れが悪くなる。木島が「真木さんなんか、若い世代の代表としては、今回の不祥事をどう思いますか」と話しかけると、真木は胸をそらしてこう答えた。「僕は政治には全く興味がありません。興味を持たせる何物もありませんね」。木島もびっくりしたが、これを見ていた視聴者はもっと驚き、真木の非常識さを非難する投書や電話がテレビ局に相次いだ。それでも、木島は真木をかばい続けたが、翌1967年1月30日の番組で、ついにお手上げ状態となる。この日、「黒い霧解散」後の衆議院選挙特集を組んだスタジオには、映画監督の羽仁進、作家の藤本義一などの若手文化人が揃い、政治への批判と提言を行う座談会は冒頭からヒートアップしていた。皆一様に怒っていた。汚職に塗れた政治家に、癒着する財界に――。そんな中、発言を振られた真木はこう言い放った。「僕は、どの政党、どの候補者が当選するかより、上野動物園のサル山で、どのサルがボスになるかの方がはるかに興味がありますね」。スタジオが一瞬静まり返る。真木流の気の利いたジョークのつもりだろうか。真意を測りかねているところに、さらに発言が続く。「日大芸術学部の僕の友達は、誰も政治に関心を持っていませんよ。僕は自分個人の生活に満足しているし、はっきり言ってこのままでいいんです」。ここまで来ると、とても逆説を弄したとは思えない。テレビには、ありありと軽蔑の表情を浮かべる出演者の顔が映し出された。羽仁進が「あなた方若い人達がそんな風に政治に無関心なのは困ったことだ。個人主義もいいがもっと広い視野を持ちなさい」と説教口調でたしなめると、真木はやや気色ばみ「僕達があと二、三十年経って、国の主導的立場に立った時は――」と言い返すものの、藤本義一の怒声に遮られる。「二、三十年経ってとは何だ! 今、君達若者が主導的立場に立たなくてどうする!」。これには木島もなす術もなく、この日は真木抜きで番組を進行せざるをえなかった。(注10)

真木はこの時、深刻なジレンマに陥っていたのではないか。汚職が許されないものであることは十分理解している。私利私欲に走る薄汚い政治家は殴ってやりたいくらいキライだ。しかし、それをお茶の間に向けてストレートに発信すると、自民党や財界と対立する左翼勢力を利する結果になりかねない。それくらいなら政治の話は一切口をつぐんでいよう。そう考えたのが真木自身なのか、MRA関係者なのかは定かではないが、いずれにせよ「政治に無関心なマイク真木」という一つの虚像が作られ、その虚像が真木の本体に強烈なダメージを与えることとなった。「批判精神がマヒ」「大人をちゃかしすぎる」等の批判の声が止まらず、本業のフォーク・ソングの方にも影響が出始める。期待のシングル「風に歌おう」は思った程売れず、続く浜口庫之助作「カラスと柿のタネ」も、石原慎太郎作詞による芸術祭参加作品「俺の心の海」もヒットとは程遠い結果となった。

それでも真木は歌いたかった。政治的な制約があるにせよ、自分の思いを歌で表現したかった。先に書いたとおり、その希望が叶うと信じてモーニング・ショーとの出演契約を結んだのであるが、期待は大きく外れ、歌わせてもらえるのは、日本の古い民謡や毒にも薬にもならないほのぼのして清潔そうで単純なメロディの曲ばかりであった。
しかし、ようやくチャンスが巡ってきた。自作の「マリアナの海」を歌うよう、ディレクターから要請されたのだ。1965年10月7日に発生したマリアナ海域での海難事故を題材に日高義と共作した歌である。

マリアナの海遠く 
マリアナの空遠く
消えた海の男たち  
静かにねむれ とこしえに


歌いながら、感情が込み上げ、真木の目から涙が溢れ出てきた。あの日、マリアナの暗い海には、遭難したカツオ漁船の乗組員207人の死体が漂っていた。その中には十代の少年が30人もいたという。日本が独自に気象観測機を持つことができず、アメリカからの情報に頼らざるをえなかったことも事故の要因であったらしい。そして、この歌を作った時の情景が脳裏に浮かぶ。1年前、原宿の神宮マンションで、盟友ターちゃんと若者による若者のための“本物のフォーク・ソング”を作ろうと夢を語り合いながら、自分が詞を書き、ターちゃんが曲を付けた。あれから、随分と遠いところに来てしまったようだ――。
涙にむせんで歌うことができなくなった真木は、嗚咽しながら歌詞を呟いた。
(注11)

生命こめたSOS
むなしく空を飛び
救いの船は はるか遠く
沈み行く船 七隻


1967年4月28日、真木は「木島則夫モーニング・ショー」を降板した。
(つづく)


(注1)「日本大百科全書」の五十嵐仁法政大学大原社会問題研究所名誉教授の記述によると、反共主義は、厳密には共産主義批判と異なり、資本家による対労働者用の思想的武器としての面と、反民主的・反自由的手段としての面を併せ持つ。その典型例は、枢軸国(ナチス・ドイツ、イタリア王国、大日本帝国)のファシズムや、アメリカのマッカーシズム等だという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E5%85%B1%E4%B8%BB%E7%BE%A9

(注2)「ミュージック・ライフ」1966年9月号「マイク真木・栗原玲児のフォーク対談」

(注3)「名鉄フォークソング・フェスティバル マイク真木の世界」パンフレット、週刊明星(1966年8月28日号)

(注4)「ニュース・ショーに賭ける」浅田孝彦(現代ジャーナリズム出版会)、「おはよう木島則夫です「モーニング・ショー」こぼれ話」木島則夫(講談社)、「放送をつくった人たち」塩沢茂(オリオン出版社)、新婦人(1966年10月号)

(注5)1965年7月に自民党の広報委員会がまとめたモニター調査「注目される放送事例――最近の重要問題をめぐって」には、「木島則夫モーニング・ショー」について「この種の番組の司会者は政治、外交、社会問題などを取り上げる場合、つよい主観色を出さず、きわめて常識的な立場から微温的な発言をするのが定石であるが、木島ショーのレギュラー三人(木島・栗原玲児・井上加寿子)は相当つよい色を出す。(略)そのことは、彼らがしばしば勇み足をやって批判されることにもあらわれている。ところで問題は、勇み足とか、言い過ぎとかにとどまらず、それを越えた傾向が看取されることである。左翼的という評価があたっているかどうかは、簡単に言えないが、ややそれに近いものを感じさせる。ことにアメリカに対して非友好的なことは否めない」と記されている。(「朝日ジャーナル」(1965年10月24日号)、「現代の内幕 : 恐るべき日本」茶本繁正等(山王書房))
 真木の出演意向及びフィリップスレコード・ディレクターによる説得に関する下りは、「放送をつくった人たち」塩沢茂(オリオン出版社)、週刊平凡(1966年9月8日号)、週刊サンケイ(1968年2月5日号)による。

(注6)「婦人公論」(1967年5月号)「司会者落第記」

(注7)「リーダーズダイジェスト」(1967年10月号)

(注8)1967年1月23日の毎日新聞において、真木は、前回の選挙(1964年の参院選、真木にとって初めての選挙)で自民党に投票したと発言している。МRAの教義に関する真木の思いは、メンズ・クラブVOL.52「セイロン島にて/マイク・真木」(1966年4月号)より。

(注9)「週刊現代」(1966年9月15日号)

(注10)「週刊新潮」(1967年2月11日号)、「週刊平凡」(1967年2月16日号)、「婦人公論」(1967年5月号)等。真木の「政治には全く興味が無い」発言は「成功するセールス話法 第5巻」堀川直義 等編(河出書房)といったビジネス書にも「失敗話法例」として掲載されている。

(注11)「婦人公論」(1967年5月号)「司会者落第記」に真木はこう書いている。「1回もうたったことがない、と言ったが、1回だけ、チャンスはあった。マリアナでの漁船遭難の一周忌のとき、僕の作った歌をうたえと言われた。ギターなしで、口ずさむようにというのが、ディレクターの指示だった。そのときは嬉しかったなぁ。しかし、僕は不覚にも涙がこみあげてきて、どうしてもうたえなくなってしまった。(略)涙にむせんで、ただつぶやくだけ。そのあとのコマーシャルでも何も言えなかった。(略)司会者としての、フォークシンガーとしての僕にとっては、最大の失敗だった。」